アヴェ・マリア!
愛する兄弟姉妹の皆様、
私たちは自由について考察してきました。
ジョージ・オーウェルの「1884年」流にいうと自由とは「2+2=4」であると言うことができるのが本当の自由であるけれども、
現代のリベラルな思想家らは「2+2=5、あるいは10」ということが自由だと勘違いしているようです。
さて、第二バチカン公会議は、人間についてどのように新しく考えるようになったのか?【1】人間の尊厳としての自由、および【2】人間の思想の自由では、次のことを見ました。
カトリックの真理「人間は天主によって「天主の似姿」に従って原初の義において創造された」を、↓
聖伝は「人間は、至福直感によって天主の永遠の至福の命を得ることができる存在として創られた」と理解。
↓
第二バチカン公会議は「人間が自由であること、自由な選択によって行動すること、自然を支配すること」と理解。
また、
カトリックの真理「自律独立ということは天主の特徴である」を
↓
カトリック聖伝は「天主の似姿にふさわしい人間の尊厳は、正しく自由を使うことによってのみ維持される」と理解
↓
第二バチカン公会議は「どのような選択であれ、人間の尊厳は、人間が知識と自由な選択によって行動すること」と理解。
↓↓↓
従って、人間の尊厳とは人間の自由な選択にある。この世界の支配にある。
↓↓↓
「自由主義」「活動主義」へ。
さらに、第二バチカン公会議は、人間についてどのように新しく考えるようになったのか?その2【3】良心と人間の行為の自由では、次のことを見ました。
カトリックの真理「人間は良心によって行動を判断する」を
↓↓↓
カトリックの聖伝は「良心の形成のための基準は、客観的な道徳秩序であり、天主に秩序づけられて、天主を究極の最高の共通善として追求することにこと、これに服従することにこそ、真の幸福がある」と理解
↓↓↓
第二バチカン公会議は「人間は良心の声に聞き従うので自由であれば十分であり、地上に存在するあらゆるものの中心および頂点、あらゆる社会制度の起源、主体、目的は人間であり、人間に秩序づけられなければならない」と理解。
つまり、
カトリックの真理「自由意志があって初めて功徳を積むことができる」を
↓↓↓
カトリックの聖伝は「客観的に正しいことに服従しこれを選ぶことによって功徳を積む」と理解
↓↓↓
第二バチカン公会議は「人間を頂点にして正しいことが何かを作り上げ秩序付けることによって功徳を積む」と理解。
↓↓↓
従って、良心の自由という名前で人間は好きなことを何でもすることができる。
↓↓↓
「不道徳」へ。
さらに、
カトリックの真理「天主は完全であり、何も天主の本性や実体に何かが加えられることはない」を
↓↓↓
カトリックの聖伝は「天主の外的栄光はいや増すことができるが、内的栄光は変わらない」と理解
↓↓↓
第二バチカン公会議は「天主の外的栄光はいや増さない、全ての被造物は人間の栄光のためだけにある」と理解。
↓↓↓
従って、人間は全ての中心である。
↓↓↓
人間中心主義へ。
さらに、
カトリックの真理「人間となった天主は、真の天主であり真の人間。御托身は私たち人間のためであった」を
↓↓↓
カトリックの聖伝は「私たち人間のため、私たちの救いのため propter nostram salutem」と理解
↓↓↓
第二バチカン公会議は「純粋に人間としての人間のため、人間に人間を啓示するため」と理解。
↓↓↓
従って、キリストは人間をもっと人間とするために人間となった。
↓↓↓
人間中心主義へ。
では、私たちの視点を人間から、天主と人間との関係に動かしてみることにしましょう。
(2)第二バチカン公会議は、人間と天主との関係についてどのように新しく考えるようになったかを考えて見ます。以下、箇条書きにして見ます。
(2)人間と天主との新しい関係について
真の宗教は三位一体の天主を礼拝するが、これは私たちの主イエズス・キリストを通してなされる。私たちの主イエズス・キリストは、天主と人間とを結ぶ唯一の仲介者である。私たちの主イエズス・キリストのいけにえだけが唯一、天主聖父に嘉されるふさわしい礼拝である。この真理における私たちの主イエズス・キリストの礼拝と宗教を実践するために、全ての人々は私たちの主イエズス・キリストの啓示を信じなければならない。
