Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

カトリック聖伝のミサの報告 聖ピオ十世会日本 SSPX JAPAN Traditional Latin Mass

2022年07月31日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日、東京のミサに来られた方は、子供達も入れて合計100人でした。大阪では28人でした。名古屋では15人でした。今日も、日本各地から聖伝のミサに与るために新しく来られた方々がおられました。

今日はレネ神父様の最後の東京のミサでした。レネ神父様はイギリス管区の司祭黙想会の指導のためにしばらくロンドンに行かれます。レネ神父様には心から感謝申し上げます。

8月11日(山の日)には東京の曙町会館で一日だけの「黙想の日」が予定されています。ミサは10時半から、その後霊的講和と黙想の一日を過ごしましょう。

8月15日(月)聖母被昇天は、東京では午前10時から、大阪では午前10時半からミサがあります。

【聖伝のミサに与る方から次のような短歌をいただきました。ご紹介いたします】

ミサ聖祭に与って読める歌

今日もなお
御腕(みうで)を伸ばし
我らをば
眺(なが)む眼差し
ただありがたや

世の罪の
重さはからで
歩む日々
回心したる
ときぞ忘れぬ

磔の
御身の姿
仰ぐごと
かたじけなさに
かしこみいたる

我はなお
信仰薄き
身なれども
主を離れぬ
決意新たにす

主の御顔
十字架仰ぎ
そのありがたさ
かたじけなくて
我が身に沁むる

常に我
罪の赦しを
受けるごと
主の愛深さ
沁み入る深さ

【報告】
Dear Fathers:

Shown below are the number of attendees at the masses in Tokyo today. The total number of attendees at the masses in Tokyo today was 100, including children.

09:00 mass
M: 24 (incl. 2 children)
F: 25 (incl. 4 children)
Total: 49 (incl. 6 children)

11:00 mass
M: 14 (incl. 3 children)
F: 18 (incl. 5 children)
Total: 32 (incl. 8 children)

12:30 mass
M: 13 (incl. 0 child)
F: 12 (incl. 0 child)
Total: 25 (incl. 0 child)

Total of 3 masses (excl. 6 people who participated in multiple masses)
M: 48 (incl. 5 children)
F: 52 (incl. 9 children)
Total: 100 (incl. 14 children)


[聡明]の賜物と[上智],[賢慮],[知識]の賜物 との違いとは?|聡明の賜物は、知性を動かして人間の 究極の目的について正しい理解をする ように助けてくれます。

2022年07月30日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2022年7月31日は聖霊降臨後第八主日です。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「聖霊降臨後第八主日の説教」の動画をご紹介いたします。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

SSPX JAPAN聖ピオ十世会日本にチャンネル登録もお願いいたします。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父


【参考情報】カルロ・マリア・ヴィガノ大司教は答える:最大のグレート・リセット:パトリック・コフィンによるインタビュー

2022年07月28日 | カトリック・ニュースなど

最大のリセット、グレーテスト・リセット:パトリック・コフィンによるカルロ・マリア・ヴィガノ大司教とのインタビュー

復興が行われるためには、国家においても教会においても、福音に一致して生き、天主への愛と隣人への愛に突き動かされ、自分に対して行われる暴力に受け身で耐えるのではなく、進んで戦い、自分の意見を伝える、誠実で忠実な市民が必要なのです。この歴史的な戦いは、妥協することなく、人の評価を気にすることなく、恐れることなく、キリストの側に立つ場合に勝利します。なぜなら、恩寵、祈り、償いの生活を通して私たちの主に近づけば近づくほど、主が私たちに与えてくださる霊的武器が効果的になるからです。「勇気を出せ、私はこの世に勝ったのだ」(ヨハネ16章33節)。

2022年5月23日

The Greatest Reset. Interview with Archbishop Carlo Maria Viganò by Patrick Coffin

ブログ掲載:アルド・マリア・ヴァッリ

まえがき

以下は、2021年11月に私がパトリック・コフィンに対して行ったビデオインタビューの書き起こしです。これは、「The Greatest Reset Movie」(https://www.greatestresetmovie.com/)と題する膨大なドキュメンタリーの一部でした。残念ながら、私には分からない理由で、このドキュメンタリー映画の公開はこれまで妨げられてきました。しかし、特にロシア・ウクライナ危機やパンデミック・イベントの進展に照らして、今日的な問題を扱っているため、パトリック・コフィンの許可を得て、この書き起こしをオンラインで公開することが適切だと私には思われました。

国連が「アジェンダ2030」という名称で推進する「世界経済フォーラム」の「グレート・リセット」は、国家の主権、国民の繁栄、市民の自由、キリスト教徒の権利に対する具体的かつ直接的な脅威です。これを手段として、冷酷で不誠実な技術官僚(technocrat)たちの一団が、現在数十年にわたって告知されてきた犯罪計画を実行しようと望んでいるのです。

この「グレート・リセット」の立役者たちは、私たちが生まれ育った世界の代わりに、トランスヒューマニズムの世界を望んでいます。それは、霊魂のない、信仰のない、記憶のない、歴史のない、ルーツのない、父も母もいない世界です。愛もありません。なぜなら、愛、とりわけ天主において始まり、天主において成就する、愛徳(カリタス)と呼ばれる超自然の愛は、アダムの堕落を埋め合わせるために、御父に自らを犠牲として捧げ、私たちのために十字架上で死のうと望まれたお方を映し出すものであるからです。そして、これこそ、真の「最大のグレート・リセット」(Greatest Reset)であり、これによって「主の御右手は御徳能(みちから)を示したり」(dextera Domini fecit virtutem)[詩篇117篇16節]、サタンが私たちの最初の父祖を誘惑することで破壊した天主の秩序を回復させ、洗礼によって私たちを、天主の子にしてキリストの兄弟とするのです。

親愛なる友人の皆さん、天主に立ち返りましょう。天主に立ち返って、そして、互いに語り合いながら、真の愛徳の関係を築きつつ、疑う人に助言を与えて、明日に絶望している人を慰めることによって、戦う人を励ましながら、この地獄のようなグローバリストのリヴァイアサンに対して共同戦線を張ることによって、天主に立ち返りましょう。

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ

2022年5月23日

***

パトリック・コフィン

【訳注】パトリック・コフィンは、カトリックのラジオショーのホストを経て、ポッドキャストによるインターネット放送で、カトリックの著名人とのインタビューを配信しているカナダ出身の作家。

2021年11月

【問い(パトリック・コフィン)】グレート・リセットと新世界秩序を陰謀論として片付けることは不可能になりつつあります。グレート・リセットは新世界秩序とどのように関係し、それを計画した者たちは、いつからそれを企んでいたのでしょうか?

【カルロ・マリア・ヴィガノ大司教】「グレート・リセット」は、グローバル・エリートが新世界秩序を打ち立てるために用いる社会的手段です。これは、金融界の複数の大家族と彼らの関連機関に属する経済的・イデオロギー的権力による干渉を意味しており、社会工学の手法と行政介入(彼らの命令の下で政府が発表する)を駆使して、グレート・リセットが実施される国々の社会・経済・政治・宗教システム全体を根本的に変えようとするものです。クラウス・シュワブが会長を務める「世界経済フォーラム」が中心になって推進した「グレート・リセット」は、国連によって「アジェンダ2030」という名称で採択され、貧困、飢餓、疾病の撲滅といった崇高な意図で、それを覆い隠しています[1]。しかし、実際には、いわゆる「リプロダクティブ・ヘルス」(性と生殖に関する健康)、いわゆる「ジェンダー平等」、労働者の保護の抑制と労働力の削減、保健や国家に関わるその他のサービスの民営化、大衆統制手段の導入、電子通貨の採用、市民や中小企業に不利益をもたらす銀行・保険システムの大規模な改革、世界経済システムや個人の生活に影響を及ぼすグリーン・アジェンダの押し付け、最後ですが大事なことは、金融、財政、軍事分野における国家主権が目を見張らせるほど移転されていることです。

【問い】しかし、メディアは、数十年にわたる国家の浪費の後では、現在進行中の改革は避けられないと主張しています。

【ヴィガノ大司教】このクーデターの立役者たち(彼らこそ、真の「陰謀論者」と呼ばれるにふさわしいでしょう)は、グレート・リセットの基盤を置き、ここ数十年で一つの世界的危機を作り出し、その危機から自分たちのために可能な限り最大の利益を引き出してきました。そして、悲惨な政策で各国の国民経済を信じられないほど圧迫して、戦略的大企業を民間の個人に売却した後、今日、彼らは、この「アジェンダ2030」を押し付けて、地域社会(コミュニティー)の費用で、さらなる利益を引き出すことを可能にしようと望んでいるのです。いつも犠牲者は、地域社会(コミュニティー)です。

そして、「グレート・リセット」が実現させようと望む革命は、多大な犠牲――通常の状況では正当性を持たなかったであろう犠牲――で大衆を巻き添えにしますから、彼らは、巧みに引き起こされたパンデミック緊急事態を使い、都市封鎖や、それに起因する経済危機、増税、そして欧州連合や欧州中央銀行、欧州委員会が個々の国に与えた融資によって押し付けられた予算削減によって、社会的・経済的な基本構造を破壊したのです。基金(いわゆる「復興基金」)の支出に関する協定で、各国は以前に自分が出資したお金を借りることを約束し、すべて「グレート・リセット」と一貫性のある特定の介入に、基金の支出を結びつけました。したがって、各国がジェンダー平等やエコロジーへの移行に数十億ドルを充てる一方で、とりわけパンデミックという破滅的な物語(ナラティブ)に関連した、保健あるいは仕事の世界には、明らかに不十分な額しか割り当てていないのは、驚くには当たらないでしょう。

明らかなことですが、国家が負った債務――繰り返しますが、これらの国家が最初に(欧州連合に)支払った資金から借りだした借金の債務――の支払いを怠れば、その国は債務不履行に陥り、最近ギリシャで見られたように、いわゆる「トロイカ」(欧州委員会、欧州中央銀行、国際通貨基金)の一時的管財人の下に置かれることになるのです。これは、次には、国の戦略的資産である港湾、財貨、不動産の売却につながります。

欧州諸国の実情をよく知らない人々にとって、覚えておく価値があるのは、通貨主権を欧州中央銀行に移譲し、国家の憲法に均衡予算を導入してしまえば、政府の独立性と、保健、インフラ、サービス、教育などに関連する経費を賄うための通貨発行能力は、事実上奪われてしまうということです。もし国家が企業のように均衡のとれた予算を持たなければならないなら(考えられないことですが)、もし国家が「民間」銀行である欧州中央銀行からお金を借りなければならないなら、本質的に欧州の官僚、つまり、誰からも選出されず主に自分たちに融資するロビーに報告をする官僚の命令に縛られることになります。実際には、国家を会社(カイシャ)に変えてしまうこと―このプロセスは1990年代にさかのぼります―が、現在の状況を引き起こすための遠隔的な前提を作り出すために必要でしたし、これが現在の状況にまで至らせたのです。

この文脈で、専門技能の低下―弁護士やエンジニアの専門技能から職人や農民までの専門技能が低下すること―は、個人の労働自立を阻害するものとなります。さらには、いわゆる市民所得【2019年から始まったイタリアの福祉制度による生活保護所得 Reddito di cittadinanza】(つまり、ベルゴリオの支援による「グレート・リセット」が望むユニバーサル・インカム)もあり自立を阻害します。

自分の労働で生計を保証することができない上に、この「主人である国家」への依存という状況を固定化する所得を持つことは、市民を事実上脅迫されやすい奴隷にします。グローバリストの「モデル倫理」に従わない者は、(例えば、イタリアや他の地域の労働者に義務付けられている「グリーンパス」を考えてみると)代替案がないまま生計を立てる手段を奪われます。要するに、国家は市民の選択の自由を妨げるために、職業的な無能力のための条件を作り出しているのです。

特に私有財産や家についても同じことが言えます。「グレート・リセット」は「私たちの」財産を廃止しようとしています――エリートの財産は明らかにどんな脅威からも守られています――なぜなら、家と雇用を一緒に持っていることは、自分と家族のための基本的な安全を保証しているからです。自分の家を持たないまま、「グレート・リセット」の提唱者とつながりのある大規模な不動産グループの手に財産を握られて、市民は自分の雇用主が決定するがままにされるでしょう。雇用主たちは、市民たちに、保証も保護もなく一時的な雇用を与え、一種の永久の、非人間的な、不毛の、環境面で持続可能な「エアビーアンドビー」(AirBnb)[2]のような仮住まいを付与することでしょう。

これが、「レンガ」、――つまり持ち家――が普及しているイタリアで、銀行家マリオ・ドラギの政府が不動産への課税と同様に増税を行う理由です。その目的は、国民が生き延びるために家を売り払い、その後、ばかばかしいほど安い価格で家を買った投機家によってその家が貸し出されるように仕向けるのです。

こうして、疑似パンデミックを口実にした都市封鎖による貧困化、賃金の引き下げ、従業員の労働の規制緩和、規制されない移民によって促進された安価な(しばしば不法な)外国人労働力の導入、2020年から2021年の2年間に40万以上のイタリア企業の倒産による失業率の上昇といったことはすべて、個人の持ち家の消滅と、市民所得または常に少なくなっていく給与で支払われる賃貸住宅へと持ち家が置き換わっているのに役立っていることが証明されています。

この無菌的で、懸念を起こさせる図式には、伝統的な家族が存在する余地がないことは明らかです。なぜなら、伝統的な家族は、従業員の流動性や、契約の不安定性、人間関係の暫定性を妨げるからです【伝統的な家庭観は労働者をも含み、恒常的な家族の一員のように見なす】。


【問い】この問題に関するカトリック教会の教えは、どのようなものでしょうか?

【ヴィガノ大司教】教会の社会教理は、私有財産を自然法の一部として常に擁護してきました。ベルゴリオが今、カトリックの教理のうち、この明らかに目立たない点[3]にさえ疑問を呈しているという事実は、「グレート・リセット」の計画に、第二バチカン公会議の教会がイデオロギー的に協力しているという憂慮すべき兆候です。

これにユニバーサル・インカムを加わえるならば、私たちはその危険を理解します。この「教皇職」は、教会と全人類にとって、ディストピアの悪夢にどっぷりとつかり込んでいることを象徴しています。自由主義と共産主義とが同盟して、人間と天主との両者に対立するというディストピアです。

また、世界人口の大幅な削減は、グローバリストのアジェンダ(行動計画)の本質的なポイントです。これは、中絶や避妊(マルサス主義者はこれを「リプロダクティブ・ヘルス」(性と生殖に関する健康)と欺瞞的に呼びます)、大量ワクチン接種、同性愛やジェンダー・イデオロギーの促進を奨励する政治手段によって達成されることを述べておかなければなりません。遺伝子血清の副作用の犠牲者、いわゆるワクチンによって誘発された不妊化、不妊のライフスタイルを正常化することはすべてこの文脈で見るべきで、中国で以前から行われている出産抑制政策の世界レベルでの適用を意味します。

ベルゴリオの悪名高い「裁こうとするとは、私は一体誰なのか?」は、彼の「教皇職」[4]の始まりで発せられ、カトリックの道徳を体系的に解体するという栓を抜き、使徒的憲章「アモーリス・レティチア」(Amoris Laetitia)と、「使徒座公報」(Acta Apostolicae Sedis)[5]で発表されたその「真正な」解釈によって、「教理的な」定式化に翻案されました。そしてここ数日で、このアルゼンチン人は、教皇庁社会科学アカデミーの一般会員として、経済学者のジェフリー・デヴィッド・サックス[6]を任命しました。サックスは国連の持続可能な開発ソリューションネットワークの代表で、世界人口削減や、気候変動に対する戦いの支持者です[7]。

【問い】「グレート・リセット」の主な立役者、つまり指導者、黒幕、インフルエンサー、組織とは?

