Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

私たちはどうしてカトリック教会に聖伝を復興させる手伝いができるかという試練(3)

2012年11月29日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 フェレー司教様も言うとおり、私たちは、バチカンとは「教皇の右の手」であると思っていましたし「私たちは聖座と教皇との間に区別をつけません。」 また、私たちが「ローマ」というとき、教皇様のもとにあるカトリック教会の権威を意味しています。

 しかし、現実には、残念なことに、教皇様が改革派の気に入るようなことを行動するときには、諸手を挙げて賛同する改革派の高位聖職者達も、ほんの少しでも第二バチカン公会議を疑問視させるようなことを教皇様がしようとするならば、それを妨害し、それに抵抗し、敵対するという事実があることを、私たちはまざまざと知らされました。

 フェレー司教様によると、このような対立は「ローマだけでなく教区のほぼ至るところに存在し」、「司祭たちと信者たちを永遠のミサに近づけないよう邪魔した司教たちに端を発して」いるのです。ローマ内部では、革新派と保守派との熾烈な戦いが繰り広げられていたのでした。もちろん、私たちは、第二バチカン公会議派の司教たちや近代主義に染まってしまっている部分の「ローマ」に、第二バチカン公会議の誤謬というウィルスに感染している「ローマ」に、私たちの身を委ねることはできません。聖母の汚れなき御心は、三つの印で、私たちを導いてくれました。それと同時に、ローマにある本当のカトリックの部分については、カトリック教会に聖伝を取り戻させようという保守派の部分については、それが拡大し、勢力を増していくように、助けてあげなければなりません。大変難しい問題です。

 もしも、私たちが、本当のカトリック教会の善のために、カトリック教会の聖伝への復興のために、ローマの保守派の高位聖職者達たちを助けたいと思うのなら、本当の意味で聖座に忠誠派でありたいと思うのなら、革新派の第二バチカン公会議を持ち上げるようなメッセージと、保守派の聖伝を大切にし第二バチカン公会議に反対するメッセージとを識別しなければなりません。もしも、カトリック教会をその破滅から救いたいと思うのであれば、革新派の「反聖ピオ十世会キャンペーン」の邪悪さを見抜かなければなりません。

 もしもカトリック教会の復興を本当に思うのなら、ローマの保守派の高位聖職者達たちが必死でしてきたように、このブログをお読みの兄弟姉妹も聖ピオ十世会を応援しなければなりません。聖ピオ十世会の聖伝のミサに与り、聖伝をもり立てなければなりません。第二バチカン公会議にも良いことが書かれている、などといってエクレジア・デイの妥協の道に行ってはなりません。

 ローマで働いている聖伝のミサを捧げている保守派の高位聖職者達たちが、教皇様は聖ピオ十世会をカトリックと認めている、バチカンにはどんな手を使ってでも教皇の計画を潰そうという人々がいる、今後も聖ピオ十世会は、今まで通り、思う存分第二バチカン公会議への攻撃を続けるがよい、教皇は教理聖省よりも上にある、教皇様が聖ピオ十世会を守る、と必死で情報を伝えているのに、私たちは何もしなくて良い、俺たちは「聖座」に忠実だ、ローマが「お墨付き」をつけるのを待てばよい、それまで新しいミサに与って、聖ピオ十世会の批判をしていればよい、それが「公式」の立場だ、それが建前だ、教区に文句さえ言っていればそれでよい、などと考えて満足するだけではいけません。私たちは改革派の罠を見抜き、堂々と聖ピオ十世会の聖伝のミサに与り始めなければなりません。カトリックの聖伝の復興のために。また、ローマにいるの保守派の高位聖職者達たちが必死の努力を支持したいと思うのなら、聖ピオ十世会に関する批判や悪口を一切止めなければなりません。

 ローマの信頼できる保守派たちが複数の信憑性のある情報ラインを使って、フェレー司教様に、第二バチカン公会議よりも、聖ピオ十世会を守りたい、というのが教皇の本心である、聖ピオ十世会がカトリックであると宣言することが、第二バチカン公会議よりももっと重要であるとみなしている、というメッセージを伝えてきたのですから、日本のカトリック信徒たちはもっと大胆でなければなりません。日本のカトリック信徒たちは、聖ピオ十世会の聖伝のミサに来なければなりません。

 もちろん、くどいほど繰り返すことになってしまいますが、私たちの力だけではローマに聖伝を戻すことは出来ません。天主の特別のお恵みが必要です。全能の天主の御憐れみとその介入が必要です。しかし、私たちは何もすることがない、ただ黙って風向きが変わるのを待てばよい、という態度では改革派に押しつぶされてしまうことでしょう。私たちが、聖伝への回帰を始めなければなりません。聖ピオ十世会への聖伝のミサに与ることによって、カトリック教会とその信仰を維持し続けなければなりません。

 何故なら第二バチカン公会議の道は破滅に通じているからです。最近、マクシミリアン・クラー氏とのインタビューの記事を読みました。彼は次のように指摘します。「今どのようなことが起こっているかを見ると、公会議の時代は終わりを告げると理解することが出来る。第二バチカン公会議派には若い人々がいないからだ。現在、若い司祭たちは古典的な聖伝のカトリックに引きつけられている。まだミサにあずかっているような若い人々は、普通は左翼ではない。聖伝の典礼と神学が元の場所に戻るのは時間の問題だ。」
【マクシミリアン・クラー氏は、1977年に東ドイツに生まれ、幼児洗礼を受けたカトリックで、両親もカトリック信徒。厳しい共産主義の監視下もとで共産主義に反対しつつあったカトリックはマイノリティー(人口の5%)、毎日ミサ聖祭に行くのは勇敢なことであった。彼が14歳の時ドイツの統一があり、新しいミサの教区のミサで共産主義にシンパ的なのを見て驚愕。その後、インターネットで聖ピオ十世会を知るようになり、2003年頃から聖伝のミサに与り始めた弁護士、既婚者で4人の子供の父親。】

 或いは、インターネットで「第二バチカン公会議五十周年、900年間の後、大聖ベルナルド修道会員はイタリアを去る Vatican II at 50: After 900 years, the Canons of Great Saint Bernard leave Italy, and wither in Switzerland 」という記事を読みました。第二バチカン公会議の実りは、修道会の消滅、召命の消滅という内容です。
【大聖ベルナルド修道会は、アルプスで巡礼者を遭難から守る修道士会で、そのセント・バーナード犬は日本でも有名。】


 それでは、私たち聖ピオ十世会は、それでは何をすべきでしょうか? ベルナール・ティシエ・ド・マルレ司教様によると、聖ピオ十世会の将来は、ルフェーブル大司教の意向の通りに行動することです。つまり「もしもローマがもう一度私たちとコンタクトを取るなら、私は自分の条件をつける」と。ティシエ・ド・マルレ司教様は、今年の7月の聖ピオ十世会総会で、ローマとの将来の関係を再開する場合の条件を激しく討論しあったと言います。これについて、ティシエ・ド・マルレ司教様のみならず、デ・ガラレタ司教様も同じことをお説教で仰っています

 両司教様たちによれば、将来の新しい教皇様(ベネディクト十六世ではない別の将来の教皇様)がもしも聖伝により好意的であるなら、かといって、必ずしも完全に「聖伝のカトリック的」ではなく、若干、近代主義に染まっているかもしれない、それにもかかわらず、聖ピオ十世会に対して善意を持っており、カトリック教会を何とかその崩壊の危機から救いたいと考えているとするなら、私たちは、私たち自身の条件をこの教皇様に提示する、と。

 どのような条件かというと、第一に、王たるキリストにかんして、カトリック司祭職に関して、本当のミサ聖祭について、真理を言う自由、真理を説教する自由、カトリックの聖伝の教義を説教する自由が認められること。

 第二に、第二バチカン公会議の誤謬を排斥する自由、典礼改革を批判する自由、特に新しいミサを批判する自由が与えられること、などなどです。

 この条件は、私たちが既にベネディクト十六世に提出してあります。教皇様は私たちの条件をよくご存じです。ベネディクト十六世の後継者は、私たちの条件をよく知ることでしょう。そして、ローマが聖伝に立ち戻ることが出来るように、私たちはプレッシャーをかけるつもりです。ローマが私たちに第二バチカン公会議をうけいれるようにとのプレッシャーをかけるのではありません。その反対です。

 私たちは、カトリックの聖伝の信仰を守ることによってカトリック教会に、そして教皇様に、最大の奉仕をするつもりです。シュミットバーガー神父様も言うとおり、「私たちは司教様たち、教皇様の役に立ちたいのです。私たちは彼らに仕えたいのです。教会を危機から救い出そうとする彼らを助けたいのです。そのすべての美、聖性において教会を新たにしたいのです。ですがもちろん、このことはいかなる妥協も、いかなる偽りの妥協もないという条件でのみ起こり得ます。これは私たちにとって非常に重要です。」

 カトリック教会の聖伝回復がますます促進することが出来るように、ローマ当局が聖伝をもう一度抱擁することができるように手伝うために、私たち聖ピオ十世会は、ますますより一層の聖化への努力をし、ミサ聖祭と一致して生きるように、努めなければなりません。何故なら、カトリック教会がカトリック司祭職の復興を通して復興されることを確信しているからです。

聖母の汚れなき御心よ、我らのために祈り給え!

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

【了】

(文責:トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭))


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無原罪の御宿りの祝日を準備するノベナ

2012年11月28日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 明日11月29日から12月7日まで、無原罪の御宿りの大祝日を準備するノベナが始まります。特に、12月8日には、聖ピオ十世会アジア管区の聖母の汚れなき御心への奉献を更新します。この意向のためにも愛する兄弟姉妹の皆様をノベナにお招きいたします。

 詳しくは、無原罪の御宿りの祝日を準備するノベナをご覧下さい。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

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■ 「童貞聖マリアに対する教皇聖ピオ十世の作った祈り」
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 天主に嘉せられ、天主の御母となりしいとも聖なる童貞女よ、御身は、御肉体にても御霊魂にても、信仰においても愛徳においても罪の汚れのなきおん方なり、御身の力強き御保護を願い奉る我ら罪人をみそなわし給わんことをこいねがい奉る。最初の呪いを受けたいにしえの悪しきヘビは、哀れなエワの子らに戦いを挑み、罠を仕掛け続けるなり。我らの聖なる母、我らの元后、代弁者よ、御身は受胎の最初の瞬間から我らの敵の頭を踏み砕き給えり。願わくは御身と心を合わせて捧げ奉る祈りを受け入れ給い、天主の御稜威の玉座にそれを捧げ給え。そは我らに対して為された罠に決して掛かることなく、我ら皆、救いの港に到着せんがため、またかくも多くの危険のただ中において、聖なる教会とキリスト信者たちが、もう一度、解放と勝利と平和の讃歌をどこででも歌うためなり。アメン

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私たちはどうしてカトリック教会に聖伝を復興させる手伝いができるかという試練(2)

2012年11月28日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様

 私たち聖ピオ十世会がこの数ヶ月の間経験した試練は、私たちはどうしてカトリック教会に聖伝を復興させる手伝いができるか、という試練でしたが、では、一体何故試練が生じてしまったのでしょうか?

