アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
教皇が異端に陥ることがあり得るか?という問いは、一見、おもしろくない問いかけです。
何故なら、カトリック教会は教皇の不可謬性(infaillibility)を信仰箇条としているからです。
ところで、教皇の不可謬性を誤解することによって、もっと悲惨なことを信じるようになってしまいます。
たとえば、エコロジー問題とか、同性愛容認とか、女性聖職者とか、死刑反対についてとか、エキュメニズムとか、司教団体制とか、今、現在、カトリック教会で流行している内容についてです。聖書と聖伝とによらない教えで第二バチカン公会議以後に流行している新しい教えについてです。
教皇が教えたからと言って、あるいは、第二バチカン公会議が宣言したからと言って、聖書と聖伝とによらない(さらには聖書と聖伝とに反対する)教えを、「不可謬」と考えることができるのか?という問題です。
カトリック聖伝の立場は、はっきりしています。第二バチカン公会議には「不可謬宣言」が無かった、です。従って、第二バチカン公会議以後の新しい教えは、私たちには信じる義務がありません。
カトリック教会の「保守派」と呼ばれる人々は、教皇の不可謬性、あるいは公会議の不可謬性を御旗に、カトリック聖伝を「不従順」であると攻撃します。
あるいは、教皇の不可謬性、あるいは公会議の不可謬性を御旗に、教皇は教皇ではない、と主張する人々もいます。教皇座空位論を主張する人々です。彼らも、カトリック聖伝を攻撃します。
そこで、では一体、カトリック教会は、教皇の不可謬性について、どのように理解しているのでしょうか?
第一バチカン公会議は、その憲章『パストル・エテルヌス Pastor Aeternus』で、教皇の不可謬性を宣言しました。
この公文書に関するカトリック教会の公式の解釈はどのようなものでしょうか?
公会議の公式スポークスマン(代弁者・報告長官)の任務についていたヴィンチェンツ・ガッサー司教(Bishop Vinzenz Gasser, 1809 - 1879)は、第一バチカン公会議の間、有名な四時間にわたる話しをしました。
このラテン語の講話の内容は、英語に訳されて出版されています。The Gift of Infallibility: The Official Relatio on Infallibility of Bishop Vincent Ferrer Gasser at Vatican Council I – July 1, 2008 by James T. O'Connor
あるいは、別の場所でもインターネット上でも読むことが出来ます。Official Relatio of Bishop Vincent Ferrer Gasser delivered at the First Vatican Council
この中で、ガッサー司教はこう発言します。
「(…)この議場で為された最も重大な反対意見は、私たちが、神学の特定の学派の極端な意見をカトリック信仰のドグマとすることを望んでいるのではないか、という意見である。じつにこれは極めて重大な反対意見であり、私はそれを立派な極めて尊敬されている発言者の口から聴いた時、悲しく頭をうなだれ、話す前に何を言おうかと考えた。天主よ、御身は私たちの心と舌とをそれほどまでに混乱させ、特定の学派の極端な意見、ベラルミンがフランスの聖職者のした宣言の第四命題の著者として出したものをドグマの尊厳までに挙げようと推進していると私たちが思われているほどなのだろうか?(…)
公会議草案の中に入れられた教義いついて言えば、代議は不当にも極端な意見をドグマの尊厳にまで高めようとしていると告発されている。この極端な意見とは、すなわち、アルベルト・ピギウスのものであり、ベラルミンが「敬虔で蓋然的」と呼ぶピギウスの意見によると、「教皇は、個人として、或いは、私的な教師として、無知の一種からは誤りうるが、しかし異端に陥ることや異端を教えることは決して出来ない」というものである。
別の諸点について何も言わず、発言者の教父によって為された引用でも、また、ベラルミン自身が次の言葉でピギウスの意見について発言していることからも、つまり『教皇は教皇として誤ることが出来ないのみならず、さらに特定の人としてさえ、信仰に反対の何かを頑固に信じることによって異端であることはできない。」というベラルミンの言葉からも、このことが明らかであると言わせてもらいたい。
ここから、公会議憲章のこの章に提示されている教義は、アルベルト・ピギウスの教えでもなければ、いかなる学派の極端な意見でもない。そうではなく、発言者の教父によって引用された場所においてベラルミンが教え、またベラルミンが第四の場所に主張し彼が最も確かで確実であると呼んだ、いやむしろ、ベラルミンが自分を訂正して、最も共通で確かな意見であると呼んだその同じ一つの教えであります。」
040. (…)Now before I end this general relatio, I should respond to the most grave objection which has been made from this podium, viz. that we wish to make the extreme opinion of a certain school of theology a dogma of Catholic faith. Indeed this is a very grave objection, and, when I heard it from the mouth of an outstanding and most esteemed speaker, I hung my head sadly and pondered well before speaking. Good God, have you so confused our minds and our tongues that we are misrepresented as promoting the elevation of the extreme opinion of a certain school to the dignity of dogma, and is Bellarmine brought forth as the author of the fourth proposition of the Declaration of the French Clergy? (…)
As far as the doctrine set forth in the Draft goes, the Deputation is unjustly accused of wanting to raise an extreme opinion, viz., that of Albert Pighius, to the dignity of a dogma. For the opinion of Albert Pighius, which Bellarmine indeed calls pious and probable, was that the Pope, as an individual person or a private teacher, was able to err from a type of ignorance but was never able to fall into heresy or teach heresy.
