Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

2021年10月31日後の聖伝のミサの予定 Traditional Latin Mass Schedule on Sunday Oct 31st, 2021, SSPX Japan

2021年10月31日 | 聖伝のミサの予定

アヴェ・マリア・インマクラータ!

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--


愛する兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサ(これは「トリエント・ミサ」「ラテン語ミサ」とも言われています)にご招待します。

2021年10月31日(主日)前後のミサの予定を確定します。

【2020年10月10日の主日から2022年1月16日まで、大阪での主日のミサは午後6時30分からです。】

【大阪】「聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂」 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2 EG新御堂4階 〒532-0002 (アクセス)JR「新大阪駅」の東口より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分(地図
10月31日(日) 17:45 ロザリオ及び告解  18:30 ミサ聖祭
11月01日(月) 06:30 ミサ聖祭

【東京】 「聖ピオ十世会 聖なる日本の殉教者巡回聖堂」 東京都文京区本駒込1-12-5 曙町児童会館(地図
10月31日(日)主日ミサが三回捧げられます。
午前8時20分頃から準備が出来次第、告解の秘蹟を受けることができます。二階です。
09:00 ミサ聖祭 歌ミサ(ライブ中継をいたします)Facebook live
https://www.facebook.com/arata.nunobe
11:00 ミサ聖祭 読誦ミサ
12:30 ミサ聖祭 読誦ミサ
それぞれのミサの間にも告解の秘蹟を受けることができます。二階の告解の部屋に司祭は待機しております。
【お互いに社会的距離を取ることができるように、分散してミサにあずかっていただければ幸いです。】

【「暁の星の聖母」修道院】
修道院では平日(火曜から金曜まで)は毎朝7時15分から聖伝のミサを捧げています。
2020年10月11日の月曜日(を含める)から2022年1月3日(を含める)までの間、修道院では月曜日の朝ミサはしばらくお休みになる予定です。
土曜日は原則的に修道院で午前11時からミサが捧げられます。

10月30日は、予定通り、午前10時00分から、曙町会館でミサがあります。
ただし11月01日の月曜日には、修道院でも午前11時半にミサを捧げる予定です。ご注意ください。

●11月23日(火)勤労感謝の日には、午前10時30分に名古屋のいつもの場所でミサ聖祭が行われます。そのために、修道院では11月23日(火)には、ミサがありません。ご了承ください。

2022年のアンジェルスプレスのカレンダーは日本に届きました。来る10月31日の主日のミサから皆様に運送費なしのお値段(1500円:USD12.95)でお分けすることができるようになりました。御予約をされた方々にお渡しいたしますので、よろしくお願いいたします。ちょっぴり余裕をもって注文いたしましたので、御予約されなかった方々のための分も余裕があると思います。御予約された方々を優先にお渡しいたしました後、ご希望の方にもお分けすることができると思っております。よろしくお願いいたします。


Ave Maria Immaculata!
My dearest Brethren!
I want to reconfirm the Mass schedule for October 31st, 2021.

*****Mass times in Tokyo:*****
October 31st (Sunday)
09:00 - Sung mass Facebook live
https://www.facebook.com/arata.nunobe
11:00 - Low mass
12:30 - Low mass
It would help us maintain proper social distancing if you could consider spreading your mass attendance among the three masses.
Mass location:
"Holy Japanese Martyrs' Mass Center"
Akebonocho Jido-kaikan
1-12-5 Honkomagome, Bunkyo-ku, Tokyo
Map: http://g.co/maps/nxeh5

*****Mass schedule in OSAKA:*****
Sun, October 31st: Holy Sacrifice of the Mass at 18:30
Mon, November 01st: Holy Sacrifice of the Mass at 06:30 AM

*****Holy Masses at Stella Matutina Priory*****
On weekdays (Tuesday to Friday), holy Masses are offered at 7:15 am at the Priory.
There will be no mass on Monday morning at the Priory until January 3rd next year.
On Saturdays, normally the Mass will be offered at the priory from 11am.
However, please kindly take note that on November 01st, Low Mass will be offered at 11:30 am at the Priory.

*****Holy Mass in NAGOYA*****
* There will be a Mass at the usual place in Nagoya at 10:30 AM on Tuesday November 23rd. Therefore on that day, there will be no Mass at the Priory. Thank you for your kind understanding.


イエズス・キリストは私たちの王。家庭の王,社会の王, 国際社会の王です

2021年10月30日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2021年10月31日は王たるキリストの祝日です。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「王たるキリストの祝日の説教」の動画をご紹介いたします。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

SSPX JAPAN聖ピオ十世会日本にチャンネル登録もお願いいたします。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父


ロザリオをよく祈る信者は、詩篇を祈る信者と同じくらい、あるいはそれ以上に多くの恩寵を得ることができる

2021年10月28日 | お説教・霊的講話

聖なるロザリオについての説教

2021年10月10日、ドモルネ神父

はじめに

10月7日には、聖なるロザリオの聖母の祝日をお祝いしました。この祝日は、1571年に、教皇聖ピオ五世によって制定されました。当時、イスラムのトルコ軍が、キリスト教世界に対して大規模な攻撃を仕掛けていました。教皇は、それに対抗する軍隊を、何とか動員させることができました。また、教皇は、童貞聖マリアが、トルコ軍を打ち負かすのを助けてくださるよう、聖なるロザリオをきわめて熱心に祈ることを、信者に求めました。実際、1571年10月7日に、その願いどおりになったのです。イスラム軍は、キリスト教側よりずっと強力で、大きな軍隊でしたが、レパントの海戦で、完全に敗北したのです。そこで、教皇聖ピオ五世は、童貞聖マリアへの感謝のしるしとして、10月7日を、「勝利の聖母」の祝日としました。その後、名称が変更され、「聖なるロザリオの聖母」の祝日となりました。ですから、教会は、童貞聖マリアの二つの称号、「勝利の聖母」と「聖なるロザリオの聖母」を統合したということです。言い換えれば、ロザリオは、勝利を意味するのです。今日は、ロザリオとその起源、また、ロザリオが常に勝利を導く力をもっている理由について、お話ししたいと思います。

1.聖なるロザリオとは何か

ロザリオは、童貞聖マリアを讃える祈りの形式のひとつです。ロザリオは、各連を主祷文で始め、「めでたし」を15連、唱えることから成り立っています。これらの祈りを唱えながら、私たちの主イエズス・キリストと童貞聖マリアがなさった15のみわざについて、心の中で黙想します。「めでたし」を唱える際には、これらのみわざに含まれる教えをよりよく理解し、その教えの中に示されている聖徳を実践することができるよう、童貞聖マリアに助けを求めます。

ロザリオは当初、「イエズスと童貞聖マリアの詩篇」、あるいはまた、「天使の詩篇」と呼ばれていました。それはなぜでしょうか? それは、ロザリオが、聖書の詩篇の構成に基づいてできているからです。詩篇が150篇あるように、ロザリオにも、「めでたし」が150回あります。詩篇が私たちの主イエズス・キリストの生と死と栄光について語っているように、ロザリオも、私たちの主イエズスの生と死と栄光について、私たちを瞑想させます。詩篇が50篇ずつの三つのグループに分かれるように、ロザリオも、喜びの玄義、苦しみの玄義、栄えの玄義の、50回ずつの「めでたし」の三つのグループに分かれます。詩篇50篇が10篇ずつの五つのグループに分かれるように、「めでたし」50回も、5連ずつのグループに分かれます。栄誦の祈りで詩篇を終えるように、同じ栄誦の祈りでロザリオの各連を終えます。詩篇が、直接、聖霊の霊感を受けて、聖書のなかにあるように、ロザリオの主要な祈りも、聖霊の霊感を受けて、聖書から引用されています。

聖ルイ=マリー・グリニョン・ド・モンフォールは、ためらうことなく、こう言っています。ロザリオをよく祈る信者は、詩篇を祈る信者と同じくらい、あるいはそれ以上に多くの恩寵を得ることができる、と。

2.ロザリオの起源

では、ロザリオの起源はどこにあるのでしょうか? ロザリオの本質的な構造は、聖ドミニコからのものです。聖ドミニコは1214年に、童貞聖マリアご自身から、ロザリオを受けました。聖ドミニコは、異端のアルビ派を改宗させようと努力していましたが、それはあまり成功していませんでした。聖ドミニコは、異端者たちの罪を償い、彼らの回心という恩寵を得るために、三日三晩の間、祈りときびしい償いのわざをしていました。すると、童貞聖マリアがご出現になって、彼にこう告げられました。「ドミニコよ、聖三位一体が、この世を改革するためにお使いになってきた武器を知っていますか?」。聖ドミニコは答えました。「ああ、聖母よ。あなたは私よりも、はるかによくご存じです。あなたは、御子イエズス・キリストに次いで、いつも私たちの救いのための最も大切な道具でいらっしゃるのですから」。すると、聖母は、こうお答えになりました。「あなたに知ってほしいのは、この種の戦いにおいての主要な武器は、新約の礎石である天使の詩篇だということです。ですから、もしあなたがあのかたくなな霊魂たちの心を動かし、彼らを天主の側に勝ち取りたいと思うなら、私の詩篇を教えなさい」。

歴史的文書によれば、ロザリオを唱えることは、聖ドミニコの時代である13世紀、ドミニコ会から始まったことは明らかです。その後、13世紀から17世紀にかけて、教会は、いくつかの補完部分を加え、今日私たちが知っているロザリオの祈り方を確立しました。

3.ロザリオの力

ロザリオは非常に強力な祈りです。聖なるロザリオの聖母は、勝利の聖母と同じお方です。どんな困難であろうとも、ロザリオの助けがあれば、乗り越えられないものはありません。このことは、教会の歴史においても、人々の生活においても、たびたび証明されてきました。しかし、それほどの効力の理由とは、何でしょうか? それは、ロザリオを祈ることによって、私たちの主イエズス・キリストの生と死と栄光の功徳のすべてが、童貞聖マリアを通して適用されるからです。ただそれだけです。それは本当に単純なことですが、ロザリオが極めて強い力をもっているのは、天主がそう、お望みだからです。天主は悪魔にこう言われました。「女はおまえの頭を砕くであろう」。

結論

親愛なる信者の皆さん、皆さんは全員、天国に行きたいと思っていらっしゃるでしょう。皆さんは全員、個人的な、家庭内の、あるいは職業上の困難を克服したいと思っていらっしゃるでしょう。皆さんは全員、より聖なるひとになりたいと思っていらっしゃるでしょう。皆さんは全員、自分の悪い習慣を直したいと思っていらっしゃるでしょう。皆さんは全員、自分の国がカトリックになることを望んでいらっしゃるでしょう。皆さんは全員、教会の危機が終わることを願っていらっしゃるでしょう。そうであれば、皆さんは、ロザリオを祈らなければなりません。毎日、できるなら家族で、少なくともロザリオを5連祈りましょう。ロザリオによって、皆さんが必要とされる恩寵を、イエズスさまとマリアさまから、いただくことができるのです。


聖テレジアは、私たちの人生において、自分と他人の霊魂を救うこと以上に大事なことはないということを、私たちに思い起こさせてくれます。

2021年10月28日 | お説教・霊的講話

使徒的な熱意についての説教

2021年10月3日、ドモルネ神父

はじめに

今日の福音で、教会が私たちに読ませるのは、自分の息子の婚宴にすべての人を招くために、しもべたちを送る王のたとえ話です。今日は、また、宣教の守護聖人である、幼きイエズスの聖テレジアの祝日でもあります。この二つの要素を合わせて、使徒的な熱意について、お話ししたいとおもいます。

1)婚姻の祝宴への招待

ある王が、自分の息子のための結婚式を準備しました。この王とは、父なる天主のことです。この王の息子とは、子なる天主である、私たちの主イエズス・キリストのことです。王の息子の結婚式とは、ご托身の神秘のことです。子なる天主は、まことの天主であると同時に、まことの人間であることによって、私たちの人間性を、ご自身に一致させられました。

王は宴会を計画して、こう言いました。「私は婚宴の準備をすでに整え、牛も肥えた獣(けもの)もほふって準備した」(マテオ22章4節)。この宴会とは、私たちの主イエズスが十字架上で犠牲としてほふられた、贖いの神秘のことです。この宴会とは、ご聖体において、ご自身の御体と御血を私たちに霊的に食べさせてくださり、またさまざまな祝福を与えてくださる、私たちの主イエズスのことです。この宴会とは、私たちの主イエズス・キリストを通して、天主が私たちのために準備してくださった、永遠の命と幸福のことです。

王は次の言葉で、しもべたちを送り出しました。「あなたたちは大路(おおじ)に行って、出会う人をみな宴会に招いてくるように」(マテオ22章9節)。天主はあらゆる地域、あらゆる時代のすべての人々を、永遠の命に招いておられます。しかし、王の招待は、しもべたちの仲介を通じてなされていることに、注意してください。天主は、ある人々の救いが、別の人々の宣教や使徒的活動に依存する、という愛徳の法を制定されました。私たちの主イエズスは、ご昇天の日に、使徒たちにこう言われました。「あなたたちは、全世界に行ってすべての人々に福音を宣べ伝えよ。信じて洗礼を受ける者は救われ、信じない者は滅ぼされる」(マルコ16章15-16節)。

もし、たとえ話のなかのしもべたちが、大路に出て、人々に会って、その人々を王の宴会に招かなかったなら、結婚式は決して招待客でいっぱいになることはなかったでしょう。それは、天主のしもべである、私たちカトリック信者にとっても同じことです。もし、怠惰や、人間的な敬意や、怠慢のために、私たちが出会う人々に対して、私たちの主イエズスについて話す機会があるたびに、それを行う努力をしなければ、彼らの中には地獄に落ちる霊魂たちがでてしまうことになり、それは、私たちのせいになってしまいます。ですから、私たち全員が使徒的な熱意を持つこと、つまり、霊魂たちを、私たちの主イエズスの知識と愛に導くことに、本気で関心を持つことが重要なのです。

