Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

【再掲】聖アグネスの祝日「私はこの方に許嫁となった。この方だけに契りを守っている。この方だけに心を全て与えている。」

2017年01月31日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日は、このブログの誕生日でもあります。16周年です。時が経つのは早いものですね!これからも宜しくおねがいいたします。

フランスの聖ピオ十世会のシスター会にて修練期を過ごしているシスター・エスペランス(アグネス)は、今年の白衣の主日に初誓願を立てる許可がおりたとのことです。お祈りください。

今日は2017年1月21日(土)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2017年1月21日(土)殉教者童貞聖アグネスのミサ
小野田神父 説教

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。

今日は2017年1月21日、童貞殉教者聖アグネスの祝日を祝っています。今日いつものようにミサの後に御聖体拝領の感謝の祈りを致しましょう。その後には1月の恒例の踏み絵に対する冒瀆の償いの儀式を致しましょう。

この聖アグネスの祝日には特に、今アグネスさんが修道女になろうとしてフランスに行っている行っているのでその彼女の為に、またアグネスの霊名を持つ全ての方々の為にお祈り致しましょう。

今日は日本には特別の訪問(フルーガー神父さま)がいらっしゃいます。「さぁ、花婿がやって来た。さぁ、起きて迎えに行け」という福音のこだまのようです。

“Ipsi sum desponsata. Ipsi soli servo fidemm, ipsi me tota devotione committo.”
「私はこの方に許嫁となった。この方だけに契りを守っている。この方だけに心を全て与えている。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

今申し上げた言葉は、聖アグネスが言った言葉を聖務日課が引用していた言葉でした。今日朝課という聖務日課の中で、この言葉をAntiphonaで唱えました。聖アグネスのこの祝日はまさにこの言葉に要約されているようです、「私は、天主であるイエズス・キリストと婚姻している、許嫁である。だから私の心も体も全てイエズス・キリストのものである。イエズス・キリスト以外の者には誰にも渡さない。」

そしてその教会は、イエズス・キリストの花嫁である教会は、この聖アグネスの言葉を取って、「その通りだ。」私たちも教会のイメージですから似姿ですから、私たちもアグネスに倣って、キリストの花嫁である教会の後に従って、「同じように聖アグネスのようになるように」と招いています。あたかも今日のこのミサは、婚姻の許嫁をする者の為のミサであるかのようです。花婿を待ち望む童貞たちのようです。

今日はこのミサの黙想では、聖アグネスの殉教の、どのような殉教したのか、一体何があったのか、その殉教を見たのちに、

第2に、教会はミサをどのように作っているのか、ミサの構造はどうなっているのか、

最後に、私たちはその殉教を見てどのような遷善の決心を取らなければならないか、何を考えるべきか、という事を黙想したいと思います。

今日はフルーガー神父様をお迎えに行かなければならないので、公教要理は残念ながらする事はできません。そこでお説教の時間を5分、公教要理の時間を5分間長く頂きたいと思っています。

聖アグネスは、昨日祝った聖ファビアノ教皇様殉教者は250年1月20日に亡くなりました、そして聖セバスチアノは280年1月20日に亡くなりました、そしてその10年ほど後に3世紀の終わり頃、1月21日にローマで亡くなりました。明日はやはり「勝利」という名前を持つヴィンセンシオの殉教者の祝日で、教会は私たちにこの「殉教」の意味について深く考えさせてくれます。ちょうど今日、日本では遠藤周作の小説に基づく『沈黙』という映画が公開される日ですので、殉教という事について私たちも深く黙想する事が相応しいと思います。

「アグネス」という名前は実は、これはギリシャ語から来ています。「アグネー αγνή」というのは「純潔」とか「潔白」という「ピュア」という意味なのです。そして「アグネー αγνή」というのは女性形ですけれども、「アグノイ αγνοί」となるとこれは男性形です。そこから来たのですけれども、ラテン語では「アニュス“子羊”」の女性形という風に理解されました。実際に聖アグネスが亡くなった8日の後に、栄光に輝くアグネスがお父さんお母さん両親たちの前に現れて、家族の前に現れて、その周りには童貞たちの一団に囲まれて、そしてその近くにはそのアグネスのもとには真っ白い純白な子羊がいた、というのを見ています。

カトリック教会でもこの8日後に、聖アグネスの第2の記念というものがあります。ですから聖アグネスは同時に「メスの子羊」、そして「純潔」という2つの意味を持っている、聖アウグスチヌスもその事をよく知っていて、その2つの意味について話しています。

今日伝統によると、純白の羽毛を教皇様が祝福して祝別して、その今日祝別された毛糸からその羽毛を使って、大司教様が着るべきパリウムいう特別の飾りがあるのですけれども、それを作る伝統があります。

聖アグネスの御墓の上に、コンスタンティノローマ皇帝は教会を建てました。そしてこの聖アグネスはあまりにもローマで有名な童貞殉教者であったので、色んな教父たちが聖アグネスの栄光についてたくさん讃美の事を記録を残しています。聖ヒエロニモとか大聖グレゴリオ、聖アンブロジオ、聖アウグスチヌノ等々書き残しています。

では聖アグネスはどのような殉教をしたかというと、その記録とその教父たちの証言によると、こういう事が起こりました。

若い13歳のアグネス少女は、学校の帰りに男の子と会いました。男の子はシンフロニウスというローマの市長の息子で、もちろんお父さんの権威もありますし、お金もありますし、どこかの貴族のボンボンの男の子だったに違いありません。そこでアグネスを見て、あまりにも美しい、可愛い、きれいな子だ、という事で一目惚れをします。そしてこの近くに行って、「さぁ、君の名前は何て言うのか?僕と一緒になろう、結婚しよう。さぁ、ここにとっても貴重な贈り物を与えよう」と、高価な贈り物を与えようとします。するとアグネスはそれを見て、「立ち去って下さい、死の食べ物よ。私はすでに許婚がいます。Disede a me, pabulum mortis, quia iam ab alio amotore praeventa sum! 」

このローマの市長の息子シンフロニウスは非常に驚いて、その拒絶にびっくりしました。そして怒りました。するとアグネスは説明します、「私は既に私の主イエズス・キリストから指輪をもらって、きれいな宝石の付いた指輪を貰って、既に許嫁となっている者です。イエズス・キリストは私に既に、手には、そして首には、そして耳飾りも、もう値の付けられる事ができないほどの貴重な宝石で私の身を飾ってくれました。Dexteram meam et collum meum cinxit lapidibus pretiosis, tradidit auribus meis inaestimabiles margaritas.」

「そして私には許嫁の冠りも下さいました。私はイエズス・キリストを愛しています。その御母は童貞であって、その御父様は女を知りません。私はそのイエズス・キリストの素晴らしい音楽の部屋に入り、そしてキリストを愛します。もしも私がキリストを愛する時、私は貞潔を守ります。私がキリストに触る時、私は純潔となります。私はキリストを受ける時、童貞でい続ける事ができます。Amo Christum, in cuius thalamum introibo, cuius mater virgo est, cuius pater feminam nescit, cuius mihi organa modulatis vocibus cantant: Quem cum amavero, casta sum; sum tetigero, munda sum; cum accepero, virgo sum.」

「私の体は既にその御体と一致しています、1つになっています。その御血を受けた私の頬は赤くなっています。その方と私は既に婚約の契りを結びました、許婚の契りを結びました。この方だけに私は私の約束を契りを守ります。私はこの方だけに私の心を全て与えました。Iam corpus eius corprori meo sociatum est, et sanguis eius ornavit genas meas.Ipsi sum desponsata. Ipsi soli servo fidemm, ipsi me tota devotione committo.」

非常に怒ったシンフロニウスは、「俺がただのそこらの汚い、薄汚いガキだと思っているのか!」と思って、そのアグネスを父親の前に訴えます、「この女はけしからん!殺してしまえ!」

すると子供からの訴えを聞いた父親は、ローマ市長の最高の力を使ってアグネスを辱しめようとします。そこで口にする事も汚いできないような罪の家に送り出します。体を汚してしまう、お金の為に汚してしまう女性たちがいるような所にアグネスをやってしまいます。するとアグネスはそれに答えて、「私の傍にはいつも私を守って下さる天使がいます。 Mecum enim habeo custodem corporis mei, Angelum Domini.」と言ってそこに連れられます。

その罪の家に不潔の家に入れられたアグネスは、汚らしい男たちから嫌がらせをされるところですが、すると眩い光が輝いて、アグネスを触ろうとする人、或いは何かをしようとする人々の目をくらましてしまって、皆何も見えなくなってしまいました。そしてアグネスに近寄ることが何もできません。

それを知らされた裁判官は、ローマの裁判官は怒って、「これは魔女だ!魔法を使っている!火あぶりにしてしまえ!」と宣決を下します。そしてアグネスは火の、メラメラと燃える轟々と焚かれる木の中にくべられます。するとアグネスは感謝の祈りをします、「全能の御父よ、その聖なる御身の御子によって私はあなたに讃美致します、あなたにお願い致します。御恵みによって私は心のない汚い暴君の凶悪から守られました。そして私は、罪を犯す汚らしい不潔の罪を犯すというその機会を、汚れを逃れた足で踏みつけにしました。さぁ見て下さい御父よ、御身の御子によって私はその御子の傍に今から参ります。私はこの御子を愛しました。この彼のみを探し求めました。そしていつもその主イエズス・キリストだけを求めています。さぁ、今から行きます。感謝致します。讃美致します」と祈ると、これからさぁアグネスは命を捧げようとすると、火が消えてしまったのです。

Omnipotens adorande colende tremende Pater Domini Nostri lesu Christi benedico te : quia per filium tuum unigenitum evasi minas hominum impiorum : et spurcitias diaboli impoluto calle transivi. Ecce et nunc per sanctum spiritum rore coelesti perfuso focus iuxta me moritur : flamma dividitur : et ardor incendii huius ad eos a quibus in me ministratur effunditur. Bendico te Pater praedicande : qui etiam inter flammas intrepidam me ad Te venire permittis. Ecce iam quod credidi video. Quod speravi iam teneo. Quod concupivi complector. Te confiteor labiis et corde, totis visceribus concupisco. Ecce ad te venio vivum et verum Deum : qui cum Domino nostro lesu Christo Filio tuo et cum Spiritu Sancto vivis et regnas semper et in cuncta saecula saeculorum. Cunque complevisset orationem : ita omnis ignis extinctus est : ut nec tepor quidem incendii remaneret.

それを見たアグネスはもう一度讃美の声をあげて、「全能の天主御父よ、御身の御子によって御身を讃美致します。私の周りにあったあのメラメラと轟々と燃える火は消えてしまいました。でも私の心は御身の愛に燃えていて、そして御身の事をいつも望んでいます。私は天において御身と一致しています。私がいつも愛し、全ての心を込めて愛したその方と一致しています」と讃美しました。

それを見た裁判官は非常に怒って、この火を消してしまったと思われるそのアグネスを呼び寄せて、「首を切ってしまえ!」として、剣で首をはねられて殉教の冠を戴きました。それが今日の事でした。

今日このミサでは特に、御聖体拝領の時にこの聖福音で読まれた、「さぁ花婿がやって来た。さぁ準備ができているか。さぁ外に出て主を花婿を迎えなさい」と言うその童貞たちの言葉を聞かせます。ちょうどその聖アグネスが殉教して、そしてその御墓に、その聖アグネスの御墓の近くでこのミサをしていた人たちは、まだ迫害の当時でした。そしてカタコンベでミサをしていました。カタコンベですから地下です。光もそんなにありません。ろうそくが暗い光でミサに与っていた事でしょう。

まだその当時は3世紀の当時は、キリスト教の厳しい迫害、殉教、殉教、殉教、多くの方々が殉教していたその時代で、しかしローマの市民たちは或いはローマ帝国の他の異教徒たちは、不潔と、邪悪と、もう見るに見られない乱れた生活を送っていました。キリスト教徒だけが迫害されて、そして「キリストを信じる」と言うが為に命を失っていった時代で、その当時キリスト信者たちは、「主の来臨は近い」と思っていました、それを信じていました。ですから御聖体拝領をしたその直後に、「さぁ、」このミサの聖体拝領の歌を聞いた時に、「あぁ、さぁさぁ、主は来た。迎えに出なさい」と言った時、その聖アグネスのその御墓のすぐ近くのカタコンベでこの祈りを聞いた時に、キリスト教信者たちは「あぁ、私も聖アグネスのようになりたい。私はもう聖アグネスのように同じ事を繰り返したい。私の体はイエズス・キリストの御体と一致している、この1つとなっている。その御血は私の頬を赤くしている。私はイエズス・キリストだけに心も体も与えた。彼だけに仕える。この世のものと、悪と、邪悪は何でもない。そのようなものは踏みつけだ」と、「さぁイエズスよ、私はいつもあなたと一緒になって、さぁ迎えに出ます。いつも準備ができています」というその言葉を聞いた時に何と感動して、感謝の祈りを、聖体拝領の感謝の祈りを捧げた事でしょうか。

聖アグネスの殉教のあらましはこうですが、私たちはそこからどのような事を黙想しなければならないのでしょうか。私の思うには、聖アグネスは私たちに2つの事を教えていると思います。この2つの事から後に遷善の決心を立てましょう。

まず1つは、「私たちが踏むべきものは何か」という事を教えています。私たちが踏むべきものは罪であって、罪の機会であって、悪であって、聖アグネスが踏みつけたものです。

ところが別の声は、例えば古の蛇は、ちょうどエヴァを誘ったように別の事を言うかもしれません。
「そんな事はない。そんなに苦しんでそこまで苦しんで、一体何の役に立つのか。お前がそんな事を言っているから他の人は苦しんでるよ。お前が『いい』と言えばこのシンフロニウスも楽しいじゃないか。悪を、そのシンフロニウスの言うようにしてやれば彼も望みが果たされるし、お前も楽な生活ができるし、それでいいじゃないか。一体拒んで何の役に立つのか。それが隣人の為に何かしてやるのがキリスト教じゃないのか。それが愛ではないのか。隣人を助けてやればいいんじゃないのか。キリストの為にというのはいいんじゃないか。」

つまり、罪や罪の汚いものを踏みつける代わりに、「あぁ、踏んだ方が良いよ。踏みなさい、踏むが良い、踏むが良い、踏みなさい。キリスト様というのはその踏まれる為に生まれて来たのだから。その為に、弱いお前の為にお前を許す為に生まれて来たのだから。そしてその為に十字架を担いだのだから、だから踏めば良い。」ちょうど古の蛇がエヴァに「主の言葉を信じなくても、お前はそれに逆らった方が良いよ」と言っているかのようです。

ちょうど、遠藤周作の『沈黙』のロドリゴが聞いた、“キリスト”と言われる人の言葉のようです。実際、遠藤周作の沈黙の中では、踏み絵を「踏まない」と思っているロドリゴに“キリスト”の声が聞こえた、という場面が出てきます。いわゆるカギ括弧付きの“キリスト”は、「さぁ、踏むが良い。踏んで私を背教するというしるしを見せなさい、そして他の人を助けてあげなさい。」あたかも善も悪も全く同じであるかのように、どんな事も良い事であるかのように。

イエズス・キリスト様はこう言います。「もしも人々の前で『私の味方だ』と宣言する者は、私も御父の前で『私の味方だ』と言おう。もしも人々の前で私を否む者は、御父の前で『私も知らない』と言おう。お前の事は知らない、さぁ出て行け!」

しかしロドリゴの“キリスト”は違います。あたかも全ての人は何をやっても救われているかのように、全ての人は何をやっても、何を信じても、キリストを否定しても、公に侮辱しても、「それでも許されて皆天国に行けるよ。皆幸せな生活ができるよ。主は無限に憐れみだから何をしても良いんだよ。正義もへったくれも無いよ。成聖、聖なるものというものも無いよ。真理とか、善とか、天主、キリストというものも無いよ、踏んだら良い、さぁ何でもやって良い。」

「いえ、」聖アグネスは、カトリック教会は、違う事を教えました、「いや、私たちはキリストを踏む事はできません。罪と、罪の機会と、悪と、偽りを踏まなければならない。蛇を踏まなければならない」と。

第2に、聖アグネスの祝日を黙想した後に思った事は思う事は、「蛇は沈黙をしている」という事です。蛇が沈黙するという事と、天主がある意味で沈黙しているという事は違う、という事です。

蛇は、『罪』とか『罪が何であるか』という事に沈黙します。
「何でも良い、何でもやりなさい」と。
或いは蛇は、『天主様の聖寵がある』『超自然の御恵みがある』という事について何も言いません。
「この世の為に一体何の役に立つのか。この世で面白おかしく楽しくこの世で生活する為に何の役に立つのか。」この世の事だけを話して、『天国の事』や『永遠の事』や『永遠の命』について沈黙します。『超自然』については沈黙します。『真理』という事について、『天主』とか、『地獄』とか、『イエズス・キリスト』、『イエズス・キリストが本当に何を言ったのか』という事については沈黙をします。その代わりに話す事は何かというと、「あぁ、自分で善とか悪を決めれば良い。You decide.君が決めなさい。」
あたかも、「善と悪の知識の木の実から取って、自分で好きなようにすれば良い」と言った蛇であるかのようです。

遠藤周作は、「キリスト教というのは何か与えられた服であって、自分と合わない。だから自分と合った服を着たかった。自分で合った服をしたかった」と、どこかで言っているのを読んだ事があります。ちょうど「自分で決める、自分で善と悪を決めるキリスト教」の事を考えていたようです。

蛇は、「客観的な罪」とか、「客観的な善がある」という事について沈黙しているという事に気が付きます。

ところで、天主様もある意味で沈黙しています。なぜ沈黙しているか、どういう意味で沈黙しているかというと、天主様が、私たちがいくら天主様に、「主よ、私にこうして下さい、助けて下さい」と言ってもその答えがすぐ、直後に、答えが来ないからです。私たちはあたかも天主様が自動販売機のようで、お金を入れてボタンを押すと、ガチャン。コカコーラが欲しいからコカコーラ、ガチャン。ホットコーヒー、ガチャン。そういう意味では、天主様はいくら押してもボタンを押しても、お祈りをしてもお祈りのお金を入れても、ボタンを押してもすぐ答えは出ません。天主様は自動販売機ではありません。私たちの召し使いでも奴隷でもありません。コンピューターでもなくて、ボタンを押したからすぐにDeleteとか、Startとか、それもスイッチを入れたらすぐコンピューターのように計算してくれるわけではありません。

天主は私たちの「主」ですから、主として答えます。私たちが、「奇跡を起こして欲しい!さぁ、やって!」と言ったから、「はいはい、ご主人様!はい、分かりました!魔法のランプ」とやるのではなくて、主が、一番私たちの良いと思った事を、最大の善になる事を、私たちにとってとても良いという事を、主の一番良いと思ったやり方で、思った方法で、思った時に、思ったものを、私たちに下さるのです。

聖アグネスにもそれを下さいました。私たちにも下さっています。一番良いものというのはもちろん、「永遠の命を受ける為に一番良いもの、私たちが聖徳を、そして信仰の為に一番善となるものは何か」という事をよく知った全知全能の御父がそれを計らって下さって、私たちに答えて下さるのです。決して沈黙をしているのではなくて、私たちに聖寵の御恵みと、助けと、或いは摂理によって助けて下さっています。

たとえ私たちにとって何か一見苦しみであるかのように思われても、辛い事であるかのように思われても、全ては私たちの主を愛する者の為にとっては善となるように、計らって下さっているのです。究極的な善の為に計らって下さっています。

しかし天主は、イエズス・キリストについては沈黙を守りません。真理については話しています。真理というのは何かというと、「善と悪の知識の実の木ではなくて、別の木を取れ、別の木の実を取れ。」イエズス・キリストが天主が私たちに教えてくれるのは、「十字架の木を取ってイエズス・キリストに従え」という事です。そしてもしも例えそれがイエズス・キリストの最も最高の選ばれた弟子聖ペトロであっても、「あぁ、十字架とかそのような物は無いようにして下さい!」と言ったとき、主は「サタン、退け!Go!」とおっしゃいました。私たちは、十字架の道を取ってどうしても天国に行かなければなりません。

聖パウロは言います、「キリストを着よ」と。私たちが自分で自分の好きなキリストを作るのではなくて、「イエズス・キリストを着るように。」

既に与えられています。変えなければならないのはキリストではなくて、私たちの方です。私たちがキリストの服を着る事ができるようにならなければなりません。

ではどのような遷善の決心を取ったら良いでしょうか?私は3つを提案します。

1つは、私たちにとってはいつでも、「私たちにとって踏み絵を踏んでしまう、或いはイエズス様を踏んでしまう危険がある」という事です。

聖アグネスのように、いつも罪と罪の機会と悪を踏みつけにした、私たちの心も体もいつも清いままであった、と言う事ができれば何と幸せな事でしょうか。しかし残念ながら、私たちは何と惨めで、弱々しく、私たちの力だけに頼って、或いはイエズス・キリストを選ぶ代わりに自分を選んでしまったり、バラバを選んでキリストを踏んでしまったり、或いは天主を踏んでしまって人間を選んでしまったり、罪を踏む代わりに従順を踏んでしまったり、そして本当は選んではいけない被造物を選んでしまったりした事がどれほど多かった事でしょうか。

聖パウロは言います、「立っている者は倒れないように気を付けよ。震えおののきながら私たちの救いを全うせよ。」

イエズス会の、長く働いていたイエズス会の特別な訓練を受けたフェレイラ管区長、日本を代表する責任者であったとしても、5時間の穴釣りの後にもしも背教してしまったとしたら、私たちはどれほど恐れなければならないのでしょうか。私たちがそれに耐え得る、という事が一体誰が言える事ができるでしょうか。イエズス様の御恵みがなければ、一体誰が耐え忍ぶ事ができましょうか。

私たちはですから、マリア様の汚れなき御心の中に避難所として入る事を提案します。マリア様は言いました、「私の汚れなき御心は避難所であって、天主へと導いている道です、道となるでしょう。」
ですから私たちはマリア様の汚れなき御心の中にいつも入り込む事に致しましょう。

第2に、「天主様の憐れみ」という事です。憐れみというのは、ただ罪も正義も関係なく、聖徳とか天主の正義とかを排除した、ただただ何でも許されるというのが憐れみではありません。主の憐れみというのは、憐れみを受ける為にはまず、私たちが自分の罪や、弱さや、或いは悪、自分の犯した罪を認めなければなりません。罪を自己正当化する事が憐れみではありません。そしてその罪を悔い改めるところに、主が赦しの憐れみと、私たちが主の元に立ち戻って来る事ができる為の憐れみがあります。ですから憐れみはただの憐れみではなくて、御恵みが必要です。主の御恵みを以って初めて、主の憐れみを受ける事ができます。

ファチマのマリア様は1929年6月13日、トゥイという所でシスタールチアにビジョンを見せました。十字架に付けられたイエズス様の上に聖父、聖霊が、そしてイエズス様の福音側にはマリア様が、汚れなき御心のマリア様が立っておられます。そして十字架の所には2つの文字が単語が描かれていました。イエズス様の右手には「御恵み、聖寵」、そして左には「憐れみ」でした。

もしも私たちが主の憐れみを受けようとするならば、たとえ罪を犯してしまったとしても、主の元に立ち戻ろうとするならば、この「聖寵」と「憐れみ」の2つが必要です。それはファチマのマリア様が私たちに教えてくれます。

最後に、私たちは聖アグネスと共に、いつも罪と罪の機会を踏む為に、マリア様に無原罪の御宿りのマリア様にお願いしましょう。マリア様は最初からこう約束されました、第2のエヴァとして、蛇の頭を踏む方として、罪を踏みにじる方として、汚れない御方として、私たちに与えられました。聖アグネスに倣う為にも、無原罪の聖母マリア、ファチマの聖母マリアの汚れなき御心に行く事に致しましょう。

「私は彼の許嫁となった。この方だけに契りを守り、この方だけに心を全て与えた。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

【聖アグネスの聖務日課による殉教の記録は、例えば、Joan Mueller著 A Companion to Clare of Assisi, Life, Writings, and Spirituality に、ラテン語と英語の対訳であります。】




「聖家族の祝日」。その核心のメッセージとは?「御降誕と御公現」のミサとの違いとは?

