カトリック大学 第1回 ミニシンポジウム開催のお知らせ
日時:2024年9月23日(月・祝)
9:20 AM - 1:00PM (開場9:00AM)
会場 :さいたま市大宮区東町2-256-8 林ビル2F (大宮駅東口徒歩10分)
「カトリック大学」とは >
日本におけるカトリック的な学問の推進のために貢献し、多くのカトリック学者、あるいはカトリックに興味を持つ学者を集め、キリシタン史、神学をはじめ、カトリック的な視点から多岐にわたる学問を究め、得られた知識を伝え広げることを目的としている。
プログラム
■ 9:30 AM-
Tobias Bartneck
(京都大学)
「西谷啓治におけるキリスト教と近代の問題」
■ 10:40 AM-
Kevin Doak
(ジョージタウン大学)
「吉満義彦と近代 の超克」
■ 11:50 AM-
Paul de Lacvivier
(國學院大學)
「島原の乱は信仰のための戦いか」
参加費は自由会費制となっています。
みなさまの温かいご支援をお願いいたします。
愛する兄弟姉妹の皆様、
今日、2024年9月4日は、九月の初水曜日(月の初めての水曜日)です。聖母の汚れなき御心と聖ヨゼフとの取り次ぎを通して、私たちの主の御聖体に対する冒瀆的な取り扱いに対する償いを捧げましょう。
また、聖ヨゼフに、東京に聖伝のミサの聖堂が与えられたことを感謝しましょう!
初水曜日ですからいつものように「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」について黙想することをご提案します。
聖ヨゼフはこの世で天主イエズス様と浄配なる聖母マリア様を最も良く知り、愛された御方であり、その隠れた徳ゆえに偉大なる御方、イエズス様とマリア様の最大の命の恩人であられました。
また、聖ヨゼフは、この世では、全てを天主の栄光のために、隠れてその生涯をささげられたが故に、天にて聖母の次に最大の栄光をあたえられていらっしゃいます。
聖伝では、水曜日は聖ヨゼフに捧げられた曜日であり、月の最初の水曜日を聖ヨゼフに捧げることで、聖ヨゼフを讃え、その御取次に信頼し、その御徳に倣って、聖ヨゼフを通して、天主イエズス様とマリア様をお愛しすることができますように。
初土曜日の「聖母の汚れ無き御心」への信心にならって、この「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」のどれかを「15分間黙想」することにいたしましょう。
聖ヨゼフの帯の信心については、下記リンクをごらんください。
聖ヨゼフの帯 cingulum Sancti Joseph
聖ヨゼフの御取次ぎにより、聖母の汚れ無き御心とイエズスの至聖なる聖心ヘの愛をますます与えてくださいますように!
聖ヨゼフの御取次ぎにより豊かな祝福がありますように!
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
聖ヨゼフの7つの苦しみと喜び
1 ああいと潔き御母マリアの浄配、栄えある聖ヨゼフよ、御身のいと清き妻を失なわんと心に思い煩いし時の苦しみはいと大いなるものなりき。
されど天使が御託身の玄義を御身に伝えられし時の喜びは、またひとしお大いなりき。この苦しみ、この喜びにより、今も臨終の時も我らの心を潔き良心の喜びと、イエズス、マリアのうちに自我を滅する尊き御身の心を示し、我らを慰め給え。
2 ああいと幸いなる保護者聖ヨゼフよ、御身は人となり給いし御言葉の潔き養父の位にあげられたれども、御身は幼きイエズスがいと貧しき中に生まれ給うを見て大いに悲しみ給いしが、
天使らのたえなる歌声を聴き、その輝ける夜の栄えを見給うや、その悲しみは天的の喜びと変じたり。御身のこの悲しみ、この喜びによりて、我らもまたこの世の歩みを終えたる後、天使らの賛美の歌声を聴き、天的光栄の輝きを受け得んことを願い奉る。
3 ああ御摂理にいと従順なしもべなる、栄えある聖ヨゼフよ、幼きイエズスが割礼にて流されたる尊き御血は御身の心を苦痛もて貫きたれども、
イエズスと命名されるや御身の心は喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らをこの世の悪徳より離れしめ、イエズスのいと尊き御名を心から唱えつつ心満たされてこの世を去るを得しめ給え。
4 ああいと忠誠なる聖ヨゼフよ、御身は救世の玄義の成就に身をもって大いなる役を果たされしが、シメオンの預言によりイエズスとマリアが受け給うべき苦難を予知せられ苦しみ給いたれど、
数限りなき人々の霊魂がこれによって救わるるとの預言によりて、天的喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らがイエズスの功徳と聖母マリアの御取次ぎにより、終わりなき栄えを得てよみがえる人々のうちに数えられる御恵みをとりなし給わんことを願い奉る。
5 ああ人となり給いし天主の御子のいとも注意深き保護者なる栄えある聖ヨゼフよ、御身はいと高きものの御子を養い給い、これに仕えるために多くの辛酸をなめられたり。わけてもそのエジプトへの逃避はいと苦しきものなりしが、
御身が常に天主御自身と共におられし喜び、またエジプト人らの諸々の偶像が地に落とされしを目の当たりに見られし時の安心はいと大いなりき。この御身の辛酸と喜びとによりて、我らが地獄的暴君より免れて、わけても危険なる機会より逃避する事を得しめ、我らの心のうちに地上的執着が落とされ、ひたすらイエズスとマリアに仕え奉りつつ日々の生活を送り、この世を幸いに終わる事を得しめ給え。
6 ああこの地上の天使なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の心を天の王に全く捧げられたり。御身がエジプトより戻られる喜びは、アルケラウスに対する憂慮にて不安の闇となりしが、
天使は再び御身にイエズスとマリアと共にナザレトにて楽しく住み給う事を約束せられたり。御身のこの苦しみ、この喜びによりて、我らの心を深い恐怖より免れしめ、潔き良心の平和を楽しみ、イエズスとマリアと共につつがなく世を送り、臨終においてはイエズスとマリアの御手に我らの霊魂を捧ぐる事を得しめ給え。
7 ああ全ての徳の鑑なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の誤りにあらずして幼きイエズスを見失い、三日の間苦しみもて捜し求められたり。
されど神殿の中に博士らに取り巻かれたるイエズスを見出されし時の喜びはいかに大いなりや。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らが大罪を犯しイエズスを失いたりせば、たゆまず彼を捜し求め、遂に再び巡り会えるよう、わけても臨終の時に彼と共にありて天国に至り、御身と共に天主の終わりなき御恵みを賛美し奉るようとりなし給わんことを心から願い奉る。
交唱 イエズスが教えをはじめたりしは三十歳ごろなり、人々、イエズスをヨゼフの子なりと思いたり。(ルカ3:23)
V 聖ヨゼフ、我らの為に祈り給え。
R キリストの御約束に我らをかなわしめ給え。
祈願 天主、御身のかしこき御摂理のうちに祝せられたヨゼフを至聖なるマリアの浄配に選び給いたれば、願わくはこの世の我らの保護者として崇め奉る彼が、我らの天のとりなし手となり給わんことを。 アーメン。
参考リンク
●サンタフェ~奇跡の階段 コラレス通り1丁目 この記事に昔の階段の様子の写真があります。
英語ではこちら。
THE SEVEN DOLOURS AND SEVEN JOYS.
i. St. Joseph, pure spouse of most holy Mary, the trouble and anguish of thy heart were great, when, being in sore perplexity, thou wast minded to put away thy stainless spouse: but this joy was inexpressible when the archangel revealed to thee the high mystery of the Incarnation.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee comfort our souls now and in their last pains with the consolation of a well-spent life, and a holy death like unto thine own, with Jesus and Mary at our side.
Pater, Ave, and Gloria.
ii. St. Joseph, Blessed Patriarch, chosen to the office of Father of the Word made Man, the pain was keen that thou didst feel when thou didst see the Infant Jesus born in abject poverty; but thy pain was changed into heavenly joy when thou didst hear the harmony of angel-choirs, and behold the glory of that night when Jesus was born.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee obtain for us, that, when the journey of our life is ended, we too may pass to that blessed land where we shall hear the angel-chants, and rejoice in the bright light of heavenly glory.
Pater, Ave, and Gloria.
iii. St. Joseph, who wast ever most obedient in executing the law of God, thy heart was pierced with pain when the Precious Blood of the Infant Saviour was shed at His Circumcision; but with the Name of Jesus new life and heavenly joy returned to thee.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, being freed in our life from every vice, we too may cheerfully die, with the sweet Name of Jesus in our hearts and on our lips.
Pater, Ave, and Gloria.
iv. St. Joseph, faithful Saint, who wast admitted to take part in the redemption of man; the prophecy of Simeon foretelling the sufferings of Jesus and Mary caused thee a pang like that of death; but at the same time his prediction of the salvation and glorious resurrection of innumerable souls filled thee with a blessed joy.
By this thy sorrow and thy joy, help us with thy prayers to be of the number of those who, by the merits of Jesus and his Virgin Mother, shall be partakers of the resurrection to glory.
Pater, Ave, and Gloria.
v. St. Joseph, watchful Guardian, friend of the Incarnate Son of God, truly thou didst greatly toil to nurture and to serve the Son of the Most High, especially in the flight thou madest with Him unto Egypt; yet didst thou rejoice to have God Himself always with thee, and to see the overthrow of the idols of Egypt.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us grace to keep far out of the reach of the enemy of our souls, by quitting all dangerous occasions, that so no idol of earthly affection may any longer occupy a place in our hearts, but that, being entirely devoted to the service of Jesus and Mary, we may live and die for them alone.
Pater, Ave, and Gloria.
vi. St. Joseph, angel on earth, who didst so wonder to see the King of heaven obedient to thy bidding, the consolation thou hadst at His return was disturbed by the fear of Archelaus, but nevertheless, being reassured by the angel, thou didst go back and dwell happily at Nazareth, in the company of Jesus and of Mary.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, having our hearts freed from idle fears, we may enjoy the peace of a tranquil conscience, dwelling safely with Jesus and Mary, and dying at last between them.
Pater, Ave, and Gloria.
vii. St. Joseph, example of all holy living, when, though without blame, thou didst lose Jesus, the Holy Child, thou didst search for Him for three long days in great sorrow, until with joy unspeakable thou didst find him, who was as thy life to thee, amidst the doctors in this Temple.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee with our whole heart so to interpose always in our behalf, that we may never lose Jesus by mortal sin; and if (which God avert) we are at any time so wretched as to do so, that we pray thee to aid us to seek Him with such ceaseless sorrow until we find Him, particularly in the hour of our death, that we may pass from this life to enjoy Him for ever in heaven, there to sing with thee His divine mercies without end.
Pater, Ave, and Gloria.
Ant. Jesus Himself was about thirty years old, being, as was supposed, the son of Joseph.
V. Pray for us, holy Joseph.
R. That we may be made worthy of the promises of Christ.
Let us pray.
O God, who in Thine ineffable providence didst vouchsafe to choose blessed Joseph to be the husband of Thy most holy Mother; grant, we beseech Thee, that we may have him for our intercessor in heaven, whom on earth we venerate as our holy protector. Who livest and reignest world without end. Amen.
愛する兄弟姉妹の皆様、
今日、2024年8月7日は、七月の初水曜日(月の初めての水曜日)です。聖母の汚れなき御心と聖ヨゼフとの取り次ぎを通して、私たちの主の御聖体に対する冒瀆的な取り扱いに対する償いを捧げましょう。
また、聖ヨゼフに、東京に聖伝のミサの聖堂が与えられたことを感謝しましょう!
初水曜日ですからいつものように「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」について黙想することをご提案します。
聖ヨゼフはこの世で天主イエズス様と浄配なる聖母マリア様を最も良く知り、愛された御方であり、その隠れた徳ゆえに偉大なる御方、イエズス様とマリア様の最大の命の恩人であられました。
また、聖ヨゼフは、この世では、全てを天主の栄光のために、隠れてその生涯をささげられたが故に、天にて聖母の次に最大の栄光をあたえられていらっしゃいます。
聖伝では、水曜日は聖ヨゼフに捧げられた曜日であり、月の最初の水曜日を聖ヨゼフに捧げることで、聖ヨゼフを讃え、その御取次に信頼し、その御徳に倣って、聖ヨゼフを通して、天主イエズス様とマリア様をお愛しすることができますように。
初土曜日の「聖母の汚れ無き御心」への信心にならって、この「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」のどれかを「15分間黙想」することにいたしましょう。
聖ヨゼフの帯の信心については、下記リンクをごらんください。
聖ヨゼフの帯 cingulum Sancti Joseph
聖ヨゼフの御取次ぎにより、聖母の汚れ無き御心とイエズスの至聖なる聖心ヘの愛をますます与えてくださいますように!
聖ヨゼフの御取次ぎにより豊かな祝福がありますように!
