Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

感謝する人は余りにも少ない!私たちはこのたったひとりのライ病患者のように、額ずいて感謝し礼拝しなければなりません。

2020年08月31日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2020年8月30日、聖霊降臨後第13主日に東京で録画した小野田神父のメッセージをご紹介いたします。

チャンネル登録をなさいますと、新しくアップされた動画の通知が届くので便利です。チャンネル登録は、ここ「SSPX JAPAN 聖ピオ十世会日本」をご覧ください。

 


「助産婦の手記」37章  再び物乞いの旅に

2020年08月31日 | プロライフ
「助産婦の手記」

37章

戦争が終った。
それは、大きな出来事であった。たとえ、すべての希望は、最も無残に裏切られたとはいえ、たとえ、すべての犠牲は無益に捧げられたとはいえ、かの無意義な殺人は終ったのである。父親たちは、自分の家庭に帰り、子供たちは、親のもとに帰った。私たちは、戦争に敗けた。そして私の耳に、聖書の言葉が絶えず、響いて来るのである。『主は、彼等が主の許へ改宗するに至るまで、彼等をその敵の手にわたし給えり。』 と。もし私たちが、出来るだけ早く、この『至るまで』ということを熟考し、そしてそこから当然の結論を引きだすならばいいのであるが……

今や本当にはじめて、大きな困難が私たちの上にやって来た。数十万もの働く能力のある男たちが帰郷した。ところが、そこには、車輪はすべて一様に、停止している。戦争の必要のために軍需工場に転換された全工場は、もはや生産することは不可能である。その外の少数の工場は、その製品の販路がない。何も輸出することができない。一方、国内では人々は、買う金がない。生活物資は、今も以前と同様に、非常に乏しい。まだまだ切符で配給される。ドイツは、自分自身を養うことは、どうしてもできないのである。パン粉【小麦粉】が、大量に輸入されねばならない。

戦争中に、工場に引き入れられた多数の年少の職工や女工たちは、今や同樣に職がなく、パンがない。国境や割譲された地方から、引揚者たちが群れをなして、この村に流れこんで来る。避難所と、必要な生計とを求める憐れな、そして故郷のなくなった人々。彼等は、どこかでまた、根を張りたいと思っている。 ところで戦争中、一軒も家が建てられなかった。すべての住宅は、満員だった。戦争中に結婚した多くの夫婦者は、まだ自分自身だけの家庭を作れないでいる。食糧難にかてて加えて、住宅難がやって来た。

一部の人たちは、放埒(ほうらつ)になった。大声をあげて革命の到来を宣伝するものは、少数の人たちである。他の人たち――それは遙かに大勢である――は、何もせずに立っていて、そして世の中は一体どうなるんだろうと傍観している。恐らく、それがまた、人のなし得る最善のものであろう。高汐(たかしお)というものは、もしそれが何の抵抗も受けなければ、すなわち、それが何かにさえぎられて増水し、それによって力を集中する、というような機会がなければ、最も速く退くものである。また、人は、ドイツ皇帝が亡命して退位したからには、革命に対して、いかなる理念的価値のあるものを対抗させるべきかということを知らないのである。

この村では、職工長のシュテルンが、一躍して新時代の先駆者となった。一本の血のような赤い旗が、彼の家の屋根窓から村の街路を見下ろして翻っている。しかし、村の状況は、以前とは本当に、全く少しも変わらず、人々は仕事もパンも得られないから、彼の役割は、いずれ間もなく、終ってしまうであろう。彼は、毎日、何らかの指令を発してはいるが、 誰もそれを実行しない。わずか数日にして、早くも彼は滑稽な人物となっていた。しかし、彼はまだ仲々それを悟らない。

新時代がどうなるにしても、一つのことは確実である。すなわち、赤ちゃんは、以前と同様に生れて来るだろうということである。
村はずれの森の縁にあるバラック、そこには以前、ロシヤの捕虜が収容されていたが、今は気の毒な引揚者たちが、そこに貧弱な避難所を見いだしている。彼らは、一切の財産を置き残して、強制的に国境を越えて突きもどされたのであった。数個の行李の中に、最も重要と思われるものだけを入れて持って来た。いま彼らは、その冷たい、寒い木造バラックの中に坐っている。藁布団をとりつけた数個の野外ベッド それは大抵、薄く細い鉋屑を詰めてすらある――それから、数枚の粗末な掛蒲団と、背のない腰掛け、一個の机、手洗鉢と水瓶(みずがめ)の載っかっている一個のベンチ、それから一個の食事用の鉢が、わずかに内部の設備の全部であった。各家族は、それぞれ一家屋内に隅を当てがわれており、そしてそれは、高さ約二米の壁板をもって区切られている。バラックの中央を通っている廊下に数個のストーヴが、置いてあって、それが必要な暖房の役目を果すことになっている。

そのような悲惨な環境の中に、子供が生れて来るのである。いま私はそこで既に三度目のお産の見守りをしている。これらの憐れな子供たちは、すべて、母親の過去の月日の興奮と過労とのために、早産となり、そして絶望的な不幸の中に生み落されるのである。母親たちのうちで、その僅かな全財産中、数枚のおむつと小さな肌衣とを持っていたのは、ただ一人だけであった。青ざめた灰白の貧乏神が、産褥の傍らの私のそばに坐って、その落ちくぼんだ眼から、その妊婦を斜めに見ている。この赤ちゃんは、一体どこに根を張るだろうか? どこで我々は、再び仕事を見つけ得るだろうか? いつ我々は、再び世帯を立てることができるだろうか? 一体、どこに住宅が、新家庭が、我々に与えられるであろうか? そんな子供は、生れない方がよいのではあるまいか?

このような悲惨な経済的困難の場合においては、最も憐れな、最もみじめな生命でも、永遠の光の中で見るならば、無いよりは増しだ、という信仰を堅持することは、いかにむずかしいことであろうか! もはやキリスト教的世界観の基礎の上に立たなくなった何千という母親たちのすべてにとっては、このような苦難の時代を生き抜くことは、いかにむずかしいことであろうか! 人間の永遠の生命に関する信仰をわが国民から奪い去り――そして、その失われたパラダイスに代るべきものを、この地上で与えることも決してできなかったし、また現在も与え得ない呪うべき人たちは、わが国民の上に、どんな辛酸と苦悩の海をもたらしたことか!

それに反し、私たちのキリスト教的信仰は、さらに次のような事柄を私たちに告げるのである。すなわち、汝、同胞(はらから)を助くるために、汝の全力を尽くすことなくして、彼らの苦しむを傍観する勿れ、と。一つの鉄の掟、これなくしては、信仰は無価値である。
経済的困難に対しては、実行の伴わない単なる憐れみも、同情の涙も、妊娠中絶も、敬虔な祝福の祈りも、それだけでは何の役にも立たない。経済的困難は、経済的手段をもつて、除去されねばならない。
経済的困難は、かの引揚者たちのバラックの中にのみあるのではない。さらに、多くの労働者の家の中に、また多くの職人と小百姓のところには、おむつは、もはや見いだされない。それを調達する金もないし、また母親に適当な食事を作ってやれる可能性もない。

そこで、リスベートは、再び物乞いの旅に上るのである。私たちは、これから始めようと思ったスープ作りのために、特に相談会を開いた。母親たちは、大抵、職がない。そこで、家事を自分で処理することは、彼女たちのためになる。また私たちも、革命によって、人を助ける資力が尽きた。

そこで、私は早速、時世に適した新しい課題を持ち出した。それは、産婦に適当な食事を給することであるが、これは比較的たやすく行うことができた。すなわち数軒の裕福な家庭で、進んでそれを引き受け、互いの間に次のような規約を設けた。つまり、産婦は一枚の切符をもらうのであるが、その切符には、どこに食事を取りに行けばよいか――または、誰がそれを贈るかが書いてある。

同様に私たちは、妊産婦が助け手のない場合に、その家事を処理して上げようという、やや年を取った二人の娘を探し出すことに成功した。それから、私たちは、下着類を集めることにした。この場合には、おむつを作ることのできる古いシーツを特に目当てにした。非常に差し迫った即時の必要にも応じ得るようにするために、私たちは、晚になるまで非常に多くの仕事があった。ところが私たちは、さらに予備を作るために働かねばならなかった。私たちは、おむつ籠を作った。そして赤児と産婦とのための下着類を一纏(ひとまと)めにして一つの籠の中に荷作りして置き、そしてこれを貧しい産婦たちに対し、六ヶ月を限って貸付けた。そこで彼女たちは、赤児の下着類が節約できた。六ヶ月後に、私たちはその籠を回収し、そして下着類を消毒し、つくろい、必要に応じて新しいのと取りかえ、そして再び貸し出した。数週間のうちに、そのようなおむつ籠を五個循環させた。

その実際的効果は非常に明らかであったから、赤十字でも引揚者のための仕事を財政的に援助することに同意した。工場は、小さなジャケツやズボンをおむつの材料として大量に無料で供給した。村区も寄附を承諾した。母の会は、おむつ籠を整備し、かつ予備を補充する仕事を引き受けた。
この産婦の世話は、ほかの点についても利益をもたらした。今や、貧しい産婦に薄いスープを与えるのを止めさせることに、遂に成功した。合理的に取り合わされた滋養豊富な食事が作られた。その食事は、非常に豊富に用意されたので、男が取りに来るほどであった――飲みやすい理由からして。なお、序(つい)でに、私たちは部屋の通風も見てやった。そして羽根布団の重すぎるのや、暖かすぎるのを取り除いた。そして、その結果死んだ者は一人としてなく、却って婦人たちは、そうすることによって気持よく感じたので、彼女たちは、非常に徐々にではあるが、改革して行った。

