Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

新しい総長とその補佐たち、また前任の総長とその補佐、アジア管区の新旧管区長のために、霊的花束を捧げましょう

2018年07月31日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

聖ピオ十世会第4回総会が終了しました。その結果、イタリア人司祭のダヴィデ・パリャラーニ神父(Fr. Davide Pagliarani)が総長に選出され、総長第一補佐としてアルフォンソ・デ・ガラレタ司教(Bishop Alfonso de Galarreta)が、第二補佐としてクリスチャン・ブシャクール神父(Fr. Christian Bouchacourt)が選ばれました。

今まで二期(24年)にわたって聖ピオ十世会総長という大変な責務を担われてきたフェレー司教様にはそのお仕事を感謝いたします。また12年間フェレー司教様を補佐してこられ、日本にも訪問されたフルーガー神父様とネリー神父様にも感謝したいと思います。

今回の総会の間の決定によって、アジア管区長のシュテーリン神父様も、10月15日付けでポーランドと東欧の責任者として再任命を受けました。2014年8月15日からまだ4年になるかならないかの間にシュテーリン神父様の指導の下で、マリア・インマクラータ(罪の汚れのない聖寵に充ち満ち給う聖母マリア)の神秘を深めることが出来ました。日本でも聖母黙想会、聖イグナチオによる霊操の黙想会、秋田巡礼、長崎巡礼を指導してくださり、特に日本でのミサの司祭訪問の回数を毎月二回にする許可をくださったことを心から感謝します。

ポーランドに戻りつつあるシュテーリン神父様のことを考えると、1927年に33歳でニエポカラヌフ修道院を設立して、1930年4月に36歳で来日された聖マキシミリアノ・コルベ神父様のことを思います。聖コルベも日本には6年の滞在の後に1936年5月にはポーランドへ帰国され、ニエポカラヌフの院長に就任されました。



シュテーリン神父様の後継者として、アメリカ人司祭のパトリック・サマーズ神父様(Fr. Patrick Summers)がアジア管区長として就任する予定です。

新しい総長とその補佐たち、また前任の総長とその補佐、アジア管区の新旧管区長のために、霊的花束を捧げることを提案したいと思います。

「ドイツのルルド」と呼ばれる黒い聖母で有名なアルテッティン(Altötting)の巡礼地に、聖ピオ十世会ドイツ管区主催の巡礼で行ってきました

2018年07月31日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、


6月末には司祭叙階25周年を皆で祝ってくださって心から感謝申し上げます。アジア管区長の許可のもと、数日の休暇を頂きドイツに行くことができました。







ドイツではミュンヘンの修道院に滞在し毎年恒例のアルテッティン(Altötting)の巡礼に参加させていただきました。アルテッティンは有名な巡礼地で「ドイツのルルド」とも言われています。聖ピオ十世会ドイツ管区はミュンヘンからバイエルンの心臓でもある黒い聖母の聖地まで約100キロメートルを三日かけて歩く巡礼を組織しています。





ミュンヘンの聖ピオ十世会の修道院




ミュンヘンには美しい歴史的な教会がたくさんあります。その中でも、ミュンヘンのど真ん中に位置するマリエンプラッツ(マリア広場)のすぐ近くにあるテアティン修道会教会(聖カイェタノ教会)は、その美しさで観光スポットの一つとなっています。その聖カイェタノ教会の前の広場で、朝7時から始まる荘厳ミサが捧げられてアルテッティンへの巡礼第一日目が開始します。





今年は、聖ピオ十世会のドイツの神学校で叙階されたばかりのドイツ人司祭ヨハネス・レグレ神父様(Pater Johannes Regele)が司式しました。レグレ神父様は以前は13年間オプス・デイの会員でしたが、新しいミサと第二バチカン公会議の問題のために、オプス・デイを退会して聖ピオ十世会に入会した方です。





第一日目は34キロを歩かなければなりません。朝のミサの感謝の祈りの直後、午前9時から歩き始めました。青年たちでいっぱいでした。先頭は三人で一つのチームが5~6チーム作られ、重い木の十字架を三人で交代しながら担ぎます。















ミュンヘンの市内をまず歩きます。






夜は農地を借りて各自テントで眠ります。巡礼参加者は初日は300名ぐらいで、100名ぐらいの子供たちもいました。子供たちは10キロだけを歩き、子供だけの特別のプログラムがあります。








巡礼者は各自3日分の食糧も用意して参加します。ただし夜は温かいスープが配給されます。臨時の洗面所も作られて顔を洗うことが出来るようになります。テントを持っていない巡礼者には、共同の大きなテントも準備されました。
(続く)

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

7月31日は聖イグナチオの祝日です

2018年07月30日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日は、聖イグナチオの祝日ですね。

聖イグナチオ、我らの為に祈り給え!



天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田神父

2018年7月:聖ピオ十世会日本、大阪と東京での聖伝のミサ(ラテン語ミサ)の活動報告

2018年07月30日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 いかがお過ごしでしょうか?7月の2回目のミサのご報告をご紹介いたします。
 特に7月16日のうみの日には、多くの方々とともに、ファチマの聖母とマーチフォーライフができて幸福に思います。マーチフォーライフの主催者の方々に感謝いたします。

 次回の聖伝のミサは8月3日、4日(大阪)、8月5日、6日(東京)です。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】【大阪】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

ミサの報告が遅くなってすみません。お送り致します。

7月13日(金) 聖母の汚れなき御心のミサには13人、
7月14日(土) 聖ボナヴェントゥーラのミサには18人が
7月15日(主) 聖霊降臨後第8主日のミサには20人が
7月16日(月) カルメル山の聖母の祝日のミサには14人が御ミサに与るお恵みを頂きました。 デオグラチアス!

13日はファチマの聖母の第三回目のご出現の記念日でしたので、お説教ではもう一度、ファチマのマリア様のご出現の目的を黙想しました。
13日、14日両日とも御ミサの後に御聖体降福式をして頂き、御聖体にましますイエズス様を礼拝できて大きな御恵みでした。
14日には小学生や幼稚園の子供達が4人もいらっしゃったのでお聖堂がより教会らしく感じました。
長い歌ミサと、御聖体降福式とを続けて与る事は小さい子供達には大変な事だったと思いますが、立派に最後まで参加されていたのでこれからが楽しみなお子さん達だなと思いました。

15日の主日には自由についてのお説教をして頂きました。
人間は原罪の結果により、悪に傾きやすいが、恩 寵により道徳的自由を上手に使う事によって天国での身に余るほどの幸福を得ることができるというお話でした。
この暑い夏、自由をよく使うことが出来るよう、マリア様のお取次ぎを乞い願いました。

至聖なるイエズスの聖心我らを憐み給え
聖母の汚れなき御心よ我らのために祈り給え

【報告】【東京】
Dear Fr Onoda:

7月15日(主日)の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 29人(内、子供3人)
女: 32人(内、子供3人)
計: 61人(内、子供6人)


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

聖霊降臨後第8主日のごミサをありがとうございました。

このつまらない惨めなものである私が 天主の養子となる霊をいただいていることをあらためて思い感謝しました。天主の超自然的な意味での養子とされたのであれば、この世の人・肉の人として考え振舞うのでなく、光りの子として考え生きるよう努めなければと思いました。

カトリック信仰を持つ者というのは、なんと特別な賜物をいただいている者でしょう。天主にむかい親しく 御父よ!と呼びかけることができるのですから。

この孝愛の恵みも、堅振の秘蹟によって与えられる恵みの一つということで、自分の人間的な望みから来る生き方よりも御父が喜ばれるような生き方をしたいと望むように変えられるとのことです。聖霊の働きが感じられるときにその聖霊に逆らうことのないようにと思います。せっかくいただいた堅振の恵みを失うことのないように、気をつけなればと思います。自分では右にいった方が楽と思うのに、聖霊にまっすぐに進むように促されているとしたら、厄介だと思うかもしれません。でも、父の勧めに従う子供のようにまっすぐ進むことができるようにと思います。

また、聖福音のなかの不正な管理人の話のことですが、ここは読んでもいつもよくわからないままにおりました。お説教を伺ってしばらく黙想しておりましたが、少し天国に友人をつくるコツがわかったように思います。天国に行くために資金が必要だとしたら、私など全く足りません。せめて ちょっとした機会をつかまえて隣人にご奉仕することをできますようにと思いました。またちょっとしたことで怒ったりしないで、すぐに心からゆるすことができますように。「この世の子らは、自分の仲間に対しては、光りの子らよりも巧妙なものである。」という言葉は本当かもしれません。心から天国へ行くことを望む徳をいただけますようにと思います。

ミサの最後には 総会のために Veni Creatorを歌い、Sub tuum praesidium(「聖母の御保護に寄りすがり奉る」)の祈りを唱えました。

また、この日はご聖体降福式で日本の小さないのちが守られますようにと祈りました。70年前の7月13日から日本では堕胎が罰せられなくなり、それから3800万人以上もの赤ちゃんがお腹の中で殺され続けてきているその罪の償いのため聖母の連禱を祈り マリアさまのお取次ぎを願いました。

至聖なるイエズスの聖心われらを憐れみ給え!
聖マリアの汚れなき御心我らのために祈り給え!

【報告】
公教要理の講話をありがとうございました。
8月19日の堅振式のための堅振についてお話しいただきました。
この日は参加者が多く子供も含めて最後には22人で一緒に学ぶことができました。
堅振について全般的なことをお話しくださいました。
わかったことを簡単にまとめてみました。

◎堅振とは「堅く振まう」ということから来る言葉。ラテン語では confirmatio。
中国語でも韓国語でもこの堅振の字を用いている。

◎洗礼は 天国に行くために絶対的に必要なものである。その人の救霊のために必要なもの。緊急の場合は誰でも授けられる。

◎堅振は目的地である天国により効果的に達するために必要なものである。司教が授ける。

◎洗礼を受けると 霊的な生命を新しく受ける。洗礼はその人個人に必ず必要である。質量は単純な“水”で、水は世界中のどこにいてもすぐに手に入る。イエズス様がご自分も洗礼を受けられたことですべての水を聖別してくださった。

◎堅振を受けると、霊的な生命の完全な年齢に達することができる。信仰を話すことで伝えたり、それとなく信仰が良きものであることが感じさせられる良い香りのように伝わったり、周りの人とのコミュニケーションにおいて堅振を受けたことが働く。質量はバルサム香とオリーヴ油の混じった聖香油で、それは 他人に良い香りを伝え 火の舌のように信仰を話して伝える愛徳の燃える火となるものであることをあらわすもの。オリーヴ油を用いるのは、オリーヴの樹は常緑樹でいつも青々と茂っていて、旅人に憐れみの木陰をくれる聖霊を意味するものだから。堅振はより簡単に天国行くためのものであり、より複雑な難しい質量となっている。そしてその聖香油は 一年に一度 聖木曜日に聖別される。

◎堅振の形相・・・《聖父と聖子と聖霊との聖名によって 汝に十字架の印を授け 汝を救いの香油において堅める》

◎聖霊の充満を与える原因は誰か? 三位一体である。だから三位一体の名前が述べられる。

◎堅振のときは、お恵みを与えるだけでは足りなくて、洗礼とどれほど違うものであるか詳しく述べられなければならない。長い文章がある。

◎“十字架の印”が授けられる、とは? 軍人の持つ旗が与えられることである。外的な戦いが必要であり、自分が聖になるのみならず、敵と戦わなければならない。そのために十字架の印の御旗も与えられなければならない。

◎霊的な刻印を与えられ(霊印)、霊的に成人の年に達し信仰の戦いにおいて霊的な戦いができるようになる。外にでてイエズス様のために働くようになる。

◎十字架の印を額につけるのは、皆の見える所に印がなければならないこと。また信仰を表明するのを邪魔する要因である畏れや恥ずかしさを克服するためである。

◎なぜ司教さまだけが堅振を授けられるかというと、その人の信仰を最後に固める業をおこなうため。料理における味付けをする料理長や、家をつくる際の棟梁や、手紙をしたためた際の最後のサインをする最高責任者の社長のようなもの。それと同様に、霊魂は天主の家であって最後の完成をさせられるときに 普通の神父ではなく司教が最後の仕上げとしてサインを施す。

以上に簡単にまとめてみました。

次回の公教要理も堅振のお話をしてくださるとのこと、どうぞよろしくお願いします。

いつも貴重なお話をありがとうございます。

【報告】【東京】
Dear Fr Onoda:

7月16日(うみの日)の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 18人(内、子供2人)
女: 17人(内、子供3人)
計: 35人(内、子供5人)

ちなみに今日のマーチフォーライフの参加者は、歩きながらざっと数えたとこ
ろ、27人でした。

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

カルメル山の聖母の記念ミサをありがとうございました。
カルメル山の聖母のくださったスカプラリオの代用の御メダイというのがあります。その絵柄はスカプラリオを持つ聖母子像ですが、もう一つの面はイエズスの聖心の御絵です。

もう昔々のことです、教会からすっかり足が遠のいていた時期のことですが、あるものが地元の巷のアクセサリー売り場に並んでいたのを見た時に、どうしても欲しいという気持ちが抑えられず買ってしまいました。普通のアクセサリーとは明らかに違うとわかるもので なぜこんなところでこのようなものを売っているのだろうと不思議に思うものでした。それは、イエズス様(と思われる方)がこちらを向いて聖心を指し示している絵柄で、私はすっかり魅了されてしまいました。でも御メダイという言葉すら知らなかったのです。シルバー製なので時折磨きながら傷んできても大切にいつも首に掛けて愛用していました。イエズスの聖心の御絵に惹かれたのですが、もう一方の面も愛らしい御絵で聖母と幼子イエズスの二人が持っているバックは何かしら なんでバッグをもっているのかしら とずっと気になっていました。

後にロザリオのおかげで教会に戻らせていただきましたが、しばらくしてそれがスカプラリオというものだということを知らされました。このバッグと思っていたのはたくさんのお恵みそのものだったのでしょう。そののちに着衣式によって本当のスカプラリオを身につけさせていただいています。

いまそのことを思いだしました。とても大切だったのでなくしてしまわないようにすっかりしまい込んでいましたが、その御メダイを引っ張り出して眺めながらこのお手紙を書いています。

お説教の「マリア様のお望みの服を着るというのがカトリック信者の務めです。(罪をおかしたときに裸であると気づいた)アダムとエヴァが楽園を追放されるときに 天主さまは御摂理で保護するという意味で服を与えました。マリア様もスカプラリオという服を与えてくださいました。」というお話を思いだしながら、罪びとの私ですのにこのような方法でマリア様のお望みの服を着ることができるように御守りいただいたのだと思うと感動いたします。

お話の中で このスカプラリオのより霊的な意味もお話しくださいました。土曜日の特権とのことで、このスカプラリオを着衣して決められたお祈りや身分に応じた貞潔を守るなら、マリア様は煉獄にいってもその者を守る、亡くなった次の土曜日にはその者を煉獄にまで探しに来てくださるというお話でした。特に ファチマでマリア様が10月にルシアに御出現されたとき、ルシアは太陽の奇跡ではなく、聖家族のマリア様、御悲しみのマリア様、カルメル山の聖母のマリア様の順にお現われになられたお姿をみていた、そのことがマリア様は私たちをカルメル山の聖母として天国へ導いてくださることを現わしている、と神学者たちは言っているとのこと、そして、「聖家族、御悲しみの聖母、カルメル山の聖母」というのは喜びの玄義、悲しみの玄義、栄えの玄義とも関連するものでロザリオの玄義を象徴するものともいえる、この終りの時代にはマリア様はロザリオとスカプラリオの二つの簡単な手段で私たちを天国に導こうとされている、という神父様のお話を思いだして考えております。

洗礼を受けてもマリア様の話を何一つ聞かされないまま教会を離れ路頭に迷っていた私だったのに、昔から続くカトリックの教えかたの神父様たちに出会い、今またこのすばらしい天国のようなごミサに与れていますのは、マリア様のお望みの服のスカプラリオの服を身につけることができたおかげだったかもしれません。天主さまの御憐れみと御摂理とご保護に感謝いたします。

ロザリオとスカプラリオの二つの手段で天国へ行けるというのは、聞く者にとってあまりに簡易で疑わしく思われるかもしれないけれど、ひどい罪人である私のようなものがスカプラリオの代用のメダイを手にしたことで多くの恵みを受けるようになったことを考えると、やはりスカプラリオの恵みというのは本物だと感じられます。天国へ行くことができますように最後まで堅忍したいと思います。マリア様にしがみついているイエズス様のように イエズス様とマリア様とスカプラリオの紐につながり離れないでいることができますようにと思います。

