Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

【参考文献】ヴィガノ大司教:世界保健機関(WHO)の条約は、国家主権に対する攻撃、「世界的クーデター」の一部である

2022年05月31日 | カトリック・ニュースなど

【参考文献】ヴィガノ大司教:世界保健機関(WHO)の条約は、国家主権に対する攻撃、「世界的クーデター」の一部である

Abp. Viganò: World Health Organization treaty is an attack on national sovereignty, part of a ‘global coup’

【参考情報】ヴィガノ大司教の最近の発言を日本語で紹介します。

グローバル・ヘルス・ガバナンス(Global health governance世界的保健統治)は、新世界秩序(New World Order)の基本的要素の一つであり、それゆえ拒否し、反対しなければならない。

2022年5月21日 米東部標準時夏時間4時57分

(LifeSiteNews)― 今後数日間で、世界保健機関(WHO)に加盟している国々は、WHOのパンデミック管理に関する決議を投票にかけます。これらの決議は、市民の健康に関する主権を、製薬業界とビル&メリンダ・ゲイツ財団が主に資金提供している超国家的組織【WHO】に移すことになります。もしこれらの決議が多数により承認されれば、WHOはパンデミックの際に、検疫、都市封鎖、ワクチン接種義務、ワクチンパスポートなど、あらゆるルールを押し付ける独占的な国際的権限を持つことになります。また、この組織が免責を受けることと、そのため、そのメンバーが犯罪に関与しても、裁判にかけられたり、有罪判決を受けたりすることはないことも、覚えておく必要があります。選挙で選ばれない技術官僚(technocrat)が、逆説的に、市民が民主的な投票によって自分たちの代表に与えるよりも大きな権力を持つことになるのです。

主権を放棄することは、どの国の法律でも反逆罪とみなされること、また、議会は国家の利益に反する立法を行うことはできず、ましてや自らが代表する市民の自然の自由と基本的権利を侵害することはできないことを考えると、WHOが本来個々の国家に属する権力を自らのものにしようとするこの試みは、医療分野でも医療・病院サービスの大幅な削減、医療産業の民営化、ワクチンによる疾病予防を成し遂げることを目標にしている「アジェンダ2030」(Agenda 2030)へのいかなる反対をも妨げることを意図していることに、誰も気づかないはずはないと私は思います。

パンデミック条約は犯罪的なWHOに各国に対する権力を与える

サイコ・パンデミックは、統治者、政治システム、メディア、司法、全医療業界、そして聖座自体までもが、あからさまな利益相反を持つ超国家機関の機能集団の命令(diktats)に隷属化させられていることを証明しました。実験的なメッセンジャーRNA血清の悲惨な副作用は今ようやく認識されつつありますが、一方で、これらの決定に責任ある人々が、何者にも依存しない法廷で説明責任を問われるべきだと、正しくも期待する人々が大勢います。

したがって、最近のパンデミック緊急事態とワクチンキャンペーンの管理において、死者の数および健康に永久的な後遺症を負った患者の数という点で、最大の損害を引き起こしたWHOに、今、拘束力のある決定権を与えたいという願望があることは、控えめに言っても道理に反しているように思われます。主流メディアの沈黙のおかげでWHOが関与した犯罪に受けた免責に加えて、WHOは、明らかに製薬ロビーによって計画されている今後の緊急事態に対応する方法について、完全な裁量権を握っているのです。ヒポクラテスの誓いに訴える医療従事者を疎外することは、あらゆる反対意見の声を排除するための規範となる危険性があります。

この点で、ロシアやブラジルなど新世界秩序に反対する国々が、これらの決議の批准がもたらす非常に深刻な結果を認識しており、この理由で承認に反対していることは重要です。ドナルド・トランプ大統領も任期中に、米財務省からWHOへの資金提供を停止することで、明確なシグナルを発しました。これは、ディープ・ステートが2020年の彼の再選を阻止した理由の一つであり、彼らは、息子のハンターがウクライナにある米国のバイオラボへの資金提供に関与している、妥協し腐敗した人物を支持したのです。

したがって、市民、特に科学者、医師、法律専門家たちが、加盟国の国家主権に対するこの脅威を糾弾し、過去の出来事について、またWHOの決定が世界人口の健康に対して引き起こした結果について、光を当てるよう求めていることに、私は全面的な支持を表明します。私は、これらの決議の批准について意見を述べるよう求められるであろう各国首脳や政府の指導者たちに、これらの決議を拒否することを強く勧めます。なぜなら、これらの決議は共通善に反しており、また、WHOと世界経済フォーラム(WEF)が「アジェンダ2030」や「グレート・リセット」(Great Reset)という名で長年計画してきた世界的クーデターを実行するよう意図されているからです。

グローバル・ヘルス・ガバナンスは、このシステムに妥協しない権威ある専門家たちが明らかにしているように、新世界秩序の基本的要素の一つであり、それゆえ拒否し反対しなければならないものです。支配、利益、大量病理化の論理を、市民の健康および市民の不可侵の権利を保護することを第一の目標とする公衆衛生政策に置き換えなければならないのです。

聖座は権利を再確認し、無防備な人々を保護しなければならない

聖座は、国連の常設オブザーバーであって、1年前からWHOにも参加しており、特に、この実験的な遺伝子治療による、一部はいまだに未知である副作用の具体的な危険性に直面して、個人が健康治療を受け入れたり拒否したりする権利を再確認する義務があります。

そして、もしベルゴリオとその陰謀団が今までゲイツ、シュワブ、ソロスの妄想を甘受してきたのなら、カトリック教会は最も弱い人々、無防備な胎児や子どもや老人、そして堕胎した胎児の細胞で汚染された血清を彼らに接種させるために、実業家や陰謀家の冷笑主義によって脅迫されてきた人々【医療関係者】を守るべき時が来たのです。

バチカンが今、陰謀に加担するように沈黙していることは、パンデミックの始まりに性急に宣言を行って巨大製薬会社を恥知らずにも推奨した後、天主と人間に対する犯罪の共犯者となった、このローマの最高法院(サンヘドリン)に非難を負わせることになるでしょう。これほどまでに隷属的かつ卑劣な形で現世の権力に身を売った位階階級は、歴史上かつてありません。司教たちの中に、ベルゴリオの協力主義的な路線から距離を置く勇気を見いだし、これまでグローバリストのプロパガンダに騙されてきた善き人々の目を開かせる言葉を見いだすことができる方々がおられるように祈りましょう。

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ

2022年5月21日


【参考資料】全ての時代のミサ聖祭を発見する MASS OF THE AGES: Episode 1 — Discover the Traditional Latin Mass (4K)

2022年05月31日 | カトリックとは

アヴェ・マリア・インマクラータ!

参考資料です。今、全世界で、特に青年たちを中心に聖伝のミサのことを発見する人々が爆発的に広がっています。

エピソード1(聖伝を見つけ出す)

エピソード2(新しいミサがどうやって出来上がったのか)

 

The Traditional Latin Mass TRILOGY: Mass of the Ages

Mass of the Ages is a documentary trilogy that explores the richness of the Traditional Latin Mass through stunning cinematography and inspiring stories.

Mass of the Ages

 

 


カトリック聖伝のミサの報告 聖ピオ十世会日本 SSPX JAPAN Traditional Latin Mass

2022年05月29日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様

今日は、主の御昇天の後の主日でした。
今日東京のミサに来られた方は、子供達も入れて合計114人でした。大阪では25人、名古屋では12人でした。

先週の司祭黙想会はとても素晴らしいものでした。兄弟姉妹の皆様のお祈りに感謝します。

来週の主日は聖霊降臨の祝日です。聖霊降臨の準備をいたしましょう。聖霊来たり給え!

Veni Creator Spiritus,
Mentes tuorum visita,
Imple superna gratia,
Quae tu creasti, pectora.
創造主なる聖霊よ、来たり給え、
御身の信者らの心を訪れ給え、
彼らの心を御身が創造し給うた
上からの聖寵で満たし給え。
Qui diceris Paraclitus,
Altissimi donum Dei,
Fons vivus, ignis, caritas,
Et spiritalis unctio.
御身は慰め主、
いと高き天主のたまもの、
活ける泉、火、愛、
霊的注油と言われてまします。
Tu septiformis munere,
Digitus Paternae dexterae,
Tu rite promissum Patris,
Sermone ditans guttura.
御身は七つのたまものにより、
聖父の右手の指、
聖父の由緒正しき御約束、
言葉を発する舌なり。
Accende lumen sensibus,
Infunde amorem cordibus,
Infirma nostri corporis
Virtute firmans perpeti.
五官に光をつけ給え、
心に愛を注ぎ給え
我らの体の弱さを
とこしえの力で強め給え。
Hostem repellas longius,
Pacemque dones protinus;
Ductore sic te praevio,
Vitemus omne noxium.
敵を遠くに押しやり、且つ
素早く平和を与え給え。
御身はを統率者として、戦いにおいて
我らは全ての害悪を避けよう。
Per te sciamus da Patrem
Noscamus atque Filium;
Teque utrius que Spiritum
Credamus omni tempore.
御身によりて我らは聖父を知り、
且つ聖子を知り、
そして聖父と聖子からの御身を知り、
常に信じる恵みを与え給え。
Deo Patri sit gloria,
Et Filio, qui a mortuis
Surrexit, ac Paraclito
In saeculorum saecula.
Amen.
聖父に栄光あれかし
死によみがえられ給いし聖子に
そして慰め主なる聖霊に栄光が、
代々とこしえにあれよかし。
アメン

V. Emitte Spiritum tuum, et creabuntur
主よ、聖霊を遣わし給え、しかしてよろずの物は造られん。

R. Et renovabis faciem terrae.
▲地の面は新たにならん。

Oremus Deus, qui corda fildelium Sancti Spiritus illustratione docuisti : da nobis in eodem Spiritu recta sapere, et de ejus semper consolatione gaudere, per Chrisum Dominum nostrum. R. Amen.

祈願聖霊の光りをもって信者の心を照らし給いし天主、同じく聖霊をもってわれらに正しきことを悟らしめ、その御慰めによりて常に喜ぶを得しめ給え。われらの主キリストによりて願い奉る。 ▲アーメン。

【報告】
Dear Fathers:
Shown below are the number of attendees at the masses in Tokyo today. The total number of attendees at the masses in Tokyo today was 114, including children.


09:00 mass
M: 20 (incl. 1 child)
F: 29 (incl. 3 children)
Total: 49 (incl. 4 children)

11:00 mass
M: 18 (incl. 5 children)
F: 20 (incl. 5 children)
Total: 38 (incl. 10 children)

12:30 mass
M: 14 (incl. 1 child)
F: 19 (incl. 4 children)
Total: 33 (incl. 5 children)

Total of 3 masses (excl. 6 people who participated in multiple masses)
M: 49 (incl. 7 children)
F: 65 (incl. 12 children)
Total: 114 (incl. 19 children)


キリストがご昇天された6つの理由とは?|主は私たちの為に天国の栄光を準備されています。罪でこの栄光を失わないように、救いを達成する恵みを求めましょう。

2022年05月28日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2022年5月29日は御昇天後の主日です。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「御昇天後の主日の説教」の動画をご紹介いたします。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

SSPX JAPAN聖ピオ十世会日本にチャンネル登録もお願いいたします。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父


イル・ブシャールでの聖母のご出現(1947年12月8日~14日)

2022年05月22日 | お説教・霊的講話

イル・ブシャールのご出現
(1947年12月8日~14日)

THE APPARITIONS AT ÎLE-BOUCHARD
(08 to 14 December 1947)

ドモルネ神父様 秋田巡礼での講話

はじめに

この4日間で、3回の講話をしようと思います。1947年12月、フランスの小さな村、イル・ブシャールで起きた童貞聖マリアのご出現についてお話しします。これは、あまり知られていませんが、教会当局が認可しているご出現です。ですから、私たちはそれについて話すことができるのです。

私たちのカトリックの信仰は、聖書の中に見られる天主の啓示と、「聖伝」と呼ばれる教会の不変の教えに基づいています。私たちの信仰は、ご出現に基づくものではありません。しかし、聖母が何度も地上にご出現になったのならば、それは、私たちがキリスト教の信仰をさらによく理解し、その信仰を生きるのを助けるためです。イル・ブシャールで、聖母は、特に祈りについて私たちに教えるために、また実際に私たちに祈りをさせるためにご出現になったのです。

この1回目の講話では、ご出現の物語をお話しします。中心となった幻視者は2016年に亡くなりました。彼女の証言は何度か録画されており、YouTubeで見ることができます。ですから、これからお話しすることは、すべて彼女の証言から直接抜粋したものです。

