Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

聖オディリア

2008年07月31日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

 愛する兄弟の皆様、

 復活祭の後、韓国出身のシスターが、今年、アメリカで終生誓願を立てました。

 ところで、フィリピンのベタニアの家で修道生活を準備したフィリピンの女性は、およそ十年前に聖伝のドミニコ女子修道会に入会し、ついに今年の8月に、彼女も終生誓願を立てることになりました。今回、その終生誓願の儀式に、聖ピオ十世会アジア管区を代表して参列するために、私はフランスに来ています。

 昨日と今日と、このシスターが属しているドミニコ女子修道会の分院(フランスのアルザスのMullerhofにある)で、ミサ聖祭を捧げました。

 昨日は、アルザスの守護聖人である聖オディリアの山に巡礼に行きました。聖オディリアは、7世紀にアダルリック公爵の長女で、盲目として生まれました。洗礼の時に視力を回復し、後に修道会を立てます。

 今日は、ストラスブールのカテドラルに巡礼に来ています。

天主の御母聖マリア、我らのために祈り給え!
聖オディリア、我らのために祈り給え!

天主様の祝福が豊かにありますように!トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

ラサレットのメラニーの言葉

2008年07月28日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

 愛する兄弟の皆様、

 しばらく前に、大阪大司教区にいる本田神父が天主の御母聖マリア様についてクリスマス会で冒涜したことが知らされました。

 今度は、ホアン・マシア神父が同じことを教えていると知らされました。悲しみを覚えます。

 そこで、ラサレットのメラニーの言葉を紹介します。

「ユダヤ人たちが(イエズス・キリストを信じるようになり)、もう一度天主の民という名前を取り戻すようになるのは、可能ですし、確実でさえあります。そして、私たちは(不信のために)おそらく捨てられてしまうでしょう。」

「(昔から預言された)偉大な教皇や、偉大な王が来る前に、全キリスト教世界に極めて大きい、恐ろしい、恐怖に満ちた、全体的な困難がありでしょう。そしてこれが起こる前に、二回の短い平和と、しっかりしない、隷属的な、疑わしい二人の教皇が出るでしょう。」

「カトリック教会は永久に続くでしょう、私たちの主がそう言いました。しかし、教会の教える立場にある人の中には、どれほど多くの裏切り者、背教者、金目当てで働く者、党派的な者、獣の印と10の角を付けた者たちでいっぱいなことでしょうか!」

天主の御母聖マリアよ、我らのために祈り給え!

明けの星なる聖母マリアよ、我らのために祈り給え!

天主様の祝福が愛する兄弟の皆様の上に豊かにありますように!

パリにて、トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

ソウルでのミサ聖祭を終えて

2008年07月28日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

 愛する兄弟の皆様、
 大変忙しゅうございましたが、ソウルでのミッションの時があっという間に終わりに近づきました。

 今回は、二、三年ほど前に聖伝のミサにきてくれたニコラ君(仮名・今は高校生です)が、ソウルに来てくれました。新しいミサに行っても、口で聖体拝領が禁止されているのだそうです。ずーっと御聖体拝領をしなかった(できなかった)のですが、妥協することにして、今では手で聖体拝領をしているそうです。

 ニコラ君と話していて、彼が本当に変わってしまったとびっくり・残念でした。ここまで盲目になってしまったとは!

 最後に、話しは彼が日本語を勉強している話題となり、『1リットルの涙』の映画を皆で鑑賞したそうです。

主よ、我らを憐れみ給え!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

1945年8月9日のラテン語のグレゴリオ聖歌とカトリック聖歌を歌う乙女たちの歌声

2008年07月25日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

 愛する兄弟姉妹の皆様、
 暑い日が続いていますが、いかがお過ごしでしょうか。もうすぐ8月9日ですね。

 軍部(関東軍)は満州での事件(南満州鉄道の線路爆破)を切っ掛けに、天皇陛下に上奏することなく1931年に満州事件をおこしました。天皇陛下はこの報告を聞いて激怒しました。林銑十郎中将の率いる朝鮮駐屯軍が、大命(宣戦の詔勅)を待たずに独断で越境し満州に侵攻したからです。関東軍参謀は、政府の決定を無視して、自衛のためと称して戦線を拡大し、関東軍は5ヶ月の間に満州全土を占領しました。

【因みに「マオ(上)」(ユン・チアン著 土屋京子訳)によると、1928年6月4日の「日本による侵略の第一歩」とされる「(満州事変のきっかけとなった)張作霖爆殺は一般的には日本軍が実行したとされているが、ソ連情報機関の資料から最近明らかになったところによると、実際にはスターリンの命令にもとづいてナウム・エイティンゴン(のちにトロツキー暗殺に関与した人物)が計画し、日本軍の仕業に見せかけたもの」(301頁)となっています。「GRU(ソ連赤軍情報総局)帝国(第一巻)」(アレキサンドル・コルパキディとドミトリー・プロコロフ共著)によると、エイティンゴンと共に張作霖の爆殺に「主要な役割を果たしたのは、ゾルゲの前任者であったサルニンであった」と書かれています。】

 更に血迷った軍部は、遂にアメリカと戦う決定を下しました。天皇陛下は東条英機にどんな犠牲を払ってもアメリカとの戦争は避けるべきとの旨を伝えましたが、菊の紋を戴く天皇陛下は、真冬の風を真っ向から受けた菊の花のように無力な存在でした。

 重村智計の義理の祖父である寺島健(てらじま けん)、日本海軍軍人で最後は海軍中将で退役し、日米開戦を決めた御前会議に東條英機内閣の逓信大臣として参列しました。寺島健は、戦後「天皇陛下に悪いことをした」と語り続け、「東条英機首相が嫌がる陛下に日米戦争の印を押させた」と明らかにし、「陛下は、最後まで日米戦争に反対だった」と語り続け、死ぬまで東条英機を激しく非難し続けました。寺島は、東條内閣の閣議に於いて開戦が決定された際に、昭和天皇の大御心があくまで開戦に反対である事を知る寺島は、此の決定に対し気を失いかけんばかりに愕然としたそうです。だから、東条英機らが靖国神社に祭られた後は、天皇陛下は靖国参拝をしなくなったのです。

 日本軍は必死に戦いましたが、その甲斐もなくタラワ、ビアク空港、サイパン、テニアン、グアムなどが強力なアメリカ軍のもとに陥落しました。

 サイパン島は1944年6月、三万人の日本兵と二万二千人の一般人を死に追いやった末、占領されました。巨大な空軍と海軍に支援されたアメリカ海兵隊もまた一万四千人以上の兵士を失ったのです。6月13日にアメリカ軍艦載機1,100機によるサイパン島に対する空襲。戦艦8隻、巡洋艦11隻含む上陸船団を伴った艦隊が砲弾合計18万発もの艦砲射撃がまずありました。16日の夜から17日にかけて、日本軍は戦車第9連隊(44輌)含む約8000名が総攻撃を開始しましたが、1時間に野戦砲800発、機銃1万発という米軍の圧倒的火力によりほぼ全滅しました。7月には、日本軍は完全に追い詰められ、残存部隊約3000名の総攻撃によるバンザイ突撃が行われました。多く者が自決していきました。

 1944年8月14日には、一般動員条例が通過し、13歳から60歳までの全ての女子は侵略してくるアメリカ人と戦おうと竹槍訓練の義務が課せられました。

 1945年2月、アメリカ海兵隊が映画でも最近話題になった硫黄島への上陸が開始されました。3月17日米軍が島を制圧して、日本軍の部隊が多数玉砕しました。3月21日になって、大本営は17日に玉砕したと発表します。

