Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

カトリックの聖伝のミサの報告 Traditional Latin Mass in Tokyo and Osaka SSPX Japan

2021年02月28日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

四旬節はいかがお過ごしでしょうか?

明日から三月、聖ヨゼフの聖月ですね。聖ヨゼフとともに四旬節を過ごしましょう。

さて、今日東京のミサに来られた方は良い天気に恵まれて、子供達も入れて合計102人でした。大阪では21人でした。日本では、合計で123人でした。

多くの方々が四旬節の霊的お恵みに与り、天主様に感謝いたします。

【報告】【東京】
Dear Fathers:

Shown below are the number of attendees at the masses in Tokyo today.

Good news: a record total of 102 people attended the three masses in Tokyo today.

The total number of attendees at the 3 masses in Tokyo today was 102, including children.

09:00 mass
M: 22 (incl. 4 children)
F: 22 (incl. 5 children)
Total: 44 (incl. 9 children)

11:00 mass
M: 12 (incl. 2 children)
F: 18 (incl. 2 children)
Total: 30 (incl. 4 children)

12:30 mass
M: 11 (incl. 2 children)
F: 25 (incl. 4 children)
Total: 36 (incl. 6 children)

Total of 3 masses (excl. 8 people who participated in multiple masses)
M: 42 (incl. 8 children)
F: 60 (incl. 11 children)
Total: 102 (incl. 19 children)





聖ピオ十世会総長であるダヴィデ・パリャラーニ神父の「恩人と友人の皆様への手紙 90号」を日本語で紹介いたします

2021年02月28日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

聖ピオ十世会総長であるダヴィデ・パリャラーニ神父の「恩人と友人の皆様への手紙 90号」を日本語で紹介いたします。

私たちは、今この瞬間、コロナウイルスのために、今まで私たちが想像もしていなかった世界を生きています。この手紙では、全世界を打ちのめそうとする最大の危険を分析しています。

現代世界がますます暗黒のうちに転がり落ちるように思える危機の最大の原因は、背教であり、信仰を失ったことです。この害悪よりもさらに重大な危険は、カトリック教会の聖職者や信者たちが「この世界を苦しめている天罰に対してカトリック信者たちがあまりにも人間的すぎるやり方で反応している」ことです。

カトリック教会は、常に、超自然の観点から、イエズス・キリストが御受難によってなさったように、罪によって冒(おか)された天主の正義を、償いによって天主の正義を満足させることを訴えてきました。

しかし、現代世界を打つ最大の、そして致命的な危機は、そのカトリック教会において「罪の結果に関する、償いの必要性に関する、十字架への愛に関する、全人類を待ち受けている死と審判のために準備することに関する、教会の位階階級からの超自然的メッセージが完全に喪失してしまっています。これこそ本当の大災難中の大災難です!」

私たちに与えられているコロナ禍の苦しみの中で、信仰の光で天主の高みまで心を上げて、私たちの罪の償いと、私たちに欠けている徳の習得のための機会とするかわりに、残念なことに、被造物のことだけに私たちの心がべったりとくっついて囚われていることです。被造物に解決を期待し、被造物に裏切られ、そのために、恐れと絶望とにおしひしがれてしまうことです。

私たちの言う「正常(ノーマル)」とは、天主の摂理に全く信頼すること、「信仰、希望、愛に養われて、この信頼を完全に回復」することです。現代の本当の危機は、感染症流行というよりも、むしろ私たちの超自然の命の喪失(そうしつ)、信仰の光で被造物を見る観点の喪失だからです。

では、お手紙をお読みください。
天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


恩人と友人の皆様への手紙 90号
ダヴィデ・パリャラーニ神父

恩人と友人の皆様への手紙 90号

親愛なる信者、友人、恩人の皆さん、

私たちは現在、コロナウィルスによる危機と、そのすべての悪影響のために、異常な、ほぼ前例のない歴史的瞬間を生きています。この状況下では、千通りの質問が湧き上がり、それに対して千通り、いえ、それ以上の答えが返ってくるでしょう。一つ一つの問題に個別に回答していくことは非現実的になるでしょう。それはこの考察の目的ではありません。それよりも私たちは、今、人類を悩ませているすべての害悪よりも、もっと重大な危険をここで分析したいと思います。それは、私たちの生きる世界は、背教によってもう一度異教的となってしまいましたが、この世界を苦しめている天罰に対してカトリック信者たちがあまりにも人間的すぎるやり方で反応している、という危険です。

もう数十年にもなりますが、極めて長期間にわたる救いがたく見える状況を改善するために、天主の天罰、あるいは摂理的な介入の類いを、私たちは期待してきました。核戦争を予想する人もいましたし、貧困の新たな急増、大災害、共産主義の進出、石油危機等を想像する人もいました。つまり、私たちの国々の背教の罪を天主が罰し給い、よい心の準備ができていた人々からの健全な反応を得るという摂理的な出来事を期待していたかもしれません。いずれにせよ、物事をわかりやすくするための何かを期待していました。しかし、私たちが予期していなかった形ではないかもしれませんが、現在の困難は、間違いなくこの【天主の介入を】明らかにする役割を果たしています。

現在の危機では何が起きているのでしょうか? 現代に生きる人々の心を奪ってしまっている感情を分析してみましょう。そしてなによりも、私たちのカトリック信者としての心の状態が、信仰の水準にまで引き上げているかどうかを検証してみることにしましょう。

人間的すぎる恐怖

簡単に言うと、三種類の恐怖を見いだします。これらの恐怖は、現在、ほぼすべての人間において絡み合い、そしてその全てのエネルギーを疲弊させてしまっています。

まず一つ目は、感染症流行そのものへの恐れです。ここでは、コロナウィルスが害をもたらすことについて話をするつもりはありません。しかし確かなことは、天主なしの現代世界は、死すべき生命を絶対的な善としてこれに執着し、この生命の前に、それ以外の全ての考慮すべきことは、頭をたれて譲歩しなければならず、重要なことではなくなっています。その結果、そして必然的に、この歪められた視点は、全世界で制御不可能な不安を生み出します。世界中は正気を失ったかのようです。優先課題の中でも最も優先すべきことを脅迫している危機ということによってあたかも催眠術にかけられ、文字どおりパニックに陥り、全ての人は、それ以外の課題について考えることが根本的に不可能になっている、あるいは、これを超える状況へと心をお挙げることができなくなっています。

次に、経済的危機ということがあります。当然ですが、父親が子どもたちの将来について憂慮するのは至極当たり前のことですし、同時に解決すべきいくつものもっともな懸念があることを天主はよくご存知です。しかし私がここで言及しているのは、もっと一般的な、究極的にもっと自己中心的な恐れのことです。いぜんよりもちょっと貧しくなり、今まで当たり前で、誰からも奪われえない権利の対象だと思っていたことをもはや享受できなくなることへの恐れです。この視点は、最初の恐怖と厳密に結びついています。つまり、ここ地上での生命こそが最高の善であるならば、それをもっと、あるいはできる限り、楽しむことのできるようにしてくれる富もまた、当然のことながら、究極の善となるからです。

最後に、これら全てに、今まで人々が享受してきた個人の自由が失われるという恐怖が加わります。これほどまで「人権」が一般的認識となったことはありませんでした。この三重の恐れの分析と、これに関係するすべてのことは、もっと話を展開させることもできます。ここではこれだけを言うにとどめましょう。これらの共通の基礎は、根本的に自然的で、純粋に人間的であること、これらは、何一つとして【コロナ】危機以前と同じにはならないだろうという認識に集約されうることです。この「以前」とは、理想的で放棄できない福利であって、啓蒙された人類がこれの栄光ある征服を成し遂げた、と曖昧にそして世界中で見なされています。


しかし、この恐れと、それが引き起こす振る舞いを深く分析してみると、古代の異教徒たちが、自分たちが理解できないあらゆる事象を説明するために利用したのと似た言い逃れを逆説的にも見出します。
古代の世界は、確かに洗練され文明化され組織化されてはいましたが、不幸なことに真理については無知でした。理解不可能なことを表現するために、怪物やあらゆる種類の神々や粗野な神話を持ち出していました。今日、私たちはよく似た反応を目撃しています。つまり、恐怖に直面して、不確実な未来に直面して、一連の説明が生まれ、それらは四方八方に進み、互いに体系的に矛盾し、果てしなく絡み合っています。それらが矛盾していることは、以下の事実によって明らかです。それらの説明は、継続的に、数時間あるいは数週間の間隔で、もっと需要のある、もっと洗練された、一見もっと説得力がありそうな説明、かといって必ずしももっと正しいわけではない説明に絶えず取って代わられているからです。私たちは、その境界線を把握できないまま、現実的要素がフィクションと混ざり合っている本物の神話に直面しています。そして、奇跡のような解決策、ユートピア的解決策、突如として濃い霧を追い払いすべての問題を解決してくれることができる方法を激しく切望する待望が生まれているのを見ています。

これは、二千年を経て、これらは再び異教的になった人類の中にもう一度現れている、混乱と苦悩と絶望の古代の叫びに少し似ています。それ以外ではありえません。天主を持たないこの人類がいかに無力で、狂気への道のりを辿っているか、理解できる人々にとっては明らかです。とりわけ注目に値するのは、信仰を失い、従ってもはや信じていない現代人が、同じ理由で、現実的識別をせずにあらゆることを信じようとしていることです。

私たちの希望は天国に固く基づいている

しかし、私たちに関して言えば、この精神から全く何の影響も受けていないというのは確かでしょうか? もちろん、前述した三つの恐れは理解できますし、ある程度は正当でさえあります。正当でないのは、これらの恐れがあらゆる超自然的な考えを妨げて押し殺すがままにしてしまうこと、何よりも、この試練から益を得る可能性を損なっていることです。 

結局のところ、私たちが信仰の眼を通してこの状況を見ることによってのみ、私たちは現実と真理に留まることができるということを決して忘れないようにしましょう。天主とその御摂理から逃れうるものは何もありません。私たちに起こる出来事の超える向こうに、天主は正確な御計画をお持ちであることは確かです。そして、人間は死を免れないという条件、人間の企ての脆(もろ)さを人々に思い起こさせることは、この計画に属しています。

天主は、まず最初に、実証主義(天主の秩序への否定)に毒された現代人に対し、彼を取り巻く自然のわざは、天主のみわざであることを、そして、自然界は天主の法に従うことを教えます。人間改造主義 transhumanism(人間の限界の否定)を吹き込まれた現代のプロメテウスに、天主は、ご自分が創造された自然界は、人間科学の技術と制御をすり抜けている、と理解させています。これこそ、特に現代において、極めて必要な教訓です。私たちはこれを心に銘記し、自分のものとしないといけません。絶対の力を持つという夢想に盲目となった現代人は、これを把握できなくなっているからです。私たちはまた、この教訓のうちに、天主の偉大さを礼拝し、天主に依存して親密に生きるという新たな動機を見出さないといけません。

さらに具体的には、何事も主から逃げることができず、すべてを前もって計画するお方である私たちの主は、私たちに何を伝えようとしているのでしょうか? 「信仰薄き者よ、なぜ恐れるのか? 私がまことに天主であることを信じないのか? 私がまことに全能者であることを信じないのか? 私が上智と善性においてすべてを導くことを信じないのか? 私が知ることなく、私の許しなく地に落ちる髪の毛一本すらあると思うのか? 私は生と死の支配者ではないのか? ウィルスは私なしで存在できると思うのか? 至高の支配者である私なしに政府は法を作ることができると思うのか? 言ってみよ──嵐の間、私がお前たちとともに船にいるなら、お前に降りかかりうる最悪のこととは一体何か?」

