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2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

聖ピオ十世会 創立者 ルフェーブル大司教の伝記 6.7.1.ドンギラの(聖パウロ宣教区)長

2010年06月30日 | ルフェーブル大司教の伝記
Ⅶ. ドンギラの(聖パウロ宣教区)長 1940年から1943年4月


  ドンギラの聖パウロ宣教区の長上アンリ・ギユエ(Henri Guillet)神父は、特に宣教区の教会の増築の仕事をへとへとになるまで働いていた。1940年1月、タルディ司教は彼にフランスでの6ヶ月休暇を与えている。この休暇期間中の彼の代行として、タルディ司教はマルセルを任命すると、アンリ神父が彼に言った。
「司教様が私に貴方を代理にすると約束された時、私にはそれ以上の反対など一切ありませんでしたよ。」

 しかしながらマルセルは8月まで待たなければならなかった。ドフラヌー神父がそれまでの間そこを代行していたからである。

  この宣教区はコモ(Komo)川が大西洋の波とかち合う入り江に最も近い岬に位置していた。そこは昔からのパウワン族カトリック共同体を受け持っており、1938年にはちょうど設立60周年記念を祝ったばかりであった。そこには鐘楼と翼廊のある木造の素晴らしい教会と、他にもこのカトリック宣教区の構成に役立つ様々な古典的な建物があった。

 1930年になると、ドンギラは、猛烈な木材貿易が原因で、多くの住民をリーブルヴィルに取られているところであった。幸いな事に、司祭たちの司牧もまた同様に、モン・デ・クリスタルに向かって更に内陸や、はるばるスペイン領ギアナとの国境地帯までに存在する村々へと拡がったのである。


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聖ピオ十世会 創立者 ルフェーブル大司教の伝記 6.6.同胞殺しの紛争

2010年06月29日 | ルフェーブル大司教の伝記
Ⅵ.同胞殺しの紛争


  1939年10月25日のリーブルヴィルで、ガボン植民地歩兵隊第一大隊が母国フランス救援に向かう船 に搭乗した。一年後、娘のアフリカ植民地を攻撃し粉砕せんと迫り来るように思われたのはまさに母フランスであった。

 更に言えば、フランスにおいて戦闘が依然として猛威をふるっていた間に、ド・ゴール将軍はロンドンに身を置いていたのだ。彼は後日、ペタン元帥がドイツ軍に対して要請した休戦協定を拒絶し、この戦争の継続を要求したのだ。

 1940年10月27日には、ルべ(Roubaix)のイエズスの聖心大聖堂で、リエナール枢機卿が叫びを上げる事になるだろう。
「休戦協定なのです!それに調印した方々には、この協定に対する私たちからの尊重を要求する権利があるのです。何故なら、屈辱の時代にあった私たちを彼らが助けに来てくれたからです。彼らにはこの敗北についての責任など何一つありませんでしたが、私たちの手助けをし、私たちが持つ苦痛を和らげに来て下さり、それ以来ずっと彼らは救い得るものを救う為、全力を尽くして働き、私たちの力を内側で増強して下さいました。もし生き延びる事をフランスが許されているなら、彼女(フランス)は、再び世界で自分の地位に就く事が出来るためです。」

  不思議な偶然で、これと同日にド・ゴール将軍が自らの声明を打ち上げた。
「もはやフランス政府は存在しない . . . よって新たな政権は、戦争におけるフランス人の奮闘を指揮する指導の責務を引き受けるべきである。私はフランスの名の下に自分の権能を行使するだろう。」

 休戦協定は彼にとってまたとない良い機会であり、彼は、アフリカから始まって自分の戦争をし続けるために、如何にこの機会を捕らえるかを心得ていたのだ。1940年8月12日、彼はアフリカで戦争を開始した。ルクレル(Leclerc)少佐指揮下にあったド・ゴールの派遣団がナイジェリアのラゴス(Lagos)に上陸したのであった。2週間の内に何の抵抗も受けず、ルクレルはフランス領赤道アフリカのほぼ全域を「自由フランス」の側に味方に付かせた。ただガボンだけが抵抗したのである。

  8月29日、マソン総督(Gouverneur Masson)は電報を送り、自分はド・ゴールを支持する旨を伝えたが、その後ルネ・ラバ(René Labat)によって指揮された別の有力者たちが異議を唱えた。8月30日、潜水艦ポンスレ(Poncelet)がリーブルヴィルに錨を下した。テテュ(Têtu)空軍大将とクラヴォ(Claveau)大佐という意志の固い二名の指導者による命令下で、ブワソン要塞司令官(Gouverneur Général Boisson)により潜水艦ポンスレが派遣され、ダカールからの援軍【パスカル型潜水艦ポンスレの乗員は65人‐訳者】を輸送していたのである。最後に、ガボンはペタン元帥に対する忠誠に留まらなければならない というタルディ司教の考えが決定的だった。マソン総督は9月1日に自分が送った第一号の電報を撤回したのだ。

 ルクレルはガボンをその周辺から味方につけようと試みた。ガボンの北では、ディオ(Dio)少佐がオイェム(Oyem)を攻め落とし、南ではパラン(Parant)少佐がマユンバ(Mayumba)を奇襲によって占領した。

 ディオがミズィック(Mitzic)を10月27日に占領し、さらには、パランがングニエ(Ngounié)川を下りフガム(Fougamou)を占領したが、しかしそれは、フランス人同士の戦いという代償を払ってのことだった。フガムでは、オディロン(Odilon)修道士が、さらなる死者を避ける為に仲介役を務めた。パランがついにランバレネを包囲し【ド・ゴール将軍派による‐訳者】奪回に附すると、迫撃砲火によって宣教師サムエル・タラバルドン(Samuel Talabardon)神父が死亡した後、11月5日、この町は降伏した。

  「ガボン征服はだらだらと長引いていました。」 ド・ゴールは、9月25日のダカール郊外における友軍の敗北に心を乱し、二の足を踏んでしまった。

 すると今度はルクレルが、リーブルヴィル近くに不意打ちの上陸を命じるようにと彼を急き立てたのだ。それは11月の8日から9日の夜に実施された。同胞殺しの銃撃戦が空港の周縁で起きた。午後になっても、しかし事態は依然として際どい瀬戸際にあった。その時、一隻の哨戒艇ブーゲンヴィルが、ド・ゴール将軍派のブラッザから闖入して来たサヴォルニャン哨戒艇【ブーゲンヴィル型植民地警備艦‐訳者】に対し口火を切るも、その反撃を受けて撃沈されてしまった。この敗北がリーブルヴィルの陥落を決定した。9日から10日の間の夜にこの町はド・ゴール派の手に落ちた。

 補給艦カップ・デ・パルム号(Cap des Palmes)は海上刑務所と化し、ルクレルはその中に、将校、及びマソン総督、ルネ・ルフェーブル神父、さらにはタルディ司教自身をも監禁させたのだ。 身柄を拘束される前、タルディ司教は自分のスータンの上に赤いリボンを縫い込ませておいた。何故なら彼は、ちょうどフランス統一への忠誠を表彰され、ウェイガン(Weygand)将軍から授与されていたレジオンドヌール勲位勲章 を身に付けての連行を望んだからである。

 その時、この聖職者(タルディ司教)がルクレルから依頼されたTe Deum ‐テ・デウム‐の歌唱を拒否したので、ケニッグ(Koenig)少将がオルガンを演奏する間、1人の従軍司祭がいつもの信徒たちが不在で空っぽの司教座聖堂で感謝の儀式を執り行った。タルディ司教の解放には、ドフラヌー神父が持つ外交的腕前の全てが要求された。この司教は、ランバレネで6週間軟禁状態にされたのである。しかし、このように惨い内部抗争の後にあった司教軟禁は、ガボン人たちを混乱状態に陥れてしまった。ルフェーブル大司教は冷静に締めくくっている。
「それは良い模範などではありませんでしたし、私たちの聖役に役立ちはしませんでした。」