 デ・ガラレタ司教様は、10月にフランスでのお説教で、私たちにこう説明しています。(このお説教はしばらくして日本語でご紹介する予定です。)私たちが経験した問題の大部分は、ローマから混交のメッセージがあったという事実にある、と。つまり、どういうことかというと、教皇に大変近いローマ当局は、教理聖省からの回答が公式の回答であるがしかし無視すべきである、カトリック教会は今や崩壊しつつある、第二バチカン公会議というページをめくって、新しい章を始めたい、第二バチカン公会議は受け入れなくても良い、などということが伝えられたことです。聖座で働くさまざまな人々から、矛盾する事柄が伝えられていたことです。

 これについて、11月にフェレー司教様が詳しく説明してくれました。これは、ローマ内部で、聖座それ自体の内部で、革新派と保守派との激しい戦いがあることを垣間見せてくれます。

 私たちは以前、教皇に大変近いローマ当局から、公式のルートを通じて伝えられてくるものとは対立するメッセージが来ているという情報を受けていました。私は、以前、何故そのようなメッセージを無視しないのだろうか?と疑問に思っていました。建前だけであっても第二バチカン公会議に乗っ取られたものであっても公式のメッセージだけを聞いていれば良いのではないか?と。しかし、カトリック教会といえど人間たちから構成されている人間社会であり、ローマ内部では、革新派と保守派との熾烈な戦いが繰り広げられていることに想像がまわりませんでした。

 現実には、ローマにおいて第二バチカン公会議を死守することを決意している革新派のグループがあり、彼らは、聖伝の公認化に反対しています。しかし同時に、ローマの保守派の高位聖職者達が存在し、彼らは聖伝のミサを捧げ、カトリック教会を聖伝に戻そうと出来るだけのことをやっている方々で、カトリック教会を何とか救いたいと思っているのでした。そして非公式のメッセージは、保守派からローマの内部情報が伝えられており、そして彼らが聖ピオ十世会に力を貸してほしいと求めてきていた、ということです。

 例えば、フェレー司教様が指摘しているように、同じ教理聖省であっても、聖伝に対して、ミューラー大司教長官と、ディノイア大司教は正反対の意見をもっているのが分かります。今現在、私たちはローマ内部の矛盾に直面しており、ローマの保守派と革新派との戦いに巻き込まれてしまったということです。

 一方で、公的ルートを通じて、聖ピオ十世会は第二バチカン公会議と新しいミサを受け入れなければならない、という要求が来ていました。もちろん、私たちの答えはノー!です。

 他方で、信憑性のある非公式の保守派からの複数の情報ラインがあり、2011年8月半ばからずっとひっきりなしに、聖ピオ十世会の神学的立場に同意するということを伝えてきます。これらのバチカンの保守派高位聖職者が言うには「教皇様は、破門撤回のときと同じように、見返りに何の要求なしに【第二バチカン公会議や新しいミサを受け入れるという要求など一切無しに】聖ピオ十世会を承認するつもりだ、公式ルートからの内容は、教皇様の意向ではない、バチカンにはどんな手を使ってでも教皇の計画を潰そうという人々がいる、今後も聖ピオ十世会は、今と同じように思う存分[第二バチカン公会議への]攻撃を続けることができる、教皇は教理聖省よりも上にある、教皇様が聖ピオ十世会を守る」云々。それによれば教皇様ご自身は、第二バチカン公会議よりも、聖ピオ十世会を守りたい、というのが本心であることになります。聖ピオ十世会がカトリックであると宣言することが、第二バチカン公会議よりももっと重要であるとみなしている、ということになります。

 ローマの内部でのこの戦いは、何を意味しているのだろうか?ローマの聖伝への回心が始まり浸透しつつあるのか?少なくとも部分的にも、ますます教会自身の聖伝にたいする権利を復興させることはどうしたらできるのか?聖ピオ十世会が手にしている聖寵の宝が、もはや升の中に隠されないばかりか、さらにはキリストの神秘体である教会にも、教会が必要としている癒しの薬が与えられるためには、どうしたらよいのか?教会内において聖伝の教えがより明確に響き渡るために聖ピオ十世会には何が出来るのか?保守派と改革派とが対立しているローマ当局をして、教会がそのアイデンティティーを失うことなく喪失することの出来ない聖伝をもう一度抱擁することができるように、どのように手伝うことができるのか?聖伝が自らの地位に再び戻るために、聖ピオ十世会には何が出来るのか?これらが、聖ピオ十世会のいつもの自問自答でした。

 繰り返しになりますが、もちろん、私たち聖ピオ十世会の力だけで出来ることではありません。天主様からの超自然の助けが必要です。しかし、私たち聖ピオ十世会は、それに向けて私たちに出来る限りをしようとしているのです。これはルフェーブル大司教様の態度であり「私たちには天罰を待つしかない、天罰で全てが滅びるしかない、私たちには待つしかない」なdという態度では決してありません。


 確かに、ベネディクト十六世は、2009年に聖ピオ十世会の司教たちから何の見返りも何の要求もせずに、いわゆる「破門」を撤回しています。しかし、革新派はこれを妨害しようとしました。ウィリアムソン司教様のインタビューを破門撤回に合わせて発表させたことは、革新派が、カトリック教会の敵である世俗の権力・勢力と緊密につながりがあることを示していました。ローマ内部の保守派は、革新派が手段を選ばないということをよく知らされました。

 しかし、第二バチカン公会議と革命の成果を死守しようとする勢力は、今回も教会の敵の勢力と結託しました。フランスの司教たちは、フランス政府に働きかけてもしも聖ピオ十世会が認められるならばフランスはバチカンから外交官を召喚すると脅すことさえしました。ドイツとオーストリアとスイスのドイツ語圏の司教たちも聖ピオ十世会のボイコットの動きを見せました。保守派は、革新派の邪悪さとその勢力がそれほど大きいものだとは考えていなかったようです。

 ローマ内部の革新派からすれば、聖ピオ十世会に第二バチカン公会議に反対して「暴れて」もらっては困る、ということです。革新派は、聖ピオ十世会が何をするかよく知っていました。保守派も聖ピオ十世会には第二バチカン公会議の幕を閉じるのを手伝ってもらいたかったことでしょう、しかし、改革派の邪悪さを見くびっていたようです。


 しかし、ティシエ・ド・マルレ司教様によれば、聖母マリア様はロザリオの十字軍の報いとして、私たちがどうするべきかを示すために私たちに三つの印を与えてくれました。三つの思いもしなかった予期もしていなかった印でした。


(1)第1は、2012年6月13日、レバダ枢機卿はフェレー司教様をローマに招き「フェレー司教の提示した文章は受け入れることが出来ない」と拒否したことです。そして聖ピオ十世会が明らかに受け入れることが出来ない文章にサインをすることを要求したことです。

(2)第2に、6月30日付けの教皇の手紙が、はっきりと聖ピオ十世会に第二バチカン公会議と新しいミサを受け入れることを要求することを求めて来たことです。

(3)第3は、教理聖省長官としてミューラー大司教が長官として任命されたことです。ミューラー大司教は以前レーゲンスブルクの大司教でしたが、聖ピオ十世会の神学校について「廃校にしてやる、教授らは追い出してやる」と言っていた司教でした。


 この三つの印は、ローマの保守派はまだ力が足りない、ベネディクト十六世は聖ピオ十世会を守りきれない、時は今ではない、ということを示してくれる聖母の汚れなき御心からの導きの印でした。(続く・文責:トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭))


天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)



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私たちはどうしてカトリック教会に聖伝を復興させる手伝いができるかという試練

2012年11月27日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 西暦303年2月23日、ローマ皇帝ディオクレチアヌスは帝国内のキリスト者に反対する勅令を発しました。ローマ神話の神々にいけにえを捧げないキリスト者らは、投獄、拷問を命じられました。この勅令は厳しく施行されました。それでも緩やかだったのはブリタニア(今の英国)とガリア(今のフランス)地域だけでした。303年の秋はディオクレチアヌス皇帝の在位20年が始まり、これほど長い統治をしたローマ皇帝は、150年前のアントニオウス・ピウス皇帝以後ありませんでした。

 304年、東方のローマ帝国の統治をしていたガレリウスはキリスト者迫害の最終の勅令を発します。キリスト者は全て、年齢、性別、地位にかかわらずローマ神話の神々にいけにえを捧げなければならない、さもなければ死刑。と言っても、これは当時普通に行われていたことを再確認しただけの勅令でした。

 歴史家によれば、私たちの主イエズス・キリストのカルワリオでの受難の次に、キリスト教全史を通してこの時代ほど恐ろしい迫害はありませんでした。拷問の残酷さ、殉教の血の海、広範囲にわたる迫害は想像を絶するものでした。老若男女が犠牲者となりました。ローマの聖アグネス、12才。メリダ(スペイン)のエウラリア、12才。コンプルトゥム(スペイン)のユストゥスとパストル、13才と9才。トゥンバルボ(アフリカ)のマクシマとセクンダ、14才と12才。

 ディオクレチアヌスとガレリウスとは311年に死にます。ガレリウスは死の6日前の311年4月30日、キリスト教の天主の「復讐」を恐れ、迫害停止の勅令を発します。キリスト教は存在する権利を持たないが、しかし帝国内での存在を黙認されることになります。十字架の受難以後、キリスト者が持つことの出来た最善の地位でした。

 想像を絶する最大最悪の迫害から9年後、313年2月、皇帝コンスタンティヌス一世はリキニウスとミラノで会い、キリスト教の完全な黙認(toleratio)の約束を取り付けます。この政策は後に勅令として発せられ、ミラノ勅令(Edictum Mediolanensium)と言われています。こうして、ローマ帝国内でキリスト教の自由が権利として認められることになりました。以前の厳しい迫害を生き延びたキリスト者たちは、これをどれほど天主に感謝して受けたことでしょうか!

 現代の私たちの目から見れば、実はミラノ勅令は「理想的」なものではありませんでした。何故なら、真の天主イエズス・キリストはローマの偽りの神々と同じレベルに置かれたに過ぎなかったからです。しかしその当時のキリスト者たちはどれほど喜んでこれを感謝したことでしょうか!血の海が終わったのですから! 

 これについて日本の私たちにはよくその気持ちが理解できます。それは今から129年前の、明治6年(1873年)3月14日、日本政府はキリシタン放還令を発したときとおなじです。これは流刑のキリシタンたちを解放してよいという命令でした。キリシタン発見(1865年3月17日)から8年後、それと同じ日付の1873年3月17日、寛永15年から明治6年まで235年の間、無数の義人の血をすすっていた高札は、忽然とその姿を消したのです。この高札が無くなった日からすぐに迫害が止んだわけではありませんでした。悪意と嫌悪と偏見と恐怖が蓄積されていました。迫害は止まず、中傷と誹謗が続きました。キリシタンたちは、差別され続けてきました。しかし、キリスト教信仰は黙認を受けたのです。もちろん、真の天主が他の神々と同じレベルに置かれただけです。本当はそれでは足りません。しかし、それへの大きな第一歩でした。

 話をローマに戻すと、その後、ローマ帝国のキリスト者たちの聖なる努力によって、また天国にいる無数の殉教者達の取り次ぎの祈りによって、380年と392年には、皇帝テオドシウスは、キリスト教を国教とする勅令を出すに至っています。

 このキリスト教国教化は、自然に、努力無しに、自動的に成立したものではありません。キリスト者たちの絶え間ない、祈りと、働きかけがあったこそ与えられたものでした。何故なら、実際、360年にローマ皇帝となった背教者ユリアヌスは、ミラノ勅令を逆用して、衰退しつつあったローマ神話の神々の崇敬の権利を主張し、キリスト教が持ちつつあった特権を廃止しようと務めたこともあるからです。おそらくローマ朝廷内では、カトリックの高官と異教徒の高官とがいて、異教徒達がカトリックに改宗していった、ますますカトリックの高官の数が増していったという事実があり、そのためにカトリック教会の祈りと努力が陰にあったことでしょう。

 人間の歴史には段階があり、それが現実です。もちろん天主は全能のお方ですから、303年のディオクレチアヌスの大迫害の翌年に、ディオクレチアヌスの大回心を起こさせ、突然キリスト教を国教とするように奇蹟を起こすことが出来たかもしれません。その当時、カトリック信徒たちはそのような奇蹟を祈り求めていたかもしれません。しかし、そのような奇蹟は天主が普通に起こすことではありません。それでも、全能の天主の御憐れみとその超自然的な介入によって、大迫害の約70年の後にキリスト教が大迫害の対象であったのが国教となるに至るのは大きな奇蹟でありお恵みであるように思えます。


 ところでトリエント・ミサと呼ばれる聖伝のミサは、1969年に新しいミサが許されると、長い間迫害され、不当に禁止されてきました。聖ピオ五世の勅令クォー・プリームムは無視され続けてきました。

 ところが2007年7月7日、ベネディクト十六世は、本当は聖伝のミサが「決して廃止されたことがない」という事実を自発教令スンモールム・ポンティフィクムで告白しました。いつも私たちが言っているとおり、この教令は、私たちの目から見ると不完全なものです。何故ならこれによれば、聖伝のミサと新しいミサとが同じレベルに置かれているからです。しかし、歴史的に見ると、聖伝のミサに対する迫害に終止符を打たせようとする点で意義があります。言ってみれば聖伝のミサに関する「ミラノ勅令」です。

