Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

聖ピオ十世会 カトリック聖伝のミサの報告【東京】【大坂】【名古屋】 Traditional Latin Mass in Japan SSPX Japan

2023年04月30日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
復活後第三主日、いかがお過ごしでしょうか。今日東京のミサに来られた方は、子供達も入れて合計105人でした。大阪では33人、名古屋では17人でした。

主はこう言われます。「あなたたちは泣き悲しみ、この世は喜ぶだろう。そうだ、あなたたちは悲しむが、その悲しみは喜びにかわる。」

弟子たちは主の死を悲しむけれども、この悲しみは復活によって喜びに代わる、キリストを死に仕向けた者たちは、キリストの弟子たちの悲しみとキリストの死を喜ぶ。しかし、弟子たちの悲しみは、喜びに変わるのです。

2000年前だけの話ではなく、この世での涙と苦しみを通して永遠の喜びに至ろうとする全てのキリスト者に適用されます。

この世では義人は涙し、この世は面白おかしく楽しむかもしれません。しかしこの世の喜びは、この世だけのもので限りがあります。ところが義人にとって、この世の短い悲しみは、無限の喜びに変わります。

聖ペトロは言います。「キリストの苦しみに与れば与るほど喜べ。そうすれば、あなたたちは、光栄のあらわれのとき、喜びに喜ぶ。」(ペトロ前4:13)

聖パウロもこう言います。「私たちが受ける短く軽い患難は、はかりがたいほど大きな永遠の光栄を準備する」(コリント後4:17)と。

主は、「しばらくの間、あなたたちは私を見ないだろう」と言われました。私たちの人生のことを「しばらくの間」と言っているようです。短い人生の間は私たちはイエズスを直接この目では見ることがないからです。

聖ヤコボも同じことを言います。「あなたたちの命とは何か?あなたたちはしばらく現われて、またたく間に消えていく湯気である。」(ヤコボ4:14)

聖パウロは、時は短いと言います。「時は縮まった。だから、以後、… 泣く人は泣いていないように、喜ぶ人は喜んでいないように、買う人は所有していないように、この世のものを利用している人は全く利用していないようにせよ。まことに、この世の姿はすぎ去るものである。」(コリント前7:29-31)

ですから今日のミサの密誦は、短いつかの間の地上のことではなく、永遠のことを愛するように祈らせています。「主よ、願わくは、この奥義によって、われらが地上的な欲望を和らげ、天上のことを愛することを学ぶ恩寵が、われらに与えられんことを。」

主は私たちを励ましてこう言われます。「おそれるな、小さな群れよ。あなたたちにみ国をくださろうというのは、あなたたちの父のおぼしめしである。」(ルカ12:32)

「あなたたちは悲しむが、その悲しみは喜びにかわる。(…)あなたたちも今は悲しんでいるが、ふたたび私があなたたちにあうとき、あなたたちの心は喜び、もうその喜びはあなたたちからうばわれることはない。」

【報告】
Dear Fathers:

Shown below are the number of attendees at today's Sunday masses in Tokyo and the amounts of donations received and payments made.

The total number of attendees at today's Sunday masses in Tokyo was 105 including children.

09:00 mass
M: 26 (incl. 6 children)
F: 31 (incl. 6 children)
Total: 57 (incl. 12 children)

11:30 mass
M: 24 (incl. 4 children)
F: 27 (incl. 6 children)
Total: 51 (incl. 10 children)

Total of 2 masses (excl. 3 persons who participated in multiple masses)
M: 48 (incl. 10 children)
F: 57 (incl. 12 children)
Total: 105 (incl. 22 children)


私たちの苦しみに価値を与える方法とは?カトリック司祭が私たちにイエズスの聖心からの慰めを与えるためには、どうしても聖伝のミサが必要です

2023年04月30日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2023年4月30日は復活後第三主日です。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「復活後第三主日の説教」の動画をご紹介いたします。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

SSPX JAPAN聖ピオ十世会日本にチャンネル登録もお願いいたします。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父

 


聖ピオ十世会総長の友人と恩人の皆様への手紙 92号 心の清さ

2023年04月28日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

聖ピオ十世会総長の友人と恩人の皆様への手紙

心の清さ

私たちに信仰の清さを保たせるのは心の清さだけである

親愛なる信者、友人、恩人の皆様、

私たちが生きている歴史的状況背景の中で、全能の天主は、聖ピオ十世司祭会を信仰のための非常に特別な戦いにお呼びになりました。それは、信仰を守る、信仰を告白公言する、信仰を愛する、信仰を伝達するということです。そうするためには、この戦いの持つ深遠な理由、この戦いが要求するもの、そして、この戦いが私たちを導くべきところを理解することが重要です。それは、私たちが、私たちの霊魂【信者】のためにすべての結果を引き出すことができるようにするためです。

手を触れられない礎石である信仰

信仰とは、この地上において、私たちが永遠において持つことになるであろうもの、そして信仰が場所を譲ることになるであろうもの、つまり天主の至福直観を先取りするものです。信仰とは、天主と天主に関するすべてのことについての超自然の知識を、誤謬の可能性なしに持つことです。このため、信仰とは、天主がお持ちであるご自身についての知識を私たちに伝えてくださり、天主の善意から私たちが受ける、一体となったすべて【tout intégral 分割不可の完璧な一つ】なのです。この観点からすれば、信仰が特に優れた(par excellence)真理の表現であり、霊魂に与えられた超自然の真理であり、誤謬の可能性がいささかもないということは明らかです。

信仰とは、自分の判断や個人的な経験に基づいて、他のものよりも自分版の「真理」を選択する人の個人的な意見・認識とはまったく異なるものです。そのような「真理」とは、むしろ自由主義的な(リベラルな)心の持ち主の「信仰」に相当するものであり、超自然の要素を一切排除して、基本的に議論可能な個人の選択肢というレベルにまで貶めるものです。

その逆に、信仰とは、本質的に超自然的である別の次元の知識であり、そこでは、わずかでも誤謬があれば天主の真理とは相容れないため、私たちが間違いを犯していないという絶対的な保証があります。実際、ほんのわずかであっても誤謬をほのめかすものを含んだ「真理」は、ただ単に、天主的ではなくなってしまいます。そのため、ただ単に真理ではなくなくなるのです。例えば、キリストが、真の天主にして真の人であり、王にして預言者でありながら、贖い主でないならば、真の私たちの信仰のキリストではなくなってしまうでしょう。また、キリストは、「減少した」(diminished)キリスト(これは存在不可能です)でもなく、単に別のものになってしまうでしょう。数滴の毒が大量の水を人間の飲用に適さないものにするのと同じように、たった一つの誤謬が信仰と教義という大伽藍を取り返しのつかないほど腐敗させるのです。

カトリック教会と聖ピオ十世会における信仰をめぐる闘争

この前提は、なぜ信仰を擁護することが、常に教会の第一の関心事であり続けたのか――カトリックの教義のこの表現やあの言い回しを擁護するために、たとえ論争し、排斥し、迫害を受けることになったとしても――を理解するのに不可欠です。この領域でほんの少しでも妥協するならば、私たちの主イエズスやその使命への裏切り、霊魂たちへの裏切りになってしまったことでしょう。

実際には、人間は天主を知るために、特に私たちの主イエズス・キリストを通して天主を知るために、造られました。「天主を見た人は一人もいない。御父のふところにまします御独り子の天主がこれを示された」(ヨハネ1章18節)。信仰だけがもたらすこの天主についての知識がなければ、天主をお喜ばせすることも、天主のみもとに行くこともできません。天主を知ることは不可能であり、それゆえに天主を観想する(見る)ことは不可能であり、また、天主を愛して天主に仕えることで、天主に自らの幸福を見いだすことは不可能です。なぜなら、私たちは、自分の知らない誰かに対して、心を捧げることも、人間の意志を奉献することもできないからです。信仰を守ることは、文字通り生と死の問題です。

この地上での霊的な生活は、私たちの全ての知性が天主の真理を全面的に固守することなしには不可能です。信仰によって知られるようになったお方、人となった真理、私たちの主ご自身を所有することこそ、キリスト教的生活の条件にして第一の原因であり、永遠の命の始まりです。

私たちが決して忘れてはならないのは、聖ピオ十世会が全体として、あるいは私たち一人一人が、日常生活の中で、信仰を告白し、公に信仰を擁護することを求められるとき、それは、個人的な意見や、もっと適切と思われる微妙に異なるものを提示するということが求められているのではないことです。求められていることは、単純に、信仰告白なのです。これこそが、霊魂が私たちの主をありのままに知ることができるために、そして、時間と永遠において、この同じ知識を中心に、その知識に従って、自分の全存在を築くことができるために、絶対に必要なものなのです。しかし、残念なことに、このようなキリスト教的生活は、今日、非常にまれなものとなっています。なぜなら、それを可能にする信仰そのものが消えつつあるからです。

ですから、「信仰によって生きる義人」にふさわしいこの生活が、私たちのうちにすべての実を結ぶのを確実にするためには、私たちは何をしなければならないのでしょうか? 信仰を形式的に守ることにとどまらず、真理を所有することに私たちの幸福を見いだすために、私たちは何をしなければならないのでしょうか? 私たちは、信仰が私たちのうちにその特徴的な効果、すなわち、私たちの心の清めという効果を生み出すようにしなければなりません。このようにすれば、精神が求める真理であり、心が求める至高の善である私たちの主に、私たちの霊魂が完全に密着することへの障害がすべて打ち砕かれるでしょう。

真の信仰は心を清める

表面的でもなく不毛でもない信仰は、霊魂を深く変容させます。第一に、霊魂に清さを生み出すことによってです。これは、論理的で理解しやすいものです。なぜなら、信仰によって生きる人は、もっと高い理想に従って自分の生き方を形作るからです。その結果、自分の変容の障害となるような劣ったものすべてから距離を置くようになります。言い換えれば、愛を伴った真にして本物の信仰は、霊魂を上へと引き寄せ、そうすることで、霊魂は、地上のもの、この世的なものすべてから距離を置くのです。霊魂は、不純なすべてのものから上へと上げられるのです。

聖トマス・アクィナスが好んだ例を挙げてみましょう。ある金属が、貴金属でない金属と合金になると不純物になる、というものです。銀は、金と合金になれば、その価値を高めるため不純物にはなりませんが、銀が鉛と合金になれば不純物になります。同じように、すべての現世的、肉体的な被造物よりも大きな尊厳を持つ霊魂は、乱れた愛や執着によってその被造物に服従すると、不純物になるのです。しかし、霊魂が自分より上にあるもの、すなわち天主に向かう傾きがあるとき、反対の運動によってこの不純物状態から清められます。この運動が信仰に依存することは明らかであり、信仰のみがそれを可能にします。私たちは、天主に近づくためには天主を知らなければならず、天主を知るためには天主を信じなければなりません。そして、このため、心の清めの第一の原則は信仰であり、この信仰が本物の愛に自らの完全性を見いだすならば、それは完全な心の清めを引き起こします。

したがって、信仰はまず第一に、信仰に直接対立する不純物、すなわち、精神の中にある誤謬という不純物を排除します。しかし、もし信仰が作用することを許され、霊魂を深く変容させることを許されるなら、信仰は最終的にすべての道徳的不純物を打ち砕き、霊魂と私たちの主との間の完全な一致を妨げるすべての障害を打ち砕きます。このことは、信仰は、知性を清めた後、心をも清め、したがって心を自由にする、ということを意味します。これが、「義人は信仰によって生きる」という表現の意味するところです。

清い霊魂は、その信仰を輝かせ放射し、その証人となる

「目がよければ全身が明るく輝く」(マテオ6章22節)。私たちの主は、この基本的な真理を、このように表現し、教えられました。言い換えれば、主がすべての霊魂に期待される最初の信仰告白は、明るく輝く人生という信仰告白であり、それは知性の目が信仰において見るものを(実際に)目に見えるように映し出すものです。これこそが、霊魂の人生を非常に価値あるものとし、深く使徒的なもの、他の人々を引き寄せることのできるものとしているのです。この光は隠すことができないからです。また、この世が罪の闇に沈むのが深ければ深いほど、この光はさらに明るく輝きます。

霊魂が、私たちの主イエズス・キリストと深く一致して生きるとき、また、霊魂のすべての動きが、主をお喜ばせしようとする願いによって、主の徳を再現し、主にすべてを合わせて、主の徳を再度生み出し、主への愛からすべてのことを成し遂げようとする願いによって突き動かされるとき、その霊魂の生活は非常に明るく輝くため、霊魂はまさに世の光となります。このため、はるか昔から、そして今日ではなおさら、この世は清さの証しに鈍感であり続けることができません。この世は、清さの証しによって深く感銘を受けるか、あるいは、その証しから受ける暗黙の非難によって激怒するかのどちらかです。この証しは、真理の全ての表現と同様に、分裂を引き起こします。

心の清さのない信仰は危険に瀕している

私たちは、信仰と清さの間にある、この非常に密接なつながりを決して見失ってはなりません。私たちは、この知識によって清められることなしに、真に天主を知ることはできませんし、同時に、清さがなければ天主を知っていると主張することもできません。現実には、ある種の二重の清さがある、というよりもむしろ、清さは霊的生活と信仰生活において二重の役割を果たしているのです。一方では、心の清さは信仰の効果であり、他方では、清さは霊魂に対して、天主についての知識と至福直観への心構えを持たせるものです。清さは原因と結果の両方であるとさえ言えるでしょう。これは、光を受けることと、光を反射して拡散することの両方ができる月に少し似ています。

このことから、信仰を守るための最善の保証は、まず第一に、清さを培うための絶え間ない努力と、この徳に対する愛にあることになります。もし、このような結果が得られないのであれば、他のすべての努力は無駄になってしまうでしょう。

