アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、2022年2月27日は五旬節の主日です。
「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「五旬節の主日の説教」の動画をご紹介いたします。
いま全世界で行われているローマ・シノドス、つまり「シノダリティ」をテーマとするシノドス(2021-2023)で教会がどうなろうとしているか?を知るために、「使徒継承性」を理解することはとても大切です。
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天主様の祝福が豊にありますように!
トマス小野田圭志神父
ウクライナのための祈りを求める聖ピオ十世会本部のコミュニケ
Communique from the General House Asking for Prayers for Ukraine
2022年2月25日 FSSPX.NEWSサイト
聖ヨサファト会(SSJK)総長バジル・コフパク神父、そして聖ヨサファト会の司祭、彼らが奉仕する信者の要請により、聖ピオ十世会(SSPX)総長ダヴィデ・パリャラーニ神父は、聖ピオ十世会のメンバーと信者に、ウクライナのために祈るよう呼び掛けます。
特に栄光ある被昇天の聖母の御名をもってウクライナで崇敬されている童貞マリアの御取り次ぎによって、ウクライナの信者のために霊的な助けを天主に願いましょう。また、ウクライナの教会とチャペル、特に、この国の東部にある教会とチャペルへのご保護を求めてたくさん祈りましょう。
バジル神父と聖ヨサファト会の司祭は、不確実な未来に直面しながら、戦争の苦悩に苦しんでいる人々のために祈ってくださる皆さんの愛に、あらかじめ感謝申し上げます。
【聖ヨサファト会とは】
聖ヨサファト・クンツェヴィッチ(1584年-1623年)にちなんで名付けられた聖ヨサファト会は、スラブ・ビザンチン典礼を用いるウクライナ・カトリックの司祭の兄弟会である。2000年の設立以来、聖ピオ十世会と連携している。聖ヨサファト会は、聖ヨサファトの保護のもとに置かれ、バジル神父によって設立された。その目的は、ウクライナ全国のカトリックの小教区で奉仕する司祭を養成することである。また、神学校を運営し、女性修道者のための支部も持つ。聖ヨサファト会の司祭は、ウクライナ全土の数千人の信者に奉仕している。
(Source : Fraternité Saint-Josaphat – FSSPX.Actualités)
アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
天主に感謝!兄弟姉妹の皆様のしもべは、昨日、久しぶりに東京でミサを捧げることができました。愛する兄弟姉妹の皆様の笑顔を拝見して、大変幸福に思いました。
昨日の2月20日、東京のミサに来られた方は、子供達も入れて合計126人でした(三回のミサに複数預かっておられる方についてはこの合計では重複しないように計算してあります)。大阪では21人でした。
東京では、四旬節への準備として、天主の聖性や、イエズス・キリストの御体である御聖体の聖性を良く黙想することの必要性、今、行われている「シノダリティー」についてのシノドスについて、「シノダリティー」とは結局何のことなのか、などについて黙想を提案しました。
大阪では土曜日に、マリアテレジアさん(享年106才)の葬儀ミサが行われました。霊魂の安息のためにお祈りをお願い致します。
2月23日(水)は、天皇誕生日で休日ですので、修道院でのミサは午前11時から行います。ミサは一回だけですのでお間違えないようによろしくお願いいたします。
来る3月2日(灰の水曜日)は、東京では、修道院で朝7時15分から灰の式とミサ聖祭、入谷ホールで午後6時半から灰の式とミサ聖祭が行われます。
今年の3月12日(土)は、聖フランシスコ・ザベリオと聖イグナチオの列聖400周記念の日です(1622年3月12日-2022年3月12日)。グレゴリオ十五世が二人を列聖しました。私たちにとって感謝の日です。1540年、ローマで聖フランシスコ・ザベリオが聖イグナチオに別れを告げて、それ以来、直接この地上で再会することはありませんでした。聖フランシスコ・ザベリオは、1549年8月15日、私たちの祖国日本に来て、正義の太陽イエズス・キリストを伝えてくださいました。無原罪の御やどりである聖母の愛を教えてくれました。
【報告】【東京】
Dear Fathers:
Shown below are the number of attendees at the masses in Tokyo today. The total number of attendees at the masses in Tokyo today was 126, including children.
09:00 mass
M: 26 (incl. 6 children)
F: 24 (incl. 3 children)
Total: 50 (incl. 9 children)
11:00 mass
M: 16 (incl. 5 children)
F: 27 (incl. 6 children)
Total: 43 (incl. 11 children)
12:30 mass
M: 18 (incl. 3 children)
F: 21 (incl. 3 children)
Total: 39 (incl. 6 children)
Total of 3 masses (excl. 6 people who participated in multiple masses)
M: 57 (incl. 14 children)
F: 69 (incl. 12 children)
Total: 126 (incl. 26 children)
アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、2022年2月20日は六旬節の主日です。
「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「六旬節の主日の説教」の動画をご紹介いたします。
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天主様の祝福が豊にありますように!
トマス小野田圭志神父
私たちは聖伝を守り伝えていかなければならない
We must maintain Tradition and pass it on
Garder la Tradition et la transmettre
聖伝による霊魂の善と、聖伝のない新しい教会とを同時に望むことは不可能だ。
【以下は、2022年1月15日、DICIと提携している「クーリエ・ド・ローマ」(Courrier de Rome)の第16回神学会議の締めくくりに、聖ピオ十世会総長ダヴィデ・パリャラーニ神父がパリで行った会見の全文です。】
私たちが重大な時にいることは確かです。悲しくもあり論理的でもある時です。私たちは、そうなると予見してきたその段階に到達したのです。皆さんがご存じの理由により、自発教令「トラディティオーニス・クストーデス」(Traditionis custodes)によって、聖ピオ十世会が直接影響を受けることがないことは、その通りです。しかし、すべての現実において、この新しい状況がこれまで以上に示しているのは、"聖ピオ十世会の立場が、実行可能で、全て筋道が通る唯一の立場であるということです。
おそらくそのことを申し上げるには、最適の人物ではないかもしれませんが、しかし、客観的な事実があって、それらの事実は明らかです。
それはなぜでしょうか? それは、この自発教令が直接的に関係している「エクレジア・デイ」(Ecclesia Dei)の下にあるさまざまな団体は、聖ピオ十世会の一部ではないのですが、しかし、それらの団体が存在しているのは、聖ピオ十世会が存在しているからなのです。一般的な観点から見れば、このさまざまな団体の起源は、何らかの形で、聖ピオ十世会の歴史と関連があります。したがって、そのさまざまな団体は、少なくとも間接的には聖ピオ十世会に依存しています。さらに、この新しい状況は、聖ピオ十世会の役割と使命の範囲をさらに強調し、必然的に、聖伝が完全であるために必要であることを強調しています。
信仰が一つである以上、聖伝は単一です。この信仰を妨げられることなく告白する必要性は、今、これまでになく強く感じられます。何よりもまず、天主の子らの真の自由とは、その信仰を告白する自由なのです。
教皇フランシスコの反対
少し話がそれますが、どうしてもエクレシア・デイの団体の話になります。ですから、私は個人的なレベルでは、これらの団体に所属する人々、つまり信者にもそのメンバーにも、何も悪く思っていないことをはっきりさせておきたいと思います。私たちは、個人的な対立の領域から完全に外れています。人間のレベルでは、どこにもいい人もいれば、耐え難い人もいます。これは人類全体に言えることであり、ある意味で私たちにも言えることです。このように、あらかじめ強調してお断りしておくのは、私が発言するに当たって、より自由になれるようにするためです。
問題は、聖ピオ十世会が「エクレジア・デイの団体に攻撃を仕掛ける」かもしれないということではありません。実際、現時点では、教皇フランシスコ自身が、エクレシア・デイの団体に、もっと一般的には、トリエント・ミサに愛着のあるすべての司祭にうんざりしているように見えるのです。
そこで、エクレジア・デイの始まりに立ち返ってみましょう。1988年7月2日付のこの文章[1]は、聖ピオ十世会とルフェーブル大司教への断罪を含んでおり、またエクレシア・デイの団体に手を差し伸べています。
たとえよく知られていることであっても、最近の出来事に照らして、いくつかの箇所を読み上げながらコメントをする価値があります。
自発教令「エクレジア・デイ・アドフリクタ」(Ecclesia Dei adflicta)
まず第一に、ルフェーブル大司教と聖ピオ十世会が断罪された神学的理由は、こうです。「この離教的行為の根元は、聖伝に関する不完全で矛盾する概念にあると考えられる。不完全、何故ならそれは聖伝の生ける性格を充分に考慮していないからである。第二バチカン公会議がはっきり教えたように、『この使徒たちから出る聖伝は、教会において聖霊の援助によって進歩する。実際、伝えられた事物やことばの理解は、それを心の中で思いめぐらす信者たちの黙想と研究によって、あるいは霊的なことがらについての体験の深い理解によって、あるいはまた、司教職の継承とともに真理の確かなたまもの(カリスマ)を受けた人々の宣教などによって、深くなる』」。
【日本語訳参照】https://blog.goo.ne.jp/thomasonoda/e/6a361acf2ac11facfa5a707578225d93
「しかし、特に矛盾しているのは、ローマ司教と司教団が持つ教会の普遍的な教導権に反対する聖伝という概念である。キリストご自身が教会における一致の役務を委ねた使徒ペトロという人物との教会的な絆を断ち切りながら、聖伝に忠実であり続けることは不可能である」。
そして、そこに問題の核心があります。
1988年のルフェーブル大司教のこの行為は、聖ピオ十世会の歴史全体がそうであるのと同様に、カトリック教会への忠実を示す行為です。それは教皇、カトリックの位階階級、そして霊魂たちのための忠実な行為なのです。そして、それはローマの当局が何を言おうが言うまいが、関係ありません。彼らが何を考え、何を考えたくないと思っているかに関係ありません。
一方、「生ける聖伝」という概念で、私たちは何に行き着くのでしょうか? 1988年当時、それを予見することは困難でした。しかし、今日では、使徒的勧告「アモーリス・レティチア」(Amoris lætitia)があり、大地への礼拝があり、パチャママがあります。また、私たちがまだ知らない他の結果があります。なぜなら、聖伝についてのこの動的かつ進化的な概念があれば、最後には、いかなる結果にも行き着くことができるからです。実は、それらは別の次元にいるのです。それらは、使徒および天主の啓示に根差し、それ自体が啓示の源泉である聖伝から切り離されているのです。
さらにもう少し言えば、同じ文章の中で、教皇ヨハネ・パウロ二世が、「エクレジア・デイ」グループとなるべき人々に手を差し伸べているのが分かります。
「これまでルフェーブル大司教の運動とさまざまな形で結びついてきたすべての人々に、カトリック教会との一致にあるキリストの代理者との一致にとどまる、という重大な義務を果たし、その運動への支援をいかなる形でもやめることができるように、私は特に荘厳かつ心からの、父としてまた兄弟としての訴えを行いたいと思う。離教を正式に支持することは天主に対する重大な罪であり、教会法で定められた破門の刑罰を伴うことを、誰もが認識すべきである」。
「ラテン語の伝統に基づく以前の典礼や規律の形式に愛着を感じているすべてのカトリック信者に対して、私は、彼らの正当な願望の尊重を保証するために必要な手段によって、彼らの教会での交わりを促進する意志を表明したいと思う」。
ここに問題があることは、簡単にお分かりいただけるでしょう。一致は信仰を通して得られるものです。ある人々にとってはあることを目指し、別の人々にとってはその逆を目指すような、特別許可や特権によって、一致を得ることはできないのです。