 これから聖伝のミサは、将来テオドシウスのような教皇によって、カトリック教会内で唯一の義務のミサ聖祭になるのでしょうか?それとも、背教者ユリアヌスのような教皇が出てしまい、聖伝のミサも新しいミサも同じレベルに置かれつづけるのでしょうか? 今後の聖伝のミサと聖伝のカトリック信仰の発展は、天主の恵みと共に、私たちの祈りと努力にかかっています。私たちの絶え間ない、祈りと、働きかけによって、聖伝のミサの勝利が与えられると信じています。何故なら、人間の歴史には段階があり、それが現実だからです。私たちは、全てが天主に依存しているかのように祈り、同時に全てが私たちの努力と智恵に依存しているかのように行動しなければなりません。

 もちろん、私たち聖ピオ十世会の力だけで出来るはずがありません。天主の御憐れみと御助けが必要です。聖母の汚れなき御心の取り次ぎの祈りが必要です。超自然の助けが必要です。しかし、私たちは、それに向けて私たちに出来る限りをする義務があります。

 聖ピオ十世会の立場は、正にそれです。私たちは第二バチカン公会議の誤謬というあまりにも巨大な悪と闘って、カトリック教会が聖伝に立ち戻るようにしていこうと考えています。何故なら、ルフェーブル大司教様も、それをし続けてきたからです。ルフェーブル大司教様はそれに可能な限り努力したからです。驚くべきことに、ルフェーブル大司教様は、アシジの集会をしたローマと交渉して、一人の司教を聖別して良いというローマの同意を得ることさえもしました。
ルフェーブル大司教様は「もう手遅れだ、私たちには天罰を待つしかない、天罰で現代文明が滅びることだけが解決策だ」とは言いませんでした。

 ローマと交渉し、ローマの権威を認めつつも、しかし、生き残り手段として、1988年にカトリックの司教を聖別したのも、その可能な限りの努力の表れでした。
 ルフェーブル大司教は、教皇に対して「おまえは教皇を辞めろ、教皇職を辞任せよ」とも「私が言うとおりに教会を運営せよ」とも言いませんでした。何故なら、ルフェーブル大司教も聖ピオ十世会も、自分たちがカトリック教会の一部であって、教皇でもなければ、教会当局でもないことを認めていたからです。

 ルフェーブル大司教様は、「単なる一カトリック司教」として、カトリック教会の中に聖伝が戻ってくるように働きかけていたのです。もちろん、私たちの力だけではローマを聖伝に戻すことは出来ません。天主の御摂理の特別の介入によってのみ、天主のお定めの時に、天主のお望みの方法(多分に聖母の汚れなき御心を通して)で、カトリック教会に寄生している「公会議の教会」は終わりを迎えることでしょう。もちろん、私たちは、全能の天主の御憐れみとその介入を信じています。しかし、私たちは何もすることがない、とするのはルフェーブル大司教様の考えではありませんでした。何故なら、繰り返しになりますが、人間の歴史には段階があり、それが現実だからです。ルフェーブル大司教様と共に、私たちの絶え間ない、祈りと、働きかけによって、聖伝のミサの勝利が与えられると信じています。

 シュミットバーガー神父様も言うとおり「聖ピオ十世会は決して己のために働いたことはありません。聖ピオ十世会自身を目的そのものだと見なしたことはありません。それどころか、聖ピオ十世会は教会と教皇たちに仕えることを常に切望しているのです。これはルフェーブル大司教様が常に述べていたことです。私たちは司教様たち、教皇様の役に立ちたいのです。私たちは彼らに仕えたいのです。教会を危機から救い出そうとする彼らを助けたいのです。そのすべての美、聖性において教会を新たにしたいのです。ですがもちろん、このことはいかなる妥協も、いかなる偽りの妥協もないという条件でのみ起こり得ます。これは私たちにとって非常に重要です。私たちは実際、公に教会内にこの宝を復興させ、この宝の権利を取り戻させようと──これは私たちの望んだすべてです──確かに試みました。そして、私たちはある程度の範囲までやり遂げたと言えるでしょう。」

 そのことは、フルーガー神父もインタビューで次のように述べています。
「私たちは社会でもっと行動的になり、市民社会でより大きな影響を持ち、慎重さ、謙遜、愛徳でキリスト教社会を再建しなければなりません。」

 私たち聖ピオ十世会がこの数ヶ月の間経験した試練は、正に、私たちはどうしてカトリック教会に聖伝を復興させる手伝いができるか、という試練でした。(続く)


天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


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私たちはローマに関してどこに立っているのか?

2012年11月26日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 二〇一二年十一月一日、諸聖人の祝日に、ベルナール・フェレー司教がしたエコン神学校でのミサ聖祭説教の日本語訳をご紹介します。
 この日本語訳を作って下さった方に心から感謝いたします。

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

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私たちはローマに関してどこに立っているのか?


原文はこちら
http://www.dici.org/en/documents/sermon-of-bishop-bernard-fellay/

二〇一二年十一月一日、諸聖人の祝日に、ベルナール・フェレー司教はエコン神学校でミサを捧げた。説教の間、この祝日の霊的な意味を思い起こさせたのち、司教は聖ピオ十世会とローマとの関係状況を説明した。──表題と副題はDICI編集者による。



 ……聖ピオ十世会はなぜ存在するのでしょうか? なぜ私たちは司祭になるのでしょうか? 古いミサを司式する喜びのためだけではありません。天国へ行くためです。救霊のためです! 教会の宝を保ちながらも確実に、救霊の目的をもって、霊魂たちを天国に導くことで、聖主へと導くことで、霊魂たちを罪から遠ざけ、獲得し、聖化する目的をもってです。

 私たちはローマに関して、どこに立っているのでしょうか? 二つのポイントを説明することをお許し下さい。一つ目は今までに起きたこと、次に、現在そして恐らく将来に起こるだろうことを見てみることです。

 初めに、今までに起きたことを見てみます。同時に発生したいくつもの要因、そして混乱、損害を残す予想以上に根深い疑い──そしてもっと重大な、私たちに甚大な痛みを引き起こす傷の状態を生じたことが原因で、一つの試練が起きました。恐らく私たちが今までに経験した中で最も重大な試練です。すなわち、私たちの司教の一人を失ったということです。これはささいなことではありません! これは現在の危機がもっぱらの原因ではありません。長い経緯がありますが、ここでは結論を述べるにとどめておきます。

ローマからの二つの正反対の伝達

 では、何が起きたのでしょうか? 最初の原因は昔からずっとある問題でありました。少なくとも二〇〇九年から私がずっと言い続けていることだと思います。私たちはローマの矛盾に直面している自分たちに気づく、と私は述べました。約一年間、聖座と私たちの関係においてこの矛盾の現れがあり続けました、九月以来、私は公的ルートを通じて、はっきりと聖ピオ十世会を承認するためのローマ側の意志が表明された数枚の書類を受け取りました。が、それは私たちがサインできない書類にサインする必要がありました。同時に、私が受け取ったもう一つの情報ラインがあり、私にはその信憑性を疑うことは不可能でした。この情報ラインは実際には別のことを述べていました。

 私が二〇一一年九月十四日に至るまで公式書類を受けとらなかったのに対して、このことは八月半ばに始まりました。八月半ばからずっと、ヴァチカンのある人物が私たちに言い続けています。「教皇様は聖ピオ十世会を承認なさるおつもりです。破門撤回のときと同じように、つまり見返りに何も要求することなしにです」そこで、私は議論のために準備された九月十四日の会見に対してこんな心構えでいました。こう言いながらです。「ですが、あなたはご自分がしていることを慎重にじっくりとお考えですか? あなたは何をしようとしているのですか? それはうまくいかないでしょう」そして実際、私たちに差し出されたこの書類は、告知されたものとまったく違ったものだったのです。

 ですが、私が持っていた情報源はたった一つではなく、同じことを述べていた数枚の告知書を持っていました。ある枢機卿は宣言しました。「そうです、それは本当です。相違点があります。ですが、それ[無条件の承認]をお望みなのは教皇様です」私たちが公式書類を受け取ったのち、この情報を私たちに与えた同じ人物が「これは教皇様がお望みのことではありません」と告げます。矛盾です!

 私たちは何をすべきだったのでしょうか? 教皇様があることをお望みであった──しかしどの程度まで?──ということを、私たちに示唆している情報の重大さを知り、私にはそれを検証する義務がありました。ですが、信者たちに伝えることは不可能でした。この情報は非公式のルートではあるものの、教皇様に非常に近しい人々から来ています。私に告げられた声明文のいくつかを皆さんに引用しましょう。最初はこれです。「私と聖ピオ十世会の両方にとって、事態を今のままにしておくことは、もっと楽なことだとよく理解しています」教皇様は[聖ピオ十世会を承認することで]ご自身が問題を抱えることになるだろうということ、そして私たちもそうなるだろうということをご存知だとはっきりと示しています。しかし教皇様はどの程度まで物事を進めたいのでしょうか?

 教皇様による別の声明はこうです。「聖ピオ十世会に、貴会の問題を解決することは私の教皇職の最優先課題であると知らせなさい」あるいはこれ。「ヴァチカンにはどんな手を使ってでも教皇の計画を潰そうという人々がいるのです」そしてこれも。「心配しないように。今後もあなたは、今と同じように思う存分[公会議への]攻撃を続けることができるでしょう」ここには別の声明があります。「教皇は教理聖省よりも上にあります。教理聖省が貴会に関して好意的でない決定を下すなら、教皇がそれを覆すでしょう」

 私に届いた情報はこういった性質のものです。明らかに不透明です。一方で、彼らは私たちに公会議を受け入れるよう要求し、それは不可能であるがゆえに否と言わなければならない公式書類を得ると同時に、他方ではこのような報告の数々が伝わってくる。にも関わらず、私は最初から「否」と答えました。ある人が私に電話で言ってきました。「【否とはどういうことか】もう少し正確にお話しをしていただけませんか?」私は二度めの手紙を書きました。彼らは最初のときのように満足しませんでした。そして三月十六日に至って、彼らは一通の手紙を私によこし、こう言います。「この手紙は教理聖省からのものですが、教皇様の承認を得ています」と。私が自分の手の中にこの手紙だけしか持っていなかったならば、私たちとローマの関係はここで終わっていたかもしれません。この手紙は、現在の教導職に反して過去の教導職を据える権利は誰にもないと述べていたからです。従って、現在のローマ当局は過去の彼らと矛盾していると述べる権利は誰にもないということになるのです。

 その手紙には、教皇がはっきりと承認した九月十四日の書類を拒否することは、実に教皇の権威を拒否することと同等であるとも書かれていました。離教と離教による破門に関して述べている教会法に触れてすらいました。手紙には続いてこう書かれています。「教皇様は、ご親切にも、貴会にもう一ヶ月の猶予を下さるとのことです。貴会の決定を変更する希望があるなら、教理聖省に連絡をするように」ここではっきりしました! これ以上何もすることはありません。公式ルートから私によこされたこの手紙が、討論の締めくくりでした。終わりです。ですがそれと同時に、私は非公式の助言を受け取っていたのです。「そうです。あなたは不愉快な手紙を受け取るでしょうが、冷静でいて下さい」、そして実際に「うろたえてはいけませんよ」と教えてくれました。

教皇への手紙とその返答

 こういった類の介入があったため、私は思い切って教理聖省を無視し、教皇様に直接手紙を書きました。私たちの関係における最も細心の注意を払うポイントは以下のことであるとも理解していたからです。つまり、ローマ当局は、私たちが教皇様を理論上認めていても、実際にはあらゆるものを拒否しているのだと信じ込まされていたのだということです。一九六二年からずっと、私たちは何も頼みとしてはいない。つまり、教皇はいらない、教導職はいらないのだと[私たちが言っていると]当局は信じ込まされています。私はそれを正すべきだと考えました。正しくないからです。私たちは多くのことを拒否し、多くのことに同意せずにいますが、教皇を教皇として認めると述べる時、それは真実であり、真実にあの方を教皇であると認めているのです。私たちはあの方が間違いなく教皇の任務を遂行することができると認めています。

 そこで、私は思い切って手紙を書きました。それは明らかに細心の注意を必要とする問題てした。私たちは同意する、同意しないと、同時に言う必要があったからです。このきわめて細心の注意を払う手紙を教皇様は承認し、その後は枢機卿たちすら承認したかのように思われたのですが、六月に届いた文書には、受諾できないため私が除外したすべての事柄が戻されていました。