習慣的に、悪魔(優れた心理学者であり、弱点や傾きを持つ人間の霊魂についての専門家)は、善きキリスト信者を背教で直接誘惑することはありません。そんなことをすれば、グロテスクなだけです。むしろ、悪魔はゆっくりと霊魂に働きかけ、この世の精神を吸収させ、この世と妥協した生活や、信仰の要求とはますますかけ離れた生活によって霊魂を徐々に弱めていき、何らかの方法で何とかして霊魂の心の清めを妨げようとします。こうして、霊魂の信仰は、効果がなく、弱く、空虚(教義の内容ではなく、その強さです)なままになり、霊魂を変容させ霊魂の中に生命を生み出して維持する能力を奪われたままになるのです。

これは、気がつかないうちに、また望んでもいないのに、信仰を失ってしまった多くのカトリック信者の悲劇です。背教という行為はありませんでしたが、この世の風潮に押し流されてしまったのです。これらの霊魂には何が欠けていたのでしょうか? 信仰はありましたし、おそらく秘跡も受けることができていたでしょうし、カトリックの良い習慣もいくつか持ってさえいたはずなのです…しかし、おそらく彼らの心は清められていなかったか、あるいは十分に守られてはいなかったのでしょう。この悲劇は、いつか私たちにも起こりうることだと、謙虚に認めなければなりません。

これはまた、共同体においても適用される悲劇でもあり、カトリック教会の歴史において、いくつかの危機を引き起こし、最後には離教や異端になってしまったものです。諸国家全体が、カトリックの信仰とカトリック教会を放棄する用意があったのです。なぜなら、彼らの信仰が徐々に弱くなっていたからです。場合によっては、信仰は取るに足らないものとなったことさえあり、彼らの心に現実の影響を及ぼさなくなってしまったのです。

信仰は表面的なものとなってしまい、おそらく精神を照らすものだったでしょうが、霊魂を深く変容させることも、彼らの生き方に効果を及ぼすこともなかったのです。近代主義というものは、その起源と成功を、天主に無関心な世界、独自のメンタリティーや原理、精神を持つ世界と、どんな犠牲を払ってでも和解したいという望みの中に見いだしました。近代主義者たちは信じ続けたいと思っていましたが、自分たちが現代社会と調和して生き、その知的・道徳的進化に従うことができるという条件付きでした。

それを達成するために、近代主義者たちは、天主が私たちに与えてくださったままの信仰を受け入れ、信仰が霊魂においてそのすべての実を結ぶがままにさせるよりもむしろ、信仰と信仰が要求することを改変する(これは霊魂における信仰の働きを改変した)ことを好みました。この結果は、教会が今日、自ら見ているものであり、信仰の崩壊がカトリックの道徳の崩壊に伴って起きることを明確に示しています。ですから、このすべては、言葉の持つ深い意味での清さの問題に帰結するのです。しかし、これによって弱められてしまった霊魂はどうなるのでしょうか?

盲目で奴隷にされた

霊魂が徐々にこの世の精神や不純物に汚染され、支配されることを許すと、霊魂の霊的能力は損なわれ、時には取り返しのつかない事態を招きます。

まず第一に、知性が暗みます。本当に善いものと悪いものを区別することができなくなり、その結果、善いものを求め、悪いものを避けようとすることができなくなります。霊魂は、事実、霊魂を霊的に盲目とさせる見かけだけの善に従属させられ、隷属されているのです。賢明の徳は、道徳的完徳を達成するための適切な手段を選択するよう霊魂を導くとされていますが、この霊魂の盲目状態は、賢明を行使する際に、非常に深刻な影響を与えることになります。このような霊魂は、忠告に耳を傾けることも、忠告を受けようとすることもできなくなり、その結果、自らに正しい方向性を与えることができなくなるのです。性急で、内省することができず、恒常性を欠くようになってしまいます。そこで霊魂は、自らの存在全体を危うくする不幸な選択を自らに課すのです。

第二に、善であるものを固守する霊魂の能力である意志もまた、心の不純物によって深刻に損なわれます。天主への愛が自己への愛に取って代わられ、自由であるという印象にもかかわらず、霊魂は自分自身の奴隷と化してしまいます。このため、天主や宗教を軽蔑するという段階にまで追いやられます。なぜなら、天主や宗教は、自らの誤謬を否応なく思い起こさせるからです。事態はさらに進むことがあります。なぜなら、現在の生活とその見かけ上の善に執着することは、霊魂に、霊的なものをすべて嫌悪させ、永遠の命に関する絶望にさえ至らせるという乱れを生じさせることもあり得るからです。これが、私たち現代人の多くに見られる、隠された怒りや絶望の原因です。それは何よりも、沈黙のうちに徐々に害を及ぼす、信仰の喪失の原因なのです。

どうすればいいのか?

何よりもまず、落胆してはなりません。それは、生死にかかわる問題ですが、この戦いを可能にするのは天主の聖寵であることを肝に銘じておかなければなりません。この戦いは、信仰から直接流れ出てくるものであり、信仰に厳然と結びついているものです。この戦いは、取るに足らない問題ではなく、絶対的に優先されなければならない戦いです。

とはいえ、清さについて十分に語られていないこと、この徳に関する理解が不足していることも認めなければなりません。このテーマをそれにふさわしい扱いをすることを、私たちに気乗りさせなくするという誤った謙虚さがあります。残念なことに、この徳はしばしば、非常に控えめで個人的なものを連想させ、秘跡としての告白の文脈でしか論じられません。これは大きな間違いです。子どもやティーンエイジャーには、定期的にこの徳について、明らかなことですが、彼らの年齢に適した言葉を用いて話さなければなりません。これは、聖職者、信者を問わず、すべての教育者の義務です。若者は、自分たちが戦うことを義務づけられることになる重要な戦いに備えなければなりません。そして、そのためには、忘れてはならないことが二つあります…。

第一に、清さというものは、この世によって堕落させられておらず、まだ聖寵の影響下にある繊細な霊魂にとっては、非常に強い魅力があります。私たちは、このことをどう生かすかを知らなければなりません。人間の本性は、高い理想に自らを捧げ、その理想があらゆる障害に打ち勝って上へと引き上げられていくようにつくられています。そして、それが人間の本性である以上、時代によっても、現代の技術によっても変わることはありません。犠牲が大きければ大きいほど、自分たちの未来は自分たちでつくるという意識を持った若者の熱心な霊魂は惹きつけられます。十分な教育を受け、十分な準備をした彼らは、この理想を追求するために必要な賢明さを適用するために必要なすべての要素を所有するでしょう。ですから、私たちには、彼らが必要とする知識、助言、模範を提供しないという権利はありません。

第二に、清さに関する教育には、二つの相反する落とし穴があります。私たちは、二つの誤謬の間の弁証法の犠牲になりやすく、欺瞞的な中庸を見つけることで、その誤謬を回避できるとしばしば考えます。

一つは、ピューリタニズムです。すなわち、清さを、適用しなければならない厳格な条項という外的な規則だけに還元するという考えです。これはあまりにも明白な戯画化です。これには、清さとそれに付随するすべてのものを、形式的な厳格さという基準に従って評価する危険性があります。若者を外見崇拝で教育し、本質から遠ざけるのに、これほど効果的なものはありません。他方では、自由主義的な(リベラルな)モデルもあります。これは、いかなる制約も受けないという心の偽(にせ)の自由のために、あらゆる外的な規則を軽んじる傾向があります。

第一のケース【ピューリタニズム】では、あらゆるところに悪を見いだす――悪が主に存在するところ【心の内部】を除いて――傾向があり、第二のケース【リベラルなモデル】では、どこにも悪を見ない傾向があります! この二つの両極端を否定する際の最大の危険性は、ある種の折衷案(happy-medium)、つまり厳格と弛緩の間の妥協点を求めるという危険性です。しかし、この弁証法は有益な解決策をもたらさないため、私たちはそれを排除しなければなりません。このような妥協は、基準点となるものではありません。それは教育者を迷わせ、永遠にやる気を失わせる危険があります。

真の心の清めとは、それとは別のものです。それは、徳としての清さを求めることであり、徳は信仰から直接流れ出るものであり、信仰は、霊魂を深く変容させ、霊魂を上へ、つまり霊魂がつくられた目的【天主】へと霊魂を引き寄せ、霊魂に自らを強化させることができ、霊魂に善いものを追求する心構えを持たせ、その結果、霊魂の完徳を見いだす心構えを持たせます。清さとは、一連の危険を回避した結果であるばかりではありません。清さはまた、使徒たちが私たちの主を知って、主の人格に支配され、すべてを主に捧げたいという願いに燃えたように、主を知るための条件でもあります。「私たちはその栄光を見た。それは、御独り子として御父から受けられた栄光であって、聖寵と真理に満ちておられた」(ヨハネ1章14節)。プラトンの対話篇やイソップ寓話を読むように福音書を読むのではなく、霊魂を回心させて変えることのできる書物として、世界を変えることのできる書物として読むためには、清さが必要条件となります。清さは、真に自由であるための必要条件なのです。

したがって、信仰の光によって目標が明確であり知られているとき、その目標を達成するための適切な手段も明確であるとき、自らの完徳と幸福がその目標に依存していることを霊魂が理解するとき、霊魂があらゆる障害から自由であるとき、その時、霊魂は、その目標を達成するためにすべてを行うことができるのです!

皆様に天主の祝福がありますように!

良き牧者の主日
メンツィンゲンにて

総長ダヴィデ・パリャラーニ神父

Letter to friends and benefactors of the SSPX 92: The purity of the Heart

Lettre aux amis et bienfaiteurs, n°92 : La pureté du cœur


【お便り紹介:情報交換の場】北海道からのお便り

2023年04月27日 | お便り紹介

【お便り紹介】

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
次のようなお便りをいただきました。

【お便り】
小野田神父様
戦国時代は名の知れた人に、カトリック信者がかなりいました。
高山右近、蒲生氏郷、黒田官兵衛、小西行長、 曲直瀬道三、細川ガラシャなど。この人たちの間には情報交換できる機会があったに違いありません。しかし、今の私たちにはそのような情報交換の場がありません。

クレカリは小野田神父様からの情報提供ツールとして機能していますが、なぜ私が聖伝ミサに与かるのか、というメッセージを信者さんが発信する場として活用することはできないでしょうか。…ご検討いただければ幸いです。
【引用終わり】

このメッセージをいただいた直後に、次のようなメッセージをいただきました。本来なら私だけに閉まっておくつもりでした。しかし上のメッセージをいただいた時でしたので、偶然とは思えず、お便りを下さった方の了解を得て、そのままを引用して、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介させていただきます。
また愛する兄弟姉妹の多くの皆様からも、なぜ私が聖伝のミサに与るのか、というメッセージを聞かせていただければ幸いに思います。

【お便り】
誠の神の代理者であり、世の光であられる小野田神父様へ

私の様な者が、小野田神父様にメールを送らせて頂くことをお許しください。

4月22(土)23(日)の聖伝の御ミサでは、夫が二日間大変お世話になりまして、ありがとうございました🙏
夫は、喜びに満ちて帰宅致しました笑

イエス様は
「狭い門から入りなさい。」(マタイ7-13)と仰せになりました。
私達は、その狭い門を見つけることが出来た喜びで、幸せに満たされております。
三位一体の神様に感謝致します💖
マリア様のお取り継ぎにも感謝致します💖

夫は興奮が冷めやらないまま、早朝からロザリオの祈りや聖ピオ十聖会のYouTubeを夫婦で拝聴しておりました。
私達は2021年の11月に田舎に移住してから、小野田神父様のYouTubeに出会い、ずっと拝見しておりました。
東京や大阪の信者さんは聖伝の御ミサに与ることが出来ていいなぁと思っておりました。まさか小野田神父様が北海道にまでいらして下さるとは思ってもみませんでしたので、札幌の信者さんからお声がけして頂いた時は、嬉しくて、また不思議で仕方ありませんでした。
感謝しかありません。
本当にありがとうございます🙏

小野田神父様のYouTubeチャンネルには、大好きな動画が幾つもありますが、その中でも個人的にイチオシの動画をご報告させて頂きます😊

自分の決められた道を走りとおし、主イエスからいただいた、
神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことが出来さえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。
(使徒行伝20-24)
小野田神父様のお働きは、まさに命懸けなのが伝わって参ります。

愛する者よ、あなたの魂が恵まれているように、あなたが全ての面で恵まれ、健康であるようにと祈っています。
(ヨハネの手紙三-2)
小野田神父様のご健康が守られますように、夫婦で心を合わせて祈っております。

返信は不要です😆
最後まで読んで下さりありがとうございました🙏

またお目にかかれる日を楽しみしております😍

〜感謝を込めて〜

これです!
この動画が中でも一番好きです❣️

(…)また別の動画になりますが、
「使徒継承の教えを守る為に、私達の守るべき主の御旨がある。私達に求められているのは、自分達がカトリックの信仰を守って実践して生きること、それで十分、その他のことは天主の御手の内にある」ということを教えて頂きました。
当たり前に聞こえて、実はとても深く、難しいことだと感じました。
そうなれるように、一歩一歩、歩んで行こうと思います。

ありがとうございました。

小野田神父様と聖ピオ十聖会の兄弟姉妹の皆様の為に、お祈りしております🙏
【引用終わり】

【お返事】
お便りをありがとうございます。北海道でミサ聖祭を捧げるというとてつもない大きな喜びを得て、感謝しております。札幌に集ったとても素晴らしい霊魂たちに巡り合うことができたことを心から幸福に思います。冬の寒さの厳しい大地で信仰生活されている方々を拝見して、アメリカの寛大な聖伝の信者の方々に似ているように思いました。