To say nothing of the other points, let me say that this is clear from the very words of Bellarmine, both in the citation made by the reverend speaker and also from Bellarmine himself who, in book 4, chapter VI, pronounces on the opinion of Pighius in the following words: "It can be believed probably and piously that the supreme Pontiff is not only not able to err as Pontiff but that even as a particular person he is not able to be heretical, by pertinaciously believing something contrary to the faith."
From this, it appears that the doctrine in the proposed chapter is not that of Albert Pighius or the extreme opinion of any school, but rather that it is one and the same which Bellarmine teaches in the place cited by the reverend speaker and which Bellarmine adduces in the fourth place and calls most certain and assured, or rather, correcting himself, the most common and certain opinion.
つまり、
公会議憲章のこの章に提示されている教義は、アルベルト・ピギウスの教えでもなければ、いかなる学派の極端な意見でもない、です。
カミロ・マゼッラ枢機卿(Cardinal Camilo Mazzella, 1833-1900)も、次のように言います。
「ローマ教皇が聖座から(エクス・カテドラ)話すとき異端を教えることが出来ないということ(第一バチカン公会議が定義したこと)と、個人として教皇が異端に陥ることが出来ない、つまり、異端になることが出来ない、ということとは別のことである。この最後の問いについて、第一バチカン公会議は何も言わなかった。神学者や教会法学者たちはこのことについて一致していない。」
“(…) it is one thing that the Roman Pontiff cannot teach a heresy when speaking ex cathedra (what the council of the Vatican defined); and it is another thing that he cannot fall into heresy, that is become a heretic as a private person. On this last question the Council said nothing, and the theologians and canonists are not in agreement among themselves in regard to this.”
"Notari secundo esset, aliud Romani Pontificem ex cathedra loquentem non posse haeresin docere (quod Vat. Con. definivit) ; aliud eum non posse in hearesim incidere seu uti privatam personam haereticum fieri. De hac quaestione nihil dixit Concilium. Theologi autem et Canonistae non conveniunt inter se."
[Card. C. Mazzella, De religione et Ecclesia, Sixth Edition, (Prati: Giachetti, filii et soc., p. 817, n. 1045]
この項は続きます。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
愛する兄弟姉妹の皆様、
教皇が異端に陥ることがあり得るか?という問いは、一見、おもしろくない問いかけです。
何故なら、カトリック教会は教皇の不可謬性(infaillibility)を信仰箇条としているからです。
ところで、教皇の不可謬性を誤解することによって、もっと悲惨なことを信じるようになってしまいます。
たとえば、エコロジー問題とか、同性愛容認とか、女性聖職者とか、死刑反対についてとか、エキュメニズムとか、司教団体制とか、今、現在、カトリック教会で流行している内容についてです。聖書と聖伝とによらない教えで第二バチカン公会議以後に流行している新しい教えについてです。
教皇が教えたからと言って、あるいは、第二バチカン公会議が宣言したからと言って、聖書と聖伝とによらない(さらには聖書と聖伝とに反対する)教えを、「不可謬」と考えることができるのか?という問題です。
カトリック聖伝の立場は、はっきりしています。第二バチカン公会議には「不可謬宣言」が無かった、です。従って、第二バチカン公会議以後の新しい教えは、私たちには信じる義務がありません。
カトリック教会の「保守派」と呼ばれる人々は、教皇の不可謬性、あるいは公会議の不可謬性を御旗に、カトリック聖伝を「不従順」であると攻撃します。
あるいは、教皇の不可謬性、あるいは公会議の不可謬性を御旗に、教皇は教皇ではない、と主張する人々もいます。教皇座空位論を主張する人々です。彼らも、カトリック聖伝を攻撃します。
そこで、では一体、カトリック教会は、教皇の不可謬性について、どのように理解しているのでしょうか?
第一バチカン公会議は、その憲章『パストル・エテルヌス Pastor Aeternus』で、教皇の不可謬性を宣言しました。
この公文書に関するカトリック教会の公式の解釈はどのようなものでしょうか?
