アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
今日は、このブログの誕生日でもあります。16周年です。時が経つのは早いものですね!これからも宜しくおねがいいたします。
愛する兄弟姉妹の皆様、
今日は、このブログの誕生日でもあります。16周年です。時が経つのは早いものですね!これからも宜しくおねがいいたします。
フランスの聖ピオ十世会のシスター会にて修練期を過ごしているシスター・エスペランス(アグネス)は、今年の白衣の主日に初誓願を立てる許可がおりたとのことです。お祈りください。
今日は2017年1月21日(土)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2017年1月21日、童貞殉教者聖アグネスの祝日を祝っています。今日いつものようにミサの後に御聖体拝領の感謝の祈りを致しましょう。その後には1月の恒例の踏み絵に対する冒瀆の償いの儀式を致しましょう。
この聖アグネスの祝日には特に、今アグネスさんが修道女になろうとしてフランスに行っている行っているのでその彼女の為に、またアグネスの霊名を持つ全ての方々の為にお祈り致しましょう。
今日は日本には特別の訪問(フルーガー神父さま)がいらっしゃいます。「さぁ、花婿がやって来た。さぁ、起きて迎えに行け」という福音のこだまのようです。
“Ipsi sum desponsata. Ipsi soli servo fidemm, ipsi me tota devotione committo.”
「私はこの方に許嫁となった。この方だけに契りを守っている。この方だけに心を全て与えている。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
今申し上げた言葉は、聖アグネスが言った言葉を聖務日課が引用していた言葉でした。今日朝課という聖務日課の中で、この言葉をAntiphonaで唱えました。聖アグネスのこの祝日はまさにこの言葉に要約されているようです、「私は、天主であるイエズス・キリストと婚姻している、許嫁である。だから私の心も体も全てイエズス・キリストのものである。イエズス・キリスト以外の者には誰にも渡さない。」
そしてその教会は、イエズス・キリストの花嫁である教会は、この聖アグネスの言葉を取って、「その通りだ。」私たちも教会のイメージですから似姿ですから、私たちもアグネスに倣って、キリストの花嫁である教会の後に従って、「同じように聖アグネスのようになるように」と招いています。あたかも今日のこのミサは、婚姻の許嫁をする者の為のミサであるかのようです。花婿を待ち望む童貞たちのようです。
今日はこのミサの黙想では、聖アグネスの殉教の、どのような殉教したのか、一体何があったのか、その殉教を見たのちに、
第2に、教会はミサをどのように作っているのか、ミサの構造はどうなっているのか、
最後に、私たちはその殉教を見てどのような遷善の決心を取らなければならないか、何を考えるべきか、という事を黙想したいと思います。
今日はフルーガー神父様をお迎えに行かなければならないので、公教要理は残念ながらする事はできません。そこでお説教の時間を5分、公教要理の時間を5分間長く頂きたいと思っています。
聖アグネスは、昨日祝った聖ファビアノ教皇様殉教者は250年1月20日に亡くなりました、そして聖セバスチアノは280年1月20日に亡くなりました、そしてその10年ほど後に3世紀の終わり頃、1月21日にローマで亡くなりました。明日はやはり「勝利」という名前を持つヴィンセンシオの殉教者の祝日で、教会は私たちにこの「殉教」の意味について深く考えさせてくれます。ちょうど今日、日本では遠藤周作の小説に基づく『沈黙』という映画が公開される日ですので、殉教という事について私たちも深く黙想する事が相応しいと思います。
「アグネス」という名前は実は、これはギリシャ語から来ています。「アグネー αγνή」というのは「純潔」とか「潔白」という「ピュア」という意味なのです。そして「アグネー αγνή」というのは女性形ですけれども、「アグノイ αγνοί」となるとこれは男性形です。そこから来たのですけれども、ラテン語では「アニュス“子羊”」の女性形という風に理解されました。実際に聖アグネスが亡くなった8日の後に、栄光に輝くアグネスがお父さんお母さん両親たちの前に現れて、家族の前に現れて、その周りには童貞たちの一団に囲まれて、そしてその近くにはそのアグネスのもとには真っ白い純白な子羊がいた、というのを見ています。
カトリック教会でもこの8日後に、聖アグネスの第2の記念というものがあります。ですから聖アグネスは同時に「メスの子羊」、そして「純潔」という2つの意味を持っている、聖アウグスチヌスもその事をよく知っていて、その2つの意味について話しています。
今日伝統によると、純白の羽毛を教皇様が祝福して祝別して、その今日祝別された毛糸からその羽毛を使って、大司教様が着るべきパリウムいう特別の飾りがあるのですけれども、それを作る伝統があります。
聖アグネスの御墓の上に、コンスタンティノローマ皇帝は教会を建てました。そしてこの聖アグネスはあまりにもローマで有名な童貞殉教者であったので、色んな教父たちが聖アグネスの栄光についてたくさん讃美の事を記録を残しています。聖ヒエロニモとか大聖グレゴリオ、聖アンブロジオ、聖アウグスチヌノ等々書き残しています。
では聖アグネスはどのような殉教をしたかというと、その記録とその教父たちの証言によると、こういう事が起こりました。
若い13歳のアグネス少女は、学校の帰りに男の子と会いました。男の子はシンフロニウスというローマの市長の息子で、もちろんお父さんの権威もありますし、お金もありますし、どこかの貴族のボンボンの男の子だったに違いありません。そこでアグネスを見て、あまりにも美しい、可愛い、きれいな子だ、という事で一目惚れをします。そしてこの近くに行って、「さぁ、君の名前は何て言うのか?僕と一緒になろう、結婚しよう。さぁ、ここにとっても貴重な贈り物を与えよう」と、高価な贈り物を与えようとします。するとアグネスはそれを見て、「立ち去って下さい、死の食べ物よ。私はすでに許婚がいます。Disede a me, pabulum mortis, quia iam ab alio amotore praeventa sum! 」