【ヴィガノ大司教】この世界的なクーデターは、実質的に無尽蔵の経済力を持つ非常に力のある少数によって、支配者、メディア、そして残念ながら宗教指導者の共犯のもとに実行されました。主な立役者は、先ほども述べたように、ロスチャイルド家、ウォーバーグ家、ロックフェラー家などの金融界の複数の一族です。これにビル・ゲイツやジョージ・ソロスのような億万長者の自称慈善財団が加わり、さらに国連やその機関、世界保健機関(WHO)、ユニセフ、ユネスコ、国連食糧農業機関(FAO)があります。世界経済フォーラム、三極委員会、ビルダーバーグ・グループ、ローマクラブ、そしてもちろん世界中のフリーメーソンロッジのような権力者集団があります。

これらの一族や権力者集団は、世界の公的債務の一部を所有する投資ファンドや、無限と言えるほどの数の多国籍企業を支配下に置いています。そして、それら多国籍企業は、銀行、保険会社、通信会社、ネット企業、そして――これは言うまでもないことですが、――製薬会社のみならず、伝統的メディアからインターネット上のソーシャルメディア・プラットフォームまで、情報産業のほぼすべてを支配しています。最近、私たちは、メディアが、パンデミックの物語(ナラティブ)や差し迫った環境問題の緊急事態に、いかに貢献してきたかを目の当たりにしました。

宗教指導者たちは、実質的に全員、新世界秩序のイデオロギーと足並みを揃えており、結果として、新世界秩序の道具となるグレート・リセットとも同じく足並みを揃えています。中には、ある種のプロテスタントの宗派あるいは創価学会インターナショナルの仏教のように、メーソンのような主張をする宗教的な発散物があり、そのようなものとしてグローバリズムを絶対的に望ましいものとみなし、そのため、その確立に積極的に協力しているものもあります。その他の宗教は内部分裂しており、例えば、正教会では、総主教の中にはロッジに所属していることを隠さない者もいれば、グローバリストの計画を本質的に反キリスト教的なものとして非難する者もいます。

最後に、カトリックの位階階級は最も深刻な矛盾の時を生きています。なぜなら、位階階級は60年前から進歩的でグローバリストの意味に完全に足並みを揃えてきているからであり、また、ホルヘ・マリオ・ベルゴリオの「教皇職」のもとで、位階階級は新世界秩序のイデオロギーを自らのイデオロギーとし、フリーメーソンが提唱する「普遍宗教」のトップの候補として自らを提案しているからです。

【問い】いつ、どのようにして共産主義の潜入者がカトリック教会の位階階級に足場を築いたのでしょうか?

【ヴィガノ大司教】敵の第五列【スパイ】を教会に潜入させるという計画は、19世紀にさかのぼることが分かっています。近代主義とは、教会という団体を道徳的に傷つけるための第一の組織的な攻撃でした。その攻撃は、特定の異端によって行われたのではなく、一つの哲学的なシステムによって、あらゆる教義、あらゆる道徳原理を堕落させ、あらゆる超自然的なものの痕跡を宗教から消し去らせて、宗教を単に人間的で内在的な反応に過ぎないものとし、人類学的な意味における、人間が神聖なものをもとめるという曖昧な必要性に、宗教を還元するのです。

聖ピオ十世が行った近代主義との戦いは、数十年間はその広がりを防ぎましたが、この近代主義に対する抵抗は次第に弱くなっていきました。近代主義者たちは、自分たちの本心を隠したまま動き続け、教皇庁、教区、ローマの大学や神学校の重要なポストに復帰することに成功しました。アンジェロ・ジュゼッペ・ロンカリ【ヨハネ二十三世】は多くの近代主義者の友人を持ち、また何人かのフリーメーソン員と内通していました(おそらくロッジに加入していたのでしょう)。彼が、彼らを位階階級の位に登用し、そして、そのうち、パウロ六世が、その仕事を完成させて、彼らを教える任務に復帰させ、ピオ十二世やヨハネ二十三世の下で科された教会法上の問責を取り消しました。そして、第二バチカン公会議の相談役や専門家として、その人々を呼び集めましたが、彼らこそが、教会史上初の「キャンセル文化」作戦のために、また怪しげな教理あるいは異端の教理を、権威をもって押し付けるために、――公会議の権威という理由をつけて――公会議を利用することになるのです。これは、間違いなく、教会に対する第二の攻撃であり、今度は、新しい方法で、また信じられないほど効率的な組織に依存して行われました。

すでに別のところで指摘していますが、今にして思えば、教会の権威を、contra mentem legis――つまり、法の意向に反して、立法者の法制定動機の目的に反して――公会議のときに利用したことは、今日も続いており、サイコ・パンデミックの間に世俗の権威が違憲にして非合法的な規範に頼った方法に相当することは明らかでしょう。

【問い】そうすると、聖座が左翼や共産主義者と関係を築き始めたのは、第二バチカン公会議と相まってのことだったのでしょうか?

【ヴィガノ大司教】第二次世界大戦中、近代主義者が潜入するときは、左翼およびソビエト共産主義との関係を確立することが伴って行われました。この作戦は、イエズス会とその共犯者たちによって実行されました。共犯者たちの中には、当時の国務長官代理であり、米国人やイタリア、ロシアの共産党の活発な協力者だったジョヴァンニ・バッティスタ・モンティーニ【パウロ六世】が含まれています。彼が、鉄のカーテンの向こうに送られた司祭たちのリストを、その司祭たちを殺すことになる共産党に提供したという関与は、多くの憂慮すべき問題を提起しています。確かに、最初にヨハネ二十三世が追求し、次にパウロ六世が追求した「東方外交」(ostpolitik)は、他の領域でも起こったように、多くの共産党の工作員の潜入を助けたのです。私が思い浮かべているのは、例えば、有名な「ミトロヒン文書」にあるように、モスクワや共産党にから金をもらっていることが判明したジャーナリストたちのことです。

1952年に尊者フルトン・シーンによってカトリックに改宗した戦闘的な共産主義者ベラ・ドッドは、教会に共産主義者が潜入し、教会を思想的にも道徳的にも内部から崩壊させる計画があったことを明らかにしており、このことは聖職者の教理的漂流と道徳的腐敗によって証明されています。一方、社会の同性愛化で、必然的に教会にそれに相当する者を持たざるを得なくなりました。それは、教会からその信頼性を奪い、スキャンダラスな行動の見本とするためです。サンタマルタ館の住人は、自分の周囲に見苦しい人物を多く置いている一方で、牧者たちの不道徳や新秩序の要求に屈することを容認しない「硬直した」カトリック信者に対しては、冷酷な態度を示すのです。

【問い】ヨハネ・パウロ二世とベネディクト十六世の教皇職の方針は、この面では、特に北京の独裁政権に関しては【フランシスコによって】継続しませんでした。ラッツィンガーは、司教の任命における聖座の排他的権限を問うような中国政府との協定に絶対反対していました。協定はどのようにして結ばれたのですか?

【ヴィガノ大司教】もし、中国共産党の独裁政権と合意に達したとすれば、それはイエズス会の行動と、彼らの「外交的」行動をベルゴリオが承認したことに負うところが大きいでしょう。【聖職をはく奪された】ミスター・マカリックがベルゴリオの依頼で中国に出張したことを思い出します。ベルゴリオはミスター・マカリックに関する性犯罪をすでによく知っていたにもかかわらず、です。この合意は、中国共産党がローマに忠実な地下教会のカトリック信者を無差別に迫害し、教会や神学校を閉鎖し、司祭や司教を国外追放し、典礼の挙行に党の礼拝を押し付け、党が選んだ教区長たちの任命をバチカンに承認させることを可能にするという悲惨な決定であったことが証明されています。

これは前例のない重大なスキャンダルであり、陳枢機卿が何度も非難しましたが、ベルゴリオは、(2020年に)この88歳の枢機卿がまさにこの目的のために中国からはるばるローマに来たにもかかわらず、謁見を拒否したほどです。今日、イエズス会の雑誌「チヴィルタ・カットリカ」は中国語版も発行されています。イエズス会のこの「勝利」が、人権侵害とキリストの教会の譲れない自由の侵害に関する聖座の沈黙と引き換えに物々交換の取引がされたという事実は、このアルゼンチン人の目には絶対に無視できる些細なものです。特に彼の沈黙が(中国政府による)バチカンへの寛大な寄付で埋め合わされているとするならば、です。

中国共産党との外交関係に加え、ベルゴリオは、最近開催された第4回「民衆運動に関する世界会議 World Meeting of Popular Movements」のように、明らかに社会主義や共産主義の影響を受けた運動を承認し、支援することも必ず行います。そのバズワード(buzzword)【もっともらしいが意味のない用語】は、統合的人間開発、環境、統合的エコロジー、人権、軍縮、統合的健康、持続可能性など、要するにグローバリストのすべての演目です。参加者へのビデオメッセージの際に、ベルゴリオは、最低賃金とユニバーサル・インカム、医薬品特許の自由化、偽ニュースの検閲、そして陰謀論について、すべてテクノロジー大手の代弁者として語りました。彼は、ブラック・ライブズ・マターの抗議活動を「良きサマリア人」に例えることさえしていました[8]。以上のように、ベルゴリオの教会が支援する理由には超自然的なものは何もなく、政治的、経済的、労働組合的性質の主張に限定されているのです。

【問い】しかし、カトリックの個人の人格を第一とする考え方は、共産主義イデオロギーと、どのように調和させることができるでしょうか?共産主義イデオロギーは、【個人ではなく】全体としての大衆や人民に特権を与えるのですから。

【ヴィガノ大司教】これは、共産主義的イデオロギーが教会に浸透していることを極めて明らかにするもう一つの要素であると私は考えています。集団主義的なメンタリティーとは、個人は結局、集団に吸収され、今度はその集団が、党、委員会、集会、評議会といった、一種のほとんど人格と言えるものを獲得してしまうというものです。この観点からは、集団の目標が個人の目標よりも優先されます。公会議は――特にその典礼改革において――、洗礼を受けた者と司式司祭の両者が持つキリストとの人格的な関係を損なうところまで共同体を強調することによって、集団主義の考え方を吸収したのです。公会議の考え方では、司祭はもはや聖なる行為の役務者ではなく、単なる司式者、顔のない集会の代表者なのです。

このことは、世俗の分野でも起こっています。パンデミックの緊急事態とワクチン接種キャンペーンは、個々の市民を損なうところまで共同体をより重要視し、例えば、遺伝子血清を拒否する者や新型コロナウイルス感染症の物語(ナラティブ)に疑問を持つ者を非合法化し、犯罪者にするまでになりました。そしてまさに、社会における個人の関係に対するこの典型的な毛沢東主義的アプローチを支持して、数日前、ベルゴリオは「自由の非個人的な次元を再発見」しなければならないと述べており[9]、個人は全体の一部としてのみ考えられ、自分の行為は大衆の多数――明らかに操られている大衆の多数――に適合するほど道徳的に正しいとされるという、このパラダイムシフトを裏付けています。

このため、ベルゴリオにとって、自由で自律的な選択をする意識的な個人的人格が、例えば、第二バチカン公会議の異端的な定式化に対する批判を表明することなど考えられないのです。反対者は、党に従わない中国人を見るのと同じような疑惑の目で見られます。繰り返しになりますが、この考え方には権力の非人格化も含まれます。かつて権力は、権限を与えられた個人に帰属していました。今ではほとんど自らの意志を授けられたかのような抽象的な存在に権力が移されています。

この観点からすれば、このアルゼンチン人の主張する「シノドス性」(synodality)は、あたかも民主的な議論の結果であるかのように見せかけ、上から決定を押し付けるための手法にすぎません。それはちょうど、EUなど、自らが民主的だと言い張る独裁国家でそうであるようなのと同じです。ここでもまた、ディープ・ステートとディープ・チャーチは、同じような結果を得るために同じような手段を用いていることが分かります。

共産主義イデオロギーとの関連性を示す最後の要素は、「デジタル移行」、つまり、技術的に高度なツールを使って毛細管のように人々をコントロールすることであり、これはすでに中国の独裁政権によって実施され、トランスヒューマン思想に沿った「グレート・リセット」によって大きく支援されているものです。トランスヒューマニズム【人間改造主義】には、人間と機械のハイブリッド化、皮下チップの埋め込み、モノとヒトのインターネット化(IoTとIoP)、さらにはフェイスブックがブランド変更したもの【メタ】の対象である「メタバース」という仮想現実を普及させる、といったものがあります。

欧州委員会が最近、「市民のために生活を簡素化する欧州デジタルID」[10],「銀行のローンや大学への入学を申請することからレンタカーを借りることまで,公共・民間サービスを迅速に利用するために,すべての個人文書を集めることができる単一のITポートフォリオ」を要求していることも指摘しておきたいと思います。「グリーンパス」が一つの実験、「2022年までに」私たちを待ち受けているものの総合リハーサルであり、2014年から中国で運用されている「社会信用」システムの採用に役立つものであることは明らかです。当然のことながら、つい数日前、中国のある当局者は、「グリーンパス」に反対するトリエステの港湾労働者の抗議行動は、社会信用システムの下では起こり得なかったと指摘しました。なぜなら、デモ参加者は直ちにサービスをはく奪され、旅行や買い物ができないように罰せられただろうからです。

ですから、まさに反キリストの支配に関する黙示録の言葉が、私たちの目の前にあります。「獣の名をしるされていない者のほかは、誰も売買することができなかった」(黙示録13章17節)。

【問い】そして、バチカンもまた、この人間と機械のハイブリッド化に熱中しています…。

【ヴィガノ大司教】バチカンでトランスヒューマニズムとメタバースに関する会議[11]を開催し、また人工知能のためのバチカンの財団「RenAIssance」を設立するほど、ベルゴリオの教会がこれらの非人間的なプロジェクトを歓迎しているのを見ると、失望します。ルネサンス(Renaissance)というグローバリストとメーソンのイデオロギーに極めて大切な言葉を使っていることに、私たちは気が付かないわけにはいきません。

この財団が、サイコ・パンデミックの緊急事態が始まった2020年2月28日の「AI倫理のためのローマ呼びかけ」会議の際に構想され、2021年4月16日に聖座の国務省によって正式に設立されたことは重要です。[12]最初の署名者の中には、(このイニシアチブを後援する)教皇庁生命アカデミー会長のヴィンチェンツォ・パリア大司教、マイクロソフト社長のブラッド・スミス、IBM取締役副社長のジョン・ケリー三世、FAO事務局長のドンユ・ク、イタリア政府担当大臣のパオラ・ピサノがいます。また、欧州議会議長であるダヴィド・サッソリの存在も軽視すべきではありません。

言うまでもないことですが、このようなイデオロギー的な錯乱のただ中で、キリストの教会の救いの使命は、メーソン的かつ悪魔的な母体によるエキュメニカルなポスト・ヒューマニズムの名によって、完全にキャンセルされました。

【問い】世界的な新型コロナウイルス感染症マニアは、恩寵の代わりに恐怖に駆られて、秘跡の代わりのワクチンと、啓示の代わりのイデオロギーで、事実上の(de facto)偽宗教に急成長しています。コメントをお願いします。

【ヴィガノ大司教】社会学や心理学に関する基本的な知識を持つ人なら、聖なるものという要素が人間の内面に属するものであることを知っています。信じている信仰を社会的に表現する典礼行為は、信者を集め、信者が告白している信仰を確認し、自分たちが生きていて活力のある一つの体であることを信者に実感させるために不可欠なものです。どの宗教にも司祭、位階階級、教義、典礼、戒律があり、したがって異端者や異教徒、罪や破門も存在します。

御摂理が教会のために確立したものは、今や、サイコ・パンデミックの典礼化の中に、グロテスクな猿まね物を見いだします。これは、健康の教義、免疫付与(予防接種)を約束する秘跡、白衣をまとった司祭など、科学的な(そして反科学的な)宗教となっているのです。しかし、私が他の機会で述べたように、これが可能だったのは、カトリック位階階級による意識的かつ積極的な協力があったからです。つまり、ベルゴリオを、実験的な薬のために最も効果的な「証言者」とし、司教たちを、世俗当局の不合理な健康規定の忠実な実行者としたのです。さらに、これだけではありません。遺伝子血清の接種を「道徳的義務」とすることは、絶対的に不適切なこの作戦全体に教理上の根拠を与えました。ですから、またしても、ディープ・ステートとディープ・チャーチが一体となって動いているのです。

もし教皇の声が、陰謀家たちの地獄の計画を非難するためにしっかりと勇気をもって上がっていたならば、新型コロナウイルス感染症の茶番劇は惨めに失敗したであろうと言わざるを得ません。現位階階級は、この裏切りに対して、天主と教会と歴史とに回答しなければならないでしょう。

【問い】教皇フランシスコとして知られるホルヘ・マリオ・ベルゴリオは、自分がグレート・リセットの代理人たちにとって信頼できる助言者でありインスピレーションであることを隠していません。彼は、操り人形でしょうか、あるいは人形を操る者なのでしょうか?

