Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

2024年の聖週間のミサと典礼の予定をお知らせいたします

2024年03月29日 | 聖伝のミサの予定

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様
2024年の聖週間のミサと典礼の予定をお知らせいたします。

***大阪***

3月28日(木)聖木曜日(1級)ミサは白 ミサ 18:30
【朝課:なし】
3月29日(金)聖金曜日(1級)典礼行為は黒 典礼 18:30
【朝課:午前9:00、十字架の道行き:17:30】
3月30日(土)聖土曜日(1級)復活の徹夜祭 20:00【開始時間にご注意ください】
【朝課:午前9:00】
3月31日(主)復活祭(1級及び1級の八日間付き)白 10:30

***大宮***

3月28日(木)聖木曜日(1級)ミサは白 ミサ 18:30
【朝課:修道院にて06:30】
3月29日(金)聖金曜日(1級)典礼行為は黒 十字架の道行き 17:30、その後 18:30 から典礼行為)
【修道院では公式の典礼はありません。】
3月30日(土)聖土曜日(1級)復活の徹夜祭 20:00
【修道院では公式の典礼はありません。】
3月31日(主)復活祭(1級及び1級の八日間付き)白 8:30, 10:30

*** OSAKA ***

March 28, The Lord's Supper (Maundy Thursday) (I class) Violet,
Mass 18:30

March 29, The Passion and Death of Our Lord, (Good Friday) (I class) Black in Liturgical Action, Violet in Communion,
Matins: 9:00
Stations of the Cross 17:30, Liturgy 18:30

March 30, Holy Saturday (I class) Violet in Office and White in Paschal Vigil,
Matins: 9:00
Easter Vigil 20:00

March 31, The Sunday of the Resurrection of Our Lord Jesus Christ (I class with octave of I class) White, Mass 10:30

*** Omiya (TOKYO) ***

Maundy Thursday (March 28): 18:30

Good Friday (March 29): 18:30

Holy Saturday (March 30): 20:00

Easter Sunday (March 31): 08:30, 10:30

 

聖木曜日の聖務日課の「朝課」(第一夜課)をラテン語と日本語の対訳でご紹介 - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

聖木曜日の聖務日課の「朝課」の第二夜課をラテン語と日本語の対訳でご紹介 - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

聖木曜日の聖務日課の「朝課」第三夜課をラテン語と日本語の対訳でご紹介 - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

聖木曜日の聖務日課の「讃課」をラテン語と日本語の対訳でご紹介 - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

 

2020年4月10日聖金曜日の聖務日課の「朝課」の第一夜課をラテン語と日本語の対訳でご紹介いたします - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

聖金曜日の聖務日課の「朝課」第二夜課をラテン語と日本語の対訳でご紹介いたします - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

聖金曜日の聖務日課の「賛課」をラテン語と日本語の対訳でご紹介いたします - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

 

聖土曜日の聖務日課の「朝課」第一夜課をラテン語と日本語の対訳でご紹介いたします - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

聖土曜日の聖務日課の「朝課」第二夜課をラテン語と日本語の対訳でご紹介いたします - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

聖土曜日の聖務日課の「賛課」をラテン語と日本語の対訳でご紹介いたします - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

 


この世の悪を忍耐と超自然的な精神とで耐え忍ぶための十字架の道行き

2024年03月29日 | お説教・霊的講話

この世の悪を忍耐と超自然的な精神とで耐え忍ぶための十字架の道行き

準備の祈り

イエズスよ、御身は、我らの霊魂を贖うため、また、天主の正義を満たし我らに永遠の救いを与えるために、苦しまれ、苦難を捧げられ給うた。我らに対するなんと偉大な愛たるか我らは心に深く感じ奉る!

イエズスよ、我らは、三位一体のいのちを永遠に享受せんがために召され、この世での人生の目的は、永遠に続く憐れみを受けることなり。

天主の愛は、天主なるイエズスの聖心に、我らの完全な自己放棄を求め給う。故に、主は御受難にあたりて、我らに模範を残すことを欲し給えり。そは我らを支えんがためなり。しかるに、我らが十字架に出あうとき、我らはもはや独りではありえず。御身は我らと共にましまし給う。

我がこの十字架の道を行うは、この心を得んがため、かつ、試練を受けるすべてのキリスト者らがこの超自然的な精神を得んがためなり。

第1留イエズス、死刑の宣告を受け給う

ピラトはこう叫んだ。その答えは明らかな中傷であったが、イエズスは苦しみながら死ぬよう宣告された。無実の人が不当にも、極めて非道なことを宣告されるのは恐ろしいことだ!このようなことが起こると、人は、少なくとも内面的には反発し、それに付きまとわれる。私たちは、常に自分を正当化し、他人の悪い点を見ようとする。しかし、イエズスは、罪の不正を償うためにすべてを捧げ給うた。主は平安を保ちたもう。イエズスは、自分が受ける不正ではなく、善なる天主が罪人から受ける不正をこそ考え給う。

この世の生活で、評判や職場において、残酷な不正を経験する人がいる。そのような時、平和を保つ唯一の方法は、断罪されたイエズスを見つめ、主とともに、主を通して、この試練を生き抜くことである。イエズスよ、私たちにこの大きな恵みを与え給え。

第2留 イエズス、十字架を担い給う

アダムが罪を犯して以来、死は人間の生に入り、その一部となった。私たちは、若者は死なず、年を取った時に初めて、死が一瞬にして私たちを優しく襲うと考えている。

しかし主は、人生の最盛期に、周囲に多くの善を施すことができる年齢のときに、耐え難い苦痛の中でゆっくりとした死を宣告され給うた。イエズスはこれを安らかに受け入れ、それを捧げ給う。それは、無数の霊魂が永遠に生きることができるためだった。

今日、まだ幼い子供や配偶者の死によって痛ましい試練を受ける人々、愛する人の数時間に及ぶ辛い死を目の当たりにする人々がいる。彼らの心は血が流れるように苦しみ、反乱の閃光が浮かぶかもしれない。

イエズスよ、十字架の受入れによって得られた御身の功徳によって、これらの霊魂が御身と一致し、この試練を超自然的に生き抜くことができるよう助け給え。

第3留 イエズス、初めて倒れ給う

イエズスは疲れ果て、体は傷つき、十字架の重みは耐えがたいものとなった。イエズスは倒れ、十字架は主を押しつぶす。茨の冠は頭に食い込み、耐え難い首の痛みを引き起こした。しかし、主は誰にも不平を言わず、呪いもしない。イエズスは、あらゆる形の高慢を癒すために、この鋭い痛みを耐え忍んでいる。傲慢により、人は、自分が他の者より優れていると思わせ、天主から独立していると信じ込ませている。現代人は、ますます傲慢に膨れ上がっている。そのため激しい頭痛を繰り返す人に出会うのは、最近では珍しいことではない。これは、大変な試練である。願わくは、彼らが、自分の苦しみを御身の苦しみと一つにする恵みを与え給え。

イエズスよ、人類のおごり・傲慢を償うために、御身が茨の冠を戴く功徳の分け前を彼らに与えておられることを悟る恵みを、これらの人々に与え給え。

第4留 イエズス、聖母に会い給う

試練のときにこそ、私たちはだれが忠実な友であるかが分かる。なぜなら、忠実な友は自分を友のために犠牲にすることができるから、私たちを救うために、自由に犠牲となることができるからだ。

聖母は、イエズスが一人であることを悲しみつつご覧になる。3年間も犠牲を顧みずに自分を捧げてきた天主の御子を、聖母は、ご覧になり、御子の悲しみを察し給う。感謝のかわりに主がお受けしたのは、卑怯と臆病だった。主はこの裏切りを、ものともせず、天主に対する人間の無関心と冷淡を償うために、この苦しみを捧げ給う。今日、多くの人は、天主に対して何の負い目もないかのように生きている!年老いた両親や教師、その他の多くの人々が、多大な犠牲を払いながら、自分を捧げてきたにもかかわらず、時には、消息もなく、評価もされず、孤独である。辛い、不公平な待遇を受けている。利己主義の勝利である。

イエズスよ、これらの霊魂が、試練を受け入れるように助け給え。彼らが、真の自己離脱によって、また、天主へのより大きな愛によって、平安と聖化を見い出すことができるように導き給え。天主の愛は、私たちを愛し、決して見捨てない、たとえ私たちがその愛に気づいていなくても。

第5留 キレネのシモンは、主を助け奉る

御摂理は、十字架の道行きでキレネのシモンとイエズスを結びつけた。それは救い主にとって大きな救いであった。聖ルカは、シモンがイエズスの後ろで十字架を担(かつ)いだと記している。それからは、道が狭かったため、二人は互いに邪魔し合わなければならなかった。イエズスは、シモンの助けを容易にするために、心の中で沈黙しておられる。結婚生活において、キリスト者の配偶者らは、聖化において共に進まなければならない。主は、彼らの互いの反感を癒すために、このような煩わしさを――おそらくキレネのシモンの十字架の梁から放たれた打撃を――耐え忍びたもう。

イエズスよ、御身は家庭における共同生活が、衝突や傷や不満のないものではないことを知っておられます。十字架の道行きに沿って与え給う功徳と模範によって、それぞれの配偶者を支え給え。

第6留 ヴェロニカは、主の御顔を拭い奉る

十字架の道すがら、イエズスは、あざけりや冒涜、暴言などを耳にする。絶え間ない騒音の中で、黙想し、霊魂を高めることは非常に難しい。ある聖なる女性は、その騒ぎに乗じて、賢明なやり方で、救い主の顔を拭き、励ましの言葉をかけた。ヴェロニカである。イエズスは、人間の喧騒から逃れる術を知っておられた。主は、聖女ヴェロニカのこの単純な言葉をお聞きになる。イエズスは、人の邪悪な言葉や軽率な言葉をすべて償うために、喧騒の雰囲気、抑制のきかない言葉を耐え忍ばれる。聖ヴェロニカの優しい言葉を受け入れ、その言葉に報いてくださる。今日、多くの人々が、音楽、騒音、喧騒のせいで隣人が迷惑だと不満を漏らしている。彼らは自分の霊魂を天主に捧げることが難しく感じている。

イエズスよ、彼らが雑音の上に立ち、聖霊の優しいつぶやきを聞くことができるように助け給え。

第7留 イエズス、再び倒れ給う

イエズスは十字架の重さの苦しみが和らげられた。群衆が密集し、押しつぶされるかのように、再び倒れ給うた。再び起き上がるのは試練だった。何度も何度もそれを繰り返さなければならなかった。イエズスは、奇形や病気で疲れ果てた人々に対する周囲の人々の憐れみの欠如を補うために、この苦しみを耐え忍び給う。現代では、ダウン症や身体的・精神的な障害を持つ子供によって、深い影響を受けている家族が実際にいる。それは毎日背負う重い十字架であり、将来への不安でもある。しかも、彼らは好奇の目で詮索され、傷つける言葉を受けている。

イエズスよ、これらの家族、これらの子供たちが、御身の十字架の道行きの間、主の倒れたことを思い、御身と一体とならんことを。真の不幸とは自発的な意志によること、つまり本当の悪とは罪であることを思い起こすことができるよう助け給え。

第8留 イエズス、エルサレムの婦人たちを慰め給う

イエズスは間もなく、救い主の苦しみを嘆き悲しむ女性たちとすれ違う。イエズスは彼女たちを叱責しているかのようにも聞こえる! 「自分のため、自分の子供たちのために泣け!」この言葉は、あたかも身分上の務めを果たすには、誰でも努力と犠牲が必要だと仰せられているかのようである。私にとって、私の務めとは、人々の罪の贖いのために働くこと、霊魂を罪のない状態に導くこと、つまり霊的に子供を生むことである。しかし、霊魂が霊的に生まれるためには最大の苦痛を伴う。自分の子供たちの聖化と教育のためには、多くの犠牲が要求される。イエズスは、御父の御旨を行うために、絶え間ない苦しみを捧げられる。それは、人々の身分上の義務を遂行する上で、怠惰や臆病などのあらゆる形の罪を償うためである。

