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2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

聖ピオ十世会 日本における2月の聖伝のミサ報告 SSPX Japan Traditional Latin Mass

2016年02月24日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 先週はマニラでアジア管区の司祭たちのために毎年行われる研修会がありました。フィリピンで働いている司祭たちはもちろん、スリ・ランカの修道院長のワリエ神父様、シンガポールの修道院長ロスキ神父様、インドで働いているハトラップ神父様など、全員で15名の司祭たちがマリア様について考察し研修会を行いました。大変有意義な時を過ごすことができたことを天主様に感謝します。ただ、研修会のために今回は大阪での金・土曜日のミサをすることができなかったことが残念です。





 2月21日、東京で、四旬節第2主日ミサを歌ミサで行いました。子供達を含めて40名の霊魂たちが聖伝のミサに与ることができ、天主に感謝します。福音では私たちの主イエズス・キリストの御変容の記事がありました。イエズス・キリストが三人の弟子達を選んで、彼らの前でご自分の本当の姿を見せた事実です。そこで、主の御変容は私たちに何を教えようとしているのか? 何故、四旬節に御変容のことを読むのか? 主の御変容が私たちに与える中核のメッセージは何なのか? そのメッセージを理解したと言うことを、私たちはどういうことで示すことができるのか? 主の御変容を理解すると、私たちはどう変化するのか? ということを黙想するために、そのガイドとして、百年前にファチマで、聖母がやはり三人の子供達にご自分の姿を見せた事実を考察しました。子供達がどのように変わったのか? 私たちはどのように行動しなければならないのか? 私たちの四旬節の決心はどうあるべきか? という黙想を提案しました。

 御聖体拝領後の祈りのあとで、灰の水曜日に灰を受けることができなかった方々のために灰の儀式を行いました。グレゴリオ聖歌と荘厳な祈りの元にこの儀式ができ、四旬節をよりよく過ごすことができるお恵みを祈ることができ、大変幸福です。

 午後は、公教要理として、「玄義」「奥義」と言うことについて復習しました。「奥義」信仰の玄義・ミステリーを信じるということは、よく理解できないけれどただ鵜呑みに信じるということなのか? もしもそうなら「鰯の頭も信心」とどう違うのか? 「鰯」の信心と、日本カトリック教会の生んだ知的指導者である「岩下」神父様のいう玄義を信じることと、どこがどう違っているのか? 玄義を信じるとは何なのか? 鰯の頭を信心するとはどういうことなのか? 聖ピオ十世の公教要理を基に、岩下神父様の「カトリック信仰」の本を引用しながら、17~18名の公教要理参加者の方々と一緒により深い理解へと深めていきました。

 カトリック信仰は、理性を使って真理を信じると言うこと。天主の啓示した信仰の真理のなかには、理性を超越するものがあるけれども、それは理性に反していないこと。何故なら、真理の源である天主が啓示したことと、天主が創った理性とは、矛盾することがあり得ないこと。人間の視力は光を感じる能力だけれども、太陽光線のようにあまりにも光が強烈すぎると目がくらんでしまうように、天主の真理の輝きが、人間理性の能力を超えるほど強烈すぎる場合があること。など、「真理」「理性」「啓示」というキーワードが大切であることを理解しました。理性は、それが真に天主からの啓示であるか否かを探求すること。それが真の天主からのものであると分かるやいなや、理性は、真理を啓示された天主の御稜威に跪く、それが玄義を信じることであること、を見ました。

 カトリック信仰の玄義に対して、鰯の信心には、真理に関する理性による探求も、啓示も存在しないことを見ました。参加者の中には大変鋭いご指摘をした方がいられました。鰯の信心には「ご利益」の追求しかない、この世において「儲かる」「都合が良い」「自分の思い通りに何でもうまくいく」、だから信心が成立するのだ、と。おかしな新興宗教に走るのだ、と。

 たしかに、その通りです。よくあるのは、それを買うと、交通安全・家内安全・商売繁盛・開運厄除・社運隆昌・病気平癒・試験合格・良縁成立・工事安全・旅行安全・心願成就・国土平穏・五穀豊穣・出世開運・招福除災・豊漁繁栄・航海安全・金運良好・産業繁栄・家系繁栄、云々のご利益があるよ、というものです。このようなご利益のための信心には、真理と理性とが、全く無関係です。また、このような信心は、人間の前に、人間の奉仕のために、神々が奉仕しなければならないということを前提としています。

 ある方は、では理性を超える玄義を友人たちに伝えるために、どのような順序を撮ると良いのか? といういつも日常で体験している疑問を投げかけてくれました。

 大変有意義な公教要理の時を過ごした後に、天主の啓示を知るための二つの源の一つとして、聖書に話が移りました。しかし、時間が切れてしまったので、これについてはまた次回に続きをすることになりました。

 来月の3月には、やはりミサが二回あります。東京では、3月6日の四旬節第4主日と、3月20日の枝の主日です。3月には聖ピオ十世会の総長補佐のネリー神父様が私と一緒に日本に来てくださることになりました! 神父様には、午後に特別の講話をしていただく予定です。愛する兄弟姉妹の皆様のお越しをお待ちしております。


 次のようなご報告をいただいたのでご紹介します。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


【報告】
Dear Fr Onoda:

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 15人(内、子供1人)
女: 25人(内、子供2人)
計: 40人(内、子供3人)

愛を込めた祈りと、犠牲について。ー「百夫長」の信仰に倣うにはー

2016年02月20日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 2月11日、灰の水曜日後の木曜日に大阪で行った聖伝のミサでのお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!

2016年2月11日 灰の水曜日後の木曜日
小野田神父 説教




 聖母の汚れ無き御心巡回教会にようこそ。今日は2016年2月11日、灰の水曜日の後の木曜日のミサをしております。

 今日のミサの後に、30分ほど公教要理の勉強会があります。公教要理では、この前の続きで、カトリックの信仰の核心を友達に説明するには、一体どこがどうしたら良いのか。カトリックとプロテスタントの違いを、決定的な違いはどこにあるのか、という事を、主に考察したいと思っています。

 
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

 愛する兄弟の皆さん、昨日から四旬節に入りました。私たちはますます、四旬節の中に深く入る事に致しましょう。今日はミサでは、エゼキア王が病気で死なんとしている時に、預言者がイザヤが送られて、「お前はもう、命も幾ばくも無い。」と、言われると、するとエゼキア王が心を込めてお祈りをした。するとその祈りを聞き入れられて、命が15年加えられ、天主様は、「エルサレムを敵から守る。王からも守る。民も守る。」という、祈りの効果について話されました。

 また聖福音も同じです。しもべが病になっていた百夫長がイエズス様の元にやってきて、「しもべが病です。どうぞイエズス様、一言仰って下さい。そうすれば治ります。来て頂くには及びません。」と言うと、「なんと深い信仰なのか。その祈りは聞き入れられた。お前の信じた通りになれ。」と言って、その時にしもべは治った。この百夫長の祈りは聞き入れられて、しもべが治ったという話です。

 ですから私たちも今日は、祈り、愛を込めた祈りと、犠牲について、私たちは百夫長にどのように倣ったら良いか、その「これほどの信仰を見た事がない」と言われる百夫長の信仰に倣うには、どのようにしたら良いか、という事を黙想する事に致しましょう。今日の黙想のその導き手としては、私はルルドのマリア様に、日本の過去の偉大なる殉教者や、或いは聖なる日本の私たちの信仰における先祖に目を馳せて、私たちもそれに、その導き手としてガイドとして、その百夫長の信仰と祈りを真似る手がかりとしたいと思っています。遷善の決心を立てる事に致しましょう。

 特に今年の四旬節を、日本の多くの兄弟姉妹の方々の回心の為に、日本の為に、この祈りと犠牲を捧げる決心を立てる事に致しましょう。

 ではこの百夫長の祈りと信仰あるこの祈りの確信はどこにあったのでしょうか?それは、「イエズス様が全て、天主として支配されておられるですから、一言さえ述べれば、全てそれは御旨のままになる。この地上に起こっている全ての事は、イエズス様の全て御旨の次第である。」という全くの確信にあります。ですから百夫長はイエズス様に、「どうぞそれを望んで下さい、そう命じて下さい。」と言ったのでした。「全てをイエズス様のもとに、御旨のままに従います。」という信仰を告白したのでした。

 ルルドのマリア様も同じでした。ルルドのマリア様は1858年の今日から始まって18回、聖女ベルナデッタ・スビルーに現れました。その時にマリア様は、聖女ベルナデッタに、「お祈りをするように。」と、お願いしました。「私が誰かは最後に申し上げましょう。」ゆっくりと十字架を切って、手を合わせて、天にまします、ロザリオの祈りを、マリア様と共にベルナデッタは唱えました。

 マリア様は仰るには、「悔悛しなさい。悔悛しなさい。悔悛しなさい。」「償いをしなさい。償いをしなさい。償いをしなさい。」祈りと償いを、ベルナデッタに求めました。そのベルナデッタにこうも言うのです、「私はあなたに、この地上においては幸せを、幸福を約束しません。しかし後の世においては、はい、約束します。」

 マリア様は、祈りと償いを持って、私たちはこの短い人生を、永遠の為に生きるように、私たちにとって一番の価値のあるものは、この地上でどれほど楽をしたか、この地上でどれほど面白おかしく暮らしたかではなくて、どれほどイエス様と一致して、愛を込めて祈り、愛を込めて犠牲を払い、生贄を捧げ、イエズス様と一緒になって世の贖いに協力したか。この地上での全ての事は、天国を得る為だけにあるという事を、ベルナデッタに教えてくれました。

 まさに四旬節の教えそのものです。私たちは今日どうしても、建国記念日でもありますし、日本の先祖に、日本の英雄たちに、どうしても目を向けざるを得ません。1549年8月15日に、聖フランシスコ・ザベリオは鹿児島にやって来て、初めてイエズス・キリストの聖福音を私たちに教えてくれました。つまり、「私たちはこの地上で、十字架を愛し、イエズス・キリストを知り、イエズス・キリスト愛し、イエズス・キリストに仕え、おのが十字架を取ってイエズス・キリストに従い、そうする事によって、救霊の、永遠の命を得なければならない」という事を。「私たちは罪人であるけれども、天主様の御あわれみによりて、天主が人となって、苦しみを受けて、私たちの罪の為に御血を流して下さった事。その御あわれみによって、私たちは全て赦される事ができる」と。

 その天主からの無限のあわれみと赦しと、永遠の命の福音を、私たちの先祖は受けたのでした。多くの大名をはじめ、皇族貴族、それから身分の低い者もこぞってキリシタンとなり、洗礼を受け、福音のイエズス様の教えを喜んで受け入れてきました。

 聖フランシスコ・ザビエルがやって来て既に50年の後には、1597年2月5日には、私たちは数日前その祝日を祝ったばかりですが、日本では26名の信仰の初穂がその血を流し、犠牲と祈りを果たしつつも、天主様に尊き命を捧げ、この日本の多くの霊魂の回心と、救いと、永遠の幸せの為に、祈りと犠牲を捧げました。

 その時に皆、テ・デウムを歌いながら、天主に感謝しながら、26人の聖人たちは命を捧げていきました。中には子供もいました。高山右近に仕えた大名の子であった、武士の子であったパウロ三木もいました、「私は真の正真正銘の日本人で、フィリピンからのルソンの者ではありません。私はここに付けられているのは、イエズス・キリストの真の教えを信じたからです。このイエズス・キリスト以外には、私たちには救いの道はありません。私をこうやって死に至らしている全ての人を私は許します。誰も恨みはしません。ただこの方々が、永遠の幸せを受ける事だけを望んでいます。」と。そこにあったのは、その26人、キリシタンの口から漏れたのは、愛と感謝と讃美と、天主への礼拝と、天主への全くの信頼でした。迫害されていたにもかかわらず、全てを感謝して、祈りに変えて、愛を以ってそれを捧げていました。

 その後迫害はますます厳しくなり、250年以上、キリシタンたちは潜伏せざるを得なくなりました。それにもかかわらず、何も恨む事も復讐する事もなく、それを祈りと犠牲を以って耐え忍んでおられました。ようやくキリシタンたちが、予言の通りに宣教師と会って、イエズス・キリストの捧げるミサに与る事ができるようになったとしても、当時幕府は、彼らは流刑の地に、何千人という人々を追放し、色々な各地の牢獄に連れて処罰してしまいました。その内の2割以上の方々は、その流刑の地で亡くなったと言われています。

 しかし、そのような拷問や厳しい辛い思いにあったとしても、信仰を決して捨てる事なく、彼らが故郷長崎に戻ってきた時には、自分の住んでいた土地や畑は全て荒れ放題になっていて、全ては失われていた、との事です。しかしそれにもかかわらず、信仰の恵みを感謝して、それを捧げていました。

 日本の私たちの先祖はそればかりではありません。その後も、厳しい心理的な圧迫や差別や、抑圧を受けてきました。「キリシタン、カトリックだ」という事で、白い目で見られていました。「外国の宗教を信じる、敵の宗教だ」などと誤解されてきました。「非国民だ」などという悪口も叩かれました。しかしそれにもかかわらず、いつも私たちの先祖は、日本の兄弟姉妹の同胞の永遠の幸せの為に、命と祈りと犠牲を捧げてきました。

 そのような時に、日本は戦争に突入していき、第二次世界大戦はもはやどうする事もなく、日本はこのまま壊滅するかのような時が来ました。最初は連戦連勝を謳っていたのですけれども、しばらくすると戦況が状況が悪くなり、連戦連敗となっていきました。1944年の8月14日には、一般国民動員条例というものがあって、「13歳から60歳までの女子が、竹槍を持って戦わなければならない」として、訓練が始まっていました。機関銃とか何千何万もあり、飛行機が何千機も飛ぶようなそのような時に、どうやって竹槍で戦うのか。日本は既に運命が決められていたかのように見えました。軍部はその戦争を牛耳っており、天皇陛下が戦争に反対だったという事は国民には知らされていませんでした。

 そのような時に、アメリカでは原子爆弾をまず広島に落としました。8月6日の事でした。その3日後には広島よりも、広島の原子爆弾よりももっと高性能だとされたファットマンと言われる原子爆弾が、九州の小倉に落とされる計画でした。B29がそれを積んで落とそうとするのですけれども、その小倉には軍事基地があったのですけれども、その小倉の上空には雲があって、3回ほど旋回してもどうも落とす事ができなかったのです。するとそこに乗っていたパイロットは、「では第2候補の長崎に行こう」という事になったのです。後の記録によると、「燃料の補給管のバルブが閉まっていて、燃料が足りない」という事が分かったそうです。そこで本当なら目標のターゲットの所は3kmほど別の場所にあったのですけれども、しかし、「早く、一刻も早く落として行かないと私たちが死ぬ、私たちが大変だ」という事態になりました。結局落とされたのは、天使様の御摂理によって、長崎教区のカテドラルの上空そのすぐ近く、500mほどすぐ近くの事でした。8月9日の午前11時頃の事で、その時に原子爆弾は、長崎の大浦のカテドラルの上空で炸裂しました。





