Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

愛する兄弟姉妹の皆様、御聖体の祝日おめでとうございます!

2024年05月30日 | 聖伝のミサの予定

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

御聖体の祝日おめでとうございます。

大宮の聖堂では、遠くからでも足を運ばれた多くの愛する兄弟姉妹の皆様が午前7時のミサに与ることができて幸福です。

● 大阪では次の日にミサの時間の変更があります。

5月 31日 金 ミサ聖祭 10:00 <== !!! 【夕方にはミサがありません。】
6月 1日 土 ミサ聖祭 10:00 <== !!! 

 6月2日は、御聖体の荘厳祭です。次のところで次の時間に聖伝のミサがあります。

大宮:8時30分、10時30分【歌ミサの直後に御聖体行列が予定されています。】
大阪:10時30分
札幌:18時00分【午後6時】

【札幌】
「北海道青少年会館 Compass 」にて:聖伝のミサが捧げられます。愛する兄弟姉妹の皆様を全てご招待いたします。予約不要です。ワリエ神父様が司式されます。
2024年6月2日(主日)午後6時
2024年6月3日(月)午前9時

【マーチフォーライフ大阪】
2024年7月21日(主日)午後2時30分 大坂市役所前集合です。

 


三位一体の神秘:いったいなぜこのような深淵な神秘を主はわたしたちに教えてくださったのか

2024年05月30日 | お説教・霊的講話

2024年5月26日 名古屋 説教

トマス小野田神父

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、
今日は2024年5月26日、三位一体の主日です。今日、一緒に三位一体の神秘を黙想いたしましょう。
唯一の天主に三つのペルソナがまします聖父と聖子と聖霊、この神秘を黙想して、いったいなぜ私たちはこの玄義を知らなければならないのか、その意味は何なのかを黙想しましょう。最後に遷善の決心を立てましょう。

【天主は唯一なる実体】
三位一体の天主、この神秘をまず垣間見ましょう。皆さんよくご存じですけれど、もう一度黙想してみます。

わたしたちは、いまこの世に生きています。こうやって生活しています。もしもこれが嘘だと思ったら、頬を摘んでみてください。あるいは頭を引っ叩いてください。わたしたちがここにいまこうして存在しているのは確かです。嘘だと思ったらご飯を食べないでください。あるいは――壁に向かって歩いてください。頭をゴチンとぶつけたりします。……あるいはわたしたちはお腹が空いてどうしても食べねばならない……生きていることがわかります。

なぜ私たちはこうやって生きているのでしょうか。こうして私たちが生きていることの究極の原因というのは、何なのでしょうか。何がわたしたちをこうやっていま生きるようにさせたのでしょうか。その原因は何なのでしょうか。

わたしたちがいまここにいるということを説明するには、どうしても、究極の原因というものがなければなりません。そうしなければ、ここにすべてがいまここにあることが説明できないからです。この原因をずーっと究極の原因を突きとめて突きとめて突きとめて行くと、どうしても第一の原因…原因されずにただ原因する…ものがなければならない、としなければなりません。そしてわたしたちはこれを天主と呼んでいます。では、この「究極の原因」、天主と呼ばれる方はいったいどのような方なのでしょうか。これがわたしたちの問題です。

究極の原因は一です。天主というのは唯一の御方です。天主が唯一である、一(いつ)であるというときには、わたしたちが 林檎がひとつとか、柱が一本、二本というふうに数える単位としての一(いち)というよりも もっと深い意味を持っています。

それはどういうことかというと、私たちがいまこうして存在しているのは、実は天主が究極の原因として今も私たちをあらしめてくださっているからです。かといって天主はこの世の一部でもありません。部分ではありません。この世を超越したお方です。被造の世界にいかなるやり方でも、組み込まれてはいません。天主は私たちをいまあらしめて生かしてこうして動かし支えておられますけれども、この被造物をすべて超越する方で、はじめもなくおわりもない永遠の御方でいかなる変化もない方です。

なぜかというと、主は最高に完成させられた方で、そして無限の善であるからです。最高に完成させられて無限の善・最高の善ということはもうこれに並ぶものは二つとないということなのです。また、もうこれは最高の完成なのでこれ以上変わることがない、ということなのです。もしもこれが変わってしまったら、最高でもなくなるし完成でもなくなってしまうからです。ですから天主は分割されるという可能性さえもありません。天主は、この地上をこの被造をはるかに超えた聖なる方であって、分割されることができない一(いつ)なるかたであるということです。最高なので複数はありません、ただ一つしかないということです。この一なる方が、天主、最高にほんとうに一なる方です。それ以上わたしたちはもう言葉がない…そのような御方が天主です。

【三位】
ところでカトリックの教えによると、イエズス・キリストの教えによると、この唯一の天主は三つのペルソナがあると教えています。

天主が一なる方である、ということを、ラテン語の人々は、一なる実体だといっていました。ラテン語で実体というのは、substantiaです。ギリシア語ではウシア、と言います。ウシアとはどういう意味かというと「ある」という意味です。substantiaもウシアも、わたしたちが「ある」と言わなければならないものです。日本語では実体と言います。実体と物体は、言葉が似ているので、間違えないようにしてください。実体というのは必ずしも物のように目に見えるとは限りません。とにかく「ある」というものが、実体です。

確かに天主の実体、その本質、本性は唯一ですけれども、この一つの天主の本性には三つのペルソナがあります。

ペルソナというのは、ラテン語です。ギリシア語では「ヒポスタシス」といいます。この二つはどういう意味かというと、知性や意志を持った自分で存在する個別、という意味です。この天主のペルソナが三つあるというのは、御存じのとおり聖父と聖子と聖霊です。

御父というのは、唯一の天主の本質をもっている第一のペルソナです。なぜ第一のペルソナかというと、生まれずに御子を生む方であるからです。ほかの何者からもお生まれにならない方を御父と言います。そして永遠の昔からお生まれになる方を御子といいます。御父と御子とから発出する方を聖霊と言います。

御子は、御父によって「作られる」のではありません。これは異端です。御子は御父の実体から「お生まれ」になります。聖書は 特に聖ヨハネの福音は、御子のことを御言葉と言います。御子だけが、天主の本性による唯一の子“御ひとり子”です。聖ヨハネはこう言います。「天主を見た人は一人もいない。御父のふところにおいでになる御ひとり子の天主が、これをお示しになった。」(ヨハネ1:18)

なぜ「子」と呼ぶのでしょうか。なぜかというと、子を生むというのは本性を伝えるときにそういうような表現をするからです、人間が人間を生むと。でも、人間と天主では違いがあります。人間が生まれるときには子どもに親のすべてが与えられ尽くすわけではなくて、親の一部が与えられるだけです。しかし、天主は分割できないので、御父はご自分のすべてを御子に与えつくします。伝えつくします。ですから御父と御子は全く同じものを共有するのですが、しかし、違いがあります。御父は生まれないという、御子は生まれるという違いがあります、ただそれだけの区別しかありません。しかし御父と御子は、御父は御子ではありませんし、御子は御父でもありません。

聖父と聖子を一つの原理として、そこから聖霊が発出します。なぜかというと、御父と御子とは、互いに愛し合って、この愛の交流が生じるからです。聖霊は「造られる」のでもなければ、「生まれる」のでもありません。御父と御子とから「発出」します。このことを、聖霊が息吹かれる(inspiratio)ともいいます。

聖父と聖子と聖霊は、一つのペルソナではなく、一つの本性を持った三つのペルソナです。この三つのペルソナの間にはどんな違いも不平等もありません。前も後もなければ、大小の違いもありません。まったく同じ永遠、まったく同じ栄光をもっておられます。唯一の天主にこの三つのペルソナがある、いわば唯一の天主には愛し合うという愛の構造を持っている、愛による唯一の天主である、と言わざるを得ません。

これがわたしたちを愛して無から創造していま私たちを生かしてくださっている、天主の愛の昔からの――永遠の昔からの――天主の愛の命の構造です。まことの天主の神秘です。主が天主である限り、三位一体の構造をしています。三位一体以外のまことの天主はありません。この三位一体こそ、聖父と聖子と聖霊の唯一の天主こそが、わたしたちを救い 生かし愛しておられる本当の天主で、それ以外にはありません。わたしたちはこの唯一のまことの天主を礼拝して、そして知り礼拝し愛して、それに仕えているのです。

【三位一体の知識】
イエズス・キリストご自身は、私たちがこのことを知るように望んで、教えてくださいました。ヘブレオ人への手紙にはこうあります。「天主は、何度も、いろいろな方法で、昔、預言者を通じて、先祖に語られたけれど、この終わりの日には、すべてをつくられた御子を通じてわたしたちに語られた。」(ヘブレオ1:)そしてその語られたことが、秘密が、天主三位一体の命の秘密でした。

考えてもみてください、御父の懐にまします御ひとり子がわたしたちにその秘密を語ったのです。聖父と一なる御子が、できるかぎり私たちにも理解することができるように言葉をもって御業をもって昔からの閉ざされていた秘密をわたしたちに明かしてくださったのです。それを理解できるように、わたしたちに聖霊さえも送りました。

いったいなぜ、このような深淵な神秘を、主はわたしたちに教えたのでしょうか。ただ単に唯一の天主ということのみならず、“唯一の天主には三つのペルソナがあること、天主が三位一体であられる”ということを教えてくださったのでしょうか。なぜこのような高い把握しきれない神秘をわたしたちに伝える必要があったのでしょうか。なぜこれを知らせなければならなかったのでしょうか。

なぜかというと、私たちは三位一体の天主ご自身の至福に招かれているからです。天主の命に与るために創造されたからです。たとえ、わたしたちが三位一体の神秘を深く理解できなかったとしても、あるいは垣間見ることはできるけれども把握することができなかったとしても、わたしたちにはそれよりもさらに深い天主の至福に与るということのために召されているからです。

