Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

ファティマの聖母が要求した「聖母の汚れなき御心へのロシアの奉献」について回答します

2012年07月31日 | 質問に答えて
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 今回は、ファティマの聖母が要求した「聖母の汚れなき御心へのロシアの奉献」について、答えることをお許しください。

【質問】
 ロシアの奉献については賛否両論あります。ただし一部の方はこの「ロシアの奉献」が1952年7月7日の『最も親愛なるロシア国民に宛てた 使徒的書簡(Apostolic Letter Carissimis Russiae Populis on the Immaculate Heart and the People of Russia)』により、ピオ十二世のこの言葉「そして今、私たちはロシア全国民をこの同じ汚れなき御心に献呈しかつ奉献致します(so now We dedicate and consecrate all the peoples of Russia to that same Immaculate Heart)」を以って果たされたと主張しています:

教皇ピオ十二世の本名は、ウジェニオ・マリア・ジュゼッペ(ヨゼフ)・ジョヴァンニ・パチェリ(Eugenio Marìa Giuseppe Giovanni Pacelli)。「ヨゼフ」という名の教皇がロシアを奉献するという私的啓示の内容が取り沙汰された事がかつてありましたね。「世界中の司教と共にロシアを聖母の汚れなき御心に奉献する」という条件についてはいろいろ説がありますが、本来の聖母のメッセージには「世界中の司教と共に」という句はなかったと彼らは主張しています。もしこの奉献が為されていたのだとすれば、先日小野田神父様が説明されていた、ピオ十二世による汚れなき御心への世界の奉献後の世界情勢に好転のみならず、ソ連崩壊や、現在のロシアに於けるプーチン登場などは、ある意味聖母に約束された「一時的な平和の時期」と考える事も出来ます。つまり「ロシアの回心」は実現していたという事です。


【回答】
 ファティマの聖母マリアの教皇様への要求は、明らかです。それは次の通りです。

 つまり、(1)教皇様が、(2)ロシアを、その名前を特別に言及して、(3)世界中の全司教たちと一致して、(4)聖母の汚れなき御心に奉献(聖別)する、ということです。

 何故なら、聖母マリアご自身が、シスタールシアに1929年に次のように伝えたからです。

"The moment has come when God asks the Holy Father to make, in union with all the bishops of the world, the consecration of Russia to My Immaculate Heart, promising to save it by this means."


 1917年7月13日、ファティマで、聖母マリアは、「私は、汚れ無き御心へのロシアの奉献(聖別)をお願いに来ます」と、預言(約束)しました。

 その12年後、1929年6月13日、スペインのトゥイというところで、シスタールシアに現れて、「天主が、この方法によってロシアを救うことを約束しながら、教皇様に、世界中の全ての司教たちと一致して、ロシアを私の汚れなき御心に奉献(聖別)することを要求する時が来ました」と伝えました。

É chegado o momento em que Deus pede para o Santo Padre fazer, em união com todos os bispos do mundo, a consagração da Rússia a meu Imaculado Coração, prometendo salvá-la por este meio. São tantas as almas que a Justiça de Deus condena pelos pecados contra mim cometidos, que venho pedir reparação: sacrifica-te por esta intenção e ora.

(聖母はポルトガル語でお話になったはずですので、ここではポルトガル語を載せます。)


 1931年、私たちの主イエズス・キリストは、スペインのリアンホ(Rianjo)というところでシスタールシアに現れて「フランスの王に倣って私の命令を執行するのを遅らせると、フランスの王と同じような不幸に陥るだろう」と警告しました。(聖マルガレタ・マリア・アラコックを通して、フランスの王がフランス王国をイエズス・キリストの御心に奉献することを要求したがその実施はなされなかった。要求の後、ちょうど100年後、フランスには革命が起こり、王座は廃止させられてしまったことを指している。フランス王は、革命軍に拘束され、獄中でフランスをイエズスの御心に奉献した。しかしその時には既に王位は奪われていた。)

 さらにイエズス・キリストはシスタールシアに次のようにも言います。「フランスの王のように、彼らはそれを後悔し、奉献をするだろう。しかし、それは遅れるだろう。ロシアは既に世界中に誤謬をまき散らし、戦争と教会に対する迫害を挑発してしまっているだろう。教皇は大変多く苦しまなければならないだろう。」


 1940年12月2日、シスタールシアは、当時の教皇であったピオ十二世に手紙を書き、次のように伝えています。英語訳を掲載します。

"I take this opportunity, Most Holy Father, to ask you to bless and extend this devotion to the whole world. In 1929, through another apparition, our Lady asked for the consecration of Russia to Her Immaculate Heart, promising its conversion through this means and the hindering of the propagation of its errors.

Sometime afterwards I told my confessor of the request of our Lady. He tried to fulfill it by making it known to Pius XI.

In several intimate communications our Lord has not stopped insisting on this request, promising lately, to shorten the days of tribulation which He has determined to punish the nations for their crimes, through war, famine and several persecutions of the Holy Church and Your Holiness, if you will consecrate the world to the Immaculate Heart of Mary, with a special mention for Russia, and order that all the Bishops of the world do the same in union with Your Holiness.”

 ここでも、シスタールシアは、教皇様に、ロシアという名前を特別に言及し、世界中の全ての司教たちに教皇と一致して同じことをするように命じて、ロシアを聖母の汚れなき御心に奉献(聖別)することをお願いしています。

 もしも、私たちの主イエズス・キリストがフランス王に対して100年の猶予を与え給うたとしたら、1929年から100年後、つまり2029年までは、あと17年しかありません。聖母の汚れなき御心よ、我らを憐れみ給え!

+ + +


 ところで「ヨゼフ」という名の教皇がロシアを奉献するという私的啓示については、知りません。

 しかし、聖ピオ十世が、自分と同じ名前を持つ後継者の教皇が崩壊した大都市ローマを屍の上を逃げる、という私的啓示を受けたことは、話題にしたことがあります。

「私が見たものはおそろしいことだ! これは私に起こるのだろうか、それとも私の後継者のことだろうか。確かなことは、教皇はローマを離れるだろうということ、バチカンを去りながらその教皇は自分の司祭たちの死体の上を踏んで歩かなければならないだろうということだ。」

「私は、私と同じ名前を持った私の後継者の一人が自分の兄弟たちの体の上を踏み越えて逃げる様子を見た。彼はある隠れ場所に逃げるだろう。しかししばらく後に残酷な死を遂げるだろう。天主に対する敬意が人々の心から消え去った。これこそは、この世の終わりの始まり以外の何ものでもない。」

+ + +


 今回はここまでにします。読んで下さってありがとうございます。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


【参考資料】
Fatima Consecration - Chronology
The Consecration of Russia:The Request of Our Lord and Analysis of this Request
Essentials: The Facts: The Consecration of Russia

聖ピオ十世会2012年の総会の決議についての御質問に答えることをお許しください

2012年07月25日 | 質問に答えて
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 今回は御質問に答えることをお許しください。質問に答える前に、まずこのことを言わせて下さい。ジョン・ヴェナリ氏が言うように、今回、バチカンは聖ピオ十世会のカトリックとしての最も痛いところを突いてきたのです。聖ピオ十世会の力を使って、投げ倒そうとしたかのようです。聖ピオ十世会はカトリックの修道院ですから、もちろんローマを大切にしています。聖ピオ十世会は、ローマの聖伝への復活を信じています。聖ピオ十世会は、民主主義の影響を受けた(第二バチカン公会議による)団体主義に汚染された教皇制度ではなく、本来の君主制としての教皇制度の復活を期待しその復活を信じています。
 私たちは、永遠のローマを愛情を込めて信じています。歴代の教皇様と殉教者とを生み出した真理の教師であるローマです。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


【質問】
 次回の合意交渉への可能性を伺わせる部分があります。・・・ローマが再度、合意条件を改善して来るなら、ローマの回心を待たず、それに応じるのでしょうか?

【回答】
 この宣言を読めば、確かに、次回のローマとの同意交渉の可能性を残しています。それは、カトリックとして当たり前の話です。

 ただし、クチュール神父様との会話によると、今年の総会で2006年の総会の宣言は再確認された、総長のフェレー司教様は今回ローマから大変に痛い経験を受けた、ローマが第二バチカン公会議を放棄したかのように思い込まされていたが、そうではないことがはっきりとした、ベネディクト十六世の第二バチカン公会議への思い込みと、その年齢とを考えると、現教皇のもとでの同意は全くあり得ない、聖ピオ十世会がローマと同等の立場にあるわけではないので、ローマに回心せよ、と条件を突きつけるわけにはいかない、ローマにも理解できるような表現を選ばざるを得なかった。

【1】聖ピオ十世会の最も大切なカトリック教会への奉仕は、信仰を守ることである。私たちは、天主の御助けを持って、永遠のローマに従う。

「カトリック信仰を、現代においてまさに圧迫されているカトリック信仰を、これに対する止むことのない攻撃の苛烈さに対抗するという決心とともに、天主のおん助けをもって、純粋かつ完全な形で告白し続けることである。」

【2】聖ピオ十世会は聖伝に留まり、第二バチカン公会議を拒否し続ける。

「聖ピオ十世会は、誤謬に汚染されたままに留まる第二ヴァチカン公会議のあらゆる新規なことに関し、また公会議より発布された改革に関し、教会の不変の教導職の教えと宣言を支持し続ける。我々は、連綿と受け継がれたこの教導権のうちに確実な指針を見いだす。」

●「ローマ・カトリック教会、我らの主イエズス・キリストが創設した唯一の教会、その外には救霊も救霊に導くいかなる手段も見いだせない教会における我々の信仰」
(「キリスト教以外の諸宗教に関する教会の態度についての宣言」Nostra Aetate の「聖霊は他の宗教も救いの手段として使う」の否定)

●「教会が我らの主ご自身がそれを望んだ君主制的組織であること、このことにより地上におけるキリストの代理者たる教皇のみが、普遍的教会を統治する至高権力を持つという信仰」
(「教会憲章」と新教会法典の団体主義と二頭教会の否定)

●「自然的及び超自然的秩序双方の創造主、全人類と社会全体が服従すべきお方、我らの主イエズス・キリストの宇宙的王権における我々の信仰」
(「信教の自由に関する宣言」の信教の自由と諸国の背教の否定)

【3】聖ピオ十世会は、離教呼ばわり、異端呼ばわり、村八分、その他の精神的物理的迫害を受けることを厭わない。

「我々は世界中のさまざまな国々で、現在、カトリック信仰のために苦しみを受け、殉教までにさえ及ぶ迫害を受けているキリスト教徒たちに結ばれることを望む。祭壇の主の犠牲に一致して流された彼らの血は、教会の頭とその成員たちのまことの刷新のための保証である。古くからの格言によれば「殉教者の血はキリスト信者の種」だからだ。」

【4】聖ピオ十世会は、公開的でオープンで真面目な神学の討論をローマとするだろうが、それは教会当局が聖伝へと戻るためである。(聖ピオ十世会が第二バチカン公会議の飲み込むためではない。)
(ただし、これが出来るために、聖ピオ十世会は自由を持っていなければならない。「従順」の名前によって、第二バチカン公会議の批判を禁じられることは出来ない。)

「聖ピオ十世会は、教会当局が聖伝への回帰することを許すような開かれた真面目な討論が可能となる来る日を待ちながら、教会の常なる聖伝のうちに、聖ピオ十世会の指針をも見いだす。聖伝は、時の終わりまで信仰の保存と霊魂の救いのために要求される教えを伝達し、これからも伝達するからだ。」


【5】聖ピオ十世会はルフェーブル大司教とともに、教会の復興のために、自分たちの力によると言うよりも、むしろ聖母の汚れなき御心の介入に期待する。
(今の聖伝の信仰を失ったローマを元に戻すことが出来るのは、聖母の汚れなき御心だ。私たちはローマが聖伝の信仰に戻ることを期待して祈り働く。近代主義は終わりを告げなければならない。ただし、そのためには天主の介入が必要だ。天主がお望みになれば、死者もよみがえる、水はブドウ酒となる。)

「私たちは今日、外部からの敵よりも、さらに徹底的に教会を滅ぼそうとする教会の内部の敵どもを追い払ってくださるため、聖母に介入してくださるよう懇願する。聖母が離教と異端から私たちを遠ざけ、保護してくださるため、信仰の完全性のうちに、教会への愛のうちに、ペトロの後継者への忠誠のうちに、聖ピオ十世会の全会員たち、兄弟会とともに働くすべての司祭、信者たちを聖母が守り給わんことを。」


【6】もしも、聖ピオ十世会が教会法の上での正常化があるとするならば、総長の一人の判断ではなく、特別総会の投票によって決議される。

「我々は、将来あり得る教会法的正常化のための必要条件を決定し承認した。つまり、その場合、審議投票をする特別総会をその前に招集する、と決断した。」


【7】聖ピオ十世会は、その日が来るまで、自分自身の霊魂の聖化に務める。
(天主は、将来、教皇の座に聖伝のカトリック信仰の持ち主を着かせるだろう。天主にはそれができる。人間の眼には不可能に見えても。天主のお望みの方法で、お望みの時に、お望みの手段を使って。カトリック信仰の復興と、教皇制度の復興は、必ずやってくる。エノクとエリアが私たちを助けるためにやってくるのかもしれない。聖母の汚れなき御心の御取り次ぎで。聖母マリア様だけが私たちを助けることが出来る。復興された教皇制度により、司教団体主義やエキュメニズム、自由主義や人間中心主義は排斥され、時の終わりの聖人達が準備されるに違いないだろう。私たちは天主のご計画に信頼を置く。私たちに必要なのは、聖人だ。私たちに必要なのは、高い聖徳である。)

「霊魂の聖化は常に我々の内から始まるものであるということを、我々は必ず記憶すべきである。これこそ、愛徳のわざによって活気づけられもたらされる信仰の実りである。」



【質問】
 今回、司祭会同僚たちへの相談と合意なしに教義前文にはサインしないと約束されていた総長様が、何時の間にかそれにサインされていたというこの事実は、多くの司祭会会員及び賛同者たちにとって理解に苦しむポイントだと思います。

【回答】
 「司祭会同僚たちへの相談と合意なしに教義前文にはサインしない」という約束はありませんでした。
 「教義的前提」あるいは「教義前文」に関しては、何らの約束がありませんでした。
 ただし、総長は、もしもローマとの同意のサインをするような場合には、総会を招集する、という約束はしていました。


2012年の聖ピオ十世会総会宣言の日本語訳をご紹介します

2012年07月20日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 2012年の聖ピオ十世会総会宣言を日本語に訳して下さった方がおられます。訳者の方に心から感謝しつつ、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介します。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


Society of St. Pius X General Chapter Statement
聖ピオ十世会総会宣言



原文はこちら
http://www.dici.org/en/news/society-of-st-pius-x-general-chapter-statement/