2017年01月30日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2017年1月8日(主日)に東京で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2017年1月8日(主日)イエズス、マリア、ヨゼフ、聖家族の祝日のミサ

小野田神父 説教


聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。

今日は2017年1月8日、聖家族の祝日を祝っています。私たちのこの新年最初のこの御ミサで、皆さんに聖なる祝福に満ちた良い年となりますように、心からお祈り申し上げます。

今年はファチマの100周年の記念の年ですので、特別に私たちのこの一年はファチマのマリア様の黙想と、マリア様のメッセージを実現する事を考えています。そこで私たちはこの日本の聖ピオ十世会では、ミサの退場の聖歌にいつもファチマのアヴェ・マリアの聖歌を、日本語や或いは英語や、ポルトガルやフランス語でも歌って、世界中からマリア様が愛されて、マリア様の御心が慰めを受けますようにと、そうする事を提案します。

今年は御聖体拝領後の祈りの後に、ミサの後の祈りの時に、特に天使の祈りを唱えて皆さんと一緒に唱えたいと思っています。マリア様は私たちのこの実践を見て、きっと特別のお恵みを下さるに違いありません。

今日はこのミサはまだ御公現の季節、御公現節ですので、まだこの前のクリスマスの時にはいらっしゃれずにバカンスでお帰りになった方もいらっしゃいますし、イエズス様の礼拝をローマの伝統に従って、ミサの後の祈りの後に行いたいと思っています。

次の時にはその代わりに、踏み絵の償いの接吻を捧げたいと思っています。

今月の次のミサの予定ですが、フルーガー神父様が1月21日に東京に到着して、1週間ほど日本に滞在したいとの事です。22日には東京で神父様からミサをして頂いて、またお話しも聞きたいと思っています。

今日の14時30分からは公教要理で、聖書の話の続きがあります。今日は聖書が息吹きを、「聖霊の息吹きを受けて書かれた」という事と、あと「聖書には誤りがない」という事を黙想したいと思います。

訃報ですけれども、私たちのミサに来られていたセシリアさんというご年配の方が、癌で先日の9日に亡くなられたと連絡を受けました。どうぞこの霊魂の為にお祈り下さい。また御公現の日に1月6日に、フェレー司教様のお父様もお亡くなりになられたと聞きました。どうぞこのフェレー司教様のお父様の為にお祈り下さい。

“Decendit Jesus cum eis, et venit Nazareth, et erat subditus illis.”
「イエズスは彼らと共に下りナザレトに来て、そして彼らに従った。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日は聖家族の祝日です。そこで、この聖家族の祝日のこのミサは私たちに何を教えているのか、一体何が中核の核心のメッセージなのか、他のクリスマスや御公現のミサとどう違っているのか、という事を黙想する事を提案します。

このミサを通して、一体イエズス様は私たちに何をなさろうとしているのか、このミサで一体何が起こっているのか、というその現実をぜひ知って頂きたいと思っています。

その現実を知った後に、私たちは新年の遷善の決心を立てる事に致しましょう。遷善の決心は、それはイエズス様に、イエズス様を私たちの家族に、私たちの霊魂に受け入れるという事であり、またイエズス様の真似をして、イエズス様のところに行くという事です。

では、今日の聖家族の構造を見ていく事を提案します。

聖家族のミサというのは、実はこれはレオ13世教皇様が新しく制定したミサなのです。何故かというと、近代になってカトリックの家庭が非常に多く攻撃されている、それを嘆いた教会が是非、「今まではもう当然であって、もうこれが人類の最も中核の細胞の基礎の一部である家庭があまりにも当然であって、もしかしたら注意を払わなかったかもしれないけれども、しかしこの家庭こそに一番大切なものがある」という事を、もう一度黙想させようとしているからです。そして作られました。

そこで、古代から伝わるクリスマスや御公現のミサと、その聖家族のミサは少しだけ性格が違っています。2つ、典礼学者によると2つ性格の違いがあります。

1つは、クリスマスと主の御降誕と御公現は、「これは東の東方の教会と西方の教会の見事な融和であり調和であり、その2つの伝統が非常にきれいに合体して出来た作品である。典礼の伝統である、古代からの伝統である」という事ですが、このクリスマスも御公現も、「そのミサで行われている事を、ミサでの行動が、行われている現実の事が、典礼の文書によって説明されている」という特徴を持っています。

ところで新しく出来たこの聖家族は、私たちにミサで行われている行動を確かに説明するのですけれども、それは私たちの眼を開かせて、ミサでの中での行いというよりは、聖家族の方に目を向けるように、聖家族の日常の生活を黙想するようにと、むしろ「黙想する事」を主願にしています。

第2の特徴としては、御公現や或いは御降誕のミサでは、「イエズス様が私たちの所にいらした」というその御降臨を御降誕を、「私たちの所に在す」という事を祝うのですけれども、聖家族のミサは、「イエズス様が実は私たちの所にいらっしゃらなければならない、もう一度そのイエズス様が生き生きとした姿を復活させなければならない、キリスト教の家族の中にイエズス様をもう一度復興させなければならない」という目的があります。

ちょうど教会は、宝物から古い物と新しい物を出す賢い知恵者であるかのようです。そこで典礼学者が口を揃えて言うのは、今日のメッセージの核心は、“Decendit Jesus cum eis, et venit Nazareth, et erat subditus illis. ”「イエズス様は、マリア様とヨゼフ様と共にナザレトにお下りなって、彼らに従った」という事です。この1節を私たちに強調付ける為に、このこれを黙想させる為に、入祭誦があり、そして集祷文があります。

特に集祷文では、「私たちが遂に、天国の家族の一部となるように」という事を祈らせています。

聖パウロの書簡では、そのナザレトでの聖家族が一体どのようなものであったのかという事が、聖パウロの口を通して具体的に話させています、「特に愛徳を持て。愛徳は完成の鎖である」と言っています。

聖家族の事を私たちに黙想させた後に、実際12歳になったイエズス・キリストがどのように行動したかをまざまざと見せます。それはイエズス様がまず、「御父に従順に従った」という事。第2に、「御父に従う為に、被造物であったヨゼフ様とマリア様に従順に従った」という事です。

永遠の知恵、この世の創り主、最高の王の王、光からの光、全てがお見通しであった天主、人となった天主が、憐れ大工であったヨゼフに、労働者であったヨゼフに従順に従った、マリア様に従った、彼らに従って30年間その隠れた生活をした、という事を私たちに、私たちの注目を向けさせます。

主と共にいるのはどれほど喜ばしい事でしょうか。「『主の家に行こう』と言われて私たちは喜んだ。」主の家にいる事は、どんな宝の山を積んだ宮殿にいるよりもっとましだ。「まさに主こそ隠されたイスラエルの王である」と典礼は補足しています。

イエズス様はまさに、私たちの為に従順のいけにえを捧げたいけにえであって、そしてその事が奉献文でもOffertoriumでも歌われます、言われます。一体これは何なのかというと、「究極の現実が、ミサでの現実が、私たちに今から起こるんだ」という事を教える為です。

確かにこのミサは新しく作られましたけれども、しかし古代からの伝統に従って、ミサで起こっている事を私たちに典礼で教えようとします。それは何かというと、「イエズス様は過去2000年前に、マリア様とヨゼフ様に従ってナザレトに下りてきて、そして彼らに従ったのみならず、現在2017年1月8日、東京のこのミサで、ミサの時に、司祭の聖変化の言葉に従って、天から降りられて、そして私たちのもとに来て、私たちに従う、というその現実が今から起こるのだ」という事を教えているのです。

ですからこそ聖体拝領の時にはこの1文が歌われます、「イエズスは彼ら共に下りてきてナザレトに来て、彼らに従った。」

「イエズス様は今私たちの目の前で、この祭壇の上に降りて来られて、私たちに従った、私たちのものとなった、私たちの運ばれるままに、私たちにされるままに従っておられる、というこの天主の極みのない無限の憐れみと、従順と、天主の愛の現実を、今ミサで目の前に起こっているのだ」と教会はこのミサの文章を以てテキストを以て教えています。

ここに、まさしくミサの頂点があります。「イエズス様は私たちに従うものとなった。私たちのものとなった。私たちの胸に囚人のようになった。もうイエズス様は私たちのものだ」と。

ではその信じられないような現実の前に、今これから起こる事を黙想して、一体どういう事をどういう決心を取らなければならないのでしょうか。

これは、クリスマスの時に私たちがとった遷善の決心をもう一度新たにする事を提案します。

1つは、イエズス様が私たちのもとにお降りになって、天主が人となって降られて、私たちの心の中に来られた、生まれた、生まれたいと思っているので、私たちはどうぞ、このイエズス様を受け入れるようになさって下さい。イエズス様をどうぞ拒否なさらないで下さい。イエズス様は私たちに従うものとなって来られようと望んでおられます。イエズス様のお望みの通りになさってあげて下さい。イエズス様が、「これはこうだ、天主の十戒はこうだ、善はこうである、悪はこうだ」と教えたならば、その通りに私たちは知性も意思もイエズス様に従えるようになさって下さい。イエズス様を、「あぁ、邪魔だ、おれの考えと違う。出て行け」などと追い払わないようになさって下さい。イエズス様は私たちに善を与える為に、祝福を与える為に、恵みを与える為に、来たいと思っているのです。私たちの心を聖家族の基としたいと思ってるからです。私たちの心をいわば、主の宮殿と変えたいと思っているからです。

また私たちの心だけではなく、家族の中にもイエズス様を迎えるようになさって下さい。イエズス様のお祈りで始まる1日、イエズス様のお祈りで終わる1日となりますように。イエズス様のもとに家族が1つとなりますように。もしもその家族の中で、まだ信仰を持っていない方がいらっしゃる場合には、その方が信仰を持ちますようにお祈り致しましょう。もしも同じ信仰を持っているのでしたら、ますますイエズス様が王でありますように、イエズス様が支配するような家族でありますように、イエズス様がまとめる家族でありますように、イエズス様が王様でありますように、イエズス様をどうぞ家族の中に受け入れて下さい。

第2に提案するのは、それは御公現の神秘です。3人の博士がイエズス様を探して行ったように、イエズス様を受け入れない人の為に、その人たちが受け入れる事ができるように、イエズス様を知らない人々が知る事ができるように、私たちはイエズス様を探して行って、イエズス様を知らない人、信じない人の為に、礼拝しない人の為に、イエズス様に希望しない人の為に、愛さない人の為に代わって、イエズス様を積極的に信じ、礼拝し、希望し、愛する事ができますように。その2つを提案します。

ちょうどこの2つの事はファチマの天使が私たちに教えてくれています。ですからこのファチマのお祈りを特に唱える事によって、この聖家族の精神をうまく今年は実践する事ができると信じています。

マリア様にお祈り致しましょう。「マリア様はイエズス様の神秘を深く心に留めておかれた」と福音に書かれてあります。マリア様の汚れなき御心の中に深く入る事に致しましょう。ファチマのマリア様は言われました、「私の心は避難所であって、天へと導く道であるから。」

“Decendit Jesus cum eis, et venit Nazareth, et erat subditus illis.”
「イエズスは彼らと共にナザレトに下り、そして彼らに従った。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。



"クリスマス"と"御公現"。どう似ていて、どう違うか?

2017年01月29日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2017年1月6日(初金)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2017年1月6日 初金曜日 主の御公現のミサ
小野田神父 説教


聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2017年1月6日、主の御公現という大祝日を祝っています。今日は2017年の初めての金曜日で、初金曜日でもあります。今日はこの御ミサの後に、いつものようにミサの後のお祈りを皆で一緒に致しましょう。でも今年はファチマの年なので、このミサの聖体拝領後の祈りの直後に、そして教皇様の為のお祈りの直前に、ファチマの天使が教えてくれたお祈りを皆さんと一緒に唱えたいと思っています。

今日はまだ御公現節ですので、ミサの後の感謝の祈りが終わりましたら、イエズス様の礼拝をしたいと思っています。クリスマスの夜にやったように、小さなイエズス様の御足に或いは御手に接吻をなさって下さい。

今日は初金曜日ですから、聖時間も行いたいと思っています。もしもできる方は聖時間のお祈りもなさって下さい。


Ecce advenit dominator dominus
「見よ、主であり支配者である方がやって来た。」

聖父と聖子と聖霊との御名よりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日は主の御公現です。主の御公現というのは、東の国の3人の博士が星を見て、その星に導かれて、来たるべき生まれた救い主、ユダヤの王、そして真の天主、王の王である方の為に、黄金とそして乳香と没薬を贈り物としてはるばるやって来て、そして生まれた幼子イエズス・キリスト様にお捧げした、という歴史的な事実をお祝いする事に基づいています。

今日はちょうどこのまぐさ桶の所に、新しく3人の王様の御像が置かれました。クリスマスの夜にはマリア様とヨゼフ様、そして真夜中にイエズス様が置かれましたけれども、今日1月6日は3人の王様が付け加えられます。そして馬小屋のこのまぐさ桶は2月2日まで、クリスマスから40日の間こうやって飾られます。

今日はでは、一体御公現というのはどんな意味を私たちが持っているのか?

クリスマスと御公現は、どう似ていてどう違うのか?という事を黙想する事を提案したいと思っています。

そしてどう似ていてどう違っているのか、というのを見た後に、遷善の決心を立てる事に致しましょう。

クリスマスの時にいらして下さった方は覚えていると思いますけれども、クリスマスはまず2つの特徴がありました。

それは「光の祝日」で、光からの光、真の天主からの真の天主、この世の光であるイエズス・キリスト様が、この真っ暗闇のこの世の中を照らす為にやって来られた。ですから昔から教会では、こうイルミネーションで飾って、光を飾るというのが伝統でした。

もう1つのクリスマスの特徴というのは、「プレゼント」だという事でした。どんなプレゼントかというと、それはこの世を創った創造主、天主様が、三位一体が、私たちに最高のプレゼントをした、クリスマスのプレゼントをした、という事でした。そのプレゼントの中身は何かというと、実は私たちに、天主の御子イエズス・キリスト様を全て下さった、イエズス様は私たちのものとなった、“PUER natus est nobis,”「天主の御子が私たちの為にお生まれになった」という特別のプレゼントを記念する事でした。

ところで御公現はどうなのでしょうか?御公現も実はそれと同じなのです。御公現も「光の祝日」であって、そして同時に「プレゼントの日」なのです。でもプレゼントはプレゼントでも、今度は「人間の方からイエズス様に贈る」プレゼントの日なのです。

何故そういう事が言えるのかというと、今日のミサで書かれている内容の事をよく読むとその事が分かります。例えば書簡書というところには、「エルサレムよ、輝け」とあります。これも「エルサレムが光で満たされる」という意味です。

クリスマスの時には、ベトレヘムに光が照らされました。でも今日の御公現では、エルサレムが輝いています。ちょうどクリスマスの時にはベトレヘムで太陽が昇って、マリア様と聖ヨゼフ様とそして選ばれた羊飼いたちだけに、「救い主が現われた」という事が告げ知らされた。羊飼いたちが、選ばれた羊飼いたちが天に、天使たちの大群、光り輝く天使たちの大群を見て、その歌声を聞いて、そしてベトレヘムに駆けつけて、そしてお生まれになった救い主を拝んだ。ですからクリスマスはいわば、カトリックの家庭の、家族の祝日でした。

ところがその昇る太陽がますます現れて、今度は全世界に、異邦人に、東の国の博士たちも呼んで、ユダヤ人とは関係ない東の国の異邦人たちも招いて、救い主を礼拝するように公に御自分を現した、というので、「エルサレムよ、輝き出せよ」という公的な特徴を持っています。まさにカトリックの、「全世界を、この救い主が今日輝き出す。ユダヤ人のみならず異邦人たちにも輝き出す」という光の日なのです。

もう1つのプレゼントというのは、これは異邦人たちが3人の博士たちが、幼子イエズス様になしたという事が、その行為によって表されています。ただこの世の救い主から、この世の創造主から救い主を与えられた、人間は特別の御恵みを受けた、のみならず、今度は人間もそれに対して、それに応えようとするのです。それがこの3人の博士が出した、この「黄金」と、「乳香」と、「没薬」なのです。

「黄金」というのは、これは実は王様に昔から与える贈り物なのです。王様に捧げる物で、これはこの生まれた方がメシアが、まさに「王様である」という事をこの3人がよく知っていたという事を表しています。

「乳香」というのは、これは特に香を焚いてその香が天に上がるので、お祈りのシンボルでもあり、これは天主様に、この世の創造主に捧げる贈り物なのです。ですからこの3人はこの生まれた救い主が、この小さな子供が、「真の天主である」という事を知っていたのです。

もう1つ驚く事は、この博士はこの生まれた子供に「没薬」を、つまり埋葬の為の準備の物を与えたのです。これは「死」とか、「苦しむ」事の準備の為に与えられました。

この3人の博士たちは良く、この生まれた、ベトレヘムでお生まれになって、そして礼拝しに来た方が一体どのような方であるか、と知っていたのです。「真の天主」であり、「真の王」であり、そして「私たちの為に苦しみを受けて亡くなられる救い主である」という事を知っていました。そしてそれに相応しい贈り物を与えました。

ですから今日、この歴史的な出来事を福音書で読んだ後に、「その博士たちがやった事と同じような事を私たちもするように」と言って、本当ならいつも福音の時には立って聞いているのですけれども、福音書に敬意を表して立ったまま聞くのですけれども、その博士たちがやったように、その福音の場所でも、「その3人は贈り物を与えて、そして平伏して礼拝した」という時に、私たちも跪いて同じように、この生まれた赤ちゃんを、イエズス・キリスト様を礼拝しました。

これはどういう事かというと、「実はこれと同じような事を、この歴史上起こったのと同じような事を今、私たちはしているんだよ」という事を教えようとしているのです。でもどのようにしているかというと、確かに目に見える形では違うのですけれども、しかし「実際は同じ事が起こっている」という事を教えようとしています。

それは集祷文を読むとよく分かります。集祷文というのは最初のお祈りですけれども、「3人の博士たちは星によって導かれたけれども、私たちは信仰という薄い光によって導かれて来ました。そして3人この博士たちがこの砂漠を越えて、色んな困難を越えて、ヘロデの罠を越えてやって来たように、私たちもこの世の人生を通り抜けて、そして悪魔の罠も通り抜けて、礼拝に来ました。それはイエズス様、御身の近くに来る為です。イエズス様を真の救い主、王として、天主様として礼拝する為にやって来ました。信仰に導かれてやって来ました。そして私たちはこの信仰に導かれて御身を礼拝します。」

この3人の博士たちがおそらく贈り物を渡した後に、マリア様から或いはヨゼフ様から、「幼子を、あぁ、どうぞ抱かせて下さい」と言って受け取ったかもしれません。「あぁ、これこそ救い主だ。あぁ、本当にここまでやって来てよかった」というように、「私たちもこの幼子を御聖体拝領で受けて、そして私たちの心からの愛と、お祈りと、犠牲を捧げて、礼拝を捧げて、イエズス様をお受けしなさい」という教会の教えがここに含まれています。

非常に意味が深いのは、特にこの2番目のお祈りなのです。2番目のお祈りは「密誦」と言われていますが、「昔は博士たちは黄金と乳香と没薬を捧げた。しかし私たちが今捧げるのはもっとそれよりも素晴らしいものだ。私たちは私たちがもう既に受けたイエズス・キリスト様のその純粋な、黄金のような純粋な天主様に対する愛を捧げるし、そしてイエズス・キリスト様が御父に捧げた純粋な祈りであるそのいけにえを、ミサのいけにえを捧げるし、そしてちょうどイエズス様が御墓で葬られた時に没薬を受けたように、私たちの霊魂にいらして下さる、そのちょうど私たちの霊魂がお墓であるかのように、私たちの中にやって来て下さる、屠られて私たちの中にやって来て下さる、聖体拝領で私たちの中にやって来て下さる、その3つの事は全てイエズス様である。その事が私たちの霊魂の中に起こっている」という事を祈っています。

では私たちはこの今日、この御公現の中で、光の祝日であって、贈り物の祝日、人間から天主様に対する贈り物の日だ、という事が分かると、ではどのような遷善の決心を立てれば良いでしょうか?

私たちも3人の博士に倣って、イエズス様に贈り物をお捧げ致しましょう。

私たちはあまり自慢する事ができません。何故かというと、本当なら3人の博士のように一生懸命純粋の黄金と、純粋の乳香と、純粋の没薬を捧げたいのですけれども、私たちは天主様に対する愛というよりは、被造物の愛によって汚れていますし、お祈りというのも乳香のようにサッと天に上れば良いのですけれども、むしろ雑念とその他の考えであまり天に上るわけではないし、そして犠牲といっても、没薬をきれいに、純粋な没薬として純粋に犠牲を捧げる事ができると良いのですけれども、なかなか犠牲も「嫌だ」「嫌だ」と言って、捧げる事ができません。

ですから私たちはイエズス様を、イエズス様御自身を、イエズス様御自身の祈りと、犠牲を、また愛を、私たちの代わりに御父にお捧げ致しましょう。イエズス様の御体、御血、御霊魂、御神性を、この世の罪の償いの為、また私たちの捧げるものとしてお捧げ致しましょう。

また儚いながらも、汚れたものではありますけれども、天使の誘いに倣って私たちも、信仰と、礼拝と、希望と、愛を、イエズス様の為にお捧げ致しましょう。そしてイエズス様を愛さない人々、信じない人々、礼拝しない人々、希望しない人々に代わって、その赦しをお願いする事に致しましょう。

Ecce advenit dominator dominus
「見よ、支配者であり主はやって来られた。」

聖父と聖子と聖霊との御名よりて、アーメン。


2017年1月15-16日と20-25日の聖伝のミサの報告:聖ピオ十世会 SSPX JAPAN Latin Traditional Mass

2017年01月27日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

ファチマ100周年の2017年、新年早々日本ではレネー神父様、フルーガー神父様など、素晴らしい司祭たちの訪問がありました。天主様に感謝します!

以下に、愛する兄弟姉妹の皆様からいただいた貴重なレポートをご紹介いたします。このような報告をいつも書く労を取って下さる方々に心から感謝します。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


【報告】【1月15日大阪】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

私達の大切な小野田神父様こんにちは。
1月の大阪での主日の御ミサの報告をお送りいたします。

1月15日 (主) 御公現後第二主日の御ミサには16名が、
1月16日 (月) 教皇殉教者聖マルチェロの御ミサには6名が御ミサに与る御恵みを頂きました。 デオ・グラチアス!

大寒波到来で、大阪も前日から雪がちらつき、神父様のご到着が危ぶまれましたが天主様の御恵みで飛行機も道路も何の影響もでず無事に御ミサを捧げて頂くことができました。デオ・グラチアス!

主日には御聖体についてのシリーズで、「犠牲としての御聖体」と、「聖体拝領」のふたつのお説教をして頂きました。
お説教を聞いて、カトリック教会が聖伝に立ち戻り、聖伝のミサ聖祭を復興させれば、御聖体に対する愛や敬意がもっと大きくなるに違いないと思いました。
御聖体拝領後には御聖体に対する愛と敬意を、聖伝のミサ聖祭に対する愛と信心をもっと持つことが出来るよう、マリア様を通してイエズス様にお願いしました。


【報告】【大阪】
+Ave Maria! Immaculata!

日本でのミッションをありがとうございました!
小野田神父様、レネー神父様が毎月、日本でミッションをしてくださることが
どれほど恵まれた、特別なお恵みであるかを痛感し、心から感謝申し上げます。

【所感】1/15-16のレネー神父様

レネー神父様のお説教「ご聖体の秘蹟:2)犠牲」で、御ミサ(聖伝の)がどれほど尊いかが、さらに理解できました。
御ミサは完全な礼拝であり、感謝であり、償いであり、祈願でありますが、
「十字架の犠牲はまことに、人類の歴史全体の頂点です」というお言葉が大変心に響きました。
御ミサでは、カルワリオの十字架上の犠牲と同じいけにえ(私たちの主イエズス・キリストの御身体と御血)が聖父に捧げられている。違うのはその捧げ方だけであると。祭壇上では「血を流さない」方法で捧げられていること。
十字架上で最後の1滴まで御血を流しつくされ、御体から御血が完全に分離した、その壮絶な御受難はパンとブドウ酒を御体と御血に別々に聖別することで表され、「現存化」されること。ご聖体は天主イエズス様の「無限の愛の証し」であると理解できました。

私は、大阪の聖堂のご聖櫃にご聖体が安置されている時に、お聖堂に入るときや、ご聖櫃の御前を通るときに、膝まづくたびに、
ご聖体の内に在すイエズス様が、愛のまなざしで威厳のうちに、私たちのご挨拶に応えてくださっているように感じています(^_^;)

久しぶりに「ミサのすべて(Know your massの日本語版)」を読みかえしました。
「Angelus Press」から出版されている子供用のミサについての説明の本ですが、ミサとは何かを知るのに、本当に良い本だと思いました。
本の中で、守護の天使が言います。「ミサの中でイエズス様と一致して、聖父に自分をもお捧げしなくてはならない」と。

私は、Youtubeの「ミサの聖なる犠牲についての黙想 A Meditation on the Holy Scrifice of the Mass」を参考にして
イエズス様の御受難とミサを結びつけて黙想しつつ御ミサに与っておりますが、特にマリア様にお助けをお願いしています。
私は小さな幼い女の子になって、マリア様に手をつないでいただいて、ゲッセマニからカルワリオの十字架のもとまで連れていってくださるようにお願いします。
そしてマリア様の悲しみに満ちた汚れ無き御心のうちに、私をマリア様の涙の一滴に加えていただいて、イエズス様の御体と御血のいけにえに一致させていただくようにお願いしています。

会社の代表として、親戚の代表として、ご近所の代表として、カトリック信者の代表として、日本の代表として、罪人の代表として
これからも聖なる御ミサに与りたいと思います。

ひとりでも多くの人が、聖なる御ミサに与ることができますように。
至聖なるイエズスの聖心よ、我らを憐れみたまえ。
聖母の汚れ無き御心よ、我らのために祈りたまえ。
ファチマの聖母、ロザリオの聖母よ、我らのために祈りたまえ。
いとも尊き聖ヨゼフ、我らのために祈りたまえ。


【報告】【1月21日大阪】

アヴェ・マリア・インマクラータ!

御ミサの報告をお送りいたします。

1月20日(金) 聖ファビアノ教皇殉教者、聖セバスチャンの御ミサには10名が、
1月21日(土) 聖アグネスの御ミサには12人が御ミサに与り、御聖体拝領する御恵みを頂きました。デオグラチアス!

御ミサの後には毎年恒例の年始の「踏絵への接吻」をおこないました。
また、金曜日には終課も皆で唱えました。

20日のお説教では聖ファビアノ教皇、聖セバスチアノ両殉教者の生涯を黙想しました。
聖ファビアノ教皇は西暦250年に 聖セバスチアノはその30年後280年に殉教されました。
時代も、所も立場も違った御二人でしたが、全く同じ信仰のために亡くなり、私たちにも模範を示されました。
その信仰とは、私達が求めるもの、享受するべきものは三位一体の天主であり、この世は全てそのために使用するものにすぎないという事でした。
私たちも日々踏絵を踏むか、踏まないかという機会、試練にあうけれども、毎日を殉教の精神で、両聖人に倣ってイエズス様に忠実であり、命をかけてイエズス様を否まず、この世に殉教しなければならないと遷善の決心をたてました。

わからなかったこと
お説教の中で、「使う」と「楽しむ」は何が違うのかという質問があったという話がありましたが 、「使う」と「楽しむ」では、もともと意味が全く違うので、質問の意図が良くわかりませんでした。一体何の話からそのような質問がでたのでしょうか?
レネー神父様が答えになった、聖アウグスチノのいうように「楽しみ、享受するべきものは三位一体の天主であり、そのためにこの世を使う」という事はとてもよく理解できます。

21日、聖アグネスの祝日のお説教では聖アグネスについて黙想いたしました。
13歳という若さで、イエズス様を永遠の伴侶とし、完全にイエズス様に依存する愛は、殉教をもって証明されました。
まさに、油を携えて花婿を待つ賢い女であった彼女はなんと幸福であったでしょう。
最善のものを若くしてすでに選ぶことが出来てい た彼女をうらやましく思いました。
彼女のようにイエズス様を選んだ私たちの愛する姉妹達に続いて、日本からもっともっと沢山の召命が出ることを祈ります。

多くの御恵みを受けた両日をイエズス様に、そしてマリア様に感謝申し上げ、これからの愛を誓うとともに、今後のさらなる御助けを願ってまた日々のゴルゴタをよろこんで上っていこうと思います。

【お返事】
鋭いご指摘を感謝します。確かに「使う」と「楽しむ」では、もともと意味が全く違う言葉ですね。この質問は、質問をした方がメールを読んでいて、いきなり問うてきたものです。そこで詳しい文脈はよく分からないのですが、例えば「お酒を飲む」ということは、日本語的には苦しいのですが「お酒を使う」とか「お酒を楽しむ」とかという意味になります。「昨日はお金をたくさん使ったな」ということは「ショッピングを楽しんだな」という意味にもなります。そのようなことだったのでは無いかと思います。


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

こんばんは!☆
御ミサと終課をありがとうございました!
フルーガ-神父様も来日して下さってとても嬉しく思います!
日本に司祭が常駐するようにと思って下さいますように!(*-_-)人~~~~~

マリア様の御取り次ぎによって、聖ファビアノ様と聖セバスチアノ様に倣って、日々、いつもイエズス様を選び取ることができますように!

無原罪のマリア様の御取り次ぎによって、聖アグネス様に倣って、いつも罪と罪の機会を踏みにじることができるように、マリア様の汚れなき御心をいつも避難所として入り込むことができますように!


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

フルーガー神父様の御ミサの報告をお送りいたします。

1月24日(火)聖ティモテオのミサには10名が、
1月25日(水)聖パウロの回心のミサには9名が御ミサにあずかるお恵みを頂きました。デオグラチアス!