YouTubeでのお話をよく視聴されていると伺い、深く感謝いたします。そのような励ましのお言葉をうかがい、YouTubeでの動画の制作にかかわっている全ての方々が、お喜びになると思います。また、このブログもそうですが、YouTubeを使って直接にお目にかかることのできない方々に、カトリックの聖伝の信仰をお伝えすることができることに感謝いたします。主の光栄のため、霊魂の救いのために、利用することができなによりです。

ますます多くのカトリックの司祭たちが、伝えられたままのカトリック信仰をそのまま説教しますように、お祈りいたしましょう。司祭たちが、環境保全や絶滅危惧種の保全ではなく、霊魂の救いについて説教しますように!十字架につけられたイエズス・キリストについて説教しますように!お祈りいたしましょう。

ロザリオのお祈りのうちに、毎日お会いいたしましょう。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


聖ヒラリオ 証聖者 司教 教会博士

2023年04月27日 | お説教・霊的講話

2023年1月14日修道院ミサ 説教

聖父と聖子と聖霊の御名によりて、アーメン。

愛する兄妹姉妹の皆様、今日は聖ヒラリオ証聖者司教教会博士の祝日です。

聖ヒラリオというのはどういう方だったのでしょうか。私たちに一体何を教えているのでしょうか。

太陽はフランスのアキテーヌ地方の貴族に生まれました。幼い頃から信仰に熱心で、そしてしばらく結婚生活をしていたのですが、そのうちに一人で修道生活を始めました。あまりにも教えについて深い知識と教養とを思っていたので、すぐにポワチエの司教から司教になってほしいと言われ、それを受けることになりました。

特にこの時代には、アリウス派の異端が非常にヨーロッパで盛んだった時です。

聖ヘロニモという教会博士によると、ヨーロッパがあるとき目が覚めた時には世界中がアリウス派の手に落ちていたと言われるほど、アリウス派の異端が広まってしまっていました。

アリウス派の異端というのは何かというと、「イエズス・キリストは立派な人だけれども、単なる人だ。天主の子だと言われるけれども、これは譬えに過ぎない。イエズス様は最高の人間であるにすぎない。」という異端です。現代でもよく聞くような話です。

しかし、カトリックの教えはそうではありません。カトリック教会は、イエズス・キリストは、まことの天主の御ひとり子であって、人となったまことの天主である。まことの天主、まことの人である。天主が人間となった時に、天主であることを止めたわけではない。また半分だけ天主、半分だけ人間ではなくて、完全なる天主であって、同時に完全なる人間である。最も聖なる方であって、そして私たちとはたった一つだけ、たったひとつだけ、罪がないということだけしか違いがない。人間としては罪がないということでしか違いがない、と教えています。

聖ヒラリオはこの教えを守りました。そして、アリウス派に対して、公然と立ち向かいました。三位一体に関する本を12冊書きました。

ところが、その時にローマ皇帝は――その時のローマ皇帝はコンスタンツという人で、アリウス派の手に落ちた人でした――そのために、もしもアリウス派に与(くみ)しなければ全ての財産を没収されて、そして追放の身になりました。そして乱暴な残酷な取り扱いも受けました。聖ヒラリオはそれを喜んで受けて、決してまことのカトリックの信仰を捨てない!と毅然として立ち向かいました。そのため多くの迫害を受けて、国外追放にも遭いました。

国外追放に遭った時、ある教会会議にどうしても出席するように強制させられ、そしてその時にアリウス派の司教たちの現前で、正統信仰を守りました。そしてアリウス派たちを論破しました。あまりにも博学で、あまりにも雄弁で、あまりにも聖徳が高い司教だったので、アリウス派の司教達でさえも、この男はあまりにも立派だから司教にさせないのはもったいない、追放させておくのはもったいないと言って、結局ガリアのもとのポワチエの司教として戻ることになりました。

そして戻るや否や、やはりアリウス派に対する異端の撲滅のために、昂然として立ち向かい、そしてついに368年、平和のうちに霊魂を天主に返したのでした。

聖ヒラリオは、私たちにいったい何を教えているのでしょうか。ちょうど今現代、新しいアリウス派が、イエズス様がまことの天主であるということを否定するような教えが、異端が、全世界に広まっている現代、私たちも聖ヒラリオの御取次ぎを請い願いましょう。

願わくは聖ヒラリオのその精神、その模範とその御取次で、私たちも私たちの出来る限り、イエズス様がまことの天主、人となったまことの天主であるということを証言することができますように。

そのために私たちは馬鹿にされるかもしれません。のけ者にされるかもしれません。そのために私たちは友達を失ってしまうかもしれません。しかし、イエズス様との友情を失うより、イエズス様を失うことと比べると、一体それが何でしょう。聖ヒラリオがやっていたように、私たちも、私たちの祈りと生活の模範と、そして出来る限り私たちの知っている知識で、イエズス様の聖性を証明する御恵みを請い願いましょう。

周りの方々がカトリックの信仰を持ちますように、また最後に聖ヒラリオのような聖なる博学な、そして剛毅のある司教様が私たちに与えられますように、司祭たちが与えられますように、お祈りいたしましょう。マリア様の御取次をお願いしましょう。


イエズスという御名:その名によって奇跡が起こる、その名前だけによって救いがなされる、最も高貴な名前

2023年04月27日 | お説教・霊的講話

2023年1月2日 大阪でのミサ 説教

聖父と聖子と聖霊の御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日は2023年1月2日、イエズス・キリストの御名の祝日を祝っています。
イエズスの御名、これによって聖ペトロは、初代教皇は、奇跡を起こしました。

【イエズス・キリストという御名による奇跡】
ある時、乞食が神殿の前で座って物乞いをしているのを見ると、ペトロは言いました。
「私には金と銀もない。しかし、もっと良いものをあげよう。イエズスの御名により、立って歩け。」
その瞬間、この物乞いは、乞食は、治癒されました。歩くことができるようになりました。

イエズスの御名によって、多くの奇跡が起こりました。多くの聖人たちは、イエズスの御名によって、奇跡を起こしました。イエズスの御名によって、祈りをして奇跡を起こしました。

【イエズス・キリストという御名のみによる永遠の救い】
ところで、この奇跡という善業に対して、聖ペトロは告発されました。
「なぜ、そんなことをしたのか。」
すると、聖ペトロは言います。
「私は、あなた達が十字架につけて、そして復活された方の御名によって治癒させた奇跡をおこなったことによって告発されている。しかし、天上天下、私たちには救われるための一つの名前しか与えられていない。それがイエズス・キリストだ。私たちに教会が与えてくれた御名イエズス・キリスト以外には、私たちの救われる名前はまさにひとつもない。これのみによって救われる。永遠の命を受けることができる。」

奇跡を起こすのみならず、永遠の命を得るにはこの名前しかない、ということを教えています。
すべての人間が知らなければならない名前です。最も聖なる名前、イエズス・キリスト。人となった天主の御名です。救い主という名前です。永遠の昔から決まっていた名前です。

【イエズス・キリストという最も高貴な御名】
第三の点は、このイエズスという名前は、その名前によって奇跡が起こる、そして救いがなされる名前のみならず、この地上で最も高貴な御方の名前です。聖パウロは言っています。この名前の前では、天の上にあるものも、この地上にあるものも、また地の下にあるものも、全て膝をかがめると。この前に跪いて礼拝しなければならない、従わなければならない、逆らうことが誰もできない、という名前です。

イエズスという名前を聞くだけで、天のすべての天使たち、聖人たち、聖女たち、聖母マリア様は、すべてはひれ伏して、礼拝して、賛美します。なぜならこの名前によって救われたから、永遠の命を受けたからです。この地上にいるすべての人々も、そうしなければなりません。煉獄にいる霊魂、また地獄の霊魂達も、この名前を聞くだけで、畏れ多いと従わなければなりません。地獄にいる霊魂にとっては、それは恐怖の名前で、そして打ちのめされる名前に違いありません。しかし私たちにとっては、愛の対象であって、礼拝の対象です。

【遷善の決心】
愛する兄弟の皆さん、ですから、この新年のイエズスの聖なる御名のミサに与って、今年は、どれほど私達は恵まれているでしょうか。この御名は、私たちが、地上で賛美して、感謝して、愛し申し上げ、そして天国ではついに永遠にこの御名をお持ちの方イエズス・キリストと直接まみえてお愛しして、永遠に幸せであるように、私たちの名前が天国に連なることができますように、マリア様の御取り次ぎを請い願いましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


聖母マリアが天主の御母であることの意味

2023年04月25日 | お説教・霊的講話

2023年1月1日 大阪ミサ 説教

愛する兄妹姉妹の皆さん、新年のお慶びを申し上げます。

まず、心から旧年のあいだ受けた多くの皆様のサポートと寛大なご援助を感謝申し上げます。侍者の方々、聖歌隊の方々、この教会を維持・掃除などしてくださって陰で働いてくださっている方々、公教要理を教えてくださっている方々、そんな多くの有形無形の形でサポートをしてくださっている、お祈りあるいは経済的にサポートしてくださっている方々、感謝いたします。

クリスマスの特別献金には、多くの方々が寛大なサポートをしてくださって、今までに138万6千円の現金が集まりました。非常に感謝しています。クリスマスから続けて今朝の東京でのミサまで8回、感謝のために皆様のためにミサを捧げました。このミサは、更に皆さんのためのミサを捧げています。心を合わせてお祈りください。主が何十倍にもして、何百倍にもして、皆さんのお仕事や寛大な愛徳に報いてくださりますようにお祈り申し上げます。

幾つかお知らせがあります。一つは、昨日現地時間で午前9時36分に名誉教皇であるベネディクト16世が亡くなりました。東京の第二回目のミサでもその永遠の安息を、という意向でミサを捧げました。

1月5日にも、修道院で葬儀のためのミサを捧げる予定です。どうぞ皆さんも、ベネディクト16世の霊魂のためにお祈りください。なぜかというと、教皇という役職は地上で最も責任のある最も高い役職ですから、主の厳しい裁きを受けなければなりません。主の憐れみを請い求めたいと思っています。…

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、今日は2023年1月1日、主の御降誕の八日目です。新年のお慶びを申し上げます。

主の御降誕祭では、人間としてお生まれになった天主の神秘について一緒に黙想しました。
ところで今日、主の御降誕の八日目のミサの集祷文をみると、今度は、教会はイエズス様をお産みになった聖母にスポットライトを当てて、こう祈っています。引用します。
「天主よ、御身は、聖マリアの実り豊かな童貞性により、人間に永遠の救いの報いを備え給うた。この同じ聖母を通して、われらは、生命のつくり主である御子われらの主イエズス・キリストを受けることができた、願わくは、この聖母が私たちのために取次ぎ給うことを我らが知るを得んことを。」引用終わります。

ですから、教会がスポットライトを当てている聖母に、特に聖母が天主の御母であるということを一緒に黙想いたしましょう。

キリストの神秘の究極の結論、イエズス様を正しく理解するならば、これに当然たどり着かなければならない「天主の聖母である」というこの神学的な結論、これを黙想致しましょう。もしも、イエズスさまのことを正しく理解しないならば、このことも否定されてしまいます。このイエズスさまの神秘とマリア様の神秘がわかちがたく調和して、一致していて、一方を否定すれば他方も否定される、ということを一緒に黙想いたしましょう。

では、まず第一に、割礼と聖母の関係を黙想致しましょう。
主は聖母とともに割礼を受けました。イエズス様は、御降誕の八日目に、割礼によって最初の贖いの御血を流されました。そのとき、聖母もおられました。もっと正確に言うと、聖母が主をお連れになって主は割礼を受けました。聖母が主に割礼を受けさせた、といってもよいでしょう。これは、イエズス・キリストにとっても、マリアさまにとっても、贖いのための最初の流血の犠牲でした。このすでに人間として産まれたばかりの天主が苦しみの生活をはじめてあられた、ということを意味しています。聖母とともに、私たちの贖いの業をすでに産まれて八日目にされた、ということを意味しています。割礼というのは、第二のアダム、イエス・キリストの犠牲の始まりでした。聖母は、主の犠牲の初穂を主と共にお捧げになります。ところで 幼きイエズスの体内に流れている御血は聖母の体内から受けたものでした。ですから、聖母は割礼の時もまた十字架の時も立ち止まって、捧げておりました。割礼の時には、どうしてもマリアさまがおられなければなりませんでした。

主が御血を流されたことに、どうして贖いの価値があったのでしょうか。第二の点は、この意味をよく知ることです。
主イエズスが御血を流されてその流血に贖いの価値があったというのは、ただひとつ、この理由があるからです。それは主イエズス・キリストが、同時に、まことの天主でありまことの人間であったからです。イエズス様が流された御血は、天主の御血でもあったからです。
イエズス様が贖われた人類の人祖つまり第二のアダムであるためには、単なる純粋なアダム、人間だけでは不足でした。主は、「まことの人となったまことの天主」です。言いかえると、天主の本性――ラテン語ではnatura――天主の本性と人間の本性のこの二つが、天主の御子の唯一のペルソナにおいて固く結合して、イエズス・キリストが存在し始めたのです。これが御托身の玄義といいます。
ですから近代主義者が言うように、次のようなことを言っては異端です。例えば「イエズス・キリストは単なる人間として懐胎されてお生まれになって、後に天主の子となった」、これは異端です。フォティヌス(376年没)という人が主張していた異端です。

カトリックの信仰はこうです。天主の御言葉のぺルソナ、ギリシャ語ではヒュポスタシス、これだけに、唯一のペルソナに置いて、人間の本性が受けとられて、天主の本性と人間の本性とが天主のペルソナにおいて合体した、これです。このような理解と説明だけが、イエズス・キリストの行動が同時に天主の行動であって人間の行動であると説明することができる、可能にするものです。