 二〇一二年七月十四日、聖ピオ十世会本部の公式発表において告知されたように、総会構成員はローマに共同声明を送付した。声明は本日[七月十九日]公表された。
 七月十六日、DICIで公表されたインタビュー中で、ベルナール・フェレー司教は、この文書は「兄弟会の身分の不変性を強く主張している(聖ピオ十世会の)指針、キリスト教世界を復興させるため、教会を助けるための効果的な唯一の手段、それを明確にするための機会」であると述べた。「というのは、教義上の問題に口を閉ざしていることは、二〇〇三年にすでにヨハネ・パウロ二世でさえ非難した、この『沈黙の背教』への回答にはならないからです」と司教は言っている。

*****

 聖ピオ十世会総会の終わりにあたり、尊敬すべき創立者マルセル・ルフェーブル大司教の墓に集結し、総会参加者各位、司教各位、管区長各位、兄弟会の最年長者各位は、総長と一致して、心からの感謝の思いを天に向かって挙げ、危機的状況にある公教会と、日に日に天主とその掟から遠ざかる一方の世間のただ中で、四十二年間に亘る我々の事業への天主の驚嘆すべき保護に感謝する。

 我々は兄弟会の全会員一人一人に、すなわち司祭各位、修道士各位、修道女各位、第三会会員各位、我々と密接な各修道会、そして親愛なる平信者各位にも、率直な意見交換と有意義な共同作業を特徴づけた今回の総会に際しての、絶えざる献身と熱心な祈りに感謝の意を表したい。寛大さをもって甘受されたすべての犠牲と苦しみは、ここ数ヶ月間に兄弟会が遭遇した数々の困難を克服するための助けとなった。我々は本来の使命における深い一致の絆を回復した。私たちの使命とは、すなわち、カトリック信仰の保存と擁護、善き司祭の養成、キリスト教世界の復興への努力である。我々は、将来あり得る教会法的正常化のための必要条件を決定し承認した。つまり、その場合、審議投票をする特別総会をその前に招集する、と決断した。

 霊魂の聖化は常に我々の内から始まるものであるということを、我々は必ず記憶すべきである。これこそ、愛徳のわざによって活気づけられもたらされる信仰の実りである。聖パウロの言葉によれば「私たちは真理に反してはなんの力ももっていないが、真理のためには力を持っている」(コリント後、十三章八節参照)また「キリストが教会を愛し、そのために命を与えられたように……そのようにして汚点(しみ)のない、聖なる者とされるべきである」(エフェゾ五章二十五節参照)

 総会は以下のことを信じる。すなわち、聖ピオ十世会の最重要義務は、教会に提供しようと意図する奉仕において、カトリック信仰を、現代においてまさに圧迫されているカトリック信仰を、これに対する止むことのない攻撃の苛烈さに対抗するという決心とともに、天主のおん助けをもって、純粋かつ完全な形で告白し続けることである。

 だからこそ、 ローマ・カトリック教会、我らの主イエズス・キリストが創設した唯一の教会、その外には救霊も救霊に導くいかなる手段も見いだせない教会における我々の信仰を再確認することは適切であると思われる。すなわち、教会が我らの主ご自身がそれを望んだ君主制的組織であること、このことにより地上におけるキリストの代理者たる教皇のみが、普遍的教会を統治する至高権力を持つという信仰、また、自然的及び超自然的秩序双方の創造主、全人類と社会全体が服従すべきお方、我らの主イエズス・キリストの宇宙的王権における我々の信仰を、である。

 兄弟会は、誤謬に汚染されたままに留まる第二ヴァチカン公会議のあらゆる新規なことに関し、また公会議より発布された改革に関し、教会の不変の教導職の教えと宣言を支持し続ける。我々は、連綿と受け継がれたこの教導権のうちに確実な指針を見いだす。まさに、この教導権こそが、その教導の権威によって、全教会がいつもどこでも告白し続けてきた真理に完全に一致して、啓示された信仰の遺産を伝えている。

 兄弟会は、教会当局が聖伝への回帰することを許すような開かれた真面目な討論が可能となる来る日を待ちながら、教会の常なる聖伝のうちに、聖ピオ十世会の指針をも見いだす。聖伝は、時の終わりまで信仰の保存と霊魂の救いのために要求される教えを伝達し、これからも伝達するからだ。

 我々は世界中のさまざまな国々で、現在、カトリック信仰のために苦しみを受け、殉教までにさえ及ぶ迫害を受けているキリスト教徒たちに結ばれることを望む。祭壇の主の犠牲に一致して流された彼らの血は、教会の頭とその成員たちのまことの刷新のための保証である。古くからの格言によれば「殉教者の血はキリスト信者の種」だからだ。

「最後に、我らは童貞マリアに、天主なるおん子の特権を、おん子の栄光を、天におけると同じく、地上におけるおん子の王国の特権をも注意深く守り給う童貞マリアに目を注ぐ。聖主の王国の敵どもに対するキリスト教世界の防衛のため、武装防衛のためにすら、なんと頻繁に聖母は介入してくださることか! 私たちは今日、外部からの敵よりも、さらに徹底的に教会を滅ぼそうとする教会の内部の敵どもを追い払ってくださるため、聖母に介入してくださるよう懇願する。聖母が離教と異端から私たちを遠ざけ、保護してくださるため、信仰の完全性のうちに、教会への愛のうちに、ペトロの後継者への忠誠のうちに、聖ピオ十世会の全会員たち、兄弟会とともに働くすべての司祭、信者たちを聖母がお守りくださいますように」

「願わくは、大天使聖ミカエルが、天主の栄光のための熱心と、悪魔と戦うための強さを我らに起こしてくださいますように」

「聖ピオ十世が、この混乱と虚偽の時代において、悪から善を、偽りから真理を識別するため、その知恵、知識、聖性の一部を分け与えてくださいますように」(マルセル・ルフェーブル大司教、アルバノ、一九八三年十月十九日)

主の年なる二〇一二年七月十四日、エコンにて

【注:最後の三つの段落は、ルフェーブル大司教様が1983年10月19日にローマのアルバノで書いた A Public Statement on the Occasion of the Episcopal Consecration of Several Priests of the Society of St. Pius X の最後の部分から取られています。】


2012年聖ピオ十世会の総会の声明を英語訳でまずご紹介します

2012年07月19日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 2012年7月19日付けで発表された、聖ピオ十世会の総会の声明を、英語訳フランス語原文で、まずご紹介します。
(英文にある強調は、小野田神父がこれを読んで気に入ったところを個人的に印を付けたものであって原文ではそうなっていないことをお断りしておきます。ご了承下さい。)

 愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

Society of St. Pius X General Chapter Statement


At the conclusion of the General Chapter of the Society of St. Pius X, gathered together at the tomb of its venerated founder, Archbishop Marcel Lefebvre, and united with its Superior General, the participants, bishops, superiors, and most senior members of the Society elevate to Heaven our heartfelt thanksgiving, grateful for the 42 years of marvelous Divine protection over our work, amidst a Church in crisis and a world which distances itself farther from God and His law with each passing day.

We wish to express our gratitude to each and every member of our Society: priests, brothers, sisters, third order members; to the religious communities close to us and also to our dear faithful, for their constant dedication and for their fervent prayers on the occasion of this Chapter, marked by frank exchanges of views and by a very fruitful common work. Every sacrifice and pain accepted with generosity has contributed to overcome the difficulties which the Society has encountered in recent times. We have recovered our profound unity in its essential mission: to preserve and defend the Catholic Faith, to form good priests, and to strive towards the restoration of Christendom. We have determined and approved the necessary conditions for an eventual canonical normalization. We have decided that, in that case, an extraordinary Chapter with deliberative vote will be convened beforehand.

We must never forget that the sanctification of the souls always starts within ourselves. It is the fruit of a faith which becomes vivifying and operating by the work of charity, according to the words of St. Paul: “For we can do nothing against the truth: but for the truth” (cf. II Cor., XIII, 8), and “as Christ also loved the church and delivered himself up for it… that it should be holy and without blemish” (cf. Eph. V, 25 s.).

The Chapter believes that the paramount duty of the Society, in the service which it intends to offer to the Church, is to continue, with God’s help, to profess the Catholic Faith in all its purity and integrity, with a determination matching the intensity of the constant attacks to which this very Faith is subjected nowadays.

For this reason it seems opportune that we reaffirm our faith in the Roman Catholic Church, the unique Church founded by Our Lord Jesus Christ, outside of which there is no salvation nor possibility to find the means leading to salvation; our faith in its monarchical constitution, desired by Our Lord himself, by which the supreme power of government over the universal Church belongs only to the Pope, Vicar of Christ on earth; our faith in the universal Kingship of Our Lord Jesus Christ, Creator of both the natural and the supernatural orders, to Whom every man and every society must submit.

The Society continues to uphold the declarations and the teachings of the constant Magisterium of the Church in regard to all the novelties of the Second Vatican Council which remain tainted with errors, and also in regard to the reforms issued from it. We find our sure guide in this uninterrupted Magisterium which, by its teaching authority, transmits the revealed Deposit of Faith in perfect harmony with the truths that the entire Church has professed, always and everywhere.

The Society finds its guide as well in the constant Tradition of the Church, which transmits and will transmit until the end of times the teachings required to preserve the Faith and the salvation of souls, while waiting for the day when an open and serious debate will be possible which may allow the return to Tradition of the ecclesiastical authorities.

We wish to unite ourselves to the others Christians persecuted in different countries of the world who are now suffering for the Catholic Faith, some even to the extent of martyrdom. Their blood, shed in union with the Victim of our altars, is the pledge for a true renewal of the Church in capite et membris, according to the old saying sanguis martyrum semen christianorum.

“Finally, we turn our eyes to the Blessed Virgin Mary, who is also jealous of the privileges of her Divine Son, jealous of His glory, of His Kingdom on earth as in Heaven. How often has she intervened for the defense, even the armed defense, of Christendom against the enemies of the Kingdom of Our Lord! We entreat her to intervene today to chase the enemies out from inside the Church who are trying to destroy it more radically than its enemies from outside. May she deign to keep in the integrity of the Faith, in the love of the Church, in devotion to the Successor of Peter, all the members of the Society of St. Pius X and all the priests and faithful who labor alongside the Society, in order that she may both keep us from schism and preserve us from heresy.

“May St. Michael the Archangel inspire us with his zeal for the glory of God and with his strength to fight the devil.

“May St. Pius X share with us a part of his wisdom, of his learning, of his sanctity, to discern the true from the false and the good from the evil in these times of confusion and lies.” (Archbishop Marcel Lefebvre; Albano, October 19, 1983).

Given at Ecône, on the 14th of July of the Year of the Lord 2012.


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A la fin du Chapitre général de la Fraternité Sacerdotale Saint-Pie X, réunis auprès du tombeau de son fondateur vénéré Mgr Marcel Lefebvre, et unis à son Supérieur général, nous les participants, évêques, supérieurs et anciens de cette Fraternité, tenons à faire monter vers le ciel nos actions de grâce les plus vives pour les quarante-deux ans de protection divine si merveilleuse sur notre œuvre au milieu d’une Eglise en pleine crise et d’un monde qui s’éloigne de jour en jour de Dieu et de sa loi.

Nous exprimons notre profonde gratitude à tous les membres de cette Fraternité, prêtres, frères, sœurs, tertiaires, aux communautés religieuses amies ainsi qu’aux chers fidèles pour leur dévouement quotidien et leurs ferventes prières à l’occasion de ce Chapitre qui a connu des échanges francs et un travail très fructueux. Tous les sacrifices, toutes les peines acceptées avec générosité ont certainement contribué à surmonter les difficultés que la Fraternité a rencontrées ces derniers temps. Nous avons retrouvé notre union profonde en sa mission essentielle : garder et défendre la foi catholique, former de bons prêtres et œuvrer à la restauration de la chrétienté. Nous avons défini et approuvé des conditions nécessaires pour une éventuelle normalisation canonique. Il a été établi que, dans ce cas, un chapitre extraordinaire délibératif serait convoqué auparavant. Mais n’oublions jamais que la sanctification des âmes commence toujours en nous-mêmes. Elle est l’œuvre d’une foi vivifiée et opérante par la charité selon la parole de Saint Paul : « Car nous n’avons pas de puissance contre la vérité ; nous n’en avons que pour la vérité » (II Cor., XIII, 8) et encore : « Le Christ a aimé l’Eglise et s’est livré lui-même pour elle… afin qu’elle soit sainte et immaculée » (cf. Eph. V, 25 s.).

Le Chapitre estime que le premier devoir de la Fraternité dans le service qu’elle entend rendre à l’Eglise est celui de continuer, avec l’aide de Dieu, à professer la foi catholique dans toute sa pureté et intégrité, avec une détermination proportionnée aux attaques que cette même foi ne cesse de subir aujourd’hui.

C’est pourquoi il nous semble opportun de réaffirmer notre foi dans l’Eglise catholique et romaine, seule Eglise fondée par Notre Seigneur Jésus-Christ, en dehors de laquelle il n’y a pas de salut ni de possibilité de trouver les moyens qui y mènent ; dans sa constitution monarchique, voulue par Notre Seigneur, qui fait que le pouvoir suprême de gouvernement sur toute l’Eglise revient au pape seul, vicaire du Christ sur terre ; dans la royauté universelle de Notre Seigneur Jésus-Christ, créateur de l’ordre naturel et surnaturel, auquel tout homme et toute société doit se soumettre.

Pour toutes les nouveautés du Concile Vatican II qui restent entachées d’erreurs et pour les réformes qui en sont issues, la Fraternité ne peut que continuer à s’en tenir aux affirmations et enseignements du Magistère constant de l’Eglise ; elle trouve son guide dans ce Magistère ininterrompu qui, par son acte d’enseignement, transmet le dépôt révélé en parfaite harmonie avec tout ce que l’Eglise entière a toujours cru, en tout lieu.

Egalement la Fraternité trouve son guide dans la Tradition constante de l’Eglise qui transmet et transmettra jusqu’à la fin des temps l’ensemble des enseignements nécessaires au maintien de la foi et au salut, en attendant qu’un débat ouvert et sérieux, visant à un retour des autorités ecclésiastiques à la Tradition, soit rendu possible.

Nous nous unissons aux autres chrétiens persécutés dans les différents pays du monde qui souffrent pour la foi catholique, et très souvent jusqu’au martyre. Leur sang versé en union avec la Victime de nos autels est le gage du renouveau de l’Eglise in capite et membris, selon ce vieil adage « sanguis martyrum semen christianorum ».