そこで、
【1】第二バチカン公会議によれば啓示とは何か、啓示の伝達すわなち聖伝とは何か、啓示を信じるすわわち信仰とは何か、
【2】第二バチカン公会議によれば新しいいけにえ(=「過ぎ越しの神秘」)とは何か、
【3】第二バチカン公会議によれば、イエズス・キリストとは何か、
【4】第二バチカン公会議によれば、三位一体の天主と人間との関係はどうなるのか、
を見てみよう。
【1】第二バチカン公会議によれば啓示とは何か、啓示の伝達すわなち聖伝とは何か、啓示を信じるすわわち信仰とは何か、
【啓示とは何か】
カトリックの聖伝によると、啓示は人間の言葉によってなされた。天主からの啓示は人間の言葉で表現されている。言葉で表現された信仰箇条とカトリック教理つまり人間の言葉による諸命題は、無限の天主の神秘を全てくまなく語りつくすことはできないが、しかし私たちの霊魂の救いのために天主の神秘を知りそれを信じるのに十分なものである。
第二バチカン公会議によると、人間の言葉で表現された信仰箇条とカトリック教理は、無限の天主の神秘を語ることはできないので、天主に関する神秘のことは単なる言葉ではなく、体験によって伝えられる。言葉ではなく、天主のみことばであるキリストによって私たちに現われる。
従って、第二バチカン公会議によれば、キリストは「天主の神秘を意味する効果的なしるし」すなわち「秘跡」である。
【聖伝とは何か】
カトリックの聖伝によると、カトリック教会は、命題という手段で信仰の内容を表現し宣言するが、一度宣言した教義の意味は、いつどこでも同一の意味、同一の見解で、同質の内容で理解しなければならない。過去の教えを現代の教えで否定することはできない。
「天主が啓示した教理は,哲学的作り事や人間の知能が完成したものではなく,キリストの花嫁(教会)に与えられた天主の遺産であり,これを忠実に守り,誤ることなく解釈しなければならない。聖にして母なる教会が一度宣言した教義の意味を永久に保存しなければならない。よりよく理解するためという口実のもとに,その意味から離れてはならない(*3043)。「時代と世紀の流れとともに,各自とすべての人々の,また個人と全教会との,理解と知識と英知とが増し,また急激に発展するように。しかし,ただその正しい道において,すなわち、同一の教義,同一の意味,同一の見解において」【注:レランのヴィンセンチウス,Commonitorium primum,c.23(PL50,668A)】。 」(第一バチカン公会議 DS3020)
第二バチカン公会議によれば、啓示が人間の言葉による命題ではなされないならば、啓示の伝達すなわち「聖伝」も人間の言葉による命題ではなされない。新しい「聖伝」すなわち新聖伝とは、天主の神秘が現存している「教会」における、天主との親密な交わりの「秘跡」の延長である。また、教会も、キリストにおける「秘跡」である。
[教会憲章] 1(序文)教会はキリストにおけるいわば秘跡、すなわち神との親密な交わりと全人類一致のしるしであり道具である
従って、第二バチカン公会議によれば、新聖伝とは今でも続いている啓示であり、使徒ヨハネの死を持って啓示が閉じられたわけではないし、諸命題によって説教されるわけでもなく、使徒とその後継者に依存するわけでもない。
新聖伝は「生ける聖伝」と呼ばれ、文化的にも歴史的にも条件から影響を受け、主観的に、フィーリング的にますます深められ、自覚され、意識を変え、気づいていかなければならない。従って、「生ける聖伝」は絶えず変化しなければならない。
8(聖伝について)
この使徒たちから出る聖伝は、教会において聖霊の援助によって進歩する。実際、伝えられた事物やことばの理解は、それを心の中で思いめぐらす(ルカ 2·19 および 51参照) 信者たちの黙想と研究によって、あるいは霊的なことがらについての体験の深い理解によって、あるいはまた、司教職の継承とともに真理の確かなたまもの(カリスマ)を受けた人たちの宣教などによって、深くなる。要するに、教会は、自分に神のことばが成就するまで、時代の推移に伴って、絶えず、神的真理の充満を目ざして進むのである。