2)宣教の保護聖人である幼きイエズスの聖テレジア

今日は、幼きイエズスの聖テレジアをお祝いしていますから、聖テレジアの偉大なる使徒的な熱意について、皆さんに思い出していただきたいと思います。聖テレジアは非常に多くの霊魂を、私たちの主イエズスのために勝ち取ったため、宣教の守護聖人となるにふさわしい人とされたのです。以下の逸話は、聖テレジアの姉のセリーヌが伝えたものです。

a)最初の逸話はこうです。「1896年6月、私は、テレジアの肖像写真を私たちの修道院長に差し上げるため、テレジアの写真を撮りました…テレジアは、私たちの母であるアヴィラの聖テレジアの言葉、『一人の霊魂を救うためには、私は自分の命を千回でも捧げます』« Je donnerais mille vies pour sauver une seule âme»を、自ら書いた巻物を手に持って、写真に写ることを望みました」。

聖テレジアは、私たちの人生において、自分と他人の霊魂を救うこと以上に大事なことはないということを、私たちに思い起こさせてくれます。そのため、私たちは、いかなる努力も、いかなる苦難も、いかなる苦しみも引き受ける覚悟ができていなければなりません。

b)二つ目の逸話です。「私たちがローマに行ったとき、テレジアはまだ14歳でした。宣教修道女たちの年鑑を数ページ読んだ後、テレジアは読むのをやめて、私にこう言いました。『もうこれ以上、読みたくありません。私はもうすでに、宣教をしたいという熱い願望を持っています。この使徒職の記録を読んで、その願いがもっと大きくなったら、いったいどうなることでしょう。私はカルメル会員になりたいのです』。テレジアは、そう決めた理由を、こう説明しました。『それは、厳格な生活の単調さから、より多くの苦しみを味わい、それによって、より多くの霊魂を救うためです』」。

聖テレジアは、霊魂たちを回心させるのは、天主の恩寵にほかならない、ということを、私たちに思い起こさせます。私たちの主な義務は、天主との深い友情の生活を通して、天主のこの恩寵を得ることです。私たちの天主への愛が、親密で、真摯であればあるほど、私たちの祈りは、より効果的なものとなります。私たちが天主にお与えすればするほど、天主も私たちにもっと与えてくださいます。天主との親密な友情の生活は、外見的には単調で、隠れた生き方の下でも、存在しうるのです。

c)三つ目の逸話です。「テレジアは、自分の生涯の物語のなかで、プランジーニという不幸な殺人犯のために粘り強く祈ったこと、そしてその祈りがかなえられ、この男が処刑される直前に突然悔い改めたのを見たときの感動について、語っています。テレジアは、その前に、顔を赤らめながら、この男の回心のために捧げるミサの費用を私に渡していました。テレジアは、恥ずかしくて、自分の聴罪司祭に、それを自分からお願いすることができなかったのです」。

ここで、聖テレジアが私たちに思い起こさせるのは、すべての恩寵の源は、私たちの主イエズスの十字架上での犠牲であって、それはミサにおいて更新される、ということです。ですから、ミサを捧げることは、罪人の回心を得るための強力な方法なのです。

d)四つ目の逸話です。「カルメル会修道院では、テレジアの使徒的な熱意は高まり続け、いつも、それが現れていました。ある日、私はテレジアが、ある労働者が不在のあいだに、その人の上着の裏地の下に、聖ベネディクトのメダイをこっそり隠しているのを見ました。その労働者は罪人だったのです」。

聖テレジアは、罪人の回心のために教会の準秘跡を使うことを、私たちに思い起こさせます。例えば、不思議のメダイを配ることです。聖母は、特にそのメダイを身につけている人々に有益な影響を及ぼしてくださることを、明らかにされています。

e)五つ目の逸話です。「テレジアの全身が結核に侵され、ひどい苦しみを受けていたとき、私たちがテレジアのために涙を流して、天の助けを求めて祈っていると、テレジアはこう言いました。『私のために唱えられるすべての祈りが、私の苦しみを和らげるためではなく、罪人たちを救うために使われるよう、主に祈っています』。そして、私は今でも、テレジアの次の言葉が耳に残っています。『こんなに苦しむことがあるなんて、信じられませんでした…絶対に、絶対に! 私がこのことを説明できるのは、私には、霊魂たちを救いたい、という熱烈な願いがあるからです』。« Non, je n'aurais jamais cru qu'on pouvait tant souffrir... jamais, jamais!  » これが、テレジアの最後の言葉のひとつでした」。

聖テレジアは、私たちの主イエズスが、そのご受難の苦しみによって私たちをあがなってくださったことを、私たちに思い起こさせます。ですから、私たちもまた、苦しむことによって、霊魂たちの救いのために働くのです。それが意味するのは、天主が私たちに送ってくださる苦しみを忍耐強く受け入れ、その苦しみを私たちの主イエズスと童貞聖マリアの苦しみと一致させることによって、私たちが働くということです。

結論

この説教を、最後の逸話で締めくくります。

「テレジアは、何度も、さまざまな方法で、天からバラの雨を降らせること、つまり多くの恩寵を送ることを、約束しました。テレジアは、自分の死後も、教会のために祈り、司祭とともに自分の特別な使命を続けることによって、良いことをしたいという願いと確信を、表明しました。特に、自分がどんな良いことをするのか、また、信頼することと、完全に身を委ねること、という自分のやりかたを教えることで、いかにして霊魂たちを天主のもとに呼び寄せるのかを、テレジアが説明しているのを聞きました。私はテレジアに、こう言いました。『それなら、天国から、もっと多くの霊魂を救うことができると信じているの?』。テレジアは、答えていいました。『ええ、そう信じています。その証拠に、私が主のために霊魂たちを救いたいとこんなに願っているときに、主は私を死なせてくださるのですから…』」。

親愛なる信者の皆さん、今日、大きな信頼を持って、聖テレジアに向かいましょう。そして、罪の状態でくらしている親戚、友人、知人に、恩寵の雨を降らせてくださるように、お願いしましょう。また、多くの人々が、カトリックの信仰に改宗するように、聖テレジアにお願いしましょう。


【参考文献】ヴィガノ・テープ 第10番:「教会は何十年にもわたってこの世や近代主義性との対話の名の下に、信者の信仰と道徳を組織的に取り消してきた。霊魂は超自然的な参考にすべきものをすべて失った。」

2021年10月28日 | カトリック・ニュースなど

【参考文献】ヴィガノ・テープ 第10番:「数十年にわたる組織的な取り消し」

「教会は、何十年にもわたってこの世や近代主義性との対話の名の下に、信者の信仰と道徳を組織的に取り消してきたことで、霊魂は超自然的な参考にすべきものをすべて失い、カトリック的なものが何もない形のない感傷に身をゆだねることになりました。」

【解説】ヴィガノ大司教は、今は引退して現役ではありませんが、バチカンの高位聖職者で、ベネディクト十六世のもとで在米教皇大使を務めました。
ヴィガノ大司教の関心は、キリストとサタンとの戦いです。人類の救いの問題です。

ここでヴィガノ大司教が話されている、ワクチンの問題は、実は、医学上の問題です。「新しい遺伝子技術を用いた実験的な治療法」が効果があるのかないのか、心臓発作や心筋炎を引き起こす副作用がどれほどあるのか、などは医学の問題だからです。また何故、完全な治験が終わっていない実験段階の技術が、副作用がどれほどあるのかまだ不明にもかかわらず、ワクチンが何故許可されているのかは政治の問題です。

それにもかかわらず、ヴィガノ大司教が信仰や道徳の領域から離れて、医学や政治の領域に踏み込んで話しているのは、次のような理由からのように思えます。
コロナ禍のなかで、聖職者自身が秘跡を執行したりミサを捧げたりする義務よりも、体の健康を優先させようとする実態(「裏切りや信仰の欠如」)を見て、ヴィガノ大司教が大きく失望したが、それ同時に、人々の体の健康を無視するわけではなく、かえって真実の意味で健康を守ろうとしたため。
ワクチン製造の過程で、中絶された胎児で作られた遺伝子血清が使用されているため。
政府当局が、事故があっても製薬会社は免責されている治験段階のワクチン接種を受けるように市民に圧力をかけているため。

そこで、ヴィガノ大司教は、ここでは個人個人の具体的な倫理的なケースについてというよりは、国家当局や教会当局の指導者たちに対する責任の重大さを思い起こさせることを主眼に話しています。

この質問への回答については、誇張表現に関する補足説明があるので、それも付け加えてあります。あくまでも参考文献としてお読みください。

【参考情報】ヴィガノ・テープ:「数十年にわたる組織的な取り消し(キャンセル)」
質問10

The Vigano Tapes: “Decades of Systematic Cancellation”
Question #10

【質問番号10】大司教様、大司教様は私たちのために善と悪の劇的な対決を描いておられます。天主と悪魔について語っておられます。私は、このような途方もない規模で多くのものに影響を与える敵対者のことではなく、もう少し細かく説明していただきたいと考えました。私たちの歴史、近年の、あるいは数世紀にわたる実際に起きた事実を、大司教様はどうお考えになっていますか? この歴史が、人類の運命、人間のアイデンティティー、人生の目標をめぐる、このような戦争へと私たちを至らせたのであり、大司教様もご承知の今日私たちが直面しているこのような厳しい対立状態へと至らせているところですが。西洋文明とキリスト教に対するこの攻撃の糸を引く権力はどのようなものでしょうか?

【回答】その答えはあまりにも単純です。まず第一に、キリスト信者として、この歴史的な戦争が人類の敵であるサタンによって行われていることを私たちは知っています。不法を行う者の背後には、常に、そして唯一、初めから人殺しであるサタンがいます。この計画の協力者が、製薬会社であろうと巨大金融であろうと、慈善団体であろうとメーソンのセクトであろうと、政党であろうと腐敗したメディアであろうと、ほとんど関係ありません。彼らはみな、意識しているいないにかかわらず、悪魔のわざに協力しているのです。

罪、病気、そして死は、紛れもないサタンのわざのしるしです。つまり、癒やされるべき悪としてではなく、邪悪な反応として、人間に生命と肉体的・霊的な健康をもたらす唯一の薬とされるものとしての罪、病気、そして死です。

実際、もはや贖いの経綸において生きるのではなく、サタンの奴隷状態 -- サタンは原罪の結果を元に戻せないようにし、キリストの犠牲を無効にしようとしている -- において生きる人々にとっては、それが正常なことなのです。これは、健康な人は潜在的な病人であり、疫病を撒き散らす人々、死を伝播する人々であるとみなされるようになり、逆にワクチン受けた人々(彼らには伝染させる力があります【シェディング】)だけが健康であるとみなされるという段階にまで至りました。しかも、聖職者自身でさえもが、秘跡を執行しミサを捧げる義務よりも、あえて体の健康を優先させようとする段階にまで至ったのです。最近の都市封鎖の際の、多くの司祭や司教のあからさまな臆病さは、聖職者のメンバーの中にある臆病さという実態を、実に、裏切りや信仰の欠如という荒涼とした実態を明るみに出しました。このことは、必要であとすれば、第二バチカン公会議の革命によってなされた損害の大きさを表わしています。

なぜなら、このことは、この一年半の間に起こった不条理な出来事だからです。季節性インフルエンザへの対応は、効果的な治療法を禁止し、新しい遺伝子技術を用いた実験的な治療法を押し付けることでした。この遺伝子技術は、ウイルスの影響を治すことができず、遺伝子の変更や副作用、心臓発作や心筋炎を引き起こし、本来健康であったり、利用可能な治療法で回復することが可能だったりした人々を死に至らしめます。

これに加えて、まるで地獄の儀式のように、中絶された胎児で作られた遺伝子血清が使用されています。これはまるで、異教徒の人間のいけにえを、健康という新たなこじつけを使って新たにし、罪のない子供たちの命で来るべき新秩序をたたえるかのようです。そして、キリスト教の洗礼が霊魂の罪を清め、その秘跡のカラクテル(霊印)で天主の子とするものであるのに対し、悪魔の洗礼はそれを受ける人々に獣のしるしをつけるのです。

カトリック信者はいかにして、良心の呵責を感じることなく、一種の悪魔の洗礼としてワクチンを受けることができるのか、という答えを必要とする問いが残っています。確かに、何十年にもわたって、この世や近代主義性との対話の名の下に、信者の信仰と道徳を組織的に取り消してきたことで、霊魂は超自然的な参考にすべきものをすべて失い、カトリック的なものが何もない形のない感傷に身をゆだねることになりました。霊魂の去勢は、この世と肉と悪魔に対するキリスト教の戦いが、無作法な退却へと、まさに臆病な脱走へと変質させられた瞬間に起こったのです。かつてはキリストの兵士でしたが、今では多くの人々が、自分が敵の男らしくない廷臣であることに気づいたのです。

 

   また、以下に、オーストラリアの読者からの重要で敏感な質問と、ヴィガノ大司教が私に送った質問への回答を掲載します。見逃さないでください。-ロバート・モイニハン

読者からの重要な質問

9月21日、オーストラリアのルイーズさんという女性からメールでこんな質問をいただきました。

おはようございます、ロバート。
  今の私が書いているように手紙を書く人がたくさん出てくると思います。ヴィガノ大司教は、あなたの質問10に対する回答の中で、私の記憶が間違っていなければ、ワクチン接種を受け入れることは、悪魔の洗礼を受け、獣のしるしを受けることだと言っておられます。これは問題発言だと思います。なぜなら、私たちの家族や友人のほとんどが、自国の政府が主導するメディアによって広められた恐怖による強制的な接種を受けているからです。ご存じのように、教会は私たちを別の方向に導いていません。
 ロバート、私は良きカトリック信者たちを知っています。聖伝のラテン語ミサにあずかっている人々、完全に正統派で年配の人々を知っています。彼らは、成人した子どもの一人が泣いて訴えたため、教区司祭に相談しました。この司祭は、ワクチン接種に同意することは獣のしるしを受けること「ではない」と断言しました。実際、この司祭自身も、これから人々の家に入ることができるようにワクチンを接種していました。そして、この司祭は、小教区の修道女会も同じ理由でワクチンを接種していると付け加えました。

