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マルセル・ルフェーブル大司教 近代主義の教会の中への侵入の略史 (その4)

2008年01月26日 | ルフェーブル大司教の言葉
アヴェ・マリア!
近代主義の教会の中への侵入の略史 (その4)

マルセル・ルフェーブル大司教の講演の記録
「信仰を守りなさい。あなたたちの信仰を捨てるよりもむしろ殉教者となりなさい。」
1982年 モントリオール(カナダ)にて

L’infiltration du modernisme dans l’Eglise --- Brève histoire ---
conférence prononcée par Monseigneur Lefebvre, en 1982 à Montréal (Canada)

L'infiltration du modernisme dans l'Eglise
- Conference prononcee par Mgr Lefebvre en 1982 a Montreal -


(続き)


教会の革命

 これが公会議で起こったことです。公会議の全ての論説とテキストとがリベラルな枢機卿たちとリベラルな委員会によって影響を受けたということは明らかです。第二バチカン公会議のテキストが曖昧であり、ものごとを変えるのに都合よくできていること、教会内部で本当の革命を起こすように都合よく出来ていることは、驚くに足りません。

 私たち、司教たちと枢機卿たちの伝統的一翼を代表していた私たちが、何かすることができたでしょうか?率直に言って、私たちはほとんど何もすることができませんでした。聖伝維持を支持し、教会における大きな変化、つまり、誤った刷新、誤ったエキュメニズム、誤った司教団制度 (collegialite) に反対していたのは、250人でした。私たちはこれらすべてのことに反対しました。これら250人の司教たちは、明らかにいくらかの影響力を行使し、そしてある場合にはテキストを修正させることに成功しました。悪はいくぶん制限されました。

 しかし私たちはいくつかの誤った意見が採用される、特に信教の自由に関する論説が採用されるのを阻止することに成功することができませんでした。この信教の自由に関する文書は、5回も書き直しを受けました。

 しかし5回とも、同じ説がそのまま戻ってきました。私たちはいずれの機会にもそれに反対しました。反対投票はいつも250票でした。

 そこで、教皇パウロ六世は、このテキストに二つの小さな文章を付け加えさせたのです。それにはこうありました。「このテキストには、教会の伝統的な教えに反することは何もない、そして教会は常にキリストの真の、唯一の教会であり続ける」と。

 すると、特にスペインの司教たちがこう言いだしたのです。
「教皇がこれを付け加えたのだから、もはや何の問題もない。伝統に反するものは何もないのだから」と。

 もしもこれらの事柄が(過去の教会の教えと)矛盾するならば、この小さな章句は、テキスト内部に書かれてあることに全て矛盾します。これは一つの内部矛盾を抱えた概要文書です。それを受け入れることはできません。最後には、私の記憶が確かならば、ただ74人の司教だけが反対者として残りました。この文書は、これ程までの反対に遭遇した唯一の概要です。しかし、2500票のうちの74票というのはほとんど何でもありません!

 このようにして公会議は終わりました。私たちはそれ以来導入されてきた諸改革に驚くべきではありません。自由主義の全歴史を通して、リベラル派は公会議内部で勝利したので、彼らはパウロ六世が彼らにローマ聖省のよい地位を与えることを要求したのです。

 そして事実、諸々の重要な地位は進歩的な聖職者に与えられました。一人の枢機卿が死ぬとすぐに、あるいはある機会が生ずるやいなや、教皇パウロ六世は伝統的な枢機卿たちを脇へ押しやり、直ちにリベラルな枢機卿が彼らに取って代わるようにしました。

 このようにしてローマはリベラル派によって占領されました。これは否定できない事実です。また公会議の諸改革がエキュメニズムの精神を呼吸し、プロテスタントの精神を吸い込んだ改革であった、それ以上でも以下でもないということも否定することはできません。

(続く)

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ドプフナー枢機卿(Döpfner 第二バチカン公会議のモデラトールの一人)について

2008年01月26日 | 第二バチカン公会議
アヴェ・マリア!

 愛する兄弟姉妹の皆様

 ドプフナー枢機卿が第二バチカン公会議のモデラトールの一人としてパウロ六世に任命された話が出ましたが、ドプフナー枢機卿(Julius August Cardinal Döpfner †)について少し紹介します。

Julius Kardinal Döpfner (1913-1976)




司教紋



 ベネディクト十六世は、ドプフナー枢機卿の後継者として、ミュンヘン・フライジング大司教区を受け継いだのですが、1976年10月16日、ドプフナー枢機卿の葬儀ミサの説教で、シュレッファー枢機卿(Joseph Cardinal Schröffer †)は追悼の辞を述べて、枢機卿の死とともに決算の時間が来た、と次のように言ったそうです。

「(裁きの時に天主はこう尋ねるだろう)司教にこのような問いが発せられるとき、彼はいったい何と答えるのだろうか?
おまえが大司教であった時代に、信仰は減り、信仰の力は弱まり、教会は空になり、生命倫理に対する忠誠は揺るぎ、子供を産もうという意志は萎縮し、多くの子供達は洗礼を受けなくなり、離婚率は増加し、司祭たちは聖なる隊列を去り司祭職を辞め、青少年においては、天主と兄弟たちのために全生涯を掛けるという勇気と力が萎縮した。
おまえはこれらに対して、一体何をしたのか?
。」(ドイツ聖職者報 1976年 56号)

„Was wird ein Bischof antworten, wenn die Frage an ihn ergeht:
Zu deiner Zeit hat der Glaube abgenommen, ist die Glaubenskraft erlahmt, haben sich die Kirchen geleert, wurde die Treue zu den Lebensgesetzen erschüttert, ist der Wille zum Kind geschwunden, wurden viele Kinder nicht mehr getauft, haben sich die Ehescheidungsziffern erhöht, haben Priester die Reihen ihrer Mitbrüder verlassen, ist der Mut und die Kraft zur Totalhingabe des Lebens im Dienste Gottes und der Brüder in der Jugend erlahmt. Was hast du getan, um all dem entgegenzuwirken?“ (Klerusblatt 56, 1976, 279)

(From "Stellungnahme zum Rücktritt des Vorsitzenden der Deutschen Bischofskonferenz")

シュレッファー枢機卿については、次の記事も興味があります。
A Warning from Rome

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マルセル・ルフェーブル大司教 近代主義の教会の中への侵入の略史 (その3)

2008年01月23日 | ルフェーブル大司教の言葉
アヴェ・マリア!
近代主義の教会の中への侵入の略史 (その3)

マルセル・ルフェーブル大司教の講演の記録
「信仰を守りなさい。あなたたちの信仰を捨てるよりもむしろ殉教者となりなさい。」
1982年 モントリオール(カナダ)にて

L’infiltration du modernisme dans l’Eglise --- Brève histoire ---
conférence prononcée par Monseigneur Lefebvre, en 1982 à Montréal (Canada)

L'infiltration du modernisme dans l'Eglise
- Conference prononcee par Mgr Lefebvre en 1982 a Montreal -


The Infiltration of Modernism in the Church

(この翻訳を作るに当たって、三上教授の翻訳を参考にさせていただきました。感謝します。『近代主義の教会の中への潜入』

(つづき)

教皇パウロ六世リベラル派に支持を与える

 そこで教皇パウロ六世がやってきました。教皇がリベラル派に支持を与えたことは明らかです。どのようにそうしたのでしょうか?

 その教皇職のそもそもの初めから、公会議の第二会期の間に、教皇はすぐに4人公会議モデラトールら(Moderator)を指名しました。第一会期の間には、公会議議長たち(Presidentes)が10人いました。彼らのそれぞれが、代わる代わる議長として一つの会合の議長を務め、そして第2の議長が次の会合、そして別の第3番目の議長が、次の会合の議長を務めました。彼らは、他の人びとよりも一段高いテーブルに座りました。彼らが公会議を指導していたのです。

 パウロ六世教皇は、すぐに4名のモデラトールを指名し、そして公会議議長は名ばかりの名誉議長となりました。そして4名のモデラトールたちが公会議の本当の議長となってしまいました。

 では、いったい誰がこれらのモデラトールたちだったのでしょうか? まず、ミュンヘンのドップフナー枢機卿(Julius August Cardinal Doepfner †)。彼は、極めて進歩的でまた非常にエキュメニカルでした。

 次にスーネンス枢機卿(Leo Jozef Cardinal Suenens †)。彼は、そのカリスマ運動によって皆に知られており、司祭の結婚を推進してなんども訓話をしていました。

Cardinal Suenens スーネンス枢機卿

 そしてレルカロ枢機卿(Giacomo Cardinal Lercaro †)。彼は共産主義シンパとして知られており、彼の司教区の教区長代理(Vicar General)として、共産党党員として登録されていた司祭を任命していました。

Cardinal Lercaro レルカロ枢機卿

 最後にアガジアニアン枢機卿(Gregoire-Pierre XV Cardinal Agagianian †)。彼は、もしそう言うことができるならば、いくぶん伝統派を代表した人でした。

 しかし、アガジアニアン枢機卿は非常に控えめで、隠れた人でした。その結果、彼は公会議には何も影響を与えませんでした。しかし他の三人は鳴り響くドラムをもって彼らの仕事を達成しました。彼らは、絶えずリベラルな枢機卿たちを常に一致させていました、そのためこれは公会議のリベラル派に極めて大きな力を与えることになりました。

 伝統的な枢機卿や司教たちは、まさにこの瞬間から明らかに脇へ押しやられ、軽蔑されるようになったのです。

 盲目であった可哀想なオッタヴィアーニ枢機卿が発言したとき、彼が割り当てられた十分間の最後にまだ話を終えていなかったにもかかわらず、若い司教たちは、この枢機卿を黙らせようと、枢機卿にもうたくさんだ、うるさい、ということを分からせようとするブーイングが聞こえていました。彼は発言を中止せねばなりませんでした。恐るべきことです。この尊敬すべき枢機卿、ローマ中で尊敬され、聖なる教会に巨大な影響を与えた、検邪聖省長官(これは、小さな職務ではありません)が、です。聖伝主義者であった人たちがどのように取り扱われたかを見るのは、スキャンダルでした。

 モンセニョール・スタッファ(Dino Cardinal Staffa †)(彼はその後枢機卿になりました)は非常にエネルギッシュで、公会議の総会議長たちによって沈黙させられました。想像も出来ない多くのことが起こっていたのです。

(つづく)

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アアロン・ルッソ(Aaron Russo)と911とCFRとロックフェラー

2008年01月22日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア!