私たちは、スープ調理室を全く閉鎖はしなかった。若い婦人および年頃の娘たちは、もはや料理のことを全然わきまえていないことが、非常に明らかであった。そこで村長は、しぶしぶながら、村区の料理講習会を開くことをやっと承諾した。職の無い婦人と娘(当時は、すべての人が失業者であった)は、村区から小額の貧民救助金を与えられていたので――それには国庫の補助があった――、自費で、そのような講習へ参加することができた。料理講習会のための場所はあるし、光熱は、村区で提供した。ある童貞さんが、その指導を引受けた。主任司祭の妹さんと、も一人の婦人がそれを助けた。娘たちは、家で農業を幾らかやっている限り、講習料を払う代りに、生活物資を持って来てもよかった。參加者は、料理の講習を受けることによって、自然に食糧を給せられたので――彼女たちは、自分で料理したものを食べねばならない――、この学習は、高くはつかなかった。
さらに私たちは、補修室や改造室をも設けた。特に改造室は、非常な人気を博した。女たちは、そこに古着類を持って来て、それを作り直すことができた。例えば、男子服から子供服を、衣裳から着物を作るなどである。婦人たちは、そこで一部分は自分自身と自分の家族のために働き、一部分はまた、寄附された物を慈善的目的のために加工した。今や、リスベートが嘗て裁縫を習っておいたことが、もう一度、ほかの婦人たちのためになった。すなわち、私はいまや指導し、助け、仕上げてやることができた。

このようにして、戦後の最初の数年というものは、戦争それ自身よりも、もっと大きな困難をこの村の中に、もたらした。貨幣価値が下落すればするほど、私たちはますます貧乏になった。いよいよますます私たちの仕事と、私たちの救済施設に対する要求は増大した。しかし、金マルク本位制が再び採用されたとき、そして工場が幾らか正常な操業を再開することができたとき、そして難民たちが次第に田舎で仕事と避難所とを見いだしたとき、初めて、幾分かよりよい時代が訪れた。そして私たちは、私たちのやった種々の経営を、次第に歯止することができた。ただ料理学校だけが、今日もなお、学校を卒業した娘たちのために、存続している。そして、おむつ籠は、なお時々要求されている。国家が、保険に加入していない婦人たちに対しても、産褥救助と、分娩前後の出産金と、授乳金および授乳褒賞を与えることとなってから、多くの貧乏な産婦は、自分で何とかやって行くことができるのである。間接に、そのことはまた、私たち助産婦にとっても利益になった。大抵の婦人は、この目的のために与えられる国の補助金をもって、助産料の支払いをする。補助金を受けながら、支払いをしないものの数は、以前に全く資力がないために全然支払うことができなかった人たちの数に比べれば、遙かに少なくなったのである。
私たちは、今では、上級官庁のある町に、少年保護局を持っている。一人の婦人の地区世話係が、乳児を見舞い、母親たちに忠告し、また戦争生存者、結核患者、小さな利子生活者を保護するために方々をかけ廻っている。およそ救貧制度は、私を悲しませる――なぜなら、その制度は、最善の意図にも拘らず、その仕事が完成し、繁栄することは不可能だと私は見ている。
私には、またしても、そこで本末が顕倒しているように思われるのである。なぜ、人は私たち助産婦を母子に対する公僕として招くことを怠ったのであるか? 一体、誰が本当の助産婦よりも、もっと母親の信頼を得ているか? 従って、誰が私たちよりも、もっとよく彼女たちに忠告を与えることができるだろうか? どこに、そして、いかなる境遇において赤ちゃんが生れるかを、誰がよりよく知っているか? どこに困難があるか、どこで助けられ得るか、 また助けられるべきであるかについて、誰も私たちほど、よい報告を提出することはできないのである。
次の一事に対して、人は眼を覆うてはいけない。助産婦階級も大きな苦難に悩んでいる。出産は、半数に減退した。場所によっては、病院でのお産のため、もっと著しく減っている。州の首府では、約七五パーセント。私の同僚の多くのものは、今日では、一年間に十二乃至十五件のお産しか持っていない。たとえ保健組合は、一九二五年以來、一回の分娩に対し、三六マルクを支払ってはいるが、助産婦の全収入は、必要な最低生活費を遙かに下廻るのである。そこで、婦人たちが誤った道に踏み入つても――かつてのウッツ奧さんのように――人は驚いてはいけないのである。




10人のライ病患者たちに起こった以上のことが、私たちに霊的に与えられ続けています。たったひとりのライ病患者のように、私たちは、感謝のためにイエズス・キリストのもとに戻っているでしょうか?

2020年08月31日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2020年8月30日は聖霊降臨後第十三主日です。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「聖霊降臨後第十三主日の説教」の動画をご紹介いたします。

今日の主日を聖として良くお過ごしください。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父


2020年8月30日東京と大阪での聖伝のミサ報告 Traditional Latin Mass in Tokyo and Osaka, SSPX Japan

2020年08月30日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

今日東京のミサに来られた方は、子供達も入れて合計83人(ミサ三回)でした。大阪では、25人がミサに与ることができました。日本では、108名でした。マリア様に深く感謝いたします。

主日に、東京で午前9時から三回のミサ(ミサの前後には告解の秘蹟)と大阪での夕方6時のミサが捧げられることができるためには、愛する兄弟姉妹の皆様の寛大なご協力があってこそ、です。深く感謝いたします。

日本では、今年の3月からもうかれこれ半年、毎週主日に聖伝のミサが愛する兄弟姉妹の為に捧げられることができており、イエズス様にマリア様に深く深く感謝いたします。

御報告を頂いたのでご紹介いたします。

【報告】【東京】
Dear Fr Onoda:

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

今日東京のミサに来られた方は、子供達も入れて合計83人でした。

09:00のミサ
男: 16人(内、子供1人)
女: 18人(内、子供2人)
計: 34人(内、子供3人)

11:00のミサ
男: 14人(内、子供3人)
女: 17人(内、子供4人)
計: 31人(内、子供7人)

12:30のミサ
男: 11人(内、子供1人)
女: 17人(内、子供2人)
計: 28人(内、子供3人)

3回のミサの合計(ダブルカウントの10人を除く)
男: 37人(内、子供5人)
女: 46人(内、子供8人)
計: 83人(内、子供13人)






安倍首相、ありがとうございます。お疲れさまでした。感謝します。

2020年08月30日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

安倍晋三総理が、ご自分の健康問題で、辞任されるとニュースで知りました。

約7年8ヶ月の間、特に最後の頃は、特にコロナ対策で毎日休みもなく首相として重責を果たしておられ、大変だったと思います。

難病の持病をお持ちとのこと、御養生を願います。完治をお祈り申し上げます。コロナ禍も、諸外国と比べるとまだましで、感謝します。

安倍晋三総理の為に、イエズスの聖心と聖母の汚れなき御心に祈ります。アヴェ・マリアの祈りをお捧げいたします。首相の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

安倍首相の後継者として、良い指導者が私たちの祖国に与えられるように祈ります。





「助産婦の手記」36章  正真正銘の愛

2020年08月30日 | プロライフ
「助産婦の手記」

36章

『リスベートさん、私には不具の子が生れるというのは、実際ほんとですか? どこへ行っても、みんなそう言うんですよ。お宅の御主人があんな具合だから、それは遺伝するだろうって……』
『ダヴィト奥さん、そんな馬鹿なことは信じなさいますな。御主人が、今度戦争で不具になられたということは、赤ちゃんとは全く何の関係もありません。自分に何にも判らない事柄を、人々がしょっちゅう、おしゃべりしようとせねばいいのに。』

現今、こんな愚にもつかないことが、遺伝について取沙汰されているということは、全く信じられぬぐらいである。
『ねえ、あのシュテルン奥さんは、私に一緒に町に行って妊娠中絶をしてもらいなさいと言って、うるさくて仕方がないんです。というのは、赤ちゃんは、きっと当り前の子ではなかろうから、もし生れても、あんたは、そんな子を育てる責任を負うことはできないでしょうというわけです。』
『御主人が戦争でお受けになった傷は、赤ちゃんには何の影響も及ぼさないということを、ほんとに確信なさっていいんです。親のそんな傷害は、決して遺伝するものではありません。まあ、例えば、ユダヤ人の赤ちゃんを御覧なさい。何千年前から、ユダヤ人は、陰皮をたち切られていますが、それでも、その子供たちは、何の傷もなしに生れて来るんです。そのように、あなたのお子さんも、二本の小っちゃい手と二本の小っちゃい足を持っているでしょう、御主人が戦争で両手をなくされたこととは全く無関係に。』
私がユダヤ人の子供の例を挙げたときには、エマ・ダヴィド夫人は、心配中にも拘らず、微笑せねばならなかった。彼女は戦前、あるイスラエル人の家庭に勤めていた。それゆえ、私はその比較話しをそんなに直ぐ思いついたのであった。その比較話しは、彼女を說得する力を持っていた。
『それは、確かにほんとです。ただ、も一つ、私の気になることがあるんです。というのは、シュテルン奥さんは、も一つ別のことを考えているからです。で、奥さんの言うことには、もし人がいつも非常に惨めなことや、非常に醜いものを見て、それを気にかけていると、それは赤ちゃんに移って行く。それはちょうど、人が過失を犯す場合にそうなるのと、同じだろうというんです。』
『それは、ほんとではありませんね。古い迷信です。まあ、あの別荘「こうの鳥の巣」を御覧なさい。もしすべての不具や奇形や、膿んでいるものや、出血しているものや、その他およそ医者が見る機会のある色んなものが、そのまま赤ちゃんの体に現われるとしたら、医者のお子さんたちは、一体どんな有様でなければならぬでしょうか? ところが、沢山あるお子さんのうち、ただの一人でも異常児がありますか?
シュテルン奥さんでも、その他どんなお喋べりでも、ただ好きなことをしゃべらせて置きなさいよ。そして、あなたは、赤ちゃんをお腹の中に保護していらっしゃい。天主様は、あなたが御主人に対して每日親切を尽していらっしゃるのに、赤ちゃんにそんな償いをおさせにはならないという位いのことは、あなたは天主様に本当に信頼してよいと思います。今こそ私たちは、每晚、赤ちゃんの守護の天使に祈ることとしましょう――すると、 赤ちゃんは、完全に成長し、そして正常に生れて来ます。私は、もうそのようにして二千人もの赤ちゃんを取りあげて来たんです。だから私は、今までにまだ一人も子のないX奥さんや、Z奥さんよりも、このことについては、少しばかり余計に知っているわけです。』