 ほとんどの人は、主流メディアからの情報だけを受けているため、ウイルスのことで惑わされ、宣伝され、混乱し、不安になり、恐怖を感じています。大多数の人々はこのように行動しています。こういう訳で、私たちは羊と呼ばれているのです。なぜなら、羊は先頭の羊がすることを見て、それに従うからです。

 ほとんどの人が、自国の政府が自分たちを騙すという考えを持てないからではないかと私は思います。多くの人にとって、それはあまりにも信じがたいことなのです。だから、このような不確実な状態で生活するという感じている不安を解消するために、ワクチンを受けるのに同意するのです。非常に多くの人がこのようにしています。考えることをやめてしまったのです。彼らに話を聞いてみてください。大きな安心感があると言うでしょう。

 獣のしるしについての説明は、それがなければ誰も売買できないと聖書に書かれており、将来的にワクチンパスポートのようなものができる可能性があることは私も十分承知しています。しかし、私はまだそこまで来ていないと思います。少なくとも、多くの医療専門家は、慢性的な不健康の長期的な影響が、おそらく地球規模の社会の70%の人々にとって2~3年以内に明らかになると言っています。ですから、人類の大部分が健康を害してしまえば、より簡単にコントロールできるようになるのです。

 ロバート、ヴィガノ大司教にこの点について正確に表現をしたかどうか聞いてみてください。私は、彼のコメントによって多くの人が傷つくと信じています。なぜなら、彼らは悪魔的なプロジェクトとのつながりに気づいていなかったからです。あなたに天主の祝福がありますように。
   ―ルイーズ(オーストラリアにて)

私はこの手紙を大司教の注意を引くため、こう書き送りました。

 オーストラリアの読者から、とても興味深く、おそらく重要な手紙が届いています。答えていただけないでしょうか? 私は大司教様が多くのことに取り組んでおられることを承知していますが。
  ―ロバート

 その後、大司教は9月24日に次のように回答しました(本文は彼のイタリア語原文を私が訳したものです)。

【質問10a】大司教様、ワクチン接種は悪魔の洗礼のようなものだとおっしゃるのは、善意で説得されてワクチンを受けることを許した多くのカトリック信者にとって、少しきつい印象を与えるのではないでしょうか?

【カルロ・マリア・ヴィガノ大司教】このような質問をしていただき、ありがとうございます。この質問で、私は自分の考えを明確にできますし、さまざまな理由で予防接種を受けたそういう信者を励ますことができます。

ワクチンが悪魔的な象徴であり、それが「獣のしるし」を表す可能性があるという事実についての私の発言は、新世界秩序の確立に向けてグレート・リセットを完了する口実として悪意を持ってパンデミックを起こそうと決めた人々の意向に関するものです。ワクチンにこのようなほとんど秘教的な意味合いを持たせ、同時にパンデミック全体に儀式や典礼的な特徴を持たせているのは、ルシフェリアン・エリートです。

 私の表現は、パンデミックという茶番劇全体の最も不穏な部分を強調するための誇張表現(hyperbole)のつもりでした。[訳注:誇張表現(hyperbole)とは、「『一年は寝られる』とか『この本は一トンの重さがある』のように、強調や効果のために大げさな表現を用いる言葉のあや」であり、誇張表現とは、「修辞学上、明らかな誇張であり、文字通りに理解されることを意図しない、贅沢な発言や主張」です。]

逆に、教区司祭や霊的指導者の助言であっても、あるいはメディアや医療機関の圧力であっても、予防接種を受けるように説得されてしまう素朴な信者には、何の落ち度もありませんし、そのワクチンを使ってカトリック信仰から棄教し、「獣のしるし」の烙印を押されることを望むという重大な責任を負うこともありません。

また、私の知人や親戚にも起こったことですが、遺伝子血清の投与は、しばしば脅しや強制のもとに行われてきました。人々が特定のサービスを利用できたり、特定の場所に入れたり、さらには、今日イタリアで起こっているように、健康パスポートを所持し、いわゆるワクチンを接種した場合に限り、人々は仕事を続けることができるようになっています。多くの司祭も、役務を行うために、また病院や避難所に入って秘跡を執行するために、しばしば司教の命令によってワクチン接種を強いられてきています。

教理省(CDF)は、正確であいまいではない明確な介入をするのが助けとなり必要であっただろう時に、「ディープ・チャーチ」とそのトップのための共鳴板【宣伝グループ】としての役割を果たしていることは憂慮すべきことです。そういう介入をせずに、CDFは、その成分を知ることさえできない実験的な薬 -- 産業上の秘密に覆われているため -- に道徳的な正当性を与えることを急いでいます。また、何と簡単に、中絶に由来する細胞株の使用が道徳的に許容されると宣言し、ベルゴリオとパンデミックのナラティブ(物語)を喜ばせることだけを目的に、カトリックの教えを歪めています。アタナシウス・シュナイダー司教は、最近のインタビューの中で、「現代の多くの道徳的異端は、聖トマスや他の教会博士たちからの引用文をも含んでいる」と正しく観察しています(こちら)。

このように急ぐことは、世俗の当局さえも製薬産業の圧力を受けて不幸な選択をすることを正当化してしまった緊急事態の状況と完全に調和しているため、この性急さは教理省の発表(ノート)が表面的で不完全なものに見えるということを意味しています。なぜなら、この発表が遺伝子血清の短期的および長期的な深刻な副作用を考慮していないからです。

教理省は、妊娠中の母親をその気にさせ、法外に増加している妊娠中絶に沈黙しています。同省は、血清によって引き起こされる不妊症のリスクについて沈黙しています。同省は、コヴィッド(コロナウイルス感染症)による入院のリスクが最も少ない子どもや若者に遺伝子血清が引き起こす深刻な病状や死について沈黙しています。

最後に、今初めて人間に広く使用されている新しいメッセンジャーRNA技術は、実際には「ワクチン」とは言えない治療法ですが、これまで明らかに効果がなく、有害な副作用があった医薬品や治療法であり、スパイクタンパク質の接種によって長期的にどのような遺伝的変化が起こるのか、誰も確実には言えません。これらの「ワクチン」の効果がないことが明らかになったことで、教理省が当初認めた合法性が失われます。なぜなら、患者が自分自身をさらす危険は、当初保証されると言われていたわずかな、あるいは存在しない利益とは不釣り合いだからです。これらの議論にもかかわらず、ベルゴリオはこれらの「ワクチン」の積極的な推薦者となり、「ディープ・チャーチ」と「ディープ・ステート」を結びつける本質的なつながりをこの推薦によって証明しているのです。教理省がその道徳的権威を完全に失いたくないのであれば、たとえデータや証拠が主流メディアによって検閲されているとしても、現在入手可能なデータと、現在科学界によって認められている科学的証拠に照らし合わせて、この問題を再検討する必要があります。

遺伝子血清の意味は本質的に道徳に関するものであり、それゆえに、たとえ日常の活動の正常な遂行や司祭としての役務遂行の可能性がそれを受け入れるかどうかにかかっているとしても、重要性の低い問題だと考えることはできません。私の同僚司教であるシュナイダー司教はこう断言しています。「胎児産業への協力を妥協せずに明確に拒否することは、初期の数百年間のキリスト教徒が偶像崇拝や皇帝像への協力を妥協せずに拒否したことと類似しています」。しかし、ベルゴリオが、教導権に忠実であり続けようとする人々を「硬直」や「原理主義」と非難し、自分が圧迫的な権威主義で押し付ける逸脱を受け入れない人々をあざけり、侮辱する機会を決して逃さないのなら、どんな妥協しない姿勢を期待できるでしょうか。できるはずがありません。

しかし、私はワクチン接種を受けた人々に思い起こしていただきたいと思います。実験的な遺伝子血清の性質を認識していない場合や、世俗および教会当局を善意で信頼している場合には、個々の信者がワクチンを接種したことで「罪を犯した」と感じることは決してないと私が信じていることを。実際、カトリックの教理では、十分な理解と意図的な同意なしに行われた行為は、道徳的に罪あるものとは見なされないと教えられていますが、これはいわゆるワクチンの具体的なケースにおいても当てはまります。

権威を持つ者が、世俗および教会の領域で、市民に予防接種を受けるように圧力をかけてきたことは、非常に重大な道義的責任が残ります。死者や永久的な障害を含むすべての人の健康に対する結果は、保健当局の良心に大きな石のように重くのしかかり、教会の位階階級にはさらに重くのしかかります。これらの人々は、自分自身の過ちと、臣民に対して犯すことを許した過ちについて、天主の御前で答えなければならないでしょう。

軽薄な罪によって、あるいはさらに悪いことには犯罪的な共犯関係によって、霊魂と体の健康を守るためにそれぞれ責任を負う人々の権威と言葉を信頼していた非常に多くの罪のない人々に対して引き起こされたこれらの害から、主がご自身の子どもたちを守ってくださるように祈りましょう。

―カルロ・マリア・ヴィガノ大司教、2021年9月24日


「ロザリオの秘密」十番目のバラの花:ヤコブ・シュプレンゲル神父たちの聖なるロザリオ信心会設立の活動とそれに対立した別の二人の神父

2021年10月27日 | カトリックとは

「ロザリオの秘密」

十番目のバラの花:奇跡

聖ドミニコがカルカッソンでロザリオを説教していた時、ある異端者が、奇跡と聖なるロザリオの十五の玄義をバカにして、他の異端者が改宗するのを妨げていた。天主はその罰として、1万5千匹の悪魔をこの男の体に入れさせた。

両親は彼を、悪霊から解放してもらうためにドミニコ神父のもとに連れて行った。彼は祈り始め、そこにいた全員に一緒に大声でロザリオを唱えてくれるように頼んだ。聖母は、「めでたし」を唱えるたびに、異端者の体から100匹の悪魔を追い出し、それらは赤熱した炭の形になって出てきたという。

解放された後、彼はかつての過ちを捨てて回心し、ロザリオの信心会に入会した。彼の仲間の何人かは、彼の罰とロザリオの力に大いに感動して、同じようにした。

学者であるフランシスコ会のカルタヘナ【Juan De Cartagena, O.F.M., 1563-1618】をはじめとするいくつかの著者は、1482年に驚くべき出来事があったと述べている。それは次の通りである。ヤコブ・シュプレンゲル神父(Jacob Sprenger O.P. 1436 – 1495)をはじめとする修道士たちは、聖なるロザリオへの信仰を回復し、ケルン市に信心会を設立しようと熱心に活動していた。

不幸なことに、有力な説教によって有名であった別の二人の神父は、彼らがロザリオを説教することによって大きな影響力を発揮していることに嫉妬していた。この二人の神父は、機会があるたびにこの信心に反対の意見を述べ、非常に雄弁で評判が高かったので、多くの人々に信心会に参加しないように説得した。

神父の一人は、自分の邪悪な目的を達成するために、ロザリオに反対する特別な説教を書いて、次の日曜日に行なうつもりだった。しかし、説教の時間になっても彼は現れず、しばらく待った後、誰かが迎えに行くと、神父は死んでおり、彼は誰にも助けてもらえず、司祭にも会わずに孤独のうちに死んだことは明らかだった。

もう一人の神父は、彼が自然死であることを確信した後、友人の計画を実行して、別の日に同じような説教をすることにした。このようにして、ロザリオの信心会に終止符を打とうとしたのである。しかし、彼が説教をする日が来て、いざ説教をしようとすると、天主は彼を罰して、手足の動きと、言葉の力を失う麻痺に陥らせたのである。

ついに彼は自分と友人の罪を認め、すぐに心の中で聖母に自分を助けてくれるよう静かに祈った。彼は、もし聖母が自分を治してくれるなら、かつてロザリオに対して戦ったものと同じくらいの熱意をもって、聖なるロザリオを説教すると約束した。この目的のために、彼は聖母に彼の健康と言葉を回復するように懇願し、聖母はそれを実現した。そして、自分がすぐに治癒したことを知り、彼はもう一人のサウロのように立ち上がった。彼は自分の過ちを公に認め、その後も熱心に、そして雄弁に、至聖なるロザリオの素晴らしさを説教し続けた。

私は、現代の自由思想家や超批判的な人々が、彼らが常にほとんどのことを疑ってきたのと同じように、この小さな本に書かれている話の真実性を疑うことは間違いないと思っているが、私がしたことは、現代の優れた作家や、ほんの少し前に書かれた本からコピーしただけである。『神秘的なバラの木』(アントニン・トマス神父、O.P.)