そして、その他にもカルメル修道会がどのようにしてできたかなどとても興味深いお話もありがとうございました。小野田神父様のカルメル山の聖母の聖伝のごミサに与ることができましたことを、心から感謝申し上げます。



【報告】
マーチフォーライフに参加して

今年もマーチフォーライフに参加いたしました。
出発地である築地カトリック教会に着いた時は、ファチマのマリア様も既に到着されていて、広場は参加者でいっぱいでした。外国人の方が多いように思いましたが、それでも昨年よりも明らかにたくさんの方々が集まっているようでした。

今年は長引く猛暑の最中でしたので照りつく暑さが心配でしたが、歩きはじめたらうっすらと曇り微風も時折吹いてくれているようで、なんだかお守りいただいているかのように感じられました。歌とロザリオの祈りの先導をしてくださる神父様についていくのに集中して歩きましたが、小野田神父様は黒いスータン姿でさぞ暑かったことと思います。

カトリックだからこそこのいのちのことについてもっとよく考えるのでは思うのに、実際はそうでないことをいろいろ見聞きします。私が生まれてくる新しいいのちについての疑問を解決できたのは小野田神父様のいのちのお話を聞くようになってからです。

日本では、第二バチカン公会議の前と後とではカトリックの要理などの教え方が変えられたのだと実感するなか(そもそも教えられないのが普通となった)、カトリック信仰を求める人は幾重もの障害を乗り越えなければならなくなったのだとふと思いました。

神父様の先導のもと、日本で侵されているいのちへの冒涜の罪をつぐなうために、ファチマのマリア様の御像と一緒に東京の中心をロザリオとマリア様の連禱とイエズス様の聖心の連禱を誦えながら歩くことができましたことを感謝いたします。

今年、200年ぶりにロシア人がカトリック司祭に叙階されました!今日7月29日にモスクワで新司祭パシクニック神父の初ミサが行われます。

2018年07月29日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今年は私たちのドイツの神学校ツァイツコーフェンでは6名の聖ピオ十世会の司祭が誕生しました。

その内のもう一人にヴィクトール・パシクニック神父(Pater Victor Pasichnik)がいます。





彼は1982年に共産党時代にモスクワに生まれ、13歳の時ロシア正教で洗礼を受けました。しかし天主の御恵みによってカトリック信仰を見いだし、大学で勉強中に友人によって聖ピオ十世会を通して聖伝のカトリックのミサを知るに至りました。2012年に30歳にして聖ピオ十世会の神学校に入学し、今年叙階されました。

モスクワのロシア人がカトリック司祭に叙階されたのは200年ぶりだそうです。歴史的な瞬間でした。



今日7月28日にモスクワで彼によって初ミサが捧げられます。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)





2016年聖母小黙想会 霊的講話【3】 8月11日 シュテーリン神父様「終末の時代になぜマリア様が必要なのか」

2018年07月27日 | お説教・霊的講話
2016年8月11日 聖母黙想会 シュテーリン神父様講話【3】
同時通訳:小野田圭志神父


今朝、マリア様が贖いの業に対してどれほど重要であるか、という事を見ました。

聖グリニョン・ド・モンフォールは、マリア様が聖三位一体の神秘の中に、全く唯一、そして非常に神秘的な素晴らしいやり方でその中に深く組み込まれている、という事を指摘しています。これはこの本の後半部には無いのですけれども、最初の部分にだけ出てくるものです。マリア様と聖父との関係、聖子との関係、聖霊との関係などが出てきます。

今朝は聖父とマリア様との関係について深く研究する事ができませんでした。

この聖父というのは聖三位一体の起源であり、そしてこの天主の外における全ての業の起源でもあります。聖父の神秘は、三位一体の中で最も深い根源の神秘であります。しかし私たちにとって一番親しみ深い、馴染みがあるものは、イエズス様、天主聖子とのマリア様との関係です。もちろんこれは啓示と関係があるからです。この事について教父たちやあるいは教会博士たち、教皇様たちが深く話しています。これが「マリア神学」と言われています。

ところで聖グリニョン・ド・モンフォールはこの本の中で、マリア神学の講義を皆さんにしようとするのではなくて、ただ単純に、「救い主イエズス・キリストは、御母マリア様なくてはこの世に来る事ができずに、御母なくしては救いをする事ができない、望まなかった」という事を指摘します。

と同時に、別の危険を避けようと望みます。それは多くの人々が陥ってしまう危険です。多くの人々は三位一体の神秘、あるいは贖いの神秘全て、つづめて言えば公教要理の教えをそれらを脇においてしまって、多くの人々は間違って、「マリア様だけ」「マリア様だけ」「マリア様だけ」という誤解を間違いを犯します。

「マリア様がここに御出現になった」「マリア様はこう仰った」「マリア様はこうだ」という事だけを強調する人です。シンガポールではそうです。すみません、頭痛を下さる方もいらっしゃいます。

確かにこのような方々は非常に信心深い方で、熱心な方で、イエズス様を愛しているのですけれども、この罠に陥ってしまいます。その誤解された信心とは、カトリック信心を2つに分裂してしまって、「1つはこっち」、「もう1つはこっち」として、「何の関係もない」とする立場です。

つまり「聖伝の教え、これは聖ピオ十世会の司祭が教えている。」そしてもう1つの別の世界は、またマリア様と特別の形態を持っている人々のグループの集まりで、「私の世界だ」という2つの世界を持つ方です。

マリア様は自分の為だけに注目を引き寄せようとしているのでありません。マリア様は全てイエズス様に導こうとされています。もしも聖ピオ十世会、もしも聖伝が、「イエズス様はマリア様なしにはいらっしゃらなかった。仕事を救霊の業をなさらなかった」と言うとしたら、同時に、「イエズス様なしにマリア様はない。そのマリア様とイエズス様は1つだ」と言わなければなりません。

次に第3は、インマクラータと聖霊との結び付きです、関連でした。聖グリニョン・ド・モンフォールは、以前教父たちがはっきりと書かなかったような事を、ここではっきりと書きます。これは必ずしも聖グリニョン・ド・モンフォールが自分で発明したというわけではありません。グリニョン・ド・モンフォールはいつも教父や教会の教えを引用します。なぜかというと、グリニョン・ド・モンフォールは教会の聖伝に根を持たないようなものを教えようと望まなかったからです。しかしグリニョン・ド・モンフォールはマリア様から特別の光を、特別のインスピレーションを頂きました。聖子とマリア様との関係のみならず、聖霊との関係について、他の人々よりも更に深い理解ができました。

ポーランド語で私は本を出版しましたが、まだ残念ながらポーランド語でしかありません。それは聖霊の浄配という、この「浄配」という言い方が一体、教会の中でいつ頃から始まって、誰から始まって、どのように説明したか、という事で、聖グリニョン・ド・モンフォールがこの重要な地位を占めています。

聖グリニョン・ド・モンフォールの後には著名な立派な方々がこの言い方を言いますけれども、その中に特に際立っていたのが聖マキシミリアノ・コルベで、マキシミリアノ・コルベ神父様はこの「聖霊の浄配」というものを、限りなくできるだけ明確にこれを説明しています。

第2のテーマは今朝、「マリア様がイエズス様の贖いの業に単に協力したのみならず、イエズス様の聖化の御業にも深く関わっている」という事を見ました。罪の状態から聖寵の状態への回心の恵みは、全てこれはマリア様を通して私たちに与えられます。多くのケースがあります。そしてこの私たちの聖化の段階の1つ1つ、特にその頂点に至るまで、マリア様を通して働きます。皆さんの回心の歴史を、皆さんのこの信仰生活の歴史をご覧になって、いつもその聖化や聖徳への道のりで、マリア様が御恵みを勝ち取ってきて下さっている事をどうぞ認識して、その事を思い出して下さい。そしてその事を感謝して下さい。

第3に見た事は、特に皆さんが危険な時に、あるいは人々が人類が危険な時に、マリア様が立ち上がってすぐに助けに来て下さる、という特別な役割を見ました。ライオンの家族、動物のライオンですけれども、大体メスのライオンはのろのろしていて、ちょっと怠け者のようですが、自分の子供のライオンが危ない、攻撃されている、というと非常に怒り狂って、その子供を守る為には自分の命さえも顧みないほどの凶暴の動物に変わります。

グリニョン・ド・モンフォールは更にこう言います、「誰もが、救われる為にマリア様が必要だ」と。

「もしもマリア様の役割を無視するならば、救われる事はないだろう。」
「マリア様が必要だ、という原理は認めても、それを実際に認めない場合には、それでも救われない。」
「マリア様が必要だというその原理を認めて、それを多かれ少なかれ実践したとしたら、救われるでしょうが、しかし聖人にはならない。」
「このマリア様が必要だ、という原理を認めて、それを完全に認めて、それを完璧に私たちが実践したら、それを適用した時に、私たちは聖人になる事ができます。」

これは色々な証明が証拠があります。聖人たちの生涯です。聖人たちがみんな聖人になったというのは、マリア様への信心があったからです。

グリニョン・ド・モンフォールは更に言葉を進めます。今から言う事が私たちにとって非常に大切な言葉です。この講話の直後に皆さんこの言葉を黙想して下さい。この事は、このグリニョン・ド・モンフォールは自分の生きていた時代の人々の為には書いたのではなくて、私たちの為に書いた言葉です。

「もしも人類の歴史において、マリア様が救いの為に必要だ、という事が本当ならば、事実であれば、これは最も終末の時代において生きる人々にとって、最も重要な事実となる」と。聖グリニョン・ド・モンフォールは、黙示録的な終末の時代についてのマリア様の役割がどれほど重要か、という事を非常に極めて強く強調した一人だからです。

神学者たちは、「時の終わり」とか「歴史の終わり」についてよく語っています。イエズス様御自身も福音の中で何度も何ページにも渡って終末の時代についてお話しています。この終末の時代は人類の歴史において最悪の時となるでしょう。イエズス様は「厭わしいもの憎ましいものが至聖所に来るだろう」とか、あるいは「信仰の光を見つける事ができるだろうか」とか、あるいは「愛は冷えきってしまうだろう」等と予言しています。

特に黙示録においては、新約聖書の最後において「最後の時代はどうなるか」という事について予言しています。使徒たちやイエズス様はこの時の終わりについて、「恐ろしい時代であって、ものすごい状況が来る」という事を描写しています。

グリニョン・ド・モンフォールはこの事について話をしています。でも聖グリニョン・ド・モンフォールは別のやり方で、この時の終わりについて話をします。もちろんグリニョン・ド・モンフォールも、イエズス様やあるいは他の聖人たちと同じような見解を取るのですけれども、別の見方があります。終末の事については、私たちの目ではなくて、天主の目において、聖グリニョン・ド・モンフォールは語っています。

「この現世の時、時代というのは、今の世界は、永遠の生命への準備に過ぎない。祖国に帰る帰路であって道であって、永遠の至聖所に戻る道である。この私たちの旅には始めがあり、終わりがある。」

私は昨日長い旅をしてきましたけれども、ようやくホテルに着いて、「旅が終わって良かった」とベッドの中で嬉しく思いました。旅が終わったというのは、必ずしも悲しい究極的な大不幸だというわけではありません。なぜかというと旅の終わりは、新しい生活の始まりであって、黙想会が始まるので私は本当に嬉しいのです。

私たちのこの地上での旅も終わりを告げて、そして新しい永遠の命、天主様との命が始まります。「喜べ」という事は、私たちのこの地上での生活の終わりから始まる新しい生活というのは、黙想会のつまらない講話を聞かなければならないのではなくて、天主様との楽しい美しい命が始まる、という事だからです。

では私たちの天主への道行きの旅路の最初はどうやって始まったでしょうか?それは、イエズス様が天から地上に降りた時から始まりました。イエズス様はマリア様を通して、この地上に来られました。論理的に、マリア様を通し始まったこの旅の始まりも、マリア様を通して終わる事になります。

では私たちが、「終わり」「究極」「終末」と言われる事の深い意味は何でしょうか?「天主様は究極には、論理的な全ての終わりまで、全ての意味を私たちに教えて下さる」という事です。まずイエズス様は御自分についての、天主についての真理を私たちに掲示して下さるでしょう。私たちにもたらされた真理、イエズス様に関する真理を私たちが完璧に知る事になります。

イエズス様はまずこの真理を使徒たちに教えました。使徒たちは素晴らしい真理の大きな花束を受け取りました。バラや百合や美しい花々の真理を頂きました。でもこれらの花はまだその時には蕾で、花は開いていたとは限りません。

もちろん当時全ての人が、「唯一の天主が在す」という事を知っていました。「聖父と聖子と聖霊」という事を知っていました。ところで3世紀とか4世紀にアリウス派の異端が来た時に、初めてその時に、神学者たちがその異端に対抗する為に詳しく説明して、この原理を展開させて、「一体この原理から来る究極的な結論は何か」という事を説明しました。

聖ヒラリオ、聖アタナシウス、聖アウグスティヌスなど、多くの偉大な教父たちや聖人たちが、この三位一体の神秘を通して、その開かれた、その花の蕾が開いて、その「唯一の天主であると同時に三位の天主」という事のそれを理解しようとして、それを説明して、その事を黙想した時の喜びを読んで下さい。これは本当にこの教父たちがこの理解できた時の喜びが私たちに伝わってきます。

天主様はこの花が開くように、「太陽」と「雨」を下さいます、2つが必要です。「太陽」というのは、聖霊の光を受けた教父たちの説明や、黙想の結果の事です。「雨」というのは、この真理を攻撃するような人々たちの異端説です。

例えばアリウスは、「イエズス様は天主の御子であるけれども、イエズス様は天主ではない」などと異端説を述べました。アリウスはちょっと下らない話を書いたというわけではありません。アリウスはこの自分の説が正しいという事を説明しようとして、色々な議論を書きました。多くの方が間違って彼の後に従ってしまいました。しかし教父たちはアリウスの書いた議論を見て、その議論を分析して、そこに隠されていた誤謬がどこにあるかを指摘して、「ここに詭弁がある。ここに誤りが潜んでいる」という事を指摘して、その間違いを正しました。

天主様は異端でさえも使って、その暗闇の中に光が燦然と輝くように使います。三位一体の神秘が明確にされると、今度はイエズス様について攻撃が始まりました。これが5世紀、6世紀、7世紀の話です。誰もが「イエズス様が天主の御子である」という事を知っていました。公会議の後に、誰もが「イエズス様が御子である、そして天主である」という事を知っています。ではこの2つが一体どうやって調和するのでしょうか?