 この書類が私に手渡された時「いいえ、私はこれにサインしません。聖ピオ十世会はサインする意志はありません」と言いました。私は教皇様に手紙を書きました。「私たちはそれにサインできません」と。このように説明しながらです。「今に至るまで──私たちは公会議に関して同意しないので、そして聖下は私たちを承認なさることをお望みのように思えるので──聖下は公会議を退ける心づもりなのだと思っていました」私は歴史的な一つの例を挙げました。フィレンツェ公会議でギリシャ人たちが一致して決議した一つのこと、不貞の場合に婚姻が無効になるかという問題について、ギリシャ人たちは同意に達しなかったのでした。正教会は不貞があった場合婚姻は無効となり得ると考えており、カトリック教会はそうではありません。彼らは同意に達しませんでした。彼らは何をしたか? その問題を片方に残しておきました。アルメニアとギリシャへの教令に違いがあるとはっきりとわかります。アルメニアでは婚姻無効の疑いについて言及し、ギリシャの場合には除外されました。私は以下のように述べつつ、このことに触れました。「恐らく聖下は同様のことをなさるおつもりでしょう。私たちをカトリックとして認めることが、公会議を主張することよりもさらに重要であるとお考えなのでしょう。ですが、現在、聖下が私たちに手渡されたこの文書を見ると、私は間違っていたのだと思います。ですから聖下が真実にお望みのことを告げて下さい。と申しますのも、これらの疑いは私たちの間に混乱の種を播くからです」

教皇様は六月三十日付けで返書を下さり、その中に三つの条件を出されました。

・第一に、教導職は使徒的聖伝の真正の判定者であると、聖ピオ十世会は認めねばならない──これはつまり、聖伝とは何かを教えるのは教導職であるということです。これは正しいことです。ですが、明らかに、ローマ当局は以下のことを述べるため[教導職を]利用したがっています。つまり、聖ピオ十世会がそれを認める。従って、現在、我々ローマは公会議は聖伝的であると決定する。聖ピオ十世会はそれを受け入れなければならない。ちなみに、これは二番目の条件です。

・聖ピオ十世会は、公会議は聖伝、使徒継承の聖伝と不可分でその全体を構成する一部であるという事実を必ず受け入れなければならない。ですが、毎日、私たちが見聞きしていることは逆のことを証明しているとここで述べています。この公会議は聖伝的であるなどと、いきなりどうやって言えるでしょうか? このようなことを口にするためには、「聖伝」という言葉の使い方を完全に変えてしまう必要があります。そして実際、彼らは「聖伝」という言葉の意味を変えてしまったのだとはっきりとわかります。というのは、第二ヴァチカン公会議で、彼らがレランの聖ヴィンチェンチオによる定義、すなわち「すべての人々が、あらゆる場所で、常に信じてきたこと」という完全な聖伝の定義を拒絶したのは、ささいなことではありませんから。

 「信じてきたこと」とは対象です。今日では、彼らにとって聖伝とは絶えず動いている何かであり、もはや対象ではなく、彼らが「主体的である教会」と呼ぶものであり、成長する教会のことです。それが聖伝であると。それは時代から時代へと新しい事柄を積み重ねていくことであると。そしてこの積み重ねが聖伝であり、それは伸びゆき、増えていくのだと。この認識も間違ってはいませんが、補助的なこととしてです。

・第三のポイントとして、新しいミサの有効性(validity)と合法性(liceity)を必ず受け入れなければならないということです。

 私はローマに総会の書類を送りました。私たちのはっきりとした最終的宣言、時が来たらですが、将来あり得るかも知れない教会法的承認に関する合意にいずれは到達するための私たちの条件をです。これらの条件なくして[聖ピオ十世会は]生き延びることは不可能です。それはまさに自己破壊になりかねないからです。今日教会を破壊しているあらゆるものを受け入れることは、私たち自身を破壊することだからです。それは聖伝のすべての宝を放棄することです。

なぜローマにこの矛盾の数々が存在するのか?

 提案された和解案は、実際のところ、第二ヴァチカン公会議と私たちを和解に至らせるためのものであって、私たちと教会、つまり変わらないすべての時代の教会との和解ではありません。その上、私たちはすべての時代の教会と和解する必要などありません。私たちはそこにいますから。ローマは「貴会の公式返答を私たちはまだ受け取っていない」と言います。ですが私は、できません、その方向に進むつもりはありません、と三度返答しました。

 つい最近、私たちはエクレジア・デイ長官であり、同時に教理聖省長官でもある方【ミューラー大司教】からの立場表明を受け取っていました。彼は聖ピオ十世会との話し合いは終わったと言い張っていました。先週の土曜日、エクレジア・デイからの新たな布告がありました。このようなものです。「いや、私たちは聖ピオ十世会にいくばくかの猶予を与える。三十年に渡る討論の末に、聖ピオ十世会が相当の時間を必要とするのは無理もないことだ。向こうが和解を熱烈に望んでいることを私たちはよく理解している」と。彼らの方こそ私たちよりもずっとそれを望んでいるのだという印象を受け、私たちは「何が起きているのか?」と不思議に思います。

 これは明らかに再度の混乱の種を播いていますが、私たちは自分たちの心を乱さないようにしなければなりません。私たちの進む道を歩き続けます。ただそれだけのことです。ここには、ローマで気づいた矛盾の再度の明らかなしるしがあります。なぜ矛盾が存在するのか? 言うまでもなく、近代主義の道、破壊への道、破滅への道を歩き続けたい人々がおり、そして、その道はおかしいと気づき始め、私たち[の参入]を非常に望む人々がいるからです。ですが、私たちは彼らに信頼をおけるでしょうか? それは状況次第です。つまり私たちによかれと望むだけでは充分ではないのです。

 こういったすべての議論において、私は結論にたどり着きました──これが、現在起きていることを説明していると思います──教皇様は真実に、非常に真剣に、聖ピオ十世会を承認なさりたいのです。しかしながら、教皇様が設定した条件は私たちには不可能です。教皇様の手紙に書かれた諸条件は、私たちにはとにかく不可能です。

 公会議を聖伝的であると言えだなどと! あらゆるものが私たちに逆のことを教えているというのに! 五十年に渡る教会の歩みは逆のことを言っています。新ミサは良いものであると言えだなどと! ここでも、目を開ければただ破壊だけを見なければなりません。ここ数年、私たちに会いにやって来る司祭たちとの経験は教訓的です。私はアルゼンチンで、聖伝についてまったくの無知である、比較的若い司祭と知己を得ました。彼はまことのミサを発見しているところでした。これが、彼が最初に見た初めての聖伝のミサでした。つまり、ほんの少し前まで、彼は聖伝のミサが存在することをまるで知らなかったのです。彼の反応はどんなものだったか? 愕然として、自分からこの宝を隠していた人々に怒りを覚えたと言いました! 彼の反応はこうです。「これがミサなのですか? 彼らはこのことを私たちに決して教えてはくれませんでしたよ!」

聖伝は宝であり、過去の遺物ではない

 この危機から抜け出す道は極めて単純です。私たちが新しい福音化について話したいなら──私たちが使う用語に深い意味はありません──危機から脱出するただ一つの方法は教会が常にやってきたことに戻ることです。とても簡単です。複雑ではありません。時代遅れでも古くさくもありません。私たちは現代世界に生きているとよく知っています。昨日やおとといを体験しているのではありません。新しい問題が──これは本当です──存在しますが、善き主の解決策はそこにあるのです! この解決策は不変です。人生において、私たちが恩寵を与えられずにいる状況は一瞬たりともありません。選択を迫られるたびに、誘惑があるたびに、善き主はそれに打ち克つため、状況に応じた恩寵を与えて下さいます。天主の十戒は昨日と同じく今日も有効です。天主は依然として天主です。皆さんはご存知でしょう!

 ですから、彼らが私たちに、世間や世間の言い方……まあとにかく、それに順応して、事態を説明しようとしなければならないと説明するとき、そうです、それは正しいですが、私たちは真理を変えてはなりません。天国への道は依然として罪と悪魔と世俗の放棄の道であることに変わりはありません。これは洗礼の約束で私たちが見いだす最初の条件です。「あなたは悪魔を棄てますか? その業を棄てますか?」これが今もなお天国への道なのです。それ以外にありません。今日、人々は離婚した人の再婚について声高に話します。ドイツの司教たちは、去年、彼らの目的の一つは離婚した再婚者たちを[教会の]交わりの中に迎え入れることだと述べました。なんということ! 教会のみならず善き主も私たちに教えています。いや、まず、この状況を正しく直すことが先決であると。善き主は困難な状況にある人々に恩寵を与えて下さいます。簡単だとは誰も言いません! 結婚が崩壊する時、それは悲劇です。
 が、善き主は恩寵をお与えになります。そのような状態の人々は強くあらねばなりません。聖主の十字架が彼らを助けて下さいますが、私たちは[再婚を]認めるつもりはありませんし、ここシオン教区で行われているように、彼らの結びつきを祝福する儀式を行うつもりもありません。人々はそのことについて大きな声で話しませんが、現実に起きていることです。
今そうすることは罪を祝福することです。そのようなことが善き主から来るはずはありません! そのようなことをする司祭たちや司教たちは、霊魂を地獄へと導いています。彼らは、司祭や司教の召し出しを受けて、なすべきことをせよ言われたことと、まさしく逆のことをしているのです。

 これこそ、私たちが直面している教会の現実です! このすべてのことを誰が肯定できるでしょうか? これこそ、私たちが立ち向かっている教会の悲劇です。

 さて、将来について話しますが、私たちがローマ当局を相手に、この先試みようとしていることは、信仰のために、教会は誤り得ないと言い張ることはまったく良いことではない、と彼らに告げることです。なぜなら信仰のレベルにおいて、私たちは聖霊のおん助け(助力の聖寵)について完全に同意しています。ですが、皆さんは教会内で起きていることを、しっかりと眼を開けて見なければなりません! こう言うのをやめなければなりません。「教会は悪を行えない。従って新ミサは良いものだ。公会議に誤謬は存在しない」と。ですが、ほら、現実を見て下さい! 私たちが把握している現実と信仰との間に矛盾は存在し得ません。両方をおつくりになったのは同じ主です。従って、明らかな矛盾があるならば、解決策も確かに存在するのです。恐らく私たちはそれをまだ得てはいません。しかし、信仰のために現実を否定するつもりはありません! これが、ローマが今日、私たちに押し付けようとしていることに関して抱いている偽りない印象です。私たちの答えはこうです。「できません」これがすべてです。

 ですから私たちは続けます。何が起ころうとも! いつの日か、この試練──教会全体に及んでいる試練──は終わるでしょう。ですが、どうやってなのかはわかりません。私たちはやれることをすべてやろうとします。恐れてはなりません。善き主はすべてに優ったお方です。彼は今もなお主人です。これは非凡なことです。

 教会は、こういった状況にあってさえ、今もなお聖なるもの、聖化する力を持っています。いとも親愛なる兄弟の皆さん、今日私たちが秘跡、恩寵、信仰を受け取るとするなら、それはこのローマ・カトリック教会を通してなのです。教会の過失を通してではなく、間違いなくこの現実の、実在する教会を通してです。それは幻ではなく、夢想でもなく、現実の、私たちが今日祝っている最高に美しい光景、すなわち天国のことです。おお! 天国は地上で準備されています。それは教会の美しさです。悪の軍隊との恐るべき、異常な戦闘の中に教会は自らが置かれていることに気づき、そして今日、恐るべき苦悩の中にあるこの状態でおいてすら、教会はなおも信仰を、恩寵を、秘跡を伝えることができます。私たちがそれら──この七つの秘跡と信仰──を与えるとしたら、この教会を通してであり、教会の名のもとにであり、私たちがそうであるカトリック教会の道具そして成員としてなのです。

 天国の聖人たちが、天使たちが我らの助けと支えに来たり給わんことを! 容易なことでないのは明らかで、私たちが怖じ気づくのも明らかです。本日の昇階誦にはこうあります。天主を畏れなければなりません。天主を畏れる者たちに、善き主はすべてをお与えになります。天主を畏れることに臆病にならないように。天主への畏れは知恵の始めです。天主への畏れが、地上の人生の迷路を通り抜けて、私たちを天国の方へと導いてくださいますように。天国では、諸聖人の元后、諸天使の元后なる童貞マリアが、まことに私たちの保護者であり、まことに私たちのおん母であられます。私たちが、聖主はすべての人々においてすべてとなることを望んでおられる、と言うならば、聖母についてもほぼ同じことを言わねばなりません。私たちは天国に、天主から比類ない権能、悪魔の頭(こうべ)を踏み砕き、異端を滅ぼす権能をいただいた一人の母を持っています。ですから、私たちはこうも言えるのです。聖母は信仰のおん母、恩寵のおん母であると。聖母のところへ参りましょう。私たちの人生、家族、喜び、苦しみ、計画、望みを聖母にお捧げしましょう。至福直観のうちに天主を仰ぎ見ているすべての聖人たちとともに、私たちが永遠の幸福を常に楽しむことができるよう、聖母が私たちを永遠の天国へと導いてくださいますように。そうなりますように。アーメン。


