Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

M.I.(Militia Immaculatae 無原罪の聖母の騎士会)祈りの十字軍へご参加ください

2016年05月30日 | M.I.(無原罪の聖...
親愛なる無原罪の聖母の騎士の皆さん、

聖マキシミリアノ・コルベは M.I.(Miliria Immaculatae 無原罪聖母の騎士)の普遍・主要な手段は祈りであり、具体的には使徒的な祈りであると何度も力説していました。

従って、私はアジアで同様の使徒職をはじめることを決めました。ここにあなた方のための特別なメールアドレスを載せます。

   prayer@militia-immaculatae.asia

1.まずはじめに、あなたがこのM.I.祈りの十字軍に参加したいと書いてください。
毎日、聖ベルナルドの「聖母の御保護を求むる祈り」(公教会祈祷文 239ページ)と、「ああ原罪なくして宿り賜いし聖マリアよ...」という M.I. の射祷と、少なくとも1連のロザリオを唱えると約束してください。 

このロザリオの祈りを、以下の人達から与えられる全ての意向で捧げてください。
 a)M.I. 祈りの十字軍の騎士たち  
 b)M.I. の代表者

2.あなたの祈りの意向を私に送ってください。これらの祈りの意向・祈りの要請は、M.I. 祈りの十字軍に参加する騎士達に自動的に送られます。
(もし、あなたの祈りの意向が教会法に沿ったものでないならば、意向を変更するようにメールを送り返します。)

3.もし、祈りの意向が叶えられたならば、感謝のメールを送るように強く勧めます。 私は、M.I. 祈りの十字軍に加わるように皆さんをお招きいたします。
(注意:あなたの祈りの意向が公開されることを望まないならば、メールを送る際にその旨を伝えてください。)

いつもこれを忘れないでください、
もし、あなたがあなた自身の為に祈るならば叶えられるでしょう。
あなたがほかの人のためにも祈るなら、2倍の報いを受け取るでしょう。

カール・シュテーリン神父

無原罪の聖母の騎士会の祈りの十字軍(日本語)
http://militia-immaculatae.asia/japanese/info15.php

無原罪の聖母の騎士会(聖伝) アジアのWEBサイト(日本語も対応しています)
http://militia-immaculatae.asia/



Join the M.I. ― PRAYER CRUSADE

Dear Knights of the Immaculata,
Saint Maximilian Kolbe insisted many times: The universal and primary means of the M.I. is prayer, and concretely the apostolic prayer.
Therefore I have decided to start a similar apostolate in Asia. Here is the special email address to which you may write:

   prayer@militia-immaculatae.asia

1/ Please write that you want join the M.I. ― PRAYER CRUSADE. For that you promise to say every day at least one decade of the Rosary with the M.I. prayer "O Mary conceived without sin ...." as well as the Memorare of Saint Bernard ("Remember, o most blessed Virgin Mary...").

The intention of this decade is: to pray for all prayer requests given:
a) by the Knights of the Immaculata who join the M.I. ― PRAYER CRUSADE,
b) by the moderators of the M.I.

2/ Send your prayer requests as much and as often you want! These requests will be automatically forwarded to all Knights who participate in the M.I. ― PRAYER CRUSADE (exception: if your request would not be in concordance with the laws of the Church, it will be sent back to you asking you to modify).

3/ You are strongly encouraged to send a note of thanksgiving if your prayer request was granted. May I invite you all to join the MI PRAYER CRUSADE.

Attention: If you do NOT want your request to be published, please mention that in your email.

Remember always: If you pray for yourself seriously, you will receive.
If you pray for others, you yourself will receive double.

Fr. Karl Stehlin

M.I. ― PRAYER CRUSADE
http://militia-immaculatae.asia/english/info260.php

M.I. ASIA
http://militia-immaculatae.asia/

長崎巡礼(日本二十六聖人の随意ミサ)での御説教 聖ピオ十世会司祭 フォルティン神父様

2016年05月29日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

長崎秋田巡礼の二日目に、長崎で「日本二十六聖人の随意ミサ」をお捧げしました。

聖ピオ十世会のフォルティン神父様による司式でした。その御ミサでの御説教を皆様にご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2016年4月30日 日本二十六聖人殉教者の随意ミサ―長崎巡礼
フォルティン神父様 御説教


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

神父様、そして信徒の皆さん、この26聖人の殉教者の随意ミサを、このミサを今捧げる、しかもこの殉教の血が流されたすぐ近くで、このミサをする事ができるというのは、本当に素晴らしい事で嬉しい事です。この殉教者たちは、多くの困難や苦しみの後に、霊魂を天主様にお返しになりました。

昨日、26聖人の記念碑を見ましたが、その下にこう書かれていました、「もしも私の後に従いたいならば、自分を捨てて、自分の十字架をとって私に従え。」と。私たちの主イエズス・キリストの模範に従って、主は、私たちも、自分を捨てて、私たち自身の十字架を担って、イエズス様の後に従う事を望んでおられます。

この26聖人はまさに、この主の御言葉の通りに従ったので、イエズス様の次に、完璧な死を遂げた方々と言う事ができるでしょう。

この26聖人の1人1人がした自分の奉献と、その犠牲を感嘆し、「素晴らしい」と思うのはとても簡単です。このイエズス様の模範に従って、彼らが捧げたその生贄、犠牲に私たちも従う事に致しましょう。捧げられた命の1つ1つが、イエズス様の模範に従った奉献である、捧げものである、という事が分ります。

特に聖パウロ三木は、十字架の上で、自分をこの十字架にかけた人々を、「私は皆赦す。そしてその回心の為に祈っている。天国での救いを祈っている。」と言いましたが、私たちもそれらを聞いて、心に非常に残りました。それを聞いた人々は、きっと心に残った事でしょう。

私たちの目の前にこのような模範があるので、私たちも悪を捨てて、自分のやりたい事や自分の好きな、自分勝手な、自分の思いではなく、私たちの主の御旨を、「聖なる御旨を果たそう。」と、決心を致しましょう。

殉教者たちの頭には、心には、1つの事しかありませんでした。天国です。殉教者たちが考えたのは、自分たちが今受けている苦しみや、辛い事では無くて、その後の、そのあとの喜び、それの報いの事だけを考えていました。

彼らは、この地上での経験がそれが、良い、楽しい事やおもしろい事であっても、苦しい事や辛い事であっても、非常に短いものであって、その次に永遠が待っている、という事を知っていました。

私たちはですから、大きな希望と、大きな勇気づけを受けます。何故かというと、彼らが生涯、彼らがなしたその犠牲を見ると、私たちもそれを、その希望が沸き起こってくるからです。

イエズス様の後を従って、彼らは苦しみと犠牲を捧げましたけれども、それはイエズス様への愛へのしるしであり、忠実の証でありました。彼らが証したその愛と、その忠実は、苦しいものでした。もちろん、自然本性によれば、私たちは苦しみを好むものではありません。しかし、「私たちの主の十字架の後を従う」という、その愛によって、それを受けたのでした。

私たちの主イエズス・キリストの御旨を果たし、自分の思いの通りに、自分勝手ではなくて、主の御旨を果たす、というのは簡単な事ではありません。しかし私たちの主と、マリア様がいつも私たちの傍にいて、その必要な助けを与えて下さいます。

今日は聖カタリナの、シエナの聖カタリナの祝日ですけども、私たちが日々の十字架や苦しみを、良く受ける事ができるように、この聖女も良い模範を示しています。例えば聖カタリナは、苦しい試練の時に、私たちの主の現れを、御出現を受けました。ある時カタリナは、その主を見てこう言いました、「主よ、御身は一体どこにいらしたのですか?私は本当に苦しみを苦しんで、苦しんで、とても絶える事ができないほどでした。そして御身をどこにいらっしゃるのか探したのですけれども、御身を見出す事ができませんでした。」と。

イエズス様は答えて、「お前が一番苦しんでいたその時に、苦しめば苦しむほど、私はお前の近くにいた。」と答えました。

殉教者たちのこの寛大さを見て、私たちもこの人生に於いて、同じように寛大である事に致しましょう。私たち自身を捨てて、イエズス様の御旨だけを果たすように、主の後だけを従うように、毎日、これを思い出す事にしましょう。

イエズス様は私たちに全ての必要なお恵みを与えて下さいます。私たちはそれに応えるだけで良いのです。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

教皇フランシスコによる使徒的勧告「愛の喜び」に関する聖ピオ十世会の宣言

2016年05月28日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

教皇フランシスコによる使徒的勧告「愛の喜び」に関する聖ピオ十世会の宣言の日本語訳をご紹介します。

原文はこちら

教皇フランシスコによるシノド終了後の使徒的勧告「Amoris Laetitia 愛の喜び」(2016年3月19日)に関する聖ピオ十世会の宣言

2016年5月6日

C’est à en pleurer
あまりに悲しくて涙が出る

« C’est une exhortation apostolique qui porte pour titre : La joie de l’amour, et qui nous fait pleurer. »

「使徒的勧告は、その題が「愛の喜び」ですが、私たちは涙せずにはいられません」──2016年4月10日、フェレー司教がル・ビュイ=アン=ブレでした説教。


1. 「愛の喜び」について、多くの意見、解釈、そしてコメントが発表されたがその中でも、最近聖ピオ十世会の司祭らによってなされた三つの研究が現れた。マチアス・ガオドロン神父による「愛の喜び──主観主義の勝利」と、ジャン・ミシェル・グレーズ(Jean-Michel Gleize)神父による「使徒的勧告 愛の喜びの第8章に関する短い考察」、そしてクリスチァン・トゥヴノ(Christian Thouvenot)神父による「シノド終了を経て──疑問を投げかけられる婚姻の不解消性」である。聖ピオ十世会総本部はこれら三つの小論を認め、全面的支援をしている。三つの小論は互いに一致して補完し合っており、教皇の文書の全体像を見渡している。

2. 二回のシノドの最中の会議進行手続きと、それらを取り巻く状況は、すでに数え切れないほどの疑問を起こしている。2014年2月の臨時枢機卿会議において、シノドのテーマについて明確に述べるよう招かれたのはウォルター・カスパー枢機卿ただ一人であった。だが一方で、彼は何年にも渡って、公の罪人にキリストのおん体を与えることを禁じる天主の法を廃止させようとする積極的な支援者として周知されている。2014年10月、臨時教会会議の最中に発表されたシノドの中間報告(Relatio post disceptationem 議論後の報告)は、議論の結果に一致していない内容を含んでいる。いくつかのトピックは、シノドによって承認されなかった最終報告の中に組み込まれてしまった。通常シノドの直前に、教皇は二つの自発教令を発布している。すなわち、シノドのテーマを正に取り扱い、結婚無効の宣言のための教会法的手続きを簡略化するという内容である。そして、シノドの結果について懸念を表明している13名の枢機卿たちによる親展書は、それを「陰謀」であると公に描写している。

3. 「離婚して再婚したカトリック信者」の聖体拝領を認めるという件に関する問題は、すでに教会によって幾度も議論されており、最近になってさえも教会の明確な回答が繰り返されている。[1] 従って、教会の永続的教えと実践について新たに議論することは有害なものでしかありえず、それらを明確にする代わりにかえって事態を混乱させかねない。そして事実、そうなったのである。


4. 教皇文書の中に、教会の教導職の教えとキリスト教的生活が明確に提示されているのを見つけようと私たちは期待する。
他の人々が正しく明記しているように、「愛の喜び」はむしろ「心理学、教育学、倫理司牧神学と霊性に関する講義」である。教会には、よい折があろうとなかろうと、イエズス・キリストの教えを宣言し、キリストの教えから、必然の結論を引き出す使命があり、すべての霊魂の益のためである。天主の掟を人間に思い起こさせるという責務をこそ教会は負っているのであり、それを矮小化することでも、または、あるケースにはそれがあてはまらないかもしれないという説明をすることでもない。教会には原則を述べる義務がある。その原則を具体的に適用させることは、教会は霊魂の司牧者たち、告解を聞く司祭たち、信仰によって照らされた良心という人間的行為の最緊密な規定にゆだねている。


5. あわれみに基礎を置く司牧的実践を探し求めるが故に、この文書は主観主義と道徳相対主義によって、ある部分では、台無しにされている。客観的ルールは、プロテスタント的やり方で、個人の良心によって置き換えられている。この毒は、一部、人格主義に帰属している。人格主義は【尊重すべきものとして】、家庭の司牧的ケアの問題において、まっさきに置かれるべき、生命の贈り物と家庭の善とではもはやなく、むしろ個人の充足と配偶者たちの霊的進歩とを最初に置き据えている。このことについて、私たちは、第二バチカン公会議の司牧憲章「現代世界憲章(ガウディウム・エト・スペス)」で結婚の目的が逆さまに描写されていること、またもや「愛の喜び」で同じく逆さまにされているのを見て、再度嘆き悲しむことしかできない。

6. 「愛の喜び」のいくつもの結果は、すでに教会内で次のような事実をもたらしている。ある小教区の司祭は、その義務に忠実でいるために、公の罪人にキリストのおん体を与えることを拒否している。その一方で、別の司祭はすべての人々を聖体拝領に招いている。
フィリピンの司教評議会会長はこう宣言した。「『愛の喜び』は我が国にただちに実践導入されるだろうし、その結果、いくつかのケースにおいては、離婚して再婚した人々は聖体拝領することになるだろう」と。[2] 深刻な亀裂は、司教団と枢機卿団の中にも生まれつつある。信徒たちはまごつかせられ、全教会はこの裂け目によって苦しんでいる。あらゆる点において天主の掟を遵守するという義務、特に婚姻の忠実の掟の遵守の義務に疑問を投げかけるということは、現代の風潮と時代の精神の命令に屈することである。多くの国々──例えばドイツ──においては、天主の法が要求していることは、すでに長期に渡って足元に踏みにじられている。あるべきというレベルにまで引き上げる代わりに、彼らはあるべきレベルを今あるレベルに引き下げる。つまり、近代主義者と進歩主義者たちの自由放任な道徳にまで下げるのである。結婚が失敗に終わったものの、与えられた状況下において、非常に有徳に、ある時には英雄的に、彼らが祭壇の前で立てた約束に忠実にとどまるカトリック信者たちは裏切られたと感じる。あまりに悲しくて涙が出る。


7. 私たちは、恭しく、だが断固として、使徒的勧告「愛の喜び」の修正を、特に第8章の修正を教皇に懇願する。天主の栄光のために、全教会の益のために、霊魂の救いのために、特に偽りのあわれみの外観によって欺かれる危機に瀕している人々の救いのために、第二バチカン公会議の文書と同様、曖昧なところは、明確な方法で解釈されねばならず、教会の恒常的な教義と実践とに矛盾するところは、撤回されねばならない。


メンツィンゲンにて
2016年5月2日、聖アタナジオの祝日

[1]Cf. Apostolic Exhortation Familiaris Consortio (n. 84); Catechism of the Catholic Church (n. 1650); Letter of the Congregation for the Doctrine of the Faith dated September 14, 1994; Declaration of the Pontifical Council for the Interpretation of Legislative Texts dated June 24, 2000.
[2] Statement “AMORIS LAETITIA In the Jubilee of Mercy.” “This is a disposition of mercy, an openness of heart and of spirit that needs no law, awaits no guideline, nor bides on prompting. It can and should happen immediately.” The Catholic

司祭のための祈(幼きイエズスの聖テレジア)

2016年05月27日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

幼きイエズスの聖テレジアの作った司祭のための祈をご紹介します。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


司祭のための祈(幼きイエズスの聖テレジア):

永遠の司祭にましますイエズスよ、願わくは主の聖心(みこころ)を御身のしもべなる 司祭らの避難所となし給え。
かしこにては何人(なにびと)もかれらを害うこと能わず。
願わくは日々御身の尊き御体に触るる司祭らの手を潔く保ち給え。
御身の尊き御血に染まる くちびるを汚れなく護り給え。
願わくは御身の輝かしき司祭職のいみじき印もて、しるされし司祭の心を清く汚れなく 護り給え。
御身の尊き愛もてかれらを護り、世の悪習を免れしめ給え。
願わくは豊かなる御恵みの果実もてかれらの働きを祝し、かれらに委ねられし霊魂は、 地上にてはかれらの喜び、慰めとなり、天上にては永遠に輝やけるかれらの冠とならんことを。
アーメン。


A Prayer for Priests by St. Therese of Lisieux


O Jesus, eternal Priest, keep your priests within the shelter of Your Sacred Heart, where none may touch them.
Keep unstained their anointed hands, which daily touch Your Sacred Body.
Keep unsullied their lips, daily purpled with your Precious Blood.
Keep pure and unearthly their hearts, sealed with the sublime mark of the priesthood.
Let Your holy love surround them and shield them from the world's contagion.
Bless their labors with abundant fruit and may the souls to whom they minister be their joy and consolation here and in heaven their beautiful and everlasting crown.
Amen.


圣女小兰为神父们的祈祷

吾主耶稣,永恒的司祭,让祢的司铎们一直以祢的圣心为庇护,在那里什么也不能触碰他们。
让他们被祝圣的双手一直保持洁净,因它们每天都接触祢神圣的身体。
让他们的口唇一直不受污染,因它们每天都沾到祢神圣的宝血。
让他们的心一直纯洁而不属尘世,因它们都被烙有高贵的司铎之神印。
用祢的圣爱包围他们,保护他们不受世界的污染。
以丰厚的果实祝福他们的劳作,愿他们看管的灵魂们成为他们的喜乐、他们暂时的慰藉、和他们在天堂里美丽而永恒的王冠。
阿门。


Doa untuk para Imam oleh St. Theresia Lisieux

O Yesus, Imam abadi, jagalah para imam-Mu dalam naungan Hati Kudus-Mu, di mana tak ada satupun yang dapat menyentuh mereka.
Jagalah tangan terurapi mereka yang setiap hari menyentuh Tubuh Suci-Mu, dari pencemaran.
Jagalah bibir mereka tak bercela, yang setiap hari berwarna ungu karena Darah Mulia-Mu.
Jagalah hati mereka tetap murni dan tak mendunia, meteraikan dengan tanda luhur imamat.
Semoga cinta suci-Mu mengelilingi dan menjadi perisai bagi mereka dari pengaruh buruk dunia.
Berkati karya mereka dengan buah berlimpah dan semoga jiwa-jiwa yang mereka layani menjadi sumber sukacita dan penghiburan di dunia dan di surga menjadi mahkota indah dan abadi bagi mereka.
Amin.


