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2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

女優エリザベス・タビシュは、マリア・マグダレナの役を演じて、キリストのもとに戻ってきたと語る

2023年02月28日 | カトリック・ニュースなど

女優エリザベス・タビシュは、マリア・マグダレナの役を演じて、キリストのもとに戻ってきたと語る

Elizabeth Tabish tells how portraying Mary Magdalen in The Chosen led her back to Christ

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

アメリカ人女優エリザベス・タビシュ(Elizabeth Tabish:36才)は、テレビで連載された The Chosen というキリストの物語で、マグダレナのマリアの役を演じました。

The Catholic Weeklyのインタビューに答えて、タビシュはマグダレナに成りきってこの役を演じることによってイエズス・キリストと近づくことができたと言っています。
The Chosen (選ばれた者)は、イエズス・キリストの公生活と宣教活動を描き、主を取り巻く人々を描いています。ただしプロテスタントによる脚本なのでカトリック教会の見解とは異なる部分があります。

しかし、マリア・マグダレナが悪魔に憑かれていて苦しんでいたところをイエズスによって癒され、それ以後、イエズスを尊敬し、深い愛をもって十字架の足元に至るまで決して主を離れなかったことを演じたエリザベス・タビシュは、自分もイエズス・キリストに対する深い尊敬と愛とを深めることになったと言います。

「イエズスの宣教を見守り、支え、十字架の死と復活の時まで主のそばにいる、ということは、あまりにも特別なことで、信じられない程のこと、押しつぶされそうなほどのことで、私はほとんどそれになりきることができませんでした。私の信仰においても、私のマリア・マグダレナとの絆においても、イエズスとそれほど親しい方の役を演じることができたと言うことは、とても感動的で、聖なる体験でした。」

カトリック信者として育ったエリザベス・タビシュは、イエズスがどなたであるか、イエズスがなにを教えたのかについて学ぶことができたと言っています。

「カトリック教会やカテドラルに入るたびに、目に涙がにじんできます。教会に入って自分の周りを見回したとき、この世界を変えた歴史上の人々全てのことを思い出しますし、深い意味の層があるからです。」

私たちもこの四旬節の間、祈りによってイエズス・キリストの近くに行くことができるように祈りましょう。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


【参考資料】【ヴィガノ大司教】国家宗教:グローバリズム・カルトに関するいくつかの考察

2023年02月28日 | カトリック・ニュースなど

【参考資料】【ヴィガノ大司教】国家宗教:グローバリズム・カルトに関するいくつかの考察

THE STATE RELIGION: Some Observations on the Globalist Cult
カルロ・マリア・ヴィガノ大司教 2023年2月17日

国家宗教
グローバリズム・カルトに関するいくつかの考察

偉大な者、小さな者、貧しい者、富む者、自由民、奴隷のすべては
右の手と額にしるしをつけさせられた。
獣の名あるいはその名の数をしるされた者の他は、
誰も売買することができぬようにするためである。
黙示録13章16-17節

米フォックス・ニュース(Fox News)の「環境主義の教会」(The Church of Environmentalism、こちら)というタイトルの興味深いインタビューの中で、ジャーナリストのタッカー・カールソンは、多くの人が気づかなかったかもしれませんが、私には極めて明快だと思える矛盾を明らかにしました。

カールソンは思い起こします。米国憲法はいかなる国家宗教も禁じているが、政権を握っている民主党は、このところ、グローバリズム・カルトを、その【カルトの】グリーンアジェンダをもって押し付け、その【カルトの】〈目覚めた〉(woke)ドグマ、その断罪を、〈キャンセル文化〉によって押し付け、その【カルトの】世界保健機関(WHO)の司祭たち、世界経済フォーラム(WEF)の預言者たちを米国民に押し付けてきた、と。それは、あらゆる点で宗教であり、その宗教を実践する個人の生活だけでなく、その宗教を公に告白し、その宗教に法律や判決を合わせ、教育やあらゆる政府の行動をその宗教を中心にして動かすという国家の生活までも、あらゆるものを含む宗教なのだ、と。

グローバリズム宗教の名のもとに、その信者たちは、すべての市民が新世界秩序(New World Order)の道徳に従って行動すること、ダボス会議という最高法院(サンヘドリン)によって〈不可謬的に〉(ex cathedra)定義された教理を、無批判に、そして宗教的権威に敬虔に服従する態度をもって、受け入れることを要求しています。

市民は、政府が押し付ける保健、経済、社会政策を正当化する動機を共有することが求められているだけでなく、信仰をはるかに超えた、盲目的で非合理的な同意を示すことが求められています。このため、サイコパンデミックに異議を唱えたり、ワクチン接種キャンペーンの運営を批判したり、気候変動警告の根拠のなさを主張したりすることは許されませんし、NATOがロシア連邦を挑発した証拠でウクライナ危機に反対したり、ハンター・バイデンのノートパソコンやトランプ大統領のホワイトハウス残留を阻んだ不正選挙について調査を求めたり、LGBTQの卑猥な言葉で子どもが堕落させられるのを黙って見るのを拒否したりすることは許されません。

理性ある心の持ち主には理解できませんが、盲目的な信仰至上主義(fideism)の観点からは十分に正当化できる愚行が3年間続いた後、米国のあるクリニックが、二酸化炭素の排出量を減らして「地球を救う」ために、患者に麻酔の一部を放棄するよう求める提案(こちら)を行いました。

そのため、その提案は、患者の不利益になる病院の経費削減のためのグロテスクな口実ではなく、一つの宗教行為、進んで受け入れるべき苦行、倫理的に価値のある行為として読み取る必要があります。悔悛的な性格は、大衆を強制的に回心させるこの作戦には不可欠です。なぜなら、約束された善という報いによって、この行為の不条理さを相殺するからです。(役に立たない)マスクをつけることで、市民つまり宗教的信奉者は、自らの服従の行為を行い、神(国家?共同体?)に自らを「捧げた」のです。この服従は、ワクチン接種という同じく公的な行為で確認され、これはグローバリズムの信仰における一種の「洗礼」、つまり礼拝への入信を表しています。

この宗教の大司祭たちは、中絶や安楽死によって人間の犠牲を理論化するまでに至っています。地球を人口過剰にしないために、公衆衛生に負担をかけないために、社会保障に負担をかけないために、共通善が要求する〈犠牲〉なのです。ジェンダーの教理を告白する人々が受ける身体切除や同性愛による生殖能力の剥奪でさえ、自分の身体や健康、そして命そのものを一種の犠牲にし、いけにえにすること(例えば、明らかに危険でしばしば死に至る実験的遺伝子治療を受けること)にほかなりません。

グローバリズムへの信仰は、任意のものではありません。それは国家宗教です。国家がそれを実践しない者の存在を「容認している」のは、社会がこのカルトを行うのを彼らが妨げない範囲においてです。実際、議論の余地のない上位の「善」であることを市民に押し付けているという「倫理的」原則によって正当化されることを前提として、国家は反対者にも「グローバリズムの道徳」の基本的行為を行うよう義務づけ、その戒律に従わない場合は罰するのです。

肉の代わりに昆虫を食べ、健康的な生活を実践する代わりに薬物を注射し、ガソリンの代わりに電気を使い、私有財産や移動の自由を放棄し、基本的権利の統制や制限に耐え、自由の名の下に最悪の道徳や性的逸脱を受け入れ、過去から何も引き継がず後世に何も伝えずに孤独に生きるために家族を放棄し、政治的正しさ(political correctness)の名の下に自分のアイデンティティーを消し去り、目覚めた(woke)迷信を受け入れるためにキリスト教の信仰を否定し、不条理な規則を尊重するために自分の仕事と生活を条件付ける。これらはすべて、個人の日常生活の一部となるべく定められている要素です。その生活は、よく考えてみれば、誰も望んでおらず誰も求めていないもの、また、証明されておらず証明することもできない環境保護的な終末論という厄介で、その存在を正当化しているにすぎないイデオロギー的モデルに基づいているだけです。このことは、この社会の基盤であるご自慢の信教の自由を侵害するだけではありません。これは、このカルトを排他的で唯一許されたものにするというところまで、一歩一歩、不可避的に私たちを導こうと望む到達点なのです。

「環境主義の教会」は、自らを包括的であると定義していますが、異論は許しません(こちらを参照―CFN編集部)。それは、その独裁に疑問を呈する人々と弁証法的に関わることも受け入れません。ダボスの反福音を受け入れない人々は事実上の(de facto)異端者であり、したがって罰せられ、破門され、社会から切り離され、公共の敵とみなされなければならない、とされます。

そのような人々は、メディアの絶え間ない攻撃を受けることによって、また、社会的汚名を着せられ真に強要される形で同意せざるを得なくなることによって、再教育されなければならない、とされます。それは、自分の意志に反してワクチン接種義務に服従するという「インフォームド」コンセントに始まり、いわゆる「15分都市」という狂気に引き継がれます。この15分都市は、アジェンダ2030(これは、究極的には、逆の教義条項です)のプログラムポイントの中で、さらに詳細に予測されています。

この集団迷信という憂慮すべき現象の問題点は、この国家宗教が事実上(de facto)押し付けられているのは米国だけではなく、西洋世界のすべての国々にまで広がっていることです。その国々の指導者たちは、グレート・リセットの偉大なる使徒たちであり、自称「教皇」それゆえに不可謬かつ議論の余地のない権限を与えられているクラウス・シュワブによって、グローバリズムの「言葉」に改宗させられたのです。そして、「教皇年鑑」(Annuario Pontificio)で、ローマ教皇庁の枢機卿、司教、高位聖職者や、世界中に広がる各教区のリストを読むことができるように、世界経済フォーラムのウェブサイトでは、ジャスティン・トルドーからエマニュエル・マクロンまで、グローバリズムの「高位聖職者」のリストを見つけて、多くの国の大統領や首相だけでなく、多くの官僚、国際機関や主要多国籍企業のトップ、メディアのメンバーもこの「教会」に属していることが分かるのです。これに加えなければならないのは、俳優、歌手、インフルエンサー、スポーツ選手、知識人、医師、教師など、グローバリズムの信仰を広めるために働く「伝道師」「宣教師」です。非常に権力があって高度に組織化されたネットワークは、各組織のトップだけでなく、大学や裁判所、企業や病院、周辺組織や地方自治体、文化団体やスポーツ団体にまで広がっており、その結果、地方の小学校や小さな田舎のコミュニティーでさえ、教化から逃れることはできません。

皆さんも必ずお認めになるでしょうが、憂慮されるのは、この普遍宗教への改宗者の数の中には世界宗教の代表者も含まれており、その中には、カトリック教徒がローマ教会のトップともみなしているホルヘ・マリオ・ベルゴリオさえも数えられていて、臆病で、彼に忠実な教会聖職者も共にいることです。カトリックの位階階級の背教は、エキュメニカルで包括的で持続可能な「アマゾンの」グローバリズムを悪魔的に擬人化したものである「母なる大地」、つまりパチャママという偶像を礼拝する段階にまで達しています。ところで、教会の教理を曖昧な環境主義的感傷に置き換える「教会の春」の到来を唱えていた(こちらを参照―CFN編集部)ジョン・ポデスタその人こそ、自分の願いの速やかなる実現を、ベネディクト十六世の辞任とベルゴリオの選出につながった協調的な行動に見いだしたのはではなかったでしょうか?

