Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

兄弟姉妹の皆様を心から、聖伝のミサにご招待いたします。

2006年07月20日 | 聖伝のミサの予定

アヴェ・マリア!

 ■ 聖伝のミサにようこそ! ■ WELCOME TO THE TRADITIONAL MASS!

 兄弟姉妹の皆様、ご無沙汰しております。

 聖伝のミサに兄弟姉妹の皆様を、私たちは心から歓迎します! 

(聖伝のミサは、本来なら「ローマ式典礼様式のミサ」と呼ばれるべきでしょうが、第二バチカン公会議以前のミサ、聖ピオ5世のミサ、古いミサ、旧典礼、ラテン語ミサ、トリエントミサ、トリレント公会議のミサ、伝統的ミサ、伝統ラテン語ミサ、・・・などとも呼ばれています。)

聖伝のミサは、
二千年間もの尊むべき使用試されかつ真実のミサ聖祭、
祭壇で司祭が捧げる明白に犠牲であるミサ聖祭、
天主を中心に据えられる崇敬の為に構成されているミサ聖祭、
完全にカトリック:一・聖・公・使徒継承のミサ聖祭、
トリエント公会議にて聖人教皇(教皇聖ピオ5世)により法定化されたミサ聖祭、
実り豊かで、数知れぬ聖人、殉教者、聖職召命の群れを生み出したミサ聖祭
です。


     <2006年7月>


【大阪】大阪市東淀川区東中島1-18-5 新大阪丸ビル本館(JR新大阪駅の東口より徒歩5分)「聖母の汚れ無き御心巡回聖堂」


14日(金)教会博士証聖者司教聖ボナヴェントゥーラ(3級祝日)白 午後5時半
15日(土)証聖者聖ヘンリコ皇帝(3級祝日)白 午前11時
16日(主)聖霊降臨後第6主日(2級)緑 午前10時半


【東京】東京都文京区本駒込1-12-5曙町児童会館1F 「聖なる日本の殉教者巡回聖堂」

22日(土)午後6時半 グレゴリオ聖歌に親しむ会(http://sound.jp/gregorio/
     午後8時40分 グレゴリオ聖歌による終課

23日(主)午前10時  ロザリオ及び告解
          聖霊降臨後第7主日(2級)緑 午前10時半
     午後2時半 公教要理の霊的講話
     午後4時半 グレゴリオ聖歌による主日の第二晩課

24日(月)平日(4級)緑 午前7時(予定の時間で、ミサ聖祭の時間については変更するかもしれません。ご了承下さい。)

25日(火)使徒聖ヤコボ(2級祝日)赤 午前7時(予定)


【お願い】

 私たちは、私たちの主イエズス・キリストの愛の教えを特に大切にしたいと思っています。ですから、愛徳に背くような、信者の兄弟姉妹、また司祭や修道者(特に新しいミサをしておられる神父様や司教様などについて)についての人格を傷つけるような悪口や非難、愚痴、不平不満はご遠慮下さいますようにお願い致します。
 兄弟姉妹の皆様の愛徳とご理解とご協力に感謝します。

 

 詳しいご案内などは、
http://immaculata.web.infoseek.co.jp/manila/manila351.html
 などをご覧下さい。


それでは、皆様のおこしをお待ちしております。


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兄弟姉妹の皆様の応援を感謝します!


天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

 


 


聖ピオ十世会ニュース:聖体行列と司祭・助祭叙階式

2006年07月08日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア!  聖エリザベトの祝日にて



 愛する兄弟姉妹の皆様、お元気ですか。


 今年の6月18日御聖体の祝日に聖ピオ十世会は、トゥルーズで野外での聖伝のミサと聖体行列がありました。700名以上が聖伝のミサで御聖体拝領をしたそうです。



http://www.laportelatine.org/communication/presse/2006/toulouse2006/toulouse2006.php


 やはりフランスのポー(ルルドの近く)およびペリグーでの御聖体行列の写真もどうぞ。

http://www.laportelatine.org/communication/presse/2006/fetedieu2006/fetedieu2006.php


 去る6月29日、使徒聖ペトロとパウロの祝日での、エコンの神学校での司祭叙階式の写真は、次に掲載されています。

 2500名以上の信徒の方々、4名の司教様、280名の聖職者たちが叙階式に与ったそうです。この日、エコンでは4名の新司祭が誕生しました。162名の司祭らが新司祭に按手しました。同時に、11名も助祭に叙階されました。そのうち9名が聖ピオ十世会会員、2名がフランスのベレーグ(Bellaigue)にあるベネディクト会修道院に所属。



http://www.laportelatine.org/communication/presse/2006/econe2006/econe2006.php
http://www.laportelatine.org/communication/presse/2006/econe2006/econe2/econe2.php
http://www.laportelatine.org/communication/presse/2006/econe2006/econe3/econe3.php



 司式司教様であるティシエ・ド・マルレ司教様(Mgr Tissier de Mallerais)の説教は次にあります。

http://www.laportelatine.org/communication/presse/2006/econe2006/sermonecrit/sermonecrit.php



 また7月1日にはドイツのツァイツコーフェンの神学校でも叙階式が執行されました。叙階式の写真については、
http://www.fsspx.info/special/?id=img1152184928
をご覧下さい。
(続きをご覧になるには、vorwarts と言う言葉をクリックして下さい。)


 新司祭たちのためにお祈りをよろしくお願いします。また引き続き総会の成功のためにノベナをお願いいたします。



 聖母の汚れ無き御心よ、我らのために祈り給え!
 聖ピオ十世、我等のために祈り給え!
 聖フランシスコ・ザベリオ、我らのために祈り給え!



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「ダ・ヴィンチ・コード現象」が、プロテスタント諸教派の方々に提示した聖書とその権威の問題

2006年07月08日 | ダ・ヴィンチ・コード、ここがおかしい

アヴェ・マリア! 聖エリザベトの祝日にて

ダ・ヴィンチ・コードが提示した問題



 あれほど騒がれた『ダ・ヴィンチ・コード』も、既にワールド・カップとテポドンとに話題が移ってしまったようだ。今さら、何をという感じだが、私には「ダ・ヴィンチ・コード現象」が、プロテスタント諸教派の方々に次の疑問を提示したと思われる。



 それは、

聖書とはいったい誰がこれを聖書と決めたのか? 
どれが本物の福音でそれが天主の霊感を受けて書かれたというは、どうして私たちに知られたのか? 
聖マテオ、聖マルコ、聖ルカ、聖ヨハネの四福音は正典の本物の福音だけれど、その他が正典ではないとはどうして分かるのか? 

ということだ。

 


 そんな中、以前 Mr.James と言う方からコメントをいただいた。その方のブログへの招待の書き込みだった。そこでそこを訪問させていただいたところ、この方は「北国のこひつじ」さんという名前でブログを作っておられ、20代でプロテスタントのクリスチャンになり今は60代半ばの方だ。難病の奥様を看病をなさっておられ、さぞかし大変だろうなぁと思った。とても良い方のようにお見受けした。



【聖書の権威について】


 「北国のこひつじ」さんはそのブログでこう断言する。

「聖書こそ、神が人類に与えた最大のプレゼント。」
「なんとひとりよがりな人だろうと思われるかもしれません。しかし、私は確信をもって、みなさんに聖書こそ、人生の道しるべであり、人生の大海原を航海する者にとって、安全な羅針盤であると断言することが出来るのであります。」

「絶対的な権威を持って人生のすべてに解答を与える唯一の書物があります。すなわち、それは「聖書」(BIBLE)であります。「聖書」は人間的な目ではなく、全知全能なる神(創造者)の視点から、記されている永遠の真理の書であります。ですから、100%間違いのない書物であります。」



 「北国のこひつじ」さんはその理由を聖書を引用して次のように説明する。

「下に記したみことばにありますように、神の霊感によって記されたのは「聖書」のみであります。
●「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」(Ⅱテモテ3:16)
●「‥‥すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。 なぜなら、預言(聖書のことば)は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。 」(Ⅱペテロ1:20,21)。」



 上は「北国のこひつじ」さんの長年の確信だから、おそらく疑問に思ったこともないかもしれない。おそらく私の上記の疑問も、考える余地もないに違いないだろう。

 


 ▲しかしここで次のような疑問がわき起こるではないか?


