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Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

聖霊は、癒やしや奇妙な異語などを通してではなく、聖霊の賜物として教会の中に現存しておられる

2024年07月31日 | お説教・霊的講話

聖霊降臨後第十の主日の説教

イヴォン・フィルベン神父

親愛なる信者の皆さま、

先週の主日の福音を覚えておられますか。私たちの主が、エルザレムの町と神殿が崩壊することを予言しておられました。それは、ユダヤの民の中心となる人々が、主を受け入れるのを拒否したためでした。

それは実に悲しいことでしたが、天主は偉大なお方ですから、エルザレムの神殿よりもはるかに良いもの、すなわち聖なる教会を与えてくださいました。教会は聖霊の住まわれる場所ですから、新しく、より良い神殿なのです。

また、教会の一員として、皆さまも神殿なのです。聖パウロは、そのことをたいへんはっきりと、こう言っています。「あなたたちが天主の神殿であり、天主の霊はあなたたちの中に住み給うことを知らないのか」(コリント前書3章16節)。私たちが成聖の恩寵の状態にあるならば、私たちの霊魂は聖霊の神殿です。しかし、聖霊は、私たちの中で、どのように働いておられるのでしょうか。その点について、今日の書簡を注意深く見てみましょう。

1)コリントの共同体

聖パウロは、コリントの教会で当時起こっていたことを描写しています。知恵の言葉、知識の言葉(コリント前書12章8節)、癒やし(同9節)、奇跡(同10節)、預言、異語による祈り(同10節)など、確実に明らかな聖霊の現れがたくさんあった珍しい場面でした。私たちにとって、これはかなり珍しい状況であり、これらは、教会であまり見られないものです。しかし、私たちが心に留めておかなければならないのは、これらのことは、カトリック教会の始まりに起きた現実であり、カトリック教会の歴史の始まりにおいては、聖霊がこのように働いておられたということです。コリント人への書簡で、聖パウロは、第一世代のカトリック信者に向けて書いており、彼らはまったくの異教出身だった人々です。聖パウロはこう述べています。「あなたたちが異教徒であったとき、夢中になっておしの偶像のもとに行っていたが、身に覚えがあろう」(同2節)。

これらの第一世代のカトリック信者に対して、天主は、教会の中に聖霊が現存しておられることを示す数多くの力強いしるしを与えられました。それは、教会の始まりのために与えられた恩寵だったのです。なぜなら、異教徒やユダヤ人の中で少数派のカトリック信者にとって、始まりは困難なものだったからです。これらは天主から与えられた本当の恩寵でしたが、始まりのためだけのものでした。その始まりの後も、もちろん聖霊の現存は教会の中で続きましたが、その方法は異なっていました。この書簡にあることは、私たちが今、聖霊に期待しなければならないことを描写しているのではありません。

2)カリスマ運動

いわゆる「カリスマ運動」に引っかからないようにしてください。私たちは初代教会で起こったことのまねをしなければならないと、この人たちは考えているのです。カリスマ運動はプロテスタントの運動ですが、今や教会に侵入しています。私が行ったアジアの多くの国々、中国、台湾、フィリピンなどで、この運動の重大性を目にしてきました。多くのカトリック信者が、この運動によって信仰を失っています。この運動のメンバーは一般的に、20世紀まで、カリスマ運動が始まるまで、聖霊は教会から忘れられていたと言うのです! 彼らは、カトリック教会のまさに始まりに存在したすべての実践を復興させたいと思っており、彼らの集会では、多くの奇妙なことを行っています。それは、意味のない言葉による祈り、失神する人たち、いわゆる奇跡などです。

どうして、聖霊が教会から忘れ去られてしまったなどということがあり得るのでしょうか。聖霊の現れは教会の歴史とともに変化してきましたが、聖霊はずっと教会の中におられました。私たちは、コリントのカトリック共同体で起こったことを再現する必要はなく、むしろ今日、聖霊が教会の中でどのように働いておられるかを理解する必要があります。

3)聖霊の賜物

では、聖霊は、教会の中でどのように働いておられるのでしょうか。聖霊は、おもに癒やしや奇妙な異語などを通してではなく、聖霊の賜物として、つまり上智、聡明、賢慮、剛毅、知識、孝愛、敬畏の賜物として教会の中に現存しておられるのです。この賜物は七つあり、洗礼の秘跡によって与えられ、堅振の秘跡によって強められます。それとは別の特別な儀式は必要ありません。なぜなら、聖霊の賜物は私たちの洗礼の構成要素であり、洗礼とともに与えられるからであり、私たちが成聖の恩寵の状態にあるならば、私たちには七つの賜物があり、その賜物は、私たちの霊的生活の通常の構成要素だからです。

しかし、多くのカトリック信者は、その賜物を無視しています。それは悲しいことです。なぜなら、その賜物は私たちの救いの構成要素であり、救われるためには聖霊の賜物が必要だからです。その賜物は、特別に「霊的な」人たちにのみ特別に与えられるものではありません。そうではなく、その賜物は、私たちが天主に近づき、聖化されるための、私たち、普通の人々のためのものなのです。

なぜなら、私たちは、徳と賜物という二種類の道具の助けによって天主に近づくからです。超自然の徳とは、洗礼によって与えられる天主に向かって行動する能力のことであり、成聖の恩寵の状態にある霊魂のうちに保たれています。この徳は、天主に向かって行動する能力を、私たちに与えます。この徳は、信仰、希望、愛、超自然的な賢明さなどです。

私たちは、徳がなければ救われることはあり得ませんが、徳だけでは十分ではありません。天主は私たちを超えておられ、私たちのすべての行動能力を超えておられます。私たちが天主に近づくためには、天主に導かれなければなりません。「天主の霊によって導かれている人は、すべて天主の子らである」(ローマ8章14節)。

もちろん、霊的生活は、ミサに行くこと、ロザリオを唱えること、祈りを唱えることなど、多くの行動や徳からなっています。それらの行動は、徳のうちの不可欠な部分です。しかし、それは同時に受動的なものでもあります。天主は私のうちに働いておられ、私を導いておられます。天主はそれを、七つの賜物を通してなさっており、その賜物は、私たちが天主に導かれるのを助けてくれます。しかし、そのためには、私たちには沈黙の祈りが必要です(主日のミサの後、5分間行っているようにです)。

親愛なる信者の皆さま、聖パウロが「私たちは天主の神殿である」と言うように、聖霊は教会の中で、また私たちの霊魂の中で働いておられますが、それは、カリスマ運動の人たちの奇妙な祈りによってではなく、その賜物を通してです。そして、これらの賜物を「活動的」に保つためには、沈黙が、沈黙の祈りが必要です。皆さまは、その沈黙と黙想の祈りの時間を、しばしば天主に捧げておられるでしょうか。


自分に責任のない隣人の行いに関わることなく、自分のことだけを考え、自分の過ちを認め、力を尽くしてその過ちを改めようとする人は幸い!

2024年07月31日 | お説教・霊的講話

聖霊降臨後第十の主日 ― 軽率な判断 アルスの聖なる司祭(2024年、札幌)

ワリエ神父 2024年7月28日

「天主よ、私は、他の人のように、貪欲な人、不正な人、姦通する者ではなく、またこの徴税人のような人間でもないことを、あなたに感謝します」(ルカ18章11節)

親愛なる兄弟の皆さま、

これは、高慢な人間の言葉です。自分が重要な人間だという思いに満ちており、隣人を軽蔑し、隣人の行動を批判し、非難するのです。

1.見た目

このファリザイ人は、徴税人の心構えを知ることすらせず、徴税人のことを悪く思い、軽率に判断して、非難するのです。アルスの聖なる司祭によれば、このような意見は、ただ臆測のみに基づくものです。私たちが判断し、批判するのは、どのような根拠に基づくのでしょうか。見た目だけであり、さらに、多くの場合、「そう言われている」からだけに過ぎません。

もし、美しいユディットが喪服を脱ぎ、自然や芸術が提供するあらゆるもので身を包み、その並外れた美しさを増すのを皆さんがご覧になったなら、彼女が敵の居室に入り、見た目には敵に好かれようと努力するのを見て、「なんて悪い女なんだ!」と叫んだことでしょう。その反対に、旧約聖書にあるように、彼女は敬虔なやもめであり、貞淑で天主をお喜ばせする女性であり、このようにして、自分の民のためにみずからの命を危険にさらしたのでした。

2.高慢とねたみ

このファリザイ人は、その高慢と悪意から、徴税人を自分と比較します。
実際、軽率な判断は、高慢とねたみに満ちた悪しき心からしか出てきません。高慢でねたみ深い人は、自分だけを高く評価し、隣人のすることはすべて悪しき動機のせいだとします。彼らが隣人の中に見る善は、彼らを怒らせ、いらいらさせるのです。

聖書は、この実例を、カインにおいて示しています。カインは、弟の行動をすべて悪いものと解釈したのです。弟が天主に気に入られているのを見て、カインは弟を殺そうと決心しました。

3.痛悔

最後に、このファリザイ人は徴税人のことを判断し、非難しますが、一方、この徴税人は神殿の隅に引き下がって、胸を打ち、天主の御赦しを懇願します。
軽率に判断すれば、私たちは、このファリザイ人の悪意のまねをすることになります。このファリザイ人は、マグダラの聖マリアが泣き、罪を告白し、救い主の足もとにひれ伏すのを見たにもかかわらず、彼女が自分の罪から離れているかどうかを尋ねることなく、悪名高い罪人としか見なかったのです。

聖アウグスティヌスはこう言います。「あなたは、ほんのわずかな口実に基づいて、あえて兄弟のことを判断し、その兄弟がすでに自分の過ちを悔い改めなかったかどうか、再び天主の友の数の中に属しているかどうかを知らない。彼があなたの場所を奪わないように気をつけよ。あなたは、自分の高慢によって、その場所を失うという大いに危険な状態にある」。

結論

隣人を軽率に判断するのは悪しき心だけです。時がたって、またよくよく調べてみて、隣人について言われてきたことが間違っていると分かったとき、私たちが他人を判断したり、他人に厳しいことを言ったりしたことを、しばしば、いえ実際いつも、私たちは反省しなければならないのではないでしょうか。軽率な判断という罪は、批判する者を食い尽くして地獄に導く虫なのです。

親愛なる兄弟の皆さま、

自分に責任のない隣人の行いに関わることなく、自分のことだけを考え、自分の過ちを認め、力を尽くしてその過ちを改めようとする人は幸いです! 天主を恐れることだけに心や精神を尽くし、天主の御赦しをこいねがうことだけに舌を使い、自分の罪に涙することだけに目を使う人は幸いです。


8月2日(初金)、3日(初土)、4日(主日)の三日間、パリオリンピックの開会式でおこなわれた冒涜の償いを行います

2024年07月29日 | 聖伝のミサの予定

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

8月2日(初金)、3日(初土)、4日(主日)には、パリオリンピックの開会式でおこなわれた冒涜の償いの三日間とすることを提案します。

大宮の日本の聖なる殉教者聖堂と、大阪の聖母の汚れなき聖心聖堂で、ミサと聖体降福式が冒涜の償いの意向で行われます。

預言者イザヤの一節(18:2)を解説して、聖ヒエロニモは、冒涜よりも恐ろしいものは何もない。全ての罪は冒涜と比較するならより軽い罪だ。nihil enim horribilius blasphemia, quae ponit in excelsum os suum. ... omne quippe peccatum comparatum blasphemiae, levius est. と言っています。

聖トマス・アクィナスによると、冒涜とはもっとも重い犯罪です。
殺人と冒涜とを比較すると、まず罪の対象に関して、冒涜の方が殺人よりも重い罪であると言います。何故なら、冒涜は直接天主に反するものですが、殺人は隣人に(人間)に関するものだからです。【危害の観点について言えば、隣人を殺害する方が、天主に加える危害よりも大きい。】
しかも、罪の邪悪さは、行動の結果と言うよりは、悪を行おうとする意志によります。冒涜を行う人は天主の名誉に危害を加えようとすることを意図しているので、絶対的な意味では、冒涜者は殺人者よりも重大な罪を犯します。(II, II, q13, art 3 ad 1)

パリオリンピックの開催式には、まさに恐ろしい冒涜が行われました。開会式には、ドラァグクイーン(女装した男性)らによるレオナルド・ダヴィンチの有名な絵画「最後の晩餐」のパロディ、そのパロディの前でほとんど全裸で横になって歌を歌うディオニュソス(酒と祭典の神)が出てきます。

異教の偶像崇拝もあります。黄金の小牛の偶像や、金属製の馬に乗ってセーヌ川を駆ける下る武装した女性もでてきます。開会式を準備した人々によるとこの女性はケルトの神サクァナを象徴するとのことです。

不倫の三人関係を描いた登場人物や、首を切断されたフランス王国最後の王妃マリ・アントワネット(フランス革命によって1793年に37歳でギロチンで殺害された)もでてきます。全ては反キリスト教を意味しています。パリオリンピックの開会式は悪魔的でした。反キリスト的でした。

アメリカのリンカーン司教区のコンリ司教(Bishop Conrey)は
最後の晩餐の描写はキリスト教に対する公然とした直接の攻撃であること、イエズス・キリストが十字架の死を予見してご自分の御体を私たちに御聖体としてお与えになるという最高の愛を、このようなやり方で馬鹿にすることはできない、と言われます。司教は、この嘲笑を償つために、祈りと断食をささげるように招いておられます。

聖パウロはこう言います。「あなたたちも、賞を受けるために走れ。力士はみな、万事をひかえ慎む。それは、朽ちる栄冠のためであるが、私たちは朽ちない栄冠のためである。」

人となった真の天主イエズス・キリスト、私たちのために十字架の苦しみを受け復活されたイエズス・キリストの与える永遠の命を受けるために、私たちは償いを捧げましょう。

日本でも、多くの方々が罪の償いに参加されますように、聖ピオ十世会は多くの愛する兄弟姉妹の皆様をご招待いたします。

大宮の日本の聖なる殉教者聖堂

8月2日(初金)初金のミサ(読誦ミサ)午後06時:引き続いて償いの聖体降福式
8月3日(初土)初土のミサ(読誦ミサ)午前11時:引き続いて償いの聖体降福式
8月4日(主日)午前08時30分(読誦ミサ)、午前10時30分(歌ミサ)、ミサの後の祈りが終わったのちに「償いの聖体降福式」【⇐追加されました。】

大阪の聖母の汚れなき聖心聖堂

8月2日(初金)初金のミサ(歌ミサ)午後06時30分:引き続いて償いの聖体降福式
8月3日(初土)初土のミサ(歌ミサ)午前10時30分:引き続いて償いの聖体降福式
8月4日(主日)午前09時(歌ミサ)【!ミサの時間にご注意ください】

Deus propitius esto nobis peccatoribus! 
天主よ、罪人である私たちを憐れみ給え!

