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2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

サンタ・バルバラ(イロイロ)の修練院のブラザーたちと

2010年09月30日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 今日は修練院のブラザーたちとまた司祭たちと一緒にハイキングに出かけました。ミアガオにあるサント・トマス・デ・ヴィリャヌエバ教会も訪問しました。
 休憩中にブラザーに散髪をしてもらいました。

 大変有意義な時が与えられて、天主様に深く感謝します!!

聖母の汚れなき御心よ、我らのために祈り給え!

明日からロザリオの聖月です。沢山のロザリオのお祈りをお願いいたします。

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!!


トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

ローマ公教要理 使徒信経の部 第八条 聖霊を信じます

2010年09月30日 | カトリックとは
第九章

第八条 聖霊を信じます


1 聖霊に対する信仰の必要性とその恵み

 これまでは三位一体の第一と第二のペルソナについて必要と思われるかぎりの説明をして来た。これからは第三のペルソナ、聖霊に関する信経の教えを説明することにしよう。

 キリスト者はこの部分について無知であることはゆるされず、またこれまで述べた箇条ほどにこの箇条を知らなくてもよいとも言えない。したがって司牧者はあらゆる努力と配慮をもってこの説明に当たるべきである。そのため聖パウロもあるエフェゾ人たちの聖霊に関する無知をそのまま放置してはおかなかった(使19:2~7参照)。かれらに聖霊を受けたかどうかを尋ね、かれらが聖霊があることさえ知らないと答えると、かれはすぐに「ではどんな洗礼を受けたのか」と聞いている(使19:2~3参照)。この対話は、この箇条に関する明確な認識が信者にとってきわめて大切であることを示している。その認識をもつことによって、信者は自分がもっているものはすべて聖霊の寛大さと慈愛によることを自覚し、自分自身についてより控え目で謙遜な考え方をもち、また神のお助けにすべての希望を託すようになる。そしてこのような態度は最高の英知と幸福に至るための第一歩である。

2 聖霊という語の意味

 この箇条の説明はまず、ここでいう聖霊という語の意味、内容の説明からはじめるべきである。なぜならこの語は御父と御子についても同様に言うことができ (両者とも霊で〔ヨ24、コ②3:17参照〕、聖なるお方であり〔イ6:3、黙4:8参照〕、私たちは神は霊であると信じている)、また天使(詩104:4、ヘ1:7参照)や義人たちの霊魂(詩104:4、集12:7参照)も同じことばで呼ばれている。

 したがって信者たちがことばのあいまいさから誤解することのないように注意すべきである。この箇条での聖霊という語は第三のペルソナについて用いられている。第三のペルソナは時として旧約聖書でも聖霊と呼ばれ、新約聖書ではひんぱんにそのように呼ばれている。ダヴィドは「あなたの聖なる霊を、私から奪われるな」(詩51:13)と祈っている。知恵の書では、「あなたが、知恵を与えて下さらず、上から聖なる霊が下らなかったら、あなたのみ旨を知るものがあったでしょうか?」(知9:17)と書かれている。また「かれはそれを聖霊において造った」(ヴルガタ訳 集1:9)と言われている。新約聖書では御父と御子と聖霊のみ名において洗礼を授けるように命じられている(マ28:19参照)。また処女マリアは聖霊によって身ごもったと言われている(マ1:20、1:35参照)。洗者ヨハネは、聖霊によって洗礼を授けるキリストのもとへ私たちを送る(ヨ1:33参照)。そのほか多くの箇所にこの語は用いられている。

3 なぜ第三のペルソナは固有の名称をもたないのか

 ところで第三のペルソナが第一、第二のペルソナと同じように固有の名称をもたないことを不思議に思ってはならない。第二のペルソナが子という固有の名称をもって呼ばれるのは、前の箇条で説明したように、御父からのかれの永遠の発出が誕生であるからである。つまりその発出に誕生という語を用いることができるならば、当然、発出したものは子と呼ばれ、発出のもとになったものは父と呼ばれる。さて第三のペルソナの発生には固有の名称はなく、霊発 ( Spiratio ) または発出 ( Processio ) と呼ばれる。そのため発出するペルソナにも固有の名称はないのである。この発出に固有の名称がないとすれば、神について言われる他の名称と同じく被造物から借用せざるをえないのであるが、被造物の間では誕生以外に本性や本質を伝える方法は見当たらない。したがって神が愛によってご自分全部をお与えになる方法に固有の名称を付けることは不可能で、そのため第三のペルソナは聖霊という一般的な名称で呼ばれたのである。この名称が第三のペルソナにもっとも適合していることは、かれが私たちの中に霊的生命を注ぐこと、またこのいとも聖なる霊の霊感がないかぎり永遠の生命を得るためには何もできないことによって分かる。

4 聖霊は神である

 ことばの意味をよく説明したあと、聖霊は御父および御子と同じように神であり、かれらと平等で、またかれらと同様に全能、永遠で、無限に完全なお方であり、最高の善、最高の英知で、またかれらと同一の本性をもっておられることを教えなければならない。この平等性は私たちが「聖霊を信じます」( Credo in Spiritum Sanctum ) と言うときの「を」(訳注:ラテン語では in という前置詞が用いられている。この前置詞は名詞の対格を支配し「の中へ」「に対して」「に向かって」という意味がある ) によって十分表明されている。なぜなら私たちの信仰の活力を表すこの小辞 ( in ) は至聖三位の全部のペルソナのまえにおかれているからである。

 聖書もはっきりと聖霊が神であることを証明している。たとえば聖ペトロは使徒行録で、「アナニアよ、なぜ聖霊をいつわり、畑の代金をかくすほど、あなたはなぜ、サタンで心を満たしたのか」(使5:3)と尋ね、続けて「あなたは人をいつわったのではなくて神をいつわったのだ」(使5:4)と言っている。かれはまず聖霊と言い、そのあとすぐに聖霊を神と呼んでいる。聖パウロもコリント人への書簡の中で聖霊を神と呼んでいる。「働きは異なるが、すべての人にすべてを行われる神は同じである」(コ①12:6)と言い、そのあと、「これらすべてのことは、唯一の同じ霊が行うことであって、霊がおぼしめしのままに、おのおのに分け与えるのである」(コ①12:11)と付け加えている。さらに聖パウロは使徒行録で、預言者イザヤが神のことばとして伝えているものを聖霊のことばであるとしている。イザヤはこう言っていた。「私は、こういわれる主のみ声を聞いた、『だれを送ろうか?だれが、私たちのかわりに行くだろうか?』。私は答えた、『私がいます、私をお送りください』。主はおおせられた、『行って、その民にこう言え、耳をかたむけて聞け、だが、わかるまい、その目で見よ、だが見えまい』」(イ6:8~9)。聖パウロはこのことばを引用するに当たって、これは「イザヤ預言者の口をかりて聖霊があなたたちの先祖におおせられた」(使28:25)と言っている。

 また聖書は聖霊のペルソナを御父と御子のペルソナと並べて、御父と御子と聖霊のみ名において洗礼を授けるように命じているが(マ28:19参照)、このことからしても今述べている奥義の真実性を疑うことはできない。なぜなら御父が神であり、御子が神であるならば、かれらと対等にあがめられる聖霊もまた神であると言わざるをえないからである。

 さらにある被造物の名において洗礼を授かったとしても、それによって何の恵みも受けることはできない。聖パウロも、「あなたたちは、パウロの名によって洗礼を受けたのか」(コ①1:13)と言っているが、ここでかれはそのような洗礼は救いのために何の役にも立たないことを言おうとしているのである。したがって私たちが聖霊の名において洗礼を授かることからも、聖霊は神であると結論すべきである。

 聖霊の神性を証明するこのような三つのペルソナの組み合わせは聖ヨハネの書簡にも出ている。「天においては、御父とみことばと聖霊この三つは一致する」(ヨ①5:7)。このことはまた詩篇や聖務の終わりにとなえる、「願わくは父と子と聖霊とに栄えあらんことを」という栄誦にも示されている。

 最後に、この真理の最大の証明は、私たちが神に固有のものと信じている事柄を聖書が聖霊にも帰していることである。「あなたたちの体は、その内にある神から受けた聖霊の聖所であって、自分のものではないと知らないのか」(コ①6:19)。また「聖とする」(テ②2:13、ペ①1:2)、「生かす」(ヨ6:63、コ②3:6)、「神の深みまですべてを見通す」(コ①2:10)、「預言者を通して語ること」(ペ②1:21)、「どこにでも現存すること」(知1:7参照)を聖霊に帰しているが、これらはすべて神についてのみ言われるはずのものである。