誰もが知っているように、三つの異なる種類の話には、三つの異なる種類の信仰がある。

聖書の物語には、天主の信仰(fides divina)を持たなければならない。【天主の信仰(fides divina)とは、真理そのものである天主が私たちに語ったことであるから真理であると信じるという信仰のことである】

一方で、世俗の話で、常識に反しておらず、信頼できる著者によって書かれた物語には、人間的な信仰(fides humana)でそれを信じる。【人間的な信仰(fides humana)とは、理性に矛盾しない内容であることや、それを話す人の誠実さに信頼してその内容が真理であると信ずることである】

さらには、敬虔な著者によって語られ、理性、信仰、道徳に少しも反していない聖なる主題に関する物語には(たとえそれが時折、通常の事象を超えた出来事を扱っていても)、私たちは敬虔な信仰(fides pia)でそれを信じる。

あまりにも信じやすくてもいけないし、批判的すぎてもいけない、「徳は中庸にあり」ということを忘れてはいけないーー真理と聖徳がどこにあるのかを見極めるために、すべての物事の中庸を保つべきであると私は思う。しかし他方で私は、愛徳は、信仰や道徳に反していないものをすべて信じるように容易に導いてくれることもよく知っている。「愛は…すべてを信じ、」それと同じように、高慢は、信憑性の高い話であっても、聖書に載っていない、という理由で疑うように導くのだ。これは悪魔の罠の一つであり、聖伝を否定した過去の異端者たちもこの罠に陥っている。現代の過度に批判的な人々も、気付かないうちにこの罠に陥っている。この種の人々は、自分が理解できないことや、自分の気に入らないことは、高慢と自分の考えで十分だと思うために信じようとしないのだ。


「ロザリオの秘密」第八、第九 聖母は、ロザリオを説教する人だけでなく、他の人に模範を示してロザリオを唱えさせる人すべてを祝福する

2021年10月25日 | カトリックとは

「ロザリオの秘密」聖ルイ・グリニョン・ド・モンフォール

八番目のバラの花:ロザリオの不思議な力

聖母がいかにこの聖なるロザリオを大切に思われているか、いかに他のすべての信心よりもロザリオを好んでおられるかを言葉にすることは難しいだろう。また、聖母が、この信心を説き、確立し、広めるために働く人々に対してどれほど多くの報いをお与えになっているか、逆に、この信心に反して働く人々をどれほど厳しく罰しておられるかは、十分に表現することはできない。

聖ドミニコは生涯、聖母を讃え、その偉大さを説教し、ロザリオを唱えて聖母を敬うように皆を励ますことにのみ心を砕いていた。その報いとして、彼は聖母から数え切れないほどの御恵みを受けた。天の元后(女王)としての偉大な力を行使して、聖母は彼の働きに多くの奇跡と不思議な力を授けた。全能の天主は、彼が聖母を通して求めたものを常に与えられた。その中でも最大の栄誉は、聖母が彼がアルビ派の異端を撲滅するのを助け、彼を偉大な修道会の創立者また大修道院長とされたことである。

ロザリオの信心を回復させた福者アラン・ドゥ・ラ・ロシュについては、聖母から多くの特権を受けた。聖母は何度も彼に現れて、彼が自分の救霊を得る方法、良い司祭や完全な修道者になる方法、そして主に倣う方法を教えてくださった。

よく悪魔に誘惑され、迫害されていた彼は、深い悲しみに襲われ、時には絶望しかけたこともあったが、聖母はいつも、彼の霊魂から暗闇の雲を追い払ってくれる優しい存在となって、彼を慰めてくださった。

聖母は彼にロザリオの唱え方を教え、その価値とそれによって得られる実りを説明し、彼に偉大で輝かしい特権:聖母の新しい浄配と呼ばれる栄誉をお与えになった。貞潔の愛の証として、聖母は彼の指に指輪をはめ、彼の首に御自分の髪で作った首飾りをかけ、ロザリオを贈ったのである。

トリテメ神父、カルタヘナ神父、ナバラのマルティヌス神父(いずれも非常に学識のある人物)などが、彼を最高の賛辞で語っている。福者アランは、10万人以上の人々を信心会に引き入れた後、1475年9月8日にフランドルのズノレで亡くなった。

聖ヨハネの福者トマスは、至聖なるロザリオについての説教でよく知られていたが、霊魂に対する彼の成功を嫉妬した悪魔が彼をひどく拷問したため、彼は病気になり、医者が見放すほど長い間病に苦しんでいた。自分はもう本当に死ぬのだと思ったある夜、悪魔は想像を絶する恐ろしい姿で彼に現れた。ベッドのそばに聖母の御影(ごえい)があったので、彼はそれを見て、全ての心と魂と力を込めて泣いた。「助けてください、私を救い出してください、私の愛する、優しい御母よ!」 彼がそう言うやいなや、絵が生き返ったように見えた。聖母は手を差し出し、彼の腕を取って言った。

「恐れてはいけない、トマス、私の息子よ、私はここにいて、あなたを救うつもりです。今すぐ起きて、以前のように私のロザリオを説教しなさい。私はあなたを敵から守ることを約束します。」

聖母がこのように仰せられると、悪魔は逃げ去り、福者トマスは立ち上がって、自分が完全に健康であることを確認した。そして、喜びの涙を流しながら聖母に感謝した。彼はロザリオの使徒職を再開し、彼の説教は驚くべき成功を収めた。

聖母は、ロザリオを説教する人だけでなく、他の人に模範を示してロザリオを唱えさせる人すべてを祝福しておられる。

レオンとガリシアの王であるアルフォンソスは、自分の召使い全員がロザリオを唱えて聖母を敬うことを強く望んだ。そこで、彼は大きなロザリオをベルトに掛けて常に身につけていたが、残念ながら自分では唱えなかった。しかし、彼がロザリオを身につけていたことで、廷臣たちは非常に敬虔にロザリオを唱えるようになった。

ある日、王は重い病気にかかり、死を宣告されたとき、ヴィジョンの中で自分が主の裁きの座の前にいることに気が付いた。多くの悪魔が彼の犯した罪を告発し、裁判官である主が彼を地獄に落とそうとしていた時、聖母が彼のために執り成しに現れた。聖母は一対の天秤を呼び寄せ、彼の罪を一方の天秤に載せ、彼がいつも身につけていたロザリオをもう一方の天秤に載せ、彼の模範によって唱えられたすべてのロザリオも一緒に乗せられた。その結果、彼の罪よりも、ロザリオの重さの方が大きいことが分かった。

そのような彼を聖母は大きな優しさを以って見つめながら、こう仰せられた。「あなたがロザリオを身につけてくれたことによる、このささやかな栄誉への報いとして、私はあなたのために、私の御子から大きな恵みを得ました。あなたの命はあと数年は助かるでしょう。この数年を賢明に過ごし、痛悔と償いをするように。」

意識を取り戻した王は、こう叫んだ。「私を永遠の苦しみから解放してくれた、いとも聖なる童貞マリアのロザリオに祝福を!」

健康を取り戻した王は、残りの人生を聖なるロザリオへの信心を広めることに費やし、毎日忠実に唱えたという。

聖母を愛する人々は、アルフォンソ王やこれまで述べてきた聖人たちの例に倣うべきであり、そうすれば彼らもまた、聖なるロザリオの信心会のために他の霊魂たちを獲得することができるだろう。またそうすることによって彼らは地上では大きな御恵みを受け、後の世では永遠の命を得ることができるだろう。“私を説教する者は永遠の命を持つ”

九番目のバラの花:敵

聖なるロザリオの信心会の発展を妨げることは、実に邪悪であり、他の霊魂に対する不正である。全能の天主は、この信心会を軽蔑し、破壊しようとした多くの人々を厳しく罰してこられた。

天主が多くの奇跡をもって聖なるロザリオに承認のしるしを与え、それを承認する教皇の勅令が書かれているにもかかわらず、今日、聖なるロザリオに反対する人々があまりにも多い。これらの自由思想家や宗教を軽蔑する人々は、ロザリオを非難するか、他の人々をそこから遠ざけようとする。

彼らが地獄の毒を吸収し、悪魔に感化されていることは容易に理解できる。なぜなら、主祷文、天使祝詞、イエズス・キリストとその聖母の御生涯と御死去と栄光の神秘など、カトリックの信仰において最も神聖なものすべてを非難することなく、聖なるロザリオへの信心を非難することは誰にもできないからだ。

他人がロザリオを唱えることに耐えられないこれらの自由思想家は、しばしば自分でも気付かないうちに、本当に異端的な精神状態に陥り、ロザリオとその聖なる神秘を憎むようになる者もいる。

信心会に嫌悪感を抱くことは、天主と真の敬虔さから遠ざかることになる。なぜなら、私たちの主御自身が、「私の名によって二、三人が集まるところには、私もまたそこにいる」と語っておられるからだ。善良なカトリック信者は、聖にして母なる教会が信心会に与えた多くの偉大な贖宥を忘れるべきではない。最後に、ロザリオ信心会への参加を他人に思い留まらせることは、霊魂の敵となることである。なぜならロザリオは、罪を償い、キリスト教的生活を受け入れるための確実な手段であるからだ。

聖ボナヴェントゥーラは(『詩篇』の中で)、聖母を蔑ろにする者は、罪のうちに滅び、呪われると述べている:「彼女を蔑ろにする者は、その罪の中で死ぬ。」もし、聖母を軽視したことに対する罰がこのようなものであるならば、実際に他の者たちを信心から遠ざけた者たちに対してはどれほどの罰が待っているだろうか!


ヴィガノ大司教「パンデミックの緊急事態が終わるようロザリオを祈りましょう」力でも、武器でも、指導者でもなく、ロザリオの聖母が勝利に導いた!

2021年10月25日 | カトリック・ニュースなど

Archbishop Viganò: Pray the Rosary for the End of the Pandemic Emergency.

パンデミックの緊急事態が終わるために聖なるロザリオを!

2021年10月15日

450年前の1571年10月7日、パトラス湾のレパントにおいて、ドン・ファン・デ・アウストリア率いるキリスト教徒軍の艦隊がトルコ軍に大勝利を収めました。数的にも軍事的にも明らかにオスマン帝国の艦隊に劣っていたにもかかわらず、「神聖同盟」が奇跡的に達成したこの勝利は、聖母の介入によるものとされ、その日から聖母は「勝利の元后」「キリスト信者の助け」という称号で崇敬されるようになりました。私たちがロレトの連祷(聖母の連祷)の中で唱える「Auxilium Christianorum」(キリスト信者の助け)という呼祷は、この奇跡的な勝利の後に付け加えられたものです。それ以来、私たちは聖母を「いと尊きロザリオの元后」としても祝っています。

神聖同盟の旗は、「In hoc signo vinces」(このしるしにて勝て)という標語とともに使徒聖ペトロと聖パウロに両側から挟まれた磔刑十字架が描かれ、前年に聖ペトロ大聖堂で聖ピオ五世(トリエント公会議の教皇、聖伝のミサの教皇、そして聖なるロザリオの教皇)によって祝別されたもので、教皇艦隊の提督マルカントニオ・コロンナに託されました。1571年9月16日、神聖同盟の艦隊はメッシーナを出航し、10月4日にはトルコ軍に向かって進むためにセファロニア島の港に集結しました。神聖同盟は、スペイン王、ヴェネチア共和国、教皇領、ジェノバ共和国、ルッカ共和国、マルタ騎士団、パルマのファルネーゼ家、マンチュアのゴンザガ家、フェラーラのエステンセ家、ウルビーノのデッラ・ロヴェーレ家、サヴォイ公、トスカーナ大公によって結成さました。キリスト教ヨーロッパは、ポワチエ(732年)とウィーン(1529年)で撃退されたあと再び脅威となった共通の敵に立ち向かうために団結しました。

今日では、私たちの敵はさらに巧妙でさらに危険です。同盟者であるべき人々、当時直面したのと変わらない脅威に直面している私たちを助け守るべき人々―私たちに対して無慈悲な戦争を仕掛けているのは、まさに彼らなのです。

私たちを保護すべき人々が、侵略を支援し、私たちのアイデンティティー、信仰、文化、伝統を組織的に抹殺している人々なのです。キャンセル・カルチャーの名の下に、4世紀にわたってイスラムが私たちの国を三日月【イスラム】に従わせるのを防いだレパントの勝利を、私たちに何とかして恥じさせようとしているのです。

しかし、もし今日私たちが目の当たりにしていることが1570年に起こっていたとすれば、あの驚くべき勝利はまず間違いなく不可能だったでしょう。聖ピオ五世が神聖同盟を招集せずにイスラムとの対話を進めていたとすれば、ドン・ファン・デ・アウストリアが個人の利益のためにスルタンと共謀していたとすれば、ヴェネチア共和国が、オスマン帝国がキプロスのヴェネチア人に負わせた今日では私たちが「人権侵害」と呼ぶ行為に沈黙していたとすれば、スペイン王やイタリアの君主・大公たちが国家の世俗性に訴えていたとすれば、カトリック・ヨーロッパの諸国民が戦い、勝利を収めることは決してできなかったでしょう。なぜなら、大衆運動は、たとえ最良の意向によって動機づけられたものであっても、指導者、カリスマ的な導き手、そして彼らを導き、行動を調整する権威を必要とするからです。

こういう訳で、私たちが直面している危機は非常に深刻なのです。それは権威の危機に起因しており、従う者よりも先に、命令する者に活力を与え、方向付ける道徳的な原則や価値観の欠如に起因しています。私たちに命令する人々は、イタリア国民のためにその役割を果たしているのではなく、その代わりに非常に強力な金融エリートの命令に従っているのです。今日、実際に指揮を執っている人々は、自分自身は組織に属していませんが、役人を買収したり、意のままに操るために彼らが配置した人々を脅迫したり、誠実な人を追い出したり、反対派をコントロールしたりして、組織を利用しているのです。

もし、私たちの指導者たちが本当に「bonum commune」(共通善)について気にかけ、彼らに命令している人々に従わなかったのならば、一方では製薬産業、他方ではグローバリスト・エリートたちの命令に従わずに、ウイルスを治療していたことでしょう。同じことが教会でも起きています。それは、司教たちが新型コロナウイルス感染症のナラティブ(物語)にどれだけ早くひれ伏したのか、どれだけ早く教会を閉鎖したのか、どのようにして信者に予防接種を受けるように勧め、教皇職の権威と威信を利用して、最初は遺伝子血清を後援し、今は環境保護的な移行、すなわちもう一つの執着物であるクラウス・シュワブ・ロスチャイルド【母親がロスチャイルド家出身】が理論化したグレート・リセットを後援しているのか、などを考えるだけで十分でしょう。

