アヴェ・マリア!
愛する兄弟姉妹の皆様、
私たちの主イエズス・キリストの御降誕のお祝いを申し上げます。例年のように私はソウルで御降誕のお祝いをいたしました。12月25日の御降誕祭には、生後数ヶ月のパトリシアちゃんが洗礼を受けました。また夕方にはソウルでは雪が降り、とてもきれいなクリスマスとなりました。
今日、御降誕の八日間内の主日には、いつものようにグレゴリオ聖歌の歌ミサと、聖体降福式がありました。今日は、イギリスの聖ピオ十世会の教会に通っている韓国のセシリアさんがお母様の見舞いに数年ぶりに数日韓国に戻っていて、久しぶりに会うことが出来ました。
職務が終わって司祭館に帰ってみると、愛する兄弟姉妹の一人が先日ご紹介したルフェーブル大司教様の司祭叙階60周年のミサのお説教を日本語に訳して送ってメールを受け取りました! 早速、該当のフランス語のサイトに行ってルフェーブル大司教様のお説教を懐かしく聞きました。まだ私がフランスで神学生だったときにこのミサに与った頃のことを思い出していました。せっかくのクリスマスのプレゼントとして頂いたものですので、愛する兄弟姉妹の皆様にも、早速、お知らせしようと思います。
どうぞ、良きクリスマスの時節をお過ごし下さい。
1989年11月19日、パリ、ブルジェでの叙階60周年奉祝ミサにおいて
ルフェーブル大司教様が行われた説教
19 novembre 1989 : sermon du jubilé de Mgr Lefebvre au Bourget
Archbishop's Sermon on his 60th Anniversary of Ordination (November 19, 1989)
聖父と聖子と聖霊との御名によりて アメン。
司教様各位、それから我が親愛なる同僚、並びに親愛なる神学生諸君、親愛なるシスターの皆さん、そして私の敬愛する兄弟の皆さん。
この司祭叙階記念日のために、皆さんがこれ程大勢でここにお集まりいただいたことを私は深い感謝の念を持って見つめています。皆さんの多くは旅行による難儀を忍ばれたことでしょう。一部の方は、遠方の大陸からお越になりました。しかし、この式典は皆さんの支払われた骨折りに値するものだと思います。
そうです。何故私たちはここに共に来たのでしょうか?それはカトリック司祭職を褒め称える為なのです。それが、本日皆さんがやって来られた深遠な動機であると考えております。
はい、至聖三位一体と、人となった天主である聖主イエズス・キリストに対して、永遠の司祭職を制定してくださった事への感謝を、私たちが十分に捧げる事など決して出来ないでしょう。そうです、聖主は本質的に仲介者であり、司祭なのです。
ご自分を聖なる犠牲として天の聖父に捧げるため、彼は私たちの為に司祭になって下さいました。その神聖な叡智によって選び抜いた一部の男性を、ご自分の司祭職に与らせようと望まれたのです。
私たち一人ひとりに対する天主の愛、この神聖なる愛の神秘の如何に偉大なことでしょうか!この計り知れない司祭職という恩寵を頂くことが、自分たちにとってどれ程ふさわしくないと私たちは感じている事でありましょうか。
天主は賛美されますように!私たちの聖主イエズス・キリストは賛美されますように!童貞マリアもまた賛美されますように!何故なら、マリアなくして、私たちはあの大司祭を頂く事は出来なかったですし、従ってその司祭職を共有する事も出来なかったのです。司祭職の御母、司祭たちの御母マリアは、そうです、彼女は正に私たちの御母であり、とりわけ、司祭たちにとってそうなのです。
かたじけなくもこの私に授けてくださった司祭職のために、そしてこの60年の司祭生活、さらに42年に渡るこの司教職のために、天主は感謝され、また祝福されますように。この42年間、天主の聖なる恩寵によって、不肖ではありますが、私はこの司教聖別並びに多くの<およそ五百人の>司祭叙階を授けることが出来ました。
さらに、日毎ミサの聖なる犠牲を捧げる事も出来、委ねられた霊魂たちに、私たちの聖主イエズス・キリストを、(彼が制定された)諸々の秘蹟を通して、特に、御聖体の聖なる秘蹟を通して与える事が出来たのです。何と多くの恩寵でしょうか!何という幾多の賜物でしょうか!
