Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

ベネディクト十六世と「ロゴス」と「みことばの種子」

2007年03月30日 | カトリック・ニュースなど

アヴェ・マリア!


 ベネディクト十六世は3月21日の一般謁見で「みことばの種子」とは、聖ユスティノの表現によれば、異教の諸宗教の中にではなく、ギリシア哲学にある、とおっしゃっいました。


教皇ベネディクト十六世の88回目の一般謁見演説

親愛なる兄弟姉妹の皆様。
 この連続講話の中でわたしたちは初代教会の偉大な人びとについて考察しています。今日は哲学者にして殉教者聖ユスチノについてお話しします。・・・


 現存するユスチノの著作は、二つの『弁明』と『ユダヤ人トリュフォンとの対話』のみです。これらの著作の中でユスチノは何よりも、創造とイエス・キリストによってもたらされた救いにおける神の計画を明らかにしようとします。イエス・キリストは「ロゴス」すなわち、永遠のみことば、永遠の理性、創造主である理性です。すべての人は、理性的な被造物である限り、この「ロゴス」にあずかります。こうしてすべての人は自らの内に「種子」をもち、真理のかすかな光をとらえることができます。ロゴスは旧約の中でユダヤ人たちに預言者の姿で示されました。そしてこのロゴスはギリシア哲学の中でも「真理の種子」として部分的に現されます。そこでユスチノは結論づけます。キリスト教は完全な「ロゴス」が歴史において人を通して現されたものです。ですから「あらゆる人びとの間で語られてきた正しいことばは、どれもわたしどもキリスト教徒に属しているのです」(『第二弁明』13・4)。このようにしてユスチノは、ギリシア哲学の矛盾を批判しながらも、あらゆる哲学的真理をはっきりと「ロゴス」へと方向づけます。そのために彼は、合理的な観点に基づいて、真理とキリスト教の普遍性に関する独自の「要求」を根拠づけるのです。像が、像の示す現実に方向づけられるように、旧約はキリストを目指しています。そうであれば、部分が全体との一致を目指すように、ギリシア哲学もキリストと福音に方向づけられています。そしてユスチノはいいます。この旧約とギリシア哲学の二つは、「ロゴス」であるキリストへと導く二つの道です。だからギリシア哲学を福音の真理と対立させてはなりません。またキリスト教徒は、自分の持ち物であるかのように、自信をもってギリシア哲学を用いることができます。・・・


 要するに、ユスチノの生涯と著作は、古代教会が、異教宗教ではなく、哲学すなわち理性をはっきりと選んだことを示します。実際、初期キリスト教徒は、異教宗教とのいかなる妥協も粘り強く拒みました。彼らは「不敬虔」で「無心論者」と非難されることを覚悟の上で、異教宗教を偶像礼拝と考えました。中でもユスチノは特に『第一弁明』で異教宗教とその神話を厳しく批判しました。ユスチノはそれを真理への道からそらす悪魔の姿とみなしたからです。これに対して、哲学は、まさに異教宗教とその誤った神話を批判する点で、異教とユダヤ教とキリスト教が出会うための特別な場となります。そこでユスチノの同時代のもう一人の護教家サルデイスの司教メリトンは、新しい宗教であるキリスト教をはっきりと「わたしたちの哲学」ということができたのです(カイサレイアのエウセビオス『教会史』4・26・7)。


 実際、異教宗教は「ロゴス」の道を歩まず、ギリシア哲学が神話を真理と合致しないと認めたにもかかわらず、神話の道に固執しました。ですから異教宗教の没落は不可避だったのです。それは宗教(すなわち、人間の手で儀礼と慣習としきたりにおとしめられた宗教)を存在の真理から切り離したことから来る当然の帰結でした。ユスチノや他の護教家たちは、異教宗教の偽りの神々ではなく、哲学者の神を認める、キリスト教信仰としてのはっきりとした立場をとりました。彼らは「慣習」に基づく神話ではなく、存在の「真理」を選んだのです。ユスチノから数十年後、テルトゥリアヌスはキリスト教徒のこの同じ選択を簡潔で永遠に有効な次のことばで述べました。「わたしたちの主キリストはご自分を慣習ではなく真理と呼ばれた」(『処女のヴェールについて』:De virginibus velandis 1, 1)。ここでテルトゥリアヌスが異教宗教を指すために用いた「慣習(consuetudo)」ということばは、近代語で「文化的流行」、「時代の流行」といった言い方で訳せるものであることにご注意ください。


 価値観や宗教をめぐる議論における(諸宗教対話にもそれがいえますが)相対主義を特徴とする現代において、これは忘れてならない教訓です。・・・

(カトリック中央協議会 司教協議会秘書室研究企画訳)
(2007.3.22)

* * *

 「教会の宣教活動に関する教令」("Ad Gentes" DECRETUM DE ACTIVITATE MISSIONALI ECCLESIAE)の11番にはこうある。

 

「11(生活と対話によるあかし) 教会はこれらの人間社会に、かれらの中に生活しているか、あるいはかれらのもとに派遣されている教会の子らを通じて、現存しなければならない。すべてのキリスト信者は、自分が生活している場所で、模範的生活とことばのあかしをもって、洗礼に際して身につけた新しい人と、堅信によって強められた聖霊の力を現わさなければならない。そうすることによって他の人々が、彼等のよい行ないを見て、父を賛美し、人間生活の真の意義と人々の交わりの普遍的なきずなとを、よりよく理解するよう努めなければならない。
 かれらがキリストについてのあかしを立派に立てうるためには、尊厳と愛をもってそれらの人々に結ばれ、各自が自分の生活している人間社会の構成員のひとりであることを認め、人間生活の種々の交際と交渉とによって、文化的・社会的生活に参与しなければならない。人々の民族的、かつ宗教的な伝統に精通し、その中に含まれているみことばの種子を、喜びと敬意をもって見いだすように努めなければならない。・・・」


* * *

 第二バチカン公会議は「民族的、かつ宗教的な伝統に精通し、その中に含まれているみことばの種子を、喜びと敬意をもって見いだすように努めなければならない」という。 しかし、「御言葉の種子」とはどこにあるのだろう? ベネディクト十六世は言う。


「ロゴス」すなわち、永遠の天主のみことばである私たちの主イエズス・キリストにである。


 人間は、理性を使って真理を求めるかぎり、真理のかすかな光をとらえることができる。


 ロゴスは旧約の中でユダヤ人たちに預言者の姿で示されました。そしてこのロゴスはギリシア哲学の中でも「真理の種子」として部分的に現された。


 旧約とギリシア哲学の二つは、「ロゴス」であるキリストへと導く二つの道だ。


 異教宗教とその神話は真理への道からそらす悪魔の姿であるが、これに対して、哲学は、まさに異教宗教とその誤った神話を批判する点で、異教とユダヤ教とキリスト教が出会うための特別な場である。


 実際、異教宗教は「ロゴス」の道を歩まず、つまり「御言葉の種子」の道を歩まなかった。それにもかかわらず異教は神話の道、民族的、かつ宗教的な伝統に固執した。そこにはロゴスがない。


 わたしたちの主キリストはご自分を「文化的に皆がやっていること」「時代の流行」「民族的流行」ではなく真理と呼ばれた。


 価値観や宗教をめぐる議論、諸宗教対話において、相対主義を特徴とする現代において、これは忘れてならない教訓である。



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4月の聖伝のミサの予定: Die Welt 紙によると、自発教令の準備は整った

2007年03月30日 | 聖伝のミサの予定

兄弟姉妹の皆様を心から、聖伝のミサにご招待いたします。


アヴェ・マリア!


 ■ 聖伝のミサにようこそ! ■ WELCOME TO THE TRADITIONAL MASS!


 兄弟姉妹の皆様、

 兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサに心から歓迎します! 
(聖伝のミサは、本来なら「ローマ式典礼様式のミサ」と呼ばれるべきですが、第二バチカン公会議以前のミサ、聖ピオ5世のミサ、古いミサ、昔のミサ、旧典礼、ラテン語ミサ、トリエントミサ、トリエント公会議のミサ、伝統的ミサ、伝統ラテン語ミサ、・・・などとも呼ばれています。)


何故なら、聖伝のミサは、聖ピオ5世教皇様の大勅書によって義務化され永久に有効なミサ聖祭だからです。(1570年7月14日聖ピオ5世の大勅令『クォ・プリームム』


■ ドイツの Die Welt 紙によると、ベネディクト十六世教皇様は、聖伝のミサが自由に挙行されるべくモトゥー・プロプリオ(自発教令)の発表を望まれており、その「準備は整った」そうです。

 

(要約)
 ベネディクト十六世は成し遂げた。ルターの国から出た教皇はラテン語のミサを再び許可する。この一歩は教会を変えるだろう。むしろビクビクしている教皇は、巨大な抵抗に反対して決断した。多くの人々は、教皇がそのような軋轢を避けると思った。・・・ ベネディクト十六世は古い典礼を自由化する。教皇はフランスやドイツの枢機卿や司教たちからの反対で影響を受けるのを許さなかった。教皇は古いミサをどこでも自由に捧げることができるようにするだろう。それにはもはや地方司教たちの許可は必要ではない。教皇に何もなければこれは復活節に発表されるだろう。それに伴う全ての司教たちへの手紙もすでに準備されている。これは決定された。ベネディクト十六世は、この典礼をもってカトリック教会自身のスタンダードに戻る。聖伝のミサと1969年の新しいミサとの比較の腕相撲へと道が開かれた。まあ教皇の出身のババリア地方では腕相撲が盛んだが。


Benedikt XVI. hat sich durchgesetzt: Der Papst aus dem Land Luthers wird die lateinische Messe wieder zulassen - Ein begleitender Brief an alle Bischoefe ist schon vorbereitet - Von Paul Badde / Die Welt

Die Wiederzulassung des alten lateinischen Ritus von 1570 durch Benedikt XVI. steht bevor. Fuer eine solche Wende laesst sich in der Geschichte der katholischen Welt kaum ein Beispiel finden. Der Schritt wird die Kirche veraendern. Die souveraene Entscheidung hat der scheue Papst fast im Alleingang auf die Tagesordnung gesetzt, gegen enorme Widerstaende. Auch darum haben viele nicht damit gerechnet, dass er diesem Konflikt nicht auswich, sondern unbeirrt nach seiner Auffassung zu entscheiden suchte - etliche Kardinaele eingeschlossen, die vor zwei Jahren mit Joseph Ratzinger noch einen Uebergangspapst wahlen wollten und zu waehlen glaubten.


Die Sache ist entschieden. Es wird keine Systemwiederherstellung werden, wie man sie sich bei einem abgestuerzten Computer vorstellen kann. Benedikt XVI. gibt der katholischen Liturgie nur ihr Urmeter zurueck, an dem sich fortan auch der vielfach orientierungslos gewordene neue Ritus von 1969 wieder entscheidend neu ausrichten kann. Ein ueberraschend kosmisches Fingerhakeln hat die Entscheidung vorbereitet. Doch Fingerhakeln ist eine bayerische Spezialitaet.


