Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

お祈りのお願い

2011年06月30日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

明日は、私たちの主イエズス・キリストの至聖なる聖心の祝日です。7月4日に裁判があるとのことですが、聖ピオ十世会のウィリアムソン司教様のためにお祈りをお願いいたします。

至聖なる聖心よ、我らを憐れみ給え!

聖母の汚れなき御心よ、我らを憐れみ給え!我らのために祈り給え!

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!!



トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

基本的なカトリックの祈りを英語で何と唱えるかご紹介します

2011年06月30日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 基本的なカトリックの祈りを英語で何と唱えるかご紹介します。天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

十字架のしるし:

聖父(ちち)と聖子(こ)と聖霊(せいれい)との御名(みな)によりて。アーメン。

SIGN OF THE CROSS

In the Name of the Father, and of the Son,
and of the Holy Ghost, Amen.

主祷文:天にましますわれらの父よ、願わくは御名(みな)の尊まれんことを、御国(みくに)の来らんことを、御旨(みむね)の天に行わるる如く地にも行われんことを。*われらの日用の糧を、今日(こんにち)われらに与え給え。われらが人に赦す如く、われらの罪を赦し給え。われらを試みに引き給わざれ、われらを悪より救い給え。アーメン。

OUR FATHER

Our Father, Who art in Heaven, hallowed be Thy Name. Thy Kingdom come. Thy Will be done, on earth, as it is in Heaven. Give us this day our daily bread and forgive us our trespasses as we forgive those who trespass against us; and lead us not into temptation, but deliver us from evil. Amen.

天使祝詞:めでたし、聖寵(せいちょう)充ち満てるマリア、主御身と共にまします。御身は女のうちにて祝せられ、御胎内の御子イエズスも祝せられ給う。 *天主の御母(おんはは)聖マリア、罪人(つみびと)なるわれらのために、今も臨終の時も祈り給え。アーメン。

HAIL MARY

Hail Mary, full of grace, the Lord is with thee.
Blessed art thou among women, and blessed is the fruit of thy womb, Jesus.
Holy Mary, Mother of God, pray for us sinners, now, and at the hour of our death. Amen.

栄唱:願わくは、聖父と聖子と聖霊とに栄えあらんことを。*始めにありし如く、今もいつも世々にいたるまで。アーメン。

GLORY BE

Glory be to the Father, and to the Son, and to the Holy Spirit, as it was in the beginning, is now, and ever shall be, world without end. Amen.

使徒信経:われは、天地の創造主、全能の父なる天主を信じ、またその御独り子、われらの主イエズス・キリスト、すなわち、聖霊によりて宿り、童貞マリアより生まれ、ポンシオ・ピラトの管下(かんか)にて苦しみを受け、十字架に付けられ、死して葬られ、古聖所(こせいしょ)に降りて三日目に死者のうちよりよみがえり、天に昇りて全能の父なる天主の右に坐し、かしこより生ける人と死せる人とを裁かんために来り給う主を信じ奉る。*われは聖霊、聖なる公教会、諸聖人の通功、罪の赦し、肉身のよみがえり、終わりなき命を信じ奉る。アーメン。

APOSTLES CREED

I believe in God the Father Almighty, Creator of Heaven and earth,
and in Jesus Christ, His only Son, our Lord, Who was conceived by the Holy Ghost, born of the Virgin Mary, suffered under Pontius Pilate, was crucified, died, and was buried.
He descended into Hell; the third day He arose again from the dead;
He ascended into Heaven and is seated at the right hand of God the Father Almighty, from thence He shall come to judge the living and the dead.
I believe in the Holy Ghost, the Holy Catholic Church, the Communion of Saints, the forgiveness of sins, the resurrection of the body, and life everlasting. Amen.


信徳唱:真理の源なる天主、*主は誤りなき御者にましますが故に、われは主が公教会に垂れて、われらに諭し給える教えを、ことごとく信じ奉る。

ACT OF FAITH

O MY GOD, I firmly believe that Thou art one God in Three Divine Persons, Father, Son and Holy Ghost. I believe that Thy Divine Son became Man, and died for our sins, and that He will come to judge the living and the dead. I believe these and all the truths which the Holy Catholic Church teaches, because Thou hast revealed them, Who canst neither deceive nor be deceived.

望徳唱:恵みの源なる天主、*主は約束を違えざる御者にましますが故に、救世主イエズス・キリストの御功徳によりて、その御約束の如く、われに終わりなき命と、これを得べき聖寵とを、必ず与え給わんことを望み奉る。

ACT OF HOPE

O MY GOD, relying on Thy almighty power and infinite mercy and promises, I hope to obtain pardon of my sins, the help of Thy grace, and Life Everlasting, through the merits of Jesus Christ, my Lord and Redeemer.

愛徳唱:愛の源なる天主、*主は限りなく愛すべき御者にましますが故に、われ、心を尽くし力を尽くして、深く主を愛し奉る。また主を愛するがために、人をもわが身の如く愛せんことを努め奉る。

ACT OF CHARITY

O MY GOD, I love Thee above all things, with my whole heart and soul, because Thou art all-good and worthy of all love. I love my neighbor as myself for the love of Thee. I forgive all who have injured me, and ask pardon of all whom I have injured.


痛悔の祈:ああ天主、われ、主の限りなくきらい給う罪をもって、限りなく愛すべき御父に背きしを深く悔み奉る。御子イエズス・キリストの流し給える御血(おんち)の功徳(くどく)によりて、わが罪を赦し給え。聖寵の助けをもって今より心を改め、再び罪を犯して、御心(みこころ)に背くことあるまじと決心し奉る。アーメン。

ACT OF CONTRITION

O MY GOD, I am heartily sorry for having offended Thee, and I detest all my sins because I dread the loss of Heaven and the pains of Hell; but most of all because they offend Thee, my God, Who art all-good and deserving of all my love. I firmly resolve, with the help of Thy grace, to confess my sins, to do penance, and to amend my life. Amen.


朝の祈:
三つのペルソナにましますいとも尊き唯一の天主、*今主のここにいますことを信じ、謹み敬いて礼拝し、主の無上なる御霊威に対して、尽すべき尊敬を献げ奉る。

Morning Prayers
Most holy and adorable Trinity, one God in three Persons, I believe that Thou art here present; I adore Thee with the deepest humility, and render to Thee, with my whole heart, the homage which is due to Thy sovereign majesty.


主の今までわれに賜いしもろもろの御恵みを感謝し奉る。*わが生きながらえて今日にいたれるは、ひとえに主の賜物なれば、この日もまた主に仕え、わがすべての思い、言葉、行い、苦楽を主に献げ奉る。願わくは、何事も主を愛する精神をもってなさしめ、一に主の御栄えとならしむるよう、聖寵を垂れ給え。

O my God, I most humbly thank Thee for all the favors Thou hast bestowed upon me to the present moment. I give Thee thanks from the depth of my heart (that Thou hast created me after Thine own image and likeness, that Thou hast redeemed me by the precious blood of Thy dear Son, and) that Thou hast preserved me and brought me safe to the beginning of another day. I offer to Thee, O Lord, my whole being, and in particular all my thoughts, words, actions and sufferings of this day. I consecrate them all to the glory of Thy name, beseeching Thee that through the merits of Jesus Christ, my Savior, they may all find acceptance in Thy sight. May Thy divine love animate them, and may they all tend to Thy greater glory.

崇むべきイエズス、*主はわれらの達せんと努むべき、完徳の鑑みにましませば、われひたすら主にならい、柔和、けんそん、貞操、熱心、堪忍、慈しみなどを体し、ことに今までしばしば犯したる罪を、今日再び犯さざらんことを努め、これを改むるに力を尽さんと決心し奉る。

Adorable Jesus, my Savior and Master, model of all perfection, I resolve and will endeavor, this day, to imitate Thine example, to be, like Thee, mild, humble, chaste, zealous, charitable and resigned. I will redouble my efforts that I may not fall, this day, into any of those sins which I have heretofore committed (especially), and which I sincerely desire to forsake.

主はわが弱きを知り給う。聖寵によらざれば何事もかなわざるが故に、必要に応じてこれを施し給え。*主の戒め給うすべての悪を避け、命じ給う善を行い、御摂理によりて、われに与え給う数々の苦しみを甘んじて堪え忍ぶ力を授け給え。

O my God, Thou knowest my poverty and weakness, and that I am unable to do anything good without Thee; deny me not, O God, the help of Thy grace; proportion it to my necessities; give me strength to avoid everything which thou forbiddest, and to practice the good which Thou hast commanded; and enable me to bear patiently all the trials which it may please Thee to send me.

天主の御母にましまして、またわが母なる童貞聖マリア、われ御手によりすがりて御保護を願い、ひとえに御あわれみを請い奉る。*慈しみ深き御母、わが危うき時には助けとなり、苦しむ時には慰めとなり、今日、毎日、ことに臨終の時、天主なる御子の御前にて、わがために代祷者となり給え。

O holy Virgin, Mother of God, my Mother and Patroness, I place myself under Thy protection; I throw myself with confidence into the arms of Thy compassion. Be to me, O Mother of mercy, my refuge in distress, my consolation under suffering, my advocate with thy adorable Son, now and at the hour of my death. Amen.

