Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

聖母の汚れなき御心への奉献更新のため:天主に対する愛を増す方法

2013年06月30日 | カトリックとは
聖母月中の祈祷


我等主の御前(みまえ)に出で、主の御母マリアの尊敬によりて、主を讃美(さんび)し奉つらんとす。主よ願わくは我等の心を浄(きよ)め、すべての無益なる思いより遠ざけしめ、我が智恵を照らし、意志をば堅固(けんご)ならしめ給わんことを、我等の主イエズス・キリストによりて、アメン
 最も尊むべき天主の御母童貞聖マリアよ、我等は御身につくすべき尊敬と愛とを現さんがために此処に集(つど)いきたれり。
 我等は全能の天主が御身(おんみ)にかくも高き御位(みくらい)と御光栄(みさかえ)とを下し給えることを喜び、且つ主が御身(おんみ)の御心(みこころ)に最も深きいつくしみを与え、御身(おんみ)を我等の母と定め給いしによりて主を讃美し奉(たてまつ)る。
 我等はこの月を聖母の月として今日一日をもまた御身の尊敬のために捧(ささ)げ奉(たてまつ)る。
いつくしみ深き聖母よ、我等は御身(おんみ)を御子イエズスの御前(みまえ)における代祷者(だいとうしゃ)として撰(えら)び奉(たてまつ)る。
 今新たに我等が身も心も御身(おんみ)に献げ、我等が悲しみも喜びも生命(いのち)、死もすべて主の御旨(みむね)にかなうよう御身(おんみ)に任(まか)せ奉る。願わくは我等の御母たることを示し給へ。我等は叉、聖会と教皇、及びすべての聖職者並びに生けると死せる親族友達の為に祈り奉る。願わくは我等が讃美(さんび)と祈りとをもって御身の御心(みこころ)を喜ばせ奉らんとするを顧(かえり)み給え。
 我等はこの聖(とうと)き月において、すべての公教信者が特に御身(おんみ)にさゝぐる其の祈りに我等の祈りを合わせ、且(か)つ天国において、天の元后(げんこう)なる御身(おんみ)を永遠に讃美(さんび)する諸々(もろもろ)の天使と共に御身を讃(たた)えまつらん。
 されば我等をして死に至るまで生涯(しょうがい)忠実に主に仕(つか)え、死後天堂(てんどう)において諸天使(しょてんし)諸聖人(しょせいじん)と共に御身(おんみ)を愛し御身(おんみ)に感謝し、御身(おんみ)と共に主を永遠に讃美(さんび)するをうるの最上の幸福をえせしめ給わんとを特に願い奉る。アメン

二 十 六 日
天 主 に 対 す る 愛 を 増 す 方 法

(一)天主に対する愛は洗礼の時に聖霊(せいれい)が我等の心に注(そそ)ぎ給うもので、一つのお恵(めぐ)みである。しかしこの愛の火を益々(ますます)燃(も)えたたしめ、最も高い程度(ていど)にこれを完成する為には、特別よい方法が二つある。それは祈祷(いのり)と度々(たびたび)の聖体拝領(はいりょう)とである。
 我等は愛を与えられんことをいつも願い、愛に満(み)ちたイエズスの聖心(みこころ)に、たえずその愛を分(わ)け与えて下さるよう求め、またマリアに天主を愛する為の御助けを常に請(こ)わねばならぬ。同時に聖マリア及び諸聖人の御手本(みてほん)に倣(なら)い主の御苦難(ごくなん)の黙想(もくそう)につとめなければならない。
マリアは何人(なにびと)にも優(まさ)って、毎日毎時愛する御子イエズスの御苦難(ごくなん)を黙想(もくそう)された。それゆえ天主に対する愛に充(み)ち溢(あふ)れておられたのである。
イエズスの御苦難を、聖アルホンゾは愛の矢と申された。なぜなら主が御苦難(ごくなん)によってわれらに示し給うた無限の愛を考えるほどわれらの冷たいかたくなな心を燃(も)えたたすものはないからである。
 故(ゆえ)に屡々(しばしば)われらは主の御苦難を黙想するがよい。それはイエズスを如何に愛し奉(たてまつ)るべきか、その方法を学(まな)ぶ書物である。それを多く読めば読むほど、われらのイエズスに対する愛は増(ま)し加(くわ)わるであろう。

〔二〕しかし全善(ぜんぜん)なる天主に対する愛を、いよいよ増(ま)すべき最良の方法は聖体を屡々(しばしば)拝領することである。
 「我は地上に火を放(はな)たんとて来(き)たれり。その燃(も)ゆる外(ほか)には何をか望(のぞ)まん」とキリストは仰せられたがこの火はイエズス御自身(ごじしん)である。
火は多くの物を火にかえる如く、イエズスも聖体(せいたい)拝領(はいりょう)する者と一致(いっち)して、彼を御自分に似(に)た者とされるのである。
「我が肉を食し我が血を飲む者は、我に止(とど)まり我もまた彼に止(とど)まる」と主(しゅ)御自(おんみずか)らも嘗(かつ)て宣(のたも)うた。
 それゆえ聖体拝領を屡々(しばしば)すればするほど、われらは益々キリストに清められ、主の愛に熱せられ、ついには主と全(まった)く一致(いっち)して、聖パウロと共に「我は生(い)くと雖(いえど)も最早(もはや),我に非(あら)ず、キリストこそ我に於いて生(い)き給うなれ」と叫ぶことができるようになる。聖マリアが、いかに謙遜(けんそん)に、いかに愛にもゆる心を以てイエズスをお受けになったかを思え。
また聖母がその天主なる御子といかにして全く一致し給うたかを思え。
われらは謙遜と聖(とうと)い愛とを以て、もっと度々(たびたび)聖体の食卓(しょくたく)に近づくようにしよう。   そしてもっと度々(たびたび)主の甘味(かんみ)なる愛を味(あじ)わうようにしよう。

○ 聖マリアによりて、天主に対する愛を益々厚くする聖寵(せいちょう)を与えられんために「めでたし」三度唱(とな)えん。

     祈 願 せ ん

 主イエズス・キリスト主はわれらを主の愛に止(とど)まらしめんとて、聖体の秘蹟(ひせき)を定め、以てかたじけなくもわれらが霊魂(れいこん)の糧(かて)となし給えり。
さればわれらこの世に於いては、適当なる覚悟(かくご)のもとに屡々(しばしば)聖体を受け、天主に対する愛を増(ま)し、殊(こと)に臨終(りんじゅう)に於(お)いてはこの天使のパンによりて強められ、安全にこの世を去り、愛の秘蹟(ひせき)にいます主の、寛大(かんだい)なる審判(さばき)に与(あずか)らんことを、聖マリアの御伝達(おんとりつぎ)によりて願い奉(たてまつ)る。   アメン。



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聖母の汚れなき御心への奉献更新のため:愛徳

2013年06月29日 | カトリックとは
聖母月中の祈祷


我等主の御前(みまえ)に出で、主の御母マリアの尊敬によりて、主を讃美(さんび)し奉つらんとす。主よ願わくは我等の心を浄(きよ)め、すべての無益なる思いより遠ざけしめ、我が智恵を照らし、意志をば堅固(けんご)ならしめ給わんことを、我等の主イエズス・キリストによりて、アメン
 最も尊むべき天主の御母童貞聖マリアよ、我等は御身につくすべき尊敬と愛とを現さんがために此処に集(つど)いきたれり。
 我等は全能の天主が御身(おんみ)にかくも高き御位(みくらい)と御光栄(みさかえ)とを下し給えることを喜び、且つ主が御身(おんみ)の御心(みこころ)に最も深きいつくしみを与え、御身(おんみ)を我等の母と定め給いしによりて主を讃美し奉(たてまつ)る。
 我等はこの月を聖母の月として今日一日をもまた御身の尊敬のために捧(ささ)げ奉(たてまつ)る。
いつくしみ深き聖母よ、我等は御身(おんみ)を御子イエズスの御前(みまえ)における代祷者(だいとうしゃ)として撰(えら)び奉(たてまつ)る。
 今新たに我等が身も心も御身(おんみ)に献げ、我等が悲しみも喜びも生命(いのち)、死もすべて主の御旨(みむね)にかなうよう御身(おんみ)に任(まか)せ奉る。願わくは我等の御母たることを示し給へ。我等は叉、聖会と教皇、及びすべての聖職者並びに生けると死せる親族友達の為に祈り奉る。願わくは我等が讃美(さんび)と祈りとをもって御身の御心(みこころ)を喜ばせ奉らんとするを顧(かえり)み給え。
 我等はこの聖(とうと)き月において、すべての公教信者が特に御身(おんみ)にさゝぐる其の祈りに我等の祈りを合わせ、且(か)つ天国において、天の元后(げんこう)なる御身(おんみ)を永遠に讃美(さんび)する諸々(もろもろ)の天使と共に御身を讃(たた)えまつらん。
 されば我等をして死に至るまで生涯(しょうがい)忠実に主に仕(つか)え、死後天堂(てんどう)において諸天使(しょてんし)諸聖人(しょせいじん)と共に御身(おんみ)を愛し御身(おんみ)に感謝し、御身(おんみ)と共に主を永遠に讃美(さんび)するをうるの最上の幸福をえせしめ給わんとを特に願い奉る。アメン

二 十 五 日
愛     徳

(一)己(おのれ)に克(か)ちこの世のはかない物から遠ざかる心には、天主に対する愛が充満(みちみち)ているのである。それによって見れば、聖マリアはどれほど深く天主を愛していられたか知れない。
 聖ベルナルドも云われた如く、聖マリアは総(すべ)ての人間には勿論(もちろん)、天使にさえも勝(まさ)って天主を愛しておいでになった。
 故(ゆえ)に聖母マリアを一(いつ)に愛の元后(げんこう)とも申し上げる。なぜならば彼女は天主の「汝、心を尽くして汝(なんじ)の主なる天主を愛せよ」という律法(りっぽう)を一番完全に守られたからである。
故(ゆえ)に或る聖人は「天の使いさえも天より降(くだ)って、天主に対する愛を聖母マリアに学(まな)ばなければならなった」と申された。我等は何故(なにゆえ)、万事(ばんじ)に越えて天主を愛し奉らないか?なぜ天主の外(ほか)に数多(あまた)の物を愛するか?天主は永劫(えいごう)の昔から我等を愛していて下さるのではないか?

(二)聖母マリアは天主に対して、かくの如き深い愛をもっていられるから、其の子たる我等信者が同じく天主を愛し奉る事をも、熱く望(のぞ)んでいられる。或る日聖アンゲラが御聖体を受けた時、聖母マリアは之に「アンゲラよ、御子キリストはかくの如く汝(なんじ)を愛し給うゆえ、汝も力の限りを尽くして主イエズス・キリストを愛さなければならぬ」と申された。
 我等もこの愛(あい)徳(とく)に於(お)いて我等の母たる聖マリアの立派(りっぱ)な御手本にならわんとするならば、出来る限り天主の律法(りっぽう)を守り、熱心に祈って、益々天主の事を考えるようにしなければならぬ。

○ 聖マリアによりて天主に対する愛徳を求めんが為「めでたし」三度唱(とな)へん。

祈 願 せ ん

 主イエズス・キリスト、主は「汝(なんじ)等(ら)、霊(れい)を尽(つ)くし、意(い)を尽(つ)くし、心を尽くし、力(ちから)を尽(つ)くして、主なる汝(なんじ)の神を愛すべし」と曰(のたま)うて、愛が万(よろず)の徳に優(すぐ)れたるものなる事を教え給えり、願わくは我等、愛の元后(げんこう)なる聖母にならい、総(すべ)ての悪しき愛情を防(ふせ)ぎ、犠牲的(ぎせいてき)の聖(たっと)き愛を以て、万事(ばんじ)に超(こ)えて、主を愛するの御恵(おめぐ)みを与え給わん事を。アメン。




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キリストの代理者である教皇のみが、普遍的教会を統治する至高の権力を持つという私たちの信仰

2013年06月28日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 明日6月29日は、使徒聖ペトロとパウロの祝日です。今年、新しい「ペトロの後継者」を選ぶ選挙が行われましたが、それは、誰も思いもしていなかったベネディクト十六世の辞任があったからです。今年は驚くべき事がたくさんありましたが、新しく選ばれた教皇様も私たちのほとんどにとって全くの意外の方でした。私たちは、教皇様のために祈り続けましょう。