2回目の講話では、聖母が幼い幻視者たちにどのように祈りを教えられたのかに基づいて、祈りの教育についてお話しします。

3回目の講話では、「めでたし」と観想的な祈りについてお話しします。この二つの祈りは、このご出現の間、特に強調されたものです。


情勢

1947年11月~12月のフランスの情勢:

1947年11月から12月にかけて、フランスは共産主義革命の起こる瀬戸際にありました。戦後期の悲惨な運営による経済的な破綻があり、公権力が無力で、暴動的なストライキが続き、共産主義イデオロギーが国中に活発に広がっているといった情勢でした。

イル・ブシャールは、シノンの近くのトゥーレーヌに位置する田舎の小さな村にあります。当時の住民は千人ほどでした。小教区の教会は、聖エディジオ(聖ジル)に捧げられています。1947年の教区司祭の名前はセジェル神父でした。

また、童貞聖マリアへの大きな信心を持っていた聖女ジャンヌ・ドラヌーが18世紀に設立した、聖アンナ姉妹会が運営する小さなカトリックの学校もありました。


1947年12月8日 月曜日

1947年12月8日の月曜日の午後1時、ジャクリーヌ・オーブリー(12歳)と妹のジャンヌ(7歳半)、そして小さな従妹のニコル(10歳)は、小教区の教会に行きました。その日は、無原罪の御宿りの祝日でしたから、学校のシスターたちが聖母に祈るように勧めていたのです。

ジャクリーヌはこのグループの最年長で、リーダーでした。彼女の両親は、まったく教会に行きませんでした。しかし、一人の敬虔な隣人が、お祈りをするように、よく彼女を教会に連れて行っていました。その隣人は、「めでたし」を唱え、聖母を愛するように教えてくれました。

ですから、12月8日の月曜日、少女たちは聖母に祈るために教会に行ったのです。ジャクリーヌはこう述べました。

「聖水盤の聖水を指につけ、十字架のしるしをして、ひざまずいた後、身廊の左側へ行きました。幼きイエズスの聖テレジアのご像の前を通り過ぎるとき、その前で立ち止まり、立ったまま、『めでたし』を1回唱えました」。

イル・ブシャールの教区司祭セジェル神父は、幼きイエズスのテレジアの信奉者で使徒でしたから、聖テレジアに祈るよう、よく教区の人たちに勧めていました。ですから、少女たちもそうしたのです。

そして、少女たちは聖母の祭壇に行きました。それは、教会の左側の祭壇であり、勝利の聖母に奉献されていました。少女たちはひざまずき、ロザリオ1連を唱えました。すると、ジャクリーヌに、突然見えたのです。「ものすごく美しい貴婦人…そして、その美しい貴婦人の隣には天使がひざまずいています。その光景は、あまりに美しく、あまりに美しくて、私の心臓は強く鼓動し始めました」。そしてジャクリーヌは、別の方を見ていたニコルをつついて、「見て!」と言いました。ニコルもジャンヌも頭を上げました。するとニコルは、「ああ、美しい貴婦人!」と言い、またジャネット(ジャンヌ)は、「ああ!美しい天使! ああ!美しい天使!」と言いました。

3人の少女たちは、しばらく身を寄せ合っていました。そして、ジャクリーヌが他の2人にこう言いました。「行きましょう、教会に美しい貴婦人がいると、他の人たちに知らせないと!」。彼女たちはすぐに教会を出ましたが、美しい貴婦人がまだそこにいるかどうか確かめるために、後ろを向いたままでした。その美しい貴婦人は、彼女らが歩いて出て行くときに、彼女らにほほ笑みかけていました。

教会の外の路上で、通学途中の2人の少女に出会いました。セルジーヌ・クロワゾン(13歳)と、その妹のローラ(8歳半)でした。そして、5人の少女たちは、美しい貴婦人を見るために教会に入りました。聖母の祭壇に近づくと、ローラは「美しい貴婦人と天使が見えるわ」と叫びました。しかし、セルジーヌには何も見えませんでした。そこで、ジャクリーヌは、セルジーヌに自分たちが何を見ているのかを説明しました。

「美しい貴婦人が、茶色で長方形の石の上に立っていました。その石の上には、5本の美しいピンクのバラがあって、金色の文字でこの祈りが書かれていました。『原罪なくして宿り給いし聖マリア、御身に依り頼み奉る我らのために祈り給え』。その貴婦人はかなり背が高くて、両手を合わせていました。彼女は、下に向かって広がっている、美しく白いドレスを着ていました。彼女は裸足でした。腰には青い帯を巻いていて、両側を縛っていました。帯の垂れ下がっている部分が、右から少し風が吹いているように、ひらひらと揺れていました。襟の縁、袖の縁は金で刺繍されていました。右腕には、白い珠を金の鎖に取り付けたロザリオがあり、鎖の先には美しい金の磔刑像のついた十字架が吊り下げられていました。頭には、美しくて白い、ドレスよりもさらに白いベールがありました。ベールの周囲には、トゥール地方に特有の刺繍がありました。この美しい貴婦人には、ベールの前に、膝まで届く見事な金髪がありました。すべてが美しいですが、とりわけ美しいのが顔でした。並外れた美しさでした。小さな楕円形のバラ色の顔で、バラ色の唇でした。しかし、最も美しいのは、その貴婦人の目でした。素晴らしい。青色ですが、この世では見られない青色でした。その目は、親切さ、優しさと、純粋さに満ちていました。その美しい貴婦人はとても若く、16歳か17歳に見えました。でも、一週間の間、私たちは彼女を「マダム」と呼びました。彼女は偉大な貴婦人のように威厳があったからです。彼女は光に包まれていました。

金色の光線が、彼女の周りに洞窟のような形になっていました。彼女のそばには、一位の天使がいました。天使はひざまずいていました。天使の左手は胸に当てられていました。右手には1本のユリを持ち、三つの白い花が大きく開き、花の先には三つのつぼみがありました。私たちはその天使を横から見ていましたが、白い服を着ていました。その両肩には、小さな羽でできた一対の翼のようなものがぶら下がっていて、震えていました。実際、右から吹いてくるそよ風のようなものがあって、聖母の帯の垂れ下がっている部分と天使の翼を震わせていたのです。翼の縁は金色でした。天使は金髪でした。青い目をしていて、美しい貴婦人の顔よりも細長い顔です。天使は美しい貴婦人を観想し称賛している状態でした。天使は特別な光に包まれていました」。

ジャクリーヌが説明をしている間、美しい貴婦人は子どもたちにほほ笑みかけ、そのように説明されることを喜んでいるように見えました。そして、説明が終わると、美しい貴婦人と天使は、「美しい金色のちりの中にいるかのように」姿を消しました。

セルジーヌは、何が起こっているのか理解できなかったため、恐ろしくなって、みんなに教会を出て学校に行くように言いました。

途中で、ジャクリーヌは、この美しい貴婦人は童貞聖マリアに違いない、と気づきました。学校に着いたジャクリーヌは、校長のシスター・サン・レオンにこう言いました。「私は童貞聖マリアを見ました!」。シスターは答えました。「やめなさい、あなた、おかしいですよ!」。たまたま教区司祭がその場に居合わせました。司祭はジャクリーヌの話を聞いて、彼女に言いました。「その分厚い眼鏡では、はっきり見えないはずですよ!」。ジャクリーヌは実際、目に深刻な問題を抱えていました。近視で、目に深刻な病気があったのです。しかし、司祭は子どもたちに別々に質問し、最後に厳しい声でこう言いました。「わが子らよ、さあ遊びなさい。勉強しなさい。それでおしまいです。このことについては、もう聞きたくありません」。司祭は立ち去りました。するとジャクリーヌは校長のシスターに近づき、こう言いました。「親愛なるシスター、もしシスターが聖母の美しさを知ってさえいたら…」。シスターは答えました。「もしその人がそんなに美しくて、私があなただったら、教会に残っていたでしょう」。

ジャクリーヌはこの答えを、教会に戻ることを許可されたのだと理解しました。そこで、彼女は友達を呼んで言いました。「あの人がまだそこにいるかどうか見に行きましょう!」。

子どもたちが教会に入るとすぐ、美しい貴婦人が、天使と一緒に同じ場所にいるのを見ました。まるで子どもたちを待っていたかのようでした。ジャクリーヌは、後にこう説明しました。「貴婦人は前と同じように美しく、両手を合わせていました。人差し指で、優しいほほ笑みを浮かべながら、私たちに近づくように招きました。私たちは近寄りました。あまりに美しいので、私たちは貴婦人の足元にひざまずきました。すると、貴婦人の顔は悲しそうになり、最初にこう言いました。「小さな子どもたちに、フランスのために祈るように伝えてください。フランスには、それがとても必要ですから」。そして、その後、貴婦人は再びほほ笑みました。

ジャクリーヌに促されて、一番小さな2人の子どもたちが尋ねました。「マダム、あなたは天のお母さんですか?」。聖母は答えました。「はい、私はあなたの天の母です」。「天」という言葉を発しながら、聖母は天に向かって目を上げられました。ジャクリーヌは勇気を出して、聖母に尋ねました。「あなたと一緒にいる天使はどなたですか?」。聖母はその天使の方を向かれました。すると横向きの天使は、子どもたちのほうに顔を向け、優しいほほ笑みを浮かべてこう言いました。「私は天使ガブリエルです」。その目は青色でしたが、童貞聖マリアの目とまったく同じ青色ではなく、同じ表情でもありませんでした。この言葉は、すべての出現の間にこの天使が話した唯一の言葉でした。

そして、聖母は子どもたちに言われました。「接吻をしますから手を出してください」。聖母がある程度の高さにおられたため、小さな少女たちは立ち上がって手を差し出しました。ジャクリーヌは一番小さな子どもたちの手を、聖母の方へ持ち上げましたが、驚くべきことに、まるで重さがないかのように、何の力も入れずにそうしたのです。聖母は身をかがめ、彼女らの右手をゆっくりと取り、その甲、そして人差し指、中指、薬指の先に接吻され、彼女らに向かってこう言って解散させられました。「今夜は5時に、明日は1時に戻って来てください」。そして、聖母と天使は、「美しい金色のちりの中にいるかのように」姿を消しました。

その後、子どもたちは、自分たちの指に光る楕円形の部分が、聖母マリアが接吻なさったまさにその場所であることに気づきました。ジャクリーヌは、これをシスターたちに見せて、ご出現が真実であることを証明したいと思いましたが、教会を出るとその光る部分は消えてしまいました。そのとき、教会の外にいた一人の老婦人だけが、それを見ることができました。

学校に戻ると、少女たちは教会で起こったことを報告しました。校長のシスター・サン・レオンは、少女たちが2回のご出現の間に見聞きしたことを、個別に質問しました。報告した少女たちは全員、同じことを言いました。

その日は無原罪の御宿りの祝日だったため、教区司祭は午後5時に、教会で、ロザリオに先立って聖体降福式を行いました。4人の少女のうち、ジャクリーヌだけが教会にいました。他の少女は家に帰らなければならなかったのです。ロザリオの間、童貞聖マリアと天使は、再び同じ場所にご出現になりました。ジャクリーヌ以外には、そのお姿は見えませんでした。教区司祭が聖体降福式を始めました。司祭は慣例として、主祭壇から聖母の脇祭壇にご聖櫃を運びました。そのとき、聖母と天使は、イエズスのために道を譲るかのように姿を消しました。聖体降福式が終わると、教区司祭はご聖櫃を主祭壇に戻しました。すると、聖母と天使がご出現になりました。

他の人々が教会を出た後、ジャクリーヌは、シスター・サン・レオンに言いました。「シスター、貴婦人はあそこにいて、私たちを見ています。私たちはどうしたらいいのでしょうか?」。シスターは困ってこう言いました。「でも、その人はどこにいるのですか?」。ジャクリーヌは、自分が何を見ているかを説明しました。シスターは強い性格の女性でしたが、怖くなって、ずいぶん震え始めました。シスターはジャクリーヌと一緒に「めでたし」を唱えようと決心しました。しかし、シスターはあまりに恐ろしくて、まともに「めでたし」を唱えることもできませんでした…。ジャクリーヌは、後にこう語っています。「聖母は優しくほほ笑みながら、怯えているかわいそうなシスターを見ておられました」。そして、聖母は、天使とともに姿を消されたのです。ジャクリーヌは言いました。「聖母は行ってしまわれました…」。するとシスター・サン・レオンは、「ふぅー」と安堵の声を上げ、ジャクリーヌに、もうこのことを話さないように命じました。

シスターは、教区司祭に事の次第を報告しに行きました。司祭は怒って、翌日、子どもたちが教会に近づくのを禁じました。司祭は、告知された次のご出現の時刻である午後1時より前に、教会を閉鎖することさえ決めました。しかし、その後、教区司祭は、聖体降福式の間、聖母が御子に道を譲るように姿を消したと聞いて、本当に何かが起こっているのではないかと思い始めたのを認識しました。教区司祭は内心思いました。「子どもがそんなことを思いつくはずがない… 」と。

