Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

2016年12月16-19日の聖伝のミサの報告:聖ピオ十世会 SSPX JAPAN Latin Traditional Mass

2016年12月22日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

私たちの主イエズス・キリストの御降誕も近くなってきました。
先日の待降節の四季の祭日には大阪で、待降節第四主日は東京で聖伝のミサを捧げることが出来ました。

2016年は、ファチマ一〇〇周年準備の年で、大阪では5月13日に新しい御聖堂の契約があり、10月13日に御聖堂にステンドグラスが入り、天使たちの御像も二位、ファチマの聖母の御像、イエズスの御心の御像も設置することが出来ました!このお恵みをファチマの聖母に深く感謝します。
また、東京では今年から主日のミサ聖祭を月に二回捧げることが出来るようになり、お恵みが二倍になりました。天主の憐れみに感謝します。

フランシスコ教皇様も、去年と今年、聖ピオ十世会の司祭の栽治権を認める声明を公式に出していますので、ますます多くの方々が、聖伝のミサや改悛の秘蹟のお恵みを受けられることを切に祈ります。

クリスマスの特別のプログラムは次の通りです。どうぞ、なるべく多くの方々が聖伝のミサに与ることが出来るようにお友達などを招いて下さい。

御降誕の聖伝のミサでお目にかかりましょう!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


【大阪】聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂
EG新御堂4階 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2 〒532-0002
(JR「新大阪駅」の東口より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分)

12月22日(木) 待降節の平日(2級)紫 (←追加されました)
          午後5時半  ロザリオ及び告解
          午後6時   ミサ聖祭

12月23日(金) 待降節の平日(2級)紫
          午前10時  ロザリオ及び告解
          午前10時半 ミサ聖祭 (←時間が変更となりました)

12月24日(土) 平日の主の御降誕の前日(1級)紫
          午前09時  洗礼式
          午前10時  ロザリオ及び告解
          午前10時半 ミサ聖祭

          午後09時  御降誕の朝課(グレゴリオ聖歌)
          午後11時半 幼きイエズスを馬小屋にお持ちする
12月25日(主) 午前 0時  「主の御降誕 真夜中のミサ」ミサ聖祭 (←追加されました)


【東京】東京都文京区本駒込1-12-5 曙町児童会館 「聖なる日本の殉教者巡回聖堂」

12月25日(主) 主の御降誕(1級祝日、八日間付き)白
          午前9時   ミサ聖祭「曉のミサ」(←時間が変更になりました。)
          午前9時45分 告解
          午前10時半 ミサ聖祭「日中のミサ」
          午後1時   クリスマス軽食会(食べ物は各自持参です)
          午後2時   クリスマス・キャロル
          午後2時半  御降誕の晩課(グレゴリオ聖歌)

12月26日(月) 最初の殉教者聖ステファノ(2級祝日)赤
          午前7時 ミサ聖祭


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

私達の大切な小野田神父様、御ミサの報告をお送りいたします。

12月16日(金)12月の四季の金曜日 の御ミサには10名が、
12月17日(土)12月の四季の土曜日 の御ミサには13名の方々が御ミサに与り御聖体拝領するお恵みを頂きました。デオ・グラチアス!

16日のお説教では、
待降節の朗読、固有文、聖福音に登場する三人の聖なる方々にスポットを当てて黙想いたしました。
まず、多くのイエズス様に関する予言を残したイザヤ。
イザヤは「イエッセの根から出た小枝(マリア様)から花(イエズス様)が咲く。その花には七つの霊がとどまる」と予言しました。
ご降誕七日前から始まる七つのオ・アンティフォナは、この七つの賜を意味しています。

そして、洗者聖ヨハネはイエズス様をどうやってお迎えすればよいかを教えてくれます。
多くのユダヤ人たちはイエズス様が近くに来られてもこれを認めず、知らず、この世の浮き事に気を取られていましたが、
自分が生まれる前、母の胎内でさえイエズス様が来られたことを知って喜び躍ったヨハネに倣って、私たちもクリスマスの本質を認めて、
イエズス様が来られている事を感じ、感謝したければなりません。
ミサの中でいけにえとして、御聖体の中で霊魂の糧として、私たちを訪れて下さるイエズス様の無限の愛を私たちはどれほど理解できているのでしょうか・・・。

イエズス様をエリザベトとその体内のヨハネに運んで下さったマリア様。
イエズス様をお迎えしたいならばマリア様を喜んでお迎えすることが必要。
誰よりも大きな愛を持ってイエズス様をお迎えになったマリア様に、イエズス様をお迎えする良い準備が出来る恵みを願いもとめなければなりません。

17日(土)のお説教は、
四季の斎日のミサについて黙想いたしました。

初期の教会では叙階式は年に一度、ヴァチカンの聖ペトロの丘で12月の四季の土曜にに行われていた。
後に四季の土曜日全てで叙階が行われるようになったが、12月は特別なものであった。
夜中から始まる数百人の各階級の叙階がして、ミサが終わるころには日が昇り始めていた。
夜が救い主を待っていることと、光(日の出)が救世主の訪れを意味することを実感するために教会が配慮していた。

この日の朗読は5つは、救い主の前表の箇所であり、固有文も主の訪れを強く待ち望む教会の声を感じさせる。

質問:
この日の朗読のうち、最初の四つのイザヤの予言書は、救い主を啓示していることがよくわかりますが、五つ目のダニエル書のかまどで焼かれる三人の若者の話も、救い主を暗示しているのでしょうか?

この日のミサには特に救い主の来臨にたいする強い思いが現れていて、クリスマスを迎えるにあたって喜びがにじみ出ているものでした。
待降節の精神に深く入って、心を『イエズス様化』するほどに、益々謙遜、愛徳、忍耐、従順、祈り、犠牲をもてるように、イエズス様にクリスマスの良い贈り物ができるように残る1週間をすごせますように。

公教要理ではクリスマスの「O Antiphona 」について勉強いたしました。
七つのアンティフォナは全て「O △△△ 」という天主への呼びかけで始まり、七つの賜物に対応していて、オタンのホノリウスによるとそれらは人間の七つのみじめさ(弱さ)に対応しているそうです。
天主にたいする呼びかけ
O Sapientia
O Adonai
O Radix Jesse
O Clavies David
O Oriens
O Rex gentium
O Emmnuel
の,七つの頭文字を逆さに読むと、
「ERO CRAS (私は明日来る)」となるそうで、なるほどクリスマスの前に歌うにふさわしいと思いました。

また、この度は、イエズス様の聖心と、マリア様の御心の木像をお持ち下さいまして、ありがとうございました。
大阪の御聖堂がますます聖堂らしくなり、御手を広げて私達を迎えてくださる美しいイエズ様とマリア様を仰ぎ見ながら、そこから離れたくない気持ちになりました。かなり重い二つの御像を一度にもってきて下さった小野田神父様の優しさと、愛に深く感謝いたします!


【お返事】
「五つ目のダニエル書のかまどで焼かれる三人の若者の話も、救い主を暗示しているのか?」というご質問ですが、「復活」と「殉教」の印なので、救い主の受難と復活とをも暗示しているのだと思います。


【報告】
御ミサの所感をご報告いたします。
このたびも、大阪と東京のミッションをありがとうございました!

【お説教で】
特に、12月の待降節の四季の斎日の深い意味を理解できました。
神父様も四季の斎日を歌ミサでお捧げできたことは生まれて初めてだとおっしゃっておられ、私たち信徒も大変嬉しかったです。
また、神父様の「待降節はどんな心配ごとも苦しみも、全て忘れて、ただひたすらに、イエズス様を待ち望むようになさってください。」というお言葉で、
「あー!!そうなんだ!!。日々の苦しみは、ほうっておいて、ただイエズス様だけを待ち望めば良いんだ。それほど待降節は大切なんだ!」
と思いました、教えていただきました。それまでイエズス様よりも、苦しみや心配ごとに心を占領されていた自分を深く反省して、マリア様に、残る待降節をイエズス様のことだけを考えて、待ち望むことができるように、お助けを願いました。

【公教要理で】
O Antiphona については、大変興味深い内容でした。
聖務日課は天主イエズス様の花嫁である教会の祈り。天主への畏敬と愛にあふれる礼拝と讃美、感謝、懇願の祈りで、
聖職者がたのこの、教会としての祈りは聖なるミサのいけにえの次に重要な祈りと伺っています。
旧約の預言者、太祖によって作られた詩篇から作られているため、天主への人類の最古の祈りであると感じます。
12/24の大阪のクリスマスでは、11時からのクリスマスキャロルの前に、9時から主の御降誕の【朝課】をグレゴリアン聖歌でお捧げする予定です。
古くから世界じゅうの修道院、神学校で歌われてきた「教会の祈り」を、日本のカトリック信者、日本の代表として、天主幼きイエズス様にマリア様の汚れ無き御心をとおして、心からお捧げしようと思います。

聖母の汚れ無き御心よ、我らのために祈りたまえ。
ファチマの聖母、ロザリオの聖母よ、我らのために祈りたまえ。


【報告】【東京】
Dear Fr Onoda:

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 19人(内、子供3人)
女: 22人(内、子供2人)
計: 41人(内、子供5人)


【報告】【東京】
+アヴェ・マリア・インマクラータ!

トマス小野田神父様

小野田神父様、こんばんは! 今週も日本で御ミサを捧げてくださいましたことを本当に感謝いたします。ありがとうございます。
12/18の御ミサの感想をお送りいたします。

これだ!とわかったこと
御降誕とは、天主の本性としては天主御父の御子であるイエズス様が、人性をとってこの世にお生まれになった出来事であり、また、その目的はこの世を聖化するため、私たちのためであった  ということがわかりました。 
御降誕の偉大な神秘は理解しようとしても理解し尽くすことは到底できませんが、それでも、天主様が私たちに本当に大きな大きな憐れみをかけて下さっていることを本当に有難く思いました。

この御ミサ全体の内容も教えていただきました。入祭文では「天よ、汝のつゆをしたたらせ、雲よ、義人を降らせよ、地よ、ひらかれて救主を生まんことを。」とイザヤが天主を呼び求め、聖福音では洗者聖ヨハネが登場し(まるで御ミサのカノンが始まる直前に司祭のお説教があるように、天主の前に荒野で説教をした)、そして奉献文では御降誕の天主の直接の与え主であるマリア様のことが語られ、聖変化でイエズス様がおいでになり、そして聖体拝領唱では、エンマヌエル・救い主は我らと共におられる、とお祈りし、まさにこの御ミサに待降節の内容・要点が詰まっていることを理解することができました。

入祭文の「天よ、汝のつゆをしたたらせ、雲よ、義人を降らせよ、地よ、ひらかれて救主を生まんことを。」(イザイア書、45ノ8) の「露」には以下の4つの意味、解釈があるということも教えていただきました。これはコルネリウス・ア・ラピデという方の解釈だそうです。
・露はどこから生じるか分からないものであり、神秘のうちに凝結して露となる。これと同じように天主様のご誕生も一般の人々には隠されており、神秘のうちに人となられたから
・霧よりも更に清い純粋な水蒸気が露となることから、清い童貞であるマリア様がお母様になられることを指している
・露は美しい甘美な潤いを与えるもので、聖寵を思わせる
・露は美しくその輝きはまるで宝石のようであり、まるでイエズス様のようだ

また、「多くの旧約の偉大な預言者たちさえも、洗者聖ヨハネでさえも、新約の時代・新約の扉がひらかれるその前に立って天主の御来臨を呼び求めていた」という内容のお話も印象的でした。今、新約の時代に生きる私の前には、天主の憐れみと多くの偉大な預言者たち教父たちが祈りと犠牲のうちに残した遺産である美しい信仰のドグマ、聖人たちや教皇様たちの残した美しい文章や、美しいお祈りや聖歌があるにも関わらず、御聖体のうちにイエズス様を拝領することができるにも関わらず、そしてもう既に天国はひらかれているにも関わらず、それら多くの遺産を蔑ろにし、それらが与えられていることが当たり前であるように振舞っていることを反省いたしました。


分からなかったところ
今回の御ミサ中のお祈りでは読まれないのですが、待降節ということでぜひ質問させていただきたいことがあります。
神父様が以前ブログにお書きになったRorate Caeliの関する記事(http://blog.goo.ne.jp/thomasonoda/e/b6ec5a8a3187b63324e445778b4caa67)を読みましたが、その中に、イザヤの預言40章「主から二重の罰を受け終えた」という部分があります。この「二重の罰」とは何を指しているのでしょうか。
教えていただけましたら幸いです。


午後の講話では、12/17~12/23に歌われるグレゴリオ聖歌「大アンティフォナ」について、その意味と、7日間に渡って歌われる7つある歌がなぜ7つあるのか、と言うこと教えていただきました。

大アンティフォナは、
・全ての歌詞が≪O»から始まる
・キリストはどんな方が形容する歌詞である
・全てに ”Veni!” 来たり給え! という言葉が入っている
という特徴があること
そして、なぜ7つあるのかというと7つの聖霊の賜物と、そして原罪によって人間の霊魂におこった7つの悲惨な状態にそれぞれ対応しているからだ、ということが分かりました!
現在によって入り込んだ7つの悲惨な罪の状態から解放し、霊魂の救いのため7つの聖霊の賜物を与えてくださる天主を7日間、聖歌を歌いつつ待ち望む、そして、来たり給え! と天主に希望するとは、なんと美しいカトリック教会の祈りだろうと思いました、本当に素晴らしいです!
7というと、以前教えていただいたカステラニ神父様の著書に依る黙示録の注解が思い出されました。「7つの教会」や「7つの封印」など人類の歴史の段階を表しているように、聖霊の賜も7つの段階を経てもっとも頂点の「上智」に到達するので、何か共通点があるように思われました。

来週は御降誕の主日です。今年は待降節第四主日~御降誕の主日まで丸一週間あるので、この一週間を祈りと犠牲とをもって天主様を迎えるに更に相応しく準備できますように、マリア様に御取次を願いお祈りいたします!
祈りと犠牲によって、イエズス様へ相応しいクリスマスプレゼントを準備することができますように!
旧約の義人たちがなさったように、御降誕の御ミサでは更に熱烈な愛と期待とを持って天主様に「天主イエズス様、どうぞ我が霊魂においでください!」と言うことができますように!
聖母の汚れなき御心よ、我らのために祈り給え!!

+In Mary Immaculate,


【お返事】
Rorate Caeliの関する記事(http://blog.goo.ne.jp/thomasonoda/e/b6ec5a8a3187b63324e445778b4caa67)にあるイザヤの預言40章「主から二重の罰を受け終えた」という部分の「二重の罰」とは一体なんでしょう?
とても興味深い質問です。
聖アルフォンソ・デ・リグオリは、次のようにいいます。
God Wishes All Men to be Saved; Christ Died for All Men, Section 2

The gain which we have made by the redemption of Jesus Christ is greater than the loss which we suffered by the sin of Adam. The Apostle plainly declared this when he said, "Not as the offense, so also the gift. For where the offense abounded, there did grace more abound." [Rom. 5 15, 20] Our Lord says the same: "I am come that they may have life, and have it more abundantly." [John 10: 10] David and Isaias had predicted it: "With Him is plentiful redemption.-----She hath received of the hand of the Lord double for all her sins." [Ps. 129: 7; Is. 40: 2] About which words the interpreter says: "God has so forgiven iniquities through Christ, that men have received double-----that is, very much greater good, instead of the punishment of sin which they deserved."

私たちがイエズス・キリストの贖いによって得たものは、アダムの罪によって私たちが失ったものより偉大だった。ダヴィドとイザヤはそれを預言した。「彼と共に豊かな贖いがある。Suscépit de manu Dómini duplícia pro ómnibus peccátis suis. その全ての罪々のために、主の手から二重を受けた。」これについて注解者はこう言っている。「天主はキリストを通して邪悪を赦したが、それは人々が二重に受けたほどだった。つまり、彼らが受けるにふさわしかった罪の罰の代わりに、更にもっと偉大な善だった。」
これは、聖アルフォンソの解釈ですが、罪の罰をさらに上まわる憐れみと恵みを「二倍にして」受けた、ということです。

ところで、原罪によって人間の霊魂におこった7つの悲惨な窮状について注意深く聞いて下さったことを感謝します。
私たちの主イエズス・キリストの御降誕のお恵みにより、カトリック教会が、現代の教会を襲う信仰の危機という窮状のしがらみから早く抜け出して、旧教の聖伝に基づく典礼や信仰に立ち戻りますように!


【報告】
十アヴェ マリア インマクラータ!

トマス小野田神父様!

待降節第4主日の御ミサをありがとうございました。入祭文は、”天よ、露を滴らせ、雲よ、義人を降らせよ。地よ、開きて救世主を出せよ。・・・”という文で始まりましたが、「待降節の祈り」の最初の文章も、やはり同じ”天よ、露を滴らせ、雲よ、義人を降らせよ。地よ、開きて救世主を出せよ。”で始まっています。

三週間ずっと「雲よ、義人を降らせよ。」という祈りの文に親しんで、もしかしたら・・?そして今回のお説教を拝聴して やっぱり?そうなんだろう!と 思いました。 雨(恵み)をもたらすものとしての意味で、雲はマリア様を示しているのだろう、と。以前カルメル山の聖母のお話を聞いたことがあったのですが、スカプラリオとの関連でカルメル山の聖母の由来は列王記に出てくる旱魃の時エリアが呼んだ雲・あの掌ぐらいの雲のことです、という内容を思い出しました。でも、どうしても 雲とマリア様がなかなか結び付くことができないのでした。このところ 何度も何度もそして典礼においてもずっと 天よ、露を滴らせ、雲よ、義人を降らせよ、と目にしているうちに、次第次第に「雲よ、義人を降らせよ、」と口で言いながら、マリア様!救い主を 恵みの方をどうか私たちにもたらしてください!と心で祈っている感じでした。お説教の露について四つの理由を拝聴しながら「露」という言葉一つに大切な意味が込められていることを教えていただいて、やっぱりそうだと、露が集まり雲となることと雲とマリア様のつながりを知ることができました。旧約の人たちは 救い主をどれほど待ち望んでいたことでしょう。私の霊魂はまったく汚い家畜小屋ですが、それでも救い主よどうか私の霊魂のうちに来てくださいと 待ち望みます。 

 聖ファウスチナの日記に「心の中に小さな独房を作って、そこにいつもイエズスと一緒に過ごすようになりました。」とあります。シエナの聖カタリナも「魂のうちに小さな聖堂をつくり精神的にそこに隠れ・・・。」るようにされていたそうです。そのような生活が本当のカトリック信者の内的生活かもしれないと憧れをいだいていましたが、文語体の「待降節の祈り」では「・・・心を浄めて、主の御ためにふさわしき住家を備え奉らん。」と昔から普通に祈られていたと気づきました。お告げの祈りでもお祈りします。長く信者が唱え続けてきている伝統的な祈りは本当に信者を支え養ってきたのだなと感じます。
今回の御ミサのお説教でも 同じ勧めをいただき とてもうれしく拝聴しました。私もイエズス様をお迎えするためにきれいに掃除し暖かく整えた小さなイエズス様の小部屋を用意できるよう努めたいです。



聖ピオ十世会日本 2016年クリスマスの特別のプログラムをご紹介いたします。SSPX JAPAN Traditional Latin Mass for Christmas

2016年12月19日 | 聖伝のミサの予定
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

クリスマスの特別のプログラムをご紹介いたします。

【大阪】聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂
EG新御堂4階 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2 〒532-0002
(JR「新大阪駅」の東口より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分)

12月22日(木) 待降節の平日(2級)紫 (←追加されました)
          午後5時半  ロザリオ及び告解
          午後6時   ミサ聖祭

12月23日(金) 待降節の平日(2級)紫
          午前10時  ロザリオ及び告解
          午前10時半 ミサ聖祭 (←時間が変更となりました)

12月24日(土) 平日の主の御降誕の前日(1級)紫
          午前09時  洗礼式
          午前10時  ロザリオ及び告解
          午前10時半 ミサ聖祭

          午後09時  御降誕の朝課(グレゴリオ聖歌)
          午後11時半 幼きイエズスを馬小屋にお持ちする
12月25日(主) 午前 0時  「主の御降誕 真夜中のミサ」ミサ聖祭 (←追加されました)


【東京】東京都文京区本駒込1-12-5 曙町児童会館 「聖なる日本の殉教者巡回聖堂」

12月25日(主) 主の御降誕(1級祝日、八日間付き)白
          午前9時   ミサ聖祭「曉のミサ」(←時間が変更になりました。)
          午前9時45分 告解
          午前10時半 ミサ聖祭「日中のミサ」
          午後1時   クリスマス軽食会(食べ物は各自持参です)
          午後2時   クリスマス・キャロル
          午後2時半  御降誕の晩課(グレゴリオ聖歌)

12月26日(月) 最初の殉教者聖ステファノ(2級祝日)赤
          午前7時 ミサ聖祭


天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


聖なるロザリオの黙想【栄えの玄義】-2016年5月6日秋田巡礼にて シュテーリン神父様

2016年12月19日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2016年5月6日 秋田巡礼にて シュテーリン神父様の提案するロザリオの黙想をご紹介いたします。

