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2016年聖母小黙想会 霊的講話【15】 8月14日 シュテーリン神父様「マリア様への奉献を毎日生きることとは」

2019年01月30日 | お説教・霊的講話
2016年8月14日 聖母黙想会 シュテーリン神父様講話【15】
同時通訳:小野田圭志神父


聖母への奉献、自己奉献の祈りは、契約であって、決意であって、意志の働きです。でもこの奉献の祈りは、ただ最初の一歩にしか過ぎません。契約を結ぶのと同じです。契約を作っただけで、それでそれを実践しなければ、全く意味をなしません。

婚姻の秘跡も契約です。しかし、婚姻の秘跡を結んで祝福を受けた日は、ただ始まりに過ぎません。婚姻はそこから始まります。もう取り消す事がない約束は、二人の霊魂を一つに結びますが、ご結婚をなさった方はよくご存知だと思いますけれども、その結婚生活とは、長い戦争が始まる事です。

司祭に叙階された日も、その叙階式はとても美しい日でした。そして荘厳な約束をしました。そしてその叙階された時以後、私たちはその約束を実現しようと、更に進まなければなりません。

この荘厳な、マリア様を通したイエズス様への奉献は、荘厳な始まりです。荘厳な約束です。私たちの生活を規定する新しい掟です。毎日この奉献を生きなければなりません。グリニョン・ド・モンフォールは具体的に、どうやったらこの奉献を実践する、実行する事ができるかを示しています。これはモンフォール式の実践、モンフォール様式と言われています。257番から265番までに書かれています。これを次の講話の時までにお読み下さい。

モンフォール様式によれば、「マリアによって、マリアと共に、マリアの内に、マリアの為にする」という事に要約されます。もしもこれができれば、私たちはもっと完璧に、「イエズス様を通して、イエズス様と共に、イエズス様の内に、イエズス様の為にする」事ができるようになります。

カギ括弧をちょっと開けると、「マリア様への奉献」と「ミサ聖祭」とを密接に関連付けるというのはとても、グリニョン・ド・モンフォールのやっている特別なやり方です。例えば奉献の祈りは、ミサの4つの目的と一致しています。ミサの典文の終わりに、「彼と共に、彼において、彼の内に」という“PER IPSUM, ET CUM IPSO, ET IN IPSO”というこの言い方で、このホスチアの上で十字架を切る司祭の仕草がありますけれども、ちょうどその言葉とこのモンフォールの様式、「マリア様を通して、マリア様と共に」というのは、似通っています。「キリストを通して、キリストと共に、キリストの内に」というこのカノンの最後の言葉を、私たちは深く黙想しなければなりません。

このミサの典文のこの最後の言葉のエコーであるかのように、こだまして、「マリア様を通して、マリア様と共に、マリア様の内に、マリア様の為に」というグリニョン・ド・モンフォールの言い方になっています。

私たちは、マリア様を通して、マリア様と共に、マリア様の内に、マリア様の為に、全てをします。するとマリア様は、私たちをしてイエズス様の方に移させます。イエズス様は、イエズス様を通して、イエズス様と共に、イエズス様において、全ての栄光と讃美は、聖父に捧げられます。

マリア様への奉献を通して、イエズス様によって、イエズス様と共に、三位一体への最高の讃美と栄光を帰する。これが私たちの人生の究極の目的です。

では、「全てを、マリア様を通してする」という事は何であるかを見てみましょう。258番です。「マリア様を通して、マリア様によって」という、これは何を意味するのでしょうか?

これは、「マリア様に従わなければならない、従順でなければならない」という事です。私たちの愚かな精神を、マリア様の精神と交換する必要があります。マリア様の精神、マリア様の霊とは何でしょうか?それは「聖霊」の事です。

マリア様に従わなければなりません。コルベ神父様の全生涯を特徴づけるものは、この「従順」です。この従順という事を文字通り実践したので、コルベ神父様は偉大な聖人となりました。

このグリニョン・ド・モンフォールは、マリア様と聖霊との深い関係について数語でまとめています。では、これは私たちにとってはどのような意味があるでしょうか?259番です。

3つの事をして下さい。もしもその3つの事がなければ、「マリア様を通してする」という事ではないからです。

それは、「何をするにも、自分の考えや自分の見方を捨てる」という事です。

例を、グリニョン・ド・モンフォールが挙げる例が非常に面白いです。私たちの日々の生活を計画する時には、マリア様の考えに従って下さい。例えば、買い物に行く時には、マリア様がお望みの物を、マリア様がお望みの所に行って、買い物をするようにします。人と何かおしゃべりをする時には、私たちの判断や、私たちの考えや、私たちの噂話を捨てて下さい。でもグリニョン・ド・モンフォールはこういう事を話しません。それよりももっと高い、私たちの宗教生活について語ります。

例えば、黙想をする時。ミサを捧げるとかミサに与る時。あるいは聖体拝領をする時。私たち自身の考えや、私たち自身の見方や、自分自身の黙想をしては、これは良い黙想とは言えません。もしも私自身の考え、私自身の望み、私自身のやり方で御聖体拝領をすると、大体は雑念で終わってしまいます。私自身の考え、望み、行為は、たとえ私たち自身には良いものに見えたとしても、実際はその中には暗闇があって、悪意も潜んでいるので、マリア様の聖なる霊にとっては障害となってしまいます。

私の考え、私のインスピレーションとか、私の望み、願いとかを見て下さい。私たちのそういう願いをよく分析してみると、最初はこの本能的な自分の望みを満足させるとか、自分の利己利益を達成するとか、という事に動かされています。

例を挙げます。1日はどうやって始まるでしょうか?起きる事から始まります。起きます。どうやって目を覚ましますか?普通は目覚まし時計が鳴ります。寝るのですけれども、あまりよく寝付けなくて、よく寝れなかった、「あぁ、疲れてるな」と、そこでベルルルルル!とベルが鳴ります。

皆さんの最初の反応は何でしょうか?「まだ時間があるし、もうちょっと寝よう…」世界中の携帯電話の中で、目覚まし時計には必ずスヌーズ機能が付いています。そして私たちの自然本性はこうあまりにも、このベッドの暖かい中にもうちょっと居ようという、そこでこの眠り続ける、それがあります。これを放棄して下さい。この自然の、自動的にやってくるこの傾向を放棄すると、そうすると友人の皆さん、私たちには勝利があります。

私たちがよくそれに従うように、この自然の傾向に従ってしまうと、最初から敗北で一日が始まります。私の記憶が正しければ、去年皆さんに、この「一日最初に負けると、一日がどのように終わってしまうか」という事について詳しく説明しました。全てがこう慌ただしくて、全てがこうストレスでいっぱいで、忍耐を欠いて、不親切な言葉を言って、朝のお祈りはしないし。

「もし私の後に従うならば、自分を捨てて、十字架を担え。」これがイエズス様の望みです。自分を捨てるというのは本当に難しい事です。でもマリア様をお愛しする為には、とても簡単になります。マリア様を通して、マリア様によって、これを放棄します。小さな事から大きな事まで、マリア様を通して、マリア様によって、これを放棄します。

もしも誰かに手紙を書くとか、あるいは誰かにEメールを書くとか、あるいは誰かに話をする事とか、という時に、「すぐにこう言いたい」という欲求があるかもしれません。その自分のやりたい事は放棄して下さい。

でもこの「自分を放棄する」というのは第一歩の段階で、その自分を空にした後で、マリア様で埋めなければなりません。これが第2のポイントです。

マリア様の導きの通りに、マリア様の導きのままにしなければなりません。ちょうどマリア様の御手に置かれた、職人の道具が仕事の道具が職人の手の中にあるように、私たちも置かればなりません。

これ(ボールペン)は道具です。これは私の思う通りに動く時に初めて、役に立ちます。もしも私が何か書こうとして、このボールペンが飛び跳ねたり、何か抵抗すると、役に立ちません。書こうとすると抵抗して動かない、書こうとするとインクも出ない。マリア様の霊によって導かれるがままに、マリア様のお望みのままになさせる。それがマリア様によって、マリア様を通してする、という事です。

これはとても簡単な事で、難しい事ではありません。ほんの瞬間、ほんのちょっとした意志の動きで十分です。「私は自分を捨てます。マリア様、私をあなたに与えます。」誰かと話している時、何かイライラする時、その時に、「あぁマリア様、私は自分の言いたい事ではなくて、マリア様が仰りたい事を言います。マリア様のままに動きます。」

この時に何かを感じる必要はありません。何か私が言う事をですね、感じなくても、感覚で何かなくても良いのです。もしも「マリア様、私は御身に私を捧げます」と言うと、何か霊がコオオオッと来て、霊に満たされて…という事を感じる必要はありません。もしも私が真面目に、「これは、悪魔に自分を売り渡す。」もしもそうしたら、自分の感覚は変わりませんけれども、悪魔はそうではありません。同じように、マリア様も同じです。私たちが何も感覚を受けなくても、マリア様はちゃんと働いておられます。具体的なアドバイスがあります。

時々、行為の最中でも、また行為の後でも、マリア様への奉献と一致の行為を何度も更新して下さい。この行為を更新すれば更新するほど、それだけ早く霊魂が聖化されて、それだけ早くイエズス様と一致します。

例えば終日の間、「あ、何かお腹が減ったなぁ」というと、何か盲目的に本能的に、こう足は冷蔵庫の方にまわって、冷蔵庫を手が自動的に開けて、食べる時間ではないのにもかかわらず、こう何か飲んだり食べたりする。こうやって何か本能のままに、こうちょっとお腹が減った、ちょっとこうだというと、それに流されて行動するのは、非常に不健康です。この1日に3回あるいは4回、そのような時間がありますけれども、それ以上ではない、という事を知らなければなりません。

これは規則によって決定されています。例えば昼食の時間は、お昼から夕方18時までの間ではありません。例えば朝食は8時です。お昼は12時、おやつは16時、夕食は19時。その間にもしも喉が乾けば、水を飲みます。もしもお水を飲むのにアレルギーがある人はお茶を飲んで下さい。その他には、例えばケーキを食べたりとか色々な物を、そのあれやこれやというものは必要ありません。このいつもこう食べて食べて、ムシャムシャして、ムシャムシャして、食べて食べて、この際限なく口を動かしていれば、お昼のご飯の意味はなくなってしまいます。

グリニョン・ド・モンフォールは非常に具体的な例を説明します。「マリア様を通してする」というのはこれです。

「マリア様と共に」次に、260番です。「マリア様を見て、マリア様をモデルとして、模範として、それに従う」という事です。

子供をどうやって母親は教育するでしょうか?子供にどうやってこの話をするとか、教えるとか、お祈りのやり方を教えるでしょうか?命令して、「こうやりなさい」と言うだけではありません。自分で模範を示して、「こうやるのよ」と言います。子供はお母さんの様子を見て、それを真似をします。お母さんの声の出し方とか、お母さんの動きの仕方とか、手の動かし方とかをそのまま真似します。

マリア様を模倣して、マリア様が徳の模範となります。これはルルドの聖ベルナデッタの徳でした。ベルナデッタは、「あなたの霊性は何ですか?」と言われた時に、「私は、マリア様を見て、マリア様の真似をするのです」と答えました。

これは2つの事が入っています。1つは、「しなければならない事を、具体的に見る」という事です。そして「マリア様、もしもマリア様が私の立場に立ったら、一体何をなさったでしょうか?マリア様だったらこの同じ事をどのようになさるだろうか?」と考察する事です、尋ねる事です。

では私たちの貴重な模範を、瞬間を、もう一度黙想してみましょう。

まず第1は、「私は、自分を放棄する」という事です。私はスヌーズ機能を放棄します。マリア様の意志に従って立ち上がります。

そして私は別の事を尋ねます、「私の起きるのは、マリア様の起きるのと似ているだろうか?ナザレトの家で、あるいは神殿で、マリア様はどうやって起床されただろうか?」自分が覚醒する、起きる、目を覚ました時に、すぐにマリア様は天主様へと精神を高めて、天主に対する礼拝と、深い感謝と、そして委託とを全て表しました。マリア様が今日しなければならない全ての事を、既に天主様に奉献して。

ところで、私が起きるとどうでしょうか?私の意志に反して、目覚まし時計の通りに立ち上がったら、それは1つの勝利でした。

そして私は起き上がって、こうやって背伸びをします。そして洗面所に行って、こう髭を剃ったり、そうではなくて皆さんは私は、こう手を最初に携帯にやって、「あ、何かメッセージがあるんじゃないか」あるいはラジオのスイッチを入れて、「何かニュースはないか。」音楽を聴く、パッパ〜パッパ〜。「マリア様はそうしただろうか?」

違いが分かりますか?「マリア様、私の起床がマリア様のものと少しだけでも似る事ができますように」とお祈り致しましょう。これは起床の事だけではなくて、全ての事において真似なければなりません。

マリア様はどうやってお祈りしただろうか?私はどうやってお祈りするだろうか?
私はどうやって御ミサに与るだろうか?マリア様はどうやってミサに与るだろうか?
私の聖体拝領はどうだろうか?マリア様だったらどうだろうか?
マリア様は台所のお仕事を、あるいはお掃除を、あるいはお洗濯をどうしただろうか?私はどうしているだろうか?
私は他の人々とどうやって接触しているだろうか?でもマリア様はどうやって対応しただろうか?

3つの段階を見て下さい。そして「マリア様はどうやっただろうか?私はどうだろうか?」と、まず比較して下さい。謙遜に、「マリア様と全然違う」という事を認識して下さい。

第2に、強く望んで下さい。マリア様とますます似通った者となるように願って下さい。マリア様に常に多く強く願って、私のマリア様と似通った者になるようにお願いして、もしも間違った事をしていれば、それを直す事ができるように頼んで下さい。

「マリア様と共にする」という事と別のやり方もグリニョン・ド・モンフォールは言います。グリニョン・ド・モンフォールが今言ったやり方は、「具体的に今、このマリア様のやっている事を見る」という事です。具体的な日常の生活一つ一つを、マリア様の仕方一つ一つと比較する事です。第2は、一般的なこう常に常駐的なやり方で、それを見るという事です。それは「マリア様の御心はどのような状態であったのか。そのそこから全ての行為が出る、その源の御心はどうだったか」というところに目を向ける事です。

私たちが話すのも、行なうのも行為するのも、皆、その何かそういう状態から、心の状態から出ています。もしも私たちの心が平和であって、主との一致があって、主に信頼していて、良い、清い良心であれば、そこから溢れ出る言葉とか、行動というのは、不安で、良心が汚い、汚れている呵責のある人、あるいは主を信頼していない人の言葉や行動とは、全く違うはずです。

マリア様のその心の状態を黙想しなければなりません。そしてそのマリア様の心の状態を、私の心にもやらなければなりません。

そこで3つの事を挙げます。まずマリア様の「信仰」、第2が「謙遜」、第3が「清らかさ、純潔さ」です。私たちの他の人々に対する態度とか、あるいは祈りは、マリア様とどれほどかけ離れているでしょうか。

例えば信仰。他の人々と話す時に信仰を、生き生きとした信仰を持っているでしょうか?それとも自然の本性に従った、ただそれだけででしょうか?誰かと会って話をする時に、何を考えますか?話す時にどのように話しますか?信仰を持って話しますか?それとも信仰を無しに話すでしょうか?

この黙想の家、有名な黙想の家で出会う人々にどのように対応しているでしょうか?マリア様がなさったような態度で対応するでしょうか?この学生は本当に夜騒がしい、うるさい、ペチャペチャうるさい、態度が悪い、と思って言っているのではないでしょうか?マリア様はおそらくこのような学生たちを見て、「あぁ、救わなければ、この霊魂たちを救わなければならない」と。

教会に行って、御聖堂に行ってお祈りをしなければならない時、イエズス様が現存しておられます。私たちはでも普通行くと、何か誰もいないかのように確信しています。あるいは私たちは、この聖遺物の前に頭を屈めます。私たちが教会に聖堂に入る時に、どのような態度で入るでしょうか?「あぁ、お祈りの本はどこだろう?あぁ忘れちゃった、あぁそれから…」と、雑念だらけでしょうか?「あぁ、このお花を変えなければならない」「あぁ、この人は歌が下手だ」「あぁ、あの人はあんな事をしている」もしもそのような事を考えないとしたら、何も考えていません、ぼけっとしていいます。そしてしばらくすると、「あ、よく考えたら御聖堂の中にいた」と気が付きます。

でもマリア様は、御聖堂の中に入って御聖体の現存の前に来ると、マリア様は御眼差しも、心も、耳も、全てイエズス様の方に向かって、それに沈黙と礼拝の内に、イエズス様を讃美するでしょう。「イエズス様がここに真に在す」と確信してそうなさいます。

「マリア様と共にする」という事は、「マリア様を私たちの模範として、マリア様のようにする」という事です。「マリア様がなさったその内的な、その中に入ってする」という事です。

最初のこの具体的な、マリア様の生活様式を具体的に一つ一つ考察するのは、「行為」について考えます。

ところが第2の、マリア様の心の状態を考えてみるのは、そのマリア様の「意向」とか、マリア様の「心のその態度」を見ます。

この第1のやり方では、マリア様の具体的な行動一つ一つですが、外面的な行動を真似する事ですけれども、第2のやり方によって、マリア様の内的な状態に、内的な心の持ち方を真似する事によって、その中に入るようになります。

マリア様の心の持ち方、在り方というのは、深い信仰と、深い謙遜と、深い清らかさです。マリア様は全ての事によって、謙遜でした。マリア様は決して傲慢な態度をお取りになった事はありませんでした。「私は何か言いたい事がある」とか。

私の場合には、何かやると、「私は、俺は」とすぐ考えてしまいます。「私はこれが嫌いだ。」「私はこれが好きだ。」「これは僕には興味がない。」「これは僕には関心がある。僕は好きだ。」「私と比べると、この人は私よりも…」と、そこから、嫉妬とか妬みとかが生まれます。

マリア様が十字架の元に立ち留まった時に、マリア様は決して、「自分はファリサイ人より良い人だ」とは思っていませんでした。マリア様は、そのイエズス様を悪く言う人々を軽蔑しませんでした。もしもこのファリザイ人や、イエズス様を攻撃するような人々を軽蔑するとしたら、マリア様は私たちを子供として受ける事ができなかったでしょう。

では、このモンフォール形式の2つを見ました。今日からこれを始めて下さい。このマリア様を通して、マリア様と共に、これを始めて下さい。その残る2つ(マリア様の内に、マリア様の為に)は後で付いてきます。マリア様がどうなさって、どうやって生活されたのか、どのようなお心持ちだったのか、という事を考えながら、そしてマリア様と共に、マリア様によって全てをする、という事を、この始終一日中全てをする、という事で、私たちにはやる事がたくさんあります。

もちろん口先だけで、「あぁマリア様、私はあなたによって、あなたと共に全てをする事をします」と言うのは簡単です。「私はマリア様に全てを」という、この「全てを」と言うのは簡単ですけれども、でもこのただ意味のない虚ろな言葉になってしまう危険があります。朝起きる事から始まって、この全てを一つ一つ埋めてやって下さい。すると、「あぁ、自分はまだまだしなければならない事がたくさんあるな」と思われる事でしょう。そして良い遷善の決心を立てて下さい。

261から265番まで、ちょっとした言葉があります。グリニョン・ド・モンフォールについて一番重要とされているのは、その「マリア様の内に」という事です。この部分をよく読んで下さい。これは非常に深いものがあります。261から265番の「マリアの内に」という非常に深いものがあります。この「マリアの内にする」という事は深い霊性なので、もしも私たちが「マリア様を通して」、「マリア様と共にする」という事を実践していなければ、この「マリアの内にする」という深い意味を理解する事は難しいと思います。

皆さんにあまり詰め込まないように、この「マリアの内に」という事については、今の段階では説明を控えます。なぜかというと、「やりすぎるというのは、善の敵である」という諺がありますから(^^;)


マルセル・ルフェーブル大司教が1976年6月29日にした歴史的な説教:聖伝を維持しながらこそ、ペトロの後継者(教皇)に対する私たちの愛と素直さと従順を表すことができる

2019年01月29日 | ルフェーブル大司教の言葉
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 マルセル・ルフェーブル大司教が1976年6月29日にエコンの神学校でなさった歴史的な説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


ルフェーブル大司教の説教 1976年6月29日

 愛する兄弟の皆さん、あらゆる国々、四方の彼方から来て下さった兄弟たちよ、私たちは、今、私たちの聖ピオ十世会にとって、又、教会にとって、非常に重要なこのときに、兄弟たちを歓迎することが出来て、又、兄弟たちをこれほど身近に感じることができ、大きな喜びを感じています。

 私は思います。巡礼者の皆さんが非常に遠く離れたところから、この儀式に参加するために、夜昼と無く旅をする犠牲を払ったのは、皆さんに、信念があったからであると。それは、教会の儀式に参加するために、心を喜ばせる儀式に参与するために来た、と言う信念です。なぜなら、皆さんが帰路につくときには、カトリック教会は続いていると安心するであろうからです。

 はい、私はよく知っています。このことをするに困難はたくさんあることを。こんなことをするのはむちゃだと私は言われました。私たちは行き止まりの道を歩んでいるとも、言われました。なぜなら、3ヶ月前から、3月19日の聖ヨゼフの祝日から特に、ローマから懇願や要請、命令、威嚇などがありました。それは、私たちの活動を止めるように、この司祭叙階式を中止するようにとのことでした。これらの要請は、ここ数日、緊迫したものでした。特にここ12日間というもの私たちは絶え間なくローマからのメッセージや使者を受けました。この叙階式を敢えてしないようにと、言われました。

 しかし、全く客観的になって、私たちにこの司祭叙階式をするなと求める人たちを動かす本当の動機は何なのかと言うことを探してみると、その深い動機を探ってみると、それは私たちがこの司祭たちを叙階するのは、彼らが永遠のミサを捧げるためであるから、と言うことがわかります。

 彼らは知っています。これらの新しい司祭たちが教会のミサに、聖伝のミサに、永遠のミサに忠実であることを。だからこそ私たちに叙階するな、と圧力をかけるのです。私にはその証拠があります。6回、ここ3週間というもの6回にわたって私たちは、ローマと通常の関係を結ぶようにと求められました。そして、その証拠として新しい典礼様式を受け入れ、私自身これを捧げるようにと言われました。私が新しい典礼様式で共に共同司式をして、私が喜んでこの新しい典礼を受け入れたと言うことを示せ、そして、それさえすれば、ローマと私たちの関係は平らになると言われました。

 私は、手に新しいミサ典書を手渡され、「ほら、これが、あなたがしなければならないミサです。そして、あなたの全ての修道院で、捧げなければならない新しいミサです。」と言われました。また、今日この6月29日、皆の前で、私たちが新しい典礼様式でミサを捧げれば、ローマと私たちの関係は、何もなかったかのようになる、とも言われました。

 ですから、ミサの問題でエコンとローマとの間のドラマが展開されていることは、明らかではっきりとしています。

 永遠の典礼様式を守ろうと望む私たちは誤っているのでしょうか。確かに、私たちは祈り、相談し、考察し、黙想し、私たちこそが誤りのなかにいるのではないか、あるいは、新しい典礼様式を受け入れない私たちには十分な理由がないのではないかと言うことを知ろうとしました。ところが、まさにそのローマからの使者たちが私たちに典礼様式を変えるようにと要求するその要求の仕方が、私たちをして考えさせました。

 そして、私たちには確信があります。まさに、この新しいミサの典礼様式が新しい信仰を表明していると言うことを。この新しい信仰は私たちの信仰ではないこと、カトリック信仰ではないことを。この新しいミサは、新しい信仰の、近代主義者の信仰のシンボル、表現、イメージです。なぜなら、聖なる公教会が長い歴史のなかで、私たちに下さったこの貴重な宝、すなわち、聖ピオ五世によって聖別されたミサ聖祭の典礼様式を守ろうと望んだのは、きわめて重大な意味があったからです。

 何故かというと、このミサのなかに私たちの信仰が全て含まれているからです。全てのカトリック信仰が、すなわち、聖三位一体への信仰、イエズス・キリストのご神性にたいする信仰、私たちの主イエズス・キリストの贖いへの信仰、私たちの罪の赦しのために流された私たちの主の贖いの御血にたいする信仰、ミサ聖祭、十字架、全ての秘跡から来る超自然の聖寵への信仰が、すべてあるのです。これら全てを私たちは信じています。そして、これが永遠のミサ聖祭を捧げながら信じていることなのです。

 ミサは私たちに信仰を教えるものであり、信仰の源です。ありとあらゆる方面から私たちの信仰が攻撃にあっている現代において、私たちにとって必要不可欠のものです。私たちには、この本当のミサが、この永遠のミサが、私たちの主イエズス・キリストのいけにえが必要なのです。それは、私たちの霊魂を聖霊と私たちの主のおん力によって満たすためです。

 ところで、次のことは明らかです。新しい典礼様式は、知っているか知らないかに関わらず、カトリックの宗教とは別の概念を、ある別の宗教を前提としています。つまり、ミサ聖祭を捧げるのは、もはや司祭ではありません。それは会衆です。このことのために、全てはプログラムされています。金輪際、教会の権威に取って代わるのは、会衆です。司教たちの個人的な権力に取って代わるのは、司教団です。教区のなかの司教の権力に取って代わるのは、司祭たちが集ってつくる司祭諮問会です。今後、教会を動かすのは、数です。そして、そのことはミサのなかで明らかに表明されています。ミサでは、会衆が司祭の代わりになっているからです。それは、今では多くの司祭が会衆のない時にはもはやミサを捧げようともしないと言うところまでいっています。

 徐々に、聖なる教会のなかに、ミサに関するプロテスタントの考え方が導入されています。そして、このことは現代人の考え方に、近代主義者の考え方にぴったりなのです。全く一致しています。なぜなら、民主主義の理想が、現代人の考え方だからです。つまり、権力は会衆のうちに、権威は人間、民衆のうちにあり、天主にではない、と言うことです。

 これは非常にゆゆしきことです。なぜなら、私たちは、天主は全能で、天主に全ての権威があり、全ての権威が天主から来ること Omnis potestas a Deoを信じているからです。私たちは、権威が人民から、底辺から由来するとは信じません。しかし、これが現代人の考え方なのです。そして、新しいミサは、この考え方を、底辺に権威があり、天主にではないと言うことをはっきりと表明しているのです。このミサは位階制度的なものではなく、民主的です。これは、非常に重大なことです。新しいミサは、新しいイデオロギーのまったき表明なのです。私たちのもっとも神聖な典礼様式によって、私たちをして現代人のイデオロギーのなかに入らせようとしているのです。

 そして、これが現在、教会を全て腐敗させてしまっています。なぜなら、ミサ聖祭において底辺に権力を認めるというこの考えによって、司祭職を崩壊しています。司祭職を崩壊するのです。司祭は何をするのでしょうか。司祭に叙階の秘跡の時に授与される個人的な権力、そしてこの権能を彼らこの将来の司祭らはしばらくすると受け、天主の民の上に立つべく刻印を霊魂に受けるのです。叙階の後、彼らはもはや、自分たちは他の人々と同じだと言うことが出来なくなります。そんなことは出来ません。彼らは、もはや他の人々は全く違う人になるのです。彼らは、天主の人になるのです。彼らは、敢えて言えば、司祭の刻印によって、イエズス・キリストの天主性に参与する人となるのです。なぜなら、イエズス・キリストは、永遠の司祭、メルキセデクの位による大司祭であり、イエズス・キリストは、すなわり天主の本性がお受けになった人間の本性と一致し、いとも聖なる童貞女マリアのご胎内で、人性を受けたその瞬間、イエズスは司祭となったのです。

 これらの若い司祭たちがが参与する聖寵は、成聖の聖寵ではありません。洗礼の聖寵によって、私たちをしてイエズス・キリストに参与させるその成聖の聖寵ではありません。司祭の聖寵は、一致の聖寵です。この一致の聖寵は、イエズス・キリストだけの独自のものです。彼らは、この一致の聖寵に参与するのです。なぜなら、天主の神性、御言葉の天主性に一致することによって、イエズス・キリストは司祭となり、イエズス・キリストは王となり、イエズス・キリストは審判官となったのですから。

 これゆえに、この地上でいかなる被造物も受けたことのない崇高な聖寵である一致の聖寵のために、イエズス・キリストは、全ての人々によって礼拝されなければならないのです。ちょうど聖なる油を受ける者が聖別されるように、この天主性の聖寵自体が、イエズス・キリストの人性の中に油を注がれる如く、天から降り、イエズス・キリストの人性は天主の御言葉の天主性によって浸透され、イエズス・キリストは司祭となった、すなわち、天と人との間に立つ仲介者となったのです。そして、まさしくこの聖寵にこの若い司祭たちは参与するのです。そしてこの聖寵のために、彼らは天主の民の上に立つのです。彼らも天主と天主の民との間に立つ仲介者となるのです。

 彼らは天主の民の単なる代表ではありません。彼らは、天主の民が委任した代理人でもありません。彼らは集会の座長ではありません。彼らは永遠に司祭なのです。永遠に司祭の刻印を押された司祭なのです。彼らを敬わないと言う権利は誰にもありません。たとえ彼ら自身がこの刻印を敬っていなかったとしてもです。彼らは常にこれを持ち続けるからです。これこそが私たちの信じていることです。これが私たちの信仰です。これが、私たちのミサ聖祭を構成するものです。ミサを捧げるのは司祭です。そして信者はこの捧げものに心から霊魂を込めて参与します。ミサを捧げるのは信者ではありません。その証拠に、司祭はたった一人でもミサ聖祭を捧げ、数千人が参与すると同じように同じ価値でミサを捧げるのです。そのミサには無限の価値があります。司祭によって捧げられたイエズス・キリストの犠牲は、無限の価値があるからです。これが私たちの信じていることです。

 だからこそ、私たちは考えます。私たちにはこの新しい典礼様式を受け入れることが出来ないと。この新しい典礼は、別のイデオロギーの作品だからです。別のイデオロギー、新しいイデオロギーの作品です。この世の考え方を身につけたら、皆を引きつけることが出来ると思ったのです。信じない人々の考え、現代人の考えを身につけたら、教会に人を、信じない人を、引きつけることが出来ると思ったのです。現代人の考えとは、リベラルで、複数の宗教を受け入れ、そして、イエズス・キリストの社会的王国を受け入れない考えです。このことは私自身が、聖座から送られた使者の口から2回も聞きました。彼らは私に「イエズス・キリストの社会的王国は現在不可能だ、今後は、絶対的に複数の宗教を受け入れなければならない」と言いました。これが彼らの言ったことです。

 教皇ピオ11世によってイエズス・キリストの社会王国についてこれほど美しく書かれた回勅、「回勅Quas Primasを、今日では、教皇様は書かないだろう」と聖座の公式の使者が私に言いました。

 私たちはこの宗教を受け入れません。私たちはこの新しい宗教を受け入れません。私たちは永遠の宗教を信じるものです。私たちの宗教は、カトリックの宗教です。私たちの宗教は、現在人々の言うところの「普遍宗教」ではありません。こんなのはカトリック宗教ではありません。私たちの宗教は、このリベラルな近代主義の宗教ではありません。この新しい宗教には、それの礼拝様式、それの司祭、それの信仰、その公教要理、その聖書、エキュメニカルな聖書があります。私たちは、エキュメニカル聖書を受け入れません。エキュメニカル聖書などというものはありません。天主の聖書だけがあります。聖霊の息吹によって書かれた聖霊の聖書、天主の言葉だけがあります。私たちには天主の言葉を人の言葉と混ぜ合わせる権利などありません。エキュメニカル聖書などというものはありえません。唯一の聖霊の言葉だけです。私たちは私たちの信仰宣言をもはや公言しない公教要理を受け入れません。などなど。私たちはこれらのことを受け入れることが出来ないのです。私たちの信仰と矛盾するからです。

