Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

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プロテスタント500年―「イェリコの町の三重の壁」は全て破壊されてしまうのか?

2018年10月16日 | エキュメニズム関連情報
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今から500年前、正確に言うと1517年10月31日、マルチン・ルターは95か条の論題(95개 논제)をヴィッテンベルクの教会の門に釘付けにしました。ここからルターのいわゆる「宗教改革」が始まりました。「ドイツのキリスト者貴族に与える書」(1520年8月)では、ルターはカトリックとプロテスタントとを分離させるものについて決定的な回答を与えます。これはローマ・カトリック教会への絶対的で容赦のない戦争開始宣言でした。

500年の間、第二バチカン公会議が開催されるまで、マルチン・ルターの教えは、カトリック教会によって異端であると排斥されてきました。

しかし、フランシスコ教皇はルターを讃えて言います。「ルターの意向は間違っていなかったと思う。改革者であった。(…)今日、プロテスタントとカトリック、私たちは義化の教えについて同意している。とても重要なこの点において彼は間違っていなかった。彼は教会のために薬を与えた。」

いえ、修道女と同棲生活をしていた修道士、酒飲みで冒涜者だったルターは、「教会のために薬」など探していませんでした。ルターが求めていたものは、自分の罪を正当化させる「薬」でした。

ルターの根本的な主張は「信仰によってのみ義とされる」(sola fide 信仰義認 오직 믿음 因信稱義)でした。

ルターによれば、天主は罪びとである私たちにキリストの義を転嫁する。私たち人間の側として、この転嫁は善業ではなく、信仰によって、信仰のみによって受け入れられる。

ルターによれば、「義認」とは、天主が私を受け入れるけれども、私は受け入れられるに値するものに変わるのではないからです。私は受け入れられることのできないものとして留まるからです。天主が私を赦すけれども、私は罪びとのまま留まるからです。「義認される」けれども、私は義へと変わらないからです。ただ単に「義」と称されるだけ・認証されるだけだからです。天主と私との関係は変わるけれども、私は変わらないからです。

ルターは、原罪によって人間はあまりにも大きな害を受け、天主でさえもそれを癒すことが出来ないと主張したからです。ルターによれば、人間は原罪により、人間はいかなるやり方においても善行を行うことが出来ず、功徳を積むことができず、自分の救いに協力することはできない、と主張するからです。ルターによれば、人は「義認」の後であっても、現実には罪人してとどまるほど腐りきっているからです。

ルターによれば、人間は純粋な愛をもって天主を愛することができない、この純粋な愛をもって天主を愛する、その愛によって周りの人を愛するということができない、天主への愛を持つことをできないので、天主と人間との神秘的な愛の交わりへと信仰が熟すことができなくなります。

ですからルターは、私たちをキリストと一致させる、善業を全て拒否します。ミサの聖なるいけにえも、秘蹟の事効的(ex opere operato)効力も、聖職権も、裁治権も、カトリック教会の全構造も、修道誓願も、修道生活も、贖宥も、煉獄も、拒否します。

しかし福音と聖パウロによれば、愛徳を伴って善業を行い功徳を積む信仰が必要であり、救いをもたらすのは信仰それ自体というよりは愛徳です。聖アウグスチヌスが「愛せよ、されば汝の望むことをせよ」と言ったとすると、ルターは「信じよ、されば汝の望むことをせよ」と言います。さらに「大胆に罪を犯せ、されどさらに大胆に信ぜよ」とさえも言います。

2016年10月13日、ファチマの太陽の奇跡の記念日、フランシスコ教皇の意向によってルターの像がバチカンに持ち込まれました。2017年の間、ルター派とカトリックとによる「宗教改革」五百周年の記念行事が次々と行われ、第二バチカン公会議以前のカトリック教会の教導職とは反対のことが促進されました。

カトリック教会の歴史の中でもっとも大きな異端者の一人であり、もっとも劇的な離教を引き起こさせた張本人、その教えは公式に・正式に1520年6月15日に教皇レオ十世によって排斥・断罪されたその人が、いまや「聖人」であるかのように持ち上げられています。フランシスコ教皇は言います。「改宗させることは、エキュメニズムの毒だ!」と。

異端や離教におちる霊魂を回心させるために殉教した多くのカトリックの聖人たちは一体どうなるのでしょうか?第二バチカン公会議以前のカトリックの聖人たちや殉教者たちは、毒を盛る事業を行ったのでしょうか?プロテスタントの回心のために働いた聖マキシミリアノ・コルベは毒の仕事をしたのでしょうか?ロヨラの聖イグナチオは?聖カルロ・ボロメオは?フランシスコ教皇によれば毒の事業になります。

500年後、突然、私たちはこう聞かされます。「むしろわたしたちは、わたしたちを結び付けるものがわたしたちを分かつものよりも大きいことを学んできました。」(ルーテル世界連盟とカトリック教会との共同声明(2016.10.31))

しかし、ルターの書いた「ドイツのキリスト者貴族に与える書」という書の中で、彼はカトリック教会をイェリコの町と例えています。ルターは、キリスト者らはその上を踏み歩き、イェリコの三重の壁を打ち砕くように求めます。その三重の壁とは、叙階の秘跡、教皇の不可謬の教導職、ローマの司教の裁治権の首位性です。

ルター自身の言葉によると、プロテスタントとカトリックとを引き離すものは、(1)司祭職(司祭職とともにミサの聖なるいけにえ)(2)教導職の聖なる伝統(3)教皇制度の権能、です。この三つがキリストによって望まれた教会の一致を保つ柱であり、壁です。

(1)秘跡と礼拝の一致は司祭職によって保障され(2)信仰の一致は、客観的な聖伝と教導職とによって保証され(3)統治の一致は教皇の首位性によって保たれるからです。

私たちは選択を迫られています。

第二バチカン公会議以前の歴代の教皇たちの教えと歴代の公会議のカトリック教会の教えを信じるか、
あるいは、
第二バチカン公会議とその後の教皇の新しいエキュメニズムを信じ、ルターを「プロテスタント・カトリックの共通の教会博士」と信じるか、です。

聖母よ、おんみは御一人でこの世のすべての異端を滅ぼし給えり。我らのために祈り給え!

【参考資料】
以下、2017年の宗教改革500年の記念に、カトリック中央協議会で作成した、小冊子『ローマ・カトリックと宗教改革500年』です。

https://www.cbcj.catholic.jp/wp-content/uploads/2017/11/reform500panph.pdf

アシジⅢ<第三回アシジ平和祈祷集会>に関するフェレー司教による最初の説教

2011年02月09日 | エキュメニズム関連情報
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 アシジⅢ<第三回アシジ平和祈祷集会>に関するフェレー司教による最初の説教をご紹介します。


 2011年1月9日の御公現の荘厳祭に、聖ニコラ・デュ・シャルドネ(St. Nicolas du Chardonnet)教会で与えられた説教中にあった御公現の大祝日についての発言。

 聖主イエズス・キリストを礼拝する為、異教世界という最も遠い東の果てから旅をした東方の三博士の到来を説明した後で、フェレー司教は東方の三博士の信仰によるこの例を、ヘロデの不信仰や2011年10月にアシジで開催される世界平和祈祷集会の発表と対比して引き立たせている。

==説教の引用開始==

 理論上では、彼らは認めています。理論上では彼らは信じています。
 しかし現実に彼らは信じているでしょうか? 彼らは本当に私たちの聖主が天主であると信じているのでしょうか? 彼らは実際に人間や、国家の間の平和が聖主の御手の内にあると信じているでしょうか? 彼らは聖主の神性の直接的で、絶対的な結果の全てを実際に信じているのでしょうか? 彼らは、東方の三博士なる三人の王たちの様に、真の天主を礼拝し、あの平和を彼に期待して、彼にそれを願うつもりなのでしょうか? 彼らはレックス・パチフィクス(Rex Pacificus)、つまり平和の王のもとへ行くつもりでしょうか?

 おお、如何に歴史は繰り返す事でしょうか、悲しい事です!

 そうです、私たちはとても憤慨しており、このアシジでの数日の繰り返しに対して激しく抗議します。私たちが述べたことの全てを、またルフェーブル大司教様が[1986年のアシジに於ける第一回世界平和祈祷集会]当時に仰った事すべてを、私たちは自分たちの名で繰り返します。親愛なる兄弟たちよ、このような行為には償いが要求される事は明らかです。何たる神秘でしょうか!

 礼拝とは、どういう意味でしょうか? 礼拝するとは、何よりも先ず認める事、要するに神性を認める事なのです。礼拝は天主にだけ捧げられるものです。さらに天主の神性を認める事は、即座に服従を当然の事ながら伴います。それは天主の主権に対する服従の宣言なのです。天主は私たちに対する一切の権利をお持ちであり、私たちが全く完全に依存しているのだと、つまり自分の存在や命、また活動する事、考える事、願う事、望む事のできる能力について本当に天主に依存しているのだと認める事なのです。すべての善、私たちに起こるすべての良い事は、天主の善良さから来ます。しかもこれは‐信じる人々だけではなく、キリスト教徒だけではなく‐本当の事です。これは全被造物に、無条件にすべての被造物に当て嵌まるのです。見えるものと見えないもの全ての創造主である天主は、さらにこの世を治める御方であり、その聖言葉<御子>の御力によって万物を維持される御方であり、万物が自らの安定性をその中に持っている御方でもあるのです!命と死の聖主、個々人と諸国の聖主であります!全能永遠なる天主に、全ての誉れと栄光が当然与えられるべきです!そうです、礼拝するとは、天主の諸権利を認めるという謙遜な態度に我が身を置く事なのです。

 ですから行きましょう、私たちの聖主のもとへ行こうではありませんか。例え彼がその神性をお隠しになっているとしても、仮に彼がその母の腕に抱かれた幼子であるとしても、彼は本当に天主なのです!彼は私たちを救う為に、善き天主の御憐れみが送って下さった真の天主なのです。何故なら、彼は人となられ、また人となる事で救い主となったからです。そして天主御自身によって与えられた名前はイエズス、つまり救世主だからです!天の下で与えられ、それによって私たちが救われ得る唯一の名前なのです。唯一の救い主なのです!唯一の聖なる御方、つまり「御身は唯一の聖なる御方」[グロリアで唱える様に]であって、前代未聞の何かを私たちにもたらそうとやって来られるのです。それは天主からの永遠の幸福への招待状です。

 人々が主を侮辱する時、主を無視する時、主の権威を下げる時、彼らはどうやって主の祝福を受けられるよう希望する事が出来ますでしょうか? それは愚の骨頂というものです!人は自ら天主を嘲る時、どうやって人間世界に平和を希望する事など出来るでしょうか?