御子は、聖父の懐から来られて、御父と全く等しい天主の御言葉、御ひとり子はわたしたちのような人間となって、三位一体の神秘を教えてくださいました。主は、聖父と聖子と聖霊の御名によって人々に洗礼を授けよと命じました。わたしには全地と天と地にあるすべての権力が与えられている、行って教えよ、と。「聖父と聖子と聖霊の御名によって洗礼を授けよ。」

なぜかというと、そうすることによって、わたしたちの生きているあいだにすでに、わたしたちの霊魂そして身体が、三位一体の神殿になることができるためです。三位一体がわたしたちのなかに住みそしてわたしたちが三位一体の命に与ることができるためです。

なぜでしょうか。なぜかというと、なぜそれがおのぞみかというと、わたしたちがこのあっという間に過ぎ去る地上での生命が終わったのち、この命が尽き果てたのちには、天の国に行って、まことの天主三位一体をそのままありのままに見て知りその真理と愛の交わりのなかに入ることができるためです。三位一体と同じ無限の最高度のしあわせ・最高の善を、わたしたちが受けるためです。天の遺産を天主の子どもとして受けるためです。

御ひとり子、天主御ひとり子、イエズス・キリストと同じ、そしてイエズス・キリストの兄弟になって、天主の養子となって、その三位一体の本性にあずかることができるように、わたしたちが天主のように幸せになることができるように、天主の命を生きるために、あえて三位一体の秘密をわたしたちに教えようと、できる限りのことをして教えようと、伝えようとされました。もちろん私たちの限られた言葉・限られた知性・限られたものでは、それを知り尽くすことも把握することもできません。しかし、わたしたちが将来永遠の無限のしあわせという計り知れない喜びを受けることができるようにするというためには、どうしてもこの神秘を三位一体の神秘をわたしたちに知らせて今日すでにこの地上でその命を生かす必要があったからです。

わたしたちはどれほど恵まれていることでしょうか。
御父の計り知れぬ豊かな愛に、わたしたちは、そのどれほどの愛であったかをその時に知って、感謝に絶えず、永遠に感謝してもまだ足りないと思うことでしょう。
御子イエズス・キリストがわたしたちのために人となってわたしたちが天主となることができるようにしてくださったこと、十字架の生け贄のこと、御聖体の神秘、その愛の深さにそのとき何と感謝していいかわからない、無限の時間を無限の能力でも足りないほどだと思うことでしょう。
そのとき、御父と御子から発する愛である聖霊がわたしたちに与えられたこと、御父と御子を結びつける愛のきずな聖霊、それを永遠に礼拝して、その愛をもってわたしたちは感謝することでしょう。

【遷善の決心】
では最後に遷善の決心を立てることにいたしましょう。
三位一体‥‥非常に深淵で深い崇高な神秘ですけれども、この本当の三位一体の天主まことの天主をわたしたちが知ることができたというお恵みを深く感謝いたしましょう。そしてわたしたちの心もからだもすでに三位一体の生ける神殿となったということ、三位一体の天主の子どもと養子相続された身分であるということを、そして特別の愛を降り注がれて溢れるばかり受けている愛される子どもであるということを、確認いたしましょう。

三位一体のほんとうのことを知れば知るほど、わたしたちはかたじけなく感謝に絶えません。主三位一体の本当の天主の愛を知れば知るほど今流行のエキュメニズムなどあまりにも欺瞞であって人を騙すものであることがわかります。

秋田のシスター笹川は、すでに迫害の夢のなかで、この三位一体の天主からわたしたちをそらすエキュメニズムについて警告をしています。(1974年6月10日月曜日)。

日本が生み出した何十万という数多くの、おそらく何百万という殉教者たちがいます。記録に残っていない殉教者も合わせればもう数を数えることができません。そのような殉教者たちは、この三位一体の天主--イエズス・キリストの教えた天主を信じて、血を流して、いま天の国にいてその喜びに入っています。この殉教者たちは、日本におけるわたしたちカトリック信者の歴史的な使命について訴えています。私たちも、同じ信仰を、同じ真理を、守り通さなければなりません。

残念ながら、多くの方々は、現代、カトリック信者であっても、わたしたちが大きな戦いの中にいるということを、それに気がついていません。そのことを知りません。「え?日本は平和ボケをしているといわれるほど平和のなかにいるんじゃないんですか?」とおっしゃるかもしれません。

いえ、わたしたちは、真理と嘘、善と悪という巨大な戦いの中にいま生きています。アダムとエワの時代から続く蛇が、わたしたちに嘘をついて騙そうとする、あるいは真理を信じるかどうかの戦いの中です。わたしたちは超自然の命をどうしても守り通さなければなりません。天の国にどうしてもたどりつかなければなりません。そのためにわたしたちのために特別に準備された永遠のしあわせのために、わたしたちはたたかいをしなければなりません。

世界中でいま多くの人々がそのことに目覚めています。とくに聖伝のカトリックの信仰は世界中で大きなうねりとなっています。特に若い人々が目覚めています。
 
ファチマのマリア様はわたしたちにこの三位一体の信仰に対する危機があるということをすでに警告されたようです。天使がまず三位一体を礼拝するようにと模範を示してくださいました。天使が額を地面につけて、「至聖なる三位一体、聖父と聖子と聖霊よ、我、御身を深く礼拝し奉る」、どうやって祈ればよいか教えてくださいました。あるいはファチマのマリア様は、トゥイというところで、シスター・ルチアに、三位一体のヴィジョンを示してくださいました。主がどれほどわたしたちに憐れみとそしてお恵みをくださっているかをこうして教えています。

ぜひ今日この三位一体の祝日にわたしたちの信仰を新たにいたしましょう。これ以外に天主はいません。

そしてマリア様に日本の殉教者たちに、わたしたちがこの信仰を守り通すことができるお恵みを請い求めましょう。

聖父と聖子と聖霊の御名によりて、アーメン。


ミサ全体を通じて、私たちは三位一体を繰り返し告白し礼拝する

2024年05月30日 | お説教・霊的講話

三位一体の主日―ミサにおいて

ワリエ神父 2024年5月26日

典礼は聖書の勉強の場ではありませんが、まぎれもなく「神学的場所」(locus theologicus)、つまり教義的真理の源泉です。皆さまお分かりのように、私たちは、三位一体を、ミサ全体を通じて繰り返し告白し、礼拝します。

I.十字架のしるし
唯一の天主、唯一の本性。「(天主の)御名によりて」
三つのペルソナ。「聖父と聖子と聖霊」

II.グローリア・パトリ(願わくは、聖父と聖子と聖霊とに…)
三つのペルソナ。「聖父と聖子と聖霊」

III.キリエ(主、あわれみたまえ)
キリエ―聖父
クリステ―聖子
キリエ―聖霊
同じ願い:「エレイソン―ミゼレーレ・ノビス―われらをあわれみ給え」―御稜威を三回強調します。
IV.グローリア(栄光頌)
(ルカ2章14節)→  →  →  礼拝/感謝
いと高きところには天主に栄光あれ、地上にては善意の人々に平安あれ。
われら御身をほめたたえ、御身を祝し、御身を礼拝し、御身に栄光を帰し奉る。/われら御身の偉大なる栄光のために感謝し奉る。天主なる主よ、天の王よ、全能の御父なる天主よ。
なだめ →  →  → 祈願
御独り子なる主イエズス・キリスト、天主なる主、天主の小羊、聖父の聖子よ。世の罪を除き給う御者、われらをあわれみ給え。世の罪を除き給う御者、われらの願いを聞き給え。御父の右に座し給う御者、われらをあわれみ給え。
御身は唯一の聖なる御者、唯一の主、唯一のいと高き御者、イエズス・キリストにてまします。
聖霊とともに、
聖父なる天主の栄光において。アーメン。

V.クレド(信経)
われ信ず、唯一の天主、 →  →  → 属性
全能の聖父、天と地、見えるものと見えざるもの、すべての造り主を。

また、われ信ず、唯一の主、天主の御独り子イエズス・キリストを。主はよろず世の先に聖父より生まれ、天主からの天主、光からの光、まことの天主からのまことの天主、造られずして生まれ、聖父と一体なり、すべては主によりて造られたり。→   → →  御托身/贖い

主はわれら人類のため、われらの救いのために、天より下り、聖霊によりて童貞マリアより御体を受け、人となり給えり。われらのために十字架につけられ、ポンシオ・ピラトの下にて苦しみを受け、死して葬られ、聖書にありしごとく三日目によみがえり、天に昇りて聖父の右に座し、生ける人と死せる人を裁かんために再び栄光をもって来り給う。主の国は終わることなし。

  →  →  →  内的聖化
また、われ信ず、主なる聖霊、命の与え主を。聖霊は聖父と聖子より出で、聖父と聖子とともに拝み崇められ、また預言者によりて語り給えり…

VI.スシペ・サンクタ・トリニタス(聖三位一体よ、受け給え)
司祭が手を洗ったあとのこの祈りは、至聖なる三位一体に直接向けられています。

VII.サンクトゥス(聖なるかな)
イザヤ6章3節(「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主! 全地上は主の栄光に満ちあふれる」)
聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな → → 万軍の天主なる主
天と地は、主の栄光に満ちあふれる。いと高きところにホザンナ。

VIII.ペル・イプスム(彼によって)
彼(すなわち私たちの主イエズス・キリスト)によって、彼とともに、彼において、
聖霊との一致において、
すべてのほまれと栄光は、永遠に、全能の聖父、御身のもの。アーメン。