両日とも歌ミサを司式して下さり、フルーガー神父様の美しいバリトンはまるで大聖堂で聞いているかのように響いていました。
24日御ミサの後にはフルーガー神父様と終課を唱えることが出来ました。
日本で使っている終課の冊子、ミサごとの羅英日対訳のミサ典書をとても褒めて下さいました。

25日のお説教では、聖パウロの回心と本当の信仰についてお話いただきました。
まことの信仰とは、回心する以前のパウロのような旧約の掟を信じるという事ではなく、天主の御子、救い主イエズス・キリストを信じ、救霊のために働くという事がしっかりと心に残りました。
まことの信仰を持つならば、少人数であっても信頼を失わず、祈りと、犠牲、聖なるロザリオの祈りを、人々の回心と救霊のためにマリア様を通して捧げるよう励ましてくださいました。

とんでもなくお忙しく、大変重要なお立場におられるのに、常にジョークを交えて信徒に接して下さり、ミサの片付けなどもご自分でやってしまわれる謙遜で温かい神父様のお人柄に天主様の豊かな御恵みと御助がありますように!マリア様が神父様をお助けくださいますように!


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!
小野田神父様こんにちは!

1月24、25日の御ミサの報告をさせて頂きます。
今回は、なんとフルーガー神父様が日本に!大阪に!御ミサを授けに来てくださいました。
私はフルーガー神父様とお会いするのは2回目で、何年も前の事ですから覚えていらっしゃらないだろうと思っていたのに、覚えてくださっていて、とても嬉しかったです。神父様はフェレー司教様の補佐官という、とても重要な方で大変忙しい神父様だというのに、私たち信徒一人一人に声をかけてくださり、とても面白くて優しい神父様でした!!

フルーガー神父様は私たちの大阪のお御堂を大変気に入ってくださり、たくさん褒めてくださいました。
また、神父様の歌ミサの歌声はとても力強く、綺麗で、終課もいっしょにさせていただき、ずっとこの時間が続けばいいのに、、、と思うほど、よい時間を過ごすことができました。
今回の御ミサでは平日にもかかわらず、お仕事にもかかわらず、たくさんの犠牲をして御ミサに与りにいらっしゃる信徒の皆さまの姿を拝見し、一つでもたくさんの御ミサに与り、もっと御ミサに深く入り、深くお祈りしたいと強く思いました。
フルーガー神父様には、日本に訪問してくださり、御ミサを授けてくださり、その温かいお人柄に心から感謝致します!
天主様に感謝致します!


【報告】【東京】
Dear Fr Onoda:

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 16人(内、子供2人)
女: 18人(内、子供3人)
計: 34人(内、子供5人)

霊的講話の参列者数
男: 5人(内、子供0人)
女: 8人(内、子供1人)
計: 13人(内、子供1人)

晩課の参列者数
男: 3人(内、子供0人)
女: 5人(内、子供1人)
計: 8人(内、子供1人)


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!
小野田神父様 いつもありがとうございます!
フルーガー神父様は フェレー司教様の名代として、アメリカへのご用事の間に日本によってくださったとのこと、お怪我のため 昨年お見えになられなくて、今回いらっしゃることができて とてもうれしく思いました。厳寒の中の来日を フルーガー神父様、小野田神父さま、本当にありがとうございます。

ごミサの説教と講話のなかで、信仰を守って生きることは難しいことであったし、それは時代を超えて今も同じことだとお話しいただいて、混乱した教会を生きているのは自分たちの世代特有だと思ってしまいがちになる中、励ましをいただきました。そして特別に教会のトップや中枢部にも混乱があるということが現代の特別な状況であるという説明を頂いたように思います。

フルーガー神父様からは 世界中を見渡すならどんどん聖伝のミサが広がっていること、昔から続くカトリックの信仰が決して消えていない、むしろ聖職者の方々の間にも聖伝のミサへの見直しが広がっていることを 教えていただきました。直接教会の上層部の方々と会って肌で感触を感じていらっしゃり、同時に世界中を視察して回られてもおられる方からの、そのような変化がみられるというお話をお聴きできることはとてもうれしいことです。また、日本では言語の問題があるから、普通には情報が入ってきにくいので、情報を拡散する作業をしてくださる方がいないと 何もわからないままです。でも そのような情報に振り回されてばかりではいけない、カトリックの信仰を守る生き方をするという基本的なことを大切にしなさいと ご講話の中で聖人様たちの生きた証を幾つか例に挙げられ教えていただきました。素晴らしいお話 本当に感謝いたします。
また フリートークの時間にお聞きしたことでしたが、「仏教やプロテスタントや他の宗教の方々が それらを通してから 真理の方へ導かれて カトリックの信仰を頂くということは(たくさん)あることなのです」、という言葉に、本当の意味で宗教的な深さで物事を見られている方であると 感じました。カトリック信仰を持つ人が少ない日本では、宗教多元主義に陥ることがないように 特に気を付けなければならないと思いますが、そういう意味でも 曖昧なカトリック信仰ではない 時を超えて受け継がれてきている昔からのカトリック信仰へと もっとたくさんの方が導かれますようにあらためてお祈りいたしました。

この地上での幸せや成功ではなく、死の扉を通る時とそのあと行くであろう世界のことを考えようとすると 悪魔が働いてかどうか いろいろな妨げがあるように思います。カトリックがいつも攻撃を受けてきたのは、イエズス様の教えを忠実に守ろうと努力してきたからだ と言われます。「私はこの世のために来たのではない」とイエズス様が確かにおっしゃられました。司祭の導きや助けによって そのイエズス様の教えてくださった信仰を受け守ることができます。日本にそのような聖伝のカトリックの司祭様を遣わしてくださった天主様に感謝いたします。 
デオ・グラチアス!



映画「サイレンス--沈黙--」に描かれなかった”真実” 

2017年01月26日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

私たちは、まぐさおけに平和に眠る天主なる王(Rex pacificus)イエズス・キリスト、ナザレトで30年間を過ごす隠れた王(Rex absconditus)を、つい最近、黙想したばかりでした。

この世の創造主でありながら、人間となって童貞女聖マリアから幼子としてお生まれになったイエズス・キリストは、ご自分の模範によって、私たちにこの世の短い生活は、永遠のためにある、と教えてくれます。

聖アウグスティヌスが言ったように、私たちは、天主を享受する(frui)ために、この世の被造物を使用します(uti)。天主が目的であって、全ての被造物はそれへの手段です。
聖イグナチオもそのことをはっきりと『霊操』で教えてくれます。「人間は、天主を知り、奉仕し、愛し、それによって霊魂を救うために創造された。全ての被造物は、天主へと到達するための手段である。」

私たちは、天主を得て、天主の永遠の命を楽しむために、この世の被造物を使うのであって、この地上のことを愛し享受するために、天主を手段とするのではありません。この地上で楽園を建設し、人間の尊厳を尊ぶために、その手段として宗教があるのではありません。

映画「サイレンス --沈黙--」

そのようなイエズス・キリストから教えられた真理を黙想しているところに「サイレンス --沈黙--」という映画が、今年の1月12日にヨーロッパやアメリカで、そして日本(1月21日)でも公開上演さました。これは遠藤周作(1923-1996)の同名の小説(1966)をアメリカの監督マルティン・スコセッシが映画化したものです。この映画は日本で公開されましたが、私はそれを見る機会がありませんので高校生の時に読んだ小説をもとに内容をご紹介いたします。

この作品の設定は、17世紀の、反キリスト教のまっただ中の日本です。同じイエズス会の管区長であり、しかし背教したフェレイラを探して日本に潜入する二名のイエズス会司祭が主人公です。彼らは、殉教者になるつもりで死を決して日本に到着します。そのうちの一人セバスチアン・ロドリゴ神父は、キリスト教信者らが迫害から逃れるように奇跡を祈りますが、何も起こりません。天主があたかも不在であるかのように、「沈黙」を守ったままのように。殉教という極限の時代に、何故信仰を保たなければならないか?
【たまたま飛行機の中で読んだ朝日新聞の天声人語(2017年1月24日)によると、「信者や神父に対するむごい拷問の場面に思わず呼吸が乱れた」とあります。】

ついに、信徒の一人である弱いキチジローの密告によって、ロドリゴ神父は捉えられます。奉行所では棄教したフェレイラと会い、迫害下の日本人にとってキリスト教は意味があるのか、と問われます。

殉教を待ちつつ牢にいたロドリゴは、奇妙ないびきのような音を聞きつつ最初は何の音か理解できませんでした。しかし、フェレイラは、拷問を受けていた信徒らの苦しむうめき声であり、彼らは既に信仰を捨てると言っているが、ロドリゴが棄教しないならば彼らの命は救われない、と教えます。ロドリゴは、彼らの命を救うために、踏絵を踏むことに同意します。

翌日、ロドリゴは奉行所で踏絵を踏みます。踏絵に描かれていたキリストがロドリゴに次のようにと語るのを聞くように思います。「踏むがよい。お前のその足の痛みを、私がいちばんよく知っている。その痛みを分かつために私はこの世に生まれ、十字架を背負ったのだから」と。
背教したロドリゴの元に、裏切ったキチジローが赦して欲しいと近づきます。ロドリゴのキリストは、キチジローを通して次のように語るのをロドリゴは聞いたと感じます。
「私は沈黙していたのではない。お前たちと共に苦しんでいたのだ」と。
ロドリゴは、踏絵を踏み、初めてキリスト教の意味を理解したと思い、自分こそが、日本に残るキリシタン司祭であると自覚します。


「沈黙」の背景にあった史実。
【これについて大変詳しい研究がイエズス会司祭故チースリク神父様によってなされています。以下は、それに基づいてフェレイラ神父の生涯を垣間見てみます。詳しくは、 "The Case of Christovao Ferreira" written by Fr. Cieslik, S.J. をご覧下さい。】

1633年にクリストヴァン・フェレイラが背教したというニュースが伝わったとき、カトリック世界には激震が走りました。多くの祈りと犠牲とが捧げられました。いろいろな管区から多くのイエズス会司祭たちが、自分もこの背教の償いとして殉教する覚悟で、フェレイラを探しに日本に行くことを志願しました。

クリストヴァン・フェレイラは、1580年頃ポルトガルのリスボン大司教区にあるトレス・ヴェドラスという村に生まれました。彼の父はドミンゴス・フェレイラ、母親はマリア・ロウレンソでした。クリストヴァンは1596年イエズス会に入会します。2年の修練期を過ごした後に、1598年12月25日にコインブラで初誓願を立てます。

1600年4月4日、ペドロ・デ・アルメイダ神父の指導の下で20名のイエズス会士たちがリスボンを出航しますが、フェレイラはそのうちの一人でした。彼らの中には将来日本に行って殉教する福者ディオゴ・カルヴァリョ(Diogo Carvalho)も同行していました。彼らはインドのゴアに到着し、そこから1601年5月1日、中国と日本に行く者たちはマカオへと向かいました。
【福者ディオゴ・カルヴァリョは、1609年に日本に到着し、1624年2月22日にその他の41名と仙台・秋田で殉教した。1867年5月7日にピオ九世によって列福された日本205福者の一人。】

東アジア貿易のポルトガル植民地の最遠端にあった拠点であり、そこにイエズス会は、アレッサンドロ・ヴァリニャーノが創立した中国と日本とで宣教する者たちを訓練する神学校「天主の御母(Madre de Deus)コレジオ」がありました。フェレイラはマカオのここで勉学を続け、1608年司祭に叙階されます。

フェレイラは1609年5月16日に日本行きの船に乗り、同年6月29日に長崎に到着します。そこから九州島原半島にあった有馬の神学校に送られ日本語を学びます。彼は素早く言葉を学習し、記録によると既に1614年には日本語を良く理解し、日本語での説教もかなり良かったとあります。彼は、有馬の神学校で教授をしていたイエズス会司祭マテウス・デ・コウロス神父と親しくなります。

1612年、キリシタン大名であった有馬晴信が、有馬の領地から追放されると、有馬の神学校とそこにいた宣教師たちは同年の6月に有馬を離れて長崎に避難します。同じ頃フェレイラは長崎から京都に送られていますが、はやり1612年4月か5月頃に京都でも抑圧があり、イエズス会士らは上京区にあった修道院を去ります。

1613年のクリスマスは、教会は京都において御降誕の典礼を平和に執り行うことが出来、当時3万から4万名の信徒たちが信仰生活を送っていました。しかし、クリスマスの直後、突然キリスト教だけに対する「教勢調査」の命令が出され、教会は将来の危険を感じ取ると同時に40時間連続御聖体礼拝、祈りと断食、その他の苦行に励みました。

翌年2月12日、京都の奉行は神父、修道士、カテキスタなどに対して長崎に移動しそこで指示を待つようにとの命令を受けます。しかし中には、選ばれて密かに京都に残った司祭らもありました。バルタザール・トレス神父は大阪に、ベント・フェルナンデス神父とクリストヴァン・フェレイラ神父とは京都にとどまるように選ばれました。

【福者バルタザール・トレス神父 (1563-1626) は、スペイン人のイエズス会司祭、1626年6月20日に長崎で、イエズス会管区長フランシスコ・パチェコ神父ら12名と共に殉教した。ピオ九世によって列福された205殉教者の一人。】

この命令によって、京都にあった一つの教会と二つの墓地の小聖堂が取り壊されます。4月3日には、京都と大阪にいたキリスト教徒の大名の家族らは70名ほど津軽に追放され、京都にいた修道女たちは長崎に送られ、その後そこから宣教師たちと共に国外追放になります。

1617年10月、マテウス・デ・コウロス神父は管区長として任命されると、新管区長はフェレイラ神父を秘書として選び、彼を長崎に呼び返します。デ・コロウス神父は病気で時として体を全く動かせなかったので管区長の仕事の多くはフェレイラに委ねられました。1618年12月、会計を担当していた福者スピノラ神父が逮捕され、フェレイラは会計の役も担わされました。

1621年、宣教師たちはポルトガルの大使から将軍がキリスト教を迫害する理由を知らされます。フェレイラはローマへの報告書に次のようなことを書いています。将軍は、カトリック宣教師たちが福音を宣教することによって権力を奪い取ろうとしていると想像し、カトリックに対立しているプロテスタントのオランダがその通りだと主張し、元イエズス会修道士で修道生活を捨てた日本人ファビアンがキリスト教に反対する本を書いて同じことを言っている、と。

同じ1621年、ローマからフランシスコ・パチェコを管区長に任命する手紙が届きます。フェレイラは、パチェコ神父のやっていたミッションを引き継ぎ関西方面に行きます。しかし1625年2月18日パチェコ神父は逮捕され、1626年6月20日に8名の別のイエズス会士らと長崎でバルタザール・トレス神父らと共に火やぶりにされました。デ・コウロス神父が再び管区長の責務を取り、フェレイラを秘書として長崎に呼びます。デ・コウロス神父が1632年に死ぬまでフェレイラは秘書を務めます。

【福者フランシスコ・パチェコ神父 (1565-1626) は、ポルトガル人のイエズス会宣教師、205福者殉教者の一人。】

管区長の秘書として1627年から1632年まで、フェレイラは多くのキリスト者の殉教の記録を残しています。高来(たかく)地方の人々の殉教、雲仙地獄での燃えたぎる硫黄責め、などなどです。

フェレイラの残してくれた記録により、私たちに次の事実が伝わっています。
1627年、島原半島で宣教師たちを家にかくまっていたキリシタンのリーダー的存在であったパウロ内堀は、息子たちの殉教を別の舟の上から立ち合い、両手の指三本ずつを切り落とされ、額に「切支丹」と焼き印をおされました。キリシタンたちは、女も子供も着物をはぎ取られ、一人ずつ雲仙地獄の硫黄の煮えたぎる湯つぼに投げ込まれ沈んでいきました。最後に残ったパウロ内堀は、二度投げ込まれては引き上げられ、引き上げられるたびに全身焼けただれながら「いと聖き御聖体は讃美せられ給え」と唱えて、三度目に投げ込まれて殉教しました。

二か月半後の5月17日にはヨアキム峰を中心に三人の子供と二人の婦人を含む十人の島原のキリシタンが雲仙地獄に送られました。ヨアキム峰が詠んだ「今までパライソは遠いところにあると思っていたが、今、これほど近くにそれを見て私の心は喜び躍る」と辞世の句も、フェレイラによってポルトガル語で伝わりました。役人たちは、苦痛を長びかせるために座らせるか、寝かせるかして体に熱湯をかけ痙攣けいれんすると水をかけ、口には祈らせないように縄でさるぐつわをしました。侍のジョアン松竹は、体が刀で傷つけられる度に、「主イエズスよ、わたしを見捨てないでください」と祈っていました。
この拷問の他にも、水攻め、日干し、などがあり、殉教者は硫黄の熱湯を何度もかけられ何回も気を失ってもそのたびに蘇生させられ、同じ責め苦を続けるのです。例えば、1631年12月 アントニオ石田神父はバルトロメオ・グチェレス神父、フランシスコ・デ・イエズス神父、ヴィンセンシオ・カルワリオ神父、ガブリエル修道士、ベアトリスという貴婦人とその娘マリアとともに雲仙地獄に送られました。「信仰を捨てたら許してやる」と言いながらの拷問は33日間に及び、小さな穴をあけた柄杓に熱湯を入れ、少しずつ体中至るところに垂らす雲仙地獄責めに良家育ちのマリアは一度で気を失いますが、アントニオ石田神父は6回もこれを続けて受けました。剣でつきさすような痛さをしのび、体中傷だらけになった。それでも信仰を捨てない寒さ厳しい小屋に入れて一杯の飯と一尾のイワシを日に一度だけ与えて延命させています。その中の一人カルワリオ神父は半死半生で小屋に転がっていると役人が踏絵を持ってきて踏めと脅します。熱湯攻めのためにはれあがり、血まみれになった足を指しながら神父は言います。「それを踏むくらいなら、この足を切って捨てましょう!」と。七人のうち一人も棄教することなく、その後西坂に送られ、アントニオ石田神父と他4人の殉教者は、1632年9月3日、長崎で火刑により殉教しました。

【福者アントニオ石田神父を含む205名の殉教者は、 1867年7月7日にローマで列福され、205福者に列せられている。】

非道で非人間的な虐待を受けたにもかかわらず屈せずに信仰を守り通したこの殉教の報告をローマに送った後、これが最後の報告となり、一年後、フェレイラ自身が今度は悲劇的な行為をしてしまうとは、一体誰が考えたことでしょうか!

1632年、デ・コウロス神父の死後に神父の後継者の任命状が無かったために、セバスチアン・ヴィエイラが日本におけるイエズス会の最年長者だったので、自動的に管区長の代役を務めます。これも1633年にヴィエイラ神父が捕まると、管区長の任命までフェレイラが最年長者として自動的に代役を務めることになります。

ちょうどその時、長崎では1633年3月から1634年8月まで、長崎で二奉行制が始まり、将軍家光の指示で徹底した弾圧を加えられ、最も残酷なキリスト教迫害の時期を迎えていました。組織的な司祭や信者の捜索・発見、「穴吊るし」という新しい拷問の発明がなされました。

穴つるしというのは、穴を掘ってその上に人を足から逆さに吊すための枠を作り、頭に血がすぐに上ってしまわないように体を縄できつく縛り付けます。手は後ろに縛られ、頭を下に穴の中に吊されます。へそや膝ぐらいまで下に下ろされ、ふたが閉められます。光は穴の中に入らないので真っ暗になり、食べ物も飲み物も与えられず、どうなるのか不安のまま生と死との間をさまようことになります。血は少しずつ頭に上り、意識はもうろうとし、疲労と空腹とで体力は限界にまで落とされます。孤独と不安と痛みとでもしも生き延びた場合信仰を捨ててしまうように計画された拷問の装置でした。この拷問はキリスト教信者にのみ続けて使われ、普通の犯罪人には使われませんでした。

心理学的な観点から見ると、この拷問は明晰な思考や自由な意志決定を非常に短い期間のうちに不可能にさせてしまいます。キリシタンたちに最大の心理学的な影響を与えて転ばせるのが目的でした。特に背教した司祭ら、いわゆる転びバテレンを使って、キリスト教攻撃宣伝の材料としました。肉体的な苦痛のみならず、特に女性に対しては心理的・精神的な圧力を加えられました。彼女たちを辱め、大切にしていた貞操を損なわせ、自尊心を打ち砕き、自暴自棄にさせ、精神的に打ちのめそうとしました。同じ理由で背教司祭には、死刑犯罪人の寡婦と同棲するように強制されました。

穴吊るしで殉教していった司祭や修道者らの名前は、長い目を見張るようなリストを作ることが出来ます。

穴吊るしの最初の犠牲者は、イエズス会士で日本人の修道士ニコラオ・ケイアン福永でした。彼は三日間の拷問を堪え忍んだ後、1633年7月31日イエズス会創立者であるロヨラの聖イグナチオの祝日に殉教しました。最後に聞こえたのは、聖母の連祷を唱える彼の声でした。

同じ年の8月13日から16日には、マヌエル・ボルゲス、イエズス会修道士二人、三名のカテキスタが同じく穴吊るしで殉教しています。
8月15日は、日本人フランシスコ会士が殉教、数日後にアウグスティノ会士フランシスコ・デ・ガルシア、ドミニコ会ディエゴ・デ・サンタ・マリア朝永とその伴侶4名が同様に殉教。
8月28日ー29日には、島原でも同じくイエズス会士アントニオ・ジアンネとジョアン木寺が殉教。その直後、ドミニコ会司祭ドミンゴ・デ・エルキシアとフランシスコがその他の八名と共に長崎で吊されました。

【聖ディエゴ・デ・サンタマリア(Jacobo Kyushei Gorobioye Tomonaga de Santa María)や聖ドミンゴ・デ・エルキシア(Domingo Ibáñez de Erquicia)、聖フランシスコ庄右衛門ら16名の殉教者たちは、1981年2月18日に列福され、1987年10月18日に列聖されました。】

同年の9月或いは10月にイエズス会のジョアン山は江戸で殉教し、9月29日から10月2日ベント・フェルナンデス神父とパウロ齊藤は長崎の穴吊るしで命を捧げました。
10月4日から10日、更に長崎でイエズス会のジョアン・ダ・コスタ、シクスト・トクウン、ダミアン深江らが、フランシスコ会ジョアン宮崎とその伴侶4名が殉教しています。


1633年10月18日、ドミニコ会員のルカス・アロソノ神父とイルマン・マテオ、イエズス会のアタミ、ソウサ、フェレイラ神父、イルマンのペドロとマテオ、そして中浦神父は、手を縛られ、西坂の刑場へと向かいます。36年前に二十六聖人が殉教した同じ長崎の西坂の丘です。これら8人は穴吊しの拷問を受けます。しかし、5時間の逆さの穴吊りの拷問を受け、イエズス会の管区長であったクリストヴァン・フェレイラ(Christovão Ferreira)は、棄教の合図を出しました。彼は当時53歳、イエズス会士として37年を過ごしていました。

その他7名のイエズス会とドミニコ会士たちは皆殉教します。彼らは、イエズス会管区長が背教したという知らせを受けても信仰を放棄しませんでした。そのうちの一人ドミニコ会聖ルカス・アロンソ神父は、列聖されています。

ジュリアン中浦は、天正遣欧少年使節として1582年に14歳の時に長崎を出航し、ローマ教皇「グレゴリオ十三世に謁見しました。22歳となったジュリアンは1590年にローマから帰国していました。1632年、小倉で捕らえられて、長崎の「クルス町牢屋」に送られます。奉行所に呼ばれて厳しい取り調べを受け、棄教と引き換えに領地を供与する条件が出されても、拷問にかけるという脅しを受けてもジュリアンは同意しませんでした。すでに64歳、イエズス会士として42年間、迫害下で潜伏司祭として19年間力を尽くして忠実に働いていたジュリアン神父が穴吊りで縛り付けられているとき、ポルトガル人の一人が彼の最後の言葉を聞いています。「この大きな苦しみを天主への愛のために」と。四日間の極限の苦痛に耐え抜き10月21日に息を引き取ります。遺体は焼かれ、灰は長崎の港の海に撒かれました。2008年11月24日、188名の殉教者たちの一人として列福されました。

【聖ルカ・スピリト・サント・アロンソ:司祭。スペイン・サモーラ県出身。1623年来日。1633年10月19日39歳で殉教。】

 フェレイラが転んだという不幸な知らせがマカオに到着します。視察師であったパルメイロやその他のイエズス会士たちは、背教した兄弟の改心のために特別の祈りと犠牲と償いを捧げます。特にパルメイロ神父は、フェレイラの転びの知らせを受けた後に倍増させた断食やむち打ちなどの苦行と心痛によって、1635年4月14日に亡くなりました。マカオにいたほとんどのイエズス会士たちは、フェレイラのために命を捨てる覚悟で日本に行き、彼を探し出して改心を訴え、自分も一緒に殉教しようと志願しました。1636年11月2日、フェレイラはイエズス会から除名処分を受けています。

(続く)


教皇殉教者聖ファビアノと殉教者聖セバスチアノの祝日に、教会は私たちに何を教えているか。

2017年01月23日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2017年1月20日(金)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2017年1月20日(金)殉教者教皇聖ファビアノと殉教者聖セバスチアノのミサ
小野田神父 説教

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。

今日は2017年1月20日、教皇殉教者聖ファビアノそれから殉教者聖セバスチアノの祝日を祝っています。

今日この御ミサが終わりましたら、いつも1月にはミサの後にやっております恒例の、踏み絵に対する敬意を表して接吻の儀式がありますので是非行なって下さい。その後で「終課」というグレゴリオ聖歌での一日最後のお祈りもありますので、もしも時間がありましたら一緒にいらして下さい。


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、イエズス様は今日の福音で、「もしもこの世がお前たちの事を憎み、お前たちを除外し、そしてお前たちの名前を『悪だ』と『忌むべきものだ』として捨て去るなら、その時は大いに喜べ。何故ならお前たちの報いは天国では大きいからだ」と仰っています。

今日は聖ファビアノと聖セバスチアノの殉教者を黙想しながら、私たちに今日一体何を教えているのか、教会は私たちに何を教えているのか、そして私たちが今日どのような決心を取らなければならないかを黙想する事に致しましょう。

私はある時、誰から質問されたかは申し上げませんが、「神父様、"使う"という事 "使用する"という事と、"楽しむ" "享受する"という事の違いは何ですか?」と聞かれました。大変鋭い質問です。コンピュータを使う、コンピュータを楽しむ、お酒を使う、お酒を楽しむ、一見同じようですが、何とかを「使う、使用する」という事と、「楽しむ」というのは意味が違います。

レネー神父様はそれにこう答えました、「聖アウグスチヌスはこう言っています、『私たちは、私たちが享受して楽しむべき(frui)ものは、聖父と聖子と聖霊三位一体の天主であって、その聖父と聖子と聖霊を永遠に楽しむ為に、この世を使わ(uti)なければならない。』」これです、まさにドンピシャです。

私たちは、永遠の天主から主を知り、主を愛し、主に奉仕して、そうする事によって永遠に天主を楽しむ為に創られました。この世に地上にあるものは全て、永遠の生命の為にのみあって、その手段としてのみあって目的ではありません。これがカトリックの教えであってカトリックの信仰です。この世のあまりにも儚い短さ、短いのは単なる試練の時であって、これを使って使用して、永遠を楽しむ為に私たちは生きている。