 愛する兄弟姉妹の皆様、
 最近、フランスの知人から次のようなインタビューの動画があることを教えてもらいました。お友達にも教えてあげて下さい。

【参考資料】世界統一政府の計画。
 アアロン・ルッソ(ユダヤ人の映画プロデューサー)は、ニック・ロックフェラー氏と会って、CFRに加わるように誘われる。その時の事実をインタビューで答えている。

 9/11のツインタワーの起こる11ヶ月前に、ロックフェラー氏からここで大きな出来事があるだろうと聞いた。それは、全世界をコントロールするため。アフガニスタンとイラクに石油のパイプラインを引くため。9/11は、自作自演だった。

 女性解放の目的。ロックフェラー氏がアアロン・ルッソに明かした目的。税金を掛けることが出来るため。子どもを女性の手から放させて国家が子どもへの影響力を強めるため。

 つまり、彼らが女性解放運動を起こしたのも、究極の目的は2つあった。
(1)男だけが働くと男からしか税がとれないが、女性が働けば税を納める人口が2倍になる。
(2)子どもが母親の手から離れ、国家が子どもを支配しやすくなる。

Aaron Russo - Architecture Of A Prison Planet (Pt. 3)


Aaron Russo - Architecture Of A Prison Planet (Pt. 4)


日本語訳の一部はここで読めます。

 同じような内容を、次のインタビューでも別の形で答えています。
AMERICA: Freedom To Fascism. Aaron Russo Interview.

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聖書のラテン語:七旬節のミサ:競技場では皆が走るが、賞を受けるのは一人だけ

2008年01月22日 | ラテン語の練習
アヴェ・マリア!

 兄弟姉妹の皆様、
 七旬節の主日の書簡のラテン語をご紹介します。

EPISTULA PAULI AD CORINTHIOS I

CAPUT 9
24 nescitis quod ii qui in stadio currunt omnes quidem currunt sed unus accipit bravium sic currite ut conprehendatis.
25 omnis autem qui in agone contendit ab omnibus se abstinet et illi quidem ut corruptibilem coronam accipiant nos autem incorruptam
26 ego igitur sic curro non quasi in incertum sic pugno non quasi aerem verberans
27 sed castigo corpus meum et in servitutem redigo ne forte cum aliis praedicaverim ipse reprobus efficiar.

 このラテン語の意味は、次の通りです。(バルバロ訳聖書より)

24.競技場の競争では皆が走るが、賞を受けるのは一人だけであることを、あなたたちは知らないのか。
あなたたちも、賞を受けるために走れ。
25.力士はみな、万事をひかえ慎む。それは、朽ちる栄冠のためであるが、私たちは朽ちない栄冠のためである。
26.私はあてどなく走ることのないように走る。空を打たないように力技(りきぎ)する。
27.私は自分の体を苦しめてこれを奴隷にする。それは、他人にのべ伝えながら、自分は除名されることのないためである。

 例文です。
1. Helena et Maria in stadio currunt.
(ヘレナとマリアは競技場で走る。)

2. Omnes currunt sed unus accipit bravium.
(皆は走る、しかし一人が賞を受ける。)

3. Helena, Maria! currite!
(ヘレナよ、マリアよ!走れ!)

4. Josephus in agone contendit.
(ヨゼフは土俵で力技する。)

5. Didacus ab omnibus se abstinet.
(ディダコは全てを控え慎む。)

6. Illi corruptibilem coronam accipiunt.
(彼らは、朽ちる冠を受ける。)

7. Nos autem accipimus coronam incorruptam.
(ところで私たちは朽ちない冠を受ける。)

8. Ego curro in stadio et pugno in agone.
(私は競技場で走る。そして土俵で闘う。)

9. Castigo corpus meum.
(私は自分の体を鍛錬する。)

10. Tu curris in stadio. Helena autem in agone currit.
(あなたは競技場で走る。ヘレナは土俵で走る。)

11. Nos in stadio currimus.
(私たちは競技場で走る。)

12. Vos omnes curritis sed nos accipimus bravium.
(あなたたちは皆走る、しかし私たちが賞を受ける。)

13. Helena, Maria! accipite bravium!
(ヘレナよ、マリアよ!賞を受けよ!)

14. Josephus, Didacusque in agone contendunt.
(ヨゼフとディダコは土俵で力技する。)

15. Josephus et Didacus ab omnibus se abstinent.
(ヨゼフとディダコは全てを控え慎む。)

16. Vos corruptibilem coronam accipitis.
(あなたたちは、朽ちる冠を受ける。)

17. Ego autem accipio coronam incorruptam.
(ところで私は朽ちない冠を受ける。)

18. Nos currimus in stadio et pugnamus in agone.
(私たちは競技場で走る。そして土俵で闘う。)

19. Ab omnibus nos abstinemus.
(私たちは全てを控え慎む。)

20. Helena, Maria! ab omnibus vos abstinete.
(ヘレナよ、マリアよ!全てを控え慎め。)


 【クイズ】
 では、上の例文を参考にして、次の日本語をラテン語で言ってみて下さい!
(解答は、コメントに書き込んで下さいね。)

1.ヘレナは競技場で走る。

2.私は競技場で走る。ところがディダコは土俵で闘う。

3.マリアは朽ちない冠を受ける。

4.ヘレナは土俵で賞を受ける。

5.私たちは皆走る、しかしヘレナが冠を受ける。

6,ヘレナは朽ちる冠を受ける。

7.ところで私たちは皆朽ちない冠を受ける。

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聖ピオ十世会だより: マニラの eそよ風 (第104号)
聖ピオ十世会だより: マニラの eそよ風 (第106号)



聖ピオ十世会への応援を感謝

2008年01月21日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

 愛する兄弟の皆様、
 天主様の御恵みと愛する兄弟の皆様の応援のおかげさまで、このブログCredidimus caritatiも、今日で開設満2年となりました。

 ちょうど2年前の聖アグネスの祝日に東京では雪が降っておりました。土曜日でした。

 引き続き、ルフェーブル大司教様の伝記の続きや、歴代の教皇様たちの教えと第二バチカン公会議との違いなど、お伝えしていきたいと思っています。

 よろしくお願いいたします。
トマス小野田圭志神父

聖伝のミサ(いわゆるトリエント・ミサ)にようこそ!

2008年01月19日 | 聖伝のミサの予定
アヴェ・マリア!

 愛する兄弟姉妹の皆様、
 新年の喜びを申し上げます。2008年も兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサに心から歓迎します! 

(聖伝のミサは、本来なら「ローマ式典礼様式のミサ」と呼ばれるべきですが、第二バチカン公会議以前のミサ、聖ピオ五世のミサ、古いミサ、昔のミサ、旧典礼、ラテン語ミサ、トリエント・ミサ、トリエント公会議のミサ、伝統的ミサ、伝統ラテン語ミサ、とも呼ばれています。)

聖ピオ十世会は、兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサに心から歓迎します!


■何故なら、聖伝のミサは、ベネディクト十六世教皇の自発使徒書簡によって確認された通り、今迄決して法的に廃止されたことがなく、常に許されていたミサ聖祭だからです。

■従って「(聖ピオ五世によって公布され福者ヨハネ二十三世によって改訂されたローマ・ミサ典書は)その敬うべきまた古代からの使用のゆえに当然の敬意が払われなければならない」(ベネディクト十六世『スンモールム・ポンティフィクム SUMMORUM PONTIFICUM』)からです。

■聖伝のミサは、第二バチカン公会議の最中も、1969年以降も、それ以前と同じカトリック教会における「普通のミサ」としての法的地位を保っていたにもかかわらず、また、その敬うべきまた古代からの使用のゆえに当然の敬意が払われなければならない典礼様式であったにもかかわらず、司教たちの権力の濫用によって、事実上禁止されてしましました。

■法の上では、「過去の人々にとって神聖だったものは、わたしたちにとっても神聖であり、偉大なものであり続ける、それが突然すべて禁じられることも、さらには有害なものと考えられることもありえない」にもかかわらず、現実には、司教たちの権力の濫用によって、実際に迫害されてきていました。これがカトリック教会において、異常な緊急状態をつくり出してきました。

■多くのカトリック司祭たちは、聖伝のミサを捧げているという理由だけで、追放され、捨てられ、排斥され、処罰され続けてきました。聖ピオ五世の荘厳な大勅令は、骨抜きされ、有名無実化し、「従順」の名前のもとに、不従順が強要されてきました。

■ベネディクト十六世教皇は、典礼改革による典礼の崩壊が原因で、現在カトリック教会に危機が存在していると警告しています。

■ルフェーブル大司教様は、この権力の濫用に対して、「教会の信仰と祈りの中で成長してきた富を守り、それにふさわしい場を与え」続けてきました。ルフェーブル大司教は、いわば体を張ってまでも、自分を犠牲にしても、聖伝のミサという「当然の敬意が払われなければならない典礼様式」を守ってきました。

■ルフェーブル大司教がいなければ、エクレジア・デイ委員会も生まれなかったでしょうし、ベネディクト十六世も司教たちに反対してでも『スンモールム・ポンティフィクム』を出す勇気が無かったでしょう。

聖ピオ十世会は、兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサに心から歓迎します!


