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シスター・ルチアの1957年のフエンテス神父とのインタビュー:私たちは最後の救いの手段を拒絶しているのか?

2022年05月19日 | ファチマ

シスター・ルチアの1957年のフエンテス神父とのインタビュー:私たちは最後の救いの手段を拒絶しているのか?

2022年5月3日(火曜日)

Sister Lucia’s 1957 Interview with Fr. Fuentes: Are We Now Rejecting the Last Means of Salvation?

ロバート・モリソン(レムナント・コラムニスト)

シスター・ルチアの1957年のフエンテス神父とのインタビュー

「私たちは最後の救いの手段を拒絶しているのか?」

1957年12月26日、アウグスティン・フエンテス神父(ファチマの幻視者フランシスコとジャシンタの列福の申請代理人)は、ファチマの幻視者の最年長者シスター・ルシアにインタビューしました。カール・シュテーリン神父(聖ピオ十世会)が「ファチマの大いなる秘密」(第3巻)で以下のように記しているように、その後すぐにローマの進歩的な当局がフエンテス神父とそのインタビューの信用を落とそうとしていますが、このことは、このインタビューが今日において重要であることを示唆しています。

「なぜ、この【インタビューの】文章にそれほど強い反応があるのでしょうか? 第一に、この文章のために、シスター・ルチアは、ヨハネ二十三世が公会議開会の演説で非難した破滅の予言者の一人として位置づけられたのです。ですから、教皇は、彼女の述べていることを好ましく思っていなかったに違いありません。それに関係なく…シスター・ルチアは、このインタビューの中で、第三の秘密の特定の詳細を明らかにしたのです」。

以下のインタビューの抜粋から分かるように、シスター・ルチアは、第二バチカン公会議とそれに続く数十年の間にまったく明らかになった、信仰の大危機について語っていたのです。私たちにとってさらに重要なことは、1957年のシスター・ルチアの言葉が、直近の未来について私たちが得ている最も重要な警告であるということです。

1957年当時、そして現在におけるこの世の悲惨な状況。「神父様、至聖なる童貞は、善人も悪人も、誰もそのメッセージに注意を払わなかったため、非常に悲しんでおられます。善人は、メッセージを重要視せず、自分の道を歩み続けています。悪人は、天主の罰が自分たちに実際に下るのを知らず、メッセージについて関心を持たずに、罪の生活を続けています。でも、私を信じてください、神父様、天主はこの世を罰せられます。天からの罰は差し迫っています…」

この世は、1957年当時も悪かったのですが、今日では比較にならないほど悪くなっています――私たちは、このことを至るところで見ています。今日では、私たちはもっと多くの天罰を受けるに値するのですが、自分の生活を改める必要があることにほとんど気づいていません。1957年に天罰が差し迫っていたとすれば、2022年(あるいは5月)になっても天主から懲罰を受けずに済むと誰が確信できるでしょうか?

聖職者の堕落はイエズスとマリアを苦しめ、信者の地獄行きにつながります。「マリアの汚れなき御心とイエズスの聖心を苦しめるものは、修道者や司祭の霊魂の堕落です。悪魔は、美しい召命から堕落した修道者や司祭が、多くの霊魂を地獄に引きずり込むことを知っています…。悪魔は、奉献された霊魂を自分のものにしたいと欲しています。悪魔は、信者の霊魂を眠らせ、それによって信者を最終的な背信に導くために、聖職者の霊魂を堕落さようと欲するのです。その結果、内的生活が不毛になり、信者の間では、楽しみを捨てて自らを天主に奉献するというテーマに対して冷淡になるのです」。

聖職者の堕落は何十年も前から完全に明白になっていましたが、パンデミック時に教会が閉鎖されたことで、それはさらに明らかになりました。重大なのは、この堕落の及ぼす影響のうち、ほとんど認識されていないのが信者に関するものだということを、シスター・ルチアがはっきりさせたことです。つまり、「楽しみを捨てて天主に完全に自らを奉献するというテーマに対する冷淡さ」です。マリアの汚れなき御心とイエズスの聖心が、私たちが楽しみを捨てて天主に自らを完全に奉献することに冷淡であることに苦しまれるというのは、驚くべきことでしょうか? もしそうなら、シスター・ルチアが指摘するように、悪魔が、すべてのカトリック信者に天主に対して寛大であるよう呼びかけるべき聖職者を堕落させることに成功したからかもしれません。天主と聖母のメッセージを無視し続けた原因および結果として、私たちの牧者たちはしばしば、まるで聖人のように天主に立ち返らなければならないと説教すれば、私たちをつまずかせてしまうかのように振る舞うのです。悲劇的なことに、この天主に立ち返ることこそが、今日私たちが切実に必要としているメッセージなのです。

私たちが終末の時代にいるという三つの理由――第一の理由。「神父様、至聖なる童貞は、私たちがこの世の終末の時代にいると私にお告げにはなりませんでしたが、三つの理由から私にこのことを理解させられました。第一の理由は、悪魔が聖母に対して決定的な戦いを挑むつもりになっていると、聖母が私にお告げになったからです。そして、決定的な戦いとは、一方が勝利し、他方が敗北する最終決戦のことです」。

第二バチカン公会議以降、またフランシスコがローマを占拠している間にますます、私たちは、教会内部の戦線が明確に区分されていることを目の当たりにしてきました。彼のパチャママの導入、特に「トラディティオーネス・クストーデス」(Traditiones Custodes)における聖伝のカトリシズム(すなわちカトリシズム)への直接的な攻撃、そして「シノドス(司教会議)中心主義」(Synodality)に関するシノドスによって、フランシスコは、見る目のある者に対して、正当なカトリックの宗教と、今や事実上、新世界秩序の霊的部門となり、第二バチカン公会議の精神によって活発になった悪魔的な偽りの宗教のどちらかを選択するしかないということを、明白にしているのです。私たちは確かに、最終決戦の真っただ中にいるように思えます。中立を保とうとする人々は、しばしば、マリアとその軍隊に対する悪魔の攻撃において、悪魔の最大の道具となるのです。

私たちは終末の時代にいる――第二の理由。「第二の理由は、聖母がこの世に二つの最後の救済策を与えておられるからです。それは聖なるロザリオとマリアの汚れなき御心への信心です。これは、最後の二つの救済策であり、今後ほかにはもう何もないという意味なのです」。

インタビューの後半で、シスター・ルチアは直接ロザリオについて語っています。

「見てください、神父様、私たちが生きているこの終末の時代に、至聖なる童貞は、私たち一人一人の個人的な生活、家族、世界の家族、修道会、あるいは民族や国家の生活において、どんなに難しい問題であっても、ロザリオによって解決できないものはないというところまで、ロザリオを唱えることに新しい効力を与えてくださったのです。ロザリオで、私たちは自分を救い、自分を聖化します。ロザリオで、私たちは主をお慰めし、多くの霊魂の救いを得るのです」。

ロザリオへの信心を持つ人々は、天主がロザリオを唱えることに特別な効力を与えておられることを、経験を通じて理解しています。聖母とロザリオへの信心を批判する人々は、天主がどのような救済策を選ぶかを決めることがおできになるという、この重要な事実を取り違えています。天主は、【救済策として】聖なるロザリオとマリアの汚れなき御心への信心を選ばれたのです。自分がカトリック信者だと思っているほとんどの人々は、この救済策をほとんど、あるいは全く利用していません。つまり、この救済策の重要性を認識している人は、それを最大限に利用するよう求められているのです。

私たちは終末の時代にいる――第三の理由。「第三の理由は、天主の御摂理の計画において、天主は常に、世を懲罰しようとされる前に、すべての救済策を使い尽くされるからです。いま、この世が全く注意を払わないのを天主がご覧になると、私たちの不完全な言い方で言えば、天主は、ある種のおののきをもって、最後の救いの手段である至聖なる御母を私たちに差し出されています。『ある種のおののきをもって』(with certain trepidation)というのは、もし私たちがこの最後の手段を軽んじ、拒絶するならば、私たちは福音が聖霊に対する罪と呼ぶ罪を犯すため、もはや天からの赦しを何も受けられなくなるからです。その罪は、聖霊が差し出される救いを、十分な知識と同意のもとに公然と拒絶することなのです」。

フランシスコがローマにパチャママを迎えて以来、天主は、この世の邪悪な勢力が、天主と天主のみ旨を果たそうとする人々に対して公然と結束していることを、これまで以上に明らかにしてくださいました。大多数の人々は、「何か」が間違っていることに気づいていますが、自分たちのパンとサーカスがある限り、言われたとおりにすることにおおむね満足しています。天主はまた、私たちが次の選挙でどれだけ良い結果を出そうとも、イーロン・マスクがツイッターを支配したらどれだけ真実のツイートを許そうとも、助けが来るわけではないことを私たちに分からせてくださいました。世俗の勝利は、この世の邪悪な支配者たちが私たちを檻に押し込めるために必要な支配力のすべてを得るまでの時間を、もう少し稼ぐのに役立つだけなのです。

天主は私たちに、救いの最後の手段である至聖なる御母を利用することが唯一の方法であることを理解させてくださっているのです。そして、私たちがマリアを通して天主に立ち返らなければならないことが明確であればあるほど、そうしないことで私たちは、さらに罪深い存在となるのです。シスター・ルチアが指摘したように、私たちは「主が与えてくださる救いを、完全な知識と同意をもって公然と拒絶する」段階に近づいているのです。ですから、聖人になりたいと願いながら、今、マリアを通して天主に立ち返ることは、単に数ある良いことの中の一つではなく、必要な一つのことなのです。私たちがそうするなら、天主は他のものも与えてくださいます。私たちがそうしなければ、どんなに政治的にうまくいっても、私たちの助けにはなりません。

償いの大いなる必要性。「私の使命は、私たちが頑固に罪を犯し続けるなら、永遠に霊魂を失うという差し迫った危険にさらされていることを、すべての人に指摘することです。神父様、私たちは償いをするために教皇様の呼びかけを待っていてはいけません。また、教区の司教や修道会から償いの呼びかけが来るのを待っていてもいけません。そうではありません! 私たちの主は、すでに何度もこれらの手段を用いておられますが、この世は全く注意を払ってきませんでした。ですから今、私たち一人一人が霊的に自分を改革し始めることが必要なのです。一人一人が自分の霊魂を救うだけでなく、天主が私たちの前に置かれたすべての霊魂を救わなければならないのです」。

第二バチカン公会議以降、ノブス・オルドに従うカトリック信者の間では、償いの実践が著しく減少しています。私たちの信仰に対する感謝が教えているように、償いの不足は罪を増やし、その罪はさらに多くの償いを必要とするのです。その結果、私たちは霊的な死のスパイラルに陥っており、一人一人が天主に立ち返る必要があることに目覚めなければならないのです。「一人一人が霊的に自分を改革し始めることが必要です」。この聖性への呼びかけを牧者から聞くことができそうにないという事実は、聖人になるために全力を尽くすべき、さらに大きな理由になるはずです。

懲罰の道具としてのロシア。「神父様、彼らに伝えてください。至聖なる童貞は、私のいとこのフランシスコとジャシンタと私に、多くの国が地上から姿を消すでしょう、と何度も言われました。聖母は言われました。ロシアが全世界を罰するために天によって選ばれた懲罰の道具になるでしょう、そのあわれな国【ロシア】の回心をあらかじめ得られなければ、と」。

ロシアやウクライナに対する思いはともかく、ロシアが「天が全世界を罰するために天によって選ばれた懲罰の道具」となる事態が、これまで以上に近づいているように思われます。人間が聖人のように天主に立ち返らないならば、大いなる懲罰のためのすべてが用意されているのです。

「司教や司祭はこのことを広く知られるように説教すべきです。しかし、たとえ彼らがそうしなくても、カトリックの心でそれを知っている私たちは、キリストの約束にふさわしい者となるために、童貞聖マリアに御取り次ぎを願うべきです。

残された時間を使って、私たちは生活を改め、聖人になることにすべてがかかっているかのように行動しなければなりません。シュテーリン神父が、以下のように書いているように、聖母はあわれみの御母であり、私たちが聖母に叫びさえすれば、私たちの声を聞いてくださいます。

「例えば、ある子どもがいて、とても悪くて悪質で、おそらく多くの犯罪に手を染め、全世界から拒絶されていると想像してみてください。もし、その子どもの母親が良い母親であったなら、その子どもを見捨てたりはしないでしょう。聖モニカが息子の聖アウグスティノのためにしたように、その子どもの回心を生涯天主に願い続けるのではないでしょうか? そして、その子どもが少しでも後悔の念を示したら、急いで母性愛を見せるのではないでしょうか? そして、その子どもが絶望の中で「お母さん」と叫んだら、母親の心はその助けを求める叫びに耳を貸さないことができるでしょうか? 母親のところへ行くのに怖がる人がいるでしょうか? しかも、ここにおられるのはただの母親ではなく、むしろその本質があわれみの御母である、すべての母親の中で最高の母親なのですから」。

