Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

イエズス・キリストの「御前でひざまづくのが正しく、本質的に必要な態度である」(ベネディクト十六世)

2015年11月28日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 ベネディクト十六世引退教皇様の言葉をよく聞いて黙想してください。

「現代文化 -- 現代文化が、文化である限りにおいて -- にとって、ひざまづきは異質でありうるかもしれない。何故ならこの文化は、信仰から遠ざかってしまったからであり、またこの文化は、その方の御前でひざまづくのが正しく、更に、本質的に必要な態度であるその御方をもはや知っていないからである。信じることを学ぶ者は、ひざまづくことも学ぶ。そして、ひざまづくことをもはやしなくなった信仰や典礼は、その中核が病んでいることになる。ひざまづきが失われたところでは、それが再発見されなければならない。それは私たちの祈りにおいて、私たちが、使徒たちや殉教者たちと繋がるため、全宇宙(コスモス)とイエズス・キリストご自身との一致において繋がるためである。」

It may well be that kneeling is alien to modern culture -- insofar as it is a culture, for this culture has turned away from the faith and no longer knows the one before whom kneeling is the right, indeed the intrinsically necessary gesture. The man who learns to believe learns also to kneel, and a faith or a liturgy no longer familiar with kneeling would be sick at the core. Where it has been lost, kneeling must be rediscovered, so that, in our prayer, we remain in fellowship with the apostles and martyrs, in fellowship with the whole cosmos, indeed in union with Jesus Christ Himself."
https://books.google.co.jp/books?id=cW_MBQAAQBAJ&lpg=PA171&hl=ja&pg=PA171#v=onepage&q&f=false

(ベネディクト十六世『典礼の精神』)

その方の御前でひざまづくのが正しく、本質的に必要な態度であるその御方を、知らないから、ひざまづくことをやめてしまうのです。

「信じることを学ぶ者は、ひざまづくことも学ぶ。」(ベネディクト十六世)

信じないものは、ひざまづくことを知りません。イエズス・キリストを知らない現代文明は、その御前ではひざまづくことが正しく、本来的に必要な態度であるイエズス・キリストを知りません。天主がどなたかを知りません。

「ひざまづきは、キリスト教文化の表現です。・・・ひざまづきとは、どこかの文化から由来したものではありません。これは聖書と、聖書が教える天主を認識することから由来するものです。」(ベネディクト十六世)。

「天主はかれを称揚し、すべての名にまさる名をお与えになった。それは、イエズスのみ名のまえに、天にあるものも、地にあるものも、地の下にあるものもみな膝をかがめ、すべての舌が、父なる天主の光栄をあがめ、「イエズス・キリストは主である」と言いあらわすためである。」(フィリッピ人への手紙2:10)

ひざまづくことによって、私たちは使徒たちや、殉教者たち、イエズス・キリストと一致のうちに繋がることができます。

「人々との一致」のために、使徒たちや殉教者たちイエズス・キリストとの一致を断ち切らないでください。

かつて日本の殉教者たちは、御聖体に対する熱い信心を持っていました。たとえば、パウロ内堀作右衛門をはじめとする殉教者たちは、全員が宣教師の協力者や宿主であり、宣教師なき後は、代わって地元の教会を世話し、その教会のために命を捧げました。1627年2月21日、松倉豊後守の命により、キリシタンに対する拷問が始まった時、パウロ内堀たち16人は熱心に宣教を続けたため、雲仙に送られ、数時間の拷問のすえ雲仙の熱湯に投げ落とされて殉教しました。最後の言葉は「いと尊きご聖体は賛美されますように!」でした。

ベネディクト十六世教皇様の教えは、はっきりしています。ひざまづくことを知らないのは、イエズス・キリストが誰かを知らないからです。ご聖体が何かを知らないからです。信仰が病んでいるからです。聖書と、聖書が教える天主を認識していないからです。ひざまづかないのは、悪魔的だからです。イエズス・キリストを天主であると認めようとしないからです。信仰の本当の一致から離れているからです。(参照:ベネディクト十六世『典礼の精神』)


2000年間のカトリック教会の諸聖人たちと一致するために、天国の諸天使と一致してご聖体を礼拝するために、天地の創造主であり私たちの主であるイエズス・キリストを礼拝し賛美し感謝するために、また、罪の償いをするために、聖変化の時には必ずひざまづいてください。

聖伝のミサに与って、私たちの主イエズス・キリストをひざまづいて礼拝してください。永遠のローマに一致して、主に対してなされる冒涜を償ってください。

イエズス・キリストの聖名の前でひざをかがめることができないことは、悪魔の本質です。(参照:ベネディクト十六世『典礼の精神』)

願わくは、愛する兄弟姉妹の皆様が典礼において心を込めてひざまづき、「祈りにおいて、使徒たちや殉教者たちと繋がるため、全宇宙(コスモス)とイエズス・キリストご自身との一致において繋がる」ことができますように!

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

聖アルフォンソによる「公審判について」の黙想

2015年11月24日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

11月は死者の月ですから、死について黙想しましょう。

今日は聖アルフォンソによる「公審判について」の黙想を提案します。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

「ああ、私の救い主にして判事なるイエズスよ、私は主に離れ奉るを欲せず、いつまでも御傍にはべって熱く主を愛し奉らん事を望み奉る。主よ、私は主を愛し奉る。しかり、私は主を愛し奉る。始めて主の法廷に出頭する時も「私は主を愛し奉る」と叫ぶを得しめ給え。主よ、もし罪に応じて私を罰するおつもりであるなら、如何様にも罰し給え。ただ主を愛するを許し給え。いつも主を愛し、またいつも主に愛され奉ることさえできたならば、その他の事は御望みのままに如何様にも取り計らい給え。」

【公審判について】の黙想

 その1
 可哀想なのは罪人だ。主は彼等をヨサファトの谷に待たせ給う。そこで彼等の考えはガラリと変わってしまうであろう。そこでは流石の彼等も自分達が馬鹿であったことを悟って、ハラハラと血の涙を流し、歯噛みして悔しがるであろうが、しかしそのときになってはもう如何ともしがたい。

 今、試しに悩んでいる霊魂は、よく堪忍びさえすれば、ここ暫くの所を良く堪忍びさえすれば、どんなに大きな幸いがヨサファトの谷に待ち受けているであろうか!? そこでは今の苦しみは言い知れぬ喜びに変じ、今の悩みは天の尽きせぬ幸いとなるであろう。Tristitia vestra vertetur in gaudium. Joan. Xvi. 20.

 かの日には、現世で軽んじられた聖人はどんなにか美しく輝きわたり、かえって世にときめき人に持てはやされた悪人は、例え王侯貴族といえどもどんなにか怖しい姿に窶れ果てるであろうか。

 ああ十字架に磔られ、ありとあらゆる侮辱を浴びせられ給いしイエズスよ、私はしかと主の十字架を抱きしめ奉る。世の宝や、誉れや、楽しみや、そんなものが果たして何になるであろう? 私はそれらを潔く投げ棄てて心より主を望み奉る。ただ主御一人を望み奉る。主の他に望むところは無い。

 その2
 「呪われたる者よ、我を離れて永遠の火に入れ」 Discedite a me, maledicti. Matt. Xxv. 41. (マテオ25-41)、この「我を離れて」の一語をもって、公に主の御前を追われ、地獄に投げ込まれる時の悪人の心持は果たして如何ばかりであろうか?

 主イエズスよ、私もかつてこの恐るべき宣告を受けるべき身の上であった。しかし只今では御赦しを頂いたものと安心している。二度と主を離れるを許し給うな。私は主を愛し奉る。またいつまでも愛し奉るであろう。

 悪人の反対に、善人の幸福を思ってみよ。「来たれ、我が父に祝せられたる者よ」(マテオ25-41)と、主の優しい御声をもって天国に案内されるとき、彼等の心中に漲り渡る喜びといったら、果たして何ものに例えられよう。

 思えば私ほど愚か者があろうか。世の儚い誉、楽しみに惹かれて、例えようも無いかの大いなる喜びを一文の値打ちも無い土くれみたいに投げ棄てた事が幾たびあったであろうか。しかし主は今なお私を見限り給わず、御憐れみを垂れて、私の迷いの夢を醒まし、暗んだ目を開けてくださった。そこで今からは万事を擲って主を一心に愛し、かの恐るべき日にあたって、光栄の冠を押し頂き、凱歌を歌って、天国に登れる様に努めなければならぬ。

 主よ私は罪に罪を重ねた悪人である。しかし主の高価な御血の功徳によって願い奉る。何とぞ私にもかの福者達の群れに加わって、熱く主を愛し、主の御足をかき抱きつつ千代に八千代に楽しむを得しめ給え。

 その3
 今信徳の眼をカッと開いてヨザファトの谷を眺め、一度は彼処に集まって善人と共に右のほうに並ぶか、或いは悪人と共に左のほうに並ぶかせねばならぬのだと考えてみるがよい。そしてこれを考えながら十字架の下に平伏して、おもむろに霊魂の上に眼を注ぎ、主の法廷に立つことが出来るだけの用意ができているのかどうかを調べてみなければならぬ。まだ出来ていないとすれば手遅れにならない内に、早く用意に取り掛かる事が急務であろう。

 主以外の物より全く心を離して、毎朝ちょっとの間なりとも黙想をし、しばしば聖体を拝領し、五感の欲を抑え、殊に熱心な祈りをもって及ぶ限り密接な関係を主と結んでおかなければならぬ。救霊の方法はこれに尽きる。真心からこの方法を実行するのは、それこそ天国に昇る選びを受けた兆候なのである。

 ああ、私の救い主にして判事なるイエズスよ、私は主に離れ奉るを欲せず、いつまでも御傍にはべって熱く主を愛し奉らん事を望み奉る。主よ、私は主を愛し奉る。しかり、私は主を愛し奉る。始めて主の法廷に出頭する時も「私は主を愛し奉る」と叫ぶを得しめ給え。主よ、もし罪に応じて私を罰するおつもりであるなら、如何様にも罰し給え。ただ主を愛するを許し給え。いつも主を愛し、またいつも主に愛され奉ることさえできたならば、その他の事は御望みのままに如何様にも取り計らい給え。

 ああ聖母よ、いつも私のために祈り給え。

イエズス様、私の胸に来て下さい。感謝致します。心から礼拝いたします。御身を愛します。

2015年11月19日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 この前の東京でのミッションでは、月曜日にお年を召した方の「家庭訪問」をしました。ご聖体拝領の準備のためにしたお話を、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


2015年11月9日 小野田神父 説教


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

今日はラテラノ大聖堂の献堂の祝日です。
今日のミサの福音では、ザケオという人についての記事が読まれました。

この人は税吏で、他の人からお金をたくさん余分に取っていたり、ちょっと不正な事をして脅して、賄賂やポケットマネーをつくったりしていました。

ところが、「イエズス様が来る」というのを聞いて、背が低いチビの人だったのですけれども、「是非イエズス様を見てみたい。」と思い、木の上に登って、イエズス様が来るのを見ていました。するとイエズス様は、近くの道を通って、ザケオが木の上に乗っているのを見て、「おーい、ザケオ、降りて来なさい。今日お前の家に遊びに行く、お前の家に泊りに行く。」と言いました。

すると皆は、周りにいた人は皆不平を言って、「何だ、イエズス様は、罪人の家に遊びに行くのか、罪人の家に泊りに行くのか。」と言うと、ザケオは、「主よ、もしも私が悪い事をしたならば、それを皆返します。もしも盗んでいたならば、それを4倍にして返します。だから、イエズス様、私の家に来て下さい。」

イエズス様は、『主、共にまします。“エンマヌエル” 』という意味の方で、イエズス様は私たちと共にいる事をお望みです。

この全世界を創った、天主様であるイエズス様は、私たちと共に住む為に人となって、私たち罪人と共に生活して下さいました。そればかりではありません。「罪人と共に世の終わりまでいよう」と思って、御聖体を作って、そして教会の中に、御聖櫃の中に、日夜、朝、昼、晩、夜、私たちを愛する為に、いつも留まり給うのです。

ですから教会は、イエズス様の為に素晴らしい教会を建てて、イエズス様に相応しい場所を造ろう、と、そして献堂式を立てます。献堂式の時には、司教様が12の柱に聖香油を付けて、特別に祝別します。何故かというと、もう「教会」というのは、他の世俗の為に使われる物ではなくて、「イエズス様の為だけ」「天主様の賛美と感謝と礼拝のためだけ」に使われる、特別に聖別された場所となるからです。

そして、イエズス様は、このお部屋にもいらっしゃいました。「御聖体として拝領されたい」と思って、一つになることをお望みになっています。ですから、イエズス様を愛を込めてお迎えして下さい。イエズス様は私たちの事をとても愛しておられます。

2000年前、イエズス様がこの世に来られて、「私たちを愛そう」と、来られたにもかかわらず、ベトレヘムの人は、「シッシッ。」と言って、イエズス様や聖家族を追い払ってしまいました。

でも、今日は私たちは、一緒にイエズス様をお迎え受けて、「イエズス様を愛そう。」と思っております。ですから、「イエズス様、私の胸に来て下さい。イエズス様、感謝致します。イエズス様、心から礼拝いたします。イエズス様、御身を愛します。」と、仰って下さい。そればかりか、イエズス様を愛さない人々、イエズス様を、「シッシッ。」と、追い払ってしまうような人々、或いはイエズス様を知らない人、信じない人の代わりに、イエズス様をお愛しし、イエズス様を信じ、イエズス様を礼拝し、そしてイエズス様を受け入れて下さい。イエズス様は、私たちを極みまで愛する方です。

私たちがそれをする事ができるように、マリア様にお願いしましょう。マリア様は、「主よ、我は主の婢女なり。仰せの如く我になれかし。」と、言って、イエズス様を最初にお受けになった方ですから、マリア様が私たちにその御心を下さって、イエズス様を受け入れる事ができるように助けて下さいますように、お祈りしましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


聖アルフォンソ・デ・リグオリによる【私審判の宣告について】の黙想

2015年11月19日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

11月は死者の月ですから、死について黙想しましょう。

今日は聖アルフォンソによる「私審判の宣告について」の黙想を提案します。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

「私は赦しを頂くにも値しない者である。しかし御憐れみを疑うのは主の禁じ給うところであれば、主よ、私を憐れみ給え。この汚らわしい罪の中より救い出し給え。私は断然行いを改める決心である。ただ聖寵を垂れて私を助け給え。」

【私審判の宣告について】の黙想

 その1
 平素から主を愛して、心は世間の物に執着せず、苦しみを恐れず、辱めを喜び、身を責めこらし、ただ一心に主の御旨を果たしていた人は、審判の際、如何なる慰めを覚えるであろうか。

 「来たれ、善にして忠実なる僕よ、汝の御主の喜びに入れ」(マテオ25-21)という有難い御言葉を賜る時の喜びを思え。「ああ私は救われた! いくら喜んでも躍り上がっても足りない! もうこれからは救霊を失う気遣いは無い!」と思うときの嬉しさは、ああ、誠にいかばかりであろう!

 これに反して大罪を抱きながら現世を立ち去った霊魂は、まだ主の御口より何の宣告も下らない前に、早や我と我が身に地獄の罰を言い渡すであろう。

 主よ、私は主に背いて大罪を犯す毎に、そんな不幸の身となったのである。憐れみの天主よ、主はかの恐るべき審判の暁に、私の裁判官となられるのであるが、しかし、今は私の救い主、私の父君であります。真心から罪を悔い改めさえすれば、いつでも御赦し下さる。私は胸を打ち、熱い涙を流して、犯した罪を悔い悲しみ、ひとえに御赦しを願い奉る。私の罪を悲しむのは地獄の罰を恐れる故ではない。ただ限りも無く愛すべき主に背き、御旨を痛め奉ったからである。

 最も力ある代願者にまします聖母よ、私の為に御子に祈り給え。審判の暁に至らば、御母の御力をもってしても私の滅びを得、救い給わざるべければ、何とぞ今のうちに私を救い助け給え。教え給え。導き給え。

 その2

 「人はその蒔きし所を刈り取らん」 Quae seminaverit homo, haec et metet. (ガラテア6-8)、しかり、一生の間に蒔いた所を審判の暁に刈り取るのだ。私は今まで何を蒔いた? 善を蒔いただろうか? 悪を蒔いていたのではあるまいか? 徳を蒔いただろうか? 罪を蒔いていたのではあるまいか? これはよくよく糾明して見なければならぬ。審判の直前になってあれをああしていたら、これもこうしていたらよかった!と思う所を、今のうちにサッサとしておかねばならぬ。

 もし今日、一時間の後に、主の審判を受けねばならぬというならば、何千という金を投げ出してでも、せめて一年の猶予を求めて十分に用意したいものだとは思わぬだろうか? しからば残りの歳月をなぜその為に用いないのだろうか?

 アガトン修道院長は、多年厳しい苦行に身をこらしながら、その思いが一たび審判に及ぶや、「ああ私はどんな裁きを受けるだろう!」と嘆息するのであった。旧約のヨブも「主の立ち上がり給わん時、如何にせんや。主の臨み給わん時、何と答えまつらん」(ヨブ記31-14)と言っている。私もそうだ。主が立ち上がって、私の一生の間に頂いた聖寵を調べ、その聖寵をおざなりにした点をいちいちお尋ねになる時、何とお答えすることができるであろうか?

 主よ、「主を讃える霊魂を猛獣に渡し給うことなかれ」(詩篇73-9)、私は赦しを頂くにも値しない者である。しかし御憐れみを疑うのは主の禁じ給うところであれば、主よ、私を憐れみ給え。この汚らわしい罪の中より救い出し給え。私は断然行いを改める決心である。ただ聖寵を垂れて私を助け給え。

 その3

 人が死ぬ時に起る事件は実に由々しき大問題で、その結果の如何によって、永遠の救いか、終わりなき滅びかが定まるのだ。誰しも十二分の精力を絞って好結果を挙げるべく努める決心にならなければならぬ。とくと右の事情を考えて見たら、誰だって「実際そうだ」と頷かずにはいられない。「実際そうだ」とすれば、なぜ万事を擲って、一身を主に捧げ、安全に永遠の救いが得られるだけの用意をして置かないのだろう?

