アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
聖ピオ十世会の第一の目的は、司祭職です。聖ピオ十世会会憲の第二章「会の目的について」(II - DE SODALITII FINE)は、こう言います。当会の目的は、司祭職であり、司祭職に属する全て且つそれに関わること以外の何物でも無い。すなわち、私たちの主イエズス・キリストが「これを私の記念として行え」と言ったとき、主がお望みになったままの司祭職である、と。
1. Le but de la Fraternité est le sacerdoce et tout ce qui s'y rapporte et rien que ce qui le concerne, c'est-à-dire tel que Notre Seigneur Jésus-Christ l'a voulu lorsqu'il a dit: « Faites ceci en mémoire de moi »
アジア管区長のシュテーリン神父様は、そこで、今まで聖ピオ十世会アジア管区という広い地域で、今までに出会ったことのあるカトリック司祭、或いは、これから出会うであろう司祭の方々にも、友人として、同じカトリック司祭として、お手紙を書きました。何故なら、すべてのカトリック司祭は、本質的に主イエズス・キリストの同じ司祭職を分かち合っているからです。カトリック司祭として、互いに秘跡的刻印において結ばれているからです。私たちの主イエズス・キリストの司祭職に参与しているからです。カトリック司祭としての霊的一致を望むからです。
そこで、願わくは、アジアにいるカトリック司祭たちが、永遠の大司祭なるキリストにおいて一致しますように、キリストにおいて一致するために互いに励まし合うことができますように、カトリック司祭職の美しさと偉大さを保ち再発見することができるように私たちの心をイエズス・キリストに向け続けるためです。私たちは司祭として生き残るために、永遠の真理へと私たち司祭の心を引き挙げるためです。司祭の聖徳を乞い求めるためです。多くの霊魂たちを永遠の救いへと導くためです。
親愛なる神父様、どうぞ、この手紙をお読みください。そして、もしもお気に召したなら、同僚の司祭たちにも教えてあげてください。
親愛なる神父様、もしかしたら、信徒の方からこの手紙のことを知らされたかもしれません。どうぞ、目を通してください。私たち司祭が、ますます高い聖徳への望みに燃え立ちますように!
このお手紙を読む全ての方々に、天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
*****
聖ピオ十世会・アジア管区の司祭たちへの手紙
FIRST LETTER FROM FATHER KARL STEHLIN
カール・シュテーリン神父よりの最初の手紙
親愛なる神父様!
この手紙は、第一に、聖ピオ十世会と接触したことのあるすべての司祭の方々に向けて書かれています。長年に渡って私たちのことをご存知の方々もいれば、私たちの発行している出版物を受け取っているだけの方々、あるいは私たちの宣教旅行の一つでお会いしたことのある方々もいます。おそらく複雑な二次的原因を通して、神父様にこの手紙が伝わり、私の言葉をお伝えする光栄を与えてくださった天主のみ摂理に感謝しています。
私たちの一致
あなたに思い切って手紙を書く理由は、次に述べるこの偉大な真理の故です。すなわち、本質的にすべての司祭たちは、主イエズス・キリストの同じ司祭職を分かち合っているということ、それゆえに、本質的に私たちの源泉に、秘跡的刻印において結ばれており、それは私とあなたを「alter Christus 第二のキリスト」たらしめ──主の永遠の司祭職に参与せしめるのです。しかしながら、私たちが主において一致しているなら、私たち自身の間においても一致があるべきだという論理にならざるを得ません。聖主は「あなたが私の中(うち)においでになり、私があなたの中(うち)にあるように、みなが一つになるように!」(ヨハネ17:21)と永遠のおん父に願った時、彼はどれほどこの霊的一致を、司祭的祈りの中で、熱烈に望んでいたことでしょうか?