天主は、私たちが愛に満ちたあわれみの御母を「切実に」必要としていることを、今、はっきりと分かるようにしてくださったのです。司教や司祭は、このことを広く知られるように説教すべきです。しかし、たとえ彼らがそうしなくても、カトリックの心でそれを知っている私たちは、童貞聖マリアに、私たちがキリストの約束にふさわしくなるように御取り次ぎを願うべきです。明日では遅すぎるかもしれませんから、今、そうしなければならないのです。いと尊きロザリオの元后、われらのために祈り給え。

シスター・ルシア 「ロザリオの祈りによって解決できない問題などありません。」 - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2021年「秋田巡礼」へのお招き - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた


ファチマのシスター・ルシアの初聖体「主よ、私を聖人にしてください。あなたのためにだけ、私の心を常に清く保ってください。」

2021年08月19日 | ファチマ

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

ファチマのシスター・ルシアの初聖体の出来事に関することを、ファチマの聖母の会・プロライフののブログの中のシスターの手記からご紹介いたします。

3. ルシアの初聖体

小教区の主任神父様が定めた子供たちの荘厳初聖体の祝日が近づいて来ました。私がすでに6歳になっていたことと、私が公教要理をよく覚えていたの事実により、母は私が初聖体を受けることができるかもしれないと思いました。このために、母は、主任司祭が子供たちに教えていた初聖体の偉大な日を準備するための公教要理に、私を姉のカロリナと一緒に送りました。私はすぐに初めて天主様をお受けすることができると期待して、喜びに輝いて教会に行きました。

神父様は、教壇の上にある倚子に座って子供たちに教えました。
司祭は、私をご自分のそばの脇に呼び置き、もしもある子供が司祭の質問に教えられなかったら、その子供の代わりに私に答えさせ、彼らに恥をかかせました。

初聖体の前日がやって来ました。神父様は子供たちは午前中に教会に来るようにと伝言を送りました。それは神父様がどの子供が初聖体を受けることができるか最終の決定をすることができるためでした。神父様が私をお近くに呼んで私の頭を撫でてから、私が7歳になるまで待たなければならないと言った時、私はどれほどがっかりしたことでしょうか!

私はすぐに泣き始めました。ちょうど私が母にしていただろうように、頭を神父様の膝に埋めて泣きじゃくりました。ちょうどその時、告解を聞くために助けに呼ばれた別の神父様 6 が教会に入ってきました。この姿勢を取っている私を見て、神父様は私が泣いている理由を尋ねました。

6 この司祭は、後に聖徳で有名な、イエズス会のクルズ神父(1948年没)であったと後に分かった。

理由を知らされ、この神父様は私を香部屋へ連れて行って、公教要理とご聖体の神秘について私に質問をしました。この後、私の手をとって、主任神父様のところへ連れて行き、こう言いました。
「ペナ神父様、この子を初聖体に行かせることができますよ。この子は他の多くの子供たちよりもよく理解しているから」と。
主任神父様は「でも、わずか6歳ですよ」と反論しました。
「大丈夫ですよ。その責任は私が取りましょう。」
「それなら、分かりました。」

良い主任司祭は私にこう言いました。
「お母さんのところに行って、明日は初聖体を受けると言いなさい。」

私はその時に感じた喜びをいい表すことができません。聖堂の外へ出て、嬉しさのあまりに両手をたたき、母によいニュースを知らせるために、家にまでずっと走りました。

母は、すぐに、その日の午後私がすべき告解の準備をさせてくれました。母は私を教会に連れて行き、教会に着くと、私は母に別の神父様に告白したいと言ったので、私たちは香部屋へ行きました。そこにこの神父様が倚子に座って告解を聞いておられました。

母は、順番に告解する自分の子供たちを待っている別の母親たちと一緒に、香部屋の入り口に近い主祭壇の前に跪きました。その祭壇の御聖体の前で、母は私に最後の勧めを下さいました。

4. ロザリオの聖母はルシアに微笑む

私の順番が来ると、私は罪の許しを乞い求めて、主の役務者である神父様において代表される私たちの愛する主の足元へ跪きました。告解を終えると、だれもが笑っているのに気がつきました。母は、私をそばへ呼んで、こう言いました。
「わが子よ、告白は秘密のもので、低い声でするものだって知らなかったの? 皆におまえの言うことを聞こえたのよ!誰にも聞こえなかったのはたった一つだけで、それはおまえが最後に言ったことだよ。」

家へ帰る途中、母は告解の秘密と自分が呼んだことを知ろうと何度も試みました。しかし、母が得た私の唯一の返事は、完全な沈黙でした。

しかし、今、私は司教様に初めて、私の最初の告解の秘密を言い表します。
告解を聞き終わった後、例の神父様は、次のように言いました。

「わが子よ、あなたの霊魂は聖霊の神殿です。それをいつも清く保ちなさい。聖霊がご自分の天主としての働きを、あなたの霊魂の中に実現することができるように。」

これらの言葉を聞いて、私は自分の内的なものに対しての畏敬で満たされたように感じ、親切な聴罪師に自分が何をしなければならないかを尋ねました。

「あそこの聖母の前にひざまずき、大きな信頼を持って、あなたの心を世話して下さるように、明日聖母の愛する御子イエズスをふさわしく受けるように準備して下さる用意、またあなたの心を、イエズスのためにだけに取っておくように願いなさい!」

教会には、聖母のご像はいくつかありました。しかし姉たちは、ロザリオの聖母の祭壇を飾る役目を持っていたので、私はいつもそこに祈りに行きました。そこでこの機会にもロザリオの聖母像 7 の前へ祈りに行きました。私は全身全霊を込めて、私の貧しい心を天主様のためだけに守ってくださるようにお願いしました。

[7 この美しい御像は今でも小教区の教会に、入って右側に立っている。]

この拙い祈りを何度も何度も繰り返し、聖母像を見つめていると、おん母が、愛を込めた眼差しとご親切なジェスチャーとで、私に微笑み、そうすると私に保証して下さったように見えました。私の心は喜びにあふれて、一言も発することができませんでした。

5. 初聖体を待ち焦がれて

姉たちは私のために白いドレスと花冠を作るために、その夜はずっと起きていました。私といえば、あまり嬉しくて眠ることができませんでした。あたかも時間が全く進まないかのように思われました。私は何度も起き上がって、朝が来たのかとあるいは、もしも姉たちが私に白いドレスや花冠をつけて見たいか、と尋ねてばかりいました。

ついに幸せな日は昇りました。しかし9時になるのは、どれほど長かったことでしょうか!私は白いドレスを着て、姉マリアは私を台所へ連れて行きました。それは、両親に背いた数々の罪を詫び、両親の手に接吻して、祝福を受けるためでした。この後、小さな儀式があり、母は私に最後の忠告をしてくれました。母は私に、

イエズス様が私の心に来られる時、私が何を願わうことを望んでいるかを教えて、こう言って別れました。
「何よりもまず、イエズス様におまえを聖人にしてくれるように願いなさい。」

母の言葉は、私の心に消すことのできない深いものを刻みつけましたので、聖体を拝領して、私が最初に私たちの主に言った言葉はそれでした。母が私に言ったその時の言葉の声のこだまが、今でも聞こえるように感じます。私は姉たちと教会に向かいました。兄は道から来る埃の汚れが私に触らないように、教会まで私を抱いてくれました。教会につくや否や、私はすぐに聖母マリアの祭壇の前へ走って行って跪き、私の願いを繰り返しました。私はそこに留まり、前日の聖母の微笑みを思い出しながら祈っていました。姉たちが私を探してやって来て、私のために決められた場所に連れて行きました。
4列に並んだー男の子が二列、女の子が二列ーたいそう多くの子供たちがいて、教会の入り口から祭壇の御聖体拝領台までずらりと並んでいました。私は一番小さかったので、祭壇のそばの足元にある天使たちの近くにいました。

6. 偉大な日

歌ミサが始まり、御聖体拝領の瞬間が近づくにつれ、貧しい私の霊魂に一致しようと、天から降りてきて下さろうとする天主様のご訪問を待ち望んで、私の胸はますます速くドキドキしていました。主任司祭が祭壇からおりてきて、子供たちの列の方に近づき、天使たちのパンを配りました。私は最初に御聖体拝領をする幸運に恵まれました。司祭が祭壇をおりてこようとするとき、あたかも私の心臓は胸から飛び出てしまうかのように感じました。しかし司祭が私の舌に天主のホスチアを授けるや、私はえも言えぬ静けさと深い平和を感じました。
超自然の雰囲気にあまりにも浸りこんでいるのを感じたので、私たちの愛する主の現存が、あたか私の体の感覚で主を見て主の言葉を聞いたかのように、はっきりと感じとれました。
そこで私は主に祈りをしました。
「主よ、私を聖人にしてください。あなたのためにだけ、私の心を常に清く保ってください。」
その時、私の心の奥底で、私たちの愛する主が次の言葉ではっきりと私におっしゃったようでした。
「今日、おまえに与えられためぐみは、おまえの霊魂に生きて留まり、永遠の命の実を結ぶだろう。」
私は天主の中に姿を変えてしまったかのように思いました。

儀式が終わったのはほぼ午後の1時でした。何故なら遠方から来られた司祭たちの到着が遅れたこと、お説教、洗礼の約束の更新などがあったからです。母は心配して、私が弱って気を失ってしまうのではないか、と案じて、私を探しにやって来ました。

しかし、私はと言うと、天使らのパンであふれ出るほど満たされ、どんな食べ物も食べることができありませんでした。この後、私はこの世の物への興味と関心を失い、たった一人で静かなところにいるときだけ、私は安心して、初聖体の喜びを思いすことが出きました。

7. ルシアの家族

そのような離脱の時はまれでした。司教様はもうご存じの通り、私は、隣人たちから私たちに委託された子供たちの世話をしなければなりませんでした。この他にも、母は看護婦としてたくさんのことを求められていました。たいしたことのない病気の場合、病気の人々は私たちの家に来て母のアドバイスを求めました。しかし病人が外に出ることができないときには、今度は彼らが母に自分たちの家に来てほしいと頼まれました。母は病人の家で昼間を何日も過ごし、時には夜も過ごしました。病気が長引いた場合、或いは病人の状態がそれを必要としたなら、母は時折姉たちを送って病人の寝台の傍らで夜を過ごすように命じました。それは病人の家族に休むチャンスを与えるためでした。病人が若い家族の母親である場合には、或いは、子供たちの騒がしさを耐えることができない人の場合、母は幼子たちを私たちの家に連れてきて私がその世話をするように命じました。私は子供たちと遊び、どうやって機織りの糸を準備するか教えたりしました。子供たちは木の糸巻きを回転させて、それに糸を玉状に巻いて、それをかせに巻き取り、枠に縦糸が準備されるように糸の玉を導きました。

こうして、私たちにはいつもやることが一杯ありました。普通、私たちの家には、機織りや服を作るのを習いに来た数名の女の子たちが働いていました。通常は、これらの女の子たちは私たちの家族に大きな愛情を示し、自分たちの人生で最高の日々が私たちの家で過ごした日だったとよく言ってくれました。一年のある決まったときには、姉たちは日中に畑仕事に出なければなりませんでした。そこで姉たちは、機織りや縫い付けを夜しました。夕食の後、父が祈りの先唱をして夕の祈りがあり、それから仕事が恥じましました。

誰もが何かをしなければなりませんでした。姉のマリアは機織り仕事に行き、父は糸巻きを一杯にして、テレサとグロリアは裁縫に行きました。母は回転糸巻きを取り、カロリナと私とは、台所をきれいにかたづけた後、裁縫の手伝いをしなければなりませんでした。仮縫いを取り、ボタンを縫う、などなどです。うとうとするのを遠ざけるために兄はアコーディオンを弾き、私たちは様々な種類の歌をそれに合わせて歌いました。しばしば隣人たちも私たちと一緒にいるために家に来ました。これは彼らの睡眠時間がなくなるということを意味していましたが、私たちの陽気な音楽が自分たちの心配を無くさせてくれ、自分たちを幸せで満たすのだとよく私たちに言っていました。

私はいろいろな婦人たちが母に時々こう言うのを聞きました。
「あなたって、ほんとに幸せね!天主様があなたになんてすてきな子供たちを与えたんでしょう!」

トウモロコシを収穫するときが来ると、私たちはトウモロコシの皮を月明かりで見て取りました。私はトウモロコシの積まれた山のてっぺんに座って、濃い赤の穂軸が現れたら、そこにいる人々に抱擁をするように選ばれていました。


8. 振り返って

私の初聖体について話した事実が現実なのか、あるいは子供の錯覚なのか、私には分かりません。私が知っているのは、これらの出来事は、私を天主と一致させるために、私の心に強い影響を与えたし、いまでも与えている、ということです。私が知らないのは、何故私が今司教様に私たちの家庭生活についてのことを全てお話ししたかということです。しかし、そうするように私に息吹いてくれたのは天主で、天主はその理由を知っておられます。おそらく、これは司教様が、私にそれほどまで多く降り注がれた愛情を受けた後であればあるほど、私たちの愛する主が私にお求めになろうとする苦しみを、私がそれだけ深く感じたと言うことをお知らせになるためかもしれません。司教様は、私たちの主が私に送り給うた全ての苦しみと、主がその御憐れみによってかたじけなくもくださった御恵みとを書くように私に命じられたので、私は、それらの出来事が実際に起こったがままを述べるのが最も良いことだと思います。8

更に、私はそれについて全くの平安を感じています。何故なら、司教様が天主といとも聖なるマリア様とのより大いなる栄光のためにならないとご覧になるものはどんなものであれ、司教様は火に焼き捨ててくださるだろうと私は知っているからです。

8. このことはルシアの単純さを明らかにしている。また彼女の書いたものにおける彼女の潔白さと誠実さを示す。


ファチマの秘密「そのお方だけがあなたたちを助けることが出来る」 最大の悪とはこの地獄の火に落ちること。たとえ全世界をもうけても霊魂を失っては何の利益か?