(1)「聖書はすべて、神の霊感による」「聖書の預言はみな、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語った」ということが聖書の中に書かれていたとして、これが真理であるという保証がどこにあるのだろうか? 


 言い換えると、もしも万が一(どうか荒唐無稽な譬えと空想を許して下さい)、誰かが自分の書いた本の中で、ここで書かれているものはすべて「霊感による」と主張しかつ断言し「聖霊に動かされて書いた」などと言ったとし「全て事実で真実だ」、「この本こそ、神が人類に与えた最大のプレゼント」、「この本こそ、人生の道しるべであると断言する」と言ったとていもそれが正しいという保証では全くない、ということだ。


 つまり、現実に起こった話をすると、ダン・ブラウンはダ・ヴィンチ・コードの巻頭で「芸術作品、建築物、文書、秘密儀式に関する記述はすべて事実に基づいている」と断言している。しかし、それだけではその主張が正しいという保証には全くならないのと同じだ。


 もしかしたらダン・ブラウンは次の本で「ここに書かれている内容は、天主からの霊感による」と自分を主張するかもしれない。しかし、それだけではその主張が正しいという保証には全くならないと言うことだ。



(2)さらに「聖書はすべて、神の霊感による」ということからは、必ずしも「聖書以外には、霊感のものがない」とは主張できないのではないか?という疑問だ。例えば私が「日本人はみな素晴らしい」が真だったとしても、必ずしも「日本人以外は、素晴らしい人はいない」が真とは言えないのと同じだ。だから聖書のこの語句からの引用だけからでは「絶対的な権威を持って人生のすべてに解答を与える唯一の書物」であるとは言えないのではないか。




【聖書に含まれる書について】


 さらに「北国のこひつじ」さんはそのブログでこう断言する。


「『ユダの福音書』なるものが神の霊感による書であるかのように言いふらす人がいるならば、全く話にならない馬鹿げたことであります。」


「真のクリスチャンは(『ユダの福音書』などによって)、聖書が神の唯一の啓示の書であり、永遠の真理であるという確信が揺らぐようなことはなく、惑わされるはずがありません。」


「聖書は旧約39巻と新約27巻の66巻で、今から約2,000年前に既に完成(完結)されたものであります。この「聖書」66巻のみが、神の霊感によって記された「聖書」として存在しているのであります。」


「既に完結された聖書66巻のみが、神の唯一の啓示の書であります。」




 「北国のこひつじ」さんはその理由を次のように説明している。



「これらの聖書のみことばは、「聖書」こそ神が人類に与えられた唯一の啓示の書であるということを力強く語るものであり、これを決して忘れてはならないのであります。
●「私があなたがたに命じることばに、つけ加えてはならない。また、減らしてはならない。私があなたがたに命じる、あなたがたの神、主の命令を、守らなければならない。」(申命記4:2)。
●「神のことばは、すべて純粋。神は拠り頼む者の盾。神のことばにつけ足しをしてはならない。神が、あなたを責めないように、あなたがまやかし者とされないように。 」(箴言30:5,6)。
●「私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。 また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。 」(ヨハネの黙示録22:18,19)。」

 



 ▲しかし私たちには次のような疑問がわき起こるではないか。


「申命記」と「箴言」と「ヨハネの黙示録」にそう書いてあるのは分かった。しかし


(1)いったい誰が「聖書は旧約39巻と新約27巻の66巻」と教えているのか? 何故、聖書は旧約が47巻とか27巻ではなく、また新約は17巻でも37巻でもないとはどうして分かったのか? この「聖書」66巻のみが、神の霊感によって記された「聖書」として存在している、とは聖書に書いてあるのか? もし聖書に書いてないのなら、誰が決めたのか? 誰からそれを教わったのか?


(2)いったい誰が「聖書は今から約2,000年前に既に完成(完結)された」と教えているのか? そのように聖書に書いてあるのか? もし聖書に書いてないのなら、誰が決めたのか? 誰からそれを教わったのか?


(3)いったい誰が「既に完結された聖書66巻のみが、神の唯一の啓示の書であります」と教えているのか? 何故、それ以外には啓示の書がない、と言えるのか? そのことは聖書に書いてあるのか? もし聖書に書いてないのなら、誰が決めたのか? 誰からそれを教わったのか?


(4)何故、『ユダの福音書』なるものが神の霊感による書であるかのように言いふらす人がいるならば、全く話にならない馬鹿げたことであると言えるのか? その根拠は何なのか? そのことは聖書に書いてあるのか? もし聖書に書いてないのなら、誰が決めたのか? 誰からそれを教わったのか?

 


 残念ながら
「聖書は旧約39巻と新約27巻の66巻」とも
「聖書は今から約2,000年前に既に完成(完結)された」とも
「既に完結された聖書66巻のみが、神の唯一の啓示の書であります」とも
「『ユダの福音書』なるものが神の霊感による書ではない」とも、
聖書には書かれてはいない。


 今、世界中で売られている聖書の目次にはそう書かれているかもしれないけれど、もともとそのような目次は、聖書にはついていなかったし、聖書の一部でもない。後世の人が便宜のために付けたものだ。



 では、これは誰が決めたのか? 「私が読んでそう思った」から、それが正しくなるのか? もし「私が読んで、霊感を受けて(?)そう思った」なら、『ユダの福音書』なるものを読んだ人が「これが聖書であると私が決めました、私はそう思います、私はそういうフィーリングを受けました、しかし、私は確信をもって、『ユダの福音書』こそ、正しい聖書であると断言することが出来るのであります。」と言ったら、いったい何と言って答えるのか?



 もしも「私が読んで霊感を受けて、そう思った、私にはそうする権威がある」と主張するなら、その権威の正当性はどこにあるのか? その権威を主張し出してしまったのなら、どこかの新興宗教の教祖と同じではないのか?


 つい最近ダ・ヴィンチ・コードに入れ知恵を受けた、どこかの新興宗教の教祖(?)が、全く客観的な根拠もなく独りよがりな、言いたい放題のトンデモ発言をしているのを耳にした。極めて「民主主義的な」主張で、「数が多ければ正しい」的な発言をしている。例えば、この教祖はこう主張していた。「聖書だけ」という原理を推し進めるとこう言うところまでに行き着いてしまうのではないだろうか。あまりにも荒唐無稽な発言であるが、実は悲しいことに、現代日本では多くの日本人の方々が、この種のトンデモ宗教にはまり込んでいるので、一部引用するのをお許し願いたい。