« Enfin nous nous tournons vers la Vierge Marie, elle aussi jalouse des privilèges de son divin Fils, jalouse de sa gloire, de son Règne sur la terre comme au Ciel. Combien de fois elle est intervenue pour la défense, même armée, de la Chrétienté contre les ennemis du règne de Notre Seigneur ! Nous la supplions d’intervenir aujourd’hui pour chasser les ennemis de l’intérieur qui tentent de détruire l’Eglise plus radicalement que les ennemis de l’extérieur. Qu’elle daigne garder dans l’intégrité de la foi, dans l’amour de l’Eglise, dans la dévotion au successeur de Pierre, tous les membres de la Fraternité Saint-Pie X et tous les prêtres et fidèles qui œuvrent dans les mêmes sentiments, afin qu’elle nous garde et nous préserve tant du schisme que de l’hérésie.

« Que saint Michel archange nous communique son zèle pour la gloire de Dieu et sa force pour combattre le démon.

« Que saint Pie X nous fasse part de sa sagesse, de sa science et de sa sainteté pour discerner le vrai du faux et le bien du mal, dans ces temps de confusion et de mensonge. » (Mgr Marcel Lefebvre, Albano, 19 octobre 1983).

Ecône, le 14 juillet 2012

総会に関するベルナール・フェレー司教へのインタビュー(二〇一二年七月十六日)

2012年07月17日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

総会に関するベルナール・フェレー司教へのインタビュー(二〇一二年七月十六日)を日本語に訳して下さった方がいらっしゃいますので感謝してご紹介します。

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)



Interview with Bishop Bernard Fellay on the occasion of the General Chapter
(July 16, 2012)
総会に関するベルナール・フェレー司教へのインタビュー
(二〇一二年七月十六日)

教義上の問題に口を閉ざしていることは「沈黙の背教」への回答にはならない


原文はこちら
http://www.dici.org/en/news/interview-with-bishop-bernard-fellay-on-the-occasion-of-the-general-chapter-of-the-society-of-st-pius-x-july-16-2012/


DICI : 総会はどのように進みましたか? 会議の状態はどのようなものでしたか?

フェレー司教: かなり白熱しました。ヴァレー州の七月は特に暑い月ですからね! しかし多忙なスケジュールの中で、このような職務会議にふさわしく、ここでは、総会参加者たちが自由に考えをやりとりすることができました。

DICI : ローマとの関係について議論する事ができましたか? 何か禁じられた質問がありましたか? ここ数ヶ月の間に聖ピオ十世会内に現れた意見の衝突は沈静化しましたか?

フェレー司教:質問攻めですね! ローマに関することは、まさしく論争の中心にありました。総会参加者全員が書類一式を詳しく調べることができました。脇に置いておかれたものは何もなく、私たちの間にタブーなどありませんでした。つい最近までの数ヶ月間の不愉快な風潮によって困難な状態にされたこと、ヴァチカンとやりとりしたあらゆる書類の細々した部分まで披露してみせることは私の義務でした。これによって、喜びの道である平和と心の一致をもたらしながら、私たちはいくつもの疑いを白日のもとにさらし、誤解の数々を霧消させる率直な議論を実施することができました。

DICI : この総会後のローマとの関係を、先々どのように見ておられますか?

フェレー司教:あらゆる曖昧なことは、私たちの間ではすでに解決しています。ほどなくして、私たちはローマに、私たちの身分の不変性を強く主張している指針、つまりキリスト教世界を復興させるため、教会を助けるための効果的な唯一の手段、それを明確にするための機会であった総会の意見をローマに告げるつもりです。最近私が「私たちが霊魂の善のために、聖伝の宝を豊かに実らせたいなら、話し行動しなければなりません」と述べたようにです(二〇一二年六月八日のインタビュー参照、DICI #256)。私たちは、信仰の喪失がはびこり、多くの召命がぐらついて堕落し、教えの実践が減少しているのを目の当たりにして沈黙したままでいることはできません。私たちは「沈黙の背教」とその原因に直面して、話し続けることをやめてしまうことはできません。教義上の問題に口を閉ざしていることは、二〇〇三年にすでにヨハネ・パウロ二世でさえ非難した、この「沈黙の背教」への回答にはなりません。

私たちの取り組みは、ルフェーブル大司教様の、教義に関する断固とした態度だけでなく、その司牧上の愛徳も動機となっています。真理に対する最高の証人は、祈りと愛徳によって作り上げられた初代教会の信者たちの一致のうちに見いだされると、教会は常に認めてきました。初代教会の信者たちは、使徒行録(四章三十二節参照)にあるように「一つの心と一つの魂」を持っていました。このような共通の理想が私たちのモットーでもあります。コル・ウヌム(一つの心 "Cor Unum" )は、聖ピオ十世会の内部会報の名称です。そういうわけで、兄弟会の会員たちを互いに反目させ合うくさびを打ち込んで、状況を有利に動かそうとしたすべての人々から私たちは離れます。このような精神は天主から来るものではありません。

DICI : 教理聖省新長官ミュラー大司教の任命に関して、あなたはどのような見解をお持ちですか?

フェレー司教:元レーゲンスブルクの司教、そこはツァイツコーフェンの私たちの神学校がある場所でもありますが、彼が私たちに好意を抱いていないということは公然の秘密です。二〇〇九年、私たちに味方した(破門を取り消した)ベネディクト十六世の勇気ある行動ののち、ミュラー司教は協力を拒否し、私たちがまるでハンセン病患者であるかのように扱いました! 彼は私たちの神学校は閉鎖すべきであり、神学生たちはそれぞれの教区の神学校に行くべきであると述べた方ですし、露骨にも「聖ピオ十世会の四司教は辞職すべきだ」と付け加えました! 

私たちにとってもっと重要でもっと警戒すべきことは、ミュラー司教の教理聖省長官としての役割です。教理聖省は教義上の誤謬及び異端と戦うふさわしい使命でもって信仰を擁護しなければなりません。パンとぶどう酒のキリストのおん体とおん血への全実体変化、聖母の終生童貞、非カトリック者のカトリック教会への回心に関するミュラー司教の膨大な著作は……控えめに言っても疑わしいものです! この著作の数々は、過去に検邪聖省の調査対象となっただろうことは疑う余地がありません。かつての検邪聖省はまさに今、ミュラー司教が統括する教義聖省となっています。

DICI : 将来、聖ピオ十世会はどうなるだろうと見ておられますか? 教会の聖伝のための戦いのまっただ中で、聖ピオ十世会はきわどい状況のままでいるのでしょうか?

フェレー司教:私たちは、尊敬すべき創立者が歩まれた、刀の刃の縁を歩くという、今まで以上にますます保たなければなりません。この状況を保つのはたやすくありませんが、教会とその聖伝の宝にとってきわめて不可欠です。私たちはカトリック信者です。私たちは教皇と司教たちを認めていますが、何にもまして、天主の恩寵の源泉たる信仰を無傷のまま保たねばなりません。従って、信仰を危険にさらしかねないすべてのものを避けなければなりません。普遍の、使徒継承の、ローマ教会に取って代わるものとなろうとはせずに、です。並立(parallel)の教会をを作ろうとか、並立の教導職を実践しているなどという考えから、私たちははるか遠くにいます!

このことは、三十年以上前にルフェーブル大司教様が上手に説明しておられました。すなわち、大司教様は、二千年続く教会からご自身が受け取ったものだけを手渡すという、それ以外の望みをお持ちではありませんでした。私たちが効果的に「すべてをキリストにおいて復興させる」ため手助けすることができるように、大司教様の指示に従って、私たちもまたこのことを望みます。私たちはローマと、永遠のローマと、上智と真理の教師であるローマと決裂するつもりはありません。それでも、第二ヴァチカン公会議とそれに続く改革のせいで、教会内に近代主義および自由主義の影響があることを否定するのは現実に合いません。要するに、私たちはローマ教皇の首位性に対する信仰、そしてペトロの岩の上に立てられた教会に対する信仰を保ちます。ですが「教会の自己解体」に貢献するすべてのものを拒否します。これは一九六八年以来、パウロ六世自身がお認めになったことです。教会のおん母なる聖母が、まごうことなき復興の日の到来を早めてくださいますように!


天主に感謝

2012年07月16日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今朝の東京でのミサ聖祭は、17名が参加しました。天主に感謝します。

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!!



トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

二〇一二年七月十四日の聖ピオ十世会公式発表

2012年07月15日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 天主様に感謝!昨日、7月14日には、大阪で34名の方々が聖伝のミサに与りました。今日、7月15日の主日の聖伝のミサには、東京でのミサの参列者数は、男: 16人(内、子供1人)、女: 16人(内、子供1人)、計: 32人(内、子供2人)でした。今月は、初めて大阪でのミサ参加者が東京の数よりも多くなりました!
 明日は、国民の祝日なので、朝の8時から聖伝のミサがあります。

 8月は、予定が変更され、聖伝のミサは、月の最終主日の前の金曜日からになり、
大阪では、8月24日(金)、25日(土)、
東京では、8月26日(主)、27日(月)
になりました。よろしくお願いいたします。

 9月も、聖伝のミサは、月の最終主日の前の金曜日からになります。

 また、愛する兄弟姉妹の皆様には、聖ピオ十世会の2012年の総会のためのお祈りを感謝します。二〇一二年七月十四日の聖ピオ十世会公式発表があり、日本語に訳して下さった方がいらっしゃいますので感謝してご紹介します。

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

*****
SSPX Press Communiqué of July 14, 2012
二〇一二年七月十四日の聖ピオ十世会公式発表


聖ピオ十世会総会は、二〇一二年七月十四日、今週土曜、エコン(スイス)において終了した。総会参加者(総会構成員)たちはマルセル・ルフェーブル大司教の墓の近くに集まり、総会中の職務の数日間、総会参加者たちの間に強く見られた深い一致の絆を天主に感謝した。

総会は、まもなく共同声明をローマに対して宣言する予定であり、その際に声明の内容が公に発表される。

総長フェレー司教は、総会中に捧げられたすべての司祭、信者たちの熱心な祈りに深く感謝している。


二〇一二年六月二十九日、エコンでのフェレー司教様の説教「私たちは最初の出発点に戻っている」

2012年07月10日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア!

 二〇一二年六月二十九日、スイスのエコンで、フェレー司教様が叙階式でなさった説教を日本語に訳して下さった方があります。遅ればせながらご紹介いたします。日本語に訳して下さった方には、心から感謝いたします。

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


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二〇一二年六月二十九日、スイス、エコン、フェレー司教説教


原文はこちら
http://www.sspx.org/news/econe_ordinations_2012/econe_ordinations_2012.ht
m

エコンにて十一名の新司祭が叙階
二〇一二年六月二十九日、スイス、エコン


 六月二十九日金曜日、聖ペトロと聖パウロの祝日に、ベルナール・フェレー司教(聖ピオ十世会総長)は、十一名の新司祭を、スイス、エコンの聖ピオ十世会神学校で叙階した。十名は聖ピオ十世会、一名は御変容修道会(Society of the Transfiguration)の司祭である。

 叙階式の説教の間、フェレー司教は、司祭職に関する感動的なスピーチをし、同様に、聖ピオ十世会とローマの現在の状況への鋭い識見を示した。ローマとの状況に関する引用文を以下に提示する。

*****


「聖ペトロと聖パウロのこの祝日を祝う時、私たちはローマについて考えずにはいられません。また、私たちの創立者【ルフェーブル大司教】が、このローマに対して抱いていた愛、彼がその子どもたちに教え込むことを願い、望んだ、この愛を忘れることはできません。私たちはローマ・カトリックです! このことを忘れ去ることはできません。私たちがたとえ困難な時代に生きており、今日のローマから苦しみを受けなければならないとしても、ローマに対する実際の、そして心からの愛というこの真実を完全に弱めてしまうことはできません。この都を教会の頭(かしら)たるべくお選びになったお方は、善き天主であられるからです。これは、私たちが誤謬を愛するつもりだ、ということにはなりません。決してそうではなく、私たちはそのようなローマを耐え忍びます。ですが、今起こっていることに背を向けたままで、断念してしまうこともできない、と言えます。そうではありません。私たちは、やろうとしていることをやり通す必要があります。

 確かに、皆さんは私に「ローマと何が起きているのですか?」お尋ねになります。今に至るまで私たちがほとんど何も申し上げられないということは、皆さんにお伝えするだけの充分な情報がないからです。今のところ、私たちが申し上げられることは、物事は全面停止の段階にあるということです。あっちに行ったりこっちに行ったり、多くのやりとりがあり、実際に取り引きや提案がありました。しかし私たちは最初の出発点に戻っています(最初の振り出しに戻りました)。私たちが受け入れることのできない、サインすることができないと申し上げた出発点にです。私たちはそこにおります。これが申し上げられるすべてです。一方で、この状況は複雑になりつつあるこの状況を見ています。この状況は、私が以前、ローマにある矛盾を前にして、そう申し上げた時から、二年、三年続いています。

 二〇〇九年からずっと、私はそのことを繰り返し述べてきました、毎日のように起きています。それは教会の状態のことです。仕方がありません。進歩主義へと、進歩主義の結果へと、さらに先へと動くことを望む人々がおり、修正をかけようと望む人々がいます。私たちはその真ん中で、ピンポン球のようにあらゆる人々から打たれ続けてきました。

 結局のところ、最後には、教会は己の真の姿をふたたび見いだすだろうこと、そして、ある種のいわば「居心地のよさ」に満足できないという熱望を私たちが持つことを私たちは知っています。まったく正常でない状況に満足できない、ということです。私たちは、私たちは望むことを何でもすることができる状況にあるので、ついには、そのような私たちの置かれている状況が正常である、と考えることに慣れてしまうようなことは出来ません。これは間違っています。まったく正しくありません。私たちがもちろん必要とするすべての条件を忘れることなく、明らかに私たちが所有する権利があり、私たちのものであるこの称号、カトリックであるという称号を回復することを探し求めるということは、正常なことです。このことは、私たちが単に自分たちを近代主義者たちに委ねてしまわなければならない、ということにはなりません。そのこととは無関係です。

 ですが、困難な状況です、困難で、すべてが緊迫しているように思われ、悪魔たちが鎖から解き放たれて、あらゆる方面で走り回っていることがはっきりとわかります。ですから、今こそ祈るべき時です。困難な時です。私たちに対して、私たちについて、さまざまなことが言われています。聖主(みあるじ)よ、私たちが願うただ一つのことは、天主のみ旨を行うことです。天主のみ旨は多くの事実の中に示されます。……ルフェーブル大司教様のこの遺産に忠実に留まること以上に、全教会にとって善をもたらすことはできない、ということも、またはっきりしています。そこから、例の有名な「『条件』『保証』がどんなものになるか私には分かりません」という、何度も繰り返した言葉が出てきています。この『条件』『保証』は、聖ピオ十世会が今あるままであり続けることを保証しなければなりません。ある時、もしも【ローマとの】協力が可能なら、です。しかし何時か、どうやってか、については、そのときの状況が、はっきりと示してくれるでしょう。


1990年9月6日、スイスのエコンにて ルフェーブル大司教様の講話 その4

2012年07月07日 | ルフェーブル大司教の言葉
アヴェ・マリア!

