Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

マーチフォーライフは大阪市役所前を午後3時に出発します。

2024年07月21日 | プロライフ
アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、

マーチフォーライフは大阪市役所前を午後3時に出発します。
【LIVE】マーチフォーライフ(大阪)_2024年7月21日_March for Life Osaka

【LIVE】マーチフォーライフ(大阪)_2024年7月21日_March for Life Osaka

マーチフォーライフ大阪_2024年7月21日_March for Life Osaka大阪市役所前からなんばまで御堂筋を行進▼マーチフォーライフ(東京/大阪)▼https://blog.goo.ne.jp/fatimanose...

YouTube





謙遜の連祷(ラファエル・メリ・デル・ヴァル枢機卿作:教皇聖ピオ十世の国務省長官であった)

2024年07月19日 | カトリックとは

謙遜の連祷(ラファエル・メリ・デル・ヴァル枢機卿作:教皇聖ピオ十世の国務省長官であった)

ああイエズス!柔和かつ謙遜なる聖心よ、わが祈りを聞き給え。

よく評価されることの望みから、イエズスよ、われを解き放ち給え。
愛されることの望みから、イエズスよ、われを解き放ち給え。
求められることの望みから、イエズスよ、われを解き放ち給え。
名誉を得る望みから、イエズスよ、われを解き放ち給え。
ほめられる望みから、イエズスよ、われを解き放ち給え。
他者よりも優先される望みから、イエズスよ、われを解き放ち給え。
相談される望みから、イエズスよ、われを解き放ち給え。
認められる望みから、イエズスよ、われを解き放ち給え。

はずかしめられることの恐れから、イエズスよ、われを解き放ち給え。
さげすまれることの恐れから、イエズスよ、われを解き放ち給え。
とがめられることの恐れから、イエズスよ、われを解き放ち給え。
讒言(ざんげん)される恐れから、イエズスよ、われを解き放ち給え。
忘れられる恐れから、イエズスよ、われを解き放ち給え。
あざけられる恐れから、イエズスよ、われを解き放ち給え。
傷つけられる恐れから、イエズスよ、われを解き放ち給え。
疑われる恐れから、イエズスよ、われを解き放ち給え。

ねがわくは、われよりも他の人々が愛されんことを、イエズスよ、それを欲する聖寵をわれに与え給え。
ねがわくは、われよりも他の人々がよく評価されんことを、イエズスよ、それを欲する聖寵をわれに与え給え。
ねがわくは、他の人々がますます高いこの世の評判を受け、わが評判は下げられんことを、イエズスよ、それを欲する聖寵をわれに与え給え。
ねがわくは、他の人々が選ばれ、われは脇に置かれんことを、イエズスよ、それを欲する聖寵をわれに与え給え。
ねがわくは、他の人々が称賛され、われは無視されんことを、イエズスよ、それを欲する聖寵をわれに与え給え。
ねがわくは、全てにおいて他の人々がわれより好まれんことを、イエズスよ、それを欲する聖寵をわれに与え給え。
ねがわくは、他の人々がわれより聖とならんことを、われは聖となるべき程度まで聖とならんことを、イエズスよ、それを欲する聖寵をわれに与え給え。

Letanías de la Humildad
(del Cardenal Merry del Val)

Jesús manso y humilde de Corazón, -Óyeme.
(Después de cada frase decir:Líbrame Jesús)
Del deseo de ser lisonjeado,
Del deseo de ser alabado,
Del deseo de ser honrado,
Del deseo de ser aplaudido,
Del deseo de ser preferido a otros,
Del deseo de ser consultado,
Del deseo de ser aceptado,
Del temor de ser humillado,
Del temor de ser despreciado,
Del temor de ser reprendido,
Del temor de ser calumniado,
Del temor de ser olvidado,
Del temor de ser puesto en ridículo,
Del temor de ser injuriado,
Del temor de ser juzgado con malicia
(Después de cada frase decir:Jesús dame la gracia de desearlo)
Que otros sean más amados que yo,
Que otros sean más estimados que yo,
Que otros crezcan en la opinión del mundo y yo me eclipse,
Que otros sean alabados y de mí no se haga caso,
Que otros sean empleados en cargos y a mí se me juzgue inútil,
Que otros sean preferidos a mí en todo,
Que los demás sean más santos que yo con tal que yo sea todo lo santo que pueda,
Oración:
Oh Jesús que, siendo Dios, te humillaste hasta la muerte, y muerte de cruz, para ser ejemplo perenne que confunda nuestro orgullo y amor propio. Concédenos la gracia de aprender y practicar tu ejemplo, para que humillándonos como corresponde a nuestra miseria aquí en la tierra, podamos ser ensalzados hasta gozar eternamente de ti en el cielo.
Amén.

 


大宮の「聖なる日本の殉教者聖堂」での聖伝のミサの時間

2024年07月19日 | 聖伝のミサの予定

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、大宮の「聖なる日本の殉教者聖堂」での聖伝のミサの時間です。
Dear Brethren, the Traditional Latin Mass time at the SSPX Holy Japanese Martyrs Chapel in Omiya.

7月19日 金 証聖者聖ヴィンチェンチオ・ア・パウロ(3級祝日)白 18:00
7月20日 土 証聖者聖ヒエロニモ・エミリアノ(3級祝日)白 11:00
7月21日 日 聖霊降臨後第9主日(2級)緑 8:30, 10:30
7月22日 月 悔悛女マグダラの聖マリア(3級祝日)白 7:00
7月23日 火 殉教者司教聖アポリナリス(3級祝日)赤 7:00
7月24日 水 聖霊降臨後の平日(4級)緑 7:00
7月25日 木 使徒聖ヤコボ(2級祝日)赤 7:00
7月26日 金 童貞聖マリアの御母聖アンナ(2級祝日)白 18:00
7月27日 土 聖母の土曜日(4級)白 11:00
7月28日 日 聖霊降臨後第10主日(2級)緑 8:30, 10:30
7月29日 月 童貞聖マルタ(3級祝日)白 7:00
7月30日 火 聖霊降臨後の平日(4級)緑 7:00
7月31日 水 証聖者聖イグナチオ(3級祝日)白 7:00
8月1日 木 聖霊降臨後の平日(4級)緑 7:00
8月2日 金 教会博士証聖者司教聖アルフォンソ・デ・リグオリ(3級祝日)白 18:00
8月3日 土 聖母の土曜日(4級)白 11:00
8月4日 日 聖霊降臨後第11主日(2級)緑 8:30, 10:30
8月5日 月 雪の聖母の大聖堂の奉献(3級祝日)白 7:00
8月6日 火 私たちの主イエズス・キリストの御変容(2級祝日)白 7:00
8月7日 水 証聖者聖カイェタノ(3級祝日)白 7:00
8月8日 木 証聖者聖ヨハネ・マリア・ヴィアンネー(3級祝日)白 7:00
8月9日 金 殉教者聖ラウレンチオの前日 18:00
8月10日 土 殉教者聖ラウレンチオ(2級祝日)赤 11:00
8月11日 日 聖霊降臨後第12主日(2級)緑 8:30, 10:30
8月12日 月 童貞聖クララ(3級祝日)白 No Mass
8月13日 火 聖霊降臨後の平日(4級)緑 7:00
8月14日 水 童貞聖マリアの被昇天の前日(2級) 7:00
8月15日 木 童貞聖マリアの被昇天(1級祝日)白 10:30
8月16日 金 童貞聖マリアの御父聖ヨアキム(2級祝日)白 18:00
8月17日 土 証聖者聖ヒヤチント(3級祝日)白 11:00
8月18日 日 聖霊降臨後第13主日(2級)緑 8:30, 10:30
8月19日 月 証聖者聖ヨハネ・ユード(3級祝日)白 No Mass
8月20日 火 教会博士大修院長聖ベルナルド(3級祝日)白 7:00
8月21日 水 寡婦聖ヨハンナ・フランチスカ・フレミオ・ド・シャンタル(3級祝日)白 7:00
8月22日 木 聖母マリアの汚れ無き御心(2級祝日) 7:00
8月23日 金 証聖者聖フィリッポ・ベニチオ(3級祝日)白 18:00
8月24日 土 使徒聖バルトロメオ(2級祝日)赤 11:00
8月25日 日 聖霊降臨後第14主日(2級)緑 8:30, 10:30
8月26日 月 聖霊降臨後の平日(4級)緑 7:00
8月27日 火 証聖者聖ヨゼフ・カラサンティ(3級祝日)白 7:00
8月28日 水 教会博士証聖者司教聖アウグスティノ(3級祝日)白 7:00
8月29日 木 洗者聖ヨハネの断首(3級祝日)赤 7:00
8月30日 金 童貞リマの聖ローザ(3級祝日)白 18:00
8月31日 土 証聖者聖ライムンド・ノンナート(3級祝日)白 11:00
9月1日 日 聖霊降臨後第15主日(2級)緑 8:30, 10:30
9月2日 月 証聖者聖ステファノ王(3級祝日)白 7:00
9月3日 火 証聖者教皇聖ピオ10世(3級祝日)白 7:00
9月4日 水 聖霊降臨後の平日(4級)緑 7:00
9月5日 木 証聖者司教聖ラウレンチオ・ユスティニアノ(3級祝日)白 7:00
9月6日 金 聖霊降臨後の平日(4級)緑 18:00
9月7日 土 聖母の土曜日(4級)白 11:00
9月8日 日 聖霊降臨後第16主日(2級)緑 8:30, 10:30
9月9日 月 聖霊降臨後の平日(4級)緑 7:00
9月10日 火 証聖者トレンティノの聖ニコラオ(3級祝日)白 7:00
9月11日 水 聖霊降臨後の平日(4級)緑 7:00
9月12日 木 童貞聖マリアの至聖なる聖名(3級祝日)白 7:00
9月13日 金 聖霊降臨後の平日(4級)緑 18:00
9月14日 土 聖なる十字架の称賛(2級祝日)赤 11:00
9月15日 日 聖霊降臨後第17主日(2級)緑 8:30, 10:30
9月16日 月 殉教者教皇聖コルネリオ、殉教者司教聖チプリアノ(3級祝日)赤 No Mass
9月17日 火 聖霊降臨後の平日(4級)緑 7:00
9月18日 水 9月の四季の斎日 水曜日(2級)紫 7:00
9月19日 木 殉教者司教聖ヤヌアリオとその伴侶(3級祝日)赤 7:00
9月20日 金 9月の四季の斎日 金曜日(2級)紫 18:00
9月21日 土 使徒福音史家聖マテオ(2級祝日)赤 11:00
9月22日 日 聖霊降臨後第18主日(2級)緑 8:30, 10:30
9月23日 月 殉教者教皇聖リノ(3級祝日)赤 11:00
9月24日 火 聖霊降臨後の平日(4級)緑 7:00
9月25日 水 聖霊降臨後の平日(4級)緑 7:00
9月26日 木 聖霊降臨後の平日(4級)緑 7:00
9月27日 金 殉教者聖コスマとダミアノ(3級祝日)赤 18:00
9月28日 土 殉教者聖ウェンチェスラオ王(3級祝日)赤 11:00
9月29日 日 大天使聖ミカエル(1級祝日)白 8:30, 10:30
9月30日 月 教会博士証聖者司祭聖ヒエロニモ(3級祝日)白 7:00
10月1日 火 聖霊降臨後の平日(4級)緑 7:00
10月2日 水 守護の天使(3級祝日)白 7:00
10月3日 木 童貞女幼きイエズスの聖テレジア(3級祝日)白 7:00
10月4日 金 証聖者聖フランシスコ(3級祝日)白 18:00
10月5日 土 聖母の土曜日(4級)白 11:00
10月6日 日 聖霊降臨後第20主日(2級)緑 8:30, 10:30
10月7日 月 ロザリオの聖母(2級祝日)白 No Mass
10月8日 火 寡婦聖ビルジッタ(3級祝日)白 No Mass
10月9日 水 証聖者聖ヨハネ・レオナルド(3級祝日)白 No Mass
10月10日 木 証聖者聖フランシスコ・ボルジア(3級祝日)白 No Mass
10月11日 金 天主の御母たる童貞聖マリア(2級祝日)白 No Mass
10月12日 土 聖母の土曜日(4級)白 No Mass
10月13日 日 聖霊降臨後第21主日(2級)緑 8:30, 10:30
10月14日 月 殉教者教皇聖カリスト1世(3級祝日)赤 No Mass
10月15日 火 童貞聖テレジア(3級祝日)白 7:00
10月16日 水 寡婦聖ヘドヴィジス(3級祝日)白 7:00
10月17日 木 童貞聖マルガリタ・マリア・アラコック(3級祝日)白 7:00
10月18日 金 福音史家聖ルカ(2級祝日)赤 18:00
10月19日 土 証聖者アルカンタラの聖ペトロ(3級祝日)白 11:00
10月20日 日 聖霊降臨後第22主日(2級)緑 8:30, 10:30
10月21日 月 聖霊降臨後の平日(4級)緑 7:00
10月22日 火 聖霊降臨後の平日(4級)緑 7:00
10月23日 水 証聖者司教聖アントニオ・マリア・クラレット(3級祝日)白 7:00
10月24日 木 大天使聖ラファエル(3級祝日)白 7:00
10月25日 金 聖霊降臨後の平日(4級)緑 18:00
10月26日 土 聖母の土曜日(4級)白 11:00
10月27日 日 王たるキリストの祝日(1級祝日)白 8:30, 10:30
10月28日 月 使徒聖シモンとユダ(2級祝日)赤 No Mass
10月29日 火 聖霊降臨後の平日(4級)緑 7:00
10月30日 水 聖霊降臨後の平日(4級)緑 7:00
10月31日 木 聖霊降臨後の平日(4級)緑 7:00
11月1日 金 諸聖人の祝日(1級祝日)白 18:00
11月2日 土 全ての死せる信徒の記念(1級)黒 11:00
11月3日 日 聖霊降臨後第24主日(2級)緑(御公現後第4主日) 8:30, 10:30
11月4日 月 証聖者司教聖カルロ(3級祝日)白 10:30
11月5日 火 聖霊降臨後の平日(4級)緑 7:00
11月6日 水 聖霊降臨後の平日(4級)緑 7:00
11月7日 木 聖霊降臨後の平日(4級)緑 7:00
11月8日 金 聖霊降臨後の平日(4級)緑 18:00
11月9日 土 至聖救世主(ラテラノ)大聖堂の奉献(2級祝日)白 11:00
11月10日 日 聖霊降臨後第25主日(2級)緑(御公現後第5主日) 8:30, 10:30
11月11日 月 証聖者司教聖マルティノ(3級祝日)白 No Mass
11月12日 火 殉教者教皇聖マルティノ1世(3級祝日)赤 7:00
11月13日 水 証聖者聖ディダコ(3級祝日)白 7:00
11月14日 木 殉教者司教聖ヨザファト(3級祝日)赤 7:00
11月15日 金 教会博士証聖者司教大聖アルベルト(3級祝日)白 18:00
11月16日 土 童貞聖ジェルトルード(3級祝日)白 11:00
11月17日 日 聖霊降臨後第26主日(2級)緑(御公現後第6主日) 8:30, 10:30
11月18日 月 聖ペトロ大聖堂と聖パウロ大聖堂の奉献(3級祝日)白 7:00
11月19日 火 寡婦聖エリザベト(3級祝日)白 7:00
11月20日 水 証聖者ヴァロワの聖フェリクス(3級祝日)白 7:00
11月21日 木 童貞聖マリアの奉献(3級祝日)白 7:00
11月22日 金 殉教者童貞聖チェチリア(3級祝日)赤 18:00
11月23日 土 殉教者教皇聖クレメンテ1世(3級祝日)赤 11:00
11月24日 日 聖霊降臨後第27主日(2級)緑(聖霊降臨後第24主日) 8:30, 10:30
11月25日 月 殉教者童貞聖カタリナ(3級祝日)赤 No Mass
11月26日 火 大修院長聖シルヴェステル(3級祝日)白 7:00
11月27日 水 聖霊降臨後の平日(4級)緑 7:00
11月28日 木 聖霊降臨後の平日(4級)緑 7:00
11月29日 金 聖霊降臨後の平日(4級)緑 18:00
11月30日 土 使徒聖アンドレア(2級祝日)赤 11:00
12月1日 日 待降節第1主日(1級)紫 8:30, 10:30
12月2日 月 殉教者童貞聖ビビアナ(3級祝日)赤 7:00
12月3日 火 証聖者聖フランシスコ・ザビエル(3級祝日)白 7:00
12月4日 水 教会博士証聖者司教聖ペトロ・クリソロゴ(3級祝日)白 7:00
12月5日 木 待降節の平日(3級)紫 7:00
12月6日 金 証聖者司教聖ニコラオ(3級祝日)白 18:00
12月7日 土 教会博士証聖者司教聖アンブロジオ(3級祝日)白 11:00
12月8日 日 聖母マリアの無原罪の御宿り(1級祝日)白 8:30, 10:30
12月9日 月 待降節の平日(3級)紫 No Mass
12月10日 火 待降節の平日(3級)紫 7:00
12月11日 水 証聖者教皇聖ダマソ1世(3級祝日)白 7:00
12月12日 木 待降節の平日(3級)紫 7:00
12月13日 金 殉教者童貞聖ルチア(3級祝日)赤 18:00
12月14日 土 待降節の平日(3級)紫 11:00
12月15日 日 待降節第3主日(1級)バラ色(或いは紫) 8:30, 10:30
12月16日 月 殉教者司教聖エウゼビオ(3級祝日)赤 7:00
12月17日 火 待降節の平日(2級)紫(12月17日から12月23日) 7:00
12月18日 水 待降節の四季の斎日 水曜日(2級)紫 7:00
12月19日 木 待降節の平日(2級)紫(12月17日から12月23日) 7:00
12月20日 金 待降節の四季の斎日 金曜日(2級)紫 18:00
12月21日 土 使徒聖トマス(2級祝日)赤 11:00
12月22日 日 待降節第4主日(1級)紫 8:30, 10:30
12月23日 月 待降節の平日(2級)紫(12月17日から12月23日) 7:00
12月24日 火 平日の主の御降誕の前日(1級)紫 7:00
12月25日 水 主の御降誕(1級祝日、八日間付き)白 00:00, 10:30, 18:00
12月26日 木 最初の殉教者聖ステファノ(2級祝日)赤 7:00
12月27日 金 使徒福音史家聖ヨハネ(2級祝日)白 18:00
12月28日 土 幼子殉教者(2級祝日)赤 11:00
12月29日 日 御降誕の八日間内の主日(2級) 8:30, 10:30
12月30日 月 御降誕の八日間内の第6日目(2級) 7:00
12月31日 火 御降誕の八日間内の第7日目(2級) 7:00