 「汝等遭う事を得る間に、天主を尋ねよ」(イザヤ55-6)と預言者は警告している。主を見失ったままその法廷に召喚されては、とてものことではないがお会いすることはできまい。息の根の通っている間に捜してこそ、見い出しうるのではないか。

 愛すべきイエズスよ、私は今まで主の愛を軽んじて大いに御旨を痛め奉った。しかし今は一心に主を愛し、また主に愛されたいと思っている。主よ、私に主を見い出さしめ給え。見い出してひしと抱きつくを得さしめ給え。ああ聖母よ、私が御子イエズスに離れ奉るを許し給うことなかれ。アーメン。

この世はますます毒麦の勢力を広げている。良い麦がもっと広がらなければならない

2015年11月18日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 2015年11月8日(主日)に東京で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2015年11月8日 聖霊降臨後第24主日
小野田神父 説教


聖なる殉教者巡回教会へようこそ。今日は2015年11月8日、聖霊降臨後第24主日のミサをしております。

今日のミサの後いつもの通り、14時30分から公教要理、16時には主日の第2晩課もあります。
明日のミサは、朝7時からです。いらして下さい。それから、喜ばしいニュースです。私たちの兄弟の姉妹の、ヨゼフさんとマリアさんの最初の赤ちゃんがお生まれになりました。11月3日に生まれて、お母さんと赤ちゃんは今休んでいるようで、来月すぐに洗礼を受ける、という事です。どうぞ赤ちゃんの為に、お母さんの為にお祈り下さい、たくさんの子供たちに恵まれますように。


「天の国は、良い種を畑に蒔いた人のようである。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日イエズス様は、福音で例え話を仰ってくださいました。この例え話は非常に有名です。そこで私たちも、この例え話の意味を少し復習して、そしてそれを現代私たちに適用して、その後に、私たちは一体何をしなければならないか、良い遷善の決心を立てる事に致しましょう。

イエズス様は例え話をして後に、福音書によると、今日のミサ典書の部分には載っていないのですけれども、後の後の方で、色々な例え話が載った後で、イエズス様が例え話を話して、それから家に帰って来ると弟子たちがやって来て、「あの毒麦の例え話の説明をして下さい。」と、聞きに来ました。するとイエズス様が直接に、他の例え話の説明はしないのですけれども、毒麦の例えだけは、説明は載っています。それによると、「良い種を蒔くのは、人の子である。畑は世界だ。良い種は御国の子らだ。毒麦は悪者の子らだ、子供たちだ。蒔いた敵というのは悪魔の事である。収穫の時というのは世の終わりの事だ。刈る人たちは天使たちである。そして毒麦が集められて火で焼かれるように、この世の終わりにもそうなるだろう。そして義人たちは父の国で太陽のように輝くだろう。」と、説明して下さいます。

教父たちは、これをこの説明を聞いて、「この世の終わりまで、決定的な最後の日まで、この世には善と悪との戦いが残って、善人と悪人が混じり合って生活して、善と悪との戦いが続かなければならない。その究極的な決定は、世の終わりまで延ばされる。」と、説明しています。

確かに、この私たちの今、この世の中は、悪と善が混じっています。毒麦は、良い麦の場所を奪ってしまうように、勢力範囲を広げようとしますし、そして良い麦を弱らせよう、成長を奪ってしまおう、栄養を奪ってしまおうとします。そして迫害したり、或いは世間体で、或いは嘲笑ったり、もの笑いにしたりして良い人々を押しやって、悪がのさばろうと、勢力範囲を広めようとしています。

イエズス様の蒔いた福音の種は、イエズス様は別の所では、「私はこの世に火を点けに来た。」つまり、「イエズス・キリストに対する、天主に対する愛の火を点けに来た。そしてこの地上からこの火で燃えるようになるのを見るのを望む。」

イエズス様は、私たちの救霊の為に、私たちの永遠の為に、霊魂の救いの為に、私たちを御国の子らとして下さいました。ただ単にイエズス様は、種を蒔いた、というだけではありません。イエズス様が、私たちを御国の子らとして、種を蒔く、という事の為には、これは、十字架の上に於ける流血、苦しみ、受難を経て、種を蒔かなければなりませんでした。

それだけではありません、イエズス様は、マリア様と共に、この救霊の事業を、種を蒔く、という事業をなさって下さいました。マリア様を通してのみ、イエズス様が来る事を天主が望まれたからです。もしも私たちが、良い種を受けるとしたらば、これはマリア様を通してのみ、受けなければなりません。

マリア様が、「我は主の婢女なり。仰せの如く我になれかし。」と言って、イエズス様を身ごもり、そしてイエズス様に命を、イエズス様を生み出すようになさったように、マリア様こそが、イエズス様の神秘体の一部である私たちを、超自然の命に生み出し続けなければなりません。マリア様の、イエズス様と共にの苦しみがなければ、その種は蒔かれませんでした。マリア様は、イエズス様の十字架の下に立って、イエズス様を共に、御父に御捧げしました。

そうやって蒔かれた種ですが、マリア様はただ単に、イエズス様とマリア様はただ単に、蒔いてそのまま、ではありません。この善が、勢力範囲が広がるように、一生懸命に力を尽くして下さっています。確かに天主様は、この地上から悪を根絶させてしまうように、毒麦を全て残らず取ってしまう、という事はなさいません。毒麦がそのまま生えるのを残していますけれども、しかし、良い麦が勢力範囲を広めるように、できれば毒麦から良い麦になるように、戦いを続けています。

マリア様が、サタンの手から私たちを奪い取るように、そして私たちをその悪魔の手からイエズス様の方に、毒麦から良い麦になるように、となさって下さっています、イエズス様の方に導いて下さっています。良い麦が多く広がって、健康ですくすくと育てば育つほど、毒麦の、悪の勢力範囲が、サタンの悪魔の勢力の範囲が狭まっていく、という事になるからです。

ですから、良い麦が健康ですくすくと育つ為に、麦はますます良い麦であり続けなければなりません。「キリストの弟子」「キリスト信者」というのはつまり、「第2のキリスト」となって、イエズス・キリストと共に、世の贖いに、世の救いに協力しなければなりません。毒麦がたくさん増えているのを見て、「俺は知らないよ。」ではなくて、何とか、その毒麦がはびこらないように、良い麦がもっと広がっていくようにしなければなりません。

聖ヨハネ・クリゾストモは、こういう事を言っています、それは、フランク・ダフFrank Duff という方が引用している事ですが、「キリスト者よ、審判の時にあなたたちは、自分の霊魂の事だけでなく、全ての人々の霊魂の救いについて報告しなければならない、という事を覚えよ。」自分の霊魂の救いだけではなく、全ての人の霊魂の救いについて報告しなければならない、というのは、どれほど大きな責任が負わされている事でしょうか。

イエズス様は、「毒麦は遂にこの世の終わりには刈り取られて、そして火に焼かれてしまうだろう、そこには歯ぎしりと嘆きとがあるだろう。」つまり、毒麦はもしも良い麦にならないならば、毒麦のままであるならば、悪の勢力に残っているならば、そのまま永遠に滅びてしまう。イエズス様がこれほど愛した霊魂たちが、主を愛する事を知らずに、主を知らずに、それに従順である事を知らずに、永遠に愛する主を憎み、御血を無駄にして、そして滅びてしまう、焼かれてしまう、という事なのです。

もしも良い麦たちが、イエズス様の御国の為に、イエズス様の利益の為に、イエズス様の聖名が尊まれるように、イエズス様の御旨が果たされるように、イエズス様の栄誉の為に、聖名の尊まれん事を、と、その為に勢力範囲を広げているとすれば、毒麦は、自分の事だけ、自分の楽しみの事だけ、自分の中に閉じこもって、自分の快楽の事だけを考えている麦たちです、霊魂たちです。

それに引き換え良い麦は、例えばファチマの幼い牧童たちがそうでした。ファチマの子供たちはファチマのマリア様をご覧になって、そして天主様を見て、「天主様が非常に悲しそうだ。天主が霊魂の永遠の滅びの為に、とても悲しそうに見えた。」天主の痛みの問題を感じていました。「マリア様がとても悲しく思われて、悲しそうに見えた。だから、その天主様を慰める為に、多くの霊魂を救う為に。」と言って、祈りと犠牲に励んでいました。

幼きイエズスの聖テレジアも同じでした、「私はイエズス様を愛したい。そして多くの人々が、イエズス様を愛するようにしたい。その為には、できれば全世界を駆け巡って、人々にイエズス様を述べ伝えて宣教師になりたい、世の終わりまで宣教師でいたい。世の終わりまで殉教者でありたい。司祭にもなりたい、イエズス様の事を皆に教えたい、知らせたい、マリア様の事の話をしたい。」と、思っていました。「多くの霊魂がイエズス様の事を愛するように、愛させたい。イエズス様がますます愛されますように。イエズス様の教えが愛されますように。世の終わりまで善を為したい。」と、渇望していました。

まさに、まさにここに、良き麦の特徴があります。良き麦は、イエズス様の愛を、この心に受けて、イエズス様を愛する事に渇望して、イエズス様を愛するがあまり、イエズス様の聖名が尊まれていない事、或いは無視されている事、或いは軽蔑されている事を見て、非常に悲しく思います。「何とかしてイエズス様が愛されるように、イエズス様が崇められるように。」と、願います。或いはイエズス様がこれほど愛している霊魂たちが、そのままイエズス様の事も知らずに、イエズス様の掟も無視して、そのまま滅んでしまうのも見て、非常に悲しく思います、「何とかして愛したい、霊魂を救いたい。」と。

イエズス様は最後の晩餐の時にこう、私たちに新しい命令を下さりました、「私がお前たちを愛したように、お前たちも互いに愛し合え。」

イエズス様は私たちの霊魂の救いの為に、命さえも、御血を全て流してさえも、私たちの為に愛を下さいました。それと同じように私たちが隣人を愛する、というのは、何と、何と大きな命令でしょうか。それをみると、私たちは本当に恥ずかしくなります。私はちょうど毒麦の影響をあまりにも受けて、自分の事だけ、この世の世界の事だけでいっぱいになっていたようです。

この世はますます毒麦の勢力を広げています。イエズス様を色々な所から追い出してしまって、イエズス様の無い世界を作ろうとしています。お金を原理に、或いは被造物とその快楽を原理に、或いは自分の利益だけを原理に、新しい世界を、毒麦の世界を作ろうとしています、毒麦だらけのようです。

私はどうも、毒麦の影響を多く受けて、イエズス様がこれほど愛しているにもかかわらず、イエズス様に愛を返さない時がありました、罪を犯した時がありました。「イエズス様の掟がこうである」と、「御旨がこうである」と分かりながらも、それを素直にしませんでした。イエズス様が、「こうだ。」と言うのに、「はい。」と言わずに、「ちょっと待って。あぁ、またもう少し後で。」イエズス様がこれを望んでいると分かっていながらも、100%ではなく50%、或いは、「イエズス様が悲しむであろう。」或いは、と思いながらも、「あぁ、でもまぁ今回だけは。」と、御旨に逆らっていました。毒麦の影響を受けていました。

ですから今からは、「イエズス様の為に、良き麦として留まりたい。毒麦の影響を遠ざけたい。」と、私たちは自然と願うようになります。

では、遷善の決心に何を立てたら良いでしょうか?私は3つ提案します。

1つは、祈りと犠牲を以って、イエズス様の良き麦の勢力が広まるように、霊魂が救われるように、私たちが悪魔の勢力から霊魂を引き出す事ができるように、祈りと犠牲を以って、私たちの日々を捧げる事に致しましょう。

幼きイエズスの聖テレジアは、有名な盗賊で、強盗であったブランジニ、死刑囚で、回心のしるしを全く見せなかった、この極悪人の為に、祈りと犠牲をたくさん捧げて、特にマリア様を通して捧げて、そして遂に、この回心の恵みを得ました。聖テレジアは、「私たちは、祈りと犠牲を以って以外、教会に利益をする事ができない。」と、言っています。

第2に、私の提案するのは、イエズス様をこの愛するあまり、イエズス様を愛するように、霊魂を導く為に、霊魂の利益になる為に、毒麦からの影響を多くの人々が避ける事ができるように、私たちは祈りと犠牲のみならず、行動と言葉を以って、できるだけ、その霊魂たちに、愛と善を施す決心を立てる事に致しましょう。

私たちは確かに、非常に弱い、力の無いものですけれども、イエズス様の御あわれみとマリア様の御助けを以って、私たちがイエズス様の道具となりますように、マリア様の生き写しとなりますように。そしてイエズス様が、私たちの言葉や行いを以って、より少なく嫌われますように。できればイエズス様の事がますます知られ、イエズス様の事を私たちが確信を持って、「イエズス様は私たちの事を愛している天主様ですよ。」と言う事や、或いは、「マリア様は私たちの為の霊的なお母様です。」と、確信を持って言う事によって、多くの霊魂に光が照らされますように。

最後には、私たちはあまりにも弱いものですから、是非、イエズス様に、イエズス様の心を私たちに下さいますようにお祈り致しましょう。イエズス様の心を以って、私たちがマリア様のように、霊魂を愛する事ができるように。そしてマリア様にお願いして、マリア様の御取り次ぎにより、私たちにもイエズス様の心を下さるように、イエズス様の心を以って、私たちが天主と隣人を愛する事ができるように、お祈り致しましょう。祈りと犠牲を以って、行動と言葉を以って、そしてイエズス様とマリア様の御心を頂く事によって、良き麦として残り、そして遂には、多くの毒麦たちが良い麦となり、できればより多くの麦たちと共に、霊魂が太陽のように、永遠の喜びに入れますように、太陽のように輝きますように。そのお恵みをお祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


【注:フランク・ダフ Frank Duff は、レジオ・マリエの創立者。】

アヴィラの聖テレジア著「完徳の道」による、主祷文(天にまします)の解説

2015年11月17日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 レネー神父様が先日の主日にミサののちにしてくださった祈りについての講話をご紹介いたします。アヴィラの聖テレジア著「完徳の道」による、主祷文(天にまします)の解説です。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2015年11月15日―大阪 勉強用説教



親愛なる兄弟の皆さん、

前回に引き続き、祈りについてお話ししようと思いますが、今回は仏教徒の黙想と比較するのではなく、良き祈りができるようアヴィラの聖テレジアの教えをいくつかご紹介しようと思います。カトリックの祈りは、何も考えない「涅槃」を追い求めることではなく、天主によって霊魂を満たすことであることを、たいへんよく分かっていただけるでしょう。

あらゆる祈りの模範となるものは、私たちの主イエズス・キリストが教えてくださった祈り、「天にまします」です。アヴィラの聖テレジアは、その美しい著作「完徳の道」の中で、この祈りについて驚くべき解説を書いています。この祈りは「われらの父よ」で始まりますが、実際、私たちは祈りを始めるに当たって、いつも話しかける相手のことを考えるべきです。相手が子どもの場合と王の場合、同じように話しかける人はいません。王に話すとき、日本語では特別な形式と言葉があるでしょう。さて、祈りにおいては、人間の王や皇帝に対して話すのではなく、王の中の王にして全宇宙の最高の皇帝であり、すべてのものが従うお方、全宇宙の最大の銀河から最小の素粒子に至るすべての物質的なものが従うお方、また最高位の天使に至るまですべての天使の軍団を含めたすべての霊的なものが従うお方に対して話すのです。私たちはどれほど大きな敬意、崇拝をもって天主ご自身に話しかけないことがあるでしょうか?! しかし、まさに天主の御子ご自身が、「われらの父よ」と天主に話しかけるよう教えてくださいました! 天主の超越性は「天にまします」という言葉で表現されます。でも、まことの天主について、フリーメーソンや異教の哲学者たちの考え、すなわち人類から遠く離れ私たちのことを気にかけることがない、という考えは正しくありません。まことの天主は私たちのことを気にかけてくださる天主であり、私たち一人一人を個人的に知り、私たち一人一人を気にかけてくださる最高の父親なのです! ああ、天主の愛の素晴らしさよ! ああ、私たちの主イエズス・キリストの恩寵によって「天主の子」(ヨハネ1章12節)となったキリスト教徒の尊厳よ!