5 聖霊は第三のペルソナである

 さらに聖霊は神であり御父および御子と同一の本性をもっておられるが、しかしかれらとは区別された第三のペルソナであること、神の意志によって発出したものであることを信者に入念に教えなければならない。聖書によるとほかの証明は省くとしても、私たちの主が教えられた洗礼のことば(マ28:19参照)は聖霊が神の本性をもった自立者であり、他のペルソナから区別された第三のペルソナであることをはっきりと教えている。またこのことは聖パウロのつぎのことばにも示されている。「主イエズス・キリストの恩恵、神の愛、聖霊の交わりが、あなたたち一同とともにあるように」(コ②13:13)。

 しかしその最大の証明は第一コンスタンティノープル公会議がマケドニア派の不敬虔な愚かさを論破するために決議したつぎのことばである。「また、主であり、生命を与えたもう聖霊を信じます。聖霊は御父と御子より発し、御父と御子ともに同じく礼拝と栄光を受け、預言者を通じて語られた」。(DS 150 “Et in Spiritum Sanctum, Dominum et viviticantem qui ex Patre Filioque procedit, qui cum Patre et Filio simul adoratur (coadoratur) et conglorificatur, qui locutus est per prophetas.”)

 教父たちは聖霊を私たちの主と呼んでいるが、これによって聖霊が神から創造されたすぐれた霊つまり天使にどれほどまさっているかを表明している。聖パウロによると、すべて「天使たちは、救いの世嗣ぎになろうとする人々に奉仕するために、おくられた奉仕の霊ではないか」(ヘ1:14)。また教父たちは聖霊を「生命を与えるもの」と呼んでいる。体は霊魂に結ばれることによって養われ維持されるが、それ以上に霊魂は神との一致によって生かされる。そして聖書によるとこの霊魂と神との一致は聖霊の働きによるもので、そのため聖霊は「生命を与える霊」と呼ばれているのである。

6 聖霊は御父と御子から発出する

「父と子より出(い)で」ということばについては、聖霊は御父と御子を一つの源として永遠の発出によって出たことを説明しなければならない。これは教会が信ずべき教義として決定したもので、聖書と公会議の教えに基づいており、信者はこれをないがしろにすることはできない。実際、主キリストは聖霊について、「またかれは私に光栄を与える。なぜならかれは私のものを受けるからである」(ヨ16:14)とおおせられている。聖霊が御父と御子から発出することは、聖書が時として聖霊をキリストの霊と呼び(使16:7、ペ①1:11参照)、また御父の霊と呼んでいることからも分かる。また聖霊はあるいは御父からおくられると言われ、あるいは御子からおくられると言われているが、これは明らかにかれが御父と御子から同様に出ていることを意味している。

 聖パウロは、「キリストの霊をもたないものはキリストのものではない」(ロ8:9)と言っている。またガラツィア人への書簡では聖霊をキリストの霊と呼び、「『アッバ、父よ』と叫ぶみ子の霊を、神が私たちの心に遣わされた」(ガ4:6)と書いている。マテオ福音書では御父の霊と呼ばれている。「話するのはあなたたちではない、あなたたちの内にある、父の霊が話してくださる」(マ10:20)。

 またキリストは最後の晩さんでこうおおせられた。「私が父からあなたたちにおくる弁護者、父から出る真理の霊が来るとき、それが私について証明するであろう」(ヨ15:26)。また他の箇所では、聖霊は御父からおくられる、と言われている。「父は私の名によって聖霊をおつかわしになる」(ヨ14:26)。これらのことばは聖霊の発出について述べたもので、かれが御父と御子から発出していることは明らかである。以上が聖霊について信じなければならない事柄である。

7 聖霊の働きとたまもの

 つぎに、聖霊の感嘆すべき働きは何か、また永遠の慈愛の泉のような、かれから流れ出る豊かなたまものにはどのようなものがあるかを証明すべきである。神ご自身以外のものに対する三位一体の働きは三つのペルソナに共通である。しかしそのような働きのうち聖霊に固有のものとされるものが多くあるが、それはこれらの働きが神の無限の愛から来ることを示している。実際、聖霊はいわば愛に燃えさかる神の意志から発出するのであるから、聖霊に固有の働きが私たちに対する神の無限の愛から来ていることは容易に分かる。

 そのため聖霊は「たまもの」と呼ばれる。たまものという言葉は、好意によって無償で何らの報酬も期待せずに与えられるものを意味する。したがって、神がお与えになったすべてのたまものや恩恵(聖パウロは、私たちがもっているものでもらわなかったものがあるだろうか、と言っている〔コ①4:7参照〕)は、聖霊の同意と好意によるものであることを敬虔と感謝の心でもって認めなければならない。

8 聖霊はどのような働きをされるか

 聖霊は多くの働きをされる。世界の創造(ヨブ33:14、詩33:6参照)、被造物の繁殖およびその支配については第一条ですでに述べたので省くとして、そのほか、生命を与える働きが聖霊に固有のものとして帰せられていることについては、今しがた述べたばかりである。これについてエゼキエルは「私が息を与える、そうすれば、あなたたちは、いのちを取り戻し、私が主であることを知る」(エ37:6)と証言している。

 イザヤは聖霊に固有のおもな働きをつぎのように列挙している。「知恵と分別の霊、賢慮と強さの霊、知識と主へのおそれの霊」(イ11:2)。これらは聖霊のたまものと呼ばれ、時として聖霊とも呼ばれている。そのため聖アウグスティヌスは賢明にもつぎのように指摘している。つまり聖書で聖霊ということばに出会うとき、それが三位一体の第三のペルソナを指しているのか、あるいは聖霊の業と効果を指しているのかを見分けなくてはならない。なぜならこの二つは、創造主と被造物とが違うように互いに違っているからである。(D. August lib. 15. de Trinit. cap. xviii. 19.)

 これらの聖霊たまものによってキリスト教的生活のあるべき姿を実現し、またこのたまものを通じて実際に聖霊が私たちの中に現存しておられるかどうかを知るのであるから、これについては一層入念に説明しなければならない。
 これらのすばらしいたまもののほかに、私たちを義化し、私たちの世嗣ぎの手金である約束の聖霊をもってしるす恩恵(エ1:13~14参照)について教えなければならない。実際、もっとも緊密な愛のきずなをもって私たちの心を神に結び付け、こうして最大の信仰の努力をもって新しい生活をはじめさせ、神の本性にあずかるものとし(ペ②1:4参照)、神の子と呼ばれ(ヨ①3:1参照)、また実際に神の子にするのは、この恩恵である。


イロイロの修練院にて

2010年09月29日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 今朝はイロイロの修練院にて大天使聖ミカエルの荘厳ミサがありました。その中で、ブラザーたちの誓願式がありました。

 8名の司祭らが集いました。アジア管区長のクチュール神父様、インドのボンベイ(ムンバイ)の修道院長のファイファー神父様、イロイロの修練院長ダニエルス神父様、オルティス神父様、サルバドル神父様、カチョ神父様、ホラ神父様などと大変有意義な時を過ごしました。

 マニラでも、今日は荘厳ミサがあって、聖ミカエルの祝日を盛大に祝いました。明日は、愛するブラザーたちと一緒に時を過ごし、マニラに戻る予定です。

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!!

