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2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

ファチマの聖母像が訪問したところはどこでも平和の奇跡の数々が起こった:実話紹介

2017年09月29日 | ファチマ
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今から70年前の1947年、ファチマの聖母像は世界中を「巡礼」して回りました。その時に起こった平和の奇跡の数々をご紹介します。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【スペイン】
第二次世界大戦直後のファチマ御出現30周年、ファチマの聖母の世界訪問が始まりました。最初はスペインを通ります。多くの告解、聖体拝領、聖母行列、ロザリオ、償いの聖時間、聖母の汚れなき御心への奉献、などがなされました。1948年5月、最後に首都のマドリッドに到着すると市民から凱旋的な大歓迎を受けました。マドリッドの司教は、感謝の手紙の中で、ファチマの聖母がマドリッド司教区に入ると150万人の信者も未信者も皆聖母の前に集まり、泣き、祈り、聖歌を歌った、かつてこのようなことをマドリッドで見たことがない!と書いています。

1953年、聖座とスペインとは政教条約を結び、スペイン国家の唯一の宗教はカトリックの宗教であることを認めました。1954年フランコ将軍はスペイン国家の名前に置いてスペインを聖母の汚れなき御心に奉献しました。

【フランス】
1943年、フランスの司教たちは自分の司教区を聖母の汚れなき御心に奉献しました。
ファチマの聖母像がフランスを訪問する間、テアス司教(Bishop Theas)によると、「フランスの全くの回心」がありました。

【カナダ】
1947年6月18日から22日、カナダのオタワに着いたファチマの聖母像は盛大な歓迎を受け、6月22日に司教たちは50万人以上の信徒たちの前でカナダを聖母の汚れなき御心に奉献しました。

【アメリカ】
1947年12月8日、アメリカのバッファローの司教座聖堂で20万人以上の巡礼者たちから歓迎を受けたファチマの聖母は、アメリカ全土を訪問して回りました。アメリカでは、その後数万人が毎年カトリックの洗礼を受けるようになりました。例えば1949年だけで12万人の成人がカトリックに改宗しています。

【イギリス】
英語圏では、特に頻繁に活動していた共産主義者たちがカトリックに回心しました。例えば英国人のダグラス・ハイド(Douglas Hyde, 1911 - 1996)やハミッシュ・フレイザー(Hamish Fraser)などがいます。(このダグラス・ハイドはアイルランドの初代大統領とは別人です。)
「私たちカトリックが私たちの責任を完全に受け入れ始めるとき、共産主義は、アリウス派の異端が今では影響力がないように、同じく影響力がなくなるだろう。私の意見によると、ファチマは20世紀において最も重要な、もしかしたら500年前の宗教改革以来最も重要な出来事である。」("When we Catholics begin fully accepting our responsibilities, Communism will become as ineffectual as the Arian heresy … In my humble opinion, Fatima is the most significant event of this century, perhaps the most significant one since the Reformation," Hamish Fraser, 1952).

【韓国】
朝鮮戦争中の1953年、ストラムスキ神父(Father Matthew Strumski)해병대 소속 군종신부は、海兵隊の従軍司祭は重い軍靴を履きながら、ファチマの聖母像を持って韓半島を動いていました。このファチマの聖母像の前で、どれほど多くの徹夜の祈りの回が開かれ、祈祷集会の儀式が行われたことでしょうか。

ストラムスキ神父はポーランド系の米国移民で幼い頃小児麻痺を患い、命はもうないと思われていました。母親は息子のために聖母に熱心に祈り、奇跡的な治癒を得ました。
ミシガン州の神学校で学び、1948年にカッシディ司教により司祭に叙階されました。司祭叙階3年後、米軍の従軍司祭として志願し、太平洋で2年間、次に韓国でに2年働きました。

朝鮮戦争が長引く中、また神父は休暇中に、韓国の9つの司教区をファチマの聖母像をもって訪問し回りました。各司教区で司教様たちに会い、戦争が終わるように聖母に祈りました。「祈りは戦争を止めさせることができると私は信じていました。」

1953年3月26日、韓国の司教評議会に招かれたストラムスキ神父は、ファチマの聖母への祈りが大切なことを訴え、その日、司教たちは韓国を聖母の汚れなき御心に奉献します。
1953年4月5日、パウロ盧基南(ソウル大司教)は、板門店の近くでファチマの聖母像の祝別式があった折に、ブルー・アーミーの最初の会員になりました。

4月19日以降、ストラムスキ神父は韓国の難民の多くいた主要都市にファチマの聖母をもって、皆と多くのロザリオを祈りました。

4月30日付けで、ストラムスキ神父はアメリカに帰国命令を受けます。
しかし、この4ヶ月後、1953年7月27日朝鮮戦争は停戦となりました。

【次のビデオの29分08秒ごろ から 31分14秒ごろまでにその話が出てきます。】




ストラムスキ神父の後継者として10年後、すでに1958年に韓国に来ていたドイツ人司祭のアントニオ・トラウナー神父(Fr. Anton Trauner)が司教の許可を得て、1964年から韓国にブルー軍団(Blue Army)を設立するために働きました。

【オーストリア】
オーストリアは、第二次世界大戦後、ソビエトの占領下に置かれました。しかしオーストリアの国民たちは毎日ロザリオを唱えることを聖母に約束し、100万名が約束の署名をしました。
ペトルス・パフリチェク神父は捕虜だった時にファチマの聖母について知り、1947年2月2日、マリアツェルへの巡礼の途中、聖母からの声を聞きました。「もしも私がいうことを行うなら多くの霊魂は救われ、平和が来るでしょう」と。そこで1949年からロザリオの十字軍をオーストリアで起動させました。
突然1955年5月13日、モスクワはオーストリアを独立させると突然宣言しました。当時オーストリア首相だったユリウス・ラアブ(Julius Raab)は、これをファチマの聖母のおかげだと断言しています。

【聖ピオ十世会】
私たちは、2017年7月17日東京で、8月15日大阪で、9月24日ソウルで、ファチマの聖母と共に平和のためにロザリオを祈りました。




聖ピオ十世会では、ソウルで世界平和を祈願してファチマの聖母行列を行いました(2017年9月24日)

2017年09月29日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 今日は、大天使聖ミカエルの祝日です。おめでとうございます。

 9月24日、ソウルでは主日のミサの後、聖ピオ十世会(한국성비오10세회)はソウルの聖堂から殉教聖地の切頭山までファチマの聖母行列の巡礼を行いました。

 お昼の12時半頃聖堂を出て、午後4時半ごろに到着しました。道中、ロザリオを唱えました。

 イエズスをお愛しするため、罪人の回心のため、聖母の汚れなき御心に対して犯される罪を償うため、教皇様のため、また世界平和のためにこれを御捧げしました。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)







































聖霊降臨の大祝日のお説教 「教会はなぜ聖霊降臨の大祝日を祝うのか?その典礼の意味とは?」

2017年09月28日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2017年6月4日(主日)に東京で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2017年6月4日(主日)聖霊降臨の大祝日のミサ
小野田神父 説教


聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。

今日は2017年6月4日、聖霊降臨の大祝日です。

今日この御ミサの後に14時30分頃、公教要理の続きで聖書について話を、特に聖地の地理についての話をしたいと思っています。

16時からは聖霊降臨の晩課があります。今月は6月18日にもミサがあります。

ミサの予定の次にお知らせがあります。

今度7月16日の海の日に、マーチ・フォー・ライフというのが東京で行われます。

それを皆さんと一緒に、多くの方が今年は参加して下さるようにという事で呼び掛けをします。

特に日本では私たちはいつも「聖母行列をしたい、ファチマのマリア様の聖母行列をしたい」と望みながらも、なかなかその機会がありませんでしたが、そのマーチ・フォー・ライフの代表の方の賛成と同意とを得て、今年はファチマのマリア様を一緒にお連れして聖母行列がする事ができるようになりました。

日本でファチマの聖母行列をして、特に胎内で、お母様の胎内で今亡くなっている子供たちの罪を償う為にも、マリア様をお慰めする為にも、皆さんと聖母行列ができたらと思っています。

そこでもしもマリア様の聖母行列にたくさんの方が来る事ができるように、皆さんのご協力があれば、たくさんの方を呼んで下さればと思います。



「聖霊来たり給え。」
“Veni Sancte Spiritus”

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日は聖霊降臨の大祝日です。

そこで、教会が一体何で、この聖霊降臨の大祝日を祝っているのか?この今日の典礼の意義というのは何か?をまず第1点に簡単に見てみます。

第2に、では聖霊降臨の日に一体何が起こったのか?

第3に、では教会が求めているように、教会が今典礼で第2の聖霊降臨として今日、聖霊の賜を私たちが豊かに受けるように求めている、その為にミサが作られたのだけれども、しかしそれをよく受ける為には一体どうしたら良いのか?

そして最後に、私たちは遷善の決心を立てる事に致しましょう。

では教会は、聖霊降臨の祝日をどうやって制定したのでしょうか?

まさにこれは、イエズス様の四旬節、御復活、御昇天、それから聖霊降臨というイエズス様の救霊の贖いの御業を完成させるものとして、御復活の後の50日目に、つまり今日、聖霊降臨の祝日を制定しました。初代からこの祝日があります。復活祭と並んで教会の最も大切な、クリスマスよりも更に大切な祝日としてあります。

ちょうど例えてみるならば、復活祭の時にイエズス様が、「正義の太陽が、あぁ、朝日として上がった、復活された、死の黄泉の国から打ち勝って、罪に打ち勝って上がった」とするならば、聖霊降臨はまさに、「正義の太陽が天の高きに、最も高きに上がって、そして私たちに光と熱とを降して下さる、その光と熱が聖霊である」と例える事ができるかもしれません。

或いは典礼学者の例えによると、「ちょうどイエズス様が復活した時には、ちょうど冬で、冬が終わって何もなくなった大地から芽が出て、そして花が開いた、それが花が開いて綺麗にこの青々とした大地がまた蘇った、それが復活祭だとすると、開いた花が更に実を付けて、豊かな実りとなった、そしてその実りは私たちを楽しませてくれて養ってくれる。この花が咲いている状態が復活祭だとすると、実りを付けて私たちを豊かにしてくれる、この時期が聖霊降臨だ」とも例えています。

もちろん植えられた花というのは、その復活祭の時に花を咲かせるこの花というのは、私たち洗礼を受けた者であって、そして実りを付けるというも私たちの事です。誰がこの木の剪定や世話をして下さるか、水を下さるか、肥やしを下さるかというのは、イエズス様です。

或いは、「復活祭の時には、私たちは洗礼を多く受ける、多くの方が洗礼を受ける時期ですけれども、ちょうど小さな幼子のような赤ちゃんが、ミルクのような真っ白な御聖体を私たちが頂いて、洗礼を受けたばかりの時が復活祭だとすると、母なる公教会が私たちを天国への巡礼者として、或いはこの世を旅するあたかも外国であるかのように、祖国に向かって旅する巡礼者のように、或いは兵士のように強めてくれる、それが聖霊降臨の日だ」と例えられています。

旧約時代では、この典礼学者の説明によればこれは2つの意味がありました。ペンテコステの祭り、つまり五旬祭というのは、モーゼがちょうどエジプトを脱出して50日後、シナイ山の上で十戒の石版を頂いたその日であり、その感謝の祈りであると同時に、ちょうど収穫の時に、パレスチナとか聖地では最初の収穫ができるので、その収穫の感謝のお祝い日でもありました。

これはまさに影でしかありません。本当の現実の、来たるべき実現されるべき影でしかありませんでした。

キリスト教の実現された典礼としては、聖霊が私たちの心に愛の掟を、イエズス・キリスト真の天主を、全てに越えて信じ、愛し、礼拝するというその掟を私たちの霊魂に、この心に深く刻み込んで火を点けて下さった、その感謝の祝日であり、また同時に霊的な実り、豊かな収穫を感謝するこの祝日でありました。物体的な物理的なものから、霊的なものへと新約では移行されています。

イエズス様は、私たちを「決してみなし子にはしない。孤児にはしない」と言って、慰め主を弁護者を送って下さる、パラクリトスを送って下さる、と約束されました。そして約束された通りに、私たちには別の代弁者、弁護者、慰め主が与えられました。これこそが聖霊です。そして聖霊は私たちの心にいつも住まわっています。

ところが今日、特にその多くの恵みと、愛と、光と、真理と、善の恵みを持って今日、皆さんの心に満ち溢れようとしています。そしてそれがよくできるように、今日カトリック教会は典礼を、聖霊降臨の大祝日の典礼を定めました。指定巡礼教会は聖ペトロ大聖堂で、これはラテラノ大聖堂がローマの教会だとすると、聖ペトロ大聖堂は諸国の為の全カトリック教会の為の普遍の教会の代表です。そこに私たちが集まって霊的に集まって、聖霊の賜を受ける事を望んでいます。ですから私たちも今日は霊的に、聖ペトロ大聖堂に馳せ参じる事に致しましょう。

では第2のポイントで、一体聖霊降臨の日には何があったのでしょうか?

イエズス・キリスト様は目に見えるかしらとして、この地上で聖ペトロに自分の代理者として教会を、「お前の上に教会を建てる」と約束し、そしてその全てを教えた後に、自分は栄光ある復活体として天に上がられました。肉体と霊魂をもって天に上がられました。確かに御聖体として地上に残るのですけれども、しかしそれはある意味で、その御姿はイエズス様だとは目に見えない形で、パンの形で残られました。これは私たちの罪の償いとして、犠牲として、また私たちへの霊的な糧として残られました。

教会の指導を実はイエズス様は、聖霊に任せようと思いました。ピオ十二世教皇様の「ミスティチ・コルポリス」という回勅の教えによると、「イエズス・キリスト様はキリストの神秘体のかしらであって、私たちはその体の一部、肢体であって、しかしその神秘体を生かしている霊魂は、聖霊だ」と言います。もしも肉体が霊魂と離れてしまっては、これは死を意味します。私たちを1つにまとめて生かして、そして主への愛に活動させているのは聖霊です。

この私たちの神秘体を生かす為に、イエズス様の御復活50日後、つまりイエズス様の御昇天の10日後、弟子たちが最後の晩餐の高間でお祈りをしている間に、マリア様を中心にお祈りをしている間に、突然、朝の9時頃、大きな音がしました。家がガタガタ揺れだしれたのです。風の音がしました。「地震かなぁ?」と思われました。「何でこんなに揺れているんだろう?」するといきなり、舌べらの形をした炎がまずマリア様の上に現れて、そこから使徒たちに、そこから弟子たちに、120名ほど集まっていた弟子たちに伝わりました。

するとこの弟子たちは聖霊に満たされて、諸国の言葉で主の偉大な業を語り出しました。「一体これは何が起こったのか?」と、その時五旬祭の巡礼に来ていた色々な人たちが、色々な国の人たちが、最後の晩餐の高間の周りに集まって、人がワイワイと集まって来ました。

「一体何事だ?」「何でこんな事が起こっているのか?不思議だ。」

するとペトロが家の前にやって来て、「皆さん、イエズス様は復活されました。昇天されました。そして今日聖霊を送って下さいました。皆から捨てられた石が、隅の親石となりました。」

すると皆はびっくりして、「一体何の事だろうか!?この彼らは学問のない、ガリレアから来た漁師ではないか。何で私たちが、その自分の生まれた故郷の国の言葉を聞く事ができるのか!?」

ちょうど色々な所から来た人たちが、1つの言葉で語る、天主の讃美をするというのは、「カトリック教会がここで生まれた」という事を意味します。皆の前に誕生して、この世に姿を現したという事を言いますが、そして彼らは聞きました。

「一体私たちは何をしたら良いのでしょうか?」
「悔い改めて、洗礼を受けなさい。そして霊魂を救いなさい。」

その時聖霊のその動きによって、聖霊のお恵みによって、3000名が洗礼を受けました。水と霊によって洗礼を受けました。

では私たちは一体、このミサの典礼によって2017年6月4日、どのようにして教会は私たちに、「この聖霊のお恵みを受ける事ができるように」としているのでしょうか?

これは、このミサに与る事によって、典礼に与る事によってそうです。特にこの御聖体拝領の時には、私たちが舌の形をした火として現れた聖霊を受ける事ができるように、私たちもイエズス様を御聖体をよく受ける事によって、それを聖霊を受ける事を望んでいます。ですから聖体拝領誦もまさに、その「私たちが御聖体を受けると同時に、聖霊を受けるように」という祈りとなっています。

でも教会はイエズス様は、更にもっと良い手段を私たちに下さいました。それは私たちがイエズス様を受ける為に必ず通らなければならなかったその御方、聖霊降臨の時に必ず使徒たちも120名の弟子たちも必ずその方を通して受けなければならなかった、その御方を通す事によって私たちは更に良く聖霊の恵みを受ける事ができる、というその秘密を皆さんに是非知っていただきたいと教会は思っています。一体それはどなたでしょうか?

皆さんもよくご存知のように、聖霊の浄配である汚れなきマリア様です。マリア様はイエズス様が来る為に必ず、聖父・聖子・聖霊が「その方を通さなければならない」とされた方でした。聖父と聖子と聖霊がこの世に聖霊を送る為にも必ず通さなければならなかったのが、マリア様でした。ですからもしも私たちがイエズス様を、そしてイエズス様の愛である聖霊を受けようとするならば、必ずマリア様を通さなければなりません。

神学者の一致した意見によれば、「マリア様は全ての聖寵の仲介者です。全てのお恵みは、マリア様を通して必ず来る」というのがカトリックの一致した教義です。

マリア様はですから、ただ単にイエズス様がお生まれになる時に、或いはイエズス様が十字架の上で付けられる時に、或いは聖霊が降臨する時為だけに仲介者、そのそこを通したのではなくて、世の終わりまで、いつの時代も、必ず全てのお恵みをご自分を通して下さるという事なのです。

この事をファチマでマリア様は子供たちに見せて下さいました。5月13日と6月13日でした。マリア様は両手を広げると、光を子供たちに与えて下さいました。子供たちは光の中に包まれて、そして子供たちは「天主の中に包まれている」という事がよく分かりました。「主の愛と光の中に包まれて生きている」という事を見ました。5月13日と6月13日です。これはマリア様の御手から来ました。

後にトゥイというスペインの修道院でも、シスタールチアは特別のビジョンを見ました。三位一体の聖父・聖子・聖霊のビジョンです。聖父は聖子と非常に似た顔をした、少し年寄りのような顔を姿をしていて、そして手を開げて、その下に十字架に架かる聖子のイメージがありました。そしてその上に聖霊のシンボルであるハトのようなものがあり、そしてイエズス様の両手からは「憐れみ」と「恵み、聖寵」という2つの言葉が書かれていました。そしてイエズス様の胸からは御血が滴り出るのですけれども、その御血は全てカリスの上に注がれて、そのカリスの上には御聖体がありました。御血が御聖体にまず滴りかかり、そして御聖体からポタポタとカリスに流れて、そしてそのカリスから与えられた全ての恵みは、そこのすぐ横にいたちょうどそのマリア様に行き、そしてマリア様からシスタールチアの方にお恵みが行っているのを見ました。

これによって三位一体が教えたかった事は、「贖いの、三位一体の贖いの業、イエズス・キリストの贖いの業は、マリア様を通してでなければ伝えられない。聖霊の恵みも、マリア様を通してでなければ伝えられない」という事です。

そして先月シュテーリン神父様もお話して下さったように、ファチマのマリア様、例えばマリア様が行かれる所ではどこでも、回心や特別のお恵みが溢れました。1950年代に世界中で、カトリック教会でファチマのマリア様の御像がどこもかしこも行きましたが、このマリア様が通った所では特別のお恵みや、回心や、平和が訪れました。洗礼を受ける方が倍増したり、教会の中がカトリックの信仰でいっぱいになった、という話しがエピソードがたくさんありました。

或いはマリア様の不思議のメダイを受けた人は、多くの恵みを受けたり、奇跡的なものを受けたという事が実話がもう本になってたくさんあります。

ですからそれらを見ると、それらの実話を知れば知るほど、確かにマリア様こそ私たちに、聖霊を受ける為の特別の運河として、特別の水道として、チャンネルとして与えられたのだという事が分かります。

どうぞ私たちはこの今日、遷善の決心を立てる事に致しましょう。

今日まず聖霊のお恵みをたくさん豊かに受ける事ができるように、強い望みを持って下さい。聖霊に、「ぜひ来て下さい。聖霊の恵みを私たちに与えて下さい。また私のみならず、私の知人や友人、隣人、或いはこの周りの人たちに全て与えて下さい」と心からお願いして下さい。その為にも御聖体を拝領なさって下さい。心を込めてなさって下さい。

第2には、是非ファチマのマリア様にお願いなさって下さい。マリア様は聖霊の充満を受けた方です。恵みに溢れた方です。聖霊を一度も「嫌だ」と拒否した事がありません。マリア様と聖霊は全く1つとなってしまって、マリア様であるのか聖霊であるか分からないかのように、あたかも聖霊が生きているかのようであるのがマリア様でした。そしてマリア様であります。ですからマリア様に是非、特にこの汚れなき御心に、私たちがたくさん聖霊のお恵みを受ける事ができるようにお祈りなさって下さい。

またもう私たちの心では足りないので、マリア様の汚れなき御心と交換して下さるようにお願い致しましょう。マリア様の汚れなき御心の信心はここにあります。汚れなき御心を以って、私たちの拙い祈りと犠牲を捧げる事によって、聖霊がやりたいと思っていた天主への罪の償いや、罪人たちの回心が果たされるという事です。極めて効果的に果たされるという事です。ではこの為にマリア様を通して、その聖霊のお恵みを乞い求めましょう。

“Veni Sancte Spiritus”

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

シュテーリン神父様 霊的講話-2017年5月7日 ファチマの御出現の後にマリア様がなさった多くの奇跡

2017年09月27日 | お説教・霊的講話
2017年5月7日(主日) シュテーリン神父様霊的講話 東京
同時通訳:小野田圭志神父



午前中のミサでのお説教では、ファチマが護教的な役割を持っている、という事についてお話しました。

ファチマの御出現の後でマリア様がなさった奇跡というのは、太陽の奇跡よりももっと素晴らしいものでした。何故かというと、ファチマの御出現が終わった後には世界中に知られるようになったからです。マリア様の御像が作られて、そしてこの御像を持って巡礼の聖母の習慣ができました。

どういう仕組みになっているかというと、「巡礼のファチマ像がここの教区に来ます」という事を司祭が皆さん信徒の方々に言うと、そのマリア様が来られる時に、「一体ファチマでマリア様が何を仰ったのか」「何をご要求なさったのか」「それで私たちはそれにどう応えたら良いか」という事を司祭が皆さんに説明する機会となります。

ファチマの御出現後15年間は、ポルトガルの人しか知りませんでした。ポルトガルはしかも150年以上、フリーメーソンというキリスト教教会に反対する政府の下にありました。ファチマのマリア様が御出現なさるその時まで、ポルトガルの政治的なそして宗教的な状況は、今まさに教会がこのまま潰れるその直前でした。そこでフリーメーソンのポルトガル政府は、ファチマのマリア様を迫害しようと一生懸命になっていました。ポルトガルの政府はですから、教会に反対する為に「ファチマには行ってはいけない」と禁令を出しました。

それにもかかわらず、毎年ファチマに行く巡礼の人々の数がますます増えていきました。5年後には、太陽の奇跡が起こった5年後にはファチマに集まる人々の数は、その太陽の奇跡の2倍になっていました。

そこでそれに憤った教会に反対する人たちは、ファチマのチャペルをダイナマイトで爆破させました。それを見たポルトガルの人々の反応は、そのようなフリーメーソンの政府のやり方に憤りを感じました。

マリア様の御像を持って、ファチマでマリア様が巡礼をするや否や、ポルトガル全土が変わっていきました。今までのフリーメーソンの政府のもとにあったのとガラリと変わって、ファチマの直後から1960年代まで、ポルトガルはヨーロッパで、もしかしたら世界で一番カトリックの国と変化しました。

政治的な変化、宗教的な変化、経済的な変化というのは見る見るうちに瞬く間に良くなったので、「ファチマの以後のポルトガル、それ自体でこれは奇跡だ」と歴史家が口を揃えて言います。

しかもより大きな奇跡は、ポルトガルが戦争に巻き込まれなかったという事です。スペイン市民戦争というものがありました。これは共産党が起こす市民戦争だったのですけれども、スペインの市民戦争の最初から、「ポルトガルをも巻き込んで、ポルトガルをも侵略して巻き込んで戦争状態にさせよう」というのが計画でした。

ところで市民戦争の直前、ポルトガルの司教様たちが揃って皆一緒になって、ポルトガルをマリア様の汚れなき御心に奉献していたのです。そのポルトガルの司教様たちの奉献のおかげで、スペインの市民戦争からポルトガルは免れ、しかも第二次世界大戦の時には、ポルトガルとスペインがヨーロッパの中でスイスと共に唯一戦争に巻き込まれなかった国となりました。

今先ほどファチマについて2巻の本を書いたと申し上げましたけれども、今第3巻目を書いております。第3巻目の第3章の最初の10ページに、ファチマのポルトガルという国に起こった奇跡について書きました。1930年代からファチマのマリア様の御像がポルトガルを津々浦々巡礼し出して、そして世界中にも巡礼するようになりました。そのマリア様の訪問された先での奇跡の数は数える事ができない事です。マリア様が行った所はどこであっても、いつであっても、多くの人々が回心しました。

アメリカではますます考えがリベラルになっていて、そして信仰からますます離れて行ったその時期に、マリア様の御像がアメリカを訪れて訪問したその1年の間に、10万人以上の方が回心して洗礼を受けました。これはアメリカの歴史でなかった事です。

マリア様の御像の訪問について、個人的な思い出もあります。私は昔ガボンに任命を受けて、そしてガボンで働いていました。ガボンの司教様が突然、私たちのミッションの所に訪問して下さいました。それでその司教様は、昔ルフェーブル大司教様から教わった生徒だったのです。この司教様がなさっている事や考えは近代主義でしたけれども、しかしルフェーブル大司教様に対しては非常な尊敬と感謝の念を持っていたので、「是非ルフェーブル大司教の創った修道会の司祭に会いたい」とやって来たのでした。

お話の間、司教様にこう質問をしました、「司教様、司教様の司祭生活の中で一番目を見張るような体験というのは何でしたか?」この質問をするや否や、5秒も経たずそのすぐに、「それは、私がランバレネで主任司祭だった時の事です…」と、話を始めました。「この時にファチマのマリア様の像が通ったのです。」

ルフェーブル大司教様もランバレネの主任司祭だった事があります。ガボンの中で最もプロテスタントの影響が強い街だったので、ランバレネでのカトリックの人口は20%未満でした。ランバレネでは30%が異教徒で、50%から55%がプロテスタント、10%から15%がカトリックです。その当時、村から村へとファチマの御像が訪問して行って、遂にランバレネの村にもやって来ました。ランバレネには15日間留まりました。その15日間はカトリックのお祭りで、その15日間の間、聖母行列、或いは公教要理、或いは霊的講話、或いは徹夜のお祈り等、たくさんの行事がなされました。

その当時主任司祭だったその司教様は、「自分の目を信ずる事ができなかった」と言います。「夜ローソクを灯してお祈りをして聖母行列をする時に、これほど多くの人が集まった事は一生見た事がなかったほど集まった」と言います。何故かというと、プロテスタントの牧師さんたちが皆怒るほど、プロテスタントの教会は空っぽになって、皆がカトリックのミッションの方に行って、ファチマのマリア様の方に行ってしまったからです。「その年の終わりには、普通の年よりも10倍の新しい洗礼があった。」1年の間に、人口の40%がカトリックになりました。

これはランバレネの例だけではなく、世界中どこでも、マリア様の像が通った所はそうなっていました。

第2巻の最初の方で書いた事ですけれども、ここで是非言いたいと思います。3人のマリア様の現われを受けた牧童たちは、朝のお祈りも夕のお祈りもどうやってしたら良いか知っていませんでした。2年後、この子供たちは罪も犯した事がないし、英雄的な聖徳を実践していました。これは奇跡です。ファチマでこの子供たちに起こった事です。

フランシスコとジャシンタは、普通のどこにでもある同じような田舎の子供たちで、特に特別敬虔だったというわけではありません。ジャシンタは遊ぶのが好きで、踊るのが好きで、村の人気者でした。もしジャシンタちゃんのこの写真を見たら、「あぁ、この女の子は大きくなったらものすごい女性になる事ができる」と思うかもしれません。しかしマリア様の御出現によって、この二人の子供たちは聖人になりました。

この子供たちは他の子供たちと同じように、機嫌が悪かったりとか、悪に対する傾きなどもありましたけれども、それに対して戦っていました。いつも、子供たちが誘惑にかられたり或いは何か情念に駆られたら、すぐにマリア様の方にお祈りをしてマリア様に向かって助けを求めていました。その為に彼らは聖徳へと変わっていきました。その御出現の後には、彼らが昔の彼らであるという事を認める事ができないほどでした。

では、ファチマで一体どこがそんなに特別で偉大なのでしょうか?何がそのメッセージの中心なのでしょうか?

