アヴェ・マリア! 聖エリザベトの祝日にて
ダ・ヴィンチ・コードが提示した問題
あれほど騒がれた『ダ・ヴィンチ・コード』も、既にワールド・カップとテポドンとに話題が移ってしまったようだ。今さら、何をという感じだが、私には「ダ・ヴィンチ・コード現象」が、プロテスタント諸教派の方々に次の疑問を提示したと思われる。
それは、
聖書とはいったい誰がこれを聖書と決めたのか?
どれが本物の福音でそれが天主の霊感を受けて書かれたというは、どうして私たちに知られたのか?
聖マテオ、聖マルコ、聖ルカ、聖ヨハネの四福音は正典の本物の福音だけれど、その他が正典ではないとはどうして分かるのか?
ということだ。
そんな中、以前 Mr.James と言う方からコメントをいただいた。その方のブログへの招待の書き込みだった。そこでそこを訪問させていただいたところ、この方は「北国のこひつじ」さんという名前でブログを作っておられ、20代でプロテスタントのクリスチャンになり今は60代半ばの方だ。難病の奥様を看病をなさっておられ、さぞかし大変だろうなぁと思った。とても良い方のようにお見受けした。
【聖書の権威について】
「北国のこひつじ」さんはそのブログでこう断言する。
「聖書こそ、神が人類に与えた最大のプレゼント。」
「なんとひとりよがりな人だろうと思われるかもしれません。しかし、私は確信をもって、みなさんに聖書こそ、人生の道しるべであり、人生の大海原を航海する者にとって、安全な羅針盤であると断言することが出来るのであります。」
「絶対的な権威を持って人生のすべてに解答を与える唯一の書物があります。すなわち、それは「聖書」(BIBLE)であります。「聖書」は人間的な目ではなく、全知全能なる神(創造者)の視点から、記されている永遠の真理の書であります。ですから、100%間違いのない書物であります。」
「北国のこひつじ」さんはその理由を聖書を引用して次のように説明する。
「下に記したみことばにありますように、神の霊感によって記されたのは「聖書」のみであります。
●「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」(Ⅱテモテ3:16)
●「‥‥すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。 なぜなら、預言(聖書のことば)は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。 」(Ⅱペテロ1:20,21)。」
上は「北国のこひつじ」さんの長年の確信だから、おそらく疑問に思ったこともないかもしれない。おそらく私の上記の疑問も、考える余地もないに違いないだろう。
▲しかしここで次のような疑問がわき起こるではないか?
(1)「聖書はすべて、神の霊感による」「聖書の預言はみな、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語った」ということが聖書の中に書かれていたとして、これが真理であるという保証がどこにあるのだろうか?
言い換えると、もしも万が一(どうか荒唐無稽な譬えと空想を許して下さい)、誰かが自分の書いた本の中で、ここで書かれているものはすべて「霊感による」と主張しかつ断言し「聖霊に動かされて書いた」などと言ったとし「全て事実で真実だ」、「この本こそ、神が人類に与えた最大のプレゼント」、「この本こそ、人生の道しるべであると断言する」と言ったとていもそれが正しいという保証では全くない、ということだ。
つまり、現実に起こった話をすると、ダン・ブラウンはダ・ヴィンチ・コードの巻頭で「芸術作品、建築物、文書、秘密儀式に関する記述はすべて事実に基づいている」と断言している。しかし、それだけではその主張が正しいという保証には全くならないのと同じだ。
もしかしたらダン・ブラウンは次の本で「ここに書かれている内容は、天主からの霊感による」と自分を主張するかもしれない。しかし、それだけではその主張が正しいという保証には全くならないと言うことだ。
(2)さらに「聖書はすべて、神の霊感による」ということからは、必ずしも「聖書以外には、霊感のものがない」とは主張できないのではないか?という疑問だ。例えば私が「日本人はみな素晴らしい」が真だったとしても、必ずしも「日本人以外は、素晴らしい人はいない」が真とは言えないのと同じだ。だから聖書のこの語句からの引用だけからでは「絶対的な権威を持って人生のすべてに解答を与える唯一の書物」であるとは言えないのではないか。
