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2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

シスターアグネス笹川の後半生|秋田の聖母のご出現に対する迫害と十字架の生涯 なぜシスターが修道院を去らねばならなかったのか?

2024年08月31日 | お説教・霊的講話

シスター笹川の追悼ミサ(大阪)説教

トマス小野田圭志神父 2024年8月23日(金)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
私たちは、この前の聖母の被昇天の祝日に天に召されたシスターアグネス笹川の追悼ミサを行っています。

シスターアグネスは、秋田の湯沢台にある聖体奉仕会で、1973年の7月6日、8月3日、それから、10月13日の三回にわたって、木彫りの聖母像から、全人類に関わる重大なメッセージを受けました。今日はそのメッセージについて一緒に黙想いたしましょう。

黙想の前に・・・これが本当であるということを確認するかのように、木像の聖母像からは1975年1月4日から1981年9月15日まで101回の涙が流れました。この涙の現象は客観的事実として多くの人々が目撃しました。

湯沢台の聖体奉仕会の創立者であり、新潟司教区の教区長であったヨハネ伊藤庄治郎司教様自身も、涙をご覧になりました。また、わたしに洗礼を授けてくださった聖アンナ藤枝教会のヨゼフ・マリ・ジャック神父様も、ご覧になりました。藤枝の信者さんたちを連れて、秋田に巡礼に行った時、皆でその涙の現象を目撃しています。

秋田の聖母に関する出来事については、シスター笹川のことを個人的によく知っていた伊藤司教様、つまり、これを公式に調査した伊藤司教さまが、当時の新潟教区長として1984年4月22日に、司教書簡をもって、秋田の聖母に関する超自然的な性格を確認しました。そして、秋田の聖母に巡礼を行うこと、また秋田の聖母を公(おおや)けに崇敬することを認可しました。

【秋田の聖母の出来事】
言ってみると、秋田の聖母の出来事というのは、ちょうどグァダルーペのマリアさまと比較できるかもしれません。1531年にグァダルーペの聖母が、アステカ文化を受けて育ったファン・ディエゴに御出現なさって、ご自分が天主の御母であることまた私たちの霊的な母であるということをお示しになったように、同じく日本でも1973年マリアさまは、日本人のアグネス笹川を通して、ご自分が天主の御母であり私たちの母であり特にイエズス・キリストとともにわたしたちの罪を贖う者、共贖者であるということを示されました。

ちょうどグァダルーペのマリアさまが、ファン・ディエゴの着ていたみすぼらしいティルマという服にご自分のお姿を写されたように、秋田のマリアさまも木彫りの像を通してご自分のメッセージをわたしたちに与えようとお望みになりました。

【メッセージの内容】
では、メッセージはどんな内容だったのでしょうか? すこし黙想いたしましょう。

〔聖母マリア様からの最初のお告げ〕
1973年7月6日の最初のメッセージでは、マリアさまはご自分が愛する母であるとして、母として、シスターに語りかけます。そして三回のメッセージの時につねにマリアさまは、母として、シスターに語りかけます。

「わたしの娘よ、わたしの修練女よ。」
と呼びかけて、
「ここの一人一人が、わたしのかけがえのない娘です。」
と、おっしゃいます。
そして、優しい母として、シスターの寛大さを高く評価して労(いた)わります。そして慰めて励まします。
「すべてを捨てて、よく従ってくれました。
耳の不自由は苦しいですか。
きっと治りますよ。
忍耐してください。
最後の試練ですよ。
手の傷は痛みますか。」

何と優しいお母様でしょう。
でも、マリア様はさらにシスターに、「償い」のために祈るようにと求めます。
「人々の償いのために祈ってください。
…聖体奉仕会の祈りを心して祈っていますか。
さあ、一緒に唱えましょう。」

こういって、伊藤司教様の作った聖体奉仕会の祈りを、シスターと一緒にマリアさまは唱えます。その時にマリアさまは、司教様の祈りに少し訂正の言葉をいい付け加えます。

どうやって祈ったかというと、
「御聖体のうちに"まことに"にましますイエズスの聖心(みこころ)よ、一瞬の休みもなく、全世界の祭壇の上にいけにえとなられ、御父を賛美し、み国の来たらんことをこいねがう至聖なる聖心(みこころ)に心を合わせ、わが身も心も全くおんみに捧げ奉(たてまつ)る。願わくは、わがこのつたなき捧げを受けとり、御父の光栄と霊魂の救いのために、聖旨(みむね)のままに使用し給わんことをこいねがい奉る。幸いなる御母よ、おんみの御子より引き離すを許し給わざれ。おんみのものとして守り給え。アーメン」。

このお祈りを一緒に唱えた後、マリアさまは特に「教皇さま、司教さま、司祭たちのために」たくさん祈るように求めます。なんとおっしゃったかというと、こうです。

「教皇、司教、司祭のためにたくさん祈ってください。あなたは、洗礼を受けてから今日まで、教皇、司教、司祭のために祈りを忘れないで、よく唱えてくれましたね。これからもたくさん、たくさん唱えてください。」

〔聖母マリア様からの第2のお告げ〕
一か月の後、8月3日初金曜日、マリアさまは第二のお告げを与えます。やはり母として、シスター笹川に「全てをつくして主を愛しているか」という第一の最大の掟を思いださせます。そしてもしも主を愛しているのならば、マリアさまの言葉を聞くようにと命じます。

「わたしの娘よ、わたしの修練女よ。
主を愛し奉っていますか。
主をお愛しするなら、わたしの話を聞きなさい。」

それから、ご自分がいまから重大なメッセージを伝えるといいながら、こうおっしゃいます。
「これは大事なことです。そしてあなたの長上に告げなさい。世の多くの人々は、主を悲しませております。わたしは主を慰める者を望んでおります。天の御父のお怒りをやわらげるために、罪びとや忘恩者に代わって苦しみ、貧しさをもってこれを償う霊魂を、御子とともに望んでおります。」

さらに、御父がこの世に対して怒り給うていることに、言及されます。
でもマリアさまは「御子とともに、何度も何度も御父の怒りを和らげるように努めてきました。そして十字架の苦しみ また御血を御父に示して、御父をお慰めする霊魂たち、至愛なる霊魂、その犠牲者となる集まりをささげてきた・・・」とおっしゃいます。そして「何とか怒りを引き止めようとされてきた」とおっしゃいます。そしてマリアさまはこう締めくくります。

「祈り、苦行、貧しさ、勇気ある犠牲的行為は、御父のお怒りをやわらげることができます。あなたの会にも、わたしはそれを望んでおります。貧しさを尊び、貧しさの中にあって、多くの人々の忘恩、侮辱の償いのために、改心して祈ってください。」などなど。

そして
「熱心をもってひたすらに聖主(みあるじ)をお慰めするために祈ってください」。

〔聖母マリア様からの第3のお告げ〕
10月13日、ファチマの最後の御出現の日に、太陽の奇跡の記念日にはマリアさまは最後のメッセージを与えます。「愛するわたしの娘よ、これからわたしの話すことをよく聞きなさい。そして、あなたの長上に告げなさい。」

そしてマリアさまはなんとおっしゃたかというと、
「もしも人々が悔い改めないなら、御父は、全人類の上に大いなる罰を下そうとしておられます。そのとき御父は、大洪水よりも重い、いままでにない罰を下されるに違いありません。火が天から下り、その災いによって人類の多くの人々が死ぬでしょう。よい人も悪い人と共に、司祭も信者とともに死ぬでしょう。生き残った人々には、死んだ人々を羨むほどの苦難があるでしょう。」

しかしマリアさまはわたしたちに武器があることを教えてくれます。
「その時あなたたちに残る武器は、ロザリオと、御子の残された印だけです。
毎日ロザリオの祈りを唱えてください。
ロザリオの祈りをもって、司教、司祭のために祈ってください。」

マリアさまは教会の中に混乱があることを、信仰の危機が起こることを、お話しになります。
「悪魔の働きが、教会の中にまで入り込み、カルジナルはカルジナルに、司教は司教に対立するでしょう。わたしを敬う司祭は、同僚から軽蔑され、攻撃されるでしょう。祭壇や教会が荒らされて、教会は妥協する者でいっぱいになり、悪魔の誘惑によって、多くの司祭、修道者がやめるでしょう。特に悪魔は、御父に捧げられた霊魂に働きかけております。たくさんの霊魂が失われることがわたしの悲しみです。これ以上罪が続くなら、もはや罪のゆるしはなくなるでしょう。」

最後にこうも言います。
「…… ロザリオの祈りをたくさん唱えてください。迫っている災難から助けることができるのは、わたしだけです。わたしに寄りすがる者は、助けられるでしょう」

マリアさまのこの最後の訴えを、わたしたちはよく心に留めることにいたしましょう。

【迫害】
では、皆さんは、こう疑問に思われるかもしれません。マリアさまのメッセージは伊藤司教さまによって認められた。では、なぜ、シスター笹川は、秋田の修道院ではなくて、熊本で亡くなられたのでしょうか? なぜ修道院に留まることができなかったのでしょうか?

はい、確かにヨハネ伊藤庄治郎司教 (1928-2005)様 は、1984年に秋田の聖母を司教書簡によって公式に公認しました。しかしその一年後に、1985年3月9日には、フランシスコ佐藤敬一司教様が新潟の教区長に任命されます。ところがこの佐藤司教様は、聖体奉仕会が教区の信心会としてのピア・ウニオという一団体ではなく、教皇権を持ったもっと位の高い格の高い修道会として認可されるということを望んだようです。

そこで1987年3月17日、佐藤司教様はまず、安田神父様の聖体奉仕会での指導司祭としての任を解きます。そして、修道院からでていくように書簡で命令します。安田神父様は修道会を指導してきた方で、そして秋田のマリアさまの出来事を非常に深く信じてそして支持してサポートしてきた方ですが、1か月後、秋田の湯沢台を発って、静岡県の浜松にある聖霊修道女会の修道院に引っ越しされます。

またその後、1998年8月22日には、佐藤司教様は、聖体奉仕会にやって来て、シスター笹川に聖体奉仕会の修道院から出て行って別のところに住むように、命令されます。なぜかというと、佐藤司教様の説明によれば、秋田の聖体奉仕会が教皇権の修道会に格上げされるためには御出現と一体化してはいけない、と思われたようだからです。ですから、まず安田神父様の「秋田の聖母」の本の出版や販売を禁じます。そして、マリアさまの涙を拭きとった脱脂綿も、焼き捨てるように処分するように指示されたとのことです【幸いに、涙を拭きとった脱脂綿はいまでも聖体奉仕会に保存されています。2005年1月6日、佐藤司教様は、手術の際に医者が体内に置き忘れた脱脂綿が化膿して亡くなりになったと伺っています】。

そして秋田の聖体奉仕会では、マリアさまの御出現についてあまり話をしないように、とされました。ですから、それまでは秋田の聖体奉仕会のシスターたちは、マリアさまの涙のビデオを皆に見せたりとか、あるいはメッセージの話もしたりとかしていたのですけれども、それらについては語ろうとしなくなり、そして、世界中からの巡礼者を歓迎することも控えるようになっていきました。

新しい教区長の佐藤司教様が、聖体奉仕会からシスター笹川に出ていくようにといわれたその直後に その同じ日のその直後に、偶然、ある宮城県の角田市にあるカトリックの老人ホームの施設を運営していた方が、シスターにたまたま電話を掛けたのです。そこから、こういう話があった…ここを出なければならないという話があって、シスター笹川は、宮城県のこの老人施設に引っ越すことになりました。そして、司教様がここを出て行くようにと命じられた一か月後、9月15日に聖体奉仕会を去って、こちらに引っ越します。

その時に、シスターは一人ではなくて、一緒にいたシスター杉岡も一緒に移り住みました。このシスター杉岡は、私たちのこの大阪の聖堂で熱心に通っておられた吉崎さんのお姉さんです。ですからわたしたちは秋田のシスター笹川とはとても深い縁があります。

また司教様の指導によって、一部のシスターたちは安田神父様の本を処分して、秋田では販売しないようになりました。

2002年には、シスターアグネスは、その老人施設から、千葉の八街市にある甥っ子さんの家に引っ越しされました。そして、シスター杉岡たちも一緒に引っ越しされました。
【笹川シスターは佐藤司教様より、あなたは親、兄妹の所に住んではいけないと言われて、その命令を守るため、カトリック信者の、親戚を頼って八街に来ました。八街の親戚の家には、杉岡シスターのと共同生活をするために家を探しているわずかな期間だけ(3ヶ月位)親戚の家に身を寄せていました。共同生活をしていましたが指導司祭が亡くなり聖体奉仕会の命を受けて熊本の会員の元に行きました。】

その後いろいろな話はありますが【2013年11月22日、安田神父様が97歳で亡くなり】、シスターアグネスは2014年5月に熊本に引っ越しされました。いろいろな天主の御摂理によって シスターは修道会を出ざるを得なくなりまして、十字架の苦しい生活を続けなければなりませんでした。これについては、また後に、機会があればお話しをしたいと思います。

【天主の御旨】
ではいったい、これはいったいなぜマリアさまは、「迫っている災難から助けることができるのはわたしだけです」とおっしゃったのでしょうか。

なにか「わたしだけです」というのは、マリアさまが傲慢になっているんじゃないか、と誤解するかもしれません。

そうではなくて、‟迫っている災難から助けることができるのはマリアさまだけ”というのは、これは‟天主三位一体が、その聖なるみ旨によって、聖母だけが迫っている災難から助けるお恵みを分配することができるように、お望みになられている”からです。これは、マリアさまが傲慢なのでなくて、三位一体がそう望んでいるからです。

ですから、マリアさまは、わたしたちにそのことを教えてくださっているのです。

なぜかというと、三位一体は、マリアさまを通してわたしたちにイエズス・キリストを与えようとお望みになりました。マリアさまはキリストの神秘体である頭(かしら)をわたしたちに与えた方です。そして、わたしたちはその頭につながる体です。聖ベルナルドは、マリアさまはキリストと私たちをつなぐ首であると言っています。つまり、もしもイエズス様からのお恵みがわたしたちのところに来るならば、必ず首を通してでなければ、わたしたちのもとには来ない、マリアさまを通してでなければ、イエズス・キリストはわたしたちに与えられなかった、だから、今後も、どのようなお恵みも、イエズス・キリストのお恵みであれば、マリアさまを通すのでなければ与えられない。

ステラの福者イサアクという人は、キリストは教会なしに罪を赦すことはない、といっています。なぜかというと、キリストは教会を通して告解の秘跡あるいは洗礼の秘跡を与えるからです。同じように、聖母は天主なしに聖寵を分配することがないけれども、しかし、天主はマリアさま無しに聖寵をお恵みを分配することは欲していないということができる、といいます。

ですから教会のすべての教えは、「マリアさまはすべてのお恵みを、わたしたちに、イエズス・キリストから与える」「マリアさまを通して、与えられる」とおっしゃっています。

ですから、コルベ神父様がおっしゃることは、まさにそのとおりです――「天主は、あわれみの全秩序を御身に委ねることを望まれた」と。そして「聖母の御手を通して、イエズスの至聖なる聖心からすべての聖寵はわたしたちのもとにたどりつく」――そのとおりです。