トリエント・ミサを守ろうとする司祭や信者にとって、ある形においてではあるものの、聖伝を守る方法だったのです。しかし、ローマの当局にとっては――彼らは今、公然とそれを認めています――、それは、ゆっくりと、しかし確実に、「公会議の教会」を支持させ、教会の現代的な考え方に従わせるための方法だったのです。このすべては、1988年5月5日にラッツィンガー枢機卿とルフェーブル大司教が署名した議定書(プロトコール)に照らして、成立し約束されたものでした[2]。では、ここでルフェーブル大司教の知恵を振り返ってみましょう。
ルフェーブル大司教は、この議定書に署名し、言ってみれば、数時間の間、それを守っていました。しかし、祈りと孤独の中で一晩を過ごした後、大司教は天主がご自分に何を期待しておられるのかを理解したのです。歴史にとって大変重要な、教会と霊魂にとって大変重要な決断をしなければならなかった大司教は、孤独の中の数時間の後、「エクレジア・デイ」の一員である人々が、30年後にも理解できることを理解したのです。
「ベネディクト十六世の経験【実験】」
理解するのが重要な一つのことがあります。それは今朝【別の講話者の話の中で】言及されていたものですが、私が簡単に「ベネディクト十六世の経験【実験】」と呼ぶものに立ち返ることが重要です。つまり「スンモールム・ポンティフィクム」(Summorum Pontificum)[3]のことです。これは、ベネディクト十六世の教皇在位中の大きな軸である「継続性の解釈法」に照らして理解しなければなりません。
そのとき、「スンモールム・ポンティフィクム」によって、トリエント・ミサは、より広い権利が与えられることになりました。そして、多くの司祭がこのミサを発見し、このミサを捧げることによって、――このことは認めなければなりません――多くの司祭は今までの自分たちの司祭職を疑問に思い、公会議と新しいミサを疑問に思い始めたのです。バチカンが恐れたのは、まさにこのような過程でした。しかし、欠陥の残るこの自発教令がもっていた見方は、「二つの形式を持つ同じミサ典礼」という誤謬に基づいていたのです。そして何よりも、私が付け加えておきたいのは、現在の危機において、その原因を論じることなく何かを改善しようという錯覚に基づいていたということです。これが教皇ベネディクト十六世の誤謬であり、この自発教令の限界でした。それはうまくいくはずがありませんでした。一時的にはうまくいったとしても、遅かれ早かれ、今回のような事態に至ったことでしょう。
間違いを間違いと認めず、間違いを否定しなければ、間違いを正すことはできません。これは非常に重要なことです。継続性の解釈法は、これらの問題を「克服する」か、あるいは短絡的に解決しようとしました。教会は、ここに将来への教訓を得るのです。
私たちは、これまで何度、こう自問したことでしょうか? 「公会議はいつ正されるのか?」「公会議は否定されなければならないのか?」「公会議は単に忘れることができるのか?」「公会議の良いところはすべて保存されるのか?」。結局のところ、公会議は誤謬だけを含んでいるわけではありません…しかし、ここで私たちは現実的にならなければなりません。公会議が誤謬だけを含んでいるわけではないのはその通りで、――それは形而上学的に不可能です。誤謬は常に真理と混在しています。
しかし、正直かつ現実的になりましょう。第二バチカン公会議を本当に第二バチカン公会議としているもの、公会議――本当の第二バチカン公会議――の根幹は、新しいミサ、エキュメニズム、人間の尊厳、信教の自由でした。これらは、教会を変えた本質的な要素であり、かつ誤謬でした。これらが、カトリック教会を変えた本当の公会議の中心的な要素なのです。
公会議の文書にある他のすべてのものは――私は少し物事を単純化していますが――教父たちからの引用や以前の公会議からの引用はすべて、絵を囲む額縁のように、本質的な中心要素の周りに置かれる詰め物に過ぎないのです。繰り返しになりますが、私たちは正直でなければなりません。
本当の第二バチカン公会議、それは否定されなければなりません。否定されなければ、カトリック教会は自ら再生することができません。教皇ベネディクト十六世の実験がありますが、それはうまくいくはずがありません。真理を誤謬の隣に置くこと、二つのミサを隣同士に置いて、一方が他方を「豊かにする」ようにすること、「継続による改革の改革」…これは全くの錯覚です。
このすべてを、私たちは知っています。私たちは、これらの原理を、理論および推測によって知っています。しかし、今、私たちは、将来に極めて役立つ具体的証拠を手に入れているのです。
誤謬と真理が手を取り合って協力することはできない
エクレジア・デイの団体を監督・指導する責任を担っていた教皇庁エクレジア・デイ委員会は、ちょうど3年前の2019年1月に廃止されました。以下は、この決定を発表した教皇の書簡からの引用です。
「教皇ヨハネ・パウロ二世が、教皇庁エクレジア・デイ委員会を制定するに至った状況が今日変化していることを考慮し、また、慣習的に特別形式でミサを捧げている団体や修道会が今日、数と生活において適正な安定を見いだしたことに注目し」。
言い換えれば、エクレジア・デイの団体は十分に【公会議後の教会に】再統合されており、この理由で、その団体を保護するとされている委員会が廃止されたのです。
典礼秘跡省長官であるアーサー・ロッシュ大司教【の文章】[4]がしばしば引用されているのは、公的権威者がこれほど明示的かつはっきりと述べたことがこれまでなかったからです。ウェストミンスター(英国)大司教ヴィンセント・ニコルズ枢機卿への回答[5]の中で、ロシュ大司教はこう書いておられます。
「以前の諸教皇が限定的に譲歩したに過ぎないこれらの(聖伝の典礼の)テキストの使用法を誤って解釈して進展させることは、公会議の改革とは異なる典礼(これは実際、教皇パウロ六世によって廃止されました)および教会の教導権の一部ではない教会論を促すために利用されてきたのです。(中略)進展という方法ではなく、例外的な譲歩という方法による、以前の典礼のテキストの使用許可を規定する新しい法についての主要な注釈が、添付された教皇フランシスコから司教への書簡であることは明らかです。また、この例外的な譲歩が、第二バチカン公会議の典礼改革の有効性と正統性、および教皇の教導権を受け入れる者にのみ与えられるべきものであることも明白です。新しい法にあるものはすべて、第二バチカン公会議が定めた典礼に立ち返って安定させることを目指すものです」。―これで十分に明らかだと私は思います。
話を少し戻しましょう…2016年にローマによって任命され聖ピオ十世会との交渉に当たったバチカン側の司教は、こうおっしゃったと記憶しています。「公会議を皆さんに押し付ける理由が分かりません。結局のところ、小教区の教会のミサに行く信者に公会議を受け入れるかどうかは問わないのですから。ですから、なぜ皆さんに押しつけなければならないのでしょうか?」。ところが、ロシュ大司教は今、正反対のことを言っておられるのです。実際、交渉の際は、現実と完全に一致してはいないことを聞くことがありますし、守れない約束も聞くこともあります。
では、今日語られたり強調されたりしたこと全体の中心ポイントは何でしょうか? 「トラディティオーニス・クストーデス」について直観的に分かることは主に何でしょうか? 私たちは、そのすべてを、以下の原則で要約することができます。「トリエント・ミサは、真のカトリック教会による表現として、また真のカトリック信仰による表現として挙行されることはあり得ない」ということです。
さらに次のように付け加えることさえできます。「その挙行は、『トリエント・ミサが本当にそうであることのため』(for what it really is)に挙行するのではない、という条件のもとでなら許され得る」ということです。これによって、皆さんは、この逆説を理解することができるでしょう!すべての問題はそこにあるのです。
【トリエント・ミサを挙行するのは「真のカトリック教会による、真のカトリック信仰の表現として」ではないという条件でなら、トリエント・ミサを捧げる許可を得ることができる、という逆説】
実際、エクレジア・デイの団体は、1988年と同じ状況に戻ってきたのです。今日、彼らは同じ選択に直面しており、これまで以上に、以下の二つの選択肢のうちの一つを緊急に選択しなければなりません。
- まず、信仰を全面的に告白する無条件の自由を保持すること、そして相応の手段を講じ、その結果は天主の御摂理に委ねることです。これはルフェーブル大司教と共に聖ピオ十世会が行った選択です。
- あるいは、(トリエント・ミサを挙行するという)この可能性を、反対の方向に向かっている権威者、しかもそれを認め、公に発言している権威者の意志に委ねることです。
しかし、後者の選択は行き止まりです。意志の一致なくして前へ進むのは不可能です。意志が反対の方向に向いている二つの存在をつなぐことはできません。遅かれ早かれ、今回の危機のような状況に行き着くでしょう。彼らは、特権を与え、特別許可を与え、特定の、しかし不安定な状況を作り出し、そして約一世代の間、約30年も待ったのです。しかし、ある人々にとっては、与えられたものは特別な意味を持ち、特定の目標を目指すものであり、他の人々にとっては、その目標は正反対なのです。聖伝による霊魂の善と、聖伝のない新しい教会を同時に望むことは不可能です。
歴史は最高の教師
歴史は人生と思慮分別についての偉大な教師であります。エクレジア・デイの団体は今日、一つの選択に直面しています。しかし、彼らには有利な点があります。ルフェーブル大司教が当時持っていなかった後知恵を、彼らは持っているのです。50年後、善意ある人々は、教会で起こっていることを評価するのを助けてくれる、新たな要素を手に入れています。彼らは今、打ち立てられた原則がもたらす長期的な結果さえも評価することができるのです。
ここで私たちは、30年以上前にルフェーブル大司教が行ったこの選択と決断について沈黙しているわけにはいきません。1988年は聖ピオ十世会の歴史の中で最も重要な時でした。
人間的に言えば、私たちはそれを説明することができません――単なる人間の経験、人生の知恵、文化、人間の理解では、1988年にルフェーブル大司教が下した決断の知恵の深さを真に説明することはできません。それらの要素では不十分です。他の多くの解釈がまだ考えられ、考慮されたかもしれないのに、聖霊に動かされて物事をはっきりと見ることができるというこの能力は、不可謬的な聖性のしるしとしか言いようがありません。
それは、聖ピオ十世会、大司教自身、そしてある意味ではカトリック教会全体と教会における聖伝の役割を、取り消せない方法で方向づけることになる、そんな一つの決断を下す勇気を持つことです。全能の天主の御前で、たった一人で祈りながら、その妥当性、正確さ、見通しの深さが、30年以上たった今も正しかったと確認されている、その決断を下したことです! このことはすべて、聖霊の賜物、中でも賢慮の賜物を考慮しなければ、説明することができません。その賜物によって、霊魂は、それが聖である限り、また純粋である限りにおいて、従順になるのです。私たちにその答えを与えてくれるのは、人生の教師である歴史です。
信仰の必要条件の上に築き上げる
しかし、エクレジア・デイの団体の話に戻りましょう。一世代の時を経て、また私たちが言ったように、彼らは、十分すぎるほどの後知恵を持っていますが、今、選択に直面しています。この選択は、「スンモールム・ポンティフィクム」と「トラディティオーニス・クストーデス」のどちらかの選択ではありません。確かに、その二つのうちのどちらかではありません。私たちはこの人工的な論理から抜け出さなければなりません。
すでに、これら二つの異なる措置の間にある基本的な連続性が明らかにされました。たとえ内容的には大きく異なっていても、両者には共通の基盤があります。なすべき選択は、「スンモールム・ポンティフィクム」か「トラディティオーニス・クストーデス」かでもなく、「特別許可A」か「特別許可B」か「特権C」かでもないのです。私たちはそのような観点から抜け出さなければならないのです。
選択すべきは、1974年の宣言[6]――永遠のローマによりすがり、無条件で無制限に忠実であるという宣言――か、あるいは、特定の特別許可という譲歩――その結果はすでに知られている――か、です。エクレジア・デイの団体は、決定的な行き止まりという危機に瀕しています。ここでは、その諸団体は、獲得した権利に寄りすがることはできません。信仰の必要条件に頼らなければなりません。
それはなぜでしょうか? なぜなら、自分の修道会に特定の権利、特権[7]、あるいは特定の「たまもの」(カリスマ)を持つことができるかもしれませんが、ローマは会憲を変えることができますし、さらに、ローマは修道会を廃止することもできるからです。かつてローマはイエズス会を廃止し、聖ピオ十世会を廃止しましたから、他のどんな修道会や団体も――慎重を期して名前を伏せます――問題なく廃止できます。ローマにはそれが可能です。そして、特定の修道会に与えられた特別な特権だけに基づいて、何十年も戦ってきたとしても、すべてが廃止される可能性があるのです。
では、何が永遠であり、私たちの戦いを無敵にするのでしょうか? それは信仰です。「Verbum Domini manet in æternum」[主のみ言葉は永遠に残る](ペトロ前書1章25節)。
現在の戦い、つまり聖伝のためにしている私たちの戦いに必要な土台となるのが信仰なのです。信仰の戦いであって、いかなる特権の戦いでもありません。
教皇聖ピオ五世のミサの道具的使用
また、「トラディティオーニス・クストーデス」には、もう一つ強調すべき面があります。それは、聖伝のミサ典礼書が道具的に使用されているという非難です。教皇フランシスコは、「皆さんはこのミサ典礼書を、別の教会、別の信仰、皆さんが真の信仰と呼ぶ信仰の旗として使っている」と非難しています。しかし、実際のところ、このミサ典礼書を道具的に使用しているのは誰なのでしょうか?