  後日パランは、助成金を諸々の宣教区に分配した。だが一方で、ガボンの或る一人の司祭は、リビア国境に到達しようとサハラ砂漠を横断していたルクレル率いる軍隊の従軍司祭になってしまった 。

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聖ピオ十世会 創立者 ルフェーブル大司教の伝記 6.5.リーブルヴィル聖マリア宣教区長

2010年06月28日 | ルフェーブル大司教の伝記
Ⅴ.リーブルヴィル聖マリア宣教区長 1939年12月から1940年8月まで


  フランス人宣教区では、1939年の新参宣教師らが不足していたので、休暇中の宣教師たちはそれが故に自分の宣教区に送り返される場合もあり得た。徴兵を受けるかもしれない宣教師たちの大半は、植民地にある自分の居場所に留まった 。また、ガボンでは、状態はそれ程悪くはなかったのだ。

 マルセル神父が戻るや否や、タルディ司教は彼をリーブルヴィル聖マリア宣教区の暫定的な臨時の長上に任命し、ポールジャンティ(Port Gentil)に行ったドフラヌー神父の一時的な代行をさせた 。ドフラヌー神父はそれでも司教総代理のままに留まった。

 聖マリア宣教区の長という職は重い責任の一つだったので、この機会に、私たちはそう信じるが、この司教はマルセル神父を自分の聴罪司祭として選んだ 。さらに司教総代理が不在となり、修道会の長上 であるフォレ(Fauret)神父が幾らか隔たったランバレネにいたという事もあって、タルディ司教は自分の相談事 をマルセル神父と分かち合ってもいたのだ。

  マルセル神父は、霊的な事柄同様に現世的な事柄においてもこの宣教区の長であった。彼は聖マリア宣教区の漁業と大農園を管理し、その収穫をやり繰りしては出納(すいとう)簿を付け、さらには植民地にある諸宣教区とフランス本国と間の様々な取引を監督するガボン供給部(la Procure) で、ドフラヌー神父の代行を務めなければならなかった。こうして彼は、弟のミシェルを通して、聖マリア宣教区と他の宣教根拠地の機械を動かす為に、3基の電気モーターと、一台のモーターバイク (フォレ神父がリーブルヴィルで自分が使っていた一台をランバレネに持って行ってしまったので)を注文した。

  さらに霊的な仕事に関して言えば、ルフェーブル神父は宣教地の小規模な小教区を管理し、この都市の北にある幾つもの村を訪問して、修道女や少女たちの為に霊的講話を提供したのである。その上彼は、司祭的聖徳や司祭生活の規則について、司牧神学の原理などについて、さらに年内に司祭に叙階される4年目の神学受講生たちに向けて、講話を行っている。彼は神学生向け数多くの叙階準備黙想会と、修道女向けの黙想会、さらに同僚司祭向けの黙想会さえ指導したのだ。一つは、司祭の理想を奮い立たせる “私たちの宣教的使徒職の崇高さ”、またもう一つは、ショレ(Chollet)司教の書いた“素晴らしい小冊子”である『キリストの霊魂』 を用いての“私たちの聖主と世俗”と題した黙想会であった。

 ンジョレにおいて積み上げた宣教師としての経験は、更なる自信を彼に与えた。もっと後になって、熱意があるにも拘らず、同僚司祭や修道女たちに【黙想会を‐訳者】指導しなければならない事を考えて怯えてしまう何人かの司祭たちを優しく冷やかしては励ました。

  1940年4月末、ドフラヌー神父がポールジャンティ(Port Gentil)から戻ってきたが、間もなくドンギラ(Donguila)にいるギユエ(Guillet)神父の代行をする為に出発した。

 1940年5月のドイツ軍による攻撃中、マルセル神父はガボン植民地歩兵隊の大隊に属する第一歩兵中隊に徴兵され、6月17日には、歩兵中隊指揮官であるグヴァル(Gouval)中尉の手から軍装備を渡された。 しかし、休戦協定が6月22日に調印されると、フランス帝国の解放は維持され、兵士の復員がフランス軍に命じられたので、マルセルも復員させられたことになったが、私たちがこれから見ていくように、それはほんの束の間の事であった。1940年8月、彼は摂理的にもドンギラにある聖パウロ宣教区の暫定的な長に任命された。こうして彼はド・ゴール将軍(Général de Gaulle)の“自由フランス”軍と、ペタン元帥(Maréchal Petain)により具体化されたフランス統一を求めて戦う軍との間に起きた同胞殺しの戦闘を見ることも、またそれに関わる事もなかったのである。


聖ピオ十世会 創立者 ルフェーブル大司教の伝記 6.4.1.波乱に富んで短くされた休暇

2010年06月27日 | ルフェーブル大司教の伝記
Ⅳ. 休暇―宣戦布告―徴兵


波乱に富んで短くされた休暇


  マルセルは自分を故国へと連れて行く船に乗り込むや、驚いた事に、船上で自分の同僚であり子供時代の友人でもあったエミール・ヴェリーユ(Emile Verhille)神父と出くわした。この司祭はコンゴ・ブラッザヴィル在住の宣教師であり、彼も休暇で故国に向うところだったのだ。戦争の噂がますます多く聞かれるようになっていた。

「私は、『即刻、戦闘状態にない最寄りの港に引き返せ』という非常事態レベル3の警告を今し方受信しました。」と船長がこの二人の司祭に知らせた時、一行はちょうどシエラ・レオネ(Sierra Leone:西アフリカ西部)に近づいていたのだ。そういう訳で、彼らはフリータウンに停泊した。事実1939年9月1日には、ドイツ軍がポーランドに侵入しており、イギリスとフランスはポーランドへの約束を守り、同月3日になってドイツに対し宣戦布告したのである。

  船は、しかるべくカムフラージュされ、ダカールに向けて出航可能となったが、2人の司祭がダカールで船を降りる時、自分たちが徴兵されているという通達を受け取った。マルセルは独り言を言った。

「ダカールで徴兵だ? とんでもない!ここにある砂漠に残るだって? 冗談じゃない!とにかくフランスへ戻ろう。もしも私たちが戦争に行かなければならないなら、行きましょう、ただダカールではない所に!」
  「これから私たちはどうしましょうか?」とヴェリーユ神父が尋ねた。
  「出発しましょう。どうあがいても私たちは徴兵される事になっていますが、ここで徴兵されないようにしましょう!」

 それから2人の友は、元いた船に再び乗り込んだ。誰にも見られずに、知られずに。

  5、6隻の客船からなる船団が形成され、数隻の軍艦によって護衛された。船が何隻かモーリタニア(Moritania)沿岸で既に沈められていた事もあり、この旅路は危険を伴った。しかしやっとの事で一行はボルドーに到着したのである。マルセルは直ちに徴兵され、そこに1ヶ月間留まった。これは、ドイツが攻撃してくれるのをフランスが待っていた【いわゆる‐訳者】“まやかし戦争”(drôle de guerre)の時期だったのである。フランスの人々は布告した戦争を信じていなかったし、総司令部も全体の攻撃についての計画など一切持っていなかったのだ。

  マルセルがしばらく滞在する事になる修道会本部に到着すると、植民地に在住するフランス人は(よって宣教師たちも)そこで徴兵される事になると言明した政府の指令を耳にして安堵した。 マルセルはガボンへ戻れるように、この指令の適用の申請書を作成したのだ。