「紀元4世紀までは、福音書と呼ばれるものは全部で37本ありました。その中には、ピリポやマリア、トマスの福音書などが含まれていました。しかし、そのうち33本が禁書扱いになり、伝えた者は張り付けの刑に処され、弾圧されました。それゆえに、全世界の人々が、現代のキリスト教の教えに飢え、乾きを覚えるのです。・・・ しかし、そういう中でも、グノーシス派と呼ばれる人々が隠れて真実のイエスの教えを細々と広げていました。今は失われた霊的な部分です。そこにはヘルメスやトスの指導が為されていました。いつの時代もひどい迫害を受けながらも、ある者はエジプトに、スペインに、インド、ギリシャ、マケドニアに広げてゆき、またイスラム教の中にも生き延びていきました。そういう意味で、マグダラのマリアは真実のキリスト教の主たる一つを担っていたといえます。最近表に出てきたこの話、~中略~時代が証明しようとしています。自分たちは37分の37を知っているんだという強さがあるんですよ。大多数の人々は37分の4~中略~マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネによる福音書の4つだけなんです。、このダヴィンチコードの書籍の前書きには、「これは小説だが、真実に基づいている」というくだりがありまして、これにバチカンが驚いたんです。SONYピクチャーズに、映画化された際にこのくだりは載せないでしょうね?とバチカンが聞いてきたんですね。もちろんSONYピクチャーズは、いえ、載せます、と剣もほろろに回答したんです。これが現在のキリスト教に関してのパワーバランスですね。みんなは、誰が正しいのかを知りたいのではなく、何が正しいのかを知りたいんだ、ということが分かります。」

「イエスを通じて説いた愛の教えの中には、現在の教会を通して伝わっているものと伝わっていないものがあるということです。新約聖書の福音書は紀元4世紀までは37種類あったということが確認されています。それだけ宗教の自由な時代があったということです。しかし、西暦383年の宗教会議により37種類の福音書のうち33種類が地下へもぐってしまった。それらを教え広めた者は打ち首に処する、ということになってしまった。・・・34/37という、かなりのものが伝わっていないのが現状です。当時信仰告白したら火あぶりでしょうから。この異変をなんとなくわれわれも感じてきた2000年間だったわけです。なぜ私たちは全世界伝道をしなければならないのか、それは主の教えを伝えていくことは勿論のことですが、37/37をきちんと伝えられるのは私たちだからです。実はイエスはここまで説いていたんだよ、と伝えていけるのですから。」

 


 これらの新興宗教の教祖は「私が霊感を受けてそう思った」と同じ論理をつかって主張しているのだ。実際に自称「福音」とか「聖典」というトンデモ本は、古代にもあったし、現代にも作られている。

 


 では何故四聖福音だけが本物の福音で、その他多数の自称「福音」は偽物だと言えるのか? 



 四聖福音だけが本物の福音で、その他多数の自称「福音」は偽物だとは聖書に書いてもなく、私たちが決めたのでもないなら、私たちはだれからそれを教わったのか? 聖書自体、私たちに、神感に関するなんらの証明をも与えないし、内容の真偽をも証明してはいないから、聖書をだけをもって説明しても主観的思い込みの独りよがりになるだけだないだろうか。だから、私たちには、聖書以外に、《聖書とはいう本は、これこれの部分からなっているもので、その主要著者は天主である》とおしえてくれる生きた権威が必要だ。書物それ自体には、こういう勤めをはたす力はないからだ。




【何故私たちは聖書を天主の御言葉であると信じるのか?】


 では、いったい誰から?


 それでは、聖書とはいったい誰がこれを聖書と決めたのか? どれが本物の福音でそれが天主の霊感を受けて書かれたというは、どうして私たちに知られたのか? 聖マテオ、聖マルコ、聖ルカ、聖ヨハネの四福音は正典の本物の福音だけれど、その他が正典ではないとはどうして分かるのか? 



 私たちはキリストの創立した唯一の教会からそれを教えてもらった。教会の生きた権威が、初代において、いま私たちがもっている新約聖書の27巻をこのように纏め、天主から霊感を受けて書かれた書であると宣言したした。


 それは、生きる教導権であるカトリック教会が初代から私たちに、教会の権威をもって、四福音書を含める全二七巻の新約聖書を、天主の霊感によって記録された天主の御言葉であると保証しているからだ。


 したがって、たとえば、教会がそれらをうけいれず、また、認めなかったとするなら、天主からの霊感の有無すら認められることがなく、いま、新約聖書として知られている本は存在もしないにちがいない。


 つまり私たちキリスト者が、聖書を天主の御言葉であると信じる理由は、私たちがカトリック教会の不可謬の教導権を信じるからである。そして、それ以外には単なる思い込みと独りよがりになってしまう。


 では、何故、カトリック教会の不可謬の権威を信じるのか? 何故なら、私たちは真の天主であり真の人間である私たちの主イエズス・キリストの証言を信じるからだ。何故なら、キリストはペトロの上に自分の教会を建て、地獄の門もそれに打ち勝たないと約束され、世の終わりまでこの教会と共にいる、と約束されたからだ。


 では、何故、イエズス・キリストを証言を信じるのか? 何故なら、イエズス・キリストはこの世を創造した天主、人となった天主であるということを証明されたからだ。


 何故、天主を信じるのか? 何故なら、天主は真理であり私たちを騙すことも騙されることも間違えることも無いからである。


 そして天主イエズス・キリストの権威を持って、キリストの創立した教会はこう宣言した。



====引用開始====



 聖霊において合法的に召集された、この神聖にして侵すべからぬトレント世界教会会議は、誤謬を取除き、教会の中に福音の純粋性そのものを保存するため、常に次のことを目前に置き、すなわち、かつて預言者たちを通して聖書の中で約束されしものを、天主の御子なる私たちの主イエズス・キリスト御自身の口によって公布し給い、次にご自分の使徒たちを通して、全ての救いの真理と道徳律との源泉として「全ての被造物に述べ伝え」(マルコ16・15)られるように命じ給うたということを念頭に置き、更には、キリスト自身の口から使徒達らが受けた、または聖霊の口述によってその使徒達自身からあたかも手から手へ渡すようにして伝えられたこの真理と規律とは、我々にまで辿り伝わってきたが、それらは、書かれた書物と、書かれていない伝承とに含まれていることを知り通し、正統信仰を持つ教父たちの模範に従って、旧約と新約の全ての書物を、唯一の天主が両聖書の著者である故に、そしてまた同じように、キリストによって口授されたものであれ、聖霊が書取らせたものであれ、カトリック教会において絶えず受継がれて保存されている、信仰或いは道徳に関する伝承そのものを、同じ敬虔の愛情と尊敬の心をもって受入れ、尊ぶものである。


 公会議は、誰一人として疑いが起こり得ないように、この公会議によって受け入れられた聖なる書の目録がこの教令に書き加えられるべきであると判断した。受け入れられた聖なる書は以下の通りである。



旧 約 聖 書 は、

モーセの5書、すなわち、創世、脱出(=出エジプト)、レヴィ、荒野(=民数)、第2法(=申命)、
ヨシュア(=ヨズエ)、判事(=士師)、ルト、列王1、2(=サムエル上、下)、列王3、4、歴代上、下(=年代記前・後)、エスドラ、ネへミヤのと言われる書、トビヤ、ユディト、エステル、
ヨブ、ダビドの150詩篇、格言(=箴言)、コへレット(=伝道)、雅歌、知恵、シラ(=集会)、
イザヤ、エレミヤ(哀歌を含む)、バルク【エレミアの手紙を含む】、エゼキエル、ダニエル、12の小預言者達の書、すなわち、ホゼア、ヨエル、アモス、アブディア、ヨナ、ミケア、ナホム、ハバクク、ソフォニア、ハガイ、ザカリア、マラキア、
マカベオ前、後である。


【注:カトリック教会は、七〇人訳ギリシア語聖書のままを正典目録として霊感の書であり、天主の御言葉として尊ぶべきことを教え、(エレミアの手紙とバルクの書とを区別すれば)旧約には四七巻があることを認めている。】



新 約 聖 書 は、

マテオ、マルコ、ルカ、ヨハネによる四つの福音書と
福音記者ルカによる使徒行録、
使徒パウロの14の書簡(ローマ、1、2コリント、ガラチア、エフェソ、フィリッピ、コロサイ、1、2テサロニケ、1、2ティモテオ、チト、フィレモン、ヘブライ)、
使徒ペトロ2書簡、使徒ヨハネの3書簡、使徒ヤコボの書簡、使徒ユダの書簡、使徒ヨハネの黙示録である。