マリアさまだけがわたしたちを救うことができます。これこそが天主のお望みです。このことを、秋田の聖母は、わたしたちに最後のメッセージで伝えてくださいました。

シスター笹川の帰天を機会に、わたしたちは秋田のマリアさまのメッセージを、心して黙想することにいたしましょう。

そしてシスター笹川のように犠牲の霊魂となることは難しいかもしれませんが、しかし、わたしたちのできるかぎり、マリアさまの御憐れみとお恵みの取次によって、わたしたちも日々の祈り・犠牲・生活を、世の人々の回心のためにお捧げいたしましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


【特別公開】聖ピオ十世修道女会創立50周年記念|創立者,その霊性,目的,修道生活,使徒職について紹介する動画

2024年08月22日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

聖ピオ十世修道女会創立50周年を記念して、その創立者、その霊性、目的、修道生活、使徒職について紹介する動画が日本語の吹き替えで公開されました。ご紹介いたします。お友達にもご紹介をお願い致します。

 

 


【追悼ミサ説教】シスターアグネス笹川が秋田の聖母像から受けた、全人類に関わる非常に深刻で重大なメッセージ

2024年08月22日 | お説教・霊的講話

2024年8月20日 シスター笹川追悼ミサ 説教

トマス小野田圭志神父

聖父と聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、

シスターアグネス笹川は、秋田で、1973年7月6日、8月3日、そして10月13日の三回にわたって、木彫りのマリア像から、全人類に関わる非常に深刻で重大なメッセージを受けました。

このメッセージが本当のことであるということを確認するかのように、この木彫りの木像のマリアさまから101回の涙が流れました。1975年1月4日から1981年9月15日までのことでした。多くの人々が延べ二千名の方が、その客観的事実を目撃しています。秋田の聖母に関する出来事については、これを公式に調査した当時の新潟教区長ヨハネ伊藤庄治郎司教様によって、1984年に認可されました。

マリアさまは、シスター笹川を通して、もしも人々が罪を悔い改めないならば、全人類の上に、ノエの洪水のときよりも重い、いままでにない罰があるだろうと警告されました。しかしマリアさまは同時に、ロザリオの祈りを毎日祈ることによって、そして祈りと償いの業をすることによって、私たちは迫っている災難から助けられること、この災難から助けることができるのはマリアさまだけであることを、そして聖母に寄りすがる者はすべて助けられるということを、約束されました。

では、シスターアグネス笹川の生涯は、いったいどのようなものであったか、そしてそのメッセージの核心は何だったのか、どのようにその生涯の最後をとげられたのかを少し見て、そして最後に選善の決心をたてましょう。そして、シスターのためにお祈りいたしましょう。

【生まれ】
シスター笹川は、1931年の5月28日に、笹川セイイチと笹川シズの間の三番目の子供として、生まれました。五人兄弟のうちの次女でした。病弱ではありましたが、あたたかい家族の愛情にかこまれて、非常に健やかに育っていきました。
シスター笹川のお父さん、笹川セイイチは、八千浦(やちほ)村の村長でした。後に八千浦村というのは直江津(なおえつ)市の一部になります。【直江津市は後に上越市になりました。】このお父さんは、のちに、安田神父様が1974年の9月に、ヨアキムという名前で、笹川セイイチさんが77歳のときに、洗礼を授けています。
お母さま、笹川シズは、やはり、1965年にアンナという名前で、洗礼を受けています。またシスター笹川のお姉さんも妹も弟もみなカトリックの洗礼をうけています。

【洗礼】
シスター笹川は、確かに熱心な仏教の家で生まれましたが、なぜカトリックになったのでしょうか? それは、十九歳の時――1950年のことでした――戦後間もない時で、【地元の病院で】盲腸の手術をしました。しかし、手術は失敗でした。【麻酔の手術の失敗で】中枢神経が麻痺して、十六年の間、寝たきりの闘病生活を余儀なくされました。【治療】するために、はるばる東京の有名な大学病院まで来【たこともあり】ました。そのとき、家族の一部からはこのような失敗をおかした病院の先生たちを訴えるべきだと出ましたが、シスター笹川のお父さんも またシスター笹川自身も、いや先生は一所懸命やったのだからわたしたちは感謝している、といって、寛大にこの病院をそして先生を赦しました。

そのうちに、病院を転々とし、再三の手術入院を繰り返したのですが、ついに妙高病院で入院中、熱心なカトリック信者の看護婦さん、渡辺ハルさんと出会って、そして、その献身的な看護で病状は回復に向かい、そしてカトリックの信仰も得ました。1960年の復活祭に、アグネスという名前で洗礼を受けました。

【修道生活】
そののちにシスターアグネスは天主へのそして隣人への奉仕の愛に燃えて、修道生活を行おうと望み、一度は長崎の純心聖母会修道院に入会しますが、しかし病気が再発して、ふたたび妙高病院に入院します。

しかし、シスター笹川は、それでも、病気の身になったとしても、修道生活を非常に望んでいたのですが、その時に、ちょうど、高田教会の主任司祭から、新築された妙高教会の教会の番をやったらどうかと受付の係にお願いされて、そしてこれを引き受けることになりました。

また同時に、在俗でありながら修道生活を送ることができるという聖体奉仕会のことを知り、1969年に妙高教会に奉仕しながら、聖体奉仕会の外部会員として入会しました。

【聖体奉仕会】
教会守り同時にカテキスタの奉仕役をしていたのですけれども、1973年3月突然、その妙高教会で受付をやっていた時に電話を取ったところ、何も音が聴こえなくなりました。そしてすぐに入院すると、耳の機能はすべていいのだけれど、本当は聞こえていなければならないはずだけれども、しかしまったく音が聴こえなくなりました。これはきっと極度の疲労からきたものであろうとみられる、神経の麻痺によるものだとみられる、そしてそこですべての仕事をやめるようにと言われました。

そうする間に、聖体奉仕会のほうからお見舞の連絡が来て、そして、もしも妙高教会で教会守りができないならば一緒に修道生活をしないか、秋田に来ないか、と誘われて、そして1973年の5月、秋田に到着することになります。

【秋田の聖母の出来事】
到着するや否や、その翌月から、ご聖体のある御聖櫃の中に光が輝くのを見出だしたことから始まり、無数の天使たち、あるいは守護の天使のメッセージを聴くこと、またマリアさまの御出現、あるいは出血の現象、発汗現象、芳香現象、あるいはまたマリアさまが涙を流されること、など、また耳の特別な奇跡的治癒の恵みなどによって、ご聖体に始まった奇跡的な現象がご聖体に終わるということで、秋田のマリアさまの御出現の一連の出来事がありました。

では マリアさまはいったいシスター笹川に、いったい何を言われようとしていたのでしょうか。

一つは、ご聖体がイエズス・キリストの真(まこと)の御体であるということです。ご聖体が安置されている御聖櫃が光輝いていたことや、天使たちがそれを礼拝していたこと、のみならず、マリアさまが「御聖体のうちにまことにまします」という、‟まことに″という言葉をお祈りに付け加えるように命令されたりしたことから、ご聖体のことが強調されました。また、マリアさまは、シスターアグネスを通して、「教皇・司教・司祭のために、たくさん祈るように」と訴えられました。

第二の点は、それは罪という超自然的な現実についてのことをわたしたちに思い出させることでした。

罪というのは、あたかも忘れられてしまって、わたしたちにとって、大切なことはこの地上での平和であったり、地上でのこの目に見える生活のことだけであるかのように、人々は錯覚しています。

しかし、聖母は、そうではなくて、もっとも大切なのは天主とわたしたちとの間の平和の関係であって、それは罪のない状態である、罪ということこそが本当の悪であって、最大のわたしたちにおける不幸である、と訴えます。

マリアさまはこうおっしゃいます。
「世の多くの人々は、主を悲しませております。わたしは主を慰める者を望んでおります。天のおん父のお怒りをやわらげるために、罪びとや忘恩者に代わって苦しみ、貧しさをもってこれを償う霊魂を、おん子とともに望んでいます。」

マリアさまは、第二、第三のメッセージにおいて、このもしも罪の償いがなければ何があるかということを警告します。それは、御父がこの世に対して怒り給うておられる、ということです。そのために全人類の上に大いなる罰があるだろうということです。

聖母は御子とともに、何とかその怒りを宥めるようにしてきたけれども、しかし、もっと宥める霊魂が必要である、と訴えます。

もしも人類が悔い改めないならば、もしも宥める霊魂が、祈りが、犠牲が足りないならば、御父は全人類の上に大きな罰を下そうとしており、それは大洪水の時よりも重い、いままでにない重い罰である、とおっしゃいます。
マリアさまの言葉は非常に恐ろしいものもあります、「火が天から下り、その災いによって人類の多くの人々が死ぬでしょう。よい人も悪い人と共に、司祭も信者とともに死ぬでしょう。生き残った人々には、死んだ人々を羨むほどの苦難があるでしょう。」

しかしマリアさまは同時に私たちに、武器も教えてくださいます。「その時に何をしたらよいか、それはロザリオと御子の残された印だけです。毎日ロザリオの祈りを唱えてください。ロザリオの祈りをもって、司教・司祭のために祈ってください。」

御子の残された印とは何か‥‥安田神父様とそしてシスター笹川は、これはご聖体のことである、と考えています。イエズス様が制定されたミサ聖祭とそして御聖体の秘跡、のことでしょう。つまり、ドン・ボスコが夢の中で見た、最後に教会の勝利をおこすためにやった二つの柱、それには聖母とそして御聖体があったということが、わたしたちに知らされています。おそらく秋田のマリアさまも、ロザリオと御子の残されたしるし――つまり聖伝のミサについて話していたに違いありません。

そしてマリアさまは、さらに、教会における信仰の危機について話します。
「悪魔の働きが、教会の中まで入り込み、カルジナルはカルジナルに――すなわち枢機卿は枢機卿に、司教は司教に対立するでしょう。わたしを敬う司祭は、同僚から軽蔑され、攻撃されるでしょう。祭壇や教会が荒らされて、教会は妥協する者でいっぱいになり、悪魔の誘惑によって、多くの司祭、修道者がやめるでしょう。特に悪魔は、おん父に捧げられた霊魂に働きかけております。たくさんの霊魂が失われることがわたしの悲しみです。これ以上罪が続くなら、もはや罪の赦しはなくなるでしょう。」
いま、カトリック教会を襲う信仰の危機について、マリアさまはすでに警告されたと考えられます。

マリアさまはもう一度言います。
「ロザリオの祈りをたくさん祈ってください。迫っている災難から助けることができるのは、わたしだけです。わたしに寄りすがる者は、助けられるでしょう」。

こののち、シスター笹川は、そのマリアさまの御像が101回の涙を流すことを体験します。101回すべてシスターが見たわけではないのですけれども、その御像から101回の涙が流れたことを、目撃者たちが証言しています。

この101回には意味があって、守護の天使の説明によれば、
「アダムとエワのエワによってこの世に罪が入ったように、イエズス・キリストとマリアさまのマリアさまによって救いの恵みがこの世にきたことを象るものである。つまりマリアさまは、イエズス・キリストとともにこの世の罪を贖った、共贖者であるということを意味している」
と天使は伝えています。

その後、シスター笹川は、非常に苦しい人生を、生涯最後の最後まで経験されました。それについて詳しいことをいま述べることはできませんが、マリアさまの御悲しみに沿えた人生だったといえると思います。

いま、シスター笹川は、聖母の被昇天の日に帰天されて、おそらくマリアさまの姿をご覧になっていると思いますが、それでもシスター笹川のためにお祈りいたしましょう。
そしてシスターが、わたしたちのために取り次いでくださることを、お祈りいたしましょう。

シスターの取り次ぎによって、多くの人々がマリアさまのメッセージに耳を傾けますように、そして、ロザリオとご聖体を大切にすることができますように、お祈りいたしましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


シスターアグネス笹川の追悼ミサには多くの兄弟姉妹の方々のご参加に感謝します。

2024年08月21日 | 聖伝のミサの予定

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

昨日、聖なる日本の殉教者聖堂において、。聖歌隊の方々、侍者の方々には特にお礼申し上げます。中には、青森県、岩手県、山梨県などから来られた方々もおられ、感謝申し上げます。

明日の8月22日(木曜日)は、聖伝の典礼暦(1962年版)によれば、聖母の汚れなき御心の祝日です。聖母の汚れなき御心は、日本の主要な守護者です。大宮の聖なる日本の殉教者聖堂で朝7時から聖伝のミサがあります。

8月23日(金曜日)は、大阪の聖母の汚れなき御心聖堂でも、シスターアグネス笹川の追悼ミサが捧げられます。愛する兄弟姉妹の皆様のご参加をお願い致します。
聖なる日本の殉教者聖堂(大宮)でも、夕方の6時からミサがあります。

8月25日(主日)、聖なる日本の殉教者聖堂(大宮)の10時30分の歌ミサは、聖ピオ十世会初の韓国人司祭として6月にアメリカで叙階されたロンジーノ金神父様の日本での初ミサです。多くの愛する兄弟姉妹の皆様のご参列をお願いします。ミサの後には、ロンジーノ神父様を囲んで、記念パーティーを企画しております。予約は不要です。
大阪の聖母の汚れなき御心聖堂では、ワリエ神父様の司式で午後6時30分からミサがあります。
名古屋のミサ会場では、午後4時から聖伝のミサがあります。





聖水とその清めの効果について

2024年08月19日 | お説教・霊的講話

聖霊降臨後第十三の主日―聖水について

ワリエ神父 2024年8月18日


親愛なる兄弟の皆さま、

今日の福音では、らい病人たちが、私たちの主によって(治癒されて)清められました。今日、主は、おもに秘跡と準秘跡を通して、私たちに対する癒やしの使命を続けておられます。

聖水とその清めの効果についてお話ししましょう。

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準秘跡

聖水は準秘跡のひとつです。

キリストが秘跡を制定され、教会が準秘跡を制定しました。準秘跡は、教会によって聖別された宗教の外的な行為(祝別されたもの、祈り、儀式)であり、超自然の効果を生み出す力を持っています。準秘跡と呼ばれるのは、それらがすべて、贖い主の無限の功徳を特別に私たちに適用することによって、何らかの形で、秘跡の力にあずかっているからです。準秘跡により、その行為を行う人の信心の度合いに応じて、恩寵が授けられます。

旧約の聖水と新約の聖水

旧約において、聖水はすでに使われていました。

・ モーゼは、主がご自分の民に与えられた最も素晴らしい賜物である、2枚の律法の板を携えて、山から下りました。この聖なる律法を受けるために、選ばれた民は聖化されなければなりませんでした。この目的のために、モーゼは、聖水にいけにえの血を混ぜて、民の上に振りかけました。

・ モーゼは、アアロンとアアロンの息子たちを、司祭として聖別しなければなりません。彼らを聖別するのにふさわしい者とするために、天主はモーゼに、彼らを水で清めるように命じられました。この聖別の後、初めて、彼らは、聖なる祭服と司祭としての塗油を受けることが許されることになるのです。

・ 赦し、清めは、モーゼの律法で繰り返されるテーマです。らい病で苦しんでいる者、特定の動物の死骸を運んだ者、法的な汚れにかかった者は誰でも、水で自らの身を清めるように命じられています。

新約では、聖水を作る最初の人物は、贖い主ご自身です。これは、彼の公生涯の最初の行為でさえありました。彼はヨルダン川の中に降りられました。その愛すべきお体に触れることで、水は特別な祝別を受けました。水は、このときより、洗礼の秘跡と聖水の準秘跡に用いられることになるのです。