 1990年9月6日、スイスのエコンにてルフェーブル大司教様が聖ピオ十世司祭兄弟会の司祭たちにされた講話を日本語に訳して下さった方があります。遅ればせながらご参考にご紹介いたします。日本語に訳して下さった方には、心から感謝いたします。

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


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1990年9月6日、スイスのエコンにてルフェーブル大司教様が
聖ピオ十世司祭兄弟会の司祭たちにされた講話 その4

<>和訳者補足

【SSPXアメリカ管区サイトの掲載文】





 皆さんを強めるために、そして善き天主の恩寵を以ってこの戦いを続けるという自覚を持つために、幾つかの考察を差し上げたいと思います。

 その理由は、もし善き天主が私たちと共にいなければ、私たちはもはや存在しないからです。司祭兄弟会が消滅してもおかしくない機会が少なくとも四回か五回がありました。そして天主のお陰によって、私たちは毎回存続させられたのです。取り分け、四司教聖別の為に、司祭兄弟会は消滅するに違いないと人々は何回も私たちに予言しました! 不吉な預言者たち全員どころか、私たちの側近たちからさえこう言われました「大司教様、司教聖別を絶対にしてはなりません。そんな事をすれば司祭兄弟会の終わりです。」

 とんでもない、善き天主は御自分の戦いが終わる事しか御望みになっていないのです。それが全てなのです。

 この戦いはその殉教者を獲得しました。それは革命の殉教者であって、十九世紀と二十世紀の全迫害期間に亘って精神的に殉教した全ての人々です。聖ピオ十世は、迫害される数多くの司教たちや、収用された女子修道院、国境の彼方へと追放された修道士たち、そしてその他多くの問題によりこの殉教を体験されました。ではこの殉教は全て無駄となってしまうのでしょうか?この犠牲者と殉教者たちを非難する事になる戦いは、役に立たない偽りの戦いとなるでしょう。それは考えられません。

 私たちはこの流れに嵌り込んでいるのですから、善き天主に感謝しましょう。私たちは迫害されています。それは明らかです。私たちは唯一破門された者であり、また唯一迫害されている者です。・・・

 それでは何が起こるのでしょうか?私には分かりません。エリアでしょうか?私は今朝この事を再び聖書で読みました:「エリアが地上に戻り、全てを元通りにするだろう」、Omnia restituet. どうか彼が直ぐ来てくれますように!

 人間的に言えば、私は今のところ合意する可能性を見出しません。昨日私は「もしもローマが、御会の四司教を承認して、他の司教たちの裁治権から完全に免れるとしたら?」と言われました。

 先ず彼らがこの様な事柄を受け入れるとは考えられませんし、彼らにこれを申し出しをさせてみるべきでしょう。この困難の核心とは、まさに聖伝主義者の一司教を私たちに与えるのがいやだ、という事です。

 彼らとしては聖座の意に適うプロフィールを持つ司教しか望んでいません。『プロフィール』、皆さんにはこれが意味するものが分かります。彼らは、一名の聖伝主義者の司教を私たちに与える事となれば、自分たちが聖伝主義の牙城を築き上げてしまう事を熟知しています。ただ彼らはそれを望んでいませんし、他に差し出す聖伝主義者の司教をもはや持ち合わせていないのです。

 聖ペトロ会が、自分たちは我々と同種の議定書に署名したという時、それは本当ではありません。私たちの議定書は一名の聖伝主義者の司教とローマ委員会に送る二名の委員を想定していましたから。

 一方、他の会の方ですが、彼らは<同種の議定書に著名したと言いながら>一名の司教も、またローマ委員会に送る委員たちももらっていません。結局、ローマはこれ<二つの要求>を議定書から削除しました。何があろうとローマはそれを望まなかったからです。

 来たる11月1日には司祭兄弟会の二十周年記念を祝うでしょう。そしてこの司祭兄弟会こそが、信仰を守ってそれを保つ為に善き天主が御望みになるものであるカトリック教会の真理と、カトリック教会に於いて救われ得るものとを象徴していると私は確信しました。この事はまた、総長様を取り巻き、説教をし、司祭職<叙階の秘蹟>と堅振の恩寵を授けながら、信仰の保存者の必要な役割を果たしている司教たちにも恩寵となるでしょう。これは掛け替えのない事柄であって、私たちはそれを絶対に必要としています。

 以上の事全ては非常に慰めになりますので、私たちは善き天主に感謝する事と、何時か私たちの行なっている事が認められる為に、忍耐の内に働く事は可能だと私は思っています。ガニョン(Gagnon)枢機卿閣下の視察訪問は大した成果をもたらさなかったとはいえ、それでもこの訪問は私たちが存在する事や、司祭兄弟会を通して善が行われている事を証明したのです。彼らは明白に言おうと望まなかったにせよ、司祭兄弟会は信仰にとって掛け替えのない霊的力を象徴していると認める事を余儀なくされています。またこの力に彼らは喜びを感じるでしょうし、そう願いますが、自分たちが聖伝の信仰を再度見出す時、嬉しい事にそれを用いるでしょう。

 聖なる童貞に祈りましょう。そして全ての国で私たちが赴く各々の巡礼地では、沢山の召命を頂く為に司祭兄弟会を助けに来てくださるようファティマの聖母にお願いしましょう。私たちはもう少し召命を頂かなければなりません。私たちの神学校は一杯ではないですから。しかし天主の恩寵があれば、これは実現するだろうと私は考えています。ご拝聴いただきありがとうございました。幸福で聖なる死を迎えられるよう私は皆さんにお祈りをお願い致します。今の私にはこれ以外すべき事がないからです。

(了)


【参考資料】ルフェーブル大司教様の言葉から

質問:ある人々は言います:「そうですね、ただルフェーブル大司教様はローマとの合意に受け入れるべきでしたね。というのも、いったん聖ピオ十世会が認められ、聖職停止が解除されるなら、彼は公教会の内側でもっと効果的に活動する事が出来たからです。しかし彼は今教会の外側にいます。」

ルフェーブル大司教様:こういう事は、言うのは簡単です。公教会の内側に留まる為、あるいは公教会の内側に身を置く為にそう言うのは簡単なのです‐それはどういう意味でしょうか?第一に、どの教会について私たちは話しているのでしょうか?もし貴方が「公会議の教会」について話しているとすれば、二十年もの間カトリック教会を望むと言う理由から公会議と戦って来た私たちは、恐らく、この「公会議の教会」に、それをカトリックにする為に戻らなければならない事になります。それは全くの幻覚です。長上たちを作り上げるのは配下の者ではなく、長上たちが配下の者を作り上げるのですから。

 全ローマ聖省の間で、そして進歩主義者である全世界の司教方の間で、私は完全に圧倒されている事になるでしょう。何も出来ずにいるでしょう。私には信徒も神学生も守る事が出来なかったかも知れないのです。ローマは私にこう言ったでしょう「大丈夫、私たちは叙階式執行の為に、これこれの司教様を貴方に差し上げるつもりです。ただ貴方の神学生たちは、これこれ教区からやって来る教授たちを受け入れなければなりません。」考えられません。聖ペトロ会に於いて、彼らはアウスブルグ教区から来る教授たちを迎えています。これらの教授たちは誰なのでしょうか?彼らは何を教えるのでしょう?


 質問:信仰宣言を含んでいる忠誠の誓いを準備したラッツィンガー枢機卿の指令書についてどうお考えですか?

 ルフェーブル大司教:先ず第一に、信仰宣言 Credo があり、これは少しも問題を提起していません。Credo は無傷のまま残されています。ですから、第一部と第二部は、どちらとも何一つ問題を提起しません。それは神学的観点から良く知られた事ですし。非常に有害なのは第三部です。それが実際に意味するものは、現代世界の司教たちが持つ考えを並べ立てています。さらに、序文には、公会議の精神ゆえにこの第三部が加えられた事がはっきりと示されています。それは公会議と、いわゆる現代の教導権に言及しておりますが、後者は、もちろん公会議の信奉者たちの教導権のことです。誤謬を免れようとするが為に、「この教導権が聖伝との完全な一致にある限りに於いて . . . 」と彼らは付け足さなければならなかったのです。

 そのままでは、この第三部の形式は危険です。それは、私たちが合意に至る事が出来ないこれらの人々の心の状態を明確に示しています。ある人々がそうした様に、この忠誠の誓いを公会議の結果として廃止された反近代主義の宣誓の再開として紹介するのは完全に馬鹿げていますし、それは間違っています。

 全ての毒はこの第三部にあります。ローマに再合同してしまった人々に、この信仰宣言に署名して、司教たちとの完全な合意を言明せざるを得なくする為にわざわざ作成されたように思えます。まるでアリウス主義の時代に「これで、アリウス主義者である全司教たちの考える事に同意しているのです。」と言われたかのようです。

 いいえ、私は誇張などしていません。それは序文の中ではっきり表現されています。これは純然たる詐欺です。この様に、ローマ当局者たちは議定書の本文の修正をするつもりがないのではないかと自問する人がいるかも知れません。例の議定書は私たちにとって満足の行くものではないにせよ、その教義的宣言の第三箇条に於いて余りに私たちに有利であるかのように見えます。というのは、それは公会議に服従するという義務を十分表明していないからです。

 ですから、当局者は失われた足場を取り戻しているのだと考えます。彼らは恐らくこれらの文書が、叙階を控えた聖ペトロ会の神学生たちと司祭たちから署名される事を望んでいるのです。そしてその時、彼らは「公会議の教会」に合流するという公式な行為をするよう強いられている事に気づくでしょう。

 議定書とは違って、これらの新しい文書の中には、公会議と公会議派の全司教への服従が存在しているのです。それが彼らの精神であり、誰も彼らを変える事はないでしょう。


 質問:ヨハネ・パウロ二世は、オーストリアとそれ以外の国で聖伝主義者と見做される方々を司教に任命されました。彼らが聖伝主義者と見做される理由は、フランス人神学者たちの援護を受けたドイツ人神学者たちが、この司教任命を巡って教皇様を批判し、非難している事から伺えます。それから、最近の事ですが、ラッツィンガー枢機卿様は、忠誠の誓いとそれに先立つ信仰宣言の付いた指令書を発行されました。私たちはこれにある種の改善と、より聖伝に近い形式への回帰という印を見る事は出来ないのでしょうか?

 ルフェーブル大司教様:私はそれが聖伝への回帰であると考えていません。ちょうど戦闘中の兵士たちが少しばかり前に進み過ぎている時に、誰かが彼らを引き止めているようなものであって、彼らは第二バチカンの推進力に軽くブレーキを掛けているところなのです。何故なら、公会議の支持者たちは余りにも進行し過ぎているからです。その上、これらの神学者たちが苛立つなんていうのはお門違いです。この司教たち‐表向きは保守的である司教様たち‐は、例外なく公会議と公会議後の刷新、そしてエキュメニズムやカリスマ運動に協力的です。


 質問:それでは、これまでル・バルー<聖伝系聖ベネディクト修道会の支部修道院>や、聖ヴィンセント・フェリエ兄弟会(the Fraternity of St. Vincent Ferrer)、それから聖ペトロ会に対しある程度の寛容さを示しておられるラッツィンガー、マイヤー両枢機卿方により特徴付けられるローマの態度についてはどう考えたら宜しいのでしょうか?他の聖伝グループを取り戻す手段を使い果たすまで彼らは連絡を取り続ける、それから次に、いったんこのゲームが終わったら、ローマと和解した聖伝グループは、公会議への服従を要求されるという二重の計略なのでしょうか?それとも、私たちは彼らが改善すると信用すべきでしょうか?

 ルフェーブル大司教様:貴方がお話されている事は、<ローマの寛大さが>例外的で束の間のものでしかない事を私たちに示す印が沢山あります。これらの印は、世界中の全司祭に当てはまる一般規則ではありません。それは例外的な特権であり、限定された幾つかの事例に於いて(in precise cases)与えられるものです。例えば、フォンゴンボーの大修道院、又はジュック(Jouques)の女子修道会、あるいはその他の修道院に与えられたものがそれなのですがそれは例の特典(the Indult)に基づいています‐彼らはそれを言いません‐。ところでこの特典は例外です。それは何時でも撤回され得るのです。特典というものは、一般規則を強めます。この事例に於ける一般規則とは新しいミサと新典礼ですが。ですから、特典とはこれらの共同体に対して設けられる例外なのです。

 ロンドンでの一例があります。そこの枢機卿大司教様(the Cardinal archbishop)は、私たちの信徒たちを取り込む為に、この英国首都にある聖ピオ十世会の教会周辺で三つの<聖伝>ミサを開始しました。「私は六ヶ月間それを試しにやっています」と彼は言いました。もし私たちの信徒が司祭会のミサ中央施設<会場>から立ち去り始める事になれば、彼はこの実験を続けるでしょうね。その反対に、もしこの信徒たちが私たちと一緒に留まるとすれば、彼はこの実験を止めるでしょう。それからもしこれらの御ミサが廃止されるとなれば、聖伝典礼に対する味覚を取り戻したこの信徒たちは、おそらく私たちのところにやって来るでしょう。

 パリのリュスティジェ枢機卿様は、私たちのもとから去った司祭たちに教会堂を提供する事を考えておりますが、新しいミサもまたこれらの教会堂で捧げられるよう命ずると考えられます。ローマでラッツィンガー枢機卿様とした討論期間中、私たちが合意に向かって進もうとしている時に、彼は私に教えてくれました。もしパリの聖ニコラ・デュ・シャルドネ教会に於ける旧典礼使用に許可が与えられたら、新しいミサもなければならないでしょうと。それは完全明快でしたし、彼らの心の状態<新旧典礼の共存>をくっきり見せてくれました。彼らが、新しいミサを諦める可能性などありません。その反対です。それは分かりきっています。ですから、譲歩に見えなくもないものも、実際には、私たちを出来るだけ大人数の信徒たちから引き離す為の策略なのです。これが展望であって、その中で彼らは常にもっともっと聖伝に譲歩して与えようとするでしょう、それどころかきわめて遠いとことまで譲歩さえするでしょう。それが策略以外の何ものでもなく、公会議派の司教や近代主義のローマの掌中に身を委ねる事は危険であると、私たちは断固信徒たちに納得させる必要があります。それは私たちの信徒を脅かしている最大の危険なのです。二十年間も、私たちが公会議の誤謬を避けようと努めて来たとすれば、それは、まさか、これらの誤謬を表明する人々の掌中に私たちの身を委ねる為ではありませんでした。



1990年9月6日、フェーブル大司教様の講話 その3

2012年07月06日 | ルフェーブル大司教の言葉
アヴェ・マリア!