 この大浦の大聖堂は、昔「絵踏み」がなされていた旧庄屋の敷跡に、信徒の貧しい、一生懸命得たその献金で建てられた聖堂でした。極東一の5000名を入れる事ができる大きな聖堂で、マリア様の、被昇天のマリア様に捧げられていました。この長崎の原子爆弾が炸裂した時に、12000人いた長崎の信徒のうちの8000人が、半分以上がこれによってあっという間に亡くなりました。生き残った者は、元気だった者は本当の僅かになりました。





 多くの、永井博士の証言によると、多くの修道者たちは、マリア様の歌を歌いながら、讃美歌を歌いながら亡くなっていったそうです。やはりここでも、祈りと犠牲を捧げながら亡くなっていきました。

 永井博士は、11月にあった合同慰霊祭の時に、その「長崎が、長崎に原爆が落ちた事を天主様に、天主様から選ばれた事を感謝する。」と、言われました。この原爆が炸裂したその夜、長崎のこの浦上の大聖堂は焼き尽くされました。その真夜中に、全てが焼き尽くされたその時に、天皇陛下は終戦を決心されて、御前会議で、「戦争を必ず終結させる」というお恵みを受けました。



 「この日本に、世界に平和がもたらされる為には」と、永井博士は言いました、「その為には、罪の無い生贄が屠られなければならなかった。清い祈りと、犠牲とが天主に捧げられなければならなかった。燔祭が捧げられなければならなかった。浦上を愛したが故に、浦上をこうやって苦しませてくださり、選んで下さった天主様に感謝する。私たちはなんと幸せな事だ。なんと選ばれて、生贄と選ばれて、なんと幸福な事か。」と、合同慰霊祭で永井博士は言いました。「全ては天主様の愛の計らいであって、全ては永遠の命の為である。私たちが赦す時に、私たちは赦されて、苦しみによって喜びに導かれる」と。

 まさにこれが、聖フランシスコ・ザビエルが私たちに伝えて来た、イエズス・キリスト、十字架に付けられたイエズス・キリストの宗教の教えではないでしょうか。天主の計画はまさにこれです。この地上では確かに、ある人は苦しみ、ある人は悲しみ、ある人は辛い思いをしますけれども、しかしそれは全て、天主を知り愛し、仕え、永遠の生命に与る為であって、それに於いて全ての人は平等である。聖ピオ十世教皇様も仰っていました、「私の政策は十字架である。」私たちの元后であり、母であるマリア様もルルドで仰っていました、「私はあなたに、この地上では幸せを約束しません。しかし来世ではそうします。」

 では、愛する兄弟の皆さん、今日、四旬節に入ったまず最初のこの日に、私たちの心を、ルルドのマリア様と日本の多くの偉大な殉教者、英雄、信仰の英雄に心を馳せて、私たちも是非寛大に、祈りと犠牲を以って、愛と信仰の満ちた犠牲の心を以って、祈りの心を以って、イエズス様から特別のお恵みを勝ち得る事ができるようにお祈り致しましょう、「御身を、愛する日本の兄弟姉妹がまだ天主を知りません。ですからこの霊魂は病にかかっているかのようです。どうぞ癒して下さい。日本に特別のお恵みをお与え下さい。日本の心を、日本の霊魂を癒やして下さい。彼らが永遠の幸せに、永遠の命に導かれますように。イエズス・キリストを知り、愛し、それに仕える、という特別なお恵みを得る事ができますように、あわれみ下さい。」と、祈りと犠牲を捧げる事に致しましょう。

 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

「人よ、汝は塵であり、塵に戻る事を覚えよ」

2016年02月19日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 2月10日、灰の水曜日に大阪で行った聖伝のミサでのお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!

2016年2月10日 灰の水曜日
小野田神父 説教



 聖母の汚れなき御心巡回教会にようこそ。今日は2016年2月10日、灰の水曜日のミサをしております。

 今日は四旬節の灰の水曜日ですから、大斎小斎を守る義務があります。全てのカトリック信者の21歳から59歳までの青年の健康な方は大小斎を、14歳以上の方は小斎を守らなければなりません。
厳密には灰の水曜日と聖金曜日だけですが、聖ピオ十世会では、全ての四旬節の金曜日を大小斎を守るようにと、それを求めており、皆さんもこれもご招待します。四旬節の四季の祭日も大小斎を守るようにお勧め致します。

 
「人よ、汝は塵であり、塵に戻る事を覚えよ」

 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

 愛する兄弟の皆さん、私たちは灰を額に、司祭の手から教会の名によって受けました。私たちは、決して忘れてはならない現実の事をまた聞かされました。私たちは塵であって、また塵に戻らなければならない。

 私たちが額に受けたこの塵は実は、枝の主日に、特別な教会から祝別を受けた枝でした。王たるイエズス・キリストを歓迎する為の枝でした、栄光ある枝でした。しかし、罪を受けた、罪の後の私たちはいかに、万物の王であり目に見える被造物の頂点に立っていたかのように思っていても、この地上の目に見えるものの、動植物の王であるかのようにあったとしても、罪を犯した後には、苦しみと病と死を受けなければならない身になりました。

 私たちはそのような罪の結果の現実を額に受けたのでした。「それを決して頭から離す事がないように、それを忘れる事がないように、その現実を覚えよ」と、教会から言われました。

 そればかりではありません。今日は、今日から公教会は四旬節に入り、罪の償いの季節に入ります。イエズス様は公生活を始めるときに、「回心せよ、償いをせよ、痛悔せよ」という言葉から始めました。「痛悔せよ」この「痛悔せよ」という言葉は、「償いを果たせ」という事と繫がるのですけれども、洗者聖ヨハネも、同じ言葉を使って人々に説教していました。「痛悔せよ、回心せよ」

 そればかりではありません。その私たちの主の言葉を聞いて、イエズス様の道に入った人たちは、皆、痛悔の、回心の、償いの生活を送っていきました。その最初で最も有名なのは、聖女マグダレナ・マリアです。

 そればかりではありません。多くの聖人聖女が償いの生活を送っていきました。聖人伝を紐解くと、ある聖人は、着れば体中が痛くなるような荒い衣をいつも身にまとっていた。或いはある聖人は、償いの為にご飯を、食事をいつも肉を食べずに小斎だった。或いは毎日一度しか食べなかった。或いは償いの為にいつも鞭打っていた。アルスの聖司祭はジャガイモしか食べなかった。寒い冬も、冷たい所で暖房も無しに告解を聞いていた。寝る時間もほとんど無かった。或いはパードレ・ピオは、ほぼ毎日のように、主日とか大祝日を除いて、断食を捧げていた。鞭を打っていた。

 カトリック教会はいつも、罪の償いを捧げるようにと私たちに励ましてきました。この四旬節はまさに、私たちにとって本当に喜ばしい、罪の償いを教会の一員として、イエズス・キリストの花嫁である教会の一部として捧げる事ができる、本当に嬉しい聖なる季節に入りました。

 第2の点は、なぜこの、それほに、悔悛、痛悔、罪の償いという事が大切なのでしょうか。これは、カトリック教会の、キリスト教の最も中心の教えにあるからです。つまり、「私たちの主イエズス・キリストは、私たちの救い主は、十字架によってこのような罪を贖って下さった。私たちの代わりに罪を償って下さった。私たちも、イエズス・キリストの神秘体の一部として、キリストの苦しみの足りない所を、私たちの苦しみで補う。」という、聖パウロの教えに基づくものです。イエズス・キリストの立てた宗教の真ん中には、十字架の木が立っているからです。犠牲という概念が、その中心にあるからです。

 罪の償いの無い、或いは悔悛の無いキリスト教というのは、本物のキリスト教ではありません。この現代をご覧下さい。私たちの十字架は、どれほど私たちの目から隠されている事でしょうか。私たちの普段の耳にする事や聞く事は、イエズス様の償い、悔悛の教えとどれほど隔たっている事でしょうか。私たちは別の、天主教ではない、民主教の教えを聞いているのではないでしょうか。

 民主教の教えは、何を唱えるかというと、「十字架とか辛い事は、全くの悪だ。だから私たちは、喜びと楽しい事だけを追求しなければならない。十字架が無い世界を作らなければならない。苦しみの無い世界、償いの無い、犠牲の無い世界を作らなければならない。」イエズス様の十字架の代わりに、人々が飾る偶像というのは、映画のスターや、或いはポルノの裸や、或いは人間の傲慢のしるしや、或いは虚栄、或いは快楽のしるしです。

 私たちがイエズス様の教えに従って、イエズス様の御教えは、「もしも私の弟子となりたければ、十字架をとって、私に従え。」というものですけれども、私たちは、「イエズス・キリストを愛するが為に、私たちの為に十字架に付けられたイエズスを愛する為に、天主様の御旨を果たしたい。イエズス様に、愛のしるしとして犠牲を捧げたい。イエズス様の御旨を果たしたい。」と思います。

 しかし、この世の十字架の無い教えはそうではなくて、私の利己主義や、私がエンジョイする事や、私の「面白いよ、楽しいよ」と、「俺が、俺が、俺が」「私が、私が、私が」という事だけしか教えません。

 イエズス様の立てた真の宗教は、「まず、天主の御旨を求める事。天主の御旨に全く無条件に、無条件で身を委ねる事。日々、天主の為に働く事。天主の為に苦しみを捧げる事。天主と、祖国と、皆の善の為に働き、力を尽くし、最後に自分の事を考える。」お父さんはまず、天主と家族の為に。お母さんはまず、天主様と皆の為に。子供は、天主様と天主様を愛する為に隣人を尊敬し、従順で義務を果たす事を考えています。

 しかしこの世は、そうではなくて、「まず、お金の為に、面白おかしい事の為に働けばいい。それが全てだ。」全く両極を言っています。

 四旬節、私たちは教会によって、本当の苦しみの無限の意味を、価値がある事をもう一度思い出させられました。ファチマのマリア様も同じ事を言っていました、「償いをしなさい。償いをしなさい。償いをしなさい。」子供たちは、ファチマの天使を見て、或いはマリア様を見て、どれほど償いと犠牲と断食、祈りに励んだ事でしょうか。

 ルルドでも、マリア様は同じ事を言いました。聖ベルナデッタに、「償いをしなさい。償いをしなさい。償いをしなさい。」と、繰り返し繰り返し、償いの話をしました。

 では、私たちは、どのような遷善の決心を立てたら良いでしょうか。

 愛する兄弟の皆さん、私たちはキリスト教の、イエズス様の教えの核心を、最も大切な教えを実践しようという、特別の良い機会に、その時期に入りました、その機会に恵まれるようになりました。どうぞ良い決心を立てて、寛大にこの聖なる時を、四旬節という時を、天主様の為に、償いと祈りの為に、使う決心を立てて下さい。

 つい最近、シュナイダー司教様というカザフスタンの司教様が、「聖ピオ十世会の司祭と信者さんたちは、天主様から送られた特別の宝だ、贈りものだ。この世に与えられた贈りものだ。」と。「この教会の危機を救う為に、天主の御摂理が準備した特別な手段である。」と。

 愛する兄弟の皆さん、私の思うには、それはとても嬉しいお言葉であり、本当に私たちも、その天主の、天主から送られた教会の危機を回復する為の手段として、私たちは特に四旬節を聖なるものとしてお送りする事に致しましょう。

 どうしたら良いでしょうか?四旬節にはお祈りをなさって下さい。作戦を立てて、できるだけ時間を作って、お祈りを致しましょう。ロザリオの祈り、或いは十字架の道行の祈り、或いはその他黙想のお祈りを致しましょう。イエズス様の御受難を黙想なさって下さい。イエズス様に関する霊的な読書をなさって下さい。そうする事によって、教会に多くの利益をもたらす事ができます、回心のお恵みをもたらす事ができます。インマクラータの騎士の、聖母の無原罪の騎士の射祷をたくさん唱えるようになさって下さい。この小さな、ラミネート入りの小さなカードがあります。どうぞそれをいつも持ちになって、それをよく唱えるようになさって下さい。

 四旬節には、第2に、償いを果たして下さい。償いの為に私たちの小さな犠牲をお捧げ致しましょう。私たちが日常感じる辛い事や、苦しい事や、悲しい事、或いは困った事、或いは友達からいじめられたり、嫌がらせをされたりする事、これを捧げ致しましょう。これを私たちの過失、或いは私たちの受ける屈辱なども、イエズス様の屈辱に合わせてお捧げ致しましょう。私たちの受ける日常の痛み、辛い事、寒い事や疲れた事や、様々な痛みを、イエズス様にお捧げ致しましょう。

 イエズス様は、隠れた私たちの愛をご覧になっております。天に宝をたくさん積む事に致しましょう。決して腐る事も盗まれる事もない億万の富を、天に積む事に致しましょう。天に積んだ宝は、決してマイナス金利になる事はありません(^^;)、いつも増えています。

 また最後に、私たちは、イエズス様に対して寛大に、他人に対して許し、私たちの持てるものを与える事に致しましょう。天主への愛の為に与える事に致しましょう。

 最後に、マリア様に、マリア様は私たちに、「償いをしなさい、償いをしなさい」と仰って励まして下さるのみならず、まず十字架の下でご自分から、大きな、とてつもない苦しみと償いを、私たちの為に、母の愛を以って捧げて下さいました。そのマリア様に感謝して、マリア様に是非、この聖なる四旬節を送る事ができるように、御取り次ぎを求めましょう。

 「人よ、汝は塵であり、塵に戻る事を覚えよ。」

 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

「苦しみ」というものが何の為にあるか、それに価値があるものとなる為にはどうすれば良いのか。

2016年02月17日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 2016年2月7日(主日)に東京で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2016年2月7日 五旬節の主日のミサ
小野田神父 説教


 日本の聖なる殉教者巡回教会にようこそ。今日は2016年2月7日、五旬節の主日のミサを捧げております。来たる水曜日は、灰の水曜日で、健康な21歳以上59歳までの成人の方々は、大小斎の義務があります。これは灰の水曜日と聖金曜日にある義務です。聖伝によれば、灰の水曜日から復活祭まで、主日を除いて、大小斎を捧げていた、という習慣によります。
 聖ピオ十世会では、四旬節の全ての金曜日を、大小斎で過ごす事になっています。もしも皆さんもよろしかったら、一緒になさって下さい。厳格な義務は、灰の水曜日です。この2月10日と11日には、建国記念日には大阪でミサがあります。
 次のここでのミサは、明日の朝7時と、2月21日、第3主日の朝10時30分からです。3月も同じく、第1・3主日で、3月6日と20日に予定されています。いらして下さい。
 2月2日には、世界中にある聖ピオ十世会の神学校で、45名の神学生がスータンの着衣式を受けました。どうぞこれらの神学生の為にもお祈り下さい。多くの召命が日本からも輩出致しますように、お祈り致しましょう。

 
“Consummabuntur omnia, quae scripta sunt de Filio hominis. Tradetur gentibus, et illudetur, et conspuetur, et postquam flagellaverint, occident eum, et tertia die resurget.”