ファチマのメッセージをよく分析すると、ファチマのメッセージで一番大切な内容というものは、第二バチカン公会議で無視されたか、或いは捨てられてしまったその事であると分かります。ファチマではラテン語で「novissimi」と言われている四つの終わりの事について非常に強調します。

ファチマでマリア様がお現われになったその最初から、「私は天から来ました。」「私はあなたが天国にいる事を望みます。」「永遠の喜びを受ける事を望みます」と、天国について語ります。

ルチアがよく知っている友達について質問すると、「あぁ、彼女は世の終わりまで煉獄にいるでしょう」と答えました。

7月13日には、2ヶ月後ですけれども、マリア様は地獄の火の海を見せました。そして子供たちに、「祈りと犠牲を捧げなさい。何故ならば、さもないと多くの人々が地獄に落ちてしまうから」とお願いしました。地獄の火に、多くの霊魂たちが今落ちているというのは、ジャシンタのこれからの一生のテーマでした。ジャシンタの残った数年間の短い生涯で一番の関心事は、「多くの霊魂たちをこの地獄の火から救いたい」という事でした。

ロザリオの1連毎にマリア様が「付け加えなさい」と言ったお祈りの中にはこれがあります、「我らを地獄の火より守り給え」と。

シスタールチアは、ルチアは大きくなってシスターになりましたけれども、「多くの霊魂たちが地獄に落ちている。彼らの為に祈らなければならない」という事を繰り返し言います。

ファチマでは、マリア様が私たちの頭を考えを、永遠の方に向けるようにとしています。この短い人生が終わった後に待っている、永遠の命です。

ファチマから50年後、これはファチマとは全く正反対の事が起こりました。人類は永遠の事を忘れ去ってしまって、この世の事だけに集中するようになってしまいました。

この第1の考えは、第2の考えに導かれます。それは、「私たちの人生は、自分の私たち自身の事よりは、もっと天主の事を、天主の栄光を考えなければならない。もしも天主の栄光が傷付けられているならば、天主に対して罪が犯されているならば、それを償わなければならない。天主を慰めなければならない」という考えです。

これがファチマの秘密の1つです。ファチマの秘密はまず、「罪人が地獄に落ちる」という事を話します。

悪魔の作戦が私たちの目の前に展開されています。悪魔の作戦はまず、私たちが成聖の状態に生きていなくても良い、その必要性を忘れさせる事です。そのようなメンタリティーを作り上げる為に、マリア様の言葉によれば、「ロシアはその誤謬を世界中に広めるでしょう」とあります。つまり、あたかも天主がこの地上に存在していないかのような世界を作り上げる、「大切なのはこの地上の物質の事だけなのだ」というメンタリティーを作り上げる事です。これが無神論であり、唯物論です。

最後に、この宗教に関するメンタリティーをも変えさせてしまいます。それが近代主義です。近代主義によって人々は、宗教生活とか宗教について別の考えを抱きます。どのような考えかというと、近代主義によれば、「もしも私たちが天主様、或いはマリア様にお祈りをするとしたら、それは私たちがこの地上での生活に必要なものを得る為」その為だけであって、「罪に対して戦う」とかという考えはそこから排除されます。つまり宗教というのが、「この地上で幸せな生活をイージーな生活を送る事ができる為の手段であって、それで良い人になる為だ。」

しかし本当の宗教生活は違います。ファチマでの天使の御出現を見て下さい。皆さんがこの祈りをたくさん捧げるので大変嬉しく思います。その中で天使はどうやってお祈りをしたでしょうか?どうぞマリア様が天使を通して皆さんに教えたように祈って下さい。そのお祈りによれば、私の人権とか、この地上での生活を、この地上での幸福を欲しいとはお祈りしません。そうではなくて、天主の名誉について祈ります。

「わが天主、われ、御身を信じ、礼拝し、希望し、御身を愛し奉る。」

その直後にあるのは霊的な戦いであって、何故戦いかというと、「信じない人々、礼拝しない人々、希望しない人々、御身を愛さない人々の為に、御赦しを乞い求め奉る」と、その回心の為に祈っているからです。

「私たちは2つの主人に同時に仕える事ができない」と言ったイエズス様の教えがここで分かります。聖アウグスティヌスの表現によれば、「天主の御国と悪魔の国の2つの戦いが、その勢力の為に戦っている」その事です。聖イグナチオは霊操の中で、「2つの御旗」の事について書きます。「キリストの御旗とルチフェルの旗」です。聖グリニョン・ド・モンフォールは、「永遠の知恵、イエズス・キリストの知恵と、この世の世俗の知恵の2つの戦い」について話しています。マキシミリアノ・コルベ神父様によれば、「無原罪の聖母の騎士とフリーメーソンの軍隊との戦い」です。ファチマでは、「マリア様の御要求を受け入れてそれを実践する忠実なマリア様の子たち、聖母の汚れなき御心に対する信心を実践する人々対、共産主義或いはフリーメーソンなどのロシアの誤謬を広める人たちの戦い」です。

50年前から教会の中では、この「2つの戦い」という考えは排除されてしまいました。

ファチマで最も重要なテーマは、更にマリア様の汚れなき御心の事がこの世に啓示された事です。
1917年6月13日に、マリア様はご自分の汚れなき御心を世界で最初にお現しになりました。汚れなき御心に対する信心というのは既に、16・17世紀から始まっていました。しかしその御心を見せたのは、ファチマで初めてです。

マリア様によれば、「汚れなき御心に対する信心こそが、終末の人類に与えられた最後のチャンスである、救いの為の最後の手段である」と言います。6月13日にマリア様のお言葉によれば、「天主は私の汚れなき御心に対する信心を世界に確立する事を、全世界に確立する事を望んでおられる」と言います。

今まで歴史上、マリア様への信心というのは地方に固有の、地方地方のものでした。しかしファチマでは全世界に関わる信心を求めています。この信心を実践する人には、非常に大きな約束も付けられています。生きている間に私たちが受ける数多くのお恵みと、特に死の時のお恵みです。
2つの事を特にマリア様は約束しますが、本当に特別です。

マリア様が「個人的に、皆さんの死の時に傍に付き添う」と言って下さっています。

皆さんが亡くなる時は何が起こるのでしょうか?教会の教えでは、私審判があります。つまり、天主の前に皆さんの霊魂がたった一人で現れて、裁きを受けます。皆さんがなさった事、仰った事、或いは考えた事、全てにおいて裁きを受けます。全く一人でその裁きを受けます。誰も傍に、誰も、誰も付き添ってくれる人はいません。守護の天使、保護の聖人は、単なる沈黙の目撃者でしかありません。

ところがファチマでは、「あなたが救いの為に必要な全てのお恵みを持って、あなたの臨終の時に個人的に付き添う」と仰っています。汚れなき御心を実践する人々には、一般的な法則の例外を作るという事です。つまり、マリア様が私たちに個人的に付き添って下さるという事です。厳しい裁判官である天主の前にたった一人で立つと思えば、その非常に強い、力強い弁護者であるマリア様が、私たちの為に弁護する為に傍に立って下さるというのはどれほど大きな事でしょうか。

第2の約束は、これよりももっと素晴らしいユニークなものが約束されています。

「救われる」というのは全人類同じではありません。皆さん、どのような良いカトリックであっても悪いカトリックであっても、回心のチャンスはあります。煉獄でしばらくの間、何年か時を過ごした後に、天国に行くチャンスがあります。皆さんの霊魂はちょうどコップのようです。もしも天主様の為に何もしなければ、皆さんのコップは小さいまま残ります。でも天主様は救いの時に皆さんの幸せを、その皆さんの霊魂の能力の最高度まで満たします。でも皆さんの受ける能力以上を入れる事はできません。

天国の幸せのたった一滴のほんのちょっとの一滴でさえも、私たちがこの人生全ての間で経験する事ができる幸せとか喜びとかをそれを合わせて、この全人類の全ての始めから終わりまでの喜びを集めたとしても、それでも足りないほどの喜びがあります。しかし私たちが生きている間に、「天主様をますますお喜ばせしたい」「マリア様の為にもっともっとやりたい」となさればなさるほど、この皆さんの能力がどんどん大きくなっていって、天国での喜びをますます大きく受ける事ができるようになります。

天国に行くという事は、その皆さんの能力の最大限まで、極めてものすごい幸せを満たすという事です。幸せを受ける能力がない方は50滴でもういっぱいになってしまいますけれども、この地上で色々天主様に尽くした人は、尽くしただけ能力が大きくなるので、例えば5000滴が入るほどの能力を得ます、100倍になります。そこでこの地上で寛大であれば寛大であるほど、天主の為に生きれば生きるほど、ますます私たちが天国で幸せを多く、より多く受ける事ができる能力を身に付けます。

マリア様は、「もしも私の汚れなき御心に対する信心を実践する人には、これを与えよう」という約束をしました。「その実践する霊魂たちは、天主様にとって非常に大切であって貴重であって、あたかもその玉座を飾る花々のようであるだろう。」

では皆さんの幸せの大きさを決めるものは何でしょうか?皆さんが天主に近付けば近付くほど、その幸せは大きくなります。天主に近付けば近付くほど、ぴったりとすればするほど、最高度の幸せが待っています。マリア様の汚れなき御心に対する信心を実践する人に約束されたのは、この「天主のそのすぐ近くに行く事ができる」という事です。

ではこの信心というのは、どうやったら実践する事ができるでしょうか?全ての信心がそうですけれども、外的な要素と内的な要素があります。

外的な要素というのは、私たちが実践する事です。私たちが実践しなければならない事というのは、具体的な何かをする事です。例えばイエズス様の聖心の信心には、6月の聖心の月とか、或いは初金曜日の信心とか、或いは聖心の連祷などがあります。

汚れなき御心に対する信心の外的な要素のその1つは、初土の信心です。その第2は、汚れなき御心に奉献するという信心、その2つの実践があります。この2つは単なる外的な行いであって全てではありません。ちょうど人間が、体と霊魂で成っているように、体だけでは生きていません、霊魂が必要です。

この外的な実践に、多くの祈りと犠牲を捧げなければなりません。「天主を慰め、多くの霊魂を救う為に、祈り、犠牲を捧げなさい」とマリア様は特別に要求されました。

この祈りというのは、大部分で初土の信心の中に入っています。特にロザリオの祈りです。マリア様は「毎日ロザリオを唱えなさい」と要求されました。またファチマでは射祷の大切さについて教えています。子供たちは病気になってお祈りもしっかりできなかったので、射祷というのは唯一子供たちがする事ができたお祈りであって、非常に大きな役割を果たしました。

この実践には、その実践を生かす精神がなければなりません。肉体と霊魂が合わさって1つになって人間となるように、行為とそれを生かす精神とが2つがあって、初めて信心になります。

残念ながら多くの人々は、しかも聖伝の信者さんであったとしても、残念ながらこの精神について忘れてしまって、精神の事をほとんど気にしていない人がいます。しなければならない事については、マリア様が要求された事以上の事をたくさんするという人はいるのですが、でももしもそのような人たちに、「それは本当の信心ではありません」と言うと、きっと腹を立てるほどの方がいます。「何ですか神父様!何ですって!?私は初土にはマリア様の仰っている通りちゃんとお祈りしています。マリア様の奉献の祈りは毎日唱えています。私はロザリオを6環唱えています。」「でも、確かにそれは素晴らしいのですけれども、それを生かす霊魂を付けなければなりません。」

ところでこの今から申し上げる事は、本当に知られていなくて、ファチマの信心をする方でも知らない方がたくさんいます。何故かというと、誰もそれを説明する人がいないからです。このファチマの精神というのは、子供の生涯によって表わされています。

ファチマの精神の第1は、フランシスコの生涯によって表われています。それは「天主を慰める」という生き方です。フランシスコは言います、「天主はこの世の罪の為にあまりにも悲しんでおられる。その為に被造物である私たちは、そのお返しに天主を慰め、そして何とかその悲しみを和らげてあげなければならない」と言います。

言い換えると、マリア様の御心は茨の冠によって刺し貫かれていて、それなので私たちはその刺されている茨を1本1本、抜いてさしあげなければならないという事です。私たちが犯す罪によって、マリア様は恐るべき醜い茨で貫かれているという事です。

皆さんの愛するお母さんに対して悪者共がやって来て、茨の棘をその皆さんの愛するお母様の胸に刺し貫こうとしていると、皆さんどう思いますか?皆さんはこう仰るに違いありません、「やめて下さい!私の母にそんな事しないで下さい!」しかしこの悪者共は皆さんの事を嘲笑い、やろうとする事を更に続けています。皆さんはそれを止める事もできません。すると皆さんは仕方がなく、お母様の元に行って、その刺された茨をお母様の胸から1つ1つ取り抜こうとするではないですか。そこでお母様が受けたその侮辱、屈辱、その悪い取り扱いを、何とかして償って慰めて、お母様の悲しみを和らげようと努めるのではないでしょうか。

では、どうやって天主様を慰めたら良いでしょうか?

そこに、そのどうやって慰めるかというこの答えが、ファチマの中心的なキーワードになっています。それが「償い」です。私たち或いは他の誰かによって、天主或いはマリア様に対して為された多くの罪や侮辱を、私たちが償うという事です。私たちがたとえ過去天主を悲しませてしまったとしても、しかし私たちは償う事ができるという事です。

皆さんはご結婚なさっている方がいるので、皆さんがどれほど奥さんを愛しておられるのか分かるのですけれども、突然、ある時突然魔が差して正気を失ってしまったように、奥さんをひっぱたいてしまった。奥さんはあっという間に「キャ!」と言って血を流して床に倒れてしまった。奥さんは涙を流し、「何でこんな事するのでしょう」と言って涙を流しています。心はもう砕かれています。そして何か知らないですけれども、怒ってこんな事をやって、怒ってどこかに行ってしまいます。そこでそのしばらく後正気に戻って、「あれ?やばい!妻を殴ってしまった、ひっぱたいてしまった!何てひどい事をしてしまったのだろうか!」「あぁ!」と言って涙を流して、「これは大失敗だ!私の最愛の妻をこんなに悪い取り扱いをしてしまった!」

では皆さんどうしますか、そのような事が起こってしまったら。コロッとそれを忘れて、あたかも何もなかったかのように、「あぁ、こんにちは!」と言うでしょうか。そんな事はできません。奥様の心はもう砕かれています。皆さんは許しを乞わなければなりません。単なる悪い言葉を言ったのみならず、暴力さえもしてしまったので、奥さんの心はもう粉々です。もちろん奥様はとても聖なる方なので、寛大に許して下さるでしょう。でも心の傷は残ります。

そこで先程した悪の、悪い態度に勝るそれよりも1000倍良い愛の態度を見せて、それを償おうとします。それが罪の償いです。

罪を犯す毎に私たちは主に死をもたらして、幼きイエズス様を窓から外に放っぽり出してしまって、その後何もなかったのように、「あぁ、こんにちは!」と言おうとしているのです。

この「償い」というこのキーワードだけが、私たちの宗教の生活をもう一度真面目なものに、意味のあるものにする事ができます。もしもこの償いというキーワードがなければ、ちょうどある悪い夫が、妻をものすごくこう投げつけておいて、「あぁ、元気?」と言っているのと同じです。これは真面目な態度ではありません。

ですから初土の信心、或いは奉献という、或いは祈り、犠牲というこの行為を、私たちの行なっている事を、罪を償う為、或いは天主を慰める為という精神を以てなされる、これが汚れなき御心への信心です。そしてこのその精神の中には、天主を慰め、償うのみならず、更に進んで罪人の回心さえも望まなければなりません。

ファチマの天使、或いはマリア様の仰った事の中で一番よく出てくる単語は、「償い」と、あと「回心」です。

罪を償い、そうする事によって天主を慰めるというのは、天主の御栄え、栄光に関する天主への愛に関わる事です。

ところで回心というのは、隣人愛に関わる事です。ではマリア様はご自分の御心を何の為に私たちに啓示されたのでしょうか?

トゥイでマリア様は最後に御出現になったのですが、その時にやはり汚れなき御心をお見せになりました。しかしトゥイでは、マリア様はご自分の御心を自分の手に持って、私たちに差し出す為に与える為に持っていました。マリア様の汚れなき御心はシンボルです。どんなシンボルかというと、マリア様のパーソナリティーそのお人柄、その全く内密の神秘の全存在、それ自身を表すシンボルです。

もしも夫が愛する妻に、「あぁ、愛する妻よ、私は私の心を全てお前にあげる」と言った時に、夫はですね、お医者さんに行ってこの手術をして胸を開いて、その心臓を取り出してですね、「さぁ」と言って差し出すわけでありません。妻に、「お前の事を愛している。僕はお前に僕の心を全てお前に与える」というのをよく言います。

マリア様がご自分の心を全て私たちに与える、それがファチマです。つまりマリア様は自分の全てを、最も深い神秘を全てを、愛する子供たちにもう残りなく差し出すという、それがファチマです。
マリア様の望みは、この子供たちがマリア様の愛をこの御心を受けてくれる事です、取ってくれる事です、そして回心してくれる事です。回心というのは、今までそっぽを向いていたのが、そっちの方を向いてその振り返る事です。

私たちはちょうど、このように牛か象のように地獄に向かって一直線にのろのろと歩いている動物のようです。ちょうど、さぁ今から地獄に落ちるその一歩、その直前の時に、「我が子よ」という声を聞くのです。「我が子よ、私はお前の事を私の心から、汚れなき御心を尽して愛していますよ。その道を歩き続けないで下さい。永遠の亡びに行ってしまいます。私の方を向きなさい。」そこでマリア様の方に向き変える、これが回心です。

例えば、誰かが初めてマリア様の事を知って発見して、「あぁ、マリア様というこんな方が、」これが回心です。マリア様はそのかわいそうな自分の子供たちの救いを望んでいるので、その回心をも望んでいます。

毎日のロザリオ、汚れなき御心への奉献、或いは祈りと犠牲というのは、罪人の回心という為にも捧げられています。これは天使の祈りの中にもあります。この事をよく理解して下されば、マリア様がファチマで何を私たちに求めているか、教えているか分かるはずです。

この2つをこれを実践するならば、マリア様がなさった約束をみな受ける事になります。

もちろん他にもこの重要なテーマに関連する別の観点もあります。マリア様は私たちの外的なこういうような行為に重要性を置いております。これらの実践というのは、私たちがいつも正しい道を歩み続ける為に、或いは誘惑に打ち勝つ為の非常に強い武器となります。この1つ1つが毎日のロザリオです。ファチマでロザリオについてマリア様が教えて下さる事は信じられないほどです。マリア様は世の最も恐るべき悪い時期に与えられた最後の手段として、ロザリオと汚れなき御心に対する信心の2つを、最後の手段として与えています。

ではロザリオをどうやって教えたのでしょうか?ファチマではマリア様が御出現になるその度毎、「ロザリオを毎日唱えなさい」と言いました。これは全く基本的な基礎にあるものです。ロザリオの中には、最後にこのお祈りを付け加える事になっています、「あぁイエズスよ、我らの罪を赦し給え。我らを地獄の火より守り給え。また全ての霊魂、殊に主の御憐れみを最も必要とする霊魂を天国に導き給え」というのは、ロザリオで必ず1連毎にファチマの精神を私たちに思い出させて下さっています。

初土の信心では更に、「ロザリオの15玄義の玄義を黙想するように」とさえもお願いしています。マリア様はめでたしを唱える事だけではなく、玄義の黙想を要求して条件に付けています。このロザリオの玄義こそが、私たちを罪を犯す道から守ってくれるその武器なのです。

マリア様はファチマでほんの少しだけしかお話しませんが、それを通して私たちに教えてくれる事はどれほど意味が深いか分かりますか。これについて8つの講話を秋田で申しましたので、その8つの講話の内容を今1時間の間に申し上げる事は今難しいので、そこでその講話の内容がある本の中にあるという宣伝をさせて下さい。

その本の第1巻では、ファチマの御出現それ自体について説明しました。そこで御出現の天使とマリア様の御出現の言葉1つ1つについて黙想して、それについてコメントをしたのが第1巻です。このマリア様が仰った事、天使の言った事を見る事によって、既にファチマがどれほど素晴らしいものであるかという事を理解できます。ファチマでマリア様が仰った事それ自体の量は、ほとんどもう1ページか2ページで書き尽くす事ができるほどで、もうあるかないかのようです。しかしマリア様が仰ったその内容自体を見ると、最も聖伝の伝統的な公教要理の内容、これよりももっと素晴らしい内容がないほどの内容が書かれています。マリア様が仰ったその内容というのは、ちょうど第二バチカン公会議で無視されたか、或いは葬られたか、或いは捨てられたかしたその内容、それが言われています。

第2巻では、私はファチマの霊性、或いはファチマの信心の実践について、その精神について考察しました。3人の子供たちの生涯を考察して、それにコメントを付けました。後にポンテべドラという所でマリア様がお現れて、初土の信心について語った時の事を考察します。次にトゥイにまたお現れになって、ロシアの奉献をもお願いしますが、その奉献について考察しました。

この「初土」そして「奉献」の2つのテーマを見ると、ファチマが反エキュメニズムであるという事が分かります。何故かというと、マリア様はイエズス様に関する間違った教えを異端を、「冒瀆だ」と言うからです。そこで「この異端に対して償いをしなければならない」と言うからです。

たとえばその異端はどのような、冒瀆はどのようなものがあるかというと、「無原罪の御宿りを否定」する事、「マリア様が終生童貞であるという事を否定」する事、「マリア様が霊的な私たちの母であるという事を否定」する事。

これらを否定するのは誰でしょうか?異教徒の人ではありません。イスラム教徒の人でもありません。

プロテスタントがそう考えています。プロテスタントの人々が、これらの信仰に反対しています。私たちがつい最近聞くのは、そのプロテスタントの人たちとの対話、「兄弟的な対話をしよう」というのですけれども、マリア様はそのプロテスタントの人たちについて、「そのようなひどい冒涜に対して償わなければならない」と仰っています。

また初土では、御聖体拝領、また告解という「秘跡」の大切さが強調されます。天使の御出現の中で、子供たちが霊的な神秘的な聖体拝領もしました。また子供たちは霊的に神秘的に御聖体礼拝をします。トゥイでは、三位一体のビジョンの中で御聖体のビジョンが出ます。つまりイエズス様の聖心から御血が流れ出るのですけれども、その下に御聖体とカリスがそれを受けています。初土の信心を見ると、私たちがどうやって御聖体を拝領し、そして告解の秘跡をしなければならないか、という事を教えています。

ここまでのお話で、「あぁ、ファチマというのは本当に何か特別で、ユニークな存在である」という事が分かって下さったでしょうか。太陽の奇跡というものすごい奇跡から始まって、近代主義によって全く忘れ去られてしまったカトリックの真理が、ここで思い出されているという事に気が付かれたでしょうか。

では私が今書いている第3巻の本は何でしょうか?

ファチマがどんなもので有り得るものだったか、そしてしかし実際はどうなってしまったのかという事を、御出現後50年の間の歴史をまず考察しました。世界中であちらこちらに共産主義、フリーメーソンがタケノコのように勢力を伸ばしているのですけれども、ファチマのマリア様の御像が巡礼して回ると、それが奇跡を起こしているという事です。教皇様をはじめ、司教様たちがファチマのこのマリア様の御出現に非常に深い感謝を表明しています。

しかし突然、何か恐るべき事が起こってしまいます。それが第2章で、いきなり突然ファチマが軽蔑され、打ち捨てられた。1940年代頃から新近代主義者たちが教授、或いはバチカンの中に戻って来て、そしてファチマのマリア様に泥を投げます。例えばグレゴリア大学の校長を務めた教授がいます。この人はファチマの中心的な人物でした。この神父様の事はダニス神父(SJ、イエズス会司祭)でした。

近代主義がカトリックの教えについてした事と同じような事を、ファチマについてダニス神父はします。ファチマ1とファチマ2に分けます。それによれば、「ファチマという御出現はあったけれど、実際本当に起こったのか、何が起こったのかは分からない」と言います。

そしてこれがどういう事かというと、「確かにファチマには何かあったけれども、シスタールチアがこう書いた『こんな事があった』と目撃した事を書いた事は、それはただのお話だ。」そのダニス神父によれば、「ファチマのこの信心とか、初土の信心とか、或いはロシアの奉献などというのは、シスタールチアが作った作り話であって、忘れた方が良い。」

このダニス神父には友人がいて、枢機卿の「ベア」と言いました、ベア枢機卿でした。ベア枢機卿はピオ十ニ世教皇様の聴罪司祭でした。1953年になると、ピオ十二世教皇様のファチマに対する態度が突然変わります。ダニス神父の言っている話がバチカンで受け入れられるようになります。

事実は今、現代、ファチマの専門家が研究して分析すればするほど、ダニス神父がその当時言っていた事はみな情報操作であって、そして嘘であって間違った事で、本当のファチマと何の関係もなかったのですけれども、それにもかかわらず、その当時ダニス神父というのはローマで幅を利かせていて、ファチマの権威者でした。

ところでこのダニス神父は、聖ピオ十世会と個人的な接触もあったようです。1976年にルフェーブル大司教様が、「最初の聖ピオ十世会司祭を叙階する」と言った時に、ルフェーブル大司教様は司祭の叙階の前に、司祭となる候補者の為に司祭黙想会を指導していましたが、その時にローマから訪問者がありました。その訪問者はルフェーブル大司教様に、「大司教様、じゃぁたった1回、さぁ今新しいミサを捧げて下さい。そうすればローマとエコンの間の全ての問題が解決します。」このそう言った人が、ダニス神父です。

近代主義者の人がローマで権威を持ってしまった、地位が与えられた時その瞬間、残念ながらファチマでマリア様が仰った事とその正反対の事を、第ニバチカン公会議がするようになってしまいました。

そこでこの第3巻の第2章では、ローマの当局が何とかファチマを中和化して、そして近代主義の中に取り込もうとしているその行動を分析しました。この作戦はほぼ完壁になされましたけれども、例外が2つありました。2つの事は中和化できませんでした。

私が先ほど「中和化」、「化」と言いましょうか、というのはどういう事かというと、二次的なあまり副次的な重要でない事に「重要である」という事をして、本当に中核の最も大切なものは脇に置いてしまう、これをまぁ「中和させる」と申しました。

例えば近代主義によれば、「あぁ、ロザリオをたくさんたくさん唱えなさい」と言いながら、そのロザリオのその本質の精神は忘れさせてしまう。或いは、「さぁ、ファチマのマリア様を思って夜中でお祈りして下さい。」しかしその「天主を慰める」とか、「罪の償い」という事は全く無視させるという事です。

そのような事で中和化させる事はできたのですけれども、近代主義と同一化させる事はできたのですけれども、しかし「ロシアの奉献」という事だけは近代主義の中に取り入れる事はできませんでした。では一体どんなドラマがあったのか、このロシアの奉献という事について第3章で考察しました。

以前は、そのファチマの事を何とか忘れさせる為に操作しました。しかし操作だけでは効かなくなったので、これからはその後、嘘さえもつくようになりました。つまり「ロシアの奉献について、シスタールチアは『もうそれがなされた』と言った」という嘘をついたのです。ただこの単純な純粋な嘘をつくようにもなってしまいました。つまり、少なくとも何かしたので、「それがもうすでにロシアの奉献と考えられている」という事で、「もうなされた」とします。

しかし、どうしてもこう中和できない1つの事が残っています。

それが「第3の秘密」で、第3巻の第4章において私は考察しました。2000年に公開されたいわゆる第3の秘密というのは、私たちが今まで言った第3の秘密の全てではなくて、何かが欠けている。そしてこの第3巻の第4章の後半では、実は私たちが言っていた第3の秘密と、バチカンが発表したのは全く関係のないものであった、という事を考察します。

第3巻の第5章では、本当の第3の秘密の内容というものはどんなものだったのだろうか、その本当の秘密は何だったのか、という事を分析しました。私の考えたものではなくて、「シスターがこう言った」とか、或いは「ここでシスターがこう言っている」とか「こういう証言がある」という物を、信頼のできるそういうテキストを考察したものです。

第6章では、ファチマの最後の凱旋とは何なのか。

第7章では、ファチマとコルベ神父様の無原罪の聖母の騎士との関係について。

第8章では、では私たちは何をすべきなのか。それから私の回心の為にもお祈り下さいという話をします。

ご清聴ありがとうございます。

聖霊降臨の大祝日の前日のミサ 「聖霊降臨には何が起こったか?聖霊とは?聖霊がこの世に来られた理由とは?」

2017年09月26日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2017年6月3日(初土)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2017年6月3日(初土)聖霊降臨の大祝日の前日のミサ
小野田神父 説教


聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。

今日は2017年6月3日、聖霊降臨の大祝日の前日のミサを捧げています。

今日は、グレゴリオ聖歌を歌う聖歌を皆さんにも知って頂きたいと思い、「皆さんどのような方でもグレゴリオ聖歌を一緒に勉強して練習しましょう」という集いも作ろうという事になり、インマクラータさんにその集いの代表をしてもらう事になりました。

土曜日のミサが終わったら、15時頃から、どなたでもグレゴリオ聖歌の練習をしようという事になりました。

グレゴリオ聖歌を、色んな方々に、ラテン語を知らない方も、インマクラータさんが親切に教えて下さいますので、もしよかったらぜひ練習なさって下さい。多くの方がグレゴリオ聖歌の美しさ、その深みを知って頂けらなぁという、願いが込められています。

今日は初土曜日ですので、この初土の信心もどうぞご一緒になさって下さい。

今日はさらに聖霊降臨の前日ですので、昔の典礼によると大小斎の日でした。そこで、もしもできる方はそれをなさって下さい。今では厳格な義務ではないのですけれども、もしもなさりたいという方は、なさって下さい。


「私は聖父に祈ろう。そして聖父が別の弁護者を、お前たちと共に永遠に留まるように、この弁護者というのは真理の霊であって、この世が受け入れる事ができないものである。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

今日は聖霊降臨の前日で、聖霊降臨の大祝日の準備をしています。すでに祭服とか祭壇の飾りは赤で、聖霊降臨の燃える愛の炎を象徴する赤を使っています。そこで今日は皆さんに、3つの点を黙想する事を提案したいと思います。

1つは、では聖霊降臨というのは一体何だったのか?一体何が起ったのか?いつどこで何がどうなったのか?

第2に、聖霊降臨というのは聖霊が降臨したという事で、聖霊とは一体何なのだろうか?そして一体何で降臨したのか?一体何をしているのか?

