Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

大阪では2月29日(土)のミサが追加されます:午後6時よりミサ聖祭

2020年02月27日 | 聖伝のミサの予定
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 大阪では2月29日(土)のミサが追加されます。

2月29日(土)灰の水曜日の後の土曜日(3級)紫
午後5時半 ロザリオ及び告解
午後6時 ミサ聖祭


3月1日(日)四旬節第1主日(1級)紫  
午前9時50 ロザリオ及び告解
午前10時半 ミサ聖祭(歌ミサ)
ミサの直後(感謝の祈りの後):御聖体降福式でコロナウイルスの疫病の早い収束を祈願します。

昼食後
午後2時半ごろ:主日の晩課(グレゴリオ聖歌による)

My dearest Brethren,
Saturday 29th February we will have an additional Mass at 18:00



Saturday Feb 29
17:20 : Holry Rosary
18:00 : Holy Mass

Sunday March 1st, 2020
09:50 : Holy Rosary
10:30 : Holy Sacrifice of the Mass (Sung Mass)
12:00 : Benediction of the Blessed Sacrament: Litanies of Saints by which we beg a quick coming to an end of epidemic Coronavirus.

After Lunch break
14:30 : Sung Sunday Vespers


Bien chers freres, fideles et amis
Il y aura une messe a 18h00 le samedi 29 fevrier.
L'heure de la messe dominicale du 1er mars est changee a 10h30.
Merci de votre attention!


3月1日(主日)の大阪でのミサの時間が午前10時半に変更されました Mass time on March 1st is modified at 10:30 AM

2020年02月27日 | 聖伝のミサの予定
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 都合により、3月1日(主日)の大阪でのミサの時間が午前10時半に変更されました。

3月1日(日)四旬節第1主日(1級)紫  
午前9時50 ロザリオ及び告解
午前10時半 ミサ聖祭(歌ミサ)
ミサの直後(感謝の祈りの後):御聖体降福式でコロナウイルスの疫病の早い収束を祈願します。

昼食後
午後2時半ごろ:主日の晩課(グレゴリオ聖歌による)

My dearest Brethren,
The Mass time on March 1st is modified: 10:30 AM.

09:50 : Holy Rosary
10:30 : Holy Sacrifice of the Mass (Sung Mass)
12:00 : Benediction of the Blessed Sacrament: Litanies of Saints by which we beg a quick coming to an end of epidemic Coronavirus.

After Lunch break
14:30 : Sung Sunday Vespers


Bien chers freres, fideles et amis
L'heure de la messe dominicale du 1er mars est changee: 10h30.
Merci de votre attention!



私たちは、永遠の冠を、朽ちない冠を求めている。2020年2月9日(主日)七旬節の主日

2020年02月27日 | 聖伝のミサの予定
2020年2月9日(主日)七旬節の主日 
聖ピオ十世会司祭 小野田神父 説教

聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。
今日は、会場の場所が変わってしまって、ご不便をおかけしました。
2020年2月9日、七旬節の主日のミサを行なっています。

今日、第1主日のミサではないのですが、先週できなかったので、ミサの直後に御聖体降福式を行ないたいと思っています。特に日本と世界の平和の為にも、そして日本で今度9月にオープンされる、東京の修道院に必要な全ての御恵みを求める為に、お捧げ致しましょう。

月曜日のミサは、残念ながらミサの会場の都合で、ミサを皆さんの為にする事ができなくなりました。どうぞご了承下さい。

次のミサは、いつもと同じ所で次の主日にあります。フォルティン神父様がミサを捧げて下さいます。

“Nos autem incorruptam.”

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、遂に七旬節の主日がやって来ました。
グロリアもアレルヤも無くなり、そして司祭は紫の祭服を着ます。新しい典礼では無くなってしまった、しかし聖伝の典礼に従った、四旬節の準備の為の期間です。

今日一番のテーマは、聖パウロの言葉に凝縮されています、「私たちは、朽ちない王冠の為に戦っている、走っている。今、それを求めて今現在生きている」という事です。

そこで今日、
⑴私たちが一体何を求めているのか?この人生の究極の目的は何なのか?という事をもう一度、教会の精神に従って思い出す事に致します。

⑵そして次に、その為に一体どんな手段が、どうやったらその朽ちない栄冠を勝ち取る事ができるのか?難しいのか?そうでないのか?

⑶そして最後に、遷善の決心を立てる事に致しましょう。


⑴愛する兄弟の皆さん、この目に見える全宇宙、美しい大宇宙、そして大自然は、私たちの為に創られました。私たちがこの地上に今生きているのも、こうやって生まれてきているのも、特別の目的があって、天主様から創造されたからです。

その目的は、私たちの想像をはるかに超える、崇高なものです。なぜかというと、私たちは永遠の命、永遠の無限の幸せ、朽ちない喜び、天主と同じ命を生きる為に、楽しむ為に、この地上に創られたからです。

この地上の人生は、儚い、あっという間の、夢のようなものです。しかし朝起きて、「あぁ、目が覚めた」という時に、太陽が昇り、そして鳥が鳴いているように、おいしい朝ごはんがあるように、私たちもこの人生の夢が終わった後に、「永遠」という決して終わる事のない現実が、私たちの為に微笑んで待っています。そしてその為にこそ、私たちはこの地上に生きています。そして創造を受けました。

「私たちが一体何であるか?」「被造物である」という事、そして「私たちは何の為に、究極の目的が何なのであるか?」「無限の善である、無限の愛である天主を目指している」という事を、私たちは今日、教会の精神によって思い出さなければなりません。

イエズス様は仰いました、「人間が、もしも全世界を勝ち取ったとしても、その交換に霊魂を失ったとしたら、一体何の利益があるだろうか。」

もしも私たちが、私たちにとって永遠の命が無いとするならば、あるいはこの世だけで全てが終わってしまうとするならば、この世の人たちは正しいかもしれません。この世の美味しいものを食べて、この世を面白おかしく住むというのが、もしかしたら合理に適っているかもしれません。

しかし、現実はそうではないのです。この世の人生というのは儚いものであって、あっという間に過ぎ去ってしまうものであって、私たちにはこの後に、決して終わる事のない、「永遠」という現実が待っているからです。

この世の私たちの前に、私たちの先祖で、私たちの前に生きていた人々で、力がある人々がいました。権力を握って、世界の大部分を支配していた王や、皇帝や、財産を自由に使って、奴隷や人々を動かしていた人々もいます。しかしそのような人は、今、その財産をどこにどうやって仕舞ったでしょうか?皆、他の人が持っています。どのような王であっても、ヨーロッパを支配したような皇帝であっても、あるいはインドまで支配したギリシャのアレクサンダー大王であっても、あるいはどのような者であっても、その人生の終わりには、自分のお墓の小さな所に足を突っ込むその直前に、「あぁ、振り返ってみると、自分の持っていた物はみんな、他の人の物になっていた」と気付いて、弱々しく、朽ちて亡くなっていきます。

それで終わりではないのです。その後で、私たちの人生がどのように生きていたか、その細かいところまで正確に天主に報告して、決済を出さなければなりません。悪については罰を、善については報いを、私たちは受け取らなければなりません。

つい最近数日前まで、天主様の御摂理と御計らいによって、エクアドルのキトで、「善き出来事のマリア様」その所に巡礼に行く事ができました。

400年前、このスペインの人たちは、本当に信仰に満ちていました。その「キト」という都市を造る為に、スペインの王様が送ったのは、軍隊でも警察でも、官僚機構でもありませんでした。スペインの王様がまず、「都市を造る為に必要だ」と送ったのが、観想修道会のシスターたちと、神父様たちと、ブラザーたちで、何千人という人々を送って、そして修道院を建てて、黙想と、お祈りと、断食とをしました。それによって、この大きな帝国は平和に住んでいました。

そのキトを創立した最初の修道院、創立の時の最初から置かれた修道院の中に1つに、「無原罪の御孕りの修道院」というのがあり、その中の修道院長、マザー・マリアナ・デ・ヘスス・トレスという方に、マリア様は特別の御出現やメッセージを与えました。そしてその事は教会によって認められています。

そのマリア様が仰っています、「あぁ、この死すべき人々が、人間たちが、もしも『天国というものがどれほど素晴らしいものである』という事を知っていたら、あるいは『地獄の恐ろしさ』という事を知っていたら、今、今頃、人生の生き方は変わっていた事だろう。今その事を知れば、ちょっとでも知れば、私たちは生き方を変える事だろう。天主を愛して、罪を恐れて生きる事だろう。そしてどんな小さな犠牲でも、あるいは苦しみでも、喜んでそれを受けるだろう」ということを仰っていました。(*)

まさに、その通りです。私たちはこの人生を、永遠の為に生きているのです。


⑵では、どうやったら私たちは、その永遠の冠を、朽ちない冠を得る事ができるでしょうか?オリンピックの選手のように、選ばれた特別な、コーチをつけて、高いお金を払って、一生懸命毎日特訓しなければならないのでしょうか?

いや、そうではないのです。私たちは誰でも、この望めば、永遠の冠を受ける事ができます。もしもその永遠の冠を受けてしまえば、一体誰でさえも、悪魔でさえも、それを私たちから奪う事ができません。私たちが必要なのは、それを「欲しい」と望んで、その為に一歩を進む事です。

その為にはどうするかと言うと、イエズス様が教えています、「絶えず祈れ。」
「祈り」と、そして「私たちの日々の生活を、イエズス様の為にお捧げする。」これだけです。
「もしもお前たちが私の弟子になりたいならば、自分の十字架を取って、私に従え。」

私たちが朝起きてから寝るまで、私たちの考えも、話す事も、行動も、「イエズス様、これをイエズス様の為にお捧げします。」「イエズス様、愛しています。」「イエズス様、この苦しみをお捧げ致します。」「イエズス様、この辱めをお受け取り下さい。」「イエズス様、憐れんで下さい。」「イエズス様、このお仕事を、イエズス様の為に捧げます。」「イエズス様、あの霊魂を回心させて下さい。」「イエズス様、この寒さをお捧げ致します」など。

このような私たちの小さな行ないは、祈りを込めた愛の行ないは、どれほど私たちの主の心に気に入る事でしょうか。私たちはその小さな行ないによって、どれほど朽ちない永遠の冠をたくさん受ける事でしょうか。勲章を受ける事でしょうか。

その事を教会は皆さんに、思い出させたいと思っています。


⑶どうぞ愛する兄弟の皆さん、時はやって来ました。

永遠の冠が待っています。決して朽ちない、黄金の、私たちの想像をはるかに超える、喜びと楽しみが待っています。どうぞこの七旬節の、良い遷善の決心を立てて下さい。ますます祈りと、犠牲と、愛の行ないに、私たちは励む事に致しましょう。

最後に、マリア様にお祈り致しましょう。マリア様の御生涯がまさにこれでした。祈りと、イエズス様への愛の連続でした。七旬節の連続でした。マリア様の御取次ぎによって、私たちもマリア様と同じ、朽ちない冠を受ける事ができますように。

“Nos autem incorruptam.”