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十字架上のキリストと危機の中の教会に直面する信仰

2012年11月25日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 私の健康についてご心配をおかけしました。休養を取ることができ、体力も回復しました。お祈りを感謝します。

 さて、二〇一二年十一月十一日、サン・ニコラ・ドュ・シャルドネ教会での聖ピオ十世会総長ベルナール・フェレー司教による説教の日本語訳をご紹介します。とても良い内容です。問題がどこにあったのかがよく分かります。

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

*****


十字架上のキリストと危機の中の教会に直面する信仰


原文はこちら
http://www.dici.org/en/documents/faith-confronted-with-christ-on-the-cross-and-the-church-in-crisis/
二〇一二年十一月十六日

二〇一二年十一月十一日、サン・ニコラ・ドュ・シャルドネ教会での聖ピオ十世会総長ベルナール・フェレー司教による説教

親愛なるフランス管区長様、神父様方、そしてキリストにおけるいとも大切な信者の皆さん。

 私たちは今ちょうど福音書の毒麦のたとえの話を聞きました。この毒麦の現実はきわめて神秘的です。聖主こそがこのたとえを私たちに教えて下さり、天主の王国は──聖主が天主の王国について話される時、真っ先に教会のことを指しています──畑になぞらえられ、天主がその主人であるということを私たちに告げています。聖主はその畑で良いことしか行いません。つまり良い種しか播かれません。これが、天主がご自分の恩寵で、ご自身の善性でなされることです。そのとき、私たちは教会よりもずっと、さらに遠くへ、この神秘を全世界に広げることができます。天主ご自身もまたこの世の主であります。そしてここで突如として、情け深い、親切な働きのさなかで──私たちは天主があらゆるものの主であると知っていますから──、毒麦が、雑草が、悪が出現するのです(マテオ十三章二十四節─三〇節)

 天使たちの間に驚きが起き、この畑の働き手たちも驚きます。「ご主人様、あなたの畑では良い種を播かれたのではなかったですか?」主人の答えはこうです。「敵がこれをやったのだ」私たちはここで表現されているように、善き主がそれに関してなすすべがないと想像してしまうかも知れません。善き主はそれをしたお方ではなかったと私たちは正確に理解しています。そうです、しかし【敵に悪をなされても】、彼はそれでもなお主人です! この神秘はより大きいものでさえあります。天主がそれをお許しになるのです。天主はこれら毒麦を阻止することができたけれども、この敵、悪魔に、これらの毒麦を植えることをお許しになります。天主は、私たちが自ら──天主は自由意志を与えて私たちをお創りになりましたので──堕落し、悪を行えることをお許しになります。天主はそれをお望みにはなりません。天主は良い種だけをお望みです。ですが、私たちが歴史──教会の歴史──を見る時、悪や苦悩、毒麦が世界中に広がり、非常にたくさんの、たくさんの人々の醜聞があります。ですが醜聞はなおも広がっています。さて、これらの天使たち、強く力に満ちた、善だけをお求めになる天主の奉仕者たちは、これらの毒麦を根ごと引き抜いてしまいましょうと自ら申し出ます……。この悪とともになされた業なのだから! 主人は答えます「いや、毒麦は育つままにしておけ」と!

 これは、これ以降、軍隊[戦闘の教会]と呼ばれるはずの教会の中で、私たちが遭遇する神秘を要約しています。つまり戦う必要があります。外部で、そして内部ですら戦いがあるでしょうし、それはまさに世の終わりまで続くでしょう。しかしながら、主人であるお方は実際に私たちにこのように告げています──皆さんはそれを使徒書簡で教えられました──すべてものの上に愛があると──そして愛は一つになることであると──一つであるということは教会の真正性のまさしく印になるであろうと。

 そして聖パウロもまた私たちにこの恐るべき真理を告げています。それは毒麦のたとえと同様の方針に沿っています。つまり「Oportet haereses esse」(コリント前 十一章十九節)。分裂があるはずである、と。それは矛盾のように思われます。聖主は天使たちに、これらの毒麦を引き抜くことは、善よりもさらなる害を引き起こすだろうと説明します。それゆえに毒麦が育つままにさせておく必要があるのだと。これは天主が突如として、万物のあるじではもはやなくなったのだ、ということでは絶対にありません。まさかそんな! 収穫の時、区別がなされるであろう、その瞬間、毒麦は良い麦と分別され焼かれるだろう、こう言って天主はこの支配を宣言なさいます。悪を行い、考える人々は、それを責任を問われることなしに行っています。彼らはすみやかに罰が下されるとは思わないからです。ですから彼らに警戒させましょう! 天主は依然として天主です。天主がその尊厳を宣言するだろう時、その日は来るでしょう。天主は嘲られたままではおられません。聖書自身がそれを私たちに告げています。ですが記憶に留めて下さい。罪のゆえに、罪の結果のゆえに、悪を地上でお許しになる善き主のこの神秘があります。ですから私たちは戦わねばならないのです。

この神秘は、ここ数ヶ月の間に、私たちによりいっそう身近な影響を及ぼしました。私たちは毒麦を、困難を、ある程度の混乱に至るまで、自分たちの大切な聖ピオ十世会の内部においてすら目にしました。天主は、教会内でそれをお許しになるようにそのことをお許しになりました。社会全体の中において天主がお許しになるように、ということです。これは私たちを愛する天主の偉大な神秘です。聖主は同じように使徒たちに言いました。「実をつけない枝があるなら、栽培者(おん父)はそれを切り取る」聖主は続けて「だが、良い実をつける人々すら刈り込んでくださる……もっと良い実をつけさせるために」と言われます(ヨハネ十五章一節─二節)。この苦しみの宣言は、なんという偉大な神秘でしょうか。

 天主の計画において、苦しみは必要であり、私たちはこの苦しみを非常に不完全にしか理解できません。私たちが善を行うたびに、善を成し遂げようとするたびに、善を行うための私たちの努力の中で成功するたびに、善き主からあわれみ深い一瞥、祝福、私たちにとっての何か良いことを期待します。そして、善き主が[それに対して]痛手でお応えになるとき、私たちはもう[なぜなのか]わからないのです。それにも関わらず、これは悪い痛手ではありません──それはやはり痛手です。そうです。枝を刈り込むことはその枝にとって益にはなりません。ですがもっと良い実をつけるためにそれは刈り込まれます……。なんという偉大な神秘でしょうか!

私たちの内部の苦しみ、そしてローマで観察された矛盾の数々に由来するはずの教訓は何か?

 私は非常に簡潔に最後の数ヶ月のことをお伝えしたく思います。それはきわめて多くの苦しみをもたらしました。そこからいくつもの教訓を引き出すため、そしてまた、もしも必要ならば、私たちの道のりをふたたび見いだすことができるようにです。皆さんはご存知ですが、これらの問題を抱えた時期が──私はローマと私たちの関係について、私たちの会にもたらした反応について、その苦渋に満ちた結果の一つ、私たちの司教の一人を失った経緯について話しています──取るに足りないものであるはずはありません! 私はここで、ローマと私たちとの関係の問題が、あの離脱の原因ではない、とぜひとも説明し確認したいと思います。ローマのと関係はその機械ではありませいた。しかし離脱自体は,非常に長期間に渡って存在した問題の結果にすぎませんでした。聖ピオ十世会内部の規律の問題であり、最終的に権威に逆らう明らかな反乱のごときもの、言うなれば誤った口実のもとにそのことが示されました。

 もう少し説明させて下さい。この数ヶ月の間中に何が起きたのか? 私たちが見いだしたこの困難のすべての原因はどこにあったのか? 多くの原因があったと思います、ですが基本はローマにおける矛盾です。私たちが気づいていた矛盾、すでに少なくとも二〇〇九年からずっと説明し続けている矛盾です。その矛盾は──具体的に私たちに関して──権威自体、つまり聖座自身の決断と宣言において示されましたが、聖座で働くさまざまな人々から、対照的かつ矛盾する事柄すら述べるさまざまな人々から生じているのです。ローマにいる人々は、この教会の危機、そして私たちとの関係に関してさえ、さまざまな意見を持っているのだと確かに思われます。他方では、ローマにおける権威の行使に分裂があると非常によく理解できるのです。

 従って、頭(かしら)、つまり教皇、原則的には聖座と呼ばれる長(おさ)である方の意図を知ることが困難であるという状態が、数ヶ月、数年に亘って、すでに存在するのです。バチカンとは、教皇の右の手【道具】です。私たちは聖座と教皇との間に区別をつけません。私たちがローマに言及する時、この全体像を、教会のこの権威を指します。これはそのようにしてあるべきなのです。ですが現実において私たちは一つどころではない機会に、いわば権威への妨害(サボタージュ)があること、特に聖伝に賛成する決断がなされる時に、サボタージュがあることに気がづきました。最もはっきりしていることの一つは、聖伝のミサの復活目的について起きたことです。今度は、このことへの敵対が、ローマだけでなく教区のほぼ至るところに存在しました。この妨害は司祭たちと信者たちを永遠のミサに近づけないよう邪魔した司教たちに端を発しています。こういった風潮の中で、私たちは最後には尻すぼみに終わってしまったかのように見えた教義上の議論を何回かしました。私たちは【第二バチカン公会議の新しい教えに】賛成できないと証明することによってです。

 これらの議論ののち、それにも関わらず──私たちにとってこれは非常な、思いも寄らない驚きでしたが──聖座は教会法的解決を申し出てきます。同時に、その一方で、教理聖省とエクレジア・デイ委員会の公的ルートを通じて、私たちはサインもしくは議論のための書類を与えられます。他方では、私たちはこれらの同じ場所で働く人々、エクレジア・デイ、あるいは一枢機卿を通じて、公的ルートとは別のところからの伝言を受け取ります。多かれ少なかれこのようなものです。「教皇様は聖ピオ十世会を承認するおつもりです、破門を撤回した場合と同じく、見返りとして貴会から何も要求することなしにです」

 このような状況が大問題を引き起こさないはずはありません。なぜならこの伝言は、私たちが受け取った書類と同じことを述べていないからです、この同じ人々は「あなたに差し出されたこれらの書類は、教皇様のお望みと一致していません」と認めるでしょう。そして数ヶ月間、このわけのわからない話は続いたのでした。公的通達に対する私たちの返答は──彼らは議論において私たちが受諾しなかったことを受諾するよう要求したので──ノーです。できません。ですが私たちがこれら公的な回答を得ている一方で、情のこもった伝言が続いて届けられます。その発信元に疑問を投げかけることは不可能です。発信元は最高位にある方からなのです。皆さんのためにこの文章のいくつかを引用します。「聖ピオ十世会に、貴会の問題を解決することは私の配慮の中心にあると知らせなさい」、あるいは「それは私の教皇職の優先事項である」とすらあります。この事柄の数々は問題を解決しようという意向とともに言われているのです。

 仲介人たちはどうかと言うと、私たちはこういった類の他の声明を耳にします「ローマには、復興に友好的な教皇様のあらゆる構想を妨害する敵たちがいる」あるいはこのように言う人々もいます「フェレー司教を悩ませないように。承認の後、司教は以前と同じく、[第二ヴァチカン公会議に関する]このすべての論点への攻撃を続けられるでしょう」あるいは、さらに力強く言うのです。「教皇様は教理聖省より上です。教理聖省が聖ピオ十世会に反対する決断をするなら、教皇様はその決断を取り消すよう介入なさるでしょう」

 この二つめのルート[教皇からの伝言]を完全に無視することができるでしょうか? その真正さを、真相を検証することがどうしても必要でした。ですが、それを口にすることや、やりとりすることは、厳密には不可能でした。というのは、それについて話すことは物事をさらに複雑にしただろうからです。ついに──五月以来言えます──物事はよりはっきりとしてきました。最終的に六月に私たちは明確さにたどり着きました。なぜでしょうか? 言ってみれば、私はこの二つのルートをなんとかつなげてみせたのです。私は教皇様に手紙を書き、告げています。