では第3の点。では、天主の御母ということとキリストの御托身とはどういう関係があるのでしょうか。これは切っても切れない関係があります。
今日の典礼は、聖母が天主の御母であり同時に終生童貞であると祝い、祈っています。何故かというと、天主の御母であるということは、イエズス・キリストの御言葉のペルソナにおいて、天主と人間の二つの本性が合体していることから論理的に導き出される神学的な結論であるからです。

説明します。主の懐胎の最初の瞬間から、人間の本性が天主のペルソナによって、受け取られました。ですから、マリア様の胎内において、天主が懐胎されて、そして、天主が童貞女からお産まれになった、と言わなければならないからです。  
なぜかというと、ある女性が誰かのお母さんであるというのは、たとえばヨゼフさんのお母さんであると言われるのは、その女性がヨゼフさんを懐胎して、そのヨゼフさんをお産みになったからです。
ところで、マリア様は天主イエズス様を懐胎して、最初の瞬間から天主のペルソナを懐胎して、そしてその方をお産みになったのですから、まことに天主の御母と言わなければなりません。
マリア様が人間を懐胎して、その人間があとで天主となったのではないからです。
つまり、マリア様こそが、天主の最初からの天主の御母だと言わなければなりません。

もちろん、マリア様が「天主の本性」というものを生み出した方ではありません。なぜかというと、天主の御言葉、御子は、御父なる天主の実体からお産まれになった永遠の天主であるからです。聖母が天主の御母であるといわれるのは、天主の本性を生んだ母ではなくて、そうではなくて、天主の本性と人間の本性との両方を有しているペルソナを、人間の本性に従ってお産みになったお母さまであるからです。ここで天主の御母ということの「天主」というのは、御子のペルソナのことを意味しています。

天主の御母になったということは、まったく男性の介入なしに母親になったということです。イザヤの預言の通り、マリア様は童貞のまま母となりました。天主の御力によって、聖霊の働きによって、懐胎しました。ですから、マリア様は童貞女のまま天主の母となり、そしてその童貞性を終生守られました。マリア様は終生童貞です。モーゼは、かつて、燃えるやぶが、炎にめらめらと燃えながらも、青々とした緑を保つのを見ました。これは聖母の前兆でした。マリア様という方が来られるということの前兆でした。なぜかというと、御母でありながらも純潔な童貞性を御守りになったからです。聖母において、様々な旧約の前兆が成就しました。

古代からも、西方教会も東方教会も声を合わせて、マリアさまが天主の御母である、そして終生童貞であると宣言して、信仰宣言しています。特に431年のエフェゾ公会議というのは、この信仰の記念碑です。

いったいどんなことがあったかというと、あるクリスマスに、ネストリウスという司教が、コンスタンチノーブルの司教が、マリア様は天主の御母ではない、テオトコスではなく、キリストの御母だと言い出したのです。すると、信者たちはそんなことはないと大騒ぎになりました。そしてその直後にエフェゾ公会議が開かれて、ネストリウスが断罪されたのです。ネストリウスの主張によると、天主のペルソナと別の人間のペルソナとがふたつが合体してひとつのペルソナとなった、と言っていたのです。これはカトリックの正統の教えではありません。ギリシャ語では、彼は天主のヒュポスタシスと人間のヒュポスタシスのふたつのヒュポスタシス、これはペルソナのことです、これが、ふたつがひとつになって、プロソポン、これもペルソナという意味です、となった、と主張して、だから、キリストは、最初は人間としてのペルソナを持っていたと言ったので、マリア様は天主の母ではなくてただのキリストの母に過ぎないと言いました。しかし、それはすぐに断罪されて、そうではない、古代からも、キリストのご托身の玄義を正しく理解すればするほど、私たちは、マリア様は天主の御母であると言わなければならない、と荘厳に宣言されました。

「天主の御母」、これは人間が持つ最高の尊厳です。聖トマス・アクィナスによれば、無限の尊厳だと言います。何故かというと、「天主の御母」というのは、無限の善である天主に由来する尊厳を持っているからです。(Summ. Theo., III. a.6.) これ以上の尊厳はあり得ません。「天主の御母」。ですから、すべての天使たちよりも、セラフィムやケルビムよりも、よりもっと卓越していることで、素晴らしいということです。

マリア様以上の清さと聖なる御方は見出せないほど、清く聖なるおかたです。天主の御母であるということは、聖人がたが受けるようなすべての特権を、マリア様はお持ちになっていたということです。

では最後に遷善の決心を立てましょう。

マリア様を通してイエズス・キリストとともに御父に 私たちをこの一年を奉献いたしましょう。
イエズス様とマリア様とは分かちがたく密接に一致しています。マリア様に関する信仰を深めれば深める程、イエズス様の真理をますます深めることができます。正しく理解することができます。ですからイエズス様に近づくためには、マリア様を理解するのが最もふさわしい方法です。
また、イエズス様のことを深く知れば知るほど、イエズス様に倣ってマリア様をお愛しして、自分をすべてマリア様に委ねたいと思うようになります。マリア様のことを深く知るようになれば、するとまた、イエズス様のことをより良く深く知ることになります。
プロテスタントの方は誤解して、マリア様はイエズス様に向かう障害物であると、主張するかもしれません。その正反対です。聖母こそが私たちにイエズス・キリストを正しく理解させ、近づけてくださる、私たちに、イエズス様をくださる私たちの御母です。
では最後に、マリア様の御取り次ぎで、天主の御母の取り次ぎで、主の神秘に深く入るお恵みを請い求めましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


マリア様が天主の御母であることとはどういう意味か?なぜ天主の御母が終生童貞であることがふさわしかったのか?

2023年04月25日 | お説教・霊的講話

2023年1月1日の東京での説教

愛する兄妹姉妹の皆さま、新年のお慶びを申し上げます。
旧年は皆様から大変な多くの援助をいただきました。特にクリスマスの特別献金には、皆様から合計で、今のところ130万円以上の寛大な支援をいただきました。心から感謝します。

クリスマスの12月25日から今朝の第一回目のミサまで、八日間。皆様のためにミサを捧げました。主が、百倍もの二百倍もの多くの報いを皆様の寛大さに報いてくださいますように、心からお祈り申し上げます。この新しい年が、この2023年が、皆様にとって恵みと祝福に溢れた、素晴らしい良い年であることを心から願っております。

今のこの第二のミサは、昨日突然に私たちが知らせを受けた名誉教皇、引退教皇様であるベネディクト16世が昨日の午前9時34分に亡くなられたという知らせを受けて、特に教皇様の永遠の安息のために、このミサを捧げております。みなさんもぜひミサの中で一緒にお祈りください。葬儀のミサは1月5日にバチカンで行われるとのことです。私どももできるかぎり、1月5日に修道院で葬儀ミサを行おうと計画を立てようとしております。詳しくはまたインターネットなどでご報告いたします。

新年の挨拶のお手紙にも書きましたが、私ども聖ピオ十世会は去年総長様や管区長様の訪問を受けて、そして多くの方々の支援を受けて、常設の御聖堂をぜひ今年のうちには持ちたいと思っております。そしてそのために、皆様方の多くのご協力が必要となることが予想されています。それを心から感謝申し上げます。そうすることによって私たちは、ますます安定した、そしてより荘厳に、より良い奉仕をすることができると信じております。またそのことによって、より多くの方々がカトリックの本当の良さカトリックの昔ながらの信仰に触れる機会があり、より多くの方々の救霊のために働くことができると信じております。

私どもが一番大切にするものは霊魂の救いであって、ミサ聖祭がより聖なるものとして荘厳に捧げられることであって、そしてイエズス様が私たちのために残してくださった救霊のために絶対必要な秘跡がよりよく行われることです。終油の秘跡、悔悛の秘跡、あるいはその他多くの秘跡が素晴らしく行われるために、私たちはどんな犠牲もいとまないで働こうと思っております。皆様のその寛大な助けは、それにとって非常に大切なものです。心から感謝いたします。

来たる6日から9日まで予定通り霊操による黙想会を行います。10名の方が参加される予定です。どうぞ良い黙想会のためにお祈りください。

1月29日、フェレー司教様がこの場所で堅振式をおこないます。朝9時からです。そして、今のところ大阪では5名、東京では16名の方々が申し込みをしています。…昔のやり方で堅振を受けたいという方は申し込みください。

愛する兄弟姉妹の皆様、今日御降誕の八日目、福音では主が割礼を受けて主がイエズス、つまり救い主という名前を受けたというころが読まれました。

それと同時に集禱文では、マリア様にスポットライトを当ててこう祈っております。「主よ、御身は聖マリアの実り豊かな童貞性により、人類に永遠の救いの報いをそなえ給うた。」集禱文では、マリア様は天主の御母であって、同時に終生童貞であるということが歌われています。

【救い主イエズスと聖母との密接な関係】
イエズス・キリストが贖い主として最初に血を流されて、救い主つまりイエズスという名前を付けられたということと、イエズス様が贖い主であるということと、聖母が天主の聖母であり、同時に童貞である、ということは、密接な関係があります。

救い主イエズスとマリア様の密接な関係について、今日は一緒に黙想いたしましょう。

【聖母は天主の御母である】
マリア様が天主の御母であることとはどういう意味でしょうか。

誰かが誰かのある女性の方が誰かのお母さんであるというのは、その誰かを宿してそしてお生みになったからこそ、お母さんであるというのです。イエズス様が、マリア様の御胎内に宿られたその最初の瞬間から、天主のペルソナにおいて人間の本性が合体しました。ですから、マリア様に宿られ、マリア様からお生まれになったのは天主です。マリア様に宿られたのは天主である、マリア様からお生まれになった方も天主であるイエズス・キリストです。マリア様が天主を創ったのではありません。しかし、マリア様に人間として宿られた方が、天主です。まことの天主!ですから、マリア様はイエズス・キリストの御母ですから、天主の御母とどうしても言わなければなりません。

もしもマリア様が、普通の人間をまず御胎内に宿されて、その後にその子供が天主となったのならば、マリア様は天主の御母と呼ぶことはできません。最初に懐胎した時のその最初の瞬間から、天主の御子のペルソナがマリア様の御体内に宿り、人間の本性を受けて、そしてマリア様がその天主のペルソナをお持ちのイエズス・キリストをお生みになったからこそ、マリア様は天主の御母と呼ばれることができます。ですから、イエズス様の御托身の玄義とマリア様が天主の御母であるということは、分かちがたく結びついています。一つを否定すれば、もう一つも否定されます。

最初に贖いの血を流されたイエズス様を抱(いだ)いていたのは、マリア様でした。十字架の上で御血を最後に流されたイエズス様のもとに立っていたのも、マリア様でした。イエズス様とマリア様は、決して分かちがたく、別つことができないほど、結びついている方です。なぜかと言うと、イエズス・キリストは第二のアダムとして、マリア様は第二のエワとして、私たちに、いま、現れているからです。
今日特に黙想したいのは、天主の御子の唯一のペルソナにおいて、天主の本性と人間の本性とが固く結合していたことです。御托身の神秘です。この論理的な結論が、聖母が天主の御母であるということです。

イエズス・キリストは、真(まこと)の天主として同時に真(まこと)の人間として、今日、御降誕の八日目に、割礼の時に御血を流されました。

なぜイエズス様が流された御血にそれほどの贖いの無限の価値があるかと言うと、それはイエズス様が流された血は人間の血であると同時に天主のいと尊き御血であるからです。なぜかと言うとイエズス・キリストは、真(まこと)の天主であって、同時に真(まこと)の人であるからです。イエズス様がなさったことは、同時に天主の行いであって、人間の行いでもあるからです。なぜかと言うと、イエズス様は、御托身の時に、天主の唯一のペルソナにおいて、二つの本性、人間の本性と天主の本性が合体したからです。これをペルソナにおける位格的な結合といいます。ヒュポスタシスにおける結合といいます。ですから、このイエズス様の流された割礼の御血は贖いの価値があるのです。イエズス様は最後に十字架の上で御血を流しますが、その時もマリア様はイエズス様のもとに立ちととどまります。

イエズス様のこの贖いの神秘と、マリア様が天主の母であるという神秘は密接に繋がっています。

【聖母は終生童貞である】

天主の御母となったということは、天主のペルソナが超自然のやり方で聖霊の働きによって、人性を備えたということ、人間の本性を取られたことです。つまり、マリア様が、人間の介入なしに御母となったということです。ですから、マリア様は天主の御母であるために終生童貞であります。

ちょうどモーゼが燃える藪(やぶ)を見たように、炎がメラメラ燃えながらもしかし青々とした緑を保っている藪を見たように、聖母は、天主の御母でありながら同時に純潔な童貞でもありました。聖母がにおいて、燃える薮の前兆は実現しました。これが古代から、西方教会でも東方教会でも声を合わせて信仰宣言し、そして高らかに讃美している聖母が天主の御母であり童貞であることです。

天主の御母が童貞であることがふさわしかったのは、聖トマス・アクィナスによれば、四つの理由があります。
(1)イエズス・キリストが天主御父の本当の本性による御子であるので、天主御父以外の別の父があるべきではありませんでした。そこで、聖母は童貞であることがふさわしかったのです。
(2)イエズス・キリストが天主の御言葉であるので(私たちの心に言葉が宿されるとき、心には劣化するものが何もないように)、天主の御言葉が肉として宿されるとき、母親を劣化させることはふさわしくないからです。そこで聖母は童貞のままであることがふさわしかったのです。
(3)キリストの人間本性が、原罪の伝達がなされずに、尊厳を保ったままでいるために、聖母は童貞のままであることがふさわしかったのです。
(4)キリストの御托身の目的は、私たちが天主の子として生まれ変わることでした。「血統ではなく、肉体の意志ではなく、人の意志ではなく、ただ天主によって生まれた人々」(ヨハネ1:13)となることです。私たちのかしらであるキリストが、童貞から生まれることによって、その神秘体の肢体である私たちも、童貞なる教会から霊的に生まれるべきであるという模範となるのがふさわしかったのです。