 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

 愛する兄弟の皆さん、今日イエズス様が仰った言葉が、福音の最初の部分でこう読まれました、「人の子について書かれている事は、全て成就するだろう。人の子は異邦人に渡され、馬鹿にされ、唾きせられ、そして彼らは鞭で打った後、彼を殺すだろう、人の子を殺すだろう。そして人の子は、3日目によみがえるだろう。」

 一体なぜ、四旬節に入る直前の主日に、教会はイエズス様のここの言葉を私たちに読んで聞かせたのでしょうか?この言葉を私たちが理解して、それをこの四旬節に実践するためには、どうしたら良いのでしょうか?

 今日は、この「苦しみ」というものが何の為にあるか、それに価値があるものとなる為にはどうすれば良いのか、最後に、遷善の決心をする事に致しましょう。

 愛する兄弟の皆さん、なぜ教会が、四旬節の直前の五旬節の主日に、このイエズス様の言葉を読ませたか、というのは、何故かというと、四旬節というのは、単なるそれだけの為のものではなくて、実は四旬節というのは、復活祭に繋がるものであって、復活祭の準備である、私たちがイエズス様と、四旬節の間にますます一致しなければならない、ということを示すためです。

 四旬節には私たちは、特に祈りと犠牲を捧げるように勧められています。四旬節には、イエズス様が40日断食されたように、私たちも祈りと断食をするように勧められています。断食以外の色々な苦行や、克己の業をするように、と言っています。もちろんこれには色々な理論が、神学上の理論もあります。例えば、私たちの信仰が深くなる為に、私たちの知性が、賢慮の恵みが、ラテン語では「intellectus」と言われている恵みが、ますます鋭くなって、天主様の神秘の中に深く入って行く事ができるように、その知性を磨かなければならない、感覚を鋭くしなければならない、信仰を鋭くしなければならない。

 すると、その鋭さを取ってしまう、鈍感にさせてしまうのは何かというと、それは肉の快楽のやり過ぎであって、食べ過ぎや飲み過ぎ、或いは肉体の情念に溺れてしまう事によって、私たちの信仰の感覚が、肉体の感覚が鈍感になってしまう。ですから、それを肉体上の節制と、特に貞潔によって、私たちは鋭く、心も体も鋭くしなければならない。

 ちょうどダニエルの書に、「『天主様に仕える者たちを準備させるために、子どもたちには節制と貞潔を守らせた。その後に初めて、天主様の知識を与えた。』と書かれている通りである。」とあります。

 しかし、私たちは更にもっとイエズス様の模範に倣って、祈りと苦行を捧げる時だと認識しています。何故かというと、私たちがこの苦行を、苦しみを捧げる、というのは、全ての苦しみが、罪の結果によって私たちに与えられたものであるからです。しかし、この罪の結果である苦しみ、「悪」は、イエズス様によって、全く聖化されました。

 これはどういう事かというと、「罪」は、罪の償いとなるのみならず、これを苦しみを通して、私たちの栄光の為の道となる、私たちを栄光へと導く手段となる、という事です。私たちにとって苦しみとか辛い事やその他は、単なるそれだけの弱ってしまう事ではなくて、イエズス様と一致するが故に、イエズス様と共に捧げるが故に、それは、良いものに変わる、という事です。

 第2のポイントは、では、どうしたらそれが良いものに変わるのでしょうか?それは、聖パウロが今日書簡の中で、はっきりと言っています、「イエズス様に対する成聖の恩寵に於いて、イエズス・キリストを信じ、イエズス・キリストを愛する事によって与えられた成聖の恩寵を保つ事によって、私たちの全ての行為が、永遠に於いて、価値のあるものとなる。」という事です。私たちが成聖の状態に於いて、恩寵の状態に於いて、イエズス様と一致している限りにおいてのみ、価値があるという事です。全ての行為が、永遠の価値があるという事であって、苦しみ、平凡な事でさえも、価値を持つ、という事です。

 私たちは今日、聖パウロの書簡を読み直して、「本当にすごい事を言っているなあ。」と思います。私たちが色んな国の人々の言葉を話すことができたら、どれほど良いでしょうか。ベトナムの人と話す事ができるようにベトナム語、或いは中国の人たちと話す事ができるように中国語。或いはフィリピンのタガル語に、セブアノ語、或いは韓国語、世界中の言葉、ドイツ語や、タイ語や、或いはもっと、天使たちが語らうその言葉を、私たちが身に付けて、それについて色々なコミュニケーションをしたら、どれほど素晴らしい事でしょうか。

 例え私たちがその学徳を持っていたとしても、全ての人々の言葉を話すようになったとしても、美しい言葉で、現代のシェイクスピアと言われるようになったとしても、美しい詩を書いて、文章を書いて、劇を書いて、小説を書いて、論文を書いたとしても、この色々な言語の粋を尽くして、もう世界の人々をアッと驚かすような芸術作品を生み出したとしても、もしもそれが成聖の状態になければ、罪を赦された状態になければ、イエズス様を愛する状態になければ、救霊の為に、永遠の為に、復活の為に、全く価値がない、ただ鳴り響くドラに過ぎない、犬の遠吠えに過ぎない、と言います。

 もしも私たちが、カトリック信仰を深く信じて、その信仰の強さのあまり、山をさえも動かす事ができるほどの、確信と信仰に満ちて、「こうだ!」と奇跡さえも起こす事ができたら、どれほど素晴らしい事でしょうか。多くの人々をカトリック信仰に導く事ができるし、奇跡を起こして、多くの方をイエズス様の救いの道に導く事ができるかもしれません。

 そればかりではありません。その信仰の確固としたその強さのみならず、深い神秘を持って、三位一体についての深い知識、或いは御聖体に対する深い知識、或いはマリア様に対する深い知識を持って、人々の心に触れて、そのような深い知識を、信仰の神秘を、皆、「知りたい」と言って、多くの人々が涙を流して聞くような話をしたとしても、更に、私たちが全宇宙の神秘を知っていたとしても、宇宙の彼方から来るガンマ線や、アルファ線、或いは原子力の秘密と、世界の不思議と言われる宇宙の構造を、力の重力と磁力と、全ての力の統一原理を発見して、説明して、物理・化学・生物学の神秘を深く理解して、経済・政治について深く語る事ができて、「今の問題はこうだ」と解く事ができたとしても、「しかし、もしもイエズス様への愛がなければ、全く私たちには益する事が無い、全くの無駄。」

 もしも私たちが持っている全財産を貧しい人々に施して、アフリカの飢えている人に施して、世界中の困っている人々にそれを、その財を尽くして、基金を作って、財団を作って、私たちのあらゆる知恵を使って助けたとしても、私たちの体を、殉教を覚悟で焼かれる為に渡しても、「しかし、もしもイエズス・キリストへの愛がなければ、全く無に等しい。」と、聖パウロは言っています。

 イエズス・キリストとの一致がなければ、「イエズス・キリストを愛する為に、」というものがなければ、私たちの日常の生活は、それがこの世の人々をアッと驚かすようなものであっても、「全く価値が無い」と言っています。それが、例え深い信仰であったとしても、「価値が無い」と、言います。

 では、愛する兄弟の皆さん、私たちは四旬節の前に、何をしたら良いのでしょうか?

 その模範は、今日の福音の中の、この盲目の方が、盲目の人が私たちに模範して見せています。私たちは今まで盲目でした。例え見えるように思っても、実は見えてなかった事がたくさんありました。私たちはどれほど、日常に起きた十字架を見ると、その十字架の事だけを考えて、十字架の事だけしか考えなくて、表面つらしか見なくて、その奥にあるイエズス様の復活までを見なかったのでしょうか。

 私たちは、「イエズス様が十字架に付けられた」というのは見ますけれども、その十字架の事だけを考えて、「イエズス様が天主が、救い主が、私たちの愛の為に付けられた」という事をコロッと忘れていた事が、目が開いていても見えなかった事が、どれほど多くあった事でしょうか。

 イエズス様は、聖書の予言を全て成就しました。それはどういう事かというと、異邦人に、裏切られて異邦人に渡されました。馬鹿にされました。唾きせられさえしました。私たちは、そこまで悪い態度を取られた事がどれほどあったでしょうか。イエズス様はこれを、私たちの為に受けて下さいました。イエズス様は、私たちを天国に導くために、イエズス様との至福の状態に導くために、鞭打たれ、殺される事さえも、という事さえも、聖書を成就する為に、私たちの為に受け入れられました。

 私たちはそれを知りながら、どうも今まであまりにも目がくらんでいました。自分の事だけしか見ていませんでした、苦しみの事だけ、「何で私はこんなに苦しむのか、何でこんなに辛いのか、何だ、何だ、あの人はこんなに悪い、私はこんなに良い、」という事しか考えませんでした。

 しかし、今日この盲目の人と共に、「ダビドの子よ、我をあわれみ給え。“Fili David, miserere mei.”」例え他の人が、「お前うるさい、黙れ!」と言ったとしても、私たちは更に強い声で、この四旬節を前に、「イエズス様、どうぞ私をあわれんで下さい!私に目が見えるようにして下さい、信仰の目を開けて下さい!十字架の上に、イエズス様を認めさせて下さい、私たちの為に、私たちを愛して、これほど苦しまれたイエズス様を認めさせて下さい!イエズス様のその苦しみを理解させて下さい!イエズス様のこの苦しみの後に、十字架の後に復活がある事を認めさせて下さい!これは、全て復活の為でした!」と、祈り求めることに致しましょう。

 イエズス様は今日、必ず私たちに、この私たちの信仰の目をカッと開けてくださる恵みを下さるに違いありません。そしたら私たちは、四旬節はどれほど喜びに変わることでしょうか。何故かというと、私たちは常にイエズス様と一致して、イエズス様の十字架と一致している事ができるからです。すると、例えどんな小さなことでも、小さな十字架でも、どのような善行でも、それは永遠の価値、永遠の実りを結ぶ事ができるからです。

 私たちの四旬節が、何をそんなに喜びに満ちたものになるかというと、「イエズス様との一致がなければ、愛による一致がなければ、例え高貴な、例えこの世では良い事をしたと見えたとしても、全く無価値だった」という事が理解できるからです。

 最後に、マリア様にお祈り致しましょう。マリア様は、その最初の瞬間から、無原罪の御孕りの瞬間から被昇天に至るまでいつも、イエズス様への愛に満ちておられました。マリア様はその全てを、イエズス様と合わせてお捧げになっておられます。マリア様に倣って私たちも、この四旬節を聖なるものとしてお捧げする事ができるように、お祈り致しましょう。

 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

公教会祈祷文の「ミサの後の祈り」は、フランス語でどう祈りますか?

2016年02月15日 | ミサ聖祭
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 公教会祈祷文に掲載されているミサの後の祈りのフランス語をご紹介します。

ミサの後の祈

主よ、われらを多くの人のうちより選びてミサ聖祭にあずからしめ給いし御恵みを深く感謝し奉る。われらが卑しき身をもって、主の御前に犯したる罪を赦し、この聖祭の功徳をもってわれらの心を潔め、かつ堅固ならしめ給え。

われら今主の御旨に従いて業につかんとするに当り、すでにこうむりたる御恵みを忘れず、聖祭の功徳を、永く失わざらんため、思い、望み、言葉、行いを、すべて慎まんと決心す。こいねがわくはこの決心を祝し給え。アーメン。

Prière après la Sainte Messe

Seigneur, je vous remercie de la grâce que vous m’avez faite en me permettant d’assister aujourd’hui au sacrifice de la sainte Messe préférablement à tant d’autres qui n’ont pas eu le même bonheur. Je vous demande pardon de toutes les fautes que j’ai commises par la dissipation et la langueur où je me suis laissé aller en votre présence. Que ce sacrifice, ô mon Dieu, me purifie pour le passé et me fortifie pour l’avenir.

Je vais présentement avec confiance aux occupations où votre volonté m’appelle. Je me souviendrai toute cette journée de la grâce que vous venez de me faire, et je tâcherai de ne laisser échapper aucune parole ni aucune action, de ne former aucun désir ni aucune pensée qui me fasse perdre le fruit de la Messe que je viens d’entendre. C’est ce que je me propose avec le secours de votre sainte grâce. Ainsi soit-il.

 ご参考までに韓国語では次のように祈ります。

미사후송 (미사가 끝난 후 바치는 기도)

주여, 많은 사람 중에 너 우리에게 특별한 은혜를 주사, 오늘날 미사성제에 참예케 하심을 감사하오니, 많은 사람이 우리와 같이 이런 다행함을 얻지 못하였나이다. 구하오니 천주는, 이 미사 중에 냉담함과 분심 잡념으로 우리 범한 죄과를 용서하시고, 이 성제의 공덕으로 이후로는 더 열심으로 너를 경애하고, 네 계명을 더 착실히 지키고, 모든 선공을 더 흔근히 행하고, 삼구의 모든 유감을 더 힘써 대적하게 하소서.

이제 너 이 명하신 우리 본분의 일을 하러 가옵느니, 아무쪼록 말 한마디나 일 한가지나 생각 한끝이나 조그마한 원 하나이라도, 조심하여 이 성제의 효험을 잃지 않기로 뜻을 정하오니, 주는 네 은혜로 이 뜻을 완전케 하시고, 우리를 도와 그대로 행케 하소서, 아멘.



 公教会祈祷文の中にあるその他のミサの祈りのフランス語は次の通りです。


ミサの始まる時の祈:

+ 聖父と聖子と聖霊との御名によりて。アーメン。
いとも尊き三位一体の天主、われ主の御名にむかいて礼拝を尽し、感謝を献げ、罪の赦しと主の御恵みとを求めんために、ここに謹みてミサ聖祭にあずかり奉る。
願わくは、われらをして司祭と心を合わせて、救霊のいけにえを献げしめ給え。かつ主がわれらのためにカルワリオにて御血を流し、苦しみを受け給うを仰ぎ視しならば、われらの必ず起したらんが如き思いを、今ここに起さしめ給え。

Commencement de la messe

Au nom du Père, et du Fils, et du Saint-Esprit. Ainsi soit-il.
C’est en votre nom, adorable Trinité, c’est pour vous rendre l’honneur et les hommages qui vous sont dus, que j’assiste au très-saint et très-auguste sacrifice.
Permettez-moi, divin Sauveur, de m’unir d’intention au ministre de vos autels pour offrir la précieuse victime de mon salut, et donnez-moi les sentiments que j’aurai dû avoir sur le Calvaire si j’avais assisté au sacrifice sanglant de votre Passion.