[O faithful Guardian and Father of Virgins, Blessed Joseph, to whom was confided the care of Jesus, and of Mary the Queen of Virgins, I most humbly ask Thee, by the love with which Thou dost bear Jesus and Mary, to obtain for me that, being preserved from every stain during my whole life, I may ever be able to serve them with unspotted purity of mind and body. Amen.]

忠実にして、親愛なるわが守護の天使、*われを照らし、主の御おきてに反(そむ)かざるようわが歩みを導き給え。

Angel of God, my guardian dear,
to whom God's love commits me here,
ever this day, be at my side
to light and guard, to rule and guide.

わが霊名の聖人、*地においては、御身にならいて天主を愛し、天においては、共に終りなく天主を讃美するを得んために、われを守り、かつわがために祈り給え。

O great Saint, whose name it is my honor to bear, protect me and pray for me, so that, like Thee, I may serve God faithfully on earth, and glorify Him eternally with Thee in heaven. Amen.



2011年のシャルトル・パリの巡礼の動画の続きをご紹介します。

2011年06月29日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 2011年のシャルトル・パリの巡礼の動画の続きをご紹介します。





天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

アメリカのウィノナにある聖トマス・アクイナス神学校で行われた司祭叙階式の写真をご紹介します

2011年06月29日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様

使徒聖ペトロと聖パウロの祝日のお慶びを申し上げます。

2011年6月17日に、アメリカのウィノナにある聖トマス・アクイナス神学校で行われた司祭叙階式の写真をご紹介します。

5名の新司祭と11名の助祭がフェレー司教様によって叙階されました。愛する兄弟姉妹の皆様のお祈りをお願いいたします。

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


17 juin 2011 Séminaire Saint Thomas d’Aquin, Winona
Cinq ordinations sacerdotales et 11 diaconales par S.E.R. Mgr Fellay


2011年6月17日に、アメリカのウィノナにある聖ピオ十世会聖トマス・アクイナス神学校で行われた司祭叙階式

2011年6月17日に、アメリカのウィノナにある聖ピオ十世会聖トマス・アクイナス神学校で行われた司祭叙階式

2011年6月17日に、アメリカのウィノナにある聖ピオ十世会聖トマス・アクイナス神学校で行われた司祭叙階式

2011年6月17日に、アメリカのウィノナにある聖ピオ十世会聖トマス・アクイナス神学校で行われた司祭叙階式

2011年6月17日に、アメリカのウィノナにある聖ピオ十世会聖トマス・アクイナス神学校で行われた司祭叙階式

2011年6月17日に、アメリカのウィノナにある聖ピオ十世会聖トマス・アクイナス神学校で行われた司祭叙階式

2011年6月17日に、アメリカのウィノナにある聖ピオ十世会聖トマス・アクイナス神学校で行われた司祭叙階式

2011年6月17日に、アメリカのウィノナにある聖ピオ十世会聖トマス・アクイナス神学校で行われた司祭叙階式

2011年6月17日に、アメリカのウィノナにある聖ピオ十世会聖トマス・アクイナス神学校で行われた司祭叙階式

2011年6月17日に、アメリカのウィノナにある聖ピオ十世会聖トマス・アクイナス神学校で行われた司祭叙階式

2011年6月17日に、アメリカのウィノナにある聖ピオ十世会聖トマス・アクイナス神学校で行われた司祭叙階式

2011年6月17日に、アメリカのウィノナにある聖ピオ十世会聖トマス・アクイナス神学校で行われた司祭叙階式

2011年6月17日に、アメリカのウィノナにある聖ピオ十世会聖トマス・アクイナス神学校で行われた司祭叙階式

2011年6月17日に、アメリカのウィノナにある聖ピオ十世会聖トマス・アクイナス神学校で行われた司祭叙階式



【参考資料】ラテン語ミサの侍者は男子のみ バチカン

2011年06月22日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、お元気ですか?

 参考資料です。

 【CJC=東京】バチカン(ローマ教皇庁)・エクレジア・デイ委員会(委員長=ウィリアム・ジョゼフ・レヴェイダ枢機卿)は、教皇ベネディクト16世が特例として執行を承認した、旧来のラテン語による「特別形式のミサ」では、少女が侍者として奉仕することは許されないことを明らかにした。

 第2バチカン公会議の精神に従って1970年以降、新たに定められた各国語によるミサが行われるようになった。女性の祭壇奉仕許可は1984年の典礼秘跡省の回状で出されている。

 教皇ベネディクト16世は2007年7月7日に自発教令『スンモールム・ポンティフィクム』で、各教区において司教が、信徒の要望があった時に旧来のラテン語によるミサを許可する権限を与えた。62年のミサ典礼書注記では、ミサの際に女性が祭壇に立つことは許されていないことから、今回の指示になったと見られる。・・・

 ラテン語のミサを推進している『ラテン・ミサ協会』の報道担当は、今回の指示が「重要」であり、全司教は回文に述べられていることに沿って行動すべきだ、と語った。

【関連記事】

アメリカのサンタ・フェにある有名な聖ヨゼフの階段の動画を紹介します

2011年06月22日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア!


愛する兄弟姉妹の皆様、

 アメリカのサンタ・フェにある有名な聖ヨゼフの階段の動画を紹介します。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


アメリカのサンタ・フェにある有名な聖ヨゼフの階段







アメリカのサンタ・フェにある有名な聖ヨゼフの階段

アメリカのサンタ・フェにある有名な聖ヨゼフの階段


アメリカのサンタ・フェにある有名な聖ヨゼフの階段

アメリカのサンタ・フェにある有名な聖ヨゼフの階段



【関連記事】
聖ヨゼフの階段(アメリカのニューメキシコ、サンタ・フェにあるロレット・チャペル)についてご紹介します

ふと思ったこと

2011年06月20日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 今日は、フィリピンでは、革命家のホセ・リサルの生誕150年ということで、祝日になりました。インターネットは未だに繋がりません。(+_+)


 6月には、ほぼ半年ぶりに日本の通常のミッションに参りました。その時、飛行機の中で、色々なことを思いました。


 マニラ発の飛行機は、知らない間に機体がハイテクになっていました。オン・ドマンドの個人スクリーンがエコノミークラスの全席に付いていました。


 私は普通は、映画は見ないのですが、韓国映画は韓国語の勉強のために観ることがあります。但し、よっぽどくだらない時や、アホくさい時は、見続けるのができませんけれど。

 ところで、今回は何と、韓国映画と日本の映画を観ることになりました。韓国の映画は、心臓移植をテーマにした「心臓が脈打っている」、日本の映画はフレンチ・ケーキ屋さんの「洋菓子コワンドル」でした。

 韓国の映画は、正に、韓国の人々のメンタリティーが現れていました。母の愛情、家族の情、また家族を救うためなら犯罪さえやってしまうほどの情。


 日本の映画は、正に日本人らしいメンタリティーを映し出していました。仕事、公私の区別、仕事のためならほぼ全てを犠牲にする日本人。ケーキだろうが何だろうが、仕事の全てに完成度を求めて究めようとする職人気質。こだわりの日本人。

 日本と韓国との違いがよく現れていました。たとえば、私は一度も見たことがないのですが、「冬のソナタ」は韓国ではあまり人気の無かったのに日本では大人気だったし、韓国で大人気だった「ベートーベン・ウィルス」は日本でも放映されましたが人気はいまいちだったそうです。


 私が思ったことは、日本の職人気質です。究めようとするメンタリティーです。これは、良いところもあれば、おもしろくない結果になる可能性もあると思いました。


 1905年東郷平八郎の連合艦隊はバルチック艦隊を撃沈。日本は戦艦を完成化させていきます。日本海軍の最高戦艦は、大和でした。日本は戦艦を究め尽くしたのです。

 しかし、日露戦争から40年、これからの時代は空母部隊でした。大和は、沖縄に向かいつつ出撃24時間後に沈没しました。また、その当時はこれからは暗号解読の時代でした。アメリカは、レイトン中佐などが日本の暗号を解読していました。ですから日本の動きはアメリカに筒抜けでした。


 また、日本の大本営は、ミッドウェー海戦以後、偽りの数字を発表し続けました。


 こうして1945年8月に原爆が落とされ、日本は降伏します。


 たしかに日本は原爆で降伏しました。その当時、原子力爆弾は最新兵器でした。しかし、大東亜戦争から65年、もはや原爆など時代遅れの兵器です。まだ原爆があれば戦争を避け、或いは戦争に勝つことができると信じている人もいるかもしれません。そんな本の広告を、飛行機の中で新聞で見ました。


 しかし、ぐるりと目を見渡すと、2011年では、ハッキングとコンピューター・セキュリティの方が誰が見てももっと大切です。最近ではソニーだけではなく、CIAもハッキングされたそうです。いくらハードの武器が有ってもプログラムをハッキングされたら終りだからです。


 食料はどうでしょうか?日本には農業をする方々がますます減っているのです。後継ぎもいないのです。作り手がいないのです。農家の総数は減り続け、高齢化は進むばかりだからです。日本では野菜はますます輸入に頼り、農業をする方々はますます「中国研修生」です。


 世界中で、干ばつ、異常気象、ハリケーンなどで、食料不足が心配されています。ロシアは小麦の輸出を禁止しました。中国は世界の食料を呑み込もうとしています。



 日本のために時代遅れの核よりも、天主(カミ)が必要です。日本のためにカネよりも子宝が必要です。


 東日本震災前は、リベラルな「無縁社会」、家族も兄弟姉妹の意味も失いつつあった孤独の社会だったけれど、今は「絆」の日本になりつつある、と言われています。


 私たちは、だから、核技術を究めるよりも、天主を究め、良い日本人を世界に、そして天国に増やすことを究めなければならないと思うのです。


愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!!


トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

近況報告11

2011年06月20日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 今日も、天主様の助けで、主日の聖務が全て終了しました。天主に感謝!


 朝のミサ、愛する兄弟姉妹とにあいさつ、レジオ・マリエ、病者の訪問、などなど、です。うっとりするほど美しい教会で、愛する兄弟の5名の司祭や3名のブラザーたちに囲まれ、また多くの愛する兄弟姉妹に囲まれ、本当に幸福です。天主様に感謝します!!



 マニラの修道院では今日、インターネットの接続ができません。サーバーに問題があるようです。


 愛する日本の兄弟姉妹の皆様のため、特に福島の被災者の方々のため、続けてお祈りをささげております。愛する兄弟姉妹の皆様のお祈りに深く感謝します。


愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!!



トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

「ウニヴェルセ・エクレジエに関する、ピーター・スコット神父様のコメントの続きをご紹介します

2011年06月19日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 使徒書簡「スンモールム・ポンティフィクム」の適用に関する指導文書(Instruction)「ウニヴェルセ・エクレジエ Universae Ecclesiae」(2011年5月13日発表)に関する、ピーター・スコット神父様のコメントの続きをご紹介します。

*****


否定的な点

 しかし、残念ながら、指針「ウニヴェルセ・エクレジエ」のその他の部分は、聖伝に対して危険であり害をもたらすものである。何故なら、この指針の始めから最後までミサ聖祭の聖伝の典礼様式の存在とその挙行が持っている象徴性、その意味、その理由を無きものとしようと試みているからである。

 これは聖伝のミサを挙行することによってカトリック教会に聖伝を戻そうとする努力を全て無きものとしようとする努力である。

 ミサ聖祭の聖伝の典礼様式による挙行を推進するための文書が、本質的に且つ深く聖伝のカトリック信仰の実践の立ち戻りに反対するものであるとは奇妙なことに思えるが、しかし、この指針が含む次に示す内容は、明らかにそうであることを示している。

(1)指針「ウニヴェルセ・エクレジエ」は、聖伝のミサと新しいミサとの間にいかなる矛盾も断絶もないと述べている。これによれば両者は同じ祈りの法の表現であるという。


第6項 教皇パウロ六世によって公布されたローマ・ミサ典書と教皇ヨハネ二十三世のもとで最後の版が準備されたミサ典書はローマ典礼の二形式であり、それぞれ一般形式(ordinaria)と特別形式(extraordinaria)として定義される。それらは一つのローマ典礼様式の二つのやり方であり、並列するものである。両者は教会の同じ祈りの法(lex orandi)の表現である。その崇敬すべき古代からのやり方ゆえに、特別形式はふさわしい敬意を持って維持されなければならない。

第7項 「ローマ・ミサ典書の二つの版の間には何の矛盾もありません。典礼の歴史においては、成長と進歩があり、断裂はありません。前の世代が神聖なものとして持っていたものは、私達にとってもまた神聖であり、偉大なままです。それ故、それが突然全く禁じられるなどということはあり得ませんし、また有害であると考えられることさえあり得ません。」(教皇ベネディクト十六世聖下の1970年以前のローマ・ミサ典書の使用についての自発使徒書簡スンモールム・ポンティフィクムの公布に際して司教達へ宛てられた書簡)

 これは明らかに真理ではない。何故なら、オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ枢機卿とは1969年9月25日付けのパウロ六世への手紙の中で次のように宣言しているからである。
「Novus Ordo Missae(新しいミサ)は、その全体といいまたその詳細といい、トレント公会議の第22総会で宣言されたミサに関するカトリック神学から目を見張るばかりに逸脱しています。」



(2)指針「ウニヴェルセ・エクレジエ」は、新しいミサと聖伝のミサとは「一つのローマ典礼様式の二つのやり方(usus)」であり、新しいミサは一般形式(ordinaria)と考えられ、聖伝のミサは特別形式(extraordinaria)とされている。この区別は、上述の自発教令「スンモールム・ポンティフィクム」の第1項において、ベネディクト十六世によって発明された。それによると、パウロ六世のミサは「ラテン典礼のカトリック教会の「祈りの法(Lex orandi)」の通常の表現」であり、聖伝のミサは「同じ「祈りの法」の特別な表現と考えるべき」であるとされた。

 しかし、この区別は明らかに間違っている。何故なら、新しいミサはプロテスタントと近代主義的な要素からインスピレーションを受けており、聖なる性格を欠いているからである。何故なら、新しいミサは、晩餐の食事会を表現しており、共同体の祝うものであるが、聖伝のミサは罪の償いのためのいけにえでありカルワリオのいけにえの再現実化であるからだ。それ故、それぞれのミサを支配している「祈りの法」は全く異なっている。従って、カトリックの教義を表明しているミサ聖祭を「特別」と呼び、カトリックの信仰を完全に表明することに欠いているミサを「通常」と呼ぶことは出来ないからである。


(3)この全指針「ウニヴェルセ・エクレジエ」において最も驚くべきことは、聖伝のミサを求める信徒たちに課された条件である。それは第19項に次のように述べられている。

第19項 特別形式のミサ挙行を求める信徒は、通常形式によって挙行されるミサ聖祭或いは秘蹟の有効性(validity)や正当性(legitimacy)に反対する、或いは普遍教会の最高牧者としてのローマ教皇に反対することを表明するグループを、いかなる方法であれ、支援したり、或いはこれに所属したりしてはならない。


 この条件は、極めて強い妥協を許さないものであり、聖伝のカトリック信徒たちに反対するために存在している。たとえ彼らが新しいミサがそれ自体では必ずしも無効ではないということを受け入れているとしても、そして、教皇の権威を受け入れているとしても、しかし、新しいミサの正当性(legitimacy)を受け入れることを絶対的に拒否している。このためにこそ、彼らは新しいミサに与ることを拒み、聖伝のミサを要求しているのだ。

 従って、この条件は、自分たちにはカトリック信仰を守る権利があると主張する全ての人々をして、モートゥー・プロプリオの傘下で聖伝のミサを捧げることを排除させる。聖伝を守ろうとするその様なカトリック信徒らが、自発教令の条件の下に聖伝のミサを捧げるとしたら、それは客観的に間違った主張をしていることになる。もしもこの条件が厳密に適用されるのであれば、この条件は聖伝のミサが捧げられなければならない理由(カトリック信仰を守るためという理由)そのものを認めることを拒む。それはとどのつまり、聖伝のミサの死を意味している。(ただし、感傷的な理由で聖伝のミサに愛着を抱いている少数の人々を除く。)


 何故新しいミサの正当性を拒否するかと言えば、それは、新しいミサがカトリック信仰の法に従っていない事実を観察したからであり、新しいミサが内的信仰生活をむしばみ、新しいミサに与る人々の信仰を崩壊させる事実、新しいミサは近代主義の考え方を伝播させ、秘蹟、特に御聖体の秘蹟と叙階された司祭とに対する敬意を失わせる事実、新しいミサの儀式に染みこんでいる非超自然主義と人間中心主義を促進するという事実を観察してしまったからである。

 以上の事実は、頭を使って考える全てのカトリック信徒が観察しているに違いないことだ。この事実こそが、何故極めて多くのカトリック信徒たちが信仰生活を捨ててしまったのかという深い理由の説明である以上のことを考慮すると、新しいミサは極めて現実的な意味でその正当性を否定されなければならない。何故なら、霊魂の聖化という目的を果たすことにおいて無能だからだ。また同時に、カトリック教会に大きな損害をもたらす誤ったもの、重大な悪であるからである。第二バチカン公会議後の教皇たちの「公認」があろうと無かろうと、この事実を変えることは出来ない。


 この事実は、キリスト教一致推進評議会の委員長 クルト・コッホ枢機卿(Cardinal Kurt Koch)が、2011年5月15日の「スンモールム・ポンティフィクム」に関する大会で述べた発言で認めたことでもある。

 コッホ枢機卿はこう発言した。「第二バチカン公会議後の典礼改革は、カトリック教会の広域な範囲において聖伝との断絶、かつ新しい創造であると考えられている。」("the post-conciliar liturgical reform is considered in large circles of the Catholic Church as a rupture with tradition and as a new creation")
GLOBAL ZENIT NEWS Rome's Zenit News Priest Reflects on Old Liturgy in Church's Future


そして、発言を続けて、新しいミサには「多くの人々を旧典礼に引きつけるかの神聖さが、もっと力強く現れるべきである」という。(www.zenit.org 5/17/2011)

 これは過小な表現である。しかし、少なくとも信徒たちの理解においては新しいミサには現実の問題があると理解していることを認めているわけである。指針の文書によれば、この新しいミサの問題を認識し素直に認めることは、モートゥー・プロプリオのおかげによって捧げられる聖伝のミサに参加することから排除されることになるわけだ。