ここで異端者が出ました。司教様や司祭たちでも、異端説を述べてしまいました。立派な司祭たちもその中にはいました。例えばこの異端説の1つは、「天主様が人間となった時に人間の本性を取ってくるのだけれども、その本性は天主の本性の中に、あたかも大海の海の中の水に1滴の水を落としたと同じように、海の水と一緒になってしまって、人間の本性は消えて無くなってしまった。」例えばまた別の人は、「聖ラファエルが人間の体の見かけだけを取って現れたように、イエズス様も実は天主は、体の見かけだけは人間だけれども、本当の人間ではなかった。」それでまた別の異端は、「いやいやそうではない。イエズス様は本当の人間であって、マリア様から生まれて、走ったり動いたり食べたりして、人間として生きた。でもこのキリストには2つがある。この2つのキリスト、天主であるキリストと、人間であるキリストがあまりにも2つが1つになったので、区別ができないほどになってしまった。」

色んな説が出てきました。色んな議論や色んな異端説の中から、「本当の真理はこうだ。イエズス・キリストにおいて、天主の本性と人間の本性が一致した」という事を説明します。

アレクサンドリアの聖チリロは444年に亡くなって、それから大聖レオ教皇様、このような方々の御説教を例えば聖務日課などで私たちは読みますけれども、本当に深い真理を話しているのでびっくりするほどです。

信仰の啓示が花開いて、このうまく説明されて、その美しさに私たちは本当にますますイエズス様の事をお愛し申し上げるようになります。信仰の美しい蕾がそれが開かれて、明示されて、こう明確に説明されて見えるようになると、ちょうど花が開いたように、私たちに綺麗に提示されます。

12世紀から16世紀の間にかけては、「秘跡」について、あるいは「教会」について詳しい花が開きました。イエズス様が私たちに啓示された信仰の花が1つ1つ開かれて、そしてそれについて私たちに詳しい真理が明らかにされています。

もちろん「花が開いた」と言っても、私たちがそれを全て理解し尽くしたというわけではありません。これはどういう事かというと、「花開いた」という事はどういう事かというと、「人間の知性が考えて説明する事ができるという事の極度にまで、それを説明し尽くす事ができた」という事です。

この最後の美しい啓示の花が今、開かれようとしています。これが「マリア様」に関する真理の花です。1854年に「マリア様の無原罪の御宿り」のドグマが発表されました。1950年、マリア様に関する最後のドグマが発表されました。それは「被昇天」であって、この来週の月曜日に私たちはそれを祝います。ピオ十二世教皇様は特に、「マリア様が共贖者である。贖いの業をイエズス様と共になさった方である」という事を教えていました。

立派な神学者たちが説明するには、天主様から与えられた啓示は明確にはっきりと説明されていて、もはやこれ以上説明する物が残っていない、というほどまで開かれました。

このように人類の歴史を、教会の歴史を考える事ができます。天主様は全てを、自分の栄光の為に創造されました。自分で自分の事を説明して、自分の事が知られるという事をとても喜びとするという事です。そして天主様が全て説明し尽くして、神秘をもうこれ以上人間の知性で言う事ができないほどはっきり示した時に、それでこの人類は天主へと戻らなければならない、という風に。

イエズス様が天主様がこの地上に降りて来て、私たちの手に最も美しい花々を置いたと考えて下さい。そして私たちが受けたこの花が、この時が経つにつれて、1つ開き、また1つ開き、大きな蕾が非常に大きな花となって咲き乱れて、その美しい花の造形に私たちは脱魂したようになって、本当に喜ばしく思って、それを感嘆して見て眺めている。そして最後にこの受けた花束はもうみんな咲き乱れて、咲き誇ってしまって、全てもう花がついてしまう。そしてこの開かれた全ての花束を持って行って、それを天主様の代理者にふさわしい方にそれを返す。つまりマリア様に返すと、マリア様はそれを受けて、マリア様はそのお花を天主様にお返しする。という事で、この循環の業が、また元に戻って天主へと戻った、という事になります。

天主様はまず御自分の事から始まって、全ての神秘を啓示されます。まず天主の事から始まって、この世の事について、そしてこの霊魂一人一人についての啓示をされます。では私たちの、皆さんと私の全ての秘密に、真理について啓示されるのはいつでしょうか?

この最後の審判の時には、私たちは全て大きな所に集められて、そして皆さんと私についての真理の啓示が行われるのを見るでしょう。この事が行われる前に、イエズス様は御自分の事について、そして御自分の最高の傑作マリア様について、私たちに全てを啓示させようと思っています。このその時において全世界の前で、マリア様についての本当の秘密を、全ての秘密を真理を啓示して、「おぉマリア様、あなたは一体どなたですか?」という事に答えようとします。

ですから終末の時代には天主様は、マリア様のその美しさ、その力、その魅力について全て啓示しようと思っています。もしも素晴らしい芸術家がいるとしたら、芸術家のその力が、どれほど才能があるかという事を見せる為に、芸術家は自分の大傑作を見せるに違いないからです。

私たちが暗記しなければならない暗唱しなければならないほど深い文章を、また別のところに見せますが、それは49番に書かれています。この最初の言葉です、「世の救いはマリアを通して開始された。だから同じくマリアを通して完成させるべきである。」

グリニョン・ド・モンフォールは、「なぜ一体マリア様は、最初ではなくて最後に、これほど輝かなければならないのか」というその理由を説明します。なぜかというと、マリア様があまりにも美しく、あまりにも魅力的でその力が強いので、マリア様を偶像崇拝してしまう危険があったからです。アレオパゴスの聖ディオニジオは書いています、「マリア様は外見さえもとても美しく、あたかも女神であったかのようだ」と。(真の信心の49番:ce qui est si vrai que saint Denis l'Aréopagite nous a laissé par écrit que, quand il la vit, il l'aurait prise pour une divinité, à cause de ses charmes secrets et de sa beauté incomparable, si la foi, dans laquelle il était bien confirmé, ne lui avait appris le contraire.)

花が咲くのも秩序と段階があります。まず天主三位一体について、それが最初です。その次にイエズス・キリストの神秘。次にイエズス・キリストの御業、秘跡と教会について。次に天上、それはイエズス・キリスト様の御業の結論、結果がどのように現れた、という事で、救われた者に贖なわれた者について現れる効果です。この信仰のこの記念碑、このモニュメントの最高の天上を飾る一番の花は、それはマリア様です。

聖グリニョン・ド・モンフォールは、「終末の時代において、なぜマリア様がよく知られるように望んでいるか」という7つの理由を説明しています。この7つの内の最初の5つは、来たるべき終末の大災害とか、悲惨さとは全く関係のない理由を挙げています。グリニョン・ド・モンフォールが指摘するのは、「もっとマリア様を知る事によって、もっとイエズス様と一致する事ができる」という点です。この7つの理由を黙想して下さい。このグリニョン・ド・モンフォールが言っているこの言葉の1つ1つは、マリア様からの啓示であるかのようです。

例えばこの50番の中にある第4の理由ですけれども、「イエズス様が初めてこの世においでになる時にお通りになったのが、マリア様という道ですから、」もう一度50番の5番をご覧下さい、「マリア様はイエズス様へと至るべき最も確実な道ですから、完璧なガイドですから、マリアを見出す人は命も見出します。」

「私が道であり、真理であり、命である」とイエズス様は言いました。マリア様を探す事ができなければ、見出す事もできません。でもマリア様を知らなければ誰も探そうとする人はいません。ですからマリア様の事を知れば知るほど、よくマリア様を求めるようになって、マリア様を探す事になって、マリア様を探す事によってより良く三位一体の栄光が表れるようになります。

第6と第7において、教会の教えに沿って説明しています。その6番をご覧になると、本当に「私たちの為である」という事が分かります。「マリア様は終末において、憐れみにおいて、また力において、そして恩寵において、力を発揮しなければならない」と言います。皆さんは今、この特別な時代に生きています。この特別な時代におけるマリア様の特別な力がこれです。憐れみと力と恩寵です。

この終わりの時には、私たちが聖寵において生きるのは非常に大変になり、罪に満ち溢れた時代になりますから、マリア様がこの時代この世において、憐れみの母とならなければなりません。この憐れみの対象は皆さんと私です。マリア様が、聖母マリア様が私を見つける事ができたというのは本当に奇跡です。私が聖寵に立ち戻る事ができる為には、マリア様はもうものすごいお恵みを、憐れみの大海の憐れみの大海原を使って、私を戻さなければなりませんでした。

皆さんご自分の事を話しているのだと適用させて下さい。「おぉマリア様、マリア様あなたは慈悲の玉を輝かす事をお望みになりました。憐れみな罪人である私を教会に連れ戻す為に、道を踏み外した私を回心させる為に、頑固な罪人である私、反社会的な私、破壊分子である私に対して力を発揮する為に、何度も何度も天主を侮辱し罪を犯した私を戻す為に、私を寛大に受け止めて下さいました。単に私に忍耐したばかりでなく、単に私を寛容に黙認して下さったのみならず、歓迎して下さって受け入れて下さいました。私を愛してくれました。」

この小さな文章の1つ1つに、多くの意味が含まれています。それは母なる教会の懐に安住させる為です。

ではなぜこの憐れみの聖年である2016年、この事について、「回心させる」とか「母なる教会の元に立ち戻る」という事については、教皇様は仰らないのでしょうか。

この第6番の理由は、現代によくある近代主義の異端に対する誤りに対する宣戦布告をしています。憐れみだけではなくて、力もあります。マリア様はポーランドの言い方では、“ヘドマンカ”「最高司令官」です。マリア様御一人で、全ての異端を踏み砕きました。マリア様は恩寵において力を発揮しなければなりません。イエズス様の為に戦う勇敢な兵士たち、忠実なしもべたちを力づける為に、支える為に、もう落胆しているような司祭などに、あるいは悲しい思いをしている司祭たちに、「この文章を読みなさい」と私は励まします。

第7の理由は、「マリア様は特に、最も悪い敵である悪魔に対して戦う」という事が理由です。終末においてどのようなものであるかという事を、聖グリニョン・ド・モンフォールは1文でこう説明します、「悪魔は時間が既に残されていない。」ですから自分の仕事、つまり多くの霊魂を地獄に引きずり落とすという事をする為に、残されている時間を有効に使う為に、自分の力を倍にして、より多くの霊魂を地獄に落とそうと努力する。

この次のポイントについては次の講話でお話を致します。では47番から54番までをお読みになって下さい。マリア様がこの終末の時代に与えられたこの力の強さ、という事をよく黙想なさって下さい。


2016年聖母小黙想会 霊的講話【2】 8月11日 シュテーリン神父様「贖いの業におけるマリア様の重要性」

2018年07月26日 | お説教・霊的講話
2016年8月11日 聖母黙想会 シュテーリン神父様講話【2】
同時通訳:小野田圭志神父


最初の講話では、イエズス様の御生涯とマリア様の役割について黙想しました。イエズス様がいらっしゃる時にマリア様が大きな役割を果たしたのみならず、全生涯においてイエズス様はマリア様に全く従順で、それに服しておられました。イエズス様は御自分を全くマリア様に捧げていて、奇跡を起こす事でさえも、マリア様を通してのみ行いました。

イエズス様ははっきりと仰いました、「私は模範を示した。だから私に倣え。」

ではどのような模範を示して下さったのでしょうか?イエズス様は御自分の全生涯において、特に私生活において隠された生活において、自分の生涯を全てマリア様に服従させて、マリア様が御自分の長上となり、目上となり、指導者となり、権威となりました。そしてそれに、マリア様に全く従った生活をした、という模範です。イエズス様は「自分の真似をしなさい」と言ったのですから、「私のした事をしなさい」と言ったのですから、マリア様は私たちにとっても目上となり、権威となり、それに全く全てを従わせなければなりません。

でもイエズス様の生活において、マリア様の役割を全て説明し終えたわけではありません。イエズス様がこの世に来られた理由は、私たちを永遠の火から救う為です。天国の門を開く為です。アダムの罪を償う為でした。人類を新しく創り直す為でした。失われたエヴァの子たちをもう一度、天主の子供とする為でした。これを御自分の十字架のいけにえと死をもって、達成されようとしました。

イエズス様がどのように十字架の上に付けられて御死去されたか、というのを見ると、これを見ると、御自分の贖いの業をどのようにマリア様と密接に結び付けようとしたのか、という事が分かります。マリア様は十字架の足下に立って、第2のエヴァとなります。イエズス様と共に、マリア様はこの世を贖います。マリア様のおかげで、マリア様はもちろんイエズス様により、私たちは救われました。イエズス様はマリア様の参与のご協力を以てのみ、この世を救われました。

聖アウグスティヌスは既にこう言っています、「イエズス様が肉体において苦しんだように、マリア様が心において苦しむ事を許された」と。

私たちの聖ピオ十世会の守護者である聖ピオ十世教皇様は、「イエズス・キリスト様の苦しみがマリア様の苦しみと一致する事によって、マリア様は共贖者となる功徳を得て、そして第2のエヴァとなり、そして私たちの霊的な母となった」と。

大聖アルベルトはこう言います、「第1のエヴァが、人間の出産においてアダムの伴侶であったように、マリアは新しい人類の出産の為に第2のアダム、イエズス・キリストの伴侶である。」

ですからマリア様は私たちの母にもなりました。マリア様がイエズス様の御生涯においてどれだけ現存されていたか、どれだけ重要であったか、という事についてはこれで全てというわけではありません。

聖グリニョン・ド・モンフォールは言います、「第2のペルソナが偉大な御業を果たす時に、マリア様と一致していたいと思ったのみならず、第3のペルソナである聖霊も、御自分の御業をする為にマリア様と一致していたいと望んでいる。」

したがって聖霊は、マリア様の御受胎、マリア様が存在し始めたその瞬間から、「無原罪の御宿り」として御自分の特別の聖寵を満たされました。聖マキシミリアノ・コルベは、聖霊とマリア様との緊密な結合をこう説明しています。

私たちは聖霊が、聖父と聖子とからこの世に発出された、この世に送られたという事を知っています。私たちが先ほど歌ったように、いとも高きものの賜物として送られてきました。この賜物は私たち一人一人に与えられるものとして送られました。

ではこの賜物を完璧に得た霊魂とは一体どなたでしょうか?それはこの贈り物を拒否しない、何も拒否しない霊魂でした。これは聖霊の働きに全くオープンであった、開かれていた霊魂でした。そのような霊魂はたった一人しかありませんでした。聖霊の働きに対して妨害を置くという事はつまり、罪を犯すという事ですから、全く罪の汚れのない存在は、そのような霊魂はたった一人でした。

マリア様には全く妨害が邪魔者が、聖霊の働きを邪魔するものがありませんでした。あったのはたった1つ、天主への燃える愛の炎であって、「我になれかし“Fiat mihi”」という事だけでした。したがって聖霊は、御自分をマリア様に全く与え尽くす事ができて、それはあまりにも強かったので、あたかもこの二人は一体となったかのようでした。したがって聖霊の働きは、今後一切、マリア様と結び付けられて語らなければなりません。

では、マリア様と共に聖霊がした最初の事業とは何でしょうか?

それは天主の御子が肉体となって、人となる事でした。「聖霊によりて宿り、童貞マリアより生まれ」と、「聖霊の力によってマリアから生まれたイエズス・キリスト」と使徒信経では言う通りです。

聖母マリア様が、イエズス・キリスト様の肉体を造るその原因となったのみか、イエズス・キリストの神秘体を作り出す原因ともなりました。先ほども申しましたように、聖霊が働く時には必ず、マリア様を通して働くからです。では聖霊はマリア様を通して一体、正確に何をするのでしょうか?

それは、「私たちにおいてイエズス様を形造る」という事です。もっと良いうまい言い方をすると、「イエズス・キリスト様の神秘体の、生きる肢体の、生ける部分を作る」という事です。

では22番から36番のパラグラフを読んで下さい。22番から36番です。たくさん読む事があります。次の講話は14時半ですから、それまでの間にここを是非読んで下さい。

聖グリニョン・ド・モンフォールは、「霊魂の聖化にマリア様がどれほど参与しているか」という事を説明します。イエズス様がこの地上で生活して霊魂の救いの為に働いた時に、マリア様が協力してそれと一致していたのみならず、この世の終わりまでキリストの神秘体において、その聖化の為にマリア様はずっと働き続けます。

23番、24番、25番をご覧になると、聖グリニョン・ド・モンフォールが、「いかにして聖三位一体の一位一位が、教会において霊魂の聖化をする為に働いているか」という事を説明しているのが分かります。この3つのポイントをご覧になると、「マリア様が全ての聖寵の仲介者である、という事がどういう事か」という事をうまく説明しています。

全ての御恵みの根源は源は、イエズス様の十字架の元から来ています。イエズス様の十字架から流れ出る全ての御恵みと功徳は、1つの場所に集められました。その集められた場所は、マリア様の汚れなき御心です。イエズス様は十字架の上で私たちの為に、全ての御恵みと贖いの功徳を捧げましたけれども、その事を望みましたけれども、それと同時に、この全ての功徳と贖いの御業の御恵みを、マリア様を通して私たちに配る事を御望みになりました。

聖グリニョン・ド・モンフォールは聖ベルナルドを引用して言います、25番にこう言います、「マリア様の童貞の手を通らずに、私たちに与えられた賜物はない。これが天主様の御旨であって、全てはマリア様の手を通してのみ配られる」という御旨でした。

この事をよく私たちは頭の中に深く刻み込んで、記憶しなければなりません。天主様は私たちの霊魂にどのように働きかける事を望んでいるか、という事です。もしも天主様が全てをマリア様を通して、マリア様によって私たちに与える事を望むならば、マリア様の前で私たちはこう尋ねなければなりません、「おぉマリア様、一体あなたはどなたですか?」

イエズス様は、私たちが全てをマリア様を通して受ける事を望んでいます。もしもこのイエズス様の尊い御望みを無視するならば、イエズス様のこの御望みを大切に考えないならば、それはイエズス様に対して侮辱をする事であって、誠意ある態度ではありません。

天主様は皆さんを御覧になって、飢え、渇き、食べ物が必要、飲み物が必要だ、という事を見て、「ぜひ食べ物を与えたい。飲み物を与えたい」と願っています。でもイエズス様はこれを、小野田神父を通して皆さんに配ろうと望みました。

