アヴェ・マリア!
ベネディクト十六世は3月21日の一般謁見で「みことばの種子」とは、聖ユスティノの表現によれば、異教の諸宗教の中にではなく、ギリシア哲学にある、とおっしゃっいました。
親愛なる兄弟姉妹の皆様。
この連続講話の中でわたしたちは初代教会の偉大な人びとについて考察しています。今日は哲学者にして殉教者聖ユスチノについてお話しします。・・・
現存するユスチノの著作は、二つの『弁明』と『ユダヤ人トリュフォンとの対話』のみです。これらの著作の中でユスチノは何よりも、創造とイエス・キリストによってもたらされた救いにおける神の計画を明らかにしようとします。イエス・キリストは「ロゴス」すなわち、永遠のみことば、永遠の理性、創造主である理性です。すべての人は、理性的な被造物である限り、この「ロゴス」にあずかります。こうしてすべての人は自らの内に「種子」をもち、真理のかすかな光をとらえることができます。ロゴスは旧約の中でユダヤ人たちに預言者の姿で示されました。そしてこのロゴスはギリシア哲学の中でも「真理の種子」として部分的に現されます。そこでユスチノは結論づけます。キリスト教は完全な「ロゴス」が歴史において人を通して現されたものです。ですから「あらゆる人びとの間で語られてきた正しいことばは、どれもわたしどもキリスト教徒に属しているのです」(『第二弁明』13・4)。このようにしてユスチノは、ギリシア哲学の矛盾を批判しながらも、あらゆる哲学的真理をはっきりと「ロゴス」へと方向づけます。そのために彼は、合理的な観点に基づいて、真理とキリスト教の普遍性に関する独自の「要求」を根拠づけるのです。像が、像の示す現実に方向づけられるように、旧約はキリストを目指しています。そうであれば、部分が全体との一致を目指すように、ギリシア哲学もキリストと福音に方向づけられています。そしてユスチノはいいます。この旧約とギリシア哲学の二つは、「ロゴス」であるキリストへと導く二つの道です。だからギリシア哲学を福音の真理と対立させてはなりません。またキリスト教徒は、自分の持ち物であるかのように、自信をもってギリシア哲学を用いることができます。・・・
要するに、ユスチノの生涯と著作は、古代教会が、異教宗教ではなく、哲学すなわち理性をはっきりと選んだことを示します。実際、初期キリスト教徒は、異教宗教とのいかなる妥協も粘り強く拒みました。彼らは「不敬虔」で「無心論者」と非難されることを覚悟の上で、異教宗教を偶像礼拝と考えました。中でもユスチノは特に『第一弁明』で異教宗教とその神話を厳しく批判しました。ユスチノはそれを真理への道からそらす悪魔の姿とみなしたからです。これに対して、哲学は、まさに異教宗教とその誤った神話を批判する点で、異教とユダヤ教とキリスト教が出会うための特別な場となります。そこでユスチノの同時代のもう一人の護教家サルデイスの司教メリトンは、新しい宗教であるキリスト教をはっきりと「わたしたちの哲学」ということができたのです(カイサレイアのエウセビオス『教会史』4・26・7)。
実際、異教宗教は「ロゴス」の道を歩まず、ギリシア哲学が神話を真理と合致しないと認めたにもかかわらず、神話の道に固執しました。ですから異教宗教の没落は不可避だったのです。それは宗教(すなわち、人間の手で儀礼と慣習としきたりにおとしめられた宗教)を存在の真理から切り離したことから来る当然の帰結でした。ユスチノや他の護教家たちは、異教宗教の偽りの神々ではなく、哲学者の神を認める、キリスト教信仰としてのはっきりとした立場をとりました。彼らは「慣習」に基づく神話ではなく、存在の「真理」を選んだのです。ユスチノから数十年後、テルトゥリアヌスはキリスト教徒のこの同じ選択を簡潔で永遠に有効な次のことばで述べました。「わたしたちの主キリストはご自分を慣習ではなく真理と呼ばれた」(『処女のヴェールについて』:De virginibus velandis 1, 1)。ここでテルトゥリアヌスが異教宗教を指すために用いた「慣習(consuetudo)」ということばは、近代語で「文化的流行」、「時代の流行」といった言い方で訳せるものであることにご注意ください。
価値観や宗教をめぐる議論における(諸宗教対話にもそれがいえますが)相対主義を特徴とする現代において、これは忘れてならない教訓です。・・・
