Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

2017年聖母小黙想会【8】 8月13日「ファチマの祈りと礼拝の根底にあるもの、最も天主様の聖心に適う態度」を黙想する

2017年11月30日 | お説教・霊的講話
聖母小黙想会【その8】 2017年8月13日(主)聖霊降臨後第10主日のミサ
小野田神父説教


聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。

今日は2017年8月13日、聖霊降後第10主日のミサをしています。今日は特別に聖母小黙想会がありますので、午後には特別のプログラムがあります。午後に講話黙想、それから聖時間があります。時間のある方はぜひ黙想会にも参加して下さい。

8月15日には聖母の被昇天の大祝日です。やはり朝10時30分からミサがあり、聖母行列もあります。どうぞいらして下さい。



“Deus,propitius esto mihi peccatori.”
「罪人の私を憐れみ給え。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日は聖母の小黙想会の間に挟まった主日で、ちょうどこの主日のミサでは、イエズス様が今日の黙想会の為にわざわざ選んで来て下さったかのように、私たちが取るべき態度を教えようと、特別の例え話をされます。

皆さんも覚えていらっしゃる通り、ファチマの出来事は、祈りと礼拝によって始まりました。そしてこのファチマのこの出来事の中に深く入るには、まず天使が、祈りと礼拝のやり方を教えてくれました。マリア様も、祈りと礼拝をするように私たちにお願いされました。

では一体、「どういう態度で私たちが祈りと礼拝をするのが、最も天主様の聖心に適うのか」というその祈りのやり方、その基本にある「謙遜」という態度について私たちに教えようと、イエズス様はあたかも今日の主日を選んで下さったかのようです。

そこで今日、イエズス様の例えに出るファリザイ人、この人のこの祈り方を分析して、黙想する事にします。

次に、罪人として名高い税吏、税取りの祈りの仕方を黙想します。そしてこの税取りのこの態度の、この謙遜という中に、マリア様のなさった祈りをみます。

最後に私たちは、マリア様のお祈りの、マリア様の態度を見て、一体どのような態度でファチマの祈りと礼拝の中に入って行かなければならないか、その遷善の決心を立てる事に致しましょう。

ファリザイ人は、イエズス様によると、「祈ろうとして神殿に上った」とあります。そしてイエズス様の話によると、「自分はすでに、自分の力によって、自分の功徳によって、もう自分だけで義である。そして他人は軽蔑に値する。他人は罪人であって、悪人であって、貪欲であって、不正であって、姦通者であって、邪淫であって、嘘つきで、盗みはするし、酒は飲むし、ギャンブルはするし、もう他人の欠点が目について、そしてそれらでない事を、そうでない事を感謝します。」「あぁ、私は何と良い人間だろうか。週に2回も断食するし、神殿には献金するし、善行をなしているし」と自分の功徳に鼻をかけています。「俺は何でも知っているし、私のやり方が一番良いのだ。他人のやり方はもう目も当てられない。しかし私はこのように素晴らしい事をしている」と。これがこの男の、ファイザイ人の祈りでした。

これを見ると、実は「祈りをする」と言いながらも、「自分を褒めたたえている」という事に気が付きます。おそらくこのファリザイ人は、自分の欠点が話題にのぼると、きっと非常にそれに対して敏感で、腹を立てたり、「俺はこんな事を言われた。傷付いた、もうそんな事をするならもう嫌だ」等と言うかもしれません。しかし他の人に対しては、「この税吏のようでなくて、本当に良かった」と、他人に対しては怒り、責めて、非難して、咎めているのです。「あぁ、本当にこいつは嫌な奴だ。この人は俺に反対ばかりしている。自分に害を与える。生意気だ。俺に逆らっている。」「あぁ、他人の欠点はどうしてこんなに大きく見えるのか。この他人には本当に徳など何もない。他人はこうやっているけれども、きっと悪を考えているに違いない。」全て悪く悪く解釈します。「どうもこういう他人は好きになれない。」

このファリザイ人の態度を見て、ある典礼学者はこう指摘しています、「実はこの男には、最も大切なところが欠けていた。確かに善業をしたかもしれない。確かに清貧を守っていたかもしれない。確かに奉献生活をしていたかもしれない。確かに苦行をしていたかもしれない。もしかしたらこの男はファリザイ人は、天主ヤーウェの名前によって奇跡さえも行っていたかもしれない。貞潔を守っていたかもしれない。しかし一番なかったのは、謙遜と愛がなかった。謙遜がなかったらば、何の実も結ぶ事ができない。なぜかというと、ルチフェルも、非常にすばらしく、非常に清く、非常に賢かった。しかしルチフェルになかったのが、謙遜だった。」

謙遜というのは、聖霊の恵みを、愛徳を、私たちが受ける事ができるように準備する、その徳です。謙遜は、天主の憐れみというものをますます信頼させるからです。

ところが、「天主は傲り高ぶる者には逆らい、へりくだる者を恵まれる」と聖ヤコボは言っています。傲慢が、天主の憐れみの業を妨げてしまうのです。

天主の力はどこに現れるかというと、今日の集祷文にもありますように、「憐れみと赦しを与える」というところに現われるのですけれども、その天主の力をストップかけてしまうのが1つあります。それが「謙遜の欠如」であります。

なぜかというと、私たちを義とする、私たちを聖とするのは、自分ではないからです。自分の行為それ自体ではないからです。そうではなくて、聖霊が私たちに注がれるその恩寵であり、その愛徳こそが、私たちを聖化するからです。このファリザイ人の態度を見ると、自分の力を信じて、自分の力に希望して、自分の優れた事を愛して、自分の優れた事を褒めたたえている事が分かります。何か「天主の礼拝」というよりは、「人間の崇敬」という事をしているかのようです。

しかしよく考えると、ファチマの天使も教えてくれたように、私たちのすべき祈りというのは、「我が天主よ、われ信じ、礼拝し、希望し、御身を愛し奉る」という事です。天使の態度を見て下さい。私たちもよりもはるかに優れた、霊的な超越的な存在である天使が、跪いて額ずいて、自分は全く無であるかのように、全ては天主から頂いたものであるという事を認めて、自分が被造物であるという事を認めて、天主こそが在りて在す者であり、私たちは全くそれに、天主に依存している無に等しい者である事を認めながら、天主をこそ信じ、天主をこそ礼拝し、天主にこそ希望し、天主をこそ愛する、という超自然の対神徳を教えてくれました。

つまり私たちは、聖霊によって生かされて、聖霊のお恵みをもって初めて、このような対神徳をする事ができるという事です。それが今日聖パウロが言う、「聖霊が私たちに与えて下さらなければ、『イエズスは主である」とさえも言う事ができない。本当にちょっとした価値のある、超自然の価値の行為でさえも、信仰の行為ではあっても、私たちは何もできない。もしもイエズス・キリストに繋がっていないならば、聖霊からの受益を受けていないならば、恵みを受けていないならば、何の実も結ぶ事ができない。ちょっとした実さえを結ぶ事ができない、葉っぱさえも出す事ができない」と教えています。

そうではなくてファリザイ人ではなくて、この税吏は、税取りはどのような態度を取ったかというと、確かに彼は惨めな罪人だったのですけれども、単純に胸を打ちながら、「罪人である私を憐れみ給え。主よ、憐れみ給え」とだけ、苦しんでいました。

ルチフェルが、「私は従わない!私は、私の尊厳にかけて、天主には従わない!」と反乱したのに対して、あるいはアダムが、「お前たちは、天主に背いたら神々のようになるだろう」というのを、それにコロリと誘惑に負けてしまったのを見ると、却って私たちに、「私たちは全く無に等しい罪人であって、何でもない。」

“Kyrie e leison”“confiteor”“Cum clamarem ad Dominum”と、このミサの全ての言葉が、私たちを謙遜に、謙遜に、と招いているように思われます。「主よ、私たちを憐れんで下さい。私たちは罪人です。私たちは無に等しい者です。私たちは弱く、何も持っていない者です。」

天主イエズス・キリストさえも、第2のアダムイエズス・キリストでさえも、十字架の死に至るまで、謙遜に従う者となりました。主は、傲り高ぶる者を散らし、謙遜な者を高め給う方であるからです。

この税吏の態度を褒められたイエズス様は、このようにも言います、「お前たちは幼子のようにならなければ、決して天の国に入る事ができない。」幼きイエズスの聖テレジアは私たちにこう教えています、人生の夕べに人生の終わりに、「私たちは、愛について裁かれるであろう。」

私たちが愛を受ける為には、謙遜でなければなりません。もしもファリザイ人に謙遜と愛があったならば、おそらく他人を非難するというよりは、他人の欠点を見ると、それを何とかしてそれを庇おうとしたり、何とか覆い隠そうとしたり、あるいは「他人は、隣人は、天主様の御業であるから、作品であるから、天主を愛するが為に、天主の為に、何とかこの人の善を求める」と思った事でしょう。

そしてマリア様がまさにそうでした。マリア様の霊魂は、その最初の瞬間から、天主様との緊密な愛との一致の神殿であり、至聖所であり、愛熱の燃ゆる竃でありました。いつも天主様の御業を深く礼拝していました。自分を全く天主に与え尽くそうとしていました。自分ではなく天主の事を、天主を讃美する事を、天主を礼拝する事をのみ考えていました。ですからイエズス様に一致させて、イエズス様の祈りとイエズス様の讃美に自分を一致させて、そしてそれを主に、天主に、三位一体に捧げていました。

マリア様は、イエズス様と30年間、緊密に生活していました。マリア様が求めるのは、自分がこれほど偉大だ、という事ではなくて、全てをイエズス様へと、イエズス様の栄光へと導く事でした。全てをイエズス様を愛させる事にのみ、関心がありました。マリア様はイエズス・キリストにおいて全て、自分の事など全く無に等しいお方でした。

ですからマリア様が仰った事はこの事です、天使から、「めでたし、何と素晴らしい御方か、聖寵に充ち満ちてる御方」
「一体何の挨拶だろう?」
「恐れるな、御身は聖霊の力を受けて、天主の御母となる、救い主の母となる、偉大な母となる。全ての女性から選ばれた者である。」
そのような言葉を、「私は主の婢女です、主の最も下の奴隷、女奴隷、何でも私の身になりますように。苦しい事でも悲しい事でも、十字架でも、贖いの業に参加致します。私に関心のある事は主の御旨を果たす事。主の名誉と栄光の為、主のみ重要であって、主のみ聖なる方。」

もしも天主が、天主の御子が、自分の子供として赤子として、自分の胎内に来るというほど小さくなられるとしたら、マリア様は一体どれほど小さくならなければならないか、という事だけを考えておられました。

聖エリザベトからは、「あぁ、あなたは全ての女のうちで特別に祝せられた方です」と言われると、マリア様はそれに答えて、「我が魂は主を崇め奉る。なぜなら、主は私の卑しさをご覧になられたからです」と。

マリア様の持たれていたのが、まさにこの謙遜でした。この謙遜であったがこそ、天主の御母となる事ができました。このご謙遜であるからこそ、聖霊のものすごいお恵みの激流が、マリア様の御心に流れ入りました。

では私たちは一体今日、どのような態度で、ファチマのマリア様のお言葉を聞いたら良いでしょうか?

マリア様と共に、ファリザイ人のようではなく、マリア様のような謙遜を私たちも乞い願いましょう。

「罪人である私を憐れんで下さい。またそして罪を犯す隣人に対して、断罪や非難ではなく、どうぞ彼らを救って下さい。彼らの罪の償いの為に、どうぞ私の貧しい犠牲、祈りを受け入れて下さい。マリア様、どうぞ私を使って下さい。マリア様、どうぞ彼らから受ける屈辱、冒瀆を私がお慰めしとうございます。どうぞそれを受け入れて下さい。罪人である私を憐れんで下さい。」

このような愛と謙遜に満ちた祈りは、マリア様の心を通して、イエズス様の聖心にどれほど快い事でしょうか。まさにこれこそ、聖母の汚れなき御心の信心をする事です。私たちも汚れなき御心に倣って、祈りと償いをする事だからです。今日はこのお恵みを求めて、ミサを捧げていきましょう。

“Deus,propitius esto mihi peccatori.”

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

2017年聖母小黙想会【7】 8月13日「1917年8月13日にファチマの三人の牧童たちに起こったこと」を黙想する

2017年11月28日 | お説教・霊的講話
聖母小黙想会【その7】 2017年8月13日(主)
小野田神父 霊的講話 [5]
「1917年8月13日にファチマの三人の牧童たちに起こったこと」


今日は8月13日、ファチマのマリア様がお現れになるべき日だったのですが、今日の午後は8月13日、100年前の8月13日に一体何が起こったのか、1万8千名あるいは2万名の群衆がファチマに駆け馳せて集まった、その時に起こった事を黙想する事にします。

そしてその次の聖時間の後には、8月19日に起こった事を黙想する事を提案します。

ファチマの話がポルトガル中に広がると、そこの市長というか郡長というか、そこの統治者のアルトゥーロ・デ・オリヴェイラ・サントスという男は、非常にずる賢く立ち回りました。何とかしてこれを圧迫しようとしました。そこでこの男はですね、非常に残酷で、法律をものとも思っていませんでした。それでフリーメーソンに30年身を委ねていて、作戦を立てました。

8月12日の前日には、もうすでにファチマに行く、コヴァ・ダ・イリアに行くという群衆たちが歩き始め、あるいは移動を始めていました。もう前から前日から、群衆が色々な所からひしめき集まっていました。

13日には、朝9時になるとですね、このオリヴェイラ・サントスは一人で車でジャシンタとフランシスコの家に行って、「子供たちを乗せる」と言うのです。それで「安全の為にファチマまで乗せる、コヴァ・ダ・イリアまで乗せる」と言うのですけれども、とにかく「必要ない」と言うのですけれども、乗せてまず司祭館まで行きます。

そして司祭館に行って、まず神父様にフェレイラ神父と会って、そしてこの神父様がルチアに色々尋問する事をお願いします。それを聞いているのです。オリヴェイラ・サントスは聞いていると、それを聞きながら、「うん、そうか。うん、うん。うん、うん。うん、うん」と言って、そしてその尋問が終わった後で、この子供たちに、「私は確信している、本物だ。確かに子供たちの言う通りだ。嘘じゃない、私は信じる。私はもう確信している」と言うのです。

それで「さぁ、この本物のマリア様の所に会いに行こう」と言って子供たちをですね、「さぁ、一緒に私が連れて行こう」と言うのです。すると子供たちは非常に素直に、「あぁ、この方は私たちの言う事を信じて下さる」という事で車に乗るのです。そして子供たちはですね、この郡長がコヴァ・ダ・イリアまで連れて行ってくれるとすっかり思っていると、別の方向に行くのです。オウレムという所の自分の家まで連れて行きます。コヴァ・ダ・イリアに行くと見せかけながら、方向を変えて別の方に行ってしまいました。

「あれ?これ、ちょっと方向が違う。コヴァ・ダ・イリアはあっちです、あっちです」と言うのですけれども、「あぁ、まずオウレムに行って神父様と会ってから、それからコヴァ・ダ・イリアに行こう」などと嘘を言うのです。

群衆は、子供たちがオウレムの方に行くのを見るのですけれども、でもこの郡長は、この子供たちを見せないようにですね、隠して行くのです。

そうして車に乗せられて1時間から1時間半ほど誘拐されて、まずオリヴェイラ・サントスの郡長の自分の家に行きます。そしてその部屋の一室の中に監禁されます。脅されるのです、「いいか、このガキども、秘密を言うまでは絶対出さないぞ!」と言われるのです。でもお昼になると、その夫人はこの子供たちを何とか優しくして、ご飯を出したりとか、遊んだりとか、絵本をやったりして、何とか夫の悪いやり方を償おうとするのです。

そして13日の約束の時間には、コヴァ・ダ・イリアに行く事ができませんでした。そしてこの子供たちは、そうやって監禁されて1日が終わるのですけれども、その翌日はもっと残酷な事をします。特にフランシスコにとっては、「マリア様との約束を違えてしまった」という事で非常に悲しみました。ジャシンタも、両親から離れてしまったので非常に悲しみます。

14日は、まずお医者さんが連れてこられました。そして3人はまずお医者さんによって色々尋問されるのですけれども、何のこれといった秘密を得る事はできませんでした。実は「何とか子供たちは、これは司祭と教会が何か陰謀があるに違いない。子供たちがそれの教会の手先となって働いているに違いがない」という事をですね、思っていたのでした。そしてこの日、実は9回尋問があるのですけれども、あまりにも子供たちが白状しないので、「それならば」と言って、もっと強い武器を使おうと思いました。

考えてみて下さい。今日は8月14日だ。そして昨日はマリア様にも会えなかった。せっかく約束していて、3回見たマリア様に会えなかった、残念でしょうがない。今、子供たちはその知らない人の家に、郡長の家に監禁されている、色々尋問されている。

それから、すると郡長は遂にこの3人を、他の一般の囚人たちがいる、犯罪人たちがいる刑務所に、裁判も何もせずに連れ込んでしまいます。牢獄に投獄します。

いきなり、皆さん聖ピオ十世会の汚れなき御心教会でお祈りしていたら、いきなり警察がやって来て、いきなり手錠をかけられて、「さぁ」と言っていきなり警察から尋問を受けて、この「これでお前、人生終わりだぞ」と言われて、そして刑務所に連れられて、他の囚人たちが一人一人呼んで、「一体何をしたのか?」としたら。私たちはどれほどのショックを受けることでしょうか。

しかも年端もいかない子供たちです。

皆さんだったらどうするでしょうか?一体何が起こっているか分からなくなってしまって、もう泣き叫んでしまうかもしれません。

子供たちは投獄されると、そこにいたポルトガルの囚人たちは、「子供たちに優しくしてくれた」と言います。そして「何とか、彼らは囚人たちは、子供たちを慰めようとした。」子供たちは何をしたかというと、「皆でロザリオを唱える事を決心した」と。

そこでジャシンタは、身に付けていた御メダイを取って、そしてそれを壁に掛けて、そこで皆その御メダイの前に跪いて、ロザリオを始めました。他の囚人たちも一緒にロザリオを唱えました。

ジャシンタは時々、お母さんの事を思い出して涙をむせんでいたそうです。するとルチアは、「あぁジャシンタ、あなたイエズス様にこれをいけにえとしてお捧げしたくはないの?」と聞くと、「うん、お捧げしたいの。だけども、お母さんの事を考えると、どうしても涙が出ちゃうの。」

「でもマリア様に対して犯される罪を償う為に、多くの祈りと犠牲を捧げる事を、マリア様がお望みだから」と言って、ジャシンタとフランシスコの3人で、「あなたはどの意向でお捧げするかというのを決めなさい、選びなさい」と言うのですけれども、ジャシンタは、「私はその意向がみんな好きだから、その意向全部の為にする」と言って、それでこの投獄の苦しみと祈りを捧げていました。

すると刑務所の看守がやって来て、ジャシンタを連れて行こうとするのです、「いいか、小僧、秘密を明かさないなら、今、油がぐつぐつと煮たぎっている。秘密を言わないなら、ここで油揚げになるぞ。」「秘密は言いません。」「言わないのか。じゃあ言わせてあげる。来い!」そしてジャシンタがさようならも言わずに、お別れの言葉も言わずに、看守に引っ張られていなくなってしまいます。

もしも、会長、私たちがマリアさんと会長と私3人で連れて行かれて、マリアさんが「さぁ、油で、ぐつぐつの油の中に行くぞ!」と言って、マリアさんがいなくなった。「会長、どうしましょうか!?」

フランシスコは何と答えたか知っていますか?