2世紀に、聖ペトロの5代目の後継者である殉教者教皇聖アレキサンデルは、聖水について、それを、すでに確立し、一般的に使用されているものとして、こう語りました。「余は、塩を混ぜた水で祝福するが、それは、この水を振りかけることによって、すべての人が聖化され清められるようにするためである。余は、すべての司祭に同じくするよう命じる。実際、血を混ぜて民に振りかけられた牝牛の灰が、民を聖別して清めたとすれば、塩を混ぜて天主への祈りによって聖別された水は、どれほどより強い、聖化して清める力を持つことであろうか」。

聖水の具体的効果

• - 旧約の聖水は、〈律法〉の汚れを洗いました。
• - 新約の聖水は、〈霊魂〉の汚れを洗います。

1 聖水は、小罪を消します。

2 聖水は、罪の有限の罰を取り除きます。

3 聖水は、健康をもたらします。

12世紀、アイルランドのアーマーの大司教だった聖マラキアスは、ある修道院で時を過ごしていました。そこにいたとき、体中が恐ろしい癌に冒された一人の女性が、彼のもとへ運ばれてきました。聖人は聖水を取って、その女性の上にかけました。痛みはすぐに消え、翌日には、病気の跡はほとんど残っていませんでした。

4 聖水は、悪魔を追い出し、悪魔のあらゆる企みをくじきます。

「私はそれを何回も経験しました。悪魔を追い払い、悪魔が戻ってくるのを妨げる聖水の力に匹敵するものはありません。悪魔はまた、十字架を目にすると逃げ出しますが、また戻ってきます。ですから、この水の力は、非常に偉大なものに間違いありません」(アヴィラの聖テレジア)。

5 聖水は、あらゆる種類の伝染病や疫病を撃退します。

6 聖水は、煉獄の霊魂に利益をもたらします。

信者が棺(ひつぎ)や墓に聖水を振りかけるのは、敬虔な習慣です。これは、効果がないものではありません。第一に、聖水を振りかけることは、一つの祈りを表しています。第二に、聖水は、準秘跡の一つですから、諸聖人の通功によって、贖罪の力を持っており、それは死者に及ぶのです。

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今日の福音では、らい病人たちが、私たちの主によって(治癒されて)清められました。今日、主は、おもに秘跡と準秘跡を通して、私たちに対する癒やしの使命を続けておられます。

エゼキエルはこう預言しました。「私はおまえたちの上に清い水を注ぐ。こうして、おまえたちは、清められる」(エゼキエル36章25節)。

教皇ピオ九世はこう宣言しました。「聖水の使用を、ほぼすべての人が怠っていたり、少なくとも、ほとんどの人が、信心や信仰の適切な精神をもって行っていなかったりするのは、嘆かわしいことである」(ピオ九世、1866年3月14日)。

親愛なる兄弟の皆さま、次の決心を固めましょう。

1 教会に入るたびに聖水を手につけ、注意深く、信心をもって、十字架のしるしをすること。そうすることで、私たちは、悪魔を撃退し、想起と祈りの精神を呼び起こすのです。

エルザレムの神殿の前庭の下には、青銅の海として知られる広大で壮大な澄んだ水の池がありました。司祭や素朴な参拝者は、祈るため、あるいは、いけにえを捧げるため神殿に入る前に、ここで、手を洗わなければならなかったのです。それは、聖パウロがこう言っているように。「民が清い手で祈るようにと、私は望む」(ティモテオ前書2章8節)。

2 主日の歌ミサの始まりに行われる〈アスペルジェス〉に遅れないように、時間通りに到着すること。この聖水を振りかける目的は、私たちを小罪から清めることによって、あるいは、洗礼の聖性と、いとも聖なる天主に近づくべき宗教的敬意の念を私たちに思い起させることによって、私たちを、聖なる神秘にあずかるのに、少しでも、よりふさわしくない者とならないようにすることにあります。

3 自宅に聖水の容器を用意し、それを適切な場所に置くこと。例えば、ベッドの近くや、家の玄関に。

4 朝起きるとき、夜寝るときに、聖水を使うこと。
(修道会では、就寝の前、終課のときに、修道者に聖水を振りかける習慣があります)。

5 誘惑、特に聖なる貞潔に反する誘惑の際に、聖水を使うこと。

6 司祭に自宅を祝別してもらうこと。


【お知らせ】シスターアグネス笹川のための追悼ミサへのお招き:愛する兄弟姉妹の皆様のご参加をお願い致します

2024年08月17日 | 聖伝のミサの予定

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

故シスターアグネス笹川カツ子(1931年5月28日ー2024年8月15日)の追悼ミサが次の場所と時間で行われます。愛する兄弟姉妹の皆様のご参加をお願い致します。予約の必要はありません。

シスターアグネス笹川は、秋田で1973年7月6日、8月3日、10月13日の三回にわたり、木彫りの聖母から全人類に関わる重大なメッセージを受けました。それの真実性を確認するかのように、木像の聖母からは101回の涙が流れ(1975年1月4日から1981年9月15日まで)多くの人々がその客観的事実を目撃しています。秋田の聖母に関する出来事については、これを公式に調査した当時の新潟教区長ヨハネ伊藤庄治郎司教によって認可されました。秋田の聖母の出来事は、全世界の人類全体とカトリック教会全体に関するきわめて重要な出現であり、日本のカトリック教会の歴史上においてこのような出来事が起こったことは初めてだったと言えます。

シスター笹川は、聖母から、もし人々が罪を悔い改めないなら、全人類の上に、ノエの大洪水よりも重い、いままでにない罰があるという警告を受けました。聖母は、シスター笹川を通して、ロザリオの祈りを毎日いのることによって、祈りと償いの業をするようにと、私たちを励まし、迫っている災難から助けることができるのは、聖母だけであること、聖母に寄りすがる者は、助けられることを約束されました。

シスター笹川は、2024年8月15日聖母被昇天の大祝日に主に召されました。

シスターアグネス笹川のための追悼ミサ:大宮

【日時】2024年8月20日(火曜日)午後6時
【場所】聖なる日本の殉教者聖堂:さいたま市大宮区東町2ー256ー8 2階
【内容】グレゴリオ聖歌によるレクイエム・ミサおよび赦祷式

シスターアグネス笹川のための追悼ミサ:大阪

【日時】2024年8月23日(金曜日)午後6時30分
【場所】聖母の汚れなき御心聖堂:大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2 EG新御堂4階
【内容】グレゴリオ聖歌によるレクイエム・ミサおよび赦祷式

【参考情報】
1973年7月6日(初金)聖母の最初のお告げ

午前3時頃 守護の天使の出現:
「【6月28日夕方から現われたシスター笹川の左手の傷について】恐れおののくことはない。あなたの罪のみでなく、すべての人の償いのために祈ってください。今の世は、忘恩と侮辱で、主の聖心を傷つけております。あなたの傷よりマリア様の御手の傷【木彫りの聖母像の右の手からは出血があった】は深く、痛んでおります。さあ行きましょう」。

守護の天使に導かれて聖堂へ行くと、聖母像が目もくらむほどの光につつまれていた。その場にひれ伏すると、極みなく美しい声がひびいた。
「わたしの娘よ、わたしの修練女よ。すべてを捨てて、よく従ってくれました。耳の不自由は苦しいですか。きっと治りますよ。忍耐してください。最後の試練ですよ。手の傷は痛みますか。人々の償いのために祈ってください。ここの一人一人が、わたしのかけがえのない娘です。聖体奉仕会の祈りを心して祈っていますか。さあ、一緒に唱えましょう。」

聖母像からの声と、守護の天使の声にあわせて祈ると、「御聖体のうちに"まことに"まします」と唱えるようにと教えられる。

「教皇、司教、司祭のためにたくさん祈ってください。あなたは、洗礼を受けてから今日まで、教皇、司教、司祭のために祈りを忘れないで、よく唱えてくれましたね。これからもたくさん、たくさん唱えてください。今日のことをあなたの長上に話して、長上のおっしゃるままに従ってください。あなたの長上は、いま熱心に祈りを求めていますよ。」

1973年8月3日(初金)午後2時頃 聖母の第二のお告げ

「わたしの娘よ、わたしの修練女よ。主を愛し奉っていますか。主をお愛しするなら、わたしの話を聞きなさい。これは大事なことです。そしてあなたの長上に告げなさい。
世の多くの人々は、主を悲しませております。わたしは主を慰める者を望んでおります。天のおん父のお怒りをやわらげるために、罪びとや忘恩者に代わって苦しみ、貧しさをもってこれを償う霊魂を、おん子とともに望んでおります。
おん父がこの世に対して怒りたもうておられることを知らせるために、おん父は全人類の上に、大いなる罰を下そうとしておられます。おん子とともに、何度もそのお怒りをやわらげるよう努めました。おん子の十字架の苦しみ、おん血を示して、おん父をお慰めする至愛なる霊魂、その犠牲者となる集まりをささげて、お引きとめしてきました。
祈り、苦行、貧しさ、勇気ある犠牲的行為は、おん父のお怒りをやわらげることができます。あなたの会にも、わたしはそれを望んでおります。貧しさを尊び、貧しさの中にあって、多くの人々の忘恩、侮辱の償いのために、改心して祈ってください。各自の能力、持ち場を大切にして、そのすべてをもって捧げるように。
在俗であっても祈りが必要です。もはやすでに、祈ろうとする霊魂が集められております。かたちにこだわらず、熱心をもってひたすら聖主(みあるじ)をお慰めするために祈ってください。」

「あなたが心の中で思っていることは、まことか? まことに捨て石になる覚悟がありますか。主の浄配になろうとしているわたしの修練女よ。花嫁がその花婿にふさわしい者となるために、三つの釘で十字架につけられる心をもって誓願を立てなさい。清貧、貞潔、従順の三つの釘です。その中でも基は従順です。全き服従をもって、あなたの長上に従いなさい。あなたの長上は、よき理解者となって、導いてくれるでしょうから」。

1973年10月13日 聖母の第三のお告げ

「愛するわたしの娘よ、これからわたしの話すことをよく聞きなさい。そして、あなたの長上に告げなさい。」
「前にも伝えたように、もし人々が悔い改めないなら、おん父は、全人類の上に大いなる罰を下そうとしておられます。そのときおん父は、大洪水よりも重い、いままでにない罰を下されるに違いありません。火が天から下り、その災いによって人類の多くの人々が死ぬでしょう。よい人も悪い人と共に、司祭も信者とともに死ぬでしょう。生き残った人々には、死んだ人々を羨むほどの苦難があるでしょう。
その時わたしたちに残る武器は、ロザリオと、おん子の残された印だけです。毎日ロザリオの祈りを唱えてください。ロザリオの祈りをもって、司教、司祭のために祈ってください。
悪魔の働きが、教会の中にまで入り込み、カルジナルはカルジナルに、司教は司教に対立するでしょう。わたしを敬う司祭は、同僚から軽蔑され、攻撃されるでしょう。祭壇や教会が荒らされて、教会は妥協する者でいっぱいになり、悪魔の誘惑によって、多くの司祭、修道者がやめるでしょう。
特に悪魔は、おん父に捧げられた霊魂に働きかけております。たくさんの霊魂が失われることがわたしの悲しみです。これ以上罪が続くなら、もはや罪のゆるしはなくなるでしょう。

勇気をもって、あなたの長上に告げてください。あなたの長上は、祈りと償いの業に励まねばならないことを、一人ひとりに伝えて、熱心に祈ることを命じるでしょうから。」

「あなたに声を通して伝えるのは今日が最後ですよ。これからはあなたに遣わされている者と、あなたの長上に従いなさい。
ロザリオの祈りをたくさん唱えてください。迫っている災難から助けることができるのは、わたしだけです。わたしに寄りすがる者は、助けられるでしょう。」


1975年1月4日(初土)午前9時頃 聖母像からの落涙現象が始まる。
聖母の涙について、守護の天使は説明する。

「聖母のお涙を見てそのように驚かなくてもよいのです。聖母は、いつも一人でも多くの人が改心して祈り、聖母を通してイエズスさまと御父に献げられる霊魂を望んで、涙を流しておられます。今日、あなた方を導いてくださる方が、最後の説教で言われた通りです。あなた方は見なければ信心を怠ってしまう。それほど弱いものなのです。

聖母の汚れなき心に日本を献げられたことを喜んで、聖母は日本を愛しておられます。しかし、この信心が重んじられていないことは、聖母のお悲しみです。しかも秋田のこの地をえらんでお言葉を送られたのに、主任神父様までが反対を恐れて来ないでいるのです。

恐れなくてもよい、聖母はおん自ら手をひろげて、恵みを分配しようとみんなを待っておられるのです。聖母への信心を弘めてください。今日聖母を通して、聖体奉仕会の精神に基づいて、イエズスさまと御父に献げられた霊魂を喜んでおられます。このように献げられる準会員の霊魂を軽んじてはなりません。あなた方が捧げている“聖母マリアさまを通して、日本全土に神への改心のお恵みを、お与えくださいますように!”との願いをこめての祈りは喜ばれています。

聖母のお涙を見て改心したあなた方は、長上の許しがあれば、主と聖母をお慰めするために、一人でも多くの人々に呼びかけ、聖母を通して、イエズスさまと御父に献げられる霊魂を集めて、聖主と聖母の御光栄のために、勇気をもってこの信心を弘めてください。
このことをあなた方の長上とあなた方を導くお方に告げなさい。」

1976年5月1日
守護の天使は、聖母の涙についてさらに説明する。

「“世の多くの人びとは聖主を悲しませております。私は聖主を慰める者を望んでおります。貧しさを尊び、貧しさの中にあって、多くの人びとの忘恩、侮辱の償いのために改心して祈ってください。ロザリオの祈りはあなた方の武器です。ロザリオの祈りを大切に、教皇、司教、司祭のためにもっとたくさん祈ってください”

この(マリア様の)みことばを忘れてはなりません。聖母はいつも一人でも多くの人が改心して祈り、聖母を通してイエズスさまとおん父に捧げられる霊魂を望んで涙を流しておられるのです。外の妨げにうち勝つためにも、内なる一致をもって、みなが心を一つにし、信者はもっと信者の生活をよくして、改心して祈ってください。

聖主と聖母の御光栄のために、今日の日を大切に。みなが勇気をもって一人でも多くの人びとにこの信心をひろめてください。このことをあなた方の長上とあなた方を導く方に告げなさい。」

1981年9月28日
守護の天使は、聖母の涙についてさらに説明する。神秘的な光を帯びた大きな美しい聖書がシスター笹川の目の前に開かれ、ある個所を読むように指示される。そこに「三章十五節」という数字をみとめたときに、天使の声が聞こえる。
「聖母像の涙はこの個所に関係があります。」

「お涙の流されたこの101回という数字には、深い意味があります。一人の女によって罪がこの世に入って来たように、一人の女によって救いの恵みがこの世に入って来たことを、かたどるものです。数字の1と1の間には0があり、その0は、永遠から永遠にわたって存在する神を意味しています。はじめの1はエワを表し、終わりの1は聖母を表すものです。創世記の三章十五節を読みなさい。このことをあなたを導いておられる神父様に伝えなさい。」