親愛なる兄弟の皆さん、皆さんが一致して捧げるこの感謝の賛歌に、私は奉献文の祈りの言葉の訳を付け加えたいと思います。奉献文の祈りこそ、この状況にはもっとも相応しいものだと思われますし、司祭たちが毎日唱えているものなのです:「聖なる父、全能永遠の神、不肖の下僕である私が、活ける真の神に捧げる汚れなきホスティアを受け入れ給え。私は、私の数知れぬ罪と侮辱と怠りとのため、又、ここに列席する人の為、そして、生きる者、死んだ者、全てのキリスト者のために、これを捧げ奉る。願わくは、これを、私と彼との永遠のたすかりに役立つものとならせ給え!アメン。」
これが、司祭が毎日祭壇で唱える奉献の祈りです。何と崇高な祈りでしょうか!司祭職の崇高な神秘の御前では、余りにも不肖で、貧しい自分を、私たちは感じないではいられません。
司祭職にあって、敬愛する同僚の皆さん、私が話しかけているのは皆さんです。とりわけ、皆さんの中で、司祭志願者たちの養成に携わる方々に話しかけています。私たちの為に、深い信仰と、聖性への強い憧れと、宣教師となる願望とを有した多くの司祭、多くの聖なる司祭、多くのカトリック司祭を準備して下さい。これこそが、皆様の職務であります。ですから、実にもう一人のキリストであるカトリック司祭たちを頂くことの必要性を十分理解されている信徒たち全員の名によって、私は、司祭養成の任に当たっておられる皆さんに感謝いたします。
司牧の畑で活躍されておられる、親愛なる同僚各位、皆さんに対しても私はお話させていただきます。皆さんを取り巻く青年たちの心に存在する召命の兆しと、さらには修道生活への召命を識別するのは皆さんの責務なのです。従って、皆さんにこそ、天主はご自分の司祭になるようにと選んだ霊魂たちや、あるいは、修道生活という、独特な方法により、ご自分の司祭職に参与するようにとお選びになった霊魂たちに気を配り、面倒を見るための恩寵をお与えになったのです。
そして、カトリック信仰を持つ御両親である敬愛する兄弟の皆さん、皆さんは、司祭の召命、あるいは修道者の召命を育む聖域です。皆さんなくして、私たちに何が出来るというのでしょうか? 他にどこへ行けば、私たちは司祭、修道士、さらに修道女たちの召命を見出す事が出来るのでしょうか?
ですから、皆さんに懇願します。どうかこの聖域を、侵食的で悪質な世俗の影響からはるか遠く保ってください。皆さんのご家庭に、世俗の精神を入れないでください。皆さんのご家庭を、教区や、教会のまさに延長線として、準教区、さらに準教会にしようではありませんか。
(ご家庭では)皆さんのお子様たちが見るべき教育的な映像だけを使用して、生涯、彼らの霊魂を汚す様なものは使用しないでください。善き聖主が、皆さんのご家庭から選り抜きの霊魂を数人選ぶことが出来るように、お子様の目から、彼らを堕落させるようなものを遠ざけてください。
一つの家庭において、一人の司祭召命以上に、あるいは修道院、及び女子修道院への修道召命以上に美しいものなど決して存在しません。何という保護が、全家族のため、兄弟姉妹の為に与えられている事でしょうか!これを確信してください。
従いまして、この聖なるミサの間、善良な召命や、カトリック司祭職に対する地獄と世俗からの攻撃にもかかわらず、善き天主がカトリック司祭職と、修道者の召命を存続させてくださるよう共に祈りましょう。司祭がいなければ、公教会はどうなるでしょうか?