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

(*)
“Oh, if all mortal men … knew what Heaven is, what the possession of God is! How differently they would live and never omit any sacrifice to possess it!

喜びの玄義 第4玄義黙想 2020年2月8日(土)御聖体降福式にて

2020年02月26日 | 聖伝のミサの予定
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 今日2月26日は灰の水曜日です。四旬節が始まります!
 コロナウイルスが一刻も早く収束しますようにお祈りいたしましょう。
 願わくは、イエズスの至聖なる聖心が私たちを憐れみ、疫病から守ってくださいますように!

 天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


喜びの玄義 第4玄義黙想 
2020年2月8日(土)御聖体降福式にて
聖ピオ十世会司祭 小野田神父

『喜びの玄義 第4玄義:この一連を捧げて、聖母が潔めの式に与り、主を聖殿に捧げ給いたるを黙想し、その御取り次ぎによりて、掟を守る徳をこい願わん。』

御聖体の内に真に在し給うイエズス様の聖心の御前で、マリア様の汚れなき御心に対して犯される罪を償う為に、15分間、ロザリオの玄義の黙想を致しましょう。

今週の主日にはこの前の主日には、御浄めの、マリア様がイエズス様を神殿に奉献し給いたるを、その祝日を祝いましたので、やはりその黙想をする事を提案致します。

もちろんマリア様は、いとも清き、罪の汚れの無い無原罪の御孕り、御浄めの式の義務はありませんでした。聖霊によって宿った天主の御子を宿した、天主の御母ですから。

しかし、モーゼの掟にそのまま、規定のまま、御浄めの式に与られました。イエズス様を神殿に奉献する為に。

もちろんイエズス様は、天主の聖子、神殿の主でありますが、掟に従って、マリア様は御子を御父に奉献なさいます。

マリア様と聖ヨゼフ様は、イエズス様を抱いて神殿に登られます。すると、救い主メシアを生涯待ち続けていた、聖なる預言者シメオンが、この一見平凡なマリア様を、「救い主の御母だ」と、すぐに見分ける事ができました。

シメオンはマリア様に近付いて、声をかけます、「どうぞ、このあなたの抱いている赤子を、私に抱かせて下さい。この子こそ、この子供こそ、イスラエルが待ち望んでいたメシアですから。救い主ですから。」

マリア様、どうぞ私の胸に、イエズス様をお与え下さい。この世の最高の宝、王の王、天主の御言葉、私たちの愛、イエズス・キリストを、私の胸に抱かせて下さい。

イエズス様がいらっしゃる所は、そここそ天国。イエズス様がいらっしゃらない所は、まさに地獄です。

シメオンのようなこの愛の心を、私たちにも与えて下さい。多くの人々がイエズス様を蔑ろに、ぞんざいに取り扱う時にも、少なくとも私たちだけは、イエズス様を愛を以て受け取る事ができますように。見かけにかかわらず、「これこそがイエズス様だ」と認める事ができますように。

老シメオンは聖霊によって、マリア様の御苦しみをも預言しました。人類の救いの為に、マリア様がどれほど苦しまなければならないのか、「あなたの心も、霊魂も、剣で刺し貫かされるでしょう。この子は、立ち上がりと滅びの、逆らいのしるしとして在る。人類は、イエズス・キリストの友となるか、あるいはキリストの敵となるか、二つに分かれる。」

マリア様、私たちがイエズス様から決して離れる事がないように、いつもイエズスの十字架の友でありますように、お護り下さい。

2020年2月8日(土)「善き出来事のマリア様」について 聖ピオ十世会司祭 小野田神父 説教

2020年02月25日 | お説教・霊的講話
2020年2月8日(土)証聖者マタの聖ヨハネのミサ 「善き出来事のマリア様」について
聖ピオ十世会司祭 小野田神父 説教

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2020年2月8日、マタの聖ヨハネの祝日のミサを捧げております。

今日は、初土曜日の信心の御聖体降福式がこの前できなかったので、今日このミサの後で御聖体降福式をして、そしてマリア様の汚れなき御心にお捧げする事を提案致します。

明日も夕方18時から、サマース神父様が主日のミサを捧げて下さいます。


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日マタの聖ヨハネの祝日ですけれども、ぜひ「善き出来事のマリア様」についての話をするのを許して下さい。

善き出来事のマリア様は、20世紀の私たちの為に、特別にいけにえの霊魂を求めました。そしてその選ばれた清い霊魂が、マザー・マリアナ・デ・ヘスス・トレス (Mother Mariana de Jesús Torres y Berriochoa)という方でした。非常に寛大で、非常に愛された霊魂でした。そしてこの彼女の、地獄をも体験するような、そして病と、苦しみと、いけにえと、祈りの、礼拝の人生を通して、20世紀の私たちの為に、特別の恵みを準備して下さいました。

エクアドルという国は、私たちにもほとんど知られていない国ですけれども、多くの聖なる寛大な、イエズス様の愛に燃える霊魂たちをたくさん生み出した国だ、という事を、特に20世紀の為に、私たちの為に準備されていた国だ、という事をひしひしと私は体験しました。

そこでぜひ皆さんに、「そのような霊魂がいた」という事、そして「私たちの為に、今、この現代の私たちの霊魂が救われる為に、特別な天主の御計らいがあった」という事をよくご存知になって下さい。

⑴今日、そのマザー・マリアナが受けたメッセージというものを、少しだけご紹介させて下さい。

⑵そして、エクアドルには他にもどのような事があったのか、という事を簡単に話させて下さい。

⑶最後に、では私たちは今、そのような霊魂たちからの特別の犠牲と、特別の苦しみの為に、私たちが今何を受けたのか、そして私たちは何をすべきなのか、という事を黙想致しましょう。


⑴マザー・マリアナ・デ・ヘスス・トレスという修道女は、修道院長となって、また幼少の頃から特別に、マリア様からのメッセージなどを受けました。今回私のぜひ紹介させて頂きたいと思うのは、この人生の終わりに、亡くなる1年くらい前の1634年の3月に受けたメッセージです。

マザー・マリアナは、いつも朝早く早朝から、例えば朝の3時とかから起きて、御聖体礼拝、黙想などをしていました。
三位一体の神秘。聖父・聖子・聖霊、三位一体が区別されていて、しかし唯一の天主である事。
あるいは、この三位一体の聖子が、三位一体の第二のペルソナ聖子が、御聖体の内に真に在す事。
あるいは、その御聖体の内に真に在す全能永遠の天主が、私たちをどれほど愛されているか。
また、三位一体が、マリア様の事をどれほど愛されているか。罪の汚れ無く、聖アンナの胎内に宿された事。
あるいは、イエズス・キリスト共に、マリア様が人類の罪の償いの為の共償者となった事。
等よく黙想されていました。そしてその神秘の中に深く入っていました。

すると、天の元后マリア様が、マザー・マリアナに御現れになります。特にマリア様にマザー・マリアナは、「善き死を遂げる事ができるように」とお願いしていました。

すると、ちょうどこの祭壇のように、綺麗に飾られた御聖堂が、この教会のランプで照らされていたランプが、その御聖堂のランプが、突然消えてしまいます。そして真っ暗になります。何とかローソクの火を点けようとするのですけれども、マザー・マリアナの体は動きません。

すると突然、超自然の光が祭壇に輝いて、そして昼間のように明るくなります。マリア様が御現れになって、そしてお言葉をこう下さいます。


「私の御心の愛された娘よ。私は、善き出来事のマリア、あなたの母、あなたの守護者です、そして私の御子イエズスを私の左手に、そして右の手に司祭杖を持ち、私はあなたに、善い知らせを告げる為にやって来ました。その善い知らせとは、10ヶ月と数日後、あなたはこの世の地上の光に目を閉じ、永遠の光を見る為に目を開く、その日がやって来るるでしょう。」

「あぁ、死すべき全ての人々が、もしも『天国がどのようなものである』という事を知っていたなら!もしも『天主を所有する』という事の幸せがどれほど素晴らしいものかを知っていたなら!この人生をどれほど変わって生きていた事でしょうか!そして永遠を得る為に、天主を得る為に、どのような犠牲も省略したりする事はなかったでしょう!」

「今、祭壇の前に燃えている至聖所のランプが消えたのには、いつくかの意味があります。」

「第一の意味は、19世紀の終わりと20世紀のほとんどには、この時期になると、多くの異端がすでに自由共和国となったこの地に広がり、そしてそこを支配していた信仰の貴重な光が消え失せるでしょう。これは、道徳が全く腐敗した為です。この時には、肉体的にも、精神的にも、公にも、個人的な生活においても、多くの困難があるでしょう。」

「教会とこの地上の国を、異端の奴隷状態から解放する為に、私の愛する御子の特別な憐みの愛によって復興のために選ばれた霊魂があります。この霊魂は、復興させる為に、非常に強い意志と、持続心と、勇気と、天主に対する信頼を持たなければならないでしょう。そして義人のこの信仰と、天主に対する信頼を試す為に、見かけ上全ては失われて、全ては麻痺してしまうように思われる時がやって来るでしょう。しかしその時にこそ、完全な復興の、幸せな始まりの時です。」

「ランプが消えた第2の意味は、この私の愛する共同体が数においても非常に少なくなり、言う事のできない苦々しい、苦しみの海の中に投げ込まれるであるだろうからです。間違った、偽りの愛徳の名前によって、不正義が行なわれるでしょう。私のこの閉ざされた庭においてでさえ、忠実な娘たちにおいてでさえ、私の隠された霊魂たちにおいてでさえ、霊魂たちを座礁させるでしょう。」等々。

「このランプが消えた第3の理由は、この時には、19世紀と20世紀のほとんどには、不潔の精神で大気が汚染されるからです。そして汚らしい海のように、不潔が街中を汚染するでしょう。広場も、道も、公の所にも、驚くべき自由放埒によって汚染されるでしょう。そしてこの世には、童貞を保つような霊魂たちがほぼいなくなってしまうでしょう。」

「嫉妬深い疫病のような悪魔が、自分の悪意のある傲慢を以て、修道院の閉ざされた庭にも入って来るでしょう。この悪魔の鉤のような爪に、自分をあえて晒すかわいそうな霊魂たちは何と不幸な事であるでしょうか。そしてその他の霊魂たちは、この世に戻り、霊魂たちの滅びの為の、悪魔の道具となってしまうでしょう。」

「祭壇のランプが消えた第4の理由は、フリー・メイソンのセクトが、この社会の色々な階級を乗っ取ってしまい、そして非常にずる賢いやり方で家庭の中に入り、そして子供の子供らしさ、子供の純粋無垢を破壊してしまうでしょう。その子供たちの心の、デリケートなその心が失われてしまうでしょう。この恐るべき時には、子供たちの無邪気さがほとんど見つける事ができなくなるでしょう。その為に司祭召命は、ますます失われてしまうでしょう。」

