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第二バチカン公会議の「信教の自由」について

2013年01月23日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 今年の1月21日は、このブログを開始して満7年になります。愛する兄弟姉妹の皆様のご愛読を感謝します。

 今回は、第二バチカン公会議の「信教の自由」について、もう一度考察してみることを提案します。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

 「信教の自由」とは?

 第二バチカン公会議の『信教の自由に関する宣言』(DIGNITATIS HUMANAE)の第2パラグラフによれば、「信教の自由」とは次の通りです。

「この自由は、すべての人間が、個人あるいは社会的団体、その他すべての人間的権力の強制を免れ、したがって、宗教問題においても、何人も、自分の確信に反して行動するよう強制されることなく、また私的あるいは公的に、単独にあるいは団体の一員として、正しい範囲内で自分の確信にしたがって行動するのを妨げられないところにある。」
【ラテン語原文は次の通り。】
Huiusmodi libertas in eo consistit, quod omnes homines debent immunes esse a coercitione ex parte sive singulorum sive coetuum socialium et cuiusvis potestatis humanae, et ita quidem ut in re religiosa neque aliquis cogatur ad agendum contra suam conscientiam neque impediatur, quominus iuxta suam conscientiam agat privatim et publice, vel solus vel aliis consociatus, intra debitos limites.


「行動するよう強制されない」と「行動するのを妨げられない」との違いは?

 「自分の確信に反して行動するよう強制されない」(ne aliquis cogatur ad agendum contra suam conscientiam)とは、誰も或る信仰箇条を強制によって押し付けられない、或いは、刑罰やその他の脅迫によって、自分の宗教以外の礼拝に参加するのを強制されない、ということです。

 このことはカトリック教会は常に認めてきていました。この部分に関しては、第二バチカン公会議の「信教の自由に関する宣言」に書かれている内容は、カトリック教会の聖伝に合致しています。聖ピオ十世が制定しベネディクト十五世が1917年に発布したカトリック教会法典の中にもそのことが書かれています。曰く、Can 1351. Ad amplexandam fidem catholicam nemo invitus cogatur.
【試訳:何人も不本意にカトリック信仰を受け入れるように強制されない。】

 さて、
「自分の確信にしたがって行動するのを妨げられない」(nee impediatur iuxta suam conscientiam agat)ということは、或る特別な市民法(Ius civile)によって、例えば、或る特定の宗教の寺院を建設することや、或る特定の宗教行事に参加すること、或る特定の宗派による学校を創立すること、普通のプロパガンダにより或る特定の宗教が宣伝活動をすることなどが妨げられないこと、を意味します。

 この後者について言えば、カトリック教会は第二バチカン公会議以前には、特定の状況下においては、或る範囲内で、国家がそのような状況を黙認(寛容)する態度【Tolerantia】を取ることを承認していました。更には、国家がこのような状況が立法によって、市民法によって保護することさえ、カトリック教会は認めてきていました。しかし、カトリック教会は、これを「自然法」(Ius naturale) として認めたことはありませんでした。

 自然法としての信教の自由は、唯一、真の天主に対する真の礼拝であるとカトリック教会が認める礼拝を実践する人々にのみ属するものであるからです。つまり、カトリックの宗教を実践することのみを自然法としての信教の自由として認めてきていました。何故なら真理のみが正しいこととして権利を持つからです。


 「市民法」と「自然法」との違いは?

 自然法は、人間の自然本性と人間本性に由来する義務に基づいて言います。人間は、天主による被造物であるので、人間には被造物としての義務、つまり宗教の義務があります。従って、この真の天主に対する真の礼拝を行う義務があるゆえに、人間には天主に礼拝をする自然法としての権利(ius naturale)があります。もちろん、真の天主に対して真の礼拝をするという権利(ius)です。
 言わば、自然法とは常に真なるもの、善なるものに関わっています。自然の理と真の天主に合致することがらに関わるものです。

 それに対して、市民法は、社会として、家族として、共に生活している市民の共通善の要求するところに基礎をおいています。本来ならしかじかであるべきところが、罪が存在するために、誤謬が存在するために、偽りの宗教が存在するために、しかしながら市民社会の平和と安寧のために、市民法は、真理と本当の善とから離れることを「黙認」(寛容)するような法を書き込むことが許されています。それは、「悪を避け、善へと導き、或いは少なくとも社会を傷つけそれにとって弊害となることを妨げるという目的のため」(dans le but de les détourner du mal et de les ramener au bien, ou du moins de les empêcher de blesser la société et de lui être nuisibles)【レオ十三世】です。

 ピオ十二世は、もしも効果的であったとしたら、より上位のまたより広範囲の善を守るために、少なくともその原理において、一般化された寛容ということさえも認めていました。たしかに、宗教において、より上位のまたより広範囲の善というものが本当に存在するのか、と問うことが出来ますが、ピオ十二世は「寛容」という態度を、例えば立法によって一般化することさえ、必要があるならば、原理において認めていました。


 「信教の自由に関する宣言」とピオ十二世の「一般化された寛容」との違いは?

 「信教の自由に関する宣言」の問題は、信教の自由を市民法としてのみならず、自然法としての権利として認めると宣言していることです。更に「信教の自由に対する人格のこの権利は、社会の法的制度において、市民的権利として受け入れられるべきものである」としていることです。

【ラテン語は次の通りです。Hoc ius personae humanae ad libertatem religiosam in iuridica societatis ordinatione ita est agnoscendum, ut ius civile evadat.】

 つまり、もはや単なる、悪(偽りの宗教)に対する「寛容」ではなく、真理と善とにのみ与えられるべき「自由」を与えよ、ということです。


 信教の自由に関する宣言は、どのような善に自由を与えることを欲しているのか?

 人間の人格という善、人格の尊厳のゆえに、「自分の確信(conscientia)にしたがって行動するのを妨げられない」べきである、と言います。確かに、宗教は誤っており嫌悪すべきであるかもしれない、しかし、人格は尊厳を持っているがゆえに自由を与えよ、と主張しています。


 そのような主張に対して、カトリック教会は排斥をしてきたのではないか?