このローマの市長の息子シンフロニウスは非常に驚いて、その拒絶にびっくりしました。そして怒りました。するとアグネスは説明します、「私は既に私の主イエズス・キリストから指輪をもらって、きれいな宝石の付いた指輪を貰って、既に許嫁となっている者です。イエズス・キリストは私に既に、手には、そして首には、そして耳飾りも、もう値の付けられる事ができないほどの貴重な宝石で私の身を飾ってくれました。Dexteram meam et collum meum cinxit lapidibus pretiosis, tradidit auribus meis inaestimabiles margaritas.」
「そして私には許嫁の冠りも下さいました。私はイエズス・キリストを愛しています。その御母は童貞であって、その御父様は女を知りません。私はそのイエズス・キリストの素晴らしい音楽の部屋に入り、そしてキリストを愛します。もしも私がキリストを愛する時、私は貞潔を守ります。私がキリストに触る時、私は純潔となります。私はキリストを受ける時、童貞でい続ける事ができます。Amo Christum, in cuius thalamum introibo, cuius mater virgo est, cuius pater feminam nescit, cuius mihi organa modulatis vocibus cantant: Quem cum amavero, casta sum; sum tetigero, munda sum; cum accepero, virgo sum.」
「私の体は既にその御体と一致しています、1つになっています。その御血を受けた私の頬は赤くなっています。その方と私は既に婚約の契りを結びました、許婚の契りを結びました。この方だけに私は私の約束を契りを守ります。私はこの方だけに私の心を全て与えました。Iam corpus eius corprori meo sociatum est, et sanguis eius ornavit genas meas.Ipsi sum desponsata. Ipsi soli servo fidemm, ipsi me tota devotione committo.」
非常に怒ったシンフロニウスは、「俺がただのそこらの汚い、薄汚いガキだと思っているのか!」と思って、そのアグネスを父親の前に訴えます、「この女はけしからん!殺してしまえ!」
すると子供からの訴えを聞いた父親は、ローマ市長の最高の力を使ってアグネスを辱しめようとします。そこで口にする事も汚いできないような罪の家に送り出します。体を汚してしまう、お金の為に汚してしまう女性たちがいるような所にアグネスをやってしまいます。するとアグネスはそれに答えて、「私の傍にはいつも私を守って下さる天使がいます。 Mecum enim habeo custodem corporis mei, Angelum Domini.」と言ってそこに連れられます。
その罪の家に不潔の家に入れられたアグネスは、汚らしい男たちから嫌がらせをされるところですが、すると眩い光が輝いて、アグネスを触ろうとする人、或いは何かをしようとする人々の目をくらましてしまって、皆何も見えなくなってしまいました。そしてアグネスに近寄ることが何もできません。
それを知らされた裁判官は、ローマの裁判官は怒って、「これは魔女だ!魔法を使っている!火あぶりにしてしまえ!」と宣決を下します。そしてアグネスは火の、メラメラと燃える轟々と焚かれる木の中にくべられます。するとアグネスは感謝の祈りをします、「全能の御父よ、その聖なる御身の御子によって私はあなたに讃美致します、あなたにお願い致します。御恵みによって私は心のない汚い暴君の凶悪から守られました。そして私は、罪を犯す汚らしい不潔の罪を犯すというその機会を、汚れを逃れた足で踏みつけにしました。さぁ見て下さい御父よ、御身の御子によって私はその御子の傍に今から参ります。私はこの御子を愛しました。この彼のみを探し求めました。そしていつもその主イエズス・キリストだけを求めています。さぁ、今から行きます。感謝致します。讃美致します」と祈ると、これからさぁアグネスは命を捧げようとすると、火が消えてしまったのです。
Omnipotens adorande colende tremende Pater Domini Nostri lesu Christi benedico te : quia per filium tuum unigenitum evasi minas hominum impiorum : et spurcitias diaboli impoluto calle transivi. Ecce et nunc per sanctum spiritum rore coelesti perfuso focus iuxta me moritur : flamma dividitur : et ardor incendii huius ad eos a quibus in me ministratur effunditur. Bendico te Pater praedicande : qui etiam inter flammas intrepidam me ad Te venire permittis. Ecce iam quod credidi video. Quod speravi iam teneo. Quod concupivi complector. Te confiteor labiis et corde, totis visceribus concupisco. Ecce ad te venio vivum et verum Deum : qui cum Domino nostro lesu Christo Filio tuo et cum Spiritu Sancto vivis et regnas semper et in cuncta saecula saeculorum. Cunque complevisset orationem : ita omnis ignis extinctus est : ut nec tepor quidem incendii remaneret.
