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2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

聖ピオ十世会 創立者 ルフェーブル大司教の伝記 20.7.2.真の“信仰の玄義”

2013年04月24日 | ルフェーブル大司教の伝記
真の“信仰の玄義”

  司祭は、司祭的刻印を通して、キリストのペルソナにおいて【in persona Christi】、十字架上で成し遂げられた従順と愛徳のこの犠牲をあらたにする(renouveler)権能を受ける。自分が捧げる一つ一つのミサにおいて、祭壇上で血を流さない方法でそれを捧げる。この教義は聖伝の教えであり、聖トマスを通して、またトレント公会議やピオ十二世などをとおして伝えられた。本質的に司祭は、ミサの聖なる犠牲(sacrificium)の為に、つまり“sacrum facere 【聖なる事を成す事】”の為に叙階されるのだ。司祭はミサによって定義されるのである。

  ルフェーブル大司教に拠れば、ベランジェ(Bérenger)やプロテスタントらが、御聖体の秘蹟におけるキリストの現存を否んだ後で、今度は公教要理と信心が、余りにも片方だけのやり方で聖体におけるの現存と御聖体礼拝を強調し、ミサそれ自体に対する信心が霞んでしまった。

「このことは非常に深刻です。何故ならそれは御聖体それ自体の観点を、単なる糧、霊的食事ということだけに変えてしまうからです。この新しい観点は、屠り【immolatio いけにえ(victima)を天主に捧げる行為それ自体‐訳者】、私たちの罪の償いの犠牲として自分をいけにえとして捧げる聖主イエズス・キリストのことをあまりにも考えません。そういう訳で、この真の償いの犠牲を憎むプロテスタントの儀式と酷似する「食事ミサ」なる見解に移ることが簡単に出来てしまったのです。ところで、この犠牲は極めて本質的な公教会の業であり、公教会が御聖体を授ける時、公教会は信徒たちをして、天主なる聖父に御自分を捧げ続けておられるこのいけにえ【イエズス・キリスト‐訳者】に与らせるのです。ですから、私たちはいけにえ(victima)の状態に参与するのです。(…)もし私たちがこの観点を強調しないとすれば、もはや本当にカトリックな精神を持たずなくなってしまうでしょう。(…)私たちを、聖主イエズス・キリストに結合されたいけにえ(victima)にする事、それこそキリスト教精神の全てです。つまり苦しむこと、捧げることは、カトリックの宗教において最高に美しく、最も深遠で、最高に現実的なものなのです。 」

「私たちがミサの犠牲とカルワリオの犠牲とを分離してはならないように、この秘蹟と犠牲とを分離してはならないのです。聖トマスは分離出来ないこれら2つの結合を1文に要約しました。「この聖体の秘蹟を執行することにおいて、キリストは屠られる (Ⅲ, q. 83, a. 1)。」


  ルフェーブル大司教は言う。ミサとは“御托身の理由であるカルワリオの犠牲の再現(réactualisation)、贖いを実現すること、天主に限りなく栄光を帰し、罪を犯した人類に天国の門を開く行為”である、と。

 「ミサの聖なる犠牲を研究すればする程、それは本当に途方もない玄義であると理解するのです。本当にこれは私たちの信仰の玄義です。司祭は、時に属する者ではないかのように現れ、永遠の中にほとんど入り込む人のようです。何故なら、司祭の発する言葉のどれにも永遠の価値があるからです。(…) 御ミサとは]今日、ただ単に典礼様式に従って儀式が成し遂げられたと言うことではありません。時間を超越し、天主の栄光のために、煉獄から霊魂を救い出すと共に、私たちを聖化するために、永遠の影響を持つ、永久の現実なのです。各々のミサには、実に永遠の重みがあるのです。」

 この意味で、ミサは、十字架のみならず、他の全秘蹟を通して与えられる恩寵の源泉であるとルフェーブル大司教は言明した。  

“ミサの犠牲の周りにこそ、カトリック教会は組織され、司祭職は、【キリストの‐訳者】神秘体を立てるためにこのミサの周りに生きるのだ。”



聖ピオ十世会 創立者 ルフェーブル大司教の伝記 20.7.1.司祭職博士

2013年04月23日 | ルフェーブル大司教の伝記
Ⅶ. 司祭職博士


  ルフェーブル大司教は、司祭職の原理において、すなわち御托身された聖言葉の位格(ペルソナ)において、この司祭職を観想した。彼は人となった天主の聖子についての“聖パウロの素晴らしい描写”を愛した。「目に見えぬ天主の御姿であって、全ての被造物の長子(コロサイ人1章15-17)。」聖子によって、聖子において、聖子の為に万物は創られ、聖子において万物は存在する。」
「人類の歴史における御托身した天主の現存は、あらゆるものがそれに向い、あるいはあらゆるものがそこから生ずる太陽のように、この歴史の中心以外のなにものでもあり得ない。」


  彼は位格的結合【ヒポスタシスにおける結合‐訳者】を黙想した。これは聖言葉が有する天主の位格【ペルソナ‐訳者】において人性を摂取する事を意味している。

「【天主から与えられた‐訳者】この霊魂と【聖母マリアから受けた‐訳者】この肉体とを天主から引き受けたことは、この人間に属性、権利、無比の特権、さらには仲介者、救世主、大司祭、王という、無比の敬称を与えたのだ。つまり被造物会における全ての仲介、全ての司祭職、全ての王権の一切は、聖主イエズス・キリストに固有のこれらの装飾品に与る事でしかないのだ。 」

  大司教は、聖パウロ(ヘブレオ人への手紙10章5節)に倣い、聖主が御托身それ自体によって大司祭となったのであり、その神性は、童貞マリアによる御懐胎の最初の瞬間から彼の人性を塗油した聖別の油のようなものだと教えた。

 尊敬を集めたル・ロエレック神父(Père Le Rohellec)が教えたように「それ故マリアは、最初の司祭叙階が行われた幸いなる至聖所であり(…)聖母はイエズスを、まさにその大司祭としての資格において生んだのである。」

  そこから聖なる童貞が、さらに品級の秘蹟の刻印‐聖主に固有の一致の恩寵に与る事‐によって、大司祭キリストに合わせて形作られる者たち(configurati)【司祭‐訳者】の母でもあるのだ。

  聖言葉によって摂取された聖なる霊魂を持つ私たちの聖主イエズス・キリストは、始めから成聖の恩寵と愛徳との充満で飾られ、至福直観の壮麗さで満ち溢れていたのである。聖父の礼拝に深く沈み込み、さらに愛に満ちた従順によって、人類の罪への天主の怒りを満足させる為、天主なる聖父に対して自らをいけにえとして予め捧げたのだ(ヘブレオ人への手紙10章5-10)。


聖ピオ十世会 創立者 ルフェーブル大司教の伝記 20.6.3.聖霊が大司教を捕らえる時

2013年04月22日 | ルフェーブル大司教の伝記
聖霊が大司教を捕らえる時

  しかし、説教の内容が全てではなかった。さらに説教の形式も存在するのである。ルフェーブル大司教は、聞いて理解してもらえるように話した。持ち前の声が大きくないので、彼は喜んでマイクを使った。伝えるべき事を冷静かつ単純に言い、修辞的な装飾を一切用いず彼は説教した。彼は単調ではなかった。いや、そうではない。しかし演説家が持つ声の高揚が彼にはなかった。彼の説教は、聞く者の心に訴えることはなく、感傷的なものではなかったが、むしろ知性を養い、意志を行動に招いた。

  しかしながら、意図せずして、聖霊が彼の上に降りたかのように、彼を捕らえ、彼に霊感しているように見える時、彼は、時に演説家になったのである。叙階式の説教中に司教冠を被りながら、彼は自分に伝達的な確信を感じ取った。口調はさらに活気に満ち、声は時々いっそう強くなり、指を使って強調すると共に、公教会の敵と司祭職の敵の場所に狙い撃ちするように、復讐の真理と戦いの原理を彼は発した。

  その時、この遠慮屋は大胆になり、自信にみちた控えめさに変貌したのだ。近くからより、遠くから見る彼はより強壮に見えさえした。信仰もない枢機卿との対話の時よりも、説教をする時の彼はより激しく大胆不敵であった。全く単純ではあるが、一対一で問題を話し合っている時は、配慮が彼を抑制してくれた。しかし、公然と話をしている時の彼は、遠慮する事もなく自由を感じてライオンになるのだった。

  ルフェーブル大司教は、何時も自分の説教を入念に準備した。彼はそれを書き留めたのだろうか?否。更に言えば、説教の草稿など全く残っていない。
彼は当日の典礼文を、ミサ典書あるいは司教用定式書から読み、聖福音書に目を通し、聖ヨハネや聖パウロから色々なお気に入りの引用句を集めると、自分の考えを整理した。それから、当日に及んで彼は、落ち着きと秩序を保ち、楽々とその考えを述べられた、ように見える。