これがカトリックの教えで、イエズス様の教えです。今日のミサでまさに聖ファビアノと聖セバスチアノを通して、私たちにそれと同じ信仰を教えています。

聖ファビアノ教皇様は250年1月20日今日に殉教しました。ローマ皇帝デチウスという皇帝のもとで迫害を受けて殉教した最初の人でした。そしてカリストのカタコンベに葬られて、つい最近ではその教皇様のお墓の石も発見され、それがカリストのカタコンベにありました。

教皇ファビアノはその生前中に特に、少しの間平和な時代があったのでその時に、7人の助祭に、「貧しい人の世話をよくするように」とその分担を決めたり、或いは7人の副助祭には、「殉教者の聖遺物を集めるように」などの事を命じて、愛徳の、愛徳で有名な教皇様でした。ですから今日の福音の中でもその愛徳の話しが出てきます。まず「イエズス様が苦しむ人を癒やした」というのも愛徳の表れです。

聖セバスチアノについては、もう去年の9月にティシエ・ド・マルレ司教様が来られた時にお話しを聞きました、剛毅の徳を説明する為に聞きました。聖セバスチアノもやはり同じ1月20日ですが、亡くなったのはおよそファビアノ教皇様よりも30年位後の、280年頃亡くなったと考えられています。ローマの兵士です。

ローマ皇帝からいけにえを捧げるように言われたのですけれども、それを断ります、「私はカトリックだからできません。」そして矢を受けたり殉教するのですけれども、死んだと思われていたにもかかわらず、実は敬虔な婦人たちが近寄ってその遺体を埋葬しようと見ると、まだ息がある。そして傷が手当てを受けて治った。で、治って、そのままもしも隠れたり逃げれば命は助かったのですけれども、治ったらすぐに皇帝のもとに行って、「あなたのやっている事は間違っている。キリスト教徒を迫害するのは間違っている」と言って、今度は叩かれて息を引き取った、という有名なローマの兵士の殉教者です。

この聖セバスチアノは特に癒やしの、病を癒やす、或いは傷を癒やす聖人として尊敬されて崇敬されていて、聖福音でもやはり「イエズス様が癒やされた」というお話しがエピソードが取られています。「聖セバスチアノが癒やされたように、イエズス様が私たちをも御聖体拝領によって癒やされるように」と、このミサでは聖体拝領の時に聖セバスチアノの奇跡的な治癒とかけて、聖福音のものが引用されています。

この2人の殉教者を見ると、やはり時代は年は違って立場は違ったとしても、しかし1つの事を思っていました、「イエズス・キリストの信仰に忠実でありたい。イエズス・キリストが真の天主であるという事を証して、その為に全てを命を懸けても厭わない」という事でした。「イエズス・キリストが真の救い主であり、天主であるという事を否むよりはむしろ、この短い命を失った方が良い」という信仰でした。「この世の命を、永遠の命を享受する為に使うのだ」という態度でした。

イエズス様も同じ事を言います、「もしも人々の前で『私の味方だ』と宣言する者は、私も御父の前で彼の事を『味方だ』と言おう。しかしもしも私を皆の前で否む者があったら、私も御父の前で彼を否もう」と言っています。

またイエズス様は、「もしも私の弟子になりたいのならば、自分の十字架をとって私について来い」と言います。そしてイエズス様も自分も苦しみを受けて、そして殉教して、しかし「殉教するけれども、復活するだろう」と予言されます。

「イエズス様が苦しむ」という事を聞いた時にペトロは言いました、「あぁ主よ、そんな事がありませんように!」でもイエズス様は、「サタン、退け!おまえの考えている事は聖父の考えではない。どこかへ行ってしまえ!」愛するペトロでさえも、「それは私の考えではない。サタンの考えだ!」イエズス様の望みは、私たちがこの地上のものを、私たちが受ける十字架を、私たちの苦しみを、イエズス様と共に担って、そして天国に行く事です。

そこで時には、壮大な、聖ファビアノや或いは聖セバスチアノような大殉教者のように、そのような大殉教さえをも天主は私たちに送る事があります。また、そうではなくても、天主の送られる試練によって、私たちは日々、実は殉教しなければなりません。日々踏み絵を踏むようにそそのかされる時があります。

例えば皆さんのもとにある男の子がやって来て、「あぁ、俺と一緒にどこか悪い所に行こう、罪を犯そう。そうしたらお前は私の事を愛している事になるから、そうすれば愛をほどこす事になる。キリストの教えは愛ではないか。だからキリストは人を愛する為にそして否まれてもいいんだ」と言ったら、それではキリスト教の全ての掟も、徳も、全く無くなってしまいます。

「私はキリスト教、カトリックだからできません。そのような罪は犯しません」と言うと、「キリストは十字架を担ぐ為に踏まれる為に生まれて来たんだから、否まれる為に生まれて来たんだから、罪を犯しなさい。キリストを否みなさい。だから俺と一緒に罪を犯そう。そうすればお前は俺を愛する事になって、隣人愛になる。」

それはカトリックの教えではありません、それはキリストのイエズス様の教えでは、本当のイエズス様の教えではありません。

考えてもみて下さい。日本の自衛隊が例えばイスラム国に行って、イスラム国に捕まってしまった日本人を「救出しよう」とした時に、「イスラム国で殺されかかっている。」自衛隊の人が助けようとするのですけれども、あいにくその作戦部隊のエリートが捕まってしまった。「日本の国からの忠誠をやめて、これからISになったら、お前たちの命も助かるし、この日本人の命も助けてやる。そうしないと首を切ってYouTubeに流すよ。お前たちもそうだ、日本人だろうが何だろうが、」その時に、もしも超自然な話しではなかったとしても、「いや、私たちは日本人として日本軍として来たんだ」と言ってそして忠誠をした時には、何と日本の人々はこの彼の忠実を忠誠を讃えるでしょうか。もしもそれを裏切ってしまったら、「赤穂浪士の子孫が、ルバング島の小野田少尉を生んだ国が一体何だ」という事になってしまいます。忠誠、忠実というのは、自然的な徳においても異教の日本人においてもとても重要な徳であるにもかかわらず、もしもそれが否まれてしまったとしたら、否む事がもしもそれがキリスト教の教えだとしたら、そのような教えを日本人は受けようと決してしない事でしょう。

イエズス様の教えに私たちは忠実でなければなりません。

話しが逸れてしまいましたが、では私たちはどのような踏み絵を踏むように言われているのでしょうか?

もちろん、男の子が毎日私たちの所にやって来て「罪を犯そう」と言うわけではありません。そうではなくて、毎日「あぁ、このインターネットのこれを、この悪い広告をクリックするか、しないか」とか、或いは「ここで今、朝起きる時間だけれども、起きるか、起きないか」或いは「ここで、他の人がいるけれども、十字架のしるしをしてご飯を食べるか、食べないか」或いは何か日常のほんの小さな、「ここで、イエズス様の弟子としてカトリック信者として、この善を行うか、行わないか」という事で、あたかも私たちは踏絵を踏むか、踏まないかの試練を毎日送られているかのようです。

例えそれを残念ながら、私たちが必ずしもイエズス様にいつも忠実だったとは限りませんでした。私たちは何とイエズス様に悲しい思いを過去させてきた事でしょうか。本当なら私はこうしなければならない事を、つまらない事の為に、イエズス様の代わりに世間体を取ったり、或いは他の自分の楽しみを取ったりしてしまいました。

殉教は更に、他人から受けた屈辱や、他人から受けた疑いのまなざしとか、或いは嫌がらせ、或いは悪口なども、讒言嘘の悪口も、寛大に許すように、それこそが私たちにとって殉教の毎日の生活となります。

上司から評価されなかった、上司が私に悪口を言った、陰で変な事を言っている、或いは悪意を持って嫌がらせをされた、などなど。私たちはどれほど他人を殉教の心で許さなければならないのでしょうか。

聖ファビアノと聖セバスチアノは私たちにその事も教えています、「日々、いつもイエズス様を取るように。イエズス様を選ぶように」と招いています。今日はこのミサを捧げて、2人の殉教者にお祈り致しましょう。願わくはこの2人の聖人の剛毅と、また治癒のお恵みによって私たちの弱さが癒やされて、いつもイエズス様を取り続ける事ができますように。

マリア様にもお祈り致しましょう。マリア様が私たちをいつも助けて、イエズス様を選ぶように、もしもイエズス様の聖心を悲しませてしまうような事があったとしたら、それに対して償いをする事ができるお恵みをできますようにとお祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


"The Holy Eucharist : 3 / Holy Communion" by Fr. Laisney SSPX

2017年01月21日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様の霊的講話、「ご聖体:3)聖体拝領」の【英語原文】をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

The Holy Eucharist: 3/ Holy Communion

My dear brethren,

We have seen that, in the Sacrament of the Holy Eucharist our Lord Jesus Christ is truly and substantially present, as the Victim of the Sacrifice, and thus the Mass is the greatest treasure of the Church. Yet, there are still more marvels. Our Lord Jesus Christ chose bread and wine as the matter of the Holy Eucharist, to be transformed into His Body and Blood, not only in order to make His Sacrifice present on our altars, and to offer it to His Father at every Mass, but further in order that we may truly eat His Body and Blood, the most perfect fruit of His Sacrifice, and thereby attain union with Him as perfectly as possible here below. Thus, Holy Communion is the fruit of the Sacrifice, the fruit of the Tree of Life which is the Cross. Holy Communion, well prepared, is indubitably the best way to unite oneself with the Mass.

As Baptism is the Sacrament of the beginning of the spiritual life, of the life of Christ in us, and thus compared to a new birth, so is the Holy Eucharist the Sacrament of the end and final perfection of the spiritual life, which consists in a perfect union with our Lord Jesus Christ, true God and true man. This does not mean that it is necessary to be perfect in order to receive Holy Communion, but rather that good Holy Communions will lead us to perfection: it is the greatest means given to us by which we might advance towards perfection.

We have the duty to tend towards perfection. Indeed, our Lord Jesus Christ said: “Be you therefore perfect, as also your heavenly Father is perfect” (Mt. 5:48). And St Paul exhorts us: “For the rest, brethren, rejoice, be perfect, take exhortation, be of one mind, have peace; and the God of peace and of love shall be with you” (2 Cor. 13:11). The very first commandment, the greatest commandment of God is indeed a commandment of perfection: “thou shalt love the Lord thy God, with thy whole heart, and with thy whole soul, and with thy whole mind, and with thy whole strength” (Mk. 12:30).

Now that perfect love consists in a perfect union of mind and will with God, as St John says: “God is charity: and he that abideth in charity, abideth in God, and God in him” (1 Jn. 4:16). And this is the very fruit of the Holy Eucharist: “He that eateth my flesh, and drinketh my blood, abideth in me, and I in him” (Jn. 6:56).

In order to benefit fully of Holy Communion, there is need of a good preparation. The very first condition is very important, and absolutely essential: one MUST be in the state of grace in order to receive Holy Communion. It is a “sacrament of the living”, i.e. requiring the state of grace: if one is not in the state of grace, he needs Baptism for the first time or the Sacrament of Penance if he fell back into mortal sin after Baptism. Not only one may not receive Holy Communion if one is in the state of sin, but one must not. It would be a very grievous sacrilege to do so; such sacrilege, by abusing of the greatest gift of God, would blind the mind to truth and to good, and thus lead to a hardening of the soul and of the heart and ultimately to damnation. On the contrary, if a sinner has enough faith and respect for our Lord and thus abstains from Holy Communion, that respect could help him to obtain the grace of true contrition and thus lead him to make a good confession and then – and only then – to be able to receive fruitfully Holy Communion.

In our days when one sees so many going to Communion at every Mass and almost never to Confession, there is a multiplication of bad Communion which is truly frightful. Some people who have not gone to confession for years have no fear to approach Holy Communion. St Paul is very explicit on the gravity of such sacrilege: “he that eateth and drinketh unworthily, eateth and drinketh judgment to himself, not discerning the body of the Lord” (1 Cor. 11:29), he “shall be guilty of the body and of the blood of the Lord” (1 Cor. 11:27). In that context, “judgement” means condemnation. Note that these verses of the Scriptures are no longer read in the New Mass – they have cut off the last three verses of this epistle of St Paul to the Corinthians, and stop their reading at verse 26, omitting the very three verses which are the clearest on the reality of our Lord Jesus Christ in the Blessed Sacrament.

The second condition is a “right intention”, not merely to do like everybody else, but in order to get closer to the Lord, to grow stronger in the spiritual life, to be more and more united with our Lord Jesus Christ. It is not necessary to make explicit such intention, though this is very useful; a “virtual” intention suffices. I say that so that you may avoid scruples in case you did not explicitly renew such intention: the habitual intention to love God more and more is sufficient. But it is important to avoid worldly motives, that can sometimes be mixed.

The third condition required is the Eucharistic fast: the antique custom of the Church is to fast since midnight before Holy Communion. Given the difficulties in modern times due to work schedules preventing some to go to an early morning Mass, Pope Pius XII has permitted evening Masses, and in order to foster Holy Communion even at these evening Masses permitted a “three hours Eucharistic fast” from any solid food and alcoholic beverage, with a one hour fast for any liquid other than water – water does not break the fast. True medicine does not break the fast; I say true medicine, because “dietary supplements” are rather food than medicine, and would break the Eucharistic fast even if they are in capsules that imitate medicine.

In his decree on frequent Communion St Pius X says that the above three conditions are sufficient: the state of grace, a right intention and Eucharistic fast. However, one needs to know that the better he prepares himself to Holy Communion, the more graces he will receive – and there is no limit in the amount of these graces, because in Holy Communion one receives the very Author of grace, our Lord Jesus Christ: “grace and truth came by Jesus Christ” (Jn. 1:17). Immediate preparation to Holy Communion is thus very important: the whole rite of Mass leads the soul to proper preparation; one must enter truly into the mind of the Church with a great thirst for Jesus and will be carried by the prayers of the Church to an excellent preparation.

The essence of such immediate preparation consists in acts of Faith and Charity: contemplation of our Lord Jesus Christ in the blessed Sacrament and longing for Him: He is the food of the Angels, as the psalmist sang: “Man ate the bread of angels” (Ps. 77:25). The holy Angels see the very divinity of our Lord Jesus Christ, Who is the Truth and the Life: they are illuminated by this Divine Truth and live of this Life. And this Jesus, Who is the Eternal Word of God made flesh for our salvation, gives Himself to us to feed us with His very flesh together with His Blood, Soul and Divinity. The book of Wisdom sings this munificence of God: “thou didst feed thy people with the food of angels, and gavest them bread from heaven prepared without labour; having in it all that is delicious, and the sweetness of every taste” (Wis. 16:20). “I am the living bread which came down from heaven. If any man eat of this bread, he shall live for ever; and the bread that I will give, is my flesh, for the life of the world” (Jn. 6:51-52).

Holy Communion is really the moment to bring to our Lord all our holy desires and needs: at that moment more than ever, “ask, and it shall be given you: seek, and you shall find: knock, and it shall be opened to you” (Mt. 7:7). He Who gives you His only-begotten Son will give you all graces with Him: “He that spared not even his own Son, but delivered him up for us all, how hath he not also, with him, given us all things?” (Rom. 8:32). This is the time to ask not only for our own selves, but also for all those who are dear to us, for all those who are near to us, for all the needs of the Church, for the conversion of sinners, etc. Though it is permitted to ask for earthly things, one should not ask merely for earthly things, it would be wrong; one should ask first and foremost for spiritual goods, virtue, victory over temptations, devotion and all that truly bind us with God. Such petitions can be done both before and after Holy Communion.

The moment of Communion is the most important: St Augustine says: “Let no one eat of this flesh unless first he adored it… not only do we not sin by adoring, but we would sin if we do not adore it.” Thus, from the very antiquity of the Church, the faithful have adored our Lord at the moment of Holy Communion: this is traditionally done in the Roman Rite by Communion kneeling down and on the tongue. Communion in the hands is really a scandal for many souls; even if one makes an interior act of faith and adoration, he fails to make an exterior adoration which is due to Christ as St Augustine taught, and the whole Church with him. The traditional manner to receive Communion is thus very important to open the soul to grace, to our Lord, as St James says: “God resisteth the proud, and giveth grace to the humble” (Jam. 4:6). On the contrary, the lack of respect manifested so many times in the modern way of communion in the hands closes the soul to grace, it puts what theologians call an “obex”, an obstacle to grace.

As immediate preparation is very important, so is a good thanksgiving after Communion. After having received Jesus in Holy Communion, one ought to be very recollected, and in intense prayer. These are the most important moments of the whole day, of the whole week, of our whole life indeed. Do not rush out of the Church just after communion, even before the end of Mass: this is deeply wrong. Do spend the time in thanksgiving that is proper and worthy of our Lord. It is usually said that there should be a good 15mn thanksgiving.

That thanksgiving should continue even after, as the atmosphere of our whole day: we have received our Lord Jesus Christ, the Son of God! How could we live as pagans who know not God? Impossible! From henceforth even more we ought to be truly worthy of our Lord. As St Paul, we should be able to say: “I live, now not I; but Christ liveth in me. And that I live now in the flesh: I live in the faith of the Son of God, who loved me, and delivered himself for me” (Gal. 2:20). “For to me, to live is Christ; and to die is gain” (Phil. 1:21).

The best model of Holy Communion is the Blessed Virgin Mary: indeed, it is the same Body of Christ that we receive and that dwelt in her most pure womb for nine month. When “the Word was made flesh, and dwelt” (Jn. 1:14) in her, she truly received the Body, Blood, Soul and Divinity of our Lord Jesus Christ in her: she had become the first living tabernacle. With what faith, with what devotion, with what humility, with what intense love did our Lady receive Jesus and keep Jesus in her womb! What were her thoughts? What was her affection for Him? The more we contemplate her, the more we learn what we ought to be. Let us ask our Blessed Mother for all these virtues; let us ask her to be our supplement and offer to Jesus all the acts of faith and adoration which our Lady offered Him!

St Pius X restored the antique custom of receiving frequently Holy Communion. It was indeed the antique custom, especially in the West, of attending Mass and receiving Holy Communion every day. Our Lord is truly our “daily supersubstantial bread” which we ask in the Our Father, as per St Mathew: “Give us this day our supersubstantial bread” (Mt. 6:11). It is not the earthly bread, but rather “the bread that came down from heaven” (Jn. 6:58), i.e. the very Body of our Lord Jesus Christ. Yet traditionally the faithful should receive Holy Communion only once a day. The modern custom of allowing more than one Communion per day comes from the modernist notion that the Mass is just a meal, and one does not participate truly in a meal unless he eats: hence they push everyone to receive Communion at every Mass. But the Mass is essentially a Sacrifice, the Sacrifice of the New Testament. Now in the Old Testament it is clear that in some sacrifices one would eat the victim, but in others one would not, yet one would fully benefit of that Sacrifice by the devotion with which one would attend it.

Holy Communion is very important especially at the end of life, to prepare for the eternal communion. That Communion which is given to the dying is called “holy viaticum”, and one should ask for it and pray for the grace of receiving it. When one is sick and cannot come to church, one should ask the priest to come and bring him our Lord in the Holy Eucharist. Holy Communion is a very great comfort in sickness, especially helping to unite one’s sufferings with our Lord’s and thus transforming these sufferings into a great source of graces.

Holy Communion may be given to children, as soon as they are capable to receive our Lord. St Pius X requires of them to know the difference between the Holy Eucharist and normal food. They need to know the basic catechism. If they are well instructed without delay, children should be able to receive Jesus even at the tender age of 7, sometimes even earlier. It is a sign of great decline of catechetical instruction today to see that in many cases, the First Communion is delayed when children are nine or even ten. Good parents should take at heart the early instruction of their children in catechism, so that they would not delay the great benefit of holy Communion to them. Children need the help of this great sacrament in order to pass through the trials of adolescence with victory and without falling. Often an early love for Jesus in the Blessed Sacrament will bring with it the grace of a vocation. Negligence in preparing the children for first Holy Communion is not without sin.

The Saints have loved Holy Communion; it was for them the greatest moment of their day, for which they longed and from which they lived. Their recollection after Communion was sometimes really astonishing. One recalls St Dominic Savio – if my memory is right – who was still doing his thanksgiving even after everyone else had left the Church, so attached to our Lord that he was completely oblivious of everything else. And St Imelda, who died of love after Holy Communion!

May the Blessed Virgin Mary and all these Saints help all of us to prepare ourselves for such great Sacrament and fully lived of it, so that we may reach eternal Communion face to face in Heaven! Amen.

「ご聖体の秘蹟について」 その3)聖体拝領:聖ピオ十世会司祭 レネー神父様

2017年01月19日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様の霊的講話 「ご聖体の秘蹟について:その3)聖体拝領」(日本語訳)をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2017年1月15日 御公現後の第2主日―大阪
「ご聖体の秘蹟について」:その3)聖体拝領


親愛なる兄弟の皆さん、

私たちは前回まで、ご聖体の秘蹟に、私たちの主イエズス・キリストが犠牲のいけにえとして真実かつ実体的に現存なさっており、そのためミサは教会の最も素晴らしい宝であるということを見てきました。でも、まださらに驚くべきことがあります。私たちの主イエズス・キリストは、主の御体と御血に変化させられるご聖体の質料として、パンとぶどう酒を選ばれました。それは、主の犠牲を祭壇上で行い、すべてのミサでそれを御父にお捧げするためだけでなく、さらに私たちが、主の犠牲の最も完全な実である主の御体と御血を本当に食べることができ、それによってここ地上で可能な限り完全に私たちが主との一致に到達できるようにするためでもありました。ですから、聖体拝領は犠牲の実、命の木すなわち十字架の実なのです。聖体拝領は、よく準備されていれば、自分をミサと一致させる最高の方法であるのは疑いありません。

洗礼が霊的な命の始まりの秘蹟、私たちのうちにおけるキリストの命の始まりの秘蹟であり、そのため新たな誕生に例えられるように、ご聖体は、まことの天主にしてまことの人間である私たちの主イエズス・キリストとの完全な一致から成る、霊的な命の目的の秘蹟でありかつ最終的な完成の秘蹟です。これは、ご聖体を受けるために完全である必要があるという意味ではなく、むしろ良き聖体拝領は私たちを完全へと導くという意味です。聖体拝領は、私たちが完全へと進んでいくよう、私たちに与えられた最も優れた手段です。

私たちには完全へと向かう義務があります。実際、私たちの主イエズス・キリストはこう言われました。「あなたたちの天の父が完全であるようにあなたたちも完全な者になれ」(マテオ5章48節)。また聖パウロは私たちにこう勧告します。「それでは兄弟たちよ、喜べ、完全であれ、朗らかであれ、心を一つにせよ、平和に生きよ。そうすれば、愛と平和の天主はあなたたちとともにましますであろう」(コリント後書13章11節)。最も重大な天主の掟である第一戒は実際、完全を命じる掟です。「あなたはすべての心、すべての霊、すべての知恵、すべての力をあげて、主なる天主を愛せよ」(マルコ12章30節)。

さて、その完全な愛は、天主の御心およびご意志との完全な一致から成っています。聖ヨハネはこう言います。「天主は愛である。愛を持つ者は天主にとどまり[宿り]、天主は彼にとどまられる[宿られる]」(ヨハネ第一4章16節)。また、これこそがまさにご聖体の実です。「私の肉を食べ私の血を飲む者は、私に宿り、私もまたその者のうちに宿る」(ヨハネ6章56節)。

聖体拝領から十分に利益を得るためには、良き準備が必要です。まず第一の条件が大変重要であり、絶対に必要不可欠です。それは、ご聖体を受けるためには成聖の恩寵の状態でなければならないことです。ご聖体は「(霊的に)生きている人の秘蹟」であり、すなわち成聖の恩寵の状態を要求するのです。成聖の恩寵の状態にないならば、その人には最初の場合は洗礼が必要であり、あるいは洗礼ののち大罪に陥ったのであれば悔悛の秘蹟が必要です。大罪の状態にあればご聖体を受けることが許されていないだけでなく、決して受けてはいけません。受けることは汚聖という重い罪になります。天主からの最も素晴らしい賜物にひどい扱いをするそのような汚聖は、真理に対して、善に対して精神を盲目にし、その結果、霊魂と心を固くさせてしまい、最後には破滅へと至らせるでしょう。その反対に、罪びとが主に対する十分な信仰と敬意を持ち、聖体拝領を控えるならば、その敬意がその人を助けて、まことの痛悔の恩寵を得させ、それによってその人を良き告解へと導き、そののち―そののちに限りますが―実り豊かにご聖体を受けることができるように導くのです。

非常に多くの人々が毎回のミサで聖体拝領に行きながらほとんど告解に行かないという私たちの時代には、まことに恐るべきことである悪しき聖体拝領が増えています。何年も告解に行っていないのに、恐れもなくご聖体に近づく人々がいます。聖パウロは、そのような汚聖の罪の重さについてはっきりと言っています。「主のお体をわきまえずに飲食する者は、自分自身への裁きを飲食することである」(コリント前書11章29節)のであり、その者は「主のお体と御血を犯す」(コリント前書11章27節)のです。この文脈では、「裁き」とは地獄の宣告のことです。聖書のこの節は、新しいミサではもはや読み上げられないことに注意してください。彼らは聖パウロのコリント人への書簡にあるこの最後の三つの節[第27-29節]を削除し、第26節で朗読をやめ、ご聖体にまします私たちの主イエズス・キリストの真実について最も明確に述べているこの三つの節を省略してしまったのです。

第二の条件は「正しい意向」です。これはただ他のみんなと同じようにするためというのではなく、主にもっと近づくため、霊的な命(生活)においてもっと強くなるため、私たちの主イエズス・キリストともっともっと一致するためです。その意向をはっきりと表明することは有益ですが、必ずしも必要ではありません。「事実上の」意向で事足ります。私がこう言うのは、皆さんがその意向をはっきりと更新しなかった場合にも気をとがめることがないようにするためです。天主をもっともっと愛したいという習慣的な意向があれば十分です。しかし、ときどき混じっていることのある、この世的な動機は避けることが大事です。

必要な第三の条件は、聖体拝領前の断食です。教会の古くからの慣習は、聖体拝領前の真夜中から断食することです。人々が早朝のミサに行くことができないような仕事時間という現代世界の困難を考慮して、教皇ピオ十二世は夕べのミサを許可し、この夕べのミサでの聖体拝領をも促すために「三時間の聖体拝領前の断食」を許可しました。これは固形食物やアルコール飲料は禁じましたが、水以外の液体飲料については一時間の断食としました。水は飲んでも断食に反しません。本物の薬は飲んでも断食に反しません。私は本物の薬と言いましたが、その理由は「ダイエット用のサプリメント」は薬ではなくむしろ食物であり、そのため、それが薬のようにカプセルに入っていたとしても聖体拝領前の断食に反するからです。

頻繁な聖体拝領に関する教令の中で、聖ピオ十世は、上記の三つの条件で十分であるとしています。成聖の恩寵の状態、正しい意向、聖体拝領前の断食です。しかしながら、聖体拝領への準備を良くすればするほど、もっと多くの恩寵を受けること、また、聖体拝領では恩寵の創り主そのものであるお方、私たちの主イエズス・キリストを受けるのですから、その恩寵の量には制限がないということも知っておく必要があります。「恩寵と真理はイエズス・キリストによって来た」(ヨハネ1章17節)のです。ですから、聖体拝領の直前の準備は非常に重要です。ミサの儀式全体が霊魂に対してふさわしい準備をさせます。ですからイエズスへの大きな渇望をもって教会の精神の中に本当に入らなければならず、そうすれば教会の祈りによって支えられて素晴らしい準備へと至るでしょう。