それを見たアグネスはもう一度讃美の声をあげて、「全能の天主御父よ、御身の御子によって御身を讃美致します。私の周りにあったあのメラメラと轟々と燃える火は消えてしまいました。でも私の心は御身の愛に燃えていて、そして御身の事をいつも望んでいます。私は天において御身と一致しています。私がいつも愛し、全ての心を込めて愛したその方と一致しています」と讃美しました。
それを見た裁判官は非常に怒って、この火を消してしまったと思われるそのアグネスを呼び寄せて、「首を切ってしまえ!」として、剣で首をはねられて殉教の冠を戴きました。それが今日の事でした。
今日このミサでは特に、御聖体拝領の時にこの聖福音で読まれた、「さぁ花婿がやって来た。さぁ準備ができているか。さぁ外に出て主を花婿を迎えなさい」と言うその童貞たちの言葉を聞かせます。ちょうどその聖アグネスが殉教して、そしてその御墓に、その聖アグネスの御墓の近くでこのミサをしていた人たちは、まだ迫害の当時でした。そしてカタコンベでミサをしていました。カタコンベですから地下です。光もそんなにありません。ろうそくが暗い光でミサに与っていた事でしょう。
まだその当時は3世紀の当時は、キリスト教の厳しい迫害、殉教、殉教、殉教、多くの方々が殉教していたその時代で、しかしローマの市民たちは或いはローマ帝国の他の異教徒たちは、不潔と、邪悪と、もう見るに見られない乱れた生活を送っていました。キリスト教徒だけが迫害されて、そして「キリストを信じる」と言うが為に命を失っていった時代で、その当時キリスト信者たちは、「主の来臨は近い」と思っていました、それを信じていました。ですから御聖体拝領をしたその直後に、「さぁ、」このミサの聖体拝領の歌を聞いた時に、「あぁ、さぁさぁ、主は来た。迎えに出なさい」と言った時、その聖アグネスのその御墓のすぐ近くのカタコンベでこの祈りを聞いた時に、キリスト教信者たちは「あぁ、私も聖アグネスのようになりたい。私はもう聖アグネスのように同じ事を繰り返したい。私の体はイエズス・キリストの御体と一致している、この1つとなっている。その御血は私の頬を赤くしている。私はイエズス・キリストだけに心も体も与えた。彼だけに仕える。この世のものと、悪と、邪悪は何でもない。そのようなものは踏みつけだ」と、「さぁイエズスよ、私はいつもあなたと一緒になって、さぁ迎えに出ます。いつも準備ができています」というその言葉を聞いた時に何と感動して、感謝の祈りを、聖体拝領の感謝の祈りを捧げた事でしょうか。
聖アグネスの殉教のあらましはこうですが、私たちはそこからどのような事を黙想しなければならないのでしょうか。私の思うには、聖アグネスは私たちに2つの事を教えていると思います。この2つの事から後に遷善の決心を立てましょう。
まず1つは、「私たちが踏むべきものは何か」という事を教えています。私たちが踏むべきものは罪であって、罪の機会であって、悪であって、聖アグネスが踏みつけたものです。
ところが別の声は、例えば古の蛇は、ちょうどエヴァを誘ったように別の事を言うかもしれません。
「そんな事はない。そんなに苦しんでそこまで苦しんで、一体何の役に立つのか。お前がそんな事を言っているから他の人は苦しんでるよ。お前が『いい』と言えばこのシンフロニウスも楽しいじゃないか。悪を、そのシンフロニウスの言うようにしてやれば彼も望みが果たされるし、お前も楽な生活ができるし、それでいいじゃないか。一体拒んで何の役に立つのか。それが隣人の為に何かしてやるのがキリスト教じゃないのか。それが愛ではないのか。隣人を助けてやればいいんじゃないのか。キリストの為にというのはいいんじゃないか。」
つまり、罪や罪の汚いものを踏みつける代わりに、「あぁ、踏んだ方が良いよ。踏みなさい、踏むが良い、踏むが良い、踏みなさい。キリスト様というのはその踏まれる為に生まれて来たのだから。その為に、弱いお前の為にお前を許す為に生まれて来たのだから。そしてその為に十字架を担いだのだから、だから踏めば良い。」ちょうど古の蛇がエヴァに「主の言葉を信じなくても、お前はそれに逆らった方が良いよ」と言っているかのようです。
ちょうど、遠藤周作の『沈黙』のロドリゴが聞いた、“キリスト”と言われる人の言葉のようです。実際、遠藤周作の沈黙の中では、踏み絵を「踏まない」と思っているロドリゴに“キリスト”の声が聞こえた、という場面が出てきます。いわゆるカギ括弧付きの“キリスト”は、「さぁ、踏むが良い。踏んで私を背教するというしるしを見せなさい、そして他の人を助けてあげなさい。」あたかも善も悪も全く同じであるかのように、どんな事も良い事であるかのように。
イエズス・キリスト様はこう言います。「もしも人々の前で『私の味方だ』と宣言する者は、私も御父の前で『私の味方だ』と言おう。もしも人々の前で私を否む者は、御父の前で『私も知らない』と言おう。お前の事は知らない、さぁ出て行け!」
しかしロドリゴの“キリスト”は違います。あたかも全ての人は何をやっても救われているかのように、全ての人は何をやっても、何を信じても、キリストを否定しても、公に侮辱しても、「それでも許されて皆天国に行けるよ。皆幸せな生活ができるよ。主は無限に憐れみだから何をしても良いんだよ。正義もへったくれも無いよ。成聖、聖なるものというものも無いよ。真理とか、善とか、天主、キリストというものも無いよ、踏んだら良い、さぁ何でもやって良い。」
「いえ、」聖アグネスは、カトリック教会は、違う事を教えました、「いや、私たちはキリストを踏む事はできません。罪と、罪の機会と、悪と、偽りを踏まなければならない。蛇を踏まなければならない」と。
第2に、聖アグネスの祝日を黙想した後に思った事は思う事は、「蛇は沈黙をしている」という事です。蛇が沈黙するという事と、天主がある意味で沈黙しているという事は違う、という事です。
蛇は、『罪』とか『罪が何であるか』という事に沈黙します。
「何でも良い、何でもやりなさい」と。
或いは蛇は、『天主様の聖寵がある』『超自然の御恵みがある』という事について何も言いません。
「この世の為に一体何の役に立つのか。この世で面白おかしく楽しくこの世で生活する為に何の役に立つのか。」この世の事だけを話して、『天国の事』や『永遠の事』や『永遠の命』について沈黙します。『超自然』については沈黙します。『真理』という事について、『天主』とか、『地獄』とか、『イエズス・キリスト』、『イエズス・キリストが本当に何を言ったのか』という事については沈黙をします。その代わりに話す事は何かというと、「あぁ、自分で善とか悪を決めれば良い。You decide.君が決めなさい。」
あたかも、「善と悪の知識の木の実から取って、自分で好きなようにすれば良い」と言った蛇であるかのようです。
遠藤周作は、「キリスト教というのは何か与えられた服であって、自分と合わない。だから自分と合った服を着たかった。自分で合った服をしたかった」と、どこかで言っているのを読んだ事があります。ちょうど「自分で決める、自分で善と悪を決めるキリスト教」の事を考えていたようです。
蛇は、「客観的な罪」とか、「客観的な善がある」という事について沈黙しているという事に気が付きます。
ところで、天主様もある意味で沈黙しています。なぜ沈黙しているか、どういう意味で沈黙しているかというと、天主様が、私たちがいくら天主様に、「主よ、私にこうして下さい、助けて下さい」と言ってもその答えがすぐ、直後に、答えが来ないからです。私たちはあたかも天主様が自動販売機のようで、お金を入れてボタンを押すと、ガチャン。コカコーラが欲しいからコカコーラ、ガチャン。ホットコーヒー、ガチャン。そういう意味では、天主様はいくら押してもボタンを押しても、お祈りをしてもお祈りのお金を入れても、ボタンを押してもすぐ答えは出ません。天主様は自動販売機ではありません。私たちの召し使いでも奴隷でもありません。コンピューターでもなくて、ボタンを押したからすぐにDeleteとか、Startとか、それもスイッチを入れたらすぐコンピューターのように計算してくれるわけではありません。