 10月半ば 、ピンク色の在植民地徴兵カードが彼のところに届いた。それからすぐ、彼は家族と1ヶ月を過ごし、自分の父親と最後の面会を果たす事が出来た。

 それから、他にいる9人の聖霊会の司祭や聖霊女子修道会のジョゼファ修道女と一緒にボルドーで船に乗り込んだ。 こうして、3ヶ月に短縮され波乱に富んだ休暇の後、船はマルセル神父をガボンまで連れ戻したのである。

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聖ピオ十世会 創立者 ルフェーブル大司教の伝記 6.3.4.改善と申し分のない秩序

2010年06月26日 | ルフェーブル大司教の伝記
改善と申し分のない秩序

  視察巡回から戻ったルフェーブル神父は、秘蹟授受記録簿に自分が授けて来た秘蹟を書きとめ、スタトゥス・アニマールム‐status animarum(“霊魂の状態”:個々の教区民に関するファイル)のカードに必要事項を記入した。

 それが済むと、彼は宣教区では仕事がどのように進展しているかを知るために、ンドン神父に尋ねた。その後で修道士たちのところに行って霊的な言葉を言いに行った。オノレ(Honoré)修道士 は、大農園と食料貯蔵の責任者であり、土着民のジャン・マリー修道士は見習者たちと共に大工工作室で働いていた。それからマルセル神父は無原罪姉妹会 (ヴェレリ女子修道院長、デルフィンヌ修道女 ‐香部屋係)と、マリアの聖なる御心姉妹会(混血人のアンドレア修道女 とモニカ修道女)の所に行って霊的講話をしていたのだ。また、彼は女児寄宿舎にいる65人の女の子たち向けに黙想会を指導した。それから、建て増し工事の発展具合を見に行ったら、最後に、男児寄宿舎を訪問して、80人という寄宿生たちの為にそこで勤務する司祭が如何にして仕事を進行しているかを調査した。 80名の他にも、毎朝、数名の通いの生徒たちも学校に来ていた。

 ピエール・ンゾゲ(Pierre Nzoghé)はその思い出を語った。
「私は【その時‐訳者】11歳でした。宣教区に行く為に私たちはよく川を泳いで渡り、それが大好きでした。宣教区とレンガ工場との間には、小川の水路があり、ルフェーブル神父様はこの川の上にとても頑丈な橋を架けてくださったのです。」

 実際に、ある修道士(ジェローム修道士 )と、積み上げられてからワイヤー製の網に取巻かれた大きな石で出来た、とても堅固な橋脚の間に渡されている巨大な木製の桁の上で働く3人の男達とが写っている一枚の写真がある。ピエールは言う。
「[この橋は]、何年も持ち堪えたんですよ。しかも私たちはそこからよく飛び込みました。」

  乾季の間、子供たちはよくアバンガ(Abanga)川に接するンゲネ(Nghéné)湖へ魚を獲りに行ったものだ。彼らは丸木舟から槍で突くか、湖の畔から網を投げるかして自分たちの獲物である魚を獲っていた。収穫後、彼らは莫大な量の魚(鯉、アレキサンダーmâcheron 、ツバメコノシロcapitaines、ナマズ)をその場で燻製にしていた。それから、枯れたバナナの葉を樽の中で数枚焼くと、オクメ材の樹脂で蓋を目張りした。このように燻製された魚は、2、3年しても腐らなかった。

  子供達の間の競争を奨励する為、マルセル神父は“報酬”という形で、釣れた魚に応じて小遣いを与える制度を設けた。つまり、魚の目方を量り、漁師たちの人数でその目方を割ったのである。このお金は学校の必需品や腰巻きの購入に使用する事が出来た。ルフェーブル神父は、ネラン(Neyrand)神父同様、子供達に腰巻きを着させる為、フランスから生地を注文した。)彼には、司祭館の一階に訪問者たちを迎えたり、この司祭館への人の出入りを確認したりするのを可能にする“事務室”を作ることを発案した。

  毎週木曜日の夜、彼は子供たち全員に、講話あるいは公教要理の授業を行っていた。 ンジョレ【宣教区‐訳者】は、時あるごとに小神学校へ生徒たちを送り出していた。

 マルセル神父はそこにシャルル・アボゲ (Charles Aboghé)を送っている。1年か2年の後、ジャン・ピエール・エレラーグ(Jean Pierre Elélaghe)が彼の後に従った。彼は後に司祭としてカメルーンで仕えた。 一方で、修道生活入りを望む少女たちが、トゥロワ・エピ(Trois-Epis)宣教区にあるシンダラの修道志願院に送られている。

  地元の人々は、ルフェーブル神父がこの宣教区で施した改善の思い出をよく持ち続けていた。彼らはルフェーブル神父の事を“声を張り上げずに優しく穏やかに話し、さらに、歓迎の意を表してくれて、誰かによって決して苛立つことなどない人”として記憶に留めていたのだ。

 従って、彼が去ることを人々は残念に思った。ネラン神父がこの宣教区に戻った事で、マルセル神父は休暇を取り、1939年8月11日にフランスへ出発する事が出来たのである。



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聖ピオ十世会 創立者 ルフェーブル大司教の伝記 6.3.3.カテキスタたちと村内会議

2010年06月25日 | ルフェーブル大司教の伝記
カテキスタたちと村内会議

  カトリック信徒のいる村なら何処でもカテキスタたちがいた。自分の住み着いた村あるいは地方を(もし結婚しているなら、その家族と共に)離れ、自らの命を危険に曝す事になると知りながらも、また別の村々に行って福音を説く心意気ある人である。後年ルフェーブル大司教はこう言っている。
「私は毒を盛られて死んだカテキスタたちを知っています。これも全て、宣教師魂ゆえの事でした。」

  各区域は指導的カテキスタを有していた。政府当局にとっては、これら教育を受けた原住民たちのある者は、彼らの用語で言うところの“先進者”であった。これは、特定の現地人に対してフランス市民権を付与する事を目的に立案された概念だったのであるが、それも1946年6月までで、その年に全ての原住民たちは市民権所有の身分を与えられたからだ。

 ルフェーブル神父は、まず差別的で、次に完全にデマゴギー的なこの対策を厳しく判断していた。その上、宣教師が考慮していた“先進”者に対する認識は非常に異なっていた。

 マルセル神父にとって、この概念は、霊魂における完全にキリスト教的な変容を前提としていたからである。「キリスト教の信念を身に付け、天主の恩寵の助けを受けても、宣教師たちの支援なしにそれを維持することができるものは、殆ど居なかったのです!多分、ポール・オッシマ(Paul Ossima)やその他の数人はその種の人々でしたが、さもなければ彼らは女性と正義の話題に関しては、異教的な主義を維持していました。」

 ポール・オッシマは聖なるミサからの恩寵 によって変容した指導的カテキスタの1人であり、マルセル神父は彼を信頼した。彼の仕事とは、ンジョレ地区それ自体の中でカテキスタのグループを養成し監督する事だった。彼は活動的ではあったが、自分の権威を信じ切っていた。何一つ彼抜きには解決も出来なかったほどである。また彼は【村内で発生する‐訳者】道徳的不品行を宣教師たちに指摘して、非行者に罰を下す事が出来るようにしたのだ。

  殆ど手に負えない様々な欠点を持ってはいるが豊かな経験を有するこれらのカテキスタたちと働きながら、マルセル・ルフェーブルは独自の経験を深め、自己の判断力を磨いた。彼は自分が「慎重さと忍耐、そして方法を以って、言い換えれば、あとでやり方を少し改良する事になっても、先任者たちの仕事を尊重しつつ、知性的に働かなければならない」と理解したのである。