IX.プラチェアト・ティビ・サンクタ・トリニタス(聖三位一体よ、嘉し給え)
最後の祝福の直前にある閉祭の祈りは、至聖なる三位一体に直接向けられています。

X.最後の祝福
全能の天主が、あなたたちを祝福し給わんことを、
聖父と、聖子と、聖霊とによりて。

今日のミサの入祭誦の美しい言葉を繰り返しましょう。「聖なる三位一体にして分かちえぬ唯一の御者、祝せられ給え。われら主に感謝し奉る、なぜなら、主はその慈しみをわれらに与え給うたからである」。

 


聖霊は「私たちにあらゆる真理を教えてくださ」り、私たちの主イエズス・キリストを通して御父に導いてくださる

2024年05月25日 | お説教・霊的講話

聖霊降臨―聡明の賜物

ワリエ神父 2024年5月19日

ヨハネ14章16-17節
私は父に願おう。そうすれば、父はほかの弁護者をあなたたちに与え、永遠にともにいさせてくださる。それは真理の霊である。

ヨハネ14章26節
弁護者、すなわち父が私の名によって送り給う聖霊は、すべてを教え、あなたたちの心に私の話したことをみな思いださせてくださるだろう。

ヨハネ16章7節
私が去るのはあなたたちにとって良いことである。私が去らぬなら、あなたたちには弁護者が来ないからである。しかし去ればそれを送る。

ヨハネ16章12-13節
私にはまだあなたたちに話したいことがたくさんあるが、今あなたたちはそれに耐えられぬ。だが、その方、つまり真理の霊の来るとき、霊はあなたたちにあらゆる真理を教えてくださるであろう。

私たちの主が地上におられたとき、使徒たちは「あさはか」だったのです。
  →彼らは、この世の王国と、この世のメシアを期待していました。
  →彼らは、主の御受難に関する私たちの主の預言の意味を理解することができませんでした。

聖霊降臨のとき、使徒たちは「聡明(理解)の賜物」を受けます。
聡明(理解)の賜物は、信仰の神秘についての深い洞察と鋭い直感を与えます。この賜物は、信仰の徳を完徳に至らせます。聖トマスによれば、「まさにこの世において、聡明の賜物によって霊の目が清められるとき、ある意味で、人は天主を見ることができる」(神学大全II-2部、第69問題)。

したがって、この賜物は、それを持つ人に三つの主な効果をもたらします。
1)その人は、啓示された真理について、その意味を完全に理解していなくとも、その核心にまで到達することができるようにされ、
2)啓示された天主の言葉への大きな確信を得ることによって、自分たちの信仰において固められ、
3)啓示された原理から多くの結論を引き出すことによって、さらに多くの真理を知るよう導かれます。

そこで、聖ペトロは、
→私たちの主の使命を「理解します」
(それはもう、「あなたがイスラエルに王国を復興されるのはいつですか?」ではありません。)
聖霊の影響の下で、ペトロは「あなたはキリスト、生ける天主の御子です」(マテオ16章16節)と言うことができたのです。

→預言
使徒行録2章16節 これは預言者ヨエルの言ったことである。(ヨエル2章28節)
2章17節 主はこう仰せられる。末の日になれば、私の霊をすべての人の上に注ごう。すると、おまえたちの息子たちや娘たちは預言するであろう。

使徒行録2章25節 実にダヴィドは彼について言っている。(…)(詩篇15篇10節)
2章27節 あなたは私の霊を死者の所に捨て置かず、あなたの聖なる者の腐敗するのをお許しにならぬ。

使徒行録2章34節 ダヴィドは天に昇りませんでしたが、「主は私の主に言われた。『私の右に座れ、
2章35節 私があなたの敵をあなたの足台にするまで』(詩篇109篇1節)」と言っています。

2章36節 したがって、イスラエルのすべての人は、あなたたちが十字架につけたそのイエズスを、天主が主としキリストとされたことを、しかと知らねばなりません。

私たちは洗礼のときこの賜物を受け、堅振のときにさらに多くを受けました。聖母のように、聖霊に素直になりましょう。そうすれば、聖霊は、「私たちにあらゆる真理を教えてくださ」り、私たちの主イエズス・キリストを通して御父に導いてくださるでしょう。

【この記事では聖霊の七つの賜物の一つ Intellectus (英語:understanding) の日本語の訳語として当てられている「聡明」を使っています。】


四つの救霊予定のしるし:私たちは「涙のうちに震えながら自分の救いをまっとう」しなければならない

2024年05月25日 | お説教・霊的講話

御昇天後の主日―天国― 説教

ワリエ神父 2024年5月12日

「すると、救われるのはどんな人だろう?
人にはできぬが、天主にとってはそうではない。天主にはできないことはない」(マルコ10章26b-27節)

トリエント公会議(デンツィンガー805番)は、特別な啓示がなければ、私たちはこの世において自分の救霊予定を確信することはできないと宣言しています。この特別な啓示を別にすれば、誰も自分が最後まで善い行いを貫き通すかどうかを知ることはできません。
とはいうものの、人が最後まで貫き通す一種の道徳的な確信を与える救霊予定のしるしがあります。

救霊予定のしるし

1.徳のある生活(真福八端の精神による)
「心の貧しい人は幸せである、柔和な人は幸せである、悲しむ人は幸せである、正義に飢え渇く人は幸せである、あわれみのある人は幸せである、心の清い人は幸せである、平和のために励む人は幸せである、正義のために迫害される人は幸せである。天主の国はこれらの人のものである」。

1.謙遜。
2.絶え間ない祈り。「求めよ、そうすれば与えられる」。
3.敵への愛、苦しむ者へのあわれみ。
4.天主への愛のために苦難に耐えること。
「重い十字架を忍耐強く担うことは、救霊予定の大いなるしるしである」(ガリグー・ラグランジュ)。

2.霊魂のための不屈の熱意
「一人の罪人を迷いの道から連れ戻す人は、自分の霊魂を死から救い、多くの罪を消す」(ヤコボ5章20節)。

3.ご聖体
●私たちは、救われるために、ご聖体にまします私たちの主を受けなければなりません。
「人の子の肉を食べず、その血を飲まなければ、あなたたちの中には命がない」(ヨハネ6章54節)。
すべての人はご聖体を、少なくとも霊的にいただくように(すなわちこの秘跡を受ける願望あるいはあこがれを持つように)義務付けられています。なぜなら、これは、キリストに一体化されることだからです[1](神学大全III部、第80問、第11項)。

●さらに、ご聖体を、敬虔かつ頻繁に拝領することは、救霊予定のしるしです。
この秘跡は、すぐに私たちを栄光に導くのではなく、私たちに栄光に至る力を授けるのです。
これは、「旅路の糧」(Viaticum)と呼ばれ、列王記(上19章8節)に記されたことのかたどりです。「エリアは飲食し、その食べ物の力によって、天主の山ホレブまで四十日四十夜歩いた」(神学大全III部、第79問、第2項)。

O sacrum convivium, in quo Christus sumitur, recolitur memoria passionis ejus, mens impletur gratia, et futurae gloriae nobis pignus datur.
キリストの聖体の祝日の典礼はこう宣言しています。「キリストが受けられ、御受難の記憶を思い起こさせ、霊魂が恩寵で満たされ、われらに将来の命の誓約が与えられる、聖なる宴よ」。
「ふさわしい聖体拝領の主な効果は、ある程度まで天国を前もって味わわせることであり、実際、私たちが将来、至福直観で愛によって天主との一致にあずかることの期待であり、誓約である」(『カトリック百科事典』)。

ご聖体は、「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を有し、終わりの日にその人々を私は復活させる」(ヨハネ6章54節)というキリストの約束によって、「われわれの栄光の復活と永遠の幸福の誓約」(トリエント公会議第13総会第2章)なのです。

●イエズスの聖心をたたえて9回の初金曜日の信心を私たちが行うときは、告解に行き、なおかつご聖体を受けなければなりません。

4.童貞聖マリアへの信心
すべての聖人が、聖母への信心は救霊予定のしるしであることを証言しています。
「マリアへの愛とマリアへの信心は、永遠の救いを得る確実なしるしである」(聖ベルナルド)。
「マリアのしもべのしるしを持つ者は、すでに命の書に書き記されている」(聖ボナヴェントゥーラ)。
「聖母への信心は救いに必要である。
聖なる童貞への敬意と愛を持たないことは、間違いなく天主から見捨てられたしるしであるが、
聖母への全面的かつまことの信心を持つことは、救霊予定の揺るぎないしるしである。」(聖ルイ・マリー・ド・モンフォール)

「聖マリアへのまことの信心は、救霊予定の最も確実なしるしの一つである。
しかし、その信心はまことのものでなければならない。なぜなら、もしそれが偽りのものならば、その目的には役に立たない。それはお金に例えることができる。もし本物でなければ、偽造したものであれば、何の価値もない」(聖アントニオ・マリア・クラレト)。
「マリアへのまことの信心は、効果的に救いに導く。なぜなら、マリアは、最後まで貫き通す恩寵を求めて忠実にご自分に祈るすべての人のために、その恩寵を獲得することがおできになるからである。このため、聖母へのまことの信心は、一般に、救霊予定のしるしの一つと見なされている。
この確固とした希望は、マリアの偉大な取り次ぎの力と、マリアに祈り求める人々に対する特別な愛に基づいている。」
―聖アルフォンソ(『聖母マリアの栄光』第1部、第8章)によれば、自分の生活を改めたいと願い、天主の御母を忠実にたたえ、そのご保護に身を委ねる人々が失われることは、事実上あり得ないことである。
―生活を改めたいという真剣な願望を持たない人々は、もちろん、見かけ上は聖母への一種の信心を守っているという事実を、救霊予定の可能性の高いしるしと見なすことはできない。
―しかし、罪を捨てようとしてマリアに助けを求める罪人は、マリアがその罪人を失望させないことを知るであろう」。      (ガリグー・ラグランジュ)