(4)この指針の行間には、はっきり説明されていない隠された計画がある。この計画については既にベネディクト十六世が2007年に指摘している。つまり「ローマ典礼の使用の二つの形式は、相互に豊かにし合っていく」(教皇ベネディクト十六世聖下の1970年以前のローマ・ミサ典書の使用についての自発使徒書簡スンモールム・ポンティフィクムの公布に際して司教達へ宛てられた書簡、2007年7月7日付)ことを求めている。それは「新しい聖人達と幾つかの新しい叙唱を古いミサ典書に挿入」することによってである。このプロセスは既に聖金曜日のユダヤ人のための祈りを変更しユダヤ人の回心のための祈りを取り除いて、聖伝の典礼様式の中に挿入させることによって為されている。

 指針の第25項はこのような変更はさらに続けられると私たちに述べている。

第25項 新しい聖人や幾つかの新しい叙唱は、後に指示がある規定に従って、1962年版のミサ典書に挿入できるし、また挿入されなければならない。


 しかしコッホ枢機卿自身がは、上記の講話の中で、許可の不要な典礼様式、つまり聖伝のミサにこの許可を与えたその裏にあるローマの計画を説明している。


 コッホ枢機卿によると、聖伝のミサが「エキュメニカルな橋渡し」となることを教皇が望んでいるとのことである。何故なら、聖伝のミサが「エキュメニカルな橋渡し」となることによって、教皇は「この論争に解決を与え、教会内部の和解のために貢献することを望んでいる」からである。「モートゥー・プロプリオは、いわば、カトリック内部のエキュメニズムを促進する。もしもカトリック内部のエキュメニズムが失敗するなら、典礼に関するカトリックの論争はエキュメニズムにも延長するだろうし、旧典礼は橋渡しというエキュメニカルな役割を果たすことが出来ないだろう。」(同講話より)


 従って、この指針の目的は、リベラルであろうが聖伝支持者であろうが、全てのカトリックに互いの典礼を受け入れさせるように強制し、教義上の論争を終わらせることである。驚くべきことのように思われるが、第二バチカン公会議に由来する同じエキュメニズムの精神が、アシジの世界宗教集会を開かせ、そして同時に、ローマが聖伝のミサに許可を与えさせたのである。本当はその様な許可など全く不要であることをローマが確認しているではあるが!


 コッホ枢機卿は、この指針の究極の目的を分析して、さらにはっきりと言明している。つまり、聖伝のミサと新しいミサは将来混ざり合って共通の典礼様式となり、究極的には両典礼様式は消滅するだろう、ということだ。

「ベネディクト十六世は、ローマ典礼様式において通常形式と特別形式とが長期的に共存しつづけることは出来ないとよく知っている。従って、教会はもう一度将来一つの共通の典礼様式を必要とするだろう。しかし、或る新しい典礼形式はその地位に就くことが出来ない、何故なら成長と浄化の過程が要求されるからだ。そこで一時的に教皇は、ローマ典礼様式の使用の二つの形式が相互に豊かにし合っていくことが出来るし、そうしなければならないと特別に強調している。」(同講話より)


 つまり、許可など全く不要な聖伝のミサの許可をローマが与えたのは、究極的に聖伝のミサが消えて無くなるためだったのである!何という悪魔的なパラドックスであろうか!


(5)この指針のどこにも聖伝のミサを広めようという宣教の熱心も努力のかけらも見あたらない。聖伝のミサは、常に司祭や信徒らが自発的に請求しなければならないものとして提示されている。聖伝のミサは、教会位階当局によって積極的に促進されるべきものでは決してないとされている。カトリック教会の普通のやり方とは何と違っていることであろうか! 何という権威の空虚であろうか! 単なる一般の人々や司祭たちが、教会を動かさなければならないとは! この理由のためにも、指針「ウニヴェルセ・エクレジエ」は、聖伝のミサへの広範な回帰のための道具とはなり得ない。


(6)指針「ウニヴェルセ・エクレジエ」は、剃髪式(トンスラ)、下級品級、そして上級品級の一つである副助祭を、単なる形だけの儀式のレベルに還元しまっている。これらにはいかなる教会法上の価値も霊的重要さも霊的権能も附属しているとは考えられていない。

(§ 30).

 たとえ剃髪式を受けても、聖職者になるわけではない。たとえその青年が聖伝の典礼様式だけを使用する修道会に属していようとも、剃髪式には何の価値もないとされている。更に、これらの「非聖職者」がいくら下級品級を受けたとしても、何かを受けたとは考えられていない。

 また、副助祭に叙階される時に同時に含まれている貞潔の請願は、存在していないと考えられている。指針「ウニヴェルセ・エクレジエ」によれば、たとえ副助祭の品級を受けても、この青年はこの上級品級を受けたとはされず、もっと言えば、聖職者であるともされない。たとえ副助祭の品級を受けても、彼は新しいミサにおけると同様にただの平信徒でしかない。彼は助祭になって初めて聖職者となるとされるのだ。

 つまり、指針「ウニヴェルセ・エクレジエ」は、記録が残っているかぎり少なくとも三世紀にまでさかのぼることが出来るこの上級下級の七品級を授ける聖伝の典礼様式を軽蔑し馬鹿にしている。自発教令「スンモールム・ポンティフィクム」では、ただ単に感傷的な理由でのみ保持されているに過ぎない。


 以上の短い考察から、私たちは極めてはっきりとした結論を出すことが出来る。エクレジア・デイ委員会による、このモートゥー・プロプリオ「スンモールム・ポンティフィクム」と指針「ウニヴェルセ・エクレジエ」との運営に協力することは、私たちの最も大切にしてきているカトリック信仰の原理を危うくさせる妥協であって、私たちはこれを受け入れることが出来ない。カトリック教会には危機が存在していないと宣言すること、エキュメニズムの精神に公式に協力すること、これらは、近代主義の持つ教義上の問題を解決させることを拒むからである。

 自発教令「スンモールム・ポンティフィクム」と指針「ウニヴェルセ・エクレジエ」の原理に同意することは、自己矛盾を受け入れることである。つまり、どういうことかと言うと、新しいミサがおかしいので聖伝のミサを選ぶ、と同時に聖伝のミサを捧げるために新しいミサはおかしくないと宣言することだ。

 許可の全く必要とされないミサの許可を求めつつ、許可不要の事実は究極的には禁止へとつながっているというこのことこそ、自発教令と今回の指針の持つ究極の矛盾である。


【関連記事】指針「ウニヴェルセ・エクレジエ」について




基本的な祈りをフランス語で何と祈るかについてご紹介します(その4)夕の祈り

2011年06月18日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 カトリックの夕の祈りは、フランス語で何と祈るかをご紹介します。


夕の祈:

+ 聖父と聖子と聖霊との御名によりて。アーメン。

天主の御前に出でて恭しく礼拝せん

ああ天主、主の無上なる御霊威に対し、へりくだりの心をもって謹みて礼拝し奉る。*主は極めてまことなる御者にましませば、われ深く主を信じ奉る。いたって仁慈なる御者にましませば、われ厚く主を頼み奉る。限りなく愛すべき御者にましませば、われ心を尽して主を愛し奉る。また主を愛するがために、人をも我が身の如く愛せんことを努め奉る。

Les prières du soir

Mettons-nous en la présence de Dieu et adorons-le

Je vous adore, ô mon Dieu, avec la soumission que m'inspire la présence de votre souveraine grandeur. Je crois en vous, parce que vous êtes la vérité même. J'espère en vous, parce que vous êtes infiniment bon. Je vous aime de tout mon coeur, parce que vous êtes souverainement aimable; et j'aime mon prochain comme moi-même pour l'amour de vous.

御恵みを感謝せん

天主のわれに賜いし御恵みをいかにして報い奉らんや。主は永遠よりわれを愛し、無よりわれを造り出し、御子の御血をもってわれをあがない、日々に数々の御恵みを下し給う。*願わくはもろもろの天使、聖人、われと共に、かく卑しきわれを恵み給うあわれみ深き天主を讃美せんことを。

Remercions Dieu des grâces qu'il nous a faites

Quelles actions de grâces vous rendrai-je, ô mon Dieu, pour tous les biens que j'ai reçus de vous? Vous avez songé à moi de toute éternité; vous m'avez tiré du néant, vous avez donné votre vie pour me racheter, et vous me comblez encore tous les jours d'une infinité de faveurs. Hélas! Seigneur, que puis-je faire en reconnaissance de tant de bontés? Joignez-vous à moi, Esprits bienheureux, pour louer le Dieu des miséricordes, qui ne cesse de faire du bien à la plus indigne et la plus ingrate de ses créatures.

罪を弁え知る聖寵を天主に願わん

永遠の光の源にまします聖霊、わが心の暗(やみ)をてらして、今日犯したる罪とその汚れとを弁え知りて、主のこれをきらい給う如くわれもきらい、かつ何事よりも罪を犯すことを、いたく恐るるを得しめ給え。

Demandons à Dieu de connaître nos péchés

Source éternelle de lumière, Esprit-Saint, dissipez les ténèbres qui me cachent la laideur et la malice du péché. Faites-m'en concevoir une si grande horreur, ô mon Dieu, que je le haïsse, s'il se peut, autant que vous le haïssez vous-même, et que je ne craigne rien tant que de le commettre à l'avenir.


