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2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

秋田巡礼-シュテーリン神父様御説教-2017年5月4日「聖母の汚れなき御心の随意ミサ」

2017年06月30日 | お説教・霊的講話
2017年5月4日 秋田巡礼 聖母の汚れなき御心の随意ミサ
シュテーリン神父様御説教

同時通訳:小野田圭志神父



聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

ファチマのその中心にある玄義は、今日のこのミサの玄義です。つまり汚れなき御心、マリア様の汚れなき御心です。

汚れなき御心に対する信心は、16・17世紀から始まりました。特に聖ヨハネ・ユードは、マリア様の汚れなき御心の役割とその神秘について、深い理解を示しました。「誰かの心の事を考える、考察するというと、誰かの心というのは、愛の座であって、最も親密で、最も深いものを表している」と書かれています。

マリア様の栄光、マリア様の特別な性質など、素晴らしい点を1つ1つたくさん黙想する事ができます。マリア様の信仰、マリア様の希望の徳、或いは忍耐の徳、或いはご謙遜、或いは清さ、色々な聖徳について考察する事が、黙想する事ができます。

マリア様のお持ちになっていた特権についても黙想する事ができます。マリア様の無原罪の御宿り、マリア様の御誕生、マリア様の童貞性、マリア様の被昇天などです。

マリア様がお持ちになっていた、人類の救いの為の働きについても深く黙想する事ができます。「天主の御母である」という事。そして「人間の母となられた」事。またマリア様が共贖者、「イエズス・キリストと共に贖いをされた」という事、また「第2のエヴァとなった」という事です。

マリア様の特権、その徳、その機能役割などについて、色々な神秘があるので、次から次へと黙想しても黙想しきれません。終わりの果てしのない黙想が続きます。それらの色々な特権や徳や特質など、全てはたった1つの源から湧き出ています。

その最も緊密な、最も奥深い源というのは一体何なのでしょうか?その全ての最も緊密で、親密で、深い所にある唯一の源のそのシンボルは、象徴は、マリア様の汚れなき御心です。マリア様にとって、そのご自分の御心が多くの人によって崇敬されているのを見るのは、どれほどの喜びでしょうか。

18世紀や19世紀には、色々な修道会が自分の宣教活動をマリア様の汚れなき御心に委ねていました。もしもその宣教会が大きな成功を得た、勝ち得た、多くの霊魂が回心したとすると、その修道会は皆、「マリア様の特別の介入のおかげだ」と言っています。

しかしマリア様がご自分の汚れなき御心を全人類に表したのは、1917年6月13日の事でした。この偉大な日に、マリア様はまずご自分の御心についてお話をして、次にそれをお見せになりました。

マリア様は2つの文章を、非常に深い、意味のある文章をお話しになりました。この2つの言葉を是非皆さん覚えて下さい。

「イエズスはあなたを使って、私が知られ愛されるようになるのを望んでいます。イエズスはこの世に、私の汚れなき御心に対する信心を確立する事を望んでいます。この信心を実践する人は誰であれ、私はこの人に救いを約束します。これらの霊魂は、天主にとってとても大切なものであり、それはちょうど私によって、天主様の祭壇、天主様の玉座を飾る為に置かれた花のようです。」

第2の言葉は、「私の汚れなき御心は、あなたたちを天国に導く道であって、そしてあなたたちの避難所であります。」

この言葉をお話しになった後に、子供たちにご自分の御心をお見せになりました。この御心には茨の冠りが被せられていて、この茨は御心を貫いていました。

ルチアが言うには、「私たちは、この御心がマリア様の汚れなき御心だと理解しました。そして人類の罪によって傷付いている、傷付き、そしてその償いを求めている御心だと理解しました。」

これ、この言葉の深い意味を完全に理解する事はできません。天主が全てのカトリック信者に、全世界に於いて、この汚れなき御心を実践するという事を望んでおられる、決定している、という事を私たちは知らなければなりません。

イエズス様はかつてこう言われました、「全世界に行って、私の福音を述べ、彼らにこれを教えよ。」

イエズス様は今同じ事を仰います、「全世界に行って、マリア様の汚れなき御心に対する信心を述べ伝えよ。」

イエズス様ははっきり言っています、「この汚れなき御心こそが、特に終末の私たちの時代に於いて、人々を天国へと導く道であり、最後の道であり、唯一の道である」と。

この小さな信心に、マリア様はどれほど大きな約束をしているかという事は驚くべき事です。

まず永遠の約束をします。「誰であれ、この信心を実践する人には私は救いを、永遠の救いを約束します。」「もしも、」この同じ、子供たちに地獄の火を、永遠の地獄の火を見せたそのマリア様が仰るのです、「もしもこの信心を実践するならば、誰であれ救いを約束します。」

マリア様は単にそう言うだけでなく、天主様に対する力も持っているという事を示しています。つまり私たちが置かれている非常に、永遠の命を永遠の危険に侵されている私たちを救う事ができる、救うと約束する事ができるほどの力を持っています。

「救い」という事の意味の深さを考えて下さい。すると、これを約束するという事がどれほど大切な事かが分かります。「救い」という事こそが、イエズス様がこの地上に来られて、十字架の上で亡くなられたその理由です。全世界の人々に、この地上に生きている全ての人にとって、たった1つの事だけが大切です。救われるか、滅びるか。天国に行くか、地獄に行くかです。

現代の世界は罪を愛し、罪を犯すように法律ができています。ですから地獄に行くのは大きな道を突っ走るようなものです、イエズス様が仰ったように。現代世界は最も霊魂を失うに適している、最も失いやすい、危険に満ちた世界に生きています。この全世界のマスメディア、全世界のメンタリティーは皆、「天主を忘れて、罪を犯すように、犯すように」と誘っています。

マリア様は今、私たちがどれほど危険で、どれほど難しい時期に生きているか、という事をよくご存知なので、非常に簡単な事をする事によって、救いを約束しようとされています。「救い」というのは、決定的な、絶対的な永久の大勝利です。サタンと地獄と死に打ち勝つという大勝利の事が「救い」です。

マリア様が約束したのは、ただ救われる、大勝利を受ける、という事だけではありません。そればかりか、「この信心を実践する霊魂たちは、天主にとって非常に大切である。」

「救い」という、「救いを得る」というと、「天国に私たちが行く。天国で報いを得る。それから浄めを受けて喜ぶ」という事を考えます。これは私たちの事だけを考えている事ですけれども、もっと高い次元の事も考えなければなりません。

「救われる」という事は、「天主様がそれを喜ぶ」という事です。ではどうすると、天主にとって私たちがそれほど大切なもの、貴重なものとなるでしょうか?天主の聖なる聖心を、至聖なる聖心を非常に感動させて、その心を動かすものは一体何なのでしょうか?

それは、私たちが持つマリア様に対する、イエズス様の御母に対する信心であって、愛であります。イエズス様はもしもマリア様が愛され、そして多くの人がマリア様に従うならば、非常に喜びます。

それだけではありません。更に約束は進みます。この祭壇のきれいな花を見て下さい。この祭壇をきれいに飾られています。何の為に、祭壇にこんなにきれいな花を置いて飾るのでしょうか?これはその飾られている、この花が周囲に置かれているその中心にあるものが、どれほど大切であるか、という事を示す為です。

イエズス様とその御聖櫃に一番近く置かれてるのは、この花です。あたかもイエズス様の御血に触れているかのようです。

過去教会の教父たちが、天国、或いは救われた霊魂たちについて記述をする時に、多くの場合、美しいきれいな、きれいに咲き誇っている花々に例えています。天国というのは、聖なる聖人たちや聖女たちの群衆と、そして天使たちの大きな大群の事です。その聖人、聖女の大群衆、天使たちの大群衆の中で、一番誰が天主様に近い存在であるでしょうか?

それは、御聖櫃に置かれた花の存在です。天主様の最も近くに置かれた霊魂となるという事は、他の霊魂には無い、ものすごい喜びを持つ事です。もしもこの汚れなき御心に対する信心を実践するならば、そうなります。

マリア様は、天国に行くという将来の事を約束するだけではありません。今現在、今ここでの事も約束します。

まず第1にマリア様は、「私は決して、あなたを見放しません。」

皆さん、もしも皆さんが他の人々から捨てられて、馬鹿にされて、もうどうでもよいと言われて、一人ぼっちで孤独を感じた時に、マリア様の事を思い出して下さい。「私はあなたを決して見放しません。」

もしも皆さんが罪を犯してしまった。しかしマリア様は、「決して私はあなたを見放しません。私はあなたが罪から立ち戻るように必ず助けます。」

皆さんはもしかしたら誘惑、或いは暗黒、暗闇のような中を通らなければならない、或いはガッカリしたり、失望したり、落胆したり、もう力を落としてしまって、「もうどうしようもない。もうお先真っ暗だ」というような事を感じるかもしれません。マリア様は言います、「私は決してあなたを見放しません。」

皆さんが死の床に就いて、たった一人で、孤独で苦しみもがいて、「もうこれからどうなるか」という時に、マリア様は仰います、「私は決してあなたを見放しません。私の汚れなき御心は、あなたの避難所となります。」

山に登って、登山である時は突然雷が、突然火山が、突然何か気象異常が起こったという時に、山小屋があって避難所の小屋がありますが、そういう時にそこに入ると私たちは助かります。私たちは信仰生活を送る中で、ある時はこう疲れてしまい、或いはもうどうして良いか分からなくなってしまった事があるかもしれませんが、マリア様の汚れなき御心は避難所として私たちに力を与えて、いつでもどこでもどんな時でも、私たちが道をまた行くように助けてくれます。

今朝のお話で、では一体汚れなき御心に対する信心とは一体何なのか。このミサでは、この小さな信心にマリア様がどれほど大きな約束をしたか、その約束の偉大さをよく味わって下さい。マリア様がこれほどの大きなお恵みを私たちに与えようとしている事を感謝して下さい。そしてお恵みを求めて下さい。私たちがかつてなかったほどこの信心を実践する事ができるお恵みを求めて下さい。そして決心を立てて下さい。あらゆる手段を使って、この汚れなき御心に対する信心をよく知り、これを本当に実践する事ができるという決心を立てて下さい。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

「私はロザリオの聖母です。いつも毎日ロザリオを唱え続けなさい。もうこれ以上天主なる私たちの主に罪を犯してはなりません。すでに主はあまりにも多く犯されていますから。」(ファチマの聖母)

2017年06月28日 | ファチマ
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 ファチマの聖母のお言葉をお聞き下さい。



私はロザリオの聖母です。いつも毎日ロザリオを唱え続けなさい。
人々はその生活を改め、罪の赦しを願わなければなりません。(ますます悲しそうな様子で)彼らはもうこれ以上天主なる私たちの主に罪を犯してはなりません。すでに主はあまりにも多く犯されていますから。(1917年10月13日)



I am Our Lady of the Rosary. Continue to say the Rosary every day.
People must amend their lives and ask pardon for their sins. (growing sadder) They must not offend Our Lord any more for He is already too much offended.



Je suis Notre-Dame du Rosaire. Que l’on continue toujours à réciter le chapelet tous les jours.
Il faut qu’ils se corrigent et qu’ils demandent pardon de leurs péchés. (un air plus triste) Qu’ils n’offensent pas davantage Dieu Notre Seigneur, car Il est déjà trop offensé.


2017年6月18日主日の東京での聖伝のミサ(ラテン語ミサ)の報告 Traditional Latin Mass SSPX Japan

2017年06月28日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 2017年6月18日主日の東京での聖伝のミサのご報告をいただきました。愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。

 次の聖伝のミサは、次の通りです

【大阪】
 6月30日(金)
 使徒聖パウロの記念(3級祝日)赤
 午後4時15分 洗礼式
 午後5時半  ロザリオ及び告解
 午後6時   ミサ聖祭

 7月1日(初土)
 イエズス・キリストのいと尊き御血(1級祝日)赤
 午前09時半 ロザリオ及び告解
 午前10時  婚姻の秘蹟
 午前10時半 ミサ聖祭

【東京】
 7月2日(主)
 聖霊降臨後第4主日(2級)緑
 午前09時  グレゴリオ聖歌の練習 及び 告解
 午前10時  ロザリオ 及び 告解
 午前10時半 ミサ聖祭
 午後02時  公教要理
 午後04時  主日の晩課(グレゴリオ聖歌)


 7月3日(月)
 殉教者司教聖イレネオ(3級祝日)赤
 午前7時 ミサ聖祭

です。多くの兄弟姉妹の皆様が聖伝のミサに与ることができますように!