天主は私たちの「主」ですから、主として答えます。私たちが、「奇跡を起こして欲しい!さぁ、やって!」と言ったから、「はいはい、ご主人様!はい、分かりました!魔法のランプ」とやるのではなくて、主が、一番私たちの良いと思った事を、最大の善になる事を、私たちにとってとても良いという事を、主の一番良いと思ったやり方で、思った方法で、思った時に、思ったものを、私たちに下さるのです。
聖アグネスにもそれを下さいました。私たちにも下さっています。一番良いものというのはもちろん、「永遠の命を受ける為に一番良いもの、私たちが聖徳を、そして信仰の為に一番善となるものは何か」という事をよく知った全知全能の御父がそれを計らって下さって、私たちに答えて下さるのです。決して沈黙をしているのではなくて、私たちに聖寵の御恵みと、助けと、或いは摂理によって助けて下さっています。
たとえ私たちにとって何か一見苦しみであるかのように思われても、辛い事であるかのように思われても、全ては私たちの主を愛する者の為にとっては善となるように、計らって下さっているのです。究極的な善の為に計らって下さっています。
しかし天主は、イエズス・キリストについては沈黙を守りません。真理については話しています。真理というのは何かというと、「善と悪の知識の実の木ではなくて、別の木を取れ、別の木の実を取れ。」イエズス・キリストが天主が私たちに教えてくれるのは、「十字架の木を取ってイエズス・キリストに従え」という事です。そしてもしも例えそれがイエズス・キリストの最も最高の選ばれた弟子聖ペトロであっても、「あぁ、十字架とかそのような物は無いようにして下さい!」と言ったとき、主は「サタン、退け!Go!」とおっしゃいました。私たちは、十字架の道を取ってどうしても天国に行かなければなりません。
聖パウロは言います、「キリストを着よ」と。私たちが自分で自分の好きなキリストを作るのではなくて、「イエズス・キリストを着るように。」
既に与えられています。変えなければならないのはキリストではなくて、私たちの方です。私たちがキリストの服を着る事ができるようにならなければなりません。
ではどのような遷善の決心を取ったら良いでしょうか?私は3つを提案します。
1つは、私たちにとってはいつでも、「私たちにとって踏み絵を踏んでしまう、或いはイエズス様を踏んでしまう危険がある」という事です。
聖アグネスのように、いつも罪と罪の機会と悪を踏みつけにした、私たちの心も体もいつも清いままであった、と言う事ができれば何と幸せな事でしょうか。しかし残念ながら、私たちは何と惨めで、弱々しく、私たちの力だけに頼って、或いはイエズス・キリストを選ぶ代わりに自分を選んでしまったり、バラバを選んでキリストを踏んでしまったり、或いは天主を踏んでしまって人間を選んでしまったり、罪を踏む代わりに従順を踏んでしまったり、そして本当は選んではいけない被造物を選んでしまったりした事がどれほど多かった事でしょうか。
聖パウロは言います、「立っている者は倒れないように気を付けよ。震えおののきながら私たちの救いを全うせよ。」
イエズス会の、長く働いていたイエズス会の特別な訓練を受けたフェレイラ管区長、日本を代表する責任者であったとしても、5時間の穴釣りの後にもしも背教してしまったとしたら、私たちはどれほど恐れなければならないのでしょうか。私たちがそれに耐え得る、という事が一体誰が言える事ができるでしょうか。イエズス様の御恵みがなければ、一体誰が耐え忍ぶ事ができましょうか。
私たちはですから、マリア様の汚れなき御心の中に避難所として入る事を提案します。マリア様は言いました、「私の汚れなき御心は避難所であって、天主へと導いている道です、道となるでしょう。」
ですから私たちはマリア様の汚れなき御心の中にいつも入り込む事に致しましょう。
第2に、「天主様の憐れみ」という事です。憐れみというのは、ただ罪も正義も関係なく、聖徳とか天主の正義とかを排除した、ただただ何でも許されるというのが憐れみではありません。主の憐れみというのは、憐れみを受ける為にはまず、私たちが自分の罪や、弱さや、或いは悪、自分の犯した罪を認めなければなりません。罪を自己正当化する事が憐れみではありません。そしてその罪を悔い改めるところに、主が赦しの憐れみと、私たちが主の元に立ち戻って来る事ができる為の憐れみがあります。ですから憐れみはただの憐れみではなくて、御恵みが必要です。主の御恵みを以って初めて、主の憐れみを受ける事ができます。
ファチマのマリア様は1929年6月13日、トゥイという所でシスタールチアにビジョンを見せました。十字架に付けられたイエズス様の上に聖父、聖霊が、そしてイエズス様の福音側にはマリア様が、汚れなき御心のマリア様が立っておられます。そして十字架の所には2つの文字が単語が描かれていました。イエズス様の右手には「御恵み、聖寵」、そして左には「憐れみ」でした。
もしも私たちが主の憐れみを受けようとするならば、たとえ罪を犯してしまったとしても、主の元に立ち戻ろうとするならば、この「聖寵」と「憐れみ」の2つが必要です。それはファチマのマリア様が私たちに教えてくれます。
最後に、私たちは聖アグネスと共に、いつも罪と罪の機会を踏む為に、マリア様に無原罪の御宿りのマリア様にお願いしましょう。マリア様は最初からこう約束されました、第2のエヴァとして、蛇の頭を踏む方として、罪を踏みにじる方として、汚れない御方として、私たちに与えられました。聖アグネスに倣う為にも、無原罪の聖母マリア、ファチマの聖母マリアの汚れなき御心に行く事に致しましょう。
「私は彼の許嫁となった。この方だけに契りを守り、この方だけに心を全て与えた。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
【聖アグネスの聖務日課による殉教の記録は、例えば、Joan Mueller著 A Companion to Clare of Assisi, Life, Writings, and Spirituality に、ラテン語と英語の対訳であります。】
今日は2017年1月21日(土)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2017年1月21日(土)殉教者童貞聖アグネスのミサ
小野田神父 説教
小野田神父 説教
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2017年1月21日、童貞殉教者聖アグネスの祝日を祝っています。今日いつものようにミサの後に御聖体拝領の感謝の祈りを致しましょう。その後には1月の恒例の踏み絵に対する冒瀆の償いの儀式を致しましょう。
この聖アグネスの祝日には特に、今アグネスさんが修道女になろうとしてフランスに行っている行っているのでその彼女の為に、またアグネスの霊名を持つ全ての方々の為にお祈り致しましょう。
今日は日本には特別の訪問(フルーガー神父さま)がいらっしゃいます。「さぁ、花婿がやって来た。さぁ、起きて迎えに行け」という福音のこだまのようです。
“Ipsi sum desponsata. Ipsi soli servo fidemm, ipsi me tota devotione committo.”