 

1947年12月9日 火曜日

翌日、12月9日の火曜日の午後1時前、このようなご出現の話に終止符を打ちたい教区司祭は、急いで教会の扉まで歩いていって、鍵をかけようと決めました。しかし、突然、途中で立ち止まり、教会を開けたままにして、司祭館に戻りました。司祭自身、自分に何が起こったのか、なぜこのように急に決心が変わったのか、説明できませんでした。

午後1時、少女たちは、教会の聖母の祭壇の前に行きました。外には、彼女たちの友達である3人の少女が待っていました。聖母と天使は、前日と同じように再び美しいお姿でご出現になりました。しかし、いくつか違う点がありました。マリアの髪はベールの下に隠れており、足元には、「私は無原罪の宿りです」の文字が書かれていました。胸には金色の文字がありましたが、両手で隠れていました。そのため、子どもたちは、片方の「M―A」、もう片方の「C―A―T」という文字しか見ることができませんでした。最後に、前日にはマリアの右側にいた天使が、今は左側にいました。

聖母は子どもたちに、もっと近くに来るようにと手招きされました。子どもたちはひざまずきました。ジャクリーヌは、外にいる3人の友達も中に入っていいかどうかを尋ねました。聖母は、こう答えられました。「いいですよ、でも彼らには私は見えませんよ」。ジャクリーヌの友達は、村の女性トリンソン夫人と一緒に教会に入りました。夫人は、何が起こっているのかに興味を持っていました。彼らは4人の幻視者の後ろに残り、幻視者の言動を見守りました。

次に、聖母はロザリオの十字架を手に取り、右手の内側に置かれました。左手は心臓の上に置いておられました。聖母は少女たちに寄り添い、優しくこう言われました。「私のロザリオの十字架に接吻してください」。ジャクリーヌとニコルは爪先立ちで十字架に接吻しました。ローラとジャネットは背が低すぎたので、ジャクリーヌが力を入れることなく彼女たちを一人ずつ持ち上げて、彼女たちも十字架に接吻することができるようにしました。その後、聖母は再びロザリオを腕にぶら下げられました。

それから、聖母が子どもたちに教えられた最初の祈りは、美しい十字架のしるしをすることでした。聖母は、それをとてもゆっくりと、荘厳にされました。子どもたちは、こんなに美しい十字架のしるしを見たことがありませんでした。子どもたちも一緒に、聖母の真似をしました。

すると、聖母マリアは悲しげに言われました。「3日後にあなたたちが人に告げてもいい秘密を教えてあげましょう。フランスのために祈ってください。今は、大変危険です」。

そして、再びほほ笑みながら、聖母は続けられました。「神父様に告げてください。2時に来て、群衆と子どもたちと一緒に祈るようにと」。そしてジャクリーヌは、トリンソン夫人と3人の友達に後ろ向きになって、こう告げました。「聖母は群衆を求めておられます。どこで群衆を見つけられますか?」。トリンソン夫人は、起きているすべてのことに非常に感動して、こう答えました。「心配しないで、この小さな子どもたちと私が始めています…」。聖母は、トリンソン夫人にほほ笑みかけられました。

聖母は言われました。「神父様に、私がいるところに洞窟を作り、その隣に、私の像と天使の像を置くように告げてください。それが完成したら、私が祝別します。2時と5時に戻って来てください」。そして、聖母は天使と一緒に、光のちりの中に姿を消されました。

子どもたちは学校へ行き、聖母のメッセージを報告しました。教区司祭は怒って叫びました。「2時だって? 授業の時間ですよ。では、この女の子たちを教室に行かせて、先生に従わせて、私たちの邪魔をさせないようにしなさい!」と。ジャクリーヌは泣きだしました。トリンソン夫人は子どもたちを慰め、子どもたちに、聖母の要望通りに午後5時に教会に戻るように言いました。

午後5時、学校は終わり、子どもたちは教会に戻りました。そこにはすでに30人ほどの人々と20人ほどの子どもたちがいました。実際、トリンソン夫人は、「来て、来て、聖母がご出現になりますよ!」と近所の人々に知らせに行っていたのでした。

マリアと天使が再びご出現になりました。聖母は、子どもたちを手招きして近づかせました。少女たちは聖母の足元にやってきました。マリアは言われました。「私が大好きな讃美歌、『めでたし』を歌ってください」。それが終わると、聖母はジャクリーヌに言われました。「みんなに前に出て、ロザリオを1連祈るように言ってくれますか?」。実際、人々は敬意から、少し離れたところにとどまっていました。全員が1連を祈りました。人々が祈っている間、聖母はロザリオを繰っておられました。それが終わると、ジャクリーヌは尋ねました。「明日も来てくださいますか? また来てくださいますか?」。聖母は答えられました。「明日、午後1時にまた来てください。すべてが終わったら、あなたに知らせます」。子どもたちに「原罪なくして宿り給いし聖マリア、御身に依り頼み奉るわれらのために祈り給え」と祈らせた後、聖母は天使と一緒に姿を消されました。

そして、全員家に帰りました。


1947年12月10日 水曜日

ジャクリーヌの父親は、宗教をまったく実践していませんでしたが、その朝、パブで友人たちから、自分の娘たちが聖母を見たと主張していることを知りました。それまでは、妻も娘たちも、怒りっぽい性格の父親に、そのことをあえて話そうとは思いませんでした。怒った父親は家に帰り、ジャクリーヌを激しく叩きました。父親が少し落ち着くと、ジャクリーヌはご出現のことを報告しました。特に聖母の親切さについてです。彼女の話を聞いていた父親は感動し、娘を信じ、ついには妻にも教会に行って何が起こっているのか見るように言いました。

その水曜日、教会には何百人かの人々が来ていました。聖母と天使は、前回と同じようにご出現になりました。聖母は子どもたちに言いました。「『めでたし』を歌ってください」。少女たちは「はい、マダム」と答えました。それから聖母は、左手を心臓の上に置き、右手を子どもたちに差し出して言われました。「私の手に接吻してください」。2人の小さな子どもたちのために、ジャクリーヌは前日と同じように、力を入れることなく2人を持ち上げました。群衆は、聖母も天使も見ることはできませんでしたが、子どもたちが空中のまったく同じ場所に接吻しているのを見ました。それからマリアは言われました。「ロザリオ1連を祈ってください」―「はい、マダム」。1連の祈りが終わると、ジャクリーヌはママの要望でこう尋ねました。「マダム、みんなが信じられるように奇跡を起こしてくださいますか?」。聖母は答えられました。「私は奇跡を起こすためではなく、フランスのために祈るようにお願いするためにここに来たのです。しかし、明日になれば、あなたははっきり目が見えるでしょうし、もう眼鏡をかけることもないでしょう。ロザリオ1連を祈ってください」―「はい、マダム」。子どもたちはそう答えました。

去っていく前に聖母は言われました。「私はこれから、誰にも言ってはならない秘密を一つ教えます。言わないと約束しますか?」。少女たちは、「はい、はい、マダム、約束します」と答えました。そこで、マリアは全員に同じ秘密を託されました。そして、聖母は彼女たちに、こう祈るように言われました。「原罪なくして宿り給いし聖マリア、御身に依り頼み奉る我らのために祈り給え」。そして、天使と一緒に姿を消す前に、聖母は彼女たちに言われました。「明日の午後1時に戻って来てください」。

少女たちは立ち上がりました。人々は彼女たちに、奇跡を起こしてほしいという要望に対して聖母が何と答えられたかを尋ねました。するとジャクリーヌは、聖母が言われたことを人々に伝えました。ここで、ジャクリーヌが、どのように目を患っていたかを、少し詳しく説明する必要があります。彼女は強い近視とわずかな斜視に加え、悪化した化膿性結膜炎に悩まされていました。かわいそうに。両目から膿が出続けていたのです。毎朝、強い頭痛で目が覚め、まぶたには乾いた膿がこびりついていました。母親は、毎朝15分ほどかけて、お湯で洗ってまぶたを開けていたのです。


12月11日 木曜日

木曜日の朝、ジャクリーヌは頭痛もなく、まぶたが膿でくっつくこともなく、完全に見える状態で目覚めました。彼女はベッドの上で喜びの声を上げました。「パパ、ママ、目が見えるわ!」。ジャクリーヌは完全に治ったのです。両親は感激で泣きだし、ご出現を信じました。彼らは教区司祭に知らせ、司祭もジャクリーヌの奇跡的な治癒を目の当たりにして、こう叫びました。「では、聖母が私たちを訪ねてこられるというのは本当のことだ!」。そして、午後1時に全員が教会に行くことにしました。

聖母は、予定の時刻にご出現になりました。聖母はもう一度言われました。「『めでたし』を歌ってください」。歌の後、ジャクリーヌは、司祭が紙に書いて用意した質問を読み上げました。「マダム、どうしてこの教会を訪問なさるのですか?」。聖母は答えられました。「敬虔な人々がいるからです。また、ジャンヌ・ドラヌーがここに来たからです」。確かに200年前、聖母の信奉者であったこの聖女が、この村に福音を伝えるためにやって来ました。そして、それ以来、ここには常に敬虔な人々の一団が住んでいたのです。聖母を愛し、聖母に祈るようにジャクリーヌに教えたのは、まさにその敬虔な人々の一人だったのです。

そして聖母は優しく尋ねられました。「シスターは何人いますか?」。「3人です!」と子どもたちは答えました。聖母は尋ねられました。「創立者の名前は何といいますか?」。少女たちは一緒に答えました。「ジャンヌ・ドラヌーです!」。

次に、ジャクリーヌは、用意されていた二つ目の質問を読み上げました。「マダム、肉体的にも精神的にも苦しんでいる人たちを癒やしたいとお思いですか?」。聖母は、しばらくしてこう答えました。「私は家庭に幸福を与えましょう」。それから、聖母は子どもたちにロザリオ1連と、「ああ原罪なくして宿り給いし聖マリア、御身に依り頼み奉る我らのために祈り給え」の呼祷を祈らせました。そして、子どもたちに「明日の午後1時にまた戻って来てください」と告げた後、天使とともに姿を消されました。

その日の夕方、ジャクリーヌ一家のところに憲兵隊がやってきて、教会に戻ることを禁じようとしました。しかし、子どもたちも両親も怯えることはありませんでした。その結果、翌日、何が起こっているのかを目撃するために、憲兵隊が自ら教会にやって来たのです。


12月12日 金曜日

12月12日の金曜日の午後1時、教会は満員でした。教区司祭の招待で、周辺の小教区の司祭たちも来ていました。幻視者たちは、お互いに離されており、聖母がご出現になるたびにその方向を見ることはできるものの、お互いを見ることはできない状態でした。しかし、聖母がご出現になったとき、4人の少女たちは同時に反応し、聖母に近づいて行きました。

聖母は、これまで以上に輝いて見えました。聖母の頭の周りには、黒と紫を除くすべての色の光輪がありました。胸に書かれた金色の文字がすべて見えていました。以前は、少女たちは片方の「M―A」、もう片方の「C―A―T」しか読めませんでした。しかし、この金曜日には、少女たちは「MAGNIFICAT」のすべての文字を読むことができました。

聖母は子どもたちに、こう言われました。「『めでたし』を歌ってください」。最後に、マリアは、こう言われました。「もう一度、『めでたし』を歌ってくださいますか?」。聖母が2回続けて歌うように求められたのは初めてのことでした。そして、聖母はこう言われました。「ロザリオ1連を祈ってください」。その後、水曜日と同じように、マリアは左手を心臓に当て、右手を子どもたちに差し出されました。「私の手に接吻してください」。少女たちは接吻をしました。教会にいた人々は、少女たちが空中で、しかし全く同じ場所で接吻しているのを見ることができました。そして聖母は言われました。「あなたたちは罪人のために祈りますか?」―「はい、マダム、祈ります」と少女たちは答えました。聖母は、さらにこう言われました。「そうですね、何よりも罪人のためにたくさん祈ってください」。

聴衆の中に、体の麻痺した少女がいました。ジャクリーヌは聖母に、彼女を治したいと思っておられるかどうかを尋ねました。マリアは答えられました。「ここで治さない場合は、他の場所で治すでしょう」。そして再び、子どもたちにロザリオ1連を祈らせました。この後、司祭たちの求めに応じて、ジャクリーヌは尋ねました。「マダム、もう一度奇跡を起こしていただけますか?」。マリアは答えられました。「私は奇跡を起こすためではなく、フランスのために祈るようにお願いするために来たのです。明日の午後1時にまた戻って来てください」。そして、聖母は天使と一緒に姿を消されました。

