Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

アタナシウス・シュナイダー補佐司教のインタビュー「ファリザイ人たちへの反論」

2014年11月30日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 先日、2014年11月16日(日)のネリ神父様霊的講話でお話しされていた、シュナイダー司教様のインタビューの日本語訳を作って下さった方がいらっしゃいます。参考資料として愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介します。日本からも、このような司教様が現れますように!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


アタナシウス・シュナイダー補佐司教のインタビュー「ファリザイ人たちへの反論」


Against Pharisees
ファリザイ人たちへの反論 二〇一四年十一月五日

教会と世界は天主の掟と天主のご意志の完全な真理、結婚に関するキリストのみことばの完全な真理の、勇敢かつ率直な証人たちを緊急に必要としている。現代のファリザイ人的、律法学士的聖職者たち、つまり、性の平等思想と同棲という新異教的偶像に、ひとふりの香を撒く司教たち及び枢機卿たちは、キリストを信じる人々も、キリストのために人生を捧げようとする人々のどちらも納得させるつもりはないのだ──カザフスタンのアスタナにある、セントメリー大司教区のアタナシウス・シュナイダー補佐司教は、Izabella Parowiczのインタビューに対しこう述べた。

司教様、今回のシノドに関するあなたのご意見はどんなものでしょうか? 家庭を持つ人々に対するメッセージに対してどう思われますか?

シノドの期間中、一部の聖職者たちの側による明らかな人為的操作の瞬間がいくつもありました。一部の聖職者たちとはシノドの編集と運営組織において、鍵を握る立場にあった人々のことです。中間報告(Relatio post disceptationem 議論後の報告)は、明らかに作成済文書であり、シノドの教父たちが実際に発言したことには何一つ触れられていませんでした。この文書における同性愛、男女間の性と、「離婚したのち再婚したカトリック信者たち」が秘跡にあずかることを認める項目では、急進的な新異教的イデオロギーを示しています。このような異端文書が、教皇の指導のもと、カトリック司教たちの公式会議の文書として現実に公布されたということ、これは、その文書が単に予備的性質を持つにすぎないとしても、教会史上初めてのことです。主義主張が一貫している何人ものシノドの教父たちが、このようなアジェンダ(議題)を決然と拒否したことを天主に感謝し、そして世界中の信者たちの祈りのおかげであると感謝します。このアジェンダは現代の腐敗と異教的主流となっている道徳観を反映しています。異教的道徳観は、世界的な性の平等思想の原則に忠実な政治圧力によって、そしてほぼすべての権力を握っているといっても過言ではない公式マスメディアを通して、世界規模で強いられています。このようなシノドの文書は予備的なものにすぎないとしても恥辱であり、反キリスト教的精神がすでに教会の生命に関する重要な段階に浸透してしまった範囲を示唆しています。この文書は次世代にとって、そして歴史家たちにとって、使徒座の不名誉という汚点となって残ることでしょう。幸いなことに、シノドの教父たちのメッセージはまことのカトリック文書であり、数々の問題のより深い根源について沈黙することなく、家族に関する天主の真理の要点,例えば、罪の現実について述べています。このメッセージは真実の勇気と慰めをカトリック家庭に与えてくれています。一部を引用します。「我々は障害や重篤な病を持つ子どもたち、老齢による衰え、あるいは愛する者の死から生じ得る苦しみの生によって負わされる重荷について思いを致す。我々はこのような試練を、勇気、信仰、そして愛をもって耐え抜く多くの家庭の忠実さを称える。彼らは自らに課せられた重荷としてではなく、肉体の弱さのうちに苦しまれるキリストを眺めつつ、それらを自らに与えられたものとみなす……。夫婦の愛は唯一かつ永続的であり、多くの困難にも関わらず持ちこたえる。これは、あらゆる奇跡の中でも最も美しいものの一つであり、最も一般的なものだ。この愛は、子孫を残し、次世代を育てることで広まっていく。次世代を生み育てるとは、子女の出産のみならず、洗礼による天主の生命という贈り物、要理教育、そして教育をも含む……。質素な家に住むイエズス、マリア、ヨゼフの家庭の存在は、あなたたちの周囲に常に存在している」

道徳問題に関する教会の教えが変化すること(例えば、離婚したのち再婚した信者たちに聖体拝領を許可する、あるいは同性愛の結びつきをいかなる形式であれ承認を与える)を期待していたグループの人々は、最終「報告」の内容に十中八九落胆したことでしょう。とはいえ、一つの危険があるのではないでしょうか? つまり、教会の教えにとって基本的なものである問題に疑問を投げかけ、それについて議論をすること自体、将来に向けて重大な悪用を招き、この教えを転覆させようという似たような試みへとドアを開いているかも知れないという危険ですが。

事実、天主の掟が意味するもの──この場合は第六戒ですが──秘跡による結婚の絶対的不変性、天主の定めた掟が意味するものは、大罪の状態にある人々は聖体拝領が認められないということです。これは、聖パウロが聖霊による照らしを受けて書いたコリント人への第一の手紙の第十一章二十七節から三十節で教えられていることです。これは投票で決められることではありません。ちょうどキリストの天主性が決して投票で決められるものではないようにです。不変的な秘跡的結婚の絆につながれている人が、にも関わらず別の人間と夫婦のように同居しているならば、天主の法によって聖体拝領は認められません。もし聖体拝領を認めるならば、キリスト者の結婚の不変性の否定ということを、教会が悪辣にも合法化するという公式声明になり、同時に、天主の第六戒「なんじ、姦淫するなかれ」を撤回する事になるでしょう。人間の組織には、天主の十戒やキリストのみことば「神がお合わせになったものを離してはならない(マテオ19:6)」を、ほんのわずかでも、あるいは歪めたやり方で無効にする権威や資格はありはしないのです。それが教皇、あるいはエキュメニカル公会議であってもです。教会の教導職が全世紀を通じて現代に至るまで、例えばヨハネ・パウロ二世の「ファミリアリス・コンソルツィオ」で、「カトリック教会のカテキズム」で、そしてベネディクト十六世によって、絶えず変わることなく──変えることはできないので──教えられてきたこの明快な真理にも関わらず、いわゆる「離婚したのち再婚したカトリック信者たち」の聖体拝領を承認するという争点が、シノドにおいて是か否かを問われたのです。この事実そのものが最悪であり、天主のみことばの神的真理に対する聖職者たちの傲慢なふるまいを表しています。天主の真理と天主のみことばを決議にかけるという試みは、教導職の代表者として、善い忠実な家令として(マテオ24:45参照)、天主の遺産を熱烈な心で手渡さなければならない人々にふさわしいふるまいではありません。「離婚したのち再婚したカトリック信者たち」の聖体拝領を認めることで、これらの司教たちは、彼ら自身による独自の新しい聖伝を打ち立て、その結果、天主の掟に違反しています。かつてキリストがファリザイ人と律法学士たちをとがめたと同じことです(マテオ15:3参照)。そして、さらに状況を悪化させているのは、このような司教たちがキリストのみことばに対する不忠実を「司牧上の必要性」「慈悲」「聖霊に心を開く」といった話し合いの手段をもって、正当化しようとしている事実です。その上、彼らは自分たちに反対し、人の手で作り上げられたものではない、厳格で綿密なまことの聖伝を擁護する人々、あるいは聖伝派の人々にレッテル貼りをすると同時に、これらのみことばのまことの意味をグノーシス主義的やり方で貶めることに、なんの恐れもためらいもありません。四世紀、アリウス派の異端が主流を極めていた時、天主のおん子の天主性を擁護する人々は、「非妥協的」だの「聖伝主義者」だのと、同じようにレッテル貼りをされました。聖アタナジオは教皇リベリオに破門すらされてしまい、アタナジオはほとんどが異端的あるいは半異端的であった東方の司教たちと完全な交わりのうちにいないという議論をもって、教皇はこの破門を正当化しました。聖大バジリオはこの状況にあって次のように述べました。「現在、ただ一つの罪だけが厳しく罰せられている。すなわち、教父たちの聖伝を注意深く順守すること、これである。この理由のために、善き人々は追放され、砂漠へと連れて来られた」(Ep. 243)

実際のところ「離婚したのち再婚したカトリック信者たち」の聖体拝領を支援する司教たちは、新たなファリザイ人、新たな律法学士たちです。なぜなら彼らは天主の掟を軽視し、「離婚したのち再婚したカトリック信者たち」が、体と心を使って「姦淫を犯し続ける」(マテオ15:19)という事実に貢献しているからです。なぜなら彼らは外面的には「無傷の」解決策を望み、権力を持つ人々(社会的メディア、世論)の眼に、同じように「無傷に」見えることを望んでいるからです。しかしながら、彼らがいずれキリストの審判の法廷に出廷する時、間違いなく次のようなキリストのみことばが、狼狽する彼らの耳に響くはずです。「なぜ僭越にも私のおきてをのべ、私の契約を口にするのか。私の教えを憎み、私のことばをうしろに投げすてる者……おまえは姦通者と交わっている」(詩編50(49):16~18)

シノドの最終「報告」もまた、残念なことに「離婚したのち再婚したカトリック信者たち」への聖体拝領の議題に関する票決についてのパラグラフが入っています。たとえ可決のために必要な三分の二票には達しなかったとはいえ、誰の眼にも明らかなほど、現職の司教たちの大多数が「離婚したのち再婚したカトリック信者たち」への聖体拝領に賛成票を投じたという憂慮すべき、驚愕の事実がなおも残っています。現代のカトリック司教職の霊的資質を、嘆かわしくも反映しています。さらに嘆かわしいことは、過半数の必要な承認を得なかったこのパラグラフは最終報告書に残ってしまい、さらなる議論のために全教区に送付されることでしょう。それは司祭たちと信者たちの間に間違いなく教義的混乱を増大させることにしかならないでしょう。宙ぶらりんの状態のまま、天主の掟とキリストの天主的みことば、そして使徒パウロの言葉は、人間による決定をするグループによって自由に置き換えられるのです。「離婚したのち再婚したカトリック信者たち」の議題を隠し立てすることなく強硬に支援した一枢機卿は、「同性愛の夫婦たち」に関する恥ずべき声明さえも支援しましたが、「最終報告」に満足せず、厚かましくも「コップの中は半分満たされている」と宣言しました。そして似たような言葉として、来年のシノドにはコップの中身が満杯になるよううまくやらなければならないと述べました。この不誠実で不忠実で裏切りの計画を、天主が蹴散らしてくださると私たちは堅く信じなければなりません。キリストはこのような大嵐のただ中で、ご自分の教会である舟の舵取りを間違いなくしてくださいます。私たちは教会のまさしく支配者であり、真理であるお方、私たちの主イエズス・キリストを信じ、信頼しています。

私たちは現在、家族に対する攻撃が最高潮に達したことを経験しています。この攻撃は、人間と人間のアイデンティティに関する科学の領域にすさまじい混乱を同時に起こしています。遺憾なことに、この問題を議論する一方で、聖主の教えに矛盾する意見を表明するメンバーが教会のヒエラルキーに数名存在します。この混乱の犠牲となっている人々の信仰を強め、救霊へと手助けするために、彼らとどう話し合うべきでしょうか?

この史上稀に見る困難な時代に、キリストはこの試練を通して、教会がさらに明るく輝き、味気ない新異教的世界のまことの世の光、地の塩となることができるよう、私たちのカトリック信仰を清めてくださいます。それは、なによりもまず平信者たちの、教会の小さな群れの、現代では「ecclesia docens(教え導く教会、教導教会)」を強めるであろう「ecclesia discens(聴き従う教会、聴従教会)」の忠実で、純粋で、素朴な信仰のおかげです。四世紀に大いなる信仰の危機が起きた時と同じやり方で、福者ジョン・ヘンリー・ニューマン枢機卿が次のように述べたようにです。「これは異例の事実ではあるが、この中に教訓が存在する。賢明さでも力強さでもなく、むしろ不透明さと無知、そして脆弱さが教会の現実的な強固な部分を構成する、ということが恐らく許されたのだ。教会自身の口から迫害の言葉が出た時代に、すぐれた福音的教訓を教会に印象づけるためにである。主な教訓は、平信者たちによって異教主義が屈服させられたことである。アタナジオとエジプト人司教たちの指導のもと、そして一部の場所ではその地の司教たち、司祭たちの支援によって、最悪の異端は平信者たちによってはねのけられ、至聖所より根絶させられた……。かの大混乱の時代、聖主の天主性という天主的ドグマが宣言され、強く主張され、維持され、そして(人間的言い方では)保たれた──「Ecclesia docens 教え導く教会」によるよりも遥かに「Ecclesia discens 聴き従う教会」の力によって。平信者たちの肉体は彼らの洗礼の約束に忠実だった一方で、司教たちの肉体はその職務に不忠実だった。かつては教皇が、別の時代には総大司教が、首都大司教が、あるいは別の管区が、さらに別の時代には公会議が、言うべきでない言葉を発し、啓示された真理を覆い隠し、妥協させた。その一方で、アタナジオ、ヒラリオ、ヴェルチェリのエウゼビオの聖職者としての力強さ、そしてその他の偉大な隠遁者たちこそがキリスト者であり、彼らの存在なくしては失敗に終わったかも知れなかった」(四世紀のアリウス派たち、pp 446, 466)

私たちは、市井のカトリック信者たちが、彼らが学んだ公教要理、福音書のキリストの明白なみことば、彼らが自分たちの父親から、そのまた父親から受け継いできた信仰に忠実であれと励まさなければなりません。特に若者たちや結婚した夫婦たちを招いて、結婚と貞潔に関する教会の永続的教えについての勉強会や講話会を組織しなければなりません。貞潔を守る人生がいかに美しいか、キリスト者の結婚と家庭がいかに素晴らしいものか、人生における十字架と犠牲にはいかにすぐれた価値があるかを示さなければなりません。聖人たちの模範や模範的な人々が実際に示してみせたこと、すなわち、彼らも同じ肉欲の試み、同じ異教的世界の敵意や嘲笑を耐え忍んだこと、それにも関わらず、彼らはキリストの恩寵をもって貞潔を守る幸福な人生、キリスト者の結婚や家庭の幸福な人生を歩んだことを、今まで以上に教えなければなりません。信仰、清らかさ、そして完全無欠のカトリックの使徒継承の信仰は、世に打ち克つでしょう(ヨハネの第一の手紙 5:4)。

私たちは、貞潔な心の若者たちのグループ、家族のグループ、結婚の誓いにみずからを忠実に捧げたカトリックの夫婦たちのグループを作り、発展させなければなりません。道徳的にも実質的にも崩壊してしまった家庭や、シングルマザーたちを支援するグループ、祈りと善きアドバイスとともに別居中の夫婦たちを支援するグループ、「離婚したのち再婚したカトリック信者たち」に、例えば、彼らの罪深い状態、天主の掟や秘跡による結婚の神聖さを踏みにじっている罪を天主の恩寵とともに放棄し、謙遜とともに理解させるため、真面目な回心の一歩を歩み出せるよう支援するグループを組織しなければなりません。同性愛的傾向を持つ人々がキリスト教的回心の道、貞潔の人生へと続く幸福ですばらしい道へと入って行くため、また少しずつ彼らの一人一人にあった心理的治療を提案するため、注意深く手助けする人々のグループを作り出さなければなりません。この異教的世界で、今生きている同じ時代の人々に、キリストの教えという解放の善き知らせ(福音)、天主の掟、第六戒でさえも賢明で、すばらしいものであるということを示し、説かなければなりません。「主の律法は完全で、人の魂を慰め、主の証明は真実で、単純な人に知恵を与える。主の定めは正しく、人の心の喜びとなり、主の命は純粋で、人の目を開ける。」(詩編19(18):7~8)

シノドの期間中、ボズナン(Poznań)出身のGądecki大司教及び一部の著名な高位聖職者たちが、教会の永続的教えから逸脱した議論の結果に対する不賛成を表明しました。この混乱のさなかにあって、これは一つの希望──聖主の教えを土台から崩す人々がまさに教会内部に存在するという事実にまったく気づかずにいた聖職者たち、平信者たちの目を覚ますきっかけになるのではないでしょうか?