Une Prière pour les Prêtres de Ste Thérèse de Lisieux

Ô Jésus, Eternel souverain Prêtre, gardez vos prêtres sous la protection de votre Sacré-Cœur, où personne ne peut leur faire de mal.
Gardez sans tache leurs mains consacrées, qui touchent chaque jour votre Corps sacré.
Gardez pures leurs lèvres, qui sont empourprées de votre Précieux Sang.
Gardez pur et détaché leur cœur, qui est marqué du sceau sublime de votre glorieux Sacerdoce.
Faites-les grandir dans l'amour et la fidélité envers Vous; protégez-les de la contamination de l'esprit du monde.
Donnez-leur avec le pouvoir de changer le pain et le vin, le pouvoir de changer les cœurs.
Bénissez leurs travaux par des fruits abondants, donnez-leur un jour la couronne de la Vie éternelle.
Ainsi soit-il.


【直訳】
永遠の最高司祭にましますイエズスよ、願わくは主の聖心(みこころ)のもとに司祭らを守り給え。
かしこにては何人(なにびと)もかれらを損なうこと能わず。
願わくは日々御身の尊き御体に触るる司祭らの聖別された手を汚れなく保ち給え。
御身の尊き御血に染まるくちびるを清く護り給え。
願わくは御身の輝かしき司祭職のいみじき印もてしるされし司祭の心を、清く汚れなく護り給え。
御身への愛と忠実においてかれらを成長させ、世の精神の汚染から彼らを護り給え。
願わくは、パンと葡萄酒とを聖変化させる権能と共に、人々の心を変える力を彼らに与え給え。
願わくは豊かなる御恵みの果実もてかれらの働きを祝し、かれらに永遠の命の冠を与え給え。
アーメン。

ORACION POR LA SANTIFICACIÓN DE LOS SACERDOTES
De Santa Teresita del Niño Jesús

OH Jesús protege a tus sacerdotes en el refugio de tu SAGRADO CORAZÓN.
Guarda sin mancha sus MANOS CONSAGRADAS, que a diario tocan tu SAGRADO CUERPO,
y conserva puros sus labios teñidos con tu PRECIOSA SANGRE.

Haz que se preserven puros sus Corazones, marcados con el sello sublime del SACERDOCIO, y no permitas que el espíritu del mundo los contamine.
Aumenta el número de tus apóstoles, y que tu Santo Amor los proteja de todo peligro.
Bendice Sus trabajos y fatigas, y que como fruto de Su apostolado obtenga la salvación de muchas almas que sean su consuelo aquí en la tierra y su corona eterna en el Cielo. Amén

天主の十戒「第七戒」ー汝盗むなかれー命を守る外的な手段を尊重せよ:聖ピオ十世会司祭 レネー神父様

2016年05月26日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

レネー神父様の「天主の十戒」についてのお説教をご紹介いたします。

第8回目は、第七戒「汝盗むなかれ。」についてです。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2016年5月21日 聖霊降臨後の四季の土曜日―大阪 霊的講話「第七戒」

親愛なる兄弟の皆さん、
十戒は命の掟であって、第一戒で命そのものでありかつすべての命の作者である天主を礼拝するよう私たちに命じており、また第四戒では私たちが両親を通して命を受けたためその両親を敬うよう命じており、第五戒と第六戒では命そのものと命の伝達を尊重するよう私たちに命じています。さて、今回お話しする第七戒によって私たちは、隣人の財産という命を守る外的な手段を尊重するよう義務付けられています。「汝盗むなかれ」(脱出[出エジプト]20章15節)。

第一に、教会が、財産についての自然権が存在する、と教えていることを私たちは知っておく必要があります。「地上と地上を満たすもの、世とそこに住む者、すべて主のもの」(詩篇23章1節―コリント前書10章26節)。被造物はすべて、すべてのものに対する至高の所有権をお持ちである天主のものです。地上が天主のものであるだけでなく、私たち自身も天主のものです! 天主が私たちと全世界をおつくりになったのですから、その作品は作者のものです。被造物全体への天主の支配は人間の財産を例外とせず、むしろその土台です。実際、天主はすべてのものの第一の原因でありながら、二次的な原因を除外されるどころか、むしろ被造物、特に天使や人間のような霊的な存在に対して、二次的な原因になる力をお与えになります。そのため、作品はその作者のものですから、人間の作品の実は、第一に天主のものですが、また二次的にはそのために働いた人間のものでもあるのです。人間は天主の下で、そのものの二次的ではあるが本当の原因であり、それゆえに、そのものに対する財産権を持つのです。

教皇レオ十三世は書いています。「ある人が他の人に、自分の持つ力または技術で雇われる場合、その人は自分のニーズを満たすのに必要な対価[それに応じた正当な給料]を受け取る目的で雇われる。それゆえに、その人は、報酬そのものだけでなく、その報酬を自分の望み通りに使えることについても、完全かつ実際の権利を獲得する明確な意思を示している。であるから、その人が質素に生活し、お金を節約して貯蓄し、さらに安心のために貯蓄を土地に投資するならば、そういう場合のその土地は、その人の賃金が別の形になっただけのものである。その結果、こうして購入された労働者の小さな不動産は、その人が労働の対価として受け取る賃金と同じように、自分で完全に自由に使えるべきである。しかし、正確に言えば、所有権というものは、その財産が土地であろうと動産であろうと、財産をこのように自由に使える力を含んでいる。それゆえに、社会主義者[共産主義者]は、個人の所有物を共同体全体に移そうと努めることによって、すべての賃金労働者の利益に打撃を与える。なぜなら、彼らは、賃金労働者から自分の賃金を自分で使う自由を奪い、それによって、賃金労働者から自分の資産を増やして自分の生活の条件を良くするという希望と可能性をすべて奪うからである」(レールム・ノヴァルム、第5パラグラフ)。

財産権を守るべきもう一つの理由があります。誰もが自分の所有物をより大切にします。共有財産は、修道院においてのみよく管理されています。そこでは、非常に高潔な修道士が共有財産の管理を適切に行っているからです。しかし、このように適切に管理されるのは、他のところではまれです。共産主義経済が失敗そのものだったため、疑いなくこの点が証明されました。天主は被造物の最高管理者でいらっしゃいますが、天主の下で人間のような知的な生き物は被造物の一部について天主の代理としての管理権を持つことがあり得ます。財産権によって、被造物の一部は人間が天主の代理として管理するように委託されています。私有財産は家族に対して、将来についてある程度の安心を与えます。また、その財産を使うことについても、ある程度の自由が与えられています。

私有財産の権利から、明らかに他人の財産を尊重する義務があることが導かれます。「汝盗むなかれ」(脱出20章15節)。盗みは、それ自体で大罪です。盗んだ物がごくわずかであれば、まだ「重大な問題」ではありませんから、そのため小罪に過ぎないでしょう。しかし、わずかな盗みに他のわずかな盗みが重なるなら、盗んだ物も足されねばなりませんから、たちまち重大な問題に到達し得るでしょう。重大な問題かどうかは、労働者の一日の給料の額で判断することができます。聖書は言います。「日雇いの賃金を、翌日まで延ばすな」(レビ19章13節)。「兄弟の一人でも、あるいはおまえの土地か町にいる他国人でも、卑しい者や貧しい者の賃金を不当に扱ってはならぬ。賃金の支払いを日暮れまで延ばしてはならぬ。毎日賃金を払え。彼は貧しくて賃金を待ち望んでいる。そうすれば彼は主に叫んでおまえを訴えることもなく、おまえは罪を背負うこともない」(第二法[申命記]24章14-15節)。

盗みには多くの方法があります。詐欺や高利貸、もっと悪いものは強盗のように暴力を伴うもの、あるいは、自らの有利な立場を利用して法外な値段を吹っかける恐喝です。不十分な賃金しか支払わないことは恐喝に似ています。これもまた、雇用者が、生きていくために働く必要のある貧しい被雇用者の困った状況に対して、自らの有利な立場を乱用しているのです。社長が賃金の支払いをできる限り少なくするならば、社長は自らの有利な立場を乱用しており、それは罪です。雇用者側のそのような罪は大罪であり、それは雇用者が被雇用者の数と同じだけの罪を犯しているからです。しかし、盗んだものを返すのを拒否するとき、たとえそれを知らずに手に入れていたとしても、第七戒に反する罪を犯しているのです。

第七戒に反する罪で一般によくあるものは、職場での不正行為です。例えば、いつも職場に遅れて到着し、労働契約で合意した長さの時間通り働かない場合、あるいは、個人的な用事をするために労働時間を使うときです。このような事柄では、例えば緊急の個人的な問題で一回だけ短時間、(職場の)電話を使うことならまったく罪ではないでしょうが、それが何度も繰り返されたり、長時間の国際電話になったりといった場合には、上司や社長の許可を得る必要があるでしょう。その許可を得ていないのなら、電話代だけでなく、私用で使った時間(分の給料)まで返す必要があるでしょう。

勉強でのカンニング、特に学生の試験のときのカンニングもまた、一種の盗みです。自分がそれに値しない得点を盗むからです。学生が最終試験のときカンニングする場合、これも一種の盗みです。卒業証書を盗み、医学のことを実際には知らない医者に、誰が自分の健康を委ねたいと思いますか? それほど昔ではない時期に、インドでスキャンダルがありました。パイロットの資格が、必要な飛行時間に達していない学生に与えられたのです。言い換えれば、飛行機の乗客全員に対する責任が、それによって不適格者に与えられたのです! これは実際、正義に反する罪です。

盗みは、まったく割に合わないものです。実際、「よし全世界をもうけても、命を失えば何の役に立つだろう。また、人は命の代わりに何を与えられよう」(マテオ16章26節)。消え去っていくもののせいで、永遠を失うとは、なんと割に合わないことでしょうか! 人が常に死と審判を自覚し、さらに義人への報いとしての永遠の命を自覚しているのなら、決してそんな不正を行うことはないでしょう。裏切り者ユダは「盗人であり、預かっている財布の中身を盗んでいた」(ヨハネ12章6節)のです。ユダの自殺と滅びは、盗人たちへの大きな警告です。彼らは地獄の火にさらされる危険の中にいるのですから!私たちの主ご自身が、ユダについて言われました。「その者はむしろ生まれぬ方がよかった」(マテオ26章24節)。

過去に盗みをしたことがある場合、その人は盗んだものを返さなければなりません。誰から盗んだのか覚えていない場合、その人は貧しい人々にその額を与えなければなりません。どのくらい盗んだのか覚えていない場合、その人は机に座って紙を一枚取り、何とか頑張って思い出すべきです。返すのは、少なすぎるより多すぎる方がよいのです。聖パウロは言います。「盗人はもう盗むな。むしろ、貧しい人々に施すために、自分の手で何かよい仕事をして働け」(エフェゾ4章28節)。また、聖パウロは再びテサロニケ人に言います。「私たちが先に命じたように、落ち着いてそれぞれの仕事につき、手ずから働くように努めよ。そうすれば、外の人[非キリスト教徒]に対しては名誉ある生活が営める」(テサロニケ前書4章11、12節)。そして、聖パウロは使徒行録の中で言います。「[聖パウロのように懸命に]働いて弱い人を支え、主イエズス自ら言われた『受けるよりも与えることに幸せがある』という言葉を思い出さねばならぬことを、常にあなたたちに示しました」(使徒行録20章35節)。

実際、第七戒は、私たちが他人に負っているものを他人に与えるよう私たちに要求するという、正義の徳を実践するよう明確に義務づけています。私たちは、他人の労働から恩恵を受けています。私たちは、口にする食べ物を農民に負っており、着る服を衣料品製造業者に負っており、家やアパートを建設業者に負っており、履物を靴製造業者に負っている、といったことです。それゆえに、私たちもまた、彼らに対して貢献する義務を負っています。私たち自身も共通善に貢献しなければならず、私たちは働かなければなりません! さらに一家の父親には、もう一つの理由からも働く義務があります。それは、家族を養う義務であり、今だけでなく、将来にわたって養う義務です。将来にわたって家族を養うことができるように、父親は資産、土地、家などを取得するかもしれません。

しかし、所有には責任が伴ってきます。そしてより多くを持つ者は、より多くの責任も持つのです。実際、私たちは地上で唯一の存在ではありません。私たちは自分のことだけでなく、隣人のことも考えねばなりません。また、不平等があるのは自然なことです。強い者がいれば弱い者もいます。他人より勤勉な者がいますし、他人より健康な者がいるといったことです。そのような自然の違いはすべて、自然の不平等につながります。しかし、天主の御摂理がそのような不平等があるよう意図されたのは、より多く持つ者が少ししか持たない者に与えるようにするためです。強い者は弱い者を守るべきです。健康な者は病人の世話をすべきです。勤勉な者は、その受けた賜物を、他人のために雇用を提供するなど、他人の利益になるように使わなければなりません。私たちの主イエズス・キリストは言われます。「恵みを多く受けた人は多く要求され、多くを任せられた人は多くを要求される」(ルカ12章48節)。また、聖パウロは言います。「この世の金持ちたちに命じよ。おごることなく、定めのない富に望みを置かず、われわれに用いさせるためにすべてを豊かに与え給う天主に依り頼み、善を行い、善業に富み、施しに備え、分け与え、未来のために良い基を蓄え、真の命をとらえよ」(ティモテオ前書6章17-19節)。

実際、盗みの反対は施しです。施しをすることによって、私たちは「自分のために天に宝を積む。そこではしみも虫もつかず、盗人が穴を開けて盗み出すこともない」(マテオ6章20節)のです。教会の教父たちは、施しをすることは天主にお金を貸していることであり、天主は無限の利子、永遠の命を返してくださる、と言っていたものです。「持ち物を売って施せ。自分のために古くならぬ財布をつくり、尽きぬ宝を天に積め。そこでは盗人も近寄らず、誰にも食い荒らされぬ」(ルカ12章33節)。聖ヨハネは、その手紙の中で私たちに警告しています。「世の宝を持ちながら兄弟の乏しさを見てあわれみの心を閉じる人の中に、どうして天主の愛が住もうか」(ヨハネ第一3章17節)。

諸聖人に、特に聖母と、一生懸命働いて正直に生きられた聖ヨゼフに祈りましょう。私たちが常に正義に忠実であり、盗みをせず、むしろ義務を果たすよう、特に施しの義務を果たすよう、助けてくださいますように。アーメン。

天主の十戒「第六戒」ー汝姦淫するなかれー命の伝達を尊重せよ:聖ピオ十世会司祭 レネー神父様

2016年05月25日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

レネー神父様の「天主の十戒」についてのお説教をご紹介いたします。

第7回目は、第六戒「汝姦淫するなかれ。」についてです。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2016年5月21日 聖霊降臨後の四季の土曜日―大阪 お説教
第六戒「汝姦淫するなかれ」(脱出[出エジプト]20章14節)


親愛なる兄弟の皆さん、
第五戒の説教の最後のポイントです。第五戒は、隣人をつまずかせることも禁じています。つまり、隣人の霊的な命に害を与えることを禁じているのです。私たちの主イエズス・キリストは、人をつまずかせる行いを大変強い言葉で戒められます。「もし私を信じるこの小さな者を一人でもつまずかせたら、その人はろばの挽き臼を首にかけて海の深みに沈められるほうがよい。つまずきを起こすこの世に呪いあれ。つまずきは避けがたいけれども、つまずかせる人に呪いあれ」(マテオ18章6-7節)。

人をつまずかせることとは、誰かほかの人を罪へと導くことです。それはあらゆる徳に反することになり得ますが、それ自体でも、もう一つの罪となっています。悪を行うことは十分悪いことですが、つまずかせることによって悪を行うよう他人を導くことは、さらに悪いことだからです。つまずかせる行いには信仰に反するものがあります。例えば、悪い書物、あるいは信仰箇条を疑う現代主義の神学者たち(の教え)を広めることです。(そのような神学者たちは)カトリックの大学における自分たち地位によって、学生や他の人々をつまずかせるからです。つまずかせる行いには正義に反するものがあります。例えば、社長が従業員に商売で人をだますよう命じるときです。つまずかせる行いには貞潔に反するものがあります。慎みのなさによって、ポルノを見せることによって、不潔な会話をすることによって、などです。そのような行為は、二つの罪を含みます。信仰、正義、貞潔そのものに反する罪に加え、つまずかせる罪です。どちらも、告解で告白する必要があります。

天主は第一戒で、生きておられる方、永遠の命そのものである方、すべての命の最初の源である方である天主を礼拝するよう私たちにお命じになり、その後、第四戒で、私たちがその命を受け継がせてもらった人々に敬意を捧げること、そして第五戒で、人間の命それ自体を尊重することを私たちにお命じになった後、今度は、命の伝達を尊重するよう私たちにお命じになります。これが第六戒の目的です。人間の命の伝達は、創造(creation)のみわざに協力する非常に重要な行いですから、「出産(procreation)」と呼ばれています。それゆえに、非常に高い価値を持っています。ゲームではありません! 結婚は、出産のために天主によって用意された環境なのです。実際、子どもは父親と母親を必要とし、それは数年では済まず、非常に長い期間なのですから、婚姻外で子どもをもうけてはいけません! 結婚は正確に言えば、出産のために一人の男と一人の女の生涯にわたって続く非常に特別な結合です。結婚から命の伝達を断ち切ってしまうことは、第六戒に反する多くの罪を引き起こす第一の原因です。

結婚は人類を継続させるために必要ですから、天主は、人々に子どもを持つよう奨励するために、夫婦行為の中に一定の報い、一定の快楽を置かれました。素直な人々なら、天主が夫婦行為の中にその快楽を置かれなかったなら、子どもの数はずっと少なくなってしまい、人類は恐らく生き残ることはなく、ずっと以前に消滅していただろう、と認めるでしょう! 従って、天主は善良であり賢明であると分かるのです。しかし、ここで重要なのは、結婚における命の伝達への報いとして、その快楽が存在するという、その理由そのものを理解することです。快楽を命の伝達から断ち切ることは、労働せずに給料を欲しがる、実績なしで報酬を欲しがる従業員に似ています! でも、この快楽を命の伝達から断ち切ることは、現代世界に普通に見られることであり、第六戒に反する多くの罪の根っこにあるのです。