司祭たちは、子どもたちを別々に連れて行き、彼女たちの証言を突き合わせるために質問を行いました。

フランスが、共産主義革命と、勃発寸前だった内戦から奇跡的に救われたのは、この金曜日でした。翌週、内務省の一人の役人がイル・ブシャールの教区司祭を訪ねてきました。役人は、ご出現の話を聞かせてほしいと頼みました。役人は、その金曜日に、突然、予想に反してゼネストが終わり、みんなが仕事に戻り、革命の開始が止まり、すべてが平和になった、と言いました。


1947年12月13日 土曜日

12月13日の土曜日、聖母は、光輪はありませんでしたが、胸に「MAGNIFICAT」の言葉をつけたままご出現になりました。ジャクリーヌは、カーネーションの花束を持ち、それを聖母に差し出しました。「マダム、お花です」。聖母はその花を見て喜ばれました。ジャクリーヌが、「でも、マダム、これを受け取ってください…」と言うと、聖母は「いいえ。それを祝別してあげましょう」と答えられました。そして、司祭たちの求めに応じて、ジャクリーヌは尋ねました。「マダム、奇跡を起こしていただけませんか?」。聖母は、ほほ笑みながら「後で」と答えられました。

その日、主に童貞聖マリアは、子どもたちやその場にいた人々に祈りをさせられました。長い間、祈ることをやめていた多くの人々が、「めでたし」の祈りを再発見したのです。ジャクリーヌは、人々が聖母に祈れば祈るほど、ますます聖母は幸せそうに見えました、と後に語りました。

聖母は、ジャクリーヌに個人的なことを話されました。その後、聖母はこう言われました。「明日の午後1時にまた戻って来てください。これが、私が来る最後になります」。そして、これまでのように、天使と一緒に姿を消されました。


12月14日 日曜日

聖母の最後の訪問に備えて、シスターの一人が一つ質問を用意し、それを小さな紙に書きました。それは「罪人たちが起こしたイエズスに対する罪に対して、イエズスの聖心をお慰めするために一番しなければならないことは何でしょうか?」でした。教区の司祭たちも一つ質問を用意しました。村長は、聖母のためにフラワーアレンジメントを用意しました。約二千人の群衆が集まりました。

午後1時、これまでより幸せそうな聖母がご出現になりました。同時に、4人の少女たちが、「聖母が来られました」と叫び、聖母の足元にひざまずきました。そして、聖母が少女たちに、「『めでたし』を歌ってください」と言われると、子どもたちは、「はい、マダム」と答えました。

そして、ジャクリーヌは、教区司祭が用意した質問をしました。「マダム、トゥールの大司教、ブロワの司教、学校、そしてトゥーレーヌの司祭たちを祝福していただけますか?」。聖母は少し待ってから、肯定的にうなずかれきました。「ああ、ありがとうございます、マダム」と少女たちは叫びました。少女たちは立ち上がり、花束をできる限り聖母の方に差し出しました。聖母は花束を見て、子どもたちにほほ笑まれましたが、花束は受け取られませんでした。ジャクリーヌが言いました。「これはあなたのものです。お受け取りください…」。聖母は答えられした。「いいえ、私は受け取りません。私がそれを祝別し、それに接吻をして、あなたにあげましょう」。

ジャクリーヌは、シスターが用意した質問をしました。すると、聖母はこう答えられました。「祈ることと、犠牲をすることが必要です」。そして、聖母はこう言われました。「十字架の上にいるように腕を伸ばして、ロザリオ1連を祈ってください」。「はい、マダム」と答えて、4人の少女たちが同時に腕を十字架の上にいるように伸ばしました。群衆全員もそれを真似て、子どもたちと一緒にロザリオ1連を祈りました。

そして聖母は言われました。「人々にマグニフィカトを歌うように言ってください」。教区司祭はそのことを告げられ、ラテン語で荘厳なマグニフィカトを唱えました。ご出現の間、聖母はずっと子どもたちを見つめておられました。しかし、マグニフィカトの歌唱のとき、幸福に輝いて、聖母は天を仰ぎ、聖歌の間ずっとそうしておられました。

マグニフィカトが終わると、聖母は再び子どもたちを見つめられました。そして、ロザリオ1連を祈るように求められました。1連の祈りの後、司祭の求めに応じて、ジャクリーヌが尋ねました。「マダム、お帰りになる前に、奇跡を起こしていただけますか?」。聖母はほほ笑みながら答えられました。「帰る前に、明るい太陽の光を送りましょう」。

ご出現は35分間続きました。聖母は、子どもたちにロザリオ5連を祈らせられました。聖母は、ずっと話しておられたわけではありません。しかし、子どもたちと聖母の間には、沈黙の時間、霊魂から霊魂への内的な会話の時間がありました。

聖母は再び言われました。「『めでたし』を歌ってください」。子どもたちは心をこめて歌いました。歌の途中、投光機のような光が来て、聖母と天使と子どもたちを照らしました。すると、その日はどんよりとした曇りの日で日差しがなかったにもかかわらず、ステンドグラスを通して細い日差しが教会に入り、どんどん強くなっていき、教会全体を天井まで照らし出したのです。このことは、その場にいたすべての人々が目撃しました。

聖母は、「神父様は洞窟を造ってくださいますか?」とお求めになりました。「はい、はい、マダム、私たちはそれを造ります」。

最後に、聖母は子どもたちに「ああ原罪なくして宿り給いし聖マリア、御身に依り頼み奉る我らのために祈り給え」の呼祷を唱えさせられました。そして、聖母は子どもたちを祝福し、すべての人々を見つめ、司祭団を優しく見つめ、最後に子どもたちをほほ笑みながら見つめ、天使とともに姿を消されたのです。


おわりに

このご出現の後、フランスは共産主義革命から救われただけでなく、各地のカトリック教徒の間で新たな熱狂があり、多くの回心が起こりました。そのとき以来、イル・ブシャールの聖母への巡礼が数多く企画されるようになりました。そして、多くの巡礼者が、家庭の中で受けた恩寵を証ししています。「私は家庭に幸福を与えます」という聖母の告知されたことが実現したのです。

 


カトリック聖伝のミサの報告 聖ピオ十世会日本 SSPX JAPAN Traditional Latin Mass

2022年05月22日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日、東京のミサに来られた方は、子供達も入れて合計112人でした。大阪では26人でした。交通機関の事故の影響で来るのが難しかった方もおられたようです。
東京のミサでは「イエズスの聖名によって祈る」ということを黙想することを提案しました。
レネ神父様がいらしてから、ますますお恵みを多くいただいているように思います。感謝いたします。明日から司祭の黙想会が始まります。お祈りください。

【報告】
Dear Fathers:

Shown below are the number of attendees at the masses in Tokyo today. The total number of attendees at the masses in Tokyo today was 112, including children.

09:00 mass
M: 23 (incl. 3 children)
F: 20 (incl. 2 children)
Total: 43 (incl. 5 children)

11:00 mass
M: 22 (incl. 5 children)
F: 30 (incl. 6 children)
Total: 52 (incl. 11 children)

12:30 mass
M: 13 (incl. 1 child)
F: 10 (incl. 0 child)
Total: 23 (incl. 1 child)

Total of 3 masses (excl. 6 people who participated in multiple masses)
M: 55 (incl. 9 children)
F: 57 (incl. 8 children)
Total: 112 (incl. 17 children)


イエズスの聖名によって祈る|イエズスだけが,究極的には全てを善に変える。全てが意味を持つ。もしも願いが聞き入れられないとしたら。

2022年05月21日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2022年5月22日は御復活後第五主日です。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「御復活後第五主日の説教」の動画をご紹介いたします。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

SSPX JAPAN聖ピオ十世会日本にチャンネル登録もお願いいたします。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父

 


【参考文献】ヴィガノ大司教、聖週間の儀式について:「改革すなわち典礼革命への序曲」

2022年05月20日 | カトリック・ニュースなど

【参考文献】ヴィガノ大司教、聖週間の儀式について:「改革すなわち典礼革命への序曲」

Reform or Overture to Liturgical Revolution: Abp. Viganò on the Holy Week Ceremonies

カルロ・マリア・ヴィガノ大司教 2022年5月10日

【編集長ブライアン・M・マッコールによる解説】聖伝のミサを捧げているある司祭の要請により、メディア・プレス(Media-Presse)は、カルロ・マリア・ヴィガノ大司教に、ピオ十二世の教皇在位期間の最後の数年間に行われた聖週間の典礼の改変についてコメントを求めました。大司教のフランス語の回答はこちらでお読みいただけます。全体として、大司教の結論は、第二バチカン公会議開催前に在位した最後の教皇が公布した変更について、バランスのとれた評価を示しています。一方で、無数の変更について「公会議の後の改革の立役者たちが、一連の修正全体を導入した観測気球」と指摘しています。他方では、聖週間の改正の時点では、典礼革命の「mens」(心、メンタリティー)がまだ完全には見えていなかったことを指摘しています。したがって、1962年以降に起こった改変は、そのとき以前に起こった改変と比べて区別されるということを大司教は指摘しています。聖週間の変更は、ノブス・オルド・ミサ(Novus Ordo Missae)と同じ方法で、あるいは同じ程度にまで、信仰に手を付けてはいないのです。たとえ、非常に「奇抜」(bizarre)なものがあったり、この新しいミサと「同じ空気を吸っている」点があったりしても、です。

大司教は、変更を公布した教皇ピオ十二世と、それを正当なものとして受け入れたマルセル・ルフェーブル大司教を非難することを明確に拒否しています。彼は、ピオ十二世が、回勅「メディアトール・デイ」(Mediator Dei)で自らが断罪した現代典礼学のいくつかの誤った傾向と微妙に関連しているいくつかの変更を公布した、という異常さを指摘しています。

最後に、ヴィガノ大司教は、ピオ十二世が公布した「聖週間」の正当性の問題は、ノブス・オルド自体の正当性よりもはるかに複雑な典礼的かつ法的な問題であることを明らかにしています。大司教は、ノブス・オルド【新しいミサ】を明確に非難し、「重大な欠落があり、確実に『異端を助長する』(favens haeresim)…」と断定しています。彼は、再び「オッタヴィアーニ、バッチ両枢機卿とマルセル・ルフェーブル大司教の(新しい典礼の)非難に」加わります。

しかし、聖週間に関しては、教皇ベネディクト十六世と元エクレシア・デイ委員会の方針に基づいて、聖伝の司祭たちがピオ十二世より前の聖週間の典礼を利用できるような試験的期間を(置くのを)支持しているように思えます。彼は、教会がこの危機を脱し、これらの変更の在り方についてより客観的に判断できるようになる日を心待ちにしているのです。――編集長ブライアン・M・マッコール

【参考文献】ヴィガノ大司教、聖週間の儀式について:「改革すなわち典礼革命への序曲」

2022年5月6日

親愛なる□□様

聖週間の改革について、○○神父様の質問を私に送っていただき、ありがとうございます。

私は彼に同意します。つまり、この改革は事実上、一種の観測気球とみなすことができ、これを使って公会議の後の改革を設計した立役者たちが、当時まで存在していた「聖週間の式次第」(Ordo Majoris Hebdomadæ)に一連の変更の全て(これは、私の意見では、全く疑わしく、でたらめなものです)を導入したのです。

この修正は、奇抜(bizarre)ではあるものの、ほとんど無害に見えたのかもしれません。なぜなら、ヨハネ二十三世の改革も、公会議の典礼憲章「サクロサンクトゥム コンチリウム」(Sacrosanctum Concilium)によって開始され、同憲章実行委員会「コンシリウム・アド・エクセクエンダム」(Consilium ad exsequendam)によってさらに悪化した改革も、それらを生んだ「心」(mens)はまだ明らかではなかったからです。しかし、1956年の教区司祭にとっては、聖週間の複雑な典礼を現代のリズムに適合させるという緊急の要件によって影響を受けた簡略化のように見えたかもしれないこと、そして、おそらくピオ十二世自身に対してもそのように提示されて、その爆弾のような重要性は隠されたままだろうことは、私たちの目には全く別の意味を持つようになっています。

なぜなら、私たちは、特にこの改革において、[典礼を]貶めてもそれで満足することを知らない近代主義者らや典礼刷新(renouveau liturgique)の弟子たちが持つ、"複雑なものを取り除いてしまおうとするメンタリティー"が働いているのを見ているからです。さらに、儀式を簡素化するとされた決定の中に、ノブス・オルドの最も大胆な革新と同じイデオロギー的なアプローチを認めるからです。最後に、この改革に現れる人々の中には、公会議後の改革の主人公たちが連なっているからです。彼らは正に礼拝の荘厳さ対して悪名高いほどの嫌悪感を抱いていたが故に、極めて高い地位に昇進した人々でした。1951年から1955年の間に彼らが始めたことが、20年もたたないうちにその到達点に達した大激変への第一歩となるように構想されていなかったなどとは、考えるのは困難です。