【聖書に含まれる書について】
さらに「北国のこひつじ」さんはそのブログでこう断言する。
「『ユダの福音書』なるものが神の霊感による書であるかのように言いふらす人がいるならば、全く話にならない馬鹿げたことであります。」
「真のクリスチャンは(『ユダの福音書』などによって)、聖書が神の唯一の啓示の書であり、永遠の真理であるという確信が揺らぐようなことはなく、惑わされるはずがありません。」
「聖書は旧約39巻と新約27巻の66巻で、今から約2,000年前に既に完成(完結)されたものであります。この「聖書」66巻のみが、神の霊感によって記された「聖書」として存在しているのであります。」
「既に完結された聖書66巻のみが、神の唯一の啓示の書であります。」
「北国のこひつじ」さんはその理由を次のように説明している。
「これらの聖書のみことばは、「聖書」こそ神が人類に与えられた唯一の啓示の書であるということを力強く語るものであり、これを決して忘れてはならないのであります。
●「私があなたがたに命じることばに、つけ加えてはならない。また、減らしてはならない。私があなたがたに命じる、あなたがたの神、主の命令を、守らなければならない。」(申命記4:2)。
●「神のことばは、すべて純粋。神は拠り頼む者の盾。神のことばにつけ足しをしてはならない。神が、あなたを責めないように、あなたがまやかし者とされないように。 」(箴言30:5,6)。
●「私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。 また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。 」(ヨハネの黙示録22:18,19)。」
▲しかし私たちには次のような疑問がわき起こるではないか。
「申命記」と「箴言」と「ヨハネの黙示録」にそう書いてあるのは分かった。しかし
(1)いったい誰が「聖書は旧約39巻と新約27巻の66巻」と教えているのか? 何故、聖書は旧約が47巻とか27巻ではなく、また新約は17巻でも37巻でもないとはどうして分かったのか? この「聖書」66巻のみが、神の霊感によって記された「聖書」として存在している、とは聖書に書いてあるのか? もし聖書に書いてないのなら、誰が決めたのか? 誰からそれを教わったのか?
(2)いったい誰が「聖書は今から約2,000年前に既に完成(完結)された」と教えているのか? そのように聖書に書いてあるのか? もし聖書に書いてないのなら、誰が決めたのか? 誰からそれを教わったのか?
(3)いったい誰が「既に完結された聖書66巻のみが、神の唯一の啓示の書であります」と教えているのか? 何故、それ以外には啓示の書がない、と言えるのか? そのことは聖書に書いてあるのか? もし聖書に書いてないのなら、誰が決めたのか? 誰からそれを教わったのか?
(4)何故、『ユダの福音書』なるものが神の霊感による書であるかのように言いふらす人がいるならば、全く話にならない馬鹿げたことであると言えるのか? その根拠は何なのか? そのことは聖書に書いてあるのか? もし聖書に書いてないのなら、誰が決めたのか? 誰からそれを教わったのか?
残念ながら
「聖書は旧約39巻と新約27巻の66巻」とも
「聖書は今から約2,000年前に既に完成(完結)された」とも
「既に完結された聖書66巻のみが、神の唯一の啓示の書であります」とも
「『ユダの福音書』なるものが神の霊感による書ではない」とも、
聖書には書かれてはいない。
今、世界中で売られている聖書の目次にはそう書かれているかもしれないけれど、もともとそのような目次は、聖書にはついていなかったし、聖書の一部でもない。後世の人が便宜のために付けたものだ。
では、これは誰が決めたのか? 「私が読んでそう思った」から、それが正しくなるのか? もし「私が読んで、霊感を受けて(?)そう思った」なら、『ユダの福音書』なるものを読んだ人が「これが聖書であると私が決めました、私はそう思います、私はそういうフィーリングを受けました、しかし、私は確信をもって、『ユダの福音書』こそ、正しい聖書であると断言することが出来るのであります。」と言ったら、いったい何と言って答えるのか?
もしも「私が読んで霊感を受けて、そう思った、私にはそうする権威がある」と主張するなら、その権威の正当性はどこにあるのか? その権威を主張し出してしまったのなら、どこかの新興宗教の教祖と同じではないのか?