2024/07/19 金 St. Vincent de Paul, Confessor (III class) White 18:00
2024/07/20 土 St. Jerome Emilliani, Confessor (III class) White 11:00
2024/07/21 日 Ninth Sunday after Pentecost (II class) Green 8:30, 10:30
2024/07/22 月 St. Mary Magdalene, Penitent (III class) White 7:00
2024/07/23 火 St. Apollinaris, Bishop, Martyr (III class) Red 7:00
2024/07/24 水 Feria in time after Pentecost (IV class) Green 7:00
2024/07/25 木 St. James, Apostle (II class) Red 7:00
2024/07/26 金 St. Anne, Mother of the Blessed Virgin Mary (II class) White 18:00
2024/07/27 土 Saturday of the Blessed Virgin Mary (IV class) White 11:00
2024/07/28 日 Tenth Sunday after Pentecost (II class) Green 8:30, 10:30
2024/07/29 月 St. Martha, Virgin (III class) White 7:00
2024/07/30 火 Feria in time after Pentecost (IV class) Green 7:00
2024/07/31 水 St. Ignatius of Loyola, Confessor (III class) White 7:00
2024/08/01 木 Feria in time after Pentecost (IV class) Green 7:00
2024/08/02 金 St. Alphonsus Liguori, Bishop, Confessor, Doctor (III class) White 18:00
2024/08/03 土 Saturday of the Blessed Virgin Mary (IV class) White 11:00
2024/08/04 日 Eleventh Sunday after Pentecost (II class) Green 8:30, 10:30
2024/08/05 月 Dedication of the Church of Our Lady of the Snows (III class) White 7:00
2024/08/06 火 The Transfiguration of Our Lord (II class) White 7:00
2024/08/07 水 St. Cajetan, Confessor (III class) White 7:00
2024/08/08 木 St. John Mary Vianney, Confessor (III class) White 7:00
2024/08/09 金 Vigil of St. Lawrence, Martyr (III class) Violet 18:00
2024/08/10 土 St. Lawrence, Martyr (II class) Red 11:00
2024/08/11 日 Twelfth Sunday after Pentecost (II class) Green 8:30, 10:30
2024/08/12 月 St. Clare, Virgin (III class) White No Mass
2024/08/13 火 Feria in time after Pentecost (IV class) Green 7:00
2024/08/14 水 Vigil of the Assumption (II class) Violet 7:00
2024/08/15 木 The Assumption Of The Blessed Virgin Mary (I class) White 10:30
2024/08/16 金 St. Joachim, Father of the Blessed Virgin Mary (II class) White 18:00
2024/08/17 土 St. Hyacinth, Confessor (III class) White 11:00
2024/08/18 日 Thirteenth Sunday after Pentecost (II class) Green 8:30, 10:30
2024/08/19 月 St. John Eudes, Confessor (III class) White No Mass
2024/08/20 火 St. Bernard, Abbot, Doctor (III class) White 7:00
2024/08/21 水 St. Jane Frances Fremiot de Chantal, Widow (III class) White 7:00
2024/08/22 木 The Immaculate Heart of Mary (II class) White 7:00
2024/08/23 金 St. Philip Benizi, Confessor (III class) White 18:00
2024/08/24 土 St. Bartholomew, Apostle (II class) Red 11:00
2024/08/25 日 Fourteenth Sunday after Pentecost (II class) Green 8:30, 10:30
2024/08/26 月 Feria in time after Pentecost (IV class) Green 7:00
2024/08/27 火 St. Joseph Calasanctius, Confessor (III class) White 7:00
2024/08/28 水 St. Augustine of Hippo, Bishop, Confessor, Doctor (III class) White 7:00
2024/08/29 木 Beheading of St. John the Baptist (III class) Red 7:00
2024/08/30 金 St. Rose of Lima, Virgin (III class) White 18:00
2024/08/31 土 St. Raymund Nonnatus, Confessor (III class) White 11:00
2024/09/01 日 Fifteenth Sunday after Pentecost (II class) Green 8:30, 10:30
2024/09/02 月 St. Stephen, King, Confessor (III class) White 7:00
2024/09/03 火 St. Pius X, Pope, Confessor (III class) White 7:00
2024/09/04 水 Feria in time after Pentecost (IV class) Green 7:00
2024/09/05 木 St. Lawrence Justinian, Bishop, Confessor (III class) White 7:00
2024/09/06 金 Feria in time after Pentecost (IV class) Green 18:00
2024/09/07 土 Saturday of the Blessed Virgin Mary (IV class) White 11:00
2024/09/08 日 Sixteenth Sunday after Pentecost (II class) Green 8:30, 10:30
2024/09/09 月 Feria in time after Pentecost (IV class) Green 7:00
2024/09/10 火 St. Nicholas Tolentino, Confessor (III class) White 7:00
2024/09/11 水 Feria in time after Pentecost (IV class) Green 7:00
2024/09/12 木 Holy Name of Mary (III class) White 7:00
2024/09/13 金 Feria in time after Pentecost (IV class) Green 18:00
2024/09/14 土 Exaltation of the Holy Cross (II class) Red 11:00
2024/09/15 日 Seventeenth Sunday after Pentecost (II class) Green 8:30, 10:30
2024/09/16 月 Sts. Cornellius, Pope; Cyprian, Bishop, Martyrs (III class) Red No Mass
2024/09/17 火 Feria in time after Pentecost (IV class) Green 7:00
2024/09/18 水 Ember Wednesday of September (II class) Violet 7:00
2024/09/19 木 St. Januarius & Companions, Martyrs (III class) Red 7:00
2024/09/20 金 Ember Friday of September (II class) Violet 18:00
2024/09/21 土 St. Matthew, Apostle, Evangelist (II class) Red 11:00
2024/09/22 日 Eighteenth Sunday after Pentecost (II class) Green 8:30, 10:30
2024/09/23 月 St. Linus, Pope, Martyr (III class) Red 11:00
2024/09/24 火 Feria in time after Pentecost (IV class) Green 7:00
2024/09/25 水 Feria in time after Pentecost (IV class) Green 7:00
2024/09/26 木 Feria in time after Pentecost (IV class) Green 7:00
2024/09/27 金 Sts. Cosmas & Damian, Martyrs (III class) Red 18:00
2024/09/28 土 St. Wenceslaus, Duke, Martyr (III class) Red 11:00
2024/09/29 日 Dedication Of St. Michael The Archangel (I class) White 8:30, 10:30
2024/09/30 月 St. Jerome, Priest, Confessor, Doctor (III class) White 7:00
2024/10/01 火 Feria in time after Pentecost (IV class) Green 7:00
2024/10/02 水 Holy Guardian Angels (III class) White 7:00
2024/10/03 木 St. Theresa of the Child Jesus, Virgin (III class) White 7:00
2024/10/04 金 St. Francis of Assisi, Confessor (III class) White 18:00
2024/10/05 土 Saturday of the Blessed Virgin Mary (IV class) White 11:00
2024/10/06 日 Twentieth Sunday after Pentecost (II class) Green 8:30, 10:30
2024/10/07 月 Our Lady of the Rosary (II class) White No Mass
2024/10/08 火 St. Bridget of Sweden, Widow (III class) White No Mass
2024/10/09 水 St. John Leonardi, Confessor (III class) White No Mass
2024/10/10 木 St. Francis Borgia, Confessor (III class) White No Mass
2024/10/11 金 Maternity of the Blessed Virgin Mary (II class) White No Mass
2024/10/12 土 Saturday of the Blessed Virgin Mary (IV class) White No Mass
2024/10/13 日 Twenty First Sunday after Pentecost (II class) Green 8:30, 10:30
2024/10/14 月 St. Callistus I, Pope, Martyr (III class) Red No Mass
2024/10/15 火 St. Teresa of Avila, Virgin (III class) White 7:00
2024/10/16 水 St. Hedwig, Widow (III class) White 7:00
2024/10/17 木 St. Margaret Mary Alacoque, Virgin (III class) White 7:00
2024/10/18 金 St. Luke, Evangelist (II class) Red 18:00
2024/10/19 土 St. Peter of Alcantara, Confessor (III class) White 11:00
2024/10/20 日 Twenty Second Sunday after Pentecost (II class) Green 8:30, 10:30
2024/10/21 月 Feria in time after Pentecost (IV class) Green 7:00
2024/10/22 火 Feria in time after Pentecost (IV class) Green 7:00
2024/10/23 水 St. Anthony Mary Claret, Bishop, Confessor (III class) White 7:00
2024/10/24 木 St. Raphael, Archangel (III class) White 7:00
2024/10/25 金 Feria in time after Pentecost (IV class) Green 18:00
2024/10/26 土 Saturday of the Blessed Virgin Mary (IV class) White 11:00
2024/10/27 日 Christ the King (I class) White 8:30, 10:30
2024/10/28 月 Sts. Simon & Jude, Apostles (II class) Red No Mass
2024/10/29 火 Feria in time after Pentecost (IV class) Green 7:00
2024/10/30 水 Feria in time after Pentecost (IV class) Green 7:00
2024/10/31 木 Feria in time after Pentecost (IV class) Green 7:00
2024/11/01 金 All Saints Day (I class) White 18:00
2024/11/02 土 Commemoration of the Faithful Departed (I class) Black 11:00
2024/11/03 日 Twenty Fourth Sunday after Pentecost (II class) Green (Fourth Sunday after Epiphany) 8:30, 10:30
2024/11/04 月 St. Charles Boromeo, Bishop, Confessor (III class) White 10:30
2024/11/05 火 Feria in time after Pentecost (IV class) Green 7:00
2024/11/06 水 Feria in time after Pentecost (IV class) Green 7:00
2024/11/07 木 Feria in time after Pentecost (IV class) Green 7:00
2024/11/08 金 Feria in time after Pentecost (IV class) Green 18:00
2024/11/09 土 Dedication of the Archbasilica of the Holy Savior (II class) White 11:00
2024/11/10 日 Twenty Fifth Sunday after Pentecost (II class) Green (Fifth Sunday after Epiphany) 8:30, 10:30
2024/11/11 月 St. Martin of Tours, Bishop, Confessor (III class) White No Mass
2024/11/12 火 St. Martin I, Pope, Martyr (III class) Red 7:00
2024/11/13 水 St. Didacus, Confessor (III class) White 7:00
2024/11/14 木 St. Josaphat, Bishop, Martyr (III class) Red 7:00
2024/11/15 金 St. Albert the Great, Bishop, Confessor, Doctor (III class) White 18:00
2024/11/16 土 St. Gertrude, Virgin (III class) White 11:00
2024/11/17 日 Twenty Sixth Sunday after Pentecost (II class) Green (Sixth Sunday after Epiphany) 8:30, 10:30
2024/11/18 月 Dedication of the Basilicas of Sts. Peter & Paul (III class) White 7:00
2024/11/19 火 St. Elizabeth of Hungary, Widow (III class) White 7:00
2024/11/20 水 St. Felix of Valois, Confessor (III class) White 7:00
2024/11/21 木 Presentation of the Blessed Virgin Mary (III class) White 7:00
2024/11/22 金 St. Cecilia, Virgin, Martyr (III class) Red 18:00
2024/11/23 土 St. Clement I, Pope, Martyr (III class) Red 11:00
2024/11/24 日 Twenty Seventh Sunday after Pentecost (II class) Green (Twenty Fourth Sunday after Pentecost) 8:30, 10:30
2024/11/25 月 St. Catherine of Alexandria, Virgin, Martyr (III class) Red No Mass
2024/11/26 火 St. Sylvester, Abbot (III class) White 7:00
2024/11/27 水 Feria in time after Pentecost (IV class) Green 7:00
2024/11/28 木 Feria in time after Pentecost (IV class) Green 7:00
2024/11/29 金 Feria in time after Pentecost (IV class) Green 18:00
2024/11/30 土 St. Andrew, Apostle (II class) Red 11:00
2024/12/01 日 First Sunday of Advent (I class) violet 8:30, 10:30
2024/12/02 月 St. Bibiana, Virgin, Martyr (III class) Red 7:00
2024/12/03 火 St. Francis Xavier, Confessor (III class) White 7:00
2024/12/04 水 St. Peter Chrysologus, Bishop, Confessor, Doctor (III class) White 7:00
2024/12/05 木 Feria of Advent (III class) Violet 7:00
2024/12/06 金 St. Nicholas, Bishop, Confessor (III class) White 18:00
2024/12/07 土 St. Ambrose, Bishop, Confessor, Doctor (III class) White 11:00
2024/12/08 日 Immaculate Conception Of The Blessed Virgin Mary (I class) White 8:30, 10:30
2024/12/09 月 Feria of Advent (III class) Violet No Mass
2024/12/10 火 Feria of Advent (III class) Violet 7:00
2024/12/11 水 St. Damasus I, Pope, Confessor (III class) White 7:00
2024/12/12 木 Feria of Advent (III class) Violet 7:00
2024/12/13 金 St. Lucy, Virgin, Martyr (III class) Red 18:00
2024/12/14 土 Feria of Advent (III class) Violet 11:00
2024/12/15 日 Third Sunday of Advent (I class) Rose or violet 8:30, 10:30
2024/12/16 月 St. Eusebius, Bishop, Martyr (III class) Red 7:00
2024/12/17 火 Feria in time of Advent (II class) Violet 7:00
2024/12/18 水 Ember Wednesday in time of Advent (II class) Violet 7:00
2024/12/19 木 Feria in time of Advent (II class) Violet 7:00
2024/12/20 金 Ember Friday in time of Advent (II class) Violet 18:00
2024/12/21 土 St. Thomas, Apostle (II class) Red 11:00
2024/12/22 日 Fourth Sunday of Advent (I class) violet 8:30, 10:30
2024/12/23 月 Feria in time of Advent (II class) Violet 7:00
2024/12/24 火 Vigil (weekday) of the Nativity of Our Lord (I class) violet 7:00
2024/12/25 水 The Nativity of Our Lord Jesus Christ (I class, with Octave of II class) White 00:00, 10:30, 18:00
2024/12/26 木 St. Stephen, First Martyr (II class) Red 7:00
2024/12/27 金 St. John, Apostle (II class) White 18:00
2024/12/28 土 Holy Innocents, Martyrs (II class) Red 11:00
2024/12/29 日 Sunday within the Octave of the Nativity (II class) White 8:30, 10:30
2024/12/30 月 Sixth Day Within the Octave of Christmas (II class) 7:00
2024/12/31 火 Seventh Day Within the Octave of Christmas (II class) 7:00