 今や現代思考は実に風変わりな計画を立ててくれます。全ての宗教は、最終的に、唯一の同じ神を礼拝するのだとそれは主張するのですから。それは完全に間違っていて、<聖書の>啓示の中にさえあるもので、私たちはそれを既に詩篇書、詩篇96.5に見出すのです。「異教の神々はみな悪魔である!」と。異教の神々は悪魔なのです。ですからアシジは悪魔で一杯になることでしょう!これは天主の啓示です。これは公教会の信仰です。これは公教会の教えです!

 今日、<カトリック信仰の>継続性は一体どこにあるのでしょうか? 今、どこかに断絶があるのではないでしょうか? 何たる神秘でしょうか!

 そう、親愛なる兄弟の皆さん、もし私たちが救われる事を望むなら、道は一つしかありません。そしてその道とは聖主イエズス・キリストという道であります。

==引用終わり==


カトリックの東京カテドラル聖マリア大聖堂で、9月23日、日本聖公会宣教150年記念礼拝開催

2009年07月17日 | エキュメニズム関連情報
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 【参考資料】 カトリックの東京カテドラル聖マリア大聖堂(東京都文京区)を会場にして、今年9月23日に、日本聖公会宣教150年記念礼拝が開催されるそうです。

 以前にも、1988年 1月6日には、カトリック東京カテドラル聖マリア大聖堂にて、聖公会のヨハネ武田師の「主教就任式」が執り行われたことがありました。

 その他にも、例えば米国のセント・ルイスのカテドラルでは、1987年6月にルター派の「司教」1名の「任命式」が行われ、同1987年7月にはメソジスト派の3名の「司教」の「聖別式」が執行されています。

主よ、我らを憐れみ給え!
聖母の汚れなき御心よ、我らのために祈り給え!

参考資料「聖ピオ十世司祭兄弟会関係の年表」

参考資料「ジェファーツ・ショリ米聖公会総裁主教の来日決定 聖公会150年礼拝」 2009年06月19日

米聖公会のジェファーツ・ショリ総裁主教
ローワン・ウィリアム・カンタベリー大主教(英国)

 9月23日に開かれる日本聖公会宣教150年記念礼拝に合わせて、米聖公会のジェファーツ・ショリ総裁主教が来日することが決定した。同礼拝にはすでに、世界中に広がるアングリカン・コミュニオン(聖公会)トップのローワン・ウィリアム・カンタベリー大主教(英国)の来日が決定している。

 礼拝は、日本聖公会(東京都新宿区、植松誠首座主教)が日本での宣教開始から今年で150周年を迎えるのを記念して開催するもの。約2000人収容可能な東京カテドラル聖マリア大聖堂(東京都文京区)が会場となる。前日の22日には、立教大学池袋キャンパスで海外からの来賓を招いた交流会やコンサートなどの催しを行う。

 ショリ総裁主教は、記念礼拝に出席するほか、前日のプログラムにも参加する予定だ。
 礼拝には、英国、米国、カナダ、韓国、オーストラリアなど日本へ直接宣教師を派遣してきた各国聖公会や、日本聖公会と関係の深いブラジル聖公会、東アジア聖公会協議会(CCEA)加盟教会の代表者が出席する。日本の他教派・教団の代表者らも出席を予定している

【関連記事】エキュメニズム

教会の教導権と個人レベルでの宗教無差別主義

2008年06月02日 | エキュメニズム関連情報
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 宗教無差別主義についての、ピオ九世による重要な関連文書を引用します。

ピオ九世 講話『ウビ・プリムム』1847年12月17日、枢機卿秘密会議において(Pius IX: Allocution Ubi primum to the Consistory, Dec. 17, 1847 (CH 196))

「更に、私の霊魂を過激に押しつけ悲しませる事柄がある。尊敬する兄弟達よ、あなたたちはそれを無視することが出来ない。カトリック真理に反対する数多くの敵どもは、特に現代、彼らの努力をこの目的に向けて力を注いでいる。すなわちキリスト者の教えから遠ざからせ、或いはキリスト者の教えに様々な新奇な意見を混ぜること、更にもっともっと多くの不敬な宗教無差別の体系を喧伝すること、である。更に最近では、・・・教皇のやり方によって、全ての種類の人々、カトリック教会の子らのみならず、カトリックの一致からどれ程離れていようとも全ての他の人々が同じく救いの道にあり、永遠の生命に辿り着くことが出来るという意見を私が持っていると結論付けようと望むものもいた。この新しいそしてかくも残酷な私に対する侮辱にたいして私は何と言うべきかその言葉を知らないほどである。
 そうだ。私は心からの最も深い愛情を込めて全ての人々を愛している。しかしながら、天主の愛において、また、失われたものを探し救うために来られ、全ての人々のために死去され、全ての者が救われることを望み給い、全ての者が真理を知ることを望まれる私たちの主イエズス・キリストの愛において、である。この私たちの主は、全世界に弟子達を遣わし給い、全被造物に聖福音を宣教することを命じ給い、信じて洗礼を受けるものは救われ、信じない者は排斥されると宣言された。

 従って、願わくは救われようと望むものは、この柱に来たらんことを。この真理の基礎、つまりカトリック教会に来たらんことを。つまり彼らがキリストの真の教会に来るように。・・・ 私は、同じイエズス・キリストの聖寵の助けをもって、無知と誤謬にいる彼らをこの真理と救いの唯一の道に連れ戻るために、いかなる注意も労働も決して惜しむことはしないだろう。」



ピオ九世 回勅『ノスティス・エト・ノビスクム』1849年12月8日

「信徒たち自身が、その心の中に、救いを得るためにカトリック信仰が絶対に必要であると言うことについての私たちのいとも聖なる宗教のドグマが深く刻み込まれているように特に気を配って注意しなければならない。」


ピオ九世 使徒書簡『ムルティプリチェンス・インテル』1851年1月10日

「この(排斥された書籍の)著者は、宗教無差別と理性主義に身を捧げることを望み、それに毒されていることを明らかにし、カトリック教会が唯一の真の宗教であることを否定している。さらに彼は各人が自分が理性の光に従って真だと判断する宗教を受け入れ宣言することを自由にしてよいと教えている。」


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 残念ながら、今、バチカンが主導している新しいエキュメニズム運動は、かえって宗教無差別、宗教相対主義を助長させ、カトリック信仰が救いのために必要であることを暗に否定するメッセージを全世界に送っている。


ヨハネ・パウロ二世と正教、スイスの改革派、ルター派、メトディスト。John Paul II with the World Council of Churches, Orthodox, Swiss Reformed, Catholic, Lutheran, Methodist

ヨハネ・パウロ二世は1983年ローマのユダヤ会堂を訪問する。Pope John Paul II visiting a synagogue in Rome in April 1983

アシジの祈祷集会

アシジの祈祷集会

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【関連記事】

帰正のエキュメニズム vs 新しい第二バチカン公会議のエキュメニズム

2008年02月16日 | エキュメニズム関連情報
アヴェ・マリア!

帰正のエキュメニズム vs 新しい第二バチカン公会議のエキュメニズム


【参考資料】
愛する兄弟姉妹の皆様、
 第二バチカン公会議のエキュメニズムが、聖伝の教えと断絶していることを示す資料を提供したいと思います。

カスパール枢機卿(Walter Kasper)
「...今日、私たちはエキュメニズムを、他の人々が『回心してカトリックに戻る』という意味での帰還とはもはや理解しない。【注:こう言って「教会の外には救いはない」という決定された教義を拒否した】 このことは第二バチカン公会議ではっきりと放棄された。」
Adisti, Feb. 26. 2001.English translation quoted from "Where Have They Hidden the Body?" by Christopher Ferrara, The Remnant, June 30, 2001.

 ウォルター・カスパー(Walter Kasper)枢機卿の最近の声明を取り上げてみましょう。彼はハンス・キュンク(Hans Kung)の元秘書でした。教会中にその近代主義的見解が有名であるカスパーは2001年2月に教皇ヨハネ・パウロ二世によって枢機卿とされました。そして現在キリスト教一致促進のためのヴァチカン教皇庁協議会の長官の地位を享受しています。カスパーはこう言いました。
「...今日わたしたちはもはやエキュメニズムを、それによって他の人々が『回心させられ』『カトリック信徒』であることへ戻るというそういう帰還の意味においては理解していません。これは第二ヴァチカン公会議で明確に放棄されたことです。」

Cardinal Kasper, Pope John Paul II’s (and Pope Benedict XVI’s) Prefect of the Vatican’s Pontifical Council for Promoting Christian Unity, said in February, 2001: “... today we no longer understand ecumenism in the sense of a return, by which the others would ‘be converted’ and ‘return to being Catholics’. This was expressly abandoned at Vatican II.