私たちが目撃しているのは、ローマ帝国で、そして世界中でキリスト教を広めるに至らしめた過程が逆に応用されていること、つまり、キリストの信仰に対して野蛮と異教が一種の復讐をしていることにほかなりません。4世紀に背教者ユリアヌスが行おうとしたこと、すなわち、異教の神々への崇拝を復活させることを、今日では新しい背教者たちが熱心に追求しています。彼らは皆「聖なる怒り」によって団結しており、それによって、思い通りに使える無限の手段のゆえに、自らの意図を成功させることができると自ら確信するほどに、危険な存在になっているのです。

現実には、この宗教はルチフェル崇拝が現代的に受肉したものに過ぎません。ファイザー社がスポンサーを務める最近のグラミー賞発表の際の悪魔的パフォーマンスは、これまでまだ口にすることができないとみなされてきた地獄の世界を信奉していることを裏付ける最新のものに過ぎません。グローバリズム思想のイデオローグたちが皆、反キリスト教的、反聖職者的であり、キリスト教道徳に著しく敵対し、福音が二千年の歴史の中で形成してきた文明や文化に仰々しく反対していることは、不思議なことではありません。それだけではありません。命や、人間から自然に至るまでの創造主の作品であるすべてのものに対する消しがたい憎しみが明らかにしているのは、創造の秩序に手を加え、植物や動物を改造し、生物工学的介入によって人間のDNA自体を変え、人間から個性と自由意志を奪って、トランスヒューマニズムを通じて人間を制御可能に、操縦可能にさえしようとする試み(妄想ではありますが、ほぼ成功しています)です。これらすべての根底には、天主への憎しみと、天主が御子の十字架の犠牲で人間を罪から贖われることによって、人間のために用意してくださった超自然の運命【天国に行ける可能性があること】に対する妬みがあるのです。

この悪魔の憎しみは、キリスト信者が自らの宗教を実践し、その宗教の原則を尊重し、社会で貢献することができるのを不可能にしようという決意に表れています。そして究極的には、キリスト信者に悪を行うように仕向け、あるいは少なくとも善を行うことができないように、ましてや善を広めることができないようにさせ、もしキリスト信者がそうするとしても、その本来の動機(天主と隣人への愛)を、情けない慈善主義的、あるいは環境主義的な目的で変質させることで、歪めようとする意志に表れています。

グローバリズム宗教の戒律はすべて、偽物版の十戒であり、十戒のグロテスクな反転、猥褻な逆転なのです。それを行うに当たっては、教会が福音宣教に用いてきたのと同じ手段を用いていますが、その目的は、霊魂を地獄に落とすこと、天主の法ではなく、悪魔の専制政治に服従させ、サタンの反教会の異端審問官の支配下に置くことです。この観点から、米国のシークレットサービスは、聖伝のカトリック教徒のグループについても報告しており、女のすえと蛇のすえの間の敵対関係(創世記3章15節)は、天主の敵が何よりも信じている神学的現実であり、終末の時代のしるしの一つは、まさに聖なるいけにえの廃止と神殿における荒廃のいまわしいものの存在(ダニエル9章27節)であることを裏付けています。聖伝のミサを廃止または制限しようとする試みは、ディープ・チャーチとディープ・ステートを団結させ、両者の持つ本質的なルチフェル的母体を明らかにしています。なぜなら、両者は、【聖伝の】ミサを通して教会と世界に注がれる無限の恩寵が何であるかを非常によく知っており、彼らの計画を妨げないように、その恩寵が与えられるのを阻止したいからです。彼らは、そのことを自ら、私たちに教えているのです。つまり、私たちが戦うのは、血肉の被造物だけではないのです(エフェゾ6章12節)。

タッカー・カールソンの観察は、私たちが支配者たちによって日々さらされている欺瞞を強調しています。国家の世俗主義という〈理論的な〉押し付けは、組織から真の天主の存在を排除するのに役立ち、グローバリズム宗教という〈実践的な〉押し付けは、反キリストが神として崇拝され、私たちの主に取って代わるという狂気の妄想の中で、ディストピア的な新世界秩序の確立を目的として、組織の中にサタンを導入するのに役立つのです。

黙示録の警告は、すべての人を支配下に置き、不服従や抵抗の可能性を排除するという計画が進めば進むほど、ますます具体的になっていきます。今になってようやく、グリーンパスがなければ売買できないということがどういうことかを理解できます。これは、テクノロジー版の獣の数字のしるし(黙示録13章17節)にほかならないのです。

しかし、まだすべての人が、堕落した欺瞞的自由――これは言葉にできない意図を隠しています――の名の下にキリストを捨てたという誤謬を認識する準備ができていないとしても、クーデターがあったこと、それによって危険な狂信者のロビーが米国と世界で権力を握ることに成功したこと、その権力を維持するために、狂信者らは何であれ、最も無謀なことでさえも行うことを決意していることを、今日では多くの人が、理性的である以前に心理的に、認める準備ができていると私は信じています。

御摂理のねじれを通して、国家の世俗主義――それ自体、天主が主権を持つ公的礼拝を否定するため、天主の御怒りを買うものです――は、グレート・リセットという破壊転覆的プロジェクトに終止符を打つ論拠となり得ます。もし米国人、そして全世界の各国民が、この強制的な回心に反抗し、政府の各地位にある市民の代表者が、グローバリストの最高法院の指導者ではなく、国家主権の保持者に対して責任を負うことを要求することができれば、おそらく奈落の底に向かうこの競争に歯止めをかけることができるでしょう。しかし、そうするためには、このことが、この地獄のロビーからの解放のプロセスにおける第一段階に過ぎないことを認識する必要があります。このプロセスの後には、西洋文明の基礎であるキリスト教にふさわしい道徳原則を再利用し、新異教の野蛮さに対して最も効果的に防御することが続かなければなりません。

あまりにも長い間、市民そして信者は、政治的、宗教的指導者の裏切りの証拠に直面して、彼らの決定に受動的に耐えてきました。権威に対する敬意は、個人、国家、教会に対するイエズス・キリストの主権という「神学的」事実の認識に基づくものです。もし、国家や教会で権威を持つ者が市民や信者に反する行動を取れば、彼らの権力は簒奪され、彼らの権威は完全に無効となります。ちょうど教皇や司教たちが教会の所有者や信者の主人でないのと同様に、支配者は国家の所有者や市民の主人でないことを忘れてはなりません。もし彼らが私たちの父親のようになることを望まず、私たちの善を望まず、実際に私たちを身体的にも精神的にも堕落させるためにあらゆることをしているのならば、彼らをその地位から追い出し、彼らの裏切り、犯罪、そしてスキャンダラスな嘘の責任を追及すべき時が来たのです。

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ

2023年2月16日

英語版

Abp. Viganò: The globalist New World Order has the marks of the 'antichurch of Satan' - LifeSite

THE STATE RELIGION: Some Observations on the Globalist Cult - Catholic Family News

イタリア語版

Carlo Maria Viganò / La religione di Stato. Alcune osservazioni sul culto globalista - Aldo Maria Valli

フランス語版

La religion d'Etat. Quelques observations sur le culte mondialiste, par Mgr Carlo Maria Viganò [Texte et vidéo]


キリストの系図に出てくる全てのキリストの祖先たちがすべて来るべきキリストを意味する影であり前表であった

2023年02月27日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

マテオによる聖福音は、次のように始まり、イエズス・キリストの系図が書かれています。
「第1章 アブラハムの子、ダヴィドの子、イエズス・キリストの系図。
アブラハムはイザアクを生み、イザアクはヤコブを生み、ヤコブはユダとその兄弟たちを生み、ユダはタマルによってファレスとザラとを生み、ファレスはエスロムを生み、エスロムはアラムを生み、アラムはアミナダブを生み、アミナダブはナアッソンを生み、ナアッソンはサルモンを生み、サルモンはラハブによってボオズを生み、ボオズはルトによってヨベドを生み、ヨベドはイエッサイを生み、イエッサイはダヴィド王を生んだ。ダヴィド王はウリアの妻によってサロモンを生み、サロモンはロボアムを生み、ロボアムはアビアを生み、アビアはアサを生み、アサはヨザファットを生み、ヨザファットはヨラムを生み、ヨラムはオズィアを生み、オズィアはヨアタムを生み、ヨアタムはアカツを生み、アカツはエゼキアを生み、エゼキアはマナッセを生み、マナッセはアモンを生み、アモンはヨズィアを生み、バビロンに移されるころ、ヨズィアはイエコニアとその兄弟たちを生んだ。バビロンに移されてのち、イエコニアはサラティエルを生み、サラティエルはゾロバベルを生み、ゾロバベルはアビウドを生み、アビウドはエリアキムを生み、エリアキムはアゾルを生み、アゾルはサドクを生み、サドクはアキムを生み、アキムはエリウドを生み、エリウドはエレアザルを生み、エレアザルはマタンを生み、マタンはヤコブを生み、ヤコブはマリアの夫ヨゼフを生み、このマリアから、キリストと呼ばれるイエズスがお生まれになった。そこで、すべての歴代は、アブラハムからダヴィドまで十四代、ダヴィドからバビロンに移されるまで十四代、バビロンに移されてからキリストまで十四代である。」

聖トマス・アクィナスの「黄金の鎖」Catena Aureaによると、教父たちは、キリストの系図に出てくる全てのキリストの祖先たちがすべて来るべきキリストを意味する影であり前表であったことを教えています。それをご紹介いたします。

アブラハム:諸国の父(ヘブライ語で: אב המון גוים, 'ab hamon goyim —)キリストは多くの信者の父。アブラハムは祖国を離れて異国に住んだ。キリストの教えはユダヤの国を離れて異邦人たちに告げ知らされる。
アブラハムはキリストへの信仰を意味する。「アブラハムは天主を信じた。それはかれの義とされた」(ローマ4:)

