新しいミサと古いミサの間に平和的な共存を望むのはばかげています。また、カトリックのミサとルターの主の晩餐の間にも共存はありえません。何故なら、存在論的に相容れないものがあるからです。
私は、司教職にある兄弟たち、司祭たち、そして信徒たちに、聖ピオ五世の勅書「クオー・プリームム」(Quo Primum)によって荘厳に承認されたカトリック典礼への権利を熱心に守るように、また、それによって、牧者たち自身によって信用を失い、嘲笑にさらされている聖なる教会と教皇職を守るように、強く勧めます。
ほぼ2000年のあいだ聖人たちを形作ってきた形式で捧げられるミサと秘跡が奪われるなどということを受け入れる用意のない人々を、教会の外にいる者とみなすことも許されません。
教会は、マーケティング部門が、顧客の要望に応じて、古い製品をカタログから取り消し、代わりに新しい製品を提案することを決定する代理店ではありません。
ヴィガノ大司教「スンモールム・ポンティフィクムが変更される懸念についての考察」
2021年6月10日
【編集者注】この最新の文章で、カルロ・マリア・ヴィガノ大司教は、予想されている「スンモールム・ポンティフィクム」への攻撃について、私が最良の解説だと思うものを与えてくださっています。大司教様は、ディープ・ステートとディープ・チャーチを同じものだとするというテーマに立ち戻り、この攻撃とパンデミックで行われたことの類似性を示しています。そして、そのすべての背後にいる「操る者のかしら」(master manipulator)、教皇フランシスコを指摘しています。
最も興味深いのは、大司教様が、革新主義者が正しくてベネディクト十六世が間違っていた、と指摘しておられることです。つまり、カトリックの儀式と新しい儀式の二つの形式のミサは共存できません。両者は相反しているのです。「ですから、典礼表現の多元性という名前の下で、二つの相反する形式のカトリック礼拝を一緒にすることが可能であると信じる者は、間違っているのです。典礼の表現の多元性とは、公会議のメンタリティーの産物であり、それ以上でも以下でもありません。また『連続性の解釈法』の産物でもあります。」
主な攻撃対象は「エクレジア・デイ」共同体であって、彼らは古い儀式の限定的な使用を保持し続けるために教理を妥協するように迫られるだろう、という大司教様の予測に、私は同意します。このような致命的な妥協を受け入れない剛毅の徳が、その司祭たちに与えられますように。―ブライアン・マッコール(カトリック・ファミリー・ニュース編集長)
自発教令「スンモールム・ポンティフィクム」の修正の懸念についての考察
5月30日にベネチアで開催されたモンシニョール・アントニオ・リヴィ追悼に捧げられた哲学シンポジウムの機会に、私は邪悪な者【悪魔】の欺瞞の仕業の中で歴史上常に繰り返される要素を特定しようと試みました(こちら)。
私の考察(こちら)では、パンデミックの不正に焦点を当て、違法な強制措置や天賦の自由の制限を正当化するために与えられた理由が、実際には「言い訳」(prophasis)、つまり口実であり、本当は悪い意向や犯罪計画を隠すための表向きの理由であることを示しました。アンソニー・ファウチの電子メール(こちら)が公開されたこと、また、主流のナラティブ(物語)関する今まで以上の多くの反対意見の声を検閲することは不可能であることから、私の分析は裏付けられ、私たちは「グレート・リセット」の支持者たちの露骨な敗北を期待することができます。
その講演の中で、ご記憶のことでしょうが、私は、第二バチカン公会議もある意味では教会にとっての「グレート・リセット」だったこと、また、社会に革命を起こすために計画・設計された他の歴史的出来事と同様のものであることを述べました。
この場合も、典礼改革や、エキュメニズムや、聖なる司牧者たち【司教】たちの権威を議会化させることなどを正当化するための言い訳は、善意に基づいたものではなく、欺瞞と嘘に基づいたものでした。それは、使徒継承のミサ、救いの手段としての教会の唯一性、教導権の不変性、聖職位階の権威など、疑いのない善であるものを、より高い善のために放棄していると私たちに信じさせるためという方法でした。
しかし、私たちが知っているように、この崇高な善は到来しなかった(また到来しえなかった)だけでなく、実際に公会議の真の意向は、その破壊的で転覆的な価値のすべてにおいて明らかにされました。教会は空になり、神学校は放棄され、修道院は捨て去られ、権威は邪悪な牧者らのせいで信用を失って専制政治に変質し、善き牧者たちを無力にさせました。また、このリセット、つまり壊滅的な革命の目的は、信徒や聖職者を服従させるための高貴な意向の外見を羽織っていたにもかかわらず、最初から邪悪で悪意に満ちていたことも分かっています。
2007年、ベネディクト十六世は、50年間不当に否定されてきた正当性を復活させ、由緒あるトリエント典礼に完全な市民権を与えました。彼は自発教令「スンモールム・ポンティフィクム」(Summorum Pontificum)の中で、次のように宣言しました。
「それゆえ福者ヨハネ二十三世によって発布され、決して廃止されたことのないローマ・ミサ典礼書規範版に従って、教会の典礼の特別な形式としてミサのいけにえを行うことは許される。(中略)いずれのミサ典礼書に従ってこのような典礼を行うにせよ、司祭はそのために使徒座ないし自らの裁治権者から許可を得る必要はない(こちら。日本語版はこちら)」。
実際には、この自発教令とそれに関連する実施文書の文面は決して完全には適用されず、今日、使徒の典礼でミサを捧げている「忠実なグループ」(cœtus fidelium)は、司教に許可を求めに行かなければならない状態が続いており、本質的には今でも、ヨハネ・パウロ二世の以前の自発教令「エクレジア・デイ」(Ecclesia Dei)での特別許可の命令に従うことに甘んじているのです。
聖伝の典礼が持つべき正当な名誉は、公会議後の改革による典礼と同等のレベルに置かれることで抑えられ、前者が「特別な形式」、後者が「通常の形式」と定義されています。それはあたかも、小羊の花嫁【である教会】が二つの声を持ち、一つは完全にカトリックの声であって、もう一つはあいまいでエキュメニカルな声であり、ある時は天主の御稜威に、またある時は信徒の集まりに向かって語り掛けることができるかのようです。しかし、トリエント・ミサの自由化が多くの善をもたらしたことも疑いの余地はなく、何百万人もの人々の霊性を養い、改革された典礼の不毛さの中で改心のきっかけも霊的成長のきっかけも見つけられなかった多くの霊魂を信仰に近づけました。
昨年、聖座は、革新主義者の典型的な行動として、ベネディクト十六世の自発教令の実施状況に関する情報提供を求めるアンケートを世界中の教区に送りました(こちら)。
この質問の書き方は、またしても第二の目的をさらけ出しており、ローマに送られた回答は、この自発教令を完全に破棄しないまでも、制限を押し付けるための見かけ上の正統性の根拠となるはずでした。確かに、「スンモールム・ポンティフィクム」の著者がまだ教皇座に座っていたならば、このアンケートによって、教皇は司教たちに、古い儀式でミサを行う許可を求める必要のある司祭はいないし、そうすることで司祭が任務から外されることもないことを思い出させることができたでしょう。
しかし、裁治権者に相談しようと望んだ人々の本当の意向は、霊魂の救い(salus animarum)にあるのではなく、聖なる教会の不変の信仰を断固たる明快さで表現している儀式に反する神学的な憎しみにあるように思えますし、この理由から、公会議の教会論、その典礼、そしてそれが前提としまたそれが伝えている教理とは異質のものです。トリエントの典礼よりも強力に、いわゆる第二バチカン公会議の教導職に反対するものは他にはありません。聖伝の典礼のすべての祈り、典礼学者に言わせるならば、すべてのペリコペ(pericope)【当日の聖書朗読部分】は、革新主義者たちの繊細な耳への侮辱となり、すべての儀式は彼らの目への侮辱なのです。
その儀式の神聖な源流から水を飲みたいと思うカトリック教徒がいることを単に「寛容する」としても、彼らにとってそれは敗北のように聞こえ、それが懐古趣味の高齢者やエキセントリックな美意識を持つ人々という小さなグループに限られている場合にのみ、耐えられるものです。