政治家、国会議員、裁判官、医師、ジャーナリスト、聖職者。彼らは皆、サイコ(心理)パンデミックのナラティブ(物語)にへつらい、同様に不条理で科学的に混乱した地球温暖化の理論を無批判に受け入れる準備もできています。なぜなら、それは単に、彼らの主人たちが、最初は緊急のパンデミックについて投機し、今はいわゆる「環境緊急事態」(green emergency)について投機することに決めたからです。次の緊急事態は「グリーン・パス」 --- ワクチンパスポートは「グリーン」と呼ばれますが、それは偶然ではありません --- さらに市民が持つ自然な自由に由来するその他を没収を押し付けるための口実として使われるでしょう。

これで、彼らの行動を正当化するために私たちに提示されているものはすべて、常に、彼らの犯罪的意図とは無関係の口実でしかないのが何故かを皆さんは理解するでしょう。一方で、もし彼らが、内部関係者向けの会議の出版物で予測するだけでなく、人口を減らして奴隷にしたがっていることをはっきりと私たちに話すならば、誰も騙すことに成功しないでしょう。

サイコ(心理)パンデミックが発生している世界のすべての地域で、人々は反対の意思を表明するために街に繰り出しています。ソーシャルメディアの検閲にもかかわらず、私たちが皆インターネットで見ることができるもの、すなわち、フランス、ドイツ、オランダ、ギリシャ、旧ユーゴスラビア諸国、アメリカ、オーストラリア、カナダ…そしてイタリアの何万人、何十万人という人々について、体制側のメディア(事実上すべてのメディア)は組織的に沈黙しています。私たちが少し遅れて目を覚ましたのはその通りですが、彼らが約2年間にわたって私たちを欺いてきたり、現実とは一致しないことを私たちに話したり、治療法はなく、人々は新型コロナウイルス感染症で死んでいると言ったりしていましたが、実際には私たちにマスクや都市封鎖、門限を受け入れさせるために、感染者を意図的に殺していたということを、私たちは理解し始めています。今日、彼らは治療法があると私たちに言っていますが、それは単に製薬会社が法外な値段で特許を取得した薬(その副作用はいまだに不明)を持っていて、それを何年も前から非常に安い値段で(有害反応なしで)入手できたからです。そして、どの裁判官もそれについては何も言わないのです。

親愛なる兄弟姉妹の皆さん、市民の利益を目的とする権力が、実際には市民を堕落させ、貧困に陥れ、奴隷状態にし、さらには衰弱させたり物理的に排除したりするために利用される場合、それは権力を簒奪することによって行われることを、皆さんはよく理解なさることになるでしょう。私たちに求められる専制的な法律への従順は、共犯となります。なぜなら、恐喝によって、平常な状態であれば実行を拒否するような、非合理的で潜在的に有害な行動を私たちに押し付けるからです。

しかし、医師が病人を治療せず、代わりに製薬会社に身を売っていることを、平常だと考えることができるでしょうか? CTS(イタリア医療庁の科学技術委員会)、AIFA(イタリア医療庁)、EMA(ヨーロッパ医薬品庁)、WHO(世界保健機関)のメンバーの利益相反に直面して、黙っていられるでしょうか? プロトコルやパンデミック計画、治療法の禁止についての告発を、黙って受け入れることができるでしょうか? 今日まで私たちに監禁、苦痛、みじめさ、解雇、破産、窮乏、苦しみ、死を与えてきただけの権力者に、信用を与え続けることができるでしょうか? 彼らが「皆さんのために行っている」と言ったとき、皆さんは本当にそれを信じているのでしょうか?

こういうわけで、これほど多くのデモや抗議活動が行われているのであり、こういうわけで、デモや抗議活動が成長し続け、ますます効果的になるように、それらの間の調整が行われることが望ましいのです。こういうわけで、私たちは、主が、健全な原則、崇高な理想、真の義務感によって動機づけられた誠実な人々を呼び起こし、彼らが現在の暗い政治的、社会的、宗教的状況に対して、メーソンの侵入や門番なしに、具体的で共有可能な代替案を作り出すことができるように望むべきなのです。

しかし、自分たちの行動を起こさせるべき理想と倫理をすべて裏切った一群の政治家、医師、ジャーナリストからの脅威に立ち向かうために、自分たちを組織するのであれば、この市民的抗議行動にキリスト教的な魂(精神)を与えることも不可欠です。そうすればはじめてその行動が道徳的に高貴な存在であり続けることができ、成功して天主の祝福を受けることを望むことができるのです。

私たちはもうすぐロザリオを一緒に唱え、天主の玉座の御前での至聖なる童貞の御取り次ぎを懇願し、歴史の中で何度も行われてきたように、今日も人間の問題に介入してくださるように願います。皆さんは、信仰と、天の母に駆け寄る子どもの謙虚な確信をもってそうなさるでしょう。自らの欠点にもかかわらず、天の母に依り頼むことができることを知っておられるからです。さらにもう一度聖母に祈り、聖母に約束しましょう。祖国をキリスト教国に回心させ、復興させるためにできることを行い、その価値を誇りに思い、公にキリストの十字架を掲げ、その法律、団体、業績、芸術において、イタリアを偉大にし、多くの聖人を与え、文化を実りあるものにし、ビジネスを繁栄させた信仰を証しすること誇りに思うことを。

レパントの海戦の後、ヴェネチア共和国(Repubblica Serenissima)の元老院は、今日では世俗国家の支持者をつまずかせるような信心のわざで、「Non virtus, non arma, non duces, sed Maria Rosarii victores nos fecit」(力でも、武器でも、指導者でもなく、ロザリオの聖母が私たちを勝利に導いた)と荘厳に宣言しました。同様に、聖ピオ五世は、この戦いの後に発行された記念コインに、詩篇118篇から取ったこの標語を刻ませました。「Dextera Domini fecit virtutes」―「主の御右手は不思議を起こした」。

450年前、聖なる御母は全カトリック世界の熱心な祈りをお聞き届けになり、キリスト教軍の艦隊に奇跡的な勝利を与えてくださいました。ファチマや他の多くのご出現で聖母が私たちにお求めになったように、今日も私たちが祈り、償いをする方法を学ぶならば、聖なるロザリオを唱えることで、天から新たな奇跡を請い求めることができます。それは、私たちの愛する祖国を、腐敗した人々や組織にはびこる裏切り者たちから解放し、良き人々を動かして、重大な犯罪で身を汚した人々を勇気を持って糾弾させ、裁判官や法執行機関のメンバーを照らしてその義務を果たさせ、自称慈善家や彼らに仕える人々が専制的な妄想に浸るのをやめさせ、政治家を動かして、エリートの死のイデオロギーを冷笑的に実行させるのではなく、憤慨した人々の正当な要求を実行させることです。

私たちが告白している信仰の首尾一貫した証人となることによって、祈りと秘跡によって養われた誠実で聖なる生活を送ることによって、私たち自身が童貞マリアにお願いすることにふさわしい者となりましょう。私たちの母にして元后は、私たちからの具体的なしるしだけを待っておられるのです。「Nos cum prole pia benedicat Virgo Maria.」(童貞マリア、聖なる御子とともに、われらを祝福し給わんことを。)

+ Carlo Maria Viganò, Archbishop
+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ


カトリック聖伝のミサの報告 聖ピオ十世会 SSPX Japan Traditional Latin Mass in Tokyo and Osaka

2021年10月25日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2021年10月24日、東京のミサに来られた方は、子供達も入れて合計113人でした。大阪では25人でした。天主に感謝いたします。

2022年のアンジェルスプレスのカレンダーは日本に届きました。来る10月31日の主日のミサから皆様に運送費なしのお値段(1500円:USD12.95)でお分けすることができるようになりました。御予約をされた方々にお渡しいたしますので、よろしくお願いいたします。

エコンの50周年の写真アルバムは、まだご希望の方を募っております。ご連絡をお待ちしております。

11月の予定です。
11月1日(月曜日)は、大阪と修道院とでミサがあります。
大阪では、いつもの通り午前6時30分からミサ、
修道院では、午前11時30分からミサ、の予定です。

11月22日(月)は、大阪で午後6時からミサと御聖体降福式がある予定です。

11月23日(火)勤労感謝の日は、名古屋(いつもの場所)で、午前10時30分からミサがあります。

【報告】【東京】
Dear Fathers:

Shown below are the number of attendees at the masses in Tokyo today. The total number of attendees at the masses in Tokyo today was 113, including children.

09:00 mass
M: 24 (incl. 5 children)
F: 24 (incl. 4 children)
Total: 48 (incl. 9 children)

11:00 mass
M: 22 (incl. 6 children)
F: 23 (incl. 6 children)
Total: 45 (incl. 12 children)

12:30 mass
M: 11 (incl. 0 child)
F: 16 (incl. 1 child)
Total: 27 (incl. 1 child)

Total of 3 masses (excl. 7 people who participated in multiple masses)
M: 53 (incl. 11 children)
F: 60 (incl. 11 children)
Total: 113 (incl. 22 children)


“天主に返すもの”とは何か?「チェザルのものはチェザルに、天主のものは天主に返せ」

2021年10月23日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2021年10月24日は聖霊降臨後第二十二主日です。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「聖霊降臨後第二十二主日の説教」の動画をご紹介いたします。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

SSPX JAPAN聖ピオ十世会日本にチャンネル登録もお願いいたします。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父


「ロザリオの秘密」第四、第五、第六、第七のバラ:聖ドミニコがどのようにして聖なるロザリオを確立したか、そして福者アラン・ド・ラ・ロシュがどのようにしてそれを復興させたか

2021年10月22日 | カトリックとは

「ロザリオの秘密」聖ルイ・グリニョン・ド・モンフォール

四番目のバラの花:福者アラン・ドゥ・ラ・ロッシュ

すべてのものは、たとえ最も神聖なものであっても、特に人間の自由意志に依存している場合は変化することがある。聖なるロザリオ信心会が、聖ドミニコによって設立されてから一世紀の間だけその熱気を保っていたことは不思議ではない。それ以降は、埋もれて忘れ去られたもののようになってしまった。

また、人々が聖なるロザリオを軽視し、聖なるロザリオが世に降した天主の御恵みの流れを妨げたのは、悪魔の邪悪な策略と嫉妬が大きく影響していることは間違いない。

こうして1349年、天主はヨーロッパ全体を罰し、かつてないほどの恐ろしい疫病をすべての国に送り込んだのである。疫病はまず東から始まり、イタリア、ドイツ、フランス、ポーランド、ハンガリーと広がっていき、どこに行っても荒廃をもたらした。大きな町も小さな町も、村も修道院も、この流行が続いた三年間で、ほとんど完全にさびれてしまった。

この天主の災いに続いて、すぐに二つの災いが起こった。フラジェランテスの異端と、1376年の悲劇的な分裂である。

その後、これらの試練が終わったとき、天主の御慈悲により、聖母は福者アランに古代の「至聖なるロザリオの信心会」を復興させるように告げた。福者アランは、ブルターニュ地方のディナン修道院のドミニコ会の神父の一人だった。彼は著名な神学者であり、その説教は有名であった。聖母が彼を選んだのは、もともとこの地方で信心会が始まったのだから、同じ地方のドミニコ会員が信心会を再び設立する栄誉を得るのが最もふさわしいとお考えになったからである。

福者アランは、主からの特別な警告の後、1460年にこの偉大な仕事を始めた。彼は主の緊急のメッセージをどのように受け取ったか、彼自身が語っている。

ある日、彼がミサを捧げていたとき、聖なるロザリオを説くために彼を駆り立てようとした主は、聖なるホスチアの中で彼に語りかけた。

“どうして、こんなに早く私を再び十字架にかけることができるのか?”とイエズスは仰せられた。

「主よ、あなたは何と仰いましたか?」 福者アランは恐ろしくなって尋ねた。

“おまえたちは以前、自分たちの罪によって私を十字架に付けた”とイエズスは答えられた。
“おまえたちが犯した罪によって私の聖父を怒らせるくらいなら、私は喜んでもう一度十字架に付けられることを望む。お前たちは、私の御母のロザリオを説教するために必要なすべての知識と理解を持っているのにもかかわらず、それをしていないがために、今また私を十字架にかけているのだ。お前がそれを説教しさえすれば、多くの霊魂に正しい道を教え、彼らを罪から遠ざけることができるのに、お前がそれを怠っているがために、彼らが犯す罪を、お前自身が犯していることになるのだ”。

このひどい非難を受けて、福者アランはロザリオをひたすら説教することを厳粛に決意した。

ある日、聖母も彼に語りかけ、もっともっとロザリオを説教するように促した。

「あなたは若い頃、大変な罪人でしたが、私の御子からあなたの回心の恵みを得ました。回心した罪人は私の栄光であるので、もし可能であれば、あらゆる苦しみを経てでもあなたを救いたいと望みました。そして、あなたが私のロザリオを広く伝えるのにふさわしい者とするためにも、そうしたかったのです。」

聖ドミニコは福者アランにも現れ、彼の宣教の素晴らしい結果を伝えた。彼は絶え間なく聖なるロザリオを説いており、その説教は大きな実を結び、宣教中に多くの人々が改宗した。彼は福者アランに言った。

「私が聖なるロザリオを説教することによって得た素晴らしい結果を見てください!あなたも、聖母を愛するすべての人も、同じようにしてください。そうすれば、この聖なるロザリオの実践によって、すべての人々を真の聖徳の本当の知識に引き寄せることができるでしょう。」