フランシスコはとっても喜んだのです、「あぁ、やった!これで天国に行ける!すぐ天国に行くんだ!もうすぐこうやって殺される、あぁ素晴らしい!あぁ、もう他の事はどうでも良い、天国に行くんだ!」非常に喜びます。

フランシスコはジャシンタの為に、「あぁ、ジャシンタが恐れずに天国に行くようにめでたしの祈りをしよう」と言って、めでたしを唱えます。

そしてジャシンタがいなくなってしばらくすると、今度は看守がまたやって来て、フランシスコを連れて行きます。ルチアも、「あぁ、フランシスコも今油で焼かれて、唐揚げになっている」と言って、ジャシンタとフランシスコの為にお祈りします。

最後に、今度は郡長それ自身がやって来て、「さぁ、順番に生きたまま3人とも煮えたぎる油の中に突っ込んでやる!」と言われました。本当にこの3人は、これから殉教する覚悟を決めていました。ジャシンタは、特にお母さんに会えずにこのまま死ぬという事だけを非常に悲しんでいました。そこでこの3人とも、「イエズス様、これはイエズス様を愛する為、罪人の回心の為、マリア様の汚れなき御心に対して犯される罪を償う為です」と唱えながら、これを油の中に突っ込まれるのを待っていました。

こうやって脅しても脅しても、尋問しても何をしても、朝からずっとやっても脅しても、子供たちは何にも秘密を言いません。「3人とも一緒に釜茹でにして油で揚げる!」と言ってもだめでした。結局8月14日はずっと脅されて、脅されて、脅されて、「さぁ、早く言えば返してあげるよ、さぁ」と言われたにもかかわらず、何も言わなかったので、このまま翌日15日に、最後の尋問をして、子供たちを返さざるを得ませんでした。

ちょうどこの子供たちがファチマに到着した時には、マリア様の被昇天のミサが終った時でした。そしてこの子供たちを置いて、司祭館の所に置いて、自分はさっさとどこかに行ってしまいます。この時初めてフェレイラ神父様は、「自分がこの郡長と一緒になって子供を誘拐したのとは関係ない。」一緒に誘拐したという事を疑れては困るので、「この郡長が勝手に、非常に邪道なやり方で子供たちを誘拐してしまった」という事で宣言を出します。この宣言の手紙を発表するのですけれども、それが初めて、カトリックの報道機関にファチマの事についてなされた最初のニュースでした。

子供たちがいなかった8月13日には一体何があったかというと、先ほど私たちが読んだその通りです。1万8千名から2万名になるという大群衆が、考えて下さい。私たちの聖伝のミサに1万8千名から2万名来たらどうなるか。

東京で7月で海の日にマーチ・フォー・ライフで150名くらいで、「先頭が見えなくなった」とか言ってもそれでも150名だけでした。

1万8千名から2万名。ものすごい大群衆で、子供たちが来るのを待っています。マリア様が御出現するのを待っています。

お祈りをしたり、聖歌を歌ったりするのですけれども、「子供たちは誘拐された」という噂も流れます。「一体何が起こったのか!?」という事でざわめきが起こります。「一体何なのだ!?」その時にいきなり、マリア様がいつも現れるというそのトキワガシの所に、雷のような雷鳴のような音がゴロゴロン!と響きます。あるいはロケットを発射したのか、あるいは何か夕立でも降るのか、そして光が、稲妻がしました。雷がゴロゴローッ!として、今まであんなにも暑かった、カンカン照りだった太陽が薄くなって、空気が黄色くなったような感じがします。何かこのスポットライトで黄色く照らされたかのようです。

そしてあのトキワガシの上にきれいな美しい雲が留まりました。そのしばらくトキワガシの上にあったと思うと、上に登って消えてしまいます。それを見ている人たちの服や大地や木々や周りがみんな虹色の色々なステンドグラスで輝いたように、色んな色で見えました。皆が「奇跡だ」「これは奇跡だ!」と言っています。そこで人々は居合わせた人は、「確かに、マリア様は来た」と確信して帰ります。全ての人がそれを見ました。

これを見ると、まず「子供たちがマリア様の約束を絶対守った」という、その「何が起こってもマリア様を裏切らなかった、子供たちは自分のできる事をした」というその子供たちの忠実さにまず感心します。

機動隊がやって来て、警察がやって来て、ものすごい脅迫と、恐怖を出して、そしてインターネットで新聞で「あぁ」と、恐ろしさのあまり逃げる為に何とか人間的に考える、という事はありませんでした。「いや、マリア様が言ったから、秘密は言えない。だめだ。マリア様の言った通りに秘密を守ります。」

第2に、子供たちはどのような機会も、マリア様を愛する為に、イエズス様を愛する為に、罪人の回心の為に、犠牲の機会として使っていました。本当はマリア様に会いたかったけれども、それができなかった。それなのでそれを犠牲に捧げていました。

フランシスコは、ジャシンタがまず油揚げにされると聞いて、喜びました。「やった!さぁ来たか、マリア様の仰った通りだ。僕たちはもうすぐ天国に行くんだ!さぁこれしかない。やったやったやった!早く早く!」

私たちはどれほど天国に行く事を望んでいるでしょうか。ルチアも、「早く私たちを天国に連れて行って下さい!」「はい、フランシスコとジャシンタはすぐ行きますけど、あなたは残ってね。」とても寂しがっていました。

子供たちが天国を非常に待ち焦がれていた。マリア様がいらっしゃる、天国から来られたその天国。「私は天からの者です。」

子供たちはいつもロザリオをお祈りしていたという事。牢獄でも最初にやった事はロザリオでした。跪いてロザリオをしました。

しかしこのフェレイラ神父様のこの発表、公式の発表、あるいは1万8千名から2万名の群衆が見た奇跡の噂、そして子供たちが捕らえられ牢獄に行った、というその事実は、更に大群衆を呼ぶ事になります。

それではこの続き、8月19日に、マリア様は子供たちに突然現れるのです。天主様のお恵みというのは本当に思いがけない、予期しないところで憐れみの御業をなさいますけれども、マリア様は本当に、もう子供たちは来なかったからもう知らない、ではなくて、励ますかのように8月19日にいらっしゃいます。8月19日は、その日は日曜日でした主日でした。この8月19日に何が起こったかは、また次に見る事にします。

今から25分ほど黙想なさって下さい。

Traditional Latin Mass schedule in Tokyo in December 2017. the Mass on Dec 3rd starts at 13:30.

2017年11月28日 | 聖伝のミサの予定
Ave Maria Immaculata!

Dear Brethren!

I am glad to inform you about the Traditional Latin Mass schedule in Tokyo for the month of December.

Mass location:
"Holy Japanese Martyrs' Mass Center"
Akebonocho Jido-kaikan
1-12-5 Honkomagome, Bunkyo-ku, Tokyo
Map: http://g.co/maps/nxeh5

December 3(Sun)Tokyo 01:30 pm Holy Sacrifice of the Mass ←Attention the Mass is in the afternoon.
December 4(Mon)Tokyo 7:00 am Holy Sacrifice of the Mass

December 17(Sun)Tokyo 10:30 am Holy Sacrifice of the Mass

December 24(Sun)Tokyo 10:30 am Holy Sacrifice of the Mass

December 25(Mon)Tokyo 06:00 pm Holy Sacrifice of the Mass

December 26(Tue)Tokyo 7:00 am Holy Sacrifice of the Mass

Looking forward to seeing you at the Holy Mass!

God bless you!

Fr Thomas Onoda

東京での12月の聖伝のミサの予定:12月3日(主日)の東京でのミサは午後1時半からです

2017年11月28日 | 聖伝のミサの予定
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様

東京での12月の聖伝のミサの予定です。

12月3日(主日)の東京でのミサは、午後1時半からです。お間違えのないようにお願いいたします。

私たちの敬愛するレネー神父様への感謝の気持ちを表すために、霊的花束をお贈りしたいと思っております。東京と大阪とでそれぞれ集めて、クリスマスにお渡しできればと思っています。
このブログをご覧になって下さっている皆様も、この霊的花束に御協力下されば幸いに思います。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


【東京】東京都文京区本駒込1-12-5 曙町児童会館(地図) 「聖なる日本の殉教者巡回聖堂」

   12月3日(主) 待降節第1主日(1級)紫 
            正午12時半 告解
            午後01時  ロザリオ及び告解
            午後01時半 ミサ聖祭   ←時間が変更になりました
            午後03時  公教要理「お告げ」と「ご訪問」の玄義を描いた名画を観る。
            午後04時  待降節第1主日の晩課

   12月4日(月) 宣教地では聖フランシスコ・ザベリオ1級祝日 
            教会博士証聖者司教聖ペトロ・クリソロゴの記念
            午前7時 ミサ聖祭

   12月17日(主)待降節第3主日(1級)バラ色(或いは紫)   ←追加されました
            午前10時  ロザリオ及び告解
            午前10時半 ミサ聖祭
            正午12時半 レネー神父様の霊的講話

   12月24日(主)主日の主の御降誕の前日(1級)紫
            午前10時 ロザリオ及び告解
            午前10時半 ミサ聖祭
            正午12時半 レネー神父様の霊的講話

   12月25日(月)主の御降誕(1級祝日、八日間付き)白
            午後5時半 ロザリオ及び告解
            午後6時 ミサ聖祭

   12月26日(火)最初の殉教者聖ステファノ(2級祝日)赤
            午前7時 ミサ聖祭


2017年聖母小黙想会【6】 8月12日「なぜマリア様の汚れ無き御心の信心を実践せねばならないか」を黙想する

2017年11月27日 | お説教・霊的講話
聖母小黙想会【その6】 2017年8月12日(土)
小野田神父様霊的講話 [4]
「私は決してあなたを見放しません。私の汚れなき御心はあなたの避難所となり、天国への道となるでしょう。」


マリア様は「天国からの者です」と仰いました。

するとルチアは、「私は天国に行けますか?」
「はい、行けますよ。」

「ジャシンタは?」
「はい、ジャシンタも行けます。」

「フランシスコは?」
「はい、フランシスコも行けます。でもフランシスコはたくさんロザリオを唱えなければなりません。」

6月13日には、ルチアはもっとお願いしました。もうマリア様があまりにも美しい方だったので、そしてマリア様があまりにもうっとりするような光を見せて下さって、その天主の中に自分たちがいるという事をまざまざと見せて下さったので、もう早く天主様のもとに行きたい、天主が送って下さる全ての苦しみと十字架を喜んで受け入れて、それを耐え忍んで、さぁ早く天国に行きたい、さぁもう今すぐ、と。

そこで、「さぁ、もう今すぐ天国に連れて行って下さい!」とお願いするのです。
するとマリア様は、「はい、ジャシンタとフランシスコはすぐに連れて行きますよ。でもあなたはこの地上に留まって下さい。イエズス様はあなたを使いたいのです。私を知らせて私を愛させる為に、あなたを使う事を望んでいます。イエズス様はこの地上に、私の汚れなき御心への信心を確立する事を望んでおられるのです」と仰るのです。

するとルチアはそれを聞いて、「ええ…私、まだここで一人でいるの?自分だけ一人で地上に留まらなければならないんですか…?」と、ちょっと辛そうに尋ねるのです。

すると、「いや、あなた一人ではありませんよ。あなたは苦しいのですか?そんなにがっかりしないで下さい。私は決してあなたを見離したり捨てたりしません。私はいつも、つまりあなたと一緒にいますよ」と言うのです、「私の汚れなき御心はあなたの避難所で、あなたを天主へと導く道となりますよ」と仰るのです。

5月13日には、マリア様は天国に行く為の手段として、それの方法として道として、苦しみを捧げる事を子供たちに、「できますか?」と求めました。

しかしその苦しみを簡単に捧げる方法があります。ご飯もそのまま食べると、味もそっけもないので食べられないかもしれませんけれども、ちょっとふりかけをかけたり、パンもジャムを付けたりすると簡単に食べられるように、マリア様も、「天主から送られる苦しみを喜んで捧げなさい」と言った時に、簡単に捧げることができる方法を教えてくれました。それが聖母の汚れなき御心への信心です。

祈りと苦しみを捧げ、罪の償いの為に(これは主を愛する為に)、また罪人の回心の為に(これは隣人への愛の為に)、十字架を苦しみを捧げてお祈りをする。でもその天国への道も、簡単に、甘く、優しくやる特別のバターとジャムが、ふりかけが付いている、という事をマリア様は教えて下さいます。そうすると、この味もそっけもなかった苦々しかったこの物も、とってもおいしく、甘く、甘美で味わい深くなる。

そのふりかけ、ジャム、バターは何かというと、「マリア様の汚れなき御心への信心」です。

「私は決してあなたを見放しません。私の汚れなき御心はあなたの避難所となり、天国への道となるでしょう。」

すると5月と同じように、マリア様はまた両手を広げて、光を子供たちにお注ぎになりました。ちょうど私たちが今、御聖体の前で光に包まれて、イエズス様の前にいたような感じに、ルチアの言葉によると、「天主様の中に浸されたように感じた」と言っています。ルチアの言葉によれば、「天主様の中に浸されたようになって、その中に深く入っているというのを感じた」と言います。

その「天主様の中にいる」というのを感じた中で、マリア様がご自分の汚れなき御心を見せて下さいました。聖母の右の手に、この汚れなき御心聖堂の御像を特別注文した時に、イエズス様の聖心とマリア様の御心をお願いしたのです、ちょっとアーティストに。ちょっと人間の体の構造よりちょっと心臓が小さ過ぎちゃってちょっとあれなんですけど、本当は人間の握りこぶしぐらいの大きさがあるのです、本当は。そしてイエズス様の聖心とマリア様の御心を全く同じにして下さいと言ったのですけれども。そしてマリア様がご自分の御心を見せている様子をお願いしたい、と言ったのですけれども。「聖母の右の手の前に茨によってとり囲まれた心臓があって、それをその心臓を茨が突き刺していました。これがマリア様の汚れなき御心であって、人間の罪によって踏みにじられて、償いを求めておられる、という事を理解しました」と言っています。

人類をこれほど愛して、人類の救いをこれほど望んで、愛熱の火に燃えている母の心。しかしこの母の心には、痛々しい棘が刺さっています。たくさんの棘が刺さっていて、それに血をダラダラと流されて、苦しんでおられるのがマリア様の汚れなき御心です。

罪が無い、汚れの無い、純白なこの心が、何でこんなに苦しんでいるかというと、人類がマリア様をあまりにも冷淡に無視し、そして侮辱しているからです。イエズス様を受け入れようとしないからです。このそのような霊魂たちは一体どうなってしまうのでしょうか?

子供たちに天使は教えました、「償いをしなければならない。主を、天主を信じない人々、礼拝しない人々、希望しない人々、愛さぬ人々の代わりに赦しを乞い願いなさい。」

でももしも、もしもその人たちの為に私たちが祈らなかったら、もしもその人たちはその信じないままでいたら、礼拝しないままでいたら、希望しないままでいたら、愛さないままでいたら、どうなってしまうのでしょうか?マリア様の御心をこんなに傷つけている人は、もしも誰かが償いをしなかったら、どうなってしまうのでしょうか?

