Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

最新版 Nouvelles de Chrétienté 第104号

2007年04月30日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 Nouvelle de Chrétienté 誌 第104号がオンラインで読めます。今回は聖ピオ十世会のアジア管区の特集が掲載されています。ダウンロードしてどうぞお読み下さい。

 英語版は、Chritendom 第10号です。

 良い読書をお楽しみ下さい。

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トレント公会議(第19回公会議)決議文

第一バチカン公会議 (第20回公会議)決議文(抜粋)

聖ピオ五世教皇 大勅令『クォー・プリームム』(Quo Primum)

新しい「ミサ司式」の批判的研究 (オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ枢機卿)Breve Exame Critico del Novus Ordo Missae

グレゴリオ聖歌に親しむ会

5. 6. 別離と出発 (ルフェーブル大司教の伝記の続き)

2007年04月30日 | ルフェーブル大司教の伝記
第5章 修練者司祭(1931年 - 1932年)


別離と出発


 マルセル・ルフェーブルは旅発つ前に家族と共に短い休暇を得た。彼は休暇中、布教活動に関して講話会を開いて教区中を巡った。フランス管区長であるニク神父がマルセル・ルフェーブル神父に貸してくれた映画を見せてながら教区を隅隅まで回った。こうして多くの小教区の教会で説教をし 、トゥルクワン小教区の聖母会及び聖ヤゴボ会の子供達のための二つの黙想会を指導もした 。1932年 10月 2日の主日はロムの小教区教会にお別れのあいさつをする日だった。

ルフェーブル夫人はこう語っている。
「荘厳ミサの時のマルセルの説教、主任司祭の家で家族と一緒の夕食 、午後の映画鑑賞、9時に帰宅。マルセルは、感動的に家に迎えられていました。マルセルは本当に愛されていました。これは一種の凱旋でした。マルセルの姿が現れると皆が手を握りたがっていました。 」

 ロムに古くからいた人はこう思いでを語っている。
「今も思い出します。彼は少しひげを生やしていました。ハンサムな青年でした。クルマン通りのホールで小さなパーティーを開きました。皆は『この別れは、また会おうという別れだ‘Ce n'est qu'un au revoir’』という歌を歌いました。マルセル神父様は涙を流していました。私は小さな女の子でしたが良く覚えています。神父様は私たちの小教区が大変好きでした。 」

 マルセルがリーブルヴィルにある神学校に派遣されるということが分かると、兄のルネ神父は「マルセルがまさかリーブルヴィルに来る可能性があるとは夢にも思って見なかった」と告白している。彼は「布教活動においてマルセルに任せることができることでこれよりもっと素敵な役目はないだろう」と付け加えた 。

 ルフェーブル夫人は、マルセルが神学校で授業をもつ事になれば彼の頭痛がまた戻ってくるのではないかと思っていつも心配していた 。しかし夫人はマルセルの事物に対する超自然的な態度を喜んでいた。

 ルフェーブル夫人は長男のルネにこう手紙を書いている。
「マルセルは行ってあなたと合流するよ。マルセルはひたすら順従以外の何ものも望んでいずに、お前とまた会うのを完全に喜んでいる。だからこそ、あなたたち二人がお互いに一緒にあって幸福なんだよ。 」

 遂にマルセル神父は、父親の祝福とロモン通りの聖霊修道会総長の祝福を受けて、ボルドー (Bourdeaux) に向かった。彼はミランド (Mirande) にある『アムバロジュ (Embaloge) の聖母』修道院にしばらくとどまって妹のベルナデット (マリ・ガブリエル修道女) に別れのあいさつをした。それから 1932年 11月 12日フーコー (Foucault) 号に乗ってボルドーを発った。この船は、1930年から東アフリカ沿岸海路を引き受けて運行していた共同運送 (Chargeurs Réunis) 会社の新しい蒸気船だった 。


(つづく)

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5. 5. 使徒職に自分を捧げる (ルフェーブル大司教の伝記の続き)

2007年04月26日 | ルフェーブル大司教の伝記
第5章 修練者司祭(1931年 - 1932年)



使徒職に自分を捧げる

 これらの試練は未来の宣教師を鍛錬して強め、極めて必要とされる剛毅の徳、なによりも忍耐と恒常性にあるこの徳を実践させた。

 フォール神父は次のように教えていた。「使徒であるためには剛毅と善良さがなければならない。"Conforta te et esto vir!" 汝を強め、男らしくあれ! 使徒的な剛毅とは聖なる大胆さだ。臆病や世間体こそが、この剛毅を邪魔するものだ。善良さは、天性的なものであれ獲得したものであれ、他人に自分を適応させる容易さであり、優しさ、寛大さ、柔軟性によってなされる。」

 使徒的な徳に関するこのような考えは、修練院を訪問する宣教師たちによってなされた生き生きとした講話によって補完された。白衣の神父たち (Peres Blancs) と呼ばれた聖霊修道会の総長の講話、リヨンのアフリカ宣教会 (Missionaires africains de Lyon) の長上による講話、タルディー (Tardy) 司教がガボンのジャングルを歩き回って野生動物の中での宣教の発展過程をいきいきと描きに来たのは何にも優っていた! 手から手へと、アフリカ特有の病気である「眠り病」の人の写真とか「洗礼が人間に対してこの上なく大きいはたらき」をすることを示す美しいキリスト教家庭の写真とかがまわった。司教は言葉を引き続いて結論付けた。「これは全くの変化です。眼差しの変化、しぐさ、言葉使い、態度が全て変化するのです。この完全な変化は、この霊魂がキリスト教化したということを意味しています。」