 1990年9月6日、スイスのエコンにてルフェーブル大司教様が聖ピオ十世司祭兄弟会の司祭たちにされた講話を日本語に訳して下さった方があります。遅ればせながらご参考にご紹介いたします。日本語に訳して下さった方には、心から感謝いたします。

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


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1990年9月6日、スイスのエコンにてルフェーブル大司教様が
聖ピオ十世司祭兄弟会の司祭たちにされた講話 その3

<>和訳者補足

【SSPXアメリカ管区サイトの掲載文】

 それから私たちの有名なラッツィンガー枢機卿が、第二バチカンは反シラブスだったと発言しました。この発言を今頃きまり悪く感じているのは、私たちがそれについて度々引用して批判するからです。

 そこで、彼は1990年6月27日の弁明を見いだしたわけです。皆さんは、教導権と神学者との関係を説明する重要な文書をローマが発行した事を御存知です。彼らはほとんど至る所に散在する困難【神学者たちの言いたい放題の荒唐無稽な発言】からどうして抜け出したらよいか分からないものですから、彼らに過度な非難をすることを避けつつ神学者たちの過ちを直そうとしています。それは厖大なページ数となっていて、その中に完全に迷宮に入ってしまいます。

 この文書の推薦文の中で、ラッツィンガー枢機卿は、前世紀以降の教皇たちが絶えず主張して来た事柄と逆の事を言い得る可能性についての考えを表明しています。

 枢機卿は言います。「この文書は、恐らく今回初めて次にように明らかに断定する。(確かにその通りだと思います)。つまり、問題それ自体についての決定的発言とはなり得ないが、この問題に対する実質的停止地であり(抜け目ない言い方ですよ!)、何よりも司牧的賢明さの表現、一種の暫定措置でしかない、教導権による幾つかの判断が存在する、と。」(聖座の公式の決定的判断が、今では暫定措置となっています!)
「その中核はそのまま留まるが、時代の情勢が影響を及ぼした、それが持つ個別の観点は、後世の修正を必要としうる。このことについては、前世紀の教皇たちの宣言、つまり、信教の自由に関する諸々の宣言(よく聞いて下さい!)、また、前世紀初頭の反近代主義(こんなことまで言います!)を指摘することが可能だ。特に、同時代に出された聖書委員会の判断が挙げられる。」(これは、彼にとって理解が出来ないのです。)

 枢機卿によれば、以上は、脇に捨てることが出来る、教導権がなした三つの判断です。暫定的な判断なのですから。これを変えることができるのです。
このことについては、後世の修正を必要としうる前世紀の教皇たちの宣言を指摘することが可能だ。「諸々の反近代主義的判断は大いに役立ってはくれたにせよ、個々の限界内で、それが存在した時代に司牧的な奉仕をしたのに対して、現在これらの判断は時代遅れとなっている。」(近代主義のページはめくられています。もう終わりだ、もう近代主義については話す必要がない、と。)

 枢機卿が、第二バチカン公会議を反シラブスと言ったり、教皇による様々な判断を過去の教導権に対立させたりしていることを、彼に対して批判がありましたが、彼はその非難を次のように説明してすり抜けています。つまり「その中核はそのまま留まるが、時代の情勢が影響を及ぼした、それが持つ個別の観点は、後世の修正を必要としうる」と。(しかし、中核とは何でしょうか?全く分かりません!)こうやって、彼は上手く切り抜けています、信じられません。

 クワンタ・クーラ や、パッシェンディ、そして一連の聖書委員会による判断などの否認を正当化するこの種の人々をどうして信頼して欲しいなどというのでしょうか。

 私たちは、第二バチカン公会議前までの教皇たちや、その時代の大半の司教方と共に、私たちの主イエズス・キリストの君臨と霊魂たちの救いを目的とした、カトリック教会の、言い換えればクワンタ・クーラ やパッシェンディの継承者となるか、或いは、カトリック教会とその教義の断絶という代償を払ってまでも、革命的世界政府に於いて奉仕者たる地位を獲得する事を目的に、真の棄教に基づく人権の原理を認めようと努力している人々の継承者となるかのどちらかです。

 何故なら、これが究極の基礎にある問題だからです。

 人権や信教の自由、民主主義、それから人間の平等に賛成すると大々的に主張するならば、彼らは世界政府に於いて極めて良い地位を、革命的世界政府の奉仕者の地位を受けるでしょう。


 私が皆さんにこれらの事をお話するのは、私たちの戦いを、それに先立って起きた歴史的文脈に結び付ける必要があるように思えるからです。と言いますのは、多くの殉教者の血が流された、非常に耐え難く、とても骨の折れるこの戦いは、第二バチカン公会議と共に始まったわけではないからです。カトリック教会と国家の分離や、追い払われた修道士及び修道女たち、さらにカトリック教会の全財産の没収などは、私たちいるエコンのみならず、スイス全土やドイツ、そしてイタリアでも本物の迫害となりました。教皇に対して憎むべき厭わしいものが戦いを挑み、教皇領が占領され、そこから追放されバチカン内に追いやられたりしました。それでは、教皇たちの教えに逆らって、カトリック教会と私たちの主イエズス・キリストの権利を守る為に、つまり霊魂たちを守る為に、彼らが声を上げて下さった抗議に加わりもしないで、私たちはこの迫害者たち全員と一緒にいるというのでしょうか?

 私が思うに、私たちは自分たちの力ではない基盤と力を持っています。厳密に言いますと、それは私たちの戦いではなく、カトリック教会により継続されている私たちの主イエズス・キリストの戦いなのです。私たちには躊躇う事が許されません。つまりカトリック教会と共にいるか、カトリック教会に逆らうかという事つまり「公会議の教会」に賛成するか、のどちらかです。「公会議の教会」は、カトリック教会とは関係が無いか、或いは、カトリック教会とはますます少なく関係を有しています。

 以前、教皇様が人権についてお話された時、教皇は人間の義務についてしばしば触れることから始めました。現在そういう事はありません。全ては人間の為であり、全ては人間によると言っています。

(続く)


【質問】「あまりに多くの失望を味わったので罠かもしれないという疑い」とはどういうことなのでしょうか?

2012年07月05日 | 質問に答えて
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 今回は御質問に答えることをお許しください。御質問については、少し私が編集しました。

【質問】聖ピオ十世会の総長であるフェレー司教様は、最近のインタビューの中で次のように仰いました。
フェレー司教: 実際そのような考えに影響される人はいるかも知れません。しかし、今に始まったことではありません。その数は多くはないと思いますが、彼らは害悪、特に間違った噂を広めることで害をもたらし得ます。しかし、私たちの中での主な懸念は、何が起こるかわからない、罠をしかけてくるかも知れないという恐れとともに、ローマ権威者たちへの信頼を疑う気持ちがあるということです。個人的には、そういうことはないと確信しています。が、兄弟会としてはローマに不信感を抱いています。あまりに多くの失望を味わったからです。罠かも知れないと疑ってかかる人々の理由はこれです。私たちの敵が、この申し出を罠として利用するつもりかも知れないというのは正しいのですが、教皇様は、本当にこの教会法上の承認を望んでおり、罠として私たちにそのことを申し出たのではありません。
【フランス語】

 小野田神父様、神父様のブログ中には、いつも気になる記述があります。
「聖座を信頼できないから」「・・・という経緯により、バチカンは信用できないので」「ローマ当局に対する不信感」「あまりに多くの失望を味わったので罠かもしれないという疑い」など。

 聖伝とは言いますが、ペトロの座への信頼も、カトリック教会がながらく必死に保存してきた大切な聖伝のひとつです。ピオ十世会は、何番手かの聖伝は守りますが、より大切な聖伝を守ろうとしません。

 ベネディクト十六世は、正当な教皇様なのでしょう?もしもそうなら、イエズス・キリストはベネディクト十六世の口を通して今でも語り続けているのではないでしょうか?もしも教皇様が聖ピオ十世会に関して正当な、良い望みを示すなら、どうしてそれを拒むことが出来るでしょうか?

【お返事】
 ご質問をありがとうございます。

 最初に、現代の教会の問題は、第二バチカン公会議にある、ということを言わなければなりません。聖ピオ十世会は、現在の教会の危機の原因が、第二バチカン公会議の公式文書そのものにある、第二バチカン公会議によってカトリック信仰の純粋性が濁ってしまったことにあると考えます。従って、カトリック教会が健康を取り戻すために、第二バチカン公会議の毒を早く吐き出すことが出来るようにすることが必要です。

 聖ピオ十世会が「聖座を信頼できないから」「・・・という経緯により、バチカンは信用できないので」「ローマ当局に対する不信感」「あまりに多くの失望を味わったので罠かもしれないという疑い」などは「聖ピオ十世会をして第二バチカン公会議の毒を飲み込ませようとしているのではないか、という不信、疑い、またそうさせようとする罠」のことを意味しています。

 聖ピオ十世会は、カトリック信仰の純粋性を守るために、カトリックとして留まろうとするがために、今あるような立場に置かされてしまいました。

 聖伝のミサは、法によって禁止されていないにもかかわらず、法に反して実際上禁止されてきました。

 カトリック教会法典に反して、聖ピオ十世会は「廃止」されました。

 カトリック教会法典に反して、聖ピオ十世会の4名の司教たちは「破門」されました。

 今まで教会当局は、カトリック教会法典の文字とその目的に反して、カトリック聖伝を迫害してきました。だから聖ピオ十世会はそのような第二バチカン公会議のローマを信頼することが出来なくなってしまったのです。「ローマに不信感を抱いています。あまりに多くの失望を味わったからです。」(フェレー司教)

 マカベオ兄弟達は、安息日の掟を「破って」までも、エルサレムの神殿を守るために闘いました。
 私たちの主イエズス・キリストは、安息日の掟を「破って」も、病の人々を癒しました。
 ルフェーブル大司教様は、緊急の状態のために、聖伝の信仰と歴代の教皇様の教えに従順であるために、見かけ上「不従順」を犯してカトリック信仰を守りました。救霊のために司教を聖別しました。

 19世紀のカトリック教会は、ピオ九世のシラブスに賛成か反対かで分断されました。シラブスは、フランス革命の精神を排斥しており、当時の多くのカトリックは歴代の教皇様の教えに従い、シラブスを支持しました。一部のみがシラブスに反対し、革命精神を取りました。

 第二バチカン公会議では、ラッツィンガー枢機卿(当時)の言うように、カトリックの教えにフランス革命の精神を合体させようとしました。第二バチカン公会議は「反シラブス」(ラッツィンガー枢機卿)だったのです。歴代の教皇様の教えに従おうとする人々は、ルフェーブル大司教と共に、シラブスを支持し、反シラブス(=第二バチカン公会議)を拒否しました。

 現代、カトリック教会は大きな危機を体験しています。それは信仰の喪失、背教の危機です。聖伝のカトリック信仰は、全てを天主であり王たるキリストにおいて復興させようとしますが、第二バチカン公会議は、人間の尊厳と良心の自由とにおいて全てを築こうとしています。

 聖ピオ十世会は、典礼だけのことにこだわっているのではありません。聖伝のミサの背後にあるカトリック信仰にこだわっているのです。新しいミサの背後にある新しいエキュメニカルな人間中心の「神学」を拒否しているのです。

 私たち聖ピオ十世会は、天主の御助けによって、歴代の教皇様の教え続けてきたカトリックの信仰を守りたいと願っています。全教会法と従順とは、この使徒継承のカトリック信仰を守るために存在しています。

 さて、御質問の答えですが、何故「不信感」があるのかは、2つの理由があります。

 第1は、ベネディクト十六世の思想と神学のためです。

 第2は、過去に聖伝の共同体に起きたことのためです。

***


 現在、聖ピオ十世会の「正常化」“regularization,”の話が持ち上がっています。(「正常化」とはどういうことかと言うと、聖ピオ十世会はカトリックの一部ですが、聖伝のミサや聖伝の信仰が不当に排斥され、迫害され、禁止されてきたので、聖ピオ十世会が今まで行ってきたのは、言わば緊急状態の「応急手当」だったのですが、それらの「応急手当」は確かに必要なものであったし、これからも必要なので、これからもそれらの活動をし続けることが出来るように「応急手当」を「正式な病院として組織化」する、という話です。)そして、この「正常化」の条件として、聖ピオ十世会は第二バチカン公会議も新しいミサも受け入れる必要が無い、と非公式に伝えられています。

 もちろん、ティシエ・ド・マルレ司教様と共に言わなければならないのは、イレギュラーな状況にいるのは、聖ピオ十世会ではなく、他宗教とのエキュメニズムや人間の尊厳の原理という第二バチカン公会議の原理によって動いているローマ当局の方です。歴代の教皇様が排斥してきたことを、実践している「公会議の教会」の方です。(「公会議の教会」とは、パウロ六世の命を受けて、パウロ六世の名前でルフェーブル大司教に手紙を書いてきたベネリ司教が言った言葉(1976年6月25日)で「公会議の教会への正真正銘な忠実さ」(genuine fidelity to the Conciliar Church)を訴えて使った言葉です。)

 確かに、教会当局が聖ピオ十世会が確かにカトリックであると公式に発言することは正義であり、それを求めるのは聖ピオ十世会にとっての当然の権利です。しかし、そのような発言がなかったとしても、聖ピオ十世会はカトリック教会の一部であり、聖ピオ十世会は一度もカトリック教会を離れたこともありません。それどころが、カトリック教会の最も大切な中心地に位置しています。

 ルフェーブル大司教は、聖ピオ十世会が「公会議の教会」をカトリックにする為に、「公会議の教会」のシステムの中に入らなければならないと考えるのは、それは全くの幻覚だと言います。何故なら、長上たちを作り上げるのは配下の者ではなく、長上たちが配下の者を作り上げるからです。


 さて、話をベネディクト十六世に戻すと、教皇様が聖ピオ十世会の活動にお墨付きを与えたい、聖ピオ十世会が現在の教会の危機からカトリック教会を救うために教皇様を助けることを教皇様が望んでいる、だから、聖ピオ十世会が第二バチカン公会議を受け入れる必要はない、と非公式的に伝えられています。この聖ピオ十世会の活動の「公認」は、聖ピオ十世会をして第二バチカン公会議を飲み込ませる罠ではない、と言うわけです。

 ベネディクト十六世は、私たちの正当な教皇様ですが、しかし、それと同時に第二バチカン公会議を信じている人間です。

 例えば、ラッツィンガー枢機卿の1986年の著書『カトリック神学の原理』(Principles of Catholic Theology)の中で、次のように書いています。(Maria Mater tua est!さんの訳を参考にしました。)

「【現代世界憲章】全体は、言うなれば(信教の自由と世界の諸宗教に関する文書と合わせて)ピオ九世によるシラブスの改訂版、つまり一種の反シラブスなのです . . . ですからこの文書は反シラブスとして役立ち、それ自体として、フランス革命の1789年に開かれた新しい時代と公教会との正式な和解の試みを代表しているのだとここでは言うことで満足しましょう。」(381ページ)

 ラッツィンガー枢機卿は同書で「ピオ九世と聖ピオ十世の下で、公教会によって取られた立場の偏った見解」と語り、シラブスは「教会と国家間の時代遅れな関係」を代表していると主張します。

 有名な『信仰について』というメッソーリとの対話の本(1984年)の中で、はっきりとこう言っています。
「第二バチカン公会議が教会と世界との関わりの見直しを望んだのにはそれなりの理由があった。事実、たとえ教会外に生じたとしても、それが正しくふるいにかけられれば、教会のビジョンの中に受け入れられる諸価値も存在する。このいく年かにこの任務は実施された。それにしても、教会と世界という二つの現実が葛藤無しに出会い、さらにはためらうことなく一体化すると考えるものは、教会も世界も知ってはいないことになろう。」(日本語訳49ページ)
 この「教会外に生まれた」二世紀にわたるリベラルな文化を、この世に関する教会のビジョンの中に合体させようとすること、その不可能な和解が第二バチカン公会議によってなされた、というのです。しかし「光と闇との間にどのような和解があり得るのでしょうか?」「キリストとベリアルとにどのような同意があり得るでしょうか?」(コリント後書6:15)

 『カトリック神学の原理』の中で、ラッツィンガー枢機卿は「シラブスへの如何なる帰還もあり得ない」(191ページ)とはっきり言っています。では、ベネディクト十六世にとって、第二バチカン公会議は過去と断絶しているのでしょうか? ベネディクト十六世は、第二バチカン公会議はシラブスと矛盾している反シラブスであるが、これは「不連続と断絶による解釈」ではなく、「改革による解釈」をしなければならない、と言います(2005年12月22日の訓話)。つまり、その時代その時代の思潮に従って信仰の真理は進化する、という解釈です。


 ところで、他の全てのカトリックが第二バチカン公会議を信じなければならないのに、ただ聖ピオ十世会だけが第二バチカン公会議を受け入れる義務から免れることが出来るのでしょうか?