■何故なら、オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ両枢機卿とがパウロ六世教皇聖下へ報告したように、「新しいミサの式次第は、その全体といいまたその詳細といい、トレント公会議の第二十二総会で宣言されたミサに関するカトリック神学から目を見張るばかりに逸脱している」からです。そして「新しい式次第における改革を見ても、そして永遠の価値をもつもの全てが、そしてそれが何らかの形であれそこに止まったとしても、単に隅の方に追いやられているという事実をみても、キリストを信ずる民が常に信じ続けてきた真理を変える、或いは無視する、ということをしても、カトリック信仰が永遠に結びつけられている教義の聖なる遺産に対して忠実であり続けることがあたかも出来るかのような疑いを、(残念なことにこのような疑いは既に多くの所で支配的になっているのですが)確信にすっかり変えてしまう」からです。

■何故なら、「この新しいミサの典礼様式が新しい信仰を表明している」から「この新しい信仰は私たちの信仰ではない、カトリック信仰ではない」(ルフェーブル大司教)からです。

「この新しいミサは、新しい信仰の、近代主義者の信仰のシンボル、表現、イメージです。なぜなら、聖なる公教会が長い歴史のなかで、私たちに下さったこの貴重な宝、すなわち、聖ピオ5世によって聖別されたミサ聖祭の典礼様式を守ろうと望んだのは、きわめて重大な意味があったからです。何故かというと、このミサのなかに私たちの信仰が全て含まれているからです。全てのカトリック信仰が、すなわち、聖三位一体への信仰、イエズス・キリストのご神性にたいする信仰、私たちの主イエズス・キリストの贖いへの信仰、私たちの罪の赦しのために流された私たちの主の贖いの御血にたいする信仰、ミサ聖祭、十字架、全ての秘跡から来る超自然の聖寵への信仰が、すべてあるのです。これら全てを私たちは信じています。そして、これが永遠のミサ聖祭を捧げながら信じていることなのです。ミサは私たちに信仰を教えるものであり、信仰の源です。ありとあらゆる方面から私たちの信仰が攻撃にあっている現代において、私たちにとって必要不可欠のものです。私たちには、この本当のミサが、この永遠のミサが、私たちの主イエズス・キリストのいけにえが必要なのです。それは、私たちの霊魂を聖霊と私たちの主のおん力によって満たすためです。ところで、次のことは明らかです。新しい典礼様式は、知っているか知らないかに関わらず、カトリックの宗教とは別の概念を、ある別の宗教を前提としています。つまり、ミサ聖祭を捧げるのは、もはや司祭ではありません。それは会衆です。このことのために、全てはプログラムされています。これからは、教会の権威に取って代わるのは、会衆です。司教たちの個人的な権力に取って代わるのは、司教団です。教区のなかの司教の権力に取って代わるのは、司祭たちが集ってつくる司祭団です。今後、教会を動かすのは、数です。そして、そのことはミサのなかで明らかに表明されています。ミサでは、会衆が司祭の代わりになっているからです。それは、今では多くの司祭が会衆のない時にはもはやミサを捧げようともしないと言うところまでいっています。」
「徐々に、聖なる教会のなかに、ミサに関するプロテスタントの考え方が導入されています。そして、このことは現代人の考え方に、近代主義者の考え方にぴったりなのです。全く一致しています。なぜなら、民主主義の理想が、現代人の考え方だからです。つまり、権力は会衆のうちに、権威は人間、民衆のうちにあり、天主にではない、と言うことです。これは非常にゆゆしきことです。なぜなら、私たちは、天主は全能で、天主に全ての権威があり、全ての権威が天主から来ること Omnis potestas a Deoを信じているからです。私たちは、権威が人民から、底辺から由来するとは信じません。しかし、これが現代人の考え方なのです。そして、新しいミサは、この考え方を、底辺に権威があり、天主にではないと言うことをはっきりと表明しているのです。このミサは位階制度的なものではなく、民主的です。これは、非常に重大なことです。新しいミサは、新しいイデオロギーのまったき表明なのです。私たちのもっとも神聖な典礼様式によって、私たちをして現代人のイデオロギーのなかに入らせようとしているのです。そして、これが現在、教会を全て腐敗させてしまっています。なぜなら、ミサ聖祭において底辺に権力を認めるというこの考えによって、司祭職を崩壊しています。司祭職を崩壊するのです。」
「司祭たちは天主の民の単なる代表ではありません。彼らは、天主の民が委任した代理人でもありません。彼らは集会の座長ではありません。彼らは永遠に司祭なのです。永遠に司祭の刻印を押された司祭なのです。・・・ ミサを捧げるのは司祭です。そして信者はこの捧げものに心から霊魂を込めて参与します。ミサを捧げるのは信者ではありません。その証拠に、司祭はたった一人でもミサ聖祭を捧げ、数千人が参与すると同じように同じ価値でミサを捧げるのです。そのミサには無限の価値があります。司祭によって捧げられたイエズス・キリストの犠牲は、無限の価値があるからです。これが私たちの信じていること」だからです。

ルフェーブル大司教の説教 1976年6月29日

■何故なら、聖なるものに対する敬意、天主の御稜威の超越性、この世への軽蔑、私たちが原罪によって傷ついていること、私たちが罪人であること、霊的な戦いの必要性、償いと犠牲を捧げる必要性、超自然の秩序を明らかに認めること、天主の権威に基づく権威への敬意、などの代わりに、新しいミサでは「自由」「平等」「進歩」「世俗化」「人権」「人間の尊厳」というフリーメーソン的なスローガンに基づく改革がなされているからです。

■例えば、地獄とか悪魔という言葉は変更を加えられ(死者のためのミサの中の続誦 Dies irae や、聖霊降臨後第17主日の集祷文、聖ニコラオの集祷文、レリスの聖カミロの集祷文など)、原罪(王たるキリストの集祷文)、償い(聖レイモンド・デ・ペニャフォルテ、聖ヴィアンネ、灰の水曜日後の木曜日の集祷文など)、この世のことに対する軽蔑(アシジの聖フランシスコ、待降節第2主日の集祷文、復活後第3主日の密誦など)、罪の償いの必要性(イエズスの聖心の祝日の集祷文)、教会の(聖十字架の祝日の聖体拝領誦、聖ピオ五世、カピストランの聖ヨハネの集祷文など)、誤謬の危険(離教者や異端者のための聖金曜日の祈り、聖ペトロ・カシニウス、聖ロベルト・ベラルミノ、カンタベリーの聖アウグスチノの集祷文など)、諸聖人の奇蹟(聖ニコラオ、聖フランシスコ・ザベリオ、聖レイモンド・デ・ペニャフォルテ、聖ヨハネ・デ・デオ、ローマの聖フランシスカの集祷文)などが無くなってしまっているからです。


聖ピオ十世会は、兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサに心から歓迎します!

■私たちがカトリック信仰を守るためには、緊急救命作業が必要だからです。カトリック教会が、その聖伝の信仰を大切にする正常な状態になるのを待っている間、霊的な死の危険にさらされている霊魂に、出来る限りの緊急の救命援助が必要です。カトリック教会で最も大切なのは、霊魂に永遠の命を与える正統な聖伝信仰だからです。

■何故なら、カトリック教会にとって最も大切なのは、信仰であり、救霊だからです。Suprema lex salus animarum. カトリック教会法典の最高法規は、救霊を目ざすものである、ということです。教会法のために霊魂があるのではなく、霊魂の救いのために教会法が存在しているからです。カトリック教会は「法至上主義」ではないからです。
 この教会の最高の法「霊魂の救い」は、今までは不文律でしたが、カトリック新教会法典にはそれが成文化されています。(Can. 1752 - ... prae oculis habita salute animarum, quae in Ecclesia suprema semper lex esse debet. )

■何故なら、私たちには、カトリック教会に純粋な信仰を求め、それを守る権利と義務があるからです。「捏造された典礼」でも「平凡でその場しのぎの産物」ない、「信仰の遺産への忠実さと信仰の伝達への忠実な典礼」を求める権利と義務があるからです。

■何故なら「過去の人々にとって神聖だったものは、わたしたちにとっても神聖であり、偉大なものであり続けます。それが突然すべて禁じられることも、さらには有害なものと考えられることもありえません。わたしたちは皆、教会の信仰と祈りの中で成長してきた富を守り、それにふさわしい場を与えなければなりません。」そのような司祭や司教様は、たとえ嫌々でも、このままほっておいたのでは日本からは自然に生まれることはないでしょう。何故なら、日本では「憲法9条を世界の宝に」とか「トリエントのミサにこだわる必要はない」などという宣伝だけが幅をきかせているからです。


聖ピオ十世会は、兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサに心から歓迎します!


■ルフェーブル大司教の血の滲むような努力がなければ、聖伝のミサという「教会の信仰と祈りの中で成長してきた富」(教皇ベネディクト十六世の全世界の司教への手紙)はカトリック教会から絶滅していただろうように、日本におけるカトリック教会の将来を憂慮する愛する兄弟姉妹の皆様の努力と行動に、日本のカトリック教会の本当の再生がかかっていると信じているからです。「教会の信仰と祈りの中で成長してきた富を守り、それにふさわしい場を与える」(教皇ベネディクト十六世の全世界の司教への手紙)ことがどんな犠牲を払っても必要だからです。

聖ピオ十世会は、兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサに心から歓迎します!


■何故なら、カトリック教会の危機を解決するために、聖伝のミサを復活させたいという教皇様の願いにもかかわらず日本では、司教協議会典礼委員会を中心に「バチカン公会議で廃棄されたというのが学者全般の解釈である」とか「日本のようなところでは意味がない」とか、この願いに抵抗しているからです。

■しかし事実は、日本では400年前、聖フランシスコ・ザベリオの来日以来、ラテン語で聖伝のミサを捧げ、多くの実りをもたらしてきました。

■何故なら「ラテン典礼は教会の様々な形式においてキリスト教時代のいつの時でも霊的生活において極めて多くの聖人達を生みだし、そして同時にかくも多くの民族を宗教の徳において強めまた彼らの敬虔を豊かにしたことが認められている」(ベネディクト十六世『スンモールム・ポンティフィクム SUMMORUM PONTIFICUM』)からです。

■また「ラテン典礼の司祭が、感謝のいけにえを、これを基準として捧げてきたばかりでなく、福音の宣布者は地球上ほとんど至る所に、これ(=聖伝のミサ)をたずさえて行ったのであります。また教皇グレゴリオ一世が、その大部分を企画編集したローマ・ミサ典礼書にある聖書朗読と祈願を通じて無数の聖徒が、神に対する信仰心を豊かに養ってきた」(パウロ六世『ミサーレ・ロマーヌム』)からです。

■日本で今年列福される188名の福者たちは、皆、この聖伝のミサにより殉教の精神と力とを得てきたからであり、信仰と血筋による私たちの祖先である潜伏キリシタンたちも、その信仰をラテン語のオラショで伝えてきており、日本カトリックの歴史においてラテン語の祈りは深い歴史的文脈を持っているからです。

■ますます交通の手段が発達し国際化が進む現在の日本において、ラテン語というミサの統一言葉が、言語と民族とを越えて、カトリック共同体をより容易に一つにする手段となるからです。各国語のミサは、国際化したカトリック信徒を分断し、留学生・旅行社・巡礼者などいわゆる「谷間」の人たちをミサから遠ざけ疎外してしまっているからです。

■また、ベネディクト十六世教皇様も言うように、新しいミサしか知らずに育ったけれども、後に聖伝のミサを知った「若い人々もまたこの典礼の形式を発見し、その魅力を感じ、その中に至聖なるミサ聖祭の神秘との出会いの形を見出し、そして特にその形が彼ら自身に適していることに気づいた、ということが明らかに証明されてきた」からです。

■従って、「古代教会の聖体秘跡書以来、何世紀も綿々とつづいてきたミサ典書」(ベネディクト十六世)は、「その敬うべきまた古代からの使用のゆえに当然の敬意が払われなければならない」(ベネディクト十六世『スンモールム・ポンティフィクム SUMMORUM PONTIFICUM』)にもかかわらず、日本で、まだこのカトリック教会の宝を知らない多くの若い人々がいます。そのような「若い人々もまたこの典礼の形式を発見し、その魅力を感じ、その中に至聖なるミサ聖祭の神秘との出会いの形を見出し、そして特にその形が彼ら自身に適していることに気づく」恵みを受けていただきたいからです。


聖ピオ十世会は、兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサに心から歓迎します!