 人間には、人格の尊厳が故に自然法としての自由があるという主張は、以前には存在していませんでした。

 しかし、十九世紀には、「良心と礼拝の自由」及び「礼拝の自由」という名前で信教の自由を認める要求がありました。リベラル派が「各人が各々の宗教を選び、その信仰宣言をする自由」という名で要求していました(レオ十三世の回勅『インモルターレ・デイ』)。彼らは、人間の最高の善として自由を持ち上げ、その自由を善用しようが悪用しようが、自由をどのように使おうがかまわず尊重せよ、と要求しました。

 十九世紀の歴代の教皇様たちは、そのような考え方を排斥してきました。例えば、ピオ七世は1814年のフランス憲法に反対して抗議し、グレゴリオ十六世は回勅『ミラーリ・ヴォス』で、このような考えを排斥しています。

 ピオ九世は1852年コロンビアのカルトの自由に抗議し、1855年にはスペインのカルトの自由に抗議しています。1876年にはトレドの大司教に手紙を書き、1864年には回勅『クァンタ・クラ』『シラブス(誤謬表)』を発表しています。

 レオ十三世は、1889年にブラジルの皇帝にこの「自由」に反対して、手紙を書き、1888年には回勅『リベルタス・プレスタンシッスィムム』を発表しています。

(続く)

【参考資料】第二バチカン公会議は、人間についてどのように新しく考えるようになったのか?

諸教皇は何故「良心ならびに信教の自由」を排斥したのか、理由は?


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トレント公会議の信仰宣言をご紹介します

2013年01月22日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 今年の1月21日は、このブログを開始して満7年になりました。愛する兄弟姉妹の皆様のご愛読を感謝します。

 今回は、トレント公会議の信仰宣言
をご紹介します。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

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トレント公会議の信仰宣言

【第一バチカン公会議によって、この宣言にカッコ内の言葉が追加された。】



1862(994)私(氏名)は聖なるローマ教会で使われている信経(ニケア・コンスタンティノープル信経、DzS150)に含まれることすべてと、その各部分を固く信じ、宣言します。すなわち、我は、唯一の全能の聖父(ちち)なる天主、すなわち、天と地、見ゆるものと見えざるものの創り主を信じ奉る。また、天主の御一人子、唯一の主イエズス・キリストを。すなわち代々の前に聖父より生まれ、天主よりの天主、光よりの光、真の天主よりの真の天主、創られずして生まれ、聖父と同一実体なり、全ては主によりて創られたるなり。主は、我ら人間のため、又我らの救いのために天より下り、聖霊によりて御托身し給い、童貞マリアより、人となられ給うた。更には我らのためにポンシオ・ピラトの管下にて十字架に付けられ、苦しまれ、葬られ、聖書にありし如く三日目に蘇り、天に上がり、聖父の右に座し、生ける人と死せる人とを裁かんために栄光を伴って再び来たり給う。その主の御国は終わることなからん。

また、生命の与え主(ぬし)なる主なる聖霊を。聖霊は聖父と聖子とより発出し、聖父と聖子と共に礼拝され、共に栄光を受け給い、予言者を通して語り給いし。また、一、聖、公、使徒継承の教会を信じ奉る。我は唯一の罪の赦しのための洗礼を宣言し、死者の蘇りと来世の生命とを待ち望み奉る。アーメン。

1863(995)私は使徒および教会の伝承、その他この教会の規定と憲章を固く認め、受入れ奉る。私は聖書を、聖にして母なる教会が今まで主張し、今も主張している意味に従って認め奉る。聖書の真の意味を決定し、解釈するのは教会の任務なり。私は、教父たちの一致した意見以外の意味で、聖書を受入れたり、解釈したりすることなからじ。

1864(996)全人類の救いのために、私たちの主イエズス・キリストが制定した新約の秘跡が七つなることを信じ奉る。すなわち、洗礼、堅信、聖体、告解、終油、叙階、婚姻の七つがあり、すべての人にすべての秘跡が必要ではないけれども、恩恵を与えるものなることを信じ奉る。洗礼、堅信、叙階を繰返して授けることは汚聖の罪であることを。上にあげた秘跡の荘厳な執行にあたって、カトリック教会が認めている儀式を受入れ、認め奉る。

1865原罪と義化について、トレント公会議において決議され、宣言された全体と各部分を信じ、受入れ奉る。

1866(997)ミサにおいて生者と死者のための真実で正しいなだめのいけにえが、天主にささげられること。至聖なる聖体の秘跡の中に真実に、現実に、実体的に私たちの主イエズス・キリストの体と血が、その魂と神性とともに実在すること。パンの全実質が体に、プド一滴の全実質が血に変化し、この変化をカトリック教会が全実体変化と呼んでいることを信じ奉る。一つの形色のもとにキリストの全体と真の秘跡を受けることを信じ奉る。

1867(998)練獄が存在し、そこに留められている霊魂を信者の代祷によって助けることができると固く信じ奉る。キリストとともに天国にいる聖人を尊敬し、彼らに祈りをささげるべきこと、また聖人は私たちのために天主に祈っていること、聖人の遺物を尊ぷべきことを信じ奉る。キリストと終生処女である天主の母および他の聖人たちの像を持ち、保存すべきであり、それに対してふさわしい栄誉と崇敬をささげるべきであると強く主張し奉る。免償の権力がキリストによって教会に残され、それを活用することはキリスト信者にとって非常に有益であると確信し奉る。

1868(999)聖、カトリック、使徒伝来のローマ教会は、すべてのキリスト教会の母であり、教師であることを承認し奉る。使徒たちの頭である聖ぺトロの後継者であり、イエズス・キリストの代理者である教皇にまことの服従を誓い奉る。

1869(1000)聖なる規定と諸公会議、特に聖なるトレント教会会議(およびバチカン公会議)によるすべての伝承、定義、宣言(特に教皇の首位権と不可謬権について)を疑うことなく受入れ、宣言し奉る。これに反するすべてのこと、および教会によって非難され、排斥され、呪われたすべての異端を、同じように非難、排斥し、呪う。

1870これなしには誰も救われることがない、この真のカトリックの信仰を、今ここに、私は自発的に宣言し、真実に信じ奉る。私(氏名)はこの信仰の全体を、天主の助けによって、最後の息を引きとるまで、傷つけることなく堅く守り、宣言し奉る。また私に従属する者および私が司牧している者たちによって、これが信じられ、教えられ、説かれるように、全力を尽くすことを誓い、約束し奉る。天主と天主の聖福音書が私を助けてくださるように。