もちろん、ピオ十二世の典礼のある部分で呼吸する空気は(例えば、私は司式司祭と信者が唱える「主祷文」(Pater Noster)のことを考えています)、ノブス・オルドで見られる空気と同じものです。つまり、異質で不自然な「何か」を感じ取るのです。それは、主の霊感を受けていない作品に典型的なものです。言い換えると、明らかに人間的な作品、また真に典礼的なものは何もなくピオ十二世が不滅の回勅「メディアトール・デイ」(Mediator Dei)で正しくも断罪したグノーシス的な厚かましさの持つ悪臭が漂う合理主義に染まった作品に典型的なものです。

1947年に御摂理的に断罪されたこれらの同じ誤謬が、ピオ十二世自身が公布した改革そのものにおいて再び表に出てくることに成功したことは驚くべきことです。しかし、教皇が高齢で、そのころの世界的な紛争によって肉体的にも精神的にもまったく疲れ果てていたことを忘れてはなりません。ピオ十二世を聖伝の破壊者のリストに加えることは、不当なことであると同時に狭量なことでしょう。

とはいえ、1969年4月3日の使徒的憲章「ミサーレ・ロマーヌム」(Missale Romanum)によってパウロ六世が公布したノブス・オルド・ミサ【新しいミサ】のために提起された同じ例外が、1955年11月16日の教令「マキシマ・レデンプティオニス・ノストレ・ミステリア」(Maxima Redemptionis Nostræ Mysteria)によってピオ十二世が公布した典礼にも適用できるかどうかは、まだ評価されていません。

もっと分かりやすく言い換えましょう。自発教令「スンモールム・ポンティフィクム」(Summorum Pontificum)が、前の典礼の持つ典礼様式的、教義的、霊的な特異性のゆえに、カトリック信者が、この典礼を利用する権利を認めていること、また、この自発教令が、ノブス・オルドの正統性の評価という本案に立ち入らず、言わば典礼の嗜好の問題にとどまっていることを考えるならば、私たちはこの原則を、ヨハネ二十三世の自発教令「ルブリカールム・インストルークトゥム」(Rubricarum Instructum)やピオ十二世の教令「マキシマ・レデンプティオーニス・ノストレ・ミステリア」とに先行する典礼様式にも拡張して、いわゆる"聖ピオ十世の典礼様式"に対する私たちの「嗜好」を表明することが許されるのでしょうか?

実は、これは挑発です。第一に、私は、ローマ典礼様式の教会において、二つの形式の同じ典礼様式が共存するということに同意しないからです。第二に、私は、改革された典礼には重大な欠落があって、確実に「異端を助長する」(favens haeresim)ものだと考えているからです。そこで、オッタヴィアーニ、バッチ両枢機卿とマルセル・ルフェーブル大司教の非難に私も加わっており、ノブス・オルドをただ廃止・禁止して、聖伝の典礼を有効な唯一のローマ典礼とすべきだと確信しているからです。

ただ唯一、この観点からならば、「聖週間の式次第改革版」(Ordo Hebdomadæ Sanctæ Instauratus)に対して、また、もし私たちが詳細にこだわろうとするならば、自発教令「ルブリカールム・インストルークトゥム」に対しても、教会法的に「挑戦」することが可能だと私は思います。とりわけ、その理由として挙げられるのは、両者の基調(tone)がノブス・オルドと一致しており、それらより前のローマ・ミサ典礼書の基調と明らかに断絶しているからです。

ところで、私たちが置かれている「法の不在状態(vacatio legis 通常は"法の発布から施行までの期間"を指す)」を考えると、もし聖ピオ十世兄弟会が、パウロ六世のミサ典礼書にまで至った、その後のすべての改革に同じ悪意ある心を認めているという理由で、ヨハネ二十三世のミサ典礼書を使用することが正当だと考えるのなら、同じ理由――主として慎重を期するという性格を持った理由――から、聖週間の改革に対しても同じ原理を適用できるだろうと私は考えます。たとえ、聖週間の改革それ自体においては――ヨハネ二十三世のミサ典礼書においてと同じく――非正統的なものが何もなく、あるいは異端に傾くものもないとしてでもです。

ルフェーブル大司教が、まさに1962年の典礼を選択した理由は、このことだったのだと私は思います。一方で、ルフェーブル大司教は堅固な養成教育のおかげで法的な考え方を持っていたため、典礼に一種の「無試験」を適用することは不可能であって、そんなことをすれば誰でもどんな典礼でも採用できることになる、ということをよく理解していたのです。しかし同時に、大司教は、公会議改革の破壊的な性質を見逃しませんでした(ちょうど今日の私たちが見逃さないように)。儀式が何世紀にもわたって堆積したので、本来のものとされる典礼の純粋さを回復する、という口実のもとで、意図的に、試験的な(ad experimentum)例外に開かれ、無限の自由裁量に開かれたのです。まさにこの理由から、ルフェーブル大司教は、より妥協の少ない典礼、1962年の典礼に戻ることを決めました。

そのとき大司教は、おそらく、パチェリ(ピオ十二世)とロンカリ(ヨハネ二十三世)によって行われた改革の持つ、いくつかの論議を呼ぶ側面――特に1970年代の問題の多い時期に、典礼専門家のみが把握したであろう問題点――を把握してはいなかったことでしょう。さらに、忘れてはならないのは、「典礼刷新」は、イタリアで展開されるよりもずっと前にフランスで始まっていたこと、また、後に普遍教会の規範となった多くの革新――ゴシック祭服【ポンチョのようなカズラなど】の使用や、「会衆に向く」(versus populum)祭壇に始まる――が、1920年代には早くもフランスの司教区で実験され、常に考古学主義の名のもとに行われていたことです。しかも筆の一振りで、千年余に及ぶ教会生活を取り消そうと試みていたのです。私は想像しますが、イタリア人高位聖職者の目には、「会衆の前で」(coram populo)中世のカズラを身に着けてミサを捧げることは常軌を逸した行動に映ったでしょうが、フランス人大司教にとっては、そのときにはすでにそれが定着し、ある意味では奨励される習慣でさえあったのでしょう。

さらに私たちは次のことも理解しなければなりません。この点については、私は詳しく述べてきたと信じています。つまり、改革の「心」は、ピオ十二世よりかなり以前に地方レベルで始まり、その後徐々にカトリック世界全体に広がったものであり、それは完全に法に反するものでした。

つまり、改革の計画をした立役者たちは、或る典礼様式を――典礼様式とは典礼の文章をただ忠実に適応することでなければならなかったのですが――法の力で押し付けようとして、教皇の立法者としての権威を利用したのです。ミサ典礼書は、もはや司式司祭が忠実に唱えるべきテキストを含んでいるべきではないとされ、むしろ、最悪の風変わりなものを認可していた一種のキャンバスと考えられ、聖なるものの感覚の喪失は避けがたいのだと教会神秘体にほのめかしていたのです。これは、「聖週間の式次第改革版」にも、ヨハネ二十三世のミサ典礼書にも、まだ隠れていて見られないものでした。

しかし、典礼様式が永続的に変化し得るのでその気軽な更新(アジョルナメント)が可能だとする原理、さらに、典礼様式が数世紀の経過とともに腐敗してきた――実際は、典礼様式の成り立ちが、状況、時間、場所による調和のとれた発展の結果であるにもかかわらず――という誤った観念、また、そのため「発展の過剰」(superfetation 過剰受胎)を「刈り取る」必要があると誤った主張が、すでに内蔵されていたのです。そして確かに、聖ヨゼフの名を挿入したロンカリ(ヨハネ二十三世)によるローマ典文の修正も同じ方向に進み、聖なるいけにえの最も古くて神聖な祈り【ローマ典文】にさえも手を付けたのです。

最後に、一つの所見を述べます。自発教令「スンモールム・ポンティフィクム」を利用する多くの共同体は、ピオ十二世の改革より前のミサ典礼書に従って聖週間の典礼を捧げています。つまり、エクレジア・デイ(Ecclesia Dei)委員会自体が、この特別許可を認可し、それを正当化するよう求めた人々の理由を考慮しました。

ですから、より困難な時代に聖伝のミサを守る最前線にいた聖ピオ十世兄弟会が、なぜ同じことをできないのか、私には理解できません。確かに、教会が元の自分に戻るとき、これらすべては法の枠組みに戻されなければなりません。その法の枠組みは、提起された批判を賢明に考慮に入れることだろうと、私たちは望むことができると思います。

私がご提供したこの考察が、少しでも○○神父様のお役に立てばと思っております。

親愛なる友人の皆さん、皆さん全員に、私の父としての祝福を贈ることができることを感謝しております。

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ


シスター・ルチアの1957年のフエンテス神父とのインタビュー:私たちは最後の救いの手段を拒絶しているのか?

2022年05月19日 | ファチマ

シスター・ルチアの1957年のフエンテス神父とのインタビュー:私たちは最後の救いの手段を拒絶しているのか?

2022年5月3日(火曜日)

Sister Lucia’s 1957 Interview with Fr. Fuentes: Are We Now Rejecting the Last Means of Salvation?

ロバート・モリソン(レムナント・コラムニスト)

シスター・ルチアの1957年のフエンテス神父とのインタビュー

「私たちは最後の救いの手段を拒絶しているのか?」

1957年12月26日、アウグスティン・フエンテス神父(ファチマの幻視者フランシスコとジャシンタの列福の申請代理人)は、ファチマの幻視者の最年長者シスター・ルシアにインタビューしました。カール・シュテーリン神父(聖ピオ十世会)が「ファチマの大いなる秘密」(第3巻)で以下のように記しているように、その後すぐにローマの進歩的な当局がフエンテス神父とそのインタビューの信用を落とそうとしていますが、このことは、このインタビューが今日において重要であることを示唆しています。

「なぜ、この【インタビューの】文章にそれほど強い反応があるのでしょうか? 第一に、この文章のために、シスター・ルチアは、ヨハネ二十三世が公会議開会の演説で非難した破滅の予言者の一人として位置づけられたのです。ですから、教皇は、彼女の述べていることを好ましく思っていなかったに違いありません。それに関係なく…シスター・ルチアは、このインタビューの中で、第三の秘密の特定の詳細を明らかにしたのです」。

以下のインタビューの抜粋から分かるように、シスター・ルチアは、第二バチカン公会議とそれに続く数十年の間にまったく明らかになった、信仰の大危機について語っていたのです。私たちにとってさらに重要なことは、1957年のシスター・ルチアの言葉が、直近の未来について私たちが得ている最も重要な警告であるということです。

1957年当時、そして現在におけるこの世の悲惨な状況。「神父様、至聖なる童貞は、善人も悪人も、誰もそのメッセージに注意を払わなかったため、非常に悲しんでおられます。善人は、メッセージを重要視せず、自分の道を歩み続けています。悪人は、天主の罰が自分たちに実際に下るのを知らず、メッセージについて関心を持たずに、罪の生活を続けています。でも、私を信じてください、神父様、天主はこの世を罰せられます。天からの罰は差し迫っています…」

この世は、1957年当時も悪かったのですが、今日では比較にならないほど悪くなっています――私たちは、このことを至るところで見ています。今日では、私たちはもっと多くの天罰を受けるに値するのですが、自分の生活を改める必要があることにほとんど気づいていません。1957年に天罰が差し迫っていたとすれば、2022年(あるいは5月)になっても天主から懲罰を受けずに済むと誰が確信できるでしょうか?