「天主は御独り子を与え給うほどこの世を愛された」(ヨハネ3章16節)。しかし、実は「天主の御子は私たちの父となるよう御父を与え給うた」と言うこともできるのです! 私たちは「御子において」天主の子、 つまり、私たちが私たちの主イエズス・キリストの生きた肢体であることによって、 天主の子なのです。父なる天主は、私たちのうちに御子の似姿をご覧になるとき、御父が御子、私たちの主イエズス・キリストを愛するまさにその愛で私たちを愛してくださいます。実際、聖パウロは、天主の御旨は私たちを「御子の姿にかたどらせよう」とされ、「それは御子を多くの兄弟の長子とするためである」(ローマ8章29節)と言います。この変容は祈りの実りの一つです。「私たちはみな覆いを顔に垂れず、鏡に映すように主の光栄を映し、霊なる主によってますます光栄を増すその同じ姿に変わる」(コリント後3章18節)。「多くの兄弟」がいるにもかかわらず、「一人の子」がいるのは、多くの兄弟すべてが共に一つとなって、キリストの神秘体、唯一のまことの教会、カトリック教会になっているからなのです。これが、「われらの父よ」の中の「われら」の意味なのです。私たちは一人ではなく、各人がそれぞれ自分のために自己中心な祈りをするのではありません。そうではなく、教会が必要とすることすべて、教会の今の生きた肢体である人々だけでなく、将来教会に入る人々や、救われるために教会に入るべき人々、すなわち全人類が必要とすることすべてのためを思って祈るのです。

父親は子どもたちを気にかけ、子どもたちを養いますが、父親は子どもたちの教育もし、子どもたちが道を踏み外すときには懲らしめます。これについて、聖パウロがヘブライ人へ書き送っています。「あなたたちが試練を受けるのは懲らしめのためであって、天主はあなたたちを子のように扱われる。父から懲らしめられない子があろうか。誰にも与えられる懲らしめを受けなかったなら、あなたたちは私生児であって、真実の子ではない。また、私たちを懲らしめる肉体の父親を敬っているのなら、霊の父であれば命を受けるためになおさら服従せねばならぬ。肉体の父はしばらくの間思いのままに私たちを懲らしめたが、霊の父は私たちの利益のためにご自分の聖性にあずからせようとされる。どんな懲らしめでも、受ける時には喜びではなく悲しみのもとのように見えるが、後にはそれによって練られた者に平和の実すなわち正義をもたらす」(ヘブライ12章7節)。現代の世界は、私たちを懲らしめてくれる父親としての天主をもはや望んでいません。ですから、そのように懲らしめを拒否することによって、人々は非常に反抗的な子どもになっているのです。これは大変危険なことです。それは、聖パウロが同じ手紙で「生きる天主の御手に落ちるのは恐ろしいことである」(ヘブライ10章31節)と言っているからです。彼らの回心を得るにはどうすべきでしょうか? 私たちの主イエズス・キリストは何をなさったでしょうか? 主はご自身を霊魂の救いのためにいけにえとして捧げられました。私たちも、彼らが最後に自分の悪しき道を変更することを受け入れて、真の子どもとして「懲らしめを受けるために」最高の父親のもとに戻るという、まことのあわれみが与えられるように、主と共に自分を捧げるべきです。

「願わくは御名の尊まれんことを! 御国の来らんことを!」。天主の御名は聖です。ですから、私たちは御名が聖であるように願うのではなく、御名が聖であることが人々に認められるように、天主の完璧な能力が、私たちとすべての人に知られるようにと願うのです。さて、天主の完璧な能力を完全に知るのは、天国に行ったときになるでしょう。ここ地上においては、「私たちは体のある間は、主を離れて生きている」(コリント後5章6節)のですから、私たちはまだ、いずれ光を見るための光を持っていません。聖書にはこう書かれています。「実に、あなたには命の泉があり、その光において、われらは光を見る」(詩篇35章10節)。天主の御名が聖であることは天国において完全に認められるので、次の祈願で私たちは心を挙げて天国を求めるのです。ですから、「天にまします」の最初の二つの祈願の中で、私たちの主イエズス・キリストが教えられるのは、私たちの望みに順番をつけること、そして主が私たちを創られた所以、私たちの命の目的つまり、天国で永遠に天主の讃美を歌うことをまず望むことなのです。「だから、まず天主の国とその正義を求めよ。そうすれば、それらのものも加えて与えられる」(マテオ6章33節)。「御名の尊まれんことを」は、天主の光が天国で私たちの知性を完璧に照らすとき、完全に成就するでしょう。「御国の来らんことを」は、天主の愛の火が天国で私たちの意志をすべて支配するとき、完全に成就します。「天にまします」を教えられることによって、私たちの主イエズス・キリストはこのことを常にもっと熱望するように教えられるのです。「主を求める者の心を喜ばせ、主とそのみ力とを探し求め、常にみ顔をたずねよ」(詩篇104章3、4節)。「主よ、私はみ顔を探し求める」(詩篇26章8節)。

また、これら二つの祈願によって、私たちは自分が真の「地の塩」、「世の光」として生きるよう願います。それについて、主はこう言われます。「このようにあなたたちも人の前で光を輝かせよ。そうすれば、人はそのよい行いを見て天にまします父をあがめるであろう」(マテオ5章16節)。「私たちが召されたお召しにかなう」(エフェゾ4章1節)生き方を誠実に行うことによって、「キリストと天主の国」(エフェゾ5章5節)が広がっていくように、私たちは願うのです。

「御旨の天に行わるるごとく地にも行われんことを」。ここに再び出てくる「天に」とは何を意味しているのでしょうか? 天主はどこにでもおられます。「私は天と地を満たすものではないか―主のお告げ」(エレミア23章24節)。天主がどこにでもおられるのなら、なぜ主は「天にまします」と唱えるように教えられるのでしょうか? 「天主は霊であるから、礼拝者も霊と真理をもって礼拝せねばならぬ」(ヨハネ4章24節)。この「天」という言葉を、まるで天主がこの地球上ではない星の世界のどこかにおられるというように、物質的な意味で理解してはなりません! 「天」という言葉は、天主の「超越性」、すなわち至聖なる三位一体のあらゆる被造物を超えた至高の優越性を表すものとして、霊的な意味で理解しなければなりません。われらの父は「天に」おられ、つまり、御父はすべての被造物を無限に超えて完全ですから、そのように認められるべきであり、私たちの心と意志、すべての行いを支配する完全な権利を持っておられます。「天の国」とは、夢で見るように私たちの体が他の惑星や他の星などに行くことではなく、むしろ地上のあらゆる喜びを超えて至福直観の喜びが無限にまさっていること表しているのです。この「天の」喜びを祈りと黙想で前もって味わえば、霊魂は地上のことを味わいたい気持ちをまったくなくしてしまうのです。幼きイエズスの聖テレジアは、子どものときすでに、そんな慰めを味わっていたため、地上のことを味わいたい気持ちを天主が取り去ってくださるようにと祈っていました。また、アヴィラの聖テレジアは、真実の回心ののちに天主は多くの霊魂に似たような慰めを与えられるが、彼らは再び地上のことに心を向けてしまうため、霊的生活においてほとんど進歩しない、と教えています。これが、例えば船が難破するほど悪くないとしても、霊的な停滞が非常に多くある原因です。地上のものへの愛着が原因なのです! さらに、聖ヨハネが力強く警告します。「世と世にあるものを愛するな。世を愛するなら御父の愛はその人の中にはない」(ヨハネ第一2章15節)。恐るべきことです。御父の愛がその人の中にないとは! その人は霊的に死んでおり、これは肉体の死よりもずっと悪いことなのです。ですから兄弟の皆さん、私は皆さんに「世と世にあるものを愛するな」とお願いするのです。

私たちが「御旨の天に行わるるがごとく地にも行われんことを」と願うとき、私たちが願っているのは、非常に重要で、行動を伴わねばならないことなのです。私たちは、私たちが何もすることがないかのように、ただ単に天主の御旨が行われるように願うのではなく、天主の御旨が私たちのうちに、私たちによって行われるようにと願うのです。これはもっと「行動を伴わねばならないこと」です。私たちがそれに関与し、大きな役割を果たすのです。第一に、このような祈願は、罪とは絶対に相いれません。人はこれらの言葉を発する一方で、同時に天主の十戒に従うのを拒否するならば、本当にうそをついていることになります。天主は十戒に従うことをもう要求されることはないと言うならばそれはさらに悪いことで、それは天主ご自身がうそつきであると言い張っていることになります。これは冒涜です! 実際、私たちの主イエズス・キリストは、非常に明確におっしゃいます。「私に向かって『主よ、主よ』と言う人がみな天の国に入るのではない、天にまします父の御旨を果たした人が入る。その日多くの人が私に向かって『主よ、主よ、私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪魔をおい出し、あなたの名によって不思議を行ったではありませんか』と言うだろう。そのとき私ははっきりと言おう、『私はいまだかつてあなたたちを知ったことがない、悪を行う者よ、私を離れ去れ』」(マテオ7章21-23節)。天主の十戒は守ることが不可能ではありません。私たちは、十戒を守る恩寵を与えてくださるよう常に祈ることができます。私たちの主イエズス・キリストの恩寵は、十戒を守る力を私たちに与えてくれます。これが、私たちが「天にまします」のこの祈願で願うことなのです。私たちは十戒に従う恩寵を願い求めます。従うことによって、私たちが報いに到達し、「天にまします父の御旨を果たす」人々に約束された天の国に入ることができるようになるためです。

しかし、私たちはさらに願うのです。実際、皆さんは聖書のほかのところに、似たような言葉があるのを思い出しませんか? 私たちの主イエズス・キリストはここで「FIAT voluntas tua―御旨の行われんことを…」と祈るよう教えられます。私たちは聖母が「FIAT mihi secundum verbum tuum―仰せのごとくわれになれかし」と言われたのと、主ご自身がオリーブの園で「FIAT―私の思いではなく御旨のままに」と言われたのを思い出します。聖母のすべての聖性は一つの言葉「FIAT―天主に『はい』」にあるのです。聖母の全生涯は、全体にわたって完全に、絶対的に「天主に『はい』」なのです。ご托身から十字架の下に至る道のすべてが「はい」であるという、これ以上ない驚くべき従順、謙遜、愛なのです! 罪は天主に対する「いいえ」であり、聖性は天主に対する「はい」です。私たちの主イエズス・キリストは、ご受難において、天主に対する完全な「はい」によって、天主に対する「いいえ」から人類を贖われます。「死ぬまで、十字架上に死ぬまで、自分を卑しくして従われた」(フィリッピ2章8節)。

時折、私たちは天主にこのように完全な「はい」を言うことを恐れがちです。私たちは、天主が私たちに多すぎることを要求なさるのではないかと恐れるのです。しかしそう思うのは、天主こそが私たちを強め、天主の十戒を守らせてくださるお方であることを忘れているからです。私たちを強めるために「あふれるばかりの恩寵」(ローマ5章20節)をくださることなくして、天主が私たちに十字架を負わせることは決してありません。絶対にありません。「私を強め給うお方において私にはすべてができる」(フィリッピ4章13節)のです。また、あふれるばかりの報いもあります。「私はどんな試練の中にあっても喜びにあふれている」(コリント後7章4節)。「今の時の苦しみは、私たちにおいて現れるであろう光栄とは比較にならないと思う」(ローマ8章18節)。ですから、「天にまします」を唱えるときはいつでも、その祈願に決して限界を置くのではなく、私たちが天の御父のご意志を完全に実現するための恩寵を 私たちに与えてくださるよう願いましょう。主と聖母を見習って、御父が送られる十字架ならどんなものであっても受け入れ、イエズスと一緒に自分自身をお捧げするようにするのです。そうすれば、「苦しみをともに受けることによって、キリストとともに光栄を受ける」(ローマ8章17節)のです。

「われらの日用の糧を今日われらに与え給え」。聖マテオ福音書では、実際には「日用(毎日)の糧」ではなく「いのちの(super-substantial)糧」となっています。これは明らかに、物質的なパンのことにしては非常におかしな言葉なので、そうではなく、「天から下った生きるパン」(ヨハネ6章51節)、つまりご聖体のことなのです。主は、「私の与えるパンは、世の命のために渡される私の肉である」(ヨハネ6章51節)と言われました。これは、本当に飢えているときに望むべき食べ物です。なぜなら、「私の肉を食べ私の血を飲む者は、永遠の命を有し、終わりの日にその人々を私は復活させる」(ヨハネ6章54節)からです。皆さんは毎日、霊的聖体拝領をすることができます! また、ご聖体を受けるのにふさわしい状態で聖伝のミサに行くことができるなら、そうしてください! 天主の御子が私たちにお与えになったもので、ご自身の「御体、御血、ご霊魂、ご神性」以上に素晴らしい賜物はありません。聖パウロは、「御子とともに他のすべてをくださらないはずがあろうか?」(ローマ8章32節)と言いました。天主は私たちに多くのものをお求めになることができます。それは、天主が私たちにそれよりずっと多くのものを与えてくださったからです! 天主は私たちに聖性をお求めになることができます。それは、天主が私たちをご自身に変容させるために、私たちにご自身を与えてくださったからです。

この最高の賜物とともに、御父はまた、毎日必要なそのほかのものもすべて、私たちの必要に応じて、準備してくださいます。私たちの働きが免除されているのではなく、私たちが植えて水をやると「天主が成長させる」(コリント前3章6節参照)のです。あるいは、「私たちは夜じゅう働いた」あと、天主が大量の魚を与えてくださるのです(ルカ5章5-6節参照)。でも、非常に大切なことは、私たちの求めるこれらの物質的なものが私たちの求める中心となるのではなく、私たちの求める中心となるのは、常に霊的で永遠に続くものであるべきだということです。「あなたたちはまず天主の国とその義を願え。そうすれば、それらのものも加えて与えられるだろう」(ルカ12章31節)。

「われらが人に赦すごとく、われらの罪を赦し給え」。私たちの主イエズス・キリストの特別な恩寵によって原罪とすべての罪から守られていた童貞聖マリアは別にして、私たちには皆、なんらかの罪があります。回心のあとでさえ、いくつかの小罪が残っています。聖書は言います。「正しい人は七たび倒れても立ち上がるが、悪人は災難の中に押し倒される」(格言[箴言]24章16節)。正しい人が倒れるのは小さなころび(小罪)であり、悪人が倒れるころび(大罪)とはまったく違います。でも、最も大切なことは、天主の赦しが必要だと認めることです。「主よ、あなたが罪に目をとめられたら、主よ、誰がそれに耐えられよう」(詩篇129章3節)。ですから、私たちが天主の赦しを受けたいと思うなら、隣人を赦さなければなりません。「天にまします」のすべての祈願のうち、主が強く主張なさった唯一の祈願はこれです。「あなたたちが他人の過失を赦すなら、天の父もあなたたちを赦される。だが他人を赦さなければ父もあなたたちの過失を赦してはくださらぬ」(マテオ6章14-15節)。私たちに対して罪を犯した人を赦すとき、赦しにおいてどのような愛が要求されるのかを私たちは学び、私たちを赦すため天主が私たちをいかに愛しておられるかを私たちは学び、「悪に勝たれるままにせず、善をもって悪に勝て」(ローマ12章21節参照)ということを私たちは学びます。ですから、天主の御摂理によって、天主は人々が私たちに対して罪を犯すのを妨害されませんが、これは私たちに隣人を赦す機会をお与えになるためなのです! そのように見るならば、私たちは天主の知恵についての見識を得ます。天主は悪から善を引き出し、「天主を愛する人々の善にすべてを役立たせ」(ローマ8章28節)るお方なのです。

「われらを試みに引き給わざれ」。「私たちが試みに遭わないようにしてください」と言った方がいいかもしれません。罪は、私たちが本当に恐れるべき唯一の悪です。そのため、私たちはこの一つの大きな悪、ほかのあらゆる悪の源(である罪)から守ってくださるよう天主にこい願うのです。天主に対して罪を犯すことを避けないならば、その人は本当に天主を愛しているのではありません。この祈りの中には、自分の弱さを知っている謙遜があります。私たちは自分の力では「何一つでき」(ヨハネ15章5節)ず、弱く、ただ罪を犯すだけです。「主よ、あわれみ給え、私は力なえている。主よ、治し給え」(詩篇6章3節)。私たちは強い確信をもって、聖パウロが言うように、それを願います。「あなたたちは人の力を超える試みには遭わなかった。天主は忠実であるから力以上の試みには遭わせ給わない。あなたたちが試みに耐えそれに打ち克つ方法をも、ともに備え給うであろう」(コリント前10章13節)。

「われらを悪より救い給え」。赦しによって罪自体から救われるよう、罪の機会(試み)から救われるよう願ったのち、ここで私たちは、罪の結果から救われるよう願うのです。この救いは天国で完成されるのですが、天主はここ地上ですでに、私たちが受けるはずの罰よりも少ない罰にしてくださっています。私たちが受ける罰は天主が軽くしてくださっており、私たちは本来際限なく大きな罰に、そして地獄に値するということを認め、天主に罪の赦しを感謝しつつ、天主からのその軽い罰を受け入れるのです。それでも、さらに御あわれみと罪による罰の赦しを求めることを禁じられているわけでもありません! 私たちは自分自身のために、また煉獄の霊魂のために、煉獄での苦痛の時間が短くかつ小さくなるよう願うのです。これらすべては、いとも聖なる三位一体を讃美することになるのです。

「主よ、私たちに祈りを教えてください!」(ルカ11章1節)。主は私たちに祈りを教えてくださいました。いつもよく祈れるよう、特にこの最も聖なる祈りである「天にまします」を祈れるよう、主が私たちに恩寵を与えてくださいますように! 聖母が祈る方法を教えてくださいますように! 聖ヨゼフが祈りを教えてくださいますように! ナザレトにおいては、主の家はもっとも確実に「祈りの家」(マテオ21章13節)でした。私たちの霊魂も「祈りの家」であるべきです。実際、聖パウロは言います。「あなたたちが天主の神殿であり、天主の霊はその中に住み給うことを知らないのか」(コリント前3章16節)。聖霊と離れることのない御父と御子もまた、私たちの内に住み給うのです。主ご自身が言われます。「私を愛する者は私の言葉を守る。また父もその者を愛される。そして私たちはその人のところへ行ってそこに住む」(ヨハネ14章23節)。私たちが聖霊の神殿であるならば、そして御父と御子が私たちの内におられるならば、私たちの霊魂はまことの「祈りの家」でなければならず、「天にまします」が私たちの祈りの模範でなければならないのです。アーメン。

死後の霊魂に何が起こるかについてのカトリック教会の教え:聖ピオ十世会司祭 レネー神父様

2015年11月16日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 いかがお過ごしでしょうか。昨日の主日には大阪でレネー神父様が聖伝のミサを捧げてくださいました。次のような報告をいただきました。ご報告いたします。レネー神父様を日本に送ってくださる天主様に感謝します。

 モーゼの死については、ぐりこさんの言われた通り、「モアブの地」のネボ山頂(super montem Nebo, in verticem Phasga)イェリコを眺め渡すパスガの頂きで亡くなり、モーゼが死んだのは、モーゼが120歳の時でした。
 モーゼの葬られた場所は、聖母マリアの騎士さんの書かれた通り、「モアブの地の谷」で(in valle terrae Moab contra Phogor)、誰もモーゼを偶像化しないように秘密の場所に葬られました。
 ぐりこさん、聖母マリアの騎士さん、回答をありがとうございます。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

11月の主日の御ミサの報告をお送り致します。
いつものようにハードなスケジュールの中、日本にお越し下さっているレネー神父様に感謝申し上げます。
11月15日 聖霊降臨後第二十五主日の御ミサには16名の方々が、
  16日 聖ジェルトルードの御ミサには13名の方々が、
御ミサに与り御聖体拝領するお恵みを頂きました。デオグラチアス!