これらの質問への回答の中に、問題全体が含まれています。私たちの霊魂である船の中に、主は本当におられますか? もしもそうなら、私たちは、物事を本当に信仰の眼を通して、信仰の光に照らして日々の生活のすべての出来事を解釈可能にする信仰の眼を通して見ていますか? たとえ何が起きているのか完全にはわからないとしても、主への全幅の信頼を維持していますか? 私たちのカトリック信仰が私たちに与える永遠の回答で十分ではないですか? それとも、インターネットで発見可能な絶えず更新される答えで薄めてしまう必要性を感じるのですか? 月日が経つにつれて、私たちの主イエズス・キリストへの信頼は増大しましたか? それともこれらの時は、自らを引きこもらせ、希望を失う感覚に貢献したのでしょうか? 私たち一人一人は、良心において、これらの問いに真摯に答えなければなりません。

***

また、一部の人々は、感染症流行それ自体の他に、長期間に渡る宗教的迫害、特にキリスト教徒への迫害を恐れています。この疑問が起こるべきなのは理解できます。なぜなら世は私たちを憎んでおり、遅かれ早かれ、迫害は起きるはずだからです。感染症流行と関係しているにせよ、それとは独立したものであるにせよそうです。私たちはそれから逃げられません。これは、現在の騒乱に関するあらゆる預言に先立って述べられている、福音の真理です。主は私たちに警告しています。「お前たちは戦争と騒乱の噂を耳にするだろう […] 国は国に逆らって立つだろう。ところどころで大地震、疫病、飢饉があるだろう。[…] 彼らはお前たちを王や為政者たちの前に引きずっていき、私の名前のために手をかけ、迫害し、会堂や牢獄に引き立てていくだろう」[ルカ21:9-12]

しかし、ここでも私たちの恐れを、私たちを平静にさせてくれる信仰の光の中に浸らせないといけません。「恐れるな」[ルカ21:9] 長い間、このことについて警告されてきたのですから、私たちは、み摂理のみ手の内にあますことなく自らを委ね、絶望的になって出口を探し求めたりせずに、そのために自分自身を平和のうちに準備しておかないといけません。迫害の下にあった一世紀のキリスト信者たちを振り返ってみましょう。迫害者たちを、拷問の道具を、野獣たちをあまりにも近くで見た人々は、御元に自分たちを招く天主の愛を忘れてしまい、危険と苦痛と恐怖以外の何物をも見ず、そしてあげくに背教しました。彼らは明確な情報を持っていましたが、彼らの信仰は十分に強くなく、熱心な祈りで満足に養われていませんでした。「暴飲暴食や飲み物の酔い、生活の煩いに心の鈍らぬように、そして、その日が突然網のようにあなたたちの上にかぶさらぬように気をつけよ。それは地上に住むすべての人を襲うであろう。だからいつも警戒し、祈れ」[ルカ21:34-36]

主はまた私たちにこう警告しておられます。「弟子は師に勝るものではない。彼らが私が迫害したなら、おまえたちをも迫害するだろう」[ヨハネ15:20] すべての辛い試練には、私たちの模範なる天主なる救い主に、私たちはもっと似たものに変えられるのを見る秘訣と尊い賜物があるのです。こうして「キリストの苦しみの欠けたところを、我が肉体において満たす」ことができるのです。

***

現実に立ち止まり、コロナウィルスをその場所に留めておくために、私たちの助けとなる最後の考察もあります。この現在の危機とともに、カトリック教会は、私たちにさらなる影響を与えずにはいられない、さらにひどい、壊滅的な危機の中を突き進んでいます。もしそのことがわからないなら、私たちに災いあれ。なぜなら、それは私たちがもはや信仰の眼で状況を理解していないというしるしだからです! この別の危機は実に、もっと致命的です。この危機のせいで信仰を失った人々は、霊魂を永遠に失う危機にさらされているからです。不幸なことに、現状ではこれに加えて、罪の結果に関する、償いの必要性に関する、十字架への愛に関する、全人類を待ち受けている死と審判のために準備することに関する、教会の位階階級からの超自然的メッセージが完全に喪失してしまっています。これこそ本当の大災難中の大災難です!

ですから、私たちとしては希望を失わないようにしましょう。希望は私たちの努力や能力、分析を礎にしているのではなく──密接な関係はあるかもしれませんが──私たちの主イエズス・キリストの無限の功徳を礎にしているのです。私たちは常に、主の方を向かないといけません。特に、背負った重荷の重さに圧倒され、打ちのめされている時に。そうすることは、特に主を知っている私たちにとっては、この慰めとなる現実をまったく知らないという悲劇を生きている人々への愛徳の義務となるのです。私たちが隣人のために、本当にまことの使徒となりたいのなら、この特典的な時期に、最も効果的でふさわしい使徒職は、み摂理に際限なく信頼するという模範を見せることです。これこそが十字架を背負って希望を持ち続けるために、キリスト者だけが成し得る方法です。「正常な状態」に戻るための私たちの願いは、何よりもまず、信仰、希望、愛に養われて、この信頼を完全に回復させたものでなければなりません。

この貴重な恵みを勝ち得るために、ロザリオの十字軍において、親も子どもたちも、私たち全員、熱情を増加させましょう。ロザリオの十字軍は私たちを一緒にさせ、一致させます。ミサ聖祭のための、召命のための、世界と教会のための、聖母マリアの勝利のためのロザリオの十字軍において、天主ご自身が抵抗不可能な熱のこもった叫びをそこに見出すことができるように。

これこそが、感染症流行の終了を待つことなく現在の危機から抜け出す正真正銘の手段です!

「誰がキリストの愛から私たちを離れさせよう? 患難か、苦悩か。飢えか、裸か。危険か、剣か。 […] だがすべてこれらのことに会っても、私たちを愛されたお方によって、私たちは勝ってなお余りがある。死も、命も、天使も、権勢も、現在も、未来も、能力も、高いものも深いものも、そのほかのどんな被造物も、主イエズス・キリストにある天主の愛から私たちを離せないのだと、私は確信する」 [ローマ8:35-39]

天主の祝福がありますように!

2021年2月2日、メンツィンゲン
聖母のお潔めの祝日
総長、ダヴィデ・パリャラーニ神父





2021年3月7日(主日)前後の聖伝のミサの予定:Traditional Latin Mass for March 7, 2021

2021年02月28日 | 聖伝のミサの予定

アヴェ・マリア・インマクラータ!

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

愛する兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサ(トリエント・ミサ ラテン語ミサ)にご招待します。

最新情報は次のカレンダーをクリック
年間の予定はSSPX JAPAN MISSION CALENDARをご覧下さい。

今週末:2021年3月5日(金)6日(土)7日(主日)のミサの予定を再確定します。予定通りです。

【大阪】「聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂」 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2 EG新御堂4階 〒532-0002 (アクセス)JR「新大阪駅」の東口より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分(地図

 3月5日(金)  17:30 ロザリオ及び告解  18:00 ミサ聖祭

 3月6日(土) 10:00 ロザリオ及び告解  10:30 ミサ聖祭

 3月7日(日) 10:00 ロザリオ及び告解  10:30 ミサ聖祭(小野田神父)【ミサの開始が午前に変更になりました。ご注意ください。月曜日のミサはありません。】

【東京】 「聖ピオ十世会 聖なる日本の殉教者巡回聖堂」 東京都文京区本駒込1-12-5 曙町児童会館(地図

3月7日(日)主日ミサが三回捧げられます。

午前8時20分頃から準備が出来次第、告解の秘蹟を受けることができます。二階です。

09:00 ミサ聖祭 歌ミサ(ライブ中継をいたします)Facebook live

11:00 ミサ聖祭 読誦ミサ
12:30 ミサ聖祭 読誦ミサ

それぞれのミサの間にも告解の秘蹟を受けることができます。二階の告解の部屋に司祭は待機しております。

【お互いに社会的距離を取ることができるように、分散してミサにあずかっていただければ幸いです。】

Ave Maria Immaculata!

My dearest Brethren!

I want to reconfirm the Mass schedule for the weekend of March 7, 2021.

Mass times in Tokyo: March 7
09:00 - Sung mass Facebook live
11:00 - Low mass
12:30 - Low mass
It would help us maintain proper social distancing if you could consider spreading your mass attendance among the three masses.

Mass location:
"Holy Japanese Martyrs' Mass Center"
Akebonocho Jido-kaikan
1-12-5 Honkomagome, Bunkyo-ku, Tokyo


Mass schedule in OSAKA:

Fri, March 5: Holy Sacrifice of the Mass at 18:00

Sat, March 6: Holy Sacrifice of the Mass at 10:30

Sun, March 7: Holy Sacrifice of the Mass at 10:30











Ave Stella Matutina(愛でたし、暁の星よ)というグレゴリオ聖歌を愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。

2021年02月28日 | グレゴリオ聖歌
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

Ave Stella Matutina(愛でたし、暁の星よ)というグレゴリオ聖歌があることを知りました。愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。

カルメル会の典礼学者であるベネディクト・ジンマーマン神父(Fr Benedict Zimmerman)によれば、これは聖シモン・ストック(茶色のスカプラリオを聖母から受けた聖人)によって作詞されたとのことです。グィド・ドレヴェス(Guido Dreves)によると、クリュニー修道院の修道院長であった尊者ペトロ(Peter the Venerable)が作詞したと言います。

ラテン語と日本語の翻訳を以下に掲載いたします。

愛でたし、暁の星よ、
罪人たちの薬よ、
世の支配者にして元后よ、

童貞女と呼ばれるのが唯一ふさわしい方
敵の槍に対して、
救いの盾を置き給え、
御身の力の表札を。

御身はイェッセの枝、
それにおいて天主が
世の躓きを取り除きつつ
アーモンドの実をつけさせたアアロンの枝
(荒野の書(民数)17:8参照)

御身は雨の降った所
天の露にしめって
しかし皮の服は乾いていた。

御身はこの牢獄にいる我らを
憐れみ深く慰め給え、
天主の聖寵に満ちみてるお方よ。

おお、天主の選ばれた浄配よ、
我らのためにまっすぐな道となり給え
永遠の喜びへと続く道に。

平和と栄光とがあるところで
御身は常に優しい耳で
私たちの祈りを聞き入れ給え、甘美なマリアよ。

Ave, Stella matutina,
Peccatorum medicina,
Mundi princeps et Regina.

Virgo sola digna dici,
Contra tela inimici
Clypeum pone salutis
Tuae titulum virtutis.

Tu es enim virga Jesse,
In qua Deus fecit esse
Aaron amygdalum,
Mundi tollens scandalum.

Tu es area compluta,
Caelesti rore imbuta,
Sicco tamen vellere.

Tu nos in hoc carcere
Solare propitia,
Dei plena gratia.

O Sponsa Dei electa,
Esto nobis via recta
Ad aeterna gaudia,

Ubi pax est et gloria.
Tu nos semper aure pia,
Dulcis, exaudi, Maria

V. Ora pro nobis, Sancta Dei Genetrix.
R. Ut digni efficiamur promissionibus Christi.

Oremus: Defende, quaesumus, Domine, beata Maria semper Virgine intercedente, istam ab omni adversitate familiam tuam, et toto corde tibi prostratam, ab hostium proitius tuere clementer insidiis. Per Christum Dominum Nostrum.