天主様の祝福が豊かにありますように!トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

追記:有志の方々で、8月2日午後3時30分より、(フランス)共和国大使館前(住所:〒106-8514 東京都港区南麻布4-11-44)にて、償いのためにロザリオを5連を唱えます。

皆様お誘い合わせの上、ご参加ください!世界中に償うことを一番早くするのは私たちです。お気軽にお知らせください。すべてのカトリック信者を歓迎します。聖母に、イエズスの聖心に償いの祈りを捧げたい方、だれでも大歓迎です。


今日の名古屋でのミサは、パリの冒涜的なオープニングセレモニーの償いのために捧げます。

2024年07月28日 | 聖伝のミサの予定
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日は午後四時から名古屋のいつもの場所で聖伝のミサがあります。

今日の名古屋でのミサは、パリの冒涜的なオープニングセレモニーの償いのために捧げます。

トマス小野田神父






当時のユダヤの民の指導者たちは、私たちの主イエズス・キリストをメシアとして受け入れることを拒絶し、それが神殿の破壊とユダヤ教の終焉につながった

2024年07月23日 | お説教・霊的講話

聖霊降臨後第九の主日の説教

イヴォン・フィルベン神父

伝達の義務

はじめに

 イスラエルの死海の近く、砂漠の真ん中にある山の頂上に、マサダ要塞があります。それはとても印象的な場所です。この山の頂上から下を見れば、ローマ軍団の陣営の模様を見ることができます。それは、二千年前に起こった戦争の痕跡です。

 西暦70年、ローマ人とユダヤ人の戦争で、エルザレムの神殿とエルザレムの街全体が破壊されました。マサダは、ユダヤ人の最後の抵抗の場だったのです。恐ろしい戦争でしたが、土はその出来事の記憶を保ち続け、二千年後の今でも、それを目にすることができます。現在エルザレムに行くと、考古学の発掘現場に行って、その戦争で焼かれた家々を見ることができます。焼けた家屋が発掘され、その家屋の中に木製の内装を見ることができます。そしてそれは、黒く焦げています。エルザレム焼き討ちの火の勢いはすさまじく、その痕跡は今も残っています。この戦争がいかに激しいものだったかお分かりでしょう。大戦闘、大火災だったのです。

 過去の他の戦闘とは違って、忘れ去られてはいません。それはなぜでしょうか。それは、他のローマ人の戦争とは違って、私たちの主イエズス・キリストを迎えることを拒んだエルザレムに対する天主の罰だったからです。教会の聖伝は、1世紀にユダヤの民に起こったことを、今日の福音にある私たちの主の預言の成就とみなしてきました。当時のユダヤの民の指導者たちは、私たちの主イエズス・キリストをメシアとして受け入れることを拒絶し、それが神殿の破壊とユダヤ教の終焉につながったのです。それは私たちの主イエズス・キリストによって預言されたことであり、この出来事は私たちに対する教えなのです。

1)神殿の喪失

 「おまえの敵が周りに塁を築き、取り囲み、四方から迫り、おまえとその内に住む人々を地に倒し、石の上に一つの石さえ残さぬ日が来る。それは、おまえが訪れの時を知らなかったからである」【ルカ19章43-44節】。

 その罰とは何だったでしょうか。それはユダヤの民の滅亡ではなく、エルザレムの神殿を中心とするユダヤ国家の喪失でした。現在、その国には近代イスラエル国家がありますが、それはイスラエル王国の復活ではなく、同じ場所に近代国家があるだけで、神殿は今でも破壊されたままであり、永遠に破壊されたままでしょう。神殿の破壊は、天主の民の歴史の特別な段階の決定的な終焉であり、天主と神殿での天主の現存を中心とする国の終焉なのです。これは二度と回復することはないでしょう。

 これは、とても残酷だと思えませんか。すべてのユダヤ人が、私たちの主を拒否したのでしょうか。いいえ。拒否したすべての人が、同じレベルの罪の責任を負っているのでしょうか。いいえ、なぜなら知識のレベルが異なるからです。ですから、この人たちの罪の責任の重さは異なっていたのです。しかし、罰は集団的なものであり、彼らのうちの何人かが不忠実だったために、神殿は皆にとって、そして永遠に、失われたのです。

2)伝達の失敗

 これは、私たちが教会で「罪」と呼んでいるものと矛盾しないでしょうか。はい、ある意味ではそうです、罪は個人の現実だからです。告解の秘跡で、罪を犯したのは自分に責任がある場合だけであることはご存じでしょう。もし、不可抗的無知から何かをしたとしても、その行為は悪いことですが、罰は課されません。暴力の影響で自分の自由意思を取り去られた場合も同じです。

 しかし、他の世代に受け継がれるために所有されている現実があり、誰かがこの現実を破壊すれば、それはすべての子孫にとっても破壊されます。もし遺産を破壊すれば、それは他の世代にも失われることになります。神殿が失われたのは、私たちの主イエズス・キリストを拒否したユダヤの民の一部の悪い行いのせいですが、その瞬間から、神殿はユダヤの民全員にとって失われたのです。私たちの主は、その理由から、エルザレムのために泣いておられるのです。

 原罪も同じことです。私たちにはそれについての責任はなく、それはアダムの個人の罪であり、私たちは誰もその罪を犯してはいません。しかし、人間の本性は共通善であり、アダムはそれを自分だけのために所有していたのではなく、全人類に伝達しなければならなかったものとして所有していたのです。私たちの人間の本性は、皆さんのものも私のものも、アダムから受け継いだものであり、アダムがそれに害を与えてしまったので、私たちは傷ついた人間の本性を相続するのです。私たちにはそれについての責任はなく、私たちの人生の終わりには、私たちは他人の罪ではなく、私たち個人の罪について天主に裁かれますが、今、私たちは、私たちの救いを困難にする、傷ついた人間の本性を持って生きているのです。集団的な罰はありませんが、いくつかの罪には集団的な結果があるのです。

 ユダヤの民に起きたことは、一部の人々の不忠実のせいで彼らが自分たちの神殿を失ったということです。

3)伝達という重大な義務

 このように、信仰に関連する現実は、真摯に受け止めず、伝達していかなければ、他の人にとっても失われてしまいます。それは私にとっての現実であるだけではなく、他の人にとっての現実でもあるのです。

 このことは、ルフェーブル大司教の行動を説明します。大司教にとって、聖伝のミサは教会の共通善であり、何としても他の世代に伝えるべきものであることは明らかでした。それは大司教自身のためではなく、教会のため、そして教会の次の世代のためでした。そして、もし大司教が、行ったことを行わなかったとすれば、今頃、聖伝のラテン語ミサは教会から消え、それは決定的かつ悲劇的な喪失であったという可能性が高いのです。このような信仰の現実は、伝達しなければなりませんし、伝達しなければ失われてしまいます。たとえ教皇に不従順であるように見えるという代償を払っても、伝達することは義務なのです。

 私たち個人のカトリック信仰も同じで、それは私たち個人の救いのためだけに与えられた個人の現実ではなく、私たちが伝達しなければならないものであり、伝達することは、私たち全員が持つ非常に重大な義務なのです。私たちが親であれば、子どもたちに対するその伝達の義務があります。司祭に、信者に対する伝達の義務があるのと同じです。しかし、それはただ教えるという問題だけではなく、私たちの信仰を大切にし、真剣に受け止め、祈りと学びによってますます深く知ろうとするという問題なのです。愛徳に導かれた信仰だけが伝達可能なのです。

 エルザレムの神殿に起こったことは、伝達することが私たち全員の持つ義務だということを思い起こさせるものだと考えましょう。私たちの信仰を伝達するために、私たちは善き信者でなければならないのです。


エルザレムが滅ぼされたのは、天主の訪れの時、決定的な恩寵の時を知らなかったから。どの恩寵が最後の恩寵になるのかは、私たちには分かない。

2024年07月23日 | お説教・霊的講話

聖霊降臨後第九の主日―恩寵の時

ワリエ神父 2024年7月21日

「エルザレムよ、おまえは、おまえの訪れの時を知らなかった」(今日の福音より)。
エルザレムが滅ぼされたのは、天主の訪れの時、決定的な恩寵の時を知らなかったからです。

******

それについて、大聖グレゴリオは、こう述べています。

「肉の奴隷として生きてきた霊魂には、これらの壮大なことがすべて起こる。なぜなら、そのとき、悪魔たちが霊魂を四方から取り囲み、誘惑し、動けないようにし、地獄に連れ去るからである。そのとき、石を積み上げたものすべて、つまり彼らの思いは、転覆してしまうのだ。

なぜなら、天主の説教者や聴罪司祭、教師たち、そして天主による内的な霊感によって、自らの生活を改め、自らの救いのためによくよく考えるよう天主が彼らに警告されたその訪れの時を、彼らは知らなかったからである。

天主は、教えをもって、時には鞭を、時には奇跡をもって、悪しき霊魂を訪れるのをおやめにならない。それは、その霊魂が知らなかった真理を聞けるようにし、また、未だにその真理を軽んじてはいても、悲しみに心を刺されて立ち戻れるようにするためであり、あるいは、御あわれみに圧倒されて、自分の行った悪を恥じるようになるためである。しかし、その霊魂は、その訪れの時を知らないがゆえに、人生の終わりには敵に渡され、敵とともに永遠の滅びの枷につながれるのである」。

ユダと悪しき盗賊という悲しい例があります。

ザカリアはこう宣言します。

「主なるイスラエルの天主をたたえよ。主は、主の民を訪れて救い給うた。…それはわれらの天主の深い御あわれみによる。そのために、朝日は上からわれらを訪れた」(ベネディクトゥス、ルカ1章68、78節)。

すべての霊魂に、このような恩寵の時が与えられます。レビと呼ばれていた使徒(マテオ)、徴税人ザケオ、サマリアの女、罪の女、善き盗賊のようにです。

恩寵に忠実になりましょう。

「ある日、ある瞬間、天主の働きかけに十分お応えできなかったために、聖性に到達しない霊魂がいる。私たちの将来は、時に、二、三の『はい』と、二、三の『いいえ』にかかっている。それは、私たちが言わなければならなかったもの、言わなかったものであり、そのために、数え切れないほどの寛大さや失敗が保留されたのである。もし私たちが常に天主の壮大さと足並みを揃えて歩むことを決心するならば、私たちはいかなる高みに到達するであろうか。

…私たちは、天主の恩寵をもてあそんではならない。天主の恩寵は過ぎ去るものであり、しばしば戻ってくるのは事実だとしても、いつも戻ってくるわけではないのだ。

もし天主の恩寵が戻ってくるなら、また仮に初回と同じような力強さで戻ってくるとすれば、その天主の恩寵は、すでに臆病さで弱っており、それゆえ、その恩寵に応えられるだけの用意がもっとできていない心を見つけるのである。すると、天主は私たちに、わざわざ更なる恩寵を与えようとはなさらないのではなかろうか。前と同じ運命をたどることに何の意味があろうか。この使われなかった恩寵、この軽んじられた霊感、この言いようのない取り残しが、天主の法廷では、嫌な証人となるのである」(R・プリュス神父)。

それは、灰の水曜日の典礼にこうある通りです。「軽率に犯した罪を償うために、よりよい生活を送ろう。われらが、突然、死の日にとらえられ、悔い改めの場を求めても見つけられないことのないように」(灰の水曜日のグレゴリオ聖歌の答誦「Emendemus」)。

かつて米国のある司祭が、死の床にある人のそばに行くよう呼ばれました。何世紀も前のことで、車もありませんでした。その死の床にある人は、何度も回心を先延ばしにしてきた悪しきカトリック信者でした。司祭は終油の秘跡をさずけるために、すぐに行こうと決めました。しかし、長時間馬を探したにもかかわらず、見つけることができませんでした。その人は秘跡を受けずに亡くなりました。まもなく、その司祭に啓示されたのは、天主の恩寵を常に拒み続けたことで、死の床にあるその人を罰するために、天主が馬を隠されたのだということでした。

結論

親愛なる兄弟の皆さま、

私たちの永遠が幸せか不幸かは、天主の「訪れ」、すなわち天主の恩寵の時に対する私たちの対応にかかっています。
私たちが受ける多くの恩寵のうち、どれが最も決定的なものかは分かりません。それは説教かもしれませんし、告解かもしれませんし、使命かもしれませんし、何らかの不運かもしれませんし、家族の悲しみかもしれませんし、仕事の問題かもしれません。
また、どの恩寵が最後の恩寵になるのかは、私たちには分かりません。
聖パウロとともに、私たちも「私の受けた恩寵はむなしくならなかった」(コリント前書15章10節)と繰り返すことができますように。
天主の聖寵の御母、罪人なるわれらのために祈りたまえ!


歩く宣教師:カディヤック神父(パリ外国宣教会司祭):久保正幡著「宣教と日本の風土」

2024年07月22日 | 聖伝のミサの予定

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

日本で活躍されたカトリック宣教師の一人イポリト・ルイ・カディヤック神父様(パリ外国宣教会司祭 Hippolyte-Louis-Auguste CADILHAC, M.E.P.)をご紹介します。

カディヤック神父様は、1859(安政6)年3月17日に、南フランスのアヴェロン県Aveyron、教区はロデス教区RodezのミロMillauという町の近くにある農村ラ・カヴァルリ(La Cavallerie)の家に12人兄弟の6番目の子どもとして生まれました。

神父様は12歳の時ベルモンBelmontの小神学校に入り、1879年にパリ・ミッション(パリ外国宣教会)の神学校に入学しました。1882(明治15)年9月23日、23歳で司祭に叙階されました。その年の12月26日パリ・ミッションの宣教師として横浜港に到着され、その後は1930(昭和5)年11月19日、71歳で帰天されるまで再び故国の土を踏むことなく48年間引き続き日本に在住しました。

1883(明治16)年6月に先輩のF・P・ヴィグルス神父(Vigroux)の助任に任命されました。二人の神父の宣教担当地区は千葉・茨城・埼玉・栃木・群馬・福島の六県でした。1891(明治24)年ヴィグルス神父が東京副司教に転任すると、カディヤック神父は福島県をのぞく関東「5県を一手に」引き受けました。のちにカディヤック神父様は、1883年から1891年の間が、自分の人生で一番素晴らしい時だったと回想しています。何故なら、ヴィグルス神父と二人で、意見も仕事も財産も(スータンさえも)共有していたからだそうです。カディヤック神父様は、「歩く宣教」"Mission Itinérante" ("l'ambulance")の模範とされました。

神父様は、1891年には、宇都宮市にミッションの中心地を確立しました。1891年から1930年まで宇都宮の主任司祭を務めました。神父様の清貧の精神と多くの方々の寛大な援助(神父様の生まれ故郷のラ・カヴァルリの二人の孤児からの援助も含めて)で、宇都宮、前橋、水戸、千葉などに教会を建てる土地を購入しました。宇都宮には立派な教会も建てられました。しかしこの教会の完成を見ずに神父様は他界されました。墓は、神父の念願どおり宇都宮の松が峰教会の墓地内にあるそうです。

カディヤック神父様は「歩く宣教師」と呼ばれ、宇都宮教会の洗礼台帳によると、明治26年9月から昭和5年3月までのおよそ36年間に神父様から洗礼を授けられた受洗者の数は987名(!)だったと記録が残っています。神父様は「一にも祈り、二にも祈り」と祈りの大切なことを教え、公教要理を厳しく教えたそうです。

カディヤック神父様が養成した宇都宮教会出身の最初の日本人司祭は、後に横浜司教となりました。ルカ荒井司教様(横浜司教 1952 ~ 1980)です。

それでは、栃木県出身の東大名誉教授である、久保正幡教授(1911~2010)の書かれた「宣教と日本の風土」をご紹介します。久保正幡著「宣教と日本の風土」は、1978(昭和53)年11月25日、聖心女子大学キリスト教文化研究所主催の公開講座でおこなった講演の筋書に、その後多少補訂の筆を加えたものです。

ここで久保教授は「宣教というのは、なかなか動かない風土を動かしていくところに意義があるのではないか」と反語で主張し、日本におけるカトリックの代わりに「日本的カトリック」という表現に疑問を付しています。何故なら「日本的」というところに力点が置かれると「カトリック」でなくなってしまい、言葉として形容の矛盾におちいることになりますから、と説明しています。


宣教と日本の風土

久保正幡

はじめに
今日の私の話は、実は最近に私の読んだ一冊の本、それを皆さんに紹介することです。そのような話で勘弁してもらえるかしらと主幹の吉沢さんに相談しましたら、この講座のひとこまとして、ここに掲げてあるような立派な、どうにも私の話には過分な演題を頂戴した次第です。さて早速に話の本筋に入りたいのですが、その前にこの「宣教と日本の風土」という演題について少しばかり説明をしておくことにしましょう。