2020年07月10日 | ファチマ
【再掲】ファチマの秘密 (1)




ファチマの牧童の一人ルシアはこう書いている。「秘密は3つの別々の部分からなっています。私はそのうちの2つをあらわにしましょう。最初の秘密は地獄のヴィジョンでした。・・・第二の秘密はマリアの汚れ無き御心への信心に関するものです。」(第三の手記[回顧録])

残念ながら、まだ私たちには第三の秘密は完全には分かっていない。しかし、シスター・ルシアがその第三の手記の中で最初から最後まで詳細に聖母のメッセージを書いているにもかかわらず、そこには第三の秘密は書かれていない。しかしそれを読むとあたかもこの聖母のメッセージには何らの分断も切れ目も無いかのようだ。

実はファチマの秘密を分析研究するにつれて、それらの3つの部分の秘密が1つのメッセージを形作っていることが分かってくる。そしてこの唯一の秘密は1917年7月13日に聖母によって告げられた。3つの部分は互いに分かち難くつながっている。

もちろんファチマのメッセージを信ずることはカトリック信仰にとって不可欠なことではない。しかし、私たちの母なる教会はこれを「信仰と道徳とに反するものではない」として信じることを認可したのだから、私たちはこれを安心して信じよう。天主の御母のメッセージに耳を傾けてみよう。だから私たちはしばらくの間このメッセージを黙想することにしよう。

まず、シスター・ルシアの手記に忠実に従い、事実関係を把握しよう。時は1917年7月13日金曜日である。私は以下にルシアが書いたポルトガル語の原文に最も忠実だと考えられるフランス語のテキストをもとに、その時何が起こったかを訳出してみよう。私はこの記事を書くために主に次の文献を利用する。
Toute La Verite sur Fatima, Tomes I a III par Frere Michel de la Sainte Trinite, Renaissance Catholique, Contre-Reforme Catholique, F-10260, Saint-Parres-les-Vaudes, France.
この本はルフェーブル大司教様も強く勧めておられた本である。

この本には英語版もあり、The Whole Truth about Fatima, available from: Immaculate Heart Publications, Box 1028, Buffalo, New York 14205 USA. 或いは、Immaculate Heart Publications, 452 Kraft Road, Fort Erie, Ontario, Canada L2A 4M7 CANADA.である。
また、日本語になっている文献として、光明社からの「ファチマの牧童」C.バルタス神父著[Chanoine C. Barthas (+26 aout 1973)]中山利喜太郎訳と、ドンボスコ社から出ている、「現代の危機を告げるファチマの聖母の啓示ールチア修女の手記」ヴィットリオ・ガバッソ 志村辰弥 共訳編とをも参照した。

以下の訳でアンダーラインが引いてあるところは、ドンボスコ社から出ている、「現代の危機を告げるファチマの聖母の啓示-ルチア修女の手記」では省略されているか、別の言葉になってしまっているところである。

「『あなた様は私に何をお望みですか』と私は尋ねました。
『私はあなたがここに来月の13日に来ることを望みます。そしてロザリオの聖母を崇敬するために、世界が平和を得、戦争の終わりを勝ち取るためにロザリオを毎日唱え続けることを望みます。なぜなら、そのお方(=ロザリオの聖母)だけがあなたたちを助けることが出来るからです。』
『私はあなたがどなたでいらっしゃるのか私たちにおっしゃって下さるよう、そして誰もが私たちに御出現なさっているということを信じるように一つ奇跡をなさって下さることをお願いいたします。』
『毎月ここに来続けなさい。10月には私は私が誰か、私が何を望んでいるか、言いましょう。私は皆が見、信じるために一つ奇跡を行いましょう。』・・・
そしてこのお方は続けてこう仰いました。
『罪人たちのために犠牲をしなさい。たくさんこう言いなさい。特に何か犠牲をするときにこう言いなさい。"イエズスよ、これは御身を愛するため、罪人たちの回心のため、そしてマリアの汚れ無き御心に対して犯される罪を償うためです"、と。』
これらの最後の言葉を聖母が話されると、以前2ヶ月の間なさったように、もう一度両手を開かれました。
光線が大地を貫いたように見えました。そして私たちはあたかも火の海の様なものを見ました。

この火の中に浸かり込んでいるのは悪魔たちと人間の形をした霊魂たちでした。霊魂たちは透き通った燃える炭火のようで、皆真っ黒か褐色のようでした。彼らは雲のような煙と共に自分自身からわき出る炎によって持ち上げられ、この大火事の中に漂っていました。彼らは、恐ろしくまた恐怖のあまり震えおののかせる苦悩と絶望の叫びとうめきのまっただ中で重さも平衡感覚もなく、大火災の火の粉のようにあちこちに、また下に落ちていました。(私が「キャ!」という叫びをあげたと私の周りの人が聞いたといいますが、それはこの光景を見たときのことに違いありません。)

悪魔は燃えさかる黒い炭のように透き通ってはいましたが、汚らしい見たこともない動物の恐ろしい厭な形をしていたので地獄に落ちた霊魂たちとは区別されました。

この光景は一瞬間しか続きませんでした。私達の天の良きお母様が、最初の御出現の時に私達を天国に連れていくと約束されたおかげでです。もしそれがなかったら、おののきと恐れのために死んでいたことでしょう。

恐れのあまり、助けを求めるかのように私達は聖母に向かって目を上げました。聖母は優しく悲しそうにこう言いました。
「あなたたちはかわいそうな罪人たちが行く地獄を見ました。彼らを救うために、天主はこの世に私の汚れ無き御心に対する信心を確立するように望んでいます。もし私があなたたちにこれから言うことを人が実行するなら多くの霊魂たちは救われ平和になるでしょう。
戦争は終わるでしょう。しかし、もし天主を侮辱することを止めないなら、ピオ11世の統治下で別の更にひどい戦争が起こるでしょう。

あなたたちが未知の光を見るとき、天主がこの世をその罪のために戦争と飢饉、教会と教皇に対する迫害を使って罰を下そうという大いなる印を天主様があなたたちに下さっているのだと言うことを知りなさい。

これを避けるために私はロシアを私の汚れ無き御心に奉献することと、月の初土曜日に償いの聖体拝領をすることとを求めに来るでしょう。

もし人が私の要求を聞くなら、ロシアは回心し平和がやってくるでしょう。さもなければロシアはその誤謬を世界中に広め、戦争と教会に対する迫害とをもって挑発するでしょう。多くの善良なものが殉教し、教皇様は多く苦しまねばならないでしょう。無くなってしまう国々もあるでしょう。


最後には、私の汚れ無き御心が勝利を収めるでしょう。教皇様は私にロシアを奉献するでしょう。そしてロシアは回心するでしょう。そして世界には平和の一時期が与えられるでしょう。

ポルトガルでは信仰のそのドグマが常に守られるでしょう。等々[ママ]
このことを誰にもいわないで下さい。フランシスコにはそれをいうことが出来ます。
あなたたちがロザリオを唱えるときには、各連の終わりにこう唱えなさい。ああイエズスよ、我らを赦し給え。我らを地獄の火より救い給え。全ての霊魂、ことに最も必要とする者たちを天国に導き給え。**」

(*ルシアの四つの回想録の内の二つにはこの7月13日のことが記されている。その内容は一字一句同一である。しかし第四回想録では、今日本語に訳出したように「ポルトガルでは信仰のそのドグマが常に守られるでしょう。等々[ママ]」という文章は最後に書かれている。しかし、この文章は論理的にはここ*印のところに来るべきである。なぜなら次に「最後には、私の汚れ無き御心が勝利を収めるでしょう。」という文章があるからである。

また、ここに第三に秘密に関する記事がなければならない。それは、ファチマの第三の秘密がカトリック信仰に関することだからである。ところで、「現代の危機を告げるファチマの聖母の啓示ールチア修女の手記」137頁には、ドイツのノイエス・オイローパ紙が発表したいわゆる「第三の秘密」が載せられている。しかしこれは真面目なものではない。またデルコル神父編「ファティマの第三の秘密 教会内の信仰の危機」(ご存じですか?シリーズ87 1995年再版)にもミゲル・アンヘル・ポブレテという青年の受けた「メッセージ」の話が載っている。デルコル師は教会認可を受けていない御出現でもむやみに広めておられたから、多分にこれは教会の認可を受けていないだろう。もし教会認可を受けていたとしても、その内容は、少なくともルシアが受けた第三の秘密ではない。)

(**日本語では同じ祈りが秋田で天使によって次のように教えられた。「ああイエズスよ、我らの罪を赦し給え、我らを地獄の火より守り給え。また全ての霊魂ことに主の御憐れみを最も必要とする霊魂を天国に導き給え。」)

(**日本語では普通こう唱える。「ああイエズスよ、我らの罪を赦し給え、我らを地獄の火より守り給え。また全ての霊魂ことに主の御憐れみを最も必要とする霊魂を天国に導き給え。」)

この後に、沈黙がよぎりました。私はそこで尋ねました。
「あなた様が私に望むことは他にありますか?」
「いいえ、私は今日はあなたにこれ以上何も望みません。」
すると、以前と同じように聖母は東の方向に向けて、天の大きな距離のために見えなくなるまで昇られました。

マリアの汚れ無き御心こそが、この7月13日のメッセージの核心であり中心部である。既に5月13日、6月13日の二回にわたってマリアの汚れ無き御心は啓示され、準備されていた。そして、この7月13日のメッセージこそ、ファチマの全てのメッセージの中心である。

この後の三回の御出現はこのメッセージが本当に天主の御母からのものであるということを示すサイン(署名)であり印鑑であり証明であった。聖母がこの時荘厳に「私はロシアを私の汚れ無き御心に奉献することと、月の初土曜日に償いの聖体拝領をすることとを求めに来るでしょう」と告げ知らされたように、天主様の憐れみの計画を告げるために聖母は更に後になって戻ってくると約束された。

実にポンテベドラで1925年12月10日、聖母はご自分の茨で貫かれた汚れ無き御心をお見せになった。そして聖母はお約束の通り月の最初の土曜日に五回続けて償いのための聖体拝領をすることを要求された。また更にもう一度、またもお約束の通りトゥイで1929年6月13日にもう一度戻られロシアを聖母の汚れ無き御心に奉献することを要求された。

聖母は「ロシア」をご自分の汚れ無き御心に奉献されることを要求されたのだった。ロシアを?そう、ロシアを。1917年ルシアは「ロシア」という言葉が何を意味するのか知らなかった。しかし彼女は幼いながら常に"a Russia"という言葉を聞いたと断言していた。

光明社からの「ファチマの牧童」セ・バルタス著 中山利喜太郎訳1947年初版発行には、「世界」(89ページ)となっているが、ルシアの回想録には常に"a Russia"(ロシア)と書かれている。同様に、彼女は確かに"no reinado de Pio XI"と聖母が言われるのを聞いた。彼女にはそれが確実だった。ルシアは「次の教皇の時」と聖母が言われるのを聞いたのではなかった。ルシアは1946年にヨンゲン神父にこう言っている。「私達はそれが教皇様なのか王様なのか知りませんでしたが、いとも聖なる童貞母はピオ11世と話されたのです。」
 「ファチマの牧童」の90頁注の17に正しく記載されているように「不思議な光によって照らされた夜」というのは、1938年1月25ー26日の夜に成就した。

聖母はまずこう言われた。「そのお方(彼女)だけがあなたたちを助けることが出来る」と。ここに秘密中の秘密がある。天主はかつて聖母を通して救い主をお与えになったように、今もいつも私達に聖母を通して全てを与えようと望まれている。天主は聖母の汚れ無き御心への信心の報いとして私達に全てを、霊的善のみならず全世界にこの世的な平和さえも与えようと望まれる。