私たちの孤立
しかしながら今日、多くの司祭たちは、肉体的にというより霊的に、ばらばらになっているかのように見えます。司祭たちの間にあるまことの一致は、永遠の大司祭なるキリストへの一致にかかっているのです。そしてキリストに一致しようと互いに励まし合えば合うほど、私たちはこの危険に満ちた世界において互いに助け合えるのです。
聖なる司祭職に加えられた攻撃を、あなたは私よりもよくご存知のはずです。あらゆる立場から(特に現代の世俗メディア上で)、司祭職が嘲笑され、司祭職が進歩、女性たち、人権、人間の尊厳、自由とは真逆のものであることを非難され、最も卑劣な性的倒錯行為の逃げ込み場所になっているのを、私たちは耳にしています。世俗は私たちをもはや理解しないかのようです。私たちはよそ者で、容疑者の集まりになってしまっています。なぜなら私たちは世俗が理想とするひな形に、どうやら適合しないからです。「Vae soli, 一人きりでいるのは不幸なことだ」と、コヘレットの書[伝道の書](4:10)は言います。なぜなら、このような圧力にいつでもどこでも抵抗することは、ほとんど難題といっていいからです。従って、互いに手を組み、助け合うこと、私たちの司祭職の美しさと偉大さを保ち、再発見すること、アシジの聖フランシスコの「Deus meus et omnia! 我が天主、我がすべてよ!」というモットーに則って、私たちのまなざしを絶えずイエズス・キリスト、私たちの「唯一の、そしてすべてであるお方」にしっかりと向けておくことが必要なのです。
私たちには信仰が必要です
私たちの司祭職を霊魂のうちに生き生きと保ち、世俗の攻撃を打ち負かす二つの手段があります。聖ヨハネは、素晴らしい明瞭さで最初の手段を教えてくれています。「世に勝つ勝利は、すなわち私たちの信仰である」!(ヨハネ1 5:4)
残念なことに、現代世界では、信仰は凋落の一途を辿っています。名誉教皇ベネディクト十六世は、信仰の危機について何度も語りました。過去五十年間、私たちは教会内での完全な方向転換を経験し続けてきたということを理解するのは簡単です。聖職者層からのメッセージは、現在では世俗の方へ、この世界での人間の生活や悲しみ、喜びの方へと向いています。黙想し、教えられるべきテーマの一覧表のトップに、永遠の真理はもう存在せず、この真理の数々は時代遅れだと考えられているのです。多くの事例の中でも、ちょうど二つの例を挙げましょう。過去五十年以上に渡って、教皇様(ベネディクト十六世)は、たった一度だけしか「戦闘の教会」という言葉を使いませんでした。同様に、「四終(novissima)」の教義は、完全に覆い隠されてしまいました──徹底的な沈黙が、審判、地獄、煉獄、大罪の結果、私たちの内に残る原罪の永久的な傷痕などを包み込んでしまっています。
永遠の真理へと私たちの心を引き挙げようとしないなら、私たちは司祭として生き残ることはできません。真理は私たちを占領し、私たちを惹きつけなければなりません。信仰の炎を輝かせ続けないなら、私たちはもはや自分たちの司祭職を、信仰のひときわ優れた神秘である司祭職を理解しないでしょう。ですからその結果として「この世が私たちを認めないのは、おん父を認めないからである」(ヨハネ1 3:1)となるのです。
私たちは信仰のうちに強められなければならない、と私が申し上げるなら、これは向こう見ずなことではありません。あなたは司祭職の深刻な危機を間違いなくご存知です。すなわち、非常に大勢の司祭たちが司祭職を放棄し、非常に大勢の司祭たちが、キリスト者の生活が失望させるほどに破綻しているのを目の前にして、絶望と幻滅の状態で生きているのです。
私たちの信仰が危機にさらされているもう一つの理由は、自然的レベルにおいてさえも、さまざまな物事を目にする危機のただ中にあるからです。「あの人たちは安楽な生活をしていて、そしてキリスト者でいられる。では、なぜ私は孤独なままで軽蔑されていなければならないのだ? あの人たちは正当な楽しみを得て、努力に対する報酬を得ている。では、なぜそれらのことが私には禁じられているのだ?」こうして、一部の司祭たちは、以前は禁じられていた自然的慰めが許可されるよう要求しています。別の司祭たちは、はっきりと禁じられているわけではないさまざまな事柄を使って、不摂生なまでに楽しみに溺れています。アルコール依存症に陥り、インターネットや映画に依存し、金銭や休暇、くつろいだ生活を常に期待しているあまりに多くの同胞たちを見るのは非常な悲しみです……。この結果はたいてい破滅的です。すなわち、二重生活、司祭職の放棄、背教へと至ります。