大天使聖ミカエルよ、我らのために祈り給え!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

ローマ公教要理 使徒信経の部 第七条 主は生ける人と死せる人とを裁くために来られる

2010年09月29日 | カトリックとは
第八章

第七条 主は生ける人と死せる人とを裁くために来られる


1 キリストは教会に三つの役務をお与えになった

 主イエズスはご自分の教会を称揚し栄光あらしめるために、あがない・弁護・審判という三つの役務と役割をお果たしになる。これまでの説明で、かれが御死去と御復活をもって人類をあがなわれたこと、また御昇天によって永久に私たちの弁護を引き受けられたことは明らかになったので、この箇条ではかれの審判について述べることにする。第7条の意味内容は、主キリストが終わりの日に全人類をお裁きになるということである。

2 キリストの二度の来臨

 聖書はキリストが二度来臨すると教えている。最初は私たちの救いのために肉体をとり処女の胎内で人となられた時であり、二度目は世の終わりにすべての人を裁くために来られる時である。聖書は第二の来臨を「主の日」と呼んでいる。これについて聖パウロは、「主の日が、夜の盗人のようにくるものである」(テ①5:2)と言っている。

 救い主ご自身も、「その日、その時を知る人は一人もいない」(マ24:36)とおおせられた。なお最後の審判については、つぎの聖パウロのことばで十分明らかであろう。「私たちはみな、キリストの審判の前で、正体をあらわし、おのおのがその体で行ったことの善悪にしたがって、報いを受ける」(コ②5:10)。聖書にはこのような証言が豊富にあり、どこにでも見出すことができるので、司牧者はそれを用いてこのことを証明し説明できるであろう。

 聖書によると、人類は世の初めから主が肉をおとりになる主の日を待ち望んでいたが、それはこの奥義によって自分たちが解放されるのを期待していたからである。そして私たちはいま神の御子の御死去と御昇天のあと、「幸福な希望と、偉大な神であり、救い主であるイエズス・キリストの光栄のあらわれを待ちつつ」(ティト2:12)、第二の、主の日を熱心に待ち望んでいるのである。

3 すべての人は審判者キリストによって裁かれる

 司牧者はこの箇条の説明に当たって、つぎの点に注目しなければならない。私たち一人一人は主のみ前に出てそれぞれの考え、行い、ことばすべてについて清算し、その場で審判者の判決を受け、そしてそれは二度行われるということである。

 最初の審判は各自が死ぬ時に行われる。死ぬとすぐに神の裁判所に出頭し、そこですべてのことつまり行ったこと、言ったこと、考えたことすべてについてもっとも公正な裁きを受ける。これは私審判と呼ばれる。第二の審判は、すべての人が同一の日時・場所で一緒に審判者の前に立ち、全人類が見ききする前で各自それぞれの判決を言い渡される。このような判決の仕方は、不信仰者や罪人にとってはどうでもよいような責め苦ではないはずであり、また一方、信仰者や義人にとっては、各自の生涯の業が現されるところから取るに足りないほど小さな報いではないはずである。この裁きは公審判と呼ばれる。

4 私審判があるのに公審判が必要なわけ

 各自のための私審判があるのに、なぜさらに全人類のための審判があるのか、その理由を説明しなければならない。

 往々にして人は死んだあと、両親は自分たちを模倣する子供たちを残し、また残された弟子は師の手本・教え・行動をまね遵守していく。このことによって死者の報賞や罰が増減するのは当然である。さてこのように多くの人々に及ぼすよい影響あるいは悪い影響は世の終わりまで続くものであり、それらすべての正しい言行あるいは誤った言行について徹底的に糾明することは正しいことである。そしてこのことは全人類共通の審判によってはじめて可能である。

 またしばしば信仰者の評判はそこなわれ、不信仰者が正義の味方として賞賛されることがあるが、神の正義は、信仰者が不当に奪われていた尊敬を全人類が募集した公の審判で回復させるのである。

 つぎに善人も悪人も存命中にしたことは体を使ってしたのであるから、当然、善行あるいは悪行は行為の道具であった体にも帰せられる。したがって霊魂と一緒に体にもそれ相当の永遠の報賞や責め苦が課されるのはしごく当然のことである。そしてこのことは全人類が復活したあとの公審判によってはじめて実現可能である。最後に逆境も順境も時として善人、悪人の差別なしに起きるが、それでも全ては神の無限の英知と正義に司られていることをすべての人に明らかにすべきである。そのため、ただ善人に報酬を与え悪人に罰を課するだけでなく、公審判をもってそれを決定するのである。また時として聖人たちさえも悪人が富と栄誉に恵まれているのを見て、嘆いたり不満をもったりすることがあるが、しかし公審判の結果、人々はみな神の正義と摂理を賛美するようになるのである。預言者ダヴィドは、「私の足は危うくつまずきかけた。危うく私の足はすべりかけた。それは、私が、愚かものを、罪人の栄えを、うらやんだからだった」(詩73:2~3)と言い、その少しあとでは、「罪人とはこんなもの。いつも平和で財を積む。それなら、私が心を清く保ったのは、無駄だったのか、私が手を潔白にしたのも。私は、日々、打擲(ちょうちゃく)され、朝ごとに罰を受けた」(詩73:12~14)と言っている。しばしば多くの人が、このような不満をもっている。

 したがって、神は天の四方を歩きまわり地上のことにはかまわれないと言われることのないためにも(ヨブ22:14参照)全般的な裁きが必要であった。そのため公審判に関する教えが私たちの信仰の十二箇条の一つに数えられていることはもっともなことで、神の摂理と正義について迷っている人々の心は、この教義によって固められるであろう。

 さらに、この審判があることを知って信仰者は慰められ、不信仰者は恐れをなし、前者は神の正義を知ってこれに背かないようにし、後者は永遠の罰を予見し恐れて悪から遠ざかるようになるであろう。

 そのため救い主は最後の日について述べながら、いつか公審判が行われることを予告し、それに先立つしるしを教え、世の終わりの近いことを知るようにされた(マ24:29~51参照)。

 また主は御昇天のとき天使をお送りになったが、この天使は主の不在を悲しむ使徒たちを慰めてこう言った。「今あなたたちを離れて天に昇られたあの同じイエズスは、天に行かれるのをあなたたちが見たように、またそのようにしておいでになるであろう」(ヨ使1:11)。

5 キリストは神としてまた人として人類をお裁きになる

 聖書によるとキリストは神としてだけでなく人としても人類を裁く権能を与えられている。裁く権能は三位一体の三つのペルソナに共通のものであるが、英知が御子について言われるところから、とくに御子に帰せられる。キリストが人としてもこの世を裁かれることは、かれのつぎのことばによって確認できる。「父が命を左右されるように、子にも左右させ、こうして、父はかれを最高の審判者とお定めになった、かれは人の子だからである」(ヨ5:26~27)。

6 なぜ審判は御父と聖霊には帰せられないのか
 
 この審判を主キリストが行うことはきわめてふさわしいことである。なぜならこの審判は人間を裁くものであり、したがって人間が自分の体の目をもって審判を見、耳をもって読み上げられる判決を聞き、はだでその審判を感じるようにしなければならないからである。

 さらに人としてのキリストは人々の全く不当な判決によって死刑にされたが、そのかれが今、すべての人々の面前で全人類を裁く審判者の席につくことは至当なことである。そのため聖ペトロはコルネリオの家でキリスト教の概要を述べ、キリストがユダヤ人から十字架に付けられて殺され三日目に復活されたことを教えたあと、つぎのように付け加えている。「そして、生きているものと死んだ者との審判者として神に定められたのは自分であることを、人々に証明し宣言せよと、私たちにお命じになりました」(使10:42)。

7 公審判が近いことを示すしるし

 聖書は公審判に先立って現れる主なしるしとして、全世界に及ぶ福音の宣教、棄教、反キリストの三つをあげている。実際、主はつぎのようにおおせられた。「み国のこの福音が、全世界にのべ伝えられ、諸国の人々に対して証明されるとき、そのとき終わりが来る」(マ24:14)。また聖パウロは、私たちが主の日が間近にあると考えて惑わされることのないように忠告を与え、「それよりさきに、棄教のことがあり、罪の人が……現れるまで〔主の日は来ない〕」(テ②2:3~4)と言っている。

8 どのようにして審判は行われるか

 さて審判の形式および方法については、司牧者はダニエルの預言(ダ7参照)、福音書(マ24~25、マル13参照)、聖パウロの教え(テ①4:13~5:11参照)から容易に知ることができるであろう。

 つぎに、審判者が言い渡す判決についてくわしく検討することにしよう。救い主キリストは右側に立っている信仰者に喜びに溢れるまなざしを注ぎながら、最大の慈愛をこめてつぎのような判決を言い渡す。「私の父に祝された者よ、来て、世のはじめからあなたたちのために準備されていた国を受けよ」(マ25:34)。このことばを不信仰者の断罪のことばと比較するとき、これ以上喜ばしいことばはありえないことが分かる。このことばは、敬虔で正しい人々を労苦から安息へ、涙の谷から最高の喜びへ、悲惨からかれらが愛の業をもってかち得た永遠の至福へと導くのである。