【英訳】


<2007年4月>


【大阪】大阪市東淀川区東中島1-18-5 新大阪丸ビル本館511号(JR新大阪駅の東口より徒歩5分)「聖母の汚れ無き御心巡回聖堂」

3月
30日(金)平日(4級) 大阪 午後5時半
31日(土)平日(4級) 大阪 午前11時


【東京】東京都文京区本駒込1-12-5曙町児童会館1F 「聖なる日本の殉教者巡回聖堂」

3月31日(土)午後6時半 グレゴリオ聖歌に親しむ会(http://sound.jp/gregorio/
     午後8時30分 グレゴリオ聖歌による終課

4月1日(主)午前10時  ロザリオ及び告解
     午前10時半  枝の主日
     午後2時半  十字架の道行き
     午後4時   グレゴリオ聖歌による主日の第二晩課

2日(月)午前7時 聖月曜日

 

 詳しいご案内などは、
http://fsspxjapan.fc2web.com/ordo/ordo2007.html
http://immaculata.web.infoseek.co.jp/manila/manila351.html
http://sspx.jpn.org/schedule_tokyo.htm
 などをご覧下さい。

For the detailed information about the Mass schedule for the year 2007, please visit "FSSPX Japan Mass schedule 2007" at
http://immaculata.web.infoseek.co.jp/tradmass/


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【質問】離離は深刻なことではないか? 聖アウグスティヌスの言葉についてどう思うか。

2007年03月28日 | 質問に答えて

アヴェ・マリア!


【質問】
 離離は深刻なことではないでしょうか? 「正統な真の信仰」を持つことも重要です。しかし聖アウグスティヌスはこう言っています。「教会の外では、救い以外の何でもある。名誉がある、秘跡がある、アレルヤと歌える、アーメンと唱える、福音がある、御父と御子と聖霊の名において信仰を保持し説教できる。しかし、カトリック教会の外では救いはない。」 この言葉についてどう思いますか。


【答え】
 興味深いご質問と問題提起に深く感謝します。
 全く同感です。異端が信仰に背く罪なら、離教は愛徳に背く罪です。聖アウグスティノが言う通りです。聖アウグスティノは、カトリック教会の外では、或る程度は、教会の中にある善が見いだされる、しかしそれらは、カトリック教会の外では救いには役に立たない、と言います。


29. ... Non autem existimo quemquam ita desipere, ut credat ad Ecclesiae pertinere unitatem eum qui non habet caritatem. Sicut ergo Deus unus colitur ignoranter etiam extra Ecclesiam, nec ideo non est ipse, et fides una habetur sine caritate etiam extra Ecclesiam, nec ideo non est ipsa: ita et unus Baptismus habetur ignoranter et sine caritate etiam extra Ecclesiam, nec ideo non est ipse. Unus enim Deus, una fides, unum Baptisma, una incorrupta catholica Ecclesia; non in qua sola unus Deus colitur, sed in qua sola unus Deus pie colitur; nec in qua sola una fides retinetur, sed in qua sola una fides cum caritate retinetur; nec in qua sola unus Baptismus habetur, sed in qua sola unus Baptismus salubriter habetur.


CONTRA CRESCONIUM GRAMMATICUM DONATISTAM
LIBER PRIMUS


 聖ベダは、カトリック教会の外で受けた洗礼は、ノアの方舟の水と同じく、救いの手段ではなくむしろ滅びとなるとさえも言っているのです。


IN PRIMAM EPISTOLAM PETRI.
CAPUT III.

Quod ergo aqua diluvii non salvavit extra arcam positos, sed occidit, sine dubio praefigurabat omnem haereticum, licet habentem [Col. 0060B] baptismatis sacramentum, non aliis, sed ipsis aquis ad inferna mergendum, quibus arca sublevatur ad coelum.


 だからこそ

 ヨハネ・パウロ二世は、『ウト・ウヌム・シント』(1995年5月25日)で、

その他のキリスト教共同体において、これらの(=聖化と真理の)諸要素が見いだされ、キリストの一つの教会はそれらにおいて効果的に現存する

 と言うとき、私たちは過去の教えとの矛盾を感じるのです。


11. ... Indeed, the elements of sanctification and truth present in the other Christian Communities, in a degree which varies from one to the other, constitute the objective basis of the communion, albeit imperfect, which exists between them and the Catholic Church.


To the extent that these elements are found in other Christian Communities, the one Church of Christ is effectively present in them.


 だからこそ、この新しい考えを第二バチカン公会議の「エキュメニズムに関する教令」にも見いだし、私たちは矛盾を感じるのです。 「エキュメニズムに関する教令」は、東方の離教教会についてこう言います。


15「したがって、これらの個々の教会における主の聖体祭儀によって、神の教会が建てられ、成長し、また共同司式によってそれらの教会の交わりが示される。・・・これらの教会は分かれてはいるが、真の秘跡、特に使徒継承の力によって司祭職と聖体を持ち、それらによって今なお緊密にわれわれと結ばれている。」


 また「エキュメニズムに関する教令」の3は、プロテスタント共同体についてもこう言います。


3 「・・・キリストを信仰し、洗礼を正しく受けた人々は、たとえ完全ではなくても、カトリック教会とのある交わりの中に居る。・・・ 信仰によって洗礼において義とされた者は、キリストに合体され、それゆえに正当にキリスト信者の名を受けているのであり、カトリック教会の子らから主における兄弟として当然認められるのである。・・・

 キリスト教の聖なる行事も、われわれから分かれた兄弟のもとで少なからず行なわれている。それらはそれぞれの教会や教団の異なった状態による種々のしかたで、疑いもなく恩恵の生命を実際に生み出すことができ、救いの交わりへの戸を開くにふさわしいものと言うべきものである

 われわれは、これらの分かれた諸教会と諸教団には欠如があると信じるが、けっして救いの秘義における意義と重要性を欠くものではない。なぜならキリストの霊はこれらの教会と教団を救いの手段として使うことを拒否しないからであり、これらの救いの手段の力はカトリック教会にゆだねられた恩恵と真理の充満に由来する。


3. ... For men who believe in Christ and have been truly baptized are in communion with the Catholic Church even though this communion is imperfect. The differences that exist in varying degrees between them and the Catholic Church-whether in doctrine and sometimes in discipline, or concerning the structure of the Church-do indeed create many obstacles, sometimes serious ones, to full ecclesiastical communion. The ecumenical movement is striving to overcome these obstacles. But even in spite of them it remains true that all who have been justified by faith in Baptism are members of Christ's body,(21) and have a right to be called Christian, and so are correctly accepted as brothers by the children of the Catholic Church.(22)...

The brethren divided from us also use many liturgical actions of the Christian religion. These most certainly can truly engender a life of grace in ways that vary according to the condition of each Church or Community. These liturgical actions must be regarded as capable of giving access to the community of salvation.

It follows that the separated Churches(23) and Communities as such, though we believe them to be deficient in some respects, have been by no means deprived of significance and importance in the mystery of salvation. For the Spirit of Christ has not refrained from using them as means of salvation which derive their efficacy from the very fullness of grace and truth entrusted to the Church.

 

 同じ考えは、その他にもあります。
Catechism of the Catholic Church

819 "Furthermore, many elements of sanctification and of truth" are found outside the visible confines of the Catholic Church: "the written Word of God; the life of grace; faith, hope, and charity, with the other interior gifts of the Holy Spirit, as well as visible elements." Christ's Spirit uses these Churches and ecclesial communities as means of salvation, whose power derives from the fullness of grace and truth that Christ has entrusted to the Catholic Church...

 

使徒的勧告 要理教育では、この新しい考えが、公教要理を教える時に教えられなければならないと言います。

APOSTOLIC EXHORTATION CATECHESI TRADENDAE
OF POPE JOHN PAUL II
ON CATECHESIS IN OUR TIME

Ecumenical Dimension of Catechesis

32. ... Catechesis cannot remain aloof from this ecumenical dimension, since all the faithful are called to share, according to their capacity and place in the Church, in the movement towards unity.(83) ...

In this context, it is extremely important to give a correct and fair presentation of the other Churches and ecclesial communities that the Spirit of Christ does not refrain from using as means of salvation; "moreover, some, even very many, of the outstanding elements and endowments which together go to build up and give life to the Church herself, can exist outside the visible boundaries of the Catholic Church."(85)


 ご質問に感謝します。

 

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【質問】第二バチカン公会議はどこが特別なのか

2007年03月27日 | 質問に答えて
アヴェ・マリア!

【質問】
 第二バチカン公会議はどこが特別なのですか。第二バチカン公会議が単なる司牧的公会議だった、とはどういう意味ですか。第二バチカン公会議は、同時に教義的でもあり司牧的だったのではないですか。

【答え】
 第二バチカン公会議は、教皇ヨハネ二十三世によって1962年10月11日に開催され、(ヨハネ二十三世は翌年なくなったので)後継者のパウロ六世が公会議を継続し、1965年12月8日に閉会しました。第二バチカン公会議は、カトリック教会における第21回公会議でした。全教会史の中で参加した司教様(教父)たちの数が最も多く、2000余名を数えます。

 第二バチカン公会議は、信仰に関する問題を定義することを避け、教会生活のために司牧的指針を与えることをその目的としました。そのため不可謬権を行使した教義定義決定をしませんでした。そこで第二バチカン公会議の諸文書は必ずしも不可謬であるとは限りません。公会議を開催した教皇様たちは、公会議中「司牧的」であることを強調しました。


【公会議の通常の目的は?】
 第一バチカン公会議招集の大勅令(Bulla)である「エテルニ・パトリス(Aeterni Patris)」で、ピオ九世は「時代の極めて重大な混乱と私たちの聖なる宗教と市民社会の災難においてとりわけ」公会議が招集され、信仰の教義を定義し、広がる誤謬を排斥し、カトリックの教えを擁護し、教会の規律を保全し高め、人民の弛緩した道徳を強めるために開催されると言っています。特に最初の7つの公会議は、異端の根絶のために開催されましたし、公会議は常にその当時の悪を断罪するために開催されてきました。

(ピオ九世の大勅書のイタリア語訳の一部)
Ne gli stessi Sommi Pontefici tralasciarono, quando lo giudicarono opportuno, in modo particolare nelle gravissime perturbazioni dei tempi e nelle calamita della nostra santissima Religione e della civile societa, di convocare Concilii generali, al fine di confrontare i propri consigli con quelli dei Vescovi di tutto il mondo cattolico: dei Vescovi che "lo Spirito Santo pose a reggere la Chiesa di Dio", cosi che con le forze riunite si adottassero sapientemente e provvidamente tutte quelle disposizioni che possono giovare principalmente a definire i dogmi, a condannare gli sparsi errori, a propugnare, a illustrare e a svolgere la dottrina cattolica, a mantenere e a rafforzare la disciplina ecclesiastica, a correggere i corrotti costumi dei popoli.