「おそらく常に幾分かの疑いの点があっても、黒人やカテキスタたちからの忠告に耳を傾けると、大抵の場合、後で彼らの忠告が適切であることが明白になり、疑いも消えるだろう 。」

  巡回中、村の会議でルフェーブル神父はしばしば仲裁に入らなければならなかった。指導的な地位にあるキリスト教徒や村の有力者たちによって既に詳しく検討されていた事柄は、この司祭の前に公に提起された。この議論に関わる全ての党派が、証人のみならず【この会議に‐訳者】出席していたのだ。初日、この宣教師【ルフェーブル神父‐訳者】は事の次第を鮮明に把握しなかったが、何処に真理があるのかを素早く捕らえた。真理は輝きさえしている。最後の会議では、司祭は判断を下し、必要とあらば償いを課した。通常、悪事を働いた人々は、自分たちの習慣を改めた、或いは不和はおさまった。  

  例えば2人の妻がいるカトリック信徒に対処する場合、時折、マルセル神父は強制力を行使する事を余儀なくさせられた。自分たちの支援を与える事を喜びとする数名の屈強な青年と一緒に彼はやって来て、最初の妻を取り上げた。彼女は、連れて行かれることに同意していないふりをして叫んだり、喧嘩したり、自ら川に身を投げさえした。― 何が起きているのか十分承知していたにも拘らず ― こうして、彼女を女児寄宿舎に閉じ込めた。こうなると、男は宣教区に来て抗議するが、彼は2人目の妻を追い出す約束をし、彼女が男と生活する為に持参した結納金をその両親に払い戻さなければならなかった。その時初めて、彼は1人目の妻を取り戻す事が出来たのである。更に、もしも彼らの結婚が部族の儀式でのみ行われていた場合、キリスト教結婚式が執り行われた。

  しかし、1932年にカメルーンで、不幸にもアンリ・ド・モプー(Henri de Maupeou)神父のある重婚者による殺害の際に明らかになったように、これ【重婚取り消しの調停‐訳者】は危険を免れはしなかった。 その上、これを行う事で、宣教師は地方自治体との問題を起こし得た。何故なら、地方自治体の法律が(カトリック信徒の間においてさえ)一夫一婦制ではなく、重婚と一夫多妻制を認めていたからなのである。


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長崎の原爆とカトリック聖歌「みははマリア」とその元のフランス語の聖歌

2010年06月24日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 カトリック聖歌「みははマリア」の元のフランス語の聖歌をご紹介するに当たって、ご存じのない方もいらっしゃるかもしれませんので、それにまつわるお話しをもう一度するのをお許し下さい。

 長崎に原爆が投下された1945年8月9日の真夜中ごろ、長崎大学病院放射線科の小笹富子看護婦たちは、ラテン語で聖歌を歌っている女声合唱を聞きました。

「苦悶の中で絶命したに違いない27人の修道女たちは、近くを流れる小川のほとりで身を寄せ合い、歌いながらこの世から去っていったのでした。」(ポール・グリン『長崎の歌』260ページ)

「その夜、一晩中美しいラテン語の讃美歌の合唱がとぎれとぎれに聞こえてきました。夜が明けてみると、学園の運動場の草むらの中に、7、8人の修道女がひとかたまりになって、手を取り合い冷たくなっていた」(瓊浦女学校『白夾竹桃の下』田崎光枝)。

 永井博士の妻である緑さんがかつて教えていた純心女子学園の女性徒たちの多くは、1945年8月9日の朝は時津や三ッ山にある工場に学徒動員で働きに行っていました。

 長崎純心聖母会の初代学園長であるシスター江角ヤスは、空襲が激しくなったころから毎日校内全員に聖歌を合唱させていたそうです。

 忌まわしい原爆で、ある生徒は即死し、生き残った者も裂傷を受けたり赤外線で大火傷を負ったり苦しんでしました。ほとんどの者が酷い怪我をしており、多くの者はそれから数日後には躯となる身でした。しかし、彼女たちは歌い慣れた聖歌「み母マリア 身も心も とこしなえに 献げまつる」を一節一節歌いながら励ましあい続けて死んでいったのです。


みははマリア(#305)

1 み母マリア 身も心も
とこしなえに 献げまつる

朝な 夕な 真心もて
君をのぞみ 慕いまつる

みめぐみこそは きよき慰め
輝かしき 君がかむり

うるわしき 君がえまい
ああ我ら深く 慕いまつる


 これの元となったフランス語の聖歌をご紹介します。この歌はもともとカナダのケベックで作られたと聞きました。

Prends mon coeur le voilà (ほら、私の心をお取り下さい)

Refrain
Prends mon coeur le voilà, Vierge ma bonne Mère
C'est pour se reposer qu'il a recours à toi
Il est las d'écouter les vains bruits de la terre
Ta secrète parole est si douce pour moi.

-1 -
Que j'aime de ton front la couronne immortelle
Ton sourire si doux, ton regard maternel
Mère plus je te vois, plus je te trouve belle
Et je viens déposer mon coeur sur ton autel.

- 2 -
Tu le sais inconstant, hâte-toi de le prendre
Peut-être que ce soir il ne sera plus mien
Il me faudrait pleurer pour me le faire rendre
Oh! cache-le bien vite et mets-le dans le tien.

- 3 -
Et puis si quelquefois je te le redemande
Oh! ne me le rends plus mais dis-moi dès ce jour
Dis-moi que tu ne peux accueillir ma demande
Que je te l'ai donné, qu'il est tien sans retour.

- 4 -
Rends-moi pur à tes yeux, donne-moi l'innocence
Un bon coeur pour t'aimer et ton sein pour dormir
La foi, la charité, la sublime espérance
Tes vertus ici-bas, un beau jour pour mourir.

- 5 -
Quand mes yeux obscurcis baisseront vers la tombe
Quand ma lèvre aura bu le calice de fiel
Donne-moi pour voler des ailes de colombe
Et viens me recevoir à la porte du ciel.


みははマリア


 私たちはマリア様に私たち自身を奉献します。「身も心も とこしなえに 献げまつる」!

 何故なら、私たちの主イエズス・キリストが、人間となられた最初の瞬間から、全てを聖母マリア様に委ね、捧げられたからです。

 キリスト者とは、キリストに倣うものであって、本当のキリスト者は全てを子供のように聖母マリア様に身も心もとこしなえに献げなければなりません。

 日本と世界の平和のために、天主の御母聖マリア様に、敵を赦しつつ、1945年8月9日の夜、ラテン語のグレゴリオ聖歌とカトリック聖歌を歌って亡くなっていった童貞様(シスター)たち、女学生の乙女たちに、感謝します。

 私たちも、日本と世界の平和を作った、このラテン語のグレゴリオ聖歌とカトリック聖歌とを大切に歌い継ぐことを約束します。

 私たちは、秋田の巡礼の時にこれをよく歌いました。

みははマリア!
花咲香る天の御国へたどる道をてらしたまえ!
花咲香る天の御国へ!


 天主の御母聖マリアよ、我らのために祈り給え!

 聖母マリアよ、ああ我ら深く慕いまつる!
 聖母マリアよ、身も心もとこしなえに献げまつる!
 聖母マリアよ、真心もて君をのぞみ、慕いまつる!
 平和の元后よ、この汚れし我らの身を、清めたまえ!
 平和の元后よ、天の御国へたどる道を、照らしたまえ!
 平和の元后よ、罪あるこの身を、守りたまえ!