先ず「宣教」というのは、申すまでもなく、キリストの教え、福音を宣べ伝えることです。キリスト教および教会の歴史、今日までの過去およそ二千年の間に宣教はほぼ全世界に行きわたっているようですが、それでもまだ充分に行きとどいていないところもありますので、われわれの教会は特に宣教地とか布教地域という制度をかまえて、そのような地域に福音を行きとどかせようと努めています。こうした教会の宣教活動については、御承知の方も多いと存じますが、先頃の第二回ヴァティカン公会議関係の教令の一つ、「教会の宣教活動に関する教令」(1965年12月7日)と題する文書が公にされ、日本語にも訳されています。これは長文でなはなく、われわれが一読して、宣教とはなにか、それを知ることができ、しかもそれをよく心得ることができるような文書ですから、皆さんには一読なさることをおすすめします。

次に「日本の風土」について。風土という言葉はもともと、風は気候、土は土地のありさま、つまり自然の風土を意味するものと解されますが、近頃は、思想的風土、精神的風土というような言葉づかいも通用しています。ここで日本の風土という場合、風土という言葉は自然の風土だけでなく、思想的風土とか精神的風土とかいうようなものまで合わせ含む意味のものと、そう解するのが適当でしょう。ところで、近頃わが国で、特にカトリック・プロテスタントの別なくキリスト者の間で、宣教との関係において日本の風土の問題が取り上げられ、しばしば話題や論題にされています――例えば、いわゆる日本的カトリックの問題とか、わが国におけるキリスト教の土着化の問題などがそれです――が、それはなぜでしょう。わが国ではこのところ宣教が伸びなやんでいる、なにか壁にぶつかっている、それを打開して宣教を推し進めるにはどうすればよいか。日本の風土は福音が最初に告げられたイスラエルの風土ともちがうし、また、福音がわが国に伝来したのは西洋――ここで西洋というのは、ヨーロッパおよびその延長と見なされるアメリカのことです――を経由してのことですが、西洋の風士ともちがう、そういう風土のちがいが宣教をはばむ壁になっているのではないか、それならば宣教は日本の風土にどう対処したらよいか――こうして宣教と日本の風土という問題が生ずることになります。

宣教と風土、この問題はしかし、いま且つここで生じた新たな問題とばかり見るわけにはいかないように思われます。宣教の歴史を願みますと、福音はイスラエルの地から発してギリシャ・ローマなど古代地中海世界に伝えられ、それから中世ヨーロッパ世界に、そして近世以降はヨーロッパからヨーロッパ外の世界各地にも伝えられるようになって今日にいたっているのです。宣教はこのようにその都度ちがう風土の世界を相手に展開されてきたわけで、その意味で宣教の歴史は、ちがう風土との対決の歴史であると言えましょう。以上は、きわめて巨視的に全教会の宣教の歴史について見てのことですが、日本の教会のそれについても、やはり同じことが言えるでしょう。わが国で宣教活動に従事してきた人々はだれしも、「宣教と日本の風土」、この問題に実際上取組みながら活動したわけで、その事蹟が宣教の歴史にほかならないのですから。そこで私はこの問題について、問題がわれわれにとって切実な、重要なものであるだけに、この問題を考えるにはよくよく宣教の歴史――全教会のそれとともに日本の教会のそれ――を願みてそれを参考にすることが大切であると思います。今日の話も私のこのような思いからのことです。

『歩く宣教師 イポリト・ルイ・カディヤック』について
さて、話のまえおきはこのくらいにして、話の本筋に移ることにします。私がこれから皆さんに紹介する本は、これです。書名は『歩く宣教師 イポリト・ルイ・カディヤック』(昭和53年5月)、著者は田中美智子という方です。私はこの本で著者を知っただけで、面識はありません。著者がこの本に記しているところによりますと、著者は昭和53年3月に清泉女子大学文学部キリスト教文化学科を卒業して、同じ年の4月から母校の宇都宮海星女子学院高等学校の社会科講師に就任しています。この本は著者の大学卒業論文ですが、「宇都宮の教会の創設者であるカディヤック神父をテーマに選んだので、論文執筆時から信者の方々より出版の要請を受けた。学士論文とは名ばかりの未熟な論文であるが、父母の厚意に甘えて‥‥‥」と著者が記しているような次第で私家版として出版されたものです。私家版のこの本を私などが、しかも出版後間もなく、どうして手にするようになったかというと、横浜教区の荒井勝三郎司教さま――荒井司教は生まれて翌日カディヤック神父から洗礼を授けられ、同神父の導きで司祭への道を志されたというそれこそ本当の教え子です――から頂戴したからです。

この本の内容は本文と別冊との二部から成り、第一部の本文は、著者が書き上げたカディヤック神父の伝記です。第二部の別冊は、別冊というのはおそらくもとの卒業論文の名ごりでしょう、この本では本文と合わせて一冊になっています。それは資料篇ともいうベきものです。すなわち、この本に寄せられた宇都宮松が峰教会主任司祭野口義美師の序文には「宇都宮の神父と呼ばれたカディヤック神父ではあるが、宇都宮の教会には……神父の生涯を伝える記録は洗礼台帳以外に何も残されていない」ほど乏しく、その他にも文書や記録の類の「確実な資料が殆んど残されていない現状から神父の生涯を論文としてまとめることは至難の業であったに違いない。それは図書館の中で書かれた論文ではなく、「歩く宣教師」の面影と生きざまを求めて数十名の生き証人を訪ね、彼等のおぼろげな記憶の糸を紬いで、その中から信憑性のあるものだけを集めて織り上げた手織の論文……足で稼いだ集大成である」とあり、また著者も序論で「今日、私たちが信仰を持つことができるのは、カトリック復活時代といわれた幕末から明浴・大正にかけて来日し、日本中を宣教して歩いた当時の宣教師たちのおかげである。私たちはあまりにも彼らを忘れてはいないだろうか。いま、彼らについての記録・考察を怠ったならば、永遠に明治・大正期の宣教師たちの影がうすくなってしまう」ことになろう。

カディヤック神父を直接知っている生き証人は少くなるばかりだが、「今なら間に合う」と「資料集めに走り回」り、「日本を愛し、日本人を愛し」て、来日以後「一度も帰国することなくその宣教の生涯を終えた」神父の「生涯はどんなものであったのだろうか。また、カトリック教ならぬカディヤック教、とまでいわしめた神父の独得の宣教法とはどのようなものか。その、神父をささえるバックボーンとは何か。神父のどこが偉大といわれるゆえんなのだろうか。以上をテーマとして」それを「文献だけでなく、神父を知る人々から聞いた話にもとづいて考察しようと思う。私なりの考察で、生きた神父をつかむつもりである」と述べているところから明らかなように、別冊には、著者が荒井司教、デルボス神父、塚本昇次神父はじめ計14~15名の生き証人を訪ねまわって、証人から聞かされた「歩く宣教師」についての思い出話、それを証人別に忠実に記録したのが載っています。

この本は、本文と別冊と合わせて80頁ほどのもの(そのほか参考文献表、写真、年譜、地図が附いています)ですが、本文と別冊と両々相俟って「歩く宣教師」の生涯をよく浮彫りにしているように思われます。

カディヤック神父宣教の足跡
それでは以下、この本によってカディヤック神父の宣教の足跡をたどりながら私のそこはかとなく抱かされた感想を述べていくことにしましょう。最初に神父の略歴を申しますと、1859(安政6)年南フランスのアヴェロン県、教区はロデス教区――私どもの大雑把な地図ではトゥールーズの東北方、さして遠くないところです――の農村の家に生まれ、小神学校から進んでパリ・ミッション(パリ外国宣教会)の神学校に学び、1882(明治15)年9月、23歳で司祭に叙階され、その年の12月パリ・ミッションの宣教師として海を越えて来日、その後は1930(昭和5)年11月、71歳で帰天されるまで再び故国の土を踏むことなく48年間引き続き日本に在住、その間は東京副司教や司教代理もつとめたが、その生涯はそれこそ歩く宣教師と称すべきものでした。墓は神父の念願どおり宇都宮の松が峰教会の墓地内にあります。

さて、神父が歩く宜教師としてどこの地方を歩きまわったかというと、神父は来日して築地の大司教館で日本語の習得を始め、それから半年後の1883(明治16)年6月に先輩のF・P・ヴィグルス神父の助任に任命されたのですが、二人の神父の宣教担当地区は千葉・茨城・埼玉・栃木・群馬・福島の六県でした。その後やがて福島県は別になり、1891(明治24)年ヴィグルス神父が東京副司教に転任すると、カディヤック神父は関東「5県を一手に」引き受け、宇都宮の教会を本拠にして巡回する個所は「380にも及ぶという忙しい身となった」のですが、その「神父の労苦は、若い宣教師が来日して〔埼玉、千葉、水戸など〕各地に赴任することで、少しずつ減っていった」ということです。

この関東から東北にかけての6県ないし5県は、この本が記しているように「カトリック不毛地帯」でして、神父がこの地方で宣教活動を始めたのは、わが国の明治憲法発布より5年あまりも前のことです。鉄道も開けず、その頃からようやく高崎線、東北線が段々に開通を見るというようなところですから、遠い道のりも先ずは歩くほかない、そして「道を歩けば「ヤソ、ヤソ」とののしられ、ときには石を投げられる。「ヤソ講」といわれた辻説教を始めると熱湯をかけられそうになったこともあったりで、命取りにもなりかねない巡回であった。しかし、神父は無知な人々をのろう代りに祝福するのであった」と著者は述べています。実は私も栃木県の生まれです――もっとも生まれたのは、神父が宇都宮に居を据えた当時から優に一世代も後のことですが――ので、著者のこのあたりの記述を読みながら、神父が宣教に苦労をかさねた頃の田舎の世情など、私が父や郷里の人々の昔話として聞かされていたことを思い合わせました。著者の記述はよく真相を得ているのではないでしょうか。また「無知な人々を祝福する」という神父の気持、これがなかったならば、神父は宣教の苦労を耐え忍びそれにうち克つことはできなかったろうと思います。

ところで、この地方の宣教は特に苦労の多い仕事であっただけに、神父が先輩のヴィグルス神父を助けて二人で従事していた8年間に千葉布教所のほか新たに足利、会津若松、宇都宮と次々に仮聖堂とか教会を設けて宣教の足がためをしたのは、本当にえらいことです。またその後、神父が仕事を一手に引き受けるようになってからも、宇都宮教会の洗礼台帳によると、明治26年9月から昭和5年3月までのおよそ36年間に神父から洗礼を授けられた受洗者の数は987名で、この数は「一人の神父の実績としてはかなり高いものであることが分かる」と著者が述べているとおり、これもまた本当にえらいことです。

この地方の宣教は困難な仕事であったのに、これほど実りの多い成果が挙げられたのはなぜか。それにはいろいろな事由が考えられるでしょうが、その一つ、私がここで指摘したいと思うのは、1909(明治42)年神父の先輩で恩師のヴィグルス神父が帰天されたその年に、「あたかもヴィグルス神父の生まれかわりのように、〔二人と〕同じロデス教区の出身で後輩であるJ・フロジャック神父が来日。かつてカディヤック神父がヴィグルス神父に預けられたように、今度はフロジャック神父がカディヤック神父に預けられ、歩く宣教師としての修行を積むことになる」とこの本にある点です。フロジャック神父のことは御存知の方や、くわしい伝記の書物がありますから、お読みになった方も多いでしょう。カディヤック神父はフロジャック神父の恩師になるわけです。

およそ宣教というようなそれこそ永続的な、そして根気の要る仕事にとっては、同じ世代に属する人々の間の――いわば横の――協力、それが大事なこともちろんですが、そればかりでなく、それにもまして大事なのは、前後世代を異にする人々の間の、先輩から後輩へとか師弟相承けてというように仕事のバトン・タッチをしていく――いわば縦の――協力であると思います。ヴィグルス、カディヤック、フロジャック、この三人の神父のコンビがこの場合陰に陽に大いにものを言っている、大きな働きをしているのではないでしょうか。

「歩く宜教師」の宣教方法
それからもうーつ、右の事由をたずねますと、話は、この本ではカディヤック神父の巡回、独得の宣教法、バックボーンという題目のあたりに移ることになります。この辺はこの本の中でも圧巻の部分です。それだけに、下手な紹介は禁物、やはり私の感想を主に話していくことにしましょう。この本の巻頭などに掲げてある神父の肖影を見ますと、神父は、日本人の目には一見してはっきり西洋人・異人とわかるような風貌の持主です。明治の昔北関東を巡回していた頃、神父の姿は地方の人々の目にはよほど物珍しく見えたに相違ありません。

それでも神父は、接する人に「外国人という異和感を全く感じさせない人」で、「親類のおじさんというイメイジであった」ということです。おそらちく神父は、人種・国籍・職業など生まれや暮らし方はちがっても、互いに人間であることにはちがいはない、根本の人間性においては共通であるという、そういう気持で人に接したからでしょう。人間の気持は微妙なもので、神父がそういう気持で接すると、相手はそれほどの用意がなくても、それに触発されて同じような気持で神父に接することになる、そのせいではないでしょうか。

次に、神父の独得の宣教方法というのは、神父がふだん「自然と人間の現実をよく観察し」ていて、人々に身近な、人々の目の前にあるような物事を引合に出してそれをたとえにしながら教理を説くという、その話し方です。神父のこのようなたとえ話の実例がこの本の中にたくさん記されています。それを読みますと、いかにも神父は「言葉が上手というよりも話し上手」で、神父の話には強い説得力があったということに感心させられますが、同時にまた、神父が「一にも祈り、二にも祈り」と初りの大切なことや公教要理をそれは随分厳しく教えたということも見のがしてはならないと思います。

話し手の神父自身は「巡回しながら「日本人はよく聞いてくれる。それが喜びだ」と言われていた」とのことですが、神父の宣教の話は、さだめし、聞き手が耳で聞いて頭で理解するだけでなく、心で聞いて得心することをねらいとするものであったのでしょう、そして聞き手がそれをそのとおり受けとめたことが神父を喜ばせたのではないでしょうか。宣教は、そこではじめて成り立つことになると言えましょう。

なお、神父が巡回しながら信者の日常生活の実際に触れて造林や畑作、貯蓄やお金の使い方などを教えたり、緑談の世話、けんかやもめ事の仲裁など上手にしたということや、経済の話はしたが、政治の動きには関心を示さなかったということ、また邦人司祭養成のために宇都宮の教会では早くも神父の在任当時から子どもたちが一人毎月一銭ずつ竹筒の貯金箱に入れて神父学校へ寄附するようにしていたということなど、すべて神父の宣教方法につながりのあることですので、ここに申し添えておきましょう。

さて次は、カディヤック神父が宣教と風土、との問題にどう対処したかという点です。この本で著者が述べているように、パリ・ミッションの神学校の伝統的校風や神父在学中の読書から推測して、神父は「日本宣教の困難さを承知」覚悟のうえ「来日したのであろう」と思われます。そして神父は「パウロの「わたしがキリストにならう者であるように、あなたがたもわたしにならう者になりなさい」(コリント第一、11・1)の言葉どおりに生き、後輩の神父たちにもこの言葉を贈って指導した」のですが、そもそもキリストがパウロなど使徒たちになんと命ぜられたかというと、先頃の「数会の宣教活動に関する教令」にもあるように、「主は使徒たちに「あなたがたはすべての国に行って教え、父と子と聖霊との名によって洗礼を授け、わたしがあなたがたに命じたことをすべて守るように教えよ」(マタイ、28・19以下)、「あなたがたは全世界に行って、すべての造られたものに福音をのべ伝えよ。‥‥‥」(マルコ、16・15以下)と命じた」のです。