御保護に身を委ねん

主よ、われさらによく主に仕えんために、今しばらく寝(やす)みてわが力を補わんと欲す。*願わくは、わが寝(やす)むを祝し給え。またわが依り頼み奉る聖母、守護の天使、保護の聖人、わがために祈り、今夜、終生、ことに臨終の時にわれを護り給え。アーメン。

Recommandons-nous à Dieu, à la sainte Vierge et aux Saints

Bénissez, ô mon Dieu, le repos que je vais prendre, pour réparer mes forces, afin de vous mieux servir. Vierge sainte, Mère de mon Dieu, et après lui ma plus ferme espérance, saint Joseph, mon bon ange, mon saint patron, intercédez pour moi, protégez-moi pendant cette nuit, tout le temps de ma vie, et à l'heure de ma mort. Ainsi soit-il.


生ける人と死せる人とのために祈らん

主願わくはわが親族、恩人、友人、またわれに害を加えんとする者にも御恵みを垂れ給え。*なおわれらの霊魂を司どる人々と、肉身を司どる人々とを助け給え。貧しき者、禍いに遭う者、身寄りなき者、病める者、および死に臨める者をあわれみ給え。主を知らざる者に救霊の御恵みを下し、また煉獄に苦しむ霊魂に御あわれみを垂れ、ことにわれらに縁あるものの霊魂に終りなき幸いを与え給え。アーメン

Prions pour les vivants et pour les fidèles trépassés

Répandez, Seigneur, vos bénédictions sur mes parents, mes bienfaiteurs, mes amis et mes ennemis. Protégez tous ceux que vous m'avez donnés pour supérieurs, tant spirituels que temporels. Secourez les pauvres, les prisonniers, les affligés, les voyageurs, les malades et les agonisants. Convertissez les hérétiques, et éclairez les infidèles.
Dieu de bonté et de miséricorde, ayez aussi pitié des âmes des fidèles qui sont dans le purgatoire, spécialement de celles pour lesquelles je suis obligé de prier. Donnez-leur le repos et la lumière éternelle. Ainsi soit-il.

平安を求むる祈

主よ、願わくはこの住家をみそなわし、あだの謀計(はかりごと)を遠ざけ給え。*また主の御使いをこの住家に降し、われらを安らかに守らしめ、主の御祝福を常にわれらの上にあらしめ給わんことを、われらの主キリストによりて願い奉る。アーメン。

Nous vous prions, Seigneur, de visiter cette demeure, et d'en éloigner toutes les embûches du démon notre ennemi : que vos saints anges y habitent pour nous y conserver en paix, et que votre bénédiction demeure toujours sur nous; par Notre-Seigneur Jésus-Christ, votre Fils, qui étant Dieu, vit et règne avec vous en l'unité du Saint-Esprit, par tous les siècles des siècles. Ainsi soit-il.

諸聖人に向う祈

天国の永福を得たる諸聖人よ、*われらの主なる御父に祈り、われらに大罪を免れしめ、主の御心に適うを得しめ給え。

Prière à tous les saints

Âmes très heureuses, qui avez eu le bonheur de parvenir à la gloire, obtenez-moi deux choses de celui qui est notre Dieu et notre Père : que je ne l'offense jamais mortellement, et qu'il ôte de moi tout ce qui lui déplaît. Ainsi soit-il.


基本的な祈りをフランス語で何と祈るかについてご紹介します(その3)朝の祈り

2011年06月18日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 カトリックの基本的な祈りは、フランス語で何と祈るかをご紹介します。

朝の祈:

+ 聖父と聖子と聖霊との御名によりて。アーメン。

天主の御前に出でて恭しく礼拝せん

三つのペルソナにましますいとも尊き唯一の天主、*今主のここにいますことを信じ、謹み敬いて礼拝し、主の無上なる御霊威に対して、尽すべき尊敬を献げ奉る。

Les prières du matin

Au nom du Père, du Fils et du Saint-Esprit

Mettons-nous en la présence de Dieu et adorons-le

Très sainte et très auguste Trinité, Dieu unique en trois personnes, je crois que vous êtes ici présent. Je vous adore avec les sentiments de l'humilité la plus profonde, et je vous rends de tout mon coeur les hommages qui sont dus à votre souveraine Majesté.

御恵みを感謝しわが身を献げん

主の今までわれに賜いしもろもろの御恵みを感謝し奉る。*わが生きながらえて今日にいたれるは、ひとえに主の賜物なれば、この日もまた主に仕え、わがすべての思い、言葉、行い、苦楽を主に献げ奉る。願わくは、何事も主を愛する精神をもってなさしめ、一に主の御栄えとならしむるよう、聖寵を垂れ給え。

Remercions Dieu des grâces qu'il nous a faites et offrons-nous à lui

Mon Dieu, je vous remercie très humblement de toutes les grâces que vous m'avez faites jusqu'ici. C'EST ENCORE PAR UN EFFET DE VOTRE BONTÉ QUE JE VOIS CE JOUR; JE VEUX AUSSI L'EMPLOYER UNIQUEMENT A VOUS SERVIR. JE VOUS EN CONSACRE TOUTES LES PENSÉES, LES PAROLES, LES ACTIONS ET LES PEINES. BÉNISSEZ-LES, SEIGNEUR, AFIN QU'IL N'Y EN AIT AUCUNE QUI NE SOIT ANIMÉE DE VOTRE AMOUR, ET QUI NE TENDE A VOTRE PLUS GRANDE GLOIRE.

罪を避け徳を修むる志しを立てん

崇むべきイエズス、*主はわれらの達せんと努むべき、完徳の鑑みにましませば、われひたすら主にならい、柔和、けんそん、貞操、熱心、堪忍、慈しみなどを体し、ことに今までしばしば犯したる罪を、今日再び犯さざらんことを努め、これを改むるに力を尽さんと決心し奉る。

Formons la résolution d'éviter le péché et de pratiquer la vertu

Adorable Jésus, divin modèle de la perfection à laquelle nous devons aspirer, je vais m'appliquer autant que je le pourrai, à me rendre semblable à vous : doux, humble, obéissant, chaste, zélé, patient, charitable et résigné comme vous; et je ferai particulièrement tous mes efforts, pour ne pas retomber aujourd'hui, dans les fautes que je commets si souvent. et dont je souhaite sincèrement me corriger.

必要なる御恵みを天主に願わん

主はわが弱きを知り給う。聖寵によらざれば何事もかなわざるが故に、必要に応じてこれを施し給え。*主の戒め給うすべての悪を避け、命じ給う善を行い、御摂理によりて、われに与え給う数々の苦しみを甘んじて堪え忍ぶ力を授け給え。

Demandons à Dieu les grâces qui nous sont nécessaires

Mon Dieu, vous connaissez ma faiblesse. Je ne puis rien sans le secours de votre grâce. Ne me la refusez pas, Ô mon Dieu, proportionnez-la à mes besoins ; donnez-moi assez de force, pour éviter tout le mal que vous défendez, pour pratiquer tout le bien que vous attendez de moi, et pour souffrir patiemment toutes les peines qu'il vous plaira de m'envoyer.

聖母、守護の天使、保護の聖人に代祷を請わん

天主の御母にましまして、またわが母なる童貞聖マリア、われ御手によりすがりて御保護を願い、ひとえに御あわれみを請い奉る。*慈しみ深き御母、わが危うき時には助けとなり、苦しむ時には慰めとなり、今日、毎日、ことに臨終の時、天主なる御子の御前にて、わがために代祷者となり給え。
忠実にして、親愛なるわが守護の天使、*われを照らし、主の御おきてに反(そむ)かざるようわが歩みを導き給え。
わが霊名の聖人、*地においては、御身にならいて天主を愛し、天においては、共に終りなく天主を讃美するを得んために、われを守り、かつわがために祈り給え。

Invoquons la sainte Vierge, saint Joseph, notre bon Ange et notre saint Patron

Sainte Vierge, Mère de Dieu, ma Mère et ma Patronne, je me mets sous votre protection, et je mets toute ma confiance en votre miséricorde. Soyez, ô Mère de bonté, mon refuge dans mes besoins, ma consolation, dans mes peines, et mon avocate auprès de votre adorable Fils, aujourd'hui, tous les jours de ma vie, et particulièrement à l'heure de ma mort.
Très saint patriarche saint Joseph, par cette sollicitude pleine d'amour avec laquelle vous vous êtes occupé en ce monde de Jésus et de Marie, daignez veiller sur notre existence jusqu'au dernier soupir.
Ange du ciel, mon fidèle et charitable guide, obtenez-moi d'être si docile à vos inspirations, et de régler si bien mes pas, que je ne m'écarte en rien de la voie des commandements de mon Dieu.
Grand Saint, dont j'ai l'honneur de porter le nom, protégez-moi, priez pour moi, afin que je puisse servir Dieu, comme vous, sur la terre, et le glorifier éternellement avec vous dans le ciel.

Ainsi soit-il !


基本的な祈りをフランス語で何と祈るかについてご紹介します(その2)

2011年06月18日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 以前、質問を受けたのですが、「天にまします」や「めでたし」などの基本的な祈りは、フランス語で何と祈るかの続きをご紹介します。

痛悔の祈:

ああ天主、われ、主の限りなくきらい給う罪をもって、限りなく愛すべき御父に背きしを深く悔み奉る。御子イエズス・キリストの流し給える御血(おんち)の功徳(くどく)によりて、わが罪を赦し給え。聖寵の助けをもって今より心を改め、再び罪を犯して、御心(みこころ)に背くことあるまじと決心し奉る。アーメン。

Acte de contrition

O Mon Dieu, j'ai un très grand regret de vous avoir offensé, parce que vous êtes infiniment bon et que le péché vous déplaît. Je prends la ferme résolution, avec le secours de votre sainte grâce, de ne plus vous offenser et de faire pénitence. Ainsi soit-il.