ダヴィド奥さんは、平静を取りもどして家へ帰って行った。さてこの赤ちゃんのための戦いは、もう数週間前から、行われているが、まだ終りにならない。こんにち、人々が、もともと自分で全く、少ししか知らない遺伝ということを振りまわして、どんなに邪魔をしているかということは、実に信ぜられないぐらいである。そのような科学知識が、まだ非常に疑わしく不明瞭である限りは、人々はそれを国民の間に撒きちらさないようにしてもらいたいものだ。ある人たちは、子供をもはや全然育てようとしない。なぜなら、すべてのものが遺伝的素質であるから! 他の人たちは、あたかもそのような後天的な傷は、遺伝するものであるかのように言って、母親たちの心を不必要に重くする。ある人たちに取っては、遺伝ということは、子宝を堕胎するための口実となり、他の人たちは、それを予防するための口実とする! しかし、正しい結論は、殆んど誰も引き出さない。すなわち、忠実な自己教育と自制と純潔とをもって、できるだけ良い世襲財産(素質)を、来るべき世代に護りわたすように心掛ける、ということである。
ダヴィド奥さんは、特別につらい立場にある。彼女は、その結婚によって、村全体の興味の中心点となったから、誰でもが、彼女の事柄については、何かおせっかいをしてもよいという権利を持っていると信じている。

彼女は、戦争の前に、いまの夫である商人のダヴィドと婚約した。彼はこの村に、衣料や鉄器類その他同様な品物をあきなう大きな店を持っている。ダヴィド奧さんは、近郷のある良い農家の娘である。婚約後、彼女はある商家に奉公した、その家で彼女は、店の手伝いもせねばならなかったが、それは商売に関する知識を得るためであった。彼女の婚約者が、戦争の二年目に召集されたとき、彼女はその店に来て、営業を管理した。戦争中であり、乏しい切符制度の経済であったから、それは生まやさしいことではなかった。しかし彼女は、それを見事にやってのけた。

ある日、ダヴィドが重傷を負うて、衛戌病院に病臥しているとの通知があった。彼女は、あちこちに手紙を出したが、はっきりした報告は得られなかった。彼は、自分で書くことができないということは、明らかであった。 人々が真実を知らせるのを恐れていることが、手紙の行間から感じ取られた。このようにして、長い数週間が経過した。それから彼は、郷里のある衛戌病院へ移された。そこで、直ちに彼女は、彼を見舞いに出かけた。
彼が、両手を肘までなくし、かつ片足をも失っていたことを、彼女がいま知らねばならなかった時の驚きは、少なくなかったであろう。彼は一生涯中、憐れな不自由な不具者であることを宣言されたのであった。夫は、彼女を見たとき、子供のように泣いた。もちろん、彼は、今や自分の一生涯の幸福は破壊され、もはや結婚などは思いも寄らぬことと考えているようであった。しかし、彼女としては、何の考慮するところはなかった。彼女の愛は非常に深かったので、早速、次のことが念頭に明らかであった。今やまさしくお前は、あの人に属するのだと。慰めの言葉をいくつか述べた後、彼女はまっしぐらに、その目的に向って突進した。
『アンドレアス、あなたは、いつ帰って来るんですか? この衛戌病院をいつ退院していいんですか?』その時、ちょうど医者が庭を横ぎって、彼らのところに立ちどまったので、アンドレアスは、尋ねるように医者の方を見た。すると医者は、そこに立ったまま答えた。
『多分二週間のうちに――というのは、もし自宅で専門的看護を受けることができるならばです。もっとも、整形外科的仕上げをやっていいかどうかを考え得るのは、まだ数ヶ月後でしょう……』
『看護には、事欠かないでしょう。私たちは、すぐ結婚するんです――そうすると、何でも世話ができます。』
『その御決心に対しては、私は心からお喜びを申上げます。』 医者の眼中には、大きな驚きが現われていた。『あなたは、お子さんがおありですか?』
『なぜですか――私たちは、始めて結婚しようと思っているのに?』と娘は言った。
『御免下さい――こういうことは、今日、戦争下では稀れなことではありません……』こうは言ったものの、彼はもはやそれを理解することは全くできなかった。戦争四年目の今どき、まだそんな女が実際いるということ――いろいろほかの女は沢山いるが――全く自由な身でありながら、ただ自分がその男と婚約しており、そして彼を愛しているということだけのために、そんな不具者と結婚するような女が?
『アンドレアス、あなたの書類を下さい。私は、あなたの代りに婚約の公告をしてもらうことにしましょう。あなたのお帰りになる日は、私たちの結婚式の日です。いえ、あなたは、何も心配しなくていいんです。あなたには、また御自分でいつもすることのできる仕事が結構ありますよ。そして、時のたつと共に、それをますますうまくやって行けるようになりますよ。』
『でも、僕は、できない。エマ、あんたをこの憐れな不具者の僕に縛ばりつけておくことはできない。僕を御覧なさい。あんたは朝から晩まで、子守になっていなくちゃならないんです。あんたは、事柄をあまり軽く考えすぎているんですよ……』
『ねえ、何もおっしゃらないで、アンドレアス。もし私たちが前に結婚していたら、同じ様に全く変らないでしょう。あなたは、まさか、私が今あなたを見捨ててしまうような、そんな薄情者とは思わないでしょうね? 死よりほか、私たちを離すものは何もない、と言うじゃありませんか?』
『もし僕たちが結婚していたとしたら――しかし、今は、あんたは全く自由なんですよ。』
『私たちは、結婚するつもりで婚約したのじゃありませんか? だから、今でもその通りです。』

人々が、そのことを知ったとき、村中は、てんやわんやの大騒ぎとなった。婚姻の公告が掲示板に揚げられるや否や、その報道は村中に洩れ伝わったのである。各方面から、その知らせは、繰返し繰返し私のところへ流れて来た。まあ、考えても御覧なさい! ……あなたも、あのことをお聞きですか?……あなたは、それについて何とおつしゃいますか?……何と言ってよいんでしょう! あなたは、そんなことが理解できますか?
私は、そんなことは確かに非常によく理解できる。なぜなら、私だって同じ事情の下では、それと違った行動は取らなかったであろうから。それは、正真正銘の愛――同情ではない――の行為であって、この愛こそは、自分自身のことを考える前に、先ず相手の幸福と繁栄とを求めるのである。それなのに、人々は今日では、いつもただ自分自身のことだけを考え、ただ全く自分にとって追求に値するもののように見えるものだけを追求し、そして相手を二の次ぎに置くのであるから、従ってそういう連中は、今度のようなことを、もはや理解できないのである。それゆえ、真に幸福な婚姻は、私たちの時代には、また非常に少ししかないのである。

当時、すべての人たちは、この馬鹿げた結婚を思い止どまらしめようと、その娘にうるさく勧めた。彼女なしには、その男はどうなるであろうかということは、誰も考えなかった。しかし、彼女は平静を失わなかった。『私が幸福になるか、不幸になるかは、私自身の事柄です。そして人は誰でも、自分の信念に従って行動する権利を持っているんです。』こう言って彼女は、おせっかいな差出口(さしでぐち)【でしゃばってよけいな口出しをすること】を全部、拒絶した。

人々は、それから数ヶ月間は、ただ遠方から好奇的にその夫婦を観察していただけであったが、ダヴィド奥さんが妊娠したということが知れたときには――私は、それがどのようにしてかは知らない――、嵐が再びまき起った。この場合、なぜ彼女が妊娠してはならないかということは全く理解できない。彼女と夫とは、全く健康で正しい人たちであり、よい収入があり、この村のどの夫婦も及ばぬほど和合し、心から子供を熱望している……それだからこそ。そして仮に、彼等の夫婦仲がうまく行かないようなことがあろうとも、いま差出口をしようとしているすべての人々のうち、誰一人としてそこに現われて来て、進んで和解を助けようとはしないのである。

革命の起った最初の数日のうちに、赤ちゃんが生れた。全く健康で。両手と両足とをもって。力強い元気のよい腕白。私たちは、その子の写真をとらせ、そして、それを村役場の掲示板に掛けさせた。それは、不幸を予言した人たちの全部に、そのことを確かに信じさせることができるようにするためであった。




2020年8月30日(主日)前後の聖伝のミサの予定:Traditional Latin Mass for August 30, 2020

2020年08月30日 | 聖伝のミサの予定

アヴェ・マリア・インマクラータ!