9 不信仰者に課せられる罪

 そのあとキリストは左側に立っているものに向かって罪を宣告し、つぎのように言い渡す。「のろわれた者よ、私をはなれて、悪魔とその使いたちのために準備された永遠の火にはいれ」(マ25:41)。「私を離れよ」ということばは不信仰者に課せられる最大の罰を示すもので、これによってかれらは神のみ前から退けられ、あれほどの善をいつか享有できるという慰めも完全に奪われるのである。神学者たちはこの罰を永罰( Poena damnationis ) と呼んでいる。このように呼ばれるのは、地獄に落とされた不信仰者は神を見るための光を永遠に奪われるからである。

 つぎに、「呪われたものよ」と言われているが、これはかれらの苦痛と不幸を一層ますことばである。実際、もし神がご自分のみ前からかれらを追放するに当たって、少なくともいくらかの祝福を与えるならば、かれらはそれによってどれほど慰められることであろう。しかしかれらの苦痛を軽くするようなものは何も期待できず、むしろかれらは追放される身である以上、神の正義によってあらゆる呪いをあびせられるのは当然である。

10 感覚の罰 (Poena sensus) と、悪魔との同居

 つぎに、「永遠の火に入れ」と言われる。このことばはもう一つの罰を示すもので、これは紐むちや革むちおよびその他の刑具による責め苦のように体の感覚に感じられるところから、神学者たちは感覚の罰と呼んでいる。しかしあらゆる責め苦のうちもっとも苦痛を感じるのは火による責め苦で、その上この責め苦が永遠であることを考えるならば、断罪された人々の苦しみがあらゆる苦しみを超えるものであることはたしかである。

 このことはさらに、判決の最後にある、「悪魔とその使いたちのために準備された……」ということばで一層明らかにされている。私達は不幸に出会うとき、友だちや同じ不幸にある人々と一緒にいることによってかれらの心づかいや親切さにいくらか支えられ、どんな苦しみも実際よりは軽く感じるものである。しかしこれほどの苦しみの中にありながら、この極悪の悪魔との交わりを強いられ、そこから抜け出すことのできない断罪された人々の悲惨さはいかばかりであろうか。とはいえ私たちの救い主による判決は正しい。それはかれらが信仰者としてなすべきあらゆる業を怠ったからである。かれらは飢え渇いている人々に食べ物、飲み物を与えず、旅人を宿らせず、裸の人に服を着せず、病人や囚人を見舞わなかったからである (マ25:42~43参照) 。

11 審判の内容についてしばしば信者たちに教えること

 以上のことを司牧者はひんぱんに信者たちに教え理解させなければならない。この箇条の真理を固く信じることによって、心の悪い傾きを抑制し人々を罪から遠ざからせるための大きな力が与えられるからである。そのため集会の書では、「あなたは、どんな行いをする時も、自分の最期を思え、そうすれば罪をおかさないだろう」(集7:36)と言われている。さらにどんな向こう見ずな罪人でも、審判者の中でもっとも公正な審判者のみ前に出て、自分の行いやことば、またごくひそかな思いについても清算し、それにふさわしい罰を受けなければならないと考えるとき、信仰生活に引きもどされないものはいないであろう。

 一方、義人はますます聖徳を積むよう励まされるであろうし、また貧しさ、屈辱、苦悩の中にあっても(この世での苦しい戦いのあと) 並居る全人類の前で勝利者としての天の祖国に迎えられ永遠の栄誉を受ける日のことを考え、必ずや、えもいわれぬ喜びに満たされることであろう。したがって司牧者は信者たちを励まし、最良の生活決算書を提出できるよう、あらゆる信仰の業にはげみ、こうして深い心の平和のうちにまた子として当然もつべき期待をもって、あの偉大な主の日の到来を待つことができるようにすべきである。


イロイロ(フィリピン)にて

2010年09月28日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 私はただいま、フィリピンのイロイロの修練院に来ています。明日、聖ピオ十世会のブラザーたちの誓願式があるからです。また、イロイロの修練院長神父様や、アジア管区長神父様との会合があるからです。

 大天使聖ミカエルよ、我らのために祈り給え!

 聖母の汚れなき御心よ、我らのために祈り給え!

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

ローマ公教要理 使徒信経の部 第六条 天に昇りて全能の父なる天主の右に座し

2010年09月28日 | カトリックとは
第七章

第六条 天に昇り全能の父なる神の右に座し


1 この箇条の重要性とその前半の内容

  神の霊に満たされた預言者ダヴィドは、主の喜ばしい栄えある御昇天を前もってながめ、この勝利を最大の喜びと歓喜をもって祝うようすべての人に呼びかけ、つぎのように歌っている。「すべての民よ、手を拍ち、声をあげて、神に歓呼せよ。神は歓呼のうちに、主は角笛の喚声のうちに、上られた」(詩47:1、47:6)。したがって司牧者は最大の努力をかたむけてこの奥義を説明し、信者たちがこの奥義を信仰と心で把握するだけでなく、神の助けのもとにできるだけ行動と生活をもってそれを表すよう、入念に配慮しなければならない。
 第六条の説明について言うと、この箇条はとくに神的な奥義を取り扱っており、司牧者はまずその前半の意味と内容の説明からはじめなければならない。信者たちはキリストについて、つぎの点を固く信じなければならない。かれは私たちのあがないの奥義を完成し、なしとげられたあと、人間として、御霊魂、御体ともどもに天に昇られた。とはいっても、神としてのかれはその神性によってすべての場所に現存しておられるので、決して天国に不在であったわけではない。

2 キリストの昇天は神的な力だけでなく、人性の力にもよる

 キリストは、エリアが火の車に乗って昇天したように(列②2:11参照)、あるいは預言者ハバクク(ダ14:36参照)や助祭フィリッポ(使8:39参照)が神の力によって遠くまで空中を運ばれたように、他人の力によってではなく、ご自分の力で昇天されたのである。さらにかれは神として神の力をもって昇天されただけでなく、人間としても昇天されたのである。それは自然的な力では不可能であるが、ご自分の至福な霊魂に備わっていた力によってお望みのままにその御体を動かすことができたのである。また御体はすでに栄光を帯びており、霊魂の動かすままにそれに容易に従っていた。そのため私たちは、キリストが神としてまた人としてご自分の力で昇天されたことを信じるのである。

3 「御父の右に座す」とは何を意味するか

 第六条の後半では「御父の右に座し」と言われている。ここでは、聖書でひんぱんに用いられる比喩、つまり私たちの理解を助けるために人間の心情や肢体を神にあてはめて言う、意味変更が行われていることに注意すべきである。神は霊であるので、かれには形のあるものは何もありえない。しかし人間社会である人を右にすわらせることは、その人に敬意を表することを意味するところから、それを超自然的なことにあてはめ、キリストが人としてすべての人にまさってもっておられた栄光を表すため、かれは御父の右にすわられたと告白するのである。

 したがって「座す」ということは、ここでは体の姿勢や態度を意味しているのではなく、キリストが御父から受けた王としての最高の権能と栄光をたしかにまた永続的にもっておられることを意味している。それについて聖パウロは、「神は、……かれを死者の中からよみがえらせ、天においてご自分の右にすわらせ、一切の権勢と能力と勢力と主権、この世ばかりでなく、来世に、たたえられるすべての名の上にかれを置かれた」(エ1:20~21)と言い、また、「万物をかれの足の下に置かれた」(エ1:22)とも言っている。これらのことばから、この栄光は他のいかなる被造物ももつことのできない、主キリストに固有の特別なものであったことが分かる。そのため聖パウロはほかのところで、「神はどんな天使について、『……私の右にすわれ』とおおせられたであろうか」(ヘ1:13)と言っている。

4 キリストの御昇天についてしばしば教えること

 司牧者は福音書記者ルカが見事な筆致で使徒行録に書きまとめている御昇天の物語をもとに(使1参照) 、この箇条の意味をさらにくわしく説明しなければならない。その説明に当たってまず、他のすべての奥義は昇天をいわばその目的としており、それによってはじめてすべては完成し終了することに注目させるべきである。私たちの宗教の全奥義は主の御託身にはじまり、私たちの問いにおけるキリストの滞在は昇天で終わるのである。