 ベネディクト十六世は2009年に全世界の司教たちに、エクレジア・デイ委員会の下に入ってきた「聖伝」の修道会らについて、次のように書きました。

「私自身、1988年以降、以前はローマから離れていた複数の共同体が戻ってきたおかげで、これらの共同体の内的雰囲気が変化したこと、偉大で広大な共通の教会へと戻ってきたことが、一方的な立場を越えさせ、頑なな態度は和らげ、続いて全体にとって肯定的な勢力としてそこから姿を現したということを見てきました。」

 ティシエ・ド・マルレ司教様の証言によれば、2005年8月ローマでベネディクト十六世がフェレー司教様と面会したとき、教皇様は聖ピオ十世会総長に、聖ピオ十世会を第二バチカン公会議へと引導するという意向を伝えています。

 最近出版された『ベネディクト十六世聖下、教皇様の秘密文書』("Sua Santità. Le carte segrete di Benedetto XVI" by Gianluigi Nuzzi, Edito da Chiarelettere, 2012)pp 207-208 には、次の文章
「聖ピオ十世会の将来の承認のために、教皇聖下は必要不可欠な条件として何も求めない」
"Per un futuro riconoscimento della Fraternità San Pio X il Santo Padre non intende prescindere da una condizione indispensabile"
を、ベネディクト十六世自身が次のように訂正したという秘密メモが流出してしまっています。
「聖ピオ十世会の将来の承認のために、必要不可欠な条件は、第二バチカン公会議とヨハネ二十三世、パウロ六世、ヨハネ・パウロ一世、ヨハネ・パウロ二世、そしてベネディクト十六世自身の教導権を完全に認めることである」
"Per un futuro riconoscimento della Fraternità San Pio X è condizione indispensabile il pieno riconoscimento del Concilio Vaticano II e del Magistero dei Papi Giovanni XXIII, Paolo VI, Giovanni Paolo I, Giovanni Paolo II e dello stesso Benedetto XVI."

 『カトリック神学の原理』には次のようにあります。「もしも私たちが教会を救わなければならないのなら、第二バチカン公会議は私たちが引き返さなければならない間違った道だったのだろうか? そうだと言う人々の声はますます大きくなり、彼らに従う人々はますます多数になっています。最近数年のもっとも顕著な現象の中で、聖伝主義者のグループの数が増加していることを挙げなければなりません。彼らの中では、敬虔さと神秘の感覚とを求める望みが満たされているのです。私たちはこれらの運動を矮小化しないように注意しなければなりません。疑いもなく、彼らは、セクト的な熱心を代表しており、これはカトリック性の反対(アンチテーゼ)です。私たちは彼らに対して、堅く抵抗してしすぎることはありません。」(page 389)

 実際、エクレジア・デイ委員会の傘下に入ったとたん、今まで第二バチカン公会議に反対していたような人々は、次々とこれを受け入れざるを得ない立場に置かれてしまいました。

 ジョン・ヴェナリ氏は、1994年、或る司祭がエクレジア・デイ委員会の事務所で、新しく「正常化した」(エクレジア・デイの傘下に入った)セイヴィンチオ・フェレール会(Society of Saint Vincent Ferrer)が「今や第二バチカン公会議の信教の自由を擁護する記事を書いている」と自慢しているのを見ています。


 ル・バルーのベネディクト会の修道士も、「正常化」の後に、第二バチカン公会議の信教の自由や新しい公教要理を擁護さえし始めました。ル・バルーの修道院長ドン・ジェラールや聖ペトロ会は、彼ら曰く、何も妥協することなく旧典礼とふるい公教要理を守ることが出来るように特権を得た、と言っていました。しかし、ルフェーブル大司教はこう言います。「彼らが何も手放すことがなかったというのは、正しくありません。彼らは【近代主義の】ローマに反対する可能性を手放してしまったのです。彼らは、もはや何も言うことが出来なくなりました。彼らに対して特典が与えられたのですから、彼らはただ口を閉ざさなければなりません。公会議の教会の誤りを告発することは、彼らには今や不可能です。少しずつ彼らは、正にラッツィンガー枢機卿によって要求された信仰宣言によって、【公会議の誤りを】支持するようになります。ドン・ジェラールは、自分の修道院の修道士が書いた信教の自由についての小冊子を発行し、それを信教の自由を正当化しようとする最中だと思います。」

【Monseigneur Lefebvre : Quand ils disent qu'ils n'ont rien lâché, c'est faux. Ils ont lâché la possibilité de contrer Rome. Ils ne peuvent plus rien dire. Ils doivent se taire étant données les faveurs qui leur ont été accordées. II leur est maintenant impossible de dénoncer les erreurs de l'Eglise conciliaire. Tout doucement ils adhèrent, ne serait-ce que par la profession de foi qui est demandée par le cardinal Ratzinger. Je crois que Dom Gérard est en passe de faire paraître un petit livre rédigé par l'un de ses moines, sur la liberté religieuse et qui va essayer de la justifier.】

 ブラジルのカンポスでも「正常化」の後に、第二バチカン公会議を受け入れることになりました。カンポスのリファン司教は、新しいミサを捧げることに反対しなくなり、第二バチカン公会議を批判することを司祭たちに禁止するようになりました。

 「良き牧者会」(Institute of Good Shepherd)でも、同じことが起こりました。

 エクレジア・デイ委員会の秘書、モンシニョール・グイド・ポッゾ(Guido Pozzo)は、良き牧者会(IBP)の長であるフィリップ・ラゲリ(Philippe Laguérie)神父に、2012年3月23日付けで、この修道会の教会法による訪問(canonical visitation)の結果として公式の勧告を伝えました。この訪問は、良き牧者会の認可の時にローマによって定められた5年の試験期間の終わりになされたものでした。
 良き牧者会は、2006年9月に、ローマと同意に達した元聖ピオ十世会の会員たちによって創立され、創立のメンバーには、フィリップ・ラゲリ(Philippe Laguérie)神父、ポール・オラニエ(Paul Aulagnier)神父、また、ギヨーム・ド・タヌアルヌ(Guillaume de Tanouarn)神父などがいます。

 創立の際には、良き牧者会は、第二バチカン公会議以前の典礼書を「排他的に使用」するという特権を得ていました。「排他的な使用」とは、同修道会は聖伝のミサだけを執行し、新しいミサを排除する、という意味です。しかしその5年後、ローマのエクレジア・デイ委員会から、原理原則として新しい典礼を排除することを公式に禁止され、聖伝のミサを、「排他的」に捧げるのではなく、単純に「会に固有の典礼様式」とするべきである、と命じられました。

 フランスのクルタラン(Courtalain)にある神学校での司祭養成については、委員会は「良き牧者会は、その学習過程に、第二バチカン公会議と最近・現在の教皇たちの教導権を導入すること」を求めました。それも「単なる第二バチカン公会議を批判するばかりではなく、しかもそれがたとえ「真面目で建設的な」やり方でなされようとも、教師の努力は、継続に於ける刷新の解釈法を強調しつつ、同時にカトリック教会の公教要理nよって説明されたカトリック教理の完全さを維持することを求めつつ、教会の【第二バチカン公会議を含める】全遺産の伝達に焦点を置かなければならない」とエクレジア・デイ委員会は主張します。

 更に、エクレジア・デイ委員会は、良き牧者会が司教区の司教らと協力することを提案し「司教が、全司教区の善のために同会の特定のカリスマを歓迎しそれを評価すること、また同時に、同会の司祭らが、司教区の教会の生活において交わりの精神を持って実際に同調することが大切である」と言います。

 以下は、参考資料で、モンシニョール・ポッゾからの良き牧者会への公式の勧告の英語訳です。

Letter from the Secretary of the Ecclesia Dei Commission
To the Institute of the Good Shepherd in France

March 23, 2012

Conclusions of the Canonical Visit
To the Institute of the Good Shepherd

Generally speaking, it is necessary to develop the founding charisma of the Institute by thinking more on the future than on the past. To prepare for the next General Chapter, it will be useful to meditate on Christ as Pastor.

Anyone who wants to develop the characteristics of a society of apostolic life must avoid any form of individualism. For this, it would be good to enter into contact with other societies of apostolic life capable of helping in this meditation on communitarian life.

The question of the practice of the extraordinary form [of the Mass], such as it is formulated in the Bylaws, must be delineated in the spirit of Summorum Pontificum. It would be suitable to simply define this form as the “rite proper” to the Institute without speaking of “exclusivity.”

The founders of Institute of Good Shepherd Fr. Philippe Laguerie, left, and Fr. Paul Aulagnier with Card. Hoyos Regarding the Seminary of Courtalan, the evaluation is positive, but it would be suitable to include the teaching of the present day Popes and of Vatican II. The pastoral formation should be made under the light of Pastores dabo vobis and the doctrinal formation should include a careful study of the Catechism of the Catholic Church.

To resolve the question of the establishment of the seminary [in other places], unless it is just an extension of the Courtalan seminary itself, the French Conference of Bishops can be asked to suggest the names of the dioceses where it can be installed.

Rather than maintaining a critique of Vatican Council II, even a “serious and constructive” one, the efforts of your teachers must point out the transmission of the integrity of the patrimony of the Church, insisting on the hermeneutics of renewal in its continuity and using as support the integrity of Catholic doctrine expounded by the Catechism of the Catholic Church.

To improve the functioning of the Council and to prepare for the General Chapter, it would be suitable to ask the advice of a canonist. The names of Rev. Fathers Pocquet de Haut-Jussé and Le Bot, OP are suggested. A monthly meeting of the Council seems opportune.

It is desirable to carefully discern the vocations coming from Brazil, as well as to reflect upon the reception of the Institute priests in the different dioceses. It is important that the Bishop accepts and valorizes the special charisma of the Institute for the good of the whole diocese and, at the same time, that the priests of the Institute, with a spirit of communion, insert themselves in the ensemble of the ecclesial life of the Diocese.

The creation of an economic Council will help St. Eloi parish to better conform juridically with the other parishes of the Archdiocese of Bordeaux.

The Angelus school in the Diocese of Bourges must pay more attention to the General Superior. We recommend that it seek to acquire diocesan recognition.

Monsignor Guido Pozzo


 ルフェーブル大司教:「ローマでラッツィンガー枢機卿様とした話し合いの間、私たちが合意に向かって進もうとしている時に、彼は私に教えてくれました。もしパリの聖ニコラ・デュ・シャルドネ教会に於ける旧典礼使用に許可が与えられたら、新しいミサもなければならないでしょう、と。それは明らかです。彼らの心の状態<新しいミサを押し付けようとすること>をくっきり見せてくれました。彼らが、新しいミサを諦める可能性などありません。その反対です。それは分かりきっています。ですから、譲歩に見えなくもないものも、実際には、私たちを出来るだけ大人数の信徒たちから引き離す為の策略なのです。これが展望であって、その中で彼らは常にもっともっと聖伝に譲歩して与えようとするでしょう、それどころかきわめて遠いとことまで譲歩さえするでしょう。それが策略以外の何ものでもなく、公会議派の司教や近代主義のローマの掌中に身を委ねる事は危険であると、私たちは断固信徒たちに納得させる必要があります。それは私たちの信徒を脅かしている最大の危険なのです。二十年間も、私たちが公会議の誤謬を避けようと努めて来たとすれば、それは、まさか、これらの誤謬を表明する人々の掌中に私たちの身を委ねる為ではありませんでした。」


 はい、ベネディクト十六世は、正当な教皇様です。

 イエズス・キリストはベネディクト十六世の口を通して今でも語り続けることができます。

 しかし、もしも教皇様が、聖ピオ十世会に対して、すこしづつ第二バチカン公会議についての批判を止めるように政治的に動きかけているのなら、私たちはカトリックの信仰をまず明らかにするように働きかけるべきではないでしょうか?それが2006年の聖ピオ十世会の総会での宣言でした。

 愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

1990年9月6日、ルフェーブル大司教様が司祭たちにした講話 その2

2012年07月04日 | ルフェーブル大司教の言葉
アヴェ・マリア!