今朝【別の講話で】見たように、トリエント・ミサはそれ自体、本質的に、カトリック教会についての【新しいミサとは】異なる概念、霊的生活についての異なる概念、司祭職についての異なる概念を表現しています。これは必然的なことです。ですから、そのため、トリエント・ミサは、教会、霊的生活、司祭職についての新しい概念に対応することのできる、別のミサに置き換えられなければならなかったのです。したがって、教会でこの聖伝のミサ典礼書を使用することは、道具的な使用ではなく、キリスト教的生活のカトリック的概念を育むために、ミサを普通に使用することだったのです。
一方で、ローマ当局が行った聖ピオ五世のミサ典礼書の道具的な使用があります。保守的なカトリック信者たちがある特定の道を歩むのを促すために、自分たちの目的のためにそれを利用したのです。しかし、ミサ典礼書をもてあそぶことはできません。秘跡をもてあそぶことはできません。「はい、私たちは、皆さんが教会の支配的な流れの中で使用されている概念に徐々に移行できるように、30年あるいは40年の間、このミサ典礼書を与えました…でも、もう移行の時間は終わっています」などと言うことはできません。
ミサをこのように使用することはできません。私は、これはホメオパシー療法的な使い方だと言おうとしましたが、ホメオパシー的な濫用だと言った方がいいでしょう。ホメオパシー療法の原理は、病気の原因そのものを使って病気を治療することで、それは治療したい病気に対して免疫系が徐々に反応するように仕向けるためです。ローマの当局は、聖ピオ五世のミサ典礼書を使ってこれを行いました――そして彼らはそれを認めています。しかし、そんなことはできないのです。問題視されているミサを、信者の問題を解決するために使うことはできません。それはまったくの道具的な使用であり、許されることではありません。
贖いは一つしかない
ですから、もう結論を出すことができます。どうすれば聖伝を受け継ぐことができるでしょうか? どうすれば聖伝を維持できるのでしょうか? 聖ピオ十世会の役割は何でしょうか?
人間的に言えば、私たちは他の誰よりも優れているというわけではありません。人間的に言えば、私たちは他の人々よりも価値があるというわけではありません。しかし、私たちの強さ、それは個人の資質ではなく、別のところにあるのです。私たちの強さは、私たちがあきらめることのできないものの中にあります。私たちの強さは、信仰と聖伝にあります。私たちの強さはミサにあります。信仰と聖伝の旗であり錦の御旗、軍旗であるミサにあるのです。
教皇フランシスコは、その自発教令の中で、いくつかのある面を無視することができれば、非常に正しいことを言っておられます。カトリック教会にはミサが一つしかないことはその通りです。教会が唯一の礼拝形式を持っていることはその通りです。しかし、この唯一の礼拝の形式は、新しいミサではありません。それが問題のすべてなのです。
この唯一の礼拝形式は、全時代のミサです。それはなぜでしょうか? それは、贖いは一つしかないからです。
旧約聖書を見ると、すべてのことが、十字架、カルワリオに向かって集中していることが分かります。ユダヤ人が捧げたさまざまな犠牲は、何らかの形で十字架の犠牲を表しており、この犠牲は、その唯一の完全性をもって、それらすべての犠牲を総合しているのです。主の全生涯は、十字架とご受難に向けられていました。そのため、このような特別な統一性があったのです。このように言うならば、私たちの主イエズス・キリストの全生涯は、すべて「十字架に到達する」という一つの考えの周りに組み立てられていたのです。そして、この十字架の犠牲は、あまりにも完全であるため、私たちの主は、ただ一度だけその犠牲をお捧げになるのです。
今、教会の生命は、一人一人の霊魂の生命と同様に、単純に、すべてを一致させるこの中心思想の延長線上にあります。教会の生活と贖われた霊魂の生活は一つであり、まさに十字架と贖いの一致そのものから引き出されたものです。唯一のキリストがあり、唯一の十字架があり、それらを通して、私たちは全能の天主を礼拝することができ、聖化されることができるのです。したがって、ミサに見いだされるのは必然的にこの同じ一致であり、それは教会の生活と霊魂の生活に贖いを適用することです。
その理由は、完全な贖いの行為はただ一つしかなく、完全であるからです。したがって、この贖いを永続させ、それを霊魂に適用するために間に合うように実現する方法も、また一つしかありません。この私たちの贖いの延長線上にあるものは一つです。なぜなら、それは、私たちの主イエズス・キリストの霊魂から流れ出し、主の全生涯を一致させた、唯一の中心となる意向を永続させるだけだからです。
では、実のところ、私たちは何を望んでいるのでしょうか? 聖ピオ十世会は何を望んでいるのでしょうか? 私たちは十字架を望んでいるのです。私たちの主イエズス・キリストの十字架を望んでいるのです。私たちはその十字架をたたえ、その十字架の神秘に入っていきたいのです。その十字架を自分たちのものにしたいのです。二つの十字架があるのは不可能であり、二つの贖いも、二つのミサも不可能なのです。
他方で、この唯一無二のキリスト教的生活に代わるものは何でしょうか? それは、人間の本性に、無益で失望させるような適応をさせようとすることです。現実には、人間本性はいつも同じであるにもかかわらず、です。言い換えれば、現代思想です。つまり私たちは、つねに変化している人間本性に、常に新しいものを必要とする人間本性に適応しなければならないという思想です。しかし、この思想は間違っています。なぜ間違っているのでしょうか? なぜなら、罪の源は常に同じであり、常に同じ方法でしか治すことができないからです。
これは嘘です。現代人は今日、別の方法でアプローチし、ケアしなければならないというこの嘘は――嘘であるがゆえに――嘘の果実を生み出します。嘘は、教会の生活の崩壊を生み出します。贖いをこのように適用しないなら、教会の生活は一致の原則を失います。
ですから、ミサの聖なるいけにえが、まさに私たちの旗であり、私たちの軍旗だというのは、この意味です。そして、戦いにおいて、この軍旗は絶対に倒してはならないものです。
また、最後にもう一つ、聖ピオ十世会が手に入れなければならないものがあります。これは極めて重要です。私たちはこのミサを、自分たちのためだけでなく、普遍教会のために望んでいるのです。私たちは、単に教会の脇祭壇を望んでいるのではありません。また、他のすべてが許可されている円形劇場に、私たちの軍旗を掲げて入る権利を望んでいるのではありません。もちろん、そうではありません。
私たちは、このミサを自分たちのために、そして同時にすべての人のために望んでいるのです。私たちが望んでいるのは、ちょっとした特権ではありません。このミサは、私たちのための、そして例外なくすべての霊魂のための権利です。
こんなわけで、聖ピオ十世会は、カトリック教会の生ける一部であり、これからもそうあり続けます。それは、聖ピオ十世会が教会の善を目的としているからです。聖ピオ十世会は特定の特権を得ることを目的としているのではありません。もちろん、天主の御摂理は、その時、その方法、段階、状況を選びますが、私たちに関する限り、私たちはこのミサを今すぐ、無条件で、すべての人のために望んでいるのです。
そして、私たちは、特定の特権を求めるという人間的な見方に入りすぎないようにしつつ、このことを望んでいるのです。私たちは、自分たちが少しずつ譲歩していくような交渉には入りたくありません。例えば、ここで教会が与えられ、そこでミサの時間が与えられ、マニプルやビレタ、聖ピオ十世教皇時代の聖週間の典礼を使うことができ、…そんなことを望んではいません。絶対にノーです! 私たちは、そんな筋書きに入るつもりはさらさらありません。
簡単に言えば、私たちが望むのは二つです。つまり信仰とミサです。私たちは、霊魂の霊的生活と道徳的生活を育むカトリックの教理と十字架を望んでいるのです。私たちはそれらを今、無条件に、すべての人のために望んでいます。
私たちがこの見方を持ち続けるなら、聖ピオ十世会は常に、そして完全に、カトリック教会の活動であり続けるでしょう。聖ピオ十世会は常に、教会において、教会のために、霊魂の救いを得ること以外に目的を持たない、教会のまさに中心で活動していくことでしょう。【了】
【フランス語のテキストから翻訳された英語をもとに訳された。このテキストは、講話という特別な性格を維持するために口語体を維持している。】
注
[1]1988年7月2日にローマで、自発教令として発表された教皇ヨハネ・パウロ二世の使徒的書簡「エクレジア・デイ・アドフリクタ」(Ecclesia Dei adflicta)。
「司教、教皇庁の各省、関係する人々と協力して、ルフェーブル大司教が創立した兄弟会に、現在さまざまな形でつながっている司祭、神学生、修道会、あるいは個人で、ラッツィンガー枢機卿とルフェーブル大司教が昨年5月5日に署名した議定書に照らして、彼らの霊的、典礼的伝統を維持しながら、カトリック教会のペトロの後継者に一致し続けることを望む者の完全な教会的交わりを促進することを目的とする任務を持つ委員会を設立する」(エクレジア・デイ・アドフリクタ6番a)。
[2]1988年4月15日から5月5日にかけて、ルフェーブル大司教は、自分の仕事の安定性と継続性を保証する良い合意を得たとみなしていた。こうして、5月4日にアルバノで最終的な協議に参加し、5月5日の聖ピオ五世の祝日に、ローマで合意議定書の宣言に署名した。ルフェーブル大司教が署名に同意した合意議定書には、「実際的、心理的理由から、聖ピオ十世会のメンバーを司教に聖別することが有益と思われる」(5条2項)と記載されている。しかし、日付は設定されていない。この議定書に署名しているとき、ラッツィンガー枢機卿は、ルフェーブル大司教に1988年4月28日付の書簡を渡し、この書簡が、この偉大な教会人の心に混乱と失望の種をまいたのである。
その翌日の5月6日の金曜日、ルフェーブル大司教は、ラッツィンガー枢機卿に次のような文章を書き送った。「昨日、私は、この数日間に作成された議定書に署名し、本当に満足しました。しかし、枢機卿様が私にくださった手紙を読んで、司教聖別に関する教皇様のご回答を知り、私が深く落胆しているのを枢機卿様ご自身が目撃されました。事実上、私は、司教聖別を不特定の後日まで延期するよう求められています。これは4回目の延期となります。6月30日という日付は、私の以前の手紙のうちの一通で、最終候補日として明確に示していました。候補者についての書類は、すでにお渡ししてあります。命令書の作成にはまだ2カ月あります。この提案の特殊な状況を考慮すれば、教皇様は、6月中旬頃に命令書が私たちに伝達されるよう、手続きを短縮されることは十分に可能です。否定的な回答があった場合、私は良心に従って、聖座によって議定書で与えられた、本会の会員である一人の司教の聖別の許可を頼りにして、聖別を進める義務があると認識するでしょう」。
参照:https://fsspx.news/en/news-events/news/30-years-ago-operation-survival-story-episcopal-consecrations-3-39154