神父は歩く宣教師として使徒パウロにならい、このキリストの言葉をそれこそ地でいった者と言えましょう。神父の独得の宣教法というのは、上に述べましたように、教えを説く神父の説き方にあったのでして、説く教えそのものにあったのではないと思います。心のやさしい神父が公教要理は随分厳しく教えたというのも、その証拠ではないでしょうか。また神父は「教会史を読めば、‥‥‥世界の布教方法も各教会のいきさつも、すべてわかるね」と言って、ロールバーケルの教会史という24~25巻もある大きな書物を20回以上も繰り返し読んでいたということですが、おそらく神父はそこから宣教と風土、あるいは教とその説き方などの問題について多くの教訓や示唆を得て、それを自分の宣教活動の上に生かしていたのではないでしょうか。

「忍耐によって霊魂を救え」――これは、神父が叙階の際に聞かされて終生座右の銘とした言葉ですが、これこそ、清貧を守り断食しながら宣教師として歩き続けた神父のバックボーンと見ることができましょう。忍耐というのは消極的でなく、積極的にこうも強く働くものかと思います。上記宇都宮の野口義美師の序文には末尾に「48年問一度も日本を離れず、食物、生活の違いやいろいろの偏見、封建的因習等の困難苦労をものともせず、ひたすら日本人の救霊と教会づくりに専念されたカディヤック神父の宣教に対する情熱はわれわれ司祭、信徒の模範とすべきであろう」とあります。

著者は「神父の人徳と信仰をそのまま受け継いだ人々を見たとき、私は「永遠なる命」を信じられるような気がした」と述べていますが、著者のこの実感は、文字どおり労作のこの本の出来栄えとともに、貴重な収穫であったと思います。なお著者はこれも結論のところで、「カディヤック神父の宣教法を、もし現代社会にそのまま持ってきて宣教したら、果たして成功するだろうか」と疑問を投げかけていますが、この点は、今後の課題でもよいのです、著者の説明なり分析をもっと聞かせてほしいと思いました。

おわりに
以上でこの本の紋介を終りますが、最後に、宣教と風土、この問題について私の思うことの一・二をごく簡短に附け加えておきましょう。その一つは、風土というもの、それはなにか固定していて動かないものと考えられがちですが、われわれはそれを動かないものではなく、動かせば動くものというように考えてよいのでなはないか。

宣教というのは、なかなか動かない風土を動かしていくところに意義があるのではないでしょうか。それからもうーつは、近頃「日本的カトリック」という言葉をよく耳にしますが、問題はその言葉の意味です。「日本的」というところにあまりにも力点が置かれると、それによって肝心の「カトリック」というところにひびが入ることになり、言葉としてもいわゆる形容の矛盾におちいることになりますから、そのおそれはないか、その点の念入りな検討が必要と思われますが、どうでしょう。

ところで、このような一・二の問題を考える場合にも、上に一言しましたように、温故知新、われわれは宣教の歴史をたずねることが大切です。それによってわれわれの考は宙に流れることなく、地についたものになるのですから。それには先ずもって宣教の歴史、これは音から宣教に従事した先人たちの貴重な経験――成功の経験であれ失敗のそれであれ――の積み重ねにほかならないのですが、これをできるだけ明らかにすることが必要です。このような意味で重要な宣教の歴史を明らかにする仕事にこの本は寄与しているわけで、しかもこの本の場合、その寄与がカトリック大学のひとりの学生の卒業論文によってなされていることを私は特にうれしく感じた次第です。

これで私の話を終ります。つたない話でしたのに皆さんの御静聴、ありがたく存じます。

(本稿は、1978(昭和53)年11月25日、聖心女子大学キリスト教文化研究所主催の公開講座で私のおこなった講演の筋書に、その後多少補訂の筆を加えたものです――久保附記)

 


マーチフォーライフは大阪市役所前を午後3時に出発します。

2024年07月21日 | プロライフ
アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、

マーチフォーライフは大阪市役所前を午後3時に出発します。
【LIVE】マーチフォーライフ(大阪)_2024年7月21日_March for Life Osaka

【LIVE】マーチフォーライフ(大阪)_2024年7月21日_March for Life Osaka

マーチフォーライフ大阪_2024年7月21日_March for Life Osaka大阪市役所前からなんばまで御堂筋を行進▼マーチフォーライフ(東京/大阪)▼https://blog.goo.ne.jp/fatimanose...

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謙遜の連祷(ラファエル・メリ・デル・ヴァル枢機卿作:教皇聖ピオ十世の国務省長官であった)

2024年07月19日 | カトリックとは

謙遜の連祷(ラファエル・メリ・デル・ヴァル枢機卿作:教皇聖ピオ十世の国務省長官であった)

ああイエズス!柔和かつ謙遜なる聖心よ、わが祈りを聞き給え。

よく評価されることの望みから、イエズスよ、われを解き放ち給え。
愛されることの望みから、イエズスよ、われを解き放ち給え。
求められることの望みから、イエズスよ、われを解き放ち給え。
名誉を得る望みから、イエズスよ、われを解き放ち給え。
ほめられる望みから、イエズスよ、われを解き放ち給え。
他者よりも優先される望みから、イエズスよ、われを解き放ち給え。
相談される望みから、イエズスよ、われを解き放ち給え。
認められる望みから、イエズスよ、われを解き放ち給え。

はずかしめられることの恐れから、イエズスよ、われを解き放ち給え。
さげすまれることの恐れから、イエズスよ、われを解き放ち給え。
とがめられることの恐れから、イエズスよ、われを解き放ち給え。
讒言(ざんげん)される恐れから、イエズスよ、われを解き放ち給え。
忘れられる恐れから、イエズスよ、われを解き放ち給え。
あざけられる恐れから、イエズスよ、われを解き放ち給え。
傷つけられる恐れから、イエズスよ、われを解き放ち給え。
疑われる恐れから、イエズスよ、われを解き放ち給え。

ねがわくは、われよりも他の人々が愛されんことを、イエズスよ、それを欲する聖寵をわれに与え給え。
ねがわくは、われよりも他の人々がよく評価されんことを、イエズスよ、それを欲する聖寵をわれに与え給え。
ねがわくは、他の人々がますます高いこの世の評判を受け、わが評判は下げられんことを、イエズスよ、それを欲する聖寵をわれに与え給え。
ねがわくは、他の人々が選ばれ、われは脇に置かれんことを、イエズスよ、それを欲する聖寵をわれに与え給え。
ねがわくは、他の人々が称賛され、われは無視されんことを、イエズスよ、それを欲する聖寵をわれに与え給え。
ねがわくは、全てにおいて他の人々がわれより好まれんことを、イエズスよ、それを欲する聖寵をわれに与え給え。
ねがわくは、他の人々がわれより聖とならんことを、われは聖となるべき程度まで聖とならんことを、イエズスよ、それを欲する聖寵をわれに与え給え。

Letanías de la Humildad
(del Cardenal Merry del Val)

Jesús manso y humilde de Corazón, -Óyeme.
(Después de cada frase decir:Líbrame Jesús)
Del deseo de ser lisonjeado,
Del deseo de ser alabado,
Del deseo de ser honrado,
Del deseo de ser aplaudido,
Del deseo de ser preferido a otros,
Del deseo de ser consultado,
Del deseo de ser aceptado,
Del temor de ser humillado,
Del temor de ser despreciado,
Del temor de ser reprendido,
Del temor de ser calumniado,
Del temor de ser olvidado,
Del temor de ser puesto en ridículo,
Del temor de ser injuriado,
Del temor de ser juzgado con malicia
(Después de cada frase decir:Jesús dame la gracia de desearlo)
Que otros sean más amados que yo,
Que otros sean más estimados que yo,
Que otros crezcan en la opinión del mundo y yo me eclipse,
Que otros sean alabados y de mí no se haga caso,
Que otros sean empleados en cargos y a mí se me juzgue inútil,
Que otros sean preferidos a mí en todo,
Que los demás sean más santos que yo con tal que yo sea todo lo santo que pueda,
Oración:
Oh Jesús que, siendo Dios, te humillaste hasta la muerte, y muerte de cruz, para ser ejemplo perenne que confunda nuestro orgullo y amor propio. Concédenos la gracia de aprender y practicar tu ejemplo, para que humillándonos como corresponde a nuestra miseria aquí en la tierra, podamos ser ensalzados hasta gozar eternamente de ti en el cielo.
Amén.

 


大宮の「聖なる日本の殉教者聖堂」での聖伝のミサの時間

2024年07月19日 | 聖伝のミサの予定

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、大宮の「聖なる日本の殉教者聖堂」での聖伝のミサの時間です。
Dear Brethren, the Traditional Latin Mass time at the SSPX Holy Japanese Martyrs Chapel in Omiya.

7月19日 金 証聖者聖ヴィンチェンチオ・ア・パウロ(3級祝日)白 18:00
7月20日 土 証聖者聖ヒエロニモ・エミリアノ(3級祝日)白 11:00
7月21日 日 聖霊降臨後第9主日(2級)緑 8:30, 10:30
7月22日 月 悔悛女マグダラの聖マリア(3級祝日)白 7:00
7月23日 火 殉教者司教聖アポリナリス(3級祝日)赤 7:00
7月24日 水 聖霊降臨後の平日(4級)緑 7:00
7月25日 木 使徒聖ヤコボ(2級祝日)赤 7:00
7月26日 金 童貞聖マリアの御母聖アンナ(2級祝日)白 18:00
7月27日 土 聖母の土曜日(4級)白 11:00
7月28日 日 聖霊降臨後第10主日(2級)緑 8:30, 10:30
7月29日 月 童貞聖マルタ(3級祝日)白 7:00
7月30日 火 聖霊降臨後の平日(4級)緑 7:00
7月31日 水 証聖者聖イグナチオ(3級祝日)白 7:00
8月1日 木 聖霊降臨後の平日(4級)緑 7:00
8月2日 金 教会博士証聖者司教聖アルフォンソ・デ・リグオリ(3級祝日)白 18:00
8月3日 土 聖母の土曜日(4級)白 11:00
8月4日 日 聖霊降臨後第11主日(2級)緑 8:30, 10:30
8月5日 月 雪の聖母の大聖堂の奉献(3級祝日)白 7:00
8月6日 火 私たちの主イエズス・キリストの御変容(2級祝日)白 7:00
8月7日 水 証聖者聖カイェタノ(3級祝日)白 7:00
8月8日 木 証聖者聖ヨハネ・マリア・ヴィアンネー(3級祝日)白 7:00
8月9日 金 殉教者聖ラウレンチオの前日 18:00
8月10日 土 殉教者聖ラウレンチオ(2級祝日)赤 11:00
8月11日 日 聖霊降臨後第12主日(2級)緑 8:30, 10:30
8月12日 月 童貞聖クララ(3級祝日)白 No Mass
8月13日 火 聖霊降臨後の平日(4級)緑 7:00
8月14日 水 童貞聖マリアの被昇天の前日(2級) 7:00
8月15日 木 童貞聖マリアの被昇天(1級祝日)白 10:30
8月16日 金 童貞聖マリアの御父聖ヨアキム(2級祝日)白 18:00
8月17日 土 証聖者聖ヒヤチント(3級祝日)白 11:00
8月18日 日 聖霊降臨後第13主日(2級)緑 8:30, 10:30
8月19日 月 証聖者聖ヨハネ・ユード(3級祝日)白 No Mass
8月20日 火 教会博士大修院長聖ベルナルド(3級祝日)白 7:00
8月21日 水 寡婦聖ヨハンナ・フランチスカ・フレミオ・ド・シャンタル(3級祝日)白 7:00
8月22日 木 聖母マリアの汚れ無き御心(2級祝日) 7:00
8月23日 金 証聖者聖フィリッポ・ベニチオ(3級祝日)白 18:00
8月24日 土 使徒聖バルトロメオ(2級祝日)赤 11:00
8月25日 日 聖霊降臨後第14主日(2級)緑 8:30, 10:30
8月26日 月 聖霊降臨後の平日(4級)緑 7:00
8月27日 火 証聖者聖ヨゼフ・カラサンティ(3級祝日)白 7:00
8月28日 水 教会博士証聖者司教聖アウグスティノ(3級祝日)白 7:00
8月29日 木 洗者聖ヨハネの断首(3級祝日)赤 7:00
8月30日 金 童貞リマの聖ローザ(3級祝日)白 18:00
8月31日 土 証聖者聖ライムンド・ノンナート(3級祝日)白 11:00
9月1日 日 聖霊降臨後第15主日(2級)緑 8:30, 10:30
9月2日 月 証聖者聖ステファノ王(3級祝日)白 7:00
9月3日 火 証聖者教皇聖ピオ10世(3級祝日)白 7:00
9月4日 水 聖霊降臨後の平日(4級)緑 7:00
9月5日 木 証聖者司教聖ラウレンチオ・ユスティニアノ(3級祝日)白 7:00
9月6日 金 聖霊降臨後の平日(4級)緑 18:00
9月7日 土 聖母の土曜日(4級)白 11:00
9月8日 日 聖霊降臨後第16主日(2級)緑 8:30, 10:30
9月9日 月 聖霊降臨後の平日(4級)緑 7:00
9月10日 火 証聖者トレンティノの聖ニコラオ(3級祝日)白 7:00
9月11日 水 聖霊降臨後の平日(4級)緑 7:00
9月12日 木 童貞聖マリアの至聖なる聖名(3級祝日)白 7:00
9月13日 金 聖霊降臨後の平日(4級)緑 18:00
9月14日 土 聖なる十字架の称賛(2級祝日)赤 11:00
9月15日 日 聖霊降臨後第17主日(2級)緑 8:30, 10:30
9月16日 月 殉教者教皇聖コルネリオ、殉教者司教聖チプリアノ(3級祝日)赤 No Mass
9月17日 火 聖霊降臨後の平日(4級)緑 7:00
9月18日 水 9月の四季の斎日 水曜日(2級)紫 7:00
9月19日 木 殉教者司教聖ヤヌアリオとその伴侶(3級祝日)赤 7:00
9月20日 金 9月の四季の斎日 金曜日(2級)紫 18:00
9月21日 土 使徒福音史家聖マテオ(2級祝日)赤 11:00
9月22日 日 聖霊降臨後第18主日(2級)緑 8:30, 10:30
9月23日 月 殉教者教皇聖リノ(3級祝日)赤 11:00
9月24日 火 聖霊降臨後の平日(4級)緑 7:00
9月25日 水 聖霊降臨後の平日(4級)緑 7:00
9月26日 木 聖霊降臨後の平日(4級)緑 7:00
9月27日 金 殉教者聖コスマとダミアノ(3級祝日)赤 18:00
9月28日 土 殉教者聖ウェンチェスラオ王(3級祝日)赤 11:00
9月29日 日 大天使聖ミカエル(1級祝日)白 8:30, 10:30
9月30日 月 教会博士証聖者司祭聖ヒエロニモ(3級祝日)白 7:00
10月1日 火 聖霊降臨後の平日(4級)緑 7:00
10月2日 水 守護の天使(3級祝日)白 7:00
10月3日 木 童貞女幼きイエズスの聖テレジア(3級祝日)白 7:00
10月4日 金 証聖者聖フランシスコ(3級祝日)白 18:00
10月5日 土 聖母の土曜日(4級)白 11:00
10月6日 日 聖霊降臨後第20主日(2級)緑 8:30, 10:30
10月7日 月 ロザリオの聖母(2級祝日)白 No Mass
10月8日 火 寡婦聖ビルジッタ(3級祝日)白 No Mass
10月9日 水 証聖者聖ヨハネ・レオナルド(3級祝日)白 No Mass
10月10日 木 証聖者聖フランシスコ・ボルジア(3級祝日)白 No Mass
10月11日 金 天主の御母たる童貞聖マリア(2級祝日)白 No Mass
10月12日 土 聖母の土曜日(4級)白 No Mass
10月13日 日 聖霊降臨後第21主日(2級)緑 8:30, 10:30
10月14日 月 殉教者教皇聖カリスト1世(3級祝日)赤 No Mass
10月15日 火 童貞聖テレジア(3級祝日)白 7:00
10月16日 水 寡婦聖ヘドヴィジス(3級祝日)白 7:00
10月17日 木 童貞聖マルガリタ・マリア・アラコック(3級祝日)白 7:00
10月18日 金 福音史家聖ルカ(2級祝日)赤 18:00
10月19日 土 証聖者アルカンタラの聖ペトロ(3級祝日)白 11:00
10月20日 日 聖霊降臨後第22主日(2級)緑 8:30, 10:30
10月21日 月 聖霊降臨後の平日(4級)緑 7:00
10月22日 火 聖霊降臨後の平日(4級)緑 7:00
10月23日 水 証聖者司教聖アントニオ・マリア・クラレット(3級祝日)白 7:00
10月24日 木 大天使聖ラファエル(3級祝日)白 7:00
10月25日 金 聖霊降臨後の平日(4級)緑 18:00
10月26日 土 聖母の土曜日(4級)白 11:00
10月27日 日 王たるキリストの祝日(1級祝日)白 8:30, 10:30
10月28日 月 使徒聖シモンとユダ(2級祝日)赤 No Mass
10月29日 火 聖霊降臨後の平日(4級)緑 7:00
10月30日 水 聖霊降臨後の平日(4級)緑 7:00
10月31日 木 聖霊降臨後の平日(4級)緑 7:00
11月1日 金 諸聖人の祝日(1級祝日)白 18:00
11月2日 土 全ての死せる信徒の記念(1級)黒 11:00
11月3日 日 聖霊降臨後第24主日(2級)緑(御公現後第4主日) 8:30, 10:30
11月4日 月 証聖者司教聖カルロ(3級祝日)白 10:30
11月5日 火 聖霊降臨後の平日(4級)緑 7:00
11月6日 水 聖霊降臨後の平日(4級)緑 7:00
11月7日 木 聖霊降臨後の平日(4級)緑 7:00
11月8日 金 聖霊降臨後の平日(4級)緑 18:00
11月9日 土 至聖救世主(ラテラノ)大聖堂の奉献(2級祝日)白 11:00
11月10日 日 聖霊降臨後第25主日(2級)緑(御公現後第5主日) 8:30, 10:30
11月11日 月 証聖者司教聖マルティノ(3級祝日)白 No Mass
11月12日 火 殉教者教皇聖マルティノ1世(3級祝日)赤 7:00
11月13日 水 証聖者聖ディダコ(3級祝日)白 7:00
11月14日 木 殉教者司教聖ヨザファト(3級祝日)赤 7:00
11月15日 金 教会博士証聖者司教大聖アルベルト(3級祝日)白 18:00
11月16日 土 童貞聖ジェルトルード(3級祝日)白 11:00
11月17日 日 聖霊降臨後第26主日(2級)緑(御公現後第6主日) 8:30, 10:30
11月18日 月 聖ペトロ大聖堂と聖パウロ大聖堂の奉献(3級祝日)白 7:00
11月19日 火 寡婦聖エリザベト(3級祝日)白 7:00
11月20日 水 証聖者ヴァロワの聖フェリクス(3級祝日)白 7:00
11月21日 木 童貞聖マリアの奉献(3級祝日)白 7:00
11月22日 金 殉教者童貞聖チェチリア(3級祝日)赤 18:00
11月23日 土 殉教者教皇聖クレメンテ1世(3級祝日)赤 11:00
11月24日 日 聖霊降臨後第27主日(2級)緑(聖霊降臨後第24主日) 8:30, 10:30
11月25日 月 殉教者童貞聖カタリナ(3級祝日)赤 No Mass
11月26日 火 大修院長聖シルヴェステル(3級祝日)白 7:00
11月27日 水 聖霊降臨後の平日(4級)緑 7:00
11月28日 木 聖霊降臨後の平日(4級)緑 7:00
11月29日 金 聖霊降臨後の平日(4級)緑 18:00
11月30日 土 使徒聖アンドレア(2級祝日)赤 11:00
12月1日 日 待降節第1主日(1級)紫 8:30, 10:30
12月2日 月 殉教者童貞聖ビビアナ(3級祝日)赤 7:00
12月3日 火 証聖者聖フランシスコ・ザビエル(3級祝日)白 7:00
12月4日 水 教会博士証聖者司教聖ペトロ・クリソロゴ(3級祝日)白 7:00
12月5日 木 待降節の平日(3級)紫 7:00
12月6日 金 証聖者司教聖ニコラオ(3級祝日)白 18:00
12月7日 土 教会博士証聖者司教聖アンブロジオ(3級祝日)白 11:00
12月8日 日 聖母マリアの無原罪の御宿り(1級祝日)白 8:30, 10:30
12月9日 月 待降節の平日(3級)紫 No Mass
12月10日 火 待降節の平日(3級)紫 7:00
12月11日 水 証聖者教皇聖ダマソ1世(3級祝日)白 7:00
12月12日 木 待降節の平日(3級)紫 7:00
12月13日 金 殉教者童貞聖ルチア(3級祝日)赤 18:00
12月14日 土 待降節の平日(3級)紫 11:00
12月15日 日 待降節第3主日(1級)バラ色(或いは紫) 8:30, 10:30
12月16日 月 殉教者司教聖エウゼビオ(3級祝日)赤 7:00
12月17日 火 待降節の平日(2級)紫(12月17日から12月23日) 7:00
12月18日 水 待降節の四季の斎日 水曜日(2級)紫 7:00
12月19日 木 待降節の平日(2級)紫(12月17日から12月23日) 7:00
12月20日 金 待降節の四季の斎日 金曜日(2級)紫 18:00
12月21日 土 使徒聖トマス(2級祝日)赤 11:00
12月22日 日 待降節第4主日(1級)紫 8:30, 10:30
12月23日 月 待降節の平日(2級)紫(12月17日から12月23日) 7:00
12月24日 火 平日の主の御降誕の前日(1級)紫 7:00
12月25日 水 主の御降誕(1級祝日、八日間付き)白 00:00, 10:30, 18:00
12月26日 木 最初の殉教者聖ステファノ(2級祝日)赤 7:00
12月27日 金 使徒福音史家聖ヨハネ(2級祝日)白 18:00
12月28日 土 幼子殉教者(2級祝日)赤 11:00
12月29日 日 御降誕の八日間内の主日(2級) 8:30, 10:30
12月30日 月 御降誕の八日間内の第6日目(2級) 7:00
12月31日 火 御降誕の八日間内の第7日目(2級) 7:00

