Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

聖ピオ十世会日本のウェブ・サイトが更新されました

2010年12月31日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 聖ピオ十世会日本のウェブ・サイト(FSSPX Japan unofficial Website)が更新されました。特に、2009年11月のお説教などが追加されました。お知らせいたします。
 愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

まだ実感がわきません

2010年12月30日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 もうあっと言う間に1年も過ぎ去ろうとしていますね。

 今日1日は直ぐ終わってしまった感じですが、特に8月からはあっと言う間に1年が終わりを告げているように思います。

 色々な思い出が頭を駆け巡ります。東京での枝の主日、二階で枝の祝別、ミサ聖祭は一階でしました。5月は、秋田の聖母のもとに巡礼、多くの恵みをいただきました。桜の満開がきれいでした。多くの新しい愛する兄弟姉妹の皆様と出会いました。秋田、山形、宮崎などの。8月は、聖母の汚れなき御心に私たちを奉献しました。また、就任パーティーもしていただきました。マックファーソン神父様やフルーガー神父様とともにした訪問。第三次ロザリオ十字軍、またアジア管区の召命のためのロザリオ十字軍、などなど。

 私が今ここに書くことができないその他の多くの恵み、多くの愛徳をいただきました。

 私の両親が洗礼を受けたことはまだ実感がわきません。

 私がこれからしばらく日本に帰れないこともピンと来ません。愛する兄弟姉妹の皆様としばらく会えなくなってしまうなど、うそのように思われます。あの新大阪の会場に行けなくなる、東京の児童会館で愛する兄弟姉妹の皆様と会えなくなる、想像がつきにくいことです。5月まで日本の愛する兄弟姉妹の皆様に会えない、とてつもなく長い間待たなければならない感じがします。

 それも、過ぎてしまえば、年末に、もうあっと言う間に1年も過ぎ去ろうとしている、と言っていることになるのでしょうか。

 来年の想像を越える天主の恵みを愛する兄弟姉妹の皆様のために謹んでお祈り申し上げます。

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!!


トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
アヴェ・マリア!


実は2月には愛する兄弟姉妹のお一人がお病気のご様子で訪問をしたいと思ったのですがそれは叶いませんでした。

また11月には本当はずっと前から訪問を約束していて楽しみにしていた愛する兄弟姉妹の一人には、私の都合上会うことが出来ましたでした。

どうかご健康でいらっしゃることを祈ります。

直接お会いできずとも、遠くフィリピンから祈っております。

しばらく会うことができなくなってしまう愛する兄弟姉妹の皆様のために祈っております。

マックファーソン神父様とクチュール神父様とに私になさってくださる以上の愛徳と親切をよろしくお願いいたします。

聖母の汚れなき御心よ、我らのために祈り給え。

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

私たちの主イエズス・キリストの御降誕の慶びを申し上げます

2010年12月28日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 私たちの主イエズス・キリストの御降誕の慶びを申し上げます。クリスマスは如何お過ごしになられたでしょうか?

 聖ピオ十世会ではソウルでクリスマスの真夜中のミサ聖祭の前にフルーガー神父様の手によって3名の日本の方々(ヨゼフ、マリア、マルガリータ・マリア)が受洗の恵みを受けました。(そのうち2人は私の両親でした。)愛する兄弟姉妹の皆様のお祈りに深く感謝します。心を込めて丁寧に洗礼式を執行して下さったフルーガー神父様に感謝します。多くの愛する兄弟姉妹の皆様が私の両親の洗礼を喜んで下さり感謝します。

 零下10度以下の凍てつくソウルで暖かい愛の出会いがあり天主に感謝します。

 昨日、ソウルを立つ時には朝から白いものがちらちら舞い降りていたのですが、たちまち辺りを真っ白にしてしまいました。2日遅れでしたがホワイト・クリスマスでした。ソウルは今や銀の世界だとのことです。

 日本では匿名の方がフィリピンのためにとして、30万円を下さいました。ソウルでもフィリピンの車のためとして100万ウォンをいただきました。愛する兄弟姉妹の皆様の愛徳に深く感謝します。フィリピンでは、新年早々には、トヨタのイノヴァを購入することができるのではないかと思います。これでますます必要な移動が容易になり、多くの愛する兄弟姉妹の皆様の奉仕のために肯定的にお応えすることができるようになります。

 こちらマニラでは常夏のクリスマス。聖イグナチオの霊操の黙想会に8名が参加しています。黙想会は12月31日まで続きます。

 愛する兄弟姉妹の皆様のために心からお祈りいたします。善き新年をお迎えください。今年中にいただきました多くの恵みと暖かいご支援に深く感謝しております。

 愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

ソウルでの聖伝のミサ

2010年12月24日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

如何お過ごしでしょうか?

 ソウルでは私のコンピュータのインターネット接続が先月から不調です。技術者も分からないそうです。

 さて昨日はソウルでクリスマスの聖伝のミサに与るために10名の愛する兄弟姉妹の皆様がソウルに到着しました。(実はそのうち2人が私の両親でした。)

 フルーガー神父様を囲んで夕食会の有りました。

 私たちの主イエズス・キリストの到来を待ち望みます。善きクリスマスをお迎えください。愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!!



トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
アヴェ・マリア!