「17日夜半ヲ期シ最高指導官ヲ陣頭ニ皇国ノ必勝ト安泰トヲ祈念シツツ全員壮烈ナル総攻撃ヲ敢行ストノ打電アリ。通爾後通信絶ユ。コノ硫黄島守備隊ノ玉砕ヲ、一億国民ハ模範トスヘシ。

 3月26日、硫黄島では栗林忠道大将以下300名余りが最後の攻撃を仕掛けて玉砕し、日本軍は2万933名の守備兵力のうち2万129名までが戦死しました。

 次に、アメリカ軍は沖縄の島を軍艦で包囲し(機動部隊、戦艦、上陸用舟艇、病院船などふくめて約1.300隻にも上った)、思う存分に艦砲射撃しましたが、占領するのに3ヶ月かかり1万2500人の犠牲者を出していました。

 もしも戦争が続いていたならば、アメリカ軍は出来る限り日本の大都市を取り巻いて海から艦砲射撃を浴びせたでしょうし、もしもアメリカ軍が沿岸の平地に上陸したなら、国民は山から山へと後退するでしょうし、アメリカ軍も何年も戦い続けたでしょう。幾百万の死者が出ることも予想されました。その当時、日本人であれば、自決をしてでもたとえ民族が滅亡しようとも、天皇陛下の処刑という不敬きわまる事態による日本全面降伏を避けようとしたことでしょう。


 長崎に原爆が投下された1945年8月9日の真夜中ごろ、長崎大学病院放射線科の小笹富子看護婦たちは、ラテン語で聖歌を歌っている女声合唱を聞きました。小笹富子看護婦たちはその時、疲労のために誰が歌っているか確かめることが出来なかったのですが、翌朝歌声が聞こえたあたりを通りかかると、常清(じょうせい)修道院の27名の修道女たちの半裸の死体がありました。(常清修道院はフランス系の「幼きイエズス会」の女子修道院で、常清高等実践女学校を運営していました。修道院は、浦上天主堂近くの上野町にありました。)

「苦悶の中で絶命したに違いない27人の修道女たちは、近くを流れる小川のほとりで身を寄せ合い、歌いながらこの世から去っていったのでした。」(ポール・グリン『長崎の歌』260ページ)

「その夜、一晩中美しいラテン語の讃美歌の合唱がとぎれとぎれに聞こえてきました。夜が明けてみると、学園の運動場の草むらの中に、7、8人の修道女がひとかたまりになって、手を取り合い冷たくなっていた」(瓊浦女学校『白夾竹桃の下』田崎光枝)。

 永井博士の妻である緑さんがかつて教えていた純心女子学園の女性徒たちの多くは、1945年8月9日の朝は時津や三ッ山にある工場に学徒動員で働きに行っていました。

 長崎純心聖母会の初代学園長であるシスター江角ヤスは、空襲が激しくなったころから毎日校内全員に聖歌を合唱させていたそうです。

 忌まわしい原爆で、ある生徒は即死し、生き残った者も裂傷を受けたり赤外線で大火傷を負ったり苦しんでしました。ほとんどの者が酷い怪我をしており、多くの者はそれから数日後には躯となる身でした。しかし、彼女たちは歌い慣れた聖歌「み母マリア 身も心も とこしなえに 献げまつる」を一節一節歌いながら励ましあい続けて死んでいったのです。

(純心学園と永井隆博士については、純心学園と永井隆博士のウェッブ・サイトの記事をご覧下さい。)


みははマリア(#305)

1 み母マリア 身も心も
とこしなえに 献げまつる

朝な 夕な 真心もて
君をのぞみ 慕いまつる

みめぐみこそは きよき慰め
輝かしき 君がかむり

うるわしき 君がえまい
ああ我ら深く 慕いまつる



 永井博士は、8月9日の雨と太陽の黒とこれらの童貞女たちの歌声と、ヨハネの黙示録の太陽の黒と「百衣の童貞女たちの歌声」を思い出し、こう詠ったのでした。


燔祭の焔の中にうたひつつ
白百合おとめ燃えにけるかも

Vierge comme le lys blanc,
Consumées dans les flammes
En sacrifice d'holocauste
Elles chantaient.


(From Requiem pour Nagasaki, pages 215-216, traduit de l'anglais par Jean-Marie Wallet)


(この歌は、長崎市文教町に1949年5月30日建立された「慈悲の聖母」像の足台に刻まれています。)


 9日、宮中において開かれた最高戦争指導会議が午前10時から断続的に開催されました。10日午前0時から宮城内御文庫地下の防空壕において、鈴木首相は天皇臨席の御前会議として再度、最高指導者会議を招集し、この御前会議の席上で、首相からの「聖断」要請を受けた昭和天皇は外務大臣の意見に賛成し、これによりポツダム宣言の受諾が決定されました。

 しかし、御前会議での決定を知らされた陸軍省では、徹底抗戦を主張していた多数の将校から激しい反発が巻き起こりました。

 8月12日、午前0時過ぎ、不満を持つ将校達は多く、阿南陸相の義弟でもあった竹下正彦中佐は、阿南に終戦阻止を求め、更にそれが無理であれば切腹せよと迫っていました。

 陸相の6名の将校(軍事課長荒尾興功大佐、同課員稲葉正夫中佐、同課員井田正孝中佐、軍務課員竹下正彦中佐、同課員椎崎二郎中佐、同課員畑中健二少佐)はクーデター計画し、東部軍及び近衛第一師団を用いて宮城を隔離、鈴木首相、木戸幸一内大臣、東郷外相、米内海相らの政府要人を捕らえて戒厳令を発布し、国体護持を連合国側が承認するまで戦争を継続すること目ざしていました。

 8月14日、鈴木首相は陸軍の妨害を排するため、天皇出席の上での御前会議開催を思い付き、全閣僚および軍民の要人数名を加えた会議を招集しました。会議において鈴木首相から再度聖断の要請を受けた昭和天皇は、連合国の回答受諾を是認し、必要であれば自身が国民へ語りかけると述べて会議は散会されたのです。

 昭和天皇による終戦の玉音放送の録音は午後11時30分から宮内省政務室において行われ、録音盤は徳川義寛侍従に渡されて皇后宮職事務室内の軽金庫に保管されました。

 しかし、戦争を継続しようとする一部の軍人たちは、玉音放送の実行を防ぐ為に、日比谷の放送会館へも近衛歩兵第一連隊第一中隊を派遣し、クーデターを起こそうとします。午前11時30分過ぎ、放送会館のスタジオ前で突如1人の憲兵将校が軍刀を抜き、放送阻止の為にスタジオに乱入しようとしましたが、幸いにも、すぐに取り押さえられ憲兵に連行されました。そして正午過ぎ、ラジオから下村総裁による予告と君が代が流れた後に玉音放送が行われ、戦争は終結しのです。

 1939年に中国において全面戦争が始まってから、1945年8月15日に平和が訪れるまでの間に、247万人の日本人が亡くなっていました。167万人が軍隊で、28万9000人の民間人が満州、朝鮮、沖縄などで、50万9000人が本土空襲で亡くなったのです。

 ほとんどの日本人が、家族、親戚、友人の死の苦しみに遭い、負傷や家の焼失、財産や生計の当てを失うなどは、いちいち挙げるまでもありませんでした。前途は荒涼たるもので、モラルは地に落ちました。そのような状況の中で、多くを失いつつも、なお人生を楽観視しようとした人物、永井隆がいたのです。永井博士、感謝します。

 日本と世界の平和のために、天主の御母聖マリア様に、敵を赦しつつ、1945年8月9日の夜、ラテン語のグレゴリオ聖歌とカトリック聖歌を歌って亡くなっていった童貞様(シスター)たち、女学生の乙女たちに、感謝します。

 私たちも、日本と世界の平和を作った、このラテン語のグレゴリオ聖歌とカトリック聖歌とを大切に歌い継ぐことを約束します。

 天主の御母聖マリアよ、我らのために祈り給え!