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

愛する兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサ(トリエント・ミサ ラテン語ミサ)にご招待します。

最新情報は次のカレンダーをクリック
年間の予定はSSPX JAPAN MISSION CALENDARをご覧下さい。

今週末:2020年8月28日(金)29日(土)30 日(主日)のミサの予定を再確定します。予定通りです。

【大阪】「聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂」 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2 EG新御堂4階 〒532-0002 (アクセス)JR「新大阪駅」の東口より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分(地図

 8月28日(金)  17:30 ロザリオ及び告解  18:00 ミサ聖祭

 8月29日(土) 10:00 ロザリオ及び告解  10:30 ミサ聖祭

 8月30日(日) 17:30 ロザリオ及び告解  18:00 ミサ聖祭

 8月31日(月)  06:30 ミサ聖祭

【東京】 7月5日(日)から、東京では会場がもと通り、これまでの会場になりました。

これまでの会場は「聖ピオ十世会 聖なる日本の殉教者巡回聖堂」 東京都文京区本駒込1-12-5 曙町児童会館(地図

8月30日(日)主日ミサが三回捧げられます。

午前8時20分頃から準備が出来次第、告解の秘蹟を受けることができます。二階です。

09:00 ミサ聖祭 歌ミサ(ライブ中継をいたします)Facebook live

11:00 ミサ聖祭 読誦ミサ
12:30 ミサ聖祭 読誦ミサ

それぞれのミサの間にも告解の秘蹟を受けることができます。二階の告解の部屋に司祭は待機しております。

【お互いに社会的距離を取ることができるように、分散してミサにあずかっていただければ幸いです。】

Ave Maria Immaculata!

My dearest Brethren!

I want to reconfirm the Mass schedule for the weekend of August 30, 2020.

Mass times in Tokyo:
09:00 - Sung mass Facebook live
11:00 - Low mass
12:30 - Low mass
It would help us maintain proper social distancing if you could consider spreading your mass attendance among the three masses.
Mass location:
"Holy Japanese Martyrs' Mass Center"
Akebonocho Jido-kaikan
1-12-5 Honkomagome, Bunkyo-ku, Tokyo


Mass schedule in OSAKA:

Fri, August 28: Holy Sacrifice of the Mass at 18:00

Sat, August 29: Holy Sacrifice of the Mass at 10:30

Sun, August 30: Holy Sacrifice of the Mass at 18:00

Mon, August 31: Holy Sacrifice of the Mass at 06:30 am.








シスター・ディディ・バーンのスピーチの日本語訳 :世界で最大の隅に追いやられ、取るに足らない、無力で声無き者たちと考えられている人々のグループ

2020年08月29日 | プロライフ
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

元陸軍の外科医であった、シスター・ディディ・バーンこと、ディアドラ・バーン(Deirdre Byrne)修道女が、共和党大会に出席して発言した内容を愛する兄弟姉妹の皆様に日本語でご紹介いたします。

修道女であり、かつては軍人かつ外科医として、世界中の苦しむ人々を助けてきた(Sister, soldier, surgeon, servant)彼女の発言には、重みがあります。彼女の父親も外科医であり、二人の兄弟のうち一人は医者でもう一人はワシントン大司教区のカトリック司祭です。1978年から陸軍所属の外科医として、シナイ半島、韓国、アフガニスタンで働きました。

彼女の修道会はイタリアで創立され、アメリカで70年ほどの活動の歴史があり、医療と教育に従事して、多くの人びとを助けています。

シスター・ディディ・バーンが訴える、世界で最大の隅に追いやられ、取るに足らない、無力で声無き者たちと考えられている人々のグループのことについて知ってください。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父

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こんばんは。 私はシスター・ディディ・バーンと申します。イエズスとマリアの聖心の小さき働き手の共同体に属しています。先日、7月4日、私は大統領の "米国に敬意を祝賀会"(Salute to America celebration)で大統領のゲストの1人だったことを光栄に思います。

私は最近、聖堂で祈っている間、天主に乞い願いました。私が声となり、人間の生命擁護の道具となることを許してほしいと懇願したことを告白しなければなりません。そして今、見てください、私は共和党全国大会で講演しています。皆さんは何を祈り求めるかに注意したほうが良いでしょう。

私の修道生活への道のりは、伝統的な道 ---- もしそういうものがあるのならですが ---- ではありませんでした。1978年、私は、ジョージタウン大学の医学部生として、学費を支払うために陸軍に入隊しましたが、結局29年の間、軍隊に従事することになり、アフガニスタンやエジプトのシナイ半島などで医師や外科医を務めました。多くの祈りと熟考の後、私は2002年に今の修道会に入り、ハイチ、スーダン、ケニア、イラク、ワシントンDCで、貧しい人々と病気の人々に奉仕するために働きました。

私の所属している修道会の基礎は謙遜ですから、自分自身について話すことは大変難しく思います。しかし、私は、世界中の、戦争で荒廃した貧しい国々から逃れてきた人々のために働いてきた私の経験についてなら話すことができます。それらの難民はすべて共通の経験を共有しています。彼らはすべて隅に追いやられ、取るに足らない、無力で声無き者たちであると見なされてきました。

疎外された人々は、国境を越えて暮らしていると私たちは考えがちですが、真実は、世界で最大の疎外されたグループがここ米国にいます。

それは胎児たちのことです。私たちはキリスト者として、最初に、母親の胎内で育っている胚としてイエズスに会い、9か月後に洞窟で貧困の中でお生まれになるのを見ました。イエズスが正しいことのために立ち上がり、イエズスが言ったことは、政治的に正しくなく、流行を追うものでもなかったので、最終的に十字架につけられたことは、偶然ではありません。

キリストに従う者として、私たちは生命のために立ち上がるように呼ばれています、今日の "政治的に正しいこと" やファッショナブルなことに反対して立ち向かうように求められています。

胎内にいる生命の破壊を支持するような、しかもそれを祝いさえする立法の計画に反対して、私たちは闘わなければなりません。覚えていてください、私たちが作る法律が、私たちが人間本性をどのように見ているかを定義する、ということを。

私たちは自分自身に問いかけなければなりません。私たちが、子宮に行って罪のない無力で声を出せない生命を探し回っているときに、私たちは何を言っているのでしょうか? 医師として、私はためらうことなくこう言うことができます。生命は受精の瞬間から始まる、と。

私がこう言わなければならないことは、一部の人にとって聞くのが難しいかもしれません。私は、それを今言っています。何故なら、私は単にプロライフではないからです。私はプロ・イターナル・ライフ(永遠の生命)です。私は、いつか、私たち皆が一緒に天国に行くことを望みます。これが、今日、私がここにいる理由です。

ドナルド・トランプは、この国がこれまでに経験した中で最もプロライフの大統領であり、胎児のあらゆる段階における生命を守っています。生命の神聖さに対する彼の信念は、政治を超越しています。

トランプ大統領は、バイデン・ハリスに反対して立ち向かってくれるでしょう。何故なら、バイデン・ハリスはこれまでで最も生命に反対する大統領候補であり、後期中絶と出産後の嬰児殺害の恐怖をも支持さえしているからです。

トランプ大統領は、勇気と信念のため、アメリカのプロライフ・コミュニティの支持を得ています。さらに、彼の後ろには、全国的に信仰者たちが立ち上がって、支持しています。私たちは、ここに私たちの特別の武器、ロザリオを持っています。 大統領、ありがとうございす。私たちはあなたのために皆でお祈りしております。


Good evening. I am Sister Dede Byrne, and I belong to the Community of the Little Workers of the Sacred Hearts of Jesus and Mary. Last Fourth of July, I was honored to be one of the president's guests at his Salute to America celebration. I must confess that I recently prayed while in chapel, begging God to allow me to be a voice, an instrument for human life. And now here I am, speaking at the Republican National Convention. I guess you’d better be careful what you pray for. My journey to religious life was not a traditional route, if there is such a thing. In 1978, as a medical school student at Georgetown University, I joined the Army to help pay for my tuition, and ended up devoting 29 years to the military, serving as a doctor and a surgeon in places like Afghanistan and Egypt’s Sinai Peninsula. After much prayer and contemplation, I entered my religious order in 2002, working to serve the poor and the sick in Haiti, Sudan, Kenya, Iraq and in Washington, D.C. Humility is at the foundation of our order, which makes it very difficult to talk about myself. But I can speak about my experience working for those fleeing war-torn and impoverished countries all around the world. Those refugees all share a common experience. They have all been marginalized, viewed as insignificant, powerless and voiceless. And while we tend to think of the marginalized as living beyond our borders, the truth is the largest marginalized group in the world can be found here in the United States. They are the unborn. As Christians, we first met Jesus as a stirring embryo in the womb of an unwed mother and saw him born nine months later in the poverty of the cave. It is no coincidence that Jesus stood up for what was just and was ultimately crucified because what he said was not politically correct or fashionable. As followers of Christ, we are called to stand up for life against the politically correct or fashionable of today. We must fight against a legislative agenda that supports and even celebrates destroying life in the womb. Keep in mind, the laws we create define how we see our humanity. We must ask ourselves: What we are saying when we go into a womb and snuff out an innocent, powerless, voiceless life? As a physician, I can say without hesitation: Life begins at conception. While what I have to say may be difficult for some to hear, I am saying it because I am not just pro-life, I am pro-eternal life. I want all of us to end up in heaven together someday. Which brings me to why I am here today. Donald Trump is the most pro-life president this nation has ever had, defending life at all stages. His belief in the sanctity of life transcends politics. President Trump will stand up against Biden-Harris, who are the most anti-life presidential ticket ever, even supporting the horrors of late-term abortion and infanticide. Because of his courage and conviction, President Trump has earned the support of America’s pro-life community. Moreover, he has a nationwide of religious standing behind him. You’ll find us here with our weapon of choice, the rosary. Thank you, Mr. President, we are all praying for you.