 1990年9月6日、スイスのエコンにてルフェーブル大司教様が聖ピオ十世司祭兄弟会の司祭たちにされた講話を日本語に訳して下さった方があります。私に自由な時間が与えられず、愛する兄弟姉妹の皆様にすぐにご紹介することが出来ませんでした。遅ればせながらご参考にご紹介いたします。日本語に訳して下さった方には、心から感謝いたします。

 その他にも、まだまだご紹介するばかりの日本語に訳された記事があるのですが、私の時間がとれずにご紹介できていないものも多々あります。出来るだけ早くご紹介するつもりであります。愛する兄弟姉妹の皆様のご理解をひたすらにお願い申し上げます。

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


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1990年9月6日、スイスのエコンにてルフェーブル大司教様が
聖ピオ十世司祭兄弟会の司祭たちにされた講話 その2

<>和訳者補足

【SSPXアメリカ管区サイトの掲載文】

(続き)

 私たちを裏切りつつある人々と一緒にいるかいないかということについては、少しも躊躇するには及びません。柵の向こう側の隣の庭をすばらしいと見たがる人は何時もいます。彼らは味方を、つまりまさに戦場で抵抗している味方を見る事をせずに、敵の方を眺めるわけです。

 「寛大でなければならない」とか、「思いやりを持たなければ」そして「分裂を回避しなければならない」と彼らは言っています。「何れにせよ、このような方々も正当なミサを捧げていますから、言われている程の悪人ではありません」などと。

 そうではあっても、やはり彼らは私たちを裏切っています。彼らはカトリック教会を破壊する人々、そして近代主義と自由主義の思想を持った人々に手を貸しています。しかもカトリック教会から排斥されたこれらの思想の持ち主に手を貸しているのです。つまり彼らは悪魔の仕事をしているのです。

 聖主の君臨と霊魂たちの救いの為に以前私たちと一緒になって働いていた人々が、今度はこんなことを言い出すのです。
「おお、正当なミサを認めてくれさえすれば、ローマに手を貸す事は可能ですし、問題はありません。」 しかし、私たちはこれがどんなことになるか眼にしています。彼らは行き詰っています。誰も近代主義者に手を貸すと同時に、聖伝を守りたいと望む事など出来ないのです。できません。その様なことは出来ません。

 聖伝に連れ戻し、聖伝に改心させる為に、彼らと接触しつづける、はい、いわばこれが本来のエキュメニズムです。ですが、結局は分裂を起こしたと殆ど後悔したとか、彼らと上手く話し合いたいというかという印象を与える事は出来ません。彼らは、私たちが死体のような聖伝主義者だとか、死体のように硬直しているなどと言っています。彼らによれば、私たちは生きた聖伝ではなく、「活気も喜びもない」陰気な聖伝なのだそうです。信じられません。考えられません。こういう人々とどのような関係を持つというのでしょうか?

 これは、一部の一般信徒方との問題を生み出しています。彼らは、非常に心優しく、私たちに賛同して下さり、四司教の聖別に賛成してはいますが、それと同時に、以前一緒だった人々で、四司教の聖別を受け入れず今では私たちに反対している人々ともはや一緒ではないことを、ある種の心に秘めた後悔をしています。「それは残念だ、私たちは分裂している、彼らと会って一杯やって、彼らに手を差し伸べよう」と。

 これは裏切りというものです。このような人々は、機会さえあれば、私たちから離れた人々と一緒になって私たちから立ち去ることでしょう。そこで人々は何を望んでいるのか、決断する必要があります。

 何故なら、こういう事が全ヨーロッパのキリスト教世界を滅ぼしてしまったからです。それはフランスの教会のみならず、ドイツやスイスなどの教会も滅ぼしました。フランス革命の定着を許したのはこれです。つまり、自由主義者たちですが、彼らがカトリックの原理を持たない人々に手を差し伸べた事にあります。

 私たちはカトリック教会の破壊と、聖主の社会的君臨の崩壊にも協力したいのか、あるいは、私たちは聖主イエズス・キリストの君臨の為に働く決心が固まっているのか、決断する必要があります。

 私たちと働こうとして一緒に来たいと思う全ての人々がいれば、天主に感謝!、私たちは彼らを一人残らず歓迎致しますし、彼らが以前どのような人々であったとしても、どちらから来たとしても、問題はありません。ただし、彼らがリベラルな人々と仲良くし、その人々と協力する為に、私たちとは別の道を行くなどと言わせないようにしてください。

 全十九世紀にわたって、カトリック教徒たちはこのシラブスという文書に関して、賛成、反対、賛成、反対と文字通り引き裂かれました。特に、シャンボール伯(le comte de Chambord:フランス、ブルボン家最後の王位継承候補だったが、三色旗の承認を拒絶したが為に、王位に就く事が出来なかった)を皆さんは思い出してください。彼は、旗を変えたという理由で、フランスの1870年革命の後に、フランス王となることを拒絶したと批判されたます。しかし、これは一般に言われているような旗の問題ではありませんでした。シャンボール伯はフランス革命の原理に従う事を拒絶したのです。彼は言いました:「革命のための合法的な王となる事には、私は絶対に同意致しません。」そして彼は正しかったのです。何故なら、「議会による王」となること、そしてそうすることによって革命の原理を受け入れるという条件で、彼は国とフランス議会から王となることを投票されて認められていただろうからです。「お断りします。私が王となるべきならば、革命以前の我が祖先がそうだったような王となるつもりです。」と彼は言いました。

 彼の言う通りです。私たちは選ばなければなりません。シャンボール泊は、教皇と一緒に、革命以前の原理を、つまりカトリックの原理、反革命の原理を選択したのです。そして私たちもまた反革命である事を選びましたし、シラブスに従い、近代主義の誤謬に反対して、カトリックの真理にいる事とそれを守る事を選択しました。

【注:シャンボール伯は、フランス、ブルボン家最後の王位継承候補だったが、王となるためには、フランス国旗(百合の旗)を棄てて三色の革命旗を受け入れるよう要求され、それを拒絶して、革命議会の下での王位に就く事を拒否した。】

 カトリック教会とリベラルな近代主義者との間のこの戦いは、第二バチカン公会議についての戦いとなっています。単純にそうです。午後の二時に正午を探し求めてはいけません。さらにこのことは遙か遠くまで結論が導き出されます。第二バチカンの公文書と教会当局が第二バチカン公会議に与えた解釈を分析すればするほど、エキュメニズム、信教の自由、司教団体性、ある種の自由主義という、幾つかの誤りや表面的な誤謬の問題に留まらず、これは精神の堕落(une perversion de l’esprit)の問題だということ、主観主義という近代哲学に基礎を置く完全に新しい哲学の問題であることに気づきます。

 ドイツ人神学者が出版したばかりの本【Theologische Weg Johannes Pauls II zum Weltgebetstag der Religionen in Assisi, Johannes Doermann】があります。それは皆さんが手にする事が出来るようフランス語に訳される事を期待しているのですが、それはこの点について大変参考になります。この本は教皇様【=ヨハネ・パウロ二世】の思想を批評しています。特に、単なる一司教として、彼がバチカンで指導された黙想会における教皇の思想を批評しているのです。教皇の思想の中では、全てが始めから最後まで主観主義的だと彼は見事に説明しています。この本を読んだ後、教皇様の演説を再び読み直すと、彼の思想とは確かに主観主義的だとよく分かります。それはカトリック的な外観を持っているにも関わらず、カトリックではありません。教皇様が、天主、そして聖主について持つ思想は、彼の意識の深奥部から来ているのであって、彼がその知性によって従っている客観的天啓から来ているのではありません。彼は天主の概念を築いているのです。彼は最近、ある--- 考えられない! ---文書の中で、三位一体の概念はかなり後になってからしか生れなかった、何故なら人間の内的心理が三位一体とは何かを作り上げて辿り着く事が出来なければならなかったからだ、と言いました。つまり三位一体という概念は天啓から来るのではなく、意識の深奥部から来ているということです。<つまり我々の認識主観の状態に関わらず永遠に実在する三位一体を否定し、単に人間の認識主観の産物である概念にまで貶めた。>これは天啓、信仰、そして哲学に対する全く異なった発想であり、全くの倒錯です。どうやってそこから抜け出るのでしょうか?私には皆目見当もつきませんが、何れにせよ、これは事実です。そしてこのドイツ人神学者はそれを証明しています。これは本当に恐るべきことです。

 これは些細な間違いではありません。私たちは、デカルトやカント、それから革命を準備した近代哲学者たち全ての系譜にまで遡る哲学の全潮流を前にしているのです。

 これは1989年6月2日のオッセルヴァトーレ・ロマーノ紙に公表されたエキュメニズムに関する、ノルウェーでの教皇様の言葉から引用したものです:

「北欧諸国への私の訪問は、全てのキリスト教徒の一致を促進する事であるエキュメニズムという事業に対するカトリック教会の関心の確認であります。二十五年前、第二バチカン公会議はカトリック教会に対するこの挑戦<エキュメニズムに対する要求>が切迫している事を明確に強調致しました。私の前任者たちは、神性なる泉でありエキュメニカル<キリスト教会一致>運動の保証である聖霊の恵みに粘り強い注意を払ってこの目標を達成せんと努めたのです。教皇在位期間の初めから、私はエキュメニズムを司牧活動上の心遣いと致しました。」
 はっきりしています。

 また教皇様が他にも多くエキュメニズム関連の演説を休みなくしておられるのも、彼がギリシャ正教徒の代表団や、全ての宗教とありとあらゆる宗派の代表団を何時も迎え入れているからです。

 ですが、このエキュメニズムはカトリック教会を少しも進歩させなかったと言う事が出来ます。これは他宗教者たちを改宗させる努力はせずに、彼らを誤謬に留まるよう元気付ける事以外何もしませんでした。そこで言われる事は、全てちんぷんかんぷんです。例えば、「交わり(la communion)」だとか、「近づき」だとか、「私たちはすぐに完璧な共同体の中にいることを望む」だとか、「私たちは近く一致の秘蹟に於いて交わる事が出来ると確かに希望する」とか、その他も同様です。しかし彼らは前進などしません。前進する事などあり得ないのです。

 これもオッセルヴァトーレ・ロマーノ紙に掲載されていたことで、国連の人権委員会に向けたカザロリ枢機卿による話です(1989年2月):
「皆様のところに参上するようにとの私に対する御招きに大いなる喜びを以ってお答えし、皆様に聖座からの激励をもたらす為に、私は、良心に基づいた思想と行動との基本的自由、即ち信教の自由の特定の観点について、少しお話しする時間を頂きたいと思います。皆さんには私の気持ちがお分かりになるでしょう。」(一大司教<カザロリ枢機卿>の口からこの様な事を耳にするとは!)「ヨハネ・パウロ二世は昨年、世界平和の日(la Journée mondiale de la paix)に向けたメッセージの中で、信教の自由は、人権という建物において、角の親石であると断言する事を躊躇いませんでした。カトリック教会とその最高牧者は、特に後者は人権をその説教の最大のテーマとされたのですが、次のことを想起させる事を忘れませんでした。つまり、人間によって、また人間の為にこそ作られた世界に於ける...」(カザロリ枢機卿が言われたのですよ!)「...社会の全組織は、それが人間的次元を中心的な関心事とする程度に応じてのみ意味を持つ、と。」(天主について、つまり人間に於ける天主の意義については言及されていません。恐るべきことです。これは異教です。キリスト教ではありません)。それから彼は続けます:「各々の人間及び全人類、これこそが聖座の関心事であり、これは間違いなく皆様の関心事でもあるのです。」

 これ以上、することなどありません!私たちはこういう人たちと何もする事など出来ません。彼らと共有するものを私たちは何も持っていないからです。

(続く)


ティシエ・ド・マルレ司教様のインタビュー "正常でないのは、近代主義のローマの状態だ"

2012年07月04日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア!

アヴェ・マリア!

 イロイロからマニラの修道院に戻ってきました。さて、ティシエ・ド・マルレ司教様のインタビューを日本語に訳して下さった方があります。参考資料として愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介します。日本語に訳して下さった方には、心から感謝いたします。

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


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【参考資料】ティシエ・ド・マルレ司教 "正常でないのは、近代主義のローマの状態だ"

 ベルナール・ティシエ・ド・マルレ司教は、一九八八年、マルセル・ルフェーブル大司教が聖別した、聖ピオ十世会の四司教の一人である。ティシエ司教は八名の新司祭(六名は聖ピオ十世会、二名は聖伝のベネディクト会)と、十三人の助祭(すべて聖ピオ十世会)を、ウィノナの聖ピオ十世会の神学校において、六月十五日金曜日に叙階予定である。その後、六月十七日から二十四日にかけて三度の堅信式を主宰する予定である。

 主として政治関連の記事を取り上げるフランスの定期刊行雑誌リヴァロル(Rivarol)誌は、今日[六月十三日]、ティシエ司教への次のようなインタビューを発表した。インタビュー自体は六月初旬に行われた。

 このインタビューで、ティシエ・ド・マルレ司教が表明した意見と、フェレー司教が最近のインタビューや説教で表明した意見との間には、見過ごしにできない広くて深い溝がある。

リヴァロル誌: 聖ピオ十世会の、「公式の教会」内への「復帰」が眼前に迫っていると、広く語られています。これは一体何なのでしょうか?

ティシエ・ド・マルレ司教: 「復帰」、この言葉は間違いです。聖ピオ十世会は決して教会を離れたことがありません。当会は教会の中心におります。正真正銘の信仰の教えがある場所に教会は存在します。聖ピオ十世会を「公認化する」というこの計画には、私は興味がありません。私たちはそのことを求めておりません、そして教会はそのことを求めておりません。私たちは逆らいのしるしとして、すでに頂点におり、そのことが何人もの気高い霊魂たちを惹きつけ、大勢の若い司祭たちを惹きつけるのです。私たちが(教会内で)のけ者にされた状態にあるにも関わらずです。公会議後の世界では一致のために、私たちの灯火を升(ます)の下に隠しておくことを望む人がいるかも知れません。私たちに提案されている属人区というオプス・デイに類似した身分は、平和状態のためのものです。しかし、私たちは現在、教会内において戦闘状態にあります。「戦闘を合法化する」ことを望むのは矛盾することになるでしょう。

リヴァロル誌 : ですが、聖ピオ十世会の一部の方々は、属人区の提案は実際には良い事であると思っています。この「不正常な」状況をあなたは気になさらないのですか?

ティシエ司教: 不正常なのは、私たちではありません。正常でないのは、ローマの状態です。近代主義のローマ、王たるキリストを否認した自由主義のローマのほうです。第二ヴァチカン公会議直前に至るまで、すべての教皇たちがあらかじめ断罪した(誤謬を支持する)ローマです。その一方で、現在のローマに加わった修道会らの経験がすべてを物語っています。カンポスと善き牧者会を含んだかつての聖伝派の修道会は、一つまた一つと、第二ヴァチカン公会議を受け入れる事を強いられました。カンポスのリファン(Rifan)司教がどうなってしまったか、私たちは知っています。リファン司教は今や新しいミサを立てることになんの異議も唱えず、管轄下の司祭たちに第二バチカン公会議を批判することを禁じてしまったのです!

リヴァロル誌: ローマはベネディクト十六世とともに変わったのだと信じる人たちに、あなたはなんとおっしゃいますか?