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
聖ヨゼフの7つの苦しみと喜び
1 ああいと潔き御母マリアの浄配、栄えある聖ヨゼフよ、御身のいと清き妻を失なわんと心に思い煩いし時の苦しみはいと大いなるものなりき。
されど天使が御託身の玄義を御身に伝えられし時の喜びは、またひとしお大いなりき。この苦しみ、この喜びにより、今も臨終の時も我らの心を潔き良心の喜びと、イエズス、マリアのうちに自我を滅する尊き御身の心を示し、我らを慰め給え。
2 ああいと幸いなる保護者聖ヨゼフよ、御身は人となり給いし御言葉の潔き養父の位にあげられたれども、御身は幼きイエズスがいと貧しき中に生まれ給うを見て大いに悲しみ給いしが、
天使らのたえなる歌声を聴き、その輝ける夜の栄えを見給うや、その悲しみは天的の喜びと変じたり。御身のこの悲しみ、この喜びによりて、我らもまたこの世の歩みを終えたる後、天使らの賛美の歌声を聴き、天的光栄の輝きを受け得んことを願い奉る。
3 ああ御摂理にいと従順なしもべなる、栄えある聖ヨゼフよ、幼きイエズスが割礼にて流されたる尊き御血は御身の心を苦痛もて貫きたれども、
イエズスと命名されるや御身の心は喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らをこの世の悪徳より離れしめ、イエズスのいと尊き御名を心から唱えつつ心満たされてこの世を去るを得しめ給え。
4 ああいと忠誠なる聖ヨゼフよ、御身は救世の玄義の成就に身をもって大いなる役を果たされしが、シメオンの預言によりイエズスとマリアが受け給うべき苦難を予知せられ苦しみ給いたれど、
数限りなき人々の霊魂がこれによって救わるるとの預言によりて、天的喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らがイエズスの功徳と聖母マリアの御取次ぎにより、終わりなき栄えを得てよみがえる人々のうちに数えられる御恵みをとりなし給わんことを願い奉る。
5 ああ人となり給いし天主の御子のいとも注意深き保護者なる栄えある聖ヨゼフよ、御身はいと高きものの御子を養い給い、これに仕えるために多くの辛酸をなめられたり。わけてもそのエジプトへの逃避はいと苦しきものなりしが、
御身が常に天主御自身と共におられし喜び、またエジプト人らの諸々の偶像が地に落とされしを目の当たりに見られし時の安心はいと大いなりき。この御身の辛酸と喜びとによりて、我らが地獄的暴君より免れて、わけても危険なる機会より逃避する事を得しめ、我らの心のうちに地上的執着が落とされ、ひたすらイエズスとマリアに仕え奉りつつ日々の生活を送り、この世を幸いに終わる事を得しめ給え。
6 ああこの地上の天使なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の心を天の王に全く捧げられたり。御身がエジプトより戻られる喜びは、アルケラウスに対する憂慮にて不安の闇となりしが、
天使は再び御身にイエズスとマリアと共にナザレトにて楽しく住み給う事を約束せられたり。御身のこの苦しみ、この喜びによりて、我らの心を深い恐怖より免れしめ、潔き良心の平和を楽しみ、イエズスとマリアと共につつがなく世を送り、臨終においてはイエズスとマリアの御手に我らの霊魂を捧ぐる事を得しめ給え。
7 ああ全ての徳の鑑なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の誤りにあらずして幼きイエズスを見失い、三日の間苦しみもて捜し求められたり。
されど神殿の中に博士らに取り巻かれたるイエズスを見出されし時の喜びはいかに大いなりや。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らが大罪を犯しイエズスを失いたりせば、たゆまず彼を捜し求め、遂に再び巡り会えるよう、わけても臨終の時に彼と共にありて天国に至り、御身と共に天主の終わりなき御恵みを賛美し奉るようとりなし給わんことを心から願い奉る。
交唱 イエズスが教えをはじめたりしは三十歳ごろなり、人々、イエズスをヨゼフの子なりと思いたり。(ルカ3:23)
V 聖ヨゼフ、我らの為に祈り給え。
R キリストの御約束に我らをかなわしめ給え。
祈願 天主、御身のかしこき御摂理のうちに祝せられたヨゼフを至聖なるマリアの浄配に選び給いたれば、願わくはこの世の我らの保護者として崇め奉る彼が、我らの天のとりなし手となり給わんことを。 アーメン。
参考リンク
●サンタフェ~奇跡の階段 コラレス通り1丁目 この記事に昔の階段の様子の写真があります。
英語ではこちら。
THE SEVEN DOLOURS AND SEVEN JOYS.
i. St. Joseph, pure spouse of most holy Mary, the trouble and anguish of thy heart were great, when, being in sore perplexity, thou wast minded to put away thy stainless spouse: but this joy was inexpressible when the archangel revealed to thee the high mystery of the Incarnation.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee comfort our souls now and in their last pains with the consolation of a well-spent life, and a holy death like unto thine own, with Jesus and Mary at our side.
Pater, Ave, and Gloria.
ii. St. Joseph, Blessed Patriarch, chosen to the office of Father of the Word made Man, the pain was keen that thou didst feel when thou didst see the Infant Jesus born in abject poverty; but thy pain was changed into heavenly joy when thou didst hear the harmony of angel-choirs, and behold the glory of that night when Jesus was born.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee obtain for us, that, when the journey of our life is ended, we too may pass to that blessed land where we shall hear the angel-chants, and rejoice in the bright light of heavenly glory.
Pater, Ave, and Gloria.
iii. St. Joseph, who wast ever most obedient in executing the law of God, thy heart was pierced with pain when the Precious Blood of the Infant Saviour was shed at His Circumcision; but with the Name of Jesus new life and heavenly joy returned to thee.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, being freed in our life from every vice, we too may cheerfully die, with the sweet Name of Jesus in our hearts and on our lips.
Pater, Ave, and Gloria.
iv. St. Joseph, faithful Saint, who wast admitted to take part in the redemption of man; the prophecy of Simeon foretelling the sufferings of Jesus and Mary caused thee a pang like that of death; but at the same time his prediction of the salvation and glorious resurrection of innumerable souls filled thee with a blessed joy.
By this thy sorrow and thy joy, help us with thy prayers to be of the number of those who, by the merits of Jesus and his Virgin Mother, shall be partakers of the resurrection to glory.
Pater, Ave, and Gloria.
v. St. Joseph, watchful Guardian, friend of the Incarnate Son of God, truly thou didst greatly toil to nurture and to serve the Son of the Most High, especially in the flight thou madest with Him unto Egypt; yet didst thou rejoice to have God Himself always with thee, and to see the overthrow of the idols of Egypt.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us grace to keep far out of the reach of the enemy of our souls, by quitting all dangerous occasions, that so no idol of earthly affection may any longer occupy a place in our hearts, but that, being entirely devoted to the service of Jesus and Mary, we may live and die for them alone.
Pater, Ave, and Gloria.
vi. St. Joseph, angel on earth, who didst so wonder to see the King of heaven obedient to thy bidding, the consolation thou hadst at His return was disturbed by the fear of Archelaus, but nevertheless, being reassured by the angel, thou didst go back and dwell happily at Nazareth, in the company of Jesus and of Mary.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, having our hearts freed from idle fears, we may enjoy the peace of a tranquil conscience, dwelling safely with Jesus and Mary, and dying at last between them.
Pater, Ave, and Gloria.
vii. St. Joseph, example of all holy living, when, though without blame, thou didst lose Jesus, the Holy Child, thou didst search for Him for three long days in great sorrow, until with joy unspeakable thou didst find him, who was as thy life to thee, amidst the doctors in this Temple.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee with our whole heart so to interpose always in our behalf, that we may never lose Jesus by mortal sin; and if (which God avert) we are at any time so wretched as to do so, that we pray thee to aid us to seek Him with such ceaseless sorrow until we find Him, particularly in the hour of our death, that we may pass from this life to enjoy Him for ever in heaven, there to sing with thee His divine mercies without end.
Pater, Ave, and Gloria.
Ant. Jesus Himself was about thirty years old, being, as was supposed, the son of Joseph.
V. Pray for us, holy Joseph.
R. That we may be made worthy of the promises of Christ.
Let us pray.
O God, who in Thine ineffable providence didst vouchsafe to choose blessed Joseph to be the husband of Thy most holy Mother; grant, we beseech Thee, that we may have him for our intercessor in heaven, whom on earth we venerate as our holy protector. Who livest and reignest world without end. Amen.
愛する兄弟姉妹の皆様、
今日、2024年7月3日は、勤労者聖ヨゼフの祝日、七月の初水曜日(月の初めての水曜日)です。聖母の汚れなき御心と聖ヨゼフとの取り次ぎを通して、私たちの主の御聖体に対する冒瀆的な取り扱いに対する償いを捧げましょう。
また、聖ヨゼフに、東京に聖伝のミサの聖堂が与えられたことを感謝しましょう!
初水曜日ですからいつものように「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」について黙想することをご提案します。
聖ヨゼフはこの世で天主イエズス様と浄配なる聖母マリア様を最も良く知り、愛された御方であり、その隠れた徳ゆえに偉大なる御方、イエズス様とマリア様の最大の命の恩人であられました。
また、聖ヨゼフは、この世では、全てを天主の栄光のために、隠れてその生涯をささげられたが故に、天にて聖母の次に最大の栄光をあたえられていらっしゃいます。
聖伝では、水曜日は聖ヨゼフに捧げられた曜日であり、月の最初の水曜日を聖ヨゼフに捧げることで、聖ヨゼフを讃え、その御取次に信頼し、その御徳に倣って、聖ヨゼフを通して、天主イエズス様とマリア様をお愛しすることができますように。
初土曜日の「聖母の汚れ無き御心」への信心にならって、この「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」のどれかを「15分間黙想」することにいたしましょう。
聖ヨゼフの帯の信心については、下記リンクをごらんください。
聖ヨゼフの帯 cingulum Sancti Joseph
聖ヨゼフの御取次ぎにより、聖母の汚れ無き御心とイエズスの至聖なる聖心ヘの愛をますます与えてくださいますように!
聖ヨゼフの御取次ぎにより豊かな祝福がありますように!
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
聖ヨゼフの7つの苦しみと喜び
1 ああいと潔き御母マリアの浄配、栄えある聖ヨゼフよ、御身のいと清き妻を失なわんと心に思い煩いし時の苦しみはいと大いなるものなりき。
されど天使が御託身の玄義を御身に伝えられし時の喜びは、またひとしお大いなりき。この苦しみ、この喜びにより、今も臨終の時も我らの心を潔き良心の喜びと、イエズス、マリアのうちに自我を滅する尊き御身の心を示し、我らを慰め給え。
2 ああいと幸いなる保護者聖ヨゼフよ、御身は人となり給いし御言葉の潔き養父の位にあげられたれども、御身は幼きイエズスがいと貧しき中に生まれ給うを見て大いに悲しみ給いしが、
天使らのたえなる歌声を聴き、その輝ける夜の栄えを見給うや、その悲しみは天的の喜びと変じたり。御身のこの悲しみ、この喜びによりて、我らもまたこの世の歩みを終えたる後、天使らの賛美の歌声を聴き、天的光栄の輝きを受け得んことを願い奉る。
3 ああ御摂理にいと従順なしもべなる、栄えある聖ヨゼフよ、幼きイエズスが割礼にて流されたる尊き御血は御身の心を苦痛もて貫きたれども、
イエズスと命名されるや御身の心は喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らをこの世の悪徳より離れしめ、イエズスのいと尊き御名を心から唱えつつ心満たされてこの世を去るを得しめ給え。
4 ああいと忠誠なる聖ヨゼフよ、御身は救世の玄義の成就に身をもって大いなる役を果たされしが、シメオンの預言によりイエズスとマリアが受け給うべき苦難を予知せられ苦しみ給いたれど、
数限りなき人々の霊魂がこれによって救わるるとの預言によりて、天的喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らがイエズスの功徳と聖母マリアの御取次ぎにより、終わりなき栄えを得てよみがえる人々のうちに数えられる御恵みをとりなし給わんことを願い奉る。
5 ああ人となり給いし天主の御子のいとも注意深き保護者なる栄えある聖ヨゼフよ、御身はいと高きものの御子を養い給い、これに仕えるために多くの辛酸をなめられたり。わけてもそのエジプトへの逃避はいと苦しきものなりしが、
御身が常に天主御自身と共におられし喜び、またエジプト人らの諸々の偶像が地に落とされしを目の当たりに見られし時の安心はいと大いなりき。この御身の辛酸と喜びとによりて、我らが地獄的暴君より免れて、わけても危険なる機会より逃避する事を得しめ、我らの心のうちに地上的執着が落とされ、ひたすらイエズスとマリアに仕え奉りつつ日々の生活を送り、この世を幸いに終わる事を得しめ給え。
6 ああこの地上の天使なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の心を天の王に全く捧げられたり。御身がエジプトより戻られる喜びは、アルケラウスに対する憂慮にて不安の闇となりしが、
天使は再び御身にイエズスとマリアと共にナザレトにて楽しく住み給う事を約束せられたり。御身のこの苦しみ、この喜びによりて、我らの心を深い恐怖より免れしめ、潔き良心の平和を楽しみ、イエズスとマリアと共につつがなく世を送り、臨終においてはイエズスとマリアの御手に我らの霊魂を捧ぐる事を得しめ給え。
7 ああ全ての徳の鑑なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の誤りにあらずして幼きイエズスを見失い、三日の間苦しみもて捜し求められたり。
されど神殿の中に博士らに取り巻かれたるイエズスを見出されし時の喜びはいかに大いなりや。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らが大罪を犯しイエズスを失いたりせば、たゆまず彼を捜し求め、遂に再び巡り会えるよう、わけても臨終の時に彼と共にありて天国に至り、御身と共に天主の終わりなき御恵みを賛美し奉るようとりなし給わんことを心から願い奉る。
交唱 イエズスが教えをはじめたりしは三十歳ごろなり、人々、イエズスをヨゼフの子なりと思いたり。(ルカ3:23)
V 聖ヨゼフ、我らの為に祈り給え。
R キリストの御約束に我らをかなわしめ給え。
祈願 天主、御身のかしこき御摂理のうちに祝せられたヨゼフを至聖なるマリアの浄配に選び給いたれば、願わくはこの世の我らの保護者として崇め奉る彼が、我らの天のとりなし手となり給わんことを。 アーメン。
参考リンク
●サンタフェ~奇跡の階段 コラレス通り1丁目 この記事に昔の階段の様子の写真があります。
英語ではこちら。
THE SEVEN DOLOURS AND SEVEN JOYS.
i. St. Joseph, pure spouse of most holy Mary, the trouble and anguish of thy heart were great, when, being in sore perplexity, thou wast minded to put away thy stainless spouse: but this joy was inexpressible when the archangel revealed to thee the high mystery of the Incarnation.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee comfort our souls now and in their last pains with the consolation of a well-spent life, and a holy death like unto thine own, with Jesus and Mary at our side.
Pater, Ave, and Gloria.
ii. St. Joseph, Blessed Patriarch, chosen to the office of Father of the Word made Man, the pain was keen that thou didst feel when thou didst see the Infant Jesus born in abject poverty; but thy pain was changed into heavenly joy when thou didst hear the harmony of angel-choirs, and behold the glory of that night when Jesus was born.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee obtain for us, that, when the journey of our life is ended, we too may pass to that blessed land where we shall hear the angel-chants, and rejoice in the bright light of heavenly glory.
Pater, Ave, and Gloria.
iii. St. Joseph, who wast ever most obedient in executing the law of God, thy heart was pierced with pain when the Precious Blood of the Infant Saviour was shed at His Circumcision; but with the Name of Jesus new life and heavenly joy returned to thee.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, being freed in our life from every vice, we too may cheerfully die, with the sweet Name of Jesus in our hearts and on our lips.
Pater, Ave, and Gloria.
iv. St. Joseph, faithful Saint, who wast admitted to take part in the redemption of man; the prophecy of Simeon foretelling the sufferings of Jesus and Mary caused thee a pang like that of death; but at the same time his prediction of the salvation and glorious resurrection of innumerable souls filled thee with a blessed joy.
By this thy sorrow and thy joy, help us with thy prayers to be of the number of those who, by the merits of Jesus and his Virgin Mother, shall be partakers of the resurrection to glory.
Pater, Ave, and Gloria.
v. St. Joseph, watchful Guardian, friend of the Incarnate Son of God, truly thou didst greatly toil to nurture and to serve the Son of the Most High, especially in the flight thou madest with Him unto Egypt; yet didst thou rejoice to have God Himself always with thee, and to see the overthrow of the idols of Egypt.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us grace to keep far out of the reach of the enemy of our souls, by quitting all dangerous occasions, that so no idol of earthly affection may any longer occupy a place in our hearts, but that, being entirely devoted to the service of Jesus and Mary, we may live and die for them alone.