[3]2007年7月7日にローマで、自発教令として発表された教皇ベネディクト十六世の使徒的書簡「スンモールム・ポンティフィクム」(Summorum Pontificum)。
[4]2021年2月20日、ロベール・サラ枢機卿が年齢制限により辞任した後、典礼秘跡省長官の職は空席となった。2021年5月27日、教皇フランシスコは、当時の同省次官アーサー・ロッシュ大司教を長官に任命した。大司教は1950年に英国で生まれ、主にスペインで教育訓練を受けた後、1975年にリーズ教区(リバプールの教会管区の一部)の司祭に叙階された。1991年から1996年までローマに滞在し、グレゴリアン大学で学び、英国人神学校(English College)で霊的指導者として奉仕する。1996年、イングランド・ウェールズ司教協議会事務局長に就任。
[5]2021年7月28日付の書簡で、ヴィンセント・ニコルズ枢機卿は、「トラディティオーニス・クストーデス」(Traditionis custodes)の適用について、六つの質問で明確化を求めた。この書簡は2021年11月5日に、8月4日付のロシュ大司教の回答とともに、ウェブサイトGloria.tvによって公開された。この書簡のやりとりがあったことは、ニコルズ枢機卿が2021年11月8日、カトリック・ニュース・エージェンシー(Catholic News Agency)に対して確認した。
[6]1974年11月21日のルフェーブル大司教の宣言は、次の言葉で始まる。「私たちは、心の底から全霊を上げてカトリックのローマに、すなわちカトリック信仰の保護者でありこの信仰を維持するために必要な聖伝の保護者である永遠のローマ、知恵と真理の師であるローマによりすがる」。
参照: https://fsspx.org/en/1974-declaration-of-archbishop-lefebvre
日本語訳参照:https://blog.goo.ne.jp/thomasonoda/e/0194578c842ea15b6da4647630366d7e
[6]ラテン語では、privata lex、私法。
2022年2月13日(主日)七旬節の主日のミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教(大阪)
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は、七旬節の主日のミサを捧げています。七旬節は、四旬節への準備の期間です。
今日、聖パウロは私たちにこう言います。「賞を受ける為に走れ。彼らは走っているけれども、たった一人しか賞を受ける事ができない、しかも朽ちる栄冠の為に。私たちは、朽ちない栄冠の為に走っている。この栄冠を受けるように走れ。」
では、聖パウロの言うこの「栄冠」というのは何でしょうか?もちろん、「天国の栄光」の事です。
私たちがその天国に入る事ができるように、それに相応しい者となる事ができるように、私たちを「聖化せよ、聖なる者とせよ」という事です。これが聖パウロが言っている、この「天国の栄光を目指して走れ。聖なる者となれ」という事です。
では一体、私たちが聖となるにはどうしたら良いのでしょうか?どこに向かって走れば良いのでしょうか?どうしたら聖となる事ができるのでしょうか?
私たちを聖として下さるのは、イエズス・キリストです。イエズス・キリスト以外、誰も私たちを聖なる者とする事ができません。なぜかというと、イエズス・キリストこそが真の天主であって、私たちを聖とする事ができる方だからです。イエズス・キリストこそ、私たちが聖となるモデルだからです、その模範であるからです。私たちのゴールであって、私たちがイエズス・キリストのようになる事こそが、私たちにとって聖となる事です、聖人となる事です。
では、どのようにしたら、イエズス・キリストの御恵みを受けて、どのようにしたら、イエズス様は私たちを聖として下さる事ができるようになるでしょうか?
それは、私たちがイエズス・キリストの、私たちを聖とする源に、その泉に、その根源に、そのこんこんと湧き出るその聖徳の源に行く事です。
それはどこでしょうか?
十字架です。イエズス・キリストが私たちを聖とするその全ての功徳の恵みの源は、十字架の木に、そこから湧き出ているからです。
この一体どこに、この十字架の源があるのでしょうか?十字架が立っているでしょうか?
ミサ聖祭です。なぜかというと、ミサ聖祭は、イエズス・キリストの十字架のいけにえの再現であって、全く同じ効果を持っているからです。
この大阪の聖母の汚れなき御心聖堂の入り口に、一年か二年くらい前、あるアメリカの若い女性が手紙を書いてくれました。「日本の信者の私たちの為にお祈りをしている」と。
そして「私たちの人生の目的は聖人となる事である」と「同じ目標を持っている事を嬉しく思う。その同じ目標に向かって生きている人々が日本にもいる事を嬉しく思う」と。
そしてそう言いつつ、彼女は聖人になることを目指して、今、ローマに行って聖伝の修道女と今なっています。
同じような話は世界中どこでもありました。例えば、朝鮮の迫害時代(1801年)に、唯一生き残っていた北京からの中国人司祭である福者ヤコボ周文謨神父が亡くなり、20年間以上司祭がなく、秘跡を授けて下さる神父様がいない、洗礼を授けて下さる神父様がいない、ミサを捧げて下さる神父様がいない、そして告解を聞いて下さる神父様がいない、信徒たちは非常に苦しんでいました。
ある時、そのグループの一人であった劉進吉(유진길)が、貴族なのですけれども、1824年の10月に北京に外交官として派遣される事になりました。朝鮮王国の代表としてです。劉進吉は、やはり貴族のカトリック信徒パウロ丁夏祥(정하상)を自分の「しもべ」として同行させました。彼らが北京に行って、最初に探したのは教会でした。
北京の司教様に会って、劉進吉は中国語でこう話しました。「司教様、ぜひ私に洗礼を授けて下さい。私は公教要理を勉強しました。どうぞ洗礼を授けて下さい。そして朝鮮にも司祭を送って下さい。私たち千余の人々は司祭を待っています。ミサを待っています。」
司教様はこの大使に質問をするのです。「洗礼を受けるのは良いことだけれども、一体ちゃんと公教要理を勉強したのか?」そこで公教要理の最初の質問をします。
「人間は一体、何の為にこの世に生まれてきたのか?」
すると彼は答えて、一字一句間違いなく、公教要理のそのままを答えました。
「はい、司教様、『人間は天主を知り、これを愛し、それに奉仕して、そして遂には霊魂を救う為にこの世に生まれてきました』と。」
その他の質問をすると、全て公教要理のままを答えました。
すると北京の司教様は非常に驚き、「迫害を受けている教会でこのように深く信仰を学んでいるなんて、奇跡だ!実は司祭を朝鮮に送ってあげたいけれども、中国でも迫害があって、自由に行き来できない。だから教皇様に是非、それをお願いするのが良いのではないか」と答えました。
後に劉進吉はアウグスチヌスという名前で洗礼を受けて、朝鮮に戻り、教皇様に手紙を書きます。これが聖パウロ丁夏祥 (성 정하상 바오로 1795-1839)と、聖アウグスチノ劉進吉 (성 유진길 아우구스티노 1791-1839)が教皇さまに書いた手紙です。この手紙は非常に有名で、当時フランス革命直後で、教会が迫害されボロボロになっていた時に、朝鮮から、「私たちは司祭が欲しいのです。カトリックを信じています。千人以上が待っています。どうぞ司祭を送って下さい」と言って、当時の教皇であったレオ十二世教皇(1823-1829)はとても慰めを受けました。「世界に広がるカトリック教会は、どこでも同じ聖徳を求めている、救霊を求めている、と確信した。」そして、これを読んだ次の次の教皇様、グレゴリオ十六世(1831-1846)が特別に、朝鮮に特別な代牧区として創立した(1831年)という歴史があります。
こればかりでありません。世界中どこを見ても、アメリカのインディアン(たとえば聖カテリ・テカクウィタ(Kateri Tekakwitha: 1656-1680))、あるいは南アメリカの黒人(たとえばペルーの聖マルティン・デ・ポレス)、あるいはアフリカの片田舎にいる奴隷だった女性(たとえばスーダンの聖女ヨゼフィーナ・バキタ)、あるいは世界中どこでも、皆カトリックの教えに触れて、聖徳を求めて、「聖なる者になりたい、ゴールに向かって生きたい。」そして遂に、列福・列聖された、という方々がいます。先ほど私が申しましたアウグスティヌス劉進吉は韓国の103位聖人のうちの一人となっています。
その源は全て、イエズス・キリストであって、ミサ聖祭であって、そして秘跡でありました。
私たちも、このゴールに向かって、聖徳に向かって、イエズス・キリストに向かって、走る準備を致しましょう。私たちの過去の先祖たちが走ったように、多くの聖徳を獲得したように、私たちもこの聖徳を受ける事ができますように、良い遷善の決心を立てましょう。
私たちは金メダルではなくて、永遠に朽ちない、永遠の天主の命の為に走っています。
最後に、ルルドのマリア様にお願い致しましょう。ルルドのマリア様は私たちに、「痛悔をしなさい」「回心をしなさい」「悔悛をしなさい」「罪を償いなさい、そして罪人の為に祈りなさい」と言われました。
私たちもマリア様の呼びかけに応えて、良い四旬節を過ごす事ができるように、特別の御恵みを求めましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
2022年2月12日(土)証聖者童貞聖マリアの僕の会の七創立者
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、今日は七人の創立者のミサを行なっています。聖母のしもべたちの修道会の創立者たちの生涯を黙想致しましょう。そして遷善の決心を立てる事に致しましょう。
13世紀のイタリア、特にフィレンツェでは、互いに家族同士がいがみ合ったり、嫉妬したり、妬んだりしていました。残念な事にカトリックの信仰を生きていませんでした。その中で、境遇も、そして生まれも違っていた七人が、その高貴な貴族の生まれにも関わらず、その莫大な財産にも関わらず、「聖母に祈りをして、より完全な生涯を人生を送る」という事で、心を一つにしていました。
そしてこの七人は、家族はもちろん違ったのですけれども、「全てを捨てて、兄弟のように生きよう」と生活を始めました。これが、今日祝う七人の創立者の始まりです。1233年の事でした。マリア様からの特別な御恵みで、この兄弟の生活が始まりました。
考えてもみて下さい。トヨタの御曹司が、あるいはどこかの財閥のエリートの長男が、あるいは日本の指折りの政治家の家系の青年たちが、将来と、持っている東京の御殿などを全て捨てて、兄弟のように貧しく生活しようとした、そのような感じです。
ある日この七人は、生活をする為に一軒一軒物乞いをしなければなりませんでしたが、その時に子供たちが、物乞いをした、おもらいをするこの貴族、この聖なる人々を見て、「あぁ、マリア様のしもべだ!」「マリア様のしもべだ!」と叫んだ、そこから、この修道会の名前が今でも、そのように残りました。
この修道士たちは一体、何か特別な事をしたのでしょうか?