2023年10月6日(日)の午前3時半頃に、
シスター笹川に守護の天使が現れ、次のようなメッセージを受けたと伝えられている
「灰をかぶって悔い改めのロザリオを毎日祈ってください。あなた【シスター笹川】は幼子のようになって、毎日犠牲を捧げてください。」

【参考資料】
シスター笹川が1983年5月に作った秋田の聖母讃歌

緑さやけき苑にぞ立ちて
十字架にないし聖母のみかげ
アヴェ・アヴェ・マリア、アヴェ・マリア
ああ尊しやありがたき

悩める多くのエワの子我らを
慈悲の心で見守り給う
アヴェ・アヴェ・マリア、アヴェ・マリア
ああ尊しやありがたき

御母を慕いて集える我らを
両手を拡げて招き給う
アヴェ・アヴェ・マリア、アヴェ・マリア
ああ尊しやありがたき

 


被昇天―天国には徳によってのみ到達できる

2024年08月16日 | お説教・霊的講話

ワリエ神父 2024年8月15日 説教

親愛なる兄弟の皆さま、

聖母が天国に入られたことを思い巡らすとき、私たちはこう考えようという誘惑にかられるかもしれません。「そうですね、もちろん、聖母は天主の御母でいらっしゃったのだから、それ以外はあり得なかったのでしょう」と。
しかし、私たちが天国を得ることができるのは〈功徳の報いとして〉だけである、ということを理解する必要があります。

1.特権によってではない

天主の御母であるということは、実際、崇高で高貴な特権ですが、それは天主が、天使には天使の本性を、人間には人間の本性を授けようと決心されたのと同じように、天主によって寛大に授けられた尊厳なのです。ですから、童貞聖マリアが天主の御母であるということには、〈名誉はあっても功徳はありません〉。
さて、ナザレトのマリアが、天主の御母となることによって天国の栄誉を得られたのではないとすれば、どのようにしてその功徳を得られたのでしょうか。答えは簡単です。〈聖母のこの世での徳のある生活によって〉です。

かつて、キリストが群衆に説いておられたとき、キリストの知恵の言葉を聞いたある女性がこう叫びました。「幸せなこと、あなたを生んだ胎、あなたが吸った乳房は」。しかし、イエズスは即座にこう答えられました。「幸せなのはむしろ、天主のみ言葉を聞いて、それを守る人だ」(ルカ11章27、28節)。私たちの主は、「あなたは私の母を、私の母であるがゆえにほめたたえるが、私は母を、その聖性のゆえにほめたたえるのである」という意味で言われたのです。

同様に、別の機会に、主の周りに大群衆がいたとき、だれかがこう言いました。「あなたの母と兄弟が外であなたを待っています」。キリストはこう答えられました。「『私の母、私の兄弟とはだれか』。また周りにいる人々を見回し、『これが私の母、私の兄弟である。天にまします私の父の御旨を行う者はすべて、私の兄弟、姉妹、母である』と言われた」(マルコ3章32-35節)。外的な特権がいかに大きなものであっても、たとえそれがメシアとその祝された御母とを結びつける血の絆であっても、天主の御旨への従順に比べれば、無意味なものなのです。

おそらく、これが、カナの婚礼における私たちの主の不可解な言葉の説明でもあるのでしょう。主は、聖母の母としての権威に対しても拒まれたことを、聖母の徳と聖性に対しては与えられ、「(主の)時はまだ来ていない」という事実にもかかわらず、すぐにお望みの奇跡を起こされたのです。

童貞聖マリアの被昇天に話を戻すと、こう考える人がいるかもしれません。「聖母は、いとも簡単に、求めるものを手に入れられます! 聖母は、ただ求められるだけで、それが実現するのです。聖母は、高貴な相続人が、血のつながりがあるという肩書だけで父親の大邸宅に入るように、天国に入られるのです。それは単なる家族優遇にすぎません!」。
しかし、そうではありません。私たちの救い主はこう言っておられます。「私の右や左に座ることは、私が決めることではなく、私の父によって用意された人々のものである」(マテオ20章23節)。

2.功徳によって

ナザレトのマリアが天国を得るに値するお方になられたのは、天主の御母となることによってではなく、〈この世での徳のある生活によって〉でした。マリアが天主の恩寵に完璧にお応えにならなかったことは、決してありませんでした。
「マリアの信仰は、すべての人間とすべての天使の信仰にまさっていた。彼女は、ベトレヘムの馬小屋で御子を見て、御子がこの世の創造主であると信じた。彼女は、御子がヘロデから逃げるのを見ても、御子が王の中の王であるという信仰を揺るがすことはなかった。彼女は、御子が生まれるのを見て、御子が永遠のお方であると信じた。彼女は、御子が貧しく、基本的な生活必需品さえないのを見ても、それでも御子が宇宙の支配者であると信じた。彼女は、御子が藁の上に横たわるのを見て、自分の信仰から、御子が全能者であると信じた。(…)そして最後には、彼女は、御子が十字架にかけられ、あらゆる侮辱にさらされながら死のうとするのを見て、他のすべての人々の信仰が揺らいだにもかかわらず、御子が天主であるという揺るぎない信念を持ち続けた」(聖アルフォンソ・リグオーリ)。

このように、天主への忠実で忍耐強い愛以外に秘訣のなかった身分の卑しいユダヤの少女は、今、御子と永遠に住み給う天国の輝く大邸宅を、ご自分のために準備しておられたのです。
「あなたはエルザレムの栄光、イスラエルの喜び、われらの民のほまれ!」【ユディット15章9節】。

結論

親愛なる兄弟の皆さま、

私たちは、マリアのように罪がないわけではありません。しかし、私たちには洗礼の恩寵があり、それによって、私たちは天主の子、天国の相続人とされており、それによって、私たちは罪に打ち勝つことができるのです。
私たちには、聖母のように、私たちの主の現存が目に見える形であるわけではありません。しかし、私たちには、主の現存が、見えない形で、私たちの心の中に、また聖体拝領によって秘跡的に私たちの中に、あるのです。
私たちは、聖母のように恩寵に満ちているわけではありません。しかし、私たちには、祈りに応じて約束された限りない恩寵があります。すべては、私たちが恩寵に協力するかどうかにかかっています。いとも忠実なる童貞であるマリアは、あらゆる恩寵に忠実にお応えすることによって、その崇高な段階の栄光に到達されました。
親愛なる母マリア、私たちのために天国でお声を上げてください。あなたの足跡をたどりつつ、いつの日か、私たちもあなたの栄光に共にあずかり、あなたとともに、父と子と聖霊を永遠に賛美することができますように。アーメン。


聖母の地上のご生涯は天国の先取りだった

2024年08月16日 | お説教・霊的講話

2024年8月12日 大阪でのミサ 説教

トマス小野田圭志神父

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2024年8月12日、聖クララの童貞女の祝日を祝っています。
来たる木曜日、8月15日の聖母の被昇天には、本当ならばここでしたかった聖母行列や御聖体降福式、また聖母の汚れなきへ御心の奉献などを行いたかったのですが、その当日15日には今年はできません。
そこで、その代わりに、一足先に、今日このミサが終わりましたら、簡単な聖体降福式を行い、また聖母の連祷などをお捧げして、そして奉献を更新致しましょう。

【聖母の偉大さの理由】
昨日は、聖母の尊厳と栄光の理由を黙想しました。
マリア様はそのご謙遜ゆえに、すべてにまさって、天主以外のすべてのものにまさる遥かに高い、最高の威厳にまで、栄光にまで、高められました。
また、ご謙遜ゆえに、マリア様は、天主への愛の生活を送られました。これゆえに、マリア様はいと高いところに挙げられました。聖母こそ、すべての心、すべての霊、すべての力、すべての知恵をあげて、主なる天主をお愛しになった方です。
だからこそ、この世のありとあらゆる栄華、栄光、権力をも、マリア様の栄光と比べるならば、チリ紙やあるいはゴミ箱同然に思わせるようなほど高いところへと挙げられました。極限までの喜びと偉大さをお受けになりました。

いったい、ここまでの高みをお受けになられたマリア様のご生涯、それはいったいどのようなものだったんでしょうか。今日はそれを黙想することを提案します。

【聖母の地上での御生涯:天国の先取り】
一言でいうとマリアさまの地上のご生涯は天国の先取りではなかったかと、いうことができると思います。御昇天のその瞬間、聖母の霊魂は、燃える竈(かまど)のように、もはや肉体にとどまることができないほど、愛に燃えていました。この愛の原理というのは、天主の聖寵です、お恵みです。マリア様は、聖寵に満ち満ちているお方で、そのご生涯の間に聖寵に聖寵を加え、ますます聖寵を増加された方です。聖寵というのは、ラテン語でgratiaといいますが、同時にこれは将来の栄光の種ともいわれています、semen gloriae 。何故かというと、いまわたしたちが持っている聖寵と将来の栄光との間には密接な対応関係があるからです。

私たちは生きている間に聖寵をますます増加させることができます。そして私たちが死んだときのその聖寵の程度が、将来の栄光の程度に匹敵します。

ですから、ヴィアンネ神父様――アルスの聖司祭は「この世で生きている間だけ将来の栄光を増加させることができる。だから、いわば天国の聖人たちは「年金」生活をしているようだ。裏返して言うと、いまこそ、その年金をたくさん貯めることができるから、今のうちにたくさん天主を愛しなさい。」と聖ヴィアンネ神父様は仰っていました。
この世と天国との違いは、これです。この世では、罪を犯してしまう。つまり、天主以外の被造物を天主よりも愛してしまう危険がある。そうすることによって、聖寵 gratia を失ってしまう危険があります。

でも天国に行くと、至福直感を受けます。これはどういうことかというと、私たちは天主を目の当たりにするということです。つまり天主を見て、その時に、信仰は消え失せます。何故かというと主を見るから、もはや信じる必要はなくなってしまうからです。信じるのではなく見るからです。天主を見て、天主の真理、天主の善、天主の美しさをそのまま見ます。すると、その時、ありとあらゆる被造物の虚しさ・儚さ・愚かさというものを深く理解してそれを確信します。天主以外のものをすべてまったく無に等しいとはっきりとわかります。天主こそ最高の善であり、最高の美であり、真理そのものであるということを確信します。それをまさにまざまざと見ます。そうすると、天主以外のものを選ぶなどということはあまりにもばかばかしくて、考えられなくなります。至福直観のうちに、私たちは、すべてに越えて天主を自由にそして喜んで、この方こそ!これこそが!と選んで、お愛しするのです。聖寵において固められて、そしてもう天主と一体化します。マリア様はこの地上におけるあいだ至福直感以外はすべてを尽くして天主をお愛ししました。天主への愛には限度がありません。どういうことかというと、目的を追求する欲求には際限がないということです。天主を愛すれば愛するほど、私たちの愛は完成させられます。天主を愛する原因は、その理由は天主である;だから天主を愛する限度は、限度なしに愛することである、causa diligendi Deum Deus est; modus, sine modo diligere.、聖ベルナルドは言っています。

マリア様はまさに、御生涯の間、天主だけを愛しました。天主だけを望み、すべてのことにおいて天主を喜ばせることだけを求めていました。ですから、言ってみれば、至福直感のない天国の生活をしていた、天国の生活を先取りしていた、ということができます。

そう考えると、天主が終生童貞であられたという信仰箇条はその深い意味も垣間見ることができるといえます。マリア様が童貞であられたということは、ただ単に、アダムとエワが原初にもっていた地上の楽園(エデンの園)での完全性を保っていただけではありません。つまりさらには、地上の生活の送るうちから、永遠の生命の生活を先取りしていたと言うことがいえるということです。

マリア様は確かに、自己犠牲やイエズス様への愛の奉仕の生活で、イエズス様の苦しみの生涯に与っておられました。しかし、マリア様は童貞を守ることによって、すでに天の凱旋の生活をも送っていたということがいえます。何故かというと、肉体において“この世の自然の生活に死す”ばかりでなく、童貞の生活を送ることによって“天国の選ばれた人の生活をもはじめていた”と言えるからです。何故かというと、天国では、娶(めと)りも嫁(とつ)ぎもしないからです。

結婚と言うのは、この地上での死すべき生命を伝達するために存在するものだからです。結婚というのは死で解消します。それと同じように婚姻という制度も、この世が過ぎると消え去るものとしてつくられました。たしかに婚姻による一致というのは、キリスト教信者にとって、特にイエズス・キリストとキリストの教会との一致という深い美しい意味があります。が、それにしても、それであっても、結婚というのは、復活をもって、ついには消滅してしまうものです。何故かというと婚姻というのは、死に対する一時的な回答にしかすぎないからです。死が死ぬとき、つまり死が存在しなくなると、婚姻も存在しなくなります。

ですからイエズス様は、童貞を守る人々のことを「復活の子」と言っていました。イエズスの言葉を聖ルカの福音から引用します。「この世の子らは、めとったり、とついだりするが、しかし、来世をうけ、死者の中からの復活にふさわしいものとされた人々は、めとりもとつぎもしない。かれらにはもう死ぬことがないからである。かれらは、天使に似た復活の子らであり、天主の子らである。」(ルカ20:34-36)引用を終わります。

マリア様は、すでに将来の栄光の生命に属している特徴を、御自分の霊魂にそして御体にお持ちでした。ご自分の霊魂に持っていたのは、天主を際限なくお愛しされたからです。常にたゆまなく愛されたからです。天国の栄光の生命に属する特徴を御体にお持ちだったのは、それは、マリア様が童貞をお守りになっていたからです。天主の無限の愛、無限の純潔さ、そして天主の不死――死ぬことがない――という特徴を深くマリア様の御体は受けていました。

ですから、マリア様にとっては、終生童貞であったということは、嫌々ながらお捧げしていたとか、これを放棄した、というのではなくて、天主のために生きておられた霊魂がした、この地上における完璧な愛の表現の一つだったといえます。

聖パウロはこういいます。「キリストにおいて死んだものは、永久に罪に死に、生きるものは、天主のために生きる。」(ローマ6:10)マリア様はまさに天主のために生き、そして童貞でありながら、天主の生命の復活の生命の現実そのままを示しておられたのでした。

【選善の決心】
ではこのような復活の生活をすでに生きておられたマリア様が天に挙げられたこと、そしてわたしたちを天から見守ってくださっていることを感謝いたしましょう。どれほど素晴らしいよき母を持ったか、わたしたちはどれほど幸せでしょうか。マリア様の最後を黙想すればするほど、わたしたちは、聖なる死を迎えるために聖なる生き方をしなければならないと、熱烈な願望を持たざるを得ません。わたしたちはマリア様のように愛によって死ぬということを期待はできませんが、しかし、少なくとも天主を愛するうちに、成聖の恩寵の状態のうちに死ぬことを、希望しなければなりません。

マリア様のように完璧な童貞性、貞潔を守ることはできないかもしれませんが、しかし復活の子にふさわしい肉体を持つことができるようにお祈りいたしましょう。

わたしたちはマリア様に祈るだけで満足せずに、マリア様の聖徳に真似るようにいたしましょう。天主への愛・貞潔・あわれみ・忍耐・祈りに真似る恵みをこい求めましょう。

では、今日は、このミサののちに御聖体降福式を捧げながら、マリア様を賛美して、マリア様からの特別の祈りと保護をこい願いましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


【訃報】【加筆】シスター・アグネス笹川カツ子が老衰により聖母の被昇天の祝日に天に召されました。

2024年08月16日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

秋田の聖母のメッセージを受けたシスター笹川が、聖母被昇天祝日の午後1時40分ごろに亡くなられたとのことです。葬儀ミサは、修道院での朝の普通のミサで代えられたとのことです。

私たちは、笹川シスターがこれまで捧げてくださった多くの祈りと、犠牲と、償いに感謝申し上げます。今後はシスター笹川が天国から日本の為にお取次ぎくださいますように!