Pater, Ave, and Gloria.
vi. St. Joseph, angel on earth, who didst so wonder to see the King of heaven obedient to thy bidding, the consolation thou hadst at His return was disturbed by the fear of Archelaus, but nevertheless, being reassured by the angel, thou didst go back and dwell happily at Nazareth, in the company of Jesus and of Mary.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, having our hearts freed from idle fears, we may enjoy the peace of a tranquil conscience, dwelling safely with Jesus and Mary, and dying at last between them.
Pater, Ave, and Gloria.
vii. St. Joseph, example of all holy living, when, though without blame, thou didst lose Jesus, the Holy Child, thou didst search for Him for three long days in great sorrow, until with joy unspeakable thou didst find him, who was as thy life to thee, amidst the doctors in this Temple.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee with our whole heart so to interpose always in our behalf, that we may never lose Jesus by mortal sin; and if (which God avert) we are at any time so wretched as to do so, that we pray thee to aid us to seek Him with such ceaseless sorrow until we find Him, particularly in the hour of our death, that we may pass from this life to enjoy Him for ever in heaven, there to sing with thee His divine mercies without end.
Pater, Ave, and Gloria.
Ant. Jesus Himself was about thirty years old, being, as was supposed, the son of Joseph.
V. Pray for us, holy Joseph.
R. That we may be made worthy of the promises of Christ.
Let us pray.
O God, who in Thine ineffable providence didst vouchsafe to choose blessed Joseph to be the husband of Thy most holy Mother; grant, we beseech Thee, that we may have him for our intercessor in heaven, whom on earth we venerate as our holy protector. Who livest and reignest world without end. Amen.
愛する兄弟姉妹の皆様、
今日、2024年6月5日は、勤労者聖ヨゼフの祝日、六月の初水曜日(月の初めての水曜日)です。聖母の汚れなき御心と聖ヨゼフとの取り次ぎを通して、私たちの主の御聖体に対する冒瀆的な取り扱いに対する償いを捧げましょう。また、聖ヨゼフに、東京に聖伝のミサの聖堂が与えられたことを感謝しましょう!
初水曜日ですからいつものように「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」について黙想することをご提案します。
聖ヨゼフはこの世で天主イエズス様と浄配なる聖母マリア様を最も良く知り、愛された御方であり、その隠れた徳ゆえに偉大なる御方、イエズス様とマリア様の最大の命の恩人であられました。
また、聖ヨゼフは、この世では、全てを天主の栄光のために、隠れてその生涯をささげられたが故に、天にて聖母の次に最大の栄光をあたえられていらっしゃいます。
聖伝では、水曜日は聖ヨゼフに捧げられた曜日であり、月の最初の水曜日を聖ヨゼフに捧げることで、聖ヨゼフを讃え、その御取次に信頼し、その御徳に倣って、聖ヨゼフを通して、天主イエズス様とマリア様をお愛しすることができますように。
初土曜日の「聖母の汚れ無き御心」への信心にならって、この「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」のどれかを「15分間黙想」することにいたしましょう。
聖ヨゼフの帯の信心については、下記リンクをごらんください。
聖ヨゼフの帯 cingulum Sancti Joseph
聖ヨゼフの御取次ぎにより、聖母の汚れ無き御心とイエズスの至聖なる聖心ヘの愛をますます与えてくださいますように!
聖ヨゼフの御取次ぎにより豊かな祝福がありますように!
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
聖ヨゼフの7つの苦しみと喜び
1 ああいと潔き御母マリアの浄配、栄えある聖ヨゼフよ、御身のいと清き妻を失なわんと心に思い煩いし時の苦しみはいと大いなるものなりき。
されど天使が御託身の玄義を御身に伝えられし時の喜びは、またひとしお大いなりき。この苦しみ、この喜びにより、今も臨終の時も我らの心を潔き良心の喜びと、イエズス、マリアのうちに自我を滅する尊き御身の心を示し、我らを慰め給え。
2 ああいと幸いなる保護者聖ヨゼフよ、御身は人となり給いし御言葉の潔き養父の位にあげられたれども、御身は幼きイエズスがいと貧しき中に生まれ給うを見て大いに悲しみ給いしが、
天使らのたえなる歌声を聴き、その輝ける夜の栄えを見給うや、その悲しみは天的の喜びと変じたり。御身のこの悲しみ、この喜びによりて、我らもまたこの世の歩みを終えたる後、天使らの賛美の歌声を聴き、天的光栄の輝きを受け得んことを願い奉る。
3 ああ御摂理にいと従順なしもべなる、栄えある聖ヨゼフよ、幼きイエズスが割礼にて流されたる尊き御血は御身の心を苦痛もて貫きたれども、
イエズスと命名されるや御身の心は喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らをこの世の悪徳より離れしめ、イエズスのいと尊き御名を心から唱えつつ心満たされてこの世を去るを得しめ給え。
4 ああいと忠誠なる聖ヨゼフよ、御身は救世の玄義の成就に身をもって大いなる役を果たされしが、シメオンの預言によりイエズスとマリアが受け給うべき苦難を予知せられ苦しみ給いたれど、
数限りなき人々の霊魂がこれによって救わるるとの預言によりて、天的喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らがイエズスの功徳と聖母マリアの御取次ぎにより、終わりなき栄えを得てよみがえる人々のうちに数えられる御恵みをとりなし給わんことを願い奉る。
5 ああ人となり給いし天主の御子のいとも注意深き保護者なる栄えある聖ヨゼフよ、御身はいと高きものの御子を養い給い、これに仕えるために多くの辛酸をなめられたり。わけてもそのエジプトへの逃避はいと苦しきものなりしが、
御身が常に天主御自身と共におられし喜び、またエジプト人らの諸々の偶像が地に落とされしを目の当たりに見られし時の安心はいと大いなりき。この御身の辛酸と喜びとによりて、我らが地獄的暴君より免れて、わけても危険なる機会より逃避する事を得しめ、我らの心のうちに地上的執着が落とされ、ひたすらイエズスとマリアに仕え奉りつつ日々の生活を送り、この世を幸いに終わる事を得しめ給え。
6 ああこの地上の天使なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の心を天の王に全く捧げられたり。御身がエジプトより戻られる喜びは、アルケラウスに対する憂慮にて不安の闇となりしが、
天使は再び御身にイエズスとマリアと共にナザレトにて楽しく住み給う事を約束せられたり。御身のこの苦しみ、この喜びによりて、我らの心を深い恐怖より免れしめ、潔き良心の平和を楽しみ、イエズスとマリアと共につつがなく世を送り、臨終においてはイエズスとマリアの御手に我らの霊魂を捧ぐる事を得しめ給え。
7 ああ全ての徳の鑑なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の誤りにあらずして幼きイエズスを見失い、三日の間苦しみもて捜し求められたり。
されど神殿の中に博士らに取り巻かれたるイエズスを見出されし時の喜びはいかに大いなりや。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らが大罪を犯しイエズスを失いたりせば、たゆまず彼を捜し求め、遂に再び巡り会えるよう、わけても臨終の時に彼と共にありて天国に至り、御身と共に天主の終わりなき御恵みを賛美し奉るようとりなし給わんことを心から願い奉る。
交唱 イエズスが教えをはじめたりしは三十歳ごろなり、人々、イエズスをヨゼフの子なりと思いたり。(ルカ3:23)
V 聖ヨゼフ、我らの為に祈り給え。
R キリストの御約束に我らをかなわしめ給え。
祈願 天主、御身のかしこき御摂理のうちに祝せられたヨゼフを至聖なるマリアの浄配に選び給いたれば、願わくはこの世の我らの保護者として崇め奉る彼が、我らの天のとりなし手となり給わんことを。 アーメン。
参考リンク
●サンタフェ~奇跡の階段 コラレス通り1丁目 この記事に昔の階段の様子の写真があります。
英語ではこちら。
THE SEVEN DOLOURS AND SEVEN JOYS.
i. St. Joseph, pure spouse of most holy Mary, the trouble and anguish of thy heart were great, when, being in sore perplexity, thou wast minded to put away thy stainless spouse: but this joy was inexpressible when the archangel revealed to thee the high mystery of the Incarnation.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee comfort our souls now and in their last pains with the consolation of a well-spent life, and a holy death like unto thine own, with Jesus and Mary at our side.
Pater, Ave, and Gloria.
ii. St. Joseph, Blessed Patriarch, chosen to the office of Father of the Word made Man, the pain was keen that thou didst feel when thou didst see the Infant Jesus born in abject poverty; but thy pain was changed into heavenly joy when thou didst hear the harmony of angel-choirs, and behold the glory of that night when Jesus was born.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee obtain for us, that, when the journey of our life is ended, we too may pass to that blessed land where we shall hear the angel-chants, and rejoice in the bright light of heavenly glory.
Pater, Ave, and Gloria.
iii. St. Joseph, who wast ever most obedient in executing the law of God, thy heart was pierced with pain when the Precious Blood of the Infant Saviour was shed at His Circumcision; but with the Name of Jesus new life and heavenly joy returned to thee.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, being freed in our life from every vice, we too may cheerfully die, with the sweet Name of Jesus in our hearts and on our lips.
Pater, Ave, and Gloria.
iv. St. Joseph, faithful Saint, who wast admitted to take part in the redemption of man; the prophecy of Simeon foretelling the sufferings of Jesus and Mary caused thee a pang like that of death; but at the same time his prediction of the salvation and glorious resurrection of innumerable souls filled thee with a blessed joy.
By this thy sorrow and thy joy, help us with thy prayers to be of the number of those who, by the merits of Jesus and his Virgin Mother, shall be partakers of the resurrection to glory.
Pater, Ave, and Gloria.
v. St. Joseph, watchful Guardian, friend of the Incarnate Son of God, truly thou didst greatly toil to nurture and to serve the Son of the Most High, especially in the flight thou madest with Him unto Egypt; yet didst thou rejoice to have God Himself always with thee, and to see the overthrow of the idols of Egypt.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us grace to keep far out of the reach of the enemy of our souls, by quitting all dangerous occasions, that so no idol of earthly affection may any longer occupy a place in our hearts, but that, being entirely devoted to the service of Jesus and Mary, we may live and die for them alone.
Pater, Ave, and Gloria.
vi. St. Joseph, angel on earth, who didst so wonder to see the King of heaven obedient to thy bidding, the consolation thou hadst at His return was disturbed by the fear of Archelaus, but nevertheless, being reassured by the angel, thou didst go back and dwell happily at Nazareth, in the company of Jesus and of Mary.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, having our hearts freed from idle fears, we may enjoy the peace of a tranquil conscience, dwelling safely with Jesus and Mary, and dying at last between them.
Pater, Ave, and Gloria.
vii. St. Joseph, example of all holy living, when, though without blame, thou didst lose Jesus, the Holy Child, thou didst search for Him for three long days in great sorrow, until with joy unspeakable thou didst find him, who was as thy life to thee, amidst the doctors in this Temple.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee with our whole heart so to interpose always in our behalf, that we may never lose Jesus by mortal sin; and if (which God avert) we are at any time so wretched as to do so, that we pray thee to aid us to seek Him with such ceaseless sorrow until we find Him, particularly in the hour of our death, that we may pass from this life to enjoy Him for ever in heaven, there to sing with thee His divine mercies without end.
Pater, Ave, and Gloria.
Ant. Jesus Himself was about thirty years old, being, as was supposed, the son of Joseph.
V. Pray for us, holy Joseph.
R. That we may be made worthy of the promises of Christ.
Let us pray.
O God, who in Thine ineffable providence didst vouchsafe to choose blessed Joseph to be the husband of Thy most holy Mother; grant, we beseech Thee, that we may have him for our intercessor in heaven, whom on earth we venerate as our holy protector. Who livest and reignest world without end. Amen.
アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
来る6月21日(金曜日)アメリカのバージニア州にある聖ピオ十世会の神学校で司祭叙階式があります。そこで聖ピオ十世会の最初の韓国人司祭が誕生する予定です。お祈りください!