告白の祈:

全能の天主、終生童貞なる聖マリア、大天使聖ミカエル、洗者聖ヨハネ、使徒聖ペトロ、聖パウロ、および諸聖人にむかいて、われは思いと言葉と行いとをもって多くの罪を犯せしことを告白し奉る。*これわがあやまちなり、わがあやまちなり、わがいと大いなるあやまちなり。これによりて、終生童貞なる聖マリア、大天使聖ミカエル、洗者聖ヨハネ、使徒聖ペトロ、聖パウロ、および諸聖人に、わがためにわれらの主なる天主に、祈られんことを願い奉る。願わくは全能の天主、われらをあわれみ、われらの罪を赦して終りなき命へ導き給え。*アーメン。願わくは全能にして慈悲なる主、われらをあわれみ、罪の赦しを与え給え。*アーメン。

Je confesse à Dieu

Je confesse à Dieu Tout-Puissant, à la Bienheureuse Marie toujours vierge, à Saint Michel Archange, à Saint Jean-Baptiste, aux Saints Apôtres Pierre et Paul, et à tous les Saints, que j’ai beaucoup péché par pensées, par paroles, par actions et par omissions. C’est ma faute, c’est ma faute, c’est ma très grande faute ! C’est pourquoi je supplie la Bienheureuse Marie, toujours vierge, Saint Michel Archange, Saint Jean-Baptiste, les Saints Apôtres Pierre et Paul, et tous les Saints (et vous, mon Père,) de prier pour moi le Seigneur notre Dieu.


御告げの祈:

(朝、昼、晩、ひざまずいて唱える。ただし日曜はその前晩から起って唱える。)

主の御使いの告げありければ、*マリアは聖霊によりて懐胎し給えり。めでたし、聖寵充ち満てるマリア、主御身と共にまします。御身は女のうちにて祝せられ、御胎内の御子イエズスも祝せられ給う。*天主の御母聖マリア、罪人なるわれらのために、今も臨終の時も祈り給え。アーメン。

われは主のつかいめなり。*仰せの如くわれになれかし。めでたし、聖寵充ち満てるマリア、主御身と共にまします。御身は女のうちにて祝せられ、御胎内の御子イエズスも祝せられ給う。*天主の御母聖マリア、罪人なるわれらのために、今も臨終の時も祈り給え。アーメン。

しかして、御言葉はひととなり給い、*われらのうちに住み給えり。めでたし、聖寵充ち満てるマリア、主御身と共にまします。御身は女のうちにて祝せられ、御胎内の御子イエズスも祝せられ給う。*天主の御母聖マリア、罪人なるわれらのために、今も臨終の時も祈り給え。アーメン。天主の聖母われらのために祈り給え。 *キリストの御約束にわれらを適わしめ給え。

祈願。主よ、われら天使の告げを以て、御子キリストの御託身を知りたれば、願わくはその御苦難と十字架とによりて、ついに御復活の栄えに達するを得んため、われらの心に聖寵を注ぎ給え。われらの主キリストによりて願い奉る。*アーメン。

Angélus

- L’ Ange du Seigneur annonça à Marie qu’Elle serait la mère du Sauveur ;
et Elle a conçu du Saint-Esprit. ( Je Vous salue, Marie, etc.)

- " Me voici : Je suis la servante du Seigneur ;
qu’il me soit fait selon votre parole ! " ( Je Vous salue, Marie, etc.)

- Et le Verbe S’est fait chair ;
et Il a habité parmi nous. ( Je Vous salue, Marie, etc.)

- Priez pour nous, Sainte Mère de Dieu ;
afin que nous devenions dignes des promesses de Jésus-Christ.

Prions !

Répandez, Seigneur, Votre Grâce en nos âmes, afin qu’ayant connu par la voix de l’Ange, le mystère de l’Incarnation de Votre Divin Fils, nous puissions, par les mérites de Sa Passion et de Sa Croix, parvenir à la gloire de Sa Résurrection, par le même Jésus-christ Notre-Seigneur. Ainsi soit-il !



アレルヤの祈:

(御復活の祝日の前日の昼から三位一体の祝日の前日の昼まで、御告げの祈りに代え起って唱える。)

天の元后喜び給え。アレルヤ。*御身に宿り給いし者は。アレルヤ。

宣える如くよみがえり給えり。アレルヤ。*われらのために天主に祈り給え。アレルヤ。

童貞マリア喜び給え。アレルヤ。*主まことによみがえり給えり。アレルヤ。

祈願 聖子イエズス・キリストの御復活をもって世界を喜ばしめ給いし天主、願わくはその御母童貞マリアによりて、終りなき命の喜びをわれらに得しめ給え。われらの主キリストによりて願い奉る。*アーメン。


Reine du ciel, réjouissez-vous, alleluia !
Car celui que vous avez mérité de porter, alleluia !

Est ressuscité, comme il l'a dit, alleluia !
Priez Dieu pour nous, alleluia !

Réjouissez-vous, ô Vierge Marie, alleluia !
Parce que le Seigneur est vraiment ressuscité, alleluia !

Prions: O Dieu qui, par la Résurrection de votre Fils, notre Seigneur Jésus-Christ, avez daigné donner la joie au monde , accordez-nous, par sa Mère la Vierge Marie, de parvenir nous aussi aux joies de la vie éternelle. Par le même Jésus-Christ notre Seigneur. Amen.


基本的な祈りをフランス語で何と祈るかについてご紹介します

2011年06月18日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 以前、質問を受けたのですが、「天にまします」や「めでたし」などの基本的な祈りは、フランス語で何と祈るかをご紹介します。

十字架のしるし:+ 聖父(ちち)と聖子(こ)と聖霊(せいれい)との御名(みな)によりて。アーメン。

Le signe de croix:
Au nom du Père, et du Fils, et du Saint-Esprit.
Ainsi soit-il.

主祷文:天にましますわれらの父よ、願わくは御名(みな)の尊まれんことを、御国(みくに)の来らんことを、御旨(みむね)の天に行わるる如く地にも行われんことを。*われらの日用の糧を、今日(こんにち)われらに与え給え。われらが人に赦す如く、われらの罪を赦し給え。われらを試みに引き給わざれ、われらを悪より救い給え。アーメン。


Notre Père, qui êtes aux cieux
Que votre nom soit sanctifié.
Que votre règne arrive.
Que votre volonté soit faite sur la terre comme au ciel.
Donnez-nous aujourd’hui notre pain de chaque jour.
Pardonnez-nous nos offenses comme nous pardonnons à ceux qui nous ont offensés.
Et ne nous laissez pas succomber à la tentation.
Mais délivrez-nous du mal. Ainsi soit-il.


天使祝詞:めでたし、聖寵(せいちょう)充ち満てるマリア、主御身と共にまします。御身は女のうちにて祝せられ、御胎内の御子イエズスも祝せられ給う。 *天主の御母(おんはは)聖マリア、罪人(つみびと)なるわれらのために、今も臨終の時も祈り給え。アーメン。

Je Vous salue

Je vous salue Marie pleine de grâces
Le Seigneur est avec Vous,
Vous êtes bénie entre toutes les femmes,
Et Jésus le fruit de vos entrailles est béni.
Sainte Marie, mère de Dieu,
Priez pour nous, pauvres pécheurs,
Maintenant et a l'heure de notre mort.
Ainsi soit-il.


栄唱:願わくは、聖父と聖子と聖霊とに栄えあらんことを。*始めにありし如く、今もいつも世々にいたるまで。アーメン。

Gloire au Père, au Fils et au Saint-Esprit.
Comme Il était au commencement,
Maintenant et Toujours dans les siècles des siècles.
Ainsi soit-il.


使徒信経:われは、天地の創造主、全能の父なる天主を信じ、またその御独り子、われらの主イエズス・キリスト、すなわち、聖霊によりて宿り、童貞マリアより生まれ、ポンシオ・ピラトの管下(かんか)にて苦しみを受け、十字架に付けられ、死して葬られ、古聖所(こせいしょ)に降りて三日目に死者のうちよりよみがえり、天に昇りて全能の父なる天主の右に坐し、かしこより生ける人と死せる人とを裁かんために来り給う主を信じ奉る。*われは聖霊、聖なる公教会、諸聖人の通功、罪の赦し、肉身のよみがえり、終わりなき命を信じ奉る。アーメン。

Je Crois en Dieu (le symbole des apôtres)

Je crois en Dieu le Père tout puissant,
Créateur du ciel et de la terre,
Et en Jésus-Christ son Fils unique, Notre Seigneur
Qui a été conçu du Saint-Esprit
Est né de la Vierge Marie,
A souffert sous Ponce Pilate,
A été crucifié, est mort et a été enseveli,
Est descendu aux Enfers,
Le troisième jour, est ressuscité des morts,
Est monté au cieux
Est assis à la droite de Dieu le Père Tout-Puissant,
D'où Il viendra jugé les vivants et les morts.
Je crois au Saint-Esprit,
A la Sainte Église Catholique,
A la communion des Saints,
A la rémission des péchés,
A la résurrection de la chair,
Et à la Vie Éternelle.
Ainsi soit-il.