 私たちは本当に非常に残念です。量り知ることの出来ないほど大きな悲しみです。私たちにとって大きな悲しみです。私たちの信仰のゆえに、私たちがローマと問題があるなどと考えただけでも、悲しみです。どうしてこんな事が可能なのでしょうか。これは、私たちの想像を遙かに超えたことです。私たちはに考えることもできません。私たちはそんなことがあるなどと信ずることもできませんでした。特に私たちの子供のころ、全ては画一的で、全ての教会で一致を信じ、同じことを信じ、同じ秘跡を行い、同じミサ聖祭を捧げていました。どこでも同じ公教要理を教えていました。そして、突然、分裂のなかにあります。引きちぎられる思いです。

 ローマから来た人たちに私は申しました。教会の中で、教えられ実践されている新しい宗教によるこの分裂によって、キリスト信者は家庭の中で引きちぎられ、子供たちは分断され、心は引き裂かれている、と。司祭たちは心と霊魂のうちに大きな苦痛を感じて若死にしています。彼らは何をしてよいかわからないのです。彼らは誰に従順に従ったらよいのかわからないのです。そして、従順に従うことによって子供のころからの信仰を失い、また、叙階の時に反近代主義宣誓をした約束を反故にするか、あるいは、私たちの聖父でおられ、聖ペトロを代表する教皇様と離れてしまっているような印象を受けるか、どうしたらよいのかと。なんと司祭の心は引き裂かれていることでしょうか。多くの司祭は若くして苦しみのあまり死に至っています。司祭たちは今ではその教会から追放され、迫害を受けています。なぜなら彼らが永遠のミサを捧げているからです。

 私たちは今、本当に劇的な状況にいます。私たちは、選ばなければなりません。敢えて言えば見かけ上の不従順か、あるいは私たちの信仰を捨てるかのどちらかです。ところで、教皇様は私たちに信仰を捨てるようにと命じることは出来ません。それは不可能です。ですから私たちは、信仰を捨てないことを選びます。なぜなら、そうすることによって私たちは間違うことがないからです。なぜなら、教会が2000年間教えてきたのです。教会がその間ずっと誤っていたと言うことはありえません。全くありえません。

 だから、私たちはこの聖伝にしがみつくのです。聖伝は、素晴らしく、決定的に、そうです、教皇聖ピオ五世がうまく言ったように決定的に、ミサ聖祭において表明されているからです。

 もしかしたら、明日、新聞紙上に、私たちを排斥する記事が載ることでしょう。全くあり得る話です。それは今日のこの叙階式のためです。私自身、多分に聖職停止の罰を受けることでしょう。これらの若い司祭たちは、「不規則」の罰を受け、原則的にはミサ聖祭を捧げることが出来ないとされることでしょう。あり得ることです。

 それなら、私は聖ピオ五世に訴えます。聖ピオ五世はその勅書のなかで、永久にいかなる司祭もこのミサを捧げるためにいかなる教会法上の罰を受けることが出来ない、と言っているからです。従って、これらの罰則と破門など、もしそのような話が出たとしても、全く無効です。それらの罰則は、聖ピオ五世がその勅書の中で永久に有効なこととして荘厳に宣言したことと反対だからです。

 この聖なるミサを捧げた、と言うことによりいかなる司祭にも、いかなる場合でも、いつでも、いかなる刑罰も課すことが出来ない、決して出来ない、との言葉に。何故でしょうか?なぜなら、このミサは列聖されたからです。聖ピオ五世は、このミサを決定的に列聖したのです。ところで、教皇様といえども、以前列聖されたものを、聖でないと言うことは出来ません。教皇様は新しい典礼様式を造ることは出来ます、しかし、列聖されたものからその列聖を取り消すことは出来ません。教皇様は、列聖されたミサを禁止することは出来ません。ですから、ある人が列聖された場合、別の教皇様がでてきてこの聖人は聖人ではないと言うことは出来ないのと同様です。そのようなことはありえません。

 この聖なるミサは、聖ピオ五世によって列聖されました。ですから、私たちは全く平安に、安全に、このミサを捧げることが出来るのです。そして、このミサを捧げることによって、私たちの信仰を宣言し、それを維持し、又、信者たちの信仰を維持させることが出来るのだと、私たちは確信しています。これこそが、信仰維持のための最良の方法です。

 だからこそ、私たちは今しばらく後に、この叙階を執行するのです。勿論、私たちは出来ることなら、昔のように、聖座から祝福をいただけることを期待していました。昔は、新しく叙階を受ける司祭たちのためにローマからの祝福がありました。私たちは、よき天主様がいらっしゃり、全てをご覧になり、私たちのするこの叙階式を祝福されておられ、将来、確かにお望みになっておられるその実りを得ること、そして、私たちを維持し、教会を維持されることを考えます。

 特に聖母マリア様に、又、今日の聖ペトロとパウロにお願いいたしましょう。

 司祭職の母である聖母マリア様に祈りましょう。これらの若き司祭たちに、真の司祭職の聖寵をお与え下さいますように。聖霊降臨の日にご自分の取り次ぎによって使徒たちに聖霊を与えたように、彼らに聖霊を下さるように。

 聖ペトロのパウロに、私たちにおいて聖ペトロにたいする信仰を維持するように、求めましょう。おお、そうです。私たちには、ペトロにたいする信仰があります。ペトロの後継者に対する信仰が。しかし、教皇ピオ9世が教義憲章の中で、よく言ったように、教皇が聖霊を受けたのは新しい真理を作り出すためではなく、永遠の信仰において私たちを維持するためである、と。これが、第1バチカン公会議の時に教皇ピオ9世によってなされた、教皇様の定義です。

 だからこそ私たちは確信しているのです。この聖伝を維持しながら、私たちは、ペトロの後継者に対する私たちの愛と素直さと従順を表すのであると。

 聖父の聖子と聖霊との聖名によりて、アーメン。

教皇ピオ十一世の回勅「クァス・プリマス Quas Primas」王たるキリストの祝日の制定について EPISTULAE ENCYCLICAE QUAS PRIMAS

2019年01月29日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

教皇ピオ十一世の回勅「クァス・プリマス Quas Primas」をご紹介いたします。

回勅
「クァス・プリマス Quas Primas」

使徒座との平和と交わりを持つ総大司教、首座大司教、大司教、司教たち、その他の場所の教区長たちに、
王たる私たちの主イエズス・キリストの祝日を制定することについて
教皇ピオ十一世は、
尊敬に値する兄弟たち及び愛された息子たちに挨拶と使徒的祝福を与える


一、問題の提起

 教皇になってまず第一に(Quas primas post initum Pontificatum)、私は全教会の司教に最初の回勅を送り、人類が味わっている様々な困難の主な原因がどこにあるか指摘しました。

 人類の大部分が、個人生活からも家庭や国家からも、イエズス・キリストとその貴い掟を閉め出してしまったために、これ程多くの不幸が世界に広がったのです。そして、個人と国家が救い主の支配に背き、これを拒み続ける限り、諸国民の間に永続的な平和が打ち立てられる見通しは全くありません。

 私達が追求しなければならないのは、「キリストの国におけるキリストの平和」なのです。私もこの点に関して、及ぶ限り力を尽くすことを約束しました。世界にキリストの平和を回復し、確立する最上の手段は、主に支配を委ねるよう努力することであると私は思っています。

 それでも人々のうちに、キリストおよび唯一の救いの道である教会に対する関心が芽生え、或いは盛んになってきたことは、よりよい時代への明るい希望を私の心の内に起こしました。これは救い主の支配を踏みにじり、その王国から追放されていた人々が、再び服従の義務につく準備をし、急いで帰ってくる印なのです。

 聖年を通じて行われた数々の忘れがたい出来事は、教会の創立者であり王である主に、輝かしい栄光を誉れをもたらしました。

 布教展覧会が催され、人々は教会が花婿の王国を地の果てまで拡大するため、不断の努力を傾けているのを目撃し、非常な感動を覚えたのです。そして宣教師たちの不屈の努力と犠牲によって、多くの国々がカトリックになったのを眺めると共に、まだ主の救いと慈しみの統治に服していないところがあることも知りました。

 また、聖年の間に、司教や司祭の引率でローマに来た人々は、ただ一つの目的、すなわち、聖ペトロ、聖パウロ両使徒の墓と私の前で、キリストへの忠誠を誓うために来たのです。そして私が六人の証聖者、および童貞女を、その英雄的な徳を立証して聖人の位に上げたとき、キリストの王国の上に光が注がれたと感じました。聖ペトロ大聖堂における荘厳な列聖宣言の後、感謝の祈りを唱える信者の群が「キリストよ、御身は栄光の王なり!」と叫んだとき、私の心は言いようもない喜びと慰めに満たされました。天主を離れた人々や国々が妬みと不和にあおられ、滅びと死に向かって急ぐときも、天主の教会は聖なる男女の家系を絶えずキリストのために、生み育てています。この地上の御国で忠誠と従順を示す人々を、天国の永遠の幸福にキリストは招きます。

 それに、この祝いの年は、ニケア公会議から数えて千六百年目にあたりましたので私は記念の催しを行うように命じ、私自身バチカンの大聖堂でこれを行いました。それは特別に喜ばしいことです。というのは、ニケア公会議は信ずべきカトリック教義の一つとして、御一人子が御父と一体であることを、公言し、決定した上、使徒信経に、「その国は終わることなし」という言葉を付け加え、キリストの王としての権威を確認したからです。

 この聖年は、キリストの王国を称える数々の機会を提供してくれました。ですから、多くの枢機卿、司教、信者がた個々の、或いは連盟の願いをいれて、私達の主、イエズス・キリストの王たる尊厳を祝う特別の祝日を典礼に加えて、この聖年を完結するのは、教皇権に相応しいことだと思います。

 尊敬する司教、司祭の皆様、このキリストの王位こそ私の大きな喜びであり、これについて少しお話ししたいと思います。私がキリストの王位について語ることを全て信者にわたりやすい方法で説明して下さい。そうすれば、私の宣言しようとする祝祭日が毎年祝われ、現在も将来も豊かな実りをもたらすことになるに相違ありません。

二、教義の解説、王たるキリストの支配権

1 キリストの王位の2つの意味

 キリストは、全てのつくられたものに優る、最高の地位を占めておられますから、比喩的な意味で「王」として称えられるのは、かなり以前からの習慣です。

 この意味で、キリストは「王として人々の知性を支配する」と言われます。これは、その知性の鋭さや知識の広さのためばかりではなく、キリストが真理そのものであり、すべとの人間がその真理をくみ、心から受け入れねばならないからなのです。

 キリストはまた「王として人々の意志をも司っておられる」のです。それは、キリストが、御自分のうちに聖なる天主の意志と人間としての完全に正しい意志を合わせて持っておられるため、ばかりでなく、キリストが霊能を持って、私達の自由意志をもっと高い行いに向かわせ動かしているからです。

 キリストが私達の心の王であると言われるのは、「一切の知識を越える愛」(エフェゾ3:19)そのものであり、主の慈悲と温良が、全ての人を引きつけているからです。まことに、イエズス・キリストほど強く広く愛された人間は今まで存在しなかっただけでなく、これからも存在しないでしょう。

 しかし、もし一層深く考えるなら、王の称号と権能は、比喩だけではなく、本来の意味で、人としてのキリストに属することを認めなければなりません。というのは、御父から「権力と栄光と御国」(ダニエル7:13ー14)を与えられているということは、人たるキリストについてだけしか言い得ないからです。つまり、<天主の御言葉>として見れば、御父と一体であり、既に万物を御父と共有し、全被造物の上に最高絶対の主権を有しておられるからです。

2 聖書からの証明

 キリストが王であることは聖書の至る所に現れています。彼こそヤコブから出た統治者であり(民数4:19)、聖なる山シオンを統べる王として御父に任命され、全ての国民を遺産として与えられ、地の果てまでもその領土とされた御者(詩編2)です。また婚宴の賛歌は将来のイスラエルの王を最上の富と権力をもつ王と称え「おお天主よ、御身の王座はとこしえに続き、御身の王国の杖は正義の杖なり」(詩編44:7)と歌っています。これと似た句は他にも沢山見いだせます。

 もっとはっきりキリストの君臨が示されている句を見ましょう。主の王国は境が無く、正義と平和によって栄えると詠まれています。「彼の世、正義が栄え、深い平和があるだろう、彼は海から海まで、川から地の果てまで治めるだろう」(詩編71:7ー8)。

 預言者の証言もこれに劣らず沢山あります。まず、よく知られているイザヤの預言を挙げましょう。「一人のみどりごが我々のために生まれた。一人の男の子が我々に与えられた。その肩に王の印があり、その名は霊妙、顧問、大能の天主、とこしえの父、平和の君と唱えられる。彼の治めるところは広大、限りなき平和のうちに、ダヴィドの座を、その国を、法を正義を持って今もいつまでも固め強められる」(イザヤ9:6ー7)。他の預言者たちもイザヤと同様なことを言っています。エレミアはダヴィドの家から出る「正しい枝」が「王となって世を治め、栄え、公平と正義を世に行う」(エレミア23:5)と預言し、ダニエルもまた、天上に天主がお築きになる王国を告げています。「これはいつまでも滅びることなく、・・・立って永遠に至る」(ダニエル2:44)と。また少し後の章では、次のように言っています。「私はまた夜の幻のうちに見ていると、見よ、人の子のような者が雲に乗ってきて、日の老いた者のもとに来ると、その前に導かれた。彼に主権と光栄と国とを給い、諸民、諸族、諸国語の者を彼に仕えさせた。その主権は永遠の主権であって、無くなることが無く、その国は滅びることがない」(ダニエル7:13ー14)。ザカリアは慈しみの王が「ロバに乗る、すなわちロバの子である子馬に乗る」と言い、エルザレムに入るにあたって、群衆が彼に向かって「正しい者、救い主」と叫ぶだろうと預言しています(ザカリア9:9)。後に福音史家によって、これが全うされたことが認められました。

 旧約聖書の中で見いだしたキリストの王位についての教えは、新約聖書のうちに一層はっきり教えられ、認められています。

 例えばお告げの史実に簡単に触れると、大天使はマリアに向かって子を産むことを告げて、その子は「主なる天主によって父ダヴィドの王座を与えられ、永遠にヤコブの家を治め、その国は無窮のもの」(ルカ132ー33)と言っています。

 なおキリストも御自ら王としての権能について話しています。すなわち、義人と悪人の永遠の報いと罰について群衆に行った最後の説教の時、また、ローマ総督の公の質問にお答えになった時、また御復活の後使徒たちに全ての国民に教え、それに洗礼を授ける使命をお与えになったときなどです。このような機会にキリストは自分が王であると言われ(マテオ25:31ー40)、その称号をはっきりと示し(ヨハネ18:37)、天においても地においても、一切の権能が自分に与えられていることを荘厳に宣言されました(マテオ28:18)。特に最後の言葉は、彼の権能の偉大さと王国の無窮の広さを物語るものです。ですから、聖ヨハネが「地上の王の君」(黙示録1:5)を見て、「その上衣と股とに<王の王、主の主>という名が書かれていた」(黙示録19:16)と言ったのも不思議ではありません。御父が「万物の世継ぎにお定めになった」(ヘブレオ1:2)のは、このキリストなのです。キリストはこの世の終わりに「全ての敵を父なる天主の御足の下に置かれるまでに支配される」(コリント:25)のです。

 <すべての国に広がるべき、地上のキリストの国>であるカトリック教会が、毎年種々の典礼を使って、その創立者を、王、主、或いは諸国の王として一つの心をもって称えてきましたが、これも上述の聖書の教えから見れば当然でしょう。

 昔から詩篇を詠うとき儀式の中でキリストの王位を表す様々な称号を使ってきた教会は、今なお公式の祈りや、ミサ聖祭を捧げるとき、毎日これを用いています。この王たるキリストを絶え間なく賛美する点では東方典礼も私達の典礼と完全に一致しています。やはりこの場合においても「祈りの法は信仰の法」を示すのです。

3 キリストの王権の根拠

 主のこの尊厳と権能が何に基づくかと言うことをアレキサンドリアのチリロは次のようにはっきり示しています。すなわち「キリストが全被造物の上に主権を有しておられるのは強奪によって獲得したり、譲り受けたものではありません。御自らの本性と存在とによって、御自分のものなのです」(ルカ聖福音書注解)と。キリストの主権は位格的結合に基礎をおいています。従って天使や人間はキリストをただ天主として礼拝するのみでなく、人としてのその支配にも服しなければなりません。人たるキリストはその威嚇的結合によって全被造物の上に権力を獲得されているからです。

 しかし、私達に一層大きな喜びと慰めを与える考えがあります。キリストが生まれながらの権利だけでなく、救い主として獲得された権利によっても私達を支配すると言うことです。救い主にどれほどの恩を被っているかを忘れたものは次の言葉を思い出していただきたいものです。「あなたたちが・・・贖われたのは、金銀などの朽ちるものによるのではなく、傷もなくしみもない子羊のようなキリストの貴い御血による」(ペトロ前1:18ー19)。

 私達はもはや自分自身のものではありません。なぜなら、キリストが私達を「高値で」(コリント:20)買われたからです。そして私達のからだも「キリストの肢体」(コリント:15)なのです。

4 キリストの王権の本性

 ここでキリストの主権の意味と本質を簡潔に説明しておきましょう。今さら言うまでもないことですが、主権には3つの権能[立法・司法・行政権]が必要です。これを持っていないとその王権は無意味になります。贖い主の普遍的支配権については既に引用した聖書の箇所がはっきり証明しております。

 またイエズスが人間の贖い主であるのみでなく、(1)人々が服従すべき立法者でもあるということは信仰箇条として認めなければなりません(トリエント公会議VI-21)。福音書は主が法を既にお立てになったということを伝えていると言うよりもその法を定めたイエズスの姿を私達に示しています。その掟を守る人々はイエズスに対して自分たちの愛を示し、様々の形でその愛のうちに留まると言われています(ヨハネ14:15ー15:10)。

 また(2)裁判権も御父から与えられたことをイエズスはおん自ら言明されました。例えば安息日に奇跡で病人をいやしたと言ってユデア人たちがイエズスを訴えたとき「父は裁判なさらず、子に審判のことを全くお任せになった」(ヨハネ5:22)と言われたのです。この権能と一体となって全ての人々に対しても賞罰を与える権利があります。

 それから、(3)行政権もキリストに属しています。それは違反者が避けることのできない制裁を命ずるキリストに誰もが従わなければならないからです。

 しかしこの王国は何よりもまず精神的なものであり、精神的な事柄に関するのです。先に挙げた福音書の引用がこのことを十分に証明していますが、キリストは自らの行いによってそれを確証されました。当時はユデア人だけでなく使徒たちでさえ、メシアはイスラエルの自由を回復しその王国を再建するだろうと言う誤った期待を持っていました。イエズスはその様な空しい意見や希望を排斥されたのです。群衆が歓呼して取り囲み、イエズスを王にしようとした時も主はその栄誉を振り切って身を隠し群がる人々から逃げれられました。

 そして最後にローマ総督の前で自分の王国がこの世のものでないとはっきり宣言されました。

 その国に入るには生活を改めて準備し信仰と洗礼によらなければならないと福音書は言っています。その洗礼は外的な儀式ではあっても内的な再生をしるしもたらすのです。つまりキリストとその王国はただサタンと暗闇の力にだけ対立しています。そしてこの王国の国民は、富と地上の事物からの離脱、心の柔和、正義に対する飢え渇きを持つだけでなく、自分を捨て十字架を担って行かなくてはならないのです。

 キリストは御自分の御血で教会を贖い取られ、また人類の罪のために自分自身をいけにえとして捧げられ、常に捧げ続ける司祭なのです。ですから主の王職は贖い主と司祭の性格を帯びるのではないでしょうか。

 しかしキリストの王職がそうであるからと言ってこの世の事柄について人たるキリストが何の権威もないと考えるのは大きな誤りです。

 というのはキリストは御父から被造物に対する絶対の権利を与えられ全ての者を意のままにすることがお出来になるからです。それにもかかわらずこの世で生活された間は、主はこの支配権を行使されませんでした。そしてこの世の事物を所有したり管理したりすることをあえて望まず、それを所有者に当時も今も委ねておられるのです。「天昇の王国を与えるものは、地上の王国を奪おうとされない」(御公現の賛歌より)。

 こうして贖い主の主権は全ての人々に及ぶのです。レオ13世のお言葉によれば「キリストの支配権はカトリック信者ばかりでなく、異端によって脇道に逸れたもの、或いは離教によって愛の絆を切って離れた派のものであっても、正しい洗礼によって清められ、法の上から見てやはり教会に属している人々にまで及びます。しかしそれのみならず、その支配権はキリスト信者以外の全ての人々をも包括するものでありますから、全人類がイエズス・キリストの権力のものに」あるのです(回勅「アンヌム・サクルム」1899年5月25日)。

 この点では個人も家庭もまた国家も何の相違もありません。なぜなら人間は社会を構成しても、個人の場合と同じようにキリストの主権のもとに服しているからです。

 従ってキリストは個人の救霊の泉であると同時に社会の救いの源でもあります。「救いは主以外のものによっては得られません。全世界に私達が救われる名はこれ以外には人間に与えられませんでした」(使徒行録4:12)。

 キリストはまた国民一人一人や国家全体の繁栄と真の幸福をもたらす御者です。「国家と国民は別々に幸福になるのではありません。何故かと言えば国家とは多数の人々が一緒に生きていく集まりだからです」(聖アウグスチヌスのマケドニアへの書簡)。

 従って、国の為政者は自分の権威を保ち、国の繁栄を望むなら、自分がキリストの支配に対して公に尊敬と従順を表すのみでなく、国民にもそれをおろそかにさせてはなりません。

 教皇位について私は法的権威の失墜と権威に対する尊敬が一般的に欠けてきたことについて話しましたが、それは今でも変わらぬ事実です。

「天主とイエズス・キリストが法と国家から除外され、権威が天主からではなく、人間に由来するように考えられてきたため、ついに権威の基礎そのものが取り去られることになりました。これは支配権と服従の義務の本質を無視したからです。その結果当然人間社会全体がぐらつくことになりました。なぜなら、その社会はもはや堅固な基礎も保護も持っていないからです」(回勅ウビ・アルカノ)。

5 その王国から生じる効果

 人間が公私両生活において、一度キリストの王権を認めるならば、信じがたいほどに社会は真実の自由、秩序と静穏、調和などの恩恵で満たされるのです。例えば主の主権は元首や為政者の人間的権威に宗教的な意味を与え、市民の服従の義務を高めるに違いありません。

 使徒聖パウロは妻は夫のうちにキリストを敬い、奴隷は主人のうちにキリストを崇めるよう命じましたが、人間として崇めるのではなく、ただキリストの代理者であるから服従するようにと忠告しました。「あなたたちは高く買われたのである。人間の奴隷にはなるな」(コリント:23)。なぜなら、キリストによって贖われた人が人間に服属するということは道理に適っていないからです。

 もし正しく選出された元首や為政者が支配権は自分のものではなく天主である王の命令によってその代理者としてこれを行っているに過ぎないのだという確信に満たされるなら、これらの人たちは必ずその権威を敬虔に賢明に行使するに違いありません。また法律を作成しそれを実施するうえにも共同善と国民の人間的尊厳を忘れることはないでしょう。そうすれば反逆の原因もなくなり静穏な秩序が確立され、社会が繁栄するでしょう。その場合には、国民が元首や為政者のうちに天主であり人であるキリストの姿と権威とを見るようになるのですから、元首や為政者が同じ人間であり、たとえ不適任で非難すべき点があるのが分かっても、それだけの理由で服従を拒むようなことはなくなります。

 更に一致と平和については一般に次のことが言えるでしょう。王国が広がり人類全体に及ぶようになれば人類も一致の絆を一層自覚するようになるに違いないでしょう。この自覚があれば、数々の闘争は予防され、全くその跡を絶ってしまうか、少なくともその過激さはなくなるでしょう。

 ですから、もしキリストの王国が権利として及ぶと同じく実際にも全ての国民に及ぶようになれば、王たるキリストがこの世にお与えになった平和について失望する理由は全くなくなります。この平和の王は「全ての者を和睦させ」るために「仕えられるためではなく、仕えるために来られ」ました。そして全ての者の主であられたのに、自ら謙遜の模範を示し、愛の掟に加えて謙遜の徳を自分の国の第一の法と定められたのです。しかも「私のくびきは快く、私の荷は軽い」といわれました。もし個人や家庭や国家が全てその支配をキリストに委ねるなら、非常に大きな幸福を得ることが出来るでしょう。先任者教皇レオ13世も、25年前、全教会の司教に宛てて次のようにいわれました。

「万民がキリストの支配権を喜んで受け入れ、それに服し、また『全ての舌が主イエズス・キリストは父なる天主の光栄のうちにましますことを公言する』(フィリッピ2:11)時のみ、私達はこの多くの傷を癒すことが出来ましょう。その時こそ、一切の法は昔の権威を取り戻し平和が回復して剣と武器は手放されるでしょう」(回勅アンヌム・サクルム1899年5月25日)。

三、王たるキリストの祝日の設定

 全ての人々の上にこれらの祝福が豊かに実り、また、キリスト教的社会のうちにそれがいつまでも続くためには、救い主の王としての尊厳が出来るだけ広く認められなければなりません。

 このためには王であるキリストの特別な祝日を設けるのが一番良いでしょう。なぜなら、人々の心に信仰を起こさせ、内的な生活の喜びを感じさせるようにするには、教会のどんな公文書よりも信仰の奥義を毎年くり返して祝うほうが効果があるからです。そういう公文書が、信者の中でも比較的学識のある少数の人にしか理解されないのに反して、祝日はすべての信者を励まし教えます。書き教えるのはただ一度だけでしょうが、祝日は毎年、いいえ永久に語り続けるのです。文書は主に知性に働きかけるのみですが、祝日は知性と心、つまり人間全体によい影響を与えるのです。人は肉体と霊魂から成り立っています。従って目に見える盛大な祝日によって感動させられ、内的刺激を与えられるのです。そして様々の美しい儀式を通して天主の御教えを一層豊かにくみ入れ、自分のものとし、霊的生活の完成に役立てるようになるでしょう。

1 新しい祝日の制定は珍しくない

 時代の流れのうちに、このような祝祭日がキリストの民の必要に応じて次々と設定された来たことは歴史が教えています。例えば信者が一般的な危険にさらされ、これに対抗する力が必要となったとき、或いは忍び寄る異端の誤りを防ぐため、或いはまた、信仰の奥義や天主の恵みに対する尊敬を強めるために必要なときなどです。

 それで、キリスト教とがひどく迫害された初代教会の時代に殉教者に対する信心が行われ始めたのです。聖アウグスチヌスは「殉教者を祝うことが殉教への励ましとなるためである」といっています。また後に証聖者、童貞女、更に、寡婦に対して典礼による祝祭が始められました。これも各人に必要な徳を信者が熱心に求めていく上に非常に大きな効果をもたらしました。しかしそれより一層豊かな実りを生じたのは聖母マリアの種々の祝日を設けたことです。その結果人々は天主の御母、身近な代願者に対する信心に大いに成長したばかりでなく、贖い主が十字架から与えた聖母を自分たちの母として、更に熱心に愛するようになったのです。聖母マリアや聖人達に対する公の正しい信心に由来する多くの祝福のうちでも特に著しいものは、教会が誤謬や異端からいつも完全に守られた来たことです。この点に関する天主の御摂理はただ感嘆するほかありません。天主は悪からでも常に善をお引き出しになります。天主は人々の信仰や敬虔さが弱められたり、カトリックの真理が誤った教えによって攻撃されるようなことさえ、たびたびお許しになりました。しかし常にその結果真理が新しい光を帯びて輝き、人々の信仰や信心は惰眠からさまされ、一段と強くなっていくのです。

 比較的近代になって教会暦に入れられた祝日も、同じような理由で起こり、同じような効果をもたらしています。御聖体の秘蹟に対する尊敬と信心が冷えてきたとき、御聖体の祝日が設けられました。これは荘厳な行列やそれに続く八日間の祈りによって、キリストを再び公に礼拝するように人々を促すためでした。またイエズスの聖心の祝日が設けられたのは、ヤンセニズムの暗さと陰鬱な厳格さに圧倒され、人々の心が冷たくなり、天主の愛と救いの希望を全く失ってしまったときでした。

2 世俗主義に反対してこれを設定する

 ですから全カトリック信者がキリストを王として崇敬することを私が定めたのも、現代的要求に応えるものであり、同時に社会を毒しつつある病害に対する特別な薬としたいからです。

 現代の病、それは、いわゆる世俗主義、その誤りと悪質な策動です。尊敬する皆様、皆様もご存じの通り、この悪は一日でできあがったものではありません。それはもう長い間いろいろな国のうちに隠れていたのです。

 そしていつの間にかキリストの全人類に対する支配が拒まれ、教会がキリストご自身から受けた権利さえも否定されてしまったではありませんか。そのため教会がその権利を持って人類を教え、法を制定し、永遠の救いに導くために人々を治めることが認められなくなったのです。

 そしてついに、キリストは誤った宗教と同列に扱われ、それと同等の地位にまで落とされるようになりました。

 その上、教会は国家の権力のもとにおかれ、元首や為政者が多かれ少なかれ意のままに扱っています。ある人たちは、更に進んで天主が啓示された宗教を捨てて自然宗教、つまり自然的な心情をその代わりにしなければならないとさえ考えてきました。

 また国家のうちにも、天主なしにやっていけると考えているものがあるのです。その国では邪悪と天主とを疎んずる思想を自分たちの宗教観と思っているのです。

 このような個人および国家のキリストに対する反逆はたびたび嘆かわしい結果を生んできました。既に回勅「ウビ・アルカノ」で遺憾の意を表しましたが、今再びそれについて新たに考えたいと思います。

 つまり、このような人々と国々の反逆の結果、広範囲にわたる国家観の激しい敵意や憎しみの不和の種を生じ、あらゆる和合と平和を阻害してきました。また共通善とか愛国心とかの美名に隠れた飽くことを知らない欲望やそれによる個人間の争い、或いは過度の盲目的自己愛などを生じ、人々は自分の安楽と利益のみを求め、全ての物事をそれで測るようになってしまいました。そしてまた、義務を忘れたり軽んずることから家庭の不和を生じ、家庭の一致も安定も弛みました。こうして一言でいえば人間社会は揺らぎ、正に滅びに向かっているのです。

 しかし、私はこれから毎年行われる王たるキリストの祝日が社会をして、愛する救い主に立ち戻らせるだろうと言う希望を抱いております。

 そこでカトリック信者は様々の活動や自らの業によって、この復帰を早め準備させるように務めるのが義務でありますが、実際に多くの信者は社会に真理の光を掲げるために当然持つべき地位も権威も持っていません。こういう悪条件は恐らく善良な人々の持つ一種の弱さと臆病によるものでしょう。これらの人たちは、反対するのを断念するか、抵抗はしても余り強くはしないのです。従ってこの当然の結果として教会の敵の厚かましさや大胆な計画は更に力をふるうのです。

 ですから信者が一般に王たるキリストの旗のもとに勇ましく戦い続けねばならないことを悟るなら、使徒的熱意に燃え上がり、主に背いたり或いは主を知らない人々を主と和解させるように努め、主の権利を守るために努力するに違いありません。

 確かに、王たるキリストの祝日を毎年全教会で行うことは世俗主義によりもたらされた社会の諸悪を責め、何らかの方法でそれを癒すのに大いに役立つことでしょう。贖い主のいとも甘美な御名が、国際会議や国会において不当に黙殺されていますから私達はそれに対し一層声を大にして主の御名を称え、王としてのキリストの尊厳と権能を広く確認するように努めなければならないのです。