それゆえに、夫婦行為は、結婚のうちにおいてのみ、かつ命へと開かれた方法でのみ、行われるべきです。これは、すべての夫婦行為が新たな命(の誕生)へと至らなければならないという訳ではなく、夫婦行為による(新たな命という)自然の実を決して積極的に排除してはならないということです。気を付けていただきたいのは、両親の役割は単に子どもを持つだけでなく、子どもを教育することにまで及ぶことであり、その教育の仕方は、子どもに地上の生活のための準備をさせるだけでなく、それよりさらに重要なのは、子どもが天国に行くための準備をさせることだということです。良きカトリック的教育をすることは両親の重要な義務です。さらに気を付けていただきたいのは、良い両親が得られる最大の報いのひとつは、良い子どもたちであることです。快楽は過ぎ去りますが、良い子どもたちは残ります。快楽はつかの間の報いであり、良い子どもたちは長く続く報いです! 子どもたちが天国へ行けば、良い教育を受けたことを両親に永遠に感謝するでしょう。

ですから、第六戒は結婚における忠実、つまり結婚以外で夫婦の関係を持ってはならないことを命じています。したがって、第六戒は結婚におけるまことの人間の愛を守ることなのです。忠実な愛、自己を与える愛、生涯の愛であり、天主の愛にまことに倣うことです。聖パウロは言います。「実に愛される子らとして、天主に倣う者であれ。私たちを愛し、私たちのために芳しい香りのいけにえとして天主のご自分を渡されたキリストの模範に従って、愛のうちに歩め」(エフェゾ5章1-2節)。

それゆえに、第六戒が禁じているのは、第一に姦淫です。姦淫は、それによる結合で生まれ得る子どもの善に反します。その子どもは父親と母親二人と一緒にいることができないからです。子どもの父親が誰であるかに疑いが生じる場合は、さらに悪くなります。しかし、姦淫はまた、結婚生活での排他的権利を持つ相手を裏切ることですから、配偶者の善にも反します。姦淫は貞潔の徳と、配偶者に対する正義の徳の両方に反します。そのような行為の影響は生涯にわたって続くことになり得ますから、非常に重大な罪です。初代教会においては、人がその罪に陥った場合は、長きにわたる公の償いの行いが要求されました。聖パウロはこの罪の悪について強く言っています。「淫行の者、好色な者、情欲の者はみな―これは偶像崇拝者と同じである―、キリストと天主の国を継げない。人のむなしい言葉にだまされるな。不従順な者の上に天主の怒りを呼ぶのはそれらの事柄である。だから彼らと交わるな」(エフェゾ5章5-7節)。

第六戒はまた、私通も禁じています。私通とは、結婚していない人々が夫婦の関係を持つことです。結婚前の貞潔は、結婚した後の貞潔を準備するのですから、結婚前に貞潔でなければ、多くの場合、結婚してからの不貞へとつながります。ですから、良きかつ聖なる結婚のための準備として、純潔のままでいて、貞潔と童貞性を養うことは、若者たちにとって大変重要です。そうすれば、さらに幸せな結婚になるのですから。教会は、結婚は良いものであり、童貞であることを奉献することはさらに良いものだと教えています。若者に童貞を守ることが必要とされているのは奉献生活のためだけであると考えるべきではありません。それは、良きかつ聖なる結婚の準備としても必要とされているのです。結婚する日が来るまでは、人々は童貞のままでいるのが天主のご意志です。現代の世界はそれを軽んじていますが、良きカトリック信者はこの徳に高い価値を持ち続け、自分の子どもたちを罪の機会から遠ざけることによって、彼らにそれを守らせるようにしなければなりません。特にルフェーブル大司教は、テレビを避けるよう強く勧めておられたものです。大司教は、テレビをまったく持たないようにさえ勧めておられました! 良き修道者と良き司祭の模範によって、若者たちは励まされ、私たちの主イエズス・キリストの恩寵によって、この徳(を守ること)が可能であるのを知るのです!

第六戒に反する罪には他にも、天主の秩序に反する倒錯行為を増やすようなものがあります。レイプのような暴力による罪があり、これは被害者を深く傷つけます。同性愛のような自然に反する罪があり、これは天主が「いまわしい限りのこと」(レビ18章22節)と呼ばれるもので、また獣姦のようにさらに悪いものもあります。近親相姦のような家族に対する罪があり、これは聖パウロが破門によって罰しました!(コリント前書5章1-5節)。小児性愛の罪があり、例えば子どもへの虐待ですが、これは大変深刻です。現代世界の不道徳さが増していくことで、これらの罪は増加してきており、今日の社会にひどい堕落をもたらしてきています。

これまで私たちは、避妊、不妊化(手術)、妊娠中絶という第五戒に反する罪を見てきましたが、それは、これらの罪の中に損傷や殺人があるからです。しかし、これらの罪はまた、第六戒にも反しています。それは、命の伝達を究極的に拒否することだからです。これらの罪はすでに古代に見られましたが、現代世界では計り知れないほど増えてきていることに注意してください。旧約聖書には、天主ご自身がユダの子オナンを、「地に流す」という結婚における不正行為のため死に処せられたことが言及されています(創世記38章9-10節)。ですから、この重大な罪は、教会によって「オナニズム」と呼ばれています。二十世紀の教皇たちが近代的な避妊法を非難したとき、目新しいことは何もしませんでした。その避妊法は新しかったのですが、教義は古くからのもので、旧約聖書で天主ご自身によってオナニズムが非難されて以来あったものでした。この非難は教会の教父たちによって頻繁に繰り返されました。

第六戒はまた、結婚していてもしていなくても、マスターベーションすなわち自慰行為を禁じています。これは本当の自己中心主義であり肉の奴隷状態にあることです。ですから、倒錯した愛です。結婚は、人が望むことを何でもしていいという許可ではなく、豚小屋でもなく、むしろ、例えば食欲をほどほどにするといった節制の徳を実践することを要求している、と言わなければなりません。ルフェーブル大司教は、結婚とは「美しい貞潔の学校」であるとよくおっしゃっていました。聖パウロは言います。「みな婚姻を尊び、寝床をけがすな。淫行者と姦通者は天主に裁かれる」(ヘブライ13章4節)。

第六戒に反する最後の罪は、慎みのないことです。これまで挙げた他の罪はすべて、重大な罪です。なぜなら、命の伝達が重要な問題であるからです。慎みのないことは、小さなつまずきにすぎない場合だけは小罪であるかもしれませんが、特に他人を本当につまずかせたり、誘惑する目的ではっきりと行われたりする場合は、大罪になり得ます。反対に、慎み深さは美しい徳であり、慎み深さが貞潔を守ってくれます。慎み深さは体の美しさに勝る霊魂の美しさの輝きです。慎み深い女性はずっと美しく、本当の美しさ、霊魂の美しさがあり、この霊魂の美しさは、体のはかない美しさよりもずっと長く続くのです。

快楽を究極の目的として探し求めるヘドニズム、快楽主義は、現代世界に大変な広がりを見せており、多くの霊魂に数えきれないほどの惨禍をもたらしています。これはまったくキリストの精神ではありません。実際、聖パウロは書いています。「実に肉の望むことは霊に反し、霊の望むことは肉に反する。それらは相反している。キリスト・イエズスにある者は、肉をその欲と望みとともに十字架につけた」(ガラツィア5章17、24節)。また再び書いています。「あなたたちの肢体を罪に与えて不義の道具とせず、かえって死を逃れて生きる者として自分を天主に捧げ、その肢体を天主のための正義の武器とせよ」(ローマ6章13節)。さらに書いています。「私は自分の体を苦しめてこれを奴隷にする。それは他人にのべ伝えながら、自分は除名されることのないためである」(コリント前書9章27節)。

今日では、第六戒を守ることは無理だと思っている人々がいます。これは絶対に誤りです。私たちの主イエズス・キリストの恩寵によって、あらゆる大罪を避けるような方法で、第六戒そして他の掟を守ることはできるのです。聖母だけが、無原罪の御宿りという特権によって、あらゆる小罪から、どんな罪からも守られていました。聖人たちでさえ、ささいであっても小罪を犯していましたし、すべての人が罪に対する生涯にわたる闘いを行わなければなりません。しかし、私たちの主イエズス・キリストの恩寵があれば、回心ののち大罪を犯さずに生きることはできるのです。

今迎えている復活節があるのは、それを私たちに証明するためです。実際、聖パウロはローマ人たちに言いました。「死者からよみがえられたキリストは、もう死ぬことはなく、キリストに対してもはや死は何の力も持っていない」(ローマ6章9節)。聖トマス・アクィナスは、キリストの復活した命は、私たちが洗礼のとき受ける「新しい命」、また悔悛の秘蹟によって回復する「新しい命」の模範である、と説明しています。従って、復活したキリストはもう死ぬことがないという事実は、私たちが受けた新しい霊的な命は「もう死ぬことがない」ことが可能であるということ、すなわち、私たちはイエズス・キリストの恩寵によってあらゆる大罪を避けることができる、ということの保証なのです。ですから、それは本当に永遠の命の始まりなのです。イエズス・キリストがこう言われるように。「御子を信じる者には永遠の命がある」(ヨハネ3章36節)。「まことにまことに私は言う、私を信じる人は永遠の命を持つ」(ヨハネ6章47節)。「私の肉を食べ私の血を飲む者は、永遠の命を有し、終わりの日にその人々を私は復活させる」(ヨハネ6章54節)。その人々は、ここ地上ですでに霊魂の永遠の命の始まりを持ち、世の終わりには体の永遠の命を持つことになるのです。

第六戒を守ることが可能であるもう一つの証拠は、私たちの主イエズス・キリストの恩寵が、特定の霊魂たちをより高い徳、童貞を奉献する徳にまで上げることさえできるということです。恩寵がこのより高い徳を与えることができるなら、もっと低い徳はもちろん与えることができます。従って、良き司祭、修道士、修道女という模範は、純潔を守る信者に対して、また結婚に忠実である信者に対して、大きな霊感を与えます。子どもたちの中に、童貞を奉献することを高く評価する気持ちを養うことによって、親たちや教育者たちは、貞潔という基本の徳を子どもたちが実践するのを助けるのです。誤った方向に歩み始めないようにし、偶発的な出来事を避けることの方が、悪い習慣を正そうとしたり、罪のダメージを修復したりするよりも、ずっと良いのです。壊れていない花瓶は、壊れてから接着剤で元に戻した花瓶よりも美しいのです! 罪と妥協してはいけません!

不純な行いは腐敗した愛ですから、第六戒を守ることはまことの愛を保護することを保証し、また霊魂を開いて天主の愛を黙想させます。「心の清い人は幸せである、彼らは天主を見るであろう」(マテオ5章8節)。「申し分のない道を歩み、主の法を守る人は幸せである」(詩篇118章1節)。イエズスは純潔を愛され、イエズスは童貞であることを愛されます。「イエズスが愛された弟子」は童貞である弟子、聖ヨハネでした!

第六戒を守るための素晴らしい手段は、祈り、苦行、頻繁な告解の秘蹟と聖体拝領、そして聖母への強い信心です。祈りは救いのために必要です。祈る人は自分の霊魂を救いますが、祈らない人は自分の霊魂を滅ぼします! 一般的に祈りは必要ですが、純潔の徳を守る闘いにおいては特に必要です。実際、原罪の傷があるために、その傷によって、私たちは感覚を自動的に制御する力を失ってしまっており、私たちには自分の感情を、自分の想像力を制御するために天主の助けが必要なのです。そして、祈るときにその助けを獲得するのです。誘惑を受けたときには祈ってください。そうすれば、皆さんは罪に陥らないでしょう! 私は、あえて言います。皆さんが本当に祈る限り、皆さんは罪に陥ることはありえません。誘惑が続く場合は、祈り続けてください! 完全な勝利を得て誘惑が消えるまで、祈りをやめないでください。そして誘惑が消えたあとは、天主に感謝するのを忘れないでください。

第二の手段は苦行(償いの行い)です。祈りと一緒にすれば、あらゆる種類の誘惑、特に肉欲の誘惑に対する勝利を得るための非常に強力な手段です。私が強くお薦めするのは、指の上にひざまずき、誘惑が消えるまで「めでたし」を何回か祈ることです。勝利に至る非常に強力な手段です! 苦行はまた、罪を償うためにも必要とされます。人々が告解に行くことを奨励するため、教会は、告解で課される苦行を、教会の初期にあったものと比べれば減らしてきています! しかし、祈りをいくつかすることで、罪を償うためにふさわしく十分であると考えてはいけません。私たちは本当の苦行を行う必要があり、それを主の十字架上の犠牲と一致させる必要があります! そうしないと、私たちは、煉獄で返すべき大きな負債を抱えてしまうでしょう! キリストの犠牲と一致した苦行を行うことは、過去の罪を償い、将来の罪を防ぐという二つの効果があるのです!

第三の手段は、頻繁に秘蹟を受けることです。大罪に陥るのを待ってから告解に行こうとしないでください。大罪に陥る前に、正確には大罪に陥らないために、告解に行ってください! 小罪は告解をするのに十分な問題です。シャワーを浴びるために泥の中に落ちるのを待つ人はいません。毎日かく汗は、定期的にシャワーを浴びるのに十分な理由です。ですから、毎日犯す小罪は、頻繁に告解に行くのに十分な理由なのです。この頻繁な告解は、闘いの一部なのです。告解の秘蹟による恩寵は、まさに将来の罪を避けるのを助けるためなのです! また、ご聖体の秘蹟は非常に重要です。霊魂を強め、心を天国の喜びにまで上げ、また犠牲の実であるがゆえに、十字架の愛を与えます。十字架は罪の反対なのです。十字架の愛は快楽の愛の反対です! そして、ご聖体への憧れは、霊魂を罪から解き放っておくのを助けてくれます。そして、聖体拝領のあと、その恩寵の思い出は、私たちの主イエズス・キリストにふさわしく生きるべきだということを思い起こさせてくれるのです!

第六戒を守るための第四にして、なくてはならない手段は、聖母への忠実で深い信心です。聖母は、純潔と貞潔の最も美しい模範です。聖母は、ご自分の子どもたちを清めるのを助けることを好まれる御母です。聖母の模範、聖母のご保護、聖母の御助けは非常に強力な手段です。誘惑を受けたらすぐ、聖母の御助けを求めましょう。そうすれば、不浄な悪魔は逃げうせるでしょう。聖母は、悔い改める罪びとを受け入れる用意を、まだ悔い改めていない罪びとが本当の悔悛にやって来るのを助けることさえなさる用意を常にお持ちである「あわれみの御母」でいらっしゃるのです。

不浄な者は誰も天国に入ることはできません。「誰が主の山に登れよう。誰がその聖所に立てよう。それは手の清く、心の純な者、魂が悪にひかれなかった者、偽って誓わなかった者である」(詩篇23章3-4節)。「主よ、誰があなたの幕屋に入り、尊い山に住むのか。申し分なく歩み、正義を行う人」(詩篇14章1-2節)。ですから、私たちの主ご自身がこう言われます。「心の清い人は幸せである、彼らは天主を見るであろう」(マテオ5章8節)。

私たちの主イエズス・キリストの恩寵によって、私たちがこの第六戒(と他の掟)をよく守ることができますように。そうすることで、聖母と諸聖人とともに、永遠の喜びである天主の至福直観にまで到達することができますように! アーメン。

2016年5月20日から23日までの聖伝のミサの報告:聖ピオ十世会 SSPX JAPAN

2016年05月24日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

5月22日は、三位一体の主日で大祝日した。いかがお過ごしでいらっしゃいますか?

5月は、長崎・秋田巡礼で、シュテーリン神父様やフォルティン神父様が来日されました。今回はレネー神父様も大阪と東京でミサ聖祭を捧げられ、特に大阪での新しい聖堂の祝別と初ミサを捧げて下さいました。神父様たちに特別の感謝を申し上げます。日本にこのようなすばらしい司祭たちを送って下さる天主様に深く感謝と礼拝を捧げます。

5月22日は、特に東京でのレネー神父様のミサ聖祭に54名の方々が聖伝のミサのお恵みに与りました。約12年前(ルフェーブル大司教生誕100年)の2005年10月にフェレー司教様が東京に来られたとき参加者が50名でした。
2014年9月にシュテーリン神父様が東京に来られたときの参加者は51名でした。
2015年12月の東京でも参加者が50名でした。

しかし、今月のレネー神父様のミサ参列者数は今までの記録を破ることとなりました。天主様に感謝!レネー神父様に感謝!

5月23日月曜日の朝7時のミサには7名が与ることができました。天主様に感謝!

今年はさらにもっとお恵みがあります!
8月にはシュテーリン神父様のご指導による「聖母黙想会」があるからです。来年2017年のファチマ100周年準備のために、ファチマの聖母の100周年をふさわしく迎えるためにも、きわめて大切な黙想会です。8月10日【山の日】の夕方に、黙想会会場(大阪)集合し、15日(月)の聖母被昇天のミサ(お昼頃)までを予定指定にしています。

それだけではありません。
9月にはベルナール・ティシエ・ド・マルレ司教様が初来日される予定だからです。

天主様に深く感謝します。さて、日本でのミッションのいくつかのご報告をご紹介いたします。

私はといえば、5月22日の主日にマレーシアのコタ・キナバルにミッションに行きました。この主日を最後に、コタ・キナバルでは新しい聖堂に引っ越す予定です。今までは、商店街の二階を常設の聖堂としていたのですが、これからは以前、ある修道会が使っていた聖堂を私たちが借りて使うことになります。天主様に感謝!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告:大阪】
アヴェ・マリア・インマクラータ!
ミサの報告をお送り致しますm(__)m
20日金曜日 聖霊降臨の四季の金曜日には13名が、
21日土曜日 聖霊降臨の四季の土曜日 には16名が御ミサに与るお恵みを頂きました。デオ・グラチアス!
お説教では天主の第十戒から、第5戒と第6戒を、公教要理では第7戒についてお話し頂きました。具体的な例をあげられて、はっきりと何を禁じられているのか、また、他に何をしなければいけないかという事を素晴らしく説明して頂きました。十戒シリーズは、出版に値するすばらしいものだと思います。是非多くの人に読みかえしていただあきたいと思います。

【お返事】
ご報告をありがとうございます。
レネー神父様は、私の尊敬する神父様のお一人で、是非、レネー神父様のお説教集を(他の神父様たちのお説教と一緒にして)出版したいと思います。特に、シュテーリン神父様がなさって下さったまだ未公開のお説教を含めて出版したいと思っています。大阪の新聖堂開堂記念に、出版することを計画しています。

今年は、8月にはシュテーリン神父様のご指導による「聖母黙想会」があります。
9月にはベルナール・ティシエ・ド・マルレ司教様が初の来日をされる予定です。
司教様の来日には、司教様のお書きになった伝記「マルセル・ルフェーブル大司教」の出版とその記念会を計画しております。
いろいろと準備に慌ただしくなることが予想されますが、是非今年中に「大阪新聖堂開堂記念説教集」の出版を考えています。
無原罪の聖母インマクラータよ、我らのために祈り給え!
聖ヨゼフ、我らのために祈り給え!