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

聖ピオ十世会 創立者 ルフェーブル大司教の伝記 6.3.2.未開地を巡回して

2010年06月24日 | ルフェーブル大司教の伝記
未開地を巡回して

  ローマからずっと彼に付いて来ていた数冊の本を全て後に残し、この元教授は1938年の5月、ンジョレに到着した。

 聖務日課書ともう一冊の祈祷書、ロザリオ、腕時計、そして自分の下着の他は手荷物として何も彼は携えていなかった。それが会則だったのだ。

 名目上のミッションの長上であり、サンタ・キアラ時代(1925-1928)の元同窓生であったアンリ・ネラン(Henri Neyrand)神父が、休暇で不在だったのでその間の一時的な代わりとして代理を務めることになっていた。

 他ならぬ自分の生徒であった助任司祭のフランソワ・ンドン神父に男児寄宿舎の世話を預けて、マルセル神父は広大な区域の視察を開始した。公教要理の巡回区域は8日間の行程ほど離れていた。彼はララ(Lara)に向って北上しアバンガ(Abanga)川とサムキタ(Samkita)に至るまで西へ向ったのだ。川を丸木舟で、あるいは起伏の激しい小道を徒歩で進んだ。最年長の生徒たちは手荷物である食料と旅行用のミサの道具を運んでくれた。

 村々において、“カトリック信徒たちは彼のことをその優しさ故に敬愛したが、それは彼が天使のようであり、多くを語ることはないが、人々に笑いを与えていたからだ。”

  しかしながら彼は忍耐を必要としたのである。ある日、彼は遠方の村からンジョレに到着したある使者に出会った。この男は言った。
「神父様、どうか急いで某村まで来てください。年老いた誰々さんが死にかけているんです!」

 これは本当なのだろうか?この村は4時間も離れた所にあったのだ。それでも、マルセル神父は一言も口に出さずに直ぐ自分の持ち物を用意すると、丸木舟に乗って出発したのである。彼は急いでこの遠距離を進み例の村に到着した。

「死に掛けている老人の誰々さんは何処ですか?」
その時、本来臨終にあるはずの男が出てきたのだ。
「ここです神父様。ただ、私は病気じゃありませんよ。ただ貴方に会いたかったんです。」
マルセル神父は冷静であった。しかしこの優しい叱責の言葉を何時もの穏やかな口調で述べる事だけは出来た。
「アルベール!やっぱりですか、ふざけていますよ . . . 」

  依然としてパウワン族はかなり遊牧民であり、彼らの移動は注意深く見守られなければならなかった。その結果、公教要理の巡回は彼らの移動に応じて変動したのだ。マルセル神父はファン語を自由に操る力を向上させた。さらに“彼はすでにファン人になり切っていた”それほどそれを巧みに話したのである。カトリックの宣教師たちより先にオゴウェ川沿いに赴任していたプロテスタントたちとの激しい論戦 の中にあるカテキスタたちを支援するため、彼はファン語で“誰でも読める”という意味のOlle Langという題の小冊子を配布した。そこには“ルターが聖書を盗み出していた事”と“彼独自の私的な教会を作ろうとした事”が説明されていた。  

 時折、カトリック信徒とプロテスタン信徒たちが丸木舟に乗って川を渡る時には、“異端者!異端者!”という叫び声がよく起こったものである。それについてマルセル神父は言っている「【これを見て分かるように‐訳者】少なくとも私たち側の部族民は、自分たちがカトリック信徒であること位は分かっているのです。」

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聖ピオ十世会 創立者 ルフェーブル大司教の伝記 6.3.1.見事な宣教区

2010年06月23日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
Ⅲ. ンジョレのサン・ミッシェル(聖ミカエル)宣教区の暫定的な代理長上(1938年5月-1939年8月)


見事な宣教区


  ンジョレはかつて、まさに人口過密な街だった。この宣教区が1898年に設立された時、5万人以上というパウワン族の人々がこの地の周辺に生活していたのだ。この数字も、殊に材木業がありとあらゆる村の住民を引き寄せて沿岸地方及びオグウェ川の下流域に移り住ませたために、悲劇的な減少を遂げた。しかし、ンジョレの地理的な位置は興味深いままに残った。そこは、オグウェ川を遡って航行する蒸気船の終点であり、ミズィクやオイェム、さらにカメルーンなどに向う道がそこから始まっていたからだ。

 聖ミカエル宣教区(ミッション・サン・ミシェル)は、このオグウェ川の左岸にある丘の上高くに設置されていた 。つまり、川の右岸にあるンジョレの村の中心地からやや上流に上った所の対岸にあった。

 サン・ミシェルは、対岸のサン・ベヌワ(聖ベネディクト)村へ渡し舟で渡るオグウェ川と、二本の小さい川、サモリ(Samory)の中州の後ろでオグウェ川と各々が上流と下流で繋がる二つの支流、との間に挟まれていた。

  聖霊司祭修道会の大きな建物が、二段になった土地の上に建っており、側面にはかの大河を一望出来る美しいテラスに面した涼しい回廊が配置されてあった。すぐそばには、ヨーロッパからの樅の木材を用いて建てられた最初の教会があったが、二番の教会のために放棄されなければならなかった。

 修道士と見習者たちは、レンガを専門に扱いつつ、見て分かる華麗な骨組みや鐘楼などを考案して、二番目となる聖ミカエル【に献堂された‐訳者】教会を建てた。その壁の高さで印象的な建物には、信徒1千人を収容する事が出来たのである。この教会建設は、その煉瓦造りの鐘塔の感性を持って、ジョゼフ・プティプレ(Joseph Petitprez)神父によってちょうど終了していたところであった。しかしこの作業で疲労困憊した彼はパリに帰国して1931年に亡くなっている。
教会の周りには、男児寄宿舎と小学校が司祭の家近くにあり 、修道女たちの住居近くには、女児寄宿舎と馬小屋があった。そこには巡回宣教師兼医師のグレモ(Grémeau)神父によって創立された修道女経営の健康診療所もあった。

  日常の勤めと食料生産の農作物は、油を取るための椰子の木、マニョック(キャッサバ)芋、バナナ、パイナップル、オレンジ、サトウキビ、コーヒー、ココア、バニラなどだった。これらが、宣教区が存続し、労働力である生徒たち を忙しく保つのを可能としてくれた。この他にも、レンガ工場と大工工作室には、やらなければならない作業があったのだ。


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天主に感謝します!!

2010年06月22日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、こんにちは!

 一昨日の東京での主日の聖伝のミサには、42名の愛する兄弟姉妹の皆様が与り、36名がご聖体拝領しました。午後の公教要理には18名が参加しました。晩課は15名ほどでした。天主に感謝します!!

 中には、九州からこらえた方々、大坂からこらえた方々もいらっしゃいます!!感謝!

 月曜の聖伝のミサには11名が、火曜の聖伝のミサには9名が、ご聖体拝領をしました。マリア様に感謝!

 今年の6月には、21人の聖伝の新司祭が誕生する予定です。(うち20人が聖ピオ十世会司祭、1名はベネディクト会司祭)これら新しく叙階される司祭らのためにお祈りください。
イエズスの至聖なる聖心よ、我らを憐れみ給え!

聖母の汚れなき御心よ、我らのために祈り給え!

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

カトリック教会に聖なる召命が与えられるため:現在2801環のロザリオが集まりました

2010年06月22日 | ロザリオの十字軍
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 召命のための祈願の祈りの報告をご紹介いたします。

 2010年5月1日から5月31日までの分として、カトリック教会に聖なる召命が与えられるための意向で、現在
 ロザリオ2801環
 巡礼1回
 聖体降福式14回
 聖伝のミサ23回
 教皇様、司祭様と召命の祈り合計48回
 五種の連祷合計16回

 などが報告されています。
 
 11月1日まで、できれば、愛する兄弟姉妹の皆様から(聖三位一体を賛美して)総計してロザリオを3万環捧げることができれば、幸いに思います!