聖母はこう言われる。「ロザリオの聖母を崇敬するために、世界に平和を得、戦争の終わりを勝ち取るためにロザリオを毎日唱え続けることを望みます。なぜなら、そのお方(彼女)だけがあなたたちを助けることが出来るからです。」

つまり、私達にとって聖母を通さなくては世界に平和を得戦争を止めることが出来ない、と言われたのだ。聖母だけが私達を助けることが出来るのだ。聖母を通さなくては何も得られないのだ。この連載を通じて私は、聖母の汚れ無き御心だけが、世界の平和のためのみならず、私達の救いのため、全キリスト教世界と、カトリック教会の救いのために残された最後の手段であると出来る限り明らかにするつもりである。

ファチマの秘密はここにある。ファチマはマリア様の汚れ無き御心のいわば「啓示」だ。

マリアの汚れ無き御心だけが全ての悪に対する最高の薬であり、私達の霊魂の救い、私達の愛する祖国、世界中の国々、全キリスト教世界、そしてローマ・カトリック教会の救いのための最終の唯一の手段であるということの啓示である。これが、全知全能の聖三位一体がその無限の憐れみの計画によって、私達に聖母マリアのいとも優れて聖なる、汚れ無き御心の母としての取り次ぎによって、私達に全てを与えようと言う啓示なのだ。

だから私達はまずロザリオを唱えなければならない。毎日ロザリオの聖母を崇敬してロザリオを愛を込めて唱えねばならない。毎日唱え続けなければならない。これが天主の御母聖マリアのお望みだ。

このメッセージの終わりに聖母は子どもたちにこう言われた。「あなたたちがロザリオを唱えるときには、各連の終わりにこう唱えなさい。

『ああイエズスよ、我らを赦し給え。
我らを地獄の火より救い給え。
全ての霊魂、ことに最も必要とする者たちを
天国に導き給え』」と。


+「ああイエズスよ」と、聖母は御子への祈りを教え給う。イエズスとは「救い主」という意味である。ファチマのメッセージはきわめてキリスト中心的である。聖母の教えた別の祈りもこの救い主への呼びかけで始まっている。「罪人たちのために犠牲をしなさい。たくさん、特に何か犠牲をするときにこう言いなさい。"イエズスよ、これは御身を愛するため、罪人たちの回心のため、そしてマリアの汚れ無き御心に対して犯される罪を償うためです"と。」

ロザリオの祈りとは、天主なる救い主、約束されたメシアであるイエズス・キリストが教えられた主の祈りを唱え、天にまします我らの父に祈ることであり、天主から使わされた大天使ガブリエルと、天主からの特別の啓示を受けた聖エリザベトの言葉「めでたし」の祈りで、天にまします我らの母に祈り、聖三位一体なる唯一の天主に栄光を祈る。そして聖母はその後に救い主イエズスに対する祈りを付け加えることを望まれた。

+「我らを赦し給え。」ファチマのメッセージの全体に染み通っているのがこの「罪」という現実である。私達は罪人であり、罪が私達の奥深く根を張っている。罪は私達の永遠の生命を脅かし、私達を地獄に追いやる唯一のものである。聖母の御出現の中でも天使の出現でも「罪」に言及しなかったものは一つもない。ロザリオで、私達は主祷文をこう唱える。「我らが人に赦す如く、我らの罪を赦し給え!」天使祝詞ではこう唱える。「罪人なる我らのために・・・祈り給え!」私達はこのいわば「連祷」の後に「ああイエズスよ、我らの罪を赦し給え!」と願うのである。ああ救い主よ、我らが人に赦す如く、我らの罪を赦し給え、天主の御母にして我らの御母よ、罪人なる我らのために、我らの罪が赦されるように祈り給え!と。

+「我らを地獄の火より救い給え。」"Livrai nos do fogo do inferno!"聖母はこの最も緊急な祈りをすることを望まれた。

聖母は地獄という現実を私達がいつも思い出すことを望まれた。聖母は地獄には本当に永遠の火がありそれを避けなければならないことを私達に教えようとされたのだ。恐ろしい、しかしそれが現実なのだ。聖母は地獄の火から「救われる」ことを祈れと言われた。「我らを悪より救い給え」と主祷分でも同じことを祈る。ラテン語ではSed libera nos a maloと言うが、「libera nos 我らを救い給え」と言う動詞と、ポルトガル語の「livrai nos 我らを救い給え」とは同じ語源の動詞である。私達にとって最大の悪とはこの地獄の火に落ちることである。たとえ全世界をもうけても、霊魂を失っては何の利益になるだろうか?

カトリック信者はだからいつもこの最大の悪から避けられるように天主の憐れみを乞うてきた。典礼でも、カトリック祈祷書でもそうだった。

イエズスの御名の連祷では「A morte perpetua, libera nos, Jesu! 永遠の死より、イエズス、我らを守り給え!」
諸聖人の連祷でも「A morte perpetua, liber nos Domine! 永遠の死より、主よ我らを救い給え!」また「Ut animas nostras ...ab aeterna damnatione eripias, te rogamus audi nos! 我らの霊魂を永遠の滅びより救い出し給え、我らの祈りを聞き入れ給え!」と言う。

更に、ミサのローマ・カノンの中では「ab aeterna damnatione nos eripi!永遠の滅びより我らを救い出し給え!」と祈っている。これこそ最も緊急の祈りだ。これに私達の全生涯がかかっている。永遠のたすかりを全うするか否かにこそ、全人生の意義がかかっている。私達が地獄の火から救われるためにこそ天主は人となり、御苦難を受け十字架で死を甘んじ受けられたのだ。天主の本性上の御子イエズスのこの世に来られた目的はそこにあった。イエズスの苦しみ、受難、十字架、流された御血潮と汗、それら全ては私達が地獄の火から救われるためだった。イエズスなしでは、イエズスのご受難とそのいとも貴き御血なしには私達は永遠に地獄の火に焼かれるべきものであった。私達はイエズスに私達の救いの恩義がある。だからこそ、聖母は私達にこう祈りなさいと教える。「ああイエズスよ、我らを地獄の火より救い給え!」と。そして、これは同時に大きな希望に満ちた祈りだ。「私を通らずに御父のもとに誰も行けない」と主は仰せられたが、私達の全希望はイエズスの御名にある。私達は主の十字架に全てを期待する。Ave Crux, spes unica! 私達は救い主イエズスによって罪の赦しを与えられることを確信している。聖ペトロはこう言った。「天上天下イエズスの御名以外に人の救われる名はない」と。だから、地獄の火から救われ、天国へ行けることを主の憐れみによって期待しているのだ。

+「全ての霊魂・・・を天国に導き給え。」私達の熱烈な望み、私達の最大の善、それは私達が、私達の愛する者たちが皆救われることだ。天の御父も皆が救われることを望まれる。キリストも皆が救われるためにご自分の生命を捨てて十字架で死なれた。だから、私達も「全ての霊魂」が救われるようにと祈るように聖母は望まれた。そうだas almas todas全ての霊魂だ。或いはシスター・ルシアがよく唱えるように、as alminhas todas全ての哀れな霊魂だ。Alminhasという単語は「霊魂たちalmas」の指小語であり、愛情と憐れみの感情を含む言葉だ。煉獄の霊魂のことだけとは限らない、いやむしろ、バルタス師がいみじくも指摘するように(91ページ注20)この祈りは罪人のため、かわいそうな罪人の霊魂のため、天主様を侮辱し続けるがために地獄の火に落ちていこうとする罪人に関することである。

ルシアはこう書いている。「ある人は、子どもたちを恐れさせたくないために地獄については話しません。ところが天主は私達三人に、一人は六才だったのに、恐ろしい地獄を見ることを許されました。ヤシンタはたびたび考え込んで地面とか岩の上に座りこう叫びました。『ああ、地獄!地獄!地獄に行く霊魂が本当にかわいそう!下のあそこでは人々は生きたまま火の中の薪のように燃えているの!」そして震えながら跪いて合掌し聖母が私達に教えて下さった祈りを唱えました。『ああイエズスよ、私達を赦し給え。私達を地獄の火から救い給え。全ての霊魂、特に最も必要とする霊魂たちを、天国へ導き給え!』司教様、司教様は私が受けた印象によればこの祈りの最後の言葉は永遠の滅びの非常に大きな危険にある霊魂、或いはそれに非常に近い霊魂たちのことを指しているのだと言うことをもう理解されることでしょう」と。(第三手記による。「現代の危機を告げるファチマの聖母の啓示ールチア修女の手記」p140参照)

Livrai para o Ceu! 天国に導き給え!私達は、心からこう祈る。「彼らを天国へと連れて行き給え、天国へと持ち上げ給え、天国へと引き寄せ、引き上げ給え!イエズスよ、御身は「私が上に上げられたとき全てを私のもとに引き寄せようOmnia traham ad meipsum.」と仰せられました。御身を仰ぎ見る者たちを、全ての霊魂たちを、御身のもとへ引き寄せ給え、御身の天国へと引き寄せ給え。御身を知り愛する恵み、聖徳を実践する恵みで御身のもとに導き給え!私達の祈りは受け入れられる価値のないものです。私達は何の権利もありません。しかしただ御身の無限の憐れみによって、御身の愛と同情によって、全ての霊魂を救い給え。もちろん、私達は全ての霊魂が、罪を犯すのを止め、御身の聖心を悲しませるのを止め、天主に立ち戻りそして救われることを望みます。出来れば、彼らが全て回心し、御身を信じ、愛し、救われることを望みます。・・・でも、私達の要求が全て聞き入られるほど私達には功徳がありません。私達はだから、要求をもっと明確にします。どうぞ、全ての霊魂が無理でしたなら、出来るだけ多くの霊魂のために、特に優先的に今地獄に落ちるか否かの瀬戸際にある霊魂たちのため、今一番地獄に落ちる危険のある霊魂たちのため、祈ります。」これが聖人達の論理、愛の論理だった。だから、「ことに最も必要とする者たちを、天国に導き給え。」と祈りなさいと聖母は教えるのだ。

+「ことに最も必要とする者たちを、天国に導き給え。」「めでたし」の祈りの中で聖なる私達の母公教会は、「天主の御母聖マリア、罪人なる我らのために、今も臨終の時も祈り給え!」という祈りを付け加えた。「天主の御母聖マリア、罪人なる我らのために、今も臨終の時も祈り給え!アーメン」天主の御母よ、今もいつも我ら罪人たちのために祈り給え。そして特に地獄に落ちるか否かの瀬戸際にある臨終の時に、最も必要とするその時に、我らのために祈り給え!と言うのだ。

今地獄に落ちる間際にいる霊魂たちは聖母に祈らない。聖母を侮辱する。だから、聖母は彼らに代わって私達に祈れと頼まれたのだ。おお、良き牧者なるイエズスよ、御身は失われた罪人を捜し回り、それが救われることを、うみも病みもされない。イエズスの聖心よ!

幼いイエズスのテレジアは、その当時マスコミを騒がせて居た大悪党、三人を殺して悔悛の心を何一つ見せなかった殺人犯Pranziniのために祈った。彼女は霊魂の救いに飢え、大きな罪人たちの霊魂が地獄の火に落ちないようとりとめようと言う燃える愛の望みを持っていた。そして、彼女の祈りと犠牲でイエズスといとも貴き御血から救いの「天からの露」を勝ち得たのだった。それと同じく、私達もファチマの聖母に教えられ、罪人たちのために、最も必要とする霊魂たちのために祈るのだ。

ルシアはまたこう書いている。「ヤシンタはこのように跪いたままで、長い間同じ祈りを何度も何度も繰り返して唱えました。ときどき誰かが眠りから目を覚ましたように、お兄さんか私を呼んでこう言うのです。『フランシスコ、フランシスコ、私と一緒に祈ってる?私達は地獄から霊魂たちを救うためにほんとにたくさん祈らなきゃダメ!あんなに多くの霊魂がそこに行くのだから!あんなに多くの!』

(この項続く)文責トマス小野田神父

「マニラのそよ風」より

ファチマの聖母像が訪問したところはどこでも平和の奇跡の数々が起こった:実話紹介

2017年09月29日 | ファチマ
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今から70年前の1947年、ファチマの聖母像は世界中を「巡礼」して回りました。その時に起こった平和の奇跡の数々をご紹介します。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【スペイン】
第二次世界大戦直後のファチマ御出現30周年、ファチマの聖母の世界訪問が始まりました。最初はスペインを通ります。多くの告解、聖体拝領、聖母行列、ロザリオ、償いの聖時間、聖母の汚れなき御心への奉献、などがなされました。1948年5月、最後に首都のマドリッドに到着すると市民から凱旋的な大歓迎を受けました。マドリッドの司教は、感謝の手紙の中で、ファチマの聖母がマドリッド司教区に入ると150万人の信者も未信者も皆聖母の前に集まり、泣き、祈り、聖歌を歌った、かつてこのようなことをマドリッドで見たことがない!と書いています。

1953年、聖座とスペインとは政教条約を結び、スペイン国家の唯一の宗教はカトリックの宗教であることを認めました。1954年フランコ将軍はスペイン国家の名前に置いてスペインを聖母の汚れなき御心に奉献しました。

【フランス】
1943年、フランスの司教たちは自分の司教区を聖母の汚れなき御心に奉献しました。
ファチマの聖母像がフランスを訪問する間、テアス司教(Bishop Theas)によると、「フランスの全くの回心」がありました。

【カナダ】
1947年6月18日から22日、カナダのオタワに着いたファチマの聖母像は盛大な歓迎を受け、6月22日に司教たちは50万人以上の信徒たちの前でカナダを聖母の汚れなき御心に奉献しました。

【アメリカ】
1947年12月8日、アメリカのバッファローの司教座聖堂で20万人以上の巡礼者たちから歓迎を受けたファチマの聖母は、アメリカ全土を訪問して回りました。アメリカでは、その後数万人が毎年カトリックの洗礼を受けるようになりました。例えば1949年だけで12万人の成人がカトリックに改宗しています。

【イギリス】
英語圏では、特に頻繁に活動していた共産主義者たちがカトリックに回心しました。例えば英国人のダグラス・ハイド(Douglas Hyde, 1911 - 1996)やハミッシュ・フレイザー(Hamish Fraser)などがいます。(このダグラス・ハイドはアイルランドの初代大統領とは別人です。)
「私たちカトリックが私たちの責任を完全に受け入れ始めるとき、共産主義は、アリウス派の異端が今では影響力がないように、同じく影響力がなくなるだろう。私の意見によると、ファチマは20世紀において最も重要な、もしかしたら500年前の宗教改革以来最も重要な出来事である。」("When we Catholics begin fully accepting our responsibilities, Communism will become as ineffectual as the Arian heresy … In my humble opinion, Fatima is the most significant event of this century, perhaps the most significant one since the Reformation," Hamish Fraser, 1952).