16日の御ミサの御説教では、煉獄の霊魂について黙想致しました。私達が煉獄の霊魂達から学ぶべき事、彼らのためにできる事などをよく理解出来ました。
御ミサの後の公教要理では、アヴィラの聖テレジアの天にましますの祈りの解釈を元に、祈りについて勉強致しました。時が時ならレネー神父様は間違いなく教会博士だなぁと思いました。(◎-◎)☆

この度は、レネー神父様はいつもより少しお元気そうでした。里帰りされるのを楽しみにされていたのかもしれません。(^○^)


【お説教】
2015年11月15日の説教―大阪 煉獄の霊魂について




親愛なる兄弟の皆さん、

11月に教会は、特別に煉獄の霊魂のために祈ります。死後の霊魂に何が起こるかについての教会の教えを考察し、そこから教訓をいくつか引き出すのはよいことです。

第一の真理は、霊魂不滅の真理です。死は霊魂と体が分離することです。体は腐敗していきますが、霊魂は破壊されません。体から離れるのです。この真理は、霊魂にある知性の面から、私たちに備わった理性の力によってさえ知ることができます。人間の本質は「理性をもった動物」という本質です。私たちの命は実際、成長し、栄養を摂取し、繁殖するといった植物と共通に見られる力をいくつか持っています。これらは「植物の力」と呼ばれます。私たちの命はまた、植物の力を超えた力も持っており、それは視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚といった動物と共通のもので、さらに記憶力、想像力といった内的な感覚もあり、欲望、喜び、悲しみ、怒りといった感情もあります。これらは動物にも共通に見られ、犬がしっぽを立てているのは喜びを示し、しっぽを足の間に挟んでいるなら恥じていることを示していることなどです。しかし、人間はすべての動物の能力を超えた理性の能力を持っています。これが知性と自由意志です。人間は数学を研究することができ、また「正義を愛し、悪を憎む」(詩篇44章8節)のです。同じことをする動物を誰も見たことがありません。動物の中には人間より視力が鋭かったり、聴力や嗅覚が鋭かったり(犬はにおいで人を識別します)、人間より速く走ったりうまく泳いだり、さらには空を飛んだりするものがいます。しかし、人間は知性によって、どんな動物よりも遠くが見える望遠鏡や、どんな動物よりも小さなものが見える電子顕微鏡をつくることができ、どんな動物の認識力をも超えた電波を認識するレーダーをつくることができ、どんなレイヨウ(羚羊)よりも早く走る列車や、どんな魚よりも深く潜る潜水艦、どんな鳥よりも高く遠くまで飛ぶ飛行機をつくることができます。ですから、人間の本性には知性があり、これによって人間が他のいかなる動物にもまさっているのは明らかです。

感覚は体の器官の働きである一方、知性は非物質的な働きを持っています。抽象化したり、判断したり、推論したりすることです。このうち最初の抽象化とは、まさに事柄を抽象化するのです。そして、これらの抽象的概念によって、私たちの知性は判断を下し、その判断を論理的な証明に従って順序立て、結論に到達します。私たちの感覚によって得られる知識は個別的です。一方、私たちの知性によって得られる知識は一般的であり、私たちの概念も一般的です。さて、すべての物質的なものは個別的です。ゆえに、私たちの概念は物質的ではなく、非物質的ですから、体の死によって影響は受けないのです。

私たちの主イエズス・キリストは、聖福音の中でサドカイ派に反対して議論し、彼らに向かって、霊魂の不死という事実から世の終わりに体の復活があることを証明されました。実際、主は言われます。「死者の中からの復活については、モーゼも、茨の篇に、主を『アブラハムの天主、イサクの天主、ヤコブの天主』と呼んでそれを示している。天主は死者の天主ではなく生者の天主である。天主にとっては、すべてが生きている」(ルカ20章37-38節)。その結論は、アブラハム、イサク、ヤコブは生きているということです。さて、アブラハム、イサク、ヤコブの体は、彼らが造った墓にあるのは明らかです。ですから、彼らの霊魂は生きており、そのため未だに存在しており、死によって破壊されはしませんでした。これが「霊魂の不死」の意味です。人間の霊魂は死によって破壊されないのです。死は私たちの自我の終わりではありません。私たちの「考える自我」は、死ののちも存在し続けるのです。霊魂の不死性は信仰の教義です。

第二の真理は裁きです。聖パウロがヘブライ人へ書いているように、死ののちには裁きがあります。「人間は一度だけ死んでその後審判を受けると定められている」(ヘブライ9章27節)。霊魂は、「各自の行いによって報いを与える」(マテオ16章27節)キリストによって裁かれます。大罪の状態で死ぬなら、人は直接地獄へ行きます。反対に、成聖の恩寵の状態で死んで、罪の償いをすべて果たし、小罪への執着がないならば、人は直接天国へ行きます。しかし、成聖の恩寵の状態で死んでも、良心に小罪が残っていたり、罪に対する罰の償いを果たさないでいたりしたならば、人は煉獄へ行きます。死と裁きの両方を常に目の前に置いていたならば、私たちは罪を犯さないでしょう。「天主はすべての行為を裁く」(コヘレット12章14節)。「人が話した無駄ごとは、すべて裁きの日に裁かれるであろう」(マテオ12章36節)。

煉獄の霊魂にはもはや自分の体はありません。そのため、この世の物に気を引かれることがありません。彼らは信仰、希望、愛を持っていますが、それはこれらの徳は霊魂という霊的な部分にあるからです。彼らはもうまったく罪を犯しません。この意味で煉獄は、ささいな小罪や欠点のように、義人でも一日に七回罪を犯す(格言[箴言]24章16節)という、ここ地上よりもよいところです。煉獄の霊魂は永遠の救いの保証を持っていますが、ここ地上で私たちは天主の十戒を守るならば自分が正しい道にいるという「確信」を持っているにすぎず、「終わりまで耐え忍ぶ者は」(マテオ10章22節)、私たちの主イエズス・キリストの恩寵によって救いへ到達するであろうと信頼しているにすぎません。これらの二つの面においても、煉獄はここ地上の生活よりもよいところなのです。

しかしながら、煉獄には苦しみがあります。この苦しみを理解することは、ここ地上での霊的な生活へのまことに大きな助けとなります。第一に、小罪との闘いにおいてです。小罪の多くは小さなことを無視したり、地上で合法的なことに愛着し過ぎたりすることから来ます(例えば、食べ物や休息、心地よさなどです)。人々はいったい何回言うのでしょう。これは大罪ではないから、してもいいのだ、と。でも、彼らはそれが本当は正しくないと分かっています。怠惰や短気などです。さて、彼らが煉獄に着いたとき、その霊魂は小罪の重さを理解します。小罪のために彼らは今、そんな苦しみによる痛みの中で償いをしているのですから。これは天主の愛から切り離しはしませんが、まだ天主の愛が要求するものになっておらず、愛を遅らせているのです。さて、私たちがここ地上で天主に奉仕するのが遅いなら、その報いも遅くなるのが正当です。彼らが非常に愛着を持っていた地上のものをすべて失ったいま、彼らは、その報いを受けるのが遅くなっているために今、大変苦しんでいるのです。彼らの愛は、彼らが天主によって十分に引き寄せられるようにし、彼らが天主を熱望するようにさせるのですが、彼らはずっと待って待って待ち続けなければならないのです。彼らが小罪によって発生させてしまったこの遅れは、最も激しい空腹と飢えのように、まことに苦しいものです。

小罪によってどれほど苦しむかを理解し、小罪を嫌っている煉獄の霊魂が、私たちにそのことを分からせてくれるよう願いましょう。小罪は、本当に天主をお喜びさせはしません。罪を犯すことで天主を攻撃することは、小さなことであっても、単に正しくないのです。それは「単なる」小罪に過ぎない、とは誰も決して言ってはなりません。故意に小罪を犯すことは、生きている上で決してあってはなりません。もちろん、まず大罪を犯さないようにすべきですが、それだけでは十分ではありません。大罪へと滑り落ちやすい道である小罪を避けないなら、大罪を効果的に避けることはできないでしょう。罪との闘いは、あらゆる罪に対して絶対的に「いいえ」と言い、キリストが私たちにお望みになるすべてのことに対して、私たちの主イエズス・キリストへ、天主へ自分を完全に奉献することに対して、絶対的に「はい」と言うことです。

第二に、煉獄の霊魂は苦しみますが、その状況は地獄とは大変異なっています。地獄に落ちた者は、それでもその罪に愛着し、苦しみを憎み、天主の正義を憎みます。煉獄の聖なる霊魂は、天主の正義を愛し、罪を憎みます。彼らは自分の苦しみを非常に喜んで受け入れ、キリストの御苦しみと一致し、天主の正義に従って罪の償いをするのです。ですから、地獄とは正反対です。この点において、彼らは私たちの素晴らしい模範なのです。しばしば私たちは苦しみを拒絶し、不快に思い、理解しようとしません。事実、苦しみは私たち自身にとって有益であると、私たちは理解する必要があります。そして苦しみを拒絶せずに、私たちの罪と多くの霊魂の救いのための償いとして、私たちの主イエズス・キリストと一致して苦しみを捧げるべきです。私たちは罪を憎み、私たちの主イエズス・キリストの十字架を愛するべきです。これが、煉獄の霊魂から得られる最も重要で価値のある教訓なのです。

でも、これらの霊魂は自分で功徳を積むことができません。功徳を積む時間は過ぎ去っているのです。(私たちにとって)今こそ、あわれみと功徳の時であり、死んだあとは正義の時なのです。私たちは彼らを助けることができます。彼らは、その罰を自ら減らすことができないのです。私たちは、このあわれみの時にいるという利点を十分に使いましょう。犠牲の生活、熱意のある生活、天主にいちはやくお仕えする生活によって、煉獄の多くの霊魂のために償いをしましょう。

最後に、煉獄の霊魂は、何人かの聖人が「霊魂の暗い闇」と書いた状況と似た苦しみを味わっています。体から離れた状態にあるため、真理のためにつくられ信仰を持っている彼らの知性でも、まだまだ天主を見ることはありません。「光」に飢えている霊魂にとって、天主を見ることができない状態にいることは非常につらい苦しみです。彼らは、火のような、天主を熱望してやまない、天主の至福直観を熱望してやまない火のような愛の徳を持っています。しかし、至福直観には至らないままであり、そのことが彼らを本当に拷問にかけているのです。至福直観をなかなか得ることができないのは彼らの過去の罪のせいであり、彼らが不完全であったせいです。しかし、この苦しみは、金(ゴールド)を火に通すように、彼らの霊魂を浄めるのです。さて、アヴィラの聖テレジアのような多くの聖人たち、また他の多くの信心深い人々は、ここ地上ですでに、これらの苦しみを経験し、煉獄よりずっと多くの功徳を得ていました。なぜなら、彼らにとって、そのような苦しみは霊魂を非常に浄めただけでなく、多くの功徳を得て、そのために他の多くの人々の贖いに参与していたからです。私たちへの素晴らしい教訓は、天国へのより大きな望み、天主へのより大きな望み、顔と顔を合わせて天主を見たいという望みのために祈ることです。実際、私たちが天主に渇き、天主を熱望し、天主において永遠に憩うことを熱望し、私たちが顔と顔を合わせて天主を見ることができるよう変容して天主と結合することを熱望していないのなら、私たちはどうして、すべてに超えて本当に天主を愛していると言うことができるでしょうか?できるはずがありません。聖ヨハネは美しく言っています。「考えよ、天主の子と称されるほど、御父から計りがたい愛を受けたことを。私たちは天主の子である。この世が私たちを認めないのは御父を認めないからである。愛する者よ、私たちはいま天主の子である。後にどうなるかはまだ示されていないが、それが示されるとき、私たちは天主に似た者になることを知っている。私たちは天主をそのまま見るであろうから。主が清いお方であるように、主に対するこの希望をもつ者は清くなる」(ヨハネ第一3章1-3節)。その希望には、天主へのこのような大きな望みが含まれており、そしてその望み自体が私たちを聖化し、すなわち、私たちをあらゆる罪から浄めます。聖パウロが言うように、「汝の天主なる主は焼き尽くす火である」(第二法4章24節―ヘブライ12章29節)のです。

これらの素晴らしい真理を黙想することは有益です。特に大変悪しき声明を発表して終わった今回の司教シノドスのあとでは。この声明は非常にあいまいな表現であるため、多くの恥ずべき決定に対して扉を開くようになるでしょう。「識別」を口実にして、いくつかの教区では離婚して再婚した人々―客観的な姦淫の状態で生きている人々―に対して、実際に聖体拝領を許可しようとしています。これらは汚聖の聖体拝領となるでしょう。このような状況が起きるのは、人々が天国と地獄について、死と裁きについて完全に忘れているからです。天主の聖性と罪の重さを知らないのです。罪を捨てる積もりがなく、「自分を捨て、自分の十字架を担って、私たちの主イエズス・キリストに従う」(マテオ16節24章)という本当の努力を少しもすることなく、「自分たちがあるがままで受け入れられる」よう切望するのです。

その反対に、聖ベネディクトが自分の修道院に入れてもらおうとして扉をたたく人々に要求するように、「私たちが天主を本当に求めるならば」、天主がすべての地上のもの、すべての楽しみを無限に超えておられることを簡単に知ることができ、天主を得ることは、そのために地上のあらゆることを捨てるに値する偉大なる善であることも簡単に知ることができます。またそうすれば、天主の法に従った貞潔な生活を送るのに必要な犠牲を行うことがたやすくなります。罪深い本性のせいで行うのが不可能だと思われるような、貞潔のための犠牲は、永遠の光に照らされれば、無限の天主の光に照らされれば、大変小さなものにすぎないことがわかるのです。この世の人々は貞潔を守ることは不可能だと思っていますが、福音書の中でキリストに従おうとした人々を見れば、彼らにとってはそれが本当にたやすくなったことがわかります。「ご覧のとおり、私たちはすべてを捨ててあなたに従いました」(マテオ19章27節)。さらに、この「すべてを捨てて」ということのなかには、「[キリストの]名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、妻、子、田畑」(マテオ19章29節)を捨てることが含まれていました。本当にすべてを捨てたのです。ですから、初期の教会では、完全な貞潔を非常に尊んでいたので、結婚していても、合意のもと、完全な貞潔の誓いを立てていた人たちがいたのです。(ノラの司教)聖パウリノとテラシアのように。

煉獄の聖なる霊魂が、私たちの心と霊魂が常に天国へ、天主へ集中するようにし、世の欺きに決してとらわれることのないように助けてくださいますように。その御心が私たちの主イエズス・キリストにいつもまったく完全に結びついていた童貞聖マリアが、ご自身がそうあられたように、私たちがあらゆる小罪を避けるよう、いつも助けてくださいますように。そして、私たちが自分の十字架を担い、私たちの主イエズス・キリストと一致して、それを忠実に捧げ、煉獄の聖なる霊魂を助けて天国へ行けるようにするために、聖母が助けてくださいますように。アーメン。


聖アルフォンソ・デ・リグオリによる【私審判について】の黙想

2015年11月16日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

「死者の月」の黙想のご提案をいたします。

聖アルフォンソ・デ・リグオリによる【私審判について】の黙想をどうぞ。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

「私は実に罪人、それも大いなる罪人である。しかし主は私の為に御死去あそばした。胸を打って痛悔したら決してお見捨てになる筈がない。永遠の御父よ、私は主に背いて犯した罪を悉く痛悔し奉る。願わくは私の罪を見ずして善く聖意に適い給える御子の御顔を顧み給え。」

【私審判について】の黙想

 その1
 私は今臨終の苦しみに悩んでいる。私の死はもはや一時間、二時間の後に迫ってきた。私はやがて主の法廷に立って一生涯の善悪を裁かれなければならぬ、と想像してみよ。果たしていかなる感じがするだろうか? その時にあたって私の為に何より怖ろしく感じられるのは、罪に汚れた心であろう。しからばその裁きの来ない前に、心の穢れを洗い落としておかねばならぬ。

 その日こそ永遠の世界に入る日である。犯した罪に対して良心が怒鳴りだす。悪魔は失望の念を掻き起こそうとする。どんな判決が下されるだろうか? それすらわからないので心の中は煮えくり返る思いがする。その混乱・恐れ・騒ぎといったらないであろう。されば今からイエズスとマリアに堅く愛着して、私の運命が定まるべきその最後の日に見棄てられないだけの用意をしておかねばならぬ。

 ニ・三分の後には主の厳しい裁きを受けなければならぬと思う時の恐ろしさを思え。パッジの聖マリア・マグダレナがかつて病の床に臥し、わなわなと震えているので、司祭が怪しんでその訳を尋ねると、「主の法廷に出頭するのは怖ろしい事ではございませんか!」と答えられたという。幼い頃から熱心に主に仕え、ひたすら善を修め、徳を積んで、天晴れな聖女よと仰がれていたこの罪無き童貞ですらそんなに怖れたというならば、数限りない罪を重ねて幾たびも地獄に突き落とされるべき私がどうして恐れないでおられようか。

 愛すべきイエズスよ、私も主の貴き御血をもって購われた者たることを記憶し給え。願わくは審判の日の来ない前に私を憐れみ、私の罪を赦し給え。

 その2
 神学者の説によると、息の根の絶えるや、すぐにその場で審判が開かれ、宣告が下り、賞罰が執行されるとのことである・・・

 ああ、その時こそ私の運命が定まる。私が永遠に幸いなるも、不幸なるも、その時に定まるのである。

 尊者ルイ・デュポン師はその時の事を思い廻らして、自室が揺れる程の震えに襲われた。誰にしても己の一生涯の罪を数え、主の裁きの厳しさを思い、賞罰の終りのない事を考えれば震え慄かずにはいられるものではない。

 主よ、今私をお裁きになったら私の運命はどうなってしまうのでしょうか? 善人ですら怖れずにいられないというならば、私の如き悪人はいかに震え恐れてしかるべきであろうか? 私は主の御受難の他には何も頼りとするべきものを持たない。私は実に罪人、それも大いなる罪人である。しかし主は私の為に御死去あそばした。胸を打って痛悔したら決してお見捨てになる筈がない。永遠の御父よ、私は主に背いて犯した罪を悉く痛悔し奉る。願わくは私の罪を見ずして善く聖意に適い給える御子の御顔を顧み給え。永遠の聖父よ、御身のキリストの御顔を見給え。Respice in faciem Christi tui. (Ps. Lxxxiii.10) その貴い御血をご覧になり、その痛々しき御傷を数えて私を憐れみ給え。

 その3
 いよいよ最後の目を閉じるや霊魂は永遠の世界に入っていくのだ。よって司祭は遺体に聖水をふり注ぎ、「天主の聖人は来たりて彼を助け、天使は出でて彼を迎え、彼の霊魂を受け取りて天主の御前に捧げ給え」 Subvenite, Sancti Dei; occurrite, Angeli Domini. と祈る。しかし万一救霊を失っていたならば、聖人といえども天使といえども今更如何ともし難いであろう。