しかし、そのような言葉の普通の意味での「特別な形式」が、意識的にそれを選択した何千もの家族、若者、普通の人々の規範となるならば、それはつまずきの石となり、執拗に反対、制限、廃止されなければなりません。なぜなら、改革された典礼に対抗するものや、公会議の儀式の不潔さに代わるものはあってはならないからです。それはちょうど、主流派のナラティブ(物語)に対して反対の声や主張する反論ができないのと同じであり、実験的なワクチンの副作用に直面しても、ワクチンの無用さを証明することになるがゆえに、有効な治療法が採用されないのと同じです。
また、次のことも驚くことはできません。天主から来たのではない人々は、カトリックの牧者たちによって -- 権威を乱用する不忠実な牧者らではなく -- カトリック教会が治められていた時代のことを少しでも思い出すようなものすべてに不寛容なのです。信仰が完全な形で -- 世を喜ばせるために混ぜ物を入れられることなく -- 諸国に伝えられていた時代があったこと、真理に飢え渇いていた人々が、形ではこの世のものながら実体は天主的であった典礼によって養われ新たにされていた時代があったことを寛容することができないのです。
そして、昨日まで聖にして善だったことのすべてが非難され、軽蔑の対象となったのならば、その痕跡を残したままにしておくことは寛容することができず、耐え難い侮辱となるのです。なぜなら、トリエント・ミサは、モンティーニ【パウロ六世】の典礼が近づくことさえできない霊魂の琴線に触れるからです。
明らかなことですが、カトリックのミサを廃止するためにバチカンの裏で操っている人々は、何十年にもわたって行ってきた作業がこの自発教令によって損なわれているとみなしており、この自発教令を、今日、彼らが服従させている多くの霊魂たちの所有に対する脅威であり、教会という組織に対する彼らの専制的な支配力を弱めているものとみなしているのです。
私のように、信仰と霊性のかけがえのない宝を再発見した、あるいは公会議後の激しい迫害にもかかわらず天主の恩寵によって決して放棄しなかった同じ司祭たちや司教たちは、その中に自分たちの司祭職の魂と超自然的な命の栄養を見いだしたことで、それを放棄する気にはならないのです。そして、トリエント・ミサが教会にもたらしている良い点にもかかわらず、根拠のない理由でそれを禁止したり、その挙行を制限したりしようとする人々がいることは、つまずきを与えるものであると同時に不愉快なことです。
しかし、もしも私たちが改革を行う人々の立場に立って絵見るならば、これが彼らの歪曲された教会観に完全に一致していると理解します。彼らにとって教会とは、"霊魂の救いという目的のために、天主によって制定された完全な社会"ではないからです。彼らによれば、教会とは "単なる人間の社会でしかなく、そこでは権威は腐敗して自らが好むエリートに従属しており、また、漠然とした霊性へと大衆のニーズを導き、主が教会に意図された目的を否定し、良き牧者が何もしないように、彼らだけが従う官僚的な「かせ」によって強いる社会なのです。
この「袋小路」(impasse)、この法的な行き詰まりは、その権威において信徒らがキリストの声だと認めるという事をつかって、権威の濫用を信徒らに押し付けることができるという意味です。たとえその与えられた命令や、命令を決定する動機や、権威を行使する人々の、内在的な邪悪さがあまりにも明らかであることを目前にしても【信徒らは、命令が明らかな邪悪であることを信じず、邪悪な命令を受け入れるの】です。
一方、世俗の領域でも、パンデミックの間、多くの人々は、不条理で有害な規則に従いました。なぜなら、市民の健康と幸福を念頭に置くべき医師やウイルス学者、政治家から押し付けられたものだからであり、多くの人々は、犯罪的な計画の証拠に直面しても、彼らが何百万人もの人々の死や病気を直接意図することができるとは信じたくなかったからです。
これは、社会心理学者が「認知的不協和」(cognitive dissonance)と呼ぶものです。つまり、個人をして、巨大な詐欺の被害者であることを認識するよりも、したがって男らしく対応しなければならないとするよりも、不合理(irrationality)という快適な隙間に避難するように仕向けるものなのです。
ですから、古い典礼に結びついたカトリック共同体が増加し、ほとんど自発教令【スンモールム・ポンティフィクム】の文脈だけでのみ召命が開花し、それに従う人々の間では秘跡を頻繁に受け、キリスト教的生活をまじめに送ろうと一貫性が高まっているという現実を目前にして、それにもかかわらず、いったい何故、【聖伝のミサを捧げる】不可侵の権利を意地悪く踏みにじり、使徒継承のミサを妨げようとする願望があるのか、ということを自問するのはやめましょう。
むしろ、悪名高い異端者や道徳のない姦淫者らが誤謬をまき散らし嘆かわしい生き方を送っていることについて、少数派の信徒や聖職者たちが自分たちを守ってくれる保護者もいないのに、異議を述べているのに、彼らは、その異議を妨げる権力を持っているにもかかわらず、なぜ黙認し続けるのだろうかと、自問しましょう。
この点で、この【聖伝のミサに対する】嫌悪は、権威を簒奪し邪悪に濫用して、自発教令【スンモールム】に終止符を打つことによって、まさに明らかにされるしかないことを、私たちはよく理解します。プロテスタントの似非改革の時であっても、民衆に深く根付いていたいくつかの典礼の習慣には寛容がありましたが、それは短命でした。なぜなら、童貞マリアへの信心、ラテン語の讃美歌、奉挙のときに鳴らされる鐘 --- これらはもはや存在しませんが ---、ルターの信奉者たちが拒否していた信仰を表現していたため、必然的に消滅しなければならなかったからです。
また、ノブス・オルド(新しいミサ)とヴェトゥス・オルド(古いミサ)の間に平和的な共存を望むのはばかげています。また、カトリックのミサとルターの主の晩餐の間にも共存はありえません。何故なら、存在論的に相容れないものがあるからです。
さらによく考えてみると、ノブス(新しいミサ)の支持者が期待したヴェトゥス(古いミサ)の敗北は、少なくとも彼らの原則と首尾一貫しており、それはヴェトゥスによるノブスの敗北も同様に期待されるべきものであるのとちょうど同じです。ですから、典礼表現の多元性という名前の下で、二つの相反する形式のカトリック礼拝を一緒にすることが可能であると信じる人々は間違っているのです。典礼の表現の多元性とは、公会議のメンタリティーの産物であり、それ以上でも以下でもありません。典礼の表現の多元性は、また『連続性の解釈法』の産物でもあります。
この自発教令に対する作戦には、革新主義者の「手口」(modus operandi)が再び現れています。まず、聖伝の典礼に対する最も狂信的な反対者の一部が、古いミサを「分裂的」と呼んで、「スンモールム・ポンティフィクム」の廃止を、挑発として、求めます。
次に、教理省が、教区長たちにアンケート(こちら)に答えるように求めますが、その回答は実質的に事前に用意されています(アンケートへの回答内容は司教省にも知らされるので、司教の出世は聖座に報告する内容に沿って進められます)。そして、イタリア司教団のメンバーとの非公開の会合で、ベルゴリオ(教皇フランシスコ)は平然とした態度で、「善良に見えるが硬直している」(こちら)神学生や、聖伝の典礼の普及について懸念していると述べ、公会議の典礼改革は不可逆的であることを常に繰り返しているのです。
さらに、教皇は、ヴェトゥス・オルド(古いミサ)の仇敵を典礼秘跡省長官に任命し、今後の制限適用の際の味方とします。最後に、パロリン枢機卿とウエレット枢機卿が、この自発教令の規模縮小を率先して望んでいることを私たちは知るのです(こちら)。
明らかですが、このことは、「保守的な」高位聖職者たちが、通常と特別の二つの形式を共存させる現在のシステムを擁護するために急ぐようにさせます。フランシスコには、「スンモールム・ポンティフィクム」を完全に廃止するのではなく、制限する「だけの」方向に進むことで、自分が二つの相反する流れの賢明な仲裁者であることを示す機会が与えられるのです。しかし、私たちが知っているように、この自発教令を完全に廃止することは、彼の作戦の始まりとは全く異なり、まさに彼が目的としていることなのです。