特別な事というのは、イエズス様の御受難を黙想して、それに倣おうとした事でした。特に、マリア様の七つの御悲しみを黙想する事を非常に大切にしていました。十字架の苦しみ、マリア様の御悲しみを黙想する事によって、イエズス様とマリア様をお慰めして、そして罪人の回心の為に罪の償いをする、という生活でした。
もちろん多くの弟子たちも来るのですけれども、彼らはセナリオ山という所に隠遁修道生活をして、最後には晩年にはそこで葬られました。
葬られた後に、後世の人がその七人の骨を探したところ、その骨さえも一つのようになっていて、どれがどの聖人のものなのか見分けがつかないほどだったそうです。この七人は一人であるかのように、一つの家族として、愛徳の生活を行なっていました。イエズス様の兄弟、マリア様の子供として生活していました。
この七人は、私たちの人生で一番大切なものは何か?という宝石を発見して、その為に全てを売って、それを手に入れようとした人々でした。世界中にそのような人々がたくさんいましたけれども、その内の一つの例です。
今日、私たちは一体何をこの遷善の決心で立てるべきでしょうか?
私たちにとっても、この世で一番大切なのは一体何か?という事を、この聖人たちが教えてくれている、という事です。たとえ私たちの全てを、この地上の全てを失ったとしても、それにも勝る宝がある、そして「私たちにとって一番素晴らしい時間の使い方は、イエズス様の御受難に与る事だ、マリア様の御悲しみに心を添える事だ」という事です。
それを考えると「ミサに与る」という事がどれほど素晴らしい事かよく分かります。何故ならミサ聖祭こそイエズス・キリストの十字架の再現だからです。このミサにおいて私たちは、イエズス様の御受難と、マリア様の御悲しみに、最もよく与る事ができるからです。
では、今日はこの七人の創立者の取り次ぎを願って、ますます私たちも心を地上のものから離して、イエズス様とマリア様に向かう事ができますように、お祈り致しましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
第二バチカン公会議と教会の聖伝の「断絶のポイント」について―概要(その三)
“Points of Rupture” of the Second Vatican Council with the Tradition of the Church – A Synopsis
【その一】
【その二】
パオロ・パスクァルッチ氏の第二バチカン公会議の分析:第二バチカン公会議と教会の聖伝との断絶を示す26のポイント (続き) - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた
25.近代思想の主観主義に影響を受けた「真理」という概念に代表される重大な問題がある。それゆえに、そのような「真理」は、【客観的な】啓示された真理という考え自体と相容れないものである。
a.啓示憲章(Dei Verbum)では、
信仰の真理の「把握」についての文章の結論で「理解が成長する」として次のように述べている。
「要するに、教会は、自分に神のことばが成就するまで、時代の推移に伴って、絶えず、神的真理の充満を目ざして進むのである。」(啓示憲章8条2項)
ここでは、教会は20世紀を経てもなお「天主の真理の充満」(神的真理の充満)を持っていないことが暗示されているが、それは教会がまだそれを目指して「絶えず、前進する」とされているからである。真理とは「(探求された)対象と(探求している)知性との一致である」(アリストテレス―聖トマス・アクィナス)という考えが、典型的に近代的な考えに置き換えられている。つまり、それによれば真理とは主観的で、果てしない真理の探求【とされるの】である。
しかし、このような考えは、他のすべての考慮事項を別にすれば、天主によって啓示された真理という概念に適用することはできない。私たちの知性はこの啓示された真理を恩寵の不可欠な助けを借りて認識しており、この真理は、まさに不変の信仰の遺産を構成しているのである。さらに、そのような近代的な考えは、信仰の真理とは一致しない。信仰の真理によれば、啓示は、最後の使徒【聖ヨハネ】の死によって閉じられた・完了したからである。
b.このような、人間が問うている真理に取って代わる「"真理の探求"としての真理」という考えが、「対話」の原理の基礎である。
この原理が保持しているのは、「宗教に関する真理」は、今や、「教導あるいは教育、交流および対話による自由な探求によって、求めなければならない。このような方法によって、真理探究の面で互いに協力するため、自分が発見したとか、あるいは発見したと思うことを他の者に説明する(alii aliis exponent veritatem quam invenerunt)。」これは「神が英知と愛をもって、全世界と人間社会に秩序を立て、これを指導し、統治するために設けた神的な、永遠の、客観的、普遍的な法」に関わる。(信教の自由に関する宣言3条1-2項)
「宗教に関する真理」は、その時、永続的な「対話」を通して「他の者」とともに探求する際に個人の良心によって「発見」され、見いだされた全てに存するとされる。「他の者」(alii)とは、他のカトリック信者のことだけではなく、一般的な他の者、つまり、自分の持つ信条が何であれ、すべての他の者を意味している。重要なことは、この探求は、天主によって人間の心に置かれた天主の永遠の法、つまり、理神論者のように自然道徳の「永遠の法」(lex aeterna)をその対象としていることである(すべての人を巻き込むということで、実際には、非キリスト信者によって完全に否定され、異端者によって大きく変形されている"啓示された真理"をその対象とすることはできない)。
この新しい教えは、常なる教えに公然と反している。常なる教えによれば、カトリック信者にとって、「宗教に関することがら」や「道徳」における真理は、天主によって啓示され、「信仰の遺産」にある教導権によって保持し続けられている真理である。
したがって、この真理は、私たちの知性と意志の同意を必要とし、それは恩寵の決定的な助けによって可能となる。この真理は、信じる者に知られて自分のものとされることを要求する。すなわち、自らの努力によって、「発見」されるものではない。
あるいは、さらに、異端者、離教者、非キリスト信者、異教徒と共同で --- すなわち、私たちの宗教に関する真理や私たちの基本的な道徳的原則を拒絶するすべての人々と共同で --- 探求(investigatio)することによって「発見」されるものでもない。ここにおいて、私たちは、信仰だけでなく、ごく初歩的な論理の限界を超えて、その外にいる。
c.非カトリック的な原理によれば、真理は、他の者との共同の「探求」の結果であるべきであり、関係する各個人の「良心に忠実に」追求されるべきであり、「多くの道徳的原理」の解決に関わる場合にもそうであるという。この非カトリック的な原理が、現代世界憲章16条2項で再確認されているが、これは、公会議が持っている新・近代主義的な「精神」(mens)を理解するための重要な条項の一つである。
26.この簡単な概略を締めくくるために、1962年10月11日のヨハネ二十三世の就任演説の中にある、教会の聖伝に適合していない三つの点を思い起こしたいと思う。これらの点が、公会議をそのとき採用した異常な方向に向かわせるのに寄与したことは確実である。それは以下の通りである。
1)教導権についての不完全な・切断された誤った概念。
「しかし、現在、キリストの浄配は、厳しさよりも憐れみという薬を使うことを好みます。このことが求めるのは、この浄配が現代の必要性に遭遇し、新たな断罪を行うのではなく、自分の教えの正当性を示すことです」。
「不完全な・切断された」というのは、教導権は誤謬を断罪したり、天主に由来する権威を用いて真理と誤謬の区別を揺るぎない方法で宣言したり押し付けたりすべきではないと考えることに至るからです。
「誤った」というのは、誤謬を断罪することは、私たちが皆知っているように、憐れみのわざそのものであるからです。その際、誤った者が自分自身のことを説明し、自分のやり方を考え直し、自分の霊魂を救うことができるように、誤った者に指摘したり、あるいは、断罪を発する権限、天主からの権利による(iure divino)権限を持つ権威者が、すべての誤謬を断罪することによって、誤謬の陰湿な言葉の綾から信者を守ったりするのです。
2)カトリックの教理と現代思想が深刻なほど混合されている。就任の訓話には、真正な教理は「現代思想の探求のやり方とその文学的言い回しを通して研究され、自分のものとされるべきです」と(ヨハネ二十三世自身が公に使用したラテン語版よりも大胆な翻訳版で)断言していることからもわかる。なぜなら、「一方では、信仰の遺産(depositum fidei)の古代の教理という実体があり、他方では、その外層(rivestimentoすなわち上塗り)の定式化した言い回しがあるからです。ですから、必要なら忍耐をもって、この外層について、細心の注意を払い、司牧的性格を優先させて、教導権の形式およびと重大さにおいて、すべてを測らなければならないのです。」(現代世界憲章62条とエキュメニズムに関する教令6条で再提案された概念)
