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「ジーザス・クライスト、お前は誰だ?」ミュージカル「ジーザス・クライスト=スーパースター」を見て疑問に思った方々に

2024年09月03日 | カトリックとは

「ジーザス・クライスト、お前は誰だ?」

―――ミュージカル「ジーザス・クライスト=スーパースター」を見て疑問に思った方々に―――

カトリック教会の伝えるままのイエズス・キリストとはどのようなお方か?

 

劇団四季ジーザス・クライスト=スーパースターが公演されている。これはイエズス・キリストのエルサレム入城から十字架上でのご死去までを、主にキリストを裏切ったユダ・イスカリオトの観点から描いたロック・オペラだ。

【本論の意図と目的】

これは、作曲家A・ロイド=ウェバーと作詞家ティム・ライスが20代の時に生み出した出世作であり、旧約聖書の預言と福音書に記述された事実に基づく実像とは全く関係のない、想像の人物ジーザス・クライスト=スーパースターを作り上げ、教会の解釈とは異なる人物像としてエンターテイメントに仕立て上げた作品だ。 聖書に題材を借りた想像の作品で、ここで示されたイエズス・キリスト像は事実ともカトリック教会の解釈とも全く異なる。

劇団四季の「ジーザス・クライスト=スーパースター」はその日本語バージョンである。

しかし、これを見た人の中で善意の人は、イエズス・キリストについて誤解をするかもしれない。イエズス・キリストを、アリウス派の異端説によるような「ただの人間」、あるいは「スーパーマン」「スーパースター」にすぎないと思うかもしれない。

あるいはイエズス・キリストについて、本当はいったいどのような方だったのか知りたいと思うかもしれない。しかし、本当のイエズス・キリストが誰かを提示してくれる人が、周りをさがしてもいないかもしれない。

そこで、本論では、本当のイエズス・キリストのことを伝えることを目的として、劇中でユダの役を通して投げかけられる疑問に答えたい。

【ユダ・イスカリオトの投げかける問題提起】

このミュージカルは、ユダ・イスカリオトの歌から始まる。ユダ・イスカリオトは、十二使徒の一人でイエズスをお金で売った裏切り者だ。「ジーザス!あなたまでが自分の事を神の子だと信じるとは・・・生まれた町であなたは父と同じ大工をしてたら、群衆たちを惑わすようなこんなことにはならない・・・」

最後も、ジーザスが十字架のご受難の最中に、ユダの次のような歌で締めくくられる。「いつも不思議に思っていた。どうしてこんなにややこしいことにした? もっとうまくやれたはずだろう。なぜ古代のあんなへんぴな場所だったんだ? 現代なら全世界を相手に出来たのに、BC4年のイスラエルにはマスコミも無かったぜ。悪く思わないでくれ。知りたいだけなんだ。ジーザス・クライスト。お前は誰だ。何を犠牲にした? 天上の友人はどうだい? お前は別として、イケてるのは誰だい?仏陀はどうだい? そこにいる? マホメットは本当に山を動かしたのか?それともPRか? あの死に方は計画どおり? 派手に死んで有名になる狙いだったのか?・・」

メインの問い:「ジーザス・クライスト、お前は誰だ?」

1)なぜ古代のユダヤで生まれてきたのか?

2)自分の事を神だと思ったのか?

3)なぜ抵抗もせずに十字架の上で死んだのか?逃げることもできたではないか?

4)現代ならインターネットで全世界を相手に出来たのに、なぜ21世紀の現代に生まれてこなかったのか?

5)何のために?何を求めて自分の命を犠牲にしたのか?有名になるためだったのか?

ここで叫ばれているユダの声は、現代の日本に住む方々の疑問に通じるとも思われる。そこで歴史事実に基づいて、当惑しているユダのこれらの問いに答えたい。

 

論点1:【旧約の預言の成就】

1)なぜ古代のユダヤで生まれてきたのか?

イエズス・キリストは、古代のユダヤでお生まれになり、苦しみを受けて死去された。それは、旧約聖書には来るべきメシアに関するあらゆる預言があり、その全ての預言がキリストにおいて成し遂げられるためだった。

旧約聖書は、キリスト誕生のずっと以前から存在しており、さまざまな場所で、さまざまな著者によって書かれた。キリストの前のことを旧約という。天主と人間との古い契約という意味だ。キリストの誕生以後は新約だ。新しい契約だからだ。

ユダヤ人の宗教とはメシアを待望する宗教だった。この宗教の中心教義は来たるべき救世主、メシアへの希望をうちに秘めていた。その儀式と組織、律法と預言は来るべき救い主を予告する影だった。救世主に関して預言されていたことは、すべてキリストにおいて正確に成就された。例を少しあげる。たとえば、こうだ。

彼はダヴィドの後裔で(イザヤ書 11-1,2)、ベトレヘムに誕生し(ミケア 5:2)、童貞女なる母より生まれ(イザヤ書 7:14)、天主の子と言われる(詩編 2:7)、ナザレト人と称せられ、(イザヤ書 11:1)、その王国は栄える(イザヤ書 9:7)。彼の王国は攻撃を受けるであろうが、永遠に滅びない(詩編 2:1,4)。彼は、悲しみの人であり、誹謗され、清貧に甘んじ(イザヤ書 8:10)、銀貨30枚で売られ、銀貨は焼物師の畑を買うに使われる(ザカリア書 11:12,13)、自ら望んで犠牲となり口を開かない羊が屠所に連れていかれるように、毛刈り込み人の手の中にある羊のように口を閉ざしている(イザヤ書 58:7)。彼の四肢は貫かれ、その上衣は分けられ、その衣は籤引きにされる(詩編 21:17,19

以上は預言の一部に過ぎない。しかし、ありとあらゆる預言が全て一個人において成就されているという事実は、単なる偶然でも、また人間的技巧でもありえない。

全ての預言がキリストにおいて成就していることを考えると、99.99%以上の確率でキリストが約束された救世主であるという結論にならざるを得ない。

イエズス・キリストは、十字架での死刑と言う極刑を受けつつ、いや、まさにそうすることで、旧約の預言を全て成就した。

しかも、お金でもなくマスコミでもなく真理だけが持つ力によって、異教のローマ帝国でさえもキリスト教に改宗した。全世界の人々は、この真理を吟味して、真理を信じるように招かれている。

論点1を踏まえた、メインの問いに対する答え:「ジーザス・クライスト、お前は誰だ?」

歴史はこう答える。イエズス・キリストは、旧約の預言をことごとく全て成就した方だ、つまり約束された救い主だ。

 

論点2:【イエズス・キリストは自分を天主であると主張した】

2)自分の事を神だと思ったのか?

福音書には、イエズス・キリストが、さまざまな機会に、自分が世界の創造主、つまり天主であることを主張したことが記載されている。

一例をあげると、イエズスがユダヤ衆議所(サンヘドリン)に出廷した時、大司祭は公式に尋ねた。「おまえは祝すべき天主の子キリストなのか?」イエズスこれに答えて、「そうだ。あなたたちは人の子(=イエズス)が全能にまします天主の右に坐して空の雲に乗り来るを見るだろう」といった。そこで大司祭は、自分の衣服を裂いて、冒涜の言を聞いた!というと、一同は、イエズスを罪死に当たると定めた(マルコ 14:61-64)。つまり、イエズスは、天主と同じ本性を有すると主張したと理解されたので「冒涜」だと断罪された。この「冒涜」のゆえに衆議所はイエズスを死刑に処断し、イエズスはこれを甘受した。

イエズスは、自分を天主であると主張したのみならず、多くの奇跡を行って自分の主張が真理であることを証明した。

イエズスは「民衆の期待と自己の無力さとの狭間で苦悩したこと」など一度もなかった。史実はその反対だった。人々の期待を遥かに超えた奇跡を行い、例えばパンを増加させて数千人の人々を養い、生まれつきの目の見えない人に視力を与え、死者をよみがえらせた。死者をよみがえらせたことが三回あることが福音書に記録されている。

たとえば、キリストが生まれつきの盲者を癒した時、キリストはその盲者に尋ねた。「あなたは人の子を信じるか?」と。彼が「主よ、それはだれのことですか?私がその方を信じますように」というと、イエズスは「あなたはそれを見ている。あなたに話しているのがそれだ」とおおせられた。すると彼は、「主よ、私は信じます」といって、イエズスのみ前にひれ伏して礼拝した(ヨハネ 9:35-38)。

人の罪を赦すのは天主だけにできることである。しかしイエズスは自分が罪を赦す権能さえも持っていることを証明しようとしてこう言った。「人の子が、地上で罪をゆるす権力をもっていることをあなたたちに知らせよう!」。そして中風の人に向かい、「私は命じる。起きよ、床をとって家に帰れ!」とおおせられるや、病人は、起きて、すぐ床をとり、人々の目のまえを出ていった(マルコ 2:5-12)。つまり奇跡を行って自分が自然界に対して絶対の権力を持っていることを証明した。

 

論点3:【イエズスは、預言通り十字架につけられて復活した】

3)なぜ抵抗もせずに十字架の上で死んだのか?逃げることもできたではないか?

イエズスは、自分が天主であることを証明するために、自分が苦しみを受けること、死者の中より復活することを何度も預言した。

果たしてイエズスは抵抗もせずに十字架に付けられた。逃げることもできたが、屈辱と苦痛の死を受け入れた。そしてイエズスは自分が宣言した通り復活した。

イエズスの受けた精神的苦悶、鞭刑、茨の冠、十字架の刑、心臓への槍の貫通は、いずれも致命的なものだった。そのことを見てもイエズスが死んだのは確実である。弟子たちは、聖母マリアと少数をのぞいて、イエズスを捨てて逃げた。しかし、イエズスは三日目に復活して、裏切った弟子たちのところに何度も現れ、体を触れさせ、食事をし、自分が本当に復活したことを証明した。

不信の弱い弟子たちはイエズスを見て、彼が本当に復活したことを確信した。つまり、イエズス・キリストこそ本当のメシアであり、天主であると確認した。

復活したイエズスを見て触れた使徒たちはがらりと態度を変えた。その後の彼らの人生は、命がけでキリストの復活を宣教することに変わった。こうして彼らは、迫害と困苦と殉教の生涯へと進んで行った。使徒たちの宣教で、キリストを信じる人々はその数を増加させた。彼らもまた、キリストを信仰することによって、困苦と死とを得たのみであった。彼らは皆、使徒の宣教の真実性を絶対的に認めていた。

聖アウグスチヌスは、もしもキリストの復活が事実でなかったとするなら、数人のガレリアの漁夫によって、ローマ帝国全体が改宗してキリストを信じるようになったのは、キリストの復活に勝る大いなる奇跡でなければならないと言っている。

論点2・3を踏まえた、メインの問いに対する答え:「ジーザス・クライスト、お前は誰だ?」

史実はこう答える。イエズス・キリストは自身を天主であると主張し、この主張を証明するために、無数の奇跡を行い、さらには、死者の中より復活することを明言して予告通りに復活した。したがって、イエズスの主張は真理である。つまり、イエズス・キリストは天主だ。

 

論点4:【なぜ現代の即効力のある手段を選ばなかったのか?】

4)現代ならインターネットで全世界を相手に出来たのに、なぜ21世紀の現代に生まれてこなかったのか?もしも本当の天主ならば、生まれるべき時代を選んで効果的に影響をおよぼすべきだったのではないか?

イエズスが生まれた当時は、当然、テレビも新聞もインターネットも無かった。イエズスが生まれたイスラエルは、ローマ帝国の属国であり、神々を信じていた首都ローマから軽蔑されていた貧しい地方だった。人間的な考えによれば、ローマ皇帝の子供として生まれ、権力と軍事力と富と報酬で、人々に影響を及ぼした方がより効果的だったと思われるかもしれない。

しかし、イエズスは、古代に生まれ、マスコミも使わなったのみならず「宣教の愚かさをもって信じる者を救おうと」した。

キリスト教を迫害していたが、後に回心してイエズスを信じる側についた使徒聖パウロはこう言う。「私たちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。それはユダヤ人にとって躓きであり、異邦人にとって愚かであるが、しかし召された人々にとっては、ユダヤ人にもギリシァ人にも、天主の力、そして天主の知恵キリストである。天主の愚かさは人間よりも賢く、天主の弱さは人間よりも強いものだからである。」(コリント前12325

使徒たちは、貪欲と傲慢、色欲と迷信の底に沈んでいたローマ帝国の人々に、イエズスの教えである清貧と従順、貞潔と愛徳、自己犠牲とこの世の軽視を説いた。使徒たちの説教の中心は、この世の娯楽の代わりに来世の天国を希望すること、十字架にはりつけられたイエズスを礼拝することだった。

ローマ帝国の強大な国家権力は、生まれたばかりキリスト教撲滅のために力を尽くした。十回の過酷な迫害が起こった。皇帝の迫害行為は3世紀の間絶えることなく行われた。幼少年をも加えた多くのあらゆる階級の信者の人々がこの迫害、苛酷な拷問を甘んじて受けた。彼らは、死の激痛のなかで死と苦痛を甘受し、自分を拷問する人々の救いを心から希求しつつ、自らの血で染めた手をもって彼らを祝福して殉教していった。こうしてイエズスへの信仰の前に、いかな権力も富も、ローマ帝国さえも、敗北した。

イエズスが人間の救いのために選んだ手段は、この世の知恵では説明がつかない。

聖パウロはこう言葉を続ける。「天主は、知恵者を辱しめるために世の愚かな者を選び、強い者を辱しめるために世の弱い者を選ばれた。天主は、あると誇る者を空しくするために世の賎しいもの、軽んぜられた者、この、無きにひとしいものを選ばれた。それは、天主のみ前で、だれにも誇らせないためである。」(コリント前12729

 

論点5:【イエズスは派手に死んで有名になる狙いだったのか?】

5)イエズスが十字架の上で死んだのは何のためだったのか?

イエズスの十字架上の死は、旧約と自分の預言を成就するためだったことは既に述べた。ここでの質問の意味はこうだ。

イエズスが旧約の預言を成就させながら十字架の上で死ぬことによって、何を成し遂げたのか?その意味で、イエズス・キリストの十字架の死は何のためだったのか?

旧約に預言されたメシアとは、そもそも何なのか?

人類の祖先アダムとエワが最初に罪を犯した時、罪によって人類は天国という至福に至る権利を失ってしまった。旧約の預言は、人祖がこの最初の罪を犯して天主に背いた後に、天主が人間にメシアが送ると約束された時から始まった。メシアつまり救い主とは、人間を罪の負債から解放する者のことだ。

人祖アダムとエワは、自分の力だけで神々のようになろうと欲した。傲慢によって不従順となり天主の掟に背いて罪を犯した。罪のために、この世に苦しみと死が入った。

来るべき救い主は、謙遜で、天主に従順であり、苦しみと死を通して、罪による罰の負債を贖うべきであった。

アダムは木の果実を盗み食べる罪によって、地上の楽園という王国を失った。イエズスは人類を代表する救い主として十字架の木に自分を付けることによって天国の門を開くべきだった。アベルの捧げた小羊の犠牲だけが天主に嘉されて来るべき完成された犠牲が予告されたように、イエズスの十字架の犠牲だけが天主に嘉された。

旧約のノエが「天主が彼に命じたことを全て行った」(創世記6:22, 7:5)ように、イエズスは父なる天主が命じたことを全て死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順に行った。ノエがブドウ酒によって裸になったように、イエズスは人類の罪の贖いを熱望して、赤裸々の姿で十字架につけられた。

アブラハムの一人子のイサアクがいけにえとして屠られようとしたように、天主の御一人子のイエズスはいけにえとして十字架で屠られた。イスラエルの子たちがエジプトからの脱出の記念としてささげられた旧約の過越し(出エジプト記121以下)の儀式がモーゼを通してイスラエルに命じられた。この過越しはイエズスの十字架の犠牲を予告するシルエットであった。

イエズスの狙いは、王として十字架の上で死んで人類の全ての罪を贖うことだった。そうすることによって預言を全て成就させようとした。だからイエズスは茨の冠と言う王冠をかぶった。ローマ帝国がイエズスに与えた公式の罪は「ナザレトのイエズス、ユダヤ人たちの王」だった。

論点4・5を踏まえた、メインの問いに対する答え:「ジーザス・クライスト=スーパースター、お前は誰だ?」

歴史はこう答える。イエズス・キリストは真の救い主だ。イエズス・キリストは真の天主だ。イエズス・キリストは、贖なわれた人類の真の王だ。

 

論点6:【イエズスをよく知っていた者の証言】

イエズスをよく知っていた者の証言を聞いてみよう。ある時「イエズス・キリストは、ペトロとヤコボとその兄弟ヨハネとをつれて、人里はなれた高い山にお登りになった。そして、かれらの前でお姿がかわり、お顔は太陽のようにかがやき、お服は雪のように白くなった。そのとき、モイゼとエリアとが、かれらにあらわれ、イエズスと語りあった。…光る雲があらわれ、雲の中から、「これは私の愛する子、私の心にかなったものである。これに聞け!」とお声があった。」(マテオ1715

この時、イエズス・キリストから選ばれた三人の目撃者のうちの一人であり、キリストからペトロという名前を与えられたヨナの子シモンは、自分の見聞きしたことを次のように証言している。

「私たちはそのみいつの目撃者であった。おごそかな光栄の中から「これは私の愛する子である。私はかれをよろこびとする」と声があって、主は父なる天主から、ほまれと光栄とを受けられた。私たちも、かれとともに聖なる山にいたとき、天からくるこの声を聞いた。」(ペトロ後書11618

論点6を踏まえた、メインの問いに対する答え:「ジーザス・クライスト=スーパースター、お前は誰だ?」

天主なる父はこう答える。イエズス・キリストは、父なる天主の愛する子である。「彼の言うことを聞け!」

 

論点7:【イエズス・キリスト自身の主張】

では、最後に、イエズス・キリスト自身は、自分のことを何といっているだろうか?

イエズスの言葉をいくつか引用しよう。

「私は世の光である。私にしたがう人はやみの中を歩かず、命の光をもつであろう」(ヨハネ812

「私は門である。私を通って入る人は救われ、出入りして牧草を見つけるだろう。しかし、盗人は、盗み、殺し、ほろぼすためにだけくる。私は、羊たちに命を、豊かな命をあたえるために来た。私は良い牧者で、良い牧者は羊のために命を捨てる。牧者でもなく、自分の羊をもたないやとい人は、狼が来るのを見ると、羊をすてて逃げ、羊は狼にうばわれ、散らされる。」(ヨハネ10712

「私は復活であり、命である。私を信じる人は、死んでも生きる。生きて、私を信じる人は、永久に死なない。あなたはこのことを信じるか」(ヨハネ112526

「私は、道であり、真理であり、命である。私によらずには、だれ一人父のみもとにはいけない。」(ヨハネ146

「私は王である。私は真理を証明するために生まれ、そのためにこの世に来た。真理につく者は私の声を聞く。」(ヨハネ1837

「私は門の外に立って叩いている。私の声をきいて戸を開くなら、私はその人のところにはいって、かれとともに食事し、かれも私とともに食事するであろう。勝つ者は、私とともに王座に坐らせよう。私が勝って父とともにその玉座に坐ったと同様に。」(黙示録320

「私はアルファとオメガ、初めと終わりである。渇く者には、無償で命の水の泉を飲ませる。勝つ者は、そのすべてを受ける。私はかれの天主となり、かれは私の子となる。しかし、臆病者、不信仰者、厭うべき者、殺害者、淫行者、魔術者、偶像崇拝者、すべてうそをつく者は、火と硫黄とのもえる池、すなわち第二の死をうける。」(黙示録2168

以上の論点を踏まえた、メインの問いに対する答え(結論):「ジーザス・クライスト=スーパースター、お前は誰だ?」

歴史事実と、父なる天主と、イエズス・キリスト自身は、こう確認する。イエズス・キリストは真の救い主だ。イエズス・キリストは真の天主だ。イエズス・キリストは、贖なわれた人類の真の王だ。

そうして初めて全てに説明がつく。

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カトリック信者にとって、五輪の冒涜の償いをすることは本当に重要である。その理由はこうだ

2024年08月12日 | カトリックとは

カトリック信者にとって、五輪の冒涜の償いをすることは本当に重要である。その理由はこうだ

世界中のカトリック信者が、パリ五輪の開会式で行われた恐ろしい冒涜行為の償いを行っています。教皇ピオ十一世の1928年の「聖心への償いについての回勅」は、なぜこのような祈りによる償いが重要なのかを教えてくれます。

S・D・ライト

2024年8月5日(月)―米東部標準夏時間12時17分

2024年の五輪の開会式のような公の場での冒涜に直面したとき、私たちはそのことについて話したほうがいいのでしょうか、それとも無視したほうがいいのでしょうか。

私たちの中には、この事件が注目されないようにした方がいいのではないかと感じた人々もいます。このような冒涜行為に責任のある者たちが、キリスト信者に憤怒を起こさせ注目を向けさせることで目標を達成しているのは明らかです。

ある意味で、彼らはこの憤怒から利益さえも得ています。つまり、結局は、彼らに無料の宣伝をさせているのであり、「悪名は無名にまさる」ことはよく知られています。多くの人々が、このような出来事の動画や写真を互いに共有し、「こんなの信じられる?」と問いかけたい誘惑に駆られています。

いわゆる保守的インフルエンサーたちが、最新の不潔な音楽を自分の番組で音読することで反応するのと同じことが時々起こります。そのようなものを共有することで、私たちは自分自身を汚しているのです。結局のところ、聖パウロはこう言いました。

しかし、聖徒にふさわしいように、あなたたちの中では、淫行、いろいろな汚れ、情欲は口にさえもするな。

また、汚行、愚かな話、下品な冗談も言うな。それはよからぬことである。ただ天主に感謝せよ(エフェゾ5章3-4節)。

この冒涜的な出来事の写真にも、ある程度は同じことが当てはまります。

しかし、このような冒涜によって引き起こされる客観的な社会的混乱が存在します。そのため、私たちは、このような事件に注意を払う必要があるのです。

冒涜とは何か

聖トマスは、冒涜は非常に大きな罪であり、天主への憎しみによって悪化する一種の不信仰である、と書いています。彼は、それを殺人と比較して、次のように述べています。

殺人と冒涜を、その罪の対象に関して比較するならば、天主に対して直接犯した罪である冒涜の方が、隣人に対する罪である殺人よりも重大であることは明らかである。

一方、その二つの罪を、その罪がもたらす害について比較すれば、殺人の方が重い罪である。なぜなら、冒涜が天主に対して行う害よりも、殺人が隣人に対して行う害の方が大きいからである。

しかし、罪の重さを左右するのは、先に示したように(神学大全Ⅰ-Ⅱ Q73.8)、行為の効果よりも、むしろ悪意という意向であるがゆえに、冒涜者には、天主の名誉に害を与えようという意向があるため、絶対的に言えば、殺人者よりも重い罪を犯しているのである(同Ⅰ-Ⅱ Q13.4)[1]。

冒涜の罪によって引き起こされる社会的混乱と罪の行為は、特にそれが共同体を統治する責任のある者たちによって犯される場合、天主に対する正義の問題として、また社会にとって緊急の問題として、正されなければなりません。

なぜなら、社会団体の長の罪によって、あるいは社会団体全体の行為となるような多数の構成員の罪によって、時には社会団体が集団的責任を負うことがあるからです。このように、社会の指導者たちの罪は、社会の構成員にも影響を及ぼすのです。

聖トマスはこう説明します。

アダムから生まれたすべての人間は、最初の父祖から受け継いだ共通の本性を持っている以上、一人の人間として考えることができる。世俗的な問題においても、一つの共同体に属する者はすべて一つの体であるとみなされ、共同体全体が一人の人間であるとみなされる。(…)したがって、アダムから生まれた多くの人間は、多くの構成員を持つ一つの体のようなものである(同I-II Q. 81.1)。