最終的な結果がどうなるかにかかわらず、この予測可能な劇の「機械仕掛けの神」(deus ex machina)は、いつものようにベルゴリオです。ベルゴリオは、保守派への寛大な配慮のジェスチャーを自分の手柄にし、制限適用の責任を新しい長官であるアーサー・ローチ大司教とその支持者たちに負わせようとさえしています。
このようにして、信徒の抗議の合唱と、それに対する長官あるいは他の高位聖職者たちの異常な反応があった場合、ベルゴリオは再び進歩主義者と伝統主義者の衝突を楽しむことになります。なぜなら、二つの形式のローマ典礼の共存は教会の分裂を引き起こすから、したがって「モンティーニの平和」(pax montiniana)に戻る、すなわち全時代のミサ(聖伝のミサ)の全面的な禁止に戻るのがより賢明であると肯定するための優れた論拠を持つことになるからです。
私は、司教職にある兄弟たち、司祭たち、そして信徒たちに、聖ピオ五世の勅書「クオー・プリームム」(Quo Primum)によって荘厳に承認されたカトリック典礼への権利を熱心に守るように、また、それによって、牧者たち自身によって信用を失い、嘲笑にさらされている聖なる教会と教皇職を守るように、強く勧めます。自発教令の問題は、決して廃止されたことのない、また廃止される可能性のない儀式の正当性を再確認するものであるため、少しも交渉の余地はありません。
さらに、このような新奇なものを発表することが霊魂に与える確実な損害と、その新奇なものから悪魔とそのしもべにもたらされる確実な利益に加えて、ベルゴリオが、まだ存命中のベネディクト十六世に対して示した下品な無礼があります。ベルゴリオは、ローマ教皇が教会に対して行使する権威は代理者としてのものであり、自分が持つ権能は神秘体の唯一のかしらである主イエズス・キリストからもたらされていることを知るべきです。
使徒の権威と聖なる鍵の力を、主によって制定された目的とは反対の目的のために濫用することは、天主の御稜威に対する前代未聞の侮辱であり、教会の不名誉であり、自分がその代理者であるお方に答えなければならない罪です。そして、キリストの代理者としての称号を拒否する者は誰であれ、そうすることによって、自分の権威の正当性も失われることを知っています。
教会の最高権威が、宗教的な音色のキャンセル・カルチャーという不穏な作戦の中で、先祖たちから受け継いできた遺産を取り消してしまう(キャンセルする)ことは受け入れられません。
また、ほぼ2000年のあいだ聖人たちを形作ってきた形式で捧げられるミサと秘跡が奪われるなどということを受け入れる用意のない人々を、教会の外にいる者とみなすことも許されません。
教会は、マーケティング部門が、顧客の要望に応じて、古い製品をカタログから取り消し、代わりに新しい製品を提案することを決定する代理店ではありません。公会議に従うという名目で、司祭や信徒に典礼革命を強引に押し付け、キリスト教生活の霊魂そのものをはぎ取り、フリーメーソンのブニーニがクランマーの「共通祈祷書」からコピーした儀式に置き換えたことは、すでに痛ましいことでした。
ベネディクト十六世が自発教令で部分的に癒やしたこの濫用は、古代の典礼の自由化に大きく賛同する要素が存在する今、決して繰り返されることはあり得ません。この危機に瀕した天主の民を本当に助けたいのであれば、50年間でカルヴァン主義がやった以上の損害を与えた「改革された典礼」こそが廃止されるべきでした。
聖座が自発教令に加えようとしていると懸念されている制限が、教区司祭に影響を与えるのか、それともメンバーが古い儀式のみを捧げる団体にも影響を与えるのか、私たちには分かりません。しかし、これまでにも申し上げてきたように、私が危惧しているのは、まさに後者に対して、革新主義者たちの破壊的な行動が解き放たれるのではないかということです。革新主義者たちは、トリエント典礼の「儀式的な」面は許容できるかもしれませんが、それが意味する教理的・教会論的な構造へ固執することを絶対に受け入れません。この構造は、革新主義者が例外なく押し付けようとしている公会議の逸脱とは大きく異なります。
だからこそ、これらの【聖伝を守っている】団体は、例えば、教区司祭がすでに行わなければならないように、少なくとも時折、ノブス・オルドの挙行を義務付けるなど、何らかの形で公会議の典礼に服従することを求められるのではないかと危惧しているのです。このようにして、自発教令を利用する人は誰であれ、改革された典礼を「暗黙のうちに」(implicit)受け入れることだけでなく、新しい典礼とその教理的な「心・精神」(mens)を公的に受け入れざるを得なくなるのです。また、二つの形式の典礼を捧げる人は誰であれ、何よりもその一貫性において「事実上」(ipso facto)自らに不信感を抱き、自分の典礼の選択を単なる美学的なもの(ほとんど振り付けのようなものと言えるでしょう)としてごまかすことになります。
実際、モンティーニのミサとそれに形を与えている「心・精神」(mens)に対する批判的な判断を彼から奪うことになります。なぜなら、彼は自分がそのミサを捧げざるを得なくなるだろうと分かるからです。これは、権力を濫用する権威が自らに反対する人々を委縮させる悪意に満ちたずる賢い作戦であり、その方法は、一方では古代の典礼を認めることによって、他方ではそれ【古代の典礼を認めること】を単なる美学的問題にすぎないとし、狡猾な両典礼主義と、さらに狡猾といえる二つの相反する対照的な教理的アプローチへの固執を義務付けることによってです。
しかし、ある時には、教理、儀式、生活の間に完全な一貫性を見いだすことができる由緒ある聖なる典礼を捧げるように求められ、次の瞬間には、異端者に好意的な新しい典礼を、つまり、古い典礼が誇らしく宣言していることを卑屈に黙っている、改ざんされた新しい典礼を捧げるなどということを、どうして司祭に要求することができるのでしょうか。
ですから祈りましょう。私たちが由緒ある古い儀式を行って完全な礼拝を捧ている天主の御稜威が、聖なる牧者たちを照らすことで、改革者らがその目的を断念し、聖なる教会の善のために、そして至聖なる三位一体の栄光のために、トリエント・ミサを本当に推進するようにしてくださいますように。
ミサの保護聖人である聖大グレゴリオ、聖ピオ五世、聖ピオ十世を「筆頭に」(in primis)何世紀にもわたって私たちに受け継がれてきた形式で聖なる犠牲を捧げてきた諸聖人に、私たちがそれを忠実に守ることができるように願いましょう。彼らの天主の玉座の前での取り次ぎが、全時代のミサの保存をこい願い、そのおかげで、私たちが聖化され、徳において強められ、邪悪なる者【悪魔】の攻撃に抵抗できますように。そして、もし教会人の罪が、ダニエルが預言したような非常に厳しい罰を私たちに与えることになるならば、私たちは、牧者たちの回心のためにこの試練を捧げるよう、カタコンベに降りる準備をしましょう。
+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ
2021年6月9日
聖霊降臨後第二週の水曜日
アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
2021年6月27日は、聖ピオ十世会総長の叙階25周年でした。そのために多くの祈りの霊的花束をいただきました。心から感謝申し上げます。
日本からは、東京と大阪とから次のように集まりました。ご報告いたします。
ミサ拝領 | 310 |
聖体拝領 | 306 |
霊的聖体拝領 | 1333 |
十字架の道行 | 46 |
ロザリオ | 2621 |
犠牲 | 778 |
その他 | 932 |
今日、2021年6月29日聖ペトロと聖パウロの祝日は、ドモルネ神父と、愛する兄弟姉妹の皆様のしもべの司祭叙階日です。それぞれ、14周年、28周年です。愛する兄弟姉妹の皆様のお祈りに心から感謝いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2021年5月30日(主日)三位一体の祝日