3 その設定の準備

 この祝日の設定のために、前世紀の末以来、幸いにも準備がよく整えられてきました。ご存じの通り、世界各地でこの信心を裏付けるたくさんの本が種々の国語で書かれ、またイエズスの聖心への家庭奉献によって、キリストの主権と支配が認められてきました。今やこの美しい習慣に従って無数の家庭が聖心に奉献されています。家庭だけではありません。都市も国家もこの奉献を実行に移してきました。いいえ、全人類も至聖なる聖心に奉献されたのです。この奉献は千九百年の聖年にあたりレオ13世教皇によって行われました。

 また最近頻繁に行われている聖体大会も、人間社会に対するキリストの王権が荘厳に認められる上に大いに寄与しました。聖体大会の際には、各教区、地方、国家さらに全世界の人々が、秘蹟のうちに隠れてましますキリストを、こぞって尊敬し礼拝するために集まります。教会で一緒に説教を聞いたり、顕示された御聖体を公に礼拝したり、荘厳な行列を行ったりして、天主から王として与えられたキリストを皆共に称えるのです。不敬虔な人々は主が自分のほうにおいでになったとき、受け入れるのを拒みました。しかしキリスト教徒は今、そのイエズスを教会の沈黙の隠れ家からお連れして、歓呼のうちに町を歩み、全ての王的権能を再び主のものにしようとしています。これは天主から来る一つの息吹によるものと言えましょう。

 これらの計画を完成するために、まさに終わろうとしている聖年はこの上ない機会となりました。というのは、この聖年の間慈悲に富まれる天主は信者の知性と心に、あらゆる理解を超える天の祝福への招きと、成聖の聖寵を再び与え、またより高い賜物を望む新たな刺激を起こして正しい道を歩み続けるように強めて下さったからです。私に宛てられた数々の願いを見、或いはこの聖年に行われた様々なことを顧みるにつけても、キリストを全人類の王として祝う、特別な祝日を定める喜ばしい時がついにやってきたと考えられます。最初に述べたように、全ての聖人のうちで感嘆されるこの王は今年地上でも光輝溢れるみいつを称えられました。それはこの王の軍隊の一部が新たに聖人の列に加えられたからです。また、人々が展覧会の出品物から御国を発展させるための宣教師たちの事業や苦労を眺め、それらによってもたらされたキリストの勝利に感嘆したのも、やはり今年でした。そして今年はまたニケア公会議千六百周年を荘厳に祝うことによって、キリストの王国の基礎である、<となられた御言葉>と御父の同質性が決議されたことを新たに記念しました。

 そこで、私はここに王である私達の主イエズス・キリストの祝日を設け、毎年、十月の最後の日曜日、すなわち諸聖人の祝日のすぐ前の主日に、全世界でこの祝日が祝われるように定めます。前任者ピオ十世が毎年更新することを命じた至聖なるイエズスの聖心に対する全人類の奉献の更新も、毎年この日に行うように定めます。しかし、今年に限り、それは今月31日に行います。なお当日、王たるキリストの誉れのため、私は教皇ミサを執行し、その奉献が私の前で行われるようにします。この聖年を閉じるにあたり、永久不滅の王であるキリストに私の心からの感謝を表すのに、これ以上ふさわしい方法はないと思います。この機会に私は全カトリック信者と共に、この聖年の間、教会、全カトリック信者に注がれた聖寵に対して私自身感謝の念を表したいと思います。

4 その設定の動機

 ところでキリストの王としての権威を間接に示し祝う祝日が他にもあるのにどうしてこれとは別に王たるキリストの祝日を制定したかということは、今さら説明する必要もないと思います。これについてはただ一つのことに注意すれば十分でしょう。すなわち、今までの主の祝日は全部その礼拝の対象、いわば素材的対象(対象そのもの)はキリストのペルソナですが、形相的対象(観点)は、キリストの王権と王の称号ではありませんでした。

 私がその祝日を日曜日にしたのは、ただ聖職者のみがミサ聖祭や聖務日課によって礼拝を捧げるのではなく、信者たちも参加することが出来るようにしたために他なりません。日曜日ならば信者たちは日々の仕事から解放され聖なる喜びの精神をもってキリストに対する服従を公に表明することが出来るからです。また他の面でも十月の最終の日曜日はこの目的のために最も適した日ではないかと思います。なぜならその日が典礼暦の終わりに近いので、その一年を通じて記念されたキリストの御生涯の数々の玄義の上に、あたかも光栄の冠を戴かせるのがこの王たるキリストの祝日ということになるからです。それにまた、諸聖人の光栄を祝う前に、聖人として選ばれた全ての人々のうちに勝利を占めるキリストの光栄を宣言し称揚することにもなるからです。

 尊敬する司教の皆様、そこで毎年その祝日の前に、各小教区で何日か特別に説教が行われるように配慮して下さい。これはあなたたちの義務です。そうすれば信者たちもその祝日の性質、意味、また重要性を聞いたはっきり分かり、天主である王の支配に忠実と熱誠を捧げるものにふさわしく自分の生活を律し、整えることだ出来るでしょう。

5 その祝日から生じる効果

 尊敬する皆様、私は今この書簡を結ぶにあたって、王であるキリストに対する公の崇敬から期待される教会と社会とに対する効果、個人に施される恵みを簡単に列挙してみたいと思います。

 まずこのように、キリストの主権に誉れを帰するならば人々はキリストによって完全な社会として創設された教会が、本来持つ権利をどうしても思い出さずに入られないのです。放棄してはならないこの権利によって、キリストの王国に属する天主から託された人々を支配し永遠の幸福へ教え導く使命を果たすために、教会は国家権力から完全な自由と独立を要求します。教会はこの使命のためにいかなる他の権力にも服してはならないのです。

 また国家は同様の自由を男女両修道会にも与えなければなりません。これら修道会は司教達の有力な助け手となって、キリストの王国を広げ、確立するために大きな働きをしています。というのは、修道者たちは聖なる三つの誓願を持って、この世の三つの欲望と戦い、一層完全な生活を公言することによって天主なる創立者が教会の印とされたあの聖性が絶えず人々の前に輝きを増し、認められるように力を尽くしているからです。

 毎年くり返されるこの祝日は、個人と同様に、政府も為政者もキリストに対して公の誉れと服従を示さねばならないことを全ての国々に思い出させるでしょう。そして人々は最後の審判のことを思い、公の生活から締め出され軽蔑され無視されたキリストが、どれほど厳しくその不正を責めるかということも考えるに相違ありません。

 キリストの王としての権威は全ての国家が天主の掟をキリスト教の原則に従い、それによって法を作成し、裁判を行い、青少年には健全な知識と道徳を教えるのを要求する以上それは当然なのです。

 その上信者は、これらの真理を黙想することによって、真のキリスト教的理想に向かって歩む大きな力と勇気とを受けるでしょう。というのは私たちの能力は主の支配から除外されているものは一つもないからです。そのことは次の三つの理由によってはっきり分かるでしょう。私達の主キリストには、(1)天と地の全ての権能が授けられ、そして(2)その高価な御血によって贖われた全人類は、新たにキリストの権威のもとに置かれ、また(3)その権能は全人類を含んでいるのですから、私達がキリストの王権から逃れてならないのは明らかでしょう。

 従ってキリストが人間の知性を支配するのはふさわしいことです。それで人間の知性は謙遜に啓示された真理と、キリストのみ教えに完全に従い、これを奉じなければなりません。

 そしてまた、キリストが意志をも支配するのはふさわしいことです。意志は、天主の法と掟に従わねばなりません。

 更にまた、キリストは心の王でもなければなりません。従って心のなすべきことは本能的な要望を捨てて全てに越えて天主を愛し天主だけを追い求めることです。

 また手足と身体においてもキリストを王としなければなりません。それらは道具であり、使徒パウロの言うように、天主のために正義の武器となって(ローマ6:13)、霊魂の内的聖化のために仕えなければならないからです。

 信者がこれらの真理をよく考えよく悟るようにすれば、人々はもっと容易に完徳に向かって進むでしょう。それで未信者たちが自分の救いのためにキリストの甘美なくびきを求めてこれを受け入れるように、また天主の慈悲によって信者となった私達もそのくびきを不承不承耐えるのではなく、かえって望みと愛と信心を持って担うように私は切に願っています。そして私達が天主の王国の法と一致した生活を営み、その実りを溢れるばかりに受け、キリストによって忠実な良い僕のうちに数えられ、天上の王国においてキリストと共に永遠の幸いと栄光に与ることが出来ますように、私は切望しています。

 主イエズス・キリストの御降誕の大祝日が間近に迫っているこの時にあたり、尊敬する皆様、この書簡を父の愛の印として受け取り、天主の恵みをもたらす教皇掩祝をお受け下さい。私はこの掩祝を愛の心をもって聖職者の皆様、ならびに信者の皆様に送ります。

 聖年の1925年12月11日

ローマ、ヴァチカン宮殿において 教皇在位四年目

ピオ十一世教皇

【聖伝のミサ、トリエント・ミサ、ラテン語ミサ、Traditional Latin Mass】御公現後第四主日のミサ聖祭の固有文を紹介します

2019年01月29日 | カトリックとは

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
2019年2月3日は御公現後第四主日(二級祝日 緑)です。
この日は、元アジア管区長のシュテーリン神父様が来日され、聖マキシミリアノ・コルベの精神に従った「無原罪の聖母の騎士会」について、汚れなき聖母の道具になるとはどれほど素晴らしいことかをお話してくださいます。愛する兄弟姉妹の皆様のご参加をお待ちしております。

では以下に御公現後第四主日のミサ聖祭の固有文をご紹介いたします。
本日のミサの<集禱文>は、五・六世紀ごろ、ローマが占領されたり掠奪されたりしていたころの、悲惨な状態を暗示する。<書簡>には、隣人愛が社会義務であるばかりでなく、キリストの掟の中心であることをものべている。<聖福音>では、嵐をおさめ、大自然を従える力をもつイエズスを紹介する。ここに出る舟は、公教会を象る。イエズスは、時としてねむっておられるように見えても、常に舟の中にあって、舟を保護し、安全な港へとみちびき給うのである。

Dominica Quarta post Epiphaniam 御公現後第四主日
II Classis 二級祝日
Ant. ad Introitum. Ps. 96, 7-8. 入祭文 詩篇、96ノ7-8
Adoráte Deum, omnes Angeli eius : audívit, et lætáta est Sion : et exsultavérunt fíliæ Iudæ. 主の全ての天使らよ、天主を礼拝せよ。シオンは[これを]聞いて喜んだ、そしてユダの娘たちは喜び踊った。
Ps. ibid., 1 詩篇、96ノ1
Dóminus regnávit, exsúltet terra : læténtur ínsulæ multæ. 主は支配した。地は喜びおどれ、多くの島々は喜ばんことを。
V/.Glória Patri. V/. 願わくは、聖父と・・・(栄誦)
Adoráte Deum, omnes Angeli eius : audívit, et lætáta est Sion : et exsultavérunt fíliæ Iudæ. 主の全ての天使らよ、天主を礼拝せよ。シオンは[これを]聞いて喜んだ、そしてユダの娘たちは喜び踊った。
Oratio. 集祷文
Deus, qui nos, in tantis perículis constitútos, pro humána scis fragilitáte non posse subsístere : da nobis salútem mentis et córporis ; ut ea, quæ pro peccátis nostris pátimur, te adiuvánte vincámus. Per Dóminum. 天主よ、御身はかくも多くの危険において成り立つ我らが人間的なもろさゆえに自存しえぬことを知り給う。我らに心と肉体の健康を与え給え。そは、我らの罪ゆえに我らが苦しむことを、御身が助け給うことによりて我らが打ち勝たんがためなり。天主として(…)
Léctio Epístolæ beáti Páuli Apóstoli ad Romános. 使徒聖パウロの、ローマ人への書簡の朗読。
Rom. 13, 8-10. ローマ 13ノ8-10
Fratres : Némini quidquam debeátis, nisi ut ínvicem diligátis : qui enim díligit próximum, legem implévit. Nam : Non adulterábis, Non occídes, Non furáberis, Non falsum testimónium dices, Non concupísces : et si quod est áliud mandátum, in hoc verbo instaurátur : Díliges próximum tuum sicut teípsum. Diléctio próximi malum non operátur. Plenitúdo ergo legis est diléctio. 兄弟たちよ、たがいに愛を負う以外には、だれにも負い目をもつな。人を愛するものは、律法を果たすからである。「姦通するな、殺すな、盗むな、偽証するな、むさぼるな」、そしてその他のすべての掟は、「隣人を、自分とおなじように愛せよ」という言葉に要約される。愛は隣人をそこなわない。したがって、愛は律法の完成である。
Graduale. Ps. 101, 16-17. 昇階誦     詩篇、101ノ16-17
Timébunt gentes nomen tuum, Dómine, et omnes reges terræ glóriam tuam. 主よ、異邦の民は御名を畏れるだろう、そして地の全ての王たちは御身の光栄を[畏れるだろう]。
V/. Quóniam ædificávit Dóminus Sion, et vidébitur in maiestáte sua. V/. なぜならば主はシオンを建て、その御稜威(みいつ)において見られ給うだろうが故に。
Allelúia, allelúia. V/.Ps. 96,1. アレルヤ、アレルヤ V/. 詩篇、96ノ1
Dóminus regnávit, exsúltet terra : læténtur ínsulæ multæ. Allelúia. 主は支配した。地は喜びおどれ、多くの島々は喜ばんことを。アレルヤ。
+ Sequéntia sancti Evangélii secundum Matthǽum. マテオによる聖福音の続誦
Matth. 8, 23-27. マテオ 8ノ23-27
In illo témpore : Ascendénte Iesu in navículam, secúti sunt eum discípuli eius : et ecce, motus magnus factus est in mari, ita ut navícula operirétur flúctibus, ipse vero dormiébat. Et accessérunt ad eum discípuli eius, et suscitavérunt eum, dicéntes : Dómine, salva nos, perímus. Et dicit eis Iesus : Quid tímidi estis, módicæ fídei ? Tunc surgens, imperávit ventis et mari, et facta est tranquíllitas magna. Porro hómines miráti sunt, dicéntes : Qualis est hic, quia venti et mare obédiunt ei ? そのとき、イエズスが舟におのりになると、弟子たちは主に従った。すると見よ、海がひどく荒れだし、舟は波にのまれそうになったが、イエズスはねむっておられた。弟子たちが近づいて起し、「主よ、お助けください!私たちは死にそうです!」といった。イエズスはかれらに向かって、「なぜ、おそれているのか。信仰うすい者よ」とおおせられ、起き上がり、風と海とをいましめられると、すぐ、大なぎになった。人々は感嘆して「この人はなんだろう?風も海も服従しているこの人は!」といった。
Credo 信経
Ant. ad Offertorium. Ps. 117, 16 et 17. 奉献文 詩篇 117ノ16、17
Déxtera Dómini fecit virtutem, déxtera Dómini exaltávit me : non móriar, sed vivam, et narrábo ópera Dómini. 主の右手は力を行い給うた、主の右手は私を高め給うた、私は死なぬ、いや生きる。そして主の御業を語るだろう。
Secreta. 密誦  
Concéde, quǽsumus, omnípotens Deus : ut huius sacrifícii munus oblátum fragilitátem nostram ab omni malo purget semper et múniat. Per Dóminum. 全能の天主よ、願わくは、このいけにえの捧げられたるものが、われらのもろさを、全ての悪より常に浄め、助けんことを。天主として。
Praefatio de sanctissima Trinitate 三位一体の序誦
Ant. ad Communionem. Luc. 4, 22. 聖体拝領誦 ルカ、4ノ22
Mirabántur omnes de his, quæ procedébant de ore Dei. 全ての人々は、天主の御口から出ていた事々に感嘆していた。
Postcommunio. 聖体拝領後の祈
Múnera tua nos, Deus, a delectatiónibus terrenis expédiant : et cæléstibus semper instáurent aliméntis. Per Dóminum.  天主よ、御身の賜がわれらをして、この世の快楽らからとき放たんことを。また、常に天の糧(かて)らにおいて養わんことを。天主として(…)。

2016年聖母小黙想会 霊的講話【14】 8月14日 シュテーリン神父様「マリア様への自己奉献」

2019年01月29日 | お説教・霊的講話
2016年8月14日 聖母黙想会 シュテーリン神父様講話【14】
同時通訳:小野田圭志神父


今日は、聖マキシミリアノ・コルベ神父様の天への凱旋の日ですから、そのたくさんの御恵みを下さるはずです。

今まで、マリア様へのまことの信心がどのようなものであるか、という事を黙想しました。

マリア様の一番大きな、私たちの人生における唯一の役割を見ました。
聖グリニョン・ド・モンフォールの素晴らしい論理、私たちが天主様へとどのように戻って行くかというこの論理を、よく理解されたと思います。

第1に、私たちの人生における、マリア様の救いの業の原理と基礎を確認しました。
次に、終末の時代における役割を黙想しました。終末におけるイエズス様とマリア様の使徒はどのようなものであるか、という事を描写してみせました。

その無原罪の聖母の騎士となる為にはどのような道を通らなければならないかも黙想しました。それは、まことの信心を通して到達する、という事です。まことの信心は何かと知る為に、偽りの信心をまず点検してそれを排除しました。まことの信心と偽りの信心とを区別して、その良いものを選ぶ事をしました。

その次に、このまことの信心とはどういうものか、という事を説明しました。
まことの信心は3つのステップがあって、1つは出発点、第2は道、第3は到達点です。
出発点は私たちの本当の姿を知るという事で、私たちが一体何なのか、グリニョン・ド・モンフォールはたとえそれを聞く人が嫌に思うとしても、本当の事をズケズケと言いました。そのありのままの姿を見ると私たちは、私たち自身の力だけでは天主の元に戻る事ができない、と結論付けられました。

私たちが天主に行く為には、私たちの技術でもなければ、力でもなく、私たちの知識でもなければ、私たちが全くできないという事が分かりました。天主に行くには、マリア様が必要です。

では、マリア様の仲介、マリア様の役割は何か、という事を説明します。なぜかというと、天と地の間には唯一の仲介者しかいない、つまりイエズス様しかいないからです。この唯一の仲介者に到達する為には、マリア様を通らなければなりません。

では、マリア様はどうやったら私たちが天主様へと行く道になるでしょうか。それは言葉の本当の意味において、私たちの母親となり、私たちの女王様、元后となる事です。そして同時に、私たちの方ではそれを受け入れる、私たちはそれを受け止める決意がなければなりません、意志がなければなりません。

マリア様が私たちの母である、という事を受け入れるという事は、私たちがそのマリア様の子供であるという事に同意する事です。マリア様が私たちの女王であるという事は、私たちがマリア様の臣下であって、兵士であって、しもべであって、奴隷となる事に同意する事です。私たちがマリア様を素晴らしい御母として受け入れれば受け入れるほど、女王様として受け入れれば受け入れるほど、イエズス様へと到達します。

マリア様を通して、マリア様において、私たちはイエズス様をより良く知る事ができます。イエズス様の事を知れば知るほど、ますます愛するようになります。イエズス様とますます一致すればするほど、私たちの聖徳が高められます。

イエズス様を知るという事は3つの部分に分かれます。まず第1に、それはイエズス様の現存であって、私たちを圧倒するような現存です。イエズス様の魅力的な美しさと優しさです。この事を喜びの玄義で黙想します。

第2の段階は、イエズス様の御行為、行動であって、それはイエズス様の御苦しみです。これは苦しみの玄義で黙想します。イエズス様の行為、御受難を黙想すればするほど、私たちも天主の方に立ち戻る為には、天主の御旨、つまり十字架の道を行かなければならないと分かります。

この道が、十字架の道が、目的地に到達させます。これが永遠の凱旋であって、復活であって、天国です。これを栄えの玄義で黙想します。イエズス様の御復活、天国における栄光を黙想して、私たちも遂にここに到達するのだ、と思います。

これで私の仕事は終わりました。では皆さん、家に帰りましょう。と言いたいのですけれども、まだです。グリニョン・ド・モンフォールはまだ、私たちにたくさんの事を言っています。今まで申し上げたのはこの本の25%ぐらいで、あとまだ残りがあります。

「聖グリニョン・ド・モンフォールよ、あなたは私たちにまだ何を教えたいのですか?言って下さい。」グリニョン・ド・モンフォールは神学者であって、神秘家です。と同時に、具体的な実践家の宣教師です。宣教師は非常にこう具体的に、実践的に教えてくれます。なぜかというと、この美しいこう黙想した後に、家に帰ると何をしたら良いか分からなくて、途方に暮れるからです。

では一体、何を今からしたら良いでしょうか?「マリア様は私たちの御母で、私は子供になりたい。マリア様は私たちの女王で、私はそのしもべに奴隷になりたい。うん、では何をしたら良いか。では具体的に、この信心を実践するにはどうしたら良いのか?」というその具体的な内容を、今日1日を使って黙想しましょう。

私たちの始める事は全て、始まりから始まります。ミサに与るにはミサが始まらなければ与れません。何か旅行をして、さぁどこかに出かけようという時には、最初に車の中に座ったり、あるいはバスに乗ったり、それから始まります。

マリア様に対するまことの信心を実践するには、毎日毎日、マリア様を通して天主へと戻る事です。この天主へと戻るというのは、ちょうど旅に出ることであって、旅路に出る事であって、巡礼であって、大阪から秋田に歩いて巡礼するという事です。

今日はところで、ワルシャワからチェンストホーヴァまで歩く巡礼の最終日なのです。私はこれを20回やりました。300km歩きます。8月4日から始まって15日に終わるのですけれども、私たちは14日に到着します。
今年はこの巡礼に行くつもりだったのですけれども、皆さんにこの黙想会を指導する為に巡礼行きをやめて、ここに来ました。皆さんの為でした。

巡礼に話を戻しますと、巡礼には、皆さんが一緒になって行きます。8月4日、毎年ワルシャワの修道院の前に皆さんが集まって、10時半、その出発の時刻になると、皆さんリュックサックなどを準備して集まって、旗を持って、十字架を持って来ます。
10時半になると鐘が鳴ります。ゴーンゴーン!と鐘が鳴って、そして十字架の印をして、皆で声を張り上げて「Christus vincit!」と歌を歌って、そしてザク、ザク、ザク、と歩き出します。

巡礼の参加者としては、大体200名ぐらいが「参加したい」というのですけれども、最初の日に来るのは150名です。なぜかというと、何名かは遅れて来て、一生懸命走って来て、「あぁ、巡礼団はどこですか!?」「もう行っちゃいました。」あるいは、他の人たちは来ません。

ではこの150名、ちゃんと時間通りに来た人は、何でちゃんと来たのでしょうか?強い意志があったからです。

その意志が、「何が起こっても、嵐が起こっても、何が起こっても、10時半に教会の前のあそこに立って、巡礼団と一緒にChristus vincitと歌うんだ!」という意志があったからです。もしもその強い意志がなければ、遅れてしまって、この巡礼団がもう既に行ってしまったという事になってしまいます、あるいは決して来る事はありませんでした。

私たちは小さな子供で、天主様へと戻る為には、マリア様のお母様の手を握らなければなりません。

では、まことの信心の最初のこの第1のステップは何でしょうか?それはマリア様の手を取る為に、この自分の手をマリア様に差し出す事です。「マリア様、さぁ手を、ここに手を取って下さい」と言う事です。マリア様にお願いして、懇願して、寄り頼んで、ひたすらに乞い願って、「私の手を決して離さないで下さい」と、「私はそれを望むのです」と頼む事です。

この、手を差し出してマリア様にお願いするのを、「奉献」と言います。あるいは「聖別」と言います。これは堅固な意志の行為です。

今まではこう言っていました、「マリア様、私はマリア様の事を知っているし、愛していますが、でも私の自分のやり方を貫きます。この大海原を危険な所を、私は自分の力で自分のやり方で航海するので大丈夫です」と言いながら、成功しませんでした。今までは自分一人で山を登ろうとしていましたけれども、もうそれは無理でした。

ですからこれからは、「絶対一人ぼっちではできない。必ずマリア様と一緒にやりたい」と決心する事です。「マリア様、私の船の船長になって下さい。マリア様がこれからは船長様です。」これが奉献の祈りです。「今から山に登る為には、マリア様こそが道案内で、ガイドです。ですから指導者です。ですからマリア様の気に入らないような足ぶみは絶対しません。マリア様は私よりもよくご存知です。マリア様、私は弱い、頑固な、愚かな子供です。私は一人では決してできません。いつも手から離れようとしています。時々私はマリア様をこう押し寄せて、自分でこう運転しようとしたりもします。お願いします。もしもこれをまたやろうとしたら、美しい鞭を持って、テーブルの上に私を置いて、私をお仕置きして下さい。でもその後では、私の方を向いて微笑んで下さい。私の心に接吻して下さい。」

マリア様への奉献は、私たちの人生の最も大切なものの一つです。この奉献は、他のとは違っています。奉献というのは、この奉献は違う、他のとは違うというのは、特別の目的の為に奉献する、「目的が違う」からです。

この聖グリニョン・ド・モンフォールによる奉献の祈りは、このまことの信心を実践する為のものです。つまり洗礼の約束を生きる為の手段です。これは、「私がマリア様と一緒に、天主へと立ち戻る為」のものです。

明日は、マキシミリアノ・マリア・コルベ神父様が作ったMIの奉献を更新しますが、これは違っています。もちろん両方とも、全てをマリア様に与えるという事です。でも別の目的の為です。コルベ神父様の作った奉献文は、「私たちがマリア様の道具となりたい」という奉献です。他の隣人を救う為の道具です。

ところが、グリニョン・ド・モンフォールの奉献は、私たちが全てに超えて天主を愛する為に行ないます。ところがコルベ神父様の奉献の祈りは、隣人を救う為、隣人を愛する為にやるものです。

このマリア様への全てを奉献するには、モデルがあります。この人生、この歴史の中で、マリア様に全てを捧げたのは、たった一人です。そしてこの人は、全くマリア様の奴隷となりました。それがイエズス・キリストです。マリア様の唯一の御一人子でした。「私はあなた達に模範を示した。」私たちはイエズス様に従って、イエズス様を真似て、イエズス様の後に、マリア様に奉献しなければなりません。

では、このグリニョン・ド・モンフォールの奉献の祈りは、一体どんなもので出来ているでしょうか?

実は奉献には2つの種類があります。第1は、「敬虔な望み、敬虔な願い」です。あるいは敬虔なお願いで、「そうありますように、そうでありますように」という事です。第2の種類は、「契約」としての、「約束」としての奉献です。

私たちが為した一番多いのは奉献は、第1の願いで、「そうありますように」という奉献です。例えば朝の祈りがそうです。例えば朝、「マリア様、私は全て御身に捧げます。御身に属します。どうぞ私を導いて下さい。」多くの国々では、赤ちゃんが洗礼を受けた後にすぐにマリア様の御像の元に跪かせて、お母さんとお父さんが子供をマリア様に奉献します。あるいはある国々では、初聖体の後に同じような事をします。あるいは例えばベルギーで私は見ましたけれども、結婚したての婚姻の秘跡を受けたばかりのカップルが、すぐにマリア様の元に行って、家族としてマリア様に自己奉献をする。多くの聖人たちによって作られたそういうような奉献の祈りが、お祈りの本の中にはたくさんあります。とても良い事です。

この事をよく理解する為に、例を挙げてみます。ある女性が、修道生活に入りたいと思います。ある日、「将来、シスターになりたい」と思います。そしてこの女性がイエズス様に手紙を書いて、「私の親愛なる花婿なるイエズス様。私はあなたに…」と言って、最後にサインをして、「あなたの親愛なる花嫁、誰それ」と書きます。そして既にこの彼女は、イエズス様の花嫁であって、イエズス様が花婿であると考えています。幼きイエズスのテレジアも既ににそういう事を書いています。子供の時そう書いたのですけれども、でも現実に、それが現実となる為には、行動しなければなりません。なぜかというと、それが本当に実現するのは、誓願を立てるその時であって、その前ではないからです。

誓願を立てる時には、それが「契約」となります。契約というのは、教会の権威の前で、そのように荘厳に、それを愛する事です。それは自己贈与の事です。贈与するというと、例えば韓国で、自分の家を誰かに教会に与える、奉献する、贈与するという時には、その時に、「確かにそういう贈与が行なわれた」という事で証人が立ちます。この贈与する与える人から、受け取る人へと所有権が移された、という事を記録されます。もしも「それを元に戻せ」というのはそれは犯罪です。これが第2の、祈りにおける奉献です。

この奉献の祈り、ですから第2の意味における奉献の祈りは、単純にこの「さぁこのページを開いて、奉献する」というわけにはいきません。準備が必要です。まずこの契約の条件とか、契約の内容について深く知らなければなりません。例えば「マリア様の奴隷になる、その奴隷とはどういう意味か」という事をこの本に書きましたし、私も説明しました。グリニョン・ド・モンフォールが、この奉献をするように、と招いているのですけれども、これは私たちの人生においてとても荘厳な瞬間です。これはちょうど、修道生活に入って誓願を立てるとか、あるいはそのような荘厳な瞬間に似ています。あるいは婚姻の秘跡にも似ています。ですからその修道生活や荘厳な誓願や婚姻の為には、何年もの準備が必要です。誓願を立てるには何年もの修練期が必要です。この奉献の祈りを荘厳になす時には、特別の準備の期間が必要です。ですから、この奉献の祈りの内容について深く知らなければなりません。この内容をよく知った後に、33日間の特別の黙想の後に、準備の後に、この奉献をする事ができます。

この奉献は、マリア様の特別な祝日になされなければなりません。グリニョン・ド・モンフォールは、「3月25日の御告げの日にこれをする事が良い」と言っています。でもこのマリア様の大きな祝日であれば、どの日でも構いません。私は5月31日に、元后なるマリア様の祝日にこれをしました。

グリニョン・ド・モンフォールは、「この自己奉献の祈りを、自分で手で書いてやるべきだ」と言っています。多くの人々はこの奉献文にサインをしますけれども、このグリニョン・ド・モンフォールのこの奉献の歴史を見ると、この手でまず奉献の祈りを書いて書き出して、最後の所には自分の血でサインをしたそうです。でも皆さんはそれをしないで下さい、この昔、この奉献の祈りはどれほど大切で重要であるかという事を示したいという事で、実例を挙げてこの昔の人はこうやったという事ですが、皆さんは真似しないで下さい。

グリニョン・ド・モンフォールが作った修道会、モンフォール会の司祭たちは、「この奉献の祈りを、できる限り荘厳に行なうように」と要求しました。聖グリニョン・ド・モンフォールはこの奉献を、聖体拝領の後にする事を望みました。グリニョン・ド・モンフォールの修道会の司祭たちは後に、固有の儀式を捧げました。まず“Veni Creator”あるいは“Ave Maris Stella”を歌います。司祭は御聖櫃を開きます。なるべきマリア様の奴隷たちは、祭壇の前に跪きます。そして奉献の祈りを唱えます。それが唱え終わると、御聖櫃を閉じます。それから奴隷たちは祭壇の上に昇って、書簡側に行って、そこでその祭壇の上でサインをします。これは、「奉献が、ミサのいけにえと一致している」という事のシンボルです。なぜかというと、この書簡側では、司祭がミサの時に水をワインの中に一滴落として、その私たちとの一致を聖父との一致を示しているからです。

この自己奉献の祈りは公の行為ですので、司祭は、その奉献に司祭もサインをしなければなりません。ある所では、この奉献の祈りがあまりにも荘厳なので、この奉献の祈りにサインして、この手書きの奉献文を、その直後のミサの中にミサを捧げる時に、司祭がコルポラーレという物を祭壇に置きます、カリスの下に置くのですけれども、そのコルポラーレの下に敷いて、ミサを捧げた、といいます。

これらを見ると、この自己奉献の祈りがどれほど荘厳で、重大であるかという事が分かります。最も大切なのは、私たちの意思を表明する事であって、契約を結ぶ事です。この口先だけで美しい言葉を述べるだけで、心の中にそれが入り込んでいないならば駄目です。このグリニョン・ド・モンフォールが作った奉献の祈りは、教会がかつて見た事がないほど美しい祈りの一つです。