 聖母マリアよ、ああ我ら深く慕いまつる!

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【関連記事】


聖ピオ十世会創立者ルフェーブル大司教の伝記 12.3.2.慎ましい始まり(その2)

2008年07月23日 | ルフェーブル大司教の伝記
III. 教父たちの国際グループ(Coetus Internationalis Patrum)

慎ましい始まり(その2)

 三回のチェトゥス研究会議を開催したソレム大修道院(abbaye de Solesmes)の断固支持の活躍を強調しなければならない。1964年 1月 11日から 14日まで、ドン・ポール・ノー (Dom Paul Nau)、ドン・フレノー(Dom Frénaud)及び聖書学者と兼アンジェ(Angers)の神学部長であるモンシニョール・リュソー (Lusseau)の筆の助けをもって、ドン・プルー(Dom Prou)、ルフェーブル大司教及びシガウド司教は教会論【Acta Syn., III, I, 621-628. マリ司教、ルフェーブル大司教、シガウド司教、グリモー司教、プルー大修道院長とが署名した公文書は公会議の総事務局に提出された】、聖母神学及びエキュメニズムや「真の宗教を信仰宣言する自由」として起草された信教の自由に関する資料の概要 (compendium) を用意した。それはチェトゥスの思想を真に要約した内容であった。これは多くの教父たちに発送された。

 第二回目の集まりはチェトゥスが公式的に姿を現わす前 1964年 7月にフランスのソレムで開かれた。ソレムは 1965年 7月 15日から 21日まで開かれた最後の集まりも主催したが、ルフェーブル大司教、シガウド司教、モリオ(Morilleau)司教、ドン・プルー司教、また当時ソレム大修道院のための神学者であるドン・ムニョ (Dom Meugniot) が参加した。彼らはこの時に公会議第四総会のための戦略を組んだ。

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第12章 公会議の嵐に直面して
I. 中央準備委員会委員

II. 革命が始まる

III. 教父たちの国際グループ(Coetus Internationalis Patrum)

聖ピオ十世会、伝統的ミサに関するバチカンの言葉と司教の実践との間の不一致を指摘する

2008年07月23日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 三上教授が訳された聖母の電子ニュースレター 2008年7月を推薦します。

「聖ピオ十世会、伝統的ミサに関するバチカンの言葉と司教の実践との間の不一致を指摘する」では、聖ピオ十世会総長のフェレー司教様の書簡72号について言及されています。

 フェレー司教が述べているように、教会は変化しないし、また変化しなかったと言うことはまったく意味をなさない。「バチカンは、「カトリック教会は変わらない」と断言しながら変えている、・・・40年間の危機にもかかわらず、無数の空っぽになった修道院にもかかわらず、放棄された司祭館にもかかわらず、人のいなくなった教会にもかかわらず、ローマが公会議の方針をやり続けようとしているという意志を変わらずに持ち続けていると結論しなければなりません。その間に、カトリック大学は、無茶苦茶を教え続け、公教要理の教えは知らされないまま残り、カトリック校は特別にカトリックとしては存在しなくなり、カトリックは絶滅品種になっていのです・・・。 」

「聖ピオ十世会はミサ聖祭の古い敬うべき典礼様式を再導入しようと言う教皇の意志を率直に喜びますが、しかし全司教団の時には凶暴な抵抗をも見出しています。絶望することなく、また忍耐を失うことなく、私たちは同意の時はまだ来ていないと認識しています。しかしながら、だからといって期待し続けることが出来なくなるわけでも、2000年の大聖年より定められた道を歩み続けることが出来なくなるわけでもありません。私たちは教皇聖下に、1988年の破門の教令の破棄を求め続けます。何故なら、これは教会により大きな善をもたらすであろうと確信しているからです。また私たちは皆さんにこのことが実現するよう祈りなさいと励まします。

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ワールド・ユース・デイに関する著しく常軌を逸したビデオ。今、YouTube で自由に視聴できます。
「ワールド・ユース・デイの支配的な雰囲気はカトリシズムではない。それは聖なる諸機能であるべきものに浸透しさえするロックンロール・ポップカルチャーである。」ワールド・ユース・デイが実際にどのようなものであるかを学んでください!6分間の YouTube ビデオ。

ジョン・ヴェナリの DVD
「ワールド・ユース・デイ、カトリシズムそれとも頽廃?」

Excepts: World Youth Day: Catholicism or Corruption?


 青少年たちに本当のカトリックの教えが、信仰、慎み、聖なるもの対する尊敬に関する教えが伝えられていない。私が言いたいのは、青少年に対する批判ではない。(ジョン・ヴェナリ)

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【関連記事】





【質問】パウロ六世教皇の替え玉説についてどう思うべきか?

2008年07月23日 | 質問に答えて
アヴェ・マリア!

兄弟姉妹の皆様、今回はご質問にお答え致します。

【質問】
 ベイサイドの聖母とスイスのエクソシズムの記録「他界からの警告」の二つは、教会内の「出来事」のこととしては驚天動地のことを言っているわけですが、両方共に「パウロ六世教皇の替え玉の存在」を明言しています。そして、このことは人々によって、声紋鑑定と写真とによって追及されました。このことをルフェーブル大司教様もお信じにならなかった、と聞いています。
 ご覧下さい、これら四枚の写真 (添付) の人物は同一人物であり、且つパウロ六世教皇様では「ありません」! ・・・ (以下略)

【答え】
 メッセージをありがとうございます。ご質問なさりたいと思われることは多岐にわたっていると思われます。
(1)「ベイサイドの聖母」についてどう思うべきか?
(2)スイスのエクソシズムの記録「他界からの警告」についてどう思うべきか?
(3)「パウロ六世教皇の替え玉の存在」についてどう思うべきか?
 ということでしょう。

 実は、極めて個人的な話で恐縮ですが、始めてベイサイドのメッセージなるもの(英語版)を手にしたのは、高校二年生(1981年)のことでした。しかも敬愛するヨゼフ・マリ・ジャック神父様の手から! フランス人のヨゼフ・マリ・ジャック神父様は英語が得意ではなかったのですが、京都のスタインバック神父様(アメリカ人司祭)から送られたもののお裾分けを一部もらったのでした。興味を持った私は、高校時代には、高校のカトリック研究会の友人とノートを作って、それを二人で手分けして少しづつ日本語に訳していました!大学生になるともっと詳しく知ろうとアメリカに資料を請求する手紙を書いたものでした。

 また大阪には木野さんという女性の方がおられ、直接お会いしたことはなかったのですが、「他界からの警告」などをおそらく英語訳から日本語に訳して小冊子を作って配布していました。そのような小冊子を私も学生の頃、藤枝教会の信者さんから頂いて、手にしたことがあります。大学生の頃、フランス語を学び初め、その当時フランスにおられたヨゼフ・マリ・ジャック神父様にこの原文を読みたいので、私のために入手してほしいとお願いしたことがあります。(結局、神父様は入手してはくれませんでしたが。)