栄えの玄義黙想(2016年5月6日 秋田巡礼にて シュテーリン神父様)
同時通訳:小野田圭志神父

『栄えの玄義 第1玄義:この一連を捧げて、主の復活し給いたるを黙想し、聖母の御取次ぎによりて信仰の徳を乞い願わん。』

天主の憐れみは無限です。しかしこの地上では、天主の憐れみは与えるには制限があります。何故ならば、この地上では全てのものは不完全であって、罪の汚れに汚れているからです。しかし天に於いては、天主の聖心は限りなく大きく開かれる事ができます。

天国では、私たちの全くの無を全て満たす事ができます。そのようなものが存在しうるという事も全く想像も考えもつかないような喜びが、天国に於いて与えられるでしょう。

天主の御憐れみが本当に何かは、栄えの玄義において表れます。

第1玄義においては、憐れみの勝利が、凱旋が表れます。

悪に打ち勝つのは、技術でもなければ、力でもなければ、能力でもありません。極みまで終わりなく続く愛であり、憐れみです。

復活の主日のその夜、イエズス・キリストが御復活されたその時、天主の最高の憐れみを受けました。主の御体は死んでいました。この体はすでにただ1つの傷だらけとなっていました。このキリストの死体はもう粉々になっていました。復活のその瞬間、イエズス様の霊魂は御肉体と合体し、また命を戻します。突然体が変化します。死んでいたイエズス様の御体は今、復活して生き始めます。かつて暗闇の勝利があったところに、光の勝利が存在します。

これが天主の憐れみであり、その聖心の宝の勝利です。天主の宝が、死んだ体に入り込みました。主はこうも言っています、「私は復活である。」何故ならイエズス様の復活は、私たちの復活を予告するものだからです。

私たちは、「死の屈辱」という事が何か知っています。私たちの体は腐敗します。私たちの罪の罰として。私たちの体は肉体は塵に戻ります。私たちの主はいつの日かまたもう一度やって来られます。私たちはその時に死者から復活します。私たちの主イエズス・キリストにいつも忠実である恵みを乞い求めましょう。という事は、その御母マリア様に忠実であるという事です。

そうしてイエズス様の屈辱に参与する事によって、栄光にも参与する事ができるからです。皆さんが今、イエズス様の苦しみに参与するように、そして死に参与するように、それと同じように私たちは、イエズス様の復活と栄光に参与するのです。



『栄えの玄義 第2玄義:この一連を捧げて、主の昇天し給いたるを黙想し、聖母の御取り次ぎによりて天国の福楽を深く望む心を乞い願わん。』

この昇天の日にはこの玄義を黙想します。御昇天の後、使徒たちは聖なるノベナ九日間の祈りをして、聖霊の来たり給うのを待ち望みました。彼らはマリア様の周りを取り囲みました。ちょうどマリア様が今、御像で何もお話しにならないように、マリア様は何も仰りませんでした。しかしマリア様は準備の中央に真ん中におられました。

イエズス・キリストがどなたかを理解する為には、マリア様を見るだけで十分でした。マリア様の御眼を拝見するだけで イエズス様の眼を見る事ができました。イエズス様の聖なる聖心を見つけ出すには、マリア様の御心に隠れる事で十分でした。

今日この最後の晩餐の高間で祈りをしている、マリア様を中心にお祈りしている弟子たちを見てください。ちょうどこの時にかつて使徒たちにマリア様が仰ったように、今日秋田でも皆さんに、マリア様は同じ事を仰っています、「ご覧なさい、御子は今天に昇られました。」昨日私たちは、イエズス様が昇天した時に多くの義人たちを連れて天国に凱旋したのを見ました。霊的に私たちは、天国で天使たちが喜び踊るのを見ました。永遠の王である主が天国に入るのを拝見しました。

マリア様は言葉を続けて言います、「ご覧なさい、我が子はあなたたちの為に、あなたの為にも、天国に場所を準備していますよ。私はここに留まって、あなたを天国に、あなたの場所に導く為にここに留まっています。この黄金の玉座の所にあなたを連れて行く為に。この黄金の玉座はまだ今空席であなたを待っていますよ。黄金の文字であなたの名前が書かれていますよ。あなたの守護の天使はこの玉座にあなたが座るのを待っていますよ。私に信頼しなさい。私が天からこの地に来たのは、その理由をよく分かっていますね。私はあなたの母です。お前の手を下さい。私はお前を天国に連れて行きましょう。私と共ならば何も恐れる必要はありません。私と一緒になら必ず勝利します。しかしいつもあなたの目の前に、御子によって準備された永久黄金の玉座を、いつも目の前に置いていなければなりません。」

「あぁ秋田のマリア様、天の元后よ、どうぞ私に天国をひたすら望む心を与えてください。この世はあっという間に過ぎ去ってしまう事を悟らせて下さい。悪しき情欲から私を取り離して下さい。私の手を取って下さい。私がどこかに行ってしまうのを許さないで下さい。」



『栄えの玄義 第3玄義:この一連を捧げて、聖霊の降臨し給いたるを黙想し、聖母の御取次ぎによりて聖霊の賜物を乞い願わん。』

マリア様は説明します、「聖霊が降臨された時には、使徒たちを愛の光と愛の火で満たすだろう」と。
「その時には1つの場所を見つけるでしょう。その場所に、その聖霊の場所に、愛を、全てを与えてください。何故ならば聖霊は、天主聖父と聖子の賜物であるからです。」

私たちが想像も及ばない賜物であって、贈り物であって、天主御自身です。天主の聖心の全ての宝です。天主の憐れみそれ自体です。天主が天主としてできる限り、際限もなく、できる限り終わりなく、この贈り物をこの賜物を与えたいと望んでいます。

しかし、私たちはそれを受けるに準備ができていません。この賜物は、「与えられたい」と思うのに、私たちのドアは固く閉ざされています。永遠の愛は、その賜物をカリスの中に注がれようとしているのですが、このカリスは汚物でいっぱいです。私たちの限度に従って、私たちの準備に従ってのみ天主は、この無限の賜物を部分的にしか与える事ができません。

しかし1つだけこのような心が存在します。この1つの心は天主に全く開かれていて、全人類の歴史上初めて、それが唯一、天主の賜物を受けた心でした。これには何の障害もありませんでした。罪も全くありません。ためらいもありません。ゴミもありません。全く天主に開かれて、全く空っぽになっています。純粋です。そして無原罪で汚れがありません。

そのこの心に、聖父と聖子から発出した聖霊が全くこれを満たすのです。全ての賜物によってこの心を満たします。天主の賜物の充満が与えられます。天主御自身によって。これが無原罪の聖母です。これがマリア様です。

今私たちの目の前で、この無原罪のマリア様は手を大きく広げています。何故なら聖霊は、マリア様の所で留まっているのを望まずに、マリア様を通して私たちへと来たいと、お恵みを与えたいと思っているからです。

「あぁ聖霊よ、私が御身を受け奉るのは、無原罪の聖母インマクラータを通してのみです。聖霊よ、無原罪の聖母インマクラータを通してのみ、私は聖徳と愛を受ける事ができます。聖霊よ、インマクラータを通してのみ、私は光と力を受ける事ができます。マリア様がいらっしゃる所には御身も在す。私はマリア様の前で跪きます。それは聖霊を受ける為です。そしてマリア様を通して罪の赦しを頂きます。マリア様を通して良き助言を頂きます。マリア様を通して聖霊は、私たちの絶え間ない助け手であります。マリア様に於いてのみ、聖霊は御身は慰め主です。また罪人の拠り所です。そして永遠の愛であります。」



『栄えの玄義 第4玄義:この一連を捧げて、聖母の被昇天を黙想し、その御取次ぎによりて善き終わりを遂ぐる恵みを乞い願わん。』

この地上で私たちの御母は泣き続けておられます。これは「マリア様が贖いの業に参与している」という事のシンボルです。ミサ聖祭において、イエズス・キリスト様がその祭壇において、御自分の十字架のいけにえをいつも捧げ続けているように、マリア様も十字架のもとに佇み、涙を流し続けておられます。
第2のアダムは第2のエヴァと共に、この世の終わりまで苦しみを捧げ続けるのです。

そして全く言い尽くす事のできない神秘によって イエズス・キリスト様は今天国におられ、マリア様と共に天国におられます。天国ではイエズス様とマリア様だけが栄光の肉体を持っておられます。何故ならば、イエズス様は昨日天に昇天されたからです。そしてマリア様は8月15日に、霊魂と肉体を共に天に上げられたからです。マリア様は今この現在この瞬間、何億何兆もの天使たちの間に囲まれているのです。そしてイエズス様と共にマリア様は全ての天使たちの喜びの源となっています。

そしてその中に於いてもそうであるにもかかわらず、マリア様はこの地秋田に来られて、私たちのもとにやって来て、両手を広げてこう言います、「我が子よ、覚えなさい、私は今天国にいますよ。私の周りにいる全ての天使、全ての聖人たちは皆幸せです。皆一緒にあなたを待っていますよ。」

「マリア様、御身は何千何万もの大聖人たちに囲まれて喜びの中にいるのに、私のような無に等しい私を思い出して下さるのですか?」

マリア様はこう答えます、「もしもこの今地上にいる全ての良い母親の心を一緒に皆一つに集めたとしても、そして天国にいる全ての良い母親たちの心を集めたとしても、そしてその全ての良い母が心を合わせてたった1人の子供を愛したとしても、私はこうはっきりと宣言します、『それよりも私はあなたをもっと愛しています。』 私はあなたの事を忘れる事ができません。私はあなたの母です。私はあなたの後をいつも追って行きます。私はあなたにたくさんの幸せを与えたくて待っています。」

「あぁ秋田のマリア様、私がこの事を、この地上での生活でこの死を以て全てが終わりではない、という事を忘れないように助けてください。この世の全ての事は死に導いています。この世の全てのものは腐ってしまいます。ちょうど美しい花々のようです。あぁ、美しい花々もしばらく後にはあとは捨て去られてしまわなければなりません。たとえ美しい花々も、後には汚くなって汚れて臭くなります。」

「だからおぉ我が子よ、この地上から目を離して私の方を見なさい。私はいつも新鮮な花です。私の所に来るならば、いつも命があります。私の方に来るならば、天国が待っています。この世が与える事ができない喜びを以て、あなたを慰めてあげましょう。」



『栄えの玄義 第5玄義:この一連を捧げて、聖母が天使と人類との元后に立てられ給いしを黙想し、その御取次ぎによりて永福の冠を乞い願わん。』

私は御身が戦いの真最中にいらっしゃるという事を知っています。今現在ほどその戦いが非常に険しい事がありませんでした。しかし戦いが厳しくなればなるほど、勝利が近づいています。しばらく後には永遠が待っています。この戦い、ものすごい戦いはすぐに終わるでしょう。

聖母はこう言います、「私は天地の元后であります。あなたは私の事を天地の元后だと讃美していますね。そしてこのロザリオを唱えながら私の戴冠式に与っています。天国は全て私のものです。天国にはもはや涙も戦いも悲しみもありません。

この地上はほんのつかの間です。このつかの間というのは何百年かも知れません。でも永遠の前では何でもありません。しかし私はあなたに慰めを与える為にこの地にやって来ました。それは『勝利はもうすぐだ』と宣言する為です。

私は約束します。最後に私の汚れなき御心は勝利するでしょう。今天国で凱旋をしているように、私に忠実な霊魂たちの心に於いて私は凱旋するでしょう。

私は約束します。悪魔の頭を永遠に永久に踏み砕きます。今はまだ最後の戦いが終わっていないのは、これはあなたが私をますます愛する為です。それはあなたが功徳をますますたくさん積む為です。あなたをますます聖とする為です。そしてますます良くする為です。

だから私はあなたにこの事をお願いします。私に従いなさい。私の事をいつも考えていなさい。いつも軍隊の指揮官を見ている良き兵士となりなさい。そして命令に従いなさい。何故なら、私はすでに勝利しているのですから、私の命令に従えば必ず勝ちます。たとえ朝昼祈っていたとしても、私の命令に従えないなら負けてしまいます。終わりまで忠実でありなさい、そうすれば栄光の冠を受けるでしょう。」

平和を告げる足は、なんと美しい事か。

2016年12月18日 | お説教・霊的講話
愛する兄弟姉妹の皆様、

2016年12月3日(初土)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2016年12月3日 初土曜日 証聖者聖フランシスコ・ザビエルのミサ
小野田神父 説教


聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。今日は2016年12月3日、聖フランシスコ・ザビエルの大祝日です。そしてまた今日は、マリア様の初土曜の信心を行う初土曜日です。今日の御ミサの後にはいつものようにを公教要理をする予定ですが、その前に少しだけ聖歌の練習もなさってください。そして公教要理は聖書について、聖パウロという人が本当に居た、聖パウロが自分の書簡を本当に書いたというこの証拠がどこにあるのか、という事を皆さんと一緒に黙想したいと思っています。


「平和を告げる足は、なんと美しい事か。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日は聖フランシスコ・ザビエルの大祝日です。聖フランシスコ・ザビエルは日本に初めてイエズス様の福音を伝えて下さった方です。約450年前に鹿児島に到着しました。ですから今日は特に、今では残念ながら火災で燃えてしまったのですけれども、広島には聖フランシスコ・ザビエルに捧げられたとても美しい大聖堂があって、それは非常に有名でした。

今日は聖フランシスコ・ザビエルの生涯を、どんな人生を送ったのかという事を黙想して、

一体何でそのような人生だったのかを考えて、

それから最後に私たちは、では私たちは聖フランシスコ・ザビエルに倣って、聖フランシスコ・ザビエルのように何かこの人生を有意義なものにする為には一体どんな事ができるか、遷善の決心を立てる事に致しましょう。

イエズス様がこの世に来られる前に、その御自分の福音を伝える為に先駆者を送りました。それは洗者聖ヨハネで、イエズス様が来たる、イエズス様の事を私たちがよく信じる事ができる為に、当時のユダヤの人たちが信じる事ができる為に準備する為に、霊魂を準備する為に、そして「天主の子羊はこの人だ。真のメシアはこの人だ。救い主はこの人だ」と指し示す事ができる為に、洗者聖ヨハネが送られました。洗者聖ヨハネは、「かつて女から生まれた預言者の中で、これほど偉大な者はない」と言われたほど立派な方でした。

日本の霊魂を救う為に、イエズス・キリストが真の救いである、という事を指し示す為に送られた新しい洗者聖ヨハネがいました。それが今日の聖フランシスコ・ザビエルです。

聖フランシスコ・ザビエルは1506年に、スペインのナバラという所のザビエル城の城主の御曹司として、そのとても地位の高いお城を継ぐ者として生まれてきました。そしてそのザビエルはとても健康でスポーツマンで、頭も良くて、家族の希望を担ってパリに留学しました、パリ大学で勉強しました。パリ大学で法学部にいて、法律を勉強して、そして弁護士になって将来は自分の城を継いで、そしてスペインの貴族の力ある貴族のうちの一人としてこの世を楽しむ、或いはこの権力をうまく使う事ができるように準備している予定でした。

パリ大学で勉強しているとソルボンヌで法律を勉強していると、その同じ下宿の部屋にいた友人がやはり、それもパリ大学の学生でした。彼は自分よりも年上で、やはりスペインの出身で、やはり貴族ですが、ザビエルよりはもっと下の貴族の人でした。ロヨラ家のやはり御曹司で、イグナチオといいました。イグナチオは司祭になろうとして神学の勉強をしていました。

一生懸命フランシスコ・ザビエルが法律の勉強をして、法律を覚えたり、暗記したり、判例を覚えたりなどと、ラテン語に取り組んだりしているのを見て、イグナチオはある日言ったのです、「フランシスコや、お前は一生懸命勉強をしているけれども、一体何の為に勉強しているのか?霊魂を失ったら一体、この世全てをもうけたとしても一体何の益になるのか?霊魂の事を考えよ。永遠の命を考えよ」と言いました。

「何だ、永遠の命なんて。はっ俺はザビエル城の御曹司だぞ」と答えたものの、後でよく考えてみると祈りをしてみると、「確かにそうだ。大きなお城をもらっても、この世を支配しても、たとえこの世の君主となったとしても、この地上の全世界の王となったとしても、たかだか数十年の人生だ。この世の富、この世の快楽、それが一体何だ。あっという間に過ぎてしまう。永遠のものを、変わらないものを求めなければならない。」祈って、考えて、祈って、考えて、フランシスコ・ザビエルは結局、イグナチオについて行く事にしました。そして自分も一緒にイグナチオの道を、やはり永遠の命の事の為に全てを使いたいと思ったのでした。

そしてイグナチオの指導のもとに、「霊操」という黙想をして30日の黙想をして、そしてイグナチオと一緒にイエズス会の創立メンバーとなりました。8月15日にモンマルトルの丘でイエズス会士として入会する決心を立てるのです。

そして、イエズス会の一員としてたまたまイグナチオの近くに、ローマに来てイグナチオのそばに居た時がありました。ちょうどその時、イグナチオはポルトガルの王様から命じられて、「今インドで司祭が必要としている。そこで是非、イグナチオに司祭を送ってもらいたい」という要請がありました。本当は聖イグナチオは別の司祭をインドに送る予定だったのですけれども、その司祭がその時病気で行く事ができなくなってしまいました。そこで近くに居たフランシスコに、「フランシスコ、インドに行って、イエズス様に対する愛の火に燃え立たせて、火を点けに行け」と言うと、「はい」と言って、そのままインドに行く事になりました。

その後聖フランシスコ・ザビエルは、敬愛するイグナチオを見る事はありませんでした。
すぐにポルトガルに行って、リスボンの港からインドに旅立ちました。教皇様の特別の特使としてその代理として、インドに旅立ちました。そのインドに旅立ったのが1542年の事でした。インドに行くと、多くの人々をキリストの命に導いて、洗礼の水によって超自然の命に生み出しました。中には権力のある君主や王様たちも聖フランシスコ・ザビエルによって洗礼を受けました。聖フランシスコ・ザビエルは一生懸命インドの言葉を勉強して、公教要理を教えたりしました。奇跡も行いました、死者を蘇らせた事もありしました。中でも有名なものは、もう既にその前の日から亡くなって埋葬された人に、その死者に、蘇るように、墓から出て来るように命令した事がありました。実際その死者が本当に墓から出て来てしまって蘇って、多くの人々はその奇跡に感嘆して、信仰の恵みを受けました。

そんな聖フランシスコのもとに日本人がやって来ました。そして日本の事を聞くと、「ぜひ日本に来て、イエズス様の事を教えて頂きたい。」その聖フランシスコのもとで洗礼を受けたその弥次郎と一緒に、日本に行く事にします。長旅でしたが、聖フランシスコ・ザビエルは1549年8月15日、聖母の被昇天の時に、日本の霊魂たちをマリア様のように天国に導く為に、鹿児島に到着しました。その到着の日がマリア様の被昇天の大祝日だったので、「これはマリア様の特別の御恵みだろう」と聖フランシスコ・ザビエルは確信しました。

聖フランシスコ・ザビエルはそこで、「是非イエズス・キリストの真の信仰を、超自然の命を、永遠の命の事を、真の救い主の事を、日本の方々に知ってもらいたい。その為にはぜひ天皇陛下に会って、天皇陛下にも知ってもらいたい」と思いました。そこで冬の寒い中を裸足で、その足からは血を流しながら、雪の中を京都まで歩いて行きました。

残念ながら天皇陛下はその時に力がなくて、武家の時代で戦国時代で、全く京都は荒廃していて荒れていて、天皇には何もする事ができなかったので、そのまままた九州に戻りました。そして特に山口で大名に、教皇様の代理として宣教をするという特別の許しを受けて、そこを拠点に宣教します。

日本にはほんの3年宣教する事ができました。1549年から51年、日本にずっといた訳ではなくて、インドにも時々行きました。

ある時日本の方が、「本当に立派な方で、立派な宣教師で、確かにキリスト様の教えは本当に素晴らしい。でももしもこの教えが本当ならば、なぜ中国の人々は信じていないのか?」と非常に単純な質問をすると、「あぁ、そうか。では日本の人が信じる事ができる為ならば、私は中国に行って、中国の人にイエズス様の事を話しをしよう。そうしたら日本の方も簡単に信じる事ができるだろう。」そして中国に行く計画を立てます。

しかし中国に行くその手前の小さな島で、中国行きの船を待っていました。ある時中国の商人がやって来て、「あぁ、お金をくれればその船に乗せて、大陸に送って行ってあげよう」と、お金を払うと、「いつ何日何日に船を準備するから、その時まで来てほしい」と言われて、そしてフランシスコ・ザビエルはその日を待ってました。その日を待って、待っていたのですけれども、約束の中国の人はやって来ませんでした。

遂に病気になって、1552年12月2日、聖フランシスコ・ザビエルは病の為に、天主様に御自分の霊魂を一人で、一人ぼっちで忘れられて、そしてあたかも捨てられたように、そして天国に霊魂を返します。

フランシスコ・ザビエルが亡くなっているのを見た中国の人たちは、それをその当時の土着に習慣に従って、穴を掘って遺体を埋めて、そしてその遺体に熱い熱湯を注いで、早く腐敗が進むように、そして埋葬しました。

埋葬された後に、聖フランシスコ・ザビエルからあまり連絡がないので心配したイエズス会の人たちは、インドからやはり使者を送って、「一体どこにいるのか」とすると探してみると、ようやく聖フランシスコ・ザビエルは亡くなってここに埋葬されたという事を知ります。そしてその埋葬のお墓の所を掘ってみると、彼の聖フランシスコ・ザビエルの遺体はそのまま腐らずに、生き生きとしてあたかも眠っているかのようにそのままありました。

すぐに遺体はインドのゴアに運ばれました。ゴアには1554年、2年後に到着して、それ以後ずっとゴアに、聖フランシスコ・ザビエルの遺体がまだ今でも腐らずに残っています。

私もインドに行った機会があって、今から20年ほど前です。その聖フランシスコ・ザビエルの遺体のすぐその所にある祭壇でミサを捧げる事ができました。聖フランシスコ・ザビエルの右手は、多くの人々に何千人何万人もの人々に洗礼を授けた右手は、イエズス会の本部のローマのジェズ教会に右手だけ置かれました。右手は今もローマのジェズ教会にあります。東京の聖マリアカテドラル大聖堂には、ドイツのケルン教区から、聖フランシスコ・ザビエルの聖遺物の一部が寄贈されました。聖人のもう一つの手は、日本に送られるためにマカオに持ってこられましたが、日本は当時迫害の最中だったので、今でもそのままマカオにあるそうです。

一体、聖フランシスコ・ザビエルは何故わざわざ日本まで来て、何故そしてまた中国まで行こうとして、そして寒さの中で12月に凍えて貧しく捨てられたかのように、裏切られて命を失っても、何故そこまでしたのでしょうか?もしもナバラのザビエル城で悠々自適にいたら、おいしい物も食べたし、おいしいワインを飲んで、温かく、一生を面白おかしく過ごしたかもしれないのに、何故ここまでしたのでしょうか?