これは間違いなくボーランドのカトリシズムの名誉です。カトリック司教団の議長、Gądecki大司教様が、結婚と人間の性に関するキリストの真理を明確かつ勇気をもって擁護し、その結果、司教様自身がヨハネ・パウロ二世のまことの霊的息子であることを明らかにしました。George Pell枢機卿はシノドの期間中、リベラルな性についてのアジェンダと、「離婚したのち再婚したカトリック信者たち」に対するいわゆる慈悲的な司牧的支援を「これは氷山の一角に過ぎず、教会内におけるトロイの木馬のごときもの」だと述べて、適切に描写してみせました。

教会内部における事実、聖主の教えの土台を崩す人々が存在し、インターネット、そして一部のカトリック記者たち──自分たちがキリストの宝であると考えるカトリック信仰に降りかかっていることに無関心ではない人々──の働きのおかげで、彼らの存在が明らかな事実であることを全世界に対して目撃させてくれました。一部のカトリック記者たち、インターネットのブロガーたちがキリストの善き兵士としてふるまい、聖主の変わらぬ教えを弱らせる聖職者たちによるこのアジェンダへと注意を引いてくれたことを見て、私は嬉しく思いました。枢機卿たち、司教たち、司祭たち、カトリック家庭の人々、カトリックの若者たちは、みずからにこう言い聞かせなければなりません。「私はこの世界の異教的精神に同調することを拒否する、たとえこの精神が、一部の司教たち、枢機卿たちによって広められている時であってさえも。私は彼らが天主の聖なるおんあわれみと「新しい聖霊降臨」を、人を惑わし、邪悪な方法で利用することを受け入れない。私は性の平等思想、二度目の婚姻、同棲という偶像に、ひとふりの香を撒くことを拒否する、たとえ司教がそうするとしても、私はそうしない。天主の恩寵を武器に、私は人間の性と結婚に関するキリストの完全な真理を裏切るよりも、苦しむことを選ぶ」と。

教師たちではなく、この証人たちが世を納得させるだろうと「エヴァンジェリ・ヌンツィアンディ」でパウロ六世は述べました。教会と世界は天主の掟と天主のご意志の完全な真理、結婚に関するキリストのみことばの完全な真理の、勇敢かつ率直な証人たちを緊急に必要としています。現代のファリザイ人的、律法学士的聖職者たち、つまり、性の平等思想と同棲という新異教的偶像にひとふりの香を撒く司教たち及び枢機卿たちは、キリストを信じる人々も、キリストのために人生を捧げようとする人々のどちらも納得させるつもりはないのです。事実「veritas Domini manet in aeternum(詩編116:2 主の真実は永遠にのこる」であり「イエズス・キリストは昨日も今日も代々に同じ」(ヘブライ人への手紙 13:8)であり、「真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ8:32)のです。この最後のフレーズは、家庭の教皇であった教皇ヨハネ・パウロ二世のお気に入りの聖書の一節でした。この言葉にこう付け加えましょう。「人間の性と結婚に関して啓示され、そして変わることなく受け継がれた天主の真理は、教会の中にいる霊魂たち、外にいる霊魂たちにもまことの自由をもたらすだろう」教会の危機のただ中にあって、聖アウグスチノはその時代の一部の司教たちがまちがったふるまいと教義に関する例を示した時、このような言葉に単純に一致していました。「私たち司教が何者であれ、天主を父に持ち、教会を母に持つあなたは安全である」 (Contra litteras Petiliani III, 9, 10).

+ Athanasius Schneider, Auxiliary Bishop of the Archdiocese of Saint Mary in Astana, Kazakhstan.
カザフスタン、アスタナのセントメリー大司教区補佐司教、+ アタナシウス・シュナイダー

このインタビューは「Polonia Christiana」誌の最新号に掲載された。


聖伝のミサ(いわゆる「トリエント・ミサ」と呼ばれているローマ式典礼様式のミサ)にようこそ!

ローマ・カトリックの聖伝のミサ vs エキュメニカルな新しいミサ(第二バチカン公会議のミサ)




この映画のダビングのために日本語訳を作り、録音してくださった声優の方々や、字幕を作ってくださった方々、すべての関係者の方々に感謝します。


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先日、シュテーリン神父様から日本語の良い公教要理のウェブ・サイトのリンク先を尋ねられましたので、次をご紹介しました。愛する兄弟姉妹の皆様にもご紹介します。


公教要理図解(ワグネル訳)
カトリック中央協議会編集の公教要理(1958年)
聖ピオ十世 公教要理詳解

ローマ公教要理 【使徒信経の部】
序文 教会における司牧者の必要性と権威および役務について またキリスト教のおもな教義について
信仰と信経について
第一条 天地の創造主、全能の父である神を信じます
第一条 天地の創造主、全能の父である神を信じます(続き)
第二条 われらの主、イエズス・キリストを信じます
第三条 聖霊によりて宿り、おとめマリアから生まれた
第四条 ポンシオ・ピラトの管下にて苦しみを受け十字架に付けられ、死んで葬られる
第五条 古聖所 ( Inferi ) に下り、三日目に死者の中から復活された
第六条 天に昇り全能の父なる神の右に座し
第七条 主は生ける人と死せる人とを裁くために来られる
第八条 聖霊を信じます
第九条 聖なる公教会、諸聖人の通功を信じます
第九条 聖なる公教会、諸聖人の通功を信じます(その2)
第九条 聖なる公教会、諸聖人の通功を信じます(その3)
第十条 罪のゆるし
第十一条 体の復活




同性愛の結びつきの論理的な結論・・・

2014年11月29日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 以前、次のような一コマ漫画をご紹介したことがあります。

人間と犬との「結婚」式



 この漫画は、犬との「結婚」を市役所に届け出る愚かな人(犬と結婚して「モルモットを養子にしたい」と言っている)のことを笑ったものですが、しかし、将来、真剣にそれをする人が出てくることでしょう。何故なら、自然本性を無視した同性同士の「結婚」の次に論理的必然としてでてくるのは、やはり、犬との結婚とかサルとの結婚、などの「自由」だからです。

 ネリー神父様は、こんな記事のことを教えてくれました。それは、「木」と「結婚式」をしたペルー人のコメディアン・エコロジストのニュースです。Un écologiste colombien épouse un arbre 上の漫画も、将来は笑えなくなるとしたら、恐ろしいことです。

 日本語でも記事がありました。ペルー人男性が木と結婚式

 さて、聖伝によると、 11月29日から12月7日までは、 無原罪のおん宿りの祝日を準備する9日間の祈り(ノベナ)をする期間です。
 特に、日本における聖ピオ十世会の意向で、聖母マリア様の無原罪の御宿りの祝日(12月8日)の準備を9日間祈祷(ノベナ)を持って始めて下さいますようにお願いいたします。

 詳しくは、ここをクリックしてご覧下さい。

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


聖伝のミサ(いわゆる「トリエント・ミサ」と呼ばれているローマ式典礼様式のミサ)にようこそ!

ローマ・カトリックの聖伝のミサ vs エキュメニカルな新しいミサ(第二バチカン公会議のミサ)




この映画のダビングのために日本語訳を作り、録音してくださった声優の方々や、字幕を作ってくださった方々、すべての関係者の方々に感謝します。


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公教要理図解(ワグネル訳)
カトリック中央協議会編集の公教要理(1958年)
聖ピオ十世 公教要理詳解

ローマ公教要理 【使徒信経の部】
序文 教会における司牧者の必要性と権威および役務について またキリスト教のおもな教義について
信仰と信経について
第一条 天地の創造主、全能の父である神を信じます
第一条 天地の創造主、全能の父である神を信じます(続き)
第二条 われらの主、イエズス・キリストを信じます
第三条 聖霊によりて宿り、おとめマリアから生まれた

第四条 ポンシオ・ピラトの管下にて苦しみを受け十字架に付けられ、死んで葬られる
第五条 古聖所 ( Inferi ) に下り、三日目に死者の中から復活された
第六条 天に昇り全能の父なる神の右に座し
第七条 主は生ける人と死せる人とを裁くために来られる
第八条 聖霊を信じます
第九条 聖なる公教会、諸聖人の通功を信じます
第九条 聖なる公教会、諸聖人の通功を信じます(その2)
第九条 聖なる公教会、諸聖人の通功を信じます(その3)
第十条 罪のゆるし
第十一条 体の復活


2014年11月16日(日)  ネリ神父様霊的講話(東京)

2014年11月28日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 今回は、ネリー神父様の東京での講話を愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介します。翻訳は同時通訳で、愛する兄弟姉妹の皆様のしもべがしました。ネリー神父様の言われようとしたことのニュアンスが正確に伝わるように努力しました。しかし誤りがあれば翻訳者の責任です。またこの書き起こしをしてくださった方に心から感謝します。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2014年11月16日(日) 
ネリ神父様霊的講話(東京)


皆さんに霊的講話をするように頼まれましたので、聖ピオ十世会に関する何かニュースを皆さんにお知らせしたいと思います。その後でご質問があれば、それにお答えしたいと思います。

まずニュースです。まず一番は、聖ピオ十世教皇様の帰天百周年なので、世界中で私達は色々な行事を行いました。特にイタリアで大きな巡礼があって、ルルドでも、一万二千人ほど集まった巡礼がありました。今年はそこで御恵みの年であって、どこでも色んな世界中で、信徒の方の数が増えているという事が分かりました。

ルルドでは、十月二十六日の主日には一万二千名、二十五日の土曜日には九千名が集まって、ミサをして、お祈りをしました。この信徒の方々は色んな所から来たのですけれども、例えばフランス、ドイツ、アメリカ、南アメリカ、各地から来た方が、本当に一つになって一致して、お祈りして、その一致を感じた三日間でした。巡礼の三日間でした。ルルドで。最初は、まあ一万名位集まれば良い方じゃないか、と思っていたのですけれども、それが一万二千名与ってその予想を超えていたので、それを組織する私達としてはちょっとしたチャレンジがありました。しかし、その多くの方が集まってお祈りをする事ができたので、慰めでもありました。また、三名の司教様方が、ルルドの司教様の許可をもちろん取って、ルルドの大聖堂で、司教座荘厳ミサを土曜、日曜、月曜と、三日間続けてする事ができたので、それも御恵みでした。

このルルドの巡礼の前に、私は実はアフリカに視察に行かなければなりませんでした。アフリカでは、二つの修道院を開く必要がありました。ナイジェリアの昔の首都であったラゴスと今の首都であるアブジャの間にエヌグという所があって、そこに私達は修道院を開きました。それからナイロビにも修道院があって、そこにはシスター達の修練院があります。ガボンのリーブルビルには、二〇〇名の生徒を擁する小学校、中学校があり、寄宿舎も今建設中だそうです。それからジンバブエでは、修道院をもう一度開く予定です。何故かというと、ビザの問題で、修道院を継続して存続する事が難しかったのですけれども、その問題が解決できたからです。それから、タンザニアとマンバサでも修道院があります。それから、ロードポートという南アフリカでも修道院へ行って視察しました。どこでも、信徒の方が多く増えていて、とても喜ばしいものでした。

ですから、まず修道院を建てて、司祭をおくって、その次に学校を建てて、その次に修練院やシスター達のいる修道院を造る、という順序に進んでいます。
私は聖ピオ十世会の経営する学校の最高責任者なので、その視察に行かなければなりませんでした。そこで、アフリカの前にオーストラリアの学校を視察しました。タイノンというメルボルンの近くにある所には、三二〇名ほど生徒にいる学校があります。そこの近くにまた土地を買いました。それは、ドミニコ会のシスター達の修道院を造る為で、ドミニコ会のシスター達に、女子高の運営を依頼する予定です。おそらく来年には準備ができて、それが開かれる予定です。ブリスベンにも一三〇名ほど生徒がいる学校があって、また今寄宿舎を建設中です。シドニーにも学校があって、ニュージーランドのワンガヌイにも、やはり学校があります。

アメリカにも、今プロジェクトがあって、それは、バージニア州に新しい神学校を建設するという事です。これは聖ピオ十世会が創立以来最大のプロジェクトで、エコンのように、エコンにちょうど一二〇名の神学生がいる事ができるような部屋がありますけれども、バージニア州にも一二〇名の神学生達がいる事ができるようにする部屋を造って、それプラス教授陣の部屋も造ります。また別の棟があって、そこにはシスター達がいる事ができるような棟もあって、その周りの環境も非常に素晴らしくて、自然に囲まれたとても良い所です。それも今着々と準備が進められていて、二〇一六年に、新しくそこで神学校する事が運営できる予定です。バージニアのビルウィンという所であるそうです。

カナダでも非常に発展していて、私もカナダにも行きました。学校を視察したのですけれども、ケベック州のレヴィという所にも大きな学校があって、トロントにも今学校を造り始めました。それからカルガリーという所にも、大きな教会と学校があります。

フランスはちょっと甘やかされていて、本当に色んなものがあります。日本にはまだ修道院がないのですけれども、フランスには五〇修道院があって、司祭も二〇〇名ほど、学校も数え切れないほどあって、ですから、日本にちょっと持って来ないといけません。

私は、一九八四年に最初に任命を受けた時に、学校で働くように命令を受けました。カルムの聖ヨゼフという所にあるのですけれども、そこには今では二五〇名以上の生徒がいて、家族が皆そっちに引っ越してきて、大きな教会を今建設中です。

それから九月二十三日には、ローマにミュラー枢機卿様の招待で行ってきました。このミュラー枢機卿様というのは、新しく教理聖省の長官になった方で、ミュラー枢機卿様が教理聖省の長官となって初めて会いました。そこではローマでは、ミュラー枢機卿様が私達を歓迎してくれて、一緒にラダリア司教様、これはイエズス会の司教様で、もう一人はディノイア司教様、それからポッゾ司教様がいます。ディノイア司教様はドミニコ会の方で、ポッゾ司教様はエクレジア・デイ委員会の方で、聖ピオ十世会はフェレー司教様と、フルーガー神父様と、私で行きました。ミュラー枢機卿様はドイツの方で、ラダリア司教様はスペインの方、ディノイア司教様はアメリカ人、ポッゾ司教様はイタリア人です。

最初にお会いした時にミュラー枢機卿様は、フェレー司教様と二人だけでお話したいという事だったので、十五分くらい話をしたそうです。その時のミュラー枢機卿様は、あんまりご機嫌が良いとは言えなかったようで、フランシスコ教皇様がミュラー枢機卿様に、聖ピオ十世会の人を困らしてはいけない、と二回厳しく言っていたので、ミュラー枢機卿様は私達に対して、何も悪い事はできませんでした。
そのフェレー司教様とのお話が終わった後でみんなで、七人でお話をしたのですけれども、そのお話の最中にミュラー枢機卿様の顔が、今までは厳しい、自分を防御する鉄仮面の様に厳しかったのが、だんだん柔らかくなって、最後は何か気持ちがほぐれて、あぁ、何だ。という事でガードを解いて、自分は最初、権威をもって、と思ってやっていたのが、それが変わりました。
ミュラー枢機卿様はドイツの方で、一メートル九十何センチと、とっても背が高くて、(ネリ神父様によれば)怪物の様な人なのですけれども、それが何かとても優しくなった。この二時間にわたるお話はとても良くうまくいきました。私自身も話をする事ができたし、質問もする事もできました。これは、最初のコンタクトとして良い意味をもっていました。ローマの偉い方々も、私達のこの立場の深い理由がある、という事をよく分かって、知る事が出来て、理解してくれて、その意義がありました。

この面談が終わった後に、私は一週間その後もローマにいて、その他の枢機卿様達とお会いしました。例えば、ディノイア枢機卿様やカスティリヨン・ホヨス枢機卿様、それから、教皇様に近い枢機卿様や司教様達に会って話をしました。そのようなコンタクトは、コネクションはとても有益だと思います。何故かというと、私達が持っているこの信念とか立場を妥協させる事なく、私達はこういう事を考えているのだ、という私達の信念を説明する事ができるからです、できたからです。

二〇〇九年から二〇一一年の間に、ローマと聖ピオ十世会では色々神学上のディスカッションをしました。特に、第二バチカン公会議の新しい問題点について、これは問題だ、という事を話したのですけれども、それが終わった後に、ローマと私達は正式な公式の話し合いのみならず、これからは非公式な、色んな手段でもっと話を続けていこう、という事で同意しています。

そこで、もうすぐするとブランミュラー枢機卿様という方が、ドイツの神学校のツァイツコーフェンにやって来て、第二バチカン公会議には問題がある、という事で、ドイツ語を話すような神父様達、例えばシュミットバーガー神父様やフェレー司教様や、或いはツァイツコーフェンの神学校の校長のフルーガー神父様などといったドイツ語の神父様達と、ブランミュラー枢機卿様が色々な話をする事になっています。

来年の二月には、カザフスタンの司教様であるシュナイダー司教様と一緒に、典礼について色々な話をする事になっています。このカザフスタンのシュナイダー司教様は、つい最近インタビューを報道されて、それを読む限り、非常に良い内容の事を答えています。特にこのシノドス、つい最近ローマであったシノドスについて厳しいお答えをしているのですけれども、このシュナイダー司教様は考え方として、聖ピオ十世会に一番近い方といえます。

それからミュラー枢機卿様については、つい最近ローマであったシノドスに対して非常に批判的で、特にこのシノドスにおいてリーダー的な役割をしていたカスパール枢機卿を厳しく告発しました。ところがフランシスコ教皇様は、この近代主義者であるカスパールを友人として保護して、また感嘆の目をもってカスパール枢機卿の事を尊敬しているようなので、カスパール枢機卿は、自分が教皇様から気に入られているという事を知っています。そこである時、カスパールはマスメディアに、「ミュラー枢機卿は私の事を攻撃するけれども、私を攻撃する事は教皇様を攻撃する事だ。」と、言って何とか攻撃をかわそうとしました。ミュラー枢機卿様は、そのような事にとても残念に思って、別に教皇様を攻撃しているわけではないし、ただ信仰をこうだ、という事を言いたかっただけなのですけれども、ミュラー枢機卿様が教理聖省の長官として長く留まるのかどうかちょっと心配で、もしかしたらあまり長くいないのではないか、という予感がします。そういう匂いがします。

ローマのシノドスの直前に、ミュラー枢機卿、ブランミュラー枢機卿様、バーク枢機卿、また非常に保守的な司教様や神学者達が、結婚について、或いはまた同性愛についてのカトリックの信仰はこうだ、という本を出版します。
ところがその本は、カスパール枢機卿は個人的な攻撃だ、と取って、互いにこのミュラー枢機卿とカスパールはこう対立関係にあって、今残念な事にローマでは、分裂、枢機卿様と枢機卿様が対立して分裂状態になっています。

これが今まで申し上げた事が最近のニュースで、それ以外に何か新しい事があったかというと、特に新しい事はありません。皆さんもこのような話は既にご存じかも知れません。マスメディアで聞いたかもしれません。何かご質問とかありますか?