イエズスよ、仕事や家庭の務め・義務がしばしば新たな犠牲を求めるのは事実です。御身の模範と恵みによって、職務を全うするために求められる犠牲を怠ったり、落胆したりしがちな人々を支え給え。

第9留 イエズス、三度、倒れ給う

疲れ果てて、イエズスは三度倒れ給うた。イエズスはいく度も倒れ給うたが、すべての努力を傾注して、ようやく立ち上がることができた。イエズスは、誘惑を避けるための努力をほとんどしなかったり、怠惰から始まる罪の機会を避けようとする平凡な意志を持つある種の霊魂の度重なる過ちを補うために、このような努力と苦しみを耐え忍ばれる。救い主の苦しみは長く辛いものだが、それは平凡な霊魂を縛り付けている罪の鎖を断ち切る強力な恵みを得るためである。深刻な過ちを犯したために苦しむ霊魂もいる。そのような霊魂は、イエズスがご自分の道を進むために行っておられる超人的な努力に目を向け、落胆したり、キリスト教的な生活は今日では不可能だと考えたりするのではなく、寛大さ、慎重さ、祈りを倍加させるだろう。

イエズスよ、これらの弱い霊魂を支え給え。

第10留 イエズスは服を脱がされ給う

イエズスは死を前にして、この上なく貧しくなられた。これは、教えと美徳のすべてを豊かに捧げた彼にとって、大きな試練であった。イエズスは、人々のすべての感謝を表すような、最も豊かな装飾品に包まれて死ぬべきであった。イエズスは、この世の富や名誉に対する人々の執着を償うために、この自己否定を耐え忍ばれる。多くの個人や家族が、自分のせいでもないのに貧困に直面している!それは心配事であり、悩みであり、時には家族から非難されることもある。そのような人は、自分の貧しさを救い主の貧しさと一致させ、救い主の霊的な豊かさで満たし、日々の糧を得ることができるよう、確信をもって救い主に願わなければならない。

イエズスよ、我らを憐れみ給え。

第11留 イエズスは十字架に釘付けにされ給う

イエズスは大きな釘で十字架に固定されておられる。体を拭くために手を動かすことも、けいれんをほぐすために足を動かすこともできなくなった。彼は十字架上で麻痺している。この完全なはりつけは、主に何時間もの苦しみを与えた!イエズスがこの長い殉教を捧げたのは、半身不随になり、生活必需品のすべてを他人に依存する人々の反乱の心を償うためである。この依存から逃れるために、自ら命を絶とうとする者もいる。

イエズスよ、すべてを他者の善意に依存し続けることは、人々にとって非常につらい試練です。御身の十字架の功徳によって、彼らに忍耐と謙遜の豊かな恵みを与え給え。彼らが自分の十字架を定め、彼らの道徳的、肉体的支えを御身のものと一致させることができるように助け給え。

第12留 イエズスは十字架上で死し給う

十字架の上で、イエズスはすべての人のことを考えておられた!イエズスは、信仰と悔い改め、希望と憐れみ、謙遜と純潔、強さと憐れみの恵みを彼らのために得るために、この目的のために、あらゆる瞬間に、ご自分の功徳と苦しみのすべてを捧げられる。霊的に、彼はすべての心の扉をノックし、こう言い給う。「心の扉を開きなさい、私はおまえを罪の奴隷から解放し、天国にふさわしい者にすることができる」。一人一人がどのように聖寵に協力するかは、私たちの品位、熱意、祈りと犠牲、良い模範と言葉にかかっている。ある者は信仰を失い、またある者は道徳的な生活を失っている。

イエズスよ、御身は彼らのために苦しみ、彼らのために祈られ給う。彼らの回心と救いの恵みを得るために、私は自分の悲しみ、犠牲、祈りを、御身と一つにすることを望む。主はこう言われ給う。「わたしの名によって父に願い求めるものは何でも、父はおまえたちにお与えになる」(ヨハネ16:23)と。

第13留 イエズスは母親の腕の中に戻され給う

イエズスは死に給い、贖いの業は成し遂げられた。しかし悪魔は世の終わりまで、霊魂を命の源から遠ざけようとし続けるだろう。サタンは、イエズスがすべての恵みの分配者として指名された聖母の気をそらそうとし、使徒たちが見捨てたことを聖母に見せて、聖母に落胆の思いを抱かせ、また、祈りさえすれば十分であったはずの御子をこのような苦しみに引き渡された御父に対する反逆の思いさえ抱かせた。聖母マリアは天主なるいけにえを慕い、全てを御子と共に捧げ、奉献を御子の奉献に重ね合わせ給うた...すると悪魔は逃げ去った。今日でさえ、悪魔は、霊魂たちを攻撃して、正しい道から逸脱させ、反乱を起こさせたり、修道生活を放棄させたりしている。まるで救い主が眠っていて、私たちの祈りや痛悔を無視しているかのようだ。だから、自分の殻に閉じこもるのか、それとも他の人たちと同じように人生を楽しむのか。

聖母よ、私たちがこれらの悪魔の攻撃に勝利し、十字架の神秘に忠実であり続けることができるよう、いつも助け給え。

第14留 イエズスは墓に葬られ給う

イエズスは墓に横たわり、もはや苦しむことはない。マリアは、復活の勝利まで受難を追体験する。マリアは、天主の御子の殉教を、時には何年も続くキリスト教徒たちのすべての苦しみと結びつけようとされる。聖母は、体の痛みに苦しむ人たち、ガンやその他の重い病気に苦しむ人たち、十字架の前に長い道のりを歩む人たちのことを考えておられる。信仰のために、家族の中で、あるいは社会の中や国で、迫害を受けるすべての人々のことを思っておられる。聖母は、すべての子供たちに差し伸べられている十字架の神秘を思っておられ、試されているすべての霊魂のために、力、忍耐、愛の恵みをすでに主に求めておられる。

イエズスよ、私たちあわれな罪人が贖いの業に参加できることは計り知れない恵みなり。イエズスよ、決して私たちを見捨て給うなかれ。

最後の祈り

イエズスよ、御身は私たちの人生から苦しみを取り除くために、あるいは苦しみを説明するために来られたのではありません。残念なことに、私たちはしばしば御身の模範を忘れ、この神秘をあまりにも人間的な方法で生きているのです。

イエズスよ、わたしはこの十字架の道行きの功徳を通して、苦しんでいるすべての人のために力強い恵みを与え給え。彼らがしばしば救い主の受難に目を向け、その受難に一致し、贖いのわざ、聖なる教会の勝利、愛する人の救いのために苦しみをささげることができますように。

憐れみの聖母よ、御身は受難の全期間を生き抜かれました。身も心も苦しんでいる人々を決して見捨てられず、御身の御心を、世界を救う御身の聖なる御子へと向け給え。


この主日、教会は、イエズスのご受難の黙想に自らを完全に明け渡します。

2024年03月27日 | お説教・霊的講話

御受難の主日―キリストの御苦しみ(大阪2024)

ワリエ神父 2024年3月17日

この主日、教会は、イエズスのご受難の黙想に自らを完全に明け渡します。キリストは私たちのためにご苦難を耐え忍んでくださったのですから、そのご受難の黙想によって、私たちがその同じご苦難にあずかり、償(つぐな)いを全(まっと)うするようにさせるためです。それゆえ、この主日は御受難の主日と呼ばれています。教会のすべての儀式は、このことを指し示しています。

今日、磔刑像(たっけいぞう)には覆(おお)いがかけられていますが、それは、この時からエルザレム入城まで、イエズスがもうユダヤ人の間を公(おおやけ)に巡(めぐ)られなかったこと(ヨハネ11章54節)を思い起こすためです。今日から、ミサでは「グロリア・パトリ」(願わくは父と子と…)が省かれます。なぜなら、イエズス・キリストのペルソナにおいて、至聖なる三位一体が不名誉をこうむったからです。

最後に、今日、教会は、イエズス・キリストという、罪も汚れもない大司祭を私たちの前に置き、私たちが彼を観想することによって、より熱心な償(つぐな)いをするようにさせるのです。そのために教会は、ミサの入祭誦(にゅうさいしょう)で、苦難のイエズスの御名(みな)において、次の詩篇作者の言葉を唱(とな)えます。

「天主よ、私を弁護し、私の訴えを、不敬の人の訴えと分け、不正で邪(よこし)まな人々より、私を解き放ち給え。なぜなら、主こそが私の力であるから」。

ピラトは、私たちの主を無罪だと何度も宣言した後、死刑の宣告を行いました。

教会は、今日の書簡を私たちに提案していますが、それは、私たちがキリストのご受難と死を黙想し、贖(あがな)いという偉大なあわれみを天主に感謝し、天主を愛し、賛美して、断食、祈り、悔悛(かいしゅん)の業(わざ)によって、キリストの御苦しみを分かち合うよう励ますためです。

次に、詠誦(えいしょう)で、私たちは詩篇作者がこう歌うのを聞きます。

「彼らは、私の若い時から、絶えず私に対して戦い続けた。…しかし、彼らは私に勝つことができなかった。罪人は私の肩を打ち、長らくその悪を続けた。しかし、正義なる主は、罪人の首を落とし給うた」。

福音では、主のご受難の数日前の雰囲気が、いかに緊迫したものであったかが描かれています。

「あなたたちは彼が自分の天主であると称するが、あなたたちは彼を知らない。しかし、私は彼を知っている。もし彼を知らないと言えば、私はあなたたちと同じく偽(いつわ)り者になる。しかし、私は彼を知り、そのみ言葉を守る」(ヨハネ8章46-59節)。

締めくくり

来週の主日と聖週間の間は、長い儀式のために説教をすることができません。
私たちの主のご受難のすべての恩寵から恩恵(おんけい)を得るために、ミサ典書中のご受難とこれらの美しい儀式を読みましょう。


主の御受難をよく黙想することによって、わたしたちの罪を深く痛悔する:十字架上のイエズスは全ての人々から捨てられた

2024年03月27日 | お説教・霊的講話

2024年3月17日 東京での8時30分のミサの説教

トマス小野田圭志神父

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、
今日は2024年3月17日、御受難の第一主日です。

【1:御受難の神秘】
母なる教会は、主の御受難をよりよく黙想するために、またよく黙想することによって、わたしたちの罪を深く痛悔するようにと、招いています。ですから今日は教会の招きに従って、主の御受難を一緒に黙想いたしましょう。

今日の福音では、イエズス様は、ご自分が約束されたメシアであり、天主であることを断言します。「まことにまことに私はいう。アブラハムが存在する以前に、私はある」と。ラテン語によると、アブラハムがつくられる前に、わたしは在ると、なっています。そのときユダヤ人たちは、イエズス様がまことの天主であるということを主張されたということを理解しました。彼らは残念ながら主を信じようとはせずに、石をとって主に投げつけようとします。しかしイエズス様は、ひそかに神殿を立ち去られ、そして人の目から隠れます。
まことの天主にしてまことの人なるイエズス・キリストは、こうやって御受難の荘厳な神秘のなかに入っていかれます。イエズス様が隠れたように、聖堂における十字架の像は紫の布でおおわれました。聖金曜日まで十字架の本当の姿が隠されます。そして隠された栄光の主にしたがうかのように、諸聖人の姿も隠されています。