V. In omni tribulatione et angustia, sucurrat nobis pia Virgo Maria.
R. Amen.

Oremus. Omnipotens, et clementissime Deus, qui Montis Carmeli Ordinem gloriosissimae Virginis Mariae Genitricis Filii tui Domini nostri Jesu Christi, sacrato titulo insignitum, Sanctorum tuorum Patris nostri Eliae, et Elisaei Prophetarum, Angeli et Anastasii Martyrum, Cyrilli et Alberti Confessorum, Euphrasiae, Teresiae et Mariae Magdalenae Virginum, et aliorum plurimorum meritis decorasti: tribue nobis quaesumus, ut per eorum suffragia ab instantibus malis animae et corporis liberati, ad te verum Carmeli verticem gaudentes pervenire valeamus. Per Christum Dominum Nostrum.




タボル山とオリベト山の麓のゲッセマネ|この四旬節に三人の使徒たちのように、私たちも選ばれた。私たちも警戒して祈らねばならない。どのように祈ればよいのでしょうか?

2021年02月27日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2021年2月28日は四旬節第二主日です。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「四旬節第二主日の説教」の動画をご紹介いたします。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父


ローマ公教要理 主祷文の解説 第5の願い 我らが人に赦す如く、我らの罪を赦し給え

2021年02月26日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様!

トリエント公会議による公教要理の「主祷文」について
第12章 主祷文 天に在す我らの父よ
第1の願い「願わくは御名の尊まれんことを」
また
第2の願い「御国の来たらんことを」
さらに
第3の願い「御旨の天に行われる如く、地にもおこなわれんことを」

第4の願い 我らの日用の糧を今日我らに与え給え
を既にご紹介いたしました。

今回は、その続き
第5の願い 我らが人に赦す如く、我らの罪を赦し給え
についての箇所の説明(本邦初の日本語訳)をご紹介します。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

第5の願い
我らが人に赦す如く、我らの罪を赦し給え

159.天主の限りない力、およびこれに結び合わされた同じく無限の知恵と仁慈とを示す事物は枚挙のいとまがありませんが―事実、どこに目を向けようと、何に思いをはせようと、そのはかりしれぬ仁慈と寛仁とのきわめて確かな印を人は見出すのですが―、主イエズス・キリストの御受難の筆舌に尽くしがたい奥義ほど、天主の私たちに対する広大な愛と感嘆すべき愛徳をよりよく表すものはありません。実にこの奥義から、罪の汚れを洗い清める尽きることのない泉が湧き出たのですが、私たちは「我らの罪を赦し給え」と天主に祈って、主の導きと恵みによって、当の泉に浸かり、浄められことを願うのです。

160.この祈願は、主イエズス・キリストが人類にお与えになった諸々の利善のいわば「まとめ」とも言うべきものを含んでいますが、これはイザヤが「ヤコブの家の咎は赦されるであろう。そして彼らにとっての最たる利善は、その罪が取り去られる、ということである1」と述べて教えているところです。またダビドも「幸せなのは、その罪が赦された者2」と謳って、罪の赦しというこの恵みが、いかに比類なきものであるかを示しています。

161.したがって司牧者は、永遠の生命を得るためにかくも重要な当祈願の意味を、正確かつ入念に教示、解説せねばなりません。
162.この願いから、主祷文の祈りの新しい段階に入ります。なぜなら、これまでは天主から永遠かつ霊的な善のみならずはかない、地上での生活に属する利善を願ったのですが、これ以降は霊魂と身体の悪、現世および来世における悪を私たちの許から遠ざけてくださるよう願う[のだ]からです。

§ I. この祈願を為すために必要な心構え ―― 痛悔

163.しかるに願うものを得るためには、正しく願うことが必要であるため、どのような心構えで天主にこの祈願を為すかを述べるべきだと思われます。
司牧者は信徒に、この祈願を為すべく天主に近づこうとする者は、まず第一に自らの罪を認めることが必要であることを諭さねばなりません。次に、これを犯したことについて心から悔い、最後に、かかる心情を抱く罪人を天主が常にお赦しになる心づもりであるになることを、深く確信することです。それは、犯した罪の苦渋に満ちた回想と認知とが、私たちをしてカイン3とユダ4の心を満たした、赦しを得ることについての絶望に陥れることのないためです。実にこの両人は、天主がいかに柔和で憐れみ深い方であるかを悟らず、ただその中に報復者のみを認めたのでした。

164.したがって、この祈願を唱えるにあたって、私たちは自らの罪過を悔悛の心をもって認めつつ、裁き主ではなく父として天主の許にはせより、正義に即してではなく、憐れみによって私たちを処遇してくださるよう願うべきです。

165.天主が聖書をとおして私たちにお語りになる言葉に耳を傾けるならば、私たちは容易に己の罪を認めることとなります。事実、預言者ダビドは「皆迷い、皆腐敗しきった。善を為す者はただ一人としていない5」と述べ、同じくサロモンも、「一度も罪を犯さずに、善を行うほどの義人は、この世にはいない6」と言明し、また他の箇所では、「誰が『私の良心は清い、私には罪がない』と言えるだろうか7」と問うています。他方聖ヨハネは、人が傲慢心を抱かぬように、「罪がないと言うなら、それは、自分を偽っているのであって、真理は私たちの中にはない8」と記しています。また預言者エレミアは、「汝は『私には罪がない。したがって御身の怒りが我が身から遠ざからんことを』と言った。しかるに私は汝が『私は罪を犯さなかった』と述べたゆえにこそ、汝を裁くのである9」、という天主の御言葉を伝えています。

166.彼ら皆の口をとおしてお告げになったこの真理を、主キリストは、自分が罪人であることを告白する祈りを唱えることをお命じになって確証されておられます。事実、この祈願を他の意味に解することをミレヴァの公会議は次の判決文をもって禁じています。「もし誰かが、聖人らが主祷文中の「私らの罪を赦し給え」という祈願を唱える場合、これは謙遜の念からそう唱えるのであり、真実に即して唱えるものではない、と言うなら、当の者は排斥される。10」
実際誰が、祈りつつ、人にではなく、他ならぬ天主に偽りを言う者を我慢できるでしょうか。このような人は、口先では赦されることを望むと言いながら、内心では、赦されるべき罪などないと言うものだからです11。

167.しかるに、自らの罪の必要不可欠な認知のためには、ただ当の罪をざっと思い起こすだけでは充分ではありません。却ってかかる罪の記憶が私たちにとって苦渋に満ちたものであり、かつ心を刺し貫き、良心の呵責を催し、痛苦の念をかき立てることが必要です。
したがって、司牧者はこの点を信徒に説明するにあたり、彼らが単に自らの悪行と罪過を思い起こすにとどまらず、これらの過ちを悔やみ、悲しみつつ想起すべきであることを入念に諭さねばなりません。これは、かかる心奥の感情に心をしめつけられた彼らが、父なる天主に立ち返り、自が身に突き刺さった罪のトゲを引き抜いてくださるよう謙虚に願うためにです。

168.しかるに司牧者は罪の醜さのみならず、加えて人間の卑しさと汚れとを信徒に示さねばなりません。何となれば、腐った肉の塊、この上なく醜悪なものに過ぎない私たち人間は、あろうことか天主のはかり知れぬ御稜威とその名状しがたい卓越性とを、罪を犯すことをとおして、陵辱してはばからないのです。私たちを創り、贖い、解放し、かつ無数の比類なき恩典で満たしてくださった他ならぬこの天主に対してです!それは何のためでしょうか。至高の善である父なる天主から離れ、罪の恥ずべき報いに惹かれて、悪魔に対する悲惨きわまりない隷属状態に己が身を引き渡すためにです。しかるに、天主の甘美なくびきを払いのけ、父なる天主に私たちの精神を結びつける愛徳の絆を打ちほどき、非情きわまりない敵の配下に降った者らの霊魂を、どれほど残虐に悪魔が支配するかは、およそ言葉で言い表すことができません。事実、聖書中で悪魔は「世の頭および支配者12」、「闇の支配者13」かつ「傲慢の子ら皆の王14」と呼ばれています。実に、悪魔の圧制に打ちひしがれる者たちには、「我らの天主なる主よ、御身でない他の主たちが私たちを支配しました15」という預言者イザヤの言葉が実によく当てはまります。

169.もし私たちが、この愛の契りが破られたことにさほど心を痛めないならば、少なくとも罪によって私たちが陥った苦難と災厄とに心を動かされるべきです。実に、罪によって、キリストの伴侶となった霊魂16の聖性は冒され、主の神殿は汚されるのです。しかるに当の神殿を汚す者に対して使徒パウロは、「天主の神殿を汚す者があれば、天主は彼を亡ぼされる17」という警句を発しています。罪が人にもたらす害悪は数えることができませんが、このほとんど無限とも言うべき災厄を、預言者ダビドは次の言葉をもって表しています。「御身の御怒りに打たれ、体には、痛まぬ所はなくなった。私が罪を犯してから、私の骨には、健やかな所がなくなった。18」
己が身に罪の病害に冒されない部分が一つもないと告白する際、ダビドは罪によって穿たれた傷の深さを熟知していました。事実、罪の毒が彼の骨、すなわち理性と意志という霊魂の中で最も強固な能力にまでしみ込み、冒していたのです。聖書は罪人を足萎え、つんぼ、おし、盲人、中風持ちと呼ぶことをとおして、罪というこの病毒の及ぼす害悪がいかに大きく、広範囲にわたるかを示しています。

170.しかるにダビドは、罪の咎に伴う心痛を抱くにとどまらず、却って自らの罪によって引き起こした天主の怒りについて苦悶したのです。事実、不敬な者と天主の間には、争いがあり、前者の罪科によって天主はこの上ない冒瀆をお受けになりますが、これは使徒パウロが、「悪を行って生きる者にはすべて、[天主の]怒りと憤り、艱難と苦悶とがある19」と述べて指し示しているところに他なりません。

171.実際、罪の行為は過ぎ去るとしても、罪の汚れと罪責とが後に残ります。しかるに天主の絶えず脅かす怒りは、あたかも陰が身体につきまとうように、これにつきまとい、責め立てます。かくして、ダビドがこういった罪の呵責に悩まされていたとき、自らの過ちの赦しを願うよう促されたのです。司牧者は、彼の著した詩編50の中に、悔悛の模範と、この点に関する教えの根拠とを見出すことができますが、司牧者は、これを信徒らの眼前に置き、彼らが預言者の例に倣い、悔悛の心情、すなわち真の痛悔と赦しを得る希望とを抱くよう図らねばなりません。

172.このような仕方で信徒に罪の痛悔を抱くよう教え諭すことが、いかに有益であるかを、エレミア書における天主のみ言葉が示しています。実に天主は、イスラエルの民に痛悔の念を抱くよう、自らの犯した罪に起因する諸々の災厄に目を注ぐようお促しになるのです。「汝らの天主たる主を見すて、もはや私を畏れぬことがいかに悪く、痛ましいことかを見きわめよ、と万軍の天主なる主は仰せになる。20」

173.自らの罪を認めず、これについていかなる痛悔の念も抱かぬ者らは、預言者イザヤ、エゼキエル、ザカリアの書において、「頑なな心21」、「石のような22」、あるいは「ダイヤモンドのような心23」を持つ者であると言われています。こういった類の者は、石のごとく、いかなる悔悛の念によっても心を和らげることがなく、生命の、すなわち救いをもたらす認識24の感覚を、いささかも有さないからです。