簡潔に言えば、これが、聖ドミニコがどのようにして聖なるロザリオを確立したか、そして福者アラン・ド・ラ・ロシュがどのようにしてそれを復興させたかの歴史である。

五番目のバラの花:信心会

厳密に言えば、ロザリオの信心会は一種類しかない。それは、メンバーが毎日一五〇回の「めでたし」によってロザリオを完全に唱えることに同意するものである。しかし、ロザリオを唱える人々の熱心さを考慮すると、三つの種類を区別することができる。一週間に一回ロザリオを完全に唱える「普通会員」、一年に一回だけ完全に唱える「終身会員」、毎日完全に唱えることを義務付ける「毎日会員」、つまり一五〇回の「めでたし」から構成される十五連のロザリオを唱えることを義務付ける「毎日会員」である。

これらのロザリオ会員の義務は、いずれも罪の負債を伴うものではない。このような義務は完全に自発的かつ超然としたものであるため、これを怠っても小罪にさえならない。言うまでもなく、必要な回数だけロザリオを唱えて義務を果たすつもりのない人は信心会に参加すべきではないが、会員はその信心の義務を行なう際、自分の身分上の義務を怠ってはならない。

であるから、ロザリオが聖なるものであるにもかかわらず、自分の身分上における義務と衝突する場合には、実行すべき義務を優先しなければならない。同様に、病気の人は、ロザリオの全部または一部でも、その努力によって疲れて悪化する可能性があるならば、それを唱える義務はない。

従順さを必要とする義務があったり、純粋に忘れていたり、緊急の必要性があったりして、ロザリオを唱えられなかった場合は、小罪さえ犯していないことになる。そして、世界中で聖なるロザリオを唱えている兄弟姉妹の恩寵や功徳を分かち合い、同じように信心会の恩恵を受けることができる。

また、親愛なるカトリック信徒たちよ、たとえ不注意や怠惰からロザリオを唱えなかったとしても、形式的に軽蔑していない限り、絶対に罪にはならないが、この場合、信心会の祈り、善行、功徳への参加はできない。さらに、小さなことや超過分のことに忠実でなかったがために、ほとんど知らないうちに、罪の負債を伴う大事な義務を疎かにする癖がついてしまうかもしれない。なぜなら、“小さなことをいいかげんにすると、次第に貧しくなる ”からである。

六番目のバラの花:マリアの詩篇

聖ドミニコが聖なるロザリオへの信心を確立して以来、1460年に福者アラン・ドゥ・ラ・ロシュがそれを再確立するまで、ロザリオは常に『イエズスとマリアの詩篇』と呼ばれてきた。これは、『ダビデの詩篇』に収録されている詩篇と同じ数の『天使祝詞』があるからである。単純で無学な人はダビデの詩篇を言うことができないので、ロザリオはダビデの詩篇と同じように彼らにとっても実りあるものだと考えられている。

しかし、ロザリオは三つの理由から、後者よりもさらに価値があると考えられる。

1. 第一に、天使祝詞は、御托身された御言葉、という崇高な実を結んでいるのに対し、ダビデの詩篇は、御言葉の到来を予言しているに過ぎないからである。

2. 第二に、実体はその前兆よりも重要であり、体はその影よりも重要であるように、聖母の詩篇はそれを前兆しているに過ぎないダビデの詩篇よりも偉大である。

3. そして第三に、聖母の詩篇(あるいは「天にまします」と「めでたし」で構成されるロザリオ)は、最も祝福された三位一体の直接の御働きであり、人間の道具を通して作られたものではないからである。

聖母の詩篇やロザリオは、次のような特別な理由から、それぞれ五連ずつの三つの部分に分かれている。

1. 三位一体の三つのペルソナを崇敬するため。
2. イエズス・キリストの御生涯と御受難と栄光を賛美するため。
3. 天国の「凱旋の教会」の模範をまねて、地上の「戦闘の教会」に属する信者らを助け、煉獄の「苦しみの教会」の苦悩を和らげるため。
4. 霊的生活の三段階(浄めの生活、照らしの生活、一致の生活)があるため。
5. そして最後に、私たちの"今"の生活に豊かな聖寵が与えられ、"死"に際しては平安が、"永遠"において栄光が与えられるため。

七番目のバラの花:バラの冠

福者アラン・ドゥ・ラ・ロッシュがこの信心を再確立して以来、人々の声、すなわち天主の声は、この信心をロザリオと呼ぶようになった。つまり、人々が敬虔にロザリオを唱えるたびに、一五三本の赤いバラと十六本の白いバラでできた冠を、イエズスとマリアの御頭の上に置くということである。天国の花であるこれらのバラは、決して色あせることなく、その非常な美しさを失うことはない。

聖母は、ロザリオという名前を完全に承認しており、何人かの人々に、めでたしを唱えるたびに美しいバラを聖母の与えていること、ロザリオを完全に(三環)唱えるたびに聖母にバラの冠を作っていることを明らかにしている。

よく知られているイエズス会のブラザー・アルフォンソス・ロドリゲスは、非常に熱心にロザリオを唱えていたので、「我らの聖父よ」と唱えるたびに赤いバラが、「マリア」と唱えるたびに白いバラが出てくるのをよく見たそうである。赤いバラと白いバラは、美しさも香りも同じで、唯一の違いはその色だけだった。

聖フランシスコの年代記には、ある若い修道士の話が出てくる。彼は毎日夕食の前に聖母の冠(ロザリオ)を唱えるという立派な習慣を持っていた。ある日、何らかの理由で彼は唱えられなかった。修道院長に、食卓につく前にロザリオを唱えることを許可してほしいと頼んだ時には、すでに食堂の鐘が鳴っていたので、許可を得て自分の部屋に戻って祈った。

しばらくして、修道院長が別の修道士に彼を迎えに行かせたところ、彼は、自分の部屋で天の光を浴びて、二位の天使を従えた聖母と向き合っている修道士を発見した。天使はそのバラを一輪ずつ取って聖母の頭の上に置き、聖母は微笑みながらそれを受け取っていた。

最初の二人の修道士に何が起こったのかを調べるために派遣された最後の他の二人の修道士も、同じような美しい光景を目にし、ロザリオをすべて唱えるまで聖母は立ち去らなかった。

つまり、完全(三環)なロザリオは天上の大きなバラの冠であり、五連のロザリオは小さな花輪、あるいはバラの小さな冠であり、それはイエズスとマリアの御頭の上に置かれるのだ。薔薇は花の女王であるから、ロザリオはすべての信心の薔薇(女王)であり、それゆえに最も重要なものなのである。


「ロザリオの秘密」ロザリオの祈りのすばらしさとその起源と名称について:第一、第二、第三のバラの花

2021年10月21日 | カトリックとは

ロザリオの祈りのすばらしさとその起源と名称について

第一のバラの花:ロザリオの祈り

ロザリオの祈りは二つのことを含んでいる。すなわち、黙想と口祷である。聖なるロザリオの黙想とは、イエズス·キリストとそのいとも聖なる御母の生涯と死と栄光の主要な神秘を黙想するに他ならない。ロザリオの口祷とは、主の祈りを一度唱えた後に続く、十回のアヴェ・マリア十五回を唱えることで、それと同時に、聖なるロザリオの十五の玄義においてイエズスとマリアとが実践された十五の重要な聖徳を黙想し、観想することにある。

ロザリオの最初の五連では、五つの喜びの玄義を敬い、黙想する。二番目には、五つの苦しみの玄義を、第三の五連は、五つの栄えの玄義を敬い、黙想する。こうして、聖なるロザリオは、イエズス・キリストと聖母マリアとの御生涯と御受難と御死去と栄えとの玄義とその聖徳を敬い模倣するために、黙想と口祷とからなる聖なる祈りである。

二番目のバラの花:その起源

聖なるロザリオは、その基礎とその実体において、イエズス・キリストの祈り(主祷文)と天使の挨拶(天使祝詞)、すなわち「天にまします」と「めでたし」、そしてイエズスとマリアの神秘を黙想することからなり、これは疑いなく、信者らの最初の祈りであり最初の信心である。この祈りは、使徒たちや弟子たちの時代から、今日に至るまで、何世紀を通じて使われてきたものである。

しかし、聖なるロザリオは、現在私たちがそれを唱える形式と方法については、1214年になってようやく、カトリック教会に息吹かれ、聖ドミニコに聖母マリア様からアルビ派の異端と罪人たちの改心のために与えられた。

その与えられた方法については、福者アラノ(ラテン語で Alano de Rupe 或いはフランス語で Alain de la Roche)がその有名な「詩編(ロザリオのこと)の尊厳について(De dignitate Psalterii)」と呼ばれる本の中で語っている通り、今から私がお話しよう。

聖ドミニコは、人々の重い罪の数々がアルビ派異端者らの回心を妨害していることをご覧になって、トゥルーズの近くにある森の中に入って三日間昼も夜も続けて祈りと苦行をした。天主の怒りをなだめるために、嘆き、泣き、自分の体を痛めつけるむち打ちを続け、半死半生の状態になった。

聖母マリアが三位の天使を連れて聖人に現れてこう仰せられた。「私の愛するドミニコ、あなたは聖三位一体がこの世を改革するために使った武器がどんなものか知っていますか?」 

聖ドミニコは答えて「ああ!聖母よ、御身は私よりももっとよく知っておられます。何故なら、イエズス・キリストの次に、御身こそが私たちの救いの主要な道具だったからです」と答えた。

すると、聖母はこうお答えになった。「戦いの主要な武器は、天使的な詩編であったこと、これこそが新約の基礎であることを知りなさい。したがって、あなたがこれらの頑固な心の人々を天主に導くことを望むなら、私の詩編を説教しなさい。」

 聖人はこの言葉に慰めを受けて立ち上がり、この民々の救いのために情熱に燃えて、司教座聖堂に入った。天使たちが鐘を鳴らして人々を集め、聖ドミニコが説教を始めようとすると恐ろしい嵐が起こった。地が揺れ、太陽が暗くなり、雷と稲妻が鳴り響き、そこにいたすべての人々が恐れて震えた。高いところに置かれていた聖母の御影が腕を三度天に上げて、もしも、悔い改めずに天主の聖母の保護を求めないならば、彼らに対する天主の復讐を求めるのを見て、人々はますます恐怖に駆られた。

天はこのような超自然的な方法で、聖なるロザリオの新しい信心を増し、より広く知られることを望んでいた。ついに聖ドミニコの祈りで嵐は止んだ。聖人は説教を続け、聖なるロザリオのすばらしさについて熱意と力をもって説明したので、トゥルーズのほぼすべての人々は、ロザリオを受け、今までの自分たちの間違った生き方を放棄した。非常に短い時間で、道徳と生活の大きな変化が行われた。

三番目のバラの花:聖ドミニコ

この奇跡的な方法で聖なるロザリオの信心が確立されたことは、全能の天主がシナイ山で世界に律法を与えた方法と似ており、その価値と重要性を明らかに証明している。

聖霊に息吹かれ、聖母に啓示され、また自らの経験から、聖ドミニコは生涯にわたって聖なるロザリオを説教した。都会でも田舎でも、身分の高い人にも低い人にも、学者にも無学な人にも、カトリック教徒にも異端者にも、模範を示しながら説教をしたのだ。

彼が毎日唱えていた聖なるロザリオは、毎回の説教の準備であり、説教の直後にはこれによって聖母とのささやかな密会を行なっていた。

ある日、彼はパリのノートルダム大聖堂で説教をしなければならなかったが、その日はたまたま聖ヨハネの祝日であった。彼は主祭壇の後ろにある小さな礼拝堂で、いつものようにロザリオを唱えて祈りながら説教の準備をしていると、聖母が彼に現れてこう言った。

「ドミニコ、あなたが言おうとしていることはとても良いことかもしれませんが、私はもっと良い説教を持ってきています。」

聖ドミニコは、聖母が差し出した本を手に取り、その説教を注意深く読み、理解して黙想すると、聖母に感謝を捧げた。

時間になると、彼は説教壇に上がり、祭日にもかかわらず、聖ヨハネについては一切触れず、彼は天の女王の守護者としてふさわしいと認められた、とだけ述べた。会衆は神学者やその他の高名な人々から成っており、通常とは異なる洗練された講話を聞くことに慣れていた。しかし、聖ドミニコは、世間から見て賢明な学識ある講話をすることが自分の望みではなく、聖霊の素朴さと力強さをもって話すことが望みである、と告げたのである。

そして、ロザリオの説教を始め、子供たちに話すように一語一語、「めでたし」を説明し、聖母から頂いた本の中にある非常に簡単なイラストを使った。

偉大な学者であるカルタヘナは、『De Dignitate Psalterii』の中で、福者アラン・デ・ラ・ロッシュの言葉を引用しながら、この出来事がどのようにして起こったかを説明している。

「福者アランは、ある日、ドミニコ神父がビジョンの中で彼にこう言ったと書いている。

『わが息子よ、説教するのは良いことだが、霊魂の救いよりも賞賛を求める危険性が常にある。私は聖母マリアに捧げられた偉大な教会で説教をすることになっていたので、プライドからではなく、信徒の知的水準の高さから、特に素晴らしい説教をしたいと思っていた。

説教をしなければならない時間の一時間前、私はいつも説教をする前に行うロザリオを思い出しながら唱えていると、恍惚とした気持ちに陥った。私の最愛の友人である天主の御母が、その御手に本を携えて私に向かってこられるのが見えた。“ドミニコ”と聖母は仰せられた。“今日のあなたの説教は確かにとても良いものかもしれませんが、どんなに良いものであっても、私はあなたにもっともっと良いものを持ってきました。”

もちろん私は大喜びして、その本を手に取り、一字一句読んでみた。聖母の言われた通り、私の説教にぴったりのものが見つかったので、心を込めて聖母に感謝した。

始まる頃になると、大学に大勢の貴族たちが集まっていた。彼らは皆、良き主が私を通してなさった素晴らしいことを見聞きしていた。そこで、私は説教壇に上がった。

その日は使徒聖ヨハネの祝日であったが、私は彼について、天の女王の守護者としてふさわしいと認められた、ということだけを話した。そして、私は会衆に向かってこう言った。