 ところがある日の事、宣教師なる大司教は、ある首都で説教をしていた。旅の疲れにより、彼は記憶に穴があくのを感じた。全くの記憶の「空白状態」だ。彼は話すのを止め、不安に捕らえられた。そして汗の雫が彼の額に現れたのだ。しかし、不意に電気がショートして教会が暗闇に陥った。ヒューズが交換されるまでの時間に、説教の脈絡を思い出し、それからまるで何一つ起きなかったかのように彼は説教を終えたのである。

  ブルドゥレ(Bourdelet)神父は思い出を語っている。「彼は驚くほど明快に信仰の真理を詳細に説明して下さいました。」

 法学者のイーヴ・ピヴェール氏でさえ、ルフェーブル大司教の事を“彼が[自分の聴講者達を]説得すると言う意味での”演説家であると判断した。
「彼がお持ちだったのは賜物ですね。それは明証の賜物です。それは、裁判所において立派に使われるような弁論です。何か異論を持つことが不可能になります。彼の論のやり方の質にこそ全てがありました。」

 霊感されている時の大司教は、誰にもまねすることの出来ない言い回しを思いついた。例えば、「聖主は、天主なる唯一の人です。従って、彼は王であり、彼はそれ故に君臨しなければならないのです。その結果、彼は全てについて決定権を与えられています。」

  このような表現は、真理の聖言葉において‐in verbo veritatis‐演説する聖パウロによる“真理の言葉”に似ている。例えば「天国には、一人の仏教徒もイスラム教徒もいません。仮に誰かいたとしても、彼らは改宗していたのです。」  

 他にもこんなのがある。「聖主イエズス・キリストの神性を断言する事は、エキュメニズムを壊滅させる事であります。」

  これらは、パウロが恵まれていた“信仰の言葉”である。簡潔かつ簡明で、曖昧さの霧を打ち破り、天の高みから光を注ぐのである。このような“上智と知識”の言葉は、「ある人が自己の信仰を、敬虔な人々には分配しつつ、不信心な人々に対してはそれを守りながら、他者に伝達する」カリスマとして聖パウロと聖トマスから見做されている。

  よって、真正なカリスマを受けた人々の中にルフェーブル大司教を算入する事も出来るが、彼のカリスマは信仰の証聖者並び博士を作るカリスマであると私たちは付言しなければならない。

  そうだ、この高位聖職者は、復興の仕事にすっかり没頭していたが、ほとんど意識する事もなく、真の博士、すなわち司祭職の博士となったのである。


聖ピオ十世会 創立者 ルフェーブル大司教の伝記 20.6.2.説教師としての控えめさと大胆さ

2013年04月21日 | ルフェーブル大司教の伝記
説教師としての控えめさと大胆さ

  もう一人の新聞記者で、パリ・マッチ(Paris-Match)誌編集者ロベール・セルー(Robert Serrou)氏は、リールでのミサの折りのルフェーブル大司教の説教のスタイルを二行で略記した。

「その声は優しいが、言葉は熱烈で、痛烈だった。彼は遠慮がちで同時に大胆、そして控えめさと溢れんばかりの自信が一体となって同時に存在していた。」

 緊張した時期にはルフェーブル大司教の口からも“アルゼンチンには少なくとも秩序がある”とか“教皇が真理を造るのではない”のような痛烈な発言もまれではなかった。

 しかしながら、たいていは、教義に精通する司教の口調で、父親らしい司祭の口調で話した。堅振での説教などは、良く慣れ親しんだ表現を使うやり方を取った。それに比べて王たるキリストや諸聖人の大祝日などの祝日向けの説教では、教義を教える者として教えを説いていた。

  大司教は常に、教義を---唯一教義を---詳細に説明した。彼にとって、道徳的な倫理の適用とは、ドグマの説明から自然に流れ出るものだった:

「霊魂は、真理によって、私たちの聖主とはどなたか天主とはどのような方かに関する教えによって、照らされる必要があります。多くの場合、天主ご自身や天主の業について話すのは、比較的に稀な事です。私たちは、天主の完全さや聖三位一体について、天主なる聖主イエズス・キリストについてもっと話すように努力することが出来たでしょう。何故なら霊魂が、天主と親密になればなる程、天主に仕えることを望み、天主を傷つける事を憎むようになるからです。もしある霊魂が天主に関する知識にほんの僅かの進歩を遂げと、霊魂は感嘆し、畏怖し、身震いするでしょう。私たちは、天主に近づけは近づくほど身震いするものです。『天使らは主のみいずをほめたたえ . . . 能天使は震えおののく』とミサの【四旬節、聖十字架、聖母マリア、聖ヨゼフ、通常の‐訳者】序章 には書いてありますね。霊魂が天主の偉大さと完全さについて教えられれば教えられるほど、ますます天主を愛し、天主に仕える事を望み、さらに恐れるようになりるのです。つまり天主の聖旨に逆らう事が何と恐ろしいかを益々悟るのです。 」

  ここで再び大司教は、自分のいつもの祈りの生活である信仰の礼拝を披露したのだ。こうして彼の説教は、信仰の基礎の授与を目指した。彼は、自分の将来の司祭たちに対し、多かれ少なかれ本当らしくない個人的啓示の上に自ら行う説教の基礎を置く事に伴う危険を指摘した:

 「それは危険です!間違いなく悪魔は、霊魂を信仰の基礎から逸らして、感傷主義や、あるいは本当に信仰と聖主に基礎を置いていない信心などに引き込もうとそれを利用します。自分としては、私は何時も信仰の主要な基礎を提供しようと、神学校で‐エコンで‐いつも精一杯の事をやって来ました。」

  さらに彼はこう付け加えていった。
「証明してはいけません、宣言するのです。」

 私たちは、余りにも頻繁に証拠の提示や、護教をしようと努めるが、それは信仰などではない。信仰とは、御自分の玄義を啓示する天主を信奉する事なのである。

  もし聖主イエズス・キリストの玄義でないなら、何よりも先ず説かれるべき一体どんな玄義があるというのか?

「私たちの聖主イエズス・キリストがあるべきところにない説教など無益です。説教の目的或いは手段を欠いています。」 「私たちは自分の事を述べ伝えるのではなく、私たちの主イエズス・キリストを宣教する(2コリント人への手紙4章5節)と聖パウロは宣言する。」「イエズス・キリストが私たちの説教の中に入ってくるべきです。というのも、全ては彼に関連づけられるからです。彼は真理であり、道であり、そして生命です。ですから聖主についての言及もなく、より完全になれ、改心せよと信徒たちに要求する事は、彼らを欺く事であって、彼らがそこに達するのを可能にする道を、その彼らに示さない事なのです。『私たちは、十字架に付けられたキリストを述べ伝える』(1コリント人への手紙1章23節)のです。」

  ルフェーブル大司教が説教する倫理道徳に関して言えば、それは単なる自然倫理ではなく、恩寵の助けによって完成される超自然徳に関するキリスト教的倫理であった。

「近代の説教が持つ欠点の一つは、私たちがもはや恩寵、あるいは「私がいなければ、あなたたちには何一つ出来ない」という聖主の御言葉を信じていない事にあります。」

「時に私たちは、霊魂に対して充分な信頼をしていません。つまり霊魂が私たちの主の聖寵に助けられて、徳において成長する可能性に対する信頼が十分ではありません。全ての霊魂の中で霊的有機体の一部となる聖霊の賜物や至福八瑞、聖霊の実りについて時折私たちが話すとき、信徒たちは魅了されます。私たちがこれらの事を説く時、どれだけ多くの信徒たちが驚嘆の念に満ちて言うでしょうか。「でも、これまで誰一人として、それについて私たちに話してくれませんでした!私たちは聖霊が自分の中でその様に働いているとは知りませんでした。」


 若きローマの神学生の時、休暇の折に実家に自分が置いて来た『義人の霊魂における聖霊の内住』De l’habitation du Saint-Esprit dans les âmes justesという本を読んだ母親が、同じ喜びに満ちた驚愕を感じていたことをルフェーブル大司教は思い出していたのだ。母はマルセル宛に手紙を書いた。「どうして私たちにこんな事を教えてくれないのでしょうか?」


ルフェーブル大司教の伝記 20.6.1.死ぬほど退屈だったり魅惑的だったりする講話

2013年04月20日 | ルフェーブル大司教の伝記
Ⅵ. 講師であり説教師


死ぬほど退屈だったり魅惑的だったりする講話

  ルフェーブル大司教の霊的講話は高尚かつ彼特有のもの(sui generis)であった。キリストの有する4種の知識や、あるいは位格的結合【ヒポスタシスによる結合。聖三位一体の第二のペルソナ(イエズス・キリスト)が、聖母マリアの処女懐胎を通して人性を摂取して成し遂げた神人両性の結合‐訳者】について彼が説明する時、薄っぺらな精神の持ち主たちは密かに思った。
「でも、それは神学【の授業‐訳者】で全部勉強しましたよ!」

 彼らは大司教の理解していた具体的な応用を直ぐには理解しなかったのだ。それに比べると、聖人たちの模範を例に挙げた話が満載のバリエール神父との話しの方が、活気に満ちていて、興味をそそるように思われた。マルセル・ルフェーブルは、特殊な類の講演者に属していた。彼の話しぶりには、潤いがなかった。しかし、抽象的でもなければ、難解でもなかった。とんでもない!だが、印象的で魅力的なものを欠いていた。彼は感情に訴えることはせず、もっぱら信仰に訴えた。その結果、彼の講話はどれほど物事の本質に達する、深遠で、ひと際観想的なものとなったことか!