 ロザリオに限らず、召命のために捧げた祈りや犠牲も教えて下さい。一日15分の黙想・念祷もどうでしょうか?

 愛する兄弟姉妹の皆様の寛大なご協力もよろしくお願いいたします。

 次の祈りが報告されています。

【報告】
アヴェ・マリア!

トマス小野田神父様
アジアにおける召命のロザリオのご報告をさせていただきます。
6月7日~6月17日22時現在(日本時間)
10環捧げました。

天主様の祝福が豊かにありますように!

【報告】
アヴェ・マリア
聖なるロザリオです
*マリア     5環
*バルナバ    1環
*エリザベト   50環
*マリア・ローザ 7環(お知らせに気づいたのが遅かったそうです。・・・看護婦さんのお仕事が非常にお忙しくて、体力的に無理や、とのことでした、いつぞやの夜、11時位かにお電話された時に、今日初めての御飯、マクドに今から買いに行くんや、と仰ったそうです、朝時間がなく、お昼忙しく、受け持ちの患者さんの容態が急変したので、大変だった、そうです。)

昨夜!家族全員揃って、229ページの「イエズスの聖心に家庭を献ぐる祈り」、唱える事が出来ました!個人的に私は時々、祈っていましたが、全員で、本当に嬉しかったです!

【報告】
フランシスコ・パウロ 召命が与えられるように

† 「O MI JESU MISERICORDIA!」
御報告が遅くなりました。五月中のロザリオは57環。教皇様、司祭様と召命の祈り合計48回。五種の連祷合計16回以上です。
六月の御ミサ、残念ながら出勤になり参れません、痛みを覚えながら皆様のために祈ります。

【報告】
主の平和。小野田神父様,司祭・修道者の召命のためのロザリオ十字軍の報告をいたします。

フランシスコ  31環
テレジア    228環

聖ピオ十世会にたくさんの若者たちの召し出しがありますように。それから多くの司祭・修道者・聖職者たちが聖伝のカトリックの信仰に立ち返りますように。心を合わせてみんなで祈りましょう。実り多いものになりますように。
小野田神父さまと聖ピオ十世会の上に、神様からの祝福とお恵みがありますように。祈りつつ・・。

【報告】
小野田 神父様

いつもお世話になっております。
五月分の家族のロザリオのレポート送ります。
総合計 1005環です。

これは信じられないようで実はまったく疑う余地も無い位本当で、信じざるおぉ得ない、真実なのですが、必ずと言っていいくらい自分が困ったときや、苦しみに、もがき苦しんでどうしようもない時に汚れ無き聖母マリア様の御取次ぎにより、苦難を恐れないお恵みを頂き、そのおかげで今日まで生きながらえております。

これもまた、神父様に常に私達家族を、常にお祈り、ご祝福をしていただいているおかげだと感じて、ささやかに家族ともども幸せを感じさせていただいております。本当にありがとうございます。

これからも、迷惑をかけ、援助を受けなければいけないことが多大にあると思いますが、その時は又お力、アドバイスを受けさせてください。

お手数かけますが、いつものようにお祈りの方宜しくお願い致します。
私達も、神父様を始め、sspxにかかわりのある方達、司祭、司教様方常にお祈り天主様からのお恵みが賜れますよう念じております。


+ + +


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トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

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聖ピオ十世会 創立者 ルフェーブル大司教の伝記 6.2.6.ルフェーブル夫人の聖なる死

2010年06月22日 | ルフェーブル大司教の伝記
ルフェーブル夫人の聖なる死

  1938年の8月、マルセル神父は母が7月12日に亡くなったという知らせを受け取った。彼女は酷く気分が悪いにも拘らず、その最後まで工場事務所で働いていたのだ。その月の7日に彼女は入院し、11日には終油の秘蹟を授かった。彼女は認めた。
「ここまで苦しむ事が出来るなんて私には想像出来ませんでした。」

 12日、彼女は御聖体を拝領し、【修道召命を受けたために】病床に付き添う事の出来なかい5人の子供たちを遠くから祝福しようと、大きな十字架の印をした。それから彼女は最年少の子供たち3人に言った。

「お母さんは幼きイエズスの聖テレジアではないけど、貴方たちがお母さんにお願いする事は何でも手に入れてあげるからね。」

 それから今度は夫の方を向いて言った。「貴方もですよ、ルネ、」

 その日の朝に、彼女は兄弟のフェリックスにこう伝えておいた。「あのね、私は天国に行くのよ。」さらに、口を利けない様子で彼が自分を見ているので、彼女は言い足した。
「私は楽園に呼ばれているの。」

 夕方の5時ごろ、彼女は忠告となる最後の一言を自分の子供たちに与えた。「天主様を地上にある全てのもののよりも大事にするんですよ。」
そして、家族で唱えられた臨終の祈りの後、「まるで自分が描写不可能な何かを見ていて、それに向って自分が引き寄せられていると感じているかのように、このびっくりするような表情が彼女の面影に浮かんだのである。というのも、彼女が自分自身をベッドから起き上がるかのようだった」 からだ。そして、彼女が息を引き取った。

  母の聖性を確信したルフェーブル家の子供たちは、彼女への取次ぎの嘆願を躊躇わなかった。ルフェーブル夫人の霊魂に関して成されたル・クロン(Le Crom)神父 の研究は、彼女の絶えざる自己放棄と、感謝における常に変わらない天主との一致、叡智という卓越した聖霊の賜物の働きを示す印を明らかにしている。





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聖ピオ十世会 創立者 ルフェーブル大司教の伝記 6.2.5.成果

2010年06月21日 | ルフェーブル大司教の伝記
成果

  ルフェーブル神父はドゥアラ(Douala)から船に乗って、1936年末にリーブルヴィルに帰り、司祭養成という困難な職務に再び取り掛かった。

 生徒数は、40から50の間を変動しつつも一定を保っていた。1936年に撮られた二つのグループ写真には、白いスータンを着て黒い宣教師用の紐帯を腰に締めた6名の神学受講生たちが写っている:ブラッザヴィル出身のオギュスト・ンコンク(Auguste Nkonkou)、ガボン出身のフランソワ・ンドン(François Ndong)、中央コンゴ出身のドゥ二、さらにジャン・マリー(おそらくンジョレ出身のジャン・マリー・エフェーヌ Jean-Marie Efène)、ブラッザヴィル出身のウジェーヌ・ンクワキュ(Ugène Nkwaku)、そしてガボン出身のトマ・ムバ(Thomas Mba)などの神学生たちであった。

 フランソワ・ンドンが提出した基礎神学の試験答案についてルフェーブル神父は批評した。「短すぎます。ローマ・カトリック教会こそが唯一真の教会ですよ。」

 それからオギュスト・ンコンクの試験答案についてはこう批評した。「貴方は[教皇の]至上権に関する主題にもっと重点を置くべきでしたね。」

 【記念写真に写っている】制服のワイシャツを着用する30名の哲学受講生たちに関して言うなら、最年長者は次の四名だった。アルワーズ・エイェナ(Aloyse Eyéna)と、テオドール・オブンドュ(Théodore Obundu)、アンジュ・ムバ(Ange Mba)、そして4人目の名前は不詳である。最後に、ガボン人の7名の小神学生たちが手前に写っている。その中に若きフェリシアン・マクアカ(Félicien Makouaka)が見て取れる。