質問者「フランスでは、たくさん修道院と教会とがあるというのは、それは信徒の数に応じて造っているのですか?」
ネリ神父様「私の思うには、信徒の数に応じた数だと思います。今、正確には一七〇名聖ピオ十世会の司祭がいるのですけれども、それ以外にも、聖ピオ十世会以外のお友達の神父様達もいるのですけれども、何故かというと、カトリック教会が突然変革して、革命的に変わってしまった、そのアバンギャルドな先鋭は、フランスから始まりました。ところがフランスは、その革新的な進歩的な超進歩的な司祭が、教会をめちゃくちゃにしていたと同時に、古い老神父様達も、多くの神父様達が、『それはできない、新しいミサはできない、古いミサを守るんだ』と言う神父様がたくさんいたので、聖ピオ十世会が創立される以前からそのような神父様達や、それを囲む信徒達がたくさんいたので、そのような方々、神父様達と、聖ピオ十世会が一緒になっているので、そのような数になっています。ですから信徒の数に対応して、司祭の数もいる事になっています。
アメリカでも、多くの信徒と司祭がいます。でもアメリカの場合には、信徒の数がもっといます。」

小野田神父様「日本で聖ピオ十世会の修道院ができる為には、どういうものが必要ですか?」
ネリ神父様「必要なものは既にここにあります。私は今回大阪に初めて行って、東京には二回目ですけれども、この聖ピオ十世会を歓迎して受け入れたい、という立派な信徒の方々がいる、という事が確信できました。で、問題はただ行く先(国)ごとに、あぁ、ここにも神父様を送ってください、あぁ、ここにも修道院を建てて下さい、と言われるので、そのような人達に取られないようにするのが一つ。もう一つの問題は、現代の若い男の子達は、昔と違って安定性に少し欠ける所があります。これはどういう事かというと、例えば、神学校に入るのだけれども、終わりまでいかずに半分以上が途中でやめてしまう、或いは、向かないから家に帰るように言われる。それなので、六年間の神学校の更にもうちょっと安定して、司祭になってからはやめる事がもうできないので、ちゃんと見極めをつける為に、一年か二年、年数を増やす過程を今作っています。また第三に、つい最近、聖ピオ十世会のやり方に不満を抱くような司祭がやめたケースがあるので、その為に司祭の数がちょっと不足してきます。またフランスにはたくさん、フランス人には司祭になる方がすごく多いのですけれども、フランス管区は他の国に送ろうとせずに、自分のフランスだけで留めて、もっと修道院が必要だ、もっと学校が必要だ、と言っているので、フランスの管区長に何とかそれを、まぁそんな事言わずに、と言わなければならないし、そこで小野田神父はまだ若いけれども、この小野田神父がまだ若いうちに、何とか日本に修道院ができる事が必要だと思っています。そこで、メンツィンゲンのフェレー司教様や他の偉い方に、是非司祭を送って下さい、と言う事を、お手紙を書いて下さい。私の総長補佐の任期は二〇一八年までで、あと四年ありますので、その間にお手紙を下さい。
それからナイジェリアでは、ナイジェリアの司祭はただ一人しかいなかったのですけれども、六〇名の信徒の人がいて、そこでスタートしたら今ではあっという間に二つの所でミッションがあって、八〇名と一六〇名になりました。一人のナイジェリア人の神父様と、二人のフランス人の司祭と三名で、今修道院があります。
ですから、日本人のもう一人の神父様が出れば本当に嬉しいのですけれども、神学校に入る様な男性の日本人の一人でもいれば、それがきっとサインとなって印となって、あぁ日本に修道院を、司祭を派遣しなければならない、常駐司祭を派遣しなければならない、というきっとサインになるのではないかと思います。」

ネリ神父様「日本にもしも司祭が常駐すれば、日本だけいるのではなくて、例えば韓国とかそのような所にもミッションに行くので、別にフィリピンから韓国に行く必要がありません。ですから、仕事を減らす事にもなるので創立の意義があります。
ナイジェリアでは、一九九二年から約二十年前からミッションが始まったのですけれども、ナイジェリアの、ノブスオルドのアウグスチノ会の神父様が聖ピオ十世会に入会されて、それから本格的にナイジェリアでは活動が発展しました。
それなので、三名の司祭の常駐する修道院がたとえ無かったとしても、司祭がいつも居るようなミサの所、ミサの場所、という感じでやれば、司祭がいるだけで多くの方が集まると思いますし、その為にも、メンツィンゲンにたくさんそういう様な手紙を書いて、プッシュして下さい。
例えば、司祭がいるのといないのとではどう違うかというと、ガボンのリーブルビルという所では、三十年前にミッションを司祭が常駐するようになったのですけれども、最初は五〇名もいませんでした。ほんのちょっとしたグループだったのですけれども、今では三千名以上います。司祭がいるかいないかでは本当に違うので、是非、司祭が常駐する事によって多くの方が御恵みを頂く事ができるようになればいいなと思います。」

質問者「エコンとかドイツとかアメリカの神学校に、日本のおいしい食べ物をいっぱい送って、日本はたくさんおいしいものがあるんだ、という事をアピールするとか。とても良い案だと。(^_^)」
ネリ神父様「(微笑みながら)あぁ、良いですよ。小野田神父からまたEメールが来た、また同じ話をしている、という事があれば、フェレー司教様とお会いした時に、そういうミーティングが毎週あるのですけれども、一週間に一回、その時に必ず日本の話を出すので、Eメールをたくさん書くように。Fさんだけじゃなくて他の方も書いて下さい。」

ネリ神父様「シュナイダー神父様は、『今、教会に問題がある』と、警告の厳しい発言をして、ポーランドの新聞記者にインタビューを受けて答える内容ですけれども、非常に良い内容で、是非、どなたかが翻訳されると、日本語でも読む事ができるのですけれども、この仰っている内容は、私達が言おうとしている内容とほとんど同じで、『今、教会に問題がある』と、『教えを変えてはいけない、変える事ができない』と、いう事で、こういう事を言うのは私達だけではなくて、他の司教様や枢機卿様達もそうなのだ、という事を知る為にも、このような声が皆さんにも聞かれなければならない、と。で、このシュナイダー神父様は、とてもこの勇気があって言うのですけれども、もしかしたら他の司教様達からつまはじきにされてしまうかもしれません。
アメリカ人のバーク枢機卿様も、バチカンの最高裁の裁判長だったのですけれども、そのシノドスに反対して、それはできない、という事で、それをもう辞めさせられてしまって、今ではもう退任させられました。
でも、バーク枢機卿様は別にその地位は失っても、これからもっと自由な時間があって、著作とお祈りに励む事ができる、と言っているそうです。まだ六十二歳だそうです。」

質問者「バチカンから対話をしたい、というのは、今対話をしたいというのは、どういう意味合いがあるのでしょうか? ミュラー枢機卿様も含めて、聖ピオ十世会と対話をして、何をしていきたいとか、何を考えているのか。」
ネリ神父様「ローマからのそういう対話の目的は、私の見るには、ローマは聖ピオ十世会には特別のカリスマがあって、聖ピオ十世会には、特別に教会の中で果たすべき使命がある。それは、司祭の聖化と、司祭の教育と養成と、神学校の運営などで、司祭の聖化の為に養成の為に、特別のカリスマを、ルフェーブル大司教様から受けた、と。
それは本当です。聖ピオ十世会の会憲にも、一番の目的はそうだ、と書いてあります。
是非そういうカリスマを使って、協力して、司祭の養成をしていこう、という事を、ポッゾ司教やディノイア司教様達が何度も何度も言っています。
一緒にもちろんやるのは良いのですけれども、ただその為には、聖ピオ十世会が受け入れる事ができない事を受け入れてくれと頼まれます。それは何かというと、『新しいミサが悪い、という事を言ってはいけない。第二バチカン公会議に問題がある事を言ってはいけない、教皇様がやっている事は何でも良いのだ、と言わなければならない。』という事で、その『確かに聖ピオ十世会はカトリックだ。それはもう問題がない。ただ、ちょっとそういう批判をするから、完全な一致にはない』と、言われるので、『その批判をしてはいけない、問題があるという事を指摘してはいけない』、という事を言われるので、『そこは受け入れる事ができない』と私たちは言っています。そこが、今問題点となっています。

そこでローマは、聖ピオ十世会が他のローカルの司教様から悪い影響を受けないように、聖ピオ十世会を守る為に、特別の【属人区】という、教会法に従うものがあるのですけれども、聖ピオ十世会を属人区にしたいので、そうすればおかしな司教様達が何を言おうと、属人区で守られるので、そうしたい、という考えを持っていて、【この属人区というのは、もしご存知がない方がいたら、翻訳者が付け加える事が出来れば、テリトリーがない、人に属するという、属人区という意味で、どこかの教区に留まらないで、私達のサービスを必要とする人達に直接裁治権が及ぶ、というものです。】聖ピオ十世会をそうしたい、守りたい、と。
それでおそらく、今では、今の状況では難しいと思うのですけれども、これはもしもの話ですが、もしも将来ローマが、聖ピオ十世会から何名かの司祭達を、聖伝を守る司教様、と聖別する事を許可してくれる【そして、第二バチカン公会議や新しいミサを自由に批判できるという保証がある】のなら、属人区にそういう風になってもかまわない、と。これは仮定の話ですが、そういう日が来るかもしれない、と。何故かというと、そういう司教様がある事によって、他の司教様達の悪い影響も受けないで済むし、昔からのものを続けて守る事ができるからです。」

質問者「実際に教理聖省の枢機卿様と対面してお話して、雰囲気とかニュアンスとか感じで良いのですけれども、その本当にカトリック教会が傾いてきたので、何かこう藁(わら)をもすがる形で、聖ピオ十世会にちょっとでも立て直しを協力をして欲しいという気持ちなのか、もしくは、やっぱり目の上のタンコブじゃないですけど、もう取り入れちゃって、で、一致しました、という形にして、その上で徐々に失くしていってしまえば良い、と思っているのか、そのどっちの方に感じられるかな、と。」
ネリ神父様「最後に仰った、この目の上のタンコブで罠ではないか、というのは、ローマで働いている司教様や枢機卿様とか、私達と近い考えをもっている人達のコンタクト、情報によれば、『ローマからそういう提案は、罠とか、私達を失くしてしまおうという事では全然なくて、誠実に手を伸ばしているものだ。』と、そのコンタクトは言っています。
これは現実に起こった事で、私達はこれをどうやって解釈したら良いか、よく分からないのですけれども、こういう事が現実にありました。例えば、今から数年前に、アルゼンチンの南アメリカの管区長、ブシャク神父様が当時管区長でした。それで、そのブシャク神父様は管区長として、そのアルゼンチンの教区長であったベルゴリオ枢機卿様に、よく会いに行きました。ルフェーブル大司教様の伝記や、ルフェーブル大司教様の著作を持って行って会いに行くと、歓迎してくれて、聖ピオ十世会の事をよく知っているのです。で、ベルゴリオ枢機卿様は、ルフェーブル大司教様の伝記を三回読んだ、と。で、他の本も読んだと言って、聖ピオ十世会に対しては尊敬している、と言っています。
それがちょっと前に、一年ちょっと前に、ベルゴリオ枢機卿様が教皇様になりました。ブシャク神父様は、フランスの管区長になりました。そのブシャク神父様が、ベルゴリオ枢機卿様にお願いした事の一つは、アルゼンチンの政府の法律によって、外国人のカトリック司祭がアルゼンチンで働く為には、そこの教区長のサインが必要なのです、手紙が。ビザを受けるために。
それで、それをベルゴリオ枢機卿に言ったら、『おお、聖ピオ十世会の司祭が働く事ができる為に、政府はビザを発行して下さい。』と、枢機卿のサインをしたのです。いつもそうやっているのです。そこで、アルゼンチンで働いている外国人司祭は皆、ベルゴリオ枢機卿のサインを元に働いていたのです。ところが、枢機卿様が教皇様になったので、『どうしたら良いでしょうか?アルゼンチンの誰に今度からビザを頼めば良いですか?』と、いう事を、ブシャク神父様がまだ管区長だった時に、教皇様に手紙を書いたのです。そしたらフランシスコ教皇様は、『私が、聖ピオ十世会のアルゼンチンのビザを、私が責任もってしますから、アルゼンチンの新しい枢機卿ではなくて、私に直接手紙を書きなさい。』と、言ってきたのです。
それで、まだブシャク神父様が、南アメリカの管区長だった時に、教皇様から電話が来たのです。『ベルゴリオだ、フランシスコだ。』と。それで、『聖ピオ十世会のお前の事を忘れていない』と。それから、『ビザの事は心配するな、それを全部こっちに送れ。』と。それで、『アルゼンチンの教皇大使にお前の事を話した。ただ、アルゼンチンの政府がビザを発行するかどうかは、それは、そっちの問題だ。こっちのやる事は全部やった。』という事で、電話が来たのです。で、それを見て、私達としてはどのようにこれを解釈したら良いか、罠なのか、謎です。

私達はもちろんローマカトリックの一部として、教皇様やバチカンのコンタクトはもちろんあります。それも保ちつつ、しかし、最も大切な事は信仰を守る事ですから、今まで通りの聖伝の信仰を守って、ミサも守って、秘跡も守って、カトリック生活も守って、天国に行く事を考えています。

「御清聴ありがとうございました。」
(拍手)


聖伝のミサ(いわゆる「トリエント・ミサ」と呼ばれているローマ式典礼様式のミサ)にようこそ!

ローマ・カトリックの聖伝のミサ vs エキュメニカルな新しいミサ(第二バチカン公会議のミサ)




この映画のダビングのために日本語訳を作り、録音してくださった声優の方々や、字幕を作ってくださった方々、すべての関係者の方々に感謝します。


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2014年11月16日 東京 ネリー神父様の説教

2014年11月28日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 マニラの修道院では、昼食の時の読書の前の本は A Family of Brigands in 1793 でした。これは、フランス革命の時に生き残った貴族の女性 Marie de Sainte-Hermine の手記 Une famille de brigands en 1793 を英語に翻訳したものです。
 貴族たちの気高い精神とキリスト教的忍耐、また、ドラマチックな実話の展開に興味深く聞きながら食事をしていました。愛する兄弟姉妹の皆様にもおすすめします。

 さて、今回は、ネリー神父様の東京でのお説教を愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介します。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

二〇一四年十一月十六日・聖霊降臨後第二十三主日の説教


 父と子と聖霊とのみ名によりて。アーメン。

 親愛なる信者の皆さん。

 二〇一四年は聖ピオ十世教皇様の帰天百周年を祝っています。聖ピオ十世教皇様は聖ピオ十世会の保護者であり、一九一四年に亡くなりました。
 今朝は、このミサで皆さんに聖ピオ十世教皇様が亡くなる前に、ローマにいるカトリック・アクションのメンバーたちに言った訓話について少しお話ししたいと思います。
 その主題は、現代世界においてどのようにしてキリスト教生活を送ることができるか、ということです。
 聖ピオ十世教皇様は三つの言葉をモットーとして述べました。これは私たちの心に深く刻んでおかなければならないことです。

 一つは敬虔、もう一つは学習(勉強)、もう一つは活動です。
 この三つの言葉には論理が含まれています。

 第一は敬虔、これはつまり祈りのことです。キリスト教信者とは天主様と一致している者であり、私たちは洗礼を受けた瞬間から、キリストの神秘体の生ける一員となるからです。
 これは私たちにとって大きな慰めです。なぜなら私たちはキリストのうちにあり、キリストは私たちのうちにあるからです。
 私たちはキリストの神秘体の一部です。神秘体とはキリストの肉体とは区別されるものです。聖パウロが「全キリスト」という言葉を書簡の中で使いますが、これはキリストの神秘体のことを意味しています。
 それは祈りによって、私たちの祈りによってできます。祈りにはいろいろな要素がありますけれども、まず第一に、私たちの心を天に挙げることです。これが祈りです。
 私たちが心を天に挙げることによって、祈りはいわば私たちの知性と天主様との一致を生み出します。
  私たちは祈りには二つの種類があることを知っています。一つは「念禱」、もう一つは「口禱」です。念禱というのは頭の中ですることであって、私たちが天主 様と親しく一致することです。口禱というのは、言葉で、口に出してする祈りであって、これは私たちが天主様に話しかけることです。これはとても単純な説明 の仕方ですけれども、ラテン語では祈りのことを「オラツィオ(oratio)」と言いますが、この語源は「オス」(口という意味)と、「ラツィオ」(知性 という意味)、その二つから来ています。そして私たちが天主様に話しかけるのは、ふさわしい尊敬をこめて、しかし、私たちの父として話しかけなければなり ません。幼きイエズスの聖テレジアは、この「父」という言葉について何時間も黙想することができました。
 私たちは祈ることで父である天主様に話 しかけます。そうすることで、何が起こるかというと、私たちの人生、この地上での生活での戦いをうまく切り抜けることができます。なぜ戦いかというと、こ の地上の生活は快楽に費やすための時ではないからです。この地上には困難があって、難しいことが降りかかって、こうすることでイエズス・キリストの真似を しなければならないからです。つまり私たちは日々、十字架を背負って行かなければならないのです。しかし祈りをすることによって、天主様は私たちとともに おられますから、この試練を通して、私たちを清めてくれることができます。
 祈りはまた、私たちが天主様からの助けを勝ち取る手段でもあります。 聖トマス・アクィナスは祈りについて話す時に、「なぜ私たちは祈らなければならないか?」という問題について話す時に、こう答えています。それは、私たち が天主様の意志を祈りによって変えるためではなく──もちろんそんなことはできません、そのようなことは冒瀆にあたります。天主は天主であられるからです ──祈りを通して、天主様が永遠の昔から私たちに与えようと思われていたお恵みを私たちが得るためです。私たちは祈りによって天主様がやり方を変えてくだ さると思い上がるのではなく、私たちが天主様のみ旨に叶う者となるようにしなければなりません。そのためにお恵みをいただかなければなりません。