イザアク:笑い:理性的な心の喜び:イザアクはアブラハムとサラの老年に与えられ、大きな喜びを与えた。キリストは歴史の最後にユダヤ人の母親に来て、全世界に喜びを与えた。
イザアクは希望を意味する。イザアク(笑い)は両親の喜びとなった。希望は私たちの喜び。キリストは永遠の至福を希望させ、それを喜ばせる。アブラハムはイザアクを生んだ。信仰は希望を生む。

ヤコブ:横取りする人:「御身は私をたてて異邦人のかしらとなしたまわん」Eripies me de contradictionibus populi; constitues me in caput gentium.(詩篇 17:43.)
ヤコブは子供が12人いた。キリストは十二使徒たちをえた。血肉ではない、霊的で御言葉による十二の子供たち。
ヤコブは愛を意味する。愛は二つの活動がある。隣人愛を実践し、天主の愛を観想する。ヤコブには二人の妻(レアとラケル)がいた。レアとは「つらい」 לאה (la'a)【名詞 תלאה (tela'a) 困難】という意味。ラケルは「雌羊」 רחל (rahel) という意味。愛は信仰と希望とから生まれる。

ユダ:告白する人:キリストは父について告白した。

ファレス:分けるもの:「人の子は、その栄光のうちに、多くの天使をひきつれてきて、光栄の座につくであろう。そして、諸国の人々を前に集め、ちょうど牧者が羊と牡山羊とを分けるように、羊を右に、牡山羊を左におくだろう。」(マテオ25:33)

ザラ(動詞 זרח (zarah) 昇る):昇る、東:「あの人を見よ、彼の名前は昇る(東)である。Ecce vir, Oriens nomen ejus.」 (Zech. 6:12) 

エスロム Εσρωμ, Esrom:矢・伸び出る草:彼は私を選ばれた矢として置いた。posuit me sicut sagittam electam. (Is. 49:2.)

アラム:選ばれた者:私のしもべを見よ、私は彼を受け入れる。私の選ばれた者だ。Ecce servus meus, suscipiam eum; electus meus. (Is. 42:1.)

アミナダブ:欲する(動詞 נדב (nadab) 与えるという意味。喜んで与える、志願する、そこから由来して「高貴だ」。名詞 נדבה (nedaba), 自由意志による捧げ。名詞と形容詞 נדיב (nadib), 寛大な、高貴な。名詞 נדיבה (nediba), 寛大な行為:喜んで私は御身にいけにえを捧げよう。Voluntarie sacrificabo tibi, et confitebor nomini tuo, Domine, quoniam bonum est.  (Ps. 53:8.) 

ナアッソン:前兆・兆し(同じ動詞 נחש (nahash) は占う. そこから由来する名詞 נחש (nahash) 占い:主は過去、現在、未来を知っておられるから。
蛇(名詞 נחש (nahash) は、聖書において蛇を意味する一般的な単語でもある)「モイゼが荒れ野で蛇を上げたように、人の子もあげられなければならない。」(ヨハネ 3:14.) 

サルモン:感じる者:「イエズスは、「私にふれた人がある。私の身から能力が出たのを感じたのだから」とおおせられた。」 (ルカ 8:46.)

ラハブ:キリストはラハブ(異邦人の教会)と婚姻した。

ボオズ:力強さ:「私は地上からあげられて、すべての人を、私のもとに引きよせる」とおおせられた。 (ヨハネ 12:32.) 

ヨベド:しもべ、奴隷、労働者 עבד ('abad) :「あなたたちの中で、偉くなろうとのぞむ人はしもべになり、またあなたたちの中で、第一の人になろうとのぞむ人は奴隷にならねばならない。それと同じで、人の子が来たのも、仕えられるためではなく仕えるためであり、多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」(マテオ20:28)

イエッサイ:火、燃えた אש ('esh):「私は地上に火をもって来た。」(ルカ12:49)

ダヴィド王 דוד (David) :愛された、 ידיד (yadid) 【名詞 ידד (yadad) 愛】「諸国の望みである彼は来る」(ハガイ2:7)ダヴィドはゴリアトを打ち負かした。キリストは悪魔を打ち負かした。

ベルサベ(ウリアの妻の名前)は、「第七の泉」あるいは「誓いの泉」と解釈される。七つの聖霊の賜物が与えられる洗礼と洗礼の時の悪魔を捨てるという誓いを意味する。

サロモン:平和を作るもの שלם (shalem)、キリストは平和をもたらす方。キリストは私たちの平和(エフェゾ2:14)ダヴィドのあとにサロモン(平和)が続く。

ロボアム:多くの民、民の息:多くが東と西とから来るだろう。

アビア:父なる主:「天にましますわれらの父よ」(マテオ23:9)、「おまえたちは私を師であり主と呼ぶ」(ヨハネ13:13)キリストは天主の子である。

アサ:上げる:この世の罪を取りあげる天主の小羊(ヨハネ1:29)キリストは徳から徳へと御父へと上がる。

ヨザファット:裁く:「父は、審判をなさらず、子に審判のことを全くお任せになった。」(ヨハネ5:22)

ヨラム:高い:「天からくだった人のほか、天にのぼったものはない、それが人の子である。」(ヨハネ3:13)主は、天主御父の右に座したもう。

オズィア:主の力強さ:「主は私の力、私の賛美」(詩篇118:14)

ヨアタム:完璧:キリストは完璧:キリストは律法の目的。

アカツ:抱く者:従順によって主の知識は増加する。

エゼキア:主は強い:「安心せよ、私はこの世に勝った」(ヨハネ16:33)

マナッセ:忘れやすい:キリストはこの世のことを忘れたかのように放棄した。「私はおまえの罪をもう記憶しない」(エゼキエル28)

アモン:忠実な:キリストはこの世のことを軽蔑し、天のことに忠実である。主は御言葉に忠実である。(詩篇145:17.) 

ヨズィア:主の救いの希望:主の救い:主の香:「主はより熱心に祈った」(ルカ22:44)

イエコニア:準備する、主の準備:「私はおまえたちのために場所を準備する」(ヨハネ14:3)

サラティエル:「天主への願い」「主は私の願い」

ゾロバベル:混乱の師:「あなたたちの師は税吏や罪人たちと一緒に飲食している」(マテオ9:11)

アビウド:彼は私の父:「私と父とは一つである」(ヨハネ10:30)

エリアキム:天主は生き返らせる:「私は彼を最後の日によみがえらせよう」(ヨハネ6:54)

アゾル:助けられた:「私を送った方は私とともにいる」(ヨハネ8:29)

サドク:義人、義とされた:キリストは「義人であったが不義のために渡された」(ペトロ前3:18)

アキム:彼は私の兄弟:「私の父の御旨をおこなうものは、私の兄弟である」(マテオ12:50)

エリウド:私の天主:「我が主、我が天主なり」(ヨハネ20:28)

エレアザル:私の助け手:詩篇17「主は私の助け手」

マタン:与える、与えられた:人々に賜物を与えた(エフェゾ4:8)、「天主は御一人子をお与えになるほどこの世を愛された」(ヨハネ3:16)

ヤコブ:奪い取った者、取って代わった者:主は悪魔を奪い取ったのみならず、その力を弟子たちに与えたから。「私は、へび、さそり、敵のすべての力をふみつける力をあなたたちに授けた」(ルカ10:19)

ヨゼフ:加える:「私は彼らが命を持つために、豊かに持つために来た」(ヨハネ10:10)

キリスト


イエズス・キリストをよく知りますます愛すること、これこそが聖徳。一生をかけてイエズスを知り、イエズスをますます愛するように招かれている。

2023年02月27日 | お説教・霊的講話

2022年11月27日 東京の12時半のミサにて 小野田神父 説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄妹姉妹の皆様、今日九時のミサで総長様がミサを司式してくださいました。そのお説教の内容を皆さんにご紹介したいと思っています。
午後二時には総長の講話があります。是非、ミサの後にも残って、総長様のお話を聞いて行ってください。

総長様のミサのお説教の話をお伝えします。

待降節は私たちがイエズス様の御到来を準備する特別の時です。今日待降節第一主日を迎えて、私たちはついにイエズス様のご降誕を今から準備するように招かれています。イエズス様は人となった天主のみ言葉・永遠の御父の輝き・三位一体の第二のペルソナですから、この目に見えない全能の天主・御子が人間になった、私たちの内に住んでくださった、ということを私たちは準備しています。

私たちがイエズス様のご降誕を準備するのに一番必要なのは何かというと、私たちは聖徳に招かれているということです。私たちがますます聖となるようにと招かれているということです。では、私たちが聖になるということは、どういうことなのでしょうか。それはすべて愛です。

聖徳というのはただ抽象的な観念や哲学的な議論ではない、また、単なる「あぁこうなりたいな」という望みだけでもありません。

聖徳、私たちが聖となるというのは、聖なる者になるというのは、具体的に、日々の生活において実現されるべきものです。一体どういうことかと言うと、私たちがますますイエズス・キリストと近しい友人になるということです。イエズス・キリストを愛して、イエズス・キリストから愛されて、私たちがイエズス・キリストを愛し返す。イエズス・キリストをよく知り、そしてますます知ることによって、ますます愛するということです。これこそが聖徳であって、待降節の間、私たちはこれを深めるように招かれています。待降節のみならず、一生をかけてイエズス様を知り、イエズス様をますます愛するように、招かれています。

では待降節の間、特にどういうことを、私たちはしたらいいのでしょうか。

愛は、私たちが愛する対象をよく知りたい、その愛する対象と一緒にいたいなあと思います。そして、その愛する方が私たちからいなくなってしまうのを恐れます。最後には、愛する方と一緒にいることを楽しみます。

ちょうどこれと同じことが、イエズス様と私たちの間で起こります。その愛が深まれば深まるほどこれが聖なるものとなったということなのです。

総長様はその例を三つ挙げました。使徒聖ヨハネがその模範だと言って、その聖ヨハネの生活の三つのエピソードから、この愛の三つの働きを黙想しました。

最初は、聖ヨハネがイエズス様と出会った時です。洗者聖ヨハネが指をさして、
「見よ、天主の子羊だ。この世の罪を取り除く天主の子羊を見よ!」
と言ったときに、聖ヨハネは
「そうだ」
と言って、すぐにイエズス様の跡を聖アンドレアと一緒について行きました。
するとイエズス様のほうについてきた二人をご覧になって、イエズス様はおっしゃいます。
「何を探しているのか。何を求めているのか。何が欲しいのか」。
すると、答えます
「主よ、あなたは一体、どこにお住みなのですか。」
すると
「来てご覧なさい。」
そして、イエズス様のお住みになっているところへ行って、一緒に語り合って、一緒にイエズス様の話を聞いて、イエズス様に質問して、イエズス様のお答えに「すごい」と思い、ますます時を忘れて聞き入れてしまった。知れば知るほどイエズス様はますますもっと近くにいたい、もっとお会いしたいと思うようになる。これが聖ヨハネの第一の体験だった。