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父メッセージ
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、今日は三位一体の祝日です。それで聖伝の聖務日課には、第一時課というものに、『聖アタナシオ信経』というものを唱えるように義務付けられています。
聖アタナシウス信経って聞いた事ありますか?これについて今日は少しお話をしたいと思っています。
聖アタナシオ信経というのは、いわば使徒信経と似たようなものですけれども、その最初の言葉にちなんで、『Quicumque信経』とも言われています。これは特に、「三位一体」と、「キリストにおける神性と人性、天主の本性と人間の本性の結合」を告白する信仰宣言です。
西方教会の伝統によると、この著者は、ニケア公会議の勝利者、カトリック信仰の擁護者、アレキサンドリア総主教、聖アタナシオ(298年頃 - 373年頃)が作ったものであるとしています。
聖アタナシオは、アリウス派に対して徹底的に戦いました。でもこのテキストは明らかに、今のフランスであるガリアで書かれて、ラテン語で書かれたものです。そして聖アタナシオが生きていた頃には、東方教会には知られていませんでした。
そこで現代の文献学者たちは、「このQuicumque信経は、聖アタナシウスのものによるのではない」と疑問を提示しています。
しかしこの事は、聖アタナシオがアリウス派の皇帝勢力から西方に追放されていたこと、「ガリアに追放されていた」という事を無視しています。聖アタナシオは数年間、ガリア、特に正確に言うとガリア・ベルギカ・プリーマ、特に今その中心地である、今のトリーアという都市にいました。またローマにも追放されていました。その事を忘れてはなりません。
しかも聖アタナシオは、ブルガリアの今のソフィアという所で行なわれた、サルディカ教会会議(343年)には、ガリアの34名の司教たちを代表して署名しています。つまりガリアとすごく密接な関係があって、友人たちがたくさんいた。司教様を友達として持っていたという事です。
そして、何度も何度も西方にガリアに亡命している間、どうしても聖アタナシオはラテン語を使わなければなりませんでしたし、またラテン語を話す友人たちに、「自分のカトリック信仰はどういうものであるか」という事を説明する為にも、ラテン語で書類を残さなければなりませんでした。
ですから、このQuicumque信経、聖アタナシオ信経というのは、特にガリアの司教様たちの為に自分が残した、カトリック信仰の要約だった、要点だった、と言う事ができます。
なぜこういう事を言う事ができるかというのは、まだもっと理由があります。
例えば、この信経の内容の痕跡が、Lerinsという所にある聖ヴィンチェンツォの『Commonitorium』(†450)という著作の中に垣間見る事ができます。5世紀のものです。
また5世紀には、このCommonitoriumの解説書があるのですけれども、その解説書の中にも、その事が言及されています。聖アウグスチヌス(†430)や、今のチュニジアにあるビザセナの司教であった、ルプセの聖フルジェンチウス(†533)の著作の中にも、聖アタナシオ信経の内容と似たようなものが載っています。すごく近い表現が載っています。
そしてかつてレランの修道者だった、そして後にアルルの司教となった聖チェザリウス(470 - 542)が542年にした説教の中には、「ここから、聖なる司教アタナシオのカトリック信仰の宣言が始まる」と言って、この聖アタナシオ信経を引用しています。これは6世紀のものです。
この信経は、このガリアからその周辺のスペイン、アフリカに広まり、そして遂にはドイツにも広まります。
特にオタンという所の聖レジェ司教(聖レオデガリオLeodegarius, 616 – 678)が、オタン公会議(670年または676年)というものを開きました。教会会議を開きましたが、そこに、「ガリアの教会の司祭と聖職者が、このアタナシオ信経を暗記しなければ、これは罰せられる」というカノン(法令)が公会議で発表されていました。
そして11世紀になると、全フランスの教会では、毎日この聖アタナシオ信経が歌われていました。そして最も古い、8世紀にまで遡る古代の写本の一つには、「その聖アタナシオ信経の最も古い写本は、トリアの修道院から見つけた」と写本を残した人が証言しています。
ドイツでは8世紀に教会に広がって、そして聖ボニファチオが主にこれを広げました。イギリスにも伝えられました。そして例えばウォースター(Worcester)司教区の被選司教、司教様に選ばれた方であるでデネベルト(Denebert)が、自分のカトリック信仰を宣言して、聖アタナシオ信経を歌った、という事も記録に残されています。
そしてドイツに話を戻しますと、ライヒェナウ(Reichenau)という所の修道院長で、その後バーゼルの司教様となったハイトン(Hayton)という司教様は、毎週主日に聖務日課の一時課で、アタナシオ信経を唱えるというように命じました。
この習慣は全ヨーロッパに広がって、そしてローマ典礼でも、「聖務日課を唱える義務がある全ての聖職者たちは、一時課に毎週主日に、御公現の後の主日、それから聖霊降臨後の主日には、一時課で、毎週このアタナシオ信経を唱えなければならない」という事が命じられました。
そしてこれは1960年まで、そのように毎週唱えられていましたが、1960年の典礼改革で、三位一体の主日祝日だけに義務は限定されるようになりました。
ですから私たちは今、1960年の改定に従って、一時課でアタナシオ信経を唱えます。
聖トマス・アクィナスも、この聖アタナシオ信経について言及しています。「アタナシオは、信仰の表現を、使徒信経の形ではなくて、『教義を教える』という形で教えたのは、その表現からも分かるけれども、しかしその全ての真理をわずかの言葉で表現していたので、教会の最高の権威、教皇の権利によって、信仰の規範として受け入れられるようにもなった」と書かれています。(『Secunda Secundæ』第一問第十項)
こうして、最初はアタナシウスによっておそらく伝えられた、ガリアに伝えられたものでしたけれども、非常に早い時期にギリシャ語にも翻訳されて、そしてロシア教会ではポロツクのシメオン(†1680年)が詩編の付録として印刷するようになって、またコンスタンティノープル総主教は、“ホロロギオン”(『時課教』と正教の方は訳すようです)、それにギリシャ語の翻訳が挿入されてもいます。後にはそれは削除されました。
では、アタナシオ信経というのは一体どのような内容であるかという事を、もしかしたらご存知ない方もいらっしゃるかもしれませんので、ご紹介したいと思います。
『アタナシオ信経』
救われることを望む者は誰であれ、全てに優先して、カトリック信仰を持つ必要がある。
この信仰を、誰でも完全に汚されずに守らなければ、疑いなく永遠に滅びるだろう。
さてカトリック信仰は次の通り。すなわち、我らは三位における唯一の天主、一性における三位を礼拝する。
位格を混同することなく、実体(substantia)を分けることなく。
聖父の位格は別であり、聖子の位格も別、聖霊の位格も別である。
しかし、聖父と聖子と聖霊との天主性は一であり、栄光は等しく、御稜威(みいつ)は共に永遠である。
聖父がまします如く、聖子もましまし、聖霊もましまし給う。
聖父は創造されず、聖子も創造されず、聖霊も創造されない。
聖父は測り知れず、聖子も測り知れず、聖霊も測り知れない。
聖父は永遠、聖子も永遠、聖霊も永遠である。
しかし、三つの永遠なるものではなく、一なる永遠なるものである。
三つの創造されないものでもなく、三つの測り知れぬものでもなく、一なる創造されぬもの、一なる測り知れぬものである。
同じく、聖父は全能、聖子も全能、聖霊も全能である。
しかし三つの全能なものではなく、一なる全能なるものである。
そのように聖父は天主、聖子は天主、聖霊は天主である。
しかし、三つの天主ではなく、唯一の天主である。
そのように聖父は主であり、聖子は主であり、聖霊は主である。