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

御聖体の大祝日の御ミサと聖体賛美式をありがとうございました。

前回からマリア様の御像が聖堂の前にいらしてくださいましたこととても嬉しいです。美しくふさわしくお花を飾りご奉仕してくださる方にも心からお礼申し上げます。

今回は特別に御ミサとは何であるかを黙想し、胸に刻むことができたように思います。この日のお説教で分かったと思ったことはご聖体の神秘です。三位一体の天主は、私たちが流浪の旅に出たときから、もとの御父のもとに還るまでその永遠の昔から私たちをどのように養われようかと考えられいのちの糧をくださったのだとわかりました。

前表として、過ぎ越しの子羊、天から降ったマンナ、エリゼオのため灰の中で焼かれたパン、メルキゼデクのパンと葡萄酒、モーゼの打った岩から出た水と蜜、があったということです。

そして御ミサの中で御聖体と御血が分離して聖別されるということは、つまり犠牲が、屠りが完成したということを秘跡的に示すことであり、わたしの罪の贖いの値として御血が流されたことであるということをしっかりと胸に刻みました。それが秘跡的に行われる時、聖なるミサ聖祭が目の前で行われているとき、どれほど感謝しなければならないことでしょう、こんなに未熟で頭も鈍く心も汚れている私をも愛してくださる天主様にたいしての感謝は生ぬるいものでは申し訳ないことと、平伏して礼拝しました。

この御聖体がこの私の中に御自分の血を流そうとされることをお望みになられて、いけにえとして屠られ食されるものとなられた、そして天主が人間の身体を取ったのも私に天主の本性を与えるためであった、私を天主の血統の者として下さることのためであった、などとお話を伺ったことを思い出して、これは普通では想像することも難しいことだ、人間が考えつくことではないと思いました。ただただお恵みによって、このような素晴らしいことに招かれたことを知りました。

天上のことを知らず天的なものに憧れ、天の食べ物に飢えている人間に生涯の伴侶・糧としてご自身を屠ってまでご自分の本性を人間に食べさせ養おうとされたイエズス様へなんと理解も感謝も足りないことだろうかとあらためて反省させられました。「全実体変化」というご聖体のために特別に作られた言葉についてもお話しいただきました。ご聖体を拝領した私たちのもとにイエズス様はとどまってくださることを神学的に説明いただきました。本当に私たちはどんなにか聖性の状態でいるように努めなければならないことでしょう!いつも躓いてばかりおります。泥の中に落ち込んでばかりのようです。

そして幼きイエズスの聖テレジアの表現された「イエズス様の御血は白い乳のようだ(Le Pain de l'Ange est le lait virginal. Ma blanche Hostie est le lait virginal.)」という言葉をご紹介していただきました。幼子には何もむずかしいことはわかりませんが、与えられたお乳を母の胸から飲みます、そして養われて母の愛を受け愛によって生きることができます。霊的な母である聖母マリア様が永遠の命をいただいたように幼子も御聖体によって養われて終わりなきいのちを生きるものとなることなのでしょう。その乳のような御聖体はどこかから買ってきたようなものではなく、御自分の身体を糧として与えられたもので、母マリアよりも更に母親らしいイエズス様の愛がそこにありますとお話しいただきました。

このお話を伺って、自分のようにあまりわからなく秘跡に与らせていただいていたこともできる限り敬虔に御ミサに与ろう、改悛に努めようと臨んでいたことでおゆるしいただき、知らないうちにも養われていたのであろうかと思いました。安心して御ミサに与れること天主様の愛に感謝いたしました。

そしてこれほどまでに人間への愛のためご自分を犠牲にされた三位一体の天主はご聖体のうちにましまし給うのに、御聖体は怖しく冒涜されているので天使は聖心を侮辱していることの償いのために、天使の祈りを教えた、この天使の祈りのなかには三位一体と御聖体と聖心の三つが入っていると教えていただき、なるほどそうだ!と思いました。三位一体の祝日と御聖体の祝日と聖心の祝日と続けて祝われるのもこの三つは深いつながりがある故であると教えていただきました。三位一体の天主とご聖体とイエズス様の聖心とマリア様の御心が怖しくも侮辱されていることへの罪の償いのために御聖体を拝領しなさいとの勧めに従いご聖体拝領をいたしました。

続けて御聖体が顕示されて、御聖体賛美式が執り行われて、いつもはできない御聖体への特別な礼拝をお捧げすることができましたこと感謝申し上げます。賛美と感謝とご聖体に対する侮辱・冒涜・無関心への償いのために心を込めてご聖体を礼拝いたしました。まことにありがとうございます。


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

公教要理では前回の続きのお話しでした。
今回はヘロデ大王が歴史的地理的に登場する背景を伺いました。
聖地パレスチナの地理の前回の復習からのお話しでした。

【前回の復習】
1聖地パレスチナを特徴づけるのは川である。ヨーロッパでは河は物資の運搬など恩恵をいただくものだが、イスラエルの場合はヨルダン川は障害となったり交通を妨げるものであったり敵から守られるものでもあった。

2ヨルダン川の源流よりはるか北の方(シリア地方)に、海抜2800mの高いヘルモン山がそびえている。この辺りには、イドゥメア人が住んでいた。

3ヘルモン山の南のヨルダン川の源流のフレー湖は海抜2m、チィべリア湖は海抜-208m、そこから流れ下るヨルダン川は海抜ー392mの死海に流れ込みその水はどこにも出ていくことがない。現在の死海は小さくなってきている、水量が少ないようだ。ヨルダン川はヘブライ語の動詞Yaradヤラドから由来しており、下がる・落ちるという意味で、「下り川」と訳すこともできる。

4ヨルダン川の西に連なる山脈は高い山々であり、その高低差の激しさが険しい地形を産み、敵から住民を守ることともなった。

5ヨルダン川の東の地方はトランスヨルダンと呼ばれていて、ヘロデ王の支配する6つの地域があった。そこにデカポリスという名前の意味は十の都市という名前だが、ギリシャ人が多く住んでいたところがあり、この辺はユダヤ人がほとんど住んでいないところだった。他にもヘロデ王の権力外にあるガラサ・ガラダ・フェラデルフェア・ベツサなどの都市があった。

6ヨルダン川の西の地方は四つに分かれていて、有名な都市は、パレスチナのカイザリア・ヨッペ・ユダヤ・エルサレム(海抜800m)などがあった。

7サマリア地方。エルサレムの北の方にある此処は砂漠のようなところでヘロデ王の支配化にあり、「セバスト」と言っていた。意味はローマ皇帝ユリウス・シーザー(カエサル)から取られていて、カイザルという言葉のギリシャ語がセバストである。サマリア地域では独自の一神教を信じていた。ここサマリアはアムリ王がサマリアを建設しているがHyrcanヒルカンが前100年にサマリアを滅ぼしてしまう。その後ヘロデ大王がサマリアを再建する。ここサマリアではエルサレムでの礼拝は行われなかった。

8ガリラヤは海のおかげで雨が降り、チィべリア湖のおかげで漁業が盛んだった。いろいろな国民のるつぼとなっていて多国民の住む街だった。マタイ福音書の第4章15節に“異邦人のガリラヤ”という表現があるが、異邦人の混ざっているところという意味である。

9チィべリア湖について。魚がたくさんある。語源は竪琴という意味のキネサル。キノルという言葉(竪琴と言う意味)があるのだが、この湖は形が竪琴のように細長くなっていたからであり、竪琴の湖と呼ばれていたから。この湖は縦が21kmで横が12mで深さは50mもない浅い湖であった。底が浅くて水温が温かかったかもしれなくて、餌のプランクトンが繁殖しやすい環境にあったようだ。そのために魚が繁殖しやすくたくさん多くいた。

10この辺りには、ナザレ・ナイン・カナ・マグダラ・カファルナム・コロザイン・サフェなどのような街があった。(コロザインという町は今は何処にあるか判らない、たくさん与えられたお恵みを拒絶したから。コロザインでイエズス様はたくさんの奇跡をおこなったが、信じようとしなかったから。サフェは山の上にあり1000m位のところにあった。イエズス様のお話しの中の「山の上のある町は隠せない」といういわれの町のようだ。)

【今回のお話し】
その後、ヘロデ大王の話を伺いました。ギリシャからインドの西方ガンダーラまでをも支配したアレクサンダー大王の時代からの歴史的背景を伺いました。

1アレクサンダー大王の死後に帝国が奪い合いされたが、その中にガリラヤ・サマリア・ユダヤの土地があった。この土地を、エジプトを支配していた者(ラジド朝 或いは プトレマイオス朝 - ラジド朝 Lagidai というのはプトレマイオスの父親の名前ラゴスから由来する)と、シリアを支配していた者(セレウコス朝)で、争った。結果はシリアの支配者が勝った。パネイヤの勝利と呼ばれる。(B.C.198)

2ガリラヤ・サマリア・ユダヤの土地は異邦人のシリア人に支配されるようになり、その当時に立ち上がったのが、マカベオ兄弟であった。(マカベオ兄弟は聖人であり見習うべき方々である。「安息日だからと言って、抵抗しないのはまずい。おきてを破ることになっても、安息日であっても剣を取り神殿を守るために戦う」ということだった。これは今でも私たちが見習うべきことだ。)このようにユダヤ人のそれも特に宗教の純粋さが保たれるようにと、マカベオ兄弟がたちあがったのだが、その中で生き残ったのがシモンというものであった。

3そしてガリラヤ・サマリア・ユダヤの土地ではシモンによりシリアの支配に打ち勝った。それなりに独立を勝ち取る、劣勢だったにもかかわらず、新しく王朝を勝ち取る。これをアスモネア朝という。ユダヤの王家が始まった。

4 そののち、子孫のヒルカン2世(ヨハネ・ヒルカノス2世)とアリストブル2世(アリストブロス2世)が跡目争いをするようになる。二人はローマ皇帝ポンぺイウスの時、ローマに調停をお願いするのだが、ローマ皇帝はこの機をとらえローマを占領してしまう。この時、自治を許されて自律的に生活できるようになり、ヒルカン2世は大司教兼王様となる。ちょっとした自治を維持する

5 ここで、この講話の最初に出てきたヘルモン山のふもとに住むイドゥメア人であるアンティパルという人物が、ユダヤを支配しようとしていた。アンティパルはローマからユダヤを支配しろと言われた。ローマはシリアを手に入れていて、パレスチナの地をシリアの総督のもとに置いていたので、そのシリアの総督を経由して、アンティパルはユダヤの土地を支配した。

6 アンティパルという人物はローマに政変が生ずるとすぐに手のひらを返したように鞍替えをして、ローマの総督に立てられるなど、とてもずる賢くて賄賂作戦に手を染めるいやらしい人物であり、紀元前43年に毒殺されてしまう。

7その子供が後を引き継ぐ。聖書に登場するヘロデ大王である。ヘロデ大王というのは、このアンティパルという人物の息子であった。アンティパルのいやらしさ・ずる賢さを2倍にして受け継いだ男。それがヘロデ大王であった。(カエサルの)ローマからできるだけ多くものを取ろうとうまく立ち振る舞う。ヘロデはヒルカンにもおべっかを使って権力を手に入れる。ヒルカンは大司教としての地位しか持たなくなる。

8 紀元前41年にはヘロデは兄弟ファサエル(ファサエロス)と共に分国王となる。しかし、アリストブロス2世の子どものアンティゴノスという人物が、パレスチナの独立のためにローマ帝国の支配から逃れるべくローマ人を追い払おうとする。そしてヘロデは一時的にローマに逃げる。
一時はアンティゴナはユダヤの独立を守ることができるかと思えた。

9しかしその後のヘロデの狡猾な策略によって、ヘロデはユダヤの王というタイトルをローマの元老院から受ける。(カエサルにとってユダヤの地は大帝国のほんの端っこに位置するに過ぎないどうでもよいような土地だったからヘロデのおべっかを受けて好きなようにさせたに過ぎなかった)。次にヘロデは、カエサルに「ユダヤの王様として認められるだけでなくユダヤの地を征服しなければならない」と言いくるめて、ローマの軍隊をこの地方に送ってもらうようにする。ヘロデは三年の戦いの後エルサレムを包囲してアンティゴナを生け捕りにして、ローマに連れゆきその首を切る。ヘロデはこの地に戻りもう一度ここを征服する。紀元前37~4年ヘロデはローマから認められた王としてユダヤを統治する。(ヘロデ大王)

10 カエサルの死後も、ヘロデ大王はずる賢くローマ皇帝と手を結びローマ帝国の一部として自分の位置・地位を確立した、そしてギリシャ文化にかぶれていてギリシャ文化を導入しようとした。エルサレムに劇場をつくったり、競馬場をつくったり、ギリシャ文化の娯楽施設をつくった。その周辺の地域(サマリア・エリコ・ヘブロン・マムロンなど)もギリシャ風に変えてしまう。そして、崩壊していたエルサレムの神殿を立てようとする(神殿の再建)。ヘロデ大王はパレスチナのみならず、アテネにもいろいろなモニュメントをつくった。

【感想】
ヘロデ大王の歴史的背景のお話しは少し難しかったけれど、聖書に登場する重要な人物であり、当時の社会的状況への理解に発展する貴重なものでした。
復習するのは大変でしたが、当時のユダヤ地方の地理や政治的歴史的なユダヤ人の状況がよく理解できるようになりました。間違って聞いていることもあるかと思います、どうぞお許しください。神父様とても貴重なお話をありがとうございました。



良き牧者イエズスの至聖なる聖心と失われた霊魂を探す聖母の汚れなき御心

2017年06月24日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

6月23日は、私たちの主イエズスの至聖なる聖心の祝日でした。三位一体の主日の直後に御聖体の大祝日があり、その八日後(オクターブ)の金曜日にイエズスの聖心の祝日を祝うと言うことは、聖心の祝日が御聖体の祝日の延長上にあることを意味します。

御聖体の祝日では、人類の生み出した天才聖トマス・アクイナスの聖務とミサ聖祭を持って御聖体を讃美しました。聖トマス・アクイナスでさえも、コピペして借りてきた一節はサン・ヴィクトル王立修道院のアダムの書いた、主の愛を歌う次の一節でした。
Se nascens dedit socium,
Convescens in edulium,
Se moriens in pretium,
Se regnans dat in praemium.
主は生まれることによって、伴侶・同僚として
われらと共に食することによって、甘美な食糧として
われらのために死去することによって、贖いの代償として、自らを与え給うた。
今、天で統治しながら、われらに永遠の報償として、自らを与え給う。

御聖体の神秘とイエズスの聖心の神秘が延長線上にあるのは、イエズスが私たち罪人である人類に対して抱いておられる燃えるような愛は、御受難と御聖体において特別に表されたからです。御聖体は、秘蹟的に御血が御体と外見上分離しているので、屠られた犠牲の状態を表しています。イエズスの聖心は、槍にて貫かされて開かれた、茨の冠を押しかむらせた、贖いの死を遂げた、愛の火に燃え立つ心臓の状態を表しています。

そこで、イエズスの聖心の祝日は、私たちに私たちの主の愛、御受難、御聖体この三つを提示しています。ミサの集祷文によると聖心は「愛の無限の宝庫」(infinitos dilectionis thesauros) です。

この聖心は、私たちの主の御受難の時、第二のアダムとしての御死去の後に、私たちのために開かれ血と水を出します。死の床について眠る第二のアダムの脇腹から第二のエワである教会が主の「伴侶」として生まれます。エワは水(洗礼)と血(御聖体)とによって出てきます。聖心から流された御血は、御聖体へと流れ出ます。キリストの御受難への参与は、キリストの神秘体の栄光です。槍で貫かれたのは、開かれた聖心から憐れみと聖寵との波がわき出るためです(apertum cor,..., torrentes nobis funderet miserationis et gratiae )【聖心の祝日のミサの叙唱】。それは罪人が回心の恵みと憐れみを受けるためでした。

三位一体と御聖体とイエズスの聖心のイメージは、正にファチマで繰り返されます。
ファチマの天使は、御聖体を持って現れ、次のようにひれ伏して祈ります。

「至聖なる三位一体、聖父と聖子と聖霊よ、我、御身を深く礼拝し奉る。世界中のすべての御聖櫃のうちにましまし給うイエズス・キリストのいとも尊き御体、御血、御霊魂と御神性を、イエズス・キリスト御自身が受け給う侮辱、冒涜、無関心を償うために、御身に捧げ奉る。イエズスの至聖なる聖心とマリアの汚れなき御心の無限の功徳によりて、あわれな罪人の回心を御身に願い奉る。」

トゥイでシスター・ルシアは、三位一体と御聖体と聖心のイメージをヴィジョンで見ています。十字架にかかる聖子の右には御聖体とカリストがあり、左には憐れみと聖寵という文字が現れました。イエズスの至聖なる聖心とマリアの汚れなき御心の無限の功徳によりて、あわれな罪人の回心を御身に願い奉る!