Professio fidei Tridentina

Ego N. firma fide credo et profiteor omnia et singula, quae continentur in Symbolo, quo Sancta Romana ecclesia utitur, videlicet:

Credo in unum Deum, Patrem omnipotentem, factorem caeli et terrae, visibilium omnium et invisibilium. Et in unum Dominum Iesum Christum, Filium Dei unigenitum, et ex Patre natum ante omnia saecula. Deum de Deo, Lumen de Lumine, Deum verum de Deo vero, genitum non factum, consubstantialem Patri; per quem omnia facta sunt. Qui propter nos homines et propter nostram salutem descendit de caelis. Et incarnatus est de Spiritu Sancto ex Maria Virgine, et homo factus est. Crucifixus etiam pro nobis sub Pontio Pilato, passus et sepultus est, et resurrexit tertia die, secundum Scripturas, et ascendit in caelum, sedet ad dexteram Patris. Et iterum venturus est cum gloria, iudicare vivos et mortuos, cuius regni non erit finis. Et in Spiritum Sanctum, Dominum et vivificantem, qui ex Patre Filioque procedit. Qui cum Patre et Filio simul adoratur et conglorificatur: qui locutus est per prophetas. Et unam, sanctam, catholicam et apostolicam Ecclesiam. Confiteor unum baptisma in remissionem peccatorum. Et expecto resurrectionem mortuorum, et vitam venturi saeculi. Amen.

Apostolicas et Ecclesiasticas traditiones reliquasque eiusdem ecclesiae observationes et constitutiones firmissime admitto et amplector.

Item sacram Scripturam iuxta eum sensum1, quem tenuit et tenet sancta Mater Ecclesia, cuius est iudicare de vero sensu et interpretatione sacrarum Scripturarum, admitto; nec eam umquam nisi iuxta unanimem consensum Patrum, accipiam et interpretabor.

Profiteor quoque septem esse vere et proprie Sacramenta novae legis a Iesu Christo Domino nostro instituta, atque ad salutem humani generis, licet non omnia singulis, necessaria: scilicet Baptismum, Confirmationem, Eucharistiam, Paenitentiam, Extremam Unctionem, Ordinem et Matrimonium; illaque gratiam conferre; et ex his Baptismum, Confirmationem et Ordinem sine sacrilegio reiterari non posse. Receptos quoque et approbatos Ecclesiae catholicae ritus in supradictorum omnium Sacramentorum solemni administratione recipio et admitto.

Omnia et singula, quae de peccato originali et de iustificatione in sacrosancta Tridentina Synodo definita et declarata fuerunt, amplector et recipio.

Profiteor pariter, in Missa offerri Deo verum, proprium et propitiatorium sacrificium pro vivis et defunctis. Atque in sanctissimo Eucharistiae Sacramento esse vere, realiter et substantialiter Corpus et Sanguinem, una cum anima et divinitate Domini nostri Iesu Christi, fierique conversionem totius substantiae panis in Corpus ac totius substantiae vini in Sanguinem, quam conversionem Ecclesia catholica transubstantiationem appellat. Fateor etiam sub altera tantum specie totum atque integrum Christum verumque Sacramentum sumi.

Constanter teneo, Purgatorium esse, animasque ibi detentas fidelium suffragiis iuvari. Similiter et Sanctos, una cum Christo regnantes, venerandos atque invocandos esse, eosque orationes Deo pro nobis offerre, atque eorum reliquias esse venerandas. Firmiter2 assero, imagines Christi ac Deiparae semper Virginis, necnon aliorum Sanctorum habendas et retinendas esse, atque eis debitum honorem et venerationem impertiendam.

Indulgentiarum etiam potestatem a Christo in Ecclesia relictam fuisse, illarumque usum Christiano populo maxime salutarem esse affirmo.

Sanctam, catholicam et apostolicam Romanam Ecclesiam3 omnium ecclesiarum matrem et magistram agnosco, Romanoque Pontifici, beati Petri Apostolorum principis successori, ac Iesu Christi Vicario, veram oboedientiam spondeo ac iuro.

Cetera item omnia a sacris canonibus et oecumenicis Conciliis, ac praecipue a sacrosancta Tridentina Synodo, et ab oecumenico Concilio Vaticano tradita, definita et declarata, praesertim de Romani Pontificis Primatu et infallibili Magisterio, indubitanter recipio ac profiteor; simulque contraria omnia, atque haereses quascumque ab Ecclesia damnatas et reiectas et anathematizatas ego pariter damno, reicio, et anathematizo.

Hanc veram Catholicam Fidem, extra quam nemo salvus esse potest, quam in praesenti sponte profiteor et veraciter teneo, eandem integram, et immaculatam4 usque ad extremum vitae spiritum, constantissime, Deo adiuvante, retinere et confiteri, atque a meis subditis, vel5 illis, quorum cura ad me in munere meo spectabit, teneri, doceri et praedicari, quantum in me erit, curaturum, ego idem N. spondeo, voveo ac iuro. Sic me Deus adiuvet et haec sancta Dei Evangelia.

Latin from:
"Manuale Sacerdotum", Schneider, Joseph, S. J., 1867.
"Florilegium Sue Fasciculus Precum et Indulgentiarum", De Schrevel, A. C., Legrand, A., Editio Tertia, 1933.
"Enchiridion Symbolorum", Denzinger, 2001.

1 "sensum eum" in the Manuale.
2 "Firmissime" in the Manuale.
3 "Ecclesiam Romanam" in the Manuale.
4 "inviolatam" in the Manuale.
5 "seu" in the Florilegiu


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ローズ胡美玉 さんの「苦しみの中の喜び」


天主様に感謝!

2013年01月13日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 新年初めての日本での聖伝のミサは、天主様の御恵みにより、大阪で、1月11日(金)は18人、12日は、24人の方(両日とも司祭を除く人数)が御ミサに与る事ができました。デオグラチアス!!!