====引用終了====



 だから私たちには次の疑問は既に回答が与えられている。


聖書とは、カトリック教会がこれを聖書と決めた。

どれが本物の福音で、それが天主の霊感を受けて書かれたというは、カトリック教会の教導権によって私たちに知られた。

聖マテオ、聖マルコ、聖ルカ、聖ヨハネの四福音は正典の本物の福音だけれど、その他が正典ではないとは、カトリック教会がそう教えているから私たちに知らされた。



 つまり、カトリック教会なくしては、聖書もなかった。

 

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アウグスティヌスの言葉を直接お聞き下さい。

2006年07月07日 | 聖アウグスティヌス

アヴェ・マリア! 初金曜日、司教証聖者聖チリロとメトディオの祝日にて


「ですから私たちの心は、あなたのうちに憩うまで、安らぎを得ることができないのです。」聖アウグスティヌス


 アウグスティヌスの言葉を直接お聞き下さい。
(日本語訳は中央公論社の世界の名著14 「アウグスティヌス」告白 山田晶訳を参考にしました。この名訳を推薦します。)


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 十九から二十八才に至る九年間、私たちは様々な情欲のままに、迷わされながら迷わし、騙されながら騙していました。
per idem tempus annorum novem, ab undevicensimo anno aetatis meae usque ad duodetricensimum, seducebamur et seducebamus, falsi atque fallentes in variis cupiditatibus, ...
AUGUSTINI CONFESSIONUM LIBER QUARTUS 4.1.1
http://www.thelatinlibrary.com/augustine/conf4.html


 この時代、私は修辞学を教えていました。・・・その年ごろ、私は一人の女性と同棲するようになっていました。・・・私が彼女一人をまもり、彼女に対して閨の真実を尽くしました。
docebam in illis annis artem rhetoricam, ... in illis annis unam habebam ... unam tamen, ei quoque servans tori fidem, ...
AUGUSTINI CONFESSIONUM LIBER QUARTUS 4.2.2


 勉学の仲間に大変親しい友人ができました。彼は私と同い年で、ともに青春の花盛りでした。・・・ 私たちの友情は、同じ勉学の熱に暖められて、まことに甘美なものになっていました。・・・ すると見よ、天主よ、あなたは友人をこの世から取り去ってしまわれたのです。それは当時の私の生活をあらゆる甘美なことに優って甘美であった友情のうちに一年を過ごすか過ごさないかの時のことです。
comparaveram amicum societate studiorum nimis carum, coaevum mihi et conflorentem flore adulescentiae.... sed tamen dulcis erat nimis, cocta fervore parilium studiorum. ... ecce abstulisti hominem de hac vita, cum vix explevisset annum in amicitia mea, suavi mihi super omnes suavitates illius vitae meae.
AUGUSTINI CONFESSIONUM LIBER QUARTUS 4.4.7



 友人は熱病に苦しんで、長い間、意識を失って死の汗を流して寝ていました。絶望と見られたので、本人の知らない間に、洗礼が授けられました。・・・友人は回復して元気になりました。そこで、枕元で、彼も一緒にそうするだろうと思いながら、彼がまったく無意識、無感覚のままで受けた洗礼のことを嘲笑しようと試みました。彼は自分が洗礼を授けられたことをもう知っていました。そして、まるで私が敵であるかのように恐れ、驚くほど思いがけないほどあけすけに、もしも友人でありたいなら自分にそう言うのは止めろと忠告しました。・・・数日後私のいない間に熱がぶり返し、亡くなってしまったのです。
cum enim laboraret ille febribus, iacuit diu sine sensu in sudore laetali et, cum desperaretur, baptizatus est nesciens... nam recreatus est et salvus factus, statimque, ... temptavi apud illum inridere, tamquam et illo inrisuro mecum baptismum quem acceperat mente atque sensu absentissimus, sed tamen iam se accepisse didicerat. at ille ita me exhorruit ut inimicum admonuitque mirabili et repentina libertate ut, si amicus esse vellem, talia sibi dicere desinerem. ... post paucos dies me absente repetitur febribus et defungitur.
AUGUSTINI CONFESSIONUM LIBER QUARTUS 4.4.8



 この悲しみによって、私の心はすっかり暗くなり、目につくものは全て死になってしまった。私にとって故郷は責め苦となり、父の家はわけのわからぬ不吉なものとなり、友人と共有していたすべてのものは、彼なき今、おそろしい苦痛に変わった。私の目は至るところに彼を捜したが、どこにも見あたらない。何もかも肉らしくなった。何故なら、どこにも彼は不在であって、何ものも私に「待て、すぐに来るから」と言うことができなかったから。
quo dolore contenebratum est cor meum, et quidquid aspiciebam mors erat. et erat mihi patria supplicium et paterna domus mira infelicitas, et quidquid cum illo communicaveram, sine illo in cruciatum immanem verterat. expetebant eum undique oculi mei, et non dabatur. et oderam omnia, quod non haberent eum, nec mihi iam dicere poterant, 'ecce veniet,'
AUGUSTINI CONFESSIONUM LIBER QUARTUS 4.4.9



 私はみじめでした。死すべきものへの友情に縛られている心は皆みじめです。このような心は、死すべきものを失うと引き裂かれます。その時悲惨を感じますが、実は失う以前から、同じように悲惨なのです。しかもその苦さのうちに安らっていました。それほど私はみじめだった。・・・生への剣をは極めてひどかったにもかかわらず、同じほどひどい死への恐怖が起こりました。私は友人を深く愛していただけに、それだけ一層彼を奪い去った死を、凶悪無残な敵でもあるかのように憎しみ恐れ、死が突然、全ての人間を滅ぼし尽くすのではないか、と思いました。死は友人を滅ぼすことができたのですから。・・・私は、他の諸々の死すべきものが生きながらえているのを不思議に思いました。何故なら、まるで死なない者のように愛していた友人は死んでしまったのですから。また第二の彼であったこの私が、彼は死んだのに生きているのを、一層不思議に思いました。友人について「自分の霊魂の半分」と言った人がありますが、うまいことをいったものです。実際、私は、自分の魂とその友人の魂とは、二つの身体の中の一つの魂だったと感じました。生がおそろしくなったのは、半分で生きるのがいやだったからであり、それにもかかわらず、死を恐れたのは、あんなに愛していた友人の全体が死なないためであったのかもしれません。

miser eram, et miser est omnis animus vinctus amicitia rerum mortalium, et dilaniatur cum eas amittit, et tunc sentit miseriam qua miser est et antequam amittat eas. sic ego eram illo tempore et flebam amarissime et requiescebam in amaritudine. ita miser eram... et taedium vivendi erat in me gravissimum et moriendi metus. credo, quo magis illum amabam, hoc magis mortem, quae mihi eum abstulerat, tamquam atrocissimam inimicam oderam et timebam, et eam repente consumpturam omnes homines putabam, quia illum potuit. ... mirabar enim ceteros mortales vivere, quia ille, quem quasi non moriturum dilexeram, mortuus erat, et me magis, quia ille alter eram, vivere illo mortuo mirabar. bene quidam dixit de amico suo: 'dimidium animae' suae. nam ego sensi animam meam et animam illius unam fuisse animam in duobus corporibus, et ideo mihi horrori erat vita, quia nolebam dimidius vivere, et ideo forte mori metuebam, ne totus ille moreretur quem multum amaveram.
AUGUSTINI CONFESSIONUM LIBER QUARTUS 4.6.11