栄光唱(黒色或いは紫色の祭服を用いる時はこれを唱えない。)

天においては天主に栄えあれ。地においては恵まれたる人々に平安あれ。主なる天主、天の王、全能の父、われら主を称(たた)え主を崇(あが)め、主の御栄えの大いなるがために感謝し奉る。
拝すべきイエズス・キリスト、御父の御独(おんひと)り子(ご)、万物の習、世の罪を除き給わんがため天主より遣わされし子羊、われらの祈を聞き容れ給え。御父の右に坐(ざ)し給う御者(おんもの)われらをあわれみ給え。そはイエズス・キリスト、主は唯一の聖、唯一の習、唯一の至高者にして、聖霊と共に御父の御栄(みさか)えのうちにましませばなり。

Gloria in excelsis

Gloire à Dieu dans le ciel, et paix sur la terre aux hommes de bonne volonté. Nous vous louons, Seigneur, nous vous bénissons, nous vous adorons, nous vous glorifions, nous vous rendons de très-humbles actions de grâces, dans la vue de votre grande gloire, vous qui êtes le Seigneur, le souverain Monarque, le Très-Haut, le seul vrai Dieu, le Père tout-puissant.
Adorable Jésus, Fils unique du Père, Dieu et Seigneur de toutes choses, Agneau envoyé de Dieu pour effacer les péchés du monde, ayez pitié de nous ; et, du haut du ciel où vous régnez avec votre Père, jetez un regard de compassion sur nous. Sauvez-nous, vous êtes le seul qui le puissiez, Seigneur Jésus, parce que vous êtes le seul infiniment saint, infiniment puissant, infiniment adorable, avec le Saint-Esprit, dans la gloire du Père. Ainsi soit-il.


司祭右側で集祷文を唱えるときの祈:

全能の天主、聖母マリアおよび今日(こんにち)祝う聖人の代祷(だいとう)を聞(きこ)しめして、司祭の求むる御恵みを施し給え。*われら司祭と心を合わせて我らのため、ならびにわれらに係わりある人々のために祈り奉る。願わくは、必要の御恵みをわれらに賜(たま)いて終りなき命にいたらしめ給え。われらの主キリストによりて願い奉る。アーメン。

Oraison

Accordez-nous, Seigneur, par l’intercession de la sainte Vierge et des Saints que nous honorons, toutes les grâces que votre ministre vous demande pour lui et pour nous. M’unissant à lui, je vous fais la même prière pour ceux et pour celles pour qui je suis obligé de prier, et je vous demande, Seigneur, pour eux et pour moi, tous les secours que vous savez nous être nécessaire afin d’obtenir la vie éternelle, au nom de Jésus-Christ Notre-Seigneur. Ainsi soit-il.

司祭右側で書簡を読むときの祈:

慈悲深き天主、主は御身を知らざる人々のうちよりわれらを選びて御教えを示し給い足れば、われら心の底より喜びてこれを受け奉る。預言者および使徒の言葉をもって伝えられたる御教えを守り、これを実行せんと欲す。*濃い願わくは、われらをしていにしえの聖人の如く主に仕え、太祖(たいそ)の如く主を奉じ、預言者の如く主を知り、使徒の如く主を伝え、専ら主を愛して御跡(みあと)を慕わしめ給え。

Épître

Mon Dieu, vous m’avez appelé à la connaissance de votre sainte loi préférablement à tant de peuples qui vivent dans l’ignorance de vos mystères. Je l’accepte de tout mon cœur, cette divine loi, et j’écoute avec respect les oracles sacrés que vous avez prononcés par la bouche de vos Prophètes. Je les révère avec toute la soumission qui est due à la parole d’un Dieu, et j’en vois l’accomplissement avec toute la joie de mon âme.

Que n’ai-je pour vous, ô mon Dieu, un cœur semblable à celui des saints de votre ancien Testament ! Que ne puis-je vous désirer avec l’ardeur des Patriarches, vous connaître et vous révérer comme les Prophètes, vous aimer et m’attacher uniquement à vous comme les Apôtres !


司祭左側で福音を奉読するときの祈:

主よ、今司祭の読みあぐるは、預言者および使徒の言葉にあらずして、イエズス・キリストの御言葉と御行いなることを信じ奉る。たとえ主の御言葉なりと信ずるも、これに従わざれば何の益かあらん。また信仰あるも、愛と善業との勲(いさおし)なくば主の御裁きの前にいかでか罪を免(まぬが)るべき。
われら今御言葉を深く信じ奉るが故に、われらが仕業の御言葉に適わざりしを責め給うことなく、かえってわれらが信ずるところを行う力をわれらに与え給え。

Évangile

Ce ne sont plus, ô mon Dieu, les Prophètes ni les Apôtres qui vont m’instruire de mes devoirs ; c’est votre Fils unique, c’est sa parole que je vais entendre. Mais, hélas ! Que me servira d’avoir cru que c’est votre parole, Seigneur Jésus, si je n’agis pas conformément à ma croyance ? Que me servira, lorsque je paraîtrai devant vous, d’avoir eu la foi sans le mérite de la charité et des bonnes œuvres ?

Je crois, et je vis comme si je ne croyais pas, ou comme si je croyais un évangile contraire au vôtre. Ne me jugez pas, ô mon Dieu, sur cette opposition perpétuelle que je mets entre vos maximes et ma conduite. Je crois ; mais inspirez-moi le courage et la force de pratiquer ce que je crois. À vous, Seigneur, en reviendra toute la gloire.


奉献の祈:

限りなく聖なる御父、全能にまします天主、われみずからは御前(みまえ)に出(い)ずる能(あた)わざる者なれども、救世主イエズス・キリストがこの聖祭を定め給いし時の御旨と、今われらのためにいけにえとなりて、御みずからを献げ給える御旨とに従い、司祭の手をもってパンとぶどう酒との供物(そなえもの)を献げ、主が万物の主宰者にましますことをたたえ、われらの罪を償い給わんことをこいねがい、主の賜物なる数々の御恵みを感謝し奉る。

またわれらは罪人にて救わるるに足らざれども、贖罪のいけにえとならせ給えるイエズスの御功徳によりて施し給う救霊の恵みを、われらのため、及びわれらの親族、恩人、友人またわれらの敵のためにもこいねがい奉る。また公教会のため、教皇のため、本教区の司教、司祭、その他、すべてわれらがその権威に服すべき人々のため、および主を進ずる一切の人々のためにこの尊きいけにえを献げて祈り奉る。

願わくは死せる信者の霊魂をあわれみ、御子イエズスの御功徳によりて、かれらに終りなき平安を与え給え。
慈悲深き御父よ、わが国の上に御恵みを注ぎ給え。主を憎む者をも棄て給わざれ。主を知らざる者、主を信ずるもまことの教会に入らざる者およびすべての罪人を救霊の道へ導き給え。またわれらを憎みて害を加えんとする者にも、御恵みをもって報い給え。われらのかれらに赦す如く、われらの罪を赦し給え。アーメン。

Offertoire

Père infiniment saint, Dieu tout-puissant et éternel, quelque indigne que je sois de paraître devant vous, j’ose vous présenter cette hostie par les mains du Prêtre avec l’intention qu’a eue Jésus-Christ mon Sauveur lorsqu’il institua ce sacrifice, et qu’il a encore au moment où il s’immole ici pour moi.
Je vous l’offre pour reconnaître votre souverain domaine sur moi et sur toutes les créatures. Je vous l’offre pour l’expiation de mes péchés, et en action de grâces de tous les bienfaits dont vous m’avez comblé.

Je vous l’offre enfin, mon Dieu, cet auguste sacrifice, afin d’obtenir de votre infinie bonté, pour moi, pour mes parents, pour mes bienfaiteurs, mes amis et mes ennemis, ces grâces précieuses du salut qui ne peuvent être accordées à un pécheur qu’en vue des mérites de Celui qui est le Juste par excellence, et qui s’est fait victime de propitiation pour tous.

Mais, en vous offrant cette adorable victime, je vous recommande, ô mon Dieu, toute l’Église catholique, notre saint Père le Pape, notre Prélat, tous les Pasteurs des âmes, nos supérieurs temporels, les princes chrétiens, et tous les peuples qui croient en vous.

Souvenez-vous aussi, Seigneur, des fidèles trépassés, et, en considération des mérites de votre Fils, donnez-leur un lieu de rafraîchissement, de lumière et de paix.

N’oubliez pas, ô mon Dieu, vos ennemis et les miens. Ayez pitié de tous les infidèles, des hérétiques et de tous les pécheurs. Combien de bénédictions ceux qui me persécutent, et pardonnez-moi mes péchés, comme je leur pardonne tout le mal qu’ils me font ou qu’ils voudraient me faire.


司祭祭壇中央で序唱を唱える時の祈:

救世主イエズス・キリストの来り給うべき時近づけり。主願わくはわれらの心に聖霊を満たし、専ら主のことをのみ思わしめ給え。

全能の御父、永遠の天主はいずれの時似ても、いずれの処似ても、讃美せらるべきかな。天使は主の御前に礼拝し、聖人は主を讃美す。今やわれらがつたなき声をもこれに合わせて讃美するを許し給わば、われら喜びに堪えずして歌わん。

聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍(ばんぐん)の天主、主の御栄えは天地に充ち満てり。いと高き処にいます御者は尊まれさせ給え。主の名によりて来り給う御者は、祝せられさせ給え。


Préface

Voici l’heureux moment où le Roi des Anges et des hommes va paraître. Seigneur, remplissez-moi de votre esprit ; que mon cœur, dégagé de la terre, ne pense qu’à vous. Quelle obligation n’ai-je pas de vous bénir et de vous louer en tout temps et en tout lieu, Dieu du ciel et de la terre, Maître infiniment grand, Père tout-puissant et éternel !

Rien n’est plus juste, rien n’est plus avantageux que de nous unir à Jésus-Christ pour vous adorer continuellement. C’est par lui que tous les esprits bienheureux rendent leurs hommages à votre Majesté ; c’est par lui que toutes les Vertus du ciel, saisies d’une frayeur respectueuse, s’unissent pour vous glorifier. Souffrez, Seigneur, que nous joignions nos faibles louanges à celles de ces saintes intelligences, et que, de concert avec elles, nous disions [le sanctus] dans un transport de joie et d’admiration.
Sanctus

Saint, Saint, Saint est le Seigneur, le Dieu des armées. Tout l’univers est rempli de sa gloire. Que les bienheureux le bénissent dans le ciel. Béni soit celui qui vient sur la terre, Dieu et Seigneur comme Celui qui l’envoie.


司祭典文を奉読する時の祈:

あわれみ深き御父よ、今献げまつる供物を祝し、これをよみし給いて公教会を守り、教皇、司教およびすべての信者を恵み給わんことを御子キリストによりて願い奉る。

わけてもここに集まれる人々、および目上、親族、恩人、友人を恵み、またわれらに祈りを求むる人々を顧み給え。われらの主イエズス・キリストの御母、終生童貞なる聖マリア、またその浄配なる聖ヨゼフ、使徒、殉教者、聖人たちと心を合わせて、われらの供物の、御旨に適うものとならんことを願い奉る。

Canon

Nous vous conjurons au nom de Jésus-Christ votre Fils et notre Seigneur, ô Père infiniment miséricordieux, d’avoir pour agréable et de bénir l’offrande que nous vous présentons, afin qu’il vous plaise de conserver, de défendre et de gouverner votre sainte Église catholique, avec tous les membres qui la composent, le Pape, notre Prélat, et généralement tous ceux qui font profession de votre sainte foi.

Nous vous recommandons en particulier, Seigneur, ceux pour qui la justice, la reconnaissance et la charité nous obligent de prier, tous ceux qui sont présents à cet adorable sacrifice, et singulièrement N*** et N***. Et afin, grand Dieu, que nos hommages vous soient plus agréables, nous nous unissons à la glorieuse Marie, toujours vierge, Mère de notre Dieu et Seigneur Jésus-Christ, à tous vos Apôtres, à tous les bienheureux Martyrs, et à tous les Saints, qui composent avec nous une même Église.


パンとぶどう酒との献げものにえんしゅする時の祈:

主よ、願わくはいにしえの聖人が救世主を待ち望み奉りし熱心をわれらの心に充たし、その信仰と愛とをわれらに燃えしめ給え。*主イエズス・キリスト来り給え。いとも妙なる御業をなし給え。天主の子羊、罪の世をあがなえる尊きいけにえは、今この祭壇に臨み給う、ああありがたき御慈しみなるかな。

Que n’ai-je en ce moment, ô mon Dieu, les désirs enflammés avec lesquels les saints Patriarches souhaitaient la venue du Messie ! Que n’ai-je leur foi et leur amour ! Venez, Seigneur Jésus ; venez, aimable réparateur du monde, venez accomplir un mystère qui est l’abrégé de toutes vos merveilles. Il vient, cet Agneau de Dieu, voici l’adorable Victime par qui tous les péchés du monde sont effacés.


聖体奉挙の祈(この祈りは発声しない)

救い主イエズス・キリスト、一切の人を救わん為に十字架にくぎ付けにせられ給える御体を、謹みて拝し奉る。
救い主イエズス・キリスト、一切の人を救わん為に十字架の上にて流し給える御血を、謹みて拝し奉る。

Élévation

Verbe incarné, divin Jésus, vrai Dieu et vrai homme, je crois que vous êtes ici présent ; je vous y adore avec humilité, je vous aime de tout mon cœur ; et comme vous y venez pour l’amour de moi, je me consacre entièrement à vous.

J’adore ce sang précieux que vous avez répandu pour tous les hommes, et j’espère, ô mon Dieu, que vous ne l’aurez pas versé inutilement pour moi. Daignez m’en appliquer les mérites. Je vous offre le mien, aimable Jésus, en reconnaissance de cette charité infinie que vous avez eue de donner le vôtre pour l’amour de moi.



聖体奉挙後の祈:

全能なる天主、主はこの聖祭をもってイエズス・キリストの御受難の苦しみおよび御復活の栄えをわれらに追懐せしめ、われらのために傷つけられ給えるその御体と流させ給えるその御血をば、今現に祭壇の上に供え給えり。

主の御みずからわれに与え給える、この聖く尊き生け贄を、今謹みて御前に献げ奉る。旧約の祭りは、ことごとくこのいけにえに象(かたど)りたるものにて、このいけにえのみ、善く御心に適う御子イエズス・キリストの、御体と御血なれば、この聖祭にあずかる人々に、その御功徳をこうむらしめ給え。

また司祭と心を合わせて死せる信者の霊魂のために祈り奉る。ことにわれらに係わりある者に、この尊きいけにえによりてその苦しみを逃れ占め、終りなき平安を与え給え。*あわれみ深き御父、罪人なるわれらにも、この恵みを施して、ついに主の使徒、殉教者、諸聖人たちと共に住み、共に終りなく主を愛し、かつ讃美するを得しめ給え。

Suite du canon

Quelles seraient donc désormais ma malice et mon ingratitude, si, après avoir vu ce que je vois, je consentais à vous offenser !
Non, mon Dieu, je n’oublierai jamais ce que vous me représentez par cette auguste cérémonie ; les souffrances de votre Passion, la gloire de votre Résurrection, votre corps tout déchiré, votre sang répandu pour nous, réellement présent à mes yeux sur cet autel.