【報告:東京】
今日はレネー神父が聖三位一体の祝日の歌ミサをあげてくださいました。参列した信者の中にはヨーロッパから初めていらっしゃった方も、求道者として初めて伝統的なミサに参列した方もおられ、大変盛況でした。

お説教では、天主の第一戒、特に礼拝という行為について詳しく教えて頂きました。敬意は聖人達や他の被造物にも向けられるが、礼拝と言う行為は天主のみに向けられるべきものであること、また聖トマス・アクィナスによれば敬意は知の優越性、徳の優越性、権威の優越性、生まれの優越性に向けられるものであるが、天主はその全てにおいて無限に超越していらっしゃるので、私たちは天主のみに最高の敬意である礼拝を捧げるべきであること、そしてその最高の礼拝がミサの聖なるいけにえであること、などの解説をしてくださいました。

午後の霊的講話では、先日のフランシス教皇のインタビューやフェレー司教のインタビューを受けて、レネー神父に最近のローマと聖ピオ十世会の間の関係についてお話しくださるようお願いしたところ、快諾してくださり、準備もなしに3時間以上にわたって、1907年の聖ピオ十世の「Pascendi Domonici gregis」に始まって今日に至る聖伝を守るカトリックと近代主義者との戦いに
ついて、とりわけ聖ピオ十世会が教会の中で信仰、道徳、典礼に対して忠実(Fidelity)を守ってきたこと、近代主義者たちが誤った考えを持って伝統を攻撃してきたこと等、大変詳細にお話しくださいました。さらに従順の徳について、権威を持つ人に対して示すべき敬意と、権威を持つ人による実際の権威の行使に対する対応とを区別すべきこと、そして従順は道徳上の徳であるので、従順の不足も罪であるが、過剰な従順も罪であることを教えてくださいました。また信者の心構えとして、権威を持った上長の合法的な命令には従い、その命令が明らかに誤ったものである場合に限ってこれを拒否すべきであることを丁寧に教えてくださいました。

今日の晩課は聖三位一体の祝日の特別なものであったので、レネー神父の御指導による練習の後、皆で歌って終了しました。

ミサの参列者数
男: 20人(内、子供3人)
女: 34人(内、子供8人)
計: 54人(内、子供11人)

霊的講話の参加者数
男: 9人
女: 9人
計: 18人

晩課の参加者数
男: 6人
女: 6人
計: 12人


【お返事】
ご報告をありがとうございます。
レネー神父様には私も心から感謝します。


【報告】
Cher Père Thomas,
Nous avons rencontré hier le père Laisney, et son cours de l’après-midi fut extrêmement instructif. Il nous a fait aussi un sacré sermon.

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

こんにちは、小野田神父様。
今日の御説教も素晴らしく、ごミサ人数は54人でいっぱいでした!
講話もルフェーヴル大司教様のお話で大変興味深く、お話が止まらず30分早く始めた講話ですが晩課が終わったのは5時半でした。

【報告】
いつもお祈りありがとうございます。
本日は母親も誘って皆で与りました。
今日は子供たちがたくさんいました。

【お返事】
子供達がいるのは、教会らしいので、とてもうれしく思います。若い青少年や子供達がますます多く聖伝のミサに与ることができますように!

天主の十戒「第五戒」ー汝殺すなかれー人間の命は天主のみわざである:聖ピオ十世会司祭 レネー神父様

2016年05月23日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

レネー神父様の「天主の十戒」についてのお説教をご紹介いたします。

第6回目は、第五戒「汝殺すなかれ。」についてです。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2016年5月20日 聖霊降臨後の四季の金曜日―大阪 御説教「第五戒」


親愛なる兄弟の皆さん、
第四戒は、天主から私たちが受けた命を私たちに与えてくれた両親へ捧げるべき敬意について定めていましたが、次の掟は人間の命それ自体を尊重するよう私たちに命じています。「汝殺すなかれ!」(脱出[出エジプト]20章13節)。人間の命を尊重すべき根本的理由として真っ先に挙げられるのは、人間の命は天主のみわざであるからです。「天主に似せて、天主にかたどって」(創世記1章26節)つくられた、地上における最も高貴な被造物(である人間)を傷つけること、ましてや破壊することは許されていません! 私たち自身の命でさえもです。なぜなら、私たちは自分の命をつくったのではなく、天主からそれを受けたのであり、それゆえにそれを正しく扱わなければならないからです。このため、自殺は重い罪であり、誰も自分の命は自分のものだと言って言い逃れをすることはできません。私たちには、天主が与えてくださったものを破壊することは許されていません。私たちの命の終わりのときにあってさえ、種々の病気のため生きることに疲れ果てているとしても、私たちは食べ物を取るべきであり、安楽死を行うのは許されていません。それは自殺なのですから。隣人の命を尊重すべき第二の理由は、主によって与えられています。「他人からしてほしいと思うことを、あなたたちも他人に行え。これが律法であり預言者である」(マテオ7章12節)。私たちは、隣人が私たちの命を尊重するよう望むのですから、私たちも隣人の命を尊重すべきです。

罪のない者を殺すことは、常に非常に重い罪です。不幸なことに、私たちの現代世界では、そんな殺人が増えてしまっています、特に妊娠中絶によって、また今では安楽死によって。中絶は特に重大な罪です。なぜなら、天主の四つの掟に反する上に、その罪をさらに悪くする三つの事情を伴うからです。罪のない赤ちゃんを殺すことですから、明らかに第五戒に反しています。親が子どもに対して持たねばならない気遣いに反するもので、これ以上のものはないのですから、第四戒に反しています。命の伝達を最終的に破壊することですから、第六戒に反しています。最後に、子どもから洗礼の機会を奪うのですから、第一戒に反しています。これら四つの大罪に加え、その罪をさらに悪くする三つの事情があります。実際、被害者に罪がなければないほど、殺人はさらに悪いものなのであり、おなかの中の赤ちゃんほど罪のない者がいるでしょうか? また被害者が弱ければ弱いほど、殺人はさらに悪いものなのであり、おなかの中の赤ちゃんほど弱い者がいるでしょうか? 最後に、殺人が残酷であればあるほど、さらに悪いものなのであり、中絶にはしばしば、子どもの体の切断や、あるいは、大人に対してなされたとすれば、その残酷さのために世界に衝撃を与えるであろうほどのひどい行為が含まれるのです。そして、このすべてに加えて、母親自身、そして父親がしばしば受ける肉体的かつ心理的な害をも考えるべきです。教会には、このような罪に対して厳しい罰がいくつかあることを誰でも理解するでしょう。

しかし、天主の御あわれみは、最悪の罪よりも、更に大いなるものであり、そのため、そんな罪にさえも御あわれみの余地があるのです。しかし、それには本当の悔悛が必要であり、生活を本当に改めることが必要です。その罪の償いをする一つの良い方法は、プロライフ運動で活動することです。また、中絶の罪に陥ってしまったすべての人々が回心の恩寵を得るために、信者の側でも多くの祈りと償いが必要です。

第五戒が、人間の胚についての実験や、家族計画として行われているような、中絶された胎児から取られた人体の一部の売買を禁じているのは明らかです。そのような人体の一部を販売する中絶クリニックや、実験のためそれを購入する研究所はどちらも、とんでもない罪を犯しているのです。 (しばしば金銭によって腐敗している)政治家たちがそのようなことを許すとき、それでそれらの行為が合法化されるのでは決してなく、むしろ人間の胚についての実験を行うことを認可する政治家たちは、彼らの法律が承認したこれらの罪で自らを有罪とするのです。そんな政治家には誰も投票すべきではありません。

第五戒が死刑を禁じていないことに注意することは重要です。それどころか旧約は、国の合法的な当局者が、正義を行い、死刑によって重大な犯罪を罰する権力を持つということを非常に明確にしています。旧約には、それについて多くの例があります。ですから、偶像崇拝や冒涜、殺人、姦淫、その他多くの罪が死刑によって罰せられました。新約においては、私たちの主イエズス・キリストはあわれみと赦しの重要性を強調なさいましたが、冷血殺人などのような重大な罪に対して、死刑を廃止されませんでした。また、教会の全聖伝は死刑を認めました。聖トマス・アクィナスの説明によると、医者が体を救うために壊疽にかかった肢体を除去するように、合法的な当局者は、個人が有罪でありかつ共通善への脅威であった場合は、共通善のために社会から危険な個人を除去できるのです(例えば、麻薬密売人はシンガポールでは死刑に処せられます)。

同様に、第五戒は正当な防衛を禁止していませんが、そのような防衛が正当であるのは、防衛が脅威に対して行き過ぎない場合だけであることを強調しています。これは、個人と国に対して適用されます。戦争に訴えてでも自分を守ることはできますが、隣国の土地に侵入して、勢力の拡張や強欲のために戦争を使うことはできません! 戦争はそれ自体で大きな悪であり、天主による罪深い人類に対する大きな罰です。戦争は、正当な防衛戦争においてさえ、多くの罪の機会、特に憎しみの罪の機会となり得ますから、当然あるべき限度を尊重し憎しみを避けるよう、注意深くなければなりません。

したがって、個人的な復讐は第五戒に反する罪であることが分かります。見た目は正義のように思えても、だれも自分が当事者である事柄については良い裁判官にはなれないのですから、自分が隣人によって害を受けたと思うなら、自分の手で正義を行おうとするのではなく、むしろ、公正な裁判が開かれるよう、それを法廷に持ち込むべきです。

第五戒は、隣人や自分を殺すことだけでなく、隣人や自分の体の一部を損傷したり隣人や自分に他の肉体上の害を与えたりすることを禁じています。そのため、麻薬の使用は、体に大きな害を与えるのですから、第五戒に反する重い罪です。たばこをたくさん吸うことであっても、健康を害する段階に至るなら、これもまた第五戒に反する罪です。もっと強力で早く常習性を引き起こすような他の薬物は、初回の使用でさえも重大な罪です。

体の損傷の典型的な例は、断種や不妊にすることであり、(不妊手術のような)永久に続くものだけでなく、避妊のような「一時的な」ものであってもそうです。これは、子どもを得るという自然の能力を破壊し、損傷の一種であって、第五戒によって禁じられています。それゆえに、そのような損傷の行為には大罪が二つあります。一つは、それが損傷であるがゆえに第五戒に反するのであり、もう一つは命を伝達させる力を乱用するというその動機のゆえに第六戒に反します。現代の世界では、医者はしばしば、女性たちに対して、最初の出産あるいは二番目の出産のあと不妊手術をするよう圧力をかけますが、良き母親は、天主に忠実であるように、その圧力に対して抵抗しなければなりません。

酒の飲み過ぎ、酩酊もまた、第五戒によって禁じられています。これは、体に害を与えるだけでなく、もっとも本質的には、人間から理性の使用を(一時的に)奪い去ってしまうからであり、これは明らかに重大な問題です。この問題では、完全に酩酊してしまうのを避けるだけでなく、少しの酩酊でも避けるべきです。そして、安全な範囲を保ち、決してアルコールを取り過ぎてはなりません。特に過去においてそんな罪に陥ったことがあるのなら、以前犯した罪を償うため、そして再び罪に落ちる危険を避けるため、意識して決して安全な限度を超えないようにすべきです。最も良い方法は、(パブなどの)酒場に足を踏み入れることなどもせず、アルコールを購入するのも完全に避けることです。

私たちの主イエズス・キリストは言われました。「知ってのとおり、昔の人は『殺すな、殺す者は裁かれる』と教えられた。だが私は言う、兄弟に怒(いか)る人はみな裁きを受け」(マテオ5章21-22節)る。したがって、私たちの主は、怒りでさえ第五戒に反すること、そしてそれは通常は大罪ではないものの、特に憎しみを伴ったり、身体的な害を与える場合は大罪になり得ると教えられました。

第五戒は、家庭内の暴力を厳しく禁じています。物理的な暴力だけでなく、言葉による暴力も禁じています。でも、子どもたちをしつけたり正したりすることは禁じていませんが、「知識と柔和」(ヤコボ3章13節)が必要です。親は怒りからではなく、愛によって、子どもたちの善だけのために子どもたちを正すべきです。親は自分を完全に制御しておき、子どもたちを正す前に怒りの感情が鎮まるのを待つべきです。

さて、トレント公会議は、その公教要理の中で、第五戒は肯定的な面を持っており、それは殺人の反対である、と教えています。第五戒は、隣人を積極的に愛すること、特に受けた被害を赦すことと、忍耐や柔和、慈善を行うことを私たちに命じています。私たちの主イエズス・キリストは聖福音で、しばしば被害を赦すことを強く命じられます。「だから祭壇に供え物を捧げようとするとき、兄弟が何か自分に対して含むところがあるのを思い出したら、供え物をそこ、祭壇の前に置き、まず兄弟のところに行って和睦し、それから帰って供え物を捧げよ。反対者とは道の途中で和解せよ。そうしないと、相手はあなたを裁判官に渡し、裁判官は下役に渡し、ついに牢に入れられる。まことに私は言う、『一厘残らず返すまで、あなたは牢を出られない』」(マテオ5章23-26節)。聖アウグスティヌスは、天主は私たちの供え物よりも私たちの心を望んでおられる、と言っています。

聖パウロはそれを非常に簡潔に表現しました。「悪に勝たれるままにせず、善をもって悪に勝て」(ローマ12章21節)。また再び言います。「互いに情けとあわれみを持ち、キリストにおいて天主があなたたちを赦されたように、互いに赦し合え」(エフェゾ4章32節)。また、聖ペトロが言います。「悪に悪を、侮辱に侮辱を返すことなく、むしろ祝福せよ。あなたは祝福の世継ぎとなるためにそう召されたからである」(ペトロ前書3章9節)。

被害を赦すための最大の動機は、私たちの主イエズス・キリストの模範です。「侮辱されても侮辱せず、虐げられても脅さず、正義をもって裁くお方に自分を委ね」(ペトロ前書2章23節)、十字架上で敵のために祈ることさえなさいます。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているか知らないからです」(ルカ23章34節)。

復讐あるいは怒りの誘惑にかられるとき、イエズスのこれらのみ言葉を心の中で何度も繰り返すことは良いことであり、非常に有益です。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているか知らないからです」。これらの聖なる言葉は私たちの霊魂の嵐を鎮め、平安を戻してくれます。また、聖ヤコボは「語るに遅く、怒るに遅く」(ヤコボ1章19節)なるようにと勧めています。皆さんが心の中に怒りが起こってくるのを感じるとき、スピードを落として、ゆっくりと話し、ゆっくりと呼吸をし、自分を完全に制御できるまで、心の中でイエズスのみ言葉を繰り返してください。それから、必要な場合(例えば子どものしつけのため)であれば、厳しい口調で話してもかまいません。でも、そのとき、自分を完全に制御して、ゆっくりと話し、行き過ぎた言葉は避けるようにしなければなりません。

従って、私たちの主イエズス・キリストは、身体的な害ではなく、あわれみを実践することをお求めになります。「あなたたちは、私が飢えていたときに食べさせ、渇いているときに飲ませ、旅にいたときに宿らせ、裸だったときに服をくれ、病気だったときに見舞い、牢にいたときに訪れてくれた…まことに私は言う。あなたたちが私の兄弟であるこれらのもっとも小さな人々の一人にしたことは、つまり私にしてくれたことである」(マテオ25章35-36,40節)。このようなあわれみを実践することは、第五戒に反する罪の償いをする素晴らしい方法です。

優しき童貞、全ての母親の模範である童貞聖マリアに祈りましょう。私たちが人の命を尊重し、赦しと柔和、あわれみの徳を実践するよう、私たちを助けてくださいますように。あわれみの御母、われらのために祈り給え! ああ、心の柔和、けんそんなるイエズス、われらをあわれみ給え、われらの心を聖心にあやからしめ給え! アーメン。

良き牧者である聖主とその御母の憐れみの御業は御謙遜の御業である。

2016年05月22日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2016年4月16日 聖母の土曜日に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭) 

2016年4月16日 聖母の土曜日のミサ
小野田神父 説教


聖母の汚れなき御心巡回教会にようこそ。
今日は2016年4月16日、聖母の土曜日のミサをしています。今日のこの御ミサの後に、公教要理をいつものようにしたいと思いますが、今日は長崎と秋田に巡礼に行く準備として、長崎の殉教者についてもう一度復習、もう一度その殉教者の英雄的な忍耐を振り返ってみたいと思います。できればヨハネパウロ2世教皇様によって列聖された長崎の16名の聖人、殉教者について黙想したいと思います。
次の御ミサは、5月15日第3主日(聖霊降臨の大祝日)と 16日、そしてその同じ週の20日、21日の金・土です。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

昨日は、この金曜日の御ミサで、良き牧者について黙想致しました。良き牧者とは一体何なのか、良き牧者を満たす条件とは何なのか、イエズス様はそれをどのように満たしたのか、という事を黙想しました。

今日はその黙想をもっと深める意味で、良き牧者のお母様マリア様、そしてこの良き牧者のなした憐れみの御業というのは実は、良き牧者の母であるマリア様との、愛の、憐れみの、御謙遜の、いわば競争によって作られたものである、という事を少し黙想しましょう。
次に、その憐れみのマリア様とイエズス様の憐れみの業を、私たちがどのように受けたら良いのか、私たちはそれについてどのようにして応えていったら良いのか、という事を黙想して、遷善の決心を立てる事に致しましょう。
特に、御聖体拝領を良く、マリア様のように、マリア様がなさったようにする、という決心を立てる事に致しましょう。

マリア様は、御告げを受けた時に、御謙遜に於いて答えを致しました。お告げの神秘を見ると、そのお告げの神秘の中には、謙遜で満ちています、謙遜という雰囲気で満ちています。

まず大天使聖ガブリエル、「天主の力」と言われている、天からの偉大な使者がやって来て遣わされて、マリア様の前に謙遜に、「あなたに挨拶します。聖寵に満ち充ちた方よ。」と、言うのです。