§ II. 天主への信頼

174.しかるに信徒らが、罪の重さを目の当たりにして恐れをなし、赦しを得る望みを失うことのないよう、司牧者は次の論拠によって、彼らがかかる希望を抱きつづけるよう、図らねばなりません。
まず第一に、いとも聖にして尊ぶべき使徒信経にあるように、私たちの主イエズス・キリストが、教会に罪の赦しを与える権能をお授けになったという事実です。
第二に、この主祷文中で当の祈願を為すようお教えになることをとおして、主は、人類に対する天主の仁慈と寛大さがいかに大きなものであるかをお示しになりました。なぜなら、もし天主が、悔い改める者の罪を即座に、喜んで赦す心構えをもっておられなかったとすれば、決して「我らの罪を赦し給え」というこの祈願文を私たちにお残しにならなかったはずだからです。
したがって、この言葉をもって罪の赦しを願うようお命じになった主が、私たちに慈父心に満ちた憐れみを施してくださることを深く確信しなければなりません。実に当祈願に含まれた意味は、天主が私たちに対して抱かれる心構えは、私たちが罪を悔やむなら、すすんでこれをお赦しになるというものであることだからです。

176.しかるに、私たちが掟に従わぬ際、他ならぬ天主に対して罪を犯すのです。罪をとおして私たちは、自らの力の及ぶかぎり、天主の御知恵の秩序を乱し、その御稜威をけがし、行いと言葉によって陵辱することになるからです。

177.しかるに、当の天主はこの上なく仁慈な父であられ、全てを赦すことがおできになり、ご自分がそうすることを望まれる旨、仰せになりました。それのみならず、天主は人がご自分に罪の赦しを願うことをお求めになるのであり、またどのような言葉でこの恵みを願うべきかをお教えになりました。
したがって、天主のご助力によって私たちが天主と和解し、その寵愛25に再び浴することができるという事実を、誰も疑うことができません。

178.さて、天主の御意志がすすんで人の罪を赦すよう傾くものであるという事実の認識は、信仰をいや増し、望徳を養い、愛徳の火を焚きつけるものですから、この教理を説明するにあたって、天主の御言葉、およびきわめて重い罪を犯した後、痛悔の念を起こしたために天主からその赦しを受けた者たちの例を挙げることが適当です。26しかるに、この点についてはすでに、主祷文についての序章および使徒信経中の罪の赦しに関する部分で、できるかぎり詳しく解説したので、司牧者は必要に応じて同箇所から適切な材料を見出し、また残りは聖書の豊かな源泉から汲むことができます。

§ III. 負い目」という言葉の意味するところ

179.しかるに、この点を説明するに際しても、主祷文中の他の祈願において用いたのと同じ解説の手順をふむべきです。すなわち司牧者は、信徒がここで言う「負い目27」という語が、何を意味するかを把握し、言葉の意味を誤解して、願うべきものとは異なる他のものを願うことがないよう図らねばなりません。

180.まず第一に、この祈りをとおして私たちは、心を尽くして、霊魂を尽くして、精神を尽くして愛するという、私たちが天主に対して確かにもつ負い目を免除されるよう願うのでは到底ありません。却って、この負い目ないしは借りを返すことは救霊に不可欠な条件でさえあります。

181.「負い目」という言葉には、さらに従順、礼拝、崇敬およびこれに類したその他の義務をも含まれますが、無論私たちは、これらの負い目をもはや有しないことを願うのでもありません。

182.しかるに私たちは、天主が私たちを罪から解放してくださるよう願います。事実、かかる解釈に基づいて、聖ルカは「負い目」という言葉の代わりに「罪」の語を用いています28。なぜなら罪によって私たちは天主に対して、罪を犯した者、有罪の者となるのであり、同時に罰の負い目を負うことになるのですが、当の負い目は、償いをなすことによって、あるいは苦難を忍ぶことをとおして返済しなければなりません。主キリストが預言者の口を借りて、「私は自分の借りにならないものを支払った29」と仰せになったのも、この種の借りないしは負い目についてであります。30

183.この天主の御言葉によって、私たちは自分たちが借りを有した者であるだけでなく、全く返済能力のない者であることを理解します。なぜなら、罪人は、自らの力では、いかようにしても己が罪の償いを果たすことができないからです。したがって私たちは、天主の御憐れみに依り頼むべきなのですが、しかるに、この御憐れみには、同じ天主の正義が等しく対応しており、天主はこれ(即ち正義)を決していささかもお手放しにならないため、私たちは祈りと主イエズス・キリストの御受難のご保護とを活用しなければなりません。主の御受難によらなければ、誰一人自らの罪の赦しを得ることができず、またあらゆる償いの原理と効力とが、ここに源を発するからです。

184.主イエズス・キリストが十字架上でお支払いになり、秘蹟をとおして(これを実際に受けるか、少なくともこれを受ける望みを抱くことによって)私たちにあてがわれる代価はかくも大きいため、これにより、私たちがここで願う恵み、すなわち罪の赦しをかち得、かつこれを成就するのです。
この祈願をとおして、私たちはただ軽い過ち、容易に赦しを得ることができる罪だけでなく、重い大罪の赦しをも乞い願います。しかしながら、大罪に関しては、私たちの祈りは、先に述べたように、悔悛の秘蹟を実際に受けるか、もしくは少なくともこれを受ける望みを抱かないかぎり、効果を有しません。

185.さて主祷文中、私たちが「我らの罪」ないし「負い目」と言う際、これは「我らの(日用の)糧」と、その前に言うのとは全く違った意味でです。当の糧が「私たちの糧」であるのは、天主の仁慈によってこれが私たちに与えられるからなのですが、罪が私たちのものであるのは、当の罪の責任が私たちの中にあるからです。なぜなら私たちの意志がこれに同意し、承諾するのであり、意志が伴わなければ罪たり得ないからです。

186.したがって私たちは、自らの過ちを認め、告白し、罪から清められるために必要な天主の慈悲を乞い願うのです。
その際、私たちはいかなる弁解も為さず、また人祖アダムとエヴァがしたように他人に責任を嫁す31ことも避けなければなりません。却って私たちは、もし知恵のある者でありたいなら、預言者ダビドが「私の心が悪意の言葉に傾き、自分の罪を弁解することのないようにしてください32」、と祈った言葉を自らに当てはめ、己が身を咎めるべきです。

187.しかるに私たちは、「我が罪を赦し給え」とは言わず、「私らの罪を赦し給え」と唱えますが、これは人々の間に存すべき兄弟的一致と愛徳とが、私たち一人々々に求めるところに即してのことであります。すなわちこのように祈ることをとおして、私たちは隣人の共通の救いに配慮し、私たち自身のために祈る際に、他人のためにも祈るのです。

188.このように他者のためにも合わせて祈る仕方は、主キリストがお教えになり、次いで天主の教会によって受け容れられかつ常に守られてきましたが、殊に使徒らはこれを自ら実践し、また他の者たちがこれを実践するよう尽力しました。隣人の救霊のために、燃え立つほどの切望と熱意とをもって為す祈りの顕著な例を新・旧約の聖人、モーゼとパウロとにおいて見出すことができます。前者は、「彼らにこの咎を着せ給うな。さもなくば我が身を生命の書より除き給え33」と、また後者は「私の兄弟ためならば、私自身は呪われて、キリストから棄てられた者となることさえ望む34」と天主に祈ったのです。

§ IV. 我らが人に赦す如く、我らの罪を赦し給え

189.「(我らが人に赦す)如く」という言葉は、二様に解することができます。第一に、この言葉は比較、類似の意味合いを持ちます。すなわち私たちは、私たちが自分たちに侮辱ないしは害を為した者たちを赦すように、天主も、私たちが主に対して犯した罪を赦してくださるよう願うのです。
第二に、この言葉は条件の意味合いを含みます。主キリストが次の御言葉を仰せになったのも、この意味に即してのことです。「あなたたちが他人の過ちを赦すならば、あなたたちの天の父も、あなたたちを赦してくださる。しかし他人を赦さなかったら、父もあなたたちの過ちを赦してはくださらない。35」

190.しかるにこの2つの意味は共に、他人の負い目を赦す同一の必要性を含んでいます。すなわちもし私たちが、天主が私たちの過ちを赦してくださることを望むならば、必定私たちも、私たちに害を為した人々を赦さなければなりません。事実、天主は私たちが受けた侮辱を忘れ、相互の熱誠、愛徳の心情を抱くことをかくもお求めになるため、隣人と和解しない者の犠牲ないしは捧げ物を拒絶し、疎んじられるのです。また、他人が自分に対してあって欲しい様に、自分も他人に対してあらなければならないというのは、自然法の則です。したがって、隣人に対して敵対心を抱きつつも、天主に自らの罪科の赦しを願う者があるとすれば、それこそ厚顔無恥の極みと言わねばなりません。

191.したがって危害、侮辱を受けた者は、速やかにこれを赦す心構えをもたなければなりませんが、それはこの祈願文がこのようにふるまうよう強く促すため、また聖ルカによる福音書において、天主がこれをお命じになっているがためです。すなわち主は、「もしあなたの兄弟があなたに対して罪を犯したならば、彼を戒め、もし悔い改めるならば赦しなさい。たとえその人があなたに対して一日に七度罪を犯し、七度「悔い改めます」と、あなたの許に来て言うとしても、彼を赦しなさい。36」と仰せになったのです。また同じ主は、聖マタイによる福音書で、「あなたたちの敵を愛しなさい37」と仰せられ、使徒パウロ、またその前にサロモンも、「もしあなたの敵が飢えているなら食べさせ、渇いているなら飲ませよ。38」と述べています。さらに、聖マルコによる福音書で、主は次のように仰せになっています。
「あなたが立って祈るとき、誰かに恨みがあるなら、まずそれを赦せ。そうすれば、天にいるあなたたちの父に、自分の罪を赦してもらえるのである。39」

§ V. 隣人を赦すための動機 

192.しかるに、傷ついた自然本性の悪弊により、人間にとって、受けた侮辱を赦すことほど困難なことはないため、司牧者は、キリスト教者に必要な、穏和で憐れみに満ちた精神を抱くよう、信徒の心を変え、矯め直すよう、自らの知慮と才知を尽くして務めねばなりません。
天主ご自身が、敵を赦すよう命じておられる聖書の箇所を詳らかに引用すべきです40。
司牧者はまた、ある人が天主の子であることの最良の証の一つは、彼が受けた侮辱を容易に赦し、かつ敵を心から愛することであるという、明白な真理を教示しなければなりません。
しかるに、敵をも愛するという、この態度の中に、私たちと、父なる天主との間に、ある種の類似性が見出さられます。なぜなら、天の御父は、ご自分にあからさまに背反し、真っ向から敵対していた人類を、御独り子の死によって永遠の滅びから贖い、ご自分と和解されたからです。
以上の勧告と訓戒とのまとめとして、それに従うのを拒む者は恥辱と(霊魂に対する)害悪を被ることを免れない、主キリストの次のご命令を引用すべきです。「あなたたちを迫害し、中傷する者らのために祈りなさい。こうして、あなたたちは、天においでになるあなたたちの御父の子となるのである。41」