【第二バチカン公会議以前には「司牧的」公会議はなかったのか?】

 カトリック教会の全ての公会議は司牧的でした。しかし第二バチカン公会議以前の20の公会議では、教義を定義決定し、誤謬を明らかにし、カトリックの教えを擁護し、規律や道徳の弛緩に対して闘いながら、司牧的であろうとしました。第二バチカン公会議の独特な特徴は、新しいやり方で司牧的であろうとしたことです。つまり、教義定義をすることを拒み・誤謬を排斥することを避けて・カトリックの教えを護教的に提示しないことによって、「司牧的」であろうとしたことです。


【第二バチカン公会議は教義的な公文書を発表しているのではないか】

 第二バチカン公会議は16の文書を発布しました。つまり7つの教令と3つの宣言と4つの憲章です。これらのうち『教会憲章』と『神の啓示に関する教義憲章』は「教義憲章」(Dogmatic constitutions)と呼ばれています。この意味は、教義(ドグマ)に関する内容を取り扱っている憲章という意味で、教義決定をしたという意味でも不可謬であるという意味でもありません。何故なら、第二バチカン公会議は、不可謬のやり方で教義を決定することを避けたからです。

パウロ6世は、第二バチカン公会議数週間後の1966年1月12日に、一般謁見で公会議が不可謬の印を伴うドグマの全ての特別宣言を避けたことをこう説明しています。

公会議は教会の教導職の不可謬権を行使した荘厳な教義決定的な定義を避けましたが、このような公会議が与える教えのもつ権威すなわち神学的資格は何かと疑問に思う人々もあります。その答えを私たちはよく知っています。1964年3月6日の公会議の宣言を思い出しましょう。これは、1964年11月16日にも繰り返されました。すなわち、公会議の司牧的性格を鑑み、公会議は不可謬の印を伴うドグマの全ての特別宣言を避けました。しかし公会議は、通常教権の権威を伴う教えを提供し、それはそれぞれの文章の本性と目的とに合わせて公会議の心にのっとって従順に受け入れられなければなりません。」
DC, 1964, no 1466, col. 420

"There are those who ask what authority, what theological qualification, the Council intended to give to its teachings, knowing that it avoided issuing solemn dogmatic definitions backed by the Church's infallible teaching authority. The answer is known by those who remember the conciliar declaration of March 6, 1964, repeated on November 16, 1964. In view of the pastoral nature of the Council, it avoided proclaiming in an extraordinary manner any dogmas carrying the mark of infallibility but has strengthened its teaching with the authority of the supreme ordinary Magisterium; this ordinary and truly authentic Magisterium must be accepted with docility and sincerity by all faithful, according to the spirit of the Council, concerning the nature and the goal of each document."


● パウロ六世は、第二バチカン公会議議長であったティスラン枢機卿へつぎのように公式通達をし、第二バチカン公会議が、過去すでに宣言され、あるいは定義された(declarata vel definita)教義を、ただ単に示す(exponatur)だけなのだと言う。第二バチカン公会議が荘厳宣言を避け、新しい教義決定もしないと言っています。

「これらの草案を新しくすることで、この公会議の司牧的な性格を大事にしました。信仰に関する確かで不変の教義は、教会の最高教導職によって、そして先立つ数々の公会議、特にトリエント公会議と第1バチカン公会議によって宣言されあるいは定義されました。この教義には忠実に服従しなければならず、また、この教義が現代に相応しいやり方で示され、現代人が容易に真理を抱き入れキリストによって私たちのために与えられた救いが受け入れられるようにされなければなりません。」
(ラテン語原文Acta Synodalia Sacrosancti Concilii oecumenici Vaticani II, Typis polyglottis Vaticanis, Vol. II, Pars I, 1971, p. 11. トマス小野田神父訳)

"When revising the schemas, we were careful to highlight the pastoral character of this Council. It is indeed necessary that the certain and immutable doctrine of the faith, which has been declared or defined by the supreme magisterium of the Church and by the previous Ecumenical Councils, especially the Council of Trent and the First Council of the Vatican, and to which we must faithfully submit ourselves, be exposed in a manner that corresponds to our time, and that today's men have an easier access to the truths which must be embrassed and to the salvation to be received which Christ has obtained for us."
(In Sel de la Terre, n. 35, p.36)


パウロ六世教皇は1975年8月6日の一般謁見でこう言っています。
その他の公会議とは違って、この公会議は直接に教義決定のものではなく、規律と司牧に関するものでした。」
Paul VI, General Audience, August 6, 1975
"Differing from other Councils, this one was not directly dogmatic, but disciplinary and pastoral."


ラッツィンガー枢機卿(当時、現在ベネディクト十六世教皇)は、チリのサンチアゴで、チリの司教評議会に1988年7月13日にこう言っています。

「ルフェーブル大司教に反対して第二バチカン公会議を有効であり[ママ]教会を建設するものとして守ることは必要な仕事です。確かに、第二バチカン公会議を孤立化する狭いメンタリティーがありますが、それがこの反対を挑発したのです。その多くの例があり、それは第二バチカン公会議以後全てが変わってしまった、そして公会議以前のものは全く価値がないか、あるいは良くても第二バチカン公会議の光のもとにしか価値がないという印象を与えています。第二バチカン公会議は、教会の生ける全聖伝の一部としてではなく、単に聖伝の終わりとして、ゼロからの新しい始まりとして取り扱われてきました。真理は、この公会議はいかなる教義をも決定したわけではありません。そして故意に、単なる司牧公会議としての慎ましいレベルに止まることを選んだのです。しかしながら、多くの人々はこれをそれ自身で、その他の全ての(公会議の)重要さを取り除くある種の超教義(スーパードグマ)であるかのように取り扱っています。

Cardinal Ratzinger, Address to the Chilean Episcopal Conference, Il Sabato 1988

"It is a necessary task to defend the Second Vatican Council against Msgr. Lefebvre, as valid, and as binding upon the Church. Certainly there is a mentality of narrow views that isolate Vatican II and which has provoked this opposition. There are many accounts of it which give the impression that, from Vatican II onward, everything has been changed, and that what preceded it has no value or, at best, has value only in the light of Vatican II.

"The Second Vatican Council has not been treated as a part of the entire living Tradition of the Church, but as an end of Tradition, a new start from zero. The truth is that this particular Council defined no dogma at all, and deliberately chose to remain on a modest level, as a merely pastoral council; and yet many treat it as though it had made itself into a sort of superdogma which takes away the importance of all the rest.


【第二バチカン公会議の「司牧性」の特徴とは?】
 カトリック教会の全ての公会議は、その時代時代に応じて、その時代に広がっていた誤謬を断罪・排斥し、その時期に流行の規律の弛緩に対して制裁を与え、教会の敵に反対して警告を与えていました。その「時代に応じて」とは、その時代の悪により良く抵抗したということであって、この世と迎合したという意味ではありません。天主に嘉されるために、その時代にあるこの世の悪と戦って打ち勝ったという意味です。たとえば、聖職売買、腐敗、異端、離教などです。

 しかしヨハネ二十三世は第二バチカン公会議の第1の直接の目的についてこう言いました。
「公会議の第一の直接の目的は、この世に天主の教会を提示することである」(1960年2月14日)

 パウロ六世は、回勅「エクレジアム・スアム」(79)で、教会は悪を断罪するのではなく、この世と対話をすると言っています。

78. Clearly, relationships between the Church and the world can be effective in a great variety of ways. The Church could perhaps justifiably reduce such contacts to a minimum, on the plea that it wishes to isolate itself from secular society. It might content itself with conducting an inquiry into the evils current in secular society, condemning them publicly, and fighting a crusade against them. On the other hand, it might approach secular society with a view to exercising a preponderant influence over it, and subjecting it to a theocratic power; and so on.

But it seems to Us that the sort of relationship for the Church to establish with the world should be more in the nature of a dialogue, though theoretically other methods are not excluded.


【質問】イエズス・キリストが王であるとはどういうことか

2007年03月26日 | 質問に答えて

アヴェ・マリア!


【質問】
 イエズス・キリストが王であるとはどういうことですか。イエズスは「私の国はこの世のものではない」と言ったのではないですか?


【答え】
 イエズス・キリストは、教会の王、キリスト教信者たちの王というだけではなく、全ての人々の王、全人類の王、全ての国家の王です。私たちの主イエズス・キリストは昇天の前にこう言われました。「私には、天と地との一切の権力が与えられている。」(マテオ28:28) イエズス・キリストは全世界の王であり、主の主権から逃れられるものは何一つありません。


【王権の根拠】
 教皇ピオ十一世は、回勅「クアス・プリマスQuas Primas」でイエズス・キリストには二重の王権があるといっています。

(1)イエズス・キリストが天主だから。<天主の御言葉>として見れば、御父と一体であり、既に万物を御父と共有し、全被造物の上に最高絶対の主権を有しておられるから。人たるキリストはその位格的結合によって全被造物の上に権力を獲得されているからから。(キリストの生まれながらの権利)


(2)イエズス・キリストが贖い主だから。(救い主として獲得された権利)


【全人類に及ぶ王権】
 ピオ十一世は、レオ十三世の言葉を引用してこう言います。「キリストの支配権はカトリック信者ばかりでなく、異端によって脇道に逸れたもの、或いは離教によって愛の絆を切って離れた派のものであっても、正しい洗礼によって清められ、法の上から見てやはり教会に属している人々にまで及びます。しかしそれのみならず、その支配権はキリスト信者以外の全ての人々をも包括するものでありますから、全人類がイエズス・キリストの権力のものに」あるのです(回勅「アンヌム・サクルム」1899年5月25日)。


【キリストの王国はこの世からのものではない】
 イエズス・キリストはピラトの前で、ご自分の王国は「この世のものではない」(ヨハネ18:36)と言われました。これは、イエズス・キリストの王国がこの世の起源のものではない、この世からものではないという意味です。主の国は、この地上の王国よりもはるかに優れた本性をもった王国であり、この王国は地上にも力を及ぼしています。イエズス・キリストの王国は、この世のものではないけれども、この世に存在するものです。