 しかし、ベイサイドのメッセージなるものも「他界からの警告」も、何も知らなかった・外国の情報が極めて入りにくかった学生の頃に、興味をもった(もたされた)話でした。外国のいろいろな方に手紙を書いたりして情報を入手したりする内に、その欺瞞性がますます暴露され、距離をますますおくようになっていきました。(また、日本では中心となっていたスタインバック神父も、さすがにアメリカ人司祭だけあってアメリカの情報を多く仕入れた思われ、ベイサイドのメッセージなるものから離れていきました。私も大学生の時代にはアメリカから多くの情報を郵送して頂いて手に入れました。)

 私も以前、これについて研究し多くの情報を集めましたが、今ではそれらは手元にありません。処分しなかった資料などは全て藤枝の倉庫に眠っておりそれを整理して詳しくお知らせすることも、やろうと思えば出来ないことはないのでしょうが、それをやるための労力を考えると、その意義を見出しません。ただ「ノー」という結論だけを言えば足りると思います。

 また「御出現」に関することは、大学生の頃からの経験で、それを鵜呑みにしている人は、何を言ってもダメということがもう明らかなので、ますますその意義を感じません。

 そこで、今回は(3)の「パウロ六世教皇の替え玉の存在」について言及することによって、間接的に(1)と(2)に触れることにします。


【1】まずルフェーブル大司教様は「パウロ六世教皇の替え玉の存在」を全く信じていませんでした。何故なら、第一に、バチカンのことをあまりにも詳しく知りすぎていたからです。第二に、あまりにもパウロ六世のことを知りすぎてしまっていたからだと私は思います。

 「ベイサイドの聖母」も「他界からの警告」も、そのシナリオとしては、パウロ六世は善玉であるが、回りの取り巻きの枢機卿たちが悪者で、本物のパウロ六世はどこかに幽閉されており、偽物のパウロ六世がやりたい放題に暴れていてそのおかげで教会がシッチャカ・メッチャカになっているというものです。従って、「ベイサイドの聖母」はパウロ六世が亡くなると、「殉教者」として直ぐに天国に来たと発表していました。

 バチカンはあまりにも小さいところなので、ルフェーブル大司教様はその隅々をよく知り尽くしていました。ルフェーブル大司教様によれば、「善玉のパウロ六世がどこかに幽閉されて、偽物のパウロ六世が、善玉の意図に反して、やりたい放題に教会を変える」ということは、物理的に・方法的に・現実的に無理なのです。どうしても綻(ほころ)びが出てしまうし、ばれてしまうからです。

 少し想像力を働かせて下さい。自分の会社のよく知っている課長が「どこかに幽閉されて、偽物が、本物の意図に反して、やりたい放題している」という場面を。周囲の人はそのおかしさに直ぐに気づくはずです。教皇様というのは、とても開かれた存在なので、北朝鮮の金正日のような閉鎖的な秘密の隠れたリーダーを想像してはなりません。

 第二の理由は、これは私の考えです。おそらくルフェーブル大司教様もそうだったそ想像します。

 今では、私たちには、モンティーニの人生と行動についてが、かなり詳しく分かっています。残念ながら日本語ではパウロ六世に関する詳しい情報が読めません。

 しかし、パウロ六世の家系(カルボナーリ革命家の子孫)や、ジョヴァンニ・バッティスタ・モンティーニ神父時代の思想モンティーニが司教時代にピオ十二世教皇を騙してきた背信(たとえば、ピオ十二世が秘密裏にソ連に送ったカトリック司祭の名簿をモスクワの共産党の手に事前に渡していたために、彼らはソ連に到着するやいなや逮捕・投獄された)など、ピオ十二世がどれ程モンティーニについて激怒していたか、モンティーニがファチマの聖母を全く信じていなかったこと、残念ながらパウロ六世の犯していた自然に反する罪など、私がここで書くことははばかれることなど、ルフェーブル大司教様はあまりにもよく知りすぎてしまっていたと考えられるからです。

 モンティーニその人の素顔・経歴・思想を教皇になる前のものから分析して知れば知るほど、正に、第二バチカン公会議後の改革がモンティーニの考えそのものであるということが理解できるからです。モンティーニは、司祭時代も、司教時代も、枢機卿時代も酷いリベラルでした。教皇になってから奇跡が起こって、突然保守になったのではありませんでした。 おそらく聖霊の働きによって、本当のリベラルなモンティーニ教皇がその行動を制限させられた、その意味で本来のリベラルと見かけ上の保守の二重性を有するようになっていたのかも知れません。(ルフェーブル大司教様は、パウロ六世について穏やかな表現のみをされていたのですが。)

 第二バチカン公会議を「列聖」したいと望む人々は、実は第二バチカン公会議を開催した教皇様を列聖したいと望んでいます。ヨハネ二十三世やパウロ六世を列聖することによって、第二バチカン公会議の権威を高めようと望んでいます。しかし、モンティーニその人そのものにはあまりにもスキャンダルがあり、それが出来ないのです。そのような教皇様がでたということは残念です。しかし、それが本当なので仕方がありません。イエズス・キリストの聖性にもかかわらずイスカリオトのユダも使徒にいたのと同じです。私たちはそれに躓いてはなりません。

 真理を知りたいという人のためには、フランス語やイタリア語では、いろいろな資料があります。最近ではイタリア人司祭の書いたパウロ六世についての本もあります。Don Luigi Villa ですが、この神父様はカトリック教会の信憑性を守るために列聖調査でなされるいわゆる「悪魔の弁護人」をしているのです。かれは聖ピオ十世会の司祭ではありません。パウロ六世の発言を研究して(驚いて)いた教区のカトリック司祭です。

Sac. Luigi Villa, Paolo VI beato?, Editrice Civiltà, Brescia

Paul VI, ... Beatified?

PAUL VI, bienheureux? d’après don Luigi Villa, docteur en théologie

 或いは、フランス語では1973年に書かれたド・ナント神父の「パウロ六世の告発の書」(このリンクはその英語訳)が有名です。

 その他、幾つか英語でも別のモンティーニに関する本が出版されています。これらは、聖ピオ十世会とは直接に関係のない人々の発表した研究資料です。


【2】では、声紋鑑定と写真とは、いったい何なのでしょうか?
 ある一部の人によると、次の写真の左が本物、右が偽物だそうです。

パウロ六世

 昔、まだ学生の頃、そのような写真を見せられて、ふぅーん、そんなものかなぁ、と思ったこともありました。

 ある人によるとこれらは「本物」だそうです。
パウロ六世

パウロ六世

パウロ六世


ある人によると、これが「偽物」だそうです。
パウロ六世

パウロ六世


 しかし、今、約25年の後に、改めてていろいろ詳しく見ると、私にはどちらも同一人物の写真に見えてなりません。写真の取り方、角度の違い、年齢の違い、痩せているふっくらしている、倍率の違い、光の当たり方の違いがあるのですが、どう見ても同一人物です。

 ヨゼフ・ジェンマさんのホームページの教皇パウロ六世 「替え玉」 説 (1)の最初の二組の写真は(はぼやけて良く細部が分からないのですが)、左が別の人の写真を使っているように思われます。

 今回、写真を見直した結論は、「善玉のパウロ六世がどこかに幽閉されて、偽物のパウロ六世が、善玉の意図に反して、やりたい放題に教会を変える」という意味での替え玉は存在していなかったということです。


【3】しかしながら、声紋鑑定と写真とは、どうしても違うように見える、という方々のために、0.1%の可能性として次の可能性も否定せずにおきます。

 そのためには、北朝鮮の金正日の話をさせて下さい。韓国語のマスメディアを読んでいると、時々、金正日の替え玉(影武者)が存在していることがほぼ確実だと思われます。何故なら、金正日が共産党本部でひと言もしゃべらずに会議に出席していたその日に、同じ金正日が別のところで遊んでいたのが目撃されたり、替え玉が金正日の行動習慣を学習するために一緒にいたのが、写真に撮られていたり、ということがあるので、その存在がばれてしまっているのです。何故替え玉が必要かというと、金正日が退屈な仕事をせずに遊びに行くというのもそうですが、クーデター・暗殺などという危険から免れるために、攪乱させるためです。もちろん、替え玉を密かに維持するためには、莫大なコストがかかります。しかし北朝鮮では、政権維持のためにそのコストも支払っても金正日の替え玉を用意しています。