イエズスの聖心は、失われた羊を探して歩く良き牧者です。100匹のうちの迷子になった一匹のために探す良き牧者。この羊は人類です。罪によって天主を離れ、天国と聖寵を失った人類です。イエズスはこの失われた人類を探すためにこの世に送られ、人間となりました。聖ペトロは言います。「あなたたちはかつて迷った羊のようであった。しかし、牧者のもとに、あなたたちの霊魂の監督のもとに、戻ってきた。」

羊の命を守ろうと自分の命さえも投げ出す良き牧者イエズス・キリストの聖心。それと対照的なのは、羊を食い殺そうとして餌を狙ってうなり声を上げながら獅子のようにうろつき回る悪魔。しかし、良き牧者は悪魔に勝ちます。

良き牧者であるイエズスの聖心は、失われた羊を見いだして、自分の肩に載せます。こんなに緊密に親しく羊を抱き上げます。「私の愛にとどまれ!Manete in dilectione mea!」このキリストとの愛による一致を失ってはならない!洗礼は私たちにキリストの命を与えます。御聖体は私たちにおいてキリストの命を維持させ保存させ発展させます。イエズスは約束します。

「私の肉を食べ、私の血を飲むものは、私にとどまり、私も彼のうちにとどまる」と。良き牧者は、羊を連れてもとの群れのもとに戻します。私たちを天国に連れて行きます。古代のローマのカタコンベは、墓地でしたが、私たちを天国に連れて行く良き牧者としてイエズスの壁画が残っています。キリスト者は古代から、イエズスへの愛と、聖なる希望に生きていました。ああ、イエズスよ、われらの罪を赦し給え、われらを地獄の火より守り給え。また全ての霊魂、ことに主の御憐れみを最も必要とする霊魂を天国に導き給え!


罪人の回心を求めて心を砕く良き牧者なるイエズス・キリスト、イエズスの至聖なる聖心とマリアの汚れなき御心の無限の功徳によりて、あわれな罪人の回心を御身に願い奉る!

10のドラクマ貨のうち一つを失った女は、教会です。私たちはここでは聖母の汚れなき御心だと解釈します。世の光であるキリストを灯して、御聖体におけるキリストを光らせて家中を探し回ります。この地上の暗闇と私たちの心の暗闇をキリストの福音の光で照らします。婦人はついに無くしたドラクマ貨を見つけます。ドラクマ貨は永遠の命を持つ私たちの霊魂で、罪によって汚い泥とほこりまみれのところに堕ちてしまいました。ドラクマ貨には王の肖像が彫られています。霊魂にも天の王の似姿が刻み込まれています。霊魂は天主の似姿に似せて創られているからです。



聖母は公教会と、罪によって天主から離れた霊魂たちを探しているのです。イエズスの聖心は私たちの霊魂を探す聖母の汚れなき御心を下さいました。願わくは、われらが天国の宝庫に帰ることができますように!

イエズスの至聖なる聖心とマリアの汚れなき御心の無限の功徳によりて、あわれな罪人の回心を御身に願い奉る!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


イエズス・キリストの至聖なる聖心に対する、人類の忘恩に対する償の祈 【イエズスの至聖なる聖心の祝日】

2017年06月23日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 今日はイエズスの至聖なる聖心の大祝日です。ピオ十一世教皇様は、毎年この祝日に次の償いの祈りを公に唱えることを命じられました。

 愛する兄弟姉妹の皆様もどうぞお唱え下さい。
天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)



イエズス・キリストの至聖なる聖心に対する、人類の忘恩に対する償の祈


 いと甘美なるイエズスよ、主が人々に示し給いし御慈しみはかえってかれらの忘却と冷淡とけいべつとによりて報いらるるなり。さればわれらは、主の祭壇の御前にひれ伏し、いとも愛すべき主の聖心が、あらゆる方面より受け給う、かくも憎むべき忘恩ぼうとくを償わんがために特に礼拝し奉る。

 ▲されどわれらもまた、かつて主に背き奉りたるものなるを思い出し、深く悲しみて御あわれみを願い奉る。われらはおのが罪を償うのみならず、さらに進んで、救霊の道を遠ざかり、主の御招きに応ぜずして不信仰を改めざる者、洗礼の約束を破りて、主の御戒めの快きくびきを振り棄てたる人々の罪をも償わんと望み奉る。

 すなわちわれらは、世の腐敗せる風俗、むくなる青少年の霊魂を堕落のふちに導く誘惑、聖日の無視、主ならびに主の諸聖人に向けらるる不敬の言葉、主の代理者たる教皇を始め、すべての司祭職に対してなさるる侮辱、至聖なる愛の秘蹟に対する無関心と恐るべきとくせい、主の定め給いし、公教会の権利と権威とにさからう、社会の公然の不義の如き、悲しむべき種々の罪を、あまねく償い奉らんと欲す。

 ああかくの如き罪をば、われらの血潮もてことごとく洗い浄めんすべもがな。われら今ここに、主のいと高き御霊威に対する冒辱の償いとして、主がかつて十字架の上にて御父に献げ給い、なお日ごと祭壇の上にて繰り返し給う償いに、童貞なる聖母、諸聖人、およびすべての信心深き信者の償いを合わせて献げ奉り、堅固なる信仰、汚れなき生活、福音の戒め、ことに愛徳の完全なる実行をもって、主の聖寵の助けのもとに、われらおよび全人類の罪と、主の大いなる御慈しみに対する冷淡とを、わが力の及ばん限り償い、全力を尽して、主に対する罪人の冒辱を防ぎ、かつ能う限り多くの人々を、主の御許に呼び集めんと心より約束し奉る。

 いと慈悲深きイエズスよ、願わくは、至聖童貞なる協償者マリアの御取次によりて、われらが進みて献げ奉る償いの約束を受け給いて、われらをして死にいたるまで忠実に主に仕え、天のふるさとにいたる日まで、この決心を固く保たしめ給え。聖父と聖霊と共に世々に生きかつしろしめし給う主なるかな。アーメン。


【韓国語】
예수 성심이 받으시는 능욕을 기워갚기로 염하는 경
천주 성교 공과

예수 성심이 받으시는 능욕을 기워갚기로 염하는 경
(예수 성심 첨례날에 염하라)

지극히 달으신 예수여, 너 사람들에게 무한한 사랑을 베푸셨거늘, 저들은 이 사랑을 잊어버리며, 소홀히 여기며,경만히 여기며, 또한 배은망덕함으로써 갚나이다.
이제 우리는 네 제대 앞에 부복하여, 악인들이 각처에서 네 사랑하온 성심을 경홀히 여기고, 능욕하는 것을 특별한 공경으로써,기워 갚기를 원하나이다.
그러나 우리도 혹시,저런 죄악이 없지 아니한 줄을 생각하고, 지극히 애통하여,먼저 네 자비하심을 간구하나이다.
우리가 지은 죄악을 보속할 뿐아니라, 또한 구령길을 멀리 떠나 방황 하는자들과, 너를 목자와 으뜸으로 섬기지 않고, 불신한 죄에 고집하는자들과,영세할 때에 허락한 것을 천답하고, 네 계명의 단 멍에를 벗어버린자들이, 범한 모든 죄악을 감심으로 기워갚기로 대령하나이다.
가히 체읍할바 모든 죄악을 기워갚기를 원하여
드 각가지 죄악을 헤아리건대,행위의 부정함과, 시체단장(時體丹粧)의 추루함과, 무죄한 영혼을 부패케 하는 악표와,주일과 파공첨례를 범함과, 너와 네 성인들을 설독하는 지겨운 능모와, 금세에서 너를 대신하는 교종과 신품을 능욕함과, 애덕의 성사를 경만하며 모범함과,너 세우신 성교회의 권리와 교훈을, 항거하는 모든 국가의 죄악이로소이다.
어쩌면 우리가 피를 흘림으로써,저런 죄악을 다 씻어 버리리이까.
이제 우리는 천주 존경에 손상된 것을 깁기 위하여, 너 전에 십자가 상에서 성부께 드리신 보속과, 이제 날마다 제대상에서,다시 드리시는 보속을 네게 드리되, 또한 동정 성모와 모든 성인과, 열심 교우의 보속과 합하여 드리나이다.
우리는 진심으로 정지하여,우리와 모든이가 이왕 범한 죄와, 또한 네 지극한 사랑을 경만한 죄를 기워갚고, 또 신덕을 견고히 하며,행위를 결백히 하며, 계명을 완전히 지키며,애덕을 극진히 닦으며, 또 우리가 네게 능욕할 것을 힘써 금지하고, 저들을 회두시켜 너를 따르게 하리이다.
구하오니 지극히 인자하신 예수여, 너 복되신 동정 마리아의 기워갚으심과 저달하심을 보사, 우리의 자원 보속함을 받으소서.
또한 우리로 하여금 죽기까지 너를 충성으로 섬기게 하시며, 또 우리에게 끝까지 항구하는 큰 특은을 주사, 마침내 우리 모든이로 하여금 영원한 본향에 득달케 하소서.
너 저기서 성부와 성신과 함께, 무궁지세에 생활하시며 왕하시나이다. 아멘.

【中文】
向耶穌聖心補辱誦

耶穌聖心!你雖然如痴如狂地愛了世人,而從世人得來的,卻祇是忘恩負義。現在我們跪伏在你臺前,願以特別的敬禮,賠補世人的無良,安慰你被人遺棄的聖心。

但是,我們捫心自問,也曾不恭不敬,因此深切痛悔,先求你仁慈寬赦。

許多人遠離救靈正道,誤入歧途,不認你是善牧,背棄領洗聖願,逃避你誡命的約束,輕褻你的聖體聖事,我們願意代做補贖。

一切可痛的罪惡:暴躁、發怒、嫉妒、憤恨、好色、思淫、爭權奪利、強橫放肆、固執不聽善勸、高傲好勝、不肯謙遜讓人、嬌養身體、縱容慾情、破壞別人的貞操,褻瀆別人的身體,喜歡享福光榮,畏怕吃苦受辱,服裝妖冶不端,飲食貪求美味,觀看不道德的電影戲劇,閱讀不道德的書籍雜誌,貪求個人的成功,作盲目情感的奴隸,甚至作出大惡,禍國殃民,侵犯教會的權利。更有人犯了罪過,不知痛悔,不肯定改,悠悠忽忽地輾轉在罪污之中。凡此種種罪惡,我們願意逐一補償。

現在為賠補你天主性所受的凌辱,我們特將你昔日在加爾瓦略山上,今日在祭臺上的祭獻,結合童貞聖母與諸聖人信友所作的補償,都奉獻給你。願誠心誓許:以後要竭盡我們的心力,仰賴你的聖寵助佑,牢守我們的信德,清潔我們的身靈,遵守你的誡命,發愛德,行善工,為補贖我們和眾人的罪過。若有人敢侮辱你的聖名,我們要盡力阻止,並願引導多人來歸向你。

至仁慈的耶穌聖心,我們依靠瑪利亞貞潔無玷聖心的轉達,求你收納我們這一片誠心,賞賜我們奉事你忠信至死!死後上升天國,偕同你與聖父聖神,享無窮的福樂!亞孟。



【参考資料】

イエズスの至聖なる聖心に聖ピオ十世司祭兄弟会を奉献する祈り

いとも尊き聖体の秘蹟にましまし給うイエズス・キリストは讃美せられさせ給え!6月の聖伝のミサ(ラテン語ミサ)の報告 SSPX JAPAN

2017年06月22日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 6月16日(金)、17日(土)には、大阪で歌ミサを捧げました。16日のミサの後には久しぶりに終課を皆で歌いました。
 17日のミサには、新しく初めて私たちの御聖堂でミサ聖祭に与られたご夫婦がおられたのですが、残念ながらゆっくりお話をすることができませんでした。ミサの後には公教要理として聖書の地理についてパワーポイントを使って学びました。
 午後の3時からは、「ファチマの聖母グレゴリオ聖歌の会」(ファチグレ)による聖歌の練習会がありました。

 6月18日(主日)には東京で御聖体の荘厳祭の歌ミサを捧げ、聖体降福式を行いました。午後は、聖地の地理とイエズス様がいらっしゃるまでの歴史(アレクサンダー大王の死からヘロデ大王まで)を概観しました。最後に主日の晩課を歌って主日の聖化を果たしました。
 6月19日(月)の朝ミサには、東京で8名の方々がミサに与るお恵みを得ました。天主様に感謝!

 いくつかレポートを頂きましたので、それを感謝して受け取ると共に、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。

 明日は、イエズスの聖心の大祝日です。イエズスの至聖なる聖心よ、われらを憐れみ給え!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

6月の第三週の金曜、土曜日の御ミサの報告をお送りいたします。

6月16日(金) 御聖体の祝日の随意ミサには9名が、
6月17日(土) 証聖者司教聖グレゴリオ・バルバディコ(3級祝日)の御ミサには14名の方々が御ミサに与るお恵みを頂きました。デオグラチアス!