しかし、これは教皇たちが常に否定してきた立場である。なぜなら、超自然的なものに聞く耳を持たず、内在性の原理に強く影響を受けた現代思想と、「古くからの教え」 -- この教えにおいて「実体」と「外層」とを分離することは不可能である -- との間に存在する、明白で避けられない矛盾があるからである。
3)人類の一致が教会の真の目的であるとする宣言、しかも、そのような一致が「地上の国」がこれまでにないほど「天上の国」のようになるための「必要な基盤」であるとまでみなしている。これは、千年王国的な色合いを持つ概念であり、教会の教理とは無縁である。このような不適切な目的を教会に帰属させているのを、教会憲章1条で見ることができる(上記5参照)。
パオロ・パスクァルッチ
カトリック哲学者
2022年2月11日(金)無原罪童貞聖マリアのルルドにおける御出現のミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄妹姉妹の皆様、今日はルルドにおけるマリア様の御出現の祝日です。
マリア様はルルドで、ご自分のお名前を明かしました。これは聖ベルナデッタが「名前を聞かせて欲しい」と頼んだからです。聖母は最後の御出現で教えてくださいました。
「私は、無原罪の御孕りです。」
御出現からちょうど四年前、教皇福者ピオ九世が、カトリック教会が最初から受けた天主の教えである無原罪の御やどりの教義を宣言しました。教皇様が「マリア様は無原罪の御孕りである。マリア様は原罪無くして孕り給うた方である」という教義を荘厳に宣言した、その時から四年後、マリア様が天からやって来て「まさにその通り、私は原罪の汚れ無く孕った無原罪の御孕りである。これが私の名前だ」と教えて下さいました。
ですからルルドの今日の祝日は、無原罪の御孕りの延長なのです。
第二のポイントは、マリア様は私たちを守る母親として、ルルドに来られました。ちょうど御出現のあった十九世紀は、無神論とか、マルクス主義とか、あるいは進化論とか、お金さえあれば、物質さえあれば、人間は猿から…などという説が世に流行したその時でした。
その時にマリア様は天から「私は無原罪の御孕りである」と仰ると同時に、たくさんの奇跡を起こしました。病気だった子供、あるいは大人、色々な人が、何千という人々がルルドで治癒の奇跡を得ました。大奇跡を得ました。中には眼球が無くても見えるようになった人さえいます。骨がなくて足がブラブラしていたにも関わらず、ルルドに行ったら骨が出てきた。医学では説明ができない事が何千何万と起こりました。
肉体の治癒のみならず、回心の恵みもありました。これについて話せばたくさんあります。私たちの知っている、ここに来ていらっしゃるAさんの曾お爺さんは、カトリックに対して非常に反対していた方だそうです。大きな土地を持っていたのですけれども、そしてパリのフランス人の宣教師が、「ここに教会を建てたいから、土地を譲ってほしい」と言うと、「耶蘇に売るくらいなら、乞食にやった方がマシだ!」と、怒って答えたそうですが、その曾お爺さんが癌になって、もうこれで死にそうだ、というと、フランスからのルルドの水をそのお爺さんにやると、あっという間に癌が治りました。そして「この土地をどうぞ受け取って下さい。お礼に差し上げます」と、そして今、カトリック教会が建っています。
マリア様は私たちに奇跡を、今でも、21世紀の今でも、奇跡を与える母親としてルルドに来ました。ルルドに現れて、そして私たちに「御恵みを与えよう」と待っておられます。日本のカトリック教会では、どこでもルルドの洞窟が造られて、マリア様の御像があって、そしてお祈りをする事によってどれほど多くの人が回心の御恵みを受けた事でしょうか。日本だけではありません、世界中でそうでした。
最後に、このつい最近起こった無原罪の御孕りの奇跡について、実際にあったことを申し上げて、このルルドのマリア様の黙想を終えて、マリア様を讃美したいと思います。
大阪の兄弟姉妹の皆さまは、しばらくの間、主日のミサが夕方になって、皆様はとても不便だったり、色々辛い事もあったかもしれません。そしてそれらの事を捧げて下さった事を感謝します。
マリア様はそれと同時に、韓国で聖伝のミサがあるように計らってくださいました。…聖母のお恵みで、多くの方々がミサに与る事ができました。私たちの聖伝のミサに、もう30年と与ってきた方々は、一生懸命御聖堂を維持してきて、司祭館も維持して、いつかいつかと司祭が来るのをいつも待っていました。
カトリック聖伝の司祭が韓国に来て、聖伝のミサがあるという事を非常に感謝して、多くの方々が毎日のように早朝のミサに与りました。遠くからもミサに与る人でいっぱいでした。今までの方々のみならず、新しい方がたくさん来ました。一体、宣伝もしなかったのに、…何で、どうして、どこからこんな事が、というほど新しい方々が来て、若い方が来て、「ミサに与りたい、与ってもいいのか?」そして与りました。本当に立派な青年、青少年たちがミサに与って、主日にグレゴリオ聖歌を歌って、そして司祭と一緒に時を過ごしました。中には毎週主日に釜山からソウルまでミサに来た夫婦もいます。…
そればかりでありません。小野田神父が洗礼を授けた子供とお父さんとお母さんがいるのですけれども、そのお父さんは病気で寝たきりになっていたのです。そして痴呆も入ってしまったのですけれども、いつも洗礼を授けてくれた司祭の名前を呼んで、「小野田神父はどこにいるのか。小野田神父に会いたい」と言っていたのです。田舎にいらっしゃるのですけれども、そのお爺さんにも、司祭は頻繁に会いに行って、終油の秘蹟を与えたり、祝福をしたりして、秘蹟を与えたりする事ができました。その他、数えられないほどのお恵みがありました。…
そして韓国は、マリア様の無原罪の御孕りに捧げられた国で、そして私たちの聖ピオ十世会の御聖堂も無原罪の御孕りに捧げられています。12月8日は盛大に、マリア様に感謝のミサを捧げる事ができました。
こうやってミサが与えられた、秘蹟が与えられたという事を、韓国の信徒の方々がどれほど喜んでいるか、という事が司祭にはひしひしと分かりました。信徒の方々の喜びと笑顔と幸福の全てが、伝わってくるので、「あぁ、どれほどマリア様が母親として、この霊魂たちを愛しておられることか!」という事が司祭には十分すぎるほど良く分かりました。
無原罪の御孕りがどれほど、必要ならば奇跡さえも起こしても、御子イエズスをこれらの霊魂たちに与えたいと、御子イエズスの御聖体の祝福を与えたいと思っておられるか、という事を実感しました。
ですから、今日のルルドのマリア様の黙想を終えるにあたって、こう申し上げたいと思います。
どうぞ何もご心配なさらないで下さい。マリア様は私たちを極みなく愛しておられます。聖母は奇跡も起こす事を躊躇なさいません。もしも必要ならば、私たちに何でも与えて下さろうと思っておられます。マリア様は韓国の霊魂たちの事も考えて、必要なものを与えて下さいました。聖母は日本にいる私たちのことも気遣っておられます。
おそらく韓国では今日は聖伝のミサがなくて、霊的にお祈りしていると思いますが、マリア様は決して世界中にいる私たちの事を考えておられます。聖母は私たちを忘れる事なく、祝福と、御恵みと、希望と、喜びと、平和と、全てを与えようと、イエズス・キリストを与えようと思っておられます。
ですから、この無原罪の御孕り、ルルドのマリア様にお祈り致しましょう。信頼致しましょう。何も恐れずに、いつもマリア様に全てをお委ねして、また御ミサを捧げ続けていきましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
パオロ・パスクァルッチ氏の第二バチカン公会議の分析:第二バチカン公会議と教会の聖伝との断絶を示す26のポイント(21~24)
第二バチカン公会議と教会の聖伝の「断絶のポイント」について―概要
21.互いに関係している三つの「断絶のポイント」がある。①フェミニズムへの開放(現代世界憲章29、52、60条)と、②公の性教育への開放(キリスト教的教育に関する宣言「グラヴィッシムム・エドゥカティオーニス」Gravissimum educationis、GE1)。公の性教育は、先任の教皇たち(ピオ十一世とピオ十二世)によって正当にも断罪されている。なぜなら、不道徳で堕落的なものだからである。性教育は親や教師の慎重かつ個人的な判断に委ねられるべきものだからである。③「生活と愛の交わり」を結婚の第一の目的に高め、子どもの出産と教育という目的は、この「交わり」の「究極的な冠」(fastigium)であって、婚姻が存在する独占的な目的ではない(現代世界憲章48条)ものとして現れること。
22.キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言「ノストラ・エターテ」(Nostra Aetate)の中で、キリスト教以外の宗教に帰属する、複数の異常で誤解を招くような記述がある。この文書は、これらの宗教は「すべての人を照らす真理の光線を示すこともまれではない」(ノストラ・エターテ2条3項)と宣言さえしており、また、信じられないことに、カトリック信者に
「かれらのもとに見いだされる精神的【霊的】、道徳的富および社会的、文化的価値を認め、保存し、さらに促進する」(同第2条第3項)ように勧告している!