 おお、人間を人間らしく愛することを知らない狂気よ! おお、人間の定めを節度を持ってたえることのできない愚かな人間よ! 当時の私は、まさしくそれでした。それゆえ、荒れ狂い、ため息をつき、泣き、乱れて、安息も思慮もありませんでした。まことに私は、引き裂かれ、血まみれになった魂を持ち運んでいましたが、魂は持ち運ばれるのにたえきれなくなり、私はどこに自分の魂をおいてよいやら分からなくなってしまいました。・・・楽しい森の中にも、遊びや歌の中にも、快い香りのする場所にも、盛りだくさんの宴会にも、閨の快楽にも、はては読書や詩作のうちにも、魂は憩いを見いだしませんでした。すべてのものが、光までが厭わしくなりました。友でなかったものはことごとく、嘆きと涙を除いて、不愉快で厭わしくなりました。ただ嘆きと涙のうちにのみ、いくらかの安息がありました。しかし、そこから魂が引き裂かれたとき、悲惨の大きな重荷が私の上にのしかかってきたのです。主よ、あなたに向かって魂は高められ、あなたにおいて癒されなければなりません。
o dementiam nescientem diligere homines humaniter! o stultum hominem immoderate humana patientem! quod ego tunc eram. itaque aestuabam, suspirabam, flebam, turbabar, nec requies erat nec consilium. portabam enim concisam et cruentam animam meam impatientem portari a me, et ubi eam ponerem non inveniebam. ... non in amoenis nemoribus, non in ludis atque cantibus, nec in suave olentibus locis, nec in conviviis apparatis, neque in voluptate cubilis et lecti, non denique in libris atque carminibus adquiescebat. horrebant omnia et ipsa lux, et quidquid non erat quod ille erat improbum et odiosum erat praeter gemitum et lacrimas: nam in eis solis aliquantula requies. ubi autem inde auferebatur anima mea, onerabat me grandi sarcina miseriae. ad te, domine, levanda erat et curanda,...
AUGUSTINI CONFESSIONUM LIBER QUARTUS 4.7.12

 



友情が真の友情となるのは、あなたが与え給うた聖霊によって、私たちの心に愛を注ぎ、それでもってあなたに寄りすがる人々の間の友情を固めて下さる場合に限られているのですから。
uti est vera amicitia, quia non est vera nisi cum eam tu agglutinas inter haerentes tibi caritate diffusa in cordibus nostris per spiritum sanctum, qui datus est nobis.
AUGUSTINI CONFESSIONUM LIBER QUARTUS 4.4.7

 


ここから、愛し合う友人が死ぬと、あの悲嘆と苦しみの闇が生じ、甘さが苦さに転じ、心は湿り、死者の失われた生から、生ける者たちの死がおこるのです。あなたを愛し、あなたにおいて友人を、あなたのために敵をも愛する人は幸いなるかな。まことに、失われることのない御者において万人を愛する人だけが、親しい友を一人も失わなくてもすむのです。その失われることのない御者とは、私たちの天主でなくて誰でしょう。それは天地を創り、天地を満たしたもう天主です。あなたを棄てる者だけがあなたを失います。あなたを失うものはどこに行き、どこに逃げてゆくのでしょうか。優しいあなたから去って、怒りのあなたのもとへ行くのではないでしょうか。
hinc ille luctus si quis moriatur, et tenebrae dolorum, et versa dulcedine in amaritudinem cor madidum, et ex amissa vita morientium mors viventium. beatus qui amat te et amicum in te et inimicum propter te. solus enim nullum carum amittit cui omnes in illo cari sunt qui non amittitur. et quis est iste nisi deus noster, deus, qui fecit caelum et terram et implet ea, quia implendo ea fecit ea? te nemo amittit nisi qui dimittit, et quia dimittit, quo it aut quo fugit nisi a te placido ad te iratum?
AUGUSTINI CONFESSIONUM LIBER QUARTUS 4.9.14



万軍の天主よ、我らを御身に向け給え、御顔を示し給え、されば我らは救われん。実に、人間の霊魂は、あなたに向かわない限り、どちらに向いても、他のどこにおいても、悲しみに釘付けされるだけです。例え美しいものにおいてにせよ、それがあなたの外のもの、自分の外のものである限りは。しかも、それらの美しいものも、あなたから出るのでないならば、無でありましょう。・・・必ずしもすべてのものが老いるわけではないけれど、すべてのものは滅びます。
deus virtutum, converte nos et ostende faciem tuam, et salvi erimus. nam quoquoversum se verterit anima hominis, ad dolores figitur alibi praeterquam in te, tametsi figitur in pulchris extra te et extra se. quae tamen nulla essent, nisi essent abs te. ... et non omnia senescunt, et omnia intereunt.
AUGUSTINI CONFESSIONUM LIBER QUARTUS 4.10.15

 


ですから私たちの心は、あなたのうちに憩うまで、安らぎを得ることができないのです。
quia fecisti nos ad te et inquietum est cor nostrum donec requiescat in te.
AUGUSTINI CONFESSIONUM LIBER PRIMUS 1.1.1
http://www.thelatinlibrary.com/augustine/conf1.html

 

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ですから私たちの心は、あなたのうちに憩うまで、安らぎを得ることができないのです。

2006年07月07日 | 聖アウグスティヌス

アヴェ・マリア! 初金曜日、司教証聖者聖チリロとメトディオの祝日にて



「ですから私たちの心は、あなたのうちに憩うまで、安らぎを得ることができないのです。」聖アウグスティヌス
quia fecisti nos ad te et inquietum est cor nostrum donec requiescat in te.



 以前、こんなコメントを下さった方がいました。


「自分の本当の片割れ、本当の相手に出会ったときの驚き、そして、その人を愛したときの歓びは、筆舌には尽くせません。心の底からの感謝、溢れ出す愛情…この世のすべての者がいとおしく、その存在がありがたく思えるものなのですよ。自分が本当に幸せだからこそ、当たり前のようにすべての人の幸せを願うことができます。何も努力することなく、すべての人を愛することができるのです。」


 このコメントを書いて下さった方は、実際にそう体験されたのでこう書いて下さったのだと思います。そしてそのことを私たちに教えて下さったことを感謝します。おそらくその出会いの歓びと感謝から、私たちへの愛の表現としてコメントを書いてくれたのだと思います。