193.さて、この教理を解説するにあたって、司牧者は、並々ならぬ賢慮を示さねばなりません。それは、敵ないしは自分に害を為した者を赦すという、この義務を守る必要性と困難とを知って、救霊に達する望みを失ってしまう人が誰もいないようにです。なぜなら、受けた侮辱を意志的な忘却によって打ち消し、自分に危害を為した者を愛すべきであることを知った上で、これを果たすことを望み、かつ力の限り務めつつも、受けた侮辱、危害の記憶を完全に抹消し得ないと感じ、また心中に恨み心がわずかなりとも残っていることを認めて、大きな良心の動揺をきたし、自分が心から、率直に敵対心を捨て去らず、かくして天主の掟に従わないものであることを懸念する人たちがいるです。

194.このため、司牧者は、互いに対立する肉と霊の傾きについて説明しなければなりません。すなわち、前者の感覚が恨みを晴らすよう促す一方、後者に属する理性は、自らに害を為した者を赦すよう心を傾けるということ、またこの二つの傾向から絶えることのない争乱と葛藤が戦いが生じることを明示すべきです。司牧者はさらに、理性に相反し、対立するこの種の堕落した自然本性に基づく欲求については、精神が受けた侮辱、危害を赦し、隣人を愛する義務と意志とにとどまっている限り、救霊上いささかの懸念も生じないという事実を、信徒に諭さねばなりません。

195.しかるに、受けた危害、侮辱を忘れ、敵を愛する心づもりになりきれず、そのため、他人を赦さなければ自らの罪も赦されないという先述の条件に恐れをなし、主の祈りを唱えるのをはばかる人がいるかも知れません。42この有害きわまりない誤謬から当の者らを救うために、司牧者は次の2つの論拠を指し示すべきです。
第一に、ある信徒がこの祈りを唱える際、当人は全教会の名においてこれを為すのですが43、しかるに教会の中には、必ずこの種の負い目を他の人にすでに赦した敬虔な人たちがいるものです。44
第二に、当の祈願を為す際、私たちは、この祈りをとおして私たちが願うところのものを得るために抱くべき心情をも同時に願うのです。この意味で私たちは、罪の赦しと真の痛悔の賜とを願うのです。私たちは内的な悔悛を願い求め、また罪を忌み嫌い、これを司祭に正直に、謙って告白する恵みを願います。
したがって、私たちは他人から受けた損害、ないしは何某かの害を赦す必要があるため、天主に己が罪の赦しを願う際、同時に、私たちが忌み嫌う者たちと和解する恵みが与えられるよう祈ることになります。
したがって、当の祈願を為すことによって天主に対して一層深く罪を犯すという、虚しく、咎むべき怖れを抱いて怖じ気づく者らに、かかる謬見を捨てさせ、却ってむしろこの祈りを頻繁に唱えて、自らに害を為した者を赦し、敵を愛する心を与えてくださるよう、父なる天主に願うよう励まさねばなりません。

§ VII. この祈願が実りをもたらすために必要な心構え

196.しかるに、この祈りが実に実り多きものとなるためには、先ず、これを唱えるにあたって、次の事柄をよく留意し、熟慮しなければなりません。すなわち、私たちが天主の御前に懇願者として罷り出ること、また同じこの天主から、唯痛悔する者だけに与えられる罪の赦しを願うのであるということ、したがって、痛悔者にふさわしい愛徳と敬虔心を有することが必要であること、さらに、このように自らの罪を悔いる者には、あたかも己が悪業を眼前に置き、これを涙ながらに償うのが甚だふさわしいということです。[をよく留意し、熟慮しなければなりません。]

197.当の考察に、かつて罪を犯すきっかけとなり、また今後も父なる天主の御稜威を汚す機会となり得る事物を避ける決心を加えなければなりません。ダビドが「私の罪は常に私の前にある45」と述べ、また他の箇所で「毎夜、私は床を涕涙で洗い、流す涙で寝床をぬらす46」と言うのも、彼がこのような心境にあった時に他なりません。

198.各人は、天主に祈って己が罪の赦しを得た者たちが、どれほど熱心に祈ったかを、思い浮かべるべきです。すなわち、己が過ちを恥じ、悔いるあまり、神殿から遠く離れ、目を地に伏せ、胸を打ちつつ「我が天主よ、罪人なる我を憐れみ給え!」と祈った税吏47、あるいは主キリストの後ろに立ち、その御足を涙でぬらし、これを髪の毛でぬぐった罪の女48、また主を否んだ後に、「外に出てはげしく泣いた」ペトロ49の例を眼前に置かねばなりません。

199.さらに、人は虚弱で、罪という霊魂の病持ちであればあるほど、多くの薬を、より頻繁に飲む必要があります。
しかるに病んだ霊魂の治療薬となるべきものは、悔悛と聖体の秘蹟に他なりません。したがって信徒はごく頻繁にこれを用いるべきです。
又施しも、聖書の示すごとく、霊魂の傷を癒すために適した特効薬です。したがってこの祈りを敬虔に唱えることを望む人は、困窮者に能うるかぎりの善を施さねばなりません。施しがどれほど罪の汚れを消去する効力を有するかは、トビア書において主の天使ラファエルが、「施しは、人を死から救い、すべての罪を浄めます。施しをする人は、長い日々を与えられ、施しをする人は、[天主の]憐れみと永遠の生命を見出します50」、と述べて示すとおりです。また預言者ダニエルも、ナブコドノゾル王に、「施しをして罪を消し、貧しい者たちを憐れんで悪をお消しになってください51」と忠告しています。

200.しかるに、最良の施し、かつ最良の憐れみの業は、受けた侮辱、不正を忘れること、および私たち自身ならびに身内の者の所有物、評判ないしは身体を傷つけた人に対して、好意を示すことです。
したがって、自らに対して天主が憐れみ深く処してくださることを望む者は、諸々の反目を天主のために水に流し、かつ受けた侮辱、不正をことごとく赦し、敵のためにすすんで祈り、かつ彼らに善を為す機会を一つも逃さないようにすべきです。しかるにこの点は、殺人について取り扱った際にすでに解説したので、司牧者は同箇所を参照することが適当です52。

201.当の祈願の説明を終えるにあたり、他人に対して頑なで、誰にも情けを示さないにも関わらず、自らに対して天主が寛容憐れみ深くあってくださるよう願う人ほど仁義に反した者はなく、また考えることもできない、ということを述べて結びとすべきです。

1 イザヤ書 27章9節
2 詩編31 1節
3 創世の書 4章13節
4 マタイ 27章4-5節 
5 詩編13 3節および詩編52 4節
6 伝道の書 7章21節
7 格言の書 20章9節
8 ヨハネの第一の手紙 1章8節
9 エレミア書 2章35節
10 ミレヴァ公会議決議文 7、8、9章 (デンツィンガー 108項参照)
11 Trid. sess. 6 de Justificatione, cap.11 ならびに August. in Euch. cap.17参照
12 ヨハネ 14章30節
13 エフェゾ人への手紙 6章12節
14 ヨブの書 41章25節
15 イザヤ書 26章13節
16 エレミア書 2章2節およびホゼア書 12章3節参照
17 コリント人への前の手紙 3章17節
18 詩編37 4節
19 ローマ人への手紙 2章8-9節
20 エレミア書 2章19節
21 イザヤ書 46章12節
22 エゼキエル書 36章26節
23 ザカリア書 7章12節
24 訳者注 すなわち当節で問題になっている、自らの犯した罪についての認識。
25 訳者注 このように天主と和解し、その寵愛に浴するということは、即ち天主の恩寵を再び受ける、ということに他ならない。事実、「寵愛」という言葉で訳したラテン語原文の語 <gratia> は、同時に「恩寵」の意味をも含んでいる。
26 聖マリア・マグダレナ、聖ペトロ、善き盗賊、聖アウグスチヌス等々。
27 訳者注: 主祷文の原文(聖書のギリシャ語原典上)およびラテン語訳文では、「我らが、我らに対して負い目を有する者らを赦す如く、我らの負い目をも赦し給え」となっている。(< Dimitte nobis debita (「負い目」ないしは「借り」の意味)nostra, sicut et nos dimmitimus debitoribus (負い目のある者の意味)nostris.>)
28 ルカ 11章4節
29 詩編68 6節
30 訳者注 主キリストは、全く罪の汚れに染まらぬ者でありながら、私たち人間の罪の負い目を、御受難を忍ぶことをとおして支払ってくださった。しかるに罪の赦しを得るためには、私たちの側でも、自らの苦しみを主の御受難に合わせて甘受し、かつ償いを果たすことが必要である。
31 創世記 3章12節
32 詩編140 4節
33 出エジプトの書 32章31節
34 ローマ人への手紙 9章3節
35 マタイ 6章14節
36 ルカ 17章3-4節
37 マタイ 5章44節
38 ローマ人への手紙 12章20節および格言の書 25章20-21節
39 マルコ 11章25節
40 出エジプトの書 23章4節/レヴィの書 19章17-18節/サムエルの書上 24章5-8節/ヨブの書 31章29節/格言の書20章22節/マタイ 5章44節以下、18章33節および26章50節以下/使徒行録7章55節以下/ローマ人への手紙 12章14-21節/コリント人への前の手紙4章12節/エフェゾ人への手紙4章26節/テサロニケ人への前の手紙5章15節/聖ペトロの前の手紙 3章9節ルカ23章34節等参照
41 マタイ 5章44節
42 神学大全第2巻第2部第25問8-9項参照
43 神学大全第2巻第2部第83問16項第3反論への解答参照
44 訳者注: かかる敬虔な信者の功徳は、未だふさわしい内的状態でこの祈りを唱えることができない者たちの不足を、ある意味で補うこととなる。
45 詩編50 5節
46 詩編6 7節
47 ルカ 18章10節以下
48 ルカ 7章38節
49 マタイ 26章75節
50 トビア書 12章9節
51 ダニエル書 4章24節
52 ローマ公教要理第3部 十戒の部 VI. 9参照




ヴィガノ大司教:バチカンの「信仰に関係なく、すべての人の兄弟姉妹」になることが可能なビジョン、修道者という身分を無意味とし、洗礼も、贖いも、教会も、天主さえも必要としないビジョン

2021年02月25日 | カトリック・ニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

参考資料として、カトリック教会の高位聖職者であるカルロ・マリア・ヴィガノ大司教(元在米バチカン教皇大使)の発言をご紹介いたします。

カルロ・マリア・ヴィガノ大司教から、バチカンの担当省による奉献生活に向けられた最新文書についての痛みを感じさせる考察を受け取ったマルコ・トサッティ氏は、「Stilum Curiae」(教皇庁のペン)の愛する友人の皆さん、そして敵の皆さんに向けて、 的を射たこの考察をお読みください、と紹介しています。

この考察を読むのは、悲しみです。つらい現実に向き合って直視するのは心が引き裂かれる思いがします。ヴィガノ大司教が今のバチカンの動きをどのように見ておられるのかは日本語ではあまり紹介されていないので、今のバチカンと世界の動きの理解を深めるために、参考情報として掲載いたします。

この記事で、ヴィガノ大司教の訴えたいことの核心は次です。

「そのために私たちは祈り、断食し、償いをし、天主と至聖なる童貞聖母マリアのご介入をこいねがわなければなりません。…奉献された霊魂たちが自らの召命の犠牲的な次元を再発見し、燔祭のいけにえとして自らを捧げることが、これまで以上に必要なのです。結局のところ、これこそが修道者としての召命の核心であり、キリスト者であることそのものなのです。…完徳の状態を選んだという特権を持つ人々が・・・新たな熱意をもって祈り、熱心に断食し、償いをするように、と勧めます。最後に、聖霊が、迷いに導かれた聖職者と修道者に触れてくださり、彼らに悔い改めの賜物と赦しの恩寵が与えられるよう、お願いしましょう。」