「私はこの方に許嫁となった。この方だけに契りを守っている。この方だけに心を全て与えている。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
今申し上げた言葉は、聖アグネスが言った言葉を聖務日課が引用していた言葉でした。今日朝課という聖務日課の中で、この言葉をAntiphonaで唱えました。聖アグネスのこの祝日はまさにこの言葉に要約されているようです、「私は、天主であるイエズス・キリストと婚姻している、許嫁である。だから私の心も体も全てイエズス・キリストのものである。イエズス・キリスト以外の者には誰にも渡さない。」
そしてその教会は、イエズス・キリストの花嫁である教会は、この聖アグネスの言葉を取って、「その通りだ。」私たちも教会のイメージですから似姿ですから、私たちもアグネスに倣って、キリストの花嫁である教会の後に従って、「同じように聖アグネスのようになるように」と招いています。あたかも今日のこのミサは、婚姻の許嫁をする者の為のミサであるかのようです。花婿を待ち望む童貞たちのようです。
今日はこのミサの黙想では、聖アグネスの殉教の、どのような殉教したのか、一体何があったのか、その殉教を見たのちに、
第2に、教会はミサをどのように作っているのか、ミサの構造はどうなっているのか、
最後に、私たちはその殉教を見てどのような遷善の決心を取らなければならないか、何を考えるべきか、という事を黙想したいと思います。
今日はフルーガー神父様をお迎えに行かなければならないので、公教要理は残念ながらする事はできません。そこでお説教の時間を5分、公教要理の時間を5分間長く頂きたいと思っています。
聖アグネスは、昨日祝った聖ファビアノ教皇様殉教者は250年1月20日に亡くなりました、そして聖セバスチアノは280年1月20日に亡くなりました、そしてその10年ほど後に3世紀の終わり頃、1月21日にローマで亡くなりました。明日はやはり「勝利」という名前を持つヴィンセンシオの殉教者の祝日で、教会は私たちにこの「殉教」の意味について深く考えさせてくれます。ちょうど今日、日本では遠藤周作の小説に基づく『沈黙』という映画が公開される日ですので、殉教という事について私たちも深く黙想する事が相応しいと思います。
「アグネス」という名前は実は、これはギリシャ語から来ています。「アグネー αγνή」というのは「純潔」とか「潔白」という「ピュア」という意味なのです。そして「アグネー αγνή」というのは女性形ですけれども、「アグノイ αγνοί」となるとこれは男性形です。そこから来たのですけれども、ラテン語では「アニュス“子羊”」の女性形という風に理解されました。実際に聖アグネスが亡くなった8日の後に、栄光に輝くアグネスがお父さんお母さん両親たちの前に現れて、家族の前に現れて、その周りには童貞たちの一団に囲まれて、そしてその近くにはそのアグネスのもとには真っ白い純白な子羊がいた、というのを見ています。
カトリック教会でもこの8日後に、聖アグネスの第2の記念というものがあります。ですから聖アグネスは同時に「メスの子羊」、そして「純潔」という2つの意味を持っている、聖アウグスチヌスもその事をよく知っていて、その2つの意味について話しています。
今日伝統によると、純白の羽毛を教皇様が祝福して祝別して、その今日祝別された毛糸からその羽毛を使って、大司教様が着るべきパリウムいう特別の飾りがあるのですけれども、それを作る伝統があります。
聖アグネスの御墓の上に、コンスタンティノローマ皇帝は教会を建てました。そしてこの聖アグネスはあまりにもローマで有名な童貞殉教者であったので、色んな教父たちが聖アグネスの栄光についてたくさん讃美の事を記録を残しています。聖ヒエロニモとか大聖グレゴリオ、聖アンブロジオ、聖アウグスチヌノ等々書き残しています。
では聖アグネスはどのような殉教をしたかというと、その記録とその教父たちの証言によると、こういう事が起こりました。
若い13歳のアグネス少女は、学校の帰りに男の子と会いました。男の子はシンフロニウスというローマの市長の息子で、もちろんお父さんの権威もありますし、お金もありますし、どこかの貴族のボンボンの男の子だったに違いありません。そこでアグネスを見て、あまりにも美しい、可愛い、きれいな子だ、という事で一目惚れをします。そしてこの近くに行って、「さぁ、君の名前は何て言うのか?僕と一緒になろう、結婚しよう。さぁ、ここにとっても貴重な贈り物を与えよう」と、高価な贈り物を与えようとします。するとアグネスはそれを見て、「立ち去って下さい、死の食べ物よ。私はすでに許婚がいます。Disede a me, pabulum mortis, quia iam ab alio amotore praeventa sum! 」
このローマの市長の息子シンフロニウスは非常に驚いて、その拒絶にびっくりしました。そして怒りました。するとアグネスは説明します、「私は既に私の主イエズス・キリストから指輪をもらって、きれいな宝石の付いた指輪を貰って、既に許嫁となっている者です。イエズス・キリストは私に既に、手には、そして首には、そして耳飾りも、もう値の付けられる事ができないほどの貴重な宝石で私の身を飾ってくれました。Dexteram meam et collum meum cinxit lapidibus pretiosis, tradidit auribus meis inaestimabiles margaritas.」
「そして私には許嫁の冠りも下さいました。私はイエズス・キリストを愛しています。その御母は童貞であって、その御父様は女を知りません。私はそのイエズス・キリストの素晴らしい音楽の部屋に入り、そしてキリストを愛します。もしも私がキリストを愛する時、私は貞潔を守ります。私がキリストに触る時、私は純潔となります。私はキリストを受ける時、童貞でい続ける事ができます。Amo Christum, in cuius thalamum introibo, cuius mater virgo est, cuius pater feminam nescit, cuius mihi organa modulatis vocibus cantant: Quem cum amavero, casta sum; sum tetigero, munda sum; cum accepero, virgo sum.」