【聖書の用語】
 私たちの主イエズス・キリストは言われます。私はこの世のものではない(ヨハネ17:16)、と。 Ego non sum de mundo. ラテン語の前置詞 de は、ギリシア語の ek の訳であり、起源や出発点を現す同じ意味を持っています。
 しかしイエズス・キリストは、聖父によってこの世に送られました。Tu me misisiti in mundum. この前置詞 in はギリシア語の eis の訳で運動の方向と到達点を意味します。
 そしてその同じ言い方で、私たちの主イエズス・キリストは「私の国は、この世のものではない。・・・私は王である。私は真理を証明するために生まれ、そのためにこの世に来た。」 Regnum meum non est de hoc mundo... Rex sum ego. Ego in hoc natus sum, et ad hoc venit in mundum, ut testimonium perhibeam veritati. と言います。


【教父たちの教え】
 聖アウグスチノ、聖ヨハネ・クリゾストモなどの教父たちも(聖トマス・アクィナスは『カテナ・アウレア』で引用している)ヨハネ18:36を、私たちの主イエズス・キリストは「私の国は、ここにはない」ではなく「私の国はここからのものではない Regnum meum non est hinc. 」と言った、従って、主の王国はこの世に力を及ぼしていることを強調しています。


【何故イエズス・キリストはご自分の王国がこの世のものからのものではないと強調したのか】
 何故なら、イエズス・キリストの王国はその当時のユダヤ人たちが考えていたような、ローマ帝国からの独立とかローマの世界支配からの解放といったものではなく、本質的に超自然の王国であり、ローマ帝国の支配を脅かすものではないと言うためでした。イエズス・キリストの王国は、この地上の諸王国と対立する王国の一つではなく、制限も限界も弱さも野心もこえた、永遠の王国であり、地上の全ての王はこの王たるキリストに奉仕し従順たるべく、この世の全ての国々を包括する王国であるからです。


【イエズス・キリストの王国は本質的に精神的・霊的なもの】
 ピオ十一世はこう教えています。
「しかしこの王国は何よりもまず精神的なものであり、精神的な事柄に関する」と。


【イエズス・キリストの王国は、この世のことにも力を及ぼす】
 ピオ十一世はこう言います。
「しかしキリストの王職がそうであるからと言ってこの世の事柄について人たるキリストが何の権威もないと考えるのは大きな誤りです。というのはキリストは御父から被造物に対する絶対の権利を与えられ全ての者を意のままにすることがお出来になるからです。」


【何故イエズス・キリストの社会的王権が大切なのか】
 人間は純粋に霊的な存在ではないからです。ピオ十二世はこう教えています。
「社会に与えられた形が、天主の掟と調和するか否かにより、霊魂たちの善と悪の影響が決定する」と。
RADIOMESSAGGIO DI PENTECOSTE 1941  di S.S. Pio XII
Dalla forma data alla societa, consona o no alle leggi divine, dipende e s'insinua anche il bene o il male nelle anime,

 

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急進的なカトリック週刊誌「ゴリア」によると「ラテン語のミサに関する自発教令はもうすぐ発表される」

2007年03月24日 | カトリック・ニュースなど

アヴェ・マリア!


【参考資料】


フランスの極めて急進的なカトリック週刊誌「ゴリア」のインターネット版のサイトの社説に「ラテン語のミサに関する自発教令(モートゥー・プロプリオ)はもうすぐ発表される」とのことです。祈りましょう。


Le Motu proprio sur la messe en latin bientot disponible

A vos missels St Pie V !
Nos informations concernant la publication imminente du motu proprio qui permettrait un usage beaucoup plus large du rite pre-conciliaire nous donnent a penser qu’elle pourrait avoir lieu avant Paques.

 

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ファチマのメッセージは世界の諸問題に対する解決を与えています

2007年03月24日 | カトリック・ニュースなど

アヴェ・マリア!

兄弟姉妹の皆様

台湾とアメリカの大統領選挙と北京五輪が重なる2008年まであとわずかです。(中共の核ミサイルは24発が日本に向かっているそうです。)


 米中双方は噂の通りに戦争に突入するのでしょうか?? もしそうなったら、米中双方が戦争後世界の主導権を握るのは誰なのでしょうか。


 その時、漁夫の利を得て復活すると思われるロシアなのでしょうか。中東の産油地帯が壊滅し、アメリカが核戦争で大幅に国力が低下したという状況のもとで、ロシアはその圧倒的な核軍事力と、欧州各国に対する原油・天然ガスの供給で欧州各国を支配下に置き、かつてのソ連の衛星国のような属国にするのでしょうか。


ファチマのメッセージは世界の諸問題に対する解決を与えています。


ファチマ・クルーセイダー
「なぜこれが世界平和のための最後のチャンスなのか?」
をお読み下さい。

 


 答は、むしろ、何よりもまずわれわれの心の中に、われわれの家庭の中に、われわれの都市の中に、われわれの国の中に、そして諸国と諸人民の間にキリストの支配、キリストの平和への心の回心を求めそしてそれに向かって働くことです。


「もし私の要求が顧みられるならば、ロシアは回心し、平和が来るでしょう。もしそうでないならば、ロシアは戦争と教会の迫害を引き起こしながら、その誤謬を世界中に広めるでしょう。善い人々は殉教し、教皇は多く苦しみを受け、さまざまの民族が絶滅させられるでしょう。」


 われわれは諸民族の絶滅か、それとも世界平和か、のいずれかを持っています。われわれは教会の迫害について、そして教皇の迫害についての警告を持っています - われわれは何をすることができるでしょうか?


もし私が、人々は地の面から消し去られ得るということを知っているならば、そしてその問題を解決する仕方を知っており、そして私の役割を果たさないならば、そのとき私は責任があります。われわれは皆 - われわれの祈りによって、われわれの犠牲によって、われわれの断食によって、そしてまたメッセージを伝えることによって - 絶滅させられるようになることから諸民族を救うために何かあることをすることができます。


メッセージを伝えることは大したことであるようには見えません。それでも聖母の敵どもが今に至るまで聖母の勝利を妨げることに成功することができたのはファチマのメッセージを沈黙させることを通じてなのです。


ポーランドにおいて1949年に共産主義者たちはポーランドを乗っ取るためにただ二つの条件だけを求めました。
一つの条件は共産主義を公然と非難しないこと、
そしてもう一つの条件は連合政府の内閣において軍と警察の地位を引き継ぐことでした。
これら二つの条件でもって彼らはポーランドを乗っ取ることができました。


同じことが1962年にヴァチカンに求められました。すなわち、ヴァチカンが共産主義を公然と非難しないということです。一つの条件、そしてただ一つの条件:沈黙でした!



愛する兄弟姉妹の皆様、聖なる四旬節をお過ごし下さい。


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聖会の保護者なる聖ヨゼフに向う祈

2007年03月21日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言

アヴェ・マリア!


聖会の保護者なる聖ヨゼフに向う祈

 幸いなるヨゼフよ、われら困難のうちに御身によりすがり、かつ御身のいと尊き浄配の助けを求めたれば、また御身の御保護をも頼もしく願い奉る。御身は天主の聖母なる汚れなき童貞と結ばれたるいつくしみあり、幼きイエズスに尽したる父の愛あれば、またイエズス・キリストが、その御血をもってあがない得たまえる家督を、一層あわれみて顧み、かつすべてわれらの急に迫れる時、助力と救援とを下し給わんことを、伏して願い奉る。

 聖家族のいと忠実なる守護者よ、イエズス・キリストの選ばれたる末を守り給え。慈しみ深き父よ、われらのために、すべての誤りと腐敗との伝染を防ぎ給え。いと強き保護者よ、われらが暗(やみ)の権威と戦うをあわれみて、天より助けをたれ給え、また昔幼きイエズスを、生命の危険より救いし如く、今も公教会を守りて、敵のわなと、すべての困難とを免れしめ給え。かつ常にわれらをことごとく保護し、われらをして御身にならわしめ、御助けによりて、聖なる一生を送り、信心をもって死し、天国の永遠なる福楽にいたることを得しめ給え。アーメン。


     Ad te beate Ioseph, in tribulatione nostra confugimus, atque, implorato Sponsa tua sanctissima auxilio, patrocinium quoque tuum fidenter exposcimus. Per eam, quasumus, qua te cum immaculata Virgine Dei Genitrice coniunxit, caritatem, perque paternum, quo Puerum Iesum amplexus es, amorem, supplices deprecamur, ut ad hereditatem, quam Iesus Christus acquisivit Sanguine suo, benignus respicias, ac necessitatibus nostris tua virtute et ope succurras.

     Tuere, o Custos providentissime divina Familia, Iesu Christi sobolem electam; prohibe a nobis, amantissime Pater, omnem errorum ac corruptelarum luem; propitius nobis, sospitator noster fortissime, in hoc cum potestate tenebrarum certamine e calo adesto; et sicut olim Puerum Iesum e summo eripuisti vita discrimine, ita nunc Ecclesiam sanctam Dei ab hostilibus insidiis atque ab omni adversitate defende: nosque singulos perpetuo tege patrocinio, ut ad tui exemplar et ope tua suffulti, sancte vivere, pie emori, sempiternamque in calis beatitudinem assequi possimus.
Amen.


Prayer to Saint Joseph
(Prescribed by HH. Pope Leo XIII, for the month of October,after the recitation of the Rosary.)

To thee, O blessed Joseph, we fly in our tribulation and after imploring the help of thy holy Spouse, with confidence we ask also for thy intercession. By the affection which united thee to the Immaculate Virgin Mother of God, and by the paternal love with which thou didst embrace the Child Jesus, we beseech thee to look kindly upon the inheritance which Jesus Christ acquired by His precious blood, and with thy powerful aid to help us in our needs.

Protect, most careful guardian of the Holy Family,the chosen people of Jesus Christ. Keep us, loving father, from all pestilence of error and corruption. From thy place in heaven be thou mercifully with us, most powerful protector, in this warfare with the powers of darkness; and, as thou didst once rescue the Child Jesus from imminent danger of death, so now defend the holy Church of God from the snares of the enemy and from all adversity. Guard each of us by thy constant patronage, so that, sustained by thy example and help, we may live a holy life, die a holy death, and obtain the everlasting happiness of heaven. Amen.

(上記は、イギリスで伝統的に使われている英訳)


聖ヨゼフ、我らのために祈り給え!

病める者の希望なる聖ヨゼフ、我らのために祈り給え!
病める者の希望なる聖ヨゼフ、我らのために祈り給え!
病める者の希望なる聖ヨゼフ、我らのために祈り給え!

病人の回復なる聖母マリア、我らのために祈り給え!
病人の回復なる聖母マリア、我らのために祈り給え!
病人の回復なる聖母マリア、我らのために祈り給え!


イギリスが危ない! 兄弟姉妹の皆様のお祈りをお願いします

2007年03月21日 | カトリック・ニュースなど

アヴェ・マリア!