それと同じように待降節の間、私たちも、イエズス様のそばにいてイエズス様のことをよく聞くようにしなければならない。この世の騒音とか喧騒とかではなくて、この世の話とかニュースではなくて、イエズス様のことをもっと知るようにしなければならない。

第二のエピソードは、愛する人は愛する対象を失ってしまうのを非常に悲しむ、という事です。ちょうど最後の晩餐の時にそれが起こりました。イエズス様が弟子たちと囲んで最後の晩餐を召し上がっていられた時に「このうちの一人は私を裏切る」と予告しました。すると使徒聖ヨハネは、すぐに「それは私のことですか?」とイエズス様の近くに行って聞きます。

これは何かと言うと、使徒聖ヨハネはイエズス様を愛していたので、イエズス様を失ってしまうではないかと、この愛するお方が裏切られるということがあってはならない、裏切られる、あるいはイエズス様がふさわしい取り扱いを受けないということを悲しむ、あるいは自分が裏切ってしまうのではないかと恐れる、という愛のあらわれだったのです。

待降節の間に私たちも、イエズス様を罪によって裏切ってしまうことがないように、私たちがイエズス様のこと以外のことを愛してしまって、イエズス様よりもイエズス様以外のものを愛してしまって、被造物を愛するがあまり罪を犯してしまう、イエズス様を悲しませることがないように、私たちは愛の怖れを持たなければなりません。

第3は、愛する者は愛する者と一緒にいることを楽しむ、ということです。この最後の出来事は使徒聖ヨハネの霊魂の状態を非常によく表していました。

イエズス様が復活されたのちに、ガリラヤの湖で使徒たちは朝早く漁をしていました。すると、湖畔に誰か人影が立っていて、弟子たちのほうをずーっと見ています。一体誰なのか、遠くだったので誰にもわからなかったのですけれども、わかった人が一人います。それが使徒聖ヨハネです。

聖ペトロにいいます。「あれは、主だ。」すると聖ペトロはそれを見て「確かに」と言って、すぐにイエズス様のもとに行こうと水の中に飛び込んで泳ぎ出します。しかし使徒聖ヨハネはイエズス様とわかっていたにも関わらず、そして泳ぐことができたにも関わらず、舟の中に留まっていました。

一体なぜ聖ペトロは水の中に飛び込んだのに、ヨハネはそのまま舟の上にいたままだったのでしょうか。

なぜかと言うと、使徒聖ヨハネは愛していて、愛するがゆえに心が清かったので、イエズス様をすぐに見分けることができたからです。そして心が清かったゆえに、イエズス様に満たされていて、イエズス様のもとに行かなくてもすでにイエズス様が心に宿っておられた、イエズス様でいっぱいだったので、そして天主の御旨がいったい何かよく知っていたので、聖ヨハネは舟の上に留まって、そして幸せだった、「ああイエズス様だ」とイエズス様を見るだけでよかったのです。しかし聖ペトロは裏切ってしまったので、心に重いものがあったので、イエズス様のもとに行って、「主よ、ごめんなさい」と言わなければなりませんでした。

使徒聖ヨハネは、イエズス様を愛したがゆえに高い聖徳に達した偉大な使徒です。そして私たちにモデルとなっています。

今日、聖福音の中では、イエズス様は世の終わりについて話します。イエズス様が来られて、最後の審判が来ることを話されます。最後の審判の時に私たちは一体何に基づいて裁かれるのでしょうか。審判の基準は何なのでしょうか。お金を持っていたからでしょうか、あるいは何か良いポストに就職したからでしょうか。そうではありません。私たちはイエズス様を愛したか、どのように愛したかによって裁かれます。それこそが聖徳のバロメーターであるからです。聖なる者であるか否かのバロメーターであるからです。

この愛の極みに似たモデルはマリア様です。マリア様は、聖ヨハネよりもさらに高い聖徳をもっていました。さらに高く主を知りたいと思い、愛するがゆえにますます主を知り、知るがゆえにますます愛した方です。またマリア様こそ、主を罪によって失ってしまうことを恐れる者でした。そしてマリア様こそ主の現存に幸せをいつも見出して、主の御旨に満たされていた方でした。イエズス・キリストに満たされていた方でした。マリア様にお祈りしましょう。マリア様の特別な御取次によって私たちが聖なる待降節を過ごすことができますように、そしてイエズス・キリストをますますお愛しすることができますように、聖徳に成長することができますように、お祈りいたしましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によって、アーメン。


聖ピオ十世会 カトリック聖伝のミサの報告【東京 大阪 名古屋】 Traditional Latin Mass in Japan SSPX Japan

2023年02月26日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

四旬節の第一主日です。私たちの主の祈りと断食の40日をまねする償いの聖なる時期の始まりです。
主の御受難と私たちへの愛を黙想しましょう。

今日東京のミサに来られた方は、子供達も入れて合計118人でした。大阪では34人、名古屋では20人でした。イエズス様とマリア様に感謝いたします。

「私は恵みの時にあなたの祈りを聞き入れた、救いの日にあなたを助けた」と主はいわれる。見よ、今は恵みのときである。見よ、今は救いの日である。

すべてにおいて、私たちは自分を天主のしもべとして示す、多くの忍耐においても、艱難においても、必要の時においても、苦悩においても、傷つけられたときも、牢においても、騒動においても、労働においても、徹夜においても、断食においても、貞潔においても、学識においても、堪忍において、仁慈においても、聖霊においても、いつわりのない愛においても、真理のことばにおいても、天主の力においても、左右にもつ正義の武器によって、名誉のときも、恥辱のときも、悪評のときも、好評のときも[自分を天主のしもべとして示す]。

【報告】
Dear Fathers:

Shown below are the number of attendees at the masses in Tokyo today. The total number of attendees at the masses in Tokyo today was 118 including children.

09:00 mass
M: 33 (incl. 6 children)
F: 30 (incl. 7 children)
Total: 63 (incl. 13 children)

11:30 mass
M: 19 (incl. 3 children)
F: 39 (incl. 3 children)
Total: 58 (incl. 6 children)

Total of 2 masses (excl. 3 persons who participated in multiple masses)
M: 50 (incl. 9 children)
F: 68 (incl. 10 children)
Total: 118 (incl. 19 children)


四旬節第一主日|現代「試みる者」はカトリック教会に 何をそそのかしているのか?キリストが誘惑をお受けになった4つの 理由とは?

2023年02月26日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2023年2月26日は四旬節第一主日です。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「四旬節第一主日説教」の動画をご紹介いたします。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

SSPX JAPAN聖ピオ十世会日本にチャンネル登録もお願いいたします。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父


【参考情報】2月26日(日)午後1時国会前:経口中絶薬導入の反対演説 | いのちを守る親の会

2023年02月26日 | プロライフ
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

参考情報です。


2023年1月27日、厚生労働省は経口中絶薬「メフィーゴパック(ミフェプリストン/ミソプロストール)」の導入を了承しました。
ただしこの決定は慎重を要するため、パブリックコメントの結果を参考にしたうえで、3月に行われる薬事分科会での審議で正式承認がなされる見込みです。

メフィーゴパックは中絶後の母体への大きな影響(身体精神ともに)も懸念されるとともに、安易な堕胎(いのちの軽視)を加速させることが何よりの懸念事項です。

2月26日(日) 午後13時集合 
13時~14時 国会議事堂前にて声明・抗議


まさに闇から闇に葬られる赤ちゃんであります。

今回の事案ですが、母体保護法指定医のみが行えていた中絶が、密売や転売等により、かくれて中学生高校生でも、安易に行われるようになりかねません。

安易な妊娠に安易な中絶 この世はどうなってしまうのでしょうか。

今回の中絶経口薬。多くの人が「妊婦さんが安全に中絶できる」などと言われていますが、この経口薬承認により、闇中絶が倍増します。

殺される側。堕胎(おろ)される側。

赤ちゃんの立場でものを言う人が殆どいないことに驚きを隠せません。

明らかに母体保護法違反、堕胎剤212条にも抵触します。

この事は犯罪です!! 赤ちゃんは厳密に見ると3割以上の確率で自然流産しています。それを乗り越えて(母体に)「生まれてきた」のです。 どうかこの世に『産んであげて』ください!

(※どうしても育てる事ができない事実がある人は殺さずに、子を産めない方、授からなかった方が何十万人も赤ちゃんを待っていますので特別養子縁組でバトンタッチしてください。)




聖ピオ十世会事務総長ル・ルー神父:私たちもイエズス様がお生まれになるべき馬小屋に近づく。イエズス様に近づくためには私たちの心も主のお生まれになった場所に似ているか同じでなければならない。

2023年02月24日 | お説教・霊的講話

2022年11月27日 東京 聖ピオ十世会事務総長ル・ルー神父 説教

まず、皆さんに、私の心からの言葉を申し上げるのを許してください。この日本の地にやってきて、そして天主様のお恵みの素晴らしさに感嘆することを許していただけたことに感謝しています。皆さんの歓迎、そして皆さんが私たちにくださった喜びと、そして天主の恵みの業、そのすべてに感謝いたします。ありがとうございます。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆様、私たちは待降節に入りました。待降節はラテン語で アドベントゥス(Adventus)と言います。アドベントゥスというのは、“来臨”“いらっしゃる”と言うということで、つまり天主の御言葉が私たちのもとにいらしたということです。しかも、私たちのもとに来るために私たちと同じ肉と霊魂とそして人間の本性をとって、私たちのもとに来られたのです。つまり、天主のみ言葉は、天と地の間の無限の距離を遙かに超えて、私たちのもとにいらっしゃった、ということです。それが、この待降節の意味です。

【私たちもイエズス様が生まれた場所に行く】

イエズス様は私たちを探して天から来られたのですが、私たちはただイエズス様だけに来ていただく、それだけでよいのでしょうか。そうではありません。私たちも、イエズス様のもとに行かなければなりません。イエズス様が私たちに「来て欲しい」と思っておられます。ですから、私たちのほうからもイエズス様がお生まれになるべき馬小屋に近づかなければなりません。そして、私たちは主に近づいて準備しなければなりません。それこそが私たちの求める待降節です。

聖パウロは、今日の書簡でこう言います。「目覚めておれ!」と。時はやってきた、ついにやってきたのです。聖グレゴリオは私たちに、つまり、私たちは目覚めてイエズス様のすぐ近くにいなければならないということを教えています。私達はどうやったらイエズス様の近くに行くことができるでしょうか。