この文章は、「一つの体であるとみなされ、共同体全体が一人の人間であるとみなされる」共同体が、国家が全体として犯した、あるいは、国家の指導者たちが犯した罪に対して、禁止命令(または経済制裁など)のような措置をもって正当に罰せられることがあるのはなぜかを説明しています。

同じ理由で、歴史を通じて何度も見てきたように、正義の天主は、甚だしい罪や冒涜で天主を挑発するような共同体を罰することを選ぶかもしれません。

これが「償い」が意味するものです。

しかし私たちは、無限の天主に対する罪に対して、本当に償いを捧げることができるのでしょうか。

償いは可能か

罪がある意味で無限であり、それは罪が最終的に向けられる相手である天主の尊厳が無限であるからだ、というキリスト教の原則はよく知られています。聖トマスはこう書いています。

天主に対して犯した罪は無限である。なぜなら、罪の重さは罪を犯した相手の偉大さに応じて増大し(したがって、君主を打つことは私人を打つよりも重い罪である)、天主の偉大さは無限であるからである。

それゆえ、天主に対して犯した罪には無限の罰が与えられる[2]。

キリスト教のもう一つの原則は、このような罪に対して、単なる有限の人間が償いをすることはできない、ということです。聖トマスはこう書いています。

「どんな罰も、(罪の負債に対して)人間が(天主に)十分な償いを支払うことはできない」[3]。

ここで注目すべき点が二つあります。

第一は、自分の罪であれ他人の罪であれ、私たちが罪に対して十分な償いをすることが根本的にできないということが、そのような償いをしようとする義務をなくしてしまうわけではないということです。私たちには少なくとも、償いを試み、公然の冒涜による混乱、不公正、罪の行為の埋め合わせをする義務があります。

第二は、天主ご自身のあわれみによって、天主は、人類に罪の償いをする手段を与えてくださったということです。その償いは、神性とお取りになった人性を併せ持つ天主のペルソナである、キリストのご受難によって達成されたものです。

私たちの人性をお取りになることによって、キリストは私たちの一人として、人間として、天主にいけにえを捧げることができました。このいけにえは、「天主の肉体であったからこそ」、また、キリストが天主に対する完全な従順と限りない愛から、この極限の苦しみを耐え忍ばれたからこそ、無限の価値を持つものだったのです[4]。

しかし実際には、キリストが人類を贖われたのは、単なる「十分な」方法によってではなく、むしろ、私たちに超自然の行為を行う手段を与えるという「あふれるほどの豊かな」方法によってなのです。その超自然の行為は、ご受難と一致し、超自然の愛徳によって活力を与えられている限りにおいて、功徳のあるものなのです。

そのような行為は、常にキリストのご受難、恩寵、超自然の愛徳からその価値を引き出すものであり、冒涜やその他の罪が天主の御怒りを招くこと以上に、天主をお喜ばせするものとなり得るのです。

このため、罪の償いをすることは本当に可能なのです。償いを捧げる試みについて、ピオ十一世は1928年の回勅でこう述べています。

十人の義人のためにソドムを容赦しようとされた、正義にしてあわれみ深い天主は、謙虚な祈願によって心を動かされ、全人類の名において、その仲介者にしてかしらであるキリストに一致して共に祈る信者の共同体の祈りによって幸いになだめられるとき、さらに全人類を容赦する用意があるであろう[5]。

ソドムの例は、指導者たちや多数の個人の罪が、全体としての社会に影響を及ぼすのと同様に、一部の人々が償いを行えば、同じように影響を及ぼす可能性があることを示しています。

世界中で行われている償い

パリでの侮辱的な行為の後、カトリック信者の各グループが公の償いの祈りを行いました。翌週には、LifeSiteNewsがこう伝えました。

8月2日(金)の時点で、ほぼすべての大陸から3人の枢機卿と24人の司教が書簡に署名し、「この冒涜に対する償いのための祈りと断食の日」を約束した。

「パリで開催された夏季五輪が、グロテスクで冒涜的な最後の晩餐の描写で開幕するのを、世界は衝撃をもって見守った」と高位聖職者たちは書いている。「20億人以上の人々の信仰が、これほど軽々しく、意図的に冒涜されるとは理解しがたい」。

「私たち世界中のカトリック司教は、世界中のキリスト信者に代わって、五輪委員会がこの冒涜的な行為を不当なものだと述べ、すべての信仰を持つ人々に謝罪することを要求する」と書簡は続ける。

署名者の大半は、サンフランシスコのサルバトーレ・コルディレオーネ大司教、フィラデルフィアのチャールズ・シャピュー名誉大司教(カプチン・フランシスコ修道会)、カンザスシティのジョゼフ・ナウマン大司教を含む米国の司教だが、ナイジェリア、レバノン、英国、フランス、アルゼンチンの司教、カザフスタンのアスタナのアタナシウス・シュナイダー司教もいる。

署名した枢機卿には、レイモンド・レオ・バーク枢機卿、ウィルフリッド・フォックス・ネイピア枢機卿(フランシスコ修道会)、ベルハネイエスス・デメレウ・スラフィエル枢機卿(ラザリスト会)が含まれる。

カナダでは、カトリック信者がこの出来事に対する償いとして、フランス大使館への公開行進を計画しています。主催者のジョン・パチェコはLifeSitenewsにこう語りました。

「償いは、教会や社会で長い間忘れられてきたことです。天主に対する冒涜は非常に重い罪です」。

伝統的に、このような罪は、天主の各ペルソナに対する直接的な攻撃であるため、最悪の罪の一つ(肉の罪よりもさらに悪い)と考えられていたが、今日では、教会で評価されず、社会では、ちょっとした冗談になっている。

悲しいことに、多くの人は、【天主からの】何の反応もなくこの嘲笑が続くのを天主が許してくれると信じている。そのような態度は、天主の御稜威に対する軽薄な態度と、天主に対する恐れが完全に欠如していることを表している。これは深刻な妄想である。

英国では、カトリック信者がロンドンのフランス領事館の前に集まり、公的な償いの祈りを行いました。この集会の主催者はこう述べました。

「私たちがここにいるのは、先週、パリで五輪の開会式が行われたためです。私たちは、これまで私たちの記憶にないほどの大胆な冒涜を目にしました。

(それは、)私たちの主イエズス・キリストが、私たちの主ご自身との完全で親密な一致の秘跡である聖体を制定された、最後の晩餐を完全にあざ笑うものでした。まことに聖にして純粋なもの、ふさわしい拝領者に多くの恩寵を与えるもの、そして彼らが明らかに嫌っているものです!

特に、私たちのカトリック位階階級とされる人たちの沈黙を前にして、カトリック信者は、このようなあからさまな冒涜行為、オカルト的なルチフェル的儀式に他ならないものに対して、償いをすることが不可欠です。

ですから今日、私たちは欧州中の無数のカトリック信者とともに、この世による暴挙、汚聖、冒涜に対する償いのために、そしてこの世の真の王である、王たるキリストをたたえるために、ロザリオを捧げます」。

これらの行事に参加した人々は、教皇ピオ十一世が約100年前にこれらの行事について次のように記していることを知り、励まされるはずです。

信者の誰もが、これらのすべてのことについて敬虔に熟考し、キリストの苦悩の際の愛徳で燃え立ち、自分自身の過ちと他者の過ちを償い、キリストの名誉を回復し、霊魂の永遠の救いを促進するために、より熱心に努力しなければならない[6]。

キリスト信者に与えた不快感に過度に注目すること

この出来事に関する多くの論評は、このような冒涜がキリスト信者に与えた不快感を中心に展開されています。フランシスコが一週間以上も沈黙を守っていたことに多くの人が驚きましたが、ある意味、次の【バチカンの】声明は沈黙よりもひどいものです。

聖座は、パリ・オリンピックの開会式のいくつかの場面に悲しみを覚えると共に、ここ数日上げられていた、多くのキリスト教信者や他の宗教の信者にもたらした不快感を嘆く声に加わらざるを得ない。

全世界が共通の価値観のもとに一致して集う信望ある催しにおいて、多くの人々の宗教的信念を嘲笑するような暗示はあってはならないはずだ。

表現の自由は、当然問題ではない(が、)他者の尊重においては限界がある。

【参考】バチカンニュース・教皇庁「パリ五輪開会式のいくつかの場面に悲しみ」表明

キリストを拒否する人たちに対応する場合、キリスト信者、そして「すべての信仰を持つ人たち」、「他の宗教の信者たち」に起こる不快感に焦点を当てることは、少しは適切かもしれませんが、天主ご自身に起こる不快感の方がはるかに重大です。

私が何度か言及したピオ十一世の1928年の回勅「ミゼレンティッスムス・レデンプトール」(Miserentissumus Redemptor)とこの声明を比較すると、この焦点を当てることの不自然さがよく分かります。

この回勅は、天主の御子にして人類の贖い主に対する公然の冒涜に対して、真の教皇がどのような公的感情を持つべきかを私たちに示しています。


以下にピオ十一世の回勅からの抜粋を掲載します。もし天主の名誉に関心を持つ教皇がいれば、そのようなことは、今週書かれたかもしれませんし、先週、同じようなことが書かれたかもしれません。

私たちは皆、ピオ十一世の教えに留意し、少なくとも個人的な償いの祈りを捧げるべきです。

ミゼレンティッシムス・レデンプトール

ピオ十一世の1928年の「聖心への償いについての回勅」

背教の現代における償いの絶対的必要性

さて、この罪の償いの必要性がどれほど大きいか、とりわけこの現代においては、冒頭で述べたように、「悪者の配下にある」(ヨハネ第一書5章19節)世を、目と心で調べるすべての人に明らかになるであろう。

あらゆる方面より、嘆き悲しむ民の叫びがわれらに届き、民の君主や支配者たちは立ち上がり、主とその教会に逆らって手を結ぶ(詩篇2篇2節参照)。

私は、そのような地域全体にわたって、人間の権利も天主の権利もすべて混乱しているのを見ている。教会は打ち壊され、転覆させられ、修道者や聖なる童貞は彼らの家から引き離され、虐待や蛮行、飢えや投獄で苦しめられている。少年少女の一団は、彼らの母なる教会の懐から引き離され、キリストを棄て、天主を冒涜し、最悪の情欲の罪を企てるように仕向けられている。全キリスト信者は、悲しくも意気消沈、混乱して、絶えず信仰から離れ、あるいは最も残酷な死に見舞われる危険にさらされている。

これらのことは実に悲しいことであるため、このような出来事は「悲しみの始まり」、すなわち「天主ととなえられるもの、崇敬されるすべてのものの上に自分を立てる」(テサロニケ後書2章4節)罪の人によってもたらされることを予兆し、予告していると言えるかもしれない。

私たちの同胞であるキリスト信者のために、また彼らが直面する問題のためになされるべき償い

しかし、敬うべき兄弟たちよ、汚れなき小羊の血で洗礼において洗われ、恩寵に満たされた信徒たちの中に、あらゆる階級の多くの人々がおり、彼らは、天主的なものに対する驚くべき無知の下で労苦し、誤った教理に感染し、御父の家から遠く離れ、悪徳にまみれた生活を送り、真の信仰の光に照らされることもなく、将来の至福の希望に喜ばれることもなく、愛徳の炎に清められたり大切にされたりすることもない生活を送っている。そのため、彼らは本当に、闇と死の陰に座しているように見える。

さらに、信徒たちの間では、教会の規律への無頓着さや、すべてのキリスト教的生活がその上にあり、それによって家庭社会が支配され、結婚の神聖さが守られている、古くからの制度に対する無頓着さが非常に高まっている。子どもたちの教育は完全に軽視され、さもなければ、あまりにも甘やかされた誘惑によって堕落させられ、教会は若い人たちにキリスト教的教育を施す力さえ奪われている。特に女性の生活と服装においては、キリスト教的な慎み深さが忘れ去られ、はかないものに対する留まるところを知らない愚かさ、世俗的な問題における節度のなさ、大衆の人気に対する限りない野心、正当な権威の軽蔑、そして最後に、信仰そのものが傷つけられたり危うくなったりする、天主の言葉に対する侮蔑がある。

しかし、これらの悪のすべてが、いわば頂点に達するのは、眠り、逃げ惑う弟子たちのように、信仰を揺るがせ、キリストが苦悩に圧迫されたり、サタンの配下に取り囲まれたりするときに、みじめにもキリストを見捨てる者たちの臆病と怠惰において、また、裏切り者ユダの例にならって、軽率かつ冒涜的に聖なる食卓にあずかったり、敵の陣営に行ったりする者たちの背信行為において、である。

こうして、われらの主が、「不義が増すにつれて、おびただしい人の愛が冷める」(マテオ24章12節)と預言されたような日が近づいているという思いが、余の意志に反してさえ、心に湧き上がってくるのである。

キリストを愛する者の義務

さて、信心深い者であれば誰でも、これらすべての事柄について敬虔に熟考したなら、苦悩するキリストの愛徳で燃え立ち、自分自身と他人の過ちを償い、キリストの名誉を回復し、霊魂の永遠の救いを促進するために、より熱心に努力しなければならない。

そして、実際、使徒の言葉「罪が増したところには、それ以上の恩寵があふれるばかりのものとなった」(ローマ5章20節)は、この現代を表すのに使われるのかもしれない。なぜなら、人間の邪悪さが非常に増大した一方で、同時に、聖霊の霊感によって、天主の聖心に捧げられた多くの傷ついた人を償うために熱心な心をもって努力する男女の信者の数が驚くほど増大しているから、いや、彼らはいけにえとして自らをキリストに捧げることをためらわないからである。

なぜなら実際、私が話してきたことを愛をもって考え、心に深く刻み込む人なら、あらゆる罪を最大の悪と同じように恐れおののき、天主の御旨に完全に身をゆだね、絶え間ない祈りによって、自発的な断食によって、自分に降りかかる苦難に忍耐強く耐えることによって、そして最後に、この償いの運動に生涯を費やすことによって、天主の御稜威の傷ついた名誉を回復しようと努めるであろうからである。
参考資料

1. St. Thomas does clarify, however that ‘[n]evertheless murder takes precedence, as to punishment, among sins committed against our neighbor.’

2. St. Thomas Aquinas, Summa Theologica (henceforth ST), Ia IIae, Q87 A4 Obj. 2. Trans. Fathers of the English Dominican Province, Second and Revised Edition, 1920. Text taken from New Advent.
While this text is found in an objection to the thesis of the given question, St Thomas accepts the terms as being relevant to one aspect of sin, namely the turning away from the infinite good, which is God. This is made explicit in the response, which itself refers back to the body of the answer:

“Punishment is proportionate to sin. Now sin comprises two things. First, there is the turning away from the immutable good, which is infinite, wherefore, in this respect, sin is infinite. Secondly, there is the inordinate turning to mutable good. In this respect sin is finite, both because the mutable good itself is finite, and because the movement of turning towards it is finite, since the acts of a creature cannot be infinite.”

3. ST III Q47 A3

4. ST III Q48 A2

5. Miserentissimus Redemptor n. 21

6. Pius XI n. 18.


謙遜の連祷(ラファエル・メリ・デル・ヴァル枢機卿作:教皇聖ピオ十世の国務省長官であった)

2024年07月19日 | カトリックとは

謙遜の連祷(ラファエル・メリ・デル・ヴァル枢機卿作:教皇聖ピオ十世の国務省長官であった)

ああイエズス!柔和かつ謙遜なる聖心よ、わが祈りを聞き給え。

よく評価されることの望みから、イエズスよ、われを解き放ち給え。
愛されることの望みから、イエズスよ、われを解き放ち給え。
求められることの望みから、イエズスよ、われを解き放ち給え。
名誉を得る望みから、イエズスよ、われを解き放ち給え。
ほめられる望みから、イエズスよ、われを解き放ち給え。
他者よりも優先される望みから、イエズスよ、われを解き放ち給え。
相談される望みから、イエズスよ、われを解き放ち給え。
認められる望みから、イエズスよ、われを解き放ち給え。

はずかしめられることの恐れから、イエズスよ、われを解き放ち給え。
さげすまれることの恐れから、イエズスよ、われを解き放ち給え。
とがめられることの恐れから、イエズスよ、われを解き放ち給え。
讒言(ざんげん)される恐れから、イエズスよ、われを解き放ち給え。
忘れられる恐れから、イエズスよ、われを解き放ち給え。
あざけられる恐れから、イエズスよ、われを解き放ち給え。
傷つけられる恐れから、イエズスよ、われを解き放ち給え。
疑われる恐れから、イエズスよ、われを解き放ち給え。

ねがわくは、われよりも他の人々が愛されんことを、イエズスよ、それを欲する聖寵をわれに与え給え。
ねがわくは、われよりも他の人々がよく評価されんことを、イエズスよ、それを欲する聖寵をわれに与え給え。
ねがわくは、他の人々がますます高いこの世の評判を受け、わが評判は下げられんことを、イエズスよ、それを欲する聖寵をわれに与え給え。
ねがわくは、他の人々が選ばれ、われは脇に置かれんことを、イエズスよ、それを欲する聖寵をわれに与え給え。
ねがわくは、他の人々が称賛され、われは無視されんことを、イエズスよ、それを欲する聖寵をわれに与え給え。
ねがわくは、全てにおいて他の人々がわれより好まれんことを、イエズスよ、それを欲する聖寵をわれに与え給え。
ねがわくは、他の人々がわれより聖とならんことを、われは聖となるべき程度まで聖とならんことを、イエズスよ、それを欲する聖寵をわれに与え給え。

Letanías de la Humildad
(del Cardenal Merry del Val)

Jesús manso y humilde de Corazón, -Óyeme.
(Después de cada frase decir:Líbrame Jesús)
Del deseo de ser lisonjeado,
Del deseo de ser alabado,
Del deseo de ser honrado,
Del deseo de ser aplaudido,
Del deseo de ser preferido a otros,
Del deseo de ser consultado,
Del deseo de ser aceptado,
Del temor de ser humillado,
Del temor de ser despreciado,
Del temor de ser reprendido,
Del temor de ser calumniado,
Del temor de ser olvidado,
Del temor de ser puesto en ridículo,
Del temor de ser injuriado,
Del temor de ser juzgado con malicia
(Después de cada frase decir:Jesús dame la gracia de desearlo)
Que otros sean más amados que yo,
Que otros sean más estimados que yo,
Que otros crezcan en la opinión del mundo y yo me eclipse,
Que otros sean alabados y de mí no se haga caso,
Que otros sean empleados en cargos y a mí se me juzgue inútil,
Que otros sean preferidos a mí en todo,
Que los demás sean más santos que yo con tal que yo sea todo lo santo que pueda,
Oración:
Oh Jesús que, siendo Dios, te humillaste hasta la muerte, y muerte de cruz, para ser ejemplo perenne que confunda nuestro orgullo y amor propio. Concédenos la gracia de aprender y practicar tu ejemplo, para que humillándonos como corresponde a nuestra miseria aquí en la tierra, podamos ser ensalzados hasta gozar eternamente de ti en el cielo.
Amén.

 


聖クロード・ド・ラ・コロンビエール神父 (1641-1682) の作った「天主に信頼する祈」

2024年07月18日 | カトリックとは

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

聖クロード・ド・ラ・コロンビエール神父 (1641-1682) の作った「天主に信頼する祈」をご紹介いたします。

天主に信頼する祈(聖クロード・ド・ラ・コロンビエール (1641-1682))

わが天主よ、御身に希望せる者はすべて御身に見守られ、御身にすべてを待ち望む者には何一つ欠けるものなしとわれは確信す。われは、将来を何の心配もなく生き、わが不安のすべてを手放して御身に委ねんと決心したてまつる。「主よ、われ、安らかに眠り、休むなり。われが御身のうちに見出す平和のうちに。なぜなら、主よ、御身はわが希望を特別なるやり方で強めたもたればなり。」(詩篇4:9-10)人々はわれから財産と名声を奪い、病はわが力と御身に仕える手段を取り去り、われ自身は罪のために御身の恵みを失うやもしれず。しかし、われ、希望を失わじ。われは最期まで希望せん。われから希望を奪おうとする悪魔らのこころみはすべて無駄なり。「主よ、われ、安らかに眠り、休むなり。」
ある者らは豊かさや才能に幸福を期待し、ある者らは、罪なき生活、厳しい苦行、善行の量、祈りの熱意に期待するやもしれず。しかしわれにとっては、主よ、わが全ての信頼こそが、わが信頼なり。「なぜなら、主よ、御身はわが希望を特別なるやり方で強めたもたればなり。」この信頼はだれをも偽らず。「主に信頼する者は、誰一人としてその信頼に恥じたことなしと知れ。」(Eccl. 2:11)
ゆえに、われは永遠に幸福なることを確信せり。そは、われ固くかく希望するが故に、また、天主よ、御身にこそ希望するが故なり。「主よ、御身にこそわれは信頼せり。決して恥ずかしめらるを許しなもうなかれ。」(詩篇30:2)われは、おのれがもろく、弱きことを知れり。あまりにもよく知れり。深く根付きし聖徳に反する誘惑がいかに強いかも知れり。天高き星々や天空を支える大黒柱の倒れ落ちるのをわれは見たり。しかしわれは恐れじ。われ希望する限り、すべての災いから守られるがゆえなり。われは変わらぬ希望で希望するがゆえに、われは常に希望するなり。
われは御身に希望しすぎることはありえず、御身に希望したことをすべて受けられると確信するなり。それゆえ、われは、御身がいとも激しき誘惑においてわれを支えたもうこと、御身がいとも恐るべき敵どもにわが弱さを勝利させ給うを知るなり。御身はつねにわれを愛したまい、われも倦まずたゆまず御身を愛するを希望せん。われは御身に、そして御身だけを希望し!ああ、わが創造主よ!時の中で、そして永遠に。アーメン。

ACTE DE CONFIANCE EN DIEU

Saint Claude de LA COLOMBIERE(1641-1682)
Mon Dieu, je suis si persuadé que Vous veillez sur ceux qui espèrent en Vous, et qu’on ne peut manquer de rien quand on attend de Vous toutes choses, que j’ai résolu de vivre à l’avenir sans aucun souci, et de me décharger sur Vous de toutes mes inquiétudes : « Pour moi, mon Dieu, je dormirai et me reposerai dans la paix que je trouve en Vous ; parce que Vous m’avez, Seigneur, affermi d’une manière toute singulière dans l’espérance que j’ai en Votre divine bonté » (Ps IV, 9-10). Les hommes peuvent me dépouiller et des biens et de l’honneur, les maladies peuvent m’ôter les forces et les moyens de Vous servir, je puis même perdre Votre grâce par le péché ; mais jamais je ne perdrai mon espérance, je la conserverai jusqu’au dernier moment de ma vie, et tous les démons de l’enfer feront à ce moment de vains efforts pour me l’arracher : « Pour moi, mon Dieu, je dormirai et me reposerai dans la paix que je trouve en Vous… ». 
D’aucuns peuvent attendre leur bonheur de leurs richesses ou de leurs talents, d’autres s’appuyer sur l’innocence de leur vie, ou sur la rigueur de leurs pénitences, ou sur le nombre de leurs aumônes, ou sur la ferveur de leurs prières : « Parce que Vous m’avez, Seigneur, affermi d’une manière singulière dans l’espérance… » : pour moi, Seigneur, toute ma confiance c’est ma confiance même ; cette confiance ne trompa jamais personne : « Sachez que jamais personne qui a espéré dans le Seigneur n’a été confondu dans son espérance » (Eccl. II, 11). 
Je suis donc assuré que je serai éternellement heureux, parce que j’espère fermement de l’être, et que c’est de Vous, ô mon Dieu, que j’espère : « C’est en Vous, Seigneur, que j’ai espéré ; ne permettez pas que je sois confondu à jamais » (Ps. XXX, 2). Je connais, hélas! Je ne connais que trop que je suis fragile et changeant, je sais ce que peuvent les tentations contre les vertus les mieux affermies, j’ai vu tomber les astres du ciel et les colonnes du firmament, mais tout cela ne peut m’effrayer : tant que j’espèrerai je me tiens à couvert de tous les malheurs, et je suis assuré d’espérer toujours, parce que j’espère encore cette invariable espérance. 
Enfin, je suis sûr que je ne puis trop espérer en Vous, et que je ne puis avoir moins que ce que j’aurai espéré de Vous. Ainsi, j’espère que Vous me soutiendrez dans les tentations les plus violentes, que Vous ferez triompher ma faiblesse de mes plus redoutables ennemis ; j’espère que Vous m’aimerez toujours, et que je Vous aimerai aussi sans relâche ; et pour porter tout d’un coup mon espérance aussi loin qu’elle peut aller, je Vous espère Vous-même de Vousmême, ô mon Créateur, et pour le temps et pour l’éternité. 
Ainsi soit-il !   