 私たちは、天主様の御恵みによって、カトリック、すなわち、まことのキリスト者となりました。カトリック教会にとって、真のキリストの教会に属する私たちにとって、ペトロの後継者はとても大切です。何故なら、イエズス・キリストは使徒聖ペトロの上に御自分の唯一の教会を建てたからです。

 初代から「ペトロを中心とする使徒団は、全教団に対して宣教と統率の実権を握ってい」(岩下壮一『カトリックの信仰』講談社学術文庫 838ページ)ました。使徒行録によると、聖都イエルサレムにおける最初のキリスト信者たちの集まりは、「神秘的な信仰の感激に燃えた一分派ではなく、その中には最初から永続的の組織のあったことが看取され」「可視的の聖職制度であり、信仰の規定があり、特有の秘蹟を備えていた」(上掲書 838ページ)からです。

 パウロも、誰がキリストの神秘体に属し誰が属していなかったかよく知っていました。パウロは信徒に向かっては天主の権威をもって臨みます。教会内の秩序と正当信仰を守るためには、破門すらも躊躇しません。しかしそのパウロも、教会「外にある者は裁かない」と言います。「初代教会は主観的な体験論者の集団ではなかった」(上掲書 901ページ)のです。

 岩下壮一神父の言うように、「カトリック信者の信仰意識においては、神、キリスト、教会は三位一体であって、そこに何らの背反も矛盾も有り得ない。教権か聖霊かというがごとき背反は、どこにも存在し得ない。彼にとっては、教会はキリストであり、その能力たる教権は、すなわち聖霊の働きそのものである。しかし彼のこの信仰はリヴァイヴァル式の感情昂奮の裡に感得したものではなく、冷静なる思慮の後の沈着なる決断の結果であるから、事後の自ら顧みて、その信仰内容を抽象的に分析することも可能である。彼は教会において、人間的な、従って不完全な要素のあることを知る。これあるがゆえに彼は信者であって、直感者ではないのである。彼が信者となったのは、教会がまとえる不完全な人間的な衣装の裏に、キリストを認めたからである。教権がその認めたるキリストを意志を代表する限りにおいて(代表しなくなった瞬間それは教権ではなくなる)、その命令が聖者によって彼にまで伝達さるると、小人によって下さるるとは、あえて問うところではないのである。彼の信仰は、むしろ後の場合においてその貧しき働きを為すのである。彼は目に見ゆるキリストの代理者の権限を知っている。彼はいつもニューマン枢機卿と共に "To my conscience first, and then to the Pope" と言いうるのである。教権は地獄の門がこれに勝ち得ざるほど強きものであると共に、彼の正しき良心をも、自然法をも、聖伝をも、冒し得ぬ底のものである。それは群小教会の小法王においてしばしば見るがごとき、独裁者の主観的見解を容るるに由なきものである。」(上掲書 698ページ)

「そもそも宗教生活の神髄は、神の無限の権威の前に謙遜に跪くにある」(上掲書 637ページ)からです。

 聖書でさえ、教会の権威の前に跪くが故に成立するものです。「彼にとって教会はまた真理である。そのドグマは教会が教うるがゆえに信仰され、聖書は教会が保証するがゆえに神の言として受け容れられる」(上掲書 700ページ)

「彼の信仰は、教皇において全体の頭たるキリストを見る。・・・さればカトリック信者は、聖公会の人などが法王に名誉的優位(Primacy of honour)を譲ってもいいなどという妥協案を提出するときに、その浅見を笑わざるを得ないのである。もしも教皇がキリストの目に見える代理者ではないのなら、彼は何者でもない。いくら教皇領を擁していても三重冠を戴いてバチカン宮裡に蟠踞していたも、彼は一介の平信徒と撰ぶところがないのである。しかるにPrimacy of honourなどとは、それこそ偶像崇拝で、異教復興である。カトリック信者は身を教皇に売るのでもなく、その奴隷になるのでもなく、彼の代表すると信じるキリストの権威に服するのである。」(上掲書 702 - 703ページ ただし一部「法王」は「教皇」に訂正した。)

 それ故にこそ私たちは、日ごとに、「主は御摂理によりて主のしもべなるフランシスコを教会の牧者として、これを司らしめ給えり。願わくは教皇の上に御慈悲を垂れ、その教訓と模範とによりて、すべての信者をますます善徳に進ましめ、委ねられたる群れと共に、永遠の生命に至るを得しめ給え」と祈るのです。日本のミッションでは、この20年間、常に欠かさず聖伝のミサの後で教皇様のために祈りを一緒に捧げていまし、これからもそうし続けます。

 【以上のことは、岩下壮一神父の『カトリックの信仰』を引用しつつ、18年前にナイスについて文章を書いたことがありました、また8年前には「弱い人間性をおびた教導権」を述べて引用したことがありますが、その繰り返しです。』

 聖ピオ十世会創立者ルフェーブル大司教様も、正に、この態度を取っていました。ローマの神学校で勉強し、特にル・フロック神父様から歴代の教皇たちの回勅を学び、ピオ十二世教皇の教皇使節として長年働き、ローマを愛し続けてきた大司教だったからです。ルフェーブル大司教様のローマへの信仰と愛とは、例えば有名な1974年の宣言にも現れています。
「私たちは、心の底から全霊を上げてカトリックのローマに、すなわちカトリック信仰の保護者でありこの信仰を維持するために必要な聖伝の保護者である永遠のローマ、知恵と真理の師であるローマによりすがる。」

 パウロ六世から受けた否定的な態度にも関わらず、ルフェーブル大司教様は、1977年に司教聖別30周年に際してエコンで「天主からの三つの偉大な贈り物」というテーマの説教をしています。すなわち、教皇様、聖母マリア様、御聖体の三つです。ルフェーブル大司教様は、このお説教の中で、私たちは教会の危機に囲まれつつも、ただ目を閉じて、私たちのカトリックとしての義務を忠実に果たすことを説きました。使徒信経を信じ、天主の十戒を守り、山上の垂訓を黙想し、光を待ち望むこと。にがにがしさもなく、乱暴にならず、祈り、苦しみ、試練を受け入れる。天主が私たちに送り給う全ての十字架を忍従する。教皇職に信頼すること。ペトロの後継者としてのペトロの後継者に信頼し続けること。

 何故なら、ルフェーブル大司教様は私たちにローマ・カトリックであることを教えてくれているからです。そして、カトリックの古典的教えを繰り返しつつ、教皇”その人”(ペルソナ)と教皇の”役職”を区別することを教えてくれたからです。この教皇”その人”(ペルソナ)と教皇の”役職”を区別することについては、以前既に述べたことがありした。私たちはそれを今日も繰り返して言います。

 私たちカトリック信徒にとって、従順とは極めて大切です。私たちは、私たちの主イエズス・キリストに従うために、その代理者に従うのだからです。

 私たちの力の範囲を超える現実の状況は、私たちが望まないにもかかわらず、50年前に良いこと賞賛されていたことが、今では「禁止され」「処罰され」「破門され」るべきこととなっており、50年前に禁止され、処罰され、破門されるべきことが賞賛され、祝福されている、これが故に、ルフェーブル大司教様も、私たちカトリック信者も、苦しんでいるのです。

 しかし、カトリック教会は、私たちの主イエズス・キリストの真の教会です。私たちの母親です。これ以外に私たちには別の教会はありませんし、この世には別の母親はありません。教皇様は私たちの父親です。私たちの力の及ぶ限り、私たちの家族であるこのカトリック教会のために祈り、苦しみを捧げます。家族は父親を抜きにして救うことが出来ません。私たちは公会議でもなければ、天主の御摂理でもありません。しかし、天主様は私たちの祈りを、教皇様を助けたいという祈りを聞き入れて下さると信じています。

 聖ピオ十世会は、ルフェーブル大司教の遺志を受け継いで、教皇様のために祈り闘っています。だからこそ昨年の総会では、カトリック教会が、私たちの主イエズス・キリストご自身がそう望んだ君主制的組織であること、このことにより地上におけるキリストの代理者たる教皇のみが、普遍的教会を統治する至高権力を持つこと、また、私たちの主イエズス・キリストが自然的及び超自然的秩序双方の創造主であり、全人類と社会全体とが服従すべきイエズス・キリストは普遍的王権をもっていることに対する信仰を宣言しました。第二バチカン公会議の司教団体制に反対するのは、それが聖伝に反し、唯一教皇だけが持つ最高の権力を、それが否定するからです。

 私たちは、私たちのカトリック生活において、私たちの御旗にこの言葉を書き込みます。「教皇様への愛、教皇職の防御、カトリック教会のための犠牲、教皇職を守るための祈りと犠牲」と。カトリック教会の本当の刷新は、聖伝へのたち戻りは、頭からでなければ起こりえません。私たち聖伝は、不当にも、公式に正当な地位を与えられていませんが、私たちは教皇様のためにカトリック教会のために祈り、犠牲を捧げることによって霊的に戦い続けます。私たちの日々の義務をよく果たすことによって、祈りと償いによって、カトリック教会のために多くの貢献が出来ると知っています。教皇様のために祈りましょう!

 ローマで状況が悪化すればするほど、私たちはいっそう熱心に祈ります。私たちは何度もロザリオの十字軍を起こして祈りを呼びかけました。個人個人でも、家族でも、共同体でも、私たちの教会ではローマのために、教皇様のために祈り続けています。ルフェーブル大司教に倣って、天主様が私たちに教皇様を与えてくださっていることを感謝します。教皇職というのは、この地上のどのような権威よりも上にあるのですから。教皇職というのは、超自然のレベルの権威なのですから、私たちは多く祈らなければなりません。

 たとえ、見かけ上は、教皇様に反対するかのように見えても(例えば現今のエキュメニズムや司教団体主義などを私たちが実践することができないので、あるいはその近代主義に賛同することが出来ないので)、私たちは常に教皇様のその役職に対する愛と尊敬を持ち続けています。私たちの、見かけ上の反対は、できるだけ教皇様を善意に解釈しようとする、苦しみと悲しみと涙に満ちたものです。教皇様は私たちの父親であるからです。

 大変デリケートな立場に私たちはいますが、聖母の汚れなき御心が私たちを助けてくれると信じています。ファティマの聖母マリアさまは幼いヤチンタに教皇様のヴィジョンを見せて諭してくれました。ヤチンタはフランチスコとルチアとにこう言います。「かわいそうな教皇様、私たちは教皇様のためにたくさん祈らなければなりません!」 願わくは、教皇様が一刻も早く聖伝に立ち戻りますように! カトリック教会を、その聖伝に立ち戻らせますように! 永遠のローマがその光を取り戻しますように! 聖母の汚れなき御心よ、教皇様のために祈り給え!教皇様を助け給え! 聖ピオ十世会は、天主様から贈られる全ての十字架と苦しみを捧げます。教皇様を守り給え!

 東欧管区のシュテーリン神父様が聖アンブロジオが聖モニカに言った言葉を私たちの状況に置き換えていみじくもこう言っていますが、正にその通りだと思います。「そのためにこれほど多くの涙を流した父は、使徒継承のカトリック聖伝に立ち戻らないことはあり得ない」と。

 聖ペトロとパウロ、我らのために祈り給え!
 聖ペトロとパウロ、教皇フランシスコのために祈り給え!
 聖ペトロとパウロ、聖ピオ十世会のために祈り給え!
 聖ペトロとパウロ、日本のために祈り給え!