「しかしその時には、ある修道会たちの規律、その会則遵守は、光り輝く事でしょう。その時に、祭壇に仕える聖なる聖職者たちは、隠れながらも、しかし美しい霊魂を以て、そして私の御子と私によって特別に愛される花のように、英雄的な聖徳を持って、不敬虔に対して戦いながら、彼らは祭壇に仕えるでしょう。彼らに対して不敬虔は、残酷な戦いを挑むでしょう。そして彼らを断罪し、讒言をし、そして彼らの悪口を言う事でしょう。そして彼らがその聖務を行なう事を妨害するでしょう。」

「しかしこのような聖職者たちは、柱のように、微動だにとも不動で、そして謙遜の精神を以て、犠牲の精神を以て、自分に与えられた、聖子(おんこ)イエズス・キリストの無限の御功徳によって与えられた、自分の聖務をやり遂げる事でしょう。彼らは私の御子の最も聖なる、そして優しい聖心のデリケートな、愛された者となるでしょう。」

「ところで、在俗の司祭たちには、多くの欠如が見出されます。彼らは自分の聖務をなおざりにするだろうからです。天主の羅針盤を失った彼らは、天主から与えられた道から外れてしまう事でしょう。そして彼らは金に愛着し、そしてそれを得ようとあまりにも多くの努力をする事でしょう。その時教会は、父のような愛・優しさ・強さ・健全な判断力・賢明さをもって聖職者たちを指導する、高位聖職者かつ父親の欠如の為に、多くのひどい暗闇を苦しむ事でしょう。多くの司祭たちはその精神を失い、そして彼らの霊魂は大きな危険に晒される事でしょう。」

「倦まず弛まず祈りなさい。あなたたちの心の秘密の隠れ家で苦い涙を流して、天主聖父に、イエズス・キリストの御聖体の聖心への愛によって、寛大にも流された聖子のいと尊き御血の功徳によって、聖子の御受難と御死去の深い悲しみと苦しみによって、祈りなさい。天主の為に働く聖職者たちを憐れんで下さるように、そしてできるだけ早くこの暗闇が終わる事ができるように、この災害の時が終わる事ができるように、教会に司祭職の精神を復興させるべき、かの高位聖職者を、一人の聖職者を送って下さるように祈りなさい。」

「私の御子と私は、私の息子であるこの高位聖職者を、特別の愛で愛しています。彼には、滅多にない特別の謙遜の心と、従順と、天主の息吹に対する従順と、そして教会の権利を守る為の力強さを与える事でしょう。そして彼には特別の優しい同情の心がある事でしょう。それは第二のキリストとして、彼が不幸な人々を軽蔑する事なく、光と導きを与える事ができる為です。そして司祭たちに、その義務を果たす事ができる勧告を与える事ができる為です。天主の優しさを以て彼が、天主の奉仕の為に、主のくびきを彼らに重くのしかからせることなく修道生活において聖別された霊魂たちを導くためです。主は"私のくびきは快く私の荷は軽い"言われました。私は、彼の手に天主の天秤を置き、そして天主が栄光を受けるように取り図らう事でしょう。」


「しかし、司祭の身分また修道者の身分において天主に捧げられた全ての霊魂たちの生ぬるさの為に、この高位聖職者が私たちに与えられるのは遅れるでしょう。この生ぬるさの為に、サタンは天主なる聖子の聖心(みこころ)に奉献された共和国の晴れた空を暗くするくらい雲のように、信仰のない多くの外国人たちを使って、この地の多くの地域を自分たちのものとして支配する事でしょう。

これらの信仰の無い人々によって、全ての悪徳が導入されるでしょう。その結果、ありとあらゆる天罰が下されるでしょう。疫病、飢餓、あるいは内的な国内の、あるいは他の国々との戦い、戦争、あるいは背教などによって、数多くの霊魂たちは失われてしまう事でしょう。そしてこのイエズス・キリストにとってとても大切な、私にとっても大切な、多くの霊魂は失われてしまう事でしょう。」

「この暗闇を取り除く為に、そして教会が、自由のはっきりとした陽の光を楽しむ事を妨げているこの暗闇を取り除く為に、将来、市民あるいは外国人、あるいは修道者、あるいは世俗の司祭たちの多くの血が流されるべき、恐るべき戦争が起こる事でしょう。その夜は最も恐るべき日、人間の目にとって、悪が大勝利を収めたと思える日がやって来るでしょう。」

「しかしその時、私の時が到達します。私は全く驚くべきやり方で、傲慢な、そして呪われたサタンを破壊します。そして彼を私の足の元に置き、彼を永遠の地獄の底に葬り尽くします。そして教会と国は最後に、この恐るべき暴君から解放される事でしょう。」

「教会のランプの火が消えた第5の理由は、それは、この世の富を持っている人たちが無関心だからです。教会が迫害されていても、聖徳が圧迫を受けていても、悪が勝利をしていても、信心深く自分たちの富を、この悪の破壊の為に使おうとせず、信仰の復興の為に使おうとしないからです。その無関心の為に、多くの国々は、天主の名前が少しずつこの地上から消えていくのを許してしまう事でしょう。そして彼らは悪徳と情念に自分の身を委ねてしまう事でしょう。」

「あぁ、私の愛する娘よ、もしもあなたがこの恐るべき時に生きなければならないとしたとしたら、あなたは悲しみの為に、すぐに死んでしまう事でしょう。しかし、私たちの遺産であるこれらの地に対して私の御子と私が持つ愛によって、今、このあなたのいけにえ、そしてあなたの祈りを、来たるべき時の苦しみを短くする為に使います。」

こういう事を言うと、マリア様の御訪問は終わりました。しかしこの言葉を聞いたマドレ・マリアナは、この将来起こるべき、教会と世界に対するものすごい苦しみを見て、あたかもの死んだかのようになってしまって、三日間、そのまま気を失ってしまいます。

これはマザー・マリアナが受けたビジョンの一つですが、しかしそのような霊魂たちが、既に21世紀に今、現在生きている私たちの苦しみがより短くなるように、これ以上私たちが苦しまないようにと、多くのいけにえと、犠牲と、苦しみと、断食と、祈りを捧げて下さっていた、その一生を捧げていた、そういう霊魂たちがたくさんいる、という事をぜひ知って下さい。


⑵ エクアドルにはまだその他にも、多くの寛大な霊魂らがいました。例えばガルシア・モレノです。

彼は、フランスに留学していた時に、フランスでイエズス様の聖心の信心の事を深く知りました。「フランスの王が、せっかくイエズス様の聖心からフランス王国を奉献するように頼まれたにも関わらず、それをしなかった」という事を聞いて、イエズスの聖心について学びました。

彼が大統領になった時には、エクアドルという共和国を、イエズス様の聖心に、国会を通して、法律を以て、奉献しました。その為に、彼は、ついには暗殺さえもされました。しかし何と寛大に、イエズス様の聖心を慰めたいと思った事でしょうか。

あるいは、エクアドルには有名な、マリア様の汚れなき御心、悲しみのマリア様(La Dolorosa de Quito)の御影があります。皆さんもきっとご覧になった事があると思います。

1906年4月20日に、イエズス会の学校である聖ガブリエル高校の食堂に飾ってあった、悲しみのマリア様の目が、瞼が、15分ほど、開いたり閉じたり、その天の方を向いて、エクアドルの為にお祈りをしているかのように動きました。奇跡があったのです。マリア様が目を開いたり閉じたりしただけだったのですが、大きな影響がありました。

すぐに教会の公式の調査があって、さらには医学的にも精神科の病院で「誰も狂ったのではなくて、本当にそういう事実があった」という事が、教会法的に確立されました。1906年6月3日(主日)、一万人以上がこの聖母の御影をもって聖母行列します。それを35,000人が見守っていました。

その時に、実はエクアドルには、反カトリックの政治家、フリーメーソンのアルファロ(Eloy Alfaro)という男がカトリック教会の迫害を引き起こしていました。リベラルのアルファロは、リベラルの政府に反対して革命を起こします。リベラル対リベラルの戦いでした。武力で大統領の地位を奪ったアルファロは、カトリック教育に反対する政策(公立の学校でのカトリック教理の勉強を廃止する)を発表し、イエズス会をエクアドルから追放しようとさえします。しかし、聖母の奇跡によって、信仰をよみがえらせたエクアドル市民たちは、アルファロに公然と反対します。

マリア様は、ご自分の目を開いたり閉じたりする事で、エクアドルをカトリックである事として守りました。

アルファロは1911年の選挙で負けて、パナマに逃げて行きます。新しい大統領エミリオ・エストラーダが大統領職について4か月後に死亡すると、1912年1月に新しい大統領選挙のためにエクアドルに戻ります。しかし捉えられて投獄され、リンチを受け、殺されてしまいます。

聖母の奇跡の25周年、あるいは50周年には、エクアドルではものすごい大きな記念行事が開かれました。「マリア様がその目を開いたり閉じたりして、ウインクして、守って下さった」と。

1931年の奇跡の銀祝には、この奇跡が国を挙げて祝われました。エクアドル最初の聖母大会が開かれ、この御影はエクアドルの各地に持ち運ばれました。

1956年の奇跡の金祝には、教会法による聖母の戴冠式が行われました。ピオ十二世教皇は、書簡を送り、教皇の名と権威によって、エクアドルのカトリック教育の元后として、聖母に黄金の冠を被せることを命じました。聖母の戴冠式の機会に、40名の外交的代表者たちの前で、エクアドルの新大統領はエンリケは選挙の勝利を天主と聖母に感謝しました。

⑶では、私たちは一体今日、今回どのような事を考えたら良いでしょうか?

まず、「私たちが今ここで、聖伝のミサをする事ができる」、あるいは「教会の復興の為に今、何かをする事ができる」という事に感謝致しましょう。

今の日本の教会をご覧になって下さい。

残念ながら、イエズス様の三位一体の神秘、イエズス様が御聖体の内に真に在し給うというその玄義、信仰の真理、あるいはマリア様が無原罪の御孕りであられるという事、あるいはマリア様のその終生童貞であるという事、天主の御母であるという事、あるいはマリア様がイエズス様と共に共償者として、第2のエヴァとして私たちの為に、私たちの霊的な母として共に苦しまれて、私たちの為に特別の救霊の役割を果たされたという事、あるいは聖霊の浄配であるという事、あるいはそのマリア様のその天と地の元后であるという、素晴らしいものすごい役割とその力、三位一体の天主こそが唯一の天主であって、全人類の歴史を支配しておられて、私たちを無から創造して、永遠の命の為に、永遠の昔から私たちを愛されておられるという事、これらの事を、今、教会で一体誰が教えて下さるでしょうか。

カトリックの最も基本的な信仰の話が話されていません。一体関心があるのは何かというと、全く別の事です。憲法9条とか、インカルチュレーションとかです。

霊魂の救霊、祈り、犠牲について話す、という事はどこで聞かれるでしょうか?