それは、7月にマリア様が子供たちに見せて下さいました。7月にはやっぱりマリア様が光の中で現れて、樫の木に立って、子供たちのすぐ近くにお現れになります。子供たちは光に包まれました。とっても美しいマリア様です。

ルチアは、「マリア様、ああ、あなた様は一体私に何をお望みになりますか?」
マリア様は、「私は、あなたがここに来月の13日に来る事を望みます。ロザリオの聖母を崇敬する為に、世界の平和の為に、戦争が終わる為に、ロザリオを毎日唱える事を望みます。なぜなら聖母、この方だけがあなたを助ける事ができるからです。」

「あなたは一体どなたでいらっしゃるのですか?私たちに仰って下さい。だれもが信じる事ができるように奇跡を行って下さい。お願いします。」
「毎月ここに来続けなさい。10月には私が誰か言いましょう。何を望んでいるか言いましょう。皆が見て信じる事ができるように、奇跡を行います。」

するとマリア様は仰るのです、「罪人たちの為に犠牲をしなさい。たくさんこう言いなさい、特に何か犠牲をする時にこう言いなさい、『イエズス様、これは御身を愛する為、罪人の回心の為、マリアの汚れなき御心に対して犯される罪を償う為です』と。」

マリア様の汚れなき御心に対する信心はここにあります。犠牲をする時に、「イエズス様の為、罪人の回心の為、マリア様の汚れなき御心に対して犯される罪を償う為です」と。「マリア様の御心に刺さっている茨を取り除きたい、それを償いたい、慰めたい」というその為に犠牲を捧げる、喜んで犠牲を捧げるという事です。

そして5月には、「天主の光の中に子供たちがいる」という事を見せて、天国というものはどういうものであるか、というその状態を見せました。

次に、天国に行く為の一番の安全で簡単で甘い手段を見せました、「マリア様の汚れなき御心」です。私たちの避難所であり、天国への道です。

今度は、「もしもマリア様の汚れなき御心を無視するような事があれば、償いを果たさなかったらどうなってしまうか」という事を見せてくれます。恐ろしい現実が子供たちに示されました。この世界中、多くの人々がそうなってしまうという、本当に起こっている現実です。

こういう話をしていると、マリア様が2ヶ月前と同じように、2ヶ月間なさったのと同じようにもう一度、最後に両手を広げます。すると光線が大地を貫いたように見えました。最初の1回、2回目は、子供たちが光の中に包まれて、天主の中に浸されたようになっていましたけれども、3回目は大地を貫きます。

すると、あっという間に大地が火の海を見せるようになります。大地があっという間に見えなくなって、その下に火の大海原を見せるようになります。本当にある、本当の現実の姿を、私たちが今この目では見る事ができない現実の、たとえ私たちが信じようと信じまいと、好きであろうが好きでなかろうが、そう思おうが思わまいが、それに関わらず、本当に存在している現実を、子供たちは見ます。火の中に浸かり込んでいるのです、多くの霊魂たちが、悪魔と一緒に。

霊魂たちは、透き通る炭火のようで、皆真っ黒か褐色のようでした。雲のような煙と共に、自分自身から湧き出る炎によって持ち上げられて、大火事の中に漂っていました。

つい最近、東京のどこかでラーメン屋かどこかから火が出て大変だったとかという話を聞きました。たとえ大江戸八百八町が大火事になったとしても、それで焼けてしまったとしても、地獄の火と比べれば何でもありません。なぜかというと、地獄の火は決して消える事がないからです。

彼らは人間の霊魂たちは、恐ろしくて、恐怖のあまり震えおののかせる苦痛と、絶望の叫びと、うめきの真っ只中で、重さも平衡感覚もなく、大海原の炎の火の粉のように、あちこちに下に落ちて行きました。

悪魔は、燃えさかる黒い炭のように透き通っていましたけれども、汚らしい見た事のない動物の恐ろしい嫌な形をして、地獄に落ちた霊魂たちとは区別されていました。

もしもマリア様が子供たちに、「あなたたちは天国に行きますよ」と約束して下さらなかったならば、もうあまりにも恐ろしくて、おののきと恐れのあまり、おそらくそのまま死んでしまっていた事でしょう。

お化け屋敷に行った事を思って下さい。お化け屋敷で何かいきなりお面を被った人が出てきて、「ワッ!ドロドロ〜」その時に心臓が止まるほどびっくりするかもしれません。しかし地獄の恐ろしさと比べれば何でもありません。

ビルに行ったら火事になってしまった、周りはもう火がボウボウ燃えている、周りの人がもう焼け焦がれてただれているのを見て下さい。逃げようにも逃げられない、煙がボウボウとしている、熱い、皆「助けてー!!」と言っている。それでも、地獄の火と比べれば何でもありません。

多くの霊魂たちが今、地獄に落ちている。そして苦しんでいます。

するとマリア様は子供たちに言うのです、「あなたたちはかわいそうな罪人たちが行く地獄を見ました。彼らを救う為に、天主はこの世に私の汚れなき御心に対する信心を確立する事を望んでいます。もしも私があなたたちに言う事を実行するなら、多くの霊魂が救われて、平和が訪れるでしょう、戦争は終わるでしょう。しかしもしも天主を屈辱する事をやめないなら、ピオ十一世の統治下で別の更に酷い戦争が起こるでしょう。」

もしも、「北朝鮮がハワイに向かって大陸弾道爆弾をミサイルを発射する」とか、すると「アメリカの大統領は非常に怒り狂って、この国を挑発する事は、その国は破滅に落ちる。」するとロシアの外務省は、「あぁ、この米朝の衝突はもう避けられないかもしれない」と言ったり。

でももしも、「もしも聖母の汚れなき御心に対する信心が確立できたら、多くの霊魂が救われて平和が訪れる。さもなければ酷い、第一次世界大戦、第二次世界大戦よりも更に酷い別の戦争が起こるでしょう。天主はこの世をその罪の為に、戦争と飢餓と、教会と教皇に対する迫害とで、罰を下そうとしています。もしも人間が私の要求を聞くなら、ロシアは回心して平和がやって来るでしょう。さもなければロシアはその誤謬を世界中に広めて、戦争と教会に対する迫害をもって挑発するでしょう。多くの善良な人々は殉教し、教皇様は苦しまなければならないでしょう。無くなってしまう国々もあるでしょう。」

私たちは天国に行く為に生まれて、その為にイエズス様は全てをなさっておられます。マリア様もその為に大変苦しんでおられます。それにもかかわらず人類は、主の愛と憐れみをまったく無にしています。「何とか、何とかして人類を目覚めさせなければならない。霊魂が地獄に落ちないようにしたい」と思っています。

ルチアは言います、「私の使命は、この世に物質的な何か災害が起こるかどうか、という事を告げ知らせる為ではない。私が今言うのは、霊魂が永遠に地獄に落ちてしまう、という事を警告する為にあるのだ」と言います。

一体では、そのような事を見るとどうしたら良いのでしょうか?

「マリア様の汚れなき御心に対する信心をする、という一番簡単な、一番優しい方法をすれば良い」という事が分かります。

マリア様は言います、「最後には、私の汚れなき御心が勝利を収め、凱旋するでしょう。教皇様は私にロシアを奉献するでしょう。ロシアは回心するでしょう。そして世界には平和の一時期が与えられるでしょう。」

「また、あなたたちがロザリオを唱える時にはこう言いなさい、『あぁイエズスよ、我らの罪を赦し給え。我らを地獄の火より守り給え。また全ての霊魂、殊に主の御憐れみを最も必要とする霊魂を、天国へ導き給え。』」

ここでマリア様がお願いしたのは、私たちが「天国に行くか、地獄に行くか。」ここです。

「私は天からの者です。天に連れて行く為に来ました。」
「さぁさぁ!早く連れて行って下さい!」
「あなたは残って。私の汚れなき御心を伝える為にここへ残って下さい。」
「えぇ…。」
「でも私はあなたを決して見捨てません。避難所であり、天国への道となるでしょう。この世を多くの霊魂を救う為に、汚れなき御心の信心を実行しなさい、その事を話なさい、教えなさい。そうしないと多くの霊魂が地獄に落ちてしまいます。」

8月もそう言います、「多くの霊魂は地獄に落ちている。なぜならば、誰も彼らの為に祈り犠牲を払う人がいないから。」

「あぁイエズスよ、我らの罪を許し給え。我らを地獄の火より守り給え。特に最も必要とする、今、今地獄に落ちようとしている人々を天国へ導き給え。」

「『天国に行く』というこの大事業を私たちが果たす事ができるように、そしてそれが他の人たちもする事ができるように助けなさい。その為に一番良い手段が、簡単なのが、最高の手段が、マリア様の汚れなき御心ですよ」と教えて下さっています。

ルチアは聞きます、「あなた様が私に望む事はまだありますか?他にありますか?」これは7月13日です。
「いいえ、私は今、今日はもう、今日はこれ以上何も望みません」と言ってマリア様は姿をお消しになります。

では残る20分ほど、マリア様の前で光に包まれ、汚れなき御心について黙想なさって下さい。そしてもしも御望みであれば、マリア様の御心から出る光線が、この床を貫きますので、そこにいるたくさんの、地獄に落ちたたくさんの霊魂たちを見て下さい。今、多くの霊魂は地獄に落ちようとしています。なぜかというと、誰もこの霊魂を救おうと祈りと犠牲をする人がいないからです。

マリア様はこれをぜひ助けたいと思って、その為に私たちにお願いに来ました、「お願いだから、汚れなき御心の信心を実践しなさい。もしも私が言う事をするなら、多くの霊魂が救われて、この地上に平和がやって来ます。さもなければ、多くの霊魂が失われて、恐ろしい戦争が、飢饉が、迫害が待っています。」

ではお祈りして下さい。

聖ピオ十世会 日本 聖伝のミサ (ラテン語ミサ トリエント・ミサ 旧典礼のミサ) の報告:レネー神父様の最後のミサ

2017年11月25日 | 聖伝のミサの予定
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

典礼暦年も、あと残すところ1週間になりました!いかがお過ごしでしょうか。

私たちの敬愛するレネー神父様は、11月22日にフェレー司教様から、来年の2月付きでオーストラリアのタイノン(Tynong)というところにある聖トマス・アクイナス学校の校長先生として新しく任命を受けました。そこで、12月でレネー神父様が日本に来られるのは最後となります。


レネー神父様は、12月には東京にも来られます。12月17日と24日、25日、26日です。
どうぞ、多くのお友達を誘っていらしてください。
神父様には、東京で「聖伝による無原罪の聖母の騎士会」の入会式や、聖骸布についてのお話をお願いしております。



詳しい予定などがわかり次第、愛する兄弟姉妹の皆様におしらせいたします。

私たちはレネー神父様の素晴らしいお説教を聞く機会に恵まれ、神父様の豊かな知識と経験とから多くの指導やアドバイスをいただくことが出来たことを深く感謝します。



神父様の我が身を忘れるほどの献身的で奉仕的な聖務と祈りは、私たちの模範でした。神父様の勤勉さと責任感と謙遜と愛徳は、私たちにとっての宝でした。愛する兄弟姉妹の皆様のしもべは、今からちょうど30年前に故郷を離れて聖ピオ十世会の神学校に入学しました。知性においても愛徳においてもその他の徳においても、優れた神学生や司祭たちの中で、共同生活を送るというお恵みを頂いてきました。そのお恵みの偉大さは、天主様にどう感謝したら良いか分からないほどです。


小教区の教会で一人で任命を受けて働いておられる司祭がおられます。そのお仕事はどれほど大変でありましょうか! 同じ兄弟である司祭とともに喜びと責任とを分かち合って司祭生活ができると言うことは、どれほど偉大な善でしょうか!Ecce quam bonum et quam jucundum habitare fratres in unum!
הנה מה טוב ומה נעים שבת אחים גם יחד.

その中でも、日本と韓国のミッションを一緒に分かち合って協力して働いてくださったレネー神父様には、心からの感謝で一杯です。

神父様の新しいミッションのために、愛する兄弟姉妹の皆様の熱烈な祈りをお願いいたします。

ところで次の12月3日の東京でのミサは午後の1時半からです。(午前中に防災訓練があるため。)ご不便をおかけしますが、どうぞご容赦くださいますようお願いします。ミサの開始時間をお間違えのないようにお願いいたします。

先日の大阪と東京での聖伝のミサの報告を頂きましたので、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

大阪でのミッションありがとうございました。
この度の御ミサの報告をお送りいたします。

11月17日(金)奇跡家聖グレゴリオのミサには10名が、
11月18日(土)聖ペトロ、聖パウロ大聖堂の献堂式のミサには10名が御ミサに与るお恵みを頂きました。デオグラチアス!

17日のお説教では信仰の人、聖グレゴリオについてでした。
この日の聖福音にあるように「信仰があれば、山をも動かす事ができる」とのイエズス様のお言葉をそのまま信じたが故に、山が動いて必要な土地が確保されたという話には驚きました。まさに、信仰 の人とよばれるにふさわしい聖人です。
彼が聖三位一体についてどのように表現すればよいかを思案していたときに、聖母と福音史家聖ヨハネがご出現になって、お二人の会話から三位一体についての問題を教えられたという有名な話を聞くたびに、聖母と聖ヨハネはいったいどのような事をお話になったのか知りたくなりました。
また、信仰の最高のお手本であるマリア様のお告げについても黙想できました。
御ミサの後には終課を歌いましたが、最後の祈りはマリア様への讃歌で終わり、安心感と幸福感を持って祈りを終えました。

18日は聖ペトロ大聖堂と聖パウロ大聖堂の献堂についてお話をして頂き、そこからマリア様のエリザベト訪問へと話が移って、聖グリニヨ ンド・モンフォールがマリア様の事を「主のエコー、特別なこだま」と呼ばれた事の意味を知りました。
私達が、マリア様を賛美すれば、マリア様はそのこだまとして天主様へ清らかな讃美を返して下さる。この素晴らしいこだまは、罪深い自分の大きな希望で喜びです。

公教要理ではロザリオの視覚的黙想第一弾、お告げとご訪問について勉強しました。
プロジェクターで美しい聖画を見せて頂きました。
有名なアンジェリコの『お告げ』の絵ですが、ドミニコ会修道士である彼は、生涯何枚もこの絵を描いていて、それは少しずつ違っていまいした。作者の霊的な進歩や、黙想の段階が現れているようにも思いました。
今日見せて頂いた三枚の絵の中では、庭に アダムとエワが描かれていない、三枚目の絵が個人的には好きです。この絵のマリア様は三枚の中ではっとも質素で、簡素でありながらも清らかで、天使はそれまでの二枚とは違ってマリア様の前へ跪いているところが良いと思いました。
ドミニコ会は、マリア様のロザリオの普及のために、数多くのロザリオの玄義の絵を残してくれました。きっと昔の人々は現代のなんでもインターネットで見ることができる私達よりももっとこれらの聖画に感銘を受け、多くの事を黙想されたのだろうと思います。
「ご訪問」の絵の中に、出てくるマリア様とエリザベトのしもめと見える人々を自分に置き換えてみることを提案してくださった神父様には黙想の良いヒントを頂きました。
また、マリア様 の挨拶を聞いた洗者聖ヨハネが清められた話を聞きながら、ファチマの二人の子供や秋田のシスター笹川も、きっと清められたのだろうなと想像していました。

至聖なるイエズスの聖心我らを憐み給え
聖母の汚れなき御心よ我らのために祈り給え

【報告】
Dear Fr Onoda:

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 21人(内、子供2人)
女: 25人(内、子供2人)
計: 46人(内、子供4人)


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

聖霊降臨後第24主日の御ミサをありがとうございました。
今回は典礼暦の関係上、実は福音書や書簡がイレギュラレーになっている主日であるとお説教で、知りました。御公現後から四旬節までの期間が短かい時、聖霊降臨後の主日の回数が増えるために、今年は聖霊降臨後第24主日が、年間の最後の主日ではなかったのですね。
(今回は御公現中の第6主日と同じところの書簡と聖福音であり、事前に読んでいた福音書が違う所だったので、残念でした。)

お説教では、「天の国はからし種に例えられる」と、からし種とパン種について黙想いたしました。

神父様が、からし種もパン種も、弱々しい小さなかよわいものであり、隠れているものであり目に見えないものですと話されたことと、”天の国の最初のパンだね、最初のからしだねは、マリア様の「われになれかし」というお答えであった、ハイと言ったこのことからパンが膨らみ木が大きくった”というお話が、印象に残りました。

神父様がお説教の中で、”苦しみが待っているとわかっているけれども、天主様のみ旨ということであるならば、われになれかしと、答えること”、そしてそこに妨害を置かないならば、そのからし種の木は大きくなり、パン種の入ったパンはよく膨らむようになる、というお話を思い出しながら、その妨害とは一体何であろうかと、少し考えてみました。

妨害とは、自己愛であって、自分の好きなようにしたいと思うことを妨げるものをすべて批判して退けようとする傾向かもしれないと、ふと思いました。

本当に、実は一番、わかりづらく実行が難しいのはファチマのマリア様の仰られた「天主があなたに与えるすべての苦しみを耐え忍ぶこと」なのかもしれません。心のなか深く入り込もうとする天主のパン種の働きを妨げる、”自分への愛”、を無くしていかなければ、この苦しみは天主様が私に与えられたもの、という気づきが、生まれてこないかもしれません。その神秘に気づかされることもなく、実行することもできません。自分は苦しみを退け他人を苦しませてしまう苦しみに変わるかもしれません。(自分はこれまでどれだけ他人に苦しみを与えながら生きてきたことでしょう。)小さな苦しみを黙って忍ぶことができますように、マリア様に助けを願います。マリア様をもっともっと愛することができますように!