聖フランシスコ・ザビエルの1つの唯一の気がかりは、唯一の願いは、「霊魂が天国に行く」という事でした。そして自分の霊魂を救う事だけではなく、「多くの霊魂たちが真の救い主を知って、そして多くの霊魂たちをできるだけ多く天国に救いたい、天国に導きたい。」ただそれだけに自分の人生を送りたかったのでした。そしてその為に、「多くの霊魂たちを天国に導く為であれば、自分のお城も、財産も、名誉も、それは塵芥だ。何でもない」と思っていました。

考えてみてください。もしも私たちが製薬の研究をして特別の薬を発見して、心筋梗塞を治す薬とか、或いはガンを治す薬とか、或いはもう不治の病と言われているようなものを特効薬を発見したとしたら、そして発明してそれをもう安く、数十円で皆さんがする事ができるようにして、そして命を救うとしたら、私たちはどれほど多くの人々から、「あぁ、ノーベル賞ものだ。」「あぁ、すごい発明をした。」そして感謝されるに違いありません。

聖フランシスコ・ザビエルは日本の霊魂たちを、日本にいる霊魂たちを、インドにいる霊魂たちを、単なる彼らに数十年長生きをさせようとしたのみならず、「永遠の命を与えよう」と思ったのでした。「天国に連れて、天国に導きたい」と思ったのでした。このイエズス様の福音を告げる足はどれほど美しい事でしょうか。

その以後、日本では多くの大名たちがキリシタンとなって、イエズス・キリストを知る事ができました。そして今の日本では考えられないほどの多くの方々がキリシタンとなって、教会が建てられて、そして病院が建てられて、学校が建てられて、キリスト教の文明が、印刷物ができたり、合唱ができたり、老人ホームができたり、多くの事業が日本で活動されていました。残念ながらそれは迫害によって潰されてしまいましたけれども、しかし多くの霊魂たちはそれによって天国に導かれました。

では私たちはこの聖フランシスコ・ザビエルの人生を見て、どのような決心をしたら良いでしょうか?

まず私たちも、イエズス・キリストの御教えを、そして永遠の命への道を知らされた事を感謝致しましょう。聖フランシスコ・ザビエルをはじめ、多くの宣教師の方々のその努力と、犠牲と、その愛の業に感謝致しましょう。洗者聖ヨハネから始まって、イエズス様のその教えを伝えて下さった多くの方に感謝致しましょう。そして私たちも、できれば多くの方々が永遠の命に導かれますように、何かする事ができますように、そのお恵みを乞い求めましょう。

私たちは持っているものを打ち払って、インドや中国やアフリカに行く事ができませんが、しかし祈りによって、犠牲をする事によって、多くの霊魂を救う事ができます。多くの霊魂にお恵み与える事ができます。この事をファチマのマリア様は、「初土曜日の信心をするように」と教えてくれました。このことを実はファチマの3人の子供たちはやっていました。3人の子供たちは世界中に行った宣教師ではなかったのですけれども、しかし多くの霊魂を、その祈りと日々の義務を忠実に果たす事によって、苦しさを捧げる事によって、多くの霊魂を救う事ができました。

ですから私たちは聖フランシスコ・ザビエルに倣って、多くの霊魂を救う為に、私たちの祈りと犠牲を捧げる事に致しましょう。初土の信心をよくする事に致しましょう。聖フランシスコの御取次ぎによって、私たちの祖国の同胞たちが兄弟姉妹たちが、イエズス様を知り、愛し、そしてイエズス様に忠実に従い、そして遂には天国に導かれますようにお祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

"Immaculate Conception" by Fr. Laisney SSPX : 英語版「無原罪の御宿り」聖ピオ十世会司祭 レネー神父様

2016年12月18日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様の「無原罪の御宿り」の【英語原文】をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

Immaculate Conception


Divine Providence had postponed the full light on the dogma of the Immaculate Conception until the 19th century because more than ever this Dogma was important for our modern times. Modern man thinks that he does not need God, that his natural reason is sufficient for all. By contrast the Immaculate Conception reminds us that we were born with the original sin, and still have the four wounds of sin. Hence, we NEED the grace of our Lord Jesus Christ.

When we contemplate the immaculate beauty of our Lady, we understand better our sinfulness: one sees more one’s darkness when put close to the full whiteness. But far from discouraging us, this contemplation also shows the power of the grace of our Lord Jesus Christ and therefore lifts our soul with confidence that, yes, God is capable and most willing to save us from sin and sanctify us, as St Peter says: “he hath given us most great and precious promises: that by these you may be made partakers of the divine nature: flying the corruption of that concupiscence which is in the world” (2 Pet. 1:4).

The more one considers his human condition, the more evident it becomes that we are but little creatures: we did not establish the laws of gravity, the laws of physics, the laws of the atom, the laws of life. Scientists find these laws; they do not make them; and no one can escape them. We depend on the sun for light and warmth; we depend on the rain for farming and on the availability of food and on so many things. We are tiny little creatures, on a tiny planet, in a tiny solar system in one of the millions of galaxies of the world. Hence we burst in admiration with the psalmist: “What is man that thou art mindful of him? or the son of man that thou visitest him?” (Ps. 8:5). Yet God would not be God if He did not know ALL things, all what He has made, including these little tiny human creatures on that tiny planet Earth. As creatures we DEPEND on our Creator: He did not only set all things in motion, giving them a start; but He also conserves them in existence, and is the Prime Mover, the One who guides them by His laws to their proper actions for the common good of the universe.

From our condition of creatures flows a double dependence on God: we depend on Him for our existence, our being: all what is good in us comes from Him and relies on Him as on its First Cause. We also depend on him for our actions: we could not move our little finger without the First Mover: unless indeed He would give us our strength, our health we would be paralysed. Sometimes we only realise this dependence when God withdraws His gifts, and in sickness we become unable to do what we had taken for granted before.

Some people do not like to hear the Church speaking about “dependence on God”, they feel that it detracts from the “dignity of man”, but such fear is most unreasonable and only manifests a great pride. Indeed does the fact that a baby is dependent on his mother hurt the baby? Not at all! And a baby is much happier in his mother’s arms than left alone! So are we so much greater and better when we are in God’s arms. Why? Precisely because God is the source of all goodness: everything good in us comes from God; God really cares about us, and thus it is good for us to be and live in that dependence on God, in God’s arms, on His heart!

But these people would say: “we are Free! Hence we should be free from God! Dignity of man consists in this freedom!” Here we touch the very heart of sin: pride; such pride blinds the mind by giving a wrong understanding of true freedom. Humility goes with truth: to put ourselves at the right place, according to truth. Thus our Lord Jesus Christ, the King of Kings, could say: “Take up my yoke upon you, and learn of me, because I am meek, and humble of heart: and you shall find rest to your souls” (Mt. 11:29-30). Why is He humble? He is true God and true man: as man he fully acknowledged the dependence of His human nature upon the Divine nature; that acknowledgement went with obedience to the commandment of the Father who asked that He would immolate Himself on the Cross for our salvation (see Jn. 10:18). Tough command! But precisely by this obedience He became the Redeemer of the world!

To understand true freedom, it is good to consider that all material creatures, from the largest galaxy to the smallest sub-particle in atoms perfectly obey the commandments that God has set to them: gravity, electromagnetism, etc. There is not a single particle in the whole universe that does not perfectly follow the laws of God. But you might say: they are not free; they obey out of necessity. Indeed. Yet their obedience makes the beauty of that material creation, from the beauty of a sunset, to the beauty of a flower, beauty of a rainbow, etc. But God has created spiritual creatures, and endowed them with freedom, so that they may obey out of love and not out of necessity. And this is even more beautiful, when we obey God out of love. But it is most important to remember that God did not give us freedom in order to disobey His Law, but in order to obey His law out of love.

Sin is precisely this refusal of submission to God, refusal of obedience to God’s Law, refusal of the truth of our being creatures. This rebellion against God is summed up in the shout of Satan: “I shall not serve!” (Jer. 2:20). And how many people today repeat this shout of rebellion! Such rebellion is the cause of all the sufferings and evils that afflict mankind: selfishness, violence, thefts, murders, all kinds of uncleanness, and the sicknesses of the body that follow, etc.

But it is foolishness to think that we could escape God’s law. Indeed St Augustine says: either you obey and you will be rewarded according to the Law of God, or you disobey and you will be punished still according to the law of God. It is not possible that God would leave the last word to evil; He is Goodness, and will restore the order broken by sin. Thus all sins must come under the order of God, either the order of mercy or the order of Justice: God gives us the choice: either we punish ourselves here below by penance and true conversion, and then He will spare us in the next world, or we stubbornly refuse to return to Him here below and then He will punish us in the next world. So it is utter foolishness to rebel against God, but such is the blindness caused by pride!

Now the Immaculate Conception is the opposite of pride: by the fullness of grace she received from the beginning of her conception, she fully submitted to God’s Law and always strove to practice it with the most perfect humility, which is manifest is her answer to the Angel: “Behold the handmaid of the Lord; be it done to me according to thy word” (Lk. 1:38). And this is the reason why she has been exalted above all others, as our Lord said times and times again: “everyone that exalteth himself, shall be humbled; and he that humbleth himself, shall be exalted” (Mt 23:12, Lk. 14:11, 18:14).

Grace is the remedy for sin, and the antidote for sin. It always goes with willingly and lovingly submitting ourselves to God, acknowledging our dependence upon Him, acknowledging the truth of our place with regards to Him: first of all the truth of our past sins, which we – by the grace of God – detest from the depth of our heart and for which we are willing to make reparation. That submission to God leads us to faith, which is the submission of the intelligence to the revealed word of God; it also leads us to hope by which we rely on His help and follow His path with docility in order to reach eternal life; and it finally leads to charity, by which we fully submit our will and all our love to Him, giving to God the very first place in our heart: we do not let any earthly consideration interfere and keep us from Him.

Such willing submission to God does not take away freedom at all, on the contrary: it makes us free from sin, free from slavery to earthly attractions and bonds, free from evil that can no longer reach our soul – and even if our body suffers, that grace of God transforms these sufferings in great gems of love with tremendous reward, as St Paul says: “For I reckon that the sufferings of this time are not worthy to be compared with the glory to come, that shall be revealed in us” (Rom. 8:18).

We see that in our Lady: by her fullness of grace, our Lady was perfectly subject to God: that did not suppress her liberty at all: she always most willingly did what pleased God. Obedience to God is not against liberty: this is one of the great misconceptions of the modern world. On the contrary loving obedience implies first light in the intelligence that sees what is right and love in the will that wants to do it. Disobedience to God on the contrary implies the rejection of light in the intelligence and evil will – pride – in the will. By disobedience to God one becomes slave of sin.

God is Supreme; hence God’s liberty is supreme and subject to none. We are creatures and therefore subject to God; hence our liberty is that of a creature, which therefore is not its own rule, but receive its ultimate rule from God. But it is good for us to be obedient to God! Our obedience does not profit to God, who cannot become better or happier: it profits to us and to our fellow men, as it is evident in our Lady, who became Queen of Heaven and earth for her greater happiness and our greater benefit – all of this turns into the Glory of God: that glory does not make God better in Himself, but it is the shining of His Wisdom in His creatures. That glory of God makes His creatures happy, of an eternal happiness! The Immaculate Virgin manifests the power of grace by the sublime elevation of the perfection she was given, above all angels and saints in Heaven! Hence she inspires us with a great confidence in the grace of our Lord Jesus Christ. She has become the channel of grace for us, Mediatrix of all graces.

The power of grace is also visible when God has mercy on great sinners such as St Mary Magdalen transforming them into great saints. But whether God loves innocent souls like the Blessed Virgin, whether He loves sinners like Mary Magdalen, He always wants to make them saints! Precisely because He is merciful, God does not want us to remain in sin but rather He wants to heal our souls from sin, so that we live no more in sin. This is what our Lord Jesus Christ said to the woman taken in adultery: “Neither will I condemn thee. Go, and now sin no more” (Jn. 8:11). Jesus also said to a cripple whom He healed at the pool of Bethsaida: “Behold thou art made whole: sin no more, lest some worse thing happen to thee” (Jn. 5:14). Luther and today’s modernists such as Cardinal Kasper forget this admonition of our Lord: “Sin no more!” The result is: the sinners remain in their sins, and thus cannot go to Heaven! Hence Luther’s “salvation by faith alone” is very much opposed to salvation. Kasper’s mercy is very much opposed to God’s mercy: both are deceivers, leaving the sinners in their sins and thus leading them to Hell.

Our Lady is Immaculate and she is the Mother of Mercy; she has received mercy from God to the highest degree, precisely in this that she was redeemed in a higher mode, being preserved from all sin. Her Immaculate Conception manifests to us that the Mercy of God would never leave one in sin, the Mercy of God is so opposed to sin that God’s masterpiece is completely preserved from sin! She has received mercy and in turn she now distributes the Mercy of God to us: but being Immaculate, she would not leave us in the dirt of sin; she rather removes us from sin. Which mother would see her child in the mud, in the mire of sin, and leave him there? No! She rather will clean us, will “washed their robes [=their souls], and have made them white in the blood of the Lamb” (Apoc. 7:14).

Now all the marvellous graces that made our Lady Immaculate and that heal and sanctify countless sinners, all these graces come from the Sacrifice of our Lord Jesus Christ on the Cross: this is the supreme manifestation of the Mercy of God. The Son of God took upon Himself the penalty due to our sins, paid off our debt to the Father, and obtained for us all the graces of sanctification. This is how far God’s love for us has gone! Now that Sacrifice is offered daily on our altars, and hence the Holy Sacrifice of the Mass is the channel of God’s mercy. There, the sinner obtains the grace of repentance; after our Lord’s death on the Cross, St Luke notes that “all the multitude of them that were come together to that sight, and saw the things that were done, returned striking their breasts” (Lk. 23:48). Striking their breast, they were touched by the grace of God, having attended the Supreme Sacrifice!

In that Sacrifice was offered “the pure Victim, the Holy Victim, the Immaculate Victim” as the Roman Canon says: the Immaculate Victim is the Body and Blood of our Lord Jesus Christ. And it is the source of all immaculate life: it cleanses the souls and keeps innocence. Our Lady Immaculate was Immaculate in order to be a worthy receptacle of our Lord on the day of the Incarnation; she was also Immaculate in order to be fully united with Him as the Immaculate Victim. She is thus deeply united with the Holy Sacrifice of the Mass.

Being thus cleansed in the Blood of the Lamb each time deeper at every Mass, we are prepared for everlasting life in Heaven, where “there shall not enter into it anything defiled, or that worketh abomination or maketh a lie, but they that are written in the book of life of the Lamb” (Apoc. 21:27).

May the Immaculate Virgin obtain this grace for all of us! Amen.

「無原罪の御宿りについて」:聖ピオ十世会司祭 レネー神父様

2016年12月17日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様の霊的講話「無原罪の御宿りについて」(日本語訳)をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


2016年12月11日 待降節第3主日―大阪 
霊的講話 「無原罪の御宿りについて」


天主の御摂理は、無原罪の御宿りの教義に対して全てを明らかにする光を当てるのを、十九世紀まで延期しました。その理由は、この教義が私たちの生きている現代世界にとってかつてないほど重要だったからです。現代人は、自分たちに天主は必要ないと思っており、すべてのことに対して人間の自然の理性で十分だと思っているのです。それに反して、無原罪の御宿りは、私たちが原罪を持って生まれ、いまだに罪の四つの傷を持っているということを私たちに思い起こさせます。そのため私たちには、私たちの主イエズス・キリストの恩寵が必要なのです。

聖母の無原罪の美しさを観想すると、私たちは自分の罪深さをより一層理解します。完全な白さのそばにいるとき、人は一層自分の闇を見るのです。しかし、この観想は私たちをがっかりさせるどころか、また私たちの主イエズス・キリストの恩寵の力を示し、それゆえに、天主が本当に私たちを罪から救い、私たちを聖化してくださるという確信で私たちの霊魂を上げるのです。それについて聖ペトロはこう言います。「私たちに尊い偉大な約束が与えられた。それは、欲情が世の中に生んだ腐敗からあなたたちを救い上げ、天主の本性にあずからせるためであった」(ペトロ後書1章4節)。

私たちが自分の人間としての条件を考察すればするほど、私たちはちっぽけな被造物にすぎないことが一層明らかになります。私たちが、重力の法則、物理の法則、原子の法則、命の法則をつくり出したのではありません。科学者たちはこれらの法則を発見しますが、彼らがそれらの法則をつくるのではありません。そして、誰もそれらの法則から逃れることはできません。私たちは光と温かさを太陽に依存しています。私たちは農業では雨に依存し、入手できる食べ物に依存し、非常に多くのことに依存しています。私たちは、この世にある何百万という銀河のうちの一つにある小さな太陽系の中の、小さな惑星に住む、ちっぽけな被造物でしかありません。ですから、私たちは詩篇作者とともに、感嘆の気持ちを抑えることができません。「あなたが御心にとめられるこの人間とは何者か。あなたが心を配られるこの人の子とは何者か」(詩篇8章5節)。でも、天主がすべてのことを知らなかったとしたら、この小さな惑星である地球上にいるこれらの人間というちっぽけな被造物を含め、ご自分のつくられたすべてのものを知らなかったとしたら、その天主はとうてい天主とは言えません。被造物として、私たちは私たちの創り主に依存しています。創り主はすべてのものに運動を与えて開始させただけでなく、また、すべてのものの存在を保っておられます。ですから創り主は第一動者であり、宇宙の共通善のために、天主の法によって被造物が適切な動きをするよう、被造物を導いておられるお方です。

私たちの被造物としての条件から、私たちが天主へ二重に依存していることが導かれます。私たちは、自分の存在を、自分の実在を天主に依存しています。私たちの中にある良いものはすべて天主からやって来るのであり、その第一原因として天主に依存しています。私たちはまた、自分の行動についても天主に依存しています。第一動者がいなければ、私たちは自分の小指一本さえ動かすことができなかったことでしょう。実際、天主が私たちに力強さや健康をお与えにならなかったなら、私たちは体が麻痺してしまうでしょう。時たま、天主がこの賜物を取り去られたときに、 私たちが病気になり、それまではできて当然と思っていたことが自分でできなくなったときにやっと、私たちはこの天主への依存に気付くのです。

「天主に依存していること」についての教会の教えを聞きたがらない人々がいます。彼らはそれが「人間の尊厳」を損なうと感じているのですが、そんな恐れは最も不合理であり、大変な傲慢を表しているだけです。実際、赤ん坊が母親に依存しているという事実が赤ん坊を傷つけるでしょうか? まったくそんなことはありません! 赤ん坊はむしろ母親の腕の中にいる方が、一人にされるよりもずっと幸せです! ですから、私たちも天主の腕の中にいるときの方がより偉大で、より良いものとなるのです。なぜでしょうか? まさに、天主はすべての善の源であるからです。私たちの中にあるすべての良いものは天主から来ます。天主は本当に私たちについて気にかけてくださっており、そのため私たちは、天主に依存して、天主の腕の中で、天主の御心に触れて、天主への依存のうちに生きることが私たちにとって良いことなのです。

しかし、その人々はこう言うでしょう。「私たちは自由だ! だから私たちは天主から自由であるべきだ! 人間の尊厳は、この自由にあるのだ!」。ここで私たちはまさに罪の核心に触れます。傲慢です。そのような傲慢は、まことの自由の間違った理解によって精神を盲目にしてしまいます。謙遜は真理と結びついています。つまり謙遜とは、真理によって、自分自身を正しい場所に置くことです。ですから、王の中の王である私たちの主イエズス・キリストは、こうおっしゃることがおできになりました。「私は柔和で謙遜な者であるから、くびきをとって私に従え。そうすれば霊魂は休む」(マテオ11章29-30節)。主はなぜ謙遜なのでしょうか? 主はまことの天主でありかつまことの人間でいらっしゃいます。主は人間として、ご自分の人間の本性が天主の本性に依存していることを、完全にお認めになりました。それをお認めになったことが、私たちの救いのために主がご自身を十字架上で犠牲にするよう命じられた御父の命令への従順へと結びついたのです(ヨハネ10章18節参照)。それは大変な命令でした! しかし、まさにこの従順によって、主は世の贖い主となられたのです!