【信仰とは何か】
第二バチカン公会議によれば、信仰を知的理解する前に、まず信仰体験がある。全ての諸宗教の「信仰」は、神との親密な交わりを可能とさせる。「信仰」とは天主の神秘を体験することであり、天主の神秘との親密な交わりに入らせ、天主の神秘の「秘跡(しるし)」の意味を解釈させる。信仰箇条や信仰の命題は、この信仰体験の後に来る。
『カトリック教会の教え』では「信仰において人は事実体験をする」(『カトリック教会の教え』34ページ)と言う。
「イエスが求める信仰とは、時として考えられがちな、知性による承認といったことではなく、神のたまものに対するまったき信頼とひたすらな姿勢です。」(『カトリック教会の教え』75ページ)
キリストの復活とは何か、という問いには、「主との出会い」(『カトリック教会の教え』93ページ)であり、「単なる死者の蘇生などを意味しているのではなく、死んだイエスが新たな形で人々と出会ったこと」(『カトリック教会の教え』93ページ)、「この出会いを通して、神のいのちによって自分が変えられる経験」(『カトリック教会の教え』93ページ)である。
「キリストの死と復活にあずかる過越の秘義は、わたしたちにとって一回限りのことではありません。日々の労苦や犠牲を通してわたしたちは小さな死を体験し、それと同時に神のいのちにあずかる小さな復活を体験するのです。」(『カトリック教会の教え』99ページ)
「【聖体によって】ともに主キリストのからだにあずかることによってもたらされるいつくしみの秘跡、一致のしるし、愛のきずなであり、未来の栄光の保証が与えられる復活の祝宴でもあります。・・・聖体拝領(コムニオ)は、その聖体が食されて神の力が働き、そこに復活したキリストが現存し、人がキリストと出会うことができる、という恵みの現実を現しています。」(『カトリック教会の教え』209ページ)
「教会においてわたしたちは復活したキリストと出会うことができるのです。」(『カトリック教会の教え』167ページ)
「イエスご自身には、ただの人間、道徳の師、宗教家というだけではすまない何かが感じられ」(『カトリック教会の教え』99ページ)、私たちの主の行動やお言葉から何か神々しいものを感じ取り、体験することを教えた。
「典礼を単なる義務の対象、遵守すべき儀式ではなく、いつもわたしたちとともにいてくださる神との交わり、『ともに生きる喜び』を体験し分かつ場にしていかなければなりません」(第一回福音宣教推進全国会議課題発表に際しての司教団メッセージ)
聖書も、その意味で、信仰の体験を言葉で表したもので天主の神秘を追体験させる救いの「秘跡」となる。
新しいミサ典書では、「教会の教導職によって告げられる限りにおいての聖書」でもなく、キリストが(教会の教導職を代表する)役務者が教えるという行為の中に現存するのでもなく、仲介者を抜きにキリストご自身が現存することになっている。
「聖書が教会で朗読される時には、神ご自身がその民に語られ、キリストは、ご自身のことばのうちに現存して、福音が告げられる」(ローマ・ミサ典書総則9番)。
「聖書朗読による神のことばは、すべての時代のすべての人に向けられ、すべての人が理解できるものである」(ローマ・ミサ典書総則9番)。
では、
【2】第二バチカン公会議によれば新しいいけにえ(=「過ぎ越しの神秘」)とは何か、
【3】第二バチカン公会議によれば、イエズス・キリストとは何か、
【4】第二バチカン公会議によれば、三位一体の天主と人間との関係はどうなるのか、
などについては、後ほど考察することにします。
天主の聖母、終生童貞なる聖マリア、われらのために祈りたまえ!
聖ヨゼフ、われらのために祈りたまえ!
聖ベネディクト、われらのために祈りたまえ!
愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!