まとめて見ると、御托身の玄義と密接に関係のあるのが、天主の御母(Deipara、あるいはTheotocos)という神秘です。
聖母が天主の御母であるがゆえに、聖母は終生童貞(semper virgo)ということがふさわしかったのです。これを特に431年のエフェゾ公会議は荘厳に宣言して、信仰の記念碑としました。

では、今日遷善の決心を立てることにいたしましょう。イエズス様がマリア様と共に御血を流されて、御父にそれを捧げられたように、この2023年をマリア様とともに、マリア様を通して、イエズス様とともに御父にお捧げいたしましょう。

マリア様とイエズス・キリストは分かちがたく密接に一致しています。ですから、もしもイエズス様のことを深く知れば知るほど、聖母のことを深く知ります。聖母のことを深く知れば知るほど、イエズス様の神秘を深く理解することができます。ですから、イエズス・キリストに近づくためには、マリア様が絶対に通らなければならない道なのです。ちょうどイエズス様がマリア様を通って私たちのもとに来たように。プロテスタントの方々が言うようにマリア様はイエズス様に向かう障害物ではなくて、むしろ助けです。私たちの母です。

イエズス様こそがマリア様を通して私たちのもとに来られたのですから、私たちもマリア様を通してイエズス様を深く知ることを、キリストもお望みであるからです。

今日特にマリア様に、天主の御母であるマリア様に、終生童貞なるマリア様に、イエズス・キリストを私たちが深く知り、イエズス様をお愛しする御恵みを請い求めましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


「だから、刈り入れの主に、働き人を刈り入れに遣わしてくださるように祈れ」の持つ深い意味

2023年04月24日 | お説教・霊的講話

「だから、刈り入れの主に…祈れ」についての説教

ドモルネ神父 2023年4月23日

はじめに

今日は、司祭の召命がテーマです。福音の中で、私たちの主イエズス・キリストはご自分を良き羊飼いに例えておられます。良き羊飼いがしっかりと自分の羊の世話をし、保護するように、イエズスも霊魂の世話をされ、保護されるのです。私たちの主は、ご自分がお選びになる人たちを通して、霊魂の世話をなさいます。その人たちが司祭です。福音の他の箇所で、イエズスは、霊魂を畑の収穫物に例え、ご自身をその収穫物の所有者に例えておられます。実際、イエズスは、すべての人の贖いのために十字架上で亡くなられ、それによって、すべての人に対する所有権を獲得されました。そして、イエズスは、ご自分の名によって霊魂の世話をするために遣わされる司祭を、畑で働く人に例えておられます。ですから、イエズスはこう勧めておられます。「刈り入れは多いが、働く人は少ない。だから、刈り入れの主に、働き人を刈り入れに遣わしてくださるように祈れ」(マテオ9章38節)。今日は、この言葉の意味についてお話しします。

1.第一の意味:司祭の力すなわち司祭の謙遜を増大させること

聖ヨハネ・クリゾストモはこう言っています。イエズスが、「だから、刈り入れの主に、働き人を刈り入れに遣わしてくださるように祈れ」と言われた後、それにもかかわらず、使徒たちの数に、誰一人も加えられなかった。使徒たちは、12人のままであった。主は、使徒たちの数を増すのではなく、使徒たちの力を増すことによって、彼らを何倍にも増やされたのである。したがって、働き人を刈り入れに遣わすということは、霊魂の救いのために働く司祭の力を増すということを意味します。

しかし、司祭の力とは何でしょうか? 奇跡を起こす能力でしょうか? 違います。うまく説教することでしょうか? 違います。有名になり、社会的エリートの人々と知り合いになることでしょうか? 違います。司祭は私たちの主の代理人であり、道具です。司祭の力とは、司祭の内にあるイエズス・キリストの力なのです。司祭が力を発揮するのは、自ら障害を置かず、イエズスが司祭を通して行動してくださるようにするときです。ですから、司祭が謙遜になればなるほど、また、自分の弱さを自覚すればするほど、自分の意志を空しくすればするほど、そして、すべてにおいて、私たちの主のご意志につながればつながるほど、司祭はもっともっと力を発揮するようになるのです。これこそ、聖パウロが、次のように述べて示した真理です。「だから私は特に喜んで自分の弱さを誇りにしよう。そうすれば、キリストの力は私に住まわれるであろう」(コリント後書12章9節)。

アルスの聖なる司祭、聖ヨハネ・マリア・ヴィアンネーを思い出してください。彼は、人として平凡な教育しか受けなかった司祭で、田舎にある小さな村の教区司祭でした。彼は、ほとんどお金を持っていませんでした。彼は、他人からは、少し軽蔑されていました。しかし、彼の謙遜、清貧の精神、私たちの主への愛のために、彼の力があまりにも十分に発揮されたため、ある日、悪魔は彼にこう言いました。「おまえはどれほど俺を苦しめていることか! もしおまえのようなやつがこの世に3人いたら、俺の王国は滅びてしまうだろう!」。アルスというちっぽけで貧しい村の小さな司祭は、自らの謙遜によって、その力を余すことなく発揮したため、世界中の教区司祭の守護聖人となりました。

ですから、私たちの主が「だから、刈り入れの主に、働き人を刈り入れに遣わしてくださるように祈れ」と言われるのは、次のような意味なのです。「私の司祭たちが、自分たちを空しくして、私の力を、自分たちを通して、障害なく、霊魂の上に行使できるように、謙遜、清貧、貞潔、愛徳の力強い恩寵をお与えください、と私に願いなさい」。

2.第二の意味:司祭の数を増大させること

ここで、イエズスの御言葉の第二の意味について見てみましょう。聖ヒエロニムスはこのように説明しています。「大いなる刈り入れとは、数多くの人々のことを意味しており、働き人の数が少ないということは、宣教すべき人が乏しいことを意味する」。また、聖レミギウスはこう言っています。「使徒の数は、これらの膨大な刈り入れに比べれば、実にわずかであった。さて、救い主は、宣教者たち、すなわち使徒たちとその後継者たちに、彼らの数が増大することを日々願うようにと、勧められる」。ですから、働き人を刈り入れに遣わすということは、この世で司祭の数を増やすということを意味します。

司祭の数は、召命を通して、つまり呼びかけを通して増大します。呼びかけには、二つの側面があります。呼ぶ人と、呼ばれる人です。ですから、人が司祭になるためには、この二つの側面のことを考えなければなりません。

呼ぶ人は、私たちの主イエズスです。主は霊魂の救い主であり、主だけが人の心を動かし、回心させ、天主の愛のうちに成長させられます。私たちの主は、ご自分の恩寵を霊魂に与えるという使命のための代理人を、自由に選んで呼ばれます。イエズスが使徒たちに言われた言葉を思い出してください。「あなたたちが私を選んだのではなく、私があなたたちを選んだ。私があなたたちを立てたのは、あなたたちが行くためである」(ヨハネ15章16節)。ですから、主が「だから、刈り入れの主に、働き人を刈り入れに遣わしてくださるように祈れ」と言われるのは、次の意味です。つまり、「もっと多くの人に、私が司祭職の恩寵を与えるよう、私に願いなさい」ということです。なぜ、イエズスは、私たちがこのようなことを願うように望まれるのでしょうか? それは、司祭職の恩寵が、特別な恩寵であって、人が受けるに値しえないものであり、天主の無限の善意と御あわれみに訴えることによってのみ得られるものであることを、私たちが理解するようになるためです。この恩寵を願わない人たちは、自分たちがその価値を理解していないことを示しています。ですから、その人たちは、その恩寵に値しないのです。

召命には、呼ぶ人がいて、呼ばれる人がいます。もし呼ばれる人が呼びかけを聞かなかったり、呼びかけに応じたくなかったりすれば、その呼びかけは無駄になってしまいます。ですから、主が「だから、刈り入れの主に、働き人を刈り入れに遣わしてくださるように祈れ」と言われるのは、次のような意味でもあるのです。「私の呼びかける人たちが、私の呼びかけを聞き、それに寛大に応じることができるように、彼らに力強い恩寵をお与えください、と私に願いなさい」。実際、呼ばれた人の中には、完全な貞潔という犠牲を払いたくない人もいます。十字架にかけられたイエズスについて宣教することよりも、この世的な野心を満たすことを好む人たちもいます。福音に出てくる金持ちの青年のように、自分の物質的な財産を犠牲にしたくない人たちもいます。イエズスに呼ばれた人たちが、その呼びかけに応じることができるためには、特別で力強い恩寵を必要としています。ですから、私たちはその人たちのために、この恩寵を願わなければならないのです。

しかし、言葉による祈りだけでは、そのような恩寵を願うには十分ではありません。真の祈りとは、具体的な行動へと広がるものです。そうでなければ、単なる口先だけのものになってしまいます。私たちは、呼ばれた人たちが、私たちの主の呼びかけに積極的に応じることができるよう、彼らを助けなければなりません。何をすればいいのでしょうか? 一般的に言えば、私たちの主は、司祭を、幼少期から十代にかけて呼び始められます。ですから、子どもたちや十代の人たちが、この呼びかけを聞き、それに応えられるようにすることが、とても重要です。どのようにすれば、それが可能になるのでしょうか? それは、真にキリスト教的な雰囲気の中で生活させることです。両親は、イエズスとマリアが真に王と元后である家庭の根底から、私たちの主を不快にさせるものをすべて追い出す家庭生活を、子どもたちに与えましょう。カテキスタは、生徒たちに、カトリックの信仰を確信をもって指導し、日々の徳の実践を指導しましょう。司祭は、ミサと秘跡、説教と会話を通して、父としての配慮、主への奉仕における熱意と喜びを通して、若い信者たちに、天主の栄光と霊魂の救いのために自分を捧げたいという願いを伝えましょう。

子どもや若者が深いキリスト教的な雰囲気に包まれることで、私たちの主の呼びかけに、簡単かつ寛大に応じる心構えができるようになります。このような雰囲気がなければ、この世の誘惑がイエズスの呼びかけを抑え込んでしまう可能性があります。

結論

親愛なる信者の皆さん、私たちの主のこの簡単な御言葉「だから、刈り入れの主に、働き人を刈り入れに遣わしてくださるように祈れ」の持つ、深い意味を見てください。それが意味するのは、主の司祭たちが謙遜と聖性のうちに成長できるようイエズスに恩寵を願うこと、この世のもっと多くの人たちに司祭職の賜物を与えてくださるようイエズスに願うこと、呼ばれた人たちがイエズスの呼びかけに寛大に応じることを助けてくださるようイエズスに願うこと、子どもたちや若者たちに真にキリスト教的な生活の手段を与えるために私たちが最善を尽くすことをイエズスに約束することです。

大司祭の御母である聖母が、御子とともに取り次いでくださり、私たちのためにこれらすべての恩寵を獲得してくださいますように。



Rogate ergo Dominum messis, ut mittat operarios in messem suam.


聖ピオ十世会 カトリック聖伝のミサの報告【東京】【大坂】【札幌】 Traditional Latin Mass in Japan SSPX Japan

2023年04月24日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

2023年4月23日、東京ではレネ神父様がミサを捧げてくださいました。大阪ではドモルネ神父様が司式してくださいました。愛する兄弟姉妹の皆様のしもべは札幌でミサを捧げました。北海道におられる愛する兄弟姉妹の皆様とまた出会うことができてとても嬉しく思いました。

東京のミサに来られた方は、子供達も入れて合計98人でした。大阪では36人でした。札幌では、前回と同じようで、40~50人が参加されました。

札幌では、土曜日と主日のミサのあとで、旧約聖書に預言された聖母の勝利についてお話をしました。前回は旧約聖書に預言されたイエズス・キリストの前兆・前表についてお話しいたしましたので、その続きでした。旧約聖書では一人の男と、三人の女性が敵の頭を打ち砕きます。ダヴィドがゴリアトを、ヤエルがシセラを、テベツの女性がアビメレクを、ユディットがホロフェルネを打ち倒します。
聖母は、旧約の前兆で預言された通り、サタンの頭を踏み砕くべきお方です。

ファチマのシスター・ルチアは、キリストとサタンとの最後の戦いについて、カファラ枢機卿に宛てて手紙を書きました。この最後の戦いとは、婚姻と家族に関することで、堕胎と同性婚の合法化の動きがまさにこれにあたります。カトリック教会は、堕胎と同性愛について、それが邪悪であると恐れずに声を上げなければなりません。

カファラ枢機卿はルチアの手紙について言っています。「こう書いてありました。婚姻と家族についてのキリストとサタンの王国との決定的な対立の時が来るでしょう。婚姻と家族のために働く人々は艱難と迫害を被るでしょう。しかし、恐れないでください。聖母はすでにサタンの頭を踏み砕いたからです。」

アジア管区の神学生たちのための特別献金、東京では50,250円、大阪では141,100円が集まりました。札幌では、普通の献金は行いましたが、特別献金については今回行いませんでした。日本からの合計は191,350円でした。寛大な御寄附に心から感謝申し上げます。ありがとうございます。




【報告】
Dear Fathers:
Shown below are the number of attendees at today's Sunday masses in Tokyo. The total number of attendees at today's Sunday masses in Tokyo was 98 including children.