この本に書かれてある全ての事を数行にまとめて、お祈りの形で表現してあります。今からこの講話の後に、聖母への自己奉献の祈りがこの本の最後にありますから、それを黙想してみて下さい。この奉献の祈りは、ただ今は黙想するだけで、この奉献をすぐするというわけではありません。この聖母の黙想会全体が、奉献を皆さん将来いつか私は期待するのですけれども、それをする事をその日の為の導入であって、紹介の黙想会です。

日本語の本では352ページから奉献の祈りがあります。この奉献の祈りは、それ自体で奇跡だと私は思っています。グリニョン・ド・モンフォールはこのお祈りをこういう形で書く為には何年も何年もかかったはずです。これを見れば見るほど奇跡だと思います。このお祈りを私は30年間唱えています。このお祈りを唱える度にいつも、新しい事を発見します。

奉献の祈りの最初は、私たちの主に関するクレドの使徒信経の要約のようです。イエズス・キリストがどなたであるか、という事を信仰告白します。これは必ず、「永遠の天主が人となった、永遠の知恵イエズス・キリスト」について語られます。天主としては永遠の聖父の御一人子、そして人間としては終生童貞なる聖マリアの子供。

いつも、「マリア様の奴隷としての奉献」という風によく言われますけれども、でも実はよく分析すると、「イエズス様への奉献」なのです。実は、この元々のグリニョン・ド・モンフォールの手による原稿には、「マリアの手を通して、人となった永遠の知恵イエズス・キリストに自分を奉献する」とあります。

次には、ミサの4つの目的の適用が現れます。つまり、祈りの全てがここに含まれています。つまり「礼拝」「感謝」「罪の償い」それから「願い」。

ですから最初に聖グリニョン・ド・モンフォールは、「礼拝致します」という言葉を付けます。これは信仰告白の第一部をなしています、「御身こそが私の全てであって、私は御身を我が人生の中心として、全てとして礼拝します。」グリニョン・ド・モンフォールはいつも、天主聖父と御母聖マリア、天主聖父、元后マリア、というこの2つの観点をいつも身に離しません。

その次に「感謝」が来ます。なぜ感謝するのでしょうか?この感謝はいつも、自己奉献の為の感謝になっています、「なぜ感謝するかというと、私がその事を考える前に、あなたがまず奴隷になったからです。主であり、創造主であり、支配者であるあなたが奴隷になったからです。王であるあなたが、私の奴隷状態を、悪魔の奴隷状態から解放する為に奴隷になりました。マリア様の奴隷とさえなって、私の為に奴隷とさえなりました。」

その感謝の後には、「罪の赦しの求め」があります。その美しい現実、美しい理想とイエズス様のなさった事の前に、私の現実があります。まず私は約束を破った、という事を告白します、「私は御身を裏切った。私は御身をこの自分の生活から蹴飛ばした。私は御身の子供と呼ばれる資格もないし、ましてや奴隷とさえ言われる事もできない。私はもう捨てられて、こう憎まれ、嫌われるしかない。私が御元に戻るには、1つのチャンスしかありません。このチャンスは御身が私に下さったもので、それは御身の御母です。私はマリア様に立ち向かって、マリア様が私の為に特別な恵みを勝ち取って下さるように祈ります。憐れみと赦しを、そして天主へと立ち戻るように、私の内に御身がまた戻る事ができるようにお祈りします。」

次には、マリア様の方に目を向けます、「あぁマリア様、今からあなたの方に目を向けます、無原罪のマリア様。まず御身に挨拶して、御身がどなたであるかを告白します。」マリア様の素晴らしい特権を告白します。マリア様に関する特権ですけれども、特に私が今置かれている状況に関わる特別の特権を讃美します、「天主の生ける聖櫃、罪のない聖母マリア。私が見つける事ができないものも、御身に見つける事ができる。天地の元后。罪人の拠り所。そして私は御身にお願いします。どうぞ私の願いを叶えて下さい。私の完全な奉献を受け入れて下さい。」

それから契約の瞬間がやってきます。不忠実な罪人なる私は何をしたら良いでしょうか。本日、洗礼の約束を真面目に、真剣に更新します。この事について昨日説明しました。私は何度も何度も洗礼の約束を破り続けてきたので、このまま破り続ける事はできません。ですからこの約束をもう一度更新しなければなりません。「本日、私はあなたを選びます。」これが契約の行為です。「私は今から、あなたを母として、女王として選び、私は奴隷として、子供として捧げます。私と私に属するもの全てをあなたに捧げ尽くします。」先ほど奴隷とは何か、という事を黙想しましたが、この事です、全てを捧げる、と。「私自身と私に属する全てのものを、残りくまなく、お望みのままに、自由に処理する全権をお与えします。」これが奉献の本質です。

そしてこの後に、なぜこの奉献をするかというその動機を説明します、「このささやかな贈り物を受け止めて下さい。第1のこの奉献の動機は、それは、イエズス様があなたになさった服従を、従順を讃える為です。第2は、もちろんそうしなくても、御身は私の上に持っているのですけれども、イエズス様とマリア様が私の上に持っている権利を、もう一度確認する為に、という第2の動機があります。第3の動機は、聖三位一体がマリア様になさった特別の特権を認識する為です、確認する為です。」

それから、3つの事をお願いします。この3つのお願いは、マリア様の偉大さを表しています。マリア様の素晴らしさ、マリア様の徳を表しています。それを、「このマリア様の素晴らしさとこの力強さを、私の為に使って下さい」と言います。「いとも素晴らしい、いとも忠実な乙女よ、いとも素晴らしい母よ、」その素晴らしい母よ、その母がどれほど素晴らしいかを私たちは黙想しました。「私の無を受け止めて下さい。御身はこの全ての良い母を合わせたよりももっと私を愛して下さっています。その御身は私と一致して下さっています。」

御母、「母」というのは命を子供に与えます。「御身は母として私にキリストを下さいました。憐れみの母よ、御身の愛を私はますます理解します。この御身は愛を、無である私に注いで下さいました。どうぞ天主の知恵を私に満たして下さい。御身の愛する者の中に私を加えて下さい。そして教えて下さい。導いて下さい。養って下さい。保護して下さい。」この5つは母親としての役割ですけれども、これについてはすでに黙想しました。

「忠実な童貞、いとも忠実なる童貞。私も終わりまで忠実でありますように。それは、その為に私が創られた創造された、その究極のゴールに到達する事ができますように。」

まずこの奉献の祈りを黙想して、この内容について考えて下さい。そして、いつの日かこれを本当の契約として、マリア様となさる事を期待しています。

(「マリアの御手をとおして、人となった永遠の叡智イエズス・キリストに、自分自身を奉献する」日本語訳全文)

2016年聖母小黙想会 霊的講話【13】 8月13日 シュテーリン神父様「十字架の深い神秘について」

2019年01月26日 | お説教・霊的講話
2016年8月13日 聖母黙想会 シュテーリン神父様講話【13】
同時通訳:小野田圭志神父


イエズス様に対する深い知識と、イエズス様との一致が、私たちの霊的生活の究極の目的です。

この地上での生活には、素晴らしいロジックが、論理があります。まず私たち自身の新しい認識から始まります。そして私たちは簡単に、安全に行く道を辿るように招かれています。それがマリア様です。マリア様を通して、究極のゴールであるイエズス様へと辿り着きます。

私たちの霊的な道行きの最後はイエズス様との一致ですけれども、これは聖徳を獲得するという事です。「私が生きるのではなく、キリストが私によって生きている。」 聖パウロはまた他の所で、「私にとりて生きるとは、キリストなり」と。また別のところでは、「願わくは、キリストが信仰によってあなたの心に生きていますように、ありますように。」

そして知性においては、イエズス様の知識が、表面的ではなく、完璧なイエズス様への知識が。意志については、イエズス様の御旨を果たそうという意志が。そして心にはイエズス様を愛するという愛が、他のものよりもイエズス様を選ぶという愛がなければなりません。

イエズス様は御自身を、私たちの目の前に提示します。一致する前には、自分自身が誰であるかを見せなければなりません。これが喜びの玄義の本質です。

イエズス様が天から地に来られて、自分を私たちの間に置いて、身を置いて、私たちと共に住んで、御自分を示したという事です。イエズス様のその美しさ、その優しさ、その柔和さ、その態度に、私たちは最も魅惑されました。

イエズス様がいらっしゃるという事だけではなく、イエズス様がなさった事は、もっと素晴らしい事でした。イエズス様のなさった事を見ると、私たちの心に愛の火が点きます。これは苦しみの玄義です。苦しみの玄義を黙想する事は、愛の学校です。私を愛する為にこんなに小さくなって、そんなにも苦しんだイエズス様を、全能の天主を、私たちはどうして愛さずにいる事ができるでしょうか。

ですから愛のしるし、勝利のしるし、そしてキリスト教のしるしはこれです。つまり「十字架」です。聖グリニョン・ド・モンフォールは、「終末の使徒たちは、右の手には十字架像を握っている」と書いています。旧約聖書の言葉を引用して、聖グリニョン・ド・モンフォールは、「十字架の受難は、十字架というのは、王の秘密だ」と言います。

『永遠の知恵への愛』の本を引用します、「天主は天から地に降りてきた。それは、悪魔を追い払い、悪魔を鎖で縛る為だ。そして地獄の門を閉じる為である。そして、天国の門を人間の為に開く為である。そして天主聖父に、永遠の光栄を帰する為。」

どうやってこれをするでしょうか、天から地に来られた全能の天主が。全能の天主ですから、一言仰るだけで、この事は達成されるはずです。これを望みさえすれば、その事が完成されるはずです。でもイエズス様は、御稜威の力強い王としてこの地上には来られませんでした。

グリニョン・ド・モンフォールは本当にこれで驚きつつ、それを進めます、「天主の聖子は、私たちと同じものになろうと望んだ。私たちの友となろうと望んだ。私たちが天国に行く為に、天から降りて来られた。私たちは主が、栄光の内に来られるという事を期待する事もできた。大群の天使たちと一緒に付き添って来られるという事も期待できた。その天軍の大群と共に、復活されたようなこの光栄ある力を持って来られる事も考えられた。そしてこの力ある天主が、自分の力を使って、自分の敵、悪魔たちを一払いにして勝ち誇る事もできた。」

「でも、イエズス様はそうはなさらなかった。イエズス様が天から地に来られた時には、ほんの小さな者となって、小さな村の馬小屋の中でお生まれになって、小さな子供として、名前もないような子供として生まれてきた。全能の天主が、貧しい子供となった。謙遜なやり方で、福音を宣べ伝えた。」

この小さな、弱々しい、この謙遜なやり方で、どうやって地獄を閉じるのですか?指をちょっとだけ動かすだけで、地獄は閉じる事はできるはずです。でもイエズス様は、「ユダヤ人にとっては躓き」「ギリシャ人にとっては愚かさ」を使うのです。イエズス様は、軽蔑すべき、卑しい木を使うのです。極悪の非道の犯罪人を罰する為に使われる木を選ぶのです。

十字架による死刑というのは、最も最低の死刑のやり方でした。その十字架の木に、イエズス様は眼差しを注ぐのでした。それに喜びを覚えました。天のあらゆる栄光よりも、この十字架の木を大切に思うようになりました。この卑しい木こそ、征服の武器となる。この卑しい木こそ、自分の帝国の喜びとなる。そしてイエズス様の心の配偶者の喜びとなる。

イエズス様は、「私の時はまだやって来ない」「私の時はまだだ」とよく仰っていますけれども、それは十字架の時でした。公生活をする時に、よくこの「時」、「私の時」について話ました。御変容の時に、栄光の姿で預言者に一体何の話をしたでしょうか?それは受難の話でした。

「私の時はやって来た。」イエズス様は御自分を十字架に結び付けます。十字架に抱かれて、あたかも友人に抱かれるかのように抱かれて、亡くなります。

イエズス様が御復活されて、天国に栄光ある凱旋をする時に、十字架は捨て去られるでしょうか?いえ、十字架はイエズス様と共に一緒に行きます。掟があります、法があります。それは、「十字架には必ずイエズス様が付いている」という事です。これで、最悪のものが、最善のものになりました。最も軽蔑すべきものが、最も貴重なものになりました。最も邪悪なシンボルだったものが、愛のシンボルになりました。そして「この十字架こそ、全人類によって礼拝されなければならない」と命じます。

最後の審判の時に、聖人の聖遺物は残らないでしょう。なぜかというと、その聖遺物は全て復活の時に、その持ち主である聖人に戻されるからです。これが肉体の復活です。でも例外が1つあります。それは聖十字架の聖遺物です。イエズス様は、ケルビムとセラフィムの最も最高の天使たちに向かって、「全世界に散らばっている木の破片を、聖なる十字架の本当の破片を集めるように」命ずる事でしょう。

世の終わりには、人の子のしるしが、光をもって空に天に現れるでしょう。それはイエズス様がまさにその上で亡くなった、正確な正にその十字架が現れる事でしょう。この十字架は、天使たちによって凱旋されるでしょう。この十字架によって、全ての人が裁かれるでしょう。十字架の友にとっては、この十字架というのは何という大きな喜びでしょうか。十字架の敵、十字架を受けようとしなかった者たちにとっては、どれほどその失望は深い事でしょうか。

そして最後の審判に至るその間の、その最後の審判を待っている間の時代には、十字架のしるしは、信じる者の武器となるからです。

「十字架のしるしを以てのみ、子供は洗礼を授けられる。1日は十字架のしるしを以て始まり、十字架のしるしを以て終わるべきである。十字架のしるし無しに秘跡は与えられない。もしもこの十字架を皆に見せる事を恥ずかしがるような者は、弟子であるとは言われない。」

「このプログラムは、誰かがこのイエズス様に従うプログラムは、これである、『もしも誰か私の後を従うならば、自分を捨て、自分の十字架を日々取って従え。』」

313年、コンスタンティノ皇帝に天に現れたしるしは、「このしるしによってお前は勝て。」

十字架というのは深い神秘です。この十字架の秘密は、イエズス様の親友の為だけに明かされます。イエズス様と十字架とは全く一致しているので、この現代世界においては、十字架は嫌われ、躓きの元となっています。ユダヤ人やイスラムや、あるいは異教の人々にとって憎まれ、そして馬鹿にされているのみならず、カトリック信者によっても、しかも熱心な人々によっても、十字架は軽蔑されています。

今から、究極の質問があります。
「あなたは、本当にイエズス様と一致したいですか?」
「イエズス様が十字架と共に来られる時に、皆さんはイエズス様の十字架の友ですか?あるいは十字架の敵ですか?」

「神父様、これを見て下さい、十字架が掛かっています。神父様、家には十字架が、美しい十字架が掛かっています。教会に来た時はいつも十字架に接吻をします、千回!あぁ、イエズス様の御受難についての本を読む事が大好きです。」

でも、それでもまだ十字架の友となるには足りません。十字架というのは、接吻をしたり、あるいは飾ったりするのでは足りません。十字架は担がなければなりません。十字架というのは貴重なものだ、という事を理解しなければなりません。

では、この「十字架」という名前の後ろには何があるのでしょうか?

十字架というのは、私たちの日々の戦いです。十字架というのは、ハリウッドの映画ではありません。十字架というのは、私たちの直面する辱め、頭と足までの、そしてお腹と背中に至る肉体的な痛み。「十字架を愛する、十字架を担う」と言いながらも、ちょっとした十字架があるとすぐに不平不満を言ったりすると、どこに十字架への愛があるでしょうか。「十字架を愛して、十字架を受け入れる」と言いながら、小野田神父様が「また下らない事を、またおかしな事をやって」といってちょっと嫌味を言われると、「もう小野田神父の所には行かない!ミサに与らない!」と言うではないですか。難しい状況、あるいは困難な状況に、これを捧げる事、これが十字架です。疑い、孤独、皆から捨てられてしまったような感覚、失望、現代は人から騙されたりします。十字架を愛するとは、これを担ぐ、これを耐え忍ぶ事です。

この「十字架を担う」というのは、嫌々ながら「え〜、」と言って担ぐのではないのです。よくその十字架をブツブツ文句を言いながら、恨み言を言いながら担ぐのでもありません。この十字架を与えた人に対して特に、こうブツブツ言いながら文句を言いながら担ぐのではありません。十字架というのは自然の本性に反しているので、誰もが反感を買ったり、もう重いと感じるのは当然です。もしもそれが、十字架が苦しいと思わなければ、ちょっと精神病院に行かなければなりません。イエズス様が十字架を担った時には、非常に重く、非常に苦しいものでした。もう涙も流された事でしょう。しかし反抗や反乱はありませんでした。怒りや悪意もありませんでした。愛を込めてそれを受け入れました。

この十字架は貴重なものです。6つの理由があります。

まず第1の理由は、もしもそのような十字架があって、それを愛を込めて担ぐと、イエズス様に似た者になります。もしも誰かが担ぐべき十字架が無いとしたら、これは何かどこかおかしいという事です。何か良い事をしたい、例えば御聖堂を建てるとか、あるいは修道院を創立するとか、あるいは召命を遂行するとか、あるいはカトリックの家族を作るとか、そのような時に、もしも全てが順調にいって、何の波風も無く、何の問題も無いとしたら、何かがおかしいという事で、これは天主様の祝福がないという事で、もうこの事業は終わりだという事です。

天主様が望んだ全ての偉大な事業は、十字架と、苦しみの、混乱の中において立てられました、祝福を受けました。もしも十字架が重く感じられる時には、そのような十字架は非常に貴重なものだ、という理由を思い出して担いで下さい。

第1は、イエズス様に似通った者にする。

第2は、この十字架は、皆さんを天主聖父に相応しい子供とする。特に、三位一体によって特別に愛されるだろう。なぜかというと、愛する父は、愛する子供にお仕置きを与えるから、そして浄めるから。

第3の理由は、十字架は貴重である、なぜならば、十字架は人々の心を照らすから。本には書かれていない照らしを、十字架は与えるから。十字架の光の下に私たちは、真理と誤謬を明確に区別する光が与えられるから。

第4の理由は、十字架というのは、愛の源であって、愛の糧であって、愛の証拠であるから。なぜならば十字架は、天主の愛を私たちの心の中に燃やすから。十字架を担ぐ事によって、私たちの愛がますます増えるから。木は火を起こす燃料であると同時に、十字架の木は愛の火を起こす燃料だから。十字架は、天主を愛している、という証拠だから。

イエズス様に、「愛している」と言う事はとても簡単です。もしも皆さん簡単に歌を歌う事が上手い人でしたら、愛していると歌を歌うのはもっと簡単だ。イエズス様の為に何か働く、というのはちょっと大変だ。でもイエズス様の為に苦しむ、というのこそ、愛の証拠である。もしも夫婦が、その相手の為に苦しみを捧げているのであれば、この愛は確かであるという証拠です。

第5の理由は、十字架は、喜びと、平和と、御恵みの源であるから。もしも十字架を担うなら、天主様は私たちを慰めて下さる。私たちがもしも十字架を担うならば、イエズス様の為に何かする事ができた、という喜びが起こります。十字架を喜んで担ぐ時には、これ以上悪い事をこの世は与える事ができないので、私たちの心には平和があります、イエズス様と一緒にいる平和です。

第6の理由は、十字架は、私たちがもうそれを期待する事をはるかに超える、大きな栄光を準備するから。

ですから、この十字架というものをますます正しく理解して、これを貴重に思わなければなりません。

この世は、年を取った方々に「もう用がないから」とは言うかもしれませんけれども、イエズス様は、「今こそ、最も実りのある最高の時である」と教えます。

グリニョン・ド・モンフォールは十字架についての考察の時に、こういう美しい言葉で終わります。
「イエズス・キリストの友よ、この苦い杯を飲み干せ。そうすれば、友情はますます増えるだろう。今、イエズス・キリストと共に苦しめ。すると、後にイエズス・キリストと共に栄光を味わうだろう。今、忍耐強く苦しめ。この地上の一瞬の苦しみは、永遠の終わりない喜びに変わるだろう。」

では、終課を唱えましょう。

マルセル・ルフェーブル大司教 新しいミサと、ルターの典礼との驚くべき類似性は、信仰の問題を引き起こしている。祈りの法は、信仰の法だからだ。1975年2月15日

2019年01月25日 | ルフェーブル大司教の言葉
ルターのミサから新しいミサへ 
De la messe évangélique de Luther au nouvel Ordo Missae

Luther's Mass -- An Examination of the Shocking Similarities Between the New Mass and Luther's "Mass"

Von der Luthermesse zum Neuen Messritus

新しいミサと、ルターの典礼との驚くべき類似性は、信仰の問題を引き起こしている。Lex orandi, lex credendi (祈りの法は、信仰の法)だからだ。

 聖伝のミサこそ教会の基礎であり、キリスト教文明の基礎だ。もし教会に本当のミサが無くなるなら教会は姿を消してしまうだろう。

 私たちは聖伝の典礼、聖伝のいけにえを守らねばならない。私たちの素晴らしい教会はすべてこの聖伝のミサのために建てられた。別のミサのためではない。ミサのいけにえのためであって、最後の晩餐、会食、記念、交わりのためではない。



マルセル・ルフェーブル大司教
1975年2月15日イタリア・フィレンツェにての講演会



 今晩わたしはルターのミサとルターのした典礼の革新がどれほど新しいミサと似通っているかということを話したいと思います。

 なぜこのことを話す必要があるのでしょうか。なぜなら、典礼の改革を司った委員会の委員長自身が言うところによれば、この改革の根本には教会一致(エキュメニズム)の考えがあり、わたしたちはこの改革について考察せざるを得ないからです。なぜならもし新しいミサと、ルターの典礼とのこの親子関係が本当に存在することが証明できれば、有名な“Lex orandi, lex credendi” (祈りの法は、信仰の法)と言う格言に従って、神学上の問題すなわち信仰の問題生じざるを得ないからです。

 さて、ルターのした典礼の改革の歴史的書類は現在の改革を照らし出すうえで大変参考になります。

☆ ☆ ☆


 ルターのした典礼の改革の目的が一体何であったかということを理解するために、今簡単に司祭職とミサ聖祭に関する教会の教えをもう一度見ることにしましょう。

 トレント公会議はその第22総会においてこう私たちに教えています。我々の天主であり主であるイエズスキリストは、その司祭職を終わらせることを望まれず、その死にあたって、最後の晩餐において自分の愛する花嫁である教会に目に見えるいけにえを制定された。これはご自分の贖いの救いの力を我々が毎日犯す罪に適応させるためのものであった。この目的のためにご自分の使徒らを、彼らとその後継者らを、新約の司祭と制定し、新しい契約のこれらの司祭に聖なる消すことのできない印をつける品級の秘跡を制定した。

 この目に見えるいけにえは、現在我々の祭壇のうえでいけにえを捧げる行為によって捧げられている。これにより、我らの主は現実にパンとブドウ酒の形相の下に実在され、ご自分を天主御父にいけにえとして捧げられるのである。そしてこのいけにえを食することにより我々は主の御体と御血と交わり我々も自己を主と一致して捧げるのである。

 したがって教会は次のことを私たちに教えています。

 司祭の司祭職は、叙階の秘跡を受けていない平信徒の司祭職と本質的に異なっていること。平信徒は司祭職を絶対的に必要とする教会の一部をなしてはいますが、(秘跡的) 司祭職をもっていません。そしてこの司祭職には極めて独身がふさわしく、司祭用の服装などによって平信徒と外的に区別することがふさわしいのです。 この司祭職によって行使される礼拝式の本質的行為は、ミサ聖祭です。これは十字架のいけにえが流血のいけにえでありましたが、ミサにおいては無流血のいけにえであるということのみが異なるだけです。司祭は聖変化の言葉によって実現されるいけにえを捧げる行為によってミサを執行するのであって、ご受難のあるいは最後の晩餐の記念を単に朗読することによってミサをたてるのではないのです。

 この崇高で神秘的な行為によって私たちの霊魂と煉獄の霊魂の各々に贖いの功徳が適応されるのです。そしてそのことは奉献文においてすばらしく表明されています。

 したがって、いけにえが現実に存在することは必要であり、この実在はパンとブドウ酒の実体が我らの主の御体と御血に変化することによってなされるのです。したがって御聖体を私たちは礼拝しなければならないのです。そして御聖体に対して非常に大きな尊敬を払うべきです。それゆえにこそ司祭だけが御聖体を取り扱うという聖伝が生まれたのです。「司祭がただ一人だけで捧げるミサ」、そして「司祭一人だけが聖体拝領をするミサ」は、それだけで公の行為であり、ミサ聖祭としての全く同じ価値をもっています。そしてこのミサは司祭にとってもすべての信者らにとっても有益なのです。「司祭一人が立てるミサ」をこうして教会は勧め、望んでいるのです。

 ラテン語のミサの正に中核を構成する祈り、聖歌、典礼儀式(そしてその「宝石」はカノンですが)それらの起源にはこれらの信仰の原理があるのです。私たちはトレント公会議の言うところを読むと感動を覚えずにはいられません。「聖なるものを聖なるものとして取り扱うことはふさわしいことであり、このいけにえはすべての中で最も聖なるものであるのであるから、このいけにえがふさわしくかつ尊敬をもって捧げられ受けられるために、カトリック教会は数世紀以前より、そのうちに成聖を息吹かせ、外的信心を催し、このミサを捧げるものの精神を天主に上げるような、これに反するもののまったくないすべての誤謬から免れた純粋な、聖なるカノンを制定した。このカノンは実に主のみ言葉それ自体、使徒らの聖伝、聖なる教皇らの敬虔な指導からできている。」(第22総会第4章)

☆ ☆ ☆


 では今から一体どうやってルターがその宗教改革を成し遂げたか、つまり彼自身がそう呼んだその『福音的ミサ』をどう作り上げ、それは一体どんな精神に基づいていたのか見てみましょう。このために1910年にレオン・クリスチアーニの書いた本を見ることにします。この本は現在の典礼改革の影響を受けていないはずですから。この本は「ルター主義からプロテスタンティズムへ」と言う題がついています。この本は典礼改革についてのルター自身の言葉やその弟子らの言葉を引用しているので大変興味深いのです。

 この研究は大変多くを教えてくれます。なぜならルターは自分を動かしていたリベラル(自由放埒)な精神を明かすことを躊躇していないからです。かれはこう書いています。「何よりもまず私は友としてこう懇願する。・・・神に対する「サービス」に関するこの命令を調べ、それに従いたいと思うものは、自分を束縛する法律のようにこれを読み取ったり、またいかなる良心も捉えられないようにしていただきたい。各々自分の好きなように自分の好きなときにそれを取り入れていただきたい。それがキリスト者の自由というものです。」

 「神に対する称賛としての礼拝式は、今後からは、人を慰め人を照らすために人に対してなされることになります。したがって今までは、いけにえが第1に重要な場所を占めていましたが、今度からは説教がそれに取って変わることでしょう。」

 では、ルターは司祭職についてどのような考えをもっていたのでしょうか。彼の「一人でのミサ」に関する本の中にはカトリック司祭職は悪魔の発明であることを証明しようとやっきになっています。そのためにこそ、彼はそれ以後基本的になるこの原理を持ち出すのです。「聖書にないことはサタンの付け加えたことである」と。さて聖書には目に見える司祭職については書かれていません。聖書には唯一の司祭唯一の大司祭、キリストのことについてしか書かれていません。さらにはキリストと共にわたしたちはすべて司祭である、と。司祭職は唯一であると同時に普遍的である、と。そこでルターは「司祭職を誰かのために独占するのは何という愚かなことか・・・。キリスト者の間のすべての位階的区別をつけるのは反キリストにふさわしい…。いわゆる『司祭』は災いなことよ。」と言うのです。

 1520年には、彼は「ドイツのキリスト教貴族への宣言」と言う本を書いていますがその中で彼は「ローマ主義者」に戦いを挑み自由公会議を求めています。

 「ローマ主義者が作った最初の高い壁」は聖職者と平信徒との区別である。「教皇、司教、司祭、修道者、が聖職者の身分を構成し、他方で君主、領主、職人、農民が世俗の身分を作り成す、ということに気づいたが、これは全くの作り事でありウソにすぎない。すべてのキリスト者は真実に聖職者の身分に属しており、役割の違いのほかキリスト者の間にいかなる区別もない。…もし教皇あるいは司教が塗油をし、剃髪式、叙階式、聖別式をし、平信徒とは違った服を着るとしたら、見せかけを作り上げ、塗油を受けた偶像を作ることはできるが、キリスト者も聖職者をも作ることができない。洗礼を受けたものはすべてすべて聖別された司祭、司教、教皇ということができる。ただしすべてがこの役割を果たすことがふさわしいとは言えないが。」と言っているのです。

 この教義から、ルターは聖職者の特別の服と独身制とに対し反対するのです。彼自身、また彼の弟子らもその模範を示し彼らは独身をやめ結婚するのです。

 バチカン公会議の改革から出た事実は、ルターの結論とどれ程似ているでしょうか。修道服の廃止、聖座によって認められた数多くの結婚、司祭と平信徒とを区別するすべての印の欠如。この平等主義は、今まで司祭にしか認められていなかった典礼の役職を平信徒にまで認めることによって明らかにされるほどです。

 下級品級の廃止、副助祭の廃止、結婚した助祭、これらは司祭は全く純粋に役職・役目でしか過ぎないという考えを生み、司祭職の秘跡的印を否定するのを促しています。叙階式は共同体へのサービス[奉仕の司祭職]という方向に向けられ、司祭職のカトリック的概念を唯一正当化する『いけにえ』のためではもはやなくなっています。

 労働司祭、組合活動主義者、あるいは国家によって俸給を受ける別の内職を求める司祭など、すべての区別を無くしてしまっています。彼らはルターのやったことよりはるか先を行っています。

 ルターの犯した第2に重大な教義上の誤謬は、この第1の誤謬の続きでありその第1原理に基づいています。すなわち、信仰あるいは信頼が救うのであって、業ではないということ。そしてこれはカトリックミサにおいて最も基本的であるいけにえを捧げる行為を否定することなのです。ルターにとって、ミサは賛美のいけにえ、すなわち賛美、感謝の行為ではありうるけれども、決して償いのためのいけにえ、十字架のいけにえを更新し適応させる贖罪のいけにえなどではないのです。

 修道院内の礼拝式の「退廃」について彼はこう言います。
「彼らの礼拝式の基本的要素、すなわちミサは、不敬虔、忌まわしさのすべて度を過ぎている。彼らはいけにえを捧げ良い業をしているという。これ[=ミサのこと]以外に修道服を脱ぎ捨て、修道院を出、誓願を破る動機はなかったではないか。ミサはそうするのに全く十分である。」
「ミサは『シナックス(集い)』であり交わりである。御聖体は3重のそして嘆かわしい捕虜となってしまった。平信徒の手からカリスを取り上げてしてしまったこと、トミストらが思いついた全実体変化に関する意見をドグマとして押し付けたこと、ミサをいけにえとしてしまったこと、これである。」

 ルターはここで最も重要な点に触れています。しかし彼は少しも躊躇してはいません。「したがって罪のために、罪の償いのために、死者のために、ミサを捧げ・適応するのは明らかなるそして不敬虔な誤謬である。…ミサは神によって人に捧げられたものであり、人によって天主に捧げられたものではない。」と彼は書いています。

 御聖体に関しては、「何よりもまず信仰を駆り立てなければならないものなのであり、俗語で捧げられなければならない。それはすべてが彼らに言われている約束の偉大さをよく理解することができるためである。」

 ルターはこの異端の結論として、いけにえの贖罪とあがないの目的をはっきりと表明している奉献文を廃止します。彼はカノンの大部分を廃止し、基本的な所のみを保存するのですが、しかしそれもただ最後の晩餐の叙述として残すだけです。