金曜日は、前日のご聖体の祝日の随意ミサに与れて嬉しかったです。お説教ではもちろん、御聖体について黙想しました。
ご復活、御昇天、聖霊降臨、三位一体、御聖体の祝日、イエズス様の聖心と、典礼の一連のサイクルは、その時期に合わせて特別の御恵みを与えようとする教会の配慮であり、
イエズス様からの究極の贈り物、ご聖体の祝日には私たちは感謝と礼拝と讃美と愛を示す事を要求しています。
日本でも、ご聖体がもっと愛され、礼拝され、讃美され、感謝されますように!!!

土曜日のお説教ではこの日の聖福音の主人から預かった5タレント、2タレントを忠実な僕がそれぞれ5タレント、2タレント増やして、主人に褒められた話からファチマの子供達が貧しい、短い人生で、与えられたのは2タレントだったかもしれないけれど、自分の与えられたタレントを使ってあっという間に聖人になったのはどうしてかということを黙想しました。私たちも、ファチマのマリア様のメッセージを知っているということは、子供達と同じくタレントを頂いているのだから、土に埋めずに増やす義務があると確認しました。
神父様が仰るように、御聖体に対する罪と、マリア様の汚れなきみ心におかされる罪の償いとして、御聖体拝領をお捧しました。

公教要理では聖書の地理についてプロジェクターを使って勉強しました。
地理がわかると、聖書の黙想の大きな助けになります。次回がとても楽しみです。

小野田神父様、大阪でのミッション本当にありがとうございました。
神父様を見習ってもう少し犠牲を増やしたいと思います。

至聖なるイエズスの聖心我らを憐み給え
聖母の汚れなき御心よ我らのために祈り給え


【報告】
アヴェ・マリア!インマクラータ!

レポート提出いたします。

①御聖体の祝日の随意ミサのお説教は凄い発見!がありました。

「聖霊降臨」で贖いの御業が完成されたので、
教会は賛美と感謝と称賛を込めて「三位一体」・「御聖体」・「イエズス様の聖心」と立て続けに祝う!
そしてなんと!この典礼とファチマの天使の祈りとは一致している!(感動しました)

②司教聖グレゴリオ・バルバディコのミサのお説教を聞いて、私みたいな者でも出来る!と思いました。

聖福音のタレントのたとえ話からファチマの牧童が僅かなタレントをどれほど沢山、たった数年で増やしたか!
勿論、聖母マリア汚れなき御心と一致して!

ファチマのメッセージは今の時代の宝であり、真の教会と一致してる公教要理だと痛感し、確信できました。
聖母マリアの汚れなき御心は完全無比の信心であり、知らない時代の人たちは、どれ程羨んでる事でしょうか?
ならば私達はどれ程恵まれているのでしょうか?と思いました。

「イエズス、マリア、我、御身を愛し奉る!霊魂たちを救い給え!」

Deo gratias! 

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

小野田神父様
土曜日のファティマの聖母グレゴリオ聖歌の会(ファチグレ会)の報告をさせて頂きます。
第2回目、6月17日には8名の方が参加いたしました。
7月の御ミサで歌う聖霊降臨後第5主日の練習を致しました。
グレゴリオ聖歌は普通の五線譜の楽譜ではないので、音をとるのが慣れるまで皆さんなかなか難しいようですが、何回も何回も繰り返すことで、8人の声がひとつにまとまった部分がありました!
今は少しですが、これが何回も続いていくことで、もっと歌える部分が増えていくことを想像したら、とても嬉しくなりました。
代表も参加されてる方全員がついてこれるように、ゆっくりと進んでくださり、初めて出てくる音符の説明や、歌詞の意味をよく教えて下さいます。
質問をしても、必ずお答えしてくださるし、楽しく練習に参加できます。
次回は、ネウマ譜の各クレの音の読み方を深く詳しく勉強する予定です。

ファチグレアシスタント

至聖なるイエズスの聖心我らを憐み給え
聖母の汚れなき御心よ我らのために祈り給え

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

こんばんは!
17日の金曜日には御聖体の随意ミサを御捧げして下さりありがとうございました!
御聖体を制定して下さったイエズス様の計り知れない愛、そしてそのイエズス様の聖心御自身である御聖体を、マリア様の汚れなき御心を以て、マリア様がイエズス様をお受けするように拝領することができますように!

デオ・グラチアス!

【報告】
Dear Fr Onoda:

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 20人(内、子供1人)
女: 27人(内、子供3人)
計: 47人(内、子供4人)


天主様に感謝!ロザリオの十字軍 総計で、ロザリオ16,764環、犠牲 56,389回です

2017年06月22日 | ロザリオの十字軍
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2017年 6月 22日現在、

日本から今までの総計で、ロザリオ16,764環、犠牲 56,389回が報告されております。天主様に感謝!愛する兄弟姉妹の皆様のご協力に感謝します。

マニラからは、ロザリオ163,465環、犠牲41,071回が報告されています。マニラからは、5月分としてロザリオ10834環、犠牲53,560回が報告されました。

愛する兄弟姉妹の皆様の寛大なご協力を心から感謝すると共に、これからも是非よろしくお願い申し上げます。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

大変遅れましたが、ロザリオ十字軍の報告をさせていただきます。

4月のロザリオ      72環
      犠牲     151回

5月のロザリオ      50環
      犠牲       -

(4月の犠牲は 合計で9日分 数えて記録した分です。
 5月の犠牲は カウントができませんでした。
 5月は 秋田巡礼での ロザリオは 数に含めていません。)

聖マリアの汚れなき御心のうちに!


【報告】
+Ave Maria! Immaculata!

4月と5月のロザリオ十字軍のご報告をさせていただきます。
大変遅くなりまして、申し訳ありません(>_<)

6人で2ヶ月分として
ロザリオ:529環
犠牲:1,670回
お捧げいたしました。

聖母の汚れ無き御心よ、我らのために祈りたまえ。
ファティマの聖母、ロザリオの聖母よ、我らのために祈りたまえ。

【報告】
4月21日から6月14日までのロザリオの合計は2人合わせて543環でした。
ファティマ巡礼まで後2カ月となりました。
聖フランシスコは自分の立ち上げた修道会が大きく発展する事よりも、自分の祈りと償いが沢山出来た時の方が大きな喜びであるという小野田神父様のお説教が心に残っております。
カトリック信仰の要を良く理解し聖人の信仰を心に刻み目標にしたいと思います。


【報告】
難病の妻は毎日10環近くのロザリオを唱えます。
祈る事が出来るのは、ポケットの中で常日頃ロザリオを唱えておられる聖ピオ10世会の神父様達の霊的指導やロザリオ十字軍のお陰だと思います。
聖母が多くの霊魂の為に沢山のロザリオを捧げて下さいと懇願されておられます。報告されるロザリオ十字軍の兄弟姉妹達の沢山の祈りと犠牲は「私達の霊魂の為に」という事を心に留めて下さい。

【お返事】
 奥様の多くの祈りと犠牲とに心から感謝します。ファチマの聖母が大変お喜びになっていると確信しております。


2017年7月の聖伝のミサ(ラテン語ミサ)の予定 Traditional Latin Mass in Japan in July 2017

2017年06月20日 | 聖伝のミサの予定
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2017年 7月の聖伝のミサの予定は、次の通りです。
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております。

【大阪】「聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂」
EG新御堂4階 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2  〒532-0002
(アクセス)JR「新大阪駅」の東口より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分
(地図 http://goo.gl/maps/Z2HmnVSh8oA2 )

 【大阪】
 6月30日(金)
 使徒聖パウロの記念(3級祝日)赤
 午後5時半 ロザリオ及び告解
 午後6時 ミサ聖祭

 7月1日(初土)
 イエズス・キリストのいと尊き御血(1級祝日)赤
 午前10時  ロザリオ及び告解
 午前10時半 ミサ聖祭

 7月9日(主) 聖霊降臨後第5主日(2級)緑 【レネー神父様】
 午後5時半  ロザリオ及び告解
 午後6時   ミサ聖祭

 7月10日(月)【レネー神父様】
 殉教者聖なる七兄弟及び殉教者童貞聖ルフィナとセクンダ(3級祝日)赤
 午前6時半 ミサ聖祭

 7月13日(木)←追加されました!
 午後5時半 ロザリオ及び告解 ←追加されました!
 午後6時 ミサ聖祭 ←追加されました!

 7月14日(金)
 教会博士証聖者司教聖ボナヴェントゥーラ(3級祝日)白
 午後5時半 ロザリオ及び告解
 午後6時 ミサ聖祭

 7月15日(土)
 証聖者聖ヘンリコ皇帝(3級祝日)白
 午前10時  ロザリオ及び告解
 午前10時半 ミサ聖祭


【東京】東京都文京区本駒込1-12-5 曙町児童会館(地図 http://g.co/maps/nxeh5 )「聖なる日本の殉教者巡回聖堂」

 【東京】
 7月2日(主)
 聖霊降臨後第4主日(2級)緑
 午前10時  ロザリオ及び告解
 午前10時半 ミサ聖祭

 7月3日(月)
 殉教者司教聖イレネオ(3級祝日)赤
 午前7時 ミサ聖祭

 7月9日(主)←キャンセルになりました。

 7月16日(主)
 聖霊降臨後第6主日(2級)緑
 午前10時  ロザリオ及び告解
 午前10時半 ミサ聖祭

 7月17日(月)平日【この日には聖母の汚れなき御心の随意ミサを予定しております。】
 午前10時  ロザリオ及び告解
 午前10時半 ミサ聖祭 

ルカによる聖福音の朗読ファイルをご紹介いたします 【聖ピオ十世会司祭による録音】

2017年06月19日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

こんにちは! 
マテオによる聖福音の朗読
マルコによる聖福音の朗読、の続きとして、ルカによる聖福音の朗読ファイルもご紹介いたします。
特にルカによる聖福音は、マリア様のことやイエズス様の幼年期のことが詳しく書かれ、とても美しいものです。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


ルカによる聖福音の朗読

ルカによる聖福音の朗読 第一章
ルカによる聖福音の朗読 第二章
ルカによる聖福音の朗読 第三章
ルカによる聖福音の朗読 第四章
ルカによる聖福音の朗読 第五章
ルカによる聖福音の朗読 第六章
ルカによる聖福音の朗読 第七章
ルカによる聖福音の朗読 第八章
ルカによる聖福音の朗読 第九章
ルカによる聖福音の朗読 第一〇章
ルカによる聖福音の朗読 第一一章
ルカによる聖福音の朗読 第一二章
ルカによる聖福音の朗読 第一三章
ルカによる聖福音の朗読 第一四章
ルカによる聖福音の朗読 第一五章
ルカによる聖福音の朗読 第一六章
ルカによる聖福音の朗読 第一七章
ルカによる聖福音の朗読 第一八章
ルカによる聖福音の朗読 第一九章
ルカによる聖福音の朗読 第二〇章
ルカによる聖福音の朗読 第二一章
ルカによる聖福音の朗読 第二二章
ルカによる聖福音の朗読 第二三章
ルカによる聖福音の朗読 第二四章




ラテン語典礼 ローマ聖務日課 2017年6月の聖務をKindleの中に入れるためのmovi ファイルをご紹介します

2017年06月19日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 聖伝によると副助祭に叙階された時から、聖職者は聖務日課を唱える義務を教会から頂きます。

 ところで聖ピオ十世会の司祭のように世界中を飛び回っている司祭が、安価な飛行機会社のチケットによる荷物の重量制限、機内持ち込み制限などで、聖務日課の重い本を手に持てなくなったら大変です。

 そこで、頭脳の優秀な司祭たちに恵まれているなぁとつくづく思うのですが、レネー神父様が聖務日課をKindleで唱えることができるように、ファイルを作って下さっています。神父様ご自身、フィリピン、韓国、日本、マレーシア、インド、その他の国々をアジア管区の財務官として視察されるために、ご必要だったのですが。

 そのレネー神父様が作って下さった大変良くできたファイルを愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。レネー神父様のために、感謝を込めて天使祝詞をたくさん唱えて下さい。

 2017年6月分のローマ聖務日課のmoviファイル

 天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

” Holy Ghost ” by Fr. Laisney SSPX

2017年06月18日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様の霊的講話、「聖霊について」の【英語原文】をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)



Sermon on Sunday 11 June 2017 – Holy Ghost

My dear Brethren,

There are three Persons in the most Holy Trinity, the Father, the Son and the Holy Ghost. The Father is God; the Son is God and the Holy Ghost also is true God. Yet these Three Divine Persons are ONE God, not three Gods. Now there has been a heresy, Arianism, that denied the divinity of the Son (and by way of consequence also the divinity of the Holy Ghost); similarly there was a heresy that denied the divinity of the Holy Ghost, the Macedonian heresy, from a man called Macedonius, at the end of the 4th century. Even today, there are some heretics who deny that the Holy Ghost is a divine Person, distinct from the Father and the Son and yet true God: these are the Jehovah Witnesses, who also deny the divinity of our Lord Jesus Christ, the Son of God. So, let us consider what the Scriptures and the Church teach us about the Holy Ghost.

In the very first chapter of Genesis, we see God creating the world by His Word: “let the light be! And the light was made” (Gen. 1:3). The light was made, but not the Word by which the light was made: “by Him all things were made” (Jn. 1:3). But in that same first chapter of Genesis where we discover the Creating Word, we also discover the Spirit of God, which “moved over the waters” (Gen. 1:2). Again, the waters were made, but not the life-giving Spirit of God, by which life was created in the waters.

Job says: “His spirit hath adorned the heavens” (Job 26:13) and later: “The spirit of God made me, and the breath of the Almighty gave me life” (Job 33:4). The psalmist also twice calls the Spirit Creator: “By the Word of the Lord the heavens were established; and all the power of them by the Spirit of his mouth:” (Ps. 32:6). “Thou shalt send forth Thy Spirit, and they shall be created: and thou shalt renew the face of the earth” (Ps. 103:30). So, it is clear that the Spirit of God is Creator, therefore He is God.

Yet it was not yet clear in the Old Testament that the Holy Ghost was a distinct Person, but that is made manifest in the New Testament, especially when our Lord Jesus Christ commands His Apostles to baptise “in the Name of the Father and of the Son and of the Holy Ghost” (Mt. 28:19): this passage is most important and clearly shows the personality of the Holy Ghost. Indeed, the Father is a Person, the Son is a Person, therefore, by the very parallel of the passage it implies that the Holy Ghost also is a Person.