    • 「私のロザリオの信心は、救霊予定の大きなしるしです」(聖ドミニコと福者アランに与えられた)。
    • カルメル山のスカプラリオ。これを身に着けて死ぬ者は救われるでしょう。
    • マリアの汚れなき御心をたたえて、告解と聖体拝領をする五回連続の初土曜日の信心。

結論
1.救霊予定は神秘です。
成聖の恩寵の状態で死ななければ、誰も天国には行けません。自分の過ち以外からは、誰も地獄に行くことはできません。
2.救いの絶対的な確実性はありませんが、事実上の確実性はあります。四つの救霊予定のしるしです。
3.大人は永遠の命に値する者とならなければいけないのですから、救霊予定は、私たち自身の努力を余計なものにするものではありません。
「ある日、(自分の救いに関して)不安に襲われて、しばしば希望と恐れの間で揺れ動くある人が悲しみに打ちのめされたとき、ある教会の祭壇の前にひざまずいて謙遜に祈った。
これらのことを黙想しながら、彼はこう言った。『ああ、ただ私が終わりまで忍び通すかどうか、知りたいものだ!』。
彼はすぐに心の中で天主のお答えを聞いた。『あなたはそれを知ったら、どうするつもりなのだ。そのときしようと思うことをいま行え、そうすればあなたはまったく安心であろう』」(『キリストにならいて』第1巻第25章)。

私たちは「涙のうちに震えながら自分の救いをまっとう」しなければなりません。
「死ぬまであなたが忠実であれば、私はあなたに命の冠を与えよう」(黙示録2章10節)。
                   +
そして、私たちはしばしば天国を観想し、天国を待ち望まなければなりません。
「いつ私は行って、天主の御顔を仰げようか」(詩篇41篇3節)。
「目がまだ見ず
耳がまだ聞かず
人の心にまだ思い浮かばず
天主がご自分を愛する人々のために準備されたこと」(コリント前書2章9節)。


聖三位一体の主日:大宮、大阪、名古屋でミサがあります。

2024年05月25日 | 聖伝のミサの予定

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

● 明日、5月26日は、聖三位一体の主日です。次のところで次の時間に聖伝のミサがあります。

大宮:8時30分、10時30分
大阪:10時30分
名古屋16時00分【午後4時】 <== !!! 今月から午後4時に変更になりました。

● 大阪では次の日にミサの時間の変更があります。

5月 31日 金 ミサ聖祭 10:00 <== !!! 【夕方にはミサがありません。】
6月 1日 土 ミサ聖祭 10:00 <== !!! 

6月2日は、御聖体の荘厳祭です。次のところで次の時間に聖伝のミサがあります。

大宮:8時30分、10時30分【歌ミサの直後に御聖体行列が予定されています。】
大阪:10時30分
札幌:18時00分【午後6時】

【札幌】
「北海道青少年会館 Compass 」にて:聖伝のミサが捧げられます。愛する兄弟姉妹の皆様を全てご招待いたします。予約不要です。ワリエ神父様が司式されます。
2024年6月2日(主日)午後6時
2024年6月3日(月)午前9時

【マーチフォーライフ大阪】
2024年7月21日(主日)午後2時30分 大坂市役所前集合です。


大宮での聖伝のミサの時間:Traditional Mass schedule Omiya (Tokyo)

2024年05月23日 | 聖伝のミサの予定

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、大宮の聖堂での聖伝のミサの時間です。

Dear Brethren, the Traditional Latin Mass time at the SSPX Chapel in Omiya. English after Japanese

日付     曜日                        ミサの時間

2024/06/02 聖霊降臨後第2主日(2級)緑 Second Sunday after Pentecost (II class) Green 8:30, 10:30
2024/06/03 聖霊降臨後の平日(4級)緑 Feria in time after Pentecost (IV class) Green 7:00
2024/06/04 証聖者聖フランシスコ・カラッチョロ(3級祝日)白 St. Francis Caraciollo, Confessor (III class) White 7:00
2024/06/05 殉教者司教聖ボニファチオ(3級祝日)赤 St. Boniface , Bishop, Martyr (III class) Red 7:00
2024/06/06 証聖者司教聖ノルベルト(3級祝日)白 St. Norbert, Bishop, Confessor (III class) White 7:00
2024/06/07 イエズス・キリストの至聖なる聖心(1級祝日)白 The Most Sacred Heart of Jesus (I class) White 18:00
2024/06/08 聖母の土曜日(4級)白 Saturday of the Blessed Virgin Mary (IV class) White 11:00
2024/06/09 聖霊降臨後第3主日(2級)緑 Third Sunday after Pentecost (II class) Green 8:30, 10:30
2024/06/10 寡婦聖マルガリタ女王(3級祝日)白 St. Margaret Queen of Scots, Widow (III class) White No Mass
2024/06/11 使徒聖バルナバ(3級祝日)赤 St. Barnabas, Apostle (III class) Red No Mass
2024/06/12 証聖者聖ファクンドの聖ヨハネ(3級祝日)白 St. John of San Facundo, Confessor (III class) White No Mass
2024/06/13 教会博士証聖者パドゥアの聖アントニオ(3級祝日)白 St. Anthony of Padua, Confessor, Doctor (III class) White 7:00
2024/06/14 教会博士証聖者司教大聖バジリオ(3級祝日)白 St. Basil the Great, Bishop, Confessor, Doctor (III class) White 18:00
2024/06/15 聖母の土曜日(4級)白 Saturday of the Blessed Virgin Mary (IV class) White 11:00
2024/06/16 聖霊降臨後第4主日(2級)緑 Fourth Sunday after Pentecost (II class) Green 8:30, 10:30
2024/06/17 証聖者司教聖グレゴリオ・バルバディコ(3級祝日)白 St. Gregory Barbarigo, Bishop, Confessor (III class) White No Mass
2024/06/18 教会博士証聖者助祭シリアの聖エフレム(3級祝日)白 St. Ephrem, Deacon, Confessor, Doctor (III class) White 7:00
2024/06/19 童貞ファルコネリの聖ユリアナ(3級祝日)白 St. Juliana Falconeri, Virgin (III class) White 7:00
2024/06/20 聖霊降臨後の平日(4級)緑 Feria in time after Pentecost (IV class) Green 7:00
2024/06/21 証聖者ゴンザガの聖アロイジオ(3級祝日)白 St. Aloysius Gonzaga, Confessor (III class) White 18:00
2024/06/22 証聖者司教聖パウリノ(3級祝日)白 St. Paulinus, Bishop, Confessor (III class) White 11:00
2024/06/23 聖霊降臨後第5主日(2級)緑 Fifth Sunday after Pentecost (II class) Green 8:30, 10:30
2024/06/24 洗者聖ヨハネの誕生(1級祝日)白 Nativity of St. John the Baptist (I class) White No Mass
2024/06/25 大修院長聖グリエルモ(3級祝日)白 St. William, Abbot (III class) White 7:00
2024/06/26 殉教者聖ヨハネとパウロ(3級祝日)赤 Sts. John & Paul, Martyrs (III class) Red 7:00
2024/06/27 聖霊降臨後の平日(4級)緑 Feria in time after Pentecost (IV class) Green 7:00
2024/06/28 使徒聖ペトロとパウロの前日(2級)紫 Vigil of Sts. Peter & Paul, Apostles (II class) Violet 18:00
2024/06/29 使徒聖ペトロとパウロ(1級祝日)赤 The Holy Apostles Peter & Paul (I class) Red 11:00
2024/06/30 聖霊降臨後第6主日(2級)緑 Sixth Sunday after Pentecost (II class) Green 8:30, 10:30
2024/07/01 イエズス・キリストのいと尊き御血(1級祝日)赤 Feast of the Precious Blood of Jesus (I class) Red 7:00
2024/07/02 童貞聖マリアのご訪問(2級祝日)白 Visitation of the Blessed Virgin (II class) White 7:00
2024/07/03 殉教者司教聖イレネオ(3級祝日)赤 St. Irenaeus, Bishop, Martyr (III class) Red 7:00
2024/07/04 聖霊降臨後の平日(4級)緑 Feria in time after Pentecost (IV class) Green 7:00
2024/07/05 証聖者聖アントニオ・マリア・ザカリア(3級祝日)白 St. Anthony Mary Zaccaria, Confessor (III class) White 18:00
2024/07/06 聖母の土曜日(4級)白 Saturday of the Blessed Virgin Mary (IV class) White 11:00
2024/07/07 聖霊降臨後第7主日(2級)緑 Seventh Sunday after Pentecost (II class) Green

8:30, 10:30

 


イエズス・キリストの御名によって祈るとは?「今まであなたたちは、何一つ、私の名によって求めたことがない。求めよ、そうすれば与えられるであろう、あなたたちの喜びが満たされるように。」

2024年05月17日 | お説教・霊的講話

2024年5月5日 秋田巡礼 

トマス小野田神父 

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

神父様、
愛する秋田巡礼者の皆さま、

今日は2024年5月5日、復活後第五主日です。
主は今日の福音で「今まであなたたちは、何一つ、私の名によって求めたことがない。求めよ、そうすれば与えられるであろう、あなたたちの喜びが満たされるように。」と言われました。

この言葉について、カトリック教会はいったい、教父たちはいったい、何を教えているのでしょう。この言葉を中心に一緒に黙想いたしましょう。

第一にまことの宗教について、それからイエズス・キリストの御名によって祈るとは何かということ、そしてイエズス様の宗教、イエズス・キリストの御名によって祈る最高のことができる真の宗教とは何かについて黙想して、最後に遷善の決心を立てましょう。