聖主によって与えられた永遠の光と真理の高みへと入り込むために、私たちの信仰を堅固なものとすることは非常に重要です! 信仰の、この超自然の「現実」は、私たちの目を開かせ、信仰を蝕み、人々を悪魔の奴隷とさせる、錯覚と偽りのイデオロギーに気づかせる光を与えてくれるでしょう。
私たちには聖性が必要です
私たちの司祭職を霊魂のうちに生き生きと保ち、世俗の攻撃を打ち負かす二番目の手段は、聖徳です。ヨハネによる聖福音の中で、聖主はおん父に「Sanctifica eos! 彼らを聖別してください!」と乞い願いました。司祭とは奉献された存在です。司祭はその手に、その心に「至聖なるおん者」を抱き、宿すのです。特に司祭に対して、聖主はこのように言っています。「あなたたちの天の父が完全であるように、あなたたちも完全なものになれ」(マテオ5:48)
私たちを天使たちよりも上に置き、人間も天使もなし得ない奇跡を勝ち取らせる司祭職の途方もない偉大さに気づいているなら、では、私たちは「取り扱うものを模倣する」(Imitamini quod tractatis)【叙階式の時に司式司教が叙階される司祭たちに言う言葉】という果てしない望みを持たなければなりません。至聖なるおん者に触れる手は、聖なる人の手であるべきです。ですから、なによりもまず、私たちは天主との一致という深い熱烈な望みを持たなければならず、祈りの生活を辿って行き、そうして「主の慈しみを見つめ味わう」(詩編33:9)のです。私たちは賛美とともに、聖なる生活を送った司祭なる先人たちに思いを馳せます。かつて、このような司祭たちは一国を回心させ、何百という霊魂たちを永遠の救いへと連れて行きました。彼らから学ぶべき多くのことがあり、私たちが彼らの歩みに続くなら、同様のことを私たちが勝ち得るだろうと聖主は約束して下さっています。
信仰と聖性の源──ミサ聖祭
さて、信仰と聖徳の二つの最も完全な表現であり、理解に至る手段は、ミサ聖祭です。聖主が聖木曜日に私たちに明かされたように、これこそが、自分たちの司祭職の核となる場所であり、これこそが、私たちの存在理由なのです。聖木曜日に、聖主は私たちに教えて下さったこと「Hoc facite in meam commemorationem 私の記念としてこれをおこなえ」(ルカ22:19)を、正しく完成させるよう、私たちにお命じになったのです。
教会には忠実で聖なる司祭が必要です
大聖グレゴリオは「教会にとって最大の損害は不忠実な司祭であり、最大の利益は熱烈で聖なる司祭である」と書きました。聖主はご自分の王国に聖職者位階があることを望まれ、主として司祭たちを通して、つまり、聖ペトロによって「forma gregis ex animo 群れの模範」(ペトロ1 5:3) と呼ばれた司祭たちを通して天主の光と恩寵を与えることが、天主の聖なるご意志なのです。すなわち、私たちの群れの霊魂たちは、私たちが与える模範に依存しているのです。
あなたは聖ヨハネ・マリア・ヴィアンネの言葉を聞いたことがあるはずです。「聖なる司祭は良い小教区を生み出し、良い司祭は平均的な小教区を生み出し、平均的な司祭は悪い小教区を生み出し、悪い司祭は小教区を無くしてしまう」と。
教会は、恐らく今まで以上に、堅い信仰を持った聖なる司祭たちを必要としています。教会を慰め、(内部や外部から)教会に負わせられた傷を癒やすために私たち司祭を必要としています。不忠実な司祭たちによって裏切られ続けた自分の子らに勝利を取り戻すために、私たちを必要としています。教会を復興させ、拡大させるために働く私たちを必要としています。
忠実で聖なる司祭たちのおん母
人々の心を高め、成功を収める使徒職を持つ忠実で聖なる司祭たちを目にする時はいつでも、彼ら一人一人は司祭職のおん母なる聖母、インマクラータ(無原罪の聖母)のおん助けを当てにしているというのは、もう明白でわかりきったことです! 私は、公にそのことを宣言しているたくさんの司祭たちを個人的に知っていますし、聖母なしでは、彼らはすべてを放棄していたかも知れません。ロザリオなどのおかげで恐るべき危機を克服できたと言っている司祭たちもいます。
この手紙を広めて下さい