子どもたちの教育についてどのような報告をしなければならないか?自分の務めが何であるか?子どもたちに信仰を、超自然の命を伝えるために何をしなければならないか?

2024年07月19日 | お説教・霊的講話

2024年7月14日大阪主日ミサ説教

トマス小野田圭志神父

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、

【導入】
今日の福音を読むと、今日の福音の管理人に起こったように、私たちは死の瞬間、イエズス・キリストによって裁かれ、同じことを言われます。「おまえの一生の会計の報告を出しなさい、もうあなたを支配人にしておくわけにはいかないから」と。
今日はこの言葉について一緒に黙想いたしましょう。

私たちは全てを主から受けました。私たちの持っているもので、主から受けなかったものは一切ありません。生命、時間、才能、境遇、家族、言語、能力、性別、地位、責任などなど・・・、これら以外にもすべて主から受けたもので、天主からでないものはありません。私たちはこれをどのように使ったのか、受けた恵みにどのように答えたのかについて最後に報告しなければなりません。真理に、イエズス・キリストに忠実だったのかどうか、あるいは善を愛したか、キリストをお愛し申し上げたかどうかについて、私たちは厳格に厳密に報告しなければなりません。

【いろいろな報告の例】
いろいろな報告の例があります。なぜかというと、報告や裁きの内容は、身分や境遇によってさまざまです。わたしが報告しなければならない内容は、愛する兄弟の皆さんが報告しなければならない内容とは異なっています。地位が高ければ高いほど、多くを受けたのであればあるほど、より厳しい裁きを受けます。
たとえば財産についていえば、金持ちは、自分の財産や富があればあるほど、それをどのように良くつかったのか、どれほどキリストのために・本当の善のために使ったのかについて、厳しく裁かれます。地位についていえば、たとえば司祭あるいは司教であれば、受けた司祭職あるいは司教の権能をどのように良くキリストのために使ったのか、ということについて厳格に裁かれます。

【負債】
「報告を出せ」と、これは負債です。
私たちが主から受けたものは、主に返さなければなりません。私たちの受けた時間や才能は、いわば主に返さなければならない負債であって、これはこの世のことだけのために与えられたのではありません。今日の書簡で聖パウロが言っている通りです。「兄弟たちよ、私たちは負債をおっているが、肉にしたがって生きるための、肉に対する負債をおってはいない。」そうではなくて、「天主の霊によって導かれて」生きるために、「天主の子ら」として生きるために、恵みを受けました。ですからこの主のために生きることによって、負債を返さなければなりません。イエズス・キリストのために生きることによって、よく使い、よく負債を返すことができるようになります。このことについて、どのようによく使ったのかについて報告しなければなりません。

【子どもの教育の使命】
では第二のポイントです。7月は子どもたちの学校の夏休みの時ですから、もちろん私たちにはおのおのいろいろな報告内容がありますが、特に今日はとりわけ子どもたちの教育について、私たちがどのような報告をしなければならないかということを黙想することを提案します。特に今日はお父さんやお母さんたちのために、あるいは将来のお父さんお母さんたちのために、黙想を提案しています。

まず第一に、子どもは天主さまからの命の贈り物です。天主は、子どもの出産と教育の力を私たちに委ねました。私たちはこれを天主の助けのもとに行わなければなりません。
天主は私たちに自然の命を伝達することと、さらに超自然の命を伝達することを委ねました。

でも、子どもの本当の目的――命の本当の目的――は、超自然の命のためです。つまり、もしもお父さんとお母さんが、子どもの生命の教育を伝えることを委ねられたとしたら、これは、子どもたちが天国に導かれるために与えられました。

では、子どもの教育、どうしたらよいのでしょうか。天国に導くためにどうしたらよいのでしょうか。子どもの教育のためには、子どものことを良く知らなければなりません。つまり、子どもの弱点や長所をよく知っている、識別する必要があります。では、弱点、長所、どんなものでしょうか。これは、自然な弱点と長所のことだけではありません。子どもは、か弱くもあり、同時に偉大な尊厳をも持っています。どういうことかというと、子どもは、自然本性に従えば、原罪の罪を負って生まれてきた罪人です。しかし、洗礼を受けることによって天主の養子となります。天主の子どもとなります。超自然の命を受けることができる、永遠の栄冠を受ける候補者となるのです。天国の聖人となることができるものすごい存在だということです。別の言葉で言いなおすと、よく私たちが聞くように、人間は性善説だ、性悪説だという二つでは説明できない存在だということです。白か黒かではなくて、さまざまな美しい色とりどりの色によって描かれている存在です。つまり人間というのは罪人でありますが、しかし天主の御血によって贖われた、そして高められた罪人だということです。

もう少し詳しく説明すると、子どもは、自然な目から見ただけでも純粋な天使ではありません。かといって、単なる動物やペットのようなものではありません。たしかに動物のような本能や能力を持っています、が、それと同時に、天使のように知性や自由意志をも持っています。そればかりではなく、 陰を持っています。どのような陰かと言いますと、原罪によって悪に傾いています。無知の傷を負っています。弱さを負っています。しかし、真理を知り、善を選ぶことができます。さらに超自然の光が、洗礼によって与えられて、洗礼の恵みによって、弱さが強められ、超自然の秩序に高められます。また天主が味わっている永遠の至福に与り、そして天国の遺産を相続する天国の世継ぎ、キリストとともに永遠の命をうけることができる共同相続者となるように召されています。子どもはこうやって究極な目的を天国に持っていて、子どもがそれにたどりつく唯一の道はイエズス・キリストだけです。

ではこのような目的を持った色とりどりにきれいに飾られた子どもたち、これは、どのような手段をもって天国に導いてあげることができるでしょうか。

子どもたちは、超自然への命へとたどり着くためにこの世に生まれてきたのですから、子どもたちのお父さんお母さんは、超自然の環境の中で生活することができるように助けてあげなければなりません。ですから愛する兄弟の皆さま、そしてお父さんとお母さんたちは、そして子どもたちがまず何よりもまずキリスト者であるということを自覚なさってください。この子どもたちのこの世での人間の人生の間、この子どもたちが考えること、話す言葉、あるいは歩み、あるいは行い、その他全ては、天主の子どもとして相応しいように、あるいは、キリスト者として天国の永遠の命を受けることにふさわしいようになるように導いてあげなければなりません。導くというのは、ラテン語で ducereと言いますが、このe-ducereということばから、education 教育と言う言葉が生まれました。

天国へと導いてあげる、これこそが本当のカトリックの教育です。そのためにはどうやって導いてあげたらよいでしょうか。

まず自然な徳を身につけるように手伝ってあげなければなりません。なぜかというと、子どもは、謙遜、従順、貞潔、剛毅などなどの徳を身につけなければなりません。徳というのは、英語でVirtueと言いますが、その徳の行為を繰り返して行えば行うほど、徳が身に付きます。そしてそれをより簡単に行うことができるようになります。人間は、徳がある生活をするように有徳の生活をするように創られています。善い行いを繰り返すことによって、より簡単に善を行うことができるばかりか、その善を行うことが楽しくなります。うれしくなります。その善を行いたくなります。こうして善徳を身につけることによって、わたしたちの生命が、人生が豊かになっていきます。

自然の徳だけではありません。超自然の徳についても同じです。超自然の徳というのには、信仰、希望、愛徳があります。これはたしかに洗礼を受けることによってその種を、芽を受けることができますが、それを繰り返し実践して、それを使って、育てていかなければなりません。信仰の知識を深めて、お祈りをして、愛徳を実践して、深めて、育てていかなければなりません。

また同時に、お父さんとお母さんは原罪を負った存在だ、ということを知らなければなりません。私たちすべてに原罪の傷がある、ということを知らなければなりません。ですから、こんなにかわいい子どもでさえも持っている悪しき傾きの芽が伸びるのをうまーく賢明に上手に防いであげて、そして同時に、天主の聖寵の助けとともに、子どもが超自然の聖徳にまた自然の善徳に育つことができるように気を配ってあげなければなりません。もちろん子どもの知性は、この世に関する知識も必要です。しかし、イエズス・キリストに対する深い知識が、公教要理の知識が必要です。祈りの実践も必要です。

お父さんとお母さんは子どもが公教要理を深く学ぶことができるように、気を配ってあげなければなりません。また、最後に、教皇ピオ十二世は、こんなことも言っています。子どもたちは知性も性格も霊的な特徴も同じではない、と指摘しています。ですから子どもたち一人ひとりの違いをよく理解してあげて、褒めたりあるいは注意してあげたりしなければならない。また、家庭と教会そして学校という三つの場所が、同じ精神で同じことを教えて子どもたちを守ってあげるのが理想的だと言われています。少なくとも家庭でやっていることと、そして、教会でのことがおんなじでなければなりません。

【良心の究明】
では良心の糾明をいたしましょう。私たちは子どもに一体何が一番重要であるのかということを、言葉と模範で示しているでしょうか?教会の教えと家での教えはぴったりと一致しているでしょうか?それとも私たちが子どもたちに伝えようとしている最も大切なものはいったい何なのでしょうか?永遠の命なのでしょうか?それともこの世の楽しみのことなのでしょうか?わたしたちが主日にいったい何を選んでいるでしょうか?「なんじ、安息日を聖とすべきことをおぼゆべし。」これは天主の十戒の第三戒です。これは主日にわたしたちは聖伝のミサに与ることによって聖化しようと、あるいは距離があるのでどうしても与れないので、しかたがないので、ロザリオを唱えることによって主日を聖化しようとしているでしょうか?公教要理を学ぼう、あるいは子どもたちに学ばせようとしているでしょうか?それとも、主日は他のことを選ぶようにしているでしょうか?