 実はこれを読んで、聖アウグスティヌスを思い出しました。何故なら、彼も同じことを体験し同じように思ったことがあったからです。彼は後にそれを『告白』の中に書いています。私は、なかなかそれについて書く時間を見つけることができなかったのですが、天主の御計らいによって、今、彼の体験について兄弟姉妹の皆様にお伝えしようと思っています。


~~~~~


 当時、アウグスティヌスはまだ十六才で、故郷のタガステを離れカルタゴに遊学し、ある女性との同棲生活に入りました。十八歳のころには、彼女との間に長男アデオダトゥスをもうけています。(彼は、三十一才になって彼女と離別せざるを得なくなるまで彼女との忠実を守っています。)


 アウグスティヌスは、そのころマニ教に入信します。マニ教とは、元来、光と闇(陰と陽)との二元論をとく宗教で、善いもの、精神的なもの、霊的なものは光に属し、悪いもの、物質的なもの、肉体的なものは闇に属する、と説いていました。これはグノーシス派の変形であり、その一形態でした。またキリスト教をも取り込んで、キリストは人間の霊魂を肉体から救うためにきた「光の子」であるが、旧約聖書のヤーウェは、ユダヤ人の拝む悪魔であって、キリストとは関わりがないとし、旧約の天主と新約のキリストとは同一であるとするカトリック教会を非難していました。


 さてそんな青春の花盛りで若気に溢れるアウグスティヌスが、二十才になって学業を終え、故郷のタガステに戻り修辞学を教えだしている頃、ある友人と出会います。私にコメントをくれた方は「自分の本当の片割れ」に出会ったと言いますが、アウグスティヌスは、ホラティウスの『歌集』の表現を借りて「自分の霊魂の半分」と言った人(ホラティウスのこと)があるけれども、うまいことをいったものでだ、と言い、オウイディウスの『哀歌』を引用して、「自分の魂とその友人の魂とは、二つの身体の中の一つの魂だった」と感じたともいって、彼との友情を表現しています。


 ところが、そんな彼が突然の病に倒れ急死してしまったのです。その時、アウグスティヌスにとって彼のいない生の全てが悲しみに変わりました。この悲しみによって、心は暗くなり、目につくものは全て死になり、故郷は責め苦、家はわけのわからぬ不吉なもの、友人と共有していたすべてのものは、おそろしい苦痛に変わったのでした。


 荒れ狂い、ため息をつき、泣き、乱れて、安息も思慮もなく、引き裂かれ、血まみれになった魂を持ち運びつつ、光までが厭わしくなり、友でなかったものはことごとく、嘆きと涙を除いて、不愉快で厭わしくなったのです。彼はみじめで、心は引き裂かれ、まるで死なない者のように愛していた友人を奪った死を恐れ、「第二の彼」である自分がまだ生きているのを不思議に思い、「半分で生きるのがいや」になったので生をおそろしく思い、同時に、自分がまだ生きていることは「友人の全体が死なない」ことのように思え、死を恐れたのでした。愛し合う友人が死ぬと、悲嘆と苦しみの闇が生じ、甘さが苦さに転じ、心は湿り、死者の失われた生から、生ける者たちの死がおこる、と言います。



 そこで、後に『告白』を執筆しながら(四十三から四十六歳の間)、その時のことを思い起してアウグスティヌスは、人間を人間らしく愛する、とはそして、友情が真の友情となるのは、天主の愛が必要だ、と言います。天主を愛し、天主において友人を、天主のために敵をも愛する人は幸いなるかな、失われることのない天主において万人を愛する人だけが、親しい友を一人も失わなくてもすむ、と言います。


 苦しみにのたうち回った経験から、アウグスティヌスはこう悟りました。人間の霊魂は、天主に向かわない限り、どちらに向いても、他のどこにおいても、悲しみに釘付けされるだけだ、と。何故なら、天主以外のすべてのものは滅びるからです。私たち人間の心は、天主のうちに憩うまで、安らぎを得ることができないことを悟ったのです。


 アウグスティヌスは、イエズス・キリストが教えてくれたこの超自然の愛:「天主をすべてに超えて愛せよ、そして天主を愛するために、隣人を我が身の如く愛せよ」の秘密を悟ったのです。天主に対する愛は限りがないものだけれども、隣人に対する愛には秩序があること、隣人は私たちにとって近しい人から秩序よく、天主のために愛さなければならないことを。


 だから、アウグスティヌスは『告白』の巻頭言としてその最初に、自分の書こうとすることの総括をこう書いているのです。


「私たちの心は、あなたのうちに憩うまで、安らぎを得ることができないのです」と。


 願わくは私たちにコメントを書いて下さったこの方と私たちが、聖アウグスティヌスのように、ついには天主のうちに憩い、安らぎを得ることができますように。そして私たちが聖アウグスティヌスとともに天主にいつもこう言うことができますように。


「私たちの心は、あなたのうちに憩うまで、安らぎを得ることができないのです」と。


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総告解ってなあに

2006年07月03日 | 質問に答えて

アヴェ・マリア! 司教殉教者聖イレネオの祝日にて


 以前次のようなご質問をいただきました。回答はできたのですが、掲示版の調子が良くないようですので、なかなかお答えを書き込むことができないので、とりあえずここにお答えを貼り付けておきます。願わくは、ここに気が付いて下さるといいんだけれど・・・。
 ご理解とご容赦を願います。


【質問】
総告解ってなあに(^^A - 通りすがりがちょっと居座り (女性)

先日友人と話していて、総告解の話題になったのですが、
総告解って生まれたときから覚えている罪、つまり物心の付いたときからの罪を告解するんですか!?!?!

ちなみに、私そんなのぜんぜんしらなかったです。(汗)
確か復活祭とかクリスマスとか被昇天とかの前に洗礼を受けてから今までの総告解したことはありましたけど・・・・
たまに、洗礼受ける以前に犯した罪でも、思い出したりしたら告解してましたけど、思い出した時だけでした。



【回答】

アヴェ・マリア!

通りすがりがちょっと居座りさん、
こんにちは!


書き込みをありがとうございました。お元気ですか。
お返事が遅れてしまってごめんなさい。


 以下は「聖ピオ十世の公教要理」からの引用です。


【告解とは】
告解の秘跡とは何ですか。

 告解の秘跡は悔俊の秘跡とも呼ばれますが、洗礼の後に犯した罪をゆるすために、イエズス・キリストが制定された秘跡です。



【何を告白するのか】
告解の秘跡の質料は何ですか。

 告解の秘跡の質料は、近い質料と遠い質料の二つにわけられます。遠い質料とは、洗礼後に犯した罪であり、近い質料とは、告解者の行為、すなわち、痛悔、告白、償いのことです。

(悔悛の秘蹟が有効であるためには「洗礼後に犯した罪」を告白しなければなりません。罪を赦しを得るために必ず告白しなければならないことは、洗礼後に犯した大罪でその回数です。小罪も告白することができます。ただし小罪の告白は義務ではありません。「既に告白して赦された罪は、厳密には再び赦されることができないが、しかしながら、赦された罪を告白し直すことによって、もしもその罪科が残っていたとしたら罪を赦す秘跡的聖寵が何度も何度も与えられ得るし、罪の故に当然受けねばならない有限の罰も、もしも既に完全に赦されていなかったとしたら赦されうる。更に悔悛者は完全な赦しのより大いなる保証と聖寵を更に受ける権利を受け、全ての罪に対するより大いなる悲しみを覚えることができるようになる。」from "Moral and Pastoral Theology III" p.348 by H. Davis SJ)



【小罪だけを告解するとき】
小罪だけを告解するときも、すべての小罪を痛悔しなければなりませんか。

 小罪だけを告解するときは、小罪のうちのいくつかを痛悔すれば充分です。しかし、犯した罪すべてのゆるしを得るには、自分で犯したとわかっている罪をすべて痛悔しなければなりません。



【小罪だけの告解を確実に秘跡にするには】
小罪だけの告解を確実に秘跡にするために何をしなければなりませんか。

 小罪だけの告解を確実に秘跡にするためには、すでに告白した大罪を心から悔むのが賢明なやり方です。


【洗礼と悔悛の秘蹟との相違】
洗礼の秘跡によって犯した罪のすべての罰がゆるされるのに何故、告解の秘跡では罰の一部しかゆるされないのですか。

 洗礼の秘跡によって犯した罪のすべての罰がゆるされるのに告解の秘跡では罰の一部しかゆるされないのは、洗礼後の罪は天主の恵みを深く知りながらも、その恩を忘れて犯したので、洗礼前の罪とは比較にならないほど重大な意味をもつからです。また、告解は、犯した罪の償いを義務づけることによって、再び罪を犯さないための予防ともなります。