 最後の晩餐において成し遂げられたことに、もっと近づくために彼はパンの聖変化の言葉に「quod pro vobis tradetur(あなたたちのために渡される)」と言う言葉を付け加えるのです。そして「mysterium fidei(信仰の神秘)」という言葉と「pro multis(多くの人のために)」という言葉を廃止するのです。彼は、パンとブドウ酒の聖変化の前の言葉、そしてそれに続く文章を叙述の基本的な言葉として考えるのです。

 彼はミサをまず第1にみ言葉の典礼、第2に聖体拝領(交わり)と考えるのです。

 新しい典礼改革はルターのと全く同じ変化をもたらし、本当に信者たちが手にする現代のテキストにはもはやいけにえについては語られず、ただみ言葉の祭儀、最後の晩餐の叙述、パンあるいは御聖体の分かち合いしか語らない、というのを目前にし驚愕せざるをえません。

 新しいミサを導入する総則の第4項を見ると既にプロテスタントの考え方を表しています。それの発表の後になされた訂正は満足のいくものでは全くありあせん。

 祭壇石の廃止、ただ1枚の祭壇布しか覆われていないテーブルの導入、会衆の方に面する司祭、コルポラーレではなく常にパテナのうえにおかれたままのホスチア、普通のパンを使うことの許可、金銀の貴金属以外のいろいろな材質でできた器、そしてその他数多くの詳細な革新は、基本的にそして非常に重大にカトリックの教えに反したプロテスタントの概念を、新しいミサに与かる人に教え込んでいるのです。

 ミサ聖祭よりもカトリック教会が生き残るために必要なものはありません。ミサを打ち捨てることは教会の基礎それ自体を揺るがすことに等しいのです。キリスト教生活、修道生活、司祭生活はすべて十字架のうえに、祭壇上に新しくされる十字架の聖なるいけにえの上に築かれているのです。

 ルターはそのことからカトリック教会が教えているような全実体変化及びキリストの現存を結論として否定したのです。彼にとって、パンはそのまま残るのです。したがって彼の弟子で、御聖体の礼拝に反して強烈に立ち上がったメランクトンが言うように、「キリストは聖体を自分の受難の記念として制定した。聖体を礼拝することは偶像崇拝である」のです。

 そこから、手による聖体拝領、両形色の聖体拝領が生まれ、それは我らの主の御体、御血の現存をその両形色において否定しているのです。ですから、一つの形色だけによる聖体拝領は不完全だと考えられるのです。

 ここでもさらに現在の典礼改革とルターの典礼改革との奇妙な一致を計ることができます。御聖体の取り扱いに関する新しい許可はますます尊敬を欠かせ、忘れさせ、礼拝をさせないように向いているのです。手による聖体拝領、平信徒が、しかも女性が聖体を配ること、跪く回数を減少させ、数多くの司祭は既に跪くことをしなくなってしまったこと、普通のパンを使ったり、普通の容器をカリス替わりに使ったりすること、これらのすべての改革はカトリック教会が今まで教えてきた御聖体における現存を否定するのに役立っているのです。

 《Lex orandi lex credendi》と言う格言の通り、原理は実践と分かち難く結び付いているので、ルターの典礼改革をミサの典礼において真似ることは、少しづつ、しかし確実に、ルターの考えそのものを受け入れるようにと導いているのです。新しいミサが発表されて後ここ6年の経験はこのことを十分によく証明してくれます。このような、宗教統一的といわれるやり方の結果はまず信仰の領域に於いて壊滅的であり、特に司祭職の腐敗、召命の希少化に於いて特にひどく、全く身近なこの典礼に関する問題についてどこにおいてでもカトリック信者の一致を破壊し、プロテスタントやギリシャ正教会の信者との関係に悪影響を与えています。

 教会の生命活動に欠かすことのできないそして教会にとって基本的であるこの「司祭・いけにえ・御聖体」に関するプロテスタントたちの考えはカトリック教会の信仰と全く完全に反対です。トレント公会議が開かれ、4世紀にも亙って教導職のすべての文章がそれについて語っているのは、おもしろ半分でのことではなく、深い意義があることなのです。

 カトリック信者にとって、まさに自分の信仰の表明であり支えである典礼を、異端者どもが思いついた新しい典礼を受け入れるために放棄することは、しかも自分の信仰を最も大いなる危険にさらすことなしに放棄することは、心理的に、司牧的に、神学的に全く不可能なことです。プロテスタントのしていることをプロテスタントにならずに何でもかんでもまねするというのはできない相談です。

 どれ程多くの信者たちが、どれ程の若い司祭たちが、どれ程の司教様たちがこの典礼改革以降信仰を失ってしまったことか! 自然と信仰に真っ向から反対すればそのしっぺ返しは必ず食うものです。

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 最初の「福音的ミサ」の様子をそしてその結末をここで皆さんに読んでみるのは2つの典礼改革がいかに奇妙なほど似通っているかということを納得してもらうために役立つと思います。

 「1521年12月24・25日の夜、群衆は教区の教会に押しかける。…「福音的ミサ」は始まろうとしていた。カールシュタットは説教壇に登り、聖体について説教する。彼は聖体を両形色で拝領する義務があると言い、聖体拝領の前の告解は無意味であるという。信仰だけで十分である、と。カールシュタットは普通の服装で祭壇に立つ。コンフィテオールを唱え聖福音の所までは普通のとおりにミサを始める。奉献の祈り、聖体奉挙などいけにえの概念を呼び起こすものはすべて省かれる。聖変化の後に聖体拝領がくる。参列者の中の多くはほとんど告解をしていなかった。彼らの多くは飲み食いし焼酎を飲んでいたものもあった。彼らも他の人と共に祭壇に近づく。カールシュタットはホスチアを配りカリスを差し出す。聖体拝領する人は手で聖別されたパンを受け取り自分で好きなようにカリスから飲む。ホスチアの一つはスルリと落ちて参列者の服に落ちる。司祭はそれを拾う。もう一つは地面に落ちる。カールシュタットは平信徒にそれを拾うようにと命じる。平信徒が尊敬あるいは迷信のしぐさをしてそれを拒むとカールシュタットは「もし誰もその上を歩かないのなら、それではその落ちたところにそのままあればよい」と言うに過ぎなかった。」

 その同じ日に、その付近のある司祭はおよそ50人ほどの人に両形色で聖体を配った。彼らのうちたった5人だけが告解をしていたに過ぎなかった。その他の人達はミサ中に赦しを受け、罪の償いにもう再び罪に落ちるなと勧められただけであった。

 翌日カールシュタットはアンナ・デ・モハウとの婚約式をした。幾人かの司祭たちはこの模範に従い結婚した。

 この時、ツウィングリは自分の修道院を抜け出しアイレンブルクで説教していた。彼は修道服を脱ぎ捨て髭を生やしていた。平信徒の服装で司祭一人だけのミサに反対していた。新年には両形色で聖体を配る。ホスチアは手から手へと配られていた。自分のポケットに入れてもって帰ったものもいた。ある婦人はホスチアを食しながらそのかけらを地面に落としていた。誰もそのことに注意を払わない。平信徒は自分でカリスを取りなみなみと飲んでいた。

 1522年2月29日、ツウィングリはカタリン・ファルキと結婚した。当時まさに「司祭と修道者の結婚」という伝染病がはやっていた。修道院は空っぽになり始めた。修道院に留まった修道者たちは、1つの例外を除いて、祭壇を打ち壊し、諸聖人の聖画を焼き払い、病者のための聖香油さえ焼き捨てた。

 司祭の間には全くの大きな無秩序が支配していた。誰もが自分の好き勝手にしたい放題のミサを立てていた。協議会は典礼の改革のために秩序を取り戻そうと新しい典礼を決定することを決議した。

 それでどうやってミサを立てるかというやり方を決めた。入祭唱、グロリア、書簡、福音、サンクトゥスは残された。その後に説教。奉献文とカノンは廃止された。司祭はただ単に最後の晩餐の制定を朗読する。聖変化の言葉は大きな声でドイツ語でする。聖体は両形色で配られる。アニュス・デイの歌、聖体拝領の歌、そしてベネディカムス・ドミノの歌でサービスは終わる。

 ルターは新しい聖歌を作るのが心配だった。うまい詩を探すのだがなかなか見つからない。聖人の祝日は姿を消す。ルターは典礼の過渡期をうまく乗り越える。彼は古い儀式をできるだけ残そうとする。彼はその方向づけを(なるべく穏やかに徐々に)変えようとやっきになる。ミサは大部分その外見はそのままを保つ。民衆は教会建築の中に同じ装飾を再び見いだす、民衆の気に入るように仕組まれた同じ儀式。今後は今まで以前よりもずっと民衆に訴えるようになる。礼拝式を重要視することにますます気が付く。民衆は、聖歌や声を出しての祈りなどによりますます積極的に礼拝式に参加する。少しづつ、そして決定的にラテン語はドイツ語に席を譲る。

 聖変化はドイツ語で歌われる。聖変化はこの言葉でなされる。「我らの主は渡される夜パンを取り感謝してそれを割き、弟子らに与えてこう言われた。取って食べなさいこれはあなたがたのために渡されるわたしのからだ。あなたがたがこれを行う度にわたしの記念としてこれを行いなさい。同じく食事の後に杯を取りこう言われた。取って皆これを飲みなさい。これは、あなたたちのために流される罪の許しのための私の血におけるカリス、新しい契約。このカリスを飲むたびごとにこれを私の記念として行いなさい。」

 こうして『quod pro vobis tradetur』『あなたたちのために渡される』と言う言葉が付け加えられ、ブドウ酒の聖変化において『信仰の神秘』『多くの人のために』と言う言葉が省かれるのです。

 この「福音的ミサ」似関する叙述は公会議以後の典礼改革に対して私たちが思っているのと同じことを言ってはいないでしょうか。

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 新しいミサにおけるこれらの変化は本当に危険です。何故なら、少しずつ、特にいけにえの観念がもはやなく、聖体における現存や全実態変化の観念のない若い司祭にとってこれらは何の意味ももたず、教会がすることをするという意向を失ってしまうからです。そうするともはや彼らのミサは有効ではないのです。

 確かに、もしも年を取った司祭たちはたとえ新しいミサを捧げるときでも今までの信仰を保っており、また更に彼らは長年の間古いローマ・ミサを捧げて来たし、彼らはその意向を保っている、としたら、彼らのミサは有効だと信じることができます。しかし、彼らのこの意向が無くなるに従って、それがどこかに行ってしまうに従って彼らのミサももはや有効ではなくなってしまうのです。

 彼らはプロテスタントに近づこうとしましたがその結果としてカトリックがプロテスタントになり、プロテスタントがカトリックになったのではないのです。そのことは一目瞭然です。

 5人の枢機卿と15人の司教がテーゼの『青年の公会議』に参加したときのこと、これらの青年達はどうやってカトリシズムとは何か、プロテスタンティズムとは何かと言うことを知り得たでしょうか。あるものはプロテスタントのところで聖体拝領し、あるものはカトリックのところで聖体拝領をしました。

 ウィルブランズ枢機教がジュネーブで開かれた教会統一協議会へ行ったとき、こう宣言しました。「我々はルターの名誉を回復させなければならない。」彼は聖座からの勅使としてこう言うのです!

 告解の秘跡を見てください。合同回心式の為にこの改悛の秘跡は一体どうなってしまったのでしょうか! 信者にこう言うのは司牧的でしょうか。「集団的に許しを与えました。聖体拝領することができます。もし機会があったら、そしてもし大罪を犯していたのなら、今から6カ月かあるいは1年のうちに告解を個別的にしてください。」こんなやり方が司牧的なのでしょうか。大罪について人はどのように考えるようになることでしょうか。

 堅振の秘跡も全く同じ状況にあります。今流行の形相はこれです。「我、汝に十字架の印をする、聖霊を受けよ。」しかし、聖霊がこの秘跡によって自分を私たちに与えるその秘跡の特別の聖寵が何であるかを正確に言わなければなりません。もし、この「Ego te confirmo in nomine Patris...」という言葉を言わないとすれば、秘跡ではないのです。私はそのことを枢機卿たちに言いました。なぜなら彼らは私にこう言ったからです。「あなたは堅振の秘跡を授ける権利の無いところでそれをしている」と。

「信者たちが自分の子供達が堅振の聖寵を受け取らないのではないかと恐れているから、今の教会で与えられている堅振の秘跡の有効性に彼らは疑いを抱いているので、私は堅振を授けるのです。少なくともその聖寵を確実に得ようと私に堅振を与えてくれと頼むからです。私にとって私に有効な堅振を頼む人々の願を拒むことはできないので、たとえそれが不合法だとしても私はそれをするのです。なぜなら、教会の人定法が天主の自然法・超自然法の運河である替わりにそれに対立しているとき、天主の自然・超自然の法が教会人定法に勝るからであり、我々は今そのときを生きているからです。」

 私たちは今、教会の異常な危機の時代を生きています。私たちはこれらの改革については行けません。これらの改革のよき実りとはどこにあるのでしょうか。私は本当に自問自答します。典礼改革、神学校の改革、修道会の改革、すべての修道会の最高幹部会の改革。これらのかわいそうな修道院を一体どこにやってしまったのですか! みんな跡形もなく消えてしまいました。もはや修練者もなく、召命もありません。

 シンシナッティーの枢機教大司教は、ローマにおける司教らのシノドゥスでやはりこう認めました。「私たちの国々では ─英語を話す国々を指してのことですが─ 司祭とは一体なんであるか皆がよく知らないのでもはや召命が無くなってしまった。」

 ですから私たちは聖伝に留まらなくてはなりません。聖伝だけが私たちに本当に聖寵を与えてくれます。教会における継続性を与えてくれます。もし私たちが聖伝を打ち捨てるとき、私たちは教会の破壊に貢献するときです。

 私はこれらの枢機卿たちにこう申し上げました。「公会議の中の信教の自由に関する概要は矛盾しているということに気が付きませんか。この概要の第1部には『聖伝は何も変えてはならない』と言われているのに、この概要の内部ではすべてが聖伝の反対を言っています。この概要はグレゴリオ16世やピオ9世そしてレオ13世の言ったことと全く反対です。」と。

 ですから、選ばなくてはなりません。公会議の説く信教の自由に賛成し、これらの教皇様がたの言われ続けて来たことに反対するか、あるいは、これらの教皇様の言われることに賛成して信教の自由に関するこの概要の中で言われていることにもはや賛成しないかのいずれかです。この2つに同時に賛成する・同意することは全く不可能です。

 私はこう付け加えて言いました。「私は聖伝を取ります。私は聖伝を支持します。自由放埒主義と言った革新は支持しません。この1世紀半の間、すべての教皇様が排斥して来たのはまさしくこの自由放埒主義以外の何物でもないのです。この自由放埒主義が公会議を通して教会の中に入って来たのです。自由・平等・博愛の自由放埒主義が。」

 自由、それは信教の自由のことです。平等、それは司教団主義です。博愛、それは宗教統一運動です。そしてこれらが自由放埒主義の3つの原理で、これは17世紀の哲学から来たのです。そしてこの原理がフランス革命を生んだのです。

 そしてこの観念があいまいな言葉によって公会議の中に入ったのです。そして今ではこのために私たちは崩壊に、教会の崩壊へと向かっているのです。何故なら、それらの観念は自然と信仰とに反しているからです。私たちの間に完全な平等はありません。私たちは何から何まで全く等しいわけではありません。教皇レオ13世はその自由に関する回勅の中でそのことをはっきりとすばらしく言い表しました。

 それから博愛(兄弟愛)について、もし一人の父がいないのなら、どこから兄弟愛を見つけるのでしょうか。もし天主様がいないのなら、もし天にまします父がいないのなら、どうして私たちが兄弟でありうるでしょうか。共通の父が無くしてどうして兄弟たり得るでしょうか。不可能です。無理な相談です。教会のすべての敵の言うなりにならねばならないのでしょうか。共産主義者、仏教徒、そして教会に反対するすべての人の思いのままにですか。フリーメーソンとか。

 今から一週間前に発表された法令によると、フリーメーソンに入会するカトリック信者にはもはや破門の制裁は無いのだそうです。フリーメーソンはポルトガルを破壊しました。一体誰がチリにアレンデと共にいたのでしょうか。そして今では南ベトナムにいます。彼らはカトリック国家をすべて破壊し尽くさねばならないと言います。第1次世界大戦中のオーストリア、ハンガリー、ポーランドなどなど。フリーメーソンはカトリック国の破壊を望んでいるのです。フリーメーソンの活動はスペイン、イタリアではどうでしょうか。何故教会は教会の敵であるこれらの人に両手を広げるのでしょうか。

 ああ、私たちはどれほど祈り、祈らなければならないでしょうか!私たちは今まで見たことも無かったような悪魔の教会に対する攻撃のときを生きています。私たちは聖母に、至福なる童貞マリア様に、私達の助けに来てくださるように祈らねばなりません。何故なら私たちは本当に明日がどうなるか全く分からないからです。天主様が、ご自分の御稜威、その御光栄に対してなされたこれらすべての冒涜、涜聖、汚聖を受け入れるはずがありません。多くの国々で見られるようになってしまった堕胎の法律、イタリアにおける離婚の許可、これらすべての道徳に関する法律の壊滅、真理の壊滅を思ってみてください。ある日、天主様がそれに対して口を開かず、この世を厳しく罰し給う事なくそのまま済まされるなどとは到底思えません。

 それゆえにこそ、私たちは自分たちのためそして私たちの兄弟たちのために天主様に御憐れみを請い求めねばなりません。しかし私たちは戦い勝ち抜かねばなりません。聖伝を守り抜くために戦い恐れてはなりません。とりわけ私達の聖なるミサの典礼を維持しなければなりません。何故ならこのミサこそ教会の基礎であり、キリスト教文明の基礎だからです。もし教会内に本当のミサが無くなってしまうなら教会は姿を消してしまうでしょう。

 私たちはこの典礼を、このいけにえを守らねばなりません。私たちの教会はすべてこのミサのために建てられました。別のミサのためではないのです。ミサのいけにえのためであって、最後の晩餐、会食、記念、交わりのためではないのです。いいえ、違います。私たちの祭壇上で続けられる我らの主イエズス・キリストのいけにえのためです。そのためにこそ私たちの祖先はこれらの素晴らしい教会を建てたのです。決して会食や記念のためではありません。違います!

 私は神学生のために捧げられる皆さんの祈りに期待しています。わたしの神学生たちが本当の司祭になるように。信仰をもち、かくして本当の秘跡と本当のミサのいけにえを与えることができるように。お願いします。

2016年聖母小黙想会 霊的講話【12】 8月13日 シュテーリン神父様「マリア様はイエズス様の聖心に深く入る鍵をくださる」

2019年01月24日 | お説教・霊的講話
2016年8月13日 聖母黙想会 シュテーリン神父様講話【12】
同時通訳:小野田圭志神父


イエズス様のそのペルソナが、その人柄が、イエズス様の謙遜において、柔和さにおいて、優しさにおいて、私たちに今、輝いてきます。

でも、この「優しさ」というのはまだ入り口であって、この奥に深く入らなければなりません。それはイエズス様の「聖心」です。

ちょうど使徒たち、二人の使徒たちがイエズス様の方に来た時に、イエズス様は、「おぉ、知りたいか?じゃあ付いて来なさい、私の家に来なさい」と言われたその事と似ています。洗者聖ヨハネは、「天主の小羊を見よ」と証言をします。ですからこの二人の弟子たちは、その証言に従って、イエズス様の後を付いて行きます。

イエズス様は尋ねます、「一体何を求めているのか?」 弟子たちは質問します、「主よ、あなたはどこにお住みですか?」「来てみなさい。」その時に、「午後の16時頃であった」(ὥρα ἦν ὡς δεκάτη. hora autem erat quasi decima.)と書かれています。

イエズス様と知り合ってみると、イエズス様は「来てみなさい」と言うので、私たちはイエズス様のその家の、聖心の深く中にまで入るように招かれます。

喜びの玄義は、「私たちの主が、私たちの所に現存している」という事を強調します。でも隠れた生活では、イエズス様は言葉を発しません、仰りません、奇跡も行ないません、ただいらっしゃるだけです。ですから喜びの玄義では、イエズス様がいらっしゃる、という事をよくご覧になって、イエズス様の御人柄、イエズス様のその立ち振舞いをよくご覧になって下さい。

イエズス様はただ、私たちの間に住み給うだけに来られたのではありません。行動される為に、何かをなす為に、成し遂げられる為に来られました。

この世に来られた理由、その目的は、この目的についてイエズス様は、「私の時間、私の時が来た」と言います。この時の為に、この時を非常に待ち望んでいた、その時についてイエズス様は「切にのぞんでいた、望みに望んだ」【ルカ22:15】(desiderio desideravi hoc pascha manducare vobiscum antequam patiar)と言われます。イエズス様の尊き御血による贖いの神秘、これが苦しみの玄義です。

この地上での巡礼への道を、イエズス様が苦しみの玄義で教えてくれます。私たちの通るべき道は、十字架の道行きです。十字架の道を通る事によってのみ初めて、主の掟を守る事ができるようになります。なぜかというと、イエズス様が私の為にそんなに苦しんでいるのを見るならば、私は愛に燃えざるを得ないからです。聖人たちの教えによると、「イエズス様の御受難は、私たちの愛の学校である」と。

皆さんたちも考えて下さい。もしも重い十字架を担がなければならない、担わなければならないと考えて下さい。最初はもちろん、意気揚々と担ぎますけれども、だんだん重く感じられます。霊的生活のレベルをいつも高く守っていくには力が必要です。十字架がますます重くなってくると、その何か他に楽しみがないか、十字架が無くならないか、等と考えるようになってしまいます。私たちが辱められたり、屈辱を受けた時に、どれほど暗い闇が私たちの心を覆うでしょうか。私たちは孤独になる事を恐れています。もしもイエズス様の御元に、十字架を担うイエズス様の元に行かないならば、どうやって毎日のこの「十字架を担おう」という動機付けができるでしょうか。

そしてこの十字架の道行きこそが、私たちの人生の本当の意味を理解させてくれます。この私たちがどこに行っても、他の人たちは、この人生の目的は何か、という別の事を教えます。

彼らは本当に嘘ばかり言います。でも本当は、この私たちの人生の本当の目的とは、この地上の楽しみを追求する事ではありません。この涙の谷であるこの現代世界を地上の楽園に変える事でもありません。明日幸せな1日を送る、という事を願望する事でもありません。

もしも主の、イエズス様の生涯が、日々十字架の連続であって、苦しみの連続であったならば、私たちの生活もこれと同じであるべきです。最も高貴な行動というのは、「全てを、いけにえとして、犠牲として捧げる事」です。

ファチマで天使が2回目に出現した時に、天使は子供たちに聞きました、「お前たちは一体、何をしているのか?」 天使は子供たちに、「全ての事を祈り、全ての事を犠牲として、いけにえとして捧げなさい」と頼みました。これによって子供たちは聖人になりました。

苦しみの玄義は、「私たちの人生において一番大切で、一番高貴で価値のあるものは何か」という事を教えています。

実は、このキリスト教信者たちにとって、この地上で本当に偉大であって、価値があって、意味があるものは、この地上での呪いであって、一番嫌なものであって、何とかしてこれを排除しようとしているものです。この世の人々は、「何としてでも苦しみたくない。何としてでも、薬を飲んでも、お医者さんに頼んでも、どのような手段をかけても、お金を払っても、苦しみたくない」と考えています。この世の苦しみというのは、この世に悪があるのは仕方ない、と言ってそれを忍耐するのではありません。そうではなくて、この世がもっとも悪いと考えているものは、実は最善のものなのです。この世にとって最も悪い、最悪なもの、最低なものというのは、「苦しみ」であって、「十字架」です。

この世で一番悪いものというのは、この世の人々にとっては、苦しみであって、死であって、孤独であって、捨てられる事であって、屈辱です。しかしイエズス様の十字架と、苦しみの玄義によって、最高のものに変えられます。霊魂を救う為の最高の武器になります。私たちの最も良い慰めの元となります。私たちの愛の最も深い表現となります。イエズス様は言いました、「友人の為に命を与えるほどの、大いなる愛はない」と。

聖人たちが天国に行って、この悲しみ、残念だなぁと思う事は、「イエズス様がせっかく贈って下さった十字架を、多くを投げ捨ててしまって、そしてその十字架から逃げてしまった事だ」と言います。なぜかというと、凱旋の時に私たちに栄光を与えるのは一体何でしょうか?何が永遠の価値を持つでしょうか?それは、イエズス様への愛と霊魂の救いの為に、愛を以て為した何かです。特に天主の栄光の為に、霊魂の救いの為に、私たちが苦しんだ時に、その価値がますます高くなります。

ここには、そんなにはたくさんいらっしゃらないのですけれども、少数、数名、お年を召した方がいらっしゃいます。そのお年を召した方にお伺いしますけれども、引退されて、お仕事から身を引いて、この過去の数年、何をなさいましたか?

「私の人生はもうこれで終わったようなもんです。もう意味がありません。もう役に立たないし、もう早く逝ってしまった方が良いんじゃないかなと思っています。」

あたかももう用が無くなったかのように、脇に置かれたかのように感じているかもしれません。そしてもう、これで人生もうほとんど終わってしまったかのように思っているかもしれません。もう役に立たない、死ぬのを待っているだけであるかのように思っているかもしれません。

でも本当は、その反対なのです。実は本当は、今、頂点に到達する為のラストスパートの時なのです。今、今まで長い海の中の嵐の中を渡って来て、この船が今ちょうど安全な港に到着しようとしているその時なのです。

「あぁ、昔はよくお祈りもしたけれども、もう今ではもうお祈りもできないし、お祈りをしようとするともう眠くなるし、」「昔は料理もよく作ったけれども、料理をする事もできないし、」ですから「もう悲しくて、もうちょっと憂鬱で、もう何の役にも立たない。」

でも、天主様の御旨がそこにある、という事にお気付きではありませんか?イエズス様の愛がそこにある、とお気付きではありませんか?

でも、ますますお年を取ると、ますます苦しみが増えます。骨は古くなるし、肩は痛いし、ここは痛いし、腰は痛いし、足は痛いし、あちこち痛みでいっぱいです。この世の色んな活動から遠ざかっているので、孤独を感じているかもしれません。残念ながら、この世の老人の方は、そのテレビの前でずっと時間を潰したり、コンピューターゲームをしたりして時間を無駄にしています。

でもイエズス様は、今、そのような老人の方々に最高の仕事をする時間を与えているのです。なぜならば、他の仕事から解放されたからです。もう天主様は、もう皆さんに、「料理をする事も必要ないし、庭で働く必要もないし、買い物をする必要もない。もっと別の事に時間を使いなさい」と言っているのです。そして「何もしないで良い」とさえも言われているのです。それから年金さえもあるではないですか。

では、何をしなければならないのでしょうか?

朝起きると、体中が痛みます。「あぁ、主よ、私は今日この痛みで、多くの霊魂を救う事ができます。この痛みを通して、御身と汚れなき御心を慰める事ができます。この痛みを通して、神父様たちの最前線に立って、この痛みを捧げる事によって、多くの霊魂を勝ち取る事ができます。」

頭痛がしたり、骨が痛い、腰が痛い時には、「あぁ、主よ感謝します」と捧げる事ができます。「あぁ、」頭が痛い時には、「あぁ、こんなに頭が痛くなった、あぁ腰も痛くなった、あぁブツブツブツ…」と言う代わりに、もちろん皆さん、そうやって皆さんがこう仰らなくても、誰もが苦しんで痛がっているのを知っています。

では、お仕事とは何でしょうか?

自由時間がまずあります。4時間、5時間、自由な時間があります。ロザリオをたくさん唱える事ができます。ゆっくりと唱える事ができます、黙想しながら唱える事ができます。ロザリオを唱えながら、もちろんお年を取るとよく眠くなってしまって、ロザリオを唱えながら眠ってしまいます。知っていますか?お祈りをしながら眠ってしまうと、居眠りがお祈りになります。そして目を覚ましたら、「あぁ、今ロザリオの途中だった」という事で、その続きができます。でも時間はまだあります。

終日、一日中ずっと、射祷を唱える事ができます。すると一つの射祷を、一人の霊魂、一人の日本の方の為にすると、でも1日にもしかしたら1億回の射祷を唱える事ができるかもしれないと考えていますけれども、ちょっとこれは無理かもしれません(^_^;)

そして腰が痛い、肩が痛い、という全ての痛みを、過去した自分の下らない罪の、償いとして捧げる事ができます。

私の94才の母を見て下さい。母は春から秋にかけて、ずっと教会の修道院の庭で仕事をして、台所で仕事をしています。冬になると、教会の中でお祈りして、居間で本を読んでいます。神父様たちが食事をする為にこう食事を取りに来ます。信徒の方が私の母を訪問に来ます。この訪問する人は訪問客は、「あぁ、ここが痛くて、頭が痛くて、腰が痛い」という話をすると、私の母はそのような人たちに、つい最近読んだ本を、「こんな事が書いてあった、」聖人伝を、「このような事が書いてあった」と話して聞かせます。するとその訪問客はとても喜びます。

グリニョン・ド・モンフォールは、苦しみの玄義をもっと深く黙想する事を望んでいます。グリニョン・ド・モンフォールはマリア様から鍵をもらって、その鍵を開ける事によって今まで閉ざされていたドアが開かれて、もっと深く理解する事ができるようになりました。喜びの玄義の鍵は、「イエズス様の現存」、「イエズス様がいつも私たちと一緒にいる」という事、「イエズス様の優しさ」という事です。

苦しみの玄義の鍵は何でしょうか?「苦しみの玄義を深く理解する為には、何が起こったとか、その事実の事を思い出だすだけでは足りない」と言います。これは本当に良いアドバイスです。特に、「その苦しみを取り巻いていた状況を黙想するべきだ」と言います。

例えば、茨の冠を被せられた時とか、あるいは鞭打たれた時を黙想する時には、「一体、誰が苦しんでいるのか」という事を黙想します。あるいは「誰の為に苦しんでいるのか」「どれほど苦しんでいるのか」「どのように、その苦しみの質はどうなのか」「この苦しみは、どこからどこまでなのか」すると、今まで考えていたよりももっと深みのある意味ができて、別の意味を持ってきます。

例えば例を挙げると、ゲッセマニの園での苦しみを取ってみます。死ぬ前のこの苦しみというのは、最も苦しいものです。もちろんイエズス様がゲッセマニの園で苦しんだ事を知っています。あまりにも苦しんだので、その苦しみのあまり、血潮さえも汗のように流れ出した、という事も知っています。あまりにも苦しかったので、イエズス様は使徒たちの方に向かって、「祈れ」そして「誘惑に陥らないように目覚めて祈れ」と仰いました。そしてその使徒たちから慰めを受けようとさえもします。しかしそれを受ける事ができませんでした。そして、これから来る数時間の間に多くの苦しみを受けなければならない、という事を覚悟します。罪と、屈辱、侮辱、全てを、この御自分の肩に背負わなければならない、と悟ります。

これが事実ですけれども、更にグリニョン・ド・モンフォールは、そのそれを取り巻く状況を黙想するように提案します。

まず、「誰が」苦しむのか?

