アヴェ・マリア!
愛する兄弟姉妹の皆様、
今年の1月21日は、このブログを開始して満7年になります。愛する兄弟姉妹の皆様のご愛読を感謝します。
今回は、第二バチカン公会議の「信教の自由」について、もう一度考察してみることを提案します。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
「信教の自由」とは?
第二バチカン公会議の『信教の自由に関する宣言』(DIGNITATIS HUMANAE)の第2パラグラフによれば、「信教の自由」とは次の通りです。
「この自由は、すべての人間が、個人あるいは社会的団体、その他すべての人間的権力の強制を免れ、したがって、宗教問題においても、何人も、自分の確信に反して行動するよう強制されることなく、また私的あるいは公的に、単独にあるいは団体の一員として、正しい範囲内で自分の確信にしたがって行動するのを妨げられないところにある。」
【ラテン語原文は次の通り。】
Huiusmodi libertas in eo consistit, quod omnes homines debent immunes esse a coercitione ex parte sive singulorum sive coetuum socialium et cuiusvis potestatis humanae, et ita quidem ut in re religiosa neque aliquis cogatur ad agendum contra suam conscientiam neque impediatur, quominus iuxta suam conscientiam agat privatim et publice, vel solus vel aliis consociatus, intra debitos limites.
「行動するよう強制されない」と「行動するのを妨げられない」との違いは?
「自分の確信に反して行動するよう強制されない」(ne aliquis cogatur ad agendum contra suam conscientiam)とは、誰も或る信仰箇条を強制によって押し付けられない、或いは、刑罰やその他の脅迫によって、自分の宗教以外の礼拝に参加するのを強制されない、ということです。
このことはカトリック教会は常に認めてきていました。この部分に関しては、第二バチカン公会議の「信教の自由に関する宣言」に書かれている内容は、カトリック教会の聖伝に合致しています。聖ピオ十世が制定しベネディクト十五世が1917年に発布したカトリック教会法典の中にもそのことが書かれています。曰く、Can 1351. Ad amplexandam fidem catholicam nemo invitus cogatur.
【試訳:何人も不本意にカトリック信仰を受け入れるように強制されない。】
さて、
「自分の確信にしたがって行動するのを妨げられない」(nee impediatur iuxta suam conscientiam agat)ということは、或る特別な市民法(Ius civile)によって、例えば、或る特定の宗教の寺院を建設することや、或る特定の宗教行事に参加すること、或る特定の宗派による学校を創立すること、普通のプロパガンダにより或る特定の宗教が宣伝活動をすることなどが妨げられないこと、を意味します。
この後者について言えば、カトリック教会は第二バチカン公会議以前には、特定の状況下においては、或る範囲内で、国家がそのような状況を黙認(寛容)する態度【Tolerantia】を取ることを承認していました。更には、国家がこのような状況が立法によって、市民法によって保護することさえ、カトリック教会は認めてきていました。しかし、カトリック教会は、これを「自然法」(Ius naturale) として認めたことはありませんでした。
自然法としての信教の自由は、唯一、真の天主に対する真の礼拝であるとカトリック教会が認める礼拝を実践する人々にのみ属するものであるからです。つまり、カトリックの宗教を実践することのみを自然法としての信教の自由として認めてきていました。何故なら真理のみが正しいこととして権利を持つからです。
「市民法」と「自然法」との違いは?
自然法は、人間の自然本性と人間本性に由来する義務に基づいて言います。人間は、天主による被造物であるので、人間には被造物としての義務、つまり宗教の義務があります。従って、この真の天主に対する真の礼拝を行う義務があるゆえに、人間には天主に礼拝をする自然法としての権利(ius naturale)があります。もちろん、真の天主に対して真の礼拝をするという権利(ius)です。
言わば、自然法とは常に真なるもの、善なるものに関わっています。自然の理と真の天主に合致することがらに関わるものです。
それに対して、市民法は、社会として、家族として、共に生活している市民の共通善の要求するところに基礎をおいています。本来ならしかじかであるべきところが、罪が存在するために、誤謬が存在するために、偽りの宗教が存在するために、しかしながら市民社会の平和と安寧のために、市民法は、真理と本当の善とから離れることを「黙認」(寛容)するような法を書き込むことが許されています。それは、「悪を避け、善へと導き、或いは少なくとも社会を傷つけそれにとって弊害となることを妨げるという目的のため」(dans le but de les détourner du mal et de les ramener au bien, ou du moins de les empêcher de blesser la société et de lui être nuisibles)【レオ十三世】です。
ピオ十二世は、もしも効果的であったとしたら、より上位のまたより広範囲の善を守るために、少なくともその原理において、一般化された寛容ということさえも認めていました。たしかに、宗教において、より上位のまたより広範囲の善というものが本当に存在するのか、と問うことが出来ますが、ピオ十二世は「寛容」という態度を、例えば立法によって一般化することさえ、必要があるならば、原理において認めていました。
「信教の自由に関する宣言」とピオ十二世の「一般化された寛容」との違いは?