第3は、ではイエズス様はその聖霊、「真理の霊を聖父から送るように頼む。別の弁護者だ」と言うのだけれども、何でこの世は受け入れる事ができないのか?でも何で聖霊はそれにもかかわらずこの世に来たのか?

最後に、私たちはこの3点の黙想から、一体どういう遷善の決心を取るべきか、どうやったら私たちは聖霊の賜を、聖霊の恵みをよく受ける事ができて、それの準備をする事ができるか、という決心を結論を立てる事に致しましょう。

では第1に、聖霊降臨というのは一体何が起こったのでしょうか?

聖霊降臨というのは、イエズス様が御復活されて50日後に、もう少し詳しく言うと、イエズス様がを御復活されて後40日間、復活された栄光の体を持って、壁を通して来たり、本当に自分が復活されたという事を示す為に、食べたり、話したり、触ったり、教えたりしながら、時には弟子たちの為に朝食を料理して準備したりしながら、確かにイエズス様が復活されたという事を多くの人々に証して後に40日後に、天に上がりました。御自分の力で上がりました。そしてイエズス様は天に上がる時に、「エルサレムに留まりなさい」と命令しました。「聖霊の降臨を待ちなさい」と命令しました。

そこでイエズス様が昇天された10日の後に、それは週の最初の日、主日だったのですけれども、午前中の9時頃、マリア様を中心に弟子たちがお祈りをしていました。これで10日目のお祈りでした。使徒たちはユダの代わりに誰か別の、イエズス様を最初から知っているような弟子たちをくじで選びました。それがマチアでした。そのあと120人くらいの人たちが1つの所で集まってお祈りしていると、いきなり風の、ものすごい竜巻なのか嵐なのか轟々という音が聞こえて、弟子たちが集まっていた所は一階だったのかちょっとよく分かりませんけれども、おそらくいきなり風が吹いて来て、何か「一体何が起こったのだろうか!?」その突然の事で、そして家の中にその風の音が満たされました。

すると、天から火のようなものが舌の形をした、舌べらの形をした火がまず、ちょうどこのステンドグラスのようにマリア様の上に降り、満たされて、そしてそのマリア様から使徒たちの方に弟子たちの方に火が渡りました。あまりにも不思議な現象だったので、周りに来た巡礼に来た、五旬祭の巡礼にエルサレムに来ていた人たちが、「一体何の事だろうか!?」と思ってその家に集まったほどでした。

彼らは弟子たちは聖霊に満たされて、特に聖ペトロは前に出て、集まって来た人たちについて説教をして、そしてその日には3000名、「罪を悔い改めなさい。イエズス様の洗礼を受けなさい」というこのペトロの言葉に従って、3000名が洗礼を受けました。

教会では、ですから、この聖霊降臨の日には洗礼を授ける特別の日なのです。復活祭と聖霊降臨が洗礼を授ける日となっています。

では一体、このような聖霊降臨は何故起こったのでしょうか?

はい。イエズス様はこの地上に残る弟子達を導く為に、御自分は天に上って、天主聖父の前で弁護者として、私たちの為に祈りをする方として天に上ったのですけれども、その代わりの弁護者をこの地上に送ろうと思いました。それは私たちがイエズス様を、天におられるイエズス様を力強く信じて、そして私たちもイエズス様のおられる天国に行く事ができるようにと多く希望して、そして天の事を深く愛する事ができる、「信仰」と「希望」と「愛」に満たされる事ができる為でした。その為に私たち信徒を導く為に、イエズス様を信じる者たちを導く為に、聖霊を送ろうと思われました。

私たちが洗礼を受けると、イエズス様の神秘体の一部となります。私たちがする事は、イエズス・キリストの御名に於いてする事ができます。イエズス様は神秘体のかしらで、私たちはそれの体の一部となるのですけれども、聖霊は神秘体の霊魂となって、私たちを生かして下さるのです。

イエズス様は目に見える方ですが、肉体を持って目に見える方となりました。ですから私たちに目に見える秘蹟や、或いは目に見える教会や、目に見える救いの制度を作って、私たちに目に見える形で導いて下さるようにされました。

しかし聖霊は、私たちに目に見えない形で、私たちを生かす霊魂として、教会を生かす霊魂として、導いて下さいます。

では第3に、何故この世は聖霊を受ける事ができないのでしょうか?

はい。何故かというと、聖霊というのは、天主聖父と天主聖子との間にある実体的な愛であるからです。天主聖父と天主聖子との愛の交流から発生したのが聖霊です。天主の愛であって、聖霊を受けるには天主への愛がなければなりません。しかしイエズス様が今日の福音で仰る「この世」というのは、この地上の事を愛する、この地上の物質や、或いは肉欲や、或いはそれ以下のものを愛するものに満ちているので、天主を愛する天主への愛の余地がないからです。

聖霊というのは、私たちの心の中に慰め主として、光として、天主への愛をもたらすものとしてやって来るのですけれども、この世はそのようなものを受け入れようとはしません。それよりかは却って下等なものを愛して、天主からの優しい勧め、「天上のものを愛したらどうか」、平和への導きというものを拒絶するからです。それよりは自分のやりたい事をやる、自分を愛する、或いはこの被造物を愛する、という事で心がいっぱいだからです。天主を愛するその招きを拒否するからです。それよりはもっと不潔なもの、もっと下等なものに心を奪われてしまっているからです。

それでも、私たちがイエズス・キリスト様の送られる、約束された聖霊を受けなければなりません。信仰と希望と愛をますます強めなければなりません。一体どうしたら良いのでしょうか?聖霊を受ける為にはどうしたら良いのでしょうか?

私たちの心はよく準備されていなければなりません。地上のものの愛着から離れていなければなりません。天主への愛を受け入れる余地がなければなりません。地上の事でいっぱいですと、聖霊が私たちに宝物を持って永遠の価値を持って「やって来たい」と思っても、そこに入る事ができないからです。

ちょうど聖霊の降臨の時に中心にマリア様がいらしたように、私たちも今日、聖霊降臨の前日、初土曜日に、マリア様の汚れなき御心に入る事に致しましょう。今日は聖霊降臨の前日ですので、初土曜の汚れなき御心のミサはする事はできないのですけれども、そのミサにはこう書かれています、お祈りにはこう書かれています、「マリア様の御心は、聖霊の汚れなき御宿としてしつらえて作られた、準備された。マリア様はその最初の瞬間から、小さな胎内の胎児としてその命の鼓動が始まるその最初の瞬間から、聖霊に満たされて原罪の汚れのない御宿りであった。」

聖霊の充満を受けて、聖霊の愛に満たされた者であったので、既に若き16歳、17歳の時に、大天使ガブリエルから御告げを受けた時にはマリア様は言われました、「めでたし、聖寵に充ち満たされた御方よ。主は御身と共に在す」と。

マリア様は決して聖霊を拒否した事はありませんでした。聖霊を悲しましたような事はありませんでした。そればかりか聖霊の慰めであって、聖霊とまさにぴったりと一致していました。聖霊が望むような事を、お望みのままに、お望みの方法でいつも実現していた方でした。

言ってみると、マリア様と聖霊とはぴたりと一致していて、あたかも聖霊が人となって生きているかのようでした。あまりにもマリア様と聖霊が一致しているので、その一致がちょうど人間で言えば、男性と女性が結婚すると一体となるので、その一体となるというところだけを観点だけを見て、聖霊には肉体がないのですけれども、しかし1つとなったという事で、あたかも聖霊とマリア様とはそれほどの一致をもって、ですから「マリア様はあたかも聖霊の花嫁であって、浄配であるかのようだ」と神学者が聖人たちが表現、それしか表現する方法がないほどの一致を見ていました。ある聖人は、「マリア様は、聖霊を見る事ができるイコンである」とさえも言いました。

聖霊が与えようとする全ての宝物、全ての贈り物、全ての特権は、マリア様に充満していました。マリア様の特に汚れなき御心に充満していました。そのマリア様の心は、聖霊の純粋な天主への愛の火で燃立っていました。

ですから、もしも私たちが聖霊を受けよう、聖霊からの恵みを受けよう、天主への愛に満たされようと思うのでしたらば、マリア様へと行かなければなりません。弟子たちもそうでした、使徒たちがそうでした。私たちも全く同じです。イエズス様が来られた時にはマリア様を通して来られたように、聖霊が弟子たちに与えられるにはマリア様を通して来たように、私たちももしもイエズス様と聖霊を受けようとするならば、マリア様を通さなければ誰も受ける事ができません。

マリア様はファチマで言いました。6月13日の事でした、今から100年前です、「私はあなたたちを決して見捨てません。私の汚れなき御心は天国への道であり、あなたたちの避難所となります。」

マリア様の汚れなき御心には、全ての善徳と聖徳と美徳に飾られていますから、私たちの天国に行く道すがらとなります。また私たちの手を引き入れて、引き取って引っ張って天国へと連れて行くガイドです、道案内者です。

マリア様は私たちに、このファチマの子供たちの模範を通しても言います、マリア様ご自身の模範を通しても言います、「この世において一番大切なのは、一体何を成し遂げたのではない。金メダルを取ったとか、或いはお金をどれほど貯めたとか、或いはどれほど素晴らしいノーベル賞を取ったとか、或いは大発見を発明したとか、そういうどんな何を成し遂げた、とかというのはあまり関係ない。私たちの人生の最後には、一体私たちがどうやった、どのように生活を送ったのかによって裁かれる」と教えています。

私たちが天主への愛を込めて、イエズス・キリストを愛するが為にこの人生を送ったのか、送らなかったのか。私たちがイエズス様を愛するが為に、この朝ごはんを食べたのか、食べなかったのか。或いはマリア様のように、イエズス様をお慰めする為にお掃除をしたのか、しなかったのか。罪人の回心の為にこの苦しみを捧げたのか、捧げなかったのかによって、この人生の価値が全く変わる。

マリア様は聖霊に満たされて、全てイエズス様を愛するが為に、罪人の回心の為に捧げてきました。そして私たちにも「同じようにしなさい」と招いておられます。


では、私たちは遷善の決心を取る事に致しましょう。聖霊の降臨の準備の為に、一番の最高の準備のやり方は、マリア様の汚れなき御心に入る事です。汚れなき御心、マリア様の汚れなき御心のようにする事です。マリア様の汚れなき御心を避難所とする事、この汚れなき御心のようにする事です。

でも私たちの心はあまりにもこの世のものでいっぱいですので、ぜひマリア様に、私たちの心とマリア様の御心を交換してもらえるようにお願い致しましょう。そしてマリア様の心を私たちに下さい、そのマリア様の心で聖霊を受ける事ができますように、私たちも聖霊に満たされる事ができますように、そしてマリア様の御心を以って、私たちの全ての人生の出来事を、仕事を、義務を、或いは日常の辛い事や悲しい事や、お祈りや犠牲も、イエズス様を愛するが為に、罪人の回心の為に、多くの霊魂が天国に行く事ができる為に、そしてイエズス様のお望みのようにマリア様の御心を慰める為に、お捧げする事ができるようにお祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

シュテーリン神父様 お説教-2017年5月7日 ファチマの太陽の奇蹟は聖母からの「署名」であり、メッセージがどれほど重要であるかを教えようとしておられる

2017年09月22日 | お説教・霊的講話
2017年5月7日(主日)復活後第3主日のミサ
シュテーリン神父様御説教

同時通訳:小野田圭志神父


日本の聖なる殉教者巡回教会にようこそ。

今日は私たちのアジア管区の管区長、シュテーリン神父様を迎えて大変嬉しく思っています。2017年5月7日、主の復活後第3主日を祝っております。神父様のお話を御説教を聞く前に2つほどお知らせがあります。

まず1つは、今日の14時30分から神父様の講話が、ファチマについての講話があります。ファチマ100周年ですので、貴重なお話ですので、聞いて頂きたいと思っています。

16時からは晩課があります。そして明日の朝はシュテーリン神父様の7時のミサと、また私のミサと2回ミサがあります。是非いらして下さい。

2つ目のお知らせは、次のミサですけれども、6月4日第1主日となっております。どうぞご注意下さい。次のミサは、6月の最初のミサです。

それから、今日はシュテーリン神父様と一緒に、ドイツから最初に修道士となったブラザークラウスがいらして、今回は式長をして頂いています。

ブラザーはツァイツコーフェンの神学校に17年間ずっと働いた後に、シュテーリン神父様と一緒にポーランドに行って22年、ポーランドで今でも働いています。ポーランドからロシアの方にもメディカル・ミッションに行って、トラックにもう何百万円分の医薬品を持ってロシア中に行って助けています。それで今回はブラザーを受けて本当に嬉しく思います。このブラザーのような方が日本からもたくさん出るようにお祈りしましょう。

ではシュテーリン神父様のお説教を伺いましょう。


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

親愛なる兄弟の皆さん、100年前、ポルトガルのファチマでマリア様が現れたその100周年を迎えて、この今日皆さんにファチマについての話をするようにと依頼されました。

この事をよく理解して下さい、これは非常に大切です。ファチマのマリア様の御出現というのは、今までマリア様が何度も出現されたその内の1つではありません。カトリック教会の歴史において、最も重要な御出現の1つという特別の御出現という性格です。

特に日本のようなカトリックの人口があまり多くない所では、ファチマで「太陽の奇跡」という、今までイエズス様の御復活以後かつて無かったような大奇跡が起こったというこの事を知って下さい。この奇跡をみると、「確かに三位一体の天主こそが真の天主であり、世界の創造主であり、そして天主の御母は聖マリア様である」という事が分かります。

まず、子供たちが「ファチマでマリア様を見た」と言った時に、司祭、その両親、その周囲の村人たちは皆批判しました、疑いました、馬鹿にしました。特に誰からも信じてもらえなかったルチアは、非常にこの攻撃や屈辱を受けて苦しみました。そこで第3回目の御出現の時に、マリア様に特別にお願いしました、「マリア様、お願いですから私たちの為に、私の言葉を私を誰も信じてくれないので、皆さんが信じる事ができるように奇跡を行なって下さい」と懇願しました。「お願いです」と。

マリア様はすぐに、「はい、奇跡を行いましょう」と仰り、この「奇跡を行いますよ」という事を3回、3ヶ月の間続けて約束しました。そしてしかも、奇跡を行う日も、日付もはっきりと仰って下さいました。

このマリア様の予告によって、既にポルトガル全土に渡ってファチマの奇跡の話が伝わっていました。多くの人々が、「その奇跡というものを見てみたい」と思いました。

特にファチマの御出現の年、またその以前からはポルトガルの政府はフリーメーソンであり、反キリスト教政府であって、キリスト教教会をカトリック教会を何とかして迫害しようと狙っていました。そのファチマで奇跡が起こるという話を聞いた時に、「しめた!」と政府の高官たちは思いました。「これを使おう。奇跡など起こるわけがない。これを理由に彼らを逮捕しよう。教会を破壊しよう、禁止しよう。民衆を騒がしている。」「もしも奇跡を信じる事ができなければ、天主を信じる事もできない。」

そしてマリア様は数ヶ月3回に渡って、「はい、私は奇跡を行ないます。」「10月に奇跡を行います。」「10月に奇跡を行います」と予告し続けます。

この時に10月に、ポルトガルではかつてなかったような出来事が起こります。何かというと、ポルトガルの最も僻地の何もないような、家が数件あるような集落に、10万人ほどの人々が、自動車もなければ電車もなければ飛行機もない、コミュニケーションの手段もないのにも関わらず集まったという事です。しかも御出現の所に人が場所を占める為にその場所を取る為に、その前夜から人々は集まって来ました。

詳細な事ですけれども、10月12日、御出現のその前日から1日中、御出現のその13日のお昼まで1日中、ひっきりなしに雨がザーザーと滝のように降っていました。多くの目撃者が証人が口を揃えて言います、「私たちはもう肌まで雨でずぶ濡れになっていた。」

この奇跡を見に集まった大群衆の大部分は、実は好奇心から、「一体何が起こるだろうか」と面白半分で来た人です。そして多くの人々はそもそも信じてなどいませんでした。「だいたい教会のこの子供のような話を、馬鹿げた話を信じる人がいるのだ」という事を笑いに、軽蔑しに、嘲笑いに来た人たちでした。

新聞を売る為に新聞記者もたくさんやって来ました。ポルトガルの大臣まで、内務大臣もそして法官さえもやって来ました。

雨、そしてそのような敵対するような権威当局の人々の存在。

一部の人たちは熱心にお祈りをしています。そしてその他の人々は嘲笑って、大きな声でおしゃべりしながら、「ああ、マリア様などどこにいるのか!奇跡などどこにあるのか!」と、ヘラヘラしています。

そして子供は、「マリア様はここにいらっしゃる」と言い、子供たちはマリア様の仰る話を聞きます。教会を信じないような人たちは、「あぁ、子供が木と話をしている。何と下らない話だ!誰が信じる事ができるか!」と嘲笑っています。

突然ルチアは声をあげます、「太陽を見て下さい!」「傘をさしている人は傘をすぼめて下さい!」とルチアは言います。

私が今言う事は、今申し上げた事は、これは全て記録に残っています。写真にも撮られています。1つ、ある写真には、何千という人が傘を持ってそこに集まっているのが写っています。

信じられない事がこの瞬間起こりました。今までザーザー降っていた雨がピタリと止まり、そして天を覆った黒い雲がカラッと避けて、そして太陽がギラギラと光り出したのです。すると皆はその太陽を、その突然現れた太陽を直視しました、「ああ、太陽。」そしてこの人たちは皆、太陽を10分ほどずっと直視します。これはもしもその後で何の目も悪くならずに太陽を直視する事ができたという事は、医者たちは「不思議な事だ」と言います。

突如、太陽がぐるりぐるりと、ものすごいスピードで回り出し、3回それが起こりました。

言う必要もありませんけれども、今まで馬鹿にしていた嘲りの声は何も聞こえず、沈黙でした。

太陽がものすごいスピードで3回グルグルッ、グルグルッと回った後に、恐ろしい事が起こりました。太陽は今まで踊っていたかのようですが、その軌道を離れて、地球の方をめがけて落ちて来出したのです。

多くの人々は叫び出して、「もう世の終わりだ!」「世の終わりだ!」と言いました。ある写真には、人々が地面にこう倒れて、もううつ伏せになっているような写真もあります。多くの人は、自分の過去犯した罪を告白し出しました。太陽が今、地球を直撃しようとしているその事を見た人々の姿の事を思って下さい。

信じられない事が起こりました。地球に直撃しようとしたその直前、太陽がそこで止まり、ゆっくりと元の位置に戻って行きます。

もしかしたら皆さんもそうかもしれませんが、批判する人たちは、「あぁ、この人たちは心理的に何かおかしかった、皆一緒になってそういう幻覚を見たのだ。」

しかしそうではありません。もしもデマゴギーの社会現象で皆が一緒になって熱狂的になって、一人のリーダーに向かって「ワーッ!」熱狂的にこう叫んでいた時に、もしかしたらそういうような幻覚的を生じるかもしれません。

しかしファチマではその反対でした。何故かというと、元々そこにいた群衆のほとんどが、信じていなかったからです。その嘲笑いに来て、信じていなかった人たちが口を揃えて、「私たちは奇跡を見た。」信じようとしなかった人々が、この奇跡の後で、回心して信じた。

この太陽の奇跡を見た10分の後、今までずぶ濡れになって、もうベトベトであった服がカラリと乾燥していました。

これが有名な、1917年10月13日に起こった有名な太陽の奇跡です。マリア様はこの太陽の奇跡という、この今までかつて歴史上見た事がなかった奇跡を起こして、今からこのファチマのメッセージがどれほど重要であるか、という事を教えようとしています。

この午後には、マリア様がファチマで仰ろうとした最も大切なテーマは何か、という事を話したいと思っています。この午前中のミサの間には、皆さんに提案します。現代このマスメディアなどによって、100年前に一体何が起こったのかという事を読んだり、或いは写真で見たりする事は簡単にできます。

特に私の同僚の司祭たちは、「この10月13日の奇跡について色んな人々に話、特に信じようとしない人々にも話をした」と言っています。ところでその同僚の報告によると、「未信者の人たちが、『えぇ!?ファチマのこの太陽の奇跡!?そんな事もあったのか!』という事で、非常に深い関心を示した」と言っています。それらのフィードバックによると、「この太陽の奇跡の事をよく考えると、これは自然の現象ではない。これは超自然の誰かが、力のあるどなたかがいらっしゃるはずだ」と、「天主がいらっしゃるはずだ」と言っています。

現代21世紀の、異教の、何も信じようとしない、或いは天主を信じたけれども信仰を失ったような人々が、もう一度信仰を受ける事ができるようにする事ができる特別の奇跡でした。特にこの皆さんの祖国では、もしもこの太陽の奇跡の事を皆さんが教えてあげたら、「あぁ、カトリックの教えには特別のものがある」という事に気付く事ができる人がいらっしゃるはずです。

特に無原罪の聖母の騎士の会員たちは、ファチマの奇跡の事を利用して使って、信じない人々にうまく説明する為の教材としているのを知っています。特にこの無原罪の聖母の騎士は、3つの事をよく知っています。

1つの事は、ファチマで起こった太陽の奇跡です。

第2の出来事は、グアダルーペのマリア様の出来事なのです。今でも見る事ができますけれども、マリア様とお会いした男の服に、マリア様の像が絵がプリントされた。これは今でも残っている奇跡です。グアダルーペのマリア様のこの絵なのですけれども、これを最新の技術を使って分析したり、コンピュータにかけたりすると、その絵のどれほど不思議な事であるかという事の大発見が、次から次へと今起こっています。

カトリックの信仰を持っていない、或いは異教の人々に、太陽の奇跡とそしてグアダルーペのマリア様について説明した時の事を覚えています。「あぁ、すると神父様、あなたの天主様というのはこの女性ですか?」「違います。ただこの方は、天主からそのような奇跡をする事ができる力をただ受けただけで、単なる被造物です。天主の御母です。」

しかしマリア様に対して深い関心を持っているような人々は、マリア様からイエズス様、天主様へと行くには本当にあとちょっとです。

第3の奇跡が、トリノの聖骸布です。このトリノの聖骸布についても最新の技術を使って分析すればするほど、これが本当にまさに正真正銘のものだという事で、次から次へと奇跡的な事実が分かります。

何で私が今この事を申し上げているのでしょうか?

何故かというと、皆さんの祖国の同胞たちを憐れんで下さらなければならないからです。何故かというと、信仰のない方々にミサの偉大な神秘、或いはマリア様について深く知って頂きたいという事が、まだそこまでにはとても距離があるからです。彼らの事を憐れんで、どうぞ彼らが信仰を持つように、回心するように助けて下さい。

皆さんよくご存知の通り、回心の主要な手段は祈りと犠牲です。しかしそれでは十分ではありません。皆さんに少し知性を与えて下さったならば、もしも皆さんがほうきで自分のお部屋をきれいにする、掃除をする事ができる以上の事ができるならば、この世で今現代何が起こっているかというニュースを知るのみならず、更に100年前、或いはこの3つの奇跡がどんな事であるか、という事を知るように努めて下さい。

それからそのご家族の方々や、或いは職場で、お友達とご飯を食べる時に、或いは何かの時にその方々に、そのご自分の知っているその奇跡についての話を少しなさって下さい。そうすれば多くの方が救いの道へ導かれます。

私は繰り返して申し上げますけれども、ファチマの太陽の奇跡というのは最も大切な事ではありません。皆さんが手紙を書いた時に、手紙の中で一番大切なのはどこでしょうか?手紙の内容です。でも、その確かに皆さんのお手紙だという事を証すものが、本物だという事がなければなりません。ですからその為に署名します、サインします。もしもこれが公の公式の手紙ならば、ハンコも打ちます。ファチマのメッセージのその署名とこのハンコは、これが太陽の奇跡です。ではこの手紙が確かに天主様からマリア様から来た、という本物の手紙だという事が分かったのならば、一体何が書かれているか、その内容も知らなければなりません。

そこで皆さんを招待する事を許して下さい、どうぞこの100周年の間に、ファチマに関する本をお読みになって下さい。私は既に2巻のファチマに関する本、ファチマの出来事とファチマの霊性に関する本を書く事ができました。そのうちの1冊はここで購入することができます。今現在、英語とドイツ語とポーランド語で読む事ができます。

まだ日本語にはなっていませんけれども、今年はマリア様を通して皆さんのもとに、天主様から特別の、更に特別のお恵みが来る年です。皆さんがもしもマリア様の事をよく知り、そしてこのよく知ったおかげでますますマリア様の事を愛する事ができるならば、特別のお恵みがあります。

現代において私たちの霊魂を救う為の最後の手段が、マリア様です。今日必ず確固とした決心を立てて1日を終えて下さい。

「マリア様、私はあなたの事をよくまだ分かっていません。もっと知る必要があります。私はますます御身の良い子供でなければなりません。何故ならば、御身が私のますます良き母となって下さる為です。何故なら、天主様が御身に私の霊魂の世話を委ねたからです。もしも御身の世話がなければ、私は地獄に落ちてしまいます。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

シュテーリン神父様 お説教-2017年5月6日(初土) 聖母の汚れ無き御心の神秘を深く理解するには?

2017年09月21日 | お説教・霊的講話
2017年5月6日(初土)聖母の汚れなき御心の随意ミサ
シュテーリン神父様御説教

同時通訳:小野田圭志神父


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

もしも私たちが汚れなき御心の神秘を深く理解しようとするならば、私たちは教会が教えている教えを、深く正しく理解するように、そこ教会の教えに、原点に戻らなければなりません。

つまり、「マリア様が聖霊の充ち満てる方である」という事です。もしも私たちがマリア様の事を見るなら、マリア様の御心に溢れるその動きを見るならば、そこには御子イエズス・キリストに対する無限の愛が、限りない愛がある事が分かります。

汚れなき御心を見ると、イエズス・キリスト様がなさりたいと思った全ての事は、マリア様と共に、マリア様の内になされているという事が分かります。

昨日私たちは黙想しました。マリア様の愛する汚れなき御心があったが故に、イエズス様は天から地に降りる事ができ、人となる事ができた、と。汚れなき御心はいつも、天主の御旨に対して“フィアット”「なれかし」と、このこだまの連続でした。

天主の御旨はどのように表現されたかというと、30年間マリア様が天主の御子の長上となる、つまり目上となる、母親となるという事を望むことで表されました。30年の間、イエズス様は母であるマリア様の御心をいつも眺めて、それを慕って、マリア様の心の望みが、それはイエズス様にとっては命令でした。

聖書によれば、「イエズス様は御生涯全て、天主聖父の御旨を果たした。」そして「聖霊の導きの導かれるままにあった」とあります。ところで聖霊は、マリア様の中に充満におられました。そして聖霊はマリア様を通して働かれました。したがってマリア様の心の望み、心の動きというのはすなわちイコール、聖霊の望みであり、聖霊の動きでした。

イエズス様が最初に、公生活を始めて最初の奇跡をする時も、マリア様の御心のこの小さな動きが、イエズス様をして最初の奇跡をするようにさせました。

今日の福音書を見ると、マリア様の御心がどれほど選ばれて贖いの業に参与したか、という事が分かります。聖アウグスティヌスは既に説明しています、「イエズス様が肉体に於いて苦しまれた事を、マリア様は心に於いて苦しまれた。」マリア様はこうして苦しむ事によって第2の新しいエヴァとなり、贖われた新しく生きる人々の母となりました。

イエズス様の母となった時に、その生みの母の苦しみはありませんでした。しかし私たちの母となる時には、私たちを生み出す時には、マリア様は極めて苦しい苦しみを捧げて、母となりました。

イエズス様の聖心とマリア様の御心はそれほど結合していて、それほど一致しているというのを見ましたが、実に1つの愛の炎で満たされていたからです。

「愛する者に自分の命を与えるほど偉大な愛はない」とイエズス様は言います。イエズス様が私たちを愛するが為に自分の命を与えて、私たちの為に苦しまれたその愛に、マリア様は与って、マリア様も一緒に私たちの為に自分の苦しみを捧げました。

イエズス様が十字架の上で亡くなられた時に、マリア様はその十字架の足もとに立って、カルワリオの全ての実りを聖化を受け取りました。

ではカルワリオの実りとは何でしょうか?それは、イエズス様が私たちの為に苦しみ勝ち取った、贖いと救いの実りです。

イエズス様のカルワリオの十字架の苦しみのおかげで、地獄の門は閉ざされ、天国は開かれました。私たちを今まで縛りつけていた地獄の悪魔の鎖を解き放って下さいました。イエズス様の御血によって私たちの罪の汚れを全て洗い浄めて下さり、その癩病のようにもう治る事ができないかと思われたこの病から浄めて下さいました、治して下さいました。

イエズス様がなさった、この解放と浄めの全ての実りを十字架の上で勝ち取った時、全てをマリア様に贈り物として与えました。イエズス様が亡くなった時には、私たちには天主様の光の一部を下さいました。つまり「信仰」と「希望」と「愛」という聖徳の光を私たちに分け与えて下さいました。マリア様は、マリア様も受けたこの光を私たちに与えて下さいます。

天主の贖いの救いの御業が全て、その宝が詰まっている宝庫のカリスが、マリア様と言えます。

ではマリア様のこの汚れなき御心は一体何をなさるのでしょうか?
一体どうやって鼓動をしているのでしょうか?