  厳格な論理を求め屁理屈をこねる、あるいは強い感動と熱中を強烈に求めるような神学生たちの知性にとって、大司教の黙想的な考察は、自然に従う傾向を打ち切り、論争の水準を高め、ものごとを高く天主や聖主イエズス・キリストの玄義に照準を合わさせた。この平易さこそが彼らをまごつかせたが、より一層の実りを与えたのである。

 演説者としての話振りについては、一切の身振りがない事や、目立たせたところがない控えめな声のために、彼は損をしていた。聴講者たちの注意をほとんど引かなかった。彼は自分でもそのことを認めていた。
「自分が退屈な話し手という評判を持っているのは百も承知です。」と彼は言っている。神学生たちはこの意見を面白がった。何故なら、少し現実を言い当てていたからである。

  しかしながら、多くの神学生たちにとって、ルフェーブル大司教は決して退屈させる人ではなかった。奇をてらうことのない、全くの平易さの内に、彼は日頃、自分自身が観想している事を神学生たちに観想させた。聴講者たちに彼が伝えたのは、そうとは言わずに実は正に自分の霊魂と祈りの生活だった。それは、彼らを信仰の簡素な観想に連れて行き、キリスト教の玄義に関する出来る限り全ての実用的意義を引き出すよう招いていた。

「『イエズスが肉体をとって下られたと宣言するものは皆天主から来る。』(ヨハネの第一の手紙4章2節)この聖言葉の影響は計り知れないものです。つまり、人々の間にある全ては、イエズスとその神性に関して決定されるのです。聖パウロのヘブレオ人及びコリント人への手紙では、イエズスと聖言葉との区別が一切されていません。厳密に言うなら、これが玄義です!であれば、どうしてこの方の存在が、預言者や、司祭、あるいは王でないことがあるでしょうか? 如何にして私たちのうちに天主の聖言葉が住み給うことについて、被造物が無関心でありうるのでしょうか?」

  数ヶ月後、大司教は前述の主題に戻り、ある暗黙の異論に答えた:

「私の講話はやや思弁的だと言われています!ですが、もしも私たちの主イエズス・キリストが天主であるならば、そこからあらゆる種類の影響が、その結果として、社会、個人、そして全ての事に及ぶのです。マドリッドで私が行った講話などは、全く思弁的ではありませんでした。私の講話が開始する前でさえ、通りには5千人の人々が「王たるキリスト万歳!」と表明していました。私の講話の間中、近くの通りで「アリバ・クリスト・レイ【Arriba Christo Rey! 王たるキリスト万歳!】」と叫ぶのを止めませんでした。もしキリストが王ではなければ、社会主義を通して、家族を破壊させて、悪魔がスペインに君臨してしまうでしょう。スペイン人たちは、聖主がもうスペインの王ではないと感じていますが、スペインの人々は私たちの聖主イエズス・キリストの王としての君臨という伝統をもっているのです。」

「ですから、もし私たちがこの事に確信を持っていないなら、人々が期待する事を守ると共に、主張する力を持たないでしょう。この真理が国家や家族、さらには個人の道徳に対して持つこの影響力をもって助けることが出来ないでしょう。 」


  ここで分かるように、大司教による大衆のための演説は、退屈なものでは全くなかった。さらには、彼が神学校で行う講話もまた同様であった。とりわけ大司教が、最新の出来事に関する事柄に原理を適用するときはそうだった。政治や宗教界に関する時事は、(恐らく最も理解されてもいない)信仰の最高の真理に非常に生き生きとした材料を提供してくれたのだ。

 人前では、講演者としての彼の話しぶり、つまり表現は変化に富み、イメージをよく使い、時には嘲笑的で皮肉交じりでさえあった。彼は、弁舌がさわやかなとき、あるいはメディアの人々と立ち向かうときには、強烈になった。立場を政治的に取ることによって関係を切ったり、レジスタンスの戦士としての姿を取ることで心をとらえたりすることを知っていた。かれは同時に困惑させ魅了させた。

 彼の言い回しは、巧みに自分が考え出したものだった。例えばこの聖母に関する使われたことのない描写にあるように。

「[聖母マリアは]自由主義者でもなく、近代主義者でもなく、エキュメニカルでもない。[聖母は]全ての誤謬に対してアレルギー体質であり、異端や離教に対してはましてそうだ。」

別の機会に彼は言った。

「母親というものは、自分の子供が生きたいのか、あるいは死にたいのかを決めるまで、自分の母乳を取り上げてしまうのだろうか?」

 彼は、自分自身で選択出来る年齢になるまで、洗礼を延期する司祭たちに向ってこの冷やかしを浴びせた。

  ドイツのエッセンにあるグルーガ・ホール(Grugahalle)に集まった6千人の聴衆を前にした彼は、“真理に対する敬意と同じ敬意を表して誤謬を考える”自由主義的エキュメニズムを風刺するたとえ話を語った。「今やもはや敵はなく、兄弟のみだ!もう戦う必要などない!敵意に終わりをつげよ!」 ところで、これこそまさしく第2バチカン公会議が行ったことであるという:

「2500人の医者から成る世界会議を想像してみて下さい。その会議の最終結論では、こう発表されたと考えてみて下さい。“つねに、病気と戦うなどとは、実に容認できない!きっぱりと病気を終わらせなければならない。これまで何世紀もの間、私たちは病と戦って来た。これからは、病気とは健康のことだと定めよう!病人とは健康な人だと主張しよう!医科部の必要は一切なくなる。医者は家に帰る事が出来る。病院は不必要になる。病気とは健康なのだ! 」

  聴衆は面食らってしまい、それからホールの天井を持ち上げんばかりの拍手喝采をした。メディアと新聞雑誌のアンケート調査が、大司教には“むしろ好感を持てる”と伝えたが、どうして意外なことでだろうか? 新聞記者たち自身、大司教の魅力に惹かれ、“炎の中に彼を叩き落す事”を忘れてしまい、自分たちの仕事を必ずしもいつも達成したわけではなかった。ル・フィガロ紙の“孤独な騎士”であるアンドレ・フロッサール氏は、この孤立した反順応主義における自分のライバルへの賞賛を隠しはしなかった。


聖ピオ十世会 創立者 ルフェーブル大司教の伝記 20.5.2.見せびらかさない禁欲主義者

2013年04月19日 | ルフェーブル大司教の伝記
見せびらかさない禁欲主義者

  それでは、あのダカールの大司教が有していた克己と慎み深い禁欲主義に対するブュッサール神父の賞賛を思い出してもらいたい。あるいはベルテ神父による、ローマにおけるこの模範的神学生に対する評価を想起してもらいたい。

 大司教は、エコンの廊下を素早く静かな歩調で、その眼差しを少し下に向けて歩いていた。講義室では、椅子の背もたれに寄りかかることなく、両足は揃え、合わせた両手をテーブル上に置いて、視線下向きに姿勢を伸ばして座っていた。彼の立ち居振る舞いは、堅苦しいものではなく、平和を放出する自然な天性の純真さにより特徴付けられていた。

 やって来る訪問者たちを微笑によって彼が迎えた執務の部屋は、神学校教授たちの部屋と何一つ違いはなかった。教授たちと同じ合板の本棚に、本がきちんと並べられていた。教授たちとの唯一の違いは、本の数が非常に少量で、しかもその本は慎ましい製本しかなされておらず、あるものは紙表紙のままであり、離脱を象徴していた。大司教は、聖トマス・アクイナスの神学大全、教皇の回勅などの教導権文献、辞書一冊、世界地図一冊、そして英語自習用の本L’anglais sans peine 【らくらく英語】 を手元の本棚に置いていた。別の本棚には、法律並びに神学関係の著作が、反革命及び反自由主義の著書と並んで見受けられた。

 はめ込み式の戸棚には、第2バチカン公会議の概要と公文書や、ラベル付きのフォルダーにきちんと分類された大司教の記録文書が並んでいた。その中には、神学校や修練院時代の書類や、アフリカ、チュール、ローマ、公会議の書類、さらに講演や黙想会の要点が収められていた。未来の新米歴史家らの好奇心を満足させるには十分な資料がそこにはあるのだ!