 そこで、もしも、太字で万が一、Big IF、パウロ六世の同意があるなら、金正日と同じように、何らかの理由でそこまでのコストを払ってまでも、パウロ六世が自分の替え玉がいることを望んだのなら(退屈な仕事をせずに遊びに行くため???)、もしもそれがあったのなら(パウロ六世のことを知るにつけて何でもありのように思えてきてしまうのですが)、替え玉も存在の可能性があったのかも知れません。

 しかし、パウロ六世に私たちがすこしでも善意を見出そうとするかぎり、替え玉までは作らなかっただろうと信じます。だからあくまでも0.1%だけしか可能性はないと思います。


【4】最後に「スイスのエクソシズム」について言えば、ルフェーブル大司教様は、悪魔が最初から人殺しで嘘つきの父であると知っていました。(因みに、ベロニカ・ルーケンも魔術に関心を持っていました。)ですから、悪魔の言葉には、一切信頼を置いていませんでした。どれ程、悪魔の言葉に不信を抱いていたかは、このようなユーモアからも分かります。

 ある日、元、ベネディクト会の老司祭ルブルヒ神父様が、このスイスのエクソシズムの話を聞いて、ルフェーブル大司教様に、嬉しそうにこう伝えたそうです。

ルブルヒ神父様(嬉しそうに)「大司教様、悪魔が払魔式で、"ルフェーブル大司教は正しい" と自白したそうですよ。」

ルフェーブル大司教様(悪戯っぽく微笑みながら)「ほらね、やっぱり悪魔は嘘つきだ。」

 ルフェーブル大司教様は、カトリック教会の聖伝が正しく、勝利することを知っていました。しかし、それは悪魔が言ったからではなかったのです。カトリック教会が2000年間信じて実践していたことだからです。カトリックの聖伝が正しくないこと、勝利しないことがあり得ないからです。

 私たちが信頼し信ずるべきは、悪魔や教会未公認の「メッセージ」ではなく、誤ることも騙すこともない天主が公教会に垂れた変わることのない啓示された真理です。2000年のカトリック聖伝です。教導権の不可謬の教えです。ルフェーブル大司教様は、それを私たちに命がけで全てを犠牲にして伝えて下さったのです。


【5】もしも、もしも、太字で万が一、パウロ六世が偽物だったらどうなっちゃうの? 答えは、何も変わりません。何故なら、カトリック教会は、ローマの現実主義を取っているからです。

 例えばローマではこのようなことがありました。詳しい名前などは詳しく、今、言うことができないのですが、要点を言うと、ローマでは、奴隷は裁判官に選出されることが出来ない、という法令がありました。ところが、ある時奴隷が資格がなかったにもかかわらず裁判官に選ばれ、何十年も裁判を執行した事例がありました。その後、この裁判官が奴隷であるということがばれてしまったとき、ローマがやったことが「裁治権の補足」という原理でした。誤りによるものは、法によって既に裁治権が補われる、従って、全て法的に有効な行為である、ということです。

 本物であれ偽物であれ、今となっては「パウロ六世」がやったことは教皇パウロ六世のやったことです。ただし、彼は教皇の不可謬権を使って何か新しい教義を決定したことは一度もありませんでした。

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  • 小さきものよ,われに来たれ

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  • 祈りの偉大な力 者:聖アルフォンソ・デ・リゴリ 翻訳:渡辺美紀子 発行:レデンプトール会



  • 幸福・感謝・幸福

    2008年07月22日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
    アヴェ・マリア!

     愛する兄弟の皆様、

     毎年、夏休みの時期になると、帰省さたり旅行されるために、ミサ聖祭に与ることが出来なくなってしまう方々もあるのですが、今回は、大阪でも東京でも、多くの愛する兄弟の皆様が聖伝のミサ聖祭に与ることができて、うれしゅうございます。

     大阪でも東京でも新しく来られた方々が、喜んでくださり、幸福です。

     ミサ典書は、27冊をお持ちして、それらは皆、完売されました。感謝します。これを機に、様々な方々からメールもいただきました。感謝・幸福です。

     今日は成田空港が混雑すると思っていましたが、びっくりするほどガラガラでした。飛行機の中もいつもより空席だらけでした。昨日・一昨日と混んでいたそうです。

    全てを天主様に感謝。感謝。感謝。

    天主様の祝福が豊かにありますように!

    トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

    聖ピオ十世会創立者ルフェーブル大司教の伝記 12.3.1.慎ましい始まり

    2008年07月21日 | ルフェーブル大司教の伝記
    III. 教父たちの国際グループ(Coetus Internationalis Patrum)


    慎ましい始まり

     公会議教父国際グループ(ラテン語で「チェトゥス」Coetus Internationalis Patrum) は自由主義者らが公会議を支配することに効率的に対応するために設立された。1962年第一会期の初めにルフェーブル大司教はブラジルのカンポス (Campos) の司教であると同時に、ヴェルブ(Verbe)誌に載せられた現代使徒職の問題に関する司牧書簡 (Pastoral Letter on the Problems of the Modern Apostolate, 1953) の著者でもあったアントニオ・デ・カストロ・マイエル (Antonio de Castro Mayer) 司教に会った。そのブラジル司教はルフェーブル大司教を、自分の仲間と同時に同胞であるジェラルド・デ・プレンサ・シガウド (Geraldo De Proenca Sigaud) 司教に紹介したが、彼はジャカレジノー (Jacarèzinho) の司教であって直ぐにディアマンティナ (Diamantina) の大司教になるはずだった。はじめからシガウドは公会議における進歩的な「過半数」に幾らかでも抵抗するにことができるような分散した勢力を統合する決意であった。

    BISHOP ANTONIO DE CASTRO MAYER


     1934年、二人ともサン・パウロ (Sao Paolo) の大神学校で教授だったデ・カストロ・マイエル (de Castro Mayer) 参事会司祭 (canon) とシガウド神父とは、プリニオ・コレア・デ・オリーベイラ (Plinio Correa de Oliveira) が編集する聖女チェチリアのマリア会 (Marian Congregation of Saint Cecilia) の公式機関誌であるオ・レジオナリオ (O Legionario) 誌に寄稿し始めた。

     左派及び進歩主義がブラジル・カトリック・アクションに浸透して入って来ることに対して争おうとプリニオが著わした或る本【当時、大司教総代理であったデ・カストロ・マイエル参事会司祭は、大司教の印刷許可(imprimatur)をこの本に与え、将来枢機卿となる教皇大使アロイジ・マセッラ (Aloisi Masella) はこの本の序言を書いた】を彼らが支持すると、デ・カストロ・マイエル (de Castro Mayer) 参事会司祭 (canon) とシガウド神父とは両者とも (それぞれ 1945年 2月と 1946年 3月に)、制裁を受けた【大司教総代理であったデ・カストロ・マイエル参事会司祭は、この大司教総代理職をを奪われ、田舎の小教区財務主任司祭となり同時にサン・パウロの教皇庁立カトリック大学の教授職を受けた。シガウド神父はスペインに追放された】。