 


至聖なるイエズスの聖心の祝日にあたりての連祷【ゲルトルード・フォン・ル・フォール作】

2024年06月06日 | カトリックとは

至聖なるイエズスの聖心の祝日にあたりての連祷
ゲルトルード・フォン・ル・フォール作

御身の声[キリストの神秘体なるカトリック教会の声]は語る。
大連禱を祈るように、私は霊魂の熱情を祈ろう。
私は、讃美の歌声をあげよう。歌ではなく、愛によって。

御身は、聖なる心、天主の聖心、全能の聖心、
御身は、全てのことの、血のような真っ赤な秘義、
愛よ、愛されよ、永遠の愛よ、永遠(とわ)に愛されよ。

凍り付いた世の暗闇のなかの火の炉よ、
愛よ、愛されよ!

世のすべての偽りの明るさをおおう焔の影よ、
愛よ、愛されよ!

世のすべての偽りの安息のうちに燃えさかる赤き印よ、
孤独なる聖心よ、燃えさかる聖心よ、渇きを癒やしがたき聖心よ、
永遠の愛よ、愛されよ!

顔の無い夜々のように深き聖心よ、
愛されよ!
岸辺の無い波浪(なみ)らのように強き聖心よ、
愛されよ!

苦々しさを知らぬ小さな子供たちのようにやさしい聖心よ、
永遠(とわ)に愛されよ!

見えざる者の花壇からの薔薇よ、
謙遜な童貞女のカリスからの薔薇よ、
天と地とが互いに絡み合う花咲く薔薇のしげみよ、
永遠の愛よ、愛されよ!

御身の血潮の流れるマントにある王の聖心よ、
愛よ、愛されよ!

荊棘(いばら)の冠の野蛮なあざけりにおける兄弟愛の聖心よ、
愛よ、愛されよ!

御身の致命傷の不動の飾りをつけた破れた聖心よ、
玉座を追われた聖心よ、裏切られた聖心よ、残酷に殉教せる聖心よ、
愛よ、愛されよ!永遠の愛よ、永遠に愛されよ!

力たけき者たちもその御前では跪きを見出す聖心よ、
私たちは、御身に御身の愛を乞い願う!

こころ冷たき者たちもその御前では涙を見出す聖心よ、
私たちは、御身の愛を乞い願う!

盗賊も殺人者もその御前では赦しを見出す聖心よ、偉大なる聖心よ、
憐れみの聖心よ、栄光の聖心よ、
私たちは、御身の愛を乞い願う!

私たちの歓びの赤き茨よ、私たちの改悛の悲しみの茨よ、
私たち自身の日没の美しき夕映えよ、
私たちは、御身の愛を乞い願う!

その御前では罪も死んだように蒼ざめる緋の衣よ、
私たちは、御身の愛を乞い願う!

病める霊魂らが渇き求める真紅の泉よ、
私たちは、御身の愛を乞い願う!

別れた友らが再会することのできる囁くほどの近さよ、
私たちは、御身の愛を乞い願う!

悲しめる者たちを慰める灯火よ、
迫害され、のけ者にされた者たちの灯台よ、
そこにおいては穏やかな死者たちがまだ息づくことのできる隠された部屋よ、
すべてを知る聖心、すべてを導く聖心、究極の聖心よ、
私たちは、御身の愛を乞い願う!

私たちすべてを御自分へと抱きたもう聖心よ、私たちすべての心の中央を打ち給う聖心よ、私たちすべての傲れる心を砕きたもう聖心よ、
私たちは、御身の愛を乞い願う!

孤独を偉大な民と成し給う聖心よ、
私たちは、御身の愛を乞い願う!

分裂を一致した民族と成し給う聖心よ、
私たちは、御身の愛を乞い願う!

そこにおいて全世界が御身の民となる聖心よ、
私たちは、私たちを御身の愛に奉献し奉る!
あふれて流れる(überströmendes)聖心よ、燃えさかる(überflammendes)聖心よ、たぎりたつ(überbrausendes)聖心よ、
愛よ、愛されよ、永遠の愛よ、永遠(とわ)に愛されよ!

願わくは御身の一日が燃え立たん(anbrenne)ことを、
私たちは、私たちを御身の愛に奉献し奉る!

御身の一日が私たちすべてのこころを燃え立たせん(aufbrenne)ことを、
私たちは、私たちを御身の愛に奉献し奉る!

御身の一日が私たちすべてのこころを御身の聖心のなかへ焼きつくさん(verbrenne)ことを、
私たちは、私たちを御身の愛に奉献し奉る!

力強き聖心よ、遁れがたき聖心よ、すべてを焼き尽くす聖心よ。 - 火よ!火よ!天使たちの翼は燃えている、ケルビムらの剣が燃えている!
天の光らは燃えてる!地の底は燃えている!岩や星たちが燃えている!
すべての被造物の期待が燃えている!人間の頭の暗がりで精神が燃えている!
すべては愛に抱かれた。すべては愛にならねばならない。"聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな"と歌え! セラフィムたちの焔よ!

天にその栄光を授ける聖心よ、
太陽らと天の星々とにその始まりと終りとを授ける聖心よ、
至福の霊魂たちにその至福直観を授ける聖心よ、
世界に秩序を与える聖心よ、世界を征服する聖心よ、御身、全ての心の唯一なる聖心よ、
アーメン。アーメン。御身の永遠の愛の一日(Tag)が到来して燃えさかりますように。


【参考文献】「シノドスの過程はパンドラの箱 : 100の質問と回答」PDFファイル

2024年02月08日 | カトリックとは

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

「シノドスの過程はパンドラの箱 : 100の質問と回答」PDFファイル 
👆PDFファイルは上をクリックしてダウンロードしてください。

ホセ・アントニオ・ウレタとフリオ・ロレド・デ・イズクエ著

目次

まえがき(レイモンド・レオ・バーク枢機卿)

序章

「通常」総会ではない
ドイツの「Synodaler Weg」(シノドスの道)
失敗した道
公会議主義から永続的シノダリティへ
「私は兄弟たちには他人となり、母の子らには見知らぬ人となった」

第一章 司教シノドス
1.司教シノドスとは何ですか。
2.シノドスの結論は拘束力を持ちますか。
3.教皇や司教シノドスはカトリック教会の教理や構造を変えることができますか。
4.教皇フランシスコは司教シノドスでいかなる変更を導入したのですか。
5.教皇フランシスコは司教シノドスにおけるこの急激な変化をどのように正当化しているのですか。

第二章 シノダリティに関するシノドス
6.今回のシノドスのテーマとプログラムは何ですか。
7.このシノドスの目的は、具体的な結論を得ることなのでしょうか、それとも過程を始めることなのでしょうか。
8.教皇フランシスコはなぜ集会を2回開催することを決めたのでしょうか。
9.相当数の信者がシノドスや教皇の決定に反対し、拒否したらどうなりますか。

第三章 シノドスの過程

A 「シノダリティ」

10.「シノダリティ」とは何ですか。
11.シノダリティは何を求めていますか。
12.シノダリティは教会生活にどのような影響を与えますか。

B 「耳を傾けること」
13.なぜ「信者の声に耳を傾ける」ことが第一の役割なのですか。
14.牧者が信者の声に「耳を傾ける」という伝統的な感覚は存在するのでしょうか。
15.「耳を傾ける」という現代的な概念に欠点はありますか。
16.民の声は天主の声ですか。
17.彼らは耳を傾けることが必要だとするためにいかなる神学的正当化を行いますか
18.では、いかなるときに信者の信仰が不可謬であるのかを、どのようにして知ることができますか。
19.シノドス推進派は誰に耳を傾けていますか。
20.このように広範囲に耳を傾けることにはどのような危険性がありますか。
21.人は誤ったつまずきを与える提案を聖霊のものだとすることができますか。

C 教理の発展における信者の役割
22.信者は教会の教理を精緻化する役割を果たしますか。
23.それは信者が教会の不可謬性に積極的な役割を果たすという意味でしょうか。
24.シノドス推進者たちは、信仰の遺産の有機的発展において、教導権の積極的役割と信徒の受動的役割を区別していますか。

D 「疎外された少数派」の役割
25.シノドス推進派は、「疎外された少数派」の声に特に耳を傾けると主張していますか。
26.教区の協議で集められた「預言的証言」に含まれる「困難で否定的な経験」とは何ですか。
27.大陸レベルの協議はこれを反映していますか。
28.大陸ステージのための作業文書は女性の叙階について何と言っていますか。
29.これらのテーマは新しいものでしょうか。

E 「包摂」
30.シノドスの推進者にとって「包摂」(inclusion)とは何でしょうか。
31.「包摂」提案の背後には何があるのでしょうか。
32.今度のシノドスを理解する鍵は「根本的な包摂」なのでしょうか。
33.この「根本的包摂」は教会の構造や教理を変えるのでしょうか。
34.「包摂」は解放神学の「貧しい人々の教会」を実践しているのでしょうか。

F 大陸ステージのための作業文書
35.教区の協議で集められた証言の結果はどんなものだったのですか。
36.それはイデオロギー的に偏った文書でしょうか。

G 信者は意見を述べたのでしょうか
37.理論的には、シノドスの過程は「天主の民」全体から意見を聞くべきとされています。それは行われたのですか。
38.この数字が意味するものは何でしょうか。

H シノドスの核心は「セクト」か
39.なぜカトリック信者は無関心なのですか。
40.グリッロは、入門者のサークルの「外部」のものとしてのカトリックの大衆に言及するとき、一つの隠された集団のことを暗示していませんか。

第四章 教会改革

41.どのようなレベルで教会の構造を変えるべきなのでしょうか。
42.これらの変更は典礼にも影響を与えますか。
43.シノドス推進派によれば、教会の主な問題は何でしょうか。
44.聖職者主義をどのように治療するのでしょうか。
45.教会の現在の構造に対してどのような適応がなされるべきでしょうか。
46.この団体主義は緊張や意見の相違を生じさせませんか。
47.この過程は現代の民主主義とどう違うのでしょうか。
48.「共同体的な識別」とは何ですか。
49.教会の統治とはどのようなものになりますか。
50.信者の意見と教皇の意見が食い違う場合、どちらが優先されるのでしょうか。
51.シノドス推進派は、教会生活における共同体的共同責任を正当化するために、どのような神学的根拠を提示しているのですか。
52.「カリスマ」と信者の「役務」をどこまで認めるつもりなのでしょうか。

第五章 ドイツの「Synodaler Weg」【シノドスの道】
A ドイツのためだけではない道

53.「Synodaler Weg」とは何ですか。
54.「Synodaler Weg」は世界的シノドスとは違いますか。
55.ドイツの司教たちはどこでその考えを得たのですか。
56.「Synodaler Weg」で発言するのは誰ですか。
57.「Synodaler Weg」はどれほど重要なのでしょうか。
58.「Synodaler Weg」はなぜ招集されたのでしょうか。
59.「Synodaler Weg」の背後には下心があるのでしょうか。
60.「Weg」は教会の文化的パラダイム・シフトでしょうか。
61.Weg推進派によれば、聖職者の性的虐待を引き起こすものは何でしょうか。
62.Synodaler Wegはどのような解決策を提案しているのでしょうか。
63.これは教会の破壊につながるのでしょうか。

B 教会の民主化
64.「Weg」推進派は教会統治に関して何をするつもりなのでしょうか。
65.評議会結成に合意はあったのでしょうか。
66.バチカンはこのシノドス評議会を承認したのでしょうか。
67.バチカンの介入は何か影響を与えましたか。

C 女性の叙階
68.女性の叙階はシノドスのテーマとどう関係するのでしょうか。
69.教会の教理は女性を司祭に叙階することを認めていますか。
70.女性に対して助祭職だけを承認することは可能でしょうか。

D 同性愛者を「包摂する」
71.同性愛の問題はシノダリティとどのように関係するのでしょうか。
72.教会は同性愛についてどう教えていますか。
73.教会は同性愛者を拒絶しますか。
74.同性愛者を教会に「包摂する」とはどういうことですか。
75.教会の道徳の教理は同性愛者を「包摂する」ように変えなければならないのですか。
76.教会の道徳の教理に代わるものとして、「Weg」推進派は何を提案するのでしょうか。
77.同性愛者を「包摂する」ことを求めているのは、「Weg」推進派だけなのでしょうか。
78.彼らは同性婚を合法化するための抜け穴を探しているのでしょうか。
79.バチカンはこれらの「祝福」を承認したのでしょうか。
80.ドイツ司教団と欧州の各司教協議会の反応はいかがでしょうか。

E - 家族の破壊
81.教会の教理によれば、家族とは何でしょうか。
82.「Synodaler Weg」は家族にどのような変更をしようと意図しているのでしょうか。

第六章 でこぼこ道
A 「Synodaler Weg」に反対する反応
83.枢機卿や司教は「Synodaler Weg」に対して抗議しましたか。
84.シノドスについて欧州の司教たちのコンセンサスは得られているのでしょうか。
85.  米国の教会は、いかがですか。
86.信者による「Synodaler Weg」の拒絶、そしてより広い意味で言えば「シノダリティに関するシノドス」の拒絶と言えるのでしょうか。
87.進歩的少数派だけでなく、全信者が意見を聞かれていたらどうなっていたでしょうか。
88.すべてのドイツ司教が「Synodaler Weg」を支持していますか。
89.教皇フランシスコは「Synodaler Weg」に困惑を表明しましたか。
90.バチカンの各部署は「Weg」に反応しましたか。
91.ドイツ司教団はローマの批判にどう反応しましたか。

B 当惑
92.教皇の反応は当惑を起こしますか。
93.バチカン当局者たちの反応は当惑を招きますか。
94.シノドスの過程の期間中に異端的な提言をしたことで処罰された人はいますか。
95.この寛大さは教皇フランシスコの他の態度と対照的でしょうか。
96.カトリック信者は心配していますか。

C 「ローマ式」妥協に向けて?
97.バチカン当局者と教皇フランシスコの発言に矛盾はありますか。
98.この作戦を説明できるでしょうか。
99.こうして私たちは、一種の妥協へと向かっているのでしょうか。
100.シノドスの過程が最終的な結末に至った場合、どのような教会になるのでしょうか。

結論

あとがき


「シノドスの過程はパンドラの箱 : 100の質問と回答」結論とあとがき

2024年02月05日 | カトリックとは

「シノドスの過程はパンドラの箱 : 100の質問と回答」

The Synodal Process Is a Pandora’s Box: 100 Questions & Answers

ホセ・アントニオ・ウレタとフリオ・ロレド・デ・イズクエ著

結論

教会に差し迫った危機に対する警鐘の最初の叫びの一つであり、今日、熱狂的な盛り上がりを見せていると多くの学者が信じているものの80周年記念日に本書が出たのは、おそらく偶然ではないでしょう。ブラジルのサンパウロのカトリック・アクションの大司教区委員会の当時の会長だったプリニオ・コレーア・デ・オリヴェイラによる1943年の著書「In Defense of Catholic Action」です。この著作の中で、このカトリック指導者は、新近代主義や左翼主義の誤謬が教会に広く浸透していることを糾弾しました。

当初から、私たちは、…この悪は、非常な巧さと、技術と、勧誘能力の高さで広まっていることを指摘していた。
したがって、カトリック内部が全般的に無警戒な雰囲気の中、私たちは皆の注意を喚起するために警鐘を鳴らす必要があった」(181)。

このような初期の進歩的な提案と、シノドスの道の推進派が提示する提案との間に親和性があることは容易に見て取れます。

教理的な分析に加え、プリニオ・コレーア・デ・オリヴェイラは、これらの誤謬がカトリック信者の間で具体的にどのように教え込まれ、活されているかに特に注意を払い、それらと執拗に闘いました。

彼の逝去以来、「聖伝、家族、財産を守る会」(TFP)とその姉妹団体は、彼の著書「共産主義国家における教会の自由」に関して、当時の神学校・大学聖省長官ジュゼッペ・ピッツァルド枢機卿が署名した表彰状に記されているように、「教会の最高教導権の最も忠実にまねた声」となることだけを望んだ創立者の闘いを続けてきました。

ここで分析されているシノドス計画は、教導権が繰り返し非難した古い異端を取り上げるものであり、パウロ六世が言及した自己破壊の仕事をさらに進めています。したがって、教会や聖なる位階階級、キリスト教文明に対する愛が、TFPと姉妹団体に、このシノドス改革の誤謬を告発するという必須の義務を果たさせるのです。

過去数年間、彼らは一連の広範な取り組みを通して、この義務を可能な限り果たそうと努めてきました(182)。本書はこの路線に完全に沿ったものです。

教会の母である聖母に懇願しましょう。天主の御子の神秘体が醜くなるのを許すことなく、その反対に、聖母がファチマで約束された「最後に私の汚れなき心は凱旋するでしょう!」の復興を早めてくださいますように。

Adveniat regnum Christi! Adveniat per Mariam!
キリストの御国の来らんことを! マリアを通して来らんことを!


あとがき

この文章は、2023年6月20日にローマで発表された「討議要綱」(Instrumentum Laboris: IL)以前のシノドスに関する文書に基づいて書かれたものである。ILは、この研究が述べていることの根本的な何かを変えるのだろうか?どうやらそうではないようだ。それは、このシノドプロセスが何年もかけて進めてきた方向性を確認し、それが提起する当惑や懸念を増大させているだけである。

「討議要綱」は、シノダリティが「ダイナミックなプロセス」(No.18)であり、教会の構造と教導権を変えることによって、教会の新たな「構成的なシノドス制の次元」(No.23)を構築しなければならないという仮定から出発するものであることを確認している。

この文書の精神は、教皇フランシスコが打ち出した「逆ピラミッド」としての教会という考えを再確認するものであり、それによって、位階階級は「天主の民」全体との終わりのない協議のプロセスの中でその権威を行使することになる。この「協議」のクレッシェンドの間に、彼らは新しい時代に教会を適応させるために制度的、教義的な変更を行うだろう。

この文書の唯一の目新しさは、シノドスのプロセスが聖霊の自然発生的な実りであり、聖霊降臨のような現象であると(ナイーブなまでに)主張していることであるが、実際には、バチカン、司教、一部の教会関係者、そしてごく少数の信者の間で協議が行われ、複雑な官僚的メカニズムから生み出されている。「討議要綱」によれば、このメカニズムは、参加者に真の「驚きの感覚」(No.53)を引き起こし、それは喜ばしい「驚き」(No.17)であったと主張する。信者の幅広い参加ということを著者が強調しているのは、ある種の不安を示している。実際、本研究で報告されているように、大多数の信仰を実践しているカトリック信者は、ほとんど、あるいはまったく関心を示さなかったという数多くの報告によって、それは裏付けられている。

教皇フランシスコが2015年に開始したシノドスのプロセスを当初から追ってきた者なら、その方向性について「驚き」や「不思議感」を抱くことはないだろう。当初から、シノダリティを教会の「構造的な次元」とする意図は明らかだった。もちろん、すべての変化がドイツのシノドスの道のような強引さ、さらには横暴さをもって直ちに起こるわけではない。その代わり、徐々に変化していくだろう。

中立的な論調ではあるが、「討議要綱」は少なくとも二つの点でドイツ・シノドスの道の主張を採り上げている。第一に、聖職者の性的虐待の危機に対する救済策としてシノドスを提示している。第二に、脱キリスト教化した現代社会に事実上存在する新しい形の「道徳」を受け入れること、さらには教会の道徳的教えを一般的な文化に適応させるために修正する可能性さえも、民衆の願望の表れとして示している。

彼らはこれらすべてを、「天主の民」全体のシノドス協議の結果としての要求として提示している。しかし、カトリック教会に足を運ぶ一般信徒が(残念ながら)減少していることを知る者にとっては、「討議要綱」のテーゼが満場一致で信徒の意思を表現しているとはとても思えないだろう。信徒は、「教会のあらゆるレベルにおける」統治、意思決定、宣教、宣教に「参加」することを切望しているようには見えない(No.B 2.3)。私たちは、何十年にもわたるロビー団体や小さな「関与する」少数派――彼らは、いくつかのケースでは、教会の官僚機構を占拠してしまった――の主張を、広域に広がる求めとして見せかけようとした神秘化に直面しているだけではないだろうか?

「討議要綱」はその序文で、「決定的なガイドラインを作成することは難しい」と断言しており、それはローマの総会、そして最終的には教皇に委ねている。とはいえ、これらの総会での議論を導くための基準を設けるつもりであることは隠さない。しかし、「討議要綱」によれば、「決定的なガイドライン」に到達するにはまだ長い道のりがあり、それは、高く評価されている「ダイナミック・プロセス」方式(No.18)のおかげで達成されることになるだろうとされている。

そのため、教皇は総会を二つに分割することで、人々の心の準備に時間をかけ、その間に教会がまだ十分に到達していないとされる成熟を「自らの会堂的存在として成長させる」(No.43)ことができるようにした。

「討議要綱」は、「共に歩むとは、誰一人置き去りにしないこと」(No.B 1.1)(183)と述べているが、実際には、「離婚して再婚した者、一夫多妻婚の人々、LGBTQ+のカトリック信者」(No.B 1.2 a)のみに言及しており、毎年増え続けるパリ・シャルトル巡礼【聖伝のカトリック信者たちによる巡礼のこと】に参加する一般の人々など、カトリックの現場で広く目にする他の現実は省かれている。


「シノドスの過程はパンドラの箱 : 100の質問と回答」第六章 でこぼこ道 B 当惑 C 「ローマ式」妥協に向けて?