では、わたしたちはこの受難の神秘の中に深く入り、苦しみを受けるのはいったいどなたなのか、考えてみます。苦しまれるのは永遠の天主御父の御一人子です。ご自分は奇跡を行ってどのような人の苦しみでもいつでもどこでもお望みのままにそれを和らげて取り除くことができるお方、この方が、苦しまれます。
では、何のために、誰のために、主は苦しまれようとするのでしょうか?それは私のためです。皆さんとわたしのためです。皆さんとわたしが、天国の永遠の至福を得ることができるため、でした。皆さんと私を地獄の火から救うためでした。皆さんと私を永遠の苦しみから免れさせるために、御自分があえて苦しみを受けられたのです。
では、主は、皆さんと私のために、どのような苦しみを受けたのでしょうか?肉体においても、霊魂においても、想像を絶するような拷問を受けられました。御父は、正義の怒りの重みで御子を容赦なく押しつぶされました。苦しみを和らげるようないかなる慰めもありませんでした。主の受けた たった一人でお受けになった御受難を少し見てみましょう。

【2:主の御受難:十字架上のイエズスは全ての人々から捨てられた】
主は人々から捨てられました。ふつう人が死のうとする時に、この死のうとする人を愛した人々、あるいはこの人から恩恵を受けた人々、つまり友人や家族などは、この苦しみに同情したり、その死を惜しがったり、涙を流して、そしてなんとかこの死のうとする人を苦しみを慰めようとします。しかしイエズス様の敏感な聖心に対してはそのような慰めはいっさいゆるされませんでした。

イエズス様はまったく無罪でした。裁判官であるポンシオ・ピラトが、罪がないと、何度も宣言したにもかかわらず、群衆の叫び声によって、主は十字架の磔の死刑を受けます。まったくの冤罪でした。釘付けにせられて、磔にさせられます。愛する兄弟の皆様も、もしもわたしたちが、テレビや新聞やインターネットのニュースで、世界中でわたしたちのことが騒がれて、真理の声は掻(か)き消されて、無罪の罪を負わされて、家族や友人からあるいは社会から、捨てられてしまったと想像してみてください。

十字架につけられた主の周りは、見渡せば、あざける人々、反対する人々、陥れようとする人々、冒涜する人々でいっぱいでした。ユダヤの指導的な立場にいた、司祭長・長老などは、かれらは人民から尊敬を受けて、その言葉に従っていましたが、イエズス様がこうやって屈辱と不名誉な最期を遂げるのを喜んで見ていました。主の苦しみを見て、これで邪魔者が消えると、楽しんでさえいました。大群衆といえば、数日前は主がエルサレムで凱旋するのを歓迎していましたが、今や態度をすっかり変えて、主をあざ笑っています。奇跡を受けて癒された人々も、あるいは奇跡的に食べ物を受けて満たされた人、教えや指導を受けた人々、光によって照らされた人々、これらの人々はあるいは主を捨て去ってしまったか、あるいは主を迫害する側のほうに回りました。

あれだけ恩義を受けたにもかかわらず、もう役に立たないと捨てられてしまったかのようです。主に選ばれて、三年も主と親密に生活をした人々も、卑怯にもそして臆病にも、逃げ隠れました。最後の晩餐の時には、「たとい、みながあなたについてつまずいたとしても、私は決してつまずきません」とか「私は、あなたといっしょに死ぬようなことになっても、あなたをいなみません」などといった弟子たちは、死の危険を察知してあっという間に主を見捨ててしまいました。その数時間後に。もしも最後までイエズス様のおそばを離れなかったとしたら、イエズス様の最期をお慰めすることができたかもしれません。一緒に最期の御言葉を聞くこともできたかもしれません。しかし、十字架の元にとどまったのは、マリア様と、二・三人の女性、そして使徒たちの中ではたった一人ヨハネだけでした。聖ヨハネだけでした。イエズス様の友だったのは、忠実に残ったのはたったそれだけでした。また主は御父からも棄てられたかのようになりました。

【3:主の御受難:十字架上のイエズスは天使と御父から捨てられた】
ゲッセマネの園で、主が祈っている時には、「天からの使いがあらわれて、イエズスを力づけた」(ルカ22:)と聖ルカは記録しています。しかし、十字架上にいるイエズス様には天使たちは力づけようとしたり近づいたりしようともしませんでした。イエズス様はたった一人で、ぶどうの実を踏まなければなりませんでした。たった一人で悪魔という敵を打ち倒さなければなりませんでした。主の戦いに助けに来る人々は誰もいませんでした。お一人で、御自分の御血と命をお捧げになろうとします。御体は鞭打ちで傷だらけ、釘の傷口はどんどん広がるばかりです。茨の冠で頭全体は棘(とげ)が刺さり、主は頭を休めるところさえもありません。しかし、天使たちは、自分たちの王を助けようとさえもしませんでした。

主が洗礼を受けたとき、また御変容のときには、御父は「これは私が愛する子である」と宣言されました。しかしその御父でさえも、イエズス様の苦しみを和らげようとは一切されません。御父は、かえって厳格で容赦のない正義の重みで
御子を押しつぶします。御父は、イエズス様を支えようとさえもされませんでした。少しの休みも、緩和も、容赦もありませんでした。ほんのちょっとだけでも軽くしてあげたいということもなく、苦い杯を最後まで主は飲み干さなければなりませんでした。あまりにも巨大な苦しみ、限度を超えるような苦悩、御父からも見捨てられたようなこの悲痛、これは全て、愛する兄弟の皆さんとわたくしを愛するがために、あまりにも強く愛するがために、心から喜んでお受けになった苦しみでした。たったひとりで十字架の祭壇に上られたイエズス様、このイエズス様に今日は近寄る御恵みを請い求めましょう。

【たった一人の十字架上のイエズス】
私たちの五感を働かせて、マリア様とともに、一人捨てられたイエズス様を黙想いたしましょう。
●みてください、イエズスの足は、十字架に固く釘付けにされています。あたかも、私たちをお待ちのようです。場所を決して離れない。待っている。
イエズス様の両手は、広がって十字架に釘付けにされています。あたかも、私たちを抱きかかえようとお待ちのようです。さあ早くわたしのもとに来い。
イエズス様の御顔は垂れ下がっています。あたかも、私たちの祈りをよーく聞こうとお待ちになっているかのようです。さあわたしのもとに来るがよい。祈りをするがよい。
●よく聴いてください。イエズス様の耳は、主に反対する恐ろしい冒涜でそれを聞かされて飽き飽きしています。あたかも、私たちから愛の言葉を聞きたいとお待ちになっているかのようです。どうぞイエズス様の近くにさえ近づいて愛の言葉を、祈りを囁(ささや)きましょう。
イエズス様の口からは、赦しの言葉が漏れています。よく聴いてください。「父よ、かれらをおゆるしください。かれらはなにをしているか知らないからです」と。あたかもずっーと私たちのことを思っておられるかのようです。
わたしたちのことだけを思っておられるかのようです。マリア様のすすり泣き、この声を聞いてください。マリア様の御悲しみを見聞きして、なぜ私の心はそんなに石のように乾いて冷たいままなのでしょうか?
●香りをかいでください。人が聖なる人が亡くなるときに、聖徳の香りがするといいます。イエズス様の御体からは聖徳のとても良い香りが立ち上っています。天に上がっています。あたかも、この世の毒で汚染された悪臭から私たちを守ろうとするかのようです。
●味わってください。マリア様の汚れなき御心、つらい苦さでいっぱいです。悲しみの御母、憐れみの御母、愛の御母の涙の味、残酷に捨てられた苦さ辛さ、悲痛の苦渋、これを私たちが少しでも味わうことができるなら、私たちはどれほど罪を忌み憎むことができるでしょうか!もしもマリア様のこの苦さをわたしが少しでも味わったならば、どれほど自分の罪に泣くことができるでしょうか!
●触ってください。たった一人ではりつけにされた主の十字架の木に触れてみてください。主の御血が流れてその御血は十字架の足元まで垂れ流れて真っ赤く血で染まっています。この十字架に接吻いたしましょう。その荒々しいごつごつした木に触れてみてください。そして、私たちにも流れる御血で、私たちの罪の汚れを清めてくださるように祈りましょう。

【4:遷善の決心】
では最後に選善の決心をいたしましょう。主は恐ろしい御苦難に入ろうとされます。主を打ち捨てて逃げた人々をわたしたちは真似て良いのでしょうか?
イエズス・キリストやその教会が嘲られるとき、私たちは主の敵と一緒になってイエズス様をあざけ笑ったり攻撃して良いのでしょうか?知らないと無関心を装ってよいのでしょうか。
私たちが罪を犯す時、主は苦しまれます。もしも私たちが主をお愛しして苦しみを捧げるならば、主の苦しみはすこしでも和らぎます。私たちは平気で罪を犯し続けていて良いのでしょうか?
罪の機会から遠ざかる恵みを請い求めるべきではないでしょうか。罪の機会となると知りながら、ケータイやパソコンやゲーム機でそのまま平気で時間を浪費して良いのでしょうか?テレビやYouTubeに浸っていて良いのでしょうか?

十字架上のイエズス様に心から祈りをお捧げいたしましょう。わたしたちの愛を申し上げましょう。イエズス様はこうおっしゃったことがあります。「私は十字架からあげられたとき、すべての人を、私のもとに引きよせる」(ヨハネ12:32)。すべての人をわたしのもとに引き寄せる。お約束の通り、私たちの心を主のもとに引き寄せてくださるように祈りましょう。主を愛する恵み、罪を忌み嫌う恵みを祈りましょう。十字架上のイエズスと一緒にいることができるようにわたしたちも日常の苦しみを受け入れる力と勇気を請い求めましょう。イエズス様への愛のために、イエズス様と一致して、私たちの身分上の義務を果たすお恵みを請い求めましょう。
最後に悲しみのマリア様に祈りましょう。マリア様の悲しみの御功徳によって、マリア様の母なる愛によって、わたしたちが罪を忌み憎む恵みを得ることができますように。イエズス様をますます愛することができる恵みを受けることができるように、マリア様の御取り次ぎを請い求めましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


御聖体の前兆であり前触れ:パンの増加の奇跡の神秘的な意味とは?