 その他の修練者と同じようにマルセルも自分がどこに任命されるかに興味を持った。兄と一緒にいるようになるのだろうか? それは夢だった! その他のことについては、「使徒職に自分を捧げる」日にだけ明かされる秘密だった。またマルセルはタルディー司教が通りがかりに彼を捕まえて単刀直入的に次のように言うのを聞いて極めて驚いた。

「あなたは私たちの所に来るんですよ。知っていましたか?」
 マルセル修練者の心臓はどきどきしたが、離脱心を維持しようと勤めつつこう答えた。
「知りません。それは総長様次第です。」
「私の言う通りです。本当ですよ。」
 司教は言葉を続けた。
「それは確実です。この任命を断ってはいけません。絶対に!お兄さんが待っています。お兄さんの後に従わなければなりませんよ。」
 マルセルはもう一度、長上の意志に委ねるということを表明した。
「もしも総長様がそれに賛成なさるなら、私は司教様のところに行きます。」
 しかしタルディー司教は言葉を続けながら、内心おさめていた本音を現わした。
「あなたはローマで勉強したのですから、あなたには神学校の教授になっていただきます!」

 ルフェーブル大司教はその当時を回顧してこう言っている。エェ! それなら私が一番畏れていたことだった。まさか! そんなことは有り得ないはず。私は司牧活動や宣教事業を好んでおり、それのために私が生まれてきたと感じていた。しかし教授だなんて、おぞましい。ノー、ノー、ノー。神学校教授だなんて、絶対に有り得ない!」
 彼は司教に答えた。「ご存じの通り、私は他の人々よりも適格者であるとは言えません。私がローマで勉強したからと言って、必ずしもよい教授になるとは限りません。」
「それでもあなたは言うまでもなく立派な教授になりますよ。大丈夫!」とタルディー司教は念を押した。
 同意するしか他の道がなかった。何といってもアフリカへの任命だ。

 年末が近付いていた。マルセル修練者はまだいつものように疲労を感じていた。マルセルはいつも「生活様式が変化したら、疲労もとれるだろう」と自分に言っていた。

 修道誓願を準備するための黙想会は、聖霊司祭会の「修道生活と使徒職生活」という二重性を一元化させる原理によって照らし出した。マルセルは次のように書いている。
「修道者宣教師。これが私たちの個人の目的であり私たちの使徒職の目的。一つはもう一つに依存している。天主に対する愛と隣人に対する愛とは対をなす。司祭たちはしばしば自己聖化を求めて霊魂達の救いを疎かにしてしまっている。その反対に、霊魂たちに対する熱心という口実のもとに更に悪をなす司祭たちもいる。」

 この九日間の黙想会の結実は、マルセルによって二つのモットーの下に霊性生活の統合の表という極めて独特なものに要約された。
 最初のモットーは、マルセル修練者の手で描かれた聖母の汚れ無き御心の上に、「愛徳 (Caritas)」という言葉とともに、「私たちは天主の愛を知り、それを信じた (Et nos cognovimus et credidimus caritati - 1ヨハネ 4 : 16)」という聖書の言葉が「天主は愛なり (Caritas Deus)」及び「知恵は天主から (Sapientia a Deo)」という言葉と一緒に書かれている。
 第二のモットーは「言葉 ---- 信仰から。明らかな、純粋な、完全な、単純な、強い真理。教義についてはどんな妥協もありえない」と言う説教に関することで、ル・フロック神父の充実な弟子らしいものだった。大司教の未来を要約するのではなくて何であろうか?

 いよいよ9月8日が来た。祭壇の周りに並んだ、もうすでに一年前からボタンの見えないスータンを着ており腰には聖霊司祭会を示す紐のベルトを締めた修練者たちは、ル・アンセック司教の目の前で、聖霊修道会の修道生活及び使徒職生活を誓約して後、清貧、貞潔そして従順の三年間の誓願を立てた。
 次に、他の同僚の司祭たちとともに、マルセル・ルフェーブル神父は顕示された御聖体の前で使徒職の任命を受けた。

「さらば、多くの思い出、幼なじみ、愛する両親を残して旅立とうとする祖国よ、さらば。私を創造し給い、贖い、聖化し給うた天主への愛のために、我らの主イエズス・キリストの現前において、私は荘厳に、聖霊および聖母の汚れ無き御心修道会において我が使徒職を奉献し奉る。そして我と我が身を、捨てられた霊魂達の僕として永久に捧げ奉る 。」

 この機会に足を運んだマルセル神父の両親と二名の司祭たちすなわち聖母教会の地区長神父とマレ・ド・ロムの良き主任司祭は、涙も自分たちの感激を告白することも隠そうとしなかった 。以前、総長は三名の「出発者」に天主の御摂理が彼らを送る活動の場所を指し示してあった。すなわち、エミール・ロランはヤウンデ(Yaounde)の小神学校に、マルセル・ルフェーブルはリーブルビル(Libreville)の神学校に、ジャン・ヴォルフはディエゴ・スアレス(Diego-Suarez)に任命されていた。

(つづく)

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聖ピオ十世会の修道女会:着衣式、初誓願、終生誓願式

2007年04月21日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア!

 兄弟姉妹の皆様、

 4月15日、聖ピオ十世会の修道女会の本部(フランス)で、四名のシスター達の着衣式と一名の初誓願、二名の終生誓願式がありました。デ・ガラレタ司教様の司式でした。兄弟姉妹の皆様のお祈りを感謝します。



 詳しくは Prise d'habit et voeux 2007 chez les Soeurs de la FSSPX をご覧下さい。


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兄弟姉妹の皆様を心から、聖伝のミサにご招待いたします。

2007年04月21日 | 聖伝のミサの予定
アヴェ・マリア!