<2008年1月の予定>



【大阪】大阪市東淀川区東中島1-18-5 新大阪丸ビル本館511号(JR新大阪駅の東口より徒歩5分)「聖母の汚れ無き御心巡回聖堂」

11日 金 大阪 午後5時半 主の御公現の平日(4級)白
12日 土 大阪 午前11時 聖母の土曜日(4級)白
13日 主日 大阪 午前10時半 イエズス、マリア、ヨゼフ、聖家族の祝日

【東京】東京都文京区本駒込1-12-5曙町児童会館2F 「聖なる日本の殉教者巡回聖堂」
(!! 今回の会場は、2階となりますのでご了承下さい !! )

19日(土)午後6時半 グレゴリオ聖歌に親しむ会
     午後8時30分 グレゴリオ聖歌による終課
20日 主日 午前10時  ロザリオ及び告解
      午前10時半  午前10時半 七旬節の主日(2級)紫
      午後2時半  霊的講話 カトリック教養講座 (ラテン語)
      午後4時   グレゴリオ聖歌による主日の第二晩課
21日 月 東京 午前7時 殉教者童貞聖アグネス(3級祝日)赤
22日 火 東京 午前7時 殉教者聖ヴィンチェンチオとアナスタジオ(3級祝日)赤

それでは、皆様のおこしをお待ちしております。

 詳しいご案内などは、
http://fsspxjapan.fc2web.com/ordo/ordo2008.html
http://immaculata.web.infoseek.co.jp/manila/manila351.html
http://sspx.jpn.org/schedule_tokyo.htm
 などをご覧下さい。

For the detailed information about the Mass schedule for the year 2008, please visit "FSSPX Japan Mass schedule 2008" at
http://immaculata.web.infoseek.co.jp/tradmass/

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【関連記事】
新しい「ミサ司式」の批判的研究 (オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ枢機卿)Breve Exame Critico del Novus Ordo Missae

近代主義の教会の中への侵入の略史(その2)マルセル・ルフェーブル大司教講演

2008年01月19日 | ルフェーブル大司教の言葉
アヴェ・マリア!
近代主義の教会の中への侵入の略史 (その2)

マルセル・ルフェーブル大司教の講演の記録
「信仰を守りなさい。
あなたたちの信仰を捨てるよりもむしろ殉教者となりなさい。」

1982年 モントリオール(カナダ)にて

L’infiltration du modernisme dans l’Eglise --- Brève histoire ---
conférence prononcée par Monseigneur Lefebvre, en 1982 à Montréal (Canada)

L'infiltration du modernisme dans l'Eglise
- Conference prononcee par Mgr Lefebvre en 1982 a Montreal -


The Infiltration of Modernism in the Church

(この翻訳を作るに当たって、三上教授の翻訳を参考にさせていただきました。感謝します。『近代主義の教会の中への潜入』

(続き)

分裂の出現


 これらの二年間に会合が次々に続き、そして出席しているすべての委員たちにとって教会それ自体の内部での深い分裂があることが非常に明瞭になりました。この深い分裂は偶然的あるいは表面的なものではなく、大司教や司教たちの間というよりも、枢機卿たちの間でより深いものでした。投票で決する機会には保守的な枢機卿たちはある仕方で、そして進歩的な枢機卿たちは別の仕方で投票するのを見ることができました。明らかに枢機卿たちの間には本当の分裂が存在していました。

 私は次のような出来事を私の書物の中の一冊『一司教は語る(Un évêque parle)』において描いています。私はそれについてしばしば言及します。なぜならそれは中央委員会の終わりと公会議の始まりを本当に特徴づけているからです。それは最後の会合の間のことでした。そして私たちは同じ主題について10の文書をあらかじめ受け取りました。ベア枢機卿が一つのテキスト、"De Libertate Religiosa" 「宗教的自由について」を準備しました。オッタヴィアーニ枢機卿は別のテキスト"De Tolerantia Religiosa" 「宗教的寛容について」を準備しました。

 単純な事実は同じ主題に関する二つの異なった表題が二つの異なった考え方を表しているということです。ベア枢機卿はすべての宗教に対する自由について、そしてオッタヴィアーニ枢機卿は誤謬と偽りの諸宗教の寛容に加えてカトリック宗教の自由について語りました。そのような相違がどのようにして委員会によって決定され得るでしょうか?

 最初からオッタヴィアーニ枢機卿はベア枢機卿を指さしてこう言われました。「枢機卿様、あなたにはこの文書を作る権利はありません」と。

 ベア枢機卿は答えられました。「失礼ですが、 “一致のための委員会議長” として私は文書を提出する権利を完全に持っています。従って私は承知の上でこの文書を提出している。さらに、私はあなたの見解にはまったく反対である。」

 このように最も高名な枢機卿の二人、検邪聖省長官オッタヴィアーニ枢機卿と、教皇ピオ12世の聴罪師ベア枢機卿、すべての枢機卿に対して大きな影響力を持っているイエズス会士、聖書研究所においてよく知られ、高等聖書研究に責任を持っている枢機卿です。これらの2名の枢機卿様たちは、教会における基礎的な主題に関して対立していたのです。

 すべての宗教の自由ということは、すなわち、自由と誤謬が同じ地平に置かれるということと、カトリック宗教の自由および誤謬の寛容ということはまったく異なるものです。全く違うことです。聖伝によれば、教会は常にオッタヴィアーニ枢機卿の見解に与して来たのであり、そして完全にリベラルであるベア枢機卿の見解には与して来ませんでした。

 パレルモから来たルフィニ枢機卿は立ち上がり言われました。「われわれは今教会において非常に重要である一つの問題について相互に対立している二人の同僚の前にいる。従ってわれわれはより高い権威に言及せざるを得ない。」

 教皇は非常にしばしば私たちの会合の座長を務めるためにやって来られました。しかし教皇はこの最後の会合のためには居合わせられませんでした。従って枢機卿たちは投票することを要求しました。「われわれは教皇に会いに行くなどと待ってはいられない。投票することにしよう。」

 私たちは投票しました。枢機卿たちの半数がベア枢機卿の意見に賛成投票をし、後の半数がオッタヴィアーニ枢機卿に賛成投票しました。ベア枢機卿の意見に賛成投票したのは皆オランダ、ドイツ、フランスそしてオーストリアの枢機卿たちであり、そして彼らは皆一般的にヨーロッパと北アメリカからの枢機卿でした。伝統的な枢機卿たちはローマ聖省、南アメリカ、そして一般的にスペイン語圏の枢機卿たちでした。

 それは教会における真の断絶でした。この瞬間から私は公会議が重大な点に関してそのように対立を抱えながらどのようにして進んで行くことができるのか、と自問しました。誰が勝利するのでしょうか?スペイン語あるいはロマンス諸言語圏の枢機卿たちと共にオッタヴィアーニ枢機卿なのでしょうか、それともヨーロッパと北アメリカの枢機卿たちなのでしょうか?

 実際、戦闘は公会議のまさに初日から直ちに始まりました。オッタヴィアーニ枢機卿は、各人に対してその人が望んだ人々を選ぶ完全な自由を残しながら、準備委員会に属していたメンバーたちのリストを提出されました。私たちがすべてのメンバーを一人一人知ることができないことは明らかでした。なぜなら各人は彼自身の司教区のためにやって来たのですから。どのようにして世界の2500人の司教たちを知ることができるでしょうか?私たちは公会議の諸々の委員会の委員選出のために投票を求められました。しかし誰が選ぶことができるでしょうか?私たちは南アメリカからの司教も、南アフリカからの司教もインドからの司教も知りませんでした...。

 オッタヴィアーニ枢機卿は準備委員会のためのローマの選択は公会議の教父たちのための一つの指示として役立ち得るだろうと考えられました。事実これらのことを提案することはまったく正常なことでした。

 リエナール枢機卿(Achille Cardinal Lienart †)が立ち上がって言ったのです。

「私たちはこのようなやり方を受け入れない。われわれは異なった諸々の委員会を成立させることができる人々をもっとよく知ることができるように、熟慮するための48時間を要求する。これは教父たちの判断に圧力を加えることだ。われわれはそれを受け入れない。」

 公会議はたった二日前に始まったばかりでした。そしてすでに枢機卿たちの間には猛烈な対立がありました。何が起こったのでしょうか?

 これら48時間の間にリベラルな枢機卿たちは世界のすべての国々から作成されたリストをすでに準備していました。彼らはこれらのリストをすべての公会議教父たちの郵便受けの中に配りました。私たちはそれゆえにすべての者がしかじかかくかくの委員会の委員たち、すなわち、異なった国々からのかくかくの司教と他の司教等々、を提案している一通のリストを受け取ったのです。多くの人々は言いました。「結局のところ、これでいいではないか。私は彼らを知らないのだ。リストがすでにできあがっているのだから、われわれは単純にそれを利用するだけだ」と。

 48時間後、全面に出ていたのはリベラル派のリストでした。しかしそれは公会議の規則によって要求されていた投票数の3分の2を得ていなかったのです。

 それでは教皇は何をされたのでしょうか?教皇ヨハネ二十三世(Pope John XXIII)は公会議の規則に一つの例外を作られるのでしょうか、それともその規則を適用されるのでしょうか?