「おぉイエズス様、私は今お腹が減って、喉が渇いています。どうぞ食べ物を下さい、飲み物を下さい、与えて下さい。」

でも皆さんは小野田神父の事は全く無視、「関係ない」と無視しています。皆さんには食べ物が与えられません。もしも天主様が私たちに、全てをマリア様を通して与えようとしているにもかかわらず、それを無視するならば、私たちは死んでしまうしかありません。

ここで私たちの人生において、マリア様がどれほど大切か、という事が分かります。もしも天主の御旨を果たして、マリア様を通して私たちが御恵みを受けるならば、私たちは生き、救われますけれども、天主の御旨ではなく、「私の、自分の思い通りにやりたい」と思うならば、私たちはこれで人生の意味は終わってしまいます。

私の霊魂の聖化において、私の霊魂の救いにとって、マリア様がどれほどの位置を持つ事を天主様が望まれているか、という事はこの次で書いています。皆さん、このグリニョン・ド・モンフォールの本を読んで、「マリア様は霊魂たちの母である」と書いてあったら、これをすぐ翻訳して、「マリア様は『私の』霊魂の母である」と読んで下さい。

36番をご覧下さい、翻訳します、「御身マリア様、マリア様の夫である聖霊が、『私の』霊魂の中に、あなたマリア様を見出すと、すぐに聖霊はそこに飛んで行きそこに入り、その『私の』霊魂の中に御自分を豊かにお与えになります。」

35番もご覧下さい。マリア様こそが全ての聖人を形造り、養成しました。聖人伝を読むのを私たちは好んでいます。この聖人伝を読むと、本当に彼らがやった大きな業に驚きます。特にこの聖人たちのなした英雄的な聖徳にびっくりします。この聖人たちの一人一人の生涯は、マリア様がどなたであるか、そしてマリア様が私たちに何をする事ができるか、という事の説明なのです。

マリア様の御業の果実である実りである、多くの聖人たちを教会の中に見る事ができます。マリア様が多くの霊魂を聖化したという歴史が、教会の歴史です。マリア様は私たちに回心のそしてこのお恵みと、そして聖化のお恵みを誰にも与えて下さいます。これは人々の回心、あるいはある地域の回心、あるいは全国家が回心したというのを見る時に、マリア様が必ず仲介、介入している事が分かります。

グァダルーペのマリア様の介入によって御出現によって、南アメリカが全大陸がカトリック信仰を持つようになったという事は、マリア様がどれほど力強いか、という事を表しています。マリア様の仲介、介入によって、教会の敵であったラティスボンが回心した事も、本当にマリア様の力を表しています。マリア様の介入や仲介によって、罪人であった人、あるいは誤謬の暗闇の中にいた人が光を見出して、回心したというのを知ると、そのマリア様の力の介入の強さに驚きます。

キリスト教生活の最初のこの回心のお恵みだけでなく、その回心の後もずっと、聖化のお恵みをマリア様が私たちに下さる、という事も大きな驚きです。皆さんがよく知っている聖人たちの伝記を読んで下さい。それが皆さんの人生となるはずです。そして皆さんの人生をご覧下さい。どのように回心したか、皆さんはもしかしたらマリア様の仲介の直接のものをはっきりとご覧になる事はないかもしれません。なぜかというと、私たちは表面づらだけしか見る事ができなくて、その多くを見る事ができないからです。

「小野田神父のおかげでカトリックの信仰になりました」と言うかもしれません。でも小野田神父とは一体誰でしょうか?全く無です。なぜかというと、マリア様が小野田神父を送ったからです。もしもマリア様がいなければ、小野田神父が言った言葉は、右の耳から入って左からザッと抜けるだけしかないからです。もし耳から入って心の中に降りてきたとしたら、これは小野田神父ではなくてマリア様です。そしてその初めて心に来た時に、「あぁ、生活を改めなければならない」と思うのです。

小野田神父はこう口では「回心しなさい!」と叫ぶかもしれません。でもマリア様がなければ、「あぁ、それは難しい、大変だ」と言うしかありません。でもマリア様が力を与えて、「あぁ、その通りだ」と思わせるのです。マリア様が、「あぁ、頑張りなさい。さぁ、やりなさい」と力を与えてくれます。小野田神父はちょうどこのスピーカーと拡声器に過ぎません。私たちはそのようなものです。

回心した後には、「マリア様、本当にこの光の中に、信仰の光に導いて下さってありがとうございます。感謝します」と申し上げます。そうしなければなりません。昨日も今日もそして明日も、聖化の、ますます聖となるお恵みをマリア様から頂き続けているのです。ですから私たちは罪の痛悔をする事ができますし、良い告解をする事もできるようになります。より多くの熱心と愛を込めて、ミサに与る事もできるようにもなりますし、昔よりももっとよく隣人を愛する事ができるようになりますし、願わくば、ますます日々日々、より少なく怒りっぽくなる、そしてより少なくがっかりしたり、落胆したりしなくなります。

「マリア様は、」聖ベルナルドによれば、「お恵みの運河であって、そこをいつもお恵みが通る道であって、特に今ここでマリア様は私たちの為に運河となって、お恵みを下さっています。」

この後に、私たちの今話した事の実際の現実の適用が待っています。もしもマリア様がそのような事をいつもいつも私たちになさって下さっているのならば、私たちはマリア様に対してどのような返答をしなければならないのでしょうか?

もしもこの事を私が少しでも理解できたら本当に嬉しく思います。つまり、「私にあるどんな良い事であっても、私がする事ができるどんな良い事業であっても、それは実はマリア様から来て、マリア様を通して私においてする事ができた」という事が理解できたら。

私に起こっている事を見て下さい。フェレー司教様が総長様がやって来て、「あぁ、シュテーリン神父様はよくやっているな。偉大な業をしている。」「あぁ総長様、あぁそれはちょっとオーバーな言い方ですよ。」

「私はとても良い偉大な業をしたんだ」と私は満足するかもしれません。でもこれは本当の話ではありません、マリア様がして下さったのです。もしも私だったとしたら、もしも私がやったのでしたら、それは全くの大失敗で悲惨な結果に終わっていたに違いありません。

では私のこの貧しい頭の中に、どうしたらこの現実のこの事実を入れる事ができるでしょうか?

今から聖グリニョン・ド・モンフォールが私たちにそれを教えてくれます。これはもうちょっと後にその話が出てきます。まず、「マリア様の本当の役割が何か」という事をよく理解して下さい。まずここで確認した事が、「マリア様が私たちの回心、そして日々の聖化においてとても大切な役割を果たしている」という事です。

しかし第3の点があります。そしてこの第3の点を私たちはいつも忘れています。

ではこの最高の母が、全ての聖寵の仲介者であるマリア様が、どの瞬間に、いつ働きかけるのでしょうか?では母親が一体いつ、子供の方に向かって働いて、そして走り寄り、そして母親としての役割を果たすかを聞いて下さい。

それは、「子供が危険にさらされた時」です。

皆さんは全ての方々を愛しています。皆さんは日本の全ての霊魂の救いの為に祈っています。そして私たちは秋田の巡礼で、秋田教会に行きました。バスに戻ると女の子がいたのを覚えていますか?するとこの巡礼者の敬虔な聖なる女性の方々は、この女の子に悲しんでいる女の子の方に近寄って、「何とか助けてあげたい」と言って、その元に駆け寄って時間を費やして、何とかしようとしました。

マリア様にしても同じです。もしも小さな子供がもう倒れて、あるいはもう危険な状態にあったというのを見れば、すぐに駆け寄って、「何とかしよう」と助けようと走り寄って、一生懸命になります。

この事を今私たちが生きているこの現代に適用させなければなりません。キリスト教世界が今崩壊しようとして、今大きな危険に直面している時に、マリア様は立ち上がって、目覚めて立ち上がって走り寄って、何とかしてこれを救おうとされます。

聖人の生涯のみならず、私たち一人一人の生涯のみならず、全世界の生涯は、マリア様の驚くべき業を証明しています。これが教会の歴史、全歴史を形取っています。私たちの敵がますます危険化して、そしてこの終末の時代における現代、ますますこのマリア様が特に私たちを助けに来て下さっている、という事を強く記憶しなければなりません。

皆さん3つの、敵が増長する3つの日というのを知っていますか?これは過去の話でした、1517年と、1717年と、1917年と、この3つの時でした。もうこれについては何度もお話しましたので、もうこれ以上皆さんを困らせる事は致しません。この3つの時期を見て皆さんが記憶しなければならない事はこれです、「ますます敵が力を付ければ、敵がますます恐ろしくなればなるほど、天主様は、マリア様が立ち上がってその自分の力を発揮する事を望まれる」という事です。

この歴史の教訓としてこれを覚えて下さい、「皆さんが危ない時に、皆さんが危険にさらされた時には、マリア様はすぐに立ち上がって、皆さんを助けに来る」という事です。もしも敵がますます危険であって、あるいは皆さんが難しい状況に立ち置かれた時、あるいはもう助け手が誰もなくて、たった一人もう打ち捨てられて、もう一人ぼっちになってしまった時に、マリア様はすぐに立ち上がって、皆さんを助けに来て下さいます。

マリア様は現代ほど私たちの近くに来る事はありませんでした。なぜかというと、現代という時代が非常に危険な時代であるからです。問題はマリア様があまりにも遠くにいるという事ではありません、近くにいるのですから。そこで問題は「私たちの心が閉ざされている」という事です。問題は、ではどうやったら私たちの心をマリア様に開く事ができるか、あるいはマリア様に許可して、私を危険から救ってくれるようにする事ができるか、という事です。

これを聖グリニョン・ド・モンフォールが私たちに教えています。

提案をしてもよろしいでしょうか?今から22番から36番について黙想なさって下さる事はできるでしょうか?昼食後、少し時間が予定されています。私もそうしますけれども、ぜひ皆さんにですね、良いお昼寝をして頂きたいと思っています。そしてお昼を食べてですね、この休まったらですね、もう一度、1番から36番をもう1回お読みになって下さい。午後にですね、次のようなやり方で読んでみて下さい。

今は、今からは一語一語考えながら、黙想しながら読んで下さい。でも午後はですね、1番から36番までこうずっとこう読みながら、「あ!ここは」と思ったところでストップして下さい。そうすると、マリア様に対する素晴らしい近付きができる事ができます。



2016年聖母小黙想会 霊的講話【1】 8月11日 シュテーリン神父様「マリアを通ってこそ、イエズス・キリストはこの世においでになり、マリアを通してこそ、イエズス・キリストはこの世を支配される」

2018年07月25日 | お説教・霊的講話
2016年8月11日 聖母黙想会 シュテーリン神父様講話【1】
当時通訳:小野田圭志神父


この聖グリニョン・ド・モンフォールによる聖母黙想会で皆さんに働きかける事ができるのは、大きな喜びです。私は皆さんのこの美しい国に来るのをとても嬉しく思っています。この前の巡礼では、本当に良い感動を覚えました。この前の巡礼が、私たちのマリア様の信心生活を準備するのに大切だ、と言いましたが、この黙想会もとても大切な準備です。

黙想会の時いつも申し上げますが、黙想会の本当の指導者、そのガイド、そしてその黙想会を導いて下さる方は、「聖霊」です。黙想会の目的は目標は、「聖化」であって、「私たちが聖となる事」であって、「天主様に近付く事」です。ですから私たちの黙想会を聖霊に対する祈りで、聖霊に対する歌で始めました。

聖霊の役割は、私たちの内的な教師です。私たちの主イエズス・キリスト様が、啓示を私たちに教えてくれました。イエズス・キリスト様が天主様の命を私たちに与えて下さいます。イエズス様が私たちをして、天主と一致させて下さいます。これは贖いの業としてなされました。でもイエズス様がなさって下さったその御恵みを、私たちがよく受け入れる事ができるように私たちの心を開かして下さるのが、聖霊です。聖霊は私たちがその神秘の中に深く入って、その中に入り込む事ができるようにしてくれます。これはイエズス様が聖ヨハネの福音の中において教えて下さった事です。聖霊は私たちが真理と光を見る事を妨げるような邪魔者を振り払ってくれます。聖霊は私たちが天主へと戻る為に、立ち戻る為に、怠け者だったり、その力を落としたりするのを強めてくれます。

聖霊はでも、いつも私たちの為に道具を使って、その業をします。聖霊が必ずいつも使っているその道具、そして聖霊といつも一致している道具というのは、「マリア様」で「インマクラータ」です。マリア様を通してインマクラータを通して、霊魂に触れて、この世に影響を及ぼします。

私たちがこの世界中にある多くのマリア様に捧げられた至聖所や、その何千という御出現を見る時、マリア様はそれらを通して、何百万もの何千万人もの方々を回心させて、聖なる生活へと導いて下さいます。しかしマリア様の後ろには聖霊が立っています。マリア様の1つの至聖所からまた別の至聖所、1つの国のマリア様の話からまた別の国のマリア様の話へと、たくさんの話を見る事ができます。もちろん日本もその例外ではありません。日本でマリア様が隠れキリシタンを発見された事、あるいはマキシミリアノ・マリア・コルベ神父様が無原罪の園を造った事、マリア様が多くの霊魂たちをご自分を通してイエズス様へと連れて行っている事を見ました。私たちは秋田に行ってこの事を確認して、多くの御恵みを頂きました。

このマリア様の多くの御業の後ろに、聖霊が立っているのです。聖霊がマリア様を通して、霊魂たちに触れて語りかけるのですけれども、マリア様はお母様であって、そのお母様を通して子供たちに触れるのです。

旧約の時代には聖霊は、バアルの偽りの神々を拝んでいる司祭を450人殺すように言いましたけれども、しかしエリアを使って言いましたけれども、新約時代では聖霊は、マリア様を使って最高の母親を通して、私たちに影響を及ぼそうとしています。

マリア様は聖霊の特別な道具ですけれども、マリア様にもご自分の道具があります。マリア様には普通の道具があります。これは皆さんであって、私であって、マリア様の無原罪の聖母の騎士たちです。マリア様には特別の道具もあります。マリア様から選ばれて、この世で特別な業をする為に選択されました。これはマリア様の忠実な聖人たちです。

マリア様は聖ドミニコを選んで、ロザリオを彼に与えて、この世の回心の道具としました。マリア様は聖シモン・ストックを選んで、彼を通してスカプラリオを与えて、この世の人々にご自分の衣を着せようとされました。マリア様は聖イグナチオを選びました、聖イグナチオを通して、霊操の黙想会を与えました。この霊操を通して多くの、何百万というキリスト教信者を熱心な信仰生活に戻して、多くの人々を聖化へと導きました、本当に多くの人々が。聖マキシミリアノ・コルベを通して、マリア様は特別の軍隊を作って、悪魔とそして獣に対して戦う為に準備をしました。

そしてマリア様は聖グリニョン・ド・モンフォールを選んで、この世に特別のお恵みを与えようとされました。聖グリニョン・ド・モンフォールを通してマリア様は、私たちに最高の、そして本当の完璧なマリア様に対する信心について教えてくれます。

では完璧な本当の信心とは何でしょうか?“Devotio”「信心」というのは、私たちが他の方に「自分を与え尽くす」という事です。もしも誰かがある人を愛するとしたら、心も体もその人の為に尽くそうと思います。この態度をマリア様に対する態度を、聖グリニョン・ド・モンフォールを通して私たちは学びます。本当の完璧なマリア様への信心を通して私たちは、完璧な本当の聖霊への信心をも学びます。完璧な聖霊への信心を通して私たちは、全ての恵みを頂く事ができます。つまり聖徳への道です。これが私たちの生涯の目的です。

私はこういう話を聞きます、「神父様、一体現代においてどうして聖徳に達する事ができるでしょうか?それは無理な話です。無理なのです。なぜかというと、この世は私たちを罪に誘って、罪だらけだからです。ちょっと目を周すだけで、それは天主を忘れさせて、本当の真理を忘れさせようとする誘惑に満ちています。『死』について忘れさせて、『審判』についても、そして『永遠の命』に対しても忘れさせようとする誘いです。」「私たちの周りの人は皆こう言います。『これが普通の話だ。』『こうしなきゃなんない、皆こうしている。』『天主なんかもういなくなったんだ。だから皆こうしなきゃならない。』」

私たちはそのような、津波のようなものすごいこの世の激流の中に立ち留まる、力強い巖ではありません。そうではなくて、本当に小さな弱々しいもので、そのような波が来ると、「あぁっ」と言う間に流されてしまいます。この全世界を巻き込んでしまって飲み込んでしまうような悪魔的な波、大波に立ち留まって、皆さんや私のような弱い者がどうやってそれに対抗する事ができるでしょうか?