しかし、三つの主ではなく、唯一なる主である。
なぜなら、キリスト教の真理によって、それぞれの位格は天主であり主であると我らが告白するべきであるように、三つの天主、あるいは三つの主を語ることは、我らはカトリックの宗教によって禁ぜられている。
聖父は何によっても作られず、創造されず、生まれない。
聖子は聖父のみよりであり、作られず、創造されず、生まれた。
聖霊は、聖父と聖子とより、作られず、創造されず、生まれず、発出する。
従って、一なる聖父であり、三つの聖父ではない、一なる聖子であり、三つの聖子ではなく、一なる聖霊であって、三つの聖霊ではない。
この三位においては、より先もより後もなく、より大いなるものもより小さきもない。三位は全て、共に永遠であり、互いに共に等しい。
このように、すでに上に述べた如く、全てを通して、三位における一性が、かつ、一性における三位が礼拝されなければならない。
従って、救われることを望む者は、三位一体について以上のように考えるように。
しかし、永遠の救いのために必要なことは、我らの主イエズス・キリストの御托身もまた忠実に信ずることである。
従って、正しい信仰とは、我らの主イエズス・キリストは、天主の聖子であり、天主であり人間であると信じ告白することである。
主は、聖父の本質(substantia)においては、代々の時の前に生まれた天主であり、御母の本質(substantia)においては、時において生まれた人間である。
完全なる天主であり、理性的な霊魂と人間の肉とから自存する完全なる人間である。
天主性によって、聖父と等しく、人性によっては、聖父より低い。
天主にして且つ人間であるが二つではなく、キリストは一である。
天主性が肉へ変化したのではなく、天主のうちに人性が取られたことにより、一である。
本質(substantia)の混同によるのではなく、位格の一性により、全く一である。
理性的霊魂と肉体とが一つの人間であるように、天主かつ人間は一なるキリストである。
主は、我らの救いのために苦しみを受け、古聖所に降りて、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる天主の右に座し、かしこより、生ける人と死せる人とを審かんために来り給う。
主の来り給う時に、すべての人間は、自分の肉体をもってよみがえり、自分の行いについて報告するであろう。
善を行った者たちは永遠の生命に入り、悪を行った者どもは永遠の火に行く。
これがカトリックの信仰である。誰であれこれを忠実に固く信じなければ、救われることはできない。アメン。”
2021年5月30日(主日)三位一体の祝日のミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教(東京)
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆さん、今日は三位一体の祝日です。三位一体から私たちがどれほど愛されているか、という事を一緒に黙想して、感謝致しましょう。
三位一体というのは、「唯一の天主に、聖父と聖子と聖霊の三つの位格がある」という事です。
聖父は天主、聖子も天主、聖霊も天主だけれども、三つの天主ではなくて、唯一の天主。
永遠の昔から、永遠の未来まで、変わる事のない三位一体、それが私たちを創造しました。無から創りました。そしてそれはなぜ創ったかというと、私たちを愛したからです。永遠の昔から、私たちに幸せを与える為に、創造しようと思われました。
この全宇宙、美しい大自然、太陽、月、それから花々、動物たち、私たち自身も、愛によって創られました。人間は、天主の似姿とその象りに寄せて、創られました。
創造の御業は、「天主聖父が、私たちを永遠の昔から愛しておられる」という事を示しています。聖人たちは、「花を一輪見ただけでも、太陽を見ても、月を見ても、大自然を見ても、どれほど天主聖父が私たちを愛して下さっているか、という事が分かる」と言っています。
そればかりではありません。天主聖子は、私たちを極みまで愛して、人となり、贖いの業を果たして下さいました。私たちの贖いの為に、御自分の命を捧げられました。十字架に付けられた天主聖子は、どれほど私たちを愛して下さるか、兄弟として愛して下さるか、叫んでいます。「これほど愛しているよ。」
天主聖霊は、私たちに賜物として、愛として、御自分を全く与え尽くしました。それは私たちを聖とする事で、聖化する為です。ますます天主と似通った者とする為です。
今日福音ではイエズス様はこう仰いました、「私はあなたたちと共に、世の終わりまでいる。決して見放す事はない。いつも傍に寄り添っている。」
聖父と聖子と聖霊、三位一体は私たちを、心から本当に、永遠の昔から永遠に至るまで、愛し続けて下さっています。憐れみと御恵みを与え続けて下さっています。私たちは三位一体から深く愛されている事を知って下さい。
どんな辛い事があっても、どんな悲しい事があっても、どんなに嫌な事があっても、決して心配しないで下さい。三位一体は私たちを心の中から、心の奥底まで深く愛して世話をして下さっています。必要なものを全て与えて、必要なもの以上も全てを与えて、祝福して、いつも見守って下さっています。
ですから今日は特別に、この三位一体に感謝しましょう。「ありがとう。これほどまで愛して下さっていて、ありがとう。」
三位一体を讃美するには一体どうしたら良いか、教会はいつも行なっているのが、「十字架の印」です。どんな事をするにも、朝起きた時にも、夜寝る時にも、食事をする時にも、食事が終わった後にも、あるいはお仕事をする時にも、授業をする時にも、額と胸と両肩に手をやって、「聖父と聖子と聖霊の御名によりて、アーメン。」三位一体の御名によって、十字架を切ります。
また教会はいつも、「願わくは、聖父と聖子と聖霊とに栄えあらんことを。始めにありし如く、今もいつも世々に至るまで。アーメン。」というとても素晴らしいお祈りを唱えます。短いのですけれども、非常に深い意味があります。まさにこのお祈りにこそ、教会の全ての意向が入っています。
またイエズス様は洗礼を授ける時にも、「聖父と聖子と聖霊との御名によりて洗礼を授けなさい」と教えました。
三位一体は私たちにぴったりくっ付いています。私たちは洗礼を受ける事によって、三位一体の名門の王の家系の子供になりました、養子相続を受けました。ですから私たちは十字架の印を切る時にも、何も恥ずかしがらないで下さい。堂々と、ゆっくりと、聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
この十字架の印には大きな力があります。悪魔を追い払う力があります、祝別の力があります。司祭は、司教様もいつも、十字架のこの印で、聖父と聖子と聖霊とによって、祝福します。
ですから、この十字架の印をよくするようにして下さい。栄唱をよく唱えるようにして下さい。
そしてその三位一体の名前によって罪を赦されて、洗礼を受けた私たちは特に深く感謝致しましょう。そして私たちもできる限りお愛ししましょう。どうやったら良いかというと、御旨を果たす事。罪を避ける事。お祈りをする事。
マリア様が、この私たちの愛を三位一体に届けて下さいますように、お祈り致しましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
2021年5月23日(主日)聖霊降臨の大祝日のミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教(大阪)
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、今日は聖霊降臨の大祝日です。
今日この日に、最初の聖霊降臨の日では、3000名の人々が最初の洗礼を受けました。教会が、カトリック教会が初めて公に活動を開始して、この世に生まれ出たその日です。
5年前の聖霊降臨の日には、この御聖堂も最初のミサを捧げて生まれました。そして今日はこの聖霊降臨の日に、ピオさんが聖霊を受けました。新しい天主三位一体の命に生まれ変わりました。
今日このとても祝福された日において、三位一体に、特に聖霊の御恵みに感謝致しましょう。