ではイエズス様の近くに行くためには、イエズス様が一体どこにお生まれになっているかその場所を見てみることにします。

イエズス様が生まれた場所は、偶然たまたまその場所に生まれたということではありませんでした。永遠の昔から選ばれた場所でした。イエズス様はその場所を選択して、天からその場所を選ばれて、そこに降りて来られたのです。ですから、もしもイエズス様の近くに行こうとするなら、イエズス様が入りたいと思っている私たちの心も、その場所に似通っている、ぴったりと同じでなければなりません。

【イエズス様は貧しい洞窟にお生まれになった】

ではいったい、イエズス様は一体どこにお生まれになったのでしょうか。イエズス様は洞窟にお生まれになりました。一等地のよい場所などではなくて、貧しい洞窟でした。ですから、私たちの心も、洞窟に似ていなければなりません。

では洞窟というのは一体何でしょうか。洞窟には、私たちを驚かせるような特徴があります。まずその一つは、貧しいということです。悲惨な、もう手のつけられないほどの状態だということです。でも、イエズスさまは、まさにそれが貧しかったからこそそこを選んで、あえて選んで、お越しになりました。ですから私たちがもしも、「あぁ私があまりにも罪人だから…、私があまりにも不足しているから…、私があまりにも惨めだから…、私はこんなに悪いから…イエズス様はいらしてくれないだろう」というのは間違っています。まさにイエズス様は私たちが貧しいからこそ、私達がイエズス様を必要とすればするほど、私たちの心に来たいと思っておられるのです。

なぜかと言うと、イエズス様は私たちの力であり、私たちを豊かにさせる富であるからです。私たちにご自分をすべて与えよう、私たちを救おう、と思って来られるからです。ですから私たちにも、この貧しさからその不足やそのみすぼらしさから抜け出させて、富を与えて、ご自分で満たそうと思って来られるからです。ですから、私たちは何をしなければならないかと言うと、私たちが「イエズス様を必要とする」「イエズス様が欲しい」「イエズス様を必要とするほど貧しいものである」ということを認識することです、認めることです。

【イエズス様は沈黙の洞窟にお生まれになった】

洞窟の第二の特徴は、とっても、そして最も大切な非常に大切なものであって、なかなか見いだせないあるものです。それは沈黙です。沈黙というのは、まずこの世の喧騒がないということです。この世がいつも出している動きやニュースやあるいはいろんな喧騒あるいは雑音がまったくなくて、そして沈黙を守っていることです。

そして沈黙を守るというのは、ただ雑音がないだけではなくて、さらに言えば、自分の心をまとめているということです。つまり、天主の御前で、自分が黙って口を閉ざして、その天主が何であるか一体どなたであるかということを感嘆して、それを見つめるということです。つまり天主を礼拝するということです。天主は天主であって、私たちと無限に離れておられる方です。ですから、私たちはその無限の天主の前でいったい何をするかというと、ただ口を閉ざして、心を一つにまとめて、その主を礼拝して、その主に眼差しを捧げる、礼拝を捧げるしかありません。この天主で心をいっぱいにする、これこそが洞窟に在る沈黙です。そして私たちの心もイエズス様のことだけでいっぱいにすること、この世の雑音すべてを心から追い出してイエズス様で満たすこと、これこそが私たちが洞窟となることです。

【イエズス様は掘られた洞窟にお生まれになった】

洞窟の第三の特徴は、洞窟は掘られているということです。洞窟はただ単に貧しいだけではありません。ただ単に沈黙があって、この世から離れているだけではありません。この洞窟は掘られているということです。ということは何かと言うと、もちろんこの貧しさ、そして沈黙と関係があります。

つまり、私たちの心も掘られていなければならないということですけれども、この掘られているということが何であるかというと、それは私たちが、心の中にイエズス様がいる場所がもっとありますように!と望むことです。

もしも私たちが富に満たされていてすべてに満足していたとしたら、イエズス様が来られたとしても救い主が来られたとしても、「関係ないよ」と言うかもしれません。しかし、私たちがイエズス様を必要とするなら、もっともっと必要とするなら、私たちはもっとイエズス様を欲しいと思うに違いありません。この「もっと欲しい!」と思うこと、それが「掘る」ということです。洞窟をもっともっと掘って、私たちの心からこの世のいらない物を全部捨てて、たくさん捨てて、そしてイエズス様のいる場所をもっと広げるということです。

よくあり得ることですが、私たちはあまりにも貧しいので、あぁもうだめだ、もう役に立たない、もう何でもないんだ、もうこんなに惨めだ、だからもうイエズス様も何もすることができない、などと失望してしまっている可能性があります。しかしそれは間違っています。イエズス様は、私たちを救いたいというものすごい愛の火に燃えています。その熱望に対応するような願いを私たちが持たなければなりません。それが心を掘るということです。

毎日毎日、もっともっとイエズス様に来てもらいたい、もっとイエズス様の場所を作りたい、もっともっと・・・。ですからクリスマスの間まで、御降誕の前まで、毎日毎日「イエズス様来てください」「イエズス様来てください」「イエズス様来てください」と願ってください。

クリスマスの日には、最後に、イエズス様に対する愛とものすごく激しい嵐のような熱情を持っているように、「来てください」「来てください」「来てください」と願って、そしてイエズス様に「私の全てを取ってください、私の場所はすべてイエズス様のものです」というようにしましょう。

ですから、私たちの心をもっともっと掘るために、この世の雑音を心から取って、そして想像を取り払って、そしてあるいは恐れも取り払って、また償いの業をして、苦業して、毎日祈りましょう。私たちがイエズス様の前でイエズス様のことを考える時間を奪ってしまうようなものを心から全部取って下さい。そしてイエズス様にお願いしなさい。「イエズス様、毎日私の心を私がイエズス様をますますお愛し求めるようにしてください。」「イエズス様のことをますます理解することができるようにしてください。」「私がイエズス様のことだけに関わるように、イエズス様のことだけに関心を持つようにしてください。」「私のイエズス様、イエズス様こそが私の宝であって、私の全てです。あなただけが私の全てです。」

【世界で最初の洞窟:聖母】

世界で最初の洞窟は、マリアさまでした。なぜかと言うとマリア様こそが深い謙遜を持っていたからです。マリア様こそが、天主を必要とするということをよくご存知であり、そしてこの世が天主・イエズス・救い主を必要とすることをよく知っていたからです。マリア様こそが、沈黙のうちに生きておられ、礼拝のうちに生活しておられたからです。マリア様こそが、救い主を、愛熱を込めて求めていたからです。

マリア様の待降節は、九ヶ月続きました。マリア様はその間ご胎内にイエズス様をお宿しでした。そしてその間毎日毎日イエズス様の事を考えて、イエズス様がお越しになるのを心のうちに深めていました。そしてついに待降節が終わり、クリスマスの時にイエズス様をお生みになった時、ご自分の腕(かいな)に抱きしめた時にはどれほどの喜びがあったことでしょうか。ついに救い主がやって来られた!この世が、私とこの世が必要とする救い主が遂に来られた!と。マリア様は、常にその大きな待望に満ちておられていました。そしてそれを毎日日々大きく増加させておられていました。そしてついに、そのイエズス様をお抱きになられたマリアさまは、どれほどの喜びと感嘆と感激とを持たれたことでしょうか。

ですから私たちは、まず 第一の洞窟であるマリア様にお祈りしましょう。マリア様を真似するようにいたしましょう。マリア様の謙遜を真似して、私たちがあまりにも不足しているものであること、あまりにも貧しいものであるということを認識するようにいたしましょう。マリア様に倣って、沈黙を愛し、そしてお祈りをいたしましょう。マリア様に倣って、イエズス様を受けたいイエズス様に来て欲しいという願いが増加するように、私たちの心を掘りましょう。マリア様は私たちのモデルです。マリア様を通して私たちの主はお生まれになったので、マリア様を通して私たちもイエス様のところに行かなければなりません。またマリア様は私たちの母です。私たちがどのようにしてイエズス様に近づくか、ということを教えてくださる母です。ではマリア様にお祈りして、良い聖なる待降節を過ごすことにいたしましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


聖ピオ十世会総長パリャラーニ神父:聖となるとはイエズス・キリストとの友情を育て深めること。具体的にイエズスをよく知り愛し求め、イエズスを失うことを畏れ、イエズスへの愛に安らぐこと。

2023年02月24日 | お説教・霊的講話

2022年11月27日 東京 聖ピオ十世会総長パリャラーニ神父 説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

【挨拶】

東京を訪問してここでミサを捧げることができるのは、いつもとても大きな喜びです。

私は告白をしなければなりません。今から15年か20年前、私はシンガポールで働いていました。その時に小野田神父と一緒に夢を持っていました。その夢は東京に修道院を開設するという夢でした。しかしその当時は、私たちはその夢を実現するということが不幸にしてできませんでした。

私は、もしもできるならば日本語を勉強して、そして私の残る人生を皆さんと一緒にこの日本の地で過ごしたいと願っています。しかし天主様は、そのことを私に許してくださいませんでした。

しかし天主様が、それよりももっと良い事を皆さんのためにしてくださいました。それは東京に修道院を開設して、そして毎週主日に皆さんがミサに与ることができるようにしてくださったことです。それこそがもっとも大切なことであって、最も美しいことです。

私はここに、今日は別なもっと重要な理由のために来ています。(そのままを翻訳しますと)今日私はここに、小野田神父に感謝するために参りました。それは、もしも彼の熱心と忠実さがなければ、ここに修道院を作ることができなかったからです。

この神父は25年以上もの間、マニラからフィリピンから何度も旅をして、そしていろいろな国を訪問して、そして種(たね)を蒔きました。そしてその種が成長するのを長い間待って、そして今その実りができました。皆さんがその実りであって、この美しい共同体がその実りです。天主の御業というのは、最初はほんの少しの小さなところから始まりますけれども、後には大きな大木になります。

【教会はクリスマスまでの四週間、私たちをどのように準備させるのか?】

では今から、今日の待降節第1主日の テーマについて黙想しましょう。教会はなぜ、四週間、今からクリスマスの間まで、時を隔てて私たちを待たせるのでしょうか。それは、私たちを準備させるためです。待降、つまり待望する、待っている時を与えるわけです。では、どうやって準備をしたらよいでしょうか。どのようにして私たちを、クリスマスのために、良い状態にするべきでしょうか。

一番大切なのは、私たちが成聖に対する、私達が聖なるものになるという、大きな熱望を持つことです。では、この聖なるものになるという情熱・望み・欲望というのは、一体何でしょうか。それを今日皆さんと一緒に黙想します。

【成聖、聖となるとは?】

成聖、聖となるというのは、決して抽象的なあるいは哲学的な概念ではありません。またより良くなりたいという考えの頭の中だけの意向だけではありません。そうではなくて全く別のものです。