2024年02月05日 | カトリックとは

「シノドスの過程はパンドラの箱 : 100の質問と回答」

The Synodal Process Is a Pandora’s Box: 100 Questions & Answers

ホセ・アントニオ・ウレタとフリオ・ロレド・デ・イズクエ著

第六章 でこぼこ道

B 当惑
92.教皇の反応は当惑を起こしますか。
93.バチカン当局者たちの反応は当惑を招きますか。
94.シノドスの過程の期間中に異端的な提言をしたことで処罰された人はいますか。
95.この寛大さは教皇フランシスコの他の態度と対照的でしょうか。
96.カトリック信者は心配していますか。

C 「ローマ式」妥協に向けて?
97.バチカン当局者と教皇フランシスコの発言に矛盾はありますか。
98.この作戦を説明できるでしょうか。
99.こうして私たちは、一種の妥協へと向かっているのでしょうか。
100.シノドスの過程が最終的な結末に至った場合、どのような教会になるのでしょうか。

B 当惑

92.教皇の反応は当惑を起こしますか。

はい。「Synodaler Weg」を支持しているように見える教皇の他の発言や態度と矛盾しているように見えるからです。

教皇フランシスコの「Weg」批判を注意深く分析すると、その批判は本質よりもむしろ方法に言及していることが分かります。教会を改革したいという願望に問題はないようです。

いずれにせよ、教皇は「Synodaler Weg」に希望を抱いています。

(ドイツの司教団は)慈悲深く、悪意はありません。しかし、なんと奇妙なことでしょうか! 彼らのやり方は、効率化の努力を基本的なこととしています。
…しかし、皆さんは忍耐強く、連絡を取り続け、これらの人々が真のシノドス的な道を歩むのに同伴し、よりエリート主義的なこの道が悪い結末を迎えることなく、教会に一体となるよう助けなければなりません。人は常に団結するよう努めなければなりません(160)。

93.バチカン当局者たちの反応は当惑を招きますか。

はい。例えば、シノドス総括報告者のオロリッシュ枢機卿は、上に引用した文書では「Weg」の要求に反対しているように見えますが、英国のバチカン専門家エドワード・ペンティンによれば、同性愛に関する教会の教えの見直しを求め、既婚男性の司祭叙階を支持し、女性の叙階にも寛容であると宣言しています(161)。

クロアチアのブログ「Glas Koncila」とのインタビューで、同枢機卿は女性の叙階に関するヨハネ・パウロ二世の教導権に公然と疑問を呈しました。それが変わる可能性はあるかと問われ、枢機卿はこう答えました。「時が経てば、あります」。「これは不可謬の考えではないのですか」とジャーナリストは訪ねました。このルクセンブルク人枢機卿(オロリッシュ枢機卿)は、「不可謬と呼べるかどうかは分かりません。おそらく呼べないでしょう」と答えました。彼はまた、同性愛者に貞潔を求めるカトリック教会のカテキズムの教理を非難しました。「他人に貞潔を呼びかけることは、他人にエジプト語を話すようなものです」。彼はこう締めくくりました。「同性愛を『本質的に秩序を乱すもの』と呼ぶ教えの部分は、少し疑わしいと思います」(162)。

似たようなことは、「Synodaler Weg」批判派に怒りをぶつけた司教シノドス事務総長のマリオ・グレック枢機卿についても言えます。同枢機卿は、このような批判は「何の役にも立ちません。両極化がさらに進むだけです」(163)と言います。このマルタ人枢機卿は、「Weg」への批判は「公の糾弾」を超えるものではないと言います(164)。彼は「Weg」への支持を隠していません。「私はドイツのカトリック教会、司教団を信頼していますし、彼らが自分たちのしていることを理解していると信じています」(165)。

注意すべきことは、この2人の枢機卿は、シノドスの職務を担っているため、当然ながら、教皇のもとで、次のシノドス総会で重要な役割を担うことになるだろうということです。

94.シノドスの過程の期間中に異端的な提言をしたことで処罰された人はいますか。

いいえ。例えば、ロバート・マッケルロイ枢機卿がイエズス会の雑誌「アメリカ」に寄稿したつまずきを与える記事に対して、バチカン当局から叱責がなかったことは驚くべきことです。一方、オロリッシュ枢機卿は、同性愛に関する教会の教導権を変更する必要性についてつまずきを与える発言をした後にもかかわらず、シノドス総括報告者という決定的な役割に任命されました。さらに言えば、彼はいわゆるC9(教皇フランシスコに直接助言を与える枢機卿の選抜グループ)に含まれていました。

フランスのバチカン専門家ジャン=マリー・ゲノワはこうコメントしています。

バチカンは(「Weg」を)見守っているが、主導権を失っているようだ。教皇フランシスコは、ドイツの教会が道を踏み外さないよう警告している。しかし、不思議なことに、教皇フランシスコは、今後予定されているローマ教皇庁の「シノダリティ」に関するシノドスの「総括報告者」という重要な役職に、ドイツのシノドスの…方向性を支持する高位聖職者を任命した。…
…教皇は仲裁者ではない。昨年9月、ブラチスラバで会ったスロバキアのイエズス会士にこう打ち明けたように、教皇は改革の側にいるのだ(166)。

2022年後半、教皇の立場に近いバチカン専門家ジョン・アレンは次のように書いています。「フランシスコはドイツの過程の設計者(立役者)の誰に対しても懲戒処分を下しておらず、少なくとも今のところは事態の推移を見守ることに満足しているようだ」(167)。

フランドル地方の司教団が同性愛カップルのための「祝福の儀式」を承認したことに関しても、似たようなことが起こりました。これはバチカンの宣言と矛盾するものですが、「教皇フランシスコはこの措置を支持も反対もせず、地元の司教が決定することだと指摘しましたが、彼らは結束を保たなければならないことを強調しました」とアントワープのヨハン・ボニー司教は述べています(168)。

シノドス総会の前段階のためにローマから送られた「大陸ステージのための作業文書」では、女性やLGBTの人々を含めることなどが、最も急進的な派閥の行動計画(アジェンダ)として明確に提起されています。

95.この寛大さは教皇フランシスコの他の態度と対照的でしょうか。

はい。「Weg」推進派、それが正統性と教会の規律に最も反する人々であったとしても、彼らに対する制裁の欠如は、教皇フランシスコの他の場面での断固とした態度とは対照的です。教皇フランシスコは、司祭たちや一人の枢機卿に対して、ためらわずに解任、時には破門、さらには還俗処分を行っています。多くのアナリストは、なぜ今回も同じような態度をとらないのかと不思議に思っています。

ステファノ・フォンタナ教授が指摘するように、バチカンは場合によって二つの矛盾した態度を取ります。容易に権限移譲に転じるか、中央集権を権威主義に直行させるかです(169)。「Weg」推進派は前者から利益を得ているようです。

96.カトリック信者は心配していますか。

はい、とても心配しています。「ザ・ピラー」誌はこうコメントしています。

「シノダリティに関するシノドス」がカトリックの教理を軽んじたり、カトリックの教理から逸脱したりするための一種のトロイの木馬だと主張するカトリック信者の恐れ。
フランシスコは、そのナラティブを押し返そうと努力している。
(しかし)一部のカトリック信者に対して、マッケルロイは今週、それを確認し、そのことをもってシノドスの過程全体について信者には不安があることを確認したように見えた。フランシスコがこの決定に反応するかどうかは、まだ分からない(170)。

これまで見てきたように、教皇フランシスコは今日に至るまでこの件に関して何も語らず、混乱を増大させています。死の直前、ジョージ・ペル枢機卿はこうコメントしました。

以前は(標語は)こうでした。「Roma locuta. Causa finita est」(ローマは語り、問題は解決)。今日はこうです。「Roma loquitur. Confusio augetur」(ローマは語り、混乱は拡大)。
(A)ドイツのシノドスは、同性愛、女性司祭、離婚した者の聖体拝領について発言しました。教皇は沈黙しています。
(B)オロリッシュ枢機卿が性に関するキリスト教の教えを否定しています。教皇は沈黙しています(171)。

シノドスの指導者たちがティモシー・ラドクリフ神父を自分たちの霊操の説教者に招いたため、いくつかの文書で批判されている進歩的な立場をバチカンが暗黙のうちに受け入れているという印象がさらに強くなっています。このドミニコ会の前総長は、「異端的な立場と、とりわけ教会内での同性愛を認めることを支持する活動で知られていました」(172)。前の2人の教皇は、これらの立場のために彼を遠ざけていました。

C―「ローマ式」妥協に向けて?

97.バチカン当局者と教皇フランシスコの発言に矛盾はありますか。

はい、その通りです。

教皇の意見は絶えず揺れ動いており、ある注意深い聖座アナリストは強い言葉で「大いなる欺瞞 great deception」と表現しています。カトリック・ニュース・エージェンシーのアンドレア・ガリアルドゥッチはこう書いています。

教皇フランシスコがこの「大いなる欺瞞」に何らかの形で加担したことは認めざるを得ない。まず、ドイツ教会のシノドスについて、教皇は何度か懸念を表明したが、その後、シノドスのテーマのいくつかが、教皇によってさまざまな形で、さらには矛盾した形で再提案された。…
この曖昧さの連続、状況と行動の区別の連続の中で、教皇の考えは不明確であるか、いずれにしても定まっていないように思われる。そして、そこに「大いなる欺瞞」を実行する可能性が忍び込んでいるのだろう。教皇がそれを自覚しているのか、それともただ誠実に行動しているだけなのかは分からない。私たちはただ、この状況に注目するだけである(173)。

教皇フランシスコは「Synodaler Weg」を批判していたはずなのに、それを支持したと言って信者を惑わせたと、ドイツ司教団を非難する者もいます。これまで見てきたように、状況はかなり混乱しています。「欺瞞」はドイツ司教団側だけに存在するのではありません。当時のヨゼフ・ラッツィンガー枢機卿が同性愛に関する文書の中で述べた批判を、シノドスの主役たちに当てはめることができます。「彼らの公の声明と彼らが推進する活動を注意深く調べると、彼らが司牧者と信者を惑わそうとする、研究された曖昧さが明らかになります」(174)。

この矛盾をどう説明すればいいのでしょうか。この曖昧さは意図的なのでしょうか。背後には何か意図があり得るのでしょうか。少なくとも仮説や分析基準として、この可能性を挙げないわけにはいきません。

98.この作戦を説明できるでしょうか。

実際、歴史家が革命と呼んでいる「教会とキリスト教文明の衰退」という歴史的過程を研究する者なら誰であれ、しばしば過激派と穏健派の間で弁証法的な駆け引きがあって、前者は後者にとって画期的なパイオニアとなったことに気づきます。

代表作である「革命と反革命」の中で、プリニオ・コレーア・デ・オリヴェイラは、革命の過程には二つの速さがあると説明しています。急進的な熱血派に代表される高速派と、一見穏健派に見える派閥で構成される低速派です。この二つの速さは調和しており、それぞれが特定の役割を持ち、一緒になって革命の過程を推進するのです。

より急速な運動は無益だと言われるかもしれないが、そうではない。このような過激派の爆発は基準を高め、固定した目標を作り出す。その目標の急進性そのものが穏健派を魅了し、穏健派はゆっくりとその目標に向かって前進する。…
…次に、過激派の失敗は、単に見かけ上のものでしかない。彼らは革命の前進に間接的に、しかし強力に協力しており、「慎重な」、「穏健な」、平凡な無数の人々を徐々に引き寄せていくのである(175)。

「Weg」の最も極端な主張を否定することで、一見穏健に見えるものの破壊転覆的な教会改革を進めることが可能になり、その改革が現時点ではもっと受け入れやすく見えるのではないか、と考えるのは正当なことです。

「Weg」推進派自身は、そうやって普遍的な過程に影響を与えたいと宣言しています。「Weg」の主導的な声である神学者ユリア・クノップはこう書いています。「(ドイツのシノドスの道が提案した)これら15のテキストによって、ドイツのカトリック教会は、重要かつ緊急に必要とされる改革のステップを支持する声を上げました。とりわけ、この基本テキストは、(普遍的な)教会の議論に挑戦し、中長期的に前進させるものです」(176)。

私たちはこの最後の言葉、「中長期的」に注目します。最も見識のある「Weg」推進派は、目先の勝利を目的とするのではなく、中長期的に深遠な改革を開拓したいと考えているのです。

99.こうして私たちは、一種の妥協へと向かっているのでしょうか。

そのように思われます。バチカンと「Synodaler Weg」推進派が衝突しているように見える背景に、隠された意図が潜んでいることを示す観察者もいます。彼らは「ア・ラ・ロマーナ」、つまり中途半端な解決策で妥協したいのです。

このことはルイゼラ・スクロサーティが、「La Nuova Bussola Quotidiana」の中で、ゲオルク・ベッツィング司教の言葉を引用して、述べていることです。「教皇とドイツ人は対立しているが、妥協の余地あり」と題された彼女の記事の中で、スクロサーティ博士は、この議論が内容そのものについてというよりも、ある結論に達するための方法についてのものであることを示しています。「離教の危険性については、ベッツィング司教は離教の可能性を否定し、逃げ道を示しています。『私たちは互いに話し合い、互いに妥協しなければなりません』。少しローマ流に言えば、独身制に譲歩すれば、女性の司祭職を求める動きが収まるかもしれませんし、同性カップルを祝福することに青信号を出せば、同性愛に対する教理上の承認がなくなるかもしれません」(177)。

教皇フランシスコは「対話」と「調和」を盛んに訴えてきました。いまや有名になった2023年1月25日のAP通信とのインタビューで、教皇は「Weg」を「イデオロギー的」で「エリート主義的」だと批判しました。それでも彼は、「私たちは忍耐強く、対話し、真のシノドスの道を歩む人々に同伴しなければなりません。…この、よりエリート主義的な(ドイツの)道が、何らかの形で悪い結末を迎えず、…教会に一体化されるように、手助けをします」(178)。

言い換えれば、いったん彼らの「イデオロギー的」で「エリート主義的」な性格が取り除かれれば、ドイツの「Weg」の提案は教会に「一体化」され、準備文書と国際神学委員会の研究の両方に概説されている「真のシノドスの道」に貢献することができるというのです。

一部の過激な主張が否定されれば、教会を「民主的に」改革するという問題は残ります。ベッツィング司教が次のように認めているように、それはドイツの司教たちが最初から望んでいたことです。「フランシスコはまた、インタビューの中で、緊張を和らげなければならない、現在進行中のバチカン世界シノドスに私たちの問題を含めるべきだ、と語っています。まあ、これは私たちのオリジナルな内容です。これこそ私たちが望んでいることです」(179)。

これらのことから、バチカン専門家の首席であるサンドロ・マジステルはこんな見出しをつけました。「ドイツのシノドスは教会全体を感染させている」。「Weg」の「エリート主義」的性格が改善されれば、「既婚司祭から女性司祭まで、新しい性道徳や同性愛道徳から教会統治の民主化まで、避けられない要求の数々」を進めることが可能になる、とマジステルは述べています(180)。

100.シノドスの過程が最終的な結末に至った場合、どのような教会になるのでしょうか。

仮に、「Synodaler Weg」やシノドス総会のいくつかの提案のみが承認されただけだったとしても、ましてやその提案がその最終的な結果をもたらすことになったとしたら、カトリック教会の変化はあまりにも大きく、私たちの主イエズス・キリストによって創立された聖なるローマ・カトリック使徒継承教会の姿のままであろうかと、正に問うことができるようなものになってしまうでしょう。


「シノドスの過程はパンドラの箱 : 100の質問と回答」第五章 E―家族の破壊 第六章 でこぼこ道

2024年02月04日 | カトリックとは

「シノドスの過程はパンドラの箱 : 100の質問と回答」

The Synodal Process Is a Pandora’s Box: 100 Questions & Answers

ホセ・アントニオ・ウレタとフリオ・ロレド・デ・イズクエ著

第五章 ドイツの「Synodaler Weg」【シノドスの道】

E - 家族の破壊
81.教会の教理によれば、家族とは何でしょうか。
82.「Synodaler Weg」は家族にどのような変更をしようと意図しているのでしょうか。

第六章 でこぼこ道
A 「Synodaler Weg」に反対する反応
83.枢機卿や司教は「Synodaler Weg」に対して抗議しましたか。
84.シノドスについて欧州の司教たちのコンセンサスは得られているのでしょうか。
85.  米国の教会は、いかがですか。
86.信者による「Synodaler Weg」の拒絶、そしてより広い意味で言えば「シノダリティに関するシノドス」の拒絶と言えるのでしょうか。
87.進歩的少数派だけでなく、全信者が意見を聞かれていたらどうなっていたでしょうか。
88.すべてのドイツ司教が「Synodaler Weg」を支持していますか。
89.教皇フランシスコは「Synodaler Weg」に困惑を表明しましたか。
90.バチカンの各部署は「Weg」に反応しましたか。
91.ドイツ司教団はローマの批判にどう反応しましたか。

E―家族の破壊

81.教会の教理によれば、家族とは何でしょうか。

カトリック教会のカテキズムはこう教えています。「結婚によって結ばれた男女は、子供たちと一つの家族を作ります」(2202番)。洗礼を受けた者にとっては、結婚もまた秘跡です(2225番)。

82.「Synodaler Weg」は家族にどのような変更をしようと意図しているのでしょうか。

「Weg」の文書は「結婚」に言及することもありますが、もっと一般的なのは「Partnerschaftsformen」(パートナーシップの形)、「包摂的」で差別のない方式です。また、「Paare, die sich lieben」(愛し合うカップル)という表現もあります。これらの婉曲表現は、同性カップルを含む自由なシビル・ユニオンを意味します。いかなるロマンチックな感情でも、そのような結合を合法化するには十分なのです。

また、バチカンは承認していませんが、いわゆる「Segensfeiern für Paare, die sich lieben」(愛し合うカップルのための祝福)も増えています。「Weg」の文書の説明によれば、このような祝福は、「愛、献身、相互責任という点で、カップルの関係にすでに存在するものを強化して、天主が支持するという約束を求め、天主が支持するという約束とするものです」(140)。

第六章 でこぼこ道

A―「Synodaler Weg」に反対する反応

83.枢機卿や司教は「Synodaler Weg」に対して抗議しましたか。

はい。デンバー司教のサミュエル・アクィラ大司教がゲオルク・ベッツィング司教に送った18ページの公開書簡をはじめとして、多くの枢機卿や司教が「Synodaler Weg」に抗議しています。公開書簡はこう述べています。「シノドスの道は、単に『構造的な』懸念に対処するものではなく、信仰の遺産に挑戦し、場合によってはそれを否認するものです。シノドスの道の文書は、天主の啓示の性質と拘束する権威、秘跡の性質と効力、そして人間の愛と性に関するカトリックの教えの真理について、最も深刻な問題を提起しているとしか読めません」(141)。

おそらく最も適切な反応は、世界中の103人の高位聖職者による「ドイツの兄弟なる司教への兄弟としての公開書簡」だったでしょう。アリンゼ枢機卿、バーク枢機卿、ネーピア枢機卿、ペル枢機卿、ルイーニ枢機卿、陳枢機卿がその中に含まれています。これらの司牧者たちは、次のように思い起こしています。「急速なグローバル・コミュニケーションの時代において、ある国の出来事は必然的に他の国の教会生活に影響を与えます。ですから、ドイツのカトリック信者が現在追求している『シノドスの道』の過程は、世界中の教会に影響を与えるものです。これには、私たちが司牧している地方教会や、私たちが責任を負っている多くの忠実なカトリック信者が含まれます」。

同書簡はこう糾弾しています。

2.ドイツのシノドスの道の文書は、宗教的な考えや語彙の色合いを見せてはいますが、その大部分は、第二バチカン公会議にとって「天主の言葉の単一の聖なる遺産」である聖書や聖伝からではなく、社会学的分析やジェンダーを含む現代の政治的イデオロギーから着想を得ているように見えます。その文書は、教会とその使命を、聖書と教会の権威ある聖伝などにおいて啓示された真理というレンズを通してではなく、むしろこの世というレンズを通して見ています。
5.シノドスの道の過程は、ほぼすべての段階において、専門家と委員会の作業です。つまり、官僚主義的で、批判的で、内向きです。そのため、それ自体が教会の硬化症が広がっていることを反映しており、皮肉なことですが、書き方が反福音的になっています。その効果として、シノドスの道は、主にして救い主であるイエズス・キリストよりも、この世やイデオロギーへの服従と従順を示しています(142)。

元教理省長官のゲルハルト・ミュラー枢機卿もまた、はっきりと批判しています。枢機卿にとって、「Weg」は論争の的であり、カトリック信者から「福音の真理」を奪って、それを「ドイツのシノダリズムの真の重心である同性愛化のイデオロギー」に置き換える決議を承認することにつながりました。ミュラー枢機卿によれば、このイデオロギーは、「その粗雑な唯物論において、人間を男性と女性としてご自身のかたどりに創造された天主をあざ笑うような、非難されるべきイデオロギーです」。枢機卿は、こう締めくくっています。「『Synodaler Weg』は、天主の言葉へと方向づけられた開かれた議論では全くなく、教会の秘跡的構造の中には何の根拠もありません」(143)。

このドイツ人枢機卿(ミュラー枢機卿)は、シノドスの道に関する異端的なテーゼを支持する司教の解任を求めています。「裁判が行われなければならず、彼らは断罪されなければならず、回心せず、カトリックの教理を受け入れないのであれば、解任されなければなりません」(144)。

元最高裁判所長官であるレイモンド・バーク枢機卿もまた、同性愛者の結婚を祝福することに賛成票を投じた司教を制裁するようバチカンに求めました。

それが逸脱であれ、異端的な教えであれ、信仰の教理の一つを否定することであれ、単にキリストと教会におけるキリストの教えから離れて他の宗教を受け入れるという意味での背教であれ、これらは罪です。…
これらはキリストご自身に対する罪であり、明らかに最も重大な性質のものです。ですから、教会法典は適切な制裁を規定しています(145)。

注目すべき批評は、イリノイ州スプリングフィールドの司教、トーマス・パプロキ司教によるエッセイ「Imagining a Heretical Cardinal」です。この高位聖職者は、マッケルロイ枢機卿のテーゼに対して、彼自身には触れずに、長く、学識ある反論を書いています。パプロキ司教は次のように書いています。「残念ながら、今日、カトリックの指導者たちが、少し前までは異端者だけが信奉していたような異端的見解を肯定するのを耳にするのは珍しいことではありません。『異端的』や『異端』は強い言葉ですが、現代の教会的な礼儀正しさは、『分かれた兄弟たち』や『カトリック教会と完全な交わりにないキリスト信者』といった優しい表現に和らげています。しかし、現実には、『分かれ』、『完全な交わりにない』人々が、分かれて完全な交わりにないのは、信仰の本質的な真理を拒否しているからです」(146)。

84.シノドスについて欧州の司教たちのコンセンサスは得られているのでしょうか。

いいえ。欧州大陸におけるシノドス準備(協議)段階の結果を分析するために招集された2023年2月9-11日のプラハ会議では、作業文書「あなたの天幕の場所を広く取りなさい」に対して深刻な異論が出されました。

カトリック・ニュース・エージェンシーのバチカン記者、コートニー・マレスはこう書いています。

欧州のカトリック信者は木曜日の朝、秋にバチカンで開かれる司教シノドスの討議に影響を与える最終文書の内容について討議した。…
その文書には…多くの欧州代表団が、「シノドタリティに関するシノドス」が「弱められた」(watering down)カトリック教理という結果になりかねないとの懸念を表明したことに言及しました。…
「何人かは、このような過程では、この世の精神に服従する危険性があると強調しました。これらの懸念が、…表明され、…また、教理が弱められる可能性や、作業部会で社会学的な表現が使われることへの懸念も表明しました」(147)。

シノドス総括報告者のオロリッシュ枢機卿自身も、ドイツ代表団の提案に「ショックを受けた」代表団がいたことを認めています(148)。

85.  米国の教会は、いかがですか。

米国カトリック司教協議会も大きく分裂しています。

米国カトリック司教協議会の元専務理事のジェイド・ヘンリックスはこう書いています。

多くの司教、司祭、修道者、そして米国で関心を寄せる信者にとって、ドイツのカトリック教会がシノダリティに関して行っていることには深い疑念があります。同時に、これは絶望に近いものです。なぜなら、ドイツの司教たちが普遍教会の意見に耳を傾ける気がなく、ドイツ人が自らを正すという希望はほとんど残されていないことはあきらかなのですから。その印象は、彼らには教会を変えようとする意向があり、自分たちのビジョンを普遍教会に押し付けようとしている、ということです。…
また、米国の270人以上の司教の誰一人として、ドイツの司教団への支持を表明していないことも物語っています。北欧の少数の例外を除けば、全世界の司教団も何の励ましもしていません(149)。