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

文責:トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

聖母の汚れなき御心への奉献更新のため:祈祷

2013年06月28日 | カトリックとは
聖母月中の祈祷


我等主の御前(みまえ)に出で、主の御母マリアの尊敬によりて、主を讃美(さんび)し奉つらんとす。主よ願わくは我等の心を浄(きよ)め、すべての無益なる思いより遠ざけしめ、我が智恵を照らし、意志をば堅固(けんご)ならしめ給わんことを、我等の主イエズス・キリストによりて、アメン
 最も尊むべき天主の御母童貞聖マリアよ、我等は御身につくすべき尊敬と愛とを現さんがために此処に集(つど)いきたれり。
 我等は全能の天主が御身(おんみ)にかくも高き御位(みくらい)と御光栄(みさかえ)とを下し給えることを喜び、且つ主が御身(おんみ)の御心(みこころ)に最も深きいつくしみを与え、御身(おんみ)を我等の母と定め給いしによりて主を讃美し奉(たてまつ)る。
 我等はこの月を聖母の月として今日一日をもまた御身の尊敬のために捧(ささ)げ奉(たてまつ)る。
いつくしみ深き聖母よ、我等は御身(おんみ)を御子イエズスの御前(みまえ)における代祷者(だいとうしゃ)として撰(えら)び奉(たてまつ)る。
 今新たに我等が身も心も御身(おんみ)に献げ、我等が悲しみも喜びも生命(いのち)、死もすべて主の御旨(みむね)にかなうよう御身(おんみ)に任(まか)せ奉る。願わくは我等の御母たることを示し給へ。我等は叉、聖会と教皇、及びすべての聖職者並びに生けると死せる親族友達の為に祈り奉る。願わくは我等が讃美(さんび)と祈りとをもって御身の御心(みこころ)を喜ばせ奉らんとするを顧(かえり)み給え。
 我等はこの聖(とうと)き月において、すべての公教信者が特に御身(おんみ)にさゝぐる其の祈りに我等の祈りを合わせ、且(か)つ天国において、天の元后(げんこう)なる御身(おんみ)を永遠に讃美(さんび)する諸々(もろもろ)の天使と共に御身を讃(たた)えまつらん。
 されば我等をして死に至るまで生涯(しょうがい)忠実に主に仕(つか)え、死後天堂(てんどう)において諸天使(しょてんし)諸聖人(しょせいじん)と共に御身(おんみ)を愛し御身(おんみ)に感謝し、御身(おんみ)と共に主を永遠に讃美(さんび)するをうるの最上の幸福をえせしめ給わんとを特に願い奉る。アメン

二 十 四 日
祈     祷

(一)聖アルホンゾ・デ・リゴリも云われた如く、地上に於いて聖マリアほど主イエズス・キリストの「人(ひと)常(つね)に祈りて倦(う)まざるべし」という、御(おん)すすめに、,完全に従われた者はなかった。
 マリアは三才の時すでにエルザレムの聖殿に行かれて、熱心な祈りを捧げられた。
叉聖母は常に心を天主に献げ、御子キリストの御死去、御昇天の後に、始終その御誕生の地、或は御苦難、御死去の跡を訪問されて、その御歓喜(おんよろこび)や御(おん)苦しみの深い玄(げん)義(ぎ)について考えられたのである。我等も聖マリアの御手本にならい、少なくとも毎日唱(とな)えなければならぬ祈りは怠らず、叉、聖堂に於(お)いても聖マリアの熱心にならう所がなければならぬ。祈りは総(すべ)ての恵(めぐみ)の鍵(かぎ)である。
また黙想(もくそう)の祈りによって我等の心は段々(だんだん)この世のはかないものから離れ、遂(つい)に上の事、即ち天国の事を考えるようになるのである。

(二)聖アルホンゾの云われた如く、聖母マリアは非常に祈りを好んでいられたから、できるだけ人からはなれているようにつとめられ、ことに無駄(むだ)な世間話を避(さ)けられた。部屋の中で熱心に祈りを捧げていられた時、大天使聖ガブリエルが現れて、救い主の御母に選ばれた事をマリアに告(つ)げられたのも、聖母が部屋の中で熱心に祈りを献げていられた時であった。
 我等もこの点に於(お)いて聖マリアにならい、能(あた)う限り無益(むえき)な話をせず貴(とうと)き時間を浪費(ろうひ)する事のないよう、心掛けなければならぬ。毎日のつとめをつくすに当たっても、少なくとも時々は心を天主に献げて短い祈祷(いのり)をするようにしよう。

○ 聖マリアによりて熱心な祈りの恵(めぐみ)を与えられんが為「めでたし」三度唱(とな)えん。

祈 願 せ ん

主イエズス・キリスト、主は御言葉(みことば)と御行為(おんおこない)とを以て、我等に祈りを教え給えり。
願わくは聖母マリアの御伝達(おとりつぎ)によりて、我等に祈りを好む精神を与え、その趣味(しゅみ)を感ぜしめ、御命令(ごめいれい)に従いて、常に祈り、遂には確乎(かっこ)不動(ふどう)の信仰に達せしめ給わん事を。アメン。


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司教聖別の25周年の宣言(英語版)

2013年06月27日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 エコンでは、今日、ルフェーブル大司教様が1988年にした司教聖別の25周年の感謝の記念のミサがありました。その際になされた3名の司教様たちの宣言を英語でご紹介します。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

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Declaration on the occasion of the 25th anniversary of the episcopal consecrations (30th June 1988 – 27th June 2013)

1- On the occasion of the 25th June 1988. Most especially they would like to express their filial gratitude towards their venerable founder who, after so many years spent serving the Church and the Sovereign Pontiff, so as to safeguard the Faith and the Catholic priesthood, did not hesitate to suffer the unjust accusation of disobedience.

2- In his letter addressed to us before the consecrations, he wrote, “I beseech you to remain attached to the See of Peter, to the Roman Church, Mother and Mistress of all churches, in the integral Catholic Faith, as expressed in the Professions of Faith, in the catechism of the Council of Trent, in conformity with that which you have been taught in the seminary. Remain faithful to the transmission of this Faith so that the reign of Our Lord may come.” It is indeed this phrase which expresses the profound reason for the act which he was going to undertake “so that the reign of Our Lord might come,” adveniat regnum tuum!

3- Following Archbishop Lefebvre, we affirm that the cause of the grave errors which are in the process of demolishing the Church does not reside in a bad interpretation of the conciliar texts – a “hermeneutic of rupture” which would be opposed to a “hermeneutic of reform in continuity” – but truly in the texts themselves, by virtue of the unheard of choice made by Vatican II. This choice is manifest in its documents and in its spirit; faced with “secular and profane humanism,” faced with the “religion (as indeed it is) of man who makes himself God,” the Church as unique custodian of Revelation “of God who became man” has wanted to make known its “new humanism” by saying to the modern world, “we too, we more than any other, have the cult of man.” (Paul VI, closing speech, 7th December 1965). But this coexistence of the cult of God and the cult of man is radically opposed to the Catholic Faith which teaches us to render the supreme cult and to give the primacy exclusively to the one true God and to only His Son, Jesus Christ, in whom “dwelleth all the fullness of the Divinity corporeally” (Col. 2:9).

4- We are truly obliged to observe that this Council without comparison, which wanted to be merely pastoral and not dogmatic, inaugurated a new type of magisterium, hitherto unheard of in the Church, without roots in Tradition; a magisterium resolved to reconcile Catholic doctrine with liberal ideas; a magisterium imbued with the modernist ideas of subjectivism, of immanentism and of perpetual evolution according to the false concept of a living tradition, vitiating the nature, the content, the role and the exercise of ecclesiastical magisterium.

5- Henceforth the reign of Christ is no longer the preoccupation of the ecclesiastical authorities, despite the fact that Christ’s words, “all power is given to me on earth and in heaven,” (Mt 28:18) remain an absolute truth and an absolute reality. To deny them in action is tantamount to no longer recognising in practice the divinity of Our Lord. Hence because of the Council, the sovereignty of Christ over human societies is simply ignored, and even combatted, and the Church is imbued with this liberal spirit which manifests itself especially in religious liberty, ecumenism, collegiality and the New Mass.

6- Religious Liberty, as exposed by Dignitatis humanae and its practical application these last fifty years, logically leads to demanding God-made-Man to renounce His reign over man-who-makes-himself-God, which is equivalent to dissolving Christ. In the place of a conduct which is inspired by a solid faith in the real power of Our Lord Jesus Christ, we see the Church being shamefully guided by human prudence and with such self-doubt that she asks nothing other from the State than that which the Masonic Lodges wish to concede to her: the common law in the midst of, and on the same level as, other religions which she no longer dares call false.

7- In the name of a ubiquitous ecumenism (Unitatis redintegratio) and of a vain inter-religious dialogue (Nostra Aetate), the truth about the one true Church is silenced; also, as a large part of the clergy and the faithful no longer see in Our Lord and the Catholic Church the unique way of salvation, they have renounced to convert the adepts of false religions, leaving them rather in ignorance of the unique Truth. This ecumenism has thus literally killed the missionary spirit through seeking a false unity, too often reducing the mission of the Church to that of delivering a message of a purely terrestrial peace and of a humanitarian role of lessening want in the world, placing it thereby in the wake of international organisations.

8- The weakening of faith in Our Lord’s divinity favours a dissolution of the unity of authority in the Church, by introducing a collegial, egalitarian and democratic spirit, (see Lumen Gentium). Christ is no longer the head from which everything flows, in particular the exercise of authority. The Sovereign Pontiff who no longer exercises effectively the fullness of his authority, and the bishops who – contrary to the teaching of Vatican I – esteem that they can collegially and habitually share the fullness of the supreme power, commit themselves thereby, with the priests, to listen to and to follow ‘the people of God,’ the new sovereign. This represents the destruction of authority and in consequence the ruin of Christian institutions: families, seminaries, religious institutes.

9- The New Mass, promulgated in 1969, diminishes the affirmation of the reign of Christ by the Cross (“regnavit a ligno Deus”). Indeed, the rite itself curtails and obscures the sacrificial and propitiatory nature of the Eucharistic Sacrifice. Underpinning this new rite is the new and false theology of the paschal mystery. Both one and the other destroy Catholic spirituality as founded upon the sacrifice of Our Lord on Calvary. This Mass is penetrated with an ecumenical and Protestant spirit, democratic and humanist, which empties out the sacrifice of the Cross. It illustrates the new concept of ‘the common priesthood of the baptised’ which undermines the sacramental priesthood of the priest.

10- Fifty years on, the causes persist and still engender the same effects. Hence today the consecrations retain their full justification. It was love of the Church which guided Archbishop Lefebvre and which guides his sons. It is the same desire to “pass on the Catholic priesthood in all its doctrinal purity and its missionary charity” (Archbishop Lefebvre, Spiritual Journey) which animates the Society of Saint Pius X at the service of the Church, when it asks with insistence for the Roman authorities to regain the treasure of doctrinal, moral and liturgical Tradition.

11- This love of the Church explains the rule that Archbishop Lefebvre always observed: to follow Providence in all circumstances, without ever allowing oneself to anticipate it. We mean to do the same: either when Rome returns to Tradition and to the Faith of all time – which would re-establish order in the Church; or when she explicitly acknowledges our right to profess integrally the Faith and to reject the errors which oppose it, with the right and the duty for us to oppose publicly the errors and the proponents of these errors, whoever they may be – which would allow the beginning of a re-establishing of order. Meanwhile, faced with this crisis which continues its ravages in the Church, we persevere in the defence of Catholic Tradition and our hope remains entire, as we know by the certitude of Faith that “the gates of hell will not prevail against her.” (Mt 16:18)

12- We mean to follow well the injunction of our dear and venerable Father in the episcopacy: “Dear friends, be my consolation in Christ, remain strong in the Faith, faithful to the true sacrifice of the Mass, to the true and holy Priesthood of Our Lord, for the triumph and the glory of Jesus in heaven and on earth” (Letter to the bishops). May the Holy Trinity, by the intercession of the Immaculate Heart of Mary, grant us the grace of fidelity to the episcopacy which we have received and which we want to exercise for the honour of God, the triumph of the Church and the salvation of souls.

Ecône, 27th June 2013, on the feast of Our Lady of Perpetual Succour

Bishop Bernard Fellay
Bishop Bernard Tissier de Mallerais
Bishop Alfonso de Galaretta


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聖ヨハネの有名な Ut queant laxis resonare fibris という賛歌

2013年06月27日 | グレゴリオ聖歌
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 6月24日は洗者聖ヨハネの祝日でした。そこで、聖ヨハネの祝日に聖務日課で歌う有名な Ut queant laxis resonare fibris という賛歌の日本語の訳をご紹介します。

 第一節は特に有名で、ドレミの名前の元になっています。最初のUT は、後にDO となりました。

UT queant laxis
REsonare fibris 
MIra gestorum
FAmuli tuorum, 
SOLve polluti
LAbii reatum, 
Sancte Iohannes. 