信徳唱:真理の源なる天主、*主は誤りなき御者にましますが故に、われは主が公教会に垂れて、われらに諭し給える教えを、ことごとく信じ奉る。

Acte de foi :

Mon Dieu, je crois fermement toutes les vérités que Vous avez révélées
et que Vous nous enseignez par Votre Eglise,
parce que Vous ne pouvez ni Vous tromper ni nous tromper.


望徳唱:恵みの源なる天主、*主は約束を違えざる御者にましますが故に、救世主イエズス・キリストの御功徳によりて、その御約束の如く、われに終わりなき命と、これを得べき聖寵とを、必ず与え給わんことを望み奉る。

Acte d'espérance :

Mon Dieu, j'espère avec une ferme confiance que Vous me donnerez, par les mérites de Jésus-Christ, Votre grâce en ce monde et le bonheur éternel dans l'autre,
parce que Vous l'avez promis et que Vous êtes fidèle dans Vos promesses.


愛徳唱:愛の源なる天主、*主は限りなく愛すべき御者にましますが故に、われ、心を尽くし力を尽くして、深く主を愛し奉る。また主を愛するがために、人をもわが身の如く愛せんことを努め奉る。

Acte de charité :

Mon Dieu, je Vous aime de tout mon coeur, et par-dessus toutes choses,
parce que Vous êtes infiniment bon et infiniment aimable.
Et j'aime mon prochain comme moi-même pour l'amour de Vous.


アジア管区長ダニエル・クチュール神父様の講話 ヨハネ・パウロ二世の列福について 第二部

2011年06月18日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 クチュール神父様が御復活後第四主日2011年5月21日の午後に東京でなさってくださった講話の続きを、愛する兄弟姉妹の皆様に御紹介します。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


アジア管区長ダニエル・クチュール神父様の講話 第二部
御復活後第四主日2011年5月21日


 この第二部では、ローマに提出した文書に私たちが記した内容についてご説明するつもりです。ところで、教皇ヨハネ・パウロ二世は長い人生を送られました。私たちはフランス語で「ヨハネ・パウロ二世、その列福に対する疑い」と題する本を出版致しました。私たちがローマに提出した例の文書は、今回我々が出版した本より厚めのものだと思います。何故なら、この本は単に(ヨハネ・パウロ二世にみる)信仰、希望、愛の対神徳だけに言及したものだからです。

 (ホワイトボードに書き出し始める)こちらはカトリック教義です。そしてこちらはヨハネ・パウロ二世による教えです。では先ず“信仰(信徳)”の面で両者を比較します。長々とお話したくありませんので、一点について強調したいと思います。それは贖罪(Redemption)に関する問題です。私たちの為にイエズス様が亡くなられたという贖いの神秘に関するものです。

 さて皆さんにお尋ねしますが、イエズス様は全ての人の為にお亡くなりになったのでしょうか?どちらでしょう?(Dさんがノーと答える)ノーですか。そうなりますと、イエズス様が十字架上で一部の人々を御自分の受難から除外されたと言う必要がありますよ。では実際に彼は、一部の人々を御自分の受難から除外されたのですか?実のところ、その答えは客観的にイェスでありますし、主観的にノーとなります。(客観的に言って)彼は全ての人の為にお亡くなりになりました。彼は全世界を救う為にこそ来られました。聖パウロは「全ての人が救われる事を天主はお望みである。」と言っています。換言しますと、イエズス様が十字架上で流された御血と、忍ばれた御苦しみは、全世界を救うに足りるものでした。そうです、何百万もの世界を救うに十分でした。何故ならそれは無限の功徳を持っているからです。それはちょうど万病に効く薬(the medicine for all the diseases)を持った薬局のようなものです。ただし、癒される為には、ただ錠剤入りのビンを手に入れるだけではなく、それを服用しなければなりません。癒されたいならば、ただ薬を眺めるだけではなく、錠剤、或いはシロップを飲まなければならないのです。貴方はこの薬を体内に吸収しなければなりません。それはちょうど贖いに関しても言える事です。客観的に、あらゆる罪に対する治療薬をイエズス様は(各自の主観とは無関係に)お持ちでした。しかし主観的に、全ての人が(自分の主観に基づき)イエズスの御受難を自身に適用したわけではありません。だからこそ、全ての人が救われるという訳ではないのです。言い換えるなら、イエズス様を信じて、彼が成し遂げた贖罪を、洗礼や告解、つまり彼が制定した秘蹟を通して自らに適用する人々は救われるでしょう。さらにこれを拒絶する人々は滅びることになるのです。だからこそ私たちは「Pro(プロ) multis(ムルティス):多くの人々の為に」と御ミサの中で唱えます。今御説明したのはカトリックの教義です。

 ではヨハネ・パウロ二世にとって、贖罪とは別の事を意味します。天主なるイエズスは、御告げの日に童貞聖マリアの御胎内で人性を摂取して人となられましたが(御託身)、ヨハネ・パウロ二世は第二バチカン公会議を引用して、「天主は、ある方法によって、全人類と結合された。」と仰っておられます。これはスイスのイエズス会士、カール・ラーナー(Karl Rahner)神父の唱えた説です。先程お話しした本会出版の本の中には397の引用がありまして、その中の大部分はヨハネ・パウロ二世のものです。ですから私が今お伝えしているものの大部分はこの本から引用しました。その中で、彼は言っています:「キリストはその御託身により、御懐胎(受胎)のまさにその瞬間から、全ての人と結合した。御懐胎の瞬間から、彼は地上に存在する40億の人間と結合したのである」と。敢えて彼は40億という数字を使っています。要するに彼はつまり万人救済(Universal salvation)について言及しました。何回にも亘って、色んな言い回しで、全ての人間は聖成の恩寵(Sanctifying grace)を持っていて、全ての人間は贖われており、全ての人間は既に救われていると彼は主張して来たのです。お分かりでしょうか、これはカトリックの教義ではありません。全ての人が救われるのではないのです。

 その上彼は「匿名キリスト教(the anonymous Christianity)」についても言及しています。匿名キリスト教徒というのがありまして、それは「貴方はカトリックです。ですが、実を言いますと仏教徒も、イスラム教徒も、ユダヤ教徒も、ヒンドゥー教徒も皆カトリックなのです。ですから彼らにそれを教えてあげなければだめですよ。貴方は善良です。天主が貴方の中にいらっしゃるからなのです。御存知ないでしょうが、天主はそこにいるのです。」という考えなのです。彼は例の本の中で言っています。ですが今その本を私は持っておりません。先週の月曜日にお会いしたスリランカのランジット(Ranjith)枢機卿様に差し上げてしまったからです。私が持っていた最後の一冊は彼が持っている方が良いと思います。この本の中で、彼ヨハネ・パウロ二世は「ユダヤ教はカトリック宗教の一部分である」と言っているのです。ですからこれはカトリック教義じゃないと私たちは言います。


 第二点目は“希望(望徳)”についてです。希望の目的となるものは天主です。つまり天主の所有です。それこそ私たちが希望するものです。私たちは天国に行く事を望み、天主という無限の善を所有したいと望んでいます。天国への行き方、その手段とは恩寵(grace)です。罪と戦い、聖徳を実践し、さらに天国を勝ち取る為の恩寵を天主がお与え下さるよう私たちは希望します。しかしヨハネ・パウロ二世にとって、希望の徳の目的、彼の希望の目的とは愛の文明、簡潔に言えば、地上に於ける平和なのです。それこそ、彼が絶えず持ち続けた計画でした。あらゆる人々や、あらゆる政治的指導者たち、さらにあらゆる宗教への訪問、また地上で彼が行った数々の歴訪の旅は、地上に平和をもたらす為の仕事でした。第二バチカン公会議閉会時のパウロ六世も同様です。彼は「私たちは人間の宗教を持っています。」と言いました。ワ~ゥ、私たちは人間の宗教を持っているんですよ。ヨハネ・パウロ二世も「地上に平和!その基礎は人間。さらにそれをもたらす手段も人間。そしてこの地上に於ける平和の目的も人間なのです。」と言っています。

 要するに私たちの希望の中心にあるのは人間であって、もはや天主ではないのです。(カトリック教義に拠れば)超自然徳なる希望の徳の手段とは恩寵、つまり天主の助けです。こちら(ヨハネ・パウロ二世の希望に関する教え)に拠れば、私たちは地上に於ける平和を、その手段である人権の承認によって獲得するというのです。

 何故ヨハネ・パウロ二世は全ての宗教の関係者を招集したのでしょうか?彼の目的とは、今から言う事は例の本に引用されていますが、「私たちは宗教及び宗教指導者たちが仲良く一緒に祈るようにすべきです。そうすれば、これらの異なった宗教を世界が目の当たりにする時、私たちは平和をもたらす事が出来きます。それから今度は、それによって(異なる宗教を信奉する)異なる国々も平和をもたらせるのです。」というものです。ですからアシジに於ける祈祷集会や、その他これに類似した集会は、私たちが地上に平和をもたらせるという事を証明する、持ってこいの証拠なのです。その結果、ヨハネ・パウロ二世が言うところの希望とは人間的希望であり、超自然的な希望、つまり対神徳としての希望ではありません。