そして「小さな共償者となってほしい」ということばが、深く身に浸みます。イエズス様はずっとマリア様と共に苦しみをお捧げする準備をされて、そして人間の救いのために苦しみをマリア様とお捧げになられました。イエズス様はマリア様とともに、私たちが救われる道はその共償者として生きる道ですとおしゃられているようです。

弱々しく小さく隠れていて目に見えない大切な存在が、「わたし」の中で大きくなってくださいますように、「わたし」は小さいままでいることができますようにと祈ります。

自分への愛よりも天主様への愛をいつも優先いたしますと、いつも、言えますように。

普段気づかなかったことに、気づかせていただきましたこと、感謝申し上げます。

次の御ミサは、待降節第一主日で、新しい年になるのですね、(あっ、時間が午後からになる事忘れないようにします。)今年一年ありがとうございました。

【公教要理の報告】
今回は、視覚教材を使ってのマリア様のご訪問のお話ということだったのですが、機材の不具合のために、スライド等は次回に延期になりました。

ルカ第1章を読みながら、黙想のためのお話を伺いました。初土の信心を良く実行できますよう、準備をいつもしたいと思います、ありがとうございます。次は、フラ・アンジェリコの御影などを紹介してくださるとのこと、楽しみです。

グレゴリア聖歌は、AD te levavi animam meam の練習をしました。グレゴリア聖歌の練習も少しづつ慣れてきたように思います。神父様いつもご指導をありがとうございます。

19日の御ミサでは、スイスから見えた二人連れの方がおられました。御ミサの終了後に、友人と会話されていた方が、この夏のファチマの巡礼で同じホテルだったとわかったようで盛り上がっておりました。

また、この日初めて、ラテン語のミサに与られた方は、最後の終歌までご一緒下さいました。ラテン語が少しお分かりになられるとのことで、日本語のミサにくらべて、聖伝のミサは本当に素晴らしい!と、感動してくださっておりました。未信者の方ですのに、御ミサが全く違うことがはっきり感じられるとのこと、感想を詳しくお話いただくことができました。いろいろなお話ができて、楽しかったです。ありがとうございます。またぜひお会いしたいと思います。

” St Martin, and the degrees of Prayer ” by Fr. Laisney SSPX

2017年11月22日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様のお説教 「聖マルティノと祈りの諸段階」【英語原文】をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

St Martin, and the degrees of Prayer
Sermon Seoul-Osaka 12 November 2017

My dear brethren,

11th of November is the feast of St Martin (마르틴), who was bishop of Tours in France in the fourth century. He was first as a young man a Roman soldier. When being still a catechumen, at the age of about 18, he met a poor man in Amiens (아몡) (a city north west of Paris 파리) with no clothes; he cut in two his large soldier’s coat and gave half to the poor man. The next night, our Lord Jesus Christ appeared to him clad with the part he gave, and saying: “Martin, though yet a catechumen, covered me with his coat.” He understood right away that our Lord was sad that he was yet only a catechumen, and he was baptised without any more delay.

Then he had great desires for holiness and went to Poitiers (퐈티에) to learn more from St Hilary (히러리), the famous Doctor of the Church and became an acolyte, and started a monastery not far from Poitiers, where he reached great degree of holiness. Later he became the bishop of Tours (투르), a little north of Poitiers, and built nearby another monastery and evangelised the countryside where there were still much left-over of paganism. He had thus a great influence in rooting out paganism from the countryside and edifying many.

What made him a Saint? A very deep life of prayer! All saints were men of prayer; all saints loved to spend hours in prayer. They thirsted for God and expressed that thirst in their prayer, and were filled! I am sure that we would all like to be able to pray as they did, but we find ourselves very dry very quickly. “O Lord, teach us to pray!” (Lk. 11:1).

As we see in the life of St Martin, prayer requires that we know the doctrine of the Church, that we know our catechism. He went to Poitiers in order to learn from St Hilary. Similarly, St Benedict (베네딕토), the great master of so many holy monks in centuries after him, sets the first degree of prayer as “lectio divina – divine reading”, holy reading. This is meditative reading, when we read a holy book, which can either be the Gospels, the Holy Scriptures, the writings of the Saints, the lives of the Saints or other approved devout authors. But we do not read such book quickly as one would read a novel, nor skimming through it as one would do for a newspaper, nor even studying it as one would do a scientific book. We read it meditatively in order to feed our mind with divine truth, taught by the Catholic Church either in the Scriptures or through those Saints or holy writers. “Not in bread alone doth man live, but in every word that proceedeth from the mouth of God” (Mt. 4:4).

When you read the writings of the Saints, you should not pick a morsel here and another morsel over there; you should rather read their work from cover to cover, in order to get into their spirit, to become so acquainted with their way of thinking that it becomes natural for you to think as they thought, to love as they loved. This is what makes friendship: to share the same thinking, not only to adhere to the same truth, but even to have the same approach to it, to love it the same way. The goal of such reading is to make you friends with the Saints to such a point that their spirit lives in you, ultimately that the Spirit of Jesus lives in you as He lived in them. “For whosoever are led by the Spirit of God, they are the sons of God” (Rom. 8:14).

You find sometimes some protestant ministers giving you a quote of St Augustine or of another Father of the Church as if it were opposed to the Catholic Church. But such opposition to the Catholic Church was so far from the mind of these Fathers that they would be appalled to see the way such author abuses of their quotes. These Saints were always willing to correct their own thinking, submitting it to the Faith of the Catholic Church. But if one really enters into their way of thinking by the method I explained above, one recognises right away if a quote is well used or taken out of its context.

Thus, meditated reading is but the first step of prayer. It leads to meditation proper, when one takes one or two truths, and meditates in a certain systematic manner on them. St Ignatius explains several methods of meditation: using one’s memory, intelligence and will on the object of meditation. Or using the five senses to meditate on a scene of the Gospel. Or using the three virtues of Faith, hope and charity, etc. There are many such methods, with additional points such as the preparation at the beginning and the colloquies at the end: all this is good for good meditations.

Meditation can be compared to the chewing cows do of their food. At first, they cut the grass and it goes to their first stomach (rumen); then they lay on the ground and bring it back into their mouth and chew it again before sending it to their second stomach. The result is that they take full advantage of the food they eat. Other animals that do not ruminate, such as horses, only use a portion of the nutritional value of what they eat. In a similar way, meditation makes us benefit from the full value of the truths we have learnt in our catechism. It is recommended to set aside a certain fix time – preferably in the early morning – for meditation daily.

The fruit of meditation will be a great increase in the love of God and of spiritual things. Indeed, St Gregory points out that material things usually tend to be attractive to those who do not have them, but possession of them oftentimes leads to boredom and disgust: that is why avaricious people always want more money: they are never satisfied with what they have. On the contrary, spiritual things tend to be easily neglected and unattractive to those who do not possess them, but to those who have tasted them, they bring such great delight with no boredom, but rather thirst for more and more, with great love.

So, when one develops meditation, it becomes more and more an exercise of love for God, for our Lord Jesus Christ, for our Lady and the Saints; these loving colloquies become the greater part of meditation. This is good, and ought to lead to real improvement in the practice of virtue: life must become conformable to the mind. One cannot say in prayer to our Lord in the morning that he loves Him above all things with his whole heart, and then ignore him completely throughout the day and even offend Him! If that would happen, it would bring lie into the very morning time of prayer, and such lie would destroy the whole.

At that level, one ought to long to go higher, since God is purely spiritual and simple, the materiality of the images and sensitive aspects of meditation, the multiplicity and complexity of meditation is still far below, infinitely far below God. Therefore, one ought to renounce these lower means, and open one’s mind to the action of our Lord Jesus Christ by the truths of Faith. There is indeed a simplicity in the act of Faith that really elevates the mind to higher degrees of prayer: God spoke, we believe what He said: this is simple and establishes the soul on the rock of Faith.

At that level prayer becomes contemplation: a simple loving look at the truths of Faith, with a great thirst for God and a complete surrender of the mind to the action of God. Then our Lord Jesus Christ takes over, as St Paul says: “We all beholding the glory of the Lord with open face, are transformed into the same image from glory to glory, as by the Spirit of the Lord” (2 Cor. 3:18).

Thus, prayer is the exercise of the virtues of Faith, Hope and Charity, the three theological virtues that unite us with the Holy Trinity. Since God is the Supreme Truth, it is most essential that our prayer be rooted in the true Faith, the Catholic Faith. Therefore, even in meditation and contemplation, it is important to continue spiritual reading, which feeds our soul with these truths of Faith, and gives us the example of the Saints.

The greatest and best of all prayers is the Holy Sacrifice of the Mass, in which our Lord Jesus Christ Himself offers to His Father His own prayer on the Cross. Indeed, the Sacrifice of Calvary is the summit of the whole of human history: in the Old Testament all prepares for it and look forward up to it; it was signified in many ways in the Old Testament worship. The Saints of old were longing forward to the coming of the Messiah, the Lamb of God: “Send forth, O Lord, the lamb, the ruler of the earth, from Petra of the desert, to the mount of the daughter of Sion” (Isa. 16:1), that is, to Mount Calvary!

Our Lord Jesus Christ offered on the Cross the supreme prayer of adoration, of thanksgiving, of expiation for sins and of impetration. It was the supreme act of worship for the Holy Trinity, redeeming mankind from sin, saving us from hell and granting us the most beautiful gifts of God, to become children of God. Thus, St Peter writes: “by whom he hath given us most great and precious promises: that by these you may be made partakers of the divine nature: flying the corruption of that concupiscence which is in the world” (2 Pet. 1:4).

“And I, if I be lifted up from the earth, will draw all things to myself (Now this he said, signifying what death he should die.)” (Jn. 12:32-33). In the Mass, He attracts us at Himself on the Cross, so that by becoming one with Him crucified, we may reach oneness with Him glorified. St Paul indeed says: “For the Spirit himself giveth testimony to our spirit, that we are the sons of God. And if sons, heirs also; heirs indeed of God, and joint heirs with Christ: yet so, if we suffer with him, that we may be also glorified with him” (Rom. 8:16-17).

This is the supreme prayer of transforming union, ultimate preparation for Heaven: “We know, that, when he shall appear, we shall be like to him: because we shall see him as he is. And every one that hath this hope in him, sanctifieth himself, as he also is holy” (1 Jn. 3:2-3). May the Blessed Virgin who stood at the foot of the Cross teach us how to pray, especially in Mass, so as to go to Heaven. Amen!

津和野殉教者が知られ、この取次ぎを祈りながら2018年を過ごすことができますように! 聖ピオ十世会日本の「聖伝典礼カレンダー2018年版」

2017年11月19日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 聖ピオ十世会日本が制作している「聖伝典礼カレンダー」は、毎年12月に皆様が入手することができるように準備しております。

 東京や大阪での聖伝のミサの会場や聖堂で配布しております。毎年このカレンダーを作るために多くの時間を割いてくださる方々に深く感謝したいと思います。

 聖伝のミサに与られていなくともこれを手にされた方々からは、その内容とても良いとお褒めの言葉を頂いております。時々、もっと欲しいともご希望を頂いたこともありましたが、全てに答えることができなかったこともあります。

 中にはこのカレンダーのことをご存じない方々も多くおられると思い、この典礼暦の存在をお知らせいたします。

 特徴は、1962年の聖伝のミサの典例法規に従った典礼暦であり、ベネディクト十六世教皇様が言われたとおり、教会が過去愛してきたものを現在の私たちも愛し続けるべきだという呼びかけに答えるものです。

 新しいミサの暦は、エキュメニズムのために作られたので、カトリックのカトリックらしいところが取り除かれています。

 聖ピオ十世会日本が制作している「聖伝典礼カレンダー」には、更に毎年のテーマを定めて、見て美しいだけでなくカトリック信仰生活の糧となるように、工夫されています。

2016年は、聖ピオ十世会が秋田巡礼10周年を記念して、長崎にも巡礼を行いました。高山右近の帰天400周年の翌年であったこと、信徒発見150周年の翌年でもあったので、日本の尊い殉教者を特集に組みました。

心を込めてカレンダーを作成してくださった方々のご厚意で、PDFファイルを公開させていただく許可をいただきました。ダウンロードをすることができます。

「聖ピオ十世会日本 聖伝典礼カレンダー 2016年 日本の殉教者たち」

今年のカレンダーは、2017年がファチマ100周年でしたので、ファチマの聖母について毎月黙想できるように念入りに作られています。ファチマの聖母の画像も特別のものが使われています。このPDFファイルも、制作してくださった方々のご厚意で公開させていただく許可をいただきました。ダウンロードをすることができます。

「聖ピオ十世会日本 聖伝典礼カレンダー 2017年 ファチマ100周年」

2018年版の典礼カレンダーは、今、制作最終の段階です。12月に愛する兄弟姉妹の皆様の手元に届くことができるように制作とチェックとをしています。

来年のテーマは、津和野の殉教者です。何故なら、2018年から数えると150年前の1868年からはじまって、1872年までの間に、日本の津和野というところで尊い殉教があったからです。

250年以上の血まみれで残酷なキリシタン迫害を生き抜いた長崎浦上の信徒たちは、「浦上四番崩れ」という弾圧によって、津和野に流刑されてきました。津和野には、1868年6月に28名のキリシタンたちが送られました。

なぜ津和野かというと、当時、津和野では神道研究が盛んだったので、神道による教化、改宗を試みようとしたからです。神道による教化や改宗の試みは、拷問による棄教の強要と化しました。

凍てつく寒い冬に凍った池に裸で投げ込まれたり、裸のままで雪の中の三尺牢に入れられたり、信徒は虐待を受けました。しかし、そのような信徒にマリア様が現れ、慰め、励ましてくださいました。

ファチマのマリア様は聖母の汚れなき御心への信心をするように望まれました。もし人が聖母の要求を聞くなら、ロシアは回心し平和がやってくるでしょう。さもなければロシアはその誤謬を世界中に広め、戦争と教会に対する迫害とをもって挑発するでしょう。多くの善良なものが殉教し、教皇様は多く苦しまねばならないでしょう。無くなってしまう国々もあるでしょう。

津和野殉教者が、愛する兄弟姉妹の皆様によって知られ、私たちがこの殉教者たちの取次ぎを祈りながら、2018年を過ごすことができますように! できるだけ多くの方々に津和野の精神が浸透することができますように! ファチマのマリア様が、厳しい時代がありうることを警告しているからです。私たちが「旅」にでた浦上の信徒たちの精神を持つことができるように、多くの方々にこのカレンダーを使っていただきたいと願っています。

そこで、今回、印刷の前に、少なくともこのブログをご覧になっている方々にこのカレンダーのことをお知らせしなけらばならない、と強く思いました。2018年に私たちがどうしても必要とする殉教者たちだからです。日本では、津和野殉教者の列福列聖運動が始まっているように、日本の信徒が緊急に必要としている存在だからです。

ですから、より多くの方々の手に届くように皆様のご協力をお願い致します。何部印刷するべきかをあらかじめ知る都合上、ご希望の冊数を知りたいと思っております。そこで2018年のカレンダーについては、特別にご注文を受け付けることにしました。

印刷会社が今年も値段をそのまま維持してくだされば、非常に良い紙とカラー印刷で、一部800円で提供できます。

たとえ東京や大阪のミサに来ることができない方でも郵送で発送することもできます。郵便局のレターパックなら、3冊くらいまでなら 送料=全国一律360円でおおくりすることができそうです。
4冊以上は 送料=全国一律510円で、追跡番号もありますので届くまで安心です。

「聖ピオ十世会日本 聖伝典礼カレンダー 2018年 津和野の殉教者たち」

ご注文は、このブログのメッセージを送る機能を使ってください。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


2017年聖母小黙想会【5】 8月12日「マリア様の御姿、その光の中の天主」を黙想する

2017年11月19日 | お説教・霊的講話
聖母小黙想会【その5】 2017年8月12日(土)
小野田神父様霊的講話 [3]
「あなた様はどこから来られたのですか?」「私は天からの者です。」

では、ファチマのマリア様が私たちに、「天国から来た」という事を仰って下さったので、そのマリア様の声をよく聞く事にします。

ルルドでも聖ベルナデッタが、パリでもカタリナ・ラブレが、ラサレットでもメラニーとマキシムがマリア様を見たのですけれども、非常に美しくて、イエズス様と同じように今、天国で、肉体と霊魂をもって、復活体をもって天に上げられたマリア様が、もう一度天から降りて来られた、その御姿でした。

共通して、ファチマでもそうでしたけれども共通して、マリア様が非常に若い少女として、高校生くらいの御姿で現れました。ルチアによると、「15、6歳の女の子だった、少女のように現れた。」驚くべきほどの若さで現れます。マリア様が天主の御母となった時もやはり、15、6歳の時でしたので、また、天主の愛される永遠の娘でもあるので、非常に若々しく、そして美しくお現れになります。ここにいらっしゃる方の一人がニュージーランドに行った時の、まだ高校生くらいの写真を見ると、幼い、あどけない顔をしているのを思い出しますけれども、マリア様は非常に若い姿で現れました。

ルチアによると、マリア様は非常に背が小さくて、ルルドもベルナデッタによると、「背が小さかった。」おそらくこんなに小さな若いマリア様によって、悪魔が投げ倒されるのは非常に屈辱だった、それほどの小さな小柄な方でした。するとこの地上での偉大さという事は、見かけではあまり分からない、という事が分かります。

マリア様は子供たちの近くに、非常に近くに現れました。樫の木の上で、すぐ近くでお現れて、ルチアは言います、「私たちはマリア様のすぐ近くにいたので、マリア様を囲んでいる光が、私たちはその中に入っていました。ほんの1メートルかそこらの距離しかなかった」と言っています。そして「マリア様のお声はとってもソフトで、快かった。」 ますますマリア様の近くに行きたいと思わせるような現存でした。

マリア様は私たちの近くに来たいと思っています。

そしてマリア様は太陽よりも輝いていました。「私は天からの者です。」 栄光体、復活した栄光のある体は、光を輝かして、そしてどこでも壁をも貫かして移動する事ができるし、瞬時に移動する事ができるし、そして苦しむ事も、悲しむ事も、死ぬ事もない、その御体で現れました。

マリア様は仰います、「恐れないで。私はあなた方に害を加えませんから。」

「あなた様はどこから来られたのですか?」
「私は天からの者です。」

「あなた様は私が何をする事を望みですか?」
「これから続けて6ヶ月間、13日に、同じ時間にここに来る事を求める為に来ました。後に私が誰であり、何を望んでいるかを言いましょう。後になって7度目にもここに戻って来るでしょう。」