 ■ 聖伝のミサにようこそ! ■ WELCOME TO THE TRADITIONAL MASS!

 兄弟姉妹の皆様、

 兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサに心から歓迎します! 
(聖伝のミサは、本来なら「ローマ式典礼様式のミサ」と呼ばれるべきですが、第二バチカン公会議以前のミサ、聖ピオ5世のミサ、古いミサ、昔のミサ、旧典礼、ラテン語ミサ、トリエントミサ、トリエント公会議のミサ、伝統的ミサ、伝統ラテン語ミサ、・・・などとも呼ばれています。)

何故なら、聖伝のミサは、聖ピオ5世教皇様の大勅書によって義務化され永久に有効なミサ聖祭だからです。(1570年7月14日聖ピオ5世の大勅令『クォ・プリームム』


 4月の聖伝のミサは、復活祭の関係で4月1日の枝の主日でした。次は5月に予定しております。5月は東京で2回、大阪で1回です。


     <2007年5月の予定 その1>


【東京】東京都文京区本駒込1-12-5曙町児童会館1F 「聖なる日本の殉教者巡回聖堂」

06日(主)
午前10時  ロザリオ及び告解
午前10時半  復活後第4主日(2級)白
午後2時半  講話「苦しみにおける喜び」*
午後5時(!) グレゴリオ聖歌による主日の第二晩課

【07日(月)午前7時からも3回の聖伝のミサを予定しております。】


 その他の聖伝のミサの詳しい予定については、このブログではまた後ほど、改めて、ご紹介させて頂きます。


*アメリカ在住のローズ・フーさんの講話。ローズ・フーさんは、もと中国の上海生まれで中共のカトリック教会迫害のもとで21歳の時に投獄され、26年牢獄におられました。有名な上海の大司教であったイグナチオ・クン枢機卿様とは牢獄でのお友達(獄友)だったそうです。ご参考までに「Joy in Suffering (苦しみにおける喜び)」或いは「Human Suffering is Spiritual Joy(人間の苦しみは霊的喜び)」をご覧下さい。


それでは、皆様のおこしをお待ちしております。


 詳しいご案内などは、
http://fsspxjapan.fc2web.com/ordo/ordo2007.html
http://immaculata.web.infoseek.co.jp/manila/manila351.html
http://sspx.jpn.org/schedule_tokyo.htm
 などをご覧下さい。

For the detailed information about the Mass schedule for the year 2007, please visit "FSSPX Japan Mass schedule 2007".



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私たちの主イエズス・キリストの御復活のお喜びを申し上げます。

2007年04月08日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言

アヴェ・マリア!


 愛する兄弟姉妹の皆様、
 私たちの主イエズス・キリストの御復活のお喜びを申し上げます。
 枝の主日には兄弟姉妹の皆様と聖伝のミサでお会いできて幸福でした。


 聖パウロはこう言います。
「あなたたちは新しい練り粉になるために、古いパン種をとりのぞかなければならない。あなたたちは種なしパンだからである。私たちのすぎこしであるキリストはすでに生贄となられたからである。では古いパン種ではなく、悪意とよこしまとのパン種でもなく、清さと真との種なしパンを用いて祝いをおこなおう。」(コリント前書5章)


 「清さと真理」、そうです。私たちの主イエズス・キリストは「真理を証明するために生まれ、そのためにこの世に来た」からです。そして真理につく者はイエズス・キリストの声を聞くのです。イエズス・キリストは、道、真理、命だからです。


 今年列福される殉教者たちは、この真理を信じ、この真理のために命を捧げたのです。何故なら、真理であるイエズス・キリストは復活だからです。殉教者は、決して「誤りであってもそれを信じる自由」のために殉教したのではありません。真理を証明するために、真理を信じる義務を果たすために殉教したのでした。


 私たちの主イエズス・キリストの御復活は、私たちにイエズス・キリストが真の天主であること、イエズス・キリストが創った宗教が真の宗教であること、従って、イエズス・キリストの言われた御言葉は全て真理であること、永遠の命とは、唯一のまことの天主である聖父と、聖父がお遣わしになったイエズス・キリストを知ることを教えています。


「モイゼが荒れ野で蛇を上げたように、人の子もあげられなければならない。それは、信じるすべての人が、かれによって永遠の命をえるためである。天主はおん独子をお与えになるほど、この世を愛された。それは、かれを信じる人々がみな亡びることなく、永遠の命をうけるためである。」


「み子を信じる人は永遠の命を有し、み子を信じようとしない人は、命を知らず、その人の上に天主のおんいかりがふりかかるのである」


 だからイエズス・キリストは、弟子達にこう言われたのでした。「私には、天と地との一切の権力が与えられている。だからあなたたちは諸国に弟子をつくりにいき、聖父と聖子と聖霊とのみ名によって洗礼をさずけ、私があなたたちに命じたことをすべて守るように教えよ。私は、世の終わりまで、常にあなたたちとともにいる」(マテオ28章)「あなたたちは、全世界に行って、すべての人々に福音をのべ伝えよ。信じて洗礼をうける人は救われ、信じない人は亡ぼされる」(マルコ16章)と。


 ですから、真理を知る私たちにとって、天主と無関係の空間、イエズス・キリストと無関係であるべき被造物などというものは、有り得ないのです。全ては、復活して生きておられる私たちの主イエズス・キリストの権力のもとに服している・服するべきであるからです。私たちの日常生活を始め、全てが、イエズス・キリストに服従しますように!