近代的教会は、間もなく、司祭不在の日曜礼拝を受け入れるでしょう。一体、このような礼拝はどのようなものなのでしょうか?それは、もはや祭壇上で再現され、皆様と私たちがその中に参加する聖主の犠牲ではないのです。そうです、カトリック教会とは、こんな礼拝のためにある教会ではないのです。カトリック教会は、カトリック司祭たちの教会なのですから、司祭のいない所に、もはやカトリック教会は存在しないのです。
さらに、カトリック司教がいなければ、カトリック司祭も存在し得ないのです。皆さんご存知のように、ローマとの会話の後に、1名の司教様を頂く事は可能でした。しかし、もしそれが実現していたら、この司教様はどのような方だったでしょうか?ローマの権威者たちは、バチカンが望む“態度”をとるようにとこの司教に要求したのです。それは何を意味するのでしょうか?
公会議の精神を持つとは、つまり第二バチカン公会議の精神を持てということなのです。私たちがここにいらっしゃる敬愛すべき4名の司教様を聖別して、来るべき神学生たちの世代にカトリック司祭職を伝えようと決定したのも、正確には、
天主のものでも、カトリックのものでもないあの精神から、私たちの身を守る為なのです。こうする事で、数人の司祭たちが、皆さんと皆さんのお子様たちに、真のカトリック信仰を教授すると共に、彼らが授ける真の秘蹟と、ミサの聖なる犠牲を通して、恩寵を送り届けるだろう事を皆様は確信するのです。
親愛なる兄弟の皆様、さらに私は、公教会内の現状についても、幾つかお話したいと思います。
もしある人が「しかし、どうして教皇ピオ12世に至るまで続いて来たカトリック教会が、近代主義の教会になることが出来たのですか?」と尋ねて来たら、私はこう答えます:「貴方は公教会の歴史を十分ご存知ですよね。それはいやと言うほど貴方に説明されて来たのですよ。貴方は、私たちカトリック信徒の心情にとっては余りにも痛ましいこの話題について書かれた多くの著作をお読みになったではありませんか。」と。
私たちは、断絶、過去と聖伝からの逸脱、そしてあの公会議以前の教皇たちに対する背反をそこに感じとったのです。
先の公会議を特徴付けた多くの事実の中で、次の事だけを私は強調したいと思います。つまり、公教会の迷走(disorientation)と、自由主義的な精神に向かって公教会を鼓舞する精神の完全な方向転換を重要視し、この公会議期間中とその前後の時点で重きをなしたものとは、キリスト教一致事務局(the Secretariat for the Unity of Christians)だったのです。
最近、非常に為になる3冊の本が出版されました。先ず、モンスィニョール・ブニーニの伝記で、彼の死後出版された莫大な自叙伝です。それから、ベア枢機卿についての本で、先の公会議前後、さらにその期間中における彼がもたらした影響力の全貌が紹介されている、これまた大きな本です。そして最後に、ヴィヨ枢機卿の伝記です。この本はあの公会議中とその後での、彼の採った方針と、行使した影響力を説明しています。
これらの本全てが、公教会は、私たちの信仰を共有しない人々にその扉を開放し、彼らと私たちの間には如何なる相違点も存在しないのだという印象を彼らに与え、公教会の現代化を意味する、この“アッジョルナメント”を成功させるために、公教会の精神を改革しようという明確かつ強硬な意志が働いていた事を証明しているのです。これは、公教会の見解における根本的な改革を示しています。
公会議前と言えば<また個人的には、私も実はこの体験をしているのですが>、私たちは海外の宣教地に送られたものです。私自身、アフリカで30年間を過ごしました。ここにおられるガボンからやって来た信徒の方々がそれを証明出来ます!30年間もアフリカに、何の為でしょうか?それは洗礼を通して霊魂をカトリック教会に改宗させるためなのです!
聖ペトロは、エルサレムで行った最初の説教の後、何をしましたか? 彼は4000に及ぶ人々に洗礼を授けたのです。彼は、洗礼によって自分が公教会を教化している事と共に、(福音が述べ伝えられた)今からは、公教会の一員になることや、救霊の道に立ち入ること、さらに私たちの聖主イエズス・キリストと、この救いの天主から流れ出る贖いの御血の分け前を追求する事を望む者は皆、カトリック教会において洗礼を授かるべきだと悟ったのです。これこそが20世紀に渡って公教会が行ってきた事です。
突如として私たちは教えられました。「そうじゃない!これから貴方は対話をすべきだ。貴方は一人ひとりの意見を尊重しなければいけない。彼らに自分たちは過ちの中にいると言う印象を与えてはならない」、と。
しかしそうなると、
公教会の使命とは一体何処にあるのでしょうか?