マリア様はその挨拶を見て、「一体これが何だろう。」と思われました。大天使聖ガブリエルは、「恐れるな。あなたは身ごもって子を生む、救い主を生む。」とお告げを受けます。マリア様はその事がよく分かりました。イザヤの預言によれば、「童貞女が子を産む、これがしるしとなる。」と書かれているからです。月日が満ちました。メシアの来るべき日がもう来ています。マリア様はご自分が特別に選ばれた、アダムとエバから預言されていた、救世主の母となる方だ、という事が分かりました。マリア様が求めていた事は、天主様の御旨です。「では一体私の、私は男を知らないのですけれども、どうなるのでしょうか?」あたかも、救世主の母となるという事よりも、童貞を守るという事の方が重要であったかのような口ぶりをします。「心配する事はない。聖霊によってあなたは身ごもる。」マリア様は天使の言葉を聞いて、「私は主の婢女なり。仰せの如く我になれかし。」天主の母となるという事が分かって、救い主の母となるという特別の、女性の中で、全ての女性の中で選ばれた者と分かりながら、「私は婢女です、女奴隷です。私は婢女です、仰せの如く我になれかし。」

このマリア様の御謙遜を見た時に、天主の御子はどのように反応したかというと、マリア様の御謙遜よりも更にもっと謙遜になりました。「天主が人となる」という事を、その時になさったのです。永遠の全能の天主が、小さな人間の胎児となる、という事です。この天主の御子、人となった天主の御子は将来こう言うでしょう、「私は良き牧者である。私は、良き牧者は、羊の為に命を捨てる。」この良き牧者はこう言うでしょう、「1匹の子羊を探して、99匹をそのまま置いても、良き牧者は、その道を迷った羊を連れ戻しに、探しに行く。連れ戻したら、それはその時には大変喜んで、自分の肩にかけて戻るだろう。」

天主の憐れみと、天主がどれほど罪人の回心を求めているかについて、この例えを将来、この御言葉は語るでしょう。イエズス様は天国にいて、その無限の至福を味わいながらも、私たちの為に、苦しむ為に、私たちの霊魂を探して、人となられたのでした。天使たちを天国に置いて、人となられたのでした。

マリア様はこの、あたかも謙遜の御答えによって、さらにイエズス様の天主の謙遜を引き出したかのように思われます。

イエズス様の御生涯は全く御謙遜に満ちておられました。そのイエズス様の私生活を見て下さい。マリア様とヨゼフ様の下に完全に従った生活でした。マリア様はそのイエズス様の御謙遜を見て、どれほどますます御謙遜になられた事でしょうか。イエズス様が公生活に入ると、マリア様は母親としてイエズス様の前に出て、「あぁ、これが私の子よ。」と言う事ができたかもしれませんが、そうではありません。却ってひっそりと身を潜めて、影に隠れて、あたかも存在していないかのように行動されます。ある時女性は、「あなたの吸った乳房は一体どれほど幸いか!あなたを産んだ腹はどれほど幸いか!そのようなお母様を見てみたいものだ、そのような方は本当に幸いだ!」と叫んだほどでした。

マリア様のその御謙遜、その生活の御謙遜は、イエズス様をしてさらに謙遜の道を歩ませたかのようです。イエズス様はマリア様をおそらく御覧になって、さらに謙遜の道を歩む為に、御受難の屈辱を喜んでお受けになったのかもしれません。

「憐れみ」というのは、天主が被造物の憐れさを、全く無である事を、悲惨な状態を、もう罪にひしがれて、もうどうする事も、自分ではどうする事もできない事を、自分の事として、自分のものとしてそれを引き受ける事です。イエズス様は御受難の時に、全ての苦しみと、苦悩と、屈辱と、辱めを受けました。これ以上、これ以上下に行く事ができないというほど、十字架に至るまで、死に至るまで、十字架の死に至るまで、イエズス様は御謙遜の道を通られました。

マリア様はその十字架の道を御謙遜に辿り、イエズス様の後をひたすら御謙遜に辿り、十字架の下に、悲しみのもとに佇みました。

マリア様のその、イエズス様の御謙遜に対する御謙遜への答えを以て、十字架よりもさらにもっと深い御謙遜を、イエズス様は私たちに、御復活の後も与えようとされました。十字架の上では、人間、イエズス様が人間であるという事だけは分かりましたが、天主であるという事は隠れていました。御復活の後には更に、イエズス様が天主であり人間であるという事さえも分からないかのように、命がないかのように、あたかも動く事ができないかのように、パンの姿で、私たちと共に留まろうとさえされました。良き牧者であるイエズス様はこう仰るでしょう、「私は天から降りたパンである。私を食べる者は永久に生きる。もしも私を食さないなら、あなたたちの中に命はない。」と。

イエズス様は、私たちがあまりにも惨めで、憐れであるという事を知っており、それを何とか自分のものとして、私たちにはその代わりに、その惨めさから、憐れさから救おうとされるのです。これが御聖体こそが、イエズス様の私たちに与えて下さった究極の憐れみの御業でなくて何でしょうか。イエズス様は御聖体のうちにおいて、最も謙遜になられております。

ではこれを受けると、マリア様は一体どのような反応をされるでしょうか。今までのパターンを見ると、マリア様はもっと、イエズス様の御聖体に於ける御謙遜よりももっと深い謙遜を、マリア様は私たちに見せているかのようです。マリア様は更に隠れて、天国から私たちの為に、母として力強く取り次いでおられます。私たちに憐れみの母として祈って下さっております。一体どのように祈るのでしょうか。マリア様は自分の所に引き付けておくのではなく、私たちの霊魂の母として、憐れみの母として、御聖体へと、イエズス様の聖心へと導いて下さいます。それがマリア様の御謙遜です。天のいと高き元后、天地の元后となられたマリア様は、私たちの、一番下の私たちの所に来て、イエズス様の所に導く役をして下さっています。イエズス様の聖心、私たちの救いなるイエズスの聖心、諸聖人の喜びであるイエズスの聖心、私たちの命、復活であるイエズスの聖心に、マリア様は導いて下さいます。

4月には聖カタリナの祝日がありますが、ある時、聖カタリナにイエズス様が現れて、イエズス様と聖カタリナの心を交換した事があります。もしもイエズス様が聖カタリナに、シエナの聖カタリナと自分の心を交換する事ができたら、マリア様については、どうしてそれをしない事があるでしょうか。イエズス様の心とマリア様の心は全く同じ心です。マリア様の心とイエズス様の心が御聖体を私たちに生み出しました。

すると、私たちはマリア様のその御謙遜を見て、どのようにイエズス様に対して行動しなければならないのでしょうか?イエズス様が良き牧者として私たちを探して、天から下り、私たちを養おうとして御聖体になっている、というその姿を見て、私たちはではどうしなければならないでしょうか?

マリア様のように、イエズス様の御謙遜に、「あぁ、何と素晴らしい御謙遜か。」と思い、私たちもますます謙遜にならなければならないのではないでしょうか。御聖体拝領の時にはですから、マリア様がイエズス様を受けたと同じように、私たちもますます謙遜になる事に致しましょう。御聖体拝領はただ、イエズス様の御体を受けるだけではなくて、そこには交換がなければなりません。イエズス様とマリア様の御心と交換があったように、シエナの聖カタリナの心の交換があったように、イエズス様が羊の事をよく知り、羊がイエズス様の事よく知っているように、私たちもイエズス様の事をよく深く知る為に、イエズス様に倣ってますます謙遜に、イエズス様に私たちを捧げ尽くさなければなりません。

では今日この御ミサの中で、ますますマリア様の御取り次ぎによって、イエズス様の良き牧者であるという事をよく理解できますように、そのイエズス様の御謙遜と、憐れみの御業のその偉大さを深く味わう事ができますように。
私たちが良き羊たちとして、イエズス様の良き羊に、羊飼いとしてのイエズス様にいつも従っている事ができますように、お祈り致しましょう。

また最後に、マリア様の御取り次ぎによって、私たちに、特に日本から、聖なる、聖なる良き牧者たちが、聖なる司祭がたくさん生まれますように、多くの多くのカトリック司祭たちが良き牧者として、イエズス様に倣う牧者として、羊の為に命を懸ける牧者として、たくさん出ますように、後を続きますように、お祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

聖霊は「主であり命の与え主」であるー聖霊降臨の大祝日お説教ー:聖ピオ十世会司祭 レネー神父様

2016年05月21日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

レネー神父様による「聖霊降臨の大祝日」のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2016年5月15日 聖霊降臨の大祝日―大阪


親愛なる兄弟の皆さん、

本日は聖霊降臨の大祝日ですから、十戒についての一連の説教(の最後)は、次回来るときまで延期します。
カトリックの信経で、私たちは、聖霊が「Dominum et Vivificantem ― 主であり命の与え主」であると告白します。 これは非常に重要な真理であり、私たち一人一人 に非常に深い関わりをもっています。私たちの主イエズス・キリストは言われました。「私は羊たちに命を、豊かな命を与えるために来た」(ヨハネ10章10節)。また主は言われました。「生かす[=命を与える]のは霊である」(ヨハネ6章63節)。また聖パウロは全く同じことをコリント人に言いました(コリント後書3章6節)。霊は生かす、と。

聖霊は私たちにどのような命を与えてくださるのでしょうか? 最後には聖霊は私たちに「永遠の命」を与えてくださいますが、その永遠の命は、ここ地上から始まります。実際、私たちの主イエズス・キリストは言われました。「天主は御独り子を与え給うほどこの世を愛された。それは、天主を信じる人々みな滅びることなく永遠の命を受けるためである」(ヨハネ3章16節)。これはすでに今、始まっています。実際、「御子を信じる者には永遠の命があり[現在形]、信じようとしない者は命を知らず、その人の上には天主の怒りがとどまる」(ヨハネ3章36節)のです。また主はカファルナウムで再び言われました。「私の父のみ旨とは、子を見て信じる人々にみな永遠の命を受けさせ、終わりの日に彼らを復活させることである。…まことにまことに私は言う。信じる人は永遠の命を持つ」(ヨハネ6章40、47節)。注意すべきなのは、その人はすでに今―霊魂において―永遠の命を得ており、最後の日には体も復活させられるということです。

いったい誰が永遠の命を望まないでしょうか? 時間が過ぎ去り、何も残さないのなら、「良い時間」を持つことにどんな利益があるというのでしょうか? 命というものは、永遠の命にまで至るならば、本当に良いものです。聖アウグスティヌスが言うように、永遠の命を無視したり軽んじたりするのに命(人生)を費やすならば、その命(人生)は本当に良いものではありません!

誰も自分で永遠の命を得ることはできません。誰も自分の力によって永遠の命に到達することはできません。私たちは死すべき者であり、それは本性によって、また罪の罰によってそうなのです。「罪の払う報酬は死である。しかし、天主の恵みは、主イエズス・キリストにおける永遠の命である」(ローマ6章23節)。私たちは、天主の賜物によって、私たちの主イエズス・キリストの恵みによって、永遠の命を得ることができるのです。

では、その永遠の命とは何ですか? それは、天主ご自身の命そのものにあずかることなのです。聖ペトロは言います。「それ[キリスト]によって私たちに尊い偉大な約束を与えられた。それは、[その約束によって、]あなたたちを…天主の本性にあずからせるためであった」(ペトロ後書1章4節)。私たちの主イエズス・キリストは、次のように永遠の命を説明なさいます。「永遠の命とは、唯一のまことの天主であるあなたと、あなたの遣わされたイエズス・キリストを知ることであります」(ヨハネ17章3節)。天主を知ること、顔と顔を合わせて天主を見ること、つまり永遠の観想的な命なのです! 聖ヨハネは書簡の中で言います。「考えよ、天主の子と称されるほど、御父から計りがたい愛を受けたことを。私たちはいま天主の子である。後にどうなるかはまだ示されていないが、それが示されるとき、私たちは天主に似た者になることを知っている。私たちは天主をそのまま見るであろうから。主が清いお方であるように、主に対するこの希望を持つ者は清くなる」(ヨハネ第一3章1-3節)。これが永遠の命です。「私たちは天主に似た者になることを知っている。私たちは天主をそのまま見るであろうから」。また、これは命の与え主である聖霊の賜物なのです。

これが、「水と霊によって新たに生まれる」洗礼のとき、私たちが受ける新しい命です(ヨハネ3章5節)。この命は、堅振の秘蹟によって強められます。堅振の秘蹟は、私たち一人一人にとっての聖霊降臨であり、聖霊が私たちの命のうちにやって来られたのです。この命はご聖体によって養われ、また、悔悛の秘蹟によって(罪から)回復します。悔悛の秘蹟は、主が使徒たちに対してこう言って制定されました。「聖霊を受けよ。あなたたちが罪を赦す人にはその罪が赦され、あなたたちが罪を赦さぬ人は赦されない」(ヨハネ20章22-23節)。この命のために、終油の秘蹟が最後の準備を与えます。これは、聖パウロが次のように言う命です。「同様にあなたたちも、自分は罪に死んだ者、私たちの主キリスト・イエズスにおいて天主のために生きる者だと思え」(ローマ6章11節)。それは霊魂の命、超自然の命、私たちのうちにあるキリストの命、天主の子の命です。それは、聖霊の賜物です。「天主の霊によって導かれている人はすべて天主の子らである」(ローマ8章14節)。

さて、この命は、私たちの霊魂に内在し、実在するものです。聖トマス・アクィナスは、この命は「成聖の恩寵」と呼ばれる非常に特別な賜物から成っている、と説明しています。私たちの自然の命は、私たちの「霊魂」です。これは私たちの体に命を与え、体と一緒になって人間の実体そのものをつくります。人間として、私たちは霊魂と体で構成されており、霊魂は体の命です。霊魂は私たちの体に命を吹き込み、体に命を与えます。霊魂のない体は、まさに死体です! 「成聖の恩寵」と呼ばれる超自然の命は別の実体なのではなく、私たち自身の実体を高めて、天主の子として生きるようにする賜物です。 聖トマスはそれを「実体的習性」と呼びました。これはすなわち、私たちの実体を変化させ、高め、完全にする特性であり、私たちの実体が新しいある種の活動、何らかの天主のような活動を行うのを可能にするのです。

実際、成聖の恩寵から、信仰、希望、愛という対神徳が流れ出ます。これらの徳によって、私たちは天主を知り、天主を信頼し、天主を愛するのであり、それらを私たちの本性ができたであろうものよりはるかに優れた方法で行えるのであって、またこれらの徳によって、私たちが天主に似た者となり、「私たちは天主に似た者になることを知っている。私たちは天主をそのまま見るであろうから!」という天国の命のために私たちが準備をすることができるようになるのです。

理性は、被造物から推論を行い、他のすべてのものの原因となる第一の存在がいなければならないとの結論を通じて、天主についての知識に到達することが可能です。ですから、プラトンやアリストテレス、その他の哲学者の中には、正しく天主の存在とその属性の一部を証明した人たちがいました。これは「神義論」と呼ばれる哲学の最も高度な分野です。しかし、人間が天主を知るために理性だけしか与えられていなかったなら、そこには困難が伴うため、長い時間をかけても、ほんの少数の人間しか、それに到達しなかったでしょうし、誤謬が混じらずには済まなかったでしょう。

しかし、カトリック信仰によれば、カテキズムを習う一年目の小さな子どもが、(理性だけの場合より)もっと確信をもって、誤謬が混じることなしに、これらの基本的な真理を知るだけではなく、聖三位一体の内的命そのものまで知るのです! その子どもは、創造の目的や、天主のご計画における私たち人間の命の目標、そして天主へと戻る道、つまり私たちの主イエズス・キリストのことを知るのです! 「私たちは天主の愛を知り、それを信じた」(ヨハネ第一4章16節)。これは本当に素晴らしいことです。それゆえに、信仰は本当に、心に差し込む偉大な光、天主の光の反映です。「私たちはみな、鏡に映すように主の光栄を映し、霊なる主によってますます光栄を増すその同じ姿に変わる」(コリント後書3章18節)。これは観想(見つめること)、つまり聖三位一体に対する愛に満ちた信仰の眼差しの実りなのです!

「義人は信仰によって生きる」(ローマ1章17節)。すなわち、義人は信仰の光のもとで生き、天主の光の中で、永遠の光の中ですべてのことを考えます。これは、人生の重要な選択において特に必要です。召命の選択、良き結婚の選択、子どもたちの教育の選択などです。例えば、私の父は意識してテレビを持たないという選択をしました。この選択は、信仰を理由として行われたもので、正しい選択でした。家にテレビがあったなら、父は子どもたちの中から三人の司祭を出すことはなかったでしょう。

天主を望まず、天主を待ち焦がれることがないなら、誰も天主を観想する(見つめる)ことはできません。それについて詩篇作者はこう言います。「私は主に一つのことを頼み、それを求めている。生きている限りずっと主の家に住み、主の美しさに目を留める。…あなたについて私の心は『主のみ顔を探せ』と言った。主よ、私はみ顔を探し求める」(詩篇26章4、8節)。「私には、天主のおそばにいることがよい、天主なる主に希望を置くことがよい」(詩篇72章28節)。「主を探し求めよ、そうすれば生きる」(アモス5章6節)。「主とそのみ力とを探し求め、常にみ顔をたずねよ」(詩篇104章4節)。天主を探し、天主を待ち焦がれ、天国で天主と共にいる永遠の命を待ち焦がれる人々が、いかに少ないことでしょうか? いかに少ないことか!