 私審判の法廷における裁判官は天主で、人性を受け給うたキリストではないということである。それにしても罪のいまいましい姿を見せるが為に、キリストが御受難の際に蒙り給うた傷跡をお示しにならないだろうか。その傷跡こそ真の痛悔をもって己の罪を泣き悲しんだ罪人にとっては大いなる慰めを与えるであろう。しかし罪悪に溺れたまま現世を立ち去った悪人には如何なる恐れの種となるであろうか。

 主の法廷に始めて立ち、主の厳しき御顔を仰ぎ見た霊魂の恐れを思え。そればかりでも地獄に幾倍も勝る苦罰ではないか! その時こそ彼は無上至尊の御稜威(みいつ)を仰ぎ見るのである。その時こそ天主の御子が自分を愛してお忍び下さった様々な御苦しみ、自分に賜った数限りなき御憐れみ、自分の為に備え置かれた何千もの救霊の方法も全て理解するのである。現世の宝は空しいもので永遠の宝は優れたものである事も、その時になると明らかに悟るのである。要するに全ての真理をありのままに見るのであるが、もう余りにも遅すぎるのである。過ちを改めるべき時は過ぎ去った。今や如何ともすべき様は無いのである。

 最愛の主よ、私が始めて御前に立ち現れる時には、打ち解けた御顔を仰がしめ給え。私は今より志を立て直し、行いを改める決心である。その為に要する御光と御助けとを恵み給え。私はいつも、いつも、主を愛し奉る。例え今までは主の聖寵を軽んじ奉ったにせよ、以後は全世界の宝よりもこれを重んじ奉る。私の決心はこうである。ただ主よ、聖寵を垂れてこの決心を堅くしてください。

 ああ聖母よ、審判の日に私を助け給え。私の為に主の御怒りを宥め給え。アーメン。

ベネディクト十六世引退教皇:ひざまづくことができないことは、悪魔的であることの本質として見られている

2015年11月15日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様

砂漠の隠遁士であった大修道院長アポロによると、悪魔にはひざがありません。イエズス・キリストの聖名の前でひざをかがめることができないことは、悪魔の本質です。

「ひざまづくことができないことは、悪魔的であることの本質として見られている」
“inability to kneel is seen as the very essence of the diabolical” (ベネディクト十六世『典礼の精神』)

「ひざまづくことをもはやしなくなった信仰や典礼は、その中核が病んでいることになる。ひざまづきが失われたところではそれが再発見されなければならない。それは私たちの祈りにおいて、私たちが、使徒たちと殉教者らと繋がるため、全宇宙(コスモス)とイエズス・キリストご自身との一致において繋がるためである。」
"a faith or a liturgy no longer familiar with kneeling would be sick at the core. Where it has been lost, kneeling must be rediscovered, so that, in our prayer, we remain in fellowship with the apostles and martyrs, in fellowship with the whole cosmos, indeed in union with Jesus Christ Himself." (ベネディクト十六世『典礼の精神』)

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

聖母はイエズスを私たちに与え、私たちをイエズスへと導こうと願い、私たちを愛する。

2015年11月14日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 10月には、アジア管区に新たな司祭が任命され、そのおかげで10月25日の主日にはマニラにいることができました。王たるキリストの祝日に行われた聖体行列のようすです。

Procession of the Most Blessed Sacrament - FSSPX



 さらに、アジア管区では、これからロザリオの時に「主よ、われらに司祭を与え給え 云々」の最後に、次の呼祷を付け加えることになりました。
「主よ、我らに多くの聖なる家族を与え給え。」
"O Lord, grant us many holy families".
 宜しくお願い致します。

 来年の長崎・秋田巡礼についてです。

 聖ピオ十世会日本 2016年 長崎・秋田巡礼 10周年記念 天主の憐れみを感謝して

 SSPX Japan Nagasaki Akita Pilgrimage in 2016


 さて、11月7日の説教をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


2015年11月7日 初土曜日 聖母の汚れ無き御心の随意ミサ


小野田神父 説教


聖母の汚れ無き御心巡回教会にようこそ。今日は11月7日、2015年11月7日初土曜日のミサをしています、聖母の汚れ無き御心の随意ミサをしています。このミサの直後に、いつものように公教要理の勉強会があります、どうぞいらして下さい。次のミサは、来週の次の、明日ではなく次の一週間後の主日の18時30分から、レネー神父様がミサをして下さいます。12月は、12月の最初の初金、初土、クリスマスにミサがあります。どうぞいらして下さい。


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日は、マリア様の汚れ無き御心の愛の炎の中に深く入っていく事に致しましょう。マリア様の汚れ無き御心は、私たちに何を求めておられるのか、それを黙想して、私たちは、マリア様のお母様としての役割を、私たちの霊的な母としての役割を、深く理解し、そのお母様としての役割を、子供としてどうして愛し返していったら良いか、どのような事ができるのか、良き遷善の決心を立てる事に致しましょう。

「愛」というのは、単なるフィーリングや感傷的なものではありません。「愛」というのは、意志から生じるもので、行動に移されなければなりません。行動によって証明されなければなりません。マリア様はお告げを受けた時に、「はい。」と答えて、天主様がご自分からお生まれになる、なりたい、という事を知り、そのご自分から生まれる方が救い主であって、『イエズス様』と呼ばれる事を知り、それに、「はい。」と答えました。

マリア様は、この救い主がイエズス・キリストが、贖いの事業をご自分と共にされたい、という事を理解しました、「我、主の婢女なり。仰せの如く我になれかし。」マリア様は、全くの同意を伝えました。この瞬間から、天主の第2のペルソナ御子は、マリア様の御胎内に宿り、つまりキリストの神秘体のかしらが宿り、マリア様はイエズス・キリストの母、天主の御母となると同時に、イエズス・キリストの神秘体の母となりました。

マリア様のご生涯は、イエズス様の祈りと、イエズス様の苦しみと共に一致したご生涯でした。マリア様の知性は、イエズス様の知性と一致し、マリア様のご意志は、イエズス様の意志と全く1つでした。マリア様の汚れ無き御心は、イエズス様の至聖なる聖心と全く一体でした。

十字架の下で、イエズス様は御自分を聖父に、マリア様と共に、御捧げになりました。マリア様は、イエズス様を御子を、イエズス様と共に御捧げになりました。

イエズス様はカルワリオで、最高の究極の生贄を屠りを捧げました。天主様の御恵みは決してキャンセルされる事はありません。天主様は、自分の与えたものを決して取り返す事はありません。何故ならば、天主様は変わる事がないからです。天主様はそのまま、永久に、永遠に、不変に、変わらずに、留まります。天主様の与えた贈り物も、御恵みも、そのまま残ります。

マリア様がもしも、「天主の御母となる」という事を天主が望むのならば、もしもマリア様が天主の母として、人類の贖いに協力する事をお望みならば、これは世の終わりまでそれをお望みになるはずです、世の終わりまでお望みになります。

マリア様は、私たち罪人にイエズス様をお与えになりました。ナザレトで、「はい。」と言いながら、イエズス様を私たちに与える事に同意し、ベトレヘムで、私たちの為にお産みになり、十字架の上で、私たちの為に捧げ、マリア様は私たちに与え尽くしました。

マリア様は、この「イエズス様を私たちに与える」というこの事業を、世の終わりまで続けられます。

幼きイエズスの聖テレジアは、病に就いて死の直前の時に、シスター達から、「あぁシスター、シスター天国に行ったら、私たちの事を天からご覧になって下さいね。」と言われると、幼きイエズスの聖テレジアは、「いえ、私は天の上から皆さんを眺めるのではなく、地上に降りて来ます。皆さんを助ける為に、愛徳をする為に地上に降りて来ます。」と言われましたが、マリア様は、更に母の心で、天から地上に、私たちの一人一人の為に、私たちが、私たちに於いてイエズス様が生み出されるように、特別の繊細な気遣いを使って下さいます。全歴史にわたって、私たちに於いてイエズス様が生み出されるように、私たちがイエズス様の似姿となるように、マリア様は手伝って下さっています。

マリア様は、「見よ、主の婢女はここにおります、仰せの如く我になれかし。」と仰った時に、これを世の終わりまで仰り続けます。この効果は、世の終わりまで続かなければなりません。これこそが、マリア様が頂いた、天主様から頂いた、母としての、霊的な母としての使命です。私たちを霊的に、超自然の命に於いて生み出す、イエズス・キリストの神秘体の母として、神秘体を完璧に生み出す、という事です。私たちの母、イエズス・キリストの兄弟、姉妹である私たちの母となる、という事です。

マリア様が、イエズス様の御降誕40日後に、イエズス様を神殿に奉献されました。その時、福音書によれば、「マリアは、その初子を捧げた。」と、あります。この「初子」というのは、モーゼの律法の用語であって、つまり「最初に生まれた男の子」がそうであって、第2、第3子が無くても、子供がその後無くても、最初に生まれた子は初子として、第1の子供として捧げられるのです。

ところで、専攻する、マリア様の神秘を研究する神学者が、幼きイエズスの聖テレジアも、「この『初子』という言葉に、実は確かに立法上、歴史上、イエズス様は唯一の子であるけれども、しかし、霊的に於いては、『霊的に』というのは、嘘という事ではなくて、超自然の意味に於いて、しかし現実の意味に於いて、イエズス様の兄弟姉妹である私たちを、マリア様は生み出す、という事を想定した用語である。」という事を指摘しています。「イエズス様を奉献された時に、その世の終わりまで、超自然の命に於いて生まれるべき私たちをも、マリア様は奉献される使命を持っている、という事を予告する言葉である。」と指摘しています。

これが、マリア様の超自然の使徒職の、世の終わりまで続く母としての使命です。この使命は、マリア様の受けている使命は、謂わば戦いです、戦争でもあります。何故かというと、私たちの霊魂を、悪魔の手から奪い取らなければならないからです。マリア様は、悪魔の手から奪い取るのみならず、それをイエズス様の方へと導かれなければなりません。マリア様は、蛇の、古(いにしえ)の蛇の頭を踏み砕き続けなければなりません。

マリア様は、無原罪の御孕りの時にそれをなさいました。世の終わりまでそれをなさり続けます。何故かというと、マリア様は、軍隊を整えた、整列を整えた軍隊よりも更に恐るべき御方であるからです。

マリア様のこの地上での使命が続く為に、どうしても手伝いが、どうしても協力が必要です。ちょうどイエズス様が、御自分の使命を使徒たちに、使徒の後継者に委ねたように、マリア様の、母として多くの子供たちを持つ為に、私たちの協力をも必要としています。

マリア様の為に、霊魂を悪魔の手から引き取って、イエズス様へと導く、良きマリア様の子供たちが必要です。マリア様は特にこの戦いを、多くの霊魂たちをイエズス様の方に導く、というこの使命を、ここにいらっしゃる愛する兄弟の皆さんたちに、特にお願いしています。皆さんは特に、インマクラータの騎士となり、マリア様の子供として、奴隷として、騎士として兵士として、「マリア様の為に何かをしたい」と思われました。

マリア様が何故、私たちをこのように使いたいのか、というと、それは何か私たちが何か特別に能力があったり、或いは何かマリア様の為に、このするだけの価値がある、と思われたからではありません。

そうではなくて、そうでないにもかかわらず、私たちの役に立たない者であるにもかかわらず、マリア様が私たちに、ご自分の勝利と、ご自分の喜びと幸せを私たちに与えたい、と思った、ただマリア様の善きご親切と、そのあわれみと寛大さによって、私たちは特別に、その御恵みを頂く事になりました。

マリア様の母としての悲しみ、苦しみ、私たちをイエズス様へと導こうとするその努力、その願い、その燃える愛を知りつつも、「知らないよ。」と言うのは、私たちが子供として、或いはマリア様の愛を知る者して、取る事ができる態度でしょうか。

「何とかして、このように良い母であるマリア様を、何とかしてお喜ばせしたい、何とかして役に立ちたい。」と思わないでしょうか。あぁ、もちろん、私たちはあまりにも力がないのですけれども、しかし、マリア様が特に私たちの為に取り次いで下さいます。全てのお恵みは、マリア様を通して来ます。これが天主様の御聖旨です。

「あぁ、神父様、私はマリア様の為にお祈りをします、犠牲をします。」はい、非常にそれは良い事で、是非私たちは、その多くのお祈りと、多くの犠牲を捧げ続けなければなりません。しかしマリア様は、それだけではなく、更にもっと協力を求めています。何故かというと、例え聖フランシスコ・ザヴェリオが、スペインに残ったままお祈りと犠牲を捧げていただけでは、日本にはイエズス様の福音が届きませんでした。聖フランシスコ・ザヴェリオが舟に乗って、苦労をして、私たちの為に何か活動をして下さったからこそ、私たちにもその恵みが与えられるようになりました。

確かに司祭は、お祈りと犠牲を教会で捧げれば良いのですけれども、でもその司祭も、秘跡を必要とする人の為に、病者の訪問、告解の秘跡、或いは何か努力をしなければなりません、秘跡を授けなければなりません。それと同じように、私たちもマリア様の子供として、行動に表さなければなりません。何故かというと、愛というのは、感情やフィーリングではなくて、意志の問題であって、この意志は、行動へと表われるものであるからです。

では、私たちは、一体どのようにすれば良いでしょうか?私の今日提案したいのは、マリア様の良き子供として、良い、良き生活を、ますますマリア様に似た、マリア様の御心に適う生活をする、そうする事によって、私たちの周囲の方々に愛徳の影響を与える、という事を提案したいと思います。例えば、マリア様が私たちにお望みになっているように、私たちが徳を積み、正直であって、誠実であって、この自分の事しか考えないような人がたとえ周りにたくさんいたとしても、私たちはいつも誠実に、正直に、真面目に行動する事が、マリア様のお喜びであります。また、自分のやるべき事をサボる人が例え周りにたくさんいたとしても、マリア様のように、自分の義務を天主様から与えられた使命として果たす、良心的に果たす事を、マリア様はお望みです。

私たちはもちろん、見せびらかすのではなく、しかしそれといって、世間体を気にして隠すわけでもなく、普通に、しかし確信を持って、カトリック信者である、マリア様の子供である、という事を、私たちはそれを行動を以って表さなければなりません。

私たちが一体自慢するのは、どのような事でしょうか?この世の人たちは、罪や、或いは下品な事を言ったりして笑ったりして、自慢しているかも知れません、「俺はこんな事をやったんだ。」しかし私たちは、むしろイエズス様の弟子であるという事を、マリア様の子供であるという事を、自慢できるようにしなければならないのではないでしょうか。私たちの謙遜と愛徳によって、願わくは、私たちの周囲の方が、イエズス様を愛する事ができますように。イエズス様の掟を愛する事ができますように。強制されたとか、何か嫌がらせを言われたから、何か恐ろしいから、ではなく、願わくは、マリア様の特別のお恵みによって、霊魂たちがイエズス様へと引き寄せられて、イエズス様をお愛しし、イエズス様の事をますます好きになって、イエズス様の事に従いたい、と思うように導かれますように。その為に私たちが何か、もしも必要としているのであれば、お手伝いや、或いは何か良い業をする事ができますように。

天主様が私たちをこのように愛して下さるのであれば、私たちもその愛に倣って、愛徳の実践をする事ができますように。忍耐する事ができますように。

幼きイエズスの聖テレジアは、修道院の中に、ある有名な何か性格の悪いシスターが、カルメル会のシスターがいたそうです。そのシスターがあまりにも性格が悪いので、皆嫌っていたんだそうです。でも、その幼きイエズスの聖テレジアは、そのシスターに、いつも親切に、いつも忍耐をもって、特に優しくして、特に愛情深く接していました。お姉さんであるシスターが、「何で妹のテレジアは、私よりもあのシスターの事が好きなのか。」と言って嫉妬したほどです。で、死ぬ前に、「何故、あなたはあのようなシスターの事をそんなにも好きなのか。」と聞いたそうです。そのシスターも、性格の悪いちょっと意地悪なシスターも、ついに聖テレジアに、「シスター、何であなたは他の人と違って、私の事がそんなに好きなの?」と聞いたのだそうです。

願わくは、私たちも愛徳を実践する事ができますように。私たちの隣人に於いて、その隣人の、「あぁ、この方はとても親切な方だから好きだ。あぁ、この人は不親切だから嫌いだ。」「あぁ、この人は善徳のある方だ。あぁ、この方は悪徳の人だから。」或いは、「この人は頭が良いから。あぁ、この人は…」と、その自然的な事だけではなく、イエズス様とマリア様が、そのこの霊魂の為に、霊魂の救霊の為に、どれほどの高い御血潮の値を払って贖って下さったのか、或いはマリア様はこの霊魂を、どれほどの愛を込めて母として愛されておられるのか、その事だけを考えて、この霊魂がますます、マリア様を通してイエズス様をお愛しする事ができるように。それをマリア様が私たちに求めておられます。

これは私たちにとっては、とても高い理想ですけれども、マリア様の御助けによって、御あわれみによって、これが実践できるようにお祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


愛の聖心を見よ。イエズスの聖心へ愛は、自分だけに留まってならない。

2015年11月13日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、こんにちは!

 フランシスコさん、すごいですね!
 モーゼについての質問に正しくお答えくださいました。
 モイゼの父親の名前はアムラム、母親の名前はヨケベトです!