 明らかにリベラルな枢機卿たちは教皇が公会議の規則を適用することを恐れていました。それで彼らは教皇のところへ走り、教皇にこう言いました。

「聴いてください、私たちは投票総数の半分以上、60% 近くを獲得しています。あなたはそれを拒否することはできません。私たちはこのように歩み続けて、別の選挙をすることはできません。私たちはそれを決してさせないでしょう。これは明らかに公会議の大多数の意志です。そして私たちは単純にそれを受け入れなければなりません。」

 そして教皇ヨハネ二十三世はこれを受け入れました。この始めから公会議の諸々の委員会のすべての委員はリベラル派から選ばれました。このことが公会議に対していかに巨大な影響を及ぼしたかを想像することは容易いことです。

 教皇ヨハネ二十三世は、二、三ヶ月の終りにはすべてのことが為されたと考えていたけれども、公会議で見聞きした出来事のために早死にされたと私は確信しています。三ヶ月の公会議のつもりでした。3ヶ月の後で、抱き合って別れを告げ、皆は家に帰る、ローマでお互いに会え、すばらしい小さな集会をして、幸せに帰る、これを考えていました。
 教皇は、公会議が一つの世界それ自体、絶えざる衝突の世界であることということを悟りました。公会議の第一会期からはテキストは何も出ませんでした。教皇ヨハネ二十三世はこのことによって圧倒されました。そして私はこのことが彼の死を早めたと確信しています。死の床で教皇は「公会議を止めろ、公会議を止めろ」と叫ばれたとさえ言われて来ました。

(続く)

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【関連記事】

近代主義の教会の中への侵入の略史 (その1)マルセル・ルフェーブル大司教講演

2008年01月18日 | ルフェーブル大司教の言葉
アヴェ・マリア!

 愛する兄弟姉妹の皆様、
 1982年 モントリオール(カナダ)にてマルセル・ルフェーブル大司教がなさった講演の記録「信仰を守りなさい。あなたたちの信仰を捨てるよりもむしろ殉教者となりなさい。」をご紹介します。

(この翻訳を作るに当たって、三上教授の翻訳を参考にさせていただきました。感謝します。『近代主義の教会の中への潜入』

近代主義の教会の中への侵入の略史

マルセル・ルフェーブル大司教の講演の記録
「信仰を守りなさい。
あなたたちの信仰を捨てるよりもむしろ殉教者となりなさい。」

1982年 モントリオール(カナダ)にて

L’infiltration du modernisme dans l’Eglise
--- Brève histoire ---
conférence prononcée par Monseigneur Lefebvre, en 1982 à Montréal (Canada)

L'infiltration du modernisme dans l'Eglise
- Conference prononcee par Mgr Lefebvre en 1982 a Montreal -


The Infiltration of Modernism in the Church


 私は世界中のカトリック界でどこでもカトリック信仰とカトリック教会に忠実な司祭たちの周りに勇気ある人々が集い、私たちの信仰の砦である聖伝を維持しているのを目の当たりにし、嬉しく思います。
 もしこれほどまで全世界的な規模での聖伝維持の運動があるとしたら、それは教会の状況がそれほど深刻であると言うことを意味しています。何故なら良い司祭が、しかもそのうちの多くは30年以上もいろいろな小教区で献身的に働き、その小教区民が満足するほどのすばらしい司祭たちが、また多くの良きカトリック信徒が反抗者、反逆の徒、不従順として取り扱われなければならないと言うことは、ある危機があると言うことだからです。彼らはカトリック信仰を維持するというそのために、不従順だと言われているのです。彼らは殉教の精神に於いて知りつつそうしているのです。
 教会の兄弟たち或いは教会の敵から迫害を受けると言うことは、迫害の手が誰のものであろうと信仰を守るために迫害を受けているという限りに於いてそれは殉教です。これらの司祭、平信徒はカトリック信仰の証人なのです。彼らは信仰を捨てるよりも反抗者、反逆の徒として見なされる方を好んだのです。

 私たちは世界中で悲劇的な前代未聞の状況にあります。このようなことはかつて教会の長い歴史にあったことがなかったかのような状況です。それで、ともかくこの尋常でない現象を説明するように試みてみなければなりません。良い信徒たち、良い司祭たちが、今瓦解しようとしつつあるカトリック世界に於いて必死になってカトリック信仰を維持しようと努力していると言うことは、どうしたことなのでしょうか。教会の自己破壊と言うことを話したのは、教皇パウロ6世自身でした。この「自己破壊」とは、教会が自分で、つまり自分の固有の肢体たちによって自分自身を壊していることでなくていったい何のことでしょうか。聖ピオ十世が既にその最初の回勅を書いて言っていたことが、これなのです。
「今後、教会の敵は教会の外にではなく、内部にいる」と。
 そして聖ピオ十世教皇は教会の敵がどこにいるのかを指摘するのをためらいもしませんでした。「敵は神学校の中にいる」と。
 従って20世紀の初めに既に聖ピオ十世教皇がその最初の回勅で、教会の敵どもは神学校の中に潜んでいると告発しているのです。

 近代主義やシヨニスムまた進歩主義に染まっていた神学生たちが司祭になったということは全く明らかです。彼らのうちの何人かは司教になり、そのうちの何人かは枢機卿にもなりました。今世紀初頭に神学校で学び今は死んでしまったけれどもその精神は近代主義者、進歩主義者であった人々の名前を列挙しようと思えば多く上げることが出来ます。
 聖ピオ十世教皇は既にそうすることによって教会内部の分裂、教会の中と聖職者らの内部でのある断絶を告発していたのです。

 私はもはや若くはありません。私の神学生時代、司祭時代、司教時代を通してこの分裂を目の当たりにしなければならない機会がいろいろとありました。私は天主様のお恵みによってローマで勉強をしましたが、この分裂は既にローマのフランス人神学校で既に始まっていたのです。私は本当のことを申しますとローマで勉強すると言うことにあまり気が進みませんでした。それよりも私の教区の神学生たちのようにリール市の神学校で勉強し、田舎の小教区の助任司祭になって、小さな教会の主任司祭になることを考えていたのです。私は愛する教区の人々の何か霊的父となり、彼らにキリスト教信仰とキリスト教道徳を教えたいと思っていたのです。それが私の理想でした。
 それが私の兄が1914年1918年の第1次世界大戦のために家族とは離ればなれになっており戦争の後にはローマで既に勉強していたので私の両親は私に兄と同じ所に行くようにと望んだのです。
「お兄さんがもうローマのフランス人神学校にいるのだから、おまえも言ってお兄さんと一緒に神学の勉強をしなさい。」と言われました。
ですから私はローマに行き1923年から1930年までグレゴリアン大学で勉強し、1929年に司祭に叙階された後も1年間司祭として神学校に残って学問を続けました。

近代主義の最初の犠牲者たち


 この神学生時代の間、悲劇的なことが起こりました。そしてこの悲劇は正に公会議以降私が見た全てのことを正確に思い起こさせるのです。その当時私たちの神学校の学頭ル・フロック神父様(Père Le Floch)が置かれたのとほとんど全く同じ状況に、私は今置かれています。
 ル・フロック神父は30年間ローマのフランス人神学校の校長であり、威厳があり、ブルターニュ巌のように信仰の強く堅固な方でした。ル・フロック神父はあたしたちに教皇様たちの書いたいろいろな回勅や、聖ピオ十世によって排斥された近代主義とは何か、レオ十三世によって排斥された近代の誤謬とは何か、ピオ9世によって排斥された自由主義とは何かなどを教えて下さいました。私たちはル・フロック神父を非常に敬愛し、敬慕していました。

 しかし、ル・フロック神父の教義と聖伝とにおける堅固さのために、進歩主義者はル・フロック神父を胡散臭く思っていたのです。この当時既に進歩主義者が存在していました。教皇様たちは彼らを排斥しているのですから。ル・フロック神父を快く思わなかったのは進歩主義者だけではなく、フランス政府もそうでした。フランス政府はル・フロック神父を通して、彼が神学生たちに与えている養成を通して、聖伝主義の司教たちがフランスに着任しフランスの教会に聖伝に基づく、従って反リベラルな環境を作り出すのを恐れていたのです。フランス政府はフリーメーソン的であり、基本的にリベラルであり、リベラルではない司教たちが重要に地位につくと言うことを考えただけでも恐れていたのです。そこでル・フロック神父を神学校から追いやるためにいろいろな圧力が教皇様にかけられました。フランシスク・ゲ(Francisque Gay)という将来M.R.P.の指導者になる人がこのル・フロック神父排除の任務に就きました。フランシスク・ゲはローマに行き教皇ピオ十一世に圧力をかけました。そしてフランシスク・ゲはル・フロック神父がアクション・フランセーズの同調者であって神学生たちにアクション・フランセーズの会員になるように教えている政治家であると告訴したのです。

 これらはみな嘘でした。私はル・フロック神父の霊的講話を3年間この耳で聞きましたが、ル・フロック神父はアクション・フランセーズの話を一度もしたことがありませんでした。そして、今度は私がこう言われる番なのです。
「あなたは昔アクション・フランセーズの会員だったのでしょう」と。

 勿論、私たちはアクション・フランセーズの会員だとかナチだとかファシストだとか軽蔑的な意味を含んだラベルを付けられて断罪されています。何故なら私たちは反革命的であり、反リベラルだからです。

 そこで監査がありました。ミラノの大司教枢機卿が神学校に派遣されました。この方はベネディクト会士であり、偉大な聖徳とすばらしい知性の持ち主であり、そんじょそこらの枢機卿ではありませんでした。彼はピオ十一世によって指名されて、フランシスク・ゲの言っていたことが正確かどうかと言うことを調べるためにフランス人神学校を監査したのです。監査は実施されました。その結果は「フランス人神学校はル・フロック神父の指導の元で完璧に指導がなされている。当神学校の学頭にはいかなる点でも叱責に値することは見受けられない」でした。