C’est maintenant, éternelle Majesté, que nous vous offrons de votre grâce, véritablement et proprement, la victime pure, sainte et sans tache, qu’il vous a plu de nous donner vous-même, et dont toutes les autres n’étaient que la figure. Oui, grand Dieu, nous osons vous le dire, il y a ici plus que tous les sacrifices d’Abel, d’Abraham et de Melchisédech : la seule victime digne de votre autel, Notre-Seigneur Jésus-Christ, votre Fils, l’unique objet de vos éternelles complaisances.

Que tous ceux qui participent ici de la bouche ou du cœur à cette Victime sacrée soient remplis de sa bénédiction.

Que cette bénédiction se répande, ô mon Dieu, sur les âmes des fidèles qui sont morts dans la paix de l’Église, et particulièrement sur l’âme de N*** et de N***. Accordez-leur, Seigneur, en vertu de ce sacrifice, la délivrance entière de leurs peines.

Daignez nous accorder aussi un jour cette grâce à nous-mêmes, Père infiniment bon ; et faites-nous entrer en société avec les saints Apôtres, les saints Martyrs et tous les Saints, afin que nous puissions vous aimer et vous glorifier éternellement avec eux. Ainsi soit-il.



神こう唱を唱える時の祈:

世の罪を除き給う天主の子羊、*われらをあわれみ給え。
世の罪を除き給う天主の子羊、*われらをあわれみ給え。
世の罪を除き給う天主の子羊、*われらに平安を与え給え

Agnus Dei

Agneau de Dieu, immolé pour moi, ayez pitié de moi.
Victime adorable de mon salut, sauvez-moi.
Divin médiateur, obtenez-moi ma grâce auprès de votre Père ; donnez-moi votre paix.



司祭右側で聖体拝領後の文を唱える時の祈:

主はわれらを救わんがためにいけにえとなり給いたれば、われらも、主の御栄えのためにみずからいけにえとならんと欲し、御旨のままにわが身を献げ奉る。主の御摂理によりて、われも同じくこれに勝たんと欲す。
今聖祭によりて、わが心の潔められしをかたじけなく思い、今より後、主と共に生きんがために主の御戒めを守り、たといわがすべての持ち物を失い、またいかなる苦難に遭う共、主に背くまじと決心し奉る

Dernières oraisons

Vous venez, ô mon Dieu, de vous immoler pour mon salut, je peux me sacrifier pour votre gloire. Je suis votre victime, ne m’épargnez point. J’accepte de bon cœur toutes les croix qu’il vous plaira de m’envoyer ; je les bénis, je les reçois de votre main, et je les unis à la vôtre.

Me voici purifié par vos saints mystères ; je fuirai avec horreur les moindres taches du péché, surtout de celui où mon penchant m’entraîne avec plus de violence. Je serai fidèle à votre loi, et je suis résolu de tout perdre et de tout souffrir plutôt que de la violer.


祝福の時の祈:(黒色の祭服の時はこれがない)

主よ、司祭の手をもってわれらを祝し、祝福の御恵みを、常にわれらの上にあらしめ給え。
+聖父と聖子と聖霊との御名によりて。アーメン。


Bénédictions

Bénissez, ô mon Dieu, ces saintes résolutions, bénissez-nous tous par la main de votre ministre, et que les effets de votre bénédiction demeurent éternellement sur nous.
Au nom du Père, et du Fils, et du Saint-Esprit. Ainsi soit-il.

聖ピオ十世会 日本における2月の聖伝のミサ報告 SSPX Japan Traditional Latin Mass

2016年02月12日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 2月7日、五旬節の主日には東京で聖伝のミサを捧げることができました。31名の兄弟姉妹の皆様が参加するお恵みをいただきました。今回は、いつもより人数が少なかったようです。
 ミサの後の公教要理では、カトリック信仰を友人や隣人に確実に伝えるにはどうしたらよいか、プロテスタントとカトリックとではどんなことが決定的に違うのか、という理解に達することができるように話が進められました。
 最後には主日の晩課で終わりました。

 2月8日の月曜日の早朝ミサには10名の方々が聖伝のミサに与りました。天主様に感謝!
 2月10日の灰の水曜日には、聖ピオ十世会としては日本で初めて灰の水曜日のミサを捧げることができました。天主様に感謝!17名の方々が聖伝のミサに与りました。
 2月11日には、新しく2名の方々が聖伝のミサに与ることができました。天主様に感謝!
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】
Dear Fr Onoda:

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 10人(内、子供0人)
女: 21人(内、子供0人)
計: 31人(内、子供0人)

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

日本でのミッション、ありがとうございました。
大きな苦しみを静かに耐え忍んでおられる神父様のお姿を見て、私達信徒も、四旬節に祈りと犠牲を沢山捧げる勇気が出ました。
マリア様が神父様をお助けくださいますように!
大阪での御ミサの報告をお送りいたします。

2月10日 灰の水曜日 灰をかける式、御ミサには17人の方々が、
2月11日 灰の水曜日後の木曜日のにも17人の方々が御ミサに与る御恵みを頂きました。デオグラチアス!

両日のお説教では、四旬節の意味と、なぜ償いが必要なのかを黙想し、そのあとに四旬節をよく過ごす遷善の決心をたてました。

「人よ、汝は塵であり、塵に戻ることを覚えよ」と教会が教えるとおり、額に灰を受けて、罪が招く永遠の罰の現実を忘れないようにする事は現代ではほとんど忘れられてしまっているように感じます。そんな時代だからこそ、私達は教会の一員として、教会の勧めと励ましに従って自分と、他の人々のために罪の償いをしなければならないし、
小野田神父様が仰るように、苦しみの無限の価値を再認識する「喜ばしい時節」が四旬節なのだと実感致します。

シュナイダー司教様が聖伝を守る聖ピオ十世会を「天主からの教会への贈り物だ」とおっしゃった事に違わぬ様、四旬節を祈りと犠牲に明け暮れて天主の子、教会の子としての勤めを怠らぬよう励みたいと思います。
私達の小さな祈りと、犠牲と呼べるかどうかとも思えるほど小さな犠牲をマリア様のお助けによって、マリア様を通してお捧げし、良い四旬節を過ごせるよう、日本に多くの回心を与えて頂けるよう、お取次ぎを祈ります。
また、日本の殉教者方にも、彼らに倣って天主様の為におおしく苦しみを耐え忍ぶ力をお取次ぎいただきたいと思います。

11日の御ミサの後の公教要理では、「カトリック信仰の核心がどこにあるのか?」「カトリックとプロテスタントは何が違うのか?」
などと人に聞かれたら、カトリック信徒として良く説明できるようになるための勉強を致しました。

わかっているつもりでも、いざ人に質問されると答え方に迷ってしまうことがありました。本当に核心を理解していないと、人には説明できないものだということがよくわかります。今日復習、勉強した事に関しては自分の理解を深めていることが出来ていれば嬉しいです。

神父様 「なぜカトリック教会を信じなければいけませんか?」
信徒A  「カトリック教会の権威は、まことの天主であるイエズス・キリストに由来しているから、私達はカトリック教会を信じなければならないのです。」

立派に答えられる方を見て、やはり聖ピオ十世会の信徒の方は優秀だなあと自分はさておき(;´∀`)関心しました。

多くの犠牲と共に来日してくださった小野田神父様に、天主様が豊かに報いてくださいますように。
マリア様が神父様をお助けくださいますように。
日本に多くの回心がありますように。


真の巡礼の一つ一つは、天主のお恵みの巨大な源泉です---2016年長崎秋田巡礼について シュテーリン神父様

2016年02月11日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する巡礼者の皆様!

真の巡礼の一つ一つは、天主のお恵みの巨大な源泉です。私たちの主イエズス・キリストは、自分の家を離れて、大きな犠牲を払って、天主の無限の御憐れみの特権的な場所を訪問する人々にふんだんに報われます。これらの場所は、永遠の光に私たちを近づけるために、また、悪魔の罠から私たちを解放し、闇の勢力との戦いにおいて私たちに力を与えるために、天主によって選ばれています。これらの場所の選択と天主の介入の日付とは、しばしば驚くべきものです。
あたかも、現在の異端と反キリスト教的勢力の霊的原子爆弾のまさにその投下された地に、天主は信じられないほどの美しい聖寵の花の庭を植えることを望まれているかのようです。
天主は、1830年、パリにおいてそうなさいました。パリ全市とフランス全国がひどい社会主義革命を遂行しているまさにその時、聖母はパリで聖カタリナ・ラブレに現れて、不思議のメダイを与えました。天主は、1917年にもそうなさいました。ロシアの10月革命をもって、共産主義の恐怖政治が始まりつつあった時、聖母はその時、フリーメーソンによって支配されていたポルトガルのファティマに現れました。

私たちは日本について考えるとき、またこの国を支配している唯物主義と異教主義の悲しい現実を述べねばなりません。しかし天主の御摂理は、全世界のための無数の御恵みの源泉としてこの国を選んだのでした。秋田の非常にごく控えめな修道院に、慎ましいシンプルな木製の聖母マリア像があります。この彫像から、聖母マリアに近づくすべての人々に御恵みと憐れみの生ける水が流れ出たのであり、流れ出ています。
その水は、私たちには涙として来ます。このことは、聖母の涙は、信じられないほどの苦しみの実りであるという意味です。秋田のメッセージは、母親のメッセージであります。地獄の火から、現代の全ての誘惑から、自分の最愛の子供たちを救うために望んでいる母のメッセージです。

今年、私たちの巡礼は小さな記念の年となります:これらの生ける水を私たちの心の中に霊的に汲み取るためにインマクラータの元に来て、今年で10回目であるからです。
この生ける水は、完全に私たちに浸透しなければなりません。私たちの知性を貫通しなければなりません。それは、私たちが現代の混乱において誤らないように、それどころか、すべての近代主義、エキュメニズム、およびその他の異端に対抗して、しっかりと私たちの聖伝のカトリックの信仰を保持することができるようにするためです。
罪に対する恐怖と嫌悪感で私たちを満たし、イエズスと聖母マリアとの分かちがたく一致した聖心に対する常により大きな愛をもって私たちをいっぱいにするために、聖母からの生ける水は、私たちの心に浸透しなければなりません。

私たちの感覚を制御し、感覚をして真理と善との忠実なしもべにするために、聖母マリアの生ける水は、私たちの感覚を貫通しなければなりません。また、すべての私たちの行動、私たちの家庭生活、私たちの本分、職務、全てに浸透しなければなりません。それはいつでもどこででも、天主と隣人とを愛せという、天主の掟を守るためです。

秋田の聖母を通して、聖心からの御恵みの巨大な大河を受けるようによく準備するために、私たちは長崎で巡礼を開始します。真の唯一の真の信仰のために恐ろしい拷問の中で自分の命を与えた日本の殉教者たちの援助を私たちは懇願します。全歴史の中でもっとも聖母信心の厚かった最も偉大な聖人たちの一人である、聖マキシミリアノ・コルベの事業を私たちは観想・熟考します。最後に、1945年に、その都市に落ちた原子爆弾の大惨事を私たちの心の中に思い起こしますが、私たちはこれを世俗の目ではなく、この出来事の優れた目撃者であり被害者であるパウロ永井隆博士の素晴らしい指導の下、信仰の目で、恐ろしい出来事を見ることを望みます。

親愛なる巡礼者の皆様、巨大な恵みが私たちを待っています。今は天主の憐れみの聖年であるので、私たちは天主の御憐れみの真の次元を発見するためにこの巡礼を利用したいと思います。何故なら、この天主の御憐れみについてその正反対のことを、私たちはほとんど毎日聞かされているからです。しかも、真理のパンを私たちに与える義務を持っているにもかかわらず、天主の愛や天主の憐れみという聖なる言葉と現実を誤用して【たとえば、罪を犯し続けても天主は愛だから大丈夫だ、などと】最悪の石を私たちに与える人々の口からそれが来ています。

聖母は憐れみの御母でおられるので、私たちは天主の憐れみという光において、インマクラータなる聖母の玄義を黙想する霊的黙想会を巡礼とともに行いたいと思っています。私たちは、以前よりもはるかに深い方法で聖母を見いだすでしょうし、巡礼の後には、このような母を持っているという私たちの愛と感謝とは、私たちの現代の暗闇の時において、私たちの生活を喜びと慰めとで満たしてくれるでしょう。

私は、巡礼者の皆様にこの巡礼をよく準備することをお願いします。私たちが、無原罪の聖母の騎士アジアのウェブサイト http://www.militia-immaculatae.asia に公開した全ての文章をできる限りお読みになって、特に聖マキシミリアノ・コルベに関すること、無原罪の聖母の騎士に関することを熟読して準備してください。

これらの霊的読書は、聖母マリアの精神の中に入ること、聖母がこの巡礼中に皆さんに与えようときわめて強く望んでいる、多くの愛と憐れみの御恵みをより多く受けることができるように準備するのに役立ちます。

2月11日、ルルドの聖母の祝日にて
感謝を込めて皆様のものである、

カール・シュテーリン神父

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Dear pilgrims!
Each true pilgrimage is an immense fountain of divine graces: Our Lord rewards abundantly those who leave their homes and make important sacrifices to visit the privileged places of His infinite Mercy. These places are chosen by Him, to bring us closer to the eternal light, to free us from the snares of the devil and gives us strength in our fight with the powers of darkness. The choice of these places and the dates of the divine interventions are often astonishing: it seems, that in the very epicenter of the spiritual atom bomb of the present heresies and anti-christian powers God wants to plant a garden of incredible flowers of graces. So he did in Paris 1830, when the whole city and country underwent the terrible socialist revolution, Our Lady appeared to Saint Catherine Laboure to give her the Miraculous Medal. So he did in 1917, when the October Revolution in Russia was the beginning of the communist terror, she appeared in Fatima in Portugal in a moment, when the whole country was dominated by the Freemasons.

When we think about Japan, we also state the sad realities of materialism and paganism dominating the country. However, the Divine Providence did chose this country as a source of innumerable graces for the whole world. In a very modest convent in Akita there is a very modest and simple wooden statue of Our Lady. From this statue came and come out living waters of graces and mercy to all those who approach Our Lady: the waters come to us as TEARS. This means, they are the fruits of incredible sufferings. And the message of Akita is a message of the MOTHER, who wants to save her beloved children from the fires of hell, from the temptations of our times.