日本にも多くの聖なる司祭・修道者の召命が与えられますように!そこで、召命を求める母親たちの祈り、「召命のための母たちの祈り」をご紹介します。これはイタリアのル(Lu)という村の母親たちが祈ったもので、これにより4000人ほどの寒村から50年の間に500名以上の召命が与えられました。
召命のための母たちの祈り
天主よ、わが子の一人を司祭にならしめ給え! 我は良きキリスト者として生き、敬虔と徳においてわが子らを育てることを望む。そは御身に聖なる司祭を捧げる恵みを賜らんがためなり。
主よ、我らを救い給え。我らは今や滅びつつあるなり。教会を根底から揺れ動かす前代未聞の嵐の中に我らはいるなり。世俗の精神は我らの家庭にまで侵入し、わが子らを惑わすなり。わが天主なる救い主よ、我らは、以前にもいや増して、多くの聖なる修道者と司祭の召命を必要とす。
わが天主よ、洗礼の恵みによりて、御身はわが子ら全てを御身の愛子となし給えり。それゆえ、我は御身に信頼し、敢えて乞い願い奉る。願わくは、わが子らのうちから、良き堅固な修道者と司祭の召命を呼び起こさしめ給え。
〔我は、イエズスの聖心に適うこの意向で、この御ミサと聖体拝領の実りを捧げ奉る。〕
わが天主よ、我については、聖寵の御助けによりて、キリスト教的母の模範となるを望む。ことにわが子らを育てるにあたり、敬虔と心の純真、精神の従順と素直な喜び、忍耐強い努力と霊魂に対する熱心、世俗の精神からの離脱において、教育せんと心を配り奉る。
ああ、全ての聖寵の仲介者なる聖マリア、教会の母よ。天主なる御子に我らのために取り次ぎ給え。アーメン。
• 毎月第一主日の御ミサで、この意向とともにご聖体を受くること。
• 御ミサの奉献のとき、あるいは御ミサの後に、母親が自己を奉献すること。
【信心について】
イタリア北部のルーという小さな村に4000人が住んでいた。その村の家族には、平均して7人から10人の子供がいた。1919年から1929年にかけて、出生数が死亡数を上回った。1881年、ルーの母親たちは、毎月第一主日に非常に具体的な目的のために聖体拝領を捧げることを決めた。その目的は彼女たちが唱えた祈りの中で完璧に表現されている:
「天主よ、わが子の一人を司祭にならしめ給え! 我は良きキリスト者として生き、敬虔と徳においてわが子らを育てることを望む。そは御身に聖なる司祭を捧げる恵みを賜らんがためなり。」
これがルーの女性たちの祈りの方法であった。祈りは短いが非常に効果的であったため、その教区では数多くの司祭召命があった。50年間で、この小さな地域には500名の司祭と修道者・修道女が集まった。50年間、ルーでは毎年初ミサという花が咲き誇ったが、近隣の村ではそのような花は一輪も出なかった。実に祝福に満ちた幸せな教区である! 母親が司祭を求める祈りには、これほどの力があるのだ。天主は、5月の花のように召命を開花させる母たちの祈りを待っておられる。
教会の危機は何よりも司祭職の危機である。あなたが聖なる教会の勝利を望んでいるのであれば、あなたの家族のうちから聖なる司祭と修道者の召命があるように毎月第一主日の聖体拝領を捧げるのが良い。
それを実現させる方法として、教会は以下のことを提案する。
• 「ルーの女性たち」の祈りを唱える(「天主よ、わが子の一人を司祭にならしめ給え![...]」)。
• 「主よ、我らを救い給え。我らは今や滅びつつあるなり[…]」の祈りを唱える。
• 御ミサの奉献の間または御ミサ後に、祭壇の元であるいは自分がいる場所で(その場の状況に合わせて)自己を奉献する。
(出典:FSSPXサイト:Porte Latine, « Seigneur, donnez-nous des prêtres ! Prières des mamans pour les vocations », URL : https://laportelatine.org/spiritualite/prieres-et-devotions/seigneur-donnez-nous-des-pretres-appel-aux-mamans-et-aux-grand-meres-en-faveur-du-sacerdoce-catholique)
アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
コロンビアの聖十字架のシスター・ベネディクタという身元不明の修道女が、2023年2月に教皇ベネディクトの幻視を受けたと主張しました。この想像力のたくましい修道女は、教皇ベネディクト十六世の死後のベネディクト十六世と出会ったと主張する内容を発表し、このメッセージは韓国語で翻訳されました。韓国の一部の人々から質問を受けたので、それについてここに調査結果を報告します。
それによると、ベネディクト十六世は死後、この女性のところにやってきて、自分自身が最後の本物の教皇であること、教皇フランシスコは教皇職の簒奪者であること、を言ったとされ、ベネディクト十六世は死ぬ前に回勅を書いたが、今、天から、この未発表の回勅のことを発表し、マリアを共贖者(コレデンプトリクス)、全ての恵みの仲介者(メディヤトリクス)と宣言し、新しい教義を提唱する、と告げたと主張しています。
この出現が明らかに虚偽である理由は次の通りです:
1/教皇ベネディクト自身が、教皇フランシスコの選出の正当性を、彼が生きている間、繰り返し肯定していたから。
2/ 教皇ベネディクトは "天から"教義を宣言することはできないから。教皇は、時間において制限を受けるキリストの代理者であり、教皇の死後は「教皇職」を失うから。ドグマは地上の教会によってのみ宣言されるものだから。
3/ すべての教会史において、死者が死後に遺言を明らかにした例はないから。その主張自体が、死者との交信という魔術の禁じられた行為に加担していることだから。
4/ 或る死んだ教皇がこの世で最後の正統な教皇であったと主張することは、その主張者が教会においてどれほど高い地位に就いているかにかかわらず、教会による処罰を受ける理由となるから。なぜなら、現在の教皇の法的に有効な選出が無効であった、あるいは存在しなかったと主張する以上、それは使徒座との分裂行為に等しいから。
5/ もしある教皇がこの世で最後の教皇であると主張する者がいれば(主イエズス・キリストの再臨の間になされた主張を除けば)、聖ペトロが使徒座において永久に後継者を持つという第一バチカン公会議の定義されたカトリックの教義を否定することで、その者は大罪を犯すことになるから。
汝、天主の聖名をみだりに呼ぶなかれ。汝、偽証するなかれ。もし誰かが、啓示を受けていないにもかかわらず、啓示を受けたふりをするならば、聖なる名前に対して最も重大な罪を犯すことになります。
そのような人は、ある天上の人に嘘の証言をさせることになるからです。これは、天主と聖人たちの尊厳に対する恐ろしい侮辱です。
天主や聖人からのものだ、と言って物語を捏造し、事実や、定義された教義や、啓示された真理の代わりに偽りを提示することは、極悪な傲慢であり、欺瞞です。
アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
聖伝によれば今日から聖霊降臨まで聖霊に対する九日間の祈り(ノベナ)を開始します。
Veni Creator Spiritus,
Mentes tuorum visita,
Imple superna gratia,
Quae tu creasti, pectora.
Qui diceris Paraclitus,
Altissimi donum Dei,
Fons vivus, ignis, caritas,
Et spiritalis unctio.
Tu septiformis munere,
Digitus Paternae dexterae,
Tu rite promissum Patris,
Sermone ditans guttura.
Accende lumen sensibus,
Infunde amorem cordibus,
Infirma nostri corporis
Virtute firmans perpeti.
Hostem repellas longius,
Pacemque dones protinus;
Ductore sic te praevio,
Vitemus omne noxium.
Per te sciamus da Patrem
Noscamus atque Filium;
Teque utrius que Spiritum
Credamus omni tempore.
Deo Patri sit gloria,
Et Filio, qui a mortuis
Surrexit, ac Paraclito
In saeculorum saecula.
Amen.
V. Emitte Spiritum tuum, et creabuntur
R. Et renovabis faciem terrae.
Oremus.
Deus, qui corda fidelium Sancti Spi ritus illustratione docuisti:
da nobis in eodem Spiritu recta sapere;
et de ejus semper consolatione gaudere.
Per Christum Dominum nostrum.
Amen.
創造主なる聖霊よ、来たり給え、
御身の信者らの心を訪れ給え、
彼らの心を御身が創造し給うた
上からの聖寵で満たし給え。
御身は慰め主、
いと高き天主のたまもの、
活ける泉、火、愛、
霊的注油と言われてまします。
御身は七つのたまものにより、
聖父の右手の指、
聖父の由緒正しき御約束、
言葉を発する舌なり。
五官に光をつけ給え、
心に愛を注ぎ給え
我らの体の弱さを
とこしえの力で強め給え。
敵を遠くに押しやり、且つ
素早く平和を与え給え。
御身はを統率者として、戦いにおいて
我らは全ての害悪を避けよう。
御身によりて我らは聖父を知り、
且つ聖子を知り、
そして聖父と聖子からの御身を知り、
常に信じる恵みを与え給え。
聖父に栄光あれかし
死によみがえられ給いし聖子に
そして慰め主なる聖霊に栄光が、
代々とこしえにあれよかし。
アメン
御身の霊を遣わし給え、さればそれらは創造されん。
▲御身は地のおもてを新たにし給う。
祈願
聖霊の光りをもって信者の心を照らし給いし天主、
同じく聖霊をもってわれらに正しきことを悟らしめ、
その御慰めによりて常に喜ぶを得しめ給え。
われらの主キリストによりて願い奉る。▲アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、
今日、2024年5月1日は、勤労者聖ヨゼフの祝日、聖母月五月の初水曜日(月の初めての水曜日)です。聖母の汚れなき御心と聖ヨゼフとの取り次ぎを通して、私たちの主の御聖体に対する冒瀆的な取り扱いに対する償いを捧げましょう。また、聖ヨゼフに、東京に聖伝のミサの聖堂が与えられたことを感謝しましょう!
初水曜日ですからいつものように「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」について黙想することをご提案します。
聖ヨゼフはこの世で天主イエズス様と浄配なる聖母マリア様を最も良く知り、愛された御方であり、その隠れた徳ゆえに偉大なる御方、イエズス様とマリア様の最大の命の恩人であられました。
また、聖ヨゼフは、この世では、全てを天主の栄光のために、隠れてその生涯をささげられたが故に、天にて聖母の次に最大の栄光をあたえられていらっしゃいます。
聖伝では、水曜日は聖ヨゼフに捧げられた曜日であり、月の最初の水曜日を聖ヨゼフに捧げることで、聖ヨゼフを讃え、その御取次に信頼し、その御徳に倣って、聖ヨゼフを通して、天主イエズス様とマリア様をお愛しすることができますように。
初土曜日の「聖母の汚れ無き御心」への信心にならって、この「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」のどれかを「15分間黙想」することにいたしましょう。
聖ヨゼフの帯の信心については、下記リンクをごらんください。
聖ヨゼフの帯 cingulum Sancti Joseph
聖ヨゼフの御取次ぎにより、聖母の汚れ無き御心とイエズスの至聖なる聖心ヘの愛をますます与えてくださいますように!
聖ヨゼフの御取次ぎにより豊かな祝福がありますように!
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
聖ヨゼフの7つの苦しみと喜び
1 ああいと潔き御母マリアの浄配、栄えある聖ヨゼフよ、御身のいと清き妻を失なわんと心に思い煩いし時の苦しみはいと大いなるものなりき。
されど天使が御託身の玄義を御身に伝えられし時の喜びは、またひとしお大いなりき。この苦しみ、この喜びにより、今も臨終の時も我らの心を潔き良心の喜びと、イエズス、マリアのうちに自我を滅する尊き御身の心を示し、我らを慰め給え。
2 ああいと幸いなる保護者聖ヨゼフよ、御身は人となり給いし御言葉の潔き養父の位にあげられたれども、御身は幼きイエズスがいと貧しき中に生まれ給うを見て大いに悲しみ給いしが、
天使らのたえなる歌声を聴き、その輝ける夜の栄えを見給うや、その悲しみは天的の喜びと変じたり。御身のこの悲しみ、この喜びによりて、我らもまたこの世の歩みを終えたる後、天使らの賛美の歌声を聴き、天的光栄の輝きを受け得んことを願い奉る。
3 ああ御摂理にいと従順なしもべなる、栄えある聖ヨゼフよ、幼きイエズスが割礼にて流されたる尊き御血は御身の心を苦痛もて貫きたれども、
イエズスと命名されるや御身の心は喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らをこの世の悪徳より離れしめ、イエズスのいと尊き御名を心から唱えつつ心満たされてこの世を去るを得しめ給え。
4 ああいと忠誠なる聖ヨゼフよ、御身は救世の玄義の成就に身をもって大いなる役を果たされしが、シメオンの預言によりイエズスとマリアが受け給うべき苦難を予知せられ苦しみ給いたれど、
数限りなき人々の霊魂がこれによって救わるるとの預言によりて、天的喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らがイエズスの功徳と聖母マリアの御取次ぎにより、終わりなき栄えを得てよみがえる人々のうちに数えられる御恵みをとりなし給わんことを願い奉る。
5 ああ人となり給いし天主の御子のいとも注意深き保護者なる栄えある聖ヨゼフよ、御身はいと高きものの御子を養い給い、これに仕えるために多くの辛酸をなめられたり。わけてもそのエジプトへの逃避はいと苦しきものなりしが、
御身が常に天主御自身と共におられし喜び、またエジプト人らの諸々の偶像が地に落とされしを目の当たりに見られし時の安心はいと大いなりき。この御身の辛酸と喜びとによりて、我らが地獄的暴君より免れて、わけても危険なる機会より逃避する事を得しめ、我らの心のうちに地上的執着が落とされ、ひたすらイエズスとマリアに仕え奉りつつ日々の生活を送り、この世を幸いに終わる事を得しめ給え。
6 ああこの地上の天使なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の心を天の王に全く捧げられたり。御身がエジプトより戻られる喜びは、アルケラウスに対する憂慮にて不安の闇となりしが、
天使は再び御身にイエズスとマリアと共にナザレトにて楽しく住み給う事を約束せられたり。御身のこの苦しみ、この喜びによりて、我らの心を深い恐怖より免れしめ、潔き良心の平和を楽しみ、イエズスとマリアと共につつがなく世を送り、臨終においてはイエズスとマリアの御手に我らの霊魂を捧ぐる事を得しめ給え。
7 ああ全ての徳の鑑なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の誤りにあらずして幼きイエズスを見失い、三日の間苦しみもて捜し求められたり。
されど神殿の中に博士らに取り巻かれたるイエズスを見出されし時の喜びはいかに大いなりや。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らが大罪を犯しイエズスを失いたりせば、たゆまず彼を捜し求め、遂に再び巡り会えるよう、わけても臨終の時に彼と共にありて天国に至り、御身と共に天主の終わりなき御恵みを賛美し奉るようとりなし給わんことを心から願い奉る。
交唱 イエズスが教えをはじめたりしは三十歳ごろなり、人々、イエズスをヨゼフの子なりと思いたり。(ルカ3:23)
V 聖ヨゼフ、我らの為に祈り給え。
R キリストの御約束に我らをかなわしめ給え。
祈願 天主、御身のかしこき御摂理のうちに祝せられたヨゼフを至聖なるマリアの浄配に選び給いたれば、願わくはこの世の我らの保護者として崇め奉る彼が、我らの天のとりなし手となり給わんことを。 アーメン。
参考リンク
●サンタフェ~奇跡の階段 コラレス通り1丁目 この記事に昔の階段の様子の写真があります。
英語ではこちら。
THE SEVEN DOLOURS AND SEVEN JOYS.
i. St. Joseph, pure spouse of most holy Mary, the trouble and anguish of thy heart were great, when, being in sore perplexity, thou wast minded to put away thy stainless spouse: but this joy was inexpressible when the archangel revealed to thee the high mystery of the Incarnation.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee comfort our souls now and in their last pains with the consolation of a well-spent life, and a holy death like unto thine own, with Jesus and Mary at our side.
Pater, Ave, and Gloria.
ii. St. Joseph, Blessed Patriarch, chosen to the office of Father of the Word made Man, the pain was keen that thou didst feel when thou didst see the Infant Jesus born in abject poverty; but thy pain was changed into heavenly joy when thou didst hear the harmony of angel-choirs, and behold the glory of that night when Jesus was born.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee obtain for us, that, when the journey of our life is ended, we too may pass to that blessed land where we shall hear the angel-chants, and rejoice in the bright light of heavenly glory.
Pater, Ave, and Gloria.
iii. St. Joseph, who wast ever most obedient in executing the law of God, thy heart was pierced with pain when the Precious Blood of the Infant Saviour was shed at His Circumcision; but with the Name of Jesus new life and heavenly joy returned to thee.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, being freed in our life from every vice, we too may cheerfully die, with the sweet Name of Jesus in our hearts and on our lips.
Pater, Ave, and Gloria.
iv. St. Joseph, faithful Saint, who wast admitted to take part in the redemption of man; the prophecy of Simeon foretelling the sufferings of Jesus and Mary caused thee a pang like that of death; but at the same time his prediction of the salvation and glorious resurrection of innumerable souls filled thee with a blessed joy.
By this thy sorrow and thy joy, help us with thy prayers to be of the number of those who, by the merits of Jesus and his Virgin Mother, shall be partakers of the resurrection to glory.
Pater, Ave, and Gloria.
v. St. Joseph, watchful Guardian, friend of the Incarnate Son of God, truly thou didst greatly toil to nurture and to serve the Son of the Most High, especially in the flight thou madest with Him unto Egypt; yet didst thou rejoice to have God Himself always with thee, and to see the overthrow of the idols of Egypt.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us grace to keep far out of the reach of the enemy of our souls, by quitting all dangerous occasions, that so no idol of earthly affection may any longer occupy a place in our hearts, but that, being entirely devoted to the service of Jesus and Mary, we may live and die for them alone.