私の知っている方は…私こんなことを聞きました…ある女の子は特別に奇跡的に大好きなミュージシャンのコンサートのチケットが当たったのだそうです。しかし、ミサに与るためにそれを棄てて犠牲にしてミサに与った。あるいは、ある家族は夜行バスに乗って夜も眠らずに何時間も揺らされてミサに与るために来た。私の知っているある中学生は――中学三年生の時からミサに与るようになったのですけれども――彼はそれまで大好きだった日曜日ごとに行っていた空手の道場を辞めてミサに与るようにしました。永遠の命にとって私たちはいったい何が大切なのでしょうか。いったい私たちは何のために生きているのでしょうか。

今日の集祷文にはこうあります。「主よ、願わくは、正しいことを考えかつ行う霊を常に我らに憐れみ深く与え給え。そは、御者なくしては、存在しえないわたしたちが、御身に従って生きるためなり。」


【警告】
ここで本当ならばわたしは、お説教を終えようとしようと思ていました。しかしルフェーブル大司教様のおっしゃっている言葉を少しだけいくつか引用することをゆるしてください。

私たちにとって聖伝のミサを選ぶということが、あるいは超自然の命を選ぶ・信仰を選ぶということがどれほど大切か、そのためにどれほど多くの司祭たちや司教様たちが命がけでそれを守ってきたかという例をいくつかあげたいと思っています。これは、ルフェーブル大司教様が挙げたことばで、警告の言葉です。

ソ連時代、モスクワの支配下にあったポーランドでさえ、――ルフェーブル大司教様によると――カトリック司祭たちは…カトリック司祭でさえも、最も重要な問題はモスクワとの決裂を避けることだったと考えていたそうです。ですから政治的な策略を彼らは第一にしてしまいました。つまり、カトリックの信仰とか霊魂の救いが最も大切だという代わりに、そして信仰のため救霊のためならば生命をもすべて犠牲にしなければならないとは考えなかった、ので、ですからクレムリンは、モスクワは、たいした抵抗も受けることなく、ポーランド国民を完璧な奴隷状態に落としめることができた、と言っています。ルフェーブル大司教様のお言葉です。
(教皇)ピオ九世は、すでに言っていました。共産党とは協力できない、と。もしもだまされて、だまされるがままになって、社会主義や共産主義の体制をつくるために、協力するならば、協力することに同意するならば、それは最後の裁きの日に大きな罰を蓄えるのみならず、その裁きの罰を待っているあいだにも、国民は現世的な利益を何ひとつ得られず、かえって苦痛と災難を加え増し増加するだけだ、と。だまされた!では遅すぎる。」と警告しています。

【模範1】
ルフェーブル大司教様は、ある主任司祭が、こんな手紙を書いたと云うことを私たちに教えてくれます。主任司祭は自分が受け持つ二つの小教区の信徒たちに次のようなお別れの手紙を出したそうです。
「×年○月○日の面会で、教区長の司教様は私に最後通牒を伝えました。」
これは神父様の教区民への手紙です。引用して読んでいます。神父様の引用を続けます。
「新しい宗教を受け入れるか拒否するかの二者選択でした。私はこれを避けて通ることが出来ません。ですから、私は自分の受けた司祭職に忠実に留まるために、永遠の教会に忠実に留まるために、・・・私は自分の意に反して、引退するように要求され強制されました。・・・私は、正にこの天主に関わる重大な問題・・・つまり永遠の聖伝のミサの問題・・・において、誠実である義務を果たしています。・・・これは、私が天主に、そして人々に特に教区の皆さまに与えなければならない忠実と愛の証拠です。この忠実と愛の証拠について、私は最後の審判の日に裁かれるでしょう。それは他方で同じ遺産を委ねられた全ての人々についても言えることです。」

【模範2】
ルフェーブル大司教様は、公開書簡の最後にこうも書いています。自分のことについてこう言っています。
「もしあなたがたが、なぜ私がこれほどにまで(聖伝のミサを守るために)粘り強い態度をとるのかと問うならば、私はこう答えましょう。私がこの地上を去るとき、天主が「お前は司教として何をした? 司教、司祭の恩寵に与ったお前は、どんな働きをしたのだ?」と私にお尋ねになられたとき、私は天主様の口から次の恐ろしい言葉を聞きたくないのです。「お前もまた、他の者たちと一緒になって、教会を破壊する手助けをしていたのではないか。」

では最後にマリア様にお祈りいたしましょう。私たちが自分の務めがいったい何であるか、子どもたちに信仰を伝えるために、超自然の命を伝えるためにいったい何をしなければならないか、最も大切なものは何かをよくわきまえ知り、そしてそれをよく果たすことができるようにマリア様の特別な御取り次ぎを請い求めましょう。

「会計の報告を出しなさい、もうあなたを支配人にしておくわけにはいかないから」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


聖クロード・ド・ラ・コロンビエール神父 (1641-1682) の作った「天主に信頼する祈」

2024年07月18日 | カトリックとは

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

聖クロード・ド・ラ・コロンビエール神父 (1641-1682) の作った「天主に信頼する祈」をご紹介いたします。

天主に信頼する祈(聖クロード・ド・ラ・コロンビエール (1641-1682))

わが天主よ、御身に希望せる者はすべて御身に見守られ、御身にすべてを待ち望む者には何一つ欠けるものなしとわれは確信す。われは、将来を何の心配もなく生き、わが不安のすべてを手放して御身に委ねんと決心したてまつる。「主よ、われ、安らかに眠り、休むなり。われが御身のうちに見出す平和のうちに。なぜなら、主よ、御身はわが希望を特別なるやり方で強めたもたればなり。」(詩篇4:9-10)人々はわれから財産と名声を奪い、病はわが力と御身に仕える手段を取り去り、われ自身は罪のために御身の恵みを失うやもしれず。しかし、われ、希望を失わじ。われは最期まで希望せん。われから希望を奪おうとする悪魔らのこころみはすべて無駄なり。「主よ、われ、安らかに眠り、休むなり。」
ある者らは豊かさや才能に幸福を期待し、ある者らは、罪なき生活、厳しい苦行、善行の量、祈りの熱意に期待するやもしれず。しかしわれにとっては、主よ、わが全ての信頼こそが、わが信頼なり。「なぜなら、主よ、御身はわが希望を特別なるやり方で強めたもたればなり。」この信頼はだれをも偽らず。「主に信頼する者は、誰一人としてその信頼に恥じたことなしと知れ。」(Eccl. 2:11)
ゆえに、われは永遠に幸福なることを確信せり。そは、われ固くかく希望するが故に、また、天主よ、御身にこそ希望するが故なり。「主よ、御身にこそわれは信頼せり。決して恥ずかしめらるを許しなもうなかれ。」(詩篇30:2)われは、おのれがもろく、弱きことを知れり。あまりにもよく知れり。深く根付きし聖徳に反する誘惑がいかに強いかも知れり。天高き星々や天空を支える大黒柱の倒れ落ちるのをわれは見たり。しかしわれは恐れじ。われ希望する限り、すべての災いから守られるがゆえなり。われは変わらぬ希望で希望するがゆえに、われは常に希望するなり。
われは御身に希望しすぎることはありえず、御身に希望したことをすべて受けられると確信するなり。それゆえ、われは、御身がいとも激しき誘惑においてわれを支えたもうこと、御身がいとも恐るべき敵どもにわが弱さを勝利させ給うを知るなり。御身はつねにわれを愛したまい、われも倦まずたゆまず御身を愛するを希望せん。われは御身に、そして御身だけを希望し!ああ、わが創造主よ!時の中で、そして永遠に。アーメン。

ACTE DE CONFIANCE EN DIEU

Saint Claude de LA COLOMBIERE(1641-1682)
Mon Dieu, je suis si persuadé que Vous veillez sur ceux qui espèrent en Vous, et qu’on ne peut manquer de rien quand on attend de Vous toutes choses, que j’ai résolu de vivre à l’avenir sans aucun souci, et de me décharger sur Vous de toutes mes inquiétudes : « Pour moi, mon Dieu, je dormirai et me reposerai dans la paix que je trouve en Vous ; parce que Vous m’avez, Seigneur, affermi d’une manière toute singulière dans l’espérance que j’ai en Votre divine bonté » (Ps IV, 9-10). Les hommes peuvent me dépouiller et des biens et de l’honneur, les maladies peuvent m’ôter les forces et les moyens de Vous servir, je puis même perdre Votre grâce par le péché ; mais jamais je ne perdrai mon espérance, je la conserverai jusqu’au dernier moment de ma vie, et tous les démons de l’enfer feront à ce moment de vains efforts pour me l’arracher : « Pour moi, mon Dieu, je dormirai et me reposerai dans la paix que je trouve en Vous… ». 
D’aucuns peuvent attendre leur bonheur de leurs richesses ou de leurs talents, d’autres s’appuyer sur l’innocence de leur vie, ou sur la rigueur de leurs pénitences, ou sur le nombre de leurs aumônes, ou sur la ferveur de leurs prières : « Parce que Vous m’avez, Seigneur, affermi d’une manière singulière dans l’espérance… » : pour moi, Seigneur, toute ma confiance c’est ma confiance même ; cette confiance ne trompa jamais personne : « Sachez que jamais personne qui a espéré dans le Seigneur n’a été confondu dans son espérance » (Eccl. II, 11). 
Je suis donc assuré que je serai éternellement heureux, parce que j’espère fermement de l’être, et que c’est de Vous, ô mon Dieu, que j’espère : « C’est en Vous, Seigneur, que j’ai espéré ; ne permettez pas que je sois confondu à jamais » (Ps. XXX, 2). Je connais, hélas! Je ne connais que trop que je suis fragile et changeant, je sais ce que peuvent les tentations contre les vertus les mieux affermies, j’ai vu tomber les astres du ciel et les colonnes du firmament, mais tout cela ne peut m’effrayer : tant que j’espèrerai je me tiens à couvert de tous les malheurs, et je suis assuré d’espérer toujours, parce que j’espère encore cette invariable espérance. 
Enfin, je suis sûr que je ne puis trop espérer en Vous, et que je ne puis avoir moins que ce que j’aurai espéré de Vous. Ainsi, j’espère que Vous me soutiendrez dans les tentations les plus violentes, que Vous ferez triompher ma faiblesse de mes plus redoutables ennemis ; j’espère que Vous m’aimerez toujours, et que je Vous aimerai aussi sans relâche ; et pour porter tout d’un coup mon espérance aussi loin qu’elle peut aller, je Vous espère Vous-même de Vousmême, ô mon Créateur, et pour le temps et pour l’éternité. 
Ainsi soit-il !   