 さらに、主キリストに関する信経のほかの箇条はかれの謙遜と自己卑下とを示している。実際、神の子は私たちのために人間性とその弱さをお引き受けになり苦しみ、死のうとされたが、これ以上、低く卑しむべきことは考えられない。第五条ではかれが死者の中から復活されたと言い、そしてこの第六条ではかれが天に昇り御父の右にすわられたと宣言するのであるが、これはかれの最高の栄光と神的尊厳を称賛するための最良の表現である。

5 キリストはなぜ、その王国を地上に定めず昇天されたのか

 つぎに、なぜ主キリストは天にお昇りになったのか、その理由を入念に説明しなければならない。その第一の理由は、復活によって不滅の栄光を帯びたかれの御体にはこの地上の暗い住まいではなく天の輝かしい崇高な住まいがふさわしかったからである。キリストが昇天されたのはまた、ご自分の御血をもって獲得した王座とその栄光を受け取るためであり、さらに私たちの救いについて配慮されるためでもあった。

 キリストが昇天されたもう一つの理由は、かれの王国がこの世のものではないことを証明するためであった(ヨ18:36参照)。

 この世の王国は地上的なもの過ぎ去るもので、富と剣によって保たれている。しかしキリストの王国は、ユダヤ人が待っていたような地上的なものではなく、霊的な永遠の王国である。またキリスト御自身、御自分の玉座を天に定めることによって、その王国の宝と富とは霊的なものであることをお示しになった。つまりその王国では、神のことを熱心に求めるものが金持ちであり、多くのものを溢れるほどに所有するのである。聖ヤコボが証言しているように、「神は世の貧しい人々を選んで信仰に富ませ、神を愛するものに約束されたみ国の世嗣ぎとされた」(ヤ2:5)のである。

 またキリストは昇天されることによって、私たちが思いと望みをもって、昇天する御自分の後に続くようにされた。キリストは御自分の死と復活をもって霊的に死に、復活するための手本を示されたが、それと同じように、その昇天をもって、地上にある私たちがこの世では他国人で旅人にすぎず(ヘ11:13参照)、祖国を捜し求める聖徒たちの同市民、神の家族であることを認め(エ2:19参照)、思いを天にはせるように教え、さとされたのである。実際、聖パウロが言っているように、「私たちの国籍は天にある」(フィ3:20)のである。

6 主の御昇天によってもたらされた恵み

 神がご慈愛をもって私たちに注いでくださった、説明しがたいほどの恵みの内容とその大きさについて、聖なるダヴィドはずっと以前にこう歌っている。「あなたは丘に上がり、捕虜を手に入れ、人を貢として受けられた」(詩68:19)。あとになって聖パウロはこのことばに説明を加えている(エ4:8参照)。

 実際、主は、「私が去るのはあなたたちにとってよいことである。私が去らないなら、あなたたちには弁護者が来ないからである。しかし去れば、それをおくる」(ヨ16:7)とおおせられて、聖霊をおくることを約束されたが、御昇天後十日目に聖霊をおくり、その力と豊かさとをもって現在の信者の群をつくりあげ、こうしてあのすばらしい約束を実現されたのである。

 聖パウロによると、キリストが昇天されたのは私たちのために神のみ前において弁護者の務めを果たすためであった。(へ9:24参照)。聖ヨハネは、「小さな子らよ、私がこれらのことを書くのは、あなたたちに罪を犯させないためである。だが罪を犯す人があるなら、私たちはおん父のみ前に一人の弁護者をもっている。それは義人のイエズス・キリストである。かれは、私たちの罪のためのとりなしのいけにえである」(ヨ①2:1~2)と言っている。このように永遠の御父のみ前に最大の寵愛と勢力をもっておられるイエズス・キリストが私たちの弁護者になられ、また私たちの救いの嘆願者となられたのであれば、私たちにとってこれ以上の喜びはない。

 つぎにキリストは、私たちに約束しておられた場所を準備された(ヨ14:2~3参照)。そして私たち全部の名において私たちの頭として、天の栄光に入られたのである。

 さらにかれは天に入ることにより、アダムの罪によって閉ざされていた門を開き、また最後の晩餐のとき弟子たちに約束されたように(ヨ14:3参照)天の至福に至る道をお示しになった。そしてその約束を事実をもって証明するため、敬虔な人々の霊魂を古聖所から連れ出しご自分と一緒に永遠の至福の住まいに伴われたのであった。

7 キリストの御昇天によってもたらされる利益

 主の御昇天は、これらの感嘆すべき豊かな超自然的救いの恵みのほかに、つぎのような一連の利益をもたらした。まず御昇天は私たちの信仰の頂点である。信仰は、目に見えずまた人間の聖性や知性を超える事柄について言われるのであるが、もし主が私たちのもとから去らなかったとしたら、私たちの信仰に大した功徳はなかったであろう。主キリストが、「見ずに信じる人は幸いである」(ヨ20:24)とおおせられているとおりである。

 さらにキリストの御昇天は私たちの希望を強めるために大切であった。人間キリストが昇天されたこと、また人間としてのキリストが御父の右に座しておられることを固く信じておればこそ、かれの肢体である私たちもまた天に昇り私たちのかしらと再会するという大きな希望をもつのである。主ご自身このことを証明して、「父よ、あなたがお与えくださった人々が、私のいる所に私とともにいることをのぞみます」(ヨ17:24)とおおせられている。

 最後に、主の御昇天が私たちにもたらしたいま一つの利益は、私たちの愛を天に向けさせ聖霊の火をもって燃やしたことである。私たちの宝のあるところに私たちの心もあると言われているとおりである(マ6:21参照)。

8 キリストが地上にとどまり続けることは有益ではない

 たしかに、主キリストが地上にとどまっておられたならば、私たちの考えはすべて人間としてのかれとその生活態度に限られてしまっていたことであろう。そしてかれを私たちに好意的であった人としてだけ見、かれに対してある自然的な好意を抱くだけに終わっていたかもしれない(コ②5:16参照)。しかしかれは昇天されることによって私たちの愛を霊的なものにし、また今は不在であるかれについて考えるとき、かれを神としてあがめ愛するようにされたのである。これについては、主のご在世中かれに対して人間的な判断しか持たなかった使徒たちの例があり、また主御自身も、「私が去るのはあなたたちにとってよいことである」(ヨ16:7)と証言しておられる。実際、ご在世中のキリストに対する使徒たちの愛は不完全で、神の愛である聖霊の降臨によって完成される必要があった。そのため主はすぐにことばをついで「私が去らないなら、あなたたちには弁護者が来ないからである」(ヨ16:7)とおおせられている。

9 キリストの御昇天後、教会は大発展をとげた

 またキリストは昇天されることによって、地上のご自分の家つまり聖霊の力と導きをもって治められる教会を発展させた。そして人々のもとに、牧者、最高のかしらとして、使徒たちのかしらであったペトロを全教会の上にお立てになった(ヨ21:15~17参照)。また「ある人を使徒にし、ある人を預言者にし、ある人を福音者、ある人を牧者と教師にされた」(エ4:11、コ①12:28参照)。そして御父の右に座しながらそれぞれ異なったたまものを常にお与えになるのである。聖パウロは、「私たちはキリストの賜のはかりにしたがって、おのおの恩恵を受けた」(エ4:7)と言っている。

 最後に、信者たちはキリストの御死去と御復活の奥義について述べたことを御昇天にもあてはめて黙想すべきである。私たちの救いとあがないは、天国の門を開いたキリストの御受難の御功徳によるとはいえ、かれの御昇天もまた私たちの模範として私たちの霊魂を高く上げ、霊によって天国に昇ることを学ばせるだけでなく、実際に私たちの昇天を可能にする神的力を与えるのである。


天主様に感謝!

2010年09月27日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

如何お過ごしでしょうか?
 大坂と東京での聖伝のミサは、天主様のお恵みで喜びと感謝と聖寵でいっぱいでした。天主様に感謝します!!

 東京の主日の聖伝のミサは、34名が参加しました。聖体拝領は31名でした。お身体の都合でミサ聖祭に与れない愛する兄弟姉妹の皆様が数名いました。

 今日の朝7時の聖伝のミサは、10名でした。天主様に感謝!

 来月は、いつも通り、後ろから二番目の主日に聖伝のミサがあります。愛する兄弟姉妹の皆様のお祈りを感謝しております。

 明日28日からロザリオの聖母マリアの祝日の準備のノベナが始まります。良いロザリオの聖月をお過ごしください。

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
追伸


アヴェ・マリア!