聖職者の堕落はイエズスとマリアを苦しめ、信者の地獄行きにつながります。「マリアの汚れなき御心とイエズスの聖心を苦しめるものは、修道者や司祭の霊魂の堕落です。悪魔は、美しい召命から堕落した修道者や司祭が、多くの霊魂を地獄に引きずり込むことを知っています…。悪魔は、奉献された霊魂を自分のものにしたいと欲しています。悪魔は、信者の霊魂を眠らせ、それによって信者を最終的な背信に導くために、聖職者の霊魂を堕落さようと欲するのです。その結果、内的生活が不毛になり、信者の間では、楽しみを捨てて自らを天主に奉献するというテーマに対して冷淡になるのです」。

聖職者の堕落は何十年も前から完全に明白になっていましたが、パンデミック時に教会が閉鎖されたことで、それはさらに明らかになりました。重大なのは、この堕落の及ぼす影響のうち、ほとんど認識されていないのが信者に関するものだということを、シスター・ルチアがはっきりさせたことです。つまり、「楽しみを捨てて天主に完全に自らを奉献するというテーマに対する冷淡さ」です。マリアの汚れなき御心とイエズスの聖心が、私たちが楽しみを捨てて天主に自らを完全に奉献することに冷淡であることに苦しまれるというのは、驚くべきことでしょうか? もしそうなら、シスター・ルチアが指摘するように、悪魔が、すべてのカトリック信者に天主に対して寛大であるよう呼びかけるべき聖職者を堕落させることに成功したからかもしれません。天主と聖母のメッセージを無視し続けた原因および結果として、私たちの牧者たちはしばしば、まるで聖人のように天主に立ち返らなければならないと説教すれば、私たちをつまずかせてしまうかのように振る舞うのです。悲劇的なことに、この天主に立ち返ることこそが、今日私たちが切実に必要としているメッセージなのです。

私たちが終末の時代にいるという三つの理由――第一の理由。「神父様、至聖なる童貞は、私たちがこの世の終末の時代にいると私にお告げにはなりませんでしたが、三つの理由から私にこのことを理解させられました。第一の理由は、悪魔が聖母に対して決定的な戦いを挑むつもりになっていると、聖母が私にお告げになったからです。そして、決定的な戦いとは、一方が勝利し、他方が敗北する最終決戦のことです」。

第二バチカン公会議以降、またフランシスコがローマを占拠している間にますます、私たちは、教会内部の戦線が明確に区分されていることを目の当たりにしてきました。彼のパチャママの導入、特に「トラディティオーネス・クストーデス」(Traditiones Custodes)における聖伝のカトリシズム(すなわちカトリシズム)への直接的な攻撃、そして「シノドス(司教会議)中心主義」(Synodality)に関するシノドスによって、フランシスコは、見る目のある者に対して、正当なカトリックの宗教と、今や事実上、新世界秩序の霊的部門となり、第二バチカン公会議の精神によって活発になった悪魔的な偽りの宗教のどちらかを選択するしかないということを、明白にしているのです。私たちは確かに、最終決戦の真っただ中にいるように思えます。中立を保とうとする人々は、しばしば、マリアとその軍隊に対する悪魔の攻撃において、悪魔の最大の道具となるのです。

私たちは終末の時代にいる――第二の理由。「第二の理由は、聖母がこの世に二つの最後の救済策を与えておられるからです。それは聖なるロザリオとマリアの汚れなき御心への信心です。これは、最後の二つの救済策であり、今後ほかにはもう何もないという意味なのです」。

インタビューの後半で、シスター・ルチアは直接ロザリオについて語っています。

「見てください、神父様、私たちが生きているこの終末の時代に、至聖なる童貞は、私たち一人一人の個人的な生活、家族、世界の家族、修道会、あるいは民族や国家の生活において、どんなに難しい問題であっても、ロザリオによって解決できないものはないというところまで、ロザリオを唱えることに新しい効力を与えてくださったのです。ロザリオで、私たちは自分を救い、自分を聖化します。ロザリオで、私たちは主をお慰めし、多くの霊魂の救いを得るのです」。

ロザリオへの信心を持つ人々は、天主がロザリオを唱えることに特別な効力を与えておられることを、経験を通じて理解しています。聖母とロザリオへの信心を批判する人々は、天主がどのような救済策を選ぶかを決めることがおできになるという、この重要な事実を取り違えています。天主は、【救済策として】聖なるロザリオとマリアの汚れなき御心への信心を選ばれたのです。自分がカトリック信者だと思っているほとんどの人々は、この救済策をほとんど、あるいは全く利用していません。つまり、この救済策の重要性を認識している人は、それを最大限に利用するよう求められているのです。

私たちは終末の時代にいる――第三の理由。「第三の理由は、天主の御摂理の計画において、天主は常に、世を懲罰しようとされる前に、すべての救済策を使い尽くされるからです。いま、この世が全く注意を払わないのを天主がご覧になると、私たちの不完全な言い方で言えば、天主は、ある種のおののきをもって、最後の救いの手段である至聖なる御母を私たちに差し出されています。『ある種のおののきをもって』(with certain trepidation)というのは、もし私たちがこの最後の手段を軽んじ、拒絶するならば、私たちは福音が聖霊に対する罪と呼ぶ罪を犯すため、もはや天からの赦しを何も受けられなくなるからです。その罪は、聖霊が差し出される救いを、十分な知識と同意のもとに公然と拒絶することなのです」。

フランシスコがローマにパチャママを迎えて以来、天主は、この世の邪悪な勢力が、天主と天主のみ旨を果たそうとする人々に対して公然と結束していることを、これまで以上に明らかにしてくださいました。大多数の人々は、「何か」が間違っていることに気づいていますが、自分たちのパンとサーカスがある限り、言われたとおりにすることにおおむね満足しています。天主はまた、私たちが次の選挙でどれだけ良い結果を出そうとも、イーロン・マスクがツイッターを支配したらどれだけ真実のツイートを許そうとも、助けが来るわけではないことを私たちに分からせてくださいました。世俗の勝利は、この世の邪悪な支配者たちが私たちを檻に押し込めるために必要な支配力のすべてを得るまでの時間を、もう少し稼ぐのに役立つだけなのです。

天主は私たちに、救いの最後の手段である至聖なる御母を利用することが唯一の方法であることを理解させてくださっているのです。そして、私たちがマリアを通して天主に立ち返らなければならないことが明確であればあるほど、そうしないことで私たちは、さらに罪深い存在となるのです。シスター・ルチアが指摘したように、私たちは「主が与えてくださる救いを、完全な知識と同意をもって公然と拒絶する」段階に近づいているのです。ですから、聖人になりたいと願いながら、今、マリアを通して天主に立ち返ることは、単に数ある良いことの中の一つではなく、必要な一つのことなのです。私たちがそうするなら、天主は他のものも与えてくださいます。私たちがそうしなければ、どんなに政治的にうまくいっても、私たちの助けにはなりません。

償いの大いなる必要性。「私の使命は、私たちが頑固に罪を犯し続けるなら、永遠に霊魂を失うという差し迫った危険にさらされていることを、すべての人に指摘することです。神父様、私たちは償いをするために教皇様の呼びかけを待っていてはいけません。また、教区の司教や修道会から償いの呼びかけが来るのを待っていてもいけません。そうではありません! 私たちの主は、すでに何度もこれらの手段を用いておられますが、この世は全く注意を払ってきませんでした。ですから今、私たち一人一人が霊的に自分を改革し始めることが必要なのです。一人一人が自分の霊魂を救うだけでなく、天主が私たちの前に置かれたすべての霊魂を救わなければならないのです」。

第二バチカン公会議以降、ノブス・オルドに従うカトリック信者の間では、償いの実践が著しく減少しています。私たちの信仰に対する感謝が教えているように、償いの不足は罪を増やし、その罪はさらに多くの償いを必要とするのです。その結果、私たちは霊的な死のスパイラルに陥っており、一人一人が天主に立ち返る必要があることに目覚めなければならないのです。「一人一人が霊的に自分を改革し始めることが必要です」。この聖性への呼びかけを牧者から聞くことができそうにないという事実は、聖人になるために全力を尽くすべき、さらに大きな理由になるはずです。

懲罰の道具としてのロシア。「神父様、彼らに伝えてください。至聖なる童貞は、私のいとこのフランシスコとジャシンタと私に、多くの国が地上から姿を消すでしょう、と何度も言われました。聖母は言われました。ロシアが全世界を罰するために天によって選ばれた懲罰の道具になるでしょう、そのあわれな国【ロシア】の回心をあらかじめ得られなければ、と」。

ロシアやウクライナに対する思いはともかく、ロシアが「天が全世界を罰するために天によって選ばれた懲罰の道具」となる事態が、これまで以上に近づいているように思われます。人間が聖人のように天主に立ち返らないならば、大いなる懲罰のためのすべてが用意されているのです。

「司教や司祭はこのことを広く知られるように説教すべきです。しかし、たとえ彼らがそうしなくても、カトリックの心でそれを知っている私たちは、キリストの約束にふさわしい者となるために、童貞聖マリアに御取り次ぎを願うべきです。

残された時間を使って、私たちは生活を改め、聖人になることにすべてがかかっているかのように行動しなければなりません。シュテーリン神父が、以下のように書いているように、聖母はあわれみの御母であり、私たちが聖母に叫びさえすれば、私たちの声を聞いてくださいます。

「例えば、ある子どもがいて、とても悪くて悪質で、おそらく多くの犯罪に手を染め、全世界から拒絶されていると想像してみてください。もし、その子どもの母親が良い母親であったなら、その子どもを見捨てたりはしないでしょう。聖モニカが息子の聖アウグスティノのためにしたように、その子どもの回心を生涯天主に願い続けるのではないでしょうか? そして、その子どもが少しでも後悔の念を示したら、急いで母性愛を見せるのではないでしょうか? そして、その子どもが絶望の中で「お母さん」と叫んだら、母親の心はその助けを求める叫びに耳を貸さないことができるでしょうか? 母親のところへ行くのに怖がる人がいるでしょうか? しかも、ここにおられるのはただの母親ではなく、むしろその本質があわれみの御母である、すべての母親の中で最高の母親なのですから」。

天主は、私たちが愛に満ちたあわれみの御母を「切実に」必要としていることを、今、はっきりと分かるようにしてくださったのです。司教や司祭は、このことを広く知られるように説教すべきです。しかし、たとえ彼らがそうしなくても、カトリックの心でそれを知っている私たちは、童貞聖マリアに、私たちがキリストの約束にふさわしくなるように御取り次ぎを願うべきです。明日では遅すぎるかもしれませんから、今、そうしなければならないのです。いと尊きロザリオの元后、われらのために祈り給え。

シスター・ルシア 「ロザリオの祈りによって解決できない問題などありません。」 - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2021年「秋田巡礼」へのお招き - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた


使徒たちは、イエズス・キリストと三年間共に生活をした後に全世界を回心させた。聖ヨゼフはイエズス・キリストと三十年間共に生活をした。聖ヨゼフはどれほど聖なる方であることか!

2022年05月19日 | お説教・霊的講話

2022年5月1日(主日)勤労者聖ヨゼフの祝日
聖ピオ十世会司祭 レネー神父様メッセージ

使徒たちは、イエズス・キリスト様と三年間一緒に生活を共にされました。そうするとその結果、使徒たちはとても聖化されて、そして熱心になって、全世界に行って全世界を回心させました。

ところが聖ヨゼフは、三十年間イエズス・キリストと共に生活をしました。聖ヨゼフはどれほど聖なる方であり、どれほど熱心な方であり、どれほど恵みを受けた方でしょうか。今日は聖ヨゼフの祝日です。聖ヨゼフにお祈り致しましょう。アーメン。

 

Arata Nunobe

From the Fathers

 


私たちには天主が必要であり、私たちの主イエズス・キリストを通して、光の父なる天主から来る恩寵が必要である

2022年05月17日 | お説教・霊的講話

2022年5月15日 東京での説教 御復活後第四主日

レネ神父様

親愛なる兄弟の皆さん、

今日の書簡について、簡単な解説をしたいと思います。

天主のみ言葉は、いつも、私たちの霊魂のための、霊的な糧や恩寵に満ちています。ですから、聖ヤコボは、まず、教義と道徳に関する、美しく、非常に重要な原理を示すことから始めます。「すべてのよい贈り物と、すべての完全な贈り物は、変わることなく、変化の影さえもない光の父から、上からくだる」(ヤコボ1章17節)。

言い換えれば、すべての善は天主から来るものであり、天主はすべての善の第一の原因なのです。天主を第一の原理としない善は、あり得ません。自然の善と超自然の善の両方において、すべての善は天主から来るのです。私たちの存在も、私たちの内にあるあらゆる善も、すべて天主から来るのです。私たちは、まさに天主に依存することによって存在しており、私たちの行動は、天主に依存してのみ、善いものとなり得ます。私たちは、善の第二の原因にはなれますが、善の第一の原因にはなれません。私たちは、天主への依存を認めることによって、正しい謙遜(けんそん)の状態になり、それによって、霊魂は恩寵へと開かれるのです。「天主はおごる者に逆(さか)らい、へりくだる者を恵(めぐ)まれる」(ヤコボ4章6節)。

この原理は、私たちの本性が、善にして高潔(こうけつ)な人生を送るのに十分であり恩寵は必要ない、と主張するペラギウス主義に対する反駁(はんばく)です。これは、「私たちには天主は必要ない」と主張するすべての人々に対する反駁(はんばく)です。

私たちには天主が必要であり、私たちには、私たちの主イエズス・キリストを通して、光の父なる天主から来る恩寵が必要である、というのが真理です。私たちの主が、「私がいないとあなたたちには何一つできぬ」(ヨハネ15章5節)と言うことがおできになるのは、そのためです。

ですから、祈りは必要であり、祈りによって、私たちは、私たちが必要とするすべての恩寵を得るのです。さらに、天主は、私たちが求めるもの以上のものさえも、与えてくださるのです!