2024年03月14日 | お説教・霊的講話

2024年3月10日四旬節第四主日 大阪でのミサ

トマス小野田圭志神父 2024年3月10日

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、
今日は2024年3月10日、四旬節第四主日です。

キリストは霊的に新たに生まれた人々に命を与えます。さらに主は、天主の命に生まれた人々を霊的糧で、つまり御聖体で養われることをお望みになります。その現実が、私たちによく理解することができるように、主は、まず目に見える奇跡を行われて、そして肉体のために食べ物をお与えになります。

今日の福音では、この奇跡が語られています。これは霊的な糧、つまり御聖体の前兆であり前触れでした。今日の福音の奇跡の神秘的な意味を聖トマス・アクィナスの教えに従って考察しながら一緒に黙想して、残る四旬節の遷善の決心を新たにいたしましょう。

【いつどこで?】
まず、いつどこで誰を主が養ったのでしょうか? それはユダヤ人の祭であるすぎこしが近い時、ガリラヤ湖の向こう岸の山でのことでした。主は、大人の数だけで五千人ぐらいの大群衆を養います。
主は、海のように波立つガリラヤ湖をお渡りになります。神秘的な意味では、ガリラヤの湖は、不安定なこの世を象徴しています。主はこの世に生まれて御死去することによってこの世つまりガリラヤ湖を渡り、復活することによって向こう岸つまり栄光にうつります。この「移り渡り」については、聖ヨハネは聖木曜日のことを記録しながら、こう書いています。「イエズスは、この世から父のもとにうつる時が来た」(ヨハネ13:1)と。
奇跡が行われたのは山でした。主は弟子たちを高いところに導きます。それはこの地上の物事では私たちは満足されえないからです。しかし霊的なことなら私たちが満足されることができるということを教えるためでした。主はこう言われます。サマリアの婦人にこう言われました。「この水をのんでもまたかわきをおぼえるが、私の与える水をのむ者はいつまでもかわきを知らないだろう。」(ヨハネ4:13)
時は過ぎ越しの近くでした。過ぎ越しというのは「移る」とか「主が過ぎ越される」という意味です。これによって、主の御言葉によって養われて、主の御体と御血によって養われようとする人々は、罪から聖徳に移らなければならない、ということを教えています。聖パウロもこう言います。「私たちのすぎこしであるキリストはすでに屠られた。古いパン種ではなく、悪意とよこしまのパン種でもなく、清さと真実との種なしパンを用いて祭りをおこなおう。」(コリント前5:7)と。

【1:奇跡】
ではいったいどんな奇跡だったのでしょうか? 主は「目をあげて、大群衆が来るのをごらんに」なります。憐れみの眼差しを向けます。そして主は彼らを養うこと・かれらに食べ物を与えることをお望みなります。主は、これによって、教えるものは、霊的に人々を養う手段を持たなければならないということも教えています。

■フィリッポとアンドレアの二人の弟子が来ます。フィリッポはこれから主が奇跡を起こなおうとすることにまったく気が付いていなかったようです。お金で買うことを考えました。「二百デナリオのパンでは、各自少しずつとってもたりますまい」と言います。
これに反して、アンドレアは奇跡のことを考えていたようです。なぜかと言うとすでに、旧約時代、預言者エリゼオが大麦のパン二十個で百人の男たちを養った奇跡(列王下4:42)があったからです。ですからアンドレアはこう言います。「大麦のパン五つと魚二匹をもっている子どもがここに一人います」。でも、エリゼオの奇跡よりももっと偉大な奇跡をキリストが行うとは考えていなかったようです。「こんなに大勢の人ですからパンが五つではなんのたしにもなりません」と言い加えているからです。パンの数が足りないので、たとえエリゼオのような奇跡を行ったとしても養うことができる人の数は限られているだろうと想像したのです。しかしイエズス様にとっては、奇跡を行うために物質的なものは必要ではありません。

ところでこの二人の弟子について、使徒たちについて、聖トマス・アクィナスはこんな神秘的な意味だということを説明しています。キリストは律法を完成させることを暗示させているということを教えている、と。何故かというと、知恵というのは霊的な糧と言えるからです。そしてイエズス・キリストによって真の知恵があたえられたからです。聖パウロは言っています。キリストは「天主の力、天主の知恵である」(コリント前1:24)と。

聖トマス・アクィナスによると、キリストが来る前には二つの教えがありました。一つは人間の哲学者たちの教えで、二番目は律法の教えでした。
●フィリッポが「二百デナリオのパン」と言ったときには、この二つのキリストの前にあった二つの教えのうちの最初のひとつ、人間的な知恵のことを神秘的に意味したと言います。100というのは完成を暗示するので、人間の知恵を得るには二重の完成が必要だ、つまり体験による完成とあと思索による知恵だといいます。そして200デナリオは、思索と体験による二重の知恵のことを意味している、と。しかし、それにもかかわらずそれでは足りない。いくら人間の知恵が理性が知識を経験してまた観想して思索しても、私たちの欲求を完全に満たせることはできないからです。実際、過去、哲学者たちは多くの人々を誤りに導いてきました。
●ところでアンドレアが出てきます。アンドレアは聖トマス・アクィナスによると、二つの教えのうちの第二の教えを暗示していました。なぜかというと、パンを買うのではなく、すでに持っていたパンで大群衆を養おうとしたからです。「大麦のパン五つと魚二匹をもっている子ども」というのは、モーゼをあるいはユダヤ人民族を暗示している象徴していると聖トマス・アクィナスはいいます。子供であったというのは、なぜかというと、律法の状態は未完成だったからです。聖パウロは言います。「律法は、何事も完成させなかった」(ヘブレオ7:19)と。あるいはユダヤ民族を表しています。なぜかというと、「この世の要素のもとにあった」(ガラチア4:3)からです。

「パンを五つ」を持っていたのは、聖トマス・アクィナスによると、モーゼの五つの本に含まれた律法の教えを暗示しているといいます。なぜかというと、「律法はモイゼを通じて与えられた」(ヨハネ1:17)からです。あるいは別の理由として、世の要素というのは五感を通して知られて、人々はそのとりこになっていたからです。「大麦のパン」だったというのは、なぜかというと、大麦というのは固い殻に包まれていたように、命を与えるべきものが律法という物質的な固いしるしのもとに与えられていたからです。ですからユダヤ人たちは「先祖も私たち自身も負いきれなかったくび木」(使徒行録15:10)という儀式の固い規定のために、外的な行動様式を持っていて、あたかもそれが、固い殻のようだったからです。また聖パウロは「かれらの心にはおおいが垂れている」(コリント後3:15)と、固い殻のことを暗示しています。

「魚」というのは、おかずとしてパンに味を付けるので「魚二匹」というのはちょうど律法に味をつける詩篇と預言者たちを意味している、と聖トマス・アクィナスは言います。旧約聖書は三つの部分に分けられていて、モーゼの五書に書かれている律法とそれから詩篇と預言書です。主は復活後エンマウスの弟子たちにこういいます。「モイゼからはじめて、(律法)、すべての預言者にわたり、聖書のすべての本の中で、自分について書かれたことをかれらに説明された」(ルカ24:44)と、三つの部分からなる聖書について説明したと言っています。

■ところで、福音の話に元に戻すと、主は、使徒たちに「みなを座らせよ」とおおせられます。神秘的な意味では、知恵の完成のためには休息が必要であるということを意味しています。何故かというと、外的に働いてばかりいるということは、知恵を受けるのには妨害になるからです。外的な活動が少ない時、わたしたちは知恵を受けやすくなるからです。そして、使徒たちを通して人は真理の知識を受ける準備がなされます。「座らせよ」。
「そこには多くの草が生えていた。」といいます。神秘的な意味では、ある意味では、草は人のことをあらわします。ユダヤ書によると、「全ての人は草である」(イザヤ40:6)というからです。この草というのは、旧約の教えを意味しているとも考えられます。あるいは、真の知恵を受ける人を意味しているとも考えられます。なぜかというと、真の知恵は肉のことをまず放棄しなければ得ることができないからです。聖パウロはこういいます、「この世にならうな。」(ローマ12:2)と。
ところで、福音史家は、律法の習慣に従ってモーゼがした(民数1:3)ように、大人の男の数だけを数えています。なぜかというと、聖パウロが言うように「私たちも完成した人の間で知恵を話している」(コリント前2:6)からで、「固い食物は完成した人のもの」(ヘブレオ5:14)だからです。

【感謝】
その次に主は謙遜に「パンをとって感謝をとなえ」ます。キリストはもちろん無からパンを奇跡的に作り出して大群衆を養うことができました。しかし、二つの理由でパンを使いました。なぜかというと一つの理由は(1)物質的なものが悪魔から来たものではないことを示すためでした。また第二には(2)旧約の教えが天主から由来するということを示すためでした。つまり、新約の教えは、旧約においてすでに前兆として示されていたこと、含まれていたことを示すために、すでにあったパンを増やしたのです。これはイエズス様こそが律法を完成させて、成就させる方であるということを示すためでもありました。イエズス様はこう言います。「わたしは律法を廃しようとしたのではなくて、完成させるためにきた」(マテオ5:17)と。

主はパンを取って「感謝をとなえ」ます。ご自分がお持ちのものは全て御父から来たということを示すためでした。私たちも同じようにするように模範を示されました。私たちも食事の前に食前の祈りをすることを教えています。聖パウロの言うように「天主が創られたものはすべて善いものであり、感謝して受けるときには棄てるものはない」(ティモテオ前4:4)からです。奇跡を行う前にまず感謝をささげて、イエズス様はすべて御父の御旨に従って行っていることを示されようとします。
そして主は「座っている人々に分け与え」ます。イエズス・キリストだけが内的にわたしたちを養い、そして主は使徒たちを使って外的に養われます。お望みのままにおあたえになって、人々にじゅうぶんに食べさせます。イエズス様だけが飢え渇く霊魂に良いものを満たすことができる力をお持ちです。イエズス様には無限の力があるからです。

それから食べ残りが集められます。こうすることによって、イエズス様がなさった奇跡が単なる想像の産物ではないということが示されます。また残り物を他の人々に与えるためでもありました。残りの量は、正確に主が計画されたとおりでした。何故ならば、イエズス様はどれほど残るだろうかということを知りながらそれに必要な数を奇跡的に増やすことができたからです。使徒たちのそれぞれのかごがいっぱいになりました。神秘的な意味では、「十二のかご」は、十二使徒たちとそして使徒たちをまねる人たちのことを意味しています。かごにものを集めるというのは身分の低い人の仕事でした。農夫の仕事でした。ですから使徒の仕事は、現世においては軽蔑されるかもしれません。しかし、霊的な秘跡の豊かさでいっぱいになっています。使徒たちは、三位一体の信仰を世界の四方に宣教するべきものなので、三位一体を四方に広げるという意味で、十二のかごがいっぱいになったと、聖トマス・アクィナスは言っています。

【御聖体】
では今日のこの奇跡はわたしたちに何を教えているでしょうか。愛の天主は私たちに今日の奇跡よりも遥かに素晴らしい奇跡を私たちに日々行ってくださっています。私たちの祭壇の上で日ごとに起こっている大奇跡です。主は、荒波に荒れ狂うようなこの世にお生まれになって、御死去し、御復活することによって、この世から御父のもとにおうつりになりました。そしてわたしたちを高い山のような霊的な命に導いておられます。十字架の高みへと引き寄せておられます。罪から聖徳に移り渡るようにと招いておられます。イエズス様を見て、歴史上何億、そして何十億という大群衆がイエズス様に付き従いました。そして、この世の終わりまで無数の人々が主に従うことでしょう。主は彼らを全て養うことを欲しておられますし、それがおできになります。

では、それならば、私たちはこの今日の福音の奇跡を遥かに超越する御聖体の秘蹟を理解して、御聖体に養われているのならば、イエズス様に対してどのようにすべきでしょうか?
わたしたちは、礼拝と賛美と従順と敬愛、思慕、孝愛、償い、感謝、また感謝、そして感謝、また感謝、の念を起すべきではないでしょうか。

最後に残る四旬節の決心を新たにいたしましょう。あと、もうすぐ三週間ですでに復活祭がやって来ます。ますます主の御受難を黙想いたしましょう。御受難の十字架の木になる実りが御聖体ですから、主の御受難を黙想いたしましょう。

最後にマリア様にお祈りいたしましょう。今日の福音の目に見える奇跡を通して、これを遥かに超える目に見えない超自然の愛の奇跡、御聖体の神秘をより深く理解する恵みをこい求めましょう。


「喜べ、エルザレムよ、すべて集まれ。悲しみにしずめる者よ、ともに喜びおどれ。」悲しみのただ中の喜び

2024年03月12日 | お説教・霊的講話

四旬節第四主日―悲しみのただ中の喜び(東京2024)

ワリエ神父 2024年3月10日

「喜べ、エルザレムよ、これを愛する者よ、すべて集まれ。悲しみにしずめる者よ、ともに喜びおどれ。みな喜び、慰めの乳(ちち)に満たされよ」(イザヤ66章10-11節)「『主の家に行こう』と言われて、私は喜んだ」(詩篇121篇1節)

喜べ? 本当に?!