私たちは自分自身で、天主に到達することはできず、永遠の命を得ることはできません。しかし、「主自身が私たちに約束されたことは、すなわち永遠の命である」(ヨハネ第一2章25節)。その約束に頼れば、天主の御助け、私たちの主イエズス・キリストの恩寵に頼れば、私たちは、そこに到達することを、永遠の命を得ることを希望することができます。自分の徳、功徳に頼らず、私たちの主イエズス・キリストの恵みに頼るのです。しかし、これは私たちが徳を行うことから、功徳を得ることから免除されることを意味するのではありません。まったく違います! 私たちは、私たちの主イエズス・キリストの恵みに頼り、「キリストの足跡を踏」(ペトロ前書2章21節)まなければなりません。「私に従う人は闇の中を歩まず、命の光を持つであろう」(ヨハネ8章12節)。実際、「私は[天主を]知っていると言いながら掟を守らぬ人は偽り者であって、真理は彼の中にはない」(ヨハネ第一2章4節)。しかし、私たちは天主の掟を、命の掟を守り、私たちの主イエズス・キリストの恵みに頼ります。プロテスタントは約束と功徳に反対し、カトリックは両方とも信じます。それは聖書が両方を教えているからです。

成聖の恩寵から湧き出る第三の徳は、愛の徳です。「私たちに与えられた聖霊によって、この心に天主の愛が注がれたからである」(ローマ5章5節)。愛は霊魂の命の中心、超自然の命の中心です。それは本質的に成聖の恩寵と結びついています。この恩寵を持っているならば、その人は愛を持っています。その人が愛を持っていないなら、成聖の恩寵を持っていません。大罪は、愛を追い出すがゆえに恩寵を破壊します。大罪によって恩寵を失えば、その人は信仰と希望を常に失うわけではありませんが、愛を失います。愛がなければ、天国に行くことは不可能です。愛があれば、地獄に行くことは不可能です! 愛は「すべての心、すべての知恵、すべての霊魂、すべての力を挙げて天主を愛し、また自分と同じように隣人を愛すること」(マルコ12章33節)です。愛は、天主の命に本当にあずかることです。そのため、聖ヨハネは次のように言うことができました。「天主は愛である。愛を持つ者は天主にとどまり、天主は彼にとどまられる」(ヨハネ第一4章16節)。

信仰のみで愛のないことは、無に等しいことです。聖パウロは言います。「たとい私が山も動かすほどの満ちた信仰を持っていても、愛がなければ無に等しい」(コリント前書13章2節)。天主の目に認められるものは、「愛によって働く信仰」(ガラツィア5章6節)です。キリスト教的命は、「愛において真理を行」(エフェゾ4章15節)うことです。聖トマスは、愛は「徳の形相」であると教えています。これは、愛が一つ一つの徳に対して正しい動機を、正しい最終の目標を与えるということです。最終の目標、それは天主です! 愛は私たち人間の活動をすべて天主に引き寄せ、天主に一致させます。そして、天主の愛を、私たちがするすべてのことの動機とするのです。聖パウロが言います。「何事をするにもすべて天主の光栄のために行え」(コリント前書10章31節)。

成聖の恩寵からはまた、私たちに注がれる他のすべての道徳上の徳が流れ出ます。その徳はすべての霊的な命を強め、高めます。なぜなら、愛は掟を守るように導くからです。「私の掟を保ちそれを守る者こそ私を愛する者である」(ヨハネ14章21節)。例えば、自然的な正義の徳は、私たちに正直な生活を生きるようにさせます。私たちに注がれる超自然的な正義の徳は、私たちを悔い改めさせ、自分自身と世の罪の償いをするよう導きます。自然的な貞潔の徳は、結婚において人を忠実にさせ、超自然的な貞潔の徳は、人に童貞性の終わりなき奉献を選ばせます。自然的な剛毅の徳は困難なときに勇気を与え、超自然的な剛毅の徳は、カトリック信仰の告白のために殉教にまで至らせます!

これら私たちに注がれた徳、キリスト教的命のより高い徳は、命の与え主である聖霊の効果です。聖パウロはそれを「聖霊の実」と呼んでいます。「聖霊の実は、愛、喜び、平和、忍耐、寛容、親切、善意、柔和、信仰、節度、節制、純潔である。これらのことに反対する律法はない」(ガラツィア5章22-23節)。キリスト教的命におけるこれらのより高い徳は、真福八端において特に明らかです。「心の貧しい人は幸せである、天の国は彼らのものである。柔和な人は幸せである、彼らは地を譲り受けるであろう。悲しむ人は幸せである、彼らは慰めを受けるであろう。正義に飢え渇く人は幸せである、彼らは飽かされるであろう。あわれみのある人は幸せである、彼らもあわれみを受けるであろう。心の清い人は幸せである、彼らは天主を見るであろう。平和のために励む人は幸せである、彼らは天主の子と呼ばれるであろう。正義のために迫害される人は幸せである、天の国は彼らのものである。私のために、人々があなたをののしり、あるいは責め、あるいは数々の讒言(ざんげん)を行うとき、あなたたちは幸せである、喜びに喜べ、あなたたちは天において大きな報いを受けるであろう。先人の預言者たちも同じように迫害された」(マテオ5章3-12節)。

まことに、天主は命の与え主である聖霊によって与えられたこのキリスト教的命、超自然的な命の第一の原理でありかつ最終の目的です。また、この超自然の命には、まだもう一つ別のまことに驚くべき側面があります。それは、義人の霊魂に「天主の三つのペルソナが住み給うこと」です。天主の三つのペルソナは、義人の霊魂の中に、特別に現存され、愛する友として現存されます。実際、私たちの主イエズス・キリストは言われました。「私の掟を保ちそれを守る者こそ私を愛する者である。私を愛する者は父にも愛され、私もその人を愛して自分を現す」(ヨハネ14章21節)。それで、聖ユダが主に聞きました。「主よ、この世にではなく私たちに、あなたがご自分を現されるのはなぜでしょうか」(ヨハネ14章22節)。すると、私たちの主は答えられました。「私を愛する者は私の言葉を守る。また父もその者を愛される。そして私たちはその人のところに行ってそこに住む」(ヨハネ14章23節)。このように、御父と御子は、ご自分たちを愛する霊魂の中にご自分たちの住まい、ご自分たちの住居をお作りになります。霊魂の最も奥まった秘密のところに、御父なる天主と御子なる天主が住まわれ、また御父と御子から離れることのない聖霊なる天主も住まわれます。実際、聖パウロは言います。「あなたたちが天主の聖所であり、天主の霊はその中に住み給うことを知らないのか」(コリント前書3章16節)。「あなたたちの体はその内にある聖霊の聖所であると知らないのか」(コリント前書6章19節)。

まことに、天主は私たちから遠く離れておられるのではなく、私たちが自分のうちに天主の現存を認識するとき、祈りは非常に親密なものになります! 聖パウロはそれを私たちのうちにおられる「イエズスの命」と呼びます。「常にイエズスの命が私たちの体に現れるようにと、イエズスの死のさまを自分の体に帯びている。私たちは、生きていても、たえずイエズスのために死にわたされている、イエズスの生命が、死ぬべき私たちの体にあらわれるように」(コリント後書4章10-11節)。「イエズスの死のさまを自分の体に帯び」ながら、特にその犠牲において、私たちの主イエズス・キリストに倣うことによって、「イエズスの命が私たちの体にある」ことを、聖パウロは明らかにします。イエズスは、私たちの霊魂だけでなく、私たちの体にも住んでおられ(私たちの霊魂は私たちの体にあるのですから!)、主は私たちを強めてくださり、私たちの中に生きておられるのです。「私は生きているが、もう私ではなく、キリストが私のうちに生き給うのである」(ガラツィア2章20節)。人間の友情には、決してこのような不変の結びつき、このような親密さ、このような高さはありません。

私たちが自分のうちに天主の三つのペルソナがこのように現存していることを決して忘れることはないように天主に願います! そうであったなら、私たちは決して罪を犯さないでしょう! (しかし、)大罪によって、罪びとは自分の霊魂から天主を追い出してしまいます! これが、大罪が深刻なものである基本的な理由なのです。大罪は私たちを地獄へ導くので私たちは大罪を避けなければなりませんが、大罪は私たちへの天主の善と寛大さに対する大変な侮辱ですから、私たちはさらに一層大罪を避けなければなりません。ですから、これが、大罪がまことに地獄に行くのにふさわしい理由なのです。私たちは、いかなる大罪も絶対に避けなければなりません。そして、罪を犯すよりもむしろ死ぬ覚悟を持たなければなりません! 私たちは小罪も避け、罪に打ち勝つよう全力を尽くさなければなりません。でも、私たちの弱さのため、罪をすべて避けることはできないでしょう。従って、頻繁に告白することが必要なのです。

この「私たちのうちにあるイエズスの命」を完成させる偉大な秘蹟は、ご聖体です。実際、「私の肉を食べ私の血を飲む者は、私に宿り、私もまたその者のうちに宿る。生きてまします御父が私を遣わし、その御父によって私が生きているように、私を食べる者も私によって生きる。先祖は(マンナを)食べても死んだが、このパンを食べる者は永遠に生きる」(ヨハネ6章56-58節)。

この天主の愛の命は、必ず私たちの隣人へと、あふれ出ていきます。なぜなら、「天主がこれほどに愛されたのなら、私たちもまた互いに愛さねばならない」(ヨハネ第一4章11節)。これはまさに、主の教訓です。「私は新しい掟を与える。あなたたちは互いに愛し合え。私があなたたちを愛したように、あなたたちも互いに愛し合え」(ヨハネ13章34節)。ですから、すべての良き愛徳のわざが、この美しい(成聖の恩寵という)泉から流れ出ていくのです。

これまで、その超自然の命で生きていた人が一人いるとすれば、その人は童貞聖マリアです。聖母の中では、それは明らかに、聖母が永遠の命(ヨハネ第一5章20節)である天主の御子をご胎内に宿すために、聖母を影で覆った聖霊による効果でした(ルカ1章35節)。聖母は、命である聖霊の御働きによって受胎されました。聖母はまた十字架の下で、新しいエバに、聖イレネウスが呼んだように「命の母」(創世記3章20節)になられました。

天主の御子が聖霊の御働きによって童貞聖マリアのいとも清らかなご胎内に下りて来られたように、一つ一つのミサでは、司祭が発する私たちの主イエズス・キリストのみ言葉の力によって、また聖霊の力によって、主は再び祭壇の上に下りて来られるのです。旧約において、天主がモーゼに話されているとき、聖なる雲が幕屋を影で覆ったように、天主の御子がミサの聖変化の瞬間に下りて来られるとき、聖霊が祭壇を影で覆うのです。一つ一つのミサで、これらの天主の神秘に対して、私たちはどれほど注意を払わなければならないでしょうか!

親愛なる兄弟の皆さん、これは聖霊が私たちに与えてくださる命です。これは、新奇な命ではなく、カトリック教会でこれまで誰も聞いたことのない新たな実践による命ではありません。私がこう言う理由は、今日、自分たちのことを「カリスマ運動」と呼ぶ人々、平信徒の按手によって聖霊を受け、異言を話すなどと言い張る人々がいるからです。この運動はプロテスタントの中で始まったのであり、カトリック教会から始まったのではありません。彼らは普通カトリックとプロテスタントを、まるで信仰に差がないかのように区別しません。これによって彼らは、自分たちが「真理の霊」(ヨハネ14章17節)である聖霊によって霊感を与えられているのではないことを証明しています。天主の真理は永遠のものです。天主は変わりません。「イエズス・キリストは昨日も今日も代々に同じである」(ヘブライ13章8節)。「そうだ、主である私は、変わることのないものである」(マラキア3章6節)。聖霊は、使徒たちによって教えられなかったであろうことを教えることはなく、「弁護者すなわち父が私の名によって送り給う聖霊は、すべてを教え、あなたたちの心に私の話したことをみな思い出させてくださるだろう」(ヨハネ14章26節)。聖霊は新奇なことを教えることはなく、むしろ使徒たちに対して「キリストがすでに話されたことをみな思い出させてくださ」るのであって、それらは、カトリックの聖伝によって何世紀にもわたって私たちにまで伝えられてきたのです。

さて、按手によって聖霊を授けると見せかけること、こんなことはこれまで教会で決して行われたことがありませんでしたが、これは八つ目の秘蹟をつくるのと同じぐらい悪いことです! さて、トレント公会議によって、キリストは八つではなく七つの秘蹟を制定されたと定められました。司教の按手によって聖霊を授ける秘蹟は、聖香油をひたいに塗ることを伴うものの、すでに一つあります。しかし、司教以外の平信徒では、誰もその秘蹟を授けることはできず、さらに(司教であっても授けるためには)聖香油を使う必要があります。これは、(平信徒が霊を授けている)カリスマ運動の人々が行っていることとは違います。ですから、カリスマ運動の授ける霊は聖霊ではなく、不浄な霊なのです! それは実際、悪魔にふさわしいものであって、天主の物真似をしようとし、天主と張り合おうとし、天主のなさったことを改ざんするのです。この不浄な霊は偽り者であり、偽りの父、最も巧妙な詐欺師なのです。

聖霊に忠実にとどまりましょう。カトリック教会が何世紀にもわたって教えてきたように、聖人たちに倣い、聖人たちのように超自然の命を生きましょう。そうすることで、聖霊の最後の賜物である永遠の命に到達し、天国で永遠に、聖母と聖人たちと共に、いとも聖なる三位一体を観想する(見つめる)ことができますように! アーメン。

2016年5月15日(聖霊降臨の大祝日)のミサの報告

2016年05月19日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 2016年の5月15日は、日本の聖ピオ十世会にとってとても大切な日でした。聖霊降臨の大祝日であり、カトリック教会が生まれ出た日であり、日本の聖ピオ十世会も聖母の汚れなき御心に捧げられた常設の聖堂がオープンした日であり、初めてのミサ聖祭がそこで捧げられた日でもあるからです。天主様に感謝!聖母の汚れなき御心に感謝!

 聖霊降臨という大きな祝日は、モーゼが過ぎ越しを祝った50日後、シナイ山で十戒を受けた1600年後に起こったことでした。モーゼという前兆の来たるべき実体であるイエズス・キリストが死から命への過ぎ越し(復活)の後、50日を経て聖霊が降臨しました。かつて、石板にかかれた法は、聖霊によって霊魂に刻まれた愛の法として与えられました。新約は「墨ではなく生きる天主の霊によって記されたもの、石の板ではなくあなたたちの肉体の心の板に書かれている」(コリント後3章3節)からです。ここで信仰と法とが深く結びついていることが分かります。

 イスラエルのエジプトからの解放は、天主から法(トラー)を与えられて本物となります。エジプトからの脱出は単なる始めに過ぎません。法とは自由の条件です。しかしルターは、法(トラー)を自由と、福音の自由と対立させたことから、法はあたかも自由と対立するものであるかのように考えられるようになってしまいました。
 現代では、自然を超えるもの(形而上学)の否定が流行し、特に、現代の実証主義は、多数決の理論を生み出しました。理性が、形而上学を、目に見える世界を超える規律を認めなくなるに従って、形而上学が法を定めるのではなく、市民の価値あるものと信ずるものだけが法の根拠となってしまいました。しかし、多数決は真理を生み出しませんし、命令も秩序も生み出すわけではありません。しかし、多数が、何が真理であると見なされるべきであるかを決定するようになりました。その時、客観的な真理が何であるかは、不問にされます。その時々の、その時代の気分に合わせて、どれほどの数の賛同を得たかによって、ものの価値が定まる、とされるようになりました。

 そこで、キリスト教の聖伝に根付く法は、ますます消え失せてしまいました。婚姻や家族は、ますます消えて、パートナー、同居、同棲などがその代わりに増加しています。聖なるものはますます消えて、聖なるものが法の制裁を受けることがより少なくなっていきました。生命の聖性についても観念がなくなっていきました。

 その代わりに、際限のない発言の自由、離婚、堕胎、安楽死、人間と動物の生命の違いさえも、法で決めることができなくなりつつあります。形而上学が喪失しつつある今、人間が犬や猫と婚姻することは、数のみが法で規定するだけとなってしまいました。もはや、法の概念、法の定義すら、失われつつあります。

 もしも多数決の決定が全て正しいのなら、テロリズムも、暴力や殺人も、秩序の破壊も、たとえば革命のために正当化され、「法」となることが起こりえます。

 しかし、法と自由と愛とは、対立するものでありえません。なぜなら、法は天主が与えたものであり、天主は愛であるからです。レネー神父様のおっしゃるとおりイエズス・キリストこそが私たちの法であるからです。私たちには、法を守るためにイエズス・キリストの恩寵が必要ですし、モーゼがシナイ山で旧約の法を受けたように、私たちの主イエズス・キリストは山の上で新約の法である「山上の垂訓」を与えて下しました。
「天の父が完全であるようにあなたたちも完全な者になれ」(マテオ5章48節)、
「御父が慈悲深くあらせられるように慈悲深いものであれ」(ルカ6章36節)と。

 ここで、法と愛とに対立も矛盾もありません。法と秩序とは愛である天主から生まれるものだからです。法の否定は、自由ではありません。法の否定は、独裁の道具であり、人間の否定であり、自由の否定です。


 さて、今年の秋田巡礼の参加者は、
長崎巡礼=38人
秋田巡礼=65人(現地参加の方も含めて)でした。
 天主様に感謝!デオ・グラチアス!
 昨年は、総計57名でしたので今年もより多くの方々が参加できて幸福です。

 今年の秋田巡礼は、日本の各地からの巡礼者の方々はもちろん、フィリピンの方々(18名)、シンガポールの方々(6名)、ポーランドの方々(4名)、ドイツの方々(2名)、マレーシアの方々(2名)などでした。

 一緒に初めて参加されたフォルティン神父様は、日本のファンになって下さり、大変うれしく思います。

 今年の長崎と秋田の巡礼についてのレポートと写真が、英語で次のサイトでみることができます。
 http://www.militia-immaculatae.asia/

 2016年秋田・長崎巡礼の写真のレポート

 英語のレポート

 いくつかの報告を愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介します。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

遅くなりましたが御ミサの報告をお送りいたします。
5月15日聖霊降臨の主日には14人が、
翌日 聖霊降臨の月曜日早朝のミサにはには7人の方々が御ミサに与るお恵みを頂きました。デオ・グラチアス!

新しい聖堂での初めての御ミサが、聖霊降臨の大祝日であった事に天主様の御摂理を感ぜずにはいられませんでした。

ミサの前にまずレネー神父様が、聖堂の祝別をされ、それからVidi Aquamが始まり、感動的な美しいお説教をお聞きしながら天主様の御憐れみに感謝いたしました。

御ミサの後は神父様を囲んで小さなパーティーで幸福な時間を過ごしました。
韓国でのミサの後、日本へ来て下さり、次の日も早朝ミサでお疲れにも関わらず終始優しくにこやかにしておられるレネー神父様を見て、その宣教師魂というか(^_^;)、イエズス様、マリア様への大きな愛を感じました。


【報告】
+Ave Maria! Immaculata!

長崎巡礼で私が黙想したことを申し上げてもよろしいでしょうか(^_^;)
日本の長く、あまりにも残酷な拷問、迫害の原因、
おびただしい殉教者が決して否まなかったお方、
おびただしい殉教者に、殉教のその剛毅の特別な聖寵をお与えになられた御者が、
今、私の目の前の御聖櫃のうちに、御聖体として在す天主イエズス様でいらっしゃる。
と感じ、また心のうちにお話申し上げました。
この長崎秋田巡礼での巨大なお恵を準備され、お与えくださったインマクラータに、
インマクラータの最も粗末な道具ではありますが、自分を余すところなくお捧げしようと決心いたしました(^_^;)

取り急ぎご報告申し上げます。
聖母の汚れ無き御心よ、われらのために祈りたまえ。


【報告】
アヴェ マリア インマクラータ!
トマス小野田神父様

長崎、秋田巡礼の旅、お疲れ様でした。
小野田神父様のブログを拝見して参加された皆様が、天主様と聖母マリア様の
お恵みをたくさん賜わったことがよく伝わって参りました。
私の作らせていただきました江戸巡礼ガイドも
多少のお役立ちが出来たようであり、
これも、天主様、聖母マリア様の聖慮とありがたく感じております。
また、9月に予定されている堅振の秘蹟には必ず、与りたいと思っております。

天主様の豊かなお恵みがありますように!