2024/07/19 金 St. Vincent de Paul, Confessor (III class) White 18:00
2024/07/20 土 St. Jerome Emilliani, Confessor (III class) White 11:00
2024/07/21 日 Ninth Sunday after Pentecost (II class) Green 8:30, 10:30
2024/07/22 月 St. Mary Magdalene, Penitent (III class) White 7:00
2024/07/23 火 St. Apollinaris, Bishop, Martyr (III class) Red 7:00
2024/07/24 水 Feria in time after Pentecost (IV class) Green 7:00
2024/07/25 木 St. James, Apostle (II class) Red 7:00
2024/07/26 金 St. Anne, Mother of the Blessed Virgin Mary (II class) White 18:00
2024/07/27 土 Saturday of the Blessed Virgin Mary (IV class) White 11:00
2024/07/28 日 Tenth Sunday after Pentecost (II class) Green 8:30, 10:30
2024/07/29 月 St. Martha, Virgin (III class) White 7:00
2024/07/30 火 Feria in time after Pentecost (IV class) Green 7:00
2024/07/31 水 St. Ignatius of Loyola, Confessor (III class) White 7:00
2024/08/01 木 Feria in time after Pentecost (IV class) Green 7:00
2024/08/02 金 St. Alphonsus Liguori, Bishop, Confessor, Doctor (III class) White 18:00
2024/08/03 土 Saturday of the Blessed Virgin Mary (IV class) White 11:00
2024/08/04 日 Eleventh Sunday after Pentecost (II class) Green 8:30, 10:30
2024/08/05 月 Dedication of the Church of Our Lady of the Snows (III class) White 7:00
2024/08/06 火 The Transfiguration of Our Lord (II class) White 7:00
2024/08/07 水 St. Cajetan, Confessor (III class) White 7:00
2024/08/08 木 St. John Mary Vianney, Confessor (III class) White 7:00
2024/08/09 金 Vigil of St. Lawrence, Martyr (III class) Violet 18:00
2024/08/10 土 St. Lawrence, Martyr (II class) Red 11:00
2024/08/11 日 Twelfth Sunday after Pentecost (II class) Green 8:30, 10:30
2024/08/12 月 St. Clare, Virgin (III class) White No Mass
2024/08/13 火 Feria in time after Pentecost (IV class) Green 7:00
2024/08/14 水 Vigil of the Assumption (II class) Violet 7:00
2024/08/15 木 The Assumption Of The Blessed Virgin Mary (I class) White 10:30
2024/08/16 金 St. Joachim, Father of the Blessed Virgin Mary (II class) White 18:00
2024/08/17 土 St. Hyacinth, Confessor (III class) White 11:00
2024/08/18 日 Thirteenth Sunday after Pentecost (II class) Green 8:30, 10:30
2024/08/19 月 St. John Eudes, Confessor (III class) White No Mass
2024/08/20 火 St. Bernard, Abbot, Doctor (III class) White 7:00
2024/08/21 水 St. Jane Frances Fremiot de Chantal, Widow (III class) White 7:00
2024/08/22 木 The Immaculate Heart of Mary (II class) White 7:00
2024/08/23 金 St. Philip Benizi, Confessor (III class) White 18:00
2024/08/24 土 St. Bartholomew, Apostle (II class) Red 11:00
2024/08/25 日 Fourteenth Sunday after Pentecost (II class) Green 8:30, 10:30
2024/08/26 月 Feria in time after Pentecost (IV class) Green 7:00
2024/08/27 火 St. Joseph Calasanctius, Confessor (III class) White 7:00
2024/08/28 水 St. Augustine of Hippo, Bishop, Confessor, Doctor (III class) White 7:00
2024/08/29 木 Beheading of St. John the Baptist (III class) Red 7:00
2024/08/30 金 St. Rose of Lima, Virgin (III class) White 18:00
2024/08/31 土 St. Raymund Nonnatus, Confessor (III class) White 11:00
2024/09/01 日 Fifteenth Sunday after Pentecost (II class) Green 8:30, 10:30
2024/09/02 月 St. Stephen, King, Confessor (III class) White 7:00
2024/09/03 火 St. Pius X, Pope, Confessor (III class) White 7:00
2024/09/04 水 Feria in time after Pentecost (IV class) Green 7:00
2024/09/05 木 St. Lawrence Justinian, Bishop, Confessor (III class) White 7:00
2024/09/06 金 Feria in time after Pentecost (IV class) Green 18:00
2024/09/07 土 Saturday of the Blessed Virgin Mary (IV class) White 11:00
2024/09/08 日 Sixteenth Sunday after Pentecost (II class) Green 8:30, 10:30
2024/09/09 月 Feria in time after Pentecost (IV class) Green 7:00
2024/09/10 火 St. Nicholas Tolentino, Confessor (III class) White 7:00
2024/09/11 水 Feria in time after Pentecost (IV class) Green 7:00
2024/09/12 木 Holy Name of Mary (III class) White 7:00
2024/09/13 金 Feria in time after Pentecost (IV class) Green 18:00
2024/09/14 土 Exaltation of the Holy Cross (II class) Red 11:00
2024/09/15 日 Seventeenth Sunday after Pentecost (II class) Green 8:30, 10:30
2024/09/16 月 Sts. Cornellius, Pope; Cyprian, Bishop, Martyrs (III class) Red No Mass
2024/09/17 火 Feria in time after Pentecost (IV class) Green 7:00
2024/09/18 水 Ember Wednesday of September (II class) Violet 7:00
2024/09/19 木 St. Januarius & Companions, Martyrs (III class) Red 7:00
2024/09/20 金 Ember Friday of September (II class) Violet 18:00
2024/09/21 土 St. Matthew, Apostle, Evangelist (II class) Red 11:00
2024/09/22 日 Eighteenth Sunday after Pentecost (II class) Green 8:30, 10:30
2024/09/23 月 St. Linus, Pope, Martyr (III class) Red 11:00
2024/09/24 火 Feria in time after Pentecost (IV class) Green 7:00
2024/09/25 水 Feria in time after Pentecost (IV class) Green 7:00
2024/09/26 木 Feria in time after Pentecost (IV class) Green 7:00
2024/09/27 金 Sts. Cosmas & Damian, Martyrs (III class) Red 18:00
2024/09/28 土 St. Wenceslaus, Duke, Martyr (III class) Red 11:00
2024/09/29 日 Dedication Of St. Michael The Archangel (I class) White 8:30, 10:30
2024/09/30 月 St. Jerome, Priest, Confessor, Doctor (III class) White 7:00
2024/10/01 火 Feria in time after Pentecost (IV class) Green 7:00
2024/10/02 水 Holy Guardian Angels (III class) White 7:00
2024/10/03 木 St. Theresa of the Child Jesus, Virgin (III class) White 7:00
2024/10/04 金 St. Francis of Assisi, Confessor (III class) White 18:00
2024/10/05 土 Saturday of the Blessed Virgin Mary (IV class) White 11:00
2024/10/06 日 Twentieth Sunday after Pentecost (II class) Green 8:30, 10:30
2024/10/07 月 Our Lady of the Rosary (II class) White No Mass
2024/10/08 火 St. Bridget of Sweden, Widow (III class) White No Mass
2024/10/09 水 St. John Leonardi, Confessor (III class) White No Mass
2024/10/10 木 St. Francis Borgia, Confessor (III class) White No Mass
2024/10/11 金 Maternity of the Blessed Virgin Mary (II class) White No Mass
2024/10/12 土 Saturday of the Blessed Virgin Mary (IV class) White No Mass
2024/10/13 日 Twenty First Sunday after Pentecost (II class) Green 8:30, 10:30
2024/10/14 月 St. Callistus I, Pope, Martyr (III class) Red No Mass
2024/10/15 火 St. Teresa of Avila, Virgin (III class) White 7:00
2024/10/16 水 St. Hedwig, Widow (III class) White 7:00
2024/10/17 木 St. Margaret Mary Alacoque, Virgin (III class) White 7:00
2024/10/18 金 St. Luke, Evangelist (II class) Red 18:00
2024/10/19 土 St. Peter of Alcantara, Confessor (III class) White 11:00
2024/10/20 日 Twenty Second Sunday after Pentecost (II class) Green 8:30, 10:30
2024/10/21 月 Feria in time after Pentecost (IV class) Green 7:00
2024/10/22 火 Feria in time after Pentecost (IV class) Green 7:00
2024/10/23 水 St. Anthony Mary Claret, Bishop, Confessor (III class) White 7:00
2024/10/24 木 St. Raphael, Archangel (III class) White 7:00
2024/10/25 金 Feria in time after Pentecost (IV class) Green 18:00
2024/10/26 土 Saturday of the Blessed Virgin Mary (IV class) White 11:00
2024/10/27 日 Christ the King (I class) White 8:30, 10:30
2024/10/28 月 Sts. Simon & Jude, Apostles (II class) Red No Mass
2024/10/29 火 Feria in time after Pentecost (IV class) Green 7:00
2024/10/30 水 Feria in time after Pentecost (IV class) Green 7:00
2024/10/31 木 Feria in time after Pentecost (IV class) Green 7:00
2024/11/01 金 All Saints Day (I class) White 18:00
2024/11/02 土 Commemoration of the Faithful Departed (I class) Black 11:00
2024/11/03 日 Twenty Fourth Sunday after Pentecost (II class) Green (Fourth Sunday after Epiphany) 8:30, 10:30
2024/11/04 月 St. Charles Boromeo, Bishop, Confessor (III class) White 10:30
2024/11/05 火 Feria in time after Pentecost (IV class) Green 7:00
2024/11/06 水 Feria in time after Pentecost (IV class) Green 7:00
2024/11/07 木 Feria in time after Pentecost (IV class) Green 7:00
2024/11/08 金 Feria in time after Pentecost (IV class) Green 18:00
2024/11/09 土 Dedication of the Archbasilica of the Holy Savior (II class) White 11:00
2024/11/10 日 Twenty Fifth Sunday after Pentecost (II class) Green (Fifth Sunday after Epiphany) 8:30, 10:30
2024/11/11 月 St. Martin of Tours, Bishop, Confessor (III class) White No Mass
2024/11/12 火 St. Martin I, Pope, Martyr (III class) Red 7:00
2024/11/13 水 St. Didacus, Confessor (III class) White 7:00
2024/11/14 木 St. Josaphat, Bishop, Martyr (III class) Red 7:00
2024/11/15 金 St. Albert the Great, Bishop, Confessor, Doctor (III class) White 18:00
2024/11/16 土 St. Gertrude, Virgin (III class) White 11:00
2024/11/17 日 Twenty Sixth Sunday after Pentecost (II class) Green (Sixth Sunday after Epiphany) 8:30, 10:30
2024/11/18 月 Dedication of the Basilicas of Sts. Peter & Paul (III class) White 7:00
2024/11/19 火 St. Elizabeth of Hungary, Widow (III class) White 7:00
2024/11/20 水 St. Felix of Valois, Confessor (III class) White 7:00
2024/11/21 木 Presentation of the Blessed Virgin Mary (III class) White 7:00
2024/11/22 金 St. Cecilia, Virgin, Martyr (III class) Red 18:00
2024/11/23 土 St. Clement I, Pope, Martyr (III class) Red 11:00
2024/11/24 日 Twenty Seventh Sunday after Pentecost (II class) Green (Twenty Fourth Sunday after Pentecost) 8:30, 10:30
2024/11/25 月 St. Catherine of Alexandria, Virgin, Martyr (III class) Red No Mass
2024/11/26 火 St. Sylvester, Abbot (III class) White 7:00
2024/11/27 水 Feria in time after Pentecost (IV class) Green 7:00
2024/11/28 木 Feria in time after Pentecost (IV class) Green 7:00
2024/11/29 金 Feria in time after Pentecost (IV class) Green 18:00
2024/11/30 土 St. Andrew, Apostle (II class) Red 11:00
2024/12/01 日 First Sunday of Advent (I class) violet 8:30, 10:30
2024/12/02 月 St. Bibiana, Virgin, Martyr (III class) Red 7:00
2024/12/03 火 St. Francis Xavier, Confessor (III class) White 7:00
2024/12/04 水 St. Peter Chrysologus, Bishop, Confessor, Doctor (III class) White 7:00
2024/12/05 木 Feria of Advent (III class) Violet 7:00
2024/12/06 金 St. Nicholas, Bishop, Confessor (III class) White 18:00
2024/12/07 土 St. Ambrose, Bishop, Confessor, Doctor (III class) White 11:00
2024/12/08 日 Immaculate Conception Of The Blessed Virgin Mary (I class) White 8:30, 10:30
2024/12/09 月 Feria of Advent (III class) Violet No Mass
2024/12/10 火 Feria of Advent (III class) Violet 7:00
2024/12/11 水 St. Damasus I, Pope, Confessor (III class) White 7:00
2024/12/12 木 Feria of Advent (III class) Violet 7:00
2024/12/13 金 St. Lucy, Virgin, Martyr (III class) Red 18:00
2024/12/14 土 Feria of Advent (III class) Violet 11:00
2024/12/15 日 Third Sunday of Advent (I class) Rose or violet 8:30, 10:30
2024/12/16 月 St. Eusebius, Bishop, Martyr (III class) Red 7:00
2024/12/17 火 Feria in time of Advent (II class) Violet 7:00
2024/12/18 水 Ember Wednesday in time of Advent (II class) Violet 7:00
2024/12/19 木 Feria in time of Advent (II class) Violet 7:00
2024/12/20 金 Ember Friday in time of Advent (II class) Violet 18:00
2024/12/21 土 St. Thomas, Apostle (II class) Red 11:00
2024/12/22 日 Fourth Sunday of Advent (I class) violet 8:30, 10:30
2024/12/23 月 Feria in time of Advent (II class) Violet 7:00
2024/12/24 火 Vigil (weekday) of the Nativity of Our Lord (I class) violet 7:00
2024/12/25 水 The Nativity of Our Lord Jesus Christ (I class, with Octave of II class) White 00:00, 10:30, 18:00
2024/12/26 木 St. Stephen, First Martyr (II class) Red 7:00
2024/12/27 金 St. John, Apostle (II class) White 18:00
2024/12/28 土 Holy Innocents, Martyrs (II class) Red 11:00
2024/12/29 日 Sunday within the Octave of the Nativity (II class) White 8:30, 10:30
2024/12/30 月 Sixth Day Within the Octave of Christmas (II class) 7:00
2024/12/31 火 Seventh Day Within the Octave of Christmas (II class) 7:00