【注:「放棄された」ということは、第二バチカン公会議以前はそれを信じて行っていた、と言うことを意味する。】


第20回ワールド・ユース・デイの際のケルンへの使徒的旅行
エキュメニカルな会合で、ベネディクト十六世の訓話
ケルンの大司教の家にて、2005年8月19日


愛する兄弟姉妹の皆様、
 大変な一日を過ごした後で座ったままお話しするのをお許し下さい。だからといって、「使徒座から ex cathedra」(不可謬権を行使して)話をするつもりではありません。
 また、遅れてしまってお許し下さい。残念なことに、予想したよりも晩課が長くかかり、想像した以上に交通渋滞で車がゆっくしとしか進みませんでした。...

 この一致はいわゆる「(カトリックへの)帰正のエキュメニズム」と呼ばれうるものを意味しません。「帰正のエキュメニズム」とは、自己の信仰の歴史を否定し拒否することです。絶対にそうではありません!
 この一致は、神学と霊性の全ての表現において、典礼の形式と規律において、同一であると言うことを意味しません。多様性における一致、一致における多様性です、昨6月29日の聖ペトロとパウロの祝日の私の説教において、私は、全くの一致と、言葉のもともとの意味におけるカトリック(普遍)性とが共にはたらくと強調しました。この共存を達成するために必要な条件として、一致への努力が常に浄化され更新されなければなりません。これは常に成長し成熟しなければなりません。この目的のために、対話がその貢献をなしています。単なる考えの交流、学術的訓練以上に、これは贈り物の交換であり、これにおいて諸教会と諸共同体は自分の豊かさを提供することが出来るのです。...


APOSTOLIC JOURNEY TO COLOGNE
ON THE OCCASION OF THE XX WORLD YOUTH DAY
ECUMENICAL MEETING
ADDRESS OF HIS HOLINESS POPE BENEDICT XVI
Cologne - Archbishop’s House
Friday, 19 August 2005


Dear Brothers and Sisters,

Permit me to remain seated after such a strenuous day. This does not mean I wish to speak "ex cathedra". Also, excuse me for being late. Unfortunately, Vespers took longer than foreseen and the traffic was slower moving than could be imagined.

I would like now to express the joy I feel on the occasion of my Visit to Germany, in being able to meet you and offer a warm greeting to you, the Representatives of the other Churches and Ecclesial Communities. ... (...)

.. this unity does not mean what could be called ecumenism of the return: that is, to deny and to reject one's own faith history. Absolutely not!

It does not mean uniformity in all expressions of theology and spirituality, in liturgical forms and in discipline. Unity in multiplicity, and multiplicity in unity: in my Homily for the Solemnity of Sts Peter and Paul on 29 June last, I insisted that full unity and true catholicity in the original sense of the word go together. As a necessary condition for the achievement of this coexistence, the commitment to unity must be constantly purified and renewed; it must constantly grow and mature.

To this end, dialogue has its own contribution to make. More than an exchange of thoughts, an academic exercise, it is an exchange of gifts (cf. Ut Unum Sint, n. 28), in which the Churches and the Ecclesial Communities can make available their own riches (cf. Lumen Gentium, nn. 8, 15; Unitatis Redintegratio, nn. 3, 14ff.; Ut Unum Sint, nn. 10-14). ...

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インマクラータ vs エキュメニズム

2008年02月16日 | エキュメニズム関連情報
アヴェ・マリア!

インマクラータ vs エキュメニズム
コルベ神父様

 愛する兄弟姉妹の皆様、
 コルベ神父様が、そのインマクラータ(無原罪の聖母マリア)の騎士に委ねた使命は、全世界をカトリック教会へと回心させることでした。コルベ神父様は、こう言っていました。
「離教者達とプロテスタントたちが、確信をもってカトリックの信経を宣言するとき、そして全てのユダヤ人たちが自発的に聖なる洗礼の秘蹟を求めるとき、その時始めて、インマクラータ(無原罪の童貞聖母マリア)は、その目的に到達したことになる。」
(Rycerz Niepokalanej, 4 1922, p.78. cited from The Immaculata Our Ideal, Fr Karl Stehlin, p. 37)

「言い換えると、インマクラータ(無原罪の聖母マリア)とその騎士にとって、今日にエキュメニズムよりも大いなる敵はいない。従って全てのインマクラータの騎士たちは、現代のエキュメニズムに反対して闘うのみならず、これと正反対の行動を通して、それを中和させ、これを究極的に破壊し尽くさなければならない。私たちは、インマクラータの騎士(Militia Immaculata)の目的を出来るだけ早く達成させなければならない。つまり、現代存在する、そしてこの世の終わりまで存在するあろう全ての霊魂たちが、インマクラータのために、そしてインマクラータを通してイエズスの至聖なる聖心のために、全世界を征服することである。」
(1933年4月23日付けのコルベ神父様の日記より cited from The Immaculata Our Ideal, Fr Karl Stehlin, p. 37)

「汚れなく宿り給いし聖マリアよ、御身により頼み奉る我らのため、また、全て御身により頼まぬもののため、とくに秘密結社の回心のために、祈り給え。」

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【関連記事】



【参考資料】世界統一宗教へ向かう動き:ダライ・ラマの来日の目的と、その目ざすところ

2007年11月19日 | エキュメニズム関連情報
アヴェ・マリア!

ダライ・ラマの来日の目的と、その目ざすところ

【参考資料】世界統一宗教へ向かう動き


ダライ・ラマ、伊勢神宮を訪問 2007年11月18日 15:19 発信地:三重

 チベット仏教の最高指導者ダライ・ラマ(Dalai Lama)14世は18日、三重県伊勢市の伊勢神宮(Ise Shrine)を訪れた。ダライ・ラマは2003年に初めて伊勢神宮を訪れ、伊勢神宮参拝はこれで2度目、日本の伝統に従って2度拝礼し、五十鈴川(Isuzu river)の水で体を清めた。ダライ・ラマによると、今回の訪問は「世界中の聖地訪問」の一環で「すべての宗教(ママ)の目的は愛を伝えるということと、人類を救うというところで一致している。ゆえに、宗教間の調和と統一は非常に大切だ」と述べたとのこと。

 何故、観音菩薩の化身であり転生と自称するチベット仏教の指導者が、伊勢神宮でその奉られている神を参拝することが出来たのか? ダライ・ラマは何を自らのミッションとして活動しようとしているのか?

 イスラエルのアシュケナジの主席ラビであるヨナ・メツガーは(アシュケナジーとは、東欧系のユダヤ人のこと)、イエルサレムに「国連」の宗教版("a religious United Nations" いわば世界宗教連合)を創立することを提案してきた。

 ヨナ・メツガーは、高位のユダヤ教指導者やイスラム教指導者たちとエキュメニカルな会合を開き、2006年3月にはスペインのセルビアでイスラム教指導者(イマン)とユダヤ教指導者(ラビ)の国際会議ではダライ・ラマをも招いてこれを訴えた。

 メツガーは、「宗教連合」(United Religions)は、国際連合 (United Nations) に対抗するもので、世界諸宗教の代表者が名前を連ねることになる、そしてダライ・ラマに、この「宗教連合」議長となることを提案。ダライ・ラマは、この提案を大変喜び、メツガーの計画実現のために協力すると言ったそうだ。

Dalai Lama meets chief rabbis, Muslim leaders | Jerusalem Post

Dalai Lama Meets Chief Rabbis, Muslim Leaders
Jerusalem, 20 February 2006 (By Matthew Wagner, The Jeruslaem Post)
- Chief Rabbi Yonah Metzger called on Sunday for the establishment of "a religious United Nations" representing the religious leaders of all the countries in the world. Metzger suggested establishing the religious UN in Jerusalem and placing the Dalai Lama at its head.



 David Ben-Ariel によれば、メツガーは、イエルサレムの第三神殿建設を促進しているようである。そうなれば、異邦の諸国はイエルサレムに詣で、幕屋祭(Sukkot)を祝うようになるからだ。David Ben-Ariel は、「いわば、天主の無い世界平和を求めるバベルの塔の現代版」とコメントをしている。

 しかし、これはメツガーの発案ではないようだ。すでに、イスラエルの初代首相ダヴィド・ベングリオン(David Ben-Gurion, 1886年10月16日 -- 1973年12月1日)、は、すでに1962年ルック・マガジンに25年後の世界について、かなり正確な青写真を語っているからだ。

 ダヴィド・ベングリオンの1962年1月16日の「預言」によると(因みに同年10月11日に第二バチカン公会議が開催されている)、1987年には、世界は次のようになっているといっている。そしてその最後の点が、まさにメツガーの提案とそっくりである。

(1)冷戦は過去のものとなり、ソ連の民主化がなされるだろう。他方で、アメリカ合衆国を計画経済を持つ福祉国家と変えるだろう。

(2)東西ヨーロッパは、自律国家の連合体となるだろう。

(3)ユーロシア国家連邦を構成するソ連を例外として、その他の大陸は世界連邦として一つとなるだろう。世界連邦(world alliance)は、国際警察力を持ち、各国の軍隊は廃止され、戦争は無くなる(ママ)だろう。

(4)エルサレムには、国連が全ての大陸の連合のために「預言者達の神殿」を建てるだろう。これがイザヤが預言した(ママ)、人類最高裁判所の所在地となるだろう。

 従って、ダライ・ラマは、この「宗教連合」(United Religions)成立のために働き、その働きの報酬として「宗教連合」議長となるために、世界各地を回り「世界中の聖地訪問」し、各地でいろいろな神々を礼拝し参拝しているのではないだろうか。

 ファチマの聖母マリア様は「教会は迫害を受ける」と預言された。もしもカトリック教会が「教会の外に救いなし」というそのドグマを保持するかぎり、リベラルなエキュメニズムを信奉する、ダライ・ラマをその将来の議長とする「世界宗教連合」は、そのようなカトリック教会を迫害するだろう。第二バチカン公会議の名前によって、カトリック教会は迫害を受けるだろう。

 ファチマ・クルセーダーのクレーマー神父様によると、ピオ十二世は「世界史にも未曾有の苦しみを世界はもうすぐ苦しむだろう」 "The world must soon undergo suffering such as there has never been in the history of the world." と預言されていたそうだ。

 1917年から、共産主義ソ連では、ロシア人がロシア人同士が、人間を人間とも思わず大量に虐殺した。今では、世界中で堕胎により、地上に自分勝手な「ユートピア」を造ろうとして、つまり、人間が人間の計画と人間の意志による人間の望みの儘の世界を造ろうとして、無辜の国民を大量に虐殺している。

 しかしピオ十二世によれば、これから来る苦しみは、レーニン、スターリン、ヒトラー、毛沢東の統治よりも怖ろしく、私たちの想像を超えるものだろう。

 主よ、我らを憐れみ給え! 私たちは主の御言葉に信頼しよう。「恐れるな、私はこの世に勝った」と言われた私たちの主イエズス・キリストの御言葉に。

 主よ、我らを憐れみ給え! ファチマの聖母マリアは、こう預言された。「最後に私の汚れ無き御心は凱旋するでしょう。教皇様はロシアを私に奉献するでしょう。ロシアは回心し、平和の一時期がこの世に与えられるでしょう。」また「全てが失われ悪が凱旋している、と見えるとき、その時こそ私の時が来るでしょう」とも言われた。その時、私たちは全世界と共にこう歌うだろう。Christus Vincit, Christus Regnat, Christus Imperat. キリストは勝利し給い、キリストは統治し給い、キリストは命じ給う!と。

主よ、我らを憐れみ給え!
聖母の汚れ無き御心よ、我らのために祈り給え!