【ヴィガノ大司教】私たちは、カトリックの教導権が新秩序の要求とまったく両立しないこと、そしてグレート・リセットの意向がいかに教会の社会教理と相反するものであるかをよく理解しています。それにもかかわらず、教会の最高レベルの背教は、ベルゴリオが、キリストが地上における代理者に与えられた天主の使命に絶対的に反して、リン・フォレスター・ド・ロスチャイルド夫人が率いる「包括的資本主義のための評議会」の「道徳的案内人」に指名されることを許したのです。そして、ベネディクト十六世の強制退位とイエズス会のベルゴリオの選出にまつわる大変な疑惑が、ここでもさらに裏付けられたことを理解します。

一方、このアルゼンチン人は、新世界秩序の「預言者」としての役割を公言し、やがて国際的な名声を得て報われることを望んでいます。普遍的兄弟愛、エキュメニズム、環境持続可能性、不法移民の無差別受け入れ、ジェンダー・イデオロギー、ユニバーサル・インカムといった教義は、すでにベルゴリオの「教導権的」介入によって繰り返される、ほとんど単調なテーマとなっています。私はイエズス会の志を失望させたくありませんが、彼の主人たちは、彼が自分たちに都合のいい限り彼を利用し、自分の任務を果たすや否や、私たちの主の裏切りの後にユダに起こったように、彼を切り捨てるのではないかと恐れています。ベルゴリオもグローバリストの最高法院(サンヘドリン)から銀貨30枚を受け取った後、ある種の心変わりをして、「極悪なる商人」(mercator pessimus)【裏切者ユダ】と同じ結末を迎えないように願いましょう[13]。

現時点では、フランシスコの役割は、まさにパンデミックの物語を支え、集団予防接種を推進するために切り開かれたものであり、最も過剰に露出されたものの一つです。それ以上に、彼がグローバリストのイデオロギーと完全に同調していること、そして彼が自分の主な仕事をキリストの教会の解体、エリートに従属する慈善的かつエキュメニカルなNGOへの変貌と考えていることは否定できません。この課題は、教理、道徳、典礼、規律を組織的に破壊し、革命に従わない聖職者や修道者を冷酷に迫害することによって実現されます。司教協議会の主題である評判の高い「シノドス性」が、一方では司教から統治権を奪うためのグロテスクなアリバイ【言い訳】であることが証明され、世俗の領域で課せられたものと同様のもう一つの重要な「主権移譲」が、それを集中化し自らのものとすることを目的としているのには当惑させられます。他方、使徒座は、「母にして教師」(Mater et Magistra)としての本来の役割を放棄して、「de rebus fidei ac moribus」(信仰と道徳に関する)問題を司教協議会に委任しています。こうした問題は、天主の命令によって、教皇とローマ教皇庁の各部署に独占的に関係しているにもかかわらず、です。

多くの司教や司祭への迫害、特定の枢機卿について信用を落としたり嘲ったりすること、観想生活の宗教共同体に対する破壊的な怒りは、教会という団体に絶えず新しい打撃を与えているベルゴリオのアジェンダ(行動計画)のほんの一部の表れに過ぎません。司教たちや司祭たちが、あたかも耳が聞こえないかのような沈黙をまもる中で追求されるこの残酷な破壊を目撃するのは深く悲しむべきことです。一方で、イデオロギーにあまり染まらない信者の中に、特にカトリックらしいすべてのものに対する彼の露骨な嫌悪のために、本能的にベルゴリオを一種の反教皇として考えるようになっている反対意見が見られることは心強いことでもあります。


【問い】キリストの約束を考慮しなければ、キリストの敵(フリーメーソン、ザンクトガレン・マフィア、偽牧者、近代主義者など)は、カトリック教会を完全に破壊することにどれだけ近づいているのでしょうか?

【ヴィガノ大司教】教会を破壊することは、キリストの約束に反対してこれを打ち砕くという狂気の妄想ですが、しかしながら、それは天主とサタンの衝突の最終結果にかかわるものです。キリストの勝利は最も確実であり、存在論的に必要なものです。それにもかかわらず、闇の子らによって行われている進行中の戦争は、本当に憂慮すべき段階に達しているように思われます。なぜなら、新世界秩序の前触れであるグローバリストの計画が進んでいるためだけでなく、世俗と宗教の両分野で確固たる勇気ある反対がないためでもあります。

一方、世俗的・教会的権威を持つ人々の裏切りは、支配者と被支配者の間にあるこの分裂を明らかにし、エリートの最も効率的な組織だけでなく、その弱点も明るみに出しています。

まず第一に、彼らの確信は――善に対する憎しみによって盲目になった霊魂に典型的な確信ですが――、人間は決められた法則に、巣箱の中の蜂のように、完璧に従うというものです。この確信は完全に間違っています。なぜなら、人間は血肉でできていて、弱さや恐れがありますが、情熱や理想、寛大さや利他的な行為もあります。人間は天主の像と似姿に造られたものだからです。

私たちは、「グレート・リセット」が描く世界が、多くの人々を怯えさせ、混乱させ、多くの人々の目を開かせ、差し迫った独裁に抵抗するために立ち向かい組織化するように導き、自分たちが少数ののけ者ではなく、騙されてしまった多数派であることを理解したということを発見しつつあります。この反応は自然発生的で、ますます広がっていますが、予見されていなかったため、グローバリストのアジェンダの支持者が予想した結果とは異なる結果につながる可能性があります。そしておそらくまた、教会の胎内でも、聖霊は、聖伝に立ち返る運動を起こさせてくださるでしょう。なぜなら、革新主義者たちの約束は、グレート・リセットの約束と同じかそれ以上に、欺瞞であることが示されたからです。

【問い】人類はこれまで、国家単位の専制君主に直面してきましたが、全世界の住民を対象とした世界的なシステムの全体主義はかつてありませんでした。この暗い黙示録の時代に、何か希望や励ましとなるお言葉をいただけないでしょうか?

【ヴィガノ大司教】この世界的なクーデターに直面して落胆するのは、理解できる人間的な反応です。特に、このアジェンダ(行動計画)を追求する決意と、さまざまな国による行動が同時に起こるよう調整されているのを考慮すれば、なおさらです。他の欧州諸国の実験室としてのイタリアで起こったことは、その後すぐにフランス、ドイツ、オーストリアで提案されます。給料を受け取れないという脅迫のもとで、働くためには「グリーンパス」を要求するという例は際立っています。

しかし、先ほど申し上げたように、この仕組みは、ある人々の協力が得られなければ、裏目に出ることがあります。私たちは、法執行機関や医師、ジャーナリストや政治家、裁判官や教区司祭のことを思い浮かべます。もし私たちが、非合法な法律や不合理な規範に、市民的かつ平和的な不従順によって抵抗し始めるならば、すべての物語(ナラティブ)の基礎となっている恐怖が消え、私たちから世俗的・宗教的権利を奪うように強制できると信じている人々は、引き下がって、計画を明らかにし、矛盾を示し、共犯者と犯罪を明らかにしなければならない立場にあることに気づくのです。そして、このことは、公共の問題と教会の世界で同時に起こり、ベルゴリオの「国家教会」が、その道徳的腐敗と、これまでに行われた最大の人道に対する罪に従属していたために信用を失い、背教者の一派として死に絶えることを可能にするのです。

これは、人間の力だけで共通の敵に打ち勝つことができる衝突ではありません。これは、時間においても永遠においても、人類全体の運命と私たち一人一人の運命がかかっている、歴史的な戦いです。これは、私たち自身の人生、私たちのアイデンティティー、私たちの個性に関わることなのです。そして何よりも、グレート・リセットの推進者たちは本質的に反キリスト教的であり、反キリスト的です。なぜなら、この「新秩序」は地獄の混沌にほかならず、「キリスト教の秩序」(Ordo Christianus)と対立し、また両立し得ないものだからです。

ですから、アブラハムがソドムとゴモラの住民のためにしたように、王たるイエズス・キリストとともに戦う覚悟のある少数の信者に目を留めてくださるよう、天主の御稜威に祈り、懇願する必要があるのです。「正しい人も、悪人と一緒に滅ぼそうとなさるのは本当ですか。その町には、五十人の正しい人がいるかもしれません。本当に、彼らを滅ぼそうとなさるのですか。そこにいる五十人の正しい人のことを顧みて、それをお赦しになれないのですか。そんなことを、決してなさらないでください。正しい人を悪人と一緒に滅ぼすなど、あなたのなさることではありません。地をすべて裁くお方が正義を守らないなんて、ありえようはずがありません」(創世記18章23-25節)。おそらく、私たちは四十五人も、四十人も、三十人も、二十人もいないかもしれません。しかし、次の主のみ言葉は、私たちがどんなに少なくても、私たちを慰めてくれます。「その十人のために、滅ぼすことはすまい」(創世記18章32節)。

この復興が行われるためには、国家においても教会においても、福音に一致して生き、天主への愛と隣人への愛に突き動かされ、自分に対して行われる暴力に受け身で耐えるのではなく、進んで戦い、自分の意見を伝える、誠実で忠実な市民が必要なのです。この歴史的な戦いは、妥協することなく、人の評価を気にすることなく、恐れることなく、キリストの側に立つ場合に勝利します。なぜなら、恩寵、祈り、償いの生活を通して私たちの主に近づけば近づくほど、主が私たちに与えてくださる霊的武器が効果的になるからです。「Nolite timere: ego vici mundum 勇気を出せ、私はこの世に勝ったのだ」(ヨハネ16章33節)。

____________________________

[1]参考:国連ホームページ: https://unric.org/it/agenda-2030/

[2]AirBnbは、サンフランシスコに本社を置く、オンライン住宅市場を運営する米国の企業である。AirBnbの特徴は、提供されるものが同質化されていることで、ほとんどが無個性で標準化されたイケアスタイルの家やアパートメントである。

[3] «Il diritto alla proprietà privata non è intoccabile» – Cfr. https://www.ilsole24ore.com/art/il-papa-il-diritto-proprieta-privata-non-e-intoccabile-ADIGLZ5?refresh_ce=1

[4]「もし誰かがゲイで、主を探し求めていて、善意を持っているのなら、裁こうとする私は誰さまのつもりでしょうか?」https://www.vatican.va/content/francesco/en/speeches/2013/july/documents/papa-francesco_20130728_gmg-conferenza-stampa.html

[5]Actaに掲載された教皇のアルゼンチン司教団への書簡
https://www.avvenire.it/chiesa/pagine/amoris-laetitia-si-applica-cos-via-libera-del-papa

[6] https://www.ilfattoquotidiano.it/2021/10/26/il-papa-nomina-jeffrey-sachs-nella-pontificia-accademia-delle-scienze-sociali-lattacco-dei-conservatori-ha-posizioni-pro-aborto/6368874/

[7] Cf. https://www.agensir.it/quotidiano/2021/10/25/papa-francesco-nomina-jeffrey-david-sachs-membro-ordinario-della-pontificia-accademia-delle-scienze-sociali/ また
https://www.osservatoreromano.va/it/news/2021-10/quo-243/nuovo-membro-della-pontificia-accademia-delle-scienze-sociali.html

[8] Cf. https://www.vatican.va/content/francesco/it/messages/pont-messages/2021/documents/20211016-videomessaggio-movimentipopolari.html e https://www.avvenire.it/papa/pagine/papa-francesco-quarto-incontro-mondiale-dei-movimenti-popolari

[9]2021年10月20日の一般謁見
https://www.agensir.it/quotidiano/2021/10/20/papa-francesco-udienza-riscoprire-la-dimensione-comunitaria-non-individualistica-della-liberta/

[10] Cf. https://www.linkiesta.it/2021/06/commissione-identita-digitale/

[11]情報セキュリティーの主要企業の一つであるWISeKey International Holding Ltd.は、2021年10月23日、The Transhuman Code and Artificial Humanityの著者であるDavid FergussonとCarlos Moreiraが、The Code to the Metaverse - Programming Our Future For Goodという本の紹介を[バチカンにある]Teutonic Collegeで行ったと発表した。

[12] Cf. https://www.ansa.it/osservatorio_intelligenza_artificiale/notizie/societa/2021/05/24/intelligenza-artificiale-nasce-fondazione-vaticana_50103876-656e-4bd2-a0bc-a25ec11c9708.html
また
https://www.academyforlife.va/content/pav/it/notizie/2020/intelligenza-artificiale-2020.html
[13]聖木曜日の第五応誦「In Coena Domini」より「Judas mercator pessimus(極悪なる商人ユダ)」。


【参考情報】スーピッチ枢機卿はシカゴの「王たるキリスト宣教会」を停止する。ヴィガノ大司教の反論

2022年07月27日 | カトリック・ニュースなど

【参考情報】スーピッチ枢機卿はシカゴの「王たるキリスト宣教会」を停止する。ヴィガノ大司教の反論

信者、司祭、司教には、トリエント典礼が教理、道徳、霊性の不可侵の防波堤であり続けるよう、一歩も譲らずに要求する神聖かつ緊急の義務がある。「私たちは人間より天主に従わねばなりません」

2022年7月20日(水曜日)

Cardinal Cupich Cracks Down on the ICK in Chicago, VIGANÒ RESPONDS

カルロ・マリア・ヴィガノ

シカゴ大司教区における
「大司祭・王たるキリスト宣教会」の
典礼挙行の停止についての宣言

ブレーズ・スーピッチ枢機卿は、ベルゴリオ教会の役人の特徴である官僚的権威主義をもって、シカゴ大司教区で役務を行う「大司祭・王たるキリスト宣教会」(Institute of Christ the King Sovereign Priest)の司祭たちに、古い典礼によるすべての公的職務を7月末から停止し、自発教令「スンモールム・ポンティフィクム」(Summorum Pontificum)に従って彼らに与えられた特権を取り消すように命じました。

誰の目にも明らかなのは、この決定が、教会のいかなる権威であっても否定しえない権利を行使することを妨げるという意向を持っていることです。ましてや(a fortiori)カトリック教会の不変の教導権にあからさまに対立する教理的かつ典礼的原則を受け入れることを、その条件としていることからさらに明らかです。

実際、洗礼を受けたすべての人は、ベネディクト十六世の自発教令「スンモールム・ポンティフィクム」が決して廃止され得ないと認めた形式で、聖なるミサにあずかり、秘跡を受ける権利を持っています。シカゴの信者からその権利を奪うことは非常に重大な権力の濫用であり、またスーピッチの決定がローマのサンヘドリン【ユダヤ最高法院】によって黙認されているという事実は、この教区長による横取りに加えて、使徒継承のミサという「逆らいのしるし」を、カトリック世界全体にわたって取り消すという意向を持つ、さらに広い計画があることを裏付けています。そのミサの存在自体が、数十年にわたる教理的、道徳的、規律的な逸脱を無言で非難するものであるため、逆らいのしるしなのです。