(カトリック中央協議会 司教協議会秘書室研究企画訳)
(2007.3.22)
* * *
「教会の宣教活動に関する教令」("Ad Gentes" DECRETUM DE ACTIVITATE MISSIONALI ECCLESIAE)の11番にはこうある。
「11(生活と対話によるあかし) 教会はこれらの人間社会に、かれらの中に生活しているか、あるいはかれらのもとに派遣されている教会の子らを通じて、現存しなければならない。すべてのキリスト信者は、自分が生活している場所で、模範的生活とことばのあかしをもって、洗礼に際して身につけた新しい人と、堅信によって強められた聖霊の力を現わさなければならない。そうすることによって他の人々が、彼等のよい行ないを見て、父を賛美し、人間生活の真の意義と人々の交わりの普遍的なきずなとを、よりよく理解するよう努めなければならない。
かれらがキリストについてのあかしを立派に立てうるためには、尊厳と愛をもってそれらの人々に結ばれ、各自が自分の生活している人間社会の構成員のひとりであることを認め、人間生活の種々の交際と交渉とによって、文化的・社会的生活に参与しなければならない。人々の民族的、かつ宗教的な伝統に精通し、その中に含まれているみことばの種子を、喜びと敬意をもって見いだすように努めなければならない。・・・」
* * *
第二バチカン公会議は「民族的、かつ宗教的な伝統に精通し、その中に含まれているみことばの種子を、喜びと敬意をもって見いだすように努めなければならない」という。 しかし、「御言葉の種子」とはどこにあるのだろう? ベネディクト十六世は言う。
「ロゴス」すなわち、永遠の天主のみことばである私たちの主イエズス・キリストにである。
人間は、理性を使って真理を求めるかぎり、真理のかすかな光をとらえることができる。
ロゴスは旧約の中でユダヤ人たちに預言者の姿で示されました。そしてこのロゴスはギリシア哲学の中でも「真理の種子」として部分的に現された。
旧約とギリシア哲学の二つは、「ロゴス」であるキリストへと導く二つの道だ。
異教宗教とその神話は真理への道からそらす悪魔の姿であるが、これに対して、哲学は、まさに異教宗教とその誤った神話を批判する点で、異教とユダヤ教とキリスト教が出会うための特別な場である。
実際、異教宗教は「ロゴス」の道を歩まず、つまり「御言葉の種子」の道を歩まなかった。それにもかかわらず異教は神話の道、民族的、かつ宗教的な伝統に固執した。そこにはロゴスがない。
わたしたちの主キリストはご自分を「文化的に皆がやっていること」「時代の流行」「民族的流行」ではなく真理と呼ばれた。
価値観や宗教をめぐる議論、諸宗教対話において、相対主義を特徴とする現代において、これは忘れてならない教訓である。
============
クリックで応援して下さい。↓
http://blog.with2.net/link.php?269452
兄弟姉妹の皆様の応援を感謝します!
●聖ピオ十世会韓国のホームページ
http://www.sspxkorea.wo.to/
●トレント公会議(第19回公会議)決議文
http://fsspxjapan.fc2web.com/tridentini/tridentini_index.html
●第一バチカン公会議 (第20回公会議)決議文(抜粋)
http://fsspxjapan.fc2web.com/vat1/index.html
●聖ピオ五世教皇 大勅令『クォー・プリームム』(Quo Primum)
http://fsspxjapan.fc2web.com/pro_missae/dqpt1.html
●新しい「ミサ司式」の批判的研究 (オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ枢機卿)Breve Exame Critico del Novus Ordo Missae
http://fsspxjapan.fc2web.com/pro_missae/ottaviani2.html
●グレゴリオ聖歌に親しむ会
http://sound.jp/gregorio/