 第二に、聖ピオ十世教皇様が私たちに与えてくださるアドバイスは、勉強ということです。

 祈り、あるいは敬虔というのは宗教の徳に関するもので、これは主に意志に関わっています。私たちの意志は知性によって方向づけられなければなりません。私たちのこの知性を照らすものは勉強です。
  勉強するといっても、難しい神学を勉強するというわけではありません。そうではなく、イエズス・キリストを深く、よく知る、ということです。イエズス・キ リストのご生涯に私たちも参与するということです。そのための一番よい勉強は聖福音を読むことです。福音を信仰の光を通して読むことです。信仰の光を通し て読むということは、私たちが成聖の恩寵のうちにいるならば聖霊の賜物を持っていますから、その聖霊の賜物を使いながら、いただきながら、イエズス様のご 生涯を理解していく、ということです。主は、私たちがその神秘の中に深く入り込むことができるように三つの賜物をくださいました。一つは知識の賜物、もう 一つは賢慮の賜物、そしてもう一つは上智の賜物です。
 そして福音の他にも、「イミタチオ・クリスティ(キリストにならう)」という本もあります し、聖人伝もあります。これらは本当によいものであって、これらを通して私たちは勉強と祈りを一体化させることができます。どういうことかというと、読ん だことを観想することです。読んだことを考えて、黙想することによって、私たちは天主様との一致を生みだすことができます。聖トマス・アクィナスは「知 る」ということはどういうことか、と問いかけ、「それは秩序を形作ることである」と答えています。つまり「知性」という主体と、「対象」という客体が一致 することが「知る」ということですから、福音書やキリストにならうなど、イエズス様に関する本を読めば読むほど、私たちはイエズス・キリストのようになっ ていくのです。一致していくのです。

 その次に活動というのがあります。
 この活動とは、祈りと勉強の結果として出るものです。 活動とはどういうことか? 私たちの持っている最高の善を、私たちのためだけに取っておく、ということは愛徳が許しません。愛するということは、私たちの 持っている善を隣人にも分け与える、分かち合うということですから、カトリック信者は、天主様の現存、天主様の恵みという最高の賜物を、隣人に分け与えよ うとします。私たちカトリック信者は使徒的であり、宣教的であるのです。宣教とはどういうことかというと、聖ピオ十世教皇様によれば、私たちの生き方、私 たちの模範的な生活を通して、世の光、地の塩となることによって、私たちの存在で天主様がいらっしゃるということを示すことによって、宣教者となることが できます。
 現代の最悪のペスト、疫病は「無知」ということです。私たち人間は天主のものとなるように呼ばれている、召し出されているということ を知らないでいます。私たちには霊魂、不滅の霊魂という天主の似姿があるのです。この現実は、天主おん父が望まれたみ旨であって、それを救うために天主お ん子はご託身され、司祭、教会を通して、秘跡を通して、あるいは説教を通して、天主の子となるように呼びかけています。皆さんは、皆さんの善き生活、模範 を通して、それに協力なさって下さい。
 一つの霊魂の救いを考えることは、全宇宙にあるすべてのものを超えて大切なことです。
 私たちの祈り、模範的なキリスト教的生活を通して、多くの多くの霊魂たちを救うことができます。
  私たちの活動によって、イエズス様の王国を、マリア様の王国を拡張することができます。これはマリア様がいつも、ルルドやファチマなどあるゆるところで おっしゃっていたことです。「罪人の回心のために祈りなさい、祈りなさい、祈りなさい!」ロザリオを唱える時、私たちはこう言います。「罪人なる我らのた めに、今も臨終の時も祈り給え」と。「罪人なる我らのために」──この罪人なる我ら、というのは、全人類、私たちすべての人間のことです。私たちはロザリ オを唱えることによってすべての人が救われるようにと、マリア様に祈っているのです。ロザリオを祈ることによって救われる霊魂を増やし、私たちは宣教者と なることができます。
 では、このミサの中で、このお恵みをいただけるよう、イエズス様にお祈り致しましょう。

 父と子と聖霊とのみ名によりて。アーメン。



드디어! 르페브르 대주교님의 다큐멘터리 영화의 한국어 더빙이 완성되었습니다. 사랑하올 교우형제여러분에게 소개합니다.




终于来了!中国版大主教勒费弗尔纪录片电影配音完成!





聖伝のミサ(いわゆる「トリエント・ミサ」と呼ばれているローマ式典礼様式のミサ)にようこそ!

ローマ・カトリックの聖伝のミサ vs エキュメニカルな新しいミサ(第二バチカン公会議のミサ)


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ついにルフェーブル大司教のドキュメンタリー映画の日本語の吹き込みが完成

2014年11月27日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 ついにルフェーブル大司教のドキュメンタリー映画の日本語の吹き込みが完成しました! 愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介します。





聖伝のミサ(いわゆる「トリエント・ミサ」と呼ばれているローマ式典礼様式のミサ)にようこそ!

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2014年11月ネリー神父様の大阪での講話をご紹介します

2014年11月27日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 ピオ十二世が主祷文「天にまします」(Pater Noster)をラテン語で唱えている録音です。なんか、とてもゆっくりですね。




PATER NOSTER, qui es in caelis, sanctificetur nomen tuum. Adveniat regnum tuum. Fiat voluntas tua, sicut in caelo et in terra. Panem nostrum quotidianum da nobis hodie, et dimitte nobis debita nostra sicut et nos dimittimus debitoribus nostris. Et ne nos inducas in tentationem, sed libera nos a malo. Amen.

クチュール神父様が『支払うべき値』(The Price to Pay) などの本の推薦をしているビデオです。





では、今回は、ネリー神父様の大阪での講話の書き起こしを愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介します。
天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


2014年11月15日(土) ネリ神父様霊的講話(大阪)


皆さんの温かい歓迎をとても感謝します。今日、今回大阪に来るのは初めてです。
皆さんが聖伝のミサを望んでおられる、という事をはっきりと分かる事ができて、とても幸福に思います。それがどこで分かるかというと、この、どれほどミサを準備する為の皆さんが心を使っているか、使い尽しているかという事を見れば、このミサのこの祭壇や、祭服や、その他聖歌をみれば、よく分かります。唯無いのが、教会と、修道院と、常駐の司祭だけで、他のものは全て揃っています。
ここには、二十名から二十五名の共同体があって、この共同体が皆、秘跡を受けたい、聖伝のミサを求めている、その事を見て本当に嬉しく思います。皆さんのその熱心と信仰に、祝福をおくります。

ミサの時も少し申し上げましたが、皆さんの先祖のキリシタンたちが、司祭がないにもかかわらず長い間信仰を保ち続けた、という事はちょうど現代にも通じる事で、私達のそれと似通った所があると思います。

現代の問題は、聖伝のカトリックの信仰が今、重大な問題となっています。過去、私達の先祖達の時代には、神父様や信仰を伝えて下さる方がいませんでした。そこで、信徒達に信仰が委ねられて、信仰を二百五十年間守ってきました、世代に渡って守ってきました。今回、現代においては今日においては、確かに司教様や神父様達は周りにいらっしゃる事はいらっしゃるんですけれども、しかし残念な事に、その方々の多くが、聖伝のカトリックの信仰を説教し、それを伝える、という義務を果たす事に成功していません。

今年、聖ピオ十世教皇様の帰天百周年を私達は祝いました。聖ピオ十世教皇様の亡くなった年は一九一四年、それでその時まで、教皇様になってから亡くなる時までその時まで、聖ピオ十世教皇様の一番の仕事は、一番の関心事は、信仰を守る、という事でした。信仰を守る、という為に主に二つの事をなさいました。一つは否定的な、第二には肯定的な手段を取りました。

否定的な手段というのは、聖ピオ十世教皇様は、近代主義者達を神学校や或いは重要なポストから排除して、当時この近代主義者というのは信仰を脅かすペストだったので、それらを述べているような人々を排除しました、取り除きました。
肯定的な手段としては、信仰を強く深める為に、ミサの時も申し上げましたが、公教要理を学ぶように、公教要理を教えるように、という事を強調しました。
否定的な部分と肯定的な部分、二つのやり方をしました。

第一バチカン公会議は、戦争が当時あった為に途中で中断されました。準備はされたのですけれども、中断されました。そこで、準備がされてあって、まだ議論が尽くされていない質問などについて、残っていました。しかし、ピオ九世教皇様は、中断されたままそれを再開しようとされませんでした。何故でしょうか。何故かというと、教皇様は危険を察知していたからです。というのは、既に教会の中に、色んな種類の近代主義の思想が入っていて、近代主義者達が存在していたからです。聖ピオ十世教皇様が既に警告していたように、既に近代主義者達は、教会の中に潜り込んでいたのです。

そこで、ベネディクト十五世教皇様、或いはピオ十一世教皇様、或いはピオ十二世教皇様も、「公会議は再開するのでしょうか?まだ残っている問題があります。それはどうしましょうか?」と、言われた時に、「公会議は開かない。」と、決断されていました。

しかし、ヨハネ二十三世教皇様は、そのような近代主義者達が教会の中にいる、という事は信じませんでした。教会に善をしたい、という良い意向はあったと思いますが、しかし、尊敬を欠く表現をする事が許されるならば、ヨハネ二十三世教皇様は夢想家でした。
ヨハネ二十三世教皇様の手記によると、公会議を開く、という事についての何か特別な啓示、というかビジョンがあった事を記しています。それを聞いた時に多くの人々は喜びました。問題を解決する事ができる、と。ルフェーブル大司教様自身もローマに来て、その事を希望して喜びました。

しかし、第二バチカン公会議で最初から起こった事は何かというと、近代主義者達が既にこの公会議という機会を、自分達の考えを広めるための道具として利用してしまったという事です。それが、最初から乗っ取りが起こってしまったという事です。これは謂わば、言ってみれば、天主様の教会の中に入り込んだトロイの木馬のようであって、これは歴史的な事実で、誰も否定する事ができません。
ヨハネ二十三世は、公会議を開いて亡くなります。パウロ六世が選ばれて、公会議を続けますが、しばらくすると、その重大な危険に気が付きます。何故、気が付いたという事が分かるかというと、パウロ六世は、「天主の神殿の中にサタンの煙が入った。」と、言っているからです。しかし、気が付いた時には時すでに遅く、この機械を止める事ができませんでした。

既に公会議が終わる前から、悪い実りがもう目に見えていました。教皇様達によって排斥された新しい考えが、教会の中に広まり、いくつかの点において教義が変わっていきました。そのいくつかの点というのは、例えばエキュメニズム、間違ったエキュメニズムであって、これが公会議のキーワードでした。また、信教の自由、それから団体主義という考えが入ってきました。これらによって教会の本性が、教会が何か、という事が変わっていきました。

これについては二つの告白があります。一つは、パウロ六世が一九七八年、死ぬ数カ月前に親友であったジョン・ギトンという人に告白した内容ですけれども、パウロ六世の告白によれば、ジョン・ギトンがそれを伝えるところによれば、「公会議は最悪だった。公会議は全く酷いものであった。」と言い、「disaster」と言って、「カトリック信仰は、地上から消えつつある。」と、言っていました。これは、『秘密のパウロ六世』という本の中に書かれている事で、公会議に問題があったというのは、これは神話ではなくて、私達が考え付いた事ではなくて、私達だけが言っている事ではなくて、事実として、他の人達も言っています。例えば、つまりパウロ六世が。もう一つの告白は、ヨハネ・パウロ二世で、これは一九八八年、ローマでの講話の中で言った事ですが、もちろんこれは単なる例の一つとして挙げるのですけれども、「今、教会の中に混乱がある。特に、典礼と教義について混乱がある。」と、指摘しています。つまり、この教会に危機がある、という事は、聖ピオ十世会が言いだした事でも発見した事でもなく、これは、教皇様達が既に認めて、皆に言っている事であるのです。神話ではありません。

ルフェーブル大司教様自身も、公会議の最中に、公会議の中で特別な運動をして、この信仰の腐敗というものを何とかして防ごうと、ストップさせようとしていました。このルフェーブル大司教様たちのグループは、二百名ぐらいメンバーがいましたが、公会議の他の二千名と比べれば、力が弱いものでした。皆がサインをするので、例えその考えに同意していなかったとしても、サインをしてしまう司教様達もいました。

そこで、この信仰を守る為に、その当時公会議が終わって、数名の神学生達が何故か、助けて下さい、とルフェーブル大司教様のもとにやってきたので、ルフェーブル大司教様は、聖ピオ十世会を創ります。もちろん聖ピオ十世会は、ローマと闘う為に、ローマに反対する為に創られたのではなく、ローマを助ける為に、教会を助ける為に、信仰を守る為に、創られました。

皆さんが今日、この御ミサに与っていらっしゃるのも、やはりこの神学生達と同じ理由だと思います。つまり、信仰を守る為であり、教会を守る為であり、私達に委ねられた信仰を守る為であります。

ですから、私達はカトリック教会の一部であって、カトリック教会の為に存在しています。ですから、もちろんローマと繋がりがあるのは当然でありますし、私達が今やっている、つまり信仰を守り、聖伝のミサを守り、聖伝の教義を守り、聖伝の信仰を守るというのは、その権利があります。今の教皇様でさえも、さえもと言うのはちょっとあれですけれども、教皇様も、今、問題があるという事を見ています。つまり、地上から信仰が消えつつある、という事を見ています。つまり、私達の今の一番の問題は、このカトリック信仰を多くの人々が今失いつつある、それを、私達が何とか守らなければならない、という事です。
ですから、カトリック教会は私達の母でありますから、その教会の為に私達は、祈り続けなければなりません。私達の生贄、犠牲を捧げなければなりません。それは教会が癒される為です。もちろん教会は汚れのない、イエズス様が立てたものですから汚れのないものです。しかし、教会の中で働いている聖職者達、教会の指導に立っている方の多くが、その信仰を守るという義務に成功していないので、これは例えば最近のシノドでも分かります。シノドでは多くの司教様達が、道徳を、今まで守ってきた道徳を変える準備が出来ていました。それで、少数の司教様達や枢機卿様達が立ち上がって、それを防ごうと今、闘いが起こっています。私達は祈り続け、犠牲を捧げなければなりません。

ですから私達は、私達の聖化の事業を続けなければなりません。続けて、私達が聖人となるように、し続けなければなりません。その為の手段が与えられています。確かに、毎主日のミサがあれば良いのですけれども、それができないので、どうぞ、秘跡に与ることができなくても、秘跡の御恵みが受ける事ができるように、世界中で捧げられているミサに一致して、祈りと犠牲を捧げて下さい。この秘跡の恵みを、聖寵を受けるようになさって下さい。

以上です。ご静聴ありがとうございます。



聖伝のミサ(いわゆる「トリエント・ミサ」と呼ばれているローマ式典礼様式のミサ)にようこそ!

ローマ・カトリックの聖伝のミサ vs エキュメニカルな新しいミサ(第二バチカン公会議のミサ)




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グレゴリオ聖歌の Alma Redemptoris Mater を巡って

2014年11月26日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 11月15日には、皆さんとグレゴリオ聖歌の Alma Redemptoris Mater を歌いました。歌詞は次の通りです。

Alma Redemptoris Mater, quae pervia caeli
Porta manes, et stella maris, sucurre cadenti,
Surgere qui curat populo: tu quae genuisti,
Natura mirante, tuum sanctum Genitorem,
Virgo prius ac posterius, Gabrielis ab ore
Sumens illud Ave, peccatorum miserere.