「私の死後、彼らは必要なもの全てを見出すでしょう」と彼はアンドレ・カニョンや他の親友たちに明かしていた。

  この窮屈な部屋には、せいぜい(彼が良く見上げていた)象牙の十字架像 と、サレジオの聖フランシスコが描かれた平凡な油絵の御影が、童貞マリアのイコンがあって部屋を僅かに活気づけているだけだった。

  隣り合った寝室は、率直に言って禁欲を感じさせた。固いマットレス付きの狭いベッドは、むき出しで装飾のない壁寄りに配置されていた。この壁には、無原罪の御宿りの普通の御影が掛かっていて、世を去った友人の大事な写真数枚が差し込まれていた。さらには飾り気のない十字架がその上から留めてあっただけである。

 それは、つまり、忠実な修道者とベテラン宣教師とが持つスパルタ式の厳格な清貧だった。アフリカにおいて、さらに世界中で彼が頂いた贈り物や記念品の全ては、自分の友人や家族、あるいは神学校の香部屋なり図書室なりに譲渡した。【イタリア、カンパニア州カゼルタ県の‐訳者】カゼルタでは、前教皇大使であり友人のヴィト・ロベルティ大司教が、アフリカで受けた幾つかの財宝を所有していた。しかしルフェーブル大司教はこう言った。
「本当です、沢山の物をもらっていましたが、私はもらった物をみな配ってしまいました。持っていても何の役にも立ちませんよ。私たちは天国へ何一つ持って行かないのですから!」

  彼は何も蓄えなかった。さらに、持っている本のどれ一つにも、自分の名前を書かなかった。ことは全く質素、単純だ。彼は何も所有しなかったのだ。

  修道者的であり司祭的な離脱は、彼の身につける服装にもはっきり表れていた。常に完璧に磨かれた靴が証明する通り、念入りな清潔さが保たれていた。

  大司教は、自分の息子らに同じ質素さを奨励した。
「スータンは、顔以外の一切を露出させず身体を隠してくれます。償いと慎みと、世俗からの離脱とを示す、この修道服が世俗の精神に感化されないようにしましょう。」

  ルフェーブル大司教は、さらにまた祭壇での自己放棄を実践し、自分の司祭たちにそれを要求した。

「御ミサの典礼様式は、細部に亘って完璧でなければなりません。ですから御ミサをだいたいおおよそ捧げれば良いという問題ではありません!個人的な自由な発想に余地を一切与えない事はとても重要なのです。御ミサとは、何よりも先ず公共の行為であって、個人的な信心業ではありません。【御ミサを捧げる為の‐訳者】然るべき動作をするやり方を司祭は自由に選べません。不注意であってもならず、ひけらかしであってもなりません。その両方を避けるべきです。」


聖ピオ十世会 創立者 ルフェーブル大司教の伝記 20.5.1.慎重 の徳

2013年04月18日 | ルフェーブル大司教の伝記
Ⅴ. 模範的司祭の思慮分別


慎重の徳

  賢明な人と強固な人の両側面を兼ね備えながらも、この指導者はさらに、大いなる分別を持つ司牧的熱心の司祭であり、まったく超自然的な効率性をもつ司祭でもあった。

 ある日、自分の神学生の一人が、自分の祖父の扱いにくい状態について彼に説明した。この老人は、エコンの友であり恩人でもあったが、以前から信仰を失っており、それに忠実に、彼はもはや信仰の勤めを実践していなかったのだ。ところで、今や彼は重病となり、家族は彼の救霊に懸念を抱いた。

 この若き神学生の嘆願に対して、堅振で巡回中の大司教は、老人を訪問する為に回り道をした。エコンへの帰路、大司教は断言した。

「ですが、良い心の状態でしたよ、貴方のお爺さんは!」
「大司教閣下、閣下は彼に改心についてお話にならなかったのですか? 告解をする事についてとか?」
「おお、とんでもない。」
「. . では、四終【死、私審判、天国、地獄‐訳者】についてはどうですか? 」
「おお、とんでもない、だめです、だめです。」

 その時、彼は『そんなことは特にやってはいけない!』という趣旨を頑固に示した。

 大司教は説明した。「いいですか、そんな必要はありません。そんなことをしたら、これしか得ることができなくなる危険があります。つまり、拒絶するように挑発する事です。そしてもし、不幸にも彼が滅びるとしたら、貴方は彼が受ける私審判をさらに厳しくするだけですよ。あなたはお爺さんから、冒涜と積極的な拒絶という危険を冒すかも知れませんから、そんなことは特にしてはなりません。」

 この神学生は殆ど納得出来なかったので、霊的指導者のブルク(Le Boulc’h)神父の所へ話をしに行った。ブルク神父は、彼を元気付けて、こう言った。
「もちろん、大司教様は彼の為にお祈りになったから、間違いなく貴方のお爺さんは救われるでしょう。」

 あの老人は、生来の率直さにより、ずっと前から他人に成したあらゆる悪事を償ってきていたのである。しかし、信仰は戻らなかった。人々は祈り、そして待った。最終的に、彼が昏睡状態に陥る少し前、彼の友人である一人の司祭が言った。
「彼を訪問しに行ってきます。彼に、祝福をあげますと言って、秘蹟による赦しを授けるつもりです。」
 神学的に言って、これは余り正しいやり方ではなかった。
彼は出かけて行き、最後にこの病人に向って言った。
「では、貴方に私の祝福を与えます。」
 すると司祭は思い直して、正直に言おうと決めた。
「いや、むしろ貴方に赦しを与えます!」
 こうして、彼はこの老人に赦しを与えたのだ。それから、この老人は司祭の手に接吻して言った。
「私は、この手がして下さった事に信頼します。」

 それだけだった。天主は印をお与えになったのだ。ルフェーブル大司教の祈りと賢明さは、思慮を欠いた熱意なら間違いなく失敗に終わっていただろう場面で成功を収めたのである。

 彼は、公教会が常に捜し求めている、公正かつ思慮深い司祭、つまり霊魂に秩序をもたらし、自己の霊魂と身体に秩序を保つ天主の役務者なのである。若者として、若き聖職者として、宣教師あるいは司教として、マルセル・ルフェーブルは正に、秩序を回復させる人であり、それを通して、人々とものごとに平和をもたらしたのだ。

 フリブールに結集した若者たちに向けて1969年10月15日に行われた、彼の最初の霊的講話は、このことをまったく良く表していた。
「神学校に入学する上での心構えはどうあるべきでしょうか?」と彼は尋ねた。
ルフェーブル大司教は自分でこう答えた。

「私がここに来たのは、自分の中で、原罪と世俗の精神によって秩序付けられていない異に秩序をつけて整える為。私が来たのは、あらゆる誤りを自分の精神から捨て去り、自分が無であることと、天主こそが全てであるという事を学ぶ為。天主に、聖主イエズス・キリストに従属する為です。更に私が来たのは、後日、霊魂たちに秩序を取り戻させる事が出来る様になる為です。秩序の源である第一の正義とは、先ず天主に当然与えなければならないことを返すことです。そして第二の正義とは、隣人への愛です。つまり隣人の中にある天主から来たものを愛する事であり、隣人を天主に導く為に愛する事なのです。【神学校に入学した限りは、こういう心構えを持ちなさい。】」
 
 統轄教区と教皇使節職において、また聖霊司祭修道会又は聖ピオ十世会において、マルセル・ルフェーブルがもたらした秩序とは、単なる外的な規律よりはむしろ精神的方針付けの指導を提供することによった。あらゆる秩序は、ある目的を想定しての物事の配置から生まれる。これぞ、大司教の確立した秩序である。この秩序は天主に向って定められたのだ。

  ルフェーブル大司教はまた、自分の内に、スピーク神父が描写したような、完璧な司祭の肖像を具現化した。

「天主に対する礼拝と聖なる事柄に対する尊敬に生きる深く宗教的な人、 [彼]は外面の礼節によるのと同様に、内面の高潔さと誠実さとにより群を抜いている。」

  何時であろうが何処にいようが‐霊魂を反映すると共に、この霊魂において映し出される‐肉体的・外面的態度の全ての挙動において、ルフェーブル大司教は完全に慎み深い人であった。何故なら天主への敬愛と信心に満ちていたからだ。正義と節制はマルセル・ルフェーブルにおいて協調していた。枢要徳の全ての拡がりにおいて、節制は、あらゆる事柄において適度な程度を定める判断力を与える。聖パウロは、さらにトレント公会議は 、この節制の徳が司祭特有の徳であると評している。