Moreover, our Lord Jesus Christ taught us many important truths about the Holy Ghost; in particular He said: “But when he, the Spirit of truth, is come, he will teach you all truth. For he shall not speak of himself; but what things soever he shall hear, he shall speak; and the things that are to come, he shall shew you” (Jn. 16:13). To be a teacher is proper to a person: these words of our Lord do imply that the Holy Ghost is a Person, distinct from the Son.

St Paul says something very important about the Holy Ghost: “Know you not, that you are the temple of God, and that the Spirit of God dwelleth in you?” (1 Cor. 3:16). “Or know you not, that your members are the temple of the Holy Ghost, who is in you, whom you have from God; and you are not your own?” (1 Cor. 6:19). Now a temple is only erected to worship God; in a temple, sacrifices are offered to God: so, if we are temples of the Holy Ghost, that implies that the Holy Ghost is God. And man is much worthier than a temple of stone, man is a living temple, made by God. Thus not only temples are erected by the Church to the worship of the Holy Ghost, but temples are erected by God Himself – the maker of man – to the worship of the Holy Ghost! Hence the Church can very well sing in the Nicaean Creed: “simul adoratur et conglorificatur – He is worshipped and glorified together with [the Father and the Son]!”

In the Scriptures, we see that the Father sent the Son, and that the Father and the Son sent the Holy Ghost. Indeed, many times our Lord Jesus Christ refers to Himself as “Him Whom [God/the Father] has sent”: He said to the people at Capharnaum: “This is the work of God, that you believe in him whom he hath sent” (Jn. 6:29). “Do you say of him whom the Father hath sanctified and sent into the world: Thou blasphemest, because I said, I am the Son of God? If I do not the works of my Father, believe me not. But if I do, though you will not believe me, believe the works: that you may know and believe that the Father is in me, and I in the Father” (Jn. 10:36-38). Now nobody sends his own self: so the very fact that the Father sent the Son proves the distinction of the Person of the Father and the Person of the Son.

Similarly, we see that the Father sends the Holy Ghost, and that the Son sends the Holy Ghost. Four times, our Lord Jesus Christ foretells the sending of the Holy Ghost: “I will ask the Father, and He shall give you another Paraclete, that he may abide with you for ever: the spirit of truth” (Jn. 14:16-17). “The Paraclete, the Holy Ghost, whom the Father will send in my name, he will teach you all things, and bring all things to your mind, whatsoever I shall have said to you” (Jn. 14:26). “When the Paraclete cometh, whom I will send you from the Father, the Spirit of truth, who proceedeth from the Father, he shall give testimony of me” (Jn. 15:26). “I tell you the truth: it is expedient to you that I go: for if I go not, the Paraclete will not come to you; but if I go, I will send Him to you” (Jn. 16:7).

It is useful to put in parallel these four passages, because together they manifest the perfect equality of the Father and the Son in sending the Holy Ghost: firstly, the Father alone “He shall give you another Paraclete”; secondly the Father in the name of the Son: “whom the Father will send in my name”; thirdly the Son from the Father: “Whom I will send you from the Father”; and fourthly the Son alone: “I will send Him to you.” Based on this clear teaching from our Lord, the Church teaches that the Holy Ghost “proceeds from the Father and the Son.” The Orthodox deny the second half, but that is against the Gospel. Indeed, when our Lord says: “He shall give you another Paraclete”, the fact that the Father sends the Holy Ghost is not opposed to the fact that the Son sends Him, as He will himself say a few verses later: “I will send Him to you.” Similarly, when our Lord says: “the Holy Ghost, Who proceedeth from the Father” (Jn. 15:26) the fact that the Holy Ghost proceeds from the Father is not opposed to the fact that He also proceeds from the Son, as He will say shortly after: “the Spirit of truth… shall glorify me; because He shall receive of Mine, and shall show it to you. All things whatsoever the Father hath, are mine. Therefore, I said, that he shall receive of mine, and show it to you” (Jn. 16:13-15).

Some people might say: “this is complicated, and much above my head.” Yes, indeed, these truths are at the divine level, the level of the intimate relations between the three Divine Persons. Yet our Lord Jesus Christ revealed to us these truths, because if we truly love God, we thirst for knowing Him better, and through these words we are led to a deeper and more intimate knowledge of the three Divine Persons.

Moreover, if we are in the state of grace, the Holy Ghost is the Divine guest of our soul: He abides in us, as our Lord said: “The spirit of truth, whom the world cannot receive, because it seeth him not, nor knoweth him: but you shall know him; because he shall abide with you, and shall be in you” (Jn. 14:17). St Paul said, as we have seen above, “Know you not, that you are the temple of God, and that the Spirit of God dwelleth in you?” (1 Cor. 3:16). If a king or an emperor comes in our house, we sure would make sure everything would be clean and beautiful and we would be wholly occupied in making the visit of such king in our house as pleasant as possible. Now it is not a mere king, it is the Almighty God, the very Spirit of God, that abides in our soul: therefore, we should make sure that everything in our soul is clean and holy and pleasing to Him, and we should pay attention to such divine guest of our soul, giving Him all the worship and the loving obedience that is due to Him.

The Holy Ghost is for us a Paraclete, i.e. an advocate and a consoler: He consoles us in particular by pouring divine charity in our souls as St Paul says: “the charity of God is poured forth in our hearts, by the Holy Ghost, who is given to us” (Rom. 5:5). Since charity is the core of the spiritual life, by pouring charity in our soul, the Holy Ghost is the “Life-giver”.

The Holy Ghost is the “Spirit of Truth” because He gives us the love of the truth. Indeed, it is not sufficient to know the truth, we ought to love it. Many who had known the truth, because they did not love it, lost it. One truly loves the truth when one puts it in practice, i.e. when one lives the truth. St John indeed says: “God is Light, and in him there is no darkness. If we say that we have fellowship with him, and walk in darkness, we lie, and do not the truth” (1 Jn. 1:5-6). “He who saith that he knoweth him, and keepeth not his commandments, is a liar, and the truth is not in him” (1 Jn. 2:4). St Paul says the same thing: “They profess that they know God: but in their works they deny him” (Tit. 1:16).

The truth that the Holy Ghost gives us to love is not new, it is the Eternal Truth, the truth taught from the beginning by our Lord and the Apostles, as Our Lord said: “the Paraclete, the Holy Ghost, whom the Father will send in my name, he will teach you all things, and bring all things to your mind, whatsoever I shall have said to you” (Jn. 14:26). And St Paul says: “For if he that cometh preacheth another Christ, whom we have not preached; or if you receive another Spirit, whom you have not received; or another gospel which you have not received; you would indeed suffer him” (2 Cor. 11:4).

Holy Mother the Church teaches us that the Holy Ghost helps us especially through His Seven Gifts: wisdom, understanding, knowledge, counsel, fortitude, piety and the fear of the Lord. Isaiah had set forth these seven gifts in a well-known prophecy about Christ: “And there shall come forth a rod out of the root of Jesse, and a flower shall rise up out of his root. And the spirit of the Lord shall rest upon him: the spirit of wisdom, and of understanding, the spirit of counsel, and of fortitude, the spirit of knowledge, and of godliness. And he shall be filled with the spirit of the fear of the Lord. He shall not judge according to the sight of the eyes, nor reprove according to the hearing of the ears. But he shall judge the poor with justice, and shall reprove with equity for the meek of the earth ” (Isa. 11:1-5). Jesse was the father of David; the root of Jesse represents his descendants after they had lost the throne at the time of the captivity of Babylon: they were no longer a beautiful tree, but there was still a living root. The rod from that root represents the Blessed Virgin Mary and the flower our Lord Jesus Christ.

These seven gifts are needed because the true Christian life is a supernatural life, a life above the abilities of our nature, and therefore it requires special helps to strengthen and elevate us. Thus, the gift of fear does help us a lot to overcome temptation: “The fear of the Lord is the beginning of wisdom” (Ps. 110:10). For many, even for most people, the fear of the Lord is a determining factor that helped them to turn away from sin and start taking seriously the word of God, for “God is not mocked!” (Gal. 6:7) Those who, like the Pharisees, “stiff-necked and uncircumcised in heart and ears, always resist the Holy Ghost” (Acts 7:51), how could they go to Heaven? Let us therefore truly fear such resistance to the Holy Ghost, but rather be docile to the Holy Ghost: “For whosoever are led by the Spirit of God, they are the sons of God” (Rom. 8:14). Led by the Spirit to the obedience to the Commandments of God, because “he that keepeth his commandments, abideth in him, and he in him. And in this we know that he abideth in us, by the Spirit which he hath given us” (1 Jn. 3:24).

The Spirit of Piety helps us to pray: prayer is not always easy, because we pray Him Who is so much above us; often we are distracted, tired. St Paul himself says: “the Spirit also helpeth our infirmity. For we know not what we should pray for as we ought; but the Spirit himself asketh for us with unspeakable groanings” (Rom. 8:26). And “by all prayer and supplication praying at all times in the Spirit; and in the same watching with all instance and supplication for all the saints” (Eph. 6:18): the Christian life is a life of prayer, helped by the Holy Ghost. That does not mean that we should be like the charismatics, who pretend to be always inspired by the Holy Ghost and invent all kinds of prayers, which come from their own and not from the Spirit of Truth. Why? Because the Holy Ghost is the Spirit of Truth as explained above, which is incompatible with heresies; now the whole charismatic movement started with the Protestants and is still very much influenced by them – in particular in its ecumenism. No! The Catholic prayer is at the example of the Saints: they were truly filled with the Holy Ghost, and they teach us how to pray. In particular the Holy Ghost teaches us to pray to God as to the best of all Fathers: “For you have not received the spirit of bondage again in fear; but you have received the spirit of adoption of sons, whereby we cry: Abba (Father)” (Rom. 8:15). “And because you are sons, God hath sent the Spirit of his Son into your hearts, crying: Abba, Father” (Gal. 4:6). Hence the Catholics love to pray the Our Father. They also love to pray to our Lady, whom Christ gave us to be our Mother (Jn. 19:27)

The Spirit of Fortitude strengthens us in the fight against sin; indeed, our Lord Jesus Christ said that “the kingdom of heaven suffereth violence, and the violent bear it away” (Mt. 11:12): not those who are violent against their neighbour, but those who do violence to themselves! Hence, St Peter says: “Be sober and watch: because your adversary the devil, as a roaring lion, goeth about seeking whom he may devour, whom resist ye, strong in faith:” (1 Pet. 5:8-9).

The Spirit of Counsel helps us to have the “prudence of the spirit”: “For the prudence of the flesh is death; but the prudence of the spirit is life and peace. Because the prudence of the flesh is an enemy to God; for it is not subject to the law of God, neither can it be. And they who are in the flesh, cannot please God. But you are not in the flesh, but in the spirit, if so be that the Spirit of God dwell in you. Now if any man have not the Spirit of Christ, he is none of his… For if you live according to the flesh, you shall die: but if by the Spirit you mortify the deeds of the flesh, you shall live” (Rom. 8:6-9, 13).

The Spirit of Knowledge gives us to see the hand of God in His work, in Creation, in the ways of divine Providence, etc. The Spirit of understanding gives us a deeper grasp of the truths of faith, of the mysteries such as the Holy Trinity, the Incarnation, the Redemption. In the Veni Creator, we sing: “Through Thee, may we know the Father, may we know also the Son, and Thee the Spirit of both!” Thus the Holy Ghost helps us to understand better the mystery of the Holy Trinity. The Incarnation is a divine Work attributed to the Holy Ghost: we say in the Apostles’ Creed that Christ “was conceived by the Holy Ghost” and in the Nicean Creed that “He became flesh by the Holy Ghost”. And again, the Redemption was accomplished by the Sacrifice of Christ; now St Paul points out the role of the Holy Ghost in that Sacrifice: “the blood of Christ, who by the Holy Ghost offered himself unspotted unto God, cleanse our conscience from dead works, to serve the living God” (Heb. 9:14).

The Spirit of Wisdom gives us to see things as God sees them, from above, grasping the connection between all these mysteries. St Thomas explains that wisdom comes from an intimate love of God, which gives a certain “connaturality”: one becomes “one mind” with God. St Paul says beautifully: “he who is joined to the Lord, is one spirit [with Him]” (1 Cor. 6:17).

May the Immaculate Virgin Mary, upon whom the Holy Ghost came in a very special way on the day of the Annunciation, give us a deep knowledge and great love of the Holy Ghost and a perfect docility to Him, as she was always faithful to Him! Amen.