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主よ、我らを憐れみ給え!

エキュメニズムの問題点の核心:イエズス・キリストが真の天主か否か

2007年08月14日 | エキュメニズム関連情報
アヴェ・マリア!

兄弟姉妹の皆様、

 エキュメニズムの問題点の核心:イエズス・キリストが真の天主か否か


 創世の書には、主なる天主は蛇に向かってこう言われた、とある。
「おまえと彼女の間に、またおまえの子孫と彼女の子孫との間に、私は敵対をおこう。彼(ヴルガタ訳では彼女)は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは彼のかかとを噛むであろう。」

 天主が置いた敵対。救い主とサタンと間の敵対。キリストと反キリストと間の敵対。これには和解が不可能である。「対話」も「寛容」も「政治的配慮」もこれを解消することが出来ないだろう。

 救い主は生まれた。「みことばは天主とともにあった。みことばは天主であった。かれは、はじめに天主とともにあり、万物はかれによってつくられた。つくられた物のうちに、一つとしてかれによらずにつくられたものはない。かれに生命があり、生命は人の光であった。光はやみに輝いたが、やみはかれを悟らなかった。・・・ すべての人をてらすまことの光は、この世に来ようとしていた。かれは世にあり、世はかれによってつくられたが、世はかれを知らなかった。かれは、ご自分の家に来られたが、その人々はうけいれなかった。・・・みことばは肉体となって、私たちのうちに住まわれた。」

 救い主が生まれて四十日後、シメオンはその子をだき、天主を賛美していった。「みことばどおり、主よ、今こそ、あなたのしもべを安らかに死なせてください。私の目は、もう主の救いを見ました。その救いは、あなたが万民のためにそなえられたもの、異邦人をてらす光、み民イスラエルのほまれであります。・・・この子は、イスラエルの多くの人が、あるいはたおれ、あるいは立ちあがるために、さからいのしるしとして立つ人です。」

 イエズス・キリストが真の天主か否か、ここに全ての核心がある。

 聖パウロはこう叫ぶ。「私、パウロは、自筆で、あなたたちに挨拶をおくる。もし主を愛しない者があれば、のろいあれ。マラン・アタ。」

 聖ヨハネはこう言う。「小さな子らよ、最後のときである。あなたたちは反キリストが来ると聞いていたが、今や多くの反キリストがあらわれた。これによって、私たちは、最後の時が来たことを知る。・・・いつわりの者はだれか?イエズスがキリストであることを否定するものではないか?おん父とみ子とをいなむ者、それこそ反キリストである。み子をいなむ者はおん父を持たず、み子を宣言する者は、おん父をももっている。」

 イエズス・キリストが天主であることを否定するもの、彼は反キリストであり、いにしえの蛇の子孫だ。


 もしも、イエズス・キリストが真の天主であるなら、カトリック教会は正しい真の宗教である。

 もしも、イエズス・キリストが真の天主であるなら、現行のエキュメニズム運動はイエズス・キリストを暗に否定することであり、全く虚しい。

 何故なら、現行のエキュメニズム運動は全ての宗教に同じ価値があるということを意味しているからだ。どんな宗教によってでも、救霊を非常にうまく達成することができるだろうということを意味しているからだ。「カトリック教会が唯一の教会でありそれだけが真理を所有し、カトリック教会だけがイエズス・キリストを通して人々を救霊に導くことが出来る」ということの暗黙の拒否だからだ。そのときイエズス・キリストの教会は単に便利なものではあったとしても、もはや必要不可欠なものではなくなってしまうからだ。

 しかし、真理はイエズス・キリストこそ真の天主であり、これを通さずには私たちは救われないということだ。だからこそ初代教皇である聖ペトロは、イスラエルの人々にこう言った。「くいあらためなさい、おのおの、罪のゆるしを受けるために、イエズス・キリストのみ名によって洗礼を受けなさい。」


 もしも、イエズス・キリストが天主であることを知らないなら、政治的な理由により「対話」や「寛容」を試みている人々のことを私たちは、何も非難しようとは思わない。願わくは教皇様が、初代聖ペトロが言ったのと同じことを言われますように!「くいあらためなさい、おのおの、罪のゆるしを受けるために、イエズス・キリストのみ名によって洗礼を受けなさい。そうすれば、聖霊のたまものを受けるでしょう。」

 しかし、イエズス・キリストが天主であることを知りつつ、それを暗に或いは公然と否定する人々が、あるいは私たちの主イエズス・キリストが天主であることを公然と説かなければならない高位聖職者たちが、イエズス・キリスト以外のものに祈り、希望しようにいう時、私たちは何と言えばよいのか。


「人類は、2つの相対立する陣営に別れている。この2つのうち、一方は真理と徳のために戦い、他方はそれの反対すべてのために戦っている。一方はイエズス・キリストの本当の教会であり、…他方はサタンの王国である。」(教皇レオ13世は、回勅 Humanum Genus )

「かくて2つの愛が2つの国を築いた。天主を蔑む自愛は地の国を、自己を卑しむ天主の愛は天の国を築き、前者は自らを誇り、後者は主において誇る。」(アウグスティヌス『神の国』第14巻28章)

 私たちは、イエズス・キリストが天主であることを知りながら、イエズス・キリストを否定することは出来ない。天主の御恵みと御助けによってそのようなことから私たちが守られますように!
聖母マリアよ、我らのために祈り給え!
聖母の汚れ無き御心よ、弱き我らを憐れみ助け給え!

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성 비오 10세회
トリエント公会議(第19回公会議)決議文
第一バチカン公会議 (第20回公会議)決議文(抜粋)
聖ピオ五世教皇 大勅令『クォー・プリームム』(Quo Primum)
新しい「ミサ司式」の批判的研究 (オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ枢機卿)Breve Exame Critico del Novus Ordo Missae
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【参考資料】ベネディクト十六世教皇の自発使徒書簡 Motu Proprio 『スンモールム・ポンティフィクム SUMMORUM PONTIFICUM 』の非公式日本語訳
【参考資料】1970년 개혁 이전의 로마 전례 사용에 관한 베네딕토 16세 교황 성하의 자의 교서 「교황들」(Summorum Pontificum)
【参考資料】第二バチカン公会議宣言『信教の自由に関する宣言』

「奉献なしにはロシアは回心することができず、また世界も平和を持つことがない」

2007年08月11日 | エキュメニズム関連情報
アヴェ・マリア!

 兄弟姉妹の皆様、
 カトリック新聞 2007年8月12日付(3919号)の第1面は、「世界から宗教者2000人 平和模索し共に祈る 比叡山宗教サミット20周年記念」の記事が掲載されています。

====引用開始====

1987年に行われた「比叡山宗教サミット」の20周年を記念し、「世界宗教者平和の祈りの集い」(主催・日本宗教代表者会議)が8月3日と4日、国立京都国際会館と滋賀県・比叡山延暦寺を会場として開かれ、海外18カ国からの代表を含め、約2000人の宗教代表者が集まった。・・・

 3日は「和解と協力」をテーマに国際会館で記念講演とシンポジウムを行った。オープニングで、内戦の傷跡が残るボスニア・ヘルツェゴビナと、被爆地である広島の子どもたちが登場し、「未来には7つの大陸がひとつになって、境界線がなくなったら素敵」など、平和への望みと、未来に望む地球の姿を絵とメッセージで表した。

 続いて日本の仏教、キリスト教、神道、新宗教などの各教派教団でつくる「日本宗教代表者会議」の議長を務める矢田部正巳神社本庁総長が歓迎のあいさつをし、教皇ベネディクト16世や国連のバン・キムン事務総長からのメッセージも紹介された。

 記念講演はキリスト教とイスラムから。教皇庁諸宗教対話評議会議長のポール・プパール枢機卿のメッセージを同事務局次長、フェリックス・マチャド神父が代読。「宗教は対立の中で対話させる責任がある」と訴え、小さなところから始める「相互尊重の文化」の促進を呼び掛けた。

 サウジアラビアのイスラム教徒、アブドゥーラ・アルレヘダン氏は、イスラムには寛容を表す伝統があることを説明、「アラーの慈悲は人種や肌の色にかかわらない、イスラムも平和の建設のために貢献できる」と語った。

 この後、各宗教代表者によるシンポジウムが行われ、カトリックからはナイジェリアのイグナティウス・カイガマ大司教が登壇、アフリカにおけるさまざまな対立・紛争の厳しい状況を説明、不公平な分配は大きな貧困を生むが、全体的な経済発展が安定を生み平和につながると訴えた。また時には宗教よりもサッカーへの熱狂が、人種や宗教を超えて国民を1つにすることも紹介した。