     しかし、このことによって教皇大使アロイジ・マセッラ (Aloisi Masella) は二人の勇敢な司祭たちのために密かに介入することを止めたわけではなかった。ピオ十二世はシガウドをジャカレジノーの司教に任命し (1947)、デ・カストロ・マイエル参事会司祭はカンポスの補佐司教に任命された(1948)。

     1951年、カンポスでは、デ・カストロ・マイエル司教は自分の著作物が掲載さられる月刊誌カトリシスモ (Catolicismo) 紙を創刊し、サン・パウロでプリニオ教授が指導する団体にこの新聞を任せた。1951年から 1967年までカトリシスモの青年団体はブラジルでその数がますます多くなった。ついに 1960年にはプリニオの指導の下に、「伝統、家庭及び財産保護のための会」(Society for the Defense of Tradition、Family、and Property) というブラジルの団体が生まれた。

     教授と二人の司教の押しがあったおかげで、カトリシスモ団体 (そして 1963年からは TFP 団体)は ‘グラルト (Goulart) 時代’の‘農地改革’の時、共産主義の試みを阻止するのに成功した。彼らは共産党秘密党員である大統領ジャン・グラルト (Joao Goulart) の失墜を引き起こした、理念的で霊的風土を造成した。ルフェーブル大司教は後にこう言った。「私たちは TFP がブラジルを共産主義から救ったことを認めなければならない」と。

     一方 1962年、カトリシスモ団体は公会議が展開される様相を現場で見守るために、ローマに事務所を調えた。従って、ルフェーブル大司教はブラジルの二人の高位聖職者が提案したように、公会議で自由主義思想に反対するために小委 (piccolo comitato) あるいは‘研究会’を構成しようという提案を、ルッフィーニ枢機卿の教えと歩調を合わせながら、受け入れた。

     彼らは聖霊司祭修道会本部のあるコルソ・ディタリア(Corso d'Italia) で会合を開き、ローマで開かれる公会議第一会期の間、公会議教父たちのための講演会や討論会を特別に組織した。

     1963年 4月 18日になってようやく、シガウド司教はルフェーブル大司教に手紙を書いて次の会期のために研究会を結成しようと提案した。5月 4日ルフェーブル大司教は慎重に慎重を期してまだ慎ましいこのプロジェクトに同意した。

     ルフェーブル大司教はソレム(Solesmes)の大修院から来た教父たちと個人的神学者の助け (公会議の規則が承諾したことに従う) の協力を得ることを確かなものとした。個人神学者には、他でもないヴィクトル・アラン・ベルト神父 (1900-1968) で、神学校で大司教の先輩であり、サンタ・キアラの卒業生だった。

     1963年 10月 2日或いは 3日、公会議の第二会期の初めに、シガウド司教がその会員である神言会 (Divine Word Society) 本部で、新しい勉強会の総会が召集された。彼らは、後には至聖救世主会 (Congregation of the Holy Savior) の本部に会場を移すことになるが、15人の公会議教父たちが、すなわち、シガウド司教 (秘書)、ルフェーブル大司教 (議長) 及びソレムの大修院長であるドン・ジャン・プルー (Dom Jean Prou) などと出会った。

     このグループにはまだ名称がなかった。小規模の委員会は、ルフェーブル大司教、シガウド司教、ベルト神父、そしてソレムの修道院院長と同時にドン・プルーの個人神学者であるドン・フレノー(Dom Frenaud)を構成員として形成された。


     10月 8日、20人で構成された団体は、ルッフィーニ枢機卿の講演を聞こうと集まった。翌日、公会議の第四十四次総会の時、シガウド司教は公会議会場(aula)で演説し、教会に関する新しい概要にある司教団体主義に関する章 (12, 13, 16番) を攻撃した。それは、これが「新しい教え」を教えているからだった。

     彼が自分の席につくと、彼を祝うルイジ・カルリ (Luigi Carli) 司教からのメモが回って来た。その後、シガウド司教はカルリ司教をルフェーブル大司教に紹介した。ルイジ・カルリはイタリア司教評議会 (Italian Bishops' Conference) の神学者の一人だった。彼は満場一致で公会議で最高の神学者で認められた。それだけ皆が彼を敬い畏れていた。彼は 10月 15日、教父たちの集まりに招かれ、彼らと合流するのに同意した。それは、特にユダヤ人たちからキリストの死に対する責任を取り除こうとするベア枢機卿のプロジェクトに反対して自分の独立性を維持していたにもかかわらずそうであった。


     ルフェーブル大司教は後にこう説明した。「チェトゥス(Coetus)を生かす心臓は、秘書であるシガウド司教だった。前職の教皇使節であり修道会総長である私は議長役目の「公的な顔」だった。デ・カストロ・マイエル司教は副議長で、思想家だった、カルリ司教は有能で活気に満ちた精神とイタリア式ノウ・ハウを持った「文筆家」だった。」

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    第12章 公会議の嵐に直面して
    I. 中央準備委員会委員

    II. 革命が始まる

    聖伝のミサ(トリエント・ミサ、ローマ式典礼様式のミサ、旧典礼のミサ)にご招待します

    2008年07月19日 | 聖伝のミサの予定
    アヴェ・マリア!

    ■ 聖伝のミサ(いわゆるトリエント・ミサ、「ローマ式典礼様式のミサ」)にようこそ!

     愛する兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサに歓迎します! 

    何故なら、オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ両枢機卿とがパウロ六世教皇聖下へ報告したように、「新しいミサの式次第は、その全体といいまたその詳細といい、トレント公会議の第二十二総会で宣言されたミサに関するカトリック神学から目を見張るばかりに逸脱している」からです。

    何故なら、「この新しいミサの典礼様式が新しい信仰を表明している」から「この新しい信仰は私たちの信仰ではない、カトリック信仰ではない」(ルフェーブル大司教)からです。

    何故なら、新しいミサはエキュメニズムのために作られたからです。

    <2008年7月の予定>



    【大阪】大阪市東淀川区東中島1-18-5 新大阪丸ビル本館511号(JR新大阪駅の東口より徒歩5分)「聖母の汚れ無き御心巡回聖堂」

    7月11日 金 大阪 午後5時半 平日(4級)緑
    7月12日 土 大阪 午前11時 大修院長聖ヨハネ・グアルベルト(3級祝日)白
    7月13日 日 大阪 午前10時半 聖霊降臨後第9主日(2級)緑


    【東京】東京都文京区本駒込1-12-5曙町児童会館2F 「聖なる日本の殉教者巡回聖堂」

    19日(土)午後6時半 グレゴリオ聖歌に親しむ会
         午後8時30分 グレゴリオ聖歌による終課
    20日(主)午前10時   ロザリオ及び告解
    午前10時半   聖霊降臨後第10主日(2級)緑
         午後2時    公教要理の勉強
    午後3時ごろ  休憩
         午後4時   グレゴリオ聖歌による主日の第二晩課

    21日 月 午前7時 証聖者ブルンドゥジオの聖ラウレンチオ(3級祝日)白
    22日 火 午前7時 悔悛女マグダラの聖マリア(3級祝日)白

    それでは、皆様のおこしをお待ちしております。

     詳しいご案内などは、
    http://fsspxjapan.fc2web.com/ordo/ordo2008.html
    http://immaculata.web.infoseek.co.jp/manila/manila351.html
    http://sspx.jpn.org/schedule_tokyo.htm
     などをご覧下さい。

    For the detailed information about the Mass schedule for the year 2008, please visit "FSSPX Japan Mass schedule 2008" at
    http://immaculata.web.infoseek.co.jp/tradmass/