キトでは、400年前にマリア様が祈りと犠牲についての事を、特別な愛を受けた霊魂に話されました。ところで日本はキトよりも恵まれています。この21世紀に生きる私たちの為に、マリア様は特別に日本を選ばれて、日本の私たちに語りかけておられます。

特に秋田に来られて、マリア様はこう仰いました、「今、御子と共に、御父の御怒りを宥める霊魂を求めております。御父の怒りの手を何とか抑えようとしています。犠牲の霊魂が必要です。祈りと犠牲を捧げて下さい。」

秋田ではマリア様は涙をこめて訴えます、「先程も申しましたように、御父はこの地上を、ノアの洪水よりも更に恐ろしい罰で罰しようとしています、この世の罪の為に。もしもこれ以上人類が罪を犯し続けるならば、罪の赦しが無くなってしまうでしょう。」

「教会の祭壇は荒らされるでしょう。枢機卿と枢機卿は対立し合うでしょう。司教と司教は対立するでしょう。私に聖別された霊魂は失われるでしょう。私を敬う司祭たちは軽蔑されるでしょう。」

御聖体は、ますますなおざりにされています。御聖体を跪いて礼拝する事は、日本では禁止されています。

このマリア様がそのように私たちに警告されて、約50年経ちます。

しかし、マリア様の話は全く無視されています。誰もそれに応えようとしません。

エクアドルでは、マリア様が目を開いた閉じたというだけで、司教様たちは感謝の行事を、25周年、50周年と盛大に祝いました。

しかし、マリア様は日本で涙を101回流されたにも関わらず、何の反応もありません。無視されています。

あと数年でもう既に50年経とうとしますが、誰も関心を払いません。

天使は言います、「マリア様の御心に日本は捧げられているけれども、誰もそれに関心を払わないので、マリア様は非常に悲しんでおられる。」

では、私たちは一体どうしたら良いのでしょうか?この「400年前にマドレ・マリアナが一生懸命、死の、地獄のような苦しみを受けて、そして祈りを捧げたから、もう私たちは関係ない。私たちの為にやってくれたから、いいんだ」で良いのでしょうか?

マリア様が天から私たちの元、日本にやって来て、こう言われています。
「さぁ、これから大変な時が来る。罪が今地上に溢れている。このままでは天主御父が、本当は嫌なのだけれども、目を覚まさせる為に、罰をせざるを得ない。何とかそれを防ぎたいのだけれども、犠牲の霊魂が必要だ。」

私たちは一体どのようにしたら良いでしょうか?

ぜひ今日はこのミサを、マリア様の御心を慰める為に、罪の償いの為にも御捧げ下さい。

そしてもしもできれば、今年の5月に、マリア様の秋田の元に私たちは馳せ寄って、巡礼をしましょう。

もちろんお金も時間も犠牲も捧げなければなりませんが、ぜひマリア様が、私たちと日本を憐れんで下さるように、多くの司祭、修道者が、イエズス様をますます愛する道に立ち戻りますように、お祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

【参考資料】
Ninth Apparition: March, 1634

Mother Mariana was praying at three o’clock in the morning in the upper choir, in front of the tabernacle, saying, “… kneeling in the dust I adore Thee as My Father and Spouse, and this love is victorious in its confidence … whereby I will be purified with Thy Precious Blood, through the hands of the Empress of Heaven, Blessed Mary, of whom I ask good success in my dying moments. In the definitive sentence upon which my happy eternity depends …”

Having said these words, she saw the sanctuary lamp, which burns next to the tabernacle, go out, leaving the altar completely in darkness. Mother Mariana tried to get up in order to light a candle, but she was unable to move. Then a supernatural light enlightened all the choir and the Virgin Mary appeared, who lit the sanctuary lamp, stood in front of her and said to her, “Beloved daughter of my heart, I am Mary of Good Success, your Mother and Protectress, who, carrying My Blessed Son in my left arm and the crosier in my right arm, come to give you the happy news that within ten months and some days, your eyes will finally close to the earthly light of this world, in order to open to eternal light.

“Oh, if all mortal men … knew what Heaven is, what the possession of God is! How differently they would live and never omit any sacrifice to possess it!

“The lamp which burns before the altar, and which you saw go out, has several meanings:
“The first meaning is that at the end of the nineteenth century and for a good part of the twentieth century, various heresies will be spread in this land, already constituted a free republic, and the precious light of faith reigning over it will go out, due to the complete corruption of morals. In this period there will be great physical and moral calamities, both in public and in private …

“In order to free [the Church and their country] from the slavery of these heresies, those whom the merciful love of my Blessed Son will destine for the restoration, will need great strength of will, constancy, courage and much confidence in God. And to put this faith and confidence of the just to the test, there will be occasions in which, apparently, all will be lost and paralyzed; and then will be the happy beginning of the complete restoration.[23]

“The second meaning is that this community of mine, being reduced in the number of persons, will be submerged in a sea of unfathomable and unspeakable bitterness …
“In these fateful times, injustice, covered with the name of false charity, will wreak havoc in souls, even in this closed garden of mine … in my faithful daughters, in my hidden souls … They will weep in secret, complaining to their God and Lord … asking Him to shorten such fateful times for the love of the Divine Prisoner.

“The third reason why the sanctuary lamp went out is because in these times the atmosphere will be saturated with the spirit of impurity, which, like an unclean sea, will spread through the streets, plazas and public places with an astounding liberty, such that there will be almost no virgin souls in the world.

“The envious and pestilential devil will attempt, in his malicious pride, to enter into these closed gardens of the religious cloisters … Alas! There will be unwary souls who will voluntarily put themselves into his claws, and others, returning to the world, will be the devil’s instruments for losing souls.

“The fourth reason for the sanctuary lamp going out is that the sect [of Masonry] having taken over the social classes, will have enough cunning to introduce itself into domestic households, so that, by ruining childhood, the devil shall glory in being fed with the exquisite delicacy of children’s hearts.

“In these fateful times, childhood innocence will scarcely be found, in this way vocations to the priesthood will gradually disappear…

“At that time observance of the Rule in communities will shine forth,[24] and there will be holy ministers of the altar, hidden and beautiful souls in whom my Blessed Son and I will take pleasure in the exquisite flowers and fruits of their heroic sanctity, against whom impiety will wage a cruel war filling them with condemnations, calumnies and vexations to prevent them from fulfilling their ministry. They, like firm columns, will remain immoveable, facing everything with that spirit of humility and sacrifice with which they will be vested in virtue of the infinite merits of my Blessed Son, who loves them like the most delicate fibers of His Most Holy and most tender Heart.[25]

“In the secular clergy there will be much to be desired in this period, because priests will neglect their sacred duty. Losing the Divine compass they will stray from the path marked out by God for the priestly ministry and they will become attached to money, and to gain it, they will make too much effort.

“Then the Church will suffer the dark night from the lack of a prelate and father to watch over [the secular clergy] with paternal love, with sweetness, strength, sound judgment and prudence. Many of them will lose their spirit, placing their souls in great danger.

“Pray with insistence, cry out without tiring and weep with bitter tears in the secret recess of your heart, begging our Heavenly Father, for the love of the Eucharistic Heart of my beloved Son, for the Most Precious Blood poured out with such generosity and for the deep grief and pains of His bitter Passion and death, to have pity on His ministers and put an end, as soon as possible, to such disastrous times, by sending to the Church the prelate who shall restore the spirit of his priests.[26]

“My Son and I will love this beloved son of mine with a love of predilection, since we will give him rare qualities of humility of heart, of docility to divine inspirations, of strength for defending the rights of the Church and a tender and compassionate heart; so that, like another Christ, he may care for the great and the small, without despising the most unfortunate, to whom he will give light and counsel in their duties and sorrows. And so that, with Divine sweetness, he may guide consecrated souls to the service of God in their religious life without making the Lord’s yoke to weigh heavily upon them, Who said, ‘My yoke is sweet and my burden light,’[27] I will put the balance of the sanctuary in his hand so that all may be done with weight and measure, and God may be glorified.

“The tepidity of all souls consecrated to God in the sacerdotal and religious state will impede having this prelate and father sooner. This same tepidity will be the cause of accursed Satan taking possession of these regions, who will acquire all of them by means of so many foreign people without faith, who like a black cloud will darken the clear sky of the republic then consecrated to the Sacred Heart of my Divine Son.

“With those people all the vices will be introduced which will draw down, as a result, all kinds of punishments, like plagues, hunger, conflicts both internal and with other nations, and apostasy, the cause of the loss of a considerable number of souls, all very dear to Jesus Christ and to me.

“In order to dispel this black cloud, which prevents the Church from enjoying the clear day of liberty, there will be a tremendous and frightful war in which the blood of citizens and foreigners, of religious and secular priests, and also of religious will flow. That night will be most horrifying, because, to human eyes, evil will seem to triumph.

“Then my hour shall have arrived, in which I, in an astonishing manner, will destroy the proud and accursed Satan, placing him under my feet and burying him in the infernal abyss, while the Church and country finally shall be free of his cruel tyranny.

”The fifth reason is that it is due to carelessness; it is due to the neglect of persons who, possessing substantial wealth, will view with indifference the Church being oppressed, virtue persecuted, wickedness triumphing, without piously using their wealth for the destruction of evil and the restoration of the faith. And owing to this indifference of the nation in allowing the name of God to be wiped out little by little and by adhering to the spirit of evil, [they will] give themselves over to vices and passions.

“Oh, my beloved daughter, if it were given to you to live in that frightful time, you would die of sorrow upon seeing happen all that I reveal to you now. Such is the love that my Blessed Son and I have for these lands, our inheritance, to which we wish from now on to apply your sacrifices and prayers for shortening the duration of the time of such a terrible catastrophe.”

After these words, Mary of Good Success ended her visit. Nevertheless, Mother Mariana had a vision of all that the Virgin had said would come to pass, and this affected her so much that she remained in the choir as though dead, with her forehead on the ground and arms outstretched, and so the sisters found her and brought her to her bed. She remained in this state for three days and three nights. On the third day, at three o’clock in the morning, Mother Mariana sat up, saying, “Yes, Wounded Seraph and my dear father, I thank you.”

Mother related the apparition of the Virgin to her spiritual director and confided to him that when she was unconscious, she saw Saint Francis of Assisi, who said to her, among other things,

“A few months are left for you to bring to a close your painful exile … During your last moments, at your side will be Beatriz, the foundress of your Order, I and all the sisters of the Seraphic family, and Blessed Ignatius of Loyola, whom you love so much for the ardent love that he had during his life for Jesus Christ, and that gave Him so many souls at the cost of great sacrifices. He is a servant much loved by God, and the military character that motivated his entire spiritual life, and which his Society has received from him, will remain in his Society. In it there will always be great scholars, great saints and great martyrs. They will possess discretion and the discernment of spirits as a special gift of the Divine bounty, and so the serpent’s tail will not be able to be hidden from them …

“Great afflictions, persecutions and calumnies await this convent so dear to God and our Blessed Mother, which will refine the fervent and faithful souls, and will expel the tepid, since they are unworthy of receiving these valuable gifts …”

[23] This last sentence has been added from Vida Admirable de la Madre Mariana, vol. 3, p. 28.

[24] This sentence has been completed from Vida Admirable de la Madre Mariana, vol. 3, p. 31.

[25] This need not be the majority of Communities, but it would seem that some traditional communities will exist at this time that will follow their Rule with great fidelity.