「私の体は既にその御体と一致しています、1つになっています。その御血を受けた私の頬は赤くなっています。その方と私は既に婚約の契りを結びました、許婚の契りを結びました。この方だけに私は私の約束を契りを守ります。私はこの方だけに私の心を全て与えました。Iam corpus eius corprori meo sociatum est, et sanguis eius ornavit genas meas.Ipsi sum desponsata. Ipsi soli servo fidemm, ipsi me tota devotione committo.」
非常に怒ったシンフロニウスは、「俺がただのそこらの汚い、薄汚いガキだと思っているのか!」と思って、そのアグネスを父親の前に訴えます、「この女はけしからん!殺してしまえ!」
すると子供からの訴えを聞いた父親は、ローマ市長の最高の力を使ってアグネスを辱しめようとします。そこで口にする事も汚いできないような罪の家に送り出します。体を汚してしまう、お金の為に汚してしまう女性たちがいるような所にアグネスをやってしまいます。するとアグネスはそれに答えて、「私の傍にはいつも私を守って下さる天使がいます。 Mecum enim habeo custodem corporis mei, Angelum Domini.」と言ってそこに連れられます。
その罪の家に不潔の家に入れられたアグネスは、汚らしい男たちから嫌がらせをされるところですが、すると眩い光が輝いて、アグネスを触ろうとする人、或いは何かをしようとする人々の目をくらましてしまって、皆何も見えなくなってしまいました。そしてアグネスに近寄ることが何もできません。
それを知らされた裁判官は、ローマの裁判官は怒って、「これは魔女だ!魔法を使っている!火あぶりにしてしまえ!」と宣決を下します。そしてアグネスは火の、メラメラと燃える轟々と焚かれる木の中にくべられます。するとアグネスは感謝の祈りをします、「全能の御父よ、その聖なる御身の御子によって私はあなたに讃美致します、あなたにお願い致します。御恵みによって私は心のない汚い暴君の凶悪から守られました。そして私は、罪を犯す汚らしい不潔の罪を犯すというその機会を、汚れを逃れた足で踏みつけにしました。さぁ見て下さい御父よ、御身の御子によって私はその御子の傍に今から参ります。私はこの御子を愛しました。この彼のみを探し求めました。そしていつもその主イエズス・キリストだけを求めています。さぁ、今から行きます。感謝致します。讃美致します」と祈ると、これからさぁアグネスは命を捧げようとすると、火が消えてしまったのです。
Omnipotens adorande colende tremende Pater Domini Nostri lesu Christi benedico te : quia per filium tuum unigenitum evasi minas hominum impiorum : et spurcitias diaboli impoluto calle transivi. Ecce et nunc per sanctum spiritum rore coelesti perfuso focus iuxta me moritur : flamma dividitur : et ardor incendii huius ad eos a quibus in me ministratur effunditur. Bendico te Pater praedicande : qui etiam inter flammas intrepidam me ad Te venire permittis. Ecce iam quod credidi video. Quod speravi iam teneo. Quod concupivi complector. Te confiteor labiis et corde, totis visceribus concupisco. Ecce ad te venio vivum et verum Deum : qui cum Domino nostro lesu Christo Filio tuo et cum Spiritu Sancto vivis et regnas semper et in cuncta saecula saeculorum. Cunque complevisset orationem : ita omnis ignis extinctus est : ut nec tepor quidem incendii remaneret.
それを見たアグネスはもう一度讃美の声をあげて、「全能の天主御父よ、御身の御子によって御身を讃美致します。私の周りにあったあのメラメラと轟々と燃える火は消えてしまいました。でも私の心は御身の愛に燃えていて、そして御身の事をいつも望んでいます。私は天において御身と一致しています。私がいつも愛し、全ての心を込めて愛したその方と一致しています」と讃美しました。
それを見た裁判官は非常に怒って、この火を消してしまったと思われるそのアグネスを呼び寄せて、「首を切ってしまえ!」として、剣で首をはねられて殉教の冠を戴きました。それが今日の事でした。
今日このミサでは特に、御聖体拝領の時にこの聖福音で読まれた、「さぁ花婿がやって来た。さぁ準備ができているか。さぁ外に出て主を花婿を迎えなさい」と言うその童貞たちの言葉を聞かせます。ちょうどその聖アグネスが殉教して、そしてその御墓に、その聖アグネスの御墓の近くでこのミサをしていた人たちは、まだ迫害の当時でした。そしてカタコンベでミサをしていました。カタコンベですから地下です。光もそんなにありません。ろうそくが暗い光でミサに与っていた事でしょう。