09:00 mass
M: 26 (incl. 4 children)
F: 26 (incl. 3 children)
Total: 52 (incl. 7 children)

11:30 mass
M: 24 (incl. 4 children)
F: 27 (incl. 5 children)
Total: 51 (incl. 9 children)

Total of 2 masses (excl. 5 persons who participated in multiple masses)
M: 48 (incl. 8 children)
F: 50 (incl. 8 children)
Total: 98 (incl. 16 children)


来たる4月22日(土曜日)、4月23日(主日)には、北海道青少年会館 Compass での聖伝のミサに愛する兄弟姉妹の皆様をご招待いたします

2023年04月23日 | 聖伝のミサの予定

アヴェ・マリア・インマクラータ!

カトリック札幌司教区におられる愛する兄弟姉妹の皆様、

私たちの主イエズス・キリストの御復活おめでとうございます!



来たる4月22日(土曜日)と4月23日(主日)には、北海道青少年会館 Compass 会議室1にて、聖伝のミサが行われます。

愛する兄弟姉妹の皆様をご招待いたします。予約の必要はありません。どなたでも自由にご参加できます。
https://hs-compass.com/

4月22日(土曜日)10:00よりミサ聖祭
4月23日(主日)10:00よりミサ聖祭

ミサのあとには二日にわたって、三回にわけて、旧約聖書のいろいろなところで預言された聖母の勝利について、霊的な講話を行う予定です。

【聖ピオ十世会とは】

聖ピオ十世会、SSPX (the Society of Saint Pius X)とは、1970年11月1日にスイスのフリブール教区においてローマ・カトリック教会の教会法に従って創立されたカトリック教会の修道会の一つです。創立以来、カトリック信者の要請に応える形で、全世界での使徒活動をますます拡大しています。

* 教皇フランシスコは聖ピオ十世会の司祭たちに適法に使徒職を果たす権能をお与えになっています。教皇は書簡「ミゼリコルディア・エト・ミゼラ」で、聖ピオ十世会の司祭たちが世界中ですべての信者のために告白の秘蹟を行う権限を持つと宣言されました。さらに教皇は聖ピオ十世会の婚姻の秘蹟が有効に執行するように全世界の司教たちに彼らの協力をお求めになられました。

* 聖ピオ十世会の司祭は、ラテン語でカトリック聖伝のミサ(Traditional Latin Mass)を捧げています。ミサの典文(Canon)の中では、教皇フランシスコの名前と当地の教区長の名前(札幌司教区ではベルナルド勝谷太治司教)を唱えます。教皇ベネディクト十六世は自発教書「スンモールム・ポンティフィクム」の中で、全てのカトリック司祭は聖伝のミサを捧げる権利を有していると宣言されました。何故なら、聖伝のミサは一度も廃止されたことがないからです。

「過去の人々にとって神聖だったものは、わたしたちにとっても神聖であり、偉大なものであり続けます。それが突然すべて禁じられることも、さらには有害なものと考えられることもありえません。わたしたちは皆、教会の信仰と祈りの中で成長してきた富を守り、それにふさわしい場を与えなければなりません。」(ベネディクト十六世)

* 聖ピオ十世会の司祭たちは、伝えられたままの純粋なカトリック教えをそのまま伝えようと全力を尽くしています。カトリック教会が、信じてきた全てのカトリックのドグマと信教(Credo)をそのまま変えずに信じ、信仰宣言しています。また同時にカトリック教会によって排斥された全ての異端に対して反対しています。過去から変わることなく伝えられた正統信仰こそ真理における一致を促進し、分裂を避けさせるものです。

* 聖ピオ十世会の司祭たちは、カトリック教会がそう信じ続けてきたように、特に御聖体における私たちの主イエズス・キリストの現存を深く信じています。また、カトリック教会以外には霊魂の救いがないと信じます。

*教皇庁教理省は「同会の聖職者は、教会法上の制裁から解放されている」(いかなる制裁も受けていない)と認めています。

* 聖ピオ十世会の司祭は、領域上(司教区)の法的身分(裁治権)も属人的裁治権も有しておりません。しかし必要の状況に置かれた信徒たちのために、教会法によって補足された法的身分(裁治権)を有しています。私たちの主イエズス・キリストは霊魂の救いと聖化のために通常で主要な手段として秘蹟を制定されました。カトリック教会は、必要とする人々が秘蹟(特に改悛の秘蹟)をいつでも受けることができることを欲しています。何故なら教会の最高の法は霊魂の救い(教会法1752条)だからです。

* カトリック教会は、教会法の規定(144条)によって、組織上の当局を通さずに法的身分(裁治権)を補足します。カトリック信者は、いつでも告解を必要とするとき、その判断と助言を信頼することができると思う司祭から改悛の秘蹟を受けることができます。しかもその司祭が通常のやり方で法的身分(裁治権)を有していなくてもそれができます。さらには、しかも教会法(1335条)の言葉によると「いかなる正当な理由でも」信徒がこれを求めるのであれば、聖職停止あるいは破門された司祭であってもこれができます。

ルフェーブル大司教の言葉を引用します。

「私たちには教会の2000年の聖伝がついています。10年やそこらの新しい「公会議後の教会」ではありません。「公会議後の教会」とは、ベネリ司教が私たちに言ったことです。ベネリ司教は私たちに「公会議後の教会に従え」と要求しました。私は「公会議後の教会」など知りません。私の知っているのはカトリック教会だけです。」

「私たちは、この立場をしっかりと保たなければなりません。私たちの信仰のためであれば、何でも甘受しなければなりません。全ての苦しみを。あざけられ、破門され、叩かれ、迫害を受ける覚悟をして下さい。もしかしたら将来、政府が私たちを迫害するかもしれません。この可能性さえもあります。なぜなら、教会を崩壊させるのはフリーメーソンの業だからです。フリーメーソンはありとあらゆるところで命令を下しています。ですから、もし彼らが私たちにフリーメーソンの計画を危うくするほどの力があると見れば、政府が迫害を始めるでしょう。そうなれば、私たちはカタコンブの中に入りましょう。私たちはどこにでも行きましょう。しかし、私たちは信じ続けます。私たちは、私たちの信仰を捨てるつもりはありません。私たちは迫害を受けるでしょう。私たち以前にも、信仰のために多くの人々が迫害を受けました。私たちが1番最初だというわけではありません。しかし、少なくとも、私たちは、イエズス・キリストの信者であるということの名誉を、誉れをイエズス・キリストに捧げることが出来ます。主を捨てず、主を裏切らず、忠実であったという名誉です。これが私たちのしなければならないことです。確固としていることができるように祈りましょう。」

「…聖母に祈りましょう。聖母のように、私たちの心にも一つの愛が、私たちの主イエズス・キリストに対する唯一の愛のみがありますように。私たちの心に深く刻まれている名前は、イエズス・キリスト以外ないことを。イエズス・キリストこそが天主であり、救い主であり、永遠の司祭、全てのものの王にして、主は今、天にましまし、この天では主のみ王なのです。天においてイエズス・キリスト以外王はいません。イエズス・キリストこそが、全ての天使、聖母、聖ヨゼフ、全ての選ばれたものの至福であり、私たちもこの至福、この誉れ、この栄光、この私たちの主の愛に参与することを望みます。私たちの知っているのは、イエズス・キリストのみであり、私たちは、私たちの主イエズス・キリスト以外誰をも知ることを望みません。」

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


白衣の主日の説教:永遠の命を信じます

2023年04月20日 | お説教・霊的講話

白衣の主日の説教:永遠の命を信じます

レネ神父 2023年4月16日 大阪

親愛なる兄弟の皆さん、

永遠の命を信じます。

この、使徒信経の最後の箇条は、私たちの主の御復活によって証明されています。死は、命の終わりではありません。死は、「この」命の終わりに過ぎません。しかし、私たちの霊魂、私たちの精神は、それ以降も存在し続けて、世界の終わりに、再び私たちの体と結び合わされるのです。私たちの主イエズス・キリストは、福音の中で何度も永遠の命を約束されました。そして主は、ご自身の御約束を実現なされ得ることを、その栄(は)えある御復活によって、証明されたのです!

人がどのような人生観を持っていても、死は難しい問題です。この世での私たちの人生の目的は何でしょうか?過ぎ去ってしまうような喜びは、すべて、いささかむなしい、まやかしに過ぎません。私たちは、その喜びが永遠に続くことを望みますが、それが不可能であることを知っています。地上の喜びが永遠に続くことはあり得ませんし、私たちが死ぬ前にもう終わってしまうこともよくあるのです。そこで、世俗的な人たちは、こう結論づけます。それなら、この地上での快楽を、今できる間に、できるだけ楽しもう、明日はもう楽しめないかもしれないから。この人たちは、まさに、預言者イザヤを大いに悲しませたことを言っているのです。「人々は、たのしみ、よろこび、牛をころし、羊ののどを切り、肉をくい、ぶどう酒を飲んでいた。『食おう、のもう、あすは、死ぬのだから。』」(イザヤ22章13節)

そして、この世俗的な態度は、愚かなものです。このような人たちが、まるで動物のようにこの世の快楽に身を任せているまさにその時、その快楽が過ぎ去るものであるという、まさにその事実に悲しみを覚え、またそれに加えて、自分自身の罪の重荷を積み上げてしまっているからです。「万軍の主は、私の耳に、こう、おおせられた。『たしかに、この罪は、つぐなわれない、あなたたちが、死ぬまで。』」(イザヤ22章)

この世の物事を、慎みなく急いで楽しもうとする人たちは、しばしば、その愚かな行為の最中に倒れるのです。それは、私たちの主が、ファリザイ人にこう言われた通りです。「ある金持ちがいた。畑が豊かに実(みの)ったので、その人は心の中で『さてどうしよう。作物をおさめる所がないが・・・』と考え、『ではこうしよう、倉をこわしてもっと大きいのを建て、そこに穀物と財産とをみなおさめよう。そして、自分の霊魂に向かって、霊魂よ、おまえはもうこれから長い年月をすごせる多くの財をたくわえたから、休め、飲め、食べよ、楽しめ』といった。ところが、天主は、その人に、『おろかな者よ、あなたの霊魂は、今晩よびもどされるのだ。すると、あなたのたくわえたものはだれのものになるのか』とおおせられた。」(ルカ12章16-20節)私たちは、私たちに死が訪れる日も、時間も知らないのです。

また他の人たちは、地上の喜びを追い求めますが、その喜びはいつも逃げ去ってしまうのです。過ぎ去ってしまう喜びを求めれば求めるほど、その喜びは彼らのもとから、もっと速く逃げ去ってしまうのです。そのような人生も、おろかで、無駄なものです!

賢人はこう言いました。「死が遅くないことを忘れるな」(集会14章2節)死が来るのが遅くないとは、死がすぐに来ること、私たちが思っているよりも早く来るということです!

財産と権力をもっていたソロモンは、自分の人生の終わりが近づいた時、それを思ってこう結論づけました。「空(むな)しいことの空(むな)しさ、とコヘレットはいう、空(むな)しいことの空(むな)しさ、すべては空(むな)しい。」(伝道1章2節)「私は、この世でおこなわれることを、じっと見きわめたが、すべては空(むな)しいことで、風を追うに似ていた。」(伝道1章14節)「私は心のなかで自分にこういった。『さあ、快楽を味わいにくるがよい、幸福を味わうがよい』、だが、これも空(むな)しいことだ。」それは、無駄で、むなしく、まやかしで、そのために生きるには値しないものです。

天主との友情から離れる時間はすべて、永遠に失われてしまいます。

天主は、私たちをこの地上に永遠にいるようにされたのではなく、この地上で、天主とともにある天国の永遠の喜びを得るための功徳を積むようにされたのです。この地上での本当の喜びとは、この天国での喜びを求めて歩むことにあります。それは、聖パウロがこう言った通りです。「希望の喜びをもて。」(ローマ12章12節)これこそがこの地上での本当の喜び、キリストとともに天国への道を歩む喜びであって、その道は、私たちの主イエズス・キリストご自身です。主は、「道であり、真理であり、命」です。(ヨハネ14章6節)これが、天主との友情の喜び、永遠の命の本当の始まりです。

すでに旧約において、自らの罪をまことに悔(く)いて、正しく聖なる生活を送る悔い改めた人に、永遠の命が約束されています。「もし、悪人が、おかした罪から身をひき、私のおきてを守り、正義と公正とを実行するなら、その人は、生きのび、ふたたび死ぬことはない。…かれが反省して、おかした悪をしりぞけるなら、かれは、生きのびて、ふたたび死ぬことはない。」(エゼキエル18章21節、28節)「悪人[ではあったが悔い改めた者]が、借金のかたを返し、ぬすんだものを返し、悪をおこなわずに、私のいのちの定めを守るなら、かれは、かならず生きて、もう死ぬことはない。」(エゼキエル33章15節)そして、イザヤはこう言います。「あなた以外の神が、自分によりたのむもののために、これほどのことをされたと、耳にきいたこともなく、目でみたこともない。」(イザヤ64章4節)また、ダヴィドはすでにこう歌っていました。「主よ、あなたのいつくしみは深い!あなたをおそれる人々のために、あなたはそれを備(そな)え、あなたにより頼む人々のために、それを貯(たくわ)える、人の子らの前で。」(詩篇30篇20章)そしてまた、「あなたに身をよせる者は喜び、いついつまでも喜びを味わう。あなたのご保護によって、喜びおどれ、み名を愛する人々よ。」(詩篇5篇12章)