[26] Archbishop Marcel Lefebvre referred to this prophecy during his sermon when consecrating four bishops on June 30, 1988, as follows: “Just recently, the priest who takes care of the Society priory in Bogota, Colombia, brought me a book concerning the apparition of Our Lady of Buen Suceso,—of ‘Good Success’—to whom a large church in Quito, Ecuador, was dedicated. They [the prophetic words of Our Lady] were received by a nun shortly after the Council of Trent, so you see, quite a few centuries ago. This apparition is thoroughly recognized by Rome and the ecclesiastical authorities; a magnificent church was built for the Blessed Virgin Mary wherein the faithful of Ecuador venerate with great devotion a statue of Our Lady, whose face was made miraculously. The artist was in the process of painting it when he found the face of the Holy Virgin miraculously formed. And Our Lady prophesied for the twentieth century, saying explicitly that during the nineteenth century and most of the twentieth century, errors would become more and more widespread in Holy Church, placing the Church in a catastrophic situation. Morals would become corrupt and the Faith would disappear. It seems impossible not to see it happening today.
“I excuse myself for continuing this account of the apparition, but she speaks of a prelate who will absolutely oppose this wave of apostasy and impiety—saving the priesthood by forming good priests. I do not say that prophecy refers to me. You may draw your own conclusions. I was stupefied when reading these lines but I cannot deny them, since they are recorded and deposited in the archives of this apparition.”

[27] Matthew 11:30. Omitted wording supplied from Vida Admirable de la Madre Mariana, vol. 3, p. 32.

司祭研修会 2020年

2020年02月24日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

こんにちは!先々週と先週とには、マニラでは、聖ピオ十世会アジア管区の司祭たちの集まりがありました。特に、先週は、アジア管区の修道院長たちが集まりました。とても有益な時を過ごすことができ、天主様に感謝いたします。

ブログの更新は、上手くできませんでした。愛する兄弟姉妹の皆様の変わらない愛読と応援を感謝いたします。






















トリエント公会議による公教要理の「主祷文」についての解説:第4の願い 我らの日用の糧を今日我らに与え給え

2020年02月18日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

トリエント公会議による公教要理の「主祷文」について
第12章 主祷文 天に在す我らの父よ
第1の願い「願わくは御名の尊まれんことを」
また
第2の願い「御国の来たらんことを」
さらに
第3の願い「御旨の天に行われる如く、地にもおこなわれんことを」
を既にご紹介いたしました。

今日は、
第4の願い 我らの日用の糧を今日我らに与え給え
についての箇所の説明(本邦初の日本語訳)をご紹介します。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

第4の願い 我らの日用の糧を今日我らに与え給え


117. 主祷文における第4の願い、およびそれ以降の願いは、霊魂と身体の助力(たすけ)となる種々の事物を個別に願うものですが、最初の3つの願いと密接につながっています。実に、主祷文の祈りは、まず天主に関わることを願った後に、身体および現世の生活を維持するために必要な物事を願うように構成され、秩序立っているからです。

118. なぜなら、人々は皆天主に対して、自らの究極目的として向かうべきであると同様に、まさにこの同じ道理に即して、人間の生活の諸善は、天の諸善へと、その目的として秩序づけられねばならないからです。したがって、私たちは当の善を、天主のお定めになるところがこれを求めるかぎりにおいて、あるいはこれらの善が、神的善を得るための手段となるかぎりにおいてのみ、当の善を望み、願うのでなければなりません。つまり、これらの善をとおして、天主が私たちにお定めになった目的、すなわち天主の御旨の表明に他ならぬ諸々の掟の遵守をとおして天の御父の統治と栄光を実現する、という目的に達し得るがためにこそ、これらを祈り求めるべきなのです。したがって、この祈願の意味し、包含するところの全ては、天主とその栄光とに向けられねばなりません。

§I. いかに現世の事物を願い求めるべきか
119. したがって司牧者は、信徒が現世的事物の使用ないしは享受に関することを願う際、自らの心と願望とを天主の掟に向け、それからいささかも逸(そ)れることのないよう留意すべきことを諭(さと)す必要があります。なぜなら、使徒パウロが「私たちは何を願うべきであるかを知らない1」という言葉をもって示す過ちを私たちが犯すのは、専(もっぱ)らはかない現世の事物を願う際であるからです。ですからこの種の利善を願う際は、天主から「あなたたちは自分が何を願っているかを知らない2」というお咎(とが)めを受けることのないよう、しかるべくこれを祈り求めねばなりません。

120. しかるに、祈り願う者の意向と思惑とが正しいものであるか否かを見分けるための確かな印があります。すなわち、もし誰かが、この世の利善を真の善と見なし、かつあたかも究極の目的としてこれを享受するために願い、それ以上何も加えて求めないならば、当の人がしかるべく祈る者でないことは明白です。なぜなら聖アウグスチノが述べるように3、私たちは現世の事物を私たちにとっての善としてではなく、単に必要な物として願い求めるべきだからです。使徒パウロはコリント人への書簡において、生活上の必要に関すること一切は、天主の栄光に方向付けるべきであることを説いて、「あなたたちは、食べるにせよ、飲むにせよ、全てを天主の御栄えのために為すように4」と記しています。

121. この祈願をなすことがいかに必要であるかを信徒がよく理解するように、司牧者は、私たち人間が糧を得、生活を営むために外的事物をどれほど必要とするものであるかを思い起こさねばなりません。そのために、人祖が生活のために要した物と、他の一切の人間が必要としてきた物とを比較することが肝要です。

122. たしかに人祖が、罪を犯して自らおよびその全ての末裔(まつえい)をそこから離し落としてしまう前に享受していた、とかの輝かしい潔白の状態においても、食物を摂って体を養うことが必要だったとは言え、人祖の生活に必要だった物と、私たちが生活を営むために要する物との間には、きわめて大きな差異があります。事実、人祖は己おのが身を覆うための衣服も、夜露をしのぐための家屋も、身を守るための武具も、健康を保つための医薬品、および私たちのはかなく弱い人間本性を守るために必要なその他多くの物を要しませんでした。人祖が不朽の生命を得るためには、生命の木が、彼自身ないしはその子孫の働きを介することなくもたらしてくれる実を食べることで充分であるはずでした。

123. とは言え、楽園のかくも大きな悦楽の中にあった人祖は、怠惰な生活を送るべきではありませんでした。天主は彼を、働くために当の楽園に置かれたからです。しかるに[もし罪を犯さなかったならば、]人祖にとって、いかなる労働も辛いものではなく、いかなる務めもおっくうなものでなく、却って幸福に満ちた庭園の栽培をとおして、無上に甘美な果実をたゆることなく得ていたことでしょう。また、彼の希望と仕事は、けっして期待を欺あざむくことがなかったはずです。

124. しかし彼の末裔は、生命の木の実を得る可能性を奪われたのみならず、かの恐るべき宣告を受けるはめとなったのです。「地は汝のゆえに呪われよ!汝は苦労して[地から]糧を得るであろう、命の続くかぎり。地は汝のために、茨とあざみを生やし、汝は野の草を食べねばならない。額に汗して汝は糧を得るであろう、土に帰るまで。汝は土から取られたものだから。汝は塵ちりであり、塵に帰らねばならない。」5

125. したがって、もしアダムが天主の戒律に忠実であったなら、彼とその子孫にとって万事は甚だ異なったものとなっていたでしょう。しかるに、万事は最悪の事態へと成り果ててしまったのです。分けても重大なのは、巨額の出費をし、汗水たらして労苦した後、何の実りも得ないということが往々にしてある、という事実です。すなわちせっかく蒔まいた種が悪い土壌のため、または後から生えてくる雑草に阻まれて育たず、あるいは雨風、あられ、猛暑、害虫によって打ち倒され、かくして一年間の労苦が、自然の災厄のために、わずかな時間の中に無に帰してしまうということですが、これは私たち人間の甚だ大きな罪悪のために他なりません。かかる罪のゆえにこそ、天主は私たちからいわば御顔をそらされ、私たちの労働にあえて祝福を与えるのをお控えになるのです。こうして天主が人祖の教皇の後に下された判決の言葉が成就するのです。6

126. したがって司牧者はこの論点をとり扱うにあたり、人間がこの種の悲境、惨苦に見舞われるようになったのは自らの罪のゆえに他ならぬこと、また、かくして生活に必要なものを得るために身を粉にして働くべきである一方、もし天主が当の働きを祝福してくださらなかったならば一切の希望はむなしく、凡ての努力は徒労と化してしまうことを信徒が悟るよう、図らねばなりません。なぜなら植える者も水を注ぐ者も取るに足らず、ただ尊いのは、それに成長をお与えになる天主のみだからです。7実に、もし天主が家をお建てにならなければ、それを建てるために働く者の働きは虚しいのです。8
127. かくして司牧者は、それなしには生きることも及ばないか、さもなくばきわめて難渋な生活を送ることを余儀なくされるようなものが実に数多くあることを信徒に思い起こさせるべきです。かかる必要と自らの本性の弱さとを省みて、信徒は天の父の御許に馳せ寄り、地上的ならびに天的な諸々の利善を切に請い願うよう促されるものだからです。
こうして彼らは、遠い異郷の地で必要な物に欠き始め、飢える我が身に粗末な食べ物さえも与えてくれる人のないことを見て、我に返り、己に降りかかる災厄から救ってくれるのは実の父親に他ならぬことを悟った放蕩息子に倣うこととなります。

128. しかるに信徒が天主の仁慈を省みて、当の御父がたゆまずその子らの声に耳を傾けておられることを思い起こすならば、より一層の信頼をもって祈りに臨むこととなります。なぜなら、日々の糧を願うようお促しになる天主は、ふさわしく祈り求める者らに豊かにこれをお与えになることをお約束になるからです。またどのように願うべきかをお教えになることをとおして、ご自分に願うことをお促しになり、お促しになることをとおして私たちを駆り立てられ、駆り立てられることをとおして[私たちが願うものをお与えになることを]お約束になり、お約束になることをとおして、当の願いが確実に聞き入れられる希望を私たちの心に育まれます。

129. かくして信徒の心に強い熱意を駆り立てた後、司牧者は次ぎに、「我らの日用の糧を与え給え」というこの祈願によって願うところのものを説明しなければなりませんが、そのためにまず、私たちが求める「糧」とは何であるかを解説する必要があります。

§II. 我らの日用の糧
130. しかるに、聖書中、この「糧」という言葉は多くの意味を有するとは言え、特に2つの意味で用いられることを知るべきです。すなわち第一に食物および身体の生命を維持するために用いるその他の物、第二に私たちの精神と霊魂の生命ならびに救霊のために天主がお恵みくださるもの全てを指します。