 また、東京では、今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りでした。

ミサの参列者数
男: 20人(内、子供2人)
女: 23人(内、子供5人)
計: 43人(内、子供7人)
天主様に感謝します。

 明日は成人の日で、東京でのミサ聖祭は朝8時からになります。成人を迎える方々が、私たちの主イエズス・キリストのことを知り、イエズス・キリストを愛し従い、ついには聖人となりますように!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


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ローズ胡美玉 さんの「苦しみの中の喜び」







最近の試練から引き出せる有益な教訓(デ・ガラレタ司教様の講話)その2

2013年01月09日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 昨年は、復活祭の後に、マニラの修道院のためにトヨタのイノヴァ(Innova)という車(新車)を購入することがでいました。そのために援助をして下さった愛する兄弟姉妹の皆様に深く感謝いたします。ご報告が遅れてしまい申し訳ありません。

 さて、デ・ガラレタ司教様が昨年の10月になさった「最近の試練から引き出せる有益な教訓」と題されるお説教の続きをご紹介します。


General Chapter 2012 Econe


Econe Nov 1, 2012


天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


最近の試練から引き出せる有益な教訓 その2


総会(二〇一二年七月九日-十四日)

 そして総会が開かれました。皆さんにあまり多くのことをこと細かにお伝えすることはできません。守秘義務がそれを許さないからです。ですが、フェレー司教様ご自身がすでにいくつかの事柄を明かしました。本質的要素の一部は総会の最終宣言に明記されました。これらは皆さんがすでにご存知の条件です。私が皆さんにお伝えできることは、み摂理が総会の間中、明確に、はっきりと感じられるほどにお助けくださったということです。

 総会は非常にうまくいきました。皆さんに非常に率直に伝えます。私たちは落ち着いて、自由に、隠し立てせずに話すことができました。きわめて重要な諸問題を話し合うことができました。元来の議論する予定だった他の幾つかの議題は省略しなければならなかったのですが。

 私たちは討論のために必要な全ての時間を取り、互いの見方を比較し合いました。それは同じ修道会、同じ軍隊のメンバーの間においてとても相応しいことです。そうして何らの問題もありません。聖ピオ十世会は女学校ではありませんから。そうでしょう? そして、時たま私たちの間に論争があるとしても、誰もそれをもって大事(おおごと)にしてはなりません。ピ枢機卿が、十九世紀にフランスで司教たちとともの公開討論を支援する時のお言葉を読んで下さい。枢機卿は司教たちに討論は正当なことだと納得させ、理由を説明し、これは戦いである、だからあなた方は討論をするのだ! と述べています。ですから、誰もこの討論から悲劇を作り出してはなりません。

 もしも悲劇があるならその悲劇とは、信仰を投げ出すことです。あれやこれやのことについて、賢明な判断に関する議題について、討論があるのは当たり前のことです。さまざまな側面があり、人間の気質があり、状況があります……。非常に複雑です。「さあ、剣の一降りで私が問題を一挙に解決してみせよう」といって、【アレクサンドロス大王がしたように】ゴルディオンの結び目という難題を一刀両断にはできません。無理です!

 総会は開かれました。皆さんに告げたように、私たちが味わったこの試練から、実際にいくつかの有用な教訓を引き出しました。それは完全ではないにしてもです。完全ではないということは、心に留め置くべきもう一つの側面です。人生において、あらゆることは不完全な状況の中で起きます。教会の歴史を見て下さい! 私たちはこの世にありもしない完全さを要求するべきではありませんが、私たちは、本質部分に、大切な論点にしっかりと眼を据えなければなりません。その他のことについて皆さんは多くの物事を成り行きに任せますね。家庭生活においてそのようにしないでしょうか? もちろんそうなさるでしょう。そうでなければ、この世では、人生では、私たちの間においてすら、何も持ちこたえられないのです。

「ああその通りです、でも……!」と憂慮する人々がいます。問題と状況の複雑さを理解する必要があります。そして、一時の激情が果たした役割もあるということを忘れてはなりません。それらは私たちの間にさえあります。私が今このようなことを述べ立てているその理由は、私の意見によれば、私たちはこの問題の数々についてあら探しをしてはならない、ということです。物事の本質がそこにあるか、ないかということを見なければなりません。

 私の見るところ、私たちは本当に危機を克服し、くぐり抜けました。私たちがそうしなければならないやり方において、特に、現実的手段という点においてです。討論のおかげで、私たちは面と向かい合って論点の数々を明確にし、議論をよく品定めすることができました。論点のあらゆる側面のもとで、論点を通じて分類することができました。 状況をもっと完全に見抜き、状況を明確にすることができました。皆さんが試練から学び取るなら、これが試練の良いところです。

 このきわめて重要な建設的な話し合いを土台に、私たちは、仮定上あり得るかも知れない教会法上の正常化ができるための諸条件を定めました。このことに関して皆さんがじっくりと考察するなら、私たちがやり遂げたことは、実際条件を生み出すため、教義上そして典礼上の全体的疑問を取り上げたということです、

あり得るかも知れない教会法的正常化のための諸条件

 皆さんにお話ししたように、今のところ確かにそれは完全ではありません。そして私たち自身、そのことを総会の後、早々に理解しました。必須条件と望ましい条件の間の区別はあまり正確ではなかったし……望ましくもありませんでした。実際私たちに関しては、私たちが望ましいものとして指し示した条件の間に、必須条件らがあるのですが、しかし、むしろ実際的、教会法上の、具体的なレベルにおいてのことです。聖ピオ十世会本部は、この総会の前から、ローマにこれらの諸条件を前々から既に要求していました。そしてそのほとんどの部分に対して──繰り返された、そして多くの堂々巡りの論争ののち──ローマはそれらを譲歩しようとしていたことです。それは現時点でさえです。しかし総会の目的と関心は、結果を明確に決めることではなく、つまり、それを保証するものというよりも、むしろ、私たちが今まで明確に定義づけてこなかった本質的必要条件をはっきりとさせることでした。

 言い換えれば、或る教皇様が、聖ピオ十世会と本当に合意に達することを望むような未来の教皇様が出た場合、教義上のレベルでの諸条件はどうなるのかということです。教義に関する、信仰への忠誠、聖伝への忠誠、信仰を公に告白するという忠誠、誤謬を広げる者たちが、たとえ聖職の権威者であっても、これに対して公の抵抗するという忠誠に関する教義のレベルでのことです。これが、私たちが相当な厳格さで最初の二つの必須条件を定義づけたポイントです。