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聖パウロ「男色する者も天主の国を嗣がない」 カトリックは良識をもって投票すべし。

2007年04月05日 | 本・新聞・ウェッブ・サイトを読んで

アヴェ・マリア!


 愛する兄弟姉妹の皆様、
 来る土曜日は東京都知事の選挙ですね。
 こんなことを主張する候補者もいるようです。


http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/politics/45700/
http://www.janjan.jp/election/0704/0703312794/1.php


「不正の人は天主の国を嗣げないことを、あなたたちは知らないのか。思い誤るな。淫行する者も、偶像崇拝者も、姦通する者も、男娼も、男色する者も、泥棒も、食欲な人も、酒飲みも、讒言する人も、略奪する人も、天主の国を嗣がない。」(聖パウロ:コリント前書6章)


 カトリック信者の兄弟姉妹の皆様は、是非良識をもって投票してください。


 イギリスでは同性愛に関する性教育が義務になってしまいました。
http://blog.goo.ne.jp/thomasonoda/e/d418da1f341f854908031e82e158a392


 ブラジルでは、同性愛非難の説教を司祭がすることすら禁止する法律が提案されてしています。
http://www.lifesite.net/ldn/2007/mar/07032203.html

 

 カトリック信徒の方々が何も行動を起こさないと、あれよあれよという間に、カトリック信者がまともな生活を送ることさえもできなくなってしまいます。フェミニズム、性教育、その他、天主の定めた自然法に反する悪しき政策が、組織票のある労組などの支援を受けるサヨク政党やそのほかの宗教団体などの主張と思いの通り、政策に反映されるようになり、真理というよりも数の支配がまかり通るようになってしまいます。


 カトリックも行動を起こさなければならない、ということです。いくら私たちの愛する子供たちが聖伝のミサにあずかっても、学校でコンドームの装着の実習の授業を受けて、ポルノ映画を見せられたのでは、どうして貞潔の徳を保つ良きカトリック信者になるでしょうか?


 繰り返して申し上げますが、カトリック信者の兄弟姉妹の皆様は、良識をもって投票してください。よろしくお願いします。


 主よ我らを憐れみ給え!

 

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日本カトリック司教団は「信教の自由と政教分離に関する司教団メッセージ」を発表。どう考えれば良いのか。

2007年04月04日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

 2007年2月21日付で、日本カトリック司教団は「信教の自由と政教分離に関する司教団メッセージ」を発表しました。


 カトリックにとって信教の自由と政教分離は、どう考えれば良いのでしょうか。そこで少し考察してみましょう。

 全ての人間は、唯一の真の創造主に創られたことを認証し、この唯一の天主を創造主として認め崇敬し礼拝する義務をもっています。従って、例外なく全ての人間は、真理の信仰を知り認めこれを奉じなければなりません。真理の天主かつ救い主である私たちの主イエズス・キリストを受け入れるか否かに、人間個人の永遠の救いがかかっています。

 それと同様に、国家にも同じことが言えます。「国が幸せになるには、一人の人間が幸せになるのとは別のことによってではありません。何故なら、国とは多くの人々の共同生活に他ならないからです。」(聖アウグスチノ)
AUGUSTINUS MACEDONIO; EPISTOLA 155

3. 9. ... non enim aliunde beata civitas, aliunde homo; cum aliud civitas non sit, quam concors hominum multitudo.


 従って、個人個人がするのみならず、国家(政治的社会)も国家として真の天主を公式に崇敬する義務があります。レオ十三世はこう教えています。

「政治社会は公式の礼拝によって、社会を天主と結びつけている多くの重要な義務を果たすことができるとはあまりにも明らかです」と。
Libertas


 何故なら、レオ十三世はその理由をこう説明しているからです。
「共通の社会の絆で一つに結ばれた人々は、ばらばらの個人としてあるときに比して天主に対する依存の度合いが減ずるということはありません。少なくとも個人と同等に社会は、自らの存在、存続、ならびにを負うところの天主に感謝をささげる義務を有します。それゆえ、誰一人として天主に対する己の義務をなおざりにすることが許されず、またすべての義務の中で最大の義務は、各人が好むところのではなく天主が定めたところの宗教を知性と心情とをもって奉持することであり、そして確実で疑いの余地を許さぬ証拠が数々の宗教の中で唯一の真の宗教を確証付けているように、これと同様に政治社会は、あたかも天主がいささかも存在しないかのように振舞うこと、あるいは宗教が特異で意味のないものであるとしてこれなしにすませること、あるいは自らの気ままな好みにしたがってある特定の宗教を無差別に選ぶということは許されません。実際これは大きな犯罪です。天主の神性を崇め尊ぶにあたって政治社会は天主ご自身がどのように崇敬されることをお望みになるかを示された、その規定、様式に厳密に従わなければなりません。」
(レオ13世回勅『インモルターレ・デイ』Actus II p.21-23 / PIN 130)
Libertas


 何故なら、私たちの主イエズス・キリストは天主と人々との唯一の仲介者であり、キリストの唯一の花嫁であるカトリック教会は、イエズス・キリストのお望みによって、これを選ぶことは、真理を選ぶということだからです。だからこそ「天主の神性を崇め尊ぶにあたって政治社会は天主ご自身がどのように崇敬されることをお望みになるかを示された、その規定、様式に厳密に従わなければなりません。」

 確かに国家は、自分の思う通りに宗教に関する法律(たとえば宗教儀式のやり方などの法)を作ることはできません。しかし、国家は真理の宗教を、真理のしるしに従って認め、その真理の宗教に従うことができます。レオ十三世教皇はこう言います。