ベルゴリオが聖伝を憎んでおり、また、カトリックにとどまりたい人や、信仰から棄教することを望まない人を嘲り、信用を落とす機会を逃さないことは、周知の事実です。同様に、彼の協力者や側近に対する好みもよく知られています。彼らは皆、同性愛、権力欲、金銭問題での腐敗によって団結しています。従って、彼の弟子の一人――連続性的虐待者のマカリックおよびドナルド・ワールやジョゼフ・トービンのような議論を呼んだ高位聖職者たちの親友の一人【スーピッチ】――が、恩人の命令を忠実に実行することを示すことによって、シカゴ大司教区への不当な昇進の恩返しをしたとしても、驚くには当たりません。この昇進は、思い出していただきたいのですが、私が駐米教皇大使として聖座に仕えていたとき、強く反対したものであり、またジョゼフ・ベルナルディン枢機卿の、性犯罪に関する証拠の隠蔽にスーピッチが関与していることに関して「チャーチ・ミリタント」(こちらこちら)が行った憂慮すべき暴露の後、今日さらにスキャンダラスに見えるものです。2019年、スーピッチは、シカゴ大司教区が所有していたベルナルディン大司教とその共犯者に関する有罪となる証拠書類を引き渡さなかったとして、連邦当局とイリノイ州司法長官から調査を受けました。また、私たちに分かっていることは、スーピッチが進歩主義の擁護者であるベルナルディンの列聖を望んでいる(こちら)ものの、実際にはベルナルディンの虐待被害者の一人による非常に深刻な告発があり、その告発が、1957年に若き司祭ジョゼフ・ベルナルディン神父とその兄弟の司祭ジョン・J・ラッセル神父が未成年者とともに行った悪魔の儀式の間にご聖体を冒涜したことに言及しているにもかかわらず、司教省、国務省、シカゴ大司教区は決して追及してこなかったのです。ラッセル神父は、後に司教に聖別され、現在は故人となっています。

スーピッチは、全時代のミサ【聖伝のミサ】の挙行が、第二バチカン公会議を傷つける罪であるとみなすものの、不思議なことに、同性愛者、児童虐待者、中絶推進者、両形態のご聖体を冒涜する者に対しては寛容で理解を示す方法をよく知っています。このようなスーピッチの決定に正当性を見いだすことは、完全に不可能ではないにしても本当に難しいことです。Cupich pro domo sua.(スーピッチは自分の家のために)【スーピッチは自分の利害のために熱弁をふるう、の意。オリジナルはCicero pro domo sua.(キケロは自分の家のために)】。ベルゴリオから「米国の聖職者の性犯罪に関する委員会」を主宰するよう指示され、2018年8月に発表した「覚書」について問われたとき、次のように、つまずきを与えるような不遜な態度でコメントしたのは、もちろんスーピッチです。

「教皇にはもっと大きなアジェンダがあります。他のことを前に進めていかなければなりません。環境について話したり、移民を保護したり、教会の仕事を続けたり、です。私たちはこの件に関して横道にそれるつもりはありません。(中略)数年前、枢機卿がこのような対応をしていたとしたら、すべてが崩壊していたことでしょう。でも、今日では明らかに時代が変わりました。(中略)今では、少しは横柄な態度を取っても許されるでしょう。多くのことが知られていますから、メディアは、ほんのささいなことで衣を裂くことはないでしょう」(こちらこちら)。

正確に読んでください。「ほんのささいなこと」(For so little)。世俗の世界では、もしある管理者が、部下たちが仕事をするのを妨げ、不正直で腐敗した社員たちを昇進させ、その犯罪を隠微して励ましたとすれば、その管理者はその場で解雇され、会社のイメージダウンにつながる数百万ドルの賠償金を要求されることでしょう。その代わりに、ベルゴリオが保護するラベンダー・マフィアの色とりどりの楽隊車(バンドワゴン)では、こういった形態の悪との卑劣な共謀および善への激しい嫌悪が標準的なこととなり、道徳的な腐敗が、教理的な逸脱と典礼的な放埓に必要とされる当然の結果であることを裏付けているのです。枢機卿としてのスーピッチの誕生と、次の枢機卿会で赤い帽子が与えられる人々の名前によって裏付けられるように、まさに頂点から始まる教会の権威の危機は否定のしようがありません。

世俗的な問題で、ディープ・ステートに従順である世俗の支配者が、腐敗した役人を利用して「グレート・リセット」のサイレント・クーデターを実行するとすれば、同時に教会的な面では、負けず劣らず腐敗していて、ディープ・チャーチに従順である枢機卿や高位聖職者がいることが分かります。ベルゴリオの「賛成表明」(placet)によって、彼らは第二バチカン公会議の破壊転覆的な計画を完成させようとしており、それはフリーメーソンが切望する「人類教」へと至ることが運命づけられているものです。

しかし、一方で、キリストの教会の破壊とミサの聖なる犠牲の取り消しを目標とする、これらの反逆者たちの堪え難い権威濫用を糾弾し非難することが義務であるならば、他方で、王たるキリスト宣教会の側では、第二バチカン公会議をある種の形で呑気に受け入れておけば、公会議やノブス・オルドを批判しない限り、バックルやケープ【というスータンの飾り】に関してローマは見て見ぬふりをしてくれると、会員に誤って信じさせてしまったのではないかと、再考する必要があるように私には思われます。

このことが教えてくれるのは、トリエント・ミサは少し旧体制的すぎる(しかし、シカゴや、一般的に全米では非常に穏健です)というような、とっさに出てくる儀式に関する言外の意味を超えて、トリエント・ミサそれ自体が強力な信仰告白であり、つぎはぎだらけの改革された典礼への揺るぎない反論であるということです。それを捧げるのが、年老いた教区の牧者であろうと、新しく叙階された司祭であろうと、また、身に着けているものが、ローマ式のカズラ【カズラの形がバイオリンに似ている】であろうと、中世のゴチックのカズラであろうと、関係ありません。あの聖伝のミサ、特別に優れた(par excellence)ミサ、特別である一つの典礼様式において捧げられるミサです。このミサは本当に特別です【「特別形式」とされているのを皮肉っている】、時折あるから特別ではなく、モンティーニの典礼というプロテスタント化した模造品【新しいミサのこと】―このミサをアルスの司祭聖ヴィアンネーだったら恐怖の目で見たであろう―とは比較にならないほど優れているという理由のために特別なのです。

このミサ、聖なる教会のミサ、全時代の使徒と殉教者のミサ、「私たちの」ミサ、これこそ、本当に彼らを「つまずかせる」ミサなのです。彼らをつまずかせるものは、ローマ式のビレタ【帽子】やお辞儀ではなく、モゼッタ【高位聖職者ようのケープ】やロシェット【高位聖職者用の短い白衣】でもありません。彼らをつまずかせる本当のものはカトリックのミサであり、これこそが、彼らが異端者の怒りをもって激しく憤るものなのです。

「歓迎」と「包括性」を説く同じ人々は、それらを条件なしにすべての人に適用するのですが、良き司祭や信心深い信者には例外として適応しません。現実には、このことは、位階階級―恩寵とは無縁であるために知性においても意志においても盲目となっている―の臨終の最後の喘ぎを、完全に無視するよう私たちに確信させるに十分であるはずです。

王たるキリスト宣教会の司祭たちの前であってさえ、信者に対して冷笑的で冷酷なスーピッチが、この何度目か分からないほど力を誇示していることは、明らかにする必要のある多くの省略と曖昧な言葉、特に公会議の「心」(mens)とベルゴリオの「教導権」を受け入れるという問題についての健全な内省の時となり得ます。

私は、王たるキリスト宣教会とすべてのエクレジア・デイの団体が、この試練の日々を貴重な浄化の機会と捉え、信仰告白とミサの礼拝表現の間に必要な一貫性や、その結果として、これらと第二バチカン公会議の教理的・典礼的逸脱との間にある不一致を、勇気を持って証しすることができると信じています。なぜなら、聖ピオ五世のミサを捧げると同時に、敵の誤謬を受け入れることは不可能だからです。

スーピッチはこのことをよく知っており、そのため、そのミサの挙行を妨げようと望んでいるのです。彼は、そのミサが、悪魔のしもべたちに反対する非常に強力な悪魔祓いであることをよく知っているのです。その悪魔のしもべたちがミトラ【司教のかぶる帽子】を着けていようがいまいが関係なくそうです。

スーピッチは、そのミサが、神聖にして天主的なものという超自然の感覚――燃える柴の前のモーゼの「畏るべき神秘」(mysterium tremendum)――の故に、誰にとってもすぐに理解できるものだということを知っています。そして、そのミサが本当に信者の目を開き、信者の心を温め、信者の精神を照らしてくれるということを知っているのです。言いようのない苦悩の数十年を経て、信者はついに天主の御稜威に近づき、回心し、生き方を変え、子どもたちを聖性のうちに教育し、その模範によって信仰を広めることができるようになっているのです。主から託された羊の牧者である司教にとって、これ以上望ましいことがあるでしょうか? また、羊が狼に引き裂かれたり、奈落の底に落ちたりするのを見たいと望む者たちにとって、これほど憎むべきものがあるでしょうか?

信者、司祭、司教には、これらの完全に信用を失っている人々の決定に反対して立ち上がり、敬うべきトリエント典礼が教理、道徳、霊性の不可侵の防波堤であり続けるよう、一歩も譲らずに要求する神聖かつ緊急の義務があります。「私たちは人間より天主に従わねばなりません」(使徒行録5章29節)。特に、これらの人々が、その非難されるべき行動によって、天主も信仰における兄弟も愛していないことを証明したときには、そうしなければなりません。

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ


御聖体に対する信心が減少した結果:神聖なものが世界から消えていった:命の軽視

2022年07月26日 | お説教・霊的講話

2022年6月18日(土)助祭証聖者教会博士聖エフレムのミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。

一昨日は御聖体の大祝日でした。御聖体を礼拝する所には、その祝福があり、そしてその御聖体を大切にする所では、その天主への愛によって、人間に対する愛が生まれるということを昨日一緒に黙想致しました。今日はその続きを黙想致しましょう。

聖パウロは今日の書簡の中で、後の世には、人々は真理から耳を遠ざけて、作り話に耳を傾ける、自分の気に入るようなことを話す人々を探して、彼らの話だけを聞くだろうというようなことを言っています。

教会は、地の塩として、塩の味を持っていなければなりません。世の光として、光を照らされなければなりません。これは人々を断罪する為ではなくて、人々を愛して、彼らを助ける為です。教会が望んでいるのは、闇に住んでいる、暗闇の無知の中にいる人々を光で照らして、光の方に導こうとすることです。

現代の御聖体に対する不信心、これは、この世に対する妥協から始まりました。御聖体を礼拝しない人、信じない人がいるから、その人たちに合わせようとすることから始まりました。新しいミサです。プロテスタントのカトリックの中に取り入れて、プロテスタントの分かれた兄弟たちを傷付けないようにした為です。

その結果は、御聖体に対する信心を、ミサに対する正しい理解を、司祭職に対する正しい理解を、失ってしまうことでした。御聖体はただの記念であるか、あるいは象徴であるか、あるいはただの食べ物であるかのように取り扱われるようになってしまいました。司祭が一体何であるかも分からなくなってしまいました。司祭ではなくて平信徒が中心であって、平信徒が司祭であって、平信徒が教会をリードする、プロテスタントのように誤解する人々が増えてしまいました。

その結果何が起こったかというと、世界中で革命が起こりました。神聖なことに関する革命が起こりました。命の伝達という神聖なことに対する軽視です。世界中で「道徳的な解放」と言われるものが起こりました。命に対する軽視が広まりました。

世界中で堕胎が合法化されるようになりました。今もっと進んでいます。安楽死が合法化されたので、あるいは婚姻に関することが、自然に反するようなものを婚姻として認めようとか、あるいは胎内にいる子供たちを生まれた後でも、自由に命を処分することができるかのように錯覚している人が増えてしまいました。私たちが手を触れることの出来ない崇敬すべき神聖なものとは、あたかもないかのようです。

今、堕胎について申しますと、世界中で、新しいミサが増えたような頃から、合法化の動きがどんどん進みました。お金を持っている人や、あるいは権力がある人が、弱い者を自由にして良い、という考えでした。

堕胎は、命を殺害してはいけないという天主の第五戒「汝、殺すなかれ」に背くばかりではありません。
命の伝達についての第六戒「汝、姦淫するなかれ」に反するばかりではありません。
「汝、父母を敬うべし」親が子供に対する義務を命じている第四戒に反するばかりでありません。

天主の礼拝に関する、生まれてくる霊魂が洗礼を受けることを奪い、そしてまたその子供たちの体を、あるいは医薬品に使ったり、あるいは改造したりする為に使う、天主の第一戒に、特に永遠の命に対する権利を、子供たちの権利を奪うことにも繋がっています。

この多くの天主の十戒の掟に反するこの堕胎は、特にその幼い、弱い、弱者を攻撃するところからも、あまりにもその罪の重さが分かります。

カトリックの信仰がなかったとしても、天主の啓示がなかったとしても、そして天主の十戒というものを、たとえ良心があまりにも麻痺して知らなかったとしてもお金があるから、権力があるから、力が強いから、弱い者を亡き者にして良い、ということが許されないということは誰にも分かります。

そんなことが許されるのなら、お金持ちがお金を持っているから、お金の無い者に毒を撒いたり、あるいは注射を打ったり、あるいは邪魔だからといって殺害しても良いか、ということになります。あるいは権力がある者が、弱い、自分を守ることができない人たちを亡き者にして良いのか、ということになります。

もしもこの地上でそのようなことが行なわれたとしたら、私たちは義憤に駆られます。しかし堕胎においては、全く自分を守ることも抵抗することもできない、無防備の子供たちが殺害されています。弱い者を、強い者が勝手に排除することが行なわれています。

そればかりではありません、堕胎においては、罪の無い者が排除されています。

たとえ悪いことをした人であっても、極悪の犯罪人であったとしても、たとえ目の前で何かが悪いことが行なわれていたとしても、だからといって私たちが裁判を経ずに自分の手でその悪をしている人を殺害したら、正当防衛以外において、これは大きな罪です。たとえ相手が悪人であったとしても、私たちは罪に問われます。しかし殺害されるのは、最も安全な場所にいる、最も正当な場所にいる、罪の無い、何も悪いことをしていない子供たちです。それが「邪魔だ」と言って、「迷惑だ」と言って殺害されています。これは、天主の啓示がなくても、あまりにも残酷であるということが私たちによく分かります。もしも誰かがそのようなことを目の前にしたら、私たちはきっとそのような人たちを非難するに違いありません。

更に堕胎は、その行なう人が、誰をするか、ということについて、重大な罪です。なぜかというと、最も愛するべき義務を持っている親が、最も愛される権利を持っている子供に対して、命を奪うという罪を行なうからです。

もしも国家の政府が、自分の国民をテロで殺害したとしても、あるいはあえて国家が、そのような国民を、保護すべき国民を苦しめて、あるいは逮捕して、あるいはいきなり殺害するとしたら、それは国家が成り立たなくなる犯罪です。しかし堕胎においては、そのようなものが行なわれています。

しかも堕胎においては、その方法があまりにも残酷です。たとえ死刑囚があったとしても、もしも私たちが堕胎に対して行われていると同じようなことをしたとしたら、それはどんなに残酷な罪を犯した殺人犯だとしても、そのような死刑のやり方には非難の嵐が起こるに違いありません。しかし堕胎においては、麻酔もなく体は引き裂かれ、口で言うのも恐ろしいほど残酷な手段で子供たちが亡き者とされています。

これは、天主の教えがなくても、私たちが理解できるようなものです。しかも、そのもしもそのような罪の無いような子供たちが、あるいは殺害された、あるいはそのような残酷なことがあったということが一件あれば、新聞で、何日もテレビで、マスコミが騒ぐようなものです。恐ろしい!何でこのようなことがあり得るのか!?と。

しかし、その行なわれている数が尋常ではありません。普通に行なわれています。毎日何百、一年で何十万、世界中で何百万。

これを見て天主は「よくやった」と私たちのことを思うとでもいうのでしょうか。むしろ「この幼き命たちは、誰か助ける人はいないか!?助けてやって欲しい!」と思われるのではないでしょうか?