Our pilgrimage this year will be a little jubilee: it is the 10th time that we come to the Immaculata to gather spiritually in our hearts those living waters, which must penetrate us entirely. They must penetrate our intelligence, so that we may not err in the troubles of our times, but hold firmly our traditional catholic faith against all modernism, ecumenism and other heresies. They must penetrate our hearts to fill us with horror and aversion towards sin and with an always greater love towards the United Hearts of Jesus and Mary. They must penetrate our senses to control them and make them faithful servants of the Truth and the Good. They must penetrate all our actions, our family life, our duties of state, everything - to fulfil the great commandment of God (Love of God and the neighbor) always and everywhere.

In order to be well prepared to receive such an immense river of graces from the Sacred Heart through Our Lady of Akita, we will start our pilgrimage in Nagasaki: we implore the assistance of the martyrs of Japan, who gave their life for the One true Faith amongst horrible tortures; we will contemplate the work of one of the greatest Marian Saints in the whole history, Saint Maximilian Kolbe, and finally we also want to revive in our hearts the catastrophe of the atom bomb which fell on that city in 1945: but we will meditate this horrible event not with the eyes of the world, but with the eyes of the faith under the wonderful guidance of the outstanding witness and victim of this event, Dr. Paul Takashi Nagai.

Immense graces wait for us, dear pilgrims. As we are in the holy year of the Divine Mercy, we want to profit from this pilgrimage to discover the true dimension of the DIVINE MERCY, which is the very contrary from that we hear almost everyday coming from the mouths of those, who should give us the bread of Truth, but fill us with hard stones of the worst of errors abusing the most holy words and realities ( Divine Love, Divine Mercy etc.) .

And because Our Lady is the MOTHER OF MERCY, we want to have this pilgrimage joint with a spiritual retreat considering the mystery of the Immaculata in the light of the Divine Mercy. We will discover Her in a much deeper manner than before, and after the pilgrimage our love and thanksgiving to have such a MOTHER will fill our life with joy and consolation inmidst the dark hours of our times.

May I ask you to prepare this pilgrimage in reading as much as you can all the texts we publish on the Militia Immaculatae Asia website http://www.militia-immaculatae.asia , especially on Saint Maximilian Kolbe, the Militia Immaculatae etc.

These spiritual lectures will help you very much to enter the spirit of Mary, to become more and more disposed to the many graces of love and mercy Our Lady desires SO MUCH to give you during the pilgrimage.

On the 11 February, feast of Our Lady of Lourdes
Yours thankfully
Fr. Karl Stehlin

ジャン・ギトン:パウロ六世には、ミサからカトリック的なものを消す、カルヴィン派に近づける意向があった

2016年02月09日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 新しいミサはエキュメニズムのために作られました。
 ジャン・ギトン(Jean Guitton)はパウロ六世の親密な友人でした。何故パウロ六世が新しいミサを作ったかその秘密を直接聞きました。

"パウロ六世の" という名前を持つ新しい典礼の意向は、信徒らにミサに対するより大きな参加をもとめること、聖書にもっと大きな場所を与え、いわゆる『マジック』とか『実体の聖変化』とかいわれるもの、つまり全実体変化というカトリックの信仰の場所を少なくする、ことだといって間違いはないと思います。言い換えると、パウロ六世には、聖伝の意味においてあまりにも『カトリック』的なものをミサにおいて消し去る、或いは少なくとも訂正するか曲げる、そしてカトリックのミサを、繰り返して言いますが、カルヴィン派のミサに近づけるという意向がありました。

 新しいミサを作った中心人物アンニバレ・ブニーニは新しいミサについてこう言っています。

「教会は、霊魂への愛と別れた私たちの兄弟たちが一致の道へと至るように全てをしようと言う望みとに導かれ、(プロテスタントたちにとって) 躓きや気に入らないかもしれない危険の陰とでもなるかもしれないものは全ての石を取り除いた。」
(Documentation Catholique du 4 avril 1965)

オッセルバトーレ・ロマーノにも、ブニーニは同じことをこう言っています。
「私たちは私たちのカトリックの祈りから、カトリックの典礼から、別れた兄弟達、つまりプロテスタントたちにとって、躓きの陰となるかもしれないものは全て取り除かなければならない。」
(Archbishop Annibale Bugnini, L'Osservatore Romano, March 19, 1965)


オッタヴィアーニ枢機卿:新しいミサは、全体的にも詳細も、ミサに関するカトリック神学から逸脱している

2016年02月09日 | カトリックとは

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

オッタヴィアーニ・バッチ両枢機卿のパウロ6世教皇聖下への手紙(翻訳)をご紹介します。

オッタヴィアーニ・バッチ両枢機卿のパウロ6世教皇聖下への手紙

1969年9月25日、ローマにて

教皇聖下

「聖なる典礼に関する憲章の実行のための委員会」の専門家らによって準備されたミサの新しい司式(Novus Ordo Missae)を、注意深く吟味し、その他の人々が綿密な調査をするように願い、そして、長い祈りと考察の後に、私たちは次の考察結果を聖下の前に報告するのが、天主の御目の前における、また聖下に対する重大な私たちの義務であると感じます。

1、添付のミサの新しい式次第の批判的研究は、神学者、典礼学者、霊魂の牧者らから成るあるグループのなしたものでありますが、これは短いものにもかかわらず、次のことを非常に明らかに示しています。すなわち、もし暗になされた、或いは当然なされた改革を私たちが考察するとき、この改革は様々な仕方で評価できるかもしれませんが、新しい司式はその全体といいまたその詳細といい、トレント公会議の第22総会で宣言されたミサに関するカトリック神学から目を見張るばかりに逸脱しています。あの当時に決定的に定められた典礼様式のカノンは、この[ミサの]神秘の完全性に対して向けられた如何なる異端に対しても越えることのできない防御の壁を作っていたのです。

2、聖伝からのこのように重大な逸脱を支持するような司牧上の理由は、たとえそれらの理由が仮に教義上考察した上で正しいものだと考えられたとしても、私たちには十分だとは思われません。新しい式次第における改革を見ても、そして永遠の価値をもつもの全てが、そしてそれが何らかの形であれそこに止まったとしても、単に隅の方に追いやられているという事実をみても、キリストを信ずる民が常に信じ続けてきた真理を変える、或いは無視する、ということをしても、カトリック信仰が永遠に結びつけられている教義の聖なる遺産に対して忠実であり続けることが、あたかも出来るかのような疑いを、(残念なことにこのような疑いは既に多くの所で支配的になっているのですが)確信にすっかり変えてしまうことでしょう。
最近の改革は典礼に於いてしたばかりの変化のために信者の側では、ただ完全にまごつかせる以外の何ものにも行き着かなかったことを十分に示しています。信者は落ち着きが無くなり、信仰をますます無くしているとの疑うことの出来ない印を既に見せています。聖職者の中で最も優れたものの間でさえ、良心の危機の苦悶を訴え、これに関して無数の例を私たちは毎日知るに至っています。

3、これらの考察は牧者らとその群の両方の生の声によって聖下の元にのみ届くことが出来るのですが、聖下の慈愛溢れる父の心にそのこだまを見つけ出さざるを得ません。聖下の父の心は常に教会の子らの霊的必要を非常に深く心配しておられるからです。ある法律がその臣民の善を望んで作られたにもかかわらず。それがその反対に有害であったと分かるときにはこれらの臣民はその法律を廃止するように忠孝の信頼をもって願う権利、いえ義務があるというのはいつも本当のことでした。

 ですから、これ程の痛ましい分裂と、信仰の純粋さと教会の一致に対するますます大きくなる危機(このことは私たちの共通の父である聖下ご自身がお嘆きになったことでもあります)の時に当たって、私たちは本当に心から聖下にひたすらお願い申しあげます。聖下ご自身がかくも高く賞賛され、全カトリック世界がかくも深く愛し崇敬してきた聖ピオ5世のローマ・ミサ典書の実り豊かな完全性に私たちが続けて使用することが出来るようにその可能性を私たちから奪わないで下さい。

 オッタヴィアーニ枢機卿(署名)
 バッチ枢機卿(署名)



新しいミサ制作においてオブサーバーとして参加したプロテスタントの牧師達
Raymond George (Methodist)
Ronald Jaspar (Anglican)
Massey Shepherd (Episcopalian)
Friedrich Künneth (Lutheran)
Eugene Brand (Lutheran)
Max Thurian (Calvinist-community of Taize).



四旬節に向けて

2016年02月08日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 来る2月10日は灰の水曜日で、四旬節が始まります。2016年は、ファチマ100周年を準備するためにきわめて大切な年です。また、聖マキシミリアノ・コルベが創立した無原罪の聖母の騎士の創立100周年でもあります。それに併せて、四旬節をますます深めていきましょう。よき決心を立てましょう。

 2017年は「戦いの年」となります。マルチン・ルターによるローマに反対する反乱の500周年で、それはローマにおいてもエキュメニズムの名によってカトリックとともに祝われようとしています。この悪魔的な方針の間違いにより、多くの霊魂がますます混乱する虞があります。

 中には、教会の危機に躓いて「教皇聖座空位主義」に陥ってしまうような人も出ることでしょう。

 カトリック「保守派」と言われる人々は、次のような論理をします。

大前提:教皇様は、不可謬だから、教皇が認めること、教皇が教えることは、それが何であれ、真理でなければならない。
小前提:第二バチカン公会議の教えとその後の実践は、教皇様によって認められた。
結論:従って、第二バチカン公会議の教えとその後の実践は、それ自体では良いものでなければならない。第二バチカン公会議は正しく解釈されておらず、間違って適用されているだけだ。

 「教皇聖座空位主義者」と言われる人々は、次のような論理をします。


大前提:教皇様は、不可謬だから、教皇が認めること、教皇が教えることは、それが何であれ、真理でなければならない。
小前提:第二バチカン公会議の教えとその後の実践は、以前のカトリック教会の教えと矛盾している。
結論:従って、第二バチカン公会議の教えとその後の実践は、本当の教皇が認め、教えることではない。

 しかし、正しい大前提はこうです。

真の教皇は、不可謬性の賜の特権を行使しようするとき、間違った教えをすることができない。キリストは、聖ペトロとその後継者たちが、この地上で繋ぎ、解く時にのみ誤りに陥らないように保護を与えた。歴史が教えるように、教皇が不可謬の特権を行使しようとしないなら、教皇と言えども全教会に誤りを教えることができる、ただし、誤った教えを啓示された真理として全教会に決定的に信じることを強制することはないし、啓示された真理に真っ向から反するような実践を全教会に強制することはない。

 ところで、この大前提を説明すると、第二バチカン公会議以後の教皇たちは、不可謬見を行使してドグマを決定しようとも、誤謬を排斥しようとしたこともありませんでした。教皇たちは、第二バチカン公会議と同じように、司牧的に、非強制的に、非ドグマ的に教え続けてきました。

 聖金曜日に、私たちの主イエズス・キリストが十字架につけられて、しかも「我が天主よ、我が天主よ、なぜ我を見捨て給うや?」と言いつつ死んだことを見た人々は、キリストは死ぬはずがない、と言って躓きました。聖母マリアだけが、イエズス・キリストが真の天主であり真の人であることを最後まで変わらずに信じ続けました。

 ファチマのジャシンタはこう言っていました。「かわいそうな教皇様、皆が、教皇様のために祈らなければなりません。」ファチマの牧童たちは、教皇様のためにいつも祈りと犠牲を捧げていました。

 インマクラータなる聖母マリア様の元にいつも留まりましょう。多くの霊魂が聖母の私たちにたいする愛を、また、聖母が私たちの母であり元后であることを認めることができるように祈りましょう。ファチマでは、聖母はご自分の汚れなき聖心を私たちの避難所として、また、天主へと私たちを導く道として与えてくださいました。

 キリストの神秘体である教会の受難の時、また、ファチマ100周年を準備の時、私たちはいつも聖母マリアの元に馳せよりましょう。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

聖パウロ三木:まことの天主の御教えを他にして永久の命に入る道はござりませぬぞ!

2016年02月07日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 先日、2月5日は、聖伝によると、日本二十六聖殉教者の祝日でした。

 聖パウロ三木の最後の言葉をご紹介します。

 天主様の祝福が豊かにありますように!
 トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

「見物の方々、それがしがいまわの言葉を心して聞かれよ! それがしはこれ国家に背く大逆人にもあらず、方々と等しく忠良なる日本(やまと)の民の一人なり。さるを今ここにはり付けられたるは、ひとえに世の救い主、イエズス・キリストの御教えを述べ伝えたるによるもの。
されどもこの苦しみは大いなる天主(デウス)の聖寵(ガラサ)にして我が無上の喜びとするところなり。
見物の衆よ、それがしの言葉をゆめゆめ疑い給うなかれ。古語にもいわずや、人の死なんとする、その言やよし、と。
それがしは今し絶えなんとする玉の緒にかけて断言せん。このまことの天主の御教えを他にして、永久の命にいる道はまたとござりませぬぞ!
それがし等ここに罪無くして十字架に磔るといえども、生命を奪う人々に対しても、つゆ怨みの心をも抱くものに非ず、唯、方々及び我が日の本の国民がことごとく、この同じ救いの途に入り給わん事をひたすら希うのみ。」

(1597年2月5日、十字架の上より、聖パウロ三木 二十六聖人の殉教を直接見聞したフランシスコ会士マルセロ・デ・リバデネイラが書き記した証言 
Historia de las islas del archipielago y reynos de la gran China, Tartaria, Cuchinchina, Malaca, Sian, Camboxa y Iappon, y de los sucedido en ellos a los religiosos descalços compuesta por fray Marcello de Ribadeneyra による。
第7章イエズス会修道士パウロ三木殉教者の生涯 CAPITULO VII De la vida del bienaventurado mártir Paulo Miquí, HERMANO DE LA COMPAÑÍA DE JESÚS には次の記述がある。

Y en ella más particularmente le mostró, porque siendo levantado en alto, sin turbarse ni dejarse vencer del amor que tenía a su padre adoptivo, que estaba presente, derramando muchas lágrimas, haciendo de la cruz pulpito, el tiempo que tuvo de vida siempre predicó, diciendo a los japones que él también lo era y que les desengañaba, como hombre que en aquella hora había de decir verdad, que no había en otra ley salvación sino en la ley de Cristo Nuestro Señor, a quien adoran los cristianos. Y que él alegremente daba su vida por ese mismo Dios ; que él perdonaba a sus enemigos, y al rey, y a todos los que eran culpados en su muerte, y rogaba al Señor que se bautizasen.
Y con estas palabras acabó. Hallándose a sus pies un padre de la Compañía, que le esforzaba para ir a la bienaventuranza del cielo, adonde recibiría particular gozo viendo muchas almas que por su predicación se habían salvado. Porque predicaba sin temor humano, como se echó de ver antes que fuese preso. (pp. 656-657)