【1:真の宗教】
宗教というのは真理に関わることです。真理というのは、つまり、現実――わたしたちの心の外にある――を、正しく認識することに関わっています。たとえば、1+1=2で、1+1=3と言えば、それは間違っています。これは好みで選ぶものではありません。
これと同じように、宗教というのは、たとえばスーパーマーケットで、自分が食べたいもの好きなものはどれかというように選ぶものではありません。1+1=2、これは一つしか答えがないように、本当の真理の宗教もまことの宗教もたった一つしかありません。

宗教というのは、創造主でありわたしたちを造ってくださった大宇宙を造りわたしたちを造ってくださった天主に、知的な被造物が、主にふさわしい礼拝や祈りを捧げることです。
ですから本当の宗教、真の宗教というのは、二つのことがなければなりません。一つは本当の天主に、二にふさわしい手段ややり方で、礼拝や祈りを捧げることです。
もしも礼拝や祈りを、真の天主ではなくてほかのものに偶像に嘘の神々に捧げるのであれば、それは偽りの宗教、あるいは邪教といわれています。
またもしも礼拝や祈りを、まことの天主が定めたやりかた・手段以外でやるならば、ふさわしいやり方以外でやるならば、それは間違った宗教であるといわなければなりません。

真の宗教が礼拝や祈りの対象とするのは、唯一の本当の天主、三位一体の天主です。
その礼拝と祈りにふさわしい手段・やり方というのはイエズス・キリストです。
何故かというと聖ペトロは聖霊にみたされてこう言ったからです。「救いは主以外の者によっては得られません。全世界に、私たちが救われるのは、これ以外の名前は、人間にあたえられませんでした」(使徒行録4:12)。
何故ならば、イエズス・キリストはこう断言したからです。「私は、道であり、真理であり、命である。私によらずには、だれ一人父のみもと(つまり天主御父)に行くことはできない」(ヨハネ14:6)

ですから、真の宗教・本当の宗教は、キリスト教と呼ばれています。何故かというと、キリスト教は真の三位一体の天主に、イエズス・キリストを通して本当の礼拝と祈りを捧げることができるからです。なぜかと言うとイエズス・キリストこそが、天主によって、最高永遠の司祭として定められた唯一の仲介者だからです。唯一の仲介者というのは、わたしたちを天と地を結ぶ唯一の御方という意味です。なぜかというと、イエズス・キリストこそがまことの天主でありまことの人、私たちのために人間となられた本当の創造主・天主であるからです。これ以外に本当の天主はいらっしゃらないからです。

聖ヨハネはこう断言します。
「みことばは肉体となって、私たちのうちに住まわれた。…かれは、恩寵と真理とにみちておられた。…私たちは、そのみちあふれるところから、恩寵に次ぐ恩寵をうけた。なぜなら、律法はモイゼを通じて与えられたが、恩寵と真理とは、イエズス・キリストによって私たちの上に来たからである。」(ヨハネ1:14,16-17)
イエズス・キリスト以外にはこれはできません。

【2:イエズス・キリストの名前によって祈る】
では今日イエズス様はこうおっしゃいました。
「まことにまことにあなたたちに言う、あなたたちが父に求めるものは何でも、私の名によって与え給うであろう。」

「今まであなたたちは、何一つ、私の名によって求めたことがない。」

ところでこれについて、ある人は疑問を持っていました。ルカの聖福音を読むと、七十二人の弟子たちは、喜びを持って帰ってきて、「主よ、あなたのみ名によれば、悪魔さえも私たちに服従します」といった(ルカ10:17)とあるからです。
つまり、わたしの御名によって悪魔を追い出した、イエズス様の御名によって悪魔を追い出したのではないか、なぜイエズス様の御名によってもとめたことがないというのか。
聖アウグスチヌスはわたしたちにこう教えています。これは「今まであなたたちは、〝もっともたいせつなことを"何一つ、私の名によって求めたことがない。」

悪魔を追い出す…というのは最も大切なものではない、最も大切なものは何かというと、救霊だ。永遠の命だ。贖いだ。これほど重大なことはない。私たちの人生でもっとも大切なことは永遠の命を確保することだ。そのためにこそイエズス様は十字架につけられた。体の健康、病気回復、これは、祈りによってわたしたちが救霊を成し遂げるという偉大なことと比べると、あまりにも小さなことにすぎない。
天主の子どもとなって、永遠で霊的な天の国を遺産相続する、これを
「イエズス・キリストの御名によって」求めよ。イエズス・キリストを、ただの人間ではなく、御父をわたしたちに示してくださる天と地の唯一の仲介者として信頼してイエズス・キリストの御名において求めよ。と言っているのだと教えています。

すると、イエズス様は言葉を続けてこうおっしゃいます。
「求めよ――つまり救霊を――求めよ。最も重大なこの命に関することを求めよ。そうすれば与えられるであろう。あなたたちの喜びが満たされるように。」
イエズス・キリスト様は、私たちに求めることを求めておられます、命じておられます。なぜかというとイエズス様は私たちに与えようとするからです、しかしこの与える条件の一つがイエズス・キリストの御名によって求め奉ることです。
なぜでしょうか?なぜイエズス様はわたしたちに与えることをお望みなのでしょうか。それはイエズス様がおっしゃるには「あなたたちの喜びが満たされる」から。
喜びというのは、わたしたちが欲しいと思ったよいことが善がほんとうに実現したときです。それを持った時、それを所有して楽しむときです。
欲する、「欲しい」というのは、私たちが得たいという、何かよいものに向かって動いているということです。
喜びというのは、それを得てそこに安らいでいるときです、憩うときです。
ですからわたしたちが欲しいと思って得た善がよいものが大きければ大きいほど、それを得たときのその安らぎも大きなものになります。

ところで、この地上のすべての被造物を見回してみても、私たちの喜びが満たされることはけっしてありません。何故かというとたとえこの全宇宙を所有したとしても、この全宇宙を楽しんだとしてもわたしたちはもっともっと、と思うからです。なぜならばわたしたちの心は天主によってのみ満たされるように造られているからです。被造物はわたしたちの願いを欲求を完全に憩わせてくれることはできません。でも私たちが求める全ての善が溢れるばかり満ち溢れているとき、はじめてわたしたちは「喜びが満たされる」と言うことができます。それはいったいいつでしょうか。このようなすべての善に満たされて満たされてもうこれでいっぱいだというのは、これは天主を所有した時しかありません。

「求めよ、そうすれば与えられるであろう、あなたたちの喜びが満たされるように」というのは、つまり、聖アウグスチヌスによると、そして聖トマス・アクィナスがわたしたちに繰り返して教えているように言うと、その意味は、「全ての善の源である三位一体、天主を味わい楽しむことができるように、永遠の命を持てることができるように求めよ、これよりも偉大な喜びはない、そうすれば、これを求めれば、必ず与えられる。それは私が与えるから。あなたたちの喜びが満たされるように。」という意味だ、と言っています。

実に聖ルカの福音書の先ほどの続きには、主はこう言っています。「霊が服従するといって喜ぶな。むしろ、あなたたちの名前が天にしるされたことを喜べ」(ルカ10:20)。これこそが本当の喜びだ、満たされる喜びだ。

【3:イエズス・キリストの宗教】
では、イエズス・キリストの宗教、イエズス・キリストの御名によって祈る、これを最高度に行うにはどうしたらよいでしょうか?
ただ、イエズス様、わたしにアイスクリームをください、キリストの御名によってアーメン、と言えばよいのでしょうか。名前をつければ ペタッとつければそれでいいのでしょうか。

いえ、永遠の大祭司・唯一の仲介者イエズス・キリストが私たちに与えてくださった、最高のふさわしい礼拝と祈りがあります。これを使わなければなりません。これを使うことによって、最高度にイエズス・キリストの御名によって、イエズス・キリストの望みの通り、わたしたちは祈ることができます。最高の効果を持つ価値を持つ祈りを行うことができます。それは何でしょうか。主の十字架の生け贄の祈りです。つまり聖伝のミサです。

聖伝のミサでは、イエズス・キリストの十字架の生け贄が再現されます。行われます。わたしたちの目の前で、実現されます。さきほどフィルベン神父様がおっしゃってくださったように、すでにオッフェルトリウム――奉献――の時には、パンやブドウ酒ではなくて、イエズス・キリストの汚れなきいけにえ、ホスチアを捧げています。カリスも、ブドウ酒ではなくて救いのカリスを捧げています。
Súscipe, sancte Pater, omnípotens ætérne Deus, hanc immaculátam hóstiam, quam ego indígnus fámulus tuus óffero tibi, Deo meo vivo et vero, pro innumerabílibus peccátis, et offensiónibus, et negligéntiis meis, et pro ómnibus circumstántibus, sed et pro ómnibus fidélibus Christiánis vivis atque defúnctis : ut mihi, et illis profíciat ad salútem in vitam ætérnam. Amen.

Offérimus tibi, Dómine, cálicem salutáris, tuam deprecántes cleméntiam : ut in conspéctu divínæ maiestátis tuæ, pro nostra et totíus mundi salúte, cum odóre suavitátis ascéndat. Amen.