「私は天国に行けますか?」
「はい、行けます。」

「ではジャシンタは?」
「彼女も行けます。」

「フランシスコは?」
「彼も天国に行くでしょう。しかし彼はロザリオをたくさん唱えなければならないでしょう。」

それからルチアは聞きます、「マリア・ダス・ネヴェスは天国にいますか?」
「はい、います。」

「では、アメリアは?」
「彼女は世の終わりまで煉獄にいるでしょう。」

するとマリア様は、天国に行く為の方法を教えて下さいます。今日のこの今の講話では、光の中に包まれて、マリア様のすぐ近くに行って、その美しいマリア様の御姿と、極みのないその御声によって私たちに、「天国に行くにはどうやったら良いか、その天国に行く手段はどうするのか」そのそれを教えて下さるので、それをよく聞いて下さい。

この「アメリアが世の終わりまで煉獄にいる」という事を聞いた後に、マリア様はこう尋ねるのです、これが天国に行く為の道だという事です。

「あなたは、天主に背く罪の償いと、罪人たちの回心への懇願の行いとして、喜んであなた自身を天主に捧げ、天主があなたにお与えになる全ての苦しみを耐え忍びますか?」

ルチアは答えます、「はい、望みます。」

「それでは、あなたは多くを苦しむ事になるでしょう。しかし天主の恩寵があなたの慰めとなるでしょう。」

今日この今、今日はここのマリア様の質問を黙想する事に致しましょう。

ルルドでもベルナデッタに言いました、「私はこの世では幸せを約束しませんが、来世では約束します。」

ファチマでも同じ事を聞きます、「あなたは、天主に背く罪の償いの為、もう1つは罪人たちの回心の懇願として、罪の償いと罪人の回心、この2つの為に、喜んで自分自身を天主に捧げ、天主があなたにお与えになる全ての苦しみを耐え忍びますか?」と尋ねました。

すでに1年前天使から、「特に、天主様があなたにお送りになる苦しみを喜んで受け入れて、耐え忍びなさい」という事を言っていましたけれども、マリア様はその事をもう一度尋ねます。でも今回ははっきりと意向を与えます、「罪の償いの為、また罪人の回心の為、捧げますか?」

マリア様は、罪人の回心の為、罪の償いの為に、子供たちに「ミサに与りなさい」とか、あるいは「断食をしなさい」とか、あるいは何か、何か特別な事をするようにと聞いたのではなくて、「天主がお与えになる全ての苦しみを受け入れて、耐え忍びますか?」と聞きました。「喜んで自分自身を天主に捧げて、天主の送る苦しみを耐え忍びますか?」

そこでマリア様は、この「何よりも、この天主から与えられる苦しみを受け入れる、天主に捧げるという事が、一番価値のあるものである」という事を教えています。

天主に対して犯される罪の償いの為に、天主を愛するが為に、そして隣人の回心の為に、隣人愛の為に、天主が与える十字架を受け入れる事ができるか?

すると子供たちは言います、「はい、できます。そうします。」するとマリア様は「それじゃあ」と言って、「たくさん苦しまなければならないでしょう」と答えます。でも同時に、「でも天主様のお恵みは、あなたたちの慰めとなるでしょう」と励まして下さいます。

そしてこの時にマリア様は手を広げて、子供たちが天主である光の中に、天主の中にいるという事を、天主の現存の中に生きているという事をまじまじと見せました。非常に強い光線が子供たちを照らし出します。この光線が天主の光であるという事を、マリア様から来る天主の光である事をよく理解していました。

そのあまりにも「天主様の中にある」という事を強く感じたので、すぐに子供たちは跪いてこうお祈りします、「いとも聖なる三位一体よ、至聖なる三位一体よ、我御身を讃美し、いとも祝せられた聖体の秘跡において御身を愛し奉る」という祈りを繰り返しました。
天主様の聖寵は、私たちの慰めとなるでしょう。

後にフランシスコは言います、「あぁ、天使を見るのはすごく好きだ」と。「天使はとっても美しい。」「でもマリア様を見るのはもっと好きだ。」「でも僕が一番好きなのは、マリア様から来る光の中にある天主を見る事だ。私たちの心に貫く天主を見る事だ。あぁ、私は天主様が大好きだ。」天主の光の中にいる自分を見て、もう我を忘れてフランシスコは、天主を愛する事、礼拝する事だけを考えていました。

この天主の光の中に満たされているのを見た後に、3人の人生は、天主に対する愛の人生になりました。天主の現存の中に生きている、天主を喜ばせる事だけを望む人生となっていきました。

マリア様は、罪の償いと罪人の回心の為に、次になすべき事を教えてくれます。こうやって光の中に子供たちがいるのを見せて、しばらくしてこう語られるのです、「世界の平和と、戦争が終結するように、毎日ロザリオの祈りを唱えなさい。」

「祈り。特にロザリオの祈りを毎日唱えるという事は、とても天国に行く為に必要な手段である」という事を教えています。犠牲と苦しみを、送られた犠牲と苦しみを捧げるというのと同時に、その次に祈りを捧げる事。天使が教えてくれた射祷、「わが天主よ、われ信じ、礼拝し、希望し、御身を愛し奉る。」この祈りと、ロザリオの祈り。

こうやって3人の子供たちは、霊的生活をマリア様から学ぶ事になります。

どうぞ私たちも光の中に、マリア様の両手から出される光の中に浸り込む事に致しましょう。私たちの黙想会は、新しい事を、新しい知識を何か知るというよりは、むしろそれを味わって、本当に今、マリア様が私たちを愛で包んで下さっている、天主が私たちをお恵みと聖寵と愛で憐れみで、私たちを取り囲んで下さっている、という事をよく理解して、それを味わう事にあります。

今日私たちは祈りと犠牲を捧げる為に、今日集まって来ました。では今から30分間ほどお祈りを致しましょう。

” On the errors of Luther ” by Fr. Laisney SSPX

2017年11月18日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様の霊的講話 「ルターの誤謬について」【英語原文】をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

On the errors of Luther
Sermon Seoul-Osaka 12 November 2017

My dear Brethren,

November is particularly dedicated to praying for the souls in Purgatory. Indeed, it is a dogma of faith that there is a Purgatory, where souls go who died in the state of grace but with some venial sins still on their conscience, or with some temporary penalties still due for their past sins. Such souls do not go straight to Heaven, but have to be purified through Purgatory.

Now this dogma – and many others – is denied by Luther and the Protestants, though it is taught by the Holy Scriptures and the most ancient Tradition. Those celebration of the 500th anniversary of Luther’s rebellion, especially those “joint-celebrations” do much damage to souls.

I was reading recently a beautiful sermon of St John Chrysostom, where he confuted some heretics who did not believe in the equality of the Father and the Son. He says with great affection: it is out of love for those souls who are deceived by heresy that he denounces the errors and refutes them. Indeed, how could we truly love our neighbour and see his soul darkened by error, wounded by sin, and on the road to hell, and be indifferent? Our heart aches seeing so many souls deceived by such errors and far from the light of our Lord Jesus Christ: we love the sinner but hates the sin because it harms him so much; we love the man created by God, but hates the sin done by man. Because we want their eternal happiness, we want to help them to find the truth of the Catholic Faith and thereby come to the participation of the life of our Lord Jesus Christ, unto life eternal.

Indeed, the Catholic Faith is the one true Faith taught by our Lord Jesus Christ, faithfully transmitted by the Apostles to their successors and handed down to us by the Tradition of the Catholic Church. The Catholic Church is the Mystical Body of Christ, out of which one cannot live of the life of Christ; one cannot be animated by the Spirit of Christ except in “the body of Christ which is the Church” (Col. 1:24).

Protestants claim that the main issue between Catholics and Protestants is the Gospel: they put the Gospel first, and claim that “the church is a creature of the Gospel”, while the Catholic Church teaches that the Church is first and “the Gospel arose within her bosom.” Now the Gospels themselves give testimony to the fact that our Lord Jesus Christ built His Church, and He did so while living on earth – but the Gospels were written only between 15 years later for St Matthew’s and 60 years later for St John’s. Thus, it is evident that the Church was before the Gospels, and therefore could not be a creature of the Gospel.

Moreover, if one understands the word gospel not as the written word, but as the preaching of the Gospel, even then, according to St Paul, the Church must be first. Indeed, St Paul says: “how shall they believe him, of whom they have not heard? And how shall they hear, without a preacher? And how shall they preach unless they be sent, as it is written: How beautiful are the feet of them that preach the gospel of peace, of them that bring glad tidings of good things!” (Rom. 10:14-15). Now our Lord Jesus Christ sent His Apostles, and they in their turn sent their successors and the priests their helpers: so, it is clear that the Gospel cannot be preached unless the preachers themselves are sent by the successors of the Apostles, i.e. the authority of the Church which thus is prior to the preaching of the Gospel. The true ministers of the Gospel are sent by the Catholic Church, NOT self-appointed protestant ministers, or ministers chosen by the people rather than by the successors of the Apostles!

Here again, as in many other cases, the Scriptures themselves give testimony to the fact that the very foundational principles of Protestantism are false! They teach that the Gospels are above the authority of the Church; and this is false. The Gospel are part of the teachings of the Church, which is anterior to them and gave them birth, by the operation of the Holy Ghost IN HER. Note here, as in many other truths, the parallel between the Church and the Blessed Virgin Mary.

To rip the Gospel out of the Church is to uproot it from its very mother; it is to take the letter and lose the Spirit – and again St Paul teaches that “the letter killeth, but the spirit quickeneth = gives life” (2 Cor. 3:6). It is not surprising afterwards to see that the interpretations given by Luther and all protestants after have departed from the true meaning of the Scriptures – and in many places are clearly and evidently against the letter itself.

To give but one of the clearest examples, Luther claims justification by faith alone – and all protestants would agree that this also is a foundational principle for them. Now the Scriptures teaches justification by Faith, but NOT by Faith alone. The Scriptures say very plainly and clearly: “if I should have prophecy and should know all mysteries, and all knowledge, and if I should have all faith, so that I could remove mountains, and have not charity, I am nothing” (1 Cor. 13:2). This is what Faith alone is worth, without charity: nothing!

And our Lord himself says: “Many will say to me in that day: Lord, Lord, have not we prophesied in thy name, and cast out devils in thy name, and done many miracles in thy name? And then will I profess unto them, I never knew you: depart from me, you that work iniquity” (Mt. 7:22-23). So, they had “all faith so that they would remove mountains”, yet because of their evil works they were rejected; their faith alone, without good works, was incapable to save them.

At the root of Luther’s error, or rather heresy, there is the idea that whatever man does is corrupt: therefore, man cannot do anything that could cooperate with his salvation. Luther goes so far as to say that even after justification man remains corrupt, and hence cannot do “good works”, and so is not required to do so; he merely has to trust in the merits of Jesus Christ and can never have his own merits. Such pessimistic approach is both against the Scriptures and absurd: it is tantamount to pretend that God is not capable to heal and restores that which sin had damaged! Under the pretext of exalting the power of grace alone, Luther in fact destroys it: for him, grace is not capable to heal human nature from sin. What contrast with what St Paul wrote: “such [big sinners] some of you were; but you are washed, but you are sanctified, but you are justified in the name of our Lord Jesus Christ, and the Spirit of our God” (1 Cor. 6:11). It is quite clear: you were big sinners, but you are no longer. Now you are “alive unto God, in Christ Jesus our Lord” (Rom. 6:11). And St Peter says also very clearly that Christ “bore our sins in his body upon the tree: that we, being dead to sins, should live to justice: by whose stripes you were healed” (1 Pet. 2:24), truly healed and no longer corrupt.

Luther’s notion of a mere external, extrinsic justification, which would go along with sin, merely covered but not destroyed, is absolutely opposed St Paul’s doctrine. For St Paul, sin is buried, finished, no more! Luther pretends that Baptism frees us from the law of God, so that one is no longer obliged to obey the Law of God: absurdity! Baptism frees from sin, from the dominion of the devil, but not from God, not from the Law of God. What Baptism does is to make us friends of God, friends who love God and therefore love the Law of God, which thus is no longer a burden but a friend, a light: “lex lux – the Law is a light” (Prov. 6:23): in that sense we are not “under the law” as under a burden, but also we are “with the law” as with a friend and even “in the law” because we obey it (see 1 Cor. 9:21). One who wants to be free from the Law of God itself, proves thereby that He does not agree with God, He does not love what God loves, and therefore is not a friend of God.

Then you find some protestant ministers presenting all kinds of strange arguments to try to defend Luther. For instance, in Malaysia, one of them said: “there can be nothing standing in-between the divine-human union and communion, e.g. free will in conformity to the law.” Where did he get the idea that “free will in conformity to the law” would be “standing in-between the divine-human union and communion” as if it were an obstacle? Free will in conformity with the Law of God is nothing else but LOVE of God, as St Paul says: “Love therefore is the fulfilling of the law” (Rom. 13:10). What strange idea that the love of God would be “standing in-between” as if it were an obstacle to that union!!! Really absurd ideas, and opposed to the scriptures, which call charity, “the bond of perfection” (Col. 3:14): thus far from being an obstacle standing in between that divine-human union, charity is the very bond that unites us with God! Hence St Paul can conclude: “For in Christ Jesus neither circumcision availeth any thing, nor uncircumcision: but faith that worketh by charity” (Gal. 5:6). This is the Catholic Doctrine, the Catholic Faith, which is necessary unto salvation.

One more point: the treasure of the Church is the Holy Sacrifice of the Mass. This is really the most precious gift that our Lord Jesus Christ has given to His Mystical Spouse: and He could not give a greater gift than His own self, really present and offered under the sacramental appearances. This is what all the Saints have loved and cherished. This is the source of all graces. And Luther lost it, he rejected it, he even has horrible blasphemous words against the Holy Mass. Now if we really love these poor people deceived by Luther, we want to share with them that great treasure: the more we give it, the more we have it; it is inexhaustible!

So, my dear brethren, let us pray for the conversion of the Protestants, that by embracing the one true faith, the faith of the Apostles and of the Fathers, the Faith of the Saints, and practicing it by the grace of our Lord Jesus Christ, they may partake of this most precious treasure of the Holy Mass and may reach the Kingdom of Heaven and live for ever with our Lady and all the Saints. Amen.


2016-11-13 on Luther's errors and heresies

2017年聖母小黙想会【4】 8月12日「私は天からの者です。」というお言葉を黙想する

2017年11月17日 | お説教・霊的講話
聖母小黙想会【その4】 2017年8月12日(土)童貞聖クララのミサ
小野田神父 説教


聖母の小黙想会にようこそ。今日は2017年8月12日、童貞聖クララのミサを捧げています。小黙想会の第2日をお捧げ致しましょう。

「夜中に叫び声がした、『花婿が来た。』さぁ、主キリストを迎えに出よ。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、ではファチマの巡礼の準備の為に、特にファチマのマリア様の御出現、私たちに対するメッセージを一緒に黙想致しましょう。昨日は準備段階として天使の、3回の天使の出現について黙想しました。今日はマリア様のお言葉を黙想致しましょう。

最初の最初から、5月13日、1917年5月13日、マリア様は私たちに、私たちの究極の目的を示しています。私たちが一体どこに向かっているのか、何の為に生きているのか、という事を教えて下さっています。

マリア様はルチアの幼い、しかし非常に聖霊のインスピレーションした質問に対して、はっきりと答えます。

「あなた様は一体、どこからいらっしゃったのですか?」
「私は天からの者です。」

今日このマリア様のお言葉を、5月13日のお言葉を黙想して、そして私たちがこの究極には、天国に行かなければならないという事を再確認致しましょう。そして今日聖女クララは私たちにその模範を示しています。今この世は、一体私たちに何を教えているかをそれから黙想します。そして天からの者であるマリア様、ファチマのマリア様が私たちに何を求めているか、何を私たちは、ファチマのマリア様に何をしなければならないのか、遷善の決心を立てる事に致しましょう。

「あなた様は一体どこからいらしましたか?」とルチアが聞くと、マリア様は「どこそこから来た」とは言わずに、「私は天国からの者です」「天国の者です」「天国にある者です」「天国に属する者です」と仰いました。マリア様の非常に美しい、光に輝いたお姿を見たルチアは、その「天国からの者」というマリア様の仰る意味がよく分かったに違いありません。

マリア様が「私は天国からの者です」と言った時にちょうど、「天に在す我らの父よ」と、私たちが「祈る時に、こうお祈りなさい」と教えて下さったイエズス様の言葉を思い出します。天には私たちの御父が在すけれども、天国には私たちの母が在す。そしてその天国からの母が、私たちに直接いらして下さったという事です。

昨日私たちが黙想したところによると、天使は私たちに、被造物として天主様に対してどのような態度を取らなければならないかを教えてくれました。それは祈りの態度であって、礼拝の態度でした。私たちをはるかに超える高貴な存在である天使でさえ、跪いて額ずいて、「『天主を信じ、礼拝し、希望し、愛する』という事をしなさい」と私たちに教えてくれました。

天主の絶対的な優位性、私たちが天主に全く服従しなければならない事、礼拝しなければならない事、私たちが主の下にあるという事を認めなければならない事を教えてくれました。主の栄光と、讃美と、その御稜威に対して、私たちが自分自身を従わさなければならない事を教えてくれました。

それと同時に、天主に自らを従わせない人々がいるという事、天主に反乱を起こしている人々がいる、天主を信じない人々、礼拝しない人々、希望しない人々、天主を愛さない人々、そして彼らの為に私たちは赦しを求めなければならない、償いを果たさなければならない、という事を教えてくれました。

そして天使と人類の元后である、天地の元后である聖母マリア様が、天使よりはるかに神々しく、はるかに美しく、はるかに威厳をもって、はるかに聖なるものとして、子供たちにお現れになりました、「私は天からの者です。」

ルチアはそのあまりにも美しい姿を見て、こう単純に尋ねます、「私は天国に行く事ができますか?私は行きますか?」「はい、行きます。」

私たちも、ファチマのマリア様の御出現を黙想する限り、ファチマのマリア様にこう申し上げなければなりません、「私は天国に行きますか?」

私は天国に行かなければなりません。天主を得る事こそ、天国に行く事こそ、私たちが生まれてきたその目的です。天主を知り、天主を信じ、天主を礼拝し、天主に希望し、天主を愛し、そうする事によって天国に霊魂を救う、救霊の恵みを得る、これこそ、この為にこそ、私たちはこの地上に生まれてきました。

イエズス様は言います、「人は二人の主人に仕える事ができない。一人を軽蔑して一人を愛するか、どちらか一つだ。」

聖パウロは言います、「この地上のものを愛している人々、彼らは自分の腹を神々としている。」

私たちは究極の目的を選ばなければなりません。

では天国に行く、天主様を得るというのはどういう事なのでしょうか?