あるいはそれを知っている、それを知った人は、知っていても何もしないでいてよいのでしょうか?

教会はいつも声を上げてきました。人間の命は、天主から与えられているものであって、人間が自由にすることはできない。もしも罪の無い命を殺害するようなことがあったら、それは天から復讐を呼ぶ大きな罪である。幼い者や弱い者を圧迫することは、天から復讐を呼び起こす罪である、と。

もしも弱い者を圧迫することがそうであったら、殺害することはどれほど恐ろしい罪でしょうか。天に復讐を呼ぶ罪はまだあります、正当な賃金を労働者に与えないこと。正当な食べ物、正当な命を守る保護を与えないことは、どれほどの罪でしょうか。これを見て主は、あぁ、そのまま、このまま人類がその道をまっすぐ歩んでも良いと思われるのでしょうか?それとも何とかして、私たちの目を覚まそうと、その警告のしるしを送られるのでしょうか?

私たちは一体どうしたら良いでしょうか?

御聖体の信心をぜひ盛り上げなければならないと思っています。命が大切にされる為に、本当の平和が来る為に、戦争が、子供に対する戦争が終わる為にも、私たちには御聖体に対する信心が必要です。

マリア様にお祈り致しましょう。マリア様が私たちにもその信心を与えて下さいますように、そして私たちが足りないところがたくさんあるので、マリア様が補って下さるように、お祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


レオ十三教皇の回勅「ミレ・カリタティス」:御聖体という本当の天主の愛を信じ、天主を愛し返す、御聖体を愛すことから、本当の平和が始まる、生まれる

2022年07月26日 | お説教・霊的講話

2022年6月17日(金)司教証聖者聖グレゴリオ・バルバディコのミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。

昨日は御聖体の大祝日でした。今日は一緒に、御聖体の黙想を致しましょう。

今日最近、120年前に書かれたレオ十三世の御聖体の祝日に対する回勅を読む機会がありました。『ミレ・カリタティス』1902年に、御聖体の大祝日に書かれたもので、それによると教皇レオ十三世は、御聖体の信心を高める為に、教会は過去、全ての力を尽くしてやってきたし、そして教会は御聖体を大切にする聖人たちを列聖、列福、そして特別の名誉を与えてきた。そして御聖体に対する信心を高めるように色々な贖宥などを与えてきた。それでも足りないので、今度は今、この回勅を書いていると言って、御聖体がどれほど大切であるか、ということを説明しています。

レオ十三世はまず、御聖体が信仰の秘跡であることを語っています。今日特に、私の黙想を提案したいのは、その次に書かれた、愛の秘跡であるという項です。

もちろん愛は、真理を信じることから成り立つものです。私たちの御聖体に対する信仰は、ただの迷信ではありません。事実、真理に基づく、本当のことであるから、たとえ目に見えなくても、真の天主であるイエズス・キリストが「そうだ」と仰ったので、私たちは教会と共に固くそれを信じて、2000年間教会が信じてきたようにそれを信じ、教会が愛してきたようにそれを愛し、教会がそれをその為に荘厳に祝ってきたように、私たちも荘厳に祝おうと思っています。

この信仰から生まれ出る愛は何のことかというと、まずこれは、天主の私たちに対する愛だということです。

天主、この万物を創られた無限の全能の方が、全く不足がない方が、私たちを愛するがあまりに御子を送って、人となって、私たちの内に御生活されたばかりか、その御子が無となって、十字架の死に至るまで、御父に従順となったばかりか、それをもはるかに超えて、私たちしもべの為に、主の主が、奴隷の食べ物となることさえも厭わなかった、喜んでそうされた、無となった、この御聖体として留まろうとされた、世の終わりまで留まろうとされた。

これを見て、私たちはどうして天主に対する愛が沸き起こらざるを得ないだろうか。私たちの心に、主に対する愛が燃えたたざるを得なくなる。

もしもこの世界に不和が起こるのならば、これは御聖体に対する信仰が消えて、冷たくなってしまったからだと訴えています。

なぜかというと、隣人に対する愛は、天主に対する愛によって私たちの心に火が点きます。天主がこれほどまでに私たちを愛して下さったので、天主を愛するが為に、目に見えない天主を愛するが為に、目に見える隣人を愛そうとすることができるからです。

イエズス様が、「私は地上に火をもって来た。」(ルカ12:49)と言ったのはまさにこのことです。天主に対する愛を、そして天主を愛するが為に、私たちが隣人の為に愛することができるように、その愛の火を点けに来られました。

この愛の燃える火のかまどは、この元は、『御聖体』にあります。全ての宝の恵みの源は、御聖体だからです。なぜかというと、私たちは御聖体において、御恵みの創り主、聖寵の与え主、天主イエズス・キリスト御自身を受けるからです。

ですから、御聖体の神秘を黙想すればするほど、御聖体の真理を、御聖体が一体何であるかが理解できれば理解するほど、それに対する信仰が深まれば深まるほど、私たちは特に隣人に対する愛が発展します。

特にレオ十三世は、この愛は、私たちをして一致させると言います。貧しい者も豊かな者も、学んだ者も無学な者も、主人も奴隷も召使いも、同じ御聖体の、同じ祭壇から、同じ主を受けるから。イエズス・キリストの模範に倣おうとするから。ですから御聖体を大切にすればするほど、カトリックの信仰が燃えれば燃えるほど、そこには愛と一致と平和があると教皇様は言います。

なぜかというと、力ある者は、なぜ力が与えられたか、権力が与えられたか、ということをよく理解できるので、弱い者をその力を使って助けようとします。保護しようとします。なぜカトリックの社会で、レディーファーストとか、あるいは子供たちを守ろうとするのか、これは御聖体の信心から生まれるものです。

なぜカトリック教会では、たとえ悪人であっても、なるべく憐みを以って取り扱おうとしたり、あるいはたとえ刑罰を「こうだ」とあったとしても、しかし恩赦があったり、あるいはその刑を実行するのには、憐れみと優しさがあったりします。なぜかというと、イエズス・キリストの憐れみをよく知っているからです。

カトリックの社会では、できるだけ残酷なことは避けようとします。特に、天主が私たちを子供として非常に憐れんで下さったので、両親は子供たちに対する特別の愛をかき立てられます、その義務をかき立てられます。天主の第四戒は、子供が親に対する勤めのみならず、親が目下に対する、あるいは目上が目下に対する特別の義務をも教えています。イエズス・キリストの、その御聖体における模範は特にそうです。御聖体を大切にする社会においては、社会の中の調和と一致と平和があり、そこには階級闘争や妬みや嫉妬や、あるいは自分の利益だけの追求というよりはむしろ、相互の助け合いがあります。

レオ十三世は特にこのことを言っています。ただ法律を厳しくすれば良い、あるいは人間が知恵を使って何かをすれば、全ての社会の悪が解決するのでは決してない。御聖体の、本当の天主のこの愛を信じ、そして天主を愛し返すこと、御聖体を愛すことから、本当の平和が始まる、できる、生まれると言っています。

では愛する兄弟姉妹の皆様、私たちも、このイエズス様の愛をよく黙想することができますように、お祈り致しましょう。イエズス・キリストの愛に愛を以って応えることができますように、特にこの過去50年間、御聖体があまりにも粗末に扱われたので、あるいはなおざりにされたので、今、社会がおかしくなっている、全世界がおかしくなっているということは、非常に理解ができます。あまりにもそこにはロジックがあります。レオ十三世が言った通り、御聖体への信心が無くなった所においては、権力者が、弱い人をもっと押し潰すような社会ができてしまいます。ですから私たちは今この現代、御聖体に対する愛を、信心を、ますます深く致しましょう。

ファチマのマリア様にお祈り致しましょう。ファチマの天使がその私たちに教えてくれたその祈りを、その償いの精神を、私たちが身に付けることができますように、その御聖体をお愛しすることができますように、そうしてこの世界に、本当の平和の為に貢献することができますように、お祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


良い実をつけぬ人々とは、悪い実をつける人々のこと、何の実もつけぬ人々のこと、台無しになった実をつける人々のこと、十分な実をつけぬ人々のことです。

2022年07月25日 | お説教・霊的講話

「良い実をつけぬ人々」(マテオ7章19節)についての説教

ドモルネ神父さま(2022年7月24日)

はじめに

福音の中で、私たちの主は、「良い実をつけぬ木は、みな切って火に投げ入れられる」(マテオ7章19節)と言っておられます。この言葉で、私たちは、この世での人生の終わりには、私たちに開かれている可能性が、二つしかないことを思い起こします。つまり天国か地獄かです。人生の間に何を自ら選んで行ったかによって、どちらか一方になるのです。地獄に落ちる人々は、「良い実をつけぬ」人々です。では、それが、どのような人々なのかを見てみましょう。

1.良い実をつけぬ人々

良い実をつけぬ人々とは、まず第一に、悪い実をつける人々のことです。私たちの主が言われる「実」とは、私たちの行いのことです。「悪い実」とは、私たちの思い、言葉、行いにおけるすべての悪い行為のことです。しかし、悪い行為とは何でしょうか? それは、天主の掟に反するあらゆる行為です。天主は、知恵と秩序と正義と善をもって、この世と私たちをお造りになりました。天主によって確立されたこの秩序が、善と悪を決定するのです。掟とは、この秩序を単純明快に表現したものです。天主の掟に従っているものは、「善」であり、従っていないものは、「悪」です。悪を自ら選んで行う人々は、天主を侮辱しているのです。その侮辱を、「罪」と呼びます。ですから、悪い実をつける人々は、罪を犯す人々なのです。聖パウロはコリント人にこう言いました。「淫行する者も、偶像崇拝者も、姦通する者も、男娼も、男色する者も、泥棒も、貪欲な者も、酒飲みも、讒言する者も、略奪する者も、天主の国を継がぬ」(コリント前書6章9-10節)。

良い実をつけぬ人々とは、何の実もつけぬ人々のことでもあります。これは、天主が期待される良いわざをしない人々という意味です。そのような人々を、実をつけないいちじくの木に例えられた、私たちの主の言葉を思い出してください。「私はもう三年も、このいちじくの実を取りに来ているが、実がならない。だから、切り倒しなさい」(ルカ13章7節)。私たちの主は、身分に応じた義務を果たしたり、機会があれば善を行ったりするのに必要な努力をしない人々を非難されます。主は、裁きの場で彼らに言われるであろうことを、このように告げられます。「呪われた者よ、私を離れて…永遠の火に入れ。あなたたちは、私が飢えていたのに食べさせず、渇いていたのに飲ませず、旅にあったときに宿らせず、裸だったのに服をくれず、病気のときや牢にいたときに見舞いにも来なかった」(マテオ25章41-43節)。

良い実をつけぬ人々とは、台無しになった実をつける人々のことでもあります。台無しになった実とは、腐ったり、虫に食べられたりした実のことです。ここで、台無しになった実とは、天主のみのためでなく、個人的な利益のためになされた良いわざのことを意味します。言い換えれば、台無しになった意向でなされる、良いわざを意味します。ですから、自らの高慢のため、他人から褒められるため、あるいは金銭的な利益や社会的な昇進のため、あるいは誰かに対する乱れた愛のために、私たちが行う良い行いが、それに当たります。私たちの主は、純粋な意向を持たずに良いわざをする人々を、非難されます。「人に見せびらかすために、他人の前で良いわざを行わぬよう気をつけよ。そんなことをすれば、天にまします父からの報いは、いっさい受けられぬ」(マテオ6章1節)。

良い実をつけぬ人々とは、最後に、十分な実をつけぬ人々のことでもあります。これは、時には良いわざを行い、時にはよく祈っても、天主と隣人に対する義務のすべてを果たすことのない人々のことを意味します。例えば、主日に時々しか、ミサに行かないような人々です。私たちの主は、彼らのする良い行いは非難なさいませんが、彼らがしないことについては非難なさいます。「私に向かって、『主よ、主よ』と言う人がみな、天の国に入るのではない、天にまします父のみ旨を果たした人だけが入る」(マテオ7章21節)。

2.地獄という罰

私たちの主は、「良い実をつけぬ木は、みな切って火に投げ入れられる」と言われます。この火とは、地獄のことです。先ほど述べた人々は、地獄で罰せられるのです。なぜ、そのような罰があるのでしょうか。なぜ天主は、彼らを虚無へと消し去られないのでしょうか? なぜなら、この人々は、天主の愛に対して、大きな不正をしているからです。天主は統治される善であり、無限に愛すべきお方です。天主は、愛されるという絶対の権利を持っておられます。さらに、私たちはすべてを、本当にすべてを、天主から受けています。ですから天主は、感謝のために愛される、という絶対の権利を持っておられます。私たちが良いわざを行うのを拒否するとき、私たちは天主を愛することを拒んでいるのです。これは、それ自体、罰に値する不正ですから、虚無へと戻されるだけでは済まないのです。その罰が、地獄です。

私たちの主は、地獄が何であるかを、こう簡潔にまとめておられます。「切って火に投げ入れられる」。「切って」とは、天主に拒絶され、天主から永遠に引き離されることです。これが滅びの罰です。この罰が、最も恐ろしく、つらいものです。愛する者の失恋の苦しみは、滅びた霊魂の苦しみの縮図に過ぎません。

「火に投げ入れられる」とは、滅びた人々が地獄で受けるすべての苦しみを意味します。つまり、肉体と魂を終わりなく焼き尽くす火であり、悪魔によって行われる絶え間のない拷問であり、天主が天国に行くための手段をすべて与えてくださったことと、ただ自分自身のせいで地獄にいるのだということを、はっきりと理解するため、滅びた人々を打ちひしがらせる昼夜の後悔の念と絶望です。

結論

親愛なる信者の皆さん、聖ペトロの言葉を思い出しましょう。「兄弟たちよ、召し出しと選びを固めるように、ますます励め…こうしてあなたたちには、私たちの主であり救い主であるイエズス・キリストの永遠の国への入り口が、広く開けられる」(ペトロ後書1章10-11節)。私たちは、この世での生活で、良い実、豊かな実、質の良い実をつけなければなりません。そのためには、第一に、私たちの霊魂に成聖の恩寵を保持しなければなりません。次に、自分の生活の状況に応じて、あらゆるあわれみのわざを寛大に実践しなければなりません。最後に、私たちは常に純粋な意向を保つように、つまり、天主をお喜ばせするという意向をもって、すべてのことを行うように、注意しなければなりません。この点で私たちの模範となるのは、いつものように、私たちの主イエズス・キリストと童貞聖マリアです。ですから、お二方がこの世での生活のときに私たちに与えてくださった良い模範について頻繁に思い起こし、お二方が私たちを助けてくださるように、頻繁に祈りましょう。


「カルメル山の聖母」という称号とそのスカプラリオの由来について

2022年07月25日 | お説教・霊的講話

カルメル山の聖母についての説教

ドモルネ神父さま(2022年7月17日)

はじめに

7月16日、私たちは、カルメル山の聖母の祝日をお祝いしました。カルメル山の聖母のスカプラリオを身に着けることは、童貞聖マリアへの信心のしるしとして、最も広く行われているものの一つです。そこで今日は、「カルメル山の聖母」という称号と、そのスカプラリオの由来について、お話ししたいと思います。