洗礼を受けると、私たちの全ての罪が、原罪も、そして自罪も、私たちの犯した全ての罪、どのように重い罪も、どのような回数も、どのような内容であっても、きれいに赦されます。
そればかりではありません。洗礼には特別の御恵みがあって、本当ならば罪が赦されただけであるはずなのに、罪の償いも、そして罪の為に私たちがどうしても受けなければならない罰さえも、きれいにさっぱりと免除されます。あたかも、全く罪を知らずに生まれてきたばかりの幼児のように、全く何もなかったかのように、私たちは生まれ変わります。
そしてその洗礼を受ける瞬間、三位一体が、聖父と聖子と聖霊が、私たちの霊魂に住み始めます。聖霊が、洗礼を受けると聖霊が私たちに与えられます。「与えられる」というのは、「私たちの所有物になる」という事です。
そして私たちは天主から特別の愛を受けて、愛の中で生き始めます。全てにおいて主の導きが、私たちの体の中で霊魂の中で、実現していきます。
これは、新約の時代にのみ与えられた、特別の大特権でした。今日その御恵みを、兄妹と分かち合う事ができて心から感謝致します。
この洗礼の御恵み、そしてこの聖霊が私たちに与えられた事は、実はこの影に、マリア様がいらっしゃいました。マリア様がイエズス様と一緒になって、十字架の下で苦しんで、イエズス様と一緒になって、私たちを超自然の命に生まれるように計らって下さったからです。この日に、マリア様に感謝致しましょう。
マリア様は同時に、『聖霊の浄配』とも言われています。なぜかというと、イエズス様と一緒に私たちの罪を贖った共贖者のみならず、聖霊の浄配と言われているのは、なぜならばマリア様は、聖霊からの息吹を、聖霊の望みを、一つも拒んだ事がないからです。あたかも、目に見える聖霊であるかのように、聖霊に体を貸しているかのように、主の御旨を、御旨のみを果たしていたからです。
マリア様にこの御恵みを願いましょう。私たちもいつも、三位一体の住処として神殿として、主の御旨を果たして、主をますますお愛しする事ができますように。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
2021年5月22日(土)聖霊降臨の前日のミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教(大阪)
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
お知らせがあります。明日は聖霊降臨の大祝日です。ミサの前に朝9時頃から洗礼がある予定です。お祈り下さい。
6月3日木曜日は、御聖体の大祝日です。この祝日にも夕方にミサを行なう予定です。またその次の主日、6月6日は御聖体の荘厳祭ですが、できれば御聖体行列を大阪の街で行ないたいと思っております。その為にもお祈り下さい。
明日は聖霊降臨の大祝日で、今日はその前日を祝っています。その準備の為に、今この時間を利用致しましょう。準備を良くすればするほど、私たちに聖霊の御恵みが、賜物が与えられます。
今日の福音でもイエズス様は仰いました、「私は聖父に願おう。そうすれば聖父は、あなたたちに聖霊を送って下さるだろう。そしてその聖霊は、永遠にあなたたちの内に留まる」と。
特に今日の集祷文では、「聖霊の光によって、私たちが固められますように」祈りました。聖霊は特に私たちに、「主に対する愛」で、それを確固としたものとして下さいます。「私たちの主に対する愛が、揺るぎのないものになりますように。」
剛毅の賜物です。主の御旨を果たそうという、飢えと渇きです。主の御旨を重んじて、主の御旨の為にどのような犠牲も厭わない、という御恵みです。
実際2000年前に、使徒たちもこの剛毅の賜物を得て、今まで隠れていたにもかかわらず、弱々しい使徒たちが勇敢に外に出て、イエズス・キリストの十字架を説教しました。
イエズス・キリストを亡きものにしようと、十字架を亡きものにしようと、キリスト教を亡きものにしようと、2000年間この世の勢力は、何度も何度も試みました。しかしその度に、それは失敗してきました。聖霊が私たちに与えられていて、「全てが破壊された」と、「教会は廃墟となった」と思ったその瓦礫の中から、また教会は復活してきたからです。
キリスト教の大迫害の時、ローマ時代もそうでした。フランス革命の時もそうでした。日本での迫害時代もそうでした。そして現代の21世紀でもそうです。
これからどのような時代になるか心配しないでください。何も私たちは恐れずに、イエズス・キリストへの信仰と、そして愛が確固とされますように、お祈り致しましょう。
良い聖霊降臨の主日を迎える事ができますように、聖母にお祈り致しましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
2021年5月21日(金)聖十字架の随意ミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教(大阪)
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
今日は聖十字架の随意ミサを行なっています。5月3日は以前は聖十字架の発見の祝日でしたが、今では祝われていないので、今日は5月3日ではないのですが、随意ミサとして捧げています。
入祭誦は非常に美しいものです。
「私たちは、私たちの主イエズス・キリストの十字架において栄光を受けるべきである。なぜならここにこそ、私たちの救いと、命と、復活があって、私たちはこれによって解放されて、救われた。」
ここに全てが含まれています。十字架は、その受ける時には、私たちにとって辛いものです、「将来、あるいはこれでどうなってしまうのだろうか。もうお先真っ暗だ」と思われるからです。
聖イグナチオがそうでした。自分の人生が、負傷して大失敗に陥った事がありました。そのおかげで、回心しました。
私も思い出してみれば、新しいミサで、跪いて御聖体拝領をする事ができませんでした。かといって、立って手で聖体拝領する事はできなかったので、御聖体拝領をするのが拒否されました。
その時には辛かったと思いましたけれども、しかしよく考えてみれば、御恵みでした。そのおかげで、聖伝のミサを捧げる神学校に行くように決心が付きました。
十字架は、私たちにとって辛い、苦いけれども、実は祝福であって、復活と、命と、本当の平和と、本当の喜びが待っています。
ですから私たちも、この十字架の本当の価値を発見する事ができるように、今日お祈り致しましょう。十字架があったからこそ、聖霊降臨もあり得ました。もしもこれがなかったら、聖霊は私たちに降る事がありませんでした。復活もありませんでした。十字架の称讃を通して、聖霊を受ける準備を致しましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
今日は、聖ピオ十世会総長のパリャラーニ神父様の叙階25周年に、多くの霊的花束をありがとうございました。心から感謝申し上げます。
6月のイエズスの聖心の聖月はもう終わろうとしますね。
7月はイエズスの尊き御血の聖月です。7月は「イエズスの尊き御血の連祷」を毎日唱えましょう。この連祷がどのような祈りなのか知らない方、忘れている方が多くいらっしゃるかもしれません。次をご覧ください。
https://blog.goo.ne.jp/thomasonoda/e/1f8ab0cf9e9713480d1d73c15e9989f3
さて、先週の主日の報告が遅れてしまいましたが、2021年6月20日、東京のミサに来られた方は、子供達も入れて合計99人でした。大阪では28人でした。
今日、2021年6月27日、東京のミサに来られた方は、子供達も入れて合計105人でした。大阪では24人でした。名古屋では14人でした。
最近の傾向としては、11時のミサ(二回目のミサ)が比較的にすいています。
次回の名古屋でのミサは、7月25日(月の最終主日)です。
【報告】【東京】【2021年6月20日】
Dear Fathers:
Shown below are the number of attendees at the masses in Tokyo today.