「しばらくの間、私たちの公会議への反対を聖下はご存知ですから、またそれにも関わらず聖下が私たちを承認なさりたいと思っておられるのですから、聖下は公会議にまつわるこの諸問題を脇に置いておくか延期するおつもりであると、私は結論を出しました。とりわけ、これは『公会議の格下げ』を意味し、意見と議論への課題にさせることを意味します──何故なら、あり得るかも知れない、もしくは合法的ですらある議論についての話し合いがありましたから。従って私は以下のように考えました。問題があるにも関わらず、聖下は私たちに対するこの[承認への]意思表示をなさっているので、これはつまり、いかなる犠牲を払ってでも公会議を支持することなどよりも、聖下は、聖ピオ十世会がカトリックであると宣言することがもっと重要であるとみなしておられるのだと。【しかし」最後には、聖下ご自身が、公会議を【私たちに】押し付けておられるかのように私は理解しておりますので、私は間違っていたのだと結論づけなければなりません。ですからどうぞ、聖下が真実にお望みのことをお知らせ下さい」

 そして私は一通の手紙、六月三十日付けの返答の手紙を受け取りました。この六月三十日の手紙は、教皇様こそが、実際には私たちに公会議を受け入れることを強い、そして私が排除したすべての書類、私たちがサインできなかったすべての書類をもう一度提出することを強いるため介入なさった方だと示しているのです。すべては白紙に戻りました。そして教皇様は続けて、教会法的承認にたどり着くためには、三つの条件、聖ピオ十世会が受け入れなければならない三つの事柄があると言われます。

 つまり、以下のことを受け入れよとあります。「教導職は使徒的聖伝の判定者である」つまり、実際には聖伝に属するものを私たちに告げるのは教導職であるということです。それは "de fide"、信仰箇条です。どう見ても、この内容の中で、教皇様は私たちに革新を受け入れることを強いるため、教導職を利用しています。

 そして何よりもまず「公会議はこの聖伝の教えと不可分である」ということを受け入れるよう要求されます。それはつまり、公会議は「聖伝」、聖伝的であるはずだということです。四十年間、現在も、私たちは正反対のことを言い続けています。お遊びではないどころか、私たちの尊敬すべき創立者の唇に何度も何度ものぼった尊ぶべき表現に一致してです。つまり「私たちは言及するよう強いられている」──このいくつもの事実はそれを私たちに実証してみせています──この公会議は新規なことを実行するための同意済みの決定であるということを。これはどんな正当な改革でもなく、うわべだけの新規さ、むしろ教会が教えてきたことに矛盾し反対する重大な改革です。実際、教会はそのことを断罪すらしました。私たちがこの戦いの中で、何年も、何十年にも渡ってこれらの改革、教会を破壊し荒廃させた公会議の改革に反対してきたのは、お遊びではありませんでした。これが彼らが私たちに告げていることです。つまり、この条件は「第二ヴァチカン公会議は聖伝と不可分である」と同意することであると。

 最後の一つの条件、それは今度はミサに関係することです。私たちは新ミサの有効性(validity)を受け入れるだけでなく、その合法性(liceity)をも受け入れなければならないはずでした。私たちは「この事柄は存在しますか?」と尋ねるとき有効性について話しています。有効に捧げられたミサとは、聖主がそこにおわします、ということです。私たちはそのとき、このミサが行われている状況を見ているのではありません。従って黒ミサ(black Mass)は有効であり得ます。それは最悪の、恐るべき涜聖ですが、嘆かわしいことに、黒ミサと呼ばれるものを捧げる司祭たちが存在します。このミサは有効(valid)です。この衝撃的な実例を批判する中で、もちろんそれは許されていない、それは酷いものであるがゆえに合法的ではないということを皆さんは理解しています。「合法(Licit)」とは良いものであるがゆえに許されていることです。しかし、私たちはこの新ミサによって引き起こされた破壊に気づいていますし、それがどのように作られたかを、それが作られた目的が何なのかを、エキュメニズムの目的のためであったと記憶に留めています。そしてこの結果を、信仰の喪失、空っぽの教会を目にし口にします。それは悪いものであると。私はローマにこのように返答しました。通常、私たちは合法性については話すことすらしません、単にこのミサは悪いものであるとだけ言います。それで充分です。

私たちは障壁に突き当たったが、戦いを続けるだろう

 親愛なる兄弟の皆さん、これが状況です。だからこそ、六月以来──私たちがはそのこと叙階式のときに告知しました──事態は障壁に突き当たったということがはっきりとしています。これはゼロ地点への回帰です。私たちは間違いなくルフェーブル大司教様が一九七五年、一九七四年にいたのと同じ地点にいます。にも関わらず、私たちは自らの戦いを続けます。いつか教会を取り戻すという考えを、聖伝のために教会を征服するという考えを諦めません。聖伝は教会の宝です。ですから私たちは続けるでしょう、その幸福な日を待ち続けながら……。その日は来るでしょう。でも、いつでしょうか? 私たちはそれについて何も知りません。必ず私たちは目にするでしょう。それは善き主の秘密です。毒麦が、教会を苦しめているこの悪が根こそぎ引き抜かれる時、その日は来るでしょう。私たちがくぐり抜けているこの危機は、教会が今までに耐えてきた中で、間違いなく最も酷いものです。この危機においては、もはや霊魂たちを天国へと導いておらず、地獄への道を祝福している司教たち、枢機卿をすら私たちは目にしています。

 もはや霊魂たちに地上で遭遇する危機について警告しない聖職者たち。もはや彼らの存在目的を思い出すこともない聖職者たちがいます。……【私たちの人生の】目的は天主です。天国へ行くことです。そして、そこへ行くため三十六通りのやり方など存在しないということを忘れている聖職者たち。それは痛悔の道、自己放棄の道です。何でも許されているわけではありません。私たちには善き主の十戒があります。それを遵守したくない人は地獄への道を準備しているのです。私たちはこれらの言葉を司教たちの口から何度聞くでしょうか? このことを一度として話したことのない司教たちは恐らく何人いるでしょうか? 私たちは近代主義の神学校で修練期の最後にたどり着いた神学生たちが、こう言ったのを知っています。「私たちは神学校で、これを誰の口からも聞いたことがありませんでした!」にも関わらず、これは罪の直接の結果なのです。

 地上での私たちの人生は試練です。私たちは、私たちが天主を選び、それゆえに私たち自身の愛、地上的なものへの愛を放棄し、天主を選び取るということを善き主に示さなければなりません。私たちはこれらの毒麦に落胆してはなりません。あらゆるところに存在し、次から次へとあらゆるものに侵入するこの悪に直面する時、一つの反感が生まれます。これは一つの反感かも知れませんが、あまりにも人間的すぎる反感でしょう。今日の集祷文で、教会は私たちに告げています。教会は、私たちの戦いの間中、私たちが必要とするすべてのためには、恩寵のみをよりどころにすると。一人の人間の強さに依存しようとするなら簡単に落胆へと陥ります。私たちの強さは毎日私たちがこのように唱えることにあります。「Adjutorium nostrum in nomine Domini. 我らの救いは主の御名にある」私たちの助け、そしてそれゆえに私たちの力強さは主の御名にあるのです。善き主は、私たちが当てにしなければならない唯一のお方です。善き主は試練をお許しになるけれども、勝利への充分な恩寵を私たちに与えることなく試練を耐えさせることをお許しにはならないとよく知っています。これらのみことばは、そのままに受け取られなければなりません。このみことばは真実です。「天主がすべてをその善に役立たせてくださるのだということを、私たちは知っている」(ローマ八章二十八節)。すなわち、すべてのもの、そしてもちろん、特に試練をです。

 従って、私たちが試練に出会うならそれに落胆させられてはなりません。私たちの祈りを倍加させましょう。善き主のほうを向き、目を注ぎましょう。努力し、犠牲を捧げ、恩寵に頼りましょう。教会は常に、あらゆる問題への解決である一つのまなざしと一つの思いがあるということを私たちに教えています。この二つは、人生における私たちの身分がどんなものであれ、強さ、勇気を与えてくれるでしょう。教会は、十字架上のイエズスを、十字架につけられたイエズスを、私たちのために、私たちへの愛のために十字架上で死にゆくイエズスを眺めることだと言っています。イエズスは私たちをひどく堕落させることがおできになります。イエズスは、非常に恩知らずにもご自分を攻撃した、ご自分の被造物を無限に越えた天主であられます。イエズスは何をなさるのでしょうか? 物事をそのままにしておく代わりに、彼らを回復させるためお出でになります。イエズスは言葉では言い表せないへりくだりの内に人となられました、ご受難において、イエズスはご自身の上に私たちの罪をお取り上げになり、それらを背負い、私たちの代わりに負債を支払われました。イエズスは私たちの罪によってこうむるべき天罰を、ご自身の上にお引き受けになります。

 これがイエズスが私たちに対してお持ちになる愛です。イエズスが私たちを支えたい、助けたいというこの事実に関してどんな疑いを持ち得ましょうか? 私たちの思いを奮い立たせましょう。私たちの信仰を明言しましょう。そしてイエズスがお隠れになるとしても、彼が試練を増すとしても、どちらでもかまいません。イエズスはすべてのものの絶対的なあるじだからです。イエズスは、最高の時代におけると同様に、教会の現在の状況の中でも私たちすべてを救うことがおできになります。この神秘は今のところ続いています。親愛なる兄弟の皆さん、この力、この神聖さ、聖化の力はいまだ、私たちが眼にする今日の教会に宿っています。私たちに信仰があるなら、それはこの教会の中にあります。私たちが洗礼とそれに続く秘跡の最後に至るまで受け取るなら、それはこの教会の中で、教会を通してです。一つの夢想ではないこの教会、現実にあり、私たちの前に存在し、私たちがローマ・カトリック教会と呼ぶもの、教皇とともにある、司教たちとともにある教会です。彼らはまた弱さの時期を持ち得ます──私は「弱さがある」と言うところでした──どちらでもかまいません。つまり、善き主はご自分の教会が堕落することをお許しになりません。ですが、自分たちのことで心を煩わせず「善き主が私たちを助けて下さるので、すべてはうまくいく!」と、言うも言わないも私たち次第です。間違いなく私たち次第です!

 おわかりでしょう、これが議論において私たちとローマとの間にある問題です。私たちは彼らにこう告げています。すなわち、問題が存在し、この問題は明白に公会議とその後遺症から来ているのだと。すると彼らは答えます。「それはあり得ない。いや、何も問題はない。いかなる問題も存在し得ない。なぜなら教会は聖霊のおん助けに恵まれているからだ。従って教会は悪を行うことができない。それはあり得ない。ゆえに公会議は必然的に良いものであるはずだ。だからあなたが言っていることは根拠がない。あちこちでいくつかの乱用があるが大したことではない。新しいミサは教会によって作られた。教会は支えられている。新ミサは必然的に良いものである。あなたにはそれが悪いものだと言う権利はない」これが私たちが直面させられていることです。私たちはこう返答します。「私たちは最後のひとかけらに至るまで信仰を受け入れます。教会における、その特権における、聖霊のおん助けの内にある信仰をも受け入れます。しかしながら、私たちは現実を受け入れるということ、これもまたきわめて真実です。私たちは現実を否定することから遠ざかります。この二つの間には矛盾がないというとをよく知っています。もちろん、いつの日か説き明かされるでしょう。今日何もないにしてもです」

 これは十字架の神秘です。イエズスが十字架上におられる時、信仰は私たちにイエズスが天主であり、あらゆる権能をお持ちであり、永遠にましまし、死を克服したお方であるということを告白するよう義務づけます。イエズスは死ぬことがおできになりません。苦しむことがおできになりません。天主は無限に完全なお方です。天主にとって苦しむことは不可能です。そして十字架上のイエズスは天主です。信仰はこのことを私たちに教えています。私たちはそれを完全に、そのことを少しも縮小することなしに受け入れなければなりません。ですが、同時に、この同じイエズスは苦しまれ、死ぬことさえなさったのだと人間的経験が私たちに教えています。それが矛盾に思われたとしても、十字架のみ足元で、真理のうちに立つ人々だけがこの二つのことを守り続けるのです。