マリア様の御心には、全ての民族の全ての民に必要な、全てのお恵みで充ち満たされています。それを何とかして、できる限り多く人々に与えたいと願っています。マリア様はイエズス様で満たされています。汚れなき御心はつまり、イエズス様の聖心でいっぱいで充ち満ちていて、その祈りとその光で満たされています。こういう仕方でイエズス様の救いの御業、贖いの御業、人類の救いの為の事業に参与しています。

イエズス様は、新しく生まれた贖われた人類の父です、新しいアダム。マリア様は、贖われた新しい人類の母、新しいエヴァです。

イエズス様は私たちの贖い主であり、新しい母であるマリア様は共贖者、共に贖った母です。

イエズス様は私たちの永遠の王であり、マリア様は私たちの永遠の元后、女王です。

しかし、マリア様の汚れなき御心の偉大さを説明するにはこれでは不十分です。何故かというと、イエズス様が復活して昇天された時に、後にイエズス様は私たちに聖霊を送られました。聖霊というのは、天主聖父と聖子の愛そのものです。これは昨日黙想しました。

イエズス様は私たちに救いの恵みを与えました。聖霊は私たちにこの救いの業を、イエズス様とは別の観点から別のやり方で与えます。イエズス様がすでに仰ったように、聖霊の特別の役割というのは、私たちを真理の充満へと導く事です。十字架の実りと救いの業の実りを私たちが受け取る事ができるように、聖霊は私たちの心を開かせてくれます。

この御恵みを私たちはいつも受けています。もしも皆さんが今ミサに与っているとしたら、これは聖霊のおかげです。もしも信仰の神秘のことを、「あぁ、そうだったのか!」と理解する、また深く理解する事ができたら、これは聖霊のおかげです。誘惑に対してより強くなって、それに抵抗する事ができる、それを避ける事ができるとしたら、聖霊のおかげです。

聖霊がこの世に送られた時に、一体どこに行くべきだったでしょうか?

聖パウロによれば、「聖霊は私たちの心に来た」と言います。「天主の愛が私たちの心に注がれた」と聖パウロは言います。

これはどうやって起こるのでしょうか?皆さんと私たちの全ての心にこの注がれる前に、聖霊は最初に1つの場所に来ました。何故かというと、この私たちの心に行こうと聖父と聖子から聖霊は送られて、私たちの心に注がれようとしたのですけれども、聖霊を受けようとする霊魂たちが一人もいなかったからです。何故なら、私たちは罪によって聖霊が入るのを拒み、ドアを閉めてしまっていたからです。

天主は光ですから、光には闇がありません。聖霊は聖なるものですから聖でない所に行く事はできません。聖霊が行かれる主要な場所というのは、聖なる場所でなければなりません。そのような場所というのは1つしかありませんでした。罪の汚れから全く浄められていた場所です。怠惰や或いは無関心、或いはその他の欠点から全て免れていた場所でした。これがマリア様の御心です。

聖霊はマリア様のこの清い心に来られて、そしてマリア様の御心を最高度に充ち満たします。そこで天使がマリア様の事について、「聖寵に充ち満てる御方」と呼ぶ事ができたのです、“gratia plena”と。

では聖霊に対して、マリア様の役割とは何でしょうか?マリア様は聖霊から受けた全ての光や恵みを、この自分の子供たちに与えたいと思っています。聖霊の浄配となったマリア様は、私たちに聖霊の恵みを分配する運河となるのです。

先程申し上げましたように、私たちが光を受けたのならば、それは全て聖霊から来ると言いました。しかしこれは、マリア様を通してのみ受ける事ができます。何故なら聖霊の全てのお恵み、全ての光があるのは、マリア様の御心だからです。

でもこのお恵みは、1日のうちのいつでも必要なお恵みです。私たちの1日の瞬間瞬間に必要なお恵みを、マリア様は既に用意しています。私たちがしなければならない事を理解する事、或いは真理をより良く、より深く理解するそのお恵み、私たちの弱点を強める為の意志の強さ、この私たちにいつどの瞬間にもお恵みを与える準備ができているというシンボルは、マリア様の御心であって、いつも毎瞬毎瞬鼓動をしている動いているその心です。

よく心臓の動きを見ると、ドキ、ドキ、ドキ、といっているではないですか。マリア様が聖霊の充満から受けたお恵みを全て私たちに与えようと、どの瞬間でも思っているという事です。

では、私たちは一体何をしなければならないのでしょうか?

たった1つの事だけで大丈夫です。マリア様の元に行くという事です。いつもどこでもマリア様の元に行けば良いのです。私たちの持っているものと、私たちがそのあるがままで、マリア様の元に行けば大丈夫です。

もしも「良い1日を過ごしたい、良い日でありたい」と思えば、マリア様の元に朝行けば、マリア様は私たちに良い日が送る事ができるようにお恵みを下さいます。

もしも困った事、心配事、辛い事があれば、マリア様の元に行って下さい。マリア様はそれに必要なお恵みを全て下さいます。

もしも誘惑を受けた、悪魔からの誘いがあったという時には、必ずマリア様の所に行って下さい。何故かというと、罪に打ち勝つ事ができるお恵みを下さるのは、マリア様しかいないからです。

すると、私たちがいつも考えていたよりも、汚れなき御心というのはずっと重要な役割があるという事が分かります。

昨日は、「マリア様の御心というのは、イエズス様の聖心が私たちの元に来るその心だ」と言っていました。イエズス様の聖心の全ての恵みは、汚れなき御心を通して私たちの元にやって来ます。

しかし聖霊も、私たちの元にマリア様を通して、全てのお恵みと宝物を持ってやって来ます。イエズス様の贖いのお恵み、そして聖霊の全てのお恵みは、マリア様の御心を通してやって来ます。ですからマリア様は全ての聖寵の仲介者であって、そのシンボルがマリア様の汚れなき御心です。

まだこれで終わりではありません、ちょっとお説教は長いのです。(^^;)

「天主様が私たちに下さるもの全て、マリア様を通して来る」という事です。ですからマリア様の汚れなき御心に感謝して下さい。これから、ただ受けるだけではなくて、皆さんも天主様に何かしなければなりません。何故かというと、イエズス様は私たちを救う為にやって来ますけれども、もしも私たちがイエズス様の方に戻らなければ、救われる事はできないからです。

私たちが天主様に戻るその一歩一歩の道行き、これはマリア様を通してです。マリア様を通して、天主様は私たちの元にお恵みを下さり、マリア様を通して、私たちは天主様の元に帰ります。

これがファチマでマリア様が仰った事です、「私の汚れなき御心は、あなた方の避難所であり、逃れ場であり、あなたたちを天主へと導く道である」と。

では皆さんが何をしなければならないでしょうか?

それはファチマでちゃんと説明して下さいました。

何をしなければならないかというのは、汚れなき御心に対する信心を実践するという事です。数日かけてこの信心については説明しました。もしもマリア様の汚れなき御心の信心を選んでそれを実践するならば、マリア様は私たちを導く星となり、そして母となり、私たちに大きな報いを約束しています。

この特別な報いというのは、皆さんが天主によって特別に大切に愛されたものとなり、特別の地位を得るという事です。

ではファチマでマリア様が仰った、「私の御心は最後に勝利を、凱旋するでしょう」というのはどういう意味でしょうか?

この凱旋というのは、イエズス様、御子イエズス様の凱旋であって、マリア様を通してイエズス様のお恵みを受けた人々が救われるという事です。これは聖霊の凱旋でもあります。これは私たちの心の闇と罪に満ちている私たちの心を、遂に光と聖徳の心に変えて、という難しい事業を達成した、聖霊の凱旋です。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

シュテーリン神父様 霊的講話-2017年5月6日(初土) ロシアを汚れ無き御心に奉献しなければならない理由とは?

2017年09月20日 | お説教・霊的講話
2017年5月6日(初土)シュテーリン神父様霊的講話 大阪
同時通訳:小野田圭志神父


秋田では、聖母の汚れなき御心の信心に対しての基本的な本質的な点を見ました。

マリア様が子供たちを通して与えようとしたそのメッセージの1つ1つを、子供たちの生活の生き方を見ながら考察しました。フランシスコを通して、「慰める、罪によって犯された天主を慰める」という事を見ました。ジャシンタを通して、「かわいそうな罪人たちを救う」という事を見ました。ルチアの生活を通しては、「毎瞬毎瞬の常なる汚れなき御心との一致」について黙想しました。

それから初土にマリア様が一体何を信心として求めているかも黙想しました。私たちに求められている償いの精神というのは何かを黙想しました。初土において私たちが実践しようとしているのはこれです。

それから重要なもう1つの点は、「聖別・奉献」という事です。

マリア様は「ロシアの聖母の御心への奉献」という特別な奉献を要求されました。1929年6月13日トゥイで、マリア様は汚れなき御心はシスタールチアにこう言いました、「時がやって来ました。教皇様が全ての全世界のカトリックの司教様と一致して、ロシアを私の汚れなき御心への奉献を要求する時が来ました。」

私たちの主やマリア様は、色々な国や色々な団体が汚れなき御心に奉献されるように求めてきました。では、この汚れなき御心への奉献というのは一体何なのでしょうか?

ロシアの奉献によって、マリア様は特別のお恵みを与えようと準備しています。ですからこの奉献というのは非常に大切なのです。もしもこの奉献がなされるならば、ロシアはカトリック信仰に立ち戻ります。これはそれだけで奇跡です。それのみならず、ロシアの誤謬が広がるのをストップさせる。ではロシアの誤謬というのは、ロシアがその誤謬を運搬する道具となって使われている、その手段となっている誤謬がストップされるという事です。つまり無神論や共産主義です。

もしも私たちが信心を持っているならば、まず最初に私自身をマリア様の汚れなき御心に奉献しなければなりません。マリア様に奉献する、自分を奉献するといのは、イエズス様がなさった事を私たちが真似る事です。イエズス様は、私たちがイエズス様と同じ事をするように求めているのです、「私はあなたたちに模範を与えた。私がしたようにお前たちがする事ができるように。」

30年間イエズス様がなさった事は、マリア様に全く依存していたという事です。イエズス様はそれから贖いの事業、大事業をマリア様と一緒になさったという事です。もしもイエズス様が私たちにその模範を与えて下さったように、私たちがそれをイエズス様に真似なければならないならば、私たちはイエズス様がマリア様になさったように、私たち全てを委ねなければなりません。それが奉献です。イエズス様はマリア様に全く従順で、全く依存していたので、イエズス様が30年間の私生活の間でなさった事は、マリア様のお望みだけでした。

ですから奉献というのは、私たち自身をマリア様に与える事です。

これは個人的な秘密のものではなくて、公の行為です。「マリア様に全く自分を与えます」という願いや、或いはそういう思いや、そういう頭の中だけの事という事と、公の奉献の行為というものを区別しなければなりません。例えば色んなお祈りや色んな歌にも、「我が身を捧げ奉る」という言葉はあります。しかしそのお祈りや歌というのはまだ個人的な望みであって、その望みが公に奉献という形で実現されたものではありません。本当の奉献というものには、私たちがそれを与えるという事を表明する「意思の表明」がなければなりません。そして一回それを与えたら、それを取り戻さないという事です。

私たちがマリア様にする事ができる最高の贈り物は、自分自身を与え尽くす事です。もしもこのような奉献がなければ、私たちのいくらどのような信心があっても、それは表面的で、真面目なものとはいえません。もしもこの奉献も口先だけであって、この本当にマリア様に日常の生活において従順であり、日常の生活においてマリア様に依存して、「マリア様の意向は何か」という聞きながらの生活でなければ、口先だけに留まってしまいます。ですからマリア様への真の信心というのは必ずこの奉献によって刻印されなければなりません。この強い意思の決定がなければ、私たちが絶対的にマリア様に所属して依存しているとは言い切れません。

グリニョン・ド・モンフォールは、「マリア様への真の信心はこの奉献から始まる」と言います。ですからこの奉献をする事によって、私の意志は今後、金輪際、マリア様の良き子供として生きる、マリア様の良き奴隷として生活するという事を表明します。

先程コルベ神父様のした奉献の祈りを更新しました。この奉献は特別の目的があって、今後私の言葉や考え、或いは行為が全て、マリア様の汚れなき御心の御手の中に委ねられているという表明です。

奉献はまず私たち自身から始まります。しかしもしも本当にマリア様に所属したい、マリア様に属したいというこの事の良さが、素晴らしさが分かれば、自分だけではなく家族が皆マリア様に所属するように、或いは私のほんのちょっとだけではなく、私の全てを、できるだけのものがマリア様のもとにあるようにという事を望みます。

どなたかご結婚なさっている方がマリア様への信心を持つとしたら、当然の事ながら自分だけではなく、この「自分の家族全てがマリア様のもとにあるように」という事で、この家族全部をマリア様に奉献するのは当然の事です。

司祭も同じです。司祭だけが自分で奉献してそれで良いというのではなくて、司祭が世話をしなければならない霊魂たち全てがマリア様のもとに奉献されて、マリア様のもとにある、守られている、このマリア様のものとしてされているという事を望みます。

皆さんの職場も同じです。皆さんの職場でこの働いている方々が、職場での同僚が、或いは全てのこの職場の方々が、マリア様のもとで働く事の素晴らしさが理解できるので、それを望みます。

私たちは知らなければなりません。マリア様がこの奉献によってどれほど信じられないようなお恵みを私たちに、このお返しして下さるかという事をよく知っていなければなりません。奉献というのは寛大な行為の事です。私たちが「私たちの持っているものをマリア様与えたい、差し上げたい、全てあげたい」と言うのですから、マリア様もそれを見て非常に喜ばれて、それを見て「感謝したい、それを以って更にもっと何かお礼をしたい」と思っているからです。

非常に興味がある事は、ファチマでマリア様は私たち個人個人が奉献するという事をお話になるかなぁと思うのですけれどもそうではなくて、ロシアの奉献をお願いするのです。何故なのでしょうか?

他ではなくロシアの奉献を望んだ、お願いしたという理由は、2つ指摘されています。

まず第1は、ロシアの民は13世紀にキリスト教の信仰を受け入れましたが、そのキリスト教を受け入れたその時以来、非常にマリア様に対する信心の厚い民族でした。

残念ながらその後になると東方の離教にのってしまって、カトリックの信仰から離れてしまうのですけれども、しかしそれはロシアの一般民衆のせいではなくて、それの指導者たちのせいでそうなってしまったのです。長い間、自分のせいではなくその指導者の、一部の指導者のおかげで本当の教会でのお恵みを受ける事ができなくなってしまったロシアの一般の民衆たちの、そのマリア様に対する信心のある民衆を、何とかしてマリア様は助けたいと思っておられるからです。

マリア様への信心が最初からこのように厚くあって、そして残念ながら離教に陥ってしまったとしても、それにもかかわらずマリア様に対する信心を非常に熱心に保ち続けている民族というのは、他に歴史上にはありませんでした。

また「聖なるロシア」という言い方があって、シアタ・ルシア(Святая Русь)という言い方があります。また「天主によって選ばれた聖なる民族である」という言い方もあります。

ロシアの家庭ではどこの家でもマリア様のイコンがあります。そしてそのイコンの無いようなロシアの家はありません。しかしそれにもかかわらず、700年の間カトリックの真の一致から離れてしまっているのです。

後にソ連になった政治的な構造とか機構とは、ロシアと区別しなければなりません。或いは現代の政治的なロシアと言われる国とは区別しなければなりません。マリア様によれば、このロシアというのは民族の事を指すのであって、残念ながらカトリックとは離れてしまった離教のロシアの民族の人々の事を指しています。

ロシアというこの領土の中には、例えばシベリアの方に住んでいるキリスト教を知らないような異教徒などもいますが、そのような人々は聖なるロシアという民族の中には数えられていません。またロシアの南部にはイスラム教徒もいますけれども、民族としての聖なるロシアの中には含まれていません。

それで今政治的には国境があってロシアという国の中には属していない別の国々の中でも、聖なるロシアに属するような民族が住んでいます。例えば白ロシアとかウクライナとか。残念ながらかわいそうな事に、自分たちの過失ではなくカトリックの一致から離れてしまっていながらも、しかもマリア様に対する愛と信心を持っている人々民族に、マリア様は特別の眼差しを注いでいるという事です。そのかわいそうなこの人々は民族は、自分から望んだのではないにもかかわらず離教の状態であって、しかも1917年以降は共産主義の道具として使われています。

100年前、十月革命が起こったのとマリア様が現れたのはほぼ似たような時期でした。ですから私たちは、「ファチマとモスクワとの対立」と言う事ができると思います。これがロシアの重要性の第2の点です。

人類の歴史の内に、1つの国家がこれほど悪魔の手に陥ってしまったという事は過去かつて無かったからです。マリア様はこのロシアに住んでいる多くの人民が、それを望んでいないという事をよくご覧になっています。自分の共産主義のリーダーたちの為に一番苦しんだのはロシアの人々です。マリア様はですから、特別のお祈りの十字軍と犠牲の十字軍によって、このような人々が救われるのをお望みになっています。

そこでマリア様は、祈りの十字軍、或いは犠牲の十字軍よりももっとすごい事をお願いしました。それがロシアの奉献です。

まずここに問題があります。一体自分以外の誰かが、どうして私を奉献する事ができるでしょうか?

もしも私が奉献されるのを望まないのに、別の人が私を奉献するとしたら、どうしてそれができるのでしょうか?

もしも「そうなれば良いなぁ」「そうなって欲しい」「そうなって下さい」という敬虔な望みであれば、まぁそういう事もできましょう。「天主様のあわれみが彼らに与えられますように」という望み、願いであれば簡単にできます。例えば家族の中で、家族の一員の誰かが信仰から離れてしまった。なのでこの家族をその方を、「マリア様がどうぞ、また引き戻して下さい」という事を願いつつ奉献をする、いう事は有り得ます。

しかしこのような、「あぁ、ロシアがマリア様の方に元に戻りますように」という単純な願いだけであれば、教皇様が全世界のカトリックの司教様たちと一緒になってロシアを奉献する、などという公の奉献を要求するほどの必要はありません。この背景には教会の非常に重要な教えが含まれています、隠れています。

教会の教えによれば、「誰か他の人々の救いが達成されるか否かというのは、その他の誰かの祈りに効果的に懸かっている」という事です。

「もしも私たちが本当に霊魂の救いの為に祈るならば、そして犠牲を捧げるならば、本当に彼らは救われる恵みを得る。しかし私たちが祈らないならば、彼らは滅びてしまう、という事が現実に行われている」という事です。

ピオ十二世教皇様が『ミスティチ・コルポリス』という回勅の中で、この教えを公に、公式に教えました。マリア様もファチマで同じ事を確認しました、「多くの霊魂たちが地獄に行っています。何故ならば、彼らの為に祈り犠牲をする人がいないからです。」
この教えが、無原罪の聖母の騎士の創立の基礎にある教えです。私たちの手の中にある多くの霊魂を救う事ができるという特別の力です。そのこの教えの結論というのはここまで行きます。つまり、「もしもそのような道具が、この霊魂の救いの為に祈り、犠牲を払うという道具がなければ、マリア様が見つける事ができなければ、マリア様は彼らに何もする事ができない」という事です。

私たちはその祈りと犠牲によってこの人の霊魂、あの人のだけではなく、家族全部の、或いはこの会社の、或いはこのグループの霊魂の救いさえも委ねられています。

もしも私たちが心から日本の方々の霊魂の救いの為に祈り、犠牲を捧げるならば、しかもマリア様の道具としてこれを捧げるならば、マリア様は多くの人々を霊魂を救って下さいます。同じ事も国の全部の回心についても言えます。日本の方々の回心の為に祈る事ができるように、日本全部の回心の為にも祈る事ができます。

マリア様の道具としてそのお祈りを捧げるならば、マリア様がそのご存知のやり方でそれを達成する事ができます。そこでマリア様はロシアの奉献をお願いしたのです。マリア様はお祈りや犠牲をお願いしただけではありません、もっとお願いしました。

マリア様はこの民族を全て、完壁にマリア様のもとに差し上げるという事をお願いしました。もしも私たちがこうしたら何が起こるでしょうか?

この人々は二重の障害を提示します。その障害の1つは、「カトリックにはなりたくない」と。第2の障害は、「反キリスト教的な指導者のもとにいる」という事です。この奉献をする事によってロシアの人々を、反キリスト教的なそのような指導者たちに対する攻撃の武器と矛先を変えるという事ができるという事です。

ここに共産主義の赤軍がいたとします。皆ロシア人です。「共産党の為に戦う!」「神はいない!」もしも、そういう事を言わなければ虐殺されてしまいますから、言わなければなりません。ですから皆「カトリック教会は悪い!」と言っています。

皆さんがそこで武器をその赤軍の方に向けます。私たちの武器というのはつまり、彼らの為にお祈りをして、そして犠牲を捧げて、彼らを聖母の汚れなき御心に奉献するという事です。私たちのこの祈りや奉献は、ちょうど弾丸のように彼らの方に行きます。1つ1つの弾丸は特別のお恵みをもたらします。このようなお恵みは「準備の恵み」と神学では言われます。

そのようなお恵みを受けると、この赤軍の人たちは、「あっ、本当に自分の指導者は正しいんだろうか?」と疑い始めます。また或る者は、この反キリスト教的な指導者のもとに従う事によって面白くも可笑しくも何でもなくなります。或る者はインターネットとか或いはビラとか、何かの手段によってカトリックの信仰に導かれます。もしもマリア様が与えるならば、そのようなお恵みが一国に全部に満たされます。モスクワからウラジオストック、それからイルクーツクからそのロシアの北の果ての所まで全て満たされるので、そのお恵みに抵抗する事ができなくなります。それが遂には全ロシアの回心のお恵みを生み出す事になります。全世界の最悪の天主の敵の手先となる、というものから解放されるようになります。

もしもその事を考えると、皆さんがお祈りをするのではなくて、教皇様が全世界のカトリックの司教様と一緒になって奉献するという事の重要さが分かります。

何故かというと、この奉献には特別の価値があるという事を意味するからです。皆さん誰でも私たち自身を汚れなき御心に奉献しなければなりませんし、他の人々をできる限り奉献するようにしなければなりません。しかしファチマでは、この奉献が最高の権威当局によってなされる事を求めました。

ところで、教皇様が全てのカトリックの司教様たちと一緒になって何かをするという事はいつもある話ではありません、非常に稀に行なわれる事です。過去21回、公会議が開かれた時にのみ行われました。教会に存在する最も重要な諸件を一緒になって対処する為に特別の機会を設けて、特別のやり方で対応する、というのが公会議で、教皇様のもとに全ての司教が集まってなされる事ですから、その事をそれと同じような特別さを要求したのです。ファチマではマリア様はこれと同じレベルの事を重要性を要求したのです、「教皇様が全てのカトリック司教様と一緒になって奉献するように。」

では一体何故、何でそんな事を要求したのでしょうか?

まず何故かに答える前に、この事を知らなければなりません、「現在に至るまで、どの教皇様も、そのような全世界の司教様と一緒になってロシアを奉献するという事は一度もなしていなかった」という事です。私は今、ファチマの本の第3巻目を書いています。さっきも書いていました。何故かというと、この御聖堂とあとマリア様を見てそうすると、特別のインスピレーションが湧いてきて、この空っぽの頭の中に何か良い知恵が湧いてくるからです。

その第3巻の第3章では、現在に至るまでこの奉献がマリア様の要求に従ってなされたか、なされていなかったかについて考察しました。過去教皇様がなされた事を見ると分析すると、マリア様の仰ったようなやり方でやった教皇様はかつていませんでした。

最もそれに近かった価値のあったものは、ピオ十二世教皇様が1943年に、全世界を汚れなき御心に奉献した時の事でした。1943年には全世界を教皇様が奉献しましたけれども、ロシアの事を暗示させるような事がありました。しかしピオ十二世教皇様がお一人でなさって、全ての司教と一緒にやるという事には至りませんでした。

この奉献の為には6つの条件がありました。

第1に、これは「奉献」でなければなりません。

第2に、「教皇様が、全世界のカトリック司教と共に」しなければなりません。つまり教皇様が全世界の司教様たちに、「これをしなさい」と命令しなければなりません。

そして「ロシア」という名前が出てこなければなりません。はっきりと明確に、ロシアという名を提示してなさらなければなりません。

これは、「マリア様の汚れなき御心に」奉献されなければなりません。

次に、「償いの行為」も伴わなければなりません。

第6の点もあるのですけれども、それは今ちょっと失念してしまいました。

過去の教皇様たちがなさった奉献を分析すると、多くヨハネ・パウロ二世が何回かしていますけれども、大体「ロシア」という名前が出てきません。またつい最近ではなされましたけれども「奉献」というのではなくて、「委託」という言葉になっていました。「委託」というのと「奉献」というのは意味が違います。例えば子供がいて、保育園に「ちょっとこれをあの預かってて下さい、委託します」というのは奉献ではありません。

シスタールチアが証言しています、「かつてなされた教皇様のやった奉献は、マリア様の御旨に沿ったやり方で奉献がなされたのではない」という証言がずっとあります。

ところが、2000年の6月に出てきた聖座からのファチマに関する第3の秘密に関する文書によると、突然、「シスタールチアの証言によれば、奉献はなされた」事になってしまいました。「ルチアは喜んでいる」と言われています。その証拠にシスタールチアの手紙を引用します。そして手紙のコピーも付けました。でも残念な事にこれはタイプライターで書かれています。ところでこのグルーナー神父様の研究によれば、「11の理由によって、シスタールチアが『そんな事は、ロシアの奉献がなされたという事は一度も言っていない』と言っているし、『しかもそのようなタイプの手紙は偽物だ』」と言っています。

では、かつてマリア様がお願いした事がなかったような事を、また将来もお願いする事がないようなこの事を、何故マリア様は要求したのでしょうか。

まず第1に、ファチマのメッセージがどれほど重要であるかという事を示す為です。メッセージが重要であればあるほど、それをする事ができるのは最も権威のある人だけがする事ができるからです。もしもマリア様が、これほど重要な最高の権威によって行為がなされなければならない、という事を要求したのならば、このメッセージがどれほど重要であるかという事を意味しています。

第2に、教会の最高の権威がこうやって最高の行為をするという事は、これは教会の不可謬権に関わる事であるからです。最後に不可謬権を行使して教会がドグマを決定したのは、1950年ピオ十二世教皇様がマリア様の被昇天、霊魂と肉体が共に天国に上げられたという事を定義した時でした。

マリア様に関するドグマでもう1つ、教会がドグマとして発表するように全て準備ができていて、これを発表するだけになっている信仰の教義があります。これが、「マリア様が全てのお恵みの仲介者である」というドグマです。本来ならば、第ニバチカン公会議のかなりのきわめて多い教父たちがそのドグマを公式に発表して宣言する事を要求していたので、請願していたので、本来ならば第ニバチカン公会議で、「マリア様が全てのお恵みの仲介者である」という事が教義発表されるべきでありました。残念ながら、第ニバチカン公会議が近代主義の神学者たちによって乗っ取られてしまったので、これがキャンセルになりました。

マリア様の、ファチマのマリア様の中核にあるドグマ的な教義的なメッセージは、汚れなき御心がそのシンボルである、「マリア様が全ての恵みの中継者である、仲介者である」という教義です。

ところで、もしもファチマでマリア様が最高の、反キリスト教的な国がカトリックに立ち戻るという最高のお恵みの行使を実践を行うならば、これこそがマリア様が全てのお恵みの中継者である、仲介者であるという事の証拠になります。

ブラザークラウスと私は何度も何度もロシアに関わってきました。ブラザーはロシアに何度も私よりもっと多く行ってきました。ブラザーもよく知っているのですけれども、ロシアに行って、カトリックに回心するという事は全く不可能というか、もう話にもならない。カトリックの信仰というのは全くロシアには無いのです。正教会の人々はオーソドックスの人々は、カトリックを憎んでいます。例外の、少数の例外はありますけれども、でも全ロシアがそうだという事はもう不可能です。

だからこそマリア様は10月に太陽の奇跡を起こされました。これはやっぱり不可能な事です。ここに10月に集いにやって来た50%60%以上の人々は、笑いに来ました、「そのような事は、奇跡が起こるという事は無い」と思って来ました。でもそれが起こりました。かつて見た事がないような大奇跡を見て帰りました。

教会から離れて何百年も経ち、天主の敵となって公式に戦っているこの国が、カトリック教会に立ち戻るというのは最も目を見張るような奇跡です。

ここには2つの要素があります。

まず第1には、「マリア様が一体どなたであるか」という事が入っています。もしも教皇様がそのマリア様のメッセージを信じない限り、近代主義に染まっている限り何も行われないでしょう。

例えばこの今の教皇様、或いはその次の教皇様がファチマに行かれると、マリア様がいきなり教皇様の前に現れて、「我が子よ、もしもあなたが態度を変えないならば、この今目の前の大地を開いて、あなたが行くべき所を見せますよ、さあ。」「ハッ!お母様、一体私は何をすれば良いのでしょうか?」「私の要求を満たしなさい、私の要求した通りに叶えなさい。ローマにはちゃんと文書が準備ができていて、私の『全ての聖寵の仲介者である聖母』という教義発表の文書も全て、発表されるだけになって待っている。それを発表しなさい。ロシアの奉献をやりなさい。」

そして教皇様がそれを聞いて、「はい、分かりました」と言って全ての司教様たちに手紙を書いて、「私たちはマリア様が全てのお恵みの仲介者であると信じます。そしてこれを私たちが全て信じなければならないように、ドグマとして宣言します。」「そしてマリア様がお望みになった通り、最も悪く取り扱われてきた、指導者によって悪く取り扱われてきたこのかわいそうな民をロシアを、あなたの汚れなき御心にお望みの通り奉献します。」

時間が迫っているので、私はこの第3巻にたくさん色々な事をロシアの奉献について書きました。この第3巻の最後の章です。

たとえ私たち自身が教皇様でなかったとしても、奉献の祈りは天主の心に非常に適うものです。そこで皆さんに提案します。

(小野田神父曰く「もちろん、神父様の提案は私たちにとっては命令ですけれども」(^_^))

聖ピオ十世会の奉献の祈りがありますが、この「聖ピオ十世会と司祭、修道士、」そこに、「そして日本」と是非付けて下さい。そしてそれによって多くの恵みが来るというのを確信して下さい。するとこの日本の回心がもたらされます。そしてこれを毎月初土に、これを唱えて下さい。時々家で個人的に唱えて下さい。

それから皆さん、御聖堂のここにまだ席が空いているので、この空いている席にお友達を招いて下さい。

ご清聴ありがとうございました。祝福を受けて下さい。

” on St Pius X ” by Fr. Laisney SSPX

2017年09月20日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様の霊的講話 「聖ピオ十世について」【英語原文】をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

on St Pius X
2017-09-09 (instruction Osaka)


My dear brethren,

Last Sunday we celebrated the feast of St Pius X, the last truly holy Pope. He is of such importance that we remain under his influence even today: the path to Heaven is not new, all the Saints have walked on it, and we would be fools if we would depart from it, deceiving our own selves and wandering away as lost sheep. The whole diabolical disorientation that happened in the Church since Vatican II obliges us to search for a sure guide, and we find such sure guide in St Pius X. He was truly a worthy successor of St Peter, truly a solid rock of Faith and sure guide on the path to Heaven.