つい最近ダ・ヴィンチ・コードに入れ知恵を受けた、どこかの新興宗教の教祖(?)が、全く客観的な根拠もなく独りよがりな、言いたい放題のトンデモ発言をしているのを耳にした。極めて「民主主義的な」主張で、「数が多ければ正しい」的な発言をしている。例えば、この教祖はこう主張していた。「聖書だけ」という原理を推し進めるとこう言うところまでに行き着いてしまうのではないだろうか。あまりにも荒唐無稽な発言であるが、実は悲しいことに、現代日本では多くの日本人の方々が、この種のトンデモ宗教にはまり込んでいるので、一部引用するのをお許し願いたい。
「紀元4世紀までは、福音書と呼ばれるものは全部で37本ありました。その中には、ピリポやマリア、トマスの福音書などが含まれていました。しかし、そのうち33本が禁書扱いになり、伝えた者は張り付けの刑に処され、弾圧されました。それゆえに、全世界の人々が、現代のキリスト教の教えに飢え、乾きを覚えるのです。・・・ しかし、そういう中でも、グノーシス派と呼ばれる人々が隠れて真実のイエスの教えを細々と広げていました。今は失われた霊的な部分です。そこにはヘルメスやトスの指導が為されていました。いつの時代もひどい迫害を受けながらも、ある者はエジプトに、スペインに、インド、ギリシャ、マケドニアに広げてゆき、またイスラム教の中にも生き延びていきました。そういう意味で、マグダラのマリアは真実のキリスト教の主たる一つを担っていたといえます。最近表に出てきたこの話、~中略~時代が証明しようとしています。自分たちは37分の37を知っているんだという強さがあるんですよ。大多数の人々は37分の4~中略~マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネによる福音書の4つだけなんです。、このダヴィンチコードの書籍の前書きには、「これは小説だが、真実に基づいている」というくだりがありまして、これにバチカンが驚いたんです。SONYピクチャーズに、映画化された際にこのくだりは載せないでしょうね?とバチカンが聞いてきたんですね。もちろんSONYピクチャーズは、いえ、載せます、と剣もほろろに回答したんです。これが現在のキリスト教に関してのパワーバランスですね。みんなは、誰が正しいのかを知りたいのではなく、何が正しいのかを知りたいんだ、ということが分かります。」
「イエスを通じて説いた愛の教えの中には、現在の教会を通して伝わっているものと伝わっていないものがあるということです。新約聖書の福音書は紀元4世紀までは37種類あったということが確認されています。それだけ宗教の自由な時代があったということです。しかし、西暦383年の宗教会議により37種類の福音書のうち33種類が地下へもぐってしまった。それらを教え広めた者は打ち首に処する、ということになってしまった。・・・34/37という、かなりのものが伝わっていないのが現状です。当時信仰告白したら火あぶりでしょうから。この異変をなんとなくわれわれも感じてきた2000年間だったわけです。なぜ私たちは全世界伝道をしなければならないのか、それは主の教えを伝えていくことは勿論のことですが、37/37をきちんと伝えられるのは私たちだからです。実はイエスはここまで説いていたんだよ、と伝えていけるのですから。」
これらの新興宗教の教祖は「私が霊感を受けてそう思った」と同じ論理をつかって主張しているのだ。実際に自称「福音」とか「聖典」というトンデモ本は、古代にもあったし、現代にも作られている。
では何故四聖福音だけが本物の福音で、その他多数の自称「福音」は偽物だと言えるのか?
四聖福音だけが本物の福音で、その他多数の自称「福音」は偽物だとは聖書に書いてもなく、私たちが決めたのでもないなら、私たちはだれからそれを教わったのか? 聖書自体、私たちに、神感に関するなんらの証明をも与えないし、内容の真偽をも証明してはいないから、聖書をだけをもって説明しても主観的思い込みの独りよがりになるだけだないだろうか。だから、私たちには、聖書以外に、《聖書とはいう本は、これこれの部分からなっているもので、その主要著者は天主である》とおしえてくれる生きた権威が必要だ。書物それ自体には、こういう勤めをはたす力はないからだ。
【何故私たちは聖書を天主の御言葉であると信じるのか?】
では、いったい誰から?
それでは、聖書とはいったい誰がこれを聖書と決めたのか? どれが本物の福音でそれが天主の霊感を受けて書かれたというは、どうして私たちに知られたのか? 聖マテオ、聖マルコ、聖ルカ、聖ヨハネの四福音は正典の本物の福音だけれど、その他が正典ではないとはどうして分かるのか?