【韓国】
朝鮮戦争中の1953年、ストラムスキ神父(Father Matthew Strumski)해병대 소속 군종신부は、海兵隊の従軍司祭は重い軍靴を履きながら、ファチマの聖母像を持って韓半島を動いていました。このファチマの聖母像の前で、どれほど多くの徹夜の祈りの回が開かれ、祈祷集会の儀式が行われたことでしょうか。

ストラムスキ神父はポーランド系の米国移民で幼い頃小児麻痺を患い、命はもうないと思われていました。母親は息子のために聖母に熱心に祈り、奇跡的な治癒を得ました。
ミシガン州の神学校で学び、1948年にカッシディ司教により司祭に叙階されました。司祭叙階3年後、米軍の従軍司祭として志願し、太平洋で2年間、次に韓国でに2年働きました。

朝鮮戦争が長引く中、また神父は休暇中に、韓国の9つの司教区をファチマの聖母像をもって訪問し回りました。各司教区で司教様たちに会い、戦争が終わるように聖母に祈りました。「祈りは戦争を止めさせることができると私は信じていました。」

1953年3月26日、韓国の司教評議会に招かれたストラムスキ神父は、ファチマの聖母への祈りが大切なことを訴え、その日、司教たちは韓国を聖母の汚れなき御心に奉献します。
1953年4月5日、パウロ盧基南(ソウル大司教)は、板門店の近くでファチマの聖母像の祝別式があった折に、ブルー・アーミーの最初の会員になりました。

4月19日以降、ストラムスキ神父は韓国の難民の多くいた主要都市にファチマの聖母をもって、皆と多くのロザリオを祈りました。

4月30日付けで、ストラムスキ神父はアメリカに帰国命令を受けます。
しかし、この4ヶ月後、1953年7月27日朝鮮戦争は停戦となりました。

【次のビデオの29分08秒ごろ から 31分14秒ごろまでにその話が出てきます。】




ストラムスキ神父の後継者として10年後、すでに1958年に韓国に来ていたドイツ人司祭のアントニオ・トラウナー神父(Fr. Anton Trauner)が司教の許可を得て、1964年から韓国にブルー軍団(Blue Army)を設立するために働きました。

【オーストリア】
オーストリアは、第二次世界大戦後、ソビエトの占領下に置かれました。しかしオーストリアの国民たちは毎日ロザリオを唱えることを聖母に約束し、100万名が約束の署名をしました。
ペトルス・パフリチェク神父は捕虜だった時にファチマの聖母について知り、1947年2月2日、マリアツェルへの巡礼の途中、聖母からの声を聞きました。「もしも私がいうことを行うなら多くの霊魂は救われ、平和が来るでしょう」と。そこで1949年からロザリオの十字軍をオーストリアで起動させました。
突然1955年5月13日、モスクワはオーストリアを独立させると突然宣言しました。当時オーストリア首相だったユリウス・ラアブ(Julius Raab)は、これをファチマの聖母のおかげだと断言しています。

【聖ピオ十世会】
私たちは、2017年7月17日東京で、8月15日大阪で、9月24日ソウルで、ファチマの聖母と共に平和のためにロザリオを祈りました。




ノベナを始めます

2017年08月11日 | ファチマ
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

ファチマ巡礼のためにノベナを始めましょう。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田神父


おお、汚れなき童貞マリア、いとも聖なるロザリオの元后、太陽を身に着けたる婦人よ、御身は、百年前にファチマを訪れ給い、御身の母性と汚れなき御心をすべての人々に知らしめ給えり。われらの御身へのまったき奉献を受け入れ給え。われらのために、また、東方かつ西方のカトリック教会のすべての子供らのために、聖霊によりて準備されし救いの方舟(はこぶね)として、御身の汚れなき御心の安全な避難所の中にわれらを迎え受け入れ給え。 今年、御身の汚れなき御心のうちに、われら各々(おのおの)が、絶え間なき祈りの至聖所、至聖なる三位一体との親密さを味わう聖櫃、あらゆる病(やまい)の癒しのための治癒の場、もっとも勇敢で忠実な霊魂たちさえも脅(おびや)かす混乱のまっただ中における平和の港を見いださんことを。御身がかくも愛し給うロザリオを手に取り、今年一年の間ロザリオを祈りつつ、われらの心の絶え間ない祈りと、われらが御身の汚れなき御心に捧げられた者として生き、死ぬことを願うわれらの望みの表現となしたまわんことを。 かつて十字架の祭壇の上に屠られし子羊、そして今でも、教会の祭壇から、また、主が隠れて、沈黙のうちに、しばしば忘れ去られて御聖櫃から、われらのために、ご自分を犠牲として捧げ給う子羊へとわれらの心を向けさせ給え。 今年、憐れなる罪人らにとりて御身の同情が大きく力強く現れ給わんことを。また、日の昇るところから日の沈むところまで教会において、また全世界において、御身の汚れなき御心の凱旋の始まりとなり給わんことを。悪魔からのものであれ、人間からのものであれ、すべての抵抗に打ち勝ち、全ての人々に、御身の母なる御心において燃える愛の炎を、御身の御胎内の祝されたイエズス・キリストの御顔に輝く聖父の栄光を、われらに示したまえ。 寛容、仁慈、甘美にまします童貞マリア!アーメン。

聖ピオ十世会ファチマ国際巡礼の準備のためのノベナの祈り

2017年08月04日 | ファチマ
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 聖ピオ十世会ファチマ国際巡礼の準備のためのノベナの祈りを提案します(8月11日から19日まで)。



Preparatory Prayer for the Fatima Pilgrimage 2017

O Immaculate Virgin Mary, Queen of the Most Holy Rosary, Woman clothed with the sun, thou who didst visit Fatima one hundred years ago to make known to all men thy maternal and Immaculate Heart, receive our act of total consecration to thee. Welcome us into the safe refuge of thy Immaculate Heart as into the ark of salvation prepared by the Holy Ghost for us and for all the children of the Catholic Church in East and West.

Let each one of us find in thy Immaculate Heart this year a sanctuary of ceaseless prayer, a tabernacle of intimacy with the Most Holy Trinity, a hospital for the healing of every infirmity, a harbour of peace in the midst of the confusion that threatens even the bravest and most faithful souls. Inspire us to take up the rosary that thou so lovest, and to make it during this year the ceaseless prayer of our hearts and the expression of our desire to live and to die consecrated to thy Immaculate Heart.

Turn our hearts to the Lamb who, once immolated upon the altar of the Cross, offers Himself still for our sakes from the altars of the Church and from the tabernacles where He abides hidden, silent, and so often forsaken.

Let this year be for us a great and powerful manifestation of thy compassion for poor sinners and the beginning of the triumph of thy Immaculate Heart in the Church from the rising of the sun to its setting, and indeed in the whole world. Overcoming every resistance, be it of demons or of men, reveal to all souls the flame of love that burns in thy maternal Heart and the glory of the Father that shines on the face of His Christ, Jesus, the blessed fruit of thy womb.

O clement! O loving! O sweet Virgin Mary! Amen.

日本語訳は、後ほどご紹介いたします!

「私はロザリオの聖母です。いつも毎日ロザリオを唱え続けなさい。もうこれ以上天主なる私たちの主に罪を犯してはなりません。すでに主はあまりにも多く犯されていますから。」(ファチマの聖母)

2017年06月28日 | ファチマ
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 ファチマの聖母のお言葉をお聞き下さい。



私はロザリオの聖母です。いつも毎日ロザリオを唱え続けなさい。
人々はその生活を改め、罪の赦しを願わなければなりません。(ますます悲しそうな様子で)彼らはもうこれ以上天主なる私たちの主に罪を犯してはなりません。すでに主はあまりにも多く犯されていますから。(1917年10月13日)



I am Our Lady of the Rosary. Continue to say the Rosary every day.
People must amend their lives and ask pardon for their sins. (growing sadder) They must not offend Our Lord any more for He is already too much offended.



Je suis Notre-Dame du Rosaire. Que l’on continue toujours à réciter le chapelet tous les jours.
Il faut qu’ils se corrigent et qu’ils demandent pardon de leurs péchés. (un air plus triste) Qu’ils n’offensent pas davantage Dieu Notre Seigneur, car Il est déjà trop offensé.


ファチマの天使の祈り

2017年06月10日 | ファチマ
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

ファチマ100周年をふさわしく記念するために、聖伝のミサの後の祈りの時(御聖体拝領の祈りの感謝の祈りの直後、教皇様のための祈りや司祭のための祈りの直前)に、次のファチマの天使の祈りを皆で唱えております。

よろしくお願いします。天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)



「わが天主よ、われ、信じ、礼拝し、希望し、御身を愛し奉る。われ、信ぜぬ人々、礼拝せぬ人々、希望せぬ人々、御身を愛さぬ人々のため、御身に御赦しを願い奉る。」

【シスター・ルシアの手記によるポルトガル語原文】
Meu Deus! Eu creio, adoro, espero e amo-Vos. Peço-Vos perdão para os que não crêem, não adoram, não esperam e Vos não amam.

【参考資料:フランス語訳】
Mon Dieu, je crois, j'adore, j'espère et je Vous aime. Je Vous demande pardon pour ceux qui ne croient pas, qui n'adorent pas, qui n'espèrent pas, et qui ne Vous aiment pas.

"Mein Gott, ich glaube an Dich, ich bete Dich an, ich hoffe auf Dich und ich liebe Dich. Ich bitte Dich um Verzeihung für jene, die an Dich nicht glauben, Dich nicht anbeten, auf Dich nicht hoffen und Dich nicht lieben."

「哦!天主,我信奉您、我敬拜您、我仰望您、我愛慕您。請您寬恕那些不信您、不敬您、不仰望您、不愛慕您的人。」

나의 천주여 나는 믿고, 흠숭하며, 희망하고, 너를 사랑하나니다. 믿지 아니하는 이, 흠숭하지 아니하는 이, 희망하지 아니하는 이, 사랑하지 아니하는 이들을 위해 용서를 구하나이다.


「至聖なる三位一体、聖父と聖子と聖霊よ、我、御身を深く礼拝し奉る。世界中のすべての御聖櫃のうちにましまし給うイエズス・キリストのいとも尊き御体、御血、御霊魂と御神性を、イエズス・キリスト御自身が受け給う侮辱、冒涜、無関心を償うために、御身に捧げ奉る。イエズスの至聖なる聖心とマリアの汚れなき御心の無限の功徳によりて、あわれな罪人の回心を御身に願い奉る。」

【シスター・ルシアの手記によるポルトガル語原文】
Santíssima Trindade, Padre, Filho, Espírito Santo, (adoro-Vos profundamente e) ofereço-Vos o preciosíssimo Corpo, Sangue, Alma e Divindade de Jesus Cristo, presente em todos os Sacrários da terra, em reparação dos ultrajes, sacrilégios e indiferenças com que Ele mesmo é ofendido. E pelos méritos infinitos do Seu Santíssimo Coração e do Coração Imaculado de Maria, peço-Vos a conversão dos pobres pecadores.