そして、言うまでもなく、すべてがそこにあります。皆さんのためにもう一度読み上げましょう。

第一に、「公教会の連綿と続く教導職の聖なる教義、天主より与えられた聖伝の不変の聖なる教義を保ち、伝え、教えるための自由」とあります。この言い方は、実際、きわめて正確な表現でありながらも、皆さんにはいささかも難しく思われることは確かです。「保つ」とは、私たちを承認なさるような教皇様の側から、いかなる正常化においても、その保証が私たちにある、ということです。言い換えるなら、私たちが聖なる教義、聖なる不変の教導職の教義を保ち、伝え、教えることができるということを、書面での同意書で、私たちに保証することです。なぜなら、ローマ当局は教導職について進化する概念を持っているからです。私たちが「教導職」と言うだけでは充分ではありません。「すべての時代の教導職」としても、当局の用語ではまだ曖昧です。そこで私たちは「天主より与えられた聖伝の、不変の真理」と明確に述べました。

なぜ「不変の真理」なのか? 彼らにとって、聖伝とは生きており、絶えず動いているものだからです……。ほぼ一年半の間、ローマ委員会との議論を経験したおかげで、こういった非常に厳格な言葉になったということが、皆さんにはお分かりでしょう。最初のポイントを続けましょう。「真理を守り、第二ヴァチカン公会議の誤謬や近代主義、進歩主義の新規さとその結果を促進する人々を、公にすら正し、改善させるための自由」これに何かを加えることは困難であろうと私は思います。すべてがここに言われています。これが、誤謬を認識し、それらを公に攻撃するための自由、否定され弱められた真理の数々を公に教えるための自由、それだけでなく、公に誤謬を広めた人々、聖職の権威者たちでさえも反対するための、私たちの自由なのです。

どんな誤謬でしょうか? 近代主義、進歩主義の誤謬です。つまり、第二ヴァチカン公会議とそこから生じた改革の誤謬、また教義上、典礼上あるいは教会法的規律のいくつもの結果として生じた改革の誤謬です。すべてがそこで言われています。公的な抵抗さえもです。ある明確な点に至るまで、新教会法に至るまで含まれています。新教会法が、団体主義的な、エキュメニカルな、ペルソナ主義的な精神などに染まっていることを含んでいます。すべてがそこで言われています。

次に、第二のポイントです。「一九六二年版の典礼書のみをその他は排除的に(exclusively)を使用すること」それゆえに、ミサだけでなく一九六二年の典礼全体をということです。つまり、あらゆるもの、司教儀式書(ポンティフィカーレ)さえもです。私たちが現在実践している、叙階、堅信、そして婚姻に関するものを含む秘跡の執行を保持することです。

 ここで言っていることは、つまり、万一、合意あるいは承認の場合に、多かれ少なかれ近代主義が存在し続ける状況での、現実的で実行可能の自由を私たちが真実に所有するために必要な、秘跡の、そして教会法上の執行の様相の一部が含められているということが、分かりますね。私たちは、必要ならば、条件付き叙階を執行します。必要ならば条件付き堅信をも施します。そして婚姻の秘跡に関して、言うまでもなく、無効となる新しい原因の数々を受け入れません。

 そして、必須条件の中にはさらにこうあります。少なくとも一人の司教を保証すること。おわかりでしょう。これは完全ではないと皆さんに言いました。というのは、数名の補佐司教と、一人の高位聖職者を要求しなければならないという事実について、私たち全員一致しているからです。私たち全員一致しており、何の疑問もありません。これは以前は問題にならなかったことであり、今も問題ではありません。ですから、これに関してあら探しをすべきではありません。

 他方で、私たちは問題が何なのかを定義しました。私たちの側ではっきりと定義づけられていなかったという事実のためです。そして、ローマの側の矛盾した伝達があったためです。

 今回の総会では以下のことも決定されました。この諸条件に関して価値ある益となる何かを本部が獲得したなら、それを審議する総会が開かれるでしょう。つまり、その決定は、必ず聖ピオ十世会会員を拘束する性格を持つ総会です。諮問するだけの総会が開かれるのなら、総長は助言を求めますが、決定は彼が自由にすることが出来ます。審議の総会とは、絶対多数──投票総数の半分以上、それが私たちにとって合理的に思えるからです──によってなされた決定を、聖ピオ十世会は支持する、ということになります。

 最近の総会が証明したように、私たちが顔と顔をつき合わせて話し合うことができたその日に、なるべくしてなったように、私たちは味わった誤解の数々を克服しました。ローマから得られるだろうものを承認することを可能とするために、審議的総会は非常に賢明な満足いく手段であることは明らかです。というのは、聖ピオ十世会の長上たちの大部分をもってして、──率直な議論を経た後、すべての側面をすべての内側と外側を徹底的な分析したのち──大多数の長上らが賢明に関する事柄において間違えるかも知れないとは、ほぼ不可能なことだからです、考えられないことだからです。

 この人生において絶対的な保証はありません。個人的な──自分自身を始め──その人が明日することに関して、あらゆる可能な保証を持つ人はいないからです。

 ですから、総会は私たちが陥っていた膠着状態を破るため、おおむね適切なものです。というのは、皆さんが注意深く調べてみるなら、総会において、私たちはまさしくローマがしたと同じように諸条件を据えたからですが、それは正反対の意味においてです。

 つまり、ローマは私たちにこのことを求め、そして私たちは反対のことを要求しました。言うまでもなく合意の可能性はさらに低くなります。が、最も重要なことは、危険を伴う悪い合意は決定的に撤回されたというのが私の意見です。「決定的」とは永久的なものではなく、ただ今回のことを指します。

 私たちは自分たちの間での分裂をも回避しました。大変な難題です。にもかかわらず、そのことを考える、ことは必要でした。つまり、私たちが、聖ピオ十世会の中で、協力している修道会らにおいて、いくつもの家庭において、私たちすべてを分裂させていたという理解することは必要でした。

私たちは戦いにおいて強力であるので、私たちは躍起になって、むきになって、互いを引き裂いてしまったかもしれないからです。想像がつくでしょう! これがまさに現実でした。しかし私たちの間の理解のおかげで、完璧ではないにせよこの決定のおかげで、私たちが守っているものにとって、真の信仰にとって、私たちの戦いにとって、先人たるルフェーブル大司教様とカストロ・メイヤー司教様にとって、不名誉の形を取るかもしれなかった分裂を克服しました。


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最近の試練から引き出せる有益な教訓(デ・ガラレタ司教様の講話)

2013年01月02日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 新年あけましておめでとうございます。
 今日は、私たちの主イエズス・キリストの聖名の祝日です。お慶び申し上げます。遅れましたが、私たちの主イエズス・キリストの御降誕のお喜びを申し上げます。

 今年のクリスマスは、ソウルで過ごしました。日本からソウルの新しい聖堂でミサ聖祭に与れた方々がおられ、心からうれしく思いました。ソウルでのクリスマスは多くの愛する兄弟姉妹の皆様が来られ、聖堂に全員入りきれない感じでした。天主様に感謝します!