86.信者による「Synodaler Weg」の拒絶、そしてより広い意味で言えば「シノダリティに関するシノドス」の拒絶と言えるのでしょうか。

事実は、「Weg」と普遍シノドスの推進派が予想した以上の拒絶を示しています。他のケースでは、拒否反応というより、むしろ無関心です。耳を傾ける過程には、ほとんど誰もわくわくしていません。このことは、シノドス推進派をも悩ませています。このような大規模な教会改革プロジェクトを少数の信者の支持だけで実行することは難しいからです。

ジョージ・ペル枢機卿が、亡くなる数日前に「スペクテイター」誌に寄稿し、死後に出版された記事の中で、教会の上層部も、世界中の実践的カトリック信者の圧倒的多数も、シノドスの耳を傾ける過程から得られた成果には同意していないと述べています(150)。

そのため、シノドス推進派は、時間と忍耐を必要とする「認識されていないイデオロギーの積み替え」(151)戦術に頼らざるを得ないのです。

87.進歩的少数派だけでなく、全信者が意見を聞かれていたらどうなっていたでしょうか。

進歩的少数派だけでなく、すべての信者が意見を聞かれていたらどうなっていたかを知ることは不可能です。反対派の声(通常は保守的)を黙らせるために多くの場所で用いられた威圧的な戦術は、シノドス推進派が真の多数派の声を聞くことを恐れていることを示している、という分析もあります。従って、もしすべての信者が意見を聞かれていたならば、出来上がった文書はもっと聖伝の教導権に沿ったものになっていただろうと推測できます。

例えば、聖伝のミサ(いわゆるトリエント・ミサ)にあずかる共同体から提起された懸念のうち、いたるところで増えているものが何一つ耳を傾けられなかったのは驚くべきことです。彼らこそは「疎外された少数派」であり、「包摂される」べき存在ではないのでしょうか。

88.すべてのドイツ司教が「Synodaler Weg」を支持していますか。

いいえ。状況は微妙です。ほとんどのドイツ司教が「Synodaler Weg」を無条件で支持し、あるいは黙認することで推進派に自由裁量権を与えている一方で、疑念を表明し、論争を巻き起こしている司教もいます。逆説的なことに、「共に旅する」ことに関するはずの「Weg」は、ドイツ司教協議会を分裂させています。ヒルデスハイムの司教であり、「Weg」の強力な推進者であるハイナー・ウィルマー司教は、この共通の道が団結をもたらすのではなく、分裂をもたらすものであることを認めざるを得ないと感じています。「ある者にとっては、決議文は十分に踏み込んだものではなく、またある者にとっては、教会の教えと矛盾するものでした。シノドスのメンバー間の溝はますます深まったように見えました。ある者は早くから苛立ち、ある者は興奮が高まり、またある者は肉体的、精神的に苦しんでいるのが分かりました」(152)。

ヴュルツブルクのフランツ・ユング司教は、「Weg」の集会での過剰な議論と時に扇動的な論調を批判し、「満身創痍の部屋」のようだと述べました(153)。

長らく多数派だった進歩派は、批判を受け入れようとせず、実質的に蒸し返すように振る舞います。「昨日、会議が終わり、私は苛立ちながら夕方の講堂を出ました。多数派の意見に反対する人々は、またしても言葉巧みに顔をひっぱたかれた」と、アイヒシュテットのグレゴール・マリア・ハンケ司教は不満を述べました(154)。このため、ジャーナリストのアンナ・ディウフは、「シノドスの道はカトリックの信仰を虐待」と題する記事を書きました(155)。

89.教皇フランシスコは「Synodaler Weg」に困惑を表明しましたか。

はい。教皇は「ドイツ巡礼中の天主の民への手紙」の中で、「時代の兆し」に耳を傾ける必要があるとしながらも、これは「賢明な集団」の仕事ではないと警告しています。同年9月、教皇は、シノドスは議会ではないと思い起こしました。AP通信とのインタビューで、教皇は同様に「Weg」を「イデオロギー的」で「エリート主義的」と批判しました。AP通信はこう報じています。「『ドイツの経験は助けにならない』と教皇は指摘し、これまでのドイツでの過程が『エリート』によって主導されてきたことを指摘している。危険なのは、非常に、非常にイデオロギー的なものが入り込むことです。イデオロギーが教会のプロセスに関与するとき、イデオロギーは聖霊に勝つため、聖霊は帰ってしまいます」(156)。【訳者注:聖霊の優しいささやきに対して、イデオロギーは耳をふさがせる、ということを言いたいのでしょう。】

90.バチカンの各部署は「Weg」に反応しましたか。

はい。前述のように、パロリン枢機卿、ラダリア枢機卿、ウエレット枢機卿は、ドイツのシノドスの道が提案した常設のシノドス評議会の設置は、各教区の司教の権威を損なうものであるとして、これを拒否する書簡を書きました。

2023年1月26日、全世界の司教に宛てた書簡の中で、聖座は、現職の教区司教にある統治の役割に関するカトリックの教理を改めて強調しました。この書簡には、司教シノドス事務総長のマリオ・グレック枢機卿と、第16回司教シノドス通常総会の総括報告者であるジャン=クロード・オロリッシュ枢機卿が署名しています。

書簡は、ローマ司教の最高権威の下での団体主義における司教の役割を強調する一方で、活動的少数派の役割を批判しています。「実際、シノドス総会の結論がどうなるかをすでに知っていると思い込んでいる人々がいます。また、シノドスに議題を押し付け、議論の舵取りをし、その結果を決定しようとする人々もいます」。

しかし、この書簡はシノドスの基本的概念を繰り返し述べています。「『キリストの預言職も分け与えられている』(157)天主の民に『耳を傾ける』ことの困難を克服すること」。


91.ドイツ司教団はローマの批判にどう反応しましたか。

ドイツ司教団の一部から節度を求める声が上がったにもかかわらず、それは即座に黙殺されました。たとえローマと衝突することになったとしても、シノドスの道に沿って前進しようとする傾向が優勢です。マルクス枢機卿が2015年に発表した「Wir sind keine Filiale Roms」(私たちはローマの子会社ではない)というフレーズは、ライトモチーフとなっています(158)。この言葉は、16世紀にマルティン・ルターが唱えた「Los von Rom」(ローマから離れよ)という言葉との類似性を指摘する声も多くあります。

この反抗的な態度の典型的な例が、2023年3月に開催された第5回シノドス会議で承認された「Segensfeiern für Paare, die sich lieben」(愛し合うカップルのための祝福)と題された文書です。この文書は賛成176票、反対14票、棄権12票で可決されました。司教団は賛成38票、反対9票、棄権11票でした。この文書は、バチカンが2021年2月22日に発表した「教会は同性間の結合を祝福する権能を有しておらず、また有しえない」という回答に真っ向から反するものです。実のところ、無記名投票の動議は否決されました。その投票は、点呼によって行われました。「Weg」指導部はドイツの司教団を一人ずつ確実に制圧していきました。

また、「Synodaler Weg」を締めくくったこの総会が、フランクフルト司教座聖堂の主祭壇の周りで行われた「verantwort:ich」(159)と題された非常に奇妙で不穏な「パフォーマンス」で幕を閉じたことも、明らかになりました。それには、黒い服装をした登場人物や、地獄に落ちた霊魂のような人物がロープや鎖で床を引きずられるという奇妙な儀式が含まれていました。シノドスの道が導入しようとしている新しい典礼のサンプルだったのでしょうか。


「シノドスの過程はパンドラの箱 : 100の質問と回答」第五章 D 同性愛者を「包摂する」

2024年02月01日 | カトリックとは

「シノドスの過程はパンドラの箱 : 100の質問と回答」

The Synodal Process Is a Pandora’s Box: 100 Questions & Answers

ホセ・アントニオ・ウレタとフリオ・ロレド・デ・イズクエ著

第五章 ドイツの「Synodaler Weg」【シノドスの道】

D 同性愛者を「包摂する」
71.同性愛の問題はシノダリティとどのように関係するのでしょうか。
72.教会は同性愛についてどう教えていますか。
73.教会は同性愛者を拒絶しますか。
74.同性愛者を教会に「包摂する」とはどういうことですか。
75.教会の道徳の教理は同性愛者を「包摂する」ように変えなければならないのですか。
76.教会の道徳の教理に代わるものとして、「Weg」推進派は何を提案するのでしょうか。
77.同性愛者を「包摂する」ことを求めているのは、「Weg」推進派だけなのでしょうか。
78.彼らは同性婚を合法化するための抜け穴を探しているのでしょうか。
79.バチカンはこれらの「祝福」を承認したのでしょうか。
80.ドイツ司教団と欧州の各司教協議会の反応はいかがでしょうか。

D.同性愛者を「包摂する」

71.同性愛の問題はシノダリティとどのように関係するのでしょうか。

教会の開かれた兄弟愛的なビジョンでは、同性愛者、そしてより広くはLGBTの各個人は、教会の生活に取り込まれる必要のある「疎外された少数派」の一つです。アーヘン教区のシノドスへの提案には、「男女平等な教会への変化を望みます」とあります(124)。シノドス推進派にとって、包摂をもたらすためには、教会の道徳的教理を変えなければなりません。

72.教会は同性愛についてどう教えていますか。

カトリック教会のカテキズムは次のように述べています。「同性愛行為を重大な堕落の行為としている聖書に基づき、聖伝はつねに『同性愛の行為は本質的に秩序を乱すもの』であると宣言してきました。同性愛の行為は自然法に背くものです。同性愛の行為は生命の賜物に対して閉ざされています。同性愛の行為は真の感情的・性的の相補性から生じるものではありません。どのような場合であっても、同性愛の行為を認めることはできません」(125)。

このような理由から、明らかな同性愛の傾向を持つ人は、常に司祭職や修道会から排除されてきました。少し前まで、神学校はこの点について特に警戒していました。教皇ベネディクト十六世によって承認された2005年のバチカン文書にはこうあります。「この豊かな教えに照らして、本教令は、養成の全期間において注意深い識別を必要とする情動性および性の領域におけるすべての問題に言及することを意図しているわけではありません。むしろ、この教令には、現在の状況によって緊急性を増している特定の問題、すなわち、「根深い同性愛の傾向を持つ候補者に、神学校入学や聖なる叙階を認めるかどうか」(126)という問題についての規範が含まれています。

73.教会は同性愛者を拒絶しますか。

教会は罪を拒絶しますが、教会が回心を呼びかけている罪人は拒絶しません。カトリック教会のカテキズムは非常に明確です。「同性愛の人々は貞潔に招かれています。内面の自由を教える自己修養の徳によって、時には無関心な友情の支えによって、祈りと秘跡の恵みによって、彼らは徐々に、そして断固としてキリスト教的完徳に近づくことができるし、そうすべきです」(127)。

74.同性愛者を教会に「包摂する」とはどういうことですか。

「Synodaler Weg」や普遍シノドスの多くの推進派が提唱している意味において、同性愛者を「包摂する」とは、いかなる制限や道徳的回心の呼びかけなしに彼らを教会に受け入れることを意味します。言い換えれば、それは罪人だけでなく罪も受け入れることを意味するのです。

おそらく、サン・ディエゴ大司教のロバート・マッケルロイ枢機卿ほど、このテーゼを明確に述べた人はいないでしょう。イエズス会の雑誌「アメリカ」に掲載された記事の中で、彼はシノドスには「教会から結婚無効宣言を受けずに離婚して再婚した人、LGBT共同体のメンバー、世俗の結婚はしていても教会で結婚していない人々も含めるべきです」と述べています(128)。

この包摂は、客観的に公然の罪の状態で生きている人々がご聖体を受けることを意味します。「私は、天主の恩寵を熱心に求めている離婚して再婚した人やLGBTのカトリック信者には、断じて聖体拝領を禁じるべきではないと提案しました」(129)。

75.教会の道徳の教理は同性愛者を「包摂する」ように変えなければならないのですか。

はい。「Weg」の準備文書はこう述べています。「司牧の役務の方向転換は、教会の性についての教理の大幅な入れ替えなしには不可能であると確信しています。…特に、性交渉は合法的な結婚の文脈においてのみ、また子孫を残すことに永続的に開かれている場合のみ、倫理的に合法であるとみなす教理は、教導権と信者との間に広範な断絶をもたらしました」(130)。

同様に、「Weg」の別の文書はこう述べています。

したがって、同性愛の性的指向――また性行為において実現される――は、天主によって罰せられる罪ではないし、本質的に悪とみなされるものでもありません…。
1.この同性愛の再評価の過程で、とりわけ、(カトリック教会の)カテキズムの2357-2359番と2396番(同性愛と貞潔)が改訂されるべきです。「同性愛の行為」は「貞操に反する重大な罪」のリストから削除されなければなりません(131)。

しかし、別の文書は非常に明確です。「シノドスの任務の一つは、同性愛指向と同性間の関係に対する新しい見解を発展させ、その開放に向けて努力することです」(132)。

シノドス総括報告者であるルクセンブルクのジャン=クロード・オロリッシュ枢機卿もこれに同意しています。同枢機卿は、同性愛関係についての教会の教理は「誤り」であり、したがって、「そのような教えの社会科学的基盤はもはや正しくない」(133)ため、変えなければならないと宣言しました。

他の司教協議会もこの意見を共有しています。例えば、フランスの司教たちは最近、カトリック教会のカテキズムを修正し、同性愛の行為を「本質的に秩序を乱すもの」で「自然法に反する」と非難しないよう教皇に要請しました。フランス司教協議会は、このテーマに関する教理の再定義を研究する神学者の委員会を指定しました(134)。

76.教会の道徳の教理に代わるものとして、「Weg」推進派は何を提案するのでしょうか。

「Weg」推進派は性道徳への新しいアプローチを提案しています。それはもはや天主の法や自然法に基づくものではなく、他者に対する自分の責任を自己認識することに基づくものでなければならないのです。「Synodaler Weg」の副会長であるトーマス・セディング教授は、「この問題の解決策は、教会の教えにおける人格と性的指向の関係を再定義することにあります。…個人の責任は、社会的寛容と教会による受容と相まって増大します。教会は、どのような場合に虐待(侵略的行為)があり、どのような場合に人権と尊厳が攻撃されるのかを明確に定義しています。しかし、教会はまた、(人々の)性的実践をスパイすることなく、他者と自分自身に関する性的自己決定と責任を定義しています」(135)。

77.同性愛者を「包摂する」ことを求めているのは、「Weg」推進派だけなのでしょうか。

いいえ。シノドスの旅における大陸ステージの結論文書(大陸統合)のほとんどすべてが、LGBTの人々を含める必要性について明確に言及しています。

さらに、高い地位にある高位聖職者たちも同様の立場を取っています。例えば、すでに述べたように、シノドス総括報告者のジャン=クロード・オロリッシュ枢機卿は、同性愛に関する教会の教えを変えることが必要であると考えています。

サン・ディエゴ司教のロバート・マッケルロイ枢機卿は、普遍的なシノドスは、女性の司祭叙階の問題を含むいくつかの教会の教理を検討する適切な機会であると主張しています。しかし、彼の主眼は「LGBTの人々を根本的に包摂すること」にあります。

このカリフォルニアの枢機卿にとって、同性愛指向を持つ者が罪を犯さないようにすることと、同性愛の行為によって罪を犯すことを教会が区別することは、聖体拝領や教会生活への積極的な参加について共同体を分断することになり、司牧上不都合とされます。すべてのLGBTの人々は、教会のような区別をすることなく、「天主の子としてのすべての人の尊厳」に基づいて受け入れられるべきと言うのです(137)。

78.彼らは同性婚を合法化するための抜け穴を探しているのでしょうか。

はい。シノドス推進派にとって、同性愛者を教会に「包摂する」ことは、すべての秘跡は彼らに開かれることを意味します。カトリックの教理や教会の規律と真っ向から衝突する同性同士の「結婚」を認めるわけにはいかないため、一部の司教協議会は「祝福」(Segnung)を与えることを選択しています。

例えば、2022年、フランドル地方の司教団は、同性愛カップルのための「祝福の儀式」を承認し、後に「Synodaler Weg」で採択されました。

この考えは新しいものではありません。2015年の「家庭に関するシノドス」において、ドイツのカトリック中央委員会は、「典礼形式のさらなる発展、特に同性パートナーシップ、離婚者の新しいパートナーシップ、家庭生活における重要な決定のための祝福」を提案しました(138)。

79.バチカンはこれらの「祝福」を承認したのでしょうか。

いいえ。それどころか非難しています。2021年3月15日にドイツの司教団に送られた、同性の人々同士の結合の祝福に関する質問に対する教理省の回答はこう述べています。「同性の人々同士の結合の場合のように、婚姻外の性的行為を伴う(すなわち、生命の伝達に開かれた男女の解消できない結合以外の)関係やパートナーシップに祝福を与えることは、たとえ安定した関係であっても許されません」(139)。

80.ドイツ司教団と欧州の各司教協議会の反応はいかがでしょうか。

ドイツの司教団や欧州の各司教協議会の中には、バチカンの拒否権に公然と反抗しながら、活動を続けているところもあります。

例えば、ドイツの多くの教会では、同性愛カップル、「再婚した」離婚者、同棲カップルなどを含む「代替カップルのための祝福、祝福の儀式、祝福祝い」を提供しています。教会のファサードには「Liebe ist alles」(愛がすべて)と題されたポスターが貼られ、二人の男性が接吻をしている姿が描かれています。アーヘンのように教区が主導している場合もあります。

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「シノドスの過程はパンドラの箱 : 100の質問と回答」第五章 B 教会の民主化 C 女性の叙階

2024年02月01日 | カトリックとは

「シノドスの過程はパンドラの箱 : 100の質問と回答」

The Synodal Process Is a Pandora’s Box: 100 Questions & Answers

ホセ・アントニオ・ウレタとフリオ・ロレド・デ・イズクエ著

第五章 ドイツの「Synodaler Weg」【シノドスの道】

B 教会の民主化
64.「Weg」推進派は教会統治に関して何をするつもりなのでしょうか。
65.評議会結成に合意はあったのでしょうか。
66.バチカンはこのシノドス評議会を承認したのでしょうか。
67.バチカンの介入は何か影響を与えましたか。

C 女性の叙階
68.女性の叙階はシノドスのテーマとどう関係するのでしょうか。
69.教会の教理は女性を司祭に叙階することを認めていますか。
70.女性に対して助祭職だけを承認することは可能でしょうか。


B 教会の民主化

64.「Weg」推進派は教会統治に関して何をするつもりなのでしょうか。

「Weg」推進派は、教会の権威の体系を大きく変えるために、教会の位階構造を解体することを提案しています。そうすると、決定権を持つ信徒評議会が司教の権限を制限することになります。信者は、いわゆるシノドス評議会を通じて、全国レベル、教区レベル、小教区レベルで参加することになります。この教会の民主化は、「Synodaler Weg」の最も議論の的となった点の一つです。

2022年9月の第4回シノドス総会では、常設の全国シノドス評議会の設立を議論する委員会が承認されました。この評議会は、司教、司祭、信者で構成され、シノドスの旅の決議の実施を保証し、長期にわたって永続させるべきものとされています。この評議会は、単なる諮問機関ではなく、意思決定権を持つ審議機関でなければならないとされます。教区司教よりも大きな権限を持つ組織となるでしょう。

65.評議会結成に合意はあったのでしょうか。

いいえ、なぜなら一部の司教が反対したからです。このような議会制度を教会に導入することは、保守派ではないヴァルター・カスパー枢機卿でさえもつまずかせてこう言いました。「シノドスを恒久的な機関にすることはできません。教会の聖伝は、シノドスによる政治などというものを知りません。現在構想されているようなシノドスによる最高評議会は、(教会の)構成体の歴史全体において何の根拠もありません。それは刷新ではなく、前例のない革新になるでしょう」(116)。

66.バチカンはこのシノドス評議会を承認したのでしょうか。

いいえ。2023年1月16日付の書簡で、国務長官のピエトロ・パロリン枢機卿は、ルイス・ラダリア枢機卿(教理省長官)、マルク・ウエレット枢機卿(司教省長官)とともに、シノドス評議会の設立を拒否しました。教皇によって承認されたこの書簡にはこうあります。「『シノドス評議会』は、ドイツの教会の新たな統治機構を構成するものであり、…ドイツ司教協議会の権威の上に立ち、事実上、それに取って代わるものになってしまうと思われます」。この書簡はさらにこう述べています。「シノドスの道も、それによって設立されたいかなる組織も、いかなる司教協議会も、全国、教区、小教区レベルでシノドス協議会を設立する権限を持っていません」(117)。

この立場は、2022年11月の教皇庁訪問(ad limina visit)の際、ドイツ司教団に公式に伝えられました。当時の司教省長官マルク・ウエレット枢機卿はこう宣言しました。

「私はすでに(ドイツの)司教たちにはっきりと言いました。…これはカトリックではありません」。
このようなドイツの公会議は、「カトリックの教会論、そして司教の唯一無二の役割に一致しません。司教の役割とは、司教聖別のカリスマに由来するものであり、また、司教が教え決定する自由を持たなければならないことを意味するものだからです」(118)。

2023年3月にフランクフルトで開催された第5回にして最後のシノドス総会の開会式で、教皇大使であるニコラ・エテロヴィッチ大司教は、シノドス評議会の設立を認めないバチカンの姿勢を改めて表明しました。

67.バチカンの介入は何か影響を与えましたか。

はい、最後の第5回シノドス総会では、白熱した議論の末、教区・小教区におけるシノドス評議会の設置を決定すべき「教会における権力と権能の分離-共同参加と宣教への参加」という文章は採決されませんでした。いずれにせよ、あらゆるものが示しているのは、「Synodaler Weg」が、各教区にそのような機構を設置することを司教団に委ねることで、事実上それを実施するだろうということです。

C.女性の叙階

68.女性の叙階はシノドスのテーマとどう関係するのでしょうか。

女性は教会生活に「包摂」される必要のある「疎外された少数派」の一つであるとされています。この目的のために、彼女らはあらゆるレベルの権威と聖なる品級の秘跡を受ける機会を持つべきです。アーヘン教区の提案には、「シノドス第3回総会で行われた良い仕事のおかげで、すべての神学的な議論がテーブルの上にあるのですから、ディーザー司教さま、あなたが女性が助祭や司祭として想像できるかどうかを表明してくださると私たちは期待しています」と書かれています(119)。

第3回ドイツ・シノドス総会で、「Weg」は、「召命されたと感じ、秘跡の役務に方向付けもするカリスマを持つ女性を排除すべきではありません」と決定しました(120)。この目的のため、「Weg」推進派は、この可能性を厳しく排除しているこのテーマに関する公文書について議論すべきだと言います。

教会の教理と規律に反すると分かっていながら、「Weg」推進派はこの路線で前進する決意を固めているようです。「ローマ・カトリック教会では、シノドスの道委員会が主導的な役割を果たす透明な過程が透明な方法で開始されます。あらゆる性別の人々の秘跡の役務を専ら取り扱う委員会が設立されるでしょう」(121)。

69.教会の教理は女性を司祭に叙階することを認めていますか。

いいえ。教理省長官のルイス・ラダリア枢機卿は最近、ヨハネ・パウロ二世の使徒的書簡「オリディナチオ・サチェルドス」(Ordinatio sacerdotalis)を引用して、この件に関する教会の教導権の決定的な立場を再確認しました。この書簡はこう締めくくっています。「したがって、非常に重要な問題、天主により造られた教会の構造(divine constitution)そのものに関わる問題に関して、すべての疑念が取り除かれるように、兄弟たちを固める(ルカ22章32節参照)私の役務により、私は、教会には女性に司祭叙階を授けるいかなる権限もないこと、そして、この判断はすべての教会の信者によって決定的に保持されるべきものであることを宣言します」(122)。

70.女性に対して助祭職だけを承認することは可能でしょうか。

いいえ。雑誌「Publik Forum」は次のようにコメントしています。「カトリックの教理に詳しい人なら誰でも知っていることだが、秘跡の叙階は究極的には一つしかなく、それは三つの段階(助祭、司祭、司教)からなる。いったん助祭職が女性に開放されれば、女性の司祭職への『滑り台』のような効果がある」(123)と。