この信心です。聖グリニョン・ド・モンフォールが私たちに言う事をよく聞いて、それに従う事です。この4日を使ってこの準備をして下さい。どうやって戦うべきか、どうやって立ち向かうべきかという事を準備して下さい。

皆さん、黙想会をしている間、悪魔は眠りません。ですから皆さんを眠らせようとします。敬虔な牛が寝るように、目をパチッと開けて、何も考えずにいるようにさせます。皆さんはもちろん疲れます。なぜかというと皆さんは、毎日何回も何回も講話を聞く習慣がついているわけではないからです。もし皆さんが20分の長い小野田神父様の御説教を、「何だ長いなぁ、退屈だなぁ」と思うならば、私の4時間の話にどうやって耐える事ができるでしょうか。

恐れないで下さい。ちょっとした努力だけで大丈夫です。これは拷問ですが、聖なる拷問です。まず自由時間をどのように過ごすべきか、という事について説明します。これをよく使って下さい。皆さんはとても美しいテーブルに座っています。このテーブルがあるのでメモを取る事ができます。左にはノート、右にはこの本。講話が終わったらすぐにあるいは御聖堂、あるいはご自分の好きな所に行って、この講話の内容について話を黙想なさって下さい。

皆さんに「こうして下さい」と言った事を、正確になさって下さい。この講話の後に30分黙想の時間を与えますので、1番から21番までのところを読んで黙想なさって下さい。ページではなくて番号があります。この番号がどんな言語でも共通の番号であるからです。たくさん読んで、たくさん黙想しなければなりません。

ではこの聖グリニョン・ド・モンフォールのまことの信心について、少し紹介します。第1のポイントは、「マリア様がどなたか」という玄義の核心、そして頂点、そして要約を黙想する事です。この内のいくつかの点についての文章は、子供がいろはにほへと暗記するように、皆さんもこれを全部暗記しなければなりません。この本の中で一番大切な文章、全てそのまま覚えて下さい、というのはそんなに多くありませんが、それを申し上げます。なぜかというと、それを暗唱してしまうほど覚えてしまうと、この言葉を通してマリア様に祈る事ができるからです。

黙想する間に、その言葉が私たちに自然と頭に浮かんできます。問題があった時や困った事があった時に、自然にその言葉が思い上がってきます。悪魔が私たちを誘惑する時に、その時にマリア様は、私たちが覚えてしまった事をこの文章を思い出させてくれます。これから来たる難しい危険な時代を、私たちは準備しているのです。将来どのような状況に置かれるのかよく分かりません。

ちょうど今から75年前、聖マキシミリアノ・コルベはアウシュビッツの飢餓の為の部屋に入りました。コルベ神父様は食べる物や飲む物がなかっただけではありません。読む物もありませんし、何もありませんでした。その時にコルベ神父様の頭には覚えた、自分の覚えた事だけが残っていました。

皆さんに是非覚えて頂きたいと思っているのは、1番です。『マリアを通ってこそ、イエズス・キリストはこの世においでになりました。だから同じくマリアを通してこそ、イエズス・キリストはこの世を支配せねばならないのです。』

これは最初から、マリア様の果たすべき役割を示しています。この文章は、「この地上において、マリア様なしには救いがない」という事を示しています。「マリア様がなければイエズス様はない」と示しています。イエズス様がなければ救いもありません。もしもイエズス様がいなければ、悪魔が支配します。でもイエズス様はマリア様を通してのみ、支配できます。

この第1の文章について、来たるこれから後の273のパラグラフが説明しています。ですからこの1番については、信仰の真理として覚えておいて下さい。公教要理で皆さん信仰の真理を、みんな暗唱してしまうように覚え込んでしまうように、これも覚えて下さい。「はい主よ、私はこれを信じます。私は御身がマリア様を通して、この世に来た事を信じます。そしてマリア様を通してのみ、この世と私の心を支配する統治するという事を信じます。これを受け取らないような全てのものから、私は身を遠ざけます。こうする事によって私は、カトリック信仰に強く留まる事ができます。主よ、私の心を照らして、私の心を強めて下さい。この文章の意味が何かを、深く分かる為に助けて下さい。」

聖グリニョン・ド・モンフォールがどうやってマリア様に近付いていくかは、次の文章などを読むとよく分かります。マリア様の事について言った後に、聖グリニョン・ド・モンフォールはすぐに三位一体の高みまで、私たちを連れて行きます。「天主三位一体が在す。」至聖三位一体です。

なぜ聖グリニョン・ド・モンフォールはこのように私たちに話をするのでしょうか?なぜかというと、全てのマリア様の神秘について、本当の観点から真理の観点から見る事を私たちに望んでいるからです。私たちの目、つまり時々よく間違っている見方ではなくて、聖霊の天主の高みから見る事を望んでいるからです。至聖三位一体。

至聖三位一体に比べれば、全宇宙は全く「在る」と言う事もできないほどの影にすぎません。この天主が全てであり、天主こそが在りて在るものであり、被造物私たちは無くて無いものである、という事をまず認識しなければなりません。

永遠の天主から見れば、全宇宙は本当に小さなゴミに過ぎないようなものですけれども、この天主三位一体は、この小さなゴミのようなものを通って、この小さな小さな小さな塵のようなゴミに対して、至聖三位一体はとても大きな愛を注がれるのです。

皆さん、この机の上にある小さなゴミを見て下さい。この小さなゴミを見て皆さん、このこれこそが全世界で一番大切なものであるかのように思っている人を見て下さい。そのように天主様は、この全宇宙に神経を払って愛しておられます。この特別な愛をもって、天主様の創られたその世界の傑作を御覧になられます。

では、もしも全てはマリア様を通してこの世に来られて、マリア様を通して支配しようと思っているのならば、何でマリア様について聖書には何も書かれていないのでしょうか?なぜ誰もマリア様についてよく知っていないのでしょうか?

私はこれは本当に天主様のユーモアだと思っています。父親が子供たちにとって最も素晴らしい宝物を持っていたとします。でもその宝物を子供たちに隠すのです。この大変な宝物を隠して包んで、次のクリスマスまでとっておきます。子供たちはこの中に何が入っているか、好奇心でたまりません。時が来る前、何が入っているか開けて見ようとさえします、「お父さん、この中に何が入っているんですか?」「ちょっと待っていなさい。この時が、このプレゼントの時が来るまで待っていなさい。その時が来れば、お前のものになるから。」

天国における何千何億という天使たちが、天使たちはマリア様が創造された時の事を見ていました。天地の元后であるマリア様が、この地上では単なる奴隷のような女性でした。「マリア様、あなたは一体どなたですか?インマクラータ、あなたは一体どなたですか?」

マリア様の秘密というのは、この宝物のようです。時はやって来ました。聖霊は私たちの目の前に、この特別の宝物が一体どなたであるか、特別に開けようと皆に知らせようと思っています。もちろんマリア様について知っています。マリア様については何度も昔から黙想してきました。でも天使たちはマリア様について知っていながらも、それにもかかわらず聞きました、「あなたは一体どなたですか?」

聖グリニョン・ド・モンフォールは、三位一体のその各一位一位一位に対して、マリア様がどのような関係を取っているのかを説明します。そして4番5番から、三位一体とマリア様とのこの関係について、聖グリニョン・ド・モンフォールは語っています。

「マリア様は天主聖父の最高傑作」「天主聖子の栄光ある御母」「マリア様は聖霊の封印された秘密の花園」このような事を私たちは黙想しなければなりません。これをただスラスラッと読むだけでは、この意味、深い意味は分かりません。これについてゆっくり読んで黙想する時に、この意味が開かれます。聖霊に、イエズス様に、マリア様に願って下さい、「おぉこの心、私の心を開いて下さい。この意味は一体何ですか?教えて下さい。」

「三位一体の至聖所であって、その休み場所である」と書いてあります。これは5番目です。この聖所、憩いの場でこそ、天主は宇宙の他のいかなる場よりも、最も天主らしく素晴らしいのです。ケルビムやセラフィムの上におけるお住まいなど、マリア様に比べたら問題になりません。

天主は無限の海原のような存在です。この全世界は天主に比べれば全く無に等しいものです。ところがこの無に等しいようなこの大宇宙の中から、マリア様という1つの霊魂を選んで、このマリア様という霊魂こそが、御自分の憩いの場所、休みの場所、喜びの場所とされたのです。

皆さんはこの後に黙想しますけれども、黙想しながら新しい何かを学ぶ、何か新しい事を知るというよりは、聖グリニョン・ド・モンフォールと一緒に、マリア様について驚いて下さい、マリア様について感嘆して下さい。マリア様の素晴らしさについて、「あぁ、何と素晴らしい方か!」と思って下さい。

「主よ、御身は偉大な方であって、無限のやり方があって、どのようなお望みのやり方でもする事ができたのですけれども、その何億何兆とある無限の可能性から、この方法を選びました。御身は、イエズス・キリスト様がこの世に来られた時に、アダムが来られたように創る事をお望みになりませんでした。御身にふさわしい、無限の天主の御稜威と威光と栄光に満ちて来る事をお望みになりませんでした。御身は最も謙遜に、これ以上考えられないほどの謙遜なやり方で、この世にやって来られました。この全宇宙の創造主である御身が、無に等しい被造物に全く依存したやり方でお生まれになりました。全能の天主は無限の御業を、この素晴らしいマリア様を通してなさる事をお望みになりました。なぜかというと、このマリア様という無に等しいこの小さな存在は、天主の聖心に極めて心に適う者であって、天主はこのマリア様を愛で囲んでおられたからです。」

第14番をご覧下さい。グリニョン・ド・モンフォールは14番でこうはっきりと言います、「マリア様は無に等しい。全く原子よりもアトムよりも小さい。天主様は全く何も必要とされなかった。天主が必要だった、誰かを必要としたからではなくて、」でも15番に聖グリニョン・ド・モンフォールが、「しかし天主様はこれをお望みになって、全く自由にこのやり方を望んだ」からです。

天主様は御自分の偉大な業を、「マリア様を通してのみする」という事を望まれて、それを決定したからです。この事を、大きな感嘆と驚きとをもって黙想しなければなりません。16番を見ると、長い旧約時代が、来たるべきメシアを待っている待望の時代でした。しかし旧約時代の誰も、この宝を受ける事ができませんでした。マリア様だけが天主の御前に聖寵を見出しました。マリア様を通して、大きな贖いのドラマが、救世の御業が始まります。

聖子はマリア様の御胎内においてのみ、「聖父よ」と言う事ができました。イエズス様という王の王、この世の創造者が、マリア様の御胎内に、小さな小さな赤ちゃんとなります。
御自分は全くマリア様に依存しているものとなる事を望みました。マリア様は実は、全くイエズス様に本当は依存しているのですけれども、このイエズス様がマリア様に依存するようになりました。

それから19番と20番をご覧下さい。イエズス様がこの世に来る事について、マリア様にどれほど依存しているかという事を望んだのみならず、30年間もこの地上の生活においてマリア様に依存し、それに委ねられていました。イエズス様の最初の奇跡は、マリア様の介入によってのみなされました。イエズス様は天主であり、そのやり方を変える方ではありません。最初の奇跡がマリア様を通して行われたのならば、それ以降全てマリア様を通してなさるはずです。

これが、イエズス様におけるマリア様の素晴らしい臨在であって存在です。

では今から30分間時間を与えますので、1番から21番までゆっくり何度も何度も読んで、それに黙想なさって下さい。10時半にまたここで、この続きの話を致します。ではめでたしを唱えます。



2016年聖母小黙想会 8月11日説教 シュテーリン神父様「聖母黙想会のはじめに」

2018年07月24日 | お説教・霊的講話
2016年8月11日(木)聖母黙想会 (聖霊降臨後の平日)のミサ
シュテーリン神父様御説教
同時通訳:小野田圭志神父


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

親愛なる兄弟の皆さん、私は皆さんがマリア様の近くになる事ができるように、説教をする事によって助ける事ができ、とても嬉しく思います。特に聖マリ・グリニョン・ド・モンフォールにしたがって、これができるのを嬉しく思います。日本語で『聖母マリアへのまことの信心』が出版されているのを見て嬉しく思います。

10年前に起こった話を致します。ヨーロッパの北部のバルチック諸国のエストニアにある話です。これは全くプロテスタントの国なのです。そして長い間、共産主義の支配下の下にありました。カトリックの書籍など読み物は全くありません。昔々出版されたカトリックの物がある事はあるのですけれども、それはあまりにも古い言葉なので、今の人はそれを読む事ができません。

10年前そこで、ほとんどの方がプロテスタントの方が、回心された方がこのように来て私に言いました、「神父様、私たちは何か出版しなければなりません。」そこで私は、何回も何回も10回ほど『聖母マリアへのまことの信心』を読んだ時だったので、「これを翻訳して出版しなさい」と言いました。

この本を読んでいる人々は皆、「これは本当に新しい大発見だ!」と言いました。「私はマリア様が一体誰か、知りませんでした。カトリックに改宗したとしても、知りませんでした」と言いました。私たちは何千部もそれを印刷しました。ただ20人の為だけではなくて、後980部残ったのはどうしたら良かったでしょうか?

ちょうどその時に、プロテスタントの牧師さんが私にコンタクトを取りました。するとその方が私に、「カトリックの信仰について、プロテスタントの人に話をするように」とお願いしたのです。そこで初めてその人に会って話をする時に、プレゼントとして2冊それを持って行きました。すると、その牧師さんともう一度次に会う時に、「神父様、これを何百部も欲しいです」と言ったので、とても驚きました。

プロテスタントの国ではこの本のおかげで、カトリック信仰に興味を持つ方の運動が始まります。既に昔申し上げました通り、この国で私は黙想会とか、月の静修(recollection)とか、あるいは講話の会を何度も開きました。エストニアのプロテスタントの牧師さんたちの3分の1が、これのおかげでカトリック信仰に非常に近くやってきました。その内の何人かは今でもそうですけれども、「カトリック信仰に回心したい」と思っています。しかし残念ながら今のエキュメニズムの時代、そして近代主義の時代にあるので、ローマはこの人たちがカトリックに改宗する事をあまり望んでいません。

ところでこのプロテスタントの牧師さんたちの、このカトリック運動へのリーダーがいるのです。この方は娘さんがいます。なぜかというと、カトリックと違って、プロテスタントの牧師さんたちは本当の司祭ではないので、結婚する事ができるからです。このリーダー格のプロテスタントの牧師さんが私にやって来て、「神父様、私は娘について心配です。娘はちょうど学校を卒業したばかりなのです。そして大学に入って、ちょうど今1学年を終えたのですけれども、大学は非常に悪い影響を娘に与えています。神父様、何か別の言語を勉強する事ができるように、シスターたちが経営しているような学校に私の娘を紹介して下さる事ができませんか?」と言ってきました。

すると娘さんは自分で、聖伝のドミニコ会のシスターたちの学校を見つけてきました。そこで「このドミニコ会の学校に行きたい」という事になって、誰もこのお嬢さんに、「カトリック信仰を信仰しなさい」と誰も強制せずに、ただゲストとして「いらっしゃい」という事になりました。

1年後、この娘さんはカトリックに改宗しました。その2年後には、ドミニコ会の修道院に、修道女として修道会に入会しました。

ちょうど一週間前、私はフランスにいたのですけれども、そのシスターの着衣式に与る為にいました。そしてこの娘さんは「十字架のマグダレナ」シスターマグダレナという修道名で、ドミニコ会のシスターとして今、生活を始めました。

宗教改革の後に、最初のエストニアのカトリックの召命でした。プロテスタントの牧師の娘でした。

これは聖グリニョン・ド・モンフォールのこの本の実りです。聖グリニョン・ド・モンフォールが300年以上前にこう書いたこの本が、どれほど大切な重要な本か、という事を示しています。この本を通してマリア様の深い神秘の中に、深く入り込む事ができます。このような宝を私たちが持つ事ができるという事は、非常にはかりしれないほど大きな御恵みです。このマリア様の神秘を身に付けて、そしてそれに親しむほど、私たちの信仰がますます強くなります。大変良い心持ちを持って、この黙想会の中に入り込んで下さい。

主日の夕方までに17の講話があります。これは皆さんにとっては休暇ではなくて、霊的な仕事が始まります。聖グリニョン・ド・モンフォールと共に、この黙想会の最初から、「マリア様とは一体どなたなのか?」という事を思い出す事に致しましょう。