【参考資料:フランス語訳】
Très Sainte Trinité, Père, Fils et Saint-Esprit, je Vous adore profondément et je Vous offre le très précieux Corps, Sang, Âme et Divinité de Jésus-Christ présent dans tous les tabernacles du monde, en réparation des outrages, sacrilèges et indifférences par lesquels il est Lui-même offensé. Par les mérites infinis de Son Très Saint-Cœur et du Cœur Immaculé de Marie, je Vous demande la conversion des pauvres pécheurs.


„Heiligste Dreifaltigkeit, Vater, Sohn und Heiliger Geist, in tiefster Ehrfurcht bete ich Dich an und opfere Dir auf den kostbaren Leib und das Blut, die Seele und die Gottheit Jesu Christi, gegenwärtig in allen Tabernakeln der Erde, zur Wiedergutmachung für alle Schmähungen, Sakrilegien und Gleichgültigkeiten, durch die Er selbst beleidigt wird. Durch die unendlichen Verdienste Seines Heiligsten Herzens und des Unbefleckten Herzens Mariens bitte ich Dich um die Bekehrung der armen Sünder.“

「至聖的天主聖三:聖父、聖子、聖神,我深深地欽崇您,現在我把這個世界上所有聖體櫃中最珍貴的聖體、聖血,耶穌基督的靈魂與天主性呈獻給您,以賠補世人對天主的冷淡、侮辱和褻瀆。藉著耶穌聖心和無染原罪聖母聖心的無限功勞,求您使罪人悔改自新。」

지극히 거룩하신 성 삼위 성부, 성자, 성신이여, 너를 깊이 흠숭하나이다. 세상 모든 감실 안에 계신 예수 그리스도의 지극히 보배로우신 성체와 성혈과 영혼과 신성을 바치오니, 천주의 마음을 상해드린 모욕과 모독과 무관심을 기워 갚기 위함이나이다. 지극히 거룩하신 예수성심과 성모의 하자 없으신 무한한 공로로 삼가 청하오니 불쌍한 죄인들이 회개하게 하소서.

【ダウンロード】ファチマの聖母の御出現についての三つ折りのチラシ(flyer)をご紹介します

2017年06月07日 | ファチマ

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様

 ファチマの聖母の御出現についての三つ折りのチラシ(flyer)をご紹介します。「ダウンロード」をクリックしてご覧下さい。

 

  ダウンロード

 

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


ファチマ2017へ向けて(XV)パート1 子供たち―ファチマの生ける注釈

2017年06月03日 | ファチマ
パート1  子供たち―ファチマの生ける注釈


聖母が三人の子供たちにご出現になったあとの三人の生き方は、私たちのために天から与えられた間接的な教えであり、とても実践的な教えなのです。その生き方は、天が地上に現れるとき、地上のものは天の光によって変容されるということを教えてくれます。聖母が人間に御出現になるとき、その人は聖母の光と御恵みを委ねられたうつわとなります。その人はうつわとして、聖母がこの世に御恵みと御あわれみを注ぎ続けられるための道具となります。私たちは、フアン・ディエゴなくしてグアダルーペを十分に理解することはできませんし、聖ベルナデッタなくしてルルドを十分に理解することはできないのです。

その幻視者たちによる目撃証言が重要であるだけでなく、彼らの言葉、とりわけその生き方もまた重要です。彼らは、聖母が地上に来られたことを鏡のように映し出しているのです!

聖母聖母のメッセージについてのこれらの生ける証拠は、私たちにとって非常に重要です。というのは、私たちは聖母御自身を見ることができませんが、幻視者たちを、聖母を映し出しているものとして見ることができるからです。子供たちがファチマの聖母の頼みを完全に適用して実現させたのですから、私たちは、ファチマの霊性および聖母の汚れなき御心の最も深遠な目的を真に理解する鍵として、聖母のメッセージについての彼らの模範および理解を使うことができるのです。

私たちは、聖母がご自分の特権を受けた子供として、非常に異なっていて対照的でさえある性格の者たちをどのようにして選ばれたのかを見ることができます。聖母はご自分のメッセージのいろいろな側面を明らかにするために、異なる役割で子供たちをお使いになったのです。ヤシンタは非常に活発な少女で、竜巻のようなエネルギーを持っている子であり、三人の子供たちの中で最も元気がよく、他の二人の心を捉えて引っ張っていくことができた子でした。フランシスコはそれと反対で、非常に穏やかで、孤独と内省を好む粘液質の性格だったといえます。ルチアは誠実な証人が持つ特質のすべて、つまり完全な慎重さ、優れた記憶力、細部についての感覚、特に正直さという深い感覚を兼ね備えていました。


第1章 「天主をお慰めすること」―福者フランシスコ


聖母がファチマに御出現になったとき、フランシスコは聖母を見ることはできましたが、聖母が話されるのを聞くことはできなかったということはとても重要です。一つ一つの御出現の後に、ルチアとヤシンタは、聖母が話されたことをフランシスコに教えなければなりませんでした。このようにして聖母は、フランシスコを異なる種類の証人となさったのです。孤独の内に観想する習慣があったため、フランシスコは自分が見たものについて非常に深い方法で考えることができ、他の二人の子供たちが聞いた会話によって気を散らされることがありませんでした。彼は、御出現それ自体の観想に完全に集中することができました。ですから、これはまさに天主の御摂理の目的でした。この天主の御計画のおかげで、フランシスコには幻視そのものを最も深く理解することのできる能力がありました。

御出現の間、彼は何に最も深く印象付けられたでしょうか?

「僕は天使に会うのが好きでした、でも聖母にお会いする方がもっと好きです。僕がとりわけ好きだったのは、僕たちの心臓をつらぬいた、聖母から来る光で主を見ることでした。僕は、ものすごく天主様を愛しています! けれど、天主様はあまりにも多くの罪が犯されているのでとても悲しんでおられます! 僕たちは、もう二度と決して罪を犯してはいけません」。

「・・・天主様とは何でしょうか? 僕たちは決して言葉では表現できません。そうです、天主様は決して表現することができない本当の何かです! けれども、天主様がとても悲しんでおられるとは、何と残念なことでしょう! 僕が天主様をお慰めすることさえできれば!」。

「天主をお慰めする」というテーマが彼の短い人生の中で非常に大きな部分を占めているので、そのことが何か彼の霊性全体、考え・言葉・行動の中心となったようでした。

「フランシスコ、どちらが好きなの? 天主様をお慰めすることか、これ以上霊魂が地獄に落ちないように罪人を回心させることか?」―「僕は天主様をお慰めする方です。気がつかなかった? 先月聖母が、人々はもうこれ以上主に背いてはいけません、すでに主はあまりにも背かれているのですから、と話されたとき、聖母がどれほど悲しんでおられたかを。僕は主をお慰めしたい、そしてそのあとで、もうこれ以上主に背かないように罪人を回心させるんだ!」。

フランシスコは自分がどのように天主をお慰めすると考えていたのでしょうか?

ルチアは書いています。「彼はほとんど話しませんでしたし、祈ったり犠牲をお捧げしたりするときはいつも、ヤシンタと私からさえ離れて隠れるのを好みました。本当によく、私たちは壁やブラックベリーの茂みの後ろに隠れている彼を驚かせました。彼はそのようなところへ巧妙に抜け出して、跪いて祈っていたりしましたし、また『非常にたくさんの罪のせいで悲しまれている主のことを考える』とよく言っていました」。

「私が彼に『フランシスコ、なぜ私に一緒に祈って頂戴と頼まないの? ヤシンタにも?』と尋ねると-『僕は自分で祈る方が好きなんだ、そうすればすごく悲しまれている主のことを考え、主をお慰めすることができるんだ』と話しました」。

しかし、祈りは一つの面にしか過ぎません。私たちの苦しみにおいて天主をお慰めしようとするならば、私たちはもっと多くのことをもすることができます。

時々、フランシスコは言ったものです。「聖母は、僕たちがたくさん苦しむでしょうと話されたけれど、僕はかまわない。聖母が望まれるすべてを僕は苦しむつもりだよ。僕が望むのは天国へ行くことなんだ」。

そしてルチアは言いました。「ある日、家族の中でも外でも迫害が起こりはじめたことで、どんなに自分が不幸せかについて私が伝えたとき、フランシスコはこんな言葉で私を元気づけようとしてくれたの。『気にするな! 聖母は言われなかったかい、主と聖母の汚れなき御心に対して犯されるすべての罪のために、僕たちはたくさん苦しみ、たくさん償いをしなければならないってことを。お二方は、たいへんお悲しみなんだよ! この犠牲でお二方をお慰めすることができるのなら、僕たちはどれほど幸せだろうか』」。

フランシスコは、ルチアとヤシンタに話したそのことを自分で経験しました。特に死ぬまで続いた彼の長きにわたる病気の間に。

「私は、時々彼に尋ねました。『たいそう苦しいの? フランシスコ?』―『かなりね、でも全然気にしなくていいよ! 僕は主をお慰めするために苦しんでいるんだし、そのあとすぐに天国に行くんだから!』」。

彼は「永遠に天主をお慰めする」ことができる場所としてしか、天国を想像することができませんでした。

「僕が天国に行くまで、もう長くないんだ。そこに行ったら、僕はものすごく主と聖母をお慰めするつもりだよ」。

そして、彼の最後の言葉はこうでした。「うん、僕は祈るね。でも気を付けていてね、君が僕の代わりにヤシンタにそのことを祈ってくれるように頼んでね、僕は主にお会いしたら忘れるんじゃないかと心配だから。主にお会いしたとき、僕は他のどんなことよりも主をお慰めしたいんだ」。

フランシスコが1919年4月4日に死んだとき、彼の両親は宣言しました。「フランシスコはほほ笑みながら亡くなりました!」。


解説

1. 天主―私たちの唯一にして全てである御方

ファチマのメッセージのまさに中心が天主御自身、すなわち天主の栄光と、被造物が当然捧げるべき天主への礼拝であるということは、天使と聖母の御出現から既にはっきりとしています。今日の世界は、天主の無限の尊厳と圧倒するような御稜威についての感覚を完全に失ってしまっています。実際は、天主の御前では、すべての被造物は「無」であって、無限に広がる大海原の中の一滴のしずくのようなものですらありません。世界の歴史は、その創造の初めから時の終わりまで存在しますが、天主の永遠の前では、何百万年に対する一秒にも満たないものです。諸聖人は、私たちが天主の御前では塵のようなものであり、それゆえに諸聖人は出来うる限り謙遜にする、ということを私たちが知るように教えています。これがまさしく、御出現の間のフランシスコの最も驚くべき神秘的な体験でした。「天主様とは何でしょうか? 僕たちは決して言葉では表現できません。そうです、天主様は決して表現することができない本当の何かです!」。

フランシスコは天主の圧倒的な御稜威に非常に心を奪われていたため、死んだあと「天主にお会いしに」行くときに、ルチアと人々の頼みを忘れてしまうのではないかと怖れていました。私たちは、まことの霊的生活および天主御自身とのまことの関係に必要である同じようなお恵みを聖母にお願いしなければなりません。それは、聖なる御ミサの栄光誦で私たちが歌うように― propter magnam gloriam tuam [御身の大いなる栄光のために]―、また天主の御稜威の御前で聖なるおののきで震える天使たち(御ミサの序誦)のように、天主の大いなる栄光への讃美で満ちていることです。すべての被造物がまったくの無であること、また人間が自分のちっぽけな個性や取るに足らない歴史で思いあがって人間と人間の関心事を世界の中心とみなす時にそれがどれほどばかげたことかを、天主の無限の大きさが私たちに教えています。天主のこの無限の御稜威は、黙想すべき信仰の真理であるだけでなく、聖パウロの言うように「満ち満ちる天主によって満たされる」ために、天主の偉大さにあずかるようにとの招きでもあるのです。フランシスコが知っていたのは、自分の人生に与えられたこの目的だけでした。かつて彼が将来何になるのと聞かれたときに、いつも繰り返して答えていました。「僕は何にもなりたくない! 僕は死んで天国にいきたい!」と。でも、彼にとって、天国とはまず第一に「天主にお会いすること」であって、天主を永遠に愛することでした。小さなフランシスコは、その保護聖人である偉大なる聖フランシスコのモットーを文字通りに実現したのです、「Deus meus et omnia-わが天主、わがすべてよ!」と。