人質事件解決を

 3日の終わりには、今回のサミット参加者一同としてアフガニスタンの韓国人人質事件に関し緊急声明を発表。「希望なきところに希望を与える」宗教の本来的意義をもって早期解決を真摯(しんし)に願うと訴えた。

「対立と憎悪」から  「和解とゆるし」へ

 4日は、「諸宗教間の対話と協力―紛争和解から平和構築のために」「自然との和解と共生―宗教者は地球環境保全のために何ができるか」という2つのテーマに別れフォーラムを開催した。そ後、比叡山延暦寺に移動し、根本中堂前広場で「世界平和祈り式典」を開いた。

 ワールドピースベルアソシエーションから各国の硬貨などで鋳造された「平和の鐘」が贈られ、その除幕式が行われた。新しい鐘の音に合わせ参加者一同は一致協力して平和のために働くよう祈念した。
 各宗教による祈りがささげられ、最後は参加者たちが折った海と陸を表す青と白の折鶴で透明な球体を満たし、平和な地球の象徴とした。まとめに「比叡山メッセージ」が読み上げられ、「民族と宗教の違いが敵・味方を峻別する装置に追いやられる」世界において、「対立と憎悪」を「和解とゆるし」に変えていけるよう、いっそう働くことを一同で誓った。

====引用終了====

【コメント】
 私たちは、この世界は罪によって傷つき、罪のために本当の平和が破壊されていることを知っています。何故なら、罪こそは天主に反対する戦争であるからです。

 人類はかつて天主なき統一世界を夢想してバベルの塔を創り天にまで到達しようとしました。結果は失敗でした。人類の分裂が更に深まっただけでした。

 天主は、2007年前に、私たちのために本当の世界統一を始めました。新しい世界秩序を打ち立てました。新の平和への道を教えました。私たちはこれに従わなければ新の平和を得ることができません。これがキリストの唯一の神秘体です。つまりカトリック教会です。

 しかし全世界ではカトリック教会の警告を無視して、例えば堕胎という戦争が「人権」として世界中が合法化されています。メキシコでもそうなりました

 真理の宗教を知らない方々が、真の天主であるキリストを知らずに祈る、これはどうしようもありません。しかし、カトリック教会の指導者が「サッカーへの熱狂」が「国民を1つにする」と喜んでいるのには、何と言えばいいのでしょうか? 

 ピオ十一世教皇様は、回勅『モルタリウム・アニモス』のなかで、すでにユートピア的統一宗教を夢想する人々のことを警告していました。ピオ十一世は、ユートピア的エキュメニズム推進者の主張を次のように引用します。

 『たとえ最も古くからの論争であれ、教義の違いであれ、今日までこれらの教会を分裂し続けているものは、忘れ取り去らねばならない。更に別の教義上の真理とともに、共通の信仰の確かな基準を提示し、築き上げなければならない。この信仰宣言において、彼らは自分たちが知る以上に、互いが兄弟であると感じるようになるだろう。更に、さまざまな教会や共同体が、一度、全世界的な一種の連邦を結べば不敬虔の進歩に対抗して力強く勝利を勝ち取るとるために戦うことができるようになるだろう。…』 と。

 私たちは、ただ黙って、このエキュメニズムの運動に従っていいのでしょうか? カトリックの全伝統と歴代の教皇様の教えに逆らうこの運動に。私たちに本当の平和を与えるのは、青と白の折鶴ではありません。

 シスター・ルシアは1957年フエンテス神父とインタビューをし、こう語っています。私たちはここでシスター・ルシアの警告を思い出します。

 「神父様、悪魔は聖母マリアに対して決定的な戦いを挑もうとしています。悪魔は天主を最も侮辱することが何か、また最も短期間にどうやったら最も多くの霊魂らを地獄に落とすことが出来るか知っています。だから悪魔は天主に捧げられた霊魂(=聖職者たちのこと)を勝ち取ろうと全てのことをしています。何故なら、こうすることによって悪魔は、指導者によって捨てられた信者らの霊魂たちが取り残され、いとも簡単に彼らを餌食にすることが出来るからです。」

 「聖母の汚れ無き御心とイエズスの聖心を悲しませることは、修道者、司祭の霊魂たちが堕落することです。悪魔は、自分の美しい召命の道から堕ちた修道者と司祭らが、多くの霊魂を地獄に引きずり下ろすことを知っています。・・・悪魔は、天主に捧げられた霊魂たちを奪いたいと望んでいます。悪魔は、彼らを腐敗させるように試みています。それは彼らが平信徒の霊魂たちを眠り込ませる子守歌を歌い、彼らが最終的に罪を痛悔しないように導くためです。」

 天主を忘れた人類はますます残酷になっています。しかし、こんな私たちに、1917年ファチマの聖母は素晴らしい約束を下さいました。

 もしロシアが汚れなき御心に奉献されるならば--
・汚れなき御心は勝利するでしょう。
・ロシアは回心するでしょう。
・多くの霊魂は地獄から救われるでしょう
・そして平和の一時期が人類に与えられるでしょう

 しかし、「もしそうでなければ、[ロシアは]戦争と教会への迫害を引き起こしながら、全世界にその誤謬を広めるでしょう。善人は殉教し、教皇は大いに苦しみ、さまざまの国が絶滅させられるでしょう。」(1917年7月13日)とも警告されました。

 もしロシアが汚れなき御心に奉献されないならば--
 ・ロシアは全世界にその誤謬を広めるでしょう、
 ・戦争と教会に対する迫害を引き起こしながら。
 ・善人は殉教するでしょう。
 ・教皇は大いに苦しむでしょう。
 ・そしてさまざまの国が絶滅させられるでしょう。

 そして今、私たちが目にしているのは、エキュメニズム、諸宗教の一つの世界兄弟愛、そして国連を通じての平和というヴァチカンの新政策、世界が暴力と道徳的悪化へと急降下、ロシアの回心の失敗などです。

 世界の平和のため、多くの霊魂が救われるために、私たちには何が必要か、聖母マリアは1952年5月にシスター・ルチアにこう言われました。

 「教皇様に、わたしが汚れなき御心へのロシアの奉献を常に待っているということ、奉献なしにはロシアは回心することができず、また世界も平和を持つことがないだろうということを知らせなさい。」

聖母の汚れ無き御心よ、我らのために祈り給え!

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【参考資料】
トリエント公会議(第19回公会議)決議文
【参考資料】ベネディクト十六世教皇の自発使徒書簡 Motu Proprio 『スンモールム・ポンティフィクム SUMMORUM PONTIFICUM 』の非公式日本語訳
【参考資料】第二バチカン公会議宣言『信教の自由に関する宣言』


【推薦図書】
聖骸布の男 あなたはイエス・キリスト、ですか?
脳内汚染からの脱出
小さきものよ,われに来たれ
神との親しさ(6)
収容所群島(1) 1918-1956 文学的考察 by ソルジェニーツィン

自分の過去と断絶してしまった教会、それはカトリック教会ではありません。

2007年08月11日 | エキュメニズム関連情報
アヴェ・マリア!

 兄弟姉妹の皆様、

 カトリック新聞2007年8月12日付(3919号)の記事について、コメントを付け加えます。

 聖ピオ十世会は、宗教統一運動(エキュメニズム)のリストの中には入っていません。何故なら、カトリック教会内の内部問題(an internal matter of the Catholic Church)だからです。

◆ ベネディクト十六世教皇様はそう言いました。
「これは、教会の中心における内部的和解に至る問題です。」

It is a matter of coming to an interior reconciliation in the heart of the Church.

◆ エキュメニズム真っ盛りの最近、ある方が、「キリスト者の一致のための教皇庁立委員会」の委員長のエドワード・カッシディー枢機卿(Edward Cardinal Cassidy )様に、聖ピオ十世会について、1994年3月25日付けの手紙で質問しました。枢機卿様は、1994年5月3日付けの手紙の中でこう答えられました。原文を掲載します。

May 3, 1994

Dear Sir, .... Regarding your inquiry (March 25, 1994), I would point out at once that the Directory of Ecumenism in not concerned with the Society of Saint Pius X. The situation of the members of this Society is an internal matter of the Catholic Church. The Society is not another Church or Ecclesial Community in the meaning used in the Directory. Of course the Mass and Sacraments administered by the priests of the Society are valid. The Bishops are validly, but not lawfully, consecrated.... I hope that this answers your letter satisfactorily.

「某様、・・・1994年3月25日のあなたのご質問に関し、聖ピオ十世会は宗教統一運動(エキュメニズム)のリストの中には入っていません。この会の会員の状況はカトリック教会内の内部問題に過ぎないのです。聖ピオ十世会は、このリストの中でつかれて言う意味においての別の教会や別の教会的団体ではないのです。もちろん、この会の司祭によって執行されているミサは秘蹟は有効です。司教達は非合法ですが有効に聖別されています。・・・私はこの手紙があなたのお手紙に十分答えたととと期待します。敬具。エドワード・カッシディー枢機卿:委員長」

 私たちは、カトリック新聞 2007年8月12日付(3919号)の記事にエキュメニズムの本質が見えていると思います。つまり、聖伝との断絶、カトリックの過去はダメ、カトリック聖伝以外ならなんでもOK、ということです。


 では、何故カトリック教会内の内部問題(an internal matter of the Catholic Church)が生じてしまっているのでしょうか? 