まことの自由を理解するためには、物質的な全被造物、最も大きな銀河から最も小さな原子の中の素粒子に至るまで、天主がそれらに定められた命令、すなわち重力や電磁力などに完全に従っていることを考察するのは良いことです。全宇宙にある素粒子の中で、天主の法則に完全に従うことのないものは一つとしてありません。しかし、皆さんはこうおっしゃるかもしれません。それらの物質的被造物は自由ではなくて、必要に迫られて従っているのだ、と。実際そうです。でも、その従順がそれらの物質的被造物の美しさをつくり出します。夕日の美しさから、一輪の花の美しさや虹の美しさなどです。しかし、天主は霊魂を持つ被造物をつくられ、彼らに自由を授けられました。それは、彼らが必要に迫られてではなく、愛のために従うようにです。ですから、私たちが愛のために天主に従うとき、それは一層美しいものとなるのです。しかし、最も重要なのは、天主は、私たちが天主の法に不従順になるように私たちに自由をお与えになったのではなく、愛のために天主の法に従順になるように私たちに自由をお与えになったということを覚えておくことです。

罪はまさにこのように天主への服従を拒否することであり、天主の法への従順を拒否すること、私たちが被造物であるという真理を拒否することです。天主に対するこの反乱は、次のサタンの叫びに要約されています。「私はもうお仕えしない」(エレミア2章20節)。そしてこんにち、どれだけ多くの人々がこの反乱の叫びを繰り返していることでしょう! そんな反乱が、人類を苦しめるすべての苦難や悪の原因です。自己中心、暴力、盗み、殺人、あらゆる種類の不潔、そのあとに続いて起こる体の病気などです。

しかし、私たちが天主の法から逃れることができると考えるのは、ばかげたことです。実際、聖アウグスティノは言っています。「人は従順に生きることによって天主の法に基づいて報いを受けるか、もしくは、不従順に生きることによってやはり天主の法に基づいて罰を受けるかのどちらかしかない」。天主が悪に最終決定をさせることはあり得ません。天主は善そのものであり、罪によって台無しになった秩序を回復されるのです。こうして、すべての罪は天主の秩序のもとに、あわれみの秩序か正義の秩序のどちらかのもとに、服従せねばなりません。天主は私たちに選択権をお与えになっています。私たちがここ地上で、悔悛とまことの回心によって自分自身を罰し、次の世で天主に寛大に扱っていただくのか、あるいはここ地上で天主に戻ることを強情に拒否し、次の世で天主に罰せられるか、のいずれかです。ですから、天主に反乱を起こすことは全くばかげたことですが、それこそが傲慢によって引き起こされる盲目の状態なのです!

さて、無原罪の御宿りは傲慢の反対です。ご自分の受胎の始まり以来受けられた恩寵の充満によって、聖母は天主の法に完全に服従され、いとも完全な謙遜をもって、常にその法を実践するよう努められました。その謙遜が明らかになったのは天使へのお答えでした。「われは主のつかいめなり。仰せのごとくわれになれかし」(ルカ1章38節)。そしてこういうわけで、主が何度も何度も繰り返して「すべて自ら高ぶる者は下げられ、自らへりくだる者は上げられる」(マテオ23章12節、ルカ14章11節、18章14節)と言われたように、聖母は他の全てにまさって高く上げられたのです。

恩寵は罪のための薬であり、罪のための解毒剤です。進んで愛のために天主に自ら服従し、私たちが天主に依存していることを認め、天主と私たちの上下関係の真理を認めることと、恩寵とは常に結びついています。第一に、私たちの過去の罪という真理です。私たちは過去の罪を、天主の恩寵によって、心の底から嫌い、進んでその償いをするのです。天主へのこの服従が私たちを信仰へと導きます。なぜなら信仰は、知性を啓示された天主のみ言葉に服従させることだからです。天主への服従はまた、私たちを希望へと導きます。私たちは希望によって天主の御助けを信頼し、永遠の命へと至るために天主の道に素直に従うのです。そして最後に、天主への服従は私たちを愛徳へと導きます。私たちは愛徳によって自分の意志とすべての愛を天主に完全に服従させ、自分の心の中の最高の場所を天主に捧げるのです。つまり、この世的な考えに邪魔をさせたり、天主から私たちを離させたりしないのです。

そのように進んで天主に服従することが、自由を取り去ってしまうことは全くありません。その反対です。天主への服従は、私たちを罪から自由に、この世の魅惑や束縛への奴隷状態から自由に、悪から自由にするのです。そうして悪はもはや私たちの霊魂へ近づくことができなくなるのです。私たちの体が苦しみを受ける時にさえ、天主の恩寵はその苦しみを驚くべき報いとともに愛という素晴らしい宝石に変えるのです。聖パウロが「今の時の苦しみは、私たちにおいて現れるであろう光栄とは比較にならないと思う」(ローマ8章18節)と言うように。

私たちはそれを聖母に見るのです。聖母は恩寵の充満によって、完璧に天主に服従されました。それが聖母の自由を抑圧したのでは決してありません。聖母は常に、自ら進んで天主をお喜ばせすることをなさいました。天主への従順は自由に反しているのではありません。これは現代世界の大きな誤解の一つです。その反対に、従順を愛することは、まず、何が正しいかを判断する知性における光と、その正しいことをしたいという意志における愛を暗示しています。またその反対に、天主への不従順は、知性における光の拒否と、意志における悪意-傲慢-を暗示しています。天主への不従順によって、人は罪の奴隷となるのです。

天主は至高の存在であり、そのため天主の自由は至高であって何物にも従いません。私たちは被造物であり、それゆえ天主に従います。そのため、私たちの自由は被造物の自由であり、それゆえにこの自由は自分自身の規則ではなく、天主から最終的な規則を受けるのです。しかし、私たちにとっては天主に従順であることが良いことです! 私たちの従順が天主に益を与えるのではありません。天主はより良くなったりより幸せになったりすることはおできにならないからです。従順は、聖母において明らかなように、私たちや私たちの仲間の人間に益を与えるのです。聖母は、聖母ご自身のより大いなる幸せと私たちのより大きな益のために、究極的には天主の栄光のために、天と地の元后となられたのですから。その天主の栄光は、天主ご自身の善をさらに増すのではなく、被造物における天主の知恵の輝きなのです。その天主の栄光は 被造物に幸せを、永遠の幸せをもたらすのです! 無原罪の聖母は、天のすべての天使や聖人を超えて、自らに与えられた完徳という崇高な高みに上げられたことよって、恩寵の力をお示しになります。聖母は私たちのための恩寵の経路に、すべての恩寵の仲介者になられたのです。

恩寵の力はまた、天主が聖マリア・マグダレナのような重い罪を犯した罪びとたちをあわれんで偉大な聖人たちに変えられるときに、目に見えるものとなります。しかし、天主が童貞聖マリアのような無垢な霊魂たちを愛されようとも、マリア・マグダレナのような罪びとを愛されようとも、天主は常に彼らを聖人にしたいとお望みです!  天主はまさにあわれみ深いお方であるがゆえに、私たちが罪にとどまるのでなく、むしろもう罪に生きることのないよう罪から霊魂を癒やすことをお望みです。私たちの主イエズス・キリストが姦淫の罪を犯した女に言われたのは、このことです。「私もあなたを罰しない。行け、これからはもう二度と罪を犯さぬように」(ヨハネ8章11節)。イエズスはまた、ベトサイダの池で癒やした足なえにこう言われました。「どうだ、あなたは治った。さらに悪いことが起こらぬように、もう二度と罪を犯すな」(ヨハネ5章14節)。ルターやカスパー枢機卿のようなこんにちの近代主義者たちは、主のこの訓戒「二度と罪を犯すな!」を忘れています。その結果はこうです。罪人は罪にとどまり、そのため天国へ行くことはできません! ですから、ルターの「信仰のみによる救い」は、救いの全く反対です。カスパー枢機卿のあわれみは、天主のあわれみとは全く反対です。どちらも欺く者であり、罪びとをその罪にとどまらせ、それによって彼らを地獄へと導くのです。

聖母は無原罪であり、あわれみの御母です。聖母は天主から最も高い段階に至る御あわれみを、正確に言えばあらゆる罪を免れてより高い様式で贖われるという御あわれみを受けられました。聖母の無原罪の御宿りは、天主の御あわれみが決して人を罪にとどまらせることはないこと、天主の御あわれみが全く罪と反対であるために天主の傑作である聖母は完全に罪から免れているということを、はっきりと示しているのです! 聖母は御あわれみを受けられたので、今度は聖母が今、私たちに天主の御あわれみを分配なさっています。しかし、無原罪であるため、聖母は罪の泥の中に私たちを放っておかれはしません。聖母はむしろ、私たちを罪から離されます。泥の中に、罪のぬかるみの中にいる子どもを見て、いったいどんな母親がそこに子どもを放っておくでしょうか? 放っておくはずがありません! むしろ聖母は私たちを清め、「小羊の血で服[霊魂]を洗って白く」(黙示録7章14節)なさるでしょう。

さて、聖母を無原罪とし、数えきれないほどの罪びとを癒やし、聖化するすべての驚くべき恩寵、これらすべての恩寵は、私たちの主イエズス・キリストの十字架上の犠牲から来るのです。ここにこそ、天主の御あわれみが最も明確に示されています。天主の御子は私たちの罪による罰を自ら引き受けられ、私たちの負う負債を御父にお返しになり、私たちすべてのために聖化の恩寵を取り成してくださいました。私たちへの天主の愛は、これほどまでのものなのです! いまやその犠牲は私たちの祭壇で毎日捧げられており、そのため、ミサの聖なる犠牲が天主の御あわれみの経路なのです。そのミサにおいて、罪びとが悔い改めの恩寵を得るのです。十字架上での私たちの主の死ののち、聖ルカは「これを見に集まった人々も起こったことを見て、みな胸を打ちながら帰って行った」(ルカ23章48節)と記しています。彼らは胸を打ちながら、最高の犠牲にあずかったことで、彼らに天主の恩寵が触れたのです!

その犠牲において、ローマ典文が言うように、「清いいけにえ、聖なるいけにえ、汚れなきいえにえ」が捧げられました。汚れなきいけにえは、私たちの主イエズス・キリストの御体と御血です。そしてこのいけにえは、すべての汚れなき命の源なのです。このいけにえは霊魂を清め、無垢の状態を保ちます。汚れなき聖母は、ご托身の日に主を受けるにふさわしくあるために汚れなきお方でした。聖母はまた、汚れなきいけにえとして主と完全に一致するために汚れなきお方でした。こうして聖母は、ミサの聖なる犠牲と深く一致しておられるのです。

こうしてすべてのミサで毎回さらに深く小羊の血で清められて、私たちは天国の永遠の命に入る準備をしているのです。天国には「清くない者、いとわしい者、偽る者は誰もここに入れない。ただ小羊の命の書に書かれている者だけが入る」(黙示録21章27節)のですから。

無原罪の聖母が私たちみなのためにこの恩寵を取り成してくださいますように! アーメン。

"On the differences between the new Mass and Traditional Mass" by Fr. Laisney SSPX

2016年12月17日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様のお説教、「新しいミサと聖伝のミサの違いについて」の【英語原文】をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

On the differences between the new Mass and Traditional Mass


My dear brethren,

St John the Baptist is the greatest prophet, because to him it was given to point to the Messiah: this is HE! The words St John used are most remarkable: “Behold the Lamb of God, behold him who taketh away the sin of the world” (Jn. 1:29). The Lamb, that is, the victim of the sacrifice: He takes away the sins of the world by His Sacrifice, by the Sacrifice of the Cross once for all, which is applied to us by the Sacrifice of the Mass.

The Sacrifice of the Mass does not detract from the Sacrifice of the Cross, nor does it multiply the Sacrifice of the Cross, yet each Mass is truly a Sacrifice, as it was defined at the Council of Trent. The best way to grasp – a little only – this great mystery is to consider the other mystery of the Real Presence of our Lord Jesus Christ: our Lord has only one Body, and yet each consecrated Host is truly the Body of Christ, without multiplying it, yet without any diminution. Already in the report of the martyrdom of St Andrew, his words are recalled: “We have an altar , whereon day by day I offer up to God, the Almighty, the One, and the True, not the flesh of bulls nor the blood of goats, but an immaculate Lamb and when all they that believe have eaten of the Flesh Thereof, the Lamb That was slain abideth whole and liveth.”

From the earliest times, the Church has taught that the Mass was a sacrifice. St Augustine calls it “the sacrifice of the Body and Blood of the Lord.” Hence Holy Communion is not a common meal, but it is rather the “partaking of the body of the Lord” and “communion of the blood of Christ” (1 Cor. 10:16), as St Paul himself says. Thus the priest presents the Body of Christ to the faithful before communion with the very words of St John the Baptist: “Ecce Agnus Dei - Behold the Lamb of God, behold him who taketh away the sin of the world” (Jn. 1:29). Holy Communion is eating the victim of the Sacrifice of the Cross, the Lamb of God, the very body and blood of our Lord Jesus Christ.

Now the Protestants do not believe in the Real Presence of Christ in the Holy Eucharist, and consequently they do not believe in the Mass as a true Sacrifice of propitiation and they do not believe in the special power of the priest to consecrate, i.e. to transubstantiate, that is, to completely change the substance of the bread into the Body of Christ and the substance of the wine into the Blood of Christ. In their communion service, they eat and drink mere bread and wine, and they merely remember the Last Supper and the Sacrifice of the Cross; their meal is merely presided by a minister, who has not been properly ordained. Thus these are the three most important dogmas that relate to the Mass and that the Protestants do not believe: the Real Presence, the Mass as a true and propitiatory Sacrifice, and the need of a properly ordained priest.

Now when the modernists changed the Mass in the 1960s, they had asked six Protestant ministers to be observers in the committee that prepared the New Mass. At the end of the work of that committee, they were photographed with Pope Paul VI and the other members of the committee: the six Protestants were in the front row with the Pope, while the Catholic members of the committee were in the background. This photograph was on the front page of the “Documentation Catholique”, official publication of the French bishops on 3rd May1970. Though they did not vote in the final decisions, yet they did talk freely with the other members of the committee and they let them know what they did not like in the Catholic Mass. Bugnini, who was the very secretary of that committee, had said in 1965 that the purpose of the liturgical reform was “to take off even the shadow of a stumbling block for our separated brethren.” Hence it is not surprising that in the new Mass many ceremonies that manifested the three dogmas mentioned above were suppressed or greatly reduced.

For instance, in the Canon of the traditional Mass, there are 25 signs of the Cross. In the New Mass, there is only one: that is 96% signs of the cross taken away! Why were there so many? Because they were pointing to the victim of the Cross. Thus when the priest was saying: “we offer Thee the pure victim, the holy victim, the immaculate victim”, he was making three signs of the cross over the matter of the sacrifice, pointing out to that victim. All these signs have been removed, even in the first Eucharistic prayer.

Because the Church believes in the Real Presence of Christ in the Eucharist, the priest adores our Lord and marks this adoration by genuflections both before and after each time he takes the host. Hence you have ten genuflections in the traditional Mass. Only three remain, if they are still done, in the New mass: that is 70% removed!

More grievously, the offertory has been denatured. In the traditional Mass, the priest offers in anticipation the Body and Blood of our Lord Jesus Christ. In the new mass, he merely offers bread and wine. This is a huge difference!

Traditionally the priest says offering the paten: “Receive, O Holy Father, Almighty and eternal God, this spotless victim – that can only mean our Lord Jesus Christ, not mere bread – this immaculate victim, which I, Thine unworthy servant, offer to Thee, my living and true God, to atone for my numberless sins, offenses and negligences; on behalf of all here present and likewise for all faithful Christians living and dead – the sacrifice is offered for the souls in Purgatory –, that it may profit me and them as a means of salvation to life everlasting. Amen.”

Then offering the chalice, the priest says: “We offer Thee, O Lord, the chalice of salvation, humbly begging of Thy mercy that it may arise before Thy Divine Majesty, with a pleasing fragrance, for our salvation and for that of the whole world. Amen.” Though at that moment, there is yet only bread on the paten and wine in the chalice, it is clear that the Church offers by anticipation the Body and Blood of Christ, into which the bread and wine will be soon changed.

These beautiful prayers, full of doctrine, have now been suppressed. They have been replaced by two prayers, in which they now “offer bread, fruit of the earth and work of human hands” and “offer bread/wine, fruit of the earth and work of human hands”. Let it be said emphatically: if the Mass were the offering of mere bread and wine, it would be worthless! It would not be greater than the Old Testament which now is of no avail. On the contrary, St Thomas Aquinas says: “For, the sacrifices of the Old Law contained only in figure that true sacrifice of Christ's Passion, according to Heb. 10:1: For the law having a shadow of the good things to come, not the very image of the things. And therefore it was necessary [for the perfection of the New Law] that the sacrifice of the New Law instituted by Christ should have something more, namely, that it should contain Christ Himself crucified, not merely in signification or figure, but also in very truth.” So the object of the Sacrifice – what we offer – is not a mere figure like bread and wine in the Old Testament, it is rather the very body and blood of our Lord Jesus Christ. It is worth to note that the expression “work of human hands” is used eight times in the Holy Scripture, each time to designate… idols! Thus it is written: “The idols of the gentiles are silver and gold, the works of human hands” (Ps. 113:12). It is, to say the least, incongruous to use as the object of the offering an expression that designates idols in the Scriptures.

Protestants offer bread and wine; we Catholics offer “the Sacrifice of the Body and Blood of the Lord”. Protestants only make commemoration of the Sacrifice of the Cross; Catholic actually offer the Sacrifice of Christ, which He has given to His Church as St Augustine says beautifully, so that she – the Church – may learn to offer herself with Him .

Similarly the “placeat” prayer at the end of Mass has been removed. It said: “May the tribute of my worship be pleasing to Thee, most Holy Trinity, and grant that the sacrifice which I, all unworthy, have offered up in the presence of Thy Majesty, may be acceptable to Thee, and through Thy mercy obtain forgiveness for me and all for whom I have offered it. Through Christ our Lord. Amen.” To remove such a prayer is again to silence the truth of the Sacrifice.

Another very important change is communion in the hands. Though it is theoretically only an exceptional permission, it has practically spread everywhere, and is sometimes imposed. Communion in the hand is NOT traditional at all. Even if it had been done at the beginning of the Church, it is not what the Church has transmitted to us. Why? Because it was done with such great faith in the real presence of our Lord, that led the Church to adore the Eucharist: it is that Faith of the early Church manifested in the adoration of Communion on the tongue and kneeling down, that the Church has transmitted to us. Because they believed, they adored; and they passed on to us both the faith in the Real Presence together with its adoration in Communion kneeling down. St Augustine says: “Not only I do not sin if I adore [our Lord in the Blessed Sacrament], but I sin if I don’t.” So adoration was not optional.

It was the heretics who later re-introduced communion in the hands without adoration because of their unbelief. So one wonders why on earth have the modernists asked six heretics to take part in the preparation of a new mass! This introduction of communion in the hand has led countless souls to the loss of faith, not only among the faithful but perhaps even more among the priests. Many modern priests today no longer believe in the real presence. Why? Because they did not adore our Lord, because of all the lack of respect they show daily to our Lord in the Blessed Sacrament. Communion in the hands leads to the loss of faith and therefore must be avoided absolutely. I never gave it in the hand and never will. I never received it in the hand and never will.

Another common abuse today is the distribution of the Blessed Sacraments by laypersons, and even by women. St Thomas says that it belongs to the same person to consecrate this sacrament and to distribute it. This is the reason why the hands of the priests are specially anointed with holy oil as part of the ordination rite. It is so true that the hands of the priests are anointed that, when a priest is grievously sick, he receives the anointing of the sick on the outside of the hand and not on the inside like the faithful, because the inside of his hands has already been anointed. And the two fingers, thumb and index, are specially anointed because they are the fingers that touch the Holy Eucharist.

Another common abuse today is altar girls. This practice was never, absolutely never done before, and was forbidden until 1997, when John Paul II gave in the pressures of the modernists. This blurs the distinction between priest and layperson: the altar boy at the foot of the altar fulfils the role of an acolyte, which is one of the minor orders, that is, a step towards the priesthood. Now by divine institution, the priesthood is reserved for men: our Lord Jesus Christ chose only men for His twelve apostles, because the Sacrifice of the Cross is also the mystical marriage of Christ with His Church: our Lord on the cross is the groom of the Church, which, as the new Eve, is born of the open side of the new Adam. Our Lady stands at the foot of the cross, as the New Eve, representing the whole Church, and to her our Lord gives the beloved apostle as her child, manifesting the fruitfulness of this mystical marriage: all the beloved disciples throughout history are born of this most mysterious union of Christ and His Church, fruitful unto everlasting life!