あなたの司祭生活の気高さ、美しさ、必要性と基礎を理解して実現させるように司祭たちを助けることによって、私たちの間の絆を強めるため、これこそが、親愛なる同僚である神父様、私があなたに思い切ってこの手紙を送る理由です。この手紙があなたを喜ばせ、あなたの同僚の司祭たちにとって霊的に役に立つと思われるなら、この手紙を読んでいただけるよう回覧し、あるいは、直接コンタクトをとれるよう私に連絡先を送って下さい。できれば、最も簡単で、すぐに、確実に連絡を取れる手段であるEメールを使って、あなたとコンタクトを取りたいと考えています。
あなたが私のために祈ってくださるよう心からお願いします。私もまたあなたのために祈ると約束します。すべての試練において、聖主があなたを強めて強固にしてくださり、悲しみのうちにあるあなたを慰めてくださるよう、聖主おん自らが恩寵と堅固さを与えてくださるように願います。そして、すべての母たちの中でももっとも優れたお方なる聖母が、救霊のすべての敵どもから、あなたを絶えずお守りくださいますように。
感謝を込めてあなたの
カール・シュテーリン神父
韓国語訳もあります。
아시아 신임 관구장, 칼 슈텔린 신부님께서 모든 신부님들께 보내신 서한
●聖伝のミサ(いわゆる「トリエント・ミサ」と呼ばれているローマ式典礼様式のミサ)にようこそ!
●ローマ・カトリックの聖伝のミサ vs エキュメニカルな新しいミサ(第二バチカン公会議のミサ)
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この手紙は、第一に、聖ピオ十世会と接触したことのあるすべての司祭の方々に向けて書かれています。長年に渡って私たちのことをご存知の方々もいれば、私たちの発行している出版物を受け取っているだけの方々、あるいは私たちの宣教旅行の一つでお会いしたことのある方々もいます。おそらく複雑な二次的原因を通して、神父様にこの手紙が伝わり、私の言葉をお伝えする光栄を与えてくださった天主のみ摂理に感謝しています。
愛する兄弟姉妹の皆様、
聖ピオ十世会の第一の目的は、司祭職です。聖ピオ十世会会憲の第二章「会の目的について」(II - DE SODALITII FINE)は、こう言います。当会の目的は、司祭職であり、司祭職に属する全て且つそれに関わること以外の何物でも無い。すなわち、私たちの主イエズス・キリストが「これを私の記念として行え」と言ったとき、主がお望みになったままの司祭職である、と。
1. Le but de la Fraternité est le sacerdoce et tout ce qui s'y rapporte et rien que ce qui le concerne, c'est-à-dire tel que Notre Seigneur Jésus-Christ l'a voulu lorsqu'il a dit: « Faites ceci en mémoire de moi »
アジア管区長のシュテーリン神父様は、そこで、今まで聖ピオ十世会アジア管区という広い地域で、今までに出会ったことのあるカトリック司祭、或いは、これから出会うであろう司祭の方々にも、友人として、同じカトリック司祭として、お手紙を書きました。何故なら、すべてのカトリック司祭は、本質的に主イエズス・キリストの同じ司祭職を分かち合っているからです。カトリック司祭として、互いに秘跡的刻印において結ばれているからです。私たちの主イエズス・キリストの司祭職に参与しているからです。カトリック司祭としての霊的一致を望むからです。
そこで、願わくは、アジアにいるカトリック司祭たちが、永遠の大司祭なるキリストにおいて一致しますように、キリストにおいて一致するために互いに励まし合うことができますように、カトリック司祭職の美しさと偉大さを保ち再発見することができるように私たちの心をイエズス・キリストに向け続けるためです。私たちは司祭として生き残るために、永遠の真理へと私たち司祭の心を引き挙げるためです。司祭の聖徳を乞い求めるためです。多くの霊魂たちを永遠の救いへと導くためです。
親愛なる神父様、どうぞ、この手紙をお読みください。そして、もしもお気に召したなら、同僚の司祭たちにも教えてあげてください。
親愛なる神父様、もしかしたら、信徒の方からこの手紙のことを知らされたかもしれません。どうぞ、目を通してください。私たち司祭が、ますます高い聖徳への望みに燃え立ちますように!