奉献生活。バチカンから発せられる残念なビジョン

2021年2月2日

PARS HEREDITATIS MEÆ(主こそ私の遺産の分け前)

Dominus pars hereditatis meæ et calicis mei:
tu es qui restitues hereditatem meam mihi.
Ps 16: 5

主は、私の遺産と、私の杯との分け前
御身こそが、私の遺産を私に回復させてくださる方なり。
詩篇16章5節

第25回、世界奉献生活の日の機会に

2月2日、教会は至聖なるマリアの御潔めと私たちの主イエズス・キリストの神殿での奉献を祝います。この祝日は、この日の典礼中にローソクが祝別されることから「ローソク祭」(Candlemas)とも呼ばれていますが、これは悔い改めの性質を持ったマリア様の祝祭として始まりました。古代のローマにおいて、フォロ・ロマーノの【クリア・ユリアにあった】聖アドリアノ教会から聖マリア大聖堂までの行列では、ローマ教皇は黒い祭服を着て裸足で歩かなければなりませんでした。1962年のヨハネ二十三世の改革によってようやく「キリスト論の次元」が重視されるようになりました。堅固な教理と健全な霊性に根ざした霊魂は、教会が御母に捧げる讃美によって御子の栄光がぼかされるとは考えません。なぜなら、御子だけが、私たちが御母において祝う偉大さすべての源泉であるからです。

旧約の戒律によると、イスラエルの女性は40日間、幕屋に近づくことを禁じられ、その期間の終わりに、燔祭で焼き尽くされる小羊に、罪のために捧げられるキジバトやハトを加えた潔めのいけにえを捧げなければなりませんでした。天主の掟は、出産したばかりの女性の潔めと同時に、律法によれば主の所有物であると宣言されていた長子たちは、一人につき20オボロス【重さの単位】の5シェケルという代価で贖われなければならない、と定めていました。

このような女性の潔めの儀式と長子の贖いの儀式は、罪の汚れなく御孕りになり、出産前も出産中も出産後も永遠の童貞として保たれていた至聖なるマリアにも、アダムにおいて堕落した人性の贖いの作者ご自身である天主の御子にも、必要でなかったのは明らかです。しかし,いと高き御者の助言により、律法への従順と自発的な服従というこれらの厳粛な行いは,天主の御母とその天主なる御子の謙遜を示しているのです。この日、エルザレムの第二神殿は、ハガイの預言によれば、「すべての国の望むもの」(ハガイ2章7節)【であるキリスト】が臨在されたことによって聖別されました。幼児イエズスは、シメオンの舌を解き放って「今こそ去らせ給わん」(Nunc dimittis)の賛歌を歌わせました。

この日、聖なる教会は伝統的な典礼でその子らを天主の御稜威(みいつ)に捧げ、聖なる剃髪式と下級聖職によって天主の奉仕のために聖別します。悔い改めのしるしであり、この世の虚栄心の放棄のしるしである髪を切る儀式の間、詩篇から取られた応誦(antiphon)が唱えられます。「Dominus pars hereditatis meæ et calicis mei: tu es qui restitues hereditatem meam mihi [主は、私の資産と、私の杯との分け前、御身こそが、私の遺産を私に回復させてくださる方なり。]」(詩篇16章5節)。これらの素晴らしい言葉は、主が私たちの遺産の保証人であり、アダムの罪によって私たちが失った遺産の完全な所有権へと私たちに取り戻してくださるお方であることを宣言しています。
【訳注:「剃髪式」(トンスラ)というのは、平信徒から聖職者になる時に行った宗教儀式だった。「下級聖職」は、叙階の秘蹟の七つの階級のうちの下級四品級で、西暦252年に教皇コルネリウスがこの四つの品級について言及している手紙を残している。聖伝として伝えられてきた剃髪式と下級聖職、さらに副助祭は、1972年の自発教令によって突然行わなくなった。】

こうして聖職者は、白いスルプリを身に着けながら、次のように唱えます。「Indue me, Domine, novum hominem, qui secundum Deum creatus est in justitia, et sanctitate veritatis[主よ、私に新しい人を着せ給え。正義のうちに、そして真理の聖性のうちに、天主に従って創造された新しい人間を]」。

この祈りで、正義のうちに、真理の聖性のうちに、天主の似姿に創造された新しい人間をキリストにおいて見いだすことを思い起こすのです。なぜなら、まことの愛徳の炎が燃え上がることができるのは、聖三位一体の天主としての属性である真理の光においてだけだからです。私たちを兄弟と相互に結びつける兄弟愛は、実際には天主の父性を前提としているのですが、天主がおられなければ、不毛な博愛主義、人間中心主義的な連帯、そして暗いフリーメーソンの友愛へと堕落してしまいます。


1月18日、奉献・使徒的生活会省(Congregation for Institutes of Consecrated Life and Societies of Apostolic Life)は、すべての奉献された男女に宛てた書簡を発表しました。

第25回世界奉献生活の日のために公布された文書の中に、至聖なる童貞マリアの御潔めの神秘や神殿での主の奉献についてのある種の教理的、道徳的、霊的な言及があるのではないかと想像した人は誰であれ、確実に失望するでしょう。実際、その人はまた、この冷たい官僚的な散文で書かれた書簡が、ローマ教皇の名によってカトリック世界のすべての修道者を主宰するローマ教皇庁の部署から発行されたのではなく、灰色のジョージ・オーウェルの著書「1984年」の役所である真理省から発行されたのだ、と信じてしまうほどです。しかし、本文を最後までスクロールすれば十分です。(ことわざにもあるように、in calce[最下部に・最後に])、ジョアン・ブラス・ジ・アビス長官とホセ・ロドリゲス・カルバーヨ次官(フランシスコ会)の署名を読めば、納得します。ベルゴリオの教皇庁という天空で、追随を許さぬ星のように輝く二人の人物ですから。

したがって、少なくともこの書簡を受けた者は、この書簡には、2018年11月21日にロドリゲス・カルバーヨが修道女たちに語った汚い言葉「皆さんは大人の女性(adult women)です! 大人(adult)として自分の人生に取り組んでください、姦淫の女(「adulteresses)としてではなく」(このサイト参照)がないのを見て、それが最小限の人間的な救いではないとしても、驚くことはまったくありません。

同省の書簡は、「政治的に正しい」(politically correct)ことの一例です。サンタ・マルタ館の位階階級たちは男女平等に無造作に好意を寄せていますが、男女平等は、今日の[政治的に]配列された思想ですし(私たちは、新しい改訂版となった改革典礼の「祈れ、兄弟たち」(Orate fratres)および女性読師と女性侍祭という波に乗っているのです)、新しい言い方に特徴的なすべての表現があります。つまりこの文書には、パンデミックに、「友愛への普遍的な願望」「友愛と社会的友情という新しい夢」に言及し、そして修道者が「普遍的な兄弟愛の建築家、私たちの共通の家の管理者」となり「信仰に関係なく、すべての人の兄弟姉妹」[同文書から引用]になるように招待することにも力を入れています。最後には「フラテッリ・トゥッティ」(すべての兄弟たち)の世界宗教という不敬虔の叫びで締めくくられています。「では、夢を見ようではありませんか、単一の人間の家族として、同じ肉を共有する仲間の旅人として、私たちの共通の家である同じ地球の子どもとして、私たち一人一人が自分の信念と確信の豊かさをもたらし、私たち一人一人が自分の声をもつすべての兄弟姉妹として!」。

では、同省が奉献された人々に提供する実践的な提案とは何でしょうか? その提案はどのようにして修道会がそれぞれのカリスマ、聖なる会則、創立者聖人の会憲に忠実であるよう助けようとするのでしょうか? ここに長官の高尚な言葉があります。「では、寄り添い、変容し、創造する方法を創り出すことが大切です。異なる民族との世代間の出会いと対話の文化を促進するためのプロジェクトを発展させること、自分自身の召命共同体から始めて、地球の隅々まで、そしてすべての被造物に手を差し伸べることです。なぜなら、このパンデミックの間に、これほどまでにすべてがつながり、すべてが連携し、すべてが関係していることを経験したことはかつてないからです」(こちら)。

グレート・リセットの推進者である世界経済フォーラムでさえ、これ以上良い表現はできませんでした!アビラの聖テレジア、聖ドミニコ、聖クララ、聖フランシスコ・サレジオ、その他すべての修道会の創立者である聖人たちが、自分たちの創立した修道会が組織的に解体されることによって、傷つけられたままになっており、聖座の言葉が世界統一主義者のエリート、悪名高いセクト、キリストの敵たちからの親切な喝采を受けているときに、何が問題なのでしょうか!

「寄り添い、変容し、創造する方法を創り出す」とは、本来のカリスマ【=修道会の特長的な使命】への忠誠心を否定し、抵抗する者を再教育し、反抗する者を力づくで拘束することへの誘いではないとすれば、他に何を意味するのでしょうか? この「出会いと対話の文化を促進するためのプロジェクトを発展させること」とは、宗教的無関心主義や公会議のエキュメニズムの適用ではないとすれば、いったい何なのでしょうか?

ここには、超自然的な衝動を一切排除した、修道生活に関する悲痛な水平方向のビジョンだけしかありません。しかも、教会の貴重な宝として修道生活を守るべき人々が、そのようなビジョンを抱いているのです。

これは「信仰に関係なく、すべての人の兄弟姉妹」になることが可能なビジョンであり、修道者という身分を受け入れることを無意味とし、そればかりか、洗礼そのものも、そして洗礼とともに贖いを、教会を、そして天主さえも必要としないビジョンです。

このような危機の時代には、権力者に選ばれた者が誰であろうと、その権力者が命令する被統治者たちから切り離されていることを、私たちは理解しています。いわゆるパンデミックは、統治する人々が超国家的権力の命令に従順である一方で、最近の適切な事例によれば、市民は自分の権利を奪われ、いかなる形の反対意見も検閲されたり、精神科の治療が必要な扱いをされたりしていることを示しています。

教会でも同じことが起こっています。位階階級の最高レベルの人々はこの同じ権力に服従し、信徒の権利を奪って、信仰を放棄するつもりも、教会がその役務者たちに破壊されるのを見るつもりもない人々を検閲しているのです。ジョアン・ブラス・ジ・アビスはホルヘ・マリオ・ベルゴリオと完全に一致しており、両者とも新世界秩序(New World Order)の確立を熱烈に支持しています。

これは、私たちが日々直面しなければならない、つらい現実であり、そのために私たちは祈り、断食し、償いをし、天主と至聖なる童貞【聖母マリア】のご介入をこいねがわなければなりません。この超自然の戦いにおいて、修道者の男女の貢献が土台となるものです。だからこそ、奉献された霊魂たちが自らの召命の犠牲的な次元を再発見し、燔祭のいけにえとして自らを捧げることが、これまで以上に必要なのです。結局のところ、これこそが修道者としての召命の核心であり、キリスト者であることそのものなのです。祝されし永遠においてキリストの右に座すために、キリストに似た者となって十字架上のキリストに従うのです。

ですから、私は、完徳の状態を選んだという特権を持つ人々を招いて、彼らが新たな熱意をもって祈り、熱心に断食し、償いをするように、と勧めます。最後に、聖霊が、迷いに導かれた聖職者と修道者に触れてくださり、彼らに悔い改めの賜物と赦しの恩寵が与えられるよう、お願いしましょう。