文責:トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
【関連記事】
愛する兄弟姉妹の皆様、
私たちは自由について考察してきました。
ジョージ・オーウェルの「1884年」流にいうと自由とは「2+2=4」であると言うことができるのが本当の自由であるけれども、
現代のリベラルな思想家らは「2+2=5、あるいは10」ということが自由だと勘違いしているようです。
さて、第二バチカン公会議は、人間についてどのように新しく考えるようになったのか?【1】人間の尊厳としての自由、および【2】人間の思想の自由では、次のことを見ました。
聖伝は「人間は、至福直感によって天主の永遠の至福の命を得ることができる存在として創られた」と理解。
第二バチカン公会議は「人間が自由であること、自由な選択によって行動すること、自然を支配すること」と理解。
また、
カトリック聖伝は「天主の似姿にふさわしい人間の尊厳は、正しく自由を使うことによってのみ維持される」と理解
第二バチカン公会議は「どのような選択であれ、人間の尊厳は、人間が知識と自由な選択によって行動すること」と理解。
従って、人間の尊厳とは人間の自由な選択にある。この世界の支配にある。
↓↓↓
「自由主義」「活動主義」へ。
さらに、第二バチカン公会議は、人間についてどのように新しく考えるようになったのか?その2【3】良心と人間の行為の自由では、次のことを見ました。
カトリックの聖伝は「良心の形成のための基準は、客観的な道徳秩序であり、天主に秩序づけられて、天主を究極の最高の共通善として追求することにこと、これに服従することにこそ、真の幸福がある」と理解
第二バチカン公会議は「人間は良心の声に聞き従うので自由であれば十分であり、地上に存在するあらゆるものの中心および頂点、あらゆる社会制度の起源、主体、目的は人間であり、人間に秩序づけられなければならない」と理解。
つまり、
カトリックの聖伝は「客観的に正しいことに服従しこれを選ぶことによって功徳を積む」と理解
第二バチカン公会議は「人間を頂点にして正しいことが何かを作り上げ秩序付けることによって功徳を積む」と理解。
従って、良心の自由という名前で人間は好きなことを何でもすることができる。
↓↓↓
「不道徳」へ。
さらに、
カトリックの聖伝は「天主の外的栄光はいや増すことができるが、内的栄光は変わらない」と理解
第二バチカン公会議は「天主の外的栄光はいや増さない、全ての被造物は人間の栄光のためだけにある」と理解。
従って、人間は全ての中心である。
↓↓↓
人間中心主義へ。
さらに、
カトリックの聖伝は「私たち人間のため、私たちの救いのため propter nostram salutem」と理解
第二バチカン公会議は「純粋に人間としての人間のため、人間に人間を啓示するため」と理解。
従って、キリストは人間をもっと人間とするために人間となった。
↓↓↓
人間中心主義へ。
では、私たちの視点を人間から、天主と人間との関係に動かしてみることにしましょう。
(2)第二バチカン公会議は、人間と天主との関係についてどのように新しく考えるようになったかを考えて見ます。以下、箇条書きにして見ます。
(2)人間と天主との新しい関係について
真の宗教は三位一体の天主を礼拝するが、これは私たちの主イエズス・キリストを通してなされる。私たちの主イエズス・キリストは、天主と人間とを結ぶ唯一の仲介者である。私たちの主イエズス・キリストのいけにえだけが唯一、天主聖父に嘉されるふさわしい礼拝である。この真理における私たちの主イエズス・キリストの礼拝と宗教を実践するために、全ての人々は私たちの主イエズス・キリストの啓示を信じなければならない。
そこで、
【1】第二バチカン公会議によれば啓示とは何か、啓示の伝達すわなち聖伝とは何か、啓示を信じるすわわち信仰とは何か、
【2】第二バチカン公会議によれば新しいいけにえ(=「過ぎ越しの神秘」)とは何か、
【3】第二バチカン公会議によれば、イエズス・キリストとは何か、
【4】第二バチカン公会議によれば、三位一体の天主と人間との関係はどうなるのか、
を見てみよう。
【1】第二バチカン公会議によれば啓示とは何か、啓示の伝達すわなち聖伝とは何か、啓示を信じるすわわち信仰とは何か、