「助産婦の手記」35章  『そうです、それは十三人です。』

2020年08月28日 | プロライフ
「助産婦の手記」

35章

十年前から、憐れみ深い童貞さまたちがこの村で経営している小さな病院の中に、今度、二台ずつ分娩用のベッドのある部屋が二つ用意された。この村は、当地方最大の市場のあるところで、停車場があり、工場がある。そしてこの病院には、工場からの委託患者が沢山いるが、彼らの家庭事情は、しばしば非常に改善を要するものがあり、従って彼らは病院でのひと時を全く心地よく感じるのである。戦時工業が強化されたので、多くの外部からの労働力が、補いとしてこの村へ引き寄せられた。しかし、家屋は建てられなかった。そこで、あらゆる住宅は、下宿人と寄寓者、間借人と宿泊人で一杯になった。従って、うるさいお立会いなしに分娩することは、実際しばしば不可能であった。――

この施設は、私にとっては何の害ともならなかった。私は、その病院で子供が生れる時には、いつもそこへ呼ばれる。全く具合よく行き、そして恐らく、どんな場合でも適当な処置をとることができるであろう。

ある夜、私は童貞さまに呼ばれた。ウイレ先生は、行政区画 (元ウイルテンベルグ州に行われていた)の半分を監視しなければならなかったので、外出していた。先生を自宅で見かけることは、もはや非常に稀れになった。妊婦が病気の場合には、早く助産婦を呼ぶということが、以前と同じように、再び習慣となった。農民たちは、いつも、ずっとそのようにして来た。で、最初に私が行くことにし、そしてもし私が医者を呼ぶ必要があると認めたとき、はじめて彼らは、来ることに決めていた。いま戦争になってから、再びしばしばそうなったのである。私は、いつも喜んで行った。すると、急迫する禍(わざわ)いが、医者の到着するまでにますます悪化するのを、少なくとも予防できるのである。そこで、私たちは、一般的救助と看病の初歩を、長い助産婦生活の間に、よく習得したのであった。――

さてその夜、工場の酒保【 酒を売る人また酒屋】のお上さんが、高熱で、半ば意識を失い、うわごとを言い、出血しながら運びこまれた。『多分、一種の婦人病でしょう。』と看護婦長が言った。童貞さまたちは、この部門には、当時、原則として、まだ携っていなかった。そのことは、修道院規則によって、彼女たちに禁ぜられていた。

悲しいかな、 それは本当に婦人病であった。しばしばそうであるように、 最後の時期に達していた。しかも、一般的所見は、特別に重い併発症状を呈していた。それは、通常の流産ではない。そんな熱は、自然には出ない。――

私は、当時のことを回顧して、要点を摘記しよう。その夫婦者は、戦争の少し前に、他所から引越して来た。そして、ある工場の酒保を譲り受け、それから戦時工業の盛んなとき、使用人のため集会所を附設し、そして後に映画館を開いた。時々またヴァライエティを演出した――人が私に報告したところによると、最も悪い種類のものだそうである。最も醜い種類の猥談、半裸体の踊り子、およびいわゆる『社会教育的』なもの以外のものは、何も上演されなかった。全く低級で下品なものが、舞台の装飾にも、言葉にも、人物にも、むき出しにされていた。教養の低い軍人に打ってつけの栄養! もちろん、酒保の主人は、沢山金をもうけた。なぜ、彼が逮捕されないかは、誰も知らない。人々は、いろいろなことを噂している。閉ざされた窓の戸の後ろで、秘密に乱痴気騒ぎをした夜々のことだの、人目を避けるために、その中に隠れることのできる別々になった秘密な小部屋のあることだの、その家に滞在する他国のお客のことだのについても噂が飛んだ。人々は多くのことを噂している――それに反し、善いことは、全く何一つない。私は、その奥さんを一度も教会で見たことがない。カトリック教会にしろ、新教の礼拝堂にしろ、また時々学校の教室で集会を催すユダヤ教団の中でも見かけたことはない。――
さて、主任司祭に知らせるべきかどうかは、はっきり決められなかった。その病人は、何らかの宗教的関心を示すに足りるようなものは、何一つ持ち合わしていない。白粉、棒紅、点眼水、爪やすり、櫛、鏡……その他不必要な物品が一ダース。名前入りの一枚のカード、『素人医者、兼按摩』。その下に鉛筆で『マルクスの弟子』と書いてある。そこで私は、何がその背後にひそんでいるかを知った……

どす黒い出血の厚い塊(かたま)りと一緒に、五ヶ月ぐらいの子供の小さな手が出かけている。
『婦長さん、お医者さんがいらっしゃるまでに、どうか手術の準備を一切しておいて下さい。もし万一、助けることができるとすれば、手術によるだけでしょう。』
恐ろしい夜がやって来た。私の一生涯中で最も恐ろしい夜、そして身の毛もよだつ昼と夜とが、数日もそれにつながっていた。しかし、私は、悪魔に誘惑されて常に堕落しようと考えている人々の全部が、この夜のことを経験することができればよかったにと思った。一体、助産婦というものは、多くのことに慣れている。うめきと叫び声、心配と苦痛、血と戦慄に。ほかの婦人たちなら、とっくに気を失って逃げ出すような場合でも、助産婦は、とどまっていて、自分の仕事を冷静に、しっかりと、そして確実にしなければならない。あたかも自分の両手の下には、生きているものは何も存在しないかのように。そしてまた、自分の心臓は、患者のそれと一緒に動悸が打ち、血通っているものではないかのように。――しかし、この三十歲の若い婦人が経験したような最期は、いかなる私も、もう一度経験して見ようとは思わない。

教会の時計は、静かな生ま暖かい夏の夜空に、十二時を打ち鳴らした。その日は、圧しつけるほど暑い日であった。すべての窓は、夜の冷気を呼び入れるために開け放たれていた。病人は、一般に時計の鳴るのを喜んで聞く。それなのに、彼女は、そのとき起き上り……限りのない恐怖に満ちた眼をもって戸口の方を見つめ……瞳はますます凝然とすわり、かつ大きくなり……狂気の戦慄が眼の中に立ち昇り……髮は逆立ち……一躍して彼女はベッドから飛びおり、開いた窓へ走り寄ろうとした………『去れ……去ってしまえ……』と、鉛色の唇があえいだ。冷汗が額の上にきらきら光った。私たちは一生懸命、力を出して、やっと彼女を抱きとめることができた。すると彼女は、ベッドの被いの下にもぐり込み、心配と恐怖のうちに泣き叫び、すすり泣いた……

ところが、そこには何も存在していない、何も――影もなく、光線もない。平和な薄明りの中に、その部屋は横たわっている。私たちが、その部屋をより明るくすると、彼女はますます苦しんで叫ぶのである。その部屋を殆んど暗くすると、今度は、恐怖が彼女を背後より襲うのである。終に私たちは、注射器に訴えた。戦争中には、看護婦に各種の自由が許されていた。私たちは、注射することはあまり好まない――しかし、私たちは、そんなに興奮している婦人を何時間も抱きとめて置くことは、不可能であった。私たちは、まさに力が尽きようとした。彼女の幻影を私たちは見ることはできない。どうして、そんなものが生じるのか、私たちは全く知らない。彼女は、いかによく言い聞かせても、全く反応を示さない。
暫らくの間、彼女は疲れて、褥(しとね)の中に死んだように横たわっていた。七十のお婆さんのように蝋色になり、かつ肉が落ちくぼんで。それから再び恐怖が、しのび寄り、そして彼女は語りはじめた……『いま……いままた、あいつらが来る……次ぎから次ぎに……一つ……二つ……三つ……それは、もう、大きくて、殆んど成長している……四つ……五つ……それは全く小さいままだ……六つ……七つ……八つ……それの頭は、ちぎれている。いまそれは、頭を手に持っている……九つ……十……十一……十二……そして、次ぎのは一本の腕だけ……そして一本の足……お前の頭は、どこにあるの……ほかの手足は? なぜお前たちは、眼がないの……眼が……』
彼女は突然、かけ布団を高くつまみ上げ、そしてそれを顔に圧しつけた。『いえ……いえ……行け…行けったら……お前たちは、生きる権利はないんだ……』そして彼女は疲れて、崩れ落ちた。
暫らく経ってから、 彼女は、再び言いはじめた。『皆さんは、子供たちが語っているのが聞えるの?あなた方は聞えるの……「僕たちは永遠の光を見ることができない……永遠の光を見ることができない……お前の眼を頂戴、お母さん! お前は、僕らの眼を奪ったんだ、お前の眼を頂戴……」あなた方は、その子供たちの言うのが聞えないの?……そこに……あすこに……一つ……二つ……三つ……』再び十三までの恐ろしい数え立てがはじまった。――

急にその意味がわかって、驚きのため、私の心臓は停った。いやしかし、それは熱に浮かされた夢、狂気の妄想である。だが、そんなことは、あり得ない。しかし、私は、もはや、その考えから免(まぬが)れることはないであろう。妄想の終りは、一致している。すなわち、一本の腕と一本の脚が、いまでも胎児の体から離れている、そしてその子は、犯罪的方法によって母胎の中で殺されたのである。しかも、それは十三番目の子にきまっていた、ということである……
『お前たちは何が欲しいの、ここで……いま……きょう? お前たちは、死んでいるんだよ……お前たちは決して生きたことはなかったのだ………私は、子供はない……誰がお前たちを寄こしたの? そら……そら……みんな、またやって来る。一つ……二つ……三つ……
あなた方は、あいつらの叫ぶのが聞こえるの……こう言っているのが聞えるの?……「僕たちは、永遠の平安に、はいることができない……お前は、僕たちから、平和を奪ったのだ……僕たちを家のない子にしたんだ……僕たちの平和を盗んだのだ……僕らに永遠の平安を与えて頂戴……」 と。そして、あの眼……恐ろしい、落ちくぼんだ眼……』
病人の尖った指は、またもや数えるように、壁に添って、さし示した。『二つ……四つ……六つ……去れ……去れ……』