子どもたちの教育についてどのような報告をしなければならないか?自分の務めが何であるか?子どもたちに信仰を、超自然の命を伝えるために何をしなければならないか?

2024年07月19日 | お説教・霊的講話

2024年7月14日大阪主日ミサ説教

トマス小野田圭志神父

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、

【導入】
今日の福音を読むと、今日の福音の管理人に起こったように、私たちは死の瞬間、イエズス・キリストによって裁かれ、同じことを言われます。「おまえの一生の会計の報告を出しなさい、もうあなたを支配人にしておくわけにはいかないから」と。
今日はこの言葉について一緒に黙想いたしましょう。

私たちは全てを主から受けました。私たちの持っているもので、主から受けなかったものは一切ありません。生命、時間、才能、境遇、家族、言語、能力、性別、地位、責任などなど・・・、これら以外にもすべて主から受けたもので、天主からでないものはありません。私たちはこれをどのように使ったのか、受けた恵みにどのように答えたのかについて最後に報告しなければなりません。真理に、イエズス・キリストに忠実だったのかどうか、あるいは善を愛したか、キリストをお愛し申し上げたかどうかについて、私たちは厳格に厳密に報告しなければなりません。

【いろいろな報告の例】
いろいろな報告の例があります。なぜかというと、報告や裁きの内容は、身分や境遇によってさまざまです。わたしが報告しなければならない内容は、愛する兄弟の皆さんが報告しなければならない内容とは異なっています。地位が高ければ高いほど、多くを受けたのであればあるほど、より厳しい裁きを受けます。
たとえば財産についていえば、金持ちは、自分の財産や富があればあるほど、それをどのように良くつかったのか、どれほどキリストのために・本当の善のために使ったのかについて、厳しく裁かれます。地位についていえば、たとえば司祭あるいは司教であれば、受けた司祭職あるいは司教の権能をどのように良くキリストのために使ったのか、ということについて厳格に裁かれます。

【負債】
「報告を出せ」と、これは負債です。
私たちが主から受けたものは、主に返さなければなりません。私たちの受けた時間や才能は、いわば主に返さなければならない負債であって、これはこの世のことだけのために与えられたのではありません。今日の書簡で聖パウロが言っている通りです。「兄弟たちよ、私たちは負債をおっているが、肉にしたがって生きるための、肉に対する負債をおってはいない。」そうではなくて、「天主の霊によって導かれて」生きるために、「天主の子ら」として生きるために、恵みを受けました。ですからこの主のために生きることによって、負債を返さなければなりません。イエズス・キリストのために生きることによって、よく使い、よく負債を返すことができるようになります。このことについて、どのようによく使ったのかについて報告しなければなりません。

【子どもの教育の使命】
では第二のポイントです。7月は子どもたちの学校の夏休みの時ですから、もちろん私たちにはおのおのいろいろな報告内容がありますが、特に今日はとりわけ子どもたちの教育について、私たちがどのような報告をしなければならないかということを黙想することを提案します。特に今日はお父さんやお母さんたちのために、あるいは将来のお父さんお母さんたちのために、黙想を提案しています。

まず第一に、子どもは天主さまからの命の贈り物です。天主は、子どもの出産と教育の力を私たちに委ねました。私たちはこれを天主の助けのもとに行わなければなりません。
天主は私たちに自然の命を伝達することと、さらに超自然の命を伝達することを委ねました。

でも、子どもの本当の目的――命の本当の目的――は、超自然の命のためです。つまり、もしもお父さんとお母さんが、子どもの生命の教育を伝えることを委ねられたとしたら、これは、子どもたちが天国に導かれるために与えられました。

では、子どもの教育、どうしたらよいのでしょうか。天国に導くためにどうしたらよいのでしょうか。子どもの教育のためには、子どものことを良く知らなければなりません。つまり、子どもの弱点や長所をよく知っている、識別する必要があります。では、弱点、長所、どんなものでしょうか。これは、自然な弱点と長所のことだけではありません。子どもは、か弱くもあり、同時に偉大な尊厳をも持っています。どういうことかというと、子どもは、自然本性に従えば、原罪の罪を負って生まれてきた罪人です。しかし、洗礼を受けることによって天主の養子となります。天主の子どもとなります。超自然の命を受けることができる、永遠の栄冠を受ける候補者となるのです。天国の聖人となることができるものすごい存在だということです。別の言葉で言いなおすと、よく私たちが聞くように、人間は性善説だ、性悪説だという二つでは説明できない存在だということです。白か黒かではなくて、さまざまな美しい色とりどりの色によって描かれている存在です。つまり人間というのは罪人でありますが、しかし天主の御血によって贖われた、そして高められた罪人だということです。

もう少し詳しく説明すると、子どもは、自然な目から見ただけでも純粋な天使ではありません。かといって、単なる動物やペットのようなものではありません。たしかに動物のような本能や能力を持っています、が、それと同時に、天使のように知性や自由意志をも持っています。そればかりではなく、 陰を持っています。どのような陰かと言いますと、原罪によって悪に傾いています。無知の傷を負っています。弱さを負っています。しかし、真理を知り、善を選ぶことができます。さらに超自然の光が、洗礼によって与えられて、洗礼の恵みによって、弱さが強められ、超自然の秩序に高められます。また天主が味わっている永遠の至福に与り、そして天国の遺産を相続する天国の世継ぎ、キリストとともに永遠の命をうけることができる共同相続者となるように召されています。子どもはこうやって究極な目的を天国に持っていて、子どもがそれにたどりつく唯一の道はイエズス・キリストだけです。

ではこのような目的を持った色とりどりにきれいに飾られた子どもたち、これは、どのような手段をもって天国に導いてあげることができるでしょうか。

子どもたちは、超自然への命へとたどり着くためにこの世に生まれてきたのですから、子どもたちのお父さんお母さんは、超自然の環境の中で生活することができるように助けてあげなければなりません。ですから愛する兄弟の皆さま、そしてお父さんとお母さんたちは、そして子どもたちがまず何よりもまずキリスト者であるということを自覚なさってください。この子どもたちのこの世での人間の人生の間、この子どもたちが考えること、話す言葉、あるいは歩み、あるいは行い、その他全ては、天主の子どもとして相応しいように、あるいは、キリスト者として天国の永遠の命を受けることにふさわしいようになるように導いてあげなければなりません。導くというのは、ラテン語で ducereと言いますが、このe-ducereということばから、education 教育と言う言葉が生まれました。

天国へと導いてあげる、これこそが本当のカトリックの教育です。そのためにはどうやって導いてあげたらよいでしょうか。

まず自然な徳を身につけるように手伝ってあげなければなりません。なぜかというと、子どもは、謙遜、従順、貞潔、剛毅などなどの徳を身につけなければなりません。徳というのは、英語でVirtueと言いますが、その徳の行為を繰り返して行えば行うほど、徳が身に付きます。そしてそれをより簡単に行うことができるようになります。人間は、徳がある生活をするように有徳の生活をするように創られています。善い行いを繰り返すことによって、より簡単に善を行うことができるばかりか、その善を行うことが楽しくなります。うれしくなります。その善を行いたくなります。こうして善徳を身につけることによって、わたしたちの生命が、人生が豊かになっていきます。

自然の徳だけではありません。超自然の徳についても同じです。超自然の徳というのには、信仰、希望、愛徳があります。これはたしかに洗礼を受けることによってその種を、芽を受けることができますが、それを繰り返し実践して、それを使って、育てていかなければなりません。信仰の知識を深めて、お祈りをして、愛徳を実践して、深めて、育てていかなければなりません。

また同時に、お父さんとお母さんは原罪を負った存在だ、ということを知らなければなりません。私たちすべてに原罪の傷がある、ということを知らなければなりません。ですから、こんなにかわいい子どもでさえも持っている悪しき傾きの芽が伸びるのをうまーく賢明に上手に防いであげて、そして同時に、天主の聖寵の助けとともに、子どもが超自然の聖徳にまた自然の善徳に育つことができるように気を配ってあげなければなりません。もちろん子どもの知性は、この世に関する知識も必要です。しかし、イエズス・キリストに対する深い知識が、公教要理の知識が必要です。祈りの実践も必要です。

お父さんとお母さんは子どもが公教要理を深く学ぶことができるように、気を配ってあげなければなりません。また、最後に、教皇ピオ十二世は、こんなことも言っています。子どもたちは知性も性格も霊的な特徴も同じではない、と指摘しています。ですから子どもたち一人ひとりの違いをよく理解してあげて、褒めたりあるいは注意してあげたりしなければならない。また、家庭と教会そして学校という三つの場所が、同じ精神で同じことを教えて子どもたちを守ってあげるのが理想的だと言われています。少なくとも家庭でやっていることと、そして、教会でのことがおんなじでなければなりません。

【良心の究明】
では良心の糾明をいたしましょう。私たちは子どもに一体何が一番重要であるのかということを、言葉と模範で示しているでしょうか?教会の教えと家での教えはぴったりと一致しているでしょうか?それとも私たちが子どもたちに伝えようとしている最も大切なものはいったい何なのでしょうか?永遠の命なのでしょうか?それともこの世の楽しみのことなのでしょうか?わたしたちが主日にいったい何を選んでいるでしょうか?「なんじ、安息日を聖とすべきことをおぼゆべし。」これは天主の十戒の第三戒です。これは主日にわたしたちは聖伝のミサに与ることによって聖化しようと、あるいは距離があるのでどうしても与れないので、しかたがないので、ロザリオを唱えることによって主日を聖化しようとしているでしょうか?公教要理を学ぼう、あるいは子どもたちに学ばせようとしているでしょうか?それとも、主日は他のことを選ぶようにしているでしょうか?