 何故なら「第二バチカン公会議は、教会内のフランス革命だった」(スーネンス枢機卿)から、公会議において「教会は十月革命を起こした」(コンガール神父)からです。

 ベネディクト十六世も、ラッツィンガー枢機卿時代に「第二バチカン公会議は、反シラブスであった」と告白しました。

 そして教会内部の大革命のまっただ中で、革命を引き留めようとして命をかけて聖伝を守った男がいるから、革命にとって内部問題が生じたのです。

 何故、彼が革命に参加しなかったというと、彼は教会から離れたくなかったからです。何故なら、過去と断絶してしまうこと、これこそ離教でありカトリック教会ではなくなってしまうことであるとよく知っていたからです。

「私たちは教会から離れたくありません。その全く反対です。私たちは、カトリック教会を続けたいのです! 自分の過去と断絶してしまった教会、それはカトリック教会ではありません。・・・ 将来、真理が再び明らかになることでしょう。私たちはそれを確信しています。それ以外では有り得ないからです。天主様は、ご自分の教会をお見捨てにはならないからです。」
(ルフェーブル大司教 ジュネーブにおいての説教1978年5月15日)

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聖ピオ十世会韓国のホームページ
トリエント公会議(第19回公会議)決議文
第一バチカン公会議 (第20回公会議)決議文(抜粋)
聖ピオ五世教皇 大勅令『クォー・プリームム』(Quo Primum)
新しい「ミサ司式」の批判的研究 (オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ枢機卿)Breve Exame Critico del Novus Ordo Missae
グレゴリオ聖歌に親しむ会

【参考資料】
【参考資料】ベネディクト十六世教皇の自発使徒書簡 Motu Proprio 『スンモールム・ポンティフィクム SUMMORUM PONTIFICUM 』の非公式日本語訳
【参考資料】ベネディクト十六世教皇の自発使徒書簡 Motu Proprio 『スンモールム・ポンティフィクム SUMMORUM PONTIFICUM 』の非公式韓国語訳
【参考資料】第二バチカン公会議宣言『信教の自由に関する宣言』

谷大二(さいたま)司教様の「船員の日」メッセージを読んで:谷司教様はどんな「神」に祈るのか?

2007年07月10日 | エキュメニズム関連情報
アヴェ・マリア!

日本カトリック難民移住移動者委員会 委員長 谷 大二(さいたま司教)の「船員の日」 メッセージ 2007年が発表されている。

====引用開始====



 教皇庁移住移動者司牧評議会は、7月8日(7月の第2日曜日)を「船員の日」(Sea Sunday)と定め、世界中の信徒に船員たちのために祈るよう呼びかけています。日本カトリック難民移住移動者委員会も船員たちとその家族のために祈るよう、皆様に呼びかけます。

 さて、今年のポスターは七福神をイメージしたものです。「カトリック教会なのに神々のポスターを作るとは何事だ」と怒られそうです。そこで、なぜ七福神なのかを少し説明しましょう。七福神の神々のうち大黒(だいこく)・毘沙門(びしゃもん)・弁才(べんざい)はインドのヒンドゥー教、布袋(ほてい)は中国の仏教、福(ふく)禄(ろく)寿(じゅ)・寿(じゅ)老人(ろうじん)は中国の儒教からきています。この6人の神々に日本の恵比寿(えびす)が入っています。いかにも日本らしい神仏習合的な信仰です。しかし、実にインターナショナル(国際的)ではありませんか? しかも、七福神は船に乗って、と書かれた俵を積んでいるのです。日本は17世紀から鎖国時代にはいりますが、それ以前はペルシャから中国にいたる多くの国々との間に、船による貿易、豊かな交流がありました。アジア各地に日本人街もできていたほどです。この貿易は経済的な豊かさをもたらしたばかりでなく、多くの文化的な豊かさももたらしました。なにしろ、インドや中国の神々が日本の神々と一緒になって、船に乗っているくらいですから。七福神は豊かさをもたらす船員のシンボルだったとも言えるでしょう。

 さて、現代はどうでしょう。私たちの生活物資の90%は海外からの輸入でまかなわれ、その99%は船に頼っています。昔以上に、船員たちの労働に頼っていることになります。しかし、船員たちと私たちとの間に人間的な交わりや文化的な交流はどの程度あるのでしょうか。船員のことに心を配ることはあるでしょうか? 確かに、経済的な理由から船員たちの上陸時間は短くなり、港での憩いのひと時もままなりません。だからこそ、そのひと時を応援するために、船員司牧(AOS)が必要なのです。そして、離れ離れで生活せざるを得ない船員とその家族のために、サポートし、祈る必要があるのです。

 厳しい環境の中で働いている船員たちのために祈ってください。かれらが私たちの生活を根底で支えていることに感謝し、彼らの航海の安全と家族の幸せをに祈ってください。そして、関心のあるかたは、当委員会またはAOS(Apostleship Of the Sea)に連絡をとって、一緒に活動に参加してください。


2007年7月8日
日本カトリック難民移住移動者委員会
委員長 谷 大二(さいたま司教)

====引用終了====


【コメント】

 私たちの生活物資、大自然、命、平和など私たちの存在そのものまで全ては唯一の天主に依存し頼っている。そればかりではない、私たちの超自然の命、超自然の祝福と聖寵は、私たちの主イエズス・キリストによりイエズス・キリストを通して来る。真の天主は肉体を取って人間となり私たちのうちに住まわれた。「そうだ、私たちは、そのみちあふれるところから、恩寵に次ぐ恩寵をうけた。なぜなら、律法はモイゼを通じて与えられたが、恩寵と真理とは、イエズス・キリストによって私たちの上に来たからである。」(ヨハネ1章)

「私にとどまっていて、私もまた彼のうちにいるなら、その人は多くの実を結ぶ。なぜなら、私がいないと、あなたたちにはなに一つできないからである。私にとどまらない人は、枝のように外に投げすてられて、枯れはててしまい、人々にひろい集められて、火に投げいれられ、焼かれてしまう。」(ヨハネ15章)

「永遠の命とは、唯一のまことの天主であるあなたと、あなたがお遣わしになったイエズス・キリストを知ることであります。」(ヨハネ17章)

 真のインターナショナル(国際的)とは、真理において一つとなること、一致することだ。全宇宙を創りそれを保ち給う天主の御子が、人間とその社会問題を解決するために人間となって、ある意味で「国籍の区別のない」聖なるカトリック教会を創った。そこで罪を赦された人々が、全世界どこででも一つの信仰を持ち、一つの言葉を話し、天主にまで到達することができるように。王であるイエズス・キリストがその角石(おやいし)となり基礎をおいた。

 カトリック教会こそ人類が知る唯一の完璧な国際社会組織だ。何故なら、復活して聖父の右に座し給う私たちの主イエズス・キリストが、ご自分の設立した新統治に、天の王の玉座から聖霊を送り給うたからだ。バベルの塔の建設時に受けた天罰と反対のことが起こった。イエズス・キリストの教会は「天主が設計し、建造される、たしかな基礎をもっていた」。「かれは、主なる天主によって父ダヴィドの王座を与えられ、永遠にヤコブの家をおさめ、その国は終ることがありません」(ルカ)天主の御子は、人となり、人類社会の問題を解決するために真の平和のための理想社会(ユートピア)を創った。今から2007年前に真の意味での「新世界秩序」を創った。それが聖ペトロの船であり、新約の第二の「ノエの方舟」であり、母にして聖なるカトリック教会だ。

 ところが、谷大二司教様は、私たちの主イエズス・キリストのことに心を配らない。谷大二司教様の船は、ペトロの船ではない。何故ならその船の中には、イエズス・キリストの名前も、その贖いの道具である十字架も見あたらないからだ。谷司教様の船には七福神が乗り、宝と書かれた俵だけが積まれているからだ。谷司教様は、いったいどんな「神」に祈るというのだろうか? 谷司教様の信じる「神」は、神仏習合的な神々であり、司教様は、インドや中国の神々が日本の神々と一緒になったこの世の(文化の??)豊かさを信じておられる。これは私たちの主イエズス・キリストが私たちに教えて下さった信仰でも聖福音でもない。

「彼らは、私があなたから出たものであることをほんとうに認め、あなたが私をおつかわしになったことも信じました。その彼らのために、私は祈ります。この祈りはこの世のためではなくて、あなたがくださった人々のためであります。かれらはあなたのものです。・・・正しい父よ、この世はあなたを知りませんが、私はあなたを知り、この人たちも、あなたが私をお遣わしになったことを知るに至りました。あなたが私を愛してくださったその愛が、彼らにもあるように。」(ヨハネ17章)


聖ピオ十世はこう言う。
カトリックの教えに従えば、愛徳の第一の義務とは、誤った考えをそれがたとえそれがいかに誠実な心から出たものであったにせよ、容認することでもなく、あるいは私たちの兄弟が陥っている誤謬や悪徳に対する理論上のもしくは実際上の無関心にあるのでもありません愛徳の第一の義務とは、それと反対に兄弟の物質的福利と共に、その知的、道徳的な改善を図る熱意に存するのです。カトリックの教理はさらに、隣人に対する愛は、全ての者の父であり人類家族の目的である天主への愛にその源を有していること、またその愛(隣人愛)は私たちがその肢体であるところのイエズス・キリストのうちに存しており、他人にすることはイエズス・キリストご自身にすることに他ならないことを教えています。これ以外の他のいかなる種類の愛も全くの幻想であり、不毛で儚いものです。

「そして今、尊敬する兄弟たちよ、深い悲しみに沈んだ心で私は、シヨンのカトリック主義はどうなってしまったのだろうかと自問します。嗚呼、以前は非常に明るい期待を抱かせてくれたこの組織、活き活きとして勢いがみなぎっていたこの流れは、現代における教会の敵どもによって利用されてしまいました。今やあらゆる国々で企てられつつある世界統一宗教を打ち立てるために、ある大きな棄教的運動の中のあわれな一支流と化してしまいました。そしてこの世界統一宗教とは、いかなる教義、位階制も持ち合わせず、精神の規律も無く、情念に歯止めをかけるものも無く、自由と人間の尊厳の名のもとに(もしもそのような「教会」が立ち行ってゆけるならば)合法化された狡知と力の支配[する状態]ならびに弱者および労苦するものらの圧迫を世界にもたらしてしまうでしょう。」

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ルフェーブル大司教著
『DUBIA 信教の自由に関する私の疑い』

第一章
■ 自由についての一般的考察 「自由」の3つの意味
■ 法とは何か? 法は自由にとって敵なのか?
■ 良心とは何か。行為の実効的規範とは客観的真実のみ。
■ 良心および強制に関する一般的考察:良心を侵すことになるか。法律上の強制についてどう考えるべきか
■ 基本的諸権利とは何か。その限界は?誤謬または道徳的悪に対する権利は存在するか
■ 誤謬または悪に対する消極的権利は存在するか?また、寛容に対する権利は?