There are very many other items that have changed between the traditional Mass and the new Mass; and all these changes are in the same direction: to suppress the many prayers and actions that manifest the Faith of the Catholic Church in these three dogmas: 1/ the real presence of Christ in the Holy Eucharist, 2/ the fact that the Mass is a true and propitiatory Sacrifice, the Sacrifice of the Body and Blood of the Lord, and 3/ the fact that there is need of an truly ordained priest to offer that Sacrifice. One could mention the fact that the altar stone has become optional; in many instances lay-persons distribute the Blessed Sacrament, even women; the grievous fact that the Blessed Sacrament is now often removed from the main altar and put aside in a corner, or even in another room; the removal of prayers mentioning what the world does not like, such as penance, hell, mortification, despising earthly things, etc.

St Thomas explains that there are two acts of Faith: the interior act by which we adhere to the revealed truth and the exterior act by which we profess that faith. As St Paul says: “With the heart we believe unto justice; but with the mouth, confession is made unto salvation” (Rom. 10:10). Now the systematic diminution of the profession of faith leads to a state of tepidity and of weakness , in which one is not ready to stand up in case of scandal: then when such scandal happens, many fall and actually lose the faith, because they had failed to profess it. In the Mass, the lack of respect towards the Blessed Sacrament leads many to such weakness, and then if they are witness to a greater scandal, one is inclined to say: “it does not matter, it is just bread”: if one says that, one has lost the faith! And how many did actually lose the Faith in this way?

No, the New Mass is not the same as the Traditional Mass. There is a huge difference! Cardinals Ottaviani and Bacci had written to Pope Paul VI: “the Novus Ordo represents, both as a whole and in its details, a striking departure from the Catholic theology of the Mass as it was formulated in Session XXII of the Council of Trent. The “canons” of the rite definitively fixed at that time provided an insurmountable barrier to any heresy directed against the integrity of the Mystery.”

If we want to keep the faith of all times, we must also keep the solemn expression of that faith in the Liturgy of all times, and above all in the Mass of all times. Fidelity to the traditional Faith of the Catholic Church, fidelity to the traditional morals of the Church, the morals of the Saints, fidelity to the Traditional Mass is deeply connected. We must keep the three inseparably.

May the faithful Virgin, standing at the foot of the Cross, help all of us to remain faithful to the Holy Sacrifice of the Mass in its traditional liturgy, which is the greatest treasure of the Church, so that one day we may deserve to enjoy its fruits for ever in Heaven! Amen.



「新しいミサと聖伝のミサの違いについて」:聖ピオ十世会司祭 レネー神父様

2016年12月15日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様のお説教 「新しいミサと聖伝のミサの違いについて」(日本語訳)をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2016年12月11日 待降節第3主日―大阪 
お説教「新しいミサと聖伝のミサの違いについて」

親愛なる兄弟の皆さん、

洗者聖ヨハネは最も偉大な預言者でした。なぜなら、「これがあの方です!」とメシアを指し示す役割が彼に与えられたからです。聖ヨハネが使った言葉は非常に注目に値します。「天主の小羊を見よ、世の罪を取り除き給う御者を見よ」(ヨハネ1章29節)。この小羊はすなわち、犠牲のいけにえです。彼は自らの犠牲によって、一度限りの十字架の犠牲によって、世の罪を取り除きます。そしてこの犠牲が、ミサの犠牲によって私たちへ効力を及ぼすのです。

ミサの犠牲は十字架の犠牲を減らすことなく、十字架の犠牲を増やすこともありませんが、トレント公会議で定義されたように、一つ一つのミサはまことの犠牲です。この偉大なる神秘をほんの少しでも理解するのに最もよい方法は、私たちの主イエズス・キリストの現存というもうひとつの神秘を考察することです。主は御体を一つだけお持ちです。でも、聖別されたひとつひとつのホスチアは、まことにキリストの御体であり、増やすことはなく、減らすこともありません。すでに聖アンデレの殉教の報告の中の彼の言葉が思い起こされます。「私たちは一つの祭壇を持っている(ヘブライ13章10節参照)。そこで日ごとに私は、全能にして唯一のまことの天主に、牡牛の肉でもなく山羊の血でもなく、汚れなき小羊を、信じるすべての人々がその肉を食べたとき、すべての人の中に住みかつ生きるほふられた小羊を捧げている」(11月30日の聖務日課、第5朗読)。

最も初期の時代から、ミサは犠牲であると教会は教えてきました。聖アウグスティノはそれを「主の御体と御血の犠牲」(『詩編注解』33章5節)と呼びます。ですから、聖体拝領は普通の食事ではなく、聖パウロ自身が言うように、むしろ「主の御体にあずかること」であり、「キリストの御血にあずかること」(コリント前書10章16節)です。ですから司祭は、まさに洗者聖ヨハネの次の言葉で、聖体拝領の前に信者にキリストの御体を提示します。「Ecce agnus Dei-天主の小羊を見よ、世の罪を取り除き給う御者を見よ」(ヨハネ1章29節)。聖体拝領は、十字架の犠牲のいけにえ、天主の小羊、私たちの主イエズス・キリストの御体と御血そのものをいただくことです。

さて、プロテスタントの人々は、ご聖体におけるキリストの現存を信じていません。ですから、その結果として、彼らはまことのなだめの犠牲としてのミサを信じておらず、司祭の持つ聖別するという特別な力、すなわち全実体変化させる特別な力、つまりパンの実体をキリストの御体に変化させ、ぶどう酒の実体をキリストの御血に変化させる力を信じていません。ですから彼らの聖餐式では、彼らはパンを食べぶどう酒を飲み、最後の晩餐と十字架の犠牲を単に記念しているだけであり、彼らの食事は単に、正しく叙階さていない牧師が司式しているだけのものです。そういうわけで、次の三つが、ミサに関してプロテスタントの人々が信じていない最も重要な教義です。ご聖体における主の現存、まことの犠牲でありかつなだめの犠牲としてのミサ、正しく叙階された司祭が必要であること―です。

さて、近代主義者が一九六〇年代にミサを変更したとき、彼らはあらかじめ六人のプロテスタントの牧師に、新しいミサを準備する委員会のオブザーバーになるよう依頼していました。その委員会の作業の終わりに、彼らは教皇パウロ六世や委員会の他のメンバーとともに写真に納まりました。六人の牧師は教皇とともに第一列にいましたが、委員会のカトリックのメンバーは後方にいました。この写真は、一九七〇年五月三日発行のフランスの司教団の公式出版物である「ドキュマンタシオン・カトリック」の表紙を飾りました。彼らは最後の決定において投票はしませんでしたが、委員会の他のメンバーと自由に討議し、カトリックのミサの中で彼らが好ましく思わないものを他のメンバーに伝えました。その委員会のまさに書記だったブニーニはすでに一九六五年に、典礼改革の目的は「私たちの分かれた兄弟たちのつまずきの石となるものの片鱗さえも取り除くこと」であると言っていました。ですから、新しいミサにおいて、前に述べた三つの教義を明白に表明する多くの儀式が廃止されるか、あるいは大きく減らされているのは、驚くには当たりません。

例えば、聖伝のミサの典文の中には、二十五回の十字架のしるしがあります。新しいミサの中には一つしかありません。つまり、十字架のしるしの九六%が取り除かれたのです! なぜ、それほどたくさんあったのでしょうか。なぜなら、十字架のしるしは十字架のいけにえを指し示していたからです。ですから、司祭が「われら…は、この清く、聖く、汚れなきいけにえ…を捧げ奉る」と言っているとき、司祭は犠牲の質料の上で三つの十字架のしるしをし、そのいけにえを指し示していたのです。これらのしるしはすべて、(新しいミサの)第一奉献文においてさえも削除されました。

教会はご聖体におけるキリストの現存を信じていますから、司祭は主を礼拝し、ホスチアを持つ前後に毎回ひざまずきによってこの礼拝を示します。ですから、聖伝のミサには十回のひざまずきがあるのです。新しいミサでは、まだひざまずきが行われているとしたら、残っているのは三つだけです。つまり、七〇%が削除されているのです!

さらに深刻なことには、奉献文がその本質を変えられてしまっています。聖伝のミサにおいて、司祭は私たちの主イエズス・キリストの御体と御血になることを予期しながら奉献します。新しいミサにおいては、司祭は単にパンとぶどう酒を奉献するだけです。これは大変な違いです!

聖伝においては、司祭はパテナを奉献しつつこう言います。「聖なる父、全能永遠の天主よ、不肖の下僕である私が、活けるまことの天主に捧げるこの汚れなきいけにえ-それは単なるパンではなく、間違いなく私たちの主イエズス・キリストを意味しています-を受け入れ給え。私の数知れぬ罪と侮辱と怠りのため、また、ここに列席する人のため、そして、生きる者、死んだ者-犠牲は煉獄の霊魂に捧げられます-、すべてのキリスト者のために、これを御身に捧げ奉る。願わくは、これを、私と彼らの永遠のたすかりに役立つものとならせ給え。アーメン」。

その後、カリスを捧げながら司祭はこう言います。「主よ、われらは、たすかりのカリスを御身に捧げ、御慈悲に願い奉る。願わくは、これが、甘美な香りを放ちつつ、われらと全世界の救いのために、主の天主なる御稜威の御前に立ち上らんことを。アーメン」。その瞬間は、まだパテナの上にはパンしか、カリスの中にはぶどう酒しかありませんが、教会は、パンとぶどう酒がまもなくキリストの御体と御血に変化することを予期しながら奉献していることは明らかです。

教理に満ちたこれらの美しい祈りは、削除されてしまっています。それらの祈りは今では、「大地の実り、人の手のわざであるパンを捧げ【日本語では、[ここに供えるパンはあなたからいただいたもの、大地の恵み、労働の実り、わたしたちのいのちの糧となるものです]】」、「大地の実り、人の手のわざであるパン/ぶどう酒を捧げ【日本語では、[ここに供えるぶどう酒はあなたからいただいたもの、大地の恵み、労働の実り、わたしたちのいのちの糧となるものです]】」という二つの祈りで置き換えられました。はっきり言いましょう。もしミサが単なるパンとぶどう酒を捧げるものだったとしたら、それには価値がありません! 今では当てはまらなくなっている旧約以上のものにはなりません。その反対に、聖トマス・アクィナスはこう言います。「なぜなら、ヘブライ書10章1節『実に律法は実在の姿ではなく、将来の恵みの時の影である』によれば、旧約の律法による犠牲は、キリストの御受難によるまことの犠牲を、形だけ内包したものであった。それゆえに、キリストによって制定された新約の律法による犠牲は[新約の律法を完成させるために]、さらに大いなるものを持つべき必要がある、すなわち、十字架につけられたキリストご自身を、しるしや形においてだけでなく、真理そのものにおいて内包すべき必要がある」。そのため犠牲の対象物-私たちが捧げるもの-は、旧約におけるパンとぶどう酒のような単なるしるしではなく、むしろ私たちの主イエズス・キリストの御体と御血そのものなのです。「人の手のわざ」という表現は、聖書の中で八回、いずれも、なんと偶像を示すのに使われていることを記しておくことは価値があります!(詩編113章12節、134章15節、列王下19章18節、歴代下32章19節、知恵13章10節、イザヤ37章19節、バルク6章50節、6章51節)例えばこう書かれています。「異邦人の偶像は金銀で、人の手のわざ」(詩篇113章12節)。奉献の対象物として、聖書で偶像を示す表現を使うことは不釣り合いと言わざるを得ません。

プロテスタントはパンとぶどう酒を捧げます。私たちカトリックは「主の御体と御血の犠牲」を捧げます。プロテスタントは十字架の犠牲の記念をするだけです。カトリックは実際にキリストの犠牲を捧げます。主はこれを、聖アウグスティノが美しく言うように、教会が主とともに自分を捧げることを学ぶよう、教会にお与えになったのです(「神の国」10巻20章参照)。

同様に、ミサの終わりにある「placeat」の祈りも削除されています。その祈りはこう言いました。「聖なる三位一体よ、下僕なる私の聖役を嘉し給え。不肖の私が、あえて御稜威の御前に捧げ奉ったこのいけにえを喜び給い、御慈悲によって、私と、私がこれを捧げたすべての人々のために喜納せられるものとならせ給わんことを。われらの主キリストによりて。アーメン」。その祈りを削除することもまた、犠牲という真理を沈黙させることなのです。

もう一つの重要な変更は、手による聖体拝領です。理論上は例外的な許可であるにすぎないにもかかわらず、実際にはあらゆるところへ広がってしまっており、時には強制されています。手による聖体拝領は決して聖伝にはありません。たとえ最も初期の教会の時に行われていたとしても、教会が私たちに伝えてきたものではありません。なぜでしょうか? なぜなら、聖体拝領は主の現存を信じる非常に強い信仰をもって行われたのであり、そのことが教会を御聖体の礼拝に至らしめたからです。教会が私たちに伝えてきたのは、ひざまずいて舌の上にご聖体を受けるという礼拝によって明白に表明した初期の教会の信仰なのです。彼らは信じたからこそ、礼拝したのです。そして初期の教会が私たちに伝えたのは、ひざまずいてご聖体を受けるという礼拝とともに、主の現存への信仰なのです。聖アウグスティノはこう言います。「私は[ご聖体にまします主を]礼拝するならば罪を犯さないだけでなく、礼拝しないならば罪を犯すのである」。ですから、礼拝は任意のものではなく、義務だったのです。

のちになって礼拝ぬきの手による聖体拝領を再導入したのは異端者たちでした。それは彼らの不信仰のせいでした。ですから、人が本当に不思議に思うのは、近代主義者たちがなぜ、六人の異端者に新しいミサの準備に参加するよう依頼したのかです! この手による聖体拝領を導入したことは、数えきれない霊魂を信仰の喪失に至らせました。一般信者の間でだけでなく、おそらく司祭の間ではもっとだったでしょう。こんにちの多くの司祭たちは、もはや主の現存を信じていません。なぜでしょうか? なぜなら、彼らは主を礼拝しなかったからです。彼らがご聖体にまします主に示す敬意がまったくないからです。手による聖体拝領は信仰の喪失に至らせるのですから、それゆえに絶対に避けなければなりません。私はこれまで決してご聖体を手に授けませんでしたし、これからも決してそうするつもりはありません。私はこれまで決してご聖体を手で受けませんでしたし、これからも決してそうするつもりはありません。

こんにち一般化した乱用の一つは、平信徒がご聖体を配ることです。男性だけでなく女性でさえも配っています。聖トマスは、この秘蹟を聖別するのとそれを配るのは同じ人物が行うべきであると言っています。これが、叙階式の典礼の一部として、司祭の両手に特別に聖なる油が塗られる理由です。司祭の両手が塗油されていることは全き真実ですから、司祭が重い病気になった場合、司祭の両手の内側はすでに塗油されているため、平信徒のように手の内側ではなく、手の外側に病者の塗油を受けるのです。さらに、司祭の親指と人差し指の二本の指は、ご聖体に触れる指であるため、特別に塗油されているのです。

こんにち一般化した乱用のもう一つは、女性の侍者です。これは、以前は決して絶対に行われていませんでしたし、一九九七年までは禁じられていました。ところがこの年にヨハネ・パウロ二世が近代主義者の圧力で譲歩したのです。これは、司祭と平信徒の区別をぼかしてしまいます。男性の侍者は祭壇の下で侍祭の役割を果たしますが、この侍祭は下級聖職の一つ、すなわち司祭職へ上げられる段階の一つなのです。さて、天主の御制定によって、司祭職は男性に留保されています。私たちの主イエズス・キリストは十二使徒に男性だけをお選びになりました。それは、十字架の犠牲は、キリストとキリストの教会との神秘的結婚でもあるからです。十字架上の主は教会の花婿でいらっしゃり、教会は新しいエバとして、新しいアダムの開かれた脇腹から生まれるのです。聖母は、新しいエバとして、全教会を代表して十字架の下にお立ちになり、聖母に対して主は、愛された使徒を聖母の子どもとしてお与えになり、この神秘的結婚が(子どもを得るという)実りが豊かであることを表明します。全歴史を通じて愛された弟子たちはみな、キリストとキリストの教会のこのいとも神秘的な結合、豊かな実りから永遠の命へと至る結合から生まれるのです!

他にも、聖伝のミサから新しいミサの間で変更されてしまった非常に多くの点があります。そしてこれらの変更はすべて、同じ方向性を持っています。それは、次の三つの教義におけるカトリック教会の信仰を明白に表明する多くの祈りや動きを廃止するということです。1)ご聖体におけるキリストの現存、2)ミサがまことのかつなだめの犠牲であり、主の御体と御血の犠牲であるという事実、3)その犠牲を捧げるためのまことに叙階された司祭が必要であるという事実-です。他の変更点を挙げるとすれば、祭壇石が任意のものとなってしまったこと、多くの場合に平信徒が、女性でさえもご聖体を配るということ、ご聖体が今やしばしば中央祭壇から移動させられて隅や他の部屋にまで追いやられているという深刻な事実、悔悛や地獄、苦行、この世のことを軽んじるなど、世が好ましく思わないことについての祈りが削除されたことなどです。

聖トマスは、信仰には二つの行いがある、と説明しています。啓示された真理に従う内的な行いと、その信仰を告白する外的な行いです。聖パウロが言うように、「人は心で信じて義とせられ、言葉で宣言して救いを受ける」(ローマ10章10節)。さて、信仰の告白を組織的に減らすと、生ぬるさや弱さの状態に至ります(「神学大全」第二部の第一部、第53問、第3項参照)。そのような状態では、人はつまずきがあったとしても、それに対抗する準備ができていません。そのあとに、本当にそのようなつまずきが起これば、多くの人が堕落し、実際に信仰を失います。なぜなら、その人たちは信仰を告白しなかったからです。ミサにおいて、ご聖体への敬意がないことは、多くの人をその弱さに至らせ、そのあと彼らがもっと大きなつまずきを目撃すると、「たいしたことではない、それは単なるパンにすぎないから」と言いがちになってしまいます。もしそう言うとすれば、その人は信仰を失ってしまったのです! このようにして、どれほど多くの人が実際に信仰を失ったでしょうか?

いいえ、新しいミサは聖伝のミサと決して同じものではありません。とてつもなく大きな違いがあります! オッタヴィアーニ、バッチ両枢機卿は教皇パウロ六世に対して、こう手紙で書きました。「(ミサの)新しい式次第は、全体としても部分においても、トレント公会議の第二十二総会において決議されたミサに関するカトリック神学から驚くほど逸脱しています。その時、最終的に定められたこの典礼の『典文』は、(ミサの)神秘の完全性に対して向けられたあらゆる異端に対しても乗り越えられない防壁をつくったのです」。

私たちが全時代の信仰を守りたいと思うなら、私たちはまた、全時代の典礼、とりわけ全時代のミサにおける信仰の荘厳な表現も守らなければなりません。カトリック教会の聖伝の信仰に忠実であること、聖人たちの道徳である教会の聖伝の道徳に忠実であること、聖伝のミサに忠実であることは、互いに深くつながっています。私たちはこの三つを切り離さず守らなければなりません。

十字架の下に立ち給う忠実な童貞(信実なる童貞)が、教会の最も偉大なる宝である聖伝の典礼によるミサの聖なる犠牲に忠実であり続けるよう、私たち全員を助けてくださいますように。その結果、いつか私たちが天国で永遠にその実りを楽しむにふさわしい者となりますように! アーメン。

カトリック教会の4名の枢機卿から教皇フランシスコへの公開書簡:「アモーリス・レティチア」における結び目を解く要請

2016年12月13日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

四名の枢機卿たちが教皇フランシスコに提出した、「アモーリス・レティチア」における結び目を解く要請を日本語でご紹介します。

ラ・サレットの聖母の祝日である2016年9月19日、カトリック教会の四名の枢機卿たちがフランシスコ教皇と教理聖省長官のミュラー枢機卿とに書簡を書き送りました。それは、「アモーリス・レティチア」(仮訳:愛の喜び)のカトリックの道徳に関する部分を良く理解することが出来るように求めるためでした。

しかし、残念ながら、その回答がなかったために、枢機卿たちはこの手紙を公開しました。この手紙は、四部から成り、公開の理由を説明する「必要な前書き」、「四名の枢機卿たちの教皇への手紙」、「五つの疑問“Dubia”」、最後に「四名の枢機卿による疑問の説明」です。

ここでは、最初の三部を日本語で紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


1. 必要な前書き

四名の枢機卿たちによってフランシスコ教皇聖下へ書簡を送るのは、深い司牧の配慮からであった。
私たちは、多くの信徒たちが教会の生命に関する極めて重大なことに関して、重大な方針の誤りと大きな混乱とを抱いていることを認知した。司教団の中でさえも「アモーリス・レティチア」(仮訳:愛の喜び)の第八章の解釈に、対照的な違いがあることも認知した。
教会の偉大な聖伝は、私たちにこのような状況から抜け出す方法は、方針の誤りと混乱の原因であるこれらの疑問を解いてもらうことを使徒座に求めつつ教皇様により頼むことであると教えている。
従って、私たちの手紙は正義と愛徳との業である。
正義の業:この手紙によって私たちはペトロの聖務は一致の聖務であり、信仰において兄弟達を固める奉仕は教皇に属している、ということを告白しているからである。
愛徳の業:私たちは、教会における分裂と対立とを避けるために、全ての曖昧さを取り除いて下さるように頼んで教皇を助けることを望んでいるからである。