防御するように、彼女は両手を延ばした。それを振り廻した。眼に見えないで迫って来る形のある物に対して、それが再び崩れ去ってしまうまで抵抗した。しかし、彼女は平安を見いださなかった。新たな恐怖がまたやって来た。
『そこに……そこに……一つ……二つ……三つ……十三……なぜお前たちは、そんなに醜いんだろう……血だらけで……皮をはがれて……引き裂かれて、裸で……』 そして彼女は、吐気を催すように身をゆすぶった。
『私にさわっちゃ駄目……去れ……去れ……。あなた方は、何も見えないの……あなた方は、あいつらが、どんなに訴え、うめき、どんなに泣き叫んでいるか聞えないの……あすこに……いままた……「僕たちは、僕たちの汚れを洗い落す洗礼の水を持っていない……僕たちは、僕たちの弱点を隠す恩寵の衣を持っていない……永遠の婚礼の酒(さか)もりのための祭服を持っていない……僕たちは、閉め出されている………凍える……ひもじい……僕たちに光を下さい……光を……僕たちを暖めて頂戴……」一体、あなた方は何も聞えないの? そこに……あすこに……一つ……二つ……三つ……』
そしてまたもや突然、全く気違いのようになりながら、彼女は叫んだ。『行け……行け……私にさわるな……放せ……放せ……あいつらは、私の眼を取ろうとしている……心臓を……放せ……放せ……放せ……』

彼女は、童貞たちを横に振り散らした。幸いなことに、医者が見えた。出血の一波によって、胎児の頭が押し出された。急速に診断した結果、すぐさま手術を要することになった。『用意は、全部できています。』 と婦長が言った。ここの童貞の数も、戦争中は衛戍(えいじゅ)病院【軍隊の病院】が多くなったため、減っていたから、私は当時しばしば手術の際、手伝いをした。きょうもそうだ。さて彼女の容態は、私の予想を確証した。胎児は、ある機械的な手術によって、ずたずたに切り裂かれていた。子宮は、幾度も傷つけられていた。腹膜炎がすでに始まりかけていた。その上、殆んど止どめ難い出血が、数時間も続いている――恐らく明日が終りであろう。彼女の夫に、そのことを知らせた。

彼は、訴訟が躊躇なく起されるであろうと聞くまでは、この事件を非常にのん気に考えていた。ところが、こうなると、彼もまた、どなりはじめた――法律家たちというものは、自分自身の結婚生活を心配する代りに、他人の婚姻に干渉するということ以外には、何の仕事も持たない、というのである。彼がなお、わめきちらし、呪っているときに、その可哀想な細君は、まだ半ば麻酔状態の中にありながら、もうまた数えはじめた。『そこに……あいつらが、またやって来る……全部が……一つ……二つ……三つ……四つ……五つ……六つ……七つ……八つ……』これを聞いたその夫は、復讐の女神に狩り立てられるように、走り去った。

その憐れな女は、三日三晩、叫びかつ呻吟した。最大量の麻醉剤を飲ませても、彼女を完全に安静にして、やや長いあいだ忘却状態に導くことはできなかった。繰り返し繰り返し彼女は、自分が母胎の中で殺した十三人の胎児がここにやって来て、彼女に訴え、非難し、願うのをまざまざと見たのであった。しかし、彼女の意識は、あまり大して目覚めなかったので、彼女を痛悔させて、天主へ復帰させようと試みることはできなかったし、また天主の慈悲と善意とを一瞥(いちべつ)させて、彼女を恐ろしい苦悩から免れさせようと試みることはできなかった。そうかといって、彼女は、非常な心配と苦悩があるために、死ぬこともできなかった。童貞さまたちや、他の病人たちはもとより、医者自身すら、この恐ろしい場面に接して、次第に平静を失っていった。司祭も、どうすることもできなかった。――

四日後に、彼女は急に意識が明瞭になった、少なくともそう見えた。私たちは、もう一度そのことを主任司祭に報告した。そして彼女の夫のもとへも人を遣わした。司祭が見え、そして二三の言葉を話しかけられると、彼女は言葉をさしはさんだ。
『そうです、それは十三人です。何もお尋ねになる必要はありません。』 そして司祭が、天主の慈悲深いことを語ろうとすると、彼女は最後の力をふるって言った、『私を行かして下さい……私は地獄へ行きたいんです……あの亭主野郎に永久に返報をしてやりたいんです……』
そして、はいって来た夫に向って、最後の言葉を言った。『野郎!』と――そして死んだ……




アメリカの学校で「公会議」が起こったら・・・算数の先生に起こったこと

2020年08月27日 | 本・新聞・ウェッブ・サイトを読んで
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

アメリカの学校で「公会議」が起こったら・・・。

算数の先生に起こったこと。







シスター・ディディ・バーン「私は、単なるプロ・ライフではなく、プロ・イターナル・ライフ(永遠の生命)」です。

2020年08月27日 | プロライフ
アヴェ・マリア・インマクラータ!

シスター・ディディ・バーン「私は、単なるプロ・ライフではなく、プロ・イターナル・ライフ(永遠の生命)」です。(イエズスの聖心の小さき働き手修道会)








日本は聖母マリア様から特別に愛されてきた!日本と聖母マリア様の歴史をお話しします

2020年08月27日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2020年8月23日、聖霊降臨後第12主日に東京で録画した小野田神父のメッセージをご紹介いたします。

チャンネル登録をなさいますと、新しくアップされた動画の通知が届くので便利です。チャンネル登録は、ここ「SSPX JAPAN 聖ピオ十世会日本」をご覧ください。


2020年8月30日は、聖霊降臨後第十三主日(二級祝日 典礼色:緑)です。聖伝のミサのラテン語と日本語・中文・韓国語の対訳のテキストをご紹介いたします

2020年08月27日 | ミサ聖祭

アヴェ・マリア・インマクラータ!

2020年8月30日は、聖霊降臨後第十三主日(二級祝日 典礼色:緑)です。聖伝のミサのラテン語と日本語・中文・韓国語の対訳のテキストをご紹介いたします。

【ミサ聖祭】信仰と洗礼とによって、われらは、天主の契約にあずかる者となった。しかし、未だにわれらは世間にひきずられ、たえずおびやかされている。天主が、われらをあわれみ、われらを見捨て給わぬようにと祈る。〈入祭文、昇階誦〉天主が、われらのうちに、信望愛の徳をつよめ〈集禱文〉われらをますます天的なものとする天のパンを与え給うように。〈聖体拝領誦〉

本日弥撒的主题宗旨,便是感谢与祈求。
(一)感谢:我们藉着信仰基督而获得救恩,这完全出于天主纯粹的恩惠,并非由我们方面的功绩(书信)。当基督在世时,怎样治疗了患麻风的人,同样在圣洗中,祂涤除了我们灵魂上的麻风病。但是信友中,每主日能想及这个洪恩而知颂谢的,究有几人呢(福音)?
(二)祈求:自从领洗以后,我们依靠必须期待天主的恩惠:因为基督的生命,在领洗时赐给我们的,宛如一个萌芽,在我们生活的中,必须使它成长壮大。这超性生命的成长又必须藉着圣神的助佑。在弥撒中,我们举行救赎圣祭,同时,我们领受使这生命成长的救恩的神粮。这便是说,基督对我们罪的麻风病,完成医治的工作,同时,祂又增加我们的信望爱三德,扩张在我们心中的神生;至于所说的信、望、爱,乃是天主子女生命中的固有德行(集祷经)。耶稣把自己的血肉充为我们奇妙的神粮,一则为适应以信心领祂的人之一切需用(领主咏),二则为赐给他们一种勇力,使朝着天上的道路迈进。

『조찰하여진 자 열사람이 아니냐? 아홉사람은 어디 있느뇨?』(복음) 
무서운 병, 나창병은 집과 도시에서 버림을 받아『멀리』추방됨을 뜻했다. 천주의 생명을 배척한 인류는낙원에서 이 세상에 추방될 때부터 천당에서 버림을 받아 쫓겨난 나창 병자가 되어벼렸었다. 그런데 그때에 천주께서는 인간을 당신과 비슷한자 되게끔 인간과『계약』을 맺었으니 그 얼마나 놀라운 일이랴!(서간경) 이『계약』은 무엇인가? 이 계약에 의하여 천주께서는 예수를『믿는 모든 사람들』에게, 아바람에게 약속하셨던 그리스도 생명의 상속권을 주시되, 모세의『법』만 찾는 자들에게는 주시지 않으신다. 오늘 우리들은『그 아홉 사람』처럼 육체의 건강만으로 만족치 말고,『신덕, 망덕, 애덕이 증가됨』으로써 만족하자.(축문) 나창든자가 한것처럼 우리도 이렇게 기구하자.『주여 네 계약을 돌아보사 가난한 이들의 영혼을 온전히 버리지 말으소서』(초입경) 