これは単なる預言者、単なる人間ではなくて、天主の聖子が苦しんでいる。天地の創造主が苦しんでいる。私たちを創って、私たちに力を与える、その方が苦しんでいる。自分を殺そうとする人々を生かして、そのそれに力を与えるその創造主が苦しんでいる。聖なる天主、闇のない光である天主が。

誰も、私たちの内一人として、罪のその醜さの深みを理解し尽くす事ができる人はいません。でもイエズス様は知っています。

皆さん、この歴史上のものすごい悲惨な戦争や、この非道な行ない、この歴史の全ての最も悪い行ないを集めてきたとします。そしてそれを集めてきたとしても、それは天主に対して犯される1つの罪と比べれば、何でもありません。イエズス様はその1つの罪のビジョンでさえも、耐える事ができないほどものすごい嫌悪感を抱きます。美しい宮殿の中に住んでいる、全てが美しい人、そのような所に住んでいる人を見て下さい。そこでその人がドアを開けてみると、その目の前に最も汚い汚物が、もう悪臭と醜さを放って、こう有るのを見ます。これを見ただけでこの人は、本当に気絶して倒れてしまうほどです。でもイエズス様が今しなければならない事は、そのただ見るだけではなく、その中に入って、その中に座って、それに身を任せる事でした。それを自分の肩にかけて運ぶ事でした。そしてそのイエズス様の美しい服、肌、手、全ては汚く汚されて、傷付いてしまうのでした。

今このように申し上げた事も、イエズス様が本当に受けた事と比べれば、全く何でもありません。

一体、「誰の為に」この苦しみを受けたのでしょうか?

もしも、この皆さんの大親友がやって来て、大親友がその彼の為に「命が欲しい」と言ったら、ちょっとそれも難しいかもしれません。でも全く赤の他人がやって来て、誰も何も知らないような人がやって来て、その人が「命が欲しい」と言ったらどうするでしょうか?マキシミリアノ・コルベ神父様はそのような事をしました。

でも、もしも私たちを憎しむ、私たちの敵がやって来て、「命を欲しい」と言ったらどうするでしょうか?この人は皆さんを憎しんで、憎んで、殺そうとし、そして侮辱し、辱めて、その外に追い出してしまって、敵対しかないそのような人の為に、命を与える事ができるでしょうか?例えそのような人に命を与えたとしても、感謝すらしません。

その事を考えると、イエズス様がなさったこの苦しみは、本当に信じられないほどの意味を持ってきます。

では、「どれほど」苦しまれたでしょうか?

この忘恩、冒瀆の、お礼をする事さえ知らないような私たち、この罪深い私たちに対して為したのは、一滴血を流された事だけではありませんでした。イエズス・キリストがなさった事は、もうこの皮膚、体中で、傷の無い所が無いほど、全て全身傷だらけで、血だらけの苦しみをお受けになりました。

グリニョン・ド・モンフォールは説明します、「イエズス様は、この五感全てにおいて苦しんだ。この全ての五感は、苦しみの中に沈んでしまった。」

「まずその御目は、侮辱して、馬鹿にして、辱める、その汚い顔を見なければならなかった。そしてその目で、愛する弟子たちが、あるいは愛する者たちが、皆自分を捨てて逃げてしまうのを見なければならなかった。」

「その耳は、嘘の証言や、侮辱の言葉、屈辱の言葉を聞かなければならなかった。邪悪な舌からこの吐き出す汚い言葉や、嘘の讒言、あるいは冒瀆の言葉を聞かなければならなかった。」

「嗅覚では、イエズス様に投げつけられた汚物や、唾や、その他悪臭を放つものを嗅がなければならなかった。」

「イエズス様のその味覚においては、喉が渇いているにもかかわらず、喉の癒しは与えられず、その代わりに苦い酢を与えられた。」

「そして触覚には、皮膚全体においては、茨の冠を被せられたその痛み、あるいは手と足には十字架に付けられたその痛みを感じた。」

これは肉体の痛みですけれども、この心と霊魂においてはもっと、霊的に苦しまれました。霊魂はもっと苦しまれました。なぜかというと、罪を犯す事によって、自分の愛する聖父が侮辱され、屈辱されているからです。なぜならば、罪によって多くの霊魂たちは、天国には行けずに、地獄に落ちなければならないからです。

このイエズス様の苦しみは、苦しんだ時間の長さによっても増長しました。グリニョン・ド・モンフォールは教父たちと一緒に同じように、「イエズス様の苦しみは、御託身のその最初の瞬間から始まった」と言いました。イエズス様は天主であって、天主にとっては時が無いので、イエズス様の苦しみがいつも、御自分の目の前に現存していました。イエズス様の十字架の苦しみは既に、子供の幼年時代からありました。例えばエジプトに逃亡しなければならない時、ヘロデによって迫害された時など、もう既に感じていました。

聖グリニョン・ド・モンフォールは言います、「このイエズス様の苦しまれたその状況だけではなく、どれほどの愛を以てこれを苦しまれたか、という事を考慮すべきだ」と。なぜかというと、この愛がどれほど込められたという事によって、他の人の苦しみと全く区別されるからです。

私たちにはどういう事が起こるでしょうか?もしも苦しみが身に降りかかってきた時、受け身で私たちはそれを受け取ります。もしもそれがあまりにも大きい時に、私たちの体がそれを受け取る事ができなくて、気絶してしまいます。あまりにもきつい打撃を受けた時には、気絶をしてしまって、それを感じるのはちょっと後になってようやくです。

イエズス様は天主ですから、そのような事が起こる事を許さなければなりません。そしてそのような攻撃を与える人に、その攻撃の力を与えなければなりません、同意しなければなりません。ですからイエズス様は、その最初の苦しみの時から、最後のその苦しみの程度まで、全てそれに同意して、それを感じなければなりませんでした。

イエズス様は原罪の無い方ですから、そして原罪の結果から逃れている方ですから、第2のアダムとして最も強い男でした、人間でした。肉体上の力強さも、私たちをはるかに超えていました。この力強さを、1つの目的の為だけに使います。それは、「私たちをはるかに超えた苦しみを、耐え忍ぶ事ができる為」です。

皆さんがもしも、この茨の冠の、茨の1つでも頭にこう突き刺されたとしたら、5分の後にもうそのまま命を失ってしまうでしょう。ところがイエズス様は、その茨のたくさん付いた冠をグイグイと押し付けられて、その痛みは私たちがとても耐え忍ぶ事ができないものでした。

トリノの聖骸布の研究者によれば、「鞭打ちの時に使った道具を使って、もしも私たちがこれと同じ物を打ったら、10回打たれただけでもきっと死んでしまった事だろう」と。しかしイエズス様は何百と打たれました。

そして十字架の釘付けと、重い十字架の担ぎがありました。もしも誰かが、皆さんの手にドン!と釘を刺したとしたら、本当にもうほんのちょっとで皆さんはどうかなってしまいます。イエズス様が担がれた十字架の、重い十字架は、5mも歩いただけでも倒れてしまうでしょう。

イエズス様の苦しまれたほんの小さな苦しみでさえも、この地上での最も力強い、強い人でも耐え忍ぶ事ができないものでした。それをイエズス様は、全て合わせて苦しまれました。それは、皆さんと私の為でした。イエズス様は御神性と、天主の性と一緒になっていたので、それに支えられていたので、人間では普通耐え忍ぶ事ができない事も、終わりまで耐え忍ぶ事ができました。

この苦しみの玄義を黙想する事によって、私たちの心にイエズス様に対する愛が燃え立たなければなりません。アシジの聖フランシスコと共にこう言わなければなりません、「あぁ、私の十字架に付けられた愛よ、あなたの愛は愛されていません!」
パッチの聖マグダレナはこう言っていました、十字架の像のイエズス様に接吻をしながら、「あぁ、あなたの愛はどれほど知られていない事でしょうか。」

この鍵を持って私たちは、イエズス様の聖心の深い所に入って行かなければなりません。そして「イエズス様の為に何かする」という動機付けがなければなりません。「おぉイエズス様、御身は私の為にそれほど苦しまれたので、私の頭痛を捧げる事を許して下さい。」

先ほど喜びの玄義を黙想する事を提案したので、今は苦しみの玄義を黙想するようになさって下さい。ファチマの13日の犠牲として、夕食後小さな講話があります。

聖ピオ五世教皇の勅書「クォー・プリームム」Bulla Quo Primum (1570年7月14日発布)の羅和対訳 Latin - Japanese bilingual

2019年01月23日 | カトリックとは

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

聖ピオ五世教皇の勅書「クォー・プリームム」Bulla Quo Primum (1570年7月14日発布)の羅和対訳をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

PIUS EPISCOPUS  司教ピオ
SERVUS SERVORUM DEI  天主の僕等の下僕は
AD PERPETUAM REI MEMORIAM  永遠の記念の為に
Quo primum tempore ad Apostolatus apicem assumpti fuimus, ad ea libenter animum, viresque nostras intendimus, et cogitationes omnes direximus, quae ad Ecclesiasticum purum retinendum cultum pertinerent, eaque parare, et Deo ipso adjuvante, omni adhibito studio efficere contendimus. まず最初に、余が使徒職の頂点に上げられるや否や、純粋に保たれるべき教会の祭式に関する事に、喜んで余の精神及び力を注ぎ、全ての思考をそれに向けた。そして、実は、それを準備し、且つ、天主御自身に助けられ、全注意を払って完成する様に力を注いだ。
Cumque inter alia sacri Tridentini Concilii decreta, Nobis statuendum esset de sacris libris, Catechismo, Missali et Breviario edendis atque emendandis:  聖なるトレント公会議の他の勅令の中、余は、聖なる書籍、公教要理、ミサ典礼書、聖務日課書の出版及び改定に就いて裁定するべきであった。
Edito jam, Deo ipso annuente, ad populi eruditionem Catechismo, et ad debitas Deo persolvendas laudes Breviario castigato, omnino, ut Breviario Missale responderet, ut congruum est et conveniens (cum unum in Ecclesia Dei psallendi modum, unum Missae celebrandae ritum esse maxime deceat), necesse jam videbatur, ut, quod reliquum in hac parte esset, de ipso nempe Missali edendo, quam primum cogitaremus. 天主御自身のおかげで、既に民衆を博学たらせる為の公教要理を出版し、天主に返済さるべき負債である賛美の為に、聖務日課書を修正した後、聖務日課書にミサ典礼書が答える様にする為、それは、ふさわしく適しているので、(天主の教会において、唯一の詩篇の唱え方、ミサを捧げるべき唯一の挙行法が最高に望ましいので)この部門で残されたもの、つまり、ミサ典礼書それ自身の出版を出来るだけ早く考えるのが、今後必要であると思われた。
Quare eruditis delectis viris onus hoc demandandum duximus: qui quidem, diligenter collatis omnibus cum vetustis Nostrae Vaticanae Bibliothecae, aliisque undique conquisitis, emendatis atque incorruptis codicibus; necnon veterum consultis ac probatorum auctorum scriptis, qui de sacro eorumdem rituum instituto monumenta Nobis reliquerunt, ad pristinam Missale ipsum sanctorum Patrum normam ac ritum restituerunt. その為にこそ、余は、この仕事を選び抜かれた学識豊かな人達に依頼した。彼等は、ミサ典礼書それ自体を、聖なる教父達の以前の規律、及び、挙式法に、注意深く集められた全て(の文書)を以って、即ち、余のヴァチカン図書館の古文書、そして、他の全ての方面から探し求められた、修正された又は改変されていない法文書を以って、更に、我らに同じ彼等の挙式法の聖なる制定に関して記念を残した古い文書、又、信頼のおける著者の文書を参照して復旧した。
Quod recognitum jam et castigatum, matura adhibita consideratione, ut ex hoc instituto, coeptoque labore, fructus omnes percipiant, Romae quam primum imprimi, atque impressum edi mandavimus: nempe ut sacerdotes intelligant, quibus precibus uti, quos ritus, quasve caeremonias in Missarum celebratione retinere posthac debeant. 熟考した後、全ての人々がこの〔典礼〕の制定及び着手された仕事から、結実をとる事が出来るように、余は、この既に認可され、訂正された〔ミサ典礼書〕が出来るだけ早くローマで印刷され出版されるようにと命じた。実に、それは、司祭等が今後ミサの司式に際して、どの祈りを使用し、どの挙行法を、どの儀式を行うべきか理解する為である。
Ut autem a sacrosancta Romana Ecclesia, ceterarum ecclesiarum matre et magistra, tradita ubique amplectantur omnes et observent, ne in posterum perpetuis futuris temporibus in omnibus Christiani orbis Provinciarum Patriarchalibus, Cathedralibus, Collegiatis et Parochialibus, saecularibus, et quorumvis Ordinum, monasteriorum, tam virorum, quam mulierum, etiam militiarum regularibus, ac sine cura Ecclesiis vel Capellis, in quibus Missa conventualis alta voce cum Choro, aut demissa, celebrari juxta Romanae Ecclesiae ritum consuevit vel debet alias quam juxta Missalis a nobis editi formulam decantetur, aut recitetur, etiamsi eaedem Ecclesiae quovis modo exenptae, Apostolicae Sedis indulto, consuetudine, privilegio, etiam juramento, confirmatione Apostolica, vel aliis quibusvis facultatibus munitae sint; nisi ab ipsa prima institutione a Sede Apostolica adprobata, vel consuetudine, quae, vel ipsa institutio super ducentos annos Missarum celebrandarum in eisdem Ecclesiis assidue observata sit: a quibus, ut praefatam celebrandi constitutionem vel consuetudinem nequaquam auferimus; sic si Missale hoc, quod nunc in lucem edi curavimus, iisdem magis placeret, de Episcopi, vel Praelati. Capitulique universi consensu, ut quibusvis non obstantibus, juxta illud Missas celebrare possint, permittimus; ex aliis vero omnibus Ecclesiis praefatis eorumdem Missalium usum tollendo, illaque penitus et omnio rejiciendo, ac huic Missali nostro nuper editio, nihil unquam addendum, detrahendum, aut immutandum esse decernendo, sub indignationis nostrae poena, hac nostra perpetuo valitura constitutione statuimus et ordinamus. 他の諸教会の母にして教師である、神聖にして侵すべからざるローマ教会によって伝えられたものが、あらゆる所で適応され、全ての人がそれを守るように。今後、未来永劫にわたって、全キリスト教世界〔の教会〕において、諸地方の総大主教の教会において、司教座聖堂において、参事会管理聖堂及び教区教会において、在俗及び男女を問わず如何なる修道院・修道会においても、更に、義勇修道会(仮訳)の教会においてさえも、又、「権利或いは習慣によって、ローマ教会の挙式法に従って合唱隊と共に高い声で或いは低い声で修道院のミサが挙行される」(霊魂を導く)責のない教会又は聖堂において、余によって出版されるミサ典礼式の定式による以外が歌われ、或いは唱えられる事の無いように。〔その事は上記の〕同じ諸教会が、使徒座の許可によって、習慣によって、特権によって、例え宣誓によるものであっても、使徒座の批准によって、如何なる方法で特別許可を備えていてもである。但し、その最初の制定時から、使徒座から承認されている場合、或いは習慣によって、つまり、その同じ教会において〔共通のローマ式とは区別される独自の挙行法による〕ミサ聖祭の施行(の制定)が200年以上不断に見られるような場合を除外する。それら〔の教会〕においては、余は、それらの〔ミサの〕制定、或いは習慣を取り除く事は全く無い。同様に、若し、今、余の注意して上梓したこのミサ典礼書の方が、より彼等の気に入るのならば、司教、或いは高位聖職と、全「教会参事会」との同意をもって、どのような反対があろうとも、余は彼等がこの〔ミサ典礼書〕に従ってミサ聖祭を捧げる事が出来るように許可する。他の上記の全ての諸教会に就いては、余は、彼等の同じ〔独自の〕ミサ典礼書の使用を取り上げ、それ〔の使用〕を根本的、全面的に廃止し、最近出版された余のミサ典礼書には、決して何も付け加える事無く、削除する事無く、変更する事が無いように布告し、余の憤慨と言う刑罰の下に、余の永久に有効なこの法令によって規定し命じる。
Mandantes ac districte omnibus et singulis Ecclesiarum praedictarum Patriarchis, Administratoribus, aliisque personis quacumque Ecclesiastica dignitate fulgentibus, etiamsi Sanctae Romanae Ecclesiae Cardinales, aut cujusvis alterius gradus et praeeminentiae fuerint, illis in virtute sanctae obedientiae praecipientes, ut ceteris omnibus rationibus et ritibus ex aliis Missalibus quantumvis vetustis hactenus observari consuetis, in posterum penitus omissis, ac plane rejectis, Missam juxta ritum, modum, ac normam, quae per Missale hoc a Nobis nunc traditur, de antent ac legant; neque in Missae celebratione alias caelemonias, vel preces, quam quae hoc Missali continentur, addere vel recitare praesumant. 厳しく、全ての、そして個々の上記の諸教会の総大主教、管理聖職者、そして他の如何なる教会位階の尊厳を有する人物であれ、更に、彼等が聖なるローマ教会の枢機卿、或いは、如何なる他の卓越した位階であっとしても、彼等に聖なる従順の名において、他の全てのやり方、及び他のミサ典礼書の挙式法が、例え古く、現在に至るまで習慣化していたとしても、それらを今後完全に除き、全面的に廃止する事によって、今、余によって伝えられるこのミサ典礼書による挙式法、やり方、そして法規に則ってミサ聖祭を歌い、又、読誦し、ミサ聖祭の挙行において、このミサ典礼書に掲載されているもの以外の他の儀式、又は祈りを敢えて追加、又は唱える事の無いようにと命じ規定する。
Atque ut hoc ipsum Missale in Missa decantanda, aut recitanda in quibusvis Ecclesiis absque ullo conscientiae scrupulo, aut aliquarum poenarum, sententiarum et censurarum incursu, posthac omnino sequantur, eoque libere et licite uti possint et valeant, auctoritate Apostoloca, tenore praesentium, etiam perpetuo concedimus et indulgemus.  更に、如何なる教会においても歌ミサ聖祭、或いは読誦ミサ聖祭において、如何なる良心の呵責無しに、或いは他の罰、宣言そして非難を全く課される事無く、今後このミサ典礼書それ自体に、全く従うように、そして、それを自由に合法的に使用する事が可能であり適法であるように、使徒継承の権威を以って、しかも永久のこの〔文面〕を以って、余は承認し認可する。
Neve Praesules, Administratores, Canonici, Capellani et alii quocumque nomine nuncupati Presbyteri saeculares, aut cujusvis Ordinis regulares, ad Missam aliter quam a nobis statutum est, celebrandam teneantur: neque ad Missale hoc immutandum a quolibet cogi et compelli, praesentesve litterae ullo unquam tempore revocari, aut moderari possint, sed firmae semper et validae in suo exsistant robore, similiter statuimus et declaramus. Non obstantibus praemissis, ac constitutionibus, et ordinationibus Apostolicis, ac in Provincialibus et Synodalibus Conciliis editis generalibus, vel specialibus constitutionibus, et ordinationibus, nec non Ecclesiarum praedictarum usu, longissima et immemorabili praescriptione, non tamen supra ducento annos, roborato, statutis et consuetudinibus contrariis quibuscumque. 又、高位聖職者、管理職者、教会参事会員、及び他の全ての如何なる呼称で呼ばれる、在俗又は如何なる修道会員の司祭は、余によって命ぜられたものより他のやり方でミサ聖祭を捧げる事が無いように。又、何によってであろうとも(彼等が)このミサ典礼書を変更すべく強いられ、強制される事無く、又この手紙が決していつの時代でも変更されることの無く、却って〔この手紙が〕常に堅固、且つその適応範囲において有効であるように、同じく余は規定し宣言する。〔上記の事は〕以前の決定、及び憲章、更に使徒座の命令、及び地方の、又、司教区の教会会議において出された一般、或いは特別憲章、及び命令、更に同様に、上記の諸教会におけるいとも長期にわたる、そして(記憶に無い程)昔の命令による、しかし200年以上を超えない確認される使用、如何なる種類のそれに反する規定及び習慣にもかかわらず〔適応する〕。
Volumus autem et eadem auctoritate decernimus, ut post hujus nostrae constitutionis, ac Missalis editionem, qui in Romana adsunt Curia Presbyteri post mensem; qui vero intra montes, post tres; et qui ultra montes incolunt, post sex menses, aut cum primum illis Missale hoc venale propositum fuerit, juxta illud Missam decantare, vel legere teneantur. 余は、同じ権威を以って、この憲章及びこのミサ典礼書を出版後、ローマ内にいる司祭は一ヶ月後、アルプスの手前にいる者は三ヶ月後、アルプスを越した所に住む者は六ヶ月後、或いは、このミサ典礼書が彼等に販売されるや否や、これに従って彼等がミサ聖祭を歌い、或いは読誦するようにと望み又規定する。
Quod ut ubique terrarum incorruptum, ac mendis et erroribus purgatum praeservetur, omnibus in nostro et Sanctae Ecclesiae Romanae Domino mediate, vel immeditate subjecto commorantibus impressoribus, sub amissionis librorum, ac centum ducatorum auri Camerae Apostoliae ipso facto applicandorum: aliis vero in quacumque orbis parte consistentibus, sub excommunicationis latae sententiae, et aliis arbitrari nostri poenis, ne sine nostra vel speciali ad id Apostolici Commissarii in eisdem partibus a nobis constituendi, licentia, ac nisi per eumdem Commissarium eidem impresspri Missalis exemplum, ex quo aliorum imprimendorum ab ipso impressore erit accipienda norma, cum Missali in Urbe secundum magnum impressionem impresso collatum fuisse, et concordare, nec in ullo penitus discrepare prius plena fides facta fuerit, imprimere, vel proponere, vel recipere ullo modo audeant, vel praesumant, auctoritate Apostolica et tenore praesentium similibus inhibemus. 地上の至る所で、〔このミサ典礼書が〕変更されず、誤りと誤謬から潔められ守られるように。余の、そして聖なるローマ教会の直接・間接の権威に服する全ての印刷者達に、その書籍の没収及び金貨200ドゥカを使徒座宝庫に支払う事が、その事実自体により適応される事。他の者達に対して、地上の如何なる場所にいる者でも、判事的破門及び他の自由裁量による罰を加える事を以って、余の特別許可、或いは〔上記の〕同じ場所に余によって設置される使徒座委員による特別許可無しに、又同委員により同じ印刷者にミサ典礼書〔が渡され〕、(そのミサ典礼書から同印刷者自身が他の印刷すべき規準を受け取るだろう)規範版に沿ってローマで印刷されたミサ典礼書と照合され、一致し、如何なる所も相違無いと、先ず最高の証明が為されない限り、如何なるやり方にせよ、敢えて、又は、早まって印刷し、生産し、或いは受納する事を、余は使徒座の権威及び、この同様の内容により禁ずる。
Verum, quia difficile esset praesentes litteras ad quaeque Christiani orbis loca deferri, ac primo quoque tempore in omnium notitiam perferri, illas ad Basilicae Principis Apostolorum, ac Cancellariae Apostolicae, et in acie Campi Florae de more publicari et affigi, ac earumdem litterarum exemplis etiam impressis, ac manu alicujus publici tabellionis subscriptis, nec non sigillo personae in dignitate Ecclesiastica constitutae munitis, eamdem prorsus indubitatam fidem ubique gentium et locorum, haberi praecipimus, quae praesentibus haberetur, si ostenderentur vel exhiberentur. 実に、この手紙が、キリスト教世界に至る所に行き渡るのは難しいので、又最初に全員に知られるのは難しいので、この手紙が「使徒等の頭のバジリカ」及び使徒座法務聖省(仮訳)、更に「カンポ・デ・フィオーリ Campo dei Fiori (Campo di Flora, 花畑)」の脇に公示され啓示され、この同じ手紙の印刷された写しには、公証人の手による署名、更に聖会の尊厳ある人物の官印を備え、完全なる疑う余地のない同じ信頼が、民々、所々、至る所で与えられるように余は命ずる。その信頼は示され提示された場合、現に与えられる事になる。
Nulli ergo omnio hominum liceat hanc paginam nostrae permissionis, statuti, ordinationis, mandati, praecepti, concessionis, indulti, declarationis, voluntatis, decreti et inhibitionis infringere, vel ei ausu temeratio contraire. 故に、絶対に誰一人として、余のこの許可、規定、命令、勅令、決定、認可、許可、宣言、意志、政令及び禁止のページに背反し、或いはそれに大胆にも背く事のないように。 
Si quis autem hoc attentare praesumpserit, indignationem omnipotentis Dei, ac beatorum Patri et Pauli Apostolorum ejus se noverit incursurum. もしも、誰かがそれを企てようと敢えてするとしたら、全能の天主〔の憤慨〕及び使徒聖ペトロとパウロの憤激をかうと言う事を覚えよ。
Datum Romae apud S. Petrum, anno Incarnationis Dominicae millesimo quingentesimo septuagesimo, pridie Idus Julii, Pontificatus nostri anno quinto.  ローマにて、聖ペトロの傍らにて、主の御託身より第一千五百七十年目、七月のイドゥス(15日)の前日、余の教皇座の第五年目に与えられる。
CÆSAR GLORIERIUS. 〔副署名〕チェザール・グロリエリウス
H. CUMIN. 以下に記す。
Anno a Nativitate Domini 1570, Indict. 13, die vero 19 mensis Julii, Pontificatus sanctissimi in Christo Patris et D. N. Pii divina providentia Papae V anno ejus quinto, retroscriptae litterae publicatae et affixae fuerunt ad valvas Basilicae Principis Apostolorum, ac Cancellariae Apostolicae, et in acie Campi Florae, ut moris est, per nos Joannem Andream Rogerium et Philibertum Cappuis Cursores.  主の御降誕より第一千五百七十年目の七月十九日に通告する。キリストにおいていとも聖なる父、天主の摂理による、我等の主なる教皇ピオ五世の教皇登位第五年目に、この手紙は慣習通り私達、つまり、執行使ヨハネ・アンドレア・ロジェリオ及びフェリベルト・カプイスにより、「使徒等の頭のバジリカ」の門、聖座法務聖省及びカンポ・デ・フィオーリ Campo dei Fiori (Campo di Flora, 花畑)の脇に公示され啓示された。
SCIPIO DE OCTAVIANIS, Magister Cursorum. シピオ・デ・オクタヴァニス、一級執行使

2016年聖母小黙想会 霊的講話【11】 8月13日 シュテーリン神父様「天主に戻る為の道、マリア様」

2019年01月23日 | お説教・霊的講話
2016年8月13日 聖母黙想会 シュテーリン神父様講話【11】
同時通訳:小野田圭志神父


天主に戻る為の道は、3つの部分に分けられています。その「出発」の部分と、そしてそこを辿る「道」と、そして「到達点」です。

出発点は、私たち自身に対する本当の認識です。
道というのは、マリア様です。
マリア様を通して、イエズス様に到達します。

このマリア様のまことの信心で何度も何度も出てくるのは、「究極の目的は、実は、永遠の知恵であるイエズス様自身である」という事です。

マリア様はいつも、その御子イエズス様へと私たちを辿り着かせてくれます。なぜかというと、マリア様の全生涯と全ての愛は、イエズス様に向かっているからです。マリア様は決して自分だけの為に生きた事はありません。いつもイエズス様の為に生きてきました。マリア様は自分の為の事を思った事がありません。マリア様の御出現を見ると、イエズス様の栄光をのみ求めていた事が分かります。どこにおいてもマリア様は、御子へと私たちを導く愛する母として現れています。

マリア様はファチマで、最後の救いの手段として、ご自分の汚れなき御心をお与え下さいました。マリア様の汚れなき御心とは何でしょうか?

ご自分で説明します、「これは、罪人の避難所、拠り所であって、天主へと導く道である」と。

では、マリア様の汚れなき御心に対する信心の本質とは何でしょうか?御聖体拝領、それから告解です。イエズス様の御生涯の深い神秘を黙想する事、償いの精神。ですから、ファチマの中心はイエズス様です。

ルルドでも、それからグアダルーペでも、マリア様は「小さな御聖堂を建てて欲しい」と望みますけれども、その御聖堂の中心はもちろん、イエズス様の祭壇です。

もしもこの黙想会の時で、「イエズス様に戻る唯一の確実な道がある。それがマリア様だ」と理解できたとしたら、それでこの黙想会の目的は達成されました。「いつも、いつもどのような時代でも、聖人たちはマリア様を通して、自分を聖化してきた。特に終末の時代ではそうだ。」

プロテスタントや近代主義者の人々は、「あぁ、イエズス様に行く為にはマリアは必要ではない」と言うかもしれません。もちろん彼らが言うには、「イエズス様に一致しなければならない。なぜかというと、よく知らないものを愛する事ができないから。でもイエズス様は御自分がどなたかを自分で示して下さったので、イエズス様を知るには十分であって、イエズス様を愛するには十分だ。また聖書を見れば、マリア様についてほとんど書かれていないし。」

私はそれに答えて、「もちろん、イエズス様はその啓示のまさにその中心です。もちろんイエズス様は、私たちを真理へと導く道です。この全ての真理はイエズス様から頂きました。それは本当です、もちろん。でも『知識』と言うには区別があります。」

プロテスタントの人が聖書を読んで、この箇所を誰が、どのような預言者が、どの何章何節、というのを暗記しているかもしれません。しかしイエズス様の仰った、「永遠の命とは、すなわち御身と、御身の遣わし給うたイエズス・キリストを知る事にあります」と言ったこの『知識』とは、単に聖書をその読んだだけの「知識」とは区別されます。

そういうプロテスタントの牧師さんはプロテスタントの人はこう言うかもしれません、「もちろんそうだ。しかしそれは霊が私たちに理解させてくれて、霊が私たちに与えられるので、聖書さえあれば理解できる。」それと同じような事を言っているのは、プロテスタントの人と、カリスマ運動の人です。

もちろん、天主様の深い神秘には、霊が必要です、聖霊が必要です。でもこの聖霊というのはどこで一番よく働くのでしょうか?では聖霊は一体、どこに一番よくその自分を現しになるのでしょうか?

聖霊は、その最初の瞬間から最後まで、自分の道具として一番よく使うものがあります。それは、「インマクラータ」であって、「マリア様」です。ですからこれを見ても、「マリア様を通して初めて、深い理解に、真理の理解に達する」と言います。

またもう1つ別の観点から言えば、この地上でマリア様ほどイエズス様を知っている方が他にどこにいるでしょうか?イエズス様は、マリア様が御自分の長上である事を、目上である事をお望みになりました。イエズス様はマリア様の元に服従する事を御望みでした。お母さんに服従する、従う子供は、お母さんに自分の事を全て言います。もしも誰かに特にそれを何か隠す事があったら、完全に服従したとは言えません。

マリア様はその最初の瞬間から聖寵に満たされたものですから、マリア様はその聖寵の満たされによって、イエズス様の神秘とその聖心の深みまで入る事ができました。このマリア様が持っておられたイエズス様に関する知識は、天使たちの知識を遥かに超えたもので、この知識を、お持ちになっていた知識を皆さんに伝えようと思っています。これが、マリア様が私たちの母になる時になさろうとする事です。

母親の役割というのは、子供の教育・養育という事を昨日の晩見ました。マリア様がイエズス様に関するご自分の持っている知識を私たちに教えたい、というのがマリア様の母の心です。ですからマリア様を通して、イエズス様に関してマリア様が持っている全ての知識を学ぶ事ができます。

もしも私たちの宗教に何らかの点で分からないところが、難しいところがあるとしたら、そしたらマリア様の所に謙遜に行って、「お母さん、永遠の知識を教えて下さい」とお願いするしかありません。そうすると、全ての知識を超越する、それを超える知識を私たちに与えて下さるでしょう。

では私たちがそれによって戻る3つのステップに戻ります。

まず、私たち自身に関する知識。そうすると一体、そのいわゆる「人間の尊厳云々…」というものが何か分かります。

そして第2は、私たちがそれへと向かう道に関するもの。

第3番目の知識は、イエズス様に関する知識です。

最初のこの2つの考察については、「まことの信心」の本の中で主に話しています。

第3の知識、イエズス様に関する知識については、グリニョン・ド・モンフォールは別の本を書いて、『永遠の知恵であるイエズス・キリストへの愛』という本を書きました。私が今度、この聖母黙想会を次回、皆さんの為に開く時には、この本の隣にですね、「永遠の知恵に対する愛」のグリニョン・ド・モンフォールの第2巻、ここに別の本が一緒に日本語である事を夢見ています。

では、イエズス様の知識を深める為に、少しの考察をしてみましょう。グリニョン・ド・モンフォールは、「イエズス様を知る為には、イエズス様に近付いて、イエズス様の方に向かって、イエズス様の事を考えなければならない、黙想しなければならない」と言います。去年イグナチオの霊操をしましたけれども、イエズス様の事を深く知るには、イエズス様の御生涯を黙想しなければなりません。イエズス様が何をなさり、何を仰り、何をなさったか、という事を黙想します。特にイエズス様がどうやって苦しまれたか、という事を黙想します。ですからこれについては特別に言う事はありません。

でも、グリニョン・ド・モンフォールは特別なイエズス様へのアプローチの仕方、近付き方を私たちに教えています。イエズス様の質というのですか、それぞれのイエズス様の仰った言葉、イエズス様のなさった行動、態度、あるいはその苦しみで、特別に目を見張るような質、特質があります。それは何でしょうか?