ティシエ司教: ベネディクト十六世は確かに、聖伝に友好的ないくつかの意思表示をなさいました。特に、聖伝のミサは決して廃止されたことはなかったと宣言したことで、次に、ルフェーブル大司教様による私たちの司教聖別に続く、私たちに対する宣言、いわゆる「破門」を取り消したことで、です。この二つの前向きな意思表示のため、ベネディクト十六世に対し司教団から手厳しい批判が浴びせられました。ですがベネディクト十六世は、教皇である一方で近代主義者であり続けています。二〇〇五年十二月二十二日の[継続と改革の解釈学に関する]自己の行動原理的な訓話は、信仰の諸真理は時代ごとの有力な思想に一致して進化すると宣言しているのです。好意的な意思表示にも関わらず、公会議という球体の中に私たちを一体化させようとする教皇様の本当のご意志は、第二ヴァチカン公会議へと私たちを導く以外のなにものでもあり得ません。教皇様ご自身、二〇〇五年八月に、フェレー司教様にそのことをおっしゃったのです。そして、不正に公表された教皇様ご自身の内密の覚え書きが、そのことを最近確認しています。

【注:ここで述べられていることは、Vatileaks 事件で流出した、教皇ベネディクト十六世のものとされている秘密メモのこと。最近出版された『ベネディクト十六世聖下、教皇様の秘密文書』("Sua Santità. Le carte segrete di Benedetto XVI" by Gianluigi Nuzzi, Edito da Chiarelettere, 2012)pp 207-208 において、「聖ピオ十世会の将来の承認のために、教皇聖下は必要不可欠な条件として何も求めない」"Per un futuro riconoscimento della Fraternità San Pio X il Santo Padre non intende prescindere da una condizione indispensabile"を、ベネディクト十六世自身が次のように訂正したという秘密メモが流出してしまった。「聖ピオ十世会の将来の承認のために、必要不可欠な条件は、第二バチカン公会議とヨハネ二十三世、パウロ六世、ヨハネ・パウロ一世、ヨハネ・パウロ二世、そしてベネディクト十六世自身の教導権を完全に認めることである。」"Per un futuro riconoscimento della Fraternità San Pio X è condizione indispensabile il pieno riconoscimento del Concilio Vaticano II e del Magistero dei Papi Giovanni XXIII, Paolo VI, Giovanni Paolo I, Giovanni Paolo II e dello stesso Benedetto XVI."】


リヴァロル誌: しかし、こう考える人々もいます。ベネディクト十六世はカトリックのバイエルン出身ですし、彼らが「青年時代からの深い敬虔さ」だと知っているかのような姿を見せましたし、それが信頼を呼び起こすのだと。これに対してあなたはどのようにお答えになりますか?

ティシエ司教: 教皇様がよい方だというのは本当です。親切で、礼儀正しく、思いやりのある方、思慮深い方です。しかし、生まれつきの権威をお持ちで、断固とした決意の人です。彼はその個人的活力で、教会内の道徳に関する問題をいくつも解決してきました。例えば、あちらこちらの聖職者修道会における道徳問題をです。が、教皇様は公会議に染まっています。聖ピオ十世会問題を解決する事が、ご自分の教皇職の主な仕事の一つだとおっしゃる時、教皇様は問題の本質がどこにあるのか、わかっておられません。取り違えておられます。私たちのいわゆる「離教」に問題があるのだと理解しておられます。さて、問題は、聖ピオ十世会が引き起こしているのではありません。それはローマの問題です。新しい近代主義のローマ、もはや永遠のローマではなくなってしまったローマ、上智と真理の教師ではなくなってしまい、第二ヴァチカン公会議以来、誤謬の源となってしまったローマが引き起こしている問題なのです。そして、今日もそのままであり続けています。ですから、この危機の解決は、ローマからのみ来ることが可能なのです。ベネディクト十六世の次の教皇様からです。

リヴァロル誌: では、ベネディクト十六世との不一致、聖ピオ十世会の多くの人々があり得ないことだとみなしていますが、これをどのように解決なさるのでしょうか?

ティシエ司教: 真理に抵抗する人々にとって聖ピオ十世会が「躓きの石」であるのは本当です。そしてこのことは、教会にとってよいことです。私たちが「復帰した」なら、まさにこの事実によって、私たちは公会議の目の上のこぶであることを、イエズス・キリストにおける信仰の喪失、イエズスの神性、その王国における信仰の喪失に対する生ける叱責であることを、やめてしまうでしょう。

リヴァロル誌: 司教閣下、ですが、あなたは二人の同僚と連名で、ベネディクト十六世との純粋に実務的な合意を拒むようフェレー司教閣下に手紙を書かれました。この拒絶の理由はなんでしょうか?


ティシエ司教: 書簡の公表は、私たちに責任のない無分別な行為によるものです。私たちが純粋に実務的な合意(purely practical agreement)を拒否するのは、教義的な疑問が基本にあるからです。信仰は合法性に優先します。私たちは信仰の問題が解決されないまま、合法化を受け入れることはできません。私たちが今、近代主義に染まっているローマ高位聖職者たちに無条件に従うことは、いずれ不従順にならざるを得ない自分たちを晒すことになります。そして、その中になんの良い事があるでしょう? ルフェーブル大司教様は一九八四年から言っておられました。「権力者に自分たちを打ち砕くあらゆる力があるなら、誰も自分自身をその権力下には置かないものだ」これは賢いやり方だと私は信じています。私たちが、外交的なうまい言い逃れを全くせずに、はっきりと私たちの信仰を断言し、結果的に公会議の誤謬を拒絶する文書を作成するのがよいと思います。この声明は、まず初めに、教皇ベネディクト十六世に対して公に真理を述べるという利点があるでょう。教皇様こそが、誰よりも最初に真理を知る権利を持つ方だからです。次に闘争的で、かつ曖昧でない信仰告白の周囲に、聖伝のカトリック信者たちの一致を復興させるという利点があります。

リヴァロル誌: 提案された属人区の身分は、信仰のための戦いを放棄するかもしれないというあらゆる危険に関して、【それらの危険から守られるように】あなた方に充分な保証を与えるだろうと言う人たちがいますね。

ティシエ司教: それは正しくありません。属人区の計画によれば、教区司教の許可なしに新しい修道院を建てるための自由がありませんし、加えて、私たちが最近創立した修道院はすべて、この同じ司教によって承認されなければならないでしょう。従って、この提案によって、私たちはほとんど全てが近代主義の司教らに不必要なまでに支配されるようになるのです。

リヴァロル誌 : あなた方がまず第一に解決されることを見るのを望むこの信仰の問題を、私たちに詳しく説明していただけますか?

ティシエ司教: もちろんです。この問題とは、ルフェーブル大司教様がよく言っておられたように、信仰の教義を自由主義の誤謬と和解させようという、第二ヴァチカン公会議による企てです。ベネディクト十六世ご自身もこのことを言っておられ、一九八四年十一月に、ヴィットリオ・メッソーリとのインタビューで、このように宣言しておられます。「一九六〇年代の(つまり公会議の)問題は、自由主義文化の二百年の間の、最も成熟した価値を獲得することであった。自由主義文化の数々は教会の外で始まったものの、ひとたび清められ修正されるや、世俗を見つめる教会のヴィジョンの内にその場所を見いだすという価値を有している。そしてはそのことは成し遂げられた」これが公会議の業です。つまり、あり得ない和解のことです。「光と闇の間になんの和解があり得るだろう?」と使徒は言います。「キリストとベリアルの間になんの同意があるだろう?」(コリント後 六章十五節) この和解の象徴的な現れは、信教の自由に関する宣言です。キリストの真理と、全世界に及ぶキリストの社会的王権の場所の代わりに、公会議は人間を、人間の良心と自由を据えました。これが一九八〇年代にコロンボ枢機卿によって承認された、有名な「パラダイム(理論的枠組み)の変化」です。人となられた天主の礼拝の代わりに、天主になろうとする人を礼拝するということなのです(参照、一九六五年十二月七日、パウロ六世による公会議の閉幕における挨拶)。これはカトリック教ではない新しい宗教です。私たちはこの新しい宗教へのいかなる妥協も、いかなる堕落の危険を犯すことも、いかなるうわべだけの和解さえも望みません。そして私たちのいわゆる「正常化」が私たちに与えようとしているのは、この見せかけの和解なのです。マリアのけがれなき御心が、その信仰においてもけがれなきお方が、私たちをカトリック信仰のうちにお守り下さいますように。

【英語訳】Bishop Tissier de Mallerais: "The irregularity is that of Rome, a Modernist Rome." (from Rorate Caeli)

【参考】この記事については、http://blog.goo.ne.jp/thomasonoda/e/2fc30e8f1d70389152807250d8382b96のコメント欄にも記載があります。


近況報告

2012年07月03日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

如何お過ごしでしょうか?

私は、昨日の午前中にマニラの修道院を発ち、所用でイロイロの修道院に来ています。昨日は、韓国から来ている青年がイロイロの修道院で、聖公会からカトリックに改宗しました。ピオという霊名で条件付きの洗礼を受けました。彼の堅忍のためにお祈りをお願いいたします。

 今回は、イロイロの修道院長のダニエルス神父様と色々お話ができました。

 私は、明日の午後の飛行機でイロイロからマニラに戻ります。


聖ピオ十世会のため、総会のために、愛する兄弟姉妹の皆様の熱心なお祈りをお願いいたします。

聖母の汚れなき御心よ、我らのために祈り給え!

聖ピオ十世、我らのために祈り給え!



トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

聖ピオ十世会フランス管区長 レジス・ド・カクレ神父 "幻想は今なお健在である"

2012年07月02日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア!

 今年の6月29日は、天主様のお恵みで司祭叙階19周年を迎えることが出来ました。また今年は聖ピオ十世会の神学校に入学して以来25年になります。天主様の御憐れみによって、19年の間、聖ピオ十世会の会員としてその末席に着いているお恵みを頂き、感謝しております。聖ピオ十世会という救命ボートが与えられていることそのお恵みを天主様に感謝します。叙階の時以来、愛する祖国日本にミッションに行く機会が与えられていることにも天主様に感謝します。日本の愛する兄弟姉妹の皆様にはお祈りとご支援とを深く感謝します。

 さて、聖ピオ十世会フランス管区長レジス・ド・カクレ神父執筆"幻想は今なお健在である"を日本語に訳して下さった方があります。愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介します。日本語に訳して下さった方には、心から感謝いたします。

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


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聖ピオ十世会フランス管区長 "幻想は今なお健在である"
聖ピオ十世会フランス管区発行、隔月刊誌フィデリテール、五─六月号の論説
フランス管区長レジス・ド・カクレ神父執筆(典拠 La Porte Latine) 


幻想は今なお健在である

 ベネディクト十六世は、二〇一二年四月五日、聖香油のミサの説教で「教導教会(teaching Church)の言葉は、現代において、信仰のメッセージを誤りなく伝えるための助けとなる」ということを思い出しました。この熱心なお勧めの言葉を最初に読んだ時、私たちは反射的に、教皇様は誤りのない深遠な教えに関心をお持ちなのだと喜ぶはずでした。にも関わらず、教皇様が続けてその教導教会が伝えるべき事柄を描写なさると、ああ、なんということか、それは正確に同じ事を指していないのです!

 「第二ヴァチカン公会議の諸文書と『カトリック教会のカテキズム』[訳注: ヨハネ・パウロ二世によって公布された公教要理]は、教会が、天主のみ言葉に基づいて信じていることへの正真正銘の指針としての役目を果たす、欠くべからざる手段である。このことは、もちろん教皇ヨハネ・パウロ二世によって私たちに与えられ、いまだ充分な調査がなされているとは言えない、回勅、書簡などの文書すべての財産を含んでいる」

 ベネディクト十六世が言われた「教導教会の言葉」はもっばら、そして常に、第二ヴァチカン公会議、カトリック教会のカテキズムとヨハネ・パウロ二世の回勅や書簡などの文書を支持する人々に向かって語りかけるに留まる、というのは見たところ明らかです。では、半世紀の間、公教会内に作り上げられた新しい宗教がもたらした悲惨な結果の数々を、教皇様は見ていないのでしょうか? ラッツィンガー枢機卿は、ペトロの小船が弱体化させられた嘆かわしい状況に、強い懸念を示したのではなかったのでしょうか? カトリック信者にとって災難の原因であり続けている、この近年の文書に、何度も何度も賛成の意で話されるのはなぜなのでしょうか?

 私たちが確かに望んだことは──今なお望んでいることは──教皇様が、ある瞬間に、原因と切り離せない影響から、つまり、第二ヴァチカン公会議と切り離せない公会議後の大失敗から離れるのを余儀なくさせられるということです。しかし、この聖香油のミサの説教において、教皇様が実際に見ておられる教会の現在の様子に疑問を抱くようになる人もいます。異端、そして世俗の精神の終わりのない恥ずべき勝利によって教会が壊滅させられたということを、教皇様は、真実その通りに理解しておられるのか? 私たちはこのことに疑いを持つことを許されています。教皇様はこうも言っておられるからです。「公会議後の時代の歴史について熟考する者は、まことの刷新の一連の流れを見分けることができる。刷新の一連の流れは、生き生きとした運動の中にひんぱんに思いがけない形で姿を現し、聖霊がおわし実際に働いておられる聖なる教会から、具体的と言っていい無尽蔵の活力を作り出した」

 公正な立場で言うならば、教皇様が公会議後の時代において気づいておられるこの運動の数々が何なのか、私たちにはわかりません。私たちはどうかというと、代わりにいくつもの名のある修道会が召命の欠如のせいで消滅した、消滅が予定されているということに気づくのです。小教区と教区がまるごと消えてしまったということも証言できます。異教徒の人口がふたたび増え、子どもたちはもはや洗礼を受けていません。そして、ワールド・ユース・デイ(WYD)もしくはカリスマ運動の路線に沿う大々的に宣伝された大規模な集会が、妄想へと導かないはずはありません! 彼らが償いを続け、熱心であったとしても──それは本当ではないのですが──昔の小教区の司祭たちのもとで起きた、住民をキリスト教民へと変える忍耐強い働きに取って代わることはできません。

 こう言うべきでしょう。教皇ベネディクト十六世は、深い、憂慮すべき幻想にとらわれている、と。最初の幻想は、この運動の数々、思いがけない形で現れ、急激にキリスト教を劣化させたこの運動の数々は生き生きとしている、と信じることです。二番目の幻想は、公会議と公会議後の教導権の教えは、霊魂が落ち込んだ夜闇を照らす灯りの役目を果たすかも知れないと、それでもかたくなに信じ込むことです。灯りとなるどころか、ますます闇を深くしているというのにです。

 私たちとしては、自分たちに純粋な信仰で栄養を与え続けます。結果として、あたかも大厄災から逃れるように、第二ヴァチカン公会議とそれに従った教皇たちが導入した新規なことから逃れ続けます。私たちの偉大な宝は信仰であり、信仰を弱め、危うくさせるかも知れないすべてのものに反対して、しっかりと立たなければなりません。

 フランス管区長 レジス・ド・カクレ神父†
 Father Regis de Cacqueray†, Superior of the District of France



--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
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