============引用終わり============



【総告解とは】
「総告解とは、過去の、或いは一定期間の、全ての罪の告白である。」from "Moral and Pastoral Theology III" p.386 by H. Davis SJ


【どういう時に総告解をするのか】
 私たちは総告解をする義務はありませんが、特別の機会、霊操、黙想会、堅振や叙階や婚姻の秘蹟を受ける前、修道誓願をたてる前、臨終の時などに総告解をするのが有益です。
 ただし総告解は小心の人、あまりにも心配性な人には禁止されています。


【洗礼以前の罪も告白すべきか】
 悔俊の秘跡は、洗礼の後に犯した罪をゆるすために、イエズス・キリストが制定された秘跡であり、洗礼の秘跡によって原罪及び全ての自分の犯した罪、さらには自罪のすべての罰がゆるされているので、洗礼以前の罪は告白する必要はありません。

 


【洗礼以前の罪を総告解で告白することは許されない悪いことか】
 以下は、私の個人的な考えですが、既に告白して赦された罪でも、厳密には再び赦されることができないけれども、赦された罪を告白し直すことができるなら、しかもそうすることによって多くの霊的利益を得ることができるなら、
既に洗礼を受けて赦された罪と罰とは、厳密には再び赦されることができないが、しかしながら、洗礼で赦された自罪を告白し直すことによって、全ての罪に対するより大いなる悲しみを覚えることができるようになるので、許されない悪いことではないと思われます。ですから、お友達には心配は無用だとお伝え願います。ただし、これは私の個人的な意見にすぎません。




 これでご質問にお答えできたことを祈ります。


天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


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7月3日から始まる聖ピオ十世会の「総会」の成功のためのノベナへの招待

2006年07月02日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア!

兄弟姉妹の皆様、こんにちは!

 総長であるフェレー司教様は、7月3日から始まる聖ピオ十世会の「総会」の成功のために、次のように兄弟姉妹の皆様を祈りに招いておられます。

 兄弟姉妹の皆様のノベナのお祈りをよろしくお願いします。

 「私たちは、九日間の祈り(ノベナ)と、もしもできるなら大斎の一日、という私たちの祈りと犠牲に加わって下さるように皆様を招待します。」


 このノベナは7月2日に開始し10日に終了します。



 まずヴェニ・クレアトル(Veni Creator)の祈りをします。(ヴェニ・クレアトルについてはマニラの eそよ風 (第273号)
http://immaculata.web.infoseek.co.jp/manila/manila273.html
を参考にして下さい。)


V. Emitte Spiritum tuum, et creabuntur
主よ、聖霊を遣わし給え、しかしてよろずの物は造られん。
R. Et renovabis faciem terrae.
▲地の面は新たにならん。


Oremus
Deus, qui corda fildelium Sancti Spiritus illustratione docuisti : da nobis in eodem Spiritu recta sapere, et de ejus semper consolatione gaudere, per Chrisum Dominum nostrum.
R. Amen.

祈願
聖霊の光りをもって信者の心を照らし給いし天主、同じく聖霊をもってわれらに正しきことを悟らしめ、その御慰めによりて常に喜ぶを得しめ給え。われらの主キリストによりて願い奉る。
▲アーメン。



聖母の汚れ無き御心への呼祷 (3回)

V. Cor Mariae Immaculatum
聖マリアの汚れなき聖心よ、
R. Ora pro nobis.
▲我らのために祈り給え。



聖ピオ十世に対する呼祷 (1回)

V. Sancte Pie Decime
聖ピオ十世、
R. Ora pro nobis.
▲我らのために祈り給え。



 総会のための大斎の日は7月7日金曜日です。



 聖母の汚れ無き御心よ、我らのために祈り給え!
 聖ヨゼフ、我らのために祈り給え!
 聖ピオ十世、我等のために祈り給え!
 聖フランシスコ・ザベリオ、我らのために祈り給え!


 トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

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新しいミサについての権威者のコメント

2006年07月01日 | ミサ聖祭

アヴェ・マリア! 私たちの主イエズス・キリストのいと尊き御血の祝日にて


新しいミサについての権威者のコメント


【教皇パウロ六世は、新しいミサを公布するに際してこう語る】
「その典礼は・・・・それ自体として教理的決定ではない・・・。」
(1969年11月19日パウロ六世)


(解説:新しいミサを必ずしも信じる必要はない。新しいミサは不完全でありうるし、失敗でもあり得る。)



【検邪聖省長官オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ枢機卿とは、1969年9月25日、新しいミサについてパウロ六世に次のように語る】



「新しいミサの式次第はその全体といいまたその詳細といい、トレント公会議の第22総会で宣言されたミサに関するカトリック神学から目を見張るばかりに逸脱しています。」


「聖伝からのこのように重大な逸脱を支持するような司牧上の理由は、たとえそれらの理由が仮に教義上考察した上でも正しいものだと考えられたとしても、私たちには十分だとは思われません。新しい式次第における改革を見、さらには、「永遠の価値をもつもの全てが、何らかの形であれ新しい式次第にたとえ残っていたとしても、単に隅の方に追いやられている、という事実」を見る時、キリストを信ずる民が常に信じ続けてきた真理を変えても、或いは無視しても、あたかも、カトリック信仰が永遠に結びつけられている教義の聖なる遺産に対して忠実であり続けることが出来るのではないかという考えを、(残念なことにこのような考えは既に多くの所で支配的になってしまっているのですが)すっかり確信に変えてしまうことでしょう。」



【オッタヴィアーニ枢機卿及びバッチ枢機卿は、パウロ六世に提出した新しい「ミサ司式」の批判的研究にてこう言う】


「近い将来、聖伝にかなう養成を受けずに叙階される司祭たちが「教会のしていることをする」ために新しい司式に信用しきったとしたら、彼らは有効に聖変化を執行するのだろうか?この有効性に疑いを抱くことは許されている。」


(解説:新しいミサは、その曖昧さと寛容さで、ミサの無効な執行の危険を助長している。そのために我々を天主の怒りにさらしてしまう。)


【新しいミサの共同作成者、Msgr. A. ブニーニは新しいミサが聖伝と断絶していると語る】


 変更は単に些細なものであるに留まらず、実に「根本的な刷新 ・・・ 完全な変更 ・・・ 新しい創造物 ・・・に関わる。」



【新しいミサはプロテスタント牧師が一緒に作った】


 新しいミサを作成するにあたって、六人のプロテスタント牧師(Drs.ジョージス、ジャスペル、シェパード、ケナッス、スミス、テュリアン)が協働した。



【1969年4月6日の新しいミサ典礼書の総則第7項、ミサの定義はこう言う】


「主の晩さん、またはミサは、聖なる集会の儀、すなわち"主の記念"を祝うために、キリストを代理する司祭を座長として、一つに集まった天主の民の集会である」


(解説:この定義から新しいミサは、プロテスタントのミサの定義に従って作成されたことが分かる。「万一、誰かがミサ聖祭は賛美と感謝のためのものであるとか、十字架上の祭祀の単純な記念に過ぎない・・・、と言うものがあったとすると、彼は排斥される」 [トリエント公会議] )



【ベネディクト十六世教皇はこう語る】