 


「人間の生命は天主のみがその絶対の主である」マーチフォーライフ in TOKYO 2024

2024年07月17日 | お説教・霊的講話

2024年7月15日 東京 カルメル山の聖母の随意ミサ 説教

「人間の生命は天主のみがその絶対の主である」(2024年7月15日 カルメル山の聖母の随意ミサ)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

神父様、
愛する兄弟姉妹の皆様、

今日は2024年7月15日、「マーチフォーライフ2024年」の行事の一環としてカルメル山の聖母の随意ミサを荘厳ミサで行っています。

この世における人間の生命(いのち)は、神聖であってけっして犯すことができません。人間の生命が受精の瞬間から始まるということ、そして人間としての存在の最初の瞬間からこの生命がまもられなければならないということは、真理です。これは誰も変えることができません。この真理をカトリック教会は常に教え続けています。

【最初の瞬間から人間の生命がまもられなければならない理由】
何故なら、人間の生命は、天主だけがその絶対の主であるからです。
ほかには誰も手を付けることができません。
何故ならば、人間の生命(いのち)は、人間すべては、天主の似姿にしたがって天主の肖像によせて作られているからです。
何故ならば、人間は洗礼を受けることによって、天主の養子、子どもとなることができる高貴な存在であるからです。
人間は天主の永遠の至福の栄光の冠を受けるために、そのためにこの地上で生まれてくるのです。

【天主こそが絶対の主】
もしも創造主なる天主の存在を否定したとしたならば、もしも人間が天国での永遠の至福の生命を得るためにこの世に生きるのではないとしたならば、もしも人間のこの世における存在というのがただ偶然のものに過ぎないとしたならば、その論理的な結論は何でしょうか。
その結論は、つまり人間の生命(いのち)の価値などまったくない、です。価値がないと結論づけざるを得なくなります。

もしも天主が人間の生命(いのち)の絶対の主でないならば、天主の十戒は、社会生活において無視されるに違いありません。
もしもそうならば、天主の聖なる掟は、夫婦の生活においても無視されます。
結婚が聖なるものや、家庭生活が尊いということ、これも無視されます。聖なる家庭を築き上げるという理想が、個人主義・利己主義・エゴイズムに取って代わられるに過ぎません。
もしも超自然の生命(いのち)への希望がなくなってしまったならば、キリスト教の理想が失われてしまいます。つまり異教の理想がそれにとって代わるしかありません。言いかえると、人間は、永遠のしあわせのためではなくて、この世の快楽のためにだけ生きていることになってしまいます。

面白おかしい刹那の快楽を追求するために、自分の欲求を全て満足させるために、何が必要でしょうか。お金が必要です、権力が必要です、地位と名声が必要です。これを求めます。
自分のやりたい放題、下等な本能に従って、好きなだけ、制限もなく、ブレーキもなく楽しみたい。そうしたら邪魔者は敵になります。いったい何が邪魔者でしょうか。道徳です、天主です、掟です、家族、家庭、さらには子供たちさえも自分の楽しみの邪魔になるかもしれません。

堕胎・妊娠中絶、これはお母さんの胎内にある子供たちの命を殺害することです。
何故こんなことをしてしまうのでしょうか。こどもがこんなに大切ではないでしょうか。いや、子供が邪魔だからです。自分の健康や、快楽、評判や、キャリア、世間体などにとって邪魔だからです。
それを守るために、自分の快適な生活と言う偶像のために、小さな赤ちゃんを生け贄として人身御供として捧げているのです。自分の面白おかしい生活を、他の人間の死に基づかせているのです。自分の楽しみのほうが、子どもの命よりも絶対的な価値を持っていると主張するからです。これは確かに偶像崇拝と言えるかもしれません。

いえ、天主こそが絶対の主です。天主の掟に従うこと、永遠のいのちの救い、これこそがわたしたちにとって最優先しなければなりません。

【堕胎】
特にわたしたちはマーチ・フォー・ライフを行っていますから、カトリック教会の古代からの声を響かせなければなりません。カトリック教会は、ローマ時代、テルトゥリアンの時代から堕胎を非難してきました。古文書にそう記録されています。

つい最近の話でいえば、ヨハネ・パウロ二世も「いのちの福音」の回勅の中で何度も同じことを繰り返しています。
一つだけそれを引用します。
「キリストがペトロとその後継者たちに与えた権威によって、カトリック教会の全ての司教たちとの交わりにおいて、私はこう断言する。罪のない人間を直接に意図的に殺害することは、常に重大な非倫理的な行為である、と。この教えは、全ての人間が理性の光によってその心に発見する 書かれていない法――掟(おきて)――に基づき、聖書によって再確認され、教会の聖伝によって伝えられ、通常の普遍の教導権によって伝え続けられてきたことである。」
ヨハネ・パウロ二世の引用を終わります。【こんなことを教皇が荘厳に発言しなければならないとは、私たちは何と恐ろしい時代に生きていることでしょうか!】

四年前にはグアダルーペの聖母の祝日に、1人の枢機卿と4人の司教が共同の声明を出しました。
「カトリック教会には、中絶は絶対に拒否されなければならないという真理をはっきりと証しする義務があります。目的が手段を正当化することはできません。私たちは、今まで見たこともない最悪の大虐殺の中で生きています。世界中で何百万人もの赤ちゃんがお母さんの胎内で虐殺され、この隠された大虐殺は、中絶産業、生物医学研究、胎児技術を通じて日々続いているからです」。
(「1人の枢機卿、4人の司教が明確に教える」Catholic Family News, Dec.12, 2020.)

私たちの主イエズス・キリストは、小さな弱々しい子どもたちをご自分自身であると考えています。私たちの主のおっしゃる言葉を聞いてください。「まことにまことに私はあなたたちにいう、これらの私の最も小さな兄弟たちの一人にあなたたちがしたことは、私にしたことである。」

現代、日本では、まだ小さな赤ちゃんたちが、人間の生命が殺され続けています。日本の堕胎の数は年々少なくなっているといわれていますが、しかし、目に見えない型の別の堕胎が行われています。

たとえば、人工授精による不妊治療では、多くの受精した小さな人間が廃棄されています。不妊治療によって、一人の子どもが生まれるために多くの受精卵が凍結され、そしてついには、破棄されます。でもこれらの受精卵はすでに人間なのです。

あるいは、避妊薬は、たとえばモーニング・ピルと呼ばれているものは、受精した人間がお母さんのおなかに着床しないように、わざと妨害する堕胎のくすりなのです。

ですから、計算・統計上には上げられていなくても、それをはるかに上回るものすごい数の子どもたちがいま殺害されているということを私たちは知らなければなりません。これはなにかというと死の文化です。命を大切にしないという文化です。

たった一回の中絶であっても、これは非常に大きな犯罪です。子どもたちのいのちが、罪のない命が、守られなかった、殺害されたからです。

愛する兄弟の皆さん、どうぞカトリック教会の使命のために、生命に対する尊重の立場から、ぜひこの「生命のための行進」マーチ・フォー・ライフに参加なさってください。今日、カトリック教会とすべてのカトリック信者は、私たちの受けた教え、聖伝、そして信仰の実践を行わなければならないからです。そして私たちには、生命の大切さに対する証しを、続けていく義務があります。

現代行われていることは、ちょうどアステカでおこなわれていた人身御供のようです。しかし、マリア様はグアダルーペにお現れになって、この死の文化を「いのちの文化」に変えてくださいました。
今日わたしたちは特にカルメル山の聖母の随意ミサを捧げています。マリア様が私たちの死の文化を「いのちの文化」へと変えてくださいますように。「いのちの文化」はマリア様の御取次によっていま大きな動きとなっています。

マリア様の御取次を今日求めて、このミサを捧げていきましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


マーチフォーライフ TOKYO 2024 報告

2024年07月16日 | プロライフ

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

マーチフォーライフ in TOKYO 2024 (主催:マーチフォーライフ委員会) はとても素晴らしく行われました。参加なさった愛する兄弟姉妹の皆様に挨拶を送ります。

マーチフォーライフのために、私たちは、日本の聖なる殉教者聖堂(大宮)で荘厳ミサを捧げました。大宮に聖堂が設置されてからの最初の荘厳ミサでした。カルメル山の聖母の随意ミサを行い、修道院長のワリエ神父さまが司式しました。

ライブ配信の動画は⇩こちらにあります。

そののち、日比谷公園に午後3時に集合して、マーチフォーライフを開始しました。

いくつかの写真をご紹介します。

マーチフォーライフ TOKYO 2024  (主催:マーチフォーライフ委員会) の生配信は⇩次の動画です。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

来週の主日には大阪でもマーチフォーライフがあります。

愛する兄弟姉妹の皆様の参加をお願い致します。


キリストはペトロに、名誉の首位権だけではなく、全教会の統治の権能を持つ首位権を与えた。この首位権は世の終末まで続く。

2024年07月16日 | お説教・霊的講話

 

2024年6月30日大阪ミサ説教

トマス小野田圭志神父 

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日は聖霊降臨後の第六主日です。
ところで昨日は使徒聖ペトロと聖パウロの祝日でした。キリストは、聖ペトロの上にご自分の唯一の教会をおたてになりました。

キリストの教会というのは、聖ペトロとその後継者を目に見える頭(かしら)としてたてられた教会で、使徒信経にもあるように、四つのしるしを持っています。つまり、一、聖、公、使徒継承の教会です。これは、愛する兄弟の皆様と私が属している教会、カトリック教会のことです。

カトリック教会は、私たちが永遠の栄光にたどり着くために必要な真理を、明確に、そして確実に、疑いもなく、誤りなく教え、そして必要な聖寵お恵みを私たちに与えることができるためにつくられた教会です。

まことのキリストの教会は、信仰と秘跡と統治における一致を保ち、そして、真理を誤りなく教え続けることができます。

いったい何故そのようなことが可能なのでしょうか? 何故ならば、まず第一に、全教会を統治し教導し教え導く至上の権限を、つまり首位権を聖ペトロに与えた、聖ペトロの上に立てたからです。天主の定めによって、このペトロの首位権を――単に、名誉上の首位権だけではなく――統治の権能を持つ首位権を、頭の上(ペトロの上)に与え、ご自分の教会を立てたからです。天主の定めによってペトロの首位権は、連綿不断の後継者――すなわち歴代のローマ教皇――を持ちます。
第二にこのペトロの後継者は、不可謬の権利を行使することができると主は定めました。

今日は、特に第一の点、キリストはペトロの上に「首位権」を与えたということについて黙想いたしましょう。

【1:キリストは約束をする:あなたはペトロである。私はこの岩(いわお)の上に、私の教会をたてよう。】

まず第一に、イエズス様は約束されます。「あなたはペトロである。私はこの岩(いわお)の上に、私の教会をたてよう。」

マテオによる福音にはイエズス様が聖ペトロの上に自分の教会をたてようとする約束が記されています。イエズス様はこうおっしゃいます。「おまえはペトロ、岩(いわお)である。」そして言葉を続けてこう言います。「私はこの岩(いわお)の上に、私の教会をたてよう。地獄の門もこれに勝てないだろう。」

イエズス様はご自分の教会を堅固な岩(いわお)の上にたてられた家にたとえています。永遠の智恵であるイエズス様は、岩(いわお)の上にご自分の家をたてます。なぜかというと、「雨が降り、流れができ、風が吹いて打ち当るけれども、その家は倒れない。岩(いわお)の上に土台をおいてあるからである。」(マテオ7:25)

イエズス様が創立する教会は、ペトロという岩(いわお)の上にたって、地獄の門もこれにうち勝つことはありえません。地獄の門が勝てないということは、つまり、いかなる誤謬も嘘も異端も悪意の攻撃も、キリストの教会を征服することはないということです。たしかに攻撃は受けるでしょう、この世の憎しみの対象となるでしょう、しかし、キリストの教会は主のたてた構造を保ちながら、たとえ数は少なくなったとしても、必ず健康で生き生きとした部分が存在し続ける、世の終わりまで存在し続け、そして勝ち残る、という約束を受けています。

聖ペトロにはこうも約束します。
「私は天国の国の鍵をあなたに与えよう。」

人間の社会においては、団体の組織を固くし秩序を保つために必要なものは、その指導者です。指導者がどのように素晴らしいかにかかっています。教会という団体においてもまさにペトロの位置はこれにあたります。鍵というのは、所有権やあるいは主権を象徴しています。鍵を持っている人が、その家の主人であり支配者であるからです。ペトロは、そしてペトロとその後継者は、地上において目に見える全教会の最高の支配者、最高の権威者として、その鍵を委ねられました。

ペトロの役割というのは何かというと、イエズス・キリストの代理者として、教会における真の教師としてキリストの教えを授けて、教会を異端と離教の禍(わざわい)から守ることです。ペトロは、異端と離教を排斥して、信仰と、そしてペトロの聖座への忠誠における一致を保持しなければなりません。そして、キリストからゆだねられた群(むれ)を牧する使命があります。

しかもイエズス様は、さらにこうも約束します。
「あなたが地上でつなぐものはみな天でもつながれ、あなたが地上でとくものは、天でもとかれるだろう。」
これは法を制定して、解釈して、判決して、断罪し、そして赦す権利が約束されたということです。たしかに、この権能は他の使徒たちにも授与されています。マテオの18章18節に書かれています。しかし、教会の礎石(きそ)として最高の支配権が鍵の保持者である、鍵を持っているペトロに約束されているので、その他の使徒たちはすべてペトロを通じてその権能を行使しなければならなくなっています。

【2:キリストは約束を果たす:「私の小羊を牧せよ!」】

イエズス様は、確かに復活する前に御受難の前にペトロにこう約束されましたが、その約束を復活後に果たします。それは、ペトロがイエズス様に対する愛を三度宣言した時でした。その時、主はペトロに三度言われます。
「私の小羊を牧せよ!」「私の小羊を牧せよ!」「私の羊を牧せよ」――これはヨハネの福音の 21章(15-17)に書かれています。こうして、司牧の全権限を聖ペトロに委ねました。

イエズス様はかつて自分のことをよき牧者であると言われたことがありますが、イエズス様の小羊というのは、主を信じている全ての信者たちのことです。ではイエズスがわたしの羊を牧せよと言ったその羊とは誰のことでしょうか、それは使徒たち、つまり、司教たちのことです。つまりイエズス様は、ご自分の代理者としてペトロを、すべての羊と子羔(こひつじ)の牧者として任ぜられたのです。つまり信者のみならず使徒の後継者である全世界の司教たちをも指導せよ、ペトロの教導と支配を仰ぐべきものとして定めました。

このようなペトロの首位権は、使徒たちによってすべて受け入れられました。ペトロは最初に召命をうけた最初に弟子となった者ではありませんでしたが、使徒たちの名前が列挙されるときには常にペトロの名前が第一番目に挙げられています。