イギリスが危ない! 兄弟姉妹の皆様のお祈りをお願いします。


 イギリスでは、同性愛教育が年端もいかない子供達に押しつけれられようとしています。現在、イギリスで14校が試験的に同性愛教育が施されており、今日3月21日(水曜日)に、法定化される予定です。この法律は「性的志向規則」 Sexual Orientation Regulations (略して SOR) と呼ばれ、審議される余地もないまま慌ただしく議会を通過し、だれも抗議できませんでした。

 この法によると、もしも自分の子供に同性愛について教えることに納得がいかない、ということだけで「人種差別主義者」と同じようなレッテルを貼られることになります。

 イギリスの無防備の子供達のために、兄弟姉妹の皆様の祈りと犠牲をお願い致します。イギリスと世界中の子供達が、貞潔と純潔の教育を受けることができますように!


What The Government Doesn't Want You To Know

Fighting The Homosexual Agenda In The United Kingdom


 【参考資料】

イギリスでは、

-1967年、堕胎を許す法律が通過。以後、700万名の胎児が堕胎された。

-1996年、破綻主義離婚法(No Fault Divorce law どちらかに不貞行為・投獄・アルコール・麻薬中毒・残酷・非人道的扱い・極度の残虐行為などなどの過失がなくても、配偶者の同意や理由がなく、暫く別居していれば離婚申請の理由となる法律)が成立。


-2002年、同性愛カップルに子供の養子縁組を許可する法律が成立。


-2004年、同性愛関係を婚姻関係と同等に見なす法律(CIVIL PARTNERSHIPS ACT)が成立。


-2007年3月21日、Sexual Orientation Regulations  が上院で最終投票がされる。


兄弟姉妹の皆様のお祈りをお願い致します。


これらは将来、日本にも上陸する危険があります。

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インドでのインカルチャレーション

2007年03月21日 | エキュメニズム関連情報

アヴェ・マリア!

インドでのインカルチャレーション

 聖ピオ十世会の司祭で、インドで働いている神父様から幾つか写真を戴いたので、インドのカトリック教会の状況を紹介したい。


まず、インドの現実を知るために、インドの偶像神の数々を紹介する。


アヌマン(Anuman)




ガネシュ(Ganesh)






ヒンドゥー教の神の一つ





リンガム、シヴァ(Shiva)の男根の象徴



パルヴァティ(Parvathi)、シヴァの妻






下級のヒンドゥーの神々




ヒンドゥー教の人々の顔







ヨハネ・パウロ二世教皇様のインカルチャレーションの模範(??)




カトリック教会は、ヒンドゥー儀式(アルティ aarti)とサンスクリット語を導入するかもしれない。(アアルティは、油に灯心を浸して火を付けて神々に捧げるヒンドゥー教の儀式。ヒンドゥー教のほとんど全ての儀式で必ず行われる。)




ディアス枢機卿
(2006年5月20日より福音化聖省長官 Prefect of Evangelization of Peoples, Roman Curia) ガネシュに火を捧げる。


Cardinal Ivan Dias Burns Incense to a Hindu Deity も参照のこと

Bird’s Eye View of the News







司教様は、司祭とともに額にしるしを受ける。 
















 


ヨガのポーズをとるキリストは、蛇にくるまっている。




インドの或る聖堂でのイエズス・キリスト像





フランシス・バルボザ神父は「キリスト」を踊りで表現する。



Fr. Francis Barboza, SVD, performs liturgical steps of a Hindu dance.
With his feminine make-up and postures, he says that through this new form of inculturalization,
he communicates directly with God and preaches Christ to the people.
Lumiere du Monde, November 1983



インドでのインカルチャレーションの結果、ファチマの聖堂でヒンドゥー教の祈りが捧げられる

Pictures of a Desecration
- Photo report of Hindu ritual at Fatima -
John Vennari


2004年5月5日のファチマ聖堂の涜聖




ファチマの聖堂の主任司祭がヒンドゥー教の儀式を受ける


 主よ、我らを憐れみ給え!  聖母の汚れ無き御心よ、我らを憐れみ給え!


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兄弟姉妹の皆様を心から、聖伝のミサにご招待いたします

2007年03月17日 | 聖伝のミサの予定

兄弟姉妹の皆様を心から、聖伝のミサにご招待いたします。


アヴェ・マリア!


 ■ 聖伝のミサにようこそ! ■ WELCOME TO THE TRADITIONAL MASS!


 兄弟姉妹の皆様、


 兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサに心から歓迎します! 


(聖伝のミサは、本来なら「ローマ式典礼様式のミサ」と呼ばれるべきですが、第二バチカン公会議以前のミサ、聖ピオ5世のミサ、古いミサ、昔のミサ、旧典礼、ラテン語ミサ、トリエントミサ、トリエント公会議のミサ、伝統的ミサ、伝統ラテン語ミサ、・・・などとも呼ばれています。)


何故なら、
聖伝のミサは、聖ピオ5世教皇様の大勅書によって義務化され永久に有効なミサ聖祭だからです。


「余によって命ぜられたものより他のやり方でミサ聖祭を捧げる事が無いように。又、何によってであろうともこのミサ典礼書を変更すべく強いられ、強制される事無く、又この手紙が決していつの時代でも変更されることの無く、却って〔この手紙が〕常に堅固、且つその適応範囲において有効であるように、同じく余は規定し宣言する。」


「・・・ 故に、絶対に誰一人として、余のこの許可、規定、命令、勅令、決定、認可、許可、宣言、意志、政令及び禁止のページに背反し、或いはそれに大胆にも背く事のないように。もしも、誰かがそれを企てようと敢えてするとしたら、全能の天主〔の憤慨〕及び使徒聖ペトロとパウロの憤激をかうと言う事を覚えよ。」

(1570年7月14日聖ピオ5世の大勅令『クォ・プリームム』)
http://fsspxjapan.fc2web.com/pro_missae/dqpt1.html


■ バチカンは聖ピオ十世会の破門について述べたことはないから
http://immaculata.web.infoseek.co.jp/manila/manila244.html


■ 6名の司教の「自動破門」は、カトリック教会法典の他の条項を無視しているので、同じカトリック教会法典(1323条の4)によればいわゆる「自動破門」は成立せず、従って無効であるから

http://immaculata.web.infoseek.co.jp/manila/manila252.html


■ ルフェーブル大司教は、カトリック教会の緊急状態に迫られて司教聖別を行わなければならない良心上の義務があったから


 教会の危機という緊急状態のために、善意で司教聖別を執行した場合、カトリック教会法典で罰を受けることはできないから。

http://www.ihlisoft.de/cgi-bin/dbman.cgi?db=ciclat&uid=
&view_records=1&Canon=1323&Text=&view_records=Suche&bool=and


■ カトリック教会法典によれば「教皇許可無しの司教聖別」は、すなわち「離教行為」ではないから


 カトリック教会法典によれば、「教皇許可無しの司教聖別」は、カトリック教会法典の第2部「刑罰の部」の第3項「教会の権能の横領とその執行における犯罪」に含まれるものであり、「離教行為」であるとは想定されていないから。
 http://www.codex-iuris-canonici.de/liber6.htm#0101

 

<2007年3月>

 

【大阪】大阪市東淀川区東中島1-18-5 新大阪丸ビル本館511号(JR新大阪駅の東口より徒歩5分)「聖母の汚れ無き御心巡回聖堂」

16日(金)平日(4級) 大阪 午後5時半
17日(土)平日(4級) 大阪 午前11時


30日(金)平日(4級) 大阪 午後5時半
31日(土)平日(4級) 大阪 午前11時


【東京】東京都文京区本駒込1-12-5曙町児童会館1F 「聖なる日本の殉教者巡回聖堂」


17日(土)午後6時半 グレゴリオ聖歌に親しむ会(http://sound.jp/gregorio/
     午後8時30分 グレゴリオ聖歌による終課
18日(主)午前10時  ロザリオ及び告解
午前10時半  四旬節第四主日(1級)バラ色或いは紫
     午後1時半  映画「ドンボスコ(後編)」の鑑賞(3時半頃まで)
     午後4時   グレゴリオ聖歌による主日の第二晩課
19日(月)午前7時 童貞聖マリアの浄配証聖者聖ヨゼフ(1級祝日)白
20日(火)午前7時 平日(4級)

 


2007年の年間予定表は、
http://fsspxjapan.fc2web.com/ordo/ordo2007.html
をご覧下さい。


 詳しいご案内などは、
http://fsspxjapan.fc2web.com/2.html
http://immaculata.web.infoseek.co.jp/manila/manila351.html
http://sspx.jpn.org/schedule_tokyo.htm

 などをご覧下さい。

 

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教皇ベネディクト16世の使徒的勧告「サクラメントゥム・カリターティス」

2007年03月14日 | カトリック・ニュースなど

アヴェ・マリア!


教皇ベネディクト16世の使徒的勧告「サクラメントゥム・カリターティス」が、13日、発表された。


詳しくは「サクラメントゥム・カリタス(ママ)」教皇の使徒的勧告発表(2007.3.13)


英文のニュース
Vatican releases “Sacramentum Caritatis” with press conference


【ラテン語】
http://www.vatican.va/holy_father/benedict_xvi/apost_exhortations/documents/hf_ben-xvi_exh_20070222_sacramentum-caritatis_lt.html


【英語】
http://www.vatican.va/holy_father/benedict_xvi/apost_exhortations/documents/hf_ben-xvi_exh_20070222_sacramentum-caritatis_en.html




ついでにニュースとして、「マグダレナのマリアの墓」とされるものはマリアメとマラという二人の女性のもの。「イエズスの墓」の説はウソ。
http://www.uhl.ac/MariameAndMartha/



 

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聖アタナジオと教皇リベリオ

2007年03月14日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア!


 金田さんが疑問点等を呈示してくれている。


 願わくは、聖霊来り給え、信者の心に充ち給え。主の愛熱の火をわれらに燃えしめ給え。原罪なくして宿り給いし聖マリア、御身に依り頼み奉るわれらのために祈り給え。聖ヨゼフ、我らのために祈り給え! 聖ピオ十世、我らのために祈り給え! 守護の天使、保護の聖人、我らを導き給え!