「聖霊について」:聖ピオ十世会司祭 レネー神父様

2017年06月18日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様の公教要理 「聖霊について」(日本語訳)をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

大阪 2017年6月11日の公教要理
聖霊について


親愛なる兄弟の皆さん、

聖三位一体には三つのペルソナ、御父と御子と聖霊があります。御父は天主であり、御子は天主であり、また聖霊もまことの天主です。でも、これら三つのペルソナは唯一の天主であって、三つの天主ではありません。さて、御子の神性を否定する(そしてその結果として聖霊の神性も否定する)アリウス派という異端がありました。同様に、四世紀の終わりには、マケドニオスと言う名前の人に由来するマケドニオス主義の異端という聖霊の神性を否定する異端がありました。こんにちでさえ、聖霊が御父と御子と区別される天主のペルソナでありながらまことの天主であるということを否定する異端者たちがいます。彼らはエホバの証人であり、天主の御子である私たちの主イエズス・キリストの神性までも否定しています。ですから、聖書と教会が聖霊に関して私たちに教えてくれていることを考察してみましょう。

創世記のまさに最初の章に、天主がそのみ言葉によってこの世をお創りになったことが書かれています。「『光あれ』と仰せられた。すると光ができた」(創世記1章3節)。光は創られましたが、光を創ったみ言葉は創られたのではありませんでした。「万物はみ言葉によって創られた」(ヨハネ1章3節)。しかし、創造のみ言葉が見られるその同じ創世記第一章に、「水の上に舞う」(創世記1章2節)天主の霊も見られます。同じように、水は創られましたが、水の中に命を創った命を与える天主の霊は創られたのではありませんでした。

ヨブはこう言います。「その息吹に天は晴れわたり」(ヨブ26章13節)、そしてのちには「私は天主の息吹でつくられ、全能者の息によって永らえている」(ヨブ33章4節)。詩篇作者もまた、霊のことを二度、創り主と表現しています。「天は主のみ言葉によって、その軍勢は主の口の息吹によってつくられた」(詩篇32章6節)。「あなたが息を送れば、彼らはつくられ、地の面は新たにされる」(詩篇103章30節)。ですから、天主の霊が創り主であるのは明らかであり、それゆえにその霊は天主なのです。

でも、聖霊が[御父と御子から]区別されたペルソナであるということは、旧約においてはまだはっきりしていませんでしたが、新約において、特に、私たちの主イエズス・キリストが使徒たちに対して、「御父と御子と聖霊の御名によって」(マテオ28章19節)洗礼を授けるようにと命令をなさることで明白にされました。この一節は最も重要であって、聖霊のペルソナ性をはっきりと示しています。実際、御父が一つのペルソナであり、御子が一つのペルソナであり、それゆえに、この一節で同等の扱いをされていることそれ自体がまさに、聖霊もまた一つのペルソナであるということを暗示しています。

さらに、私たちの主イエズス・キリストは私たちに、聖霊に関する多くの重要な真理を教えてくださいました。特に主はこう言われました。「だがその方、つまり真理の霊の来るとき、霊はあなたたちをあらゆる真理を教えるであろう。それは、自ら語るのではなく、聞いたことを語って未来のことを示されるであろう」(ヨハネ16章13節)。教える者になるということは、ペルソナ[人格]を持つ存在に固有のことです。主のこのみ言葉は、聖霊が御子と区別されるペルソナであるということを暗示しています。

聖パウロは聖霊に関する非常に重要なことを言っています。「あなたたちが天主の聖所であり、天主の霊はその中に住み給うことを知らないのか」(コリント前書3章16節)。「あなたたちの体はその内にある天主から受けた聖霊の聖所であって、自分のものではないと知らないのか」(コリント前書6章19節)。さて、神殿の聖所は天主を礼拝するためだけに建てられます。聖所においては、天主に犠牲が捧げられます。ですから、私たちが聖霊の聖所であるならば、そのことは聖霊が天主であるということを暗示しています。また、人は石でできた聖所よりもそれにふさわしく、人は天主に創られた生ける聖所なのです。このように、聖所は聖霊を礼拝するために教会によって建てられるだけでなく、聖所は聖霊を礼拝するために人間の創り主である天主ご自身によって建てられるのです! それゆえに、教会はニケーア信経の中で、「simul adoratur et conglorificatur―聖霊は[御父と御子と]ともに拝みあがめられ」と歌うことができるのです!

聖書の中で私たちは、御父が御子を遣わされ、御父と御子が聖霊を遣わされたのを見ます。実際、私たちの主イエズス・キリストは何回も、ご自分のことを「[天主御父に]遣わされた者」と言われています。主はカファルナウムで人々にこう言われました。「天主の御業とは天主から遣わされた者を信じることだ」(ヨハネ6章29節)。「父が聖別して世に送られた人が『私は天主の子だ』と言ったから『冒涜を言う』と言うのか。私が父の業をしないなら私を信じないでもよい。もしそうしているなら、たとい私を信じないまでも、私のする業を信じよ。そうすれば父が私にあり私が父にいることが分かって信じるであろう」(ヨハネ10章36-38節)。さて、誰も自分自身を遣わす人はいません。ですから、御父が御子を遣わされたという事実それ自体が、御父のペルソナと御子のペルソナが区別されることを証明しています。

同様に、私たちは御父が聖霊を遣わされ、また御子が聖霊を遣わされるのを見ます。四回にわたって、私たちの主イエズス・キリストは聖霊が遣わされることを予告なさいました。「私は父に願おう。そうすれば父はほかの弁護者をあなたたちに与え、永遠にともにいさせてくださる。それは真理の霊である」(ヨハネ14章16-17節)。「弁護者すなわち父が私の名によって送り給う聖霊は、すべてを教え、あなたたちの心に私の話したことをみな思い出させてくださるだろう」(ヨハネ14章26節)。「私が父からあなたたちに送る弁護者、父から出る真理の霊が来るとき、それが私について証明されるであろう」(ヨハネ15章26節)。「私はあなたたちに真実を言う、私が去るのはあなたたちにとって良いことである。私が去らぬなら、あなたたちには弁護者が来ないからである。しかし去れば私はそれを送る」(ヨハネ16章7節)。

これら四つの節を並べてみるのは有益です。なぜなら、その四つは聖霊を遣わされることにおいて御父と御子が完全に等しいことを明白にしているからです。第一は、御父だけです。「父はほかの弁護者をあなたたちに与え[る]」。第二は、御子の御名によって御父です。「父が私の名によって送り給う」。第三は、御子が御父からです。「私が父からあなたたちに送る」。第四は、御子だけです。「私はそれを送る」。主からのこのはっきりとした教えに基づいて、教会はこう教えています。聖霊は「御父と御子から発出する」。オーソドックス教会は後半部分を否定していますが、それは聖書に反しています。実際、主が「父はほかの弁護者をあなたたちに与え[る]」と言われるとき、御父が聖霊を遣わされるという事実は御子が聖霊を遣わされるという事実に反しているのではありません。それについて、主ご自身が「私はそれを送る」という詩句を数節あとで言われているとおりです。同様に、主が「父から出る聖霊」(ヨハネ15章26節)と言われるとき、聖霊が御父から発出するという事実は聖霊が御子からも発出するという事実に反しているのではありません。それについて、主がそのすぐあとこう言われるとおりです。「真理の霊は…私に光栄を与えられる。なぜなら、霊は私のものを受け、それをあなたたちに知らせるからである。父のものはすべて私のものである。だから私は、霊が私のものを受けて、それをあなたたちに知らせると言ったのである」(ヨハネ16章13-15節)。

次のように言う方々がいるかもしれません。「これは複雑だ。私の頭ではとてもついて行けない」。そうです、実際、これらの真理は天主の水準にあり、天主の三つのペルソナの間の親密な関係という水準にあるのです。でも、私たちの主イエズス・キリストが私たちに対してこれらの真理を明らかにされました。なぜなら、私たちがまことに天主を愛するならば、私たちは天主のことをさらによく知りたいと渇望し、これらの言葉を通して私たちが天主の三つのペルソナに関するさらに深くてさらに近しい知識に導かれるからです。

さらに、私たちが成聖の恩寵の状態にあるなら、聖霊が私たちの霊魂の天主なる賓客です。聖霊は、主が言われたように私たちのうちに住まわれます。「それは真理の霊である。世はそれを見もせず知りもしないので、それを受け入れない。しかしあなたたちは霊を知っている。霊はあなたたちとともに住んで、あなたたちの中にいますからである」(ヨハネ14章17節)。私たちがこれまで見たように、聖パウロはこう言います。「あなたたちは天主の聖所であり、天主の霊はその中に住み給うことを知らないのか」(コリント前書3章16節)。王あるいは皇帝が私たちの家に来られるなら、私たちは家の全てが汚れなく美しいことを確認し、その王の私たちの家への訪問が可能な限り快適であるよう精いっぱい心を砕くでしょう。さて、私たちの賓客は単なる王ではなく、全能の天主、私たちの霊魂に住まわれる天主の霊そのお方です。それゆえに、私たちは、私たちの霊魂の全てが汚れなく、聖なるものであり、そのお方に快適であるよう、また、私たちの霊魂を訪問して下さるその天主なる賓客に対して、そのお方にふさわしい全ての礼拝をお捧げし、愛の従順をお捧げするよう、心を砕くべきです。

聖霊は私たちにとっての弁護者、すなわち代弁者にして慰め主です。聖霊は特に私たちの霊魂に天主の愛を注ぐことによって私たちを慰めてくださいます。それについて聖パウロはこう言います。「私たちに与えられた聖霊によって、この心に天主の愛が注がれた」(ローマ5章5節)。愛は霊的生活の中心ですから、聖霊は私たちの霊魂に愛を注がれるので、「生命の与え主」なのです。

聖霊は「真理の霊」です。なぜなら、聖霊は私たちに真理の愛を与えてくださるからです。実際、真理を知るだけでは十分ではなく、私たちは真理を愛するべきです。真理を知った人々のうち、真理を愛さなかったため、真理を失ってしまった人々が多くいました。人が本当に真理を愛するのは、真理を実践するとき、すなわち真理を生きるときです。聖ヨハネは実際こう言っています。「天主は光であって、少しの闇もない。私たちが闇の中を歩いているのにキリストと一致していると言うなら、それは偽りで、真理を行っていない」(ヨハネ第一1章5-6節)。「『私は主を知っている』と言いながら掟を守らぬ人は偽り者であって、真理は彼の中にはない」(ヨハネ第一2章4節)。聖パウロが同じことを言っています。「彼らは天主を知っていると言うが、その行いによって天主を否定している」(ティト1章16節)。

聖霊が私たちに愛させるために与えてくださる真理は新しいものではなく、永遠の真理、主と使徒たちによって初めから教えられた真理です。主はこう言われました。「弁護者すなわち父が私の名によって送り給う聖霊は、すべてを教え、あなたたちの心に私の話したことをみな思い出させてくださるだろう」(ヨハネ14章26節)。また、聖パウロが言っています。「ある人が来て、私たちが宣教しなかった他のイエズスを宣教し、そしてあなたたちがかつて受けなかった他の霊を受け、あなたたちがかつて受け入れなかった他の福音を受けるなら、あなたたちはその人のせいで苦しむだろう」(コリント後書11章4節)。

聖にして母なる教会は、聖霊は特にその七つの賜物によって私たちを助けてくださる、と教えています。上智、聡明、知識、賢慮、剛毅、孝愛、敬畏です。イザヤはこれら七つの賜物を、有名なキリストに関する預言の中で次のように記述しています。「イェッセの根から新芽が出、その根から花が開き、その上に主の霊がやどる、知恵と分別[聡明]の霊、賢慮と剛毅の霊、知識と主への恐れの霊が。彼は主への恐れを喜びとし、目で見ることだけで裁かず、耳に聞くことだけで決定しない。むしろ、貧しい人々を正しく裁き、地の柔和な人々のために公正に決定する」(イザヤ11章1-5節)。イェッセはダヴィドの父で、イェッセの根はバビロン捕囚の時代に王位を失ったダヴィドの子孫のことを表しています。彼らはもはや美しい木ではありませんでしたが、まだ生きている根がありました。その根から出る新芽は童貞聖マリア、花は私たちの主イエズス・キリストを表しています。

まことのキリスト教的命は超自然の命、私たちの自然の能力を超えた命であるがゆえに、これら七つの賜物を必要とします。またそれゆえに、その命は私たちを強め高めるための助けを必要とします。こうして、敬畏の賜物が誘惑に打ち勝つよう私たちをおおいに助けてくれます。「主を恐れることは知恵の初め」(詩篇110章10節)。多くの人にとって、いえほとんどの人にとって、主を恐れることが、人を罪から立ち戻らせ、天主のみ言葉を真剣に受け取り始めさせることを助ける決定的な要素です。それは、「天主を侮ってはならない!」(ガラツィア6章7節)からです。ファリザイ人のように、「頭は固く、心と耳に割礼を受けず、絶えず聖霊に逆らって」(使徒行録7章51節)いる人たちは、いったいどのようにして天国へ行けるというのでしょうか? それゆえに、そのように聖霊に逆らうことをまことに恐れ、むしろ聖霊に従順でいましょう。「天主の霊によって導かれている人はすべて天主の子らである」(ローマ8章14節)。天主の掟に従順であるよう聖霊に導かれることによって、「その掟を守る人は天主にとどまり、天主もまた彼にとどまられる。私たちは天主が中にとどまり給うことを、与えられた霊によって知る」(ヨハネ第一3章24節)。

孝愛の霊は、私たちが祈るのを助けてくれます。祈りは常に簡単という訳ではありません。なぜなら、私たちよるはるか上におられるお方に祈るからです。私たちはしばしば気が散って注意をそらし、疲れます。聖パウロ自ら言います。「霊も私たちを弱さから助ける。私たちは何をどういうふうに祈ってよいかを知らぬが、霊は筆舌に尽くしがたいうめきをもって、私たちのために取り次いでくださる」(ローマ8章26節)。また「すべての祈りと願いをもって心のうちでいつも祈れ。絶えず目を覚まして、忍耐強くすべての聖徒のために祈れ」(エフェゾ6章18節)。キリスト教徒の生活は聖霊の助けを受ける祈りの生活です。このことは、私たちがカリスマ運動の人のようになるべきだという意味ではありません。彼らはいつも聖霊による霊感を受けると言い張ってあらゆる種類の祈りを発明しますが、その祈りは彼ら自身から出るものであって、聖霊から来るものではありません。なぜでしょうか? そのわけは、先に説明したように、聖霊は真理の霊であって、異端とは相いれないからです。さて、カリスマ運動はすべてプロテスタントから始まり、今でもプロテスタントの影響を大きく受けています、特にエキュメニズムにおいてです。いいえ! カトリックの祈りは聖人たちの模範にあるのです。聖人たちはまことに聖霊に満たされ、どう祈るかを私たちに教えてくれます。特に、聖霊は父の中の最高の父に祈るように天主に祈ることを私たちに教えてくださいます。「あなたたちは再び恐れに陥るために奴隷の霊を受けたのではなく、養子としての霊を受けた。これによって私たちは、『アッバ、父よ』と叫ぶ」(ローマ8章15節)。「あなたたちが天主の子である証拠は、『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を、天主が私たちの心に遣わされたことである」(ガラツィア4章5節)。それゆえに、カトリック信者は「[天にまします]われらの父よ」を祈るのが好きなのです。カトリック信者は、キリストが私たちに与えてくださった「われらの母」である聖母に祈るのが好きなのです(ヨハネ19章27節)。

剛毅の霊は、罪との闘いにおいて私たちを強めてくれます。実際、私たちの主イエズス・キリストは、「天の国は暴力で攻められ、暴力の者がそれを奪う」(マテオ11章12節)と言われました。隣人に対して暴力をふるう人々ではなく、自らに暴力をふるう人々です! それゆえに、聖ペトロはこう言います。「節制し警戒せよ。敵の悪魔は吠えるししのように、食い荒らすものを探して、あなたたちのまわりを回っている。信仰を固めて彼に抵抗せよ」(ペトロ前書5章8-9節)。