Dominica Decima tertia post Pentecosten 聖霊降臨後第十三の主日 降临后第十三主日 성신 강림 후 제 13 주일
II Classis 二級祝日 复式【绿】  (2급) 초록색
Ant. ad Introitum. Ps. 73, 20, 19 et 23. 入祭文 詩篇73ノ20、19、23 进台咏(咏73:20,19,23) 초 입 경 (성영 73 20,19,23)
Réspice, Dómine, in testaméntum tuum, et ánimas páuperum tuórum ne derelínquas in finem : exsúrge, Dómine, et iúdica causam tuam, et ne obliviscáris voces quæréntium te. 主よ、御身の契約を見給え、御身の貧しい者らの霊魂を終わりまで打ち棄て給うな。主よ、起き給え、御身の件を裁き給え、御身をさがし求める者らの声を忘れ給うな。 主啊!求祢回视祢的约,不要永远忘却祢穷苦子民的性命。主啊!求祢起来保护祢的事业,莫要忘记向祢呼求之人的声音。 주여 네 결약을 돌아보사 가난한 이들의 영혼을 온전히 버리지 말으소서. 주여 일어나사 네 송사를 판단하시고, 너를 찾는 자들의 기구를 잊지 말으소서.
Ps. ibid., 1. 詩篇73ノ1 进台咏(咏73:1) (성영 7,3,1) 
Ut quid, Deus, reppulísti in finem : irátus est furor tuus super oves páscuæ tuæ ? 天主よ、なにゆえ御身は終わりまで見捨て給うのか。御怒りは、御身の牧場の羊らの上に怒り給うのか。 天主啊!祢为什么永远丢弃了我们?祢为何向祢牧场的群羊发怒如冒烟呢? 천주여 어찌하여 우리를 온전히 버리시며 어찌하여 네 목장의 양에게 진노하시나이까. 
V/.Glória Patri. V/. 願わくは聖父と・・・(栄誦)。 光荣归于父……。 영광이 부와 자와... 
Réspice, Dómine, in testaméntum tuum, et ánimas páuperum tuórum ne derelínquas in finem : exsúrge, Dómine, et iúdica causam tuam, et ne obliviscáris voces quæréntium te. 主よ、御身の契約を見給え、御身の貧しい者らの霊魂を終わりまで打ち棄て給うな。主よ、起き給え、御身の件を裁き給え、御身をさがし求める者らの声を忘れ給うな。 主啊!求祢回视祢的约,不要永远忘却祢穷苦子民的性命。主啊!求祢起来保护祢的事业,莫要忘记向祢呼求之人的声音。 주여 네 결약을 돌아보사 가난한 이들의 영혼을 온전히 버리지 말으소서. 주여 일어나사 네 송사를 판단하시고, 너를 찾는 자들의 기구를 잊지 말으소서.
Oratio. 集祷文 集祷经 축문
Omnípotens sempitérne Deus, da nobis fídei, spei et caritátis augméntum : et, ut mereámur asséqui quod promíttis, fac nos amáre quod prǽcipis. Per Dóminum. 全能永遠の天主よ、われらに信・望・愛の徳の増加を与え給え、御身の約束し給うたものをわれらが得るにふさわしくなるために、御身が命じ給うものを、われらをして愛さしめせ給え。天主として、(…)。 全能永在的天主,求祢增加我们的信、望、爱三德;望祢使我们喜爱祢的命令,为能承受祢的应许。因我们主……。 전능하시고 영원하신 천주여 우리 신망애의 덕을 더으시며 또한 우리로 하여금 너 명하신 바를 사랑케 하사 써 네 허락하신 바를 얻게 하시되, 네 아들 우리 주 예수․그리스도를 인하여 하소서. 저 너와 성신과... 
Léctio Epístolæ beáti Pauli Apóstoli ad Gálatas. 使徒パウロの、ガラツィア人への書簡の朗読 书信 서 간 경
Gal. 3, 16-22. ガラツィア 3ノ16-22 (迦3:16-22) (갈라타서 3․16-22)
Fratres : Abrahæ dictæ sunt promissiónes, et sémini eius. Non dicit : Et semínibus, quasi in multis ; sed quasi in uno : Et sémini tuo, qui est Christus. Hoc autem dico : testaméntum confirmátum a Deo, quæ post quadringéntos et trigínta annos facta est lex, non írritum facit ad evacuándam promissiónem. Nam si ex lege heréditas, iam non ex promissióne. Abrahæ autem per repromissiónem donávit Deus. Quid igitur lex ? Propter transgressiónes pósita est, donec veníret semen, cui promíserat, ordináta per Angelos in manu mediatóris. Mediátor autem uníus non est : Deus autem unus est. Lex ergo advérsus promíssa Dei ? Absit. Si enim data esset lex, quæ posset vivificáre, vere ex lege esset iustítia. Sed conclúsit Scriptúra ómnia sub peccáto, ut promíssio ex fide Iesu Christi darétur credéntibus. 兄弟たちよ、アブラハムとその子孫とに約束がされた。聖書は複数として「子孫たちに」とはいわず、単数の形で「子孫に」といっている。この子孫はキリストである。そこで私はこういう。天主があらかじめ定められた契約は、四百三十年後にできた律法によって廃止されず、したがって約束も無効になることはない。もし遺産が律法によるのなら、約束によるのではない。しかし天主がアブラハムをよみされたのは、約束によってであった。それでは、律法とは何か?それは、違反あるがために加えられたもので、約束された子孫が来るまで、天使たちによって、仲介者の手において布告された。しかし、片一方だけの場合には、仲立ちというものはない。ところが天主は唯一である。従って、律法は天主の約束に悖(もと)るのか?決してそうではない。生かすことができる律法が与えられたならば、実に、義とされるのは、律法によってであろう。しかし聖書は、すべてを罪の下に閉じこめた。それは、信仰をもつ人たちに、イエズス・キリストへの信仰によって約束が与えられるためであった。 弟兄们:恩许是向亚巴郎和他的后裔所赐的。天主并不说:“他的一切后裔”,好像指着多数人说的,却是指着一个人说:“你的后裔”,这个后裔就是基督。所以我说:天主所正式签订的约,四百三十年以后颁布的法律,没有把它废弃,以致使恩许归于消灭。如果继承权是从法律来的,便不是从恩许来的了;但是天主确是用恩许的方法,向亚巴郎施恩的。那么,法律有什么作用呢?法律是为了犯罪的缘故,才加上去的,直到那位作为恩许对象的后裔来临。法律是藉着天使通过中人而传布的。可是只有单方的时候,就没有中人了,而天主是单独的。那么,法律与天主的恩许不是发生矛盾吗?绝对不是。因为假如有了能赋给人生命的一种法律,正义便实在是由法律而来的。但是经书把一切都禁锢于罪恶中,使恩许藉着信耶稣基督才赐给信徒们。 형제들아 아바람과 그 후손에게 허락이 계실때에 저 그 후손들이 많은 것 같이 말씀하지 않으시고, 오직 하나인 것 같ㅇ이 하셨나니 이는 곧 그리스도시니라. 이에 나 말하노니 천주 이미 정하신 계약인즉 그로부터 사백 삼십년 후에 주신 법이 허락하신 바를 헛되이 하기 위하여 폐하지 못하느니라. 대저 법을 인하여 유업을 받으면 이는 벌써 허락을 인함이 아니로다. 그러나 천주 허락을 인하여 아바람에게 주셨으니 그러면 법이 무엇인고. 이는 허락하신 후손이 오실때까지 법칙 때문에 정한바이니 중재자의 손을 거쳐 천신으로 말미암아 된 것이니라. 그런데 중재자는 하나의 것이 아니나 천주는 다만 하나이시니라. 그런즉 법이 천주의 허락을 거슬리느뇨. 아니로다. 대저 사람을 능히 생활케 할 법을 주셨으면 의는 실로 법으로 조차 나올 것이로되, 성경은 모든 것을 죄 아래 포함하였으니 이는 예수․그리스도에게 대한 신앙을 인하여 믿는 자들에게 허락을 주시기 위함이니라. 
Graduale. Ps. 73, 20, 19 et 22. 昇階誦 詩篇 73ノ20,19,22 台阶咏(咏73:20,19,22) 층계경(성영 73․20,19,22)
Réspice, Dómine, in testaméntum tuum : et ánimas páuperum tuórum ne obliviscáris in finem. 主よ、御身の契約を見給え、御身の貧しい者らの霊魂を終わりまで打ち棄て給うな。 上主啊!求祢回视祢的约,不要永远忘却祢穷苦子民的性命。 주여 네 계약을 돌아보사 가난한자들의 영혼을 온전히 버리지 말으소서. 
V/. Exsúrge, Dómine, et iúdica causam tuam : memor esto oppróbrii servórum tuórum. V/. 主よ、起き給え、御身の件を裁き給え、御身のしもべらの辱めを覚え給え。 主,求祢起来保护祢的事业:要记忆祢众仆所受的凌辱。 주여 일어나사 네 송사를 판단하시고 네 종들의 치욕을 기억하소서. 
Allelúia, allelúia. V/. Ps. 89, 1. アレルヤ、アレルヤ。V/.詩篇89ノ1 阿肋路亚。阿肋路亚!(咏89:1) 알렐루야 알렐루야.(성영 89․1) 
Dómine, refúgium factus es nobis a generatióne et progénie. Allelúia. 主よ、御身は、世々にわれらの為に避難所となり給うた、アレルヤ。 主啊!祢世世代代做了我们的避难所。阿肋路亚。 주여 네 세세에 우리 의탁이 되셨나이다. 알렐루야. 
+ Sequéntia sancti Evangélii secúndum Lucam. ルカによる聖福音の続誦。 福音 복음
Luc. 17, 11-19. ルカ17ノ11-19 (路17:11-19) (성루까 17․11-19)