これは名誉だけの首位権ではありません。聖書を見ると、ペトロに教導の教え導く首位権があったということがわかります。いくつか例をあげます。これはすべてではありません。
たとえば、ユダが7:28主を裏切ったとき、ユダに代わる者を選ぶことを提案したのはペトロでした。(使徒行録1:22)
聖霊降臨の日に最初に皆の前に立って説教をしたのはペトロでした。(使徒行録2:14)
イエズスの名前によって使徒として最初の奇跡を行ったのもペトロでした。(使徒行録3:6-8)
アナニアとサフィラが使徒たちを欺いた事件がありましたが、そのとき裁判官の役割をしたのはペトロでした。(使徒行録5:3-4)
異邦人を最初に教会にうけ入れたのもペトロでした。(使徒行録11:4-17)
ペトロは、エルザレムの公会議を指導して、そして救いは全ての人類に及ぶと宣言して、論争に決着をつけ、その後異論をゆるしませんでした。(使徒行録15:5-11)

【3:ペトロの首位権は世の終末まで続く】

ではこのペトロの首位権はペトロで終わったのでしょうか、いえペトロの首位権は世の終りまで続きます。なぜかというと、キリストを信じる者たち、つまりキリストの羊と小羔(こひつじ)にとって、自分たちを狼から異端から誤謬から守り、そして豊かな牧場、一つの牧舎(まきや)に導いてくれる牧者が常に必ず必要であるからです。ですからペトロは、正当な後継者を通じて世の終りまで信徒を導き、そして教会の土台として世の終わりまでその後継者を持ち続けなければなりません。このペトロの後継者としての教皇の首位権は、教会の全歴史を通じて認められてきました。

現代にいたるまで使徒の時代から認められ続けられてきました。その例はたくさんあります。が、今回はいくつか挙げるのをゆるしてください。

たとえば、一世紀のローマ、聖ペトロが殉教しました。昨日その祝日を祝いました。その後継者は、聖リノでした。聖リノも殉教しました。その次の後継者は、聖クレトでした。聖クレトも殉教しました。その次は聖クレメンテでした。聖クレメンテ(91-100年)は第四代教皇です。その当時、エフェゾではまだキリストの最愛の弟子だった使徒聖ヨハネが生きていて、まだ存命していました。ところでちょうどまだ聖ヨハネが生きていた時代に、エフェゾのすぐ近くの町コリントで大きな信仰に関する軋轢が起こりました。大論争が起こりました。そのときにコリントの人々は、この問題を解決しなければなりませんでしたが、エフェゾのすぐ近くにいたエフェゾの聖ヨハネではなくて、ローマにいた教皇聖クレメンテの元に、問題解決を願ったのでした。
考えても見てください。聖ヨハネは、キリストと三年間生活をともにした最初に選ばれた弟子です。最後の晩餐の時にはイエズス様の胸に頭をおいてイエズス様から特別に愛された愛弟子(まなでし)です。十字架の足元に一人残った弟子です。聖ペトロはイエズス様を否んだ弟子です。聖ヨハネはマリア様を御自分の家に受け取ったその弟子です。ところが、この問題が起こったときにはコリントの人々は、聖ヨハネではなくて聖ペトロの後継者に、教皇クレメンテに、問題の解決を願ったのです。すると教皇が、聖クレメンテが、コリントの教会に書簡を送って、教会の平和を乱す者を懲らしめて、そして、不従順を戒めたのでした。何故でしょうか。なぜかというと、ローマにいるペトロの後継者こそが使徒たちの頭であって、Pater Patrum (父たちの父)つまりPapa 教皇であったからです。

これは一世紀だけのことではありません。そののちもずっとそうでした。

たとえば、聖バジリオは、聖ダマソ教皇(366-384年)に小アジアにおける憂慮すべき大論争と紛糾があるときにそのことを告げて、教皇にぜひ問題解決をお願いしますとお願いしました。そのような干渉をすることが当然であるということをいったその理由の一つに、前任者であるデオニジウス(259-269年)教皇がすでに紛争の解決のために干渉したということが例にとって聖ダマソに訴えています。

あるいは東方教会の中で最も優れていたといわれる首座司教アレキサンドリアの聖チリロ(444年死亡)は、「教皇チェレスチノは全世界の司教たちの頭である」とも言っています。

このような教父たちの引用を列挙すると、このお説教は終わりがありません。ですからこのような例をいくつか挙げることに満足してこのような結論をとりたいと思います。つまりキリストがたてた教会は使徒の時代から全教会にわたって常に現代に至るまで、ペトロとその後継者を最高の指導者として来ました。
キリスト教の全司教たちの中で、ローマの教皇司教だけが常に聖ペトロの正当な後継者として主張していて、他にはそのような主張をする者は誰もおりません。つまり、キリストの教会は、ローマの司教、教皇を頭とする教会であるということです。

【4:教皇の「限界」】

では、この教会は、聖ペトロが全権を持っていて、自分の思う通りに何でもすることができるのでしょうか。いえ、教皇様には限界があります。これについては、詳しい話はまた別の機会にすることにして、一つだけ述べることにします。

たしかに 教皇はキリストの代理者として立てられましたが、後継者として立てられたのではありません。つまり、教皇様は自分の思う通りに教会を変えることができるわけではありません。教皇は、現実を教えるためにその役割を与えられました。現実というのは、頭の中で、考えたイデオロギーではなくて、わたしたちがどう考えても変えることができないその世界のことを、現実と言います。リアリティーといいます。この現実を教えるために立てられました。

そのリアリティー――現実――というのが何かというと、天主が在(ましま)すということです。三位一体の天主がまことにまします、そして永遠の命があるということ、超自然の世界がある、お恵みがある、聖寵の世界があるということ、罪があるということ、真理というものが、私たちの避けることができない現実があるということです。天国そして地獄という現実を教えるためです。

つまり信仰という、私たちが変えることができない真理の現実を教えるために立てられました。

ですからこの現実、天主の啓示・信仰を全てにまさってイデオロギーに勝って最優先にしなければならないということを教皇は教えるために、立てられました。

たとえば現実とはどんなことかというと、天主は男と女を作ったということです。それ以外のものを作りませんでした。婚姻は一人の男と一人の女が排他的に結合することだと、それが現実です。それ以外のことはありえません。それを教えるために教皇は立てられました。ですから教皇様は、教皇様といえどもイエズス様がたてられた教会をその制度を変えることはできません。現実を、真理を変えることはできません。

ですから教皇様は、たとえ教皇様といえども、使徒信経や、ニケア公会議の信仰宣言を否定したりとか禁止したりすることはできません。

同じように、教皇様といえども、教会が二千年間行って愛し信じ実行してきた聖伝のミサを禁止することはできません。教皇様の役割は、信仰を正しく伝えることにあるからです。

【5:遷善の決心】

では最後に選善の決心をたてましょう。キリストは、わたしたちに永遠の命を与えるために、目に見える指導者を与えました。信仰の一致と秘跡の一致と統治の一致をわたしたちに確実にするために、世の終わりまで確実にするために、私たちに教皇様という特別な役割を与えてくれました。それが聖ペトロの後継者です。

キリストが聖ペトロの上にたてた教会は、いまでも続いています。ローマカトリック教会です。一、聖、公、使徒継承の教会です。そしてこの教会に、愛する兄弟の皆さんと私は所属しています。この事実は疑う余地がありません。私たちがなすべきことはただ一つです。イエズス様の聖心の真理を、そして愛のプレゼントをそのまま受け入れて感謝して讃美することです。

では最後にマリア様にお祈りいたしましょう。教会の母であるマリア様にお祈りしましょう。私たちが受けたこの聖心の愛のプレゼントを感謝しそして讃美するとともに、多くの方々がこの教会の懐に入ることができますように、そして永遠の命まで導かれますように、真理を知ることができますように、お祈りいたしましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


天主のために働く支配人としての私たちの使命:私たちは所有物を善き支配人として使用しなければならない

2024年07月15日 | お説教・霊的講話

聖霊降臨後第八の主日の説教 2024年7月14日
イヴォン・フィルベン神父(Fr Yvon Fillebeen)

このたとえ話は、天主の支配人としての私たちの使命を説明しています。私たちは、自分のものであるのが当然だと思っている所有物を持っていますが、このたとえ話は、私たちがその所有物を、支配人として、さらには善き支配人として、使用しなければならないことを教えています。

1)天主の支配人

「ある金持ちに一人の支配人がいた」。このたとえ話の背景を理解する必要があります。私たちの主の時代には、自分の土地のおかげで裕福だった金持ちがいて、土地を持つことは重要な富の源泉でした。そして、そのような財産を十分に持っていた人は、自分自身が働く必要はありませんでした。その人の土地が、その人の生活と家族のための十分な収入源であり、その人の財産の管理を担当する人、つまり支配人を雇うにも十分でした。つまり、その人は、自分の土地からの収入を受け取る以外には、何もする必要がなかったのです。支配人がその人のために働いていたのです。

 これが、このたとえ話の背景です。また、これは、私たちの人生も表すものです。天主は、この土地の所有者のようなものであり、私たちはこの支配人のようなものです。私たちは、天主の富を管理するために、天主から使命を受けました。それが、創世記に書かれていることです。天主は宇宙を創造されたあと、アダムとエワ【「エワ」とはラテン語による発音による】にこう命じられました。「天主は人間を祝福して仰せられた、『生めよ、ふえよ、地に満ちて、地を支配せよ』」(創世記1章28節)。また、次の章にはこうあります。「主なる天主は人間をとらえてエデンの園に置き、そこを耕させ、守らせられた」(創世記2章15節)。

ですから、私たちの所有物は、天主によって与えられた富だと考え、私たちは善き支配人だと考えなければなりません。

2)天主はご自分の栄光を現すために私たちの協力を望んでおられる

天主はなぜ、そのように行動されるのでしょうか。天主はなぜ、支配人として天主に協力しなければならない私たちに頼られるのでしょうか。天主はご自分だけで、すべてを行うことがおできにならなかったのでしょうか、天主はこんなに貧弱な道具に頼らざるを得なかったのでしょうか。もちろん、天主はそうせざるを得なかったのではなく、そのように行動しようと決心されたのです。天主が怠惰で働きたくなかったからではなく、その方法が私たちのためにも、天主の栄光のためにも、最善のものだったからなのです。

そうです、天主の栄光のためには、人類と協力する方が良かったのです。しかし、はっきりしていることは、いずれにせよ、天主は私たちの協力をいささかも必要とされていない、ということです。天主は完全であり、ご自身の中にすべての完全性を備えておられます。私たちは、天主のその栄光を、「内的栄光」と呼んでいます。この栄光は、私たちとは何の関係もなく、私たちがそれを変えることはできません。しかし、神学が「天主の外的栄光」と呼ぶものもあり、それは天主の栄光そのものではなく、その現れなのです。人間の協力によって、この栄光、天主の栄光の輝きは、さらに良く、さらに明白に、さらに輝くようになることが可能になるのです。天主がすべてを創造されたのは、ご自分の栄光を表明し、現すためであり、また、この現れに協力する人間に幸福をもたらすためだったのです。

ですから、もちろん、天主の栄光は私たちの行動によって変わるものではありませんが、私たちの行動が天主の栄光をさらに明白にし、輝かせ、あるいは逆に、あまり輝かなくさせているのです。例えば、欧州のキリスト教世界は、現実の欧州の国々よりも、天主の栄光をよく表しました。今ではもう、美しいゴシック建築もなく、聖トマス・アクィナスもおらず、あるのは無神論的な建築、無神論的な政府です。それによって天主ご自身が害を受けられるわけではありませんが、天主の栄光は、その地域ではもはやあまり明白ではなくなっています。それは、その外的な栄光にとって悲しいことですが、祖先よりもずっと暗い時代を生きているこれらの国の人々にとっては、さらにずっと悲しいことです。

しかし、どうすれば私たちは天主の善き支配人になれるのでしょうか。それが、このたとえ話の教えです。

3)善き支配人は物質的な富を霊的な目的で使用する

善き支配人と悪しき支配人がいて、使命を果たす支配人と果たさない支配人がいます。私たちのミサの福音の支配人は、その両方です。たとえ話の冒頭では、彼は後者に当てはまります。彼は主人の財産を「使い込んでいた」。彼は主人の財産を自分の楽しみのために、物質主義的な生き方のために使っていたのです。天主のことをまったく考慮せずに生きている人々や国々も同じです。彼らは、天主によって与えられた富を、ただ自分の好きなように使っています。私たちも、しばしばそのような状況に陥り、何も考慮せずに自分の楽しみのためだけに財産を使っているのです。

そしてこの人は、裁きが迫っていることを理解したため、突然行動を変えました。「おまえの会計の報告を出せ」。私たちは皆、悪しき支配人も善き支配人も裁かれるのです。この人はそのことを理解し、善き支配人になりました。この人は今、何をしようとしているところでしょうか。

この人は行動を改め、今では主人の財産を使って他人の負債を減らしています。それは、霊的な目的のため、つまり善を行うため、他人を助けるため、という意味です。そして主人は、それを喜びました。「主人は、この不正な支配人を褒めた」。天主は、私たちが託された富を霊的な目的のために使うとき、たとえその富がある程度減少したとしても、喜んでくださいます。物質的な富を霊的な目的のために使う人、それが善き支配人なのです。

天主は、多かれ少なかれ私たちの状況に応じて、物質的な財産を私たちに託されましたが、それは、純粋に物質主義的に使うためではなく、霊的な目的のために使うためです。その条件で、私たちは天主の支配人としての仕事を果たし、天主に協力し、天主の栄光を現すのです。逆に、純粋に物質主義的に使用すれば、天主の栄光の光はさえぎられるのです。

私たちは、本当に物質主義的な社会にいるため、自分の財産をどのように使うかを識別しなければなりません。それは、本当に霊的な目的のためだろうか、と。


真の喜び、多様な多くの喜び、永遠の喜び、境界も限界もない喜びである至福直観がえられる、真の故郷にたどり着きたいと願望する:天主にお会いしたい!