 これについては、次のウェブ・サイトに大変参考になる訳が出ていたので合わせてご紹介します。「詩の朗唱について」

 Catholic Encyclopedia には次のような説明がありました。13世紀のドゥランドゥス(Durandus)によると、8世紀のモンテカシーノのベネディクト会修道士であったパウルス・ディアコヌス(助祭パウロ Paulus Diaconus)は、ランゴバルドの歴史を書いて有名な人ですが、復活の徹夜祭で、助祭として復活の賛美歌 Exsultet を歌うことになっていました。しかし、聖土曜日になるといきなり、のどがかすれて声が出なくなっってしまったそうです。そこで、かつてザカリア(聖ヨハネの父親)に声がもどったように、声をもどることを祈って、この最初の一節を作ったとのことです。

 この詩は、サッポー詩節(Sapphicum)という韻律で書かれています。古代ローマのホラティウスという叙情詩人がつかった韻律の一つです。この韻律は、レスボス島の女流詩人の名サッポーに因んでいます。教会における賛歌も、多くがこのサッポー詩節で書かれています。

 サッポー詩節とは次のようなものです。(― は長い、Uは短い、xはどちらでも可を意味します。)
  ― U ― ― ― || UU ― U ― x
  ― U ― ― ― || UU ― U ― x
  ― U ― ― ― || UU ― U ― x
    ― UU ― x

 この聖ヨハネ賛歌のメロディーについては、Silvia Walliによる Melodien aus mittelalterlichen Horaz-Handschriften. Edition und Interpretation der Quellen. 及びJan M. Ziolkowskiによる、 Nota Bene: Reading Classics and Writing Melodies in the Early Middle Ages (Turnhout: Brepols, 2007)によれば、11世紀の写本(Montpellier, Ecole de Médecine 425H)に、ホラーティウスの『歌集』4巻11歌1-20 Est mihi nonum superantis annum というピュッリスへの叙情詩にこれと同じメロディーが付けられて歌われていたそうです。これは自分の友人マエケーナースの誕生日に、ピュッリスという女性を呼んで、彼女に詩を贈るという内容です。

Est mihi nonum superantis annum
plenus Albani cadus, est in horto,
Phylli, nectendis apium coronis,
 est hederae vis

 日本語の訳は、メレアグロスさんのものがあります。

 では、日本語をご紹介します。聖務日課では、晩課、朝課、讃課の三回に分けて歌います。

Ut queant laxis resonare fibris しもべらがゆるやかな声帯で
mira gestorum famuli tuorum, 御身の驚くべき行為を奏でることが出来るよう
solve polluti labii reatum, けがれた唇の罪を赦したまえ
Sancte Iohannes. 聖ヨハネよ。

nuntius celso veniens Olympo 高き天より御使いが来たりて
te patri magnum fore nasciturum, 偉大なる御身が生まれることを
nomen et vitae seriem gerendae 御身の名とその一連の生涯を
ordine promit. 正しく御身の父に預言する。

【Olympus は、オリュンポスの山、転じて、神々のすむところ、そこより転じて天国】

ille promissi dubius superni 父は天からの預言を疑い
perdidit promptae modulos loquelae, 意のままに話す力を失った
sed reformasti genitus peremptae しかし御身は生まれると
organa vocis. 失われた声の喉を直した。

ventris obstruso positus cubili 御身は閉ざされし母胎にあるとき
senseras regem thalamo manentem; 寝室にいる王を察知した
hinc parens nati meritis uterque ここから両の親は子供の功徳により
abdita pandit. 秘密のことを明らかにする。

【regem thalamo manentem 寝室に留まりつつある王とは、聖母マリア様の胎内にいたイエズス・キリストのこと。聖母マリア様が洗者聖ヨハネの母親である聖エリザベトを訪問した時のことを指す。「両の親」とは、ザカリアとエリザベトではなく、文脈から聖エリザベトと聖母マリアとの二人である。これは、二人の会話(聖エリザベトの発言と聖母マリア様のマニフィカット)に言及していると考えられるから。】

antra deserti teneris sub annis 御身は少年のとき民の喧騒を避けて
civium turmas fugiens petisti, 荒野の洞穴におもむいた
ne levi saltem maculare vitam 軽薄な会話でその生きざまを
famine posses. せめて汚すことがないように。

praebuit hirtum tegimen camelus 駱駝が剛毛の衣服を、羊が腰紐を
artubus sacris, strophium bidentes, 聖なる体に与えた
cui latex haustum, sociata pastum 飲物は水であり食物は
mella locustis. 蜂蜜といなごであった

ceteri tantum cecinere vatum 他の予言者達が予感の心で告げたのは
corde praesago iubar adfuturum, ただの光の到来にすぎなかった
tu quidem mundi scelus auferentem ところが御身は世の罪を取り除くお方を
indice prodis. 指を指して明らかにした。

non fuit vasti spatium per orbis 広き世界の中でもヨハネに以上に
sanctior quisquam genitus Iohanne, 聖なる人が生まれたことはない
qui nefas saecli meruit lavantem 彼は世の罪を洗い清めるお方を
tingere lymphis. 水で濡らすを許された。

o nimis felix meritique celsi, ああ余りにも幸福で高き功徳の人
nesciens labem nivei pudoris, 白い純潔の汚れ知らず
praepotens martyr eremique cultor, いとも力ある殉教者にして隠遁の信奉者
maxime vatum! 最大の予言者!

serta ter denis alios coronant 三十の果実をつけた冠が、他の人達を飾り
aucta crementis, duplicata quosdam, 別の人達をその倍の果実の冠が飾る
trina centeno cumulata fructu ところが聖者よ御身を飾るのは
te, sacer, ornant. 三百の果実を盛った冠なのだ

【ここは、マテオの聖福音の13章8節のあるものは100倍の実を結び、あるものは60倍、あるものは30倍の実を付ける」を暗示していると考えられる。しかし、洗者聖ヨハネは、単に100倍ではなく、300倍となっている。これは、おそらく、洗者聖ヨハネの「先駆者」「預言者」「殉教者」、あるいは、「預言者」「童貞者」「殉教者」の三つの冠を指すのだろう。聖トマス・アクイナスによると、天国の栄光の特別の冠は、「博士」「童貞」「殉教」の三つの冠。】

nunc potens nostri meritis opimis 最善の功徳もて力ある御身は今こそ
pectoris duros lapides repelle, われらの胸の堅き石を除きたまえ
asperum planans iter et reflexos 起伏多き道をならし
dirige calles, 曲がれる小道を伸ばしたまえ

ut pius mundi sator et redemptor 世の優しき救い主かつ贖い主が
mentibus pulsa livione puris 邪念の去った清い人々の心に
rite dignetur veniens sacratos 正しく聖なる足取りを置いて
ponere gressus. かたじけなくも来給わんことを。

laudibus cives celebrant superni 天の住民は御身を称賛し奉る
te, Deus simplex pariterque trine, 一にして三位なる天主よ、
supplices ac nos veniam precamur, われらもまた伏して許しを願い奉る
parce redemptis.  贖われた者たちを容赦し給え。

sit decus Patri genitaeque Proli 聖父および生まれし聖子に
et tibi, compar utriusque virtus, 聖父と聖子との等しく両者の力なる聖霊よ御身にも、
Spiritus semper, Deus unus, omni 唯一の天主よ、常に栄光あれ
temporis aevo. いつの世にも

Amen.アーメン


洗者聖ヨハネよ、我らのために祈り給え!
洗者聖ヨハネよ、日本のために祈り給え!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


聖母の汚れなき御心への奉献更新のため:望徳

2013年06月27日 | カトリックとは
聖母月中の祈祷


我等主の御前(みまえ)に出で、主の御母マリアの尊敬によりて、主を讃美(さんび)し奉つらんとす。主よ願わくは我等の心を浄(きよ)め、すべての無益なる思いより遠ざけしめ、我が智恵を照らし、意志をば堅固(けんご)ならしめ給わんことを、我等の主イエズス・キリストによりて、アメン
 最も尊むべき天主の御母童貞聖マリアよ、我等は御身につくすべき尊敬と愛とを現さんがために此処に集(つど)いきたれり。
 我等は全能の天主が御身(おんみ)にかくも高き御位(みくらい)と御光栄(みさかえ)とを下し給えることを喜び、且つ主が御身(おんみ)の御心(みこころ)に最も深きいつくしみを与え、御身(おんみ)を我等の母と定め給いしによりて主を讃美し奉(たてまつ)る。
 我等はこの月を聖母の月として今日一日をもまた御身の尊敬のために捧(ささ)げ奉(たてまつ)る。
いつくしみ深き聖母よ、我等は御身(おんみ)を御子イエズスの御前(みまえ)における代祷者(だいとうしゃ)として撰(えら)び奉(たてまつ)る。
 今新たに我等が身も心も御身(おんみ)に献げ、我等が悲しみも喜びも生命(いのち)、死もすべて主の御旨(みむね)にかなうよう御身(おんみ)に任(まか)せ奉る。願わくは我等の御母たることを示し給へ。我等は叉、聖会と教皇、及びすべての聖職者並びに生けると死せる親族友達の為に祈り奉る。願わくは我等が讃美(さんび)と祈りとをもって御身の御心(みこころ)を喜ばせ奉らんとするを顧(かえり)み給え。
 我等はこの聖(とうと)き月において、すべての公教信者が特に御身(おんみ)にさゝぐる其の祈りに我等の祈りを合わせ、且(か)つ天国において、天の元后(げんこう)なる御身(おんみ)を永遠に讃美(さんび)する諸々(もろもろ)の天使と共に御身を讃(たた)えまつらん。
 されば我等をして死に至るまで生涯(しょうがい)忠実に主に仕(つか)え、死後天堂(てんどう)において諸天使(しょてんし)諸聖人(しょせいじん)と共に御身(おんみ)を愛し御身(おんみ)に感謝し、御身(おんみ)と共に主を永遠に讃美(さんび)するをうるの最上の幸福をえせしめ給わんとを特に願い奉る。アメン

二 十 三 日
望     徳

(一)望(ぼう)徳(とく)は二つの要素(ようそ)から成りたっている。その第一は人間自身の不完全さで、第二は天主の御慈悲(おんじひ)である。
 我等自身の不完全さについては今更(いまさら)、云う必要がないであろう。我等は自分の力(ちから)のみを以てしては、超自然界(ちょうしぜんかい)に何等(なんら)価値ある善業(ぜんぎょう)も出来ない。
イエズス・キリストは葡萄(ぶどう)のたとえを以て之を教え給うた。「我は葡萄(ぶどう)の樹(き)にして汝(なんじ)等(ら)は枝なり。枝が葡萄(ぶどう)の樹(き)に止(とど)まるにあらずば、自(みずか)ら実(み)を結(むす)ぶ事能(あた)わざる如く、汝(なんじ)等(ら)が我に止(とど)まるにあらずば能(あた)わず。我に止(とど)まり、叉,我がこれに止(とど)まる人は、これ多くの実(み)を結(むす)ぶ者なり」(ヨハネ 十五、四、五)ゆえに我等が天主の報(むく)いを得(え)べき善業(ぜんぎょう)を行う為には天主から御聖寵(おめぐみ)を頂かねばならぬのである。
 次に天主の御慈悲(おんじひ)について考えれば、天主は我等を愛し給うゆえに、我等を天国に入れ御自分の御側(おそば)において、その光栄と幸福とを与えんと思(おぼ)し召し、其の目的を達する為に、充分(じゅうぶん)の聖寵(せいちょう)を我等に与え給うのである。
 望(ぼう)徳(とく)の根本(こんぽん)は、キリストの御苦難(ごくなん)の功徳(くどく)である。キリストは「汝等,我が名によりて、何を求むるも父が汝(なんじ)等(ら)に之を賜(たま)わん為なり」と仰せられたがその聖名(みな)によりて願うとは、即ち主の御苦難を天主に献げその御功徳を厚く信頼するという意味に他ならない。
 「願えよ、さらば与えられん」との御約束を以て天主は我等の心の中に信頼を起(お)こし給うた。愛に充(み)ち溢(あふ)れ給う天主は、謙遜(けんそん)をもって近づかんとする者は、決して捨て給わない。
叉、その願いをも、こばみ給わず喜んで迎え給うのである。