私たちは特別の義務を遂行した。教会法349条によると、枢機卿たちは、個人個人であっても、普遍教会の世話をする教皇の職務を助けることが委ねられている。
教皇様は、これに答えないことを選ばれた。私たちは教皇様の決定を、静かに尊敬を込めて考察し議論し続けるように、との招きであると解釈した。
そこで、私たちは天主の全ての民に私たちのしたことを伝え、文書を全て提示している。
この事柄を「進歩主義 対 保守主義」の枠組みによって解釈することを誰一人として選ばないように私たちは期待している。そのような解釈は、全く当を得ていない。私たちは、霊魂の本当の善に、深く気を遣っている。霊魂の善こそが教会の最高の法である。私たちの関心は、教会内の如何なる政治を推進させることではない。

誰一人として私たちを、不当に、教皇様の敵で憐れみのない人間であるかのように裁かないことを、私たちは期待する。私たちがしたこととしていることは、私たちをして教皇と一致させる深い団体としての愛情から、そして信徒たちの善を気遣う情熱とから来ている。

ヴァルター・ブラントミュラー枢機卿 + Card. Walter Brandmüller
レイモンド・バーク枢機卿 + Card. Raymond L. Burke
カルロ・カファラ枢機卿 + Card. Carlo Caffarra
ヨアキム・マイスナー枢機卿 + Card. Joachim Meisner


2. 四名の枢機卿たちの教皇への手紙

フランシスコ教皇聖下へ
及びゲルハート・ミュラー枢機卿閣下へ

教皇様、

聖下の使徒勧告「アモーリス・レティチア」の発表の後、神学者たちや学者たちは、様々に異なっているのみならず、矛盾対立している解釈を提案しました。特に、第八章に関してそうです。更に、マスメディアはこの論争を強調しました。そのために信徒の多くの間で、不確かさ、混乱、方針の誤りが発生しています。

このために、以下に署名をした私たち、そして多くの司教や司祭たちは、様々な社会階層の信徒たちから、使徒勧告の第八章に正しい解釈を与えるように要請を受けています。

私たちの司牧の責任に良心上動かされ、聖下が私たちにお求めになったシノドの精神をよりよく果たすために、深い尊敬を持って、復活した主に、兄弟達を信仰において固めるように召命を受けた、信仰の最高の教師としての教皇様に、質問をすることを敢えていたします。それは、私たちがこの手紙に添付した疑問(ドゥビア)に善意によって回答を与えて下さることによって、不確かなことを解き、明確さをもたらすためです。

願わくは、聖下が私たちを祝福し給わんことを。私たちは祈りの内にいつも聖下を思い出しております。


ヴァルター・ブラントミュラー枢機卿 + Card. Walter Brandmüller
レイモンド・バーク枢機卿 + Card. Raymond L. Burke
カルロ・カファラ枢機卿 + Card. Carlo Caffarra
ヨアキム・マイスナー枢機卿 + Card. Joachim Meisner

ローマにて
2016年9月19日


3. 疑問“Dubia”

1. 「アモーリス・レティチア」の断言(nn. 300-305)に従うと、
有効な婚姻の絆に結ばれているにもかかわらず、「ファミリアリス・コンソルチオ」第84番によって与えられ、その後も「レコンチリアチオ・エト・ペニテンチア」34番と「サクラメントゥム・カリターティス」29番とが再確認した条件を満たさず、別の人と"more uxorio"婚姻しているかのように一緒に生活している人に、改悛の秘蹟において赦しを与えることが可能になり、従って、聖体を授けることが出来るようになったのか、を質問します。
使徒勧告「アモーリス・レティチア」の註351(305番)にある「ある場合には」という表現は、新しく同棲をしていて"more uxorio"婚姻しているかのように一緒に生活し続けている離婚した人々に適応されうるのでしょうか。

2. シノド後の使徒勧告「アモーリス・レティチア」(304番参照)の発表後、聖ヨハネ・パウロ二世の回勅「ヴェリターティス・スプレンドル」79番の、聖書と聖伝とに基づいた絶対的な道徳の規律、内在的に悪の行為を禁止し例外なく守らねばならない絶対的な道徳律が存在する教えを、有効であると見なす必要がまだあるのでしょうか?

3. 「アモーリス・レティチア」(301番)の発表後、習慣的に天主の掟に逆らって生活している人、例えば、姦淫を禁止する掟(マテオ19:3-9参照)にもとって生活している人は、重大な習慣的な罪の客観的状態にいる(Pontifical Council for Legislative Texts, Declaration, June 24, 2000、参照)と断言することはまだ可能なのでしょうか?

4. 「アモーリス・レティチア」(302番)の「道徳的責任を緩和させる状況」についての断言の後、聖ヨハネ・パウロ二世の回勅「ヴェリターティス・スプレンドル」81番の聖書と教会の聖伝とに基づいた教えを、すなわち、「状況や意向は、その客観的対象のために内在的に悪である行為を、"主観的に"良いものへと、或いは、選択肢として擁護されるものへと変容させることは、決して出来ない」という教えを、有効であると見なす必要がまだあるのでしょうか?

5. 「アモーリス・レティチア」(303番)の後、
聖ヨハネ・パウロ二世の回勅「ヴェリターティス・スプレンドル」56番の聖書と教会の聖伝とに基づいた教えを、すなわち、良心の役割の創造的な解釈を排除する教え、行為の客観的対象のために内在的に悪を禁止する絶対的な道徳の規律に、良心が例外を正当化させることは決して許可され得ないという教えを、有効であると見なす必要がまだあるのでしょうか?


イエズス様の聖心の永遠のお考えとは

2016年12月12日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2016年12月2日(初金)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


2016年12月2日 初金曜日 至聖なるイエズスの聖心の随意ミサ
小野田神父説教


聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。今日は2016年12月2日、聖ビビアナ童貞殉教者の祝日で、初金曜日です。イエズス様の初金の信心のミサを行っています。

ファチマ100周年を準備する為に、ファチマのマリア様の巡礼の御像を日本にお持ちする事になりました。このファチマの御像はフィリピンでは、色んな所でマリア様が回っています。つい最近ではダバオで、このマリア様をダバオの副市長がこの職員の前で、私たち司祭とティム神父様と一緒に、ダバオ市をマリア様の汚れなき御心に奉献しました。或いは軍隊もその部隊も、マリア様の汚れなき御心に奉献しています。ダバオだけではなく、色々な市町村などがマリア様の御像を迎えて、奉献しています。

フィリピンのマニラの学校では、このマリア様の御像が教室を回って、そして職員室も回って、そしてとても多くのお恵みを頂いています。先生たちも見違えるようになりました。校長先生のフォルティン神父様は、「もう説明できない事だ」と、もう私に言っています。そこでその最初のマリア様の御訪問を最初にした時から私は招かれて、「理事長も来るように」、それでそのマリア様がどれほど多くのお恵みを私たちにもたらしているかというのを見ているので、是非このお恵みを皆さん受けて頂きたいと思って、是非このファチマのマリア様に来て頂きたいと思って、皆さんのお宅をマリア様が祝福して訪問して下さるように、という意向でマリア様の御像をお持ちしました。

フィリピンの学校で使っている、「マリア様をお迎えする時のお祈り」と「さようならのお祈り」を、学校で使っているそのままなのですけれども、ですから「class room」とか書いてありますけれども、それは例えば「私たちの家」とかですね、「私たちの家族」「私たちの部屋に」などと変えて、どうぞこのマリア様を受け入れるようになさって下さい。マリア様は多くのお恵みを皆さんのご家族と皆さんに必ず下さります。私はそれをもう見て、もうそれを疑う事ができない事実を見ています。ですからもしもマリア様を、「ぜひ私たちの家に来てほしい」という方がいらしたら是非仰って下さい。明日からマリア様は皆さんを訪問されます。



“Cogitationes in generatione et generationem”

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日は初金で、イエズス様の永遠のお考えについて入祭誦で私たちは歌いました。イエズス様の聖心の考えは、「代々限りなく、彼らの霊魂を死から救い、そして彼らを飢えから癒やす為に、それが私の考えである。」

私たちはこの今待降節に入りました。待降節に入った私たちは、イエズス様の聖心の思いをますます深く黙想致しましょう。イエズス様の聖心の思いは、愛の思いです。私たちのもとにやって来たい、という思いです。

3つの思いがあります。イエズス様は永遠の天主、永遠の御言葉です。それが私たちのもとにやって来たい、というその熱烈な思いが3つの御来臨によって、3つの到来によって表わされています。

今日私たちの御聖堂は拡張工事が終わって、より多くの方を御聖堂に招く事ができるようになって大変嬉しく思います。このステンドグラスで飾られた、4階の、上にある天に上げられた教会は、まさに天のエルサレムように思われます。何か天国のようにも思われます。この綺麗なステンドグラスで囲まれた教会を見ると、ちょうどパリに聖ルイ9世が、聖なる王が造ったサント・シャペルという綺麗な御聖堂、教会の事をどうしても思わざるを得ません。

サント・シャペルは2階建ての教会なのです。1階は普通の教会で、壁ががっしりとしていて窓もあって、普通の教会ですけれども、でも天井はそんなに高くありません。でも2階に行くと天井が非常に高くて、そして壁が無いのです。壁に代わりにあるのは窓ガラスで、一面が窓ガラスになっています。全てがステンドグラスで囲まれていて、柱があるだけで、そしてこの光に囲まれた教会になっています。技術的にそれは12世紀に聖ルイ9世が造った時には、その壁の無いガラスだけのステンドグラスだけの教会を、そんなに高い物を造るというのは非常に難しい事でした。しかしそれをやってのけたのです。

何故それを造ったかというと、国家財産のほとんど全てを使って、当時コンスタンティノープルにあった茨の冠をそれを購入したのです。そして購入するその茨の冠を収める特別の場所として、そのチャペルを造りました。その茨の冠がどれほど高かったかというと、この茨の冠を買ったお金でサント・シャペルが2個半建てる事ができたそうです。

このサント・シャペルの光に囲まれた御聖堂を私もパリに行った時に行って、本当に素晴らしくて、ステンドグラスの細かい色で飾られた、天地の創造から聖ルイがその茨の冠をパリに持って来る時までの話が全てステンドグラスで、旧約の時代からその時までの流れが全てステンドグラスで描かれています。

もちろんこれは天国の淡い儚いイメージでしたけれども、しかし聖なる王様はできるだけ素晴らしい御聖堂を造って、天国での栄光がどのようなものかという事を示そうとしたのです。

この御聖堂の美しいステンドグラスを見ると、その事を思い出されます。

その光に囲まれた栄光の天主の御言葉、聖ルイはその茨の冠の宝庫を、特別の宝物の箱の所に祭壇の上の所に置いておいて、それの鍵は7つ付いていました。その7つの鍵をいつも身に付けていて、寝る時もそれを肌身離さずその7つの鍵を付けていつもいました。聖ルイ王にとって最高の宝でした。

ちょうどそのように、もうこれ以上守られて、これ以上幸福で、これ以上もう不足するものがない、という天の王の王、全能の永遠の天主が、私たちを「是非この光の国に、永遠の命に、この喜びの中に導きたい」と思って、1階に降りて来て下に降りて来て、そして私たちの霊魂を探そう、とやって来られます。それがクリスマスであって、それが御降誕でした。

待降節は、その私たちの救い主、創造主であり王の王であるイエズス・キリスト様が、主の御言葉が人となったその愛の、無限の愛の神秘を準備するその期間です。

イエズス様の聖心の愛はただそれだけではありません。イエズス様の愛は、イエズス様を愛してこの人生を、短い人生を送った全ての人に、「最高の報いで、最高の幸せで報いてあげよう」と思っているその愛です。「お前たちは私の為にこれほど尽くしてくれた。さぁ今度は私の番だ。私がお前の、これからお前の望みを叶えてあげよう。お前の思い通りにしてあげよう、お前をもうこれ以上ないほど幸せにしてあげよう。お前は生きている間私を本当に幸せにしてくれた、喜ばせてくれた。今度は私がお前を喜ばせてあげよう。」「主よ、もうこれ以上まだあるのですか」というほどの報いを私たちに与えようと思われる時です。それが最後の審判のイエズス様の御姿です。

最後の審判で、私たちの行為を全て、隠された思い、密かな思い、全ての言葉、行いを全世界に公布して、私たちがどれほどイエズス・キリストを愛したのか、イエズス・キリスト様の為に生きてきたのか、どんな小さな行為でさえも決して報われないものはない、涙は全て取られて、喜びに満たされる。そして全ての辱しめは取られて、喜びと栄光に変わる。それを私たちに下さろうと、正義を全うさせようとやって来られます。

その時に、私たちがイエズス様になした小さな犠牲、辛い事を我慢した事、イエズス様の為に捧げた寛大な行為、イエズス様の為に捧げたあの時間、イエズス様の為にしたあの愛徳、イエズス様に捧げたあの小さな奉献、或いはイエズス様の為に捧げたあの物質的なこの事が、私たちが思ってもみなかったものすごい報いとなって、「さぁ、これをお礼として受けてもらいたい。さぁ、これがあなたへの感謝の気持ちだ」とイエズス様が報いて下さるその時です。

その時にはもちろん、悪人にとっては恐るべき時です。何故かというと、あれほど隠していた邪悪な考えや、あれほど嘘で固めた偽善がバレバレに分かってしまって、あれほどの恥ずかしい隠した恥が皆に、悪意が、悪さが、皆の前に発表されて、そしてその時に、悪人たちがイエズス様に対してなした冷たい態度、悪意、悪態、忘恩、冒瀆は全て、その彼らの辱しめと、屈辱と、そしてこれ以上ない悲しみの原因となるでしょう。

どんなに小さな秘密も明らかになります。私たちがその時にイエズス様に祈った憐れみを求める祈りは、憐れみを受けるものとして返ってきます。イエズス様に対してなした傲慢な態度は、やはりそれにふさわしい辱しめとなって返ってきます。イエズス様を愛する者たちに、特に愛と正義を持って、私たちに憐れみを持って、それを「お返ししよう」と帰って来るその最後の審判の時、イエズス様は愛に満ちて、憐れみに満ちて、また戻って来られます。

その時、私たちは顔を上げて、「あぁイエズス様、救い主、早くとく来たり給え。さぁ早く来て下さい」と、どれほど熱烈に望む事でしょうか。

そればかりではありません。イエズス様が来たのは2000年前の歴史的な、単なるその関係無いベトレヘムだけで、或いは何年かいつか分からない未来の事だけではありません。イエズス様は私たちを愛して、愛して、愛に焦がれて、私たちの霊魂のもとに入って来ようと思っています。

イエズス様にとって私たちの価値、私たちの霊魂がどれほど大切かというと、それは聖ルイ9世が持っていたその茨の冠よりももっと大切です。聖ルイは7つの鍵を首にいつもかけて寝ていましたけれども、イエズス様は私たちをその聖心の中に深く入れて、愛に焦がれて、私たちと1つになりたい、私たちの霊魂の深くに入りたい。私たちをもっとイエズス様の聖心の深くに入れたい、天のエルサレムの、その光に輝いたこのサント・シャペルのそのもっともっと一番宝の宝庫の中に入れたいと思っています。その鍵で聖心の鍵を開いて、その中に深く私たちを入れたいと思っています。ですから私たちに御聖体を与えて下さいます。

ですから今日私たちに聖心を開いて、「私の考えは、彼らの霊魂を死から救い、霊魂を飢えから癒やす事だ」と仰って下さっています。「さぁ、苦労する者よ、私のもとにやって来なさい。私のくびきは軽い。私は柔和謙遜である者であるから、私に倣え、私について来い。」

イエズス様は私たちに愛の招きをしています。イエズス様は私たちのもとに来たい、私たちの心にやって来たい、と熱烈な思いでいらっしゃいます。

待降節は、私たちがその思いに応える時期です、「イエズス様、来て下さい。早く来て下さい。イエズス様、私たちは今まであまりにも冷淡でした、無関心でした。そして冷たい心を持っていましたけれども、イエズス様、この待降節中いつもイエズス様を迎える準備ができますように、ますます準備ができるように愛に燃え立たせて下さい。マリア様、どうぞ私たちの心に来て下さい。そしてイエズス様を迎える事ができるように助けて下さい」と準備を致しましょう。

今日はミサが終わったら聖時間があります。イエズス様に是非、素晴らしい待降節を迎える事ができるようにお祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

「天と地は過ぎ去るが、私の言葉は過ぎ去らない。」

2016年12月11日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2016年11月20日(主日)に東京で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2016年11月20日 聖霊降臨後第27主日のミサ
小野田神父 説教


聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。

今日は2016年11月20日、聖霊降臨後第27主日のミサをしております。
今日この御ミサの後の予定ですが、14時30分からいつものように公教要理があります。今日はカステラーニ神父様による黙示録の最後の第7のラッパについて話をしたいと思っています。
16時から主日の晩課があります。明日は朝の7時からミサがあります。

12月の予定は、12月も11月と同じように3回ミサがあります、主日が3回あります。
12月4日の第1主日と、18日の第3主日と、25日のクリスマスの主日です。


「天と地は過ぎ去るが、私の言葉は過ぎ去らない。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日は典礼暦の最後の主日で、今日公教会は毎年この主日には、最後の審判の事を、この世の終わりの事について黙想させてくれます。

この世は一体何の為に創られたのでしょうか?その創造の目的は一体何なのでしょうか?

霊魂の救いです。私たちが天国に行って、イエズス・キリストと三位一体と永遠に至福になる事です。その為にこの全宇宙が創られました、無から創造されました。

イエズス・キリストが、天主の御言葉が人となって、イエズス・キリストとなってお生まれになった、貧しい馬小屋にお生まれになった、人々から裁かれて十字架に付けられて亡くなった、この御託身の神秘と贖いの神秘、この目的は一体何だったのでしょうか?なぜ天主は人となって、これほど苦しむ為に生まれて来たのでしょうか?そして苦しまれたのでしょうか?

私たちを天国に連れて行く為でした。人類の全歴史は、この目的に到達するかしないかによって計られます。これが成功するか成功しないかによって、この創造の究極の目的が達成されるか達成されないかがかかっています。

イエズス様は最後の日に、人間としてそして天主として、生ける人と死せる人とを裁く為にまたもう一度やって来られます。イエズス・キリスト様はこの事を何度も仰いましたし、これはカトリック教会の信仰の玄義です。この説教の後にすぐに私たちはクレドでそう言います、「生ける人と死せる人とを裁かん為に来たり給う、主を信じ奉る。」教会はこの事を私たちに思い出させる為に福音で、イエズス様の最後の、この世の終わりについて何と仰ったか、その直々の御言葉を、その口から出たその言葉を私たちに聞かせて下さいました。

それと同時に、この典礼歴の最後には、イエズス・キリスト様の本当の思いを、「永遠の昔から、何を私たちの為に思ってきたか」という事をよくよくと聞かして、何度も何度も何度も何度も聞かせてくれました。

それは、「私の思いは平和の思いであって、罰の思いではない。私はこの世を救うが為にこの世を創造したのであって、罰する為ではない。私はこの世を救う為に人となったのであって、地獄に落とす為ではない。私はこの世を多くの霊魂たちを天国に救いたい。そしてその救う為に、最後の審判に来るのだ。しかし最後の審判の時にはもはや、その時は決定的な裁きとなって、もはやこの審判の判決は変える事ができない。ある者は残念ながら、永遠の裁きを受けなければならない、変える事のできない罰を受けなければならない。しかしその他の者は、その為にこの世が創られて、天国で準備されている永遠の福楽に入る為に、私は褒美を与える為に、報いを与える為に、慰めを与える為に、喜びと栄光を与える為にまたやって来る。私の考えは平和の考えだ」と教会は私たちに、このミサの初めから優しくそれを教えてくれます。

イエズス様の今日の御説教に御話しによれば、この世にはこの最後の審判の時には、2つのイベントがあります出来事があります。

1つは、「厭うべきものの恐るべきもの “abominationem desolationis” が、これが聖なる所に置かれる」 という事です。

「しかし最後には、イエズス・キリストがその栄光と力を持って戻って来る」 という事です。

そこで是非、この2つの事がどのような事なのかを黙想して、私たちは遷善の決心を立てる事にしましょう。

教会は、司祭たちに聖職者に聖務日課を唱えるように命令していますけれども、その聖務日課によると聖ヒエロニモの解釈によると、「この 『厭うべきものの憎むべきものが至聖所に置かれる』 というのは何かというと、『厭うべきものの』というのは “abominationem” というのは、それは 『偶像』 の事である。 『憎むべきもの』 というのは、それは 『崩壊した至聖所に置かれる厭うべきもの、本当ならば聖なるものが置かれなければならない所が、厭うべきものが置かれているので、そこが憎むべきものになっている』 という状態を表している」 と言います。

これは、イエズス様がちょうどこの福音の中で言うように、「その時、太陽は暗み、月は光を放たなくなり、天の星は動き」 と言うように、「今までの聖なる教えが暗んでしまって、よく分からなくなってしまった。」 或いは、「月が、本当ならそのイエズス・キリストの教えを、正確に輝き映しだされなければならないものが、それが光を出さなくなってしまっている。私たちを導くべき天の星である教会の指導者たちが、動いてしまっている。」