 


【引用】
●「おそらく私が聖ピオ十世会で出くわした最も共通の主張と言えば、教皇リベリウス(352-366在位)は異端的で、アーリア主義に共感し、誤って聖アタナシウスを破門した、というものだ。この理由から、教皇リベリウスは教会の歴史上聖人とされていない初めての教皇になった、と聖ピオ十世会は主張している。もちろん、このアナロジーで、聖ピオ十世会はルフェーブルは現代の聖アタナシウスであり、ヨハネ・パウロ2世は現代の教皇リベリウスだと思っている。

彼らは論じる。一度生じたことは再び生じることがあると。しかしながら、主が私にむしろ驚くべき仕方で示したように、そのような主張はカトリックの伝統においてたいした基礎を持たない。

聖ピオ十世会のこの状況に適用された主張が真であると確信して、カトリック教義に関するディンツィンガーの資料集を読んでいて、私はディンツィンガーが教皇リベリウスを「聖リベリウス」としてリストしていることに気づいた。驚いたと言っても控えめな表現になるだろう。十分皮肉なことに、聖ピオ十世会は、のちの全ての版を疑わしいものとしていたので、彼らから買って私が読んでいたディンツィンガーはその特定の版だったのだ。しかし、ディンツィンガーのこの箇所は、聖ピオ十世会の私の地方の聖職者から説教されたことと明らかに一致しなかった。それで、私はこのリストはおそらくタイプ間違いであると読み流し、読書を続けた。

ほんの10ページほど先で、聖アナスタシウスによって書かれた「教皇リベリウスの正統性」と副題のついた教皇書簡に出会った。そこで教皇聖アナスタシウスは明白に語っている。「アフリカの異端的党派(アーリア主義)は、詐欺を弄してその低俗な教えを広めることが出来なかった。なぜなら、私が信じるように、中傷を成す人々のひどい冒涜に屈しない聖であり傷のない信仰、聖人らが憩う場所にいまいる聖なる人々と司教たちによってニケア会議で論議され守られた信仰をわが神が守ったからだ(13版93を見よ)。

ここまではよい。神は明白に、聖なる人々による行動と祈りによって教会をアーリア主義から守った。しかし、これらの聖なる人々とは誰で、教皇リベリウスとの関係はどのようなものか? 私は驚愕した。教皇聖アナスタシウスはこの問いに次の文章でかような形で答えていた。「この信仰のために、当時追放にも喜んで耐えた聖なる司教として尊敬された者、それはリベリウス、ローマ教会の司教である」

私はこの教皇の答えに打たれた。というのも、明らかにここには矛盾があるからだ。私はルフェーブル大司教と彼の支持者をカトリックの伝統からの正統的な教えとして信ずべきか? あるいは教皇文書「Dat mihi plurimum」におけるアナスタシウスの教え――聖人であり、教皇であり、アーリア主義の異端が生じた時代に非常に近い筆者の主張――を信ずべきか? 聖ピオ十世会の私の地方司祭はこの困惑に対する適切な解決を与えられなかった。私ができたのは、カトリックの伝統の正統な声として、教皇聖アナスタシウスの主張を受け入れることだけだった。」

 


【コメント】

■ Vere の言わんとすることは分かる。もし私の理解が正しければ、要するに、教皇リベリオは聖人だ、ということだ。教皇リベリオを聖人と見なさない聖ピオ十世会は間違っている、ということだろう。

 ご存じない方のために、一言説明したい。イエズス・キリストが天主であるということ(天主性)を否定するアリウス派からのプレッシャーを受けて、教皇リベリオ(リベリウス)は、正統カトリック信仰を極めて力強く擁護していた聖アタナジオ(聖アタナシウス)を破門し、曖昧な信仰宣言にサインした(357年)。因みに「アーリア主義」と訳されているのは、アリウス派の異端のことだ。


DzS 138 Studens pacis にはリベリオの書簡が引用されている。
「あなたたち(=東方の司教たちのこと)との一致の心遣いにおいて私(教皇リベリオ)が書いたこの手紙は、次のことをあなたたちに知らせなければならない。すなわち、私はあなたたちとカトリック教会の全ての司教たちと平和を保っているが、しかし既に述べたアタナジオは私との交わりから除外されている、つまりローマ教会との交わりから、そして教会書簡の交換から除外(破門)されている。」


 この聖アタナジオの破門は教皇リベリオの次の書簡によって再度確認されている。
DzS 141 Pro deifico
DzS 142 Quia sxio
DzS 143 Non doceo


 これについては、以前、「ルフェーブル大司教様の1988年の司教聖別と『破門問題』周辺」の記事の(5)教皇リベリウスと聖アタナジオ で触れたことがある。ご参照を乞う。

 Vere が「聖ピオ十世会のこの状況に適用された主張が真であると確信して、カトリック教義に関するディンツィンガーの資料集を読んでいて、私はディンツィンガーが教皇リベリウスを「聖リベリウス」としてリストしていることに気づいた。驚いたと言っても控えめな表現になるだろう。」というので、 私も、手元にある「カトリック教義に関するディンツィンガーの資料集」を見てみた。これは HERDER 社の出版するもので 1976年の版だ。 ENCHIRIDION SYMBOLORUM, editio XXXVI emendata だ。Imprimatur: Barcelona, 15 de junio de 1973, Jose M(ari)a Guix, obispo auxiliar とある。俗に Denzinger-Schoenmetzer と言われている版だ。


 その 43ページからは、Documenta Magisterii Ecclesiastici (教会教導職の文書)となっており、聖ペトロから歴代の教皇様たちの名前の順に文書が掲載されている。
聖ペトロは S. PETRUS APOSTOLUS となっており、次に聖リノ(S. LINUS)、聖クレメンテ一世 (S. CLEMENS I ROMANUS)、などがつづく。S. というのは「聖」という意味だ。


 57ページには教皇リベリオが掲載されているが、S. なしの(教皇様のリストの中では初めて「聖」なしの)ただ単に LIBERIUS とだけであった。


 そこで念のために、マニラの図書室で Denzinger の英語訳を探してみた。The Sources of Catholic Dogma, translated by Roy J. Deferrari from the 13th Edition of Henry Denzinger's Enshiridion Symbolorum, Loreto Publications. ただし、この英語訳には ST. LIBERIUS となっており、原文にはなかった「聖」がついていた。おそらく Vere はこの英語版を見たのだろう。


 リベリオ教皇が、教皇文書「Dat mihi plurimum」が言うように、アリウス派の異端を受け入れたわけではなく、ヴェルチェッリのエウゼビオ、ガリアのヒラリオなどのように、天主なるキリストを冒涜するよりは十字架に縛られて止まるという選択をしたことを天主に感謝する。弱き人間性をまとっている教皇様を天主が強め給い、聖寵に助けられ、教皇様が脅迫や脅しにもかかわらず完全なアリウス派の異端にサインをすることを拒んだことを天主に感謝する。


 しかし、実証できる文献として、この教皇リベリオが、聖アタナジオを公式に破門したということだけは事実である。問題は、教皇様がこの破門の宣言をした時、本当に現実に真理において、聖アタナジオは破門されたのか、ということだ。もし本当に破門であったなら、聖アタナジオの「罪」は何だったのか? 彼が「破門」された「罪」は、ニケア公会議の信仰宣言を力強く擁護したことだった。これは本当の「罪」なのか? 問題は、教皇リベリオが聖人か否か、というよりは、むしろ、教皇様であっても、どのような理由であるにしろ、罪なきひとを「破門に処する」ということがあり得る、ということだ。



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「教皇”その人”(ペルソナ)と教皇の”役職”の違い」

2007年03月14日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア!


 金田さんが疑問点等を呈示してくれている。いま少し説明したい。


 願わくは、聖霊来り給え、信者の心に充ち給え。主の愛熱の火をわれらに燃えしめ給え。原罪なくして宿り給いし聖マリア、御身に依り頼み奉るわれらのために祈り給え。聖ヨゼフ、我らのために祈り給え! 聖ピオ十世、我らのために祈り給え! 守護の天使、保護の聖人、我らを導き給え!

 


教皇”その人”(ペルソナ)と教皇の”役職”の違い」にはこうある。

【引用】
「護教の盾」氏自身は多くを語っていないが、
教皇”その人”=不可謬的ではない=従わなくてもよい
教皇”役職”=(信仰と道徳に関することにおいて)不可謬=従わなければならない
という二分法でものを考えているようだ。



【コメント】


 教皇における「その人」と「役職(教皇としての教皇)」と区別は、「護教の盾」さんが、引用した「離教にあらず、破門にあらず」にある。

 「護教の盾」さんが多くを語っておらず、どのような二分法でものを考えているのかを知るには「離教にあらず、破門にあらず」を読むべきではないだろうか。


 教皇は、「その人」と「役職(教皇としての教皇)」と区別されると言うことは、カトリック神学の古典的な区別だ。


 私は次のように書いたことがある。

【引用開始】

弱い人間性をおびた教導権


 私たちがカトリック信徒であるのは、教会がまとっている不完全な人間的な衣装の裏にキリストを認めたからです。私たちが教皇様の前に跪き、教皇様の教えに従うのは、教導権がキリストの御旨を代表する限りにおいてなのです。教導権を行使した命令が、聖人によって私たちにまで伝達されようと、小人によって伝えられようと、私たちにはあえて問うところではありません。 カトリック教会の過去の教皇様たちを見ても、私たちは、人間的な、不完全な要素があることを知っています。私たちはしかしながら、その人間的な弱さを通して、キリストの代理者を見ているのです。教導権がキリストを代表しなくなったその瞬間にそれは教導権ではなくなります。 ・・・


 岩下神父はこう書いています。「彼(=カトリック信徒)は目に見えるキリストの代理者の権限を知っている。彼はいつもニューマン枢機卿と共に "To my conscience first, and then to the Pope" と言いうるのである。教権は地獄の門がこれに勝ち得ざるほど強きものであると共に、彼の正しき良心をも、自然法をも、聖伝をも、冒し得ぬ底のものである。それは群小教会の小法王においてしばしば見るがごとき、独裁者の主観的見解を容るるに由なきものである。」(『カトリックの信仰』第十四章 聖霊)


 岩下神父と共に私たちは更にこうも言います。私たちカトリック信徒は、教皇の聖座の前に跪くのではありません。私たちの信仰は「教皇において全体の頭たるキリストを見る」のです。「もしも教皇がキリストの目に見える代理者でないのならば、彼は何ものでもない。いくら教皇領を擁していても三重冠を戴いてバチカン宮裡に蟠踞していても、彼は一介の平信者と撰ぶところがないのである。・・・ カトリック信者は身を教皇に売るのでもなく、その奴隷になるのでもなく、彼の代表すると信ずるキリストの権威に服するのである。」 これが私たちのカトリック信仰です。

マニラの eそよ風」より 
 【引用終わり】


 私たちカトリック信徒は、何故教皇様に従うのか? この中核を見失っては第一バチカン公会議の意味が歪められてしまう。私たちは、教皇様において天主イエズス・キリストの代理者を見るのだ。イエズス・キリストに従うために、教皇様に従うのだ。


 だから、私たちは教皇様に個人としても集団としても、聖職位階に心から服従しなければならならない。この服従は、信仰と道徳に関することがらだけでなく、全世界の教会の規律と統治においても示されなければならない。


 ただし、教皇様がなさること、言うこと、全てが全て不可謬的であるとは限らない。明らかに罪であることを要求することがあり得る。残念なことに、そして不幸なことに、教皇様がイエズス・キリストの明らかな命令と反することを命じることがあり得る。教皇様の不可謬権には限界があるからだ。