私たちはキリストの創立した唯一の教会からそれを教えてもらった。教会の生きた権威が、初代において、いま私たちがもっている新約聖書の27巻をこのように纏め、天主から霊感を受けて書かれた書であると宣言したした。
それは、生きる教導権であるカトリック教会が初代から私たちに、教会の権威をもって、四福音書を含める全二七巻の新約聖書を、天主の霊感によって記録された天主の御言葉であると保証しているからだ。
したがって、たとえば、教会がそれらをうけいれず、また、認めなかったとするなら、天主からの霊感の有無すら認められることがなく、いま、新約聖書として知られている本は存在もしないにちがいない。
つまり私たちキリスト者が、聖書を天主の御言葉であると信じる理由は、私たちがカトリック教会の不可謬の教導権を信じるからである。そして、それ以外には単なる思い込みと独りよがりになってしまう。
では、何故、カトリック教会の不可謬の権威を信じるのか? 何故なら、私たちは真の天主であり真の人間である私たちの主イエズス・キリストの証言を信じるからだ。何故なら、キリストはペトロの上に自分の教会を建て、地獄の門もそれに打ち勝たないと約束され、世の終わりまでこの教会と共にいる、と約束されたからだ。
では、何故、イエズス・キリストを証言を信じるのか? 何故なら、イエズス・キリストはこの世を創造した天主、人となった天主であるということを証明されたからだ。
何故、天主を信じるのか? 何故なら、天主は真理であり私たちを騙すことも騙されることも間違えることも無いからである。
そして天主イエズス・キリストの権威を持って、キリストの創立した教会はこう宣言した。
====引用開始====
聖霊において合法的に召集された、この神聖にして侵すべからぬトレント世界教会会議は、誤謬を取除き、教会の中に福音の純粋性そのものを保存するため、常に次のことを目前に置き、すなわち、かつて預言者たちを通して聖書の中で約束されしものを、天主の御子なる私たちの主イエズス・キリスト御自身の口によって公布し給い、次にご自分の使徒たちを通して、全ての救いの真理と道徳律との源泉として「全ての被造物に述べ伝え」(マルコ16・15)られるように命じ給うたということを念頭に置き、更には、キリスト自身の口から使徒達らが受けた、または聖霊の口述によってその使徒達自身からあたかも手から手へ渡すようにして伝えられたこの真理と規律とは、我々にまで辿り伝わってきたが、それらは、書かれた書物と、書かれていない伝承とに含まれていることを知り通し、正統信仰を持つ教父たちの模範に従って、旧約と新約の全ての書物を、唯一の天主が両聖書の著者である故に、そしてまた同じように、キリストによって口授されたものであれ、聖霊が書取らせたものであれ、カトリック教会において絶えず受継がれて保存されている、信仰或いは道徳に関する伝承そのものを、同じ敬虔の愛情と尊敬の心をもって受入れ、尊ぶものである。
公会議は、誰一人として疑いが起こり得ないように、この公会議によって受け入れられた聖なる書の目録がこの教令に書き加えられるべきであると判断した。受け入れられた聖なる書は以下の通りである。
旧 約 聖 書 は、
モーセの5書、すなわち、創世、脱出(=出エジプト)、レヴィ、荒野(=民数)、第2法(=申命)、
ヨシュア(=ヨズエ)、判事(=士師)、ルト、列王1、2(=サムエル上、下)、列王3、4、歴代上、下(=年代記前・後)、エスドラ、ネへミヤのと言われる書、トビヤ、ユディト、エステル、
ヨブ、ダビドの150詩篇、格言(=箴言)、コへレット(=伝道)、雅歌、知恵、シラ(=集会)、
イザヤ、エレミヤ(哀歌を含む)、バルク【エレミアの手紙を含む】、エゼキエル、ダニエル、12の小預言者達の書、すなわち、ホゼア、ヨエル、アモス、アブディア、ヨナ、ミケア、ナホム、ハバクク、ソフォニア、ハガイ、ザカリア、マラキア、
マカベオ前、後である。
【注:カトリック教会は、七〇人訳ギリシア語聖書のままを正典目録として霊感の書であり、天主の御言葉として尊ぶべきことを教え、(エレミアの手紙とバルクの書とを区別すれば)旧約には四七巻があることを認めている。】
新 約 聖 書 は、
マテオ、マルコ、ルカ、ヨハネによる四つの福音書と
福音記者ルカによる使徒行録、
使徒パウロの14の書簡(ローマ、1、2コリント、ガラチア、エフェソ、フィリッピ、コロサイ、1、2テサロニケ、1、2ティモテオ、チト、フィレモン、ヘブライ)、
使徒ペトロ2書簡、使徒ヨハネの3書簡、使徒ヤコボの書簡、使徒ユダの書簡、使徒ヨハネの黙示録である。
====引用終了====
だから私たちには次の疑問は既に回答が与えられている。
聖書とは、カトリック教会がこれを聖書と決めた。
どれが本物の福音で、それが天主の霊感を受けて書かれたというは、カトリック教会の教導権によって私たちに知られた。
聖マテオ、聖マルコ、聖ルカ、聖ヨハネの四福音は正典の本物の福音だけれど、その他が正典ではないとは、カトリック教会がそう教えているから私たちに知らされた。
つまり、カトリック教会なくしては、聖書もなかった。
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