この直前の準備の本質は、信仰と愛徳のわざにあります。すなわちご聖体にまします私たちの主イエズス・キリストを観想することと、主を熱心に求めることです。主は天使たちの食べ物です。詩篇作者はこう言います。「人は天使たちのパンを食べた」(詩篇77章25節)。聖なる天使たちは、真理であり命である私たちの主イエズス・キリストのご神性そのものを見ています。天使たちは、この天主の真理によって照らされ、この天主の命を生きています。そしてこのイエズス、私たちの救いのために肉体となられた天主の永遠のみ言葉であるお方は、主の御血、ご霊魂、ご神性とともにその肉そのものを私たちに食べさせるよう、ご自分を私たちにお与えになっているのです。知恵の書は天主の惜しみのなさをこう歌います。「あなたはみ民に対しては天使の食べ物を与えられ、労苦しないでもパンを降らされた。それは、あらゆる楽しみのもととなり、あらゆる味覚を満たすものだった」(知恵16章20節)。「私は天から下った生きるパンである。このパンを食べる者は永遠に生きる。私の与えるパンは、世の命のためにわたされる私の肉である」(ヨハネ6章51-52節)。

聖体拝領は、本当に私たちの望みと必要を私たちの主に願い出る時です。他のどの時よりも、その時こそ、「求めよ、そうすれば与えられる。探せ、そうすれば見いだす。たたけ、そうすれば開かれる」(マテオ7章7節)のです。皆さんにご自分の御独り子をお与えになるお方は、御子とともにあらゆる恩寵を皆さんにお与えになるでしょう。「ご自分のみ子を惜しまずに私たちすべてのためにわたされたお方が、み子とともに他のすべてを下さらないはずがあろうか」(ローマ8章32節)。聖体拝領は、私たち自身のためだけでなく、私たちにとって大事なすべての人々のため、私たちの近くにいるすべての人々のため、教会の必要とするすべてのもののため、罪びとの回心などのためにもお願いをする時です。地上のものごとを願うのは許されていますが、単に地上のものごとだけを願うべきではなく、そうするのは間違っています。なによりも第一に霊的なこと、徳、誘惑に対する勝利、信心、そして私たちを天主に本当に結びつけるものすべてを願うべきです。そのような祈願は聖体拝領の前後両方で行うことができます。

聖体拝領の時は、最も重要です。聖アウグスティノはこう言っています。「先にこれを礼拝しない者は、誰もこの肉を食べてはならない…われわれは礼拝することによって罪を犯さないだけでなく、それを礼拝しないならば罪を犯すのである」。ですから、教会の最も古い時代から、聖体拝領の時に信者は主を礼拝してきました。これは、ローマ典礼においては、伝統的にひざまずいて舌でご聖体を受ける方法で行われます。手による聖体拝領は、多くの霊魂に対して本当につまずきを与えるものです。その人が信仰と礼拝という内的な行いをしているとしても、聖アウグスティノが教え、彼とともに全教会が教えたような、キリストに当然捧げるべき外的な礼拝をしていないのです。ですから、ご聖体を受ける聖伝の方法は、恩寵に対して、キリストに対して霊魂を開くために非常に重要です。聖ヤコボはこう言っています。「天主はおごる者に逆らい、へりくだる者を恵まれる」(ヤコボ4章6節)。その反対に、手による聖体拝領という現代的方法は敬意に欠けていることが何度も何度も明らかになっており、それは恩寵に対して霊魂を閉ざし、神学者たちが「閂(かんぬき)」と呼ぶもの、すなわち恩寵に対する障害物となるのです。

直前の準備が非常に重要であるように、聖体拝領後の良き感謝も重要です。聖体拝領においてイエズスを受けたのち、十分黙想して熱心に祈るべきです。これらは一日全体で、一週間全体で、また実際、私たちの人生全体で最も重要な時です。聖体拝領ののち、ミサが終わる前にも、すぐ急いで教会から出ないでください。そうすることは非常に間違っています。主に対して適切でふさわしい感謝の時間を是非持ってください。通常は、十五分間程度の良き感謝の時間を持つべきだと言われています。

この感謝はその後も、その一日中の雰囲気として、続けるべきです。私たちは、天主の御子である私たちの主イエズス・キリストを受けたのですから! 私たちはいったいどうしたら、天主を知らない異邦人のように生きることができますか? できるはずがありません! これからは、これまで以上に私たちは主にふさわしくあらねばなりません。聖パウロが言うように、私たちは次のように言うことができなければなりません。「私は生きているが、もう私ではなく、キリストが私の内に生き給うのである。私は肉体をもって生きているが、私を愛し、私のためにご自身をわたされた天主の子への信仰の中に生きている」(ガラツィア2章20節)。「私にとって生きるのはキリストであり、死は利益である」(フィリッピ1章21節)。

聖体拝領の最高の模範は童貞聖マリアです。実際、私たちが受けるご聖体は、九カ月の間聖母のいとも清らかなご胎内に住まわれたのと同じキリストの御体なのですから。「み言葉は肉体となって、」聖母のうちに「住まわれた」(ヨハネ1章14節)とき、聖母はご自分のうちに私たちの主イエズス・キリストの御体、御血、ご霊魂、ご神性を本当に受けられました。聖母は最初の生けるご聖櫃となられたのでした。どのような信仰をもって、どのような信心をもって、どのような謙遜をもって、どのように強い愛をもって、聖母はイエズスを受けられ、イエズスをそのご胎内に保っておられたのでしょうか! 聖母の思いはどのようなものだったのでしょうか? イエズスに対する聖母の愛はどのようなものだったのでしょうか? 聖母を観想すればするほど、私たちは自分がどうすべきかということについてもっと学びます。これらすべての徳をいただけるよう聖母に願いましょう。聖母が私たちの足らないところを補ってくださり、聖母がイエズスに捧げられた信仰と礼拝のすべての行いを私たちがイエズスに捧げることができるよう聖母に願いましょう。

聖ピオ十世は、頻繁にご聖体を受けるという古い慣習を復興されました。これは実際、特に西方では古い慣習で、毎日ミサに参列してご聖体を受けるという慣習でした。主はまことに、私たちが聖マテオによる『主の祈り』でお願いする私たちの「日用の糧」なのです。「われらの日用の糧を今日われらに与え給え」(マテオ6章11節)。それは地上のパンではなく、むしろ「天から下ったパン」(ヨハネ6章58節)、すなわち私たちの主イエズス・キリストの御体そのものなのです。でも、聖伝に従えば、信者がご聖体を受けるのは一日に一回だけです。一日に一回を超える聖体拝領を許している現代の慣例は、ミサが単なる食事であり、食べない限り本当に食事にあずかっていないという近代主義者の思想から来ているのです。それゆえに、彼らは誰もが毎回のミサでご聖体を受けるよう推し進めているのです。しかし、ミサは本質的には犠牲であり、新約の犠牲です。さて、旧約では、いけにえを食べる犠牲もあり、食べない犠牲もありましたが、信心をもってその犠牲に参加すれば、その信心によってその犠牲からの利益を十分に受けていたのです。

ご聖体は、特に命の終わりにおいては、永遠の交わりの準備をするために非常に重要です。死にゆく者に与えられるこのご聖体は「聖なる旅路の糧」と呼ばれ、人はそれを求め、またそれを受ける恩寵があるよう祈るべきです。病気になって教会に行けなくなった場合、司祭に依頼して、自分のためにご聖体にまします私たちの主を持って来てもらうようにすべきです。ご聖体は病気のときは非常に大きな慰めになり、特に自分の苦しみを主の御苦しみと一致させるのを助けてくれ、その苦しみを恩寵の素晴らしい源に変えてくれるのです。

ご聖体は、子どもでも主を受けることが可能になればすぐに授けることができます。聖ピオ十世は、子どもたちがご聖体と普通の食べ物の違いを知ることを要求されています。子どもたちは、基本的なカテキズムを知る必要があります。子どもたちに遅くならないうちにうまく教えがなされれば、彼らは七歳の若さでも、あるいはさらに早くともイエズスを受けることができるはずです。多くの場合、初聖体が九歳かあるいは十歳までも遅れるのを見ますが、これはこんにち、カテキズム教育の実施が昔より大きく減ってしまっていることのしるしです。良き親たちは子どもたちに、早期からのカテキズム教育をするのを心掛けるべきです。そうすれば、子どもたちがご聖体から大きな利益を得るのを遅らせてしまうことはないでしょう。思春期に迎える試練を堕落せず勝利をもって通り抜けるために、子どもたちにはこの素晴らしい秘蹟から受ける助けが必要なのです。早くからご聖体にましますイエズスへの愛があれば、しばしばその愛とともに召命の恩寵がもたらされるでしょう。子どもたちの初聖体への準備を怠れば、罪を免れません。

諸聖人は聖体拝領を愛してきました。聖体拝領は彼らにとって一日のうちで最も素晴らしい時であり、その時を熱望し、その時のために生きていたのです。聖体拝領後の彼らの黙想は、ときどき本当に驚くべきものでした。聖ドミニコ・サヴィオが思いだされます。私の記憶が正しければ、彼は他のみんなが教会を出ていったあとでも、感謝の祈りを捧げていました。あまりにも主に愛着していたため、他のすべてのことを完全に忘れていたのです。聖イメルダの場合は、聖体拝領のあと愛のために亡くなったのです!

童貞聖マリアとこれら諸聖人が、私たち全員がこれほど素晴らしい秘蹟を受ける準備をし、完全にその秘蹟を生きることができるよう助けてくださいますように。その結果、私たちが天国で顔と顔を合わせる永遠の交わり(聖体拝領)に到達することができますように! アーメン。

"The Holy Eucharist : 2 / Sacrifice" by Fr. Laisney SSPX

2017年01月19日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様のお説教、「ご聖体:2)犠牲」の【英語原文】をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

The Holy Eucharist: 2/ Sacrifice

My dear brethren,

On Christmas, we have studied the first aspect of the Holy Eucharist, the Real Presence of our Lord Jesus Christ: the holy Catholic Church indeed believes and teaches that under the appearances of the bread and wine, i.e. their shape, colour, size, taste, etc., there is really and substantially present the very Body, Blood, Soul and Divinity of our Lord Jesus Christ, Son of God the Father from all eternity and Son of Mary in time. “The Word was made flesh, and dwelt among us” (Jn. 1:14): He dwelt in Bethlehem, then went to Egypt, back into the Holy Land until His death and resurrection. But when He went up to Heaven on Ascension Day, He did not abandon us: He remains, in a hidden but very real manner, in the Blessed Sacrament: He still “dwells among us”. The Greek word used signifies: He pitched his tent in our midst. It certainly refers to the Tabernacle, sign of God’s presence among His people during the 40 years in the desert after the crossing of the Red Sea. Divine Wisdom had said: “my delights were to be with the children of men” (Prov. 8:31).

But what was the main purpose for which He came down from Heaven? To save us! This is indeed what the Angel had said to St Joseph: “thou shalt call his name JESUS. For he shall save his people from their sins” (Mt. 1:21). This is His mission: to save us; this is the very meaning of His Holy Name: “Jesus” means “Yahweh saves”; He is the Saviour. And how did He save us? By offering Himself on the Cross as a perfect Sacrifice! Sacrifice is the supreme act of worship, due to God alone. Christ offered to His Father such perfect Sacrifice, such perfect adoration and thanksgiving, perfect expiation for our sins, that it pleased Him more than all the sins of the world had displeased Him, thereby restoring the balance of Justice, making reparation for all sins, obtaining all graces of salvation.

Though this Sacrifice was exteriorly performed on the Cross, our Lord Jesus Christ offered from the very beginning of His life. Indeed, quoting from psalm 39, St Paul says: “Wherefore when he cometh into the world, he saith: Sacrifice and oblation thou wouldest not: but a body thou hast fitted to me: Holocausts for sin did not please thee. Then said I: Behold I come: in the head of the book it is written of me: that I should do thy will, O God. In saying before, Sacrifices, and oblations, and holocausts for sin thou wouldest not, neither are they pleasing to thee, which are offered according to the law. Then said I: Behold, I come to do thy will, O God: he taketh away the first, that he may establish that which followeth. In the which will, we are sanctified by the oblation of the body of Jesus Christ once” (Heb. 10:5-10). Now that passage is very important: “we are sanctified by the oblation of the body of Jesus Christ”, which happened externally “once” on the Cross, but which was “offered” as soon as Christ came into the world: “when he cometh into the world.”

The rest of the passage simply means that once the perfect Sacrifice came, the sacrifices of the Old Testament are null and void, and even completely terminated after the destruction of the Temple. St Augustine adds that, not only the Old Testament sacrifices ceased when this true Sacrifice came, but “to this supreme and true Sacrifice all the false sacrifices gave place,” that is, even the pagan sacrifices ceased at the arrival of this true Sacrifice: this was true in the Roman world at his time, this has been true wherever the Sacrifice of Christ arrived through the work of the missionaries.

Our Lord Jesus Christ did not leave His Church without worship; He rather gave her His own sacrifice, which became the Sacrifice of the Church. Our Lord Jesus Christ gave instructions to His apostles: “this do for the commemoration of me” (1 Cor. 11:24). So the Church does what He did, it transforms the bread and wine into His Body and Blood for the daily “oblation of the body of Jesus Christ”. Our Lord Jesus Christ makes Himself really present in the Holy Eucharist, so that we may offer His very Sacrifice. This is the second aspect of the Holy Eucharist: the Sacrifice.

The Sacrifice of the Cross is truly the summit of the whole human history: all what preceded it were a preparation for it, through the many images of the Old Testament, fore-shadowing it and receiving their value from the very fact that they were a fore-shadow of it. St John Chrysostom says that the blood of the Pascal lamb protected the Hebrews from the passage of the Angel of death precisely because it was an image of the Blood of Christ. He concludes: so much more shall the very Blood of Christ (in the Holy Eucharist) protect the faithful who receive it. Similarly, all that follows the Sacrifice of the Cross flows from it; all graces now flow from the Cross, giving glory to God and saving souls.

Yet, there is a big difference: before, there were mere images, signs, shadows. But after, the Sacrifice of the Cross is truly “contained” and present in the Mass, as St Thomas Aquinas teaches, “it is suitable … for the perfection of the New Law. For, the sacrifices of the Old Law contained only in figure that true sacrifice of Christ’s Passion, according to Heb. 10:1: "For the law having a shadow of the good things to come, not the very image of the things." And therefore it was necessary that the sacrifice of the New Law instituted by Christ should have something more, namely, that it should contain Christ Himself crucified, not merely in signification or figure, but also in very truth.” Hence the Council of Trent defined as a Dogma of Faith that the Mass is truly a Sacrifice: “If any one saith, that in the mass a true and proper sacrifice is not offered to God; or, that to be offered is nothing else but that Christ is given us to eat; let him be anathema.”

In the Mass, there is the same victim as on the Cross: the body and blood of our Lord Jesus Christ. In the Mass, there is the same priest as on the Cross: our Lord Jesus Christ, Who offers Himself through the ministry of the priests of the New Testament: Jesus is the main priest, who acts in and through His minister, in virtue of the Sacrament of Holy Order. And in the Mass there is the same offering as on the Cross: Christ continuing to offer Himself, to offer His Body and Blood, all His sufferings on the Cross. Indeed, the Sacrifice of the Cross was achieved by the shedding of the Blood of Christ for us; that shedding, that separation of the Blood of Christ from His Body is signified and “made present” by the sacramental separate consecration of the Body and Blood of Christ. They were really separated on the Cross; they are sacramentally separated on the altar. The sacrifice of Christ was offered in a bloody manner on the Cross and in an “unbloody” manner on the altar.

The holy Sacrifice of the Mass was prophesised in the Old Testament by the prophet Malachias, the last of the twelve small prophets, in these words: “For from the rising of the sun even to the going down, my name is great among the Gentiles, and in every place there is sacrifice, and there is offered to my name a clean oblation: for my name is great among the Gentiles, saith the Lord of hosts” (Mal. 1:11). This “sacrifice” and “clean oblation”, i.e. offering, offered “in every place”, where is it among the protestants? They don’t have a sacrifice. It could not be the offerings of pagans: it is clearly the holy Sacrifice of the Mass.

The Holy Sacrifice of the mass is truly “propitiatory”, that is, it obtains mercy and grace, it offers due satisfaction for sin, and therefore is most important, especially in our sinful world. The holy Council of Trent teaches dogmatically this: “forasmuch as, in this divine sacrifice which is celebrated in the mass, that same Christ is contained and immolated in an unbloody manner, who once offered Himself in a bloody manner on the altar of the cross; the holy Synod teaches, that this sacrifice is truly propitiatory and that by means of it, we obtain mercy, and find grace in seasonable aid, if we draw nigh unto God, contrite and penitent, with a sincere heart and upright faith, with fear and reverence. For the Lord, appeased by the oblation thereof, and granting the grace and gift of penitence, forgives even heinous crimes and sins. For the victim is one and the same, the same now offering by the ministry of priests, who then offered Himself on the cross, the manner alone of offering being different.” This great truth is even sealed with a full dogmatic definition: “If any one saith, that the sacrifice of the mass is only a sacrifice of praise and of thanksgiving; or, that it is a bare commemoration of the sacrifice consummated on the cross, but not a propitiatory sacrifice; or, that it profits him only who receives; and that it ought not to be offered for the living and the dead for sins, pains, satisfactions, and other necessities; let him be anathema.”

The same holy council of Trent has this to say about the Canon of the Traditional Mass: “whereas it is fitting, that holy things be administered in a holy manner, and of all holy things this sacrifice is the most holy; to the end that it might be worthily and reverently offered and received, the Catholic Church instituted, many years ago [and the Council was speaking 450 years ago], the sacred Canon, so pure from every error, that nothing is contained therein which does not in the highest degree savour of a certain holiness and piety, and raise up unto God the minds of those that offer. For it is composed, out of the very words of the Lord, the traditions of the apostles, and the pious institutions also of holy pontiffs.” The holiness of the Traditional Canon is so true and important that the holy Council of Trent joined an anathema for those who deny it: “If any one saith, that the canon of the mass contains errors, and is therefore to be abrogated; let him be anathema.” The modernists, without formally abrogating it, have seriously stripped it in many ways – e.g. they suppressed 96% of its signs of the Cross – and by introducing other canons, they relegated this most holy Canon in oblivion for many faithful, who are so happy to rediscover it when they find the Traditional Mass.

While the traditional Canon is the holiest part of the Mass – hence all the faithful are kneeling down, even the altar boys, even the subdeacon and deacons – the rest of the Traditional ceremonies are also holy, and profitable to the advancement in holiness. The Council of Trent continues thus: “And whereas such is the nature of man, that, without external helps, he cannot easily be raised to the meditation of divine things; therefore has holy Mother Church instituted certain rites, to wit that certain things be pronounced in the mass in a low, and others in a louder, tone. She has likewise employed ceremonies, such as mystic benedictions, lights, incense, vestments, and many other things of this kind, derived from an apostolical discipline and tradition, whereby both the majesty of so great a sacrifice might be recommended, and the minds of the faithful be excited, by those visible signs of religion and piety, to the contemplation of those most sublime things which are hidden in this sacrifice.” There is even an anathema for those who attack these holy rites: “If any one saith, that the ceremonies, vestments, and outward signs, which the Catholic Church makes use of in the celebration of masses, are incentives to impiety, rather than offices of piety; let him be anathema.” It should be noted that the Council of Trent speaks of the Traditional ceremonies in use at its time. This canon does not apply to novelties: for instance, St Pius V himself, shortly after the end of the Council of Trent, rejected the liturgical reforms that had been done recently before him (thus were novelties at his time) and imposed the ancient Roman Rite all over the Western church, all the while respecting the ancient liturgies of the East and even those ancient rites of the west that had more than 200 years of use without novelties.

It seems that, in condemning the errors of the Protestants of the 16th century, the Council of Trent condemned in advance the workings of the modernists in the 20th century. Take the example of the last anathema of that session 22: “If any one saith, that the rite of the Roman Church, according to which a part of the canon and the words of consecration are pronounced in a low tone, is to be condemned; or, that the mass ought to be celebrated in the vulgar tongue only; … let him be anathema.”

These texts of the Council of Trent help us to have a great esteem for the Holy Sacrifice of the Mass, truly the heart of our holy religion. In the Old Testament, once a year the high priest entered the holy of holies with the blood of the victim; that must have been a very important moment for him. In the New Testament, every day at Mass the priest offers to the Most Holy Trinity the very Blood of the perfect Victim, merely signified in the Old Testament, but truly present on the Altar of the New Testament, and begs for mercy for the whole church. From that Sacrifice comes the abundance of graces over the faithful, and even for the conversion of the unbelievers and the return of the prodigal sons. One can understand that the devil cannot stand the Mass, where he is defeated again and again, and tries all he can to denature it, to distort it and prevents its fruits. The devil hates the Mass. But when one reads some of Luther’s writings, one finds an echo of that devilish hatred for the Mass. Hence the strength of the anathemas of the Council of Trent.

The Holy Sacrifice of the Mass has four purposes: it is a Sacrifice of adoration, of thanksgiving, of propitiation and of impetration. It is a sacrifice of adoration, by which we render the supreme honour to the most Holy Trinity, acknowledging all the Divine Attributes, i.e. His ultimate Perfection in the supreme degree. In it, as creatures, we prostrate ourselves in front of our Creator, and completely subject ourselves to Him, in union with our Lord Jesus Christ who was perfectly subject to the Father: "He humbled himself, becoming obedient unto death, even to the death of the cross" (Phil. 2:8). It is a Sacrifice of thanksgiving, rendering to God the greatest treasure we have, our Lord Jesus Christ Himself: since all what we have, we received it from God, we can only give back to God that which we have received from Him. But the very best that we received from God is His only-begotten Son, our Lord Jesus Christ: "God so loved the world, as to give his only begotten Son;" (Jn. 3:16). In the Mass, we render Him back to the Father and ourselves with Him, through Him and in Him. It is a Sacrifice of propitiation, i.e. of reparation for sin as explained above. And it is a sacrifice of impetration, i.e. the supreme prayer by which we can obtain all graces, as St Paul says: "He that spared not even his own Son, but delivered him up for us all, how hath he not also, with him, given us all things?" (Rom. 8:32). Truly the Sacrifice of the Mass is the highest act of worship and the greatest treasure of the Church.

Our Lord had come for that hour, the hour when He would redeem the world on the Cross. His whole life tends towards it. Thus He said to our Lady at the wedding of Cana: “my hour is not yet come” (Jn. 2:4). This hour came when He offered the Sacrifice, first on Holy Thursday when He instituted the Holy Eucharist: “Before the festival day of the Pasch, Jesus knowing that his hour was come, that he should pass out of this world to the Father: having loved his own who were in the world, he loved them unto the end” (Jn. 13:1). The Holy Eucharist is thus this supreme act of love of Christ for his own, that is, for his faithful, for each one of us. How much ought we to love the Holy Eucharist!

Not only was Jesus’ entire life directed towards the Sacrifice of the Cross, but He also oriented towards it the life of His Mother and the life of his Apostles. We see that when, at 12 years of age, He was the cause of great sufferings for Mary and Joseph by quitting company with them and remaining in Jerusalem. After they had sought for Him for three days in great sorrow, Jesus told them: “did you not know, that I must be about my father's business?” (Lk. 2:49). What was that “Father’s business”? It was hard to understand and the Scripture itself tells us that Mary and Joseph did not understand. Yet Mary “kept all these words in her heart” (Lk. 2:51), meditating upon them. So, that when the hour of Jesus had come, and he was led to Calvary, our Lady no longer asked Him why: she knew: Jesus was about His Father’s business: the salvation of souls! And she fully entered with Him in this work, cooperating with Him in the salvation of souls, becoming fully the New Eve, given to the New Adam as “a helper like unto himself” (Gen. 2:18).

Now as she was united with Jesus at the foot of the Cross, so is she united with Him offering Himself in the Holy Sacrifice of the Mass: Mary is spiritually very present at each of our Masses, and she leads us there as she led St John the Apostle and the holy women at the foot of the Cross. She is the model of how to attend Mass, model of offering ourselves with Jesus, model of generosity in “suffering with Him so that we may be glorified with Him” (Rom. 8:17). Let us ask her to help us to attend Mass always with great Faith and devotion, to die to sin in order to live unto God, so that we may “present our bodies a living sacrifice, holy, pleasing unto God, our reasonable service” (Rom. 12:1).

May she give us a great love for the Mass, a great devotion whenever we attend the Holy Sacrifice of the Mass, a great attachment to the Traditional Mass and obtain for us the eternal fruit of this sacrifice, the salvation of our souls. Amen.