1.カルメル山の聖母

カルメル山は、パレスチナにある山で、地中海の沿岸にあります。この山の頂上の洞窟には、預言者エリアが住んでいました。ここで、エリアは童貞聖マリアについての啓示を受け、これが、「カルメル山の聖母」の称号の由来となりました。説明しましょう。当時、天主は、アカブ王とイスラエルの民の偶像崇拝や多くの罪を、深刻な干ばつによって罰しておられました。3年間雨が降らず、その結果ひどい飢饉が起こりました。ついにエリアは、天主の命により、アカブ王と偶像バアルの司祭たち全員、そしてイスラエルの民を、カルメル山に呼び集めました。エリアはバアルの司祭たちに挑戦し(列王記上18章23-24節)、民の前で、バアルとその礼拝が偽りであることを証明しました。その結果、エリアは、バアルの司祭たち全員を殺るよう命じ、彼らはすべて殺されました。それから、エリアは、カルメル山の頂上に登って7回祈りました。7回目に、エリアは「人の足跡のような」(列王記上18章44節)小さな雲を見ました。この小さな雲は大きくなり、空を埋め尽くすようになりました。そして、大雨が降り、大地を荒廃させていた 干ばつを終わらせたのです。

この不思議な小さな雲は、童貞聖マリアのかたどりでした。人の足跡のような形をしているのは、人間であるマリアを表しています。エリアの7回の祈りの後に現れた雲の様子は、マリアの内における、聖霊とその七つの賜物の存在を意味します。雲が小さかったことは、童貞聖マリアの謙遜を表しています。この雲は、全地を潤すほどの水を湛(たた)えていました。これは、童貞聖マリアが、聖霊の働きによって、すべての恩寵の源である救い主を受胎され、ご胎内に宿されたことを象徴しています。雲は、その水を大地に注ぎ、それにより干ばつを終わらせました。同じように、童貞聖マリアは救い主をお生みになり、その救い主が人々に祝福を注がれ、人々の霊的な乾きを終わらせられたのです。待降節の間、「Rorate caeli desuper, et nubes pluant Justum!(ローラーテ・チェリー・デースペル、エト・ヌーベース・プルアント・ユストゥム)」(天よ、高くから水をしたたらせ、雲は義人を降らせよ)(イザヤ45章8節)と歌うとき、私たちは、このエリアの見たもののことを差しているのです。

エリアの死後、弟子たちはカルメル山で生活をし続けました。彼らはそこで、イエズス・キリストが来られるときまで、祈りと償いと聖書研究の生活を送っていました。聖霊降臨の後、彼らはイエズス・キリストを、預言者たちが告知した救い主であると信じました。そして、預言者エリアが見た不思議な小さな雲を記念して、カルメル山のエリアの洞窟を、救い主の御母である童貞聖マリアに奉献された聖所としたのです。これが、「カルメル山の聖母」の称号の由来です。その後、このエリアの弟子たちの集団はカルメル修道会となり、そのメンバーは「カルメル会士」と呼ばれました。

2.カルメル山の聖母のスカプラリオ

さて、カルメル山の聖母のスカプラリオについて、お話ししましょう。スカプラリオという言葉は、ラテン語で「肩」を意味する「スカプラ」に由来します。スカプラリオは、体の前と背中の両方で、肩から足まで垂れた、袖のない外衣です。修道士は、修道服の上に、完全な形のスカプラリオを着用します。修道士でない人のために、小型版のスカプラリオが作られました。これは2枚の小さな布を紐でつないだものです。

カルメル山のスカプラリオの由来は何でしょうか? 13世紀中頃、カルメル会は激しい迫害に遭っていました。当時の総長は、聖シモン・ストックでした。彼は、童貞聖マリアへの深い信心をもっていました。彼は、多くの試練を受けていたカルメル修道会を、急いで、童貞聖マリアにお捧げしました。1251年、聖母は彼にご出現になり、彼にスカプラリオを授けて、こう言われました。「このスカプラリオを取りなさい…これは、あなたとすべてのカルメル会士の特権となり、この修道服を身に着けて死ぬ者は、誰も、永遠の火に苦しむことはないでしょう。これは救いのしるし、危険からの保護、平和の約束となるでしょう」。

この約束の意味を、正しく理解するように注意しましょう。この約束は、「カルメル山のスカプラリオを身に着ける者は、他に何もする必要はなしに、地獄に落ちることから守られる…」という意味ではありません。私たちが、あらゆる種類の罪を犯し、あらゆる種類の不道徳行為にふけることができ、それでも、単に私たちがこのスカプラリオを身に着けているというだけで、聖母が私たちを救ってくださるなどと、信じてはなりません。そのようなことを考えることは、聖母を私たちの罪深い生活の共犯者にすることになりますから、それは、聖母に対するおぞましい侮辱となってしまいます。

これは、聖書の中にある、他のいくつかの約束と同じことです。「トビア書」では、大天使ラファエルがこう言っています。「施しは人を死から救い、すべての罪を清め、あわれみと永遠の命を見いださせる」(トビア12章9節)。これは、施しをする者が、ただそうするだけで、地獄から救われるという意味ではありません。私たちの主イエズスはこう言われました。「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を有(する)」(ヨハネ6章54節)。これは、ご聖体を一度でも受けた者は、地獄から救われる、という意味ではありません。救われるためには、自分の罪を反省し、成聖の恩寵によって天主と一致し、天主の掟に従うことが必要です。まずこれを実行する人は、施し、聖体拝領、スカプラリオの着用などを実践することによって、ますます天主と一致するようになるでしょう。ですから、これらの実践を通して、その人は自分の永遠の救いを確実にするのです。

3.このスカプラリオの約束

カルメル山のスカプラリオは、救いのしるしです。なぜなら、それは、聖母とスカプラリオを受ける者との間の契約の誓いだからです。司祭からスカプラリオを与えられ、マリアへの信仰、信頼、愛のしるしとしてスカプラリオを絶えず身に着ける者に対して、聖母は二つのことを約束なさっています。聖母が、そのような人々を、成聖の恩寵の状態で生き、死ねるよう、力強く助けることによって、地獄に落ちないように守ってくださること、また、霊魂と肉体の危険から保護してくださることです。

さらに、自分の身分に応じた貞潔を守り、「聖母の小聖務日課」を毎日祈り、もしくは(御降誕祭当日を除いた)毎水曜日と毎土曜日に小斎を行う者に対して、聖母は三つめの約束をなさっています。聖母が、その人が死んだ次の土曜日に、煉獄から救いだしてくださることです。スカプラリオを与える司祭は、この「聖母の小聖務日課」を祈る義務や、毎水曜日や毎土曜日に小斎を行う義務を、例えば、ロザリオを祈ることのような、他の義務に変更することができます。

結論

締めくくりに、ある司祭の言葉を繰り返させてください。「スカプラリオが、私たちにとって、聖なる、敬うべき衣服となりますように。私たちは、自分の救いをイエズスとマリアに依存していること、また、聖なる生活を送る義務を負っていることを、このスカプラリオが、私たちに思い起こさせてくれますように。特に悲しみや誘惑のときには、しばしばスカプラリオに接吻し、また、決してスカプラリオから離れないようにしましょう。私たちの善き母であるマリアが、常に私たちを守り、私たちがその御腕の中で敬虔に死ねるよう助け、そして速やかに天国へと導いてくださることを、信頼しましょう」。


カトリック聖伝のミサの報告 聖ピオ十世会日本 SSPX JAPAN Traditional Latin Mass

2022年07月24日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
今日東京のミサに来られた方は、子供達も入れて合計101人でした。今日は入谷ホールでしたので、もしかしたら、お間違えになった方がいらしたのではないかと心配です。大阪では29人でした。

東京のミサでは、サルヴェ・レジナ・チェリトゥムやアヴェ・マリス・ステラのポリフォニーがとてもきれいでした。

東京でも大阪でも新しい方々が聖伝のミサに与ることができ、とても嬉しく思いました。

東京や大阪、あるいは名古屋以外の地方にお住まいの方々は、聖伝のミサに与りたくても、なかなかミサに与るのもままならないとのお声を頂いております。少なくとも聖伝のミサの依頼をなさりたいという方は、メール、あるいはこのブログのメッセージ送信機能、あるいはお手紙でご連絡くださいますようにお願い致します。

ただし、一度にたくさんのミサをお受けすることは困難でございます。教会法によると、一回のミサについて一つの謝礼しか頂くことができないからです。ミサの中で祈りの意向を付け加えることであれば多くの意向でミサを捧げることができます。

ミサの謝礼を御寄附していただくのであれば、ゆうちょ口座をお使いになられるのが便利かと存じます。

【東京】
*ゆうちょ口座 (ゆうちょ間の振り込み)
口座記号:14030
口座番号:36673311
口座名義:セイピオジッセイカイトウキョウキョウカイケンセツキキンシエンカイ

*ゆうちょ銀行以外からの振込(他行よりの振り込み)
銀行名:ゆうちょ銀行
店名:四○八 店(ヨンゼロハチ店)
店番 408
口座番号 3667331
名前(口座名義)「聖ピオ十世会東京 教会建設基金支援会」
セイピオジッセイカイトウキョウキョウカイケンセツキキンシエンカイ

【報告】
Dear Fathers:

Shown below are the number of attendees at the masses in Tokyo today. The total number of attendees at the masses in Tokyo today was 101, including children.

09:00 mass
M: 16 (incl. 3 children)
F: 23 (incl. 4 children)
Total: 39 (incl. 7 children)

11:00 mass
M: 19 (incl. 6 children)
F: 24 (incl. 6 children)
Total: 43 (incl. 12 children)

12:30 mass
M: 12 (incl. 0 child)
F: 13 (incl. 0 child)
Total: 25 (incl. 0 child)

Total of 3 masses (excl. 6 people who participated in multiple masses)
M: 44 (incl. 9 children)
F: 57 (incl. 10 children)
Total: 101 (incl. 19 children)


[賢慮]の賜物とは? [賢明] の徳とは?|現代世界は病んでいます。天主の救いの 業に協力するのを拒否し,自分が自分を救うという狂気を信じています。この狂気は,必ずや失敗します。

2022年07月24日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2022年7月24日は聖霊降臨後第七主日です。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「聖霊降臨後第七主日の説教」の動画をご紹介いたします。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

SSPX JAPAN聖ピオ十世会日本にチャンネル登録もお願いいたします。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父


世界中にある動植物がその目的に到達することができるように最高のデザインで創造した唯一の天主がおられる、この唯一の天主は三位一体:御父と御子と聖霊

2022年07月22日 | お説教・霊的講話

2022年6月12日(主日)三位一体の大祝日のミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教(大阪)

父と子と聖霊との御名によりて、アーメン。

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。

7月3日には、午後3時、つまり15時から、大阪の市役所からマーチ・フォー・ライフがあります。たくさんの方が、命を守る為にマリア様と一緒に行進して下さることができれば本当に嬉しく思います。たくさんの方と一緒にいらして下さい。

今日、聖三位一体の大祝日ですので、一緒に今日この神秘を黙想致しましょう。
「一体、三位一体ってなんだろう? 御父と御子と聖霊。御子は御父から生まれた。天主様は子供を産むの?どういうことなのだろう?」とか、「御父と御子と聖霊は三つで、でも唯一の天主。う~ん。」とか、「一体、三位一体と私たちは一体何で関係があるの?」

今日は「あぁ、そういうことだったのか」とこれをよく理解する御恵み、三位一体の神秘を一緒に讃美する御恵みを乞い求めましょう。

Photo Credit

三位一体の神秘の核心、そのまず一つは、「天主は唯一である」ということです。

この果てもしれない大宇宙を見て下さい。アメリカの科学者がハッブル望遠鏡というのを宇宙に飛ばして、空気の無い所から多くの星を映して、そしてその映像が地球に送られてくるのを見ると、ものすごい数の天体があって、遠い距離にあって、そしてそれの色や形、運河や星雲など、とても人間の想像をはるかに超える莫大な大きな大宇宙が、私たちの周りにあるということが分かります。

その大宇宙を一瞬の内に御創りになったのが、唯一の天主です。この唯一の天主というものは、物体が分割することができるように、天主も分割することができるというものではありません。これ以上一つであることができないほど、一なるものが、天主です。でも、小さいという意味ではなくて、無限の存在であって、この世界を無限に超越している唯一の存在、これが天主です。

この頃、毎週土曜日の16時から、中高生の為に公教要理の勉強をオンラインで教えています。昨日は、「我は天地の創造主、全能の御父なる天主を信じ、」ということを話しました。その時に中高生の男の子たちに、実は人間の目というのは、カメラよりももっと精巧にできている、という話をしました。丸い眼球があって、その水晶体は透明でなければならない。それからまつ毛があって、虫とか埃が入らないようになっている。まつ毛の向きも正しくないと目は空けられない。それからまばたきをして、目を守って、涙が出るようになっている。それからレンズがあって、レンズが大きく膨らんだり、細くなったりして、焦点を合わせる。ちょうど焦点が合わさるところに、網膜があって、そこで物がなにかがはっきり写るようになっている。特に中心点には、特別の細胞がたくさん集まっていて、文字を読んだり認識したりすることができるようになっている。しかも、両目は同時に瞬時に動いて、より立体的にものが見えるようにできている。どんなにカメラよりももっと精巧な作りだ。一体誰がこれをデザインしたのか?という話もしました。

しかも「瞳孔」と言って、光の量を調節するために、絞りの役割をするものがあります。人間の瞳孔は丸いのです。でも夜行性の猫やキツネは、瞳孔が縦のスリットになっていて、夜でもパッと開いてよく光が入ってきて分かるようになっている。何で縦になると、小さい丸よりももっと素早く調節ができて、暗いところでも光が多く入ることができるのです。こんなことを夜行性の動物たちに誰が教えたのか?

もっとすごいのが馬とか牛とかキリンです。草食動物の瞳孔です。この瞳孔は横のスリットになっています。なぜかというと、草食動物は目が横に付いていて、敵がどこにいるかわかるように360度見えるようになっているのですが、瞳孔は横のスリットで上下に開くのです。瞳孔が狭くなっても敵がどこにいるかが分かるようになっているのです。動物は必要と性質に合わせて、目の細部にいたるまで素晴らしいデザインがされています。すべては目的にあっています。一体誰が考えたのか?

Photo Credit

動物や人間の目もそうだけれども、実は鳥の目はもっとすごい、という話もしました。鳥の目は、空を飛んで空を見渡すと同時に、地上にいる小さな餌を見つけることができるようになっている。それで特別に目の中に、人間にはないような器官があります。目の中に血がたくさん流れることができるようになっているのです。しかもレンズがもっと厚くなったり薄くなったりするように、必要に合わせてレンズが特別の仕組みになっています。空を飛ぶ為にできている、という話もしました。誰がデザインしたのか?

それもすごいのだけれども、魚(さかな)の目はもっとすごい。なぜかというと魚の目は水中専用の目をもっているからです。もしも皆さんがプールの中に入って水の中でモノをみるとぼやけてよく見えなくなってしまいます。でも魚は水の中だとよく見えるようになっている。なぜかというと、水の中は光の屈折率が空気とは違うので、それに合わせてレンズが丸くなっている、まん丸になっているからです。だから魚は水の中になるとよく見えるんです。水中用のレンズは厚くなったり薄くなったり大きさを変えずにそのままです。では魚の目は、焦点をどうして合わせるかというと、レンズを前後にずらして網膜に焦点を合わせているのです。すごい仕組みになっているんです。一体誰が考えたのか?