 この同じ問題を、私たちは教会の歴史を通して理解します。非常に大多数の人々は、人間的知識が教えることにしがみつき、そして結論づけるでしょう。「だからイエズスは天主ではない。イエズスは本当に死んだ。死んで埋葬された。それで終わりだ」これは教会の敵どもが、無神論者と異端者が、教会内に潜む近代主義者が取った路線です。そして皆さんに、彼らは信仰を持っていないのだが持っているかのように思わせるのです。彼らは現実の、歴史上のキリスト、キリストは死んで復活しなかったと彼らが言うところの現実のキリストと、キリストの目的のため教会が信じるように私たちに義務づけ、復活をでっち上げたのだという、いわゆる「信仰のキリスト」との間に巧妙に区別をつけるでしょう。これは完全な偽りです。正当ではありません。イエズスはまことに復活なさいました。また、それとは逆に、他の異端がこう言って主張していることを考えてみて下さい。「まあそうですね、イエズスは天主です。ですから、あの死は、あの苦しみの数々は単なる見かけ上のことに過ぎません。イエズスは実際には死んでいなかったのですよ」この誤謬もまた起こっていますが、それほど広まってはいません。

 今日では、教会に関して同じ問題があります。真理に留まるため、これらの与えられた事実の二組を維持しなければなりません。つまり、信仰の事実と、また理性によって記憶に留められた事実です。この公会議は、公会議自身と世俗とを調和させようとしました。それは教会内に世俗を持ち込み、そして今、私たちは災難を抱えています。公会議を基礎に作られたこれらすべての改革は、この目的のため権威者たちによって作られました。今日、彼らは私たちに公会議の聖伝の継続性について話しますが、それはどこにあるのでしょう? アシジの集会にでしょうか? コーランへの接吻にでしょうか? カトリック国家の廃止の中に? その継続性とはどこにあるのか? ですから私たちはきわめて単純に[今までしてきたことを]続けます。親愛なる兄弟の皆さん。何も変えることなく、善き主がお望みになり、彼がそれをなされる瞬間まで……。

 それは、私たちが受け身のままでいなければならないということではありません。毎日、私たちには霊魂を勝ち取るというこの義務があります。解決策は善き天主から来るだろうと私たちはよく知っています。そしてそれは聖母を通して来るのだとさえ言えます。私たちはこのことを言えます。私たちの時代にはきわめて確かなものがあります。ラ・サレットの聖母、ファチマの聖母。このすばらしい、偉大なご出現によって導かれ、この苦悩に満ちた恐るべき時代の到来を告げています。ローマは反キリストの座となるだろう、ローマは信仰を失うだろうと……。これはラ・サレットで言われたことです。教会は輝きを失うだろうと。これは些末な言葉ではありません。これは今私たちが経験していることであると、真実に印象づけられる人もいます。

 私たちはパニックに陥ってはなりません。そうです、教会の現状は恐るべきことです。が、私たちはそれゆえに何にもまして聖母に避難所を求め、聖母のけがれなき御心に近寄らなければなりません。これはファチマのメッセージです。つまり、天主は世界にマリアのけがれなき御心への信心を与えたいのです。これは無駄ではありませんでした! 私たちのすべての祈りの中で、すべてのミサの中で、代価が何であれ、何も手放さないためにこの信頼の恩寵を願いましょう。そうして、善き主が私たちを守り天国へと導いてくださるでしょう。アーメン。

【説教の持ち味を生かしておくため、話し言葉のままにしてあります。】
(Source: Transcription LPL revue ─ DICI dated November 14, 2012)


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天主様に感謝します

2012年11月11日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

一昨日の金曜日の大阪でのミサ聖祭には、16名の方々が、昨日の土曜日のミサには23名の方々がミサ聖祭に与りました。天主様に感謝します!!

今日、主日の東京でのミサには27名の方々がミサ聖祭に与りました。

残念ながら私の体調が思わしくなく、予定されていた午後の公教要理や、晩課はキャンセルさせて頂きました。m(_ _)m

東京で親しむ会に参加された方々にもご無礼してしまいました。m(_ _)m

明日の朝のミサも、東京ではキャンセルしたいと思います。ご了承お願いいたします。明日のミサは、静岡の実家で捧げる予定です。

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かありますように!!


トマス小野田神父(聖ピオ十世会司祭)

聖ピオ十世会本部の公式発表(二〇一二年十月二十四日)の日本語訳をご紹介します

2012年11月07日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、
 聖ピオ十世会本部の公式発表(二〇一二年十月二十四日)の日本語訳をご紹介します。

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


原文はこちらです。
http://www.dici.org/en/news/communique-of-the-general-house-of-the-society-of-saint-pius-x-october-23-2012/



聖ピオ十世会本部の公式発表(二〇一二年十月二十四日)

 リチャード・ウィリアムソン司教は、数年にわたり、聖ピオ十世会の長上とその指導から距離を置き、合法的な長上たちに対し正当な尊敬と従順を示すことを拒否しているため、総長とその審議会の決定により、二〇一二年十月四日、聖ピオ十世会より退会を宣告された。従順を宣言する最後の機会が与えられたが、その最終日に、ウィリアムソン司教は、総長の辞職を要求する「公開書簡」の発表を発表すると予告した。

 聖ピオ十世会とその運営との共通善への配慮に基づき、この苦渋の決断が必要となった。これはルフェーブル大司教が以下のように告発したことに沿っている。「【今の危機は】権威の破壊です。もしも当局が、全会員たちに権威の行使に参与することを求めなければならないなら、どうやって権威を行使できるというのでしょうか?」(一九八七年六月二十九日、エコンにて)

* 原文はフランス語で書かれている。

二〇一二年十月二十四日、メンツィンゲンにて


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聖ピオ十世会 総長第一補佐 ニクラス・フルーガー神父へのインタビュー

2012年11月02日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 聖ピオ十世会総長第一補佐ニクラス・フルーガー神父へのインタビューの日本語訳を皆様にご紹介します。

 愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

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原文はこちら
http://www.dici.org/en/documents/interview-with-father-pfluger/


ニクラス・フルーガー神父様へのインタビュー
「私たちは振り出しに戻った」

二〇一二年十月十六日

聖ピオ十世会の現況について、聖ピオ十世会第一補佐ニクラス・フルーガー神父へのインタビュー

Kirchliche Umschau: ちょうど二、三ヵ月前、ヴァチカンは聖ピオ十世会の教会法的承認を与える寸前であるかのように思われました。今となってはあらゆる努力は無に帰したかのように思われます。教理聖省新長官ミュラー司教が、最近のいくつかのインタビューで同じように示唆しました。

ニクラス・フルーガー神父: あらゆる努力は、無駄ではありませんでした。ですが近い将来の同意はあり得ないでしょう。 信仰がまことに意味することについて私たちが同じ考えを持たない限り、いかなる同意も意味を持たないだろうというのが、私たちとローマ・クリアの両者の見方です。この共通の理解は、私たちが充分に時間をかけて書き上げた「教義上の宣言(doctrinal declaration)」において表現されるはずでした。そして二〇一二年四月、総長フェレー司教様は非公式の序文の草稿を提出しました。ですが、驚いたことに、この文書は教理聖省によって拒否されました。ですから私たちは振り出しに戻ったのです。

Kirchliche Umschau: ローマの方向変換についてどのように説明しますか?

フルーガー神父: ローマには聖ピオ十世会の教会法的正常化に強く反対するグループがあります。このような聖ピオ十世会の公式の承認は、実質的に第二ヴァチカン公会議の時代は終わりを告げ、新しい時代の幕開けが来たというしるしになるだろうからです。言うまでもなく、これは公会議支持者たちの意に沿いません。彼らにとって、聖ピオ十世会の公的承認は単に侮辱であるだけでなく、公会議の立場に疑問を投げかけ、その結果、崩壊へと導くものだからです。[承認がとりやめになったことで]公会議信奉者たちは勝利を得たかのように見えます。

Kirchliche Umschau: あなたは新たな動きがあり得るとお考えですか?

フルーガー神父: 考えているどころか──私は確信しています! いくつもの事実がそれを証明しています。世界中のあらゆる場所で、教会は、少数の例外を除いて自己破壊の過程を経験しています。ヨーロッパだけではありません。例えばラテンアメリカ諸国では、物事は少しも良くなっているように見えません。ドイツ、スイス、アメリカのような経済が比較的好調な国では、外的体制は以前として残っています。ですが、信仰の喪失は至るところで見られます。ところで、信仰がないならば教会は存在しえません。ドイツでは、司教たちは最近明確なメッセージを発しました。すなわち、教会の会員たちから維持費を徴収する権利は、年々教会に背を向けていく十二万人のカトリック信者たちよりもっと重要だというのです。私たちは教会史上例を見ない破壊への行軍を目の当たりにしています。司教たちは信仰の精神を欠いた戦法を使うので、潮は満ち、司教たちですら[信仰の溺死を]止められません。五十年前の公会議の教父の一人であるヨゼフ・ラッツインガーは、「異教的精神がしみ込んだ」と教会について語りました。公会議は部分的にそのような業を教会内に導き入れたと。一方で、この情勢の変化は、司教たちにもっと厳格な考えの枠組みをもたらし、他方では、信仰を固守する保守派の人々だけを残すだろうと確信しています。つまり、教会が常に信じ続けたように信じ、彼らのカトリック信仰を粘り強く続けることをただ単純に望む人々のことです。信仰を固く守り続ける人々とともにあるならば、私たちにはもう議論は必要ではありません。信仰における合意はすぐにその後について来るでしょう。

Kirchliche Umschau: 自己破壊の潮流が進歩主義カトリック信者たちを飲み込んでしまうだろうとあなたはほのめかしています。ですが、進歩主義者たちは物事を違った目で見ています。彼らはまさに改革にこそ、生ける教会を延命させる保証があるのだと思っています。

フルーガー神父: 私は作り話をしているのではありません。情勢と進歩主義者たちが導く場所を見ています。教会の未来の発展を保証するはずの若い信者たちは、一体どの修道会あるいは司教区に存在し、そして、死につつあるのはどちらでしょうか? 私たちは衰退と解体が、いわゆる公会議の改革が最も熱心に行われているこのような場所で最も顕著に現れていると観察できるのです。公共の場で──そして教区レベルで──進歩的やり方はもっと受け入れられているということを私は否定しません。ですが、教会を生かすのは社会的支持や人間的賞讃ではありません。教会は信仰を信じ実践する男女から、司祭、修道士、修道女になるため世俗の楽しみを放棄する用意ができている男女から、その活力を引き出します。このうち、後者の人々は進歩主義者たちの間にはまったく見られず、そのため、彼らは現在司祭職に叙階されたがりますが、もちろん独身でもなく、いかなる自己否定もないままにです。彼らは基準を下げることで、召命が自然に増えることを期待しています!

Kirchliche Umschau: あなたは聖ピオ十世会の四司教の新たな破門、あるいは会全体の破門すら予測しておられますか?