「ご聖体の秘蹟について」 その2)犠牲:聖ピオ十世会司祭 レネー神父様

2017年01月18日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様のお説教 「ご聖体の秘蹟について:その2)犠牲」(日本語訳)をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2017年1月15日 御公現後の第2主日―大阪
「ご聖体の秘蹟について」:その2)犠牲

親愛なる兄弟の皆さん、

クリスマスに、私たちはご聖体の第一の面、私たちの主イエズス・キリストの現存について学びました。実際、聖なるカトリック教会は、パンとぶどう酒の外観、すなわちパンとぶどう酒の形、色、大きさ、味などのもとに、永遠の昔から父なる天主の御子であり、時間の中においてはマリアの御子である私たちの主イエズス・キリストの御体、御血、ご霊魂、ご神性そのものが現実にかつ実体的に存在すると信じかつ教えています。「み言葉は肉体となって、私たちのうちに住まわれた」(ヨハネ1章14節)。主はベトレヘムに住まわれ、エジプトへ行き、聖地に戻って死とご復活までそこにおられました。しかし、主はご昇天の日に天へ昇られましたが、私たちをお見捨てにはなりませんでした。主は隠されてはいるものの実際の現実として、御聖体の秘蹟の中にとどまっておられます。主は今でも「私たちのうちに住まわれ」ているのです。ここで「住まわれた」という言葉に使われているギリシャ語は、元々「主は私たちの間に天幕を張られた」という意味を持っています。このことは、紅海を渡ったあとの砂漠での四十年間、主の民の中に天主が現存されるしるしであった幕屋(ご聖櫃)のことを言っているのは確かです。天主の知恵は言われました。「私は人の子と交わるのを楽しみとした」(格言[箴言]8章31節)。

しかし、主が天から降りて来られた主な目的は何だったのでしょうか? 私たちを救うことです! これは実際、天使が聖ヨゼフに言ったことです。「あなたはその子をイエズスと名付けよ。なぜなら彼は罪から民を救う方だからである」(マテオ1章21節)。これが主の使命です。私たちを救うことです。これが、まさしく主の聖なる御名の意味です。「イエズス」は「ヤーウェは救う」という意味です。主は救い主なのです。では、主はどのようにして私たちをお救いになったのでしょうか? 十字架の上でご自分を完全な犠牲としてお捧げになることによってです! 犠牲は、天主のみに捧げる最高の礼拝の行いです。キリストは御父に完全な犠牲を、完全な礼拝と感謝を、私たちの罪の完全な償いをお捧げになられたため、それが、世の全ての罪が御父を怒らせた以上に御父をお喜ばせし、それによって正義の釣り合いを回復させ、すべて罪の償いをし、救いのすべての恩寵を取り成したのです。

この犠牲は外的には十字架の上で行われましたが、私たちの主イエズス・キリストはその生涯のまさに始まりから犠牲を捧げておられました。実際、詩篇39番から引用して、聖パウロは言います。「そのために、キリストは世に入るとき言われた、『あなたはいけにえも供え物も望まれず、ただ私のために体を準備された。あなたは燔祭と罪償のいけにえを喜ばれなかった。そこで私は、〈私について巻物に書き記されているとおり、天主よ、私はあなたのみ旨を行うために来る〉と言った』。先には『あなたはいけにえと供え物と燔祭と罪償のいけにえを望まず、また喜ばれなかった』―それも律法に従って捧げるものである―と言い、後には、『見よ、私はあなたのみ旨を行うために来る』と言われた。こうして後のものを立て、先のものを除かれた。このみ旨によって、ただ一度で永久に捧げられたイエズス・キリストのお体の捧げ物によって私たちは聖とされた」(ヘブライ10章5-10節)。さて、この一節、「イエズス・キリストのお体の捧げ物によって私たちは聖とされた」は非常に重要です。このことは十字架上で「ただ一度」起こりましたが、キリストが世に入られるやいなや「キリストが世に入るとき」すぐに「捧げられた」のです。

この一節の残りの部分が意味しているのは単に、完全な犠牲がもたらされてからは旧約の犠牲は無効となり、更には神殿の破壊ののちには完全に終了した、ということです。聖アウグスティノはさらに加えて言います。旧約の犠牲はこのまことの犠牲がもたらされたときに停止しただけでなく、「この最高にしてまことの犠牲に対して、偽りの犠牲はすべて場所を譲った」、すなわち、異邦人の犠牲さえもこのまことの犠牲の到来で停止したのだと。このことは聖アウグスティノの時代のローマ世界では真実でしたし、宣教師の活動によってキリストの犠牲が到来したところではどこでも真実となってきているのです。

私たちの主イエズス・キリストは、主の教会を礼拝のない状態にしてはおかれませんでした。むしろ主は、教会にご自分みずからの犠牲をお与えになり、この犠牲は教会の犠牲となりました。私たちの主イエズス・キリストは使徒たちにこう教えられました。「私の記念としてこれを行え」(コリント前書11章24節)。ですから教会は、主がなさったことをしているのであり、それは日ごとの「イエズス・キリストの御体の奉献」のためにパンとぶどう酒を主の御体と御血に変えることです。私たちの主イエズス・キリストは、私たちがまさに主の犠牲を捧げることができるように、ご自分をご聖体のうちに本当に現存させられます。これが、ご聖体の第二の面、犠牲です。

十字架の犠牲はまことに、人類の歴史全体の頂点です。これに先立って起こったことはすべてそのための準備でした。その準備は旧約の多くの象徴を通じてなされましたが、旧約の象徴は十字架の犠牲の前表となり、それが十字架の犠牲の前表であるというまさにその事実に価値がありました。聖ヨハネ・クリソストモス[金口ヨハネ]は、過ぎ越しの小羊の血が死の天使の通過からヘブライ人を守ったのはその血がキリストの御血の象徴だったからだ、と言っています。彼はこう結論します。(ご聖体にまします)キリストの本物の御血は、それを受ける信者たちを[旧約の小羊の血よりも]一層守ってくださる、と。同様に、十字架の犠牲に続くすべてのものが、十字架の犠牲から流れ出ます。すべての恩寵がいま十字架から流れ出て、天主をたたえ、霊魂たちを救うのです。

でも、一つの大きな違いがあります。十字架の犠牲の前には、象徴やしるし、前表がありました。しかし十字架の犠牲ののちには、十字架の犠牲はまことに「内包されて」おり、ミサにおいて現存します。これについて聖トマス・アクィナスがこう教えている通りです。「それは、…新しい律法の完成にふさわしい。なぜなら、旧約の犠牲は、ヘブライ書10章1節の『実に律法は実在の姿ではなく、将来の恵みの影である』という一節によれば、キリストのご受難というそのまことの犠牲を象徴においてのみ内包していただけであるからである。それゆえに、キリストによって制定された新しい律法の犠牲は何かもっと大いなるものであることが必要であり、つまり十字架に付けられたキリストご自身を、単にしるしや象徴においてだけでなく、真理そのものにおいて内包すべきだったのである」(神学大全第3部問75第1項)。このためトレント公会議は、ミサはまことに犠牲であるという信仰についての教義を次のように定義しました。「ミサにおいてまことのかつふさわしい犠牲が天主に捧げられないとか、これを捧げるのはわれわれにキリストを食べさせるためだけであると言う者は排斥される」(トレント公会議第22総会第1条)。

ミサにおいては、十字架上の犠牲と同じいけにえがあります。私たちの主イエズス・キリストの御体と御血です。ミサにおいては、十字架上の犠牲と同じ司祭がいます。新約の司祭の司祭職を通じてご自分をお捧げになる私たちの主イエズス・キリストです。イエズスが第一の司祭であり、彼が叙階の秘蹟の力によって、彼の司祭においてかつ彼の司祭を通じて働かれるのです。またミサにおいては、十字架上の犠牲と同じ捧げ物があります。キリストは十字架上の犠牲と同じように、ご自分を捧げ、ご自分の御体と御血を捧げ、ご自分の苦しみをすべて捧げ続けておられます。実際、十字架の犠牲は、私たちのためにキリストの御血が流されることによって成し遂げられました。この御血が流されること、御血が御体から分離することは、キリストの御体と御血を秘蹟として別々に聖別することによって表され、「現存化され」ます。御体と御血は十字架上で実際に分離されました。祭壇上では秘蹟として分離されるのです。キリストの犠牲は十字架上で血を流す方法によって捧げられましたが、祭壇上では「血を流さない」方法で捧げられます。

ミサの聖なる犠牲は、旧約において十二小預言者の最後の一人である預言者マラキアによって預言されました。それが次の言葉です。「日の昇るところから、日の没するところまで、私の名は異国の民の中で、偉大なものといわれている。あらゆる地で、いけにえが捧げられ、私の名に清い供え物が捧げられている。そうだ、私の名は、異国の民の中で、偉大なものといわれている、と、万軍の主は仰せられる」(マラキア1章11節)。この「いけにえ」と「清い供え物」、すなわち「あらゆる地で」捧げられる捧げ物は、プロテスタントの中ではどこにあるでしょうか? 彼らには犠牲がありません。それは異邦人の捧げ物であるはずがありません。それは明らかにミサの聖なる犠牲なのです。

ミサの聖なる犠牲はまことに「償いの犠牲」であり、すなわちあわれみと恩寵を内包し、罪に対して当然支払うべき償いを捧げ、それゆえに最も重要であり、特に私たちの罪深い世界にとっては最も重要です。聖なるトレント公会議は教義としてこう教えています。「ミサにおいて行われるこの天主的な犠牲の中に、十字架の祭壇上で血を流してご自身を天主に捧げられたその同じキリストが内包され、血を流さずに自分自身を捧げられる。従って、この聖なる公会議は次のことを教える。すなわち、この犠牲はまことになだめの捧げ物であり、われわれが真心と正しい信仰、畏怖と畏敬の念と痛悔と悔悛の心をもって天主に近づくならば、この犠牲によって、適切な時に慈悲を受け、恩恵を見いだすであろう。なぜなら、この捧げ物によってなだめられた主は、悔い改めの恩恵と賜物を与え、恐ろしい罪さえも赦されるからである。なぜなら、捧げ物は全く同一であり、 自分を十字架の上で捧げられたその同じキリストが、今司祭の役務を通して捧げられているからであり、ただ違うのは捧げ方だけであるからである」(トレント公会議第22総会第3章)。この偉大なる真理は、完全な教義的定義によって保証までされています。「ミサの犠牲はただ讃美と感謝の犠牲であるとか、あるいは十字架上で行われた犠牲の単なる記念であって、罪の償いの犠牲でないとか、あるいは拝領する者だけの利益になるものであって、生存者と死者のため、罪、罰、償いその他の必要のために捧げられるべきでないと言う者は排斥される」(トレント公会議第22総会第3条)

同じ聖なるトレント公会議は、聖伝のミサの典文についてはこう言っています。「聖なるものは敬虔に取り扱われることがふさわしいところ、すべての聖なるものの中でもこの犠牲は最も聖なるものである。そこでこの犠牲が、ふさわしい方法で尊敬をもって捧げられ受け取られるように、カトリック教会は何世紀も以前に[この公会議は四百五十年前にこう言っています]聖なる典文を制定したこの聖なる典文は、あらゆる誤謬から免れて全く清いものであって、そこには最も高い段階の聖性と信心に香ることのないもの、捧げる者の心を天主にまで高めないものをいささかたりとも含んでいない。なぜならこの典文は主自身の言葉、使徒たちの伝承、そして聖なる教皇たちによって敬虔に制定されたものから成り立っているからである」(トレント公会議第22総会第4章)。聖伝の典文の聖性は本当に真でありかつ重要なものですから、聖なるトレント公会議は、それを否定する者に対する排斥文を加えました。「ミサの典文は誤りを含んでいるので、それゆえに廃止されるべきであると言う者は排斥される」(トレント公会議第22総会第6条)。近代主義者は、公式に聖伝の典文を廃止してはいませんが、多くの方法で深刻な段階にまで典文を取り去ってしまいました。例えば、彼らは典文の十字架のしるしのうち九六%を廃止し、また他の典文を導入することで、このいとも聖なる典文を格下げにしてしまったのです。そのため多くの信者たちはこれを忘れてしまったのですが、聖伝のミサを見つけると、その典文を再発見して喜んでいるのです。

聖伝の典文はミサの中で最も聖なる部分であり、そのためすべての信者が、侍者も、副助祭や助祭であっても、ひざまずきますが、一方で聖伝の儀式の残りの部分もまた聖なるものですから、聖性において進歩するには有益なものです。トレント公会議は続けてこう言います。「人間性は、外的な助けなしに、天のことを黙想することは簡単にはできないものである。それゆえに、聖にして母なる教会はミサの儀式の一部を低い声で、一部をより高い声でとなえるように規定した。さらに同じく教会は種々の儀式、たとえば、使徒たちの規律および伝承から受け継いだ聖なる祝福、灯り、香、祭服、この種のその他の多くのものを利用してきた。これらはすべて、これら目に見える宗教と信心のしるしによって、この大いなる犠牲の偉大さを示し、またこの犠牲の内に隠れて内在するもっとも崇高なものの観想に信者の心を奮い立たせるためである」(トレント公会議第22総会第5章)。これらの聖なる儀式を攻撃する者に対しする排斥文さえあります。「カトリック教会がミサ聖祭の時に使う儀式、祭服、外的なしるしは、信心の助けになるどころか、不敬の念を起こさせるものである、と言う者は排斥される」(トレント公会議第22総会第7条)。トレント公会議はそのとき使用されていた聖伝の儀式についてこれを言っているということに注意しておくべきでしょう。この条文は新奇なものには適用されません。例えば、聖ピオ五世自身が、トレント公会議の終了後まもなく、直近まで行われてきた典礼の改革(ですからそれは彼の時代における新奇なものでした)を拒否し、古いローマ典礼の使用を西方教会全体に義務付けるとともに、また一方、東方の古い典礼を尊重し、また新奇のものなしに二百年以上にわたって継続して使われてきた西方の古い典礼さえ尊重したのです。

十六世紀のプロテスタントたちの誤謬を非難したとき、トレント公会議は二十世紀に近代主義者の行うことをあらかじめ非難していたように思えます。同公会議第22総会の最後の排斥文の例を上げてみましょう。「低い声で典文の一部と聖変化の言葉をとなえるローマ教会の儀式は非難されるべきであるとか、自国語だけでミサを捧げるべきであるとか、…と言う者は排斥される」。

トレント公会議のこれらのテキストは、私たちの聖なる宗教のまことの核心であるミサの聖なる犠牲に対して、大いなる尊敬の念を持つよう私たちを助けてくれます。旧約においては、一年に一度、大司祭がいけにえの血とともに至聖所に入ったのであり、それは彼にとって大変重要な瞬間であったに違いありません。新約においては、ミサにおいて毎日、司祭はいとも聖なる三位一体に完全ないけにえの血そのものを、旧約では単にしるしに過ぎなかったものの新約の祭壇上ではまことに現存するいけにえの血を捧げ、全教会のためにあわれみを乞うのです。その犠牲から、信者たちに豊かな恩寵が、信じぬ者の回心や放蕩息子たちの帰還のためにさえ恩寵がもたらされるのです。このことからお分かりの通り、悪魔はミサに我慢できません。ミサでは悪魔は繰り返し敗北されられるからです。そのため悪魔は、ミサを変質させるために、ミサをゆがめるために、ミサの実りを妨害するために、自分にできるすべてのことをしようとします。悪魔はミサを嫌悪しています。しかし、ルターの書いたものをいくつか読めば、ミサに対するこの悪魔の嫌悪のこだまを見いだします。これがトレント公会議の排斥文が強く主張するゆえんです。

ミサの聖なる犠牲には四つの目的があります。ミサの犠牲は、礼拝、感謝、なだめ、祈願の犠牲です。ミサの犠牲が礼拝の犠牲であるのは、私たちがいとも聖なる三位一体に最高の敬意を捧げ、天主の属性すべて、すなわち最高の段階にある天主の究極の完全さを認めるからです。ミサの犠牲において、私たちは被造物として創造主の御前にひれ伏し、「死ぬまで、十字架上に死ぬまで、自分を卑しくされた」(フィリッピ2章8節)と書かれているように御父に完全に服従された私たちの主イエズス・キリストと一致して、創造主に完全に服従します。ミサの犠牲が感謝の犠牲であるのは、私たちが天主に、私たちの持つ最も素晴らしい宝である私たちの主イエズス・キリストご自身をお捧げするからです。私たちの持つものはすべて天主から受けたものですから、私たちは天主から受けたものしか天主にお返しすることができません。しかし、私たちが天主から受けたもののうちで最も良いものは天主の御独り子、私たちの主イエズス・キリストです。「天主は御独り子を与え給うほどこの世を愛された」(ヨハネ3章16節)。ミサの犠牲において、私たちは御父に主をお返しし、また主とともに、主によって、主において私たち自身をお返しします。ミサの犠牲がなだめの犠牲であるのは、前に説明したように罪の償いの犠牲だからです。最後に、ミサの犠牲は祈願の犠牲、すなわちそれによって私たちがすべての恩寵を得る最高の祈りです。聖パウロは言います。「ご自分の御子を惜しまずに私たちすべてのために渡されたお方が、御子とともに他のすべてを下さらないはずがあろうか」(ローマ8章32節)。まことにミサの聖なる犠牲は最高の礼拝の行いであり、教会の最も素晴らしい宝なのです。

私たちの主はその時のために、十字架上で主が世を贖われるその時のために来られました。主の全生涯はそれに対して向けられています。ですから主は、カナの婚礼で聖母にこう言われました。「私の時はまだ来ていません」(ヨハネ2章4節)。主が犠牲を捧げられるとき、まず主がご聖体を制定なさった聖木曜日に、この時はやって来ました。「過ぎ越しの祭りの前に、イエズスはこの世から父のもとに移る時が来たのを知り、この世にいるご自分の人々を愛し、彼らに限りなく愛を示された」(ヨハネ13章1節)。ですからご聖体は、ご自分の人々、すなわち主の信者たち、私たち一人一人に対する、キリストのこの最高の愛の行いなのです。私たちはご聖体をいったいどれほど愛すべきでしょうか!

イエズスの全生涯が十字架の犠牲に向けられていただけでなく、主はまた御母の生涯と使徒たちの生涯も十字架の犠牲に向けられました。主が十二歳のとき、主はマリアとヨゼフの大きな苦しみの原因となりました。二人から離れて、エルザレムに残られたからです。大きな悲しみの三日間ののち、二人が主を見つけたとき、イエズスは二人にこう言われました。「私が父のことに従事すべきだと知らなかったのですか?」(ルカ2章49節)。この「父のこと」とは何だったのでしょうか? 理解するのは難しく、聖書自体がマリアとヨゼフは分からなかったと私たちに教えています。でもマリアは「これらの言葉をみな心におさめておいた」(ルカ2章51節)のであり、その言葉を黙想なさっていたのです。ですから、イエズスの時が来て、カルワリオに連れて行かれたとき、聖母はもはや主になぜかと尋ねられることはありませんでした。聖母はご存じだったのです。イエズスは御父のことに従事なさっていたのです、霊魂の救いに! そして聖母は主と共にこの行いに完全に没入され、霊魂の救いのために主と協力され、完全に新しいエバとなって、新しいアダムに対して「彼に似合った助け手」(創世記2章18節)として与えられたのでした。

さて、聖母は十字架の下でイエズスと一致しておられたように、聖母はミサの聖なる犠牲においてもご自分を捧げられる主と一致しておられます。マリアは私たちのミサの一つ一つに霊的に現存しておられ、使徒聖ヨハネと聖なる婦人たちを十字架の下に導かれたように、私たちをそこへと導かれます。聖母はどのようにしてミサにあずかるかの模範であり、イエズスと共に私たち自身を捧げる模範であり、「キリストとともに光栄を受けるために、その苦しみをともに受ける」(ローマ8章17節)寛大さの模範です。常に大きな信仰と信心をもってミサにあずかることができるよう、そして天主の内に生きるために罪に死ぬよう、私たちを助けてくださるよう聖母に願いましょう。そうすることで私たちが、「私たちの体を生きた清い天主に嘉せられる犠牲として、道理にかなった崇敬として捧げる」(ローマ12章1節)ことができますように。

聖母が私たちに、ミサに対する大きな愛を、私たちがミサの聖なる犠牲にあずかるときはいつでも大きな信心を、聖伝のミサへの大きな愛着を与えてくださり、私たちにこの犠牲の永遠の実り、私たちの霊魂の救いを取り成してくださいますように。アーメン。

東方の3人の博士の行いをマリア様の汚れ無き御心で黙想する。

2017年01月16日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2017年1月7日(初土)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2017年1月7日 初土曜日 聖母の汚れなき御心の随意ミサ
小野田神父 説教

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。

今日は2017年1月7日、今年の最初の初土曜日のミサをしております、聖母の汚れなき御心の随意ミサをしています。

今日のこの御ミサが終わりましたら、いつものようにミサの後の感謝のお祈りをします。その後に、いつもクリスマスの時に行っているイエズス様の、ローマの習慣に従ったイエズス様の、幼きイエズス様への礼拝の式を行いたいと思います。皆さんどうぞ与って下さい。
公教要理もいつものように提案しています。公教要理はこの前の続きで、聖書についてですけれども、聖書の一番重要な特徴が2つあります、「聖書には間違いがない」「それは聖霊の息吹きを受けて書かれている」という事ですが、それについて黙想する事を提案します。
今日ここで、お昼を食べた後には侍者の練習と、聖歌の練習などがありますので是非与って下さい。

カトリック教会では普通は、伝統的に御公現の時にこの一年の予定を発表する習慣があるので、それに従って今年の予定も少しだけお知らせ致します。

私たちの主イエズス・キリスト様の御降誕のお祝いを喜んだように、今年は2月12日に七旬節の主日があります。3月1日には灰の水曜日があります。4月16日には私たちの主イエズス・キリスト様の御復活をお祝い致します。5月25日には主の昇天を、そして6月4日には聖霊降臨を、6月15日にはイエズス様の御聖体の祝日をお祝いします。12月3日には待降節の第1主日となっています。

この2017年が、ファチマのマリア様の100周年ですので、良い年となりますようにお祈り致しましょう。


聖父と聖子と聖霊と御名によりて、アーメン。

今日はマリア様の汚れなき御心の初土曜日ですから、マリア様の汚れなき御心の中に深く入る事に致しましょう。

聖ルカの福音によると、第1章には2回同じ言葉が書かれています。それは何かというと、「イエズス様の御降誕についてあった出来事、またイエズス様の年少の頃にあった、子供の頃にあった事を、マリア様はその御心に深く入れて、それを思い巡らしていた。マリア様の御心は特に、イエズス様の御誕生や、また小さかった頃の事を特によく覚えて、それを黙想していた」と書かれていますから、そのマリア様の御心の中に深く入ると、私たちはイエズス様の御誕生の時に何があったか、という事をよく理解できると思います。そこでそのマリア様の御心に聞いて、今日は1月6日にあった御公現には一体何があったのかを聞いて見る事に致しましょう。

イエズス様が御誕生になられた時に御降誕になられた時に、時を同じくして東の方では、3人の王様、博士たちが頭の良い方々が大きな旅行を試みました。何故かというと、「ユダヤの国で預言された通りに救い主がお生まれになった。この方は万民の王であって、そして司祭であって、また私たちを救って下さる方である。」この3人の博士はその事をよく知っていて、場所はそれぞれ違ったのですけれども、「主の生まれる時には星が出る」という預言の通りその星を見て、その星に導かれて、その星が導く通りにそれに従って、ユダヤのエルサレムまでやって来ました。旧約の時代の預言が成就しました。

何故その東の国の博士が、3人別々の所であったにもかかわらず、その星を見てこうやって来たのか、詳しい事は私たちには今となっては知る事はできませんが、しかし色んな事を研究していて、自分の信念が「確実である」という事を深く悟ったに違いありません。

今では飛行機もありますし、バスもあるし、GPSもあるし、Googleマップもありますから、簡単に旅行しようと思えばできますけれども、その当時は何もありません。ただ単に弱々しい光、星の光によって導かれただけです。それでも危険な場所、或いは砂漠、或いは森の中、或いは強盗の中を通って行かなければなりませんでした。それにもかかわらず、召し使いを仕えて、はるばると宝物を持って旅行しました。

召し使いたちの中には不審に思う人もいたかもしれません、「一体どこにいくのですか?」「いや、星に従っていく。」「え?星に従う?一体どこに行く、どこなのでしょうか?」「それはユダヤの地だ。」「知っているのですか?」「あまりよく分からない。」「何が起こったのですか?」「王様が生まれた。」「でもあなたも王様ではないですか?」「いや、この今生まれたのは万民を治める王様であって、過去から預言された方なのだ。」

詳しい話がどうだったのか、或いは議論があったり会議があったり、「それが本当にできるのか」という事を反対意見もあったかもしれませんが、その3人の王様はそれを意見を説得するだけの議論を持っていて証拠があって、「これがこうだから、こうだ、こうだ」と言ったに違いありません。

伝統によると、1月6日に、私たちの主のこの礼拝と、そしてイエズス様の洗礼と、そしてまた同時にカナでの結婚式の婚宴が行われた、との事です。「その日付が確実にそうなのか」という事を教父たちは言うのですけれども、でもその「確実にそうだ」と言う事は聖書に日付が書いていないので私たちは言う事ができませんが、伝統的に1月6日は3つのイエズス様の行いを記念して、主が確かに現れた、私たちにその力を、真の救い主である事を見せた、という事を記念します。「王様が、3人の博士が宝物を持ってやって来た」という事と、「カナで水をワインに変えた、すばらしいブドウ酒に変えた」という事と、もう1つ「イエズス様がヨルダン川で洗礼を受けた」というこの3つの事が行われます。

これはどういう事かというと、特に東方では、東方というのはローマ帝国のギリシャ語を話すような国の人々の習慣では、ローマ皇帝が東方の国々を訪れる時には、特別にその訪れる街の人々の為に大きな食事を開いて、宴会を開いて、そしてその訪れる人たちの為に特別の特権を与えて、このお恵みを与えて、そして訪問して、盛大にこの王の皇帝の到来を祝った。或いは王様が結婚する時に、或いは皇帝が結婚する時には、大きな祝宴を開いた。それと同じように1月6日の御公現では、天主様がこの世の創り主が小さな幼子となって、私たちの所に訪れて下さった。そこで私たちはその訪れを、贈り物を以て迎えて、そして天主様は私たちに宴会を以て、私たちに大宴会を開いて下さる。

その大宴会とは何かというと、このミサに於いては、「御聖体の秘蹟である」と説明されます。私たちは天主の子供として、このイエズス様の御訪問の大宴会、御聖体の秘蹟に招かれているという事です。

ではこの王様が、3人の博士たちが贈り物を持ってやって来た、というのを見て、マリア様は一体どのように思われたでしょうか?