昨夜のソウルは零下7度だったそうです。


トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

今日の聖伝のミサ

2010年12月21日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今朝のミサ聖祭にはやはり10名の愛する兄弟姉妹の皆様が与りました。東京では、主日に少なくも3名、月曜には1名、火曜には2名の求道中の愛する兄弟姉妹の皆様が参加され天主に感謝します!!

今回は、ヨゼフィーナさんやマリア・ローザさんなど、体調がおもわしくなく来られなかった愛する兄弟姉妹の皆様もおられました。

ただ今フルーガー神父様とともにソウルに到着しました。愛する兄弟姉妹の皆様のお祈りに感謝します。

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!!

聖母の汚れなき御心よ、我らのために祈り給え。



トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

溢れるばかりの天主の恵み

2010年12月20日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

こんにちは!!

 昨日の東京での聖伝のミサには46人の愛する兄弟姉妹の皆様が与りました。男性は25名、女性は21名でした。フルーガー神父様のミサ聖祭は、美しいグレゴリオ聖歌とともにたいへん荘厳でした。

 フルーガー神父様を囲んでの昼食会に多くの愛する兄弟姉妹の皆様が与かり、嬉しく思います。美味しいお寿司やおかずを皆で楽しみました。昼食会のために愛する兄弟姉妹の皆様からカンパが集められたのですが、なんと!! 26406円になりました。ありがとうございます。

 昨日の午後2時30分からは、フルーガー神父様の講話を伺いました。ローマと聖ピオ十世会についてです。フルーガー神父様の情熱は予定時間をオーバーして講話を続けられ、私たちにお話をしてくださいました。(そのために晩課がキャンセルになりました。m(_ _)m )

 フルーガー神父様は日本の愛する兄弟姉妹の皆様の信仰と愛徳にたいへん感動されておられました。お話では、召命の大切さを強調されました。

 今朝のミサ聖祭には10名が与りました。二回のミサ聖祭の後、お時間のある方々でフルーガー神父様とともに朝食を摂りました。日本に司祭を常駐させてください、という強い願いをフルーガー神父様はお感じになかったことでしょう。また日本に来たいと繰り返し言われました。

 フルーガー神父様とともに、実は車で移動中なのですが、神父様はお疲れのご様子、休んでおられます。

愛する兄弟姉妹の皆様のお祈り、ご協力に感謝します。

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!!


トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

シュナイダー司教様が教皇様に新しい「シラブス(誤謬表)」を要求

2010年12月18日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 シュナイダー司教様が教皇様に新しい「シラブス(誤謬表)」を要求したそうです。

Mgr Schneider demande au Pape un nouveau Syllabus


Un véritable ouragan a soufflé hier, 17 décembre 2010, à Rome, à deux pas de la basilique Saint-Pierre : un évêque a proposé ni plus ni moins que… la remise en marche du magistère infaillible de l’Église.

Depuis le 16 décembre se tient en effet à Rome un important colloque intitulé « Concile Vatican II, un concile pastoral – Analyse historique, philosophique et théologique ». Voulu par les courageux Franciscains de l’Immaculée, ce colloque se déroule dans les salles de conférence de Santa Maria Bambina, derrière la colonnade du Bernin, près du Palais du Saint-Office, dans un quasi silence médiatique en dépit de l’actualité du thème au regard du pontificat de Benoît XVI et de la qualité des intervenants.

Deux interventions attendues ont marqué la première journée : celle de Mgr Gherardini, auteur du livre Concile Vatican II, un débat à ouvrir et celle du professeur Roberto De Mattei, historien italien, auteur d’un récent volume sur le concile, intitulé Concile Vatican II, une histoire jamais écrite (disponible pour l’instant en italien seulement, éditions Lindau). Tous les deux ont répondu aux critiques que leurs travaux ont soulevés, assez paradoxalement d’ailleurs dans le camp conservateur, au sein duquel se trouvent les quelques rares défenseurs de l’infaillibilité du Concile.

Hier, 17 décembre, c’est Monseigneur Schneider, évêque auxiliaire de Karaganda, qui a créé l’événement au cours de sa communication sur le thème du culte de Dieu comme fondement théologique de la pastorale conciliaire. Proposant un long florilège de citations sélectionnées, théologiquement très orthodoxes, extraites des textes conciliaires, il a en quelque sorte présenté à l’assistance des textes choisis d’un Vatican II « plus orthodoxe que Trente ». La captatio benevolentiae a été particulièrement efficace : l’assistance attendait la suite, suspendue aux lèvres de l’évêque. C’est alors que, dénonçant l’interprétation erronée de ce concile-là dans la période postconciliaire, l’évêque a conclu son intervention en suggérant… la rédaction d’un Syllabus condamnant infailliblement « les erreurs d’interprétation du Concile Vatican II ».

Car selon Mgr Schneider, seul le magistère suprême de l’Église (celui du Pape ou d’un nouveau Concile œcuménique) peut corriger les abus et les erreurs nés du Concile et rectifier sa compréhension et sa réception à la lumière de la tradition catholique. Répondant à une demande de précision, il a fait éclater de rire la docte assistance en estimant qu’il n’était pas possible de réunir un concile avant 500 ans. Reste donc le magistère suprême du Pape. D’où son appel à un nouveau Syllabus où figureraient face à face les erreurs condamnées et leur interprétation orthodoxe.

Comme tant et tant d’autres depuis 40 ans, c’est donc au jugement infaillible du Pape « reformulant » Vatican II qu’il en est appelé. Sauf que, depuis la « libération de la parole » opérée par Benoît XVI, ce sont désormais des personnages officiels qui interjettent l’appel.