「国家社会は天主を自らの創立者かつ生みの親として認めねばならず、同時にその権能と権威とを尊び、従わなければなりません。ですから、国家が天主を認めないこと、あるいはそのような不敬神にいたらせるような政策 ――― すなわち、さまざまな宗教(あるいはそう自称するものを含めて)を同様に扱い、それらに対し無差別に同等の権利と特権を与えること ――― をとることを正義は禁じ、理性自体も禁止します。したがって、国家において1つの宗教が公に表明されることが必要なのですから、その宗教は、ただ真の宗教だけであり、また容易に見分けられることのできるものでなければなりません。ところで、殊にカトリック国家においてはこの唯一の宗教を認めることが容易であるはずです。なぜなら、真理の印がその宗教、つまりカトリック信仰に言わば刻みつけられているからです。それゆえ、もし国家が賢明かつ有益なしかたで共同体の善を取り計らうならば ――― 無論、国家は当然このようにすべきなのですが ――― この宗教を保ち、守らねばならないのです。」
 回勅「リベルタス」
【英語】LIBERTAS, ENCYCLICAL OF POPE LEO XIII ON THE NATURE OF HUMAN LIBERTY


 国家は、真理の宗教によって、真の天主に公式の礼拝を捧げる義務があるのみならず、国家独自の分野に止まりながら、国民の永遠の救霊を促進しなければなりません。


 天主は、固有の意味で宗教に関する社会(聖なるカトリック教会)を創造し、これは市民社会と区別されます。すべての人間は、この二つの社会に属さなければなりません。しかし人間の究極の目的は唯一でありそれは救霊です。この世の生活は永遠の生命を得るためにある手段です。国家の固有の分野は、世俗に関することですが、人間の究極目的である永遠の救霊とは独立自律に、市民社会を組織することはできません。国家も、間接的に、私たちをして永遠の至福を勝ち取ることができるようにさせる義務があります。国家がこの間接的な貢献を無視する時には、共通善の最も重要な部分を失うことを意味します。以上が教父と聖トマス・アクィナス、教皇様たちの一貫した教えです

 聖アウグスチノはこう言います。
「普通の人間が天主に奉仕するやり方と、王の奉仕の仕方は違う。普通の人間は忠実に生活することによって天主に仕える。しかし王であるなら、正しい法を制定し不正を厳しく制裁することによってふさわしく禁止することによって天主に仕えるからだ。・・・王たちは、王として王でなければすることができないことをすることによって天主に仕えなければならない。」

5. 19. ... Aliter enim servit, quia homo est; aliter, quia etiam rex est: quia homo est enim ei servit vivendo fideliter; quia vero etiam rex est, servit leges iusta praecipientes et contraria prohibentes convenienti vigore sanciendo. ... In hoc ergo serviunt Domino reges, in quantum sunt reges, cum ea faciunt ad serviendum illi, quae non possunt facere nisi reges.
EPISTOLA 185
DE CORRECTIONE DONATISTARUM LIBER




 また、更にはこうも言います。
「王は、自分の王国において、人間社会に関することのみならず天主の宗教に関することでさえも善を命じ、悪を禁止するなら、王として天主に仕えることになる。」

51. 56. ... Deo serviunt in quantum reges sunt, si in suo regno bona iubeant, mala prohibeant, non solum quae pertinent ad humanam societatem, verum etiam quae ad divinam religionem.
CONTRA CRESCONIUM GRAMMATICUM DONATISTAM LIBRI QUATUOR
LIBER TERTIU
S


「私たちは彼らのことを幸せな王であるという。もしも正しく支配し、・・・自ら人間であることを忘れないなら。もしも自分の権力を天主の礼拝に最高に使ってその御稜威の奉仕に使うなら。もしも天主を畏れ、愛し、礼拝するなら・・・。

24. ... Sed felices eos dicimus, si iuste imperant, si inter linguas sublimiter honorantium et obsequia nimis humiliter salutantium non extolluntur, et se homines esse meminerunt; si suam potestatem ad Dei cultum maxime dilatandum maiestati eius famulam faciunt; si Deum timent diligunt colunt...
De Civitate Dei contra Paganos libri XXII
LIBER V



 聖アンブロジオは、ローマ皇帝への書簡でこう書いています。
「ローマの命令の下にある全ての人々は、あなたローマ皇帝かつ地の君主のために闘うように、あなた自身は全能の天主と聖なる信仰とのために戦うのです。さもなければ、各々が真の天主を、即ちすべてのものが支配を受けている、キリスト教徒たちの天主を真実に礼拝するのでなければ、救霊は安全に勝ち取ることができないでしょう。これこそ唯一の真理の天主であり、心の奥底より崇敬される方です。他方、聖書に言う通り、異教の神々は悪魔であります。」


[Col. 0961B] 1. Cum omnes homines, qui sub ditione Romana sunt, vobis militent imperatoribus, terrarum atque principibus, tum ipsi vos omnipotenti Deo et sacrae fidei militatis. Aliter enim salus tuta esse non poterit, nisi unusquisque Deum verum, hoc est, Deum christianorum, a quo cuncta reguntur, veraciter colat; ipse enim solus verus est Deus, qui intima mente veneretur: Dii enim gentium daemonia, sicut Scriptura dicit (Psal. XCV, 5).
EPISTOLA XVII.
AMBROSIUS episcopus beatissimo principi, et christianissimo imperatori VALENTINIANO.