この今回の黙想会のやり方は、聖イグナチオの去年の黙想会とは少し違っています。まず講話があって、その講話の直後に私たちは黙想しなければなりません。何について黙想をするかというと、この本に書かれている内容について私が説明する、その所を示しますので、そこをお読みになってそこを黙想して下さい。私はこの講話の時に、このグリニョン・ド・モンフォールの書いたものに解説を与え注解を与えますけれども、それを皆さんは黙想の時に考えて、それについて考察をして黙想して下さい。

これこそが本当の、そして完全なマリア様に対する信心です。この本は他の多くの方が書いた、マリア様について色んな様々な内の1つだとは考えないで下さい。この本は特別な本です。カトリックの本の中でも、特別な本というものがいくつかあります。その本の何が特別かというと、多くの霊的な実りをもたらしてきているからです。この本がマリア様の直接のインスピレーションの元に書かれた、という事は明らかです。誰も自分の力だけでそのような本を書く事はできませんでした。内容は非常に単純です、シンプルです。しかし開かれた、オープンな心でこの本を読まなければ、何もこの事を理解する事ができません。これは深い宝物がたくさんたくさん詰まっています。マリア様に対する単なる知識ではなくて、「もっともっとマリア様をお愛ししたい」という事に満ちています。人間がマリア様に対して持つ事ができる最も完璧な関係を、この本が教えてくれます。

現代においてこの本ほど重要なものはありません。私は過去、何度も何度も「マリア様が私たちの最後の希望である」と申し上げました。これは私たちがマリア様の汚れなき御心の中に深く入り込めば入り込むだけ、それだけ私たちの最後の希望です。マリア様は私たちの聖徳への道となりますが、それは私たちがマリア様と結ばれている限りにおいてです。

ですからこの黙想会の中に深く入って下さい。そして皆さんが「こうして下さい」と言われた事を忠実になさって下さい。マリア様はすでに皆さん一人一人の為に、特別の巨大な御恵みを準備されています。この黙想会はファチマの大きな大祝年を100周年を祝う為に準備されています。

総長様はつい最近、とても美しい「友人と恩人の皆さまへの手紙」を書いて発表されたばかりです。このお手紙によると、総長様はマリア様の仰った1つのこの言葉に非常に大きな印象を深く受けていました。それは何かというと、マリア様のファチマの御出現と、聖マリア・マルガリタ・アラコックにイエズス様の聖心が御出現された時の事を関連付ける時です。

1689年、イエズスス様の聖心は聖マルガリタ・マリア・アラコックに現れて、「フランス王が、フランスをイエズス様の至聖なる聖心に奉献するように」と望まれました。「もしも王様がそれをしなければ、大きな悲惨な状態がやってくるだろう。」王様はそれをしませんでした。ちょうど100年の後に、フランス革命が起こってしまいました。

ファチマではマリア様はこの事についてお話になります。マリア様はルチアに、「ロシアの聖母の汚れなき御心に対する奉献」を要求しました。「教皇様が司教様たちと一緒にそれをしないならば、ちょうどフランスの王様のようになってしまうだろう。彼らはその悲劇の後を追うだろう。」

1689年にイエズス様の聖心が現れました。要求は実現されませんでした。100年後、最も悲惨なフランス革命が起こりました。1917年、ファチマでマリア様がお現れになりました。マリア様の要求は聞き入れられないとしたら、すると100年後にちょうど100年後に、つまり2017年に、それがそのようになってしまいます。私は預言者ではありません。しかしマリア様はそう仰っています。私たちは準備をしていなければなりません。特にこの黙想会を通して準備をなさって下さい。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


【ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」】 結び

2018年07月23日 | カトリックとは
結びのことば

原罪のけがれに染まれない聖母よ、私はあなたの祭壇のまえで、このみすぼらしい著作をおえます。

いとも聖なる童貞マリアよ、私はあなたのお心のなかに、使徒職の完全な理想を見いだします。ちょうど、四世紀のビザンチンの彫刻が、それをみごとに表現していますように。その彫刻は、次のような構想です。


――聖母は、お胸のなかに、光につつまれた御子イエズスさまを、受肉されました天主の聖言を、愛情こめていだいておられます。御父が、御子をお生みになって、これを世におつかわしになっても、それでもいつもこの同じ御子を、ご自分の“ふところ”にいだいておられますように、聖母もご自分のお胸に、ひとたび世にお与えになったこの同じ御子を、おいだきになっておられます。

ロオルト・ド・フレウリー(Rohault de Fleury)の表現をかりて申しますれば、「救世主は、聖母マリアのお胸のなかに、光りかがやいていらっしゃいます。あたかも、ご聖体のなかで、そのお姿をかくす幕が破れたようなお格好で」« le Sauveur brille au milieu de sa poitrine comme une Eucharistie dont les voiles seraient déchirés ».

イエズスは、聖母のなかに、生きておられる。イエズスは、聖母の心である。聖母の呼吸である。聖母の中心である。聖母の生命である。これこそ内的生活のイメージである。
Jésus vit en elle. Il est son coeur, sa respiration, son centre et sa vie: image de la vie intérieure.

しかし青年となった天主は使徒職を行う。その態度、左手にもつ福音の巻物、右手でのジェスチャー、その眼差し、全ては主が教えていることを示している。聖母は主の御言葉に一致している。聖母の御顔は聖母ご自身もお話になりたいかのようである。聖母の両目は大きく開き、聖子を伝えることが出来る霊魂たちを探している。これこそ説教と教えによる活動生活のイメージである。

Mais le divin Adolescent exerce l'apostolat. Son attitude, le rouleau de son Evangile qu'il tient dans sa main gauche, le geste de sa main droite, son regard, tout indique qu'il enseigne. Et la Vierge s'unit à sa parole. L'expression de son visage semble dire qu'elle aussi veut parler. Ses yeux grands ouverts cherchent des âmes auxquelles elle puisse communiquer son Fils: image de la vie active par la prédication et l'enseignement.

聖母の手はカタコンベの壁画「祈る人たち」(オランテス)のように、あるいは、聖なる犠牲を捧げる司祭のように両手を広げており、特に祈りとイエズスの犠牲との一致によって私たちの内的生活も深まり、私たちの使徒職も実り豊かになると思い出させている。

Ses mains étendues comme celles des Orantes des Catacombes, ou du prêtre qui offre la Victime sainte, rappellent que c'est surtout par la prière et l'union au sacrifice de Jésus que sera profonde notre vie intérieure et fécond notre apostolat.

聖母は、イエズスから、イエズスによって、生きておられる。イエズスのご生命そのものによって、イエズスの愛によって、イエズスの犠牲との一致によって、生きておられる。イエズスこそは、聖母の生命であり、聖母はイエズスの保持者、イエズスの代弁者、イエズスの顕示台である。

最も卓越した事業のなかの事業である、使徒職にたずさわる霊魂も、ちょうど聖母のように、天主によって、イエズスによって、生きなければならない。そのとき始めて、天主について、効果的に説教をすることができよう。くり返していうが、そのとき始めて、外的生活は、かれの霊魂の秘奥に深くたたえられた内的生活の、自然の流露となるのだ。

Elle vit de Jésus, par Jésus, de sa vie, de son amour, d'union à son sacrifice, et Jésus parle en elle et par elle. Jésus est sa vie et elle est le porte-Verbe, le porte-voix, l'ostensoir de Jésus.

Ainsi l'âme vouée à l'oeuvre par excellence, l'apostolat, doit vivre de Dieu afin de pouvoir efficacement parler de Lui, et la vie active, répétons-le encore, ne doit être en elle que le débordement de la vie intérieure.


第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見 (続き18)【ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」】

2018年07月22日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見(続き18)
をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見


五、使徒は、無原罪の聖母に対して、熱烈な信心をもっていなければならぬ。

(b)聖母マリアにたいする信心は、使徒職をみのりゆたかにするために、なくてはならぬものである

使徒職にたずさわる人が、人びとの霊魂を罪のドロ沼から引きあげねばならないとき、または、かれらの善徳の花々でかざらねばならないとき、そのような場合には必らず、聖パウロのように、“イエズス・キリストを、人びとの霊魂に生む”ということを、第一の目的としなければならない。ところで、ボスエ司教がいっているように、天主は聖母マリアのお手をへて、御子イエズス・キリストを、われわれ人類にお与えになった以上、この天主的秩序は絶対に、お変えにならないのである。――すなわち、聖母は、神秘体の頭なるイエズス・キリストを、お生みになったからには、その肢体も、お生みにならなければならぬ。この天主的秩序を無視して、聖母マリアを、使徒職から除外するなら、それは天主のご計画の本質的部分を、忘却することにほかならない。聖アウグスチノはいっている。

「選ばれた者はみな、この世では、聖母のご胎にかくされている。聖母のご胎においてこそ、かれらはよく保護され、よく世話を受け、すくすくと成長していく。これが聖母マリアのお務めである。そして聖母はこのお務めを、その子らの死んだのち、栄光の生命にかれらを生む日まで、お続けになるのである。」

シエナの聖ベルナルディノは、いっている。
「わが主のご托身いらい、聖母は、聖霊の地上におけるすべての使命にかんして、一種の管理権を天主から授けられた。この管理権の行使によって、いかなる被造物も、聖母のみ手をへないでは、一つの恩寵も、天主から賜わることは絶対にないのである」

聖母マリアへのまことの信心をもっている人は、聖母のみ心のうえに、全能にちかい力をふるうことができる。だから、聖母にたいして、まことの信心をもっている使徒なら、自分の使徒職の成果を、すこしも疑うことができない。救世主の尊い御血の分配者なる聖母マリアのお力を、自由に自分のものにし、意のままに活用することができるからである。

そんなわけで、罪びとを改心させることに定評のあった人たちはみな、聖母マリアにたいして、特別の信心をもっていた。罪の深淵におちこんでいる霊魂を、罪の絆から解放しようとするとき、かれらはいかに説得力に富む熱弁をふるうことか! かれらはあたかも自分自身が、罪びとであるかのように信じ込み、罪にたいする憎悪と清浄にたいする愛を、罪びとの心に吹き込むのに、どれほど雄弁であることか! 原罪のけがれなき聖母との、一致の生活を送っているかれらにとって、それはまた、なんと自然なことだろう!

先駆者の聖ヨハネは、聖母のお声を耳にしたればこそ、それによって、イエズスの現存を実感し、自分の母の胎内で、喜びおどったのではないか。聖母はどれほど力づよい雄弁を、ご自分の崇敬者たちに、お与えになることだろう。いままで氷のように固くつめたく閉ざされていた罪びとの心のとびらを、イエズスに向かって大きく開くために! 

聖母マリアにたいして、まことの信心をもっている使徒は、どれほど力づよく優美な言葉をもって、いままで恩寵を濫用しつづけてきた霊魂たちを、失望の深淵から救いだす、すべを心得ていることだろう! 

ここに、聖母マリアのことを知らない、一人の罪びとがいる。聖母の使徒はかれに、聖母マリアこそは、あなたのほんとうの母である、聖母マリアこそは、罪びとのよりどころである、と力づよくいいきかせる。罪びとはこのことを確信する。かくて、希望と歓喜の地平が、かれの眼前に展開するのだ。

アルスの聖司祭は、ときどき妙な罪びとたちに出あった。かれらは錯覚におちていて、聖母にたいして、ある外面的な信心をしてさえいれば、それでいい、心は平和だ、罪をおかしてもいっこう差し支えない、地獄の猛火もすこしも恐わくない、というぐあいに考えていた。これを知った聖司祭は、烈火のように怒り、かれらの信心が、慈悲の母なる聖母マリアにたいして、いかに冒瀆的であるか、かれらのおちっている錯覚から抜けでるために、どうしなければならないか、聖母マリアにたいするまことの信心とはどんなものか、ということを、強い語調で、かれらにいいきかせるのだった。

聖母マリアにたいして、あまり信心をしない使徒は、罪びとにどんな説教をしても、その語る言葉は氷のように、つめたい。熱もない。ちからもない。あわれな罪びとは、おぼれる者が一本のわらをつかむように、かれの説教に救いの期待をかけても、しょせん無駄なことだ。

使徒の心に聖母が生きているなら、かれは罪びとを改心させるための、まことの雄弁を修得する。そのとき使徒は、どんなに絶望的な罪びとでも、これをりっぱに改心させることができる。罪びとの霊魂の征服という、いちばんむずかしい使徒職は、聖母のお取り次ぎによらない限り、主はこれをお与えにならない。聖母と親密に生きている人いがいには、このお恵みを、だれにもお与えにならないのである。「聖母よ、主はあなたによってこそ、われわれのすべての敵を、お打ち砕きになります……」(典礼の祈り)

聖母にたいして、まことの信心をもっている使徒は、絶対に行き詰まらない。論戦においても、手段においても、創意においても。そして、最も絶望的な場合にも、かれはみごとに、弱い者を強め、悲しんでいる者をなぐさめることができる。

聖マリアの連禱に“よきすすめの御母”とあるのは、彼女の“恩寵の宝庫”(Cœlestium gratiarum thesauraria)と、いま一つ、“すべての憂うる者の御なぐさめ”(Consolâtrix universalis)との二つの称号に基づいている。よきすすめの御母なる聖マリアは、ご自分にたいしてまことの信心をもっている人にだけ、よいすすめをお与えになる。――あたかも、そのむかし、カナの結婚披露宴におけるごとく、力と喜びのぶどう酒を手に入れ、かつ、これを他の人びとにもわけ与えるための、秘訣となるよいすすめを!

だが、とりわけ、“人びとの心を魅了するおん者”« Ravisseuse des coeurs »と聖ベルナルドがお呼びしているこの聖母が、ご自分の信心者のくちびるに、火のような言葉をおのせくださるのは、かれが天主の愛について、人びとに語るときである。そしてかれが、聖母から霊感されて語るその言葉こそは、イエズスへの愛を人びとの心に燃えたたせ、そこにあらゆる善徳を芽ばえさせる。

使徒であるわれわれは、ピオ九世教皇が“司祭なる童貞女”とお呼びしたこの聖母を、熱情的にお愛ししなければならぬ。聖母のお位は、すべての司祭、すべての司教の位よりはるかに高い。
Apôtres, nous devons aimer passionnément Celle que Pie IX appelle Virgo sacerdos et dont la dignité dépasse en tout celle des prêtres et des pontifes.