【直訳】そして、彼においてそれは特に現れた。何故なら、高く上げられ、恥ずかしがらず、目前にいた養父に持っていた自分の愛に押し負かされ、多くの涙を流しながら、十字架を説教台に変えて、日本人たちにこう言って残る時間を常に説教した。自分もそう(日本人)である、(死なんとする)かの時に、人間は真理を言うように、それらを断言する、キリスト教信者たちが礼拝している、私たちの主キリストの法以外には、そのほかの救いの法はない、自分は喜んでこの同じ天主のために自分の命を与える、自分は、敵らを赦し、王を赦し、自分に死をもたらした全ての人間を赦し、主に彼らが洗礼を受けるように祈る、と。
この言葉を持って、彼は息絶えた。彼の足元に、イエズス会の司祭がいた。彼は天国の至福に行こうと努めた。そこには自分の説教で救われた多くの霊魂たちを見て特別の喜びを受けた。何故なら、彼は世間体を恐れずに、投獄前と同じように説教していたからだった。

アジアの無原罪の聖母の騎士への手紙 第10号 ― 無原罪の御宿りといつくしみ(あわれみ)の年

2016年02月05日 | M.I.(無原罪の聖...
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 シュテーリン神父様からの「アジアの無原罪の聖母の騎士への手紙 第10号」の日本語訳をご紹介いたします。

「あわれみの聖年」は2015年12月8日の「無原罪の御宿り」から荘厳に始まりました。
神父様は、「天主の御あわれみ」を私たちに黙想することを提案しています。
「無原罪の御宿り」こそ、「天主の御あわれみ」の神秘を表し、
「無原罪の御宿り」において、天主は、ご自身が被造物に対してまずどのような存在でいらっしゃるのかを世にお示しになられること。
「あわれみの年」は、その深奥においては、被造物に対する天主の呼びかけであり、この天主の呼びかけに、私たちが何をしなければならないか?を教えてくださいます。

 どうぞお読み下さい。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

アジアの無原罪の聖母の騎士への手紙 第10号

*** 無原罪の御宿りといつくしみ(あわれみ)の年 ***


親愛なる無原罪の聖母の騎士の皆さん!

毎年、無原罪の御宿りの祝日が近づくと、聖マキシミリアノ・コルベはあふれんばかりの霊的な喜びで満たされ、修道士たちにその喜びを伝えていました。この偉大なる教義は聖母ご自身だけに関係するのではなく、私たちに対しても優れて実践的な結果をもたらす、と聖マキシミリアノは、しばしば彼らに説明していました。12月8日が近づきますから、彼と共にこの神秘に入り、それについて黙想しましょう。その日は、騎士全員が無原罪の聖母への奉献を確実に更新すべき日なのです。

今年、教皇様は「天主のいつくしみ(あわれみ)の年」を宣言しました。12月8日に荘厳に始まります。広く説明されてきていることは、不幸にも天主の御あわれみの理解そのものについても、その私たちの生活への影響についても、多くの霊魂を大変な災厄に導くことになるような全くの誤った解釈がおこなわれているということです。彼らを回心させて回心と聖化というあわれみ深い恩寵を受けさせる代わりに、この偽りのあわれみは、彼らに自らの罪を続ける決意を固めさせ、「天に向かって復讐を叫ぶ」忌まわしい行為さえも寛容に扱い、また正当化するのです。さらに、「光であり、その中に闇は一切ありえない」という天主の本質そのものについての完全に誤った理解を示しているのです。

それにもかかわらず、私たちは、教皇の意向すなわち教皇の個人的な考え方と、最高の権威者による行為とを区別しなければなりません。つまり、最高の権威者が、「聖年」を定めることによって、天からのあふれんばかりの恩寵が来るよう天を開いてくださったのであり、私たちがその恩寵に対して自分の心を開くなら、それを受けることができるのですから。エルザレムでの枝の主日の出来事のあとの大司祭の言葉を思い出しましょう。彼は言いました。「民のために一人の人が死ぬ方がよい」。カヤファの意向は確かに悪しきものでしたが、大司祭としての職務において彼が述べたその言葉は、預言的であり正しいものでした。同様に、「今年の大司祭」の意向にもかかわらず、最高の大司祭イエズス・キリストはご自分の代理者による客観的かつ法的に正当な決定を尊重され、そのため主は、世界と教会にかつて見られたうちで最悪のこの危機の時において、その無限の御あわれみをあわれな人類に注ごうと望んでおられるのだ、と私たちは結論できるのです。天主だけが、悪をより高い善へと変えることがおできになり、そのため、天主は多くの高位聖職者の心にあるあわれみについての誤った考えさえもお使いになり、この一年の間に、まことの御あわれみをお示しになることができるのです。

しかしながら、この地上にいる司祭一人一人の任務は、教会の教導権、教父たち、教会博士たち、まことの聖人たちによって明らかにされ、教えられた天主のまことの御あわれみを信者に提示することです。そうすれば、あわれみの年は、よい心構えをもって天主の愛の泉に近づく全ての人々にとり、大きな恩寵の源となるでしょう

「偶然によって」は何も起こりません。それゆえに私たちは、どこでも常に天主の御摂理の道を見いだすべきです。私たちの主が、無原罪の御宿りの祝日にあわれみの年を開始するよう、教皇様に霊感をお与えになったのは、「偶然によって」ではありません。事実、天主の御あわれみの神秘を表すのに、すべての被造物の中でただお一人だけ汚れなく、原罪を免れておられた聖母の御宿り、聖母の存在のまさに始まり、それ以上の時はありません。無原罪の御宿りにおいて、天主は、ご自身が被造物に対してまずどのような存在でいらっしゃるのか、そして、天主とのこの根本的な関係が無限の御あわれみであるよう望んでおられることを世にお示しになるのです。

天主の御あわれみは、無でしかない者への天主のまったくあわれみ深い謙遜の御業です。天主は、まったく見返りをうけることなく、無償の愛をくださいます。さらに、これは私たちに対する天主のまさに最初の御業なのであり、私たちの側からでき得るどのようなお応えよりも先にあるのです。天主は、その全能と上智をお使いになり、無条件であふれるほど豊かに、ご自身の愛、光、幸福、内的な喜びを与えてくださいます。天主は、私たちがこの永遠のあふれるほどの賜物の基礎の上に存在することを望んでおられます。天主は、その命で私たちを豊かに満たそうと望んでおられます。

しかし、私たちが、天主の賜物に対して、それを喜んで受け入れ、それに対して完全に心を開く場合にのみ、天主はこれを行うことがおできになります。罪を通して、私たちはこの天主の愛の流れを妨げており、天主に私たちへ御あわれみを与えていただく代わりに、私たちがこれらの賜物を受ける権利を持っていたかのように、私たちが自分自身でその賜物を得ることができるかのように思ってしまうのです。これは傲慢な態度であり、私たちの心の奥の本質はもちろん、天主の心の奥の本質まで否定しているだけでなく、それらを逆転させてしまうのです。天主が人類のしもべとしてとらえられているのです。人間は天主のようになりたいのです。

しかし、天主は、私たちの邪悪さと罪深さを使ってでも、さらに多くの御あわれみを示すことがおできになるのでした。天主は、半死半生の人類である私たちに、「良きサマリア人」である御独り子を送られ、私たちに赦しと浄めを与えてくださいます。この良き羊飼いは、迷える羊をあわれみ深く探し出し、御父の家へと戻してくださいます。イエズスが十字架に掛かり、私たちのために亡くなられたことは、天主の御あわれみの最大の現れです。「最後に至るまで」、主はご自分が持っておられるものすべてを、血のまさに最後の一滴まで、私たちにお与えになったのです。

しかし、人間の最大の悲劇は、多かれ少なかれ、その傲慢と自己満足の中に自らを閉じ込め、この至高のあわれみ深い天主の愛を受け入れないことにあるのです。天主の恩寵に自ら心を開いている人でさえ、天主がその御あわれみを完全にお見せになることを許しませんでした。なぜなら、「わが(天主の)心の計り知れないほどの愛に対する怠慢、無関心、忘却」があったからです。

では、天主の御あわれみを完全に受け入れ、天主のあふれるほどの恩寵に対する障害物を何も置かなかった人間がいるでしょうか? 実際に天主によって運命づけられ、天主がそうあるように計画なさったような人間を、私たちは見つけることができるでしょうか?

はい、その人こそが、インマクラータ、無原罪の聖母です! 聖母という存在はそのすべての点において、天主の御あわれみを反映したものです。聖母は天主からのものをすべて受け取り、受け入れられます。まさしくその結果、この天主の特性は、ある意味で、聖母においてご托身されているのです。聖母だけが、永遠の御父のすべての賜物を受け取られました。聖母は、天主がお下しになった善さに完全に心を開かれました。愛は、持っているすべてのものを与えることを望みます。天主は、被造物が受けることができるすべてのものを与えることを望まれます。そして、被造物の中で唯一聖母が、まことに天主の恩寵のすべてを受けたのです。なぜなら、聖母は、天主の愛に対して、いかなる障害物も置かれなかったからです。いつでも、どこでも、完全に、天主のご意志に対して「はい」と言われたのです。聖母は、絶対的に忠実に、天主の愛に応えられたのです。ためらいもなく、疑問もなく、疑いもなく! 天主ご自身が地上に来られるにあたって、聖母以上に良い道具と神殿はありえませんでした。それゆえに、最も善き御父の御摂理は、その汚れなき娘が、ほんの少しの悪に染まることをもお許しにならず、悪魔が聖母の霊魂へ触れることもお許しになりませんでした。これが聖母の無原罪のお宿りなのです。

無原罪のお宿りにおいて、私たちは、天主の御あわれみがまことに及ぶ範囲を発見するのです。まったく信じられないことであり、驚くべきことであるのは、天主が無でしかない被造物に対してどれほど多くを与えようと望まれるのか、天主の聖心が私たちの惨めさ(misery)に対してどれほど多く気にかけておられるのか、です。あわれみのラテン語である「ミゼリコルディア(Misericordia)」が示す通りです!

「見よ、わが最愛の子どもたちよ、われに造られし『無』よ、われに贖われし罪びとよ!
われは、わがあわれみを汝らに与えるに際して、無限の寛大さを示したい。汝らには無原罪の聖母が見えるか? 聖母がどれほど純粋か、どれほど美しいか、信じられないほどあらゆる徳にどれほど充ち満ちて、わが愛で燃える心を持っているかを? 最高の知恵、浸透する知性、わが永遠の命に満ち、聖霊の浄配、わが子の母、わが無限の力に参与するわが娘を? 汝らは、今までこのような被造物を見たことがあるか? これこそ、わがあわれみである!

しかし、さらに次の段階があるのです。聖母は天主の御あわれみを完全に受けられたため、今度は聖母がその子どもたちすべてに対するあわれみの源となるよう、天主は望まれたのです。イエズスが十字架の上で聖母に対して「あなたの子を見よ」と言われたとき、聖母は私たちの霊的な母となられました。それは、聖母が私たちのためにすべての恩寵の母なる源、すべての恩寵の仲介者、あわれみの御母―「マーテル・ミゼリコルディエ(mater misericordiae)」になられたことを意味しているのです! このゆえに私たちは理解するのです、人々が聖母の助けを請い求めるところがどこであれ、子どもが愛情深い母親について知っているように、聖母は「あわれみ深く」、常にあわれみ深く、母としてのあわれみに満ちておられるということを。

天主は、私たちの救いと私たちの永遠の幸福を大変望まれています。天主が、地上における天主の御あわれみの目に見えるしるしとして、御子の人間としての聖心を造られただけでなく、私たちに「あわれみの御母」を、私たちを非常に愛してくださるその御母のあわれみ深く汚れなき御心とともに与えてくださったほどに!

あわれみの年は、その深奥においては、被造物に対する天主の呼びかけなのです。「われは慈悲を示そう! 汝らにわが賜物を、わが光を、わが宝を、わが愛を与えよう!」。私たちがしなければならない唯一のことは、心の扉を広く開けて、自分を本当に天主の方に向け、インマクラータ、無原罪の聖母に倣うことです。私たちが、すべてを受け入れるという聖母の態度をもちさえすれば、私たちは、 天主の御あわれみをもう一度受け入れ、私たちの罪の浄めという天主からの驚くべき御業に始まるあふれんばかりに豊かな賜物を天主からいただくことができるのです。なぜなら、天主は何度も何度も私たちをお赦しになるのにお疲れになることは決してなく、私たちの強情さや不忠実をご覧になるのではなく、私たちの最も小さな悔い改めのしるしさえもお使いになって私たちを無限の愛の賜物に再び浸してくださるからです。

では、「無原罪の聖母の騎士」とは何でしょうか? 人間の霊魂に天主の御あわれみを注ぐための聖母の道具なのです。私たちのすべての祈り、犠牲、使徒的活動には、唯一の目標があります。汚れなきあわれみの御母を、罪と誤謬というあわれみのない闇に座したままの愛する子どもたちに近づけさせ、聖母が彼らの心に触れて、天主の無限の御あわれみに向かわせ、天主が彼らを救い、聖人にするのを可能にさせることなのです。

2015年12月3日、聖フランシスコ・ザビエルの祝日、ニゴンボ(スリランカ)にて。
カール・シュテーリン神父


聖伝のM.I.(Militia Immaculatae 無原罪の聖母の騎士会)についてのまとめ

クラウス・ガンバー神父:新しい典礼改革は、伝統的なローマ式典礼の真の破壊だった。

2016年02月05日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 クラウス・ガンバー神父(Klaus Gamber, レーゲンスブルグの典礼研究所の創立者所長、ローマの教皇庁立典礼アカデミーの名誉会員)の言葉を聞いてください。

 ガンバー師の「ローマ典礼の改革」のフランス語版に対して、ベネディクト十六世(ラッツィンガー枢機卿)は「序言」を書いて、彼の功績を讃えてこう言っています。

第二バチカン公会議後に起こったことは、全く違うことだった。発展の実りとしての典礼の場所に、捏造された典礼が来た。私たちは、数世紀にわたる成長と発展のオーガニックな生きている過程を捨て去り、その代わりに、丁度制作過程で起こるかのように、作り上げられたものを、平凡でその場しのぎの産物を置いた。ガンバーは、真の預言者の警戒と真の証人の勇気とを持って、この捏造に反対した。そして、彼の信じられないほど豊かな知識をもって、疲れを知らずに私たちに真の典礼の生きる充満性について教えてくれた。」

 ガンバー神父は「ローマ典礼の改革」の中でこう断言しています。

「パウロ六世がそうするまで、教皇たちは固有の意味におけるミサ式次第(Ordo Missae)には一切変化を加えたことがない、ただし、特にトリエント公会議以後は、教皇たちは新しい祝日のために新しい固有文を導入しただけだ。」

「教会諸改革を導入することは聖座の機能ではないということは最も確実なことである。教皇の第一の義務は教会の諸々の伝統 - その教義、道徳、典礼の諸々の伝統 - を見守るために、第一位の司教として行動することである。」

新しい典礼改革は「伝統的なミサの、一千年以上もの歴史をもった伝統的なローマ式典礼の真の破壊」であった。(p. 102.)