まず、この博士たちの信仰に感嘆したと思います。弱々しい星の光に導かれてやって来た、その博士とその信仰。その博士たちがこの幼子を見て、貧しい布にくるまれた幼子を見て、それを真の天主であり、王であり、救い主だと認めたその信仰。もしかしたらこの博士たちは大きな宮殿を、大きな寝台を、或いは召し使いたちの数々を、或いはきれいな服を想像していたかもしれません、自分たちがそうであるように。しかし貧しい外見の中に、真の救い主を見い出しました。その信仰を、マリア様はおそらく感嘆したに違いありません、「なんと素晴らしい事だろうか。」

そればかりでありません。この博士たちはその信仰を以て、この幼きイエズス様を礼拝致しました。福音書にもそう書いてあります、「額ずいて、平伏して、礼拝した」と。

そればかりではありません。この王に、この生まれた赤子に、救い主に、3人の王は贈り物を与えます。何故かというと、「まさにこの方こそ、私たちを恵んで下さる方だ」という大きな希望があったからです。そしてもう1つは、「この王こそ、私たちが愛さなければならないものだ」という愛の熱情があったからです。

マリア様はそれを見てとりました。この博士たちの信仰と、その礼拝と、深い希望と、純粋な愛を見て、どれほどお喜びになった事でしょうか。

現在私たちは、まさにこの博士の3人の博士のような態度が必要とされています。何故かというと、現在私たちが聞く事は、「この世の創り主」とか、「天主」とかという事ではありません。私たちがいつもに耳にするのは、「人間」の話しです。「人間の権利」とか、「人間の尊厳」とか、「人間が作った技術」とか、「人間がこれからやる、人間が作り出す世界」とか。そして日本の去年の一番の流行った言葉は、人間に対して何と言うかというと、「神っている」と言うのだそうです。何かすばらしい事をすると「そうだ。」「人間が中心であって、この人間の場所はもう絶対誰にも、天主にでさえも(!)、動かす事ができない。この周りに世界が回らなければならない」と思っている事です。そのような話だけを私たちはよく聞きます。

今までは私たちは或いは人間は、現実の世界を、この目に見える世界を見て、それの自然を見て、その自然を恐れて、それに従って生きようとしてきました。例えば「天主の十戒」、或いは「天主の掟はこうだ」「この世の掟はこうだ」この通りに生きようとしてきました。そしてその通りに家族を作ろうとしてきました。例えば、「天主が最初に男と女を作って、これは一体となる。天主が1つにしたものを誰も離してはいけない。」「人間は天主の似姿によって創られた。だから人の命は大切だ。」

今度は、もしも天主の事ではなくて、人間、人間、人間という事になると、人間は天主の領界までも世界までも足を踏み入れて、この世界を作ろうとしているのではないでしょうか。

例えばよく今聞くのが、「結婚は、男と男でも結婚できる」とか、「これが人権だ」とか、或いは「お母さんのお腹にいる赤ちゃんの命は殺しても良い。これが人権だ」とか、或いは「男も女もないから、男も女も同じトイレを使わなければならない」とか、或いは「老人や或いは障害者はもう邪魔だから、もしもこの人たちが『もう早く楽に逝きたい』と言えば安楽死をさせても良い、殺してしまえ」などと。

本当は人間、もちろん人間が車が右に行くか左に行くか、或いはどこに道路を造るか、どこに駅を造るか、というのは自分で決める事ができますけれども、命の事や、或いは婚姻の事について、踏み入ってはいけないところまでも、自分で作っていいと考えているのではないでしょうか。

ですからもしもこのよう事が続けば将来は、「人間は犬と結婚できる」とか、或いは「人間は今度木と結婚する」とか、或いは「これは多数決で決まったから良いのだ。人間が全て決めるのだ」というようなおかしな世界になってしまうのではないでしょうか。

例えば「芸術」というものは、昔は特に宗教関係、特にこの「美」とか「主」に対する、創造主に対するその美しさを表そうと、その尊厳さを表そうとして描いてきた、芸術が出された。ですからその時に人間がその持つ、この美に対するものを何か他の人に伝えようとするその心だった。しかし現代では、そういう畏怖ではなくて、天主ではなくて、人間の事しか考えていないので、或いは下品なものや、或いは自分の、芸術家と呼ばれる人たちだけの頭の中だけしか分からないような、他の人たちには伝える事ができないような、何を考えているか分からないようなものが、今芸術となっている。人間だけに閉じこもっている世界を、今作ろうとしている。このような傾向がますます広がる恐れがあります。

人間は、自分の快楽とか、都合の良い事とか、自分の高度な技術、お金、経済、消費だけを追求して、或いは今度はポルノとか、或いはそういうようなゲームとか、或いは立体で見る事ができるようなどうのこうの等と、ますます自分だけの世界に、空想の世界の中にだけ入ってしまって、この本当の世界から切り離されて、ますます切り離されてしまっている世界を作ってしまいます。人間を愛して、被造物を愛して、自分の思い通りの事をやろうとして、自分の楽しい事や、自分の好き勝手だけを考えて、私たちが創られたものである、私たちの人生には永遠の目的があるという事は忘れて、全く創造主に対する無関心、或いは創造主から受けた掟に対する冒涜や、或いは屈辱を以て、人間だけの世界を作ろうとしているのではないでしょうか。

まさにこの2017年こそ、私たちはこの3人の博士のように、主に対する愛を、被造物の代わりに天主に対する愛を、被造物だけを考えて天主を忘れる代わりに私たちは祈りの香を、私たちの欲望と快楽だけを追求するよりは犠牲の没薬を、被造物を愛するこの下のものだけを愛するこの愛よりは、純粋なきれいな純金のような黄金のような天主に対する愛を、私たちは捧げなければなりません。

そういう意味でマリア様の御心は私たちに、この3人の博士たちのやった行為を、「とても素晴らしい」と、「彼らに倣いなさい」と仰るに違いありません。

「マリア様、私たちはもうかつて被造物を愛してばかりいました。私たちの愛は本当に不純な愛で、不純な愛しか捧げる事ができません。」
「マリア様、私は過去、自分の都合の事や自分のやりたい放題で、犠牲の没薬を捧げる事を忘れてきました。今更何を没薬を捧げる事ができるのでしょうか。」
「マリア様、私は祈りの時も、天主に対する天に昇る真っ直ぐ昇る香よりも、よい香りのする乳香の代わりに、下の方に留まっている煙のような、臭い、雑念だけのお祈りしかできませんでした。」
「どうぞマリア様の汚れなき御心を私に与えて下さい。マリア様の御心を以て、イエズス様に今年の最初の贈り物をする事ができますように。マリア様の御心を以て、イエズス様を愛する事ができますように。マリア様の御心を以て、イエズス様に希望する事ができますように、犠牲を捧げる事ができますように、お祈りをする事ができますように、お助け下さい。」

では愛する兄弟の皆さん、昨日の御公現の中に深く入る事にしましょう。マリア様の御心を通って、深く入る事に致しましょう。マリア様の御心を通して、主に良いこの年の最初の贈り物を捧げる事ができますように、お祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊と御名によりて、アーメン。



主の御降誕【日中のミサ】 3つのミサの構造の違い、その発展とは?

2017年01月15日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2016年12月25日(主)に東京で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


2016年12月25日(主日)主の御降誕 日中のミサ
小野田神父 説教


聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。
今日は2016年12月25日、私たちの天主イエズス・キリスト様の御降誕の日中のミサをしております。皆様に御降誕のお慶びを申し上げます。

今日は御ミサの後、聖体拝領の感謝の祈り、ミサの後の祈りをした後に、私たちの習慣とローマの習慣に従って、幼きイエズス様を皆様にお持ちしますので、どうぞその御足に御手に接吻をなさって下さい。

今日はクリスマスであって同時に主日であるので、皆さんともしできれば簡単なクリスマスパーティーのような軽食会をして、14時30分から晩課を一緒に、クリスマスの晩課を一緒に唱えたいと思っております。楽譜も準備されていますので是非いらして下さい。天使たちが今日この夜、天使たちの大群がその生まれた救い主の為に歌ったように、私たちもクリスマスの軽食会の時にクリスマスキャロルなどを歌いたいと思っています。



「全ての民は、地の果てまで主の救いを見るだろう。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日はカトリック教会にとって特別の日です、喜びの日であります。
教会は司祭に、「3回ミサをする事ができる」としています。そこで「真夜中のミサ」「暁のミサ」そして今日今やっている「日中のミサ」です。

何故この3つのミサがあるのか、「その3つのミサは、イエズス様の3つの御誕生の神秘を表している」と言われますが、その御誕生の神秘とは何なのか、一番大切な御誕生は何なのか、

で、特に真夜中のミサと暁のミサとこの日中のミサの構造はどう違っているのか比較しながら、一体どんな発展が見られるのか、

そしてではその一番大切な誕生の為に、私たちは何をしなければならないのか、遷善の決心を立てる事に致しましょう。

3つの誕生というのは、三重の誕生というのは、イエズス様が永遠の昔から御父の懐からお生まれになった、永遠の今日に於いてお生まれになっている、というその誕生の事です。まだこの地上に光が創られていなく、天主が「光あれ!」と言ったその前、太陽も月も創られていない前、いわば被造物が全く無であった全く存在していない、天主だけがおられるその永遠において、神秘のうちに、天主御子が御父から永遠の今日お生まれになっているその御誕生です。

天主の御子というのは、今日聖パウロの書簡書によれば、御父のその実体の輝きであって、天使たちがこの聖なる夜、クリスマスの夜に天上を燦然と輝かして、羊飼いたちがあっという間に驚く、その美しさに驚くその光も、或いは私たちがこの人工の光でこのイルミネーションを、クリスマスのイルミネーションを街中に輝かして「あぁ、きれいだなぁ」と思うそのような光も、イエズス様のその燦然とした輝きの前には全く影のようです。

イエズス様の第1の永遠の夜に於ける誕生をまず祝います。第1のミサでは入祭誦に、「父はこう言った、『私は今日お前を生んだ』と。」永遠の御父が永遠の御子を今日、永遠の今日に於いて生み続けている、三位一体の神秘が語られています。

それと同時に夜中のミサでは、「マリア様が御子を、肉に於いて生んだ」という事が語られます。

第2の誕生は、まさにイエズス様が時に於いて私たちの為にお生まれになった、12月、今から2016年前の12月25日の夜に、ベトレヘムで真夜中に、静かなその夜中の夜中に於いて、沈黙に於いて、イエズス様は私たちの救いの為に、贖いの為にお生まれになった、その神秘です。

「天主御父の事は、御子だけが知っている」とイエズス様は言いました。その天主御父の神秘を私たちに教える為にお生まれになりました。天主御父へと行く道を示す為にお生まれになりました。イエズス様は言われました、「私は道であり、真理であり、命である。私を通らずに誰も父のもとへ行く事はできない。」またイエズス様は言いました、「永遠の命とはすなわち、天主、唯一の天主なるあなたと、あなたが送られ給うたイエズス・キリストを知る事にあります」と。天主御父とイエズス・キリストが知らされる為に、お生まれになりました。

では第3の誕生とは何でしょうか?

この第3の誕生こそが核心であり、第1の誕生も第2の誕生もそこに集中しています。それは、イエズス様が実は今日、皆さんの霊魂に於いてお生まれになりたい、と熱烈な愛を以て思っている事です。天主は、天主の愛は見る事ができません、しかしその証拠があります。御父はその御子をこの世に与えるほど私たちを愛されました。目に見えない天主の愛が、幼きイエズス・キリストに於いて目に見えるものとなりました。

もしも私たちが誰かを愛するとしたら、一番愛されやすい形を取るではないでしょうか。天主様の考えた事は、私たちから更に愛される事ができるように、私たちと全く同じ人間の姿で生まれる事を、しかも幼いか弱い赤子として生まれる事を、王宮で生まれる事もできましたけれども、王の王として生まれる事もできましたけれども、私たちが恐れて近寄らないかもしれないから、貧しいまぐさ桶で、動物の間で生まれる事を御望みになった。

何故ならば、私たちの心も動物の小屋のように、天主を迎えるにあまりにも相応しくないものではないからではないでしょうか。そのような私たちでさえもイエズス様を受け入れる事ができるように、恐れなく心配する事なく受ける事ができるように計らってくれたのではないでしょうか。

もちろんマリア様はイエズス様がお生まれになるという事で、そのきれいな場所を準備していたに違いありません。しかしローマ皇帝の勅令によって、人口調査の勅令が出たのですぐに従いました。ホテルもなければ、新幹線もなし、GPSもない、遠い道のりを行かなければなりませんでした。予約もできなかったし、Eメールを送る事もできませんでした。しかし従順に行きました。「あぁ、せっかく私が準備したのに、ちょっと待っていたら子供は生まれるのに、救い主は生まれるのに。」マリア様は御摂理に任せて従いました。

その結果、王の王、天の御父の輝き、天使たちがいつも「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」と言う万軍の君主であるイエズス・キリストが救い主が、動物の間でしか、寒い凍える所でしか生まれる所がありませんでした。何故かというと、それは私たちの霊魂にでも生まれたい、どのような所でも生まれたい、と思うあまりの愛の為でした。

使徒信経によると、「聖霊によりて、童貞マリアより生まれ」とあります。聖トマス・アクィナスは、「なぜ聖霊によるのかというと、確かに御子、天主三位一体の御子が人間となって生まれるのは、これは三位一体、聖父と聖子と聖霊の全ての業だけれども、特に御子が人となったのは燃えるような愛の業だったから、人類に対するまさに正気を失ったかのような愛の業だったから、聖霊によりて愛によって宿った、と私たちは使徒信経で言う」と言います。

私たちの主は、三位一体の第2のペルソナは、永遠の天主の御言葉は、最初に天主と共に在り、全てがそれによって創られた御言葉は、私たちを愛するがあまり、私たちと同じ姿を取ろう、と私たちの間でお生まれになりました。

今日イエズス様は、私たちの霊魂にお生まれになりたいと燃えておられます。その愛の火で燃えておられます。

今日の日中のミサを見ると、この私たちの内に生まれる、このお生まれになりたいというこの赤子は、単なる救い主ではないと分かります。永遠の王である、平和の王である、その肩には主権がかかっている。そして集祷文に於いては、「私たちの罪のくびきを取り払って、あなたの主権によって開放して下さい」とあります。「全ての民は、地の果てまであなたの救いを見た」とあります。この救いは全てに全世界に渡らなければならない主権です。聖体拝領の時に私たちはイエズス様を受けて、「確かに地の果てまで、私たちはこの遠い日本も日の本に於いてまでも、主の救いを見た。主は私たちと共におられる」と歌わなければなりません。

それほどまで全世界の霊魂に隅々までお生まれになりたい、という燃えるような願いがこの3つのミサで表れています。最初は真夜中にマリア様の元で生まれた永遠の御父の懐で生まれるイエズス様。そしてそのイエズス様はマリア様に御自分を表しますが、暁のミサでは羊飼いたちに姿を現します、日中で太陽が昇った時には全世界に於いて王として、全ての人の心に生まれたいと思っています。

しかし今日の福音を見て下さい、全てはこの御言葉によって創られたにもかかわらず、主は私たちを愛するが為に、自分を与える為に、宝物を持って私たちのもとに来られたにもかかわらず、こんなにか弱い姿で来たにもかかわらず、人々は、「嫌だ。」「あっち行け。」「来るな。」「出て行け」と主を闇の方に亡き者にしようと、受け入れようとしません。イエズス様の御悲しみはどれほどでしょうか。

イエズス様を信じる代わりに、どれほど多くの方がその愛を、その慈しみを、その天主の燃えるような憐れみを信じようとしないのでしょうか。イエズス様この幼子を礼拝しようとする代わりに、もはやそうではなくて、無関心や、冒瀆や、瀆聖でそれに返答する人がどれほど多いでしょうか。イエズス様に希望する代わりに、「いや、」イエズス様の無い、イエズス様ではない自分の力に、自分のやり方に希望するという人がどれほど多いでしょうか。「世界は自分の周りを中心に回っているのだ。」イエズス様をお愛し申し上げるというよりは、自分の事だけでいっぱい、自分を愛するだけでいっぱいという人がどれほど多いでしょうか。

私たちはでは今日、どのような決心を取らなけばならないでしょうか?

今日は、私たちの為にお生まれになった全知全能の永遠の御父、この天地の創造主、真の天主よりの真の天主、光よりの光、天主よりの天主、人となった永遠の御父の輝き、永遠の知恵、天主の御言葉、イエズス・キリストを心から礼拝致しましょう。

主を信じ、そして礼拝し、希望し、愛する事に致しましょう。イエズス・キリストをどうぞ御聖体拝領によって受けて下さい。私たちの霊魂に生まれる事をどれほど望んでおられるか、この希望を満たして差し上げて下さい。そして私たちが聖体拝領をしたら、イエズス様を信じない人々に代わって、礼拝しない人々に代わって、希望しない人々に代わって、愛さない人々に代わって、信仰と、礼拝と、希望と、愛を捧げて下さい。

三位一体を深く心から礼拝して、イエズス様の御体、御血、御霊魂、御神性をお捧げ下さい。イエズス様の至聖なる聖心の無限の功徳によって、多くの罪人たちが、多くの人々が、特に日本にいる方々が、イエズス様のこの愛を知る事ができますように、イエズス様がますます愛されますように、そして多くの霊魂が天国に導かれますように、その為にお生まれなったイエズス様の望みが叶いますように、お祈り致しましょう。

イエズス様が来られたのはマリア様を通してでした。ですからマリア様を通して、マリア様にお願いして、私たちの霊魂にも生まれて下さるようにお祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。



主の御降誕【真夜中のミサ】 聖伝のクリスマスで捧げられる3つのミサとは?

2017年01月14日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2016年12月25日(主)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2016年12月25日(主日)主の御降誕 真夜中のミサ
小野田神父 説教


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

聖母の汚れなき御心教会にようこそ。

今日は、私たちの主イエズス・キリストの御降誕の聖なる夜です。皆さんに喜びをお伝え申し上げます。

ちょうど羊飼いたちが寝ずの番をしていて外にいた時に、天使の大群を見て、天使が救い主を告げたように、今日私たちは朝課を寝ずに歌って、この真夜中に天主様から送られた司祭の喜びの声を聞きます、「今日、救い主は私たちの中に生まれた。喜べ、天のいと高き所には天主に栄光あれ、地には善意の人に平和あれ」と。

羊飼いのような皆さんたちに、私たちの為にお生まれになった救い主の御降誕の神秘の黙想をする事を提案します。

公教会の習慣に従えば伝統に従えば、私たち司祭はこの日に3つのミサをする事ができます。この3つのミサは、3つのイエズス様の御降誕を記念して捧げられるものです。この真夜中のミサを1つ取るだけでも、それを詳しく見ると実は、イエズス様の3つの御降誕の神秘が深く入っています。

今日は、この今捧げているこのミサを黙想しながら、イエズス様の3つの御降誕について考えてみましょう。

この御降誕の3つの3重のイエズス様のお生まれについて黙想した後に、一体その核心は何なのか、一体私たちにとって何が重要なのか、

その核心の前にその一番のメッセージの前に、私たちはただただ、感謝と讃美と、私たちの為に生まれるイエズス様に愛を申し上げる決心を立てる事にしましょう。

今日のミサをよくご覧になると、入祭誦では、天主御父の言葉が私たちの耳に響きました。「主は言った、全能の天主御父はこう言った、『私はお前を今日、永遠の今日に於いて、お前を生んだ』。」

福音を見ると、マリア様はその「初子を生んで、そして布でくるんでおられた。」

天主としての、天主御父からの永遠に生まれる御子の誕生。そして肉に於ける、人間の本性に於ける御誕生の、この2つが語られます。

ちょうど集祷文では、「私たちが光を、今日この夜、天主の光によって照らされた。」「信仰の光によって照らされた私たちが、やはり永遠の栄光の光において、天主を喜ぶ事ができますように」と祈っていますけれども、このまさに信仰の光を以て私たちは、今日肉として生まれた人間として生まれたイエズス様が、真の天主の御子であると知り、そしてこれは遂に、私たちが天の栄光を受ける為の準備として与えられる、という事が語られます。

するとここに、3つの段階がある事にお気付きになると思います。

第1の生まれは、イエズス様が天主の御言葉が、永遠の天主御父の知恵として、天主の御言葉として、始めもなく終わりもなく、永遠に生まれ給うその神秘を語っています。

「イエズス様は、天主御父のその実体の栄光である、その輝きである」と聖パウロは言っていますけれども、今日羊飼いたちを照らした天使たちの輝きや、この教会を照らす色々な光も、天主様の輝く光と比べれば全く色褪せてしまいます。この世のどんな素晴らしい光も、天使たちの光でさえも、栄光の天主のうちにあるそのイエズス様の輝きにおいては、全く影のようなものです。この天主御父から生まれる真の光である、光からの光、天主よりの天主、真の天主よりの真の天主、イエズス・キリスト様の第1の誕生を、入祭誦で歌いました。そして書簡書と福音の間でも、この「天主としての御誕生」が語られます。

ちょうどそのサンドイッチになるように書簡と福音では、「イエズス様が人間としての御誕生である」という事を、「人間としてお生まれになった。この天主の御子が、救い主として私たちの為に人間としてお生まれになった。この今お生まれになった方は、今日お生まれになった方は、まさにこの栄光の御子である」という事を教会は言おうとしています。

聖パウロは実はこの事をよく知っていました。何故かという聖パウロはイエズス様を、イエズス様の神秘体を迫害していた者でした、その時は暗闇に留まっていた者でしたが、ある時ダマスコへの道の途中で、光に輝やかれたイエズス様を見て、「サウロ、何故お前は私を迫害するのか?」そして光を受けて、大回心をしました。そのパウロが、「イエズス様が肉として生まれた」という事を私たちに言っています。「このここに於いて、主の憐れみが私たちに現れた。天主の愛が私たちに現れた」と言います。

では一体、この2つの御誕生は一体、私たちとどんな関係があるのでしょうか?

それは第3の誕生にかかわっているのです。

第1の誕生は、光が創られる前の、この世の地上の光が創られる前の、天と地が創られる前の、創られない光が輝いた時のものでした。まだこの地上が光で輝かない、いわば天主の神秘における永遠の夜の間の誕生でした。

それと同じように、イエズス様が御誕生になった今日も、真夜中でした。イエズス様が実は贖いの業をなしたのも、十字架の上で確かに昼間でしたけれども、その時太陽は暗み、あたかも世界は夜のようになりました、暗闇が覆いました。イエズス様が天主が、イスラエルの人たちを旧約の時代にエジプトから脱出させた時も、やはり夜でした。御聖体を制定する時も、やはり夕方でした。イエズス様が御復活の時も、夜中まだ日が昇る前の事でした。

今日の夜、私たちの救いの為に、私たちの霊魂に於いてお生まれになろうとされています。

イエズス様の第3の御誕生というのは、3重の誕生というのは実は、天主御子としての誕生も、今、今日2000年前にお生まれになったこの誕生も、実は「私たちの霊魂に於いてお生まれになりたい」、その為のものでした。私たちの霊魂に於いて、天主御父が一体どのような方であるか、御子のみが知っています、その御父がどれほどの愛であるかという事を私たちに示す為に、この貧しい私たちの住まいに来ようと、お生まれになろうと、今日、来ようと、されました。

今日お生まれになった小さな赤ちゃん、イエズス・キリストは、本当の平和の王であります。マリア様が一生懸命準備されたであろうナザレトの家ではなくて、御摂理によって、貧しい動物たちの間にお生まれになったという事は、あたかもこの私たちのような貧しい霊魂でも、私たちの心にまぐさ桶として、今日生まれたいと思った、その謙遜な愛の現れではなくて何でしょうか。

ですから、聖福音の中で「肉としてお生まれになった」という事が語られたその後に、祭壇の上でイエズス様は私たちの為にパンとなって、あたかも“ベトレヘム「パンの家」”でお生まれなったように、祭壇の上にパンの姿でお現われになります。そして私たちの霊魂の中に御聖体拝領で来ようとされます。

教会はその時に、この歌をこの詩編を唱えさせます、「御身の聖なる者たちの輝きにおいて、私はお前を生んだ。この夜明けの星が昇る前に、お前を生んだ。」ちょうどこれは、御子が御父の中に永遠の昔からお生まれになると同時に、「実は今日この聖なる夜に、救いの贖いの夜において、永遠の昔からお前たちの事を考えていた。お前の事を考えていた。永遠の昔からお前の事を愛していた。永遠の昔からお前の事を心の中に思っていた、計画していた。そして永遠の昔からお前のことを創ろうと思っていた。そして永遠の昔から今日この夜、お前の霊魂の中にもう一度生まれようと思っていた。お前の霊魂をまぐさ桶として今日行く。聖なる輝きにおいて、夜明けの星が昇る前から既に私は、お前の事を心に於いて生んだ。今日私はお前の心の中に生まれる」と、教会は私たちの霊魂と重ねて歌っています。

私たちは天主の子供として生まれる事ができたという事を、洗礼の水を受けて、子供として養子となったという事を何と感謝しなければならないのでしょうか。天主は私たちの事をこれほども愛しておられます。目に見えない天主の愛が、今日目に見える形となって現われました。天主が、この全世界の創り主である天主が、私たちの為に幼子となって、まぐさ桶に於いてお生まれになっておられます。天主の愛が人となってお生まれになりました。この幼きイエズスを見ると、私たちはどうして天主を愛さずにいられるでしょうか。

どうぞ愛する兄弟の皆さん、どうぞイエズス様の方に近寄って来て下さい。是非来て下さい。イエズス様を礼拝致しましょう。イエズス様を抱きしめて下さい。イエズス様に愛の接吻を捧げて下さい。天主は私たちの事をこれほども愛しておられます。御一人子を下さるほどまで愛しておられます。天のいと高き所には栄光がありますように。私たちは天主の愛を信じました。

願わくは、私たちの信仰が天主の御助けによってますます深まりますように、増加しますように。天主の栄光の事を考えれば、私たちは本当に汚い、塵、芥、ごみのような、泥のような存在です。しかし私たちを愛するが為に、その泥となって、塵、芥の姿をとった、この奴隷の姿をとった天主に、私たちは感謝致しましょう。

今日、この人となった天主、私たちの為にお生まれになる天主、愛の天主、その証拠を突きつけられて、そして御聖体を拝領しながら、私たちの心に来られる天主イエズス・キリストの前に、私たちは心から感謝と、讃美と、愛で礼拝致しましょう。

マリア様にお願い致しましょう。マリア様が私たちの心を、マリア様の心を以てイエズス様を受け、イエズス様を愛し返す事ができるように助けて下さいますように。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。



クリスマスとは一体何なのか?クリスマスの核心とは何か?

2017年01月13日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2016年12月24日(土)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2016年12月24日(土)平日の主の御降誕の前日のミサ
小野田神父 説教


聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。

今日は2016年12月24日、主の御降誕の前日のミサをしております。今日はこのミサの前に2人の方が洗礼を受けて、イエズス様の兄弟、天主の子供となりました。どうぞこの2人の方が天国に真っ直ぐ、清く聖なる生活を送りますようにお祈り下さい。

今日はここで夜中の0時からミサがあります。深夜のクリスマスのミサがあって、その前に21時から朝課も、グレゴリオ聖歌の聖務日課の朝課もあります。いらして下さい。


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日はクリスマスイブで、日本のキリスト教ではない方も、「今日はクリスマスの聖夜だ、聖なる夜だ」と祝われています。

どこもかしこも、街も家も、クリスマスセールやクリスマスの飾りで、メリークリスマスと言われ、皆イルミネーションが飾られて、光で輝いて、皆クリスマスを、キリスト教を知らないような方でもクリスマスを祝っています。

しかし残念な事に、そのクリスマスが「一体どんな意味か?」と聞いてみると、「え?クリスマスというのはこのプレゼントをする日じゃないの?」とか、「クリスマスというのは一体、ケーキを食べる日なのか?」とあまりよく知らないので、でもクリスマスというのは元々は英語では“Christ mas”「キリストのミサ」をする日で、このクリスマスの日には確かにプレゼントの日ですけれども、実は天主様が私たちに特別の「キリスト」というプレゼントして下さったという日なのです。

そこで是非、このクリスマスとは一体何なのか?クリスマスの一体核心とは何なのか?

一体どんなプレゼントがあったのか?何故このようなプレゼントがあったのか?