われわれがもし聖母を愛しているなら、もしわれわれの事業を、聖母と共に始めたのなら、また、聖母と共にそれを継続しているのなら、無駄な事業というものは一つもないはずだ。げに、聖母マリアこそは、天主のみ国に関連のあるすべての事業において、その基礎であり同時に完成なのである。

だがしかし、ここに一考をうながしておきたい。――聖母マリアの祭壇を美しく飾りさえすれば、聖母マリアの讃美歌をにぎやかに歌いさえすれば、それで“聖母と共に事業をやっている”と信じてもいい、などと考えてはならぬことだ。聖母がわれわれからお求めになるのは、聖母にたいするまことの信心なのである。自分はたえまなく、常時に、聖母と一つ心になって生きている、自分はいつも聖母のみもとへ馳せていって、よいすすめを、おたすけを、ねがっている、自分の心のなかにある愛情はすべて、聖母のみ心をとおってきたものであるから、すべてが純潔である、自分の願いごとはすべて、聖母のみ手をへて、天主にまでのぼっていく、自分はこれらのことを確信している、といい切れるまでに、強い確信を心にもたせるような、それほどまじめな信心なのである。

だが、とりわけ、聖母がわれわれの信心に期待しておられることは、われわれがこの信心によって、彼女のすべての善徳を模倣すること、聖母が御子イエズスを、われわれに着せてくださるために、われわれが聖母のみ手に、身も心もすっかり委託すること、これである。

いつも聖母のみもとに馳せていく――というこの条件を果たすことによって、われわれも、かつてイスラエルの軍隊がデボラにいった次の言葉を、聖母にむかって申し上げることができよう。「もしあなたが、私とごいっしょに、おいでくださるなら、私は行きましょう。でないと、私は行きますまい」。このようにして、われわれはほんとうに、われわれのすべての事業を“聖母と共に”していくことができるのだ。そのとき聖母は、ただ事業遂行中の大切な、決定的な役割をもつ事がらばかりでなく、万事を――不意の出来ごとも、また、どんなに小さな事がらも――ご自分で、配慮してくださるのである。

聖母はまた、“イエズスの聖心の御母”とも呼ばれているが、この称号のなかに、聖母の他のいっさいの称号も、含まれているように思われる。この聖母と一つ心になって、使徒的事業にたずさわっていきさえすれば、われわれは絶対に、事業を誤る心配はない。その事業によって、自分の内的生活をそこなわれる気づかいはない。その事業の遂行によって、天主の光栄よりも自分の光栄を、求めるような愚を演じない。かえって、事業そのものが、われわれの内的生活を促進してくれる。かくて、聖母との一致もますます深まっていく。聖母との一致によって、御子イエズス・キリストを、永遠にわがものにする、という確信も、ますます深く強くなっていくのだ。
(第五部  終了)


第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見 (続き17)【ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」】

2018年07月21日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見(続き17)
をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見


五、使徒は、無原罪の聖母に対して、熱烈な信心をもっていなければならぬ。

筆者は、聖母マリアに奉献された修道会である、厳律シトー(トラピスト)会の一員として、また、約半世紀にわたって、ヨーロッパの比類なき使徒としての盛名を馳せた聖ベルナルドの子どもの一人として、わが聖なる父ベルナルドについて一言しなければ気がすまないと思う。

聖ベルナルドは、おのれのイエズスとの一致における進歩をすべて、聖母マリアに帰していた。おのれの使徒職における成功もすべて、聖母に帰していた。

聖ベルナルドは、修道者の太祖といわれている聖ベネジクトの、最も卓越した子どもである。かれが、当時の民衆にたいして、王侯らにたいして、カトリック公会議にたいして、教皇たちにたいして、どれほど有力な使徒職を発揮したかは、万人のひとしく認めるところである。

聖ベルナルドを知る人は、みな一様に、かれの聖徳、かれの宗教的天才を称揚する。かれの深遠該博な,聖書知識をほめたたえる。聖ベルナルドは、“最後の教父”といわれているが、かれの著書には至る所に、聖霊の感動があふれている。

この卓越した教会博士に、もろもろの世紀がささげる最大の賛辞は、かれが“マリアの歌い手”である、ということである。そしてこれこそは、かれを他の教父たちと区別する特長とさえなっている。

マリアの歌い手! げに、聖ベルナルドは、聖母の栄光をうたったすべての人にもまさって、聖母の賛美をみごとにうたった。シエナの聖ベルナルディノ、聖フランシスコ・サレジオを始め、ボスエ司教、聖アルホンソ、聖グリニョン・ド・モンホールらは、聖ベルナルドの宝庫から、聖母マリアを賛美するための、豊富な材料を入手した。かれらは、聖ベルナルドが口ぐせのように強調していた、「いっさいの恩寵は、聖母の御手をへて、われわれに与えられる」という真理を、自分たちも更に解説し、敷衍している。

聖ベルナルドの左の一句は、とくに有名である。
「兄弟たちよ、天主は、私たちが熱烈な信仰をもって、聖母マリアさまを崇敬することを、どれほどお望みになることでしょう。天主は、聖母マリアさまのみ手に、あらゆる恩寵を、あふれるまでにお置きになりました。

私たちが、何かの希望をもっておりますなら、何かの恩寵を、何かの救霊の保証をもっておりますなら、それはみんな、恩寵に満ちみてるおん者――聖母マリアさまのみ手から、私たちの霊魂にそそぎ入れられたのである、ということを、かたく信じなければならないのです。

聖母は、この世を照らす太陽でいらっしゃいます。この太陽を、取り去ってごらんなさい。この世は、常闇(とこやみ)です。どこに光りがありますか。

聖母は、海の星でいらっしゃいます。浮き世――というこの巨大なわだつみの、その星でいらっしゃいます。この星を取り去ってごらんなさい。なにが残りますか。浮き世は、まっくらな闇に包まれます。死の影が、ふかい濃厚な闇が、そこには、ただようだけです。

ですから、私たちは、心の底から、はらわたをしぼって、そして熱烈な念願をかたむけて、この聖母を尊ばなければなりません。なぜなら、そうすることは、私たちがいっさいの恩寵を、聖母マリアさまのみ手をへて頂くようにとお定めになった、天主のご意志なのですから……」(『聖母のご誕生の祝日の説教』)

筆者は、右の教えを、心から信じる者である。だから、なんのちゅうちょもなく、こう断言することができる。――使徒が、もし聖母マリアにたいして、特別の信心をもたないなら、また、その活動もこの信心のうえに土台をおいていないなら、かれがどんなに懸命におのれの救霊のために、おのれの霊的進歩のために、おのれの使徒職がゆたかな実を結ぶために、どれほど必死に働いても、それは結局“砂の上に家を建てる”ようなものだ。

(a) 聖母マリアにたいする信心は、使徒にとって、かれ自身の内的生活のために極めて必要である

もし使徒が、聖母マリアにたいして、絶対的信頼をもっていないなら、その信頼にいっこう感激がともなっていないなら、また、かれの聖母マリアにたいする信心が、ただうわべだけのものに過ぎないのなら、かれの聖母信心は、十分に熱烈であるとはいえない。

御子イエズス・キリストがそうされるように、聖母もまた、われわれの心だけしかごらんにならない。われわれの聖母への愛が、聖母のわれわれへの愛に、強く応えるときにのみ、聖母はわれわれを、ご自分のほんとうの子どもとして、お受けになるのだ。

聖母マリアのほんとうの子どもとなるためには、その心が、天主の母であり同時に人類の母でいらっしゃる聖母マリアの、偉大な尊厳について、その特権、そのご使命について、強い確信をもっていなければならぬ。

もし、使徒の心が、右の真理を体得したら、おのれの欠点との戦いにおいて、あらゆる善徳の修得において、イエズスのみ国がおのれの霊魂に来たることにおいて、そして必然的に、おのが救霊と聖化の安全確保において、どんなにすばらしい成果を収めることができるだろうか。

聖母と共に、聖母と一致して仕事をするとき、内的生活のいとなみにおいては、すべてがいっそうやさしくなる。いっそう確実になる。いっそう甘美になる。いっそう迅速になる。――この真理を、使徒は心に銘記していなければならぬ。

使徒の心はまた、聖母への子たる信頼に波うっていなければならぬ。どんな出来ごとが、どのように起こっても、かれは自分の経験によって、聖母のおやさしさを知っている。ご愛情の深さを知っている。ご慈悲とご寛容を知っている。だから、すこしも悲観しない。

使徒の心はまた、聖母への愛にますます燃えて、かれのすべての喜び、すべての悲しみは、聖母に披歴され、すべての愛情は、聖母にそそがれねばならぬ。

このような心をもっている使徒は、さいわいである。かれこそは、本当に聖母の子どもだからである。そして、これらの心のすべてを、聖ベルナルドはもっていたのだ。かれの心は聖母にたいして、右にいった聖なる感動のしらべに、いつも鼓動していた。かれが弟子たちの前で、聖ルカ福音書の一節(受胎告知の記事)を解説するとき、その魂の秘奥からほとばしりでる感激のしらべについては、なにをいったものだろう。かれはこう叫んでいる。

「あなたは、浮き世の荒波にもてあそばれ、浮きつ沈みつしている。あなたは、たけりくるうあらしと暴風雨のまっただなかに放りだされ、陸地から遠く離れて、波間にただよっている。こんなとき、ああ、人よ、この星を眺めなさい、海の星を! 
あらしのなかで滅びないために、ぜひそうしなさい。
誘惑のあらしが、あなたのまわりに吹きすさぶとき、試練の波が、あなたの魂の小舟を海底に沈めようとするとき、ああ、人よ、この星をあおぎなさい。“マリア!”――と、ひとこと呼ばわりなさい。
憤怒と貪欲、邪欲と過激のあらしが、あなたの魂のもろい小舟を襲うとき、目をあげて、マリアを、あおぎなさい。
こしかたの罪とがの大きさに驚き入るとき、良心の恐ろしい傷に恥じ入るとき、天主のさばきの恐怖に心がわななくとき、あなたの魂は、悲愁と絶望の大海に沈もうとする。ああ、そんなとき、人よ、マリアを心に念じなさい。
危険にとりかこまれるとき、苦悩にあえぐとき、懐疑の雲が魂の空にひくく立ちこめるとき、ああ、そんなとき、人よ、マリアのことを考えるがいい、マリアのお助けを呼ばわるがいい!
マリアのみ名が、いつでも、どこでも、あなたの心から離れないように! 
聖母からききいれて頂くためには、彼女の生涯を、まねることを忘れてはならない。
聖母の後からついてさえいけば、道に迷うことはない。
聖母に祈りさえすれば、失望することはない。
聖母に目をそそいでさえいれば、わき道にはずれることはない。
聖母に支えてさえ頂けば、倒れる心配はない。
聖母に護ってさえ頂けば、なんの恐れるところもない。
聖母にお手ずから導いてさえ頂けば、疲れることはない。
聖母が慈悲のおまなざしをそそいでさえくだされば、あなたの霊魂は確実に、救いの港に到着することができるであろう……」

聖ベルナルドの、聖母についての教えをみごとに集約したものに、ルモー師の『聖グリニョン・ド・モンホールの学校における内的生活』があるから、聖母のほんとうの子どもとなるためには、右の本の教えにまさるものはないと思うゆえ、筆者は敬愛する同僚の聖職者諸賢に、この本を推奨してやまない。

聖アルホンソの著作といい、これを解説したデシュルモン師の著作といい、フェーバー師、ラ・サレット師、ルモー師らの著作といい、これらはいずれも、聖ベルナルドの聖母神学の忠実な解説であって、深奥な神学に基づき、感動にあふれ、実行的であり、したがって聖ベルナルドの持論であった、“いつも聖マリアのみもとに馳せていく必要と、聖母と一つ心になって生活する”ということを、読者の霊生に確立させるために、すばらしい効果がある。

最後に、聖女ジェルトルードが、親しく聖母のお口からうけたまわった、というお言葉を左にしるして、本項を結ぶことにする。
「私のいともやさしいイエズスのことを、福音書には、私の独り子とはいわないで、私の“初児(ういご)”と呼んでいる点に注意していただきたいのです。私が最初に、おなかに宿しましたのは、イエズスでした。しかし、その次に、いいえむしろ、初児のイエズスによって、私はあなたがたすべての人類を、私のいつくしみのおなかに宿したのです。――あなたがたすべての人類を、イエズスの兄弟となすために。したがって、あなたがたすべての人類を、イエズスによって、私の養子となすために……」

聖女ジェルトルードの著作には、その師父聖ベルナルドの精神が、力づよく脈打っている。とくに、聖母と一つ心になって生きる、という内的生活にかんして。
(五章 つづく)

2016年7月1日(初金) イエズス・キリストのいと尊き御血の大祝日のミサ 説教「贖いの玄義について」

2018年07月20日 | お説教・霊的講話
2016年7月1日(初金)イエズス・キリストのいと尊き御血の大祝日のミサ
小野田神父説教


聖母の汚れなき御心教会にようこそ。

今日は2016年7月1日、7月の初金曜日のミサを、そしてイエズス様のいと尊き御血の祝日、大祝日1級祝日のミサをしております。

今日この御ミサの直後に、初金曜日ですので、1時間の聖時間を皆さんと共に過ごしたいと思っています。この特にこの聖時間では3つの意向でお祈りする事を提案します。1つは、聖ピオ十世会、まずアメリカのウィノナで7名の司祭、それから9人の助祭が、エコンでは8名の司祭と12名の助祭が生まれました。そして明日は3名の新しい司祭がツァイツコーフェンで、もう1人パリで、合計4名の司祭が誕生する予定です。そして新しい司祭たちの為にたくさんのお祈りをこの聖時間でお願いします。

もう1つは、日本から聖なる司祭が、キリシタンのペトロ岐部神父様、あるいは中浦ジュリアン神父、あるいは聖パウロ三木、あるいはその他多くの立派な偉大な日本人司祭たちに続く、パウロ三木は司祭にはならずに殉教しましたけれども、その偉大なキリシタン大先輩に続く司祭がたくさん日本から出ますように、このお祈りをお願いします。

最後には、フィリピンでは昨日新しい大統領が就任しました。どうぞフィリピンの為にもたくさんお祈り下さい。

それからもう1つお祈りの意向をお願いしたい事があって、来たる明後日の主日に、東京では2人の方が成人の方が洗礼を受ける予定です。1人はずっと勉強してきた男の方で、もう1人の方は女性の方ですけれども体の調子が良くないので、緊急の洗礼を受けるという事で、でもこの2人がうまく良い洗礼を受ける事ができるようにどうぞお祈り下さい。


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日はイエズス・キリストのいと尊き御血の大祝日ですので、私たちはイエズス様の御血の贖いの玄義について黙想する事を提案します。

私たちは悪と罪に依って、天主の怒りを受けるべき者となりました。しかし私たちはイエズス様のいと尊き御血によって、罪の奴隷状態から恩寵の状態へと贖われました。これは何を意味しているのでしょうか?

私たちがミサで、聖パウロの書簡、あるいは聖ヨハネの福音書を読むと、聖パウロは「キリストは将来の恵みの大司祭として来給うのであって、人の手でつくられなかったもの、動物の血によってではなく自分自身の血によって、」と言っています。これは何を意味しているのでしょうか?何故旧約時代では、動物の血が人間の罪を浄める事ができたのでしょうか?また私たちの主は、「全ては成し遂げられた。」と言って十字架の上で亡くなられて、その聖心は槍で刺し貫かれて、そこからは御血と水が流れ出ました。しかしこの出来事は2000年前に起こった事で、なぜ今現在の私たちが、2000年前の御血の功徳を適用することができるのか?もう既に終わったことではないのでしょうか?

もしその贖いの玄義が、新約・旧約全ての時代に時と場所を越えて適用されるとすれば、私たちはこの2016年においてどのようにイエズス様の贖いに対して協力ができるのか?私たちは何をしなければならないのか?その一体私たちはその原理をどうやって適応させて応用すれば良いのか?という事を黙想したいと思います。

第1のポイントでは、旧約の動物の血について黙想する事を許して下さい。例えばエジプトで10の災害がありました。モーゼは命令を、ヤーウェから命令を受けて、「1才の子羊を屠って、その血を門に塗れ。すると天使が、破壊の天使がそのエジプトの地を通った時に、その子羊の血があった所だけは見逃して殺さない。しかしそうでなければ、初子の男の子は動物も人間も全て、皆殺しにされてしまう。」と言いました。

聖ヨハネ・クリゾストモによると、「これは、動物の血だったからではなく、子羊の血だった羊の血だったからではなく、天主の御子イエズス・キリスト、天主の子羊の血の前兆だったから。その血を塗る事によって、イエズス・キリストの来たるべき御血が示されたから。それだから、イエズス・キリストとの関わりにおいてのみ効果があった」と言っています。

ノエの時代に全地が水で洗われましたけれども、イエズス・キリストの来たるべき御血の前兆でありました。水が罪を洗うのではなくて、来たるべき御血が、イエズス・キリストの流される御血が、全地を洗わなければなりませんでした。

イエズス様が流された御血を示す限りにおいて、旧約の全ての動物の生贄は価値があったのでした。

それは新約においても同じです。第2の点は、私たちの主は、2000年前にゲッセマニの園において苦しまれました。十字架の上において御血潮を流されました。鞭を打たれました。茨の冠を被せられました。しかしその流された御血は、実は私たちの、今生きる21世紀に生きる私たちの為のものであり、そして私たちの後に来る全ての人類の、世の終わりまで犯される罪の為だったのです。これはどういう事でしょうか?