2. 唯一のまことの悪―罪

天主を無限の御稜威および終わりなき愛として見ることによって、フランシスコは罪の真の様相を理解しました。ファチマは、罪が本当は何であり、また罪の結果が何であるかを私たちに教えてくれる聖母のカテキズム(教理問答)なのです。罪とは、まず第一に、天主の善良さ、御あわれみ、愛という天主の本質そのものに対してなし得る最悪の侮辱であり、否定です。もし可能であるならば、罪は天主の王たる尊厳を破壊してしまうことでしょう。罪は、創造主に対してなされる被造物の最も恐ろしい過失であり忘恩です。私たちが恩人からとても貴重な贈り物を受け取るのなら、私たちが無関心であるとか恩知らずであるとかということは想像すらできません。しかし、貴重な贈り物のお返しに、私たちが恩人を侮辱したり、恩人の顔につばを吐いたり、恩人を私たちの家から追い出したり、恩人を殺そうとさえすると想像することは、いっそうありえないことです。しかし、これが、罪を犯すときにまさに私たちがしていることなのです。天主はいつも私たちに、私たちの存在、私たちが持っているものすべてを与えてくださっており、私たちはそのような途方もない愛に対してしばしば無関心であるだけでなく、天主の御顔に向かってつばを吐き、天主の所有物である私たちの霊魂から天主を追い出しているのです。フランシスコは、人間がこの無限の愛をどれほど嫌っているか理解した時に、最も大きな恐怖を抱かずにはいられませんでした。そこで彼は叫んだのです。「僕たちは、もう二度と決して罪を犯してはいけない」。


3. 「天主の御悲しみ」

罪に対する天主の反応はどんなものでしょうか? 憤り? 世界の破壊? それがまさに当然のことでしょう。しかし、それとは逆に、私たちは愛と御あわれみという計り知れない神秘の前にいるのです! 主の中の主である全能の天主は永遠の幸福のうちに生きておられ、その御前では、宇宙全体が無であるにもかかわらず、天主の被造物に対する理解を超えた愛は、私たちの忘恩によってもたらされる悲しみの痛みを感じておられる心優しい父の愛のようです。この父は、兄弟愛や配偶者に対する愛以上の大きな愛を表す行いとして、御独り子にして愛する御子を死に渡されることまでされるのであり、そしてこの御子は、私たちのためにその聖心から御血のすべてのしずくを流されるのです。彼の愛は甘美なる友としての愛であり、永遠に私たちの霊魂に留まりたいと願う保護者かつ慰め主としての愛なのです。聖パウロが「天主の聖霊を悲しませぬ」よう私たちに勧告しているのは、私たちの反抗が天主の御悲しみを引き起こしているからなのです。

偉大なる神秘家たちは、天主の神秘の最も深い面の一つ、「天主は愛である」と言うことが意味する、まさに本質を私たちに教えます。イエズスの至聖なる聖心の最も内的な深みに入るためには、私たちの罪、私たちの心のかたくなさ、私たちの恥ずべき傲慢のせいで引き起こされる天主の御悲しみと御苦しみについて黙想しなければなりません。既に旧約聖書で天主は預言者エレミアを通してこう話されました。「おまえたちがこれを聞かないなら、私の魂はひそかに、そのおごりを見て嘆く。(私は泣き崩れ、)目は涙に溶ける。主の家畜の群れは、他国に流されるのだから」(エレミア13章17節)。

この悲嘆し軽蔑された永遠の愛のための償いは、世の終わりまで戦闘の教会にその動機を与える原因です。なぜなら、その時まで、不正なるこのような神秘、すなわち永遠の王をその玉座からひきずり下ろそうとし、つくられた全秩序の原理でありかつ最終目的としての天主を拒否しようとする悪魔の努力が、日々増加し続けるからです。無限の御悲しみの悲劇は、―「私の魂は死なんばかりに悲しむ」―とされた主の地上での33年間の生涯だけでなく、御復活と天国への凱旋の御昇天のあとでさえ、罪人が「自らふたたび天主の子を侮り、十字架に釘づけ」(ヘブライ6章6節)ていることなのです。世の終わりまで、十字架につけられた主はキリスト教信仰の象徴であり、とりわけ御聖体に現存される主においてそうなのです。カトリックの祭壇における主の十字架上の犠牲の更新と継続は、教会における最も崇高で最も尊い行いです。そして、イエズスが見捨てられたことと、その悲しみに満ちた御母について敬虔に黙想することが、キリスト教の霊的生活のまさに中心なのです。


4.天主への完全な愛―天主をお慰めすること

[必要な唯一のこと]は、第一にそして何物をも超えて天主の御国と天主の正義を求めることにあるのだということを、世の人々に思い出させてくださいます。天主の正義とはどういう意味でしょうか? それは、天主に捧げられるべきもの―すべての誉れと栄光―を、天主にお捧げすることです。天主の御稜威が人間の罪深い傲慢によって侮辱されるとき、正義とは、天主の深く悲しまれる御稜威に対してなされる完全なる償い、つまり告解、贖い、そして秩序と真理を回復するあらゆる行いです。

それでは、主のお苦しみと残酷な御受難を目前にした時、私たち惨めな罪人がすべき最も完全な答えは何でしょうか? 天主の第一にして最も重大な戒によって、天主が私たちにお求めになる愛の完全な行いとはいったいどんなことでしょうか? 主ご自身がその答えを与えてくださいます。「私は同情を探した、しかし無駄であった。私は誰か私を慰めてくれる者を探した、しかし誰も見いださなかった」。天主の至聖なる聖心への信心は、償いと贖いの行いであり、主をお慰めするということがまさにその目的です。愛する者の心は、主にこう言うのです。「もし御身が霊魂たちの扉を叩いた時に誰もその扉を御身に開けなかったとしたら、もし御身が創造主であり万物を支配される御者であるにもかかわらず、社会や組織、家庭、さらには御身ご自身のものである教会からさえも投げ出されるなら、もし御身が一人心寂しくさげすまれるなら、そのとき私は、私の心を大きく開き、御身にお慰めと避難所を提供し、貧しいものの心温まる歓迎をし、そこで御身が頭を横たえて家を見いだせるようにして差し上げたいのです。彼らが御身を拒絶すればするほど、私はもっと御身を受け入れて差し上げたいのです。彼らが御身を忘れれば忘れるほど、私はもっと御身を思い出して差し上げたいのです。彼らが御身を拒めば拒むほど、私はもっと御身を歓迎したいのです。彼らが御身を避けようとすればするほど、私はもっと御身の方へ向かって行きたいのです。彼らが御身の愛を嫌えば嫌うほど、私はもっと御身をあがめたいのです。彼らが御身の魂を悲しみと涙で満たせば満たすほど、私はもっと御身をお慰めしたいのです!」と。

あわれな罪人からの愛のうちで、このお慰めの行いほど完全な形の愛はありません! お慰めは、超自然の治療薬、すなわち罪によって侮辱されている天主への愛によって、恐るべき罪の結果に対処します。それは本物の愛の行いです。もし私が友人を侮辱したことを後悔したなら、私が愛に立ち戻るためには、まるで友人を傷つけはしなかったかのように「あなたを愛している」と言うだけで済むほど簡単ではあり得ません。侮辱を償うための愛の最初の行いは、友人に悲しみを負わせたことを嘆くことでなければなりません。そしてこの嘆きが友情をとり戻したいとの燃えるような望みを暗示し、損なってしまった愛情に慰めを与えるのです。

聖母は、人の外的な行いが重要である一方で、心の中の望みがもっと重要であることを私たちがよく理解できるように、ファチマで小さな子供たちをお選びになりました。小さなフランシスコは、英雄的な宣教師や観想的修道士として人生を生きることはできませんでした。聖ベロニカが責め苦を受けておられた主に濡れた布を差し出すことしかできなかったように、彼は素朴な祈りと犠牲を捧げることしかできませんでした。外的には、これらのことはささいなものですが、内的には、ベロニカを聖人にさせ、御受難のキリストの聖なる御顔を亜麻布に写しただけでなく、さらに大事なことには彼女の霊魂そのもののうちに御顔を写したという功徳を彼女に与えた愛による最高の振る舞いなのです。私たちのうちで一体誰が、非常に多くの霊魂が道に迷っているのをご覧になって悲しんでおられる主と聖母をお慰めするために、小さな子供の素朴な行いを真似ることも出来ないというのでしょうか?

フランシスコは観想的な修道者ではありませんでしたが、彼の人生とその模範は、天主の栄光のためだけに生きたいと願うすべての観想的な霊魂たちにとって深く素朴な手本でした。さらに、世が天主に対して当然の敬意と栄光を否むがゆえに、償いをする必要があります。観想的な生活は愛の生活であり、愛の第一の行いは愛する者とともにいること、愛する者を見つめていつも愛する者の現存において生きることです。愛の第二の行いは、侮辱の行動とは反対方向の行動によってその侮辱を償うこと、すなわち慰めの行動です。

主をお慰めするというこの信心は、いつ完成するのでしょうか? 決して完成することはありません。フランシスコは、示唆に富んだことを話しました。「そこ(天国)に行ったら、僕はものすごく主と聖母をお慰めするつもりだよ」。実際には、天国においては天主が私たちの無限の慰め、私たちの不滅の光、永続する平安となってくださるのであり、それと同時に、天主の全能と言語に絶する御あわれみが、私たちに、天主をお慰めして永遠に特別の喜びを天主にお捧げするのをお許しになるのです。たとえ罪による悲しみが永遠には残らないとしても、被造物の側からの慰めの愛の本質は、その意味を保つのです。それは、自分の父親と母親へ喜びを捧げたいと願い、ほほ笑みと燃え上がる愛の炎で彼らを慰めるという感謝に満ちた子供の心です。

終りに

フランシスコの人生と死における模範を通して、聖母は私たちに最も重大な戒を思い出させ、私たちに、心を挙げて再び天主を愛するためにこの罪深い時代に適した手段を与えてくださいます。天主をお慰めするという信心は、宗教的無関心と超自然的真理への憎しみが広がっている私たちの時代において、数えきれないほど多数のカトリック信者のうちに、天主への燃える愛の火をともすことができるのです。お慰めを捧げることができるということは、私たちあわれな罪人にとって大きな励みであって、自分たちのみじめさにもかかわらず私たちが本当にもっともっと天主をお愛しすることができ、そして私たちの愛が空虚な言葉ではなく主体的なものでありうるということなのです。

無原罪の聖母は、フランシスコを通して私たちに最も深い祈りの方法を、すなわち聖母ご自身の祈りの方法を教えておられるのではないでしょうか? 実際、十字架の下で聖母が限りなく主とともに受難されたとき、聖母の祈りは御子をお慰めすることに向けられていました。ですから、私たちもまた聖母と共に十字架の下に立つという素朴な行いによって、専らキリストをお慰めするためだけに、一人キリストと共にいる時間を少しでも作らなければなりません。現代人はもはや、自分をお造りになった天主のための時間がなく、それゆえに天主に非常に無関心なためキリストと共に1時間を費やすことさえ我慢できませんが、私たちは少なくとも、愛を持って主とともにいて受難し、主をお慰めする少しばかりの時間を持つことによって、主に対する私たちの愛を示すべきです。でも、そんな努力の結果はどんなものでしょうか? そのこともまた、小さなフランシスコの模範によって証明されています。ほんのわずかな短い時間で、彼の天主への愛は最も高度な完徳へと達し、数か月後にはもう、彼は天国で永遠に無原罪の聖母を見ることを許されたのですから。

ファチマ2017へ向けて(XV)  シュテーリン神父様

2017年06月01日 | ファチマ
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

シュテーリン神父様の著、『ファチマ2017へ向けて(第2巻)』 の日本語訳をご紹介します。そしてこの本を日本語に訳す労を執って下さった方がたに心から感謝します。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)



ファチマ2017へ向けて(XV)  シュテーリン神父

【日本語訳】
ファチマは、あわれな罪人である私たちに対する天主の無限の愛と御あわれみが、どれほど大きなものであるかということについての圧倒的な啓示であり、それが天主の傑作であるマリアの汚れなき御心の神秘において明かされています。聖母の御心は、天主が世に与えたいと望んでおられるすべてのもの、すなわちすべて回心と聖化の恵み、そして聖霊のすべての徳、賜物、霊感を、私たちに示し与えてくださいます。けれども聖母の御心は「私たちの避難所、私たちを天主に導いてくださる道」にもなります。ファチマは、私たちが天主の御もとへ立ち戻り、そしてマリアの汚れなき御心への信心の忠実な実行によって聖人になることを可能にする霊妙なるうつわなのです。

1917年10月13日の太陽の奇跡という天による確認と「署名」を通して、聖母の重要なメッセージが、善意の人なら誰もが戸惑うことなく信じることができるような圧倒的な証拠をもって啓示されました。しかしファチマの歴史は1917年10月13日で終わるのではありませんでした。第一に、聖母御自らが、二つの重要な事柄に関するご自分の啓示が続いていくということを告知されました。それらは、マリアの汚れなき御心への信心が正確には何であるのかということを説明することと、マリアの汚れなき御心への奉献の重要性を実証することです。第二に、聖母は、1917年7月13日の大いなる秘密のそれぞれの部分を、いつ、どのようにして、誰に見せるべきかをルチアに指示されるのです。この大いなる秘密を公表するタイミングと状況とを指示された聖母の目的は、非常に特別な意味と霊的な背景を持っているに違いありません。

この第2巻において、私たちは皆さんの黙想のため、まず初めにファチマのメッセージの本質的な部分を提示します。聖母に会うという特権をいただいた三人の子供たちの生き方と霊性についてです。その後で、聖母がご自分の汚れなき御心への信心の実践を教えられた7月13日のあとにあった最後の二つの大いなる御出現を完全に分析しようと思います。それは5回の初土曜日の信心の遵守と、ロシアを聖母の汚れなき御心へ奉献するということです。これらのできごとを、三人の幻視者の霊的な体験とあわせて考察すれば、私たちは、ファチマで啓示された大いなる神秘、つまり聖母の汚れなき御心に関する最高度の重要性をもった教えを学ぶことになるでしょう。

第1巻と同じように脚注も参考文献も示しませんが、出来事に関するすべての引用と情報は、聖三位一体のフレール・ミシェルの「ファチマについての全真理:科学と事実」の2巻と3巻からのものです。

カール・シュテーリン神父
2016年10月7日、ロザリオの聖母の祝日に、シンガポールにて



【英語原文】はこちら
“Towards Fatima 2017” (XV) — by Fr. Stehlin


Fatima is the overwhelming revelation of the greatness of God’s infinite love and mercy towards us poor sinners, illuminated in the mystery of the Immaculate Heart of Mary, His masterpiece. Her HEART reveals and gives to us all that God wants to give to the world, every grace of conversion and sanctification, all virtues, gifts, and inspirations of the Holy Ghost. But Her HEART also becomes the “refuge and the way that leads us to God.” Fatima is the spiritual vessel in which we can return to God and become saints by the faithful practice of devotion to Her Immaculate Heart.