 スピク神父はさらに言明した。
「それ[節制]は、節度、慎み、慎重さ、さらに単純さにより構成される。従って、司祭にとって最も重要な徳の一つは思慮分別なのである。言い換えれば、品行における節度と節制に密接に結びついた判断における正しい判定と概念の正しさである。そこから聖霊の賜物の助けにより(ガラツィア人5章23節)自己の欲望及び衝動的欲求を掌握しつつ、完全に自分自身を征服した人間の節度である‘egkrateia 克己’(ティト1章8節)が生まれて来るのである。」


聖ピオ十世会 創立者 ルフェーブル大司教の伝記 20.4.3.マルセル・ルフェーブルが持つ二つの側面

2013年04月17日 | ルフェーブル大司教の伝記

マルセル・ルフェーブルが持つ二つの側面

 ところが、対話の人が本気で「硬化する」ような対面もあった。意地っ張りの反抗的な人々【esprits forts】に直面した時の彼は“反動の人”であった。  そんなとき、時には、激憤の中であるいは自分自身を説明しなければならない決まり悪さの内に、自明なことを否定してみる程断固として持論をとり続ける人は、マルセル・ルフェーブルから少しばかり激しい言葉を浴びることになった。つまりその状況下の彼は、自己の性格にあるマイナス面、あるいはむしろ、行き過ぎた頑強さを示した。

  しかしこれは珍しい出来事であった。通常の彼は非常に穏やかの人だったからである。彼は総長として6年間も聖霊司祭修道会において改革推進派の総長補佐を忍耐する事が出来た。口頭で非難して来るあの忠告者やこの修道者の長い口論に彼は動じることもなく耳を傾けたのだ。時には、ブュッサール神父の言うように、“秘密厳守を義務付けられている大司教は自己弁護など全く言うことも出来ずに、ことを‐非難や批判などを‐平然と受け忍ばなければ”ならなかった。ただし、ある日、一人の一般信徒がマルセル・ルフェーブルにどのように司祭養成をしなければならないかについて、大司教に15分に亘りに説いていた時、耐えきれずに彼の話の腰を折った。
「お聞き下さい、先生、私にはやるべき事が分かっています。貴方は自分自身の事を御心配ください。それでは、先生、今直ぐ私は貴方に退去をお願いします!」

 片意地な人々に対して、彼は議論よりはむしろ沈黙を好んだ。特に対談が長上か、又は自分よりも知識が上回る場合にはそうだった。“デコ神父の同級会”の間、彼は悪意を持って自分を非難するジョルジュ・ルクレルク(Georges Leclercq)司教を耐え、口答えしなかった。後日、弟のミシェルに説明した。「言われたことはひどいものだよ。本当だ、ぞっとする。」しかし、彼は議論しようとしなかった。彼は麻痺していたかのようだった。

 彼には、対話の相手によって第一の基本原理が拒絶される時に問題を話し合う事が如何に無益であるかを余りにも鋭く感じていた。その上、学者、あるいは高位聖職者が教義を否定する事など想像も出来ないと彼には思われた。特に、彼は権威に就く人々に対する深い敬意と、個人への大いなる尊敬、さらに隣人に対する過剰なほどの配慮を持ち合わせていた。この全ては偉大な愛徳に由来した。これは隣人への軽蔑の正反対である。

 マルセル・ルフェーブルは他者を辱めず、自分の配下の人々を傷つけないよう気を付けた。だからこそ、彼らが持つ短所を指摘するとか、あるいは彼らを一つの部署から別の部署に配属する時、彼は悩んだのだ。「彼らのある一人のために」と、彼は言った。「私は何日も夜眠れませんでした。この司祭を遠くに配属すると決定する前は、まるでダモクレスの剣【紀元前四世紀シラクサの王ディオニスィウス王が、その王位を羨む廷臣ダモクレスを自らの王座に座らせ、王位に就く者の如何に危険かつ困難極まりないかを、王座の上に細い糸に繋いで吊るした剣を見せて諭した】が私の頭上に吊るされていたかのようでした。【一人の配下の司祭に転勤命令を出すか出さないかということでさえ、ルフェーブル大司教は、この司祭のことを考えて困難と苦しみを感じていた。‐訳者】」   

 この度外れなデリケートさは、特殊な種類のものであった。何故なら、それは公衆にではなく、ただ個人的な関係においてだけ彼に影響を与えたからである。これは自分の言う言葉が、隣人に対する評価の欠如を意味するかも知れない時に生じる、見解を伝える事に伴うある種の困難だ。しかしこれはルフェーブル大司教の長上としての統治の功績と、公会議の教会の当局との忍耐強い対話の功績を全て物語っている。

 マルセル・ルフェーブルに関して賞賛に値すると思える事は、自分の信念への揺るぎない最大の確信と、他者への最大に慎重な思いやりとの間にあるこの対比、あるいはむしろ、この均衡である。この合体は、彼を非常に人間的で、信用と友情をもたらす愛嬌ある魅力的な個性を持った人にしたのだ。オカロル神父が言うように、聖伝支持に賛同しなかった多くの聖霊修道会司祭たちは、私たちにこう言った。
「おお!どれだけ私は彼に愛着があったことでしょうか!今でもそうですよ。」

 誰一人として、ルフェーブル大司教が持つ二つの側面を調和させる事など出来なかった。「閣下の優しさには厳しいものがあります。」と、あの司教聖別前にジャン・ギトンは彼に言った。他の人々は言った。「彼は傲慢だ!」

 「違います」とルイ・カロン神父は切り返し「個人的には、彼は謙遜ですよ。傲慢なのは彼の教義です。定式文句の教義こそが(…)」と弁護した。

  その通り、親愛なるカロン神父様、【ルフェーブル大司教を表現するには-訳者】とても良い定式文句だ。あなたの司教は自由主義者ではなかった。だから、in re【現実に】、そしてin modo【自分の発言、又はその実行方法のやり方において】愛徳深かったのだ。彼において、詩篇作者が言うように「憐れみと真理が出会い、正義と平和が互いに口付けした」(詩篇84章11節)のだ。

 「モーゼ以上に優しい人は誰一人存在しなかったにも拘らず、聖なる怒りにとらえられて、十戒の石板を割ったのは彼でした。優しい人が強くなると、極めて果てしなく強くなりうるのです。」

 ルフェーブル大司教に関してメルル神父が行ったこの熟考は、非常に鋭いものである。しかしながら、ルフェーブル大司教の力は、更に深くは、二十歳の時の青年期の快活な情熱に、サンタ・キアラで受けた松明の中に、マルセル・ルフェーブルを燃え尽くすその炎の中に、そしてルフェーブル大司教が伝えなければならないその炎の中にあるのだ。

 こうして、この“優しく、頑固な人”は、適度の慎みを通して、寛大な(magnanimus)巨人の背丈にまで達したのである。修道士かつ宣教師として持つ秩序付けられた熱意は、公教会に必要とされる司教の資質に適った素材を提供したのである。


聖ピオ十世会 創立者 ルフェーブル大司教の伝記 20.4.2.不屈の人間による気さくさ

2013年04月06日 | ルフェーブル大司教の伝記

不屈の人間による気さくさ

  優しさとは、精神力と密接に関連している。マルセル・ルフェーブルの優しさは周知の事実であった。それは僅かばかりの臆病さの混じった謙遜な優しさであった。彼の“小さな声”は思い違いをさせていたのだ。モルタンでもランバレネ(Lambaréné)でも、彼はブラザーだと見做された。ダカールでは、良く断言したものである。「自分は、何一つしない恥ずかしがり屋となっていたかもしれません。」ところが彼は、この断言とは正反対の人間であった、とはブュッサール神父の言葉である。

 セネガルにおいてルフェーブル大司教を訪問した弟のミシェルは、大司教が“国の統治者たち”とくつろいでいるだけではなく、後日には、貴族たちとさえくつろいでいる”しかも“自分もその流儀に精通し、楽しんでいる”とメモした。彼はこの貴族たちに対しては、自ら彼らの手の届く態度を取り、耳を傾け、窮屈であるとは決して思わず最善を尽くした。

