2018年3月23日(金)御受難の主日の後の金曜日のミサ 「聖母の七つの御悲しみ」
小野田神父 説教
小野田神父 説教
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は御受難の主日の後の金曜日のミサをしています。今日のこの御ミサの後で、もしも時間がある方は終課を唱える事に致しましょう。明日も朝10時30分からミサがあります。
それから来たる金曜日は来週の金曜日は聖金曜日で、20歳から59歳までの成年のカトリック信者は、大小斎を守る義務があります。4月1日は復活祭です。夕方の18時からここで復活祭のミサがあります。いらっしゃる事を歓迎致します。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日はあと1週間で聖金曜日です。そこで教会では、この金曜日を特別にマリア様の七つの御悲しみに捧げて、その記念を行っています。そこで今日は皆さんに少しだけ、マリア様の七つの御悲しみの事を黙想する事を提案します。
イエズス様が聖木曜日に、ゲッセマニの園にてお祈りをしていた時には、人類にとって最も真っ暗闇の時でした。満月で月は光々と輝いていたのですけれども、人々の心は非常に悪に染まっていました。なぜかというと、この世を創造した天主の御一人子が人となって、そして私たちに御自分自身を御聖体として与えようとした、愛の極みを、愛の秘跡を制定したその時に、人類はこの天主の御子、愛である天主御自身を、生命であるイエズス様を亡き者にしようと企んでいたからです。
ゲッセマニの園にてイエズス様はその悪を見て、これから受けようとする苦しみを思い、罪の邪悪さを思い、そしてこれから受けようとする苦しみが無益である、多くの人々にとって無益であるという事を知り、非常に苦しまれました。「私の霊魂は死ぬほどに苦しんでいる」と弟子たちに言います。
イエズス様のこの苦しみの極致は、カトリックの選ばれた霊魂たちに特別に啓示されました。聖女ゲルトルード、聖マルガリタ・マリア・アラコック、あるいはその他有名な選ばれた霊魂たちは、イエズス様のゲッセマニの園の苦しみの秘密を教えられています。マリア様もその例外ではなかったはずです。マリア様はたとえゲッセマニの園に、園のすぐ近くにいらっしゃらなかったとしても、イエズス様の苦しみとほぼ同じような苦しみを、特別の仕方で苦しまれたに違いありません。
そのうちに、マリア様がその苦しみと悲しみでおそらく血の涙を流しておられたようなほどの、悲しみの極致におられた時に、おそらくニュースを伝える夫人が、あるいは人たちがマリア様の所にやって来たかもしれません。
「マリア様、お母様!」コンコンコン。「夜分遅く失礼します。12人の弟子たちの内の一人が、私の元に泣きながらやって来ました。イエズス様が逮捕されたそうです。ユダが接吻をもって裏切りました。でもお母様、心配しないで下さい。イエズス様はいつも危ない時には自分の身を守ってきました。大丈夫です。イエズス様は身の潔白な方ですから、今回も大丈夫に違いありません。ご心配なさらないで下さい。今日はゆっくり休んで下さい。」「ありがとう。」
マリア様はこの夜が、イエズス様のおそらく最後の夜であるという事を感付いていたに違いありません。マリア様はどうしてゆっくりと眠っている事ができたでしょうか。マリア様は苦悩の内に、御子イエズス様の為に一緒に祈っていたに違いません。
真夜中に、おそらく泣きながら使徒ヨハネがマリア様の元に、コンコンコン、「お母様!」コンコン、「お母様、お母様!」「夜分遅くすみません、こんな真夜中にすみません。」「ヨハネや、どうしたのかい?」「イエズス様が、イエズス様が捕まっています。私は大司祭の元に行きました。アンナとカイファの元に後を付いて行きました。私はこの大司祭のしもべを知っているのです。ペトロも付いてきました。そしてイエズス様がその中で、夜中に裁判を受けました。残酷に拷問を受けられました。明日はどうもピラトの元に出頭されるかもしれません。大司祭たちがそんな事を話していました。お祈り下さい。」「はい。ありがとう。ヨハネ、さぁ休みなさい。私は少しお祈りします。」
マリア様はイエズス様の為に一生懸命お祈りなさったに違いありません。徹夜のお祈りをなされたに違いありません。夜が明けて日がまた昇り、うっすらと太陽が姿を現した時も、マリア様はずっとお祈りをしていたに違いありません。
ヨハネも朝になって起きてきました。「お母様、大丈夫ですか?」「ヨハネ、お祈りをしていたのです。」「お母様、お母様もお休み下さい。」「ヨハネ、ピラトの元に行きましょう。」「あぁ、行ってはいけません。悲しい思いをするだけです。ここにいらして下さい。」「ヨハネ、私は行かなければなりません。」「お母様が行くなら私も行きます。」