聖体奉仕会からの通知を引用します。

「かねて療養中だったアグネス笹川カツ姉妹が老衰により昨日天に召されました。93歳でした。
本人の希望で医大に献体となり、葬儀ミサも会員のみで本部修道院で捧げられました。皆様より生前賜りましたご厚意に深く感謝申し上げます。」聖体奉仕会
 

 

 


聖母被昇天:聖母の偉大さを黙想する。聖母は何を思ってこのような栄光の座に着いたのか?

2024年08月13日 | お説教・霊的講話

2024年8月11日 東京 10時30分のミサ説教

トマス小野田圭志神父

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆さま、今日は聖霊降臨後第十二主日です。
来たる木曜日は、マリアさまの被昇天の大祝日ですから、この祝日を一緒に準備するために、マリアさまの被昇天について一緒に黙想いたしましょう。

もしも私たちが、金メダルを獲得した選手たち、とくに日本の選手たちをよくやったと褒め讃えるのが当然であるならば、この地上での人生を最高のやり方で走り抜いた、そして天の最高の王冠を受けとったマリアさまこそ褒め讃えなければなりません。今日の集祷文にあるように、マリアさまこそ、(promissiones tuas sine offensione cucurrit) 間違いなく約束されたところに走りぬいた方であるからです。

もしも私たちが、祖国のために自分の命を捧げた軍人たちの尊い命を追悼して感謝しなければならないとしたら、私たち人類すべてが天の祖国に戻ることができるために、天のわたしたちの本当の祖国のために、最高の犠牲を捧げた天主の御母マリアさまに、私たちの母にこそ、私たちがこぞって感謝と賛美を捧げなければならないはずです。

【聖母の威厳の理由】
マリアさまは、霊魂も肉体も ともに天の最も高い所まで挙げられました。被造物が挙げられることができる最高の、天主イエズス・キリストのすぐ下の最高のところまで挙げられました。いったいなぜ?すべてにまさって、天主以外のすべてにまさって、マリアさまは、遥か高く最高の威厳にまで高められたのでしょうか?

それは、マリアさまのご謙遜のためです。それはマリアさまがご謙遜ゆえに、天主への愛にみちた生活をおくられたがためです。それは、マリアさまがご謙遜のゆえに、ありとあらゆる聖寵をマリアさまの霊魂に受け取ることができたためです。

マリアさまを、ありとあらゆるものにまさる威厳にまで高めてくださったのはいったい誰でしょうか?それは、地上の王様でも権力者でも偉人でもありませんでした。それはこの全宇宙を無から創造されたまことの天主、三位一体の天主御自身でした。

マリアさまのご謙遜を嘉(よみ)された至聖なる三位一体が、マリアさまをこの栄光の玉座に座らせたのです。そして天主は、聖母を天と地の元后・女王であると宣言して、マリアさまに王冠を被らせて、無限の天の宝の尽きせぬ宝庫の管理者と委ねたのでした。すべての被造物で、マリアさまはもっとも偉大で、もっともすぐれた、天主の最高の傑作、聖徳の驚異、愛の驚異でした。

マリアさまの燦然と輝く栄光は、地上の全ての栄華あるいは栄光をあたかもガラクタであるかのように、おもちゃであるかのように見なさせます。私たちがマリアさまの偉大さ、そして御子イエズス・キリストが聖母に与えたその力を理解しようとしますが、完全に理解することは決してできないでしょう。なぜならばあまりにも偉大であるからです。

ですからマリアさまについては全てが計り知れなくて、私たちが理解することがたとえほんの少しであったとしても、私たちが見たことを見る目は、なんとしあわせでしょうか。私たちがマリアさまについて聞くことができる耳は何と恵まれていることでしょうか!なぜかというと、マリアさまという母がわたしたちに与えられたということは、私たちにとって驚くべき幸せなことであって、わたしたちの救いにとって、きわめてすばらしいことであるからです。そしてわたしたちがそれを垣間見ることができるからです。

では聖母の被昇天を準備するために、今日はマリアさまの偉大さを黙想しましょう。そして、その次に、このようなマリアさまを賛美して“そのマリアさまの保護のなかに入るために、わたしたちが一体その何をすべきなのか”を考えて、選善の決心を立てましょう。

【聖母の偉大さ】
マリアさまの偉大さについては語り尽くせません。これはさきほども申し上げた通りです。これはわたしの意見ではありません。聖アンブロジオがたとえばこう言っています。「聖母は天使たちでさえも理解できないような最高度の栄光、名誉、力を受けて、高められておられる。聖母の栄光を知り尽くすことができるのは、ただ天主だけだ」と言っています。ですから聖アンブロジオは、こう言葉を続けるんです。「私たちが聖母に関してどれほど深い神秘を聞こうとも、天主の目から見た聖母の本当の姿に比べれば、それはほとんど無に等しいものである。」
 
では私たちができるかぎり限られた力を使ってマリアさまを讃えるとしたら、どうすればよいのでしょうか。教会がわたしたちに教えるマリアさまに関する最も美しい賛美は、この三つの言葉があります。
「聖母は、永遠の御父から最高に愛された娘である。」
また、「マリアさまは、私たちの救い主である天主御子の御母である。」「天主の御母である。」
また次に、「マリアさまは聖霊の浄配…聖霊と婚姻では結ばれなかった…しかし、清い花嫁である。」ということです。

もしも永遠の御父が、マリアさまを最愛の娘としてお選びになって愛されたのであるならば、御父は聖母の霊魂にどれほどのお恵みをその奔流を注ぎ込まれたことでしょうか。永遠の御父は、聖母が為すべき使命の偉大さに比例して、天の賜物でマリアさまを豊かに、恵まれました。言いかえると、天主御父は、被造物のためにできる最高のことを、マリアさまのためにすべて行いました。マリアさまのためにできることでしなかったことは一切ありませんでした。

もしも天主御子が、マリアさまをご自分の母として選ばれたならば、御子はどれほどの愛と聖寵のあふれをマリアさまに注がれたことでしょうか。もしも聖霊が、マリアさまをご自分の浄配としてされたならば、どれほどの聖霊の賜物・聖霊の祝福・愛の祝福で満たされたことでしょうか。マリアさまが存在し始めたその最初の瞬間・受胎の最初の瞬間から、三位一体の特別の祝福を受けるように、すべての霊的な賜物でマリアさまの霊魂を飾られました。聖母はすべての天使やすべての聖人たちを合わせたよりもより多くの恵みを受けた、と教父たちは口をそろえて言っています。

【無原罪の御やどり】
マリアさまはその最初の瞬間からお恵みで飾られたと申しあげましたが、それは無原罪の御やどりと言われています。これは聖母だけに与えられた特別なお恵みで、天主はマリアさまを原罪の汚れから守ることをお望みになりました。そしてこの聖寵の恵みを決して一瞬たりとも失うことがないように、完全な保護・保証をもって、マリアさまを聖寵において固められたのでした。こうして、マリアさまは、聖三位一体の生ける最高の御聖櫃となられたのでした。

天主が、悪の帝国を打ち倒して破壊させるために用いられた道具は、聖母でした。三位一体が、贖い主をこの世に与えること、そしてこの世を救うことを、そのために使われた道具が、マリアさまでした。マリアさま以外の何者でもありません。聖母こそが、このような偉大さ・力・そして愛の深い淵源であるのです。マリアさまのご生涯はすべて愛に満たされたものでした。

【聖母の被昇天】
天におけるマリアさまの勝利、つまり被昇天――今度祝う祝日――被昇天は、マリアさまのすべての功徳と愛の頂点であると言うことができます。天と地のいとも高い元后…天主の母にして比類ない尊厳の最終的な栄光を受けたのは、この被昇天の瞬間でした。

マリアさまはしばらくの間、たとえイエズス様が天に昇られても、この地上に残って人生のいろいろな多くの苦しみと屈辱を苦しまなければなりませんでした。しかしそれは――イエズス様がこの地上に残しておかれたその理由は――こうして天国に入ることを遅らせることで、聖母により大きな栄光を得させようとされたためでした。また、使徒たちが聖母の慰めと導きを必要としているということをよく御存じだったので、聖母はあえてマリアさまを地上にしばらくの間とどめられておかれたのでした。

もしも、わたしたちがイエズス・キリストの隠された生涯の最大の秘密を知るようになったのは、これはマリアさまが使徒たちに教えてくださったからです。もしもわたしたちが童貞というものがどれほど美しいもので輝きに満ちているかということを知っているならば、またイエズス・キリストを愛する者に与えられる計り知れない報いがなんであるかということを知ることができるならば、これはマリアさまが使徒たちを通して私たちに教えてくださったからです。

【聖母の最期】
しかし時は来ました。マリアさまは、ついにこの地上を離れなければならないときが来ました。なぜかというと、マリアさまは、ご自分の霊魂がゴーゴーと燃える竈(かまど)のように燃え立ってしまって、愛に燃え立ち、すべてを超えて、すべての力を尽くし、すべての霊魂を尽くし、すべての精神を尽くし、天主を愛していたので、もはや、その霊魂は肉体に留まることができなかったのです…‥それほど天主への愛に燃えていました、なんという幸せな霊魂でしょうか。

マリアさまの被昇天は、イエズス・キリストが悪魔から霊魂を奪い取ったすべての勝利の中で、最大の勝利でした。これ以上のものはあり得ませんでした。また、天主の御母が死ななければならないとしたら、聖母は愛の情熱によってのみしか死ぬことができませんでした。

天主を愛するというのは、罪の真逆のことを云います。なぜかというと、罪とは被造物に対する愛着であるからです。天主に反する愛着であるからです。しかし、マリアさまは天主への愛に燃え立っていたので、罪を知りませんでした。ですからマリアさまは、死も恐れませんし、なにも恐れませんでした。なぜかというと聖母はいつも主を愛しておられたからです。

もしもわたしたちが、死を怖れたくない、あるいは、怖れずに安らかな死を迎えようと望むのならば、聖なる死を望むのならば、マリアさまのように罪を避けて、罪から逃れて生活しなければなりません。罪というのは、時と永遠とにとって、わたしたちすべての最大の不幸です。もしもマリアさまのように悲しみのない死を望むのならば、平和のうちの死を望むならば、マリアさまのように被造物に愛着することなく生活しなければなりません。聖母がしたように天主だけをお愛しし、天主だけを望み、すべてのことにおいて主を喜ばせるようにしなければなりません。マリアさまはすべてを見いだすために、すべてである天主を見いだすために、すべての被造物を棄てました。なんと幸せな霊魂でしょうか。

こうやって、天の元后が地上を去り、そのマリアさまの霊魂の偉大さによってその功徳と尊厳の偉大さによって天国に入ろうとされます。これほど美しく これほど完成された これほど完全で これほど聖徳に富む霊魂がその中に入るのは、天国はそれまでみたことがありませんでした。

喜びと愛に満たされて、天の門が開かれるのを信仰の眼でご覧ください。天の宮廷・天使たちそして諸聖人たちが、マリアさまの前にひれ伏しているのがわかります。マリアさまをイエズス御自身が導いて、そして天国の最も高い美しい玉座に座らせます。三位一体はマリアさまに輝く王冠を被せます。天国のすべての聖寵の宝の管理者とあわれみの女王と宣言されます。マリアさまはなんとすばらしい栄光をお持ちでしょうか。

【聖母への信頼】
そしてこのマリアさまはいったい何を思ってこのような栄光の座に着いたでしょうか。マリアさまは天のいと高き所に挙げられたマリアさまは、私たちをイエズス・キリストとともに霊的な命に生み出したわたしたちの本当の母です。本当の霊的な母親です。わたしたちがいま成聖の状態にいるのはマリアさまの協力がなければ、できなかったことです。

ですからマリアさまは、母としてわたしたちを愛しておられます。天国のいと高いところから、ものすごい絶大な力を持って、母としてわたしたちを愛しておられます。マリアさまはわたしたちを本当の子どもとして、見守っておられています。そして最高の天国の力を使って、わたしたちの救霊に最も役立つことを祈り求めておられます。

だからこそ、天主から与えられた力をいま喜んでいます。自分のためではなく、わたしたちのために使うことができるから、お喜びです。母として、わたしたちの仲介者として立つために、天の高いところに挙げられたことを喜んでいます。ですから、天の元后わたしたちの母は、私たちの祈り わたしたちの涙 悲しみ 呻き 辛いこと 苦しみ そしてわたしたちの救いに必要なすべての恵みを、わたしたちのために一生懸命に取り次いで祈ってくださっている――それがマリアさまです、それが被昇天の神秘です。

聖ベルナルドは、こういいました。「かつてマリアさまに祈って聞き入れられなかったことは、捨てられた者は、誰一人としていない、そんなことは聞いたことがない。そして将来にわたって、一度も聞くことがないでしょう。」

マリアさまは私たちを決して見捨てることはありません。たとえ、この地上の母親が子供を見捨てることがあったとしても、マリアさまは決してそんなことはありません。このような母、霊魂の救いのために献身してくださる母、しかも力強い母が天に居られるということは、私たちにとって何というしあわせ、なんという特権でしょうか。わたしたちはなんという母をすばらしい母を持った子どもでしょうか。

見てください。世界中は、聖母がわたしたちのためにしてくださった特権を讃え証明する記念碑で 教会で 絵画で 歌で満ち溢れています。もしもわたしたちが聖母に祈りを捧げるなら、愛を捧げるならば、わたしたちはどれほど救いのために大きな恵みを受けることでしょうか。もしもわたしたちが毎日マリアさまのご保護のもとに身をゆだねるなら、奉献するならば、どれほどわたしたちは多くの保護・完璧な保護を受けとることでしょうか。

ここにいらっしゃるお父さんとお母さんたち、どうぞ毎日ご自分のお子さんたち、愛する息子や娘たちをマリアさまの保護のもとにおいてください。マリアさまにお祈りなさってください。聖母はわたしたちのために、わたしたちの聖母の保護のもとにある者のために、すべてを尽くして守ってくださいます。そして、わたしたちをも守ってくださいます。悪魔はマリアさまに奉献された霊魂を非常に恐れています。なぜかというと太刀打ちができないからです。

悲しみの、そして苦しみのこの世に生きている私たちにとって、聖母という偉大な母親がわたしたちを天から祈り助けて見守ってくださるということを知るのは、なんという喜び、なんという慰めでしょうか。マリアさまに大きな信頼を寄せるという幸せに恵まれた人は、わたしたちの救いを自分の救いを保証しているということができます。

では私たちはマリアさまを模範として、マリアさまの祈りに助けられながら、天国への道をしっかりと歩むようにいたしましょう。マリアさまのご謙遜、マリアさまの貞潔・純潔、マリアさまのあわれみ深さ、またマリアさまが持っていたこの地上の栄華に対する軽蔑、天主御子に対する愛、そして霊魂の救いに対する熱意を、毎日黙想いたしましょう。そして、特に聖母の被昇天を準備して、聖母に自分を奉献して委ねましょう。マリアさまの御保護の下に生活いたしましょう。マリアさまの御保護の下に生き、そして死ぬ者はどれほど幸せでしょうか!