 もしも、不幸にして、万が一、教皇様が私たちに信仰を失わせるようなことを命じた時、私たちはそれに従う義務はない。

「教権は・・・彼の正しき良心をも、自然法をも、聖伝をも、冒し得ぬ底のもの」だからだ。


 中世に「悪しき教皇」をどう考えたらよいか、という問題について神学者たちは良心の問題に悩んだ。中世の神学者たちは、教皇様のペルソナと職務とを区別することで、「弱い人間性をおびた教導権」の限界を説明したのだ。


 教皇”その人”は、金田さんが言う通り、「不可謬ではないからといって不従順であってもいいというわけではない。そうだ。不可謬的ではないが従わなければならない。しかし、もしも不幸にして、それが教皇であったとしても、教皇様が、正しき良心に、或いは自然法を、或いは聖伝に反することを命じ教える時には、従う義務がない。


 そして、現代、カトリック信徒は、良心上の問題に悩んでいる。教皇様が不可謬権を行使せずに、エキュメニズム運動を私たちに命じているからだ。天主の十戒の一戒に背き、カトリック信仰を棄てさせることを要求しているからだ。


 私たちは教皇様に従ってカトリック信仰を棄てるべきなのか? 新しいエキュメニカルな信仰を受け入れるべきなのか? 教皇様と共にいるために教皇様に「従順」であるために、イエズス・キリストに背くべきなのか? 歴代の教皇様の不可謬の教えと矛盾する行動・言動を見聞きする時、私たちはどちらを取るべきなのか? 不可謬の教えか、それとも新しい言動か? 信仰を失う以外に何も残っていないのか。


 いや、私たちには、そうする権利はない。聖パウロはこう言った。


「私たち自身であるにせよ、天からの天使であるにせよ、私たちがあなたたちに伝えたのとはちがう福音を告げる者にはのろいあれ。」(ガラチア1:8)

 

 

* * *


 繰り返して言えば、私たちカトリック信徒にとって、従順とは極めて大切だ。私たちは、私たちの主イエズス・キリストに従うために、その代理者に従うのだ。


 しかし、私たちの力の範囲を超える現実の状況は、私たちが望まないにもかかわらず、50年前に良いこと賞賛されていたことが、今では「禁止され」「処罰され」「破門され」るべきこととなっており、50年前に禁止され、処罰され、破門されるべきことが賞賛され、祝福されている。


 私たちは、私たちの信仰を守り擁護すべき牧者たちが、信仰の迫害者となっている現実に直面している。前代未聞の状況が現実に私たちの目の前にあるのだ。


 聖伝のミサは、永久に有効なものとして荘厳に法定化された。その大勅令は全く無視されている。聖伝のミサは事実上「禁止」されている。法令によって廃止されたことも禁止されたこともないのにもかかわらず。


 2003年にメディナ枢機卿(当時、典礼秘跡聖省長官)は『自分はこのミサが禁止されたとはどこにも見たことがない』と記事(ラテン・ミサ誌2003年 春号の記事)を書いて、それを再確認しているにもかかわらず。


 2005年9月、カストゥリヨン・オヨス枢機卿は、トレンタ・ジョルニ誌に「聖ピオ五世のミサは廃止されたことがない」と宣言しているにもかかわらず。


 1986年、ヨハネ・パウロ二世は9名の枢機卿たちを招集し特別委員会を作り調べさせたがその結論も同じだった。(このことについては、1995年、シュティックラー枢機卿が私たちに語っている。)9名中8名が、新しい典礼様式を発布することによって聖伝のミサを法的に廃止したことはない、と結論した。この委員会は全員一致で、全ての司祭は自由に聖伝のミサを捧げることができること、いかなる司教も禁止できないことを認めているにもかかわらず。
(「スティックラー枢機卿は語る」を参照のこと


 カトリック信徒が、聖伝のミサを教会当局に望むと、当局は第二バチカン公会議の新しい教え(エキュメニズム運動など)を押しつけてくる。


 緊急状態とは、生存するために生き残るために、通常のやり方を外れた手段に訴えることを止むおえなくさせられている状況のことだ。それ以外になすすべがないのだ。だからといって、私たちがこのような状況を望んでいるわけではない。その反対だ。私たちは法の外にいるのを望んでいるわけではない。しかし、生き延びるためには、そうせざるを得ない状況におかれている。

 しかし、教会当局が現状を変えようと望まない限り、私たちは霊的に窒息して死んでしまう。緊急状態に居続けることになってしまう。カトリック教会が常にしてきたように天主に奉仕しようとすることを望む忠実な霊魂は、カトリック信仰に反するものを「従順」に受け入れて、イエズス・キリストに不従順であるか、或いは「その中には不可謬的なものと不可謬的でないものがあるが、不可謬ではないから」、イエズス・キリストに中人であるために見かけ上の「不従順」を取らざるを得なくなっているのだ。


 だから、ルフェーブル大司教は、こう書いた。


「教会の中はどこでも無規律が幅をきかせ、司祭委員会は司教たちに要求状を送り、司教たちは教皇の訓戒を無視してこれに挑戦し、第二バチカン公会議の勧告や決定事項さえ尊重されていません。しかしながらこのようなことが起こっていても、私たちは決して彼らが不従順だという言葉を聞いたことがありません。ただしこの不従順という言葉は、聖伝に忠実に止まろうとするカトリック信者たち、つまりただ単に信仰を守りたいと望むカトリック信者たちだけについて言われるだけです。

 

 従順と言うことは、重大なテーマです。教会の教導職との一致、特に教皇様との一致に留まることは救霊の諸条件の一つだからです。私たちはそのことを深く自覚しています。そしてまた、今日教会を統治しているペトロの後継者に対して、私たちがその前任者たちに対してそうであったように同じく執着しているのは私たち以上にありません。私はここで自分自身について語っているのであり、自分の小教区の教会から棄てられた多くの信者さんたち、フランス革命の時のように倉庫や納屋でミサ聖祭を捧げなければならなくなってしまった司祭たち、また町や村で聖伝の公教要理を(公式の教会の要理の授業とは)また別に教えている司祭たちについて語っています。

 

 教皇様が使徒継承の聖伝と自分の全前任者教皇たちの教えとをこだまのようにそのまま繰り返して語る時、私たちは教皇に固執します。正に、ペトロの後継者の定義それ自体が、この信仰の遺産を守ることにあるからです。ピオ9世教皇は、(第一バチカン公会議の決議書である)『パストル・エテルヌス』の中で私たちにこう教えています。

 

「聖霊がペトロの後継者たちに約束されたのは、聖霊の啓示によって、新しい教義を教えるためではなく、聖霊の援助によって、使徒たちが伝えた啓示、すなわち信仰の遺産を確実に保存し、忠実に説明するためである。」

 

 私たちの主イエズス・キリストが教皇様や司教たちそして司祭職一般に委ねた権威は、信仰に奉仕するためです。教会法や教会組織また権威を、カトリック信仰を無きものとするために使うこと、それらを命を伝えるために使わないこと、それは霊的な堕胎行為であり霊的な避妊行為です。

 

 だからこそ、二千年の間たゆまなく教えられてきたそのままの私たちのカトリック信仰と合致することを全て受け入れることに対して、私たちは服従しますし、その準備が整っています。ただし私たちはこれに対立することは全て拒否します。

 

 何故なら、パウロ6世の教皇統治の間、全てのカトリック信者たちにとって良心と信仰との重大な問題が生じてしまったからです。それはペトロの真の後継者である教皇様が、聖霊の援助を約束された教皇様が、ほんのわずかな間に、教会史上もっとも深くまたもっとも広大な教会の崩壊、いかなる異端者といえどもこれ程の破壊を成功させることができなかったほどのことを主導することができたのか? という問題です。この問題に、将来、正しく答えを出さなければならないことでしょう。」

 詳しくは、「教会がどうなってしまったのか分からなくなってしまったカトリック信者たちへ 第18章 本当の従順と偽物の従順」をご覧戴きたい。

 

 

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【質問】教会における現代の危機の責任は、司教様たちなのでしょうか?・・・ 続き

2007年03月13日 | 質問に答えて

アヴェ・マリア!


【質問】
現在、カトリック教会は危機に襲われているのでしょうか?」の記事で、カトリック信者の信仰が危機にあるのは結果で、その原因は、聖職者達の信仰の喪失の危機であることが触れられていますが、教会における現代の危機の責任は、司教様たちなのでしょうか? 教皇様なのでしょうか? それとも第二バチカン公会議なのでしょうか?


【答え】
(これは「【質問】教会における現代の危機の責任は、司教様たちなのでしょうか?・・・ 」への答えの続きです。)

 セペール枢機卿(Cardinal Seper)は「教会の危機は司教たちの危機である」と言いました(in Georg May, Gefahren, die der Kirche drohen, St Andrae-Woerden, Mediatrix, 1990, p.27)。


 現代の教会の危機には、その能動因として司教様たち(そして究極の責任を問われるものとして教皇様)、その切っ掛けと原理を与えたもの(形相因)として第二バチカン公会議があります。


(以下は続き)

【教皇様】

 教会の危機は、教会の最高の権威まで浸透しています。第二バチカン公会議後の教皇様たちご自身が、少なくともヨハネ・パウロ二世の統治下に至るまで、この危機を維持させていました。それは、

(1)近代主義の神学者を擁護することによって

(2)カトリック信仰と相容れない意見や行動を教皇様ご自身がなすことによって

(3)カトリック信仰を本当に擁護しようとする人々の仕事に障害をおくことによって。


【ヨハネ二十三世の責任とは?】
 ヨハネ二十三世(在位1958年ー1963年)は、「アジョルナメント(現代化)」のスローガンのもとに、現代のリベラル精神を教会内部に持ち込み、見境もなく大変革をおこさせた第二バチカン公会議を招集した教皇でした。


 公会議を招集したそのこと自体よりも、どのような目的とどのような精神で第二バチカン公会議を招集したかが問題とされます。公会議開催の「開会演説」(1962年10月11日)でこう宣言しています。

「誤謬は生まれては太陽の前の雲のように消えていくもの」だから、誤謬に対して何も断罪をしなくても、自然に消えていく、昔は教会は誤謬に対していつも反対し断固たる態度を取ってきたが、「現代は、キリスト教の花嫁である教会は、厳しさの武器を取るよりは、むしろ慈しみの薬を用いて癒そうとしてる。断罪するよりは、自分の教えの豊かさにより強調をおくことによって、よりよく現代の要求に応えると教会は考えている。もちろん、警戒すべき、そして避けるべき偽りの危険な教えや意見がないわけではない。しかしこれら全ては、誠実という原則にあまりにも明らかに対立し、あまりにも悪い実りを倦んでいるので、今日、人々は自分自身でそれを排斥し始めているように思われる。」(公会議解説叢書6『歴史に輝く教会』(南山大学監修334ページ参照)