しかし、この約束がさらにずっと明確になるのは、新約においてです。旧約聖書の中では、「永遠の命」という表現は4回出てきますが、新約聖書の中では、41回も出てくるのです!私たちの主イエズス・キリストは、御聖体のことについて話されたとき、永遠の命と肉身のよみがえりを、三度もお約束になりました。「私の父のみ旨とは、子を見て信じる人々にみな、永遠の命をうけさせ、終わりの日に私がかれらを復活させることである。」(ヨハネ6章40節)「私をおつかわしになった父がおよびにならないかぎり、だれ一人私のところには来られない。私は、終わりの日に、その人々を復活させよう。」(ヨハネ6章44節)「私の肉を食べ、私の血をのむ人は永遠の命を有し、終わりの日に、その人々を私は復活させる。」(ヨハネ6章55節)

私たちの主のみ言葉に、よく注意してください。「私の肉を食べ、私の血をのむ人は永遠の命を有し」ということは、その人は、霊魂において、今すでに、その永遠の命の始まりを持っているということです。そして、「終わりの日に、その人々を私は復活させる。」ですから、あきらかに二つの命があります。体の命と、霊魂の命です。霊魂は、成聖の恩寵の状態にあれば、この地上ですでに永遠の命の始まりをもっており、善を行った人々の体はこの世の終わりに復活し、そして永遠の命を有することになるのです。(罪をもったまま死んだ人々は、「審判の復活のため」、つまり排斥されるためによみがえり、自らの罪の報いを、永遠に地獄で受け続けることになります。)

体は、霊魂と結びついているときは生きています。霊魂は、天主と結びついているときは生きています。死んでも、成聖の恩寵の状態にある霊魂は、天主と一致しつづけ、この命は、もはや体の制約をうけず、至福直観へと至ります。(それは、もし完全にその準備ができていれば、すぐにですが、小罪のけがれがいささかでも残っていれば、それを浄(きよ)めるため、またもし負債が残っていればそれを返すために、煉獄で一定の期間を過ごしたのちになります。)

この永遠の命の約束は、私たちの主が、他の多くの箇所でも、私たちに与えてくださいました。「私の名のために、家や、兄弟や、姉妹や、父や、母や、子や、田畑をすてる人は、みな、その百倍のものをうけ、永遠の命をうけつぐであろう。」(マテオ19章29節)「モイゼが荒れ野で蛇を上げたように、人の子もあげられなければならない。それは、信じるすべての人が、かれによって永遠の命をえるためである。天主はおんひとり子をお与えになるほど、この世を愛された。それは、かれを信じる人々がみな亡(ほろ)びることなく、永遠の命をうけるためである。」(ヨハネ3章14-16節)「私の羊は私の声をききわけ、私にしたがい、私もかれらを知っている。私はかれらに永遠の命をあたえる。かれらは永遠に亡(ほろ)びず、そして私の手からだれも、かれらをうばえない。」(ヨハネ10章27-28節)私たちの主イエズス・キリストは、最後の審判を、このみ言葉で締めくくられます。「そして、これらの人[つまり悪人]は永遠の罰をうけ、義人は永遠の生命にはいるであろう。」(マテオ25章46節)

そして、聖パウロはこう言います。「天主の正しい裁きは、…おのおのの業(わざ)にしたがって報い、根気よく善業をおこなって、光栄と名誉と不滅を求める人々には、永遠の生命を、お報いになる。」(ローマ2章5-7節)「罪から解放された今、天主の奴隷となって、聖徳の実を結んだ、その果ては永遠の命である。」(ローマ6章22節)「霊にまく人は、霊から永遠の命を刈り取る。」(ガラティア6章8節)そして、ティモテオに対して、聖パウロはこう言います。「信仰のよい戦いを戦え。あなたがそのために召された永遠の生命をとらえよ。」(ティモテオ前6章12節)

最後に、聖ヨハネがもっとも明確に述べています。「そしてかれ自身が私たちに約束されたことは、すなわち永遠の命である。」(ヨハネ第一書簡2章25節)「その証明とは、天主が私たちに永遠の命をあたえられたこと、その命がみ子にあることである。み子をもつ者は命をもち、天主の子をもたない者は命をもたない。私が、以上のことを、天主の子の名を信じるあなたたちに書いたのは、あなたたちに永遠の命があることを知らせるためであった。」(ヨハネ第一書簡5章11-13節)

親愛なる信者の皆さん、これらすべての驚くべき約束に強められ、勇気をもって、熱烈に、天国への道を進みましょう!罪のくびきをすべて切り、「天に宝をつみ」(マテオ6章20節)ましょう。喜びをもって徳を実践しましょう。徳には、報い、永遠の命という無限の報いがあるからです!

初期のキリスト教徒たちは、このことがたいへん良くわかっていたので、拷問や死を怖れませんでした。私たちの主イエズス・キリストが永遠の命という報いをくださることを知っていたので、主をあかしするために、自分の命をすすんで捧げたのです!これこそが、長崎の殉教者たち、そして日本のすべての殉教者たちの信仰でした。

これはすべて、私たちの主イエズス・キリストの恩寵の実です。主は、私たちが罪から離れ、まことに痛悔し、生き方を変えるよう、助けてくださいます。私たちが徳を実行するのを助け、私たちを強めてくださいます。主は、私たちの模範、私たちの贖(あがな)い主、私たちの王、私たちを命の水への道に導いてくださる私たちの善(よ)き羊飼いです。そして、主が、天国における私たちの喜びです。

まさに、この永遠の命が、天主の至福直観、栄光の光です。「主よ、天にはあなたの愛、あなたの真実は、雲に及ぶ。あなたの正義は天主の山、あなたの審(さば)きは、深淵(しんえん)のようだ。…天主よ、あなたの愛は尊い!そこで、人の子は、あなたの翼にかくれる。かれらは、あなたの家の油に酔い、あなたのよろこびの流れにうるおされる。実に、あなたには、命の泉があり、あなたの光において、われらは、光を見る。」(詩篇35篇6-10章)

聖ヨハネは、これについて、またこのようにも書き記しています。「かんがえよ、私たちは天主の子と称されるほど、おん父から、はかりがたい愛を与えられた。私たちは天主の子である。この世が私たちを認めないのは、おん父を認めないからである。愛するものたちよ、私たちはいま、天主の子である。のちにどうなるかは、まだあらわれていないが、それがあらわれるとき、私たちは天主に似たものになることを知っている。私たちはかれをそのまま見るであろうから。主が清いお方であるように、主にたいするこの希望をもつ者は清くなる。」(ヨハネ第一書簡3章1-3節)

すでにこの永遠の命をおもちの童貞聖マリアと天国の全ての聖人たちが、その祈りと模範とによって、私たちが、天に栄光をもってしろしめしておられる、「私たちの信仰の創始者であり、完成者である」(ヘブライ12章2節)私たちの主イエズス・キリストを見据えて、堅い決意をもって天国への道を歩むことを、助けてくださいますように。アーメン。


【参考資料】【ヴィガノ大司教】IN AZYMIS SINCERITATIS(清さの種なしパン):御復活の主日の説教

2023年04月20日 | 聖伝のミサの予定

【参考資料】IN AZYMIS SINCERITATIS(清さの種なしパン):御復活の主日の説教

2023年4月9日(主日)

IN AZYMIS SINCERITATIS: Homily for Easter Sunday

カルロ・マリア・ヴィガノ

Fratres: Expurgate vetus fermentum
ut sitis nova conspersio, sicut estis azymi.
Etenim Pascha nostrum immolatus est Christus.
Itaque epulemur: non in fermento veteri,
neque in fermento malitiæ, et nequitiæ:
sed in azymis sinceritatis et veritatis.

兄弟たちよ、あなたたちは新しい練り粉になるために、
古いパン種を取り除かねばならぬ。
あなたたちは種なしパンだからである。
私たちの過ぎ越しの小羊であるキリストは、すでにいけにえとなられた。
では、古いパン種ではなく、
悪意と邪悪のパン種でもなく、
清さと真理の種なしパンを用いて祝いを行おう。
コリント前書5章7-8節

現代世界は、嘘の人質になっています。エリートによって理論化され、制度によって肯定され、メディアによって宣伝されるものは、すべて嘘であり、虚偽であり、欺瞞です。

サイコパンデミックの緊急事態は嘘です。すべては、健康に有害なのと同じくらい効果のない集団ワクチンを接種させるために、実験室で作られたウイルスのせいです。ジェンダー論は嘘です。創造主が意図された男女の区別を否定し、人間における天主の像と似姿を取り消そうとします。気候変動は嘘です。人工的な気候危機という偽りの前提に基づくものであって、また、特定の国々の二酸化炭素排出量を削減することで地球の温度を最小限に変えることができるという、さらなる偽りのキメラ【想像上の怪物】に基づくものです。ウクライナ危機は嘘です。ロシア連邦に対する理不尽な制裁によって、欧州諸国の社会的・経済的基盤を破壊するために引き起こされたものです。アジェンダ2030は嘘です。人類を奴隷化するために破壊転覆者集団によって押しつけられているものです。覚醒(Woke)イデオロギーは嘘です。新世界秩序(New World Oder)という地獄の宗教とグレート・リセットの野蛮さを押し付けるために、私たちのアイデンティティー、私たちの歴史、私たちの信仰を取り消しを引き起こすものです。

最も懸念されるのは、諸国民に対するこの詐欺行為(諸国民を保護し擁護すべき権力者たちによって長く行われているもの)が、教会組織にも感染していることです。そこでは、同様に深刻な虚偽が信仰の純粋さを腐敗させ、天主の御稜威(みいつ)を傷つけ、主が多大の犠牲を払った末にいと尊き御血で買い取られた多くの霊魂の滅びを引き起こしています。エキュメニズムは嘘です。生ける真の天主を諸民族の偶像のレベルにまで貶めるものです。シノドスの道は嘘です。天主の民に耳を傾けるという偽りの口実のもとに、キリストが意図された教会の神聖な構造を破壊しているものです。典礼改革は嘘です。ミサを信者に理解しやすくするという口実で導入され、天主から名誉を奪って異端者を喜ばせることだけを意図しているものです。女性助祭は嘘です。女性に役割を与えるという口実をもってミサと秘跡を攻撃し、私たちの主によって制定された聖なる品級の秘跡を改ざんするものです。離婚して同棲しているカップルがご聖体を受けることができるというのは嘘です。同性愛の結合を祝福することは嘘です。神学校に性転換者が入学することができるというのは嘘です。ベルゴリオがどう言おうとも、道徳はその時々の流行に従うものではありません。同性愛行為を受け入れることは嘘です。あわれな罪人の霊魂を救うのというよりもむしろ、多くの高位聖職者や聖職者の行為を正当化しようと望んでいるように見えることが、あまりにも頻繁にあります。

これらの嘘は、合理的あるいは信頼できる論拠を欠いた明らかな虚偽として、図々しくも表に出て来ています。これらの嘘は、何かを不器用に隠そうとするための嘘ではなく、改ざんをしたり、論理を転覆させたり、真実を否定したりするための傲慢な宣言なのです。

しかし、なぜ多くの人々が自らの批判的判断を放棄して、露骨な嘘を合理的で真実であるものとして受け入れることを進んで選択するのでしょうか。なぜなら、誤謬に固執することは、この世が自らの崇拝者たちに、つまり、疎外され、犯罪者にされ、迫害されることを望まない人々に対して求める代償だからです。ところで、嘘の父であり、初めから殺人者だったサタンでないとするならば、嘘のかしらはいったい誰だというのでしょうか。サタンは、私たちの最初の父祖を、「この実を食べれば、神々のようになれる」という、これ以上ないほど図々しい嘘で誘惑しました。これは図々しい虚偽であり、これを信じることによってアダムとエワは理性を捨てて、忌まわしい被造物【サタン】が行った偽りの約束に従うために、天主に背くことを選択したのです。

サタンが砂漠で私たちの主を誘惑したときに主に約束した「このすべてをあなたにやろう」というのも嘘でした。何故なら、キリストがすでにその【「このすべて」の】主人であっただけでなく、すべての創造主でもあったからです。

私たちの主イエズス・キリストの死からの御復活を祝うこの最も聖なる日のミサの書簡の中で、使徒パウロは「古いパン種を取り除く」(Expurgate vetus fermentum)ようにと勧めています。古代のパンの作り方に詳しい人なら誰でも知っていることですが、小麦粉と水を混ぜて発酵させたものが母生地であり、これを発酵させたままにしておくと、パン種の塊となります。母生地は何十年も保存でき、定期的に新しい粉と水で練り直すことで、今日のパンは、過去にさかのぼる昔のすべてのパンと実質的につながっています。しかし、fermentum(発酵物)がvetus(古いもの)であれば、発酵物が古いものであれば、これは、新しい生地や新しいパンに影響を与えます。古いパン種を取り除くことが意味するのは、最初からやり直し、個々の霊魂と社会の体の真の「グレート・リセット」を成し遂げ、悪意と倒錯のパン種を取り消し、種なしパンで新しく始めることです。その種なしパンは、キリストが教会と交わした新しい永遠の契約の「聖なるエウカリスティアにして御聖体」のかたどりであり、恩寵のうちに新しくなり、時代、流行、状況の変化に左右されないものなのです。

このため、聖パウロはアジムス(azymus)、すなわち、種なしパンのことを語っています。質素(austerity)なパン、母生地を生きたまま保存する時間がない人のパン、エジプトの地を捨て紅海を渡る前に、傷のない小羊と苦菜を食べるために腰の帯を締めて準備する人のパンです。リセット、新創造、新しい過ぎ越しは、唯一無二の欠くことのできない永遠の真理、永遠の御父の生ける真の御言葉であるキリストにおいて成就されます。真のリセットとは、キリストの真理に、ご自身のことを「私は道であり、真理であり、命である」と言われたお方の真理に立ち返ることです。真理は、存在します。それに対して誤謬には存在がありません。真理は、私たちの側に清さを要求します(in azymis sinderitatis 清さの種なしパン)が、それは真理(et vertatis 真理)の光に対して必要とされる応答として要求するのです。