八月十五日にはぜひできる限り、マリアさまのミサに与ってください。被昇天のミサに与り聖母行列をしてマリアさまを讃えましょう。どれほど素晴らしい母親を持っているかということを感謝いたしましょう。

ではマリアさまに賛美をしつつ、このミサを続けていきましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


カトリック信者にとって、五輪の冒涜の償いをすることは本当に重要である。その理由はこうだ

2024年08月12日 | カトリックとは

カトリック信者にとって、五輪の冒涜の償いをすることは本当に重要である。その理由はこうだ

世界中のカトリック信者が、パリ五輪の開会式で行われた恐ろしい冒涜行為の償いを行っています。教皇ピオ十一世の1928年の「聖心への償いについての回勅」は、なぜこのような祈りによる償いが重要なのかを教えてくれます。

S・D・ライト

2024年8月5日(月)―米東部標準夏時間12時17分

2024年の五輪の開会式のような公の場での冒涜に直面したとき、私たちはそのことについて話したほうがいいのでしょうか、それとも無視したほうがいいのでしょうか。

私たちの中には、この事件が注目されないようにした方がいいのではないかと感じた人々もいます。このような冒涜行為に責任のある者たちが、キリスト信者に憤怒を起こさせ注目を向けさせることで目標を達成しているのは明らかです。

ある意味で、彼らはこの憤怒から利益さえも得ています。つまり、結局は、彼らに無料の宣伝をさせているのであり、「悪名は無名にまさる」ことはよく知られています。多くの人々が、このような出来事の動画や写真を互いに共有し、「こんなの信じられる?」と問いかけたい誘惑に駆られています。

いわゆる保守的インフルエンサーたちが、最新の不潔な音楽を自分の番組で音読することで反応するのと同じことが時々起こります。そのようなものを共有することで、私たちは自分自身を汚しているのです。結局のところ、聖パウロはこう言いました。

しかし、聖徒にふさわしいように、あなたたちの中では、淫行、いろいろな汚れ、情欲は口にさえもするな。

また、汚行、愚かな話、下品な冗談も言うな。それはよからぬことである。ただ天主に感謝せよ(エフェゾ5章3-4節)。

この冒涜的な出来事の写真にも、ある程度は同じことが当てはまります。

しかし、このような冒涜によって引き起こされる客観的な社会的混乱が存在します。そのため、私たちは、このような事件に注意を払う必要があるのです。

冒涜とは何か

聖トマスは、冒涜は非常に大きな罪であり、天主への憎しみによって悪化する一種の不信仰である、と書いています。彼は、それを殺人と比較して、次のように述べています。

殺人と冒涜を、その罪の対象に関して比較するならば、天主に対して直接犯した罪である冒涜の方が、隣人に対する罪である殺人よりも重大であることは明らかである。

一方、その二つの罪を、その罪がもたらす害について比較すれば、殺人の方が重い罪である。なぜなら、冒涜が天主に対して行う害よりも、殺人が隣人に対して行う害の方が大きいからである。

しかし、罪の重さを左右するのは、先に示したように(神学大全Ⅰ-Ⅱ Q73.8)、行為の効果よりも、むしろ悪意という意向であるがゆえに、冒涜者には、天主の名誉に害を与えようという意向があるため、絶対的に言えば、殺人者よりも重い罪を犯しているのである(同Ⅰ-Ⅱ Q13.4)[1]。

冒涜の罪によって引き起こされる社会的混乱と罪の行為は、特にそれが共同体を統治する責任のある者たちによって犯される場合、天主に対する正義の問題として、また社会にとって緊急の問題として、正されなければなりません。

なぜなら、社会団体の長の罪によって、あるいは社会団体全体の行為となるような多数の構成員の罪によって、時には社会団体が集団的責任を負うことがあるからです。このように、社会の指導者たちの罪は、社会の構成員にも影響を及ぼすのです。

聖トマスはこう説明します。

アダムから生まれたすべての人間は、最初の父祖から受け継いだ共通の本性を持っている以上、一人の人間として考えることができる。世俗的な問題においても、一つの共同体に属する者はすべて一つの体であるとみなされ、共同体全体が一人の人間であるとみなされる。(…)したがって、アダムから生まれた多くの人間は、多くの構成員を持つ一つの体のようなものである(同I-II Q. 81.1)。

この文章は、「一つの体であるとみなされ、共同体全体が一人の人間であるとみなされる」共同体が、国家が全体として犯した、あるいは、国家の指導者たちが犯した罪に対して、禁止命令(または経済制裁など)のような措置をもって正当に罰せられることがあるのはなぜかを説明しています。

同じ理由で、歴史を通じて何度も見てきたように、正義の天主は、甚だしい罪や冒涜で天主を挑発するような共同体を罰することを選ぶかもしれません。

これが「償い」が意味するものです。

しかし私たちは、無限の天主に対する罪に対して、本当に償いを捧げることができるのでしょうか。

償いは可能か

罪がある意味で無限であり、それは罪が最終的に向けられる相手である天主の尊厳が無限であるからだ、というキリスト教の原則はよく知られています。聖トマスはこう書いています。

天主に対して犯した罪は無限である。なぜなら、罪の重さは罪を犯した相手の偉大さに応じて増大し(したがって、君主を打つことは私人を打つよりも重い罪である)、天主の偉大さは無限であるからである。

それゆえ、天主に対して犯した罪には無限の罰が与えられる[2]。

キリスト教のもう一つの原則は、このような罪に対して、単なる有限の人間が償いをすることはできない、ということです。聖トマスはこう書いています。

「どんな罰も、(罪の負債に対して)人間が(天主に)十分な償いを支払うことはできない」[3]。

ここで注目すべき点が二つあります。

第一は、自分の罪であれ他人の罪であれ、私たちが罪に対して十分な償いをすることが根本的にできないということが、そのような償いをしようとする義務をなくしてしまうわけではないということです。私たちには少なくとも、償いを試み、公然の冒涜による混乱、不公正、罪の行為の埋め合わせをする義務があります。

第二は、天主ご自身のあわれみによって、天主は、人類に罪の償いをする手段を与えてくださったということです。その償いは、神性とお取りになった人性を併せ持つ天主のペルソナである、キリストのご受難によって達成されたものです。

私たちの人性をお取りになることによって、キリストは私たちの一人として、人間として、天主にいけにえを捧げることができました。このいけにえは、「天主の肉体であったからこそ」、また、キリストが天主に対する完全な従順と限りない愛から、この極限の苦しみを耐え忍ばれたからこそ、無限の価値を持つものだったのです[4]。

しかし実際には、キリストが人類を贖われたのは、単なる「十分な」方法によってではなく、むしろ、私たちに超自然の行為を行う手段を与えるという「あふれるほどの豊かな」方法によってなのです。その超自然の行為は、ご受難と一致し、超自然の愛徳によって活力を与えられている限りにおいて、功徳のあるものなのです。

そのような行為は、常にキリストのご受難、恩寵、超自然の愛徳からその価値を引き出すものであり、冒涜やその他の罪が天主の御怒りを招くこと以上に、天主をお喜ばせするものとなり得るのです。

このため、罪の償いをすることは本当に可能なのです。償いを捧げる試みについて、ピオ十一世は1928年の回勅でこう述べています。

十人の義人のためにソドムを容赦しようとされた、正義にしてあわれみ深い天主は、謙虚な祈願によって心を動かされ、全人類の名において、その仲介者にしてかしらであるキリストに一致して共に祈る信者の共同体の祈りによって幸いになだめられるとき、さらに全人類を容赦する用意があるであろう[5]。

ソドムの例は、指導者たちや多数の個人の罪が、全体としての社会に影響を及ぼすのと同様に、一部の人々が償いを行えば、同じように影響を及ぼす可能性があることを示しています。

世界中で行われている償い

パリでの侮辱的な行為の後、カトリック信者の各グループが公の償いの祈りを行いました。翌週には、LifeSiteNewsがこう伝えました。

8月2日(金)の時点で、ほぼすべての大陸から3人の枢機卿と24人の司教が書簡に署名し、「この冒涜に対する償いのための祈りと断食の日」を約束した。

「パリで開催された夏季五輪が、グロテスクで冒涜的な最後の晩餐の描写で開幕するのを、世界は衝撃をもって見守った」と高位聖職者たちは書いている。「20億人以上の人々の信仰が、これほど軽々しく、意図的に冒涜されるとは理解しがたい」。

「私たち世界中のカトリック司教は、世界中のキリスト信者に代わって、五輪委員会がこの冒涜的な行為を不当なものだと述べ、すべての信仰を持つ人々に謝罪することを要求する」と書簡は続ける。

署名者の大半は、サンフランシスコのサルバトーレ・コルディレオーネ大司教、フィラデルフィアのチャールズ・シャピュー名誉大司教(カプチン・フランシスコ修道会)、カンザスシティのジョゼフ・ナウマン大司教を含む米国の司教だが、ナイジェリア、レバノン、英国、フランス、アルゼンチンの司教、カザフスタンのアスタナのアタナシウス・シュナイダー司教もいる。

署名した枢機卿には、レイモンド・レオ・バーク枢機卿、ウィルフリッド・フォックス・ネイピア枢機卿(フランシスコ修道会)、ベルハネイエスス・デメレウ・スラフィエル枢機卿(ラザリスト会)が含まれる。

カナダでは、カトリック信者がこの出来事に対する償いとして、フランス大使館への公開行進を計画しています。主催者のジョン・パチェコはLifeSitenewsにこう語りました。

「償いは、教会や社会で長い間忘れられてきたことです。天主に対する冒涜は非常に重い罪です」。

伝統的に、このような罪は、天主の各ペルソナに対する直接的な攻撃であるため、最悪の罪の一つ(肉の罪よりもさらに悪い)と考えられていたが、今日では、教会で評価されず、社会では、ちょっとした冗談になっている。

悲しいことに、多くの人は、【天主からの】何の反応もなくこの嘲笑が続くのを天主が許してくれると信じている。そのような態度は、天主の御稜威に対する軽薄な態度と、天主に対する恐れが完全に欠如していることを表している。これは深刻な妄想である。

英国では、カトリック信者がロンドンのフランス領事館の前に集まり、公的な償いの祈りを行いました。この集会の主催者はこう述べました。

「私たちがここにいるのは、先週、パリで五輪の開会式が行われたためです。私たちは、これまで私たちの記憶にないほどの大胆な冒涜を目にしました。

(それは、)私たちの主イエズス・キリストが、私たちの主ご自身との完全で親密な一致の秘跡である聖体を制定された、最後の晩餐を完全にあざ笑うものでした。まことに聖にして純粋なもの、ふさわしい拝領者に多くの恩寵を与えるもの、そして彼らが明らかに嫌っているものです!

特に、私たちのカトリック位階階級とされる人たちの沈黙を前にして、カトリック信者は、このようなあからさまな冒涜行為、オカルト的なルチフェル的儀式に他ならないものに対して、償いをすることが不可欠です。

ですから今日、私たちは欧州中の無数のカトリック信者とともに、この世による暴挙、汚聖、冒涜に対する償いのために、そしてこの世の真の王である、王たるキリストをたたえるために、ロザリオを捧げます」。

これらの行事に参加した人々は、教皇ピオ十一世が約100年前にこれらの行事について次のように記していることを知り、励まされるはずです。

信者の誰もが、これらのすべてのことについて敬虔に熟考し、キリストの苦悩の際の愛徳で燃え立ち、自分自身の過ちと他者の過ちを償い、キリストの名誉を回復し、霊魂の永遠の救いを促進するために、より熱心に努力しなければならない[6]。

キリスト信者に与えた不快感に過度に注目すること

この出来事に関する多くの論評は、このような冒涜がキリスト信者に与えた不快感を中心に展開されています。フランシスコが一週間以上も沈黙を守っていたことに多くの人が驚きましたが、ある意味、次の【バチカンの】声明は沈黙よりもひどいものです。

聖座は、パリ・オリンピックの開会式のいくつかの場面に悲しみを覚えると共に、ここ数日上げられていた、多くのキリスト教信者や他の宗教の信者にもたらした不快感を嘆く声に加わらざるを得ない。

全世界が共通の価値観のもとに一致して集う信望ある催しにおいて、多くの人々の宗教的信念を嘲笑するような暗示はあってはならないはずだ。

表現の自由は、当然問題ではない(が、)他者の尊重においては限界がある。

【参考】バチカンニュース・教皇庁「パリ五輪開会式のいくつかの場面に悲しみ」表明

キリストを拒否する人たちに対応する場合、キリスト信者、そして「すべての信仰を持つ人たち」、「他の宗教の信者たち」に起こる不快感に焦点を当てることは、少しは適切かもしれませんが、天主ご自身に起こる不快感の方がはるかに重大です。

私が何度か言及したピオ十一世の1928年の回勅「ミゼレンティッスムス・レデンプトール」(Miserentissumus Redemptor)とこの声明を比較すると、この焦点を当てることの不自然さがよく分かります。

この回勅は、天主の御子にして人類の贖い主に対する公然の冒涜に対して、真の教皇がどのような公的感情を持つべきかを私たちに示しています。


以下にピオ十一世の回勅からの抜粋を掲載します。もし天主の名誉に関心を持つ教皇がいれば、そのようなことは、今週書かれたかもしれませんし、先週、同じようなことが書かれたかもしれません。

私たちは皆、ピオ十一世の教えに留意し、少なくとも個人的な償いの祈りを捧げるべきです。

ミゼレンティッシムス・レデンプトール

ピオ十一世の1928年の「聖心への償いについての回勅」

背教の現代における償いの絶対的必要性

さて、この罪の償いの必要性がどれほど大きいか、とりわけこの現代においては、冒頭で述べたように、「悪者の配下にある」(ヨハネ第一書5章19節)世を、目と心で調べるすべての人に明らかになるであろう。

あらゆる方面より、嘆き悲しむ民の叫びがわれらに届き、民の君主や支配者たちは立ち上がり、主とその教会に逆らって手を結ぶ(詩篇2篇2節参照)。

私は、そのような地域全体にわたって、人間の権利も天主の権利もすべて混乱しているのを見ている。教会は打ち壊され、転覆させられ、修道者や聖なる童貞は彼らの家から引き離され、虐待や蛮行、飢えや投獄で苦しめられている。少年少女の一団は、彼らの母なる教会の懐から引き離され、キリストを棄て、天主を冒涜し、最悪の情欲の罪を企てるように仕向けられている。全キリスト信者は、悲しくも意気消沈、混乱して、絶えず信仰から離れ、あるいは最も残酷な死に見舞われる危険にさらされている。

これらのことは実に悲しいことであるため、このような出来事は「悲しみの始まり」、すなわち「天主ととなえられるもの、崇敬されるすべてのものの上に自分を立てる」(テサロニケ後書2章4節)罪の人によってもたらされることを予兆し、予告していると言えるかもしれない。

私たちの同胞であるキリスト信者のために、また彼らが直面する問題のためになされるべき償い

しかし、敬うべき兄弟たちよ、汚れなき小羊の血で洗礼において洗われ、恩寵に満たされた信徒たちの中に、あらゆる階級の多くの人々がおり、彼らは、天主的なものに対する驚くべき無知の下で労苦し、誤った教理に感染し、御父の家から遠く離れ、悪徳にまみれた生活を送り、真の信仰の光に照らされることもなく、将来の至福の希望に喜ばれることもなく、愛徳の炎に清められたり大切にされたりすることもない生活を送っている。そのため、彼らは本当に、闇と死の陰に座しているように見える。