まだその当時は3世紀の当時は、キリスト教の厳しい迫害、殉教、殉教、殉教、多くの方々が殉教していたその時代で、しかしローマの市民たちは或いはローマ帝国の他の異教徒たちは、不潔と、邪悪と、もう見るに見られない乱れた生活を送っていました。キリスト教徒だけが迫害されて、そして「キリストを信じる」と言うが為に命を失っていった時代で、その当時キリスト信者たちは、「主の来臨は近い」と思っていました、それを信じていました。ですから御聖体拝領をしたその直後に、「さぁ、」このミサの聖体拝領の歌を聞いた時に、「あぁ、さぁさぁ、主は来た。迎えに出なさい」と言った時、その聖アグネスのその御墓のすぐ近くのカタコンベでこの祈りを聞いた時に、キリスト教信者たちは「あぁ、私も聖アグネスのようになりたい。私はもう聖アグネスのように同じ事を繰り返したい。私の体はイエズス・キリストの御体と一致している、この1つとなっている。その御血は私の頬を赤くしている。私はイエズス・キリストだけに心も体も与えた。彼だけに仕える。この世のものと、悪と、邪悪は何でもない。そのようなものは踏みつけだ」と、「さぁイエズスよ、私はいつもあなたと一緒になって、さぁ迎えに出ます。いつも準備ができています」というその言葉を聞いた時に何と感動して、感謝の祈りを、聖体拝領の感謝の祈りを捧げた事でしょうか。
聖アグネスの殉教のあらましはこうですが、私たちはそこからどのような事を黙想しなければならないのでしょうか。私の思うには、聖アグネスは私たちに2つの事を教えていると思います。この2つの事から後に遷善の決心を立てましょう。
まず1つは、「私たちが踏むべきものは何か」という事を教えています。私たちが踏むべきものは罪であって、罪の機会であって、悪であって、聖アグネスが踏みつけたものです。
ところが別の声は、例えば古の蛇は、ちょうどエヴァを誘ったように別の事を言うかもしれません。
「そんな事はない。そんなに苦しんでそこまで苦しんで、一体何の役に立つのか。お前がそんな事を言っているから他の人は苦しんでるよ。お前が『いい』と言えばこのシンフロニウスも楽しいじゃないか。悪を、そのシンフロニウスの言うようにしてやれば彼も望みが果たされるし、お前も楽な生活ができるし、それでいいじゃないか。一体拒んで何の役に立つのか。それが隣人の為に何かしてやるのがキリスト教じゃないのか。それが愛ではないのか。隣人を助けてやればいいんじゃないのか。キリストの為にというのはいいんじゃないか。」
つまり、罪や罪の汚いものを踏みつける代わりに、「あぁ、踏んだ方が良いよ。踏みなさい、踏むが良い、踏むが良い、踏みなさい。キリスト様というのはその踏まれる為に生まれて来たのだから。その為に、弱いお前の為にお前を許す為に生まれて来たのだから。そしてその為に十字架を担いだのだから、だから踏めば良い。」ちょうど古の蛇がエヴァに「主の言葉を信じなくても、お前はそれに逆らった方が良いよ」と言っているかのようです。
ちょうど、遠藤周作の『沈黙』のロドリゴが聞いた、“キリスト”と言われる人の言葉のようです。実際、遠藤周作の沈黙の中では、踏み絵を「踏まない」と思っているロドリゴに“キリスト”の声が聞こえた、という場面が出てきます。いわゆるカギ括弧付きの“キリスト”は、「さぁ、踏むが良い。踏んで私を背教するというしるしを見せなさい、そして他の人を助けてあげなさい。」あたかも善も悪も全く同じであるかのように、どんな事も良い事であるかのように。
イエズス・キリスト様はこう言います。「もしも人々の前で『私の味方だ』と宣言する者は、私も御父の前で『私の味方だ』と言おう。もしも人々の前で私を否む者は、御父の前で『私も知らない』と言おう。お前の事は知らない、さぁ出て行け!」
しかしロドリゴの“キリスト”は違います。あたかも全ての人は何をやっても救われているかのように、全ての人は何をやっても、何を信じても、キリストを否定しても、公に侮辱しても、「それでも許されて皆天国に行けるよ。皆幸せな生活ができるよ。主は無限に憐れみだから何をしても良いんだよ。正義もへったくれも無いよ。成聖、聖なるものというものも無いよ。真理とか、善とか、天主、キリストというものも無いよ、踏んだら良い、さぁ何でもやって良い。」
「いえ、」聖アグネスは、カトリック教会は、違う事を教えました、「いや、私たちはキリストを踏む事はできません。罪と、罪の機会と、悪と、偽りを踏まなければならない。蛇を踏まなければならない」と。
第2に、聖アグネスの祝日を黙想した後に思った事は思う事は、「蛇は沈黙をしている」という事です。蛇が沈黙するという事と、天主がある意味で沈黙しているという事は違う、という事です。
蛇は、『罪』とか『罪が何であるか』という事に沈黙します。
「何でも良い、何でもやりなさい」と。
或いは蛇は、『天主様の聖寵がある』『超自然の御恵みがある』という事について何も言いません。
「この世の為に一体何の役に立つのか。この世で面白おかしく楽しくこの世で生活する為に何の役に立つのか。」この世の事だけを話して、『天国の事』や『永遠の事』や『永遠の命』について沈黙します。『超自然』については沈黙します。『真理』という事について、『天主』とか、『地獄』とか、『イエズス・キリスト』、『イエズス・キリストが本当に何を言ったのか』という事については沈黙をします。その代わりに話す事は何かというと、「あぁ、自分で善とか悪を決めれば良い。You decide.君が決めなさい。」
あたかも、「善と悪の知識の木の実から取って、自分で好きなようにすれば良い」と言った蛇であるかのようです。
遠藤周作は、「キリスト教というのは何か与えられた服であって、自分と合わない。だから自分と合った服を着たかった。自分で合った服をしたかった」と、どこかで言っているのを読んだ事があります。ちょうど「自分で決める、自分で善と悪を決めるキリスト教」の事を考えていたようです。
蛇は、「客観的な罪」とか、「客観的な善がある」という事について沈黙しているという事に気が付きます。
ところで、天主様もある意味で沈黙しています。なぜ沈黙しているか、どういう意味で沈黙しているかというと、天主様が、私たちがいくら天主様に、「主よ、私にこうして下さい、助けて下さい」と言ってもその答えがすぐ、直後に、答えが来ないからです。私たちはあたかも天主様が自動販売機のようで、お金を入れてボタンを押すと、ガチャン。コカコーラが欲しいからコカコーラ、ガチャン。ホットコーヒー、ガチャン。そういう意味では、天主様はいくら押してもボタンを押しても、お祈りをしてもお祈りのお金を入れても、ボタンを押してもすぐ答えは出ません。天主様は自動販売機ではありません。私たちの召し使いでも奴隷でもありません。コンピューターでもなくて、ボタンを押したからすぐにDeleteとか、Startとか、それもスイッチを入れたらすぐコンピューターのように計算してくれるわけではありません。