 次の質問は、死者の月に因んで、モーゼはどこで亡くなり、何歳だったでしょうか。また、モーゼはどこで葬られたのでしょうか。どうぞコメント欄に書き込んでくださいね。

 来年のゴールデンウイークには、聖ピオ十世会日本では秋田巡礼を行います。来年は、巡礼10周年記念で、長崎と秋田とに行くことを計画しております。

 詳しくは次をクリックして下さいね。

 聖ピオ十世会日本 2016年 長崎・秋田巡礼 10周年記念 天主の憐れみを感謝して

 SSPX Japan Nagasaki Akita Pilgrimage in 2016


 さて、11月6日初金曜日、大阪で聖伝のミサを捧げました。その時の説教をご紹介いたします。

2015年11月6日 初金曜日 至聖なるイエズスの聖心の随意ミサ


小野田神父 説教




聖母の汚れ無き御心巡回教会にようこそ。今日は2015年11月6日、11月の初金曜日です。今日から、来年毎月レネー神父様の御訪問を含めると3回ミサが増えて、いつものパターンの金・土・日・月のパターンが2回に増える、という事に感謝を込めて、御聖体降福式をミサの直後、初金から始める事に致します。今日から始めます、どうぞ、ミサの直後、御聖体の前でロザリオを1環唱えるように、聖体降福式に与って下さい。

特に今回から、感謝のみならず、日本から聖なる召命がたくさん出ますように、司祭が常駐しますように、教会がたくさん建ちますように、多くのミサが日本中で捧げられますように、毎日捧げられますように、そのお恵みを乞い求めて、御聖体降福式を御捧げいたしましょう。

来年は、特別の御恵みで、毎月2回のミサのみならず、ネリ神父様の御訪問や、ティシェ・ド・マルレ司教様の御訪問、堅振式、聖母黙想会、長崎と秋田の巡礼、その他、まだ私たちの知らない特別の御恵みがたくさん待っていますので、それに感謝を込めて、御聖体降福式を捧げましょう。


聖父と聖子と聖霊との聖名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日はイエズス様の聖心の初金曜日ですから、イエズス様の聖心に燃える愛の火を、私たちも受け取る事に致しましょう。このイエズス様の燃える愛は、マルガリタ・マリア・アラコックに対する色々なメッセージも私たちに知らされています、「この人類の為に燃える、愛の聖心を見よ。」と。この私たちは、その聖心の愛のあまりにも大きなものを見て、私たちの心も愛に燃え始めています、イエズス様に賛美と感謝を捧げようとしています。

聖人たちによると、イエズス様の聖心に対する愛は、自分の心だけに留まってはいけません。

ちょうど小さなタバコの火から、森の大火事になる事があるように、私たちの心にあるイエズス様に対する愛の火は、これはメラメラと燃えて、多くの人々に伝わっていかなければなりません。ピオ11世教皇様は、「そのように、他の人たちに愛徳が伝わらなければ、私たちが『キリスト者』というには、まだ半分の弧を書いただけだ、まだ円ではない。まだ半分で円にはなっていない。弧にしか過ぎない。」と、言っています。

ですから今日は、その事を少し黙想して、それに引き換え私たちは一体どうであるかを振り返って、遷善の決心を立てる事に致しましょう。

イエズス様の聖心に燃える火は、私たちの救霊と、多くの人々の救霊を望んだ愛の火でした。イエズス様は、私たちと、私たちの兄弟姉妹たちを、全人類を愛するが為に、御自分の命さえも惜しまず、血潮を全て流されて、苦痛と屈辱と嘲りを耐え忍び、御自分を全て与え尽くして、私たちの救霊を望まれたその愛でした。

そのような極みの無い愛を目前にして、もしもその愛が、多くの人々から軽んじられ、イエズス様の聖名がバカにされ、或いは、イエズス様の御血が無益に流されている、というのを見て、もしもそれを見つつも、あたかも、「関係ないよ、知ったこっちゃない。」といった、そのような態度を取るとしたら、それは、私たちがイエズス様に対する完全な愛だ、と言う事ができるでしょうか?或いは、私たちがイエズス様に対する、激しい燃えるような、愛に燃えている、と言う事ができるでしょうか?

イエズス様が隣人の為に命を捧げて、「友の為に命を捧げるほどよりも大きな愛は無い。」と、言いながら全生涯をかけた救霊の事業、それを全く知らずに、無知のまま、イエズス様の事を知らずに、イエズス様の事を誤解して、罪を重ねて、残念ながら洗礼の恵みも受けずに、誰からも教えられずに、或いはもう地獄に落ちつつあるような人々を見て、私たちは、「あぁ、俺の知った事じゃないよ。」というような態度を取るとしたら、それは、私たちがイエズス様に教えられた隣人愛を、これを完成、全うする事になるでしょうか。

イエズス様は私たちに、「私はお前たちに新しい掟を与える。私がお前たちを愛したように、お前たちも互いに愛し合いなさい。」と、イエズス様が愛したように隣人を愛せ、という掟に、私たちは適っている、と言う事ができるでしょうか。隣人を本当に愛している、と言う事ができるでしょうか。それとも、そのようなイエズス様に対するあまりにも無知がある、或いはイエズス様の事をこの隣人は知らないでいる、何とかしてあげたい、何とか救ってあげたい、何とか、何とかできないか。その地獄に落ちないように、苦しまないように、何か間違いを犯さないように、何とかしたい、と、私たちが苦しみ悩むという事こそ、隣人愛に適う態度ではないでしょうか。

そうすると、私たちに於いて、「自分の救霊だけを考えれば良いんだ。」「自分のお祈りだけをすれば良いんだ。」のではなく、「あぁ、私たちは、私の救霊はもちろん、隣人の救霊をも、隣人の聖化の為にも、奮発して愛徳を行わなければならない。」と、私たちはますます愛の火がメラメラと高まらなければなりません。

先月、10月に黙想した幼きイエズスの聖テレジアは、まさにこの事を実践していました。毎日毎日、小さな幼い時から、自己放棄、自己犠牲をいつも捧げてきました。自分の霊魂の救霊のみならず、隣人の救霊の為に。13歳の頃、主日の、日付は私たちに教えられていないのですけれども、「ある主日のミサの後に、使っていたミサ典書の所から、いつも見慣れていた、十字架に磔られたイエズス様の御影がちょっとだけ出ていたのです。ちらっと見ると、イエズス様の御手が釘付けにされて、血が滴り落ちている御手が見えたのです。ミサの後にハッと見ると、いつも見慣れた変哲もないその御手、イエズス様の十字架の御血ですが、このタラリタラリと、私たちの救霊の為に流されている御血が、多くの人々にとって無駄に流されている、誰もこれを利用しようとしない、イエズス様の苦しみは全く無となっている。何故かというと、多くの人が、イエズス様の事を全く無視している。救霊など、自分の救霊など関係ないと考えている。イエズス様などと関係ない生活をしている。イエズス様の御血があたかも地面に無駄に流されているように、その時に感じた、理解できた。その時から、イエズス様の御血が無駄にならないように、それをかき集めて、それを聖父に捧げる事にした。」と、自分の伝記に書いています。

「イエズス様が、『私は渇く。』と、十字架の上で言ったその言葉が、『霊魂が欲しい、霊魂の救霊を望んでいる。霊魂が私の元に来るように。渇いている。でも霊魂たちは私から遠ざかっている。』というイエズス様の渇くような愛の声を聞いた。」と、伝記に書いています。

そこで、イエズスの聖テレジアは、「そのような霊魂の救霊に渇望する、渇いているイエズス様を何とか癒してあげたい。何とかその霊魂を、そのイエズス様の方に救うように、イエズス様に差し上げたい。」と思う、救霊に対する熱烈な渇きが、聖テレジアにも伝わってきました。イエズスの聖テレジアはこう言います、「この世でする事はたった1つしかない。イエズス様を愛する事と、イエズス様の為に霊魂を救って差し上げる事だ。」と。

聖テレジアは、聖書の詩編、『主の目にとって、1000年は1日のよう。』という言葉をとって、「私たちの人生は1日のようだ。あっという間に過ぎてしまう1日のようだ。この1日にできる事は、しなければならない事はたった1つしかない。イエズス様を愛する事と、救霊の為に尽くす事、隣人の救霊の為に尽くす事だ。イエズス様が愛されるように、霊魂を救う、霊魂が永遠にイエズス様をお愛しする事ができるように、助けてあげる事だ。そのまま放ったらかしておかない事だ。」と、言っています。

幼きイエズスの聖テレジアによれば、「私たちの救霊、隣人愛もやはり、イエズス様に対する愛から発して、イエズス様の愛にと導かれるように、イエズス様を愛する事ができるようにと、愛へと向かっています。」

有名な、プリュス神父様というイエズス会の神父様の本をつい最近読んでいたら、「『キリスト教信者』という事と、『隣人の救霊に無関心である』という事は全く、矛盾している。」とありました。「『キリスト教信者』という事は、『キリスト者』という事は、イエズス・キリストの神秘体の一部となって、イエズス・キリストの命を生きる者であるから、イエズス様がなさったように私たちも救霊の事業に、霊魂の救いの事業に参与しなければならない、祈りと、犠牲と、また私たちの生活を以って、救霊事業に参加するように、イエズス様と一致している者だ。だから『キリスト者』という事はつまり、『隣人の救いの為に働く者』である。小さな救世主となる事だ。共同共贖者となる事だ。マリア様の道具となる事だ。」と。

では、これに引き換え、「私たちは今まで、何と隣人の救霊に、」いえ、私は皆さんの中に時々、「神父様、私はいつも、このこれを、この不思議のメダイを配っているのです。」或いは、聖伝のミサに、いつもお友達を連れてくるような方々、或いは、いつもこう誘ってやっているような方々を見ているので、「私たち」というか、「私は、何と今まで、イエズス様の救霊の願いをその渇きを癒して差し上げるにほど遠かった事でしょうか。イエズス様の御恵みを受け、イエズス様の御子となる、天主の子供となる恵みを受けて、イエズス様の弟子となる特別の恵みを受けて、イエズス様の御体を私たちが拝領する様なほどの御恵みを受けていながら、イエズス様と同じ望みを分かつ事ができなかった。隣人の救霊を望む為に力を尽くす、という事に神経を使わなかった。どれほど何と、イエズス様の聖心から遠かった事でしょうか。」「私は、『イエズス様を王として頂いている』と言いながら、本当に私の生活はイエズス様を王としたでしょうか。イエズス様が望んでいる事だけを、王の望んでいる事だけをしようとしたでしょうか。それとも自分のやりたい事を、王の望みよりも優先した事はなかったでしょうか。」

マリア様は、イエズス様の望みだけを、完璧に100%、汚れ無く、生きておられました。それにもかかわらず、私の生活は、天主様の100%の生活だったでしょうか。イエズス様は私たちに全てを与えて、救霊の為に全てをしてくださったにもかかわらず、私たちは自分の救霊と、隣人の救霊の為に、どれほど100%の事をしたでしょうか。或いはせっかく頂いた御恵みを、頂きながらも知りながらも、イエズス様に対して罪を犯したり、或いは逆らったり、御旨の通りに、「御旨はこうだ」と分かりながらも、それにすぐに、「はい。」と、言わなかった事が、どれほど多かった事でしょうか。

では今日は、遷善の決心に何を立てたら良いでしょうか。4つ、最初の2つは非常に有名な、幼きイエズスの聖テレジアの言葉からいきます。

1つはお祈りです。私たちは、私たちの救霊と、隣人の救霊の為に、イエズス様の聖心に従ってお祈りを致しましょう、多くのお祈りを致しましょう。どうぞ、御聖体拝領をこの意向の為になさって下さい。ミサに与って下さい。御聖体降福式に与って下さい。来年はミサが増えます、ですからそのミサにできるだけ与って下さい。ロザリオもたくさん唱えて下さい、お祈りをいつも唱えて下さい。いつもイエズス様の現存の中で、祈りの中で生活するように致しましょう。もしも、イエズス様の聖心を悲しませるような言葉や、或いは街を通る時に、この前被昇天でシュテーリン神父様が仰って下さったように、マリア様にお祈りをして、どうぞ、「このバスに乗っているこの霊魂たちが、」或いは「この街で通っているこの霊魂たちが回心しますように。」と、射祷を唱える事に致しましょう。

第2は、生贄、犠牲です。幼きイエズスの聖テレジアによれば、「祈りと犠牲こそが、教会にとって一番、愛の込められた祈りと犠牲ほど、教会にとって役に立つものはない。これこそが役に立つものである。」と言います。十字架なしに、血を流す事なしに、私たちの罪の贖いは有り得ませんでした。犠牲なしに、苦しみなしに、お恵みは有り得ないのです。ですから私たちも、日々、毎日送られる十字架を、犠牲を、わたしたちの日常の義務を、イエズス様への愛を込めて御捧げいたしましょう。ファチマで天使はこう言いました、子供達に、「いつも犠牲と祈を捧げなさい。犠牲を捧げる時にはこう言いながら、射祷を唱えながら犠牲を捧げなさい、『イエズスよ、これは御身を愛する為、罪人の回心の為、公教会の為、教皇様の為に、これを御捧げします。』と。」ですから、私たちもすすんで、イエズス様を愛する為に、霊魂の救いの為に、隣人の為に、罪人の回心の為にお捧げいたしましょう。

第3は、私たちの良き生活を通して。確かに私たちは、みそぼらしい、弱い、不完全なしもべで、役に立たないしもべですけれども、私たちの努力と、私たちのできる限りの力を込めて、できる限りを尽くして、なるべくイエズス様の聖心に適う、より少なく、聖心を悲しませる事のない生活を送る事によって、良き模範となる事によって、イエズス様の聖心と、隣人の救霊の為にする事に致しましょう。どうぞ、食事の時に十字架の印を切るとか、或いは何か友達から、「あぁ、あなたはカトリックの信者さんですか?」と言われた時に、どうぞ恥ずかしがらず、「はい、そうです。」と仰って下さい、「聖ピオ十世会の聖伝のミサに与っています。」或いは、友達に悪い場所に誘われた時に、「あぁ、すみません。私はこういう所には行きません。」と仰って下さい。そういういかがわしい所や、或いは罪の機会となるような場所には近寄らない、誘われたとしても、近寄らないようになさって下さい。良い模範を示す事によって、救霊の為にお祈り致しましょう。

最後に、良い言葉を以って、イエズス様は仰いました、「全世界に行って、私の教えた事を教えよ。」と。「もしも信じて洗礼を受けるならば救われ、そうでないならば滅びてしまう。」イエズス様は、「全世界に行って、私の教えた事を教えよ。」とだけ言われました。「全世界に行って、全てをカトリック信者に回心させて、」とは仰らずに、とにかく、イエズス様の事を伝えるように、「地の果てまで、私の証人となるように。」と求められました。

ですから私たちも、もちろん、私たちはこの看板をかけて、「SSPX」とか書いてあるTシャツを着て、或いは口を開ける毎に「ラテン語のミサを」と、もちろん言う必要はありません。

しかし、もしかしたら私たちは、お祈りをしつつ、良い機会に、或いはイエズス様の事、或いはマリア様の事について、ポロリと微笑みながら、少し確信を込めて、「あぁ、マリア様はきっと助けて下さいます。マリア様はお祈りして下さっているのですよ。」とか、私たちの確信を伝える事ができるのではないでしょうか。或いは、皆さんの中のもう数名はなさっているように、不思議のメダイを悲しんでいる人に差し上げたり、或いはお友達に差し上げたりなさる事はできないではないでしょうか。もちろん、ただ配るだけでは効果がありません、その前にマリア様に、「あぁ、これを今から何とかさんに上げるので、マリア様、どうぞ、何とかさんがちゃんとこれを受けて下さいますように、マリア様、この何とかさんの為にお祈り下さい。」めでたしを唱えて、そのきれいな優しい言葉で差し上げた後に、その何とかさんの為にまたお祈りをして、「マリア様、この何とかさんを守って下さい。この某さんの為に(?)下さい。」と、言ったらきっと、奇跡が起こると思います。

私たちの祈りと、犠牲と、良い生活と、ふさわしい優しいイエズス様を伝えるマリア様を伝える言葉を以って、私たちはイエズス様の聖心をますますお慰めし、お愛しし、イエズス様を愛する霊魂をますます広めて、この小さなタバコの燃えカスのような私たちの貧しい愛も、燃やすような山火事になるまで広がる事をお祈り致しましょう。その事ができるように、マリア様に、特に私たちを助けて下さいますようにお祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との聖名によりて、アーメン。


聖アルフォンソ・デ・リグオリによる【善人の死について】の黙想

2015年11月13日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

「死者の月」の黙想のご提案をいたします。

聖アルフォンソ・デ・リグオリによる【善人の死について】の黙想をどうぞ。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

「主よ、私は数々の罪を犯して主に背き奉った罪人で、幸いな死を遂げる柄ではない。しかし主は私の為に十字架上で御死去あそばしたのであるから、私は主の御傷と御死去とに深く縋り奉る。願わくは御憐れみを垂れて私の罪を赦し給え。主を心より愛さしめ給え。」

【善人の死について】の黙想

 その1

 「聖者の死は主の御前に貴い」(詩篇25-15)。

 聖ベルナルドは「聖者の死の貴い理由は、彼の苦労の終わりにして、命の門口だからである。苦しみも、悲しみも、誘惑も、戦いも、主を失い奉る心配さえも、全て終わりを告げ、楽しい幸福の世界がここに開かれるのである。」と言っている。

 悪人にとっては胸をえぐられる「この世を去れ」という命令も、決して善人を苦しめる事はない。彼らは一生涯、主を唯一の宝としていたのであるから、世の宝を離れるのは少しも苦痛ではない。今まで名誉も軽視してきたので、これを棄てることになっても格別辛い思いをすることはない。妻子であろうと、親兄弟であろうと、主に対してこそ愛していたのだ。彼らと別れるといっても、そうまで悲しく思う筈が無い。彼等は常に主をもって自分の全ての宝、全ての楽しみとし、「ああ我が天主よ!ああ我が全てよ!」と言いながら一生を送ってきたのである。いよいよこの世を発つという段になっては、尚更喜んでこの語を繰り返すのみである。

 臨終の苦悶すらも、彼等はそうまで耐え難いものであるとは思わない。かえって、己の命の最後の一息までも捧げつくして主を愛し奉ることができることを幸いとするのである。彼等はイエズスが自分を愛して、自分の為にお捧げ下さったその貴い御命の生贄に自分の命を合わせて捧げ奉るのを、何よりも満足に思うのである。

 主よ、私は数々の罪を犯して主に背き奉った罪人で、かかる幸いな死を遂げる柄ではない。しかし主は私の為に十字架上で御死去あそばしたのであるから、私は主の御傷と御死去とに深く縋り奉る。願わくは御憐れみを垂れて私の罪を赦し給え。主を心より愛さしめ給え。

その2

 死ぬとその日から罪に誘われる気遣いも、主を失い奉る危険も全くなくなるのを見て、善人はどんなにか嬉しく思うだろうか。しっかりと十字架を握り締めて今こそ「安全に眠り、かつ休まん」(詩篇4-9)と叫ぶ時の喜びは、ああいかばかりであろうか!