それでそのプレゼントを私たちが受けたのですけれども、私たちはじゃあ一体そのプレゼントをどうして受けたら良いのか?という事を一緒に黙想したいと思っています。

実は「クリスマス」というのは、天主様が私たちに、天主の御子、永遠の御言葉、聖父と聖子と聖霊の三位一体の御子、天主三位一体の第2のペルソナである永遠の御言葉、この全世界を宇宙を創った方が、人間となって、私たちに与えられた、その日なのです。

でもこの事をよく理解する為に、私たちが一体何故そこまでそうなったのか、という事を知らなければなりません。

どうなったかというと、永遠の昔から永遠の未来に至るまで、全く変わる事のない、永遠に無限に幸せな天主が、この世を創られる天主が存在しています。ところで天主は愛でありました。「自分の持っている良いものを他に伝えたい」という愛でした。そこで永遠の昔から時に於いて、永遠というのは時によって計る事ができないのです。しかし「時」というものを創って、そして時の始めに於いて、「自分の永遠の幸せを分かち合う事ができる、被造物を創ろう」と思いました。

その必要がなかったのですけれども、そのようなどうしてもしなければならないという事もなかったのですけれども、でも愛のあまり、あまりにも善であるので良い御方であるので、「自分の持っているものを、永遠の命と喜びを他の者にも与えたい。そのような喜びを持つものを創って、彼らに与えよう」と思われました。そうして創られたのが、天使たちと私たち人類でした。

天主は私たちを「無」から創造しました。無から創造したというのは、無という材料を使って何かを造ったというのではなくて、そうではありません。全く材料も何も無い、「無い」ところから、「有る」ものを創ったのです、存在するものを創りました。人間にはそういう事ができません。人間は必ず材料が必要です。どんな何かアイデアも必要です。しかし三位一体は、全くの無から私たちを有らしめました。そして今でも有らしめて下さっています。

そうやって私たちを有らしめるのみならず、私たち特に人間、天使たちを、天主の子供として、天主の命に与る事ができるように、三位一体と同じ愛のまどいの中に、その天主様の命を生きる事ができるように、幸せとなる事ができるように考えて下さいました。

考えてもみて下さい。皆さんこの街を歩いていたら、どこかのみすぼらしい、この汚いボロボロの服を着たどこかの男の子がいて、お金もないので空き缶を持っていて、こう「お金を欲しい」と、「食べるパンもない」と、病気で何か苦しそうだ、という子供がいたら、「あぁ、そうか、」この子供に、「じゃあ自分の持っている家をあげよう。さぁ、自分の家に来なさい、自分の子供としてあげよう。そしてこの自分の持っている物はみんなお前にあげよう」ともしも言ったとしたら、これはものすごい愛の業で、寛大な業だと言わざるを得ません。

でも天主様がなさった事はそれよりも更にすごい事でした。まったく無に等しい私たちを創って、それを天主の子供として、天主の「無限の幸せを与えよう」と思ったからです。

太陽の温かさ、或いは大自然の美しさ、金・銀・宝石・ダイヤモンド、或いは星々の偉大さ、太陽と銀河の偉大さ、この地球の大海原のその大自然の力、雪、嵐、それも私たちもその大自然の力を見ると、「すごいなぁ」と思いますけれども、アルプスの高い山々、深い海。でも天主のその持てる宝、天主の力と比べたら何のちっぽけなものにすぎません。

「私たちが天主の子供となる」というのは、それよりも更にすごい事でした。無限の命と、永遠の命と、永遠の幸せを、天主のようになる、という事でしたから。この地上を全て所有したよりも、そんなのはちょうどトイレで流す紙が与えられて、パシャット流されたら、それよりもまだつまらないものだった。それほどのものが与えられました。

でも残念な事に、そうやって与えられて全てのものが準備されたにもかかわらず、私たちの先祖アダムとエヴァは、「NO!」と言ったのです。何故かというと、蛇がやって来て悪魔がやって来て、「あぁ、主の言う事は信じなくて良い、それは嘘だ。俺の言う事を信じろ。そうしたらあなた方は俺の言う事による事によって神々のようになる。そうしたら幸せになる。信じてはいけない」と言ったのです。 

考えて下さい。せっかく、「さあ、お前にこれをやるぞ」と言ったこの子供がやって来て、「あ、いいか、でもね、1つだけこうしてはいけないよ。こうするとこの本当に危ないから」と言った、その「いけないよ」とたった1つだけの事さえも、「いや、信じない!これは俺の物だ!俺の思い通りにやる!」この恩も義理も忘れて、この助けてやったその恩人を全く無にした、その恩返しもせずに、それに反抗したとしたら、「お前はもう出て行け。もう知らない」と言われるに決まっています。

実際、アダムとエヴァも天主に逆らって、天主の「してはいけない。それをするとお前は死んでしまうぞ」と言ったその通りの事を、その「いけない」と言った事を、そそのかされて、信ぜずに、逆らってしまいました。

しかし天主の、私たちの創造主が私たちになさった事は、私たちのやるような事ではありませんでした。確かに罰として、「お前はここから出なければならない」と楽園から追放されましたが、「しかし、必ず救世主を送る。その罪の償いをする者が来る。お前たちをもう一度引き戻してあげる」と約束して下さったのです。

人類は4000年間、その救い主を待たなければなりませんでした。そしてその4000年間その救い主を待つ間に、どれほど人類は主の力なくては、助けなくては全く惨めで、混乱していて、暗闇で置かれて、もうどうしようもない所までいってしまいました。世の中は乱れに乱れて、人は人とも思わず、残酷で、裏切りで、ひどい世界になっていきました。

そういう中で、天主は私たちを救おうと思って、その義務は無かったのですけれども、憐れみによって、私たちを愛するがあまり、どうしても私たちに永遠の命を与えようと思って、私たちをもう一度天の、天主の子供として受け入れようと思って、永遠の命の幸せを与える為だけに、私たちが天主となる事ができるように、天主様は人となられたのでした。

私たちが服を着る事ができるように、御自分は貧しく、裸のように、赤ちゃんとなってお生まれになりました。私たちが王の服を着る事ができるように、自分は乞食の様子で生まれてきました。この天地の創造主で、王の王であり、全ての支配者であって、王様として生まれて、プリンスとして生まれて来て、大宮殿で生まれて来て、家臣らが「ハハーッ!」と平伏したとしても何らおかしくない天主の御子が、私たちの為に貧しいまぐさ桶で、私たちの為に、私たちのものとなる為にお生まれになりました。

何故かというと、私たちがその幼きイエズス様を受け入れる事ができるように、誰でも恐れずに近寄る事ができるように、可愛い赤ちゃんとなってお生まれになったのでした。私たちが主を愛する事ができるように、近寄る事ができるように、ただその為だけにお生まれになりました。私たちに全てを与える事ができる、その為だけに、クリスマスの夜に天主が人となってお生まれになりました。

これよりも偉大な天からの贈り物はありません。ここにこそ天主様の愛が現われます。私たちはここに於いて、天主がどれほど私たちを愛して、憐れんでいるかを知り、私たちは天主の愛を信じたのです。

この大きな憐れみと、その大きなプレゼントの前に私たちはどうしたら良いでしょうか?

今日は2人の方が、この憐れみを受けて、そのイエズス様のもとに駆け寄り、イエズス様からの御望みの通りに、洗礼の水を受けました。そしてもうすぐイエズス様の御望みの通りに、イエズス様の御体を御聖体で受けます。

悪魔は「主の言葉を受けなくて良い」と言います。やってはいけないと言った「あの木の実から取って食べろ。そうしたら美味しいし、面白おかしくする事ができる。」

しかし、お生まれになったイエズス様はそれと反対の事を言います、「いや、主の道を信じるように。そして謙遜であるように。主に従うように。掟を愛を以て守るように。信じるように。主を信頼するように。決して私たちを捨ててはおかない、その主の憐れみに信頼するように。そしてその別の木からその果実を受けるように。」と教えて下さいます。

イエズス様がキリスト様が今日夜お生まれになる、キリスト様が私たちに、「さあ、ここの木から食べなさい」というその木は、十字架の木です。そして自分がその十字架の上に付けられて、イエズス・キリストの御体を、「その木の実として受けなさい。この木から流れる恵みの水を受けなさい、洗礼の水を受けなさい」と招いて下さっています。

では私たちはどうしたら良いでしょうか?

マリア様のように致しましょう。マリア様も天使ガブリエルから、「あなたは身ごもって子供を産むでしょう」と言った時に、「はい、私は主の婢女です。仰せの如く私になりますように」と天使の言葉を信じました、信仰の言葉を述べました。その時にイエズス様をマリア様は受ける事ができました。それと同じように私たちも、信仰の言葉で、「はい、私たちは主のしもべである。私たちは主から創られた被造物である。私は主から創られて主のもとに行かなければならない。」

イエズス様を私たちが受ける事ができるように、マリア様にお祈り致しましょう。きっとマリア様はイエズス様がお生まれになる為に、ご自分のお家であったナザレトの家できれいな準備をしていたに違いありません。お掃除をして、お生まれになる子供が、救い主が良く生まれるように準備をしたに違いありませんが、しかしローマ皇帝の命によって旅立たなければなりませんでした。それさえもマリア様は主の御旨として素直に従って、主に信頼しつつ、主をお生みになりました。

主は私たちの霊魂の中にも、巡礼者として、今日どこに泊まったら良いか分からない者としてお生まれになりますから、「是非私たちの心に来て下さい」と申し上げましょう。良いクリスマスの夜を迎える事ができますように、マリア様にお祈りしつつ、このミサを御捧げ致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。



2017年1月6-9日の聖伝のミサの報告:聖ピオ十世会 SSPX JAPAN Latin Traditional Mass

2017年01月11日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

改めて新年のおよろこびを申し上げます。ファチマ100周年である2017年が祝福に満たされた年となりますように!

ことしから聖ピオ十世会日本ではミサの終わり司祭の退堂の際には毎回「ファチマのアヴェ・マリア」をテーマソングのように歌います。月によっては、日本語のみならずポルトガル語やフランス語や英語でも挑戦することも考えています。

今回のミサでは、ローマの習慣に従って、クリスマスと御公現とに恒例の幼きイエズスさまの接吻の礼拝がありました。

次回は、大阪では1月20日、21日、東京では1月22日で、踏み絵への接吻による償いの式があります。

 1月21日には、聖ピオ十世会総長補佐のフルーガー神父様が来日され、東京では午後5時半からミサがある予定です。

 1月22日には、午前10時半からはフルーガー神父様司式によるミサ聖祭、午後には霊的講話の会があります。

 1月23日(月)の午前7時からは、東京でフルーガー神父様のミサ
 1月24日(火)の午後6時からは、大阪でフルーガー神父様のミサ
 1月25日(水)の午前11時からは、大阪でフルーガー神父様のミサ
が予定されています。

愛する兄弟姉妹の皆様をご招待いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


【報告】【大阪】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

聖家族の祝日おめでとうございます。
御ミサの報告をお送りいたします。

1月6日(初金) 主の御公現 の祝日の御ミサには16名が、
翌7日(初土) 聖母の汚れなき御心の随意ミサには17名の方々が御ミサに与る御恵みを頂きました。デオグラチアス!

ご公現の御ミサの後には幼いイエズス様の御像への接吻式があり、その後、2017年初めての御聖体降福式がありました。
幼きイエズス様への接吻はどうしてか顔がにやけてしまう程に嬉しく、十字架への接吻と少し違う感覚です。
私たちが近寄りやすいように幼子のお姿をされているというお話は全くその通りだと思います。

御聖体降福式ではこの一年を余すところなく御聖体のイエズス様にお捧げ出来た事は大きな御恵みでした。
ファチマの聖母ご出現の100周年にあたる今年、気を引き締めて毎日毎日を大切に祈りと犠牲をマリア様にお捧げできるように、お力を願いました。

ご公現の御ミサのお説教はクリスマスとご公現の違いを黙想しました。
どちらもプレゼントをされた日ですが、クリスマスは聖父から聖子イエズス様を人間にプレゼントして下さった日で、
ご公現は三人の博士が、イエズス様にプレゼントをした日です。
三人の博士は純粋な愛のかたどりである黄金、天主へとまっすぐに上る祈りをあらわす乳香、私達の苦しみと犠牲をさす没薬を捧げました。
私たちも三人の博士のように信仰の星に導かれてイエズス様のところへ来て、イエズス様を天主と認め、礼拝しなければならないのです。

私の捧げものは不純物の混じった黄金であり、まっすぐ上らず下でくすぶっている祈りであり、取るに足らないような犠牲であるけれども、不完全な捧げものの変わりに
今日のこの日の御ミサで聖子イエズ ス様をマリア様を通して聖父にお捧げることが出来ることを感謝します。

土曜日の御ミサの後の公教要理では聖書が『聖霊の息吹』によって書かれたこと、『無謬』である事を勉強しました。

もっと沢山のかたが本物の信仰の星に導かれて聖伝のミサにたどり着かれることを願います。


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

前回の公教要理のレポートを書かせて頂きます!

《分かったところ》

聖書には重大な特徴が2つある。

1.聖書は聖霊の息吹(Inspiratio, θεοπνευστία)を受けて、旧約・新約全て書かれている。
2.聖書には間違いがない。(無謬,Inerrantia)

それを詳しく見ていくと、
1.聖書は聖霊の息吹を受けて書かれている理由…カトリック教会という教導権が、「天主の書かれた御言葉」と教えている。
〈例〉・聖クレメンテ(ローマ教皇)
  ・フィレンツェの公会議(1441年)
  ・トリエント公会議(1545~63年)
  ・第一バチカン公会議(1870年)

天主が第1の著者(人間を道具として書いた)。

ティモティオ第二(3:16)…Divinitus Inspiratus

「聖霊の息吹」というのは、人間が「書こう」という意思を持って、聖霊に導かれて書いている。
×口述筆記
×脱魂状態
×ヴィジョン(黙示録などは別)、声
×単なる教会認可
×単に誤らないように

2.聖書には間違いがない。
・原文には誤りが無いが、翻訳をする人間が間違うことは有り得る。
・科学の本や日記の本として書かれていない。

《分からなかったこと》

何故カトリック教会は非常に初期の時から、聖書が「この書物は聖霊の息吹によって書かれたものだ。この書物には誤りが無い」と断言することができたのでしょうか?何か判断の基準とかはあったのでしょうか?
何か根本的な質問ですみません(>_<)>

デオ・グラチアス!

【お返事】

カトリック教会が、非常に初期の時から「この書物は聖霊の息吹によって書かれたものだ。従ってこの書物には誤りが無い」と断言することができたのは、天主からの特別の啓示があったからです。
例えば、聖ペトロは啓示を見て、旧約の食べてはいけないという律法を廃止させたことがあります。それと同じように、使徒たちは天主の権威を持って、安息日を土曜日から日曜日に変更したことがあります。
聖パウロは、イエズス・キリストの特別の啓示を受けましたし、聖ヨハネも、特別の啓示を受けました。
公的啓示は、最後の使徒が死ぬ時に閉じられました。
しかし、使徒たちは天主の権威を持って、あるときには天主からの特別の介入や啓示によって、真理を啓示されていました。聖書に関する真理も同様です。


【報告】【東京】
Dear Fr Onoda:

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 20人(内、子供1人)
女: 27人(内、子供3人)
計: 47人(内、子供4人)


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

この度も日本でのミッション、ありがとうございました! 毎月2回、遠くフィリピンから足を運んで、日本のために御ミサを捧げてくださる神父様に深く感謝いたします。

東京の御ミサでは、今回も初めて聖ピオ十世会にいらして久しぶりに聖伝の御ミサに与ったという方がいたしたので、本当に嬉しいです。
もっともっと多くの方が聖伝の御ミサとその教えとに出会うことができますように。お祈りいたします。

1月8日、聖家族の祝日の御ミサの感想と、午後の要理のお話のまとめをお送り致します。

<御ミサ>

これだ!と分かったこと

今回は、集祷文「主、イエズス・キリストよ、御身は、いいつくしがたい聖徳を行い、マリアとヨゼフとに服従して、家庭を聖別し給うた」や聖体拝領誦「イエズスは、かれらとともにナザレトに下り、かれらに服従し給うた」のお祈りから、また、お説教をお聞きして「従順」がいかに大切な徳であるかが分かりました。
特に神父様がお説教でお話しくださった
「イエズス様ご自身から見れば被造物である名も無い大工のヨゼフ様とそしてやはり被造物であるマリア様に従順に生活なさったイエズス様
司祭の聖変化の望みとその言葉にいつも従順であるイエズス様、私たちが御聖体を受けようとの思いに従順なイエズス様」という言葉から、よい黙想をすることができ、唯一有るものでいらっしゃる天主様のなさる無である私たちに対する限りない従順、まさに「従順の生贄」と呼ぶにふさわしい従順に感動いたしました。
また、神父様が、「司祭の聖変化の望みとその言葉にいつも従順であることに、まさにここに御ミサの頂点があります」と仰ったのが印象的でした。
御ミサの頂点は、聖変化と十字架の生贄は、従順と愛と謙遜と全ての徳の頂点であるように思われました。
今は御聖体の内に隠れられ、この世にいらした33年間の内30年間の長い間をマリア様とヨゼフ様に従順に隠れて生活なさり、また、その徳の全ては世の求めるものとは正反対なので隠れたように見え、本当に天主様は「かくれたる王」(昇階誦)でいらっしゃると感じます。

御ミサの聖福音では、なぜ「彼らは、彼が語り給うたことを悟らなかった。」(ルカ2:50) と書かれているかが分からなかったのですが、マリア様はその時には全てを悟らなかったけれども、その後もそのことを「全て心に納め」ていらしたので、御受難の時、十字架の元ではもう何の質問もせず佇んでいらしたのだ、と教えていただいて分かりました。丁寧に教えていただき、ありがとうございます!

人類の最大の苦しみであった十字架の元で深い深い悲しみの内にありながら、なおも天主様の言葉を思い起こして静かに十字架の元に佇んでおられたのですから、マリア様はどれほど深い観想のうちにイエズス様のお言葉を捉えられたのか、そしてそれに対する従順がどれほど素晴らしかったのだろうか、と考えました。やはりマリア様は天主様のお母様でいらっしゃる方だと改めて感動いたします。マリア様のご謙遜、従順、観想、天主様のお言葉を深くお考えになる姿勢を見習わねばならないと思いました。

今回の御ミサで聖家族の生活をよく見ると、「愛徳」と「従順」から生まれるお互いへの尊敬の気持ちや心遣いが聖家族の態度全てに現れているように感じます。ヨゼフ様を家長として、いかなる困難のうちにありながらも、夫婦・父母と子・両親と子という天主様の制定なさった家庭の秩序に基づいた生活をしていらしたのだな、と分かりました。そして何よりも、その態度とそこから生まれた空気がとても美しく感じられましたので、こちらも平和な気持ちになりました。聖霊の賜物を主題とした公共要理の時間に、究極の原因(天主)に遡って物事を判断すること、つまり全てを秩序付けることが平和である、と教えていただいたことを思い出しました。私はこの平和について今までは公教会の権威を頂点とした全世界的な、非常にこの世的な平和、という観点からしか捉えていなかったのですが、聖家族の生活を思うと、この平和は個人においてはもちろん、またどのような集団においても、つまり家庭でも会社などの集団にあっても実践し得るものであることに気付くことができました。デオグラチアス! カトリック教会のみがもたらす真の平和の美しさにただただ感動するばかりです・・・。

そして、現代の初頭にあってこの御ミサを制定なさったレオ十三世教皇様のご意図をほんの少しだけでも理解することができたかな、できていたらいいな、と思っております。

また、御ミサでは、神父様が2017年をファティマ100周年の記念としてマリア様の汚れなき御心に奉献するように、とおっしゃったことが印象的でした。天主様に2017年を全てよりよくお捧げすることができますように! と年明けに初めて与った御ミサでお祈りできましたので、とても幸福です。この御ミサでの気持ちを忘れずに、聖母マリア様と共に天主様へ日々の祈りと犠牲をお捧げすることができますように!

<公教要理>
午後の公教要理の時間には、聖書について教えていただきました。
・聖書はカトリック教会が天主イエズス様から受けた教導権に基づいて定めた書物であること
・聖書はその一字一句まで、神感によって、聖霊のいぶきによって、書かれたこと
・神感とは、口述筆記や教会認可を受けることを指すのではなく、真の著者は天主であるが、人間を道具とし個々の道具の特徴を使って書いたことを指すこと
・天主は人間を道具として、その特徴を生かしながら聖書を書き、聖書は天主と人との合作であるいうことができること
・聖書は原典のみ無謬であること(しかし、聖ピオ十世教皇様の指示により行われた調査によって、聖ヒエロニモの訳したラテン語聖書はほぼ誤りなく訳されていることが分かった)
・聖書が神感を受けて書かれ、無謬であることは多くの公会議によって承認されてきたこと(フィレンツェ公会議、トリエント公会議、第一バチカン公会議など)
・「教導権があってこその聖書」なので、聖書「のみ」のプロテスタント教会は誤っていること
・残念ながら、第二バチカン公会議による文章≪Dei Verlum≫「啓示憲章」11 の中の曖昧な表現によって、聖書の無謬に疑問が投げかけらてしまったこと
を教えていただきました。 聖書が神感を受けて書かれたことは、本当に感動的なことだと思いました。

取り急ぎ御ミサの感想のみお送りいたします。
+In Mary Immaculate,

【お返事】
いつも、素晴らしいレポートをありがとうございます。
第二バチカン公会議の「啓示憲章」11の問題のラテン語は、次の通りです。
inde Scripturae libri veritatem, quam Deus nostrae salutis causa Litteris Sacris consignari voluit, firmiter, fideliter et sine errore docere profitendi sunt (21).

和田幹男訳による日本語は次の通りです。
「したがって聖書は、 神がわたしたちの救いのために聖なる書に書きとめられることを望んだ真理を 確固として誤りなく教えるものと言わなければならない。」

カトリック教会の聖伝によると、聖書はどのようなことがらについても(救霊に関することも歴史に関することも)無謬であると教えています。

しかし、第二バチカン公会議は、私たちの救いのために(nostrae salutis causa)ということばを挿入させたので「私たちの救いのための真理」という限定された意味に取られる危険性があります。

言い換えると、
「天主がわたしたちの救いのために聖なる書に書きとめられることを望んだ真理」
という文章は、曖昧なので誤解を招く危険があるということです。

別の言葉で言うと、
「聖書に書かれた全ては真理であって、その全てが記録されたのは私たちの救いのためである」という意味の代わりに、
「天主が、聖書に記録されることを望んだのは、私たちの救いのための真理だけである」と読めるということです。

【報告】
アヴェ マリア インマクラータ!

トマス小野田神父様

1月の最初の御ミサのご報告をさせていただきます。
「イエズスは彼らとともに下りそしてナザレに来て彼らに従った」・・・レオ13世教皇様は カトリックの家庭のためにご公現の祝日の次の主日に聖家庭の祝日とお定めになられたとのこと、そのことが何を意味するのかをお話しくださった神父様のお説教を黙想してみました。

日本中のカトリック教会では 既に12月中に聖家族の祝日のミサを立てられたと思うのに、元々の聖伝において一月に入ってご公現の祝日の次の主日に置かれたということには、どのような意味があるのだろうかと思っていました。

神父様は 養父聖ヨゼフ(と御母聖マリア)に従って従順にナザレに隠れて住まわれたように、このミサの中で司祭の言葉に従って従順に祭壇の上に降りてこられるということが この聖家族の祝日の典礼の中に隠されている神秘であると教えてくださったように思います。すべての創り主である天主様ご自身でもあるイエズス様が 一人の司祭の言葉に従順に従われてこの被造物の世界である地上にきてくださる そしてわたしたちの中に来て私たちに従うというのがミサの現実なのだというお話に 驚きました。イエズス様の従順に感謝をしなければならないし、このミサがもっと大切にされなければと思いました。これまでたいして驚きも感謝もなく当たり前のように御ミサに与っていたことを反省しました。

また、私も従順ということの徳を大切にして実行に努めなければと思いました。イエズス様は司祭に囚われ人の如く従うものとなられ司祭のいうがままになるようになられるのです。そしてご聖体拝領によって私の中に来られてからはこの汚いところにおられるのです。神父様の「私たちに従おうと来られるイエズス様のお望みの通りになさってください。」との勧めを守り、イエズス様を無視するのではなく今イエズス様は何をのぞまれているのかをよく考えることが大切だとわかりました。またイエズス様のお住まいに少しでもふさわしいところであるように努めなければと思いました。

お説教のなかで イエズス様は地上のナザレの地に来られて聖家族と30年住まわれそれから天のエルサレムに戻られ今は聖家族は天のエルサレムに住まわれています、とお話しくださいました。それは、私もイエズス様・マリア様・ヨセフ様とともにこの地上で隠れた(霊的)生活をしたのち天国の聖家族のもとへ行くことができるという希望を持つことができるためでもあると知りました。その希望をもって イエズス様・マリア様・ヨセフ様に真剣にいつも祈ろうと思いました。聖家族の祝日の意味にそのような天国への道を進むための大切な秘訣が隠されていることを教えていただいて嬉しく思います。聖家族の祝日の御ミサは とても意味深いと思いました。

また私たちが 望むなら イエズス様はこのみすぼらしい霊魂の内にもおいでくださるとこの日もお話しくださいました。あまりにひどいみすぼらしさなので、ご聖体拝領の直前には汚れなきマリア様の御心に来ていただくよういつも願ってどうかそこへいらしてくださいとお願いするのが精いっぱいでしたが、クリスマスの御ミサでのご報告を大阪の方が「ヨセフ様にも来ていただいてご聖体拝領をいたします」と教えてくださいまして、神父様のお返事でもそのことをお勧めになられて、この聖家族の祝日のミサに示されていることと素晴らしくつながっているように感じられました。ありがとうございます。

そして イエズス様がお望みになられるような生活をすることをできますように日々お祈りしようと思います。 隠れて住まわれるイエズス様が聖家族の生活をまもってくだされたように私の家族もみなカトリックの家族としての生活ができますようにと お祈りをしようと思います。



それから、今日は前回に引き続き 小さなイエズス様のご像への接吻をさせて頂く行事がありました。今回は前と違うことを感じさせていただきました。それは次のようなことです。

以前 赤ちゃんのお姿で来られたのは私たちに愛されたいからですと 神父様がお説教の時にお話しくださいました時、ぴんと来なくて、イエズス様がどのようなお姿であろうと愛すべきお方であるはずだわと思いました。その(クリスマス)のときはご像に接吻しても何も特別な感じはしませんでした。それでしたので今回の御ミサの最後にもう一度 神父様が抱かれていらっしゃる赤ちゃんのイエズス様の御像の可愛らしい御指に接吻させていただいたときに、心の中で喜びを感じて少し驚きました。喜びが内から勝手に溢れて出て 喜びのために笑みで自分の表情が変化するのが自分でもはっきりわかり 不思議でした。神父様の腕の中に抱かれている赤ちゃんのイエズス様は 本当にご自分からは何もおできにならなくて、ご礼拝をするために私たちの方で近づいて行って腰をかがめ顔を近づける必要がありました。喜びをもって みんな一人ずつお捧げする礼拝をずっと眺めていました。

それからその夜になってからのことですが、就寝した私が 心身がすっかり静まり眠りに入れそうと思ったとたん、可愛らしい幼子のイエズス様が暗闇のなかで私の心の目にはっきりと浮かび出ていらっしゃいました。神父様に抱かれたイエズス様が 人間の霊魂をどれほど愛していることか 人間の霊魂によって愛されたいという思いがどれほど大きなものであるか 教えてくださいました。小さな無力な幼子のイエズス様から 計り知れない愛が伝わってまいったからです。ミサの中と神父さまの腕の中からイエズス様が伝えたかったのは 「神が人間に愛されたいとどれほど望んでいるかということだ」と 胸に迫ってまいりました。ちょうど読んでいた(霊的読書の)本には「霊魂に対する神の愛」がいったいどれほどの強さであるかということに触れていることも思い出されました。

神父様が、御父がどれほどの愛で私たちを愛してくださっているかとお話しくださったからかもしれません。私は神の愛が良くわかっていないと嘆いたからかもしれません。御父は私の声をお聴きくださり、無限の愛・広大な愛は目で見ることも感じることも悟ることもできないけれど、小さな可愛らしい幼児の愛は誰の目にも見えるように愛されることが容易なことだと実感させてくださったのでしょうか。



--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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