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トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
聖ピオ十世会・アジア管区の司祭たちへの手紙
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親愛なる神父様!
この手紙は、第一に、聖ピオ十世会と接触したことのあるすべての司祭の方々に向けて書かれています。長年に渡って私たちのことをご存知の方々もいれば、私たちの発行している出版物を受け取っているだけの方々、あるいは私たちの宣教旅行の一つでお会いしたことのある方々もいます。おそらく複雑な二次的原因を通して、神父様にこの手紙が伝わり、私の言葉をお伝えする光栄を与えてくださった天主のみ摂理に感謝しています。
私たちの一致
あなたに思い切って手紙を書く理由は、次に述べるこの偉大な真理の故です。すなわち、本質的にすべての司祭たちは、主イエズス・キリストの同じ司祭職を分かち合っているということ、それゆえに、本質的に私たちの源泉に、秘跡的刻印において結ばれており、それは私とあなたを「alter Christus 第二のキリスト」たらしめ──主の永遠の司祭職に参与せしめるのです。しかしながら、私たちが主において一致しているなら、私たち自身の間においても一致があるべきだという論理にならざるを得ません。聖主は「あなたが私の中(うち)においでになり、私があなたの中(うち)にあるように、みなが一つになるように!」(ヨハネ17:21)と永遠のおん父に願った時、彼はどれほどこの霊的一致を、司祭的祈りの中で、熱烈に望んでいたことでしょうか?
私たちの孤立
しかしながら今日、多くの司祭たちは、肉体的にというより霊的に、ばらばらになっているかのように見えます。司祭たちの間にあるまことの一致は、永遠の大司祭なるキリストへの一致にかかっているのです。そしてキリストに一致しようと互いに励まし合えば合うほど、私たちはこの危険に満ちた世界において互いに助け合えるのです。
聖なる司祭職に加えられた攻撃を、あなたは私よりもよくご存知のはずです。あらゆる立場から(特に現代の世俗メディア上で)、司祭職が嘲笑され、司祭職が進歩、女性たち、人権、人間の尊厳、自由とは真逆のものであることを非難され、最も卑劣な性的倒錯行為の逃げ込み場所になっているのを、私たちは耳にしています。世俗は私たちをもはや理解しないかのようです。私たちはよそ者で、容疑者の集まりになってしまっています。なぜなら私たちは世俗が理想とするひな形に、どうやら適合しないからです。「Vae soli, 一人きりでいるのは不幸なことだ」と、コヘレットの書[伝道の書](4:10)は言います。なぜなら、このような圧力にいつでもどこでも抵抗することは、ほとんど難題といっていいからです。従って、互いに手を組み、助け合うこと、私たちの司祭職の美しさと偉大さを保ち、再発見すること、アシジの聖フランシスコの「Deus meus et omnia! 我が天主、我がすべてよ!」というモットーに則って、私たちのまなざしを絶えずイエズス・キリスト、私たちの「唯一の、そしてすべてであるお方」にしっかりと向けておくことが必要なのです。
私たちには信仰が必要です
私たちの司祭職を霊魂のうちに生き生きと保ち、世俗の攻撃を打ち負かす二つの手段があります。聖ヨハネは、素晴らしい明瞭さで最初の手段を教えてくれています。「世に勝つ勝利は、すなわち私たちの信仰である」!(ヨハネ1 5:4)