 なるほど悪魔は私の罪を目の前に並べ立てて心に懸念を起こさせ、失望の淵に突き落とそうとするであろう。しかし、今のうちにその罪を悔い悲しみ、真心から主を愛し奉るなら、慈しみ深き主の事であるし、決して私を見棄て給うまい。私を救いたいという主の御望みは、私を滅ぼしたいという悪魔のそれよりも幾倍も激しいのだから、必ず私を慰め、心を安め、気を励まし、力づけてくださるに違いないのである。

 死は生の門である。主は真実にして約束を違えられることはない。されば彼の危うい最後の場合に臨んで、かねてより主を愛する霊魂をどうして慰め給わぬ筈があろうか。容易ならぬ臨終の苦悶の中にも、言い知れぬ天国の歓楽を幾分なりとも心に感じさせて下さらぬ筈があろうか。深く信頼する心、偽りなき愛情、主を目の当りに仰ぎ見たい望みを起こす毎に、どうして永遠に楽しむべき天国の平和の幾分かを現世にありながら味あわせて下さらない筈があろうか。殊にネリの聖フィリッポの如く、聖体を仰ぎ見て、「ああ私の愛する御方よ!ああ私の愛する御方よ!」と叫び出す程の人であれば、臨終の聖体を拝領するに際して如何なる喜びに躍り立つことであろうか。

 最愛のイエズスよ、主は私の裁判官にてましますが、また救い主でもあらせられる。私を救わんが為に、御血も御命も擲ち給うた。なにとぞ私を憐れみ給え。御手を伸ばして私を罪悪の中より救い上げ、主を一心に愛せしめ給え。

その3

 考えてみると、死は決して恐るべきものではない。恐るべきは死を禍となす罪のみである。福者コロンビエールは言った。「一生涯忠実に主に仕え奉る人が、憐れな死を遂げることはあり得ない」と。

 されば真心から主を愛する人は、むしろ死を希うものである。死ねばその愛する主の御前に行くのである。永遠に主と結ばれるのである。自分の愛する御方と一つになることを希わない者があろうか。早く主の御前に行きたい、早く主を仰ぎ見たいと希わない者は厚く主を愛していないのではあるまいか?

 私はもう一切の被造物から心を引き離して、死を甘んじ受ける準備をせねばならぬ。今被造物を離れるのは少なからぬ功徳になる。しかし後に余儀なく離れては何の功徳にもならないばかりか、大いに霊魂の為に危険である。これからは毎日毎日が今日限りと思って生きて行かねばならぬ。死を目の前に眺めつつある人はその行いがどんなに正しくなるであろうか。

 ああ、私が主を目の当りに仰ぎ見て一心に愛し奉る時はいつ到来するであろうか。私はもとよりそのような幸を受けるに価しない。しかし主の御傷は私の唯一の希望である。私はこの希望に励まされて、聖アウグスチヌスと共に「いざ主よ、いざ早く死して御顔を仰ぎ見たらしめ給え」と申し上げたい。然り、愛すべきイエズスよ、私は早く死んで主の御顔を仰ぎ、主の御腕に縋って、いつまでも主を離れ奉る気遣いもなく、心安んじて終わり無く楽しみたいものである。

 ああ聖母よ、私は御子の御血と、御身のお取次ぎとに深く頼り奉る。何とぞ私に救霊の恵みを得させ、天の御国において永遠に主を賛美し、感謝し、愛慕する幸いを得さしめ給え。アーメン。


聖ピオ十世会日本による聖伝のミサ 報告・お便り 2015年11月 SSPX Traditional Latin Mass

2015年11月13日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、


 11月にも、日本で聖伝のミサをささげることができ大変うれしく思います。

 11月6日の初金曜日には、イエズス・キリストの聖心の随意ミサののちにご聖体顕示・聖体降福式があり、約一時間の聖時間を過ごしました。

 11月7日の初土曜日には、九州から初めて聖伝のミサにあずかりに来られた方がおられました。天主に感謝します。

 11月8日の主日には東京で、41名の方がミサにあずかりました。残念ながら、ミサの後でこれらた方々もありましたが、公教要理などを一緒にされて行かれました。新しく聖伝のミサに与った方々が少なくとも2名おられました。天主に感謝します。

 次のようなご報告をいただいたので、ご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!
11日の初金曜日、初土曜日の御ミサの報告をお送り致します。
6日金曜日 イエズスの聖心の随意ミサには13名が、
7日土曜日 聖母の汚れなき御心の随意ミサには16名が御ミサに与るお恵みを頂きました。デオグラチアス!

7日の御ミサの後には、いつものように公教要理で旧約の時代の勉強を致しました。
今も昔も人類は本当に罪にころびやすく弱い者ですが、天主様が忍耐強く、無限に憐れみ深く、愛深く在らせられる事に深いか感謝と感動を覚えます。
また、遅ればせながら10月の小野田神父様の御誕生日を祝って霊的花束をプレゼントさせて頂きました。

両日のお説教で、私達の救霊の為に十字架上で聖血の最後の一滴まで流し尽くされたイエズス様と、その御足元で御子を捧げ私達の母となって下さったマリア様をお愛しする火をどんどん回りの人達に祈りと行動をもって伝えて最初は小さなな種火ではあっても燃え広がって燃え尽きる事が私達の使命であると伺いました。
お説教を拝聴しながら、また御ミサを続けながら自分のくすぶっていた心の火が少し大きくなるのを感じました。
マリア様と一緒に、マリア様によって、心を天主様への愛に燃え尽くせますようマリア様のお助けをお願いいたしました。

【報告】
Dear Fr Onoda:

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 18人(内、子供1人)
女: 23人(内、子供2人)
計: 41人(内、子供3人)


【お便り】
アヴェ・マリア!

こんばんは。お祈りありがとうございます。
昨日、無事子供が産まれました。女の子です。2300gで少し小さいですけど、元気です。
これからもよろしくお願い致します。


【お便り】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

昨日一昨日と、初金初土の御ミサ、そして御聖体降福式、公教要理など、本当に色々ありがとうございました!♪♪o(*^▽^*)o
これから毎月、初金曜日には御聖体降福式を捧げて頂けるという事で、本当に嬉しく思います!
御聖体降福式に与る事によって、ますますパワーを頂いて、そしてマリア様の御取次ぎによって、イエズス様の聖心をお慰めする4つの遷善の決心を実行する事ができますように!
イエズス様の御血が無駄に流される事のないように、自分自身はもちろん、隣人の救霊の為に力を尽くす事ができますように、お祈りをお願い致します!m(_ _"m)

デオ・グラチアス!

【お便り】
今日のお説教はとても心にジーンと来ました。
主の十戒も頷き改めて、自分に活を入れました有難うございました。
どうしてもの用事が有りましたけど、そちらをキャンセルして東京に出掛けた甲斐がありました。
返事は要りません。


【お便り】
おひさしぶりです。
お元気でしょうか。
11月に入り生産は減少したため私の配置場所は閉鎖となりました。そして部所の配置が変わりました。

かつての場所には要領の悪い、社会人として、仕事に対して責任感のない方がいて、・・・自分の仕事に支障をきたしていることをロザリオによりマリアさまに打ち明けたところ新しい場所をお与えくださいました。新しい部所は流れてきた製品の正誤を調べ記載する作業ですが不思議なことに気づきました。
次の製品がつくまで待機しているのですが、次の製品が届くまでそれがなんとロザリオ1連分の時間がかかるのです。

なかなか世俗は罪の罠が多く、天主の御教えに背く力が働いていることを実感する毎日でマリアさまがいかに世俗を離れて生活したことにより謙遜を学ばれたかを黙想する日々です。願わくば、・・・この場所で働き続けられますように。

【お返事】
 製品がロザリオによって祝福されているようですね。製品がたくさんできる間に、ロザリオも沢山できそうですね!お仕事は大変だと思いますが、どうぞお捧げください。

【お便り】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

こんばんは☆ヾ(*`・ω・´*)
ブログのアップをありがとうございます!

マリア様の特別のお恵みによって、イエズス様とマリア様の愛に倣って、私たちも愛徳の実践をする事ができますように!そして私たちの周囲の全ての方々が、イエズス様を愛する愛によって、マリア様を通してイエズス様へと導かれる事ができますように!本当にそれが実現した時にはどれほど幸せなことでしょうか!私の為にもお祈りをお願い致します<(_ _)>


「天の国は、婚姻の席を準備する王のようだ。」 キリストの神秘体について 聖ピオ十世会小野田神父説教

2015年11月13日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 皆さま、すごいですね!モーゼの義理の父の名前は、イエトロです。イエトロは、娘のジッポラをモーゼに嫁がせています。

 では、モーゼの生みの親の、父親と母親の名前は何でしょうか?コメント欄に書き込んでくださいね。

 さて、10月4日の主日の東京で聖伝のミサを捧げました。その時の説教をご紹介いたします。

 最近、コンピューターのキーボードの調子が良くなく、苦労していました。今回、ようやく、新しくコンピューターを購入することにしました。まだ慣れていないのですが、何とか普通に文字が打てるようになりました。天主に感謝します。


天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


2015年10月4日 聖霊降臨後第19主日
小野田神父 説教

日本の聖なる殉教者巡回教会にようこそ。今日は2015年10月4日、聖霊降臨後第19主日のミサをしています。聖ピオ十世会の聖伝のミサにいらした皆さんに、歓迎の言葉を申します。今日のミサの後、14時30分からいつものように公教要理と、それから16時には主日の晩課があります。月曜日の明日は、いつものようにミサがありますが、ミサの時間が6時15分です、どうぞご了承ください。それから来月のミサは、11月8日と9日です。8日はいつものように10時30分からミサがあります。

3つほどお祈りのお願いがあります。1つは、すぐ今週、私の理解が正しければ、ローマで家族に関する特別の司教会議「シノドス」が開かれます。そしてこのシノドスでは、カトリックの倫理や道徳に反するような教えが交付されるのではないか、という懸念があります。それは既に、幾名かの司教様や枢機卿様たちがその懸念を発表して、今、司教様や枢機卿様たちが2つに分かれて戦っている、という報道が流されています。これについて、聖ピオ十世会総長のフェレー司教様も教皇様に、「どうぞ、カトリックの教えをはっきりと表明して下さるように。」と、懇願の手紙を書かれました。どうぞこのローマのシノドスの為にお祈り下さい。今日、このミサの特別の集祷文が使われているのも、私たちが困難な状況から救い出される為のお祈りです。

第2のお祈りのお願いは、今週の月曜、明日から、アジア管区の特にフィリピンで働いている司祭の為に黙想会があります。月曜から土曜までで、皆さんの温かいお祈りを、良い黙想会の実りの祈りをお願い致します。

最後のお願いは、お祈りのお願いは、10月の中旬頃にマニラで、フィリピンの修道院長の会議があって、そして来年の計画について話し合って、そしてその計画について、それを管区長様に提出して、という会議がありますが、非常に重要な会議で話し合いで、それで私はその時に、2016年の日本でのミサ倍増計画を提出しようと考えています。それがうまく受け入れられる事ができるように、どうぞ皆さん、お祈りをお願い致します。できれば東京で主日に、2回、月に2回ミサがありますように、計画を立てています。どうぞお祈り下さい。


「天の国は、婚姻を催す王のようである。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日はイエズス様の福音の例えに従って、天の国について、一体、「天の国が婚宴の披露宴のようだ」という事は一体どういう事なのか?その誰と誰の婚姻で、一体どういう何が起こるのだろうか?という事を黙想して、次に、それに反対、その婚宴に反対、それの式に与れないようなものは何なのか?それの結果はどんな事が起こるのかをみて、最後に、結論として、遷善の決心を立てる事に致しましょう。

では、婚宴の、「天の国は婚宴の式」というのは一体どういう事なのでしょうか?私たちはこの事についてよく黙想してきたので、皆さんよくご存知のはずです。御子イエズス・キリストがまず、天主の御言葉がまず人となって、天主の本性と人間の本性が天主の第2のペルソナに於いて一致している事、位格的融合、これがまず、天主と人間との一致の最初です。

そしてその結果何を望んだか、というと、イエズス・キリストは、御自分と贖われた人たちを全て一つにしよう、と思われました。一つの体としようと思われました。贖われた人たちの組織は、教会と呼ばれます。一なる聖なる公教会です。その公教会とイエズス・キリストが、婚姻の様な、更に婚姻よりももっと緊密な結合によって結ばれる、一つの体となる、という事です。そしてこのイエズス様と公教会、キリストの花嫁である公教会、カトリック教会との一致をうまく表す表現は、「婚姻」というほか、それよりも良いものはありませんでした。そこで、婚姻という事を言います。そして私たちは、その婚姻の席に与るように招かれた者です。ただ単に、「あぁ、結婚している人がいるから、お友達だから与って、『おめでとう』って言う」だけではありません。そうではなく、私たちの霊魂も、一人一人の霊魂が、イエズス・キリストとの霊的な、神秘的な、しかし本当の一致に与る、という婚姻です。

聖パウロは、このイエズス様と公教会の一致の事を、キリストの神秘体としてうまく話しています、「夫よ、妻を愛せ。キリストが公教会を愛したように、キリストがその教会の為に血を流して、命を与えたように、夫よ、妻を愛せ。」そして、「妻よ、夫を愛してこれに従え。教会がキリストを愛して、それに従うように、何故かというと、婚姻というのは、キリストと教会との一致の、ちょうどおぼろな影の様であるから。」と、言います。

当時2000年前、婚姻というものの純粋さ、清さ、或いはその汚れの無さ、という事についてあまり知られていなかった時代に、このような事を言うのは、聖パウロにとって勇気がいったかもしれません、言う必要があったかもしれません。しかし、聖パウロはどうしてもそう言わなければなりませんでした。

そればかりではありません、イエズス様は、御自分と霊魂との一致について、御自分と教会との一致について、婚姻の例えのみならず、別の例えも使っています。それは、「私はぶどうの木である。私の父は農夫である、お前たちはその枝だ。私に留まれ、もしも留まらないならば、お前たちは実を結ぶ事ができない。枯れて死んでしまう。そして死んでしまったら、焼かれて、そして捨てられてしまうだけだ。私に留まれ。」と。

聖パウロも同じ事を言います、「私たちはオリーブの木だ。ユダヤ人は天然のオリーブだけれども、そのオリーブの木から離れて、わざと離れてしまった木であって、私たちは接ぎ木されたオリーブの枝だ。」聖パウロはそればかりではありません、「私たちは生ける石だ。そして生ける建物、神殿、キリストの神殿を、天主の神殿を建てている。その基礎が使徒であり、預言者であり、その隅の親石がキリストである。その石の材料の一つの、生ける石である。」或いは、「私たちは、天主の家族の一員、メンバーの一員だ。」と言います。

これは一体どういう事を意味するのでしょうか?イエズス様が私たちを贖って、私たちを「婚姻に与りなさい。」と言った時に、お客さんとして、「あっ、よく来た来た。ここに招待券があって、ここで、あのこれで飲み物をもらって下さい。」ではなくて、私たちは、イエズス・キリストの家族、その一部として、そこの中に、その団居(まどい)に入っている、という事です。

イエズス様は、私たちの罪の贖いの為に、ちょうどこの税務署に行って、「この子の、何とかさんの税金が払えない、未納なので、それを私が代わりに納付します。何番のいくらです。じゃ、これで領収書です。」とやって、私たちを贖ったのではなくて、イエズス様は私たちを、御自分の一部として、私たちを受け取り、私たちはイエズス様の一部として、そして私たちとイエズス様は、まさに一心同体のものとして、私たちの償いを、負債を支払って下さいました。

聖パウロは実は、その書簡の中で、非常にこのギリシャ語の文法的な誤りを犯しながらも、色々な事を言います、「私たちは、キリストと共に死んだものだ。私たちはキリストと共に葬られた者だ。」“それと共に葬られた”という、そのような単語は無いのですけれども、“共に葬られた”という単語を作り出してしまいます。“共に死んだ”という単語を捏造してしまいます。「そして私たちは、キリスト共に復活した者だ。キリストと共に生きる者だ。キリストと共に、天国に於いて支配する者である、君臨する者である。キリストと共に、天主の右に座す者である。キリストと共に、12のイスラエルの部族を裁く者である。」と、言います。そして更にそればかりでなく、「私たちは、イエズス・キリストの一部として、私たちに於いて、キリストが生きている。貧しい者の内に於いて生きているし、捕われ人の者の内に生きているし、そして迫害された者に於いて苦しんでいる。私たちに於いて、キリストは祈っておられる、祈る私たちと共に、キリストは祈っておられる。」と、言います。

つまり、天主様天主御父は、私たちを見る時に、「単なる人間」ではなく、「イエズス様の一部」として、私たちをご覧になる、という事です。

考えてもみて下さい、どんなに小さな産毛の一つであろうが、私たちの体の一つだとして、天主御父は、私たちをご覧になって下さる。もう分かち難く、一つの体としてご覧になっている。そして私たちのする事は、キリストの行動となって、キリストは私たちの為に祈り、行動し、ちょうど夫婦が一つの家族として行動するかのように、更に更に更にもっと、イエズス・キリストは私に於いて生き、私はキリストに於いて生き、キリストと私は一つだ、という事を示しています。

これが、私たちが招かれている「婚姻の席」なのです。

そして第2に、この婚姻の席に、このような一致に、このような緊密な愛による一致に対して、私たちをそれに与らせない、何か邪魔ものはあるでしょうか?どうしたら、それにより良く与る事ができるでしょうか?