賢慮の霊は私たちを助けて、「霊の念(おもい)」を持たせてくれます。「肉の念は死であり、霊の念は命と平和である。肉の念はそのために天主の敵である。天主の法に従わずまた従うことができないからである。従って肉に生きる人は天主に喜ばれない。天主の霊があなたたちに住まわれるからには、あなたたちは肉ではなく霊のうちにいる。キリストの霊を持たないならその人はキリストのものではない。…あなたたちが肉に従って生きるなら死に定められており、霊によって体の行いを殺すならあなたたちは生きる」(ローマ8章6-9、13節)

知識の霊は私たちに、天主の御業、創造の御業、天主の御摂理による御業などにおける天主の御手を見させます。聡明の霊は私たちに、信仰の真理について、聖三位一体やご托身、贖いといった神秘の真理についてのより深い理解を与えてくれます。「聖霊来り給え(Veni Creator)」において、私たちはこう歌います。「御身によりてわれらは御父を知り、かつ御子を知り、そして御父と御子からの御身を知り、常に信じる恵みを与え給え!」。このように、聖霊は私たちを助けて、聖三位一体の神秘をもっとよく理解させてくださいます。ご托身は、聖霊に帰される天主の御業です。私たちは使徒信経において、キリストは「聖霊によりて宿り」と唱え、ニケーア信経においては「聖霊によりて御体を受け」と唱えます。さらにまた、贖いはキリストの犠牲によって完成されました。さて、聖パウロは、この犠牲における聖霊の役割をこう指摘しています。「聖霊によって、けがれのないご自分を天主に捧げられたキリストの御血が、私たちの良心を死の業から清めて、生きる天主に奉仕させえないであろうか」(ヘブライ9章14節)。

上智の霊は、天主が上から見るように私たちにものごとを見させ、これらすべての神秘の間の関係を理解させてくれます。聖トマスは、上智は天主の親密な愛からくるものであって、それによってある種の「共質性」が与えられ、人は天主と「一つの心」になる、と説明します。聖パウロは美しく言います。「主につく者は彼と一つの霊になる」(コリント前書6章17節)。

御告げの日に聖霊が特別な方法でおいでになった無原罪の童貞マリアが、私たちに聖霊に対する深い知識と大きな愛を与え、また聖母が聖霊に対して常に忠実であられたように私たちに聖霊への完全な従順を与えてくださいますように。アーメン。

” Sermon on the Feast of the Most Holy Trinity ” by Fr. Laisney SSPX

2017年06月18日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様の霊的講話、「いとも聖なる三位一体の祝日の説教」の【英語原文】をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

Sermon on the Feast of the Most Holy Trinity
Sunday 11 June 2017 Seoul Osaka


Why do you come to church? Because you search for God, you want to find God, as the psalmist says: “One thing I have asked of the Lord, this will I seek after; that I may dwell in the house of the Lord all the days of my life. That I may see the delight of the Lord” (Ps. 26:4). “My heart hath said to thee: My face hath sought thee: thy face, O Lord, will I still seek” (Ps. 26:8). In one word: I want to see God!

But who can tell us adequately about God? Who can express fully what God is? All our human words are much too small, too limited to express Him. The wise man said: “Blessing the Lord, exalt him as much as you can: for he is above all praise. When you exalt him put forth all your strength, and be not weary: for you can never go far enough.” (Eccli. 43:33-34) Even if you ask the greatest theologians and Doctors of the Church as St Augustine or St Thomas Aquinas, they will say: we cannot express the fullness of God, He is much greater than all what we can say. If you go to heaven and start asking the Saints in Heaven, they too will give you the same answer: God is above us, we cannot express fully His Greatness. Even if you ask the Angels, even the Cherubim and Seraphim, they too would not find any angelic word capable to express fully the Divine Perfection. Even if above all the angels you ask the Blessed Virgin Mary, she too will put her finger on her mouth and say: neither can I find any adequate word to express the beauty, the excellence and perfections of God.

Then she will say: but listen to my Son, for He is the Word of the Father. Indeed, only One can adequately express what God is, and that is God Himself. For all eternity, God the Father says One Word, in which He expressed His whole Nature and perfections so totally that this Word of God is perfect God, since nothing less than the Father can express fully what the Father is. When you know something well, you can speak about it: a farmer can speak about farming, a carpenter can speak about woodwork, a cook can speak about cuisine, a seamstress can speak about embroidery, and so on. God is the Supreme Intelligence; He knows all things and above all created things, He knows Himself perfectly, and therefore can speak about Himself: He does speak about Himself in one perfect, eternal and almighty word: “In the beginning was the Word, and the Word was with God, and the Word was God. The same was in the beginning with God. All things were made by him: and without him was made nothing that was made. In him was life, and the life was the light of men” (Jn. 1:1-4).

“No man hath seen God at any time: the only begotten Son who is in the bosom of the Father, he hath declared him” (Jn. 1:18). And what did He say about His Father? St John tells us: “this is the declaration which we have heard from him, and declare unto you: That God is light, and in him there is no darkness” (1 Jn. 1:5). God is Light, not material light, such as the light of the sun, but spiritual Light, that is, God is the Supreme Intelligence and the Supreme Truth – yet without the duality between knowing subject and known object: in the simplicity of the divine essence, God is Supreme Intelligence and Truth. And the Son of God proceeds from the Father by way of intelligence, as the Word of Divine Wisdom.

Now St Thomas says something beautiful: the Word of God is not a cold, intellectual word; on the contrary, the Word of God is the “Word breathing Love”. He expresses what the Father is; but “God is Charity” (1 Jn. 4:16); therefore, the Son Himself is a Word of Love, a Word breathing Love! It is the perfect expression of the Charity of the Father. And the Father loves the Son, and the Son loves the Father, and from that common furnace of charity proceeds the Holy Ghost as a Flame of divine Charity! The Holy Ghost proceeds from the Father and the Son by way of Charity. See how in God knowledge is inseparable from love: “He that loveth not, knoweth not God: for God is charity” (1 Jn. 4:8).

In his first epistle, St John gives two definitions of God, that gives us a deep insight in the life of the Holy Trinity. “God is Light” (1 Jn. 1:5) and “God is Charity” (1 Jn. 4:16). God is Light, that is, Supreme intelligence, and the Son of God proceeds from the Father by way of intelligence; God is Charity, that is, Supreme Love, and the Holy Ghost proceeds from the Father and the Son by way of love, of Charity. This is the Divine Life, from all eternity.

Charity has two aspects: charity gives and charity unites. Charity gives, indeed “God so loved the world, as to give his only begotten Son; that whosoever believeth in him, may not perish, but may have life everlasting” (Jn. 3:16). Charity gives: God “spared not even his own Son, but delivered him up for us all, how hath he not also, with him, given us all things” (Rom. 8:32). Charity gives to the point of sacrifice: “Greater love than this no man hath, that a man lay down his life for his friends” (Jn. 15:13). And charity unites: “Holy Father, keep them in thy name whom thou has given me; that they may be one, as we also are… That they all may be one, as thou, Father, in me, and I in thee; that they also may be one in us… I in them, and thou in me; that they may be made perfect in one: and the world may know that thou hast sent me, and hast loved them, as thou hast also loved me” (Jn. 17:11,21,23).

Now these two aspects of charity, we see them at the supreme level in the mystery of the most Holy Trinity. Charity gives, hence “the Father loveth the Son: and he hath given all things into his hand” (Jn. 3:35). The Father has given so fully to the Son that the Son can say: “All things whatsoever the Father hath, are mine” (Jn. 16:15). The Father has given all His Divine attributes to the Son, so much so that the Father and the son are perfectly equal! Similarly, the Father and the Son communicate fully their divinity to the Holy Ghost. Thus, in God, Charity gives, and you have the Three Divine Persons. And charity unites, and you have the unity of the Divine Essence: three Persons in One God, because charity gives and unites.

One day in catechism class, I asked the children: what did God do before He created the world? One little child gave me a very nice answer: “He was thinking of us!” Yes, true. But didn’t He have much more important things to think of? Above all created things, He thinks of Himself, and says Himself in that one Perfect Eternal Almighty Word, and together with this Word, He breathes the Spirit of Eternal Charity! Yet in that supreme Divine Life, God has found the way to love us, tiny little creatures on a tiny planet in a tiny corner of the huge universe. St John marvels: “Behold what manner of charity the Father hath bestowed upon us, that we should be called, and should be the sons of God” (1 Jn. 3:1).

And St John continues: “By this hath the charity of God appeared towards us, because God hath sent his only begotten Son into the world, that we may live by him. In this is charity: not as though we had loved God, but because he hath first loved us, and sent his Son to be a propitiation for our sins. My dearest, if God hath so loved us; we also ought to love one another. No man hath seen God at any time. If we love one another, God abideth in us, and his charity is perfected in us… And we have seen, and do testify, that the Father hath sent his Son to be the Saviour of the world. Whosoever shall confess that Jesus is the Son of God, God abideth in him, and he in God. And we have known, and have believed the charity, which God hath to us. God is charity: and he that abideth in charity, abideth in God, and God in him” (1 Jn. 4:9-16).

How can we “live by Him”? There is an important truth that you need to know: the inhabitation of the Holy Trinity in the souls of the just. St Paul says: “Know you not, that you are the temple of God, and that the Spirit of God dwelleth in you?” (1 Cor. 3:16). But the Holy Ghost is inseparable from the other Two Persons: they too abide in the just. Our Lord Jesus Christ Himself says: “He that hath my commandments, and keepeth them; he it is that loveth me. And he that loveth me, shall be loved of my Father: and I will love him, and will manifest myself to him… If anyone love me, he will keep my word, and my Father will love him, and We will come to him, and will make our abode with him” (Jn. 14:21,23): “We”, that is, the Father and the Son, and the Holy Ghost who is inseparable from them!

Here below, we grasp these marvellous realities through the veil of Faith. “We have known, and have believed the charity, which God hath to us” (1 Jn. 4:16) but we do not yet see it. However, the fact that we do not yet see it does not make it less real. In our own selves, the most important dimension is the spiritual dimension, and we can’t see it! We acknowledge it with our mind at the natural level, and we grasp it through Faith at the supernatural level.

That inhabitation of the most Holy Trinity in our soul makes that we cannot behave as people “who have no hope” (1 Thess. 4:13): we cannot live any longer a worldly life, but we ought to live a heavenly life on earth, as children of God. Saint Peter says beautifully: “By whom he hath given us most great and precious promises: that by these you may be made partakers of the divine nature: flying the corruption of that concupiscence which is in the world” (2 Pet. 1:4). You see how immediately he draws the conclusion: flee from the corruption of the flesh which is so evident in the modern world! St Paul says the same: “Having therefore these promises, dearly beloved, let us cleanse ourselves from all defilement of the flesh and of the spirit, perfecting sanctification in the fear of God” (2 Cor. 7:1).

We should pay attention to the divine Guests of our soul. This requires silence. In silence, the soul can lift itself much more easily to God and recollect itself more easily, forgetting the exterior things and paying attention to the Three Divine Persons in the secret of our soul. Remember what our Lord said: “But thou when thou shalt pray, enter into thy chamber, and having shut the door, pray to thy Father in secret: and thy Father who seeth in secret will repay thee” (Mt. 6:6). Ste Thérèse of the Child Jesus, when she was still a little girl, used to hide behind her bed and meditate in silence and in secret.

There is a very important consequence from the Dogma of the Holy Trinity: he that refuses the Holy Trinity does not really know God. Our Lord Jesus Christ says very clearly: “He that believeth in the Son, hath life everlasting; but he that believeth not the Son, shall not see life; but the wrath of God abideth on him” (Jn. 3:36). Hence, we must be missionary to convert all those who do not believe in the Most Holy Trinity, be they Jews, Muslims, Hinduists, Buddhists or of any pagan religion. The most Holy Trinity is the greatest treasure we can have, and we don’t lose it when we give it, on the contrary: the more we give it, the more we have it! We have the duty to communicate that Faith to our friends, neighbours and fellow men. “So, let your light shine before men, that they may see your good works, and glorify your Father who is in heaven” (Mt. 5:16).

May the Blessed Virgin Mary, who is the most beautiful sanctuary of the Holy Trinity, help us to keep the Faith in the Holy Trinity, live that Faith and pass it on to many others, so that one day we may come to that heavenly kingdom where we shall see the most Holy Trinity face to face for ever! Amen.

「いとも聖なる三位一体の祝日の説教」:聖ピオ十世会司祭 レネー神父様

2017年06月15日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様のお説教 「いとも聖なる三位一体」(日本語訳)をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2017年6月11日 大阪 聖三位一体の主日の説教


親愛なる兄弟の皆さん、

皆さんはなぜ教会に来るのですか? それは皆さんが天主を探し求め、天主を見いだしたいと思っているからです。それについて詩篇作者はこう言います。「私は主に一つのことを頼み、それを求めている、生きている限りずっと主の家に住み、主の喜びを眺めることを」(詩篇26章4節)。「あなたについて私の心は、『私の顔はあなたを探し求める』と言った。主よ、私はみ顔を探し求める」(詩篇26章8節)。一言で言いましょう。私は天主を見たいのです!