 そこで、ヨハネ二十三世は「人類社会の現状を見ては破壊と災難しか見ることができず、過ぎ去った世紀と比べて現代はただただ悪い方に向かってしまったと言い続けて・・・あたかも世の終わりが近づいたかのように、常に災いしか予告しない不運の預言者には私は絶対に賛成できない」(『歴史に輝く教会』330-331ページ)とし、何もせずとも悪は自然に消えてなくなるので、楽観的平和主義を貫くことを第二バチカン公会議で宣言したのです。


 このナイーヴな見方は、現実とはほど遠いものでした。何故なら、イスラーム、プロテスタント主義、仏教などは数世紀にもわたって存在する誤謬でしたが、それ自体で「太陽の前の雲のように消えて」いったわけではありませんでした。その反対です。カトリック教会がその誤謬を排斥するのを拒否したがために、それらはますますその勢いの広がりを見せています。


 カトリック教会内についても、ヨハネ二十三世の楽観的な見解に反して、真理は光り輝くどころか、むしろ無数の誤謬がますます広がる一方でした


 更に、ヨハネ二十三世は第二バチカン公会議の議事規定に反して、以前ローマがその異端説のために排斥した神学者たちを少なくとも3名、公会議顧問として任命しました。


【パウロ六世の責任にはどのようなものがあるか?】

 教皇パウロ六世(在位1963年ー1978年)は、ヨハネ二十三世の死後第二バチカン公会議を継続させ、リベラル派を明らかに支持しました。パウロ六世は、新たに4名の公会議の運営委員(moderatores)を設定し、「中道派のアガジャニアンと、進歩派のレルカノ、デフナー、スーネンスなどの枢機卿」(『歴史に輝く教会』294ページ)を任命しました。レルカノ、デフナー、スーネンス枢機卿たちはリベラルで大変有名な人々でした。


 1965年12月7日、公会議閉会の演説においてパウロ六世はこう宣言しています。


「"人間となった天主"の宗教は、『自らを天主とする人間』の宗教(なぜならこれも宗教のひとつですから)と出会いました。何が起こったのでしょうか。衝突でしょうか。紛争でしょうか。排斥でしょうか。これらが起こり得ました。しかし、これらはありませんでした。良きサマリア人の昔の話が公会議の霊性のモデルでした。すなわち、限りない好感が公会議全体を侵略しました。人間の必要を発見し(そしてこの地上の子がますます自分を偉大とするに従って、この必要はますます大きくなるのです)それが私たちの会議の注意をまったく奪い取りました。現代の人間中心主義者 humanistes である皆さんも、少なくともこの功績を公会議に認めてください。あなた方は最高の諸現実の超越性を放棄していますが、私たちの新しい人間中心主義を認めることを知りなさい。私たちも、誰にもまして人間を礼拝する le culte de l'homme ものなのです。」(『歴史に輝く教会』 p444)


Religio, id est cultus Dei, qui homo fieri voluit, atque religio - talis enim est aestimanda - id est cultus hominis, qui fieri vult Deus, inter se congressae sunt. Quid tamen accidit? Certamen, proelium, anathema? Id sane haberi potuerat, sed plane non accidit. Vetus illa de bono Samaritano narratio excmplum fuit atque norma, ad quam Concilii nostri spiritualis ratio directa est. Etenim, immensus quidam erga homines amor Concilium penitus pervasit. Perspectae et iterum consideratae hominum necessitates, quae eo molestiores fiunt, quo magis huius terrae filius crescit, totum nostrae huius Synodi studium detinuerunt. Hanc saltem laudem Concilio tribuite, vos, nostra hac aetate cultores humanitatis, qui veritates rerum naturam transcendentes renuitis, iidemque novum nostrum humanitatis studium agnoscite: nam nos etiam, immo nos prae ceteris, hominis sumus cultores.


第2バチカン公会議とはおよび
◎公会議に参加した教父たちは、公会議が革新であったと主張する
「マニラの eそよ風」157号
を参照のこと)



 パウロ六世のこの態度については、聖ピオ十世がその最初の回勅『エ・スプレミ・アポストラトゥス』で言った次の言葉と比べることができます。

「全ての手段を使って、全ての努力の代価を払っても、私たちが生きている現代に特有のこの化け物のような厭わしい邪悪、つまりそれによって人間が天主に取って代わるという邪悪を完全に根こそぎにしなければならない。


 聖ピオ十世は同回勅で「反キリストに固有の特徴」として「呼ぶべき名前もないほどの無思慮をもつ人間が創造主の地位を横領し、天主の名前を持つ全ての上にそそり上がろうとする。それは、それ自体では「天主」という概念を完璧に消し去ることができないが、天主の御稜威のくびきを振り払い、自分自身のために目に見える世界を神殿であるとして奉献し、自分の同類たちから礼拝を受けようとする程である」と言っています。


 これを見ても分かるように、パウロ六世は「私たちが生きている現代に特有のこの化け物のような厭わしい邪悪、つまりそれによって人間が天主に取って代わるという邪悪」に対して責任を放棄して戦おうとせず、かえってそれに限りない好感を持ち、パウロ六世自身も誰にもまして人間を礼拝するものであると言っているのです。聖ピオ十世とは全くの対極に立つ態度です。


 パウロ六世の人間中心主義は、人類が月面に到着した時、人間賛美の歌を歌っていることからも分かります。


「人間に名誉あれ、
 人間の思考、科学、技術、労働、努力に名誉あれ。
 ・・・
 人間に名誉あれ、
 地上の王、そして今では天の君主に。」
(Paul VI, 7 fevrier 1971, DC 1580 du 21 fevrier 1971, p. 156.)


 1964年の11月に、リベラル派を支持していたパウロ6世は、教皇の最高の権威を使おうとしないということを意味するために、象徴的に教皇三重冠を放棄しました。次にパウロ6世は検邪聖省を改革しました。1966年6月15日、禁書目録は廃止され、検邪聖省は「教理聖省」とその名と役割を変えられました。検邪聖省はもはや何も排斥せず、ただ単に建設的な探求に専心するだけになり、検邪聖省は検邪聖省でなくなったのです。これによってリベラル派は自由に活動できるようになりました。


 それと同時にパウロ六世の統治下に、本当にカトリック信仰を保ちたいと望み、プロテスタント主義・近代主義・背教を拒む司祭たちが迫害を受け始めました。


【ヨハネ・パウロ二世は状況の立て直しをしたのではないか?】

 いいえ。幾つかの点でヨハネ・パウロ二世は、パウロ六世より厳格であったように見えますが、それにしても革新の道を頑固として進み続けました。そして以前であれば背教のしるし、少なくとも異端の疑いのしるしであった行為を様々に成し遂げました。
(1917年の教会法2314-2316条参照)


 1982年5月29日、ヨハネ・パウロ二世は、英国聖公会の「大司教」(Msgr Runcie)とカンタベリーのカテドラルで共に使徒信経を唱え、彼と共に祝福を与えました。聖公会の司祭叙階は無効であるので本当は平信徒でしかないにもかかわらず、この時、英国聖公会の最高聖職者は大司祭としての祭服を着ていました。ヨハネ・パウロ二世は、レオ13世の不可謬の教えを無視していたのです。


 1985年8月、ヨハネ・パウロ二世はトーゴの「神聖な森」の中でアニミストの儀式に参加しました。


 1986年2月2日、ヨハネ・パウロ二世はインドのボンベイで、ヒンズー教のシヴァ神の第3の目を意味するティラック(Tylak)を自分の額に受けました。


 1986年2月5日、マドラスではシヴァ神とヴィシュヌ神の礼拝者のしるしである神聖な灰ヴィブティ(Vibhuti)を受けています。


 このような行動は数を増やし、悲しい頂点に至りました。それは1986年10月27日アシジでの諸宗教の集会でした。ヨハネ・パウロ二世は、世界の全ての宗教を呼んで、自分たちの儀式に従って平和のために祈れと招いたのです。彼らが異教の宗教儀式のために自由に使うことができるように、カトリック教会の建物は使われました。サン・ピエトロ教会では、御聖体が安置してある御聖櫃の上に仏陀の像がおかれて礼拝されていました。このようなことは「平和」ではなく、偶像崇拝であり、迷信です。このようなことを積極的にさせることは、唯一の天主の御稜威に対する大きな罪でした。たとえ良い意向のためにであっても、それ自体で悪しき行為をすることを積極的に勧めること、またはそれ自体で悪しき行為をすることはゆるされていません。


 ヨハネ・パウロ二世は、1986年以降毎年アシジのような諸宗教の集会を開くように奨励し続けました。他人に勧めるばかりか、自分でも積極的にその範をたれ、偽りの諸宗教を支援する様々なジェスチャーをし続けました。たとえば1999年5月14日、皆の前で公然とコーランに接吻をしました。この写真はイスラム諸国に溢れるばかりに広がり、イスラム教徒たちがその誤れる宗教に留まることを激励するだけにしかなりませんでした。


【第二バチカン公会議】

 すでにカトリック教会の中に隠れ潜んでいたリベラル派と近代主義者達は、第二バチカン公会議をコントロールすることに成功し、教会内部で長くから準備されていた危機を点火する機会を与えました。


 聖ピオ十世は既に丁度100年前、回勅『パッシェンディ』の中で近代主義は教会の外にいる敵ではなく、たとえその信奉者が自分たちの本当の意向を隠していたとしても、内部に深く浸透してしまっている敵であると言っていました。


 聖ピオ十世は近代主義に対して力強く戦いました。聖ピオ十世の後継者たちも、ピオ十二世に至るまで多かれ少なかれ戦いました。ピオ十二世の回勅『フマニ・ジェネリス』は「新しい神学」と呼ばれていたものを排斥しました。教皇たちの努力は、見せかけ上は受け入れられたのですが、現実は多くの人々は馬鹿にしていただけでした。人々は教皇たちから排斥された禁止された説に興味を持ち続け、神学校や大学では神学生たちに新しい学説に染まるようにし続けていたのでした。


 教会内部に潜んで活動を続けていたリベラル派や近代主義者達は、第二バチカン公会議をコントロールすることに成功しました。リベラル派のスーネンス枢機卿は、第二バチカン公会議のことをフランス革命にたとえて「第二バチカン公会議は教会内部のフランス革命だった」と言っています。やはりリベラル派のイーヴ・コンガール神父は、公会議の神学者でしたが、第二バチカン公会議をロシアのボルシェヴィキ革命にたとえて「教会は、穏やかに十月革命を果たした」と言っています。



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●第一バチカン公会議 (第20回公会議)決議文(抜粋)
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●聖ピオ五世教皇 大勅令『クォー・プリームム』(Quo Primum)
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●新しい「ミサ司式」の批判的研究 (オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ枢機卿)Breve Exame Critico del Novus Ordo Missae
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