【最初の3行が、-aeli, -enti, -isti で韻を踏み、最後の3行で -rem, -re, -reで韻を踏んでいます。】




Alma Redemptoris Mater は、Herman Contractus が11世紀に作詞しました。
14世紀のイングランドのチョーサーが書いた『カンタベリー物語』の中にも、この聖歌のことが出てきます。

ところで、この歌詞は、文法的にはちょっと複雑です。そこで、愛する兄弟姉妹の皆様にここで、解説を申し上げます。

Alma Redemptoris Mater というのは、正確には「贖い主の養母」という意味です。正確に言うと「救い主のうるわしき母」ではありません。何故なら、Alma Mater というのは「養い育てる母」という意味で、英語では、出身の「母校」のことを Alma Mater とも言います。Redemptoris というのは、Redemptor(贖い主)の格変化したもので、「贖い主の」と言う意味です。

pervia というのは、通り抜ける、道がつながっている、アクセス可能な、と言う意味です。

ですから、quae pervia caeli Porta manes, et stella maris, は、(あなたは)天国の門につながりつつ、また海の星として、留まっている、という意味です。【注1】

問題は次の sucurre cadenti, Surgere qui curat populo です。
Sucurre は、「助けに走ってきてください」
cadenti は、「倒れつつある者のため」で、populo に掛かって「倒れつつある民のため」です。
qui curat は、cadenti populo に掛かっています。何を curat するのかと言うと、surgere に掛かって、立ち上がるのを curat するです。

ですから、もしもこれが、Sucurre cadenti populo qui curat surgere となっていれば、もっとわかりやすくなります。

あと、tu quae genuisti, Natura mirante, tuum sanctum Genitorem,
に出てくる Genitorem ですが、これは Genitor 「生み出す者」という意味で、通常は、聖父のことを指すのによく使われます。しかしここでは被造物を生み出した「創造主」という意味で、御子のことを指しています。ご注意ください。

 ところで、この Alma Redemptoris Mater を歌いながら、Ave Maris Stella の歌詞とそっくりなことに気がつきました。今まで、何気なく歌ってきたのですが、同じような言い回しがたくさん出てきます。そこで、調べてみると、Ave Maris Stella の方が、より古く、スイスのザンクトガレンの9世紀の写本にはこの歌があります。ということは、すでに8世紀にはこの歌が存在していたことが想像されます。
Alma Redemptoris Mater
Alma Redemptoris Mater, quae pervia caeli
Porta
manes, et stella maris, sucurre cadenti,
Surgere qui curat populo: tu quae genuisti,
Natura mirante, tuum sanctum Genitorem,
Virgo prius ac posterius, Gabrielis ab ore
Sumens illud Ave
, peccatorum miserere.

Ave Maris Stella
AVE maris stella,
Dei Mater alma,
atque semper Virgo,
felix caeli porta.

Sumens illud Ave
Gabrielis ore
,
funda nos in pace,
mutans Hevae nomen.

Solve vincula reis,
profer lumen caecis
mala nostra pelle,
bona cuncta posce.

Monstra te esse matrem:
sumat per te preces,
qui pro nobis natus,
tulit esse tuus.

Virgo singularis,
inter omnes mites,
nos culpis solutos,
mites fac et castos.

Vitam praesta puram,
iter para tutum:
ut videntes Iesum
semper collaetemur.

Sit laus Deo Patri,
summo Christo decus,
Spiritui Sancto,
tribus honor unus. Amen.


【注1】Pervia という単語は、次の賛歌にも出てきます。

Fit porta Christi pérvia
omni reférta grátia,
transítque rex, et pérmanet
clausa, ut fuit, per sæcula.

Summi Paréntis Fílius
procéssit aula Vírginis,
sponsus, redémptor, cónditor,
suæ gigas Ecclésiæ:

Honor matris et gáudium,
imménsa spes credéntium,
lapis de monte véniens
mundúmque replens grátia.

Exsúltet omnis ánima,
quod nunc salvátor géntium
advénit mundi Dóminus
redímere quos cóndidit.

Christo sit omnis glória,
quem Pater Deum génuit,
quem Virgo mater édidit
fecúnda Sancto Spíritu. Amen.

 さて、前置きが長くなりましたが、今回は、ネリー神父様の大阪でのお説教11月15日の分の書き起こしをご紹介します。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2014年11月15日 教会博士司教証聖者大聖アルベルト
ネリ神父様御説教


聖父と聖子と聖霊との聖名によりて、アーメン。

兄弟の皆さん、昨日は聖ヨザファト、司教であり、殉教者であった聖人を祝いましたが、今日は大聖アルベルト司教、証聖者、教会博士の祝日を祝っています。
「大聖」と付く、この「聖」の前に「大」が付く方は、典礼歴の暦の中では四名いますが、その内の一人です。これは、大聖アルベルトがその聖徳がより優れていた、という事を意味しています。

この四名「大」が付く聖人がいると言いましたが、その残る三人は、大聖レオ教皇様、もう一人は大聖グレゴリオ、やはり教皇様、残る最後の方は女性で、修道女で、聖ジェルトルードで、この方は、この聖人は特にビジョンと、イエズス様の聖心に対する信心によって有名な方です。

大聖アルベルトは、ドミニコ会の修道士であり、ケルンの大学で教えていました。特にその弟子の中には、聖トマス・アクィナスがいます。
大聖アルベルトの持っていた偉大な徳とは、特に知性に関わるものであり、まさに今日福音で読まれた「この世を照らす光」であり、「この世の地の塩」でありました。
大聖アルベルトの著作は、三十八巻もの巨大なものになっており、その論じた内容は、形而上学、或いは天文学、或いは化学、その他の多くの世俗の学問、もちろん、神学についても沢山の著作を残しています。

大聖アルベルトは特に、聖トマス・アクィナスの以前に、アリストテレスの、キリスト教ではないアリストテレスの哲学を純化させて、その内の有効な真理だけを浄化させて、聖トマス・アクィナスに伝えた役割があります。

この知的な、知性における特別な御恵みについては、大聖アルベルトは若い時から、イエズス様によって与えられている事を知っていました。何故かというと、まだ若い時に、マリア様からのビジョンを受けて、それによれば、「この莫大な博学の恵みを受けるだろう。」と言われていたからです。「しかし、その死の前にはそれらを全て、特に記憶が無くなってしまうだろう。」という事をも、あらかじめ知らされていました。

人生の終わり、老年になってある日、生徒達の前にいつもの様に講義をしていたのですけれども、突然、話をする事ができなくなりました。この突然の事は、千二百七十八年、大聖アルベルトが亡くなる二年前に起こりました。二年間の間、大聖アルベルトは、この屈辱と、この全く無能となってしまった事を苦しまなければなりませんでした。おそらくこれは、まだもしかしたら残っていたかもしれない自己愛や、或いはちょっとしたプライド等を浄める為に、完全に主のものとなる為の浄めの時期であったかもしれません。

これは私達に何を示しているかというと、聖人という事は、つまり聖人になるとは、罪が全くないという事ではない、ということです。そういう事ではなくて、聖人になるという事は、私達の持っている欠点や、或いは私達が受けるかもしれない誘惑や、或いは困難な事に対して立ち向かって、それに打ち勝って、徳を身につける、という事にあります。つまり私達は人生において、その誘惑と戦い、徳を身につける為の闘いをしなければならない、ということです。

ですから、聖人というのはすなわち、欠点がないとか、誘惑がないとか、闘いがないのではなくて、闘ってその徳を勝ち取った、という事にあります。
そこで、私達も生涯終わりまで、聖徳を身につけるように努力をしなければなりません。

聖トマス・アクィナスの著作をフランス語に訳した、解説した神学者たちの意見によれば、「大聖アルベルトも聖トマス・アクィナスもこの偉大な神学者たちは、その中世の自分の時代の人達だけに著作をしたのではなく、今生きている現代の二十一世紀の私達の為にも書いたのだ。」と、言っています。

現代、カトリック教会は今、信仰の危機を、この嵐の中を進んでいますけれども、何故、大聖アルベルトと聖トマス・アクィナスが現代の為に著作をしたか、というその理由は、この信仰について私達を助ける為、信仰というのはつまり対神徳の一つですから、つまりこの信仰は私達の知性に宿っているものであるので、この聖人達の著作を通して、私達の信仰を高める為にも、確固とする為にも、私達の知性をきれいに整えて秩序を立てて、信仰をふさわしく受ける準備を、この著作たちが助けてくれるからです。

もちろん私達は一般の信徒の方々は、大聖アルベルトの神学についての深い本は、或いは聖トマス・アクィナスの深い著作を読んで、それを解読して、それを深める、味わうという事は、必ずしも全てできるとは限りませんが、しかし、少なくとも私達は、この大聖アルベルトやトマス・アクィナスの著作の要点であり、このまとめである公教要理を勉強して、それを深める義務があります。
何故こう申し上げるか、なぜ公教要理を勉強しなければならないかというと、公教要理の中には論理があって、私達の信仰を構築する、立てるものであるからです。
徳の中には、「宗教の徳」というものと、「信仰の徳」があります。これらの二つは同じではありません。
宗教の徳は、意志の上に、意志に存して意志の内にあります。しかし意志は、真理の為にあるというよりは、善の為にありますから、宗教の徳は、信仰の徳に寄りかからなければなりません。

信仰の徳は先程申しましたように、知性に存在しています。知性は真理を認める事にあるので、信仰の徳が宗教の徳を照らさなければなりません。信仰の徳が照らす事によって初めて、真の宗教の徳を実践する事ができるのです。
ですから、公教要理を学ぶ事によって信仰の徳を高めなければなりません。

この公教要理の他に別の手段があります。これは、私達のマリア様が与えてくださった、ロザリオです。ロザリオには信仰に関する全ての玄義が含まれていて、ロザリオはいわば、観想を学ぶ為の学校である、と言う事ができます。
知性は自然の能力です。しかし、この自然の能力ですが、天主様の御恵みによって、超自然の光である信仰の徳を受ける事ができます。それのみならず、聖霊の賜物である知識、それから賢慮、それから知恵、この三つの知性に関わる聖霊の賜物を受ける事ができるので、ロザリオによって私達の主の玄義を黙想すれば、例え私達が、聖トマス・アクィナスや大聖アルベルトの著作を読む事ができなかったとしても、もしかしたら、私達の知性があまりにも足りなくて、公教要理さえもよく理解出来なかったとしても、ロザリオを唱える事によって、超自然の御恵みによって、玄義を黙想する事ができます。そうする事によって、ロザリオを通して、私達の先祖が、キリシタンたちが信仰を守ったように、洗礼と婚姻の秘跡によって信仰を守り続けたように、ロザリオを通して、私達も信仰を守り続ける事ができます。

ですから皆さん、大聖アルベルトの御取り次ぎと、マリア様の御取り次ぎによって、私達も日々のロザリオの玄義を黙想する事によって、信仰を守り、信仰を増やしていく事ができるように、お祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との聖名によりて、アーメン。


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ヨゼフ・ファデル(Joseph Fadelle)著 『支払うべき値』 The Price to Pay

2014年11月26日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 マニラの修道院では、昼食の最初の15分間、沈黙がありその間に本の朗読があります。最近では『支払うべき値』(The Price to Pay)という本を朗読して皆で効きながら昼食を摂っています。


The Price to Pay


 ヨゼフ・ファデル(Joseph Fadelle)という元イスラム教徒がカトリックに改心した実話です。





 ヨゼフ・ファデルは、もともと裕福なイラクの貴族の生まれで、有力な父親の財産を相続するべく特に寵愛を受けていました。1987年に兵役の義務を果たす間、カトリックのイラク人マスッドと同じ部屋で過ごします。ファデルはマスッドをイスラムに改宗させようとし、キリスト教にはコーラン(クルアン)のような本があるのかと尋ねると、聖書がある、と言われます。そして同僚のマスッドから君は本当にコーランを理解して読んだことがあるのか、と問われ、コーランを理解するために読みます。しかし、ファデルは、コーランを読めば読むほど、イスラム教のおかしさに疑問がわいてきます。(たとえば、アンニサと呼ばれる女性に関する章(スラ)の34節、何故男性は必要なら女性を殴っていいのか? クルアンの学者(アヤトラー)である家族の友人のシェイク・アリ・アヤトラ師に疑問(何故女性が男性の所有物になるのかスラ2:223)を打ち明けると、その答(男性は女性にどのようなこともして良い、ただしモスクの中と、ラマダンの時を除く)に失望します。また、預言者(モハムマッド)の行動にも失望します。

 ますますイエズス・キリストを知りたいと思い、カトリック教会に改宗を求めるのですが、ことごとく拒否されます(!)。司教様から「出て行け!」と叫ばれたこともあります。しかし「命のパン」を求めて、すべてを堪え忍んでいきます。

 まだ、この本は途中ですが、朗読を聞きながら、あまりにもドラマに、食べることも忘れてしまいそうです。愛する兄弟姉妹の皆様も是非、お読みください。







さて、今回は、ネリー神父様の大阪でのお説教の書き起こしをご紹介します。
天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2014年11月14日 司教殉教者聖ヨザファト 
ネリ神父様御説教


聖父と聖子と聖霊との聖名によりて、アーメン。

親愛なる兄弟の皆さん、信徒の皆さん、今日は聖ヨザファトの祝日を祝う為に集っています。
聖ヨザファトは、東欧の国に生まれて司教になり、信仰の為に十七世紀に殉教しました。

ミサを捧げる時には、もちろんミサの実りである生贄を捧げますが、それのみならず、私達に信仰の模範をも与えたい、と教会は考えています。
私達各々が、特別の天主様からの使命が、ミッションが与えられているので、その聖徳について、全く皆が同じであるとは限りませんが、しかし教会は私達に聖徳を黙想するように、観想するように招いています。
聖人達は私達に非常に近い存在であります。何故かというと、諸聖人の通功によって、またキリストの神秘体の、私達もその一部であるからです。私達はこの戦闘の教会、この地上にいる教会のみならず、凱旋の教会、天国の教会、煉獄での苦しむ教会、その三つの教会が愛徳の絆によって、一つとなっている、一つである、という事を信仰によって知っています。
天国での凱旋の教会のある諸聖人達と、煉獄の苦しむ教会の聖なる霊魂達と、私達この地上で悪と闘っている戦闘の教会は、ダイナミズムの大きな力動によって結ばれています。

聖ヨザファトは東欧のリトアニアに生まれたのですけれども、リトアニアには離教の教会に属している人々が多くいました。ところが、この聖ヨザファト自身は、カトリックの両親から生まれ、自分はカトリックとして育てられていました。子供の頃母親からイエズス様の御受難の話をよく聞いていて、幼い頃から既に、心に、心臓に、イエズス様の御受難の傷を受けていました。これは愛の傷でした。聖ヨザファトは子供の頃から、教会から離れている離教の人々について心配していました。救霊を心配していました。
二十歳になると聖バジリオ修道会に入会し、後には大司教となって、離教のキリスト教徒らを、カトリックの懐へと戻そうと努力をしました。
聖ヨザファトの説教と、良い模範と犠牲と祈りによって、多くの霊魂達は教会に戻りました。
しかし、離教徒達はこのような活動におもしろく思っていませんでした。そこで、彼らは陰謀を企み、聖ヨザファトについて色々な事について告発しました、非難しました。
聖ヨザファトは既に殉教の時が来ていると知っていました。ある時、聖ヨザファトであるかと聞かれた時に、ちょうど私達の主のように、「そうだ、私がここにいる。」と、それをその通りに言って、逮捕されました。
生きたまま聖ヨザファトは袋の中に入れられて、川の中に投げ捨てられました。

この模範の大切なポイントは、忠実であるという事と、もう一つは私達の主が仰ったような愛徳です。つまり「兄弟の為に自分の命を与えるほど大きな愛はない。」と、言ったその愛徳です。
聖ヨザファトは私達に、信仰の問題である時にはいかなる妥協もない、という事で私達に模範を示しています。

現代、本当の意味の離教者や、本当の意味の異端者は、全く別の見方で、エキュメニズムという見方によって、全く別のように考えられています。
この間違ったエキュメニズムは、離教徒や異端者である人達が、そのまま離教や異端である考えをもったまま、同じグループであるかのように信じさせてしまって、これは、偽りの愛徳である、と言わなければなりません。
何故かというと、本当の信仰を伝えようとしていないからです。
何故かというと、救霊に至る為の唯一の道は、カトリックの信仰を告白する事であり、カトリックのクレドを告白する事であるからです。

私達もこの聖ヨザファトの模範と、この本当の意味のエキュメニズムに協力する事ができます。それは、私達の祈りと犠牲と模範によって、離教或いは異端者をカトリックの信仰に導く、という事です。

もちろん、私達がこの命を捨てるこの殉教まではできないまでも、しかし私達の命をイエズス様にお捧げして、カトリック信仰をもたない方々が、カトリック信仰をもつ事ができるように、私達が力を尽くす、という事こそ、私達にできる信仰と愛の業であります。
これはまたマリア様の御要求に応える事でもあります。マリア様は、色々な認可を受けた御出現の所で、罪人の回心の為に祈るように、私達にお願いされているからです。

この同じ事を、私達はミサの集祷文の中でお祈りしています。
≪主よ、願わくは、主の司教殉教者聖ヨザファトを充たし、自分の羊の為に命を与えさせたその霊を、公教会に与え給え。彼の取り次ぎにより、我らにもその霊を与え、我らを動かし、強め、兄弟の為に命を甘んじて与えさせ給え。その同じ聖霊との一致において、神として、御身と共に世々に生き且つ治め給う我らの主、聖子イエズス・キリストによりて、アーメン。≫
この祈りの中で最も偉大な祈りはミサでありますから、このミサの中で皆さんのご意向の為に、カトリック信仰を知らない、カトリック信仰の一致にいない人々の為に、彼らが信仰に導かれるように、信仰の一致に導かれるように、お祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との聖名によりて、アーメン。



聖伝のミサ(いわゆる「トリエント・ミサ」と呼ばれているローマ式典礼様式のミサ)にようこそ!

ローマ・カトリックの聖伝のミサ vs エキュメニカルな新しいミサ(第二バチカン公会議のミサ)




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11月の大阪と東京での聖伝のミサの報告 天主様に感謝!