私たちが周りを見渡せば、この世においても教会においても、多くの問題や無秩序を目にします。

旧約のユダヤ人たちは、バビロンで捕囚となり、こう歌っていたものでした。

バビロンの川岸に座(ざ)し、シオンを思いつつ、われらは泣き、
そのあたりのポプラに、竪琴(たてごと)をかけた。
われらを捕(つか)まえた者たちが、…「シオンの歌を歌え」と言った。
どうして主の歌を歌えよう、異国の地にあって。
エルザレムよ、もし私があなたを忘れたら、私の右手がきかなくなり、
私の舌があごについてよい。
あなたを思い出さず、まず初めの歌として、エルザレムを私がたたえなかったら。(詩篇138篇1-6節)
私たちはどうすれば喜べるというのでしょうか? 悲しみのただ中で、喜びを感じることができるのでしょうか?

それは、聖パウロがテサロニケ人にこう語ったようにです。「希望のないほかの人のように、悲しみにおぼれてはならない」(テサロニケ前書4章13節)。

「私たちの国籍は天にあり、そこから来られる救い主、主イエズス・キリストを待っている」(フィリッピ3章20節)。

天主のお優しい心を見てください。

天主は、(女性や子供を除いて)五千人にも達する群衆に食事を与えられました。

キリストは、ご自分に従い、ご自分に耳を傾ける者を養(やしな)ってくださいます。

    • 飢饉(ききん)の時、天主は太祖(たいそ)ヤコブの子ヨゼフを、前もってエジプトに遣(つか)わされました。
    • 天主は40年間、砂漠でイスラエルの子らを、天からのパンで養われました。
    • 預言者エリアを、カラスによって養われました。
    • 天主は、ライオンの穴の中のダニエルを見捨てられませんでした。
    • 私たちの主の40日40夜にわたる断食ののちには、天使たちが主に仕(つか)えました。

「天主は正しい人を見捨てられない。私はかつて若かったが、今は老いた。だが、正しい人が見捨てられ、その子孫がパンを乞(こ)うのを見たことはない」(詩篇36篇25節)。

この四旬節の間、私たちの救い主である天主に、慰めと喜び、安楽と力を見いだしましょう。


ブノワ・ワリエ神父のご紹介と歓迎の言葉(2024年2月23日大宮にて・3月3日大阪にて)

2024年03月09日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

ブノワ・ワリエ神父のご紹介と歓迎の言葉

2024年2月23日 トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

愛する兄弟姉妹の皆様、
ワリエ神父様のご紹介をいたします。

神父様は、1972年にベルギーのブリュッセルで10人の兄弟の6番目の子供としてお生まれになりました。ご両親さまは昔からルフェーブル大司教様を家族ぐるみで支援しておられ、聖伝のミサの環境で成長されました。聖ピオ十世会の「暁の星」学校で勉強され、1991年10月にフランスのフラヴィニーにある聖ピオ十世会の神学校に入学されました。小野田神父はその時エコンの神学校におりました。
エコンで1997年6月27日に司祭として叙階され、すぐにアジア管区に任命されました。
最初の任命地はインド(パラヤンコッタイ)です。
次に1998年、マニラに任命されました。(クチュール神父様の下で小野田神父と一緒に仕事をしました。)
1999年にイロイロの修練院の院長として任命されました。
その後、アメリカ管区、オーストリア管区に任命されましたが、2008年から2014年まで6年間ベネルクス管区の管区長を勤め、ベルギー、オランダ、ルクセンブルクを任されました。その後、一年間アイルランドに任命された後、アジア管区に戻ってこられました。アジア管区では、スリランカ、シンガポール、マニラで、その修道院長と同時に管区長補佐を勤められ、今回は日本の暁の星聖母修道院の修道院長となられました。神父様は今でも管区長補佐です。
母国語はフランス語ですが、英語をネイティブのように話されます。
これで紹介を終わります。




【歓迎の言葉】

ワリエ神父様、Dear Fr. Wailliez
神父様を私たちの暁の星聖母修道院、修道院長としてお迎えできることを大変嬉しく思います。天主の摂理により、神父様は修道院長として、天皇誕生日に大宮の聖堂で "最初の "ミサを捧げられ、私、小野田神父は神父様に歓迎の言葉を述べたいと思います。

この歓迎の集いは、日本にいる霊魂たちとその宣教の世話を喜んでしてくださる神父様の愛徳に対する私たちの感謝の表現です。この大宮の歓迎会は、神父様が修道院長の仕事をできる限り容易に引き継ぐことができるようにとの私の心からの願いからです。

神父様の司祭としての最初の赴任地はアジア地区でした。神父様と私は、フィリピンのマニラで1年間一緒に働きました。その後で神父様はイロイロで3年間働きました。私たちはクチュール神父様と一緒に秋田と長崎に巡礼したこともありますね。日本のこと、東京や大阪のミッションのこと、韓国のことなどについては、神父様はすでにご存知でしょう。しかし、前回のご訪問以来、天主の恵みにより、多くの新しい信者たちがカトリックの聖伝を発見して、各地から集まってきました。今では大宮と大阪に常設の礼拝堂があり、毎週日曜日に聖伝のミサを行っています。

それぞれの国の異なる精神性、言語、性格を理解し、それらに適応していくことの難しさは想像に難くありません。神父様がすでに日本語の勉強を始めていることを知り、とても嬉しく思います。
アドリュー・ロスの著書『裏切られたビジョン』から、いくつかの文章を引用させてください。この本はアジア管区長のサマース神父様から読むことを勧められて読んだものです。

―――

1570年、イタリアのイエズス会士、オルガンティーノ・グネッチ=ソルディ神父が来日した。彼は日本語が上手になり、日本人の礼儀作法や考え方に関して非常にこころを配っていた。オルガンティーノ神父は可能な限り日本的な生き方をするように常に心がけていた。織田信長の個人的な友人にさえなった。信長はオルガンティーノに、安土の自分の新しい城の近くに新しい神学校を建てるための素晴らしい場所を与えた。オルガンティーノはそこに立派な建物を建て、信長は時々そこを訪れ、神学校の維持のために米を与えて支援した。毎週、修道士あるいは司祭は、神学校から信長のために果物などの小さなお土産を持って安土城を訪問し、信長の息子たちは、その訪問にしばしば応じて神学校を訪問していた。1578年、オルガンティーノ神父は、イエズス会総長にこう書いた。「もしこの国が信仰に服するならば、世界のどの教会も日本の教会を超えることはないだろうと私は思う。」
また1589年3月にも、彼は日本の教会を「天主の花嫁」と書き、こう続けている。「日本にやってきて、この不思議な美しさを持つ花嫁への愛を育まず、すぐに彼女の言葉を学ぼうとせず、彼女のやり方に合わせないイエズス会会員は、主のぶどう園で働く無能で不採算な働き手として、ヨーロッパに連れ戻されるに値する。」

―――

神父様は、この "天主の花嫁 "の世話をする、もう一人のオルガンティーノ神父となるために、総長からここに遣わされたのだと思っています。不思議な美しさを持つこの花嫁への愛を育んでくれていることに感謝します。

神父様と私は、ともに使徒となるためにここにいます。ルフェーブル大司教が言われたように"特別な使徒 "と言えるかもしれません。「なぜなら、司祭は教会を再建し、この精神を失いつつある人々、すなわち異教的で異教化された世界、信仰を失い無神論者となった世界のすべての人々の中に、主の精神を新たに形成しなければならないから」です。

親愛なる神父様、私たちを導くために来てくださり、永遠の司祭である私たちの主の御業を継続し、ここ日本と、そのもとにあるすべての宣教地で、何百万もの霊魂を救い、彼らを聖化してくださるその仕事を感謝します。




謝恩会でのドモルネ神父さまへの言葉(2024年2月12日 大宮にて)

2024年03月08日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

謝恩会でのドモルネ神父さまへの言葉

2024年2月12日 大宮にて トマス小野田神父(聖ピオ十世会司祭)

ドモルネ神父さま、愛する兄弟姉妹の皆様、
日本にいる信徒の方々の代表とひとりとして、ここで神父様に感謝の言葉を述べたいと思います。

神父様は、コロナ騒動というとても難しい時に、聖ピオ十世会が日本での最初の修道院を創立するために来日してくださいました。
今から3年前、コロナのために国境が閉ざされていたその中、ほんの二カ月だけ日本に入国することができる時がありました。日本の国境が開いて再び閉鎖されようとする直前の2021年1月2日のことでした。

新しい修道院の創立というのは、もちろん簡単なものではありません。フィリピンのマニラで聖ピオ十世会がどのように始まって発展してきたかを、初期から私は見てきました。日本での創立も同じく、主の恵みと忍耐が必要です。ドモルネ神父さまのご協力と献身的なお仕事とともに、修道院の基礎作りをすることができたことを感謝しています。司祭が二人常駐すると、どれほど色々な良い事業ができるのかということをつくづく思いました。

神父様は、日本語の勉強やアジア管区の出納係の仕事に加えて、特に、侍者の練習や子供の公教要理のお世話、また聖体十字軍やオンラインでの大人の公教要理などに尽力してくださいました。大阪や名古屋、札幌や広島、韓国にもミサを捧げ説教をし、告解、終油、婚姻などの秘跡や多くの祝福の準秘蹟を授けてくださいました。秋田巡礼やマーチフォーライフなどの活動の積極的なご協力もありがとうございます。

修道院の日常生活でも、神父様の模範的な規則正しい生活とご健康のおかげて、聖ピオ十世会の会則通り共同体の聖務日課やその他の祈りや信心業を規則正しく果たすことができました。神父様の良い模範を感謝いたします。

ルフェーブル大司教様は、私たちの使徒職が実りの豊かさや私たちの堅忍は、私たちの修道院での共同生活の質にかかっていると教えてくださいました。現代世界において、聖ピオ十世会の修道院は司祭たちのオアシスとなるべきであるから、また、天主への愛が、共同体の生活において愛徳を実践させるから、そこから私たちをして多くの霊魂たちのために奉仕させるからです。私たちの主はこう言われました。「たがいに愛しあうなら、それによって人はみな、あなたたちが私の弟子であることを認めるだろう」と。

小修道院での司祭の共同生活は、ルフェーブル大司教様から聖ピオ十世会が受けた、最も大切な遺産の一つです。つまり、聖伝のミサ、聖伝の信仰、聖トマス・アクィナスの神学大全、司祭の共同生活です。第二バチカン公会議の司教区の司祭では知ることができなかっただろう、教会の遺産を受け継ぐことができて、ルフェーブル大司教に感謝します。Credidimus Caritati 天主の愛を私たちは信じた。

「兄弟たちよ、たとい私が、人間と天使のことばを話しても、愛がなければ、鳴る青銅と響きわたる銅鑼にひとしい。たとい私が、預言の賜物をもち、全奥義と全知識に通じ、山を動かすほどの満ちた信仰をもっていても、愛がなければ無にひとしい。たとい私が、すべての財を施し、この体を焼かれるために与えても、愛がなければ益するところがない。」