2024年07月15日 | お説教・霊的講話

聖霊降臨後第七の主日 ― 永遠の至福(2024年、大宮および大阪)

ワリエ神父 2024年7月7日

「罪の払う報酬は死である。しかし、天主の賜物は、われらの主キリスト・イエズスにおける永遠の命である」(書簡より)。
「子らよ、来て、私の言うことを聞け。私は、[子として]主をおそれることを、あなたたちに教えよう。主を見つめよ、そうすればあなたたちは喜びで輝き、あなたたちの顔は恥で赤らむことはないであろう」(昇階誦より)。
「すべての民よ、手を打って、天主に喜びの叫びを上げよ」(アレルヤ誦より)。

*************************

親愛なる兄弟の皆さま、

至福直観のことを思うと、私たちは、真の故郷に到達したいという願いを抱きますが、それは次の三つの理由からです。

1.真の喜びという理由からです。「あなたたちは見るであろう。そうすれば、あなたたちの心は、甘く楽しい光のゆえに喜ぶであろう」(イザヤ書より)

聖母を見た後の聖ベルナデッタや、ラ・サレットのメラニーの例を挙げてみましょう。それはまるで、一目で恋に落ちるようなものでした。

2.(至福直観のことを思うと、私たちは、真の故郷に到達したいという願いを抱くのは、)多様あるいは多くの喜びからです。「そのとき、おまえは見て、豊かになり、おまえの心は高鳴り、数々の海がおまえに集まるとき、お前の心はひろがるであろう」(イザヤ書より)。

なぜなら、「私たちは天主をそのまま見る」【ヨハネ第一書3章2節】のであり、天主はすべての人にとってすべてのものとなられるからです。実際、天主は、「知性」に対しては満ちる光となられ、「意志」に対しては豊かな喜びとなられ、「記憶」に対しては継続する永遠となられるのです。

美を観想することは、絵画、建物、自然、物理的な美、道徳的な美など、実に多様です。

3.(至福直観のことを思うと、私たちは、真の故郷に到達したいという願いを抱くのは、)私たちがそこに到着したときに私たちを待っている喜びが永遠であるからです。「しもべたちは天主に仕え、天主の御顔を仰ぎ、天主とともに永遠に君臨する」(黙示録より)。

ここ地上では、私たちは、愛や繁栄…が永遠に続くという地上の楽園を夢見ます。

天国では、至福の人々は、永遠に幸福を享受することが完全に保証されています。天国のすべての聖人の霊魂を満たす思いは、何と魅惑的なことでしょうか。彼らの幸福を妨げるものは何一つないのです。永遠に、一瞬たりとも!

私たちは、永遠について、【それが何であるという】肯定的な考えを抱くことはできませんが、【何でないという】否定的な考えと呼ばれる考えを持つことはできます。永遠とは、海のように私たちの前に広がる持続する期間ですが、境界も限界もないのです。

天主の創造物を見てみましょう。

地球から月までの距離は約385,000キロです。
地球から太陽までの距離:約1億5千万キロ(地球から月の395倍以上)です。
地球から火星までの距離:約1億7500万キロです。
太陽や火星に到達するには何年もかかります。私たちは、これらの計算に驚きます。数には限界があり、宇宙には限界があります。しかし、永遠には限界がありません。

*************************

黙示録で、聖ヨハネはこう述べています。「それから私は新しい天と地を見た。最初の天と地は過ぎ去り、海ももうない。私は、聖なる町、新しいエルサレムが、花婿のために装った花嫁のように整えられ、天主のみもとから天より下るのを見た。そのとき私は、玉座から出る大声がこう言うのを聞いた。『見よ、人とともにある天主の家がこれである。天主は、人の天主として、人とともに住まわれる。人は天主の民となり、天主ご自身が人とともにいて、人の目から涙をことごとくぬぐわれる。死はもうなく、悲しみも叫びも苦労もなくなる。最初のものが過ぎ去ったからである』」。

「父よ、あなたが私に与え給うた人々が、私のいる所に、私とともにいることを望みます。それは、あなたが私に与え給うた栄光を、彼らに見せるためであります」(聖ヨハネ福音書より)。

親愛なる兄弟の皆さま、

アヴィラの聖テレジアは、幼い子どもだったときすでに、「天主にお会いしたい」というただ一つの願いしか持っていませんでした。

聖アウグスティヌスはこう宣言します。「すべての顔が太陽のように輝くとき、聖人たちの喜びはいかに大きいことだろうか![シナイ山から下りてきたモイゼのことを考えよ!] 主が、御父の王国でご自分の民を調べ始められ、各人の功績に応じて、約束された報いを与えられるときである。主が、ご自分の聖人たちを御父の栄光の幻視へと導き、その聖人たちに天の住まいにあるそれぞれの場所を割り当てられるとき、ああ、実に、それは至高の幸福であろう。天主が永遠に、彼ら全員にとっての、すべてにおけるすべてとなられるのだから」。アーメン。


7月15日(月・海の日)午前10時半から聖伝の荘厳ミサがあります

2024年07月12日 | 聖伝のミサの予定

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

大宮の聖なる日本の殉教者聖堂で午前10時半から荘厳ミサが捧げられる予定です。

司式司祭:ワリエ神父、助祭:小野田神父、副助祭:フィルベン神父

午後三時からは日比谷公園でマーチフォーライフがあります。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


皆さんは日本でのマーチ・フォー・ライフに参加されます。心から感謝します。2024年7月15日 日比谷公園に 15:00集合!

2024年07月06日 | プロライフ

マーチフォーライフ in 東京 2024年7月15日 日比谷公園に 15:00集合!主催:マーチフォーライフ委員会

そうです、皆さんは、もうすぐ日本でのマーチ・フォー・ライフに参加されます。心から感謝します。
フランスでは 2022年、23万4千件の人工妊娠中絶が行われ、2024年3月8日、私たちの大統領はこの行為を憲法に追加し明記しました。
 
しかし、私たちはあきらめません。私たちは、幼い子どもたちの命を守るための闘いを続けています。
日本では年間14万件の人工妊娠中絶が行われています。だからこそ、日本という文明社会にとって、すべての命が最初から最後まで生き、守るに値するものであることを思い出さなければなりません。
 
さあ、7月15日午後3時、日比谷公園に集いましょう。弱者を守ることは素晴らしいことなのですから。
 
7月15日(月・祝 海の日)
午後3時 日比谷公園 幸門集合  
出発は午後3時30分
弾正橋で記念写真と流れ解散の予定
 
 

天主のあわれみを得るための条件:悔い改めを促し罪を放棄させること?それとも、罪深い状況の中で安心させ慰めること?

2024年07月06日 | お説教・霊的講話

聖霊降臨後第六の主日 ― 真のあわれみと偽りのあわれみ

ワリエ神父 2024年6月30日

「Misereor super turbam」――「私は群衆があわれでならぬ」【マルコ8章2節】。

あわれみを意味するラテン語の言葉は、「MISERI/CORDIA」、つまり、「みじめさ」と「心」という二つの単語に由来します。これは、他人のみじめさを心からあわれむことです。
私たちは天主のあわれみについてよく耳にします。「天主のあわれみ」という表現はどこにでもあります。

しかし、私たちはそれを正しく理解しているでしょうか。

エリヒ・プリープケは、有罪判決を受けた第二次世界大戦のナチス戦犯で、335人のイタリア民間人の死に責任があり、また自らが二人を射殺したことを認めていました。
しかし、彼はカトリックに改宗し、自分の罪を告白してそれを後悔し、牢獄でその罪を償いました。
2013年10月、彼は秘跡を受けた後に亡くなりました。
バチカンは、彼の葬儀を、いかなるカトリック教会でも執り行うことを禁ずるという前例のない措置を発表しました。

その数カ月前、教皇フランシスコは同性愛者について語り、こう宣言していました。「わたしが裁くことなど、できるでしょうか」。

それにもかかわらず、一人の悔い改めた戦犯はカトリックの葬儀を拒否されました。
聖ピオ十世会は、メディアからの攻撃にもかかわらず、彼の葬儀を挙行しました。

あわれみについてずいぶん多くのことを語る教皇と、あわれみのわざの一つである「死者を葬ること」を行った聖ピオ十世会とでは、どちらが真にあわれみ深かったのでしょうか。

教皇フランシスコは、常にあわれみについて語っています。しかし、教会はこれまであわれみを、そのように理解したことは決してありませんでした。そのことについて、私たちの総長は以下の一節で説明しています。」

「あわれみは、もはや、悔い改めた罪人を両手を広げて迎え入れ、その罪人を再生させ、成聖の恩寵の生活に戻すという、愛の天主の対応ではありません。あわれみは、今や、現代人の緊急の要請を満たすために必要となった、運命的なあわれみとなってしまったのです。それ以来、人は、自然法さえも尊重することができないと見なされ、そのため、このようなあわれみを受ける厳格な権利を持つこととされるのです。そのあわれみとは、もはや歴史を支配せず、自らを歴史に適応させるような天主からの、見下した恩赦のようなものになってしまっているのです。」

「(教会が)聖体拝領について、現代人が耐え難い不寛容とみなす、以前と同じ条件をもはや人に課すことができないとすれば、この論理に従うならば、唯一の現実的かつ真にキリスト教的な対処法は、この状況に適応して、聖体拝領の必要条件を再定義することになってしまうのです。カトリック信者は今、この世の道徳を採用するか、あるいは、少なくとも場合に応じて、離婚して「再婚した」カップル、そして同性カップルさえも含む現在の道徳に、道徳律を適応させることとされているのです。
このようにして、危機に瀕した霊魂は、自分の信仰の中で、励まされ、強められる代わりに、自らの罪深い状況の中で、安心させられ、慰められているのです。そうすることで、信仰の守護者は、自然の秩序さえ廃止してしまうのです。つまり、まったく何も残らないのです」(パリャラーニ神父)。

教皇フランシスコのインタビュー本「神の名はいつくしみ」(The Name of God is Mercy)を読むと、雄弁な沈黙がいくつかあるのが衝撃的です。以下のことには、一言も触れていないのです。

  • 悔悛者には、罪の償いが必要であること。
  • 聖年の贖宥で、有限の罰が赦されること。
  • 罪の機会に近づくのを避けること。
  • 死の時、天主の審判を受けること。

悔悛の秘跡のあわれみについてこれほど頻繁に扱っている本ならば、悔悛者の義務について、特に行動を改めるという固い決心の必要性や、あるいはキリストのいくつかの厳しい発言を思い起こさせることによって、厳格さに欠ける解釈を排除するような境界線についての明確な説明があることを、読者は期待していたことでしょう。

(教皇がよく使う)ユダの例を見てみましょう。ユダはただ自分を恥じていただけで、天主に対して罪を犯したことを、超自然的に悔いていたわけではありません。

悔い改めた罪人であることが、天主のあわれみを得るための条件なのです。

教皇フランシスコのあわれみの概念は、行動を改める、あるいは痛悔するという固い決心とは関係なく、赦しを得るためには信仰のみが必要だとする、プロテスタントのあわれみの概念に似ています。したがって、このインタビューを読むと、自分が罪人であることを認める人のうち、いったい誰が地獄に落ち得るのか、私たちには分かりません。ちなみに、地獄については、明示的にも暗黙にも、まったく言及されていません。(フランソワ=マリー・ショタール神父)

「もう罪を犯すな」と、キリストは福音書の中で繰り返し言われました。
ですから、私たちは痛悔の祈りでこう唱えるのです。「われ、聖寵の助けをもって、わが罪を告白し、償いをなし、生活を改めんと決心し奉る」【公教会祈祷文では、「われ、聖寵の助けをもって今より心を改め、再び罪を犯して、御心に背くことあるまじと決心し奉る」】。

福音書中の崇高な場面(例えば、姦淫の女や放蕩息子など)での救い主の無限のあわれみを強調することは重要ですが、他のすべてのより厳格な箇所を体系的に無視することは、罪や贖い、したがってさらにはあわれみについての教理において、バランスを欠いたものになってしまいます。

童貞聖マリアは、「あわれみの御母」と呼ばれています。聖母のあわれみ深い厳しさを見てください!
悔い改めの重要性について、ルルド、ポンマン、ファチマで聖母がしばしば繰り返された訴え。
・ファチマで子どもたちに示された地獄の幻視。
このすべては、「われらを地獄の火より守る」という天主のあわれみ深い計画の一部なのです。

ですから、親愛なる兄弟の皆さま、謙遜と熱意をもって、御血の連祷の次の祈りを繰り返しましょう。

われらの救霊の代価なるキリストの御血、われらを救い給え。
罪の赦しの条件なるキリストの御血、われらを救い給え。
悔い改むるものの希望なるキリストの御血、われらを救い給え。

世の罪を除き給う天主の小羊、主われらを赦し給え。
世の罪を除き給う天主の小羊、主われらの祈りを聴き容れ給え。
世の罪を除き給う天主の小羊、主われらをあわれみ給え。