感謝!感謝!

2010年12月18日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 今日の大阪でのミサ聖祭には22名の愛する兄弟姉妹の皆様が与りました。ミサ聖祭の後にフルーガー神父様が講話をしてくださいました。フルーガー神父様は日本の愛する兄弟姉妹の皆様をご覧になり、大変喜んでおられました。

 明日の東京でのミサ聖祭には愛する兄弟姉妹の皆様にクリスマスのプレゼントがあります!!お会いするのを楽しみにしております。
愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!!


トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

天主に感謝!

2010年12月18日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 こんにちは!ただ今フルーガー神父様をお連れして大阪におります。昨日は、10名の愛する兄弟姉妹の皆様がミサ聖祭で聖体拝領をしました。

 昨日はパウロさんが車を出して下さったので京都まで足を伸ばして元和のキリシタン殉教の地などにお連れしました。

 フルーガー神父様にとって、救い主を待ち望む旧約の義人たちとイエズス・キリストを待ち望む待降節とパードレ(カトリック司祭)を待ち望むキリシタンたち、また聖伝のミサ聖祭を待ち望む愛する兄弟姉妹の皆様とが重なって見えたようです。

 今日は大阪でミサ聖祭、明日は東京でミサ聖祭があります。愛する兄弟姉妹の皆様とお会いするのを楽しみに待ち望んでおります。

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!!


トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

トリエント公会議の公教要理、第十一条 体の復活について

2010年12月14日 | カトリックとは
トリエント公会議の公教要理
第十二章
第十一条 体の復活


1 この箇条の重要性

 この箇条は私たちの信仰の真理を確証するために非常に大きな力をもっている。それは聖書が体の復活をただ信ずべきこととして信者たちに示しているだけでなく、さらに多くの論証をあげて立証していることによって分かる。このようなことは信経の他の箇条ではほとんどみられなかったことであり、したがって体の復活は私たちの救いの希望の確固とした基礎になっているのである。聖パウロはつぎのように論じている。「死者がよみがえらないなら、キリストもよみがえらなかった。そして、キリストが復活しなかったら、あなたたちの信仰はむなしい……」(コ①15:16~17) 。そのため司牧者はこの箇条を説明するに当たって、この教えを覆そうとした不仰信者に劣らぬ労苦と努力を払わなければならない。あとで述べるように、体の復活に関する知識は信者たちに多大の利益をもたらすからである。

2 人間の復活ではなく、体の復活と言われるわけ

 この箇条では人間の復活が体の復活と言われていることにとくに注目すべきである。それは理由のないことではない。使徒たちはここで霊魂の不滅を確証しておく必要があると考えたのである。聖書の多くの箇所から霊魂の不滅ははっきりしているにもかかわらず、霊魂は体とともに死に体とともに生き返ると考える人のないように、ただ体の復活だけがこの箇条で言われているのである。たしかに聖書ではしばしば体 ( Caro 訳注:この語は聖書的な意味での「肉」とも訳せる ) は人間全体を意味している。たとえばイザヤは「すべての肉 ( Caro ) は草のようである」(イ40:6) と言い、また聖ヨハネは「みことばは肉体となった」(ヨ1:14) と言っている。しかしこの箇条では体だけを指している。人間を構成する霊魂と体の二要素のうち、体だけが腐敗してその成因である地のちりに返り(創3:19参照) 、霊魂は不滅のまま残ることを教えている。そしてだれも死なないかぎりよみがえることはないのであるから、的確にいって、霊魂は復活するとはいえない。

 体 ( Caro ) という語が使われているのは、使徒たちの時代にとなえられていたイメナヨやフィレトの異端を反駁するためである (ティ②2:17参照)。かれらは聖書で言われている復活は体の復活ではなく、罪による死から恩恵の生命にうつる霊的復活のことであると主張していた。さて、この箇条で言われていることばはまさにこの誤謬を排斥し、ほんとうの体の復活を確認しているのである。

3 体の復活に関する聖書の教え

 つぎに司牧者は、旧約聖書および教会史にみられる実例をあげてこの真理を明らかにしなければならない。旧約聖書ではエリア (列①17:17~24参照) やエリゼオ (列②4:32~37参照) がある人々を復活させ、また新約聖書では、主キリストをはじめ (マ9:18~25、ル7:11~15、ヨ11:1~44参照) 使徒たち (使9:36~41、20:9~12参照) や他の多くの人々が死者をよみがえらせている。このような多くの人々の復活は、この箇条で言われている教義を確証するものである。多くのものがよみがえったことを信じるならば、すべての人が復活するということも信ずべきである。実際、これらの奇跡からそのおもな結論として体の復活に対する信仰が引き出される。

 司牧者は聖書について並みの知識をもっているならば、容易にそこから復活に関する多くの証言を取り出すことができるであろう。旧約聖書で有名なのは、ヨブ記のもので、かれは自分の肉で神を眺めるだろうと言っている (ヨブ19:26参照)。またダニエル書では地のちりの中に眠っている人々のうち、あるものは永遠の生命に、あるものは永遠の辱めのために目覚めると述べている (ダ12:12参照)。新約聖書では、マテオは主が復活についてサドカイ派と論争したと伝えている (マ22:23~32参照)。また福音書記者たちは最後の審判の叙述の中で体の復活があることを教えている (マ25:31~46、マル13:24~27、ヨ5:28~30参照) 。さらに聖パウロがコリント人への書簡 (コ①15:12~58参照) やテサロニケ人への書簡 (テ①4:13~18参照) で入念に論じていることも参考にすべきである。