また司祭はイエズス・キリストのペルソナにおいて、聖変化を起こさせるために聖変化の言葉を発します。ですから、聖伝のミサでは、聖変化を行うとき、誰某神父様が聖変化をするのではなくて、誰某神父様がイエズス様にくちびるを貸して、イエズス様のペルソナにおいて、イエズス・キリストが聖変化を起こします。捧げる司祭はイエズス・キリストです。そして捧げられるいけにえは真の天主の小羊であるイエズス・キリスト御自身です。

これは、新しいミサとは、大きな違いです。なぜならば新しいミサというのは、最後の晩餐の記念であって、会衆の集う集会であって、捧げるものは「大地の恵み、労働の実り」であるにしかすぎないからです。

しかし天主の永遠の御計画によって、十字架のいけにえ、そしてその延長であるその再現であるミサ聖祭は、日々のわたしたちの罪を贖って、罪の結果を償うための最善の手段・方法としてわたしたちに与えられました。イエズス・キリストの御名によって祈る最高のそして最大の最善の方法です。イエズス・キリストの御生涯の中心は、ど真ん中は、そしてその目的は、十字架の犠牲でした、いけにえでした。全てはこれを中心にしていました。ですから、この十字架のいけにえがミサ聖祭によって毎日わたしたちの祭壇のうえで続けられているので、わたしたちキリスト者の全生涯も、わたしたちの一日の全ての考え行いもミサ聖祭と御聖体を中心にすればするほど、イエズス様の御名によって祈りイエズス様と一致し、そして遂には永遠に天主を味わい喜び、私たちの喜びが満たされる根源となりうるのです。

では、最後に秋田のマリア様にお祈りいたしましょう。マリア様は十字架の下にいつも佇んでわたしたちを招いておられます。さあ、愛する子どもたち、十字架の下にいらっしゃい。ミサ聖祭に与りにいらっしゃい。招いておられます。イエズス様の十字架に合わせてあなたたちの日毎の日々を日毎の十字架を義務をお捧げしなさい。

また今日は五月五日聖ピオ五世教皇様の祝日でもあります。聖ピオ五世はこの聖伝のミサを列聖しました。つまりこれは、すべての司祭が永久に捧げる義務がある、そして捧げる自由がある特権があるミサであって、すべての司祭はこれを捧げなければならないと宣言し聖別して列聖したという教皇様です。わたしたちはこのイエズス・キリストの御名によるこのミサ聖祭、聖伝のミサを守ることができますように聖ピオ五世にお祈りしましょう。

聖ピオ五世とマリア様にお祈りしましょう。わたしたちの世界の存続のために、わたしたちのしあわせの存続のために、このミサがどうしても必要です。ですからこのミサを捧げ続けるような聖なる司祭がわたしたちの間から誕生しますように、聖なる司祭、聖なる修道者の召命がたくさん与えられますようにお祈りいたしましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


偽りの出現 : コロンビアの妄信的な修道女、教皇ベネディクト十六世の名前を乱用する

2024年05月17日 | カトリック・ニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

コロンビアの聖十字架のシスター・ベネディクタという身元不明の修道女が、2023年2月に教皇ベネディクトの幻視を受けたと主張しました。この想像力のたくましい修道女は、教皇ベネディクト十六世の死後のベネディクト十六世と出会ったと主張する内容を発表し、このメッセージは韓国語で翻訳されました。韓国の一部の人々から質問を受けたので、それについてここに調査結果を報告します。

それによると、ベネディクト十六世は死後、この女性のところにやってきて、自分自身が最後の本物の教皇であること、教皇フランシスコは教皇職の簒奪者であること、を言ったとされ、ベネディクト十六世は死ぬ前に回勅を書いたが、今、天から、この未発表の回勅のことを発表し、マリアを共贖者(コレデンプトリクス)、全ての恵みの仲介者(メディヤトリクス)と宣言し、新しい教義を提唱する、と告げたと主張しています。

この出現が明らかに虚偽である理由は次の通りです: 

1/教皇ベネディクト自身が、教皇フランシスコの選出の正当性を、彼が生きている間、繰り返し肯定していたから。

2/ 教皇ベネディクトは "天から"教義を宣言することはできないから。教皇は、時間において制限を受けるキリストの代理者であり、教皇の死後は「教皇職」を失うから。ドグマは地上の教会によってのみ宣言されるものだから。

3/ すべての教会史において、死者が死後に遺言を明らかにした例はないから。その主張自体が、死者との交信という魔術の禁じられた行為に加担していることだから。

4/ 或る死んだ教皇がこの世で最後の正統な教皇であったと主張することは、その主張者が教会においてどれほど高い地位に就いているかにかかわらず、教会による処罰を受ける理由となるから。なぜなら、現在の教皇の法的に有効な選出が無効であった、あるいは存在しなかったと主張する以上、それは使徒座との分裂行為に等しいから。

5/ もしある教皇がこの世で最後の教皇であると主張する者がいれば(主イエズス・キリストの再臨の間になされた主張を除けば)、聖ペトロが使徒座において永久に後継者を持つという第一バチカン公会議の定義されたカトリックの教義を否定することで、その者は大罪を犯すことになるから。

汝、天主の聖名をみだりに呼ぶなかれ。汝、偽証するなかれ。もし誰かが、啓示を受けていないにもかかわらず、啓示を受けたふりをするならば、聖なる名前に対して最も重大な罪を犯すことになります。

そのような人は、ある天上の人に嘘の証言をさせることになるからです。これは、天主と聖人たちの尊厳に対する恐ろしい侮辱です。

天主や聖人からのものだ、と言って物語を捏造し、事実や、定義された教義や、啓示された真理の代わりに偽りを提示することは、極悪な傲慢であり、欺瞞です。

 


主の御昇天:彼はこう言い終えると、手を上げて、彼らを祝福された。ミサが「最後の祝福」で終わるのには理由がある。ミサが「最後の祝福」は主の最後の行為を指している。

2024年05月10日 | お説教・霊的講話

ご昇天 ― 最後の祝福

消された復活のろうそくは、この地上を去って天国へ行かれるキリストを象徴します。

ミサは本質的にカルワリオの更新ですが、地上でのキリストの全生涯を再現するものでもあります。

1.祭壇のふもとの祈り

祭壇のふもとの祈りは、(読誦ミサをのぞいて)沈黙のうちに唱えられますが、
それは、沈黙のうちに隠されたキリストの生涯、
そして、キリストの公生活への準備の期間を象徴します。

2.入祭誦から奉献誦の前まで

入祭誦から奉献誦の前までは、
歌(詩篇)
連祷のような呼祷
祈り
讃歌(グローリア)
朗読
説教
からなっています。

3.奉献誦から聖体拝領後の祈りまで

奉献誦から聖体拝領後の祈りまででは、
いけにえとしてのキリストの奉献が、奉献誦
「あなたは私に体をくださった:見よ、私はあなたのみ旨を行うために来る」

いけにえを捧げるのが、全実体変化
私たちの霊魂の食べ物であるキリストが、聖体拝領
です。

4.最後の祝福

最後の祝福に関わる聖書の記述はこうです。

マテオ28章では、
19節.行け、諸国の民に教え、聖父と聖子と聖霊の御名によって洗礼を授けよ。

ルカ24章では、
50節.彼は手を上げて、彼らを祝福された。

使徒行録1章では、
8節.主は言われた。「聖霊があなたたちの上に下り、力をお与えになる。あなたたちはエルザレム、全ユダヤ、全サマリア、地の果てまで私の証人となるであろう」。
9節.イエズスは彼らの見ている前で天に上げられ、ひとむらの雲が弟子たちの目からそれを覆い隠した。

[最後の福音は、(読誦ミサをのぞいて、)沈黙のうちに唱えられる、感謝の祈りです。]

結論

今、復活のろうそくの火が消されました。これは、キリストがこの地上を去って天国へ行かれることの象徴です。

聖マテオ福音書と聖ルカ福音書、そして使徒行録に書かれていることを総合すると、聖書はキリストの地上での最後の瞬間をこのように描写しています。

「聖霊があなたたちの上に下り、力をお与えになる。あなたたちはエルザレム、全ユダヤ、全サマリア、地の果てまで私の証人となるであろう。
行け、諸国の民に教え、聖父と聖子と聖霊の御名によって洗礼を授けよ。
彼はこう言い終えると、手を上げて、彼らを祝福された。
イエズスは彼らの見ている前で天に上げられ、ひとむらの雲が弟子たちの目からそれを覆い隠した」。

ミサが、いわゆる「最後の祝福」で終わるのには、きちんととした理由があります。それが、明らかに私たちの主の最後の行為を指しているからです。

特に今日、ミサの終わりに、そのことを思い起こしましょう。
そして、ミサが終わったら、私たちはキリストの証人となり、この地上での私たちの人生の目標である天国に集中し続けることを忘れないようにしましょう。アーメン

 

 


聖霊降臨まで 聖霊に対する九日間の祈り(ノベナ)

2024年05月10日 | カトリック・ニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

聖伝によれば今日から聖霊降臨まで聖霊に対する九日間の祈り(ノベナ)を開始します。

Veni Creator Spiritus,
Mentes tuorum visita,
Imple superna gratia,
Quae tu creasti, pectora.

Qui diceris Paraclitus,
Altissimi donum Dei,
Fons vivus, ignis, caritas,
Et spiritalis unctio.

Tu septiformis munere,
Digitus Paternae dexterae,
Tu rite promissum Patris,
Sermone ditans guttura.

Accende lumen sensibus,
Infunde amorem cordibus,
Infirma nostri corporis
Virtute firmans perpeti.

Hostem repellas longius,
Pacemque dones protinus;
Ductore sic te praevio,
Vitemus omne noxium.

Per te sciamus da Patrem
Noscamus atque Filium;
Teque utrius que Spiritum
Credamus omni tempore.

Deo Patri sit gloria,
Et Filio, qui a mortuis
Surrexit, ac Paraclito
In saeculorum saecula.
Amen.

V. Emitte Spiritum tuum, et creabuntur
R. Et renovabis faciem terrae.

Oremus.
Deus, qui corda fidelium Sancti Spi ritus illustratione docuisti:
da nobis in eodem Spiritu recta sapere;
et de ejus semper consolatione gaudere.
Per Christum Dominum nostrum.
Amen.