First of all, St Pius X was a man of Faith. St Paul tells us: “the just man liveth by faith” (Rom. 1:17). The true faith is the foundation of the whole spiritual edifice, both for the individual and for the whole society: Christian civilisation is based on the true Faith; destroy the faith and the whole civilisation collapses, as we can see in Europe today. So, St Pius X considered his first duty as Pope to defend the Faith, especially against modernism. In this he is a worthy successor of Peter. Indeed, this was the very command of our Lord Jesus Christ to Peter: “I have prayed for thee, that thy faith fail not: and thou, being once converted, confirm thy brethren” (Lk. 22:32).

Modernism destroys the faith by making it subjective, as if it were founded on some kind of personal experience of God in each individual, and not on the objective reality of the public Revelation of God. For modernist, any religious experience is fine, whatever it is. This is the complete destruction of Faith, since its object is no longer the Truth, the objective truth about God and about God’s work.

On the contrary, it is evident that when we open our eyes, we do not make the things that we see: these things were there before we opened our eyes, we simply get to know them: we do not make the truth, we learn the truth. Similarly, when by Faith we open our eyes onto the supernatural mysteries of God, we do not make these divine realities, we learn them from God. The Revelation is an objective fact, certified by prophecies and miracles. The fact that God spoke with men, entering into our human history, is a fact that we do not make up as we please: we learn it when we open our eyes to human history; we learn from it the divine mysteries that God has revealed: we do not make them up.

Revelation has been brought to its perfection by the Incarnation of the Son of God Himself. When the very Son of God, the Eternal Word of the Father, Word of Divine Truth, comes and speaks with men, Revelation is perfect; nothing that can be added to it. We can deepen our understanding of it, clarify its content, but we can never add new content, nor change what it contains. Divine Truth is eternal; it does not change. “The word of the Lord endureth for ever. And this is the word which by the gospel hath been preached unto you” (1 Pet. 1:25). Thus, St Pius X teaches that Revelation is closed at the death of the last Apostle, St John, through whom we have the Apocalypse, the last book of the Bible.

In the Old Testament, God had established an authority in the High Priest to receive the growing revelation, and the prophets were thus acknowledged and added to the Canon of the Scriptures through the Old Testament; God was revealing more and more about the coming of His Son to “save us from our sins” (Mt. 1:21, see Ps. 129:8). But in the New Testament, the authority which God, the Son of God, our Lord Jesus Christ has established in His Church is not there to teach new doctrines, but rather “the Paraclete, the Holy Ghost, whom the Father will send in my name, he will teach you all things, and bring all things to your mind, whatsoever I shall have said to you” (Jn. 14:26). In other words, the fullness of truth (“all things”) is not new, but is rather all whatsoever our Lord Jesus Christ Himself had already taught. Thus, the First Vatican Council teaches, in the very chapter in which Papal infallibility is defined: “Neither was the Holy Ghost promised to Peter's successors so that, by his revelation, they would make known a new doctrine, but rather so that by His assistance they would religiously keep and faithfully expose the Revelation transmitted by the Apostles, that is, the deposit of Faith.” (DB 1836)

Thus, St Pius X, in the Anti-modernist oath, required all clergy to swear that:

I sincerely receive the doctrine of Faith transmitted to us from the Apostles through the orthodox Fathers in the same sense and the same expression, and therefore I reject the heretical notion of evolution of dogmas, changing from one meaning into another meaning, different from the one which the Church previously held... Therefore, I most firmly hold the Faith of the Fathers and will hold it until the end of my life, fully certain of the charisma of truth which is, was and always shall be in the succession of the episcopate from the Apostles, not so that one would hold what would seem better and more apt according to the culture of each age, but so that the absolute and immutable truth preached from the beginning by the Apostles would never be believed in a different way nor be understood in a different way.

No one, not Luther, not even the Pope, can change that deposit of Faith! We need today more than ever to hear those words of St Pius X, and to fully adhere to them. They set us on the Rock of Christ, Who is “the Way, the Truth and the Life” (Jn. 14:6), and Who is “yesterday, and today, and the same for ever” (Heb. 13:8). There is no new Jesus Christ, there cannot be a new Gospel. It is the Eternal Word of God, the unchangeable Divine Truth.

Because of his zeal for the Faith, he also insisted on the teaching of Christian doctrine, especially the knowledge of catechism. He published what is called “St Pius X Catechism”, which is a summary of the Catechism of the Council of Trent for school children, beautifully providing for the education of the Faith. He encouraged much that teaching, saying that the greatest cause of the evils of our days was religious ignorance, ignorance of the truths about God, our Lord Jesus Christ and His Church.

Thus, St Pius X was a man of Faith, and gave a tremendous service to the Church by condemning modernism. Upon that rock of Faith, one can build a solid spiritual life. And St Pius X was also a man of prayer. In particular he loved and promoted the official prayer of the Church, i.e. the Liturgy, and the most sublime prayer which is the Mass. His very second encyclical was on the restoration of the Gregorian Chant, being the proper Church music, a music that comes from prayer and leads to prayer. Gregorian Chant is a truly spiritual music, where the melody dominates and leads the mind to heavenly contemplation. Moreover, Gregorian Chant is not reserved for professional choirs: the common of the faithful can easily learn much of it, not only the kyriale, i.e. those songs that are found in each Mass, but also quite a few hymns and even some propers.

St Pius X also restored the proper balance between the sanctoral and the temporal in the liturgy, i.e. between the honour given to the Saints each day of the year and the annual cycle of the liturgical “times” such as Advent, Epiphany, Lent, Easter time and time after Pentecost. The liturgy for these “times” came from the very antique years in the Church, but the canonisation of more and more saints as time was passing had somehow hidden these treasures: though they were still in the books, they were rarely used on Sundays. This was particularly acute for the “Divine Office”, i.e. the prayers for all the clergy and also monks and nuns. So, St Pius X beautifully restored these antique treasures to proper use. He loved to say his breviary, and remained a man of prayer even in the multitude of his grave occupations as Pope. One day, he had invited Cardinal Merry del Val to offer Mass in his own papal chapel, but as there were no altar boy around, he himself served the Cardinal’s Mass. Upon the surprised of this one, he said: do you think I no longer know how to serve Mass? This shows both his humility and his love of the Mass.

Above all, St Pius X is the Pope of the Holy Eucharist. He had a great love and appreciation of this most divine gift. Already as a young boy, he longed for his first Communion. Later as Pope, he opened the way for young children to receive Holy Communion, as soon as their knowledge of the catechism was sufficient for them to appreciate the great gift of Jesus, giving His own self totally in holy Communion. He also encouraged frequent and devout communion, putting an end to the left-overs of Jansenism. However, in this matter, one must note that he insisted on proper disposition for a worthy communion, and would be appalled to see today so many always going to communion but never to confession. Though it is not necessary for someone who lives in the state of grace to go to confession every time before communion, yet frequent communion goes with frequent confession, both being the sign of true fervour and love for our Lord Jesus Christ.

St Pius X is less known by the faithful for his work as a legislator, but one of his greatest achievements was the preparation of the Canon Law, which was published by his successor, but the work had been started by him and most of the work had been achieved during his pontificate, so much so that his name has been attached to this canon law. Before him, there were local laws but they had not yet been gathered in one Code of Canon Law for the whole Church. He beautifully set the everlasting principles of Church law together with wise application, so well that his Canon Law is even a model for secular lawyers. The modernists could not stand his Canon Law, so they tried to change it by publishing a new Canon Law, as they did a new Mass. But the principles of St Pius X are not his: they come from the early Church and cannot be changed, so the Society of St Pius X remains attached to those principles of Canon Law as expressed by St Pius X’s Canon Law.

Also, very important was the action of St Pius X for France: he resisted the French government who wanted to put the Church’s hierarchy under the civil government. He preferred that the civil government would steal all Church property rather than see the Church’s constitution being altered by a civil government. The Church had already been stolen all her property during the French Revolution, and a second time in 1905 with the laws of separation of Church and State. But the Church came out of this more free to pursue her role to save souls: the civil government had lost its influence on it.

In this he showed his great love of the Church. St Paul teaches us that “Christ is the head of the church” (Eph. 5:23), “which is his body, and the fulness of him who filled all in all” (Eph. 1:23). Thus, since the Church is the body of Christ, the “Mystical Body of Christ”, it is not possible to love our Lord Jesus Christ without loving the Church; one cannot separate the one from the other. One may not put asunder what God has united (Mt. 19:6). Whether the Church has a holy Pope as St Pius X or not, it remains the Mystical Body of Christ: our Lord Jesus Christ is the same whether glorious on Mount Tabor or despised and suffering on Mount Calvary. We must remain with Him as St John both on Mount Tabor and on Mount Calvary, not like Peter who ran away and denied Christ in His Passion. But even then, he remained Peter.

In the aftermath of Vatican II, when some seminarians came to Archbishop Lefebvre asking him to help them to become good priests, he chose St Pius X as the Patron of the religious society he was founding, because of all these virtues of the holy Pope. At a time when many priests – and even bishops – were confused as to the nature and purpose of their priesthood, Archbishop Lefebvre gave as purpose of his Society to serve the priesthood “as our Lord Jesus Christ instituted it when He said: Do this in commemoration of me” (Lk. 22:19), thus giving them power to offer the Holy Sacrifice of the Mass, the Sacrifice of the New Testament, to be the continuation of the very Sacrifice He was about to offer on the Cross. Thus, Archbishop Lefebvre put the priest as the man of the Holy Eucharist under the protection of the Pope of the Holy Eucharist.

St Paul said: “Let a man so account of us as of the ministers of Christ, and the dispensers of the mysteries of God. Here now it is required among the dispensers, that a man be found faithful” (1 Cor. 4:1-2). So, this very simple principle of fidelity has been the guiding principle of Archbishop Lefebvre and of the Society of St Pius X from the beginning and is still now our guiding principle. We want to be faithful to the faith of all times, adhering fully to the immutable Truth revealed by our Lord Jesus Christ. We want to be faithful to the morals of the Saints, following them who followed our Lord Jesus Christ on the Royal Way of the Cross, the sure road to Heaven. We want to be faithful to the Liturgy of all times, which the Church has transmitted to us as her dearest treasure. We do not change: these are values of eternity; our union with the past of the Church is the best guarantee for our union with the present and the future of the Church. But we want to remain faithful to the Church too, and therefore the Society of St Pius X has always rejected sedevacantism because there cannot be true fidelity outside the Church.

The Society of St Pius X has been persecuted, by those who wanted to change everything; we have been accused of disobedience. But if what we do is what the Saints have done, what they have loved and cherished, and someone with authority in the Church commands us not to do it, the wrong is not on our side, but rather on his side! As Archbishop Lefebvre said: no authority on earth, not even the Pope, can command us to change our Faith; the Catholic Faith cannot be changed! As St Pius X said, “the absolute and immutable truth preached from the beginning by the Apostles would never be believed in a different way nor be understood in a different way.” No one can command us to change it, neither to change its traditional expression in the Liturgy.

We remain at peace, knowing that the Saints such as St Pius X have taught what we believe, had cherished the liturgy that we cherish, have practiced the moral that we strive to practice. They will be our protectors and advocates at the Last Judgement against those who try to make us change.

My dear brethren, I ask to you pray for good and holy vocations for priests in the Society of St Pius X and also for brothers and sisters. It is a great grace that we can count four Korean seminarians at Holy Cross plus one pre-seminarian at Iloilo and by the grace of God we hope for more. But you must keep your prayers: good vocations often come from good families. St Pius X came from a good Catholic family; his mother was a holy woman who passed on to him her simple but solid faith. Where holiness reigns in families, there holy vocations can blossom. So let us also pray for good and holy Catholic families, where the charity of Christ reigns, through the Immaculate Heart of Mary.

Amen.

” on Spiritual warfare ” by Fr. Laisney SSPX

2017年09月19日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様のお説教 「霊戦について」【英語原文】をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

on Spiritual warfare
Sermon Seoul / Osaka 2017-09-10 – 14th Sunday after Pentecost 


My dear brethren,

“No man can serve two masters” (Mt. 6:24): there are two incompatible masters, who strive for the ownership of our souls: Christ and the devil through money. Christ will have the last word in that battle, through His Resurrection. At Calvary, the devil thought he had won, but in fact he has lost the battle against sin, not having been able to deceive our Lord Jesus Christ; and Christ’s victory over sin became the cause of the victory over death on the day of the Resurrection, which marks the complete victory of our Lord Jesus Christ over the devil.

Now we cannot avoid that battle: and often our own soul is the battleground. We can feel these two tendencies within ourselves, as St Paul said today: “For the flesh lusteth against the spirit: and the spirit against the flesh; for these are contrary one to another: so that you do not the things that you would” (Gal. 5:17). This battle is not only a revealed truth, it is a fact of daily experience. We must take sides, we cannot remain indifferent. If we do not go up, we go down; if we do not take the side of the spirit, we fall on the side of the flesh. If we do not deliberately and lovingly serve Christ, we end up serving the devil, being the slave of the love of money and earthly things. We must choose!

The Church teaches that we have three enemies: the flesh, the world and the devil.

The first enemy is the enemy within: our own flesh rebels against our spirit. This was not so when God created Adam, but it is the consequence of original sin and of our own past sins. St Thomas Aquinas calls it the “wound” of sin. Each sin has three consequences: darkness of the soul, due punishment and a wound in our soul. The first consequence of sin is the darkness of the soul: this is the privation of sanctifying grace, like privation of light: this is the evil will turned away from God, loving the creature more than the Creator: this is the state of sin itself. The second is that by sin we incur a debt: a punishment is due to the sinner, because God cannot let evil have the last word and prevail: so, the ultimate word will always belong to God. If a created will choose evil, it will have to be compensated by a due punishment, either inflicted by self in penance or by God Himself.

And the third consequence of sin is the wound of sin: this is the evil inclination to fall again. Thus, for instance, the one who drank too much and became drunk will have a tendency to drink again too much; the one who lied will find the second lie easier and the third one even easier and thus he builds the evil personality trait of lying. Original sin had wounded our nature, and thus we find in our own human nature a tendency to selfishness, a tendency to excessive pleasures, a tendency to disorderly anger and many other evil tendencies against which we must fight.

Wherever we go and through our whole life we find this enemy within, the rebellion of our flesh against the spirit. Often, we tend to blame others for the wrong that we do, when in fact it comes from our own selves. St Paul describes today these “deeds of the flesh”: “fornication, uncleanness, immodesty, luxury, idolatry, witchcrafts, enmities, contentions, emulations, wraths, quarrels, dissensions, sects, envies, murders, drunkenness, revellings, and such like” (Gal. 5:19-21). And he warns us very clearly: “Of the which I foretell you, as I have foretold to you, that they who do such things shall not obtain the kingdom of God” (Gal. 5:21). These last words make it very clear that we MUST fight against our own flesh, against these evil inclinations, wounds of our sins.

How to fight? As our Lord taught us: “If any man will come after me, let him deny himself, and take up his cross daily, and follow me” (Lk. 9:23). Self-denial, mortification is an essential part of a true Christian life: the example of all the Saints is there to teach us this great truth. Give me a Saint who was not mortified and I will say you can go to Heaven without mortification! When we read their lives, we are rather frightened at the depth of their mortification. But then, let us consider the victories they had over their flesh, over the world and over the devil! They were united with our Lord Jesus Christ crucified, and as a consequence they were united with Him in His victory over sin and over death.

The second enemy is the world: all the fascination of the exterior goods, especially money and riches, the glamour and vanities of the world, fashions, success, power, fame… how many eagerly search for these goods as if true happiness was there! And how many sins flow from that: jealousy, envy, frauds, thefts, usury, immodesties and scandals, etc. They do not see how vain such external goods are: they should be mere means, not the goal of life; they are passing goods, not everlasting goods; they do not make good the person who has them, because they are exterior to him.

Here again, one must fight against the disorderly appetite of such exterior goods, against the spirit of the world. St John gives a stark warning: “Love not the world, nor the things which are in the world. If any man love the world, the charity of the Father is not in him” (1 Jn. 2:15). And St James says the same thing: “Adulterers, know you not that the friendship of this world is the enemy of God? Whosoever therefore will be a friend of this world, becometh an enemy of God” (Jam. 4:4).

On the contrary, our Lord Jesus Christ said in the holy Gospel: “If you had been of the world, the world would love its own: but because you are not of the world, but I have chosen you out of the world, therefore the world hateth you” (Jn. 15:19). Hence St John says: “Wonder not, brethren, if the world hate you” (1 Jn. 3:13). But don’t worry: “Blessed shall you be when men shall hate you, and when they shall separate you, and shall reproach you, and cast out your name as evil, for the Son of man's sake. Be glad in that day and rejoice; for behold, your reward is great in heaven. For according to these things did their fathers to the prophets” (Lk. 6:22-23).

The third enemy is the devil. St Peter says plainly: “Be sober and watch: because your adversary the devil, as a roaring lion, goeth about seeking whom he may devour” (1 Pet. 5:8). The very name of “Satan” means “adversary” in Hebrew. Here there is a common error: some people accuse the devil to be responsible for all evil, as if that would excuse them from sin. Though the devil is certainly cause of some evils, especially the big ones, he is not the only cause: there are sins that are fully our own responsibility, especially sins of the flesh. It would be insane to accuse the devil of our laziness, etc. It is true that the devil sometimes encourages us to fall in the sins of the flesh, but he himself has only contempt for this kind of sins, because being a pure spirit, he has no flesh.

The typical sins inspired by the devil are those sins involving destruction for destruction sake, such as revolutions, but also mutilations such as transgenders do to themselves with absolutely no personal profit. You find the devil often involved with drugs, modern music, superstitions, fortune-tellers, new age, etc. You find also the devil much involved in Freemasonry, which follows his rebellion: “I shall not serve” (Jer. 2:20). In their refusal of any law above man, of all the Laws of God, including the natural law, there is a loud echo of the Devil’s rebellion against God. The whole rebellion of modern countries against the social Kingship of our Lord Jesus Christ is due to this influence of the Devil through Freemasons.

So, we must fight against these three foes a fierce battle. “The life of man upon earth is a warfare” (Job 7:1). And how must we fight? St Peter teaches us that we should resist the devil, “strong in faith: knowing that the same affliction befalls your brethren who are in the world” (1 Pet. 5:9). Indeed, St John says: “this is the victory which overcometh the world, our faith” (1 Jn. 5:4).

How does our Faith give us victory? First by opening our eyes onto the spiritual and eternal goods that are promised to us as a reward of fidelity, it detaches our hearts from lower things and attracts us to the heavenly goods. This is what we ask in the postcommunion of the feast of the Sacred Heart: “May these holy mysteries give us, o Lord, divine fervour, through which, having tasted the sweetness of thy most kind Heart, we may learn to despise earthly things and love heavenly goods!” Note that this postcommunion has been suppressed in the New Mass. St Peter says: “purifying their hearts by faith” (Acts 15:9): faith purifies our heart because it lifts it up towards the spiritual goods, the pure goods of heaven. “Blessed are the clean of heart: for they shall see God” (Mt. 5:8).

Also, faith purifies our heart because it shows the everlasting punishments of sin, thus powerfully refraining us from sin. The words of our Lord Jesus Christ are very strong to help us against temptation: “if thy hand scandalize thee, cut it off: it is better for thee to enter into life, maimed, than having two hands to go into hell, into unquenchable fire: where their worm dieth not, and the fire is not extinguished. And if thy foot scandalize thee, cut it off. It is better for thee to enter lame into life everlasting, than having two feet, to be cast into the hell of unquenchable fire: where their worm dieth not, and the fire is not extinguished. And if thy eye scandalize thee, pluck it out. It is better for thee with one eye to enter into the kingdom of God, than having two eyes to be cast into the hell of fire: where their worm dieth not, and the fire is not extinguished” (Mk. 9:43-48). Faith makes manifest how vain the things of this world are. Thus, our Lord says: “For what doth it profit a man, if he gain the whole world, and suffer the loss of his own soul?” (Mt. 16:26). It is useful to learn by heart these and other Gospel verses, that will strengthen us against the flesh, the world and the devil in time of temptation.

Also, faith leads us to prayer: right away we beg the good Lord to help us, we cry for help, and we persevere in this cry for help: and the Good Lord will help those who ask from Him nothing else but to remain faithful to Him. We ask our Lady and all the Saints to intercede for us, not for earthly benefits, but in order to imitate them in their victory over the flesh, the world and the devil. And they will help us. Because our Lord Jesus Christ wants our salvation much more than we want it: we “have not yet resisted unto blood, striving against sin” (Heb. 12:4), but He died on the Cross for our salvation, that is how much He wants it. Our Lord Jesus Christ Himself taught us to pray: “Lead us not into temptation” (Mt. 6:13), which would be better translated in English as “make that we do not succumb to temptation; lead us out of temptation;” “not into” means here “out of”.

We fight “strong in the Faith” also by publicly confessing the faith. St Thomas Aquinas teaches that there are two acts of Faith: first the interior act of believing, of adhering with our intelligence to the revealed truth as taught by God through the Church, and secondly the exterior act of confessing publicly that faith. Look at the Apostles on Pentecost day: they were filled with the Holy Ghost, and then they started without fear to profess the Faith, to teach publicly our Lord Jesus Christ, Son of the living God, Saviour of the world. There is need of that courage of public profession of faith, especially in the fight against the world, fight for the social kingship of our Lord Jesus Christ. Too often Catholics are afraid to profess the faith, to explain it to their friends and neighbours, even more to their foes. But by the Sacrament of Confirmation, we became soldiers of Christ and make His Kingdom advance precisely by professing our faith without fear.

Here is one important aspect of the crisis of the Church: many Catholics today prefer putting in silence the points of faith which heretics deny in order to give an appearance of agreement. The 500th anniversary of Luther is in our days the occasions of so many such compromises and silences that are properly scandalous: because it does not honour the truth of our Lord Jesus Christ, and also because it leaves these poor people in the darkness of their errors instead of giving them the light of the truth faith.

And here is another crucial point: we do not profess the faith in order to condemn our neighbour, far from it! It is rather in order to save them. Our Lord came for that purpose, to save us from our sins (Mt. 1:21); freely we have received, freely we must give (Mt. 10:8). Therefore, in our turn we must work for the salvation of our neighbour, with the same kind heart as Jesus. Thus, St Paul says that “faith… worketh by charity” (Gal. 5:6). The profession of faith gives the light to the mind, but charity wins the hearts; without charity faith is dead and “profiteth nothing” (1 Cor. 13:2). But with charity, Faith can move mountains. Hence today, St Paul places charity as the first fruit of the Holy Ghost: “the fruit of the Spirit is, charity, joy, peace, patience, benignity, goodness, longanimity, mildness, faith, modesty, continency, chastity. Against such there is no law” (Gal. 5:22-23).

That spiritual warfare could frighten us, but we are not alone. Alone we could not overcome; but with our Lord Jesus Christ we can. “These things I have spoken to you, that in me you may have peace. In the world, you shall have distress: but have confidence, I have overcome the world” (Jn. 16:33). Thus St Paul says: “in all these things we overcome, because of him that hath loved us” (Rom. 8:37). “Thanks be to God, who hath given us the victory through our Lord Jesus Christ” (1 Cor. 15:57). “They overcame him by the blood of the Lamb, and by the word of the testimony, and they loved not their lives unto death” (Apoc. 12:11).

We are much encouraged in that spiritual warfare by the example and the prayers of the Saints, as St Paul says: “therefore we also having so great a cloud of witnesses over our head, laying aside every weight and sin which surrounds us, let us run by patience to the fight proposed to us” (Heb. 12:1). By their faith and charity, the Saints have converted so many souls, and overcome so many obstacles, temptations from within: see St Francis throwing himself in a bush of thorn to overcome temptations from the flesh. Saints have overcome tremendous pressures from the world: see St Thomas More, chancellor of England who prefers to die beheaded rather than betray the true faith. Saints have overcome the devil: see the holy Curé of Ars, who was molested by the devil because of all the souls he was freeing from him, but each time he overcame, and brought thousands of souls out of the clutches of the devil back onto the track of salvation.

The best example and the most powerful aid in that spiritual warfare is that of the Blessed Virgin Mary. She is immaculate in her Conception, by a very special privilege of our Lord Jesus Christ; but after that she remained perfectly Immaculate throughout her whole life by a full cooperation with the grace of the Holy Ghost, so well that she never did the least venial sin: and this is her Immaculate Heart. She has been assumed into heaven, thus receiving much power to help all of us to remain faithful to the grace of the Holy Ghost, faithful to our Lord Jesus Christ, filled with the charity that the Holy Ghost pours into our souls (Rom. 5:5). Like Judith cutting the head of Holofernes, so she crushed the head of the antique serpent, and is strong as an army in battle array. Indeed, the Canticle sings: “Who is she that cometh forth as the morning rising, fair as the moon, bright as the sun, terrible as an army set in array?” (Cant. 6:10). One recognises the “Woman clothed with the sun, and the moon under her feet, and on her head a crown of twelve stars” (Apoc. 12:1), the Mother of the Saviour, since her Son is the one announced as the Messiah (psalm 2, compare Ps. 2:9 and Apoc. 12:5).

So, my dear brethren, let us take courage, fight against sin with no compromise, practice the virtues of the saints with perseverance, especially that of charity, following their example and under their protection, so that we may be crowned with glory in Heaven after having properly fought the good fight as St Paul (1 Tim. 6:12). Amen.

ロザリオの十字軍のご報告:日本・マニラ・韓国・シンガポールなど

2017年09月14日 | ロザリオの十字軍
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日は、十字架の称賛の祝日です!2017年 9月 14日現在、

日本から今までの総計で、ロザリオ 26,417環、犠牲 68,333回が報告されております。天主様に感謝!愛する兄弟姉妹の皆様のご協力に感謝します。

マニラからは総計として、ロザリオ343,757環、犠牲133,287回が報告されています。

韓国からは、ロザリオ11,250環、犠牲750回が報告されています。

インドのタミル州からは、ロザリオ 304,617環 犠牲 318,523回がレポートされました。

シンガポールからは、 37,915環のロザリオと、犠牲 14,610回が報告されました。
ありがとうございます。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!
小野田神父様、遅くなりましたが、ロザリオ十字軍の数の報告です。
2016年8月15日から2017年8月22日の全期間で、ロザリオ532環、犠牲200でした。

【報告】
聖なるロザリオ!!♪♪ 4環

【報告】
8月分
ロザリオ260環 犠牲313回です。


聖ピオ十世会 聖伝のミサ(ラテン語ミサ)の報告 Traditional Latin Mass SSPX Japan

2017年09月13日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

先日の大阪と東京での聖伝のミサのご報告をいただきましたので、ご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

先日の御ミサの報告をお送りいたします。

9月8日金曜日 13名
9月8日のマリア様の御誕生日の祝日を大阪の御ミサでお祝い出来た事は大きな喜びでした。
イエズス様の十字架のもとで、私達を超自然の命に産んで下さった、霊的お母様のお誕生日のプレゼントとして、小野田神父様が勧めて下さったように、
今まで以上にロザリオの祈りを心を込めて一生懸命お捧げしたいと思います。
イエズス様への愛のため、罪人の改心のため、マリア様の汚れなき御心への冒瀆の罪の償いのために、教皇様のために、多くのロザリオの祈りがこれからもずっと日本から毎日たくさん捧げられることを希望しています。

9月9日土曜日 11名
ファチマの第三の秘密についてシュテーリン神父様の新著から概要をお話頂きました。
ファチマの聖母ご出現100周年の聖ピオ十世会公式ファチマ巡礼も終わり、ロザリオ十字軍も一息ついたところで自分の中でどこか、達成感というか、終わった感が否めないこの頃でしたが、ファチマの第三の秘密について知って、もう一度目が覚めたようでした。
神父様がおっしゃるように、ファチマでマリア様がご要求された事はまだ、実現されていないのだから、私たちはファチマの牧童たちがしたように、多くの犠牲と祈りをもっと真剣に、中断することなく、最後の息を引き取るまで続けなければいけないのだと、マリア様の勝利の凱旋のために働かなくてはいけないのだと緊張感をもってお説教を聞きました。ロザリオの祈りと聖母の汚れなき御心への信心が日本中、世界中に広がり、愛され、信頼されますように!
教皇様や司教さま方のためにも今まで以上に祈り、犠牲を捧げることで、マリア様のご要求が一日も早く果たされますように!