それが、「天主の聖寵」です。罪のない状態です、罪が赦された状態です。イエズス様がその御血潮を以って、私たちの為に買い取って下さった、贖って下さった、天主の命です。私たちに於いて生きている、成聖の恩寵こそが、唯一私たちをして、イエズス様と一つにならせて下さいます。そして私たちに、天の遺産を相続させる権利と、イエズス・キリストの名前に於いて、天主御父の右に座す。或いは、天の栄光を、終わりなく喜ぶ、楽しむ、キリストと共に楽しむ、その権利を与えてくれるものです。

もしもこれがなければ、私たちは全てを失ってしまいます。天主の聖寵というのは、それほど大きなお恵みなのです。目に見えないのですけれども、それほどの効果を持っています。でもそれを失うには、たった1つの事をすればよいのです。この服を脱ぎ捨てるには、成聖の恩寵を脱ぎ捨てるには、たった1つの事をすればよいのです。それは何かというと、大罪を1つでも犯せば、それで終わりなのです。

大罪を犯してしまうと、もはや私たちは、天主の敵となってしまいます。何故かというと、私たちはそうだと知りながら、罪であると知りながら、天主に背くと知りながら、自由に、それに同意して、天主の国に「嫌だ。」と言うからです。天主様が嫌がっている、御望みにならない、というのを知りながら、「嫌だ。」と言う事であるからです。その時に私たちは、「何故お前は、大罪の状態で、婚姻の服を着ずにここに来たのか?外に出なさい。私はお前を知らない。」「呪われた者よ。私を離れて、永遠の地獄に火に入れ。」と、言われるしかありません。

これは、天主のイエズス様のせいではありません。私たちがそうと知りながら、自由に、犯した罪の為です。その時に敢えて、罪の状態を選んだ私たちは、どれほど悲しみ嘆く事でしょうか。

ダビドの王に、アブサロンという子供がいました。そのアブサロンは、ダビドの言いつけに背き、「もう、お前は子供だけれども、俺の目の前に来るな。」と、言われました。非常にそれに失望して、嘆いて、そして自分の弟子を召使いを使って、「何とか、何とかもう一度目の前に行く事ができるように。」と、頼んだ事があります。

私の読んだところでは、スペインの王のフィリッポ2世は、あるどこかの貴族が、教会の中でちょっと不適切な行動をして、天主の御前に背く事をした、という事を受けて、「もうお前は目の前に来るな、帰れ。」と言ったそうです。そしたら、その貴族は非常にそれに失望して、それにがっかりして、その後息を引き取ってしまったそうです。

考えてもみて下さい。皆さん、この前私たちは一緒に、宮中に晩餐会に呼ばれる事について、色々話しましたが、想像してみましたが、考えて下さい、「聖ピオ十世会の聖伝のミサに与っている方々は、皆例外なく、これからは宮中の特別のお友達で、天皇陛下の皇族の一部で、そしてもう自由に、特別のお友達として自由に皇居に来て下さい。自由に使って下さい」と、なっていたはずが、いけないと知りながら、悪いと知りながら、私たちが罪を犯したが為に、「もう来ないで下さい、もう今までの特権はもう終わりです。」という事になったら、私たちはどれ程がっかりするでしょうか。「私は養子の王様の子ですよ、天皇陛下の養子ですよ。」もう終わりです。それは罪を犯す事によって失われてしまいました。

これが、この福音の中で、婚礼の礼服を着ていなかったが為に、外に出される人の運命です。

では最後に、私たちはどのような遷善の決心を立てたら良いでしょうか?まず第1に、私たちが受けたイエズス・キリストの養子となり、イエズス・キリストの神秘体の一部となり、イエズス・キリストの、天主の命に与り、それに接ぎ木された特別の恵みを受けた者である、というそのとてつもないお恵みを感謝致しましょう。第2に、それに反するものは唯一、罪を犯す事である、という事をよく知る事に致しましょう。そして罪を避け、罪の機会を避ける決心を立てる事に致しましょう。最後に、(イエズス様が)私たちに、どれほどの努力とどれほどの苦しみを以って、この婚姻の席に招いて下さっているか、という事を一番よく理解する事を助けてくれるのは、ロザリオのお祈りです。ロザリオのお祈りをする事によって私たちは、価値がますます分かってきます。そしてそのお恵みを失わない力も、ますます受ける事ができます。ですから特に10月は、ロザリオのお祈りをよくする事に致しましょう。

「天の国は、婚姻の席を準備する王のようだ。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


カトリックの祈りと仏教の「黙想」との大きな違いについて 聖ピオ十世会 レネー神父様講話

2015年11月11日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 いかがお過ごしでしょうか。レネー神父様がマニラにおられ、私が秘跡についての公教要理の試験を学生たちにしなければならないという話をすると、幼きイエズスの聖テレジアが11才の時に受けた公教要理のテストの話になりました。聖テレジアは、その他はすべて完璧な答えをすることができたのですが、一つだけ答えられなかった問題があったそうです。その質問とは、「モーゼの義理の父親の名前は何か?」でした。

 愛する兄弟姉妹の皆様には、この答えがわかりますか? コメント欄に書き込んでくださいね。

 さて、レネー神父様が、10月25日の王たるキリストの祝日に大阪でしてくださった、聖伝のミサの後の講話、カトリックの祈りと仏教の「黙想」には天と地ほどの違いがあることについて、をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


2015年10月25日 レネー神父様説教(勉強用)



 カトリックの黙想と仏教の黙想との違い


 親愛なる兄弟の皆さん、

 ある日、「イエズスはある所で祈っておられた。それが終わったとき弟子の一人が、『主よ、ヨハネが弟子に教えたように、私たちにも祈りを教えてください』と言った」(ルカ11章1節)。そこで主は彼らに「天にまします」を教えられました。さて皆さんは、仏教徒もまた「黙想する」と主張していることを非常によくご存知でしょう。また最近、あるオーストラリアの信者が私に、オーストラリアの仏教団体からの情報を送ってきて、助言を求めてきました。その仏教団体の資料を研究したのち、明らかな結論が出ました。カトリックの祈りと仏教の「黙想」には天と地ほどの違いがあります!

 「天にまします」は子の父に対する祈りです。そもそもの最初から、祈りとはこのように人間のペルソナと天主の一つのペルソナとの間の関係です。このペルソナ的(人格を持った対話可能)な天主は、ご自分の子についてすべてを知っておられ、父親のうちで最もよい父親として子のことを気にかけておられます。カトリックの信仰は、天主が至高の知性、究極の霊的実在であり、よってこのようにペルソナを持っていると認めます。天主は、創造に浸透していく目に見えないエネルギーではなく、被造物と区別できないあいまいな実在でもありません。天主は、天主だけが「自分自身によって存在する」という事実そのものから、すべての被造物と明確に区別されます。つまり、自分自身で存在する自己充足の存在なのです。天主が存在を受けたのではなく、天主が自分で存在を持っておられます。天主は至高の存在です。すべての被造物は自分自身で存在できず、自分自身の存在をすべて天主から受けたのです。被造物は「他者によって存在する」、つまり、他者からその存在を受けた、他者に依存した存在なのです。

 仏教徒はペルソナを持つ天主を信じていません。霊魂の霊的性質を信じてさえいません。彼らの哲学は感覚と知性をはっきりとは区別しません。(これが、彼らが菜食主義者である理由です。彼らは、まるで人間とけだものに全く違いがないかのように、「感覚を持つすべての存在」を同じカテゴリーに置いているからです。)このため仏教徒にとっては、天主とペルソナとしての関係を結ぶことができないのです。天主がペルソナとして存在していることを信じてさえいないのです!彼らは、実在の背後にあいまいなエネルギーがあると考えており、そんなあいまいなエネルギーと関係を結ぼうと努力しているのです。これは、これから見ていくように、非常に危険なことです。

 まことの天主は創造主であり、被造物に見られるあらゆる善性の源ですから、天主がそのような善性を持っておられなかったとしたら、それを被造物にお与えになることはできなかったでしょうし、また、天主はお与えになった善性を失われなかったのですから、私たちはすべての被造物の持つ善性を至高の水準で天主の内に見るのです。被造物は、至高の善性の小さくて限定された複製物にすぎないのです。そのため、天主は最高位の知識と意志を持っておられなければなりません。天主は私たちが祈りで言うことをご存じであり、私たちを気にかけてくださいます。ですから、詩篇作者は無知な者を次のように非難します。「民の中の愚か者よ、悟れ、痴れ者はいつ正気に戻るのか。耳を植えた者が聞かず、目を造った者が見ないと思うのか」(詩篇93章8-9節)。天主は私たちが祈っていることを知るために耳を必要とはされません。天主は、私たちが祈る前からそれをご存じだったのです!

 私たちのことをすべてご存じである天主、全能の天主という概念が、仏教徒にはありません。彼らは天主の御摂理を信じておらず、盲目の宿命を信じています。祈りが天にまします愛する御父から何かを「獲得する」ことができると信じておらず、あたかも黙想の目的が単に体内のホルモンやほかの化学物質を刺激することだけであるかのように、黙想の実りに関する唯物論的な説明がある、と考えているにすぎません(この「オーストラリア仏教至福センター」によれば!)。

 でも、言葉を使った祈りであっても単なる黙祷であっても、私たちが天主に祈るのはよいことです。祈りがよいことであるのは、それが天主をたたえることであり、私たちの知性の最もよい使い方であり、その知性を知られうる限りの至高の対象へ向け、「天主に心を上げること」であるからです。実際、聖トマス・アクィナスの教えによると、祈りは本質的に、天主に向けられる知性の行いです。あらゆる会話が知性の行いであるように、祈りは天主との会話であり、私たちが行ううちで最高の会話なのです!ここから、まことの祈りは人間の地上における最高の活動であると、私たちは疑いなく言うことができます。最高の能力(知性)の活動が最高の対象(天主)に向けられるからです。しかし、私たちの主イエズス・キリストの恩寵によって、天主の子が、主が教えてくださったように天の御父に語りかけるのは難しくないのです。

 仏教徒にとってはまったく逆で、黙想は「何も考えない」ようにする努力を要求されます。はい、実際これが、このオーストラリア仏教センターの「黙想コース25番」にはっきりと書かれています!これは、祈りに関する聖トマス・アクィナスの教えである「知性の行い」の正反対です…。

 仏教徒は、霊魂の力を止めるよう努め、できるだけ静寂の状態を保ち、「何も考えない」ようにします。すると何が起こるでしょうか?彼らは最後には、感覚にすべての注意を払うようになるのです。彼らは次のようにはっきりと言っています。「あなたは行ったり来たりする思いや感覚、感情を知ります」。そして、何も考えないようにすべきであるので、「感覚と感情」だけが残るのです。カトリック教会の教えによると、徳は「正しい理性」(賢慮の徳)によって「感覚と感情」を制御することです。しかし、仏教徒は理性の活動を拒絶することによって、この制御をなくすのです。

 カトリックの黙想の主な対象は、「道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14章6節)私たちの主イエズス・キリストです。実際、会話は双方向です。私たちは天主に対して考えを表し、天主の考えを聞きます。しかし、天主は私たちにどのようにして語られるのでしょうか?人は自分の「感覚と感情」を信頼できますか?できるはずがありません。そのような欺きを避けるために、天主は啓示によって人間に客観的に語られました。聖パウロがヘブライ人に向かって言います。「天主は、何度もいろいろな方法で、その昔預言者を通じて先祖に語られたが、この終わりの日々には子を通じて語られた」(ヘブライ1章1-2節)。私たちの主イエズス・キリストのみ言葉を聞くとき、人は天主のみ言葉を聞くのです。しばしば私たちは、このみ言葉の真理の深さを理解していません。私たちは、童貞聖マリアの例に従って、黙想する必要があります。福音書は言います。「マリアは注意深くそのことを心にとどめて考え続けた」(ルカ2章19節)。聖母は本当に、カトリックの黙想の模範です。ですから、「何も考えない」のとは全く違います。それどころか、カトリックの黙想は、私たちの主イエズス・キリストの真理に考えを巡らし、それで心を満たすのです。

 反対に仏教徒の黙想は、真理へ注意を向ける考えを意識的、精神的に制御することを拒絶します。順序立てて考えることを拒絶し、「多くの考え(ばらばらの思いや考え)が出てきても、それらを考えるのではなく、やり過ごす」ようにするのです。その目的は「実在についての概念的でない体験」に到達することです。そして、彼らはこれこそ真理だと主張するのです!

 これは間違いなく大きな欺きです。実際、真理の定義は「知性と現実の一致」です。もし知性の活動を台無しにして、「概念的でない体験(知性で把握できない体験)」を探し求めれば、そこには真理も、知性と実在の一致もありえません。彼らの言うように「考える過程を置き去りにすること」によって、真理を発見することは不可能です。これは非科学的の最たるものです。考えることを拒否したならば、結果に到達したり、実在についての真の知識に到達したりする科学者などいるはずもありません!科学の偉大なる進歩は西洋文明の実りであり、キリスト教が知性の活動を評価したことに基づくのであって、仏教の「何も考えない」という概念に基づくのではないことは驚くにはあたりません。仏教徒はこのようなやり方で何に到達したのでしょうか?彼らは言います。「あなたに残るのは自覚だけです。さあ、体験しましょう、存在が制限を受けない状態を。考えを超えて、内容を超えて、普遍的で、限界を超えた存在を」。

 この「体験」は、近代主義者の神である「内在」の実り、例えば「感覚と感情」によく似ています。しかし、明確に順序立てて考えることを拒絶すれば、「悪霊」(エフェゾ6章12節)に対する防御のない状態に置かれてしまうということを考えなければなりません。この悪霊は、術にたけた詐欺師であり、その欺きを増加させるために楽しい感情を与えるのが大変上手なのです。まことに、「異邦人の神々はすべてむなしいもの」(詩編95章5節)なのです。

 カトリックの黙想では、より低い能力、つまり感覚の活動、特に想像力の活動をなくそうと意識的に努力しますが、これは、より高い能力である知性の活動を促進させるためであり、知性を天主に、天主の属性に集中させ、特に「永遠の光明の反映であり、天主の行いの、曇りなき鏡」(知恵7章26節)である私たちの主イエズス・キリストに知性を集中させるためです。黙想の実りは聖パウロによって美しく描写されています。「私たちはみな覆いを顔に垂れず、鏡に映すように主の光栄を映し、霊なる主によってますます光栄を増すその同じ姿に変わる」(コリント後書3章18節)。天主の御子と同じ姿に変わること、これが聖パウロがローマ人に教えた予定説の成就です。「天主は御子の姿にかたどらせようと予定された」(ローマ8章29節)。また、エフェゾ人にはこう言いました。「天主は創造以前から私たちを選び、愛によってご自分のみ前に聖である者、けがれない者とするために予定された」(エフェゾ1章4節)。これが、カトリックの黙想の実りなのです!

 このように、本当の祈りは天主との会話です。祈りは、天主との友人関係という驚くべき行いであり、そこにキリスト教徒の生活全体があり、そこでは常に私たちのそばにいてくださる天主という友人に注意を向けます。なぜなら天主は、被造物とは違って、どこにでもおられるのですから。天主は純粋な霊です。天主は、ある場所に体があるというようにある場所におられるのではありません。霊は、それが活動するところにいます。天主は存在するすべてのものを支え、どこででも活動されていますから、どこにでもおられます。しかし、天主を愛する人々の霊魂には、非常に特別な天主の現存、友人としての現存があります。なぜなら、天主は彼らの霊魂においては、成聖の恩寵と愛徳を彼らに注ぎ込むという非常に特別な方法で活動されるからです。「私たちに与えられた聖霊によって、この心に天主の愛が注がれた」(ローマ5章5節)。祈りと黙想は心を開き、この愛徳の流出、聖霊の流出を受けるように霊魂を開くのです!

 祈りとは、絶え間のないカトリック信者の活動です。実際、私たちの主イエズス・キリストは言われました。「うまずたゆまず祈れ」(ルカ18章1節)、また「いつも警戒し、そして祈れ」(ルカ21章36節)。さらに聖パウロは言います。「すべての祈りと願いをもって心のうちでいつも祈れ。たえず目を覚して、忍耐づよく、すべての聖徒のために祈れ」(エフェゾ6章18節)。聖ヨハネ・ボスコは、「絶え間なく天主に心を上げていた」と言われています。幼きイエズスの聖テレジアなら、天主のことをはっきりと考えないまま3分以上過ごすことはなかったでしょう。人は愛するとき、愛する者のことを考えます!愛するお方が私たちと一緒に目の前におられて、私たちに注意を払ってくださっているとき、これはますますそうでしょう。実際、天主はいつも私たちをご覧になっており、私たちを愛しておられるのですから。

 しかし、特に祈りのために捧げる特別な時間を用意しておくのはよいことです。祈りと黙想に集中したこの時間が一日中続けば、愛する人々には重荷ではない天主の法に忠実であるのに必要な恩寵を得るでしょう。すべての祈りの中で、教会が特別に勧めるのは聖なるロザリオです。現在では昔よりさらにロザリオが必要になっています。特に、レパントの海戦のときのように、童貞聖マリアだけが打ち破ることのできるイスラムが力を持ちつつある現在では。

 しかし、この地上での最高の祈りは、ミサのいとも聖なるいけにえです。私たちはミサで、地上からいとも聖なる三位一体に捧げられた愛・礼拝・すべての徳による偉大なるわざ、すなわち私たちの主イエズス・キリストの十字架上のいけにえに自分を一致させるのです。これが「偉大な祈り」です。自分のすべてを天主に奉献することであり、私たちの主イエズス・キリストに私たちを合わせるようにしてくれる変容の祈り、主が「私の肉を食べ私の血を飲む者は私に宿り、私もまたその者のうちに宿る」(ヨハネ6章57節)と言われたように、私たちを同じ天主の似姿に変容させてくれる祈りです。「天主は愛である。愛を持つ者は天主にとどまり、天主は彼にとどまられる」(ヨハネ第一4章16節)。

 善き主が、仏教によって欺かれてきた人々を解放し、彼らを愛する御子に導き、本当の信仰、カトリックの信仰によって、彼らが本当の祈りとは何か、本当の黙想とは何かを見つけることができるよう祈りましょう。それは、顔と顔を合わせて天主を見るようになる永遠の命のための準備であり先取りなのです。

 これについて、聖ヨハネは言います。「考えよ、天主の子と称されるほど、御父から計りがたい愛を受けたことを。私たちは天主の子である。この世が私たちを認めないのは御父を認めないからである。愛する者たちよ、私たちはいま天主の子である。後にどうなるかはまだ示されていないが、それが示されるとき、私たちは天主に似た者になることを知っている。私たちは天主をそのまま見るであろうから。主が清いお方であるように、主に対するこの希望を持つ者は清くなる」(ヨハネ第一3章1-3節)。

 この10月に、祈りの模範、特に十字架の下で祈りの模範を示された童貞聖マリアが、どう祈ればよいか私たちに教えてくださいますように。アーメン。

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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