〔二〕我等の望(ぼう)徳(とく)は天主の大いなる喜びとなるのである。即ち信頼を以て近づき、天主がわれらの愛する父なる事を確信するは、天主の御栄(みさかえ)を増(ま)すことだからである。
 聖母マリアがいかに平生(へいぜい)天主に厚い信頼の念を抱(いだ)いておられたかは、その聖女エリザベトを訪問せられた時うたわれた、あの有名なる讃美歌(さんびか)の「我が精神は我が救(すく)い主なる天主によりて、よろこびにたえず。そは御召使(おんめしつか)いの賤(いや)しきをかえりみ給いたればなり」という
 御言葉(みことば)を見ても解(わか)るであろう。かくの如く我等も天主を深く信頼すれば、聖母の如く常に、よろこびを以て、この世を渡る事が出来るのである。
 我等は臨終(りんじゅう)の時に,悪魔(あくま)の誘(いざな)いがいかにはげしくとも、決して絶望(ぜつぼう)せずに、十字架(じゅうじか)を手に持ち、われらの為に磔(はりつ)けられたまえるキリストの御苦難の功徳(くどく)によりて、必ず地獄(じごく)を免(まぬが)れ、天国に行くことができると確信しなければならない。

○ 聖母の御伝達(おんとりつぎ)によりてわれらの望(ぼう)徳(とく)の増(ま)さんために「めでたし」三度唱(とな)えん。

祈 願 せ ん

 主イエズス・キリスト我等、主を離れては何事をもなす能(あた)わざる者なれば、己(おの)が功(いさおし)を恃(たの)むことなく、主の御苦難(ごくなん)の御功徳(ごくどく)によりてのみ救わるることを確信し、主の御慈悲(おんじひ)により、この世に於(お)いては聖寵(せいちょう)を与えられ、來(のちの)世(よ)に於(お)いては、永遠の福(ふく)楽(らく)を授(さず)けらるるよう、聖母の御伝達(おんとりつぎ)によりてひたすら請(こい)願(ねが)い奉(たてまつ)る。
アメン。



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聖母の汚れなき御心への奉献更新のため:節制

2013年06月26日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
聖母月中の祈祷


我等主の御前(みまえ)に出で、主の御母マリアの尊敬によりて、主を讃美(さんび)し奉つらんとす。主よ願わくは我等の心を浄(きよ)め、すべての無益なる思いより遠ざけしめ、我が智恵を照らし、意志をば堅固(けんご)ならしめ給わんことを、我等の主イエズス・キリストによりて、アメン
 最も尊むべき天主の御母童貞聖マリアよ、我等は御身につくすべき尊敬と愛とを現さんがために此処に集(つど)いきたれり。
 我等は全能の天主が御身(おんみ)にかくも高き御位(みくらい)と御光栄(みさかえ)とを下し給えることを喜び、且つ主が御身(おんみ)の御心(みこころ)に最も深きいつくしみを与え、御身(おんみ)を我等の母と定め給いしによりて主を讃美し奉(たてまつ)る。
 我等はこの月を聖母の月として今日一日をもまた御身の尊敬のために捧(ささ)げ奉(たてまつ)る。
いつくしみ深き聖母よ、我等は御身(おんみ)を御子イエズスの御前(みまえ)における代祷者(だいとうしゃ)として撰(えら)び奉(たてまつ)る。
 今新たに我等が身も心も御身(おんみ)に献げ、我等が悲しみも喜びも生命(いのち)、死もすべて主の御旨(みむね)にかなうよう御身(おんみ)に任(まか)せ奉る。願わくは我等の御母たることを示し給へ。我等は叉、聖会と教皇、及びすべての聖職者並びに生けると死せる親族友達の為に祈り奉る。願わくは我等が讃美(さんび)と祈りとをもって御身の御心(みこころ)を喜ばせ奉らんとするを顧(かえり)み給え。
 我等はこの聖(とうと)き月において、すべての公教信者が特に御身(おんみ)にさゝぐる其の祈りに我等の祈りを合わせ、且(か)つ天国において、天の元后(げんこう)なる御身(おんみ)を永遠に讃美(さんび)する諸々(もろもろ)の天使と共に御身を讃(たた)えまつらん。
 されば我等をして死に至るまで生涯(しょうがい)忠実に主に仕(つか)え、死後天堂(てんどう)において諸天使(しょてんし)諸聖人(しょせいじん)と共に御身(おんみ)を愛し御身(おんみ)に感謝し、御身(おんみ)と共に主を永遠に讃美(さんび)するをうるの最上の幸福をえせしめ給わんとを特に願い奉る。アメン

二 十 一 日
節     制

(一)聖人方がいづれも口を揃えて云うていられる如く、天主と一致するためには、祈りの外にいつも五官をつつしみ、その慾を抑(おさ)えることが極めて必要である。慾(よく)を抑(おさ)えることは、天主と全く一致する完(かん)徳(とく)の土台となるものである。
 マリアはこのことをよく御存知であった。それ故(ゆえ)、謙遜(けんそん)をも愛されたのである。彼女は常に最も末(すえ)の席につくことを望(のぞ)まれて、いつも人の目に立たず、軽んぜられることを喜び給うた。従って貧窮(ひんきゅう)をも愛された。
 聖母は天主の外(ほか)、何をも持つことを望まれなかった。すべての地上の物から心を離して、三人の博士達のもたらした宝をも自分の富(とみ)とし給わなかった。
かかる方であるから、叉、賞讃(しょうさん)や名誉をうけるような所えは、決しておいでにならなかった。そして恥辱(ちじょく)や軽蔑(けいべつ)をうけるような所へはきっとおいでになった。御子がエルザレムへ入って人々の歓迎をうけ給うた時には、聖母の御姿は見えなかったが、十字架につけられ辱(はずかし)められ給うた時には、その下(もと)に佇(たたず)んでいられたでわないか。故(ゆえ)にわれらも御母に倣(なら)い、愛着の心や、慾(よく)念(ねん)を抑(おさ)える節制(せっせい)の業(わざ)を始めよう。
キリストはわれらに「人もしわが跡(あと)につきて来たらんと欲(ほっ)せば、己を捨て己(おのれ)が十字架(じゅうじか)をとりてわれに従(したが)うべし」と仰(おお)せられた。この御言葉(みことば)を守ろうとする者は必ず五官(ごかん)の慾(よく)を制(せい)し、己(おのれ)を愛する心を抑(おさ)えねばならない。

〔二〕かようの犠牲は我等の死ぬ迄つづく。なぜならば生きている限り慾はたえず起(お)こり,我等はそれを抑(おさ)える事こそ出来るが、消す事は絶対に出来ないからである。
 聖マリアは一生涯の間、かくの如き犠牲を捧げられた。即ち常に目、耳、口、等を謹(つつし)み叉,身も心も天主に捧(ささ)げ、唯(ただ)、天主に仕(つか)える事より外(ほか)は何も望(のぞ)まれなかった。
 我等も犠牲を払わなければならぬ。今日、押さえる事が出来なかった慾は明日も引き続き押さえんと努(つと)めなければならぬ。
かくして天主のお助けを願いたゆまず励むならば、ついには多くの慾と戦っても、常に勝利を得るようになるであろう。
 聖マリアに依(よ)って常に慾(よく)を制(せい)する恵(めぐみ)を与えられん為に「めでたし」三度唱(とな)えん。


祈 願 せ ん

 主イエズス・キリストよ、主は四十日の間、荒野(あれの)に止まり断食に依(よ)りて我等に肉(にく)身(しん)の慾に打ち勝つべき模範(もはん)を示し給えり、願わくはわれは聖母の御伝達(おとりつぎ)により肉(にく)身(しん)の邪(じゃ)慾(よく)、食(しょく)慾(よく)を制(おさ)え精神を益々堅固(けんご)にし、遂には光栄ある勝利に達するよう聖寵(せいちょう)を与え給わん事を。 アメン。


聖母の汚れなき御心への奉献更新のため:潔白

2013年06月25日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、
 聖母の汚れなき御心への奉献の更新準備のために、8月22日まで聖母マリアさまの黙想をすることを提案します。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

聖母月中の祈祷



 我等主の御前(みまえ)に出で、主の御母マリアの尊敬によりて、主を讃美(さんび)し奉つらんとす。主よ願わくは我等の心を浄(きよ)め、すべての無益なる思いより遠ざけしめ、我が智恵を照らし、意志をば堅固(けんご)ならしめ給わんことを、我等の主イエズス・キリストによりて、アメン
 最も尊むべき天主の御母童貞聖マリアよ、我等は御身につくすべき尊敬と愛とを現さんがために此処に集(つど)いきたれり。
 我等は全能の天主が御身(おんみ)にかくも高き御位(みくらい)と御光栄(みさかえ)とを下し給えることを喜び、且つ主が御身(おんみ)の御心(みこころ)に最も深きいつくしみを与え、御身(おんみ)を我等の母と定め給いしによりて主を讃美し奉(たてまつ)る。
 我等はこの月を聖母の月として今日一日をもまた御身の尊敬のために捧(ささ)げ奉(たてまつ)る。
いつくしみ深き聖母よ、我等は御身(おんみ)を御子イエズスの御前(みまえ)における代祷者(だいとうしゃ)として撰(えら)び奉(たてまつ)る。
 今新たに我等が身も心も御身(おんみ)に献げ、我等が悲しみも喜びも生命(いのち)、死もすべて主の御旨(みむね)にかなうよう御身(おんみ)に任(まか)せ奉る。願わくは我等の御母たることを示し給へ。我等は叉、聖会と教皇、及びすべての聖職者並びに生けると死せる親族友達の為に祈り奉る。願わくは我等が讃美(さんび)と祈りとをもって御身の御心(みこころ)を喜ばせ奉らんとするを顧(かえり)み給え。
 我等はこの聖(とうと)き月において、すべての公教信者が特に御身(おんみ)にさゝぐる其の祈りに我等の祈りを合わせ、且(か)つ天国において、天の元后(げんこう)なる御身(おんみ)を永遠に讃美(さんび)する諸々(もろもろ)の天使と共に御身を讃(たた)えまつらん。
 されば我等をして死に至るまで生涯(しょうがい)忠実に主に仕(つか)え、死後天堂(てんどう)において諸天使(しょてんし)諸聖人(しょせいじん)と共に御身(おんみ)を愛し御身(おんみ)に感謝し、御身(おんみ)と共に主を永遠に讃美(さんび)するをうるの最上の幸福をえせしめ給わんとを特に願い奉る。アメン

二  十  日
潔白

(一)潔白(けっぱく)については二通りあって、一つは肉体上、他の一つは霊魂上の潔白である。
この二つの潔白については、聖マリアが最も立派な手本を我等に示された。
肉身上の潔白は、みだらな行為は勿論(もちろん)、すべてのみだらな言葉や考えをさえも退(しりぞ)けることである。
 マリアは幼き時より、清き心をもって、愛する天主に自分の潔白を捧げられた。
イエズスの母は高き位(くらい)よりも童貞(どうてい)を重く見られた。白き百合(ゆり)の如く匂(かぐ)はしきその御心はいつも潔白であったので、童(どう)貞女(ていじょ)の元后(げんこう)と申し上げるようになったのである。
 聖マリアは始終祈りを以て五官をつつしんでいられたから、極(ご)く軽いみだらな考えも、その心に浮かぶ事がなかった。常に清い心を望んでいる我々は是非,聖マリアを我等の代願者と撰ばなければならぬ。
聖人達は如何にこの潔白の徳を、ほめたたえられたであろうか。聖アタナジオ曰(いわ)く「ああ宝石の如くうるはしき潔白よ、如何に汝を尊ぶ者の少なくして汝をすつる者の多きや!汝は予言者のよろこび、使徒(しと)の名誉、諸天使の生命にして、諸聖人の冠(かんむり)なり」と。

〔二〕霊魂上の潔白(けっぱく)は,すべての考えと行為(おこない)とを、唯(ただ)、天主のみ愛し之に仕(つか)えるために自身の霊肉(れいにく)をささげる事である。
 この第二の潔白についても聖マリアは我々の立派な御手本である。
天主に仕(つか)える為、マリアは幼き時にエルザレムの聖(せい)殿(でん)に入りて己を全(まった)く天主に捧げられた。
天主に仕える為に、聖殿に入りて御子キリストを聖(おん)父(ちち)天主に捧げ、叉、天主に仕える為、十字架の下(もと)に立って御子の御苦しみと、御自分の御苦しみとを捧げられたのである。
すべての行為(おこない)と言葉、考えにも、それによって始終(しじゅう)、天主に仕えようと考えていられた。
唯(ただ)、天主の誉(ほま)れのみ思われて万事(ばんじ)に霊魂(れいこん)上の潔白を守られた。我々も天主に仕(つか)える為に始終(しじゅう)、悪を避(さ)け善(ぜん)を行い,決して己(おのれ)が名誉や快楽(かいらく)を探し求めてはならぬ。