「イエズス様の贖いは、時を超えて、場所を超えて、私たち全ての霊魂に適用される、天主の永遠の効果を持っている」という事です。ですから旧約聖書、旧約にあった生贄も、イエズス様のその効果の前兆として、特別の価値を持っていました。特にマリア様は、イエズス様の贖いが果たされる既に50年前に、おそらく46年か47、8年前に、マリア様が御母のお母様のアンナ様の御胎内に宿られるその瞬間、その功徳をあらかじめ受けて赦されました。

同じように私たちも、2000年前のイエズス様の功徳を、今ここで受け取る事ができるのです。「イエズス様の御血の功徳を受けたい。それを適用したい」と、それを望む事によって受ける事ができます。

その適用する為に特に効果的なのが、特にイエズス様から与えられたのは、「7つの秘跡」です。洗礼の秘跡によって私たちは罪を全て許されます。7つの秘跡の中で最も効果的なのが、それが「御聖体の秘跡」です。私たちの主が苦しまれた全ての苦しみ、全ての愛、全ての願い、「私たちに与えたい」という全てのお恵みを、たった1回の御聖体拝領で私たちに「全て与えよう」と、それを、イエズス様全てを、丸ごと、御聖体拝領で下さろうとする、時と場所を越えて下さろうとする、それが御聖体拝領です。

ミサ聖祭もそうです。ミサ聖祭も私たちはミサに与る事によって、イエズス様のゲッセマニの園、あるいは鞭打ち、あるいは十字架でのその御苦難を全て、この新大阪で、時と場所を超えて与る事ができるのです。イエズス様がその苦しんだその十字架の足元に、すぐに私たちも跪いてお祈りをする事ができるのです。全く同じ効果と価値を持っているのです。イエズス様の贖いの業は時と場所を越えたものですから。

これは一体どういう事を意味するのでしょうか?イエズス様は、新しい第2のアダムとして、そして贖いの第1の原理として、贖いを行うものとして、天主として贖いを実行しますけれども、それと同時にまずマリア様を共贖者としてお選びになりました。それと同時に私たちをも、「その贖いに参与するように、贖いの業の一部となるように」と望んでおられるのです。

これはそれのちょっとした例ですけれども、例えばイエズス様が選んだ聖ペトロ、その後継者は教皇様です。イエズス様の代理者として今でも、教皇様がローマの教皇様がその力を、その特別のお恵みを持っています。イエズス様が選んだのは12人の使徒たちですけれども、その使徒たちの後継者は司教様たちとして、今でも力があります。イエズス様は十字架の上でマリア様に、「見よ、汝の子ここにあり。」そしてヨハネに向かって、「汝の母ここにあり。」そしてマリア様を私たちの母として、贖われた者たちの母として下さいました。マリア様は今でも、全て贖われた者の母として、天国でその母としての役割を果たしています。

イエズス様の贖いの業は、時を超えて、場所を越えて、こうやって働いています。

では、これは私たちにとってどういう意味があるのでしょうか?

つまり「私たちは、イエズス様の贖いに、密接に、直接に、関わる事ができる」という事です。イエズス様の贖いの業は2000年前に終わって、それでもう私たちは何もする事が無い、のではなく、今現在、今ここで、今この瞬間、イエズス様の贖いに参与して、イエズス様の贖いを更に進める事もできれば、あるいはそれに反対する事もできるという事です。

もしも私たちが例えば今日聖時間で、イエズス様の御聖体の前に1時間留まる事によって、ゲッセマニの園におけるイエズス様は、2016年の7月1日の私たちを見て、大きな慰めを受けます。イエズス様は、2000年前のイエズス様と今の私たちは、時を超えて繋がっているからです。しかしもしも私たちがイエズス様に、イエズス様に対して罪を犯せば、あるいはイエズス様に対してあるいは何らかのしてはいけない事をすれば、イエズス様はそれをあるいは鞭打ちの時に、あるいは茨の冠の時に、あるいは十字架の道行きにおいて、それをひしひしと感じられます。私たちの罪1つ1つが、イエズス様の苦しみを重くさせます。

私たちが今ここでするミサ聖祭に与る事、御聖体を拝領する事、イエズス様に対する祈りは、イエズス様をますます慰め、イエズス様に対して、イエズス様からの多くの恵みを勝ち取る元となります。

このように、今日のイエズス様の御血の祝日は私たちに、「イエズス様と私たちが今密接に、この瞬間繋がっている」という事を教えています。「旧約の時代・新約の時代は、イエズス・キリストのその贖いに深く繋がっていて、私たちはそれに深く参与する事ができる」という事です。「ますますイエズス様の贖いの実りを多くの霊魂たちにもたらす事ができる」という事です。「私たちの隣人の救いは、私たちの協力次第に依っている」という事です。

そこで今日はぜひ遷善の決心として、イエズス様の全てを、御聖体拝領において、御血の功徳、そのイエズス様の愛、イエズス様の恵みを全て、御聖体拝領で受け取って下さい。イエズス様から下さる、イエズス様が下さりたい、「与えたい」と思う事を何一つ拒む事なく、全て「はい」と言って受け取って下さい。

そして私たちはそれと同時に、イエズス様から受けた多くの恵みを、受けている多くの御恵みを感謝して、イエズス様と今密接に繋がっているという事を意識して、私たちもできる限りイエズス様をお慰めする事に致しましょう。罪の償いを果たす事に致しましょう。多くの霊魂の救いの為に、私たちが協力する事ができるように、お祈り致しましょう。

マリア様に最後にお祈り致しましょう。マリア様こそ、イエズス様から聖霊から与えられた全てをそのまま受け取って、罪によって拒む事なくそのまま受け取った、無原罪の汚れ無き御心でした。それをする事によって、完璧な共贖者となる事ができました。マリア様は、私たちがマリア様の道具となる事を、共贖者の道具となる事を望んでいますから、是非その私たちも、今この瞬間、またこれからの全ての毎日をイエズス様の一致において、多くの霊魂の救いの為に、イエズス様を慰める為に、使う事ができるようにお祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見 (続き16)【ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」】

2018年07月19日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見(続き16)
をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見


四、“心の取り締まり”は、内的生活の鍵である。ゆえに、使徒職には本質的な修業である

心の取り締まりの決心(3/3)

(Ⅳ)心の取り締まりの修業

悲しいかな、私は仕事のあいだ、ずいぶん長く、天主の現存の意識をもたず、天主が自分の霊魂に内住しておられる事実を、忘れて生活している。

悲しいかな、私はこのようにすっかり外面の世界に流された、うわべだけの生活をしているうちに、たくさんの過ちにおちいりながらも、それに気がつかないでいる。霊魂は、熱心であると思っても、それに不完全と、時には冷淡さえ混じていることに気づかないでいる。これからは、心の取り締まりの修業をして、この悪習をためなおさねばならぬ。きょうから早速、それに取りかかろう。

朝、黙想するとき、次のような決心をとる。この決心は、強固で具体的なもの、明確なものがなければならぬ。――仕事のあいだ、一定の時間をもうけて、その時刻のあいだは、天主のみ旨に成るこの仕事に、懸命に没頭する。同時に、できるだけ完全に、内的生活をいとなむ。心の取り締まりを実行する。すなわち、ああ、イエズスよ、あたかも私が、あなたのみまえにいるかのように、私自身の上に警戒の目を光らせる。あなたのみもとに馳せていって、助けをこい求める。“何事も、いちばん完全に果たす”という誓願を立てているかのごとく、できるだけ完全に、この仕事をなしとげることができますように。

朝と晩に、五分間、いや、それよりもっと少ない時間でもいい、一定の時間をもうけて、次の反省をし、決心をとる。――私は、この修業の長さよりむしろ、その完全さにねらいをおく。この修業が、ますますうまくいくように努力する。仕事のあいだは、たとえそれがどんなに多忙をきわめ、注意力を独占するものであっても、いや、そうであればあるだけ、私はいっそう精を出して、ちょうどどこかの聖人でもそれをしているかのような仕方で、この仕事をする。――純潔な意向によって。心の取り締まりによって。私の霊肉のすべての能力を、よくコントロールすることによって。りっぱな堂々たる振舞によって。……一言でいうなら、あたかもイエズス・キリストご自身が、もしこの仕事をなされたとしたら、こんな風になされたにちがいない、と思われるような仕方で。

これこそは、実行的内的生活の修業なのだ。
これこそはまた、私の放心、精神の散漫への、事実上の反抗なのだ。
私がほしいのは、イエズスである。
私がほしいのは、イエズスのみ国である。
私がほしいのは、私の霊魂の内部における、イエズスの支配である。

私がほしいのは、たとえ多忙をきわめた仕事の時間がやってきても、イエズスの支配が依然、私の霊魂のなかで持続されることである。霊魂は、カーテンがはずれて、冷たい外気が遠慮なくはいってくる。そのために、イエズスとの一致ができなくなる。イエズスのみまえにめざめていることが、祈ることが、惜しみなき奉仕をすることが、できなくなる。こういう不幸を、私はがまんできない。

仕事のあいだ、ちょっと霊魂の内部に、警戒の目を光らせる。霊魂の動き、行為の動機のうえに、しばらく反省のまなざしをそそぐ。不純なもの、いけないものがあったら、なさけ容赦なく、霊魂からしめだす。私の意志も、この短い間、私に協力して、完全な生活をいとなむためには、だれとも、何事とも安易な妥協はしない、障害物があったら遠慮会釈なくこれを排除する、と固く決心している。私の心もまた、私に加勢して、“聖人修業”をしている私が、どうかいつまでも根気強く、この修業を続けることができるように、とイエズスに祈る。

心の取り締まりの修業は、やり甲斐がある。それにはいつも喜びが伴っている。それをやれば、必らず心が大きくなる。むろん、心で、天主のみまえに長くとどまっているためには、また、私の霊魂の諸能力、すべての感覚から、不純なもの、あまりに自然なものを、みんな排除するためには、たえまなく自分を警戒し、自分を抑制していなければならぬ。だが、私はこのような、消極的修業にばかり満足してはいられない。

とりわけ、私はこの修業を、聖主への深い愛の獲得のために役立てたい。この愛があれば、私はまず純潔な意向のもとに、次に熱心とか没我とか、つねにまさりゆく聖主の奉仕への惜しみなき心とか、こういうものによって、“汝が現在なしつつあることをなせ”の教訓を、最大の注意をかたむけて実行するようになり、私のなす業に、大きな完全と価値を付与してもらえるからである。

夕がた、一般糾明のとき、(または特別糾明のとき、もしこの修業を糾明の題目にしているなら)、イエズスのおそばで、心の取り締まりにあてられた数分間を、どのように使ったか、について厳密な糾明をする。まずい成績だったら、自分に制裁を加える。小さな償いをかける。(たとえば、愛用のぶどう酒、またはおサケをすこし減らす。あるいは食後品に手をつけない。むろん、みんなの目につかないようにすることがカンジン。両手を十字架の形にのばして、短い祈りをとなえる。からだに軽いムチの一打ちか二打ちを加える。指のうえにかたい物をおいて、痛い思いをするなど)

もし私が、心の取り締まりの修業――つまり、活動的生活に内的生活を加味した、理想的な修業において、じゅうぶんまじめでなかった、じゅうぶん熱心でなかった、じゅうぶん祈らなかった、じゅうぶん乗り気でなかった、ということに気がついたら、いつも、右にいったようにしなければならぬ。

心の取り締まりの修業からは、どんなにすばらしい効果が生まれることだろう。心の取り締まりは、どんなにすばらしい聖徳の学校だろう。いままでは、それと気づかないで、平気でおかしていた多くの罪、多くの過ちが、心の取り締まりを実行してからは、どんなにハッキリ目につくことだろう。罪がふえたのではない。罪が目につくのだ。聖霊の光りに照らしだされて! 

ああ、祝福された、心の取り締まりの瞬間よ! それはすこしずつ、次の瞬間にも恵みの余波を伝える。しかし、私はこの瞬間にあまり長くとどまっていない。聖性の地平線がうすれようとするとき、仕事の遂行の完全性がそこなわれようとするとき、愛がその深さを減じようとするとき、そういうことが予感されるとき始めて、私は心を取り締まるために、必要な数刻を都合するであろう。

私は、量より質に、重きをおきたい。あとでは、わずか数刻の、心の取り締まりでは、どうも我慢できなくなる。私の霊魂は、現在この瞬間、どんなものだか、イエズスは私から、何をお求めになっておられるか――こういうことが、ハッキリわかるようになってからは、とくに習慣的な心の取り締まりに向かって、心は渇いていく。そしてすこしずつ、この修業になれてくると、やがて私は心の底から、心の取り締まりの必要を痛感し、その習慣を身につけるようになる。そしてイエズスは、完全にきよめられた私の霊魂のなかに、ご自分と私との一致の生活の秘訣を、お見いだしになるのだ。

(Ⅴ)心の取り締まりに必要な条件

私の日常生活のいとなみ――それは、多少けがれに染まっている。この事実を”確信“する。この確信があれば、私は自身にたいして、被造物にたいして、すこしも信用をおかない。悪魔は、この確信を、私から奪おうと、やっきになっている。この確信は、どうかしてイエズスのものになりきってしまいたい、との私の切望に基づいているから、次のようなりっぱな結果を生む。

まず、私自身に”警戒“を施してくれる。しかもこの警戒は、忠実なもの、正確なもの、静かで、おだやかで、天主の恩寵に信頼し、私の放心をなくし、自然の性急さをなくしてくれる。

それはまた、私の決心を”更新“してくれる。心の取り締まりの理想像に達しようと、一生懸命にたたかっている霊魂にたいしては、イエズスは至って慈悲深くいますゆえ、私をしてこの事実に信頼させて、倒れても倒れても、あらたに立ち上がる勇気をあたえてくれる。自分は単独でたたかっているのではない。イエズス・キリストが、自分にはついていてくださる。母なる聖マリアが、守護の天使が、もろもろの聖人が、私の味方になっていてくださるのだ――との信念を、ますます深めてくれる。天国の有力な味方が、毎瞬、私に加勢してくださる。もし私さえ、心の取り締まりを実行しているなら、もし私さえ、かれらの助けから身をそむけなければ――との信念を、ますます強固にしてくれる。

最後に、心の取り締まりの修業は、私をしばしば、そして熱心に、天主のお助けにおもむかせる。このお助けのおかげで、私は、天主が今私から、お求めになっていられることをする。天主がそれを、お望みになる仕方でする。さらに天主がそれをお望みになるから、自分もする、というぐあいに、一事が万事、天主中心の生活へと向上していくのである。

ああ、イエズスよ、このように心の取り締まりを実行して、私の心を、あなたの聖心に一致させますなら、私の生活はどれほど一新して、あなたのご生活に変容することでしょう。

私の知性よ、おまえは現在の業務に、全精力をうちこむことはできよう。だがしかし、私は経験によって知っているのだ。――ひじょうに多忙をきわめた人たちでも、そのなかには、仕事のあいだ絶え間なくイエズスに向かってあえいでいる、その心は絶えずイエズスと物語っている、感心な霊魂もいるのだ、ということを。私もこの人たちのようでありたい。どんなに忙しい仕事をしている最中でも、かれらのように、私の心も、たえまなく、イエズスに向かって、あえいでいたいものだ。

私は心から悟っている、――心の取り締まりは決して、私が現在果たさねばならぬ身分上の義務をりっぱに遂行するのに、私の霊魂の諸能力から、その自由を奪ってしまうものでない、ということを。それどころか、イエズスという愛のふんい気に、私の霊魂は絶えずひたっている関係上、精神はいっそう伸び伸びと自由になり、かくて私の生活は以前よりいっそう晴々しく、愉快になる。いっそう生気にみなぎり、充実したものとなる。

心の取り締まりを実行しているあいだに、私はけっして傲慢の奴隷となるのではない。利己主義の奴隷、怠慢の奴隷となるのでもない。わるい欲情と空虚な外来の印象の重圧下に、呻吟するのでもない。それどころか、かえって私は、いっさいの束縛から解き放たれて、ますます自由になっていく自分自身を見いだすばかりである。

そして、ああ、天主よ、この完成され理想化された自由を使って、私はあなたに、自分があなたに絶対に従属している、という事実を証明し、これをたぐいない礼拝のみつぎとしておささげすることができるのです。

このようにして、私は“まことの謙遜”の徳に、ますます強く固定されていくでしょう。この謙遜の徳に基づかないなら、内的生活はすべて空虚なもの、うわべばかりのものになってしまいます。かくて、私は心のなかに、あなたへの絶対従属の基本精神を、発展させることができます。この精神――この“天主への絶対従属”――こそは、われらの主イエズス・キリストのご生活の精髄にほかなりません。

ああ、イエズスよ、あなたの聖心の愛の炎に――天父のみ心をお喜ばせしようと、いつも気を配り、いつもそのことに忠実でいらしたあなたの聖心の愛の炎に、私も投げ込んでもらいたいものです。そう致しましたら、天国で、あなたのご光栄にもあずかることができましょう。謙遜と愛によって、あなたのご人性が天父にたいしてなされた、感嘆すべき絶対従属の報いとして、いま天国で享受されているそのご光栄にも! 「キリストはおのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。…それゆえに、天主はかれを最高に引き上げて…」(フィリッピ2・9)。

マーチフォーライフ(March for Life in Tokyo 2018)の写真を、マーチフォーライフのフェイスブックからご紹介いたします。

2018年07月19日 | プロライフ
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

マーチフォーライフ(March for Life in Tokyo 2018)の写真を、マーチフォーライフのフェイスブックからご紹介いたします。

マーチ出発前の写真


日比谷公園に到着後の写真


一カトリック信者さんの秀逸な記事もご参考下さい。

来年は、より多くの兄弟姉妹のご参加を招待いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田神父

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】