2014年11月25日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

こんにちは! お元気でいらっしゃいますか。
ブログの更新をしたいしたいと思っていたのですが、どうしても時間が取れずに今まで、出来ずにおりました。

11月は総長第二補佐のネリー神父様と日本と韓国とをお供して、有意義な時を過ごしました。
愛する兄弟姉妹の皆様のしもべは、昨夜、ようやくフィリピンに戻ってきました。

本当は、ブログの記事も小出しに、分けてご紹介したいと思っていたのですが、今回もまた、ドカンと記事を書いてしまうことをお許しください。

ネリー神父様のお説教については、また、後ほど、改めてご紹介いたします。

11月の大阪と東京での聖伝のミサの報告を次のように戴きましたのでご紹介いたします。

【報告】【大阪】
日本でのミッション、ありがとうございました。
ネリ神父様御来日の御ミサの報告です。

11月14日(金) 司教殉教者聖ヨザファトのミサには15人が、
11月15日(土) 司教証聖者教会博士聖大アルベルトの読誦ミサ・歌ミサには24人が与るお恵みを頂きました。デオグラチアス!

聖ピオ十世会の総長補佐官のネリ神父様は私達信徒に大変お優しく、待ち時間にはずっと後ろでロザリオを唱えていらっしゃったのが印象的でした。

長旅でお疲れのはずでいらっしゃるのに、狭い聖堂内の片隅で跪いて熱心に祈られる御姿に大変感銘 を受けました。お帰りの際には多くの信徒達ひとりひとりに手を差し出して挨拶してくださり、もったいない思いで握手させて頂きました。今後もネリ神父様のご活躍とご健康をお祈りいたします。

また日本の主任司祭小野田神父様にお会い出来て大変うれしかったです。夜遅くに終油の秘跡を授けに信徒を訪問して下さったことに感謝いたします。愛する兄弟姉妹の為に、また病気で苦しんでおられる方々のために一緒にお祈りくださった優しい主任司祭をもって日本の信徒は幸せです。

金曜日司教聖ヨザファトのミサでは、聖ヨザファトについて、土曜日は、大聖アルベルトのお説教をネリ神父様にして頂きました。

また土曜日は御ミサの後に「近代主義と聖伝の信仰」についての霊的講話をして頂きました。

概要は以下のとおりです。

聖ヨザファトは子供の頃から心にイエズス様のご受難の愛の傷を受けており、そのころから離教者や異端者の救霊を心配していた方で、20歳で修道会に入り、後に大司教となって離教者の手により生きたまま袋に入れられて川に落とされ殉教されました。
彼の犠牲・祈り・説教・その模範的生活によって多くの人々が改心して教会に戻り、そのことで離教者らに告発されたのですが、殉教の時が来たことを周知していた聖ヨザファトは私達の主が、ゲッセマニの園で主を捕えに来た人々にナザレトのイエズスは誰かと尋ねられたときに「私がそうだ」と仰せられたように、彼を殺そうと来た離教者らに「私がそうだ」と言ったそうです。聖ヨザファトは信仰をあらわす問題については、決して妥協してはならないと教え、真の愛徳を示されました。現代のエキュメニズムという考えは離教者や教会の敵を別の誤った見方で擁護し、偽りの愛徳を実践しているため、真の愛徳をもっているといえません。何故なら救霊の道とは、「Credo」信仰を告白することであるから、我々カトリック信者は彼らのために良い模範となって改心を願わなくてはならないのです。これは、聖母マリア様がそのご出現によって度々おっしゃっておられるように「罪びとの改心の為に祈りなさい」という御要求に答えることであり、教会も御ミサの集祷文で度々祈っています。私達は最高の祈りである御ミサ の中で、我々の意向の為、また、異教徒の改心の為によく祈りましょう。


大聖アルベルトは大聖グレゴリオ、大聖レオ、大聖ジェルトルードと並んで教会の諸聖人の中で「大」という称号を与えられた4人の聖人のうちの一人で、ドミニコ会修道士でありました。彼は天主様からこの日の聖福音にあるように「地の塩・世の光」であった方で、特にその聖徳は知性に大きく表れておられました。彼の著作38巻は天文学・形而上学、化学、神学、などあらゆる分野に及んでおり、弟子の一人有名な聖トマスアクイナスにアリストテレスの哲学を浄化して伝えた人でもありました。彼は知性における特別な御恵みをイエズス様から頂いたことを知っていましたが、マリア様からのビジョンによって死の前にその知性を失う事を伝えられたとおり、彼の死の2年前から突如その知 識を失い自己を完全に浄化するかのごとく残りの2年をその苦しみに任せられました。聖人になるというのは、罪が全くないという事だけではなく、自分の持つ欠点や誘惑・試練に打ち勝つことで徳を身につける、つまり闘って徳を勝ち取ることにあります。大聖アルベルトの残した著作らは彼の生きた中世の為だけではなく現代にも全く反映されることです。信仰を助けるため、私達は対神徳を身に着け、少なくとも公教要理をよく学び深めなければならず、論理によって信仰を秩序立てることができるのです。なぜなら宗教の徳は意志に在り、信仰の徳は知性に在る。知性は真理を認め宗教の徳を高めるのです。

ロザリオは全ての玄義の要約で、観想の学校であります。ロザリオを通して私たちは聖霊の恵みを受けることができ、信仰を守ることもできるので、たくさんロザリオを祈りましょう。


近代主義と聖伝の信仰についての霊的講話

戦争のため中断された第一ヴァチカン公会議は、ピオ9世、ベネディクト15世、ピオ11世、ピオ12世教皇様方は再開されなかった。なぜなら教皇様方は教会の中心に近代主義者達がおり、その危険性を察知しておられたからであった。しかし、ヨハネ23世は(その手記によるとビジョンがあったため)公会議を再開されることを決断されたが、それはヨハネ23世が近代主義の危険性をよくわかっておられなかったからだと言える。第二ヴァチカン公会議を引き継がれたパウロ6世は親友ジョン・ギトンに「公会議は酷いものであった。そこにカトリック信仰は無くなってしまった」と、後に告白しているし、ヨハネパウロ2世も1988年のローマでの講話の中で「教会の中に混乱がある。特に典礼秘跡について」と第二ヴァ チカン公会議のもたらした悪い実りについて言及している。
ルフェーブル大司教様は公会議の中で、教会の腐敗を止めるため200名のメンバーと立ち上がられたが、多くの近代主義者達の数に阻まれてしまった。
聖ピオ十世会はカトリック教会の一員、一部であるから、教会を助けるため聖伝を守る権利がある。私達は母であるカトリック教会のために祈り、犠牲を捧げなければならない。私たちは教会の一員として、自分自身の聖化を続け、聖人とならなければならない。

【報告】【東京】
11月16日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 14人(内、子供1人)
女: 16人(内、子供1人)
計: 30人(内、子供2人)

ネリ神父の霊的講話の参加者数
男: 8人
女: 7人
計: 15人

晩課の参列者数
男: 5人
女: 6人
計: 11人


聖伝のミサ(いわゆる「トリエント・ミサ」と呼ばれているローマ式典礼様式のミサ)にようこそ!

ローマ・カトリックの聖伝のミサ vs エキュメニカルな新しいミサ(第二バチカン公会議のミサ)




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ブラジルのイエズス様の御像を修理する作業の現場の動画だそうです

2014年11月14日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 ブラジルのイエズス様の御像を修理する作業の現場の動画だそうです。見ているだけで、ひやひやします。すごいですね。

 明日、土曜日は、大阪で2回聖伝のミサがあります。
 明後日の主日は、東京で2回聖伝のミサがあります。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)







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11月9日、10日と大阪での聖伝のミサの報告

2014年11月14日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 11月9日、10日と大阪でレネー神父様が聖伝のミサを捧げてくださいました。次のようなご報告を戴きましたのでご紹介いたします。レネー神父様には深く感謝します。素晴らしい司祭を日本に送ってくださる天主様に感謝します。素晴らしい先輩かつ同僚司祭を持つことが出来、天主様に感謝いたします。

 本日から大阪で聖伝のミサがあります。ネリー神父様と私とで二回ずつミサがあります。ミサ聖祭で愛する兄弟姉妹の皆様とお目に掛かるのをたのしみにしております。


天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!
今月のレネー神父様来日に行われた御ミサの報告です。

11月9日(主)至聖救世主の大聖堂献堂の御ミサには、21名が、
11月10日(月)証聖者アヴェリアのアンドレアの祝日には14名が御ミサに与る御恵みを頂きました。デオグラチアス!!

9日には、11月1日に祝った諸聖人の祝日を振り返ってのお説教を頂き、御ミサの後には11月3日に迎えた全ての死せる信徒の記念にちなんでのレクチャーを頂きました。また、9日は献堂の御ミサであったので、聖堂、神殿とは一体何を意味しているのか?などというお話を頂きました。シノドに関する質問にもお答え下さいました。

会場を出ると午後9時をまわっていました。お疲れにも関わらず集まった信徒のために、燃える宣教師魂でたくさんのことを教えて下さったレネー神父様に心から感謝申し上げます。いつものレストランで、遅い夕食を神父様を囲んで頂きましたが、そこでも宣教師魂はまだ冷めずまだまだ沢山のお話をして下さいました。
天主様がレネー神父様の使徒職を報いてくださり、多くの御恵みをお与えくださいますように!! 
インマクラータが神父様を益々助け、お守りくださいますように!!
9日のお説教、ミサの後に行われた講話を以下に掲載いたします。

2014年11月9日(主)レネー神父様による大阪でのお説教


親愛なる兄弟の皆さん、
先週、私たちは諸聖人の祝日をお祝いしました。この祝日は美しい祝日で、非常に慰めになる真理を非常に具体的に強調しました。つまり、徳に対する驚くべき報酬があるということです。天主は欺く方ではありません。天主は、聖人たちの徳や愛、忠実に対して報酬をお与えになるでしょう。聖パウロが言うように、「偽りのない天主が代々の前に約束された永遠の命の希望」(ティト1章2節)です。天主は、誰にこれを約束なさったのでしょうか。聖ヤコボが、「命の冠」が「天主がご自分を愛する人々に約束された」(ヤコボ1章12節)と答えます。まことに、「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心にまだ思い浮かばず、天主がご自分を愛する人々のために準備されたこと」(一コリント2章9節)なのです。

福音の中で主は、ここ地上ですでに、徳を実践することには大きな喜びがあると教えておられます。「心の貧しい人は幸せである、天の国は彼らのものである。…私のために、人々があなたたちをののしり、あるいは責め、あるいは数々の讒言を言うとき、あなたたちは幸せである、喜びに喜べ、あなたたちは天において大きな報いを受けるであろう」(マテオ5章3―12節)。彼らが非難されるとき、すでに祝福され喜びがあります。外から苦しみを受けていても、もうすでに内では天主の喜びで満たされています。それでは、もう迫害がなくなるとき、彼らの喜びはどれほど多くなるのでしょうか。天国の報酬への希望と期待が、迫害時に喜ぶことができたほどの喜びであるのなら、天主を見ると きの喜びはどれほど多くなるのでしょうか。

その喜びとはいったいどんなものでしょうか。聖ヨハネは書簡で言っています。「考えよ、天主の子と称されるほど、御父から計りがたい愛を受けたことを。私たちは天主の子である。この世が私たちを認めないのは御父を認めないからである。愛する者たちよ、私たちはいま天主の子である。後にどうなるかはまだ示されていないが、それが示されるとき、私たちは天主に似た者になることを知っている。私たちは天主をそのまま見るであろうから」(一ヨハネ3章1―2節)。聖ヨハネは、すぐに結論を引き出します。「主が清いお方であるように、主に対するこの希望を持つ者は清くなる」(一ヨハネ3章3節)。主ご自身がおっしゃいます。「死者からよみがえるときは、めとりもせず嫁ぎもせ ず、天の天使たちと同じようになる」(マルコ12章25節)。「天使は天上にいて、常に天にまします父の前に立っている」(マテオ18章10節)。聖パウロが、黙想について語りつつ、「私たちはみな覆いを顔に垂れず、鏡に映すように主の光栄を映し、霊なる主によってますます光栄の増すその同じ姿に変わる」(二コリント3章18節)と書いたのなら、それが黙想についての真理なら、天国での至福直観はどれほど素晴らしいものでしょうか。実際、「今私たちは鏡を見るようにぼんやりと見ている。だがそのときには顔と顔を合わせて見るであろう。今私は不完全に知っているが、そのときには私が知られているとおりに知るであろう」(一コリント13章12節)。

この至福直観というのは、最も高い人間の能力である知性が、至高の対象である天主ご自身に対して、栄光の光によってその能力を本来の能力より高められて行う最も完全な働きである、と聖トマス・アクイナスは説明しています。そのような完全な働きは私たちの永遠の至福となります。主において永遠に喜ぶのです。詩篇作者は言いました。「主において喜び楽しめ、心の正しい者はみな歓喜せよ」(詩篇31章11節)。「正しい者よ、主において喜べ」(詩篇96章12節)。また聖パウロは言います。「主において常に喜べ。繰り返し言う、喜べ」(フィリッピ4章4節)。永遠に、天主の光で満たされ、天主の愛の火で満たされるのです。

親愛なる兄弟の皆さん、これがキリスト教的生活の目標であり、この世的な幸せではありません。聖パウロは言います。「私たちがキリストに希望をかけたのがこの世のためだけであるなら、私たちは人の中で最も哀れな者である」(一コリント15章19節)。これが希望の徳の目的、つまり天国へ行くことです。私たちの目的はこの世の希望ではなく、天国の希望なのです。

私たちの希望はすべて、イエズス・キリストが中心です。天主として、主は私たちが永遠に見たいと希望し、所有したいと希望するそのものです。主はまた、私たちの希望の原動力です。主は御父のみ言葉であり、このみ言葉において、これらすべての素晴らしい約束がなされました。とりわけ、主は御血によってこれらの約束を認証なさいました。そうです、天主は私たちの救いを望まれます。そのために天主は御独り子をこの世に送られました。御独り子は、私たちを罪から救い、天国へ導くために十字架の上で亡くなられました。主は、私たちが望む以上に私たちの救いを望まれます。主はそのために十字架上で亡くなられました。それから主は、世の終わりに私たちが復活することの保証として よみがえられたのです。福音の中でまことにしばしば、主は天国での報酬について語られました。特に次の一節です。「天の国は彼らのものである…彼らは慰めを受けるであろう…彼らは飽かされるであろう…彼らもあわれみを受けるであろう…彼らは天主を見るであろう…彼らは天主の子らと呼ばれるであろう…あなたたちは天において大きな報いを受けるであろう」。しかし、多くのほかの節でも、主は天国を多くのものにたとえておられます(「天の国」という表現は聖マテオに典型的で、これを聖マルコは「天主の国」としています)。聖マテオの福音書においては9回、主は天の国を通常、何かこの世で行われる大きな祝宴、たとえば王の宴会や宝などにたとえておられます。

この天国の喜びは大変素晴らしいため、それを得るためにはこの世のすべてを放棄する用意をしていなければなりません。次の力強い警告を思い出しましょう。「その手があなたに罪を犯させるなら手を切り捨てよ、不具で命に入るのは両手あってゲヘナの不滅の業火に入るよりもよい。そこではうじが失せず、その火は消えぬ。その足があなたに罪を犯させるならそれを切り捨てよ、片足で命に入るのは、両足あってゲヘナに投げこまれるよりもよい。そこではうじが失せず、その火は消えぬ。またもしその目があなたに罪を犯させるならそれを抜き取れ、片目で天主の国に入るのは、両眼あってゲヘナに投げこまれるよりよい。そこではうじが失せず、その火は消えぬ。」(マルコ9章42―47節)。

人々は自分の手や足を切り、目を抜き取ることを恐れます。しかし、天の国の美しさ、素晴らしい喜びを思うなら、主が言われたことを行うのをためらいません。主は人間として至福直観を持っておられ、また天主として、この天主の至福、永遠の至福を至高の方法で所有なさっているため、天国におられて、このことをお話しになるのです。主はこの重要な真理に大変満ちておられるため、非常にはっきりと私たちに警告することをためらわれないのです。

実際、いつしか私たちがこのような言葉を聞くことよりも美しいものがあるでしょうか。「よしよし、忠実なよいしもべだ。おまえはわずかなものに忠実だったから、私は多くのものをまかせよう。おまえの主人の喜びに入れ」(マテオ25章21節)。また、「父に祝せられた者よ、来て世の初めからあなたたちに備えられていた国を受けよ。あなたたちは、私が飢えていたときに食べさせてくれ…たからだ」(マテオ25章34―35節)。そして、「義人は永遠の生命に入るであろう」(マテオ25章46節)。

しかし、私たちがこの言葉を聞きたいなら、主の左側ではなく、右側にいなければなりません(マテオ25章33節)。私たちは婚礼の礼服を身に着けていなければならず(マテオ22章11節)、そうでないなら、私たちは「外の闇に投げ出され、そこには嘆きと歯ぎしりがあろう」(マテオ22章13節)。私たちは天主の戒めに従わなければならず、命の終わりに至るまで従い続けなければなりません。

ですから、キリスト教的生活には、二つの本質的な瞬間があります。第一は改心です。キリストを信じ、洗礼または悔悛の秘蹟のどちらかで、私たちの主イエズス・キリストの恩寵が与えられて、自分の生活を罪から徳へと変えるのです。なぜなら、私たちの主イエズス・キリストは、「罪びとを罪から救い、悔い改めへ導くために」(マテオ1章21節―ルカ5章32節)来られたからです。聖パウロはこう書きました。「私は…改心にふさわしい行いをして、悔い改めて天主に返れと説きました」(使徒行録26章20節)。また聖ペトロが言います。「一人の亡びも望まれないから、すべての人の悔い改めを望んであなたたちを長く忍ばれる」(二ペトロ3章9節)。今日、私たちはこの悔い改めを求める声を聞く必要があります。これが教会の使命の本質です。現代の危機の多くは、こういう重要なテーマを無視するために起きています。「私にはそんなことは不可能だ。あまりに難しすぎる」という人がいるかもしれません。しかし私たちの主イエズス・キリストが恩寵をお与えになるので、もっと簡単になるだけでなく、喜ばしいものにもなるのです。