日本でルフェーブル大司教の遺産を神父様と一緒に始めることができ、遺産をこうして守り続けることができることを神父様に感謝しています。

神父様に感謝するために集まった愛する兄弟姉妹の皆様に、特に若い青少年の皆さんに、この機会を借りて、どうやったら神父様の献身的な働きに感謝することができるか、一緒に考えてみることを提案します。
神父様はコロナの難しい時であったとしても日本に来られて、何を私たちに伝えようとされたのでしょうか?神父様が司祭になって、外国で、日本であっても働こうとされたのは、何のためだったのでしょうか?なぜ私たちは神父様の働きがそれほど貴重だと考え、感謝しているのでしょうか?
それは、私たちにはイエズス・キリストが必要だからです。私たちにはカトリック教会の聖伝の信仰が必要だからです。何故なら永遠の命のために、正しい信仰とイエズス・キリストの聖寵が必要だからです。聖伝のカトリック司祭、聖ピオ十世会司祭こそが、教会が2000年間やってきたことをやり続けているからです。世界中を探しても、カトリック教会が公式に認可した修道会である聖ピオ十世会だけが、天主のお恵みによって、まったく妥協なく、今でも、教会の中に留まりながら、信仰を完璧に宣言し、実行し、伝え続けているからです。聖伝の信仰の維持という奇跡中の奇跡が21世紀の現代、聖母の御取次で、聖ピオ十世会の司祭たちによってなされているからです。

これがルフェーブル大司教の遺産です。Credidimus Caritati 天主の愛を私たちは信じた。私たちは、聖ピオ十世会において、天主の愛が続いているのを見ています。「愛は寛容で、愛は慈悲に富む。愛は妬まず、誇らず、たかぶらない。非礼をせず、自分の利を求めず、いきどおらず、悪を気にせず、不正を喜ばず、真理をよろこび、すべてをゆるし、すべてを信じ、すべてを希望し、すべてを耐えしのぶ。愛は、いつまでも絶えることがない。」

ですから、私たちは聖ピオ十世会の司祭である神父様に、日本での献身的な働きに、霊魂の救いと霊魂の聖化のために尽くして下ったことを感謝しています。神父様を私たちに送ってくださった天主に感謝するために、また、神父様が私たちに伝えようとなさった恵みに報いるためにも、イエズス・キリストを信じ、愛しましょう。

日本にいる若い青少年の皆さん、イエズス・キリストのために、多くの霊魂の永遠の救いのために、イエズス・キリストを求めている世界中の霊魂のために、神父様のように、私たちを愛される主を愛しましょう。もしも主の御旨であるならば、神父様のように、私たち自身をイエズス・キリストにお捧げ致しましょう。

ドモルネ神父さま、フィリピンでの新しい任務のためにお祈り申し上げます。私たちのためにもお祈りください。




2024年の秋田巡礼のお申し込みを受け付けております!

2024年03月07日 | 秋田巡礼_Akita Pilgrimage

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2024年の秋田巡礼のお申し込みを受け付けております。

詳しくは次のしおり(チラシ)をご覧ください。クリックするとPDFファイルをダウンロードできます。

お申し込みはグーグルフォームから受け付けております。アドレスは次のQRコードが便利です。

クリックしてもフォームに移動します。http://surl.li/qiwln

ご不明な点がございましたら、https://blog.goo.ne.jp/sspxjapan_akita_pilgrimage のメッセージ欄、あるいは、このブログ、クレカリにメッセージを送ってください。
多くの愛する兄弟姉妹の皆様のご参加をお待ちしております。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


2週間前に主の砂漠での誘惑について黙想しましたが、悪魔の戦術のうち、覚えておくべきもう一つの教訓があります。

2024年03月07日 | お説教・霊的講話

四旬節第三主日―再発の危険性(大阪2024)

ワリエ神父 2024年3月3日

悪魔が戻ってきています。悪魔は決して遠くには行かないでしょう…。
2週間前の主日に、私たちの主の砂漠での誘惑について黙想しましたが、悪魔の戦術のうち、覚えておくべきもう一つの教訓があります。

1.天主に立ち返る時である四旬節

昨日の福音は、放蕩息子(ほうとうむすこ)の話でした…彼の人生の中での罪深い時期のあと、父のもとに戻ってきました。
私たちは、自分の罪を「痛悔」する必要があります。天主の御怒(おいか)りを招いたことに対する、深い超自然的な悲しみと、自分の生き方を改めるという固い決意です。

2.霊的な癒やしの時である四旬節

聖マテオによれば、この男は以下のような人物でした。
・口がきけない(つまり、話すことができない)
・目が見えない(つまり、見ることができない)
・悪魔に憑かれている

私たちの主はここで、三重の治癒をされました。主は、その男が真理を見、真理を認めることを妨げていた悪魔から、その男を解放されました。
四旬節の良い「告解」(つまり、自分の罪を告発すること)が、復活節の戒律を果たすために必要です。

3.再発の危険性

悪魔は戻ってくるでしょう。きっと四旬節の後に。もっと早くかもしれません…。
再発とは、今日の書簡で語られている、罪の闇のことです。

4.天主に向かって具体的に踏み出す時期である四旬節

私たちは、善を行うという固い決心をしなければなりません。
・真実を語り、嘘や中傷を避けること。
・天主を見つめること。

詩篇作者はこう言います。
「私は天に住み給う御身(おんみ)に目を上げ奉る。主人の手に目をとめるしもべのように、女主人の手に目を注ぐはしためのように、主があわれみ給うまで、われらの目を、天主なる主に向け奉る」【詩篇122篇1節】。

・サタンとその悪しき誘惑から離れること。

結論

悪魔が戻ってきています。悪魔は決して遠くには行かないでしょう…。
聖ペトロが、私たちに次のように警告したようにです。「あなたたちの敵である悪魔は、吠(ほ)える獅子のように、食い荒らす者を探して、あなたたちの周りを回っている」【ペトロ前書5章8節】。
私たちの良き母、大天使聖ミカエル、そして私たちの守護の天使が、私たちを安全に守ってくださいますように。


貞潔に反する罪:淫行、全ての穢れ、強欲、これらのことは口にさえもするな。…淫行の者、汚れた者、強欲の者は…、キリストと天主との国において遺産を嗣がない。

2024年03月06日 | お説教・霊的講話

貞潔に反する罪:淫行、全ての穢れ、強欲、これらのことは口にさえもするな。…淫行の者、汚れた者、強欲の者は…、キリストと天主との国において遺産を嗣がない。

2024年3月3日 四旬節第三主日 大宮での10時半のミサ 

トマス小野田神父

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、
今日は2024年3月3日、四旬節第三主日です。
主日のお知らせがあります。来たる復活の徹夜祭では、東京では二人の男性が、大阪では一人の女性が、洗礼を受ける予定です。どうぞこの洗礼志願者三人の方々のためにお祈りください。

さて、四旬節もますます深く入ってまいりました。今日の福音では、私たちの主は悪魔つまり「汚れた霊」のはたらきについて警告されています。「汚れた霊は、人から出ると、休みを求めて荒れ地をさまようが、それを見つけないので、"私が出てきた元の家に帰ろう"といって、帰ってくる。」汚れた霊が帰ってくる。今日、聖パウロも書簡のなかで不潔の罪、汚れの罪について警告しています。

ファチマの聖ヤシンタは、多くの霊魂たちが地獄の火に落ちているのを見て、どんな罪を犯すと地獄に行ってしまうのか、どうしたら落ちないようにすることができるのか、多くの人を助けることができるのか、知りたがりました。そこで、マリア様にお祈りの中で聞くと、聖母はこう答えました。「最も多くの霊魂たちを地獄に引き落とすのは、肉の罪です。」(第三手記)

まだインターネットもYouTubeも携帯もなかった1917年、今から百年以上の前の話でした。現代では、残念なことに、特にインターネットなどのせいで、多くの人びとが不潔の罪のその奴隷になってしまっています。なかには、依存症とか中毒という程度にまで、侵されている人々もいます。

ですから、今日は、聖なる公教会の精神に従って、四旬節の決心を新たにするために、貞潔に反する罪について一緒に黙想いたしましょう。そして四旬節の決心を新たにいたしましょう。

【不潔を避ける】
聖パウロはエフェゾ人たちに「古い人を脱ぎすてて、霊的な思いによって自分を新たにして、正義とまことの聖徳において、新しい人を着なければならない」と言っています。そして今日の書簡で、肉の罪の不潔を避ける、そしてその肉の罪による結果について話しています。今日は聖パウロの書簡に従ってこの二点について、黙想いたしましょう。

聖パウロが挙げている主要な不潔の罪というのは、淫行、全ての穢れ、強欲です。
(1)「淫行」というは姦淫のことで、結婚の枠の外で犯される不潔の罪です。子供の出産という自然なことを必ずしも妨害するものではないかも知れません。が、しかし合法的な結婚の外で犯される不潔の罪です。これに対して、旧約の義人のヨブは乙女のことをあまり考えないように自分の目と契約を結んだといいます。そして、女性を不必要に見ないようにしたとあります。
(2)聖パウロが挙げる第二の罪は、「全ての穢れ」です。これは、子供の出産という目的以外のためになされるすべての不潔の罪です。聖パウロはべつのところでもこう言っています。「肉のおこないは明白である。すなわち、淫行、不潔、猥褻、云々」(ガラチア5:19)ガラチア人への手紙の中にあります。
(3)第三に挙げているのは強欲です。「強欲」というのは、物質的なものをみだりに望むことで、それの中に肉の罪をみだりに望むことも入っていますが、これは物質的な罪と、精神的な罪の中間に位置しています。罪の対象が物質的肉体的なので、ここでは肉の罪のなかに聖パウロは入れています。しかし満足は精神的です。

聖パウロが注意して言うのは、これらについては「口にさえもするな」と言うことです。何故かというと、霊的な戦いにおいては、まず肉の罪が征服されなければならないからです。聖人たちは、肉の罪に関する行動や考えや言葉をすべて控えなければならないからです。聖パウロはこうも言っています。「すべてにおいて私たちは、天主のしもべとしての自分を主張する」(コリント後6:4)。

これ等の三つの罪の次に聖パウロはさらにそれにかかわるそれに付属するものも続けています。「汚行、愚かな話、下品な冗談さえもいうな」。
「汚行」というのは、猥褻な行為のことで、不純な接触や不純に触れることあるいは抱擁すること、あるいは接吻などです。
「愚かな話」というのは、人を悪へと罪へと挑発するような会話のことです。
「下品な冗談」というのは、まさにその通りで、他人を笑わせようとする品のない言葉です。わたしたちの主はこう警告します。「私はいう。人が話したむだごとは、すべて審判の日にさばかれるであろう」(マテオ12:36)と。

これらの聖パウロの挙げた三つのものは、もしもそれが人々を大罪へと犯させるようなものであるならば、その限りにおいて、重大な罪となります。聖パウロは、そんなことではなくて、その反対をすすめています。その反対は何かというと、天主に対する感謝です。むしろ感謝せよ。

【天主の怒り】
では第二に聖パウロはこれらの肉の罪の結果、いったい何が待っているのかということを話します。どのような罰があるかを示しています。「淫行の者、汚れた者、強欲の者は・・・これは偶像崇拝と同じである・・・、キリストと天主との国において遺産を嗣がない。」天の国に入ることができない。そこから、排除される。何と恐ろしいことでしょうか。

ところで、強欲の人が偶像崇拝と同じだというのは、どういうことでしょうか。聖トマス・アクィナスはこのように説明しています。偶像崇拝というのは、天主だけにふさわしい崇敬を被造物にしてしまうことです。ところで、天主のみにふさわしい崇敬というのは、二つがあります。一つは天主を私たちの人生の究極の目的とすることです。第二はその究極の目的に達することができると信頼することです。しかしもしも天主の代わりに、なにか被造物を目的としたり、あるいは被造物に究極の目的に達することができると信頼したりするならば、それが偶像崇拝と呼ばれます。強欲な人というのは、物質的なものを望んで、それを自分の究極の目的としたり、あるいはこの物質的な被造物に全ての信頼をおいてしまいます。ですから、聖パウロは、強欲な人は偶像崇拝者と同じだと言っています。