天国に行く、究極の、私たちの人生の最高の究極の目的を果たすという事は、私たちがもうこれ以上、もう望む事ができないほど望みが満たされて、全て何もかも満たされて、もうこれ以上何も、これ以上望む事はないというほど完全に満たされて、完成させられて、そしてもうこれで本当に満足で、幸せだ、自分はこれでもう完壁に完全に善を得たという事です。そのような状態です。

人間は全ての人は、自分に足りないところを得ようとして、それを欲求します。そしてそれが得れば、私たちは満足して幸せになりますけれども、究極にもうこれ以上、もうこれを得た後にはもうこれ以上得るものはない、これでもう最高度に完成させられた、というそれが私たちの究極の目的であり、至福です。

一体何が私たちをして、それほど完全に満足させてくれるでしょうか?この地上のものでしょうか?食べ物とか地上の自然の財産とか富でしょうか?何か人間に役立つものでしょうか?確かにそれは人間の役立つものはありますけれども、人間はこの地上のものを得ても得ても、更にもっと欲しい、もっと望むようになります。あるいは望んだものを得たとしたら、もうそれで嫌だ、嫌になってしまう時もあります。この地上のものが人間を最高度に、もうこれ以上、もういらない、というほど満足させる事はあり得ません。

お金についても、貨幣についても同じです。これは更に程度の低いもので、人間に必要なものを得る交換の手段でしかないからです。交換の便宜にしかすぎないからです。ですから富とか、地上の物質的なものが人間を最高度に幸せにする事はあり得ません。

名誉はどうでしょうか?名誉も人間を幸せにする事はできません。何か人間が素晴らしいものを持っているが故に、そのしるしとして名誉が与えられますけれども、その何かすばらしい幸福の元となるものこそが、私たちを幸せにするのですから、そのしるしが幸せにするのではありません。私たちを完成させるのではありません。

私たちが何か権力を持っていたらどうだろう?この地上の権力を持っていたらどうだろう?権力というのは、何かを使って、何かをする事ができるという事ですが、何かの始まりにしかすぎません。しかし私たちが幸せであるというのは、完成させられて、終わりに、到達された目的ですから、権力があるからといって、だから幸福であるのではありません。また権力というのは、善にも悪にも使う事ができますが、私たちの幸せというのは、単なる純粋に最高の善でしかないからです。悪はあり得ないからです。

では色々調べてみると、この地上のものは、物体的なものも、名誉的なものも、力も、或いは私たちの体の健康も、あるいは体の快楽や楽しみも、あるいは霊魂の何らかの善に至っても、究極的には私たちを完全に完壁に、もうこれ以上望む事がないほど満足させるものはありません。被造のものは私たちを満足し尽くす事はできないからです。時においても、限度においても、あまりにも限りがあるからです。私たちはしかも、永遠の無限の幸せを、果てる事のない幸せを、完成を願っているからです。

カトリックの教えは、そしてファチマのマリア様は、私たちにこの事を教えています、「マリア様は天国から来た。そして私たちもマリア様のいらっしゃる天国に行かなければならない。それこそが究極の目的であって、天主を永遠に得る、それこそが私たちの生きている目的である。」

聖クララを見て下さい。アシジの豪富の、非常に高貴な公爵の長女として生まれたお嬢様でした。幼い時から可愛がられて、愛情をかけて育てられて、いつもおいしい物を、デリケートな物を、最高の物を食べさせてもらって、服も非常に美しい、高価な生地で出来たきれいなドレスを着て、そして何でも自分の望む事もできる、そのようなお嬢様でした。教育を受け、召使いもあり、婢女たちもたくさん付いて、お付きの者も付いて、何でも思い通りに自由にする事ができるお嬢様でした。

この少女が、知恵と、力と、霊魂の高い望みに従って、アシジの聖フランシスコを見た時に、「この自分の霊魂を本当に幸せにする事ができるのは、この地上のものではない」という事をすぐに悟りました。「私もフランシスコに倣って、清貧と貞潔と従順の道を歩みたい。この地上のものをイエズス様の為に全て捧げたい。」そして聖フランシスコの元に行って、自分の髪を切ってもらいました。

家族は一生懸命、この自分の長女を、愛する娘を、何とかこの世俗の元に引き寄せようと、「さぁ、地上の宝はこんなに面白おかしいよ。おいしい食べ物はこんなにあるよ。さぁ結婚相手はこんなに高貴な人だよ、こんなに優しい人だよ。」

聖クララは全く見向きもしませんでした。それよりもイエズス・キリストのもとで、天国の為に、霊魂の救霊の為に、イエズス・キリストを愛するが為に、十字架に付けられたイエズス・キリストを花婿として受ける為に、粗末な服を着て、寝るのも床に寝て、食べる物もパンと水で、しかも1年には2回四旬節をやって、清貧に、謙遜に、生活する事を望んだのでした。

そしてそのような高い理想を求める女性たちの修道院長と選ばれたのですけれども、聖フランシスコが「お願いだから」と懇願して、ようやくその責任を取ったにすぎませんでした。

長い間、病にも苦しめられました。一人で起きる事ができないほど体は傷んでいました。それでも介護をされながら起きて、それでも手仕事をして、奉仕をしていました。祈り、償いの苦行をし、共同生活をして、あの高貴な豪富の家庭に生まれたお嬢様とは思えられないほど、単純な清貧の生活を送りました。

聖クララはあまりにも聖徳に、イエズス・キリストの御旨に適った生活をしていたので、奇跡もたくさん行われました。ある精神を患った人を、狂気を正気に戻したりとか、あるいはある時イスラム教徒がアシジを包囲して、「これからイスラム国を作る。キリスト教の男女は全て奴隷にして、(私たちが今口で言う事ができないほどの)事をする!コーランを信じるか、あるいは剣を受けるか殺されるか、あるいは奴隷となるか!」今でもなされていると同じような事を、昔からやってきました。

そのイスラム教徒たちが、アシジの城壁を登って攻め入れようとして来たその時に、姉妹に助けられて聖クララは御聖体の入っている入れ物チボリウムを持って、自分で持って、そして窓の方に行き、イスラム教徒たちのいる所に向かってイエズス様にお祈りします、「主よ、私たちが野獣に食べられないように、どうぞ早く助けに来て下さい。私たちがこのまま滅びるのを見捨てないで下さい。」

すると、ある一部は突然逃げ出し、壁に登っていた人たちは突然目をくらまされて落ちて、そのまま登る事ができなくなる等、アシジの街を奇跡的に守ったりしました。

聖クララの人生は私たちに、「この地上で最も大切なのは、永遠の命を受ける事だ。天主の元に帰る事だ。天国に行く事だ」と教えています。

この地上では今、何を教えているでしょうか?ところが今21世紀の現代、私たちの周りにあるものは、私たちの目で見、聞く事は、そうではなくて、天上の事を全く忘れさせようとする事です。この地上の事しか、「地上の事を面白おかしくする事だけが大切だ」と。主の事を考えるのは、あたかもしてはいけないかのように、私たちの周りは教えています。

しかしファチマのマリア様はそれとその正反対です、「私は天国から来ました、天国からの者です。」

「それでは、私は天国に行く事ができますか?」
「はい、あなたは行きます。」

では、ファチマのマリア様の最初の御出現を黙想して、私たちもマリア様のお望みの通りに、「天国に行く」という大きな望みを抱きましょう。マリア様は最初に何と仰ったかというと、「恐れないで下さい。私はあなたたちに何の悪い事もしません。何の害も及ぼしません。天国からの者です。」

たとえこの地上のものが私たちを恐れさせたとしても、地上のものが私たちに害を与えたとしても、マリア様は害を与えません。このマリア様が私たちに教える事は、私たちの害ではなくて、天国への道です。恐れる事はありません。マリア様がなさる事は、私たちにとっての善と益になる事だけです。

それを今日マリア様が教えて下さっている、という事を確認致しましょう。私たちがマリア様のおられる天国へ、天国だけをいつも願う事ができますように、お祈り致しましょう。

「夜中に声があった、『花婿が来た。』主キリストを迎えに出よう。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

「聖マルティノと祈りの諸段階」:聖ピオ十世会司祭 レネー神父様

2017年11月16日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様の霊的講話 「聖マルティノと祈りの諸段階」の日本語訳をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2017年11月12日 大阪の霊的講話
聖マルティノと祈りの諸段階

親愛なる兄弟の皆さん、

11月11日は、四世紀のフランスのトゥールの司教だった聖マルティノの祝日です。彼は、若いころローマの兵士でした。まだ求道者で18歳ぐらいだったとき、アミアン(パリの北西にある市)で着るもののない貧しい人に出会いました。そこで、彼は自分の着ていた兵士用の大きなマントを二つに切り分け、半分をその貧しい人に与えました。その夜、私たちの主イエズス・キリストが、マルティノが与えたマントの半分を着て彼に現れ、こう言われました。「マルティノは、まだ求道者であるにもかかわらず、自分のマントで私を覆ってくれた」。マルティノは、自分がまだ求道者でしかないことを主が悲しんでおられるのをすぐに悟り、それ以上遅れることなくすぐに洗礼を受けました。

その後、彼は聖性への大きな望みを抱いて、有名な教会博士である聖ヒラリウスからさらに多くのことを学ぶためにポワティエへ行き、侍祭となりました。そしてポワティエからそう遠くないところに修道院を創立し、そこで彼は高い段階の聖性に到達したのです。のちに彼はポワティエから少し北にあるトゥールの司教となり、近くに別の修道院を建て、多くの人が異教のままだったこの地方を福音化しました。こうして彼はこの地方から異教を根こそぎにし、多くの人の啓発に大きな影響を与えたのです。

何が彼を聖人にしたのでしょうか? それは、非常に深い祈りの生活です! すべての聖人は祈りの人でした。すべての聖人は好んで祈りに長時間を費やしました。彼らは天主に渇き、その渇きを祈りで表現し、満たされたのです! 私たちはみな、私たちも彼らが祈ったように祈れるようになりたいと考えているに違いないと思いますが、しかし、私たちの祈りはすぐに干上がってしまいます。「主よ、私たちに祈りを教えてください」(ルカ11章1節)。

聖マルティノの生涯に見られるように、祈るためには、私たちが教会の教理を知り、カテキズムを知る必要があります。聖マルティノは、聖ヒラリウスから学ぶためにポワティエに行きました。同様に、聖ベネディクトは、その後何世紀にもわたって彼に続いた非常に多くの聖なる修道士たちの偉大なる師でしたが、祈りの第一段階を「lectio divina―聖なる読書」としています。私たちが福音書や聖書、聖人の著作、聖人伝や他の認可された信心深い著者による本のような聖なる書物を読むこと、これが黙想する読書です。しかし、私たちは、そのような書物を小説を読むように速く読んだり、新聞を読むように拾い読みしたり、科学的な書物を読むように勉強するために読んだりするのでさえもありません。私たちは、聖書の中や聖人や聖なる著者を通して、カトリック教会によって教えられた天主の真理で私たちの精神を養うために、黙想しながら読むのです。「人はパンだけで生きるのではない。天主の口から出るすべての言葉によって生きる」(マテオ4章4節)。

皆さんが聖人たちの著作を読むとき、ここを少しだけ読んで、またあそこを別に少しだけ読むといったことをすべきではありません。むしろ、聖人たちの本を最初から最後まで通して読むべきです。それは、皆さんが聖人たちの精神に入り込むために、そして皆さんが、彼らの考えたように考え、彼らの愛したように愛するのが自然になるほど、聖人たちの考え方に習熟するためです。友となるということは、同じ考えを共有し、また同じ真理を支持するだけでなく、同じ真理に対する同じ取り組み方さえして、同じ方法で同じ真理を愛するということです。この読書の目標は、皆さんを聖人たちの友とし、そうすることで、聖人たちの精神が皆さんの中に住むようになり、最後にはイエズスの霊が聖人たちの中に住んでいたように皆さんの中に住む段階に達するためです。「天主の霊によって導かれている人はすべて天主の子らである」(ローマ8章14節)。

時にはプロテスタントの牧師たちが、皆さんに聖アウグスティノや他の教父の引用句を、それがまるでカトリック教会に反対するものであるかのように示すことがあるでしょう。しかし、そんなカトリック教会に反対する見解は、それらの教父たちの精神からあまりにも遠く隔たっているため、そのような牧師が教父たちの引用句を悪用しているのを知れば彼らは顔色を失うことでしょう。これらの聖人たちは常に喜んで自分の考えを正し、カトリック教会の信仰に従順でした。しかし、先に説明した方法によって私たちが真に聖人たちの考え方に入っていくならば、引用句が良く使われているか、それとも文脈から離れて取られているのかは、すぐに分かります。

このように、黙想する読書は祈りの第一段階に過ぎません。これは、一つあるいは二つの真理を取り上げてその真理をある系統的な方法で黙想するという、いわゆる黙想へと導くものです。聖イグナチオは何種類かの黙想の方法を説明しています。黙想の対象に対して自分の記憶、知性、意志を使う方法。あるいは、福音書の一場面を黙想するために五感を使う方法。あるいは、信仰、希望、愛という三つの徳を使う方法などです。このように多くの方法があり、また開始の際の準備や終了の際の対話のような追加点もあります。このすべてが、良き黙想のために役立ちます。

黙想は、牛が食べ物を噛み砕くことに例えられます。最初に、牛は草を噛み、その草は第一の胃(ミノ)に入ります。その後、牛は横になって草を口に戻し、再び噛み砕いたのちに第二の胃(ハチノス)に送り出します。その結果、牛は食べた食べ物の価値を最大限に活用するのです。馬のような反芻しない他の動物は、食べた物の栄養価値の一部しか使っていません。同様に、黙想は私たちに、私たちがカテキズムで学んだ真理の価値を最大限に活用させるのです。毎日の黙想のためには、一定の決まった時間を確保しておくことが勧められ、それは早朝が好ましいのです。

黙想の実は、天主への愛および霊的なものへの愛が大きく増すことです。実際、聖グレゴリオは、物質的なものは通常、それを持たない人々を引き付ける傾向があるが、物質的なものを所有することはしばしば、退屈や嫌気をもたらす、と指摘しています。こういう訳で、貪欲な人々がいつももっとお金を欲しがるのです。彼らは自分が持っているものでは決して満足しません。それと反対に、霊的なものは簡単に無視され、それを持たない人々を引き付けない傾向があります。しかし、霊的なものを味わったことのある人々に対しては、退屈がないどころか、むしろ大きな愛にとともにもっともっと霊的なものを求める渇望を伴う大きな喜びをもたらすものなのです。

ですから、黙想ができるようになると、それは、天主への愛、私たちの主イエズス・キリストへの愛、聖母と聖人たちへの愛をもっともっと実践することになります。この愛の対話が黙想のより大きな部分を占めるようになります。これは良きもので、徳の実践に本当の改善をもたらすはずです。生活は精神に適合しなければなりません。朝の主への祈りで、心を尽くしすべてに超えて主を愛します、と唱えながら、そのあと一日中主を全く無視し、さらには主に対して罪を犯すことなどできません! もしそんなことが起こるなら、朝の祈りそのものにうそを入れることになってしまい、そのうそはすべてを台無しにしてしまいます。

このレベルになると、さらに高い段階を熱心に望むべきです。なぜなら、天主は純粋に霊的でありかつ単純ですが、黙想におけるイメージや感覚的諸側面の物質性、黙想の多様さと複雑さは天主よりはるかに低く、天主より無限に低いのですから。それゆえに、このような低級な手段を捨てて、信仰の諸真理によって私たちの主イエズス・キリストのみわざに心を開くべきです。私たちの精神を、より高い段階の祈りに本当に揚げる信仰は、真に素朴なものです。天主が話され、私たちは天主が言われたことを信じる、ということです。これは素朴ですが、霊魂を信仰の岩の上に据えるのです。

このレベルになると、祈りは観想になります。天主を求める大きな渇きを持ち、天主のみわざに対して自分の精神を完全に明け渡し、信仰の諸真理に素朴な愛する眼差しを注ぐことです。すると、私たちの主イエズス・キリストが引き受けてくださいます。それについて、聖パウロが言います。「私たちはみな覆いを顔に垂れず、鏡に映すように主の光栄を映し、霊なる主によってますます光栄を増すその同じ姿に変わる」(コリント後書3章18節)。

ですから、祈りは信仰、希望、愛の徳、私たちを聖三位一体と一つにするこの三つの対神徳を実践することです。天主は至高の真理であられるがゆえに、私たちの祈りは、まことの信仰、カトリック信仰に根差しているのが最も欠かせない本質的なことです。それゆえに、黙想と観想においてさえも、霊的な読書を続けることが重要です。この読書は、私たちの霊魂をこれらの信仰の真理で養い、私たちに聖人たちの模範を示してくれるからです。

すべての祈りの中で最大にして最高のものは、ミサの聖なる犠牲であり、そこでは私たちの主イエズス・キリストご自身が十字架上で御父に御自らの祈りを捧げられます。実際、カルワリオの犠牲は人類の歴史全体の頂点です。旧約においては、すべてはそれを準備し、それを待ち望んでいます。それは、旧約の礼拝において、多くの方法で表されていました。旧約の聖人たちは、天主の小羊であるメシアの到来を熱心に待ち望んでいました。「主よ、地のかしらに小羊を送り給え、荒れ地の道を通って、シオンの娘の山に送り給え」(イザヤ16章1節)。この山がカルワリオの山なのです!