公教要理では、新約聖書の時代のファリサイ派と、サドカイ派について復習をしたのち、
大司祭とエルサレムの神殿について勉強しました。
アンナが長期にわたって実権を握っていた理由や、エルサレムの神殿の建築の歴史もよくわかりました。
紀元70年のエルサレムの神殿の崩壊については、至聖所に安置されていた聖櫃が崩壊の少し前に行方不明になっていたことや、
二人の歴史家がその著書の中で「神殿から天主が去られた」と声がしたことを記録に残していることなど、聖書の史実性をはっきりと表わしていることに感動しました。神殿から至聖三位一体が去られた事と、マリア様の被昇天に何か関係があるのかもしれないという意見がでて、マリア様の天主様のご関係の深さを想像することが出来ました。

その後、主日のミサのグレゴリオ聖歌の練習を有志でして、解散しました。

9月10日聖霊降臨後第14主日 21人
前日の練習の甲斐があって、御ミサの聖歌はうまくいきました。ε-(´∀`*)ホッ
レネー神父様のお説教の中で、罪はすべて悪魔が原因ではなく、自分の自由意志が原因である事を聞いて、ハッと目がさめました。
今まで、罪を犯すと、悪魔の誘惑に負けたとか、悪魔がひつこく自分を誘惑することに勝てなかったなどと、罪の原因を悪魔のせいにしていたことを反省しました。
恐ろしいことだと思います。子供の頃、公教要理で、地獄の霊魂たちは、地獄に堕ちたのは誰それのせいだ、とか、あの人せいで自分は地獄にいるとかいってお互い争っているという話を聞いた事を思い出しました。
丁度御ミサの始まる少し前に、自分の失敗を家族と責任を押し付け合って口論したことが恐ろしくなりました。
まず、自分のうちからくる罪の原因を改め、もうちいさな罪でさえ犯さないようにマリア様に助けて頂こう思いました。

9月11日月曜日は、15日に迎える七つの悲しみの聖母の随意ミサをしていただきました。
日本から聖なる召命が出ることをこの御ミサでお祈りしました。

至聖なるイエズスの聖心我らを憐み給え
聖母の汚れなき御心よ我らのために祈り給え

【報告】【東京】
Dear Fr Onoda:

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 19人(内、子供2人)
女: 24人(内、子供3人)
計: 43人(内、子供5人)


【報告】【東京】
+アヴェ・マリア・インマクラータ!
トマス・マリア小野田神父様

こんばんわ! 先日は日本でのミッション、ありがとうございます。

午後の講話はエルザレムの神殿について、ということでとても興味深かったです。
なぜ天主様は御自分の生ける地上の神秘体の中心をローマに定められたのか、
今のエルザレムはもちろん聖地ですがカトリック教会の中心地でないことに疑問を感じていました。
しかし、契約の櫃がなく空っぽだった「第三」神殿のこと、また、マリア様の御生涯とエルザレムの神殿の建立・崩壊の時期的一致、
神殿崩壊前に聞かれ歴史家たちが記しているという声の話で、旧約は完全に終わったのだ、ということを再認識し、
ローマに天主様が教会の中心を置かれたことに納得致しました。
いつも小野田神父様は、貴重な講話を私たちにしてくださって本当に本当に感謝致します。
このような講話を伺う度に、カトリック教会の聖伝の教えることは一つ一つが別々のことのように見えても、その一つ一つの全てに意味があって
しかもそれが繋がっており、またそれがあまりにも完璧に、広さでも高さでも長さでも深さでも完璧に天主様という一点へ繋がっているので
これだけが唯一私たちの心を満たすことのできるものだと、いつも感動致します。
もっと多くの方が聖伝を、真のローマカトリック教会に出会うお恵みをいただくことができるように願わずには居れません。
そのお恵みをイエズス様からマリア様の汚れなき御心を通していただく事ができるように
もっともっと祈りと犠牲をしようと、また決意を新たにすることができました!!!デオグラチアス!

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

主日の御ミサのご報告申し上げます。
10日の主日は「まず天主の国とその正義を求めよ」のお話でした。

私は自分をこの世的なことより天主と天主のみ国を求めてきたと思っておりましたが、御ミサに与りお説教を拝聴して天主のみ旨を果たすと言いながらもそこに自分の思いを入れて自分の思うように考え振舞ったことがどれだけ多いのであるかと気づかされました。中途半端は役に立たないという神父様のお話のとおり私がどれだけ役に立たないどころか害を与えることが多いものであるかということも反省いたしました。

マリア様の汚れなき御心から離れているなら、頭の中をそれら(邪念・雑念)は我が物顔に颯爽と通過占領しようとします。知らず知らずのうちにわたしは天主によって支配されているのではなく悪く行動し悪く話してしまっています。自分がなんとくだらなくつまらないものであるか知らされます。

神父様の仰られましたように天主の御助けがなければすぐにこの世の君に靡いて動きおしゃべりしてしまうのだと思います。(時折頭が雑念でいっぱいの時は歩きながら遠い方のスーパーマーケットまでのロザリオ一環唱えることのできる道を、ようやく3連や4連しかとなえることができません。このような時も自分がこの世の思いになされるがままになっているという隠された自分の選びがわかります。)

このようなことを反省しながら、マリア様が私たちにイエズス様を思い出させてくださり、助けの手を差し伸べてくださいますとのこと、ロザリオを祈ることによりマリア様の助けがあることをあらためて教えていただくことができました。

またロザリオは国や民族の危機をも救い助けてくださるとのお話を伺うことができました。私は初めてオーストリアにおいてのロザリオを通しての聖母の助けを知りました。それはロザリオを唱えるという百万名以上もの署名が当時オーストリアの国民から集められていたこと、それによって説明できないような敵(ロシアの共産党・軍隊)の撤退があったということ。ロザリオによりオーストリアは自由諸国の中に留まることができたということでした。戦後のアメリカでもファチマのマリア様のおかげで多くのアメリカ人が共産党員だった人達でさえも回心して一年に10万名以上もの人々が毎年カトリックになったというお話しにも感動しました。

今の日本でも毎日数知れないロザリオが祈られていることと思います、たとえロザリオを祈ることをお勧めしない神父様のいる教会においてでさえ心ある伝統的なカトリック信仰を守り通そうと努めるカトリック信者によりロザリオは祈られているに違いありません。そのような方たちにも今回のお説教を聞いていただけたらどれだけ励まされて勇気を与えられてますますマリア様をお愛し申し上げるようになりますことでしょうと思いました。

またマリア様のお恵みでこれまでロザリオを祈らなかったカトリック信者もロザリオを祈るようになることでしょうと思いました。出口をふさがれたかのような霊的と軍事的との破滅の脅威のもとにある現代の日本でこそ公のお達しによりすべての教会でロザリオの聖母に解決策をお願いするようになりますことを願わずにはいられません。(ロザリオ十字軍は終わったけれど毎日同じようなペースでわずかですがロザリオを祈っています。)

今回神父様のお説教で『ロザリオによって霊的な太陽の奇跡を起こすことができる』とお話しくださり『罪で膝までびしょびしょに濡れている罪人も霊的な太陽の奇跡により即座に罪の汚れから清め乾かしてくださり回心して跪き天主を礼拝することができるようになるでしょう』というお話を拝聴して一層毎日のロザリオを真剣に祈るよう努めようと決意を新たにすることができました。

これまで多くそうだったように漫然とロザリオを祈るのではなくお説教でお話しいただいたようにマリア様と聖ヨハネ様や聖マグダレナさまのように十字架のもとに留まり続けているかのようにイエズス様への侮辱冒涜をわずかでも償えますようにとの思いでロザリオを祈ろうと決心してそのようにできますようにとお恵みを願い求めました。来るべき危険から救うことができるのは私だけですという聖母のお声は何と頼もしく力強いことでしょう。聖母の汚れなき御心の中にいつも御守りいただけますように。

また公教要理のお話もありがとうございました。
このところ怠りから復習をしないままでした。先日ふと聖書を開いてルカ福音書第3章第1節を読みましたら、それまで意味のない人名・国名だった文字がその歴史的流れの厚みや実際の地理的状況も頭に浮かんできて描かれるようになり背景が深く偲ばれるようになったことを感じました神父様いつも貴重なお話を本当に、ありがとうございます。

まず前回の復習としてサドカイ派とファリサイ派についてもう一度教えていただきました。途中大祭司アンナのことも詳しく説明していただきアンナがほとんどの後続の大司祭職を娘婿とか実子にやらせていたことで実質的にアンナが大司祭の職を操っていたのだということがわかりました。それでイエズス様の処刑の時もアンナとカイファと二人の名前が出てきているとのこと教えていただきました。(カイファは大司祭としての預言「人民を滅ぼさないために一人の人が死ななければならない」を残している人。【その年大司祭だったカヤファが、「あなたたちには、何一つわかっていない。一人の人が人民のために死ぬことによって、全国民が亡びないほうが、あなたたちにとってためになることだとは考えないのか」といった。かれは、自分からこういったのではない。この年の大司祭だった彼は、イエズスがこの国民のために、また、ただこの国民のためだけではなく、散っている天主の子らを一つに集めるために死ぬはずだったことを預言したのである。】)

今回はエルサレム神殿についてのお話を伺いました。エルサレム神殿については詩編や雅歌のなかでも触れられていて現実のエルサレム神殿よりも象徴的なエルサレム神殿のほうが思い浮かんでしまいます。実際のパレスチナ・イスラエルの地に建てられていたエルサレム神殿についてのお話が楽しみでした。次にわかったことを箇条書きにしてみます。

1、ユダヤ民族というのはアブラハムという人から始まった。アブラハムだけが唯一の天主を信じアブラハムだけが天主の聖心にかなっていた、そして「アブラハムの子孫から救い主を出すお前の子孫は星より砂より多くなるだろう」と言われた。それから本当に約束の地が与えられた。パレスチナに土地が与えられてアブラハムは最初エルサレムという所でサレムの王に頼んで、パンと葡萄酒を罪のいけにえとして捧げてもらった。その時以来エルサレムという所は最も聖なるところとなった。

2、その後ユダヤ民族はエジプトに避難しなければならなくなったがモーゼに率いられ約束の地へ戻って来ることができた。モーゼのもとでどのようにいけにえを与えたらよいかという詳しい規定が与えられた。この時は幕屋で移動式の祭壇だった。

3、それからダビド王の子供のソロモンが初めてエルサレム神殿を建てる。神殿はあまりにも豪華で当時の貴重な建築材料の最高のものをふんだんに使ったものだった。

4、これをナブコドノゾルという王が破戒してしまう。バビロン捕囚から戻ったのちに壊された神殿を再建するもののそれほど立派な神殿を作ることができなかった。

5、戻ってきてからパレスチナをシリアのセレウコス朝の人が狙っていた。エジプトからもプトレマイオス朝の人が狙っていた。そのような中でアスモネ朝という王朝ができる。最初のうちは良かったが、権力争いからその王朝は力を落としてイドメア人のヘロデがその地を支配するようになる。そのヘロデによりエルサレム神殿はB.C.20年から10年の時立て直される。(バビロン捕囚中も70年間生贄は同じように捧げられていたからこれは第二神殿と呼ばれる。)少しだけ天井が高かったがほとんどソロモンの時代と同じような立派なものが建設された。一万名の労働者が携わり1000名の司祭が建築学を学んで聖所・至聖所の建築に従事し8年を費やした。完成したのは紀元後の60年から62年の間、破壊されたのは西暦70年で、破戒される前のほんの数年前に完成した。(そしてこの時代のエルサレム神殿の構造を教えていただきました。)

6、エルサレム神殿についてのいちばん興味深いお話はヘロデがエルサレム神殿を建築しようとしたときがちょうどマリア様が御生まれになられた頃でマリア様がイエズス様を御懐妊された時とちょうど時を同じにする頃にヘロデが神殿を復興させていた、そしてちょうどマリア様が亡くなられた頃にエルサレム神殿も失われた、というお話でした。

7、そして二人の歴史家が書いていることだが(フラヴィウス・ヨゼフという人と、コルネウス・タキトゥスという人)、ユダヤ神殿が崩壊する少し前のある五旬祭の日つまりペンテコステの日(聖霊降臨祭のとき)突然家が震え出して大音響が聞こえて我々はここを去るという声が聞こえたとのことです。ヤーウェが去ったということのようです。

8、その後エルサレム神殿の崩壊後はローマ人がキリスト教を迫害するようになる。その迫害の仕方があまりに残酷でありあたかもイエズス様が侮辱冒涜痛めつけられたと同じほどにローマ軍によってユダヤ人がやられたという史実が残されているとのこと。そしてローマの皇帝ユリヤヌスという人が洗礼を受けていたものの背教していたが、その彼が信仰を失っていたにもかかわらずもう一度エルサレム神殿を建設しようとしたところ地の下から火が噴き出してくるとか雷が落ちたりなどしてどうしても再建できなかったという。エルサレム神殿は70年に崩壊されてから一度も再建されることなく現在に至っている。

9.エルサレム神殿がマリア様という人間の誕生と死と同調するかのように再建されて崩壊したというお話をはじめて知って不思議な印象を受けました。あたかもマリア様の御誕生とマリア様の被昇天との間のみ地上にも目に見えるエルサレム神殿が建立されていたかのようだったというお話がとても興味深かったです。イエズス様が亡くなられて時刻に神殿の幕が裂けたという聖書の話も思い出されました。

10、アブラハムの時代より目に見える生贄を捧げ続けていて、さまざまな苦難試練を経てその後ようやくエルサレム神殿が再建された時期に、救いの御業としてマリア様という聖霊の神殿を通して御子イエズス・キリストがご自分を私達人類の罪の贖いとしてお捧げくださった。
「旧約は新約の影です」ということを講義の初めに話していただいたけれど、このエルサレム神殿の話も、新約でマリア様をとおして私たちにうちにイエズス様が来てくださったということの影ということなのかなと思いました。
この救いの御業に対してどれだけ感謝しても足りないというのに、感謝を忘れているということをあらためて反省いたしました。ファチマでの天使から教えられた祈りを、お祈りしなければと思いました。

最後に。天のエルサレムは目に見えないけれど天国のイエズス様とマリア様の玉座のあるところでありイエズス様が場所を用意してくださると言われたその所でしょうか。信仰によって私たちは肉体に留まっているこの地上でも霊魂を高く揚げて聖霊の神殿である霊魂のうちの玉座に近づきひれ伏して天主を礼拝し日ごろのすべての苦しみ喜び悲しみなどを犠牲としてお捧げすることができるのかなと黙想しました。聖霊の神殿である聖マリア様の汚れなき御心に深く入ることができますように。神父様、今回もとても貴重な素晴らしいお話をありがとうございました。

聖マリアの汚れなき御心のうちに!


「聖ピオ十世について」:聖ピオ十世会司祭 レネー神父様

2017年09月12日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様の霊的講話 「聖ピオ十世について」(日本語訳)をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2017年9月10日 大阪の公教要理 
聖ピオ十世について


親愛なる兄弟の皆さん、

この前の主日に、私たちは聖ピオ十世の祝日を祝いました。彼はまことの聖人教皇の中で最も新しい人です。彼は、こんにちでも私たちがその大きな影響を受け続けているほど重要です。天国への道は新しいものではなく、全ての聖人はその道を歩んだのですから、もし私たちがその道から離れ、自分自身を欺いて失われた羊としてさまようならば、私たちは愚か者になってしまうことでしょう。第二バチカン公会議以来、教会で起きた悪魔によるすべての誤った方向づけのため、私たちは確実な導き手を探さざるを得ませんが、私たちは聖ピオ十世にその確実な導き手を見いだすのです。彼は、まことに聖ペトロの後継者にふさわしく、まことに信仰の堅いいわおであり、天国への道について確実な導き手であったのです。

第一に、聖ピオ十世は信仰の人でした。聖パウロは私たちにこう言います。「義人は信仰によって生きる」(ローマ1章17節)。まことの信仰は、個人にとっても社会全体にとっても、霊的な建物全体の基礎です。キリスト教文明はまことの信仰に基づいています。こんにちのヨーロッパで見られるように、信仰を破壊すれば文明全体が崩壊します。ですから、聖ピオ十世は、自分の教皇としての第一の義務を、信仰を擁護すること、特に近代主義に対して擁護することだと考えました。ここにおいて、彼はペトロの後継者にふさわしい人です。実際、これは私たちの主イエズス・キリストがペトロにお与えになった命令そのものでした。「私はあなたのために信仰がなくならならぬようにと祈った。あなたは心を取り戻し、兄弟たちの心を固めよ」(ルカ22章32節)。

近代主義は、信仰が天主による公の啓示という客観的な事実に基づいているのではなく、まるで天主についての一人一人のある種の個人的な体験に基づいているかのように、信仰を主観的にすることによって、信仰を破壊します。近代主義者にとっては、どのような宗教的経験も、それが何であっても素晴らしいものなのです。これは、完全に信仰を破壊することです。なぜなら、信仰の目的がもはや真理、すなわち天主と天主のみわざについての客観的な真理ではないからです。

その反対に、私たちが目を開いたとき、私たちが見るものを私たちがつくりだすのではないことは明らかです。これらのものは、私たちが目を開く前からあったのであり、私たちは単にそれらを知るようになるだけです。私たちは真理をつくるのではなく、真理を学ぶのです。同様に、私たちが信仰によって天主の超自然の神秘に目を開いたとき、私たちは天主の存在をつくりだすのではなく、それらを天主から学ぶのです。啓示は客観的な事実であり、預言と奇蹟によって確証されています。天主が人間と話をされ、人類の歴史の中に入られたということは事実であって、私たちが自分の気に入るようにつくりだすものではありません。私たちは、人類の歴史に目を開いたとき、その事実を学ぶのです。私たちはその事実から、天主が啓示された天主の神秘を学ぶのです。私たちがその神秘をつくる(でっちあげる)のではありません。

啓示は、天主の御子自らのご托身によって完成をもたらされました。御父のみ言葉であり天主の真理のみ言葉である天主の御子そのお方が来られて人間に話をされるとき、啓示は完成します。それに付け加えられるものは何もありません。私たちは、啓示の理解を深め、啓示の内容を明確にすることができますが、新しい内容を付け加えることも、啓示の内容を変えることも決してできません。天主の真理は永遠のものです。変わりません。「主のみ言葉は永遠に残る。あなたたちに伝えられたよい便りは、このみ言葉である」(ペトロ前書1章25節)。このように聖ピオ十世は、啓示は聖書の最後の書である黙示録を書いた最後の使徒、聖ヨハネの死をもって閉じられた、と教えています。

旧約においては、天主はふくらんでゆく啓示を受ける権威を大司祭に置かれ、こうして預言者たちが認められ、旧約における聖書の聖典に付け加えられてゆきました。天主は、「私たちを罪から救う」(マテオ1章21節。詩篇129章8節を参照)ための御子の来臨についてますます多くのことを啓示なさっていました。しかし新約においては、天主であり天主の御子である私たちの主イエズス・キリストがご自分の教会に置かれた権威は、新しい教理を教えるためのものではなく、むしろ「父が私の名によって送ってくださる弁護者、聖霊、彼があなたたちにすべてのことを教え、あなたたちの心にすべてのことを、私があなたたちに教えたすべてのことを思い出させてくださる」(ヨハネ14章26節)のです。言い換えれば、真理の充満(「すべてのこと」)は新しいものではなく、むしろ私たちの主イエズス・キリスト御自らがすでに教えてこられたすべてのことなのです。ですから、第一バチカン公会議は、教皇の不可謬性が定義されたまさにその章で、次のように教えています。「聖霊がペトロの後継者たちに約束したのは、聖霊の啓示によって、新しい教義を教えるためではなく、聖霊の援助によって、使徒たちが伝えた啓示、すなわち信仰の遺産を確実に保存し、忠実に説明するためである」(デンツィンガー旧版1836)。

ですから、聖ピオ十世は、反近代主義誓文で、すべての聖職者に次のように誓うことを要求しました。

私は、使徒たちから正統信仰の教父たちを通じて同じ意味、同じ表現でわれわれに伝えられてきた信仰の教理を心から受け入れる。したがって、教義の意味が変化し、教会が昔信じていた意味と異なっていると主張する教義の進化説を異端として排斥する。…したがって、私は、教父たちの信仰を堅く守り、命の終わりまでその信仰を堅持する。また真理の賜物(カリスマ)が、使徒たちから継承された司教職のうちに今も、過去も、これからも常にあることを完全に確信する。それは、各時代の文化にあわせてよりよく、より適切であるように思われるものを信ずるのではなく、むしろ、最初から使徒たちによって宣べ伝えられた絶対不変の真理が、決して他の意味で信じられることも、他の意味で理解されることもないようにするためである。

誰も決して、ルターでも、教皇でさえも、信仰の遺産を変えることはできません! 私たちはどんなときよりもまさにこんにち、聖ピオ十世のこれらの言葉を聞き、その言葉に忠実である必要があります。その言葉は、「道であり真理であり命である」(ヨハネ14章6節)お方であり、「昨日も今日も世々に同じである」(ヘブライ13章8節)お方であるキリストという岩に私たちを置きます。新しいキリストはなく、新しい福音もあり得ません。あるのは、天主の永遠のみ言葉、変わり得ない天主の真理なのです。

信仰への熱意のゆえに、聖ピオ十世は、キリスト教の教理についての教え、特に公教要理を知ることについても強く訴えました。彼は、「聖ピオ十世の公教要理」と呼ばれる本を出版しました。これは、トレント公会議の公教要理を学校に通う子ども向けに要約したもので、信仰教育のために提供される美しいものです。彼はこの教えを強く推奨し、私たちの時代の悪の最も大きな原因は、宗教的な無知、天主と私たちの主イエズス・キリストおよび彼の教会に関する真理についての無知である、と言いました。

このように、聖ピオ十世は信仰の人であり、近代主義を非難することによって、教会に対して非常にすぐれた奉仕をしました。この信仰の岩の上に、人は堅い霊的生活を打ち立てることができます。また、聖ピオ十世は祈りの人でした。特に教会の公式な祈り、すなわち典礼と、最も崇高な祈りであるミサを愛し、促進させました。彼の第二の回勅は、教会固有の音楽であり、祈りから出て祈りへと導く音楽であるグレゴリオ聖歌の復興についてのものでした。グレゴリオ聖歌はまことに霊的な音楽であり、メロディーが支配し、精神を天的な観想へと導きます。さらに、グレゴリオ聖歌はプロの合唱団のために取っておかれるようなものではありません。普通の信者が、その多くを簡単に学ぶことができ、すべてのミサにある聖歌であるキリアーレだけでなく、沢山の賛歌や各ミサに固有の聖歌でさえも学ぶことができます。

聖ピオ十世はまた、典礼における聖人祝日と聖節の間の適切なバランスを復興させました。すなわち、一年間毎日諸聖人をたたえることと、待降節や公現節、四旬節、復活節、聖霊降臨後の聖節といった一年間の典礼上の「時節」の間のバランスです。これらの「時節」の典礼は教会の大変古い時代から来ているのですが、時がたつにつれてより多くの聖人が列聖されてきたため、これらの宝はいわば隠されたようになってしまっていました。典礼書には残っていたのですが、主日に使われるのが稀になってしまっていました。これは特に、全ての聖職者、また修道士や修道女のための祈りである「聖務日課」には重大な問題でした。そのため、聖ピオ十世はこれらの古い宝が適切に使用されるよう美しく復興させました。彼は好んで自分の聖務日課を唱え、教皇としての多くの重い任務の中にあっても祈りの人であり続けました。ある日、彼はメリー・デル・ヴァル枢機卿を自分の教皇チャペルでミサを捧げてもらうよう招きましたが、侍者がいなかったため、自分自身が枢機卿のミサで侍者を務めました。枢機卿が驚くと、教皇は「ミサで侍者を務める方法を、私がもう覚えていないと思いますか?」と言いました。このエピソードは、教皇の謙遜およびミサへの愛の両方を教えてくれます。

とりわけ、聖ピオ十世はご聖体の教皇です。彼はこの最高の天主の賜物への大きな愛と感謝を持っていました。幼い少年だったとき、彼はすでに初聖体を熱心に望んでいました。のちに教皇として、彼は幼い子どもたちがご聖体を受ける道を開きました。聖体拝領においてご自身を完全に与えてくださるというイエズスからの素晴らしい賜物に感謝するのに公教要理の知識が十分になるとすぐにです。彼はまた、ヤンセニズムの名残に終止符を打ち、頻繁に信心深い聖体拝領をすることを奨励しました。しかしながら、このことについて記しておかなければならないことは、彼がふさわしい聖体拝領のための適切な心構えが必要であることについて強く訴えたことと、こんにち非常に多くの人がいつも聖体拝領に行くのに全く告解をしないのを彼が目にするならば、ぞっとするであろう、ということです。成聖の恩寵の状態で生きている人にとっては、聖体拝領の前に毎回告解に行くのは必ずしも必要ではありませんが、頻繁な聖体拝領と頻繁な告解は相伴うもので、両方とも私たちの主イエズス・キリストへのまことの熱意と愛のしるしなのです。

聖ピオ十世の立法者としての業績は信者にはあまり知られていませんが、彼のもっとも素晴らしい業績のうちの一つは教会法の準備をしたことです。これは彼の後継者によって公布されましたが、この仕事は彼によって始まられ、大部分は彼の教皇在位中に終えられたのであり、それは彼の名がこの教会法に付けられているほど大きな役割だったのです。聖ピオ十世以前には、地域教会での法はありましたが、教会全体に対する一つの教会法にまとめられてはいませんでした。彼は、教会の法における永遠の諸原則をその賢明な適用とともに美しくまとめ、そのため彼の教会法は世俗の法律家の模範とさえなっています。近代主義者は彼の教会法を支持できませんでしたから、新しい教会法を公布することによってそれを変えようと試みました。ちょうど新しいミサを公布したようにです。しかし、聖ピオ十世の原則は彼自身のものではありません。その原則は初代教会から来るのであり、変えることはできませんから、聖ピオ十世会は聖ピオ十世の教会法によって表現された教会法のこれらの原則に執着し続けています。

また、非常に重要なのはフランスに対して聖ピオ十世がとった行動です。彼は、教会の聖職位階を市民政府の下に置こうとしたフランス政府に抵抗しました。教会の組織が市民政府によって変えられるのを見るよりは、むしろ市民政府が教会の財産すべてを盗んでしまう方がましだと考えました。教会はすでに、フランス革命の間にすべての財産を盗まれていましたが、1905年には再び教会と国家の分離という法によって盗まれたのです。しかし教会は、これによって、霊魂を救うという役割を追求するためのさらなる自由を得たのです。市民政府は、教会への影響力を失ったのです。

ここにおいて、彼は教会への大きな愛を示しました。聖パウロが私たちにこう教えてくれます。「キリストは教会のかしらである」(エフェゾ5章23節)、「教会はキリストの体であって、すべてにおいてすべてのものによって満たされる者の充満そのものである」(エフェゾ1章23節)。このように、教会はキリストの体、「キリストの神秘体」なのですから、教会を愛することなしに私たちの主イエズス・キリストを愛することは不可能です。一方を他方から離すことはできません。人は天主が合わせられたものを離してはなりません(マテオ19章6節)。教会が聖ピオ十世のような聖なる教皇を持っていても持っていなくても、教会はキリストの神秘体であり続けます。私たちの主イエズス・キリストは、タボル山での栄光に満ちた姿であろうとカルワリオ山であざけられて苦しみを受けられても、同じ方です。私たちは聖ヨハネのようにタボル山とカルワリオ山の両方で主とともに留まらなければならず、キリストのご受難の間に逃げだしてキリストを否んだペトロのようであってはなりません。しかし、そのときでさえ、彼はペトロ(教皇)であり続けたのです。

第二バチカン公会議の後に、数人の神学生がルフェーブル大司教のところへ来て、よき司祭になれるよう自分たちを助けてほしいと頼んだとき、大司教は彼が設立しようとしていた修道会の保護聖人として聖ピオ十世を選びました。その理由は、この聖なる教皇のこれらすべての聖徳のためです。多くの司祭たちが、司教たちであっても、自分たちの司祭職の本質と目的について混乱していた時期に、ルフェーブル大司教は司祭職に奉仕することをご自分の設立する修道会の目的とされました。その司祭職とは、私たちの主イエズス・キリストが、「これを私の記念として行いなさい」(ルカ22章19節)、と言われて制定されたもので、そうして使徒たちにミサの聖なる犠牲、すなわちご自身が今より十字架上で捧げられる犠牲そのものの継続となる新約の犠牲を捧げる権能を与えられたのです。こうしてルフェーブル大司教は、ご聖体の人としての司祭を、ご聖体の教皇の保護の下に置いたのです。

聖パウロはこう言いました。「私たちをキリストのしもべ、また天主の奥義の管理者だと考えよ。管理者に要求されるのは忠実である」(コリント前書4章1-2節)。ですから、忠実というまさにこの単純な原則が、ルフェーブル大司教の原則でありと最初から聖ピオ十世会の指針となる原則であったのであり、今でも私たちの指針となる原則なのです。私たちは永遠の信仰に忠実でありたい、私たちの主イエズス・キリストによって啓示された不変の真理に完全に忠実でありたいと願っているのです。私たちは諸聖人の道徳に忠実でありたい、天国への確実な道である十字架の道という王道を私たちの主イエズス・キリストに従った諸聖人に従って進みたいと思っているのです。私たちは、教会が最愛の宝として私たちに伝えた永遠の典礼に忠実でありたいと思っているのです。私たちは変わりません。これらは永遠の価値であり、私たちが過去の教会と一致していることは、私たちが現在と未来の教会と一致することの最高の保証なのです。しかし、私たちは教会に忠実であり続けたいとも思っています。それゆえに、聖ピオ十世会は常に教皇聖座空位論を拒否してきました。なぜなら、教会の外では、まことの忠実はあり得ないからです。

聖ピオ十世会は、全てを変えたがる人々によって迫害されて続けてきました。私たちは不従順の罪によって告発され続けてきました。しかし、私たちが行っていることが聖人たちの行ったことであり、聖人たちが愛して大切にしたことであるにもかかわらず、もし教会で権威を持った誰かが私たちにそれを行わないよう命じるならば、間違いは私たちの側にはなく、むしろその権威者の側にあるのです! ルフェーブル大司教が、「地上のどのような権威でも、たとえそれが教皇であっても、私たちの信仰を変えるよう私たちに命じることはできません。カトリック信仰を変えることはできません!」と言われたように。聖ピオ十世が、「最初から使徒たちによって宣べ伝えられた絶対不変の真理が、決して他の意味で信じられることも、他の意味で理解されることもない」と言われたように。誰も、私たちにその信仰を変えるよう命じることはできず、典礼における聖伝の表現様式を変えるよう命じることもできません。

聖ピオ十世のような聖人たちが私たちが信じることを教え、私たちが大切にしている典礼を大切にし、私たちが実践しようと努めている道徳を実践したということを知って、私たちは平安でいられるのです。その聖人たちは、私たちを変えてしまおうと試みる人々に対して、最後の審判において私たちの保護者にして弁護者となるでしょう。

親愛なる兄弟の皆さん、聖ピオ十世会の司祭、また修道士や修道女の良きかつ聖なる召命のために祈ってくださるようお願いします。オーストラリアの聖十字架神学校に四人の韓国人神学生がおり、フィリピンのイロイロには一人の予備神学生がいるのは大きなお恵みですし、天主のお恵みによって私たちはもっと多くを期待しています。しかし、皆さんは祈り続けなければなりません。良き召命はしばしば良き家庭から出るのですから。聖ピオ十世は良きカトリックの家庭から出ました。彼の母は、彼に素朴ながら堅い信仰を受け継がせた聖なる女性でした。聖性が家庭を支配するところには、聖なる召命が花開くことができるのです。ですから、マリアの汚れなき御心を通して、キリストの愛徳が支配する、良きかつ聖なるカトリックの家庭のためにも祈りましょう。

アーメン。

「霊的戦い(霊戦)について」:聖ピオ十世会司祭 レネー神父様

2017年09月11日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様のお説教 「霊的戦い(霊戦)について」(日本語訳)をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2017年9月10日 聖霊降臨後第十四の主日 大阪の説教
霊的戦い(霊戦)について


親愛なる兄弟の皆さん、

「人は二人の主人に仕えるわけにはいかぬ」(マテオ6章24節)。私たちの霊魂の所有権を懸命に求めている二人の相いれない主人がいます。キリストと、お金を通じた悪魔です。キリストは、ご自分の復活を通じて、この戦いにおける最終決定権をお持ちになるでしょう。カルワリオにおいて、悪魔は自分が勝利したと思いましたが、私たちの主イエズス・キリストを欺くことはできず、実際は罪との戦いで敗北したのです。キリストの罪に対する勝利は、復活の日の死に対する勝利の原因となり、この復活が私たちの主イエズス・キリストの悪魔に対する完全な勝利を示しているのです。

さて、私たちはこの戦いを避けることができません。ですから、しばしば私たち自身の霊魂が戦場なのです。私たちは自分自身の中にこれら二つの傾きがあるのを感じることができます。それについて聖パウロは本日こう言っています。「実に肉の望むことは霊に反し、霊の望むことは肉に反する。あなたたちが望みのままに行わぬように、それらは相反している」(ガラツィア5章17節)。この戦いは啓示された真理であるだけでなく、日々の経験から得られる事実です。私たちはどちらかの側につかねばならず、無関心のままでいることはできません。私たちは上に上がらなければ、下へ落ちてしまいます。霊の側につかなければ、肉の側に落ちてしまいます。意志と愛をもってキリストに仕えるのでないならば、悪魔に仕えることになってしまい、お金や地上のものへの愛着の奴隷となるでしょう。私たちは選ばなければならないのです!