つまり聖ヒエロニモによれば、「これは、『教会のその聖なる教えが歪曲されてしまっている』 という事を意味している」 と言います。「イエズス様は、その時にどうしたら良いかと言うと、『その時には、私たちはすぐに高い山に登れ。』 つまり、『永遠の変わる事のない、天主の山に登れ』 と教えている」 と解説しています。

「この世が偶像崇拝するというのは確かに、ローマ皇帝の像を偶像として崇拝するとか、或いは仏陀の像を崇拝するとか、色々な偶像崇拝があるかもしれません。しかしもっと、もっと大きな偶像崇拝は、天主が居るべき所に人間がズカズカと入ってしまって、天主の代わりに人間を、あたかもその代わりに礼拝させる、という事ではないか」 と教父たちは解釈します。

「人間の手の業である技術、高度な技術を崇拝したり、或いは偽りの人間の作った栄光を信じてしまったり、その前に膝をかがめてしまったり、或いはもっと悪いのは、肉の快楽の前にその事だけしか考えずに、その事だけを追求して生活してしまったり、そして食べる事、飲む事、そしてその他卑猥な事だけを考えて生活してしまっている。ちょうどソドマの時に、天から火が降ってくるという事を人々は考えてもいなかったように、或いはノアの時代には洪水が水が降ってきて、洪水によって今までのものが全て消されてしまうという事が分からなかったように、人々は肉の事、自分の事、そして自分のやりたい放題にやる事だけを考えている、これこそが来たるべき偶像崇拝ではないか」 と指摘しています。

まさに現代の世界を見ると、ますますその傾向を、そうではないかと疑われます。携帯のスマートフォンを見て下さい。多くの人はそれをどのように使っているのでしょうか?Youtubeの宣伝を見て下さい。或いはその他のテレビで、或いは雑誌で、人々が何を話しているか聞いて下さい。食べる事と、飲む事と、そして下品な事です。

反キリストは、キリストに反対するものがこの世を支配する時には、どうやって支配するでしょうか?おそらく人々に石を、人々の為に石をパンに変えて、「さぁ、これがお前たちの食べるパンだ。さぁこれを食べろ」として、人々を誘惑するかもしれません。或いはマスコミやその他の力を使って、ジャーナリズムを使って、「高い所から飛び降りて、それでも平気だった。」そして全ての人々の称賛を得る為に力を使うかもしれません。或いはこのもしかしたら、サタンを礼拝する事によって、この世の地上の全ての富を自分のものにするかもしれません。

つまり言ってみると、イエズス様が 「No!」 と言った3つの誘惑を全て使って、この世を支配するようになるかもしれません。すると人々は、ますます自分の思い通りに面白おかしく、自分の欲望のままに、ゲラゲラと生活できるので、それをますます受け入れていくかもしれません。

しかしそのような時に突然、イエズス様は私たちの主イエズス・キリスト様が、例えこのマスコミが何と言っても、皆に 「その結果はどうなるだろうか?」 とアンケートを取ってみても、「いやぁ、キリストはもうダメだ」 などと言ったとしても、それを裏切ったようにイエズス様が空に雲に乗って、大きな栄光を以って、私たちを裁く為に、善人に、最後まで耐え忍んだ者に冠を与える為にやって来られます。

イエズス様は私たちに言うでしょう。このイエズス様こそが最後のトランプのカードで、いくらマスコミが何と言っても最後に勝つ方であって、私たちにイエズス・キリストを第一としたか、しないか、イエズス・キリストが私たちの全てであったかどうか、という事で私たちを裁かれるでしょう。イエズス様をどのように愛したか愛さないかによって、私たちを裁かれるでしょう。そしてイエズス様をいつも愛した者には報いが与えられます。

ですから私たちは今日、どのような遷善の決心を取らなければならないでしょうか?

典礼暦に終わりがあるように、例えマスメディアが何と言おうとも、使徒信経に私たちがそう唱えるように、昔から教えられた通りに、伝えられた通りに、この世には終わりがあります。イエズス・キリストは必ず私たちを裁く為に、善人に報いを与える為に、正義を全うする為に来られます。

その時に、いつも 「御名の尊まれんことを、御国の来たらんことを、御旨の天に行なわるる如く、地にも行なわれんことを」 と祈っていた人は何と幸いな事でしょうか。「イエズス・キリストこそ第一だ。イエズス・キリストが私たちの全てだ」 と言った人は何と幸いでしょうか。その時には大きな栄冠を受けます。その時には全ての天使たちと聖人たち、そして全ての殉教者、イエズス様の為にこの世地上で苦しみを受けて、それを捧げてきた人々と共に、私たちは永遠に喜ぶ事になります。

この世は過ぎ去りますが、イエズス様の言葉は決して過ぎ去りません。真理はそのまま残ります。マリア様にお祈り致しましょう。私たちもマリア様と共に、この栄光に達する事ができますように、お祈り致しましょう。

「天と地は過ぎ去るが、私の言葉は過ぎ去らない。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

ロザリオの十字軍)2016年12月8日現在、日本からロザリオ6,597環、犠牲33,284回が報告されました。

2016年12月10日 | ロザリオの十字軍
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2016年12月 08日現在、

日本から今までの総計で、ロザリオ6,597環、犠牲 33,284回が報告されております。天主様に感謝!愛する兄弟姉妹の皆様のご協力に感謝します。

マニラからは、ロザリオ35,045環、犠牲22,475回が報告されています。

韓国からは、ロザリオ2,640環、犠牲297回が報告されています。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)



【報告】
+アヴェ・マリア・インマクラータ!

8月15日から11月21日までの報告です。

8月、100環
9月、296環
10月、417環

です。


【報告】
ロザリオの十字軍のご報告

アヴェ・マリア・インマクラータ!
小野田神父様、
ロザリオの十字軍のご報告です。

10月1日~11月30日
ロザリオの祈り 153環
犠牲 61

2016年12月04日の『マリア様に、一番心に適う事は何なのか?』に「カトリックの司祭の義務が実は、「同じ事を繰り返す事にあるのだ」と気が付いてくれますように」とありますが、わたくしこれに気がついてとても感謝をしているものです。そのおかげで、いつも慰められ、励まされ、戒められ、教えられているなアと思っております。「ローマ人への手紙」の第10章を思い出しました。その中の14節以降を。
また、「われらの教皇フランシスコのために祈らん。・・・」と祈ります。とりわけ、11月19日のレネー神父さまの霊的講話を読んでからは、より多く祈るようにしております。「司祭のための祈り」とともに。「『教皇様が教皇様であるかないか』というのを知るのは私たちの務めではありません」と言葉でハッキリとお聞きできたので、今後この祈りには確信が増えていくでしょう!
どうぞ、繰り返し繰り返し、何度も何度も何度も、わたくしたちにおっしゃってください。そしてわたくしたちを助けてください。そうすれば、わたくしたち一人ひとりは、信者でない多くの人たちに囲まれている日々の生活の中で、彼らの耳に届く言葉や祈り、彼らの目に見える行いや生活をキリスト信者としてあらわしていけるでしょう。意志してそうするにしても、特に意志していないときにも。
ミサに与っていられる皆様方のご報告も助けられております。


【報告】
Bonjour, Mon Père

Bonne fête de St François-Xavier.
Je vous remets un rapport sur le resultala de croisade de rosaire,
periode du 1er au 30 novembre 2016:

Chapelets 45
Sacrifices 105


【報告】
11月分の聖なるロザリオの十字軍の本当に有り難い皆様からの御報告もさせて頂きます
シスター         90 環          
ヨゼフ マリア      71 環        240回
アンナ          28 環       228 回          
マリア          24環        600 回
マリア          30環       300  回
バルナバ         80 環        406 回
アリア         100 環       300 回
ヨゼフ          90 環          0 回       
マリア         115環        811 回
マリア          90環         180回
マリア          90 環        450回                       計  808 環  3515 回  
以上です


【報告】
御報告を致します。

聖なるロザリオ 6環、犠牲 33回


【報告】
11月30日までの家族での合計は、920環です。よろしくお願いします。


【報告】
11月のロザリオ十字軍のご報告をさせていただきます。
6人で
ロザリオ:295 環
犠牲:736 回
お捧げいたしました。


2016年12月2-4日の聖伝のミサの報告:聖ピオ十世会 SSPX JAPAN Latin Traditional Mass

2016年12月09日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

12月2日と3日には、大阪で聖伝のミサを捧げることが出来ました。
2日には、初金曜日の聖時間を聖体降福式で過ごしました。
3日には広島から初めて来られた方いらして大変うれしく思いました。
大阪では、香部屋としてつかっていたお部屋を半分にして、その分御聖堂を拡張し、その工事が大変うまく出来、見違えるようになりました。

12月4日には東京で聖伝のミサを捧げました。
12月にも東京では3回の主日にミサがあり、そのお恵みを感謝します。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)



【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

12月の初金、初土の御ミサの報告をお送りいたします。

12月2日(初金) 至聖なるイエズスの聖心の随意ミサには12人が、
12月3日(初土) 聖フランシスコ・ザビエル の祝日のミサには18人の方々が御ミサに与る御恵みを頂きました。デオグラチアス!

金曜日のお説教では待降節について黙想いたしました。 
入祭誦で歌われた「イエズス様の聖心の想い」とは、私達のもとにやって来たい、天国から地上に、私達を救うために下りたい、という「愛の想い」であること、
イエズス様の御到来には①ベツレヘムでの ご降誕、②最後の審判、③御聖体としての、三つがある事などを黙想しました。
茨の冠を安置するために聖ルイ9世が建てたサン・ド・シャペルという全面ステンドグラスに囲まれた素晴らしい教会は、とんでもない建設費を投じて建てられたそうですが、
聖ルイ王が茨の冠をコンスタンチノープルから買い取った値段は、サン・ド・シャペルが2個半建てられるほどの値段だったそうです。
茨の冠がそれほど価値があるものであるのに、私たちはミサの中でイエズス様ご自身をお迎えし、また聖時間でイエズス様に直接お話させて頂けるとは、イエズス様の愛と謙遜は全く無限であると感ぜずにはいられませんでした。

待降節になると、もうすぐクリスマスだと、気持ちが浮かれ、今までどれだけ良い準備ができていただろうかと考えさせられました。
良い待降節を過ごすためには「イエズス様の愛の想い」を感じて、真剣な準備が必要だとお説教を聞きながら思いました。
誰よりもよく準備してイエズス様をお迎えになったマリア様にお助けを賜って,残りの待降節をイエズス様の無限の愛の神秘に深くはいりたいと思います。

12月4日は、聖フランシスコ・ザビエルの大祝日で、お説教では聖人の生涯を黙想いたしました。

御ミサの後では新約聖書の成立についての序章部分を勉強しました。

今年のクリスマスには日本では大阪でも、東京でもクリスマスの御ミサがあるという大きな御恵み天主様に感謝します。
マリア様が私達にどれほど良くして下さっているか考えると、ファチマのマリア様のお望みをもっともっと頑張って果たさねばと思います!!!
小野田神父様がお持ちくださった巡回用のファチマのマリア様の御像はとても美しく、優しく、うっとりしてしまいました。日本に沢山の御恵みをお与え下さる事を感謝します。


【報告】
+Ave Maria! Immaculata!

このたびも、大阪での初金、初土、東京での主日のミッションをありがとうございました!
所感をご報告申し上げます。

初金に「日本のファチマのマリア様像」が、大阪の聖堂にいらっしゃいました。
大阪の聖堂は拡張工事が終わって、こじんまりとはしていますが、
広く美しい聖堂となって、ファチマのマリア様をお迎えすることができました。

正面祭壇右の、いつもは「汚れ無き御心」の額がある幕屋に、ファチマのマリア様がいらっしゃるのを見て
気がつきました。「あ!聖堂を広げて美しくしてくださったのは、ファチマのマリア様であられたんだ!」と。
これから日本の信徒のお家を回って、たくさんの祝福と恩恵をお与えくださる、その最初に
広く美しい聖堂を私たちにお与えくださったのではないでしょうか?
ちょうど、お客様がお土産をお持ちくださるように。
マリア様の私たちへの大きな愛、寛大な御心を感じ、心から感謝いたします。

この「日本のファチマのマリア様像」を、私たち信徒は、心から喜んでお迎えし、大切にします。
たくさんの愛と祈りと犠牲をお捧げしようと思います!
この御像を日本のためにプレゼントしてくださった、フォルティン神父様にも心から感謝申し上げます。
「ファチマの聖母マリア像がいらっしゃった時の祈り」と「離れられる時の祈り」は、
マリア様への「子ども」としての愛があふれるとても美しいお祈りですね。大好きです!

12/3の初土は日本の大恩人の聖フランシスコ・ザベリオの祝日でした。(宣教地なので一級大祝日)
聖フランシスコ・ザベリオの歌ミサに与ることができました。
小野田神父様のお説教で、「イエズス様に気に入られること、喜ばれること。それだけが私たちの最大の目的です。」
とのお言葉が心に残りました。
どれほど私はイエズス様以外のことに心悩み、かき乱され、苦しんでいることか!と思います。
願わくは、マリア様にお助けいただいて、究極の目的、天主イエズス様のことだけを考えることができますように。

この日、広島からおひとり、求道者の方が御ミサに与られました。
初土曜日でマリア様の汚れ無き御心の特別のお恵みと、
広島と縁の深い、聖フランシスコ・ザベリオ様の特別のお恵みに導かれていらっしゃったのだなあと思い、
その求道者の方のために御ミサでもお祈りいたしました。

聖母の汚れ無き御心よ、我らのために祈りたまえ。
ファチマの聖母、ロザリオの聖母よ、我らのために祈りたまえ。


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

こんばんは!☆(o^▽^o)

昨日一昨日と、初金のイエズス様の聖心の御ミサ、御聖体降福式、フランシスコ・ザヴェリオ様の祝日の御ミサ、公教要理など本当に色々ありがとうございました!

そしてファチマのマリア様の御像を日本にお持ち下さってありがとうございます!!結構大きな御像なのでフィリピンからお持ち頂くのは大変だったと思いますが、本当に私たち日本信者の為にありがとうございますm(_ _)m
この御像を日本に寄贈して下さったフォルティン神父様にも心から感謝致します。
フィリピンではファチマの聖母像の御訪問を受けた所では、既に非常な御恵みが現れているそうですごいですね!!
そしてこの日本のファチマの聖母像は昨日から、私たちが住んでいる家を訪問して下さっています。
このマリア様の御像の前で、家族で、聖母マリア様がいらっしゃる時のお祈りと、聖母の汚れなき御心に身を捧げる祈りと、聖母の汚れなき御心に日本を献ぐる祈りとロザリオを唱えました。マリア様が私たち家族を祝福しに来て下さり、とても幸せに思います。
多くの方がこの御恵みを頂くことができますように!



【報告】
Dear Fr Onoda:

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 21人(内、子供1人)
女: 24人(内、子供2人)
計: 45人(内、子供3人)



【報告】
+アヴェ・マリア・インマクラータ!

小野田神父様、こんにちは!
今回も日本で御ミサを捧げてくださったことを心から感謝いたします。

御ミサのレポートをお送りいたします。
今日(待降節第二主日)の御ミサは一言でまとめると「主がエルサレムにやってくる」ということだ、と典礼学者たちは言っているということで、エルサレムとは何か、ということについて説明していただきました。

・今回の御ミサで、これだ!とわかったこと
典礼学者たちは、エルサレムは四つの層からなっていて、最上層の第四層は私たちの霊魂である。
一番下の層は、ユダヤのエルサレム 次の二番目の層は、新しいキリスト教徒のエルサレム(イエズス様のご誕生) 三つ目の層は、天上のエルサレム(天国) 一番上の四層目は私たちの霊魂である。まるで、都市が敵の手によって破壊されてその上に新しい都市が生まれるように、新しいエルサレムが誕生する。
なぜ、第四層目が一番高い最高のものが霊魂かというと、天上のエルサレムの王、王の王である天主イエズス様は私たちを光栄で飾るため私たちの元にいらっしゃることを望んでおられるほど霊魂を愛しておられるからだ。
ということが分かりました!
第四層がある、と聞いた時、第四層は何だろう・・・? と考えて全く浮かばなかったのですが「霊魂」と聞いて納得いたしました。イエズス様は私たちの霊魂の元にいらっしゃって、私たちを光栄で飾って永遠の幸福の中にご自身と共にいることを望まれたために、十字架においてご自身を犠牲としてお捧げになり、私たちに御ミサの生贄を残され、それを与えられるほど、霊魂を愛されたことを思い直すことができました。そして前回の御ミサのお説教で神父様がお話しになった「この世の創造の目的は霊魂の救いであること」も思い出されました。霊魂という一番高い第四層のために、旧約の義人や太祖たちがイエズス様の御誕生を準備し、イエズス様がお生まれになり新しいキリスト教徒のエルサレムが生まれ異邦人にも救いがもたらされ、そして天国への扉がイエズス様の犠牲によって開かれ、そこに凱旋することのできる霊魂、そしてまた、天主を迎え入れることのできる霊魂は本当に尊いということを考えることができました。
そして、天のエルサレムに行くには、聖福音で話されているように、洗者聖ヨハネのなさったように準備すること、十字架が必要だということを改めて認識いたしました。日に三度のお告げの祈りでも、「その御苦難と十字架とによりて」と祈っているのに、十字架を厭うことの多さを反省いたしました。天主様から与えられる尊い自分の十字架を、しっかりと担って、カルワリオの丘をマリア様と共に歩くことができますように、とお祈りいたしました。

余談なのですが、神父様がお説教でお話しくださったサント・シャペルについてネット検索して写真を見ました。本当に素晴らしいステンドグラスですね…! 写真を見ただけでも、とても美しいことが分かりました。ただ、今は観光施設となりコンサート会場に用いられているそうで残念です・・・聖ルイ王が御聖堂を建てられた当時のようにサント・シャペルでも毎日、聖伝の御ミサが捧げられますように! とお祈りせずにはいられませんでした。


午後の講話では、茨木晃神父様(イエズス会のスペイン人の神父様で、日本に帰化なさった)が書かれた『新約聖書の成立について』という著書を元に聖書の正統性について、聖書を偽りだとか作り話だとか疑う人たちもいるが、歴史的事実との一致や、他の歴史書との一致、登場人物たちのあまりにも生き生きとした描写などから事実に基づいて書かれた物であることは疑うことができない、という事をお話しいただきました。
今回は特に聖パウロが実在の人物であるということについて、具体的には
・ローマの歴史家エストニウスの記録の中に、「ローマ皇帝クラウディウスは、ローマにいるユダヤ人たちがキリストについて論争して迷惑している」と書かれており、ローマからユダヤ人が追放された。この時追放されたアキラ・プリスキラ夫妻がパウロと会い、カトリックに改心している。
・コリントにて、ローマ皇帝ユニウス・ガイオの裁判にかけられる
 ユニウス・ガイオはセネカの兄弟でローマ皇帝だったが、ローマにおいての正式な記録がなく、疑わしいとされていた。しかし、1905年フランス人のブルゲ(M.E.Bourget)がギリシア旅行の写真集に発表した1枚の写真に、ユニウス・ガイオが皇帝であったことが書かれた石碑が写り込んだ。それが、聖書学者の目に止まり、聖書の記述が事実に基づいていることが確認された。
などの事実から、これを疑うことはできないということを教えていただきました。
特に驚いたのは、1905年にフランス人のブルゲという方の写真にたまたま写り込んだ石碑で皇帝の実在が確認されたということでした。天主様は時に本当に驚くような、時に意外な方法で私たちに必要なことを教えてくださるのだな、と思いました。

月曜の朝の御ミサ後の軽食の時間には、イエズス様の聖骸布についてや、鞭打ちの苦しみの話を皆さんとすることができ、とても良い時間を過ごすことができました。イエズス様が口では表現できないほど、全身傷でないところがないほど傷を受け血を流し尽くされたこと、茨の冠は頭蓋骨を貫通していたこと、その状態でカルワリオの丘を登られ十字架に釘付けにされたことを考え、それに私たちもついていけるのかについて黙想なさったことなど、皆さんからお話しを伺って考えることができたからです。やはり信仰を共にする方とお話しできることは素晴らしいと思いました、デオグラチアス! 

もう早いもので待降節第二主日を過ぎました。天主イエズス様の御来臨を迎えるにふさわしい準備を、日々の祈りを犠牲をもって進めて行くことができますように、聖母マリア様の汚れなき御心に依り頼みお祈りいたします。また、8日は無原罪の御宿りの祝日なので、良い祝日を迎えることができますように!!これも、お祈りいたします。

神父様もどうぞお身体に気をつけて、マリア様が神父様をいつも導いてくださいますように。お祈りしております。

+In Mary Immaculate,



【報告】
十アヴェ・マリア・インマクラータ!