131. 教父らが権威をもって教えているところにしたがえば、この祈願をとおして私たちは、この地上での生活に必要なものを願い求めます。

132. したがって、キリスト者が天主にこの世の地上的利善を求めることは許されない、と言い張る者らの声に耳を傾けてはなりません。事実、この誤謬の誤りを明かすために、教父らの一致した教えのみならず、旧約、新約の聖書中に見られる数多(あまた)の事例を挙げることができます。例えばヤコブは誓いを立てて、こう祈っています。「天主が私と共にいて、私のこの旅を守り、食べ物と着物とをくださり、私が無事に父の家に帰ることができたら、主を我が天主とします。私が立石
たていしとして立てたこの石は、天主の家となり、主が私にくださる全ての物の十分の一を納めましょう。9」サロモンもまた、「私に貧しさも、富も与えてくださるな。ただ、私が生きるのに必要なだけのものをお与えください10」と祈って、この世の生活に必要な助けを願ったのです。
さらには人類の救い主もが、次のように述べて、身体の生命に関することを願うようお命じになったことを、誰が疑い得るでしょうか。すなわち、「あなたたちの逃避が冬、あるいは安息日に起こらないよう祈れ11」と。また使徒ヤコボもこう記しています。「あなたたちの中に苦しんでいる人が在るなら、その人は祈れ。喜んでいる人がいるなら、その人は賛美を歌え。12」使徒パウロも同様に、ローマ人に宛ててこう著しています。「兄弟たちよ、主イエズス・キリストによって、また聖霊の愛によって、私がユダヤにいる不信仰者から逃れることができるよう、天主に祈るよう、あなたたちに願う。13」

133. したがって、天主が信徒に現世的利善を求めることをお許しになり、また主キリストが私たちに残されたこの祈りは完全なものであるため、当の祈りを構成する7つの祈願の中、1つがこの種の利善に当てられるということに疑問の余地はありません。

134. さて私たちは「日用の糧(パン)14」、すなわち生きるために必要なものを願うのですが、この「糧(パン)」という言葉の中に体を覆うための衣服、ならびにパンのみならず、肉、魚およびその他一切の食物が含まれます。預言者エリシャがイスラエルの王に、アッシリアの兵士らにパンを与えるよう促した際15も、この広い意味で「パン」という言葉を用いたのです。事実、当の兵士らには、この要請に応じてありとあらゆる種類の食物が与えられたからです。同様のことが、福音書の次のくだりにも当てはまります。「ある安息日のこと、イエズスはパンを食する、ために、ある著名なファリサイ人の一人の家にお入りになった。16」ここで言う「パン」が、飲食物一般を指していることは自明の理です。

135. しかるに、「我らの日用の糧を与え給え」というこの祈願の意味を正しく理解するために、ここで言う「糧」が山と盛られたごちそうや、豊富にそろった衣服を指すのではなく、あくまで必要なだけの簡素な食物、衣類を意味するものであることを把握しなければなりません。使徒パウロが言っているように、私たちは「食べる物と着る物とがあれば、それで満足すべき17」なのであり、先に引用したサロモン王のように、「ただ、私が生きるのに必要なだけのものをお与えください18」と祈るべきなのです。

136. 同祈願中に含まれる「我らの」という言葉も、このように質素な物で満足し、節度を守るよう私たちを促すものです。なぜなら、「我らの糧」をと唱える際、贅沢(ぜいたく)に生きるための糧ではなしに、私たちに必要なだけの糧を求めることになるからです。すなわち、「我らの糧」と唱えるのは、天主の助力なしに私たちの努力だけでこれを得ることができるからではなく、(このことはダビドが詩篇で次のように詠うたって示していところです。すなわち、「かれらは皆、御身がかれらに時が来れば糧をお与えになるのを待っている。御身はかれらにお与えになり、かれらはそれを拾い集める。御身が御手を開けば、かれらは良い物に満たされる19」のであり、また「すべてのものの目が御身に希望をかけ、時が来れば御身はそのすべてに糧をお与えになる20」のです。)却って、これが私たちにとって必要なものだからであり、また万物の造り主であり、全ての生き物を養われる天主から与えられるからです。

137. 「我らの糧」と唱えるのは、当の糧が、詐欺や盗みをはじめとした不正行為によってではなく、正当な手段で得るべきものであるからでもあります。邪よこしまな術策によって得る物は、私たちの物ではなく、他人の物だからです。また、これら不正な仕方で求められる事物の獲得、保持および喪失は、往々にして大きな不幸を伴います。反対に、義人がまっとうに労苦して得る儲けは、預言者ダビドが、「あなたは労苦の実を食べ、繁栄と幸福を受ける21」と述べて表しているように、心の平安と大きな幸福感をもたらします。

138. 事実、まっとうに働いて糧を得ようとする者たちに、仁慈なる天主は、よい実りをお約束になります。第二法の書に、「主があなたの穀倉とあなたの手の働き全てに祝福をくだし、またあなた自身をも祝福されます22」とあるとおりです。

139. また、私たちは、私たちが自らの汗と労苦によって、主の憐れみ深い助力に支えられて得たもの―これこそ私たちのものと呼び得るものですが―を用いることができることだけでなく、こうして正当にかち得たものを、ふさわしい心構えをもって正しく賢明に用いることができるよう天主に願うのです。

140. 「日用の」という言葉には、先に述べたように、節度と質素さの概念が含まれています。なぜならこの祈りをとおして、私たちは大量の美味極まる食物ではなく、かえって自然本性の必要を満たすのに充分なだけの糧を求めるからです。これに反して、ありきたりの食物に嫌気がさし、凝こりに凝った特上の飲食物を求めてやまぬ者たちは、深く恥じ入るべきです。

141. 預言者イザヤが、次の恐るべき脅しの言葉をもって弾劾する者たちも、同様にこの「日用の」という言葉が指すところに悖もとっています。「土地を独り占めにし、家に家を足し、畑に畑を加える汝らに災いあれ。汝らは、地に独り住むことを臨むのか?23」この類の者たちの強欲は納まることを知らず、「金を好むものは、どれほど金を集めても飽き足らない24」というサロモンの格言、また「富を求める者らは、誘いと悪魔の罠に陥る25」という使徒パウロの警句は、まさに彼らに当てはまります。

142. しかるに「日用の糧」と私たちが呼ぶのは、毎日、身体活動によって消耗する熱量(カロリー)を補充するにたるだけの食物に他なりません。

143. 最後に、この「日用の」という言葉が主祷文に含まれているのは、私たちが当の糧を、天主を愛し、拝む習慣を常に保つために、又私たちの生命と救霊は天主に依存するという真理を深く心に刻むために、日々欠かさず祈り求めるべきだからです。


§III. 今日我らに与え給え
144. 「我らに」「与え給え」というこの2つの言葉に、信徒らをして、御手の内に全てを含む天主の無限の権能を敬虔かつ聖きよい心をもって崇め尊び、同時に、「私には万事が委ねられ、私の望む者にこれを与えるのだ26」という、サタンの不敬きわまる欺瞞(ぎまん)を忌み嫌うよう促す材料がどれほど含まれていることでしょうか。事実、ただ天主の思し召しによってのみ万物が配分され、保全され、育まれるのだからです。

145. しかるに、ありとあらゆる物に恵まれた金持ちに、日々の糧を願う義務が果たして課されるのかと、問う人があるかも知れません。たしかに富む者たちは、天主の仁慈によって彼らが豊かに持っている諸々の物が、自らに与えられるように祈る必要を有しませんが、これを失わないよう祈る必要があります。このようにして彼らは、「高ぶることなく、不確かな富にではなく、私たちに用いさせるために、全てを豊かにお与えになる天主にこそ望みを置く27」よう説く使徒パウロの教えにしたがって生きることを学ぶのです。聖ヨハネ・クリゾストモは、当の祈願を為すもう一つの理由として、私たちはただ糧が与えられることのみならず、これが当の糧に健康的で有益な効能を付加される天主の御手をとおして与えられ、かくしてこの糧が身体の益となり、かつ身体が霊魂に従うよう願うべきであることを挙げています。

146. しかるに、私たちはどうして「我に与え給え」と言わず、却って「我らに与え給え」と複数形で祈るのでしょうか。それは、各人が、自分のことに気を配るだけでなく、隣人のことにも留意し、自らの利害について思いめぐらす際、他人のことをも配慮することがキリスト教愛徳に固有の則のりだからです。また、ある人に、特定の賜が天主から与えられるのは、当人が単独でこれを保有するためでも、これを用いて贅沢(ぜいたく)に暮らすためでもなく、却って自分の必要を満たした上で余るものを他の人々に分かち与えるためなのです。実に聖バジリオ28と聖アンブロジオが述べているように、「あなたが手放そうとしないパンは、飢える者たちのパンであり、あなたがしまい込む衣服は、着る物のない者たちの衣服であり、あなたが地に埋めるお金は、貧者を買い戻し、解放するための資金なのです。29」

147. 「今日」
この言葉は、私たち人間に皆共通の弱さに言及するものです。なんとなれば、たとえ自分一人の力で長い期間にわたって生活に必要なものをかち得ることはできないにしても、今日一日に要るだけの物なら自力で都合できると誰が思わないでしょうか。しかるに毎日の糧を願うようお命じになった天主は、わずかこれだけのことについても自負を抱くことをお許しにならないのです。

148. このことの理由は、私たちは皆、毎日の糧を必要とするため、同じく毎日、主祷文を各自唱えるべきであるという事実に存します。
以上、身体を養い支える物質的な糧(パン)について述べましたが、「悪人の上にも善人の上にも陽を昇らせ、義人にも不義の人にも雨をお降らせになる30」天主は、感嘆すべき仁慈の心により、当の糧を信徒にも不信仰者にも、敬虔な者にも不敬虔な者にもお与えになります。

§IV. 霊的な糧

149. 次に、当の祈願において同時に願う霊的な糧について述べなければなりません。この糧には、地上での生活において霊魂の救いと無事安寧とに必要な全てのものを含みます。身体を養い保つために多様な食物が必要であるように、同様に霊魂および精神の生命を維持するための糧も一種にかぎらず、多彩を極めます。事実、天主の御み言葉は霊魂の糧となりますが、これは天主の知恵が、「来て私のパンを食べよ。また私があなたのためにととのえたぶどう酒を飲め31」と述べて表していることに他なりません。

150. しかるに天主が御言葉のもたらす効益を人々のもとから除かれるとき―天主がこのように為されるのは、私たちの罪によって著しく侮辱を受けられたときなのでありますが―、人類を飢えで懲らしめられると言うのです。アモスの書の次の章句は、このことの端緒な例です。「その日、私は地に飢えを送る。パンの飢えではなく、水の乾きでもなく、主の御言葉を聞こうと望む餓かつえである。32」

151. さて、人が食物をもはや摂ることができないか、あるいは摂った食物を受けつけない場合、これは死が間近に迫った印となります。同様に、ある人々が天主の御言葉を請い求めないか、又はこれを耳にしたとき、受けつけず、却って「私たちのもとから離れよ。私たちはあなたの道を知りたくない33」、という不敬きわまりない言葉を天主に対して放つなら、彼らの救霊が絶望的であることを暗示する印であると言えます。

152. しかるにカトリックの正当な権威者、すなわち司教、司祭を軽んじ、さらにローマ教会から離反したあげく、天主の御言葉を歪める異端者に追従する者たちは、まさにかかる心の迷妄、精神の盲目に陥っているのです。