この聖ヤコボの一節の中の、次の部分に注意してください。天主は永遠に生きておられるのであり、私たち人間の時間の中で恩寵を与えてくださいますが、天主ご自身は、時間を超越(ちょうえつ)しておられます。「(天主は)、変わることなく、変化の影さえもない」(ヤコボ1章17節)。

聖ヤコボは続けて、父なる天主からの偉大な賜物(たまもの)を指摘しています。父なる天主は、洗礼によって、私たちを、キリストにおけるご自分の子とされました。「天主は、私たちを被造物の初穂(はつほ)とするために、み旨(むね)のままに、真理のみ言葉をもって私たちを生み出された」(ヤコボ1章18節)。

実際、私たちは洗礼を受け、「水を注(そそ)ぐことと、それに伴う(命の)み言葉によって清め」(エフェゾ5章26節)られるのです。この「真理のみ言葉」、「命のみ言葉」が、御父のみ言葉である私たちの主イエズス・キリストであり、洗礼の秘跡の言葉によって、私たちを清めてくださったのは、主イエズス・キリストです。すべての秘跡において、その形相(けいそう)はいくつかの聖なる言葉から成っていますが、洗礼(とご聖体)における言葉は、私たちの主イエズス・キリストご自身によって制定されたものです。

天主の恩寵は、自由に与えられることに注意してください。聖ヤコボは、「み旨(むね)のままに」、と言っています。それはつまり、天主からの最初の賜物(たまもの)は、常に、私たちが受けるに値(あたい)しないものである、ということです。この真理はまた、私たちが天の御父に対していつも謙遜(けんそん)で、感謝を忘れないための助けとなります。聖ヨハネが、「天主が、先に私たちを愛し給うた!」(ヨハネ第一書4章10、19節)と言うのも、このことです。

聖ヤコボが、「私たちを被造物の初穂(はつほ)とするために」(ヤコボ1章18節)と言うとき、聖ヤコボは、初期のキリスト教徒たち、特に聖ヤコボが司教であったエルザレムのキリスト教徒たちを指しています。

このような美しい原理を示した後、聖ヤコボは、この原理を日々の道徳に当てはめます。
「人はすべて、聞くに早く、語るに遅く、怒るに遅い者でありなさい」(ヤコボ1章19節)。天主のみ言葉を「聞くに早く」とは、つまり、私たちの主イエズス・キリストに従順で、天の教理を学ぶことに熱心であることです。
「語るに遅く」とは、つまり、批判するのが遅いことです。天主のみ言葉をすぐに批判し、自分が理解しなかった内容を非難する人々がいます。そのような人々はむしろ、沈黙のうちに理解しようとすべきです。

この聖ヤコボの言葉は、私たちの隣人についても、当てはまります。私たちは、隣人の話を「聞くに早く」、その人を批判するのに遅くなければなりません。私たちは、しばしば、その人の本当の状況や、動機や、事情を知らないからです。ですから、私たちは、「怒るに遅く」あるべきなのです。この「遅く」という単純な言葉は、怒りを避けるのにとても良い言葉です。憤(いきどお)りや怒りで自分の心臓の鼓動(こどう)が速くなっていると感じたら、いつでも、「遅く」行動することにしましょう。遅く話し、遅く呼吸をしましょう。

話す前に、批判する前に、心の中で小さなお祈りをする時間を取りましょう。これは誰にでも有効なことですが、特に子どもに対しては、そうです。まず、子どもに罰を与える前に、皆さんが子どもに何を期待しているかを、子どもが理解していることを確認しましょう。そうしないと、皆さんの矯正(きょうせい)は、たいしてうまくいきません。それから、子どもに、自分の間違いを直す時間を与えましょう。私の知り合いに、「3まで数える」ということした人がいます。その人は、子どもが何か悪いことをしたら、まず自分の期待を口に出すのです。「これをしてはいけません、『イチ』――これをしてはいけません、『ニ』――…」と。子どもは、「これをしてはいけません、『サン』」になったら自分が罰を受けると分かっていたため、たいていはその前にやめるのです。さて、親が望んでいたのは、子どもが悪いことをするのをやめることです。遅く行うことによって、親は子どもの矯正(きょうせい)を成し遂(と)げたのです。「怒るに遅くあれ」、これを忘れないでください。

聖ヤコボは、こう説明します。「人の怒りは、天主の正義を実現させないからである」(ヤコボ1章20節)。怒りは、しばしば私的な復讐(ふくしゅう)を求めますが、それは天主のなさり方ではありません。天主のなさり方は、「悪に悪を返すことなく、…善をもって悪に勝て」(ローマ12章17、21節)です。聖パウロもまた、テサロニケ人にこう言っています。「誰も他の人に対して悪に悪を返さぬように気をつけよ。いつも互(たが)いに、すべての人に善をすることを目指せ」(テサロニケ前書5章15節)。また、聖ペトロはこう言っています。「悪には悪を、侮辱(ぶじょく)には侮辱(ぶじょく)を返すことなく、むしろ祝福せよ。あなたたちは祝福の世継(よつ)ぎとなるために、そう召(め)されたからである」(ペトロ前書3章9節)。これが、真の柔和(にゅうわ)です。

柔和(にゅうわ)は、弱さではなく、逆に、まず自己に対する勝利、次に、やがて善が打ち砕く悪に対する勝利です。私たちの主ご自身が、怒りを避けることは第五戒の完成である、と教えておられます(マテオ5章21-22節)。

次に、聖ヤコボは、すぐに第六戒について語ります。「だから、すべての汚(けが)れや、あふれる悪を捨て去り、あなたたちの心に植えつけられたみ言葉を、柔和(にゅうわ)に受け入れなさい。み言葉には、あなたたちの霊魂を救う力がある」(ヤコボ1章21節)。言い換えれば、肉体の快楽ではなく、霊魂の快楽を求めなさい、ということです。

この世は、昔からあらゆる種類の汚(けが)れに満ちてきましたが、今日(こんにち)は、かつてないほどの状況です。そのようなものをすべて捨てない限り、誰も真のキリスト信者になることはできません。同じように、聖パウロはコロサイ人にこう言っています。「したがって、地上にあるあなたたちの肢体(したい)、淫行(いんこう)、汚(けが)れ、情欲(じょうよく)、邪欲(じゃよく)、貪欲(どんよく)を抑(おさ)えよ。これは、偶像崇拝(ぐうぞうすうはい)である。これらのことのために、天主の怒りが不信仰の子らの上に来るのである。その中に暮らしていたあなたたちも、しばらくはそのようにおこなっていた。しかし、今はすべてこれらのこと、怒り、憤(いきどお)り、悪意、冒涜(ぼうとく)、あなたたちの口から出る不潔(ふけつ)な言葉をすべて捨てよ。互いにうそを言うな。あなたたちは古い人間とその行いを脱(ぬ)ぎ、新しい人間をまとった。この新しい人間は、自分を造ったお方の姿に従い、ますます新しくなって深い知識に進む」(コロサイ3章5-10節)。そして、エフェゾ人に対してはこう書いています。「淫行(いんこう)の者、汚(けが)れた者、貪欲(どんよく)な者はみな、(これは偶像崇拝者(ぐうぞうすうはいしゃ)と同じであり)、キリストと天主の国を継(つ)がない。人のむなしい言葉にだまされるな。不従順な者の上に天主の怒りを呼ぶのは、それらの事柄(ことがら)である。だから、彼らと交わるな。もとあなたたちは闇(やみ)であったが、今は主において光である。したがって、光の子として歩め」(エフェゾ5章5-8節)。

聖パウロと聖ヤコボが対立している、という人々がいますが、これでお分かりの通り、この二人のいうことは、非常によく一致しています。聖ヤコボは、こう続けます。「ただみ言葉を聞くだけではなく、それを行うように努(つと)めよ。そうしなければ自分を欺(あざむ)くのである。み言葉を聞いてそれを行わぬ人は、鏡の中で生まれつきの自分の顔をながめる人に似ている。その人は自分を映(うつ)したが、去ってしまえば自分がどんな姿であったかすぐに忘れてしまう。しかし、自由の完全な法を一心(いっしん)に見つめて離れぬ人とは、聞いて忘れる人ではなく、実際に行う人であって、それを守れば幸せになる」(ヤコボ1章22-25節)。

ルターはこの一節に我慢できず、これが聖パウロのいうことと対立していると考えましたが、それは、間違っています。実際、聖パウロは、こう言っています。「天主のみ前に義とされるのは、律法を聞く人ではなく、律法を守る人である」(ローマ2章13節)。これでお分かりのように、両者のいうことは非常によく一致しています。どちらも、ルターの主張に反するものです!両者とも、天主の恩寵と、人間の行いの価値を、同時に肯定しています。ルターの異端(いたん)は、このふたつを対立させ、あたかも天主の恩寵が私たちの行いの価値をなくすかのように、そして、あたかも私たち人間の行いの価値を認めることが天主の恩寵に反するかのように、主張することにあるのです。 教会は、使徒ヤコボと使徒パウロの両者とともに、むしろ、私たちが善を行うには天主の恩寵が必要であり、天主の恩寵は私たち人間の行いに価値を与える、と教えています。

ですから、私たちが天主の掟(おきて)を忍耐強く守り続けるのを助けてくださるよう天主の恩寵を祈り求めつつ、天主のみ言葉に従順(じゅうじゅん)に、そして心をこめて、み言葉を忠実に実践しましょう。聖ヤコボが、「自分は宗教を行っていると考える人が、自分の舌(した)を抑(おさ)えず心を欺(あざむ)くなら、その宗教の行いはむなしい」(ヤコボ1章26節)と言うように、ルターの異端(いたん)は、まことに人を欺(あざむ)くものなのです。

「父なる天主のみ前に、清く汚(けが)れのない宗教とは、すなわち、貧(まず)しい孤児(こじ)や、やもめを見舞い、世の汚(けが)れに染まらないこと(である)」(ヤコボ1章27節)。悪を避け、善を行い、この世の腐敗(ふはい)を避け、あわれみを実践すること、これこそが真のキリスト教の道徳、真のカトリックの道徳であり、祈りの生活の実りなのです。

私たちが、使徒の元后(げんこう)たる童貞聖マリアが、聖ヤコボとすべての使徒たちとともに、この偉大な使徒聖ヤコボが今日私たちに語ったことを私たちが実践するのを助けてくださり、それによって、私たちがその実りを豊かに刈(か)り取ることができますように。アーメン。


【参考情報】ヴィガノ大司教:「ロー対ウェード」判決に関するリークされた米最高裁の草稿についての宣言

2022年05月17日 | プロライフ

【参考情報】ヴィガノ大司教、米最高裁、中絶、リークについて語る

Viganò. The U.S. Supreme Court, Abortion, and the Pronunciation Leak.

2022年5月12日

マルコ・トサッティ
親愛なる「Stilum Curiae」の友人と敵の皆さん、カルロ・マリア・ヴィガノ大司教のこの声明を受け取りましたので、喜んで公開します。どうぞ、お読みください。

§§§

「ロー対ウェード」判決に関するリークされた米最高裁の草稿についての宣言

米最高裁から出てきた草案に従って、最高裁判事たちが、1973年1月22日の「ロー対ウェード」判決は違憲であり、破棄されなければならないと宣言しようとしているというニュースを、ここ数日、メディアがリークしています。

第一に、広がっている誤解を解いておかなければならないのは、この最高裁が出す可能性のある判決は、中絶の道徳的正当性を論じるものではなく、むしろ1973年の判決が、個々の州が持っている主権に関して、合衆国憲法に適合しているかどうかを論じるものだということです。したがって、中絶の正当性に関する倫理的、道徳的な問題を扱っているのではなく、憲法の下での最高裁の管轄権に関する問題なのです。

「ロー対ウェード」判決が連邦州の主権に与えた「vulnus」(傷)は憲法上の問題であり、判事たちはそれについて判決を下さなければならないでしょう。

今回の判決のこの側面をメディアは意図的に語ってきておらず、その代わりに判決の具体的な内容を強調して、それをイデオロギーの旗じるしとしたのは重要なことです。また、ディープ・ステートが悪意を持って行ったこのプロパガンダ作戦には、このニュースが世論に巻き起こす議論を先鋭化させ、判事たちがまだ最終決定していない判決の動機づけに影響を与えさせる意図があることは明らかです。判決文の草稿が早々とリークされたことで、中絶推進派やアンティファが組織する暴力的な抗議デモが引き起こされ、同時に礼拝中のカトリック教会に対するスキャンダラスな挑発や冒涜的な攻撃が多発していることに、誰も気づかないでいることはできないでしょう。カトリック信者が勇気ある証しをすることは、キリストの教会の譲れない権利であると同時に、憲法修正第一条の下でのすべての米国人の譲れない憲法上の権利でもある、まさに礼拝と説教の自由の名の下に、教会の牧者たちが励まし支持すべきことです。