4 体の復活を説明するためのたとえ

 体の復活をたとえ信仰をもって固く信じていても、それが自然法則や人間理性に反するものでないことを、たとえや論証をあげて説明することは非常に有益である。たとえば死者はどのようにして復活するのかという質問に対して、聖パウロはこう答えている。「愚かなものよ、あなたがまくものは、まず死ななければ新たに生かされることはない。あなたがまくものはのちに生まれる体ではなく、麦であっても他のものであっても、ただ種粒だけである。神はその種におぼしめしのままに体を与える」(コ①15:36~38)。そして少しあとで「〔体は〕朽ちるものとしてまかれ、朽ちないものによみがえる」(コ①15:42) と付け加えている。

 そのほかにも多くのたとえがあるが、聖グレゴリウスはつぎのようなたとえをあげている。「太陽は毎日いわば死ぬようにして眼前から消え去り、そしてよみがえるようにしてそれを再び取りもどす。種はくさって死に、芽を出してよみがえる」。(1)

5 体の復活を証明するための論証

 さらに教会の著作家たちは、体の復活を証明するために十分と思われる論証をあげている。

 まず霊魂は不滅であるが、人間の一部であるところから人間の体と一つになろうとする自然的な傾向をもっており、永久に体なしに存在することはその不自然なことであると考えられなければならない。しかし、自然に反し、自然に無理なことは、永続することはできないので、霊魂がふたたび体に合わされることは理にかなったことだと言える。そこから体の復活という結論が引き出される。私たちの救い主ご自身サドカイ派との論争に当たって、このような論証を用い、霊魂の不滅から体の復活を結論づけておられる (マ22:23~32参照)。

 つぎに神は悪人には罰を、善人には報酬を与えることをお定めになったが、悪人の中の多くのものは当然の罰を受けるまえに死に、また善人の中の大部分のものも徳の報いを何ら受けることなく他界する。さらに霊魂が体とふたたび合わされ、こうして人間が行った善悪の道具となった体も霊魂と一緒に賞罰を受けるのは当然である。この考え方は聖ヨハネ・クリゾストモスがアンティオキアの人々への説教においてくわしく述べている。(2) また聖パウロも復活について述べながらこう言っている。「私たちがキリストに希望をかけたのが、この世のためだけであるなら、私たちは、すべての人の中で、もっともあわれなものである」(コ①15:19)。このことばは霊魂の弱さを示しているのではない。霊魂は不滅であるので、たとえ体が復活しないとしても来世において至福を享受できるからである。したがってこのことばは人間全体について言われていると解釈すべきである。実際、体がその労苦に対してしかるべき報いを受けないとすれば、使徒たちのようにあれほどの労苦と不幸とを耐え忍んだ人々はもっとも哀れな人々である。

 聖パウロはテサロニケ人への書簡の中で一層はっきりとつぎのように教えている。「あなたたちがすべての迫害と患難とを忍んで示している忍耐と信仰とを、私たちは神の諸教会の中で誇りとしている。それは神の正しい審きのしるしである。あなたたちは、そのために苦しんでいる神のみ国にふさわしいものとされるであろう。あなたたちを苦しめるものに苦しみを返し、そして、苦しめられているあなたたちに、主イエズスが現れるとき、私たちとともに安息を報いてくださるのは神の正義である。主がその能力の天使たちとともに天からくだり、炎の中で、神を知らない人々と主イエズスの福音に服従しない人々とに仇をうたれるときである」(テ②1:4~8)。

 これに付け加えて言うと、人間は霊魂と体が離れているかぎりあらゆる善をそなえた全き幸福を味わうことはできない。実際、どの部分も全体から離れるならば不完全であり、体と離れている霊魂も同様である。したがって霊魂が何ひとつ欠けるところのない完全な幸福をもつためには体の復活が必要である。司牧者はこれらの理由をあげ、あるいは似たようなほかの理由をあげてこの箇条を説明することができる。

6 すべての人は死に、復活する

 さらに復活するのはだれか、この点について聖パウロの教えをもとに説明しなければならない。かれはコリント人に向かってこう書いている。「すべての人がアダムによって死ぬように、すべての人はキリストによって生き返る」(コ①15:22)。つまり善人も悪人もそれぞれ違った状態で復活する。「善を行った人は命のために、悪を行った人は〔永遠の〕罰のためによみがえる」(ヨ5:29)。

 すべての人が復活すると言ったが、それは最後の審判以前に死んだ人々、またそのとき死んだ人々をも指している。聖イエロニムスによると、一人の例外もなくすべての人が死ぬことは教会の教えであり、もっとも道理にかなった教えである。(3) 聖アウグスティヌスも同意見である。(4) 聖パウロがテサロニケ人に書き送ったつぎのことばもこの教えに反するものでない。「……そしてキリストにおいて死んだ者が、まずよみがえり、それから生きている生きのこりの私たちはかれらとともに雲の上に連れていかれ、空中で主をむかえる」(テ①4:16~17)。聖アンブロジウスはこの文を説明してこう言っている。「天に取り上げられることによっていわば眠るようにして死に、霊魂は体から離れるがまたすぐ体に合わされる。私たちは取り上げられることによって死ぬ。そして主の御前に出、その現存によって霊魂を返される。死者は主とともにありえないからである」。(5) 聖アウグスティヌスは「神国論」の中で同じ考えを述べている。(6)