『諸侯の皆様、そして大学の輝かしい博士の方々、あなた方は、あなた方の美しい言葉使いの好みにピッタリした、学識ある説教を聞くことに慣れています。今、私は人間の知恵の学問的な言葉ではなく、逆に天主の霊とその偉大さをお見せしたいのです』。」

ここで福者アランの引用は終わり、その後カルタヘナは自分の言葉でこう続けている。

「そして聖ドミニコは、日常生活の中での簡単な比較や例を用いて、『天使祝詞』を彼らに説明した。」

カルタヘナによると、福者アランは、他にも何度か主と聖母が聖ドミニコに現れて、罪を拭い去り、罪人や異端者を改宗させるために、もっともっとロザリオを説教するように勧め、励まされた、と述べている。

別の箇所でカルタヘナはこう言っている。

「福者アランは、聖母が聖ドミニコに現れた後、その祝福された御子がドミニコに現れてこう仰せられたと語った。

『ドミニコ、私は、おまえが自分の知恵に頼らず、人からの空しい賞賛を求めるのではなく、霊魂の救いのために謙遜に働いているのを見て、大きな喜びを覚える。

多くの司祭は、最初から罪の醜悪さを厳しく説教しようとするが、しかし病気の人間に苦い薬を与える前に、その薬の恩恵を本当に受けることができるよう心の状態を準備しておく必要があることを理解していない。

だからこそ、司祭は何よりもまず、人々の心に祈りの愛を、特に私の天使の詩編の愛を呼び起こすよう努めるべきなのだ。皆がそれを唱え始め、真に忍耐するならば、天主はその御憐みで彼らに恵みを与えることを拒むことはできないだろう。だからおまえには私のロザリオを説教してほしい。』

別の場所で福者アランは次のように言っている。「すべての司祭は今、説教の前に信者と一緒にめでたしを唱えて、天主の御恵みを乞い求めている。彼らがこれを行なうようになったのは、聖ドミニコが聖母から受けた啓示によるものである。ある日、聖母はこう仰せられた。

『私の息子よ、あなたの説教が期待した通りの結果を出せなくても、驚かないでください。あなたは、雨の降っていない土地を耕そうとしているのです。さて、全能の天主が地球の表面を新しくしようと計画したとき、天から雨を降らせることから始めましたが、この雨が天使祝詞なのです。このようにして、天主は世界を作り上げるのです。

だから、あなたが説教をするときは、私のロザリオを唱えるように人々に勧めなさい。そうすれば、あなたの言葉は霊魂のために多くの実を結ぶでしょう。』

聖ドミニコは時間をおかずに従い、それ以来、彼は説教によって大きな影響力を発揮したのである。」

この最後の引用は『聖なるロザリオの奇跡の書』(イタリア語)からのものであり、ユスティンの著作(143番目の説教)にも見られるものである。

私は、聖なるロザリオの驚異的な力について疑問を抱いている司祭やその他の学識豊かな者たちのために、これらの有名な著者の言葉を一語一語、オリジナルのラテン語で引用することを非常に嬉しく思う。

聖ドミニコに倣って司祭たちが聖なるロザリオへの信心を説教していた間は、キリスト教世界やロザリオを重んじていた修道会の中で、信心深さと熱心さが栄えていた。しかし、人々がこの天からの贈り物をないがしろにして以来、あらゆる種類の罪と無秩序が広範囲に渡って広がってしまったのである。


【参考情報】ヴィガノ・テープ質問8と9:ヴィガノ大司教「私たちを憂慮させているのは、大衆が自ら専制体制下に置かれるのを許していることです。」

2021年10月21日 | カトリック・ニュースなど

【参考情報】ヴィガノ・テープ:「子どもを守れ」
質問8

The Vigano Tapes: “Protect the Children”
Question #8

【質問8】つまり、大司教様が本当におっしゃりたいのは、混沌には二つのタイプがあり得るということですね。一つは合法的でない命令に対する卑屈な服従というタイプで、もう一つは合法的な命令に対する反逆的な不従順というタイプです。この二つをどのようにして区別するのでしょうか? そして、この二つを区別するとき、濫用に抵抗するために私たちにできることは何でしょうか? 具体的にどのようにして、これらの濫用に抵抗することができるでしょうか?

【回答】世俗の領域では、現在のパンデミックのナラティブ(物語)や、すぐにパンデミックに代わるかもしれない「気候変動の緊急事態」への協力を、拒否する必要があります。違法な規制や、市民を具体的な健康リスクにさらすような規制を無視することは、道徳的に合法であり、状況によっては義務でさえあります。報復の恐れに直面していても、自分や自分の子どもの命や健康を危険にさらすことは決してできません。なぜなら、その場合、私たちが参加することは、私たちが天主の御前で有罪となり、天主の罰を受けるに値するからです。実験的な遺伝子血清の投与は、絶対に認められません。その血清の製造の過程で子どもたちが妊娠三カ月で殺されています。その子どもたちの血は、それを製造する人々、それを押し付ける人々、そしてそれを受ける人々に降りかかるでしょう。

犠牲者の数がワクチンとされるものの犠牲者よりも少ない疑似パンデミックが、天賦の自由や市民の権利に規制や制限を加えるためのアリバイとなることは、いかなる場合でも容認されるべきではありません。そして、権力の奴隷であり、この陰謀の共犯者であるメディアが、反対意見をすべて検閲するならば、ジョージ・オーウェルが描いたディストピア社会が、単一の方向性のもと、正確な台本に沿って実現されていることを確信させるはずです。私は昨年の「訴え」でそのことを非難しましたが、今日それを読み返しても、私が不当に警鐘を鳴らしたと告発できる人はいないでしょう。

忘れてはならないのは、2010年以降、ロックフェラー財団がこの数年間の四つのシナリオを予測し、そのうちの一つがパンデミックの「ロックステップ」(lockstep)【足並みをそろえる】だったことです。これらすべてのシナリオについてロードマップが研究されていますが、パンデミックに関係するロードマップが本質的に予測通りの結果となっているのは憂慮すべきことです(「テクノロジーと国際開発の未来のためのシナリオ」[Scenarios for the Future of Technology and International Development]はこちら)。

ここ数日、世界各地で発生した何千もの火災は、主流メディアに気候変動の緊急事態について叫ぶ口実を与えています。その緊急事態の名の下に、彼らはすでに、新たな都市封鎖や、新たな形の自由・権利の制限に備えなければならないだろうと私たちに警告しています。しかしその後、世界的なサイバー攻撃や経済危機など、すでに研究され、綿密に計画され、その最初の兆候を私たちが観察できるものもあります。これらの戦略はすべて、個人への攻撃を目的としています。つまり、個人の情動性や日々のリズム、仕事において、孤立させられ、攻撃されるのであり、また、均一かつ匿名の方法で大衆を攻撃するのです。

反対する人々、つまり、モルモットにされることを受け入れず、世界の人口が慢性病患者の集団に変えられて一割が減少するのを見ることを受け入ない人々は、前世紀の他の独裁政権の時代と同じように、いや、それ以上に不従順が必要であることを理解しなければなりません。第二次世界大戦後のレトリックを反ナチズムに基づいて構築してきたのに、強制収容所を可能にしたのと同じ差別が、より冷酷な形でいま再び発生していることを誰も認識していないのは憂慮すべきことです。20世紀の全体主義体制は、イスラエル国家をはじめとする今日起きている事態の準備実験ではなかったのだろうかと疑問に思われるでしょう。

そして、私たちを憂慮させているのは、大衆が自ら専制体制下に置かれるのを許していることです。しかも、現代はまさに、革命が近代性の重要なテーマの一つであるにもかかわらず、さらには、この革命の原理が、第二バチカン公会議によって、まさに聖なる領域に入り込んだ時代であるにもかかわらず、です。しかし、純粋なカトリックの見方からすれば、混沌(カオス)は、良き権威への反抗と、悪しき権威への卑屈な従順の両方で、いま私たちの目の前にある転覆において、自ら姿を現しているのです。これは、その時代錯誤的な傲慢さを見せて、私たちを信じられない気持ちにさせます。

 

ヴィガノ・テープ:「私たちは決して受け入れない」
質問9

The Vigano Tapes: “In no way can we accept”
Question #9


【質問9】大司教様、大司教様はもう一度、人々がモルモットとして使われていること、健康対策のために人間が慢性的な病気になっていることについて、非常に劇的な言葉で語っておられます。また、大司教様が一種の新しい全体主義と呼んでおられるものに抵抗することを私たちに求めておられます。しかし、本当の事実を理解することができず、自分たちの立場が本当のところはどうなのかを実際に知ることができない状態で、私たちが直面している脅威について、本当に統一された結論を出すことができるでしょうか? 大司教様は何を提案なさいますか? 大司教様、例を挙げていただけますか?

【回答】私は、私たちが直面している欺瞞を指し示して人々の目を開かせることが重要だと考えています。それは、誤った前提に基づく欺瞞であって、あらかじめ巧みに作られ、ドグマ的(教条的)に押し付けられたものです。それは、すでに計画され・実行された誤った解決策を正当化するためのものでした。

パンデミックは、通常の状況であれば大衆に軽蔑をもって拒否されるような社会的統制を押し付けることを目的としていましたが、メディアによるテロリズムと、医師、政治家、裁判官、法執行機関の共犯のおかげで、多くの国々で、さらには教会施設そのものにも、導入ができるようになりました。サンタマルタ(ベルゴリオが住む住居)では、グリーンパスがなければカフェテリアで食事をすることができず、多くのカトリック学校や大学では、すべての職員と学生にワクチンの接種が義務付けられています。まもなく、私たちは、旅行や官公庁への入館、投票、教会へ行くために、ワクチンパスポートの提示を求められるようになるでしょう。

私はこの点を明確にしたいと思います。問題の次元を理解することがなければ、問題の作者を認識してその目的を見極めることがなければ、私たちは決してその問題から抜け出すことはできません。なぜなら、主は私たちを助けに来られるために、私たちが、自分を苦しめている悪を認識し、その原因を理解し、その後、主に赦しを願って償うことを望んでおられるからです。

ですから、この地上が地獄のようになってしまった原因は、天主を捨ててしまったことであり、この世的・霊的な主権において天主を否定してしまったことであり、王冠を奪って敵【悪魔】に与えてしまったことです。現在の社会が、キリストの十字架を踏みにじることができるという錯覚の中で、自らをサタンの奴隷にしてしまったことを理解したとき、初めて私たちは天主の御あわれみを請い求め、天主のご介入を懇願することができるのです。


「ロザリオの秘密」by 聖ルイ・グリニョン・ド・モンフォール 「献辞」

2021年10月20日 | カトリックとは

ロザリオの秘密

聖ルイ・グリニョン・ド・モンフォール

献辞

白いバラ:司祭たちへ

親愛なる崇高な奉仕者である司祭の方々、天主の真理を説教し、すべての国に福音を宣べ伝える同僚である司祭の皆様、この小さな本を白いバラのようにして、あなた方にぜひ持っていて頂きたいと思います。そこに書かれている真理は、ご覧のように非常に単純で分かりやすく示されています。あなた方自身が聖なるロザリオを実践し、その実りを味わうことができるように、どうかこれらを心に留めておいてください。また、あなた方が常にこの聖なるロザリオの信心の素晴らしさを伝え、それによって他の人々を回心させるための説教の言葉を口にする時にはいつも、このことを唇に留めておいてください。

私は皆さんに、無知な人々や何人かの偉大かもしれませんが高慢な学者たちのように、ロザリオを重要でないものと考えないようにお願いしたいと思います。ロザリオは重要でないどころか、天主から霊感を与えられた貴重な宝物であります。

全能の天主は、最も罪に凝り固まった罪人や頑固な異端者を回心させるための手段として、あなたにこのロザリオを使ってほしいと願い、それを与えられたのです。天主はこのロザリオに、現世における御恵みと、来世における栄光を付与しておられます。聖人たちは忠実にそれを伝え、教皇たちはそれを支持してこられました。

聖霊がこの秘密を司祭や霊的指導者に啓示したとき、その司祭はなんと祝福されていることでしょう!なぜなら、大多数の人はこの秘密を知らないか、さもなければ表面的にしか知らないからです。そのような司祭がこの秘密を本当に理解していれば、毎日ロザリオを唱え、他の人にも唱えるように勧めることでしょう。天主と祝された御母は、彼の霊魂に豊かな御恵みを注ぎ、彼が天主の栄光のための道具となるようにして下さり、彼の言葉は、単純ではありますが、他の説教者が数年かけて行うものよりも、一ヶ月でより多くの善をもたらすでしょう。

ですから、私の親愛なる兄弟、同胞である司祭の皆様、私たちがこの信心を他人に説教するだけでは十分ではなく、私たち自身がそれを実践しなければなりません。たとえ私たちが聖なるロザリオの重要性を強く信じていても、私たち自身がそれを実践しなければ、人々が私たちの助言に基づいて行動することは期待できません。というのも、誰も自分が持っていないものを与えることはできないからです。『イエズスがはじめから行ない、また教えられた…』私たちは、御自分が説教したことを実践することから始められた聖主に模倣すべきです。十字架に付けられたイエズスの他には何も知らず、何も説教しなかった聖パウロに倣うべきです。これは聖なるロザリオを説教する場合に、本当に真実にあなたがやるべきことです。聖なるロザリオは、ただ単に「主祷文」と「天使祝詞」を集めたものではなく、イエズスとマリアの御生涯、御受難、御死去、栄光の神秘を素晴らしく要約したものなのです。