実際、キリスト教的生活の第二の「瞬間」は忍耐です。続けることです。固く信仰を守り(一コリント16章13節)、希望に踏みとどまり(コロサイ1章23節)、「それでは、愛する兄弟たちよ、あなたたちの苦労が主においてむなしくならぬことをわきまえ、確固として揺らぐことなく、常に主の業を励み努めよ」(一コリント15章58節)。実際、私たちの主イエズス・キリストの恩寵によって行うことが可能となる徳には素晴らしい報酬があるでしょう。

今日、「固く信仰を守ること」は「融通がきかないこと」【注1】と軽蔑的に表現されます。天主の戒めを守る必要性は、もはやはっきりとは言われません。まるで、最も重要なことは、すべての人に「開かれた」ことであるかのようであり、全ての人に対して戒めに従うことが必要であるとは言われることはありません。しかしそれでは、彼らは天国の扉が「閉じられて」いるのを見るでしょう。愚かな乙女たちのことを思い出してください。彼女たちは用意ができていませんでした。「用意していた乙女たちは[花婿と]一緒に宴席に入り、そして戸は閉ざされた。やがて、ほかの乙女たちは帰ってきて『主よ、主よ、どうぞ開けてください』と言ったけれど、『まことに私は言う、私はおまえたちを知らぬ』と答えられた。」(マテオ25章10―12節) 。「狭き門から入るように努力せよ。私は言う、入ろうと努めても入れない人が多い。家の主人が立って門を閉めてしまってから、外に立って戸をたたき、『ご主人、門を開けてください』と叫んでも、主人は『私はおまえがどこの者かを知らぬ』と答えるだろう。そのとき、『私たちはあなたの前で飲み食いしましたし、あなたは私たちの町の大路で教えておられました』と言っても、主人は『私はおまえたちがどこの者かを知らぬ。不正を行う者どもはみな立ち去れ』と答えるだろう」(ルカ13章24―27節)。確かに、フランシスコ教皇の基準によれば、私たちの主イエズス・キリストは「聖伝主義者」です。なぜなら、主は大変「閉じて」おられ、「敵意をもった融通のなさ」があり、「自分が知る確信 の中に閉じて、熱心で、知的で」【注2】おられるからです。

同じ基準によれば、聖パウロも聖伝主義者です。実際、聖パウロもまた、「敵意をもった融通のなさ」を持っています。それは、彼がこう書いているからです。「不正の人は天主の国を継げないことを知らないのか。思い誤るな。淫行をする者も、偶像崇拝者も、姦通をする者も、男娼も、男色する者も、泥棒も、貪欲な者も、酒飲みも、讒言する者も、略奪する者も、天主の国を継がぬ」(一コリント6章9―10節)。「淫行の者、好色な者、情欲の者はみな―これは偶像崇拝者と同じである―、キリストと天主の国を継げない」(エフェゾ5章5節)。これは実に融通がきかず、敵意があります。でも、これはまさに天主のみ言葉なのです。聖パウロは信者たちに「自分が知ることに閉じる」よう に教えてこう書かなかったでしょうか。「しかし私自身であるにせよ、天からの天使であるにせよ、私たちがあなたたちに伝えたのとは異なる福音を告げる者にはのろいあれ。私は前に言ったことを今また繰り返す。あなたたちが受けたのとは異なる福音を告げる者にはのろいあれ」(ガラツィア1章8―9節)。

私たちは罪びとに対しては開かれていなければなりませんが、罪に対しては閉じていなければなりません。私たちは悔い改める罪びとを歓迎しますが、罪を憎みます。実際、罪を憎むことは天主の戒めです。「主よ、あなたは悪を憎む者を愛す」(詩篇96章10節)。私たちは、罪びとが、自分を変えて間違いを正す必要はなく現在の状態で大丈夫だと考えるままにして、彼を欺くことはできません。なぜなら、罪びとが悔い改めないなら、同じように滅びるからです(ルカ13章3節)。

さて、このことはまず私たちに当てはまります。私たちは、自分の罪を悔い改めなければなりません。たとえほんの小さな罪を犯したとしても、その罪を悔い改める必要があります。そして、ファチマで聖母がおっしゃったように、イエズスの聖心が聖マルガリタ・マリアにパレ・ル・モニアルでお求めになったように、ほかの人々の罪の償いをする必要があります。十字架がなければ、犠牲がなければ、悔い改めがなければ、天の国に入ることができません。「私たちが子であるのなら、世継ぎでもある。キリストとともに光栄を受けるために、その苦しみをともに受けるなら、私たちは天主の世継ぎであって、キリストとともに世継ぎである」(ローマ8章17節)。

聖人たちはみな、悔い改めをしていました。ときには驚くべき悔い改めを。悔い改めをせずに天国へ行きたいですか。そうなら私たちは自分を欺いているだけです。もっと悪いことに、私たちは他人をも欺いているのです。聖人たちの報酬を共にしたいのなら、私たちは彼らの苦労を共にするのを恐れてはなりません。諸聖人の祝日は、驚くほど勇気を与えてくれます。「私のあとに従おうと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を背負って従え」(ルカ9章23節)。十字架は天国への道ですから、ミサの聖なるいけにえは天国へ行く最も偉大な手段です。ミサにおいて、私たちの主イエズス・キリストが、私たちの罪の償いのためにご自分の御体と御血を御父にお捧げになるのを目の前で見るとき、私たち は罪という悪を理解するのです。ミサにおいて、まず私たち自身の罪のために、そして世のすべての罪のために、十字架の下で聖母と共に嘆き悲しむのです。ミサにおいて、改心の恩寵、「罪に死んだ者、キリスト・イエズスにおいて天主のために生きる者」(ローマ6章11節)となる恩寵を得るのです。ミサにおいて、戒めを守る恩寵、私たちの主イエズス・キリストと一致して生きる恩寵を得るのです。この一致は、小羊である私たちの主イエズス・キリストご自身の御体と御血、「天使のパン」(詩篇77章25節)、天国の至福の前じるしによって養われるのです。ミサにおいて、私たちは信仰によって、天国で永遠に見つめるもの、あらゆる徳の報酬、つまり御父の栄光において聖霊と一致した私たちの 主イエズス・キリストご自身を見るのです。

聖ヨハネが黙示録(2章10節)で言うように、私たちが「命の冠」を得られるよう、「死に至るまで忠実である」恩寵を、童貞聖マリアが私たちのために獲得してくださいますように。

アーメン。

【注1】 Pope Francis’ exhortation at the end of the synod シノドスの終了に際してのフランシスコ教皇の勧告
【注2】 同上



11月9日のレネー神父様による講話


親愛なる兄弟の皆さん

11月は煉獄の聖なる霊魂達の月です。死に関して、煉獄の教理に繋がる大いなる真理があります。それは審判という真理です。実は審判は二度あり、それは死の直後の私審判と、世界の終わりに私たちの主イエズス・キリストが「生ける人と死せる人とを審かんために来り給う」時の公審判とです。そして、私たちの主が「私はいう。人が話したむだごとは、すべて審判の日にさばかれるであろう」(マテオ12章36節)と私たちに警告なさるように、その審判では厳しい正義が実現されます。

聖アウグスティノは美しい言葉でこう言っています。裁判官御自身、すなわち私たちの主イエズス・キリストがまず救いのために来てくださらなかったなら、誰が断罪の審判を逃れられたことであろうか、と。事実、私たちの主イエズス・キリストは二度いらっしゃるのですが、一度目は約二千年前、慈悲のご来臨をされ、二度目は世界の終わりに正義のご来臨をされるのです。聖書では、慈悲と正義という二つの特性が天主において分かつことのできないものであることが繰り返し強調されています。たとえばトビアは自らの祈りをこのように始めます。「主よ、あなたは正しい、あなたのみ業は、すべて正しい。あなたの道は、慈しみと真理、あなたは、世をさばくもの。」(トビア の書3章2節)詩編作者はこのように歌います。「その契約とおきてを守る人にとって、主の小道は慈しみと真理(すなわち正義)である。」(詩編24篇10節)ですから、「主よ、私は愛とさばきをうたい、あなたを讃美しよう。」(詩編100篇1節)天主はいつも慈悲と真理とをもって行動されるばかりでなく、私たちが天主を真似て同じように行動することを望まれます。「人よ、よいこととは何かを、主が、何をあなたに求められるかを、主は告げられた。それは正しいことを行い、善意を愛し、あなたの神とともにへりくだって歩むこと、これではないか。」(ミカヤの書6章8節)また、「(万軍の主は、こうおおせられる)こういわれた、〈真実のさばきを行い、おのおの兄弟を愛しあわれみをもて。〉」(ザカリアの書7章9節)私たちの主ご自身も、「正義と慈悲と忠実と」が「律法の中でいちばん重大な」(マテオ23章23節)ものであるとおっしゃいます。

私たちの主イエズス・キリストがまず罪人たちを救いにいらっしゃらなければ、最後の審判では全ての人は地獄に行くべきものとして左に置かれていたことでしょう。もし、天主である御子が、聖母を罪の汚れから守るという慈しみ深い恩寵を十字架上での自らの犠牲によって買い取られ、その恩寵を聖母に与えられなければ、聖母ですら原罪の汚れから守られなかったことでしょう。私たちが裁判官である主に対して自分の一生の報告をする準備をするためには、天主からのこの慈悲を必要としているのです。私たちの主がまず救いにこられたという事実によって、悪しき者たちが不平をいうことができなくなります。私たちの主はこのようにおっしゃるでしょう。「あなたが自分自身 の救いを望むよりもっと私はあなたの救いを望んでいた。私はあなたのために十字架上で死んだのに、あなたは私と私の言葉とを軽蔑し、それに従わず、自分の罪を止めず、罪を悔いることをしない。私の手、足、心臓を見なさい。あなたのために為し得ることで私のしなかったことがあるだろうか?どうして私を拒んだのか?」と。親愛なる兄弟のみなさん、今こそ、私たちの主イエズス・キリストのこの愛徳の訴えを聞き入れましょう!今こそが慈悲の時であり、死後は正義の時なのです!今こそが私たちの生き方をより良いものに変える時であり、死後は私たちの一生の報告をする時なのです。今こそが天主に忠実にお仕えする時であり、もし私たちが今天主にお仕えするならば死後は天主の永遠の福楽を得る時となり、もし私たちが今天主に忠実にお仕えしないならば死後はこの至高の善から遠ざかってしまうという永遠の苦しみの時になるのです。今こそが慈悲の時であり、死後は正義の時なのです。

聖アウグスティノはこのようにも言っています。「あなたがいつ天主に立ち返ろうとも、天主はあなたを赦してくださるとお約束なさったが、天主はあなたが明日も生きているとお約束なさってはいない!」と。悔い改めを先延ばしにしてはいけません。いつか私たちの時間はなくなるのです!

今の慈悲の時には、美しい慈悲の法廷があります。それは告解の秘跡という法廷です!天主が慈悲を施される時にも天主の正義が実現されなければならないという意味で、これは真の法廷です。この告解という法廷では、私たちの罪によって傷つけられた「原告」は天主ご自身で、被告は私たちです。双方には弁護人がいます。「被告の弁護人」は、私たちが実は悪を行なっておらず、私たちの罪はそれほど悪いものではないなどと私たちを説得しようとするのですが、この被告の弁護人はもちろん悪魔です。悪魔は私たちが悔い改めたり、自分の罪を憎んだりするのを望まないため、あらゆる種類の言い訳を作り出します。この慈悲の法廷には「原告の弁護人」もおり、それは私たちで す。私たちが天主の私たちに対して有しておられる権利を認め、天主の権利を主張することによって、私たち自身の罪を憎み、私たち自身の罪について自らの誤りを認め、私たち自身の罪を罰する機会を、真に天主が私たちに与えてくださるのです。自分の罪を憎み、自分の罪について自らの誤りを認め、自分の罪のため自らを罰する(償い)というこの三つの行為こそ、告解を行なう者が成す行為なのです。聖アウグスティノは、天主はあなたの罪を忌み嫌われるのであるから、あなたも自分の罪を忌み嫌うのであれば、あなたは天主と同じ考えをもち始めているのであって、従って、悪しき行いを忌み嫌い、糾弾することは善き行いの始まりであるというのです!この告解の秘跡において、私たちが私 たち自身の権利よりも天主の権利を認めれば認める程、私たちの罪は癒され、罪の罰は取り除かれます。

この法廷には裁判官もおられ、それは私たちの主イエズス・キリストですが、司祭がその代わりとして、「父と御子と聖霊との御名によりて、あなたの罪を赦します。アーメン。」と唱えるのです。ここでは至聖なる聖三位一体の御名の力に注目してください。その力は、私たちの主が私たちの罪に対する厳しい正義のため、全ての罪をあがなうために支払われた、その十字架から来るものです。どの法廷にも裁判官がいるように、私たちの主イエズス・キリストが裁判官として、自らの司祭を通して私たちの主イエズス・キリストの御名そのものによって慈悲の裁きをなさるのです。「父と御子と聖霊との御名によりて、あなたの罪を赦します。アーメン。」と。

親愛なる兄弟の皆さん、この慈悲の法廷を使うこと、上手に使うことを望むようにいたしましょう。もし私たちが次の世界の正義の法廷で安全でありたいと望むなら、この世界の慈悲の法廷を利用しなければなりません。詩編作者が「たえず私の不義を洗い、私の罪を清めたまえ」(詩編50篇4節)といっているように、この慈悲の法廷を度々使うようにいたしましょう。

人は清潔な家に住むことを好み、自分の体もいつも洗って清潔にしていますが、しばしば自分の霊魂を罪の汚れのなかに置いたままにしてしまいます。私たちが自分の体をいつも洗っているのであれば、自分の霊魂もいつも洗うようにいたしましょう!私たちは、泥の中にはまるのを待たずに体を洗います。大罪にはまるのを待たずに告解の秘跡で霊魂を洗うようにすべきです。自分の体を頻繁に洗う人が、あまり洗わない人よりも清潔であるように、自分の罪を頻繁に告白する人は、あまり告白しない人よりも、普通、罪を犯すことがずっと少ないのです。今日、多くのカトリック信者が何年もの間告解をしないにもかかわらず、毎主日に聖体拝領をしないことを恐れているというのは 大変恥ずべきことです。今日多くのカトリック信者がこのようなことをしているので、避妊のような罪と妥協し、福音の真実に従った生活をしなくなったことも驚くにはあたりません。

審判を心安らかに待ち望めるように、審判の前に、天主の友となりましょう。この準備ができていない人は、普通、やがて訪れる死を大変恐れます。しかし私たちの主イエズス・キリストがご自分の教会にくださった聖化の手段、すなわち秘跡、とりわけ告解の秘跡と聖体拝領とを忠実に使えば、やがて訪れる死と審判とを静かに自信をもって迎えることになるのです。

私たちが天主の二つの特性である慈悲と正義のことを思い、天主の慈悲深い愛に従うことによって、永遠に天国に行くため、私たちの主イエズス・キリストの法廷に立つ準備ができるよう、聖母マリアが私たちを助けてくださいますように!
アーメン。


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2014年11月 大阪でのミサ聖祭の報告:天主様に感謝!

2014年11月03日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 大阪でのミサ聖祭のご報告を戴きましたので、ご紹介いたします。休暇のために、日本にいらしてくださったアンダーソン神父様に感謝します。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】
アンダーソン神父様のボーナスミサの報告をお送りいたします。

11月1日(土) 諸聖人の祝日には、16名の方々が、
11月2日(主) 聖霊降臨後第21主日には、23名の方々が、
11月3日(月) 死せる信者の記念には、14名の方々が御ミサに与るお恵みを頂きました。デオグラチアス!!