Through the heavenly confirmation and “signature” of the miracle of the sun on October 13, 1917, the essential message of Our Lady was revealed to the world with such overwhelming proof that every man of good will could believe without hesitation. But the history of Fatima is not finished with October 13, 1917. Firstly, Our Lady herself announced the continuation of Her revelations on two essential matters: to explain what precisely is devotion to Her Immaculate Heart, and to demonstrate the importance of consecration to Her Immaculate Heart. Secondly, Our Lady would give Lucy indications of when, how, and to whom each part of the Great Secret of July 13, 1917 should be revealed. Our Lady’s intention to direct the timing and circumstances of the disclosure of the Great Secret must have a very special meaning and spiritual background.

In this second volume we present for your meditation first of all an essential part of the message of Fatima: the life and spirituality of the three children who had the privilege to see Our Lady. Afterwards we will thoroughly analyze the last two great apparitions following July 13th, in which Our Lady taught practices of devotion to Her Immaculate Heart: observance of the five first Saturdays and the consecration of Russia to Her Immaculate Heart. These events together with the spiritual experiences of the three seers will give us lessons of the utmost importance about the great mystery revealed at Fatima: Her Immaculate Heart!

As in the first volume, here also neither footnotes nor references to the sources are provided, but all quotations and information about the events are taken from volumes II and III of Frère Michel de la Sainte Trinité “The Whole Truth about Fatima: Science and Facts.”

Fr. Karl Stehlin
Singapore, October 7, 2016, Feast of Our Lady of the Holy Rosary

シカゴ、香港、マカオ、リバプール、カラガンダなどにおける、ファチマ100周年の聖母の行列や聖母の汚れなき御心への奉献をご紹介します

2017年05月20日 | ファチマ
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 ファチマ100周年における、各国のファチマの聖母の行列や聖母の汚れなき御心への奉献をご紹介します。YouTubeで見つけた動画です。

アメリカのシカゴでは、5月13日から、10月13日まで、聖母行列を13日に6回行います。
次が5月13日の聖母行列です。




香港でも5月13日にファチマの聖母の行列がありました。




マカオでも5月13日にファチマの聖母の行列がありました。




 イギリスのリバプールでも5月13日に聖母行列がありました。




 アジア・ニュースによると、カザフスタンのカラガンダ司教区では、アデリオ・デロロ司教様が、5月9日から始まる講話と祈りの中央アジアとロシアのカトリック教会の集いで、その集いの締めくくりに5月13日には聖母の汚れなき御心にカラガンダ教区を奉献します。

 私たちも、ファチマ100周年を記念して、8月11日から15日まで、聖母の小黙想会を開きます

 8月15日には、聖母被昇天の歌ミサの後、私たちもファチマの聖母行列を行いたいと思っています。

 1945年8月15日終戦を受けて、日本司教団は一致して、聖母の汚れなき御心に日本を捧げることを決議し、奉献しました。

 ファチマ100周年にあたり、是非、2017年8月15日に、聖母行列の後、私たちもこの奉献を更新しようと思っています。

 どうぞ、8月15日のファチマ100周年の聖母行列に参加して下さい!

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


聖母小黙想会にお招きいたします。

2017年05月14日 | ファチマ
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様

「聖母小黙想会」にお招きいたします。

8月11日(山の日)から8月15日には、5日間連続で大阪にある聖ピオ十世会の聖母の汚れなき御心聖堂で、ファチマの聖母100周年を記念する特別の「小黙想会」を予定しています。

・日帰りで(泊まり込みではなく)、毎日通いで参加できる「小黙想会」です。
・泊まり込みで大沈黙を守る「黙想会」ではなく、緩い黙想会なので、「小黙想会」としました。
・午前10時のロザリオの祈りから始まり、ミサ聖祭を捧げ、簡単な昼食の後にファチマの聖母に関する講話、聖体降福式と聖時間を毎日もうける予定です。
・午後の5時には毎日解散します。


特に、ファチマの聖母は私たちに本当の平和を与えようとしておられます。まず霊魂たちの天主との平和、そして、世界の平和です。
もしも私たちが、本当に平和を希求しているのなら、私たちは聖母の汚れなき御心に向かわなければなりません。これは絶対に必要な条件です。

ファチマの天使:
「恐れないで。私は平和の天使です。私と一緒に祈りなさい。」
天使は地面に跪き、額が地につくまで身を屈めました。そしてこう祈りました。
「我が天主よ、私は信じ、礼拝し、希望し、御身を愛します!
信じない人々、礼拝しない人々、希望しない人々、御身を愛さない人々のために、御身に赦しを願います。」

「あなたがたができるすべてのことを犠牲とし、それを天主に背く罪の償いの行いとして、また罪人の回心を嘆願して天主に捧げなさい。
あなたがたはこのようにして自分たちの国に平和をもたらすでしょう。
私はあなたがたの国の守護の天使、ポルトガルの天使です。
特に主があなたがたにお与えになる苦しみを従順に受け入れ、忍びなさい。」

ファチマの聖母:
「世界平和と戦争終結がもたらされるように毎日ロザリオの祈りを唱えなさい。」

「ロザリオの聖母を崇敬するために、世界が平和を得、戦争の終わりを勝ち取るためにロザリオを毎日唱え続けることを望みます。なぜなら、そのお方(彼女)だけがあなたたちを助けることが出来るからです。」

「あなたたちはかわいそうな罪人たちが行く地獄を見ました。彼らを救うために、天主はこの世に私の汚れ無き御心に対する信心を確立するように望んでいます。もし私があなたたちにこれから言うことを人が実行するなら多くの霊魂たちは救われ平和になるでしょう。戦争は終わるでしょう。しかし、もし天主を侮辱することを止めないなら、ピオ11世の統治下で別の更にひどい戦争が起こるでしょう。」

「もし人が私の要求を聞くなら、ロシアは回心し平和がやってくるでしょう。さもなければロシアはその誤謬を世界中に広め、戦争と教会に対する迫害とをもって挑発するでしょう。多くの善良なものが殉教し、教皇様は多く苦しまねばならないでしょう。無くなってしまう国々もあるでしょう。」


多くの愛する兄弟姉妹の皆様がご参加なさることをお待ちしております。お友達や知人にも、この聖母小黙想会について教えて上げて下さい。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

「ファチマのアヴェ・マリア」  (続き) その4

2017年05月08日 | ファチマ
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

「ファチマのアヴェ・マリア」の聖歌の記事の続きです。

「カトリック聖歌集」に掲載されている歌詞の続きで、さらに新しい歌詞の提案もいただきました。合計39番になりました。追加の歌詞(32番から38番まで)があります。聖歌の歌詞のよいアイデアがありましたらもっともっと知らせて下さい。投稿をお待ちしております!

日本を訪問されたシュテーリン神父様に、日本ではファチマのアヴェ・マリアは33番まであると自慢したら、インドでは聖アントニオを称える聖歌が48番まであってインドでは毎回全部歌っている(20分かかる)と言われました。そう言われれば、フィリピンでは聖週間に Pasyong mahal ni Jesucristo という天地の創造からイエズス・キリストの御復活と最後の審判までの歌があります。これを全部歌うのは一日かかります。

心に染み入る歌詞がたくさんあり、甲乙つけがたいのですが、その中でも、愛する兄弟姉妹の皆様に五つを無理やり選んでもらったところ、投票が多かったのは次の歌詞です。

3 おんみこそは 愛の極み 我らの母 慕いまつらん
5 おおマリアよ み手をのべて 世の行末(ゆくすえ)照らし給え
8 我が天主よ われは信じ あがめ、のぞみ 愛しまつらん
9 おおイエズス 愛するため 我が苦しみ 捧げまつる
10 汚れの無き 御心こそ 我が避難所(のがれば) 天(あめ)への道 (3)
11 茨刺(いばらさ)さる 母の御心(こころ) 慰めたい、償いたい (4)
19 秋の空に 踊る太陽 色とりどり 染まる大地 (2)
24 優し母の 御心(みこころ)こそ あまねく世の 救いとなれ! (2)
28 我が御母の 御手によりて 主の玉座の 花とならん (3)
29 ロザリオもて 祈るならば 解決せぬ ことはあらじ
30 天主に付き、地獄仇し、われら臨む 霊のいくさ
32 インマクラータの 凱旋(かちほこり)を 待ちて祈る アヴェ・マリアぞ


天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


ファティマのアヴェ・マリア

1 ああうるわし 若葉ゆれて 光りの君 立たせ給う
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

2 幼子たち 招き給い 神の秘密 ささやきたもう
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

3 おんみこそは 愛の極み 我らの母 慕いまつらん
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

4 ロザリオもて 平和祈れ 罪に泣けと 諭させたもう
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

5 おおマリアよ み手をのべて 世の行末(ゆくすえ)照らし給え
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

6 ああ懐かし 空のかなた 導きてよ 愛のみ母
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

【続き】

7 世の罪にて 悲しみ給う 主を慰め 奉らん
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

8 我が天主よ われは信じ あがめのぞみ 愛しまつらん
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

9 おおイエズス 愛するため 我が苦しみ 捧げまつる
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

10 汚れの無き 御心こそ 我が避難所(のがれば) 天(あめ)への道
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

11 茨刺(いばらさ)さる 母の御心(こころ) 慰めたい、償いたい
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

12 母の心 愛するなら 我が救いを 保証し給う
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

13 「初土(はつど)毎(ごと)に 五回続け ロザリオもて お勤めせよ」
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

14 主と聖母(せいぼ)の 計り知れぬ 功徳により 祈りまつる
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

15 御聖体を 全ての罪の 償いとて 捧げまつらん
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

16 主と母との 御心により 世の回心 願いまつらん
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

17 あまたの人 地獄の中 幼子らに 見せさせたもう
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

18 雨の中を 民は集う 奇跡を見に 祈るために
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

19 秋の空に 踊る太陽 色とりどり 染まる大地
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

20 人知れずに 子供ヤシンタ 病(やまい)の身を 捧げ逝けり
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

21 罪に痛む 主の姿を 見て祈るは フランシスコ
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

22 ルチアは地で 母の御心 知らせるため 選ばれたり
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

23 「聖母に会い この目で見た 間違いない 嘘はつけぬ」
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

24 優し母の 御心(みこころ)こそ あまねく世の 救いとなれ!
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

25 我が日の本(ひのもと) 平和求む 主の御母(みはは)よ 祈り給え
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

26 信じまつる 崇めまつる 望みまつる 愛しまつる
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

27 苦しみもて 罪償い 我ら全て 捧げまつる
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

28 我が御母の 御手によりて 主の玉座の 花とならん
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

29 ロザリオもて 祈るならば 解決せぬ ことはあらじ
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

30 天主に付き、地獄仇し、われら臨む 霊のいくさ
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

31 汚れのなき 御心もて 主と聖母に 御栄えあれ
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

32 イェズス、マリア、愛しまつる 霊魂たち 救い給え
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

33 主のみ旨を 果たすために 我を母に 捧げまつる
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

34 汚れなき み心にて わが十字架 愛させてよ
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

35 全世界の 司教たちと パパにたのむ ロシア奉献
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

36 百年(ももとせ)超(こ)え 国を越えて われら集う ファチマの丘
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

37 いやし身なる われらなれど 母通せば 主は受け給う
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

38 汚れの無き 母御心(ははごころ)を 知らしめんと 望み給う
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア


39 インマクラータの 凱旋(かちほこり)を 待ちて祈る アヴェ・マリアぞ
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
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