○ 聖マリアによりて、この二通りの潔白(けっぱく)の徳を我等に与えられんために
「めでたし」三度唱(とな)えん。

祈 願 せ ん

主、イエズス・キリスト、主は「幸福なる哉(かな)、心の潔(ぎよ)き人、彼等は天主を見(み)奉(たてまつ)るべければなり」と曰(のたま)えり。
願わくは我等が最も潔(ぎよ)き童貞マリアの御伝達(おんとりつぎ)によりて、すべての不浄(ふじょう)より免(のが)れ、完全に潔白(けっぱく)を保(たも)ち、遂に天主を見(み)奉(たてまつ)るよう、聖寵(せいちょう)をゆたかにあたえ給え。   
アメン。

聖母の汚れなき御心への奉献更新のため:被造物よりの離脱

2013年06月25日 | カトリックとは
聖母月中の祈祷


我等主の御前(みまえ)に出で、主の御母マリアの尊敬によりて、主を讃美(さんび)し奉つらんとす。主よ願わくは我等の心を浄(きよ)め、すべての無益なる思いより遠ざけしめ、我が智恵を照らし、意志をば堅固(けんご)ならしめ給わんことを、我等の主イエズス・キリストによりて、アメン
 最も尊むべき天主の御母童貞聖マリアよ、我等は御身につくすべき尊敬と愛とを現さんがために此処に集(つど)いきたれり。
 我等は全能の天主が御身(おんみ)にかくも高き御位(みくらい)と御光栄(みさかえ)とを下し給えることを喜び、且つ主が御身(おんみ)の御心(みこころ)に最も深きいつくしみを与え、御身(おんみ)を我等の母と定め給いしによりて主を讃美し奉(たてまつ)る。
 我等はこの月を聖母の月として今日一日をもまた御身の尊敬のために捧(ささ)げ奉(たてまつ)る。
いつくしみ深き聖母よ、我等は御身(おんみ)を御子イエズスの御前(みまえ)における代祷者(だいとうしゃ)として撰(えら)び奉(たてまつ)る。
 今新たに我等が身も心も御身(おんみ)に献げ、我等が悲しみも喜びも生命(いのち)、死もすべて主の御旨(みむね)にかなうよう御身(おんみ)に任(まか)せ奉る。願わくは我等の御母たることを示し給へ。我等は叉、聖会と教皇、及びすべての聖職者並びに生けると死せる親族友達の為に祈り奉る。願わくは我等が讃美(さんび)と祈りとをもって御身の御心(みこころ)を喜ばせ奉らんとするを顧(かえり)み給え。
 我等はこの聖(とうと)き月において、すべての公教信者が特に御身(おんみ)にさゝぐる其の祈りに我等の祈りを合わせ、且(か)つ天国において、天の元后(げんこう)なる御身(おんみ)を永遠に讃美(さんび)する諸々(もろもろ)の天使と共に御身を讃(たた)えまつらん。
 されば我等をして死に至るまで生涯(しょうがい)忠実に主に仕(つか)え、死後天堂(てんどう)において諸天使(しょてんし)諸聖人(しょせいじん)と共に御身(おんみ)を愛し御身(おんみ)に感謝し、御身(おんみ)と共に主を永遠に讃美(さんび)するをうるの最上の幸福をえせしめ給わんとを特に願い奉る。アメン

二 十 二 日
被 造 物 よ り の 離 脱

(一)聖(み)主(あるじ)イエズス・キリストは、始終(しじゅう)我等に向かって「我が子よ、汝の心を我に献(ささ)げよ」と招き給う。
即ちイエズス・キリストは我等の心を全く求めていられるのである。それであるからこの世のはかない物に溺(おぼ)れる事は、天主と一致するため、叉、完全なる人となるために、大いなる妨(さまた)げである。
 そこで主イエズス・キリストは「我よりも、父もしくわ母を愛する人は我にふさわしからず」と申していられる。聖書にも記録(しる)してあるが、イエズス・キリストはある時、一人の富(と)める青年に向かって「汝もし完全ならんと欲すれば、行きて持てる物を売り、之を貧者にほどこせ。しかして来たりて、我に従(したが)え」と申された。
その時、青年は悲しんでそこを去った。なぜならば青年の心はこの世の総(すべ)ての物に溺(おぼ)れていたからである。そして彼はついに約束された如く完全な人となる事が出来なかった之に反し聖マリアは、既に子供の時、この世と総(すべ)てのものから離れ、三歳の時、父母にはなれ、エルザレムの聖(せい)殿(でん)に於(お)いて己(おのれ)を全く天主に献(ささ)げられた。我等も聖母マリアにならい、この世の総(すべ)ての物から心を離さなければならぬ。
 それのみならず総(すべ)ての物をただ天に上がるための階段として利用しよう。
人がある物に溺(おぼ)れている程度は、それを失ったときの悲しみの深さによって知られる。
 それ故(ゆえ)、好(この)む物を失ってあまり甚だしくいつまでも嘆(なげ)き悲(かな)しむ人は、万事を天主の御摂(ごせつ)理(り)に任(まか)せているのでもなく、また万事に超(こ)えて、天主を愛しているのでもないのである。

(二)すべての物から離れるとは、決してその物を嫌(きら)う事ではない。この世の総(すべ)ての物は天主の御栄(みさかえ)を現(あらわ)す物としていかにもよく造(つく)られている。
われらはそれによって天主のわれらに対する愛の深さを知らなければならない。ただそれらの物は如何様(いかよう)にも用(もち)いる事が出来る。われらは注意して、天主に仕(つか)えるためのみに被造物(ひぞうぶつ)を用(もち)いなければならぬ。
 聖パウロは「この世の宝、楽しみ、叉、総(すべ)ての物を利用する人は、それを利用せざるが如くになるべき外(ほか)なし」と、申された。即ちこれは、天主に仕(つか)える為と、自分の霊魂(れいこん)の救(たす)霊(かり)のために、世の物を用(もち)いる方法である。

○ 聖マリアによりて、この世のはかなき物に離るる御恵(おんめぐ)みを得(え)ん為に
「めでたし」三度唱(とな)えん。

祈 願 せ ん

 主イエズス・キリスト、主は我等を愛し我等に与えんとて、総ての物を創造(つく)り給えり。
願わくはわれらをしてすべての被造物(ひぞうぶつ)をば、ただ主の御旨(みむね)のままに、且(か)つ主に至る階段として用い、もってあやまりなく主に仕(つか)うるを得(え)せしめ、救(きゅう)霊(れい)の障害(しょうがい)となるべき物は、甘(あま)んじて退(しりぞ)け、主に対する愛の犠牲として、これを献(ささ)ぐるの聖寵(せいちょう)を与え給え。 アメン。


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聖母の汚れなき御心への奉献更新のため:貧窮

2013年06月24日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、
 聖母の汚れなき御心への奉献の更新準備のために、8月22日まで聖母マリアさまの黙想をすることを提案します。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

聖母月中の祈祷



 我等主の御前(みまえ)に出で、主の御母マリアの尊敬によりて、主を讃美(さんび)し奉つらんとす。主よ願わくは我等の心を浄(きよ)め、すべての無益なる思いより遠ざけしめ、我が智恵を照らし、意志をば堅固(けんご)ならしめ給わんことを、我等の主イエズス・キリストによりて、アメン
 最も尊むべき天主の御母童貞聖マリアよ、我等は御身につくすべき尊敬と愛とを現さんがために此処に集(つど)いきたれり。
 我等は全能の天主が御身(おんみ)にかくも高き御位(みくらい)と御光栄(みさかえ)とを下し給えることを喜び、且つ主が御身(おんみ)の御心(みこころ)に最も深きいつくしみを与え、御身(おんみ)を我等の母と定め給いしによりて主を讃美し奉(たてまつ)る。
 我等はこの月を聖母の月として今日一日をもまた御身の尊敬のために捧(ささ)げ奉(たてまつ)る。
いつくしみ深き聖母よ、我等は御身(おんみ)を御子イエズスの御前(みまえ)における代祷者(だいとうしゃ)として撰(えら)び奉(たてまつ)る。
 今新たに我等が身も心も御身(おんみ)に献げ、我等が悲しみも喜びも生命(いのち)、死もすべて主の御旨(みむね)にかなうよう御身(おんみ)に任(まか)せ奉る。願わくは我等の御母たることを示し給へ。我等は叉、聖会と教皇、及びすべての聖職者並びに生けると死せる親族友達の為に祈り奉る。願わくは我等が讃美(さんび)と祈りとをもって御身の御心(みこころ)を喜ばせ奉らんとするを顧(かえり)み給え。
 我等はこの聖(とうと)き月において、すべての公教信者が特に御身(おんみ)にさゝぐる其の祈りに我等の祈りを合わせ、且(か)つ天国において、天の元后(げんこう)なる御身(おんみ)を永遠に讃美(さんび)する諸々(もろもろ)の天使と共に御身を讃(たた)えまつらん。
 されば我等をして死に至るまで生涯(しょうがい)忠実に主に仕(つか)え、死後天堂(てんどう)において諸天使(しょてんし)諸聖人(しょせいじん)と共に御身(おんみ)を愛し御身(おんみ)に感謝し、御身(おんみ)と共に主を永遠に讃美(さんび)するをうるの最上の幸福をえせしめ給わんとを特に願い奉る。アメン

十  九  日
貧窮

(一)世には貧しくして苦しまねばならぬ人が多数にある。熱烈な信仰をもち、あらゆる艱難(かんなん)を日々に負(お)うべき貴重(きちょう)な十字架とみなし、これを天主への愛の献(ささ)げ物とする人ならば、貧窮(ひんきゅう)の内にも大いなる意義と価値(ねうち)とを見出(みいだ)し、深い慰めをうけることもできよう。
 しかし多くは真(まこと)の信仰を知らず、また知れども活(い)かさず、ただ不平をもらし、世を呪(のろ)い,労働をも厭(いと)うに至るのはいかにも残念の極(きわ)みである。
 信仰の立場から財産というものを見れば、それはどれほどの意味をもっているものだろうか?このことについては、イエズス・キリストの御一生涯と、その御行為(おんおこない),御言葉(みことば)を考えてみれば、すぐ明らかに分(わ)かることである。
 富(とみ)は決して救(たす)霊(かり)に必要欠(か)くべからざるものではない。のみならず時には救(たす)霊(かり)の妨(さまた)げとなることさえあるのである。
 イエズス・キリストは全世界を創(つく)り給うた天主であった。すべてを自由になし得(え)給う最上の主人であった。
お望みならば、金殿玉楼(きんでんぎょくろう)の中に富貴(ふうき)に生(お)い立ち給うこともできたに相違ない。しかるにわざわざお生まれになった所は小さい厩(うまや)の馬槽(うまぶね)の中であった。養父はその日暮らしの大工で、御母も貧しい処女(おとめ)に過ぎない。そして長じては御自(おんみずか)ら父の業(わざ)に従って労働された。
公生活に入られてからのキリストは益々窮乏(きゅうぼう)されるばかりであった。「狐(きつね)には穴あり、空の鳥には巣あり。されど人の子には枕する所もなし」主はかって御弟子等にこう仰せられたことさえある。
とにかく主の御一生は貧窮(ひんきゅう)の御生涯であった。そして其の最も多く愛し且つ、救いの道を教えられた階級は貧民(ひんみん)達であった、これをもっても富(とみ)が救(たす)霊(かり)に必要なものでないことはよく分(わ)かるであろう。そればかりではない。
 イエズスは或る時こう云われたことがある。「富める者の天国に入るは駱駝(らくだ)が針の穴を通るより難し」と。何と峻烈(しゅんれつ)な御言葉(みことば)ではないか。
 一体天主が万物を創造(そうぞう)し、これを人に与えられたのは、人がこれによって天主のご恩を知り天主を愛し天主を讃美(さんび)し、天主に一致する手段(しゅだん)として用いるためであった。云い換えれば天国への梯子(はしご)として用いるためである。
しかるに人は原罪(げんざい)によって目がくらんだ。本末を顛倒(てんとう)して、天主を忘れ物を尊(とうと)ぶようになった。そして集めた富を何に使うかと云えば多くは罪の快楽(かいらく)を求めるためである。
先にイエズスが云われた御言葉(みことば)は、つまりかかる不心得を誡(いまし)められたものである。
故に貧しい人は天主を怨(うら)むどころではない、救(たす)霊(かり)の妨(さまた)げとなりやすい富なきことは、却(かえ)ってキリストにあやかり天主から特別に愛されている印(しるし)と思い感謝せねばならぬ。
また富める者は注意してこの世の宝をよく用い、以て永遠の宝を購(あがな)うよう心がけねばならぬ。