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ

2021年2月2日
童貞聖マリアの御潔めの祝日に

スペイン語でお読みになりたい方はここをご覧ください。

イタリア語でお読みになりたい方はここをご覧ください。
Vita Consacrata. La Desolante Visione che Promana dal Vaticano

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断食のキリスト教的意味

2021年02月25日 | お説教・霊的講話

断食についての説教 2021年2月21日 四旬節第一主日

ドモルネ神父様

はじめに

この前の水曜日に、四旬節が始まりました。典礼年のなかで、四旬節は、特に、祈りと悔い改めの時です。ですから、例えば平日のミサでは、聖体拝領後の祈りの後に、教会は次のような祈りを加えて唱えます。「Oremus, humiliate capita vestra Deo」「祈願しよう、天主の御前に、へりくだって頭を垂れよ」。私たちはこの祈りの間、悔い改めのしるしとしてひざまずいて頭を垂れます。

しかし、ミサの典礼以外にも、四旬節の間、教会は断食【すなわち大斎】をすることと肉を控える【すなわち小斎をする】ことを命じています。今日は、断食についてお話しします。また、その意義と、私たちが断食から得る霊的な利益についても、お話ししたいと思います。

断食のキリスト教的意味

断食という言葉を聞くと、胃の痛みを連想してしまうため怖く感じて、断食をしないための言い訳をたくさん見つけたくなるかもしれません。しかし、霊的生活の大家である聖ベネディクトは、断食は完徳のための強力な手段であり、それゆえ、たとえ良きかつ重大な理由のために実際に断食ができないとしても断食を好むべきだ、と言っています。例えば大聖グレゴリオは、重病を患っていたとき、聖土曜日に断食をすることが許されなかったために泣いたのです。

断食についてお話しするというとき、それはもちろんキリスト教的断食のこと、つまり宗教的な理由によって行う断食のことです。天主を讃美するため、罪の悔い改めをするため、誘惑と戦うため、といった目的からです。医療目的や健康美容のために行われる断食は、私たちの霊的生活には何の価値もありません。

カトリックの規律によれば、断食には3種類あります。

・まず、私たちが「自然の断食」と呼んでいるもの、つまり、どんな食べ物や飲み物も控えることがあります。私たちの主イエズスは、砂漠で40日間の断食をされました。聖体拝領の準備をするときに、私たちは次のような断食を行います。ご聖体を受ける前に少なくとも3時間は何も食べず、水以外は何も飲まないようにするのです。この特定の自然の断食を、私たちは「聖体拝領前の断食」と呼んでいます。

・第二に、年に何日か、教会がすべてのキリスト教徒に命じている断食【すなわち大斎】があります。四季の斎日、四旬節、待降節、【大きな祝日の】前日といったものです。この断食では、十分な食事を取るのは24時間以内で1回だけです。私たちはこれを「教会の断食」と呼んでいます。つまり、これは教会が命じた断食なのです。現在の教会法によると、信者に課せられたこの義務は、灰の水曜日と聖金曜日という2日だけです。

・最後に、断食はまた、私たちが自発的に行う食べ物や飲み物の制限のすべてを意味する包括的な言葉でもあります。私たちは、この断食を「道徳的断食」と呼んでいます。なぜなら、これは私たちの良き道徳を向上させるため、つまり徳を高めたり、欠点を修正したりするためのものだからです。

断食をする理由

さて、なぜ断食をするのでしょうか? 食べ物や飲み物を自ら断つことの意味は何でしょうか? 食べ物や飲み物は、私たちのいのちを維持するために大変必要なものですから、私たちは食べ物【や飲み物】を私たちのいのちそのものと結び付けています。したがって、天主を愛するために自発的に食べ物【や飲み物】を断つということは、天主に自分のいのちを捧げるという一般的な意味を持っているのです。この一般的な意味に、断食の種類に応じた特定の意味が付け加えられます。

聖体拝領前の断食を行うことによって、私たちは、私たちの主イエズスを讃美し、主とともにいるために、自分のすべての財産や自分のいのちさえも捨てる覚悟があることを、主にお伝えしたいのです。さらに、聖体拝領前の断食は、私たちの体から食べ物をなくして体をもっと軽くすることで、私たちの霊魂が罪やこの世への愛着から解放されて清められる、ということを象徴しているのです。

教会の断食を行うことによって、私たちは自分の罪に対する心からの悲しみを示したいのです。私たちの主イエズスは、私たちにこう警告されました。「悔い改めないなら、あなたたちもみな同じように滅びる」(ルカ13章5節)。ですから、教会は、私たちの主イエズスの警告に従って、自分の子どもたちの救いを確実にするために、少なくとも年に数日は断食【すなわち大斎】をし、かつ肉を控える【すなわち小斎をする】よう、子どもたちに義務づけているのです。しばしばあることですが、何かをするよう法で強制されていないなら、私たちは弱さあるいは怠慢のせいで決してそれをすることはないということを、教会は非常によく知っているのです。

道徳的断食をすることによって、つまり、自発的にある程度の食べ物や飲み物を断つことによって、私たちは自分の罪を償いたいのです。実際、私たちが天主の掟を破るとき、その理由は天主よりも何か別のもの(お金、快楽、権力など)をもっと愛しているからです。逆に、天主への愛のために自発的に食べ物を拒否するとき、私たちは、何よりも、自分のいのちよりも天主を愛していることを示したいのです。

断食の霊的な利益

四旬節のミサの序誦には、こうあります。「聖なる主、…身体の断食をすることにより、邪欲を抑えさせ、心を上げさせ、徳と報いとを与え給う」。これは、断食によって私たちが得る霊的な利益を要約したものです。

断食は、私たちの心を上げさせるのに、つまり祈るのに役立ちます。原罪以来、私たちが肉と呼ぶもの、つまり官能、貪欲、高慢に関する乱れた欲望と、霊と呼ぶもの、つまり信仰によって照らされ、恩寵によって強められた私たちの善き意志との間の戦いが、私たち自身の中で行われています。この二つの間には和平はあり得ません。肉の欲望を満たせば満たすほど、霊の活動、特に祈りが困難になるのです。おそらく私たちのほとんどが、たくさん食べた後に祈ることがいかに難しいかを経験したことがあることでしょう。私たちの心は、重い泥に覆われた鳥のようになり、飛び立つことが非常に困難になっています。私たちの霊的生活において生ぬるさを感じ、私たちの祈りにおいて怠惰を感じたときに、適用する最初の治療法は、少し断食を行うことです。断食は、祈りを捧げ、霊的な熱意を維持するのに役立つのです。

断食は、超自然的な現実に関して、私たちの心をより鋭くさせ、より洞察力のあるものにします。なぜなら、私たちの心に、聖霊の霊的な光を受けるためのより良い心構えを持たせるからです。断食は、私たちがこの世の財産の虚しさをよりはっきりと見抜き、罪の悪をよりよく理解するのに役立ちます。その結果、断食は、私たちが、天主や永遠のいのち、偉大なもの、美しいもの、聖なるもの、賢明なもの、善なるものを求めて飢え渇くようにしてくれるのです。旧約において、シナイ山で啓示を受けるための準備として、天主がいかにしてヘブライ人に断食を命じられたかを思い出してください。

四旬節の序誦にはまた、断食は「邪欲を抑えさせ」とあります。断食をするとき、私たちは、何の罪も犯さずに合法的に取ることのできる食べ物と飲み物を自発的に断つのです。そうすることで、私たちは肉の欲望に打ち勝つ意志の力を強めます。実際、私たちが肉体の合法的な欲望を拒否することができるならば、肉体の罪深い欲望が生じるときには、なお一層それを拒否することができるようになることでしょう。私たちの主イエズスは、誘惑、特に清さに反する誘惑を打ち負かすのは、祈りと悔い改め、すなわち断食をすることによってであると言われました。

断食は、私たち自身の霊的生活だけでなく、例えば他の人々の回心させるためにも非常に有益なものです。2人の聖人の言葉を引用してみましょう。

最初の引用は、パッツィの聖マリア・マグダレナの言葉です。「もし禁欲が足りないのではないとしたら、どうして福音宣教者の中に、霊魂たちにほとんど実を結ばない人々がいるのでしょうか?」。

第二の引用は、アルスの司祭、聖ヨハネ・マリア・ヴィアンネーが、多くの罪びとを回心させる秘訣を尋ねた若い司祭に語った言葉です。「私の友よ、悪魔を打ち負かすには、自分の食べ物、飲み物、睡眠を拒否することです…悪魔が非常に恐れているものは他にありません…一人でいるとき、私は何日も何も食べずに過ごすことができました…そのとき、他の人々のためと同じように自分のために、自分が望むすべてのものを天主から得ることができました…」。

結論

霊性の大家たちが一致して言っていることは、断食は真剣で深遠なキリスト教生活を送りたい人に必要なものだということです。聖ベネディクトは、私たちは断食を好むべきだ、と言いました。言い訳をするのに断食を口実にしているのであれば、断食を好んではいないのです。断食は健康に良くないと言う人もいるかもしれません。これは明らかに誤りです。食べ過ぎや飲み過ぎは健康を害しますが、断食は違います。率直に言いましょう。断食は健康の問題ではなく、意志の力の問題なのです。私は、四旬節のすべての日に教会の断食を守っていた、忠実で質素で勤勉な何人かの人々に会ったことがあります。カプチン会士やベネディクト会士が、四旬節のすべての日に教会の断食を行っていることも知られています。私の知る限りでは、断食が原因で亡くなったということは、まったく聞いたことがありません。

ですから、この四旬節の間に断食をしないために偽りの言い訳をしないようにしましょう。勇気を持って、教会の掟に従い、また自分の寛大さと能力に応じて、個人的な断食を付け加えましょう。いくつか例を挙げると、教会の断食【大斎】を(主日と一級祝日を除いて)毎日続けること、毎日肉を控える【すなわち小斎をする】こと、1日3食ではなく2食だけにすること、砂糖やケーキ、スイーツ、スナック菓子などの特定の食べ物を断つこと、などです。具体的な決心を立てて、一日の終わりに確実に「私は自分の罪を償うために、また自分より天主を愛していることを天主に証明するために、あれやこれやを行いました」と言えるようにしてください。

童貞聖マリアが、この四旬節の間、私たちに、断食をする勇気を与えてくださいますように。


カトリック教会の聖伝のミサ:四旬節第一主日の報告など Traditional Latin Mass in Tokyo and Osaka, SSPX JAPAN

2021年02月23日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2021年2月21日、四旬節第一主日に、東京のミサに来られた方は、子供達も入れて合計87人でした。大阪では、27人がミサに与りました。日本では114名が聖伝のミサのお恵みに与ることができました!天主に感謝いたします!

2月23日、午前11時の東京のミサに来られた方は、子供達も入れて合計25人でした。今日はミサの直後に天皇陛下のためにお祈りをおささげ致しました。


【報告】【2月21日】
Dear Fathers:

Shown below are the number of attendees at the masses in Tokyo today.
The total number of attendees at the 3 masses in Tokyo today was 87, including children.