さらに、信徒たちの間では、教会の規律への無頓着さや、すべてのキリスト教的生活がその上にあり、それによって家庭社会が支配され、結婚の神聖さが守られている、古くからの制度に対する無頓着さが非常に高まっている。子どもたちの教育は完全に軽視され、さもなければ、あまりにも甘やかされた誘惑によって堕落させられ、教会は若い人たちにキリスト教的教育を施す力さえ奪われている。特に女性の生活と服装においては、キリスト教的な慎み深さが忘れ去られ、はかないものに対する留まるところを知らない愚かさ、世俗的な問題における節度のなさ、大衆の人気に対する限りない野心、正当な権威の軽蔑、そして最後に、信仰そのものが傷つけられたり危うくなったりする、天主の言葉に対する侮蔑がある。

しかし、これらの悪のすべてが、いわば頂点に達するのは、眠り、逃げ惑う弟子たちのように、信仰を揺るがせ、キリストが苦悩に圧迫されたり、サタンの配下に取り囲まれたりするときに、みじめにもキリストを見捨てる者たちの臆病と怠惰において、また、裏切り者ユダの例にならって、軽率かつ冒涜的に聖なる食卓にあずかったり、敵の陣営に行ったりする者たちの背信行為において、である。

こうして、われらの主が、「不義が増すにつれて、おびただしい人の愛が冷める」(マテオ24章12節)と預言されたような日が近づいているという思いが、余の意志に反してさえ、心に湧き上がってくるのである。

キリストを愛する者の義務

さて、信心深い者であれば誰でも、これらすべての事柄について敬虔に熟考したなら、苦悩するキリストの愛徳で燃え立ち、自分自身と他人の過ちを償い、キリストの名誉を回復し、霊魂の永遠の救いを促進するために、より熱心に努力しなければならない。

そして、実際、使徒の言葉「罪が増したところには、それ以上の恩寵があふれるばかりのものとなった」(ローマ5章20節)は、この現代を表すのに使われるのかもしれない。なぜなら、人間の邪悪さが非常に増大した一方で、同時に、聖霊の霊感によって、天主の聖心に捧げられた多くの傷ついた人を償うために熱心な心をもって努力する男女の信者の数が驚くほど増大しているから、いや、彼らはいけにえとして自らをキリストに捧げることをためらわないからである。

なぜなら実際、私が話してきたことを愛をもって考え、心に深く刻み込む人なら、あらゆる罪を最大の悪と同じように恐れおののき、天主の御旨に完全に身をゆだね、絶え間ない祈りによって、自発的な断食によって、自分に降りかかる苦難に忍耐強く耐えることによって、そして最後に、この償いの運動に生涯を費やすことによって、天主の御稜威の傷ついた名誉を回復しようと努めるであろうからである。
参考資料

1. St. Thomas does clarify, however that ‘[n]evertheless murder takes precedence, as to punishment, among sins committed against our neighbor.’

2. St. Thomas Aquinas, Summa Theologica (henceforth ST), Ia IIae, Q87 A4 Obj. 2. Trans. Fathers of the English Dominican Province, Second and Revised Edition, 1920. Text taken from New Advent.
While this text is found in an objection to the thesis of the given question, St Thomas accepts the terms as being relevant to one aspect of sin, namely the turning away from the infinite good, which is God. This is made explicit in the response, which itself refers back to the body of the answer:

“Punishment is proportionate to sin. Now sin comprises two things. First, there is the turning away from the immutable good, which is infinite, wherefore, in this respect, sin is infinite. Secondly, there is the inordinate turning to mutable good. In this respect sin is finite, both because the mutable good itself is finite, and because the movement of turning towards it is finite, since the acts of a creature cannot be infinite.”

3. ST III Q47 A3

4. ST III Q48 A2

5. Miserentissimus Redemptor n. 21

6. Pius XI n. 18.


8月2日から4日までパリオリンピックの開会式の冒涜の償いの三日間償いの日が行われました。8月11日の閉会式には冒涜が繰り返されないことを祈ります。

2024年08月08日 | 聖伝のミサの予定

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

8月2日から4日までパリオリンピックの開会式の冒涜の償いの三日間償いの日が行われました。

パリのオリンピックの開会式でおこなわれた冒涜の償いの三日間(第一日目)冒涜するよりも恐ろしいものは何もない

侮辱された愛の秘跡である御聖体を、わたしたちは感謝と愛をもって償いましょう。

創造主である天主を侮辱することの意味、地獄の特徴

聖母の被昇天を黙想する:初土の信心:マリア様の汚れなき御心に対して犯される罪を償うために

フランス革命で頂点に達したキリスト教文明に対する戦争:革命とは何か?聖寵の無限の全能の力

8月2日には、有志の方々で、午後3時30分より、フランス共和国大使館前にて、償いのためにロザリオ5連が唱えられました。

パリの現地時間で、8月11日(主日)午後9時からオリンピックの閉会式が始まるそうです(日本時間では8月12日月曜日の早朝4時)。

閉会式では、冒涜が繰り返されることがないことを祈り、8月12日には大阪の午前10時半からのミサ聖祭で、私たちは世界と日本のために祈ります。またオリンピックに出場されて努力された選手の方々のために祝福を祈ります。

 

 


フランス革命で頂点に達したキリスト教文明に対する戦争:革命とは何か?聖寵の無限の全能の力

2024年08月08日 | お説教・霊的講話

パリのオリンピックの開会式でおこなわれた冒涜の償いの三日間(第三日目)

2024年8月4日(主日)東京 説教

トマス小野田圭志神父

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、
一昨日の8月2日から今日までの三日間は、特別に7月26日の金曜日にパリのオリンピックの開会式でおこなわれた冒涜の償いのために、ミサが捧げられています。今日はこの償いについて一緒に黙想いたしましょう。

【1:イエズス・キリストの御業への侮辱】
オリンピックの開会式では、全世界の人々の目前で、イエズス様の愛の業を冒涜するパフォーマンスが行われました。つまり、最後の晩餐、言い換えると最初のミサ聖祭、御聖体と司祭職の制定の御業が侮辱されました。
御聖体の制定というのは、人となった天主ご自身が、パンをご自分の御体に、ブドウ酒をご自分の御血に聖変化させて、私たちに与えられた愛の業です。

司祭職の制定というのは、この聖変化の権能を人間に与えるために、使徒たちを新約の司祭として叙階したその瞬間のことです。
オリンピックでは、この愛の御業が、嘲笑と軽蔑と侮辱の対象となりました。
これはイエズス様のなさった核心・その究極の御業に対する侮辱であって、いわばイエズス様の教えのすべてを否定しようとすることの現れです。冒涜です。"荒らすもののいとわしいもの"といわなければなりません。

イタリアの歴史学者であるロベルト・マテイという人は、これについて単なる「悪趣味」や「挑発」ではないといいます。これは、キリスト教に対するキリスト教のうち立てた西洋文明に対する「戦争」であると言っています。
イエズス・キリストへの信仰とカトリック教会の名のもとに立てられた西洋文明を、異教のディオニュシオスの旗の下に従属させよう、革命の旗の下に従属させようとする戦争であるといいます。彼はこんなことを言います。引用します。「単に悪趣味なショーや文化的挑発として片付けることはできません。 それは、フランス革命において歴史的なピークを迎えたキリスト教文明に対する最も新しい戦争の行為である」と言っています。 
ですから、キリスト教の最も核心的な神秘を、御聖体を、ミサ聖祭を、ディオニュシウスという異教的な乱痴気騒ぎ・放埓と奔放の官能に置き換えようとするのです。
ですから、ギロチンにかけられて殉教した王妃マリー・アントワネットが、自分の首を両手で抱えて、革命の賛歌 Ça iraを歌うような冒涜的なパフォーマンスもありました。何故でしょうか?何故かというと、フランス国王は、イエズス・キリストの社会的な統治権、イエズス・キリストの王権の原理を体現していたからです。

ピオ六世教皇は、1793年、勅令で、ルイ16世を殉教者だと呼んでいます。同じ言葉が、マリー・アントワネット王妃にも当てはまります。なぜかというと、この二人はキリストに対する革命的な憎しみによって殺害された殉教者だからであります。カトリック王をギロチンにかけ、カトリック王国を破壊するということは、すなわちキリストの社会統治という原理を攻撃し破壊しようとすることでした。キリスト教を否定したうえに共和国が建国されたのです。ですから、王のそして王妃の殺害は、革命の精神の表現であり、共和国の建設を意味する行為でした。
去年の3月、マクロン大統領は、フランス共和国が世界で初めて中絶を憲法に盛り込んだということで誇りに思っていました。この中絶という罪のない赤ちゃんたちをお母さんのお腹の中で殺害するということが憲法で合法化されたということは、国家による王の殺害の合法化、殺人の合法化という、象徴的な連続を表しています。

では、私たちは、このようなキリスト教の文明に対する戦争に対して、それを目前にして、一体何をするべきでしょうか?この悪を前にして、「怒り」を表明するだけでよいのでしょうか?それとも悪を目の前に、悪が多すぎるのでこれは勝てない、そして「逃亡」すればよいのでしょうか?
それとも「私には、なんのことだかわからない」「そんなのは知らない!」(マテオ26:70-74)「関係ない!」と言って、「無関心」を装っていればよいのでしょうか?
イエズス様は私たちがそうやって逃げてしまうのをお喜びになるのでしょうか?私たちはいったい何をすることができるでしょうか?イエズス・キリストは、わたしたちが何をすることを期待しておられるのでしょうか?

それに対する答えは、今日のミサに書かれています。主は、私たちに聖寵を信じること、主のお恵みを信じることを求めています。そして、聖寵に協力して、償いをすることを求めています。

【2:聖パウロ:聖寵による大回心】
説明します。今日の書簡を見てください。キリスト教文明は、革命のイデオロギーに敗北して、このまま姿を消すことはできません。イエズス・キリストが公然と侮辱されたまま馬鹿にされたまま、キリストの敵が勝利をうたっているかと見えますが、これは長く続きません。イエズス・キリストは十字架につけられて三日後、復活しました。キリストの神秘体もカトリック教会も、御受難の後、栄光ある姿に復活します。実際にフランス革命の後、カトリック教会は瓦礫の中から燦然と美しい姿を輝きだして、世界中に宣教師を送り、改宗者を出しました。同じことが起こります。

今日の書簡では、聖パウロは、復活した主イエズス・キリストがご自分に現れたということをこう言っています。引用します。
「すべての使徒たちに、最後には、月足らずのような私にもおあらわれになった。私は天主の教会を迫害した者であって、使徒と呼ばれる値打ちのない、使徒のうちでもっとも小さい者である。しかし、天主の恩寵によって、私は今の私になった。そして私が受けた恩寵は空しくならなかった。」

これは何を意味するでしょうか。たしかに聖パウロは「天主の教会を迫害した者」でした。キリストの敵でした。別のところでも自責の念をこめて述べています。ガラチアの書には、「私は、きわめてはげしく天主の教会を迫害し、荒らしていた」(ガラチア1:13)、と言います。ティモテオ書には、「私は先には冒涜者、迫害者、暴力者であった」(ティモテオ前1:13)と自責の念を込めて書いています。
しかし、このキリスト教を最も迫害していた敵・罪人だった私は天主から受けた恩寵によって回心した、というのです。ティモテオの書簡の中にはこうもあります、「その罪人の中で私は頭である。私があわれみを受けたのは、イエズス・キリストが、かれを信じて永遠の命を受けようとする者の模範として、まず私に、その寛容をことごとく示されたがためである。」(ティモテオ前1:15-16)
イエズス様の寛容のあわれみの力を見せしめるために、まず聖パウロが回心しました。しかも、キリストの計り知れない富を異邦人に告げるために特別の異邦人の使徒と選ばれました。ですからどのようなおそるべき教会の公然の敵であったとしても、悪魔の手先のような人々であったとしても、聖寵によるならば回心が可能です。
聖パウロの書簡は私たちに今日その希望を伝えています。聖寵の無限の全能の力を教えています。
では、その回心はいつ、どのようにして実現するのでしょうか?私たちはそのためにいったい何をすればよいのでしょうか? 福音をご覧ください。

【3:どもりで耳の聞こえない人】
主はどもりで耳の聞こえない人を癒されます。なぜでしょうか? なぜかというと、主がガリラヤの海辺におられるとき、人々が、どもりで耳の聞こえない人々をつれてきて、按手してくださいと願ったからです。祈ったからです。懇願したからです。

尊者ベーダは、これを私たちに適応しています。この話すことも耳の聞こえることもできない人とは、天主の御言葉を聞くことも、また口を開いてみことばを話すこともできないような人々を意味している。このような人々は、癒されるために、主の御許に連れてこられなければならない、と。

オリンピックの開会式は、あるいはオリンピックを主催した人は、この主の御許に運ばれて癒されなければならない人々でした。そしてその人々のパフォーマンスでした。何故でしょうか?何故かというと、彼らは残念ながらイエズス・キリストの福音に耳をふさいでいるからです。そのかわりに、革命という「嘘の帝国」を作り上げるのに協力しているからです。「死の文化」を合法化しようとしているからです。

革命というのはいったいなんなのでしょうか?革命というのはその定義上、既成の秩序を破壊することです。では秩序を破壊するためには、なにをしたらよいのでしょうか?区別を破壊します。上も下もない、ということです。右も左もない。社会全体のあらゆる区別を破壊します。そうすることによって、秩序を破壊します。
ところで、最初の革命は、天主と自分との区別を受け入れなかったルチフェルから始まりました。「私は従わない。」「嫌だ。」この区別を最初に拒否したのはサタンです。そしてこの革命に人間たちをも巻き込もうともします。「おまえたちも神々のようになる」と。そうして革命は天主と人間という間にある、つまり、創造主と被造物という絶対的な区別、最も根本的な区別を否定しようとします。

するとどうなるでしょうか?超自然と自然の区別も破壊されます。人間の良心があたかも絶対の基準であるかのように神聖化されます。これはどういうことかというと、人間は善と悪の区別がわからなくなる。真理と偽りの区別がわからなくなる。何が美しいのか何が醜いのかわからなくなる。そうではなくて、自分で決める。自分が、何が真理、何が誤り、何が美しい、何が醜い、何が善、何が悪か、わたしが決める。わたしが決めたら、そうだ。

そこからさらには混乱が始まります。お父さんとお母さん、お父さんと子ども、この区別がわからなくなります。親と子ども、あるいは先生と弟子、先生と生徒、この区別も分からなくなる。生徒が先生を評価し、先生の成績をつける。あるいは司祭と信徒の区別がわからなくなる。あるいはいろいろな国の違いがわからなくなる。いろいろな宗教の違いがわからなくなる。エキュメニズムだ。など。革命の原理を受け入れてしまった新しいミサは、まさにこれの表明かもしれません。信徒が司祭の代わりに御聖体を配ったり、あるいはその他の行いをしています。宗教の区別がわからなくなりつつあります。
これだけではありません。革命の原理はさらに行きます。人間と人間以外の動物の区別もわからなくなる。男と女も何が違うのかわからない。すべての区別がわからない。秩序が崩壊する。男と女がわからないというのはジェンダー理論といわれています。自分で男か女を決めることができる「性自認」といわれています。今日は男になる、男のような感じがするから、男湯に入る。でも明日は女のような感じがするから、女湯に入る。
聖パウロはすでに現代について私たちにこう警告しています。引用します。
「人々が、もはや健全な教えを忍ばず、私欲のままに、耳に快いことを聞かせる教師を集め、真理から耳をそむけ、つくり話に耳を傾けるときが来るであろう。」(ティモテオ後4章3-4)