残念なことに、現代世界では、信仰は凋落の一途を辿っています。名誉教皇ベネディクト十六世は、信仰の危機について何度も語りました。過去五十年間、私たちは教会内での完全な方向転換を経験し続けてきたということを理解するのは簡単です。聖職者層からのメッセージは、現在では世俗の方へ、この世界での人間の生活や悲しみ、喜びの方へと向いています。黙想し、教えられるべきテーマの一覧表のトップに、永遠の真理はもう存在せず、この真理の数々は時代遅れだと考えられているのです。多くの事例の中でも、ちょうど二つの例を挙げましょう。過去五十年以上に渡って、教皇様(ベネディクト十六世)は、たった一度だけしか「戦闘の教会」という言葉を使いませんでした。同様に、「四終(novissima)」の教義は、完全に覆い隠されてしまいました──徹底的な沈黙が、審判、地獄、煉獄、大罪の結果、私たちの内に残る原罪の永久的な傷痕などを包み込んでしまっています。
永遠の真理へと私たちの心を引き挙げようとしないなら、私たちは司祭として生き残ることはできません。真理は私たちを占領し、私たちを惹きつけなければなりません。信仰の炎を輝かせ続けないなら、私たちはもはや自分たちの司祭職を、信仰のひときわ優れた神秘である司祭職を理解しないでしょう。ですからその結果として「この世が私たちを認めないのは、おん父を認めないからである」(ヨハネ1 3:1)となるのです。
私たちは信仰のうちに強められなければならない、と私が申し上げるなら、これは向こう見ずなことではありません。あなたは司祭職の深刻な危機を間違いなくご存知です。すなわち、非常に大勢の司祭たちが司祭職を放棄し、非常に大勢の司祭たちが、キリスト者の生活が失望させるほどに破綻しているのを目の前にして、絶望と幻滅の状態で生きているのです。
私たちの信仰が危機にさらされているもう一つの理由は、自然的レベルにおいてさえも、さまざまな物事を目にする危機のただ中にあるからです。「あの人たちは安楽な生活をしていて、そしてキリスト者でいられる。では、なぜ私は孤独なままで軽蔑されていなければならないのだ? あの人たちは正当な楽しみを得て、努力に対する報酬を得ている。では、なぜそれらのことが私には禁じられているのだ?」こうして、一部の司祭たちは、以前は禁じられていた自然的慰めが許可されるよう要求しています。別の司祭たちは、はっきりと禁じられているわけではないさまざまな事柄を使って、不摂生なまでに楽しみに溺れています。アルコール依存症に陥り、インターネットや映画に依存し、金銭や休暇、くつろいだ生活を常に期待しているあまりに多くの同胞たちを見るのは非常な悲しみです……。この結果はたいてい破滅的です。すなわち、二重生活、司祭職の放棄、背教へと至ります。
聖主によって与えられた永遠の光と真理の高みへと入り込むために、私たちの信仰を堅固なものとすることは非常に重要です! 信仰の、この超自然の「現実」は、私たちの目を開かせ、信仰を蝕み、人々を悪魔の奴隷とさせる、錯覚と偽りのイデオロギーに気づかせる光を与えてくれるでしょう。
私たちには聖性が必要です
私たちの司祭職を霊魂のうちに生き生きと保ち、世俗の攻撃を打ち負かす二番目の手段は、聖徳です。ヨハネによる聖福音の中で、聖主はおん父に「Sanctifica eos! 彼らを聖別してください!」と乞い願いました。司祭とは奉献された存在です。司祭はその手に、その心に「至聖なるおん者」を抱き、宿すのです。特に司祭に対して、聖主はこのように言っています。「あなたたちの天の父が完全であるように、あなたたちも完全なものになれ」(マテオ5:48)