それにもかかわらず、これで事は終わりではありませんでした。

 3ヶ月の後に新しい監査がありました。この時にはル・フロック神父を終わらせるという命令が付いていました。新しい監査はローマ聖省のメンバーの一人が執り行い、彼は、ル・フロック神父は実にアクション・フランセーズの友であったと言う結論が出され、神学校にとってル・フロック神父は危険人物であり、辞任を求めなければならないと言うことになりました。そして、これは実行に移されました。1926年に聖座はル・フロック神父にフランス人神学校の学頭の職を辞任するようにと求めたのです。私たちは非常に悲しみました。ル・フロック神父は政治運動をする男では決してありませんでした。ル・フロック神父は聖伝の男であり、教会の教えと歴代の教皇様たちにしっかりと結びつき、聖ピオ十世教皇が全幅の信頼を置いていた大の親友でした。そして正にル・フロック神父が聖ピオ十世教皇の友であったが為に、進歩主義者どもの敵だったのです。

 私たちがフランス人神学校にいた当時攻撃を受けていたのはル・フロック神父だけではありませんでした。ビヨ枢機卿 (Cardinal Billot) もそうでした。


 ビヨ枢機卿は第1級の神学者であり、現在でも私たちの神学校では有名で研究されています。ビヨ枢機卿は聖なる公教会の枢機卿でしたが、枢機卿の位を取り上げられてしまったのです。ビヨ枢機卿から枢機卿の紫を取り上げアルバノの近くのカステルガンドルフォにあるイエズス会の家の中に償いの為に閉じこめてしまったのです。その口実というのはビヨ枢機卿がアクション・フランセーズと関係があったと言うことでした。事実はビヨ枢機卿はアクション・フランセーズの会員ではありませんでした。しかし彼はモラス【アクション・フランセーズの創立者、シャルル・モラス】のその人を高く評価しており、自分の神学の本の中で引用したことがあります。例えば彼の『教会論(De Ecclesia) 』の第2巻で彼は自由主義(リベラリズム)についてすばらしい研究を展開しています。そこの注の中にモラスの言葉を幾つか引用しているのです。すると鬼の首でも取ったようにこれは大罪だと言われたのです。彼らはビヨ枢機卿から枢機卿の位を取り上げるためにこれを見つけたのです。その当時ビヨ枢機卿というのはもっとも偉大な神学者の一人で、その彼から枢機卿の位を取り上げ、その当時は助祭枢機卿、司祭枢機卿などがまだ存在しており、ビヨ枢機卿は司教ではなかったので単なる司祭の位に貶めてしまうというのは一大事件だったのです。これは既に迫害でした。

教皇ピオ十一世は進歩主義者達の影響を受けていた


 教皇ピオ十一世自身すでにローマにいた進歩派の人々の影響の下にありました。なぜなら私たちは彼以前と以後の諸教皇から一つのはっきりした区別を見て取るからです。しかしそれにもかかわらず教皇ピオ十一世は同時にいくつかの優れた回勅を書きました。彼は自由主義者ではありませんでした。共産主義に反対する彼の回勅「ディヴィニ・レデンプトーリス」は優れたものでした。それゆえにまた彼の王たるキリストに関する回勅もすぐれたものでした。その回勅は王たるキリストの祝日を定め、われらの主イエズス・キリストの社会的な王権を宣言しました。キリスト教教育に関する彼の回勅はまったく賞讃に値するものであり、今日もなおカトリック学校を擁護する人々にとっての一つの基本的な文書です。

 教説の面において教皇ピオ十一世は賞讃に値する人間であったとすれば、実践的行為の秩序においては弱かったのです。彼は影響を受けやすい人でした。そのようにして、彼はメキシコ市民戦争の時に非常に強い影響を受けて、カトリック宗教を擁護し、王たるキリストのために戦う過程にあったクリステロス(反共産主義のキリスト教徒たち)に、政府に信頼するように、そして彼らの武器を棄てるように命じました。彼らは、自分たちの武器を棄てたとたんに虐殺されました。この恐るべき大虐殺は今日でもなお記憶されています。教皇ピオ十一世は彼を欺いた政府に信頼を置きました。後になって彼は目に見えて非常に動転しました。彼は自分たちの信仰を守る人々を尊敬をもって取り扱うと約束した政府がどのようにしてその後彼らを大虐殺することへと進むことができるのか、想像することができませんでした。このようにして数千人のメキシコ人が彼らの信仰のために殺されました。

 今世紀の始めにすでに私たちは教会における分裂を告知するいくつかの状況を見ています。私たちは徐々にそれに達しました。しかし、分裂は公会議のちょうど前に非常にはっきりしたものでした。

 教皇ピオ十二世はその著作と彼の教会を統治するやり方において偉大な教皇でした。ピオ十二世の治世の間に信仰はしっかりと守られました。当然、自由主義者たちは彼を好みませんでした。なぜなら彼は神学の基本的諸原理と真理を精神に呼び戻したからです。

 しかし次にヨハネ二十三世がやって来られました。彼はピオ十二世とは完全に異なった気質を持っておられました。ヨハネ二十三世は非常に単純で寛大な人でした。彼はどこにも問題を見られませんでした。

 彼が公会議をローマで開催することを決定されたとき、彼らは彼に言いました。「しかし教皇様、公会議は準備しなければなりません。少なくとも一年は必要です。そしておそらく、数々の実りが得られ、諸改革が真に研究され、次に適用されて、その結果ローマのあなたの司教区がそれから利益を引き出せるように、そのような会議を準備するためには二年は必要です。これらすべてのことは二週間の会議に引き続く二、三ヶ月の時間でまっすぐになされ、それで万事がうまく行くことはできません。それは不可能です。」

「おお、もちろん、私は知っていますよ。しかしそれは小さな公会議なのだよ。われわれはそれを数ヶ月内に準備することができ、そして全てはきっとうまく行くよ。」

 このようにして公会議が急いで準備されました:ローマでのいくつかの委員会、すべての人が非常に忙しく、そしてそれから二週間の会議、そしてそれで全てが終わりました。教皇ヨハネ二十三世は彼の小さな公会議が開催されたことで非常に幸せでした。しかしその結果は何もありませんでした。ローマ司教区では何一つ変わりませんでした。状況はまさに以前と全く同じでした。

公会議と共に漂流が始まった


 公会議についてもそれはまったく同じでした。「私は公会議を開催する意向を持っています。」すでに教皇ピオ十二世は何人かの枢機卿から公会議を開催するように求められていました。しかしピオ十二世は、それが不可能であると信じて拒否しました。私たちは現代、2500人の司教たちによる一つの公会議を開催することはできません。マスメディアによって行使された圧力は、公会議を敢えて開催するにはあまりにも危険です。私たちは忙殺される危険があります。そして事実公会議は開かれませんでした。

 しかし教皇ヨハネ二十三世は言われました:「いや、開催する。われわれは悲観的であってはならない。もっと信頼してものごとを見なければならない。われわれは全世界のすべての司教を三ヶ月の間集める。10月13日に始めて、それから12月8日と1月25日の間に全ては終わり、みんなは家に帰り、そして公会議は終わったことになる。」

 そしてそのようにして教皇は公会議を開催されました! それでも公会議の準備をしなければなりませんでした。公会議はシノドゥスのようにただちに開催されることはできないのです。それは実際、先立つ二年間で準備されました。私は個人的にダカールの大司教および西アフリカ司教会議議長として中央準備委員会の一メンバーに指名されました。ですから私は中央準備委員会の会合において準備するために二年間に少なくとも十回はローマに来ました。

 中央準備委員会は非常に重要でした。なぜなら副次的委員会のすべての文書は、研究され公会議に提出されるために、ここに送られてきたからです。この会議には70人の枢機卿とおよそ20人の大司教および司教たち、さらに顧問たちがいました。これらの顧問たちは中央委員会のメンバーではなく、ただ時に委員たちから相談を受けることができるように出席しているだけでした。

(続く)

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【関連記事】

キツネには寝床がある・・

2008年01月16日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

 Fox さん、いつも優しい警告をありがとうございます!
 Vulpes と聞くと思い出す福音の御言葉はこれです。 Vulpes foveas habent. Filius autem hominis non habet ubi caput reclinet. キツネには寝床がある。しかし人の子には頭を置くところもない。
 イエズス・キリストの清貧を思います。

 日本では、私たちの聖伝のミサに聖堂もありません。しかし、不平は言えませんね。

トマス小野田圭志神父

沖縄での聖伝のミサ

2008年01月14日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

 愛する兄弟の皆様、
 ただ今、私は沖縄に来ております。在日米軍のカトリックの家族らのために、嘉手納で聖伝のミサを捧げるためです。昨日大阪での主日のミサ後、沖縄で夕方にお母さんの胎内の子供を含めて16名のために、御ミサを捧げることが出来ました。
 以前はアメリカから時々、聖ピオ十世会司祭が沖縄に来られていたそうです。
 北方領土から尖閣諸島まで、日本の地において、イエズスキリストの聖なるいけにえが捧げられますように!

 天主様の祝福が日本の上に豊かにありますように!

 追伸。マニラの e そよ風の第401号が、Web上にアップされております。

11. 2. 3. 非難された司教団体性 (司教団の団体指導体制) :ルフェーブル大司教の伝記の続き

2008年01月09日 | ルフェーブル大司教の伝記
第11章 チュール時代の小さなエピソード

非難された司教団体性 (司教団の団体指導体制)

 これ対するルフェーブル大司教の介入は、人々の心の状態を明らかにした。多くの司祭たちは、元ダカールの大司教を希望のしるし、結集の旗印と認めた。ベネフィス (Bénéfice) 神父はルフェーブル大司教にこう手紙を書いた(ヴォクリューズVucluse のマロセーヌ小教区 Malaucène の主任司祭、1962年3月16日)。

「遂に、司教らしい司教の声が聞けました!」

 ラシュト (Lacheteau) 神父はこう打ち明けた。(ヴィエンヌ Vienne のサンレジェドゥモンブリイェ Saint-Léger-de-Montbrillais の司祭、1962年3月17日)

「フランスの司教たちの中で一人、大司教様の声は勇気あるものであり、教会の子たちはまた希望を持ち始めました。」

 コラン(Collin)神父(サンクル小教区 Saint-Cloud の主任司祭1962年3月23日)は「他の人々はすべて沈黙を守っていたのにその中で、不当にも汚名を帰せされた立派なカトリック信徒たちを勇気を持って保護した勇敢な司教に対する感謝」を表明しようと手紙を書いた。

 自分の発言に対してこのような反応があったことに勇気を得、--そしてオッタヴィアーニ枢機卿の提案に従って-- 大司教司教はリエナール枢機卿に手紙を書き、枢機卿及び大司教たちの会の会合に招待してくれるように要請した。そうすればそこで自分の立場を説明したい、と。リエナール枢機卿は、大司教に直接会ってすぐにこれに返答するが、それは3月末から4月初のローマで開かれた公会議中央準備委員会の会合の際であった。
Cardinal Lienart リエナール枢機卿

「大司教閣下、残念ですが、私は大司教様には、ご存じの通り、私たちは決定をしました、大司教様は参加することができません、云々。」

ルフェーブル大司教(左)、シゴー司教(中央)、デ・カストロ・マイヤー司教(右)第二バチカン公会議の最中に Bishop Sigaud (center) with Archbishop Marcel Lefebvre (left) and Bishop de Castro Mayer (right) during the Council Vativan II

 ルフェーブル大司教はこう答えた。「あぁ、そんなことは、重要ではありませんよ。」

 ちょうどその時であった、リスボンの総大司教であるセレジェイラ (Cerejeira) 枢機卿が急に現われて大司教の手を握り取り、大きな声で高らかに彼を褒めた。
「ブラヴォー! 大司教様がジャン・ウセーに送った手紙はよかった!あっぱれ、彼らの擁護によくぞ立ち上がって下さいました!」

Carinal Cerejeira セレジェリラ枢機卿


 リエナールはすぐこっそりと席を外した.