「シノドスの過程はパンドラの箱 : 100の質問と回答」第五章 ドイツの「Synodaler Weg」【シノドスの道】

2024年01月29日 | カトリックとは

「シノドスの過程はパンドラの箱 : 100の質問と回答」

The Synodal Process Is a Pandora’s Box: 100 Questions & Answers

ホセ・アントニオ・ウレタとフリオ・ロレド・デ・イズクエ著

第五章 ドイツの「Synodaler Weg」【シノドスの道】
A ドイツのためだけではない道

53.「Synodaler Weg」とは何ですか。
54.「Synodaler Weg」は世界的シノドスとは違いますか。
55.ドイツの司教たちはどこでその考えを得たのですか。
56.「Synodaler Weg」で発言するのは誰ですか。
57.「Synodaler Weg」はどれほど重要なのでしょうか。
58.「Synodaler Weg」はなぜ招集されたのでしょうか。
59.「Synodaler Weg」の背後には下心があるのでしょうか。
60.「Weg」は教会の文化的パラダイム・シフトでしょうか。
61.Weg推進派によれば、聖職者の性的虐待を引き起こすものは何でしょうか。
62.Synodaler Wegはどのような解決策を提案しているのでしょうか。
63.これは教会の破壊につながるのでしょうか。

第五章 ドイツの「Synodaler Weg」【シノドスの道】

A ドイツのためだけではない道

53.「Synodaler Weg」とは何ですか。

「Synodaler Weg」とは、シノドスの道という意味です。それは、ドイツのカトリック教会が、世界的シノドスとは独立して、ローマの方向性を先取りし、さらにはそれを凌駕して、シノドスに適応することを選んだ特別な道です。この新造語は、教会法にも教会の聖伝にも根拠がありません。

「Synodaler Weg」は、すべての信者が教会について発言できる恒久的な議論の場として、2019年にリンゲンで開催されたドイツ司教協議会の総会で承認されました。この準備段階あるいは協議段階は2023年3月に終了しました。提案は司教団に提出され、司教団は2023年10月にローマで開催される世界的シノドスに提出するため、現在議論を進めています。

「Weg」推進派はまた、聖職者と信者で構成される常設のシノドス評議会を設置し、ドイツの教会を完全に民主的な組織に変えようと考えています。シノドス評議会は、「教会と社会についての本質的な変化に関する協議・意思決定機関」として、また「司牧計画や予算の問題に関する教区を超えた機関」として機能することになります(94)。

バチカンはこの提案に拒否権を行使しましたが、ドイツ司教団はこの路線を継続する意思があるように見えました。

「Synodaler Weg」には定義された形式はありませんが、途中で変化する「過程」として提示されています。このシノドスの道のウェブサイトはこう述べています。「シノドスの旅は、教会法によって定義された形式を持たず、独自のものです。それは、道を旅する過程として定義することができます」(95)。

この「道」は完全に開かれていなければなりません。リンゲンの総会で、ミュンヘン大司教で当時ドイツ司教協議会会長だったラインハルト・マルクス枢機卿はこう述べました。「信仰は、思考の閉塞感から解放され、自由で開かれた議論に直面し、新しい立場を取って新しい道を切り開く能力を発展させることによってのみ、成長し、深化することができます」(96)。

54.「Synodaler Weg」は世界的シノドスとは違いますか。

形式的にはそうですが、それはドイツの教会の過程であり、世界的シノドスの過程と並行して自律しているという意味です。現実には、後に見るように、「Weg」は、その主要な主人公たちの宣言された意向において、2015年に発足した世界的シノドスの過程の他の車両を牽引する機関車のように考えられています。メディアはこのように報道していますが、さまざまな大陸から集まるシノドス総会の最も進歩的な参加者たちは、ドイツの「Weg」の行動計画(アジェンダ)に含まれる問題を主張したいと考える可能性が高いのです。このように、最善の仮説を立てれば、「Weg」は、新近代主義の最も急進的な大義名分のための宣伝の場を獲得するという世界的な過程を助けることになります。

両者の提案を単純に読めば、ドイツの道の言い方の方がさらに鋭いものの、その深い類似性が分かります。

55.ドイツの司教たちはどこでその考えを得たのですか。

「Synodaler Weg」の推進派は、2015年の司教シノドス組織設立50周年に関する教皇フランシスコの演説に触発されたと主張しています。その時教皇はこう述べました。

シノダリティの道は、天主が第三千年期の教会に期待する道です。…
教会を構成する次元としてのシノダリティ(97)。

これに2019年6月29日、教皇がシノドスの道を奨励した「ドイツ巡礼中の天主の民への手紙」を加えます。

皆さんの司牧者たちは、シノドスの道を提案しています。これが具体的な言葉で何を意味し、どのように発展していくかは、まだ検討中です。私としては、司教シノドス50周年を祝う機会に、教会のシノダリティについて考察を述べました。要するに、それは聖霊の導きの下で、聖霊の光、導き、注ぎの下で、教会全体と一緒になって、共に歩み、聖霊が私たちに与えようと望んでおられる常に新しい地平に耳を傾けて識別することを学ぶシノドスに関することなのです。なぜなら、シノダリティとは、聖霊のご出現を前提とし、それを必要とするからです(98)。

ラインハルト・マルクス枢機卿とドイツ・カトリック中央委員会会長のトーマス・シュテルンベルク教授はこう宣言しました。「教皇フランシスコは、私たちがシノドスの教会となり、共に歩むよう招いています。これがドイツの教会の『Synodaler Weg』の目的です。私たち司教協議会の司教とドイツ・カトリック中央委員会の信者は、すべてのカトリック信者、修道者、司祭、そして特に若者たちとともに歩んでいきたいと願っています」(99)。

もっと広く言えば、「Weg」の推進派は、たとえば2013年の使徒的勧告「エヴァンジェリイ・ガウディウム」で表明された、シノダリティに関する教皇フランシスコの教導権に従っていると言っています。同勧告はこう述べています。「司教協議会を真の教理上の権威を含む具体的な帰属の主体とみなすような、司教協議会の法的地位は、まだ十分に練られていません。過度な中央集権化は、役に立つことが証明されているどころか、教会の生活と宣教の活動を複雑にします」(100)。

56.「Synodaler Weg」で発言するのは誰ですか。

原則的には、ドイツのすべてのカトリック信者はもちろん、参加を希望する非カトリック信者でさえも、「Synodaler Weg」で発言権を持つことになります。しかし、「Weg」の最も重要な機関であるシノドス総会(Synodalversammlung)は、ドイツ・カトリシズムの最も進歩的な派閥によって独占されています。彼らは不調和な声をすべて沈黙させ、自分たちの行動計画(アジェンダ)を実施するために、たとえそれが離教につながるとしても、ローマと対立することを恐れはしません。これらの個人や団体は、何十年もの間、ドイツの教会を破壊転覆しようと努力してきました。その中でも代表的なものが、ドイツ・カトリック教会中央委員会(Zentralkomitee der deutschen Katholiken, ZdK)です。

「Synodaler Weg」の内部で行動計画(アジェンダ)を押し付けるこの進歩的な分派は、かつてのリンクスカトリスムス(Linkskatholizismus、カトリック左派)です。ヴュルツブルクのシノドス(1971-1975年)の行動計画(アジェンダ)には、すでにいくつかの「Weg」ポイントがありました。例えば、女性の助祭職、説教への信者の参加、小教区・教区評議会制度の拡大などです。

1990年代には、「私たちは教会である」(Wir sind Kirche)のようないくつかのイニシアチブが、性道徳の緩和、避妊具の承認、司祭の独身制の廃止、教会の権威構造の民主化などを求めました。

リンクスカトリスムス全体が今、「Synodaler Weg」に集中しています。

この分派は、司教たちをより急進的な立場へと向かわせています。例えば、カトリック農村青年運動会長のダニエラ・オルドウスキーは、「(ローマとの関係において)ドイツ司教協議会は、もっと勇気をもって、もっと怒りをもって、もっと騒々しく反応しなければならないでしょう。最終的には、不従順を選択せざるを得ないかもしれません。一方では社会的価値観、男女平等、権力分立、他方ではカトリックの家父長制的君主制というギャップに、いつまで我慢するでしょうか(101)」と書いています。

57.「Synodaler Weg」はどれほど重要なのでしょうか。

「Synodaler Weg」は、ドイツの教会にとって特別な道であり、ローマで招集されたシノドス総会のモデルとして、極端ではあるものの非常に影響力のあるものとして提示されています。多くのオブザーバーは、その結論が、有名な表現によれば「ライン川がテヴェレ川に流れ込んだ」(102)第二バチカン公会議が設定した先例に倣い、普遍教会におけるシノドス全体の過程の展開にどのような影響を与え得るかを指摘しています。

例えば、著名なバチカン専門家であるサンドロ・マジステルは次のような危惧を表明しています。「教皇によってチェックされていないドイツの『シノドスの道』の伝染は、今や国境を越え、『シノダリティに関するシノドス』の総会自体に影響を及ぼす恐れがあります」(103)。

ドイツの提案にマリオ・グレック枢機卿が明らかに共感しているのを糾弾し、バチカン専門家のエド・コンドンは、ドイツの司教団が「バチカン・ウォッチャーたちの間で、世界的なシノドスの過程全体がドイツ人に対する一種の『優先的選択肢』を持っているという印象を与えた」と書いています(104)。

ドイツ司教協議会会長であり、「Weg」推進派の中心人物だったゲオルク・ベッツィング司教は、「Weg」が提示した多くの提案を含むシノドスの準備文書「あなたのテントの場所を広く取りなさい」に言及し、陶酔的にこう宣言しました。「(ドイツの)シノドスの過程はすでに教会を変えました」(105)。

58.「Synodaler Weg」はなぜ招集されたのでしょうか。

「Weg」は、理論的には、2010年に発覚したドイツの教会における性的虐待問題の解決策を見いだすために招集されました。そのとき以来、具体的な結論に達することなく、会議、委員会、作業部会が増殖してきました。この惰性に直面した一部の司教とドイツ・カトリック中央委員会は、この問題を手に取り、恒久的な議論の場を設けるという考えを打ち出しました。

前述のように、「性的虐待の問題に積極的に立ち向かい、その防止を強化する」ために、2019年12月のドイツ司教協議会総会で「Weg」が承認されました(106)。

59.「Synodaler Weg」の背後には下心があるのでしょうか。

「Weg」が述べた目標の背後には、教会改革のプロジェクトが潜んでいると指摘する声は多くあります。例えば、ウィーン大司教であるクリストフ・シェーンボルン枢機卿は、「コムニオ」誌のインタビューで次のように語っています。「虐待の道具化があります。…「虐待行為」は、それを口実に、教会改革の要求について、議論して決定するために利用されています」(107)。

「Weg」の先駆者であるラインハルト・マルクス枢機卿自身も、このことを認識しています。彼は、性的虐待事件が教会の公衆への信頼を失墜させ、司祭職に叙階された人々が教会を指導できるという考えを捨てるべきだ、と主張しています。彼はこの問題やその他の問題で聖職者を監視する新しいリーダーを、特に信者の中から見つける必要がある、とします。進歩的な「ナショナル・カトリック・レポーター」によれば、「マルクス【枢機卿】は、位階構造の性質のゆえに、説明責任の必要性に対する教会の理解は『初歩的なものでしかない』と述べた」とあります。したがって、教会に「根本的で体系的な変化」をもたらすことが急務であり、シノドスの過程が必要だとされるのです(108)。

教皇に宛てたドイツ司教協議会会長職辞任の手紙の中で、このバイエルン人の【マルクス】枢機卿は「教会における変化と改革を求める制度的失敗」について明確に語っています。彼はこう付け加えます。「この危機を脱するための転機は、私の考えでは、あなたが強調され、ドイツの教会に宛てた手紙に書かれているように、『霊の識別』を可能にする道である『シノドスの道』しかありません」(109)と。

60.「Weg」は教会の文化的パラダイム・シフトでしょうか。

はい。「Weg」推進派は、それが教会の文化的パラダイムに大きな変化をもたらすものでなければならないと認識しています。「シノドスは文化的パラダイム・シフト(Kulturwandel)と教会の実践の変化をもたらさなければなりません」とゲオルク・ベッツィング司教は言います(110)。言い換えれば、「Weg」は教会の偶発的な要素だけでなく、その基盤そのものを変えなければならないのです。

ドイツ・カトリック青年連盟の会長であり、「Weg」の中心人物であるグレゴール・ポッドシュンはこう書いています。

今必要なのは、カトリック教会とその(間違った)教理を根底から変えることです。…新しい教会を建設するために、この教会は自ら滅びなければなりません。…
過激に聞こえますが、結局はそうなのです(111)。

61.Weg推進派によれば、聖職者の性的虐待を引き起こすものは何でしょうか。

Synodaler Wegの推進者たちは、聖職者の性的虐待の主な原因は、教会に蔓延する聖職者主義にあると主張します。Weg基本文書によれば、性的虐待の原因は「教会の現在の構造と教理」であり、そのため改革が必要と主張するのです(112)。

フルダで開かれた2018年の全体会議で、ドイツ司教協議会は「司祭の独身生活やカトリックの性道徳の諸側面に関する疑問など、カトリック教会に特有の課題は、透明性のある議論の過程で、さまざまな分野の専門家の参加を得て議論される」と述べました(113)。

一方、ラインハルト・マルクス枢機卿は、「少なからず、子どもや若者への性的虐待は、(教会)運営における権力の濫用の実である」と述べています(114)。

62.Synodaler Wegはどのような解決策を提案しているのでしょうか。

Weg推進派は、教会の位階構造と道徳を変えることによって、教会に蔓延する聖職者主義を克服する、と以下のように提案しています。

a.司教の任命に平信徒が参加し、教会機構を広く民主化すること。
b.司祭の独身制を廃止すること。
c.同性愛者の聖なる品級を認めること。
d.女性に秘跡的役務を開放すること。
e.同性愛を再評価し、同性婚を受け入れること。
f.教会の伝統的な性道徳を非難すること。

Synodaler Wegのアジェンダは、カトリック道徳と教会の位階階級の解体という2点に要約できます。

63.これは教会の破壊につながるのでしょうか。

少なくとも、それが一部の人々の意図するところであると思われます。元教理省長官ゲルハルト・ミュラー枢機卿はこう述べています。「彼らはカトリックの信仰とは何の関係もない別の教会を夢見ています…そして、このプロセスを悪用して、カトリック教会を転換させようとしているのです」(115)と。

しかし、この著名な神学者【ミュラー枢機卿】自身の言葉を借りれば、これは「カトリックの信仰とは何の関係もない」ことであり、また、教会とも何の関係もないことであることに注意してください。なぜなら、前述のように、天主の約束によって強められ、教会は不可崩壊性(indefectibility)を、すなわち、その特権によって、教会は時の終わりまで耐え忍び(マテオ28章20節参照)、地獄の門も教会に打ち勝つことはない(マテオ16章18節参照)という特性を確実に持っているからです。


ダヴィデ・パリャラーニ神父の講話(2)「フィドゥチア・スプリカンス」この世に耳を傾けるが天主の言葉には聞く耳がないシノドスの教会

2024年01月28日 | カトリックとは

「フィドゥチア・スプリカンス」
この世に耳を傾けるが天主の言葉には聞く耳がないシノドスの教会(その2)

“Fiducia supplicans”:
A synodal Church listening to the world,
but deaf to the word of God

ダヴィデ・パリャラーニ神父
聖ピオ十世会総長

https://vimeo.com/904255614

クリエ・ド・ローマ第17回神学大会
2024年1月13日、パリ

IV―「フィドゥチア・スプリカンス」:昔の話

以上のさまざまな考察により、この未婚のカップルや同性カップルを祝福する可能性の背後にある理由を整理してきました。しかし、私たちはこの最近の出来事を、もっと古い物語の新しい章として見る必要もあります。このことは、事実上、教会が現代社会の圧力に屈していることを私たちが理解する上で重要なことです。

この圧力はどこから来るのでしょうか。なぜこのような強制がそれほど強いのでしょうか。私たちが、教会が決定したことの重大さを理解したければ、教会がさらされている圧力の大きさを理解する必要があります。

第一に、私たちは原理を思い浮かべる必要があります。革命とは定義上、既成の秩序を破壊することです。私がここで述べているのは、大文字の「R」の革命(Revolution)のこと、あらゆる種類の革命を包含する言葉の最広義の意味での革命のことです。革命はすべての既成秩序を破壊し、それを達成するために、すべての区別を破壊しなければなりません。なぜなら、区別のないところには、秩序はあり得ないからです。

例えば、なぜ家族に秩序があるのでしょうか。区別があるがために秩序があるのです。父親は、母親でも、祖父でも、子どもでも、息子でも、娘でもありません。父親は父親であり、他の誰でもありません。同様に、母親は母親であり、他の誰でもありません。家族には自然に確立された秩序があり、各メンバーは、家族が目的を達成することのできる、それぞれの役割を果たすことが期待されています。

革命はあらゆる秩序を破壊するのですから、家族だけでなく社会全体のあらゆる区別を破壊しなければなりません。なぜ破壊しなければならないのでしょうか。この原理を神学的な方法で考えてみましょう。なぜ革命はすべての区別を破壊する必要があるのでしょうか。

端的に言えば、区別は何らかの形で、人間と天主との間の区別という、最も根本的な区別に由来するか、それにつながるからです。最初の革命は、自分と天主との区別を受け入れなかったルチフェルから始まりました。超自然のものと自然のものを混ぜ合わせるという近代主義の戦闘計画全体は、単にこの革命の現れにすぎません。人間の良心を神格化することは、この根本的な区別をなくすもう一つの方法です。このようにして、人間は善と悪の原理となります。人間は、真理と虚偽の原理となるのです。

この観点からすると、常識と結びついた伝統的な区別はすべて禁止されなければなりません。なぜなら、その区別はすでに述べたこの根本的な区別の痕跡だからです。その区別は、人間と天主との間の最初にして究極の区別の繰り返しなのです。これらの区別は、拒絶された秩序の不可欠な一部であり、上から下まで再考される必要があります。よくあるのは、言葉が妨げられることです。特定の表現や単語はもう使うことができません。それらは悪者扱いされ、特に、それらが伝統的な区別を反映する表現であればなおさらです。

具体的な例の中には、教師と生徒、雇用者と被雇用者、親と子、司祭と信者といった伝統的な区別があります。異なる国家間、異なる宗教信条間の区別もあります。これらの区別は排除されるか、少なくとも再評価されます。地球、私たちの共通の家、人間の尊厳、人権など、人々が共通して持っているものが強調されるのです。

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罪によって破壊され、革命によって歴史を通して破壊されつつある秩序を再建すること、これがカトリック教会の使命であり、ご托身の理由です。
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しかし、具体的に言えば、最終的に破壊される必要のある区別とは何でしょうか。人間とすべての動物の物理的本性に最も深く根ざしている区別とは何でしょうか。天地創造の日に、何が天主の御手から直接もたらされた区別でしょうか。この区別とは何でしょうか。天主は彼らを雄と雌に創造されましたか。天主は雄の動物と雌の動物を創造されました。天主は男と女を創造されました[注2]。この区別は第一のものにして最も明白なものです。そしてこの区別によって、天主は非常に具体的な機能と非常に具体的な役割を結びつけられたのです。

注2 創世記1章27-28節「天主は、ご自分にかたどって、人間をつくり出された。天主は、人間を天主のかたどりとし、男と女につくり出された。天主は、人間を祝福して仰せられた。「生めよ、増えよ、地に満ちて、地を支配せよ。海の魚と、空の鳥と、(家畜と、)地をはう生き物をつかさどれ」。マテオ19章4節「イエズスは答えて彼らに言われた。『あなたたちは読まなかったのか。初めにすべてをつくられたお方が人を男と女につくり給うた」。マルコ10章6節「だが、創造の初めから、天主は人間を男と女につくられた」。

もしこの区別をなくせば、あるいは世界がこの区別を理解できなくなれば、父性の美しさをどうやって説明できるでしょうか。父性、すなわち父親であることは、ここ地上における天主の権威の発露にして適用なのです。この美しい概念は天主の啓示の一部です。それを強調しているのは聖パウロです。天主の創造の使命の延長線上に自分の使命を見いだす父親は、とても崇高なものです! しかし今日では、このようなことはすべて理解できなくなりつつあり、破壊されなければならないものなのです。彼らは、誰が男か女か、あるいは何が男で何が女なのかさえ、もはや誰も理解できないような人類に到達させようとしています。少なくとも人々の心の中では。

ですから、現実には、この過程は長い道のりを歩んできたのであり、非常に特別な理由があったのです。その内実の一部始終を理解する必要があります。その背後には、言葉の最も深淵な神学的意味において、悪魔的な意志があるのです。この区別を最初に拒否したのはサタン自身であり、彼はすべての人に――例外なく――同じ道を歩ませようとしているのです。「あなたたちは神々のようになる」[注(3)]と。

注(3)創世記3章4-5節「へびは女に言った。『いや、おまえたちは死にはしない。おまえたちがその実を食べれば、そのとき目が開け、善悪を知る神々のようになると、天主は知っているのだ」。

そして、これらすべての区別、特にこの最後の区別をなくすことは、人類の自滅につながります。それは、もはや父親もなく、もはや母親もない人類です。なぜなら、人類は父親とは何か、母親とは何か、男とは何か、女とは何かをもはや知らないからです。これは、滅びる運命にある文明です。継続することはできません。しかし、なぜ継続できないのでしょうか。サタンが人殺しだからです。サタンは最初から、人間を破滅させるために人間を欺こうとしてきており、成功しつつあるのです! 今日、誰もがこの新しい原理を、そして区別の廃止を、ある種の寛容さと微妙な差異をもって、受け入れなければならないのです。なぜなら、真のゲームは、見えないように技術的に隠されているからです。それにもかかわらず、今日では、誰もが何らかの形で、こうした区別の廃止を受け入れざるを得ず、したがって、それが意味する新しい秩序を受け入れざるを得ないという事実があります。

しかし、なぜご托身が起こったのでしょうか。カトリック教会はなぜ創立されたのでしょうか。教会の役割とは何でしょうか。教皇の役割とは何でしょうか。このような矛盾と闘うためにこそ、カトリック教会はあるのです! 天主と人間との最初の区別から始まり、それに続くすべての区別を指摘することです。彼らの役割は、罪によって破壊され、革命によって歴史を通して破壊されつつある秩序を再建することです。これがカトリック教会の使命です。これがご托身の理由なのです。

しかし、カトリックの教会の聖職者たちは今日何をしているのでしょうか。この世に沿って、現代社会と同じ方向に進んでいるだけでなく、それを祝福しているのです! ここでようやく、「フィドゥチア・スプリカンス」の深刻さが理解できるでしょう。私たち一人一人が、今日起きていることの何が問題なのかを正確に理解する努力をすることが重要です。行動計画(アジェンダ)は確立されています。この祝福が与えられるかどうかは問題ではありません。そうではありません! 本当の問題はもっと深刻です。カトリックの教会人がこれらの原理を祝福しているのですから。では、私たちにとって、私たちは、それをどう説明することができるでしょうか。

V- 教皇フランシスコだけの責任か

ああ、こうならざるを得なかったのです。確かに私たちにはつまずきですが、過剰に驚いてはいません。しかし、なぜこうならざるを得なかったのでしょうか。道徳とは教義と信仰の実りであり、その逆ではないからです。私は、天主、人間、霊魂、罪、贖いについて自分が信じていることの観点から、自分の行動規範を定義するからです。私が真実であると信じることに基づいて、私は自分の行動規則を定めるのです。