この宣言(および教会憲章16条「唯一の慈悲深い神を、われわれとともに礼拝する(nobiscum Deum adorant unicum et misericordem)」は、ムハンマド(マホメット)が宣言した啓示を真正なものと認め、コーランの黙示録的な「キリスト論」と「マリア論」を容認しているようにさえ見える(ノストラ・エターテ3条1項)。
ユダヤ教徒に対しては、キリストがすでにキリスト信者とユダヤ教徒を和解させたと信じているように見えるが、ユダヤ教が改宗せずにキリストに敵対し、偽りの現世的なメシア到来の希望を持ち続けているという事実は無視されているだけである。この和解とされるものは、"置き換えの神学"を不確かなものにしている(キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言4条)。置き換えの神学は、私たちが知っているように、唯一の真の啓示された宗教としてキリスト教が、ユダヤ教の代わりに置き換わったという根本的で明白な置き換えを内容としている。
23.この宣言は、ヒンズー教を評価してこう言う。その信者は「汲み尽くすことができないほどの豊かな神話と、哲学上の鋭敏な努力をもって神の神秘を探求し、表現する。また、かれらは、あるいは種々の様式の修行生活、あるいは深い瞑想、あるいは愛と信頼をもって神のもとに逃避することによって、われわれの存在の苦悩からの解放を求めている。」(同2条1項)。
この描写は、まったく誤解を招くものである。なぜなら、カトリック信者に、ヒンズー教の神話や哲学を有効なものとして受け入れさせ、あたかもヒンズー教が効果的に「神の神秘を観想する」ことができるかのように、またヒンズー教の禁欲主義や神秘主義がキリスト教の禁欲主義と同様のものを達成できるかのように思わせるからである。
しかし、ヴェーダの時代(紀元前16~10世紀)以降のインドの霊性を特徴づけている神話と思索の混合は、一元論的であり同時に汎神論的な"神と世界"という概念において、その本性を表していることを私たちは知っている。実際、非人格的で宇宙的な力として神を考え、無からの(ex nihilo)創造という概念を無視し、その結果、感覚的な現実と超自然的な現実、物質的な現実と霊的な現実、全体と個別のものを区別しなかった。その結果、個々に存在するすべてのものは、不明瞭で宇宙的な一つのものに溶解し、そこから、すべてのものが生まれ、そこへ、すべてのものが永遠に戻ってくるのであるが、その一方で、個々に存在するすべてのものは、それ自体がまったく見かけだけのものでしかないことになる。この考え方は、公会議によれば「深遠」ではあるが、個々の霊魂という概念(これは対照的に、古代ギリシャ人にはすでに知られていた)や、私たちが自由意志と呼ぶものが欠如するのは避けられない。
全体像は、輪廻転生という全く受け入れられない概念で完成する。輪廻転生は、教義憲章の草案「信仰の遺産を純粋に守るべきこと」(De deposito fidei pure custodiendo)で明確に非難されている、全く受け入れられない概念である。この草案は、公会議の準備段階で起草され、3年間続いた印象的で極めて正確な準備作業のその他の草稿とともに、公会議の冒頭で革新主義者(Novatores)、すなわち進歩的な枢機卿たちや司教たちによって(教皇ヨハネ二十三世の同意を得て)反故にされ難破させられたものである。
実際、いわゆるヒンズー教の「修行」(ascesis)は、一種のエピクロス主義(快楽主義)のようなものであり、洗練された自己中心的な探求、つまりあらゆる欲望 -- それが良きものであれ -- に対する、また全ての責任に対する、上位の霊的な無関心(indifference)を探求することである。この無関心は、輪廻転生という誤った信仰が教えているように、すべての苦しみは前世の過ちを償うとすることで正当化されている。
24.仏教はヒンズー教を部分的に純化した自律的な変異型であるが、この仏教について、宣言では次のように言う。
「その種々の宗派に従って、この流転の世が根本的に無常であることが認められ、人が忠実と信頼の心をもって、あるいは完全な解脱の状態に至る道、あるいは自力または他力によって最高の悟りに到達する道が教えられる。」(ノストラ・エターテ2条2項)
これは、アンリ・ド・リュバック(正統神学ではないことで有名なイエズス会司祭)が誤って伝えた仏教のイメージであり、疑うことのないカトリック信者に受け入れられるように再考し、装飾したものである。実際、仏教徒が、いわば、真の意味での「無の形而上学」を「流転の世が根本的に無常であること」に対抗するものとして持っていることを、そこでは語っていない。
彼らの「無の形而上学」によると、世界と私たち自身の「自己」は、見かけ上の存在にすぎない(また、私たちキリスト信者にとってそうであるような、単に"非必然的で過ぎ行くものであると同時に真に現実の存在"だけではない)。仏教徒にとって、すべてのものは、同時に、「成るであり、成らないである」。人生はどこもかしこも悲しみに染みわたった連続的な変化であり、悲しみは、すべてが空しいものであることと納得して克服すべきであり、自分がすべきことはあらゆる欲望を取り除くように自分に納得させることである。これは、知的なイニシエーション、つまりグノーシス(知識)によってなされる。
タントラ仏教(密教)では、このようなグノーシスは、いわゆる「性的魔術」を使って解放するとされる宣言をすることで、倫理や良識の限界を超えている。仏教のイニシエーションは、すべてのものに完全に無関心である涅槃(「滅」または「消滅」)に至ることを目的としている。これは、絶対的な滅という究極の状態であり、そこではすべてが空しさそのものであり、絶対的な空虚の平和であり、私たちの「自己」が完全に消滅して宇宙全体に溶け込んでいる非存在(non-being)である。これこそが、第二バチカン公会議があえてカトリック信者に尊敬の念をもって注目するよう呼びかけた「完全な解放の状態」「最高の照らし」の正体である。
第二バチカン公会議と教会の聖伝の「断絶のポイント」について―概要(その一)
“Points of Rupture” of the Second Vatican Council with the Tradition of the Church – A Synopsis
OnePeterFive 2018年4月13日
現在の教会の危機を理解しようと試みるとき、そのきっかけとなったイベントを振り返らなければならないのは必然的なことになっています。この点に関して、次の問題ほど議論されているテーマはおそらくないでしょう。
それは、第二バチカン公会議が、不適切な実施と解釈によって、つまり、定義が曖昧で、しばしば無謀な、いわゆる「第二バチカン公会議の精神」によって、不当に損なわれたのか、それとも、公会議自体に問題があり、それゆえに公会議が、私たちが置かれている教会の現在の状況を形成するものだったのか、という問題です。
しかし、論争の余地がないのは、この第二バチカン公会議が何らかの形で、現代のカトリシズムが典礼や秘跡、教理といった永続する教会の長く続いている聖伝から脱線する上で、極めて重要な役割を果たしたということです。
本日は、カトリック哲学者であり、イタリア・ペルージャ大学法学部の名誉哲学教授であるパオロ・パスクァルッチ(Paolo Pasqualucci)氏の分析をご紹介します。
パスクァルッチ氏は、著書「Unam Sanctam - A Study on Doctrinal Deviations in the Catholic Church of the 21st Century」(ウナム・サンクタム―21世紀のカトリック教会の教理的逸脱に関する研究)の序文を以下のように編集して、第二バチカン公会議文書のテキスト自体にある、教会の聖伝との断絶を示す26の明確なポイントを特定しています。
私たちがこれを読者の皆さんにご紹介するのは、第二バチカン公会議に関する最終的な結論としてではなく、必要とされる話し合いの導入部としてです。この会話は、どのようにして、また、なぜ、現在の状況に至ったのか、そして、戻る道を見つけるためには何を修正する必要があるのか、をいま評価せざるを得なくなっている多くのカトリック信者にとって、最終的には一つの考察となるものです。
パオロ・パスクァルッチ著「第二バチカン公会議と教会の聖伝の『断絶のポイント』」―概要
パオロ・パスクァルッチ著「ウナム・サンクタム―21世紀のカトリック教会の教理的逸脱に関する研究」、ソルファネッリ、キエーティ、2013年、437ページ、10-18ページ。
[P. Pasqualucci, “UNAM SANCTAM. Studio sulle deviazioni dottrinali nella Chiesa Cattolica del XXI secolo”]
もっと多く挙げることができるのを承知の上で、私が取り上げたのは、26の「断絶のポイント」です。最初の12のポイントは、モンシニョール・ブルネロ・ゲラルディーニの著作「Concilio Ecumenico Vaticano II. Un discorso da fare」(2009年)と「Quod et tradidi vobis - La tradizione vita e giovinezza della Chiesa」(2010年)からの引用です。それらはまた、ロマーノ・アメリオの基本的なテキスト「IOTA UNUM. Studio delle variazioni della Chiesa cattolica nel secolo XX(イオタ・ウヌム 二十世紀のカトリック教会の多様性の研究)」(1985年)にもあり、モンシニョール・マルセル・ルフェーブルの著作「J'acuse le Concile!」(私は公会議を告発する!)(1976年)も忘れてはならないのは明らかです。
【日本語訳注】公会議の公文書の引用箇所は、なるべく日本語公式訳「第2バチカン公会議 公文書全集」から取った。
パスクァルッチ教授については、次の記事もご参考にお願いいたします。
* * *
1.現代世界における教会に関する司牧憲章「現代世界憲章」(ガウディウム・エト・スペス Gaudium et Spes)に属する実際の意味は、教会の聖伝に適合していないように見える。その全体に、いわゆる「新しい啓蒙思想」の精神が浸透しているように思われる。
2.現代世界憲章22条2項は、天主の御子は托身(受肉)によって「ある意味で自分自身をすべての人間に一致させた」と断言しているが、これは、托身(受肉)を私たち一人一人にまで拡張し、そうすることで人間を神格化しているように思える異常な断言である。
3.同じキリストへの信仰が、カトリック教会から「分かれた」人々を含むすべてのキリスト教徒に属することは、カトリックの信仰を離教者や異端者の信仰と不当にも同一視するものである。特に、エキュメニズムに関する教令「ウニターティス・レディンテグラティオ」(Unitatis Redintegratio)は、「分かれた諸教会と諸教団」を、その「欠陥」にもかかわらず、真にして固有の「救いの手段」とみなし、その効力が「教会にゆだねられた恩恵と真理の充満に由来する」(エキュメニズムに関する教令3条4項)としている。
4.現代世界憲章24条3項は、「人間は神が[人間自体のために]望んだ地上における唯一の被造物である」と断言しているが、これは、人間を創造するように導いた目的が、天主の栄光をたたえること、および万物の究極の目的としての天主をたたえること以外のものが、あり得たかのようである。
5.教会に関する教義憲章「教会憲章」(ルーメン・ジェンティウム Lumen Gentium)の回りくどい第1条に含まれる教会の概念は、(聖伝とは異なるものとして)際立っており、「神との密接な交わりと全人類一致のしるし(sacramentum seu signum)であり道具」として提示されているが、教会の超自然的な目的、すなわち教会の存在を正当化する唯一のものである霊魂の救い、についての言及は一切ない。
6.教会憲章8条2項で与えられ、後に同憲章15条、エキュメニズムに関する教令3条、同教令15条1項で具体的に述べられた教会の定義は、キリストの教会がカトリック教会のうちに「存在するsubsistit」ことを断言し、さらに「この[目に見える]組織の外にも聖化と真理の要素が数多く見いだされるが、これらは本来キリストの教会に属するたまものであり、カトリック的一致へと促すものである」と断言している。これは全く新しい定義であり、キリストの教会の概念を拡張して、あらゆる異端者や離教者をも含んでいる。そのため【教会憲章の表現は】形相的な意味【=本当の意味】で異端の非難を受けるに値すると考えられる。なぜなら、これは、救いのためにある使徒継承のローマ・カトリック教会(唯一の真のキリストの教会)の一性という教義の否定を暗示しているからである。
7.天主の啓示に関する教義憲章「啓示憲章」(デイ・ヴェルブム Dei Verbum)の11条2項は、「聖書は、神がわれわれの救いのために聖なる書に記録されることを望んだ真理を固く、忠実に、誤りなく教えるものと言わなければならない」と断言している。従って、聖書の絶対的無謬性の教義の否定を暗示していると解釈することが可能である。何故なら、この「誤りなく」という表現は実際、「われわれの救いのために」(nostrae salutis causa)啓示された「真理」のみ、つまり宗教的かつ道徳的な掟のみについて言及していると解釈することが可能だからである。
8.同じ啓示憲章「デイ・ヴェルブム」は、聖伝と聖書の間の通常の区別をなくしているように思われる(啓示憲章9-10条)。
9.聖伝の概念は明確に定義されておらず、聖伝の聖書との関係も明らかにされておらず(啓示憲章9条)、「東方教会」との関係も明らかにされていない(東方カトリック諸教会に関する教令 Decree Orientalium Ecclesiarum 1条)。さらに、「この生きている聖伝」(the presence of this living tradition)、ラテン語では「この聖伝の活力的な現存」(huius Traditionis vivificam testificantur praesentiam)(啓示憲章8条)という概念が出てくるが、これは漠然として曖昧である。なぜなら、モンシニョール・ゲラルディーニが強調するように、「これは、あらゆる種類の新奇なものを --- たとえそれが教会の生活の表現として最も矛盾したものであっても --- 教会に導入することにつながる」からである。
10.教会憲章22条における司教団体性という新しい定義は、教会の聖伝と両立するようには思われず、ローマ教皇の首位権についての正しい理解を損なうものである。実際、教会全体への最高の裁治権の二つの主体(教皇単独と、教皇とともにある司教団)と、同じ裁治権の二つの異なる行使(教皇単独と、教皇の認可を得た司教団単独)という、かつてなかったことを確立している。
「使徒団を継承する司教団は、(中略)普遍教会のうえに最高かつ完全な権能を持つ主体でもある。ただし、この権能は、ローマ教皇が同意するときだけしか行使できない。」
Ordo autem Episcoporum, qui collegio Apostolorum in magisterio et regimine pastorali succedit, immo in quo corpus apostolicum continuo perseverat, una cum Capite suo Romano Pontifice, et numquam sine hoc Capite, subiectum quoque supremae ac plenae potestatis in universam Ecclesiam exsistit, quae quidem potestas nonnisi consentiente Romano Pontifice exerceri potest.