成聖というのは、イエズス・キリストとの友情のことです。もっと具体的な、イエズス様をよく知りたい、もっとよく知って、もっとよく愛する、ということにあります。

例えば具体的な例を挙げてみます。それは使徒達です。使徒たちは私たちの主の友でした。友人達でした。特にその特異な例は、聖ヨハネです。聖ヨハネは福音の中で、その書き物の中で、三度、同じことを言っています。「主が私にこの直接おっしゃったこと、目で見たこと、(それは)こうだ。」そして、この私たちの主イエズス・キリストとの友情を育てることが、まさに聖徳です。

【使徒聖ヨハネ:イエズスと出会い共に時を過ごす】

最初の出来事はこうでした。洗者聖ヨハネがイエズス様を指して、「見よ、天主の小羊だ。天主の小羊を見よ。」と言った時に、その時聖ヨハネは何も躊躇せずに、主の後をついて行きました。その後ろを歩いていて、特にアンドレアと一緒に歩きます。すると主は後ろを振り向いて、「いったい誰を探しているのか。何を求めているのか。」と尋ねます。すると聖ヨハネは答えます。「主よ、主よ、あなたはどこにお住みなのですか。」するとイエズス様は答えます。「来て、見に来なさい。」

それでイエズス様の後をついて行って、その日はイエズス様とともに一緒に過ごしました。イエズス様と話をしたり、イエズス様に質問したり、イエズス様の話に感嘆したり、そして時を一緒に過ごすと、あっという間に時間が過ぎていきました。

人が誰かを愛するようになると、その方と一緒にいるのがますます嬉しくなって、幸福であって、時が経つのが早くなります。そして人を愛すれば愛するほどますますよく知りたいと思って、そして知れば知るほどますます愛するようになります。これと同じようなことを、私たちもいたしましょう。私たちは主とともに一緒に時を過ごしましょう。

今日、私たちの主は、この祭壇の上にお降りになります。御聖体の聖変化の時に、お降りになります。そして私たちが家に帰った時も、主が共におられます。では、イエズス様のことをよく知るようにしてください。天主は人となって、私たちの家に住み給うて、そして私たちの友となりました、友人となりました。ですからこの友と時を一緒に過ごすようにしましょう。よくイエズス様のことを知り、お愛しし、そしてイエズス様のことをますます知ることができますように。これが、成聖が、聖なることが始まることであって、イエズス様との友情関係を完成させることであります。

【使徒聖ヨハネ:イエズスを失うことを恐れる】

愛というのは、私たちをして、愛する対象をもっと深く知りたいと、もっと近づきたいと、追及させます。それと同時に同じ愛は、私たちがその愛の対象を失ってしまう、ということを恐れさせます。同じ事が最後の晩餐の時にありました。

このうちの誰かが私を裏切るだろうと主が予告した時に、その時に聖ヨハネは、「えっ、それは一体誰ですか?いったい誰が裏切るのですか?」と聞きました。愛する方が裏切られるということを非常に恐れたのです。また、愛する方が悪く取り扱われる、それに相応しい取り扱いを受けない、ということを非常に恐れました。また同時に、自分がその愛する方を裏切ってしまうのではないか、悲しませてしまうのではないか、ということをも恐れました。

ですから私たちも、主を愛すれば愛するほど、主を失ってしまうことを恐れます。罪に対して戦いが起こります。イエズス様を愛するがために、罪によってイエズス様を失ってしまうことを、非常に恐れます。イエズス様を失ってしまうくらいだったら、むしろ自分の命さえも失ってしまうほうがいいとさえ思わされます。

【使徒聖ヨハネ:イエズスへの愛に安らぐ】

もう一つのエピソードがあります。それは聖ヨハネの心を、その霊魂がどのようなものであるかということを、私たちに明らかにしているエピソードです。これはイエズス様が復活された後(のち)のことでした。

復活された後にガリラヤ湖で、弟子たちは漁に出ていました。すると、湖のほとりに、どなたか誰かが立っていて、彼らを、弟子たちを、使徒たちのことを待っているように見えます。遠くなので誰もこれが誰なのかわかりませんでしたが、ただ一人、最初にたった一人だけ、それが誰か気がついた人がいます。それが聖ヨハネです。そして聖ペトロに言います、「主だ!」。すると、聖ペトロは主だと聞いて、すぐに舟から降りて、舟から水の中に入って、そしてイエズス様の方に泳いでいきます。ところが聖ヨハネは、もちろん泳ぎ方は知っていたのですけれども、船の中にとどまったままで、湖の中に飛び込もうとはしませんでした。

いったいなぜ行かなかったのでしょうか。いったいなぜ舟にとどまったのでしょうか。そして、なぜ聖ペトロは水の中に飛び込んでイエズス様の方に近寄ろうとしたのでしょうか。

なぜ聖ヨハネは舟に止まったのでしょうか。なぜかと言うと、聖ヨハネはすぐにイエズス様を認識することができたからです。それは、聖ヨハネの心があまりにも清かったからです。その心はイエズス様の聖なる御旨がいったい何なのか、そしてイエズス様のお人柄がどのような方だったのかということをとても深く知っていたからです。ですから、この深い愛に基づいていたので、常に聖ヨハネの心にはイエズス様が住んでいました。ですから、イエズス様が住んでいたということはイエズス様が、満ち満ちたその喜びと平和とその成聖が宿っていたということです。

それに反して、不純である、あるいは罪を犯したということは、イエズス様を見分ける事が出来なくなってしまいます。聖ペトロは、その代わりに水に飛び込んで、そしてイエズス様の元に近づいて、そして足、イエズス様の足元を抱きしめて、主に裏切ったことの赦しを請い求めなければなりませんでした。しかし聖ヨハネは違いました。すでに、霊的に、イエズス様に満ち満ち溢れていたからです。深い愛に溢れていたからです。イエズス・キリストの生命(いのち)に生きていたからです。

【使徒聖ヨハネは、私たちの生涯のプログラムの模範を示す】

これが私たちに教会が提案する待降節のプログラムです。美しいプログラムです。ところがこれは待降節のものだけではありません。私達が一生かけて追及するべきプログラムです。

愛、私たちの主を求めさせる愛、わたしたちの主を失うことを恐れさせる愛、また主の愛に休む愛、この三つの愛の結果を、私たちは実現させるようにいたしましょう。そのためには、マリア様にお祈りいたしましょう。マリア様は聖ヨハネよりもっとこれを実現された方でした。被造物の中で最も純粋に、イエズス様をお愛しした方であるからです。ですから、特にマリア様を通してお祈りしましょう。

最後にひとつだけ福音のことを、考察をつけ加えれば、福音ではイエズス様は世の終わりのことについて語られています。世の終わりには審判のためにイエス様が来られる、でもこの審判は何の基準で私達を裁かれるかというと、イエズス・キリストをどのように愛したか、愛さなかったか、ただそれだけで、この基準で、私たちは裁かれます。なぜかと言うと、罪というのはイエス様の愛を拒むことだからです。

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン。


聖ピオ十世会 カトリック聖伝のミサの報告【東京】【札幌】 Traditional Latin Mass in Japan SSPX Japan

2023年02月23日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

灰の水曜日に東京の夕方のミサに来られた方は、子供達も入れて合計54人でした。暁の星聖母修道院では6人、札幌では約40人ほどがミサに与りました。

2月23日には札幌では50人以上の方々がミサに与るお恵みをえました。天主に感謝いたします。北海道の各地から遠路を移動されミサに与るために大きな犠牲を払われた愛する兄弟姉妹の皆様に祝福がありますように!皆様は聖伝のミサに与るのを長く待っておられました。喜びに満ちた兄弟姉妹の皆様の輝く笑顔を見て、私たちは幸福でした。

ミサの後でミサとは何かの黙想をしました。聖なる四旬節をお過ごしください!天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田神父

【報告】
Dear Fathers:

Shown below are the number of attendees at the Ash Wednesday evening mass in Tokyo today and the amounts of donations received and payments made.

The total number of attendees at the evening mass today was 54 including children.

18:30 mass
M: 26 (incl. 3 children)
F: 28 (incl. 7 children)
Total: 54 (incl. 10 children)





















ミュラー枢機卿「『ドイツのシノドス・セクト』はカトリック信仰をLGBTイデオロギーに置き換えている」

2023年02月23日 | カトリック・ニュースなど

ミュラー枢機卿「『ドイツのシノドス・セクト』はカトリック信仰をLGBTイデオロギーに置き換えている」

Cdl. Müller: ‘German Synodal sect’ has replaced Catholic faith with LGBT ideology

「キリストが来られたのは、天主の愛を持ち出して、罪を釈明して矮小化するためではなく、死すべき存在である私たちから致命的な刺を抜き取り、私たちがキリストに従って『正義とまことの聖徳において』生きるようにするためだった」。

アンドレアス・ヴァイルツァー

2023年2月13日(月曜日) 米東部標準時間午後1時2分

(LifeSiteNews)―ゲルハルト・ミュラー枢機卿は、異端的な「シノドスの道」を非難し、その主唱者たちを「ドイツのシノドス・セクト」と呼んでいる。

当時の教理省(CDF)の元長官であるミュラーは、kath.netに掲載された意見記事で発言を行い、2月8日のプラハの世界シノドス会議でゲオルク・ベツィング司教が行った異端的発言に応えた。

「同性愛とジェンダーのイデオロギーは、あらゆる科学的、哲学的、神学的人間学に反しており、ドイツのシノドス・セクトのカトリシズムは、『異なっていること』(being different:andersseienden)についてのカトリック信仰の解釈法を置き代えた。」とミュラーは述べた。

ドイツ司教協議会のトップで、ドイツの「シノドスの道」の共同議長であるベツィングは、東欧と西欧のカトリック教会の間には、「第二バチカン公会議の教えの受容と、民主的なプロセスや構造における【教えの】行使の深化において異なる状態」がある【東欧のカトリック教会は保守的である】、と述べた。

ベツィングはさらに、「信仰の規則」と「罪に固執すること」に関する話で、以下のように「困惑している」と述べている。

---- いくつかの【東欧のカトリック教会の】発言から、明確さを求める声を私は聞いています。教会における信仰の規則とは何か、と。教理の中核に属するものは何か、と。そして、名前を挙げることができ、また挙げなければならない罪とは何か、と。私はこのことに困惑しています。キリスト教の信仰とは、自由と救いの宗教であり、罪に固執することではありません。

---- 教会を難攻不落で不変のものであると提示して、特定のグループを排除するという既存の基準を強く主張するために、ここでは潜在的に罪であり、罪人であるということが強く主張されているという印象を受けるのを、私は隠すことができません。