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もし私たちが天主を選ぶことができるのであれば、私たちは自分がどうありたいかを選ぶことができることになります。
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したがって、現代の誤謬が、教理と信仰の退廃が、最も顕著に表れた結果である信教の自由を例に取りましょう。信教の自由は、公会議以来60年以上にわたって説かれてきました。では、何が予想できるのでしょうか。もし私たちが天主を選ぶことができ、自分自身の天主についての考えを選ぶことができ、あるいは天主についての考えをまったく持たないことさえ選ぶことができるのであれば、私たちは自分の行動規則や道徳を選ぶことができ、また私たちは自分がどうありたいかを選ぶこともできることになります。

天主が私たちにお与えになったものに満足しないならば、あるいは、天主が私たちを創られたやり方に満足できない(例えば自然法について奇妙な考えを持っていて)のならば、自分を変えたい、違うものになりたいと選ぶことができます。なぜいけないでしょうか?私たちが自分の天主を選ぶことができる、自分の宗教を選ぶことができる――これは今日教会が教えていることでもあります――のならば、なおさら(a fortiori)、それ以外のこと、たとえば誰と暮らすか、誰と家庭あるいはある種の「家族」のようなものを築くかを、私たちは選ぶこともできることになります。

もう一つの例はエキュメニズムになるでしょう。では、エキュメニズムとは何でしょうか。それは宗教間の戯れです! したがって、必然的に、もし私たちがこのエキュメニズムの精神に染まれば、遅かれ早かれ、乱れた道徳が後に続くことになります。道徳は教義の実りだからです。教義は、はるか昔に破壊されました。したがって、結論を出すことが必要でした。教皇フランシスコは、かなり論理的な方法でそれを行っているにすぎません。しかし、問題はフランシスコから始まったのではありません。このため、原因や元の原理に立ち返ることが聖ピオ十世会の役割です。

VI- 時のしるし

このパターンに、私たちが経験している教会の危機に特有の要素はあるのでしょうか。私たちは、何か新しいものがあることは認めなければなりません。

一つだけ挙げるとすれば、精神の盲目です。私たちは教会人が盲目になっている時代に生きています。ある疑問を解決しなければならないとき、彼らはもはや、自分たちが聖伝と連続しているのか、それとも不連続なのかを自問することさえしません。そのすべてがすでに時代遅れなのです。完全な盲目です。それこそが最悪の懲罰です。精神の盲目は間違いなく天主からの罰です。それは天主が身を引かれたしるしです。天主はご自分の光を退けられたのです。これが天主のお答えです。天主は沈黙を守られる。

なぜ天主は沈黙なさるのでしょうか。60年もの間、天主に耳を傾けようとしなかったからです。したがって、天主は退かれたのです。そして今、天主はすべての善意の人々に、天主がもはやおられないときに何が起こるかを示されます。天主が退かれた結果を示されます。これは、この世に捕らわれ、この世が提供する快適さを絶えず求め、何よりもこの世そのものに順応しようとする人間に課される罰です。遅かれ早かれ、人間は盲目になります。この世はその巧妙さで人間を盲目にします。この世は精神を盲目にし、意志を破壊します。【天主に耳を傾けないかぎり】それは避けられないことです。この世の悪しきをすべて非難するか、あるいは自分自身がこの世に取り込まれるがままになり――そして遅かれ早かれ、盲目になってしまう――かのどちらかです。

その結果、超自然の感覚と正しい判断力が完全に失われてしまいます。それは、聖三位一体や贖いのような超自然の現実についての判断力の喪失だけでなく、自然の現実についての正しい判断力の喪失でもあります。彼らはもはや、人間の本性に刻まれている最も初歩的で、最も明白な区別【例えば男女の区別】を理解することができないでいます。彼らはもはや、これらの区別が意味するものを擁護することができません。本当の精神の盲目です。

過ちと混沌と嘘の60年。この世に身を委ねてきた60年。今見ているのが、私たちのたどり着いた結果であり、彼らが祝福しているものなのです。

VII- 良心の優位から王たるキリストの優位へ

では、解決策はあるのでしょうか。

間違いなく、あります! 第一の解決策は、天主の聖寵を信じることです。

この世を喜ばせたいという願望や、この世に逆らうことへの恐れは、純粋に自然的で、純粋に政治的な物の見方から生じています。このため、私はこの言葉を本当に強く言います。それは、純粋に人間的な物の見方であり、そこでは聖寵の問題はもはや重要ではない世界観です。聖寵は単に観点から除外されています。もはや聖寵を信じていないのです。

私たちの住む世界は、必然的にその方向で進み続けるでしょう。なぜなら、それを変えることのできる超自然の要素が存在しないからです。聖寵はありません。この世を新たにすることのできる贖いはありません。贖いは今後、別のことを意味するようになるでしょう。

しかし、私たちは聖寵を信じなければなりません。

そして、聖寵と密接な関係にあり、天主の聖寵を信じることの帰結でもある、もう一つの解決策は、ルフェーブル大司教があらゆる機会に、あらゆる説教で主張した解決策です。それは、大司教が私たちに残してくださった宝の真髄です。私たちがそれをよく理解し、完全にそれに献身するならば、それは非常に単純な解決策になります。

それは王たるキリストです! 私たちは王たるキリストのもとに立ち返らなければなりません。

私たちは、これが基本的にこの世と教会に影響を及ぼしている政治的な問題であることを見てきました。

したがって、王たるキリストに立ち返らなければなりません。

何よりもまず、キリストは知性の王です。キリストは精神の王です。超自然的にも自然的にも照らすことのできる唯一のお方です。私たちは、超自然の光を失うと、遅かれ早かれ、最も明白な自然の物事に対する光をいかに失うかを見てきました。

キリストはまた、心の王、真の愛の王、真の愛徳の王でもあります。正にそれが欠けているのです。誰もが愛について語ります。しかし、愛徳という概念が失われたとき、贖いという概念が失われたとき、天主という概念が失われたとき、カトリック教会内でさえ、「愛」という言葉がいかにつまずきを与える意味を持つようになるか、愛ではないものが愛と呼ばれるようになるか、容易に理解できるでしょう。愛が祝福されますが、それはどのような愛なのでしょうか。

――――――――――
王たるキリストは抽象的な考えではありません。単純な夢ではない。夢物語でもない。キリストは、すべてのものを復興させるために教会に与えられた唯一の手段です。
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知性の王、心の王、真の愛徳の王…そしてキリストは諸国の王です。私たちは、教会が祝福するこれらすべての誤った原理の矛盾に目を向け、その結果を考えなければなりません。この世は、これまでこれほど破滅的な状況に陥ったことはありません――この世は戦争状態にあります――そして、カトリック教会の誰も、その解決策が王たるキリストにあるとは言っていません! しかし、それはなぜでしょうか。それは超自然の光を失い、それとともに自然の光さえも失っているからです。

平和の探求は、言葉の最も崇高な意味での政治的問題であり、人間と歴史についての考え方を含んでいます。それはプログラムも含みます。私たちの状況、教会の現状において、王たるキリストの至高性をもっと深く理解することができます。私たちはまた、この教理、この教義、この原理などの放棄が何をもたらすかをもっと深く理解することができます。私たちは、それがどこに至るのかを見ることができます。それは、教会とこの世におけるすべての秩序の破壊に至らせるからです。

王たるキリストは、抽象的な考えではありません。単なる夢でもありません。夢物語でもありません。王たるキリストは、すべてのものを復興させるために教会に与えられた唯一の手段であり、この手段は教会だけに与えられているのです。これは確かに、今日の教会では理解しがたいパラドックスです。教会が、この世にいることを望むだけでなく、この世のものであることを望むのですから。王たるキリストは、教会だけが理解でき、人類に提供できる手段です。王たるキリストは、教会の宝です。それは、教会の社会教理の真髄です。キリストの王権が委ねられているのは、教会に対してだけです。教会だけがそれを宣べ伝え、実を結ばせることができます。教会を通してのみ、王の王、すなわち、道であり、真理であり、命である(4)王が人間の上に君臨することができるのです。

注(4)ヨハネ14章6節参照


ダヴィデ・パリャラーニ神父の講話(1)「フィドゥチア・スプリカンス」この世に耳を傾けるが天主の言葉には聞く耳がないシノドスの教会

2024年01月27日 | カトリックとは

「フィドゥチア・スプリカンス」
この世に耳を傾けるが天主の言葉には聞く耳がないシノドスの教会

“Fiducia supplicans”:
A synodal Church listening to the world,
but deaf to the word of God

「このシノドスの教会は、天主の民の感情にしっかりと足を踏んで立ち、すべての人の意見に耳を傾けていると主張する教会です。しかし、その実態は単なるユートピアであり、千年王国です」。

ダヴィデ・パリャラーニ神父
聖ピオ十世会総長

https://vimeo.com/904255614

クリエ・ド・ローマ第17回神学大会
2024年1月13日、パリ

「シノドスの教会」が推し進めるさまざまな現実と関連して、総合的な考えを表明し、私たちの立場を説明する機会を私は得ました。

第一に、このシノドスの教会に関するさまざまな要素について整理してみる必要があります。とりわけ、すでにかなりの量の論評を生んでいる最近の文書「フィドゥチア・スプリカンス」(Fiducia supplicans)について、何らかの秩序をつけることを試みる必要があります。この出来事をその真の文脈に置く必要があります。一体どうしてこれが出てきたのでしょうか。これは何を意味するのでしょうか。聖ピオ十世会の役割は、即座にして本能的な反応だけに限定されるとすることはできません。この文書で何が問題になっているかの理解をできるだけ深めるのは、私たちの役割です。他の人々は「フィドゥチア・スプリカンス」の問題を教皇フランシスコの個人的な奇抜さに矮小化し、彼の奔放さを説明できないでいます。もし私たちの分析に深さがなければ、他の人々と同じ罠に陥る危険性があります。

他の人々の「フィドゥチア・スプリカンス」に対する反応は、これらの「祝福」の問題を、適切さの問題に還元し、このイニシアチブは特定の文化的文脈、特にアフリカでは不適切であるとしています。実際のところ、現実はもっと複雑です。とは言っても、こうしたさまざまな反応はすべて歓迎されます。それらは、まだ反応する能力があることを示すという点で良いことだからです。しかし、聖ピオ十世会はもっと深く踏み込む必要があります。したがって、メディアの騒ぎから一歩引くことから始めましょう。

I-現代世界の期待に応える教皇職

厳密に言えば、「フィドゥチア・スプリカンス」はシノドスの文書ではなく、教理省が作成し、教皇自身が署名したものです。それにもかかわらず、シノドスの準備の際に何度も提起された内容に応える文書です。したがって、この文書は現在行われているシノドスの期待にこたえるものです。

私たちが定義しようとしている「シノドスの教会」とは、周辺部や草の根の人々を含むすべての人々、つまり、完全にすべての人に、例外なく耳を傾ける教会のことです。それは「この世」そのものに耳を傾ける教会です。したがって、それは新しい感受性と、外に出てこの世と出会うという新しい意欲を持った教会です。

現実には、現在の教皇職は、現代世界、とりわけ言葉の最も広い意味での「政治」の世界の期待と要求にますます完璧に対応しています。実際、この教皇職は、一方では、今日の世界で普遍的に共有されている政治的ビジョンに対応しており、他方では、新しい社会組織を作り出そうとする政治的手法にも適応しており、それはすでにほぼ勝利を収めていることを認めなければなりません。では、この世界の再編成において、なぜ教会の代表者たちの存在がこれほど重要なのでしょうか。

このようなやり方は今に始まったことではありません。新しい原則が導入されるとき、あるいは新しい社会が建設され再編成されるとき、宗教団体はこれらの原則を「神聖」なものとする必要があります。これは極めて明確なことであり、人の心に根ざした必要性に対応しています。人間は心の奥底で常に宗教的な側面を持っています。何かを信じる必要があり、したがって、基本的にはまったく神聖でないものでさえも「神聖」にする必要があります。それは非常に多くの場合、無意識の欲求です。しかし、それは人間の本性に根ざしています。なぜそうなのでしょうか。なぜなら、人間は天主のために創造されたのであり、革命でさえ人間の本質を変えることはできないからです。

遅かれ早かれ、聖なるものは、私たちが信じるものや私たちが基本だと考える原則に、超越的な次元を与えるために、不可避的に人々に課せられます。これは歴史を見ればよく分かります。古代文明は、彼らにとって重要なものすべてを神聖化しました。権力、力、火、大地、豊穣などを神聖化しました。現代にもっと近いところでは、自由主義革命だった「フランス革命」が同じことを行いました。それは基本的に世俗のものであったため、過去を全面的に否定し、宗教などを含む旧体制の一部だったすべてのものの非中央集権化を実施しました。しかし同時に、人間の理性をいわば「聖なるもの」のレベルまで引き上げることを主張しました。もう一つの例は人権宣言です。宣言というものは日々なされています。ほとんどの宣言は、よくても数週間は記憶されますが、永久に保存されることはありません。しかし、それとは対照的に、人権宣言は歴史に永久の足跡を残しているように思えます。それはなぜでしょうか。人権宣言は単なる宣言ではなく、本格的な信条だからです! それは信仰告白のような荘厳さをもって書かれたものです。近代の現代社会がその上に築かれることになる、これらの新しい原則と新しい教義を神聖なものとする宗教的必要性に応えたものなのです。この他にも多くの例を挙げることができます。

教皇は何をしているのでしょうか。教会は何をしているのでしょうか。残念ながら、彼らは同じ方向に進んでいます。彼らは、今日のこの世の目から見て基本的とされることを神聖だとしているのです。その例をいくつか挙げましょう。私たちは皆、エコロジーが教皇によって説かれ、教えられていることを知っています。この新しい「エコロジカル」な神学は、純粋に歴史上の瞬間に結びついた単純な便宜的配慮を超えています。それは誰にでも説かれる新しい道徳です。それは無神論者にさえ提案される横断的な(transversal)道徳です。【訳者注:普遍的な一つの(uni-versal)倫理というよりは、キリスト者やマルクス主義者など対立的な思想を持つ人々でも横断的に持つことの出来る共通の枠組みの(trans-versal)倫理とされる】 なぜそうなのでしょうか。それは、私たち全員が、すべての人のこの共通の家、私たちが「被造物」と呼ぶ天主の御手から生まれたものを尊重しなければならないからであり、それ自体では、私たちがそれをどう考え、どう呼ぼうとも、すべての人の共通の家だから、とされています。これは、言うなれば、宗教的な性格、宗教的な印鑑・刻印を、宣言に、そして、今日の政治世界の緊急の要請に押印することを意味しています。そこで、教会は、自分の持つ宗教的な刻印を与えるために介入したのであって、このことは、これまで見てきたように、人間の非常に現実的なニーズに応えるものなのです。

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教皇は、今日の世界の目から見て基本的なことを神聖なものとして表現しています。「フィドゥチア・スプリカンス」は政治的な必要性に応えているのです。
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もう一つの例は、位階階級を解体する必要性を主張していることです。彼らにとっては、位階的な社会という考え方から、そして位階的な教会観から脱却する必要性があります。彼らは今、権力がもはや位階的でない社会を提唱しています。権力は分配され、再分配されます。それゆえ、権威を共有し、聖職者主義と闘い、女性の解放を推し進める必要性があるとされます。これは、ここしばらく、行動計画(アジェンダ)にある主題です。今日、教会は、女性が自分の場所を持つことを、教会統治の位階構造の中でさえも女性の場所があることを望んでいます。

これらはすべて、伝統的な家父長制に対抗して提示され、家父長制度は、歴史を通じて一連の権力濫用の組織的・制度的原因であると考えられるようになっています。そして、すべての人に提案され、特に教会に提示されている――教会が聖なるものとすることを可能にするために――これらの現代的な価値観の中には、LGBTの行動計画(アジェンダ)があります。これはこれらの「価値観」の一つだからです。シノドスの感性は、今述べたばかりの「価値観」を含め、必然的に現代の感性に適合しなければならず、私たちは、シノドスの感性というものが実行されているのを目の当たりにしているのです。

一方、私たちが注目すべきもう一つの側面もあります。教会は、さまざまな歴史的な理由から、信憑性を失い、それゆえに世界における影響力を失っていることに気づいています。このような状況の中で、教会は、信憑性を維持するために、「最新」のことを説く必要があると考えています。残念ながら、これは必然的な結果です。この世における使命の超自然の次元を見失った教会は、その威信と信用を失ったために、この世に対して「コンプレックス」を抱き始めます。したがって、教会は、信憑性を保とうとするために、他の方法を模索します。こうして、この世から理解されたいと願う教会は、この世と同じ言葉を話し始めます。しかし、教会はそのために作られたわけではないため、これは恐るべき幻想です。教会が、決して自らを水平的な視点に限定するために作られたのではないことは明らかですから。

ここですでに、私たちが「フィドゥチア・スプリカンス」を適切な文脈に置くのを助けてくれる最初の結論を導き出すことができます。なぜこのようなことが起こったのでしょうか。さて、逆説的ではありますが、世俗世界は依然として教会と、教会だけが与えることのできるこの宗教的な「刻印」とを必要としています。そして、信憑性を失った教会は、逆説的ではありますが、依然としてこの世を必要としているのです! この二重の必要性が、この政治的地形に真の共生、相乗効果を生み出しています。「フィドゥチア・スプリカンス」は、現在の政治的必要性に応えているのです。

II-教会の歩みを現代の政治的感性に合わせるとは何を意味するのか

問題の核心に入るために、少し哲学の話に脱線させてください。この現代的な政治的見方は、現代思想に依存しています。それは現代思想の反映であり、像です。そして現代思想は、集団であれ個人であれ、良心という新しい基本的なカテゴリーから出発します。現代人がまず自分自身の思考を再構築し、次に自分を取り巻く世界を再構築するのは、自分の良心からです。

しかし、良心を他のあらゆるものの原理にして基礎であるとすることは、現実から解離した原理を用いることを意味します。さて、現実から解離した原理は、あらゆる場合において、知性に対する優位性を失います。これによって、私たちは、把握すべき客観的な秩序があり、それに従わなければならないという考えを超えていきます。はい、この新しい秩序においては、秩序を確立するのは人間であり、この秩序を自分の中に発見するのは人間の良心であり、その後に、この考えに基づいて、自分を取り巻く世界を構築するのであり、これが言葉の広い意味での現代政治なのです。

言い換えれば、物事の秩序にはもはや最終目的も完全性もありません。人間や社会の幸福は、もはや、彼らが受け、彼らの本性に適合する最終目的の中に見いだされはしません。このような物事の外的な秩序は、もはや良心が定義するようなものとは一致しません。人間の良心そのものが、世界における新しい秩序の新しい原理なのです…。したがって、物事の客観的な秩序を尊重することには、もはや最終目的も完全性もないのです。

その結果、現代政治においては切っても切れない四つの特質が見いだされるでしょう。そしてそれは教皇フランシスコの教会、すなわちシノドスの教会にも同様に見いだされるでしょう。

第一に、現代政治はイデオロギー的です。現代政治は、現実を、良心が自らのために作り出した自由な表現に置き換える限りにおいて、イデオロギー的です。現代政治は自らの言葉で語ります。現代政治のあらゆる表現にはイデオロギーが伴っています。あらゆる政党の背後には、客観的な現実の把握があるのではなく、主観主義的なイデオロギーがあるだけなのです。

現代政治の第二の特徴は、自己決定的であることです。これは必然的な結果です。現代政治は、政治がどうあるべきか、人間がどうあるべきかを自ら決定します。現実を出発点とすることなく、現実の分析から始めることもなく、自らの計画やプロジェクトをすべて自分自身で構築するのです。

現代政治の第三の特徴は、全体主義的であることです。何世紀にもわたって、特にあの自由主義革命以来、喧伝されてきた「解放」という「自由」のイメージの背後にあって、現代政治は全体主義的です。なぜなら、力の行使に訴えてさえも、現実が現代政治に従わなければならないからです。個人や集団の良心で考え出された考えが、具体的な現実の上に貼り付けられ、こうして現実がそれに従うことを余儀なくされるのです。全体主義が生まれるのはここからです。私たちは、考えが現実の上に貼り付けられ、現実がある方向か別の方向へシフトすることを余儀なくされる、全体主義の世界に生きているのです。

最後に第四の特徴は、協定的(conventional)であることです。現代政治は物事の自然の摂理に基づいているのではなく、協定的な秩序に基づいています。何が善であり、何を追求すべきかは、もはや現実を検証した上で理解され受け入れられるのではなく、今や良心によって恣意的に決定され、選択されるのです。

現代政治のこれら四つの特徴は目新しいものではありませんが、特にシノドスの教会にどのように当てはまるかを見るのは興味深いことです。

しかし、それがどのようにシノドスの教会に当てはまるかを見る前に、カトリック教会がこの現代性に対して中立・無関心なままではいられないことを理解する必要があります。可能性は二つしかありません。第三の選択肢はないのです。

・一つは、現実と天主の啓示よりも良心の方が優先権をもっているという主張を教会が非難し、また、そこから派生する現代政治のすべてを非難する。
・あるいは、教会がこの新しいシステムに入る。

この二つに一つです。

しかし、この新しいシステムはどこにでもあります。物事の新しいビジョンを持つこの新しい視点は、どこにでも存在します。私たちは中立のままでいると主張しながら、このシステムに身をさらし過ぎないようにして、同時に、これを非難し過ぎるのを避けるようにしつつ、このシステムと交渉することでそこから肯定的な何かを得ようとする、などということはできません。絶対にできません! 第二バチカン公会議に至るまで、カトリック教会は何をしていたのでしょうか。教会はただ単にこのシステムを非難したのです。しかし、今日、教会はこのシステムに入り込みました。教会はそれを自分たちのものにし、そして今、教会はそれを祝福しています。私たちが理解すべき重要なことはこのことです。

このシノドス教会は、それなりに、自分のやり方で「イデオロギー的」です。司牧上の必要性は、それを思いつく人々の心の中にしか存在しません。教理はもはや受けるものではなく、つくり出されるものなのです。例えば、カトリック教会の祝福を求めているLGBTのカップルが世界に何百万組もいると皆さんは本当に思いますか。絶対にありません! しかし、今見てきたような理由から、今日の教会にとって重要なのは、しるしを出すこと、つまりジェスチャーを示すことなのです。「フィドゥチア・スプリカンス」のような文書は、祝福の実際の要求や、司牧的必要条件、実際に与えられる祝福の数に関係なく、この世にとっては政治的価値があります。それに反対する人々がいても、司教協議会全体が反対していても、少なくともそれは問題ではありません。重要なのは、これらの文章がその政治的意義のために書かれ、発表されたということなのです。

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シノドスの教会は全体主義的かつイデオロギー的です。
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シノドスの教会には、「自己決定的」な側面もあります。なぜなら、教会はもはや、自らを不変の目的と不変の使命をもつ天主から与えられた不変の構造体とは考えていないからです。今日、教会は、歴史的な状況に応じて、そして何よりもその時々の必要性に応じて、自らを活性化させ、自らに新たな最終目的を与えることができますが、常に進化することができるのです。

シノドスの教会も「全体主義的」です。なぜそうなのでしょうか。なぜなら、教会は社会団体として、教会にとって親和的ではない原則に従わざるを得ないからです。現実世界は激しく歪められ、それゆえにさまざまな反応――それが完全であれ不完全であれ、完成であれ未完成であれ――が生じるのです。しばしば言及されてきたことですが、誰にでも開かれ、誰もが発言して参加することができるシノドスの教会と、同時に非常に権威主義的な行為を押し付ける教会との間に、明らかな矛盾があります。特に、教皇フランシスコの側に、あるいは少なくとも彼の教皇職の始まり以来そうです。この矛盾は指摘されてはいますが、ではどうすれば解決できるでしょうか。答えは単純で、シノドスの教会が全体主義的だからです! 理論的な概念や考えは、たとえそれが現実に即していなくても、現実の上に貼り付けられるのです。