大聖レオはローマ皇帝レオ一世にこう書いています。
「主は、あなたの慈悲を主の秘跡の照らしによってかくも拡大されたのですから、あなたの皇帝の権能がただ単にこの世の支配のためだけではなく、特に教会の保護のためにあなたに与えられたということをあなたは注意しなければなりません。」

Cum enim clementiam tuam Dominus tanta sacramenti sui illuminatione ditaverit, debes incunctanter advertere, regiam potestatem tibi non ad solum mundi regimen, sed maxime ad Ecclesiae praesidium esse collatam ...
(Ep. Ad Leonem Augustum, PL 54, col. 1130)

大聖グレゴリオもこう断言します。
「全ての人々の上に天から権力が与えられたのは、善を望む人々は助けられ、天の道がより大きく開かれ、地上の王国が天の王国に仕えるためである。」

Ad hoc enim potestas super omnes homines dominorum meorum pietati coelitus data est, ut qui bona appetunt adjuventur, ut coelorum via largius pateat, ut terrestre regnum coelesti regno famuletur.
(Ad Mautitium Augustum, PL 77, col. 663.)


聖トマス・アクィナスはこう言います。
「現世において私たちが良く生きるこの命の目的は、天国での至福であるから、王の職務は、天の至福を勝ち取るためにふさわしいように、すなわち、天の至福に関わることを、多くの人々の良き生活に関することを提供することにある。そしてそれらに反することは、出来る限り禁止することにある。」

Quia igitur vitae, qua in praesenti bene vivimus, finis est beatitudo caelestis, ad regis officium pertinet ea ratione vitam multitudinis bonam procurare secundum quod congruit ad caelestem beatitudinem consequendam, ut scilicet ea praecipiat quae ad caelestem beatitudinem ducunt, et eorum contraria, secundum quod fuerit possibile, interdicat.
Sancti Thomae de Aquino
De regno ad regem Cypri Caput 16


 教会博士たちもこの点で一致しています。1789年のフランス革命の直前に、聖アルフォンソ・デ・リグォリは、聖アウグスチノと同じ言葉遣いで同じことを言っています。

「私的な人間には天主の法を守るだけで、救霊を得るには充分である。しかし王にとってはそれだけでは充分ではない。自分で天主の掟を守るというだけでなく、国民の悪しき習慣を改善し躓きをなくすという別のことをできるか切りする必要がある。
 天主を崇敬することに関しては、君主は不敬の説教者たちを全てその王国から追放し、悪しき教義に汚染された書物が国内に持ち込まれるところで没収することをためらってはならない。この種の本を根絶することに気を配らなかった君主達は、その王国の破滅の原因をおくことになる。


6. ... Ad un uomo privato basta che osservi la divina legge per salvarsi; ma ad un re non basta: gli bisogna inoltre che si adoperi quanto puo, affinche i suoi sudditi osservino la divina legge, procurando di riformare i mali costumi e di estirpare gli scandali...

9. Con modo speciale devono attendere i principi a tener purgati i regni da gente di mala dottrina. Pertanto parecchi cattolici sovrani non ammettono al loro servizio ne eretici ne scismatici. Percio anche proibiscono con sommo rigore che nel regno entrino libri infetti di dottrina avvelenata; la poca cautela di alcuni principi in estirpar questa sorta di libri e stata la causa della ruina di piu regni.
S. Alfonso Maria de Liguori
La fedelta dei Vassalli verso Dio li rende anche fedeli al loro principe


 1789年の革命後、教皇様たちはこの点について長くはっきりと説明しています。グレゴリオ十六世はこう言います。

「彼らに権威が与えられたのは、世を統治するためだけでなく、教会を支援し、保護するために特に与えられていることを、彼らがよく考えますように。また、教会の保護のためになされることは同時に彼ら自身の安寧および彼らが有する権威の維持のためになるということをよく思いめぐらしますように。いや、むしろ信仰のためとなることがらが彼らの王国のためとなることがらよりも、はるかに大切に感じられるべきことであると君主らが確信し、また聖レオ教皇の言うように、主の手によって彼らの王冠に信仰の冠がつけ加えて置かれることが彼らの最大の関心事となりますように。国々の父および守護者として立てられた彼らは、もしその太腿に王の王、主の主と書かれている天主に対して、敬虔さをともなって宗教が栄えることを自らの第一に配慮することとするなら、平和と豊かさに満ちた真のゆるぎない幸福を確保するでしょう。」
回勅 『ミラリ・ヴォス』 教皇 グレゴリオ16世


 第二バチカン公会議まで全ての教皇様たちは同じことを教えています。教会と国家は決して混同されるべきではありません。この両者は区別されます。しかし政治と宗教とが分離しなければならないという「原則」は、自然に反しています。国家は真の宗教を認め、真の宗教には自由を与える義務があるからです。

 教会と国家の分離は、歴代の教皇によって排斥されてきました。ピオ九世は次の命題を間違いであると排斥しました。

排斥命題 55「教会は国家から、国家は教会から分離されなければならない。」
シラブス (近代主義者の謬説表:ピオ9世の数多くの訓話、回勅、書簡による大勅書)


聖ピオ十世はこう言います。
国家が教会から分離されていなければならないということは、絶対的に間違っている命題で、最も危険な誤謬である。これは国家はいかなる宗教も認めてはならないという原理に立つ命題であり、これは天主に対して大いなる不義の罪である。何故なら、人間の創造主は、人間社会の創立者でもあり、その存在を維持する方であるからだ。従って、私たちは天主に私的な礼拝のみならず、天主を崇敬するための公的な社会的な礼拝をしなければならない。更に、この説は、明白な超自然の秩序の否定である。これは国家の行動が、この世の生活での公的な繁栄の追求だけに限定している。しかしこれは政治社会の近接の対象にすぎない・・・。」

VEHEMENTER NOS
ENCYCLICAL OF POPE PIUS X ON THE FRENCH LAW OF SEPARATION


ブルノ・イゼンマン神父様の葬儀ミサ

2007年04月04日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア!