私たちを天使たちよりも上に置き、人間も天使もなし得ない奇跡を勝ち取らせる司祭職の途方もない偉大さに気づいているなら、では、私たちは「取り扱うものを模倣する」(Imitamini quod tractatis)【叙階式の時に司式司教が叙階される司祭たちに言う言葉】という果てしない望みを持たなければなりません。至聖なるおん者に触れる手は、聖なる人の手であるべきです。ですから、なによりもまず、私たちは天主との一致という深い熱烈な望みを持たなければならず、祈りの生活を辿って行き、そうして「主の慈しみを見つめ味わう」(詩編33:9)のです。私たちは賛美とともに、聖なる生活を送った司祭なる先人たちに思いを馳せます。かつて、このような司祭たちは一国を回心させ、何百という霊魂たちを永遠の救いへと連れて行きました。彼らから学ぶべき多くのことがあり、私たちが彼らの歩みに続くなら、同様のことを私たちが勝ち得るだろうと聖主は約束して下さっています。
信仰と聖性の源──ミサ聖祭
さて、信仰と聖徳の二つの最も完全な表現であり、理解に至る手段は、ミサ聖祭です。聖主が聖木曜日に私たちに明かされたように、これこそが、自分たちの司祭職の核となる場所であり、これこそが、私たちの存在理由なのです。聖木曜日に、聖主は私たちに教えて下さったこと「Hoc facite in meam commemorationem 私の記念としてこれをおこなえ」(ルカ22:19)を、正しく完成させるよう、私たちにお命じになったのです。
教会には忠実で聖なる司祭が必要です
大聖グレゴリオは「教会にとって最大の損害は不忠実な司祭であり、最大の利益は熱烈で聖なる司祭である」と書きました。聖主はご自分の王国に聖職者位階があることを望まれ、主として司祭たちを通して、つまり、聖ペトロによって「forma gregis ex animo 群れの模範」(ペトロ1 5:3) と呼ばれた司祭たちを通して天主の光と恩寵を与えることが、天主の聖なるご意志なのです。すなわち、私たちの群れの霊魂たちは、私たちが与える模範に依存しているのです。
あなたは聖ヨハネ・マリア・ヴィアンネの言葉を聞いたことがあるはずです。「聖なる司祭は良い小教区を生み出し、良い司祭は平均的な小教区を生み出し、平均的な司祭は悪い小教区を生み出し、悪い司祭は小教区を無くしてしまう」と。
教会は、恐らく今まで以上に、堅い信仰を持った聖なる司祭たちを必要としています。教会を慰め、(内部や外部から)教会に負わせられた傷を癒やすために私たち司祭を必要としています。不忠実な司祭たちによって裏切られ続けた自分の子らに勝利を取り戻すために、私たちを必要としています。教会を復興させ、拡大させるために働く私たちを必要としています。
忠実で聖なる司祭たちのおん母
人々の心を高め、成功を収める使徒職を持つ忠実で聖なる司祭たちを目にする時はいつでも、彼ら一人一人は司祭職のおん母なる聖母、インマクラータ(無原罪の聖母)のおん助けを当てにしているというのは、もう明白でわかりきったことです! 私は、公にそのことを宣言しているたくさんの司祭たちを個人的に知っていますし、聖母なしでは、彼らはすべてを放棄していたかも知れません。ロザリオなどのおかげで恐るべき危機を克服できたと言っている司祭たちもいます。
この手紙を広めて下さい
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あなたが私のために祈ってくださるよう心からお願いします。私もまたあなたのために祈ると約束します。すべての試練において、聖主があなたを強めて強固にしてくださり、悲しみのうちにあるあなたを慰めてくださるよう、聖主おん自らが恩寵と堅固さを与えてくださるように願います。そして、すべての母たちの中でももっとも優れたお方なる聖母が、救霊のすべての敵どもから、あなたを絶えずお守りくださいますように。
感謝を込めてあなたの
カール・シュテーリン神父
韓国語訳もあります。
아시아 신임 관구장, 칼 슈텔린 신부님께서 모든 신부님들께 보내신 서한
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