教会は、私たちには三つの敵がいると教えています。それは、肉、この世、そして悪魔です。

第一の敵は内なる敵です。私たち自身の肉体が霊に反逆しているのです。これは、天主がアダムを創造されたときにはそうではなかったのですが、原罪と自分の過去の罪の結果です。聖トマス・アクィナスは、それを罪による「傷」と呼んでいます。すべての罪は三つの結果をもたらします。それは霊魂の闇、当然受けるべき罰、そして私たちの霊魂の傷です。罪による第一の結果は霊魂の闇です。これは、光を奪われるように、成聖の恩寵を奪われることです。これは天主から離れる悪しき意志であって、創造主よりも被造物に愛着を持つのです。これは、罪そのものの状態です。第二の結果は、罪によって私たちが負債をこうむるということです。罰は罪びとが当然受けるべきものであり、それは天主が悪に最終決定権を持たせて勝利させられることはあり得ないからです。そのため、最終決定権は常に天主に属しています。もし被造物の意志が悪を選ぶならば、その被造物は当然受けるべき罰によって償われなければならず、それは償いとして自分で受けるか、天主ご自身によって負わされるかのどちらかです。

そして罪による第三の結果は、罪による傷です。これは、再び罪に落ちようとする悪しき傾きです。ですから、例えば、お酒をたくさん飲み過ぎて酔っぱらった人は、またたくさんお酒を飲みたくなる傾きをもっています。うそをついた人は第二のうそをつくのが簡単になり、第三のうそはもっと簡単になり、こうしてその人にはうそをつくという悪しき人格的特性が出来上がるのです。原罪は私たちの本性に傷を負わせたので、そのため私たちは自分自身の人間の本性の中に自己中心の傾き、過度に楽しみを求める傾き、手に負えない怒りへの傾きや、他の多くの悪しき傾きを見いだすのであり、私たちはこれらと戦わなければなりません。

私たちはどこへいっても、全生涯にわたって、この内なる敵、霊に対する自分の肉の反逆を見いだします。しばしば、私たちは、自分が行う悪について、それが実際に自分自身の中から来るときでも、他人を非難する傾向があります。聖パウロは本日、これらの「肉の行い」について述べています。それらは、「私通、不潔、猥褻、邪淫、偶像崇拝、魔術、恨み、紛争、妬み、憤怒、喧嘩、騒乱、異説、嫉(そね)み、殺人、酩酊、倒食、そしてそれらに似たこと」(ガラツィア5章19-21節)です。また、聖パウロは私たちに非常に明確に警告しています。「私は前に言ったように、またあらかじめ注意する。以上のようなことを行う者は天主の国を継がない」(ガラツィア5章21節)。この最後の言葉は、私たちが自分の肉に対して、これらの悪しき傾き、罪による傷に対して戦わなければならないことを非常に明確にしています。

どのようにして戦うのでしょうか? 主が私たちにこう教えられた通りにです。「私のあとに従おうと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を背負って従え」(ルカ9章23節)。自己否定、苦行は、まことのキリスト教徒の生涯のうちで本質的部分の一つです。全ての聖人の模範が、私たちにこの偉大な真理を教えてくれます。苦行をしなかった聖人の例があれば教えてください。そうすれば、私はあなたが苦行なしに天国に行けると言うことでしょう! 聖人たちの伝記を読むとき、私たちは彼らの苦行の奥深さにいささか恐れをいだきます。しかし一方、彼らの肉体に対する勝利を、世に対する勝利を、悪魔に対する勝利を考えてみましょう! 彼らは十字架に付けられた私たちの主イエズス・キリストと一致していたのであり、その結果として彼らは罪と死に対する主の勝利において主と一致していたのです。

第二の敵はこの世です。すべての外的なものの誘惑、特にお金と富、世の外的な魅力と虚栄、流行、成功、権力、名声といったものです。どれだけ多くの人々が、これらのものを、まるでまことの幸せがそこにあるかのように熱心に追い求めることでしょうか! また、嫉妬、妬み、詐欺、盗み、高利貸し、慎みのなさ、つまずきなどから、どれだけ多くの罪が出てくることでしょうか。そのような人々には、そんな外的なものがいかに虚しいものであるのかが見えません。それらのものは単なる手段であるべきであって、人生の目的とするべきではありません。それらは過ぎゆくものであって、永遠に続くものではありません。それらのものは持っている人を善くするのではありません。なぜなら、それらはその人の外にあるからです。

ここで再び、人はそのような外的なものに対する無秩序な渇望と、この世の精神と、戦わなければなりません。聖ヨハネは強い警告を与えています。「世と世にあるものを愛するな。世を愛するなら御父の愛はその人の中にはない」(ヨハネ第一2章15節)。また、聖ヤコボが同じことを言います。「姦通者よ、あなたたちが世の友となるのは、天主を敵にすることだと知らないのか。世の友となる者は、天主の敵となる」(ヤコボ4章4節)。

それどころか、私たちの主イエズス・キリストは聖福音でこう言われました。「あなたたちがこの世のものなら、この世はあなたたちを自分のものとして愛するだろう。しかしあなたたちはこの世のものではない。私があなたたちを選んでこの世から取り去った。だからこの世はあなたたちを憎む」(ヨハネ15章19節)。ですから聖ヨハネは言います。「兄弟たちよ、世があなたたちを憎んでも驚くな」(ヨハネ第一3章13節)。でも心配しないでください。「人があなたたちを憎み、破門し、侮辱し、そして、人の子のためにあなたたちの名を不敬のものとして排斥するとき、あなたたちは幸せである。その日には喜びおどれ。あなたたちは天において偉大な報いを受けるであろう。彼らの先祖は預言者たちをそのようにあしらった」(ルカ6章22-23節)。

第三の敵は悪魔です。聖ペトロははっきりとこう言います。「節制して警戒せよ。敵の悪魔は吠えるししのように、食い荒らすものを探して、あなたたちのまわりを回っている」(ペトロ前書5章8節)。「サタン」という名前それ自体が、ヘブライ語で「敵」を意味します。ここで、よくある誤りが一つあります。まるで自分たちの罪の言い訳をするかのように、悪魔にすべての悪の責任があると告発する人々がいるのです。悪魔は確かにいくつかの悪の原因、特に大きな悪の原因ですが、唯一の原因ではありません。完全に私たち自身に責任のある罪があります。特に肉の罪です。私たちの怠惰などで悪魔を告発するのはばかげたことです。悪魔は時折、肉の罪に落ちるよう私たちをそそのかすというのは本当ですが、悪魔自身はこの種の罪を軽蔑しています。なぜなら、悪魔は純粋な霊であって肉体を持たないからです。

悪魔によってそそのかされる典型的な罪は破壊のための破壊に関わる罪、たとえば、革命や、また自分にまったく何の個人的な利益をももたらさない性転換を自分の体に行なうような、肉体の損傷行為もそうです。悪魔はしばしば、麻薬や現代音楽、迷信、占い師、ニューエイジなどと関わっています。また、フリーメーソンとも大いに関わっています。フリーメーソンは「私は仕えない」(エレミア2章20節)という悪魔の反乱に従っているのですから。フリーメーソンは、人間の上にはいかなる法の存在をも拒否し、自然法を含めて天主のすべての法の存在を拒否しており、そこには天主に対する悪魔の反乱の叫びがおおきくこだましています。私たちの主イエズス・キリストの社会的王権に対する現代の諸国家の全面的な反乱は、フリーメーソンを通じた悪魔のこの影響力のせいで起きているのです。

ですから、私たちはこれら三つの敵に対して激しい戦いを戦わなければなりません。「この世にいることは人にとって兵役である」(ヨブ7章1節)。では、どのようにして戦わなければならないのでしょうか? 聖ペトロは私たちに、私たちは、「世にいる兄弟も同じ苦しみに耐えていることを思い、信仰を固めて」(ペトロ前書5章9節)悪魔に抵抗するように教えています。実際、聖ヨハネはこう言います。「世に勝つ勝利はすなわち私たちの信仰である」(ヨハネ第一5章4節)。

では、私たちの信仰が、どのようにして私たちに勝利を与えるのでしょうか? 第一に、忠実であることの報いとして私たちに約束された霊的かつ永遠のものに目を開かせることによって、信仰は私たちの心を低級なものから離し、私たちを天のものに引きつけます。これは、イエズスの聖心の祝日の聖体拝領後の祈りの中で私たちが求めるものです。「主よ、この聖なる秘蹟によって、われらにあつい信心を起こさせ、いとも優しい聖心の甘美さを味わわせ、地上のことを軽んじ、天を愛することを教え給え!」。この聖体拝領後の祈りは、新しいミサでは削除されていることに注意してください。聖ペトロはこう言います。「彼らの心を信仰によって清める」(使徒行録15章9節)。信仰は、私たちの心を霊的なもの、天の純粋なものへと上げるのですから、私たちの心を清めるのです。「心の清い人は幸せである、彼らは天主を見るであろう」(マテオ5章8節)。

また、信仰は、罪による永遠の罰を私たちに示し、そのため私たちが罪を犯すのを強力に抑えるのですから、私たちの心を清めるのです。私たちの主イエズス・キリストのみ言葉は非常に力強く、誘惑に対して私たちを助けてくれます。「その手があなたに罪を犯させるなら手を切り捨てよ。不具で命に入るのは両手があってゲヘナの不滅の業火に入るよりもよい。そこではうじが失せず、その火は消えぬ。その足があなたに罪を犯させるならそれを切り捨てよ。片足で命に入るのは、両足があってゲヘナに投げ込まれるよりよい。そこではうじが失せず、その火は消えぬ。またもしその目があなたに罪を犯させるならそれを抜き取れ、片目で天主の国に入るのは、両眼があってゲヘナに投げ込まれるよりよい。そこではうじが失せず、その火は消えぬ」(マルコ9章43-48節)。信仰は、この世のものがいかに虚しいものであるかを明らかにします。ですから、主はこう言われます。「よし全世界をもうけても、命を失えば何の役に立つだろう」(マテオ16章26節)。これらや他の聖福音の節を暗記することは有用です。それが、肉、この世と悪魔に対する戦いにおける誘惑の時、私たちを強めてくれるからです。

また、信仰は、私たちを祈りへと導きます。すぐに私たちは善き主に助けてくださるようこいもとめ、助けを求めて叫び、たゆまずに助けを求めてこの叫びをあげます。すると善き主は、ただ主に忠実に留まることだけを願う人々をお助けになるでしょう。私たちは聖母と諸聖人に、私たちのために取り成してくださるよう願います。それは、この世の利益を求めてではなく、肉とこの世と悪魔に対する彼らの勝利において彼らに倣うためにです。すると彼らは私たちを助けてくださいます。なぜなら、私たちの主イエズス・キリストは、私たちの救いを私たちが望む以上に望んでおられるからです。私たちは「罪と戦ったが、まだ血を流すほどの抵抗はしていない」(ヘブライ12章4節)のですが、主は私たちの救いのために十字架上で亡くなられました。主はそれほどまでに私たちの救いを望んでおられるのです。私たちの主イエズス・キリストは、私たちに「われらを試みに引き給わざれ」(マテオ6章13節)と祈るよう教えてくださいました。これはもっとうまく訳すとすれば、「私たちが試みに陥らないようにしてください。私たちを試みから遠ざけてください」となるでしょう。ここでは「試み引き給わざれ」というのは「試みから」という意味です。

私たちは、信仰を公に告白することによっても、「信仰を固めて」戦います。聖トマス・アクィナスは、信仰には二つの行いがあると教えています。第一は、信ずるという内的な行い、わたしたちの知性を、天主によって教会を通じて教えられた啓示された真理に忠実であろうとする内的な行いです。第二は、その信仰を公に告白するという外的な行いです。聖霊降臨の日の使徒たちを見てください。使徒たちは聖霊に満たされて、その後は恐れることなく信仰を告白し、生ける天主の御子、世の救い主である私たちの主イエズス・キリストのことを公に教え始めました。信仰を公に告白するこの勇気が必要です。特にこの世に対して戦うとき、私たちの主イエズス・キリストの社会的王権のために戦うときは。カトリック信者が恐れのあまり信仰を告白できず、友人や隣人、さらには敵にさえ信仰を説明できずにいる場合が何と多いことでしょうか。しかし、堅振の秘蹟によって、私たちはキリストの兵士となったのであり、まさに恐れることなく私たちの信仰を告白することによって、キリストの国を推し進めていくのです。

ここに教会の危機に関する重要な点があります。多くのカトリック信者はこんにち、表面上だけの合意をするために、異端者たちが否定する信仰の箇条について沈黙することを好みます。ルターの宗教改革500周年は、私たちの時代における、非常に数多くのその種の妥協や沈黙の機会となったので、これらはまさにつまずきです。なぜなら、私たちの主イエズス・キリストの真理に栄光を与えず、またこれらのあわれな人々にまことの信仰の光を与える代わりに、彼らを誤謬の闇にいるがままにさせてしまっているからです。

また、ここにはもう一つのきわめて重大なポイントがあります。私たちは隣人を非難するために信仰を告白するのではありません。まったく違います! むしろ彼らを救うために告白するのです。主はこの目的のために、私たちを罪から救うために(マテオ1章21節)来られたのです。私たちは無償で受けたのですから、無償で与えなければなりません(マテオ10章8節)。それゆえに、今度は私たちが、イエズスと同じ親切心をもって、隣人の救いのために働く番です。ですから、聖パウロは「愛によって働く信仰」(ガラツィア5章6節)と言います。信仰告白は精神に光を与えますが、愛が心を勝ち取ります。愛がなければ信仰は死んでおり、「無に等しい」(コリント前書13章2節)のです。しかし、愛があれば、信仰は山をも動かすことができます。ですから本日、聖パウロは、聖霊の最初の実として愛を置いています。「霊の実は、愛、喜び、平和、忍耐、寛容、善良、我慢、柔和、信仰、節度、節制、貞潔であって、これらのことに反対する律法はない」(ガラツィア5章22-23節)。

この霊的な戦いは、私たちを恐れさせるかもしれませんが、私たちはひとりぼっちではありません。私たちだけなら勝つことはできないでしょうが、私たちの主イエズス・キリストがともにいてくださるので勝つことができます。「私がこう言うのは、私によってあなたたちに平和を与えるためである。あなたたちはこの世で苦しむだろう。だが勇気を出せ、私はこの世に勝ったのだ」(ヨハネ16章33節)。ですから、聖パウロはこう言います。「すべてのこれらのことに遭っても、私たちを愛されたお方によって、私たちは勝つ」(ローマ8章37節)。「われらの主イエズス・キリストによって私たちに勝利を与え給う天主に感謝しよう」(コリント前書15章57節)。「彼らが勝ったのは、小羊の御血と自分たちの殉教の証明によってである。彼らは死に至るまで自分の命を惜しまなかった」(黙示録12章11節)。

私たちは、この霊的戦いにおいて、聖人たちの模範と祈りによって非常に勇気づけられます。それについて聖パウロは言います。「私たちもこれほど多くの証人に雲のように取り巻かれているのであるから、すべての障害物と包まれている罪を除き、忍耐をもって、私たちに差し出された競走を競うようにしよう」(ヘブライ12章1節)。彼らの信仰と愛によって、聖人たちは非常に多くの霊魂を回心させ、非常に多くの障害物、内からの誘惑に打ち勝ちました。肉の誘惑に打ち勝つために、自分から棘の木に飛び込む聖フランシスコを見てください。聖人たちはこの世からの驚くほどの圧力に打ち勝ちました。まことの信仰を裏切るよりは斬首されて死ぬ方を選んだイングランドの大法官、聖トマス・モアを見てください。聖人たちは悪魔に打ち勝ちました。彼が悪魔から自由にしたすべての霊魂のために、悪魔に苦しめられ、しかしいつも悪魔に打ち勝ち、何千もの霊魂を悪魔の手から救いの道へと連れ戻したアルスの聖なる司祭、聖ヴィアンネーを見てください。

この霊的戦いにおいて、最高の模範にして最高に力強い助けは、童貞聖マリアの模範と助けです。私たちの主イエズス・キリストの非常に特別な特権によって、聖母は受胎のときから無原罪です。しかしその後、聖母は聖霊の恩寵に完全に協力し、もっとも小さな小罪の一つさえも決して犯さなかったほどであったので、全生涯を通じて完全に無原罪のままでした。これが聖母の汚れなき(無原罪の)御心なのです。聖母は天に上げられて、こうして、私たち皆を助けて聖霊の恩寵に忠実で、私たちの主イエズス・キリストに忠実で、聖霊が私たちの霊魂に注いでくださる愛(ローマ5章5節)で満たされた状態を保たせる、という大きな権能を受けられました。ホロフェルネの頭を切り落としたユディトのように、聖母はいにしえのへびの頭を踏み砕き、戦列を整えた軍勢のように強いのです。実際、雅歌(賛歌)はこう歌います。「暁のごとく立ち現れ、月のごとく美しく、太陽のごとく輝き、戦列を整えし軍勢のごとく恐るべき婦人は誰か?」(雅歌6章10節)。人は「太陽に包まれ、足の下に月があり、頭に十二の星の冠をいただいていた婦人」(黙示録12章1節)を救い主の母と認めます。なぜなら、その御子はメシアだと告知されたお方(詩篇2章。詩篇2章9節と黙示録12章5節を比較)だからです。

ですから親愛なる兄弟の皆さん、勇気を持ち、妥協せずに罪と戦い、忍耐をもって聖人たちの聖徳、特に愛徳を実践し、聖人たちの模範に倣い、彼らの保護を求めましょう。その結果、私たちが聖パウロのように良い戦いを正しく戦った(ティモテオ前書6章12節)あと、天の栄光の冠を受けることができますように。アーメン。


聖ピオ十世会ファチマ国際巡礼者からのお便りをご紹介します SSPX Fatima pilgrimage, letters from pilgrims

2017年09月07日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 ファチマとローマとへの国際巡礼に参加された巡礼者の方から、ご報告の続きをいただきました。愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。

 次の聖伝のミサは、次の通りです。ミサ聖祭の時には今回ローマで購入したお土産の香を使用する予定です。(香りの違いにもご注意下さい。)

大阪では、聖母の誕生日の祝日(9月8日)、9日(土)、10日(主日)の夕方、11日(月)にミサがあります。
東京では、9月10日(主日)の午前10時半からミサがあります。

【大阪】
   9月 8日(金) 童貞聖マリアの御誕生(2級祝日)白
            午後5時半 ロザリオ及び告解
            午後6時 ミサ聖祭

   9月 9日(土) 聖母の土曜日(4級)白
            午前10時 ロザリオ及び告解
            午前10時半 ミサ聖祭

   9月10日(主) 聖霊降臨後第14主日(2級)緑
            午後5時半 ロザリオ及び告解 
            午後6時 ミサ聖祭 

   9月11日(月) 聖霊降臨後の平日(4級)緑
            午前6時半 ミサ聖祭 

【東京】
   9月10日(主) 聖霊降臨後第14主日(2級)緑 
            午前09時 グレゴリオ聖歌練習 と 告解
            午前10時 ロザリオ      と 告解
            午前10時半 ミサ聖祭
            午後02時  公教要理
            午後04時  主日の晩課

   9月11日(月) 聖霊降臨後の平日(4級)緑
            午前7時 ミサ聖祭

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】
+Ave Maria! Immaculata!

どれほどお疲れがおありでしょうに、巡礼後すぐの日本のミッションをありがとうございました!
ファチマローマ巡礼のお恵みの感謝としても、この初金と初土の御ミサに与りました(^-^)

このたびのファチマローマ巡礼のお恵みを天主様に、ファチマの聖母に、小野田神父様、聖ピオ十世会の神父様方、巡礼の手配をくださった方がたに感謝いたします。思いを全部書くことはできないですが、思いつくままですが所感を申し上げます。

【ファチマ】
まず巡礼の準備として、聖ピオ十世会でのノベナや聖母の小黙想会までお与えくださり、ファチマ巡礼の重要さを痛感いたしました。

ファチマに到着して、いま自分がファチマに巡礼に来ていることが信じられない思いでいっぱいで、まっ先にファチマのマリア様に心から感謝を申し上げました。

日本国、日本に住むすべての人、日本のカトリック教会の代表として、来ることができなかった方がたの分も、また日本の尊き殉教者様がたになりかわり(おこがましいですが(^_^;)、ファチマに詣で、マリア様の御出現100年を記念し、マリア様のお望みを果たすべく、満ち溢れる罪の償いとして、心から御ミサに与り、自らもマリア様の涙の一滴としてお捧げしました。

また着物を着て御ミサやロザリオ行列に参加することは、着る時間、体力、暑さ、身動きが不自由になる不便さ、履き慣れない草履での足のいたさ、などもすべて犠牲として、また日本の尊き殉教者様がたを思い、ファチマのマリア様にお捧げいたしました。

ファチマに着いて、最初に驚いたのは、日差しの強烈さでした。日陰は涼しい日もありましたが、日があたるとジリジリと肌が焼かれているのがわかりました。@@

8/18は、アジア管区でシュテーリン神父様のご指導のもとに、コヴァダイリアのバジリカ、ヴァリニョス、聖なる3人の牧童の通った道、家、カベソなど天使の御出現の場所を巡礼して、御出現から数年のうちに短い生涯を終えるまでに高い聖徳へ到達した子供たちのそこでの生活を黙想いたしました。ホテルでの食事には、果物やお肉も沢山でて、ああ子供たちは、こういう食事をしていたのかな・・・?などすべてを聖なる3人の牧童に思いを重ねておりました。(我慢して口にしなかったものも多かったかもしれませんが・・・)コヴァダイリアのバジリカには、聖なる3人の牧童のお墓があり、ファチマの真の使徒となる御恵みの御取り次ぎを願いました。

聖ピオ十世会の公式行事である8/19の御ミサには、祭壇のすぐ近くで御ミサに与る御恵みをいただきました。これはひとえに小野田神父様の24年間の溢れる犠牲と献身、聖母への愛にあふれたの司牧に対してのファチマのマリア様からのなぐさめ、「小さな奇蹟」だと感じました。

司教様がたや来日された神父様がたにも、ファチマの聖母のために日本から巡礼に馳せ参じた姿をお知らせすることができて嬉しかったです。

8/19のヴァリニョスでのマリア様の御出現のちょうど100周年に、ロザリオ行列でヴァリニョスに「つながった」ことが、大変嬉しかったです。

※嬉しいことに行列は1万人ほどいらしたそうで、まだ行列はほとんど出発していないのに、すでに先頭の司教様がたがヴァリニョスに到着されておられたそうです。人が多すぎて、私たちはヴァリニョスに到着することができませんでした(^_^;)

8/20は、御ミサの祭壇が全く見えない、遠くの木陰で御ミサに与りました。スピーカーからは声が良く聞こえたので、心を一致して御ミサに与りました。
フェレー司教様のお声がとても良く聞こえました。御ミサの後、ヴァリニョスでのロザリオ、無原罪の聖母の騎士会の「聖母の汚れ無き御心への奉献」更新のために、急いでホテルに戻り、着物を着替えて遅れてヴァリニョスに到着しました。特にこの日はとても暑い日だったようで、日陰も暑くて喉が渇いて、頭がクラクラするほどでした。気温は39度で、体感温度は45度だったそうです@@;生まれて初めて体験した暑さでした。この暑さのなか、ルチア、ヤチンタ、フランシスコは1ヶ月も水を飲まなかったことを思い出して、天主様への愛、罪人の救霊のために、マリア様の汚れ無き御心をお慰めするために、どれほど犠牲をお捧げしていたことかを、痛感し、自分が恥ずかしくなりました。

8/21には遠足でサンタレンとリスボンに行きました。
サンタレンでは奇蹟の御聖体を礼拝しました。夫の気持ちを取り戻すために犯した妻の大罪で、傷つき流れた御血が、今もはっきりと見ることができました。でもそれだけではなく、「いまの世の満ち溢れる多くの罪で流れ続けている御血」なのだとも思いました。

聖アントニオ様の生まれた所の教会に入るときに、いつの間にか鞄が開けられていて財布が盗まれてしまいました。呆然となりましたが、すぐに聖アントニオ様にお助けくださるようにお祈りしました。また盗んだ人たちの回心をお祈りいたしました。巡礼者の皆さまには、大変同情してくださり、寄付をいただいたり、助けていただきましたことを心から感謝申し上げます。帰国して出社してみると盗難にあった日の夕方にリスボンの警察官が財布を拾って、中に入っていた会社の名刺に書かれたメールアドレスに、財布を保管していることを知らせてくれていました。私からの連絡がないので在リスボンの日本大使館に財布を届けてくださり、大使館から財布を日本に返還してもらうことになりました。日本で使っている財布だったので、カード類、保険証も入っていましたが、現金だけがなくなっていたようです。財布が見つかったことに聖アントニオ様に感謝いたします。このハプニングもすべて犠牲としてファチマの聖母にお捧げいたします。

ファチマを旅立つ8/22は聖母の汚れ無き御心の大祝日で、ファチマでこの祝日を祝う歌ミサに与ることができ心から感謝申し上げます。
最後にもういちどコヴァダイリアにファチマのマリア様と3人の聖なる牧童に感謝とお祈りを捧げに行きました。これから、3人の聖なる牧童にならって生きることができますように。

【ローマ】
ローマには聖遺物がたくさんあるとは思っておりましたが、これは大きな間違いでした(>_<)
ローマは、他のどの国、どんな場所とは別格だということが理解できました。なぜ「ローマカトリック」というかがわかったような気がします。
フランスにも多くの教会があり、聖人の腐敗しない御遺体=カトリック教会の実りがたくさんありますが、ローマは別格だということがわかりました。
ローマにはイエズス様のお作りになったカトリック教会の「すべて」があると思いました。ルフェーブル大司教様が愛され、従われた永遠のローマ。聖ピオ十世会の神学生は1ヶ月間ローマに滞在することになっていることをお聞きして大変納得いたしました。

ローマにはいたるところに尊い歴史のある聖堂、大聖堂があり、あまりの多さに感覚がおかしくなってしまいました(^_^;)。なかでもヴァチカン聖ペトロ大聖堂は、セキュリティチェックを受けたあと、聖堂のなかに入るまでのスロープで、すでに感無量となっていました。聖堂の中に入るとあまりの荘厳さに言葉を失いました。これまでヴァチカンの写真や動画を見たことのある私でもこれほど感動しましたのに、福者ペトロ・カスイ岐部や天正遣欧使節はどれほど驚いたことでしょうか!天高い壁には1つの文字が2メートルのイエズス様の御言葉や、 Hinc una fides mundo refulgit. Hinc sacerdotii unitas exorditur. つまり「ここから唯一の信仰が世界を照らし出す。ここから司祭職の一致が由来する。」や、 Tu es Petrus et super hanc petram aedificabo ecclesiam mean et tibi dabo claves regni caelorum 「おまえはペトロである。そしてこのペトロの上に私は私の教会を建てよう。そしておまえに天の国の鍵を与えよう。」などが刻まれていました。「これこそが、イエズス様が打ち立てられた教会だ。だから地獄の門もこれには勝つことができないのだ。」と身体が震えました。自由時間になりましたが、とても聖堂内から離れることができませんでした。

聖ピオ十世教皇様の聖遺体のある祭壇で、小野田神父様が御ミサをあげられたことに、天主様の特別の祝福を感じました。

サンタマリア・マッジョーレ大聖堂、かいば桶、聖プラクセデス教会、イエズス様の鞭打ちの柱、スカラ・サンタ、聖十字架、聖釘、十字架の捨て札、コロッセオ・・・これからどれほどロザリオの黙想が良くできるでしょうか!ロザリオの聖母・ファチマの聖母に感謝申し上げます。いつかまた聖ペトロ大聖堂に、ローマに巡礼に訪れることができますように!