愛する兄弟姉妹の皆様、
 3月3日(土)に故郷のノルトラッハ(Nordrach)で行われたブルノ・イゼンマン神父様(Father Bruno Isenmann, SSPX)の葬儀ミサの模様の写真を紹介いたします。兄弟姉妹の皆様のお祈りを心から感謝します。


Beerdigung von hw. H. Pater Isenmann in Nordrach

























 詳しくは、聖ピオ十世会ドイツ管区ホームページをご覧下さい。


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●トレント公会議(第19回公会議)決議文
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●第一バチカン公会議 (第20回公会議)決議文(抜粋)
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●聖ピオ五世教皇 大勅令『クォー・プリームム』(Quo Primum)
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●新しい「ミサ司式」の批判的研究 (オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ枢機卿)Breve Exame Critico del Novus Ordo Missae
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●グレゴリオ聖歌に親しむ会
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【質問】聖ピオ十世会は教会認可の正式な修道会と思ってよいか

2007年04月04日 | 質問に答えて

アヴェ・マリア!


【質問】
 聖ピオ十世会は教皇庁認可の正式な修道会と思ってよろしいのでしょうか。ルフェーブル司教は本当は破門されておらず、今も正式なカトリックの司教と認められていると考えて、よろしいのですね。


【答え】
 ご質問をありがとうございました。
 聖ピオ十世会はカトリック教会認可の正式な修道会です。
 ルフェーブル大司教は本当は破門されていません。


【聖ピオ十世会はカトリック教会認可の正式な修道会】
 何故なら、聖ピオ十世会は、ルフェーブル大司教によって、1970年11月1日スイス、フリブールのシャリエール司教から正式な認可を得て、カトリック教会法典に則って創立されたカトリック教会の1つの修道会からです。


 1971年2月18日 聖職者聖省の長官ライト枢機卿は、聖ピオ十世会の会憲を称賛しています。

 1971年~1974年 -ローマは、聖ピオ十世会の修道院がカトリック教会法典に従ってスイスの2つの司教区とイタリアの司教区において設立することを許可しました。
 つまり、ローマは3名の修道司祭らが聖ピオ十世会に入会し、聖ピオ十世会が彼らを所属させる(incardinate)することを許可しました(「所属」のない司祭は、司祭職を行使することが許されない。)。
 また、シオン司教区(スイス)のアダム司教は、聖ピオ十世会が複数の司教区にまたがる修道会として、一般にどの司祭でも所属させることが出来ると判断しました。


 しかし、フランスの司教評議会は、神学上の理由のために新しいミサを拒否する聖ピオ十世会とその神学校を廃止させるように動き出し、エコンにある聖ピオ十世会の神学校を「野蛮な神学校」と非難しました。その内の一人、バチカンの政務長官ヴィヨ枢機卿(Cardinal Villot)は、パウロ六世に「ルフェーブル大司教は自分の司祭たちに教皇様に反対する声明にサインさせている」と偽証さえしました。


 1974年11月11日から13日の間、エコンの神学校に教皇視察団が訪問しました(これがローマの普通のやり方)。ガロンヌ枢機卿(Cardinal Garonne)によればエコンの神学校は「新しい典礼を使っていないことと、何か少しの反公会議の精神があるということを除けば、極めて良い」ものでした。しかし、ローマからの視察団の異端的な発言は神学生たちを躓かせたのです。

 そのために、1974年11月21日 ルフェーブル大司教は、聖伝のローマを支持するという宣言をしました。

 1975年2月13日 および1975年3月3日に、ルフェーブル大司教は1974年11月21日の宣言のために3人の枢機卿から成る即席の「委員会」の前で「裁判のまねごと」を受けました。ルフェーブル大司教はこの「裁判」の性格についてなんらの通知も受けておらず、弁護士を付けることも許されず、その内容を記録することも許されませんでした。(証拠記録を許すと約束だけはありましたが、約束は守られませんでした。)


 1975年5月6日 規定によらない即席「委員会」は、1974年11月21日の宣言が「全ての点で受け入れられない(ママ)」と、ルフェーブル大司教を断罪しました。「委員会」はスイスのマミー司教(フリブールのシャリエール司教の後継者)に、前任者の認可を取り消すように通達しました。


 しかし、教会法によれば、地方の司教が一度修道会を認可すると、その後は教皇だけがそれを廃止することが出来るのです。つまり、後継者には前任者の認可を取り消すことが出来ないのです。カトリック教会法典493条。)
Can. 493. Quaelibet religio etiam iuris dioecesani tantum, semel legitime condita, etiamsi unica domo constet, supprimi nequit nisi a Sancta Sede, cui etiam reservatur de bonis in casu statuere, semper tamen salva offerentium voluntate.