153. さて、主キリストこそは霊魂の糧なのですが、これは主ご自身が、「私は天から降った生けるパンである34」と仰せになって示しておられることです。
この「パン」が敬虔な信者の心を、とりわけ彼らがこの世の生活に伴う艱難、苦渋において、どれほどの満足と喜びをもって満たすものであるかは、およそ想像し難いことです。主の御名を告げ知らせたために鞭打たれた後、「喜びにあふれて衆議所を去った35」使徒らの例はこれを如実に示すものですが、聖人伝をひもとけば、この種の例は枚挙にいとまがありません。また天主ご自身も、義人の味わうこの種のいたって内的な喜びを指して、「私は勝つ者にマンナを与える36」と述べておられます。
154. しかるにご聖体の秘蹟の中うちに実体的に現存される主キリストご自身は、特別な意味で私たちの糧であります。御父の御許に戻られる前に、主は「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、私におり、私もまたその人の中うちにある37」、「とって食べなさい。これは私の体である38」と仰せられて、ご自分の愛の名状しがたい証あかしを私たちにお与えになりました。
司牧者は信徒にとって有益な事柄を、この秘蹟の効力と本質について別個に取り扱った箇所39で見出すことができます。

155. しかるにこの糧が「我らの」ものと呼ばれるのは、信者、すなわち信仰に愛徳を伴わせ、罪の汚れを悔悛の秘蹟によって洗い清める者たちに固有な糧だからです。彼らのみが、自らが天主の子らであることを忘れず、この神的な秘蹟をこの上なく聖きよい心で深い崇敬をもって拝領し、礼拝するからです40。

156. それでは、どのような意味でこの糧は私たちの「日用の糧」であるのでしょうか。それはまず第一に、カトリック教会の神聖な祭儀において御聖体は毎日天主に捧げられ、これを敬虔かつ聖きよい心で求める者たちに与えられるからです。第二に、私たちは毎日この糧を摂る、ないしは少なくとも、もし可能であればこれを毎日摂るに値する仕方で生きるべきだからです。
反対に、長い期間を空けてでなければ、このしごく有益な糧を摂るべきでないと唱える者たちは、聖アンブロジオの言葉に耳を傾けるべきです。「もしこれが日用の糧であるならば、どうしてこれを一年後に食べようとするのか41」. . . 。
157. しかるにこの祈願を説明するにあたって、信徒に特に言い聞かせるべきことは、生活に必要な事物を得るために知恵と努力をしかるべく傾注した後、その結果を天主にお委ねし、自らの望みをその御旨に合わせる必要があるということです。天主は「義人が永久(とわ)に揺るがされることをお許しにならない42」からです。なぜなら、もし天主が願う物をお与えになるなら、彼らの望みは叶かなえられるのであり、あるいはもし天主がこれをお与えにならないならば、義人に拒まれる当の物が彼らにとって有益な物ではないことのきわめて確かな印となります。実際、天主は彼らの救済について当人自身よりも、より深くご配慮されるからです。司牧者はこの点を解き明かすにあたって、聖アウグスチヌスがプロバに宛てた有名な書簡中で挙げている諸々の理由を引くことができます。

158. この祈願の説明を終えるにあたって、富む者らが、自分たちの富、財産を、これを天主から受けたものであることを謙虚に認め、またそれが自らに与えられたのは、貧しい者たちに分かち与えるためであることを思い起こさせねばなりません。この真理を説くにあたり、使徒パウロがティモテへの前の手紙で述べていること43を引き合いに出すのが適切です。司牧者は、当の章句に含まれる神的戒律の中に、この点を解説するためにきわめて有益な材料を見出すことができます。

1 ローマ人への手紙 8章26節
2 マタイ 20章22節
3 Lib.2 de serm. Dom. in monte cap.16. / Epist.121
4 コリント人への手紙前 10章31節
5 創世記 3章27節以下
6 創世記 3章
7 コリント人への手紙前 3章7節
8 詩編126 1節
9 創世記 28章20~22節
10 格言の書 30章8節
11 マタイ 24章20節
12 ヤコボの手紙 5章13節
13 ローマ人への手紙 15章30節
14 聖書および当公教要理の原文では「日用のパン」。
15 列王記上 6章22節
16 ルカ 14章1節
17 ティモテへの前の手紙 6章8節
18 格言の書 30章8節
19 詩編 103 27-28節
20 詩編 144 15節
21 詩編 127 2節
22 第二法の書 28章8節
23 イザヤ書 5章8節
24 伝道の書 5章9節
25 ティモテへの前の手紙 6章9節
26 ルカ 4章6節
27 ティモテへの前の手紙 6章17節
28 Homil. 14 oper. imperf. in Matth.
29 Homil. 6 variorum arg.
30 マタイ 5章45節
31 格言の書 9章5節
32 アモスの書 8章11節
33 ヨブの書 21章14節
34 ヨハネ 6章41節
35 使徒行録 5章41節
36 黙示録 2章17節
37 ヨハネ 6章57節
38 マタイ 26章26節
39 ローマ公教要理 第2部秘蹟に関する部第4章「聖体の秘蹟について」
40 Tertul. lib. de or. Cypr. item. de or. Aug. et alii 参照
41 Lib. 5 de Sac. cap,4 および De consec. dist.2 参照
42 詩編54 23節
43 ティモテへの前の手紙 6章17節


トリエント公会議による公教要理 主祷文 天に在す我らの父よ 第1の願い「願わくは御名の尊まれんことを」の意味について(1-50)

トリエント公会議による公教要理第四部「主祷文」の「御国の来たらんことを」の箇所の説明(本邦初の日本語訳)をご紹介します(51-81)

トリエント公会議による公教要理の「主祷文」についての解説:第3の願い「御旨の天に行われる如く、地にもおこなわれんことを」(82-116)

トリエント公会議による公教要理 祈りについて 「よく祈るために必要な心の状態」 (聖ピオ十世会訳)




「カトリック信者への回心の呼びかけ」:ピーター・フォルティン神父様 2020年の六旬節の主日の説教

2020年02月17日 | お説教・霊的講話
六旬節の主日の説教
聖ピオ十世会司祭 ピーター・フォルティン神父

愛する信者の皆さん、
私たちは、聖なる祝日である復活祭の準備に入ります。今の時期は、4月にあるこの最も聖なる祝日のための、はるか前から行う準備の期間と考えることができるでしょう。はるか前ということは、ずっと前もって、ということです。私たちには時間がありますし、おそらく多くの時間があるとさえ言えるでしょう。準備できる期間が長ければ長いほど、その祝日はさらに特別になり、さらに意義深いものになるのです。教会は私たちに、キリストを見つめ、また自分自身を見つめるよう望んでいるのです。それは、私たちの主と、主が私たちに望んでおられることに焦点を当てることです。私たちがあわれで弱い自分自身を見つめ、それを変えて、回心するよう、キリストが常に私たちに呼びかけておられることを私たちが理解することを教会は求めています。これは、私たちの受けた恩寵を私たちの生活にさらに十分に適用させ、私たちを聖徳へと向けさせ、私たちの罪深い習慣から私たちを離れさせるためです。これを行うには、三つのことが必要です。第一は自分について深く考えること、第二は私たちの置かれた状況をよく理解すること、第三は天主に対してこれまで以上に完全に回心すること、これら三つのことです。

第一に、自分について深く考えることです。これは基本的には、まったく正直に自分を見つめることです。あたかも天主が私たちをご覧になるかのようにです。私たちが見てほしいようにではありません。同じ罪を避けるためには、自分自身の罪深さを注意深く振り返ることが必要です。たとえどんなに小さい罪であっても、罪を犯しても大丈夫ではない、ということを覚えておくのは良いことです。あらゆる罪は、どんな重さであっても、より大きな罪につながり、最終的に行きつくのは地獄です。私たちは、自分について深く考えるために、常によき良心の糾明を行うべきです。もし自分を見つめても、余り大きく変える必要がないと思ったり、あるいは自分が聖徳に欠けたところや自分自身の罪深さを認識したりしないのであれば、それは救いにとっての深刻な障害となります。

第二に、私たちの状況を理解するためには、私たちがそうありたいとか、そういう振りをしているとかいうのではなく、私たちのおおよその本当の姿において、自分自身を見つめることです。私たちの死の時には、私たちの主イエズス・キリストとの関係において、私たちの隣人との関係において、私たちがどのような人間であるのかということを本当に理解することになるでしょう。でも、そのときでは遅すぎるのです。

この私たちの状況の理解というポイントの説明として、聖ヨハネ・ボスコの生涯から、一つの夢についてお話ししたいと思います。一週間余り前、私たちは、特に若者たちの世話をした司祭証聖者である聖ヨハネ・ボスコの祝日をお祝いしました。彼は一生の間に多くの夢を見ました。しかしそれらの夢は、むしろ霊的な現実を示す幻視のようなものです。それは、聖徳がいかに美しく、天主をお喜ばせするものであるかや、悪徳が危険であることを示すのです。彼は、自分の世話のもとにある人々の霊魂を実際に目の当たりにして、彼らが地獄へ至る前に、彼らに自分自身の罪深い状態を悟らせることができる、という恩寵を受けていました。

彼の夢の一つを簡単にお話ししましょう。彼の夢のうちでも少しよく知られているものです。この夢は「悪魔の象」と呼ばれています。彼の話はすべて少年たちに関係するものですが、実は誰にでも当てはまるものです。興味深いことに、この夢に出てくるのは、いつも教会に行き、秘蹟を受けている人たちで、さらには聖なる司祭ドン・ボスコも彼らとともにいたのです。でも、現実を理解するならば、多くの人は非常に偽善的だということです。まことのカトリック精神を持っていないということです。おそらく、多くの敬虔な行いはするものの、実際には愛徳に欠けているのです。彼らを見ると教会でミサに参列しているのですが、そのあとはどうでしょうか? 隣人を攻撃し、恨みを抱き、悪口を言い、中傷し、そのほかのあらゆる種類の悪徳に陥っているのです。ヨハネ・ボスコの夢はほとんどが若者に関するものですが、若者の養育に責任がある人もその他誰でも、そこから霊的な実を引き出すことができるのです。

その夢はこのように始まります。聖ヨハネ・ボスコは、気付くと教会の中庭にいるのですが、その中庭には象がいて、少年たちの多くがその象と一緒に遊んでいるのを見て驚きます。象は子どもたちと大変楽しく遊んでいました。子どもたちは、象と一緒にすてきな時間を過ごしていました。象はやさしく子どもたちをつついていました。

この聖ヨハネ・ボスコの夢では、鐘が鳴ると少年たちは聖体降福式のために教会の中に入りました。聖ヨハネ・ボスコが聖体降福式を行っていると、少年たちがみな参列するために教会の中に入って来たこと、そして教会の後ろの方に象がいることに気づきました。彼が見ていると、象は教会の後ろでぎこちなくしており、ご聖体の顕示のときには、ご聖体に背を向けて外向けにひざまずいていました。