【啓示とは何か】
カトリックの聖伝によると、啓示は人間の言葉によってなされた。天主からの啓示は人間の言葉で表現されている。言葉で表現された信仰箇条とカトリック教理つまり人間の言葉による諸命題は、無限の天主の神秘を全てくまなく語りつくすことはできないが、しかし私たちの霊魂の救いのために天主の神秘を知りそれを信じるのに十分なものである。
第二バチカン公会議によると、人間の言葉で表現された信仰箇条とカトリック教理は、無限の天主の神秘を語ることはできないので、天主に関する神秘のことは単なる言葉ではなく、体験によって伝えられる。言葉ではなく、天主のみことばであるキリストによって私たちに現われる。
従って、第二バチカン公会議によれば、キリストは「天主の神秘を意味する効果的なしるし」すなわち「秘跡」である。
【聖伝とは何か】
カトリックの聖伝によると、カトリック教会は、命題という手段で信仰の内容を表現し宣言するが、一度宣言した教義の意味は、いつどこでも同一の意味、同一の見解で、同質の内容で理解しなければならない。過去の教えを現代の教えで否定することはできない。
「天主が啓示した教理は,哲学的作り事や人間の知能が完成したものではなく,キリストの花嫁(教会)に与えられた天主の遺産であり,これを忠実に守り,誤ることなく解釈しなければならない。聖にして母なる教会が一度宣言した教義の意味を永久に保存しなければならない。よりよく理解するためという口実のもとに,その意味から離れてはならない(*3043)。「時代と世紀の流れとともに,各自とすべての人々の,また個人と全教会との,理解と知識と英知とが増し,また急激に発展するように。しかし,ただその正しい道において,すなわち、同一の教義,同一の意味,同一の見解において」【注:レランのヴィンセンチウス,Commonitorium primum,c.23(PL50,668A)】。 」(第一バチカン公会議 DS3020)
第二バチカン公会議によれば、啓示が人間の言葉による命題ではなされないならば、啓示の伝達すなわち「聖伝」も人間の言葉による命題ではなされない。新しい「聖伝」すなわち新聖伝とは、天主の神秘が現存している「教会」における、天主との親密な交わりの「秘跡」の延長である。また、教会も、キリストにおける「秘跡」である。
[教会憲章] 1(序文)教会はキリストにおけるいわば秘跡、すなわち神との親密な交わりと全人類一致のしるしであり道具である
従って、第二バチカン公会議によれば、新聖伝とは今でも続いている啓示であり、使徒ヨハネの死を持って啓示が閉じられたわけではないし、諸命題によって説教されるわけでもなく、使徒とその後継者に依存するわけでもない。
新聖伝は「生ける聖伝」と呼ばれ、文化的にも歴史的にも条件から影響を受け、主観的に、フィーリング的にますます深められ、自覚され、意識を変え、気づいていかなければならない。従って、「生ける聖伝」は絶えず変化しなければならない。
8(聖伝について)
この使徒たちから出る聖伝は、教会において聖霊の援助によって進歩する。実際、伝えられた事物やことばの理解は、それを心の中で思いめぐらす(ルカ 2·19 および 51参照) 信者たちの黙想と研究によって、あるいは霊的なことがらについての体験の深い理解によって、あるいはまた、司教職の継承とともに真理の確かなたまもの(カリスマ)を受けた人たちの宣教などによって、深くなる。要するに、教会は、自分に神のことばが成就するまで、時代の推移に伴って、絶えず、神的真理の充満を目ざして進むのである。
【信仰とは何か】
第二バチカン公会議によれば、信仰を知的理解する前に、まず信仰体験がある。全ての諸宗教の「信仰」は、神との親密な交わりを可能とさせる。「信仰」とは天主の神秘を体験することであり、天主の神秘との親密な交わりに入らせ、天主の神秘の「秘跡(しるし)」の意味を解釈させる。信仰箇条や信仰の命題は、この信仰体験の後に来る。
『カトリック教会の教え』では「信仰において人は事実体験をする」(『カトリック教会の教え』34ページ)と言う。
「イエスが求める信仰とは、時として考えられがちな、知性による承認といったことではなく、神のたまものに対するまったき信頼とひたすらな姿勢です。」(『カトリック教会の教え』75ページ)