The total number of attendees at the masses in Tokyo today was 99, including children.
09:00 mass
M: 23 (incl. 4 children)
F: 23 (incl. 4 children)
Total: 46 (incl. 8 children)
11:00 mass
M: 14 (incl. 1 child)
F: 10 (incl. 2 children)
Total: 24 (incl. 3 children)
12:30 mass
M: 18 (incl. 4 children)
F: 19 (incl. 6 children)
Total: 37 (incl. 10 children)
Total of 3 masses (excl. 8 people who participated in multiple masses)
M: 51 (incl. 9 children)
F: 48 (incl. 12 children)
Total: 99 (incl. 21 children)
【報告】【東京】【2021年6月27日】
Dear Fathers:
Shown below are the number of attendees at the masses in Tokyo today.
The total number of attendees at the masses in Tokyo today was 105, including children.
09:00 mass
M: 22 (incl. 2 children)
F: 21 (incl. 2 children)
Total: 43 (incl. 4 children)
11:00 mass
M: 14 (incl. 2 children)
F: 16 (incl. 4 children)
Total: 30 (incl. 6 children)
12:30 mass
M: 15 (incl. 5 children)
F: 24 (incl. 6 children)
Total: 39 (incl. 11 children)
Total of 3 masses (excl. 7 people who participated in multiple masses)
M: 48 (incl. 9 children)
F: 57 (incl. 12 children)
Total: 105 (incl. 21 children)
Talk after Mass on Sunday 20th June 2021 by Fr Demornex
ドモルネ神父のメッセージ
今日の説教では、罪についてお話ししました。ここでは、カトリック教会の近代主義的な権威者たちによって、罪の概念が、いかにして骨抜きにされてきたか、についてお話しします。
1. 罪の概念
罪とは、天主のおきてを、意識的に、そして自発的に破ることです。私たちが罪を犯すとき、私たちは天主の御意志に反して、自分の意志を通しています。ですから、私たちは天主のお怒りに触れ、その罪の軽重に従った当然の罰を受けます。もし大罪を犯したなら、当然、永遠の地獄の罰を受けます。
2. 痛悔の必要性
天主は、善なるお方です。私たちが心から自分の罪を痛悔すれば、私たちを赦してくださいます。心から自分の罪を痛悔するということは、ふたつの要素から成り立っています。ひとつめは、自分のしたことを後悔する、ということです。ふたつめは、その罪を再び犯さないことをまじめに約束し、そのための方策をとる、ということです。どんな方策をとればいいのでしょうか?罪の機会を避け、よく祈り、頻繁に秘蹟を受けることです。私たちの主イエズスご自身が、放蕩息子のたとえ話で、その模範を示してくださいました。
また、わたしたちの主イエズスは、天に昇られる直前、弟子たちにこうおっしゃいました。「そのみ名によって、イエルザレムからはじめて諸国の民に、罪のゆるしを得させるくいあらためが、のべつたえられる。」(ルカ24章47節)
3. 教会の司牧者たちの使命
教会の司牧者たちの使命は、洗者聖ヨハネの使命と似ています。それは、天主のおきてを人々に教えること、罪と罪でないものとを峻別できるよう、人々に教えること、罪人をさとすこと、罪人を天主との和解へと導くこと、罪人がその罪深い習慣を矯正するのを助けること、などです。
4. 罪の概念は、第二バチカン公会議以降、骨抜きにされている
第二バチカン公会議以降、 自由主義や近代主義がカトリック教会へ侵入してから、教会の権威者たちによって、罪の概念はひどく骨抜きにされてきました。いくつか例を挙げましょう。
1983年、ドイツで、教会参事会員のフベルト・ボウア(Hubert Bour)神父は、公の講演会の席でこのような報告をしています。「大罪がどのぐらい頻繁に犯されるかという疑問に対して、ある著名な神学者は、『おそらくパリでは一日に一回、わたしたちの教区内ではごくたまであろう』、と答えました。」
2013年には、フランシスコ教皇が、この、有名な、嘆かわしい発言をしています。「もし、ある人が同性愛者であって、主を求め、それを望んでいるなら、私ごときがそのような人を裁くことができるでしょうか?」この曖昧な発言によって、教皇は、同性愛を大変罪深いものであると認め、それを断罪することを避けたのです。
2016年には、フランシスコ教皇が、「愛のよろこび(アモーリス・レティチア)」という使徒的勧告を発布しました。そのなかで、教皇は、罪について、人々の良心を啓発するのではありません。罪人に、罪深い生活をやめるよう警告するのでもありません。そうではなく、教皇は、公の罪を犯している人たちを教会活動に迎え入れるよう、指示を出すのです。
今年3月、ベルギーのボニー司教は、公開書簡を出し、そこでこう書きました:「罪は、それを定義するのが最も難しい神学的、道徳的範疇の一つです。」この司教は、現実に、ある行為が罪であるのかないのかを定めることは、わたしたちにはできない、と言っているのです。そのため、同性愛者のカップルが罪の状態で暮らしているかどうかも、わたしたちには決められない、という訳です。ベルギーの司教協議会は、このボニー司教の書簡を承認しています。
結論
これほど多くのカトリック教徒が罪の感覚を失ってしまったことは、驚くにはあたりません。教皇自身も、司教たち自身も、司祭たち自身も、その感覚を持っていないからです。
天主に対してなされた罪の重大性を糾弾し、償いの必要性を説き、罪に繋がる危険な機会を避けるよう勧める代わりに、天主の正義を無視し、罪の結果を矮小化し、償いの必要性を忘れてしまっているのです。
教職者と信徒の双方が、広く悔悛の秘蹟をおろそかにしていることは、驚くにはあたりません。
その結果、人々は大罪を犯し、大罪の状態に留まり、そして地獄に落ちる大きな危険に瀕しているのです。
教会は、非常に大きな危機にあります。日本の教会も、そこに含まれています。
ですから、日本の全てのカトリック教徒は、自らの信仰と永福を守るために立ち上がり、カトリックの聖伝を守る私たちの活動を強力に支援していただくなくてはなりません。
罪の告白についての短い説教
ドモルネ神父
はじめに
今日は、罪の概念と、不完全性の概念についてお話しします。そして、悔悛の秘跡を有効に受けるためには、何を告白しなければならないのかを、思い起していただきたいと思います。
1.罪の概念
罪とは、私たちが天主の法を破る思い、言葉、行い、怠りのことです。天主の法は、天主の十戒と教会の六つの掟に表されています。あらゆる罪は、次の三つの要素から成り立っています。すなわち、天主の法を破ること、天主の法に反すると知りながらそれを行うこと、そして自発的にそれを行うことです。
罪には、大罪と小罪の2種類があります。大罪と小罪の違いは何でしょうか。罪は、三つの条件がそろうと大罪になります。一つ目の条件は、重大な問題で天主の法を破ることです。例えば、誤った宗教に参加する、冒涜の言葉を口にする、主日のミサを欠席する、泥酔する、妊娠中絶をする、避妊をする、不潔な罪を犯す、1万円以上の金銭を盗む、などです。二つ目の条件は、その行為が天主の法に反することを十分に認識しながら行うことです。三つ目の条件は、その行為を完全に同意して行うことです。例えば、灰の水曜日で、断食をしなければならないことを知っていても、それをしないと大罪を犯したことになります。