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    【関連記事】
    聖ピオ五世教皇 大勅令『クォー・プリームム』(Quo Primum)
    新しい「ミサ司式」の批判的研究 (オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ枢機卿)Breve Exame Critico del Novus Ordo Missae
    ■ カトリック典礼が普通に有するべき三つの性質:新しいミサはこの三つの特徴を満たすか?
    ■ モンシニョール・クラウス・ガンバー(Msgr Klaus Gamber)の「ローマ典礼の改革」
    ■ 今日経験している教会の危機は典礼崩壊が原因であると、私は確信する。(ベネディクト十六世)

    聖ピオ十世会創立者ルフェーブル大司教の伝記 12.2.2.自由主義の最初の勝利

    2008年07月19日 | ルフェーブル大司教の伝記
    II. 革命が始まる


    自由主義の最初の勝利

     ルフェーブル大司教は、しばしば、始めから公会議が展開されるやり方を構想し始めた自由主義陣営の勝利について話した。公会議は「現代化勢力によって統制を受けた。私たちはそれを感じたし、感知した。私が‘私たち’と言う時には当時大部分の公会議教父たちを意味する。そして私たちは何か非正常的なことが起こっているという感じを受けた。」

     最初に起こったことは、準備委員たちから差し出されフェリチ (Felici) 大司教によって公会議委員に対する表決に、最適任である人選であると提示された教父たちの名簿の拒否だった。ドイツ系の司教たちとともにケルンの大司教であるフリンクス (Frings) 枢機卿は、自由主義的司教たちによって構成された別の名簿が受け入れられるように動いた。リエナール枢機卿が攻撃を先導することなっていた。【ティスラン枢機卿は、アカデミー・フランセーズ会員のジャン・ギトンに「公会議が開かれる前に私たちは皆集まって、ヨハネ二十三世によって作られた暴君的な規則を拒否することによって第一総会をハイジャックすることを決議した」と打ち明けている。Jean Guitton, Paul VI secret, p123. in Romano Amerio, "Iota Unum" (NEL, 1987), p80.】

     大聖堂入口で、リエナール枢機卿はルフェーブル枢機卿からトゥールズ (Toulouse) のガロンヌ (Garrone) 大司教が書いたラテン語の文書を受けた。彼は先ほどからずっと座っていた公会議議長団席を立ち上がると、ティスラン枢機卿はただ形だけの発言許可拒否をしたが、リエナール枢機卿は「震える声で」「教父たちの自由」に関する演説文を朗読した。彼は拍手喝採を受け、次にはフリンクスが直接演説した。拍手喝採は二倍大きかった。これで会議は幕を閉じた。

     ライン河周辺の地から来た司教評議会--ドイツ、オーストリア、フランス、オランダ、ベルギー及びスイス--は、幾名のアフリカ司教たちと共に、他の国から来た自由主義教父たちを何人か加えた共同名簿を急いで作成した。

     シリ枢機卿がこのような独占に対して不平を言うと、フリンクスはこう返事した。
    「私たちが指名するイタリア人たちを受け入れなければ、イタリア人は一人も選出されないだろうね。」

     こうして 10月 16日、「ヨーロッパ同盟」は座席の 49%を得た。ヴィルトゲン (Wiltgen) がこう論評したように「ライン河がティベル河に流れ始めた」。


     自由主義教父たちの二番目の勝利は、最初の四種類の教義的概要に関する論議を無期限延期にすることだった。これに続いて公会議教父たちがローマに到着するやいなやその四つの文書に対するスキレベクス (Schillebeeckx) 神父の論評を配布するオランダの発議があった。ヨハネ二十三世はフリンクス、リエナール及びアフフリンク枢機卿たちの要求を受け入れて、10月 16日に最初に討論する概要は典礼に関する憲章だと発表した。

     自由主義のこのような二番目勝利は、「啓示の源泉に関して」という最初の教義的概要が遂に 11月 24日の討論に付された時に、まったく確実となった。

     自由主義のグループは招集をかけた。その目標は、エキュメニカルな目的のために聖書に首位性確立させるために、天主による聖伝が聖書から独立していることを否認することだった。

     論争は 五回にわたる総会の間、互いの陣営を交互に論戦し合った 40人の自由主義者たちと 30名の「ローマ系」の間で峻烈なやりとりがあった。

     公会議議長団は教父たちにこの概要の討論を保留しなければならないか否かに関して投票で問うことにした。62パーセントが発議に賛成したが 3分の 2得票には及ぶことができなかった。それにもかかわらずヨハネ二十三世は、ベア枢機卿とレジェー枢機卿の嘆願に屈服し、自分自身で作った規定に反して、「司牧的でエキュメニカルな路線」に合わせて概要を修正するように決定した。この決定は、別の三種類の教義的概要に弔いの鐘を鳴らすことに等しかった。

     後日、ルフェーブル大司教はこう言うだろう。1963年 6月 3日ヨハネ二十三世が世を去り、6月 21日パウロ六世が選出された後、時期早々としてなされた二つの自由主義クーデターは、新教皇によって成し遂げられた、と。つまり、新任教皇は、公会議議長団を構成員が 10人から 12人に増加し、その役目を公会議の運営手続上の問題にだけ責任があるとし、同時に、四人の枢機卿議長、すなわちドプフナー、スーネンス、レルカノ及びアガジャニアンに「公会議の活動を指揮し討論を秩序立てる」権限を与えた。このうち前者の三人は自由主義者だった。後者の一人は教皇庁の枢機卿たちの基準に当たる人と考えられた。こうして自由主義者が覇権を持って公会議を主導するように、パウロ六世が保障してくれたわけだった。

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    第12章 公会議の嵐に直面して
    I. 中央準備委員会委員


    II. 革命が始まる

    聖ピオ十世会創立者ルフェーブル大司教の伝記 12.2.1.ヨハネ二十三世は手の内を明かす

    2008年07月18日 | ルフェーブル大司教の伝記
    第12章 公会議の嵐に直面して

    II. 革命が始まる


    ヨハネ二十三世は手の内を明かす

     中央準備委員会の業務は 7月 20日に終わった。小委は多くの概要を変えた。幾つかの概要は採用されなかった。他の概要は、教会法条項改訂のための委員会 (Commission for Reform of the Code of Canon Law) に送られた。更に、概要の数が 73から 20に減るほど圧縮に圧縮を繰り返えした。なかでも 七つの概要は 1962年 7月に、将来の公会議教父たちに送られた。

     1962年 10月 11日の朝、二日の間ローマを濡らした雨が止んだ。雲の間で明るい日が姿を現わした。6列を組んで 2,400人の公会議教父たち--カッパを着て司教冠を着けた司教たち--は、聖ペトロ大聖堂の階段を登り、入り口前の通路(vestibule)を横切り、正門から入場した。

     次に彼らは大聖堂身廊(nave)の両脇に用意された階段座席の右側と左側にある各自の席に案内された。ルフェーブル大司教の座席には ‘D 1090’という番号が付いていた。とても狭いうえ足を伸ばす空間がほとんどなく不便な臨時的な座席だった。他の教父たちと同じく彼にはやや小さい白いプラスチックの書類ホルダーが与えられた。彼はそれを椅子に附着した肱掛け兼用の机の上に乗せた。彼は書類ホルダーの中を見て、公会議祈祷文、十月の議事日程、投票する方法のためのマニュアルが付いたパンフレット、その他等々の文書を確認した。

     教皇が入場し、大聖堂身廊の枢機卿席の前にある小さな祭壇でひざまずいて、Veni Creator Spiritus を歌い始めた。そうだ、「聖霊、来たり給え!信者の心に満ち給え! 御身の聖なる光もて我らが精神を導き給え! 我らより厭わしき敵を追い払い給え!」