  エコンのテーブルでは、デュビュイ神父が気が付いたことがある。
「大司教は、大公・公爵に対しても、貧しいブリキ商に対しても、まったく同じでした。全く同じように愛想良く近づきやすい方でした。私はそれを目撃しましたし、それは実に私の心を打ちました。それを見て私は大いに敬服しました。彼はいつも同じでした。しかしそれは不自然ではありませんでした。彼はまさに牧者でした。」

 彼は叙階式後の昼食の終わりになると、気の利いている、あるいはユーモアのある乾杯の掛け声に関しては彼の右に出る者はいなかった。

 至る所で、マルセル・ルフェーブルは“注目に値する、人々と接する能力がある人間的な温情”を示した。彼になら何でも話す事が出来るほど、彼には受け入れ態勢があった。モルタンでの司牧から8年後、バラ(Barras)神父はニジェール川で彼と再会した。

「なんと老けてしまったことでしょう、モンシニョール!」と、彼はうっかり口に出してしまった。大司教はそこでほほえんだ。

  この優しさと気さくさとが、彼の強固な意志力を覆い隠していた。彼が決断し計画する事は、彼の予定通りに実行されなければならなかった。彼は如何にして物事が遂行されているかに注意を払った。友人や自分の聖ピオ十世会の司祭たちと議論する際には、オカロル神父が指摘するように、彼は思っている事を驚くほど率直に発言した。そしてもしも原理に関することに触れるなら、例えば、コロンビアにおける人口過密は家族計画によって解決出来るだろうなどと提案するなら、大司教は「とんでもありません!問題外です!問題解決の原則を放棄などしてはいけません。」と反論しただろう。自分の見解を表明する時の彼には“活気と信念”が満ちていた、と回想するのは弟のミシェルである。

 しかしながら、「確固たる見解があったとしても、彼はとても穏やかにお話になりましたし、彼の声の調子は決して聞く者を傷つけるものではありませんでした。」と聖霊司祭修道会司祭のベルクラス神父(Père Berclaz)は付言している。父兄たちに対しては控えめな注意をした。「皆さんには聖ピオ十世会経営の学校があるでしょう。」彼の忠告は肯定的で、人々を個人的に叱り付けようとはしなかった。彼はキリスト教自分の見解を説明するために、文書を送付するか、父兄との会合を受け入れた 。

  それでも、マルセル・ルフェーブルは自分の考えを押し付けない術を心得ていた。彼は並外れた聞き方であり、誠実に隣人を理解しようと務めたのだ。彼は相手の意見を喜んで受け入れたし、もし結果として他者を真理に導く事が自分に出来ると思えるなら、出来る事は何であれ容認した。

 彼は神学生たちに戒めた。「信徒たちと議論する際は、愛徳深くあってください。そして無用な不寛容さを一切見せてはいけません。私たちは真理を不愉快なものにするような義務など負っていませんよ!先ず、耳を傾け、それから慎重な意見を表現することを知りましょう。」

  例えば、かつてシオンのシュヴェリ司教はエコン視察中に、“キリスト教徒の誰一人として一致に関心のない者などいないからエキュメニズムを実践しなければならない”と言う主張を大司教に何とか承認させた。おそらく大司教は、二つの「エキュメニズム」がある【他州は・他宗教の人々ともにどこか別のところに歩んでいくエキュメニズムと、他宗派及び他宗教のカトリック信仰への改宗を意味するエキュメニズム‐訳者】と応酬しただろう!

  品行に関して言えば、彼は協調的でもあった。ある日彼は、エコンで最後の福音を省略して退堂したメルル神父の後に自分のミサを捧げた。そこで、大司教も最後の福音を省いた。

「彼がきっぱりと断定的だったとしても、人には迷惑はかけまいとする非常に人間的な優しさがありました。」と、このメルル神父が批評したように、その通りなのである。

  別の機会に、義理の妹モニックの死去をちょうど耳にした彼は、故人の兄弟ザヴィエ・ルフェーブル神父と共にいた。彼はイエズス会士で、カリスマ刷新運動賛同者であった。感情をかなり露わにするルフェーブル神父が提案した。
「さあ、跪いて主に祈りましょう。私たちが集まところには天主はいらっしゃるのです!」

 大司教の弟ミシェルに拠れば、このことは、かりそめにもマルセルが好まないようなすこし熱烈なやり方で行われた。しかし、例えこの司祭の好みに合わせて、この祈りがかなり派手に行われたとしても、それは大司教にとって、祈りに対する同意の妨げにはならなかったのである。

 しかしある原理が危険にされている場合、ルフェーブル大司教は何一つ譲歩しなかった。エコンのテーブルでの大司教との会話で、あるドミニコ会司祭が思い切って言った。

「今の所、多元主義に関する無駄話が余りにも多く存在していますが、それについてペラペラしゃべる人々は、より聖伝的な概念の合法性を拒絶しています。【多元主義を認めるなら、聖伝も多元主義の一つとして認めるべきです。訳者】」
 「貴方がしている論証は全く不十分ですよ、親愛なる神父様!」と、洗練された形而上学者である大司教は答えた。
 「ですが、何故そうなのですか?」
 「真理は一つだからです。決してそう言うべきではありません。【多元主義を容認するような発言をするべきではありません。訳者】」

 それを聞いたドミニコ会神学者は、この哲学的に明白な真理の打撃によって口を閉ざしてしまった。しかし、この司祭は後日「彼は非常に親切にそう仰って下さったのです。」と付言している。


聖ピオ十世会 創立者 ルフェーブル大司教の伝記 20.4.1.“穏やかに頑固な”

2013年04月05日 | ルフェーブル大司教の伝記
Ⅳ.“穏やかに頑固な”


 深い知性と堅固な判断力を備えたマルセル・ルフェーブルには自信があった。彼の“鉄の意志”と、“莫大な活力”と、さらに何時も変わらぬ穏やかさは 、自己の能力に申し分のない均衡を与えながら、心の繊細さを欠くことのない強靭な人間の顔つきを与えた。それにも拘らず彼の人間性は分析するに値する僅かばかりの欠点を持っていた。


聖ピオ十世会 創立者 ルフェーブル大司教の伝記 20.3.1.指導者のカリスマ

2013年04月04日 | ルフェーブル大司教の伝記
Ⅲ. 指導者のカリスマ


  ルフェーブル大司教は、ある偉大な原理の為に尽したしもべだ。それは「万事をキリストに連れ戻す事」であった。それ故に彼は偉大な指導者だったのだ。さらに
「彼は偉大で美しい威厳を持ち、その面影は好意と善良さに輝いていた。彼が姿を現せば、早速強烈な感動を与えた。彼は、人を惹きつける独特な性質を持っていた。それは魅力以上の何かであった。彼は何時もこの非凡さを漂わせるオーラを、つまりこの抗しがたい個人的な力をいつも保っていた。 」

  彼の知性は直観的に諸原理にまで到達し、問題の中核を識別するに至るその能力において群を抜いており、驚くほど解りやすい言い方を駆使して、自分の説明している文書に潜む思想や、根本的誤謬を指摘した。彼はものごとや場所や出来事に関しては卓越した判断を下した。が、未来についてとなると平凡な預言者でしかなかった。彼は、鋭敏な心理学者として個人個人を熟知していた。しかし時折、協力者たちが持っていたと想定される短所、あるいは期待された資質の点では、考え違いをしないわけではなかった。

  彼は何事においても事情を知っているように心がけた。政冶一般や、宗教界の情勢、自分の修道会の諸施設の順調な管理などだ。「彼は常に見張っていた。」彼の頭脳は、新しい、矛盾さえする湧き出る豊富な着想に満ちていた。時々、大胆さにおいてとても個性的であり、エマニュエル・バラ(Emmanuel Barras)神父によれば、“非常に心が広く、ある意味で前衛的”であった。

 年齢は彼の活力を10倍にしたようであった。ダカールでは人々は気づいた。「彼には自由に使える5分間もありませんでした。」さらに、大司教総代理は不思議に思った。「彼は何でもうまくやる!どうすればそう出来るのだろうか?」
彼は実践的な事柄に心が傾いていて、“物質的問題を扱う事では並外れていた”が、これも、常に霊的事柄への奉仕のためだ。必要な資金提供やよい秩序をよりよく構築することであり、良い精神状態を保つためのものだ。モルタンの“養父”は、このようにして教義と霊的生活を伝えたのである。グラヴラン(Gravrand)神父が言うように、彼は“霊的人間であるだけではなく工場経営者”でもあった。

  “極めて優秀な創立者”である彼には、目指すべき目標と、事柄がそれに従って遂行されるべきである秩序に対する観念が備わっていた。彼は、“極めて重要な事を何一つ怠らずに、利用可能な手段によって最大の利益を得る為には十分な投資をする”という考えを持っていた。