もし私たちが軽い問題で天主の法を破ったら、それは小罪です。例えば、少額のお金を盗んだり、冗談で嘘をついたり、少し食べ過ぎたり、誰かに対して短気になったり、仕事を少し怠ったりすることです。もし私たちが部分的に同意しただけで天主の法を破ったなら、それは小罪です。例えば、不潔な思いを抱いて、それをすぐに拒否しないことです。もし私たちが何らかの不注意で天主の法を破ったら、それは小罪です。例えば、誤って誰かを傷つけてしまうことです。
私たちは、自発的に天主の法を破っていなければ、罪を犯していません。例えば、次のようなことです。私は誰かに対して憎しみを抱きますが、この感情には全く同意していません。そのような場合、私は何の罪も犯していません。知りつつ天主の法を破らない限り、私たちは何の罪も犯しません。例えば、金曜日であることをすっかり忘れて、肉を食べることです。私は罪を犯していません。
2.不完全性の概念
さて、「罪」と「不完全性」を区別してみましょう。罪とは、天主の法を破ることです。不完全性とは、私たちが何かを、可能な限り良い方法では、しないことです。例えば、時々、私は朝のお祈りをしないことがあります。それは罪でしょうか。いいえ、それは不完全性です。天主や教会の掟には「なんじ、毎朝、祈りをすべし」というものはありません。毎朝、朝の祈りをしないことは、天主の法を破ることにはなりません。しかし、祈りをするのは、より良いことです。
別の例を挙げましょう。私は四季の斎日に断食をしませんでした。それは罪でしょうか。いいえ、それは不完全性です。現在、カトリック教徒は四季の斎日に断食しなければならない、という教会の掟はありません。四季の斎日に断食をしないことは、天主の法を破ることにはなりません。しかし、そのような断食をするのは、より良いことです。
3.なにを告白するか
悔悛の秘跡を受けようとするとき、何を告白しなければならないのでしょうか。悔悛の秘跡は、罪の赦しのためのものです。ですから、この秘跡を受けるためには、自分が今までに犯したことが確実である罪を告白しなければなりません。前回の告白以降に犯した大罪をすべて告白しなければなりません。前回の告白以降に犯した小罪をすべて告白することができます。また、すでに告白し、すでに赦されている大罪や小罪を再び告白することもできます。実際、私たちは、この罪やあの罪について申し訳ないと何度も天主に申し上げることができます。そして、天主は私たちを赦すと何度も言うことがおできになります。いずれにしても、悔悛の秘跡を受けるためには、自分が犯したことが確実である罪を告白しなければなりません。
もし私たちが、不完全性や、罪ではない行為だけを告白した場合、司祭は私たちに秘跡を与えることはできません。それはなぜでしょうか。司祭は天主の赦しを、何にでも適用できるわけではないからです。例えば、私がこんな告白をしたとします。「私は何回かロザリオを唱えませんでした。不潔な思いを抱いていましたが、すぐに拒否しました。これらが私の犯した罪の全部です」。私が今言ったことは罪ではないので、司祭は私に赦しを与えることができません。ロザリオを唱えなかったことは不完全性です。私は不潔な思いに同意していないので、罪を犯したわけではありません。
結論
告白に行くときには、赦されるべき罪があることを確認しなければなりません。では、どうすればいいのでしょうか。告白の最後に、特定の徳に反して、過去に犯した罪を挙げればよいのです。つまり、告白の最後にこう言うのです。「これらの罪、忘れたかもしれないすべての罪、私の人生のすべての罪、特に(愛徳、信仰、貞潔、従順、正義、その他なんらか[の徳]…)の徳に反する罪について、赦しと償いと清めを請い求めます」。公教会祈祷文では、こうなっています。「かくおぼえたる罪とおぼえざる罪と洗礼以来犯したる罪、とりわけ(なんらかの徳)の罪とをことごとく痛悔し、これが赦しと償いとの御恵みを請い求め奉る。」。このようにすれば、確かに、赦されるべき罪がありますから、司祭は赦しを与えることができるのです。
アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサ(トリエント・ミサ ラテン語ミサ)にご招待します。
今週末:2021年6月25日(金)26日(土)27日(主日)のミサの予定を再確定します。予定通りです。
【大阪】「聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂」 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2 EG新御堂4階 〒532-0002 (アクセス)JR「新大阪駅」の東口より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分(地図)
6月25日(金) 17:30 ロザリオ及び告解 18:00 ミサ聖祭
6月26日(土) 10:00 ロザリオ及び告解 10:30 ミサ聖祭
6月27日(日) 10:00 ロザリオ及び告解 10:30 ミサ聖祭
【東京】 「聖ピオ十世会 聖なる日本の殉教者巡回聖堂」 東京都文京区本駒込1-12-5 曙町児童会館(地図 )
6月27日(日)主日ミサが三回捧げられます。
午前8時20分頃から準備が出来次第、告解の秘蹟を受けることができます。二階です。
09:00 ミサ聖祭 歌ミサ(ライブ中継をいたします)Facebook live
11:00 ミサ聖祭 読誦ミサ
12:30 ミサ聖祭 読誦ミサ
それぞれのミサの間にも告解の秘蹟を受けることができます。二階の告解の部屋に司祭は待機しております。
【お互いに社会的距離を取ることができるように、分散してミサにあずかっていただければ幸いです。】
【名古屋】 主日のミサが捧げられます。
名古屋においては、次の場所と日時に聖伝のミサを捧げる予定です。
場所:愛知県名古屋市中村区名駅南1-3-14 石原ビル6階
聖伝の典礼を信徒の皆様に体験していただくためにも愛する兄弟姉妹の皆様を全てご招待いたします。
6月27日(日) 17:00 ロザリオ及び告解 18:00(午後6時) ミサ聖祭
Ave Maria Immaculata!
My dearest Brethren!
I want to reconfirm the Mass schedule for the weekend of June 27, 2021.
Mass schedule in OSAKA:
Fri, June 25: Holy Sacrifice of the Mass at 18:00
Sat, June 26: Holy Sacrifice of the Mass at 10:30
Sun, June 27: Holy Sacrifice of the Mass at 10:30
Mass schedule in NAGOYA:
Location : Ishihara building 6th floor, Mei-eki-Minami 1-3-14, Nakamura-ku, Nagoya.
All of you are heartily welcome!
Sun, June 27: Holy Sacrifice of the Mass at 18:00.
アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、2021年6月27日は聖霊降臨後第五主日です。
「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「聖霊降臨後第五主日の説教」の動画をご紹介いたします。
ドモルネ神父様と小野田神父による、英語、フランス語、日本語のお説教です。
この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。
天主様の祝福が豊にありますように!
トマス小野田圭志神父