第二章
■ 本来の意味での「信教の自由」:人間人格の尊厳は、真理を考慮に入れない自由には存しない。
■ 19世紀の教皇たちはこぞって、いわゆる「良心と諸信教の自由」を排斥した
■ 諸教皇は、何故「良心ならびに信教の自由」を排斥したのか、理由は?
■ 信教の自由とその新たな「根拠」:およびそれへの反駁
■ 真理探求の自由は宗教的自由の根拠となり得るか
■ 宗教無差別主義について確認しておくべき点
■ 信教の自由は人間人格の基本的権利なのか、歴代の教皇様は何と言っているか?
■ 聖書の歴史に見られる、宗教的事柄においての強制
■ 「宗教的事柄における一切の拘束からの免除」としての宗教的自由の是非
■ 「宗教的事柄における一切の拘束からの免除」としての宗教的自由の是非 (つづき)
■ 世俗の共通善、カトリック宗教とその他の諸宗教
■ 真の宗教に対して国家が取るべき奉仕の役割
■ 教会と国家との関係
■ 宗教的寛容
■ 宗教的寛容についての結論

インドでのインカルチャレーション

2007年03月21日 | エキュメニズム関連情報

アヴェ・マリア!

インドでのインカルチャレーション

 聖ピオ十世会の司祭で、インドで働いている神父様から幾つか写真を戴いたので、インドのカトリック教会の状況を紹介したい。


まず、インドの現実を知るために、インドの偶像神の数々を紹介する。


アヌマン(Anuman)




ガネシュ(Ganesh)






ヒンドゥー教の神の一つ





リンガム、シヴァ(Shiva)の男根の象徴



パルヴァティ(Parvathi)、シヴァの妻






下級のヒンドゥーの神々




ヒンドゥー教の人々の顔







ヨハネ・パウロ二世教皇様のインカルチャレーションの模範(??)




カトリック教会は、ヒンドゥー儀式(アルティ aarti)とサンスクリット語を導入するかもしれない。(アアルティは、油に灯心を浸して火を付けて神々に捧げるヒンドゥー教の儀式。ヒンドゥー教のほとんど全ての儀式で必ず行われる。)




ディアス枢機卿
(2006年5月20日より福音化聖省長官 Prefect of Evangelization of Peoples, Roman Curia) ガネシュに火を捧げる。


Cardinal Ivan Dias Burns Incense to a Hindu Deity も参照のこと

Bird’s Eye View of the News







司教様は、司祭とともに額にしるしを受ける。 
















 


ヨガのポーズをとるキリストは、蛇にくるまっている。




インドの或る聖堂でのイエズス・キリスト像





フランシス・バルボザ神父は「キリスト」を踊りで表現する。



Fr. Francis Barboza, SVD, performs liturgical steps of a Hindu dance.
With his feminine make-up and postures, he says that through this new form of inculturalization,
he communicates directly with God and preaches Christ to the people.
Lumiere du Monde, November 1983



インドでのインカルチャレーションの結果、ファチマの聖堂でヒンドゥー教の祈りが捧げられる

Pictures of a Desecration
- Photo report of Hindu ritual at Fatima -
John Vennari


2004年5月5日のファチマ聖堂の涜聖




ファチマの聖堂の主任司祭がヒンドゥー教の儀式を受ける


 主よ、我らを憐れみ給え!  聖母の汚れ無き御心よ、我らを憐れみ給え!


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●新しい「ミサ司式」の批判的研究 (オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ枢機卿)Breve Exame Critico del Novus Ordo Missae
http://fsspxjapan.fc2web.com/pro_missae/ottaviani2.html

●グレゴリオ聖歌に親しむ会
http://sound.jp/gregorio/


霊的なエイズと日本各地でのエキュメニカル礼拝

2007年01月28日 | エキュメニズム関連情報

アヴェ・マリア!


■カトリック新聞より

日本各地でエキュメニカル礼拝
http://www.cwjpn.com/kiji/3892/1p-nihonkakuchi_ecume.htm


 日本キリスト教協議会総幹事の言葉がカトリック新聞には掲載されていた。
「今回は特にHIV/エイズ(AIDS)で苦しんでいる人のことを思いながら祈れて、本当に良かったです」

 

■私はこう考えた。これはすごい皮肉な話だ、と。


 カトリック教会は今現在、『第2バチカン公会議』というエイズに犯されているように思えてならないからだ。何故なら、健康な生物体はどれでも外敵から自分を守る機能をもっている、自分の生命を健康を脅かすウイルスを攻撃し排出する、しかし、エイズにかかるとどれが自分の体を犯すウイルスか、どれが自分の体のためになる生命体か、の区別が付かなくなり、すべての抵抗力を失い、少しのことで死に至ってしまうからだ。

 少なくとも悪それ自体、誤謬それ自体は、教会の敵である。それをキリストの神秘体から排斥しなければならない。そしてそれが教皇の愛の務めである。しかし、教皇様が「だれも教会の敵ではない」(エクレジアム スアム 90ページ)と言ったその瞬間、教会が誰が自分の敵で誰が見方かが区別が付かなくなったようだ。


 エキュメニズムの御旗のもとには、誰でもが友達でなければならない。どのような宗教の「神々」でも尊重しなければならない。それと同時に「カトリック司祭として叙階を受けた神父がカトリック教会で数世紀も何百年も捧げられてきたその聖伝のミサ聖祭を捧げようとすると、或いはカトリック信者が、その教会でその聖伝のミサに与り、跪いて御聖体を拝領しようと望むと、司教が怒りだし厳しい罰則を与え彼らを教会から閉め出している。そしてその同じ司教たちが、寛容とか自由とか多元性とかエキュメニズムとかを私たちに語っている。カトリック教会の外部の人たちには彼らは皆、羽毛のように優しい。カトリック信仰の兄弟、或いは同じカトリック司祭職による兄弟である私たちだけには、刺を立て無慈悲になる。彼らがどれ程私たちのことを厳しく取り扱うことか!彼らが何と酷く私たちのことを厳しく取り扱うことか!」 これがエキュメニズム運動の現実でなくて何であろうか。これは正に、教会が「霊的エイズ」にかかってしまった姿ではないだろうか。


 私たちは、教皇様のために続けて祈ろう。教皇がその偉大な姿を現し、すべての異端を異端とはっきり排斥するために。塩はその味を取り戻し、灯火は覆われていた升を取り除かなければならない。世の光はバチカンの丘の上からこの世を燦然と輝かされなければならないからだ。


 教皇様は、聖ペトロの船であるキリストの教会を2つの柱に結び付けるだろう。一つはミサ聖祭への信心の柱、御聖体の柱だ。教皇様はもう一度カトリックミサをその光栄ある地位におくだろう。昔ながらの信仰の牙城である、ローマ・カトリックのミサを。霊的なエイズの唯一の予防法にして異端に対して有効なワクチンである聖伝のミサは、全てのキリスト教信徒をして完全に天主の十戒の第一戒を守らせてくれるだろう


 もう一つの柱は、聖母マリアの汚れなき御心への信心だ。教皇様は聖母マリアへの汚れなき聖心へロシアを奉献し、現人類は汚れなき聖心に自らを奉献し、聖母を我らの元后と認めるだろう。


 その日、教会はエイズから癒され、何が自分にとっての毒であるかをハッキリ見分けるだろう。その日、教会と全世界に大凪がやってくるだろう。その日、全人類は真理において、イエズス・キリストの聖福音の実りである平和と自由を享受するだろう。


 そして肉体のエイズの唯一の予防法、ただ一つエイズに対して有効なワクチンは性に関する天主の十戒を守ることである、と高らかに宣言するであろう。

 


■教皇様、だから私たちはカトリック教会の変わらない教えを信じます。歴代の教皇様たちの一貫した教えを信じます。

 私たちは、過去の歴代の教皇様たちの変わらない教えを真心から信じ、これをすべて受け入れ、これらとの完全なる交わりの中にいます。私たちは、使徒継承の聖伝のカトリック信仰から断絶することも、切り割かれることも望まないからです。


○ 今、カトリック教会から分離した、互いに相違し一致していない種々の宗派が置かれている状態を正確に考え、黙想するような人は、……これらの同じ諸宗派の中の(カトリックとは)別の或る特定の教会が、またこれらすべての宗派が一つになった結合体が、いかなるやり方でも決して、主キリストが建て形成しそうあるように望まれた、かの唯一なるカトリック教会を形成しえず、また唯一のカトリック教会でありえないこと、またカトリックの一致から目に見える形で分裂していている時、それらが同じカトリック教会の肢体或いは一部であるとはいかなるやり方でも決して言われえないことを、容易に納得しなければならないでしょう。なぜなら、このような諸宗派は、人々に特に信仰と道徳の規律に関することを教え、永遠の救いに関する全てのことにおいて人々を導き指導するために天主から与えられたかの生きた権威を欠き、また、これらの宗派自体はその教説において続いて相違し、同じ宗派におけるその可動性と不安定性は決して止むことがないからです。このことがキリストによって建てられた教会に対立していること、しかも最大のやり方で対立していることを、・・・誰もが簡単に理解するのです。ですから、願わくは、カトリック教会の一致と真理とを持たないすべての人は、この(第一バチカン)公会議の機会を利用しますように。
(すべてのプロテスタントおよび非カトリック者にあてたピオ9世教皇の教皇書簡 Iam vos omnes 1868年9月13日 http://fsspxjapan.fc2web.com/papal/pius9_jam_vos_omnes.html)

 

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●トレント公会議(第19回公会議)決議文
http://fsspxjapan.fc2web.com/tridentini/tridentini_index.html


●第一バチカン公会議 (第20回公会議)決議文(抜粋)
http://fsspxjapan.fc2web.com/vat1/index.html

 

 


日本各地でエキュメニカル礼拝

2007年01月27日 | エキュメニズム関連情報

アヴェ・マリア!