私たちの主イエズス・キリストは十字架上で、礼拝、感謝、罪の償い、懇願という最高の祈りを捧げられました。それは、聖三位一体を礼拝し、人類を罪から贖い、私たちを地獄から救い、そして私たちが天主の子となるという天主の最も美しい賜物を私たちに与えてくださる、という最高のみわざでした。ですから、聖ペトロはこう書いています。「それによって私たちに尊い偉大な約束を与えられた。それは、欲情が世の中に生んだ腐敗からあなたたちを救い上げ、天主の本性にあずからせるためであった」(ペトロ後書1章4節)。

「私は地上から上げられて、すべての人を私のもとに引き寄せる(主がこう言われたのは、ご自分がどんな死に方をするかを示されるためであった)」(ヨハネ12章32-33節)。ミサにおいて、主は十字架上のご自分に私たちを引き寄せられますが、それは、十字架につけられた主と一つになることによって、私たちが光栄を受けられた主と一つになるためです。実際、聖パウロはこう言います。「霊御自ら私たちの霊とともに、私たちが天主の子であることを証明してくださる。私たちが子であるのなら世継ぎでもある。キリストとともに光栄を受けるために、その苦しみをともに受けるなら、私たちは天主の世継ぎであって、キリストとともに世継ぎである」(ローマ8章16-17節)。

これこそが、変容による一致、天国への究極の準備である最高の祈りです。「彼が現れるとき、私たちは天主に似た者になることを知っている。私たちは天主をそのまま見るであろうから。主が清いお方であるように、主に対するこの希望を持つ者は清くなる」(ヨハネ第一3章2-3節)。十字架の下にたたずみ給うた童貞聖マリアが、私たちにどう祈るべきか、特にミサでどう祈るべきかを教えてくださり、その結果、私たちが天国へ行くことができますように。アーメン!

「ルターの誤謬について」:聖ピオ十世会司祭 レネー神父様

2017年11月15日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様の霊的講話 「ルターの誤謬について」の日本語訳をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2017年11月12日 大阪の説教
ルターの誤謬について

親愛なる兄弟の皆さん、

11月は、煉獄の霊魂のために祈るよう、特に捧げられています。実際、煉獄が存在するということは、信仰の教義です。煉獄には、成聖の恩寵の状態で死んでも、まだ意識した小罪がある霊魂、あるいは過去の罪のせいでまだ残っている有限の罰を受けるべき霊魂が行くのです。そのような霊魂は直接天国に行かず、煉獄で清められなければなりません。

さて、この教義、そしてほかの多くの教義を、それらが聖書および最も古くからの聖伝が教えているにもかかわらず、ルターとプロテスタントの人々は否定します。このルターの反逆の500周年を記念すること、特にこの[カトリック教会とルーテル教会との]「共同記念」は、霊魂に多くの害を与えます。

私は最近、聖ヨハネ・クリゾストモスの美しい説教を読んでいました。その中で彼は、御父と御子が等しいことを信じない異端者たちを論駁しています。彼は、大きな愛情をもって言います。彼がその誤謬を非難し、彼らに反駁するのは、異端によって欺かれているそれらの霊魂たちに対する愛からであると。実際、私たちがまことに隣人を愛し、隣人の霊魂が誤謬によって闇に覆われ、罪によって傷つけられ、地獄へ至る道にいるのを見て、いかにして無関心でいられるでしょうか? 非常に多くの霊魂たちが、そんな誤謬によって欺かれ、私たちの主イエズス・キリストの光から全く遠ざかっているのを見て、私たちの心は痛みます。私たちは罪びとを愛しますが、罪が罪びとを大変傷つけるがゆえに、罪を憎みます。私たちは天主によって創られた人間を愛しますが、人間によってなされる罪を憎みます。私たちは永遠の幸せを求めているがゆえに、彼らがカトリック信仰という真理を見いだし、それによって私たちの主イエズス・キリストのいのちに、永遠のいのちにまであずかれるよう助けたいと思っています。

プロテスタントは、カトリックとプロテスタントの間にある主要な問題は福音書である、と主張しています。彼らは福音書が最初にあったとしており、「教会は福音書の創造物である」と主張していますが、カトリック教会は、教会が最初にあって「福音書は教会のふところの中で出来上がった」と教えています。さて、福音書自体が、私たちの主イエズス・キリストが彼の教会を創立され、また主がそれを地上に生きておられた間になさったという事実を証言しています。しかし、福音書は、聖マテオ福音書ではやっとその15年後、聖ヨハネ福音書ではそのやっと60年後に書かれました。このように、教会が福音書に先立っていたことと、それゆえに教会は福音書の創造物ではあり得なかったことは明らかです。

さらに、福音という言葉を、書かれた言葉としてではなく、福音を説教することという意味で理解したとしても、聖パウロによれば、教会が最初になければなりません。実際、聖パウロはこう言います。「まだ聞かなかった者をどうして信じられよう。宣教する者がなければどうして聞けよう。遣わされなかったらどうして宣教できよう。『平和の便り[福音]を宣教する者、よきことの知らせをもたらす者の足はいかに美しいことか』と書き記されている」(ローマ10章14-15節)。さて、私たちの主イエズス・キリストが使徒たちを遣わされ、今度は使徒たちがその後継者たちと彼らの助け手である司祭たちを遣わしました。ですから、宣教者たち自身が使徒たちの後継者たち、すなわちこうして福音の宣教より前から存在したカトリック教会の権威者によって遣わされなかったならば、福音が宣教されることはあり得なかったということは明らかです。福音のまことの役務者はカトリック教会によって遣わされるのであり、自らを任命したプロテスタントの牧師、あるいは使徒たちの後継者たちによってではなく人々によって選ばれた牧師では決してないのです

ここも、他の多くの場合のように、聖書自体が、プロテスタント主義の基本的原則そのものが偽りであるという事実を証言しています! 彼らは、福音書が教会の権威より上にあると教えていますが、これは偽りです。福音書は教会の教えの一部であって、教会は福音書以前から存在し、教会の中における聖霊の働きによって、教会が福音書を生み出したのです。ここで気を付けたいのは、他の多くの真理と同じように、教会と童貞聖マリアの間には似ているところがあることです。

福音書を教会から取り去ってしまうことは、福音書をまさにその母親から取り上げてしまうことです。それは、文字を得て霊を失うことです。もう一度、聖パウロを引用すると、彼は、「文字は殺し、霊は生かす」(コリント後書3章6節)と教えています。その後、ルターと彼に続くすべてのプロテスタントによって提示された解釈が聖書のまことの意味から離れ去ってしまったこと、また多くの箇所において聖書の文字それ自体にはっきりと明確に反していることは、驚きではありません。

最もはっきりとした実例を一つだけ挙げましょう。ルターは信仰のみによる義化を主張します。そしてすべてのプロテスタントが、これはまた彼らにとっても基本的原則であることに同意することでしょう。さて、聖書は信仰による義化を教えていますが、信仰のみによるのではありません。聖書は、実に平易にはっきりとこう言っています。「たとい私が預言の賜物を持ち、全奥義と全知識に通じ、山を動かすほどの満ちた信仰を持っていても、愛がなければ無に等しい」(コリント前書13章2節)。愛のない信仰のみの価値、それは無なのです!

また主御自らこう言われました。「その日多くの人が私に向かって『主よ、主よ、私はあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪魔を追い出し、あなたの名によって不思議を行ったではありませんか』。そのとき私ははっきりと言おう、『私はいまだかつてあなたたちを知ったことがない、悪を行う者よ、私を離れ去れ』」(マテオ7章22-23節)。ですから、彼らは「山を動かすほどの信仰」を持っていましたが、悪の行いのせいで彼らは拒否されました。善き行いのない信仰のみでは、彼らは救われることができなかったのです。

ルターの誤謬、それはむしろ異端ですが、その根本には、人間が行うことは何であれ腐敗しており、それゆえに人間は自分の救いに協力してできるであろうことは何もない、という思想があります。ルターはさらに進んで、義化のあとでさえ人間は腐敗したままであり、それゆえに「善き行い」をすることはできず、そのため善き行いをする必要はない、とまで言います。人間はただイエズス・キリストの功徳に信頼しなければならないのであり、自分の功徳を持つことは決してできない、と主張するのです。そのような悲観的な考え方は、聖書に反しており、また不合理です。それは、罪が害をもたらしたものを天主が癒やし、かつ回復させることができないと言い張るのと同じです! 恩寵のみの力を高めるということを口実にして、ルターは実際には恩寵を破壊します。ルターによれば、恩寵は人間の本性を罪から癒やすことはできません。聖パウロが次のように書いていることとはいかに対照的でしょうか。「あなたたちの中にもそんな人[大いなる罪びと]があったが、主イエズス・キリストの御名により、私たちの天主の霊によって自分を洗い、そして聖とされ、そして義とされた」(コリント前書6章11節)。全く明らかです。あなたたちは大いなる罪びとでしたが、もはや違います。今やあなたたちは「キリスト・イエズスにおいて天主のために生き」(ローマ6章11節)ているのです。また、聖ペトロも非常にはっきりと言います。キリストは「そのお体に私たちの罪を背負って木につけられた。それは私たちを罪に死なせ、正義に生きさせるためである。あなたたちはその打ち傷によって癒やされた」(ペトロ前書2章24節)。まことに癒やされ、もう腐敗してはいません。

うわべの外面的でしかない義化と隠されるだけで消されることのない罪、このルターの考えは、聖パウロの教理に完全に反しています。聖パウロにとって、罪は葬られ、終わり、もはや存在していないのです! ルターは、洗礼が私たちを天主の法から自由にし、その結果、人はもはや天主の法に従う義務はないと言い張っています。それは全く不合理です! 洗礼は、罪から、悪魔の支配から自由にしますが、天主から、天主の法から自由にするのではありません。洗礼が行うことは、私たちを天主の友に、天主を愛しそれゆえに天主の法を愛する友にすることです。ですから、この天主の法は、もはや重荷ではなく友であり、光であるのです。「lex lux―法は光である」(箴言6章23節)。これは、私たちが重荷の下にいるように「法の下に」いるのではなく、法の友として「法とともに」いる、また法に従うがゆえに「法の中に」さえいる、という意味で言っています(コリント前書9章21節参照)。天主の法それ自体から自由になりたいと思う者は、そのことによって、自分が天主と同意せず、天主が愛するものを愛さず、それゆえに天主の友ではないということを証明しています。

さらにまた、ルターを擁護しようとして、あらゆる種類の奇妙な議論をしてくるプロテスタントの牧師がいます。例えばマレーシアで、彼らのうちの一人はこう言いました。「天主と人間の結合および霊的交流の間に立つものはなにもありえない。例えば法に従った自由意志など」。彼はいったいどこで、「法に従った自由意志」がまるで障害物であるかのように「天主と人間の結合および霊的交流の間に立つ」という考えを得たのでしょうか? 天主の法に従った自由意志とは、天主への愛以外の何物でもありません。聖パウロはこう言います。「したがって愛は律法の完成である」(ローマ13章10節)。天主への愛が、まるでその結合の障害物であるかのように「間に立つ」とは、何と奇妙な考えでしょうか!!! 本当に不合理な考えであり、愛のことを「完徳のかなめ」(コロサイ3章14節)と呼ぶ聖書に反しています。ですから、天主と人間の結合の間に立つ障害物などでは全くなく、愛は私たちを天主と結合させるまさにかなめなのです! それゆえに、聖パウロはこう結論付けます。「なぜなら、キリスト・イエズスにおいては、割礼を受けることも受けないこともいずれも価値がなく、愛によって働く信仰だけに価値がある」(ガラツィア5章6節)。これがカトリックの教理、カトリックの信仰であり、救いのために必要不可欠です。

さらにもう一点言うべきことがあります。教会の宝はミサの聖なる犠牲です。これは、私たちの主イエズス・キリストが主の神秘的浄配である教会に与えてくださった本当に最も貴重な賜物であり、主は、秘蹟の外観のもとで本当に現存し捧げられる自分自身以上の素晴らしい賜物を与えることはおできになりませんでした。これこそが、諸聖人が愛し大切にしたものです。これこそが、すべての恩寵の源です。でもルターはそれを失い、それを拒否し、聖なるミサに対して恐るべき冒涜の言葉を投げかけることさえしました。さて、もし私たちがルターによって欺かれたこれらのあわれな人々を愛しているならば、私たちは、この貴重な宝を彼らと分かち合いたいと思うのです。私たちがこの宝を与えれば与えるほど、私たちはそれをもっと得るのです。この宝は無尽蔵なのです!

ですから、親愛なる兄弟の皆さん、プロテスタントの人々の回心のために祈りましょう。彼らが唯一のまことの信仰、使徒たちと教父たちの信仰、聖人たちの信仰を喜んで受け入れ、私たちの主イエズス・キリストの恩寵によってその信仰を実践することによって、聖なるミサというこの最も貴重な宝にあずかり、天の国にまで到達し、聖母と諸聖人とともに永遠に生きることができますように。アーメン。

「ルターの誤謬と異端思想について」 レネー神父様
2016年11月13日

聖ピオ十世会日本主催 第12回公式 秋田巡礼へのお招き (カール・シュテーリン神父聖ピオ十世会アジア管区長秋田巡礼団長)

2017年11月14日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

親愛なる巡礼者の皆さん、

聖母がご出現されるところではどこででも、聖母は平和を約束し、平和をもたらされます。外的にも、また内的にも、平和がひどく脅かされている時、天主は、天主以外に解決策はないという事を私たちに見せたいと望まれます。「私がいないと、あなたたちにはなに一つできない」(ヨハネ15:5)と。しかし、天主は、聖母の取次ぎによらないならば、誰にも平和という贈り物を与えないと決意されました。「平和の元后」である聖母は、自分の子供達にこの計り知れない平和の贈り物を与えたいと確かに望んでおられます。しかし一つだけ条件があります。それは、私たちが聖母に、心からこの恵みを乞い求める、という条件です。これこそ、私たちが秋田に巡礼をする理由です。

私達は、ひどく脅かされている私たちの国々の平和の恵みを求めて、私たちの家族の平和を願って、とりわけ、私たちの霊魂の平和--天主への愛と、隣人に対する愛との実のり以外の何ものでもない私たちの霊魂における平和--という恵みを聖母に願い求めましょう。

私達は聖母に心から誠実に願いましょう。「誠実に」です。もしも子供が、母親に大きな願い事をしておきながら、同時に、母親のいう事をきかずに、逆うようなら、そんな子供は誠実とは言えません。秋田で、私達は誠実であるということを聖母から学びたいと思います。秋田では、聖母が私達に望まれることをすべて、思いおこしましょう!2017年、ファチマ100周年と無原罪の聖母の騎士会100周年という大記念の年に、聖母が私達に望まれていることをもう一度示してくださいました。2018年には、聖母の全てのメッセージを、大きな花束のようにして集めたいと思っています。私達の心においてファチマの年の全ての実りを集めて、この宝をもって聖母に祈るなら、私たちの聖母に対する愛が誠実であると、私たちには確信できるようになります。

そうすれば、聖母は平和の贈り物を私達に注ぐことができ、さらに聖母はその憐れな子供たちである私たちに、現代の問題の多いただ中で私たちが心の平和を保つために極めて必要とする恵みを、また、ついには、天国での永遠の平和へと到着するために必要とするすべての恵みを与えることができるのです。

カール・シュテーリン神父聖ピオ十世会アジア管区長2018年秋田巡礼団長

【巡礼日程】2018年5月2日(水)~5月6日(日)
3日の早朝ミサから巡礼が始まりますが、ご宿泊は、5月2日(水)の前泊(夕食付き)からとなります。15:00からチェックイン(お部屋を利用)できます。

詳しくは次のチラシをダウンロードしてご覧ください。

秋田巡礼2018

Akita Pilgrimage 2018 (English)

インターネットでのお申込みの場合

http://blog.goo.ne.jp/sspxjapan_akita_pilgrimage/
Webサイトの「メッセージを送る」で送信してください。


聖ピオ十世会日本 聖伝のミサ(ラテン語のミサ 旧典礼のミサ トリエント・ミサ) 11月12日 SSPX JAPAN Traditional Latin Mass in Tokyo and Osaka

2017年11月14日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

先日の主日には、東京でも大阪でも聖伝のミサがありました。
大坂では、レネー神父様がミサをささげて下さいました。
東京では、愛する兄弟姉妹の皆様のしもべがミサをお捧げいたしました。9時にミサの会場に到着すると、すでに聖歌隊の方々が主日のグレゴリオ聖歌の練習をなさっていて、しかも声を合わせてとてもうまく歌っておられたので感動しました!♩♪♬♫🎶🎵♩

また、この主日には、数年前からお電話やメールなどはいただいておりながら遠距離のために来ることができなかった学生さんが福岡から来られて、大変うれしく思いました。

午後の公教要理では聖母の御告げについてお話をしました。
来週の主日の準備のためにも、非常に有名な「アレルヤ唱デ・プロフンディス」の練習をしました。特に有名なモティーフを何回も繰り返して歌って味わってみました。

ミサのレポートをいただきましたので、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。いつもありがとうございます。

今週の金曜日(11月17日)と土曜日(11月18日)には大阪でミサがあります。
次の主日(11月19日)と月曜日(11月20日)には東京でミサがあります。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

11月のレネー神父様の主日の御ミサの報告をお送り致します。

11月12日 聖霊降臨後第23主日 には16人が、
11月13日 月曜 聖ディダコのミサ には7人が御ミサに与るお恵みを頂きました。デオグラチアス!