 クリスマスの直後はすぐにマニラに戻らなければなりませんでした。何故なら男性のために、聖イグナチオによる霊操の黙想会が予定されていたからです。12名の男性が黙想会に参加しました。天主様に感謝!

 さて、デ・ガラレタ司教様が昨年の10月になさった「最近の試練から引き出せる有益な教訓」と題される御講話を訳して下さった方がおられます。深い感謝を込めて愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介します。

 フランス語の原文英語訳があります。音声はここをどうぞ。

 デ・ガラレタ司教様も言うとおり、私たちは天主様の御助けを得て、罪に対して闘わなければなりません。天主様の側についていなければなりません。私たちは、続けて第二バチカン公会議の中にある誤謬を指摘し続けるつもりです。天主様の御助けを持って聖伝のカトリック信仰を守るつもりです。

 聖ピオ十世会2012年の総会では、今年の3月19日に聖ピオ十世会を聖ヨゼフに奉献することが決議されました。願わくは聖ヨゼフが、幼きイエズスを命の危険から守ったように、いつも聖ピオ十世会を守り給うように!

 クチュール神父様はアジア管区において2013年を「ルフェーブル大司教の年」とすることを望んでいます。願わくは、天主様の御助けにより、聖ピオ十世会がいつものように創立者ルフェーブル大司教様の足跡を忠実にたどり続けますように!

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


最近の試練から引き出せる有益な教訓


 二〇一二年十月十三日土曜日、フランスのヴィルプル(Villepreux)での「聖伝の日」に際し、アルフォンソ・デ・ガラレタ司教は今回の霊的講話を行った。司教は聖ピオ十世会とローマの関係状態を講話において分析している。

親愛なる同僚の皆さん、修道者の皆さん、いとも親愛なる信者の皆さん、友人の皆さん、

皆さんに次のことをお話しするつもりです。すなわち、キリスト者の、霊的な、カトリックの"軍隊"の性質について、信仰のための戦いが引き受けなければならない条件についてお話しし、ローマに対する聖ピオ十世会の状態について、二、三のことをはっきりと告げたいと思います。

ヨブ記にはこうあります。「Militia est vita hominis super terram et sicut dies mercenarii dies ejus この世にいることは人にとって兵役であり、その日々は日雇い軍人の日々のようだ」(ヨブ七章一節)。この聖書のヨブ記にある言葉は、非常に興味深いイメージを提供してくれます。

地上のすべての人間の人生が戦いならば、洗礼と堅信の秘跡を受け、それゆえに王たるキリストのための戦いに従事するカトリック信者、キリスト信者の人生は、ましてやそうであります。すべてのキリスト信者の人生が戦いならば、今日のキリスト信者の人生は、何にも増して、もがき苦しむことであり、戦いであり、尽力することであろうと思います。

この一節に、私たちは戦いの必然性が述べられているのだとわかります。つまりそれは必要なことであり、私たち人間とはそういうものであり、それは目新しいことではありません。いつでもどこでも、人々は戦わなければなりませんでした。人生には戦いがありますが、なによりもまず、永遠を勝ち取るための戦いが存在し、それは多くのことを暗示しています。

これこそ闘争の精神が必要な理由です。兵士の側に求められることは何でしょうか? 間違いなく奮闘する能力、戦う能力、そして勇猛果敢であることです。

この短い一文は、み摂理に触れています。兵士と傭兵の両者は雇い主に奉仕する者であるからです。ですから、私たちは天主のために戦い、聖主イエズス・キリストのために格闘するのです。聖主イエズス・キリストは私たちの長であり、師でありますが、また歴史の主でもあります。そして聖主のみ摂理は、あらゆる細かい個々の状況を治め給うのです。

十字架の聖ヨハネは、すべてのことはみ摂理であると言っています。私たちの上に起きるすべてのことは、み摂理によって完全に意図され、入念なやり方で私たちに送られる、という意味においてです。

信仰の戦いの超自然的見方

そこで、兵士と傭兵は勝利のためにもがき、戦います。そして地上での人生が戦いならば、それはつまり、勝利はこの地上で得るものではないということなのです。私たちの全生涯が戦いならば、私たちの勝利は永遠において存在するということなのです。

私たちは、この超自然的な、信仰に満ちた目で戦いを眺め続けなければならない、と思います。

私たちはこの地上における人生で、永遠の冠のためにもがき苦しみます。しかし、それは兵士でなくなるということではありません。キリスト信者、カトリック信者は、この戦いは、この人生において遂行するものであると知っており、それは非常に現実的であり、信者は戦わなければなりません。しかし、私たちは決定的な勝利は永遠において見いだされると知っているので、天主がお望みでないなら、この人生においては勝利を得ることを、言わば本当には必要としません。私たちの勝利は、最終的に、私たちと私たちの大切な人々にとっての永遠を勝ち取ることであるからです。

その上、ヨブ記のこの短い一節は、この戦いの別の側面を私たちに教えています。例えばこうです。それは骨の折れること──文字通り、骨の折れることです。信仰のための戦い、超自然の霊的戦いは、この人生において、苦しみと試練、矛盾、そして敗北すら、もたらすからです。

アヴィラの聖テレジアの大変美しい一節があります。キリスト信者に求められることは、勝利することではなくもがき苦しむことである、と聖女は述べ、むしろ、信仰のための戦いが、すでにキリスト信者の勝利であると教えています。

別のある著者はこう述べました。実際、天主は私たちの勝利を求めてはいない。むしろ、私たちが打ち負かされないことをお求めになると。この省察はきわめて興味深いものです。この言葉が今日の教会の危機に対してどれほどうまくあてはまるものであるかを皆さんはご存知です。

天主は私たちに征服することを要求しません。天主は、お望みならば、お望みになる時、お望みのままに勝利をお与えになるお方です。それは天主にはまったく雑作もないことです。ですが天主が私たちにお求めになることは、私たちが所有している善を守ることであり、屈服しないことなのです。