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

新しい聖堂はとても気持ちよく、素晴らしいと思います!というのも、1つのフロアにお祈りする部屋、香部屋、告解する場所があり、とても便利で、もったいないくらいです。
日当たりもよくて、月曜日は窓を開けると涼しい風がたくさん入り気持ちよく御ミサに、与ることができました!
マリア様の御取り次ぎ、天主様の御憐れみで新しい聖堂をプレゼントしてくださって心から感謝しています!(…)

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

聖霊降臨の主日おめでとうございました!☆

そして新しい御聖堂で御ミサに与ってきました!!(^o^)/
聖霊降臨の日は、教会の誕生日でもあるという事をヨゼフさんから教えて頂き、大阪で常設の御聖堂ができてその最初の御ミサが、この日に捧げられるように取りはからって下さった御摂理に感激するばかりでした!!

建物の入り口の所に「聖ピオ十世会聖母の汚れ無き御心聖堂」と名前が書いてあって、「巡回」という言葉が無くなった事がまず嬉しかったです!

ヨゼフさんご一家が祭壇やお花や椅子などを準備して下さっており、レネー神父様は来られるとすぐ告解室で告解を聞いて下さいました。神父様方が祭服を着替えるお部屋ができたのもとても嬉しかったです!

御聖堂は窓がたくさんあってとてもきれいですね!ステンドグラスを貼る予定だと仰っていたので雰囲気がまた一段と教会っぽくなりそうでとても楽しみです!♪祭壇の両脇にも、大きな御像を入れる予定だそうで、それもとても楽しみです!♪♪(o^^o)

本当にヨゼフさんご一家には、長崎秋田巡礼の疲れも残っていらっしゃるのではという時に、こんなにも色々準備して下さり、感謝でいっぱいです。

御聖堂自体は小ぶりな感じですが、ちょうどその方が信者の方で御聖堂がいっぱいになりやすく、シュテーリン神父様が来年の秋田巡礼の帰りに視察に来られた時に(勝手に決めつけてますが笑)、こんなに信者が溢れてたらじゃあ日本に司祭を送らないとなあ、と思って下さりやすいのではないかと思いました!笑(*^^*)

祭壇もそのまま、オルガンもそのまま、置いて帰って良いということにも、非常に感動を覚えました!
本当にありがとうございます!!

レネー神父様はこれはまだ賃貸なので献堂式はできないけど、ということで祝別をして下さいました!

今度また近い将来、聖ピオ十世会所有の建物の教会ができた時の献堂式の御ミサは、主任司祭である小野田神父様がなさるようにマリア様はお取りはからい下さるだろうなと思いました。レネー神父様も、小野田神父様とご一緒に日本に常駐して下さるようにお祈りしていますので、その前準備のような気がしました。全てはマリア様のお取りはからいのままに・・・

レネー神父様は聖霊降臨の主日の御ミサの御説教で色々仰って下さっていたのですが、私たちの霊魂の奥深くには、天主三位一体、聖父と聖子と聖霊が住まわれる場所がある、ということを仰ってくださり、以前小野田神父様が献堂式の御ミサの御説教の時に仰って下さっていた、物体的建物である教会がこれほど厳かに祝別されるのなら、至聖三位一体の住まいである私たちの体は、どれほど清浄に保たなければならないか、という内容の御説教を思い出し、重ね合わされました。

またまた長く書いてしまってすみません(>_<)

デオ・グラチアス!

あなたたちの悲しみは、喜びに変わるだろう

2016年05月18日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2016年4月17日 御復活後第3主日に東京で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭) 

2016年4月17日 御復活後第3主日のミサ
小野田神父 説教

日本の聖なる殉教者巡回教会にようこそ。
今日は2016年4月17日、主の復活の後の第3主日です。

今日いつものように14時半から、このミサの後に公教要理がありますが、今回は、いつものテーマではなく、実は5月の巡礼を準備する為に、長崎での殉教者の黙想し、その歴史を少し垣間見たいなと思っています。14時半から16時頃までです。

16時からは主日の第2晩課があります。
明日は朝ここで7時からミサがあります。

5月のミサですが、巡礼に長崎と秋田に行く予定です、そこで、残念ながら、ここでは5月22日の主日と月曜日の2回だけになってしまいました。次回はレネー神父様がいらっしゃる予定です。
レネー様は、聖ピオ十世会の頭脳であり、重鎮であり、非常に敬虔で、多くの色々な事を体験をされた神父様です。私の最も尊敬する神父様の1人ですので、神父様に、「是非、東京にもいらして下さい。」とお願いして、私がいつもレネー神父様の行っているコタ・キナバルに行く事にして、ミッションを交換しました。
是非、皆さんいらして下さい。


“Sed tristitia vestra vertetur in gaudium. ”

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日私たちの主イエズス様は、最後の晩餐で仰った言葉を、もう一度黙想させます。最後の晩餐の時に言った言葉は、「お前たちは私をしばらく見るけれども、しばらくしたら見ない。でもしばらくしたらまた見る。」「一体この『しばらく』というのはどういう意味なのだろう?」「“modicum”何の意味なんだろう?」そこでイエズス様は、「ははぁ、お前たち分からないだろう。教えてあげよう」と言って説明してくれます。
説明した時に、「あなたたちの悲しみは、喜びに変わるだろう。この世は喜んでいる、喜ぶけれども、あなたたちは悲しむ。泣き、涙を流す。あなたたちは悲しむ。でもこのあなたたちの悲しみは、喜びに変わる。その喜びは誰も取る事ができない。」と説明しています。

では一体、一体何の事なのでしょうか?イエズス様はこの、「しばらく私を見ない。でも、」と言って、この「しばらく」というのは、一体どういう意味なのでしょうか?
何故、私たちの悲しみは喜びに変わるのでしょうか?
何故この世は喜んでいるのでしょうか?
一体これで何をイエズス様は言いたいのでしょうか?
何故カトリック教会は、2000年の間この、この福音を説明する為に、この挿絵を付けるかのように、聖パウロの言葉や、お祈りや、色んなそのテキストをミサの中に付けて、一体このイエズス様の、「悲しみが喜びになる」という事をどうやって説明しようとしているのでしょうか?
どうやって解釈しようとしているのでしょうか?
一体、イエズス様の中核のメッセージは何なのでしょうか?
この使徒たちは、この最後の晩餐の時には分からなかったけれども、復活した後には、「あぁ、何だこの事か!」と分かりました。ではその中核は、メッセージの核心は何なのでしょうか?
それでその核心が分かったら、私たちは一体、イエズス様から何をするものを期待されているのでしょうか?教会はこのメッセージを私たちに伝えて、じゃあ一体私たちはどうしたらいいのでしょうか? 何をすればよいのでしょうのか?
という事を一緒に黙想したいと思います。

そこでまずこの3つのポイントがあります。
第1は、「しばらく“modicum”」というこの意味は一体何なのか。
第2に、一体何で悲しみが喜びになるのか。何で世の中は喜んでいて、私たちは悲しんでいるのか。一体何で私たちの悲しみは喜びになるのか。
最後に、じゃあ一体私たちは何をすれば良いのか。

第1の点ですが、もうこれは、「“modicum”しばらく」というのは、短い間、ほんの、ほんの束の間の間、ほんのひと時、という意味です。このひと時の間、世は喜ぶだろう。でもこのほんのひと時の間、あなたたちは涙を流したり、悲しんだりするだろう。一体これは何を表しているのでしょうか?

これは、この世の喜びの短さと、イエズス様の弟子たちの喜びの違いを表わしています。「この世の喜びはほんの短いものである。この地上で面白おかしく生活していただけた。そのたとえ長くても、この世が終わってしまえば、もうそれで終わりだ。」という事を意味しています。ちょうど聖ペトロが今日、書簡の中で示しているようです、「私たちは外国人のように、旅人のように、ここに永遠にいるわけではない。この地上に永久に住んでいるわけじゃない、ほんの束の間の生涯だ。」

科学者によると、「地球は、太陽の周りをぐるぐると、1年に1回公転している」と言われています。もしこれが正しければ、この宇宙船地球号が、太陽の周りを何回か何周かした後に、私たちはこの地球号から降りて、その旅を終えなければなりません。ほんの短い間、この世の喜びがある。でもそれはすぐに終わってしまう、という事です。

しかしイエズス様の説明によれば、「あなたたちの喜びは誰も取る事ができない。あなたたちの喜びは永遠に続く。」イエズス様の弟子たちの喜びは、これは束の間の間ではなく、本当のものであって、これは天主だけが、永遠の天主だけが与える事ができる、永久のものだ。この2つの違いがある、という事をまず表わしています。

第2には、一体ではこの、「この世の喜び」と、この「私たちの悲しみ」とはどういう事なのでしょうか?この世の喜びと、私たちの喜びの本質的な違いは何なのでしょうか?何で私たちの悲しみは喜びに変わるのでしょうか?

この世の喜びと、私たちの喜びは、本質的に原因が違っています。この世の喜びは、見せかけであって、表面的なものであって、単に一時的なもの、というのみならず、感覚的なものであって、表層的なものである、という所に違いがあります。ですからこの世の喜びは、たとえばおいしいものを食べたりとか、或いは、何かこんな所に行って他の人に自慢した、などという虚栄心や、或いは表層的なものだけで終わってしまいます。表面的なもので終わっているので、非常に基礎もなくて、非常に浮ついていて、いつもそれが無くなってしまう危険に満ちています。「誰かこう言ったよ。」とか、或いは、「あの人は何て考えるかしら。」或いは、ほんのちょっとした事でそれは傷ついてしまって、それは無くなってしまって、それが無くなってしまうと、「あぁ、」もうがっかりしてしまって、「もうダメだ。」と思ってしまいます。たとえその、それがどんなに秘密に隠されていて、とても成功したようなものであったとしても、危険にいつも晒されています。ニュースの報道によると、世界のお金持ちたちが、脱税の為にどこかにお金を隠したのだけれども、それがリークされて、バレてしまったそうです。

聖パウロのローマ人への書簡によると、「そうやって、この世の楽しみと、この世の利益だけを追求して、天主を忘れてまでも、この世の楽しみだけを追求している人は、結局は最後の日に、怒りの火を準備している、ため込んでいる。」という事に他なりません。

でもこの、これと対比される、イエズス様の弟子たちの喜びというのは違っています。ラテン語によると、「この世が喜ぶ」という時には、ただ、「この世は喜ぶ」とだけ書いています、“mundus autem gaudevit”ところが、イエズス様は弟子たちの喜びについて言うと、「あなたたちの心は喜ぶだろう」『心』が喜ぶとなっています。これは教父たちの説明によると、私たちの喜びが非常に奥深くのものであって、内面的なものであって、賢慮なものであるから、天主様への愛に基づくものであるから、祈りや秘跡によって得た、聖寵に基づく、天主に基づくものであるから、だから、たとえ苦しみに於いても、たとえ悲しみに於いても、「イエズス様の為に悲しむ、イエズス様の為の苦しみであるのであればそれは、キリストの為に苦しむ事ができるというのは、何という喜びか。」と、それはそれが喜びになるのです。

例えば使徒たちを見て下さい。ユダヤ人たちから迫害された時に、「キリストの名前によってこんなに苦しみを受ける事ができる価値があると分かって嬉しい。」日本の殉教者たちを見て下さい。子供たちが西坂の丘に着いて、京都の戻り橋から1ヶ月かかって、1月3日に出て、2月5日に西坂に着いて、ずっと陸地を歩いて、もう食べる物もないし、服もボロボロだし、耳も削がれて、それで十字架に付けられると、「あぁ!私の十字架はどこ?」と言って非常に喜んで、十字架に付けられました。「お母さん、」小さなトマス小崎はこう言います、「お母さん、私の事は心配しないで下さい。パライソで会いましょう。」

殉教者はその西坂の丘で、最初の殉教者が尊き御血を喜んで流した後に、多くの殉教者たちもそこに行って、「あぁ、これが殉教者たちが血を流した所だ!」と言って、行くと接吻して、「さぁ、私もそれと同じく殉教できる」と、喜んで殉教した、と記録が残っています。官吏たちは、刑吏たちはそれを見て、「バカにされた」と思って、更に厳しい拷問を与えるのです。しかしビクともしません。何故かというと、このような苦しみを皆、イエズス・キリストへの愛の為に捧げていたからです。イエズス様がちょうど、御父のカリスを、御父から与えられたカリスを飲み干したように、イエズス様の弟子たちも、カトリック信者たちも、イエズス様から与えられて送られた十字架を、イエズス様の為に日々担って、イエズス様の後を従って歩いて行ったのでした。ですから喜んでいたのです。

十字架に、イエズス様と一緒に付けられた盗賊も同じでした、「この十字架から下ろしてほしい。」とは言いませんでした。「一緒に、イエズス様と一緒にいたい。ここで私がこの罰を受けるのは当然だ。」と言っていました。

この世の人を見て下さい。この世の人はいつも、面白おかしい事、苦しみのない事だけを求めています。何故かというと、「イエズス・キリストの為に苦しむ」という事の、ものすごい価値を知らないからです。ですから、ちょっとした苦しみがあると、もう困ってしまって、どうしていいか分からなくなって、「何とかしてそれを取り除きたい。」イエズス様に冒瀆さえもします。ちょうどイエズス様の左側の盗賊のようです、「キリストよ、もしも本当に救い主なら、俺を十字架から救え。もう十字架は嫌だ。そうしたら信じてあげよう。」などと言います。

私たちは今日、イエズス様のこのような説明を聞くと、ミサ典書の色々な箇所が、「なるほど」と、理解できるのではないでしょうか。何故かというと、アレルヤには、「キリストはしばらくの間苦しみを受けて、天国に入るべきではなかったのか。」「だからキリストの弟子たちもしばらく苦しんで、天国に入るべきではないのか、アレルヤ。」と言っているかのようだからです。
或いは密誦では、「私たちがこの地上での事を軽蔑して、天の事を愛するお恵みが与えられますように。」と祈って、この地上での事は何で軽蔑するかというと、それは、「地上での喜びがあまりにも表面的で、儚くて、虚ろで、短いものであるから。でも、天国での喜びはしっかりとしていて、本当の喜びはしっかりとしていて、決して誰も取る事ができない永遠のものだから。だからそれを愛する事ができるように、地上の喜びは軽蔑する事ができるように」とお祈りさせているのではないでしょうか。御聖体拝領のお祈りも、「そのまず霊的な力を受けて、それが肉体にも表れますように」と言っているようだからです。

では、このイエズス様のメッセージが分かると、イエズス様こそが本当の永遠の喜びを与える事ができる方であって、この世の喜びは儚いものである、という事がよく分かると、一体どうしたら良いのでしょうか?


それが、今日聖ペトロが書簡で言っている事です、「私たちはこの地上で、あたかも外国人であったり、或いは巡礼者であったり、旅人であったりするように、ほんのちょっと通り過ぎる者として生きなければならない。」「全て、」ちょうど集祷文にあるように、「キリスト教という高貴な名前に反する全ての事を避けて、イエズス様の御旨に適う事をするようにしなければならない」と、まず教えています。私たちはですから、この地上に外国人のように、本当の祖国、天国を目指す者として生活する、という事を意識しなければなりません。

第2には、これは私の提案ですが、ちょうどミサの時に、大きなホスチアと一緒に小さなホスチアも聖別されます。イエズス様は十字架に付けられた時に1人ではありませんでした。盗賊の間に付けられて、良き盗賊も一緒に十字架にいました。良き盗賊は、イエズス様と共に十字架に付けられるのを当然だと思って、イエズス様に、「私の事を思い出して下さい。」と言いました。ですから私たちも、小さなホスチアとなって、私たちの短いこの地上の生活を、イエズス様と共に捧げて、大きなホスチアであるイエズス様と共に捧げて、イエズス様の復活にも与らせて下さい、とお祈り致しましょう。

第3には、これは私たちのその生活はともすると、イエズス様の教えて下さったこの事を忘れがちです。けれども、それを実践した方がたくさんいます。それが日本の例えば殉教者で、マリア様です。イエズス様もその模範を示して下さいました。殉教者やマリア様、イエズス様の模範をいつも私たちが目に、目の前に描いている事ができますように。多くの殉教者たちが祈って、自分のこの血潮をその為に捧げていたように、私たちもこの遂に、イエズス様と共に、誰も取る事ができない、私たちから奪う事ができない喜びに導かれますように。私たちだけでなく、私たちの隣人や、愛する方々や、多くのお友達も、イエズス様の与える本当の喜びに導かれる事ができるように、お祈り致しましょう。


「あなたたちの悲しみは、喜びに変わるだろう。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

2016年長崎秋田巡礼の報告 SSPX JAPAN Nagasaki Akita Pilgrimage

2016年05月17日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ

愛する兄弟姉妹の皆様、

 長崎・秋田の巡礼は今年は10日にも亘るものでした。その間、3名の司祭らが毎日早朝5時40分(最終日は朝の5時!)から聖伝のミサを捧げていましたが、巡礼者のかなりの方々が、毎日3回のミサにあずかっておられる姿を見ていたく感動しました。なんと30度のミサに与っておられたのです!

 長崎は熊本のすぐ近くでしたので、被災された方々のためにもお祈りいたしました。

 この巡礼のために準備をして下さった多くの方々に深く感謝いたします。

 いくつかの巡礼の報告をご紹介します。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】
長崎~秋田巡礼、ありがとうございました。

アヴェ・マリア・インマクラータ!