7 復活した体は以前の体と同じである

 復活する体は各自がそれぞれもっていた体であり、腐敗し、ちりにもどったあの同じ体である。このことを確信することは非常に大切であるので、司牧者はこの点についても注意深く説明しなければならない。聖パウロは、「この朽ちる者が朽ちないものを着、この死ぬ者は不滅をまとわねばならない」(コ①15:53) と教えている。「この」という語は明らかに、私たちが今もっている体を指している。ヨブも同じことを預言している。「……私はこの肉で神を眺めるだろう。……この私自身が眺めるだろう、他人ではない、私自身の目で見るだろう」(ヨブ19:26~27)。

 同じことは復活の定義そのものからも結論できる。ダマスコの聖ヨハネによると復活とは「人間が死ぬ以前の状態への呼びもどし」(7) である。さらに今しがたあげた体の復活の理由を考えるならば、この教えに関する疑いなど全くありえないであろう。

8 体の復活の理由
 
 私たちは体は復活すべきであると教えた。それは各自がその体で行った善悪に従って報いを受けるためである (コ②5:10参照)。したがって人は、神あるいは悪魔に仕えるために用いた同じ体をもって復活しなければならない。それはその同じ体も一緒に、あるいは勝利の栄冠と報酬を、あるいは罰やきびしい責め苦を受けるためである。

9 復活した体は地上にいたときの欠陥はもたない

 体は単によみがえるだけでなく、人間の本性に属するものはもちろん、その人の顔立ちや容姿も元通りにされる。このことについて聖アウグスティヌスはすぐれた証明をしている。「そのとき体にはいかなる欠陥もないであろう。ふとりすぎ肥満していた人々は体の厚み全部をとるのではなく、普通の大きさを超える分は余分のものとみなされる。それとは反対に病気や老衰によって体に生じたものはキリストが神の力をもって治してくださるであろう。やせすぎの人の場合も同じであろう。なぜならキリストは私たちに体だけでなく、この世の生活の苦難のために奪われたものも返してくださるからである」。 (8) かれはまた別のところでこう言っている。「人は自分がもっていた毛髪全部をもって復活しないであろう。しかし『あなたの頭の髪の毛は数えられている』(マ10:30参照) というおことばのとおり、神の英知が必要と考えた分量をもって復活するであろう」。(9)

 私たちの肢体はとくに人間性の十全性のために必要であるので、全部元通りにされるであろう。生まれながらの盲人、あるいはある病気で盲目になった人、びっこ、片輪の人、その他どんな不具者でも五体そろった完全な体で復活するであろう。もしそうでなければ、自然に体と一致しようとする傾向をもつ霊魂の望みは決して満たされないであろう。しかし私たちは復活によって霊魂の願望は満たされると固く信じているのである。

 さらに復活が創造と同様に神のおもな御業の中に数えられることは明らかである。したがって神が創造されたときすべてが完全であったように、復活においても同様であると言うべきである。

10 殉教者の体について

 同じことは殉教者についても言える。殉教者たちの体について聖アウグスティヌスはつぎのように説明している。「かれらは肢体をなくしたままの姿ではない。肢体がないことはやはり体の欠陥である。そうでないとしたら首を切られた人は首のないまま復活することになるかもしれない。しかしかれらの肢体につけられた刃傷は残り、キリストの御傷のように金や宝石にまさる光に輝くであろう」。(10)

11 悪人の体も完全な形で復活する

 「同じことは悪人の体についても言える。わざと肢体を切断したものも完全な体で復活する。それはもっている肢体が多ければ多いほど苦しみも大きいからである。したがって肢体が元通りにされるのはかれらの幸福を増すためではなく、かれらの不幸と苦しみとを増すためである。さて賞罰は肢体に課されるのではなく、その肢体が合わされている人格に課される。したがって悔い改めた人々は報賞のために肢体を取りもどし、悔い改めようとしなかった人々は苦しみを増すために肢体を取りもどすのである」。(11)

 司牧者はこれらのことを熱心に黙想するならば、信者たちの霊魂を信仰の努力へと駆り立て燃えたたせるための材料や話には事欠かないであろう。こうして信者たちはこの世での苦しみや悩みの中にあって、義人や敬虔な人々に約束された幸福と栄光に満ちた復活を熱望するようになるであろう。

12 復活後の体の状態
 
 復活した体は実体としては死以前の体と同じではあっても、その状態は非常に異なっている。その相違全部について述べることはやめるとして、復活した体と死以前の体との最大の違いは、死以前の体は死の法則のもとにあったが復活後の体は善人悪人を問わず不滅のものであるということである。これは聖書が預言しているように、キリストが死に勝って得た、すばらしい本性の回復である。聖書は、「永久に、死を、去らせられる」(イ25:8) と言っている。また「死よ、あなたのたたりはどこにあるのか」(ホ13:14) とも言っているが、聖パウロはこのことばを説明して、「最後の敵として倒されるのは死である」(コ①15:26) と言っている。

 さらに聖ヨハネは、「死はもうない」(黙21:4) と書いている。死の国を覆した主キリストの功徳が、死をもたらしたアダムの罪よりもはるかにすぐれていることはしごく当然のことであった (ヘ2:14参照)。また神がその正義をもって、義人は永久に至福の生活を享受し、一方悪人は永遠の罰を受け、死を求めながら見いださず、死を望んでも死がかれらから逃げる (黙9:6参照) ようにされるのは正しいことである。そしてこの不滅性は善人、悪人に共通である。