創造主なる聖霊よ、来たり給え、
御身の信者らの心を訪れ給え、
彼らの心を御身が創造し給うた
上からの聖寵で満たし給え。

御身は慰め主、
いと高き天主のたまもの、
活ける泉、火、愛、
霊的注油と言われてまします。

御身は七つのたまものにより、
聖父の右手の指、
聖父の由緒正しき御約束、
言葉を発する舌なり。

五官に光をつけ給え、
心に愛を注ぎ給え
我らの体の弱さを
とこしえの力で強め給え。

敵を遠くに押しやり、且つ
素早く平和を与え給え。
御身はを統率者として、戦いにおいて
我らは全ての害悪を避けよう。

御身によりて我らは聖父を知り、
且つ聖子を知り、
そして聖父と聖子からの御身を知り、
常に信じる恵みを与え給え。

聖父に栄光あれかし
死によみがえられ給いし聖子に
そして慰め主なる聖霊に栄光が、
代々とこしえにあれよかし。
アメン

御身の霊を遣わし給え、さればそれらは創造されん。
▲御身は地のおもてを新たにし給う。

祈願 
聖霊の光りをもって信者の心を照らし給いし天主、
同じく聖霊をもってわれらに正しきことを悟らしめ、
その御慰めによりて常に喜ぶを得しめ給え。
われらの主キリストによりて願い奉る。▲アーメン。


陰口とは?陰口の重大さとは? 陰口の償いの義務とはどんなものか?

2024年05月10日 | お説教・霊的講話

御復活後第五主日 ― 舌による罪(東京および大阪2024年)

ワリエ神父 2024年5月5日

親愛なる兄弟の皆さま、

私たちは今日の書簡で、聖ヤコボが次のように語るのを聞きました。

「もし自分は宗教を行っていると考える人が、自分の舌を押さえず、自分の心を欺(あざむ)くなら、その宗教の行いはむなしい」(ヤコボ1章26節)。

さらにヤコボは、その2章あとで、舌による罪という同じテーマについて、次のような貴重な言葉を付け加えています。

「舌は私たちの肢体の中で、全身を毒するものとして、地獄から火をつけられ、一生の歩みに火をつけるのである。

獣、鳥、這うもの、海の生き物などすべての種類は、人間によって今も昔も制せられている。しかし人は、舌を制しきれない。舌は押さえきれない悪であって、死の毒に満ちている。

それによって私たちは、主なる父を賛美し、またそれによって、天主にかたどって創られた人間を呪う。同じ口から、賛美と呪いが出る」(ヤコボ3章6-10節)。

今日は、陰口について話しましょう。陰口とは、その重大さとは、償いの義務とはどんなものでしょうか。

1. 陰口

    • 本質

聖トマス・アクィナスはこう言っています。「陰口とは、密かな言葉によって隣人の評判を汚すことである」(神学大全、第II-2部、第73問題、第1項)。

実際、人が言葉によって誰かを傷つけるには、二つの方法があります。公然と、面と向かって(つまり、侮辱することによって)傷つけることと、相手がいないときに、密かに、傷つけることです。後者が陰口です。


    • さまざまな種類

人が隣人の陰口を言う方法はたくさんあります。

1.起こらなかったことを隣人になすりつけるとき、あるいは、嘘または軽蔑となるような想像上の事情を真実に付け加えるとき。

2.隠れた欠点、あるいは誰も知らない欠点を明るみに出すとき。その人が言うことは真実ですが、それを言うべきではないのです。その人は、真実でないことを言うことによってではなく、隣人の評判を傷つけることによって、陰口を言っているのです。それは悪意のある噂話です。

3.ある罪が本当であろうと偽りであろうと、その罪を誇張するとき。これは、他人の悪徳について語るとき、私たち自身が容易にさらされる危険です。

4.他人について、それが何ら悪いことでもないのに、あたかも隣人が邪悪な理由でそれをしたかのように話し、「ああ、あの人はあのような良い行いをしたが、全然敬虔な人ではない、人を喜ばせようとし、目立ちたがっている…」などと、さまざまな説明を付け加えるとき。陰口を言う人は、自らを天主と等しくすることで、人の心を調べて、人の最も秘密のこと、その意図さえも見分けるふりをします。

ファリザイ人を見てください。彼らは、イエズスが安息日に病人を癒やし、取税人たちと頻繁に交わり、不品行な人々のためにわざわざ出かけていくのを見て、つまずきました。
イエズスの最も聖なる行為が、陰口の対象にされたのです。

2.重大さ

    • 陰口の罪

陰口は、その人にとって最も大切なもの、すなわちその人の評判を奪います。

そして、通常、人が自分に対して放たれている打撃にさえ気づかないとき、あるいは少なくともその打撃の主が誰であるかにさえ気づかないとき、陰口を言われた人はどうやって自分を守ることができるでしょうか? そのようにして、人は殺されても、そのことに気づきさえもしないのです。

このため、神学者たちは一致して、陰口は盗みよりも重罪だと言います。「良い評判は、大きな富にまさる」(箴言22章1節)。

    • 聞く者の罪

「誰かが陰口を言っているのを聞きながら、その人の言うことに反対しない人は、その人の言うことを認めているように見え、その人の罪に加担している」(神学大全、第II-2部、第83問題、第2項)。

聖ベルナルドは私たちにこう警告しています。「蛇から逃げるように、陰口を言う者から逃げよ」(聖ベルナルド「De modo bene vivendi」説教17)。

    • 他人が陰口を言っていたらどうすればいいでしょうか?

聖パウロはこう言っています。「兄弟と呼ばれている人々の中に、…讒言(ざんげん)する者…があれば、彼らと交わるな」(コリント前書5章11節)。つまり、私たちは陰口を言う人の恐るべき会話から離れなければならないという意味です。

時には、述べられていることに反対だと言うことが望ましいこともあります。しかし、常にそれが可能だとは限りません。

確かに、私たちは、黙ったままでいることで反対していることを示さなければなりません。

しかし、陰口に参加せず、陰口を助長しない最も簡単な方法は、会話のテーマを変えることです。実際、会話の話題があちらこちらに飛ぶのはよくあることです。
単純にこのように言いましょう。「ところで、こんなことを耳にしましたか?」とか、「こんなことに気づきましたか?」とかです。

3. 償い

聖アウグスティヌスの金銭に対する言葉は、陰口にも当てはまります。「償いなくして赦しなし」(聖アウグスティヌス、手紙65「マケドニア人への手紙」)。

ある日、一人の婦人が聖フィリッポ・ネリのもとを訪れ、人々の悪口を言ったことを告白しました。すると聖フィリッポ・ネリは夫人にこう言いました。「償いのために、次のようにしなさい。近くの市場に行って鶏を一羽買い、その鳥の羽をむしりながら歩きなさい。そして私のところに戻って来なさい」。婦人は大変驚きましたが、償いを忠実に果たし、告解室に戻りました。聖フィリッポ・ネリは彼女に言いました。「では、あなたの歩いた跡をたどり、あなたが散らばらせた羽を全部、一枚ずつ集めなさい」。「でも、神父様!」と、あわれな女性は叫びました。「それは不可能です。風が羽をあらゆる方向に運んでいったのに、どうやってそれを集めればいいのでしょうか?」。「いいですか、わが子よ」と聖人は答えました。「あなたの中傷の言葉は、風が撒(ま)き散らした羽のようなものです。その言葉はいろいろな方向に散ってしまいました。できるなら、今呼び戻してごらんなさい…」。

聖ヴィンチェンツィオ・フェレリオは次のように言っています。「でも、どうすれば誰かの名誉を回復できるのでしょうか? あなたはそう尋ねるでしょう。あなたが悪口を言ったときにその場にいたすべての人に、自分は悪意から話したのであって、自分の言ったことを信じないように、と言わなければなりません。もしあなたが中傷した人がそれについて知ったなら、あなたにはその人に赦しを請う義務があります。このような中傷の償いをしなかったために、大勢の者が地獄に落ちています」。

・結論

親愛なる兄弟の皆さま、次の聖書の警告に耳を傾けてください。

「偽りの誓いは、どんな報いを受けるだろうか、欺(あざむ)きの舌よ。それはつわものの鋭い矢、えにしだの燃え木」(詩篇119篇3-4節)。

「無駄なつぶやきを言わぬように心がけ、あなたたちの舌に悪い言葉を載せるな。密かな私語さえ、報いを受けないではすまぬ」(知恵1章11節)。

「命を追い求め、幸せを見ようとして年の長きを望むのは誰か。あなたの舌を悪から守れ」(詩篇33篇13-14節)。

ですから私たちは、特に他人のことについて、しゃべりすぎないように気をつけましょう。愛徳に満ちた話し方をしましょう。また、わたしたちの舌によるすべての罪を償いましょう。


2024年5月1日は、5月の初水曜日(月の初めての水曜日)です 聖ヨゼフ!我らのために祈り給え

2024年05月01日 | カトリック・ニュースなど

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日、2024年5月1日は、勤労者聖ヨゼフの祝日、聖母月五月の初水曜日(月の初めての水曜日)です。聖母の汚れなき御心と聖ヨゼフとの取り次ぎを通して、私たちの主の御聖体に対する冒瀆的な取り扱いに対する償いを捧げましょう。また、聖ヨゼフに、東京に聖伝のミサの聖堂が与えられたことを感謝しましょう!