(二)聖人は皆そうであるが、殊に聖母マリアは貧窮(ひんきゅう)を好(この)み,世の物を少しも心にかけられなかった。恰(あたか)もすて去るべき塵芥(ちりあくた)の如く考えていられたのである。    
そして日々些(いささ)かの貧しき物あれば、それで満足されたのであった。
聖母のお望みは物質的な宝に富(と)むことではなくして、ひたすら霊的の宝、すなはち聖寵(せいちょう)や善徳(ぜんとく)に富むことであった。さればもし手許(てもと)に余裕があれば、これを貧者(ひんじゃ)に施(ほどこ)し給うた。
聖(せい)主(しゅ)御誕生の後、三人の博士等がその拝礼に来た時、黄金,乳(にゆう)香(こう)、没(もつ)薬(やく)等の礼物(れいもつ)を献(ささ)げたが、聖ベルナルドに従えば「聖母は直ちにこれを貧者(ひんじゃ)に施(ほどこ)し給うた」のである。
 それゆえ、われらは家(いえ)貧(まず)しくとも、日用品に不足を感ぜぬならば、天主に感謝して満足しよう。そしてわれらより貧しき者も多いのであるから機会ある毎に少しでも慈善(じぜん)を行うように心がけよう。

○ 聖母マリアの御伝達(おんとりつぎ)によりて貧窮(ひんきゅう)の徳(とく)を与えられん為「めでたし」
三度唱(とな)えん。

祈 願 せ ん

貧しき者を愛し、賤(いや)しき者を高め給う天主よ、主、御自(おんみずか)らも貧窮(ひんきゅう)の御生活を選び給いたれば、我にも消え失(う)するこの世の宝を貪(むさぼ)らず、却(かえ)って錆(さ)びもしみも破らず、盗人(ぬすびと)穿(うが)たず盗まざる」宝を天に蓄(たくわ)え得るよう御聖寵(おんめぐみ)を与え給わんことを、聖母の御伝達(おんとりつぎ)によりて願い奉る。 アメン。


聖母の汚れなき御心への奉献更新のため:言葉を慎しむこと

2013年06月23日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、
 聖母の汚れなき御心への奉献の更新準備のために、8月22日まで聖母マリアさまの黙想をすることを提案します。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

聖母月中の祈祷



 我等主の御前(みまえ)に出で、主の御母マリアの尊敬によりて、主を讃美(さんび)し奉つらんとす。主よ願わくは我等の心を浄(きよ)め、すべての無益なる思いより遠ざけしめ、我が智恵を照らし、意志をば堅固(けんご)ならしめ給わんことを、我等の主イエズス・キリストによりて、アメン
 最も尊むべき天主の御母童貞聖マリアよ、我等は御身につくすべき尊敬と愛とを現さんがために此処に集(つど)いきたれり。
 我等は全能の天主が御身(おんみ)にかくも高き御位(みくらい)と御光栄(みさかえ)とを下し給えることを喜び、且つ主が御身(おんみ)の御心(みこころ)に最も深きいつくしみを与え、御身(おんみ)を我等の母と定め給いしによりて主を讃美し奉(たてまつ)る。
 我等はこの月を聖母の月として今日一日をもまた御身の尊敬のために捧(ささ)げ奉(たてまつ)る。
いつくしみ深き聖母よ、我等は御身(おんみ)を御子イエズスの御前(みまえ)における代祷者(だいとうしゃ)として撰(えら)び奉(たてまつ)る。
 今新たに我等が身も心も御身(おんみ)に献げ、我等が悲しみも喜びも生命(いのち)、死もすべて主の御旨(みむね)にかなうよう御身(おんみ)に任(まか)せ奉る。願わくは我等の御母たることを示し給へ。我等は叉、聖会と教皇、及びすべての聖職者並びに生けると死せる親族友達の為に祈り奉る。願わくは我等が讃美(さんび)と祈りとをもって御身の御心(みこころ)を喜ばせ奉らんとするを顧(かえり)み給え。
 我等はこの聖(とうと)き月において、すべての公教信者が特に御身(おんみ)にさゝぐる其の祈りに我等の祈りを合わせ、且(か)つ天国において、天の元后(げんこう)なる御身(おんみ)を永遠に讃美(さんび)する諸々(もろもろ)の天使と共に御身を讃(たた)えまつらん。
 されば我等をして死に至るまで生涯(しょうがい)忠実に主に仕(つか)え、死後天堂(てんどう)において諸天使(しょてんし)諸聖人(しょせいじん)と共に御身(おんみ)を愛し御身(おんみ)に感謝し、御身(おんみ)と共に主を永遠に讃美(さんび)するをうるの最上の幸福をえせしめ給わんとを特に願い奉る。アメン

十  八  日
言葉を慎しむこと

(一)「人もし言葉によりて過(あやま)つことなくば、これ完全なる人なり」と聖ヤコボは申された。
舌を慎(つつし)まぬような人は真実(まこと)の徳があると云へない。また信心深いともいえないのである。
 善徳(ぜんとく)の鑑(かがみ)である聖マリアは、それをよく御存知(ごぞんじ)であったので、幼い時からよく舌を慎まれた。三才の時よりエルザレムの聖(せい)殿(でん)に留(とど)まられ、人と交(まじ)わり給うことは稀(まれ)に,天主と語り給うことは甚だ多かった。
世間のことについて談話(はなし)しなければならぬ場合にも、マリアはいつも心を天主に献(ささ)げつつ慎み深く語られた。一日の大部分を沈黙(ちんもく)の内に過ごし、聖心(みこころ)には常に天主のことばかり考えていられた。

(二)その後,聖マリアはエルザレムの聖殿を去って世間に出られ、ナザレトの御家(おいえ)に帰られたが、そこにおいてもやはり言葉を慎まれることには変わりがなかった。
大天使ガブリエルが御告(おつ)げの為に現れた時も、聖マリアは決して他所(よそ)でつまらぬ世間話しや、他人の噂(うわさ)などをしていられた訳ではなかった。
却(かえ)って家に閉じこもって熱心に天主に祈祷(いのり)を献(ささ)げていられたのである。
聖書には聖母のことがごく僅かしか記(しる)されていない。
これは聖マリアが極めて僅かしか談(は)話(なし)をされなかった証拠(しょうこ)ではなかろうか。聖ルカも御母の事を「母はすべての事を心に納めいたりき」(ルカ 二、五一)と記(しる)している聖母は多くの人と話す者は、天主と語るのがむずかしいことをよく知っていられたのである。
 一体人々が娯楽(なぐさみ)に語り合う時、どういうことが主に興味ある話題となっているか?それは自分の自慢話でなければ他人(ひと)の悪口である、讒訴(ざんそ)である、邪推(じゃすい)である、偽証(ぎしょう)である、また汚(きたな)い話しである。そしてかかるものはいずれも罪を造る種類の話しばかりではないか。
主イエズス・キリストは審判の時、無益(むえき)に時を過ごした者さえも厳しくさばかれると仰せられた。それならばまして罪の話しに時を過ごした者の受ける審判はいかにきびしいものであろうか。
 我等はそれ故(ゆえ)、この点に於いても聖母マリアの立派な御手本(おてほん)に倣(なら)い、多弁(たべん)を戒(いまし)めねばならぬ。
無言は多くの貴(とうと)き考え、深き考えを生み出すもとである。
天主は常に心の落ちついている人を慰め、これに御聖寵(おんめぐみ)を豊(ゆた)かに賜(たまわ)るのである。

○ 聖母マリアによりて、言葉を慎(つつし)むべき徳を与えられんために「めでたし」三度唱(とな)えん。

祈 願 せ ん

かくれたる所をも見給う天主、願わくば聖母の御伝達(おんとりつぎ)によりて我等言葉をつつしみ、無益(むえき)なる談話(だんわ),殊(こと)に愛徳に背(そむ)く話しを避(さ)け、空しく時を費(つい)やすことなく、己(おの)れ及び他人の霊魂(れいこん)の平安を乱さざるように御恵(おんめぐみ)を与え給え。アメン。


聖母の汚れなき御心への奉献更新のため:犠牲心

2013年06月22日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、
 聖母の汚れなき御心への奉献の更新準備のために、8月22日まで聖母マリアさまの黙想をすることを提案します。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

聖母月中の祈祷



 我等主の御前(みまえ)に出で、主の御母マリアの尊敬によりて、主を讃美(さんび)し奉つらんとす。主よ願わくは我等の心を浄(きよ)め、すべての無益なる思いより遠ざけしめ、我が智恵を照らし、意志をば堅固(けんご)ならしめ給わんことを、我等の主イエズス・キリストによりて、アメン
 最も尊むべき天主の御母童貞聖マリアよ、我等は御身につくすべき尊敬と愛とを現さんがために此処に集(つど)いきたれり。
 我等は全能の天主が御身(おんみ)にかくも高き御位(みくらい)と御光栄(みさかえ)とを下し給えることを喜び、且つ主が御身(おんみ)の御心(みこころ)に最も深きいつくしみを与え、御身(おんみ)を我等の母と定め給いしによりて主を讃美し奉(たてまつ)る。
 我等はこの月を聖母の月として今日一日をもまた御身の尊敬のために捧(ささ)げ奉(たてまつ)る。
いつくしみ深き聖母よ、我等は御身(おんみ)を御子イエズスの御前(みまえ)における代祷者(だいとうしゃ)として撰(えら)び奉(たてまつ)る。
 今新たに我等が身も心も御身(おんみ)に献げ、我等が悲しみも喜びも生命(いのち)、死もすべて主の御旨(みむね)にかなうよう御身(おんみ)に任(まか)せ奉る。願わくは我等の御母たることを示し給へ。我等は叉、聖会と教皇、及びすべての聖職者並びに生けると死せる親族友達の為に祈り奉る。願わくは我等が讃美(さんび)と祈りとをもって御身の御心(みこころ)を喜ばせ奉らんとするを顧(かえり)み給え。
 我等はこの聖(とうと)き月において、すべての公教信者が特に御身(おんみ)にさゝぐる其の祈りに我等の祈りを合わせ、且(か)つ天国において、天の元后(げんこう)なる御身(おんみ)を永遠に讃美(さんび)する諸々(もろもろ)の天使と共に御身を讃(たた)えまつらん。
 されば我等をして死に至るまで生涯(しょうがい)忠実に主に仕(つか)え、死後天堂(てんどう)において諸天使(しょてんし)諸聖人(しょせいじん)と共に御身(おんみ)を愛し御身(おんみ)に感謝し、御身(おんみ)と共に主を永遠に讃美(さんび)するをうるの最上の幸福をえせしめ給わんとを特に願い奉る。アメン

十  七  日
犠牲心

(一) 宗教生活の上に、人格修養の上に、大きい価値をもつものは犠牲心であろ
う。犠牲心とは、すべて、自分が大切に思うものを捧げることである。
 大切に思うものといえば、ある時は自分の有(ゆう)している財産、金銭、名誉などを意味する場合もあろう、またある時は、自分の身についている生命健康その他、精神肉(にく)身(しん)の能力などを指す場合もあろうが、とにかくこれらを天主のために、献(ささ)げるのは天主に対する最も大いなる愛を現すもので非常に聖(み)旨(むね)にかなうのである。
 たとえば、親は子が可愛い、片時も側(そば)を離したくない。しかるに自分の愛着の念にかってその子を修道院へ送った。こういうのは、己の惜(お)しいものを天主の為に献げた、つまりその子に対する愛よりも、天主に対する愛の方が一層大きいことをしめしたもので、立派な犠牲(ぎせい)心(しん)の現れといわねばならぬ。
 殉教(じゅんきょう)が最も天主の聖(み)旨(むね)にかない、洗礼と同様の効果があるというのも天主のためには人間の第一に惜しく思う生命までも投げ出すという愛の深さが、尊(とうと)いのである。
 惜(お)しいと思う物事を献(ささ)げるばかりでなく、自分の嫌いな物事を、天主への愛のために耐え忍ぶのも犠牲である。たとえば苦痛、艱難,恥を勇ましく忍び、甘んじて受けるなどのことである。
 かくの如き犠牲を行う便(たよ)りは、われわれの生涯において、家庭内に、社交場に、殆ど毎日のように発見せられるが、人、多くはこれを忌(い)み嫌(きら)って、避けよう遁(のが)れようと努(つと)める。
 しかし深く天主を愛する人々はかえってこれらをよろこび迎えるのである。まことにキリストの「人もしわがあとにつきて来たらんと欲(ほっ)せば、己(おのれ)を捨て、日々、己(おのれ)が十字架をとりてわれに従うべし」との聖(み)言(ことば)は、多くの犠牲を払う人に於(お)いてこそ全(まっと)うせられるといわねばならない。
蓋(けだ)し十字架を負(お)うとは犠牲を払うという意味に外(ほか)ならないからである。