Pater, Ave, and Gloria.
vi. St. Joseph, angel on earth, who didst so wonder to see the King of heaven obedient to thy bidding, the consolation thou hadst at His return was disturbed by the fear of Archelaus, but nevertheless, being reassured by the angel, thou didst go back and dwell happily at Nazareth, in the company of Jesus and of Mary.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, having our hearts freed from idle fears, we may enjoy the peace of a tranquil conscience, dwelling safely with Jesus and Mary, and dying at last between them.
Pater, Ave, and Gloria.
vii. St. Joseph, example of all holy living, when, though without blame, thou didst lose Jesus, the Holy Child, thou didst search for Him for three long days in great sorrow, until with joy unspeakable thou didst find him, who was as thy life to thee, amidst the doctors in this Temple.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee with our whole heart so to interpose always in our behalf, that we may never lose Jesus by mortal sin; and if (which God avert) we are at any time so wretched as to do so, that we pray thee to aid us to seek Him with such ceaseless sorrow until we find Him, particularly in the hour of our death, that we may pass from this life to enjoy Him for ever in heaven, there to sing with thee His divine mercies without end.
Pater, Ave, and Gloria.
Ant. Jesus Himself was about thirty years old, being, as was supposed, the son of Joseph.
V. Pray for us, holy Joseph.
R. That we may be made worthy of the promises of Christ.
Let us pray.
O God, who in Thine ineffable providence didst vouchsafe to choose blessed Joseph to be the husband of Thy most holy Mother; grant, we beseech Thee, that we may have him for our intercessor in heaven, whom on earth we venerate as our holy protector. Who livest and reignest world without end. Amen.
訃報:ヴィトゥス・フオンダー司教は天に召されました。
2024年4月3日(聖水曜日)に、ヴィトゥス・フオンダー司教(Bishop Vitus Huonder)は霊魂を天主に委ね永遠に旅立ちました。
フオンダー司教は、今年の3月19日に入院し、天主の御摂理に完全に御自分を委ねつつ、病の苦しみをカトリック教会のために捧げてこられました。フォンダ―司教は、聖ピオ十世会に対して、特に御自分が引退生活を送ってきたスイスにある聖ピオ十世会の聖マリア校(Institut Sancta Maria)に対して常に感謝しておられました。最後まで司教さまは祈りと御聖体に対する信心の生活を送ってこられました。
フオンダー司教は1942年4月21日生まれのスイス人で、1971年にスイスのクール(Chur)司教区で司祭叙階を受けました。2007年7月8日、ベネディクト十六世によってクール司教区の司教として任命され、2019年5月に引退するまで司教として教会のために働いておられました。
ヴィトゥス・フオンダー司教は、本人の生前からの希望により、クール司教区ではなく、エコンに埋葬される予定です。葬儀ミサは4月17日水曜日午前9時半から始まり、神学校の墓地に埋葬されます。
フォンダ司教はローマからの要請によって聖ピオ十世会を知りはじめました。YouTubeチャンネルの Certamen でのインタビューで司教はこう言っています。
「2015年1月9日付の手紙で、私は聖ピオ十世会の代表者たちと対話を始めるようにという命令を受けました。この手紙は、当時のローマ教理省長官、ゲルハルト・ミュラー枢機卿からのものでした。アイデアは、この共同体との友好的な対人関係を構築するためでした。一方、教理に関する問題も議題に上げなければなりません。第二バチカン公会議(1962-1965年)の文書に関連する問題もあれば、ここ数年のローマのいくつかの宣言に関連する問題もありました。特に典礼に関する問題、特に真正のローマの聖なるミサに関する問題は特筆すべきものでした。さらに、教会の自己理解、エキュメニズム、教会と国家の関係、宗教間対話、信教の自由がテーマです。2015年4月9日以来、この任務により、聖ピオ十世会と、総長だけでなく他の代表者たちとも定期的に接触しています。この関係や議論は、聖ピオ十世会の教会法上の承認への道を開くはずのものです。」
この接触によって、フォンダ司教は聖ピオ十世会の本当の姿を内部から知ることになります。インターネットやマスメディアからのうわさや歪曲されたイメージによる知識ではありませんでした。こうしてルフェーブル大司教の書いたものを読み、なぜルフェーブル大司教が公会議以後死ぬまでカトリック教会の教義を守ろうとしたその深い理由を知るに至りました。
「接触が進むにつれて、私は聖ピオ十世会の創立者であるマルセル・ルフェーブル大司教の伝記や著作を掘り下げて調べました。こうして私は、聖ピオ十世会の神学的な主張、懸念事項、目的について、ますます詳しく知るようになっていきました。」
司教区の教区長を引退する時、フォンダ司教は聖ピオ十世会の聖マリア校で余生を過ごす許可を求めると、エクレジア・デイ委員会はそれを許可しました。
「2019年、77歳のとき、私はクール司教区の司教としての務めを終えました。そのとき、聖ピオ十世会の団体に隠遁する機会が与えられました。このことは、エクレジア・デイ委員会によって肯定的に評価されました。同委員会はまた、私にそうするよう明確に奨励しました。これにより、私は聖ピオ十世会の内的生活と活動をもっとよく知る機会を得たのです。」
「聖ピオ十世会との接触、その歴史の研究、神学的な問いの深化を通して、私は新しい視点を手に入れました。それは、教会の過去70年、80年に対する新しい見方です。公会議当時とその後の信仰のあり方を新たに判断する、「修正撤回」(retractatio)とでも言うべきものです。なぜ教会が今のような状態になったのか、その理由がはっきりしました。2023年の今日、教会は、歴史上最も大きな危機の一つにあります。それは、宣教、典礼、他者への奉仕(diakonia)、指導力など、教会生活のすべての領域に及ぶ内的な危機です。それは、深刻な信仰の危機なのです。聖ピオ十世会の歴史的な発展と生活を掘り下げて調べる人なら誰でも、この危機の原因と根源に意識せずとも遭遇してしまいます。なぜなら、聖ピオ十世会とは、ある意味で、この危機のために生まれ出たものだからです。それは、その創立者がこの団体を設立することによって危機に対応し、それによって教会を助けようと望んだ限りにおいて、そうなのです。彼がとりわけ心配していたのは、教会の信仰と、不安のまま見捨てられた信者のことでした。第二バチカン公会議以降起こったことに続いて、多くの人々が牧者のいない羊になってしまいました。大司教にとって、行動の理由は、第一に霊魂の救いであり、信仰の純粋さを守ることでした。」
「聖伝のローマ典礼は、信仰宣言に等しいものです。その実質は変更されてはなりません。したがって、それを禁止することはできません。教皇ピオ五世は、何も新しいものを作り出したのではありません。むしろ彼は、この形式の典礼による信仰を行使することの正当性を確認したのです。彼は、この信仰が真正なものであることを裏付けたのです。このような善は、信者から奪われることは決してあり得ません。第二バチカン公会議の後、ミサの聖伝の典礼を廃止する意向で起こったことは、不公正であり、権威の濫用でした。」
「2023年の今日(ここに戻りたいと思います)、教会は、歴史上最大の危機の一つの中にあります。それは、教会内部の危機です。それは、宣教、典礼、他者への奉仕、指導力など、教会生活のあらゆる分野に及んでいます。それは、深刻な信仰の危機です。それが私たちの理解したことです。では、問題は「どのようにすればこの危機を克服できるのか」です。率直に申し上げましょう。危機を脱する方法はただ一つ、見捨てられた価値観に戻ること、軽視したり、不法に捨てたりした価値観や信念に立ち返ることです。その目的は、過去70年間に起こったことを処理し、それを見直しの対象とするためです。教会は、トップもメンバーも刷新することが必要です。特に、位階階級の刷新、司教たちの刷新、そして緊急に秘跡的かつ典礼的な生活へ緊急に回帰することが必要です。秘跡的な生活と司祭職(つまり位階階級)は、密接な関係にあります。」
ベネディクト十六世には、聖伝のミサは決して禁止されていないと発言する勇気がありました。しかしその後継者は「トラディチオニス・クストデス」によって、ベネディクト十六世の自発教書「スンモールム」を撤回しました。それについてフォンダ司教はこう言います。
「「トラディティオーニス・クストーデス」、「デジデリオ・デジデラーヴィ」と、それに付随する文書で始まった聖伝の典礼に対する措置は、この典礼に、ローマ教会の真にして本来の礼拝があると認める理由を持っているそれらの信者に対する狩りにほかなりません。彼らには何世紀にもわたって受け継がれてきた形式で秘跡を受ける権利があることを、臆面もなく無視しているのです。それは、公会議後で勝利を得て、当時多くの苦しみを引き起こしたのと同じ大胆さなのです。」
「私は教皇様にお聞きしてみたいと思います…。そうです、教皇様が私を迎えてくだされば、私は何を聞いてみたいでしょうか。教皇様にお聞きしたいのは、こうです。「なぜ子どもたちからパンを取り上げるのですか。何が教皇様を駆り立てて彼らを餓えさせるのですか。何が教皇様を駆り立てて彼らを消滅させようとするのですか」。なぜなら、彼らにはこの糧を得る権利があるからです。私は強調します、この糧を得る権利がある、と。それは、彼らの父親が食し、彼らに受け継がれた糧なのです。彼らのレシピではありません。彼らが、言ってみれば勝手に、自分たちで作ったものではありません。彼らは、忠実に受け継いできた人たちから受けたのです。なぜ教皇様はそれを彼らから取り上げて、彼らを飢えさせようとするのですか。なぜ教皇様は、彼らにとって異質なものを彼らに押し付けようとするのですか。私たちの主はこう言われました。「人間の父親でさえ、自分の子がパンを求めるのに、石を、魚を求めるのに蛇を、卵を求めるのにさそりを与える者があろうか」【マテオ7章9-10節、ルカ11章11-12節】。ここでポイントは、教皇様が何かを与えるということではなく、教皇様が子どもたちから何かを、つまり、先祖たちの聖なるミサの犠牲という重要なものを取り上げる、ということです。」
最後にフォンダ司教が聖ピオ十世会について知り得た最終の結論はこうです。
「私は、2015年1月9日に聖ピオ十世会の代表者たちとの協議開始を命じたローマの書簡に立ち戻ります。不利な状況にもかかわらず、私はその任務を果たしました。そして今も果たしているところです。ですから締めくくりに、教会当局へのお願いを述べたいと思います。私は、聖ピオ十世会に対する正義を求めます。彼らの事案の研究により、この請願を求めているのです。他のケースと同様に、教会がこの会に関連して謝罪をすることがふさわしいでしょう。これは、幻の墓のケースでも行われたことです。これは、幻の墓に関することではなく、生きている人々に関することであり、公会議以前に教会によって与えられた司牧の世話を受ける権利を持ち、その後も永久の請求権として存在し続けている霊魂たちに関することです。これは特権や恩典に関することではなく、権利に関することです。
教会の権威が、この謝罪とともに、聖ピオ十世会の活動に対する感謝の気持ちを表明し、この深く正真正銘なカトリック的な事業に対して、「もしも」や「しかし」などという留保のない評価を表明することがふさわしいでしょう。」
フォンダ司教の霊魂が安らかに憩わんことを。
大いなる傷:ヴィトゥス・フオンダー司教との独占ビデオシリーズ(1) - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた
大いなる傷:ヴィトゥス・フオンダー司教との独占ビデオシリーズ(2) - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた
大いなる傷:ヴィトゥス・フオンダー司教との独占ビデオシリーズ(3) - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた
愛する兄弟姉妹の皆様、
私たちの主イエズス・キリストのご復活おめでとうございます。
今日、2024年4月3日は、4月の初水曜日(月の初めての水曜日)です。聖母の汚れなき御心と聖ヨゼフとの取り次ぎを通して、私たちの主の御聖体に対する冒瀆的な取り扱いに対する償いを捧げましょう。
初水曜日ですからいつものように「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」について黙想することをご提案します。
聖ヨゼフはこの世で天主イエズス様と浄配なる聖母マリア様を最も良く知り、愛された御方であり、その隠れた徳ゆえに偉大なる御方、イエズス様とマリア様の最大の命の恩人であられました。
また、聖ヨゼフは、この世では、全てを天主の栄光のために、隠れてその生涯をささげられたが故に、天にて聖母の次に最大の栄光をあたえられていらっしゃいます。
聖伝では、水曜日は聖ヨゼフに捧げられた曜日であり、月の最初の水曜日を聖ヨゼフに捧げることで、聖ヨゼフを讃え、その御取次に信頼し、その御徳に倣って、聖ヨゼフを通して、天主イエズス様とマリア様をお愛しすることができますように。
初土曜日の「聖母の汚れ無き御心」への信心にならって、この「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」のどれかを「15分間黙想」することにいたしましょう。
聖ヨゼフの帯の信心については、下記リンクをごらんください。
聖ヨゼフの帯 cingulum Sancti Joseph
聖ヨゼフの御取次ぎにより、聖母の汚れ無き御心とイエズスの至聖なる聖心ヘの愛をますます与えてくださいますように!
聖ヨゼフの御取次ぎにより豊かな祝福がありますように!