 5月17日、新任司教はチュールを訪問しているド・ゴール将軍と面会した。ド・ゴール大統領は、もちろん、ルフェーブル大司教が、マスコミで言うところの「教義の名で政治宗教的封鎖」を遂行している「右翼カトリック」(この表現は彼らが秘密軍事組織、Organisation de l'armée secrète OAS と連絡を取っていることを示唆することと同じだった)を支持していることを知っていた。

 シャルルルにはシテ・カトリックに関して話をする理由が会っただろうし、マルセルにはチュールで投獄されているフランス将校たちに関して話す理由があっただろう。この面会中に何が話されたにせよ、マスメディアは既に5月10日に次のようにその内容を発表していた。
シャルル・ド・ゴール Charles de Gaulle

「大統領官邸は、ルフェーブル大司教(チュールの大司教司教)が大司教であるにも関わらず、フランスの枢機卿及び大司教たちの会に参加することを認めない。」(La Croix, 16 mars 1962; I.C.I., 1er avril 1962)

 事実、政府と司教たちは 1月から共謀していた。

 急いで、A.C.A.は三月に会合を開き、ゲリー(Guerry) 大司教に A.C.A.に固有の権力と権限に関するノートを書かせた。それによると、普遍教会の裁治権は、教皇のみならず、「団体的に、頭としての教皇の最高裁治権に参加して、司教団に」属する、とあった。本当は、A.C.A.にはそのような裁治権はなく、「精神的権威」しかない。

 ルフェーブル大司教はゲリー大司教に二通の手紙を書いて反論し、司教団の団体性は「公会議の時にのみ例外的に」執行されるだけだと説明した。ルフェーブル大司教は言った。もしも A.C.A.がその権限の範囲を越えるなら、「司教たちの口を阻んで言えないようにするか、或いは、司教たちに反駁されるか、のどちらかの危険がある」と。

 さらに大司教は、「全ての使徒職が持たなければならない超自然的性格を守らなかった(=単なる自然の次元での政治運動になってしまった)」カトリック・アクションを推進していると言って A.C.A.を責めた。彼は全国レベルで組織されているカトリック・アクションの「無慈悲なやり方」告発し、レジオ・マリエや五日間の黙想会(=聖イグナチオによる五日間の霊操)を排除する司牧センター全体のやり方を責めた。

ルフェーブル大司教は、これについて極めて美しい真理を思い出させた。
「教会の全歴史は、聖霊が組職よりも人を使うということを見せてくれる」。教会史は「司教たちは自由に発言してきたし、真理の霊はその自由を通してよりよく現わされ、この真理の霊はペトロの後継者によって確認された。

 大司教は公会議でなされる司教団体制に反対する闘いをまさに同じ自由を持って始めていた。しかし、この健全な自由は明らかに A.C.A.にとって気にくわないものであった。そこで A.C.A. は、「大司教の責任を行使する枢機卿及び司教たちだけが A.C.A. 会合に招待される」とルフェーブル大司教に知らせてきた。この条件は、確かに個人的称号により大司教であったルフェーブル大司教には当てはまらない。ところがそれにもかかわらず A.C.A.の宣言文は言語道断の偽りだった。何故なら、ニース (Nice) のレモン (Remond) 大司とニーム (Nimes) のジルボ (Girbeau) 司教は、大司教司教として、まさしくA.C.A. 会合の招待にあずかっていたからだ。ところがA.C.A. によれは、チュールの司教は関係がなかった。彼は自分の司教区の面倒を見ていればそれで充分なのだ。

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【関連記事】
第11章 チュール時代の小さなエピソード
I. 美しく小さい司教区


【質問】教会において誰が権威を持って教える権能を持つのか?教会の教導権は不可謬か?

2008年01月08日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

【質問】
 教会において誰が権威を持って教える権能を持っているのか?

【答え】
 教会の教導権の所持者は、天主に由来する権利として、全世界の教会のためには教皇が、それぞれの司教区では司教です。

【質問】
 教皇と司教たちは、どのようにしてこの権威を受けるのか?

【答え】
 私たちの主は、信仰の最高の教師として使徒達をたてましたが、教皇は、聖ペトロの後継者であり、司教たちは使徒達の後継者です。彼らは、キリストの教えを自分に委ねられた者たちに伝え、それを純粋に守るように注意を払う責務を天主から受けます。そのようにして彼らは、私たちの主が御昇天の後に私たちにおいてもう目に見えなくなった後でも、イエズス・キリストの業を続けるのです。

【質問】
 私たちの主イエズス・キリストは、司教たちに伝えられるこの教導権についてはっきりと言明したか?

【答え】
 はい。私たちの主イエズス・キリストは使徒達に向かって「あなたたちの言うことを聞くものは私の言うことを聞くものである、あなたたちを拒否するものは私を拒否する」(ルカ10:16)と言われました。このことは、使徒達の後継者である司教たちについても同じことが言えます。


【質問】
 教会の教導権は不可謬か?

【答え】
 はい。教会の教導権は不可謬です。しかしそのためにはいろいろな条件が厳しく守られなければなりません。もしもその条件が満たされるならば、司教たちや教皇は誤ることがあり得ません。しかしそのような条件が満たされないならば、宣言であれ説教であれ教皇の回勅であれ公会議文書であれ、必ずしも不可謬であるとは限りません。不可謬権を行使すると主張しその条件を満たして断言されたものだけが、不可謬です。


【質問】
 教皇はいつ不可謬なのか?

【答え】
 教皇は、教皇座から(ex cathedra)発言するときに不可謬です。つまり、諸民族の最高の教師として、教皇がある真理を全ての信者らが必ず信じなければならないドグマとして宣言するときです。この場合、教皇が誤ることがないように、聖霊の補佐が教皇に約束されています。神学者たちは共通意見として、この他の幾つかの場合にも教皇に不可謬の特権を帰属しています。例えば、列聖の時(少なくとも1983年以前の列聖について)、或いは、教会の普遍的律法において、或いは、教皇が自分の全ての前任者たちの教えを繰り返すとき、などです。

【質問】
 その条件が満たされるならば教皇が不可謬であるということはどこにはっきりと書かれているのか?

【答え】
 教皇が不可謬であるための条件は、第一バチカン公会議によって明確に提示されています。第一バチカン公会議は、教皇の不可謬権を正確に定義したからです。第一バチカン公会議はこう教えています。

 教皇が教皇座から宣言する時、言換えれば全キリスト信者の牧者として教師として、その最高の使徒伝来の権威によって全教会が守るべき信仰と道徳についての教義を決定する時、救い主である天主は、自分の教会が信仰と道徳についての教義を定義する時に望んだ聖ペトロに約束した天主の助力によって、不可謬性が与えられている。そのため、教皇の定義は、教会の同意によってではなく、それ自体で、改正できないものである。

Romanum Pontificem, cum ex cathedra loquitur, id est, cum omnium Christianorum pastoris et doctoris munere fungens pro suprema sua apostolica auctoritate doctrinam de fide vel moribus ab universa Ecclesia tenendam definit, per assistentiam divinam ipsi in beato Petro promissam, ea infallibilitate pollere, qua divinus Redemptor Ecclesiam suam in definienda doctrina de fide vel moribus instructam esse voluit; ideoque eiusmodi Romani Pontificis definitiones ex sese, non autem ex consensu Ecclesiae, irreformabiles esse.
Pastor aeternus, DS 3074

【質問】
 第一バチカン公会議の文書で何に気が付くのか?

【答え】
 第一バチカン公会議の文書を注意深く読むと、教皇の不可謬性のための条件は4つあることが分かります。
 すなわち、
(1)教皇は、「全キリスト信者の牧者として教師として」、つまり、個人的な意見を述べるのではなく、教会の頭として、キリストから直接に受けた「その最高の使徒伝来の権威」をはっきりと行使して、宣言しなければなりません。
(2)教皇が宣言する内容は、「信仰と道徳についての教義」でなければなりません。
(3)この「信仰と道徳についての教義」は、教えられるだけではいけません。教皇は「信仰と道徳についての教義」を「守るべき信仰と道徳」であると「定義する」のでなければなりません。つまり、教義を強制しなければなりません。
(4)この強制は、「全教会」が守るべきものとして、全教会に向けられるものでなければなりません。

【質問】
 教皇が、全教会が守るべき信仰と道徳を強制するという意思を表明することは、教皇の行為が不可謬であるために本質的なことか?

【答え】
 教皇が、全教会が守るべき信仰と道徳を強制するという意思を表明することは、教皇の行為が不可謬であるために必ず必要な本質的なことです。この権威の行使は、「教皇座からの(ex cathedra)」定義宣言の本質的要素です。

【質問】
 教皇はどうやってこの強制の意志を表明するのか?

【答え】
 教皇は、全教会において、ある一つの教義を義務として強制しようとする意志を、これを拒否する人間はカトリック信仰をもはや持ってはいない、従って、拒否する人は教会の外にある(排斥される)と明確に宣言して、明らかに表明しなければなりません。

【質問】
 教皇は、この不可謬の特権を何か新しいことを強制するために行使することが出来るのか?