  よって未来の三司教‐フランソワ・ンドン(1961年の7月2日にルフェーブル大司教により司教聖別されるとリーブルヴィルの補佐司教となり、それからオイェム‐Oyem‐の司教となった)、シリアク・オバンバ(Cyriaque Obamba ムイラ‐Mouila‐の司教)、そしてフェリシアン・マクアカ(フランスヴィルの司教)‐たちは、ルフェーブル神父の生徒だったのである。
「彼らが能力不足ではなかったと信じなければなりません。」と真面目に彼は言っている。


 ヴァランタン・オバム(Valentin Obame)やヴァンサン・ンヨンダ(Vincent Nyonda)などの大臣や、レオン・ムバ(ガボン)のような将来登場する国家の指導的立場の人たちもまた聖ヨハネ神学校の生徒たちではあったが、それはマルセル神父の時代より後のことである。

  ルネ・ルフェーブル神父は1938年1月に成長を遂げる聖ペトロ小教区の主任司祭となった。 その年の復活祭に向けて準備中だった マルセル・ルフェーブル神父は、4月17日の司祭叙階を待つ(フランソワ・ンドンを含む)最年長の神学受講生たちの為に黙想会を指導している。彼の考えはとても明確に考え抜かれた幾つかの信条に要約された:

  1.「真の熱意なるものは従順の外に存在しない。」
  2.「何よりも真理を愛し、その中に本当に霊魂の救いを見なければならない。」
  3.「常に義化、すなわち聖成の恩寵の状態の観点から、我々の信徒たちを理解すること。」
  4.「個人的原理原則なるものは一切持たず、むしろ我らの聖主と公教会の原理原則を持つこと。これこそが本当の愛徳であり、近代主義者やリベラルのやり方による愛徳ではない。」
   「愛徳とは、行動する真理である。」
  5.「教皇はペトロの後継者、地上におけるキリスト、揺ぎ無い岩、世の光である。」
  6.「司教による宣教区視察時は、我々の事業について彼に語り、忠告を求めよう。」

  
 上記のように非常に明確な勧告と共に、マルセル神父はこれらの司祭志願者たちのもとにおける自らの職務を終えた。事実、彼はマラリア と肝臓障害を患っていたのだ。ある晩、それは午前2時頃、彼はもうこの病苦に耐えられなくなり、ベルジェ(Berger)神父を起こした。

「確かに自分は重病だと思うのです。もしも、と言うことがあります。多分私は死ぬかもしれません。どうか私の告解を聴いて下さい!」

 この司祭は彼の告解を聴いから彼を落ち着かせると、ハーブ茶を彼の為に作りベッドに送り返してあげた。

 ルフェーブル大司教は後日言っている。「私は殆ど死んでしまうほど疲労しておりましたので、働き続ける事が出来ませんでした。私には残っている力がなかったのです。実に自分が持つ限界でしたあ。」

 タルディ司教は“療養の為に”彼を奥地へ送り、しばらくためらって後に 彼をンジョレの臨時の代理的な長の地位に任命するよちも良いものがないと判断した。

 神学校は、ベルジェ神父の指導の下で続行した。1944年には、神学受講生の5名と哲学受講生の7名、さらには小神学生20名が在校していた。聖ヨハネ神学校は1947年に小神学校となり、そこにいた年長の生徒たちを、少しばかり前にブラザヴィルに創立され、エミール・ロラン(Emile Laurent)神父によって指導される “リベルマン”地域大神学校に送ったのだ。

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聖ピオ十世会 創立者 ルフェーブル大司教の伝記 6.2.4.見習探検家―エフォク(Efok)

2010年06月20日 | ルフェーブル大司教の伝記
見習探検家―エフォク(Efok)

  1935年9月28日、ドフラヌー神父の面前で、マルセル神父は終生誓願を宣立した。しかし、1935年から1936年までの間、神学校校長としての様々な責務が彼に重くのしかかっていたので、気分転換のために、またカメルーンのエフォクにいるマリー・ガブリエル修道女に会いに行くために、彼には未開地へ行く事が許された。

 1936年10月12日に、彼は【リーブルヴィル郊外の‐訳者】オウェンド(Owendo)港を出発してからドンギラ(Donguila)を過ぎ去り、そこからコモ(Komo)川を上った。航行不能な最初の急流に到達すると、船を下りて上陸し、象によって時折激しくかき回される泥道伝いに歩き続けた。【行く手を阻むような‐訳者】枝や根に足を取られながらも、彼はモン・ド・クリスタル(Monts de Cristal)をよじ登り、昔の大農園の林の茂みと広大な牧草地を通り抜けて歩いた。彼は浮橋か、原住民のイカダ(コンボ・コンボ)に乗って川を渡った。さらに村と言う村を訪れては、ミサを捧げたり、告解を聴いたり、さらに、癩病人の傷を消毒し包帯を巻いてあげたりしながら、各地域の族長やカテキスタたちに挨拶してまわったのだった。  時々、夜中に彼は胃痛、あるいは酷い歯痛に苦しみ、時には訪問先の小屋の中で、執念深い赤蟻の波を前に逃げ出す事を余儀なくされた。

  至る所にある宣教の根拠地において、マルセル神父はその同僚たちから温かく迎えられ、時にはこの同僚たちの一人又は別の一人が、次の宣教区まで良く同行してくれたものである。11月11日、パージ(Page)神父が配属されていたビタン(Bitam)で彼は書き留めた。「私には、彼が何処へ行くとも考えずに堂々巡りをしつつ、背教したカトリック信者たちを助けようと試みて‘四方八方に走り回わる’明確な道しるべを持たない孤独な方という感じを受けます。」そう通り、宣教師の孤独とは常に辛い事態なのだ。

  11月21日、彼はンテム川(Ntem)を渡りカメルーンに入る。同月14日に到着したアコノ(Akono)で、ルフェーブル神父は小神学校を訪問した。そこは1924年に創立されており、聖霊司祭修道会の司祭4名とアフリカ人司祭1名と共に、既に102名の生徒たちが在学していた。マルセル神父はこうメモしている。「ここには信頼の雰囲気があるようには見えない。」それでも多くの生徒たちは堅忍していた。

  11月15日、マルセル神父はヤウンデ(Yaoundé)に着いた。古き宣教区が置かれている小さなムヴォルイェ(Mvolyé)高原に登った。そこで生活している代牧区長のヴォグ(Vogt)司教は、私たちの旅人を出迎えた。マルセル・ルフェーブルはこの司教について「本当に彼は親切と聖性の雰囲気をお持ちだ。」とメモを書き残した。マルセルはこの共同体にある修道者としての規則正しさとピエール・ボノ(Pierre Bonneau)神父の使徒的発意に敬服した。
「三つの団体がある。一つは青年男性の為で、もう一つは若き女性の為、そして一つは若い夫婦の為。この最後の団体は、自分たちの娘を欲しがる人からの結納金の支払いを受け付けないと約束している。」マルセルは、自分がこのような過激さに対して抱いた見解を書き留めていない。

  更に彼はムヴォルイェにある大神学校を訪問した。既に私たちが言及して来た事情によって、1927年にローマから来たウジェーヌ・クレ(Eugène Keller)神父はこのカメルーン神学校を良く引き受け、生徒たちからの信頼を得ていた。それでも残念ながら、彼の後継者となったエンゲルベルク(Engelberg)のスイス人ベネディクト会士たち はそれ程の成功を収めることはなかった。アコノ(Akono)でマルセル神父が気付いていた不安よりも、ムヴォルイェにおいての方が大きかった。しかし、マルセルは悲観的な印象にぐずぐず立ち止まってはいなかった。11月16日、最終的にその旅路が終わり、エフォクにいるマリー・ガブリエル修道女‐妹のベルナデット‐との面会を喜んだ。