おそらくマリア様とヨハネは、朝ピラトの元に、イエズス様が一体どうなるかを近くでお祈りする為にいらしたに違いありません。すでに多くの人々でピラトの官邸はいっぱいでした。ユダヤ人たちがイエズス様を連行してピラトの元に死刑を求めていました。ピラトはそれを拒否しようとしますが、しかし何とかしてユダヤ人たちを宥めようと、政治的な取引きをしていきました。イエズス様を自分の元に引き寄せて、「お前はユダヤの王なのか?」などと色々な事を聞きます。
マリア様は他の群集たちと一緒に、その庭の近くで様子を見ていました。するとピラトはイエズス様をバルコニーの所から、ベランダから姿を連れ出したではないですか。「あれがイエズス様!?」
茨の冠を被せられて、鞭打たれて傷だらけになって、嘲笑のマントを着せられて、赤いマントを緋のマントを着せられて、嘲りの王様の姿をしているイエズス様を見せられて、「この人を見よ!“Ecce homo!”」ピラトはいけにえを見出します、“Ecce”マリア様も昔、御告げの時の、「我、主の婢女なり」と“Ecce ancilla”と言った言葉をきっと思い出したに違いありません。
すると周りの人たちが、「十字架に付けよ!」「十字架に付けよ!」
ピラトはどうしようかと困ります。バラバという極悪人を連れてきました。「さぁ、毎年過越の祭りには一人の人を開放する事が許されている習慣だ。君たちはどれを選ぶか。極悪人の殺人犯のバラバか?あるいはこのキリストか、イエズスか?」
「バラバを!」「バラバを!」「バラバ!」「バラバ!」
「ではこのキリストはどうしたら良いのか!?」
「十字架に付けよ!」
それを聞いて、マリア様は一体どれほどのご心痛を受けたでしょうか。「一体イエズス様が、一体何の悪い事をしたのだろうか。なぜ、そんなに笑われるような事を何をしたのか。」
ピラトは言います、「この男が一体何をしたのか!?」
「十字架に付けよ!」
イエズス様は、この全宇宙を無から創り出して、私たちに与えた、私たちの為に、罪を犯した私たちの為に人となった、私たちを癒す為に奇跡を行なった、私たちの暗闇を照らす為に教えて歩き周った、私たちの為に御聖体を制定された、「何をしたのか?十字架に付けられるほどの事を何をしたのか?」マリア様はイエズス様のなさった全ての良い事を1つ1つ思い出して、その優しい御言葉、その奇跡を思い出して、ますます悲しみに沈まれたに違いありません。
すると、よく見るとピラトは手を洗い出したではないですか。そしてイエズス様を「十字架に付ける」と言っています。ユダヤ人たちは喜んでいます。
「お母様。」ヨハネは涙をぽろぽろと出して、マリア様の元にいます。「どうしたら良いでしょうか。」「ヨハネ、さぁ私たちもイエズス様の十字架の後を会いに行きましょう。」「あぁ、悲しむだけです。お母様、もうこの場所から去った方が良いです。さぁ、どこかに身を隠しましょう。」「だめです。」
そしてマリア様とヨハネは、イエズス様が通るだろうと思われるその十字架の道に先取りして行こうとしています。群集の中を割き分けて行きます。遠くから騒ぎ声が近付いてくるのが聞こえます。「あぁヨハネや、きっとここを通るに違いありません。ここで待っていましょう。」すると兵士たちがイエズス様の捨て札を持っているのが見えます。「ナザレトのイエズス、ユダヤの王」と書かれています。“IESUS NAZARENUS REX IUDAEORUM”
その捨て札を見ると、マリア様の心にイエズス様、「イエズス」という名前がまず目に入ます。これは天主の御告げの時に、「この名前を付けなさい」と言われたその聖なる名前。8日目には割礼をもってその正式に付けられたその名前。イエズス様の御血、イエズス様のその犠牲、「救い主」というその名前の事をしみじみと思い出します。「あぁ」御告げを受けたその昔の事を、マリア様は思い出したに違いありません。天使の事、イエズス様の御幼年の事。
「ナザレト」ナザレトでは本当に30年間、一緒にイエズス様と暮らした事を思い出したに違いありません。イエズス様はこの世界を一言で、この美しい太陽と星々と、金銀と世界中の全ての善と美を創り出した者ですから、そのイエズス様が30年間、額に汗を流して、低賃金で、非常に苦労しながら物を作っていた、ヨゼフ様の下で働いていたそのナザレト。マリア様とヨゼフ様に従順に従った、そのナザレトの御生活を思い出したに違いありません。