【答え】
 教皇の不可謬性の特権は、信仰の内容の保存のためにのみあります。信仰内容とは、私たちの主イエズス・キリストによって教えられた変わることなく、救いのために必要なことがらです。第一バチカン公会議は私たちにこう教えています。

「聖霊がペトロの後継者たちに約束されたのは、聖霊の啓示によって、新しい教義を教えるためではなく、聖霊の援助によって、使徒たちが伝えた啓示、すなわち信仰の遺産を確実に保存し、忠実に説明するためである。」
(Pastor aeternus, DS 3070)

【質問】
 信仰の真理を、荘厳に不可謬的に定義決定するのは、よく頻繁にあることか?

【答え】
 信仰の真理を、荘厳に不可謬的に定義決定するのは、頻繁にあることではありません。この特権を一度も行使しなかった教皇たちも多くいます。二十世紀には、この不可謬の宣言が一度ありました。それは、1950年11月1日にピオ十二世教皇によってなされた天主の御母聖マリアの被昇天のドグマの定義決定です。

【質問】
 1950年11月1日、ピオ十二世教皇は、どのようにして、天主の御母聖マリアの被昇天のドグマの定義決定の時、強制の意図を表明したのか。

【答え】
 ピオ十二世は、使徒憲章『ムニフィチェンティッシムス・デウス』(MUNIFICENTISSIMUS DEUS)において次のように宣言して、このドグマを強制しました。

「私たちの主イエズス・キリストの権威と使徒聖ペトロとパウロの権威、また私の固有の権威により、私は、天主の汚れなき御母終生童貞聖マリアがその地上での生涯を終えたのし、肉体と霊魂とにおいて天上の栄光に上げられたということが、天主から啓示されたドグマであると原原始宣言し定義決定する。従って、もしも誰かが、敢えて私の定義したことを故意に疑うとしたら、願わくは天主がそれを赦し給わぬことを!彼は天主よりのカトリック信仰を完全に棄てた者であるということを知るように。」

APOSTOLIC CONSTITUTION OF POPE PIUS XII, MUNIFICENTISSIMUS DEUS, November 1, 1950

44. ... by the authority of our Lord Jesus Christ, of the Blessed Apostles Peter and Paul, and by our own authority, we pronounce, declare, and define it to be a divinely revealed dogma: that the Immaculate Mother of God, the ever Virgin Mary, having completed the course of her earthly life, was assumed body and soul into heavenly glory.

45. Hence if anyone, which God forbid, should dare willfully to deny or to call into doubt that which we have defined, let him know that he has fallen away completely from the divine and Catholic Faith.

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【関連記事】


11.2.2. シテ・カトリックを新しく応援する(続き)

2008年01月07日 | ルフェーブル大司教の伝記
第11章 チュール時代の小さなエピソード

シテ・カトリックを新しく応援する(続き)

 この適時のしかし都合の悪い真理を読むや、フランスの司教たちは恐怖にとらわれた。私たちが呼ぶところの「ルフェーブル効果」が基本的な流れを作り出された。

 ルフェーブル大司教を支持した司教たちは三名に過ぎなかったが、リエナール枢機卿(Carinal Liénard)、アンセル司教(Mgr Ancel)及びブロー司教(Mgr Brault)など、他の司教らは否定的に応じた。枢機卿及び大司教の会(A.C.A.)会員たちは、ルフェーブル大司教の挑戦に、梯子をはずされたように思い、戸惑うことを隠すことができなかった。(リエナール枢機卿様は枢機卿・大司教会の会長だった)そこで、彼らは 3月16日、ラ・クロワ紙に1960年のメモの抜粋を掲載発表することにした。

 ところがそれは、イティネレール誌 (nos. 61, 62, 64, 67号) に発表されたジャン・マディランの論評という形式で、また新たな短剣を呼び寄せた。

 教皇が援助に駆けつけ、ラ・クロワ紙の編集長であるヴァンジェ (Wenger) 神父には、5月 10日、国務長官を通して教皇が「自分の父としての信頼」を確認しなければならなかった。これはルフェーブル大司教が 5月7日、ヨハネ二十三世に対する一時間の謁見を受けた後だった。教皇は大司教に次のようにルフェーブル大司教に言った。

「よろしいですか、私がベルガモ (Bergamo) で聖書学の教授だった時に、ラグラングジュ神父の説を擁護して「近代主義者」とレッテルを貼られ注意されました。」


「それは私の一生を台無しにしました。私が自分の記録を見ると、「近代主義的傾向あり」と書いていました。私は近代主義者ではありません!このレッテルのために、私は一度もローマに任命されたことがありません。いわゆる、近代主義者という理由で、私はいつも教皇庁から離れたところにいたのです。ですから、大司教様も、そのように「保守主義者」と断罪されないように気を付けないといけませんね。」




 教皇が暗示していたことは、ルフェーブル大司教が自ら出世したければ、発言に気をつけよ、と言うことだった。

 ルフェーブル大司教は自ら出世することには関心がなかった。しかし、自分の人生の失敗をナイーヴに語りながら、打ち明け話をしてくれた「善良な教皇ヨハネ」は、ルフェーブル大司教をして、そのリベラルな人格を把握させた。

「大司教様、気を付けなさい」とヨハネは警告した。しかしマルセルは、真理をそのまま隠さずに述べることに固く決心しており、今後もそのような警告に重きをおくことはないだろう。

(つづき)

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【関連記事】
第11章 チュール時代の小さなエピソード
I. 美しく小さい司教区

その他資料



11.2.1. シテ・カトリックを新しく応援する(ルフェーブル大司教の伝記)

2008年01月05日 | ルフェーブル大司教の伝記
第11章 チュール時代の小さなエピソード

II. シテ・カトリックと司教

シテ・カトリック(La Cité catholique)を新しく応援する

 チュールと最初のコンタクトを取ることが出来たそれよりも前に、「被選司教」はシテ・カトリック(La Cité catholique)に属する自分の友らに反対してなされた最近のマスメディアの攻撃に注意を払った。



ダカールにいる時から彼はフランスの司教たち、と言うよりはむしろ彼らの指導中核である枢機卿及び大司教の会 (Assemblée des Cardinaux et Archevêques, A.C.A.) が、1960年3月にこのシテ・カトリック運動に対して批判的な文書を作ったと嗅ぎつけた。

 シテ・カトリックの主催者であるジャン・ウセー(Jean Ousset)にこの批判文章の抜粋が送られ、彼が裁治権者の司教の外で行動している、また「反革命」を推進している、という理由で非難を浴びせていた。ウセーは二番目の要求を受け入れて、後には告発された語彙の使用を慎んだ。



 ところが1961年11月には、メスメディアにこの「司教のみに留保されたメモ」中の他の抜粋が流れ始めた。そこにはさらに重大な批判が書かれていた。すなわち、シテ・カトリックでは「考え方の体系化により、真の考察を殺している」、また「ヴェルブ誌の主題が浸透することにより、カトリック・アクションは実を結ばなくなった」と。

 まもなくイエズス会司祭ド・ソラ (de Soras) 神父による批判小冊子は「保留メモ」に関する疑問を提起し、1962年3月2日号のラ・クロワ紙 (La Croix) でイエズス会司祭ヴィラン (Villain) 神父はこの小冊子に賛同をよせた。

 ラ・クロワ紙は「それはシテ・カトリックに警戒するように勧告している」と述べた。他方でアルジェリアの日刊紙はその反対に「それは承認を意味している」と論説した。アルジェ (Alger) の大司教であるレオン・エティエン・ドュバル大司教 (Leon-Etienne Duval) はこう答えた。「いや、これは本気に警告だ」と。

そして A.C.A. は自ら発言してそれを説明するように催促され、厳重な正式警告が出されるのは不可避だった。

 これを阻むためにルフェーブル大司教は直ちに介入した。ルフェーブル大司教は3月4日ウセーとその協力者たちに次のように手紙を送った。「私が沈黙を守ったら、真理に対して忠実ではないことになる」と。

 ルフェーブル大司教の次の書簡は、3月15日ル・モンド紙に既に一部が掲載されて後、3月18日にはロム・ヌーボー紙 (L'Homme Nouveau) に発表され、イエズス会ド・ソラの正反対の立場を取った。

「司教の全承認を受けていなかったとあなたたちは非難されていますね? しかし、固有な意味でカトリック・アクションと言われるものではない活動については、司教許可は必要ではありません。必要なのはただ教会の精神とその規律に完全に一致している活動であるということだけであり、それぞれの司教が自分の司教区でそれを判断するのです。
 教皇文書を解釈するあなたの仕方のためにあなたたちは非難されていますね? 願わくは、すべてのカトリック者らがこれら教皇文書をあなたたちと同じ程に正確に知っていますように! いずれにせよ、このイエズス会司祭が提案した規則に従って教皇文書を解釈することは絶対にしてはなりません。この司祭よりも、教皇文書から精神的権威を全て取り除いてしまうことは誰にも出来なかったでしょう。
 教会が世俗の事柄と一般社会に対して持っている権能についてあなたたちが抱く概念が間違っていると非難されていますね? しかしあなたたちの雑誌で説明している直接的権能と間接的権能との区別は、ローマの諸大学及び聖座の公文書のなかで言われることそのままです。」


 この明快で首尾一貫している弁護おいて、「よかれ悪しかれフランスのカトリック教会の代弁者と考えられている新聞」であり「このおぞましいキャンペーンのために」そのコラムを使うラ・クロワ紙に対して短剣を刺すことも忘れなかっし、最後の長剣もきちんと刺した。あなたは「あなたたちの子供達が物質主義、世俗主義、無神論の雰囲気の中で成長するのを見る」ことを受け入れないために非難されているのです、と。

「この環境が超自然的精神、祈りの精神、自己放棄の精神を破壊し、それによって司祭召命が至る所での誕生を妨げている一方で、あなたたちが社会を再びキリスト教化することができないように彼らによって妨げられている。あなたたちの活動はどうしても必要であり、またそれはカトリック・アクションを強化ことに繋がる」と。

(つづく)

【訳者註】ジャン・ウセーの主催するシテ・カトリック誌は、王たるイエズス・キリストの社会統治のために論説をはっていた。他方でリベラルな司教たちはフランスの非カトリック化・世俗化を推進し、シテ・カトリック誌を妨げようとしていた。

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【関連記事】
第11章 チュール時代の小さなエピソード
I. 美しく小さい司教区


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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