主日の御ミサのお説教ではプロテスタントの間違いについてお話をお聞きしました。
聖ヨハネ・クリゾストモスは、御父と御子が等しいこと否定する異端者たちを反駁し、その誤謬を避難するのは、彼らに対する愛からであると言っています。
まことに隣人を愛するという事は、彼ら の救霊を心配してその為に働く事であると見本を示してくださった聖人に倣う事は私達にとって大変有益で、大事が務めだと思います。それと同時に、間違ったことを信じている人や主張する人を表面的に平和的に受け入れて彼らの主張を認めることは、本当の愛ではないのだという事をしっかり知らななければならないと教えてくださっているのだと。
また、福音書だけを受け入れて教会の権威を否定するプロテスタントの主張のなにが、どう間違っているのかを論理的に解り易く伺う事が出来てとても勉強になりました。
今日はレネー神父様のお薦めに従ってプロテスタントの方々の改心の為に御ミサをお捧げいたしました。

御ミサ後の公教要理では、祈りの三つの段階につい てお話頂きました。
最高の祈りである御ミサに与る事が出来る事を感謝し、喜びをかみしめながら私もいつか聖人方のように全霊をもって天主様を観想する事が出来るようになりたいと思いました。

至聖なるイエズスの聖心我らを憐み給え
聖母の汚れなき御心よ我らのために祈り給え

【報告】
Dear Fr Onoda:

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 22人(内、子供2人)
女: 23人(内、子供3人)
計: 45人(内、子供5人)

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

特別に休暇の間に主日の御ミサをお捧げ下さいまして、ありがとうございました。
特に、今回の聖霊降臨後第23主日の御ミサでは、典礼中のグレゴリア聖歌について、あらかじめ歌の練習や黙想などをする機会をいただきました。同じグレゴリア聖歌をたくさん練習したので、"音"というものはかくも優しくひそやかに霊魂に微妙な影響を与えてくれるのだなあと、感じることができました。

先週の練習でも、今回の御ミサの前の朝の練習もまた午後も、グレゴリア聖歌の調べを繰り返し耳にしながら、柔らかな旋律と響きに気持ちも穏やかになったようです。(でもやっぱりちょっと歌うのは苦手です。)

先週は、最後の審判が近くて怖れて警戒しなければならない「深い淵から叫ぶ」という気持ちが強かったですが、今週は、神父様が主は私たちに永遠の平和を与えるために来られたのですと、お話しくださって、安らかな気持になりました。それが、グレゴリア聖歌の調べと重なり、全身にしみとおるようで、トリエント・ミサの典礼の美しさを感じさせられました。ありがとうございます。

また、私は、神父様が御ミサの中でマリア様のことをお話しくださるのが大好きです。
マリア様のことをいつもお話いただいているうちに、マリア様がどのような方であったか次第に具体的に感じられるようになってきたように思います。マリア様は、特別な使命に召された方であるとともに、いつも私たちが倣う方でもあると教えていただいて、聖福音書が伝えようとしていることが、よりはっきりとして参りました。そして私たちが、共産主義による革命やフリーメーソンによるこの世の天国をつくるために闘争しあうのではなく、イエズス様とマリア様がおられる天の御国へ帰り着くために、世俗の精神の危険から御守りいただけますように、と祈ることができてしあわせに思いました。(常日頃、世俗の精神に浸りきっているものですから。)

"平和の考えとはマリア様のことです、マリア様を通してイエズス様に求めるなら、かなえられないものはない"というお話にも安心な気持になりました。

平和とはこの世の平和ではなくて、主の到来によって与えられる永遠の平和・至福の平和という意味ですと教えていただいて、心に平和が満ちるかのようでした。

これまで毎夏に聞いていた平和旬間という言葉のなかに、どれだけこのような超自然的な意味までの平和が含まれていたことでしょう? 平和という同じ言葉でも、異なる意味と内容があるのだなあと気づかされたようです。まことに、平和の君イエズス様、平和の元后マリア様です。これまで平和という言葉にもこの世的な胡散臭い匂いがちょっと混じると感じてしまうところがあった自分の曲がった心を反省させられました。神父様、ありがとうございます。

お説教で、”私たちの心がご聖体拝領によりキリスト化されるされるために、イエズス様は来られます”ということ、そして、”天国を眺めて十字架の足もとに行き日々自分の十字架を持って歩くことでイエズス・キリストの栄光の身体に変えられる”ということが心に残りました。

特に今回は、”この方の服の切れ端に触っただけで癒された”という言葉から、”ましてこの方がご胎内に入られて下さったマリア様はがどれほど清らかであるか”を黙想する事ができると教えていただいたこと、うれしく思います。

普段は世俗の精神でいっぱいになってしまっていることを、御ミサに与ることで反省させられて、浄められているのだなあと、あらためて確認させていただきました。”私たちはこの世で外国人・旅人であって、天国が究極の目的です”とのお話に、我に返ってまた、毎日の生活を聖母の汚れなき御心にお捧げしたいと思います。

小野田神父様、いつも本当にありがとうございます。残りの休暇も良い休暇となりますようにお祈り申し上げます。


【報告】
公教要理の報告です。

今回は御告げのマリア様という主題でのお話とのこと、とても楽しみでした。
お話は、初土の信心の説明と、初土の信心のための15分間の黙想について、詳しく教えていただきました。

聖ジャシンタが、ルシアへ、”汚れなき御心の信心について世界中に話をしてちょうだいね”と頼んだとのことでした。神父様がお話しくださるのは、聖ジャシンタの願いであり、そしてファチマのマリア様のお望みのことと思いました。

まず最初に初土の信心の説明をしていただきました。
初土の信心とは、罪を償うとの意向を持って、次の四つのことを五回(5か月)続けるということ。
1)ご聖体拝領
2)告解
3)ロザリオ5連
4)黙想15分

東京では御ミサが第1主日におこなわれるので、主任司祭の許可を得ると、1と2は日曜日に行うことがゆるされる。
マリア様はファチマで、この初土の信心をよくする霊魂の救いを保証してくださった。それのみならず、天主の玉座の近くに飾られる特別の霊魂にさせていただける。

そして次に、4の黙想の15分ということについて、お話をいただきました。
黙想は、普段から行う習慣をつけておかなければ雑念でいっぱいの15分になる心配があるので、できれば毎日黙想するようにとのこと、初土の黙想のリハーサルとして毎日この黙想を練習し何度も考えることが大事ですと教えていただきました。

また黙想は、15玄義のうちの一つを良く黙想するということ。15分のうちに15玄義を黙想するのではないということを確認出来てよかったです。

それから黙想の内容について、今回は喜びの玄義の中の御告げのマリア様のことをお話していただきました。

1)祈りから始めること。
黙想がよくできますようにとマリア様への祈りから始める。
「イエズス様の聖心をよく知るとこができますように、どういうことが起こったのかよくわからせてください。」
「マリア様はどこでお生まれになりどのような御方だったか、あたかも一緒に生活しているように、よく知ることができるように、よくわからせてください」

2)具体的な場面を思い浮かべる。
「雑念がないように、天使があらわれたのはどういうところだったか具体的な場面を思い浮かべて黙想する」

・マリア様は、ダビデの王家の子孫だった。この世的な財産とか地上的な権力はなかった。
・マリア様は、貧しい寒村のナザレトに住んでおられた。
・マリア様の御年齢は、15-16歳と思われる。
・マリア様は、ヨゼフ様と婚約したばかりだった。
・マリア様は、天主のために自分の人生を使いたいと思われていた。
・お祈りしているマリア様。マリア様は何のお祈りをしていたのだろうか。「女の子孫が救い主となるであろう。童貞女が子を産む。ベトレヘムに生まれる。救い主の人生はどのようなものであるだろうか。自分はその救い主を産む方のはしため、下女とかアシスタントとしてお手伝いをしたいです」とお祈りしていたかもしれない。
・マリア様は、「もうすぐ救い主のお生まれの時は近づいています、どうぞ私を使ってください。」とお祈りしていたかもしれない。
・ファチマに大天使ミカエルがあらわれたように、最も力ある大天使ガブリエルがあらわれた。
・マリア様はこれまでも天使をよく見たことがあったかもしれない。秋田でシスター笹川もよく天使を見ていたそうだ。
・この時は特別の挨拶をしていた、御告げの挨拶。「申し上げます、喜びなさい」この挨拶はいったい何だろうか?「ダビデの国は永遠に終わることがない」とは?
・マリア様は、自分は救い主の母のはしためとして使っていただきたいと思っていたのに、ご自分が小さい隠れた存在だと知っていたのに、なぜこんなことが起こるのだろうと思われた。(聖霊の力で起こること。)


・マリア様は、天主の子の母となる事は苦しみの母となることを良く知っておられた。
・ハイと言うことは、栄光の母であると同時に十字架の母・苦しみの母でもあることを承諾する事。
・ハイと言うか言わないか、それによって人類の救いがかかっている。
・マリア様のハイと言うこと、多くの人がそれによって救われる。
・アダムとエヴァのとき、エヴァの好奇心から人類の救いは、くつがえってしまった。(フランスの王14世の時にはフランス王国を奉献することを拒否して革命が起こってしまった。)
・マリア様は、「ハイと言えば人類は救われる、しかし自分は苦しむ」と、ご存じであった。
・その時マリア様は、即座に「おおせのごとくわれになれかし」「われは主のつかいめなり」「Fiat」と答えられた。
・マリア様は謙遜にこの苦しみを喜んで受けられる。
・マリア様になぜお告げがなければならなかったのだろうか。
・なぜマリア様にお告げが必要だったのだろうか。
・お告げによって人類の歴史が変わった。
・ノーという返事により人類の歴史が変わったのは、悪魔のノーだった。天主は人間をつくる前に天使を作り、一回だけ試験をした。「天使たちのさらに上にある人間の女の子が女王として立つ、お前たちもそれに仕えてほしい、そして天主が人間となる」といわれた。それに対して、「なぜ人間の女の子!に仕えなければならないか、なぜ天主は天使とならず人間となるのか、なぜわれわれ天使は人間を守護するものとして人間に仕えなければならないのか」、といって反乱を起こした。そのために一部の天使は、反乱をおこして地獄に落ちなければならなかった。しかし天使の階級層の下にあった大天使ミカエルは・・・「誰が天主に等しいものがあるか!天主に仕えなければならない」といった。
・地獄に落ちた天使である悪魔は、「人間のせいで我々は地獄にいる、人間のせいでおれたちは地獄にいるんだ、女がおれたちの上に立つと言われた」ので、女であるエヴァに攻撃を仕掛けた。エヴァは堕天使によって最初に誘惑を受けた。

・マリア様は・・・天使によってお告げを受けて救い主の母となる必要があった
トマス・アクィナスによると、マリア様が御告げを受ける四つの理由があった。
1、マリア様がイエズス様を、肉において宿す前に精神によって宿していなければならなかったため。天主を宿す前に、頭に御子についての考えを宿していなければならなかった。そのためにお告げがあったのであり、いきなりではなかった。
concept 概念、頭の中にある事
conception 子供を宿す
conceive 宿す
2、マリア様が深い確実な知識を知っている必要があったため。天使を通して教えられていて、この神秘を確かに証しするため。確かにこういうことがあると知るために。
3、従順の贈り物をするため。
4、天主と人類との一致(婚姻)のため。天国に行くことは天主と永遠に一緒になって離れないということであり、婚姻に例えられている。、「あなたはそれに同意しますか?」・・・人類の同意が必要だった。

「時間になったので、今日は以上までとします。」

質問の時間に
Q.セラフィムは単数形か複数形か?
セラフィムは複数形です。(単数形は、セラフ)。
天使たちは一部だけが反乱しましたが、人間は最初から躓いてしまい、救われるのは少数となってしまった。天使たちは、それぞれの階級の中の一部だけが躓いてしまった

Q.光を運ぶもの(Lucifer)は一人だけか?
Yes。天使の頂点に立つもの、Lucifer、一位が反乱を起こした。天使の頂点が反乱を起こしたので、天使たちは大変だった。天使は人間よりも素晴らしい光の存在のものだと自身を思いこんでいた。人間は天使より劣っているものだと思っていた。

Q.大天使ミカエルは下の方の天使だったようだが、上に引き上げられたとき、セラフィムになったのか?
No.大天使のままである。天使は階級制で、メッセージを上から下に伝えている。組織上そこにいる役割を持っている。下に行くと被造物の世話をするという役割がある。

グレゴリア聖歌の練習

グレゴリア聖歌の歌い方を教えていただきながら、練習しました。
次のポイントに注意して歌う。
・やすむように歌う
・楽譜に書かれているとおりに歌う
・(全員で歌いながらも)一人で歌っているかのように歌う
・すべて溶け合って歌っているのが必要
・柔らかくソフトに歌う
・他の人の歌う声を聞きながら歌う
・やさしく、こぶしを効かせずに、歌う
・あまり大きな声で歌わない
・天使が歌っているかのように歌う
・区切られているところでは止まる
・グレゴリア聖歌を歌っていると、健康に良い

感想

初土の信心について、詳しく教えていただけてとてもうれしく思いました。
特に15分の黙想というのが、なかなかハードルが高かったのですが、何を黙想するべきなのかということをハッキリ教えていただきまして安心いたしました。小野田神父様のお話を通して、ファチマの聖母の願いに耳を傾けることができることを、幸せに思います。

第1玄義の第一の奥義の部分だけでもこれほど黙想することができると教えていただいて(もっとあるのでしょうか)、びっくり致しました。トマス・アクィナスの教説は本当に素晴らしいとあらためて思いました。特に最後の、天主と人類との一致が、カトリックにおける婚姻の神秘的な意味であることにふれていただいて、”神秘的婚姻には同意が必要だったから”というお話が、興味深かったです。

マリア様のご生涯にこれほどの深い意味が潜んでいて、それは人類の初めについても深くかかわることであるとは全く知りませんでした。

神父様に、15の玄義のそれぞれをお話いただくなら、きっと聖書全体、イエズス様のご生涯の全体、人間の作られた目的、私たちがどこからきて何処へ行くのかということを、理解できるのではないでしょうか。このようなために、ファチマでマリア様は、私たちに聖書の”み教え”から離れることなく、黙想するようにと、伝えてくださったのかもしれないと思いました。

小野田神父様のファチマのマリア様偽の御出現の比較考察の論文を、二十年の間に少なくとも数回は読ませていただいた記憶があります。(ファチマで検索するとでてきましたから)。

昔はそれほどよく理解できませんでしたが、現在お恵みにより御ミサに与り公教要理にて学ぶ機会をいただくようになり、その論文の中身を以前より深く理解できるようになってきていることを感じております。(再掲してくださいましてありがとうございます。)

ルターを初め現代のカトリック教会などで、マリア様のことを考えるな、マリア様は脇役に過ぎないというのは、霊魂が救われることがないようにとの、敵の策略でしかないような気がいたします。

また、このファチマのマリア様の勧めを忘れたり過去のものとして葬ろうとして、敵は偽の御出現を用いて、人間を惑わそうとしているのではと感じます。また、これから大事なメッセージが発表されますよー待っていてくださいねーと言うことによって、ファチマのマリア様の大切なメッセージに集中できないように気をそらせているものもあるのかなと思ったりします。

わたし自身はカトリッ教会でマリア様のことが教えられず話されなくなっていたので、過去に東洋的な瞑想や科学的な瞑想など、そういったものに関心を持ちました。流行する各種のメディテーションに気を取られて時間を費やすよりも、マリア様のご生涯を黙想することでこそ、霊魂の救いをいただくということを教えていただきましたことを感謝申し上げます。

またグレゴリア聖歌について体験し練習の中で、知識だけでなく、音を通して聖なる感覚も、目覚めさせていただいているのかもしれないと思いました。(御ミサの中で焚いていただきます香も、とても聖なる感じがいたします。)

今回は、遠い九州から御ミサに来て下さった方も御一緒で、楽しく学ぶことができました。
小野田神父様いつも公教要理やグレゴリア聖歌の練習を、まことにありがとうございます。

【参考資料】
私的啓示と霊の識別 ファチマとメデュゴリエ カトリック教会は、どの様な精神を持って御出現を識別するのか
私的啓示と霊の識別 ファチマとメデュゴリエ その2 カリスマ刷新運動と聖霊降臨運動
私的啓示と霊の識別 ファチマとメデュゴリエ その3 ファチマの御出現のポイントをメデュゴリエの出現に適応して比較してみる
私的啓示と霊の識別 ファチマとメデュゴリエ その4 メデュゴリエの出現のメッセージを考察する
私的啓示と霊の識別 ファチマとメデュゴリエ その5 メデュゴリエの出現について結論を出す:パワオ・ザニッチ司教
私的啓示と霊の識別 韓国のナジュ(羅州)のユン・ユリアの「出現」は本物ではない 公式に否定されている

【グレゴリオ聖歌:聖霊降臨後第23主日の固有文】
主は言い給う 私は平和の考えを考える Dicit Dominus : ego cogito cogitationes pacis 聖霊降臨後第23主日入祭唱
聖霊降臨後第23主日の固有文 入祭唱を黙想する(その2)「主は言い給う 私は平和の考えを考える」
聖霊降臨後第23主日の固有文 昇階唱 Liberasti nos, Domine を黙想する 「主よ、御身は私たちを解放し給うた」
聖霊降臨後第24主日 アレルヤ、主よ、深い淵々から私は御身に向けて叫んだ Allelúia De profúndis clamávi ad te, Dómine

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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