人々にやり方を強制するために暴力を使うならば、それは全体主義的です。教会の権威は、物事を強制するために使われている一方で、同時に誰もに耳を傾けていると主張しています。

最後に、シノドスの教会も協定的(conventional)です。理論的には、統治の選択を示唆するのはシノドスの基礎・基底【の人々】です。決定されたことは常にそのように提示されます。天主の民が、全体として、「信仰の感覚」(sensus fidei)を通して、進むべき特定の道や道路を示唆した、と。

以上のことから、私たちが現在の出来事を理解するための鍵が現れます。この教皇職の主要な決定は、今日の世界、そして政治的な世界の主要な原則に、そのために必要なことをすべて含めて、可能な限り忠実に適合しようとする願望であると見なさなければなりません。

III―革命の道具であるシノドス

それでは、このような観点からシノドスを見てみましょう。シノドスには演ずるべき特別な役割があるのでしょうか。

ここでは、神学的、教理的な側面については触れないことにします。シノドスとは、単に団体主義の表現であり、教会を草の根から共に統治したいという願望の表現です。

これと並行して、シノドスには実際的な、あるいは私たちが「政治的」な機能と言えるものもあります。その目的とは何でしょうか。シノドスは、彼らが伝えたい考え、法律に変えたいと思う考えを、天主の民の期待や要求あるいは必要性でさえあるとして流布させるという役割を果たしています。当然のことながら、教会内の誰もが求めていると思われることに、教会が応えないはずがありません。なぜなら、そのことは「信仰の感覚」によるとされているからです。必然的なことですが、天主の民が求めるすべてのものの中には、今日の世界が教会に期待するすべてを繰り返して見いだすでしょう。

一年少し前に発表されたシノドスの作業文書「インストゥルメントゥム・ラボリス」(Instrumentum laboris)[注1] を見れば、すべてが分かります。それは巨大な塊であり、あらゆるものがある、そしてあらゆるものの対極がある、形のない塊です。しかし、このような文書を手にして、当局は最善と思われるものを選択します。「今がこの点を行うその時だ、機は熟した、状況は整った、私たちはこの一点に関しては前進できる…」。

注1:「シノダリティに関するシノドス」第1会期(2023年10月)の作業文書「あなたの天幕の場所を広く取りなさい」。

では、その結果として避けられないことは何でしょうか。すべてのことに、そしてすべてのことの反対のことに、常に「はい」と言うことによって行動するので、教理的な原則から出発せず、現実から出発せず、皆の期待に耳を傾けることによってのみ動くので、私たちは現実からかけ離れたことをしてしまうのです。

現実との乖離という側面を強調することは重要です。何故なら、このシノドス教会は、天主の民の感情にしっかりと根を張って足をおろして、すべての人の意見に耳を傾けていると主張している教会なのですから。しかし、現実には、それはユートピア【どこにもないところ】にすぎません! 「フィドゥチア・スプリカンス」が思い描くこの「祝福」は、単なる間違いではなく、ユートピアなのです! それは、ナンセンスであり、その背後には、完全に刷新された教会とともにある新世界というキメラ的な夢があるのです。それは一種の千年王国です。それはユートピアであり、千年王国の幻想であり、完全に現実離れしたものなのです。【訳者注:キメラとは異なる動物が一体化した想像上の動物のこと。ギリシア神話では、頭はライオン、胴体は山ヤギ、尾はヘビ】

しかし、教会が知るように呼ばれている現実、教会が宣教するよう求められている具体的な現実――真の現実――とは、福音の現実であり、カトリックの教義の現実です。天主の啓示の現実であり、私たちの主イエズス・キリストの現実であり、カトリック道徳の現実であり、罪との戦いの現実です。しかし、改革者たちにとって、これらすべては、もはや日常生活に何の影響も及ぼさない抽象的な現実となっているのです。彼らの観点では、重要なのは天主の民との関係です。これは、あらゆるユートピアにもかかわらず、唯一の具体的な現実であると考えられており、教会の教理と考えられているすべてのものと根本的に矛盾しています。教会の教理は彼らによって直接否定されるのではなく、抽象的な真理としてただ脇に置かれるだけなのです。

今日の教会は、このシステムに巻き込まれています。このシステムに縛られ、このシステムに惑わされて泥沼にはまっています。教会は必要に迫られて、最終的な完成も究極的な完成も示すことなく、すべての人の期待に耳を傾け、満足させようとしています。もはや、今日永遠の命について語る到達すべき超越も至高の善もないのです。

今日の教会の状況を見てみましょう! 教会は現在、これらの「祝福」について世界中で議論を経ています。幸いにも反発はあります。しかし、私たちがどこにいるのかはお分かりでしょう。司教協議会全体と世界が同性愛者を祝福するかしないかについて議論している間、私たちはもう福音について話していません。私たちはもう私たちの主について話していません。私たちはもう成聖の恩寵について話していません。私たちはもう十字架について話していません…。なぜでしょうか。それらはみな、抽象的すぎるからです。

今日の教会の位階階級は、1968年以降の家庭の父親たちと同じような状況に置かれています。私が言っているのは、もはやなぜ子どもを持っているのかを知らない1968年以降の幻滅した父親たちのことです。1968年の危機とそれに続く徐々に進んだ悪化以来、家庭の父親は、自分がなぜ父親なのか分からなくなっています。子どもたちに何を教育すべきか、なぜ子どもたちを教育すべきなのかも分からなくなっています。では、現代の父親は何をすればいいのでしょうか。

第一に、家族をまとめる必要があります。父親と母親の役割を十分に正当化するような目標、子どもたちを教育するという達成すべき目標がもうなくなれば、家族はバラバラになる危険性があるからです。しかし、父親がなんとか家族をまとめようとしたとしても、その役割は単なる物質的・具体的要求に応えることに矮小化されます。子どもは飢えている、それなら食べ物が必要だ。子どもには教育が必要だ、それなら学校へ行かせよう。子どもには運動が必要だ、それなら医者が必要だ、服が必要だ、…でもこのすべてにおいて、私たちは"なぜか"という理由を知らないのです。目的を示す代わりに、あるのは必要に応えるーー善いか悪いかにかかわらずーーことだけです。【変わらない本質的な理由で答えるではなく】その時々の偶発的な対応でしかありません。これは壊滅的です。

シノドスの教会は、1968年以降の家庭における、このような縮小され、ハンディを置かれた父親像に対応しています。そして、子どもたちはしばしば何を求めるでしょうか。間違いなく、教育や指導ではありません。子どもたちは、最新の気まぐれを求めているのです!

【続く】


「シノドスの過程はパンドラの箱 : 100の質問と回答」第三章 シノドスの過程 : E「包摂」F大陸ステージのための作業文書 G信者は意見を述べたのか Hシノドスの核心は「セクト」か

2024年01月26日 | カトリックとは

「シノドスの過程はパンドラの箱 : 100の質問と回答」

The Synodal Process Is a Pandora’s Box: 100 Questions & Answers

ホセ・アントニオ・ウレタとフリオ・ロレド・デ・イズクエ著

E 「包摂」
30.シノドスの推進者にとって「包摂」(inclusion)とは何でしょうか。
31.「包摂」提案の背後には何があるのでしょうか。
32.今度のシノドスを理解する鍵は「根本的な包摂」なのでしょうか。
33.この「根本的包摂」は教会の構造や教理を変えるのでしょうか。
34.「包摂」は解放神学の「貧しい人々の教会」を実践しているのでしょうか。

F 大陸ステージのための作業文書
35.教区の協議で集められた証言の結果はどんなものだったのですか。
36.それはイデオロギー的に偏った文書でしょうか。

G 信者は意見を述べたのでしょうか
37.理論的には、シノドスの過程は「天主の民」全体から意見を聞くべきとされています。それは行われたのですか。
38.この数字が意味するものは何でしょうか。

H シノドスの核心は「セクト」か
39.なぜカトリック信者は無関心なのですか。
40.グリッロは、入門者のサークルの「外部」のものとしてのカトリックの大衆に言及するとき、一つの隠された集団のことを暗示していませんか。

 

E―「包摂」

30.シノドスの推進者にとって「包摂」(inclusion)とは何でしょうか。

シノドスの過程が必須の「包摂」を重要視しているにもかかわらず、公式文書の中にはこの用語を定義したものはありません。シノダリティとは「共に旅すること」ですから、その旅には誰一人排除されずに全人類が参加しなければならないという前提があるように思えます(56)。

「包摂」の宗教用語としての定義がないため、シノドス文書の起草者たちは、世俗社会における現代的な意味で「包摂」を用いていると考えられます。つまり「そうでなければ排除されたり疎外されたりするかもしれない人々に、機会や資源への平等なアクセスを提供する実践や政策」(57)です。

この用語はしばしば統合・完全性(integration)の同義語として使われますが、重要な違いが一つあります。なぜなら、「統合は環境の特性に個人を適応させることを意味する」のに対して、包摂(inclusion)は「社会のすべての構成員を多様な方法で統合できるように、社会規範、政策、現実を適応させること、つまり、多様性のために集団のアイデンティティを犠牲にして、すべての人を『ありのまま』に受け入れること、に基づいている」(58)からです。

31.「包摂」提案の背後には何があるのでしょうか。

元英国国教会主教でエリザベス二世のチャプレンを務め、カトリックに改宗し、現在は有名なカトリック日刊紙「ヘラルド」の副編集長を務めるギャビン・アシェンデンは、シノドスの「大陸ステージのための作業文書」をトロイの木馬だと非難しました。この文書は、多様性、包摂、平等といった「お守りのような言葉(talismatic words)」(59)を使って人々の心を操作しようとしています。彼はこう書いています。「このトリックはとても単純です。一見とても魅力的に見えるものの、隠されたひねりを含んだ言葉を使うことで、結局は何か違う意味、おそらくは正反対の意味になるように仕向けるのです」。

素晴らしい洞察力で、アシェンデンはこう続けます。

その文書のタイトルは『あなたの天幕に場所を広く取りなさい』(イザヤ54章2節より)と呼ばれています。この文書が目指しているのは、「根本的な包摂」です。天幕は、誰一人排除されることのない根本的な包摂の場として提示されており、この考えは文書全体を解釈するための解釈学的な鍵となります。この言葉のトリックは簡単に説明できます。排除されることとは、愛されないことです。つまり、愛である天主は、根本的な包摂を支持されるに違いありません。その結果、新約における地獄と裁きという言葉は、ある種の異常な誇張表現であり、真に受けてはならないのです。そして、この二つの概念は相互に矛盾しているため、どちらか一方が消えなければなりません。包含が残り、裁きと地獄は去るのです。これは別の言い方をすれば、「イエズスは去り、マルクスが残る」ということです。
そして、これは教会の教義的かつ倫理的な教えをすべて覆すために適用されるのです。
女性はもはや叙階から排除されることはなく、LGBTの関係も結婚として認められます。そして、進歩的野心の真の広がりが表に現れ、一夫多妻の信者に手を差し伸べ、「教会の天幕の中」に引き込むことが示唆されています。
進歩的リベラル派の考え方が、信仰の倫理を変えようとしていることに気づかないのは、重大な間違いです。そのため、「聖性と罪」というカテゴリーを「包摂と疎外」に置き換えているのです。この疎外という言葉の使い方のルーツは、もちろんマルクスにあります(60)。

32.今度のシノドスを理解する鍵は「根本的な包摂」なのでしょうか。

はい。「ハンドブック」は、「周縁にいる人々や、排除されていると感じている人々を確実に包摂するための真の努力がなされなければなりません」(13ページ)と断言しています。大陸ステージのための作業文書』によると、イザヤ書54章の冒頭にある「あなたの天幕の場所を広く取りなさい」という言葉は、教会の召命を、交わり、参加、宣教の開かれた空間として定義しており、その中で耳を傾けることは「歓迎のための開放性として」理解しなければなりません。「これは、根本的な包摂――誰一人排除されることのない――を望むところから始まります」(11-1番)。

実際、「イエズスの教えに従って、急進的な包摂のできる、共有された所属のできる、深いもてなしのできる教会というビジョンは、シノドスの過程の中心にあります」(31番)。なぜなら、それは「シノドスの教会への回心の道」へと至るからです。これは、時代のしるしに照らして、福音宣教の使命をいかにして更新し、すべての人が主人公として包摂されていると感じられるような在り方、生き方をいかにして人類に提供し続けるかを、耳を傾けることから学ぶ教会を意味するのです」(13番)。

この「包摂性」の必要性は非常に根本的であるため、「地方教会におけるシノドス開会を祝う典礼のための提案」という文書は、「他のキリスト教宗派や他の宗教の信者を含め、時には排除されるかもしれない人々をも包摂する努力がなされるべきです」と記しています(61)。

33.この「根本的包摂」は教会の構造や教理を変えるのでしょうか。

はい。シノドス推進者たちによれば、さらに大きな包摂への道は「耳を傾けることから始まり、態度や構造をさらに広く、さらに深く転換させることが必要です」(62)。作業文書はこう続けます。「この転換は、教会、その構造、そしてスタイルの継続的な改革につながります」(63)。シノドスの過程の主な目標の一つは、「私たちのメンタリティーと教会構造を更新すること」(64)であり、これは「当然、教会のさまざまなレベルにおける構造の更新を求めることになります」(65)。

米国の著名な教会法学者であり宗教分析家であるジェラルド・E・マレー神父は、これらの「疎外された少数派」を「包摂」することは、次のような直接的な結果をもたらすと正しく指摘しています。

以下の人々の信念や欲望に反対する教えを捨てることになってしまう:

―再「婚」という姦淫状態で生活している人々
―2人または3人以上の妻を持つ男性
―同性愛者や両性愛者
―自分は生まれつきの性ではないと信じている人々
―助祭や司祭に叙階されたい女性
―天主から司教や司祭らに与えられた権威を受けようと欲する平信者。

(そして、彼はこう締めくくります。)今日、教会では明らかに公然たる革命が進行しています。異端や不道徳を受け入れることは罪深いことではなく、むしろ、これまでその使命に忠実でなかった教会から疎外されていると感じている人々を通して語られる聖霊の声への応答なのだと私たちに信じ込ませようとしているのです(66)。

34.「包摂」は解放神学の「貧しい人々の教会」を実践しているのでしょうか。

はい。何十年もの間、いわゆる解放の神学者たちは、マルクス主義的な「貧しい人々」という概念、すなわち、物質的に奪われた人々という概念を、女性、先住民、黒人、同性愛者など、「抑圧されている」と感じているとされる、あらゆるカテゴリーにまで広げ始めています。

シノドスの旅を踏まえ、解放神学の強い影響を受けたラテンアメリカ・カリブ海地域シノドスの大陸ステージの統合は、「貧しい人々の教会」または「人民の教会」という古い考えを再び提案しています。

「『傷つけられ、打ち砕かれた人々(ある人は「抑圧された人々」と言うでしょう)のための避難所』である教会」について、ラテンアメリカ文書はこう断言しています。

シノドスの過程において、しばしば忘れ去られたり、脇に追いやられたりしている大きなテーマを私たちがあえて提起し、識別することは重要であり、また、私たちの教会においてさえも、人類家族の一員でありながら、しばしば疎外されている他者やすべての人々にあえて出会うことが重要です。いくつかのアピールが私たちに思い起こさせてくれるのは、イエズスの精神をもって、私たちが「貧しい人々、LGTBIQ+の共同体、第二の結合【再婚】のカップル、自分たちは新しい境遇にあるが教会に戻りたがっている司祭、恐れから中絶をする女性、囚人、病人を含めなければならない」(南回帰線以南の南米大陸)ことです。それは、「流浪者が自分の家にいるように感じられるように、あらゆる種類の流浪者に耳を傾けるシノドスの教会で共に歩むこと」に関することであり、その家とは「傷ついた者、砕かれた者の避難所」である教会です(67)。

F―大陸ステージのための作業文書

35.教区の協議で集められた証言の結果はどんなものだったのですか。

その結果は、預言者イザヤの書から引用された「あなたの天幕に場所を広く取りなさい」というタイトルの下に、シノドス事務局から送られた「大陸ステージのための作業文書」でした。この文書は「準備文書」とも呼ばれています。

この文書が発表されて以来、高い地位にある高位聖職者たちからも強い批判が寄せられています。例えば、故ジョージ・ペル枢機卿は、この文書を「ローマから送られた文書の中で最も支離滅裂な文書の一つ」と評しました。このオーストラリア人枢機卿はこうコメントしています。「それはカトリックの信仰や新約の教えを要約したものではありません。不完全であり、使徒継承の聖伝に重大な敵意があり、信仰と道徳に関するすべての教えの規範となる天主のみ言葉としての新約を認めているところはどこにもありません。旧約は無視され、教父は否定され、十戒を含むモーゼの法も認められていません」。

そして彼はこう結んでいます。「カトリック教会はこの『有毒な悪夢』から自らを解放しなければなりません」(68)。

著名な社会学者であるマーク・レグネラスは、皮肉にも「大陸ステージのための文書」を「貧しい人々から『若い人々』や文化的に疎外された人々へと優先的選択肢を変更させた、不満を抱えた改革主義者たちの願望リスト」と評しています。この論文を分析したレグネラス教授は、「社会科学者として、私はこのシノドスの大規模で扱いにくいデータ収集・分析事業を特徴づけている方法論の混乱について重大な懸念を抱いています」と結論づけています。彼によれば、この論文は客観的なデータに基づいてはいません。

さまざまな問い掛けの中には、明らかに執筆者たちの主観的な経験を狙ったものがいくつもあります。……感情的な用語が文書に溢れています(69)。

36.それはイデオロギー的に偏った文書でしょうか。

はい、「カトリック・ワールド・レポート」の編集者カール・オルソンは、準備文書について非常に興味深い見解をこう述べています。

(この文書は)…「位階階級」に3回しか言及しておらず、そのうちの2回は、「構造的な障害物の持続」の例として「独裁的な傾向を助長する位階階級の構造…」が挙げられているように、あからさまに否定的な意味合いが含まれています。
実際、与えられた印象は、教会が、絶え間なく進化し続ける水平的な社会――もちろん「天主の民」――であり、終わりのない対話、絶え間ない不平不満、多彩な被害者意識…によって動いているということです。
…「信者」が言及されるとき、それはほとんど常に不満のために使われています。信者は聖職者から受動的で距離があり(#19)、聖職者主義の犠牲者で(#58)、過重な負担があり(#66)、小教区でもっと多くのことをすることを許されず(#68、91)、もっと多くのことをする機会から遠ざけられています(#100)。
なぜ「経験」が60回以上もあって、文書で何度も繰り返されるテーマなのでしょうか。そして、なぜ「聖性」や「美徳」という言葉は合わせて0回【ゼロ】なのでしょうか。「旅」については37回言及されていますが、「天国」、「栄光」、「至福」という言葉はまさしく0回なのです。
「耳を傾ける」(listen)と「耳を傾けること」(listening)は50回以上出てくるのに、「悔い改めの」と「悔い改め」が一度も出てこないのは、何か理由があるのでしょうか。
…また、この文書では「悪」、「罪」、「咎」、あるいはそれに類するものに言及することはありません。なぜないのでしょうか。
おそらく、私は数字や言葉にとらわれすぎていて、過程や構造について十分に理解していないのでしょう。しかし、教会、教会性、信者、福音化、カトリック信者として生きることについて書かれた約15,000語の文書の中で、「礼拝」(0回)、「賛美」(0回)、「感謝」(0回)よりも「過程」(44回)や「対話」(31回)という用語がかなり多く登場するのが目立ちます(70)。

G―信者は意見を述べたのでしょうか

37.理論的には、シノドスの過程は「天主の民」全体から意見を聞くべきとされています。それは行われたのですか。

いいえ。前の何ページかで説明したように、「シノダリティに関するシノドス」を正当化する教理によれば、「天主の民」は「信仰するにおいて」(in credendo)不可謬であるとして意見を聞かれるべきです。しかし実際には、シノドスの意見聴取の過程に介入することが許されているのは、ごく少ない少数派に限られています。偶然にせよ意図的にせよ、彼らはまさに、すでに教会改革に奮闘している進歩的少数派でした。

例えば、フランス司教協議会は、15万人が「2023年のシノドスに関する考察に貢献するために動員された」と報告しています(71)。これは、主日にミサにあずかる信者のわずか3.47%、フランスの全カトリック信者の0.35%でしかありません。

スペインのカトリック教会の全国シノドスの文書は、「215,000人以上が参加し、そのほとんどが信者でしたが、奉献された人々、修道者、司祭、司教も参加しました」(72)。これは、主日のミサにあずかる信者のわずか7.7%、カトリック信者の0.77%でしかありません。

これらの数字はあらゆる国でほとんど同じです。オーストリアではカトリック信者の1.04%、ベルギーでは0.54%、アイルランドでは1.13%、英国では0.79%、ラテンアメリカでは0.21%、カトリック国ポーランドでもわずか0.58%が参加したにすぎません(73)。

ドイツでは、いわゆる「Synodaler Weg」(ドイツのシノドスの道)を支持するオンライン・イニシアチブが、わずか1万2000人の署名を集めただけでした(74)。ドイツのカトリック信者は2160万人です。

38.この数字が意味するものは何でしょうか。

前述のように世界的に一貫しているこれらの数字に基づけば、「シノダリティに関するシノドス」総会が信者の間でほとんど関心を呼んでいないことを断言できます。カトリック・ニュース・エージェンシーが「バチカン、シノドス調査に回答する若く幻滅したカトリック信者を集めるため、影響力を持つ人々を動員」と雄弁に見出しをつけたのは、このためでしょうか(75)。

いずれにせよ、シノドスのアンケートに対する信者の反応が薄いことは、シノドスを根底から無効にしかねない重大な問題を提起しています。私たちは、「天主の民」の意見を聴取したと言うことができるのでしょうか。それとも、単にわずかな少数派だけからの意見の聴取だったということができるのでしょうか。その少数派とは誰なのでしょうか。彼らを動かしているのは誰なのでしょうか。

H―シノドスの核心は「セクト」か。

39.なぜカトリック信者は無関心なのですか。

シノドスの過程に対する信者の関心の低さを説明するには、多くの理由が考えられます。その一つは、教皇庁立聖アンセルムス大学の教授であり、シノドスの最も大胆なテーゼを無条件で支持する進歩的な戦いで知られるアンドレア・グリッロによって提示されています。それは「文学ジャンル」の問題です。

シノドスの過程全体にも通じる言葉で、グリッロはドイツの「Synodaler Weg」についてこう書いています。「シノドスの道によって生み出された膨大な(文書の)作成は、解釈上の問題を引き起こす可能性があります。…それは、外部の読者にはまったく透明性のない情報源や言語に言及しているからです」(76)。言い換えれば、シノドスの道の文書は、「外部」の読者には理解できず、限られた「内部関係者」またはイニシエーションを受けた入門者だけが理解できる判読不可能な言語を用いているのです。このローマのグリッロ教授は、本来の意味とは異なる新しい意味で言葉を理解するよう、信者に慣れさせることから始める必要があると言います。言い換えれば、グリッロは、入門していない人々を入門させることを提案しているのです。

40.グリッロは、入門者のサークルの「外部」のものとしてのカトリックの大衆に言及するとき、一つの隠された集団のことを暗示していませんか。

はい。これはまた、ドイツの「Synodaler Weg」に言及したときのゲルハルト・ミュラー枢機卿の発言の要点でもあるようです。「ドイツのシノドス・セクトの『存在的に異なる』カトリシズムにおいては、あらゆる科学的、哲学的、神学的人間学に反する同性愛とジェンダー・イデオロギーが、カトリック信仰の解釈学に取って代わっています」(77)。


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