「これは私の信仰ではなく、キリストと教会に対する私のイメージでもありません。これまで道徳的に『無秩序』と判断されてきた生活状況において、忠誠であって忠実だったことを証明してきた教会の人々の声に耳を傾ける必要があります」とベツィングは宣言した。

ミュラー枢機卿は批判の中で、「ドイツのもう一つのカトリシズムの主人公たち【ベツィングらのこと】」がプラハのシノドス会議を利用して、「自分たちが感じてはいるものの証明されてはいない、東(欧)の伝統的なカトリシズムに対する道徳的・精神的優位性を誇示している」【ドイツ教会は東欧のカトリック教会が保守的であることを軽蔑している】と指摘した。

教会の聖伝の教えが強く主張されていることに、「困惑している」とするベツィングの発言に対して、このドイツ人ミュラー枢機卿は、使徒パウロの次の言葉もベツィングに当てはまると答えた。

「私は、天主の御前で、また生きている人々と死んだ人々を裁かれるキリスト・イエズスの御前で、その現れと御国のために、あなたに切に願う。御言葉を宣教せよ。よい折があろうとなかろうと繰り返し論じ、反駁し、とがめ、すべての知識と寛容をもって勧めよ。人々がもはや健全な教えを忍ばす、私欲のままに、耳に快いことを聞かせる教師を集め、真理から耳をそむけ、作り話に耳を傾ける時が来るであろう」(ティモテオ後書4章1-4節)。

「【ベツィングらは】心底から、キリスト教の信仰とは『自由と救いの宗教』である――『罪への固執』と対照的な――と宣言している。あたかも私たちの『御言葉と教えの奉仕者』(ルカ1章2節、ティモテオ前書5章17節)が、使徒時代からの最も重要な信仰告白である『キリストは私たちの罪のために死なれた』(コリント前書15章3節)を無視して通り過ぎたかのようだ」と、ミュラーは書いている。

「だから、私たちがよく知っているように、『私たちの古い人間がキリストとともに十字架につけられたのは、罪の体が破壊されて、もはや罪の配下につかないためである』(ローマ6章6節)。そして、『自由への呼びかけ』は、『自由を罪の口実にしてはならない。洗礼を受けた者である私たちが、天主の霊によって歩み、肉の欲(淫行、不潔、徒党、分離など)を遂げさせることはないように』(ガラツィア5章1、13-25節参照)」という勧めと結びついている」。

「同性愛とジェンダーのイデオロギーは、あらゆる科学的、哲学的、神学的人間学に反しており、ドイツのシノドス・セクトのカトリシズムは、『異なっていること』(being different:andersseienden)についてのカトリック信仰の解釈法を置き代えた」とミュラーは続けた。「しかし、超自然的で救いに満ちた信仰は、『血統(ちすじ)ではなく、肉体の意志ではなく』(ヨハネ1章13節)つまり民の声と民の説教壇からではなく、天主の御言葉を聞くことから生まれるのである」。

「キリストが来られたのは、天主の愛を持ち出して、罪を釈明して矮小化するためではなく、死すべき存在である私たちから致命的な刺を抜き取り、私たちがキリストに従って『正義とまことの聖徳において』(エフェゾ4章24節参照)生きるようにするためだった」。

「司教の職務の本質に反して、教会を脆弱にし、『(その性質と使命に従って)変わりやすいものとして提示する』ために、天主から引き離す自己破壊の力(これを罪が持っている)を否定する司教は、(罪へではなく)罪からの救いの神秘を理解しておらず、使徒の後継者としての召命、すなわち、御父から受けたキリストの使命(ヨハネ20章21節参照)によって、聖霊において民の罪を赦すという召命を怠っている」。

ミュラーは、ベツィングの「これは私の信仰ではなく、キリストと教会に対する私のイメージでもありません」という発言は、この「シノドスの道」共同議長の「カトリック信仰への反発」を裏付けるものであると指摘した。

このドイツの枢機卿は、「要約すれば、このドイツの『シノドスの道』共同議長がカトリック教会で感じている『相当な緊張』の理由は、(異なる)民族の文化的不調和に根差すものではなく、『シノドスの道』の主唱者たちが信奉している、カトリックの信仰の教理への異端的な反発に根差すものである」と結論づけた。


ハンガリーのマールフィ大司教はLGBTイデオロギーがイスラム教よりもさらに「大きな脅威」とし、欧州の多くの地域で同性愛を受け入れていることを強く非難

2023年02月21日 | カトリック・ニュースなど

ハンガリーのギュラ・マールフィ大司教、フリーメーソン、LGBTイデオロギー、欧州で台頭するイスラムを警告

Hungarian archbishop blasts Freemasonry, LGBT ideology, rising Islam in Europe

ギュラ・マールフィ大司教 (Archbishop Gyula Márfi) は、フリーメーソンとイスラム教が欧州のキリスト教のルーツに対する重大な脅威であると指摘し、特にLGBTイデオロギーに対して警告を発した。

マールフィ大司教はLGBTイデオロギーがイスラム教よりもさらに「大きな脅威」とし、欧州の多くの地域で同性愛を受け入れていることを強く非難した。

レイモンド・ウルフ

2023年1月9日(月曜日) 米東部標準時間午後5時47分

ハンガリー・ベスプレーム(LifeSiteNews)―ハンガリーのある高位聖職者が最近、欧州におけるLGBT思想、イスラム教、反キリスト教感情の高まり、欧州連合の指導者に対するフリーメーソンの影響力に対し、声を大にして訴えた。

ベスプレーム教区のギュラ・マールフィ名誉司教は先月、保守系のハンガリー紙「マジャール・イェレン」とのインタビューで、欧州連合(EU)内の左翼勢力による欧州のキリスト教に対する多角的な攻撃について警告した。

「EUの反キリスト教の最も顕著な兆候の一つは、憲法が欧州のキリスト教のルーツを念頭に置いていないことです」と述べ、この点は教皇聖ヨハネ・パウロ二世と教皇ベネディクト十六世も、同様に強調していた。

マールフィ大司教は、EU憲法について、「彼らはギリシャ・ローマの伝統と啓蒙については書きますが、キリスト教については書いていません」と述べた。「しかし、古代の文化や芸術はキリスト教徒だからこそ生き残ってきたのです。ウェルギリウス、タキトゥス、ホメロスなどの著作は、独房の奥深くにいる修道士によって書き写されてきました」。

また、欧州文明に対するキリスト教の重要性を強く主張した教皇ベネディクト十六世に向けられた悪質な反聖職者主義を引き合いに出した。

さらに大司教は、公共の場でクリスマスが消されていることを嘆き、「クリスマス」という言葉を「ホリデー」に置き換える傾向が強まっていることを指摘した。

大司教は、EUの首都ブリュッセル市が2012年、イスラム教徒の人々の気分を害することを恐れてクリスマスツリーの設置を断念したことを思い起こした。

さらに最近では、2021年に欧州委員会が、「クリスマス期間」という言葉を排除することを示唆した内部コミュニケーションガイドラインをめぐって、激しい批判にさらされた。欧州委員会は最終的にこのガイドラインを撤回した。

マールフィ大司教:フリーメーソン、イスラムがキリスト教欧州の脅威

マールフィ大司教は、欧州の世俗化に動いている主要なグループとして、カトリック教会の長年の敵であるフリーメーソンを挙げた。

「フリーメーソンの目的は、欧州からキリスト教を『排除』することです」と彼は言う。「それを達成するために、彼らは、ロビー活動を駆使して無理やり欧州連合の指導者に浸透し、あらゆる手段を講じようと考えています」。

E.U.憲法起草を取り仕切ったヴァレリー・ジスカールデスタン元フランス大統領はフリーメーソンだった。

また、この引退した大司教は、欧州のキリスト教文化を弱める主な手段として、イスラム教徒の大量移住を指摘した。

「私の考えでは、イスラム教徒もまた、欧州からキリストとキリスト教を追い出すために呼ばれている」と彼は「マジャール・イェレン」に語った。

「今日、フリーメーソンとイスラム教徒は、欧州からキリスト教を消滅させるために一体となっています」と、彼は観察した。「それは、律法学士とファリザイ派が、彼らの不倶戴天の敵であるポンシオ・ピラトと協力して、イエズスを排除しようとした、救い主の時代と実質的に同じです」。

大司教は続けます。「多文化的な混合社会では、個人はアイデンティティー、アイデンティティー意識、文化、信仰、言語、実質的にはすべてを失います。地球全体を巨大な集団農場にして、民族・国・宗教のアイデンティティーもなく、従順な労働者と規格に従った消費者だけが存在する場所にしたがっている」強大な企業の利益のために、人々を操作しやすくする。

しかし、欧州のリベラル派は、イスラム教徒の大規模な移住を受け入れることによって、「最終的に自分たちを破滅させるつもりです」と、彼は述べた。「イスラム教徒は、彼らのリベラルな原則を決して受け入れない」からである。

マールフィ大司教は長年、左翼的な移民政策を率直に批判しており、自由な移民受け入れを教皇在位中の中心テーマとして受け入れている教皇フランシスコとは対立している。

「教皇は、すべての小教区にシリア難民の家族を受け入れるように、と言われました。まあ、多くの小教区は外部の援助なしには維持できないのですが」と、このハンガリー人高位聖職者は2015年に発言している。
「イスラム大衆の指導者たちは、背教した大陸を占領するための状況が熟していることをはっきりと理解できています」と、大司教は当時、厳しく警告していた。

マールフィ大司教は「マジャール・イェレン」とのインタビューの中で、イスラム教徒がキリスト教欧州、特にオスマントルコの戦争の際にトルコ人の手によって広範囲に荒廃して苦しんだハンガリーに対して、暴力とテロを繰り返してきた長い歴史に言及した。

「彼らは150年前からハンガリーに住んでいて、どれだけの破壊を引き起こしたか私たちは知っています」と、彼はイスラム教徒について言った。「私たちハンガリー人は、今でもその記憶をある程度、遺伝子に刻んでいます」。

LGBT運動はさらに「大きな脅威」

イスラム教が欧州のキリスト教にもたらす重大な危機にもかかわらず、マールフィ大司教はLGBTイデオロギーの名前を挙げて、さらに「大きな脅威」とし、欧州の多くの地域で同性愛を受け入れていることを強く非難した。

同性「結婚」の合法化は「致命的な罪」であると、この高位聖職者は断言した。「欧州のほとんどの国ですでに起きていることを残念に思います」。

さらに彼は、過激なLGBT運動から子どもの権利を守ることを強調した。「ちなみに、LGBTQの問題に関して、私たちは子どもたちの権利も忘れてはなりません」と主張した。