 1975年6月5日 ルフェーブル大司教は教会法に従ってローマの最高裁判所(Signatura Apostolica)に訴えました。

-私の「宣言」の内容については教理聖省が吟味するはずだが、そうではなかった。
-教理聖省を飛び越して「委員会」が裁判をするためには、教皇からの特別の任命書が必要。
-枢機卿らの「委員会」が教皇から特別任命を得たという証拠を提示して欲しい。(注:これは現在に至るまで一度も証明されていない。法の有効性に疑問がある場合は遵守の義務はない。教会法15条、新教会法14条。「委員会」の「権威」と「正当性」に疑問がある場合はなおさらである。)
-もしも私に過失があったとしても、それは私が処罰されるべきであって、教会法に従って創立された聖ピオ十世会が処罰を受けるには当たらない。
Can. 15. Leges, etiam irritantes et inhabilitantes, in dubio iuris non urgent; in dubio autem facti potest Ordinarius in eis dispensare, dummodo agatur de legibus in quibus Romanus Pontifex dispensare solet.

 1975年6月10日 ヴィヨ枢機卿の介入により、ルフェーブル大司教の訴えは裁判所に受理されませんでした。裁判長のスタッファ枢機卿はルフェーブル大司教の訴えを受理するならば解任されるとの脅しを受けたほどです。ルフェーブル大司教は裁判を受ける権利さえも拒否されたのです。


 1975年6月29日 枢機卿らの働きかけで、教皇パウロ6世は、自分は枢機卿らの委員会がしたことを認める、という内容の手紙をルフェーブル大司教に書きました。しかし6月の教皇承認は、2月の委員会の会合を遡及的に有効化できないのです。(教会法8条§1、17条§2、新教会法7条、16条§2。)
Can. 8. par. 1. Leges instituuntur, cum promulgantur.
Can. 17. par. 2. Interpretatio authentica, per modum legis exhibita, eandem vim habet ac lex ipsa; et si verba legis in se certa declaret tantum, promulgatione non eget et valet retrorsum; si legem coarctet vel extendat aut dubiam explicet, non retrotrahitur et debet promulgari.


 ルフェーブル大司教は、これらを経てこう言っています。
私たちは裁判も受けずに、自分を弁護することさえもできずに、警告もなく、いかなる書面もなく、控訴することも出来ず、排斥されたからです。

 カトリック教会法典以前の問題として、自然法が守られるべきという問題です。自然法によると、犯罪が指摘され得もせず、裁判する者の権威とその正当性が疑わしい時、処罰を受ける義務はないからです。


 実際に、ローマは「聖ピオ十世会の廃止」が無効であったことを暗黙のうちに承認していました。何故なら、1988年5月、ラッチンガー枢機卿は、聖ピオ十世会の司祭の中から1人の司教が聖別されるという原則を認めていたから、また、1987年12月8日、教皇代理訪問者であったガニョン枢機卿は、ルフェーブル大司教の司教荘厳ミサに与り、「廃止」されたはずであった聖ピオ十世会への入会の儀式に、高位聖職者として公式に参与したからです。

 

【ルフェーブル大司教は本当は破門されていない】
 さて第二のご質問のルフェーブル大司教様について言えば、カトリック教会法典に従えば、破門されていません。


 1986年10月27日にヨハネ・パウロ二世教皇様の指導のもとに行われた、アシジでの諸宗教の祈りの集いを知った後、ルフェーブル大司教様は、必要の状態(緊急状態)に迫られて、ヨハネ・パウロ二世教皇様の許可なく司教を四名聖別しました。大司教様は繰り返しこれは必要状態に迫られてのことであると言い、決して「ローマ首位権」という権威そのものを「拒否する」ことではないと言っています。
 ルフェーブル大司教様は、カトリック教会の緊急状態に迫られて司教聖別を行わなければならない良心上の義務があったと考えて善意で司教を聖別しました。

 ルフェーブル大司教は、カトリック司祭職が継続するため、天主に従順であるため、必要の状態に迫られて司教聖別を行わなければならない良心上の義務があったことをはっきり宣言しています。


 そのような場合には、カトリック教会法典によれば、少なくとも自動破門に当たりません。

 

 何故なら、
(1)必要の状態(緊急状態)に迫られて法を犯す人は、刑罰の対象にならない(カトリック教会法1323条の4)からです。


 またたとえ、そもそも客観的に見て「必要の状態」などというものがたとえ存在しなかったとしても、
(a) もしも誰かが必要の状態があると過失なく思いこんで、その行為を行った場合、----> 刑罰を受けない(カトリック教会法1323条の7)からです。
(b) もしも、必要の状態があると、過失的に思ったうえで、この行為を行った場合、
----> 自動的刑罰は受けない(カトリック教会法1324条§3及び§1の8)からです。

 

 さらに重大なことは、実定法は、永遠法と自然法の奉仕のためにあります。カトリック教会法典は、天主の法の奉仕のためにあります。いかなる人間権威も、カトリック信仰の教えとカトリックの秘跡とを妥協させるように司教に強制することはできません。いかなる権威も、カトリック教会の破壊に協力することを強制できません。ルフェーブル大司教様は、聖伝のカトリック信仰を守り通すことができるために、自分になさらなければならないことをしたのです。カトリック信仰に留まるために、従って本当の意味での教皇様の職務に従順であるために、司教聖別を行ったのです。

 

 

参考資料:

教会がどうなってしまったのか分からなくなってしまったカトリック信者たちへ「第19章 エコンの神学校とローマ

【質問】聖ピオ十世会とは何ですか?

【質問】聖ピオ十世会の歴史はどのようなものですか?

【Q and A】 ヨハネ・パウロ二世の書簡「エクレジア・デイ」について

聖ピオ十世会だより: マニラの eそよ風 (第252号)

1988年6月30日の4人の司教聖別

司教聖別の教会法的考察

WHAT IS THE SOCIETY OF SAINT PIUS X?


 これでご質問にお答えできたと期待します。


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