今は、疑似パンデミックの犯罪的管理に関して浮上しつつあるスキャンダルや、製薬多国籍企業と管理機関によって罪深く隠蔽されてきた、依然として未知の長期的なダメージと深刻な副作用が、まだ不明なヒトゲノムを不可逆的に変更する実験的治療の押し付けに関してのスキャンダルを、米国人がまだ完全に理解していないときです。また、ジョン・ダーラム特別検察官が「ロシアゲート」の調査を終了させる準備をしていて、オバマ、ヒラリー・クリントン、バイデン(その共犯者には当時のイタリア政府の最高レベルのメンバーが含まれています)がトランプの大統領選挙キャンペーンの抑圧に果たした役割について調査を受ける(そしてできれば反逆罪と政府機関への攻撃で断罪される)のがまもなく見られるであろうときです。さらには、ジョー・バイデンが、息子のハンターがウクライナで関わった汚職事件を必死に隠蔽しようとしていますが、この事件は遺憾なことにもバイデン自身のウクライナの生物学研究所への関与を含み、そこではSARS-CoV-2ウイルスの「機能獲得」の研究が行われ、その病原性と感染性を変化させたことが知られつつあるときです。しかも、ホワイトハウスが、インフレと原材料価格の上昇という米国経済の問題を、ロシア・ウクライナの危機のせいにしようと必死になっているときです。NATOが、米国のロビーに仕える武器商人として行動し、プーチンとゼレンスキーの和平交渉を何としてでも妨げようとしているときでもあります。

さあ、今こそ、世論の目をそらし、中絶反対派のプロライフと中絶推進派の「プロチョイス」の間の衝突を過激化させるための作戦が用意されているのです。その前には、パンデミックの茶番劇の間に、さらにその前には、ジョージ・フロイド事件と「ブラック・ライブズ・マター」運動が引き起こした鬱憤によって、同じ手法で大衆操作の実験を行い、成功させていました。

最高裁に非難されるべき点があるとすれば、それは、1973年に連邦各州で中絶が当然禁止されていたにもかかわらず、合法化を各州に押し付けようとしたためです。この権力の濫用が容認されたのは、最高裁が民主党のイデオロギー的な偏見にまみれていたからです。そのために、正義を求めて天に向かって叫ぶ、罪なき子どもたちの大虐殺を生んでしまったのです。「ロー対ウェード」判決は、自然法や天主の法だけでなく、合衆国憲法に謳われている原則そのものに違反する、意図的な偏見による操作だったのです。もし判事たちがこの傷(vultus)を癒やそうとするならば、自分たちが守ることを誓った法[合衆国憲法]を適用することだけに自分をとどめるでしょう。このことは、50年前の彼らの先任者たちが行う方法を知らなかったか、あるいは行いたくなかったことなのです。

5月11日に、米上院が(「女性の健康保護法」を阻止する投票によって)中絶推進派に足並みをそろえずに反対投票をしたのが本当なら、自称「カトリック」の政治家たち、とりわけジョー・バイデンやナンシー・ペロシが、スキャンダルを与えたことを知らされます。彼らは、社会的・立法的領域で自分たちが守るべき道徳を、良心のとがめもなく踏みにじっているのですから。

聖座と米国カトリック司教協議会は、断固たる中絶非難を行うべきです。それとともに、米国のカトリック信者が、教会の教導権と一致しない立場にある選出された下院議員には、投票できず、また投票してはならないことと、そのような教導権と一致しない者たちは破門されるということを再確認すべきです。位階階級の恥ずべき沈黙が明らかにしているのは、自分たちの世話に委ねられている人々を賢明に導くべき人々の持つ劣等感を裏付けるものです。

彼らは、そうする代わりに、前回の選挙キャンペーンで司教たちが支持した政治家たちと一緒になって、崖っぷちから落ちるまで従っているところなのです。ジョー・バイデンが、「女性の健康保護」という偽善的な婉曲表現の下に、中絶を「基本的権利」として主張するのを聞くことは、カトリックの社会的公約の意味を全く理解していないことの証明であり、そのことについての責任は、位階階級だけではなく、その指針を求めて位階階級を見ているカトリック教育制度全体にもあるのです。もし、卒業生がその道徳的重大性を理解することなく、中絶を支持すると宣言することができるならば、カトリックの高校や大学ではどのような教えがなされているのでしょうか? 無罪の被造物(人間の赤ちゃん)を殺すことを、自分の命よりも子どもの命を守るべき母親が決めることができると、どうして言えるのでしょうか? これが、米国人が支持し、広めたい「文明」なのでしょうか? これが、米国人が未来の世代に伝えたい価値観なのでしょうか?

私は、米国人がこのような大衆の注意をそらす作戦に乗せられたり、衝突や暴力的反応を煽るために意図的に行われた中絶賛成派の抗議行動に刺激されたりすることはないと確信しています。子どもの殺害を宣伝する人々は、安楽死、LGBTQイデオロギー、ジェンダー論、グレート・リセット、パンデミックの茶番劇、欧州の国々を弱めてディープ・ステートの犯罪を隠蔽するためのロシア・ウクライナ危機の利用を同様に支持していることを忘れてはなりません。

ですから、私たちが「上智の座」(Sede Sapientiæ)として崇敬する聖母が、最高裁判事たちの心を照らし、正義の感覚を起こさせ、胎児の命の神聖さと不可侵性を認識できるように祈りましょう。そして、創世記で予言された「女(のすえ)」が、中絶という恐るべき罪を引き起こさせる最初の者である蛇のかしらを踏み砕くことができますように。

2022年5月12日

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ

Photo Credit


ヨゼフ陳枢機卿が香港で逮捕されたことに関するヴィガノ大司教の声明

2022年05月17日 | カトリック・ニュースなど

ヨゼフ陳枢機卿の逮捕に関するヴィガノ大司教の声明

The Arrest of Card. Joseph Zen. A Statement by Msgr. Viganò

2022年5月13日

マルコ・トサッティ
親愛なる「Stilum Curiae」の読者の皆さん、私たちは、ヨゼフ陳枢機卿が香港で逮捕されたことに関する、このヴィガノ大司教の声明を受け取りましたので、喜んで紹介します。どうぞ、お読みください。

§§§

ヨゼフ陳枢機卿猊下の逮捕に関する宣言

昨日、ヨゼフ陳枢機卿が香港当局に逮捕されたことが発表されました。この捜査と逮捕は、中国の国家安全保障を監視するために、つまり中国の独裁政権が関与した人権侵害に対するあらゆる形の反対意見や抗議を弾圧するために、北京政府が設置した特別警察部門によって行われたものです。

高齢の枢機卿は、過去に中国政権と聖座の間で締結された秘密協定に強い批判を表明しており、尋問を受けた後、保釈されました。彼のパスポートも没収されました。今回起こったことは、すべての人間が享受する自由と権利に対する非常に重大な侵害であり、聖なるローマ教会の枢機卿の場合は、なおさら嘆かわしいものです。バチカン広報局は、明らかに困惑しながらも、北京政府に正式な抗議をすることなく、「懸念」を表明するにとどめました。その数日前には、地下教会に属する保定市の共同体の他の10人の司祭が拉致され、愛国会(天主教愛国会)に加わるのを嫌がったため、中国共産党によって強制的に「再教育」へと送られ、この事件は地下教会に忠実なカトリック信者に対する虐待と弾圧のリストに加えられました。

中国・バチカン協定の毒入りの実が今、明らかになりました。ベルゴリオの教会は、地下教会に属するカトリック信者を愛国会と中国共産党との手による報復へと引き渡した後、その迫害について沈黙することを好んでいます。その代わりに、北京は聖座に毎年相当な資金を提供しています。つまり、傭い人たちは、沈黙の教会の殉教者たちの血がしみ込んだ銀貨30枚で自分たちを買い取らせているのです。

2020年9月、その悪名高い協定の更新の前夜、陳枢機卿はベルゴリオに会うためにローマを訪れましたが、この中国人枢機卿がこの協定とその度重なる違反についてよく知られた立場であるために、ベルゴリオは憤慨して会うのを拒否するという屈辱を与えたのです。このような教会のプリンス(枢機卿)に対する侮辱は、中国の独裁政権に明確なシグナルを送ったため、その後、この独裁政権は、結果を恐れず自由に行動できると考えたか、あるいは、バチカンも立場を取るだろうと考えたのでしょう。

しかし、バチカンに住むあの人は、新世界秩序(New World Order)の高位の代表たち、グローバリズムと高利貸し金融の代表たち、独裁者と戦争犯罪者たち、さらにはネオナチのアゾフ大隊で戦う兵士の妻たちを迎えるためなら時間をつくりました。アゾフ大隊はこの数日間、ロシアがアゾフスタン製鉄所を包囲している間に民間人を人間の盾として使いました。ロシア系カナダ人の活動家ピョートル・ベルジロフが、2人のウクライナ人の妻を教皇謁見に同伴したことを指摘する人がいました。彼はフェミニスト集団「プッシー・ライオット」(Pussy Riot)の創設者兼スポークスマンであり、西側の「フェメン」(Femen)に倣ってロシアの正教会に対して冒涜と涜聖を実行することで知られている人物です。冒涜を破壊活動の中心とする反キリスト教運動の代表者がバチカンで謁見を許されたことに、私たちは当惑を覚えます。

まったく曖昧なものではない、この二枚舌の態度は、ベルゴリオのディープ・チャーチが、サイコ・パンデミックの物語(ナラティブ)だけでなく、ディープ・ステートによるロシア・ウクライナ危機の狂ったような取り扱いにも完全に足並みをそろえていることを示しています。陳枢機卿は、ベルゴリオがまったく回答も謁見もしなかった人々のリストにいる「ドゥビア(dubia)の枢機卿」に加えられました。ベルゴリオは、ジェームズ・マーティン(イエズス会)のためなら、個人的に手書きで支援の手紙を書いてさえいるにもかかわらず、です。その何度目か分からないほど多くの支持をして、ベルゴリオは、カトリック教会内の悪名高いLGBTQイデオロギーの汎性愛を正常なものとし、それと一緒に多くの霊魂の永遠の破滅という結果になるのを意図していることを裏付けました。

バチカン外交の知恵と慎重さ、何世紀にもわたる経験による貴重な遺産は、かつて世界中のすべての裁判所によって賞賛されましたが、今日、ピエトロ・パロリンの指導の下、遠い記憶となっています。つまり、宮廷の利益、経済的な収益、犯罪の共謀は、天主と人間の両方の目の前で恥知らずにも優先されます。聖座が盗人の巣(ルカ19章46節)と化してしまったことを、信者たちはあきれて見ているのです。

私は、兄弟である司教、司祭、そして信者たちが、この困難な時期に、枢機卿猊下を祈りで支え、猊下への親密さと連帯感を表明するように呼びかけます。陳枢機卿が受けておられる試練が、聖なる教会に忠実に仕え、この世の精神に汚染されることを許すことなく、信仰に堅固であり続ける人々に主が約束された報いを、天から受けるに値するものでありますように。

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ

2022年5月13日
ファチマの童貞聖マリアのご出現の記念日

Photo Credit

https://catholic.org.hk/en/media-20220512/

 


カトリック聖伝のミサの報告 聖ピオ十世会日本 SSPX JAPAN Traditional Latin Mass

2022年05月15日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日、2022年5月15日、復活後第四主日、東京のミサに来られた方は、子供達も入れて合計109人でした。大阪では28人でした。天主に感謝いたします。

休暇で日本に帰国したシスターは、今週の主日は大阪でミサに与り、大阪の兄弟姉妹たちは再会をとても喜びました。天主さまの御旨であれば、六年後の休暇の時にまたシスターとお会いできるのを楽しみにしております。それまでは聖伝のミサとロザリオの祈りのうちでお会いいたしましょう。

【報告】
Dear Fathers:
Shown below are the number of attendees at the masses in Tokyo today. The total number of attendees at the masses in Tokyo today was 109, including children.

09:00 mass
M: 19 (incl. 1 child)
F: 24 (incl. 3 children)
Total: 43 (incl. 4 children)

11:00 mass
M: 20 (incl. 6 children)
F: 27 (incl. 7 children)
Total: 47 (incl. 13 children)

12:30 mass
M: 11 (incl. 0 child)
F: 14 (incl. 3 children)
Total: 25 (incl. 3 children)

Total of 3 masses (excl. 6 people who participated in multiple masses)
M: 46 (incl. 7 children)
F: 63 (incl. 13 children)
Total: 109 (incl. 20 children)

Photo Credit


「最高の賜物・完全な贈り物」とは?永遠で変わることのない光の父、天主御父からくる「賜物」とは?

2022年05月15日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2022年5月15日は御復活後第四主日です。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「御復活後第四主日の説教」の動画をご紹介いたします。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

SSPX JAPAN聖ピオ十世会日本にチャンネル登録もお願いいたします。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】