私の知っている方は…私こんなことを聞きました…ある女の子は特別に奇跡的に大好きなミュージシャンのコンサートのチケットが当たったのだそうです。しかし、ミサに与るためにそれを棄てて犠牲にしてミサに与った。あるいは、ある家族は夜行バスに乗って夜も眠らずに何時間も揺らされてミサに与るために来た。私の知っているある中学生は――中学三年生の時からミサに与るようになったのですけれども――彼はそれまで大好きだった日曜日ごとに行っていた空手の道場を辞めてミサに与るようにしました。永遠の命にとって私たちはいったい何が大切なのでしょうか。いったい私たちは何のために生きているのでしょうか。

今日の集祷文にはこうあります。「主よ、願わくは、正しいことを考えかつ行う霊を常に我らに憐れみ深く与え給え。そは、御者なくしては、存在しえないわたしたちが、御身に従って生きるためなり。」


【警告】
ここで本当ならばわたしは、お説教を終えようとしようと思ていました。しかしルフェーブル大司教様のおっしゃっている言葉を少しだけいくつか引用することをゆるしてください。

私たちにとって聖伝のミサを選ぶということが、あるいは超自然の命を選ぶ・信仰を選ぶということがどれほど大切か、そのためにどれほど多くの司祭たちや司教様たちが命がけでそれを守ってきたかという例をいくつかあげたいと思っています。これは、ルフェーブル大司教様が挙げたことばで、警告の言葉です。

ソ連時代、モスクワの支配下にあったポーランドでさえ、――ルフェーブル大司教様によると――カトリック司祭たちは…カトリック司祭でさえも、最も重要な問題はモスクワとの決裂を避けることだったと考えていたそうです。ですから政治的な策略を彼らは第一にしてしまいました。つまり、カトリックの信仰とか霊魂の救いが最も大切だという代わりに、そして信仰のため救霊のためならば生命をもすべて犠牲にしなければならないとは考えなかった、ので、ですからクレムリンは、モスクワは、たいした抵抗も受けることなく、ポーランド国民を完璧な奴隷状態に落としめることができた、と言っています。ルフェーブル大司教様のお言葉です。
(教皇)ピオ九世は、すでに言っていました。共産党とは協力できない、と。もしもだまされて、だまされるがままになって、社会主義や共産主義の体制をつくるために、協力するならば、協力することに同意するならば、それは最後の裁きの日に大きな罰を蓄えるのみならず、その裁きの罰を待っているあいだにも、国民は現世的な利益を何ひとつ得られず、かえって苦痛と災難を加え増し増加するだけだ、と。だまされた!では遅すぎる。」と警告しています。

【模範1】
ルフェーブル大司教様は、ある主任司祭が、こんな手紙を書いたと云うことを私たちに教えてくれます。主任司祭は自分が受け持つ二つの小教区の信徒たちに次のようなお別れの手紙を出したそうです。
「×年○月○日の面会で、教区長の司教様は私に最後通牒を伝えました。」
これは神父様の教区民への手紙です。引用して読んでいます。神父様の引用を続けます。
「新しい宗教を受け入れるか拒否するかの二者選択でした。私はこれを避けて通ることが出来ません。ですから、私は自分の受けた司祭職に忠実に留まるために、永遠の教会に忠実に留まるために、・・・私は自分の意に反して、引退するように要求され強制されました。・・・私は、正にこの天主に関わる重大な問題・・・つまり永遠の聖伝のミサの問題・・・において、誠実である義務を果たしています。・・・これは、私が天主に、そして人々に特に教区の皆さまに与えなければならない忠実と愛の証拠です。この忠実と愛の証拠について、私は最後の審判の日に裁かれるでしょう。それは他方で同じ遺産を委ねられた全ての人々についても言えることです。」

【模範2】
ルフェーブル大司教様は、公開書簡の最後にこうも書いています。自分のことについてこう言っています。
「もしあなたがたが、なぜ私がこれほどにまで(聖伝のミサを守るために)粘り強い態度をとるのかと問うならば、私はこう答えましょう。私がこの地上を去るとき、天主が「お前は司教として何をした? 司教、司祭の恩寵に与ったお前は、どんな働きをしたのだ?」と私にお尋ねになられたとき、私は天主様の口から次の恐ろしい言葉を聞きたくないのです。「お前もまた、他の者たちと一緒になって、教会を破壊する手助けをしていたのではないか。」

では最後にマリア様にお祈りいたしましょう。私たちが自分の務めがいったい何であるか、子どもたちに信仰を伝えるために、超自然の命を伝えるためにいったい何をしなければならないか、最も大切なものは何かをよくわきまえ知り、そしてそれをよく果たすことができるようにマリア様の特別な御取り次ぎを請い求めましょう。

「会計の報告を出しなさい、もうあなたを支配人にしておくわけにはいかないから」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


聖クロード・ド・ラ・コロンビエール神父 (1641-1682) の作った「天主に信頼する祈」

2024年07月18日 | カトリックとは

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

聖クロード・ド・ラ・コロンビエール神父 (1641-1682) の作った「天主に信頼する祈」をご紹介いたします。

天主に信頼する祈(聖クロード・ド・ラ・コロンビエール (1641-1682))

わが天主よ、御身に希望せる者はすべて御身に見守られ、御身にすべてを待ち望む者には何一つ欠けるものなしとわれは確信す。われは、将来を何の心配もなく生き、わが不安のすべてを手放して御身に委ねんと決心したてまつる。「主よ、われ、安らかに眠り、休むなり。われが御身のうちに見出す平和のうちに。なぜなら、主よ、御身はわが希望を特別なるやり方で強めたもたればなり。」(詩篇4:9-10)人々はわれから財産と名声を奪い、病はわが力と御身に仕える手段を取り去り、われ自身は罪のために御身の恵みを失うやもしれず。しかし、われ、希望を失わじ。われは最期まで希望せん。われから希望を奪おうとする悪魔らのこころみはすべて無駄なり。「主よ、われ、安らかに眠り、休むなり。」
ある者らは豊かさや才能に幸福を期待し、ある者らは、罪なき生活、厳しい苦行、善行の量、祈りの熱意に期待するやもしれず。しかしわれにとっては、主よ、わが全ての信頼こそが、わが信頼なり。「なぜなら、主よ、御身はわが希望を特別なるやり方で強めたもたればなり。」この信頼はだれをも偽らず。「主に信頼する者は、誰一人としてその信頼に恥じたことなしと知れ。」(Eccl. 2:11)
ゆえに、われは永遠に幸福なることを確信せり。そは、われ固くかく希望するが故に、また、天主よ、御身にこそ希望するが故なり。「主よ、御身にこそわれは信頼せり。決して恥ずかしめらるを許しなもうなかれ。」(詩篇30:2)われは、おのれがもろく、弱きことを知れり。あまりにもよく知れり。深く根付きし聖徳に反する誘惑がいかに強いかも知れり。天高き星々や天空を支える大黒柱の倒れ落ちるのをわれは見たり。しかしわれは恐れじ。われ希望する限り、すべての災いから守られるがゆえなり。われは変わらぬ希望で希望するがゆえに、われは常に希望するなり。
われは御身に希望しすぎることはありえず、御身に希望したことをすべて受けられると確信するなり。それゆえ、われは、御身がいとも激しき誘惑においてわれを支えたもうこと、御身がいとも恐るべき敵どもにわが弱さを勝利させ給うを知るなり。御身はつねにわれを愛したまい、われも倦まずたゆまず御身を愛するを希望せん。われは御身に、そして御身だけを希望し!ああ、わが創造主よ!時の中で、そして永遠に。アーメン。

ACTE DE CONFIANCE EN DIEU

Saint Claude de LA COLOMBIERE(1641-1682)
Mon Dieu, je suis si persuadé que Vous veillez sur ceux qui espèrent en Vous, et qu’on ne peut manquer de rien quand on attend de Vous toutes choses, que j’ai résolu de vivre à l’avenir sans aucun souci, et de me décharger sur Vous de toutes mes inquiétudes : « Pour moi, mon Dieu, je dormirai et me reposerai dans la paix que je trouve en Vous ; parce que Vous m’avez, Seigneur, affermi d’une manière toute singulière dans l’espérance que j’ai en Votre divine bonté » (Ps IV, 9-10). Les hommes peuvent me dépouiller et des biens et de l’honneur, les maladies peuvent m’ôter les forces et les moyens de Vous servir, je puis même perdre Votre grâce par le péché ; mais jamais je ne perdrai mon espérance, je la conserverai jusqu’au dernier moment de ma vie, et tous les démons de l’enfer feront à ce moment de vains efforts pour me l’arracher : « Pour moi, mon Dieu, je dormirai et me reposerai dans la paix que je trouve en Vous… ». 
D’aucuns peuvent attendre leur bonheur de leurs richesses ou de leurs talents, d’autres s’appuyer sur l’innocence de leur vie, ou sur la rigueur de leurs pénitences, ou sur le nombre de leurs aumônes, ou sur la ferveur de leurs prières : « Parce que Vous m’avez, Seigneur, affermi d’une manière singulière dans l’espérance… » : pour moi, Seigneur, toute ma confiance c’est ma confiance même ; cette confiance ne trompa jamais personne : « Sachez que jamais personne qui a espéré dans le Seigneur n’a été confondu dans son espérance » (Eccl. II, 11). 
Je suis donc assuré que je serai éternellement heureux, parce que j’espère fermement de l’être, et que c’est de Vous, ô mon Dieu, que j’espère : « C’est en Vous, Seigneur, que j’ai espéré ; ne permettez pas que je sois confondu à jamais » (Ps. XXX, 2). Je connais, hélas! Je ne connais que trop que je suis fragile et changeant, je sais ce que peuvent les tentations contre les vertus les mieux affermies, j’ai vu tomber les astres du ciel et les colonnes du firmament, mais tout cela ne peut m’effrayer : tant que j’espèrerai je me tiens à couvert de tous les malheurs, et je suis assuré d’espérer toujours, parce que j’espère encore cette invariable espérance. 
Enfin, je suis sûr que je ne puis trop espérer en Vous, et que je ne puis avoir moins que ce que j’aurai espéré de Vous. Ainsi, j’espère que Vous me soutiendrez dans les tentations les plus violentes, que Vous ferez triompher ma faiblesse de mes plus redoutables ennemis ; j’espère que Vous m’aimerez toujours, et que je Vous aimerai aussi sans relâche ; et pour porter tout d’un coup mon espérance aussi loin qu’elle peut aller, je Vous espère Vous-même de Vousmême, ô mon Créateur, et pour le temps et pour l’éternité. 
Ainsi soit-il !   

 


「人間の生命は天主のみがその絶対の主である」マーチフォーライフ in TOKYO 2024

2024年07月17日 | お説教・霊的講話

2024年7月15日 東京 カルメル山の聖母の随意ミサ 説教

「人間の生命は天主のみがその絶対の主である」(2024年7月15日 カルメル山の聖母の随意ミサ)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

神父様、
愛する兄弟姉妹の皆様、

今日は2024年7月15日、「マーチフォーライフ2024年」の行事の一環としてカルメル山の聖母の随意ミサを荘厳ミサで行っています。

この世における人間の生命(いのち)は、神聖であってけっして犯すことができません。人間の生命が受精の瞬間から始まるということ、そして人間としての存在の最初の瞬間からこの生命がまもられなければならないということは、真理です。これは誰も変えることができません。この真理をカトリック教会は常に教え続けています。

【最初の瞬間から人間の生命がまもられなければならない理由】
何故なら、人間の生命は、天主だけがその絶対の主であるからです。
ほかには誰も手を付けることができません。
何故ならば、人間の生命(いのち)は、人間すべては、天主の似姿にしたがって天主の肖像によせて作られているからです。
何故ならば、人間は洗礼を受けることによって、天主の養子、子どもとなることができる高貴な存在であるからです。
人間は天主の永遠の至福の栄光の冠を受けるために、そのためにこの地上で生まれてくるのです。

【天主こそが絶対の主】
もしも創造主なる天主の存在を否定したとしたならば、もしも人間が天国での永遠の至福の生命を得るためにこの世に生きるのではないとしたならば、もしも人間のこの世における存在というのがただ偶然のものに過ぎないとしたならば、その論理的な結論は何でしょうか。
その結論は、つまり人間の生命(いのち)の価値などまったくない、です。価値がないと結論づけざるを得なくなります。

もしも天主が人間の生命(いのち)の絶対の主でないならば、天主の十戒は、社会生活において無視されるに違いありません。
もしもそうならば、天主の聖なる掟は、夫婦の生活においても無視されます。
結婚が聖なるものや、家庭生活が尊いということ、これも無視されます。聖なる家庭を築き上げるという理想が、個人主義・利己主義・エゴイズムに取って代わられるに過ぎません。
もしも超自然の生命(いのち)への希望がなくなってしまったならば、キリスト教の理想が失われてしまいます。つまり異教の理想がそれにとって代わるしかありません。言いかえると、人間は、永遠のしあわせのためではなくて、この世の快楽のためにだけ生きていることになってしまいます。

面白おかしい刹那の快楽を追求するために、自分の欲求を全て満足させるために、何が必要でしょうか。お金が必要です、権力が必要です、地位と名声が必要です。これを求めます。
自分のやりたい放題、下等な本能に従って、好きなだけ、制限もなく、ブレーキもなく楽しみたい。そうしたら邪魔者は敵になります。いったい何が邪魔者でしょうか。道徳です、天主です、掟です、家族、家庭、さらには子供たちさえも自分の楽しみの邪魔になるかもしれません。

堕胎・妊娠中絶、これはお母さんの胎内にある子供たちの命を殺害することです。
何故こんなことをしてしまうのでしょうか。こどもがこんなに大切ではないでしょうか。いや、子供が邪魔だからです。自分の健康や、快楽、評判や、キャリア、世間体などにとって邪魔だからです。
それを守るために、自分の快適な生活と言う偶像のために、小さな赤ちゃんを生け贄として人身御供として捧げているのです。自分の面白おかしい生活を、他の人間の死に基づかせているのです。自分の楽しみのほうが、子どもの命よりも絶対的な価値を持っていると主張するからです。これは確かに偶像崇拝と言えるかもしれません。

いえ、天主こそが絶対の主です。天主の掟に従うこと、永遠のいのちの救い、これこそがわたしたちにとって最優先しなければなりません。

【堕胎】
特にわたしたちはマーチ・フォー・ライフを行っていますから、カトリック教会の古代からの声を響かせなければなりません。カトリック教会は、ローマ時代、テルトゥリアンの時代から堕胎を非難してきました。古文書にそう記録されています。

つい最近の話でいえば、ヨハネ・パウロ二世も「いのちの福音」の回勅の中で何度も同じことを繰り返しています。
一つだけそれを引用します。
「キリストがペトロとその後継者たちに与えた権威によって、カトリック教会の全ての司教たちとの交わりにおいて、私はこう断言する。罪のない人間を直接に意図的に殺害することは、常に重大な非倫理的な行為である、と。この教えは、全ての人間が理性の光によってその心に発見する 書かれていない法――掟(おきて)――に基づき、聖書によって再確認され、教会の聖伝によって伝えられ、通常の普遍の教導権によって伝え続けられてきたことである。」
ヨハネ・パウロ二世の引用を終わります。【こんなことを教皇が荘厳に発言しなければならないとは、私たちは何と恐ろしい時代に生きていることでしょうか!】

四年前にはグアダルーペの聖母の祝日に、1人の枢機卿と4人の司教が共同の声明を出しました。
「カトリック教会には、中絶は絶対に拒否されなければならないという真理をはっきりと証しする義務があります。目的が手段を正当化することはできません。私たちは、今まで見たこともない最悪の大虐殺の中で生きています。世界中で何百万人もの赤ちゃんがお母さんの胎内で虐殺され、この隠された大虐殺は、中絶産業、生物医学研究、胎児技術を通じて日々続いているからです」。
(「1人の枢機卿、4人の司教が明確に教える」Catholic Family News, Dec.12, 2020.)