11.信教の自由に関する教令【宣言】「ディニターティス・フマネ」(Dignitatis Humanae)では、「信教の自由」という概念が肯定されているが、【信教の自由という】同じものの世俗的な概念 -- これは理神論や啓蒙主義を源流とする「寛容」の思想の実りである -- と自らを区別しているようには思われない。このような概念は、教会の教理に適合していないように思われる。またこれは宗教的無関心主義や不可知論の先駆けとなっている。
12.第二バチカン公会議の文書の「神学的注釈」(nota theologica)の問題(について)、モンシニョール・ゲラルディーニ(確実に彼だけではない)は、この公会議を教義的公会議とみなしていない。なぜなら、教義を定義することも、誤謬を断罪することもなからである。特に「教義的」と名づけられた二つの憲章においてさえも、そうしなかったのであり、また、この公会議は、自らが教義的ではなく、逆に司牧的であることを明示的に宣言しているからである(教会憲章の付属文書での注釈「公会議の慣習を考慮し、また本公会議の司牧的目的を考慮して、聖なる公会議は、信仰と道徳の問題におけるこれらのことについて、公然と宣言するもののみを教会に拘束すると定義する」を参照)。しかし実際には、「信仰と道徳の問題」に関するどの公会議文書にも、教義的な定義はない。
しかしながら、公会議の弁護者たちは、公会議が新しいタイプの「不可謬性」を醸し出しており、それは同じ司牧的性質の文書の中に何らかの形で暗示されている、と主張している。しかし、これは不可能なことである。なぜなら、特別教導権の宣告の教義的性格は、確実で、理解しやすく、伝統的なしるしに由来するものでなければならず、「暗示的」ではあり得ないからである。
13.典礼に関しては、聖なる典礼に関する憲章「サクロサンクトゥム・コンチリウム」(典礼憲章 Sacrosanctum Concilium)(同憲章47条、48条、106条)の中で、聖なるミサがどのように定義されているかによって、注目すべき当惑が生じている。そこでは「キリストが食される復活の祝宴(convivium paschale, in quo Christus sumitur)」という概念や、(私たちの罪のために天主の前であわれみ(propitiatio)を取り成しする)なだめの(propitiatory)いけにえの代わりに、「記念」(memoriale)を好んでいるように見える。
106条は、「過ぎ越しの神秘 Mysterium paschale」(聖なるミサの、新しく分かりにくい変わった呼び名)をこのように説明している。それは、週の最初の日であり、主日とよばれ、この日、「キリスト信者は、一つに集まらなければならない。そして天主のことばを聞き、聖体祭儀に参加して、主イエズスの受難と復活と栄光を記念し、『イエズス・キリストが、死者のうちから復活したことによって、生きる希望へと再生された』(ペトロ前書1章3節)天主に感謝をささげるのである。」
Hac enim die christifideles in unum convenire debent ut, verbum Dei audientes et Eucharistiam participantes, memores sint Passionis, Resurrectionis et gloriae Domini Iesu, et gratias agant Deo qui eos "regeneravit in spem vivam per Resurrectionem Iesu Christi ex mortuis" (1Pt 1,3). (同憲章106条)
この言い方は、プロテスタントの言い方のように、聖なるミサを、本質的に復活の記念および復活の「賛美のいけにえ」として提示しているように見える。さらに、典礼憲章の聖なるミサの定義は、全実体変化の教義や、なだめのいけにえとしての聖なるミサの性質については一切触れていない。これは、1794年にピオ六世がジャンセニストの異端を暴いて、彼らの聖なるミサの定義が、まさに全実体変化について沈黙していることから、「悪質であり、全実体変化の教義に関するカトリックの真理の説明に不忠実であり、この異端者らに賛同するものである」と宣言して、荘厳に断罪した特定の誤謬に該当しないだろうか(デンツィンガー・シェーンメッツァー1529、2629参照)。
14.典礼に創造性の原則(varietas et aptatio)を導入するという前代未聞の新奇なものは、またもや典礼憲章37-40条にあるように、理論的には聖座の支配下にあるが、しばしば純粋に「理論的」なものである。この原則は、絶対的に避けるべき最も悲惨なものとして、何世紀にもわたって全教導権によって例外なく常に反対されてきており、多くの人はこの原則が現在の典礼の混沌の真の原因であると考えている。
15.創造性の原則は、司教協議会に対して与えられた典礼の問題に関する広範で全く新しい権限によって裏付けられており、これには新しい礼拝形式を試す権限も含まれている(典礼憲章22条2項、39条、40条)。これは教導権の不変の教えに反している。教導権は常に典礼の問題におけるすべての権限を教皇に -- 典礼に革新を導入しないための最大の保証として -- 留保してきたからである。
16.創造性の原則と調和するように、「典礼憲章」は典礼様式を世俗文化に適応させるという原則を導入した。すなわち、さまざまな民族の特徴と伝統、彼らの言語、音楽、芸術を、創造性と典礼の実験(典礼憲章37、38、39、40、90、119条)という手段により、さらにまた、より短くより明確にすることが望まれる典礼様式自体の簡素化(同憲章21、34、65-70、77、79、90条)によって、適応させるのである。ここでもまた、教導権の常なる教え -- それによればさまざまな民族の文化が、カトリックの典礼様式の要求に適合されるべきであり、実験にも、どのようなものであれ現代人の虚栄や高慢な考え方には何ももいささかも譲らない -- にも反している。
実際、聖なるミサの典礼様式は、今日、大陸ごとに、そうでなければ国ごとに、異なる典礼に断片化されており、司式司祭の裁量により、場所ごとに無限の数の変異型が存在している。変異型(および劣化型)は異教的な要素を典礼様式に取り込むことを排除せず、他方で、時折なされる聖座当局による修正の介入は、耳を傾けてはもらえないでいる。
17.カトリックの礼拝の断片化と野蛮化は、常に典礼様式統一の手段であった古代の普遍的な言語であるラテン語を放棄した結果でもある。この歴史的な変化は、パウロ六世によって認可された。さて、「典礼憲章」は次のように定めている。
「ラテン語の使用は、特別法を除き、ラテン典礼様式において遵守される。」 Linguae latinae usus, salvo particulari iure, in Ritibus latinis servetur.(典礼憲章36条1項)
しかし、公会議自身が決定した規範と事例に従って、「より広範囲にわたって国語を使用することも可能である」ことも同意している(同憲章36条2項)。
公会議が定めた一般的な性格の規範は、司教協議会に、礼拝への国語の導入に関する「完全な権限」を与えている(同憲章22条2項、40条、54条)。また、公会議が国語の部分的または全体的な使用の可能性を認めた事例は数多くある。同憲章63条「秘跡と準秘跡の授与、特殊儀式書」、同憲章65条「宣教地での洗礼の儀式」、同憲章76条「司祭の叙階」、同憲章77-78条「婚姻の儀式」、同憲章101条「聖務日課の祈り」、同憲章113条「聖なるミサの盛儀典礼」。ラテン語の使用がまだ規範であるはずだったが、国語に数多くの箇所を開放しなかっただろうか?
18.モンシニョール・ゲラルディーニが何度も書いているように、司祭職の劣化がある。これは司祭職を公会議が「神の民の職務」として理解していることによる【劣化である】。司祭を「天主の司祭」から「神の民の司祭」に降格(demotion)させ、司祭職の正当性は、あたかも【天主ではなく】神の民、すなわち信者に依存しているかのように考えられている。このような降格は、聖書の根拠のない解釈、すなわち、私たちの主は始めに「信者の中のある人々を役務者に制定した」"Idem vero Dominus, inter fideles ... quosdam instituit ministros" に基づいている。(公会議の司祭の役務と生活に関する教令 Presbyterorum Ordinis 2条2項)。
その反対に、福音書によれば、私たちの主は、一般的に「信者の中のある人々」から人を選んで教会の建設を始められたのではない。主は、ご自身が司祭として選び準備した人々、すなわち、使徒たちと協力して教会を建設されたのである。
19.職位的または位階的司祭職と「信者の共通司祭職」(教会憲章10条2項)との間の前例のない平等化。第二バチカン公会議によれば、これらの司祭職は「相互に秩序づけられている」(ad invicem ordinantur)と考えられ、したがって同じレベルに置かれている。
教会の独身性の受け入れがたい引き下げが生じている。これについては「それは司祭職の本質から要求されるものではない」Non exigitur quidem a sacerdotio suapte natura と断言し、聖パウロの思想を全く独自に解釈してこの主張を正当化している(司祭の役務と生活に関する教令16条1項)。
また、教会の聖伝に反する思想の浸透がある。すなわち、司祭職の「職務」のうち、第一に説教(「天主の福音をすべての人に告げる」、司祭の役務と生活に関する教令 4条1項)を挙げるべきだという、教会の聖伝に反する考えが浸透している。
しかし、トリエント公会議は、司祭職を特徴づけるものは、第一に「キリストの御体と御血を聖変化させ、捧げ、分配する権能」であり、第二に「罪を赦す、あるいは赦さない権能」である、と断言している。
20.司祭の職務の劣化は、"「神の民」としての教会"という新しい概念に照らして理解される。この概念は、"教会"についての新たな拡大された(そして偽りの)概念に関連している(上記 6段落参照)。「キリストの神秘体」の代わりに「神の民」(教会憲章8-13条)という定義は、一方で、部分と全体を取り替えている。すなわち、ペトロ前書2章10節に言及されている「神の民」を、教会全体と交換している。しかし、この【神の民という】箇所は、伝統的に受け入れられている解釈によれば、ただ単に異教から改宗した信者に聖ペトロの発した賛美が向けられたものである(「あなたたちは前には天主の民ではなかったが、今は天主の民である」)。
さらに、それは、教会自体が「民主的」かつ「共同体主義的」だというビジョンへと至らせている。これはカトリックの聖伝とは全く無縁で、むしろプロテスタントの考え方に近い概念である。
実際、この概念は「民」の概念を含み、したがって、普通ではない「共同体主義」の観点を含んでいる【訳注:"include in"の"in"を省いて読んだ】。さらに、聖職位階は、聖職位階のメンバー【肢体:成員】も「神の民」の「肢体」(教会憲章13条)とみなされ、その称号によってのみ、「民」とともにキリストの神秘体に参加しているように見える。この「神の民」という新しい唯一無二の概念が「神秘体」という正統的な理解の上に被せられ、重ね合わせられており、今では信者は「神の民」に代表される集合体を通して参加することになっている。
(続く)
アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、2022年2月13日は七旬節の主日です。
「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「七旬節の主日の説教」の動画をご紹介いたします。
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SSPX JAPAN聖ピオ十世会日本にチャンネル登録もお願いいたします。
天主様の祝福が豊にありますように!
トマス小野田圭志神父