最高のデザインの全てを天主が考えました。世界中にある動植物が、その目的に到達することができるように、うまくできている、すべてを創ったお方、唯一の天主がおられる、という話をしました。

この唯一の天主は、実は「三位一体」なのです。御父と御子と聖霊です。

この三位一体について、以前異端がありました。異端は「天主が霊的なものである」ということをよく理解できずに、何か物体的であるかのように誤解してしまったのです。

そのうちの一人が、アリウスという人でした。アリウスは、「天主御父(おんちち)が『原因』で、御子(おんこ)や聖霊(せいれい)は『結果』だ。」だから、天主御父が御子を創って、聖霊も創ったと、あたかも被造物であるかのように教えました。間違っています。そうではないのです。何か御父から「出てくる」というのは、物体的なことではないのです。御子が生まれた、とは物体的なことではないのです。

その後で、サベリウスという異端者が出ました。彼は、「天主は唯一だから、天主には顔が三つあって、全世界を創る時は御父という顔をしていて、人間になる時は御子で、さらに愛として人間に贈られる時は聖霊という顔で、三つの顔を持った唯一の天主だ」といいました。いえ、そうではないのです。御父は御子でもないし、御子は御父ではないし、聖霊でもないし、聖霊は御父でも御子でもない。三位一体の御父と御子と聖霊は、互いに別です。しかし唯一なのです。

一体どういうことかというと、これは「天主が純粋な霊である」ということを忘れてしまったから、こんな異端が出てきたのです。唯一の天主は、純粋な霊です。天主は、私たち人間が知っている限りの最高の活動に似た活動をしています。「似た」と言うのはなぜかというと、人間の知っている表現には限界があるので、それをうまく語り尽くすことができない、言い尽くすことができないからです。

人間の知っている最高の活動というのは、「知性の活動」です。そして「意志の活動」です。「真理を知る」ということ、あるいは「善を欲する」というこの活動が、被造物の、目に見える世界の中で、最高の動きです。

天主は、天主の命の内部において、その最高の活動をしておられるのです。
どういうことかというと、天主御父は、御自分が完全なる者であるこということを、永遠の昔から理解しています。完璧に把握しています。それなので、その自分の理解したことを概念として、言葉として、「天主、私はこうだ」と発する、それが『御言葉』です。
「はじめに御言葉があった。御言葉は天主と共にあった。御言葉は天主であった。かれは、はじめに天主と共にあり、万物はかれによって創られた…」(ヨハネ1:1)
ちょうど人間から別の人間が出てくると、「生まれた」と言われます。そのように、御父(おんちち)が御自分を理解した、そのまったき知解、御言葉は、天主御父(おんちち)と全く同じなので、天主御子(おんこ)が「生まれた」と言います。これは人間の言葉が表現することができる、最高の描写なのです。

すると、天主御父は御子を見て、そしてそれを理解して、それが最高の善であるということが分かります。あまりにも美しい、良いものであるということが分かって、御子を愛します。御子も、御父を完璧に理解して、最高の善であるということを理解して、御父を愛します。この愛の交流から、『聖霊』が発します。

この天主の中でのこの愛の構造、愛の交流が、これが三位一体の神秘なのです。それを人間が限られた表現で表現しようとすると、このようになります。

じゃあ一体何で、これは私たちにこんなに大切なのか?

なぜかというと、天主御父は私たちを、この三位一体の愛のまどいの中に、この愛の中に招いて、そして私たちを愛して、私たちが天主から愛されて、そして天主を愛して、そして永遠に幸せであるように、その為に私たちはこの世に生まれてきたからです。私たちの究極の目的は、三位一体の愛の中に入ることです。そして永遠に幸せであることです。ですからこれ以外には、三位一体以外には、私たちの目的がないのです。三位一体以外には幸せがあり得ないのです。そこに私たちは戻らなければなりません。

ですから、その三位一体に戻る為にはどうしたかというと、御子が人となって、そのやり方を教えてくれました。弟子たちにこう仰いました。「だからあなたたちは諸国に弟子をつくりに行き、御父と御子と聖霊の御名によって洗礼を授けよ。」(マテオ28:19)御父と御子と聖霊との、三位一体の御名によって授かる時、私たちの心には、霊魂には、三位一体が住まわれるのです。それは永遠の命の始めです。

もし今、この地上にいる間、三位一体の命が私たちに無いならば、永遠にそれを持つことができないのです。でも今、それが始まると、それを永遠に持って、永遠の命を受けることができるようになるのです。その為に三位一体は御子を遣わして、そのやり方を教えて下さいました。ですから私たちにとって三位一体の玄義というのは、非常に大切なものなのです。

ですから私たちは、一体何をすれば良いでしょうか?

朝起きたら是非、御父と御子と聖霊との御名によりて、十字架のしるしをして、三位一体の御名によって一日を始めて下さい。また一日が終わる時にも、三位一体の御名によって十字架のしるしをして終わって下さい。頻繁に栄唱を唱えて下さい、「願わくは、御父と御子と聖霊とに栄えあらんことを、始めにありし如く、今も、いつも、代々に至るまで、アーメン。」

最後に、マリア様にお祈り致しましょう。マリア様が、天主御父の愛する娘、天主御子の天主の御母、天主聖霊の浄配、三位一体の神秘の中に深く入った御方、このマリア様の御取り次ぎで、私たちもその命の中に入ることができますように、お祈りしましょう。

父と子と聖霊との御名によりて、アーメン。


畏敬の賜物と至福八端の第一「心の貧しい人は幸いである」

2022年07月22日 | お説教・霊的講話

2022年6月5日(主日)聖霊降臨の大祝日のミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教(大阪)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆さん、今日は聖霊降臨の大祝日です。いくつかお知らせがあります。

一つは、聖ピオ十世会の総長からの伝言で、皆さんに伝えてもらいたいということです。実は、聖ピオ十世会が配置する修道院の修道院長は、責任者として、毎週主日には必ず一つ、皆さんの為のミサを捧げることになっています。これは教会法によって定められているものです。実を申しますと、修道院長になる前から、叙階の時からずっと、主日ごとに、皆様の為にミサを捧げていましたけれども、これは自由にやっていたことで、修道院長としてはそれを捧げる義務があるようになっています。

最近、総長からの通達があり、このことは皆にあまり知られていないので、皆がよく知るようにとのことです。ですからどうぞ皆さんお知り下さい。皆さんの為に、少なくとも毎週主日、必ずミサを捧げています。Missa Pro Populoと言われています。

それからもう一つは、聖ピオ十世会の習慣で、亡くなった聖ピオ十世会の会員のメンバー、全ての恩人、友人の方々の為に、毎月一回、ミサが捧げられています。そして暁の星聖母修道院でも、毎月、6月から捧げられるようになっています。どうぞお知り下さい。

それから、パリャラーニ総長様も、今のところの予定としては、日本に訪問したいとのことです。今年の12月ごろに日本にいらっしゃる予定を組んでおられます。良い訪問ができますように、そしてそれをきっかけに、日本の聖伝が、カトリックの聖伝がますます発展するきっかけとなりますように、皆様のお祈りをお願いします。以上はパリャラーニ総長様からの伝言でした。

今日は聖霊降臨の祝日ですから、私たちは聖霊の賜物について一緒に黙想致しましょう。昨日、聖霊の賜物「主への敬畏」、主を畏れ敬う、ということについて黙想しました。この主への畏れというのが、至福八端と関係がある、ということについて一緒に黙想致しましょう。

⑴「主への畏れ」というのは何か?
⑵至福八端の最初の至福を黙想して、
⑶最後に、マリア様に実りをお祈り致しましょう。

⑴「主への敬畏」、主を畏れ敬うというのは、私たちが聖霊の賜物として受ける特別な愛の恵みです。私たちの受ける聖霊からの愛によって、天主が無限の、全能の、愛の聖父であって、私たちを無限の愛によって包んで下さって、そして憐れんで下さって、そして全く無に等しい私たちを高めて下さる、幸せに、永遠の天主への幸せに呼んで下さる、そのとてつもない愛を受けている、ということをますます自覚させてくれます。

無限の天主の隔たりにも関わらず、これを縮めて下さろうとするその愛、一致させようとして下さるその愛。

それにも関わらず、その天主の御稜威のその偉大さ、その栄光の無限さ、そして私たちのあまりにも弱さに、ますます畏れおののいて、ただただひたすらに、主の憐みに感謝し、主の御前にますます身を小さくして、そして「ありがたい、かたじけない」と感謝させる御恵みです。主への畏れ、主への敬畏。

この主への敬畏によって、私たちは自分ではなくて、あるいは自分の持っている周りの名誉とか、財産とか、そんなものではなくて、ただひたすらに主の聖名に希望する、主の聖名により頼む、主の憐れみにより頼む、自分のことではなくて主の愛に依りすがる、という心を起こさせてくれます。これが主への敬畏です。

この聖霊の賜物を深く理解すれば理解するほど、私たちの心がますます自分のことではなくて、主のことで満ち溢れるようになっていきます。地上のこと、あるいは自分のやりたいこと、自分の…ということよりも、主の御旨を果たしたい、主に全く自分を従属させたい、従いたい、と思わせるようになります。まさにこれが至福八端の最初のことです。

⑵第二は、至福八端とは一体何でしょうか?

これはマテオの福音の第5章にあります。イエズス様が山に登って、そして弟子たちに向かって口を開いて教えた言葉がこうでした。
「心の貧しい人は幸いである。なぜなら天の国は彼らのものであるから。」
「柔和な人は幸いである。なぜなら彼らは地を継ぐから。」
「正義に飢え乾く人は幸いである。なぜなら彼らは飽かされるであろうから。」
「悲しむ人は幸いである。なぜなら彼らは慰められるだろうから。」
「憐みのある人は幸いである。なぜなら彼ら憐みを受けるだろうから。」
「心の清い人は幸いである。なぜなら彼らは天主を見るであろうから。」
「平和の為に働く人は幸いである。彼らは天主の子と呼ばれるであろうから。」
「私の為に迫害される人は幸いである。なぜなら彼らの報いは天においては偉大であるから。」

この至福八端の最初、「心の貧しい人は幸いである。なぜなら天の国は彼らのものであるから」がまさに、教父たちの発見によると、「まさにこの聖霊の最初、『主への畏れ』とぴったりしている」と言っています。「そして聖霊の七つの賜物は、至福八端と全く一致している」と言います。

なぜかというと、「心が貧しい人」というのは、まさに自分ではなくて、地上のものの財産や、地上の力や、富や、自分の名声や、自分の能力ではなくて、そんなものには心は離脱していて、ただひたすら主を求めて、主の力、主の憐みに依頼する人であるからです。まさにそのような人こそ、主を畏れる人であって、謙遜な人であって、主に全てを委託する人であって、まさにこのような人が、天の国を譲り受ける者です。

まさに聖霊は私たちに、主への敬畏、主への畏れを与えながら、私たちの心をますます地上のものから離脱させて、そして天の国へと導いて下さっています。

⑶最後にマリア様にお祈り致しましょう。マリア様がいつも、たとえ主を失うという畏れが全くなかったにも関わらず、マリア様の心にはいつも、主への敬畏に充ち満ていました。そして心はいつも、自分のことではなくて主のことで、愛で、充ち満ちていました。心の貧しい、地上のものから離脱された方でした。マリア様の御取り次ぎで、私たちもこの聖霊の賜物、特に主への畏れを頂く御恵みを乞い求めましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


聖霊の賜物:畏敬のたまもの:三つのおそれ

2022年07月22日 | お説教・霊的講話

2022年6月4日(初土)聖霊降臨の前日のミサ 
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父説教

父と子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、明日は聖霊降臨の大祝日です。ですから、聖霊の賜物をよく受けることができる準備を続けましょう。

今日は特に、
⑴聖霊の賜物の特徴を一緒に黙想したいと思います。
⑵そして聖霊の賜物を全て完璧に受ける為には一体どのようなものが必要なのか、黙想致しましょう。

⑴聖霊の賜物というのは、聖霊が私たちに、御自分の永遠の愛の火を与えて下さって、そして私たちが聖霊にあたかも導かれるがままに、聖霊とあたかも一体となって生活することができるようになることです。

そしてその聖霊の賜物というものは、七つの形で私たちにおいて現れます。その聖霊の賜物は、聖霊の動きを私たちがよくキャッチすることができるように、パラボラアンテナのように、あるいはボートの大きな帆が立てられて、風をよく受けるように、聖霊の動きを敏感に感じ取ることができるようにして下さる特別の御恵みです。

聖霊の賜物は、私たちが何度も訓練して身に付ける「徳」というものとは、この意味で違っています。「徳」というのは、私たちが習慣をつけてやればやるほど、することが易しくなるものです。やらないと使わないと、やるのは難しくなりますが、やればやるほど簡単になります。
しかし聖霊の賜物は、それを遥かに超えて、私たちが聖霊の導きにより良く従うことができるようにさせてくれます。

⑵ではその聖霊の賜物は、一体その完璧な姿というのは何でしょうか?

実はこれは、イエズス・キリストがお受けになったものです。イザヤの預言書の中には、「イエッセの芽から花が咲いた(その花はもちろん、イエズス・キリストのことです)。そこには、主の霊があった」(イザヤ11:1)とあります。上智の霊、聡明の霊、賢慮の霊、剛毅の霊、知識の霊、孝愛の霊、そして敬畏の霊、この七つの霊によって満たされている。

一番、その聖霊の賜物の最高の賜物が、『上智』、知恵の霊です。これによって私たちは天主を最高のものとして、天主の秩序に従って、全てを判断させてくれます。その上智へと至るその最初が何かというと、「主を畏れる」ということです。「敬畏」の霊。ですから、イエズス・キリストにおいて一番満たされていたのが、上智の霊でした。そして完成された形であったのが、主への畏れ、敬畏の霊でした。

でも私たちが、そのイエズス様がお持ちであったその霊に満たされる為には、最初の段階から行かなければなりません。それは「敬畏」、主を畏れるという霊です。そしてそれを完成させることによって遂には、最初は少しだけしか受けることができなかった「上智」の知恵の霊の充満を受けることができるようになります。ではその最初の敬畏、主を畏れるというのはどのようなものでしょうか?

聖トマス・アクィナスによると、『畏れ(恐れ)る』ということは、将来の起こり得る悪を避ける動きであると言います。これはちょうど、希望の反対です。
なぜかというと、希望は、将来起こり得る難しい「善」を望むこと、それへと向かうだからです。
でも畏れ(恐れ)は、将来起こるうる難しい「悪」から避けようとするからだです。

更に聖トマス・アクィナスによると「畏れ(恐れ)」には三つあると言います。

聖霊の賜物が与えてくれる主への畏れ、主への『敬畏』は、三つの内の最後の畏れです。

では、その三つは何かというと、一つは、人の目や、人の噂や、他人や、人間を、世間体を恐れるということです。これによって聖ペトロも主を否みました。「何と言われるだろうか。」「他の人から何て言われるだろうか。」これは全く超自然のものでも何でもありません。ですからこれは主に反対するものです。人間を恐れる、人の目を気にする。残念ながら多くの人々は、これによって動かされています。

その次に、聖トマス・アクィナスが言うのは、より良い恐れだけれども、まだ完全ではない、不完全な恐れだ。何かというと、それは『奴隷的な恐れ』だ。これは、天主からの罰を恐れる、地獄を恐れるというものだ。このなぜこれが不完全であるかと言うと、実はこの恐れには、結局は自分が受ける悪を恐れるのであって、そしてそのもしもその悪を避けることができれば、もしかしたら罪を犯すことも考えるかもしれない。ですから、罪を犯すかもしれない、というものと同時に共存することができるから、不完全なものだ。だからこれは、聖霊の賜物のものではない。確かに、主の罰を恐れて善をするのは良いことであるけれども、しかし聖霊の賜物としての畏れではない。

聖霊の賜物が与えてくれるものは、愛に基づくものであって、天主を愛するが故に、最も愛する天主、愛すべき天主を悲しませることを恐れる。自分が受ける悪ではなくて、天主の受ける悪を避けようとする、その畏れです。

だからちょうど良い子供が、お父さんとお母さんを悲しませることを畏れるように、あるいは良き妻が、愛する夫を悲しませることがないように、それを畏れるように、聖霊の賜物も、主の畏敬を、主を悲しませないように、主を悲しませることを畏れさせる。なぜかというと、それは天主が一体どなたであるか、ということを私たちがよく理解するようにさせて下さるから。天主があまりにも愛に満ちた方であって、全能の御方であって、全ての存在の根源であって、私たちはその方から全てを受けた者であって、その御稜威は無限のものであって、私たちはそれに比べると全く無に等しく、無限の隔たりがある。その天主をますます理解させてくれるので、主への敬意が、畏怖が、私たちに起こる。そしてこの主をますます愛そうとする願いが起こると説明しています。