 終わりに当たって、“愛(愛徳)”についてお話します。隣人に対する貴方の愛徳の印とは、彼らを天主に連れて行く事です。イエズス様は「諸国に行って教えなさい。」と言いました。諸国を回心させ、教える為に、私たちは主イエズス・キリストを説かなければなりませんし、この人々を主イエズス・キリストに連れて行かなければならないのです。それこそが教会の歴史であり、イエズス様の生涯なのです。例の本の中には、どれ程ヨハネ・パウロ二世がこれ(隣人に対する真の愛徳)を実践しなかったかを示す一例があります。彼の全般的な基本方針は、「全ての宗教を尊重しなさい。」というものです。もちろんこれらの人々を尊重しなければなりませんよ。私はユダヤ教徒やイスラム教徒にも会いますし、彼に対して親切にし、尊重しなければなりません。さらに人間である彼に敬意の印を示さなければならないのです。ただし、彼が持っている間違いを尊重する事は私に許されていません。患者を診察する医師も同様で、彼はこの患者を尊重しますが、患者を蝕んでいる病気を尊重などしませんね。この本はヨハネ・パウロ二世に関する特殊な事例とユダヤ教に言及しています。


 それでは皆さんへの質問なのですが、ユダヤ人の宗教(ユダヤ教)は何時始まったでしょうか?(Cさんが、「6000年以上前でしょうか?」と答える)

 ユダヤ教という宗教は、旧約時代の宗教です。ユダヤ宗教は、メシア、つまり救い主の準備していました。律法、予言、犠牲(いけにえ)などの全ては「来たるべき救い主に相応しく自らを準備せよ。」と告げていたのです。それから救い主であるイエズス様が来られました。そして彼は「私は救い主である。私はメシアである。この到来は四千年間告げられてきた。」と言いました。またイエズス様は「アブラハムは私を見た。モーゼは私について話している。聖書を読みなさい。それは私について語っている。」と言ったのです。これはイエズス様がユダヤ人と行った議論であって、イエズス様が教えようと試みた事なのです。


 では次の質問です。ユダヤ宗教(ユダヤ教)は依然として継続しているでしょうか、それとも終わっているでしょうか?もし終わっているなら、何時終わったでしょうか?(「終わっている」と言う答えが聞こえる)

 そうです、ユダヤ教は旧約の宗教です。では旧約はどの瞬間に終わったのでしょうか?(Bさんが「聖霊降臨の瞬間」と答える。またAさんは「<タントゥムエルゴの第一節Et antiquum document Novo cedat ritui:古の式は過ぎ去って新しい祭式にならんことを‐訳者補足及び試訳>から考えて)最後の晩餐に主が御聖体を制定した瞬間ではないでしょうか」と答える。さらにEさんが「イエズス様が亡くなって後、神殿の幕が裂けた瞬間です」と答える)

 そうです、イエズス様が亡くなられた時、神殿の幕が裂けました。つまり、神殿の幕が裂けた事こそが、旧約のお終わりを告げる印(瞬間)だったのです。いいですか?旧約(Old Testament)とは、(古い)遺書を意味します。先程誰か最後の晩餐と答えましたね、それ(制定された御聖体)はイエズス様の犠牲でした。そしてその時点は一種の(新約と旧約の間の)重複があった瞬間です。いいですか?では、よろしければ遺書を考えてください。貴方は御自分の全財産を記したリストを作りますね。そして「私が死んだら、この家はこの子に、私の車はこの子に与えます。」と書いて、自分の所有物を分配しますね。さらに2011年5月2日というふうに日付を入れます。しかし貴方は5年してから、別の遺書を書くかもしれません。何故なら新たに子供が生まれたとか、家を買い替えたからとか、他にも様々な理由があるでしょう。では貴方が新しい遺書を書くとしたら、古い遺書はどうなるのでしょうか?この人が亡くなった場合、どちらが有効なのでしょうか?(Bさんが「5年後に書いたものです。」と答える)

 何故でしょう? (「書き直されたからです。」とBさんが答える)

 そうです、書き直されているからです。日付も例えば2017年となっていて、前のものは2011年に書かれています。よって、2011年に書かれた遺書はもう役に立たないので、貴方はそれを破棄します。また旧約の例として、ここでは遺書の他に契約書があります。旧約に於いて天主は契約(contract)を結びました。英語では他にcovenantという言葉もあります。つまり取引をした訳です。「私はお前たちの天主であり、お前たちは私の民である。もしお前たちが私に従順であれば、私はお前たちを守ろう。」と言うものです。モーゼは言っています「天主は私の様な予言者を別に送るだろう。彼に従いなさい。もし彼に従わなければ、天主は貴方がたを拒絶するだろう。」と言いました。一宗教としてのユダヤ教とは、民族としてのユダヤ人の宗教ではなく、旧約の宗教に従う人々の宗教です。この宗教はもはや役に立ちません。何故なら救い主は到来しましたし、イエズス様が「私は律法を廃止する為に来たのではなく、それを完成する為に来た。」と言われているからです。

 しかしヨハネ・パウロ二世は「ユダヤ教は未だに現行の宗教であり、ユダヤ人たちは旧約の末裔なのです。」と言っているのです。それに対して「違います。それは終わった宗教です。この宗教は救い主を拒絶しました。」と私たちは答えます。次に彼は教えています。

 彼は第二バチカン公会議によるもう一つの教義を教えました。つまりユダヤ人たちが旧約に従っている一方、私たちは新約に平行して従っているのだというものでした。しかし、平行して従っているのではなく、古いものの後に来た新しいものに従っているのです。何故「旧」と「新」の言葉を使うのでしょうか?それは「新」が「旧」の後に来るからです。これが列福に反対して私たちがローマに提出した異議の短い要約であり、結局彼らが検討を望まなかったものです。ただしこの中には、対神徳なる信仰、希望、愛とは別の、ヨハネ・パウロ二世が持っていた信仰、希望、愛の概念を裏付ける何千もの文書があります。


 質問は御座いますか?(Fさんが、「バチカンにはヨハネ・パウロ二世のこのような考え方に反対する方はおられるのですか?」と質問する。)

 例の本をランジット枢機卿様に差し上げた時は嬉しかったですよ。それは6日前の先週月曜日でした。彼はあの本を手に取って「そうです。私は賛成しません。だからこそローマに行かなかったのです。」と仰いました。彼は枢機卿ですよ。それにもかかわらず一枢機卿が(ローマに対して)「いいですか、皆さんがあの本を読む事を希望します。他の理由から、おそらくヨハネ・パウロ二世は良い方でしたでしょうが、これらの事を考慮するなら、教皇として彼はカトリックたちの良い模範ではありませんでした。」と声を上げたのです。ローマには依然として反対する方々が前にも増して存在していると考えられます。ただしそこには大きな戦いがあるのです。

(Bさんが「有効、無効と言う概念を用いていいのか良く分かりませんが、聖ピオ十世会はヨハネ・パウロ二世の列福を有効とお考えですか、それとも無効とお考えですか?」と質問する)

 勿論私たちはそれに異議を唱えています。私はどちらかと言えば有効ではないと思います。今まで御説明した事を考慮すれば、彼らは列福の審議を急ぎ過ぎましたし、彼らは私たちの異議や指摘について何も知ろうとしません。これはカトリック教会が持つ通常の分別ではないのです。

(Cさんが「過去の教会史から視ますと、列福あるいは列聖が撤回されたという例もあったと思いますが、ヨハネ・パウロ二世の事例でもそれが起こり得るのではないでしょうか?」と聞く。)

 第二バチカン公会議前に、そういう事が実際にあったのかどうか私は良く知りません。私はそういう事を聞いた事がありません。むしろそういう事はなかったと思います。ただし、第二バチカン公会議は何人かの聖人たちを削除しました。これは第二バチカン公会議が行った事なのです。彼らは聖クリストファーや聖フィロメナ、ユダヤ人に殺された少年を削除しました。第二バチカン公会議前ならば、列聖の前は非常に厳粛なものでしたよ。聖ピオ十世についてお読み下さい。誰かを列聖する前、彼は何週間も、何ヶ月も断食と祈り、そして協議を繰り返しました。何故なら、これから自分は不可謬の行為(列聖宣言)を行うのだと彼には分かっていたからなのです。列聖(或いは列福)とは非常に厳粛なものだったのです。聖ピオ十世は11年間教皇に在位しました。そしてこの11年の間に、6人の列聖と10人の列福を行ったと思います。ヨハネ・パウロ二世はおよそ500人の列聖を行い、さらに1300人の列福を行ったのです。それは彼に先立つ264人の教皇たちが行った以上のものでした。


(Cさんが説明する:「何故こういう質問をしたかと申しますと、アシジでの問題<諸宗教平和祈祷集会>がありましたが、彼が祭壇にある十字架を覆わせるという信仰を否定するような行為を許した事は異端に当たると考えています。しかもそれは現行の教会法でもやはり異端的行為と判断され得るので、この様な異端的行為を許した教皇様を<異端者と見做し>今回の列福を取り消す事は可能ではないかと考えたからなのです」)


 それは違います。彼の行為は異端というよりはむしろ躓きを与える行為でした。彼は(他宗教の手前)カトリック信仰(の表明)を恥じていたのです。つまりそれを隠していました。ただしこれは別な異議の例となります。( . . . )それではこの辺で終わりに致しましょう。

( 祈りを以って終了する。)


2011年のシャルトル・パリの巡礼の写真の続きをご紹介します

2011年06月17日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 2011年のシャルトル・パリの巡礼の写真の続きをご紹介します。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


聖ピオ十世会 聖霊降臨恒例のシャルトル・パリ巡礼 SSPX Pilgrmage of Tradition

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