■カトリック新聞より


日本各地でエキュメニカル礼拝
http://www.cwjpn.com/kiji/3892/1p-nihonkakuchi_ecume.htm

 

 21日、日本各地でキリスト教一致祈祷(とう)週間のエキュメニカル(教会一致運動的)礼拝が行われた。東京教区では神田教会で行われ、岡田武夫大司教など約100人が参加した=写真。

 会場となったのは、神田教会。


■「2007年 キリスト教一致祈祷週間」という小冊子を読んで
http://blog.goo.ne.jp/thomasonoda/e/6d3bc13125c9b405025a39b206c04b1a
で言及した「2007年キリスト教一致祈祷週間 小冊子」は、


次↓で読めます。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/news/img/icchi2007.pdf

 

■その他参考リンク
http://www.christiantoday.co.jp/news.htm?id=586&code=mis

 

■しかし、私たちは歴代の教皇様たちの教えを信じます。


○ キリスト・イエズスにおいて兄弟的な交わりをしきりに説く非カトリックの多くは、イエズス・キリストの代理者が教えを説く時には、それに従おうともせず、彼が命じる時、それに従順たろうともしません。しかし彼らは喜んでローマ教会と同じレベルで、同輩の者として話し合おうとするでしょう。しかし、現実には、彼らがもしそうしたとしたら全く疑いもなく彼らは、彼らを今でもキリストの唯一の群れの外に迷わせ放浪させているまさにその誤りを放棄しなくても大丈夫だという考えを持ってしか、いかなる同意をも結ばないでしょう。

 この条件の下では、使徒座はいかなる口実の下であろうとこれらの集いに参加することができず、いかなる犠牲を払ってまでもカトリック信者は、その賛同あるいは行動によってこれらに好意を与えることができないことは一目瞭然です。


 諸教会を連合させようともくろむこれらの汎キリスト教徒は、全てのキリスト者間の愛徳を発展させるという崇高な計画を遂行しているかのように見えます。


 しかし、信仰を犠牲にしてまでの愛徳の増加をどうして想像できるでしょうか。愛徳の使徒である聖ヨハネ自身が、その福音の中で言わばイエズスの聖心の秘密を明かすのですが、そして、互いに愛し合いなさいと新しい掟を信徒たちに絶えず繰り返すこの使徒が、キリストの教えを完全にそして純粋に宣言しない者たちとの全ての関係を一切断て、と言うことを知らない者はいません。


『もしこの教えをもたずにあなたたちのところに来るものがあれば、その人を家にいれず挨拶もするな。(2ヨハネ10)』


 従って、愛徳の土台は真摯で完全な信仰ですから、信仰の一致こそがキリストの弟子たちを一つに結ぶ第一の絆でなければなりません。


 そうならば、信仰に関する問題に於いてでさえ自分独自の見解や思潮を保持しつつ、多大に他人の意見と矛盾していても、キリスト者の間で締結を結ぶ可能性さえ考えられるでしょうか。


 私はあなたたちに尋ねます。一体いかなる信仰表明でもって、互いに矛盾する意見の人々を一つで唯一の連合に結ぶことができるとでも言うのでしょうか


 例えば、或る者たちは、聖伝は啓示の正真正銘の源であると断言し、或る者たちはそれを否定しています。


 或る者は教会の位階制度は天主のみ旨によって、司教・司祭そして他の聖職者から成ると考えますが、他の者たちは位階制度は時代情勢やその時期により少しずつ導入されたと断言します。


 或る者は、全実体変化と呼ばれるパンとブドウ酒のいとも素晴らしいこの変化のお陰で、いとも聖なる聖体において、現実に現存するキリストを礼拝します。他の者たちはキリストの体は、信仰によってか、又は印と秘跡の力によってでしか、そこに現存しないと言います。前者は聖体の秘跡において犠牲と秘跡の本性を同時に認めますが、後者は最後の晩餐の思い出あるいは記念以外の何物をも認めません。


 或る者は諸聖人、とりわけ母なる童貞女がキリストと共に天で君臨していると信じ、従って、彼らを呼び求め、彼らに祈り、彼らの聖画を敬うべきであると信じています。他者はこの崇敬は非合法であり、天主と人との唯一の仲介者であるキリストにふさわしい名誉に反していると言います


 教会の一致が、信仰の唯一の規範と、全てのキリスト者の同じ信仰によらねば生まれえませんのに、これらの意見の深い相違を目前にして、私たちはほとんど教会の一致を見ることができません。


 しかし、それ(意見の相違にも関わらず一致をもくろむこと)によって、人々は宗教をなおざりにする、即ち[どの宗教でも結局は一緒だとする]宗教無差別主義(indifferentism)、あるいは、近代主義(modernism)と呼ばれるものにたどり着くだろうと私たちは良く知っています。これらの誤謬に犯された不幸なものは、「教義上の真理は絶対ではなく、相対的、即ち、真理は時と場所のいろいろな要求に応じて、また霊魂のさまざまな必要に応じて適応しなければならない、何故かというと、教義上の真理は不変の啓示の中に含まれず、その本性からして人の生活に適応しなければならない」と言っています。


 尊敬する兄弟たちよ、それゆえこの使徒座がカトリック信者に、非カトリックの集いに参加することを決して許さなかったのが何故かが理解できただろうと思います。

 キリスト者の一致は、反乱分子がかつで自分たちの不幸にして捨て去ってしまった唯一の真なるキリストの教会に立ち戻るのを促すことによるほか得られません。即ち、誰によっても目に見えることのでき、人々の共通の救いのために主ご自身が創立されたごとくそのまま留まるように、その創立者の意志によってそう定められたキリストの唯一の本当の教会に立ち戻ることです。

 何故かというと、かつて歴史の流れの中で、キリストの神秘的な花嫁は一度も汚されたことが無く、将来にわたってそのようなことが決してないからです。

(教皇ピオ11世 回勅 Mortalium animos 真実の宗教の一致について 1928年1月6日 http://fsspxjapan.fc2web.com/papal/ma.html


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●トレント公会議(第19回公会議)決議文
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●第一バチカン公会議 (第20回公会議)決議文(抜粋)
http://fsspxjapan.fc2web.com/vat1/index.html

 

 


ダブルスタンダード?! 聖伝主義に対する態度とエキュメニズム

2006年11月03日 | エキュメニズム関連情報

アヴェ・マリア!


兄弟姉妹の皆様、


 レオ13世によって不可謬的に(ex cathedra)明らかにされた英国聖公会の司祭叙階が無効であることを信じなければ私たちはどうなってしまうのでしょうか?


 レオ10世教皇は、マルチン・ルターを不可謬的に(ex cathedra)排斥しましたが、それを信じなければ私たちはどうなってしまうのでしょうか?


 「教会の外に救いなし」とする聖会の不可謬の教義を信じなければ私たちはどうなってしまうのでしょうか?



 公教要理にはこうあります。


198 教皇は教会を教導するとき誤ることがありますか。

信仰と道徳に関する決定を下すとき、教皇は不可謬です。


199 何故教皇は不可謬ですか。

教皇が不可謬なのは、イエズス・キリストの御約束と聖霊の絶えまのない援助によります。


200 教皇はどんな場合に誤ることができませんか。

教皇は全教会が受け入れるべき信仰と道徳に関して、全力トリック信者の牧者、教師としての資格と最高かつ教皇の権威をもって、教義を決定するとき、誤りを犯すことはできません。


201 教皇の決定した教義を信じないものは、どんな罪を犯しますか。

教皇の決定した教義を信じない者も、疑いを持つ者も、信仰に反する罪を犯します。また頑固に不信仰の状態にとどまれば、カトリック信者ではなく異端者になります。


202 天主が教皇に不可謬性の恵みをお与えになったのは、何のためですか。

天主が教皇に不可謬性の恵みをお与えになったのは、教会が教える真理を私たちが確信して受け入れるためです。


204 教会は、教皇が不可謬であることを決定することによって、新しい信仰の真理を定めたのですか。

教会は、教皇が不可謬であることを決定することによって、新しい信仰の真理を定めたのではありません。すでに聖書や教会の聖伝の中に含まれていた、教皇の不可謬性についての教えは天主によって啓示された真理であるので、ドグマすなわち信仰箇条として信じなければならないということを、色々な誤った新説に対処するために、決定したにすぎないのです。

 


 ▼教皇様は、新しい信仰の真理を創ることは出来ません。教皇様がこう言ったからこれが真理になるのではなく、これが真理だから教皇様がこれは真理だというのです。


 ▼教皇様は、私たちの主イエズス・キリストの代理者であり、イエズス・キリストの後継者ではありません。新しい教皇様が、過去の教皇様の不可謬に定めた教えと矛盾することを言う場合、私たちは教会の不可謬の教えに従わなければなりません。


 ▼だから、私たちは聖伝に従うのです。カトリック教会の永遠の教導権に従うのです。歴代の諸教皇様の教えに従うのです。歴代の不可謬の公会議の決議に従うのです。


 ▼何故なら、私たちはカトリック信仰をそのまま保ちたいからです。何故なら、私たちは天主の憐れみにより、カトリックとして行き死ぬ恵みを求めているからです。



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