      7月 28日から聖霊司祭修道会総長であったルフェーブル大司教は、自分の修道会の聖なる守護者に熱烈に助けを乞い求めた。準備会議の間にお互いに対立状態にあった二つの陣営は、確かに新しい闘いに備えていた。しかし、ルフェーブル大司教は聖霊の助けとペトロの後継者としての教皇--天主の権利による教会の頭--が座長となる公会議とが「聖霊降臨の風と炎とに完全に従う教会」において、真理の霊の凱旋を保障するだろうと考えた。

     ルフェーブル大司教は、真理が語られるならば、このような機会において極めて標準的な手紙において、その確信を修道会の会員たちと分かち合った。

     この確信は、モンティーニ枢機卿の息吹を受けて書かれた公会議開会演説をヨハネ二十三世が朗読したとき、その場で打ち砕かれた。

     150年前から教皇ピオ十二世に至るまでのすべての前任の教皇たちが異口同音、一致して告発していたことがある。「日々発展し、その最も深い内部をかじりつくして、その崩壊まで引きずり込んでいる恐るべき根の深い病気、敬愛する兄弟たちよ、あなたたちはこの疾病が何なのかを分かっている--天主からの背教である。」(聖ピオ十世『エ・スプレーミ・アポストラートゥス』)

     しかしながら、教皇ヨハネは奇妙な楽観主義を見せながら、次のように前任の教皇たちを否認した。

    「まるで世の終末が近いかのように最悪の事態を絶えず予言する不吉な予言者たちとは私たちは関係をまったく切らなければならないと信じます...。彼らによれば、現代社会は破滅と惨禍に導かれるのみであり、過去に比べると現代は堕落のみを見せていると言います。」

     ヨハネは新しい公会議方式を提案した。
    「この確かで変えることのできない教理 [つまりキリスト教教理] は、現代の教え方が要求するやり方に従って研究され解説されなければなりません。信仰の遺産ということと、それが提示されるやり方は全く別のことです。私たちが教えるにあっては、特に司牧的である表現様式に頼らなければなりません。」

     キー・ワードが「司牧的」と表現された。過去においては、公会議は羊の群れに対して「飢えた狼」に付いて警告を与えることによって ----- オッタヴィアーニ枢機卿は第二バチカン公会議もそうであるべきだと考えていたように----- そして神学校とカトリック大学とに侵透している誤謬にういて警告を与えることによって、司牧的であった。

     しかしヨハネはそんなことは問題にせず、ほとんど気を使わなかった。
    「今日、キリストの花嫁は、厳しさの武器を振り回すよりは慈悲という薬に頼ることをより好むのです。教会は、断罪するよりはそれを考察し、教会の教義の富を強調することによって現代の要求によりよく対応するのです。」【これが、レジェ枢機卿が書き、フリンクス枢機卿、アルフリンク枢機卿、スーネンス枢機卿、ケーニヒ枢機卿、リエナール枢機卿の共同署名の教皇ヨハネ二十三世に対する請願書のライトモチーフであった。詳しくは G Routhier, "Le Cardinal Léger et la préparation de Vatican II", in Revue d'Histoire de l'Eglise de France, no. 205 (1994): 301.】

     しかしルフェーブル大司教が自問したように、教会は間違いを排斥せずに、どうやって「効果的に」真理を提示するのだろうか? 「特に司牧的な公会議」という観念は、信仰のための闘いを投降する隠蔽工作だったのか?

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    第12章 公会議の嵐に直面して
    I. 中央準備委員会委員


    民主主義という人民操作

    2008年07月17日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
    アヴェ・マリア!

    愛する兄弟の皆様、
     民主主義(自由、平等、博愛)の名前で、陰で人民を操作する人々のトリックは、何でしょうか?

     色々な意見・反対意見を作り出すことです。

     意見の対立の後で、必ず(奇跡的にも?!)誰かこう言う人が出て来ます。「私たちは自由だから、いろんな意見を持っています。私たちはみんな平等だから、私たちの意見は平等に価値があります。でも、私たちが分裂していては、何も出来ません。大同団結しましょう。違いにとらわれないで、共通点に注目しましょう。それが博愛です。皆さんのご意見をよく伺いますと、次の点が共通点です。(ずっと前から準備されていたかのような!よく出来たまとめを言う。)」

     こうして、誰も、多数派も、大多数さえも、その望むところを得ることが出来なくなるのです。

     これは政治の世界での話です。

     さて、もしも、カトリック宗教が、自分を真理であると提示しないなら、意見の一つになってしまいます。もしも、真理のみが自由という特権を有していると主張しないなら、全ての意見は自由になります。

     こうして、カトリック宗教に、民主主義の「自由、平等、博愛」が入り込むことになります。エキュメニズムが、まさにそれです。政治的な大同団結になってしまうのです。

     そしてカトリック宗教は、政治的な政党の一つになり下がってしまいます。人を集めるためにパーティー(ワールド・ユース・デイ!)を開くようになります。

     その時、天主教は民主教になってしまうでしょう。

    主よ、我らを憐れみ給え!

    トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

    四つの嘘

    2008年07月16日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
    アヴェ・マリア!

    愛する兄弟の皆様、

     聖伝のミサ聖祭が「廃止」されたということは、嘘でした。多くの人々は約四十年の間、誤解していました。最近、その嘘がばれてしまいました。

     世界中の新しいミサで、御血の聖変化の公式の訳が間違っていました。「多くの人のために」となるべきところが、「全ての人のために」と誤訳されていました。聖ピオ十世会はそのことを指摘していましたが、最近、その指摘の通り、公式訳が間違っていたことが、おおやけに認められました。

     今、イタリアでは、2000年にバチカンによって公表されたファチマの第三の秘密は、まだ全てが公表されたのではない、と議論されています。もう少し経つと、2000年に発表されたことの嘘が、隠しきれなくなることでしょう。

     ファチマの第三の秘密に関することが三つ目の嘘だとすると、第四の嘘が遠からず明かされる日が来るでしょう。ルフェーブル大司教と聖ピオ十世会に関するマスコミで流れている嘘です。実は、ルフェーブル大司教こそ本当の従順を実行していたこと、カトリックの教えと聖伝が、時が経つにつれて変わることがあり得ないこと、信仰は、同じ言葉で、同じ意味で、いつでも、どこでも、常に同じく守らなければならないことが再確認されるでしょう。その時、カトリックの聖伝が、時によって矛盾する変化をするという嘘が、嘘だとばれてしまうでしょう。

     カルメル山の聖母マリアよ、その日が早く来るように、我らのために祈り給え!

    トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

    聖ピオ十世会創立者ルフェーブル大司教様の伝記の翻訳(リトアニア語)のブログ

    2008年07月15日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
    アヴェ・マリア!

    愛する兄弟姉妹の皆様、

     このブログとほとんど同じ名前、同じ趣向ですが、ティシエ・ド・マルレ司教様が書いたルフェーブル大司教様の伝記の翻訳(リトアニア語)ブログを紹介します。リトアニアの女性の方(イングリダさん)が訳しています。

    神学生の頃のルフェーブル大司教様

    Et nos credidimus caritati
    Vysk. B. Tissier de Mallerais parašyta ir mano verčiama arkivyskupo Marcelio Lefebvre'o biografija
    http://vyskupo-biografija.blogspot.com/


     面白いブログとして、同じリトアニアの方が運営しているものに次があります。
    Dominus vobiscum
    http://liturgija-religija.blogspot.com/


    【おまけ】聖ピオ十世会のシスターたちが Ave Maris Stella を歌っている動画を紹介します。

    Ave maris stella



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