09:00 mass
M: 19 (incl. 2 children)
F: 19 (incl. 2 children)
Total: 38 (incl. 4 children)

11:00 mass
M: 19 (incl. 6 children)
F: 18 (incl. 8 children)
Total: 37 (incl. 14 children)

12:30 mass
M: 6 (incl. 0 child)
F: 14 (incl. 2 children)
Total: 20 (incl. 2 children)

Total of 3 masses (excl. 8 people who participated in multiple masses)
M: 42 (incl. 8 children)
F: 45 (incl. 12 children)
Total: 87 (incl. 20 children)


【報告】【2月23日】
Dear Fathers:

Shown below are the number of attendees at the masses in Tokyo today.
The total number of attendees at the 3 masses in Tokyo today was 25, including children.

11:00 mass
M: 13 (incl. 2 children)
F: 12 (incl. 2 children)
Total: 25 (incl. 4 children)







2月23日(火曜日)天皇誕生日 午前11時00分 いつもの曙町のミサ会場で ミサが捧げられます

2021年02月23日 | 聖伝のミサの予定
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

2月23日(火曜日)天皇誕生日 午前11時00分 いつもの曙町のミサ会場で ミサが捧げられます。天皇陛下と日本のために捧げられます。ミサの直後に「天皇陛下のための祈り」を捧げます。

天主様の祝福が豊かにありますように!






2021年2月21日(主日)前後の聖伝のミサの予定:Traditional Latin Mass for February 21, 2021

2021年02月21日 | 聖伝のミサの予定

アヴェ・マリア・インマクラータ!

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

愛する兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサ(トリエント・ミサ ラテン語ミサ)にご招待します。

最新情報は次のカレンダーをクリック
年間の予定はSSPX JAPAN MISSION CALENDARをご覧下さい。

今週末:2021年2月19日(金)20日(土)21 日(主日)のミサの予定を再確定します。予定通りです。

【大阪】「聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂」 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2 EG新御堂4階 〒532-0002 (アクセス)JR「新大阪駅」の東口より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分(地図

 2月19日(金)  17:30 ロザリオ及び告解  18:00 ミサ聖祭

 2月20日(土) 10:00 ロザリオ及び告解  10:30 ミサ聖祭

 2月21日(日) 10:00 ロザリオ及び告解  10:30 ミサ聖祭(ドモルネ神父)【ミサの開始が午前に変更になりました。ご注意ください。月曜日のミサはありません。】

【東京】 「聖ピオ十世会 聖なる日本の殉教者巡回聖堂」 東京都文京区本駒込1-12-5 曙町児童会館(地図

2月21日(日)主日ミサが三回捧げられます。

午前8時20分頃から準備が出来次第、告解の秘蹟を受けることができます。二階です。

09:00 ミサ聖祭 歌ミサ(ライブ中継をいたします)Facebook live

11:00 ミサ聖祭 読誦ミサ
12:30 ミサ聖祭 読誦ミサ

それぞれのミサの間にも告解の秘蹟を受けることができます。二階の告解の部屋に司祭は待機しております。

2月23日(火曜日)天皇誕生日 午前11時00分 いつもの曙町のミサ会場で ミサが捧げられます。天皇陛下と日本のために捧げられます。ミサの直後に「天皇陛下のための祈り」を捧げます。

【修道院でも午前7時にミサがあります。】

【お互いに社会的距離を取ることができるように、分散してミサにあずかっていただければ幸いです。】

Ave Maria Immaculata!

My dearest Brethren!

I want to reconfirm the Mass schedule for the weekend of February 21, 2021.

Mass times in Tokyo:February 21
09:00 - Sung mass Facebook live
11:00 - Low mass
12:30 - Low mass
It would help us maintain proper social distancing if you could consider spreading your mass attendance among the three masses.

February 23, Mass at 11 AM.

Mass location:
"Holy Japanese Martyrs' Mass Center"
Akebonocho Jido-kaikan
1-12-5 Honkomagome, Bunkyo-ku, Tokyo


Mass schedule in OSAKA:

Fri, February 19: Holy Sacrifice of the Mass at 18:00

Sat, February 20: Holy Sacrifice of the Mass at 10:30

Sun, February 21: Holy Sacrifice of the Mass at 10:30







キリストの荒野の誘惑 私たちの霊魂も三種類の敵と戦わなければなりません|Sermon about fasting|Sermon sur le jeûne

2021年02月20日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2021年2月21日は四旬節第一主日です。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「四旬節第一主日の説教」の動画をご紹介いたします。

ドモルネ神父様と小野田神父による、英語、フランス語、日本語のお説教です。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父


聖ヨゼフの特別聖年の全贖宥について、再びお知らせいたします。

2021年02月19日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日は月の19日です。

聖ヨゼフの特別聖年の全贖宥について、再びお知らせいたします。
教会に対する聖ヨゼフの保護の普遍性を再確認するために、上記に加えて、内赦院は、聖ヨゼフに敬意を表して正当に承認された祈りや敬虔な行為を唱える信徒に、全贖宥を与えます。 例えば「聖会の保護者聖ヨゼフに向う祈」(公教会祈祷文248ページ)、特に3月19日と5月1日の祝日、イエズス・マリア・ヨゼフの聖家族の祝日、聖ヨゼフの主日(ビザンチン典礼の場合)、毎月19日、毎週水曜日(ラテン典礼の場合)
詳しくは次のリンクをご覧下さい。






灰の水曜日 聖伝のミサの報告 聖ピオ十世会 Traditional Latin Mass in Tokyo on Ash Wednesday

2021年02月18日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2月17日灰の水曜日に、東京の曙町会館のミサに来られた方は、子供達も入れて合計46人でした。
修道院の朝ミサに来られてた方々は7人でした。

多くの方々が祝福を受けて、聖なる四旬節を始めることができて、聖母マリア様に感謝しています。

ドモルネ神父様もミサの間に告解を聴いていてくれました。

【報告】
Dear Fathers:

Shown below are the number of attendees at the masses in Tokyo today.

The total number of attendees at the mass at Akebonocho Kaikan in Tokyo today was 46, including children.

18:00 mass
M: 20 (incl. 4 children)
F: 26 (incl. 6 children)
Total: 46 (incl. 10 children)






Để phúc đáp về Công Bố Liên Quan đến “Hội Thánh Pius X" bởi Giám Mục của Saitama

2021年02月17日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
Để phúc đáp về Công Bố Liên Quan đến “Hội Thánh Pius X" bởi Giám Mục của Saitama

Ngày 11 tháng 2 năm 2021,
Ave Maria!

Thưa quý vị, Giám Mục Mario Yamaouchi, Giám Mục của Saitama, toàn thể các thầy các sơ, và tất cả quý độc giả của thông điệp này.

Lời Chào Trong Chúa Giêsu Kito - Chúa Của Chúng Ta!

Chúng tôi muốn làm rõ những điểm sau đây liên quan đến “Công Bố Liên Quan” “Hội Thánh Pius X” (SSPX) do Giáo phận Saitama ban hành vào ngày 9 tháng 2 năm 2021 như sau:

Hiệp Hội linh Mục Thánh Pius X là một tu hội công giáo được thành lập theo Giáo luật Công Giáo vào ngày 1 tháng 11 năm 1970 tại Giáo phận Fribourg, Thuỵ Sĩ. Kể từ khi được thành lập Hội đã mở rộng hoạt động tông đồ ra toàn thế giới để đáp ứng yêu cầu của các Tín hữu công giáo.

Linh mục của SSPX là những Linh mục công giáo làm việc tự do và độc lập đối với Giáo phận Saitama. Và Đức Thánh Cha Francis đã ban cho họ các khoa để thực thi các chức vụ pháp lí. Đức Thánh Cha công bố trong Tông Thư “Misericordia et Misera” rằng các Linh mục của Thánh Pius X có quyền ban Bí Tích Thống Hối cho các tín hữu Công Giáo trên toàn thế giới. Ông cũng đã yêu cầu các Giám Mục trên toàn thế giới hợp tác trong việc quản lí hợp lệ các Bí Tích Hôn Nhân, Bí Tích Thánh Mẫu.

Các Linh Mục của SSPX dâng Thánh Lễ Latin Công Giáo truyền thống. Trong Giáo Luật họ đề cập đến tên của Đức Thánh Cha, Giáo Hoàng Francis và tên của những giáo hữu bình thường “Trong Giáo Phận Saitama, Đức Cha Mario Yamanuochi”. Đức Giáo Hoàng Benedict XVI tuyên bố trong “Giấy chứng nhận triệu tập" Motu Proprio “Summorum Pontificum" rằng tất cả các Linh Mục Công Giáo đều có quyền dâng Thánh Lễ truyền thống vì Thánh Lễ truyền thống chưa bao giờ bị bãi bỏ.

Họ tin và tuyên xưng tất cả các Tín Điều Công Giáo, họ chiến đấu chống lại tà giáo bị Hội Công Giáo lên án.

Bộ Giáo Lí Đức Tin của Toà Thánh thật sự cho rằng “Họ, Bộ trưởng của SSPX" đã được giải thoát khỏi sự trừng phạt của Giáo Hội và không bị bất kì hình phạt nào.

Các Linh Mục truyền thống của chúng ta quả đã có quyền tài phán không mang tính lãnh thổ hay cá nhân nhưng được công cấp theo nhu cầu của các tín hữu trong tình trạng cần thiết. Các Bí Tích đã được Chúa chúng ta ban cho như những phương tiện bình thường và chính yếu để Cứu Rỗi và nên Thánh. Do đó, Giáo Hội muốn các Thánh Đường tại các Giáo Phận sẵn sàng cho các bí tích này, đặc biệt là xám hối vì luật tối cao của Giáo Hội là sự cứu rỗi các linh hồn (Can.1752). Giáo Hội cung cấp quyền tài phán trong trường hợp này mà không thông qua các Ban có thẩm quyền theo Luật Giáo Luật (Can.144). Bất cứ khi nào các tín hữu cần Ơn Xám Hối và muốn nhận Ơn Xám Hối từ các Linh Mục mà họ có thể tin tưởng vào sự phán xét và lời khuyên, họ có thể làm như vậy ngay cả các Linh Mục thông thường không có thẩm quyền, ngay cả Linh Mục bị đình chỉ hoặc bị va tuyệt cũng có thể làm điều này vì các tín hữu yêu cầu “Vì bất kì lí do chính đáng nào" theo lời cùa Giáo Luật (Can. 1335). Mặc dù bình thường Giáo Phận Saitama không khuyến khích tuy nhiên không thật sự cấm các tín hữu tham gia vào các Thánh Lễ do các Linh Mục Chủ Tế, chỉ yêu cầu mỗi tín hữu đưa ra quyết định đúng đắn hơn với tư cách là một tín đồ Công Giáo.

Để làm như vậy, tôi muốn mời mọi người biết thêm về Hội Thánh Pius X, lịch sử, hoạt động, chức năng và các lí do liên quan của Hội Thánh Pius X vui lòng xem trang web chính thức (https://fsspx.org/enhttps://sspx.org/en/faqvideos) và tham dự Thánh Lễ truyền thống của chúng tôi là biểu hiện thuần tuý của Đức Tin Công Giáo không có thoả hiệp của chủ nghĩa Đại Kết.

“Những gì mà các thế hệ trước xem là thiêng liêng, vẫn thiêng liêng và vĩ đại đối với chúng ta, và nó không thể đột ngột bị cấm hoàn toàn hoặc thậm chí có hại, tất cả chúng ta đều phải bảo tồn sự đa dạng đã phát triển trong nghi thức cầu nguyện và tín ngưỡng của nhà thờ và dành cho chúng một vị trí thích hợp” - Benedict XVI.

Fr Thomas Onoda (Linh Mục của Hội Thánh Pius X)








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