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
聖ヨゼフの7つの苦しみと喜び
1 ああいと潔き御母マリアの浄配、栄えある聖ヨゼフよ、御身のいと清き妻を失なわんと心に思い煩いし時の苦しみはいと大いなるものなりき。
されど天使が御託身の玄義を御身に伝えられし時の喜びは、またひとしお大いなりき。この苦しみ、この喜びにより、今も臨終の時も我らの心を潔き良心の喜びと、イエズス、マリアのうちに自我を滅する尊き御身の心を示し、我らを慰め給え。
2 ああいと幸いなる保護者聖ヨゼフよ、御身は人となり給いし御言葉の潔き養父の位にあげられたれども、御身は幼きイエズスがいと貧しき中に生まれ給うを見て大いに悲しみ給いしが、
天使らのたえなる歌声を聴き、その輝ける夜の栄えを見給うや、その悲しみは天的の喜びと変じたり。御身のこの悲しみ、この喜びによりて、我らもまたこの世の歩みを終えたる後、天使らの賛美の歌声を聴き、天的光栄の輝きを受け得んことを願い奉る。
3 ああ御摂理にいと従順なしもべなる、栄えある聖ヨゼフよ、幼きイエズスが割礼にて流されたる尊き御血は御身の心を苦痛もて貫きたれども、
イエズスと命名されるや御身の心は喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らをこの世の悪徳より離れしめ、イエズスのいと尊き御名を心から唱えつつ心満たされてこの世を去るを得しめ給え。
4 ああいと忠誠なる聖ヨゼフよ、御身は救世の玄義の成就に身をもって大いなる役を果たされしが、シメオンの預言によりイエズスとマリアが受け給うべき苦難を予知せられ苦しみ給いたれど、
数限りなき人々の霊魂がこれによって救わるるとの預言によりて、天的喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らがイエズスの功徳と聖母マリアの御取次ぎにより、終わりなき栄えを得てよみがえる人々のうちに数えられる御恵みをとりなし給わんことを願い奉る。
5 ああ人となり給いし天主の御子のいとも注意深き保護者なる栄えある聖ヨゼフよ、御身はいと高きものの御子を養い給い、これに仕えるために多くの辛酸をなめられたり。わけてもそのエジプトへの逃避はいと苦しきものなりしが、
御身が常に天主御自身と共におられし喜び、またエジプト人らの諸々の偶像が地に落とされしを目の当たりに見られし時の安心はいと大いなりき。この御身の辛酸と喜びとによりて、我らが地獄的暴君より免れて、わけても危険なる機会より逃避する事を得しめ、我らの心のうちに地上的執着が落とされ、ひたすらイエズスとマリアに仕え奉りつつ日々の生活を送り、この世を幸いに終わる事を得しめ給え。
6 ああこの地上の天使なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の心を天の王に全く捧げられたり。御身がエジプトより戻られる喜びは、アルケラウスに対する憂慮にて不安の闇となりしが、
天使は再び御身にイエズスとマリアと共にナザレトにて楽しく住み給う事を約束せられたり。御身のこの苦しみ、この喜びによりて、我らの心を深い恐怖より免れしめ、潔き良心の平和を楽しみ、イエズスとマリアと共につつがなく世を送り、臨終においてはイエズスとマリアの御手に我らの霊魂を捧ぐる事を得しめ給え。
7 ああ全ての徳の鑑なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の誤りにあらずして幼きイエズスを見失い、三日の間苦しみもて捜し求められたり。
されど神殿の中に博士らに取り巻かれたるイエズスを見出されし時の喜びはいかに大いなりや。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らが大罪を犯しイエズスを失いたりせば、たゆまず彼を捜し求め、遂に再び巡り会えるよう、わけても臨終の時に彼と共にありて天国に至り、御身と共に天主の終わりなき御恵みを賛美し奉るようとりなし給わんことを心から願い奉る。
交唱 イエズスが教えをはじめたりしは三十歳ごろなり、人々、イエズスをヨゼフの子なりと思いたり。(ルカ3:23)
V 聖ヨゼフ、我らの為に祈り給え。
R キリストの御約束に我らをかなわしめ給え。
祈願 天主、御身のかしこき御摂理のうちに祝せられたヨゼフを至聖なるマリアの浄配に選び給いたれば、願わくはこの世の我らの保護者として崇め奉る彼が、我らの天のとりなし手となり給わんことを。 アーメン。
参考リンク
●サンタフェ~奇跡の階段 コラレス通り1丁目 この記事に昔の階段の様子の写真があります。
英語ではこちら。
THE SEVEN DOLOURS AND SEVEN JOYS.
i. St. Joseph, pure spouse of most holy Mary, the trouble and anguish of thy heart were great, when, being in sore perplexity, thou wast minded to put away thy stainless spouse: but this joy was inexpressible when the archangel revealed to thee the high mystery of the Incarnation.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee comfort our souls now and in their last pains with the consolation of a well-spent life, and a holy death like unto thine own, with Jesus and Mary at our side.
Pater, Ave, and Gloria.
ii. St. Joseph, Blessed Patriarch, chosen to the office of Father of the Word made Man, the pain was keen that thou didst feel when thou didst see the Infant Jesus born in abject poverty; but thy pain was changed into heavenly joy when thou didst hear the harmony of angel-choirs, and behold the glory of that night when Jesus was born.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee obtain for us, that, when the journey of our life is ended, we too may pass to that blessed land where we shall hear the angel-chants, and rejoice in the bright light of heavenly glory.
Pater, Ave, and Gloria.
iii. St. Joseph, who wast ever most obedient in executing the law of God, thy heart was pierced with pain when the Precious Blood of the Infant Saviour was shed at His Circumcision; but with the Name of Jesus new life and heavenly joy returned to thee.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, being freed in our life from every vice, we too may cheerfully die, with the sweet Name of Jesus in our hearts and on our lips.
Pater, Ave, and Gloria.
iv. St. Joseph, faithful Saint, who wast admitted to take part in the redemption of man; the prophecy of Simeon foretelling the sufferings of Jesus and Mary caused thee a pang like that of death; but at the same time his prediction of the salvation and glorious resurrection of innumerable souls filled thee with a blessed joy.
By this thy sorrow and thy joy, help us with thy prayers to be of the number of those who, by the merits of Jesus and his Virgin Mother, shall be partakers of the resurrection to glory.
Pater, Ave, and Gloria.
v. St. Joseph, watchful Guardian, friend of the Incarnate Son of God, truly thou didst greatly toil to nurture and to serve the Son of the Most High, especially in the flight thou madest with Him unto Egypt; yet didst thou rejoice to have God Himself always with thee, and to see the overthrow of the idols of Egypt.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us grace to keep far out of the reach of the enemy of our souls, by quitting all dangerous occasions, that so no idol of earthly affection may any longer occupy a place in our hearts, but that, being entirely devoted to the service of Jesus and Mary, we may live and die for them alone.
Pater, Ave, and Gloria.
vi. St. Joseph, angel on earth, who didst so wonder to see the King of heaven obedient to thy bidding, the consolation thou hadst at His return was disturbed by the fear of Archelaus, but nevertheless, being reassured by the angel, thou didst go back and dwell happily at Nazareth, in the company of Jesus and of Mary.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, having our hearts freed from idle fears, we may enjoy the peace of a tranquil conscience, dwelling safely with Jesus and Mary, and dying at last between them.
Pater, Ave, and Gloria.
vii. St. Joseph, example of all holy living, when, though without blame, thou didst lose Jesus, the Holy Child, thou didst search for Him for three long days in great sorrow, until with joy unspeakable thou didst find him, who was as thy life to thee, amidst the doctors in this Temple.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee with our whole heart so to interpose always in our behalf, that we may never lose Jesus by mortal sin; and if (which God avert) we are at any time so wretched as to do so, that we pray thee to aid us to seek Him with such ceaseless sorrow until we find Him, particularly in the hour of our death, that we may pass from this life to enjoy Him for ever in heaven, there to sing with thee His divine mercies without end.
Pater, Ave, and Gloria.
Ant. Jesus Himself was about thirty years old, being, as was supposed, the son of Joseph.
V. Pray for us, holy Joseph.
R. That we may be made worthy of the promises of Christ.
Let us pray.
O God, who in Thine ineffable providence didst vouchsafe to choose blessed Joseph to be the husband of Thy most holy Mother; grant, we beseech Thee, that we may have him for our intercessor in heaven, whom on earth we venerate as our holy protector. Who livest and reignest world without end. Amen.
愛する兄弟姉妹の皆様、
今日、2024年2月7 日は、2月の初水曜日(月の初めての水曜日)です。聖母の汚れなき御心と聖ヨゼフとの取り次ぎを通して、私たちの主の御聖体に対する冒瀆的な取り扱いに対する償いを捧げましょう。
初水曜日ですからいつものように「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」について黙想することをご提案します。
聖ヨゼフはこの世で天主イエズス様と浄配なる聖母マリア様を最も良く知り、愛された御方であり、その隠れた徳ゆえに偉大なる御方、イエズス様とマリア様の最大の命の恩人であられました。
また、聖ヨゼフは、この世では、全てを天主の栄光のために、隠れてその生涯をささげられたが故に、天にて聖母の次に最大の栄光をあたえられていらっしゃいます。
聖伝では、水曜日は聖ヨゼフに捧げられた曜日であり、月の最初の水曜日を聖ヨゼフに捧げることで、聖ヨゼフを讃え、その御取次に信頼し、その御徳に倣って、聖ヨゼフを通して、天主イエズス様とマリア様をお愛しすることができますように。
初土曜日の「聖母の汚れ無き御心」への信心にならって、この「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」のどれかを「15分間黙想」することにいたしましょう。
聖ヨゼフの帯の信心については、下記リンクをごらんください。
聖ヨゼフの帯 cingulum Sancti Joseph
聖ヨゼフの御取次ぎにより、聖母の汚れ無き御心とイエズスの至聖なる聖心ヘの愛をますます与えてくださいますように!
聖ヨゼフの御取次ぎにより豊かな祝福がありますように!
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
聖ヨゼフの7つの苦しみと喜び
1 ああいと潔き御母マリアの浄配、栄えある聖ヨゼフよ、御身のいと清き妻を失なわんと心に思い煩いし時の苦しみはいと大いなるものなりき。
されど天使が御託身の玄義を御身に伝えられし時の喜びは、またひとしお大いなりき。この苦しみ、この喜びにより、今も臨終の時も我らの心を潔き良心の喜びと、イエズス、マリアのうちに自我を滅する尊き御身の心を示し、我らを慰め給え。
2 ああいと幸いなる保護者聖ヨゼフよ、御身は人となり給いし御言葉の潔き養父の位にあげられたれども、御身は幼きイエズスがいと貧しき中に生まれ給うを見て大いに悲しみ給いしが、
天使らのたえなる歌声を聴き、その輝ける夜の栄えを見給うや、その悲しみは天的の喜びと変じたり。御身のこの悲しみ、この喜びによりて、我らもまたこの世の歩みを終えたる後、天使らの賛美の歌声を聴き、天的光栄の輝きを受け得んことを願い奉る。
3 ああ御摂理にいと従順なしもべなる、栄えある聖ヨゼフよ、幼きイエズスが割礼にて流されたる尊き御血は御身の心を苦痛もて貫きたれども、
イエズスと命名されるや御身の心は喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らをこの世の悪徳より離れしめ、イエズスのいと尊き御名を心から唱えつつ心満たされてこの世を去るを得しめ給え。
4 ああいと忠誠なる聖ヨゼフよ、御身は救世の玄義の成就に身をもって大いなる役を果たされしが、シメオンの預言によりイエズスとマリアが受け給うべき苦難を予知せられ苦しみ給いたれど、
数限りなき人々の霊魂がこれによって救わるるとの預言によりて、天的喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らがイエズスの功徳と聖母マリアの御取次ぎにより、終わりなき栄えを得てよみがえる人々のうちに数えられる御恵みをとりなし給わんことを願い奉る。
5 ああ人となり給いし天主の御子のいとも注意深き保護者なる栄えある聖ヨゼフよ、御身はいと高きものの御子を養い給い、これに仕えるために多くの辛酸をなめられたり。わけてもそのエジプトへの逃避はいと苦しきものなりしが、
御身が常に天主御自身と共におられし喜び、またエジプト人らの諸々の偶像が地に落とされしを目の当たりに見られし時の安心はいと大いなりき。この御身の辛酸と喜びとによりて、我らが地獄的暴君より免れて、わけても危険なる機会より逃避する事を得しめ、我らの心のうちに地上的執着が落とされ、ひたすらイエズスとマリアに仕え奉りつつ日々の生活を送り、この世を幸いに終わる事を得しめ給え。
6 ああこの地上の天使なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の心を天の王に全く捧げられたり。御身がエジプトより戻られる喜びは、アルケラウスに対する憂慮にて不安の闇となりしが、
天使は再び御身にイエズスとマリアと共にナザレトにて楽しく住み給う事を約束せられたり。御身のこの苦しみ、この喜びによりて、我らの心を深い恐怖より免れしめ、潔き良心の平和を楽しみ、イエズスとマリアと共につつがなく世を送り、臨終においてはイエズスとマリアの御手に我らの霊魂を捧ぐる事を得しめ給え。
7 ああ全ての徳の鑑なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の誤りにあらずして幼きイエズスを見失い、三日の間苦しみもて捜し求められたり。
されど神殿の中に博士らに取り巻かれたるイエズスを見出されし時の喜びはいかに大いなりや。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らが大罪を犯しイエズスを失いたりせば、たゆまず彼を捜し求め、遂に再び巡り会えるよう、わけても臨終の時に彼と共にありて天国に至り、御身と共に天主の終わりなき御恵みを賛美し奉るようとりなし給わんことを心から願い奉る。
交唱 イエズスが教えをはじめたりしは三十歳ごろなり、人々、イエズスをヨゼフの子なりと思いたり。(ルカ3:23)
V 聖ヨゼフ、我らの為に祈り給え。
R キリストの御約束に我らをかなわしめ給え。
祈願 天主、御身のかしこき御摂理のうちに祝せられたヨゼフを至聖なるマリアの浄配に選び給いたれば、願わくはこの世の我らの保護者として崇め奉る彼が、我らの天のとりなし手となり給わんことを。 アーメン。
参考リンク
●サンタフェ~奇跡の階段 コラレス通り1丁目 この記事に昔の階段の様子の写真があります。
英語ではこちら。
THE SEVEN DOLOURS AND SEVEN JOYS.
i. St. Joseph, pure spouse of most holy Mary, the trouble and anguish of thy heart were great, when, being in sore perplexity, thou wast minded to put away thy stainless spouse: but this joy was inexpressible when the archangel revealed to thee the high mystery of the Incarnation.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee comfort our souls now and in their last pains with the consolation of a well-spent life, and a holy death like unto thine own, with Jesus and Mary at our side.
Pater, Ave, and Gloria.
ii. St. Joseph, Blessed Patriarch, chosen to the office of Father of the Word made Man, the pain was keen that thou didst feel when thou didst see the Infant Jesus born in abject poverty; but thy pain was changed into heavenly joy when thou didst hear the harmony of angel-choirs, and behold the glory of that night when Jesus was born.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee obtain for us, that, when the journey of our life is ended, we too may pass to that blessed land where we shall hear the angel-chants, and rejoice in the bright light of heavenly glory.
Pater, Ave, and Gloria.
iii. St. Joseph, who wast ever most obedient in executing the law of God, thy heart was pierced with pain when the Precious Blood of the Infant Saviour was shed at His Circumcision; but with the Name of Jesus new life and heavenly joy returned to thee.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, being freed in our life from every vice, we too may cheerfully die, with the sweet Name of Jesus in our hearts and on our lips.
Pater, Ave, and Gloria.
iv. St. Joseph, faithful Saint, who wast admitted to take part in the redemption of man; the prophecy of Simeon foretelling the sufferings of Jesus and Mary caused thee a pang like that of death; but at the same time his prediction of the salvation and glorious resurrection of innumerable souls filled thee with a blessed joy.
By this thy sorrow and thy joy, help us with thy prayers to be of the number of those who, by the merits of Jesus and his Virgin Mother, shall be partakers of the resurrection to glory.
Pater, Ave, and Gloria.
v. St. Joseph, watchful Guardian, friend of the Incarnate Son of God, truly thou didst greatly toil to nurture and to serve the Son of the Most High, especially in the flight thou madest with Him unto Egypt; yet didst thou rejoice to have God Himself always with thee, and to see the overthrow of the idols of Egypt.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us grace to keep far out of the reach of the enemy of our souls, by quitting all dangerous occasions, that so no idol of earthly affection may any longer occupy a place in our hearts, but that, being entirely devoted to the service of Jesus and Mary, we may live and die for them alone.