 今朝3時頃、東京で地震があって目が覚めたのですが、あれは、本当に地震だったのでしょうか?

聖母マリアよ、我らのために祈り給え!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

聖ピオ十世会マニラでは

2010年09月22日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

聖ピオ十世会のマニラの勝利の聖母の教会では、来月のロザリオの聖母マリアさまの祝日の準備をしています。

私たちが日本でやったようにマリア様の汚れなき御心に奉献する予定です。参加する全ての愛する兄弟姉妹が奉献文にサインすることになっています。

愛する兄弟姉妹の皆様のお祈りをお願いいたします。
愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

カトリック教会に聖なる召命が与えられるため:現在11252環のロザリオが集まりました

2010年09月18日 | ロザリオの十字軍
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 召命のための祈願の祈りの報告をご紹介いたします。
 2010年5月1日から8月31日までの分として、カトリック教会に聖なる召命が与えられるための意向で、現在
 ロザリオ  11252環
 黙想    364回
 聖伝のミサ 210回
 聖体拝領  22回
 霊的聖体拝領 513回
 巡礼    1回
 十字架の道行き 8回
 聖体降福式 14回
 教皇様、司祭様と召命の祈り合計96回
 連祷合計   756回
 聖書朗読  94章
 ノベナ 43回
 射祷  36回
 いろいろな犠牲

 などが報告されています。
 
 11月1日まで、できれば、愛する兄弟姉妹の皆様から(聖三位一体を賛美して)総計してロザリオを3万環捧げることができれば、幸いに思います!

 ロザリオに限らず、召命のために捧げた祈りや犠牲も教えて下さい。一日15分の黙想・念祷もご報告下されば幸いです。

 愛する兄弟姉妹の皆様の寛大なご協力を、今後もよろしくお願いいたします。
 次の祈りが報告されています。

【報告】
聖なるロザリオの追加のお知らせです、

*バルナバ         1環
*マリア・ローザちゃん  44環
*マリア         40環

【報告】
ロオザリのご報告

アヴェ・マリア
 ご報告遅くなりました。

 八月分の聖なる司祭の召命のためのロザリオは皆で73本、十字架の道行2回でした。

小野田神父様、クチュール神父様の御健康のためにもお祈りしています。

先月はお忙しい中告解を聞いていただきありがとうございました。
 
9月の聖伝のごミサの時には午後の部も参加できるように少し余裕を持って計画しました。

【報告】
おはようございます、修院長様。

 8月分のロザリオの御報告をいたします。
ロザリオ・・・31環
聖ピオ十世のノヴェナ・・・31回÷9日=3回。

修院長様はAngelus の8月号はもうお読みになりましたか。
聖ピオ十世のカテキズム1912 の、イタリア語版から英語版への翻訳が最近始まったそうです。聖ピオ十世のカテキズムは短いので、翻訳は早く進むでしょうか。
翻訳の後も製版、誤植チェックや装丁のデザインや価格設定など、多くのしなければならない事がございますが、できるだけ早く手に入れたいものでございますね。


+ + +


愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

聖ピオ十世司祭兄弟会 (FSSPX) 創立者 ルフェーブル大司教 伝記 目次

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一度にふりかかってきた仕事も

2010年09月17日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 こちらは、一度にふりかかってきた仕事も、少しずつ処理をしております。私の仕事は、愛することだと思っています。

 明日は、一日、聖体降福式があります。愛する兄弟姉妹の皆様のために慎んでお祈り致します。

 お伝えしたいことは山ほどありますが、今はひたすら愛する兄弟姉妹の皆様のために祈るばかりです。愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

責任

2010年09月16日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 如何お過ごしでしょうか?
 こちらは、皆のための善、全体のための善のための仕事に携わりつつ、まだ自由な時間が上手く取れません。ほんとうは、メールやインターネットの仕事に手をつけたいのですが、まだ許されません。しかし、祈りはできます。愛する兄弟姉妹の皆様のために慎んでお祈りを申し上げています。

 私のために愛する兄弟姉妹の皆様のお祈りをお願いいたします。

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!!


トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

At ikaw Birheng Maria Ina’t Hari ng awa ka

2010年09月14日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 8月にはマニラで新しく転任してこられたマックファーソン神父様の歓迎パーティーがありました。

聖ピオ十世会マニラ


 パーティーの席で、マリア様のためにタガログ語の詩を暗唱しました。それは次の通りです。 (暗唱したのは第3段落まででした。)とても美しいものなので、愛する兄弟姉妹の皆様にも日本語の訳をつけてご紹介します。

At ikaw Birheng Maria
Ina’t Hari ng awa ka
Bukod sa tanang sampaga
Di matuyo’t di malanta
Dikit mong kaaya-aya.

Ikaw rin po’t siya lamang
Sedes Sapientiae ang ngalan;
Luklukan ng karunungan,
At kaban kang sinusian
Ng Diyos sa kalangitan.

Torreng walang pangalawa
Ni David, bunying Propeta
Bahay na gintong sinadya
Pinamahayang talaga
Ng ikalawang persona.

Ikaw rin Birhen mahal
Bituin sa karagatan
Mapang-aliw sa may lumbay
Kuta ng makasalanan
Matibay sa katibayan

Reynang walang kahulilip
Ng sanlangitan angheles,
Pinupuring walang patid
Ng Trones, Dominationes,
Virtudes at Potestades.

Emperatris na mataas
Ng Patriarkas, Propetas;
Birheng walang makatulad
Bukod sa babaing lahat
Na nag-iwi sa Mesias.

童貞マリアよ、御身は
憐れみの母にして元后
全ての薫り高い花々に優って
枯れることもなく、萎むこともない、
御身の喜ばしき美しさよ!

御身はさらにこれであられる、
Sedes Sapientiae がその名、
つまり上智の座、
そして御身は鍵のかかった
天にまします天主の聖櫃なり。

有名な予言者ダヴィドの
無二の塔、
天主第二のペルソナが
本当に住まわれる特別の
黄金の家。

御身は、愛おしき童貞女、
海の星、
悲しむ者の慰め
罪人の拠り所、
堅き守り。

天国の天使たちの
無比の元后、
座天使と主天使と
力天使と権天使たちは
終わり無く賛美し奉る。

太祖、予言者らの
いと高きものの皇帝女、
一人極み出る童貞女
全ての女性に優る
メシアを育てるお方。

 もともとはこれは「愛おしき御受難」(Pasyon Mahal)という壮大な歌から取られ、天地の創造からアダムとエワの罪、聖母の誕生、お告げ、イエズス・キリストの御降誕、御受難、最後の審判にまで至るものです。

 愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

近況報告

2010年09月12日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 如何お過ごしでしょうか?

 韓国では、このところ毎日ずっと雨と強風です。樹齢何百年という大木も倒れてしまったそうです。洪水で、野菜の価格が高騰しています。私たちの聖伝のミサのコミュニティでは、元気にやってます。

 フィリピンでは、オルティス神父様がイロイロに転勤になりました。私としては、出来るだけ多くの司祭をマニラに欲しく、クチュール神父様に御願いしています。

 マニラでは、召命のロザリオ十字軍については、カウントをしていませんでした。しかし、だいぶ出遅れましたが、カウントを呼び掛ける予定です。マニラでは9月14日からカウントをスタートします。日本の愛する兄弟姉妹の皆様も、より一層の御協力をお願いいたします。

 私の仕事は遅れていますが、出来るだけ速く遅れを取り戻そうと思います。愛する兄弟姉妹の皆様のお祈りをよろしくお願いいたします。

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

聖ピオ十世会アジア管区のニュースレターより:召命のための祈り(クチュール神父)

2010年09月11日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 聖ピオ十世会アジア管区のニュースレターのエディトリアル Editorial : Prayers for Vocationsを、ヨゼフィーナさんが日本語に翻訳して下さいました。実は、ずっと前に訳して下さっていたのですが、私の時間の都合で発表がこんなに遅くなってしまいました。
 ヨゼフィーナさんは、この他にもまだまだ別の記事も訳して下さいました。順々にご紹介させて頂きます。では、愛する兄弟姉妹の皆様、ごゆっくりお読み下さい。

 愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


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編集者の言葉:召命のための祈り
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親愛なる友人と恩人の皆さん