これらの人々は、遺産を相続しません。何故かというと、父の遺産を相続するのは子供だからです。聖パウロはローマ人への手紙にこう書いています。「私たちが子であるのなら、世つぎでもある。」(ローマ8:17)ところが肉欲の人、血肉の人は、純粋な霊である御父の子とは言えなくなってしまうからです。聖パウロはこう言っています。「兄弟たちよ、私はこう宣言する。「血肉は天主の国を継ぐことができない。朽ちるものは朽ちないものを継げない」と。」(コリント前15:50)

【遷善の決心】
では最後に私たちは、選善の決心をたてましょう。四旬節の中に深く入ってください。主は、肉体において苦しめられました。それは私たちの肉の罪を償うためでもありました。私たちに天の遺産を与えるためでした。わたしたちが贖われた霊魂の価値がどれほど高価であったか、わたしたちの遺産はどれほど高価な値を支払って贖われたのかということを、黙想いたしましょう。肉の罪がそれをすべて失わせてしまう、この罪を忌み憎む恵みをこい求めましょう。罪を忌み憎むということは、罪を痛悔するということです。痛悔の恵みを請い求めましょう。
聖トマス・アクィナスはこうも言っています。"「痛悔をすると言いながら」、痛悔をしているはずのその罪を犯すなら、あるいは以前犯したことをもう一度行うつもりで痛悔すると言っているのならば、あるいは痛悔すると言いながらもその罪を犯しているのならば、これは痛快をしているというよりも、天主を馬鹿にしている、嘲っている、と同じだ"と。

汚れた霊は、もう一度帰ってくると言います。七つの他のもっと悪い霊を連れて戻ってくると言います。もしもわたしたちが罪を忌み憎み、罪を避けようとするならば、貞潔を守ろうとするならば、その目的にふさわしい手段をも取らなければなりません
天主の御助けをもって、罪の機会をあるいは「機械」を、電子機器やあるいは携帯やコンピューターをも、遠ざかるようにしなければなりません。
それと同時に、わたしたちの努力を払うと同時に、天主の聖寵をも信じてください。わたしたちの力だけではかなわない、しかし天主の聖寵があるならばわたしたちにはそれができる、と信じてください。誘惑が強すぎるとか、自分の聖寵の助けは十分ではないなどと絶望しないでください。あるいは自分はまったく無力だまったくみじめだと、だから罪を避けることができない、もう無駄だ、捨てられた、捨てられるべきだなどと、絶望しないでください。その誘惑に負けないでください。イエズスさまの御受難の功力、無限の功徳、十字架から来る聖寵の無限の助け、聖心の私たちへの愛、その憐れみの無限、それを信頼してください。

わたしたちは、四旬節の決心を新たにいたしましょう。携帯やインターネットの使用を制限いたしましょう。夜は早く寝て、早く起きるようにいたしましょう。規則的な祈りの生活、あるいは特別な信心業、十字架の道行きやロザリオの祈り、あるいは霊的読書に励むお恵みを請い求めましょう。
ファチマのマリア様、聖母の汚れなき御心に祈りましょう。特にこの時代において、私たちが身も心も清く守られますようにマリア様にお祈りしましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


四旬節は、わたしたちの主の聖心の愛が、わたしたちにますます明らかになる季節

2024年03月02日 | お説教・霊的講話

2024年3月1日初金のミサ 説教

トマス小野田圭志神父

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

四旬節は、わたしたちの主の聖心の愛が、わたしたちにますます明らかになる季節です。

主が、なぜこれほどの苦しみを喜んで受けられたのか。なぜ罪がなかったにもかかわらず、ポンシオ・ピラトが「わたしはこれに罪を見いださない、何も見いださない」何度も言ったにもかかわらず、鞭打たれそして茨の冠を被せられ、さらには十字架の死刑を受けなければならなかったのか、無罪なのに…。

なぜイエズス・キリストがその重い十字架を喜んで担われたのか。なぜイエズス・キリストが、柔和にして寛仁にして、道にて会う人を自分の苦しみを忘れて慰めたのか。なぜ喜んで手足を延ばして釘付けにせられたのか。その釘はイエズス様の神経を撃って、どれほど激痛が走ったことか。体が倒れたとき、重い十字架が身体をどれほど打ち付けたか、茨の冠がどれほど痛かったことでしょうか。

なぜイエズス・キリストはこれらを受けたのでしょうか。

理由はたった一つしかありません。
それは愛する兄弟の皆さんと私を愛するためでした。わたしたちを地獄の火から救い出して、天国の歓びを与えるためというたったそれだけの理由で、そうすることで御父に栄光を帰するという理由のために、喜んで苦しみを受けられました。

聖トマス・アクィナスによると、御変容の時に御父は、「これこそ私の愛する子である、わたしの心に適うものである」と宣言しました。なぜ心に適うかというと、御父が与えたすべての愛・善をイエズス・キリストはそれをすべて最高に使って、それをもって御父に愛し返したからです。与えた善がすべて最高に使われたので、御父にとってイエズス・キリストは自分の心に適うものとなったわけです。

聖トマス・アクィナスによると、愛というのは、相互の交流だといいます。一方的ではなくて、愛し愛されるところに愛が成立する、イエズス・キリストはわたしたちに御血のすべてを流し尽くして愛を尽くされましたが、わたしたちはいったい何をお返ししたらよいのでしょうか。わたしたちがイエズス・キリストの心に適うものとなるためには、イエズス様に何をして差し上げたらよいのでしょうか。どうやったらイエズス様の愛に、愛を返すことができるのでしょうか。

それは皆さんが今日なさった十字架の御受難を黙想すること、ミサ聖祭に与ること、十字架の生け贄の再現に与ること、御聖体を拝領すること、そしてイエズス様の聖心が貫かれた聖心の愛を黙想することです。

今日皆さんがミサ聖祭に与り、十字架の道行きをされたことで、そして御聖体降福式に与ることで、主の聖心はどれほど喜びにあふれて、そして皆様にますますのお恵みをお返ししようとされることでしょうか。

よい四旬節を、残りの四旬節を、過ごすことができますように、マリア様の御取次をも請い願いましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


主の御変容:イエズス様の御受難を実り豊かによく黙想するためには、イエズス・キリストが全知全能の天主であることをよく知らなければならない。天主がなぜ苦しまれたのかを知る必要がある。

2024年03月01日 | お説教・霊的講話

2024年2月25日名古屋ミサ 説教

トマス小野田圭志神父 

【上の動画は大阪でのものです】

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、今日は2024年2月25日、四旬節第二主日のミサをしています。

ひとつだけお知らせがあります。次のここでのミサは復活祭の主日です。ここです。復活祭のミサには、多くのお友達の方を誘ってミサに与るようになさってください。ぜひ聖伝のミサのお恵みを皆さんに伝えるようになさってください。

それからもしもできたら、三月、復活祭の前にも、もう一度主日にここでミサができるように、いま計画しています。詳しいことが決まりましたらお知らせします。

わたしたちは、満21歳から満59歳までの健康な成人の男女は、大小斎の義務があります。今過ぎた灰の水曜日と今度の来たる聖金曜日の二日は、カトリック教会は大小斎を守るべき掟の日ですので、寛大に大小斎を守ることにいたしましょう。聖ピオ十世会の司祭たちは、これに付け加えて、すべての金曜日も大小斎を守っています。もしも皆さんもできるならば一緒に加わってください。

さて、四旬節は、わたしたちは教会から特別に、イエズス様の御受難を黙想するようにと招かれています。イエズス様の御受難を黙想するというのは、特に十字架の道行きをしたり、特にイエズス様の十字架の御像の前でイエズス様がどれほどお苦しみになられたのかということを考えて、イエズス様に感謝したり、あるいはお慰めを申し上げたりするときです。ところで教会はこの黙想がよくできるため、四旬節の中にふかく入るために、いったいこの苦しみを受けられたのはどんな方だったのか、その本当の姿はどうなのか、いったいどなたが苦しまれたのか、イエズス・キリストとはいったい誰なのかということを、わたしたちがはっきりと知ることを望んでいます。

今日、四旬節第二主日においては、イエズス様が本当の天主、この世の造り主、全能の永遠の、全知全能の天主であるということを、その姿を、わたしたちの前に知らせようとします。この天主が苦しまれたからこそ、わたしたちの四旬節の黙想もますます利益を受けて、ますます実のあるものとなるからです。なぜかというと、苦しまれたのは、栄光の天主であること、罪のない聖なるお方が苦しまれた、またわたしたちの罪のために苦しまれた、わたしたちを愛するために苦しまれたということを、深く理解できるためです。ですから今日は教会で一緒に、イエズス様の御変容の神秘を垣間見てみましょう。

まず、御変容でイエズス様が輝きだした、これはいったいどんなことだったのか。
それからイエズス様が誰かということを証言する声が――天主御父がそれをした――そしてイエズス様がこれから苦しみの中に入るけれども、いったい何のためだったのか。
これを黙想して、それから四旬節のよい決心を立てましょう。

イエズス様は、まことの天主、まことの人です。特に十二人の人たちの中から三人を選んで、ペトロ・ヤコブ・その兄弟ヨハネ、この三人を連れて高い山に登りました。聖書学者はこれをタボル山だと言っています。その山の山頂で主は突然、身体を、姿を変えました。その御顔は太陽のように燦然と輝きました。なぜ太陽のようにと言ったかというと、もうこの地上で太陽以上に輝くものはないからです。そのように輝いたというのは、人間の言葉を超えるものすごい輝きがイエズス・キリストのお顔から出た、ということです。想像してください。これはイエズス様が天主しか持っていない栄光の御稜威の輝きです。イエズス様は、もちろん、天主の生ける御言葉で、人間となられた方ですから、人間となられたその瞬間から、霊魂のなかには天主の栄光が満ち満ち溢れていました。しかし、御摂理によって、主のご計画によって、イエズス様が苦しみを受けることができるように、死を受けることができるように、私たちのために贖いの業を果たすことができるように、あえてこの栄光が霊魂から出ないようにされていました。恒常的にずーとそれが出ずに、苦しむことができるように、死を迎えることができるような状態として、生活されました。しかしもちろん、天主ですから、自分の全能の力を使って、この本当なら出ないはずの栄光が身体からにじみ出るようにすることも、できました。そして御変容の時には、これをそのまま出して、本当のお姿、天主としての姿を見せたのです。

聖パウロはこう言っています。コロサイ人の手紙のところです。「キリストにおいては、神性のみちみちたものが、すべて、体の形をとってやどっている。In ipso inhabitat omnis plenitudo divinitatis corporaliter.」(コロサイ2:9)と。

また言葉を続けて聖パウロはこうも書いています。コロサイ人の手紙です。「子(キリスト)は、目に見えない天主の姿であって Qui est imago Dei invisibilis」(コロサイ1:15)「すべての被造物の長子である。万物はかれによって創られた。天にあるもの、地にあるもの、目に見えるもの、目に見えないもの、玉座も、主権も、権勢も、能力も、みなかれによって、かれのために創られた。子は万物の先に存在し、万物はかれによって存在する。」(コロサイ1:16-17)

つまり、この光輝くお顔を見せているイエズス・キリストが、すべて全宇宙を支配しておられて、このすべてを創造されて、イエズス・キリストのために万物は創られたということです。そればかりか、わたしたち一人一人皆さん一人一人の運命を、この手に握っておられる方です。すべてをご存じです。私たちが、いったいいつどうやって生まれるのか、またわたしたちがいつどうやってどのようにこの地上から姿を消していくのか、わたしたちの人生の日数をすべてご存じです。どんなに権力あるものも、どんなに貧しいものも、すべてはイエズス様の御手の中にあるからです。