〔二〕すべての聖人はイエズス・キリストに倣(なら)って犠牲を好(この)まれた。諸聖人の元后(げんこう)であらせられる聖母マリアも始終(しじゅう)犠牲を行われたのである。
聖母はその幼少の折り、両親の手によって聖(せい)殿(でん)に奉献(ほうけん)せられ給うた時、御自(おんみずか)らを天主に献(ささ)げられた。
イエズスが荒野(こうや)に四十日の断食(だんじき)をせられた時にも御子と共にありたい愛の心を犠牲とし給うた。
またイエズス・キリストの三年の公(こう)生活はひとり家を守る御母の御心(みこころ)にどれほどの淋(さび)しさをもたらしたであろう。
 けれどもマリアは愛着(あいちゃく)の心を抑(おさ)えて、その間(かん)、殆(ほとん)どお逢(あ)いもなさらずただ御子の御事業のために祈られたのであった。
 しかし彼女の犠牲の最も大きく尊(とうと)かったのは、御子の十字架の下(もと)に佇(たたず)まれた時であった。
この時の聖母は殆ど人間の忍(しの)び得(え)る限りを忍び、払い得る限りの犠牲を払われたのである。
 かくの如くその御一生に犠牲の絶(た)え間(ま)もなかった聖母であるから、また精神的殉教者(じゅんきょうしゃ)と申し上げることもできよう。
われらもよくよく聖マリアその他、諸聖人の鑑(かがみ)にならい、日々(ひび)の苦しみを凌(しの)ぎ,信仰のつとめを果たすに必要な犠牲を,甘んじて献(ささ)げようではないか。
 
○聖母の御伝達(おとりつぎ)によりて犠牲の心を与えられんために「めでたし」三度唱(とな)えん。

祈 願 せ ん

主イエズス・キリスト、主は十字架(じゅうじか)に於(お)いて、大いなる苦悩(くるしみ)のもとに、尊(たっと)き御身(おんみ)を天主に献(ささ)げ給えり。
 願わくはわれらにも、日々(ひび)の苦悩(くるしみ)を献(ささ)げ犠牲を行(おこな)うの聖寵(せいちょう)を与え給わんことを、聖母の御伝達(おんとりつぎ)によりて願いたてまつる。アメン。

6月の聖ピオ十世会の日本でのミッションの報告

2013年06月21日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、
こんにちは!

 今月の聖ピオ十世会の日本でのミッションは、天主様の御恵みで、大変の喜びとお恵みの内に時を過ごすことが出来ました。天主様に感謝!

 アメリカのミネソタ州では、現地時間の今日、2013年6月21日午前9時より、司祭叙階式が行われます。12名の青年が司祭に叙階され、そのうち11名が聖ピオ十世会の司祭です。1名はドミニコ会所属。新司祭のためにお祈り下さい。8名がアメリカ人で3名がカナダ人です。
http://www.sspxseminary.org/files/flyers/ordinations2013.pdf
 今回叙階される内の一人がジョン・ハトラップ新司祭で、彼はフィリピンに任命されることになっています。
 今回、同時に6名の助祭たちも叙階されますが、そのうちの一人がマニラで働いているフォルティン神父様の弟のピーター・フォルティンさんです。祈りの下さい。

 使徒聖ペトロとパウロの祝日の前日である6月28日には、スイスのエコンの神学校で6名が司祭に叙階される予定です。4名がフランス人で2名がイタリア人です。

 6月29日の使徒聖ペトロとパウロの祝日には、ドイツのツァイツコーフェンの神学校で、2名が司祭に叙階されます。ドイツ人とポーランド人です。同じ日には4名が助祭に叙階を受けます。3名のポーランド人と1名のスイス人。

 合計で、聖ピオ十世会は世界中でこの6月に、19名の新司祭と18名の新しい助祭が誕生する予定です。天主様に感謝!

 日本では大阪で今回新しいマリア様の白い祭服ができあがりました!マリア様の美しい刺繍がとてもきれいです。天主様に感謝!本当はもっと書きたいことはあるのですが、今回はここまでにします。

 以下のような報告をいただきましたのでご紹介します。

------------------【報告】------------------------

アヴェ・マリア!

6月14日(金)には15名が、15日(土)には25名の人が御ミサに与るお恵みをいただきました!この6月で司祭叙階20年を迎えられる小野田神父様に、そして私達に小野田神父様をおあたえ下さった天主様に心から感謝を申し上げますm(__)m

この6月にマリア様の新しいカズラを付けられて、聖母の歌ミサを捧げられた事に、マリア様のただならぬ御保護と、神父様のマリア様への深い愛と信頼を感ぜずにはおられませんでした。カズラを被られた瞬間、涙が込み上げました(T_T)私達も、小野田神父様に倣って、マリア様の良い子供になるよう頑張りたいと思います!

お疲れの御様子の神父様を信徒は心配しております(;_;) どうぞ御無理なさいませんように・・・。
デオグラチアス!!


-------------【報告】----------------

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 13人(内、子供0人)
女: 14人(内、子供1人)
計: 27人(内、子供0人)


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愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


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聖母の汚れなき御心への奉献更新のため:忍耐の徳

2013年06月21日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、
 聖母の汚れなき御心への奉献の更新準備のために、8月22日まで聖母マリアさまの黙想をすることを提案します。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

聖母月中の祈祷



 我等主の御前(みまえ)に出で、主の御母マリアの尊敬によりて、主を讃美(さんび)し奉つらんとす。主よ願わくは我等の心を浄(きよ)め、すべての無益なる思いより遠ざけしめ、我が智恵を照らし、意志をば堅固(けんご)ならしめ給わんことを、我等の主イエズス・キリストによりて、アメン
 最も尊むべき天主の御母童貞聖マリアよ、我等は御身につくすべき尊敬と愛とを現さんがために此処に集(つど)いきたれり。
 我等は全能の天主が御身(おんみ)にかくも高き御位(みくらい)と御光栄(みさかえ)とを下し給えることを喜び、且つ主が御身(おんみ)の御心(みこころ)に最も深きいつくしみを与え、御身(おんみ)を我等の母と定め給いしによりて主を讃美し奉(たてまつ)る。
 我等はこの月を聖母の月として今日一日をもまた御身の尊敬のために捧(ささ)げ奉(たてまつ)る。
いつくしみ深き聖母よ、我等は御身(おんみ)を御子イエズスの御前(みまえ)における代祷者(だいとうしゃ)として撰(えら)び奉(たてまつ)る。
 今新たに我等が身も心も御身(おんみ)に献げ、我等が悲しみも喜びも生命(いのち)、死もすべて主の御旨(みむね)にかなうよう御身(おんみ)に任(まか)せ奉る。願わくは我等の御母たることを示し給へ。我等は叉、聖会と教皇、及びすべての聖職者並びに生けると死せる親族友達の為に祈り奉る。願わくは我等が讃美(さんび)と祈りとをもって御身の御心(みこころ)を喜ばせ奉らんとするを顧(かえり)み給え。
 我等はこの聖(とうと)き月において、すべての公教信者が特に御身(おんみ)にさゝぐる其の祈りに我等の祈りを合わせ、且(か)つ天国において、天の元后(げんこう)なる御身(おんみ)を永遠に讃美(さんび)する諸々(もろもろ)の天使と共に御身を讃(たた)えまつらん。
 されば我等をして死に至るまで生涯(しょうがい)忠実に主に仕(つか)え、死後天堂(てんどう)において諸天使(しょてんし)諸聖人(しょせいじん)と共に御身(おんみ)を愛し御身(おんみ)に感謝し、御身(おんみ)と共に主を永遠に讃美(さんび)するをうるの最上の幸福をえせしめ給わんとを特に願い奉る。アメン

十   六   日
忍耐の徳

(一)「終わりまで耐え忍ぶ者は救わるべし」と、イエズス・キリストは仰せられた。
この涙の谷に送られて、多くの苦しみに逢(あ)わねばならぬ我等人間にとって、最も必要な徳は忍耐である。
主イエズスはこの徳について、最も立派な御手本を示された。そうしてその御手本に最もよく倣(なら)われたのは聖母マリアであった。
マリアは一(いっ)生涯(しょうがい)の間、あらゆる苦しみや災難に逢(あ)われた。けれども只の一度も天主の御摂理(せつり)をつぶやいたり、不平がましい言葉を口にしたりせられたことはなかった。
聖母は御子が毎日の苦しみに耐え忍ばれるのを見て、常に新(あら)たなる力、新(あら)たなる忍耐をふるい起こされたのである。
ゆえに我等もイエズス・キリストとマリアの立派な模範(もはん)に倣(なら)い、不平或は憤怒(いかり)の心を辛抱(しんぼう)づよく抑(おさ)えなければならない。

(二)カルワリオ山で、御子キリストの見るも傷(いた)ましい御死去に逢(あ)われた時、聖マリアの御苦しみと御忍耐(ごにんたい)とは絶頂(ぜっちょう)に達した。
恐らく昔から今に至るまで、母としてこれほどの苦痛を味わった者もなければ、これほどの忍耐(にんたい)をした者もなかったであろう。
 聖ヨハネの御言葉(みことば)に「イエズスの十字架の下(もと)に聖母は佇(たたず)めり」とある。悲(かな)しみのあまり、心も破れるばかりになりながら、聖マリアは三時間もの長い間、それを耐え忍ばれた。
そしてついに、殉教者の元后(げんこう)と仰がれ給うに至ったのである。
日頃からつとめて忍耐の徳をつみ、心を充分に練(ね)り鍛(きた)えておられたればこそ、マリアは最愛の御子の惨(むご)たらしい犠牲(いけにえ)にも、苦痛を堪(た)えられることができたのではなかろうか。
 ゆえにもしわれらも、マリアの子たらんことを望(のぞ)むならば、御母の麗(うるわ)しい忍耐(にんたい)の御徳に学び、日常の小さなことを耐(た)え忍(しの)ぶことから始めなければならぬ。、
 実にこの世において天国に凱旋(がいせん)するための功績(いさをし)をつむには、天主に対する深い愛と共に、かくの如き忍耐が是非(ぜひ)とも必要なのである。
神の為に耐え忍ぶことは、われらを次第に聖(せい)ならしめ、さまざまな艱難(かんなん)に逢(あ)う時にも力(ちから)と慰安(いあん)とを与えるであろう。
我等が苦しみのため、失望落胆(らくたん)せんとするときには、十字架上のキリストとその下に佇(たたず)み給う聖母とを考えその御心(みこころ)に合わせて忍耐(にんたい)すべきである。

○ 聖マリアによりて、忍耐の徳を与えられんが為に「めでたし」三度唱(とな)えん。
 
祈 願 せ ん

 殉教者(じゅんきょうしゃ)の元后(げんこう)なる聖母マリアよ、御身は聖(せい)殿(でん)に御子イエズスを奉献(ほうけん)し給いしとき、シメオン老人に「汝の霊(たましい)は剱(つるぎ)にて刺(さ)し貫(つらぬ)かるべし」との預言(よげん)をうけ、御一生(ごいっしょう)の間(あいだ)、多くの苦しみを耐え忍び給えり。
願わくは我等も霊肉(れいにく)に悩(なや)みあるとき、これを忍耐する御恵(おんめぐみ)の与えらるゝよう、我等の為に天主に祈り給え。アメン。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
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