グリニョン・ド・モンフォールは、その「優しさ」“dulce”とか、その「美しさ」という言葉を使います。この“dulce”元々は「甘い」という意味ですけれども、これは「甘美な」という意味ですけれども、どうやったら訳したら良いでしょうか。これは色んな良い性質が合わさったものです。英語では“gentleness”「優しさ」という風に、あるいは「甘美さ」、でも「甘美」と言うと、ちょっと甘いセンチメンタルな感じがするので、「優しさ」と言ったらどうでしょうか。

とても魅力的で、何か人を惹きつけるものがある、という事が「優しさ」で「甘美さ」です。信仰の真理を黙想する時に、この事に注目する事が非常に大切です。多くの人は誤解して、「カトリックの信仰というのは、教義のシステムだけだ」と考えています。「どういう規則のリストがあって、知恵のあるアドバイスがあって、美しい模範があって、何かの物」であってですね、「質ではない」と思っています。カトリックの宗教というのは、何かそういう「物」とか「事」ではなくて、「私たちの主イエズス・キリストという人柄」なのです。その「御人」なのです。

多くのカトリックの聖伝の人たちは、美しい美的な行為だと思っています。何かフォークロアのちょっと美しいダンスの一部であるかのように誤解しています。あるいは美しい儀式。ですからこの天皇陛下の色々な儀式の儀式典長をやるような、そんな感じがしています。もしもその式典がちょっとこの、本当はやるべきなのにちょっと早くやってしまったとか、何か間違ってしまったとしたら、それで全てが台無しになってしまうと思ってしまいます。

もちろん、ミサ典礼は荘厳な儀式ですけれども、それ以上のものです。つまりその儀式を典礼を生かしているのは、「イエズス様」という、生きている、その天主である人が、人間が、その中に、それを生かしているのです。

ですから、イエズス様に近付く為には、イエズス様の言葉をこう何と仰ったかという事を細かく暗記して、というよりは、あるいはイエズス様の教えについて詳しく言葉を立て述べる、というよりは、もっとイエズス様と私のこの緊密な関係にあるのです。つまり、目と目を合わせて、イエズス様の目と私の目がぴったりと合って、そしてその見つめ合っている。ここにイエズス様を深く知る秘訣があります。

イエズス様の前で御聖櫃の前に跪いて、その事を考えて下さい。イエズス様が皆さんの前にいらっしゃって、イエズス様が愛を込めて皆さんを見つめておられる、その愛の眼差しを見て下さい。「イエズス」という本当の存在、現実のイエズス様の前に立ちはだかって下さい。私が皆さんの前にこういるように、イエズス様も本当にいらしています。

イエズス様を見て、一番こう目を見張るような、何かびっくりするような事は何でしょうか?聖書によると、「イエズス様は他の人とは違って区別がされた。」どんな区別があったのでしょうか?

それは、イエズス様の「優しさ」であって、「柔和さ」であって、イエズス様の魅力です。イエズス様を見ると、人々はもう心が奪われてしまって、「あぁ、」それがもうイエズス様に惹きつけられてしまって、それがイエズス様です。

イエズス様は、福音の中にはよくあるのですけれども、「イエズス様の話を聞きたい」とイエズス様の後を付いて行くと、もうその事で夢中になってしまって、食べる事や眠る事や疲れをコロッと忘れてしまった、という事があります。

パンの増加の奇跡があります。何が起こったのでしょうか?いつもの説教があります。荒地にこう行って説教します。こう歩きながら、あるいはこう場所を変えながら、こう説教をします。そうして荒れ野に行くのです。聖書によると、女性や子供を数えずに、男性だけで5000名付いて来ます。夜も昼も。荒れ野には家もなければコンビニもありません。イエズス様は何と仰るでしょうか、弟子、使徒たちに。「彼らに何か食べ物を与えなさい。もう彼らは3日、何も食べずに私の話を聞いている。」

皆さん、何も食べずに72時間、3日間、荒れ野を歩く事ができますか?イエズス様のその御言葉、イエズス様のその優しい態度、イエズス様のその御説教、イエズス様のこの仕草などに惹かれて、イエズス様の後を付いて、3日間何も食べずに行きました。マグネットのようでした。

では、イエズス様のこの柔和さというものがどういう時によく見えるようになったでしょうか?それは、イエズス様が公生活を始める時に、洗者聖ヨハネがこういう風に宣言します。洗者聖ヨハネは、「私は、来たるべき御方を準備する道であって、その声であって、そのこの世の救い主を待ち望む、準備する者である」と言います。その待ちに待ったその救い主、世の待望していた救い主が現れます。ついに洗者聖ヨハネは皆の前に、「この遂に、救い主はこの方だ」と指し示す事ができて、本当に喜びに満たされて、「さぁ、遂にその時がやって来た!」とあります。

洗者聖ヨハネは皆の前に大きな声で、「見よ、この方を!この方が、栄光の王である!この方が、救い主である!さぁ、この方こそが、皆が待望した、本当のメシアだ!皆、控え控えー!」と言う事ができたはずです。ところが、洗者聖ヨハネの口を通してこう言わせました、「見よ、天主の子羊を。」

子羊をご存知ですか?小さな動物で、こう可愛い動物です。でもとても可愛いので、とても魅力的な動物です。私は夏のキャンプを女の子たちの為にやりました。この女の子たちを山の上に連れて行ったり、博物館に連れて行ったり、本当に興味があるようなものすごい物を見せました。ところでこの女の子は、喜びの声をあげて、「あ!羊ちゃんだ!」「羊ちゃんだ!」と叫び出しました。すると「あー!羊がいるー!」と言って羊の方に走って行って、とても喜んでいました。こう羊が草の上に寝そべったり、こう食べたり、ずっとそれを可愛がって、可愛がって、20分、30分、40分、時間が経ちます。「さぁ、早く次の、歴史的な記念碑である教会があるし、あそこの博物館もあるし、もっと別の歴史的社会的価値のあるものも見せますよ。」「でもそんなのはもういいんです、神父様。羊と一緒にいたい」と言っています。
せっかくこの子たちの為にバスをチャーターして、この予約をして、色んな教会も見せて、色々見せようと思っていたのが、女の子たちは羊の前にずっと座って、「その方が良い」と言うのです。ですからその時に思いました、来年はどこにも行かずに、この私たちの修道院の中でキャンプをして、羊を何匹か連れてきて、それでその一週間のキャンプはその羊を触って終わりにしようと思いました。(-_-;)

この「子羊」としてこの世に、イエズス様が最初に提示されました。イエズス様、その「イエズス」というのはその意味は、優しい意味があります。聖ベルナルドは、イエズス様の聖なる聖名が、どれほど優しい甘美なものか、という事を説明したチャンピオンです。聖グリニョン・ド・モンフォールは、「イエズス様の行動、言葉、全てが優しい」と言っています。

イエズス様がまだ子供の時、赤ちゃんの時には、羊飼いたちが自分の寝ている元に来るように呼びました。この羊飼いたちは、この小さな赤ちゃんを見て、あまりにも美しかったので、もう動く事ができないほどでした、見とれてしまって。東の三人の博士たちも遠くからやって来ました。そこで馬小屋に寝かされていた幼子イエズス様を見るのですけれども、その時にはベッドさえもありませんでした。この子供を見て、博士たちは跪いて礼拝します。

イエズス様は御言葉においてもとても優しい方です。このように優しく語った人は、全人類でかつていませんでした。「一体この知恵はどこから来るのだろう?」と人々は言い合っていました。

イエズス様はその御行動においても優しかったのです。人々は何日でもイエズス様の後を付いて行きました。子供たちが特にそうです。子供たちはイエズス様を見ると、イエズス様の所に抱きついて行きました。ちょうど女の子たちが子羊がいたら、「羊ちゃん!」と言ってその周りを囲んだように、子供たちもイエズス様の前に、「イエズス様!」と言って、こうイエズス様の肩に、ここにも、ここにも、ここにも、子供たちでいっぱいでした。すると使徒たちは本当にびっくりして、「あ!」この子供たちを遠ざけます、「シッシッシ!」するとイエズス様は、そのような使徒たちを怒って、「子供たちを私から離してはいけない。天の国はこのような者の為だ」と言いました。この世の捨てられたような人々、かわいそうな惨めな人々、そういう弱い人々の所にイエズス様はいて、とても優しく取り扱いました。

このイエズス様の優しさが最も光り輝いたのは、罪人に対してそうでした。イエズス様がマリア・マグダレナを回心させた時、どのように優しかったか、という事を去年黙想しました。イエズス様は例えで放蕩息子の話をしました。

イエズス様の事を黙想する時には、その「イエズス様の優しさ」という事をいつも頭に入れて下さい。イエズス様のこの優しさ、それ自体、それを考えて下さい。

イエズス様はこの地上にいる時だけ優しくて、地上にいなくなって天国に行ったら優しくなくなった、という事はありません。天国に行っても優しくあり続けます。王の王、栄光の王であるイエズス様は、だからといって私たちから遠く離れているというわけではありません。最も、イエズス様の日々、今でも続くその優しさは、「御聖体」です。この甘美なホスチア、イエズス様がこんな小さなパンになっておられる、子羊よりももっと小さなパンです。こんなにこの弱々しい、か弱いパンです。風が吹いたら本当にパッと飛んでしまうようなホスチアです。水をかければ溶けてしまうホスチアです。こんなにもう壊れやすい、こんなに小さなホスチアに、イエズス様はなってしまいました。

そのようなイエズス様の優しさを、御聖体拝領の時に考えて下さい。「見て、このイエズス様が、私たちの主が、どれほど甘美であるか、来て味わってみよ。」

聖グリニョンド・モンフォールの最期もそうでした、「イエズス様が優しさでいっぱいだ」と言います。1716年、御説教をしながら聖グリニョンド・モンフォールは亡くなります。4月28日に亡くなります。御説教をしながら倒れてしまいます。教会の中でこうちょっと横たわるように運ばれました。教会は人でいっぱいでした。「グリニョンド・モンフォールはもうこれで亡くなってしまう、死んでしまう」と思われました。と、突然、グリニョンド・モンフォールは立ち上がって、でもこの臨終のこの悶えの苦しみだと知ってしまいました。そしてその臨終の悶えの中で立ち上がって、説教台に戻ります。もう一度、信徒の人々に語りかけます。そして「イエズス様がどれほど甘美であるか」という事を語って、震えながら、イエズス様がどれほど甘美であるかという事を話しました。その聖グリニョンド・モンフォールの熱情と、その確信と、その愛に打たれて、多くの人が回心しました。そしてこれを話し終えると、説教台から倒れてしまって、そして亡くなりました。

では、アドバイスをするのを許して下さい。イエズス様の玄義を、神秘を、どうやって黙想したら良いでしょうか?

もちろん聖イグナチオの黙想会、霊操をするのはとても良いのですけれども、それがいつも毎日やる事はできません。皆さん、ですからその代わりに福音書を、聖書を全部というよりは福音書を開いて、そのイエズス様の御生涯の最初から最後まで、どのところでも良いのでご覧になって下さい。

ルフェーブル大司教様が勧めたやり方は、「イエズス様の御生涯を、典礼暦年と合わせて黙想する」という事です。毎週主日には別の福音書があります。教会の典礼に従って、一年を通して、イエズス様の御誕生からその生涯を、全生涯を黙想するという、教会がやっているリズムに従って黙想する、というやり方です。これはイエズス様の神秘の中に深く入る完璧なやり方です。

そして聖グリニョン・ド・モンフォールは、「マリア様を通して、イエズス様の神秘の中に入るのが良い」と言います。このマリア様を通してイエズス様の玄義に行くには、「ロザリオ」が一番良いのです。ロザリオには15の玄義があります。もちろんイエズス様の全ての玄義が含まれているわけではないのですけれども、最も大切な15玄義であって、天国に行くにはこれで十分です。イエズス様の神秘を深く知り、そのイエズス様の御生涯を深く知るに十分な玄義です。15の玄義には信仰の最も重要な玄義が含まれています。私たちの救霊を確実にする為に必要な全ての玄義が入っています。

ですから私たちは、光の玄義については嫌っています。なぜかというと、ロザリオがそれによって破壊されてしまうからです。マリア様は聖ドミニコに現れて、「15玄義」のロザリオを与えて下さいました。マリア様が与えたのは15玄義であって、20玄義でも50玄義でもありませんでした。「喜び」「苦しみ」そして「栄え」です。

『喜びの玄義』これは何を黙想するかというと、イエズス様のいらっしゃる、私たちの元にいらっしゃる事です。私たちの人生の中心、センターは、人間ではなく、この地上ではなくて、イエズス・キリストである、という事です。

喜びの玄義は、私たちの眼差しを、イエズス様にしっかりと結び付けます。喜びの玄義は、私たちの生きている現代の幻想に対する強力な武器になります。なぜかというと、現代人の中心は人間です。そしてこの地上での小さな天国です。あるいはビジネス、いつも自分の周りだけの、自分の喜びや、自分の楽しみや、お金を考えています。服や、休暇や、バケーションや、車や、あるいは自分の美しい髪の毛や、ファッションや、流行や、でも喜びの玄義は、「いや、違う」と言います。

喜びの玄義は、「この世の中心は、イエズス・キリストにある」と教えます。天からやって来た真の天主、そしてどこにいても、イエズス様が来れば聖化される。例えば、お母さんの胎内にいながらも聖化された、洗者聖ヨハネ。

イエズス様は、単なる教義の文字や、その法律や、ルールではなくて、可愛らしい、愛に満ちた、幼い子供として、生きている人間、真の人となった天主、イエズス様の御生涯は、全てその優しさと、柔和と、甘美さに満ちておられた。

聖アウグスティヌスによると、「キリスト教の核心とはこれである。つまり、天主が人となった。それは人が天主となる事ができるように。」

「この世は、最も深い暗闇の中にいる。幸せもなく、本当の喜びもなく、本当の光もなく。しかし突然、光が現れた。眩しい光が、闇に輝いた。そして真理によって、この闇を満たした。意志は強められ、冷たい私たちの心は愛に温められ、その光は私たちの本当の人生の意味を明らかにしてくれる。この光は私たちを魅惑させる。そして私たち自身も光となるようにさせる。ですから、この世の中心というのは、マリア様を通して来られた真の世の光、イエズス・キリストである。」

もしも、喜びの玄義が私たちの眼差しをイエズス様の方に固定させるとすると、『苦しみの玄義』は、私たちがこの世をどのように歩まねばならないか、その道を教えてくれます。この世に生きる、私たちの守るべき掟は、「自分の十字架をとってイエズスに従え」です。

この私たちがこの世で何をするにも、しなければならない事は、「愛する」という事です。皆さんが何をするにも、台所で料理をするにも、家をお掃除するにも、トイレをきれいにするにも、最も大切なのは、「それを愛を込めてする」という事です。「愛する」という事は「自分を忘れる」という事です、「自分の事を忘れる」という事です。ですから「愛する」という事は、「常に誰かの為に苦しむ」という事です。また「私自身も捧げて、この世の救いの為に苦しむ」という事です。

この地上は、私たちの霊魂を地獄に落とそうとしている、一生懸命になっている悪魔の働く場所でもありますから、私たちはその悪魔と戦わなければなりません。「戦う」という事は、「苦しむ」という事でもあります。「悪に対して戦う」、つまり「苦しみ」が待っています。

原罪の傷の残り、あるいは自分の中にある自己愛を綺麗にしなければなりません。これもやはり「戦い」です。

人生の長きに渡る十字架を担いで行くという事で、落胆したり、失望してはいけません。イエズス様は見本を示したのですから、苦しみの玄義は私たちに、苦しみについて失望したり、がっかりして落胆してしまわない動機を与えてくれます。イエズス様は私たちを愛するが為に苦しみを受けたので、私たちは苦しみの玄義によって、愛する事を学びます。この愛する事を学ぶ事によって、愛の掟、最も大切な掟について学びます。

『栄えの玄義』は、私たちの究極の目的を教えてくれます。この栄えの玄義は、この現代の世界の嘘について、この地上こそが究極の目的であって、この地上の楽しみだけしかない、という嘘についての武器を与えてくれます。栄えの玄義は私たちに、「永遠の命こそが究極の目的である」という事を教えて、「私たちの完璧な満足はそこにある」という事を教えます。

これが、私たちの宗教と他の宗教の違いです。他の宗教は、「死」という問題と直面しています。なぜならば、他の宗教には解決策がないからです。他の宗教は、「死にたくない」と思いますが、しかし私たちは、「永遠に天主を愛したい、というそれへの始まりだ」と思っています。

この「復活」というのは幻想ではありません。イエズス様の真の復活がそれを証明しています。そしてこのイエズス様の凱旋に、私たちは将来与るのです。

これを見ると、この「喜び」、「苦しみ」、「栄え」は、「出発点」であるのと、その「道」と、そしてその「到着点」、3つに対応している事が理解できます。

出発点というのは、イエズス様が私たちの元に来られたという事です。

私たちの目はもっとイエズス様の方に注目します。イエズス様は、その優しさと、柔和さ、甘美さによって、私たちをますます引き寄せます。私たちの道は、イエズス様の十字架の道に参与する事です。日々イエズス様の後を、十字架を担って付いて行く事です。

私たちの究極点は、永遠の命であり、これは栄えの玄義です。

この3つの絵で出来ているこの美術品のようなロザリオは、私たちが間違った道に歩む事がないように守ってくれます。そしてこの3つの段階は全て、マリア様を通して、マリア様によって、黙想します。聖グリニョン・ド・モンフォールは言います、「右手には十字架像、左手にはロザリオ」ロザリオというのは、イエズス様に近寄る全ての方法ですけれども、マリア様を通して近寄る方法です。

今、残念ながら日本語訳でこう皆さんに読んでもらう事ができないので、今回はこの30分の間、読む代わりに、ロザリオの喜びの玄義の5つの玄義を黙想する事を提案します。この10回めでたしを唱えるという事よりは、その玄義を黙想する事にして下さい。声を出すのではなくて、もちろんめでたしをこのメロディーのようにバックグラウンドのように心の中で唱える事はできますけれども、この玄義に注目なさって下さい。あるいは新約聖書の聖ルカの福音の最初の2章を黙想する事ができます。

聖ピオ十世会日本:2019年1月の聖伝のミサ報告 Report on the SSPX Japan Traditional Latin Masses in January 2019

2019年01月20日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今回は、大阪では御聖体降福式と「踏み絵の償いの式」を行いました。
過去の一部の人々によって、私たちの先祖の多くがこれに苦しみました。私たちはその一部の人々に代わって、イエズス・キリストが受けた侮辱と冒涜を償いたいと願っています。
天主の御旗である十字架像や天主の御母の御影が、正当な理由もなく、毎年足踏みにされ続け、天主の御旗である十字架が日本であたかも禁止され続けてきたことを償いたいと思います。
アルファでありオメガである、天地を主宰する歴史の主イエズス・キリストが、私たちのつたない愛と真心と償いの行為を顧みてくださいますように!

私たちが十字架を崇めれば崇めるほど、私たちの主イエズス・キリストは、世界中の人々の心を例外なく動かして、私たちの祖国の日章旗 (日の丸)も旭日旗もを名誉あるものとして下さると信じています。

真の天主であるイエズス・キリストを愛する者こそ、真の愛国者であると確信しています。不幸にしてイエズス・キリストを迫害するものは、残念ながら、自分を傷つけて破壊し、長い歴史の観点で日本の福利を阻止するだけに終わってしまうからです。

東京では、3月に2歳になる赤ちゃんミカエル君が洗礼を受けました。今回初めて聖伝のミサに与る方々もいらっしゃりました。大変うれしく思います!
東京でもミサの後に毎年恒例の「踏み絵の償いの式」を行いました。

次回は大阪では2月1日、2日です。
東京では、2月3日(主日)と4日です。2月3日はシュテーリン神父様が来日されます。多くの愛する兄弟姉妹の皆様がいらっしゃることをお願いいたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】【大阪】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

大阪でのミッションありがとうございました。
13日と、18日、19日の御ミサの報告をお送り致します。

13日主日(聖家族の祝日)のミサには19人が、
18日 ご公現後第一主日の平日のミサには10人、
19日 聖母の土曜日のミサには12に人が御ミサに与るお恵みを頂きました。デオグラチアス!

13日の聖家族の御ミサでは、ワリエ神父様は飛行機の出発のお時間に余裕がなかったにも関わらず、いつものように歌ミサをあげてくださいました。韓国の主日のミサの後に来日下さるという大きな犠牲と愛徳に、感謝いたします。

聖家族が、試練と苦しみの中で、愛徳やすべての徳をつみまれたように、私達の家庭においても一度限りの愛徳ではなく、日常的に、継続的に、忍耐を通して天国へ行くために必要な愛徳を身に付けなければいけないと、お説教を頂きました。

聖家族が天主であり完全な無限の徳をお持ちのイエズス様と、特別な恩寵に溢れていたマリア様、天主の養父に選ばれたヨゼフ様だからと言って、そのご生活が忍耐の無い、安易なものではなかったとお聞きしたときに、30年ほどの聖家族の隠れたご生活を私達はどれほど見習わなければならないかと感じました。

18日(金) ご公現後第一主日が聖家族の祝日に定められてから、その後の平日にこのミサを挙げるように定められたので、大阪ではこの金曜日にご公現後第一主日のミサを挙げることになりました。平日のミサを歌ミサですることは余りないようで、貴重な経験をさせて頂きました。

お説教で、ご公現はイエズス様がご自身が天主である事を公に示されたように、12歳の時、エルザレムの神殿で発見された時も、ヨルダン川で洗礼を受けられた時も、カナの婚宴の時も、ご自分が天主である事を示された事をお聞きしたので、ご公現後の主日のミサ中の福音や固有文に、神殿で見いだされた時や、カナの婚宴の福音の部分などが入っている理由がわかりました。

19日(土)は、聖母の土曜日の歌ミサの後、踏絵への接吻の償いをし、それからご聖体降福式をして頂きました。
お説教では、イエズス様が婚姻と家庭を聖化された事、また聖家族について黙想しました。
聖家族にてとって家庭の中心が天主であるイエズス様であったように、私達も家庭の中心に天主様をおき、30年間聖家族の中でヨゼフ様とマリア様に従われて家庭を聖化されたイエズス様と、勤勉に働き、マリア様とイエズス様を愛されたヨゼフ様と、家長であるヨゼフ様に尊敬をもって従われたマリア様に倣って各々の家庭を小さなベトレヘムとし、私達の家庭も聖化されるよう、マリア様にお祈りしました。

『私達の中心がミサと御聖体であるように』とも、神父様は仰いました。この事を深く黙想したことは、私の家族にとっても大きな慰めとなりました。
御ミサが終わり、口では表す事の出来ない幸福感を味わいながら、私の心に居て下さるイエズス様に感謝の気持ちでいっぱいになりました。
この二日間頂いた全ての恵みをマリア様を通して感謝します。

至聖なるイエズスの聖心我らを憐み給え
聖母の汚れなき御心よ我らのために祈り給え

【報告】【東京】
Dear Fr Onoda:

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 31人(内、子供7人)
女: 31人(内、子供5人)
計: 62人(内、子供12人)

【報告】【東京】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

今日のお説教ありがとうございます。
私は、思い出して味わっているうちに、なぜかわからないけれど、家に帰ったらすぐ雅歌を読みたい、と、思いました。そして、やっぱり雅歌には、ぶどう酒のことがありました。ぶどう酒より まさるもの!と。
天主と人との愛は、ぶどう酒にもまさる味わい・・。
ぶどう酒のとても素晴らしいお話に魅了されたからだと 思いました。
上手く伝えられないのですが、結婚は天主と人との愛の比喩でもあるという表現が、思い出されます。もちろんお話から、伝わってくる結婚の意義とか実際のこととかも、これまで聞いたなかで、いちばんよかったです、だからこそ、雅歌のことを 思い出したのかもしれません。
いつもありがとうございます。

聖マリアの御心のうちに

御公現後第二主日の聖伝のミサ(ラテン語ミサ、旧典礼のミサ、トリエント・ミサ)の固有文のテキストをご紹介いたします。

2019年01月19日 | カトリックとは

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
明日、2019年1月20日御公現後第二主日(二級祝日 緑)のミサの固有文のテキストをご紹介いたします。

ミサ聖祭
本日のミサの<聖福音>は、天主の御子としてイエズスが、光栄をあらわし給うたことを語る。カナの婚筵のときのイエズスの奇蹟は、物質を超越する御力を示すが、しかし、われらは、この奇蹟がまた、聖体の前表であることを認めねばならぬ。

Dominica Secunda post Epiphaniam 御公現後第二主日
II Classis 二級祝日
Ant. ad Introitum. Ps. 65, 4. 入祭文  詩篇 65ノ4
Omnis terra adóret te, Deus, et psallat tibi : psalmum dicat nómini tuo, Altíssime. 天主よ、全地は御身を礼拝し、御身に詩篇を唱えんことを。いと高きものよ、御身の御名に詩をうたわんことを。
Ps. ibid., 1-2. 詩篇 65ノ1-2
Iubiláte Deo, omnis terra, psalmum dícite nómini eius : date glóriam laudi eius. 全地よ、天主に言祝げ、その御名に詩をうたえ。主の誉れに栄光を与えよ。
V/.Glória Patri. V/. 父と子と聖霊とに・・・(栄唱)
Omnis terra adóret te, Deus, et psallat tibi : psalmum dicat nómini tuo, Altíssime. 天主よ、全地は御身を礼拝し、御身に詩篇を唱えんことを。いと高きものよ、御身の御名に詩をうたわんことを。
Oratio. 集祷文
Omnípotens sempitérne Deus, qui cœléstia simul et terréna moderáris : supplicatiónes pópuli tui cleménter exáudi ; et pacem tuam nostris concéde tempóribus. Per Dóminum. 全能永遠の天主よ、御身は天と地とを同時に統治し給うなり、仁慈もて御身の民の懇願を聞きいれ給え、かつ、われらの時代に御身の平和を与え給え。天主として、聖霊との一致において、御身と共に世々に生きかつ治め給うわれらの主、聖子、イエズス・キリストによりて。
Léctio Epístolæ beáti Páuli Apóstoli ad Romános. 使徒聖パウロの、ローマ人への書簡の朗読。
Rom. 12, 6-16. ローマ 12ノ6-16
Fratres : Habéntes donatiónes secúndum grátiam, quæ data est nobis, differéntes : sive prophétiam secúndum ratiónem fídei, sive ministérium in ministrándo, sive qui docet in doctrína, qui exhortátur in exhortándo, qui tríbuit in simplicitáte, qui præest in sollicitúdine, qui miserétur in hilaritáte. Diléctio sine simulatióne. Odiéntes malum, adhæréntes bono : Caritáte fraternitátis ínvicem diligéntes : Honóre ínvicem præveniéntes : Sollicitúdine non pigri : Spíritu fervéntes : Dómino serviéntes : Spe gaudéntes : In tribulatióne patiéntes : Oratióni instántes : Necessitátibus sanctórum communicántes : Hospitalitátem sectántes. Benedícite persequéntibus vos : benedícite, et nolíte maledícere. Gaudére cum gaudéntibus, flere cum fléntibus : Idípsum ínvicem sentiéntes : Non alta sapiéntes, sed humílibus consentiéntes. 兄弟たちよ、私たちが持っている特能は、われわれに与えられた聖寵にしたがって異なっている。或いは信仰の理にしたがって預言[の特能]を、或いは、聖役をなしつつ聖役を、或いは教えにおいて教える者、ありは勧めつつ勧める者、単純に分配する者、熱心において司る者、喜びにいて慈悲を行う者。愛にはいつわりがないように。悪を憎み、善に愛着せよ。兄弟の愛をもって互いに愛しあい、名誉については互いに譲りあい、勤めについてはゆるがせにせず、熱い心をもって、主の奴隷となれ、希望の喜びをもち、患難に耐え、祈りに倦(う)まず、聖徒の不足を補い、旅人をねんごろに扱え。あなたたちを迫害する人を祝福せよ、祝福して呪うな。喜ぶ人とともに喜び、泣く人とともに泣け。互いに心を一つにせよ。高ぶったことを望まず、低いことに甘んじ、自分を智者だと思うな。
Graduale. Ps. 106, 20-21. 昇階誦 詩編 106ノ20,21
Misit Dóminus verbum suum, et sanávit eos : et erípuit eos de intéritu eórum. 主は御言葉を遣わし、彼らを癒し、彼らをその亡びから救い上げ給うた。
V/. Confiteántur Dómino misericórdiæ eius : et mirabília eius fíliis hóminum. V/. 彼らは、主の御慈悲を、そして、人の子らのための主の不思議な御業を主に告白する。
Allelúia, allelúia. V/. Ps. 148, 2. アレルヤ、アレルヤ V/. 詩篇 148ノ2
Laudáte Dóminum, omnes Angeli eius : laudáte eum, omnes virtútes eius. Allelúia. 主の全ての天使たちよ、主をほめたたえよ、主の全ての能天使らよ、主をほめたたえよ、アレルヤ。
+ Sequéntia sancti Evangélii secundum Joánnem. ヨハネによる聖福音の続誦。
Ioann. 2, 1-11. ヨハネ 2ノ1-11
In illo témpore : Núptiæ factæ sunt in Cana Galilǽæ : et erat Mater Iesu ibi. Vocátus est autem et Iesus, et discípuli eius ad núptias. Et deficiénte vino, dicit Mater Iesu ad eum : Vinum non habent. Et dicit ei Iesus : Quid mihi et tibi est, mulier ? nondum venit hora mea. Dicit Mater eius minístris : Quodcúmque díxerit vobis, fácite. Erant autem ibi lapídeæ hýdriæ sex pósitæ secúndum purificatiónem Iudæórum, capiéntes síngulæ metrétas binas vel ternas. Dicit eis Iesus : Implete hýdrias aqua. Et implevérunt eas usque ad summum. Et dicit eis Iesus : Hauríte nunc, et ferte architriclíno. Et tulérunt. Ut autem gustávit architriclínus aquam vinum fáctam, et non sciébat unde esset, minístri autem sciébant, qui háuserant aquam : vocat sponsum architriclínus, et dicit ei : Omnis homo primum bonum vinum ponit : et cum inebriáti fúerint, tunc id, quod detérius est. Tu autem servásti bonum vinum usque adhuc. Hoc fecit inítium signórum Iesus in Cana Galilǽæ : et manifestávit glóriam suam, et credidérunt in eum discípuli eius. そのとき、ガリレアのカナに婚礼があって、イエズスの母はそこにいた。イエズスも、弟子たちとともに婚礼に招かれた。婚礼のぶどう酒が尽きたので、ぶどう酒がもうなかった。それで、母はイエズスに「彼らにはぶどう酒がありません」と言った。イエズスは「婦人よ、私とあなたとに、それがどうしたというのですか。私の時はまだ来ていない」と言い給うた。母は、下僕たちに「何でも彼が言うとおりにしなさい」と言った。そこには、ユダヤ人の潔めのためにそなえられた、三、四斗入りの石がめ六個があった。イエズスは下僕に「石がめに水を満たせ」と仰せられた。それで彼らは口まで満たした。また「では、汲んで、ふるまい頭(がしら)に持って行け」と仰せられたので、持って行った。ふるまい頭は、ぶどう酒になった水をなめて、―彼はそれがどこから来たかを知らなかったが、汲んだ下僕たちは知っていた―新郎(はなむこ)を呼んで言った、「たいていの人は、まず良いぶどう酒を出し、酔いがまわるころに、劣ったものを出すのに、あなたは、良いぶどう酒を今までとどめておいたのですね」。これは最初の奇蹟であった。イエズスは、これをガレリアのカナで行い、その栄光をあらわし給うた。弟子たちは彼を信じた。
Credo 信経
Ant. ad Offertorium. Ps. 65, 1-2 et 16. 奉献文 詩篇 65ノ1,2,16
Iubiláte Deo, univérsa terra : psalmum dícite nómini eius : veníte et audíte, et narrábo vobis, omnes qui timétis Deum, quanta fecit Dóminus ánimæ meæ, allelúia. 全ての地上よ、天主を喜びたたえよ、その御名に詩をうたえ。天主を畏れ奉る全ての者らよ、来て聞けよ、私はおまえたちに、どれほどのことを主が私たちの霊魂のために行い給うたかを語ろう、アレルヤ。
Secreta. 密誦
Oblata, Dómine, múnera sanctífica : nosque a peccatórum nostrórum máculis emúnda. Per Dóminum nostrum. 主よ、捧げられた供え物を聖化し、そしてわれらを我らの罪らのけがれより浄め給え。天主として、聖霊との一致において、御身とともに世々に・・・。
Praefatio de sanctissima Trinitate 三位一体と主日との序誦
Ant. ad Communionem. Ioann. 2, 7, 8, 9 et 10-11. 聖体拝領誦 ヨハネ2ノ7,8,9,10-11
Dicit Dóminus : Implete hýdrias aqua et ferte architriclíno. Cum gustásset architriclínus aquam vinum factam, dicit sponso : Servásti bonum vinum usque adhuc. Hoc signum fecit Iesus primum coram discípulis suis. 主は「石がめに水を満たし、ふるまい頭(がしら)に持って行け」と仰せられた。ふるまい頭は、ぶどう酒になった水をなめて「あなたは、今まで良いぶどう酒を残しておいたのですね」と新郎に言った。イエズスは、弟子たちの前で、この最初の奇蹟を行い給うたのである。
Postcommunio. 聖体拝領後の祈
Augeátur in nobis, quǽsumus, Dómine, tuæ virtútis operatio : ut divínis vegetáti sacraméntis, ad eórum promíssa capiénda, tuo múnere præparémur. Per Dóminum nostrum. 主よ、願わくは、御力を、われらの上に働かせ給え。こうして、主の聖寵に支えられ、神聖な秘蹟に養われたわれらに、約束のものを下し給え。天主として、聖霊との一致において、御身とともに世々に・・・。