聖霊降臨後第五の主日のミサ:天主への愛、すべてにおいてすべてにまさって天主を愛する。心を一つにして、互いにあわれみを示す。

2024年07月06日 | お説教・霊的講話

聖霊降臨後第五の主日 ― 今日のミサにおける「愛」

ワリエ神父 2024年6月23日

今日のミサの中で、母なる教会は、キリスト教の徳の中で最も尊いものである愛――天主への愛と隣人への愛――を育み、大切にするよう私たちに勧めています。

この私たちの兄弟に対する愛の土台は、天主への愛です。

ですから、集祷文の中で、私たちはこう祈ります。「天主が私たちの心にこの天主への愛の火を増やしてくださり、私たちがすべてにおいて、またすべてにまさって、天主を愛することができますように」。他者への愛徳は、天主への私たちの愛の現れにほかなりません。

今日の書簡の最初の言葉は、キリストのように生きる共同生活のための計画全体を示しています。「あなたたちはみな、心を一つにせよ。互いにあわれみを示せ」。

私たちが孤立した個人としてではなく、教会という大家族との交わりの中で救いを実現することが、キリストの御旨です。私たちは一つの体を形作っており、この体の肢体として、互いに助け合います。しかし、私たちが形作っているのは、カトリック教会という一つの大きな共同体だけではありません。私たちはまた、自分たちが小教区というもっと小さな単位の一部であることも感じなければなりません。そのような意識から、個人的な徳と社会的な徳の両方に対する最高の刺激が生まれ得るのです。私たちキリスト信者は、共に祈り、共に犠牲を捧げるべきであり、互いに思いやり、互いに気遣うことで、互いに啓発し合うべきです。

また書簡の中で、聖ペトロは心の中でキリストに賛美を捧げるようにと語っています。これは隣人に対する真の愛がなければ不可能なことです。実際、私たちが天主に捧げることのできる最高の賛美は、たとえ他人が私たちに危害を加えたとしても、その他人の中におられる天主を愛することです。なぜなら、私たちは皆、キリストにおいて洗礼を受けたのであり、キリストは体全体の共通のかしらであるからです。

福音の中で、キリストは隣人愛について真剣に語っておられます。キリスト教共同体では、兄弟を憎むことは殺人に等しいものであり、天の御父は悪意を抱く子どもからは供え物を受け取られません。

聖ヨハネ・クリゾストモはこう言っています。「姦淫者や冒涜者が聖なる食卓にあずかることができるとは想像できないように、敵がいて悪意を抱く者がご聖体を受けることは不可能である。(中略)私は、すべての人がこれを聞くように、警告し、証言し、宣言する。敵がいる者には、聖なる食卓に近づかせることも、主の御体を受けさせることもあってはならない。あなたには敵がいるか。では、近づくな。あなたは近づきたいか。では、和解してから近づけ。聖なる捧げ物に触れるのは、そのあとでなければならない」。

私たちは、祭壇に捧げ物をする前に、兄弟が私たちに対して犯したすべての罪を赦さなければならないと言われています。

この愛を得る手段は、聖体拝領誦に暗示されています。「私は、一つのことを主に願い、何よりもそれを望んだ。それは、生涯、主の家に住むことである」。天主の近くに、すなわち天主の家にとどまる者は、常に天主への愛のうちに歩み、それゆえキリストにおける兄弟たちを愛するのです。

親愛なる兄弟の皆さま、天主と隣人への愛は、キリスト教に特有のものです。私たちが住んでいる異教的な環境の中で、私たちの模範を通してそれを宣べ伝えましょう。アーメン。


2024年7月3日は、7月の初水曜日(月の初めての水曜日)です 聖ヨゼフ!我らのために祈り給え

2024年07月03日 | カトリック・ニュースなど

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日、2024年7月3日は、勤労者聖ヨゼフの祝日、七月の初水曜日(月の初めての水曜日)です。聖母の汚れなき御心と聖ヨゼフとの取り次ぎを通して、私たちの主の御聖体に対する冒瀆的な取り扱いに対する償いを捧げましょう。

また、聖ヨゼフに、東京に聖伝のミサの聖堂が与えられたことを感謝しましょう!

初水曜日ですからいつものように「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」について黙想することをご提案します。


聖ヨゼフはこの世で天主イエズス様と浄配なる聖母マリア様を最も良く知り、愛された御方であり、その隠れた徳ゆえに偉大なる御方、イエズス様とマリア様の最大の命の恩人であられました。

また、聖ヨゼフは、この世では、全てを天主の栄光のために、隠れてその生涯をささげられたが故に、天にて聖母の次に最大の栄光をあたえられていらっしゃいます。

聖伝では、水曜日は聖ヨゼフに捧げられた曜日であり、月の最初の水曜日を聖ヨゼフに捧げることで、聖ヨゼフを讃え、その御取次に信頼し、その御徳に倣って、聖ヨゼフを通して、天主イエズス様とマリア様をお愛しすることができますように。

初土曜日の「聖母の汚れ無き御心」への信心にならって、この「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」のどれかを「15分間黙想」することにいたしましょう。

聖ヨゼフの帯の信心については、下記リンクをごらんください。
聖ヨゼフの帯 cingulum Sancti Joseph

聖ヨゼフの御取次ぎにより、聖母の汚れ無き御心とイエズスの至聖なる聖心ヘの愛をますます与えてくださいますように!
聖ヨゼフの御取次ぎにより豊かな祝福がありますように!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


聖ヨゼフの7つの苦しみと喜び

1 ああいと潔き御母マリアの浄配、栄えある聖ヨゼフよ、御身のいと清き妻を失なわんと心に思い煩いし時の苦しみはいと大いなるものなりき。
されど天使が御託身の玄義を御身に伝えられし時の喜びは、またひとしお大いなりき。この苦しみ、この喜びにより、今も臨終の時も我らの心を潔き良心の喜びと、イエズス、マリアのうちに自我を滅する尊き御身の心を示し、我らを慰め給え。



2 ああいと幸いなる保護者聖ヨゼフよ、御身は人となり給いし御言葉の潔き養父の位にあげられたれども、御身は幼きイエズスがいと貧しき中に生まれ給うを見て大いに悲しみ給いしが、
天使らのたえなる歌声を聴き、その輝ける夜の栄えを見給うや、その悲しみは天的の喜びと変じたり。御身のこの悲しみ、この喜びによりて、我らもまたこの世の歩みを終えたる後、天使らの賛美の歌声を聴き、天的光栄の輝きを受け得んことを願い奉る。



3 ああ御摂理にいと従順なしもべなる、栄えある聖ヨゼフよ、幼きイエズスが割礼にて流されたる尊き御血は御身の心を苦痛もて貫きたれども、
イエズスと命名されるや御身の心は喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らをこの世の悪徳より離れしめ、イエズスのいと尊き御名を心から唱えつつ心満たされてこの世を去るを得しめ給え。



4 ああいと忠誠なる聖ヨゼフよ、御身は救世の玄義の成就に身をもって大いなる役を果たされしが、シメオンの預言によりイエズスとマリアが受け給うべき苦難を予知せられ苦しみ給いたれど、
数限りなき人々の霊魂がこれによって救わるるとの預言によりて、天的喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らがイエズスの功徳と聖母マリアの御取次ぎにより、終わりなき栄えを得てよみがえる人々のうちに数えられる御恵みをとりなし給わんことを願い奉る。



5 ああ人となり給いし天主の御子のいとも注意深き保護者なる栄えある聖ヨゼフよ、御身はいと高きものの御子を養い給い、これに仕えるために多くの辛酸をなめられたり。わけてもそのエジプトへの逃避はいと苦しきものなりしが、
御身が常に天主御自身と共におられし喜び、またエジプト人らの諸々の偶像が地に落とされしを目の当たりに見られし時の安心はいと大いなりき。この御身の辛酸と喜びとによりて、我らが地獄的暴君より免れて、わけても危険なる機会より逃避する事を得しめ、我らの心のうちに地上的執着が落とされ、ひたすらイエズスとマリアに仕え奉りつつ日々の生活を送り、この世を幸いに終わる事を得しめ給え。



6 ああこの地上の天使なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の心を天の王に全く捧げられたり。御身がエジプトより戻られる喜びは、アルケラウスに対する憂慮にて不安の闇となりしが、
天使は再び御身にイエズスとマリアと共にナザレトにて楽しく住み給う事を約束せられたり。御身のこの苦しみ、この喜びによりて、我らの心を深い恐怖より免れしめ、潔き良心の平和を楽しみ、イエズスとマリアと共につつがなく世を送り、臨終においてはイエズスとマリアの御手に我らの霊魂を捧ぐる事を得しめ給え。



7 ああ全ての徳の鑑なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の誤りにあらずして幼きイエズスを見失い、三日の間苦しみもて捜し求められたり。
されど神殿の中に博士らに取り巻かれたるイエズスを見出されし時の喜びはいかに大いなりや。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らが大罪を犯しイエズスを失いたりせば、たゆまず彼を捜し求め、遂に再び巡り会えるよう、わけても臨終の時に彼と共にありて天国に至り、御身と共に天主の終わりなき御恵みを賛美し奉るようとりなし給わんことを心から願い奉る。



交唱 イエズスが教えをはじめたりしは三十歳ごろなり、人々、イエズスをヨゼフの子なりと思いたり。(ルカ3:23)

V 聖ヨゼフ、我らの為に祈り給え。
R キリストの御約束に我らをかなわしめ給え。

祈願 天主、御身のかしこき御摂理のうちに祝せられたヨゼフを至聖なるマリアの浄配に選び給いたれば、願わくはこの世の我らの保護者として崇め奉る彼が、我らの天のとりなし手となり給わんことを。 アーメン。

参考リンク
サンタフェ~奇跡の階段 コラレス通り1丁目 この記事に昔の階段の様子の写真があります。

聖ヨゼフの階段(アメリカのニューメキシコ、サンタ・フェにあるロレット・チャペル)



英語ではこちら。
THE SEVEN DOLOURS AND SEVEN JOYS.

i. St. Joseph, pure spouse of most holy Mary, the trouble and anguish of thy heart were great, when, being in sore perplexity, thou wast minded to put away thy stainless spouse: but this joy was inexpressible when the archangel revealed to thee the high mystery of the Incarnation.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee comfort our souls now and in their last pains with the consolation of a well-spent life, and a holy death like unto thine own, with Jesus and Mary at our side.
Pater, Ave, and Gloria.

ii. St. Joseph, Blessed Patriarch, chosen to the office of Father of the Word made Man, the pain was keen that thou didst feel when thou didst see the Infant Jesus born in abject poverty; but thy pain was changed into heavenly joy when thou didst hear the harmony of angel-choirs, and behold the glory of that night when Jesus was born.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee obtain for us, that, when the journey of our life is ended, we too may pass to that blessed land where we shall hear the angel-chants, and rejoice in the bright light of heavenly glory.
Pater, Ave, and Gloria.

iii. St. Joseph, who wast ever most obedient in executing the law of God, thy heart was pierced with pain when the Precious Blood of the Infant Saviour was shed at His Circumcision; but with the Name of Jesus new life and heavenly joy returned to thee.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, being freed in our life from every vice, we too may cheerfully die, with the sweet Name of Jesus in our hearts and on our lips.
Pater, Ave, and Gloria.

iv. St. Joseph, faithful Saint, who wast admitted to take part in the redemption of man; the prophecy of Simeon foretelling the sufferings of Jesus and Mary caused thee a pang like that of death; but at the same time his prediction of the salvation and glorious resurrection of innumerable souls filled thee with a blessed joy.
By this thy sorrow and thy joy, help us with thy prayers to be of the number of those who, by the merits of Jesus and his Virgin Mother, shall be partakers of the resurrection to glory.
Pater, Ave, and Gloria.

v. St. Joseph, watchful Guardian, friend of the Incarnate Son of God, truly thou didst greatly toil to nurture and to serve the Son of the Most High, especially in the flight thou madest with Him unto Egypt; yet didst thou rejoice to have God Himself always with thee, and to see the overthrow of the idols of Egypt.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us grace to keep far out of the reach of the enemy of our souls, by quitting all dangerous occasions, that so no idol of earthly affection may any longer occupy a place in our hearts, but that, being entirely devoted to the service of Jesus and Mary, we may live and die for them alone.
Pater, Ave, and Gloria.

vi. St. Joseph, angel on earth, who didst so wonder to see the King of heaven obedient to thy bidding, the consolation thou hadst at His return was disturbed by the fear of Archelaus, but nevertheless, being reassured by the angel, thou didst go back and dwell happily at Nazareth, in the company of Jesus and of Mary.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, having our hearts freed from idle fears, we may enjoy the peace of a tranquil conscience, dwelling safely with Jesus and Mary, and dying at last between them.
Pater, Ave, and Gloria.

vii. St. Joseph, example of all holy living, when, though without blame, thou didst lose Jesus, the Holy Child, thou didst search for Him for three long days in great sorrow, until with joy unspeakable thou didst find him, who was as thy life to thee, amidst the doctors in this Temple.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee with our whole heart so to interpose always in our behalf, that we may never lose Jesus by mortal sin; and if (which God avert) we are at any time so wretched as to do so, that we pray thee to aid us to seek Him with such ceaseless sorrow until we find Him, particularly in the hour of our death, that we may pass from this life to enjoy Him for ever in heaven, there to sing with thee His divine mercies without end.
Pater, Ave, and Gloria.

Ant. Jesus Himself was about thirty years old, being, as was supposed, the son of Joseph.

V. Pray for us, holy Joseph.
R. That we may be made worthy of the promises of Christ.

Let us pray.
O God, who in Thine ineffable providence didst vouchsafe to choose blessed Joseph to be the husband of Thy most holy Mother; grant, we beseech Thee, that we may have him for our intercessor in heaven, whom on earth we venerate as our holy protector. Who livest and reignest world without end. Amen.


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】