公会議の公式スポークスマン(代弁者・報告長官)の任務についていたヴィンチェンツ・ガッサー司教(Bishop Vinzenz Gasser, 1809 - 1879)は、第一バチカン公会議の間、有名な四時間にわたる話しをしました。
このラテン語の講話の内容は、英語に訳されて出版されています。The Gift of Infallibility: The Official Relatio on Infallibility of Bishop Vincent Ferrer Gasser at Vatican Council I – July 1, 2008 by James T. O'Connor
あるいは、別の場所でもインターネット上でも読むことが出来ます。Official Relatio of Bishop Vincent Ferrer Gasser delivered at the First Vatican Council
この中で、ガッサー司教はこう発言します。
「(…)この議場で為された最も重大な反対意見は、私たちが、神学の特定の学派の極端な意見をカトリック信仰のドグマとすることを望んでいるのではないか、という意見である。じつにこれは極めて重大な反対意見であり、私はそれを立派な極めて尊敬されている発言者の口から聴いた時、悲しく頭をうなだれ、話す前に何を言おうかと考えた。天主よ、御身は私たちの心と舌とをそれほどまでに混乱させ、特定の学派の極端な意見、ベラルミンがフランスの聖職者のした宣言の第四命題の著者として出したものをドグマの尊厳までに挙げようと推進していると私たちが思われているほどなのだろうか?(…)
公会議草案の中に入れられた教義いついて言えば、代議は不当にも極端な意見をドグマの尊厳にまで高めようとしていると告発されている。この極端な意見とは、すなわち、アルベルト・ピギウスのものであり、ベラルミンが「敬虔で蓋然的」と呼ぶピギウスの意見によると、「教皇は、個人として、或いは、私的な教師として、無知の一種からは誤りうるが、しかし異端に陥ることや異端を教えることは決して出来ない」というものである。
別の諸点について何も言わず、発言者の教父によって為された引用でも、また、ベラルミン自身が次の言葉でピギウスの意見について発言していることからも、つまり『教皇は教皇として誤ることが出来ないのみならず、さらに特定の人としてさえ、信仰に反対の何かを頑固に信じることによって異端であることはできない。」というベラルミンの言葉からも、このことが明らかであると言わせてもらいたい。
ここから、公会議憲章のこの章に提示されている教義は、アルベルト・ピギウスの教えでもなければ、いかなる学派の極端な意見でもない。そうではなく、発言者の教父によって引用された場所においてベラルミンが教え、またベラルミンが第四の場所に主張し彼が最も確かで確実であると呼んだ、いやむしろ、ベラルミンが自分を訂正して、最も共通で確かな意見であると呼んだその同じ一つの教えであります。」
040. (…)Now before I end this general relatio, I should respond to the most grave objection which has been made from this podium, viz. that we wish to make the extreme opinion of a certain school of theology a dogma of Catholic faith. Indeed this is a very grave objection, and, when I heard it from the mouth of an outstanding and most esteemed speaker, I hung my head sadly and pondered well before speaking. Good God, have you so confused our minds and our tongues that we are misrepresented as promoting the elevation of the extreme opinion of a certain school to the dignity of dogma, and is Bellarmine brought forth as the author of the fourth proposition of the Declaration of the French Clergy? (…)
As far as the doctrine set forth in the Draft goes, the Deputation is unjustly accused of wanting to raise an extreme opinion, viz., that of Albert Pighius, to the dignity of a dogma. For the opinion of Albert Pighius, which Bellarmine indeed calls pious and probable, was that the Pope, as an individual person or a private teacher, was able to err from a type of ignorance but was never able to fall into heresy or teach heresy.
To say nothing of the other points, let me say that this is clear from the very words of Bellarmine, both in the citation made by the reverend speaker and also from Bellarmine himself who, in book 4, chapter VI, pronounces on the opinion of Pighius in the following words: "It can be believed probably and piously that the supreme Pontiff is not only not able to err as Pontiff but that even as a particular person he is not able to be heretical, by pertinaciously believing something contrary to the faith."
From this, it appears that the doctrine in the proposed chapter is not that of Albert Pighius or the extreme opinion of any school, but rather that it is one and the same which Bellarmine teaches in the place cited by the reverend speaker and which Bellarmine adduces in the fourth place and calls most certain and assured, or rather, correcting himself, the most common and certain opinion.
つまり、
公会議憲章のこの章に提示されている教義は、アルベルト・ピギウスの教えでもなければ、いかなる学派の極端な意見でもない、です。
カミロ・マゼッラ枢機卿(Cardinal Camilo Mazzella, 1833-1900)も、次のように言います。
「ローマ教皇が聖座から(エクス・カテドラ)話すとき異端を教えることが出来ないということ(第一バチカン公会議が定義したこと)と、個人として教皇が異端に陥ることが出来ない、つまり、異端になることが出来ない、ということとは別のことである。この最後の問いについて、第一バチカン公会議は何も言わなかった。神学者や教会法学者たちはこのことについて一致していない。」
“(…) it is one thing that the Roman Pontiff cannot teach a heresy when speaking ex cathedra (what the council of the Vatican defined); and it is another thing that he cannot fall into heresy, that is become a heretic as a private person. On this last question the Council said nothing, and the theologians and canonists are not in agreement among themselves in regard to this.”
"Notari secundo esset, aliud Romani Pontificem ex cathedra loquentem non posse haeresin docere (quod Vat. Con. definivit) ; aliud eum non posse in hearesim incidere seu uti privatam personam haereticum fieri. De hac quaestione nihil dixit Concilium. Theologi autem et Canonistae non conveniunt inter se."
[Card. C. Mazzella, De religione et Ecclesia, Sixth Edition, (Prati: Giachetti, filii et soc., p. 817, n. 1045]
この項は続きます。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)