 彼は行く先々に秩序をもたらした。修道会のカピトゥルム や、修道女達の禁域 を強調し、司祭によって享受されている司牧上の権能を明確化したり、共同の祈りにおける規則正しさを要求したり、共同生活を保護し、さらに堅振式においては望ましい秩序を確保した。ある日、チリを訪れた彼は、“事が相応しく準備されるまで”堅振の授与を拒み、何をすれば良いのか彼らに説明した。

  彼には人々や事柄への並々ならぬ影響力があった。「私は自分の司祭たちを近くで見守っています」と彼はダカールで言った。これは例え遠くマダガスカルの離れ島に離れていようともそうである、という意味だ。彼は司祭たちの使徒職の進展の情報を得て、聖霊司祭修道会総長のグリファン神父から活気ある補充兵【補充司祭‐訳者】たちを要求する術を心得ていた。「突破作戦を敢行中により、私たちには援軍が必要であります!」

  彼は、管区長や神学校の教授など、自分の配下にいる人々を信頼した。それが彼の基本原理だ。聖ピオ十世会会則の内に彼が規定した事を除けば、組織的な事柄に関して彼は押し付けがましくなかった。人々は彼に助言を求めることを知らなければならなかった。助言を求めるならば、彼は明確かつ簡潔に答えただろう。視察をしている時の彼は、観察はしても、父親譲りの過度な心遣いによって、一切質問することはなかった。そのようなことは、信頼の欠如を見せることではないだろうか?と彼は考えた。自分が好奇心に満ちているかの王に自分を見せるのを好まなかった。ある日サン・ダミアーノを訪問中、その幻視者【マンマ・ローザと呼ばれる婦人‐訳者】に挨拶に行って欲しいと彼は頼まれた。20分の間、彼は彼女のところに留まった。何があったのか? 彼に対する天からのメッセージがあったのだろうか?戻ってくるなり彼は言った。「彼女はとても親切で単純な方のようです。一緒にロザリオを唱えましたが、それだけです。何も尋ねようと思いませんでした。」

  しかしルフェーブル大司教は、意見の相違を示す事に躊躇いはなかった。例えば、聖ミカエル校に到着したこの日のように、 “ムーア人【北アフリカのモーリタニアの原住民、ベルベル族とアラブ人の混血のイスラム教民族‐訳者】のような”濃い肌色をした学校校長の司祭が、全ての木を伐採させるよう勝手に決めてしまったのだ。眼前の光景に驚いた彼は叫んだ。
「貴方という人は本当にムーア人ですね!貴方はムーア人のように振舞っています。貴方の通った後に残っているのは砂漠だけですよ。」

  彼は通常、からかいで相手の誤りを矯正した。ルフェーブル大司教以上に大胆に多くの修道院を創立した、聖ピオ十世会総長職における後継者【シュミットバーガー神父‐訳者】に対し、大司教はエコンのテーブルでこうからかった。
「うぁー!あなたは月にも支部修道院を創立してしまうかもしれませんよ!」
より個人的な落度を扱う場合、彼はよく内密に説明した。大司教は、唇の合間に舌の先端を覗かせながら、やや当惑した含み笑いをしつつ、この叱責も、さらに優しく行われるとますます相手の心に伝わった。

  大司教は、問題の解決において、素早く必要な決断を下すことの大切さを良く意識し知リ尽くしていた。彼はある悲惨な状況が“悪化”するままにしては置かなかった。時々彼は、強引に行動し、高位聖職者としての権威を行使した。 しかしながら、彼は殆どの場合、自分が完璧に考え抜いて下した断固とした決断を、大いなるデリケートさをもって、少しの臆病ささえとも言えるものをもって、明らかにした。彼は“重苦しくのし掛かる”司教ではなかったが、権威に満ちていた。「皆が彼に従いましたし、これまで誰一人として拒否しませんでした。」とビュサール神父は言う。「彼が言う事にはあ私は何時も賛成でした。」と言ってグラヴァン神父は続ける。「何故なら、私は彼が大好きでしたし、誰かが好きな時、彼のする事をしたいと思うのです。」大司教は“ビロードの手袋をつけた鉄の拳”と呼ばれた。その結果は「高い効率」だった。


ルフェーブル大司教の伝記 20.2.3.天主における私たちの叡智イエズス・キリスト

2013年04月03日 | ルフェーブル大司教の伝記
天主における私たちの叡智イエズス・キリスト

 ルフェーブル大司教は、神学生時代からすでに自分を捕らえてしまった神秘により心を奪われた。それは、彼が聖パウロや聖ルイ・マリ・グリニョン・ド・モンフォール らと共に、人となった天主の叡智をそこにおいて見出した“イエズス・キリスト、十字架に付けられたイエズス・キリスト”(コリント人への第一の手紙、2章2節)の神秘であった。

「私たちの神学は単に知性的なだけではありません。それは、一つの位格(ペルソナ)、つまり天主なる聖主イエズス・キリストを対象とするものです。それは生ける肉体を備えた神学なのです。天啓を通して教授されたものとはこの叡智なのです。私たちはこれについて4年か5年の間、あるいは私たちの一生を賭けて黙想することも出来ますが、聖主イエズス・キリストの神秘を考察し尽くすことなど決してないでしょう。キリストの天主のペルソナ【聖三位一体の第二のペルソナである聖子‐訳者】と、キリストの人間的現実の偉大なる神秘や(…)キリストの巨大な知識と愛徳。それこそが、私たちの説教しなければならない事なのです。」

  彼は神学生たちに対し、自分たちの勉強で得た知識を聖主イエズス・キリストにおいてまとめて統合するよう招いた。私たちが、全ての事柄を“聖主がその人間としての知性において理解していた如く”考察しますように!
  大司教の個人的祈りはもはや口先だけのものではなく、それは頭の中での祈りでも無かった。それは言うなれば“心の祈り”であった 。
自分の司祭の一人に彼は書いている。

「歳をとればとるほど、霊魂を変容させ、それを継続的な【天主への‐訳者】捧げ物の状態にしてくれるのはこの『心の祈り』なのだと私はますます考えるようになります。私たちの口祷と念祷の全てはこの極致に至るべきです。」 「もし観想というものが、十字架に付けられ、栄光を受けたイエズス・キリストに対する愛の眼差しであるならば、それは霊魂を天主の支配下に置き、その聖旨を成し遂げることが出来るようにしてくれるのです。」

  「偉大なる観想的な人よりも活動的な人は誰もいない。」とドノソ・コルテスは言う。この規則はマルセル・ルフェーブルにおいて真であると確かめられた。本能的に彼の統合的な信仰は、その観想から、行動の規定行動の理由を引き出した。天主の神秘を始め、罪と恩寵の重み、さらにイエズス・キリストの神秘を観想した時、マルセル・ルフェーブル曰く、「これらの全てが人生を変容させる」のだ。これらの人生を変容させる真理こそが、正に活動の根源なのである。


聖ピオ十世会 創立者 ルフェーブル大司教の伝記 20.2.2.霊的旅路

2013年04月02日 | ルフェーブル大司教の伝記
霊的旅路

  彼には、自分自身の子らに 与えることを夢見た、霊的かつ司牧的訓令集の執筆に必要な余暇など決してなかったこともあり、己が人生の夕べになって、『神学大全にみる聖トマス・アクイナスに従う霊的旅路』を彼らに贈る事で彼は満足した。ただこの神学大全だけが、それが持つ統合的な体系と宝玉のような金言にちりばめまれ、 “私たちの聖主イエズス・キリストの司祭職という遺産を救う事”を可能にすると彼には思われた。大司教が賞賛したのは聖トマスだ。しかし、近年の神学者の2名、エマヌエル神父とカルメル神父をも高く評価した。

「彼らは現代が生んだ二大霊的著述家です。彼らは深くトマス主義者であり、彼らの解き明かす霊性に堅固な基盤を与えてくれるのです。これがリベルマンのように、聖スルピスの影響を受けている他の著述家たちとの違いです。後者の著述家たちでは、感傷主義や、主意主義【voluntarism:意思的なものを知性的なものよりも上位におく立場】、あるいは平和主義に陥ってしまう危険があります。それだからこそ、聖職者たちは危機の時がやって来ると、すでに倒れる準備が出来ていた、つまり彼らには強固な霊性が不足していたのです 。」

  大司教は、聖トマスから以下の“原理と基礎”を獲得した。人間は a Deo ad Deum、つまり人間は天主に由来し、天主のために天主に向かっているのである。 人間は、究極目的でもある自己の起源に帰らなければならない。あらゆる秩序とは、必然的に究極なるものを包含する、すなわち究極である。人間は“静的ではなく動的な秩序によって” 秩序付けられている。