あなたの家に住む者は幸せ、彼らはたえずあなたをたたえる。(詩編83章5節)

「ああ、なんと悲しむべきことか、自分の使命を果たさず死んだ人々は! 聖となるために呼ばれたのに罪の内に生き、キリストを崇めるため呼ばれたのに軽薄と不信の世に身を投じ、闘うために呼ばれたのに何もせずに留まる人々。才能と賜物を与えられながらそれを用いず、もしくは誤用し、濫用した人々は悲しむべきことかな! 世は時代から時代へと移り変わっても、聖なる天使たちと聖人たちは変わらず『ああ、なんと言うことだ!召し出しの喪失、希望の消滅、天主の愛への侮辱、霊魂たちの荒廃』と大声で叫び、悲嘆にくれているのである」(ニューマン枢機卿)

「善き師よ、永遠の生命を得るためには何をしたらよいのでしょうか?」これは、この世の財産に恵まれていたが、永遠の生命のほうが遙かに貴重な宝であると理解していた一人の青年が熱心に尋ねた問いであった。彼は、努力して得ようとしていた偉大な宝を確実なものとするため、しなければならないことがまだあるのではないかと模索しつつ、天主なる師のもとへと馳せ参じた。彼は若く金持ちであり、地主であり、彼の人生は一点のしみも汚れもなかった。

「十戒ですか?──私は幼い頃からそれらをみな守ってきました」彼は答えた。「善き師よ、私に欠けているものはなんでしょうか?」イエズスはいつくしんで彼を愛を込めてご覧になった。彼の聖心にとってこのような霊魂は愛しいものだから。「もしもお前が完全になりたいならば」、答えが返ってくる。「行って持ち物を売り、貧しい人々に施し、そして私について来なさい」

 痛ましい一瞬だった。自然と超自然の恩寵が主導権を巡って格闘していた。招きは与えられ、完徳への道は指し示された。彼をまことの弟子とするために必要なただひとつの、だが大きな、先ほどまで非常に寛大に見えた彼にとって大きすぎる犠牲だった。彼はためらい、狼狽し、そして耳に「私に従え」という言葉がこだましながらも悲しんで背を向ける。彼の「たくさんの財産」への愛着が彼の心を覆ってしまったために。──召し出しは差し出され、そして拒絶された。
『憂鬱の影が』ファーベル神父は言う、『ご自分に従うようイエズスがお招きになった彼の記憶を苦しめずにはいられない。彼は今、地上で悲しみのうちに背を向けた柔和な御顔を、天国において仰ぎ見ているのであろうか?』

あれから二千年近い月日が流れ、同じみ声が大勢の少年少女の耳に、今も絶え間なく囁き続けている。「お前に足りないものが一つある──私について来なさい」ある者は心躍らせてその声を聞き、師の呼びかけに立ち上がった、ある者は耳を塞いで彼らに手招きなさった御方から恐れて逃げ去った、少数が立ちどまって耳を傾け、どういうことだろうと思い巡らし、このような招きは自分たちに対するものなのかも知れないと自らに問いつつも、ナザレトのイエズスが(眼の前を)通り過ぎるまで永遠にその場から動かないのだった。
(ウィリアム・ドイル神父の召命についての冊子より:http://www.sspxasia.com/Documents/Society_of_Saint_Pius_X/Vocations/Vocations.htm#2で閲覧できる)

***


 五月一日、聖ピオ十世会創立四十周年の記念日である十一月一日まで、私たちはアジア管区における召命の十字軍を開始しました。主の莫大な収穫の時、特にアジアにおけるその時、大勢の助け手たちを必要とするので、私たちは本当に天を攻め立てる必要があります。召し出しを絶やさないため主がくださったただ一つの手段は祈りです。「そのときおおせられた、『収穫は多いが、働く人は少ない。だから、収穫の主に、働く人を収穫にお送りくださるように願え』」(ルカ十章二節)


 実際、召し出しを獲得するため、私たちはなにをなすべきなのでしょうか?

*アジア管区の司祭たちは、信仰弘布のための随意ミサからとられた祈りを、典礼法規に従って週三日(月水金)、その日の祈りに加えています。

*すべての巡回教会で配布されている、司祭と修道者の召し出しのための特別な祈りのついた小冊子を印刷しました。

*さまざまなロザリオの祈りの集いと公の信心、徹夜の聖体礼拝において、召し出しのための特別な呼びかけがなされました。同じことが、家庭での祈りでも行われるべきです。

*多くの若者たちが神の呼びかけに耳を傾け、全霊を挙げてそれにお応えするよう天に乞い願うため、すでに数多くの巡礼団が起こされました。

*断食と犠牲:この意向のため数回の断食ができます、例えばご昇天と諸聖人の祝日の前日、九月の四季の斎日にです。犠牲の際にもこの意向を付け加えましょう。

*聖体拝領:主を拝領する栄誉に浴するときはいつでも、ご聖体のうちにまします主に召し出しの恵みを願うことを忘れないように。「求めよ、さらば与えられん!」

 この十字軍を始めてから、すでに五人の青年たちが、フィリピンのイロイロにある修練院を訪れました。天主に感謝し奉る!

 この六月に、兄弟会は各神学校で二十名の叙階を行う予定です。これは確かに素晴らしく、関心の的となる出来事です。しかしながら、それは神の癒しと天上の恵みを大変必要とするこの世間という大海の中に落ちる、たったひとしずくなのです! これからの四ヶ月間、特別に努力することにしましょう。

Oremus! 祈りましょう!

祝福を送ります。

管区長 ダニエル・クチュール神父

カトリック教会に聖なる召命が与えられるため:現在11063環のロザリオが集まりました

2010年09月09日 | ロザリオの十字軍

アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 召命のための祈願の祈りの報告をご紹介いたします。
 2010年5月1日から8月31日までの分として、カトリック教会に聖なる召命が与えられるための意向で、現在
 ロザリオ  11063環
 黙想    364回
 聖伝のミサ 210回
 聖体拝領  22回
 霊的聖体拝領 513回
 巡礼    1回
 十字架の道行き 6回
 聖体降福式 14回
 教皇様、司祭様と召命の祈り合計96回
 連祷合計   756回
 聖書朗読  94章
 ノベナ 40回
 射祷  36回
 いろいろな犠牲

 などが報告されています。
 
 11月1日まで、できれば、愛する兄弟姉妹の皆様から(聖三位一体を賛美して)総計してロザリオを3万環捧げることができれば、幸いに思います!

 ロザリオに限らず、召命のために捧げた祈りや犠牲も教えて下さい。一日15分の黙想・念祷もご報告下されば幸いです。

 愛する兄弟姉妹の皆様のしもべは8月の間、ロザリオ85環、黙想34回、与った聖伝のミサ22回でした。

 愛する兄弟姉妹の皆様の寛大なご協力を、今後もよろしくお願いいたします。
 次の祈りが報告されています。


【報告】
トマス 小野田 神父様

 5月から8月までロザリオ123環です。

 3月までのロザリオ十字軍の頃は、少しでもたくさんロザリオをしようと、「お祈りはロザリオ」という感じでした。

 ロザリオ十字軍が一段落して、それまでロザリオにかけていた時間を、他のお祈りに向けたいと考え、『公教会祈祷文』をゆっくり祈る、いただいた『毎日のミサ典書』のその日の典礼文を読むというようなことをしていました。ある時期は、『Liber Usualis』を『毎日のミサ典書』の訳を見ながら、読みこむということに相当時間を費やしていました。しかし、『Liber Usualis』の読み込みに至っては、お祈りではなく、勉強・作業(内容を理解するための)のようになってしまいました。

 純粋に聖ピオ十世会の司祭・修道者の召し出しを祈るという意向では、ロザリオのみです。

 9月から心を入れかえてがんばります。

 新しい責務を果たされて3週間というブログの記事を拝見し、1週間、1週間、少しずつ階段を上られるような感じなのだろうかと思いました。1ヶ月、3ヶ月、6ヶ月、1年と順調に着実に歩まれますように。

 あまりご無理をなさらず、少しは休養もお取り下さい。

 9月の聖伝のごミサを楽しみにしております。

【報告】
+J,M,J, Ave Maria ☆!