ピ枢機卿の教え

皆さんに読み聞かせたい、ピ枢機卿の言われた一節があります。これは信仰と指導に満ちており、非常にみごとに表現されています。
「イドメアの賢者が言った。『地上の人間の一生は戦いである』(ヨブ記七章一節) この真理は、個人に劣らず社会にあてはまる。すべてのアダムの子らは、二つの本質的なはっきりと異なる実体から作られたので、その身の内に、イザクの妻[レベッカ]のように、反発しいがみ合う二人の人間を抱えている(創世記二十五章二十二節)。この二人の人間、言ってみれば、この二つの本性は相反する性質と傾向を持っている。地上的な人間は感覚の法則に引きずられて、天的な人間に反抗し、絶え間なく反乱している。天的な人間は霊的な法則に支配される。(ガラツィア五章十七節)。これは深く根を下ろした反感である。この反感は、地上では霊の恥ずべき背信によってのみ終わりを告げる。霊の武器を肉へと委ね、それ自身を後者(肉)の決定権に置くことで、である」[1]

というわけで、この戦いの中で "平和" を実現する唯一の方法、つまり平和主義を実践する唯一の方法は肉が勝利することです。そして私たちがこの "平和" を望まないなら死の時まで戦わなければなりません。

何故なら凱旋は来世において存在するからです。これはまさしくピ枢機卿が、以下のように私たちに告げていることです。

これはまさしくピ枢機卿が、以下のように私たちに告げていることです。

「兄弟たちよ、従ってこう言おう。地上における人間の生涯、徳のある人生、義務を果たす人生は、気高い同盟との戦いであり、恩寵という友軍の支えに助けられ、あらゆる肉と世間と地獄の統一勢力に反対する、私たちの霊魂のすべての能力をもってする聖なる十字軍である。すなわち、この世にいる人間の一生は、兵役である。Militia est vita hominis super terram. 」

これが私たちのための戦いです。が、それは社会的な公の戦いでもあります。
「さて、この同じ競争要素を、この同じ対立勢力を、もはや個人的な人間のうちにではなく、むしろ社会と呼ばれる人間の集合体のうちに認めるようになるなら、そのとき、その奮闘はさらに重要な割合を占める」とポワティエの司教(ピ枢機卿)は言い、聖書の創世記をこう引用しました。
「 『すると主はレベッカにこう仰せられた。おまえの胎内には、二つの民がいる。おまえから出る二つの民は、離れ去る。一方の民は他の民よりも強く、兄は、弟に仕えるだろう』(創世記二十五章二十三節)

だから、兄弟たちよ、人類は二つの民から成り立っている。霊的人間と物質的人間である。気高く、彼に関して高められたあらゆるものが付属している霊魂の典型のように思われる人間たちである。もう片方は、地上的なあらゆる粗暴さを身につけた肉を提示している。一民族に襲いかかる最大の不運は、この二つの相反する力の狭間での停戦である。この停戦は異教に見いだされた。

聖霊は(聖書の中で)、このあるまじき降伏に引き続く、ありとあらゆる社会的・家庭的悪を、私たちに描き出し(知恵の書十四章)*、この最後の一筆、以下の事実で描写を完成させている。つまり、戦争よりも何千倍も致命的となったよどみの中にたゆたう人間は、あれほど多くの巨悪を「平和」と名づけるほど、みずからを欺いたのだ、と。」
これは正確に現代のありさまを描写しているではありませんか? 平和、平和、平和!と。

*「その生活を幾度も戦いに投げ込んだのに、無知はそれほどの悪を平和とさえ呼んだ」(知恵の書14:22)

「致命的な無感覚」と、ピ枢機卿は続けます。「それは死の無感覚、沈黙、墓の中の死体をかじる虫たちの静かな動きに肩を並べるべき陰鬱な平和に他ならない」

「天主のおん子が、平和ではなく剣を持ち込んでお下りになった時、人類はこの屈辱と不道徳のありさまで惨めにやつれていた(マテオ十章三十四節)。創造主なる天主は、人間が肉に対して戦うことができるように、人類の手の中にこの霊の剣を置いた。だが、人間は恥ずべきことに、その手から剣を取り落としてしまった。私以前に他の人々が述べたと同じように[2]、イエズス・キリストは、長いこと捨て置かれていた埃まみれの地からその剣を拾い上げた。
その剣をキリストのおん血に浸した後、いわば、キリストご自身のおん体で試した後、以前よりも鋭利なものにして、キリストが地上に打ち立てるために来た新しい民に対し剣をお返しになった。そうして、人間性の中の霊と肉の間にある敵意の再びのせめぎ合いが始まり、それは世の終わりまで決して止むことはない。すなわち、Non veni pacem mittere, sed gladium 私は平和ではなく、剣をもたらすために来た」

これがピ枢機卿の言われた長い一節ですが、すべてが言い尽くされている、すべてのことが非常にうまく説明されていると言える、と皆さんにはおわかりでしょう。ヨブが語り、天主のみことばである、この戦いの必然性は、単に個人の内面の衝突というだけでなく、家庭や学校に限定されず、本質的に社会、政治そして宗教的戦いでもあるのです。二つの精神、二つの民があります。私たちはこの避け難い戦いに従事しなければならず、その戦いを続けなければなりません。

私の考えでは、この描写は皆さんに以下のことをよく理解させてくれると思っています。つまり、信仰の戦いとは何か、カトリック信仰の戦い、市民社会のただ中でのキリスト者の戦い、この背教のただ中にある、教会のこの恐るべき危機における聖伝の戦いとは、一体何であるのか、ということをです。

そこで、今から最近の諍い、私たちがこの一年にくぐり抜けた、非常に困難な諍いに関して省察してみましょう──本当のことを言いますと、今までと同じである敵のため、ではなく、私たちの間の意見の相違、まったく論理的な、説明可能な、人間的な相違のために生じた困難さがありました。私たちが全員人間であると分かったからといって、みずからの衣を引き裂く(憤怒に嘆く)必要はありません。私たちには他の人々と同じような限界があります。原罪以来ずっとあること、つまり、無知、悪意、脆弱、という根源的な意味においてです。

これが実のところ、事実上、過去一年の間に起きたすべての困難の原因です。私たちの間のいくつもの困難と試練、それはまた、最大の困難と最大の苦渋に満ちた試練です。だからこそ私たちはこのことを軽く受け止めてはならず、ましてぞんざいに解決することもしてはなりません。これはちょっとした家族間の衝突のようなものです。つまり、多くの気配り、愛徳、分別、巧みな知恵とともに解決されねばなりません。が、確実に解決されるはずです!