13 復活した聖人たちの体

 復活した聖人たちの体は以前もっていたものよりもはるかにすぐれた、あるしるしつまり光り輝く姿をもつであろう。教父たちは使徒たちの教えに従って、つぎのような四つのおもな特徴をあげている。

 その第一は受苦不能性 ( Impassibilitas ) である。これは苦しみ、悩みあるいは不都合なもの一切に影響されないというたまものつまり特徴である。きびしい暑さや寒さを感じることはなく、また水に対する恐怖もない。聖パウロは「体は朽ちるものとしてまかれ、朽ちないものによみがえる」(コ①15:42) と言っている。神学者たちが不朽性 ( Incorruptio ) とは言わずに受苦不能性と言ったのは、それが栄光の体に固有のものであることを示すためであった。つまり受苦不能性は断罪された人々の体にはなく、かれらの体は不滅ではあっても暑さ、寒さやその他の種々の苦痛を感じるのである。

 つぎに輝き ( Claritas ) があり、これによって聖人たちの体は太陽のように輝く。救い主はマテオ聖福音書でこうおおせられている。「義人たちは父の国で太陽のように輝く」(マ13:43)。そしてご自分のご変容をもってそれを証明し (マ17:1~9参照) 人々の疑いを取り除かれた。聖パウロはこの特徴を表すためにあるときは栄光ということばを用い、あるときは輝きということばを使っている。「かれは私たちの卑しい体を、光栄のかたどりに変えられるであろう」(フ3:21)。また、「……賎しいものとしてまかれ、光栄あるものによみがえる」(コ①15:43) とも言っている。イスラエルの民は砂漠でこの栄光の表象を見た。かれらは神のみ前に出て語り合ったモイゼの顔が、イスラエルの子たちが見つめることのできないほど輝いているのを見たのであった (出34:29~35参照)。

 さてこの輝きは霊魂の大きな幸福が体に反映した光であって、霊魂が享受している至福への参与である。それは霊魂が神の至福にあずかって幸福になるのに似ている。しかしこのたまものは受苦不能性のようにすべての人に平等に与えられると思ってはならない。聖人たちの体はみな同じように受苦不能ではあってもその輝きは同じではない。聖パウロはこう言っている。「太陽の輝き、月の輝き、星の輝きはちがい、この星とあの星の輝きもちがう。死者の復活もそうである」(コ①15:41~42)。

 第三の特徴は敏捷さ ( Agilitas ) と呼ばれるもので、それによって体はいま煩わされている愚鈍さから解放され、霊魂の望むところへどこへでも、比類のない速さでいともたやすく移動することができる。この教えは聖アウグスティヌスの「神国論」(12) や聖イエロニムスの「イザヤ書注解」でも示されている。これについて聖パウロは、「〔体は〕弱いものとしてまかれ、強いものによみがえる」(コ①15:43) と言っている。

 第四の特徴は精敏さ ( Subtilitas ) と呼ばれ、それによって体は霊魂の支配に完全に服従し、これに仕え、その望みにすぐに従う。このことを聖パウロは、「〔体は〕動物的な体としてまかれ、霊の体によみがえる」(コ①15:44) と言っている。以上が大体この箇条で説明すべきおもな点である。

14 体の復活の奥義から得られる利益

 これほど深遠な奥義を知ることによって信者たちはどれほどの利益を得ることができるかを自覚できるよう、まず、これらのことを知恵ある人、賢い人に隠して小さな人々におあらわしになった神 (マ11:25参照) に深く感謝すべきことを教えなければならない。実際、知恵者とたたえられあるいはすぐれた学識者といわれた人々で、どれほど多くのものがこれほど確かな真理に対して全く盲目であったことであろう。主が、この奥義を望むことさえできなかった私たちにお示しになったのは、かれの偉大な慈愛と寛大さとを永遠に賛美させるためである。

 またこの箇条の黙想から得られる大きな利益としては、血縁や友情によって私たちと結ばれている人々の死に際して、自分自身あるいはほかの人々を容易に慰めることができることである。聖パウロは死者のことで悲しんでいたテサロニケ人を慰めるため、この教えを述べている (テ①4:13参照)。
 未来の復活という教えはさらに、その他のあらゆる苦しみや不幸にある私たちを力づけてくれる。たとえば聖なるヨブの場合がそうで、かれはいつか復活して主なる神を見るという唯一の希望をもって苦悩に耐えていた (ヨブ19:26~27参照)。

 最後にこの奥義は、正しい完全な生活、全く罪の汚れのない生活をするようどれほど努力しなければならないか、それを信者たちに納得させるために非常に効果がある。信者たちは復活によってこれほど莫大な富が与えられることを思うとき、必ず修徳と信心とに励むはずである。一方、人々に心の欲望を押さえさせ罪をさけさせるためには、最後の日の裁きのために復活するとき (ヨ5:29参照) 悪人がどれほどの苦しみと責め苦を課されるかをしばしば思い起こさせることほど効果的なものはない。