天主の猿まねをする者であるサタンは、分別のある人なら誰でもそのようなもの【模倣物】だと認識する奇怪なものに従事することで、グロテスクに創造を模倣します。サタンは、さらにグロテスクに贖いを模倣し、自分にとって未知である善、自分自身が最初に所有してはいない善を人に約束し、その見返りに、人がサタンを神として認めるように求めます。私たちは、サタンのこの法則をそのままに認識すべきであり、それを拒絶し、それに対して戦うべきです。

私たちが真理のために(神学的な真理だけでなく、あらゆる真理[真実]のために)戦うなら、私たちはキリストの側に、使徒たちにご自分の死と復活を告知なさったときに嘘をおつきにならなかったお方の側に身を置くことになります。

そうではなく、私たちが真理のために戦わないことを選択するなら、あるいは誤謬が宣言されるのを許すか、自らそれを広めるなら、私たちは嘘のかしらであるサタンの側に、つまり約束をしてそれを守らない者の側に身を置くのです。サタンが嘘をつく唯一の目的は、私たちを滅びの深淵に引きずり込むため、つまり、サタン自身が、傲慢の罪――自らが天主の座に就いて、何がそうであって何がそうでないのか、すなわち、何が真理で何が嘘か、何が善で何が悪か、何が美しくて何が醜いかを決めることができるなどと思いあがった罪――を犯したときに、彼が自ら選択した同じ滅びの深淵に私たちを陥れるためです。実際、私たちが真っ逆さまに突っ込んでいる地獄のような世界は今日、嘘と悪意と醜さでできています。それ以外のものではあり得ません。

サタンがこの世のかしらと呼ばれるのは偶然ではありません。彼は王ではなく、彼の力ははかないものであって、それが天主によって許されるのは、試練の期間が終わり、審判の瞬間が訪れるまでです。それは、サタンのしもべたちにとっても同じことです。たとえ彼らの力が私たちを圧倒するように見えても、彼らの思い通りになる手段が限りなく圧倒的なものであるように見えても、キリストがその普遍的な御国を取り戻されるとき、彼らの終わりは容赦なく近づいています。「天主は速やかに治められるべし」(Oportet illum regnare. コリント前書15章25節)、それが起こることが必要であり、それは天主のご意志による秩序であり、誰も、すべての地獄を合わせても、見かけ上の悪の凱旋を一瞬たりとも長引かせることはできません。

わずか2日前、私たちは最高法院(サンヘドリン)の策略、群衆の騒動、処刑人の拷問を経て、主の御受難と死の神秘を観想していました。アリマタヤのヨゼフや敬虔な婦人たちとともに、私たちは命なきイエズスのご遺体に墓所まで同行しました。私たちは、教会のむき出しの沈黙の中で祈り続けました。しかし、「Consummatum est」は、「すべてが失われた」という意味ではなく、むしろ「すべてが成就した」、つまり、「贖いのわざが成し遂げられた」という意味なのです。

Χριστὸς ἀνέστη(クリストス・アネスティ)は、「キリストはよみがえり給えり」というギリシャ語の復活祭の挨拶です。この挨拶に対して、「Ἀληθῶς ἀνέστη(アリトース・アネスティ)――まことに主はよみがえり給えり――Surrexit Dominus vere」という応答がなされます。そのἀληθῶς(アリトース、まことに)、そのvere(まことに)には、救い主の御復活という現実、すなわち、人にして天主であるお方の御あわれみが、サタンの嘘によって引き起こされたアダムの罪を償うという歴史的出来事の真理が含まれています。サタンは、偽りの証人によってキリストを告発したときに嘘をつき続けたのであり、今日でも贖いの実を挫こうとして嘘をついています。

今日、Exsultetの荘厳な歌声が御復活の栄光を告げた後、死と罪に対するキリストの凱旋、サタンに対するキリストの勝利をお祝いしましょう。また、神秘体の運命は、その天主なるかしらが、いにしえの蛇を十字架に釘付けになさった瞬間に定められたのですから、教会とキリスト教文明が地上の敵に勝利したこともお祝いしましょう。Mors et vita duello, conflixere mirando:Dux vitæ mortuus, regnat vivus.(死と命は、驚くべき決闘を行い、命の主は死しても、生きて治め給う)。

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ

2023年4月9日
主の御復活の主日
Dominica Paschatis, in Resurrectione Domini

英語版 IN AZYMIS SINCERITATIS: Homily for Easter Sunday

イタリア語版 Mons. Viganò, Omelia di Pasqua. Il Mondo Moderno e la Menzogna.


聖ピオ十世会 カトリック聖伝のミサの報告【東京】【大坂】 Traditional Latin Mass in Japan SSPX Japan

2023年04月20日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

白衣の主日、東京ではミサはドモルネ神父様が司式してくださいました。東京のミサに来られた方は、子供達も入れて合計105人でした。
大阪ではレネ神父様がミサを捧げてくださり、ミサの参加者は36人でした。

愛する兄弟姉妹の皆様のしもべは、聖ピオ十世シスター会のアメリカの修練院で、シスターの着衣式、初誓願、終生請願の儀式に参加しておりました。

聖伝の修道会は、若い修道志願者たちが多く、儀式には子だくさんの多くの家族が参加し、修道生活を志願する少女たちの姿も多く見受けられました。アメリカは豊かな国ですが、カトリックの聖伝では、アメリカの人々は、とても寛大で赤ちゃんや子供たちの多い大家族が笑顔が輝く、大きく成長しているコミュニティーであることがよくわかりました。願わくは、カトリック聖伝の信仰の火が日本にも燃え広がり、日本にいる私たちが、愛をこめて主の御旨にしたがおうと努める大きな共同体にますます成長していきますように!









【報告】【東京】
Dear Fathers:

Shown below are the number of attendees at today's Sunday masses in Tokyo. The total number of attendees at today's Sunday masses in Tokyo was 105 including children.

09:00 mass
M: 26 (incl. 4 children)
F: 30 (incl. 9 children)
Total: 56 (incl. 13 children)

11:30 mass
M: 25 (incl. 3 children)
F: 29 (incl. 3 children)
Total: 54 (incl. 6 children)

Total of 2 masses (excl. 5 persons who participated in multiple masses)
M: 47 (incl. 7 children)
F: 58 (incl. 12 children)
Total: 105 (incl. 19 children)


緊急洗礼:死の危険の人に洗礼を授けることができる条件は何か?

2023年04月19日 | お説教・霊的講話

異教徒に洗礼を授けるために必要な条件についての説教

ドモルネ神父 2023年4月16日

はじめに

復活祭には、私たちの主イエズス・キリストの御復活をお祝いします。また、イエズスが御受難と御復活の効果を私たちに伝えてくださる洗礼の秘跡もお祝いします。洗礼を受ける前、私たちは、霊的に死んでいます。すなわち、私たちの内に天主の命はありません。天主が私たちを創造されたとき、私たちはこの命を持っていましたが、原罪によってその命を失ってしまったのです。洗礼を通して、私たちは霊的に復活させられます。つまり、私たちが失ってしまった天主の命が、イエズス・キリストを通して私たちに再び与えられるのです。洗礼を通して、私たちは天主の子として復活させられます。永遠の幸福に入るためには、洗礼を受けることが絶対に必要です。私たちの主はニコデモに、はっきりとこう言われました。「まことにまことに私は言う。水と聖霊によってもう一度生まれぬ者は、天主の国に入れぬ」(ヨハネ3章5節)。

今日は、異教徒に洗礼を授けるために不可欠な条件についてお話しします。次のような状況を想像してください。皆さんの家族の誰かが死の危険にあって、その人は洗礼を受けておらず、司祭は来られない、というものです。皆さんは、その人に洗礼を授けることができるのでしょうか? どのような条件のもとでなら、できるのでしょうか?

1)同意の必要性

第一の条件は、その人が、洗礼を受けることを受け入れることです。本人の意思に反して洗礼を授けることは、決してできません。そうするならば、洗礼は無効になってしまいます。これには二つの理由があります。第一に、私たちの主イエズスは、私たちを天国に招待しておられるのであって、それを強制されるのではありません。主は、私たちが進んで主の招待を受け入れることを期待しておられるのです。聖アウグスティヌスの有名な言葉を思い出してください。「あなたなしであなたを創造した天主は、あなたなしであなたを救うことはない」。第二に、洗礼は秘跡です。秘跡とは、イエズス・キリストが霊魂に恩寵を伝えるために制定なさった手段です。秘跡は神聖なものであり、敬意をもって扱わなければなりません。ですから、敬意をもって扱うためには、それを進んで受けなければなりません。イエズスはこう言われました。「聖なるものを犬にやってはならぬ。真珠を豚に投げ与えてはならぬ。そうすれば相手は足で踏みつけ、向き直ってあなたをかみ裂くであろう」(マテオ7章6節)。

大人や、理性を行使できる子どもに洗礼を授けるためには、その人が洗礼に同意することが絶対に必要です。このため、洗礼の儀式では、求道者に洗礼を授ける直前に、司祭は言葉に出して、こう尋ねます。「あなたは洗礼を望みますか?」。ですから、もし皆さんが人に緊急に洗礼を授けようとするならば、同じ質問をして、その答えが肯定でなければなりません。

その人が意識を失っていて、もう質問に答えられなくなっている場合は、どうすればいいのでしょうか? もしその人が、以前からカトリック信者になりたい、洗礼を受けたいという真面目な意思を表明していたのであれば、洗礼を授けることができます。しかし、その人がそのような意思をまったく表明したことがない場合は、洗礼を授けることはできません。

もしその人が理性を行使できなかったような人であって、そのために私たちの質問に答えられない場合は、どうでしょうか? もし、切迫した死の危険がある場合には、たとえ両親や保護者が洗礼に反対していても、その人に洗礼を授けることができます。しかし、切迫した死の危険がない場合は、その人の両親や保護者の同意がなければ、洗礼を授けることは許されていません。

2)信じることが必要

洗礼を受けるための第二の条件は、信じることです。実際、私たちの主はこう言われました。「信じて洗礼を受ける者は救われ、信じない者は滅ぼされる」(マルコ16章16節)。洗礼を受けるためには、少なくとも、どんなことを信じなければならないのでしょうか? 少なくとも次の四つの真理を、明示的に信じなければなりません。

●第一の真理は、天主が存在し、唯一の天主が存在する、ということです。私たちは、第一存在のことを「天主」と呼んでいます。第一存在とは、自分自身で存在と命を持っている者、誰からも何も受けずに、自分自身ですべての完全性を有する者、存在するすべてのものに存在と命を与える者のことです。

●明示的に信じるべき第二の真理は、天主は善人に報いを与え、悪人を罰せられるということです。天主は、人間の生活における道徳的な法を設けられました。善と悪の境界線を決めるのは、この法です。したがって、死んだ後、天主は、天主の法に従った者に報いを与え、逆に従わなかった者を罰せられるのです。

●明示的に信じるべき第三の真理は、天主がイエズス・キリストの御名の下に、人となられたことです。天主が人となられたのは、ご自分の御苦しみと死を通して私たちの罪を償い、それによって私たちを清め、私たちが天主の命にあずかることができるようにするためでした。

●明示的に信じるべき第四の真理は、天主には御父、御子、聖霊と呼ばれる三つのペルソナが存在することです。この三つのペルソナは唯一の天主であり、互いに完全に等しく、それは、正三角形の三つの辺が等しく、それらが唯一の三角形を形づくるのと少し似ています。人となられてイエズス・キリストの御名を取られたのは、子なる天主です。

この四つの真理を、明示的に信じることが必要です。このことは、みなさんが誰かに洗礼を授ける前に、司祭が洗礼を授けるときのように、言葉に出して質問しなければならない、ということを意味します。司祭はこう質問します。

○「天地の創造主、全能の父なる天主を信じますか?」
○「その御ひとりごにして、この世に生まれ、われらのために苦しみを受け給うた、われらの主イエズス・キリストを信じますか?」
○「聖霊、罪の赦し、肉身のよみがえり、終わりなき命を信じますか?」

これらの質問に対して、その人が心から「はい」と答えた場合にのみ、私たちは洗礼を授けることができるのです。

3)罪の痛悔の必要性

洗礼を受けるための第三の条件は、自分の罪を心から悔い改めることです。洗礼は原罪とすべての自罪を取り除きますから、洗礼の前には告解をする必要はありません。しかし、自分の罪をすべて悔い改めることは必要です。もし私たちが悔い改めをせず、罪深い習慣を捨てないならば、天主は私たちをお赦しにはなりません。例えば、同棲している人は、洗礼を受ける前に同棲を解消しなければなりません。別の例えをあげれば、他人に不当で深刻な損害を与えた人は、できるだけ早くその損害を償う意志を持っていなければなりません。自分の罪を悔い改めていない人、あるいは罪深い態度を捨てたがらない人は、洗礼を受けることができません。

結論

親愛なる信者の皆さん、司祭がいない場合、切迫した死の危険にある人に洗礼を授ける前に、皆さんは次の三つの条件を確認しなければなりません。その人に洗礼を受ける意思があること、その人が先に述べた四つの真理を明示的に信じていること、そして、その人が人生のすべての罪を心から悔い改めていることです。

もし、その人がこれらの条件の一つでも拒否するならば、皆さんはその人に洗礼を授けることはできません。そのような悲しい状況では、せめてその人に不思議のメダイを渡し、その人と一緒に童貞聖マリアに祈るようにしてください。聖ベルナルドは、こう言ったからです。「マリアの御保護によりすがりて御助けを求め、あえて御取り次ぎを願える者、一人として棄てられしこと、いにしえより今に至るまで、世に聞こえざる」。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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