ローマと私たちの関係の今日に至るまでの要約

私が考えていることを皆さんにお伝えしたく思います。この危機において、私たちは多くのさまざまな意見、対立する意見、そしてたぶん、今もなお数名の脱会者を出していると聞いているからです。そこで私はこう独り言を言いました。少なくとも私の考えを皆さんに知ってもらうべきであると。ですので、自分の立場を説明するために二、三の事実を手早く、もう一度振り返ってみましょう。

つまり、簡単にこれまでのことを、ロザリオ十字軍の終了から始めて説明します。一二〇万環のロザリオをお捧げするという目標の祈りの運動、この運動は今年の聖霊降臨の祝日をもって終わりました。この十字軍の終わりに、私たちはローマから三つの返答を受け取りました。次々とです。その時には、聖ピオ十世会の(教義上の宣言のための)提案書、それは四月に提出されたものですが、その提案書はローマにありました。そして、聖霊降臨の祝日の後、私たちは教理聖省から最初の返答を受け取りました。

この返答の中で、ローマ当局ははっきりと私たちの提案書を拒絶し、受け入れないと告げました。そしていくつかの訂正を施す結果となった、と告げました。それをまとめるとこのようなものです。第二ヴァチカン公会議受け入れる必要がある、新ミサの適法性(liceity)を受け入れる必要がある、現在の教導職、つまり、聖伝の正真正銘の解釈者、であるがゆえに、現在の当局が何が聖伝で聖伝でないかを述べるということを受け入れなければならない、新教会法を受け入れなければならない等々。これが当局の返答でした。

その時、私はこれはみ摂理のお応えであったと思いますが、ミュラー大司教の任命がありました。彼らはミュラー大司教を教理聖省長官、また同時に聖ピオ十世会と接触中のエクレジア・デイ委員会長官に任命しました。おお!この聖省の長官とエクレジア・デイ委員会委員長に任命されたこの大司教は──加えて、彼が信仰の真理の数ヶ所に疑問を投げかけたという事実があります──今日では信仰の擁護者なのです。

この方は、実は、聖ピオ十世会と古くからの面識があります。彼はツァイツコーフェンの私たちの神学校がある教区、レーゲンスブルクの司教でしたし、私たちはすでにこの大司教との間に困難や対立を抱えていました。三年前、大司教は、ツァイツコーフェンでの叙階式を執行する予定だった司教を、破門するぞと脅迫しましたが、その際の当事者は私でした。

従って、大司教は破門すると私を脅し、司祭叙階される予定の未来の司祭である助祭たちも脅しました。その後、彼は脅迫を撤回しましたが、この方が私たちへの尊敬も好意も持っていないことは明らかです。彼はすでにこう言っていました。聖ピオ十世会の司教たちがするべき唯一のことは、教皇様に自分たちの司教職を辞職して返上し、修道院に引っ込んで沈黙することだと。なんとも情け容赦のない方ではありませんか? そして、大司教はきわめて素っ気なく言いました。私たちはとにかく公会議を受け入れなければならない、これがすべてだと。議論すべきことは、もはや何一つありませんでした。

私たちが聖霊の照らしを待っていたちょうどその時答えを得た
ところで、総会の前に、総長様は教皇様に手紙を書きました。どちらが本当に教皇様の返答であるのかを見極めるためにです。私たちが経験した問題の大部分は、ローマからの矛盾した伝達があったという事実に起因するからです。

つまり、当局の数名は私たちにこう告げていました。「教理聖省からの返答は公的なものである。聖省の人々は彼らの職務を行っている、だがそれは無視すればよろしい。ただ書類は保管しておきなさい。とにかく我々は合意を望んでいる。貴会が今あるまま、貴会を承認することを望んでいる」と。

ですが、教理聖省の返答とミュラー大司教の任命は、この二回目の伝達と一致していませんでした。そこで、事態の真相を得るため、フェレー司教様はどちらが教皇様の返答、教皇様のお考えなのかを見極めるため手紙を書いたのです。総会の直前、総会よりも先に行われた黙想会の間に、総長様は返答を受け取りました──これは教皇様からフェレー司教様に与えられた最初の返答でした──フェレー司教様は私たちに、日曜日、黙想会の終わりに会食の時に、こう言いました。"ここに私が教皇様から受け取った手紙があります。その中で、教皇様は教理聖省の返答は間違いなくご自分の返答であると確認し、認めておられます。そして教皇様は教理聖省の要求、教会法的承認のための必須条件を喚起し、三つのポイントにまとめてこられました。
1) 現在の教導職──つまり、ローマ当局が、聖伝の正銘な解釈者であることを承認すること、
2) 第二ヴァチカン公会議は完全に聖伝と一致しており、それを受諾しなければならないこと、
3) 聖ピオ十世会は新しいミサの有効性(validity)と適法性(liceity)を受諾しなければならないこと、

彼らは「適法性」(licéité)と書きました。──フランス語では、licéité という言葉は多分に曖昧な意味を含んでいます──彼らにとって、それは単に「法に適っている」、あらゆる法の形式に則ったものを指しているに過ぎませんが、教会法の用語では、それはもっと深い意味を含み、事実上の掟、法的効力を持つものであるということになるのです。しかしながら、教会はカトリック信仰に反するいかなる法も持てません。そういう意味では、私たちは典礼改革と新ミサの適法性についてあらゆる議論をし尽くしました。なぜなら、それは教会内で法的効力を持ち得ないからです。それは不可能です。信仰に反するからです。新しいミサとともに当局は信仰を破壊しているからです。そして当局は実際に「有効性と適法性」と書いてきたのです。

つまり、私たちの戦いにおいて本質であるすべてのことに関して──二つの民、二つの霊の間の戦い──降参し、裏切ることが必然であったということがおわかりでしょう。そのとき、明らかにこのポイントについて、み摂理は私たちのために総会への道しるべを示してくれました。ローマのほうこそ、こう言ってきたのですから。「いや、私たちは、教義的なレベルに留まる。聖ピオ十世会は現在までに拒否したすべてのことを受け入れよ」と。
(続く)


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