初水曜日ですからいつものように「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」について黙想することをご提案します。


聖ヨゼフはこの世で天主イエズス様と浄配なる聖母マリア様を最も良く知り、愛された御方であり、その隠れた徳ゆえに偉大なる御方、イエズス様とマリア様の最大の命の恩人であられました。

また、聖ヨゼフは、この世では、全てを天主の栄光のために、隠れてその生涯をささげられたが故に、天にて聖母の次に最大の栄光をあたえられていらっしゃいます。

聖伝では、水曜日は聖ヨゼフに捧げられた曜日であり、月の最初の水曜日を聖ヨゼフに捧げることで、聖ヨゼフを讃え、その御取次に信頼し、その御徳に倣って、聖ヨゼフを通して、天主イエズス様とマリア様をお愛しすることができますように。

初土曜日の「聖母の汚れ無き御心」への信心にならって、この「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」のどれかを「15分間黙想」することにいたしましょう。

聖ヨゼフの帯の信心については、下記リンクをごらんください。
聖ヨゼフの帯 cingulum Sancti Joseph

聖ヨゼフの御取次ぎにより、聖母の汚れ無き御心とイエズスの至聖なる聖心ヘの愛をますます与えてくださいますように!
聖ヨゼフの御取次ぎにより豊かな祝福がありますように!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


聖ヨゼフの7つの苦しみと喜び

1 ああいと潔き御母マリアの浄配、栄えある聖ヨゼフよ、御身のいと清き妻を失なわんと心に思い煩いし時の苦しみはいと大いなるものなりき。
されど天使が御託身の玄義を御身に伝えられし時の喜びは、またひとしお大いなりき。この苦しみ、この喜びにより、今も臨終の時も我らの心を潔き良心の喜びと、イエズス、マリアのうちに自我を滅する尊き御身の心を示し、我らを慰め給え。



2 ああいと幸いなる保護者聖ヨゼフよ、御身は人となり給いし御言葉の潔き養父の位にあげられたれども、御身は幼きイエズスがいと貧しき中に生まれ給うを見て大いに悲しみ給いしが、
天使らのたえなる歌声を聴き、その輝ける夜の栄えを見給うや、その悲しみは天的の喜びと変じたり。御身のこの悲しみ、この喜びによりて、我らもまたこの世の歩みを終えたる後、天使らの賛美の歌声を聴き、天的光栄の輝きを受け得んことを願い奉る。



3 ああ御摂理にいと従順なしもべなる、栄えある聖ヨゼフよ、幼きイエズスが割礼にて流されたる尊き御血は御身の心を苦痛もて貫きたれども、
イエズスと命名されるや御身の心は喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らをこの世の悪徳より離れしめ、イエズスのいと尊き御名を心から唱えつつ心満たされてこの世を去るを得しめ給え。



4 ああいと忠誠なる聖ヨゼフよ、御身は救世の玄義の成就に身をもって大いなる役を果たされしが、シメオンの預言によりイエズスとマリアが受け給うべき苦難を予知せられ苦しみ給いたれど、
数限りなき人々の霊魂がこれによって救わるるとの預言によりて、天的喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らがイエズスの功徳と聖母マリアの御取次ぎにより、終わりなき栄えを得てよみがえる人々のうちに数えられる御恵みをとりなし給わんことを願い奉る。



5 ああ人となり給いし天主の御子のいとも注意深き保護者なる栄えある聖ヨゼフよ、御身はいと高きものの御子を養い給い、これに仕えるために多くの辛酸をなめられたり。わけてもそのエジプトへの逃避はいと苦しきものなりしが、
御身が常に天主御自身と共におられし喜び、またエジプト人らの諸々の偶像が地に落とされしを目の当たりに見られし時の安心はいと大いなりき。この御身の辛酸と喜びとによりて、我らが地獄的暴君より免れて、わけても危険なる機会より逃避する事を得しめ、我らの心のうちに地上的執着が落とされ、ひたすらイエズスとマリアに仕え奉りつつ日々の生活を送り、この世を幸いに終わる事を得しめ給え。



6 ああこの地上の天使なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の心を天の王に全く捧げられたり。御身がエジプトより戻られる喜びは、アルケラウスに対する憂慮にて不安の闇となりしが、
天使は再び御身にイエズスとマリアと共にナザレトにて楽しく住み給う事を約束せられたり。御身のこの苦しみ、この喜びによりて、我らの心を深い恐怖より免れしめ、潔き良心の平和を楽しみ、イエズスとマリアと共につつがなく世を送り、臨終においてはイエズスとマリアの御手に我らの霊魂を捧ぐる事を得しめ給え。



7 ああ全ての徳の鑑なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の誤りにあらずして幼きイエズスを見失い、三日の間苦しみもて捜し求められたり。
されど神殿の中に博士らに取り巻かれたるイエズスを見出されし時の喜びはいかに大いなりや。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らが大罪を犯しイエズスを失いたりせば、たゆまず彼を捜し求め、遂に再び巡り会えるよう、わけても臨終の時に彼と共にありて天国に至り、御身と共に天主の終わりなき御恵みを賛美し奉るようとりなし給わんことを心から願い奉る。



交唱 イエズスが教えをはじめたりしは三十歳ごろなり、人々、イエズスをヨゼフの子なりと思いたり。(ルカ3:23)

V 聖ヨゼフ、我らの為に祈り給え。
R キリストの御約束に我らをかなわしめ給え。

祈願 天主、御身のかしこき御摂理のうちに祝せられたヨゼフを至聖なるマリアの浄配に選び給いたれば、願わくはこの世の我らの保護者として崇め奉る彼が、我らの天のとりなし手となり給わんことを。 アーメン。

参考リンク
サンタフェ~奇跡の階段 コラレス通り1丁目 この記事に昔の階段の様子の写真があります。

聖ヨゼフの階段(アメリカのニューメキシコ、サンタ・フェにあるロレット・チャペル)



英語ではこちら。
THE SEVEN DOLOURS AND SEVEN JOYS.

i. St. Joseph, pure spouse of most holy Mary, the trouble and anguish of thy heart were great, when, being in sore perplexity, thou wast minded to put away thy stainless spouse: but this joy was inexpressible when the archangel revealed to thee the high mystery of the Incarnation.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee comfort our souls now and in their last pains with the consolation of a well-spent life, and a holy death like unto thine own, with Jesus and Mary at our side.
Pater, Ave, and Gloria.

ii. St. Joseph, Blessed Patriarch, chosen to the office of Father of the Word made Man, the pain was keen that thou didst feel when thou didst see the Infant Jesus born in abject poverty; but thy pain was changed into heavenly joy when thou didst hear the harmony of angel-choirs, and behold the glory of that night when Jesus was born.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee obtain for us, that, when the journey of our life is ended, we too may pass to that blessed land where we shall hear the angel-chants, and rejoice in the bright light of heavenly glory.
Pater, Ave, and Gloria.

iii. St. Joseph, who wast ever most obedient in executing the law of God, thy heart was pierced with pain when the Precious Blood of the Infant Saviour was shed at His Circumcision; but with the Name of Jesus new life and heavenly joy returned to thee.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, being freed in our life from every vice, we too may cheerfully die, with the sweet Name of Jesus in our hearts and on our lips.
Pater, Ave, and Gloria.

iv. St. Joseph, faithful Saint, who wast admitted to take part in the redemption of man; the prophecy of Simeon foretelling the sufferings of Jesus and Mary caused thee a pang like that of death; but at the same time his prediction of the salvation and glorious resurrection of innumerable souls filled thee with a blessed joy.
By this thy sorrow and thy joy, help us with thy prayers to be of the number of those who, by the merits of Jesus and his Virgin Mother, shall be partakers of the resurrection to glory.
Pater, Ave, and Gloria.

v. St. Joseph, watchful Guardian, friend of the Incarnate Son of God, truly thou didst greatly toil to nurture and to serve the Son of the Most High, especially in the flight thou madest with Him unto Egypt; yet didst thou rejoice to have God Himself always with thee, and to see the overthrow of the idols of Egypt.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us grace to keep far out of the reach of the enemy of our souls, by quitting all dangerous occasions, that so no idol of earthly affection may any longer occupy a place in our hearts, but that, being entirely devoted to the service of Jesus and Mary, we may live and die for them alone.
Pater, Ave, and Gloria.

vi. St. Joseph, angel on earth, who didst so wonder to see the King of heaven obedient to thy bidding, the consolation thou hadst at His return was disturbed by the fear of Archelaus, but nevertheless, being reassured by the angel, thou didst go back and dwell happily at Nazareth, in the company of Jesus and of Mary.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, having our hearts freed from idle fears, we may enjoy the peace of a tranquil conscience, dwelling safely with Jesus and Mary, and dying at last between them.
Pater, Ave, and Gloria.

vii. St. Joseph, example of all holy living, when, though without blame, thou didst lose Jesus, the Holy Child, thou didst search for Him for three long days in great sorrow, until with joy unspeakable thou didst find him, who was as thy life to thee, amidst the doctors in this Temple.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee with our whole heart so to interpose always in our behalf, that we may never lose Jesus by mortal sin; and if (which God avert) we are at any time so wretched as to do so, that we pray thee to aid us to seek Him with such ceaseless sorrow until we find Him, particularly in the hour of our death, that we may pass from this life to enjoy Him for ever in heaven, there to sing with thee His divine mercies without end.
Pater, Ave, and Gloria.

Ant. Jesus Himself was about thirty years old, being, as was supposed, the son of Joseph.

V. Pray for us, holy Joseph.
R. That we may be made worthy of the promises of Christ.

Let us pray.
O God, who in Thine ineffable providence didst vouchsafe to choose blessed Joseph to be the husband of Thy most holy Mother; grant, we beseech Thee, that we may have him for our intercessor in heaven, whom on earth we venerate as our holy protector. Who livest and reignest world without end. Amen.


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】