トマス小野田神父様
長崎~秋田巡礼、お疲れ様でした。
少し遅くなってしまいましたが、巡礼の感想をお送りいたします。

今年は長崎からスタートし、日本の多くの殉教者の方々について学びながら
秋田では、日本のカトリック信者の祖先達が長崎での恐ろしい迫害と殉教に耐え抜くことができた
力の源であるマリア様について、更に深く知ることができたと思います。
これもひとえにマリア様のお計らいと、日本で天主様、マリア様の為に働き
殉教の御恵みを勝ち取った多くの霊魂達のお祈りのおかげだと思います。

秋田では特に、シュテーリン神父様にご指導頂き本当の謙遜とは何か、マリア様の謙遜とは何であったか、を良く考えることができました。
聖コルベ神父様が、自分自身について考えすぎることを、「鼻につく傲慢」とおっしゃっていた、ということを聞いて
目が醒めたような思いがしました。
それは自分自身を「有るものである。」と考えている傲慢であると気付かされました。
私は、自分自身が「鼻につく傲慢」だと気付き、そう気付いたことでまた落ち込みそうになりましたがそれでは同じことの繰り返しなので、このような有益な講話を聞く御恵みをお与えくださった天主様とマリア様に感謝しその御旨を忠実に果たすことができるようお祈りを続けなければ、と思いました。

10日間という長い間、御ミサに与り御聖体を拝領できるという素晴らしい御恵みに加え
告解、御聖体降福式、聖時間、シュテーリン神父様による素晴らしい講話、
秋田ではほとんどの間御聖櫃の中にイエズス様がいらっしゃったこと、長崎の殉教地でのお祈り、資料館等の見学、
ロザリオのお祈り、黙想、兄弟姉妹の皆様と共に歌った美しい聖歌、おいしい食事や雑談の時間等、
聖ヨゼフ様の小さき信心会もはじまり、また、M.Iに新たに入会された方々もいらして、どれをとっても素晴らしい巡礼でした。

大変お忙しいスケジュールの中、
長い巡礼を指導してくださった神父様方、また、計画・運営をしてくださった兄弟姉妹の皆さまに
感謝の気持ちでいっぱいです。本当にありがとうございました。

15日には遂に大阪で固定の御ミサ会場にて初めての御ミサがたてられるとのこと
嬉しく思います。しかも、聖霊降臨の大祝日に!!!!!とても嬉しいです。!!!
残念ながら行って御ミサに与ることはできませんが、お祈りをしております。

毎日、時間の許す限り、もっともっとマリア様のことを考えて過ごそうと思います。
マリア様のような美しい、素晴らしい方をお創りになった天主はもちろん素晴らしい方で
そのような天主様に創られたマリア様が私たちのお母様になってくださったのだと考えると、
とても幸福です。

小野田神父様のため、家族でお祈りをしております。

デオ・グラチアス!

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ
アレルヤ

トマス・マリア小野田主任神父様

とてもとても素晴らしかった、感動的でした、非常な御恵みの長崎・秋田巡礼の御企画有り難うございました。

5日のブログ読みました。
日々の巡礼をとても念入りに御計画為されて下さっておられまして、とてもとても感謝致します。
コメントは、バレバレで書かせて頂いております。
29日には長崎空港で集合で、さあ今から巡礼が始まるぞとワクワクしましたが、もう、家に居ります。
でもでも一杯いっぱい心に、次から次に楽しい非常な破格の御恵みの記憶が思いが、いっぱいです。
本当に本当に有り難うございました。

本当に御優しい天主イエズス様
無原罪の聖母マリア様

聖会の保護者なる、本当にいつも御願いを御聞き入れ下さり感謝でいっぱいの聖ヨゼフ様、感謝します。

最終日の秋田の聖母マリア様御訪問の時にも聖ヨゼフ様の御前で讚歌を歌う事が出来まして本当に嬉しかったです。
有り難うございました。
終歌Salva nos, はマスターしました。
Veni Ceator と TE Joseph は楽譜見ないで歌う特訓中で、間に合いませんでした(T_T)


【報告】
+ Ave Maria Immaculata!

トマス小野田神父様

秋田の聖母巡礼に参加させていただき、ありがとうございました!
この巡礼に参加するに際しては困難がありましたが、マリア様がお計らいくださいました。
マリア様の御憐れみをいただくために、真に謙遜になりたいと思います。マリア様ご自身が私の中にあって生きてくださいますように。
私にはマリア様だけがあります。この世には私を助けてくれるものは何一つありません。
皆さんと秋田の聖母のみ前で沢山讃美できましたことをとても嬉しく思っています。

以前神父様にお祈りをお願いしました、友人のお母様が亡くなりました。
秋田から帰るとパソコンに5月5日日付のメールが届いていました。亡くなったのは4月24日とのことです。どうか神父様、救霊のために祈ってください。
最後の時にロザリオを握らせてあげて、友人が祈ったそうです。

私は昨年の秋田の巡礼の時も今回の巡礼でも、この方のために祈りました。神父様、どうぞごミサの時にお祈りをお願いします。

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

今回、素晴らしい長崎・秋田巡礼を本当にありがとうございました!!
実は今まで長崎に巡礼には行ったことがなくて、日本人として1回は行かないとなぁ、行きたいなぁ、とずっと思っていたときに、今回の巡礼が計画され、これ以上無い素晴らしい形で長崎巡礼に行けた事を本当に感謝致します!デオ・グラチアス!!

小野田神父様が前もって長崎16聖人のお話をして下さり、資料も下さり、バスの中でも更に詳しい背景のお話をして下さり、そして毎日朝に3回の御ミサに与らせて頂き、シュテーリン神父様も講話をして下さり、あふれる御恵みで心を開かせて頂いた状態で巡礼をさせて頂く事ができました!

堅忍の徳がどれほど重要か、マリア様に寄りすがり、お任せすれば、必ず最高の形で全てがうまくいくということを改めて、この巡礼、聖殉教者の方々から教わりました。日本の回心と、家族や友人の回心と、日本に神父様の常駐と、色々な御恵みを聖殉教者の方々にお取り次ぎを願いました。天主を必要としていない、心の頑なな日本人の回心は、人間的に見れば、なかなか難しい事のように思えますが、このようなおびただしい数の聖殉教者の方々の血が流された日本の回心を、マリア様は必ず聞き入れてくださると確信致しました!

そして個人的にとても嬉しかったのは、5月1日の勤労者聖ヨゼフ様の祝日に、日本の長崎で、聖ヨゼフ様の小さき信心会が発足されたことです!聖ヨゼフ様はあまりにも御謙遜である為、聖ヨゼフ様の偉大さ、栄光の偉大さ、力の強さ、素晴らしさをあまり知らない人がまだ多いですが、これを機に日本に聖ヨゼフ様の素晴らしさがたくさん広まりますように頑張りたいと思います!(*^O^*)そして聖ヨゼフ様のお取り次ぎにより、日本の聖ピオ十世会の発展がますます大きなものになると確信しました!

秋田巡礼では、年々多くの方が来て下さり、1年目は数人で始まった巡礼が、10年目の今回はバスが溢れるほどの方が巡礼に参加された事を嬉しく思います!そして個人的に、年々私と同じような、もしくは若い世代の女の子が、聖ピオ十世会に導かれて巡礼に来て下さるのもとても嬉しく思います!更に、侍者をして下さるような若い男の子が、これから増えてくれると良いなぁと思います!

シュテーリン神父様の、天主様の憐れみ、マリア様の憐れみ、マリア様の御謙遜についての御講話もとても素晴らしかったです!そしてフォルティン神父様の御説教も、お言葉は短いのですが、1つ1つの文章にとても深い意味が込められていて、心にスーッと染み込むものでした!シュテーリン神父様・小野田神父様・フォルティン神父様というこの3人の神父様方と今回、長崎・巡礼に行くことができて本当に素晴らしい御摂理と御恵みに感謝致します!

私たちのために、本当に身を粉にして働いて下さる小野田神父様、お体は大丈夫でしょうか?

今月はもう日本へのミッションがないので、ごゆっくりお休みになる事ができれば良いなと思います。心から感謝とお祈りを申し上げます。

そして陰でいつも多大に支えて下さっているヨゼフさんご一家にも、心から感謝とお祈りを申し上げます。

大阪の新しい御聖堂は、今日から使えるようになったのでしょうか。もしそうであれば、ファチマ100周年の準備の年の、この5月13日に、御聖堂を与えて下さったマリア様、ヨゼフ様、この為の準備のために色々労を執って下さった方々に心から感謝申し上げます!

デオ・グラチアス!!

【報告】
+M
Dear Reverend Father,

I try to write my opinion about the pilgrimage - according your wishes.
At the beginning I want to thank you for inviting me on the pilgrimage. The pilgrimage was for me a spiritual revival (and renewal) and physical rest (a fresh air:)). I am very happy that I could see and touch the places of St. Maximilian in Japan. He has me even closer. I am glad that I could listen conferences (...). I needed a retreats and silence:).

I am very happy that I met group of Traditional Catholic in Japan. This group is dedicated to God and our Catholic faith. I think, we can render thanksgiving to God for this people. I understood what means "the hunger of faith". The zeal of Catholics in Japan is very edifying. I think that some Catholics who were born in the Catholic faith, can learn from them of piety.

The organization of the pilgrimage was perfect! It was a real pilgrimage! I am glad that we sang a lot of songs. Japanese faithful sing very nicely.
I could feel your fatherly care and commitment of lay people. Japan and Japanese people are very nice and very kind. I can't express in words my gratitude and appreciation for you and the Traditional Catholic group of Japanese.

I think that many martyrs in Japan, your mission in Japan and our common prayer will be good roots for growth in Catholic faith.

I have new friends in Japan!

In Mary Immaculate,

どうもありがとうございました!!!!
ps. I like sashimi:))))))) and wasabi:)))))))))


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!
小野田神父様

長崎、秋田の10日間の長丁場の巡礼を率いてくださり、本当にありがとうございました。
管区長様、そしてゲストのフォルティン神父様もお越し下さり、毎日三回の聖伝のミサを捧げてくださったお恵みに深く感謝致します。
長崎では、早朝からにも関わらず、すべてのミサで侍者を務めてくださった方にも感謝申し上げます。

長崎は、20年以上前、一人で三回ほど訪問した経験があります。
その頃は、ぼんやりとですが、多くの殉教者たちが血を流し、天候が悪いため、本来は小倉に落とされるはずだった原爆が浦上の地に変更されたという土地である長崎を「選ばれた場所」だと認識はしておりました。
けれど、大変ぼんやりとした、曇りガラスを通すようにしてしか認識していなかった長崎の偉大さを、今回は毎朝の聖伝のミサと講話、小野田神父様の丁寧な解説により、はっきりと信仰の目と心で感じることができたと思います。
「殉教者たちは敵を赦しました。永井博士は自分から愛する妻とすべてのものを奪い去った原爆を落とした人々を赦しました。赦したのみならず、天主への罪のつぐのいの生贄として選ばれたことに感謝すらしました。カトリック的態度とはこのようなものです。私たちはこのような人々に倣わなければなりません」というシュテーリン神父様のお言葉が深く残りました。

今回は28日に、東京のミサに来られる方と三人で1日早く長崎入りしたのですが(GWに入ったとたん飛行機代が倍になるので)、その日は図らずも聖モンフォールの祝日だったことに、巡礼が始まってから気づきました。
また、三人で泊まった宿のすぐ隣が、水主町教会という大村の聖マリナに捧げられた教会でした。
付属のサレジオ会が運営する幼稚園にはシスターが一人おられて、幼稚園の中と、シスターたちのためのお聖堂に親切に案内してくださり、扶助者聖母の美しいご像と、ドン・ボスコの大きなご絵に出迎えられ(個人的にシュテーリン神父様はドン・ボスコを連想させます……)、巡礼のとても良い準備になったことに感謝しました。

今回は海外からの巡礼者が多くて、たくさんの方と知りあえて大変楽しかったです。
西坂の丘では、ポーランド人の巡礼者グループと遭遇し、ポーランドの有名な聖母讃歌を大合唱することになったのは、とても偶然とは思えません。

またポーランド 人のSylwiaさんに、お別れの時に信徒発見のサンタ・マリアのハガキを差し上げましたら、大変喜んでくださり「ポーランドにも似たようなマリア様の絵がある」と教えてくれました。
後日、メールでその画像を送ってくださったので、添付します。
Trzebiatówの聖母、というそうです。





Sylwiaさんは「日本人の聖伝信者はとても良い人ばかり。出しゃばりな人がいない。特に司祭に対して尊敬の 念があって素晴らしい」と褒めてくださってました。

秋田の講話では、祈りに対する姿勢を正されました。
十字架のしるしをして、さあ祈るぞ、となったとき、シュテーリン神父様がおっしゃったように「マリア様、あんなことがこんなことがあって……だから助けてください、お金を送ってください、ああしてください、こうしてください」と祈ってきたことが私も何回あったでしょうか。いえ、今までの人生の祈りはほとんどがこんなものだったと思います。

「マリア様の祈りは、まず礼拝から始まります」と、おっしゃられたとき、イグナチオの霊操の「原理と基礎」が思い浮かびました。
私は三位一体の天主を礼拝し、賛美するために作られた、ということを、なんと忘れがちでしょうか。
マリア様や諸聖人を何度「お願いや愚痴を散々述べた後、ほんのお愛想程度に感謝をするだけの対象」にしてきたことでしょうか。

くどくどとたくさんのことを述べなくても、すべてを見ておられご存知の天主に、マリア様に、ただお任せして、親しく心を打ち明けて、インマクラータの良き道具となることができるように祈ることは、とても簡単で易しいはずなのに、人間の側が難しくしてしまい、人間的な目線に天の方々を引き下げてしまいます。

秋田の本に、悩み苦しむ一人の姉妹の代わりにシスター笹川が苦しみ、最後に守護の天使より「信じなさい、委せなさい、祈りなさい」と言われた、とのエピソードがありましたが、自分自身の心配事で自分を満たさずに、聖霊が満たしてくださるよう、自分を忘れ、棄てなければならないと痛感致しました。


報告(秋田巡礼の感想として、以前いただいたご報告ですが、ご紹介します。)

 多利田久美様の真似をして、俳句もどきをひねっておりました。
 まったくの我流ですので、拙いものとご了承ください。

 ***

 罪の舌宝石こぼすアヴェ・マリア

 フィリピンのマルタマリアの優しさよ

 鋼の心ばらで隠しし聖テレーズ
 (私の中の聖女のイメージはこんな感じです)

 おん恵みまことのミサより来ると知る

 祈りをば疎みて埃を罪と化す

 冬の朝澄みわたる声洗いの日
 (ヨゼフさんの洗礼の日に)

 外つ国の霊父の背中丸まらず
 (秋田巡礼にて、マリア様の前で微動だにせず、十五玄義をひざまずいて祈るクチュール神父様のお姿を真後ろで拝見していて心をうたれました)

 枯れ木より救いの泉湧きいでぬ
 (共贖のお涙の意味をようやく悟って)

 幾万環神無き国を取り囲む
 (ロシアの奉献がなされますように!)

 今や多しみ墓にて泣くマグダレナ 

 すがすがしお召し諾(うべな)う若人ら
 (イグナチオさんとヨゼフさんを見て)

 スータンの裾ひるがえし幾春秋
 (いつも早足の神父様を見るたび思います)

 袖口のほころびに見る司祭職

 新しき年絵踏みの償いより始め 
 
 枷外れ羊ら歓喜すアグネスの日に
 (今更ですが、破門撤回を言祝ぎます)


 最後に短歌を聖伝ミサに固執する、全世界のすべての司祭方にお捧げします。
 
 ラテン語を解せずとも我悟るべしおん体拝すその背中にて

聖霊降臨の主日、おめでとうございます。大阪でのミサは新しい住所です

2016年05月15日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

聖霊降臨の主日、おめでとうございます。

今日から、大阪でのミサ会場の住所は新しくなります。ご注意ください。

天主様に感謝します。

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!!


トマス小野田圭志神父

【お知らせ】聖ピオ十世会の大阪でのミサ聖祭の新しい住所 SSPX Japan's new chapel address in Osaka

2016年05月13日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 今日は、ファチマの聖母マリア様の御出現の記念日です。ファチマの聖母マリア様と聖ヨゼフさまの御取り次ぎに感謝しつつ、今日の佳き日に契約が成立した大阪の新しい聖堂の住所をお知らせいたします。

 そこで突然ではありますが、来る5月15日の聖霊降臨の大祝日の主日より、大阪でのミサ聖祭を次の場所で行う予定です。


聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂
EG新御堂4階
大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2 
〒532-0002
地図


 またこの常設の聖ピオ十世会の聖堂に移動する機会に、金曜日のミサの時間も午後5時半から午後6時にいたします。

 この常設の小さな聖堂によって、ミサ聖祭を捧げるたびに祭壇を作ってミサ後に祭壇を撤去するという必要がなくなります。天主様に深く感謝します!

 2月に来日して視察されたネリー神父様もそのような場所が得られるように励まして下さり、シュテーリン神父様もこの計画に祝福を下さいました。

 新大阪駅から、徒歩で10分~15分ほどの場所になりますが、御堂筋線をお使いの方々は東三国駅から徒歩2~3分のところに位置しております。

 いままでコロナ・ホテルの方々には大変親切にしていただき、最近は多くのお客様で賑わい、施設もますます新しくきれいになっていき、大変うれしく感謝しております。コロナ・ホテル様には、また将来的に別の形で別の機会にお世話になるつもりです。コロナ・ホテル様のためにますますの天主様の祝福を祈ります。

 天主様の御恵みによって、これから使おうとする聖堂が祝福で満たされますように。より多くの愛する兄弟姉妹の皆様が、聖伝のミサのお恵みに与ることができますように、心からお祈り申し上げます。

 この新しい聖堂のために、多くの労を執って下さった全ての方々に心から感謝します。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


Our dearest brethren and friends,

By grace of God and through the motherly mercy of Our Lady of Fatima as well as through the intercession of Saint Joseph, I have a great joy to inform you that we are planning to move our Mass Center to the following address from the Pentecost Sunday this year, i.e. 15th of May, 2016:


SSPX JAPAN Immaculate Heart of Mary Mass Center
4th floor, E.G Shimmido
Higashimikuni, 4 Chome-10-2
Yodogawa-ku, Ōsaka,
Ōsaka-fu
〒532-0002
Map


The new location is very near to the Higashi Mikuni Station (Midosuji Line).

From Shin Osaka Station, it is located at 10-minute walk.

At the occasion of this moving of chapel, we propose to adjust the start of the Mass on Friday from 17:30 to 18:00.

By this moving, we will not need to build and dismantle the altar each time.

Fr Nely encouraged us to find a permanent place in view of preparation to have permanent priests. Fr Stehlin blesses our project with great satisfaction.

May God bless all the visitors of the Traditional Mass at our new little Chapel in Osaka!

Fr Thomas ONODA

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】