3日には、一日に3つの御ミサを続けて捧げられました。年に2度、クリスマスとこの日は司祭は特別に一日に3つの御ミサをあげることがお出来になるのですね。3日間で5つの御ミサが日本で捧げられて大変幸福でした。

御休暇中にも関わらず、御ミサと、毎日のお説教、告解などのミッションを日本の為に働いて下さったアンダーソン神父様に心から感謝申し上げます。以下にそのお説教の日本語訳を掲載いたします。

至聖なるイエズスの聖心よわれらを憐み給え
聖母の汚れなき御心よ我らのために祈りたまえ
聖ヨゼフ我らのために祈りたまえ

諸聖人の祝日2014年のお説教


天主を多様性を通じずに正しく理解することが不可能なのは、当たり前のことです。天主はご自身において完全に単純でいらっしゃいますが、私たち人間は創造主を十分に正しく理解することはできず、できるのは創造物において天主がご自身をいかに多様に表現なさったかを見ることだけです。きっとこれが、私たちが自然の中に見いだす多様な物事を説明してくれるのでしょう。天主が創造なさったすべてのものは、なんらかの方法で天主に関することを私たちに教えてくれるのです。
同様に、聖人たちはその多様性において天主のあるイメージを反映しています。全ての聖人は英雄的徳を持っています。(これが、彼らが私たちに模範として提示されている理由です。)しかし、個々の聖人は特別な徳において優れているように思われます。例えば、剛毅、清貧、謙遜、信仰などです。聖フランシスコは特別な方法で清貧の徳を生きました。また、聖フランシスコ・ザベリオは、ほかの人が見せなかったような宣教師としての熱意を示しました。

でも、ほかの多くの聖人たちは、ごく「普通」でしょう。人は彼らを決して聖人とは理解できないかもしれません。彼らは知られないままです。例えば、聖母と聖ヨゼフのことを考えてください。隣人たちは、お二人に特別なものを見ることはありませんでした。これは、ほかにも理由はあるでしょうが、まことの聖性は内的であるからです。聖性は、外的行為をともなうこともありますが、外的行為から成り立ってはいないのです。ある偉大な聖人はまったく知られずにいるかもしれません。私たちの周りには、それと分からない聖人たちがいるかもしれません。彼らは列聖されたりカレンダーに祝日を載せられることはありません。きょうの祝日は言わば、列聖されていない聖人たちをまとめて、一度に祝うので
す。
一度に諸聖人を祝うということは、少し何か特別なことです。勝利の教会の凱旋の歌のようです。天主の英雄たちすべてを、一度にお祝いするのです。この祝日には実際、偉大なる喜びと勝利が感じられます。
次に、この祝日の起源を考えましょう。殉教者たちの骨がローマのパンテオン(万神殿)に移されたときです。パンテオンは異教の神殿でした。ここでは、(偽りの)神々が礼拝されていました。教会が敵に勝利したとき、この異教の神殿はキリスト教の教会に変えられました。そのため、この祝日は、偽りの神々に対するキリストの勝利、すなわちローマに対するエルザレムの勝利、地上に対する天国の勝利を祝う祝日と考えられるでしょう。
ローマ人にとり、勝利という言葉の意味がどんなものだったか分かりますか。ローマの将軍が敵を破ったとき、戦利品をもってローマへ公式に入城することがときどき許されました。一種の軍事パレードです。この種のパレードは、ローマ人が徳目と考えていた特徴を祝いました。その多くはキリスト教徒にとっては悪徳でした。勇気と技能が祝われたのはもちろんですが、敵を殺すこと、敵の財産をとること、ぜいたくに生きること、破った敵を奴隷にすること、そして最後には自分を神と宣言することを祝いました。謙遜は、ローマ人の世界には居場所がありませんでした。さて、本日の福音で私たちの主がおっしゃった至福八端、つまり完全なキリスト教徒の霊魂の特徴を考えてみましょう。
心の貧しい人―彼らは、簡単に損害をこうむります。自分の上にある地位を求めないよう努めます。つかみ取ろうとしません。
柔和な人―彼らは、怒りに対して戦い、いつも平安でいようと努めます。
悲しむ人―彼らは、罪があり、天主から離れているために悲しみます。
正義に飢え渇く人―彼らは結局、天主の正義がなされるのを見ることを望みます。
あわれみのある人―この言葉「merciful」(あわれみのある)は「misericordia」(あわれみの心)から来ており、私たちはイエズスの聖心、そして罪びとや敵への愛のことを思います。
心の清い人―彼らは、聖母の模範にならって貞潔を望みます。
平和のために励む人―彼らは、平和を保つために自分の持つ何かを犠牲にします。
正義のために迫害される人―彼らは、天主を攻撃するくらいなら殉教者になることを好みます。
教会が生まれた異教の世界、その世界に対する勝利を教会に得させた原因は、これら至福八端です。聖性の原因であり、しるしでもあるのです。ですから、至福八端は霊魂に根を下ろし、しばしば他人の目から隠されています。何という皮肉でしょうか、柔和な人、あわれみのある人、心の清い人がこの世に勝利するはずであるとは!
おもに内的なものであるこの戦いは、私たち誰にとっても簡単というわけではありませんから、教会は、天主を喜ばせるために生涯を生き、この世に対して勝利した数えきれないほどの人々を私たちに示そうと、特別な日を用意しておいたのです。私たちには聖人たちが見えないかもしれませんが、彼らは実在し、たくさんいます。彼らは信仰、希望、愛を貫きました。今は天主の御前で私たちのために取り成してくださいます。天主は、彼らに天主に忠実であり続けるのに十分な恩寵をお与えになりました。天主は、同じ恩寵を与えるのを私たちに拒否なさいません。
他人に知られようとして、この偉大な行為を行うのが、私たちに求められていることではありません。私たちが望むものは、私たちの比較的隠された生涯において至福八端を求めて努力し、主のために自分たちの命を犠牲にするために呼ばれた初代殉教者たちをお助けになったように、天主が私たちを助けてくださることを確信することです。天主の恩寵に一致すれば、私たちも戦闘の教会から勝利の教会へ移るでしょうし、これら無名の聖人たちの中に数えられるでしょう。

+
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


2014年11月2日聖霊降臨後第21主日のお説教


きょうは、先週の主日に祝った祝日、王たるキリストの祝日の黙想をしたいと思います。教会は、助けになる場合はいつも新しい祝日をつくってきました。先週の主日、私たちはイエズス・キリストの王権を特別な方法でお祝いする喜びを得ました。教皇ピオ十一世がこの祝日を制定したのは1925年のことでした。何が教皇をしてそのようにさせたのか考えてみましょう。
王とは、かつての預言者の時代から、メシアに与えられた称号です。称号それ自体は新しいものではありません。二十世紀において、この祝日を生みだした特別な必要性とは何でしょうか。その答えは明らかです。この祝日が教会のカレンダーに取り入れられたのは、人間が人類の救い主の統治の受け入れを拒否したため、天主の権威に服従するのを拒否したため、個人だけでなく国家も天主が要求された天主の主権への服従を承諾するのを拒否したためです。手短に言えば、この祝日ができたのは、現代の世界が天主に対して反逆する傾向を示したためです。
親愛なる友人の皆さん、ご承知のように、皆さんは、近代主義に直面なさっていることでしょう。政治的、社会的領域で近代主義はその姿を現しているのですから。哲学においては、近代主義は合理主義の形を取ります。政治においては、自由主義の形を取ります。そして自由主義の第一の教義(信条)は、人間の命を支配する天主のあらゆる権威を否定することなのです。
イエズス・キリストは、天主の本性によって、人間を支配する権利を持っておられると教会は教えています。主は私たちをお創りになりました。私たちは主の創造物です。私たちは主の所有物です。しかし、主はまた、人間だけでなく、全ての創造物を支配する権利をもお持ちです。主は、個人、家族、都市、国家、全世界を支配する権利をお持ちです。
カトリックの教理が私たちに教えるのは、イエズス・キリストは人間として、私たちを贖うことによって、私たちを支配する権利を獲得なさったということです。私たちは、天主としてだけでなく、人間としての主にも敬意を表する義務があります。なぜなら、主がいと尊き御血によって私たちを贖われたのは、人間としてだったからです。被造物に対する主の権威は完璧なものです。
この事実は常に知られてきました。キリスト教徒の諸国家の憲法そのものが、かつてはこの教えを記していました。二十世紀においてさえも、例えばアイルランドの憲法前文にそれがありました。この前文は読む価値があります。

全ての権能の源であって、人及び国家の一切の行為が立ち戻らねばならない、我らの究極の目的である最も聖なる三位一体の御名において、われらエール(Éire)[アイルランド]人民は、試練の幾世紀の間、絶えずわれらの父祖たちを援け賜ったわれらの天主なる主イエズス・キリストヘのわれらの心からなる義務を認めつつ、われら国民の正当なる独立を再び得んがために、彼ら父祖たちが行った英雄的で忍耐あふれる闘いを忘れることなく感謝しつつ、個人の尊厳及び自由が保障され、真実の社会秩序が確立され、われらの国土の統一が回復され、他国民との協調が確立されるように、思慮、正義及び博愛を正しく遵奉しながら、共通善を促進せんがために、ここにこの憲法を採択及び制定して、われら自らに授与するものである。


さて、これこそが通常であるべき憲法なのですが、実際はそうではありません。これはおもに、アイルランドの首相であり大統領でもあったエイモン・デ・ヴァレラによって書かれました。彼は事実、ルフェーブル大司教のミサで、複数回侍者を務めたことがあります。しかし今、私たちの国家は世俗化されねばならないと言われています。世俗化という言葉は、ラテン語で時間を意味する言葉に由来します。時間と言う言葉によって、この地上での生活のことが意味されています。ですから、世俗化とは、来たるべき世から今ある世へ向かうことなのです。天主から人間へ向かうことなのです。
この天主からの自由こそが、現代世界における自由主義の最大の目標なのです。(創造主が甘いとおっしゃった)天主のくびきから自分たちを解き放つことで、個人として天主に反逆する人間はまた、社会を同じ創造主から遠ざけようと望むのです。ですから親愛なる友人の皆さん、キリスト教の教理にこれ以上反することがあり得ようはずがありません。神学の中のどこで、真の宗教を偽りの宗教と同じ土台の上に置くことの正当化が見つかるでしょうか。聖書の中のどこで、悪魔が礼拝される権利を持つということを天主がお教えになっているでしょうか。キリスト教の教義のどこで、国家がイエズス・キリストを拒否する権利を持つということがありますか。もちろん、そんなものはどこにもありません。
しかしながら、何世紀にもわたって形成されてきた、こういった自由主義的雰囲気に、たぶん私たちも影響を受けています。多くのカトリック信者が、ほかの宗教が公に自分たちの教理を主張する権利があると信じています。私たちの中には、宗教はプライベートな問題であり、家族の伝統であり、国家から干渉されない個人によって決定される問題だと考える人々もいます。もし私たちがそのように考えるのなら、教皇がこの祝日を制定したのは私たちに対抗するためであるということになります。
「天にまします」の中で、私たちは言います。「御国の来たらんことを。御旨の天に行わるるごとく、地にも行われんことを」。天主の国が地上に来るようにとはどういう意味でしょうか。キリストは私たちの心だけでなく、私たちの家族、都市、国家を統治しなければなりません。しかし、まずキリストが個人個人の心を統治しないなら、国家を統治することは不可能です。ですから、私たちの聖伝のカトリックの家庭内でキリストの統治を認めることなしに、キリストが私たちの国家の王となられるだろうと私たちは本当に思っているのでしょうか。
キリストの王たる統治がどこからか始まるならば、それは、まことにキリストを王としたい私たち忠実なカトリック信者から始まるのです。その同じキリストが私たちをお助けくださり、私たちが自分の心を知り、キリストが本当に私たちの心を統治しているかどうか確かめることができますように。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

【参考資料】アイルランド憲法の前文は次の通り。
CONSTITUTION OF IRELAND
In the Name of the Most Holy Trinity, from Whom is all authority and to Whom, as our final end, all actions both of men and States must be referred, We, the people of Éire,
Humbly acknowledging all our obligations to our Divine Lord, Jesus Christ, Who sustained our fathers through centuries of trial,
Gratefully remembering their heroic and unremitting struggle to regain the rightful independence of our Nation,
And seeking to promote the common good, with due observance of Prudence, Justice and Charity, so that the dignity and freedom of the individual may be assured, true social order attained, the unity of our country restored, and concord established with other nations,
Do hereby adopt, enact, and give to ourselves this Constitution.


11月2日 全ての死せる信者の記念のミサでのお説教


教会はあわれみによって、まだ勝利の教会へ入っていない全ての死者のために特別な方法で祈る日を、年一回用意しています。死者は自分を助けることができないからです。つまり、死者が功徳を積む時間は終わっているからです。死んだのちには改心はなく、他人の助けに頼るほかないのです。
どんな人が煉獄へ行くのか思い起こすことは、私たちにとって有益なことです。煉獄は「悪い」人々のためにあるのでしょうか。いいえ。煉獄にいる誰もが清らかで罪のない霊魂なのです。霊魂に罪のけがれがあるとすれば、煉獄にいるはずはなく、地獄にいるのです。しかし、赦された罪のために支払うべき負い目が残っているのです。そこに囚われた霊魂たちは、まだ天主を見ようと望むことさえしません。なぜなら、負い目をすべて支払うまでは、自分たちがそれにふさわしくないことが分かっており、天主の御前に出たいと思うことができないからです。自分たちの罪を償いたいと思っているのです。でも、それを待つ間は、いかにつらいことでしょうか。
そうです、その苦しみは大変なものです。地上のいかなる苦しみとも比較できません。もし私たちがそれを知ったならば。煉獄での最も軽い苦しみを避けるためには、地上でのいかなる償いも難しすぎることがあるでしょうか。しかし、私たちはこの償いを避けようとしがちです。それは、私たちが苦しみを非常に恐れており、苦しみを非難のしるしとみなしてさえいるからです。でも、これについて聖書は何と言っているでしょうか。新約聖書を読めば、天国に入る条件はまさに苦しみだとあります。聖書の数か所の節を考察してみましょう。
「…多くの苦しみを経て天主の国へ入らねばならぬ」(使徒行録14章21節)
「主は愛する者をこらしめ、受け入れる子をすべてむち打たれる、と言われている。あなたたちが試練を受けるのはこらしめのためであって、天主はあなたたちを子のように扱われる。父からこらしめられない子があろうか」(ヘブライ12章6-7節)[そうです、そのようなこらしめをおこなわない人間の父がたくさんいます。ですからそのような父と子は、こらしめがないことに対する代価を支払うことになるでしょう]


苦しみは私たちに悲しみをもたらすでしょうか? 「だからしばしの間いろいろの苦しみに遭うにしても、そのために喜び勇むがよい。火で試されるはかない黄金(きん)よりも尊い信仰の試練は、イエズス・キリストの現れの日、誉れと光栄と名誉のもととなるであろう」(一ペトロ1章6-7節)
ほかの非常に多くの人々がほとんど苦しまないのを見ると、私たちはどう感じるでしょうか。そう、もしかすると彼らはそんなに苦しんでいないかもしれず、苦しんでいるのかもしれませんが、私たちには本当のところはわかりません。しかし、苦しみがないことは多くの場合、非難されていることの十分なしるしであって、救われることが決まっていることのしるしではありません。そのような人々は、試みに対して戦うことを全くしないため、苦しむことがありません。彼らは天主と一致することを求めません。彼らは一生の間みずからうたた寝をしているのですが、永遠の眠りに就くときには、主の内に眠ることはないのです。
むしろ、苦しみを喜びとしてとらえましょう。なぜなら、苦しみを通して、私たちは天に宝を積んでいくのですから。技術を長い時間習うことなしに優秀な職人になれると思っているとしたら、私たちは何と愚かでしょうか。「誰かが金や銀や宝石や木や草やわらを用いて、その上に建築するなら、おのおのの仕事ははっきりわかるようになる。かの日がそれを現すだろう。主の日は火の中に現れ、おのおのの仕事の価値はその火によって試されるからである。土台の上に建てた建物がそれに耐えれば、建てた人はその報いを受ける」(一コリント3章12-14節)
終わりのとき、私たちの苦しみがいかに少なかったか、私たちがいかに多くの罪を犯したかを自覚しなければなりません。私たちの善い行いでさえも、純粋とはいえない動機によってしばしば汚れています。それは、苦しみを即座に受け入れることによってのみ、私たち自身がいつか天国の勝利の教会の仲間入りすることを望めるからです。この地上の人生で、より多く、より良く苦しめば苦しむほど、煉獄の苦痛を逃れることのできる可能性が増えるのです。
もちろん、私たちの苦しみはまた、苦しみの教会に属する人々に対して偉大な奉仕となっています。死者のために祈るのは簡単ですし、一日の私たちの祈りの多くが次の言葉で終わります。「fidelium animae per misericordiam Dei requiescant in pace(願わくは死せる信者の霊魂、天主の御あわれみによりて安らかに憩わんことを)」
しかし、煉獄のあわれな霊魂たちのために、私たちにもう少しできることはないのでしょうか。苦しみの試練や瞬間を寛大に受け入れることは、天国に入る時を待っている煉獄の霊魂に対してさらに価値あることかもしれません。そして、おそらく、そんな霊魂を助けようという思いこそが、きょう天主が私たちに送ろうと選ばれたいかなる十字架をも受け入れる勇気を私たちに与えてくれるのです。

勝利の教会と苦しみの教会に捧げられたこの11月の二日間を、心にとどめておきましょう、少なくとも心のどこかに。それは、この二日間を思い起こすことが、私たち戦闘の教会が彼らと一致し連帯していることを十分に理解するのを助けてくれるからです。孤独に感じたり、落胆したりしそうになるとき、私たちが数えきれないほど多くの生きている霊魂や死んだ霊魂と密接に結びついているという事実を思い出しましょう。聖人たちは私たちのために祈ってくれます。私たちには、もう自分を助けることのできない人々を助けるための役割があります。彼らの安らかに憩わんことを。

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聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

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【質問】この画像は、どういう意味ですか?

2014年11月03日 | 質問に答えて
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 ご質問を受けましたのでご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


【質問】
済みません。この画像は、どういう意味ですか?
カトリック系のフェイスブックなどでよく見るのですが、意味をご存知ですか?


【お返事】
こんにちは!
これは、アラビア語の N の文字です。


キリスト者をナスラニ(ナザレトのイエズスから来た言葉で「ナザレト派」という意味の蔑称)と呼ぶところから来ています。「イスラム国」でイスラム教徒らに迫害されているキリスト教への連帯の印だそうです。





天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

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--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】