子どもたちは「母親と父親を持つ権利があります」と、カトリックの教えを繰り返した。「メディアや広告、教育を通じて、彼らが自分の性の自認や指向について不安を抱くことを許してはなりません」と付け加えた。

ハンガリーは2021年、教育やメディアにおける未成年者の同性愛や性別混同の促進を禁止する法律を制定し、以前、厳しい移民政策をめぐって同国を訴えたEUからの法的措置を促進させた。

大司教はさらに、ドイツのカトリック位階階級の間でLGBTイデオロギーが広く受け入れられていることに触れ、この状況を「破滅的」と呼んだ。

「私はそれも理解できません。これは正当化できません」と述べた。「ドイツの教会の状況は本当に破滅的です」。

「ドイツのカトリック司祭のかなりの部分が今や、同性同士の『結婚』だけでなく、同棲も祝福しています」と指摘した。「これはもはやキリスト教ではなく、すでに反キリストです」。

「私たちは信仰に強く寄りすがる必要があります」とマールフィ大司教は宣言した。

この高位聖職者のコメントは、ゲルハルト・ミュラー枢機卿が最近行ったLifeSiteNewsとのインタビューで、同性間の「祝福」を「絶対的な異端と離教」と表現したコメントと類似している。

「私たちはLGBTの狂気と妥協することはできません。それは絶対的に間違っていて、絶対的に誤りであり、人々にとって絶対的に危険なことです」とミュラー枢機卿は述べている。


悲しみの聖母に対する祈り:めでたし、苦しみに充ち満てるマリア、十字架に付けられたもうた主御身とともにまします。

2023年02月21日 | カトリックとは

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

私たちがいつも唱えている「天使祝詞」Ave Maria にヒントを得た悲しみの聖母に対する祈りがあることを最近教えてもらいました。

普通の天使祝詞は次の通りです。

AVE MARIA, gratia plena, Dominus tecum. Benedicta tu in mulieribus, et benedictus fructus ventris tui, Iesus. Sancta Maria, Mater Dei, ora pro nobis peccatoribus, nunc, et in hora mortis nostrae. Amen.

【天使祝詞】めでたし、聖寵充ち満てるマリア、 主御身と共にまします。御身は女のうちにて祝せられ、御胎内の御子イエズスも祝せられ給う。天主の御母聖マリア、罪人なるわれらのために、今も臨終の時も祈り給え。アーメン

これを普通の白い鍵盤だとすると、黒い鍵盤の単調のような、悲しみの聖母に対する祈りがあります。聖ボナヴェントゥーラが作ったと言われています。教皇ピオ九世は、1847年に100日の贖宥を与えました。

Ave Maria, doloribus plena! Crucifixus tecum: lacrymabilis Tu in mulieribus, et lacrimabilis fructus ventris tui Iesus. Sancta Maria, Mater Crucifixi: lacrymas impertire nobis crucifixoribus filii tui, nunc et in hora mortis nostrae. Amen.

めでたし、苦しみに充ち満てるマリア、十字架に付けられたもうた主御身とともにまします。
御身は女のうちにて涙せられ、御胎内の御子イエズスも涙せられたもう。十字架に付けられたもうた主の御母聖マリア、御子を十字架に付けるわれらのために、今も臨終のときも涙を祈り求め給え。アーメン。

明日は灰の水曜日です。良い四旬節をお過ごしください。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


【参考情報】【我那覇真子インタビュー】LGBT当事者ウォルト・ヘイヤー氏告発:性転換手術は「史上最大の医療詐欺」 Sex Change Regret : Walt Heyer

2023年02月20日 | プロライフ

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

参考情報を提供いたします。「LGBT当事者告発/性転換手術は「史上最大の医療詐欺」ウォルト・ヘイヤー氏 Sex Change Regret : Walt Heyer」

独立系のジャーナリストである我那覇真子さんが、ウォルト・ヘイヤー氏にインタビューをした内容の動画です。

ウォルト・ヘイヤー氏は、8年間トランスジェンダーで女性になろうとした男性です。1983年4月に手術も受けました。しかしホルモン投与も手術も、性別を変えることができないという事実を体験によって知ります。彼によれば、手術により見かけは女性かもしれないが、男のまま残るのです。コスプレであり、ネームカードが男から女に変わるだけです。彼は後悔し、30年前に、脱トランスジェンダーをします。現在、世界中から1万人以上のトランスジェンダーの人々を、正常の生活の戻るように助けています。https://sexchangeregret.com/

研究によると、トランスジェンダーの手術を受けた方々の大多数(61.3%)は、痛みや出血、肉芽や尿漏れ、傷、などに苦しんでいます。多くの方々(20%)が後悔し、脱トランスジェンダー運動が起こっています。

トランスジェンダーを支持するスウェーデンにおける30年以上にわたる調査によると、トランスジェンダーの手術を受けた後の10年から15年の間には、あまりにもの後悔のために、トランスジェンダー手術を受けなかった人々と比べると、自殺率は20倍になります。

ウォルト・ヘイヤー氏の語ることを聞いてください。彼は自分が体験した苦しみから隣人を救おうとしています。彼の体験した苦しみを、無辜の子供たちに与えてはなりません。

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ポール・コークリー大司教は、カトリック信者の弁護士、実業家、CEOらの会合で、トランスジェンダー運動を「善意の狂気」だとして糾弾した。

2023年02月20日 | カトリック・ニュースなど

米大司教は、LGBTイデオロギーの「狂気」をカトリック実業家への講話で非難

US archbishop denounces ‘madness’ of LGBT ideology in address to Catholic businessmen

オクラホマシティーのポール・コークリー大司教も、「政治的左派の中の一部の過激派の不寛容さ」から来る「教会の善行に対する新たな脅威」に警告を発した。

ルイス・ナフク

2022年12月20日(火曜日) 米東部標準時間午後2時14分

カリフォルニア州ナパ(LifeSiteNews)―保守派のポール・コークリー大司教は、カトリック信者の弁護士、実業家、CEOらの会合で、米国の生活のあらゆる側面を覆う「相対主義の疫病」と「真理の蝕み」に警告を発し、トランスジェンダー運動を「善意の狂気」だとして糾弾した。

先月、米国司教協議会の事務局長(secretary)に選出された、このオクラホマシティー大司教は、カリフォルニア州に拠点を置くカトリック実業家のグループ「ナパ研究所」の11月30日の会合、「モンシニョール・ヘロンの晩餐会」の場でコメントを発表した。同研究所は、米国の文化の世俗化が進行し、国家のキリスト教的ルーツの拒絶が高まっているのに対応して、「カトリック教徒の教育、人格形成、ネットワーク化におけるパン種の役割を果たすために」設立されたものである。大司教の講話は、「トランスジェンダーと真理の蝕み」と題されている。

コークリー大司教は語った。「私たちは、生活のほぼすべての面で、相対主義という災いを目にしています。政治では、私たちは、代替的事実【alternative facts: 事実であるように提示されているが事実ではないプロパガンダや情報操作】のことを語っています。教育では、等しく有効な視点【equally valid perspectives:矛盾する複数の命題が同時に正しい(有効)とされること】を強調しています、そして悲しいことに、時には教会でさえも、道徳的な教えの変更、特に性的倫理の変更を推し進める動きを語っています。トランスジェンダー運動ほど、経験や願望が真実を蝕む文化の中に私たちが生きていることを示す顕著な証拠はありません」。

コークリーは、1960年代の性革命に始まり、避妊が広く受け入れられ実践されてきたこと、1973年の最高裁のロー対ウェード判決(現在はドブス対ジャクソンで覆されている)で中絶が合法化されたこと、同性愛と「同性婚」の受け入れが拡大したことなど、現在のLGBTプロパガンダの波へとつながる進歩的な何回かの段階について言及した。これらの米国社会における文化的・道徳的な出来事が、今日の全米を席巻するLGBTアジェンダの下地を作った、とコークリーは主張した。

「ピルは、セックスを生殖から完全に切り離すという幻想を与え、性欲は、お金を払って、あるいは、結果【子ども】を伴わずに追求できるという作り話を煽り」、結果として「急速な家族の崩壊」を加速させ、避妊に失敗した場合のために中絶が憲法上の権利として確立された、とコークリーは述べた。

「1973年、米国精神医学会は、同性愛を精神病のカテゴリーから除外しました」と大司教は指摘し、同性愛と、トランスジェンダー思想の根底にある道徳的相対主義との間に関連性を見いだした。「同性愛への支持は、性行為と、男女の身体の間にある固有の違いとの関係を断ち切り、性的指向を欲望のみに基づく個人の選択に変えてしまったのです」と述べた。

彼はこう続けた。

「ジェンダーは、単に人がどう感じるか、どう認識するかによって決定されるようになりました。トランス嫌いのレッテルを貼られないためには、これらの感情をジェンダーの真の指標として受け入れなければならず、これらの感情は変えられない『ジェンダー肯定』手術に至るまで支持されなければなりません。…『男女どちらでもないという(nonbinary)アイデンティティー』は急増し、その広がりが主流となりました。このトランスジェンダー・イデオロギー、トランスジェンダー哲学は、誤っていて欠陥のある、まったく不適切な人類学に基づいているのです」。

トランスジェンダー運動が陥っている狂気を糾弾したコークリーは、「トランス運動は社会に大きな損害を与えています」と断定した。男女が自然で生物学的な性を受け入れることを支援しようとする「回心療法」を行うことに反対することを、大司教は「善意の狂気」だと非難した。

コークリーはまた、親の権利と女子スポーツの健全性を擁護した。彼は、「子どものいわゆるジェンダーの権利を守るために親を疎外する」人々を非難し、「スポーツで男性を女性として扱うことの不当性」を糾弾した。

大司教は、バイデン政権の施策とリベラル左派の行動計画(アジェンダ)により、教会は現在、自らが従事する慈善事業に対する「増大する法的脅威」に直面している、と警告した。「教会の善行に対する新たな脅威は、政治的左派内の一部の過激派の不寛容と、この過激派が最も過激な形態の社会運動と結びついたことによるものです」。

コークリーは、バイデン政権が「医師や病院に『性転換』処置を強制し、これらの処置を保険でカバーすることを義務付けるような規制を推進しています」と指摘した。

愛徳と真理の両方に基づいた真正なるカトリック的な司牧的対応を呼びかけて、大司教は、「これらすべてのトランス運動による危険に直面して、私たちは、『性別違和』に悩むすべての人を愛し、彼らに寄り添うように求められています。特に彼らは通常、計り知れない痛みを抱えていますから」と述べた。しかし、彼はこう警告した。「悪魔が、生物学的な性(sex)と社会的な性(gender)に関して社会を混乱させることができるのならば、悪魔は、私たちが天主の人類に対する計画だと理解していることを、その根底から曖昧にしているのです」。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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