聖ピオ十世教皇様の祝日おめでとうございます!
小野田神父様、こんばんは。
聖務にお忙しいのに、ブログを更新くださってありがとうございます。
日本は、酷い暑苦しさが続いています。
10月まで続くそうです(T_T)

アジア管区の聖なる召命のためのロザリオ十字軍の意向のもとにつたなくも唱えましたロザリオの数をご報告いたします。報告が遅くなってしまってすみません。

マリア・・・130
マリア・・・90
マリア・・・25
ルルド・・・10
テレジア・・・124
マリアたち・・105
合計=484
を御捧げいたしました。どうぞよろしくお願いいたします。

☆ファチマちゃんの分は、後日ご報告させていただきます。(*^_^*)
小野田神父様の「お薦めの良書」をご紹介くださってありがとうございます。
「神との親しさ」、「黄金伝説」などなど・・・、日々の黙想にとても助けとなります。

至聖なるイエズス様の御心よ、われらをあわれみたまえ。
無原罪の御宿りよ、小野田神父様のご健康、ご活動をお守りください。
聖母の汚れなき御心よ、われらの祈りをききいれたまえ。

【報告】
Onoda shinpusama,

o genki desu ka. Kimura sensei (watashi no nihongo no sensei) ga konshuu Nihon kara kaete Nihon de totemo atsukatta to iimashita.

Watashi no 8gatsu no rosario wa 40 desu. Takusan dewa naindesu ga, sumimasen.

8gatsu 22nichi haha wa shinkin kousoku deshita. Totemo taihen deshita. Desukara sono hi kara zenbu no rosario wa haha no tame ni o inori o shitandesu. Karada no choushi wa antai shita desu ga yowai desu. Getsuyoubi byouin kara chokusetsu rehabilitation no byouin ni ikimasu. Yokatta rehabilitation no kyoka o moraimashita. Rehabilitation no ato ima mo yowai to omoimasu. Demo haha wa uchi de kazoku dewa nai hito kara tetsudau no ga hontou ni kirai desu sono toki wa chotto muzukashiku naru to omoimasu ... Shinpusama no o inori o kokoro kara o rei o moushiagemasu!

7gatsu ni Avrille de Br. Nishi sama ni atte chotto hanashimashita. Watashi wa totemo ureshikatta desu. Hai, Br. Nishi sama genki desu.

Atsui desu kara ki o tsukete kudasai!

Mai nichi o inori no uchi ni, in Jesu et Maria, kokora kara,

【報告】
トマス小野田神父様

アヴェ・マリア

 今晩は神父様。今月のロザリオは93環です。
  加えて聖ヨゼフ連祷が4回、聖マリアの連祷4回、イエズスの聖心の連祷4回です。さらに日課の祈りとささやかな仕事を捧げます。新旧両聖書各33章の朗読を先月のロザリオに加えます。

【報告】
アヴェ・マリア!
 ご報告が遅くなりました。八月三十一日までのロザリオ、90環捧げます。

 フィリピンでは重要な任務に就かれ、ますますお忙しくなられたことでしょう。天主様が神父様を大変愛され、より大きな偉業を成すようにと使命をお与えなさったのだと思いつつも、私たち家族にとっては魂の支えである神父様にお会いする機会が少なくなるのではと少し心痛みます。
 娘はヴェールを被り、十字架の前でひざまずきお祈りを捧げることが好きです。十字架を見るとバスの中からでも指差し「アーメン!」と大きな声で言います。

【報告】
十 主の平安


トマス小野田圭志 神父様


聖なる召し出しのためのご報告をさせていただきます。

8月1日から8月31日までに

①ロザリオ 157環
②15分間の玄義の黙想 31回

以上です。

遅くなりましたが、修道院長ご就任おめでとうございます!
神父様のご健康と更なるご活躍をお祈りしております。


【報告】
主の平和。小野田神父様お元気ですか。ロザリオ十字軍8月分のご報告をさせていただきます。

フランシスコ    31環
テレジア    217環
マリア       7環(一緒に夕の祈りとロザリオを唱えるようになりました。)

小野田神父様と聖ピオ十世会の皆様の上に、神様からの祝福とお恵みがありますように。

【報告】
十主の平安

アヴェ・マリア
8月分の、聖なる多くの召命の為と、至聖三位一体の賛美の為の、聖なるロザリオ等の御報告です(*^_^*)

*パウロ夫妻  28環(今月は、色々の御用事がお有りになられましたそうです(^-^))
*ヨゼフ・パウロ    31環
*マリア       185環
*マリア        22環
*マリア       319環
*エリザベト      65環
*テレジア      116環
*マリア        51環
*マリア        27環
*アンナ        30環


*御ミサ      4回 
*御聖体拝領    4回
*霊的御聖体拝領  145回
*黙想  61回(色々な時間を含みます♪)


犠牲
*痛い!熱い!をお捧げしています。
*お肉を、水、金、土、食べない様に、頑張る。
*炭酸水、アイスを、主日、大祝日以外は、飲まない、食べない。
  酷暑ですので、かなりの犠牲になります(+_+)

以上です、どうぞ宜しく御願い致しますm(__)m(*^_^*)

9月からは、十字架上のイエズスに向かう祈り!!!を、カウントしようと思っています、ずっと、毎日必ず唱えていますので、カウントしましても宜しいでしょうか?

犠牲ですが、
ファチマの聖母の本39ページ、7月13日、3回目の御出現の所に、
『罪人の為に祈りなさい。そして『おおイエズスよ。これは御身の愛の為、罪人達の改心の為、マリア様の汚れ無き御心に対して犯された罪の償いの為です』と絶えず、特にあなたが何か犠牲をするときに唱えなさい』
と聖母が仰いましたと書いてありますので、嫌な事、したくない事、をしないといけない時は、上記を唱えていますが、この犠牲も、聖なる召命の意向にしました方が宜しいでしょうか?

あの、ルフェーブル大司教様の伝記は、もう終わりましたのでしょうか?

ローマ公教要理□使徒信経の部素晴らしいですね!♪
46ページまでは、読んでいます。

 デオ・グラチアス!!

【お返事】
 いつもたくさんのロザリオをありがとうございます。

「十字架上のイエズスに向かう祈り」も、カウントして下さい。
召命のための意向をつけて唱えているのでしたら、以前の分もカウントして下さい。

 はい、また、辛い義務、嫌な事、したくない事をしないといけない時は、「おおイエズスよ。これは御身の愛の為、罪人達の改心の為、マリア様の汚れ無き御心に対して犯された罪の償いの為です。」と唱え続けて下さい。さらに「聖母の汚れなき御心に対して犯される罪の償いのため、主の公教会に聖なる召命が与えられるため」と付け加えて下さることも出来ます。

 ルフェーブル大司教様の伝記は、まだ続きがあります。翻訳を完成させるために、時間が必要ですが、もうしばらくしたら時間がとれると思われますのでしばらくご辛抱下さい。


【報告】
アヴェ・マリア!

トマス小野田神父様

アジアの召命のロザリオのご報告をさせていただきます。
8月16日~8月27日22時現在(日本時間)

私 10環
長女(小5) 1環
長男(小4) 1環

8月は大阪、東京と聖伝のミサ聖祭に与ることができました。

天主様に感謝いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!

【報告】
御報告が遅くなりまして申し訳ありません、

エリザベト  50環

以上ですm(__)m

【報告】
小野田神父様 こんにちは。 

ロザリオの十字軍の集計を紛失してしまったので私と祖母の合計が分からなくなってしまいました。私が集計の報告を先おくりにしていたのが原因で申し訳ありません。

先週からやり直して私が4環お捧げしました。

また、よろしくお願いします。

【報告】
アヴェ・マリア!
小野田神父さま

いつも、メッセージをありがとうございます。
修道院の院長になられること、おめでとうございます。
しかし、日曜日の御ミサが今後なくなるのは、私としては本当に残念です。・・・
おかげで、そのかわりに、主と聖母へ犠牲をささげるチャンスはますます増えそうです。
つらいのですが、喜ぶべきことなのでしょうか?
・・・

ロザリオの祈りは、時間をぎりぎりまで有効に使う努力によって、ずいぶん環数が増えました。
5月以降の中間報告です。

2010年
5月=217環、6月=185環、7月=209環、8月=294環、 合計=905環。



+ + +


愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

聖ピオ十世司祭兄弟会 (FSSPX) 創立者 ルフェーブル大司教 伝記 目次

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