「信教の自由に関する宣言」の問題は、信教の自由を市民法としてのみならず、自然法としての権利として認めると宣言していることです。更に「信教の自由に対する人格のこの権利は、社会の法的制度において、市民的権利として受け入れられるべきものである」としていることです。
【ラテン語は次の通りです。Hoc ius personae humanae ad libertatem religiosam in iuridica societatis ordinatione ita est agnoscendum, ut ius civile evadat.】
つまり、もはや単なる、悪(偽りの宗教)に対する「寛容」ではなく、真理と善とにのみ与えられるべき「自由」を与えよ、ということです。
信教の自由に関する宣言は、どのような善に自由を与えることを欲しているのか?
人間の人格という善、人格の尊厳のゆえに、「自分の確信(conscientia)にしたがって行動するのを妨げられない」べきである、と言います。確かに、宗教は誤っており嫌悪すべきであるかもしれない、しかし、人格は尊厳を持っているがゆえに自由を与えよ、と主張しています。
そのような主張に対して、カトリック教会は排斥をしてきたのではないか?
人間には、人格の尊厳が故に自然法としての自由があるという主張は、以前には存在していませんでした。
しかし、十九世紀には、「良心と礼拝の自由」及び「礼拝の自由」という名前で信教の自由を認める要求がありました。リベラル派が「各人が各々の宗教を選び、その信仰宣言をする自由」という名で要求していました(レオ十三世の回勅『インモルターレ・デイ』)。彼らは、人間の最高の善として自由を持ち上げ、その自由を善用しようが悪用しようが、自由をどのように使おうがかまわず尊重せよ、と要求しました。
十九世紀の歴代の教皇様たちは、そのような考え方を排斥してきました。例えば、ピオ七世は1814年のフランス憲法に反対して抗議し、グレゴリオ十六世は回勅『ミラーリ・ヴォス』で、このような考えを排斥しています。
ピオ九世は1852年コロンビアのカルトの自由に抗議し、1855年にはスペインのカルトの自由に抗議しています。1876年にはトレドの大司教に手紙を書き、1864年には回勅『クァンタ・クラ』や『シラブス(誤謬表)』を発表しています。
レオ十三世は、1889年にブラジルの皇帝にこの「自由」に反対して、手紙を書き、1888年には回勅『リベルタス・プレスタンシッスィムム』を発表しています。
(続く)
【参考資料】第二バチカン公会議は、人間についてどのように新しく考えるようになったのか?
諸教皇は何故「良心ならびに信教の自由」を排斥したのか、理由は?
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今回は、第二バチカン公会議の「信教の自由」について、もう一度考察してみることを提案します。
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「信教の自由」とは?
第二バチカン公会議の『信教の自由に関する宣言』(DIGNITATIS HUMANAE)の第2パラグラフによれば、「信教の自由」とは次の通りです。
「この自由は、すべての人間が、個人あるいは社会的団体、その他すべての人間的権力の強制を免れ、したがって、宗教問題においても、何人も、自分の確信に反して行動するよう強制されることなく、また私的あるいは公的に、単独にあるいは団体の一員として、正しい範囲内で自分の確信にしたがって行動するのを妨げられないところにある。」
【ラテン語原文は次の通り。】
Huiusmodi libertas in eo consistit, quod omnes homines debent immunes esse a coercitione ex parte sive singulorum sive coetuum socialium et cuiusvis potestatis humanae, et ita quidem ut in re religiosa neque aliquis cogatur ad agendum contra suam conscientiam neque impediatur, quominus iuxta suam conscientiam agat privatim et publice, vel solus vel aliis consociatus, intra debitos limites.
「行動するよう強制されない」と「行動するのを妨げられない」との違いは?
「自分の確信に反して行動するよう強制されない」(ne aliquis cogatur ad agendum contra suam conscientiam)とは、誰も或る信仰箇条を強制によって押し付けられない、或いは、刑罰やその他の脅迫によって、自分の宗教以外の礼拝に参加するのを強制されない、ということです。
このことはカトリック教会は常に認めてきていました。この部分に関しては、第二バチカン公会議の「信教の自由に関する宣言」に書かれている内容は、カトリック教会の聖伝に合致しています。聖ピオ十世が制定しベネディクト十五世が1917年に発布したカトリック教会法典の中にもそのことが書かれています。曰く、Can 1351. Ad amplexandam fidem catholicam nemo invitus cogatur.