キリストの復活とは何か、という問いには、「主との出会い」(『カトリック教会の教え』93ページ)であり、「単なる死者の蘇生などを意味しているのではなく、死んだイエスが新たな形で人々と出会ったこと」(『カトリック教会の教え』93ページ)、「この出会いを通して、神のいのちによって自分が変えられる経験」(『カトリック教会の教え』93ページ)である。
「キリストの死と復活にあずかる過越の秘義は、わたしたちにとって一回限りのことではありません。日々の労苦や犠牲を通してわたしたちは小さな死を体験し、それと同時に神のいのちにあずかる小さな復活を体験するのです。」(『カトリック教会の教え』99ページ)
「【聖体によって】ともに主キリストのからだにあずかることによってもたらされるいつくしみの秘跡、一致のしるし、愛のきずなであり、未来の栄光の保証が与えられる復活の祝宴でもあります。・・・聖体拝領(コムニオ)は、その聖体が食されて神の力が働き、そこに復活したキリストが現存し、人がキリストと出会うことができる、という恵みの現実を現しています。」(『カトリック教会の教え』209ページ)
「教会においてわたしたちは復活したキリストと出会うことができるのです。」(『カトリック教会の教え』167ページ)
「イエスご自身には、ただの人間、道徳の師、宗教家というだけではすまない何かが感じられ」(『カトリック教会の教え』99ページ)、私たちの主の行動やお言葉から何か神々しいものを感じ取り、体験することを教えた。
「典礼を単なる義務の対象、遵守すべき儀式ではなく、いつもわたしたちとともにいてくださる神との交わり、『ともに生きる喜び』を体験し分かつ場にしていかなければなりません」(第一回福音宣教推進全国会議課題発表に際しての司教団メッセージ)
聖書も、その意味で、信仰の体験を言葉で表したもので天主の神秘を追体験させる救いの「秘跡」となる。
新しいミサ典書では、「教会の教導職によって告げられる限りにおいての聖書」でもなく、キリストが(教会の教導職を代表する)役務者が教えるという行為の中に現存するのでもなく、仲介者を抜きにキリストご自身が現存することになっている。
「聖書が教会で朗読される時には、神ご自身がその民に語られ、キリストは、ご自身のことばのうちに現存して、福音が告げられる」(ローマ・ミサ典書総則9番)。
「聖書朗読による神のことばは、すべての時代のすべての人に向けられ、すべての人が理解できるものである」(ローマ・ミサ典書総則9番)。
では、
【2】第二バチカン公会議によれば新しいいけにえ(=「過ぎ越しの神秘」)とは何か、
【3】第二バチカン公会議によれば、イエズス・キリストとは何か、
【4】第二バチカン公会議によれば、三位一体の天主と人間との関係はどうなるのか、
などについては、後ほど考察することにします。
天主の聖母、終生童貞なる聖マリア、われらのために祈りたまえ!
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文責:トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
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- Q&A 1 何故、聖ピオ十世会は、第2バチカン公会議の批判をすることが出来るのでしょうか?第2バチカン公会議は不可謬ではないのですか?
- Q&A 2 第2バチカン公会議に関する記事を読みました。第2バチカン公会議でリベラル派の草案が審議を通過してしまったことは大変驚きました。
- Q&A 3 私は第二バチカン公会議で決定された内容を知らないし、今後勉強をしていかなければならないと思っています。聖ピオ10世会は第二バチカン公会議のどのようなところが認められないと考えているのでしょうか。
- Q&A 4 現行のミサは受け入れられないというのでしょうか?聖ピオ十世会は、現行のミサについてどう考えますか?
- Q&A 5 教皇庁の『カトリック教会のカテキズム』(1992年)の日本語訳は、今年の7月ごろにカトリック中央協議会より出版されるそうですが、…。
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