この急進的な改革は、正確にはキリスト教一致事務局の役員である人々によって構成される団体からの圧力をもって達成されました。
なるほど、ではひと時思い起こしてみましょう。どうしてキリスト教一致事務局なのか?既に、布教聖省、すなわち、現在の福音宣教省は、未だ信仰のない人々皆に、その信仰をもたらす担当省ではなかったのか? かつて、それが異教徒であろうと、また精霊崇拝者、無心論者、仏教徒、イスラム教徒、そしてプロテスタントであろうと、彼らの霊魂の回心のためにと宣教師達を全世界に送り出したのは、この布教聖省でした。福音宣教省は、カトリックの洗礼を通して、これら全ての放浪する霊魂を公教会の懐に導き入れる為に、宣教師を送り出す役目を担っているのです。
では、何故彼らは、福音宣教省の他に、全ての偽りの宗教との、又は誤った観念論との単なる“友好的”接触を行うような新しい会合を設立するのでしょうか?
正確には、現在公教会はこの組織の煽りを受けて死につつあります。公教会は死に絶える事などできません。もちろんです。皆様が、公教会存続の証人であり、また力なのです。公教会の聖性を保つ事で信仰を存続させる皆様こそが公教会(の各肢体)なのです。もしそうでないならば、皆さんが聖性を保たず、それによって信仰が衰えるならば、私たちは私たちの聖なる公教会が何処に向かって行くか疑いを抱くでしょう!
ベア枢機卿は公会議前、世界中を巡り歩いて各国の司教様たちと会い、彼らに先の公会議を宗教一致第一主義(エュメニスト)的な公会議にするよう要請しました。私は世界教会(エキュメニカル)会議とは申し上げません。公会議とは、常に世界教会会議を意味するからです。私は宗教一致的な、すなわち全宗教間の絆を築く会議と申し上げているのです。
これは有り得ないことです。それは私たちの聖主イエズス・キリストの神性に反しています。そういう訳で、この“事務局”が教皇聖下からの支援と激励を受ける間は、私たちにはローマと仲良くやっていく事など不可能です。現在の状況においては、この事務局の役員たちには、公教会並びに私たちの聖主イエズス・キリストの社会的君臨に対する破壊工作を継続することが可能です。
ヴィッレブランヅ(Willebrands)枢機卿のお名前は、まるでご自分以外の誰も公教会の教義、つまり公教会の信仰を預かっていないかの様に、到る所に行き、誰とでも接触するのがちょうどご自分の職務であるという事実を認識されている方として広く知られています。
キリスト教一致事務局秘書モンスィニョール・デ・スメッドは、公会議の間、信教の自由を擁護した人物でした。モンスィニョール・ブニーニはキリスト教一致事務局の役員であったし、彼は聖なるミサの典礼と秘蹟の形相と質料とを破壊すると共に、それを新しく作った典礼と入れ替えた人であり、さらに その進化が何処で終焉を迎えるか?をご存知の方でした。つまりそれは常に変わり続けるのです。
このような状況と直面させられて、間違いなく私たちはローマと定期的に接触をすることなど出来ません。何故なら、今に到るまでローマは、どんな譲歩獲得の為であれ、それが聖なるミサや旧典礼の維持、あるいは聖伝の神学校存続に対する恩典の何れかの為には、この2月にラッツィンガー枢機卿によって作成された、先の公会議とその意義の承諾を紛れもなく含む新しい信仰宣言に私たちが署名しなければならなくなる状況を求めていたからです。
私たちは自分たちが何を欲しているのかを知らなければなりません!
聖なるミサを打ち壊し、信仰、公教要理や、市民社会における私たちの聖主イエズス・キリストの社会的君臨を破壊したのは、あの公会議なのです。だとしたら、どうして私たちはそれを受け入れる事が出来るでしょうか?
(続く)
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