私たちの主イエズス・キリストは、小さな弱々しい子どもたちをご自分自身であると考えています。私たちの主のおっしゃる言葉を聞いてください。「まことにまことに私はあなたたちにいう、これらの私の最も小さな兄弟たちの一人にあなたたちがしたことは、私にしたことである。」

現代、日本では、まだ小さな赤ちゃんたちが、人間の生命が殺され続けています。日本の堕胎の数は年々少なくなっているといわれていますが、しかし、目に見えない型の別の堕胎が行われています。

たとえば、人工授精による不妊治療では、多くの受精した小さな人間が廃棄されています。不妊治療によって、一人の子どもが生まれるために多くの受精卵が凍結され、そしてついには、破棄されます。でもこれらの受精卵はすでに人間なのです。

あるいは、避妊薬は、たとえばモーニング・ピルと呼ばれているものは、受精した人間がお母さんのおなかに着床しないように、わざと妨害する堕胎のくすりなのです。

ですから、計算・統計上には上げられていなくても、それをはるかに上回るものすごい数の子どもたちがいま殺害されているということを私たちは知らなければなりません。これはなにかというと死の文化です。命を大切にしないという文化です。

たった一回の中絶であっても、これは非常に大きな犯罪です。子どもたちのいのちが、罪のない命が、守られなかった、殺害されたからです。

愛する兄弟の皆さん、どうぞカトリック教会の使命のために、生命に対する尊重の立場から、ぜひこの「生命のための行進」マーチ・フォー・ライフに参加なさってください。今日、カトリック教会とすべてのカトリック信者は、私たちの受けた教え、聖伝、そして信仰の実践を行わなければならないからです。そして私たちには、生命の大切さに対する証しを、続けていく義務があります。

現代行われていることは、ちょうどアステカでおこなわれていた人身御供のようです。しかし、マリア様はグアダルーペにお現れになって、この死の文化を「いのちの文化」に変えてくださいました。
今日わたしたちは特にカルメル山の聖母の随意ミサを捧げています。マリア様が私たちの死の文化を「いのちの文化」へと変えてくださいますように。「いのちの文化」はマリア様の御取次によっていま大きな動きとなっています。

マリア様の御取次を今日求めて、このミサを捧げていきましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


マーチフォーライフ TOKYO 2024 報告

2024年07月16日 | プロライフ

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

マーチフォーライフ in TOKYO 2024 (主催:マーチフォーライフ委員会) はとても素晴らしく行われました。参加なさった愛する兄弟姉妹の皆様に挨拶を送ります。

マーチフォーライフのために、私たちは、日本の聖なる殉教者聖堂(大宮)で荘厳ミサを捧げました。大宮に聖堂が設置されてからの最初の荘厳ミサでした。カルメル山の聖母の随意ミサを行い、修道院長のワリエ神父さまが司式しました。

ライブ配信の動画は⇩こちらにあります。

そののち、日比谷公園に午後3時に集合して、マーチフォーライフを開始しました。

いくつかの写真をご紹介します。

マーチフォーライフ TOKYO 2024  (主催:マーチフォーライフ委員会) の生配信は⇩次の動画です。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

来週の主日には大阪でもマーチフォーライフがあります。

愛する兄弟姉妹の皆様の参加をお願い致します。


キリストはペトロに、名誉の首位権だけではなく、全教会の統治の権能を持つ首位権を与えた。この首位権は世の終末まで続く。

2024年07月16日 | お説教・霊的講話

 

2024年6月30日大阪ミサ説教

トマス小野田圭志神父 

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日は聖霊降臨後の第六主日です。
ところで昨日は使徒聖ペトロと聖パウロの祝日でした。キリストは、聖ペトロの上にご自分の唯一の教会をおたてになりました。

キリストの教会というのは、聖ペトロとその後継者を目に見える頭(かしら)としてたてられた教会で、使徒信経にもあるように、四つのしるしを持っています。つまり、一、聖、公、使徒継承の教会です。これは、愛する兄弟の皆様と私が属している教会、カトリック教会のことです。

カトリック教会は、私たちが永遠の栄光にたどり着くために必要な真理を、明確に、そして確実に、疑いもなく、誤りなく教え、そして必要な聖寵お恵みを私たちに与えることができるためにつくられた教会です。

まことのキリストの教会は、信仰と秘跡と統治における一致を保ち、そして、真理を誤りなく教え続けることができます。

いったい何故そのようなことが可能なのでしょうか? 何故ならば、まず第一に、全教会を統治し教導し教え導く至上の権限を、つまり首位権を聖ペトロに与えた、聖ペトロの上に立てたからです。天主の定めによって、このペトロの首位権を――単に、名誉上の首位権だけではなく――統治の権能を持つ首位権を、頭の上(ペトロの上)に与え、ご自分の教会を立てたからです。天主の定めによってペトロの首位権は、連綿不断の後継者――すなわち歴代のローマ教皇――を持ちます。
第二にこのペトロの後継者は、不可謬の権利を行使することができると主は定めました。

今日は、特に第一の点、キリストはペトロの上に「首位権」を与えたということについて黙想いたしましょう。

【1:キリストは約束をする:あなたはペトロである。私はこの岩(いわお)の上に、私の教会をたてよう。】

まず第一に、イエズス様は約束されます。「あなたはペトロである。私はこの岩(いわお)の上に、私の教会をたてよう。」

マテオによる福音にはイエズス様が聖ペトロの上に自分の教会をたてようとする約束が記されています。イエズス様はこうおっしゃいます。「おまえはペトロ、岩(いわお)である。」そして言葉を続けてこう言います。「私はこの岩(いわお)の上に、私の教会をたてよう。地獄の門もこれに勝てないだろう。」

イエズス様はご自分の教会を堅固な岩(いわお)の上にたてられた家にたとえています。永遠の智恵であるイエズス様は、岩(いわお)の上にご自分の家をたてます。なぜかというと、「雨が降り、流れができ、風が吹いて打ち当るけれども、その家は倒れない。岩(いわお)の上に土台をおいてあるからである。」(マテオ7:25)

イエズス様が創立する教会は、ペトロという岩(いわお)の上にたって、地獄の門もこれにうち勝つことはありえません。地獄の門が勝てないということは、つまり、いかなる誤謬も嘘も異端も悪意の攻撃も、キリストの教会を征服することはないということです。たしかに攻撃は受けるでしょう、この世の憎しみの対象となるでしょう、しかし、キリストの教会は主のたてた構造を保ちながら、たとえ数は少なくなったとしても、必ず健康で生き生きとした部分が存在し続ける、世の終わりまで存在し続け、そして勝ち残る、という約束を受けています。

聖ペトロにはこうも約束します。
「私は天国の国の鍵をあなたに与えよう。」

人間の社会においては、団体の組織を固くし秩序を保つために必要なものは、その指導者です。指導者がどのように素晴らしいかにかかっています。教会という団体においてもまさにペトロの位置はこれにあたります。鍵というのは、所有権やあるいは主権を象徴しています。鍵を持っている人が、その家の主人であり支配者であるからです。ペトロは、そしてペトロとその後継者は、地上において目に見える全教会の最高の支配者、最高の権威者として、その鍵を委ねられました。

ペトロの役割というのは何かというと、イエズス・キリストの代理者として、教会における真の教師としてキリストの教えを授けて、教会を異端と離教の禍(わざわい)から守ることです。ペトロは、異端と離教を排斥して、信仰と、そしてペトロの聖座への忠誠における一致を保持しなければなりません。そして、キリストからゆだねられた群(むれ)を牧する使命があります。

しかもイエズス様は、さらにこうも約束します。
「あなたが地上でつなぐものはみな天でもつながれ、あなたが地上でとくものは、天でもとかれるだろう。」
これは法を制定して、解釈して、判決して、断罪し、そして赦す権利が約束されたということです。たしかに、この権能は他の使徒たちにも授与されています。マテオの18章18節に書かれています。しかし、教会の礎石(きそ)として最高の支配権が鍵の保持者である、鍵を持っているペトロに約束されているので、その他の使徒たちはすべてペトロを通じてその権能を行使しなければならなくなっています。

【2:キリストは約束を果たす:「私の小羊を牧せよ!」】

イエズス様は、確かに復活する前に御受難の前にペトロにこう約束されましたが、その約束を復活後に果たします。それは、ペトロがイエズス様に対する愛を三度宣言した時でした。その時、主はペトロに三度言われます。
「私の小羊を牧せよ!」「私の小羊を牧せよ!」「私の羊を牧せよ」――これはヨハネの福音の 21章(15-17)に書かれています。こうして、司牧の全権限を聖ペトロに委ねました。

イエズス様はかつて自分のことをよき牧者であると言われたことがありますが、イエズス様の小羊というのは、主を信じている全ての信者たちのことです。ではイエズスがわたしの羊を牧せよと言ったその羊とは誰のことでしょうか、それは使徒たち、つまり、司教たちのことです。つまりイエズス様は、ご自分の代理者としてペトロを、すべての羊と子羔(こひつじ)の牧者として任ぜられたのです。つまり信者のみならず使徒の後継者である全世界の司教たちをも指導せよ、ペトロの教導と支配を仰ぐべきものとして定めました。

このようなペトロの首位権は、使徒たちによってすべて受け入れられました。ペトロは最初に召命をうけた最初に弟子となった者ではありませんでしたが、使徒たちの名前が列挙されるときには常にペトロの名前が第一番目に挙げられています。

これは名誉だけの首位権ではありません。聖書を見ると、ペトロに教導の教え導く首位権があったということがわかります。いくつか例をあげます。これはすべてではありません。
たとえば、ユダが7:28主を裏切ったとき、ユダに代わる者を選ぶことを提案したのはペトロでした。(使徒行録1:22)
聖霊降臨の日に最初に皆の前に立って説教をしたのはペトロでした。(使徒行録2:14)
イエズスの名前によって使徒として最初の奇跡を行ったのもペトロでした。(使徒行録3:6-8)
アナニアとサフィラが使徒たちを欺いた事件がありましたが、そのとき裁判官の役割をしたのはペトロでした。(使徒行録5:3-4)
異邦人を最初に教会にうけ入れたのもペトロでした。(使徒行録11:4-17)
ペトロは、エルザレムの公会議を指導して、そして救いは全ての人類に及ぶと宣言して、論争に決着をつけ、その後異論をゆるしませんでした。(使徒行録15:5-11)

【3:ペトロの首位権は世の終末まで続く】

ではこのペトロの首位権はペトロで終わったのでしょうか、いえペトロの首位権は世の終りまで続きます。なぜかというと、キリストを信じる者たち、つまりキリストの羊と小羔(こひつじ)にとって、自分たちを狼から異端から誤謬から守り、そして豊かな牧場、一つの牧舎(まきや)に導いてくれる牧者が常に必ず必要であるからです。ですからペトロは、正当な後継者を通じて世の終りまで信徒を導き、そして教会の土台として世の終わりまでその後継者を持ち続けなければなりません。このペトロの後継者としての教皇の首位権は、教会の全歴史を通じて認められてきました。

現代にいたるまで使徒の時代から認められ続けられてきました。その例はたくさんあります。が、今回はいくつか挙げるのをゆるしてください。

たとえば、一世紀のローマ、聖ペトロが殉教しました。昨日その祝日を祝いました。その後継者は、聖リノでした。聖リノも殉教しました。その次の後継者は、聖クレトでした。聖クレトも殉教しました。その次は聖クレメンテでした。聖クレメンテ(91-100年)は第四代教皇です。その当時、エフェゾではまだキリストの最愛の弟子だった使徒聖ヨハネが生きていて、まだ存命していました。ところでちょうどまだ聖ヨハネが生きていた時代に、エフェゾのすぐ近くの町コリントで大きな信仰に関する軋轢が起こりました。大論争が起こりました。そのときにコリントの人々は、この問題を解決しなければなりませんでしたが、エフェゾのすぐ近くにいたエフェゾの聖ヨハネではなくて、ローマにいた教皇聖クレメンテの元に、問題解決を願ったのでした。
考えても見てください。聖ヨハネは、キリストと三年間生活をともにした最初に選ばれた弟子です。最後の晩餐の時にはイエズス様の胸に頭をおいてイエズス様から特別に愛された愛弟子(まなでし)です。十字架の足元に一人残った弟子です。聖ペトロはイエズス様を否んだ弟子です。聖ヨハネはマリア様を御自分の家に受け取ったその弟子です。ところが、この問題が起こったときにはコリントの人々は、聖ヨハネではなくて聖ペトロの後継者に、教皇クレメンテに、問題の解決を願ったのです。すると教皇が、聖クレメンテが、コリントの教会に書簡を送って、教会の平和を乱す者を懲らしめて、そして、不従順を戒めたのでした。何故でしょうか。なぜかというと、ローマにいるペトロの後継者こそが使徒たちの頭であって、Pater Patrum (父たちの父)つまりPapa 教皇であったからです。

これは一世紀だけのことではありません。そののちもずっとそうでした。

たとえば、聖バジリオは、聖ダマソ教皇(366-384年)に小アジアにおける憂慮すべき大論争と紛糾があるときにそのことを告げて、教皇にぜひ問題解決をお願いしますとお願いしました。そのような干渉をすることが当然であるということをいったその理由の一つに、前任者であるデオニジウス(259-269年)教皇がすでに紛争の解決のために干渉したということが例にとって聖ダマソに訴えています。

あるいは東方教会の中で最も優れていたといわれる首座司教アレキサンドリアの聖チリロ(444年死亡)は、「教皇チェレスチノは全世界の司教たちの頭である」とも言っています。

このような教父たちの引用を列挙すると、このお説教は終わりがありません。ですからこのような例をいくつか挙げることに満足してこのような結論をとりたいと思います。つまりキリストがたてた教会は使徒の時代から全教会にわたって常に現代に至るまで、ペトロとその後継者を最高の指導者として来ました。
キリスト教の全司教たちの中で、ローマの教皇司教だけが常に聖ペトロの正当な後継者として主張していて、他にはそのような主張をする者は誰もおりません。つまり、キリストの教会は、ローマの司教、教皇を頭とする教会であるということです。

【4:教皇の「限界」】

では、この教会は、聖ペトロが全権を持っていて、自分の思う通りに何でもすることができるのでしょうか。いえ、教皇様には限界があります。これについては、詳しい話はまた別の機会にすることにして、一つだけ述べることにします。

たしかに 教皇はキリストの代理者として立てられましたが、後継者として立てられたのではありません。つまり、教皇様は自分の思う通りに教会を変えることができるわけではありません。教皇は、現実を教えるためにその役割を与えられました。現実というのは、頭の中で、考えたイデオロギーではなくて、わたしたちがどう考えても変えることができないその世界のことを、現実と言います。リアリティーといいます。この現実を教えるために立てられました。

そのリアリティー――現実――というのが何かというと、天主が在(ましま)すということです。三位一体の天主がまことにまします、そして永遠の命があるということ、超自然の世界がある、お恵みがある、聖寵の世界があるということ、罪があるということ、真理というものが、私たちの避けることができない現実があるということです。天国そして地獄という現実を教えるためです。

つまり信仰という、私たちが変えることができない真理の現実を教えるために立てられました。

ですからこの現実、天主の啓示・信仰を全てにまさってイデオロギーに勝って最優先にしなければならないということを教皇は教えるために、立てられました。

たとえば現実とはどんなことかというと、天主は男と女を作ったということです。それ以外のものを作りませんでした。婚姻は一人の男と一人の女が排他的に結合することだと、それが現実です。それ以外のことはありえません。それを教えるために教皇は立てられました。ですから教皇様は、教皇様といえどもイエズス様がたてられた教会をその制度を変えることはできません。現実を、真理を変えることはできません。

ですから教皇様は、たとえ教皇様といえども、使徒信経や、ニケア公会議の信仰宣言を否定したりとか禁止したりすることはできません。

同じように、教皇様といえども、教会が二千年間行って愛し信じ実行してきた聖伝のミサを禁止することはできません。教皇様の役割は、信仰を正しく伝えることにあるからです。

【5:遷善の決心】

では最後に選善の決心をたてましょう。キリストは、わたしたちに永遠の命を与えるために、目に見える指導者を与えました。信仰の一致と秘跡の一致と統治の一致をわたしたちに確実にするために、世の終わりまで確実にするために、私たちに教皇様という特別な役割を与えてくれました。それが聖ペトロの後継者です。

キリストが聖ペトロの上にたてた教会は、いまでも続いています。ローマカトリック教会です。一、聖、公、使徒継承の教会です。そしてこの教会に、愛する兄弟の皆さんと私は所属しています。この事実は疑う余地がありません。私たちがなすべきことはただ一つです。イエズス様の聖心の真理を、そして愛のプレゼントをそのまま受け入れて感謝して讃美することです。

では最後にマリア様にお祈りいたしましょう。教会の母であるマリア様にお祈りしましょう。私たちが受けたこの聖心の愛のプレゼントを感謝しそして讃美するとともに、多くの方々がこの教会の懐に入ることができますように、そして永遠の命まで導かれますように、真理を知ることができますように、お祈りいたしましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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