【MIの100周年の記念と奉献の更新】
ローマの聖アンドリュー教会はラティスボンにインマクラータがご出現になった教会で、聖コルベ神父様が初ミサをあげられた祭壇があり、そこに巡礼できたことが大変嬉しかったです。
その美しいインマクラータの祭壇の前で、ロザリオを1環と「インマクラータに奉献する祈り」と「汚れ無き聖母の騎士会の歌」をお捧げできたことが大変嬉しかったです。無原罪の聖母の騎士として、自らのすべてをインマクラータに奉献することを願いました。

ファチマもローマも一日に11kmほど歩く日もあり、これまでの巡礼とは比較にならないほど足も身体もフラフラとなった巡礼でした(^_^;)
巡礼での疲れ、不便さ、暑さなどもすべて犠牲としてお捧げいたしました。
ローマでは先頭の方と離れすぎると無線が聞こえなくなり、ガイドさんや神父様の説明が聞けないことが多々ありましたが、その残念さも犠牲としてファチマの聖母に、インマクラータにお捧げいたします。

なによりも小野田神父様には3ヵ国語の翻訳や、旅程や信徒の移動での細かなことまで奔走させてしまい、どれほど御疲れになられたことかと大変申し訳なく、反省しております。
天主様がファチマの聖母が小野田神父様に報いてくださいますように!
ほんとうにありがとうございました!

聖母の汚れ無き御心よ、我らのために祈りたまえ。
ファチマの聖母、ロザリオの聖母よ、我らのために祈りたまえ。

【報告】
今回は、ファチマの巡礼にお誘いくださいまして、誠にありがとうございました。
たくさんの聖ピオ10世会の信者の方々に出会えたことは、感動すると共に勇気をもらえたような気がします。
また、御ミサは、とても荘厳で、天主様の御力を感じるような、えもいわれぬ御ミサでした。
その他の行列やお祈りなど、本当に全てが全く真実に満ち溢れて、この世界が全て天主様のものであると感じながら、邪魔されるものもなく過ごすことができました。
このような信仰の外の世界では悲しいことが多いですが、ファチマの天使が教えてくださった祈りを唱え続けられるお恵みを願いたいと思います。

ローマでの巡礼では、教会の歴史やその大きさや美しさなどに心を奪われてしまいました。
サンピエトロ大聖堂を始めとした美しい教会の中にいると時を忘れ何とも言えない甘美な気持ちになりました。
また、イエズス様や聖人方の聖遺物にこんなにも近くで触れることができたことは、天国への思いを熱くするのに十分でした。
疲れを感じることもなく、ただ前へ前へと進むことは、心地良いものでした。

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!
本当にお恵み溢れる11日間でした。
ローマは、カトリック信者として人生で一度は行ってみたいなぁと思っていまして、長崎も行ってみたいなぁと思っていましたら去年巡礼のお恵みを頂けましたので、またこのように聖ピオ十世会の巡礼として参加するお恵みを頂くこと事ができて本当に嬉しく思います!デオ・グラチアス!!
ローマに行って思った事は、ローマは本当にカトリック信仰の中心地であって、イエズス様の御旨は、このローマから真の唯一のカトリック信仰が宣べ伝えられる事なのだなぁという事でした。
最初に訪れた4大バジリカの1つ聖マリア大聖堂は、マリア様が直接、「あなたたちの祈りは聞き入れられました。そこで私が示す所に教会を建てて下さい」と仰って雪をお降らしになって示された場所はローマの丘でした。
そしてイエズス様が「汝はペトロなり。私はこの岩の上に我が教会を建てよう」と仰り、聖ペトロがローマから逃げようとした時に、イエズス様は再び十字架を担いでローマへ向かう姿をペトロにお現わしになり、ペトロがローマで殉教する御旨を強くお示しになりました。
まさにその聖ペトロの御墓の真上に建てられた聖ペトロ大聖堂は、他の教会とは一線を画した、イエズス様の真の教会である事を表わす、口では表現することのできない壮大な大聖堂でした。そしてこのカトリック教会にこそ天国の鍵が与えられていて、この教会は「地獄の門もこれに打ち勝つことはできない」のであると再確認しました。
ルフェーブル大司教様が「私たちは全身全霊を込めて、永遠のローマ、真理と知恵の教師であるローマに愛着し、それを支持し、それに密着する。」言葉を続けて、「私は、新しい近代主義の、そして新しいプロテスタント主義への傾向を持っている新しいローマは拒否し、それをいつも拒否してきた」と書かれた時の苦しみはいかばかりであったでしょうかと思います。
聖ペトロ大聖堂の聖ピオ十世教皇様の彫像の下にも、はっきりと子供が舌で御聖体を拝領している彫刻が彫られてありました。

ロザリオの十字軍は終わりましたが、ローマが聖伝のカトリック信仰に立ち戻りますように、そして教皇様が全ての司教様が一致してロシアを聖母の汚れなき御心に奉献なさいますように、聖母の汚れなき御心に奉献された日本が国として回心しますように、教皇様、司教様、司祭の為にたくさんロザリオをお捧げし続けたいと思いました。

最後になりましたが、このファチマ・ローマ巡礼を準備引率して下さり、非常に莫大な量の通訳を何カ国語にも通訳して下さった小野田神父様、素晴らしい巡礼の冊子を作って下さった方、巡礼中色々助けて下さった方々に心から感謝を申し上げます。
この巡礼には個人個人非常に大きな犠牲が御捧げされていたと思います。マリア様の汚れなき御心を通して、日本の方々が聖伝のカトリック信仰に導かれますように!

至聖なるイエズスの聖心、我らをあわれみ給え!
聖母の汚れなき御心、我らの為に祈り給え!
聖ピオ十世、我らの為に祈り給え!
聖フランシスコ・ザヴェリオ、我らの為に祈り給え!
日本の尊き殉教者、我らの為に祈り給え!

【報告】
+Ave Maria! Immaculata!

私たちの大切な小野田神父様、
ファチマ100年目の巡礼とローマ巡礼のお恵みを心から感謝申し上げます。

なによりも、巡礼の移動では、巡礼者の皆様には大変ご迷惑をおかけしてしまいまして、本当に申し訳なく思っております。
また何人もの方に押しづらい道を、車椅子を押したり持ち上げたりしていただきまして、なんと御礼を申し上げてよいかわかりません。
ただただ心から感謝を申し上げます。
歩くだけでも大変な道のりでしたのに、どれほどお疲れにならせてしまったことか!と申し訳なく思っておりますが、
ファチマのマリア様が、親切な方がたに、たくさんたくさん報いてくださいますようにとお祈りしております。

コヴァダイリアのマリア様、大聖堂のなかのヤチンタ、フランシスコ、ルチアのお墓、ヴァリニョスのマリア様のご出現の場所などなど・・・に
巡礼し、お祈りすることができましたことは、このうえなく大きなお恵みと感じております。
私は特にヤチンタにいつもお祈りしておりましたので、感激で涙が止まりませんでした。

聖ピオ十世会の公式の19日のロザリオの聖母の御ミサ、20日の聖母の汚れ無き御心のフェレー司教様の御ミサに与ることができました。
マリア様の汚れ無き御心で、御ミサに与り、マリア様の汚れ無き御心を通して、みじめな自分も十字架のイエズス様に一致させていただくためにお捧げいたしました。

ファチマで司教様や、これまでに日本に来てくださったたくさんの神父様にお会いできましたことが大変嬉しゅうございました。

たくさんの巡礼地を思い出して、毎日黙想いたします。

小野田神父様は、どれほどお疲れになったことかと心配しております。
くれぐれもご無理なさいませんように。
本当に巡礼に参加させていただきましてありがとうございました。

【報告】
ファチマとローマの巡礼は本当によいものでした。
ファチマでは、世界中の聖ピオ十世会の信者の皆さんとお会いし、日の丸を掲げて和装をしていたせいか、たくさんの外国の方から話しかけられ、記念撮影を依頼されました。
日本語を話せる方も何人かおられて、「3年間日本にいました」とか「日本語を勉強しています」とのお話を聞くと、何かうれしくなりました。米国人の若い神父様や、汚れなき御心への奉献の対象であるロシアの信者の方々ともつたないながら話をすることができ、実際にそのような方々にお会いすると、本で読んだり人から話を聞く以上の実感がわいてきました。
また、聖母ご出現の場所や3人の牧童の記念の場所を巡ると、「ああここであの出来事があったんだ」と
事前に勉強していた話が思い出されました。
ローマでは、聖ペトロ大聖堂の素晴らしさに息をのみ、そこでの小野田神父様のミサにあずかることができ、大変幸せを味わいました。不思議のメダイのラティスボン神父様と無原罪の聖母の騎士会創立者のコルベ神父様が結び付いた聖アンデレ教会も印象深く、他にも記念すべき教会や場所があり過ぎて、ローマにはぜひもう一度行ってみたいと思わずにはいられませんでした。

【報告】
ファチマ・ローマ巡礼の仮のご報告(ファチマ編)

ファチマ・ローマ巡礼の締め切りは約九か月も前のことでしたがロザリオ十字軍のロザリオと犠牲を捧げ天使の祈りを毎日祈りファチマの聖母の歌を毎ミサ後に歌ったということの他は何もしないうちにあっという間にそのときは訪れました。

8月16日に大阪の聖堂での前の晩の御ミサに与りました。童貞聖マリアの御父の聖ヨアキムの御ミサでした。翌8月17日にも早朝の御ミサ(証聖者聖ヒヤチント)に与り関西国際空港から飛び立った巡礼団がリスボンに着いたのは現地時間で17日の夜中でした。それからさらにバスに乗って一時間半ほど、ようやく深夜にファチマのドンゴンサロホテルにたどり着きました。

8月18日翌朝は9時半からスケジュールが組み込まれていて、アジア管区団はさっそくシュテーリン神父様の旗印のもと聖母の御出現のあった丘カベソへ向かいました。乾いた空気なので暑さも思ったより苦になりませんでしたが、日差しが強くて肌を出している部分はすっかり焼けてしまいます。街中を通り抜けオリーブ畑のなかの石畳の山道を十字架の道行の小さなステーションを幾つも通り抜けながら登って行きました。他の国々の巡礼団ともすれ違いました。

最初は天使の第一の御出現の場所でありまた秋にも御出現になった場所でもあるところのカベソの丘の東斜面で祈りました。少し崖の途中にあるような場所で百年前はもっと足場もよくなかったに違いありません。引き寄せられるように向かっていた先に金網がありその向こうに白い天使と三人の子供たちの御像があって強い感動に包まれました。

「恐れないで。私は平和の天使です。わたしと一緒に祈りなさい。」天使は地面に跪き、額が地につくまで身を屈めました。そしてこう祈りました。「我が天主よ、われ、信じ、礼拝し、希望し、御身を愛し奉る。」天使はこの祈りを3回繰り返した後、立ち上がって彼らに言いました。「このように祈りなさい。イエズスとマリアの御心はあなたがたの嘆願の声に注意を払っておられます。」

「至聖なる三位一体、聖父と聖子と聖霊よ,我、御身を深く礼拝し奉る。世界中のすべてのご聖櫃のうちにましまし給うイエズス・キリストのいとも尊き御体、御血、御霊魂と御神性を、イエズス・キリスト御自身が受け給う侮辱・冒涜・無関心を償うために、御身に捧げ奉る。イエズス・キリストの至聖なる聖心とマリアの汚れなき御心の無限の功徳によりて、哀れな罪人の回心を御身に願い奉る。」
いつも祈っていた祈りはこの場所で天使から授けられたものです。その場所でシュテーリン神父様の短いお話と祈りの先導を受けて天使の祈りを全員で跪いて祈りました。

そこから少しまた道を戻り今度はヴァリニョスの8月19日の聖母の御出現の場所で祈りました。狭い敷地に美しい聖母の御像がたてられていました。
「祈りなさい。たくさん祈りなさい。そして罪人たちのために犠牲を捧げなさい。多くの魂が、彼らのために犠牲を捧げたり、祈ったりしてくれる人を持っていないからです。」
シュテーリン神父様のお話を聴いて小野田神父様が訳して下さり黙想して祈りました。

もうそこはたくさんの国々からの巡礼団が行き交っていて次に私たちは天使の第二の御出現の場所に向かいました。アルジュストレルです。井戸のそばに木が高く生えていて不思議な形の天使の像と三人の子供たちの像が建てられていました。そこでもシュテーリン神父様のお話のもと祈りました。
「何をしているのですか?もっともっと祈りなさい!イエズスとマリアの御心はあなたがたの上に憐れみの御計画を持っておられます。いと高き御者にたえず祈りと犠牲を捧げなさい。」ルシアがどのように犠牲を捧げればよいのかと尋ねました。「あなたがたができるすべてのことを犠牲とし、それを天主に背く罪の償いの行いとして、また罪人の回心を嘆願して天主に捧げなさい。あなたがたはこのようにして自分たちの国に平和をもたらすでしょう。私はあなたがたの国の守護の天使、ポルトガルの天使です。特に主があなたがたにお与えになる苦しみを従順に受け入れ、忍びなさい。」

それからジャシンタとフランシスコの生家を見学してジャシンタかルシアの親戚の老嬢が座っていますところを拝見させていただきました。
ジャシンタの生家は小さなみすぼらしい貧しい住まいでした。ちょうど日本でいうなら明治時代の最後くらいだったのかもしれません。日本の昔の普通のごく貧しい農家の家がそうであったようなでも温かみのある質素な佇まいでした。平屋建てで幾つかの小さな部屋にはベッドと少しの家具があるだけで十字架がありました。ジャシンタとフランシスコが犠牲を捧げて祈っていた家なんだなと思いました。裏口から抜け出るとそこは裏庭でオリーブ畑が広がっておりました。

私たちはそれからお昼をどこかで食べなければなりませんでした。ホテルへ戻る途中のまだバジリカへ着く前の道中に、小野田神父様はドミニカンの修道院のホテルのレストランを見つけてくださり交渉に行ってくださいました。10ユーロほどでおいしい食事をたっぷりいただくことができました。その日は金曜日で食事が小斎でなかったことが残念でしたが。

午後はバジリカのイエズス様の聖心の御像のもとで集合してシュテーリン神父様の講話を拝聴する予定でした。あまりの強い日差しのために広場の中央ではなく木立のある周辺へ移動しアジア管区の聖ピオ十世会の信者は講話を聴きました。

そして記念撮影をおこないファチマの大聖堂のなかを見学しました。広場から大聖堂へ昇る階段を使ってアジア管区から全員の記念写真を撮り、バジリカの中に入っていくと、奥の祭壇の脇に右にフランシスコの墓左にはヤシンタとルシアの墓がありました。教会内部の装飾は後で聞くところによるとモダニズムとかいうもののようでした。お墓の前はどちらも人でいっぱいで前の方へ進むのが容易ではなくようやく最前列に跪くことができて真摯に祈りました。とても神秘的な場所でした。

コヴァダイリアの聖母の御出現の場所にはあまりにも有名なあのファチマの聖母像が安置されてガラスのケースに入りさらに御ミサが捧げられるよう準備されて囲むように椅子も設置されていて大きく屋根がかけられていました。その小聖堂の後方にはOur of Lady の御出現されたウバメガシが大木となって茂り現実に起きたことを証言しておりました。

私はようやくファチマのマリア様の御前に詣でることのできたことの感動でいっぱいになりました。しばし祈り続けました。そこは聖ピオ十世巡礼団以外にもたくさんの巡礼団が訪れているのできっちりとスケジュールがたてられている様子でじきに席を離れなければなりませんでした。

小聖堂から出てホテルへ戻ろうとするとき信者さんたちがたくさん膝行する行をされていました。小野田神父様がその場所で跪いてロザリオを唱えながら進み始めたので、私たちもすぐ倣って後を追い膝行しながらロザリオを二連ばかりお捧げすることができました。不思議なことに申し訳ないことに足や膝のどこも痛まず傷ついていませんでした。とても良い思い出です。

ホテルでの夕食の後のことはたぶんその日と前の晩からの疲れがたくさんで、もう何も覚えていません、きっとすぐ寝てしまったのだと思います。

8月19日ファチマでの二日目は国際巡礼の第一日目ということで午後三時からのミサに間に合うように至聖所駐車場14番に集合することでした。日本人は着物を着用し袴をつけて日本の巡礼団であることをアピールしようということでした。
皆さんユーチューブなどでしっかり着付けを覚えられてきていてまた着付けの技術を持っていらっしゃる方もおられ素晴らしい着物姿でした。(私は何も準備せず来てしまい申し訳なかったです。皆さん重く嵩張る和服をスーツケースに入れることに苦労されたことでしょう。それなのに思いがけず貸していただいて着つけていただき着物着用人数の割り増しにのみ貢献させていただきました。いろいろご迷惑をお掛けして申し訳ありません。)

遅くぎりぎりに会場に到着したにもかかわらず、ご配慮でミサ会場の祭壇の右側の聖歌隊のすぐ隣最前列に席を取らせていただくことができました。御ミサはシュミットバーガー神父様司式によるロザリオの聖母の御ミサでした。日本人グループは司教様達が居並ぶその真向かいに座って与りました。聖歌隊は素晴らしく美しいグレゴリア聖歌を歌いました。

ミサの後国際巡礼団はヴァリニョスまで聖母行列を行いました。ファチマの聖母の御像を先導に石畳の山道をみんなでロザリオを唱えながら歩き、最初に出発した先頭がついた時まだ最後の日本人巡礼団は至聖所駐車場第14のスペースで出発を待っていました。とてつもなく長い行列だったのだと思います。私たちが到着したらもうすぐに解散になりました。この日はこの場所での聖母の御出現から100年経った日だったのでした。丘から石畳の道を下り街中に入りバジリカの前を通るときに皆で記念写真を撮りホテルに帰りました。

8月20日翌朝はまた朝早くからホテルでの御ミサに与り昨日と同じ至聖所駐車場第14スペースに集合して9時半から主日のフェレー司教様の御ミサが始まりました。聖母の汚れ無き御心の御ミサが捧げられました。この日は祭壇からはるか遠くに場所をとり昨日とはまた違った趣でした。遠く祭壇からの司教様の声がマイクから流れてきて拝聴しました。野原のような場所のなかすぐ前にはサンパラソルのもと聴罪司祭様たちが簡易椅子に腰かけ次から次へとフランス人やイギリス人の信者の方々の告解を聴いて下さる風景がありました。日本にいるときは想像したこともないような不思議な光景でした。ご聖体拝領も大きな輪になってみんなで跪いていて神父様が口に入れてくださいます。屋外での告解、屋外でのミサ、屋外での聖体拝領。はてしなく広い野原のなかで遠くに祭壇がはるか彼方に見えました。これほどたくさんの信者が与るミサ聖祭は初めての経験でした。

終了後は素早くホテルにもどり着替えてお昼を食べてまた集合場所のイエズス様の御心の御像の前に向かわねばなりませんでした。この日は少し湿気が出てきて暑さも厳しくけっこう辛い天気でしたが、(気温39度で体感温度は42度という報道だったそうです、)急いでホテル裏のマクドナルドでお昼をゲットして次のミッションに向かいました。そう、なんだか次から次へとミッションをこなしていく戦闘部隊のような気分になってしまっていました。

日本の旗を持ってまたバジリカの前のイエズス様の御心の御像の集合場所に行くともうすでに誰もがヴァリニョスの丘へ向かって歩き始めている状況でした。ルキス神父様は私たちが着くとすぐ出発されました。なんだか誰もかれもが丘を目指して歩いている風景は不思議な光景でした。

丘ではすでにたくさんの巡礼団で入り混じりごった返しているという様相でした。それのみならずシスター方も整然と参加されようとしておりました。私たちは日本の巡礼団の旗を持っていたのでどこでも声を掛けられました。おージャパン!と。
オーストラリアからの神父様は韓国の神学生を紹介してくださいました。彼は日本語がとても上手で、きっと司祭になられた暁には日本にもミッションに来てくださるに違いないと思いました。そのうちフェレー司教様を見つけて挨拶に駆け寄りました。日本の着物のことをおっしゃってくださって私達一人一人は祝福をいただきました。思ってもないことだったので驚きました。こんなに簡単に私たちの修道会の総長様と気軽にお話ししているなんて!?私たちは跪いて深い尊敬を持って恭しく指輪に接吻をさせていただきました。

あまりの人ごみのなかどこに陣取ってどこで祈るのかもわかりません。狭い丘の上であまりにも人が多くてどこへ行けばよいかわからないのです。マリア様の御像の建物から遠くないところの茂みの中に入って木立の隙間に跪くことにしました。道路わきの畑のなかにいたので、皆からジャパンジャパンと親しみの挨拶をいただき、巡礼の旗はたくさん写真に撮られました。この春にイタリアから仕事で日本に見えていた職人さんご家族もあなたの顔を覚えているよ、Sさんは元気か?と声を掛けてくださいました。東京でのお仕事のために来日していて、その後長崎へと仕事に向かうと仰っていたことを思い出しました。

式は始まり、厳粛にその日のプログラムに沿って司教様達によるロシアの奉献お祈りが捧げられフェレー司教様・ガラレダ司教様・マルレ司教様の先導のもと全員でロザリオを唱えました。

それでも無原罪聖母の騎士会の更新の式の際は少しでも皆の無原罪聖母の騎士会の旗のそばに並ばねばと思いました。ようやく各国の無原罪聖母の会の旗が前方に並んでいることに気づいたのです。ジャパンの無原罪聖母の騎士会の旗を持ち輪の前方へ分け進み旗を高く揚げて参加いたしました。隣のドイツ人の男性が旗を掲げるのを手伝ってくれたことが、むしょうにうれしかったです。そうして無原罪聖母の騎士会創立100周年を記念して「聖母の汚れなき御心への奉献」が執行されました。

それを持って国際巡礼の行事が終了し、それから丘を下りゆっくりとホテルに戻りました。前日に引き続いて坂道を下る途中、もう一度マルレ司教様と出会いまた祝福をいただくことができました。カフェで冷たいものを手に入れのどの渇きをいやしました。

その晩は夕食後に日本人と韓国のグループはバジリカの広場でのろうそくをともしての聖母行列に参加する事になりました。私たちと良く行動を共にしてくれていたドイツ人のイリスがろうそくを用意してくださったとか?と少し耳にしたのですが、お礼を言いそびれてきてしまいました。イリス!ありがとう!

ろうそくをともしてみんなで黙想してロザリオを祈っていると途中で聖母の御像がいつものお住まいから出てこられて、夜空のもと広場を歩いてくださいました。その後に従ってみんなでロザリオを唱えながら広場を回りました。初めはそれほどでもなくごく普通にろうそくをともしての聖母との祈りの行列と思っていましたが、しだいに気持ちが清められ集中してきて広場いっぱいの参加者たちと共に心を一つにして祈り世界中から集まった数知れぬ人たちと一緒にみんなでロザリオを祈っていることに感動しそしてみんなが聖母の御心の中に包まれて愛されているようでした。最後に聖母の御心の中にこそ平和と安心と正義と愛があることを感じさせられたのでした。美しく素晴らしい一夜でした。

8月21日翌日はサンタレンとリスボンまでバスでの遠足でした。早朝ホテルを立って、まずサンタレンの教会へ行きました。ご聖体の奇跡の教会です。私たちに今も大切なことを教えてくださっている奇跡のご聖体を礼拝しました。それからその前の小さな広場で朝の食事のお弁当を食べました。ホテルで用意してくれたサンドイッチと焼き菓子とフルーツとジュースだったかなと思います。美味しかったです。

途中見晴らしの良い丘リバテージョの展望台に立ち寄り、リスボンまで移動しました。サント・アントニオ・デ・リシュボア教会の聖アントニオの墓に詣でました。入り口でたくさんの大きなパンを見かけましたが、なんだか貧しい人たちへの施しもののようでした。そこから少し坂を上ったところのサンタ・マリア・マイオール・デ・リシュボア大聖堂つまりリスボン大聖堂では神父様方の昼の聖務日課を拝聴しました。それからその近辺は旅慣れていない日本人たちが歩き回るにはあまりに物騒だということで、場所を変えてバスで移動して、昼食をとるための店に入りました。普通にコーヒーを頼んでも日本の盃くらいの量のコーヒーしか飲めないので、もう一度ダブルのコーヒーというのを頼みました。それでもカップに半分の量しか入っていないのでした。でも最高に美味しく満足でした。

次に向かったところはべレン地区の「発見のモニュメント」です。月曜日のために観光名所でもあるジェロニモス修道院は残念ながら閉まっていて大噴水の前で記念撮影の後、海辺をのんびりと散策して過ごしました。大航海時代に世界に船出した航海者のモニュメントがとてもユニークでフランシスコ・ザビエルもここから日本を訪れたのかと思うと感慨深い思いになりました。ホテルに戻り夕食後、翌日の御心の祝日のミサのために各国の聖歌隊が集まって夜遅くまで練習をしてくださっていたようです。

9月22日翌朝のマリア様の汚れなき御心の祝日のミサではホテルにて素晴らしいグレゴリア聖歌での御ミサに与ることができました。指導してくださったのはフランス人のシスターでフィリッピンの無原罪聖母の騎士会修道会のシスターだったそうです。彼女は水色の修道服がとてもお似合いの若くて美しい方です。

この日はファチマで過ごす最終日であり朝食後にファチマを出発する前のわずかの時間を用いて日本人の有志でコヴァダイリアに行きました。小野田神父様はここコヴァダイリアの聖母の御像の前においても聖母の汚れなき御心に私たち一人一人とその家族の名前を奉献してくださいました。小聖堂はミサが行われていたので、ヤシンタちゃんのお墓にもう一度詣でて祈りを捧げました。それから戻ると不思議にもちょうど他の団体のミサの合間を縫うようにしてファチマの聖母様の御前で奉献の祈りをささげることができました。マリア様のご配慮に違いありません。小野田神父様はファチマの聖母の御像の御前で「聖ピオ十世司祭兄弟会を聖母とその悲しみに満ちた汚れなき御心に奉献する祈り」と「ファチマの聖母の会を聖母の汚れなき御心に奉献する祈り」、「日本を聖母の汚れなき御心へ奉献する祈り」を唱えて奉献してくださいました。

ホテルに戻ると慌ただしいファチマでの巡礼が終わり、10時45分私たちは無原罪聖母の騎士会修道会のシスターに見送られドンゴンサロホテルを後にしてリスボンの空港へと向かいました。

振り返ると毎日コヴァダイリアの聖母のバジリカを超えてオリーブ畑のなか石畳の道をヴァリニョスの丘のマリア様のところまで歩いて登っていたことになります。私たちの泊まったホテルはそこから最も遠いホテルでした。毎日かなりの距離を歩いたことになります。この目で見てこの体で感じたファチマの土地のことを忘れることはないでしょう。乾いた灼熱の田舎町の畑や山に入り、天使やマリア様やヨゼフ様・御子も御出現された実際の場所を訪問できて祈ることができましたことに感謝いたします。

聖ピオ十世会の国際巡礼としてのファチマ巡礼は体は大変でしたがのびのびした気持ちになりました。日本にいると聖ピオ十世会への偏見を感じないわけにはいきませんが、一万人以上も集まったとされるこの国際巡礼のなかに入っていくつもの行事に必死でついていく中、そのような憂いが消えていました。堅振を授けていただいたマルレ司教様を幾度もお見かけしたのみならず祝福もいただきフェレー司教様ともお会いできましたこと感謝でした。聖伝のミサが長いために時間的な関係でバジリカの第14駐車場が会場となったということでしたが、10,000名ほどもの参列者からなる素晴らしいミサに二度参列できました。ヴァリニョスでの司教様達とともに祈るロザリオの祈りや無原罪聖母の騎士会の百周年記念の「聖母の汚れなき御心への奉献」の更新の祈りにも参加できて有意義な素晴らしい国際巡礼でした。こうして世界中から集まった聖ピオ十世会の司教様方や司祭の方々そして信者さんたちと一緒に祈れたことは素晴らしい体験でした。

また帰国してすぐに日本ではJアラートが発信されて戦争の危機を感じる出来事がありました。私はどうか日本のカトリック教会においても司教様達による奉献が行われますようにと願います。ファチマの聖母のお話をどうか真剣に受けいれて超自然の恩寵によってまことの平和へと導かれますように、と。人間は無にも等しい存在であり、天主様がすべてを統治されていらっしゃいます。本当の意味で戦争という悪を打ち砕いてくださるのは聖母の御足だけでしょうから。カトリック信仰だけがこのことを知っているのではないでしょうか。

この巡礼において日本のカトリック教会のためにたくさんお祈りすることができましたことを感謝申し上げます。



--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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