「第二バチカン公会議の典礼改革の各段階は、真のアジョルナメントであったかどうか、むしろそれは典礼の凡俗化でなかったかどうか、どこまで司牧的に賢明であったか、もしやその逆で、軽はずみではなかったか、じっくりと見ていきたい・・・。」(『信仰について ラッツィンガー枢機卿との対話』158ページ)


「ラッツィンガーによれば、まさに典礼の分野において ----- 専門家たちの研究にしろ、実際的適応にしろ ----- 『第二バチカン公会議の真正の憲章が言っていることと、それが理解され適用されるやり方との間の差異の最も著しい一例が確かめられる。』」(『信仰について ラッツィンガー枢機卿との対話』161ページ)


「カトリック者にとって、典礼は共通の母国であり、自分のアイデンティティの源泉そのものである。このためにも典礼は、祭式を通じて神の聖性が顕現されるのだから、"あらかじめ設定され"、"何ものにも煩わされるもの" でなければならないのである。ところが、"規則に縛られた古くさい厳格さ" と呼ばれ、"創造性" を奪うと非難された典礼に対する反発は、典礼をも "手作り" の渦の中に巻き込んで、私たちの凡庸さに見合うものにし、凡俗化した。」(『信仰について ラッツィンガー枢機卿との対話』166ページ)


 「教皇権力の典礼分野までの拡大のために、基本的に教皇は典礼に関して、特に教皇が公会議の決定に基づいて行為する場合は、全能であるかのような印象を与えています。この印象の結果は特に第2バチカン公会議後に目に見えています。それは典礼が与えられたものであって自分の思いのままに変えることの出来ることではないということが、西方カトリック者の意識の中から完全に消え失せてしまいました。しかし1870年第一バチカン公会議は教皇を絶対君主としてではなく、啓示された天主の御言葉に従順な保護者として定義したのです。教皇の権能の正当性は、とりわけ教皇が信仰を伝えると言うことに縛られています。信仰の遺産への忠実さと信仰の伝達への忠実さ典礼において特別な仕方で関わってきています。いかなる権威当局も典礼を「作り上げる」ことは出来ません。教皇ご自身は典礼の同質的な発展、典礼の完全性とその同一性の永続のための謙遜なしもべに過ぎないのです。」(『典礼の精神』)




【聖伝のミサについては聖ピオ5世教皇はこう言う】


「高位聖職者、管理職者、教会参事会員、及び他の全ての如何なる呼称で呼ばれる、在俗又は如何なる修道会員の司祭は、余によって命ぜられたものより他のやり方でミサ聖祭を捧げる事が無いように。又、何によってであろうとも(彼等が)このミサ典礼書を変更すべく強いられ、強制される事無く、又この手紙が決していつの時代でも変更されることの無く、却って〔この手紙が〕常に堅固、且つその適応範囲において有効であるように、同じく余は規定し宣言する。・・・ 故に、絶対に誰一人として、余のこの許可、規定、命令、勅令、決定、認可、許可、宣言、意志、政令及び禁止のページに背反し、或いはそれに大胆にも背く事のないように。もしも、誰かがそれを企てようと敢えてするとしたら、全能の天主〔の憤慨〕及び使徒聖ペトロとパウロの憤激をかうと言う事を覚えよ。」(1570年7月14日聖ピオ5世の大勅令『クォ・プリームム』)



【ルフェーブル大司教はこう言う】

 たとえ合法的な権威であっても、非難すべき悪しき行為を命ずることは出来ません。それが誰に対してであっても修道誓願を単なる約束に変えることを強制出来る人は存在しません。同じように、誰も私たちをしてプロテスタントや近代主義者に変わるようにすることはできません。・・・

 読者の皆さんはこんなことを言う誘惑に駆られているかもしれません。「では私たちにいったい何が出来るというのか? 私たちにこれをしろ、あれをしろ、というのは司教様なのだ。ほら、この公文書は(教会当局公認の)要理委員会が、または別の公式委員会が発表したものだ。(公式の教会の権威に抵抗しろというのか?)」
 では、信仰を失う以外に何も残っていないと言うのでしょうか? そのような対応をする権利はありません。聖パウロは私たちにこう警告しました。「私たち自身であるにせよ、天からの天使であるにせよ、私たちがあなたたちに伝えたのとはちがう福音を告げる者にはのろいあれ。」(ガラチア1:8)これが真の従順の秘訣です。

(ルフェーブル大司教の公開書簡 その18)




「私たちには確信があります。まさに、この新しいミサの典礼様式が新しい信仰を表明していると言うことを。この新しい信仰は私たちの信仰ではないこと、カトリック信仰ではないことを。この新しいミサは、新しい信仰の、近代主義者の信仰のシンボル、表現、イメージです。・・・ 新しい典礼様式は、知っているか知らないかに関わらず、カトリックの宗教とは別の概念を、ある別の宗教を前提としています。つまり、ミサ聖祭を捧げるのは、もはや司祭ではありません。それは会衆です。このことのために、全てはプログラムされています。金輪際、教会の権威に取って代わるのは、会衆です。司教たちの個人的な権力に取って代わるのは、司教団です。教区のなかの司教の権力に取って代わるのは、司祭たちが集ってつくる司祭諮問会です。今後、教会を動かすのは、数です。そして、そのことはミサのなかで明らかに表明されています。ミサでは、会衆が司祭の代わりになっているからです。それは、今では多くの司祭が会衆のない時にはもはやミサを捧げようともしないと言うところまでいっています。

 徐々に、聖なる教会のなかに、ミサに関するプロテスタントの考え方が導入されています。そして、このことは現代人の考え方に、近代主義者の考え方にぴったりなのです。全く一致しています。なぜなら、民主主義の理想が、現代人の考え方だからです。つまり、権力は会衆のうちに、権威は人間、民衆のうちにあり、天主にではない、と言うことです。これは非常にゆゆしきことです。・・・新しいミサは、この考え方を、底辺に権威があり、天主にではないと言うことをはっきりと表明しているのです。このミサは位階制度的なものではなく、民主的です。これは、非常に重大なことです。新しいミサは、新しいイデオロギーのまったき表明なのです。私たちのもっとも神聖な典礼様式によって、私たちをして現代人のイデオロギーのなかに入らせようとしているのです。そして、これが現在、教会を全て腐敗させてしまっています。なぜなら、ミサ聖祭において底辺に権力を認めるというこの考えによって、司祭職を崩壊しているからです。司祭職を崩壊しているのです。・・・

 この新しい典礼は、別のイデオロギーの作品だからです。別のイデオロギー、新しいイデオロギーの作品です。この世の考え方を身につけたら、皆を引きつけることが出来ると思ったのです。信じない人々の考え、現代人の考えを身につけたら、教会に人を、信じない人を、引きつけることが出来ると思ったのです。現代人の考えとは、リベラルで、複数の宗教を受け入れ、そして、イエズス・キリストの社会的王国を受け入れない考えです。・・・

 私たちはこの宗教を受け入れません。私たちはこの新しい宗教を受け入れません。私たちは永遠の宗教を信じるものです。私たちの宗教は、カトリックの宗教です。私たちの宗教は、現在人々の言うところの「普遍宗教」ではありません。こんなのはカトリック宗教ではありません。私たちの宗教は、このリベラルな近代主義の宗教ではありません。この新しい宗教には、それの礼拝様式、それの司祭、それの信仰、その公教要理、その聖書、エキュメニカルな聖書があります。・・・私たちはこれらのことを受け入れることが出来ないのです。私たちの信仰と矛盾するからです。・・・

 私たちは今、本当に劇的な状況にいます。私たちは、選ばなければなりません。敢えて言えば見かけ上の不従順か、あるいは私たちの信仰を捨てるかのどちらかです。ところで、教皇様は私たちに信仰を捨てるようにと命じることは出来ません。それは不可能です。ですから私たちは、信仰を捨てないことを選びます。なぜなら、そうすることによって私たちは間違うことがないからです。なぜなら、教会が2000年間教えてきたのです。教会がその間ずっと誤っていたと言うことはありえません。全くありえません。・・・

 教皇ピオ九世が教義憲章の中で、よく言ったように、教皇が聖霊を受けたのは新しい真理を作り出すためではなく、永遠の信仰において私たちを維持するためである、と。これが、第一バチカン公会議の時に教皇ピオ九世によってなされた、教皇様の定義です。

 だからこそ私たちは確信しているのです。この聖伝を維持しながら、私たちは、ペトロの後継者に対する私たちの愛と素直さと従順を表すのであると。」


(ルフェーブル大司教の説教 1976年6月29日)

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