しかし、誰が天主について適切に教えることができるでしょうか? 誰が天主とは何であるかということを完全に表現することができるでしょうか? 私たち人間の言葉はあまりに小さく、限りのあるものですから、それで天主を表現することはできません。賢者はこう言います。「主をほめるなら、でき得る限り主をたたえよ。主はすべての讃美を超えておられるのだから。主をたたえるとき、すべての力を尽くし、飽きるな。これで十分ということは決してないのだから」(集会書43章33-34節[訳注:節の番号はDouay Rheims聖書による])。皆さんが聖アウグスティヌスや聖トマス・アクィナスのような最も偉大な神学者や教会博士に尋ねるとしても、彼らはこう言うでしょう。われわれは天主のことを完全に表現することはできず、天主はわれわれが言い得るあらゆることよりもはるかに偉大である、と。皆さんが天国に行って、天国の聖人たちに尋ねようとするならば、聖人たちも次のように同じ答えをするでしょう。天主は私たちを超えるお方で、私たちには天主の偉大さを完全に表現することはできません、と。皆さんが天使たち、ケルビムやセラフィムに尋ねても、天使たちも天主の完璧さを完全に表現する自分たちの言葉を見いだすことはないでしょう。皆さんが、すべての天使の上におられる童貞聖マリアにお尋ねしても、聖母は指を口に当てて、こう言われるでしょう。天主の美しさ、卓越性、完璧さを表現する適切な言葉は、私にも見つけられません、と。

そして聖母はこう言われるでしょう。でも私の子にお聞きなさい、彼は御父のみ言葉なのですから、と。実際、天主とは何かということを適切に表現できるのはお一人しかいらっしゃらず、それが天主ご自身なのです。永遠において、天主なる御父は一つのみ言葉を発しておられ、そのみ言葉において、御父は、ご自分の本性全体と完璧さをまったく全面的に表現なさったため、この天主のみ言葉は完全な天主であるのです。なぜなら、御父とは何かを完全に表現できるのは御父に劣るものではありえないからです。皆さんが何かをよく知っているとき、皆さんはそれについて話すことができます。農民なら農作業のことを話すことができますし、大工なら木工のことを話すことができ、料理人なら料理について話すことができ、お針子なら刺繍について話すことができるといった具合です。天主は最高の知性であられます。天主はすべてのことをご存じであり、すべての被造物を超えてご自分のことを完璧にご存じですから、ご自分について話すことがおできになります。天主はご自分について、一つの完璧で永遠にして全能のみ言葉において話されます。「はじめにみ言葉があった。み言葉は天主とともにあった。み言葉は天主であった。み言葉ははじめに天主とともにあり、万物はみ言葉によって創られた。創られた物のうちに、一つとしてみ言葉によらずに創られたものはない。み言葉に生命があり、生命は人の光であった」(ヨハネ1章1-4節)。

「天主を見た人は誰もいない。御父のふところにまします御独り子の天主がこれを示された」(ヨハネ1章18節)。では、御子は御父について何を言われたのでしょうか? 聖ヨハネが私たちに教えてくれます。「私たちがキリストから聞いてあなたたちに告げる便りはこうである。天主は光であって、少しの闇もない」(ヨハネ第一1章5節)。天主は光です。太陽の光のような物質的な光ではなく、霊的な光であり、これはすなわち天主は最高の知性にして最高の真理であるということですが、知ろうとする主体と知られる客体の間に二元性[二つの別のものであること]はありません。天主の本質の単純さにおいて、天主は最高の知性かつ真理なのです。ですから、天主の御子は、天主の知恵のみ言葉として、知性によって御父から発出します。

さて、聖トマスは美しいことを言います。天主のみ言葉は冷たい、知性的な言葉ではなく、その反対に天主のみ言葉は「愛を呼吸するみ言葉」である、と。み言葉は御父とは何かということを表現します。ただ「天主は愛である」(ヨハネ第一4章16節)ですから、御子ご自身が愛のみ言葉、「愛を呼吸するみ言葉」なのです! これが、御父の愛の完璧な表現なのです。そして、御父は御子を愛され、御子は御父を愛され、この愛の燃え立つ両者共通の愛のかまどから、天主の愛の炎として聖霊が発出します! 聖霊は、愛によって御父と御子から発出します(聖ピオ十世の公教要理)。天主においては知と愛とは分かちえないことに注目してください。「愛のない者は天主を知らない。天主は愛だからである」(ヨハネ第一4章8節)。

その第一の書簡の中で、聖ヨハネは、私たちに聖三位一体の命について深い洞察を与えてくれる天主についての二つの定義をします。「天主は光である」(ヨハネ第一1章5節)と「天主は愛である」(ヨハネ第一4章16節)です。天主は光、すなわち最高の知性であって、天主の御子は知性によって御父から発出します。天主は愛、すなわち最高の愛であって、聖霊は愛によって御父と御子から発出します。これが全永遠の初めから天主の命なのです。

愛には二つの側面があります。愛は与え、かつ愛は一つにします。愛は与えます。実際「天主は御独り子を与え給うほどこの世を愛された。それは、彼を信じる人々がみな滅びることなく永遠の命を受けるためである」(ヨハネ3章16節)。愛は与えます。「ご自分の御子を惜しまずに私たちすべてのために渡されたお方が、御子とともに他のすべてをくださらないはずがあろうか」(ローマ8章32節)。愛は犠牲に至るまで与えます。「友人のために命を与える以上の大きな愛はない」(ヨハネ15章13節)。そして愛は一つにします。「聖なる父よ、あなたが与え給うた人々を、あなたの御名において守り、私たちが一つであるがごとく、彼らもそうなるようにお守りください。…父よ、あなたが私の中にましまし、私があなたの中にあるように、みなが一つになりますように。彼らも私たちにおいて一つになりますように。…私は彼らの中にあり、あなたは私の中においでになります。彼らが完全に一つになりますように。あなたが私を遣わし、私を愛されるように、彼らをも愛しておいでになることを、この世に知らせるためであります」(ヨハネ17章11、21、23節)。

さて、これら二つの愛の側面、私たちはそれらを、いとも聖なる三位一体の神秘のうちに最高のレベルで見るのです。愛は与えます、それゆえに「御父は御子を愛し、その手に万物を委ねられた」(ヨハネ3章35節)。御父は御子に非常に完全にお与えになったため、御子はこう言うことがおできになります。「父のものはすべて私のものである」(ヨハネ16章15節)。御父はご自分の天主の性質をすべて御子にお与えになったため、御父と御子は完璧に等しくあられるのです! 同様に、御父と御子はご自分たちの神性を聖霊に完全に伝達なさっているのです。こうして、天主のうちで愛が与えるため、三つの天主のペルソナがあるのです。また愛が一つにするため、天主の本質は一つであるのです。唯一の天主において三つのペルソナがあるのは、愛が与え、かつ一つにするからです。

ある日の公教要理の授業で、私は子どもたちにこう質問しました。天主がこの世をお創りになる前には、天主は何をなさっていたのでしょうか? 一人の小さな子が大変素晴らしい答えをしてくれました。「天主は私たちのことを考えておられたのです!」。そうです、その通りです。しかし、天主にはお考えになるべきずっと重要なことが他にあったのではないでしょうか? あらゆる被造物にもまして、天主はご自分のことを考えておられるのであり、その一つの完璧な永遠にして全能のみ言葉においてご自分のことを言われ、このみ言葉とともに、天主は永遠の愛の霊を呼吸なさるのです! でも、その最高の天主の命のうちに、天主は、広大な宇宙の小さな片隅にある小さな惑星にいる小さな取るに足らない被造物である私たちを愛する方法を見いだされたのです。聖ヨハネは驚嘆します。「考えよ、天主の子と称されるほど、御父から計りがたい愛を受けたことを。私たちは天主の子である」(ヨハネ第一3章1節)。

そして聖ヨハネは続けます。「私たちに対する天主の愛はここに現れた。すなわち、天主はその御独り子を世に遣わされた。それは私たちを御子によって生かすためである。私たちが天主を愛したのではなく、天主が先に私たちを愛し、御子を私たちの罪のあがないのために遣わされたこと、ここに愛がある。愛する者よ、天主がこれほどに愛されたのなら、私たちもまた互いに愛さねばならない。誰も天主を見た者はいないが、私たちが互いに愛するなら、天主は私たちの中に住まわれ、その愛も私たちの中に完成される。…私たちは御父が御子を救世主として送られたことを見て、これを証明するイエズスが天主の御子であると宣言する者には、天主がその中にとどまられ、彼は天主にとどまる。私たちは天主の愛を知り、それを信じた。天主は愛である。愛を持つ者は天主にとどまり、天主は彼にとどまられる」(ヨハネ第一4章9-16節)。
私たちは、どのようにして「御子によって生かされる」のでしょうか。皆さんが知っておく必要のある一つの重要な真理があります。それは聖なる三位一体は義人の霊魂に住み給うということです。聖パウロはこう言います。「あなたたちが天主の聖所であり、天主の霊はその中に住み給うことを知らないのか」(コリント前書3章16節)。しかし、聖霊は他の二つのペルソナと分かちえません。他の二つのペルソナも義人の中に住み給うのです。私たちの主イエズス・キリストご自身がこう言われます。「私の掟を保ちそれを守る者こそ私を愛する者である。私を愛する者は父にも愛され、私もその人を愛して自分を現す。…私を愛する者は私の言葉を守る。また父もその者を愛される。そして私たちはその人のところへ行ってそこに住む」(ヨハネ14章21、23節)。「私たち」とは、すなわち御父と御子、そして両者から分かちえない聖霊です!
この地上では、私たちはこの驚くべき現実を、信仰のベールを通して捉えます。「私たちは天主の愛を知り、それを信じた」(ヨハネ第一4章16節)のですが、私たちはまだそれを見ていません。しかしながら、私たちがそれをまだ見ていないということで、それが現実であることに変わりがある訳ではありません。私たち自身において最も重要な次元は霊的な次元ですが、私たちはそれを見ることができないのです! 私たちは、自然のレベルでは心によってそれを知りますが、信仰を通して超自然のレベルでそれを理解するのです。

私たちの霊魂にいとも聖なる三位一体が住み給うことを考えれば、私たちが「希望のない」(テサロニケ前書4章13節)人々のように振る舞うことはできません。私たちはもはやこの世の生活を生きることはできず、天主の子として、地上において天国の生活を生きなければなりません。聖ペトロは美しく言います。「それによって私たちに尊い偉大な約束が与えられた。それは、欲情が世の中に生んだ腐敗からあなたたちを救い上げ、天主の本性にあずからせるためであった」(ペトロ後書1章4節)。聖ペトロはどれほど素早く結論を引き出すことでしょうか。肉による腐敗から逃れよ、であり、これは現代世界において非常に明白になっています! 聖パウロが同じことを言います。「この約束を受けているのであるから、至愛の者よ、自分の肉体と精神のすべてのけがれを清め、天主を恐れつつ成聖の業を成し遂げよ」(コリント後書7章1節)。

私たちは、私たちの霊魂に来ておられる聖三位一体という賓客に注意を払うべきです。そのためには沈黙を必要とします。沈黙によって、霊魂は自分を天主へと高く上げて、自分を取り戻し、外的なことを忘れて、私たちの霊魂の奥まったところにおられる三つの天主のペルソナに注意を向けることがしやすくなります。主がこう言われたことを思い出してください。「祈るときは自分の部屋に入り、戸を閉め、隠れてまします父に祈れ。そうすれば、隠れたことを見られる父が報いを下される」(マテオ6章6節)。幼きイエズスの聖テレジアはまだ小さな少女だったとき、ベッドのかげで沈黙のうちに隠れて黙想していたものです。

聖三位一体の教義から、一つの非常に重要な結果が出てきます。聖三位一体を拒否する人は、本当に天主を知っているのではないということです。私たちの主イエズス・キリストは、非常に明確にこう言われます。「御子を信じる者には永遠の命があり、信じようとしない者は命を知らず、その人の上には天主の怒りがとどまる」(ヨハネ3章36節)。それゆえに私たちは、ユダヤ教徒、イスラム教徒、ヒンズー教徒、仏教徒、他のあらゆる異教徒ら、いとも聖なる三位一体を信じていないすべての人々を回心させる宣教者でなければならないのです。いとも聖なる三位一体は私たちが持つことのできる最も素晴らしい宝であり、それを与えたからといって失う訳ではありません。その反対です。私たちがそれを与えれば与えるほど、私たちはそれをもっと得るのです! 私たちには、友人たち、隣人たち、仲間たちにこの信仰を伝える義務があります。「このようにあなたたちも人の前で光を輝かせよ。そうすれば、人はそのよい行いを見て天にまします父をあがめるであろう」(マテオ5章16節)。

聖三位一体のいとも美しき聖所である童貞聖マリアが、私たちが聖三位一体への信仰を守り、その信仰を生き、それを他の多くの人々に伝えるのを助けてくださいますように。そうすることで、いつか私たちが、聖三位一体を顔と顔を合わせて永遠に見るその天の国に行くことができますように。アーメン。

日本から今までの総計で、ロザリオ15,570環、犠牲 54,568回が報告されております

2017年06月14日 | ロザリオの十字軍
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2017年 6月 14日現在、

日本から今までの総計で、ロザリオ15,570環、犠牲 54,568回が報告されております。天主様に感謝!愛する兄弟姉妹の皆様のご協力に感謝します。

マニラからは、ロザリオ152,631環、犠牲41,071回が報告されています。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】
4月分の聖なるロザリオの十字軍!!♪♪の御報告、等です♪

            聖なるロザリオ!!♪♪ 犠牲

シスター        90 環          
ヨゼフ マリア     62 環        0回
アンナ         28 環       235 回    
マリア・クリスティーナ 30 環       600 回
マリア          30環       300  回
バルナバ        80 環        300 回
アリア・ローザ     138 環        600 回
ヨゼフ・パウロ      90環          0 回       
マリア・クリスティーナ   91環        302 回
テレジア         90環         180回
マリア・ヨゼフィーナ   90環        450回                        計   819環    3105 回 

以上です、どうぞ宜しく御願い致します♪

【報告】
聖なるロザリオ 5環  犠牲 10回位 でした。

【報告】
では、皆様にご協力頂いております5月分の聖なるロザリオの十字軍の!!♪♪御報告をさせて頂きます♪

            聖なるロザリオ!!♪♪  犠牲

シスター        93 環          
ヨゼフ マリア     54 環        0回
マリア・クリスティーナ  30環        620 回
マリア          31環       310  回
アリア・ローザ    150 環        620 回
ヨゼフ・パウロ      93環          0 回       
マリア・クリスティーナ  94環        147 回
マリアテレジア      90環         186回
マリア・ヨゼフィーナ   90環         465回                    計 728  環   2348回 

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ

聖なるロザリオ 66環 犠牲 155回

です

【報告】
小野田神父様、こんにちは、

ロザリオの十字軍のご報告です。

3月1日~3月31日
ロザリオの祈り 64環
犠牲 31

4月1日~4月30日
ロザリオの祈り 60環
犠牲 30

以上です



--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】