天主は私たちの「主」ですから、主として答えます。私たちが、「奇跡を起こして欲しい!さぁ、やって!」と言ったから、「はいはい、ご主人様!はい、分かりました!魔法のランプ」とやるのではなくて、主が、一番私たちの良いと思った事を、最大の善になる事を、私たちにとってとても良いという事を、主の一番良いと思ったやり方で、思った方法で、思った時に、思ったものを、私たちに下さるのです。
聖アグネスにもそれを下さいました。私たちにも下さっています。一番良いものというのはもちろん、「永遠の命を受ける為に一番良いもの、私たちが聖徳を、そして信仰の為に一番善となるものは何か」という事をよく知った全知全能の御父がそれを計らって下さって、私たちに答えて下さるのです。決して沈黙をしているのではなくて、私たちに聖寵の御恵みと、助けと、或いは摂理によって助けて下さっています。
たとえ私たちにとって何か一見苦しみであるかのように思われても、辛い事であるかのように思われても、全ては私たちの主を愛する者の為にとっては善となるように、計らって下さっているのです。究極的な善の為に計らって下さっています。
しかし天主は、イエズス・キリストについては沈黙を守りません。真理については話しています。真理というのは何かというと、「善と悪の知識の実の木ではなくて、別の木を取れ、別の木の実を取れ。」イエズス・キリストが天主が私たちに教えてくれるのは、「十字架の木を取ってイエズス・キリストに従え」という事です。そしてもしも例えそれがイエズス・キリストの最も最高の選ばれた弟子聖ペトロであっても、「あぁ、十字架とかそのような物は無いようにして下さい!」と言ったとき、主は「サタン、退け!Go!」とおっしゃいました。私たちは、十字架の道を取ってどうしても天国に行かなければなりません。
聖パウロは言います、「キリストを着よ」と。私たちが自分で自分の好きなキリストを作るのではなくて、「イエズス・キリストを着るように。」
既に与えられています。変えなければならないのはキリストではなくて、私たちの方です。私たちがキリストの服を着る事ができるようにならなければなりません。
ではどのような遷善の決心を取ったら良いでしょうか?私は3つを提案します。
1つは、私たちにとってはいつでも、「私たちにとって踏み絵を踏んでしまう、或いはイエズス様を踏んでしまう危険がある」という事です。
聖アグネスのように、いつも罪と罪の機会と悪を踏みつけにした、私たちの心も体もいつも清いままであった、と言う事ができれば何と幸せな事でしょうか。しかし残念ながら、私たちは何と惨めで、弱々しく、私たちの力だけに頼って、或いはイエズス・キリストを選ぶ代わりに自分を選んでしまったり、バラバを選んでキリストを踏んでしまったり、或いは天主を踏んでしまって人間を選んでしまったり、罪を踏む代わりに従順を踏んでしまったり、そして本当は選んではいけない被造物を選んでしまったりした事がどれほど多かった事でしょうか。
聖パウロは言います、「立っている者は倒れないように気を付けよ。震えおののきながら私たちの救いを全うせよ。」
イエズス会の、長く働いていたイエズス会の特別な訓練を受けたフェレイラ管区長、日本を代表する責任者であったとしても、5時間の穴釣りの後にもしも背教してしまったとしたら、私たちはどれほど恐れなければならないのでしょうか。私たちがそれに耐え得る、という事が一体誰が言える事ができるでしょうか。イエズス様の御恵みがなければ、一体誰が耐え忍ぶ事ができましょうか。
私たちはですから、マリア様の汚れなき御心の中に避難所として入る事を提案します。マリア様は言いました、「私の汚れなき御心は避難所であって、天主へと導いている道です、道となるでしょう。」
ですから私たちはマリア様の汚れなき御心の中にいつも入り込む事に致しましょう。
第2に、「天主様の憐れみ」という事です。憐れみというのは、ただ罪も正義も関係なく、聖徳とか天主の正義とかを排除した、ただただ何でも許されるというのが憐れみではありません。主の憐れみというのは、憐れみを受ける為にはまず、私たちが自分の罪や、弱さや、或いは悪、自分の犯した罪を認めなければなりません。罪を自己正当化する事が憐れみではありません。そしてその罪を悔い改めるところに、主が赦しの憐れみと、私たちが主の元に立ち戻って来る事ができる為の憐れみがあります。ですから憐れみはただの憐れみではなくて、御恵みが必要です。主の御恵みを以って初めて、主の憐れみを受ける事ができます。
ファチマのマリア様は1929年6月13日、トゥイという所でシスタールチアにビジョンを見せました。十字架に付けられたイエズス様の上に聖父、聖霊が、そしてイエズス様の福音側にはマリア様が、汚れなき御心のマリア様が立っておられます。そして十字架の所には2つの文字が単語が描かれていました。イエズス様の右手には「御恵み、聖寵」、そして左には「憐れみ」でした。
もしも私たちが主の憐れみを受けようとするならば、たとえ罪を犯してしまったとしても、主の元に立ち戻ろうとするならば、この「聖寵」と「憐れみ」の2つが必要です。それはファチマのマリア様が私たちに教えてくれます。
最後に、私たちは聖アグネスと共に、いつも罪と罪の機会を踏む為に、マリア様に無原罪の御宿りのマリア様にお願いしましょう。マリア様は最初からこう約束されました、第2のエヴァとして、蛇の頭を踏む方として、罪を踏みにじる方として、汚れない御方として、私たちに与えられました。聖アグネスに倣う為にも、無原罪の聖母マリア、ファチマの聖母マリアの汚れなき御心に行く事に致しましょう。
「私は彼の許嫁となった。この方だけに契りを守り、この方だけに心を全て与えた。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
【聖アグネスの聖務日課による殉教の記録は、例えば、Joan Mueller著 A Companion to Clare of Assisi, Life, Writings, and Spirituality に、ラテン語と英語の対訳であります。】