聖ヨハネは、福音書のその最初に、こう書いています。「私たちは、その栄光を見た。それは、御ひとり子として御父からうけられた栄光であって、かれは、恩寵と真理とにみちておられた。」(ヨハネ1:14)

この輝きについて一言付け加えると、要はイエズスさまが復活されると復活体として輝くのと、御変容の輝きとは、どのように違うのかということを、一つだけ申し上げます。

御変容の輝きというのは、天主の本性から来る輝きで、復活されたのちの復活体の輝きとは、少し違いがあります。本質としては同じです。天主の栄光から由来するからです。でも、ありかたは、全く同じではありません。なぜかというと、イエズス様の御体は、復活の前は、苦しむことができ死ぬことができるのであって、恒常的な、恒(つね)なる栄光をうけてはまだおられなかったからです。ちょうど聖トマス・アクィナスは、空と似ていると言います。天空と似ていると言います。太陽が昇ると、太陽の光に輝かされて、大気も明るくなります。天地を照らすことができます。しかし太陽が沈んでしまうと、真っ暗になってしまって、星や月が見えます。それと同じように、御変容も、主が自分の天主の本性をいま出そうと思われたので、一時的に変えられたものですが、しかし、それを出そうと思わなければ、そのまま消えてしまうものです。ちょうど天主の力を使って、イエズス様が水の上を歩いたと同じような、天主の力を直接介入させた一時的なものでした。

これに反して、復活したのちの復活体の輝きというのは、恒常的です。つまり、恒にあって普通のことなんです。ちょうど大気が光っているのは普通のことではありませんけれども、太陽があるからこそ光る、一時的なものですけれども、しかし、炎が光を出し輝くというのは、これは普通のことです。恒常的です。ちょうど復活したイエズス様、あるいは、この世で復活した義人たちの復活体が輝きでるのも、栄光に満ちた霊魂からそのまま恒常的に普通に輝きでる炎のようなもので、天主の栄光を霊魂が受けて、それが自然に肉体に滲み出て、それが輝きでる、のと同じです。

では話を元に戻します。この最高の主権者、全能の御言葉、永遠の智慧が、その本当の姿を弟子たちの前に見せた――するとそれのみならず、旧約の律法を代表するモーゼ、それから旧約の預言を代表するエリヤも、姿を現します。

御変容の時にモーゼは、古聖所から現れました。エリヤは、天に生きたまま火の馬車に乗って天に挙げられたエリヤが、天からまた戻って、イエズス・キリストこそがわたしたちが預言したものだ、と指し示します。モーゼも イエズス・キリストこそが律法の完成であり、律法の究極の目的だ、と示すために現れます。全聖書は、イエズス・キリストを指し示しているのです。イエズス・キリストとは、なんという権威のある方でしょうか。

そればかりではありません。いきなり光り輝く雲が、しかもイエズス・キリストとモーゼそしてエリヤそして三人の人たちを取り囲み、その雲の中から厳かな声が‥‥‥よく聴いてください‥‥‥「これは私の愛する子、私の心にかなったものである。これに聞け!」‥‥‥これは、天主御父からの、荘厳な命令でした。

イエズス・キリストがなぜこれほど燦然に輝き全旧約聖書が指し示すメシアであるかといえば、その尊厳高貴さその尊さの根源は何かというと、天主の御ひとり子である、そこにかかっています。天主御父が愛する御ひとり子、本性による天主の御子、であるからです。天主の愛というのはわたしたちの愛とは違っています。どのように違うかというと、わたしたちが愛するというのは何かが良いから愛するのであって、わたしたちが愛するからこれが良くなるのではありません。その反対です。なにか良いから愛する、これがいいなぁと思うから好きになる。ところが、天主の愛というのは、良さの原因なのです。天主が愛すると、これが全部、良いものとなる。良さを、天主の愛が伝えるのです。天主御父は、御子を限りない愛で愛されました。そして、ご自分の持てる無限の善を、御子にすべて与え尽くしました。被造物がもしも天主の良さの一部に与るとしたら、参与するとしたら、そのちょっとだけをもらうものだけだとしたら、天主御子はそのすべてを完璧にその充満を受け満ち満ちていました。善さに満ち満ちていました。善に溢れていました。 

聖ヨハネは福音書の中でこう書いています。「御父は御子を愛し、その手に全てをゆだねられた。」(ヨハネ3:35)御子は、御父と全く同じ本性による、天主です。そしてこの御父から受けたすべての善を、すべてよく使うので、天主御父はこれを非常にこころよく思いました。もしもわたしたちが、誰かからよいものをプレゼントされたとすると、それをよく使ってくれてこそ、贈り主は、使ってくれた!と喜びます。もしもそれが台無しになってしまえば、せっかくあげたのに無駄になってしまった‥‥。御子は、御父からうけたすべての善を、最高にそれを善として使うので、御子は御父の心に適ったものとなります。

ですから、その御子にむかって、御子について、宣言します。
「かれに聞け!」「これに聞け!」
もうモイゼではない、もうエリアでもない。イエズス・キリストの教えに従え!これに聞け!これに倣え!と。これほどの、全能の聖なる永遠の天主なる御父の御子が、わたしたちに教えようとされる、これが四旬節です。特にわたしたちに、ご自分の御受難を通して教えようとされること、これを学ぶことが四旬節です。

ではいったい、わたしたちに何を教えようとされるのでしょうか。ピラトの前で、御受難の真っ最中に、イエズス様はこう宣言します。
「私は真理を証明するために生まれ、そのためにこの世に来た。真理につく者は私の声を聞く」(ヨハネ18:37)またある時はこうもいいます。
「私は、道であり、真理であり、命である。私によらずには、だれ一人も父のみもとにはいけない。」(ヨハネ14:6)

では、御受難を通してどんな真理を証明しようとするのでしょうか?いったいその真理とは何でしょうか。それは、「御父がどれほど聖なる方であって、どれほど愛すべきお方であって、どれほどわたしたちが従順でなければならないか」ということを、イエズス様がご自分の御受難を持って、証ししようとする。また、「罪が、どれほど御父の御稜威をその威光をその栄光を侮辱し傷つけるか」「罪がどれほど醜いのか、罪がどれほど忌むべきものなのか、罪の結果どれほどの償いが待っているか」「その聖なるイエズス・キリストでさえもこれほどにぐちゃぐちゃになるまで罪の償いを果たさなければならなかったとしたら、どれほど罪が恐ろしいのか、醜いのか、忌むべきか、捨てられるべきものか」ということを、わたしたちに教えたいと思ったからです。

主を、この十字架につけたのは、わたしたちの罪です。栄光の、燦然と輝く主を、十字架の奴隷のように、悪人としてつけたのは、罪でした。また、わたしたちが、本当ならば罪のために地獄に落ちなければならなかったところを贖ってくださった、その聖寵のお恵みの価値の貴さ、わたしたちの霊魂がどれほどイエズス様の目にとって尊いものであるか、ということを教えるためでした。栄光の天主が、屈辱を受けるのを厭わずに、喜んで血を流されて、わたしたちの霊魂を救おうとされた――それほどの価値があると思っておられるからです。天主の栄光をすべて投げ打ってまで救いたいと思った――これは、主がわたしたちを同時にどれほど愛されているかというその愛の大きさをも現わしています。わたしたちを愛するためにすべてを投げ打ちました。わたしたちを愛するために苦しまれました。ですから、これこそ、わたしたちが必ず知らなければならない、四旬節の間によーく黙想しなければならない真理です。

それだけではありません。この栄光を、燦然と輝く栄光を隠し持って、自分の霊魂に隠し、そして敢えて苦しみと死に臨んだのは、ご自分に信頼するようにと思う心からでした。たとえわたしたちが罪を犯したとしても、わたしたちは、主が燦然と輝く方だから畏れ多く、この今日の福音の使徒たちのように畏れ多くておののいて遠くに逃げてしまう必要はありません。そうではなくて、たとえ罪を犯して主の御稜威に侮辱を加えたとしても、ご自分の十字架のもとに引き寄せようとしてくださいます。

十字架の上で何とおっしゃったかというと、御子として、御父の本性による子として、燦然と輝く栄光を持つ子として、「父よ、かれらを赦し給え。」とおっしゃったではないでしょうか。また痛悔した盗賊にも、「汝、今日われとともに楽園にあらん。」と約束されたではないでしょうか。イエズス様の御血は、復讐ではなくて憐れみを与える御血だということをわたしたちに教えようとしています。また最後に、イエズス様は、御受難を通してわたしたちに模範を示されます。柔和・けんそん・忍耐・従順・剛毅・貞潔・敵を赦す・あわれみなど。

もしも罪のない天主が、栄光の主が、これほど苦しまれたのなら、罪を犯したわたしたちが、少しぐらい苦しんで当然ではないでしょうか。もしも聖にして聖にして聖なる方が、反逆された、十字架だ、と汚名を着せられて、そして冤罪をかけられたのならば、わたしたちが他人から屈辱を受けてそれをなんと正当化することばかりを考えることができるでしょうか。

イエズス様はこういわれます。「自分をすて、自分の十字架をになって、私に従え。」(マテオ16:24)
私たちはこの人生において、どうしても苦しみを避けることができません。自分の全て思い通りにするということはできません。イエズス様でもできません。イエズス様は私たちの先頭を歩んで、わたしたちに「俺の後を従え。ついてこい。」とおっしゃいます。わたしたちの将軍、リーダーです。わたしたちがその御跡を慕って従うように、手本を残されたのです。

では、今日、四旬節の選善の決心を立てましょう。イエズス様はこういわれます。「友のために命を与える程大きな愛はない」。イエズス様はわたしたちに対して、わたしたちを友として、ご自分の命を棄ててしまいました。わたしたちは何と偉大な友を持っていることでしょう。全能全知の栄光の天主を友として、その友が友人が親友がわたしたちのためにこれほど苦しまれた、ということです。愛する友です。

子どもはお父さんが亡くなったというと、涙を流します。妻は、夫が病気だ、苦しんでいる、事故にあった、と聞けば、オロオロして夫のために心配して悲しみます。友人は親友が不幸にあったといえば、嘆きます。

イエズス様が私たちのためにこれほどの苦難を受けようとされることを黙想するこの四旬節、わたしたちは、いったいなぜ石ころのように冷たいこころのままでいることができるでしょうか。なぜ、わたしたちの目は岩のようにカラッと乾ききって、涙の一つも一滴も出ないのでしょう。ペトロは、イエズス様を否んでしまいました。女中の声を恐れて三回も。しかし、イエズス様の目をちらりと見て、そのとき「外に出てはげしく泣いた」と福音書には書かれています。わたしたちも聖ペトロのように、イエズス様の眼差しを見て、激しく泣くことができるように、罪を痛悔することができるように、この四旬節のお恵みを求めましょう。

聖パウロはこう言っています。「主のみ旨はまさにこれだ、あなたたちが聖となること。」つまり、イエズス・キリストと似通ったものとなることです。

ではわたしたちは、具体的に、四旬節の犠牲の決心をたてましょう。痛悔の心を捧げましょう。特別の祈りを捧げる、という決心を立てましょう。毎日時間を決めて十字架の道行きをする――すばらしい四旬節の決心です。大小斎を捧げる、毎日大小斎を捧げる――素晴らしい決心です。施しをする、犠牲をする――とてもよい決心です。携帯を使わない、あるいは最小限にする、動画を見るのを断食する、ユーチューブはもう放棄する――なんとイエズス様の聖心にかなう四旬節の決心でしょうか!

ますますわたしたちが世俗から離れて、イエズス様の御受難を黙想する時間を作ることができますように、マリア様に特別のお祈りをいたしましょう。マリア様と共に、四旬節の聖なる時を過ごすことができますように。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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