フルーガー神父: 新たな破門を歓迎するような人々は大勢いますが、現教皇様の治世においては、それはきわめてありそうもないことに思えます。どうやって彼らはそのことを正当化するのでしょうか? 「聖伝を守る異端」は存在しないからです。私たちは教皇聖座空位主義者ではありません。私たちは聖霊が教皇様と司教様たちに助力の恩恵をお与えになると完全に受け入れています。ですがローマの観点から見て、聖ピオ十世会は「不従順」の有罪宣告を受けました。一九八八年の破門がのちに撤回された時ですらそうでした。

 教会による新たな罰則をどうやって彼らは正当化するのでしょうか? 公会議を拒絶したから? 使徒信経には「我は第二ヴァチカン公会議を信じ……」という一文はどこにもありません! 今から私が述べる、印象的な、現実に起きているいくつもの事実は議論よりももっと重要であるはずです。私たちは今日、新たな若い世代の司祭たちが、ゆっくりとでも確実に古いミサを発見し、それを通して、その中に完全なカトリック信仰と正真正銘の司祭職を発見するのに気づきます。しかし、信仰に関心を持つ若いカトリック信者たちは、多くの場合、ほとんどいつも彼らの教区外でそれを発見していると、私たちは気づくのです。これらの誠実な霊魂たちは、いまだ新しいミサにあずかっているとしても、聖伝の教義と礼拝形式に非常に強い印象を受けています。彼らは聖ピオ十世会をじっと眺め、関心を持って追いかけ、私たちにコンタクトを取る方法を探し、私たちの出版物を求め、私たちとの交流を続けます。二〇〇七年の自発教令のおかげで、エクレジア・デイ傘下の修道会に対して同じ影響があり、教区司祭たちの間でもそうですが、彼らはトリエント・ミサを捧げ始めました。私たちは単に六〇〇名の司祭たちを有する修道会以上のものです。つまり、私たちの影響は、特に未来あるこういった集団の中で深く教会内に及んでいます。ローマ当局が面目を保ちたいなら、彼らは新たな破門を賢明にも避けるでしょう。それはいずれ取り消さざるを得ないからです。

Kirchliche Umschau: ということは、聖ピオ十世会の合法化の機会はいまだにあるが、肝心な点は「第二ヴァチカン公会議の承認」するか否かのようですね。

フルーガー神父: 私たちはもちろん第二ヴァチカン公会議があったということは認めています。ルフェーブル大司教様ご自身、公会議の教父でした。にも関わらず、私たちは、公会議後の改革だけでなく公会議自体の諸文書も、教会が過去に定めた重要な教義に反していると認めなければなりません。例の曖昧さと新規なことが、目下、教会内で進行中の崩壊の中心にあるのです。私たちが「公会議の誤謬」について話すことはローマにとって受け入れ難いことです。ご存知のように、私たちは、公会議があらゆるところで喜ばれ、教会が今日よりもずっと深い信仰と活力に恵まれていた時、公会議を批判してきました。

 なぜ、私たちの警告と批判が長い時間をかけて正しかったと証明された時に、私たちはいきなり回れ右をすることがあるのでしょうか? 公会議後から五十年を経て、ルフェーブル大司教様の予測がまったく大げさではなかったという悲しむべき現実があります。一九七〇年代、つかのまの熱狂と騙されやすい楽天主義が原因で、カトリック司教たちが同性愛、イスラム教の伝播、結婚の崩壊を喜んで支持するなどと誰も想像できませんでした。結婚の崩壊は不幸にも現在の風潮になっています! ヴァチカンは今、教会の崩壊に直面させられています。教会はかつては非常に美しく強固でした。ですが、今はまことの刷新も救済のめども立っていません。新カリスマ主義的集団、その現実的評価は過去十年間活気のしるしとして賞讃されましたが、代わりに警告としての役目を果たすはずです。教会内の現在の状況の原因を探る、公平で徹底的な調査をなぜ行わないのか私にはわかりません。教会はみずからを破壊しており、この問題についてのあらゆる議論に沈黙していることは問題の解決にはならないでしょう。公会議をその後に続く危機の理由として非難すべきでないと偽ることは、自分の頭を砂の中に突っ込んでいるのと同じことです。

Kirchliche Umschau: あなた方はほとんど妥協することがないと思われていますが、なぜあなた方はいまだに教理聖省と議論を続けるのですか?

フルーガー神父: 教皇様とローマは、信仰とは切っても切り離せない現実があるからです。教会の諸機関における信仰の喪失──天主のおかげで私たちが免れている信仰の喪失──は教会の危機の一つの側面に過ぎません。私たちの役割として、私たちもまた不具合、つまり私たちの教会法上の非合法性の事実を耐え忍びます。公会議の教会の状態は不完全ですし、私たちの状態も理想的ではありません。

Kirchliche Umschau: ローマとの議論を拒否する会員たちについて、一言ありますか?

フルーガー神父: はい、ですが彼らは少数です。非常に少ない人数です。長期間の分離のため、一部の会員たちは神学上、混乱に陥ってしまいました。これらの会員たちは内心で信仰を教会法に対立するものであるとしました。あたかも、教皇との一致、教皇の首位制はごくささいな教会法の問題に過ぎないというかのようにです。

 信仰から教皇の正統性を分離すること、そして教皇の正統性を単に法的問題にすぎないものとすることは、重大な危険のしるしです。つまるところ、教会をプロテスタント的視点から眺めていることになります。しかし教会は可視的な存在です。教皇制度は信仰の領域に属します。

 私たち自身、聖伝に忠実なカトリック信者たちは二通りのやり方でこの危機を耐え忍びます。種々雑多で、より高レベルではありますが、私たちはこの危機に加わります。私の考えではこうです。この危機を克服するため、積極的な役割を引き受ける責任を否定することはありません。この戦闘は、私たちの異常な教会法的身分を打開しようという望みに基づいて、私たちから始まるのです。


Kirchliche Umschau: そこで「私たちは振り出しに戻った」わけですが、なぜローマに追従しないのでしょうか?

フルーガー神父: なぜなら、完全だとは考えにくい状態のために、不完全な状態を変更できないからです。ローマとの一致は本来、切断ではなく改善になるはずです。信仰の真理のある部分を除外することは、さまざまな疑わしい進歩的な意見の批判を禁じられるのと同じく、切断に等しいことです。私たちはそのようなやり方に追従するつもりはありません。

Kirchliche Umschau: 総会は七月に開催されました。総会構成員の方々が取り上げた意見はどのようなものですか?

フルーガー神父: 私たちは、ローマとのいかなる一致の前に、満たされるべき六つの指針を制定しました。これらは大量の試金石であり、私たちが常に固持し続けているポイントを再び述べています。私たちは自らの立場をもう一度強固にしました。

Kirchliche Umschau: インターネットでは、この問題について論争がなされています。轟々たる非難が聖ピオ十世会の上層部に浴びせられ、彼らは裏切り者だと非難されています。

フルーガー神父: あなたはウィリアムソン司教様を引き合いに出していますが、長上たちの大多数は司教様を総会から除外しました。これは私たちがどれほど強く一致しているかを示しています。

Kirchliche Umschau: ですが、あなた方はコミュニケーション困難な状況を抱えています。インターネット上のいくつかの掲示板の判断によれば、事態は最悪だとのことです。

フルーガー神父: インターネットがコミュニケーションの新しい形を要求し、それを必要としているのは本当です。私たちはやむを得ず──ちょうどヴァチカンのように──今までに使用していた紙の印刷物の範囲を[インターネットの普及により]超えなければなりません。しかし、不和の種によってあっさりと欺かれる素朴な霊魂たちが確かにおり、彼らはインターネットで読むものから広範囲に渡って間違った情報を受け取ってしまいます。私たちの司祭は信者たちに、たいていは無作法なこういった議論サイトに行かないよう、信者たちが自らの心を乱すことのないよう、インターネットで見つかる噂や工作に腹を立てたりしないよう呼びかけました。私たちはこれからも、インターネットを含む有効なコミュニケーションの手段を使うつもりです。

Kirchliche Umschau: 一部のグループはフェレー司教様自身を標的にしています。

フルーガー神父: フェレー司教様は間違いなく、ご自分を疑い、批判し、裏切り者と糾弾するすべての人々がしたよりも、聖伝に忠実なカトリック信者たちのために、さらなる努力を重ねました。数年間に渡って、フェレー司教様は慎重に、巧みに、ローマとの関係を導いてきました。司教様は決して衝動的に振る舞ったことはなく、ご自分に苛立ったりすることも、忍耐を失ったこともありませんでした。今日、どんな司祭も立てることのできるトリエント・ミサがあります。つまり、一九八八年に私たちに対して激しい攻撃を浴びせた「破門」の撤回を目にしました。公会議の諸問題について議論をしてきました。そして、オーストリアの司教様がお認めになったように、私たちは討論のため、公会議を俎上にふたたび載せてみせたのです。その結果、公会議はもはや神聖不可侵なものではなくなり、その輝きは地に落ちました。このすべてのことは、第二ヴァチカン公会議五十周年の上に積み上げられた数々の讃美にも関わらず、事実として残ります。

 私たちの総長様は大変骨の折れることをやり遂げました。なぜなら、交渉において辛抱強く耐え、忠実に私たちの神学的意見を提示したからです。そういうわけで、司教様は教会の危機における物の見方の中で、ただ一つの目的を持っていると私にはわかります。すなわち、信仰を保持し、私たちの全霊を挙げて教会に仕えるということです。

Kirchliche Umschau: 一つの疑問が残ります。最後の二、三ヵ月に、インターネット中でフェレー司教様に対してしかけられた非難のキャンペーンに対して、司教様が何もなさらなかったように見えたのはなぜなのでしょうか?

フルーガー神父: 忍耐、親切、寛大さは、多くの人々の目には弱さのように映ります。が、この場合はそうではありません。インターネット中で繰り返された攻撃と嫌がらせに直面しても、私たちは自分たちの価値と原則を諦めません。教会法に従って陰謀や計略に対応します。これは一見、ぐずぐずと問題を先送りにしているようで一部の人々を苛立たせるかも知れません。ですが、私たちが自分たちの理想を裏切りたくないなら、これ以外のどんな方法もあり得ないのです。私はこのことをはっきりと申し上げたいです。つまり、人は責任を問われることなしに権威を批判することができるなどと、誰も思い違いをしてはなりません。

Kirchliche Umschau: 具体的にどういうことでしょうか?

フルーガー神父: ウィリアムソン司教様は正当な警告を受け続けています。これは聖ピオ十世会における残念な時期です。司教様が聖ピオ十世会と総長様に反対するインターネットでのキャンペーンを続けるなら、司教様の会からの追放は避けられません。その上、司教様の間違った考えや隠れた企みがあります。ウィリアムソン司教様が何年間も総長様の権威を受け入れていない、そして自分に天主から与えられた使命があると思ってきたという事実は正真正銘の悲劇です。総会の前に、司教様は司祭たちと信者たちに反逆を呼びかけました。カトリック司教として、これは非常に遺憾なことです。

Kirchliche Umschau: 聖ピオ十世会の目的はローマとの交渉に限られないのですね。あなた方が思い描く使徒職の他の分野とは何でしょうか?

フルーガー神父: ヨーロッパ諸国は信仰を失ってしまいました。この信仰の喪失が起きた一つの理由は、教会がもはや信仰を提供していない、信仰を世界にもたらしていないという事実です。近代主義聖職者たちはほとんど自分たちの信仰を恥じているように思われます。だからこそ、彼らは環境保護、富の再分配や、発展への援助のための運動をするのです。私たちは彼らが分別を取り戻すのをただ待っていることはできません。私たちは社会でもっと行動的になり、市民社会でより大きな影響を持ち、慎重さ、謙遜、愛徳でキリスト教社会を再建しなければなりません。聖主が地上におられる時に人々に訴えたようにです。つまり、恐れるな! ということです。

Kirchliche Umschau: あなた方は、直視するべき重要な課題がどこにあると思われますか?

フルーガー神父: 私たちは目下、東側諸国においてキリスト教徒の世界規模の迫害を目撃しています。私たちの職務は迫害された同胞たちに注意を向け、彼らを助けることです。今回の総会宣言ではこのことを明らかにしました。西側諸国では、家族の価値は衰退してきているため、子どもを持つ親たちはどんどん減ってきています。国家の法は、社会の構成要素である家族に対してより大きな脅迫を突きつけています。一つの大きな務めは家族への支援です。私たちは大家族に助けを与えなければなりません。彼らが社会で取り残され、無視されないようにです。しかし私たちの第一の義務は──七月の総会宣言で再び強調されたように──信仰の擁護と保持、具体的には、まことのカトリック司祭の養成です。これこそが、私たちが教会に奉仕できる最も優れた方法です。

 個人レベルで言えば、霊魂の聖化が求められています。一つの側面を挙げると、祈り、宗教教育、そして秘跡の執行です。別の側面としては、他の模範となる生活と兄弟的愛徳です。これらは手を携えて、そろって行くものです。この務めをやり遂げることで、私たちは自身の霊魂を救い、隣人の霊魂を救います。そうです、私たちは実際、天国の一致と幸福のまことの前触れがある、そのような数々の機会を知っています。物質主義、無神論は偽りの諸宗教と手を取り合い、これらすべてが次から次へと健全なカトリック生活の道に立ち塞がっています。私たちは聖ピオ十世会のための断固とした使命についてここで話しています。すなわち、善意の信者たちが困難な時代において信仰を保ち、信仰を生きるのを助けることです。私たちが天主から与えられた才能(タレント)を、地の果てまで、天主の愛の炎を広めるため使うなら、これこそが私たちの今日の、さらに最高に気高いただ一つの務めです。このことは深い活気に満ちた信仰を通してのみ可能です。

Kirchliche Umschau: 神父様、インタビューに回答いただきありがとうございました。


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