「ナザレトのイエズス」30年間の思い出がまざまざとよみがえっています。イエズス様のその微笑み、イエズス様のその朗らかさ、イエズス様の優しさ、親切、何としてこの隣人たちを助けた事、貧しい賃金の中から、イエズス様が貧しい人を助けた事、ただで働いてあげた事、イエズス様のその苦しい、しかし愛徳に満ちた御生活、ナザレトでの美しい生活の事を思い出したに違いありません。
「ユダヤ人の王」はい、確かにイエズス様は王の王、真の王、この世の創り主、天主の聖子、ダヴィドの子孫、そして今御血をもって人類を贖おうとする征服者、悪魔を打ち倒して人間の霊魂を全て勝ち取ろうとする真の王、その事をマリア様は黙想したに違いありません。
すると、イエズス様が十字架を担って、ヨロヨロと一歩一歩近付いて来るのが見えます。イエズス様の目がマリア様の目と合います。マリア様の御姿を見たイエズス様の悲しみはどれほどだったでしょうか。そのイエズス様を見たマリア様の御悲しみはどれほどだったでしょうか。
今日この御ミサの前に病者の訪問をしました。終油の秘跡を授けた方がいらっしゃいますが、骨折をしていて、そして足はむくんでいて、見るに堪えない、そして痛がっておられました。イエズス様の体全身が傷だらけで、茨の冠を被せられて、そして重い十字架を担がされてその歩かされている、罪のないにもかかわらず、その拷問を受けている御子を見た母マリア様の御悲しみはどれほどだったでしょう。
普通の母親でしたら、「一体私の子が何をしたのですか!やめて下さい!」と叫んだかもしれません。「さぁ誰か!誰かこの無実の子を何とかして下さい!」と言ったかもしれません。マリア様は何も言わずに、イエズス様の後を、涙を流しながら一緒に歩いて行きました。マリア様はよく知っていました。イエズス様は私たちの罪の為に、私たちを愛するが為に、私たちの代わりに、この十字架の重みを担いでおられるという事を。ですからマリア様もイエズス様と共に、私たちの為にこの十字架の後を従っておられました。
イエズス様が倒れた時に、それをご覧になったマリア様の悲しみはどれほどだったでしょうか。イエズス様が痛そうな顔をすればするほど、御心は剣で刺し貫かれたように、ズキッ、ズシンとした痛みが刺し貫いたに違いありません。
でも見て下さい。ある一人の勇敢な女性が近付いてきます。ベロニカがやって来ました。意地悪な人たちの間をすり抜けて、イエズス様の近くに寄って、きれいなタオルをイエズス様に差し出して、「御顔を拭いて下さい」と慰めの心を示しました。「あぁ、ベロニカや、ありがとう。あなたはイエズス様をこうやって慰めてくれたのね。ありがとう、ベロニカ。」そしてマリア様は、このような勇敢な霊魂が、寛大な霊魂たちが、イエズス様にタオルを、ハンカチを、あるいは慰めを、あるいは祈りを、あるいは犠牲を捧げて、何とかイエズス様の苦しみを和らげようとする時、マリア様はどれほどの喜びと慰めを受ける事でしょうか。
マリア様はシレネのシモンが十字架を担いでくれるのを見て、「あぁ、シモンや、ありがとう」ときっと思ったに違いありません。イエズス様もそのシレネのシモンにどれほど感謝した事でしょうか。「私の十字架を担ってくれた。ありがとう。」そしてマリア様も、私たちがイエズス様の十字架を少しでも担うという恵みを受けた時に、どれほど私たちに感謝をされる事でしょうか。
見て下さい。どれほどユダヤ人たちが荒々しくイエズス様を足蹴にしたり、叩いたり、侮辱したり、唾したりした事でしょうか。マリア様はそれをじっと耐え忍んでおられます。母親の心にとってどれほど引き裂かれるほどの悲しみだったでしょうか。
マリア様はイエズス様と共にカルワリオの丘に着きます。イエズス様は衣を剥がされます。十字架に釘付けにされます。釘の金槌の音を聞いて下さい。カーン!カーン!カーン!イエズス様の手足に釘がどんどん入っていきます。イエズス様の顔を見て下さい。痛そうな顔を見て下さい。手から足から、血が、血潮が流れ出しています。イエズス様はそれを食いしばって、神経に触れてビリビリとおそらく痛かったに違いありません。その顔の表情を見るだけで、どれほど苦しいかという事が分かります。それを見ているマリア様は、更に心が張り裂けるような苦しみを持っていました。
そのイエズス様が十字架に付けられて、十字架の上に立たされた時に、イエズス様にとって一番苦しかった事は何だったでしょうか?人々がイエズス様を馬鹿にして、呪いの顔をして、恐ろしい形相をしているのを見た事だったでしょうか?あるいはイエズス様が呪いの言葉を、皆から馬鹿にするような言葉を聞いた事でしょうか?「あぁ他人を救って自分を救えないのか?キリストならば自分を救えば良い!そうしたら信じてあげよう。」あるいは自分の体に走る激痛の事を悲しんだ事でしょうか?