小野田神父様 今回もごミサをありがとうございます!
待降節第二主日の御ミサのお説教は御降誕の大祝日に向けてどのように準備をしたらよいかをご教示くださいましたように受け止めました。
私も 「主よ私たちの心を目覚めさせ道を準備させてください」と 毎日願わなければと思いました。そのことを詳しくお話しくださいまして ありがとうございます。
”主が来られるエルサレム”という言葉には 幾通りもの意味が含まれているとのこと、その最も高みにあり かつ 深淵なることは霊魂のうちに主が来られることを顕していると伺い 平伏すような感慨をおぼえます。
単に2000年前ユダヤの地エルサレムにイエズス様が御生まれになったということだけでなく、エルサレムという言葉には この地上のキリスト教徒の教会というエルサレムや 世の終りの後に私たちに与えてくれる天上の教会・天の花嫁というエルサレムをも指し示していることを  パリ のサント・チャペルの教会を例に挙げられてお話しくださいました。そして ”私達の霊魂こそイエズス様が御生まれになられるエルサレムなのだと識りそのための準備を整えること”が、この待降節に私たちがしなければならないことだと お話しくださいました。サント・チャペルの二階の祭壇の上にある宝物置きが それ(霊魂のうちに建てられます聖堂)を象徴しているのかもしれないとのことで、小野田神父様により イエズス様が「私たちの霊魂のなかだ、その中にこそ入りたい!」と仰られるとき、この上ない勿体なさとそのようなお言葉に相応しくないための戦きの思いを持ちました。御ミサの中でいかに相応しく準備をして主を迎え入れるかのお話を聴き祈ることができてとても幸せに思いました。
神父様はこの日の祈りの言葉を注解してくださりながら、お恵みを持って入りたいという主をイエズス様を受け入れなさい、そのような天上の富を心から願い求めなさい、そして心の中の天のエルサレムに行くためには心の浄めと十字架が必要で、そこに行こうとすれば十字架に出会うが、十字架に出会うことを怖れずに 却ってそれによって受ける苦しみを抱いて 十字架を愛して日々の務め 日々の嫌なことも十字架として捧げてくださいと 道を示してくださいました。ありがとうございます。

午後の公教要理は 新約聖書についてのお話でした。「新約聖書の成立について」茨木晃S.J.著をもとに、特に「聖パウロが確かに実在した人物であった」ということにテーマを置き パウロの生涯を詳しくお話しくださいました。それは「なぜ新約聖書が疑いのない事実か」と言う問いに対して 聖パウロだけは実在していることを説明できるからということでした。

ところで私がこれまで持っていた聖パウロのイメージとは、12使徒とは全く異なるタイプの方、キリスト者を迫害までしたというのに突如回心した方、 実際にイエズス様と共に過ごしたことがないのに信仰の重要で大切なことを書簡に書き残してくだり教会にとって重要な聖典を書いてくださった方 異邦人への宣教を使命とされていた方だということでした。テント作りで生計を立てていることを述べて、あなたたちも自分で働いて食べるようにしなさいという言葉があるので、あれっあんまりお金持ちでないのかも?と思っていました。

お話を伺って、ユダヤ人でありながらトルコのタルソで生まれ ギリシャ語に堪能でヘブライ語を学び、親がお金でローマ市民権を買ったローマ市民だったとは 初めて知ることでした。社会的地位のあるお金持ちの息子で非常に教養もあり自由に国々を移動できる人物であった聖パウロは、(ユダヤ人からすると)外国に住む熱心なユダヤ教徒で エルサレムに留学し あの”ガマリエル”のもとでしっかりと熱心にユダヤの律法を学んでいた一方で、ギリシャ文化についても精通し旧約聖書をギリシア語で理解することもできていて、ある意味国際的感覚の持ち主であった、ということもわかりました。聖パウロがどのような人物であったか教えていただき、彼が異邦人への宣教のための選びの器の条件が良く整っていたということがよくわかりました。

他にも、聖パウロがキリスト教を宣べ伝えながらユダヤ人からも迫害を受けてあちこち旅をして回り最後にはローマの地で殉教されることになったことには歴史の裏付けがハッキリあることなどお話しいただきましたが、印象に残ったのは、新約聖書に出てくる人物の実在を証明するものが発見された出来事のお話です。それは 使徒行録18章12節の「ガリオがアカヤの地方総督だった時」の、ガリオという人物に関することで、1905年 M.E.Bourguet ブルゲという人がギリシャ旅行の写真集を発表したとき、ブルゲ本人がまったく意図したことでなかったにもかかわらず、本人の記念写真の本人の写っている背後に石板(記念碑)も偶然に写っていて、そこに《ローマ総督 ユニウス・ガリオの功績を称える A.C.51-52年》と明記されていることが読み取れたのだそうです。それまで、ユニウス・ガリオという人物はセネカの兄弟であるということはわかっていたけれども、そのユニウス・ガリオたる人物が実在する証拠が残っていなかったので、使徒行録に書かれていることも作り話ではないかという扱いも受けることもあったそうです。ところが はっきりと写真に写っていたことにより、その論争に終止符が打たれたとのこと、その偶然のような廻り合わせにより新約聖書の中の登場人物が実在する人物だということの証明されるものが発見されたというお話が興味深かったです。

「聖パウロはあまりにもユニークなキャラクターであまりにも聖パウロの話や人生がよく出来すぎていて 歴史家でさえ知らなかったことも書かれているためにすべて作り話であるかのようにも思われるけれども、聖パウロを実在する人物としなければ21世紀の現在にはもう辻褄が合わないと言わざるを得ないようなことが 歴史を知れば知るほど出てきてしまい、パウロの人生、登場人物、なぜパウロがローマに来ることになったのかなど、それらがピタリピタリとパズルが合う如く あまりにもよく証明されるために、後代の人の作り話などではなく、確かに聖パウロという人物が実在する人物だったと言えます。」という言葉で、ご講話を締めくくってくださいました。聖書は特別な書であるということしか頭にありませんでしたが、疑いのない事実が書かれている書であるということもしっかりと心に留めておきます。ご講話をありがとうございました。



【お便り】
Maria! Immaculata!

無原罪の御宿りの大祝日、おめでとうございます!
御受胎の最初の瞬間から、悪魔の頭を踏み砕き給えりという言葉が、心にずーっとこだましています。ノベナをしたからですが^_^;
悪魔は、たった一度さえ、マリア様に勝つことができず、存在の最初の瞬間に、赤ちゃんにもならない、小さなマリア様に頭を踏み砕かれたのですね。
インマクラータをお与えくださった天主様に感謝いたします!
天主様の偉大な御憐れみに感謝いたします!

インマクラータ、我らのために祈りたまえ。



【お便り】
トマス小野田神父様

ブログ拝読いたしました
小野田神父様は同じことしか言わないなどという方がおられるのですか
驚きました

私も真理を探す人が、様々な言葉に惑わされている様子をみるたびに、御言葉はひとつ、信仰はひとつ、主の牧場はひとつ、カトリックはひとつしかないと言っています(・・・)

カトリックの司祭は、どなたに御教えを訊ねても同じ答えが返ってきました
それこそが聖なる普遍の教会の体現ではなかったでしょうか
今は司祭ごとに、答えが違っています
むしろ信徒ごとに答えが違っていて当然で、あなたの感じ方を大切にしなさいという感じで、余計にイエズス様から遠ざかってしまっています

同じことしか言わないという方は、耳に心地よい言葉を、生ぬるいものを求めておられるのでしょうか
天主は、マリア様も生ぬるいものは決して受け取りません
熱いか冷たいかです

トマス小野田神父様
人々の顔色よりも、これからもイエズス様、マリア様の顔色を気にしてください

罪人と天主を和解させられるのは司祭のみですから
御聖体を触れるその手が決して汚されることがありませんように



聖母の無原罪の御孕りの大祝日おめでとうございます

2016年12月08日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

聖母の無原罪の御孕りの大祝日おめでとうございます。

ところで、今年の9月に、4名の枢機卿たちは、教皇フランシスコに勧告『アモーリス・レティチア』が引き起こしている離婚して「再婚」した人々が聖体拝領することが出来るのかについての疑問を尊敬を込めて提出しました

4名の枢機卿たちの名前は次の通りです。

Card. Walter Brandmüller
Card. Raymond L. Burke
Card. Carlo Caffarra
Card. Joachim Meisner

「Dubia(ドゥビア:疑問)」の全文(英語訳)は次にあります。
A Plea to Untie the Knots in "Amoris Laetitia" - an open letter to Pope Francis from four cardinals of the Church.

その形式は、教義の知的な理解に関することでした。枢機卿たちは、教皇に難しい何かを達成せよと言うものではなく、自分たちの理解が正しければ、教皇自身が主張することはこれこれと理解されるが、それで正しいのか、間違っているのか、イエスかノーか、でした。教皇様の意図は何なのか、教皇様の発言の意味は何か、でした。

このような教義に関するこの理解で正しいか否かという質問は聖伝に基づくもので、ルフェーブル大司教様も「第二バチカン公会議による信教の自由」に関する疑問を教皇様に提出したことがあります。

提出後2ヶ月が経ちましたが、教皇からのこの教義に関する答えはありませんでした。

最近、新しい枢機卿の任命式がローマで行われ、通常ならば任命式のために世界中から集まった枢機卿たちと教皇様とが枢機卿会議を開くのですが、それも説明なくキャンセルとなりました。説明がなかったとしても理由がなかったわけではないでしょう。教皇様は、枢機卿たちの提出した疑問により枢機卿たちの論争を恐れたと言われています。

教皇様は家族についてのシノドで自由な発言を要求されていました。全てのことを自由に話すことが出来ても、教義の内容を正確に理解しようとすることは許されていないかのようです。

これについてシュナイダー司教様は、TV Libertés でのインタビューで、教皇様の勧告は、著者の教皇様の意向で強制の力を持っていないこと、リベラル派は「天主の十戒の第6戒のない福音」、「離婚への権利の福音」を述べ伝えていること、教会には既に表面に現れていない離教状況(キリストの教えの真理から離れている状況)が存在すること、私たちが教皇様のためにたくさん祈りをする必要性があること、などを警告しています。

Terres de mission n°10 avec Mgr Schneider, évêque auxiliaire de l'archidiocése d'Astana

https://www.youtube.com/channel/UCSVf6BL58EcNjwUlBgUKoog




天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


ハンガリーの聖エリザベトの生涯、その徳に倣う。

2016年12月07日 | お説教・霊的講話
愛する兄弟姉妹の皆様、

2016年11月19日(土)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


2016年11月19日(土)寡婦聖エリザベトのミサ
小野田神父説教


聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。今日は2016年11月19日、ハンガリーの聖エリザベトの祝日のミサをしています。

今日この御ミサの後でいつもの通り、御聖体拝領の後の感謝の祈りをいたしましょう。その後で、 5分間ほどしてからその後に、ファチマのマリア様について、1917年、今から100年前にどんな事が起こったのか、という事をお話ししたいと思っています。この前のお話しの続きなのですけれども、どうぞ聞いていって下さい。


「ハンガリーの聖エリザベト、我らの為に祈り給え。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

神聖ローマ帝国、或いはハンガリー王国はとても、その家族は王家は、多くの聖人や多くの聖女たちを生み出しました。ここでつい最近ポルトガルの女王様の聖エリザベトのお祝いをしましたけれども、今日はその伯母さんにあたる親戚の、ハンガリーの聖エリザベト女王様のそして寡婦の祝日をお祝いしています。

今日はですから、聖エリザベトという方はどんな方だったのか?どんな人生を、いつどこで、どうやって生まれてどうやって生活したのか?をまず黙想して、

その次に、聖エリザベトは一体どんな苦しみを受けたのか?どんな一番その最高潮だったのはクライマックスだったのはどんなところだったのか?聖エリザベトは3つの苦しみを受けました。

それで最後に私たちは、じゃあこの今年2016年11月19日に生きている私たちは、一体どのような遷善の決心をしなければならないのか、どうやって生きていかなければならないのか、という結論を立てる事に致しましょう。

聖エリザベトという方は、1207年ハンガリーの王様のアンドレアという使徒的王の娘として生れました。ハンガリーの王様は初代王が聖ステファノと言って、教皇様からその王冠を戴いた特別の王様で、「使徒的王」と言われています。その最後の王様がちょうど私たちが今日お話しするカール1世、福者カール1世で、今日お話しをする聖エリザベトはこのカール1世の先祖にあたります。また今日後にお話しするロシアのツァリーツァ、皇帝の皇后も、皇帝ニコライ2世の皇后アレクサンドラもやはり、ハンガリーのエリザベトをその祖先に持っています。

1207年に生まれたエリザベトは、若い頃から既にドイツのトゥリンケンという所の宮廷に送られて、そしてそこの王様となるべき公爵、「公爵」というのは、王様の次に皇太子がいますが、その皇太子の次に偉い、位の高い方で、この公爵のルイという人のもとに若くして結婚します。14歳の時に1221年に結婚して、そしてそこの王様のお城に住みます、ヴァルトブルグというお城に住みます。そしてとても良い、王様はとても良い方で、とても幸せな結婚生活をします。王様と結婚している内に子供もたくさん生まれてきました。

子供の頃からとても信心深かった聖エリザベトは、結婚してからもその信心業を忘れる事はありませんでした。たとえ王様のルイ4世のもとに結婚したとしても、いつも夜に朝早くに起きてお祈りをして、そしてお祈りの生活も決して忘れる事はありませんでした。特に貧しい人やかわいそうな人、辛い人、病気の人に対して非常に大きな憐れみの心を持っていて、自分の義務をよく果たしながらも、そのような人たちの面倒をよく見ていました。特にそのようなかわいそうな人がいると、看病したり見舞ったり、或いは孤児の子供たちを助けたり、或いは寡婦となって旦那さんが亡くなってしまったようなお母さんや奥さんの為には特別の注意を払ったり、或いは病気の人、或いは貧しい人の為に自分の持ち物を与えてしまったりしました。ある時には飢饉が起こった時には、自分の倉庫の中にあった小麦や食べ物を貧しい人や苦しむ人たちに与えました。

ある時に、その王様の財産を管理していた人が不平を言った事がります、「皇后様は、エリザベト皇后様は王様の財産を貧しい人に配って困ります」と言うと、ルイ王様は答えて、「私の妻のエリザベトには好きなようにさせてあげなさい。皇后がもしも与えたい物があれば、それを自分の好きなようにやって、ただ私の為には自分のお城のヴァルトブルグのお城と、もう1つ別のナウムブルクのお城だけを残してくれればそれで良いのだ」と言って、とても寛大にエリザベト皇后を守って、そして助けて愛してくれていました。

エリザベトもそのような夫に支えられて、お祈りと、そして奉仕と、寛大な貧しい人を助ける事に精を出しました。特に歴史家の記録によると、「その当時女王様たちは、フランスの女王様たちに負けないほどきれいな美しいドレスを着て、美しいお化粧をして着飾っていた」とありますけれども、でも貧しい人を助ける為には、その自分の身分が要求する時にはそれを使いますが、それを却ってそうではなくて、簡単な服で、作業がしやすいように助けて回ったそうです。時には癩(らい)病の人を看病して、その人を自分で自ら看病した事もありました。そしてその癩病の人の足に接吻した事もあるのだそうです。

ある時にエリザベト皇后は、その非常にこの厳しくいつも悲しそうな顔をしてお祈りや、何か隣人の愛徳の業をする人たちに、「あぁ、この人たちは何か天主様をおっかながってているのではないか。天主様は喜んで与える人にもっと寛大に喜ぶのに、何かいつも辛そうであまり喜ばない」とポロッと漏らした事もあるそうです。

そのような非常に優しい、寛大で、国民から愛されて、夫と家族円満なエリザベトでしたけれども、とても辛い事が起こりました。それは3つのポイントがあります。

1つは十字軍でした。十字軍の為に王ルイは皇帝フレデリック2世と共に、エリザベトと一緒に生活をする事ができなくなりました、軍隊に出なければなりませんでした。兵士たちを率いて戦いに出なければなりませんでした。それが王様の義務だったからです。「決して夫と離れる事がない」と思っていた、そしていつも幸せな生活をする事を喜んでいた、このように素晴らしい優しい夫に恵まれたエリザベトにとって、このルイ王と離れる事は特に辛かったのです。特に子供も3人いましたし、小さな子は数ヶ月でした。

次に第2の大きな試練は、その後に、実はルイがイタリアで、十字軍の戦いでフレデリックのもとにいる時に死亡したという、「死別した」というニュースを受けた時でした。その愛する王を失った時の聖エリザベトの悲しみは、もう私たちの想像を絶するものがありました。しかしその時には、王の女王としての服をみな脱いで、「これからは貧しく、貧しい服を着て、もう王様がいなくなったので喪に服して、そして貧しい人と身寄りのない人の奉仕の為に生きよう」と思ったそうです。

第3の十字架は、今度は今まで家族の一員であったはずの弟が、ヘンリー・ラスペという弟が、自分の夫の持っていた城を自分のものにしてしまって、そして今まで嫁に入ってきたエリザベトを追い出してしまったのです。財産を全て奪ってしまって自分のものにしてしまって、「兄嫁は出て行け」と、自分の住んでいた宮殿からお城から追い出されて、子供はその時残して行ったのですけれども、その子供さえも、遂には「出て行け」と追い出されてしまいました。しかもこの悪い事に、この弟は国民に、臣下に命令して、「この兄嫁を受け入れてはいけない。誰もその宿に宿してはいけない」などとさえも言うのです。

国民はどれほど心を痛めた事でしょうか。「この女王様こそが自分の貧しい時に助けてくれた方であって、病の時には看病してくれた方であって、この苦しい時には資金を送ってくれた方であって、これほどの大恩人を恩を返す事ができない、もしもそんな事があったら大きな罰が待っている。」そしてこの女王様は全く財産を失って、友達も失って、そして寒い冬であったとしてもその中を凍えながら、住む所を寝る所を探して行かなければなりませんでした。3人子供がいて、乳飲み子を持っていたそのお母さんにとってどれほどそれは辛い事だったでしょうか。

考えてもみてください。私たちがどこかの家にお嫁に行って、そしたら主人が亡くなった。そしたら弟がそれを、夫の家を取ってしまって「出て行け」と言われた。

エリザベトはしかし天主様の御憐れみによって、ある、それでも憐れみのある方がいて、「もう打ち捨てられた馬小屋がここにあるから、そこに休む事ができる」という事を教えてくれました。

何かイエズス様の御誕生の時にあった事と同じような事が起こりました。天主の天国の全ての宝を残して、この地上に全く貧しい者として生まれて、そして馬小屋で生まれた。

聖エリザベトも同じでした。全てこの世の人々から捨てられて、そして意地悪な悪口や、嫌みや嘲笑い、或いはもう聞くに堪えないような悪口とか言われたかもしれません。お金持ちであった時にはちやほやされたかもしれませんが、しかしこんなに貧しくなってしまっては、王様の敵となってしまっては、もう誰も助ける者もいませんでした。

それでも聖エリザベトのすごい事は、まだ20歳にならない、20歳になるかならないかのこの若い皇后は寡婦は、それを喜んで天主様の為に御捧げした、という事です。

こうしてエリザベトはその後に、夫が亡くなった後の1年後には、フランシスコ会の第3会会員に入会する事にします。そしてこれからはもっと貧しい、つぎはぎだらけの貧しい者で、そして謙遜な、病人の世話とかお掃除とか、自分の住む所はもう貧しい掘立小屋で満足していて、そして若くして24歳にして亡くなります。

亡くなった時には大きな葬儀が行われました。そして聖エリザベトのお墓ではたくさんの奇跡が起こりました。あまりにもその奇跡が目を見張るものであったので、否定できなかったそれをその事を確認した教皇様は、聖エリザベトが亡くなった4年後の1235年に、聖グレゴリオ9世教皇様が聖エリザベトを聖人の位に列聖しました。そしてこの聖エリザベトは、初代の王様である聖ステファノの名前にふさわしい立派な大聖人になったのです。聖エリザベトの娘にはやはりトゥリンケンの聖ジェルトルード、或いはその伯母さんにはヘドウィージェ、或いはその姪や姪の子供たちにはボヘミアの聖アグネスとか、ハンガリーの聖マルガリタ、或いはポーランドのクニグンデ、或いはこの前お祝いしたポーランドの聖エリザベトなどが顔を並べて、そして最後には、福者聖カール1世もその子孫としてあります。

聖エリザベトは、この世の富とこの世の栄華を全く軽蔑して、イエズス・キリスト様の愛の為に全く軽蔑して、イエズス・キリスト様を信じて、そしてそれを礼拝して、それに希望して、イエズス・キリスト様を愛して生きた方でした。

この人生はちょうど、私たちの目の前にいる天使が礼拝している、イエズス様の人生と同じものであって、そしてファチマのジャシンタやフランシスコ、或いはシスタールチアが送ったような生活であって、ファチマと同時代に生きたカール皇帝も同じように生きてきました。

私たちはでは今回、どのような遷善の決心を立てたら良いでしょうか?

今日は、私たちも聖エリザベトに倣って、私たちは聖エリザベトと比べると、その若くしてこれほどの聖徳に達した彼女と比べると、「私たちは何年も生きているにもかかわらず、何とそのほど遠いものであるか」と思いますけれども、聖エリザベトとマリア様の御取次ぎによって、この私たちの目をいつも天国の栄光に、天国のイエズス様の事に、イエズス様への愛の為に、天国にいつも眼差しを確固と定めている事ができますように、そしてこの世で辛い事が起こった、悲しい事が起こった、不正な事をされた時には、イエズス様を愛するが為に、多くの諸聖人たちに倣って、私たちもそれをイエズス様への愛の為に捧げる事ができますように、そして遂には聖エリザベトと同じように、天国の栄光の中で永久に永遠に喜ぶ事ができますように、お祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】