私は、聖なるロザリオの説教の効果を経験するために天主が私に与えてくださった御恵みと、それによってもたらされた最も素晴らしい回心をこの目で見たことについて、長々とお話しすることができます。もしそれがあなたの心を動かし、この美しい信心を説くことになると思えば、最近の司祭はそうする習慣がないとしても、喜んでこれらすべてのことをお話します。しかし、このようなお話の代わりに、聖なるロザリオに関するいくつかの古い、しかし本当の話をすれば、私が書いているこの小さな要約には十分だと思います。これらの抜粋は、私がフランス語で信者のために説明したことを証明しています。

赤いバラ:罪人たちへ

罪人である哀れな男女のために、あなた方よりも大きな罪人である私が、この真紅のバラをあなた方に贈りたいと思います。なぜなら、私たちの主の尊い御血がその上に降り注いだからです。主が、このバラによって皆さんの人生に真の香りをもたらして下さいますように、そして何よりも、皆さんの陥っている危機から救って下さいますように。

毎日、不信心者や悔い改めていない罪人たちはこう叫んでいます。「バラの花の冠をかぶろう。」
しかし、私たちはこう叫ぶべきです、「至聖なるロザリオのバラの花の冠をかぶろう 」と。

彼らのバラと私たちのバラはどれほど違うことでしょうか!彼らのバラは、肉の喜び、世俗的な名誉、あっという間に枯れて朽ちてしまう一時的な富ですが、しかし、私たちのバラは、私たちが敬虔に何度も繰り返し唱えてきた「天にまします」と「めでたし」であって、また、それに良い痛悔の行為を加えたものであって、それらは決して枯れることはなく、数千年後も今日と同じように美しいものであることでしょう。

逆に、罪人たちのバラは、バラのように見えるだけで、実際には残酷な棘であり、生きている間は良心の呵責で刺され、死ぬときには苦い後悔で刺され、さらに悪いことには、永遠に怒りと絶望の燃え盛る火柱となるのです。

しかし、もし私たちのバラに棘があったとしても、それは私たちをバラへと変えてくださるイエズス・キリストの棘です。私たちのバラが私たちを刺すとしても、それはほんの少しの間だけであって、罪という病を癒し、私たちの霊魂を救うためだけのものです。

ですから私たちはぜひ、この天からのバラを熱心に頂いて身にまとい、毎日ロザリオのすべてを唱えましょう。つまり、五連ごとにある三つのロザリオを唱えることによって、三つの小さな花輪や花冠を身に着けるのです。

これには二つの理由があります。

まず第一に、イエズスとマリアの三つの冠、すなわち、イエズスの御托身の時の恵みの冠、御受難の時の茨の冠、天国における栄光の冠、そしてもちろん、最も祝福された三位一体が天国においてマリアに与えられた三重の冠を称えるためです。

第二に、私たち自身がイエズスとマリアから三つの冠を受けるために、このようにすべきです。一つ目は生きている間の功徳の冠、二つ目は私たちの臨終の際の平和の冠、そして三つ目は天国における栄光の冠です。

もしあなたが死ぬまで忠実にロザリオを唱えるなら、あなたの罪の重さにもかかわらず、「あなたは色あせない栄光の冠を受ける」と私は保証します。 たとえあなたが天罰を受ける寸前であっても、地獄に片足を突っ込んでいても、黒魔術を行う魔術師のように悪魔に魂を売ってしまっていても、悪魔のように頑固な異端者であっても、遅かれ早かれ、回心して人生を改め、救霊を全うすることになるでしょう。もしーー私が言うことをよく覚えておいてほしいのですがーーもし、あなたが真理を知り、痛悔と罪の赦しを得るために、死ぬまで毎日忠実に聖なるロザリオを唱えるなら。

この本には、聖なるロザリオの力によって大回心した罪人たちの物語がいくつかあります。ぜひそれらを読んで黙想してみてください。

神秘的なバラの木:敬虔な霊魂たちへ

聖霊の光の中を歩む、善良で敬虔な霊魂の皆さん。私がこの天から直接送られた小さな神秘的なバラの木をあなたに贈り、あなたの霊魂の庭にそれらを植えても、あなたは気にしないと思います。それは天国の木であって美しい香りを放つため、あなたの黙想の花の甘い香りを邪魔をすることは少しもありません。それ自体が純粋で秩序立っているので、すべての人を秩序と純粋さに向かわせます。丁寧に水をやり、毎日きちんと手入れをすれば、驚くほどの高さに成長し、その枝は広く伸びるので、他の信心を妨げるどころか、それらを維持し、完全なものにしてくれます。

もちろん、あなたは霊的な心をお持ちなので、私が何を言いたいのか理解しているでしょう。この神秘的なバラの木は、イエズスとマリアの御生涯と御死去と永遠であり、その緑の葉は喜びの玄義、棘は苦しみの玄義、花はイエズスとマリアの栄えの玄義です。つぼみはイエズスとマリアの幼少期であり、開いた花は苦しみの内にいるイエズスとマリアを表し、満開のバラの花は勝利と栄光の中におられるイエズスとマリアを象徴しています。

バラはその美しさで私たちを楽しませてくれますが、それは「喜びの玄義」の中のイエズスとマリアを表しています。その棘は鋭く、刺すようなもので、「苦しみの玄義」に思いを馳せることができます。そして何よりも、その香りは誰もが好むほどに甘く、それは二人の栄光ある「栄えの玄義」を象徴しています。

どうか、この美しい天国の木を軽蔑せず、あなた方自身の手で霊魂の庭にそれを植え、毎日ロザリオを唱えることを決意してください。毎日ロザリオを唱え、善い行いをすることで、木を手入れし、水をやり、周りの土を耕すことになります。

やがてあなたは、私があなたに与えたこの小さな種が、今はとても小さいように見えても、天の鳥たち、つまり天主によって救いに定められた観想的な霊魂たちがそこに住み、巣を作るほどの大きな木に成長することを知るでしょう。その木陰は灼熱の太陽から彼らを守り、その高さは地上の野獣から彼らを守ります。そして何よりも、彼らはその木の実を食べるでしょう、その実とはーー私たちの愛すべきイエズスに他ならず、その方にこそ、永遠に代々に至るまで栄えと誉れとがあるのです。アーメン。

天主のみ

バラのつぼみ:小さな子供たちへ

この美しいバラのつぼみは、あなたたちのためにあります。それはロザリオの珠のひとつであって、あなたたちにはとても小さなものに見えるかもしれません。しかし、この珠がどれほど貴重なものであるかをあなたが知ったならば!この素敵なつぼみは、あなたが「めでたし」を上手に唱えることによって、豪華なバラの花として開くのです。

もちろん、毎日十五の玄義を全部唱えろというのは無理な話ですが、少なくとも五つの玄義を、愛と信心をもってきちんと唱えてください。このロザリオは、あなたの小さなバラの花輪であり、イエズスとマリアのためのあなたの花冠です。私が話したすべての言葉に注意を払ってください。そして、私があなたに話したい、あなたに覚えておいてもらいたい真実の物語をよく聞いてください。

二人の女の子(二人の小さな姉妹)が家の前でとても素晴らしく敬虔にロザリオを唱えていました。すると、突然美しい女性が現れ、まだ六歳か七歳くらいの妹の方に歩いてきて、彼女の手を引いて連れて行きました。姉はとても驚いて、あちこち探しました。結局、妹は見つからず、姉は家に帰って両親に、「妹が誘拐された」と悲痛な思いで告げました。貧しい父と母は丸三日間、その子を探しましたが見つかりませんでした。

三日目の終わりに、玄関先でとても嬉しそうにしている彼女を見つけました。当然、どこに行っていたのかと尋ねると、ロザリオを唱えていた聖母が素敵な場所に連れて行ってくれて、おいしいものを食べさせてくれたのだという。彼女はまた、聖母から男の子の赤ちゃんを抱かせてもらい、その子はとても美しく、何度も何度もキスをしたと言っていました。

カトリックに改宗して間もない父と母は、彼らを教会に迎え入れるための指導をしてくれ、また彼らに至聖なるロザリオへの信心を教えてくれたイエズス会の神父をすぐに呼び寄せました。そして彼らは起こったすべての出来事をこの神父に話し、そして私にこの話をしてくれたのは、この神父自身でした。これはパラグアイでの出来事です。

だから、親愛なる子供たちよ、この少女たちの真似をして、彼女たちがいつもしていたように、毎日ロザリオを唱えてください。そうすれば、天国に行ってイエズス様とマリア様にお会いする権利を得ることができます。もし、現世でお会いすることがイエズス様とマリア様の御望みでなくても、少なくともあなたたちが死んだ後、永遠にイエズス様とマリア様にお会いすることができるでしょう。アーメン。

ですから、すべての人が、学識ある人も無知な人も、義人も罪人も、偉大な人も小さな人も、夜も昼も、至聖なるロザリオを唱えて、イエズスとマリアを讃え、敬いましょう。"あなたがたの間で多くの働きをされたマリアに敬意を込めて挨拶申し上げます。"


ヴィガノ・テープ 質問6と7:「権威の限界」「混沌が姿を現わす」:ヴィガノ大司教「誰も、本質的に邪悪な命令への従順を押し付けることはできません。」

2021年10月20日 | カトリック・ニュースなど

【参考資料】ヴィガノ・テープ:権威の限界
質問6

The Vigano Tapes: The Limits of Authority
Question #6


【質問6】大司教様は、教会でも世界でも、私たちは行き詰まりを感じているとおっしゃいました。大司教様は、ディープ・チャーチとディープ・ステートとの間にある一種の同盟について述べておられますが、これは聖伝のキリスト教の教えや、民主的な西洋の自由な人々の自由に対する伝統的な願望に沿ったものではないと感じています。しかし、もし大司教様がこの行き詰まりや袋小路を説かれるのであれば、人々に何を示唆なさっているのでしょうか? ある種の不従順、ある種の反抗をするよう示唆なさっているのでしょうか? 大司教様のお言葉は、不従順を誘っているように聞こえるかもしれないとは思われませんか?

【回答】カトリック信者は、自然に秩序を重んじ、権威や位階階級を尊重します。なぜなら、この秩序と権威は天主の知恵から生まれたものであり、教会だけでなく公務を統治するのに必要なものだからです。

しかし、人間の権威が天主に由来するものであるからこそ、カトリック信者は、一般市民と同様に、その権威が制定されている理由そのものに反する目標を設定する人々による権威の簒奪を受け入れることはできません。主は、使徒のかしらの後継者を教会のトップに置き、その人を主の代理者として指定なさいました。それは、主がその人にお委ねになった羊を散らすためではなく、牧するためです。そうでないならば、主は聖ペトロではなくユダをお選びになったことでしょう。同様に、この世の統治者の権威は、自らの正当性を良き統治に見いだすものであり、市民を奴隷にして悪事を強要ししてはならないし、「誠実な生き方」という直近の目的と「永遠の救い」という最終的な目的とを追求するのを妨げてもなりません。もし権威がその義務を果たさず、さらにはその義務を裏切って目的を転覆させるならば、その権威にはもはや臣民の従順を要求する資格はありません。

従順とは、正義と結びついた聖徳であって、権力に無批判に服従することではありません。なぜなら、そうしてしまえば、従順は悪を行う者への隷属および共謀に堕するからです。誰も、本質的に邪悪な命令への従順を押し付けることはできません。悪をほしいままにするために権威を濫用する者に権威を認めることもできません。このように、不法な命令に抵抗する人々は、明らかにその命令を下した人に従わず、天主に従います。何故なら、天主の権力が、代理の権威によって、その目的に反して、つまり、天主ご自身に反して行使されているからです。


ヴィガノ・テープ:「混沌が姿を現わす」
質問7

The Vigano Tapes: “Chaos Manifests Itself”
Question #7


【質問7】大司教様、大司教様は、正当な権威と正当でない権威の区別、すなわち、従うべき正当な命令と、従うべきではなく抵抗すべき正当でない命令の区別についてお話しになりました。しかし、どのようにして区別することができるのでしょうか? 聖パウロがローマ人への手紙の中で、キリスト信者が制定された権威に従う必要があることについて非常に明確に語っているのは、その通りではないでしょうか。大司教様はどのように言われますか? 聖パウロの勧告(ローマ13章)に従って、やはり権威を擁護し、尊重すべきではないでしょうか?

【回答】聖パウロはローマ市民でしたから、後に西洋諸国の法の基礎となり教会にも採用された法によって規制された権力というもののの例が目の前にありました。今日、私たちを統治している権威は、何千年にもわたるギリシャ・ローマおよびキリスト教の文明を取り消し、私たちをアッシリア人の野蛮状態に、つまり権威自身でさえ遵守することが義務付けられている法律および絶対的原則さえもがない状態に、引き戻しているのです。権力を持つ人々は、自らを国民の代表として提示していますが、実際には国民に反対して行動しており、上からも(統治する人々の権力が天主に由来するという起源を取り消しているため)、下からも(自分に有利になるように投票を操作できると確信しない限り、市民に自分の代表者を選ばせないため)、何の制約もなく、制限もないのです。

私はこの法の野蛮化を強調したいと思います。私の意見では、この野蛮化こそが、権威の危機の原因、その倒錯と図々しい傲慢さの原因です。これらの専制君主はたち、武装した警備員に守られた宮殿に閉じこもり、センナケリブ【アッシリア帝国の王】のように振る舞い、財政的、政治的、メディア的手段を利用できることで保証された全能感の錯覚の中で、自分の権威を神格化しているのです。

そして、私たちを憂慮させているのは、大衆が自ら暴政に支配されるのを許していることです。まさに現代、革命を近代の主要なテーマの一つとし、革命の原理を第二バチカン公会議で聖域に導入した時代に、暴政を許していることです。しかし、純粋なカトリックの視点では、混沌は、良き権威への反抗と悪しき権威への卑屈な従順の両方で姿を現します。この転覆状態は、まさに私たちの目の前にあって、時代錯誤の傲慢さで私たちを信じられない気持ちにさせているのです。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
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