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2016年聖母小黙想会 8月14日 シュテーリン神父様 ミサのお説教「聖マキシミリアノ・コルベ神父様に取り次ぎを求める」

2019年01月18日 | お説教・霊的講話
2016年8月14日(主日)聖母黙想会 聖霊降臨後第13主日のミサ
シュテーリン神父説教

同時通訳:小野田圭司神父


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

今日、75年前聖マキシミリアノ・コルベ神父様が殉教した、その今日まさにその日です。

今日から10日前、ちょうど一緒に監獄にいた一人の家族の父親が泣いていて、その飢餓室に行くのを苦しんでいて、「もしも自分が死んでしまったら、この家族はどうして生きていくか分からない!食べさせる事ができない!」と言うその父親の代わりに、自分を差し出したのでした。

そこでコルベ神父様は、他の9人の囚人たちと飢餓室に入れられて、自分たちが死ぬまで、何も食べる物もなく、飲む物も与えられませんでした。こうやって一人の囚人の命を助けたばかりか、一緒に死ぬ事になった9人の他の霊魂たちの永遠の命も救う事になりました。なぜかというと、もしもそうでなければ、この9人たちは絶望と、そして呪いと、恨みの内に死んでいた事でしょうから。

ところで、この飢餓室は、コルベ神父様が入った途端、全くその様相を変えてしまいました。なぜかというと、この部屋ではいつも、マリア様に対する聖歌、マリア様に対するお祈りがいつも満ちていたからです。この最後の飢餓室の殉教という事については、皆さんよく知られていますけれども、しかしこれは単に、コルベ神父様の全生涯の冠であって、最後に成し遂げたその事なのです。

このような行為をする事ができる為には、深い信仰がなければなりません。この深い信仰はまず、両親たちから、そしてカトリックの雰囲気に満たされたその自分の祖国から受け取りました。これは、信仰の真理を彼に教える事ができた健全な公教要理だけの話ではありません。そうではなくて、生ける信仰であって、信仰を生きていた家族のおかげです。

もしも皆さんが、そのような信仰の実りをもたらそうと思うのでしたら、信仰を生なければなりません。生ける信仰というのは、イエズス・キリスト様が、皆さんの家庭に生きておられるという事です。イエズス様がいるという事は、家族にとって、家族がミサの神秘、あるいは典礼の神秘、あるいはイエズス様のその玄義の中に深く入るように、霊魂たちを互いに準備する、という事です。

コルベ神父様が最初から聖人の位の高みに達していて、簡単に聖徳を受けたのではなくて、コルベ神父様が最初に与えられたのは、この深い確信でした。

実はコルベ神父様は、子供の時は本当に難しい聞かん坊で、やんちゃで、もうどうしようも手がつけられないような子供でしたが、そのような子供でも、勇敢に聖徳に向かって進んだので、そのような聖人になれたのです。それは私たちに希望を与えてくれます。

聖人たちというのは、天から降ってくるのではなくて、最初はみんな惨めな罪人です。ですから私たちは誰も、「あぁ、このコルベ神様は特別だ。あぁ私にはとてもできない」等と言う事はできません。なぜかというと、誰もが皆同じ状況に置かれてスタートするからです。マリア様だけを除いて例外として、私たちは皆全て、相応しくなく、資格もなく、惨めな罪人なのです。しかしこの最初に必要なのは、深い確信であって、この深い確信は、私は「生ける信仰」と言います。

たとえ自分が弱くて、天主の十戒を守る事ができなくても、天主の掟を守る事ができなくても、しかし彼は、「しかしこれはしなければならない。これこそが道だ」と知っていました、確信していました。

では、私たちの信仰が深まる為には、どうやってそれを養ったら良いでしょうか?

コルベ神父様はどうしたでしょうか。
まず第1に、コルベ神父様は、絶対的な確信を持っていました。その確信は、「イエズス様が、私たちの心に、そしてカトリック教会に、そして御聖櫃の中に真に在し、現存し給う」という確信です。
第2に、「この人生は非常に短くて、この人生の間には戦わなければならない」と確信していました。この戦いというのは、イエズス様の為の戦いであって、悪魔に敵対する戦いです。
第3に、コルベ神父様は、マリア様が私たちの人生において果たす、非常に極めて高い役割について確信していました。これが理由で私たちは、秋田と、この今も聖母の黙想会をしているのです。深い確信を持って、私たちの心の中に、そして頭の中に、そして精神の中に、それを染み通らせて下さい。

私は皆さんが、聖人である皆さんがここに来ているとは期待していません。もしも皆さんが既に聖人の位の地位に達していたら、ここに来る必要はなかったでしょう。

コルベ神父様がこの確信を持ってやった事は、その第2にやった事は、「この確信を実践に移した」という事です。まず、「やるべき事は何か」という事をよく知り、次に、「自分ではそれができない」という事をよく分かりました。

皆さんも同じ事を思っていると思います。私たちがしなければならない事、美しい聖人たちの模範、その高貴な理想、その私たちがなすべき事に比べると、私自身の持っている絶対的な全面的な無能さ、不可能さを前に、その乖離に驚きます。

このジレンマ、この違いの大きさの前に、私たちの態度は2つしかありません。1つは傲慢、もう1つは謙遜です。

傲慢は、「これは私は同意しない。その事はあり得ない。」そこで、「そんな事はあり得ない。私は自分でこの高みに達する事ができる」と思う事です。あるいは、「あぁ、結局私にはそんな事はできない」と弱気になってしまう、「あぁ、私にはとってもできない。あぁ、もうそんなのは遠いこの誰かの話で、私にはダメだ」と言って、がっかりして、落胆して、絶望してしまう事です。皆さんの生活をよく吟味すると、この2つの極端、このやり方がよくたくさん起こっている事に気付くでしょう。

何度私たちはがっかりして、失望してしまった事でしょうか。何度私たちは怒って、「あぁ、できなかった!何だ!」と自分を叱ったでしょうか。この事をコルベ神父様は、「臭い傲慢」「鼻につく傲慢」と言っていました。

ところが、謙遜の態度はこれとは違っています。この謙遜の態度は、このできないものすごい距離があるのを見て、お母さんに行きます。「マリア様は私たちを助ける事ができる」という確信と、「助けたいと思っている」という確信を持って行きます。

この「マリア様に行く」という態度は、コルベ神父様は10歳の時に持っていました。その時に、コルベ神父様のお母さんはこのコルベ神父様について、「あぁ、こんなに悪い餓鬼はもう子供は、もう将来ヤクザになるか」と心配するほどでした。そこでコルベ神父様は子供の心でマリア様の方に行って、そのマリア様が助けてくれるように、マリア様によって良くなるように、と謙遜にお祈りしました。謙遜というのは、謙遜な祈りなしにはあり得ません。

マリア様はこれにどうやって答えるか知っていますか?マリア様はコルベ神父様の子供の頃に、2つの冠を持って現れました。既にマリア様は、コルベ神父様の後の殉教が起こる、という事を予告していました。コルベ神父様に2つの冠を見せたのは、2つの報いであって、戦いと苦しみの報いです。

この世に幻覚を幻想を持ってはいけません。この世にあるのは「戦い」、そしてあるいは「苦しみ」、この2つだからです。しかしこの戦いと苦しみの後には、栄冠が待っている、「永遠の栄冠」が待っている。

コルベ神父様の答えは寛大でした、「私は2つ欲しい。」

こうやって、天主様は私たちを聖人に作り上げるのです。コルベ神父様が「2つ欲しい」と言った時に、「天主の御旨を果たさなければならない」と知っていました。天主の御旨を果たすという事は、「インマクラータの御旨を果たす」という事です。なぜかというと、無原罪の聖母インマクラータは、天主の御旨をいつも必ず果たすからです。

ですから、自分に信頼する、自分を信じるというよりは、「マリア様を信じ、信頼する」という事です。自分の感情とか、あるいは自分の気まぐれな思いつきや、自分の自己利益に従うのではない、という事です。必ずいつも、マリア様の御旨を求めるという事です。これは従順の徳です。この従順の徳なしに聖人にはなれません。

コルベ神父様は従順が何か知っていました。本当の従順が何か。本当の従順とは、「インマクラータを通して、天主に従順である」という事です。天主、そしてインマクラータの御旨というのは、「掟を守る」という事です。「教会の掟を守る、合法的な長上の明確な命令を果たす」という事です。そして「天主が私たちに与えるその状況に従う」という事です。そして自分のやりたい、自分の意思を全て放棄して、マリア様の御旨を、マリア様のお望みを果たす、という事で、非常に喜んでいました。たとえそれが自分にとって高い支払いをしなければならないとしても。

この事を、「愛」と言います。愛というのは、感情的なこう感傷的なフィーリングではなくて、「天主の御旨を果たす」というところにあります。

コルベ神父様は、現代的な私たちが聖人になる為のプログラムを与えています。75年前の話、まだ私たちの両親が生きている時代の話です。つまり現代の私たちの同時代の人です。難しい時代に生きた人です。こうして、コルベ神父様がどうやって生きたのか、そのどれほどマリア様に祈っていたのか、という事を見ながら、私たち自身のものとして、聖人になる事ができます。

もしも皆さん今日の集祷文をご覧になるなら、集祷文の中には、「私たちの信仰・希望・愛を増やして下さい」とあります。これをマキシミリアノ・コルベ神父の生涯の光を照らして、その角度で見ると、コルベ神父様がそれを求めたのみならず、それを実践したと分かります。

コルベ神父様は力強い取次ぎ者でもあります。コルベ神父様が創立した、聖母の「無原罪の聖母の騎士」の会員である、皆さんは全て会員である、という事を知って、コルベ神様はどれほどお喜びになっている事でしょうか。生ける聖母の、無原罪の聖母の騎士として、皆さんがもっと寛大な心でコルベ神父様に求めるならば、きっと喜んで取り次いで下さる事でしょう。この混乱の中において、信仰がますます深まり、成長するでしょう。インマクラータに対する愛も成長するでしょう。そして私たちも全て、永遠の命の冠を頂く事になるでしょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

2018年12月24日(月) 主の御降誕の前日のミサ説教(大阪) 「私たちに永遠の幸せを与えようとする救い主がすぐ傍に来ている」

2019年01月18日 | お説教・霊的講話
2018年12月24日(月)主の御降誕の前日のミサ(大阪)
小野田神父 説教


聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2018年12月24日、イエズス様の御降誕の祝日の前日のミサをしています。

今日このミサの後に、21時から朝課という、クリスマスの前の聖務日課があります。それから真夜中の12時に、司祭が幼きイエズス様をお連れしてお持ちして、その馬小屋に御乗せします。その後で真夜中のミサが始まります。
「イエズス様が、私たちの救い主がお生まれになった」という喜びのミサです。明日の朝も10時30分からミサがあります。どうぞ小さなお友達が参加して下さると嬉しく思います。


“Hodie scietis.”

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日御降誕の前日のミサをしていますけれども、このミサでは教会は私たちに、何度も何度も、「お前たちは知るだろう。救い主が来る、という事を知るだろう。そして明日は、明日の朝は、その主の栄光を見るだろう」という事を私たちに聞かせています。三度聞かせています。入祭誦の時に、そして昇階誦、それからそれと似たような事を御聖体拝領の時にも言います。それで、教会がそうやって私たちに教えている「主が近い」という事を、私たちも教会の心に合わせて黙想します。

⑴教会はどんなイメージで言っているかというと、その「主が近い」という事は、ちょうど教会の入り口に立っておられる、そのドアを今開こうとしている、というイメージに似せて、それに合わせてミサでは歌われています。

⑵第2に、イエズス様がもうすぐ来られるという事は、マリア様とヨゼフ様の福音での事で語られます。

⑶そこで今日は、この2つの事を考えながら、イエズス様がもうすぐ、すごく近くにおられるのだ、もうすぐお生まれになるのだ、という事を考えながら、遷善の決心をしましょう。私たちはイエズス様を迎える為にどうしたら良いのか。


⑴最初は、教会が私たちに教えているメッセージです、「お前たちは明日、見るだろう、栄光を見るだろう。すぐ知るだろう。救い主が生まれるという事を知るだろう」と言っています。何度も言います。

その言った時に、言ったその直後に、ミサの中では詩篇の23番というものが取られます。詩篇の23番では、同じテーマが繰り返されます。それは、「門よ、さぁ開け。門よ、框を取り上げろ。王様が来る、永遠の王が来る。さぁ早く門を開け」という詩篇なのです。「イエズス様が、救い主が来る」という事を預言した詩篇です。

それと合わせて、「さぁ、救い主が教会の外に立ってノックをしている」というものと、私たちのイメージが重なります。なぜかというと、司祭が入堂してくる時に、私たちが入祭誦でこの事を歌います。また司祭が今度は祭壇の前でいけにえを捧げようとする時、聖変化の前に、パンとブドウ酒を捧げようとする時にも、「さぁ、門よ開け、主がすぐ傍に立っている」という事を歌います。御聖体拝領の時にも、私たちの口を開いてイエズス様を受けようとする時にも、「さぁ、お前たちは主の栄光を見るだろう」と歌っています。

ちょうど私たちは、救い主の来臨を待っている霊魂で、それは花嫁が花婿を待っているかのようです。綺麗に着飾った花嫁は、花婿がお土産や花束を持って、花嫁の家までやって来て、そしてドアをノックして、そして花婿の声を聞くのを待っています。いつかいつか、カレンダーをめくりながら。

その救い主が、私たちを永遠の、「私たちに永遠の幸せを与えようとする救い主がすぐ傍に来ている」という事を教会は歌っています。


⑵第2は、ヨゼフ様とマリア様です。

ヨゼフ様は、「確かに、この来たる、このマリア様の胎内にいらっしゃるこの子供は、聖霊によるものだ」という事を知ります。なぜかというと、天使がそう聖ヨゼフに言うからです、「ヨゼフ、恐れるな。身籠っている子は聖霊によるものだ。彼は諸国を、万民を罪から救う者だ。イエズスと名付けよ。」ヨゼフの心はこれではっきりします。「そうだったのか。」

聖パウロも同じ事を言います。マリア様の御胎内におられるのは、人間の本性としては童貞マリア様の子供ですけれども、「しかし聖性による天主の聖子である。旧約の時代は、この救い主の、生まれる子供、この救い主について語られた。」

ではそのような確信を持って、マリア様とヨゼフ様が今日、宿を探します。ベトレヘムに遂に到着しました。3日間歩いて、3日間苦労して、ローマ皇帝の命令に従って、人口調査の為にダヴィドの街に、ベトレヘムにやって来ました。聖ヨゼフは一生懸命宿屋を探しますけれども、ありません。泊まる所もありません。寒い吹雪の、木枯らしの日でした。夜は早く日は暮れて、真っ暗になりました。しかし泊まる所はありません。

ヨゼフ様とマリア様のお持ちになっていたその信仰、深い信仰を黙想致しましょう。「この御胎内におられる方は、約束された救い主である。」

そしてヨゼフ様もマリア様も、この救い主に対する大きな希望の徳を持っていました。「私たちは、この救い主によって救われる。」

またイエズス様をこの御胎内に、将来イエズスと名付けるべきこの子供に対する愛も持っていました。

それと同時に、この現実は、寒い真冬に行く所もなく、そしてどうしたら良いか分からなくなっていたような時にも、この信頼を持っていました。御摂理に対する信頼を持っていました。御謙遜を持っていました。忍耐と、そして心の平和がありました。きっと私たちでしたら、もうオロオロしてしまって泣いてしまったり、あるいはどうしたら良いか、他の人を恨んだり、あるいは他の人に「何だ!」と言ったかもしれませんが、ヨゼフ様もマリア様も、忍耐強くこれを捧げていました。「イエズス様はこんなに近くに来ておられる」という事を知っていました。


⑶では第3に、私たちは今日イエズス様の御来臨を待ち望みながら、どのような遷善の決心を立てたら良いでしょうか?

私たちはちょうど、私の黙想するには、ちょうどマリア様とヨゼフ様のように、イエズス様と一緒に、「天国」というベトレヘムに行く旅人である、と似ているという事です。私たちも天の国に生まれなければなりません。そこで私たちも天の国の人口調査の為に名前を届け出さなければなりません、「私も、キリスト教信者として登録されています。」天国への道を辿らなければなりません。でも私たちは、イエズス様を連れて行っています。

マリア様とヨゼフ様もそうでしたが、ベトレヘムへの旅路は簡単ではありませんでした。まずお金も無かったし、まず行っても、すぐに受け入れられたわけではなかったし、思い通りにいかない事もたくさんありましたし、寒かったし、あるいは冷たいのは気候だけではなく、天候だけではなく、人の心も冷たかった、という事もあり得る話です。

それでもマリア様とヨゼフ様にとって一番の喜びは、「イエズス様と共にいらした」という事でした。「救い主がもうすぐに来られる」という、愛と希望がありました。イエズス様が、救い主が、天主が、私たちをどれほど愛しておられるか、という事を知っていました。永遠の昔から、私たちの為に救いを約束されていて、それが今実現しようとしている、主の憐れみと、御謙遜と、愛をよく理解していました。ですから聖ヨゼフ様もマリア様も全て、感謝と、讃美と、そして天主への信頼と委託に満ちていました。心の平和に満ちていました。

私たちも、この私たちも、この聖ヨゼフ様とマリア様のその委託と愛に倣う事に致しましょう。永遠の昔から、この世を創った全ての所有者、天と地を満たすその所有者は、永遠の王は、今私たちの心の門を開いて入ろうとしている御方は、全てを知っておられるし、全てを所有しておられるし、全てを支配しておられます。

その方が、とてつもない、計り知れない大きな愛を持って、小さなお友達や皆さんを、永遠の昔から愛しておられます。そして御自分の愛を更にお与えようとされています。

そして今日、今、そのとてつもない御恵みを持って、ドアの前に立っておられます。ノックしています、「さぁ、やって来た。この今晩お前たちの心の中にやって来る。さぁ、門を開け、心の扉を開いてほしい。さぁ、私が生まれるのを、心の中に入るのを許してほしい。天と地の創造主、王の王、お前の花婿がやって来た。永遠の昔からの愛を持って来た。」

どうぞ今日は、イエズス様への愛に満たされて、その御聖体拝領をなさって下さい。

「イエズス様、御身は永遠の昔から私の事を愛して下さっています。永遠の昔から私の善を、最高の善を、最高の喜びを準備して下さっています。永遠の未来に至るまで、永遠の無限の喜びを与えようとして、全てを整えて下さいました。そして今日今晩、その愛を私に示そうとされています。幼子となって、小さなものとなって、私たちの心に生まれようとされます。イエズス様、どうぞ私の心に来て下さい。そして私の拙い愛を受け止めて下さい。イエズス様、私はどれほどイエズス様を罪によって悲しませてきた事でしょうか。イエズス様、どうぞ私の祈りと愛をお受け下さい。」

「マリア様、私がイエズス様をよく受ける事ができるように、助けて下さい。」

「聖ヨゼフ様、私の信仰と、希望と、愛を、ますます強めて下さい。」


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

2018年12月24日(月) 主の御降誕の前日のミサ説教(東京) 「クリスマスを迎える最後の準備」

2019年01月17日 | お説教・霊的講話
2018年12月24日(月)主の御降誕の前日のミサ(東京)
小野田神父 説教


聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。
今日は、イエズス様の御降誕の前日のミサを行なっております。

明日はクリスマス、主の御降誕の大祝日で、夕方の18時からここでミサがあります。その前に17時頃から子供の洗礼式もあります。どうぞお祈り下さい。

来年はここで1月6日、主の御公現の主日にミサがあります。



聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日カトリック教会が、典礼を通して私たちの耳に、「主は来られる。今日お前たちは知るだろう。主が来るという事を知るだろう。そして明日の朝、主の栄光を見るだろう」と何度も言い聞かせます。

そこでその教会の典礼に従って、教会が私たちに典礼を通して示しているイメージを2つ黙想する事を提案します。

⑴1つは、詩篇の23です。この詩編を一緒に、「主が来られる」という事を知る事が重なって、似たような事が3回出てくる、そのそれを黙想致しましょう。

⑵第2に、聖福音とそして聖パウロの言葉に従って、マリア様の事に思いを馳せましょう。

⑶そして最後に私たちは、遷善の決心を、クリスマスを迎える最後の準備を致しましょう。


⑴教会は3回に渡って、つまり入祭誦とそして昇階誦、それから御聖体拝領の時に、「お前たちは今日知るだろう。主が来られるという事を知るだろう。主の栄光を見るだろう。その主の栄光が啓示されるだろう」という事を言っています。「さぁ、主は近い」と言っています。「今日だ。明日はそのそれを見る。」

それと同時に、詩篇の23節が歌われます。それの詩篇の23節の核心は何かというと、それは何度も詩篇の中で現れる言葉なのですけれども、「門よ、扉を開け。永遠の王が入る。さぁ、框を上げよ、永遠の王が入る」と繰り返して歌います。それは3回、あたかも言われるとあります。まず最初は入祭誦の時に、それから奉献の時に、そして御聖体拝領の時に言われるかのようです。

入祭誦の時には、司祭が聖堂に入堂しようとする時ですから、ちょうどイエズス様が私たちの家の前に立って、ドアをノックしているかのようです。「さぁ、永遠の王が入る。」
あたかも、婚宴の準備を整えた花嫁を迎えに、花婿が花嫁の家の前に来て、プレゼントを持って、そして「さぁ、ノックをしようか。」家の前に立っている。私たちは花婿を迎える、イエズス様を迎える、いつ来るか、いつ来るかと、カレンダーをめくりながら、その迎えに来るのを待っている、その喜びの声を聞く、綺麗に準備した花嫁であるかのようです。霊魂であるかのようです。
入祭誦では、イエズス様は教会の門のすぐ傍に立っておられます。「さぁ、」主が来られようとします。

次に、教会は同じく奉献の時に、つまり祭壇のすぐ前で、これからイエズス様が聖変化をするというその直前に、「すぐ、主はすぐ来る」という事を私たちに言います。あたかも祭壇が、今回は主の御降誕の前日は、大きな神秘のドアとなって、主が現れて来られるその直前である事を示すかのようです。

第3は、御聖体拝領の時です、「主の栄光が現れるだろう。」
これもちょうど、私たちが霊魂を開いて、主が来るのを受け入れようとする花嫁であるかのようです。「さぁ、心の、霊魂の扉を開け。永遠の王が入る。心の閉ざしていた框を取り上げろ。上げろ、永遠の王が入る。イエズス・キリストが来られる。私たちの元に生まれ給う、その栄光を見るだろう」と。

こうやって教会は私たちに、「さぁ、花嫁よ。さぁ、霊魂たちよ、主はもう扉のすぐ傍に立っている。さぁ、迎え入れよ、綺麗に準備せよ」と励ましています。


⑵第2は、福音で示されるマリア様とヨゼフ様です。

歴史的な事実によれば、今日ヨゼフ様とマリア様はベトレヘム、ダヴィドの街に、御自分の故郷に、ヨゼフ様の故郷に到着されたはずです。もしかしたらお昼を過ぎていたかもしれません。そして身籠もった妻のマリア様の泊まる所を探していたはずです。

ヨゼフ様は知っていました。夢で天使が確信したからです、「恐れるな、ヨゼフ。この子は聖霊によるものだ。マリアを迎え入れよ。そしてこの子の名は、『イエズス』と呼ばれる。なぜならば、全ての民を罪から救う者であるから。救い主は、私たちの罪を赦す為に来られる。人類は天主の敵であったけれども、罪人であるが、これを赦す為に来られる。天の門を開く為に来られる。」

聖パウロも同じ事を言っています、「旧約の時代に語られた、その預言された約束された者は、実は乙女、人間の本性によっては童貞マリアから生まれ、そしてそれは聖徳によるものである。つまり天主の聖なる者である。」

ですからその事を確信したヨゼフ様は、マリア様と共に、イエズス様がお生まれになる、救い主がお生まれになる場所を探しておられます。

私たちも今日は、マリア様とヨゼフ様の思いに、私たちの思いも一緒に致しましょう。この二人には、来られる、「救い主がすぐ来られる」という事を確信していました。「もうドアの外に立っておられる。人類を愛するが為に来られる、今来ておられる花婿である。花嫁をこれほど愛しておられる、多くの贈り物を持ってやって来られている。」これを確信していました、「すぐそこだ。」

マリア様が、特にヨゼフ様と一緒に、そのベトレヘムに到着して、イエズス様に御子に対して持っておられた信仰、真の天主、真の人であるイエズス・キリストに対する信仰、唯一の救い主、旧約の預言が全て成就されるこの救い主、それ以外には救いがない、という事を知っておられたその信仰。

また、天主が私たちを天国に必ず連れて行って下さる、その約束を決して違える事がない、という希望。

また、私たちのような惨めな者を、全能の天主が、最高の善が、無限の善が、私たちを愛して下さっておられる、私たちに善を施そうとする事のみを考えておられる、という事を思っていました。

マリア様もヨゼフ様も、その心には、謙遜と、そして大きな平和がありました。御忍耐もありました。

寒い冬にご旅行をされたマリア様とヨゼフ様、どれほどお疲れだった事でしょうか。ヨゼフ様が家を、あるいは旅籠屋を訪ねて回って行っても、それを拒否されるその辛さ。あるいはマリア様とヨゼフ様が洞窟で、馬と牛の間で、暖房もなく、全く捨てられた者として、最も捨てられた者として、最も貧しく、道端でどうして良いか分からずに、途方に暮れられておられる。そして遂には、まぐさ桶に救い主が生まれる、という事を甘受される事。

その御謙遜と御忍耐を、私たちも黙想致しましょう。


⑶では今日、私たちはどのような遷善の決心を取れば良いでしょうか?

私の提案するのは、今日の御聖体拝領の時に、是非イエズス様に心を大きく開いて、「イエズス様、私の心に来て下さい。私の心を、主が生まれる宿屋として使って下さい。この心に、私の心に来て下さい」とお祈り致しましょう。そして今日は御聖体拝領をすると、ちょうど皆さんは、私も、マリア様のようになります。イエズス様を運ぶ者となります。

私たちはよく考えてみると、天の国というベトレヘムまで、パンの町まで旅をするマリア様とヨゼフのようではないでしょうか。私たちはキリストの弟子として、キリスト者として、第2のキリストとして、天国に生まれなければならない者ですが、イエズス様はベトレへムで生まれましたけれども、私たちは天国に生まれなければなりません。

その為に、私たちはマリア様のように、イエズス様をいつも心に入れて、ベトレヘムまで天国まで、旅をしなければなりません。

私たちの天国への旅路は、ヨゼフ様やマリア様のように辛いものです。思い通りにいかなかったり、あるいは人々から捨てられたり、あるいは貧しさを忍耐しなければならなかったり、あるいは面白くない事も、不公平も、不正な事も、体験しなければならないかもしれません。ヨゼフ様がマリア様が体験したように。あるいは寒い、寒さや疲労や、疲れもあります。

しかし、マリア様とヨゼフ様にとっての、その力の源は、喜びは、「イエズス様が同伴者であった」という事です。

これは私つい最近知ったのです。ビルコック神父様から教えてもらったのですが、「同伴者」というのは英語で“companion”と言います。この語源は『共にパンを食べる者』だ、cum panis から来たのだそうでう。フランス語では「友達」の事を“copain”と言ます。「一緒にパンを食べる者だ」と。

それで私たちは、「イエズス様」というパンを頂いて、イエズス様という同伴者を持つ者ですから、御聖体拝領を、イエズス様を受ける者ですから、何という素晴らしい同伴者を、天国への同伴者を頂いた事でしょうか。

これを見ると、イエズス様がすぐ、私たちのすぐ近くにおられる、私たちの心の中にもうおられる、もうすぐ隣におられる、という事は分かります。教会が私たちに何度も繰り返すように、そしてマリア様がその事をよく知っているように、イエズス様は、救い主は、全能の天主は、愛は、平和の君は、救い主は、私たちのすぐ隣に、同伴者として待っておられます。

どれほどの愛を私たちは受けている事でしょうか。たとえ辛い事や、たとえ悲しい事が、あるいは何か自分の思い通りにもういかない、屈辱、あるいは失敗、あるいは病気、困難、事故のような事があったとしても、それはその後ろに、愛に満ちたイエズス様がおられる、という事を皆さんぜひ確信なさって下さい。マリア様もヨゼフ様も、それを確信していました。

では、マリア様にヨゼフ様にお祈り致しましょう、「私たちの心をいつも、イエズス様と共にいさせて下さい。マリア様がいつも、この地上での出来事の背後に、主の御摂理を見ていたように、私たちもそれが見る事ができるように助けて下さい。そしてマリア様がいつもイエズス様の事を思っていたように、私たちも思う事ができますように。全ての事において主の愛を、主の愛に満たされている事を、理解する事ができますように。」

そしてそうする事によって明日は、明日のこの18時のミサの時には、私たちの心には、喜びと、愛と、平和に満ちた、素晴らしい御降誕を祝う事ができる、と確信しています。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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