「諸々の事物の内に秩序を据え、それに究極を付与すること、つまりある事物は他の事物のためにあると定めること、これは至高なる知性【天主‐訳者】に固有に属しています。人間は天主に向かって定められています。人間は tendere in Deum 天主に向かわなければなりません。ですから私たちは基礎的真理に基づいた強固な霊性を人々に供給しましょう。」

  この観点から見ると、現代世界憲章【Gaudium et Spes】の公会議の教えは怪物のように思える。これは、天主ではなくて人間を、地上にあるものの「中心かつ頂点」(現代世界憲章第12節§1)とし、全ての“社会制度の原理及び究極目的”(現代世界憲章第25節§1)とした。そうではない。その正反対だ。
大司教は“愛徳の放散を実現させる[天主への]究極の帰結(finalisation)という原理こそが、私たちのあらゆる活動を動かす元になるだろう”と言明した。
そこから、「霊性における自由主義」という根本的な誤謬が、公共の秩序の中におけるのと同じように、浸入してしまった。「それは、たとえ神法を害し天主の愛の君臨を害したとしても、自由の目的と限度を無視しようとしています。」

  しかし、キリスト教的個人生活と社会は “理性的被造物の天主への帰還”に成り立ち、この帰還は単に天主の掟に対する従順の問題だけではない。恩寵もまた不可欠となるのだ。ただ単なる掟を守るだけの道徳よりももっと現実的でもっと人を高める道徳だ。超自然徳や聖霊の賜物の道徳である。霊的戦いで織り成された道徳であり、それと真っ向から対立するものとは、自然主義という最も恐るべき誤謬である、例えば、パウロ6世の自然主義なのである。

  かつてこの教皇は“現世秩序の自律”を宣言し、“この世はある意味で、自己充足している”と考えていなかっただろうか? ルフェーブル大司教はすぐさま反撃し、セペール枢機卿宛に手紙を送って、

「これは世界に関するこの不正確かつ不完全な描写」であり、超自然の秩序とは任意の選択問題ではないこと【つまり聖寵は、我々人間に必ず無ければならないこと‐訳者】を忘却し、人間本性の堕落の状態が無視されていることを抗議した。これへの答えは、ヴィヨ枢機卿が電話で伝言を送り、ルフェーブル大司教がローマを去らなければならないこと、二度と戻って来てはならないという命令だった。大司教は回答した。「私をそうさせる為に、スイス衛兵一大隊でも派遣して下さい!」

 大司教の男らしい道徳の霊的戦いはそこまでに至った。しかしながら、この戦いは、聖トマスが言うように、“我々が天主に至る為に通らなければならない小道”であるキリストなくしては不可能なのである。


聖ピオ十世会 創立者 ルフェーブル大司教の伝記 20.2.1.観想的でありながら活動的な人

2013年04月01日 | ルフェーブル大司教の伝記
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 今年はアジア管区では「ルフェーブル大司教様の年」なので、ルフェーブル大司教様の伝記を一部ご紹介します。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

Ⅱ. 観想的でありながら活動的な人


 ルフェーブル大司教は1974年に自白した。
「私は特別な啓示など受けた事など一切ありませんし、残念ながら私は神秘家ではありません。私は状況によって行動するよう動かされていたのです。」

 実践的であるルフェーブル大司教は、現実には、そう言わずとも、なによりも信仰の男だった。

 自分の中に、思慮深く直感的な深い精神の上に接ぎ木される知性の賜物の業である、観想性と活動性の双方を備えた信仰によって、彼は導かれた。ある日、グラファン司教(Mgr Graffin)と共にトゥルクワンにあるカルメル会を訪れた時、彼はそこにいる修道女たちから質問攻めにあった。グラファン司教の回答は矢の如く、間も置かずになされた。しかし、クリスティアンヌ修道女はこう言った。

「マルセルならその反対に、時間をかけて注意深く考えました。ただ彼(マルセル‐訳者)の答えには、少しばかり忍耐して待っているだけの重みがありました。」

  マルセル・ルフェーブルは祈る時に何を黙想していたのだろうか?それは全く単純に、天主を、である。少なくとも彼の人生の終わり近くにあってそうだった。それは、彼が指導した幾つかの黙想会の主題でもあり、それについて彼は自分の運転手の一人に打ち明けている。
「私が何について説教するかご存知ですか?」
「分かりません大司教様。」
「天主(彼はこの言葉を非常にゆっくりと発音された)についてです。何と広大な主題でしょうか(…)究極には全てそこにあります。(…)天主、聖三位一体に!」

  “天主様”に関するエマニュエル神父の書物は、大司教の考えでは、フィデリテール 誌上に再掲載されるだけの値打ちがあったと思われる 。彼は書いた。
「エマニュエル神父の書いたものは私を霊的喜びで満たしてくれます。私たちの信仰に関する最も重要な事柄について語る時の彼は、何と言う教義的明快さと簡素さを用いることでしょうか!」

  使徒職においてのモットーを尋ねて来る若き司祭には、ルフェーブル大司教は次の短いが意味深い言葉以外の何をも見いださなかった。

「使徒職においては、たった一つの目的を持ってください。それは私たちの保護の聖人、聖ピオ十世がお持ちだった目的『Omnia instraurare in Christo キリストにおいて全てを復興する』です。そしてこの使徒職の最中にあっては、貴方の心の深い所に、揺るぎなく観想の望みと祈りに対する望みを保ち、イエズス、マリアを通して無限に至福の聖三位一体への一致を保って下さい。」

  ルフェーブル大司教は“根本的確信”と“霊魂の根源的心構え”とに満ちていたのである。「それは天主の御前に私たちが無である事と、私たちが存在するにせよ、何かを成し遂げるにせよ、なくてはならない天主への絶えざる依存を認識する事なのである。 」私たちにおける天主の現存という考えでもあるこの考察は、「私たちを不断の礼拝状態に至らせるはずであり、この礼拝が私たちに天主の聖旨を行わせ(…)ですから、それは私たちに真の単純な霊性を持つよう強いてくれるのです。」


聖ピオ十世会創立者 ルフェーブル大司教の伝記7.6.予想外の任命

2010年08月28日 | ルフェーブル大司教の伝記
Ⅵ.予想外の任命


  ルフェーブル神父は、このより大いなる愛徳 majorem caritatemを試す機会を手に入れることになる。

 1947年6月の半ばは、7月20日から8月17日までは隠遁し、数日間は亡き母の“聖人のような霊魂をもう少しばかり知らしめる為”、彼女の伝記の概略を書き留めつつ過ごそうと計画している夏の休暇について彼は考え中であった。 ところが、一回の通話がこの計画を狂わした。
6月25日、修学院長代理のマシェ神父は彼の事務室の扉をノックすると、非常にあっさりと伝えくれた。
「神父様、貴方はダカール代牧区の長に任命されましたよ!」
直ちにルフェーブル神父はパリのル・アンセック司教に電話を入れた。
 「もしもし?」
 「もしもし、神父様ですね、私はに電話をしたかったんですよ。落ち着いてください!貴方は . . . 貴方はダカール代牧区の長に任命されました!」
(ルフェーブル神父の沈黙)
「いいですね、神父様?」
 「ダカールですって!おお!何て言う事でしょう!」
ルフェーブル神父は密かに思った。「何か予想はしていたけれども、以前はガボンについて彼らは検討していたじゃないか。今度はダカールだ。. . . イスラム教徒の縄張りのど真ん中だ. . . 誰も知人がいない。」
 ル・アンセック司教は言った。「貴方は誓願宣立された修道者ですから、従わなければいけませんよ!選択の余地はありません。ハイと言うべきです。」
 彼は「ハイ」と答えなければならなかった。この知らせを隠す必要などなかった。その結果、その夜の夕食時、朗読者が聖福音の一節を読み終えると【通常はここから霊的書籍の朗読が続く‐訳者】、そこで司祭テーブルからベルが鳴り渡った。マシェ神父が立ち上がると不安な空気が漂った。

 感激に震える声で彼が伝えた。「親愛なる友人の皆さん、親愛なる友人の皆さん。素晴らしいお知らせを私に幾つかさせて下さい。それは大いなる喜びであると共に大いなる誇りです。私たちの修学院長神父様がダカール代牧区の長に任命されました!」

 するとそこで拍手が突然湧き起こった。ルフェーブル神父は何時もの気取らない父親らしい口調で語った。確かに彼はダカールへの任命によって驚きはしたが、決して自分の義務の遂行を拒む事はなかったであろう。しかし彼はこう言い加えた。
「聖福音書にある次の聖言葉を思い出します:‘Duxerunt eum ut crucifigerent:」 この任務を突きつけられて、彼はかつて自分がこの修学院に到着した日と同じ言葉を繰り返した。
「差し上げられるものは何でも差し上げます!」



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