しかもこの主への畏れというものは、イエズス様の中にも完成された形としてあったように、天国においても留まります。

信仰は、目に見えないものを見ることであって、天国においては至福直感で天主を目の当たりにして見るので、天国においては信仰はもう用は済んでしまった、信仰は姿を消します、消えてしまいます、無くなってしまいます。
希望というものも、持っていないものを、私たちが将来受けるだろうと、将来の善を希望することですから、天国においては希望も姿を消してしまいます。
しかし主への敬畏、主への畏れは、天国においては完成された形で、永遠に聖なるものとして留まると説明しています。

このそのような完成された形に至るまで、私たちは主を悲しませてしまわないように、ただ主から離れてしまう、という悪を畏れる御恵みを、聖霊の賜物を乞い求めましょう。

特にマリア様に、汚れなき御心のマリア様に乞い求めましょう。マリア様はもちろん、おそらく完成させられた形としての主への畏れに満ちた方であったに違いありません。マリア様は主を決して罪によって悲しませたことのない方であったからです。聖霊の浄配であった方だからです。マリア様の御取り次ぎによって、聖霊の賜物を私たちが完璧に受けることができますように、お祈り致しましょう。

父と子と聖霊との御名によりて、アーメン。


私たちは天主三位一体から愛されている。天主三位一体を愛して、真理を知って、永遠に幸せである為に生まれてきた。永遠の命というのは、三位一体の中にしかない。

2022年07月21日 | お説教・霊的講話

2022年6月12日(主日)三位一体の大祝日のミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教(東京)

父と子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆さん、パリャラーニ総長様からの三つお知らせがあります。

一つは、聖ピオ十世会の修道院長は、毎週主日に必ず一回、皆さんの為のミサを捧げている、ということを皆さんに知らせて欲しいということです。教会法によれば、小教区の主任司祭は、小教区の為にミサを主日に一回捧げる義務があります。Missa pro Populoと言っています。厳密に言えば、聖ピオ十世会の修道院長は教会法によるその義務はありません。しかし職務としてほぼ同じことをしているので、教会法の精神に則って捧げています。そのことを皆さん是非知って下さい。実は修道院長ではなかったとしても、私は叙階以来、毎週主日に皆さんの為にミサを捧げていました。これからもミサを捧げ続けていきます。

第二は、これも総長様が皆さんに知らせて欲しいということで、聖ピオ十世会では毎月必ず一回、亡くなった聖ピオ十世会の会員と、そして友人、そして恩人の亡くなった皆さんの為にミサを捧げています。追悼ミサを捧げます。これも、埼玉の暁の星修道院で毎月一回、典礼法規に従って一番最初の、捧げることができる日に捧げていますので、ぜひ皆さんご存知おき下さい。これも皆様に知らせて欲しいとのことなので、お伝えします。

第三は、パリャラーニ総長様が日本にいらっしゃいます。11月末に日本に来られるとのことです。それまでに自由に日本に行き来することができるようになっていることを祈っています、どうぞお祈り下さい。そして皆さんと是非お会いして、ミサを捧げたいとのことです。

愛する兄弟姉妹の皆様、今日は三位一体の大祝日です。そこで、
⑴三位一体の神秘とは一体何か?ということを少し垣間見て、
⑵それから、では一体私たちの日常の生活に、信仰生活にどんな意味があるのか?ということを黙想しましょう。

⑴では、三位一体というのは何かというと、まず知って頂きたいのは、「この果てしもない大宇宙を御創りになった、素晴らしい、果てがどこにあるか分からないほどの、大きなこの宇宙を創った御方が唯一で、その御方は純粋の霊であって、決して分割されることのない、もうこれ以上一なる方がない、と言われるほどの唯一の天主がまします」ということです。

実はこの頃、中高生の為の公教要理をオンラインでやっています。中学生や高校生の為に、昨日は「全宇宙を創った全能の天主」について話をしました。

昨日は例えば、鳥は空を飛ぶことができるように、鳥の骨は、人間や他の動物とは違って、中が空洞になっている、だから軽くて飛ぶことができる。とか、

鳥の目は人間の目とは違って、はるか遠くをよく見わたすことができるし、それと同時に地上の小さな獲物を見ることができる、そしてどんな小さな物も捉えることができるように、特別のレンズの形をしていて、空を飛ぶ為に作られている、とかの話をしました。鳥の骨や目もすごいけれども、空を飛ぶようになっている体のデザインもすごい設計になっている。

空を飛ぶのトンボもすごい。トンボは羽が四つあって、その四つの羽は別々に動いていて、それでだから前に、ものすごいスピードで早く飛ぶことができる。とんぼ返りもできるし、後ろにも飛ぶこともできるし、そのまま空中に止まっていることもできる。一体誰がこんなことを考えたのだろうか?

天主が、唯一の天主が、ものすごいデザインと知恵とで、全宇宙を創った、ということを勉強しました。

しかし、この唯一の天主は「純粋な霊」です。肉体とかはありません。三次元の物体ではないのです。この唯一の天主が、実は「父と子と聖霊の、三つのペルソナにおいてまします」のです。三位一体です。これは人間の理性によっては到底知り尽くすことのできない、永遠の昔からの神秘でした。それを、私たちの主イエズス・キリストは私たちに教えて下さいました。

これについて昔、異端がありました。異端というのは、間違った教えのことです。異端者の一人はアリウスという人でした。アリウスは、「御子も聖霊も被造物だ。天主御父が創ったんだ」と言いました。間違っています。「御父が原因で、御子が結果だ」というようなことはありません。なぜかというと、「御父・御子・聖霊は、天主であって、究極の原因」だからです。この中に原因とか結果はないからです。

もう一つの異端がありました。これはサベリウスという人が言った異端で、「天主は唯一だけれども、御父という顔を持ったり、人間となると時には御子という顔を持っていて、あるいはこの愛としては聖霊として与えられるけれども、こう顔が違うけれども、でも同じ天主だ」と言いました。そうじゃないのです。何が間違っていたかと言うと、天主というのをあまりにも物体のように、物質的なように考えているので、間違っていました。そうではなくて、天主というのは「純粋な霊」なのです。物体のように切って分かれるようなものではなくて、もう分かち難い、でも無限の純粋の霊であって、無限の御方なのです。

ですから天主は最高の存在なので、この私たちが知っている色んな動きの中でも、最高のものでなければ天主のことを説明できないのです。では、私たちが知り得る最高の活動というのは何かというと、「知性」の活動です。「知性」というのは、「真理を知る」ためにあります。また「愛」の活動です。「意志」というのは「善を求む」ためにあります。天主は、この「知性」と「愛の動き」という最高のものによって、ようやく微かながら、天主のその内部の神秘を説明することがようやくできるほどなのです。

でも全てを、人間の限られた言葉で言い表すことはできません。しかし、天国に行って、特別の栄光の光を受け取る時に初めて、その神秘をよく理解できます。でも今は、私たちの知性も能力も限られているので、助けがないと、特別の光をもらわないとよく分かりません。ちょうど目がよく分からない人は、眼鏡がないと見えないように、助けがないとよく分かりません。

でも天主三位一体の中には、天主御父は、永遠の昔から「御自分が何であるか」ということをはっきり認識していました。御自分は無限の御方ですけれども、それを完璧に理解していました。それなので、自分は「これだ」と、その概念を、その言葉を、自分は何かということを、一言でパッと言うことができたのです。それが「御言葉」です。『はじめに御言葉があった。御言葉は天主と共にあった。御言葉は天主であった。』と、聖ヨハネは言っています。

なぜ御言葉は「御子」と言われ、「生まれる」と言われるのかと言うと、たとえば人間から出てくる物はいろいろあります。髪の毛であったり、汗であったりして、これは人間ではありません。しかし、もしも「人間」から、全く同じ「人間」が出てきたとしたら、これは「生まれる」としか言いようがありません。確かに天主の、唯一の霊的な天主の内部のことですけれども、天主御父と全く同じ存在が、発されるので、これは「天主が御子が生まれる」と言うしかないからです。

天主御父はその御子を見て、あまりにも完璧で、あまりにも良いものであって、あまりにも美しいので、御子を愛します。御子も、御父を完全に理解して、御父を愛します。そして御父と御子の間には「愛の交流」が起こります。その愛は「聖霊」と呼ばれます。

この三位一体の神秘は、御父・御子・聖霊は、天主の中の命の、天主の内部にある秘密の、永遠の昔からの秘密でした。この神秘は、私たちはイエズス様が教えて下さったので知ることができました。なぜイエズス様はそれを教えて下さったのでしょうか?

⑵ここに、私たちが三位一体の神秘を知る理由があります。私たちの命と、今の生活と、永遠の命に直接関わっているからです。なぜかというと、私たちが生まれてきたのは、この地上に存在しているのは、この三位一体の永遠の愛の構造、この愛の神秘の中に深く入って一致する為です。

永遠に天主三位一体から愛されて、そして天主三位一体を愛して、真理を知って、そして永遠に幸せである為に生まれてきました。ですからその永遠の命というのは、三位一体の中にしかないのです。ですから、今から既に三位一体のことを知らないと、その永遠の命に辿ることはできないのです。

ではどうやって辿るかというと、イエズス様が教えて下さった道を通って辿ります。それは何かというと、「御父と御子と聖霊の御名によって、洗礼を受けること」です。そうすることによって、三位一体が私たちの霊魂に宿るように、お住みになるようになるのです。

ですから私たちの今の生活から、三位一体の神秘というのは非常に大切なのです。永遠の始まりであるからです。今これが始まらないと、永遠に始まることがなくなってしまうからです。ですからイエズス様は、昇天される時に、弟子たちに命じられました。「だからあなたたちは諸国に弟子をつくりに行き、御父と御子と聖霊との御名によって洗礼を授け、私があなたたちに命じたことをすべて守るように教えよ。」(マテオ28:19)「信じて洗礼を受ける人は救われ、信じない人は亡ぼされる。」(マルコ16:16)

ですから私たちは、三位一体といつも一致しているように生活しましょう。洗礼の御恵みをいつも生きるようにしましょう。どうしたら良いでしょうか?

よく、朝起きたら十字架を切って、「御父と御子と聖霊との御名によりて、アーメン。」仕事をする時にも十字架のしるしを切って、「御父と御子と聖霊との御名によりて、アーメン。」聖三位一体の御名によって始めて下さい。どれほど三位一体に対する大きな讃美が与えられるでしょうか。またよく頻繁に、一番短いお祈りも唱えて下さい。力強い、すごい力のある一番短い祈りは、『栄唱』と呼ばれています。「願わくは、御父と御子と聖霊とに栄えあらんことを。始めにありし如く、今も、いつも、代々に至るまで、アーメン。」これほど素晴らしい、力のある祈りはありません。

では愛する兄弟姉妹の皆さん、この「真の天主は、三位一体である」ということを是非深く理解して下さい。これ以外には真の天主はましません。この信仰を頂いた御恵みを深く感謝致しましょう。

マリア様にお祈り致しましょう。マリア様は、この三位一体の天主御父の最愛の娘、天主御子の天主の御母、また聖霊の浄配でした。マリア様は私たちに三位一体の神秘を深く教えて下さって、三位一体の神秘といつも一致しているように、その御恵みを取り次いで下さるように、そして三位一体の永遠の命に遂には辿り着いて、諸聖人と共に、これを永遠に味わうことができますように、お祈りしましょう。

御父と御子と聖霊との御名によりて、アーメン。


七つの徳と七つの聖霊の賜物

2022年07月21日 | お説教・霊的講話

2022年6月11日(土)聖霊降臨後の土曜日のミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教(修道院)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、今日は聖霊降臨の八日間、オクターブの最後の日で、今日の夕方から、Regina Caeli アレルヤの祈りが、Angelsの御告げの祈りに変わります。

今日は、聖霊降臨の大祝日の最後の日ですから、聖霊の賜物について一緒に、どれほどものすごい御恵みが与えられたのか、ということを簡単に黙想することを提案します。

今日御ミサに与っている小さなお友達にとっては、聖霊の賜物というのは、もしかしたら初めて聞く言葉かもしれません。

人間は、「徳」というものを積みます。徳というものは、練習することによって、何度も何度も繰り返すことによって、ますます上達するものです。

例えば「賢明の徳」があります。知性を使って、どうやったら良いだろうか?と、賢明になればなるほど、ますます簡単に、賢く行動することができるようになります。

あるいは「正義の徳」というものがあります。その正義の徳というのは、自分と他人がどのような関係を取るかということを、正義に従ってやるものです。私のものは私のもの、他人のものは他人のもの、これが正義で、私のものは私のもの、他人のものも私のもの、というのはこれは不正義です。これをいつも、私のものは私のもの、他人のものは他人のもの、といつもやっていればやるほど、それをすることが簡単になります。しかしそうではないことを繰り返せば繰り返すほど、正義をするのが難しくなります。

そのように人間には「徳」というものが、主に七つあるのです。
超自然の天主に対する「信仰」の徳と、「希望」の徳、「愛」徳、愛の徳。
それから「賢明」の徳、「正義」の徳、「剛毅」の徳、それから「節制」の徳、三つの対神徳と四つの枢要徳で合わせると七つあります。

ところで人間には、もしかすると「どう考えても、どうして考えたら良いか分からない」という時もあります。あるいは、「この時に、本当ならこうやって勇気をもって、力強くやらなければならないけれども、でもそれが難しい」という時もあります。どうしたら良いでしょうか?「もしもこうだったら、ああだろうか。もしも、ああだったら、どうなるのだろうか。あぁ、どうしたら、よいのだろう。どうしよう…」という難しい時もあります。そのような時の為に『聖霊』は私たちを導いて下さるのです。

例えると「本当はここから駅まで歩いて行かなければならないけれども、お友達が『車に乗って行けよ!』と車に乗せてくれる」とか「千葉から御聖堂までミサに行くのが大変だなぁ。でも、車に乗せてもらったら簡単に行ける。」「ボートで一生懸命、漕いでいたけれども、なかなか大変だ。でも帆を立てると、風が吹けば、スッと簡単に行ける。」

そんなように、聖霊の賜物は、ちょうどボートに帆を立てたように、聖霊の息吹を簡単に受けて、一生懸命やらなくても、聖霊の招きに、聖霊の息吹に従って簡単に行けるようにしてくれるものがあるのです。

それは七つあります。「主への畏れ」、それから「敬愛」、それから「知識」、それから「剛毅」、それから「賢慮」これは聖霊が私たちに良いアドバイスをして下さるという賜物です。それから「聡明」これは聖霊が私たちに、よく天主様の神秘を理解させることができる、という賜物です。それから最後は「上智」、主の神秘を味わわせてくれるという賜物です。以上の七つがあります。

この七つで最高の賜物が、「上智」です。そしてその最初は、「主への畏れ」というものから始まります。主を畏れるということは、上智の知恵に至るまでの最初の第一歩なのです。

今日、私たちは七つの聖霊の賜物をたくさん頂くようにお祈り致しましょう。この七つの賜物によって、私たちは天国に行く道が、天主を愛することができるようなことが簡単にできるようになります。

ではそのようにするには、一体どうしたら良いでしょうか?

そのようにする為には、最初に主を畏れることから始まります。「主を畏れるというのはどういうことですか?地獄を恐れるのですか?」いえ、そういうことではなくて、私たちをこれほど愛して下さる、これほど恵んで下さる主を悲しませないように、主に対して罪を犯すことだけを畏れて、他のものは恐れない、ということです。

では、特に今日は小さなお友達がミサに来てくれたのでとても嬉しいです。聖霊の賜物をたくさん受けることができるようにお祈りしましょう。そして聖霊と共に生活することができるように、特にマリア様にお祈りして下さい。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】