Pater, Ave, and Gloria.
vi. St. Joseph, angel on earth, who didst so wonder to see the King of heaven obedient to thy bidding, the consolation thou hadst at His return was disturbed by the fear of Archelaus, but nevertheless, being reassured by the angel, thou didst go back and dwell happily at Nazareth, in the company of Jesus and of Mary.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, having our hearts freed from idle fears, we may enjoy the peace of a tranquil conscience, dwelling safely with Jesus and Mary, and dying at last between them.
Pater, Ave, and Gloria.
vii. St. Joseph, example of all holy living, when, though without blame, thou didst lose Jesus, the Holy Child, thou didst search for Him for three long days in great sorrow, until with joy unspeakable thou didst find him, who was as thy life to thee, amidst the doctors in this Temple.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee with our whole heart so to interpose always in our behalf, that we may never lose Jesus by mortal sin; and if (which God avert) we are at any time so wretched as to do so, that we pray thee to aid us to seek Him with such ceaseless sorrow until we find Him, particularly in the hour of our death, that we may pass from this life to enjoy Him for ever in heaven, there to sing with thee His divine mercies without end.
Pater, Ave, and Gloria.
Ant. Jesus Himself was about thirty years old, being, as was supposed, the son of Joseph.
V. Pray for us, holy Joseph.
R. That we may be made worthy of the promises of Christ.
Let us pray.
O God, who in Thine ineffable providence didst vouchsafe to choose blessed Joseph to be the husband of Thy most holy Mother; grant, we beseech Thee, that we may have him for our intercessor in heaven, whom on earth we venerate as our holy protector. Who livest and reignest world without end. Amen.
「シノドスの過程はパンドラの箱 : 100の質問と回答」
The Synodal Process Is a Pandora’s Box: 100 Questions & Answers
ホセ・アントニオ・ウレタとフリオ・ロレド・デ・イズクエ著
目次
「通常」総会ではない
ドイツの「Synodaler Weg」(シノドスの道)
失敗した道
公会議主義から永続的シノダリティへ
「私は兄弟たちには他人となり、母の子らには見知らぬ人となった」
第一章 司教シノドス
1.司教シノドスとは何ですか。
2.シノドスの結論は拘束力を持ちますか。
3.教皇や司教シノドスはカトリック教会の教理や構造を変えることができますか。
4.教皇フランシスコは司教シノドスでいかなる変更を導入したのですか。
5.教皇フランシスコは司教シノドスにおけるこの急激な変化をどのように正当化しているのですか。
第二章 シノダリティに関するシノドス
6.今回のシノドスのテーマとプログラムは何ですか。
7.このシノドスの目的は、具体的な結論を得ることなのでしょうか、それとも過程を始めることなのでしょうか。
8.教皇フランシスコはなぜ集会を2回開催することを決めたのでしょうか。
9.相当数の信者がシノドスや教皇の決定に反対し、拒否したらどうなりますか。
第一章 司教シノドス
1.司教シノドスとは何ですか。
司教シノドス(Synod of Bishops)とは、カトリック教会の常設機関で、ローマ教皇庁の外部にあり、司教団を代表します。1965年9月15日、教皇パウロ六世が自発教令「Apostolica sollicitudo」によって創設しました。
シノドスは教皇によって召集され、教皇がテーマを設定します。シノドスには三つの形式があります。普遍教会の利益に関する事項のための通常総会、緊急の問題のための臨時総会、一つまたは複数の地域に関する事項のための特別総会です。総会は単なる諮問機関としての性格しか持ちませんが、教皇が許可した場合には意思決定機能を行使することができるとされています。これまで、司教シノドスの通常総会は15回ありました。今年、2023年には16回目を迎えます。
2.シノドスの結論は拘束力を持ちますか。
いいえ。かつて、司教シノドスの最終文書とは、教皇に提案する役割を担っているだけだったため、教導権としての価値はありませんでした。教皇はシノドスの考えをまとめ、シノドス後の使徒的勧告を発表し、シノドスの結論を全教会に提案しました。この教皇文書が教導権に当たります。しかし、2015年に教皇フランシスコによって導入された改革の後、ローマ教皇によって明示的に承認された場合、最終文書は直接的に通常の教導権の一部となるとされています。また、教皇が前もってシノドスに決定権を与えた場合、教皇によって批准され公布されれば、その最終文書は通常の教導権の一部となるとされます。
3.教皇や司教シノドスはカトリック教会の教理や構造を変えることができますか。
いいえ。教皇も、司教シノドスも、他のいかなる教会的、世俗的機関も、天主なる創立者によって遺産として定められ、委託された教会の教理や構造を変更する権限を持ちません。第一バチカン公会議はこう教えています。
13.天主が啓示された信仰の教理は、以下のようなものとして私たちに提示されている。
・人間の知性によって完成することが可能な哲学的発見としてではなく、
・忠実に守られ、不可謬的に公布されるようキリストの浄配に託された天主の遺産として。
14.それゆえまた、その聖なる教義の意味も、聖にして母なる教会によってかつて宣言されたように、常に維持されるべきであり、また、さらに深く理解するという口実の下に、あるいはその名の下に、この意味を放棄することは決してあってはならない(12)。
教理省はこう述べています。「すべての信者と同様に、ローマ教皇は、天主の言葉、カトリックの信仰の下にある。…教皇は自分の意志で決定するのではなく、聖伝によって生かされ、解釈される聖書の中で人に語りかける主のご意志を言葉にする。言い換えれば、総司教(Primate 首席司教)の「監督権」(episkopè)は、天主の法と啓示に含まれる教会の侵すことのできない天主由来の統治形態(constitution)によって定められた限界を持っている」(13)。
4.教皇フランシスコは司教シノドスにいかなる変更を導入したのですか。
2015年、教皇フランシスコは司教シノドス設立50周年を機に、このシノドス組織の大幅な変更を発表しました。
教皇は、シノドスの集会の準備において、天主の民全体の意見を求めるという望みを表明し、次の前提に基づく新しい「シノドスの教会」を創設する計画を提案しました。その前提とは、天主の民が超自然の信仰の感覚(sensus fidei)を持つために、天主の民全体は誤ることができず(天主の民全体は「信仰するにおいて」[in credendo]不可謬)、主が教会に対して開かれた道を見いだす「天賦の才能・直観的識別力」を持っている、という前提です。
シノドスの教会は、聖霊が「諸教会に言われる」(黙示録2章7節)ことを知るために、信者と司教団とローマ司教の間で相互に耳を傾ける一つとなります。この目的のために、すべての教会機関(小教区、教区、ローマ教皇庁)は、基底(=民)とのつながりを保ち、常に「人々と彼らの日々の問題から」出発しなければなりません(14)。
この仕事に取り掛かった教皇フランシスコは、使徒的憲章「エピスコパリス・コムニオ Episcopalis communio」(2018年9月15日)をもって、信者を参加させるように司教シノドスを変更しました。シノドスは現在、三つの段階に分けられています。それは、天主の民に意見を求める準備段階、司教の集会での会議である祝祭段階、そして教皇によって承認された集会の結論を全教会が受け入れる実施段階です。
5.教皇フランシスコは司教シノドスにおけるこの急激な変化をどのように正当化しているのですか。
教皇フランシスコによれば、司教は教師であると同時に弟子でもあるとされています。「かしらであり牧者であるキリストの御名において真理の言葉」を宣べ伝えるとき、司教は教師であるとされます。しかし、「洗礼を受けたすべての人に聖霊が授与されていることを知り、天主の民全体を通して語られるキリストの声に耳を傾ける」(15)とき、司教は弟子でもあるとされています。このように、シノドスは、司教を通して天主の民全体に発言力を与える道具となるとされています。
第二章 「シノダリティに関するシノドス」
6.今回のシノドスのテーマとプログラムは何ですか。
2021年4月24日、教皇フランシスコは、司教シノドス事務局長のマリオ・グレック枢機卿の謁見に際し、司教シノドス第16回通常総会のテーマとプログラムを承認しました。
こうして天主の民から意見を聞く地方あるいは国内ステージ【教区ステージ】が始まり、2022年に終了しました。その後、大陸ステージが始まり、2023年2月から3月にかけて大陸総会が開催され、「大陸統合」と呼ばれる結論がバチカンに提出されました。そこからシノドスは全世界的な段階へと進み、2023年10月に第1回、2024年10月に第2回の総会がローマで開催されます。2023年の総会に先立ち、参加者全員を対象とした霊的黙想会が開催されます。
選ばれたテーマは「シノドス教会のために:交わり、参加、そして宣教」です。教皇によれば、それは「信者、司牧者、ローマ司教が共に旅すること」(16)です。克服すべき最大の困難は、「司祭や司教を人々から切り離す聖職者主義です」。なぜなら、「指導者と従う者、教える者と教えられる者とに厳密に分けられた教会というイメージを超えていくことへのある種の抵抗があるからです。マリアが、『権力ある者をその座より降ろし、卑しき者をば高められた』(ルカ1章52節)と言ったように。共に旅をすることは、垂直よりも水平にしてくれます」(17)。
従って、次のシノドスで議論されるのは、通常このような集会で議論されるような特定の司牧的テーマではなく、教会の構造そのものなのです。この理由で、シノドスは「シノダリティに関するシノドス」とも呼ばれているのです。
7.このシノドスの目的は、具体的な結論を得ることなのでしょうか、それとも過程を始めることなのでしょうか。
他の一般的なシノドスとは異なり、この「シノダリティに関するシノドス」は、教理的あるいは司牧的な問題を議論し、具体的な結論を出すために開催されるのではなく、教会を改革するための過程を開始するために開催されます。その準備文書は、「参加的かつ包括的な教会的過程」(18)を開始することを提案しています。後述するシノドス準備文書では、「過程」(process)という用語が23回も使われており、それに「道」(path)、「旅程」(itinerary)、「経路」(route)などの似た言葉が伴っています。
この流動的なアプローチは、現教皇職の考えている広い視野のもとで理解されなければなりません。
つまり、現教皇は、「である」(being)ではなく「となる」(becoming)を、安定ではなく変化を、確実ではなく探求を尊んでいます。「私たちは、単にスペースを占有する【ずっしりと存在する】のではなく、過程を開始する【変化する】必要があります」(19)。
シノドス総代表のジャン=クロード・オロリッシュ枢機卿は、「座って話すことだけでシノドスになるのは、話すのが旅についてである場合です。そうでなければ、シノドスは、概念の戦いになってしまいます」【=シノドスとは、変化を求めるためにあり、何が信仰の真理であるかと議論するところではない】(20)と述べました。
8.教皇フランシスコはなぜ集会を2回開催することを決めたのでしょうか。
当初の計画では、シノドス総会は2023年10月にローマで開催されることになっていました。しかし、2022年10月16日(日)のお告げの祈りの終わりに、教皇フランシスコは、総会を1年を隔てて2回開催すると発表しました(21)。
その理由は、「シノドスの教会のテーマは、その広さと重要性から、シノドス総会のメンバーだけでなく、教会全体が長期にわたって熟慮を重ねる対象となる可能性があります」というものでした(22)。ローマで代表団が話し合った内容について天主の民に耳を傾ける新たな段階が、第1回総会の後に続くことになります。
9.相当数の信者がシノドスや教皇の決定に反対し、拒否したらどうなりますか。
教皇フランシスコが司教シノドスを変更した使徒憲章「エピスコパリス・コムニオ」には、内部矛盾があるようです。5番は、すべての司教は「洗礼を受けたすべての人に聖霊が授けられていることを知りながら、天主の民全体を通して語られるキリストの声に耳を傾け、それを『〈信ずるにおいて〉不可謬のもの』とするとき」弟子であると宣言しています。この考えは、「シノドスの過程は、その出発点だけでなく、その到着点も天主の民の中にある」と主張する7番で補強されています。そして、シノドス事務局のウェブサイトが「シノドスの結論は、ローマ教皇によって承認された後、地方教会によって受け入れられる」(23)と示唆するように、シノドスの決定の実施は、信者がそれをうまく受け入れるかどうかにかかっているように思えます。
しかし、同じ「エピスコパリス・コムニオ」の第4章は、まさにシノドスの実施段階を扱っており、教区司教は「シノドス総会の結論がローマ教皇に受け入れられれば、その受け入れと実施を見守る」(第19条第1項)のであり、司教協議会は「その領域内で前述の結論の実施を調整する」(第19条第2項)と規定しています。
シノドスの方向性の具体的な適用に関して、天主の民と司牧者との間に意見の相違が生じた場合にどうなるかについては、何も書かれていません。もし司牧者たちの意志が勝れば、耳を傾けることの過程全体がむなしく見え、シノドスのレトリックはほとんど不誠実に見えるでしょう。もし天主の民の意志が勝れば、教会は事実上の(de facto)民主主義に変貌してしまうでしょう。
「シノドスの過程はパンドラの箱 : 100の質問と回答」
The Synodal Process Is a Pandora’s Box: 100 Questions & Answers
ホセ・アントニオ・ウレタとフリオ・ロレド・デ・イズクエ著
2023年8月22日
カトリック教会内の異端的な声が変化を叫んでいます。「シノダリティに関するシノドス」おける彼らの急進的な行動計画(アジェンダ)は明らかです。それは、教理を歪め、聖伝を転覆させ、教会の位階的な性質を解体することです。
著者のホセ・アントニオ・ウレタとフリオ・ロレド・デ・イズクエは、新著「シノドスの過程はパンドラの箱。100の質問と回答」の中で、現在の危機をすがすがしい明快さで説明しています。どのページも知恵、洞察、真理を与えています。どの回答も、シノドスの背後にある詭弁、意図的な混乱、異端を暴いています。