In illo témpore : Dum iret Iesus in Ierúsalem, transíbat per médiam Samaríam et Galilǽam. Et cum ingrederétur quoddam castéllum, occurrérunt ei decem viri leprósi, qui stetérunt a longe ; et levavérunt vocem dicéntes : Iesu præcéptor, miserére nostri. Quos ut vidit, dixit : Ite, osténdite vos sacerdótibus. Et factum est, dum irent, mundáti sunt. Unus autem ex illis, ut vidit quia mundátus est, regréssus est, cum magna voce magníficans Deum, et cecidit in fáciem ante pedes eius, grátias agens : et hic erat Samaritánus. Respóndens autem Iesus, dixit : Nonne decem mundáti sunt ? et novem ubi sunt ? Non est invéntus, qui redíret et daret glóriam Deo, nisi hic alienígena. Et ait illi : Surge, vade ; quia fides tua te salvum fecit. そのとき、イエズスがイエルザレムに行くために、サマリアとガリラヤとの間を通りかかられ、ある村におはいりになったとき、十人のらい病人にであわれた。かれらは、はなれた所に立ちどまり、「イエズス、先生、私たちをあわれんでください!」と大声でいった。かれらを見たイエズスは、「あなたたちを司祭に見せにいけ」とおおせられた。かれらは、そこに行く間になおった。そのうちの一人は、自分がなおったのを見ると、大声で天主をたたえながら引き返してきて、イエズスの足もとにひれ伏して感謝した。これはサマリア人であった。イエズスは、「なおったのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この他国人のほかには、天主をたたえるために引き返してきた人はないのか!」といい、そして、その人に向かって、「立っていけ。あなたの信仰が、あなたを救った」とおおせられた。 那时候,耶稣往耶路撒冷去,就从撒马利亚,加黎利中间经过。祂正进入一个村子,有十个癞病人,迎上前来,远远的站下,高声说:“耶稣,师傅!可怜我们吧!”耶稣一见之下,就对他们说:“去,把你们给司祭看吧!”他们就在去的时候,洁净了。其中一个,看见自己洁净了,就回来,大声颂扬天主,又俯伏在耶稣脚前,感谢祂。这人却是撒马利亚人。耶稣于是开口说:“洁净了的不是十个人吗?还有九个在哪里?除了这个外方人,竟没有别人回来,把光荣归于天主吗?”于是对那人说:“起来,走吧,你的信心救了你。” 유시에 예수 예루살렘에로 가실때에 사마리아와 갈릴레아 가운데로 지나시다가 한 동네에 들어가실새 나창든자 열 사람이 예수께 마주 오다가 머리 서서 소리를 높이 이르되,「스승이신 예수여 우리를 불쌍히 여기소서」하거늘 저들을 보시고 이르시되「가서 너희를 제관장들에게 보이라」하신데 저들이 곧 갈때에 조찰하여진지라. 그 중에 하나는 제가 조찰하여진 것을 보고 돌아와 큰 소리로 천주를 찬송하며 예수 발아래 엎디어 사례하니 이는 사마리아 사람이라. 예수 말씀하여 이르시되「조찰하여진 자 열사람이 아니냐. 아홉사람은 어디 있는뇨. 이 외국 사람 하나 외에는 돌아와 천주께 영광을 돌려 보낼자 없도다」하시고 저에게 가라사대「네 신덕이 너를 구하였으니 일어나 가라」하시니라. 
Credo 信経 信经 신경
Ant. ad Offertorium. Ps. 30, 15-16. 奉献文  詩篇、30ノ15-16 奉献咏(咏30:15,16) 제헌경(성영 30․15,16)
In te sperávi, Dómine ; dixi : Tu es Deus meus, in mánibus tuis témpora mea. 主よ、私は主に希望し奉る。私は言った。御身は私の天主である、私の時は御身の手においてある、と。 上主啊!我仍旧投靠祢,我说:祢是我的天主,我的命运在祢手中。 주여 나 네게 바랐사오며 말하기를 너는 내 천주시오 네 손에 내 운명이 있도다 하였나이다. 
Secreta. 密誦 密祷经 묵념 축문
Propitiáre, Dómine, pópulo tuo, propitiáre munéribus : ut, hac oblatióne placátus, et indulgéntiam nobis tríbuas et postuláta concedas. Per Dóminum. 主よ、願わくは、御身の民を嘉し給え、贈り物嘉し給え。この捧げ物によって嘉し給い、われらにゆるしを与え、われらの願いを聞き入れ給わんことを。天主として、(…)。 主啊!求祢垂怜祢的子民,惠纳我们的献仪;深望祢由这敬奉而霁威,宽恕我们的罪过,准赐我们的请求。因我们主……。 주여 네 백성을 긍련히 여기시고 그들의 제물을 인자로이 굽어보시며 이 제사로 의노를 풀으사 우리 죄를 사하여 주시고 우리 기구를 너그러이 들어시되, 네 아들 우리 주 예수․그리스도를 인하여 하소서. 저 너와 성신과... 
Præfatio de sanctissima Trinitate ; 三位一体の序誦 天主圣三的颂谢引 성삼감사경
Vere dignum et iustum est, æquum et salutáre, nos tibi semper et ubíque grátias ágere : Dómine, sancte Pater, omnípotens ætérne Deus : Qui cum Unigénito Fílio tuo et Spíritu Sancto unus es Deus, unus es Dóminus : non in uníus singularitáte persónæ, sed in uníus Trinitáte substántiæ. Quod enim de tua glória, revelánte te, crédimus, hoc de Fílio tuo, hoc de Spíritu Sancto, sine discretióne sentímus. Ut, in confessióne veræ sempiternǽque Deitátis, et in persónis propríetas, et in esséntia únitas, et in maiestáte adorétur æquálitas. Quam laudant Angeli atque Archángeli, Chérubim quoque ac Séraphim, qui non cessant clamáre cotídie, una voce dicéntes : Sanctus… 主よ、聖なる父よ、全能永遠の天主よ、われらが御身に、いつもどこにても感謝を捧げるのは、実にふさわしく正しいこと、義務と救いである。御身は、御独り子と聖霊と共に、唯一の天主、唯一の主にて在す。すなわち、御身は、一の位格の単一にて在すのではなく、唯一の実体(substantia)の三位にて在す。御身の御光栄について、御身が啓示するがゆえに、われらが信じ奉ることを、聖子について、聖霊について、差別なく、われらは信じ奉る。真の永遠の天主の本性を告白するにおいて、位格における固有性が礼拝され、本質(essentia)における唯一性と、御稜威における等しさも礼拝されるためである。これを、天使らと大天使らは、智天使も熾天使も、讃美し、絶え間なく声を上げ、日々声をあわせてこう言う。聖なるかな、… 主,圣父,全能永生的天主!我们时时处处颂谢祢,实是正义而必须的,属于我们天职的,也属我们得救的。祢与祢的独子及圣神,只是一个天主,只是一个主;不是因为位是单独一个,却是因为三位同具一个性体。的确,我们所怎样依照祢的启示,相信祢享的光荣,我们无区别地也同样确认祢的圣子,也同样确认圣神共享这个光荣。因此,我们在明认圣三真实而永在的天主性上,同时论位,我们敬拜圣三的各一,论体,我们敬拜圣三的无二,论尊荣,我们敬拜圣三的均等。这圣三的尊荣,是天神们和总领天神们,普知天神们和炽爱天神们,所虔诚歌颂的;他们日复一日,永不停止同声高呼说:圣、圣、圣…… 주여, 성부여, 전능하시고 영원하신 천주여, 우리가 어디서나 항상 주께 감사하는 것이 참으로 당연하고 옳으며, 지당하고 구령에 유익하나이다. 주는 외아들과 성신과 더불어 오직 한분의 천주시요, 오직 한분의 주이시되, 한 위가 아니시고, 한 체로서 세 위시니이다. 주의 계시로 우리가 주의 영광에 대하여 믿는 바를, 성자와 성신에 대하여서도 조금도 다름이 없이 믿나이다. 그리하여 우리는 참되시고 영원하신 천주성을 찬미함에 있어, 위로서는 각 품이시요, 체로서는 하나이시요, 지존하시기는 같으심을 찬송하나이다. 천신들과 대천신들 및 케루빔과 세라핌이 이를 찬양하며, 날마다 간단없이 제창하나이다. 거룩하시다, 거룩하시다, 만군의 천주이신 주는 거룩하시나이다. 하늘과 땅에 주의 영광이 가득하나이다. 천상에 좌정하신이여 호산나, 주의 이름으로 오시는 이는 찬미받아지이다. 천상에 좌정하신이여 호산나.
Ant. ad Communionem. Sap. 16, 20. 聖体拝領誦 智書16ノ20 领主咏(智16:20) 영성체경(지서 16․20)
Panem de cælo dedísti nobis, Dómine, habéntem omne delectaméntum et omnem sapórem suavitátis. 主よ、御身は天からのパンを、すべての楽しみと全ての甘美な味とを持つパンをわれらに与え給うた。 主啊!祢从天上给我们降下食物,这粮包有各种美味,适合每个人的嗜好。 주여 너 우리에게 온갖  향기와 온갖 단맛이 있는 천상 면병을 주셨나이다. 
Postcommunio. 聖体拝領後の祈 领后经 영성체후축문
Sumptis, Dómine, cæléstibus sacraméntis : ad redemptiónis ætérnæ, quǽsumus, proficiámus augméntum. Per Dóminum. 主よ、天の秘蹟を拝領し奉ることによって、願わくは、我らが永遠の贖いの増加へと前進せんことを。天主として(…)。 主,我们已领了祢施天恩的圣事,深望我们从此更能丰富地沾得永远的救恩。因我们主……。

주여 비오니 우리로 하여금 천상 성사를 영함을 인하여 영원한 구원에 진보케 하시되, 네 아들 우리 주 예수․그리스도를 인하여 하소서. 저 너와 성신과... 

 


システィーナ礼拝堂の仮想訪問

2020年08月27日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!


愛する兄弟姉妹の皆様!

システィーナ礼拝堂の仮想訪問をどうぞ。






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アヴェ・マリア・インマクラータ!
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