【4:遷善の決心】
ではそのような、言葉も話すことができず、耳も聞くことができず、なにもわからない、右も左もわからない、何が良いのか悪もわからない、男も女もわからないというような人々にいったい私たちは何をすることができるでしょうか。

わたしたちは主の聖寵の恩寵の力を信頼して彼らのために祈ります。彼らに按手してください、と主に懇願します。聖パウロが回心の恵みを得たのは、殉教者聖ステファノが自分を迫害する人々のために祈ったからだと言われます。石殺しを受けながら、聖ステファノは「主よ、彼らにこの罪を負わせないでください。」と祈りながら、殉教していきました。主がわたしたちに望んでいるのはこの祈りです。償いです。憐れみを主に請い求めることです。ですから、私たちはこの三日間、償いのミサと聖体降福式を捧げています。

愛する兄弟姉妹の皆さま、パリのこの冒涜を機会に、全世界が回心するか否かは、皆さんのこの懇願・祈りにかかっています。イエズス様を知らないこの世の回心のために心を合わせて祈りましょう。

ミサ聖祭が侮辱されました。ですから、私たちはその反対に、愛と礼拝をこめて、ミサ聖祭に与りましょう。聖伝のミサに与っています。冒涜の罪を償いましょう。

御聖体の制定が侮辱されました。ですからわたしたちはその反対に、跪いて、口で、舌で、敬虔に、礼拝と感謝を込めて、愛をこめて、御聖体拝領をいたしましょう。

また特に、御聖体に対してファチマの天使が教えてくださった2つの祈りをお祈りいたしましょう。

主の御恵みによって、また聖母の御取次によって、世界の国々の人々が、またフランスと日本の国民が主に回心するように、お祈りいたしましょう。

「私は天主の教会を迫害した者であって、使徒と呼ばれる値打ちのない、使徒のうちでもっとも小さな者である。しかし、天主の恩寵によって、私は今の私になった。そして私が受けた恩寵は空しくならなかった。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


2024年8月7日は、8月の初水曜日(月の初めての水曜日)です 聖ヨゼフ!我らのために祈り給え

2024年08月07日 | カトリック・ニュースなど

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日、2024年8月7日は、七月の初水曜日(月の初めての水曜日)です。聖母の汚れなき御心と聖ヨゼフとの取り次ぎを通して、私たちの主の御聖体に対する冒瀆的な取り扱いに対する償いを捧げましょう。

また、聖ヨゼフに、東京に聖伝のミサの聖堂が与えられたことを感謝しましょう!

初水曜日ですからいつものように「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」について黙想することをご提案します。


聖ヨゼフはこの世で天主イエズス様と浄配なる聖母マリア様を最も良く知り、愛された御方であり、その隠れた徳ゆえに偉大なる御方、イエズス様とマリア様の最大の命の恩人であられました。

また、聖ヨゼフは、この世では、全てを天主の栄光のために、隠れてその生涯をささげられたが故に、天にて聖母の次に最大の栄光をあたえられていらっしゃいます。

聖伝では、水曜日は聖ヨゼフに捧げられた曜日であり、月の最初の水曜日を聖ヨゼフに捧げることで、聖ヨゼフを讃え、その御取次に信頼し、その御徳に倣って、聖ヨゼフを通して、天主イエズス様とマリア様をお愛しすることができますように。

初土曜日の「聖母の汚れ無き御心」への信心にならって、この「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」のどれかを「15分間黙想」することにいたしましょう。

聖ヨゼフの帯の信心については、下記リンクをごらんください。
聖ヨゼフの帯 cingulum Sancti Joseph

聖ヨゼフの御取次ぎにより、聖母の汚れ無き御心とイエズスの至聖なる聖心ヘの愛をますます与えてくださいますように!
聖ヨゼフの御取次ぎにより豊かな祝福がありますように!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


聖ヨゼフの7つの苦しみと喜び

1 ああいと潔き御母マリアの浄配、栄えある聖ヨゼフよ、御身のいと清き妻を失なわんと心に思い煩いし時の苦しみはいと大いなるものなりき。
されど天使が御託身の玄義を御身に伝えられし時の喜びは、またひとしお大いなりき。この苦しみ、この喜びにより、今も臨終の時も我らの心を潔き良心の喜びと、イエズス、マリアのうちに自我を滅する尊き御身の心を示し、我らを慰め給え。



2 ああいと幸いなる保護者聖ヨゼフよ、御身は人となり給いし御言葉の潔き養父の位にあげられたれども、御身は幼きイエズスがいと貧しき中に生まれ給うを見て大いに悲しみ給いしが、
天使らのたえなる歌声を聴き、その輝ける夜の栄えを見給うや、その悲しみは天的の喜びと変じたり。御身のこの悲しみ、この喜びによりて、我らもまたこの世の歩みを終えたる後、天使らの賛美の歌声を聴き、天的光栄の輝きを受け得んことを願い奉る。



3 ああ御摂理にいと従順なしもべなる、栄えある聖ヨゼフよ、幼きイエズスが割礼にて流されたる尊き御血は御身の心を苦痛もて貫きたれども、
イエズスと命名されるや御身の心は喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らをこの世の悪徳より離れしめ、イエズスのいと尊き御名を心から唱えつつ心満たされてこの世を去るを得しめ給え。



4 ああいと忠誠なる聖ヨゼフよ、御身は救世の玄義の成就に身をもって大いなる役を果たされしが、シメオンの預言によりイエズスとマリアが受け給うべき苦難を予知せられ苦しみ給いたれど、
数限りなき人々の霊魂がこれによって救わるるとの預言によりて、天的喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らがイエズスの功徳と聖母マリアの御取次ぎにより、終わりなき栄えを得てよみがえる人々のうちに数えられる御恵みをとりなし給わんことを願い奉る。



5 ああ人となり給いし天主の御子のいとも注意深き保護者なる栄えある聖ヨゼフよ、御身はいと高きものの御子を養い給い、これに仕えるために多くの辛酸をなめられたり。わけてもそのエジプトへの逃避はいと苦しきものなりしが、
御身が常に天主御自身と共におられし喜び、またエジプト人らの諸々の偶像が地に落とされしを目の当たりに見られし時の安心はいと大いなりき。この御身の辛酸と喜びとによりて、我らが地獄的暴君より免れて、わけても危険なる機会より逃避する事を得しめ、我らの心のうちに地上的執着が落とされ、ひたすらイエズスとマリアに仕え奉りつつ日々の生活を送り、この世を幸いに終わる事を得しめ給え。



6 ああこの地上の天使なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の心を天の王に全く捧げられたり。御身がエジプトより戻られる喜びは、アルケラウスに対する憂慮にて不安の闇となりしが、
天使は再び御身にイエズスとマリアと共にナザレトにて楽しく住み給う事を約束せられたり。御身のこの苦しみ、この喜びによりて、我らの心を深い恐怖より免れしめ、潔き良心の平和を楽しみ、イエズスとマリアと共につつがなく世を送り、臨終においてはイエズスとマリアの御手に我らの霊魂を捧ぐる事を得しめ給え。



7 ああ全ての徳の鑑なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の誤りにあらずして幼きイエズスを見失い、三日の間苦しみもて捜し求められたり。
されど神殿の中に博士らに取り巻かれたるイエズスを見出されし時の喜びはいかに大いなりや。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らが大罪を犯しイエズスを失いたりせば、たゆまず彼を捜し求め、遂に再び巡り会えるよう、わけても臨終の時に彼と共にありて天国に至り、御身と共に天主の終わりなき御恵みを賛美し奉るようとりなし給わんことを心から願い奉る。



交唱 イエズスが教えをはじめたりしは三十歳ごろなり、人々、イエズスをヨゼフの子なりと思いたり。(ルカ3:23)

V 聖ヨゼフ、我らの為に祈り給え。
R キリストの御約束に我らをかなわしめ給え。

祈願 天主、御身のかしこき御摂理のうちに祝せられたヨゼフを至聖なるマリアの浄配に選び給いたれば、願わくはこの世の我らの保護者として崇め奉る彼が、我らの天のとりなし手となり給わんことを。 アーメン。

参考リンク
サンタフェ~奇跡の階段 コラレス通り1丁目 この記事に昔の階段の様子の写真があります。

聖ヨゼフの階段(アメリカのニューメキシコ、サンタ・フェにあるロレット・チャペル)



英語ではこちら。
THE SEVEN DOLOURS AND SEVEN JOYS.

i. St. Joseph, pure spouse of most holy Mary, the trouble and anguish of thy heart were great, when, being in sore perplexity, thou wast minded to put away thy stainless spouse: but this joy was inexpressible when the archangel revealed to thee the high mystery of the Incarnation.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee comfort our souls now and in their last pains with the consolation of a well-spent life, and a holy death like unto thine own, with Jesus and Mary at our side.
Pater, Ave, and Gloria.

ii. St. Joseph, Blessed Patriarch, chosen to the office of Father of the Word made Man, the pain was keen that thou didst feel when thou didst see the Infant Jesus born in abject poverty; but thy pain was changed into heavenly joy when thou didst hear the harmony of angel-choirs, and behold the glory of that night when Jesus was born.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee obtain for us, that, when the journey of our life is ended, we too may pass to that blessed land where we shall hear the angel-chants, and rejoice in the bright light of heavenly glory.
Pater, Ave, and Gloria.

iii. St. Joseph, who wast ever most obedient in executing the law of God, thy heart was pierced with pain when the Precious Blood of the Infant Saviour was shed at His Circumcision; but with the Name of Jesus new life and heavenly joy returned to thee.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, being freed in our life from every vice, we too may cheerfully die, with the sweet Name of Jesus in our hearts and on our lips.
Pater, Ave, and Gloria.

iv. St. Joseph, faithful Saint, who wast admitted to take part in the redemption of man; the prophecy of Simeon foretelling the sufferings of Jesus and Mary caused thee a pang like that of death; but at the same time his prediction of the salvation and glorious resurrection of innumerable souls filled thee with a blessed joy.
By this thy sorrow and thy joy, help us with thy prayers to be of the number of those who, by the merits of Jesus and his Virgin Mother, shall be partakers of the resurrection to glory.
Pater, Ave, and Gloria.

v. St. Joseph, watchful Guardian, friend of the Incarnate Son of God, truly thou didst greatly toil to nurture and to serve the Son of the Most High, especially in the flight thou madest with Him unto Egypt; yet didst thou rejoice to have God Himself always with thee, and to see the overthrow of the idols of Egypt.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us grace to keep far out of the reach of the enemy of our souls, by quitting all dangerous occasions, that so no idol of earthly affection may any longer occupy a place in our hearts, but that, being entirely devoted to the service of Jesus and Mary, we may live and die for them alone.
Pater, Ave, and Gloria.

vi. St. Joseph, angel on earth, who didst so wonder to see the King of heaven obedient to thy bidding, the consolation thou hadst at His return was disturbed by the fear of Archelaus, but nevertheless, being reassured by the angel, thou didst go back and dwell happily at Nazareth, in the company of Jesus and of Mary.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, having our hearts freed from idle fears, we may enjoy the peace of a tranquil conscience, dwelling safely with Jesus and Mary, and dying at last between them.
Pater, Ave, and Gloria.

vii. St. Joseph, example of all holy living, when, though without blame, thou didst lose Jesus, the Holy Child, thou didst search for Him for three long days in great sorrow, until with joy unspeakable thou didst find him, who was as thy life to thee, amidst the doctors in this Temple.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee with our whole heart so to interpose always in our behalf, that we may never lose Jesus by mortal sin; and if (which God avert) we are at any time so wretched as to do so, that we pray thee to aid us to seek Him with such ceaseless sorrow until we find Him, particularly in the hour of our death, that we may pass from this life to enjoy Him for ever in heaven, there to sing with thee His divine mercies without end.
Pater, Ave, and Gloria.

Ant. Jesus Himself was about thirty years old, being, as was supposed, the son of Joseph.

V. Pray for us, holy Joseph.
R. That we may be made worthy of the promises of Christ.

Let us pray.
O God, who in Thine ineffable providence didst vouchsafe to choose blessed Joseph to be the husband of Thy most holy Mother; grant, we beseech Thee, that we may have him for our intercessor in heaven, whom on earth we venerate as our holy protector. Who livest and reignest world without end. Amen.


聖母の被昇天を黙想する:初土の信心:マリア様の汚れなき御心に対して犯される罪を償うために

2024年08月06日 | お説教・霊的講話

2024年8月3日(初土)御聖体降福の黙想

聖母の汚れなき御心への信心として、ロザリオの十五の玄義のうちの一つを 15分間 黙想いたしましょう。

マリア様の汚れなき御心に対して犯される罪を償うために、この黙想をお捧げいたしましょう。
8月15日は聖母の被昇天です。8月の初土の黙想は、聖母の被昇天を黙想することを提案します。

マリア様の生涯の最後は…イエズス・キリスト様に対する愛のおわりに…霊魂は主のましまし給う天国をあまりにも熱望するあまり、肉体のうちにとどまることはもはやできませんでした。いつも主のことを考え、主のことを愛し、主と共にいるのでなければ居ても立っても居られない、愛に燃える霊魂をお持ちでした。

天主の御言葉が人類をどれほどお愛しされたかを考えれば考えるほど、黙想すれば黙想するほど、どれほど苦しまれたかを黙想すれば黙想するほど、主がわたしたちにくださった途轍もないお恵みを黙想すれば黙想するほど、マリア様の汚れなき御心は感謝と讃美と礼拝で、ますます愛に燃えたつばかりでした。

わが霊魂は主を讃美し、
わが精神は主を崇め奉る。
そは、わが卑しきを見給えたればなり。

天主は……
聖母の御霊魂が天主イエズス・キリストを愛するがあまりに肉体を離れますが
御子は、御母の肉体がこのまま腐敗するのをお許しになりませんでした。
マリア様の肉体も霊魂とともに天国に挙げられます。
イエズス・キリストは、罪なく死を受けられた方なので、マリア様も死を避けることはありませんでした。
しかし、イエズス様は死の屈辱・腐敗をお許しにはなりませんでした。

天の最も高くイエズス・キリストのすぐそばに、
マリア様の霊魂が 御体が高く挙げられ
わたしたちのためにとりなしてくださっています。

マリア様がこれほど高く肉体も霊魂も挙げられたのは、
イエズス・キリストをお愛ししたから、
罪を憎んだから、
天主に仕えたから、
イエズス・キリストのみ旨を完全に果たしたから、
贖いの業に協力したからです。
十字架の下に佇むとともに、イエズス・キリストとともに、贖いの業を果たされました。

マリア様はわたしたちをも、この業に協力するように招いておられます。
聖なる死をわたしたちも遂げるようにと、招いておられます。
罪を避けて、一生を汚れなく送ることを、マリア様はわたしたちのために祈っておられます。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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