悲しみは、すぐ近くにいる汚れなき御母が、自分の苦しみを見て、自分と同じ悲しみと苦しみを感じておられる、という事が何よりもの悲しみでした、苦しみでした。「母がこれほど苦しんでいる。」 しかしお母様がマリア様が、私たち人類の救いのために、第2のエヴァとして、自分と一緒に苦しみを捧げているという事にどれほど感謝しておられた事でしょうか。
この最愛の母を、イエズス様は聖ヨハネを通して私たちに与えます。「女よ、汝の子ここにあり。」ヨハネに向かっては、「汝の母ここにあり。」マリア様はこの言葉を確かに聞き、そして私たちをイエズス様と同じような愛をもって愛して下さっています。イエズス様を死に至らしめた私たちですが、イエズス様と同じような愛で、イエズス様を愛すると同じ心で、私たちを愛して下さっておられます。
イエズス様が十字架で、「聖父よ、なぜ私を捨て給うのでしょうか」という言葉を聞いた時に、どれほどイエズス様が悲しんでおられるか、苦しんでおられるか、という事をマリア様は思ったに違いありません。「全て成し遂げられた」と、イエズス様が最後の言葉を言って息を引き取った時に、マリア様の心もグサリと剣が走ったに違いありません。マリア様は全てのこの苦しみを私たちの為に、イエズス様と共に捧げて下さいました。
このマリア様にとっての確かに悲しみは、イエズス様の御苦しみを見たその事ですけれども、それよりももっと大きな悲しみがあります。マリア様のこの悲しみは、「十字架の下でいたこのイエズス様の悲しみと、御自分の悲しみが、全く多くの人々にとって無益となっている」という事です。イエズス様がこれほど悲しんだにもかかわらず、マリア様がこれほど悲しんで、人類の救いを、私たちが天国に行く事をこれほど望んでいるにもかかわらず、多くの人はそれを、全く考えもしなければ、認識もしなければ、ありがたくも思わなければ、何でもないように考えて、イエズス様とマリア様のこの苦しみを無益としています。それがマリア様にとって更に大きな苦しみでした。
しかし今日マリア様は、このミサに与っている皆さんを見て、大きな慰めと喜びを感じているに違いありません。少なくとも私たちは、マリア様の御悲しみに思いを馳せて、マリア様をお慰めしよう、そしてマリア様の悲しみと涙と、イエズス様の御血を決して無駄にしたくない、と思っているからです。特にマリア様は小さなお友達を見て、「今日はよく来てくれた。ありがとう」と思っているに違いありません。
今日は是非このミサの中で、「マリア様、マリア様どうぞ助けて下さい。今までマリア様の事をあんまり考えてきませんでした。マリア様の事も、マリア様にこんなに苦しみを与えてしまうという事も考えずに自分の事を、イエズス様の事を無視してきました。でもこれからはマリア様の為に、マリア様を決して悲しませる事がないように、私が良いマリア様の子であるように助けて下さい。イエズス様とマリア様を喜ばせる事ができるように、ますますイエズス様に倣うように助けて下さい。マリア様、どうぞ今後マリア様から涙を流させるよりは、涙を乾かせるように、慰める事ができるように助けて下さい。」
では、このマリア様のこの七つの御悲しみの記念のミサを、その心をもって続けていきます。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。