夢の中での聖体降福式が終わったあと、聖ヨハネ・ボスコは、多くの美しい聖書の言葉が書かれたマントを身に着けられた祝せられし童貞の姿を見ました。そのとき、突然、象が少年たちを攻撃し始めたのです。象は少年たちを投げ飛ばして地面にたたきつけ、踏みつぶし始め、少年たちにひどい怪我を負わせました。また象のそばにはつるぎと武器を持った悪い少年たちがおり、彼らは他の若者たちのところへ行って彼らを襲っていました。そこにおられた聖母は少年たちに象から離れているようにお願いなさいましたが、多くの者たちは聖母の言葉を聞き入れませんでした。聖母は必死に少年たちに呼びかけようとなさいましたが、多くの者たちは聖母の言葉を聞き入れず、やっとしばらくたって、いくらかの者がそれを聞き入れたのでした。

最後に、象は立ち上がって、黒くて恐ろしい獣に姿を変え、そして、つるぎを持って戦っていた少年たちと一緒に黒い雲のようなけむりの中に消えていきました。聖母は残された少年たちに語り掛けて、こう言われました。「あなたたちは私の呼びかけを聞き入れたので、悪魔があなたたちの仲間に行った虐殺から救われたのです。あなたたちの破滅の原因が何なのか知りたいですか? 無礼な言葉と無礼な行いです」。象はこれらの罪を表していたのです。このような夢あるいは幻視によって、聖ヨハネ・ボスコは自分が世話をしている少年たちの霊魂の霊的状態を生々しく見るのです。それは、手遅れにならないうちに少年たちが変わるようにするためです。


第三にして最後の段階は、回心です。使徒行録には、聖パウロの人生における回心の美しい例があります。積極的に教会を迫害していた彼が馬から投げ出されたとき、私たちの主が聖パウロに話しかけられ、聖パウロが天主であるご自分を迫害していると言われました。聖パウロはこれを理解し、そして完全に回心し、労働と苦しみのゆえに「使徒」と(呼ばれるように)なります。

ですから、私たちがすべきことは、自分自身について深く考え、自分自身を本当にありのままに見て、そして回心することです。私たちの罪深い習慣や悪しき執着から離れて、私たちの主へとさらに完全に回心することです。そのとき私たちは、私たちの霊魂に差し迫って必要なひとつのことに注目すべきです。とりわけそれは天主の恩寵を私たちから奪うかもしれないことです。私たちは、私たちに欠けている聖徳を獲得する計画を立てなければなりません。その聖徳が、今年の復活祭に向けて、私たちの霊魂にさらなる利益をもたらすようにするためです。私たちは、回心というチャンスを得るために、いったい何回の復活祭が必要だというのでしょうか?

クレルヴォーの聖ベルナルドは、回心についてこう書いています。「恐れも自分の利益も、霊魂を回心させることはできない。その二つは見かけを、おそらくは品行さえも変えることができるかもしれないが、究極の望みの対象を変えることは決してできない。・・・恐れは、奴隷を強制する動機である。貪欲が自己中心な人を縛るのであり、彼が貪欲によって誘惑にかられるのは、彼が自分の中の欲望に引かれ、いざなわれるときである(ヤコボ1章14節)。しかし、恐れも自分の利益も純粋なものではなく、霊魂を回心させることはできない。愛徳だけが霊魂を回心させ、霊魂をふさわしくない動機から自由にするのである」―クレルヴォーの聖ベルナルド

【英語原文】
Sermon for Sexagesima Sunday
Fr Peter Fortin, FSSPX

Dear faithful,
We come upon a preparation for the Holy Feast of Easter. We can view this time as a remote preparation for this most Holy Feast, in April. Remote meaning far in advance. We have time and perhaps even a lot of time. The longer the preparation that is allowed then the more special is the feast and more meaningful. The Church wants us to look at Christ and to look at ourselves. To focus on our Lord and what He wants for us. The church wants us to realize that Christ is constantly calling us to look at our poor and weak selves to change to convert. That is to apply the graces received more fully to our lives and to turn towards virtue, to turn away from our sinful habits. For this there are three things, 1st consideration of self, 2nd realization of our condition and 3rd conversion more fully to God, these three things.

First, for the consideration of self. It’s basically to look at ourselves in all honesty. As God more or less would behold us. Not as we would like to be seen as. It requires our attention to look back and to realize our sinful self in order to avoid the same sin. It’s good to remember that no sin, no matter how small, is alright. All sin no matter the gravity leads to larger sins and the final place is Hell. We should be consistently making good examinations of our consciences in order to consider ourselves. If one looks at oneself and sees that there is not much change necessary or does not recognize their lack of virtue, or sinful self. Then this is a serious determent to salvation.

Second, for realization, it is to see ourselves, more or less as we truly are and not as we would like to be or pretend to be. At the time of our death there will be the true realization of what we are like in relation to Our Lord Jesus Christ, in relation with our neighbors. Then it’s too late.

To illustrate the point of realization I will relate a dream from the life of St. John Bosco. Just over a week ago we had the feast of St. John Bosco, priest and confessor who cared especially for the youth. During his life he had many dreams. But these are more like visions to show a spiritual reality. To show how beautiful a virtue is and how pleasing to God or the dangers of a vice. He received the grace to really look at the souls of those under his care and to allow the persons to realize their sinful state in order to change before it leads to their damnation.

I will relate briefly one of his dreams. It is little better known than some of his other dreams. It is referred to as the “Fiendish Elephant”. All of his stories have to do with the boys but they can be applied to anyone. It’s interesting to note that it is concerning individuals who for the most part frequent the Church, holy Sacraments and they had the presence of a saintly priest, Don Bosco. And yet the realization is that many were very hypocritical. Not having a true Catholic spirit. Perhaps many pious practices but really lacking charity. They would be seen in the church, attending the Holy Mass but then what afterwards? Attack their neighbor, hold grudges, backbite, slander and fall into all other sorts of vices. The dreams are mostly about the youth, but who is responsible for the upbringing of the youth but anyone can draw spiritual fruit for them.

The dream opens like this, St. John Bosco finds himself in the courtyard of the church and is amazed to see an elephant in the courtyard and many of the boys were playing with it. The elephant was very playful with the children. They were having a grand time with it. The elephant was nudging the children in a gentle manner.

In the dream of St. John Bosco, the bell rang and the boys went inside the church for benediction. St. John Bosco was at the benediction and he noticed that all the boys had come inside to attend and there was the elephant in the back of the church. He watched the elephant, uneasily in the back of the church and when it came for the blessing he noticed that the elephant showed its back to the Holy Eucharist and was on its knees facing the outside.

After the benediction in his dream, St. John Bosco saw an image of the blessed Virgin with many beautiful quotes written on her mantle. Then without warning the elephant turned on the boys. It started to throw the boys to the ground and trample upon them crushing them and wounding them grievously. The elephant also had boys on its side with swords and weapons going and attacking the other youths. Our Lady was there pleading for the boys to stay away from elephant but many did not listen to her. She was trying frantically calling the boys but many did not listen to her and some after a while.

Finally, the elephant reared itself and turned itself into a dark and dreadful beast and then disappeared into a black cloud of smoke along with the boys who had fought with swords. Our Lady addressed the boys who were left and said “You heeded my call and were spared from the slaughter wrought by the devil on your companions. Do you want to know what caused your ruin? Foul talk and foul deeds.” The elephant represented these sins. With these dreams or visions of St. John Bosco, he sees in a vivid manner the spiritual state of the souls of the boys under his care in order that they would change before it was too late.

The third and last step is conversion. In the Acts of the Apostles, a beautiful example of conversion in the life of St. Paul. One who was actively persecuting the Church is thrown off his horse and then Our Lord addresses St. Paul and told him that he was persecuting Himself, God. St. Paul realizes this and then converts fully and becomes “The Apostle” because of his labors and sufferings.

So the task is put before to consider ourselves and to really see ourselves as we are and then to convert. To turn away from ours sinful habits, bad attachments and to convert more fully to Our Lord. We should at this time focus on the one pressing need of our soul. Especially that which might rob us of the grace of God. We must make a plan to acquire the virtue in which we are lacking so that this for the Easter of this year will be more beneficial for our souls. How many Easters do we still have to take advantage of conversion?

St. Bernard of Clairvaux writes concerning conversion: “Neither fear nor self-interest can convert the soul. They may change the appearance, perhaps even the conduct, but never the object of supreme desire... Fear is the motive which constrains the slave; greed binds the selfish man, by which he is tempted when he is drawn away by his own lust and enticed (James 1:14). But neither fear nor self-interest is undefiled, nor can they convert the soul. Only charity can convert the soul, freeing it from unworthy motives.”
― St. Bernard of Clairvaux

聖伝のミサ Traditional Latin Mass in Japan SSPX, February 2020.

2020年02月16日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

今回はフォルティン神父様が日本で聖伝のミサを捧げてくださいました。ご報告をいただきましたので、皆様にご紹介いたします。

【報告】【東京】
Dear Fr Onoda:

今日はフィリピンからピーター・フォルティン神父が来て、六旬節の主日のミサを挙げて下さいました。

今日のお説教では、今復活節の前に行う準備の期間に入っていること、そしてその準備のためには、私たちは私たちの主と、私たち自身を見つめ直す必要があり、その手順として三つのことが必要であることを教えて頂きました。

その三つとは、第一に自分の罪深さを認めること、第二に自分自身の状況をよく把握すること、そして第三にはもっと完全に回心することです。

特に、第二の自分自身の状況の理解と言う点について、聖ドン・ボスコの『悪魔の象』という夢(幻視)を通じて、私たちの霊魂の本当の状態を見ることがいかに重要であるかを説明して頂きました。

[補足]
ミサの前に、現在日本や他のアジアの国々で流行し始めている新型コロナウイルスについての下記のお知らせがありました。

(1) 日本における聖ピオ十世会のミサについては、特別の事情がない限り、今後も予定通り行われること。
(2) 政府の勧めに従って、頻繁な手洗いをして、咳エチケットを守って頂きたいこと。
(3) 体調のすぐれない方は、ミサに参列せず、家でお祈りして頂きたいこと。
(4) それでも咳の出る方は、マスクの着用等の対策を取って頂きたいこと。

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

男: 26人(内、子供6人)
女: 28人(内、子供5人)
計: 54人(内、子供11人)





聖伝のミサは今日、いつもの通り、いつもの場所で行なわれます

2020年02月16日 | 聖伝のミサの予定
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

おはようございます!

今日、2月16日は、東京のいつもの曙町会館で午前10時30分から、
大阪では、聖母の汚れなき御心聖堂(東三国)で、午後6時00分から、
聖伝のミサが捧げられます。
フォルティン神父様が執行してくださいます。

This Sunday (February 16th) there will be Holy Mass celebrated at our usual place in Tokyo.
There will be the usual 10:30am Mass in Tokyo as well as a 6pm Mass in Osaka. Thank you.
All two Masses will be Sung Masses.

In SSPX Singapore,
the Masses will be celebrated as usual.
Holy Masses will carry on as usual in the Chapel of St Pius X in Singapore.
The 10am Low Mass in Singapore will be live streamed on Facebook.






キトの教会でのマリア様の御影(ごえい)

2020年02月15日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

キトの教会でのマリア様の御影(ごえい)をご紹介いたします。





















--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】