  1928年6月11日、聖霊姉妹会がエフォクにやって来た。それは、ムヴォレイェからエフォクに移転していたカメルーン人の姉妹会‐ヤウンデのマリアの娘会‐の志願院の指導を担当する為だった。マリー・ガブリエル修道女は、1932年の夏にスイスのモンタナにある聖霊司祭修道会の聖母の家に任命され、9月にはフランスのジェール(Gers)県にあるミランド(Mirande)へ、1933年にはべティシー(Bèthisy)の修練院に任命を受けたが、ついに1933年11月にはエフォクに任命された 。エフォクでは、新生児や生後18ヶ月未満の孤児たちの世話をする為に設置されていた保育所の看護婦に彼女は任命されている。 マリー・ガブリエル修道女には死の危険に瀕した数多くの新生児に洗礼を授ける事が出来るという慰めがあった。

 誇りを感じつつ、彼女は実の兄を自分の従事する使徒職の現場へと案内した。
 リッテ(Ritter)神父との食事中、マルセル神父はルイ・オジュラ(Louis Aujoulat)(1910-1973)と面会する事が出来た。オジュラは、ロベール・プレヴォ(Robert Prevost)神父が付属病院付きのチャプレンを務めていたリール・カトリック大学において1932年にはその医学生であった。

 彼はAd Lucem ‐光に向って‐と呼ばれるカトリック宣教・平信徒大学生の会を創立した人物である。この会の大学生たちは、宣教の奉仕のために自分の職業を使うという決心を立てた。オジュラ博士は、間もなくしてグラファン司教(ヴォグ司教の補佐司教)から、カメルーン に招かれていたのだ。【マルセル神父が到着した時には】オジュラはちょうどエフォクに真新しい病院を設立したばかりであった。マリー・ガブリエル修道女はそこで働いていたのだ。

 後日、当病院の医師らのためのチャプレンとなったボノ神父は、リール教区と連携して専門化したカトリック・アクションの計画を始動したのである。


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聖ピオ十世会 創立者 ルフェーブル大司教の伝記 6.2.3.神学校校長―祈りと編成

2010年06月19日 | ルフェーブル大司教の伝記
神学校校長―祈りと編成

  1934年に、タルディ司教はフォレ神父をランバレネ(Lambaréné)にある宣教地区の長上にすると、アフリカの人々に対してうまくやっているというマルセル神父が備え持つ性質と秩序に対する感覚を考慮した上で、彼なら神学校を引き継ぐ事が出来ると考えた。10月に到着していた若きベルジェ神父が彼の補佐役となる。

  土着民の修道士を養成する修練院はもちろんのこと、大・小神学校で学ぶ47名の神学生たちの面倒を見なければならなかったマルセル神父は、自分の家族に祈りを熱心に要求した。

 よりよく神学校が機能するために、彼は神学校の建物と校則を再編した。修練期にある修道士たちの為には、『ガボン出身修道士たちへの覚え書き』という非常に詳細に渡る校則を書いている。12月に彼は、聖堂の中の座席配列を一般信徒用と神学生用とに区別し、もっと大きな聖堂の建設に取り掛かったの。彼は全ての一生懸命になり仕事に没頭したので、時にはとても疲れていた。 短い休暇中には、そんな彼も神学生たちと一緒に河口に行って休息する事が出来たのだ。エストゥリア岬(Cape Estrias)とオウェンド岬(Owendo Point)は結構な釣り場だった。

  この校長は常に皆から目を離さず、これはレクリエーション中も変わる事はなかったのである。さらに司祭となるための資質を持たないか、必要とされる徳において進歩していない神学生たちを退学させる事を躊躇しなかった。

 それ以来、マルセル神父が神学生たちと過ごした休暇の一つの際に行った事は伝説となった。彼は自分がパンを一切持って来なかった事に気付き、皆と変わらずにマニョック(キャッサバ)芋を食べたのだ。そこでアンジュ・ムバ(Ange Mba)という神学生の一人が、仲間にこう言いながら彼をからかい始めた:

 「おい見ろよ、白人がマニョック(キャッサバ)芋を食べてるぞ!」
  マルセル神父はこの道化師のからかい話を遮った。
 「アンジュ、何をそんなに笑っているのですか? 貴方は司祭である長上をからかっているのですか?」
 「はい、神父様、神父様がマニョック(キャッサバ)芋を食べているところを見ているからです!」
 「アンジュ、」彼は答えた「アンジュ、私には神学校が貴方のいる場所ではないことが分かります。」

 その日の午後、アンジュの神学校生活は終わってしまった。これで彼は神父にはなれなくなったが、だからといって彼が後に父親になることは妨げなかった。彼は後年、ガボンに誕生する未来の総理大臣カズィミール・オイェ・ムバ(Casimir Oyé Mba)の父親となる人物だった。

  「ここには申し分ない雰囲気が強められています。」とマルセル神父は1935年に書いている。さらに彼は自分が成し遂げたこの改善が、近いうちに優れた司祭養成を提供してくれるよう期待した。 ルネ神父は、マルセルが神学校にもたらした秩序に感嘆した。
「第一に内的生活、念祷、定期的な告解、そして黙想会です。」

 新学年度開始時の黙想会や、御復活祭の黙想会、叙階準備黙想会などの様々な黙想会に向けた計画は、この校長の手元にある紙を埋め尽くした。これらの黙想会の中で、彼は使徒的精神の源である“天主の愛徳”を分かりやすく伝え、【原罪が人間性にもたらした‐訳者】無知の傷とその改善策なる超自然の叡智を際立たせた。「私は天主に属するものです。天主の為にこそ私はここにいるのです―憐れな罪びとなる私―『天主こそ全て、人間は無なり』(リベルマン)。」

 さらに彼の活動は、聖マリア宣教区の全てにまで及んだ。1934年の終わりに、彼は最初の発電機を設置した。その際、彼は電力供給に必要な接続の全てを準備した。この機会を利用して、彼は電気とカトリックの科学者たちについて授業を行い、フィナーレとして発電機のスイッチを押し上げると、皆が驚いた事にも明かりが発生したのである。 1935年には、最初の充電式の短波ラジオを取り付けた。彼はさらに、有益かつ持っていて得でもある印刷機の修理もしたのだ。 タルディ司教は、自分の協力者が持つ広範囲に亘る資質と、彼がやり遂げる編成と申し分のない秩序によって支えられる事により結ばれる聖寵の良い実を感心して眺めた。この司教は、自分が管轄する学校への資金調達の為、フランスに向い、1936年の夏にトゥルクワンを訪問した。そこで彼はルフェーブル妻と面会し、どれだけ自分がマルセル神父を評価しているかを伝えた。「彼がやる事は全て完璧です。私の不在中、決定を下さなければならないのが彼だと知っているので、私は安心して居られます。」

  彼を知る者全ての意見によれば、ルフェーブル神父は非常に優れた神学校校長だった。“自分の判断と決断においては揺らぐことも極端に走ることもなく、思いやりがあって、組織と実用的な事柄にかけて非凡である”と。  

 近郊の代牧区長たちが聖ヨハネの神学校に対して抱いていた信頼は、1935年の新学年度開始に当たって極めて多くの . . . タルディ司教の心配するには、余りにも多すぎるほどの生徒たちを神学校側が持つ結果となった。タルディ司教は大神学校生たちをカメルーンにあるヤウンデ(Yaoundé)【の大神学校‐訳者】に移送しようかと考えさえしたほどだった。しかし、費用は掛かるし危険の伴うこの処置を避ける為にも、マルセル神父は小神学生と大神学生たちを分離する事で事態を整理したのだ。こうしてガボンの名誉の為にも、聖ヨハネ神学校は聖ヨハネ神学校のまま留まるだろう。

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