【試訳:何人も不本意にカトリック信仰を受け入れるように強制されない。】
さて、
「自分の確信にしたがって行動するのを妨げられない」(nee impediatur iuxta suam conscientiam agat)ということは、或る特別な市民法(Ius civile)によって、例えば、或る特定の宗教の寺院を建設することや、或る特定の宗教行事に参加すること、或る特定の宗派による学校を創立すること、普通のプロパガンダにより或る特定の宗教が宣伝活動をすることなどが妨げられないこと、を意味します。
この後者について言えば、カトリック教会は第二バチカン公会議以前には、特定の状況下においては、或る範囲内で、国家がそのような状況を黙認(寛容)する態度【Tolerantia】を取ることを承認していました。更には、国家がこのような状況が立法によって、市民法によって保護することさえ、カトリック教会は認めてきていました。しかし、カトリック教会は、これを「自然法」(Ius naturale) として認めたことはありませんでした。
自然法としての信教の自由は、唯一、真の天主に対する真の礼拝であるとカトリック教会が認める礼拝を実践する人々にのみ属するものであるからです。つまり、カトリックの宗教を実践することのみを自然法としての信教の自由として認めてきていました。何故なら真理のみが正しいこととして権利を持つからです。
「市民法」と「自然法」との違いは?
自然法は、人間の自然本性と人間本性に由来する義務に基づいて言います。人間は、天主による被造物であるので、人間には被造物としての義務、つまり宗教の義務があります。従って、この真の天主に対する真の礼拝を行う義務があるゆえに、人間には天主に礼拝をする自然法としての権利(ius naturale)があります。もちろん、真の天主に対して真の礼拝をするという権利(ius)です。
言わば、自然法とは常に真なるもの、善なるものに関わっています。自然の理と真の天主に合致することがらに関わるものです。
それに対して、市民法は、社会として、家族として、共に生活している市民の共通善の要求するところに基礎をおいています。本来ならしかじかであるべきところが、罪が存在するために、誤謬が存在するために、偽りの宗教が存在するために、しかしながら市民社会の平和と安寧のために、市民法は、真理と本当の善とから離れることを「黙認」(寛容)するような法を書き込むことが許されています。それは、「悪を避け、善へと導き、或いは少なくとも社会を傷つけそれにとって弊害となることを妨げるという目的のため」(dans le but de les détourner du mal et de les ramener au bien, ou du moins de les empêcher de blesser la société et de lui être nuisibles)【レオ十三世】です。
ピオ十二世は、もしも効果的であったとしたら、より上位のまたより広範囲の善を守るために、少なくともその原理において、一般化された寛容ということさえも認めていました。たしかに、宗教において、より上位のまたより広範囲の善というものが本当に存在するのか、と問うことが出来ますが、ピオ十二世は「寛容」という態度を、例えば立法によって一般化することさえ、必要があるならば、原理において認めていました。
「信教の自由に関する宣言」とピオ十二世の「一般化された寛容」との違いは?
「信教の自由に関する宣言」の問題は、信教の自由を市民法としてのみならず、自然法としての権利として認めると宣言していることです。更に「信教の自由に対する人格のこの権利は、社会の法的制度において、市民的権利として受け入れられるべきものである」としていることです。
【ラテン語は次の通りです。Hoc ius personae humanae ad libertatem religiosam in iuridica societatis ordinatione ita est agnoscendum, ut ius civile evadat.】
つまり、もはや単なる、悪(偽りの宗教)に対する「寛容」ではなく、真理と善とにのみ与えられるべき「自由」を与えよ、ということです。
信教の自由に関する宣言は、どのような善に自由を与えることを欲しているのか?
人間の人格という善、人格の尊厳のゆえに、「自分の確信(conscientia)にしたがって行動するのを妨げられない」べきである、と言います。確かに、宗教は誤っており嫌悪すべきであるかもしれない、しかし、人格は尊厳を持っているがゆえに自由を与えよ、と主張しています。
そのような主張に対して、カトリック教会は排斥をしてきたのではないか?
人間には、人格の尊厳が故に自然法としての自由があるという主張は、以前には存在していませんでした。
しかし、十九世紀には、「良心と礼拝の自由」及び「礼拝の自由」という名前で信教の自由を認める要求がありました。リベラル派が「各人が各々の宗教を選び、その信仰宣言をする自由」という名で要求していました(レオ十三世の回勅『インモルターレ・デイ』)。彼らは、人間の最高の善として自由を持ち上げ、その自由を善用しようが悪用しようが、自由をどのように使おうがかまわず尊重せよ、と要求しました。
十九世紀の歴代の教皇様たちは、そのような考え方を排斥してきました。例えば、ピオ七世は1814年のフランス憲法に反対して抗議し、グレゴリオ十六世は回勅『ミラーリ・ヴォス』で、このような考えを排斥しています。
ピオ九世は1852年コロンビアのカルトの自由に抗議し、1855年にはスペインのカルトの自由に抗議しています。1876年にはトレドの大司教に手紙を書き、1864年には回勅『クァンタ・クラ』や『シラブス(誤謬表)』を発表しています。
レオ十三世は、1889年にブラジルの皇帝にこの「自由」に反対して、手紙を書き、1888年には回勅『リベルタス・プレスタンシッスィムム』を発表しています。
(続く)
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