「混乱は大きい! この暗闇のなかでまだ明らかに見ることができる人が誰かまだいるのだろうか? 私たちに正しい道を示すことのできる指導者が私たちの教会のどこにいるのだろうか? 自己増殖をし続け最も聖なる神秘のまっただ中でさえも汚染し続けている近代主義神学の癌のような増殖を、この癌が広がってより大きな損害を及ぼす前に切り取り捨てるだけの勇気のある司教たちはいったいどこにいるのか? 私たちにとって現代必要とされているのは新しいアタナシウスであり、新しいバジリオであり、四世紀にキリスト教世界がほとんど全てアリウスの異端に陥ってしまっていた時にこれに対して立ち上がって闘ったような司教たちである。今日、私たちには、信仰の残っている人々を一致団結させてくれるような聖人が必要である。それは私たちが誤謬に対して戦い、弱い者とフラフラしている者たちをその無力感から立ち上がらせることができるためである。」(p. 113.)

「(聖伝のミサは)もう一度、私たちの信仰の規範となり、全世界においてカトリックの一致のシンボル、大変動と終わることのない変化の時代における安定の巌とならなければならない。」

現代の教会は、新しいミサの必要が全くない。教会に必要なのは霊的生活を充足させることだ。これこそが信仰の危機を乗り越えうる。この危機は権威の危機でもある。少なくとも部分的には、権威の危機の責任は、ローマに起因されなければならない。」 (p. 68)

 聖伝の「ローマ典礼様式」と「現代典礼様式」と二つの典礼様式が存在する。

「パウロ六世の典礼形式は事実上新しい典礼様式を作り上げた。」(p. 39)

今日、私たちは、教会の聖伝ほぼ二〇〇〇年の廃墟を前にして立っている。私たちはこう思わざるを得ない。多くの改革は教会の聖伝に損害を与え、それはそれを元に戻すのが難しいほどだ。今日、かくも酷い破壊の後に、聖伝の秩序を再建築するのが可能なのかと疑問にさえ思う。しかし、私たちは希望を諦めてはならない。」(p. 95)


「私たちは東方教会にも、西方教会にも、会衆と対面する儀式などというものは存在していなかったことと言うことができるし充分に証明することもできる。むしろ存在していたのは、祈る時に東方を向くということだけであった。」 (p. 77)

「初代教会において、そして中世において、祭壇の位置を決定したのは東方を向くと言うことである。聖アウグスティヌスを引用すると、『私たちが立って祈る時、天が始まる東を向く。天主が東におられるからという理由で(あたかも天主が東から西に移動されるかのように)そうするのではない。そうではなく、私たちの心を高い秩序に、つまり天主へと向けることを思い出させてくれるためである』」

「典礼の歴史においても神学においても社会学的にもいかなる根拠もないが故に、会衆と対面したミサの儀式というのは徐々に姿を消すべきである。」 (p. 92)

「『司牧者』誌において、第二バチカン公会議のすぐ後に発表された『荘厳ミサ』という著名な本の著者であるユングマンを引用したいと思う。ユングマンはこう書いている。『初代教会の祭壇が、常に会衆と対面して儀式をするように作られていたと、しばしば繰り返し主張されるが、それはおとぎ話以外の何ものでもないことが分かった』と。」

「焦点は常に天主に向かっていなければならない。人間にではない。このことは、司祭が会衆の方に顔を向けるのではなく、祈る時に皆が天主に向かっていなければならないということを常に意味した。従って、対面式の儀式は、事実上、間違っていると結論付けなければならない。結局、対面式の儀式は、天主から離れさせ、人間に向かわせるものである。」


ベネディクト十六世:学者が作った新しいミサにより、古代教会以来の典礼の歴史が断絶し、連続性が破壊した

2016年02月04日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 引退教皇であるベネディクト十六世は、こうおっしゃっています。

古いミサ典書が禁止されるということは、全典礼史を通じて一度もなかった。

【ローマ・ミサ典書の】改訂は、歴史的な発展の一環として、世紀を通じて常に行われてきたこと。それは成長と純化の連続的なプロセスであり、そこにおいて連続性が破壊されたことは一度もなかった。

ピウス五世によってまったく新たに制定されたミサ典書など存在しない。

古代教会の聖体秘蹟書以来、何世紀も連綿とつづいてきたミサ典書の使用禁止は、典礼の歴史における断絶を意味する。

今回【新しいミサで】起きたことは、古い家を壊して新しい家を建てた【のと同じこと】。
歴史的に成立してきたものに対して、新しい家を対立させ、これを禁止した。

典礼を生きたもの、成長するものとしてではなく、学者たちの仕事、法律家の権限によってつくりだされたものとした。

これらが私たちに大きな損害を与えた。

教会が、いきいきと生きていくことができるためには、典礼の歴史の連続性を認め【なければならない】。

私たちが今日経験している教会の危機は、「たとえ神が存在しなかったとしても」(etsi Deus non daretur)の原則にしたがって行われた改革の結果である【新しいミサによる】典礼の崩壊が原因であると、私は確信している。

今日、【新しいミサの】典礼において、天主が存在しており、天主が私たちに語りかけ、私たちの祈りを聞いてくださるということは、もはや問題外のこととなっている。


 ベネディクト十六世の言葉をお聞きください

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

「私のレーゲンスブルク時代のはじめに当たって、第二の大きな出来事は、パウロ六世のミサ典書の刊行です。これは、いままでのミサ典書を、たった一年半の移行期間を猶予として、ほとんど完全に禁止するものでした。公会議後の試行錯誤の時代に、典礼の姿は深く変えられてしまったので、ふたたび規範的な典礼本文が出されるのは喜ばしいことでありました。しかし私は、古いミサ典書が禁止されるということについては、深い驚きを感じざるをえませんでした。全典礼史を通じて一度もなかったことです。しかし、それは、まったくあたりまえのことであるかのような印象が与えられました。現行のミサ典書は、トリエント公会議後の一五七〇年に、ピウス五世によって制定されたものだから、四〇〇年後の新しい公会議のあとでは、新しい教皇によって新しいミサ典書が制定されるのは当然だというのです。

 しかし真実はそうではありません。ピウス五世は、当時現存したローマ・ミサ典書に手を加えただけなのです。このような改訂は、歴史的な発展の一環として、世紀を通じて常に行われてきたことでした。ピウス五世のあともミサ典書の改訂は行われましたが、以前のものを使用禁止にしたことはありませんでした。それは成長と純化の連続的なプロセスであり、そこにおいて連続性が破壊されたことは一度もなかったのです。ピウス五世によってまったく新たに制定されたミサ典書など存在しません。長い成長の歴史のなかで、ピウス五世によって手を加えられたものがあるだけです。

 トリエント公会議ののちにつくられた新しいミサ典書は、今回のミサ典書の刊行とはまったく違う性質のものでした。宗教改革は特に、典礼の「改革」というかたちではじまりました。カトリック教会とプロテスタント教会というふたつのものが、はじめから別々のものとして、平行してあったわけではありません。教会の分裂は、ほとんど気づかれることなく進行したのです。もっともはっきりと目に見えて現われ、歴史的にもっとも深刻な影響を与えたのは、典礼における変化でした。この変化は場所によってもさまざまで、その結果、カトリックであるか、もはやカトリックではないかの境界線を引くことは、ほとんどできないような状態でした。

 典礼についての統一的な規則の不備と、中世における複数の典礼形態の並存の結果として生じたこの混乱の状態に直面して、ピウス五世は、二〇〇年以上の典礼の歴史を示すことのできない地域教会に対してのみ、疑いなくカトリック的なものとして、ローマ市教会の伝統的なミサの本文であるローマミサ典書を導入することを決定したのでした。二〇〇年以上の歴史を示すことができれば、そのカトリック的な性格は確実であると見倣され、それまでの典礼にとどまることができたのです。

 いままでの、そして、いままで合法的であると見倣されてきたミサ典書の使用が禁止されたわけではなかったのです。古代教会の聖体秘蹟書以来、何世紀も連綿とつづいてきたミサ典書の使用禁止は、典礼の歴史における断絶を意味するものであり、その影響は計りしれないものです。いままでも行われてきたようなミサ典書の改訂であるが、今回は、典礼に各国語を導入するということで、いままでよりも根本的な改訂になったというのであれば、それは意味のあるものであり、公会議によって正当に求められたものということができましょう。

 しかし、今回起きたことは、それ以上のことだったのです。古い家を壊して新しい家を建てたのです。もちろん大幅に古い家の材料を使い、古い設計図によってということですが。この新しいミサ典書において、実際に多くの点が改良され、また豊かなものとされたのは疑いのないところです。しかし歴史的に成立してきたものに対して、新しい家を対立させ、これを禁止したということ、典礼を生きたもの、成長するものとしてではなく、学者たちの仕事、法律家の権限によってつくりだされたものとしたこと、これらが私たちに大きな損害を与えたのです。

 これによって、典礼は人間に先立って神から与えられたものではなく、つくられたもの、人間の裁量の領域のうちにあるものであるという印象ができあがってしまったのです。そうすると今度は、なぜ学者や中央機関だけが決定権を持つのか、最終的には個々の共同体が自分たちの典礼をつくってもよいのではないかと考えるのは、論理的です。しかし、典礼が自分たちによってつくられたものとなってしまえば、典礼は、典礼本来の賜であるもの、すなわち、私たちの生産物ではなく、私たちの根源であり、私たちの生命の源であるところの信仰の神秘との出会いを、私たちに与えることはできません。

 教会がいきいきと生きていくことができるためには、典礼意識の革新、すなわち、典礼の歴史の連続性を認め、ヴァティカン公会議を断絶としてではなく、発展として理解することができるような、典礼における和解の精神が欠かせません。私たちが今日経験している教会の危機は、「もし神が存在しなかったとしても」(etsi Deus non daretur)の原則にしたがって行われた改革の結果である典礼の崩壊が原因であると、私は確信しております。今日、典礼において、神が存在しており、神が私たちに語りかけ、私たちの祈りを聞いてくださるということは、もはや問題外のこととなっているのです。

 もし典礼において、信仰の共同体、世界にひろがる教会の一致とその歴史、生きているキリストの神秘が現われるということがもはやないのであれば、どこにおいて教会はその霊的な本質を現わすのでしょうか。そこでは共同体は自分自身を祝うだけであり、それは何の役にも立たないのです。共同体は、常に主から与えられた信仰によってのみ、ひとつの教会として存在するのです。教会は自分自身において存立しているのではないのですから、このような条件のもとでは、教会が自分自身を引き裂き、党派的な対立と党派への崩壊の道をたどることになるのは、必然的なことであります。それゆえ私たちは、第二ヴァティカン公会議の本来の遺産に、ふたたび生命を呼び醒ますような、新しい典礼運動を必要としているのです。」
(『わが信仰の歩み』春秋社より)

シュナイダー司教:聖ピオ十世会は、教会のための賜、天主の御摂理がお使いになる道具の一つだ

2016年02月04日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 参考資料として、カザフスタンのアタナシウス・シュナイダー司教様が、つい最近ブログ「ロラテ・チェリ」としたインタビュー(2016年2月1日 公開)の一部をご紹介します。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

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ロラテ・チェリ:聖ピオ十世会(SSPX) は、教会内で典型的ではない状況にあります。司教様は、何故、多くのカトリック信徒たちが聖ピオ十世会と共に行動することを恐れている、あるいは不安に思っていると思いますか?司教様が見たことから、聖ピオ十世会はどのようなどのような賜を主流の教会にもたらすことができると思いますか?

シュナイダー司教様:誰かがあるいは何かが重要ではない、あるいは弱い時には、誰もそれを恐れはしません。聖ピオ十世司祭兄弟会を恐れる人々は、究極的には、恒久のカトリック真理を恐れ、カトリック真理が道徳と典礼の領域に求めることを恐れているのです。

私たちの祖先たち、そして、最もよく知られている聖人達が過去千年間やったやり方で、信じ、礼拝し、道徳的に生活しようと聖ピオ十世会が努力するとき、私たちは聖ピオ十世会のカトリック司祭たちと信徒たちの生活と仕事を、現代における教会のための賜であると、しかも、教会内部における、現行の一般的な信仰の危機、道徳と典礼の危機の巨大さを治癒するために天主の御摂理がお使いになる道具の一つであるとさえ考えなければなりません。

聖ピオ十世会の一部には、しかしながら、全ての人間社会においてそうであるように、奇妙な人もいます。正義と愛徳とを欠き、従って本当の「教会と共に考える“sentire cum ecclesia,”」を欠くやり方と思考を持っている人で、独立的な教会となり教会における最高裁となる危険があります。しかし、私の知る限り、聖ピオ十世会の大部分は健全な部分であり、私は聖ピオ十世会総長ベルナール・フェレー司教様のことを、模範的な本当のカトリック司教であると考えています。聖ピオ十世会の教会法上の立場が承認される希望があります。

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Rorate Caeli: A non-typical situation in the church is the Priestly Society of St. Pius X (SSPX). Why does Your Excellency think that so many Catholics are afraid of the SSPX or anxious about any association with it? From what Your Excellency has seen, what gifts do you think the SSPX can bring to the mainstream Church?

H.E. Schneider: When someone or something is unimportant and weak, nobody has fear of it. Those who have fear of the Priestly Society of St. Pius X ultimately have fear of the perennial Catholic truths and of its demands in the moral and the liturgical domain.

When the SSPX tries to believe, to worship and to live morally the way our fore-fathers and the best-known Saints did during a millennial period, then one has to consider the life and the work of these Catholic priests and faithful of the SSPX as a gift for the Church in our days – even as one of the several instruments which the Divine Providence uses to remedy the enormity of the current general crisis of the faith, of the morals and of the liturgy inside the Church.

In some sectors of the SSPX there are, however, as it is the case in every human society some eccentric personalities. They have a method and a mindset which lack justice and charity and consequently the true “sentire cum ecclesia,” and there is the danger of an ecclesial autocephaly and to be the last judicial instance in the Church. However, to my knowledge, the healthier part corresponds to the major part of the SSPX and I consider their General Superior, His Excellency Monsignor Bernard Fellay, as an exemplarily and true Catholic bishop. There is some hope for a canonical recognition of the SPPX.


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アタナシウス・シュナイダー補佐司教のインタビュー「ファリザイ人たちへの反論」2014年11月30日


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