レイモンド・バーク枢機卿は、まえがきで次のように述べています。「シノダリティ」(Synodality、共に歩むこと)とその形容詞である「シノドスの」(synodal)は、今やスローガンとなっており、そのスローガンの背後では、教会が常に教え実践してきたことの多くを否定する現代のイデオロギーに合わせて、教会の自己理解を根本的に変えようとする一つの革命がうごめいているのです」。
「シノドスの過程はパンドラの箱」は警告の叫びです。自然に反する罪の常態化、女性の叙階、姦淫状態にある「再婚した」離婚者による聖体拝領の受け入れ、カトリック教会内の平等主義の民主的平準化などに抵抗し、断固として立ち向かう道徳的義務が、なぜ忠実なカトリック信者にあるのかを知ってください。
もしあなたが、カトリック教会と、私たちの主イエズス・キリストによって永遠に確立された教会の位階的な統治形態を愛しているならば、この本はあなたのためのものです。
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目次
まえがき(レイモンド・レオ・バーク枢機卿)
序章
「通常」総会ではない
ドイツの「Synodaler Weg」(シノドスの道)
失敗した道
公会議主義から永続的シノダリティへ
「私は兄弟たちには他人となり、母の子らには見知らぬ人となった」
まえがき (レイモンド・レオ・バーク枢機卿)
2023年6月16日
至聖なるイエズスの聖心の祝日
今日の教会における最も深刻な状況を明確かつ包括的に取り上げている「シノドスの過程はパンドラの箱 Il processo sinodale, un vaso di Pandora」が出版されたことを、心からお祝い申し上げます。この状況は、すべての思慮深いカトリック信者と、キリストの神秘体に与えている明白で重大な害悪を観察する善意の人々に、当然のことながら関心を抱かせるものです。
私たちは、使徒たちの時代からの信仰の先祖たちとの交わりの中で、私たちが一、聖、公(カトリック)、使徒継承であると告白してきた教会が、今や、教会の教理の中に歴史を持たず、合理的な定義もない用語であるシノダリティ(synodality)によって定義されると言われています。シノダリティとその形容詞である「シノドスの」(synodal)は今やスローガンとなっており、そのスローガンの背後では、教会が常に教え実践してきたことの多くを否定する現代のイデオロギーに合わせて、教会の自己理解を根本的に変えようとする一つの革命がうごめいているのです。なぜなら、このイデオロギーはすでに何年か前からドイツの教会で実践され、混乱と誤謬、そしてその果実である分裂――まさに離教――を広範囲に広め、多くの霊魂に重大な害を及ぼしているからです。「シノダリティに関するシノドス」が間近に迫っている今、同じ混乱と誤謬と分裂が普遍教会にもたらされるのではないかと懸念されるのは当然です。実際、地方レベルでのシノドスの準備を通して、それはすでに起こり始めています。
教会の変わることのない、また変えることのできない教理と規律において私たちに伝えられているキリストの真理だけが、今の状況に効果的に対処することができます。キリストの真理が、うごめいているイデオロギーを明らかにすることによって、また、それが広めている致命的な混乱と誤謬と分裂を正すことによって、また、教会の教え、祈りと礼拝、徳と規律の実践の中で、私たちのために生きておられるキリストに対して日々回心するという真の改革を行うよう教会員に霊感を与えることによって、効果的に対処することができるのです。「シノドスの過程はパンドラの箱 Il processo sinodale, un vaso di Pandora」は、一連の100の質問と回答を通して、キリストの光、キリストの真理を、教会の現在の最も憂慮すべき状況の上に照らしています。この質問と回答を研究することは、すべての教会の成員が召されているように、真摯なカトリック信者がキリストの「真理の協力者」(ヨハネ第三書8節)となり、それにより使徒継承の聖伝に忠実な、私たちの時代における教会の刷新の担い手となるための助けとなるでしょう。
私は、適切な質問を立てるために、また権威ある回答を提供するために、まことに熱心に、そして見事に取り組んでくださったすべての方々に感謝申し上げます。聖パウロが「むしろ、愛をもって真理を宣言し、かしらであるキリストによって、すべて愛において成長するだろう」(エフェゾ4章15節)と私たちに教えているように、彼らの労苦の実りを、教会を建て直すために、世界中のカトリック信者が利用できるようになることが私の望みです。
私たちの主が、教会での母として私たちに与えてくださった(ヨハネ19章26-27節参照)、主の童貞なる御母の執り成しと配慮によって、私たちの救いである私たちの主のみに忠実であるように、現在教会を脅かしている重大な害が回避され、この世において教会が自らの使命を果たすことができますように。
父としての深い愛情と敬意を込めて、
イエズスの聖心とマリアの汚れなき御心において、
皆さんの忠実なる
レイモンド・レオ・バーク枢機卿(署名)
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フリオ・ロレドとホセ・アントニオ・ウレタ
ローマにて
序章
教皇フランシスコは、「シノドスの教会のために。交わり、参加、そして宣教」をモットーに、ローマで「シノダリティに関するシノドス」を招集しました。これは、司教シノドスの第16回通常総会です。
革命的なインパクトを秘めているにもかかわらず、このシノドスをめぐる議論は、大部分が内部関係者だけにとどまっています。一般の人々は、このシノドスについてほとんど何も知りません。私たちはここで、何が問題になっているのかを説明することによって、このギャップを埋めようとしています。聖にして母なる教会を改革する計画が進行中であり、それが最終的な結末に至れば、教会の土台を転覆させることになりかねません。
このシノドスは通常総会ではありますが、いくつかの要因により、異例なものになっています。教会史における分水嶺、事実上の第三バチカン公会議のようなものにしたいと考える人もいるでしょう。
「通常」総会ではない
第一の要因は、シノドスの構造そのものです。広範囲にわたる国際的な意見聴取の後、参加者のための霊的黙想会を経て、2023年と2024年にローマで2回もの全体会議が計画されています。
第二の要因は、シノドスの内容です。通常総会は特定の問題(2018年は青少年、2015年は家庭など)を扱いますが、今回は、彼らは教会の構造そのものを問うつもりです。彼らが提案しているのは、教会を再考し、教会の有機的統治形態(constitution)の基本的要素を変更することによって、教会を新しい「統治形態としてシノドス的な教会」(1)へと変えることです。この変化はあまりにも急進的であるため、シノドス文書は、あたかも教会が誤った道を歩んできたかのように、そしてUターンする必要があるかのように、「回心」と述べています。
この総会を異例なものにしている第三の要因は、その過程的性格です。このシノドスは、教理的あるいは司牧的な問題を議論し、結論を出すためのものではなく、教会を改革するための「教会的過程」を行うためのものです。多くの人々は、これがパンドラの箱を開けてしまうのではないかと恐れています。
このように、「シノダリティ」(synodality)には、カトリックの思想家、プリニオ・コレーア・デ・オリヴェイラが記した「お守りのような言葉」(talismanic words)、つまり、過激化しやすくプロパガンダに悪用されやすい、非常に融通の利く言葉になるという危険性があります。プロパガンダに操られることで、「(お守りのような言葉は)新たな輝きを放ち始め、プロパガンダを受ける者を魅了し、その人が想像するよりもはるかかなたにその人を連れていく」(2)のです。
シノドスの推進者たちが言うには、この急進的な教会改革は、克服を必要とする欠陥のある位階的教会論が覇権を持っていたせいで、あまりにも長い間無視されてきた初代教会の共同体的参加の古い手順を取り戻すものとされています(3)。
このように、「シノダリティに関するシノドス」は、教会の歴史における、特に現教皇職における分水嶺として位置づけられています。教皇フランシスコが「シノダリティという重大な改革を準備しているところだ」と、バチカン専門家のジャン=マリー・ゲノワは書いています。「彼は、ピラミッド型、中央集権型、聖職者主義化した教会を、より民主的で分権的な共同体に変えたいと願っている」(4)と。
ドイツの「Synodaler Weg」(シノドスの道)
教会の「シノドスの回心」に最も熱心に取り組んでいる人々の中には、大多数のドイツの司教がいます。彼らは、自分たち自身の「道」、つまり「Synodaler Weg」(シノドスの道)を開始しました。この「Weg」(道)は、ドイツ進歩派の最も極端な主張を集約し、復活させたものです。
その推進者にとって、この「道 Weg」はドイツ国内に限定されるべきものではありません。むしろ、普遍的なシノドスのモデルとなり、推進力となるべきです。こうしてドイツ人は、シノドス推進派の広大な宇宙の中で、明確で影響力があるとはいえ、極端な一派として登場します。バチカン専門家の中には、「ライン川がテヴェレ川に流れ込んだ」第二バチカン公会議の場合が部分的にそうであったように、ドイツの進歩派の影響がシノドスの活動において決定的なものになることを危惧する者もいます(5)。
その最終的な結末に至れば、「道 Weg」は、聖なるローマ・カトリック教会の深刻な破壊転覆になることをほのめかしています。元教理省長官ゲルハルト・ミュラー枢機卿はこう述べています。「彼らはカトリックの信仰とは何の関係もない別の教会を夢見ており、…また彼らはこの過程を悪用したいと望んでいます。それは、カトリック教会を他の方向に移行させるためだけでなく、カトリック教会を破壊する方向に移行させるためなのです」(6)。
もし普遍的なシノドスがドイツの「道 Weg」の一部でも受け入れるようなことがあれば、私たちが知っているような教会の姿は失われ、終焉を迎えることになりかねません。もちろん、これでカトリック教会が終わるわけではありません。天主の約束に慰められ、教会には不可崩壊性という確実性があります。その特権のゆえに、教会は時の終わりまで存続し(マテオ28章20節参照)、地獄の門も教会に打ち勝つことはない(マテオ16章18節参照)からです。
失敗した道
シノドスの道をカトリック教会に適用する前に、その推進者たちは、失敗したと証明された他の宗教における同様の実験を研究した方がいいでしょう。1950年代に独自の「シノドスの道」に着手した英国国教会を例に取ってみましょう。
元英国国教会主教であり、エリザベス二世女王陛下のチャプレンを務め、現在はカトリックに改宗したギャビン・アシェンデンの証言は注目に値します。
「元英国国教会(アングリカン)の人々は、自分たちが何らかの助けを提供できると信じています」。なぜなら、英国国教会で使用されている「シノダリティ」という「策略」が、「分裂的かつ破壊的な効果をもたらす」のを目の当たりにしてきたためです。
「事実、元英国国教会の人々は、以前にも教会でこのようなトリックが演じられるのを見たことがあります。それは進歩主義者の霊性の一部です。ごく簡単に言えば、彼らはマルクス主義に準じた内容を霊的な慰めの毛布で包み、その後、聖霊について大いに語るのです」(7)。
同様の警告は、元英国国教会ロチェスター主教で現在はカトリック司祭であるマイケル・ナジール=アリ神父からも発せられています。彼は、英国国教会や他のプロテスタントの間で生じた「混乱と混沌」から学ぶよう、司教たちに促しています(8)。
このアプローチの失敗を見るのに、遠くへ行く必要はありません。ドイツの教会の惨状を見れば一目瞭然です。皮肉なことに、「Synodaler Weg」は、普遍教会を改革するモデルとして役立つことを意図しています。しかし、ドイツの教会は、その歴史上最悪の危機の中でほとんど消滅しようとしており、その理由は「Weg」に霊感を与えるような考えや実践に似たものを適用にしたからだと誰もが見ています。
なぜ、誰もが他のところで大惨事に至った道を教会に押し付けようとするのでしょうか。
さらに、本書が示すように、普遍的なものであれドイツ的なものであれ、シノドスの道にわくわくしている人はほとんどいません。さまざまな協議の過程に関わる人々の数は、笑ってしまうほど【少ないの】です。全般的に無関心なのです。シノドスの道の推進者たちは、この無関心を正しく解釈できるのでしょうか。空席の観客に向かって球技をしていることに気づくでしょうか。ああ、サッカーの試合ならまだしも! 問題になっているのはキリストの花嫁に他ならないのです!
公会議主義から永続的シノダリティへ
シノドスの擁護者たちは、シノドスの精神を現代的で最新のものとして提示していますが、それは古代の誤謬や異端を引きずっています。
いわゆる公会議主義の潮流は、人文主義(人間中心主義)によって生まれた新しいメンタリティーに教会を適合させるという口実のもとに、早くも15世紀には生まれました。その擁護者たちは、教皇の位階的な権力を減らして、公会議という集会に力を与えようとしました。「信者の意志」を表して、教会は、それぞれが言語と慣習を持つ、大部分が自治的な地方的・地域的なシノドスの構造となるべきだとされたのです。これらのシノドスは、定期的に、総会(あるいは聖なるシノドス)において、開かれるとされ、また、教会の最高権威をもっているとされました。教皇は「primus inter pares」(対等の中の第一人者)に格下げされて、参加者の平等な投票によって下された公会議の決定に従うとされていました。
ドイツの「Synodaler Weg」と普遍的なシノドスに力を与える精神は、その最も真正な表明において、何人かの教皇と何回かの公会議によって断罪されたこれらの古い誤謬を当然のものとし、復活させています。
ヨゼフ・ラッツィンガー枢機卿(当時)は、こうした古い誤謬を糾弾しました。「教会の聖伝と、教会の秘跡的構造と特定の目的に照らせば、国内教会の最高の永続的な統治権威としての混合シノドスという考えは妄想です。そのようなシノドスはすべての正当性を欠くものであり、そのようなシノドスに従うことは断固として明確に拒否すべきです」(9)。
「私は兄弟たちには他人となり、母の子らには見知らぬ人となった」
勤勉な観察者には、このような俯瞰は黙示録的な色合いを帯びています。聖にして母なる教会の有機的な統治構造(constitution)と教理の持つ基本的な要素を消し去り、教会を認識不能にすることで、教会を解体しようとする作戦が進行中だからです。前述のように、ミュラー枢機卿は、シノドスの改革が最大限に適用されれば、推進者たちのユートピア的な意図のもと、「カトリック教会の破壊」に至るかもしれないと警告しています。この破壊は、教会をあらゆる危険から守るべき聖別された手によって実行されるため、さらに恐ろしいものとなります。パウロ六世の警告が今ほど響いていることはありません。「ある者は、…自己解体を実践しています。…教会は、教会の一部分である人々によって悪しき影響を受けています」(10)。
このような悲惨な見通しに直面した多くのカトリック信者は、迷い、落胆し、混乱し、当惑し、失望さえ感じており、みんなが適切に行動してはいません。教皇聖座空位論の誘惑に屈し、教会を捨てて自己中心的になる者がいます。背教の誘惑に屈する者もいて、教会を捨てて偽りの宗教を受け入れています。大半は無関心に沈み、教会を悲しい運命に委ねています。そのどれもがあからさまに間違っているのです! 「Amicus certus in re incerta cernitur」(不確かな事態において、確かな友が識別される。困っている時の友は本当に友である)。今こそ、聖にして母なる教会が、外敵や内敵から教会を守るために、愛と恐れを知らない子らを必要としている時です。天主は私たちに説明責任を負わせられるでしょう!
1951年にプリニオ・コレーア・デ・オリヴェイラがしたように、私たちはこう自問します。「ご受難が悲劇的であったように、悲劇的であるこの瞬間、すなわち、全人類がキリストに味方するか、キリストに逆らうかを選択するこの歴史の重要な瞬間に、教会と一致して生きている人は何人いるのでしょうか?」。そしてまた、「私たちは、教会が考えるように考え、教会の心を持ち、私たちの人生のあらゆる状況において教会が望むように進まなければなりません。…それは一生を犠牲にすることになります。この忠実さという犠牲は、それを必ずしも評価せず、時には痛烈に迫害する権力者に向けられるとき、さらに多くの痛みを伴います。
私たちは、ほとんどこう叫ぶことができます。詩篇作者の言葉を借りて、「私は兄弟たちには他人となり、母の子らには見知らぬ人となった」(詩篇68篇9節)と。そうです、他人でありながら、母の家、つまり聖なるローマ・カトリック教会にして使徒継承の教会の中にいるのです。
これが、本書の著者たちにやる気を起こさせている精神なのです。
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この作品を書くに当たって、特にフアン・ミゲル・モンテス氏とマティアス・フォン・ゲルスドルフ氏の貴重な貢献に感謝します。
【続く】