訳注  
( 1 ) S. Gregorius, Moral., lib. 14, cap. 28, 92.     
( 2 ) S. Johannes Chrysostomus, Homilia 49 et 50 参照
( 3 ) S. Hieronymus, ep. 152 参照
( 4 ) S. Augustinus, de Civ. Dei, lib. 20, cap. 20 参照
( 5 ) S. Ambrosius, inⅠepist. ad Thess., cap. 4
( 6 ) S. Augustinus, de Civ. Dei, lib. 20, cap. 20 参照
( 7 ) S. Johannes Damascenus, de fide orthod. lib. 4, cap. 18.
( 8 ) S. Augustinus, de Civ. Dei, lib. 22, cap. 19.
( 9 ) S. Augustinus, Euch. cap. 86.
(10) S. Augustinus, de Civ. Dei, lib. 22.
(11) ibid.    
(12) Idem, de Civ. Dei, lib. 13, cap. 18. など参照
(13) S. Hieronymus, in cap. 40 Isaiae参照
    

参考資料:中国カトリック教会最高指導者にバチカン非承認司教

2010年12月13日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 参考資料です。

◎中国カトリック教会最高指導者にバチカン非承認司教


中国天主教第8期代表者会が主席に馬英林司教選出。天主教三自愛国会主席に房興耀司教を選出

 【CJC=東京】中国天主教(カトリック)第8期代表者会が12月7~9日、北京の友誼賓館で開催され、司教45人、司祭158人、修道女23人、信徒87人が参加した。
 カトリック系UCAN通信によると、代表者会は最終日の9日、天主教司教団主席に昆明(クンミン)教区の馬英林(マ・インリン)司教(45)を312票、棄権1票で選出した。また天主教三自愛国会主席に臨沂(リンイ)教区の房興耀(ファン・シンギャオ)司教(57)を310票、棄権3票で選出した。両者共に対立候補はいなかった。賛否は挙手で行なわれた。
 馬氏は、1998年に司教団秘書長、2004年三自愛国会副主席に就任。06年の司教選任以来、今日まで教皇の承認を受けておらず、バチカン(ローマ教皇庁)は司教と認めていない。中国人民政治協商会議のカトリック委員7人の中の1人。03年から08年には全国人民代表大会(全人代)代表を務めていた。
 房氏は、教皇の承認の下に1997年司教に選任された。2004年司教団副主席、政治協商会議委員。
 天主教三自愛国会については、教皇ベネディクト16世が2007年に出した中国の教会に関する書簡では、カトリック教会の教義とは相容れないもの、としている。
 司教団秘書長には、11月20日に教皇の承認なしに承徳司教に就任した郭金才氏が選出された。
 これで、バチカンが承認した司教にとって馬司教とミサなどの典礼を共同司式することを避けたり、馬司教の参列を断わることは非常に難しくなると見られる。
 バチカンにとって、今後の司教選任に際し、中国教会側の提案が、バチカンからすれば不法に就任した司教の名のもとに出されることも懸念される。
 今回の代表者会開催には、懸念を示す教区もあれば、一方で閉幕まで信徒に代表者会のために祈るよう勧める教区もあった。香港の正義と平和委員会は、開催に反対して中央政府連絡事務所前でデモを行なった。当局が司教に参加を強要したとの情報もある。



◎「中国の教会を扱うのは共産党」とバチカン観測筋


 【CJC=東京】バチカン(ローマ教皇庁)で長く中国問題に取り組んでいた教皇庁立外国宣教研究所のベルナルド・セルヴェッレラ神父は、カトリック代表者会の開催など、最近の動きに「1950年代に戻った」と懸念している。同神父は研究所の『アジア・ニュース』の編集者。
 「率直に言って、今回の選出を見ると、毛沢東時代に、愛国会設立当時に戻ったのだ」と指摘する同神父は、北京政府を厳しく批判してきた。また教会の政権との関係にも慎重論だが、12月9日、カトリック通信(CNA)とのインタビューでも楽観論を戒めている。
 今回、バチカンが認知していない組織の長選出に参加することを、教皇に忠誠を誓う司教に中国当局が強要したことで、教会内部に北京の共産党政権の意図についてあまりに楽観的だったのでは、と同神父は懸念している。
 中国当局が、中国の教会を扱うのは、共産党であって、バチカンではないのだ、という明確なメッセージを発信した、と同神父は語った。今回の選挙が、「バチカンを傷つけ」、教会の一致への障害を設けたのだ、と言う。
 バチカン側を楽観的過ぎと見るのは、教皇ベネディクト16世の中国のカトリック者と政府当局への姿勢が教会尊重に向かうと思っていたからだが、教皇が2007年に中国のカトリック者に宛てた公開書簡を発表以来、何も変わらなかった、と同神父。
 中国側の強硬姿勢の背景に、同神父は、三自愛国会が、権力を維持し、教会財政を手中にあることを上げている。ローマとの関係改善が進めば、三自愛国会の存在自体が危うくなるからだ、と言う。またインフレ進行や貧富格差拡大に対する人民の不満抑制のために教会を監督下に置こうとしている、と見ている。
 「中国側は宗教の自由の意味を理解出来ないのだと思う。良心に、また党や国家にではなく、神にのみ従うということの中にあるものを理解できないのだ」
 中国のカトリック者には「礼拝の自由はあるが、宗教の自由はない」と同神父は説明する。


避妊薬の危険を説明するビデオを紹介します。

2010年12月13日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 避妊薬の危険を次のビデオは説明しています。


Dangerous Effects of the Pill



STOPP PLANNED PARENTHOOD DIRECTOR SAYS THE BIRTH CONTROL PILL KILLS:




THE PILL KILLS BABIES:




The Birth Control Pill




How "The Pill" works as an Abortifacient




愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

待降節の特徴

2010年12月12日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 待降節は喜びと償いとの混じった季節です。喜びは、ミサ聖祭の中のアレルヤ唱に現れます。

 償いは、紫色の祭服、グロリアの省略、オルガンの使用禁止、祭壇の花の不在で表されます。

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

グァダルーペの聖母への巡礼

2010年12月11日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

昨夜はロンドンからフィリピン人ブラザーが休暇でフィリピンに戻り、私が空港まで向かえにいきました。(翌朝早々と巡礼があるので、どうして他のブラザーや神父様に向かえをお願いできるでしょうか!? 修道院到着午前1時(>_

今朝は早朝ミサ(4時45分)の後、貸し切りバス二台を使ってラグーナにある教会に巡礼に行きました。約200人が参加しました。およそ20キロメートルを歩きました。とても良い巡礼でした!!天主に感謝します!!皆で沢山ロザリオを唱えました。

ようやくマニラの修道院に到着。グァダルーペの聖母に感謝!今日は早く休みます。

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
アヴェ・マリア!

それにしても、子供たちは重量のある旗は持って歩き、大人は聖母像を担いで歩いたのですが、最後の四番目の教会、グァダルーペの聖母の後に着いた時、疲れてへとへとと言うよりは、嬉しくて嬉しくてニコニコと喜びに満たされていました。不思議と言えば不思議です。但し、帰りのバスの中では皆、熟睡していました。

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!!



トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

「ノルレボ錠0.75mg」の医薬品製造販売承認に関する意見:日本カトリック司教協議会常任司教委員会

2010年12月10日 | カトリック・ニュースなど

アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

緊急避妊薬「ノルレボ錠 0.75mg」の医薬品製造販売承認に関するパブリックコメント(意見募集)に対して、日本カトリック司教協議会常任司教委員会は、12月2日、意見公募に応じ、意見表明を行いました。

この緊急避妊薬「ノルレボ錠 0.75mg」は、日本国内での初めてのいわゆる緊急避妊ピル(モーニング・アフター・ピル)になります。

緊急避妊ピルは、排卵抑制や受精阻害作用だけでなく、子宮内膜に作用し受精卵を着床しにくくしたり、着床直後に着床が十分に完成する前に受精卵 を流産させる極早期化学的中絶作用をもち、つまり、積極的な中絶を目指しており、カトリック教会として道徳的に認められません。

意見表明は、カトリック教会の教えに基づいて、緊急避妊薬「ノルレボ錠0.75mg」の医薬品製造販売承認に反対します。

この意見書は、とくに次の3点を指摘しています。

  1. 緊急避妊薬は積極的な中絶を目指している。
  2. 人工妊娠中絶は理性に従っても人間の生命尊重の義務に反する。人間は受精の瞬間から尊重すべきである。受精した可能性がある胚の着床を阻止するための緊急避妊薬は中絶であることが明らかである。
  3. 「ノルレボ錠0.75mg」の医薬品製造販売承認に反対し、医薬品製造販売承認が行われた場合は、その使用を避けることを呼びかける。

詳しくは、次をご覧下さい。緊急避妊薬「ノルレボ錠 0.75mg」は、私たちカトリックの教えと道徳に反するものです。私たちは、「ノルレボ錠0.75mg」の医薬品製造販売承認に反対します。

 

「ノルレボ錠0.75mg」の医薬品製造販売承認に関する意見



厚生労働省医薬食品局審査管理課 殿

「ノルレボ錠0.75mg」の医薬品製造販売承認に関する意見

わたしたちは「ノルレボ錠0.75mg」の医薬品製造販売承認に反対します。理由は次のとおりです。

  1. このほど医薬品製造販売承認申請が行われた「ノルレボ錠0.75mg」は、「避妊に失敗した場合等に性交後に服用する避妊薬で、 「緊急避妊」という効能・効果が期待されている」とされています。今回の医薬品製造販売承認により、日本国内でいわゆる緊急避妊ピル(モーニングアフター ピル)が初めて承認されることになります。緊急避妊ピルは、排卵抑制や受精阻害作用だけでなく、子宮内膜に作用し受精卵を着床しにくくしたり、着床直後に 着床が十分に完成する前に受精卵を流産させる極早期化学的中絶作用をもつとされます。したがって、その服用は積極的な中絶を目指しており、道徳的に認めら れません。
  2. カトリック教会は早くから人工妊娠中絶に反対してきました。人工妊娠中絶は人間の生命尊重の義務に反しますが、「人間の生命を尊重することは、単にキリスト者としての義務にとどまらない。人間理性のみで・・・・その義務を人に課すことが十分できる」(注1)ものです。ところで、「受精によって生じた接合子において、新しい個人の生物学上のアイデンティティーはすでに形成されている」ので、「人間は、受精の瞬間から人間として尊重され、扱われるべきである」(注2)と わたしたちは考えます。緊急避妊薬に関しては「受精した可能性がある胚の着床を阻止しようと望み、この薬や処方を要求する者は一般的にいって中絶を意図し ているということを認識しなければなりません。・・・・除胎剤使用により実際に起こっているのは着床したばかりの胚の中絶です」(注3)
  3. したがって、わたしたちは日本国内で今回新たに「ノルレボ錠0.75mg」の医薬品製造販売承認が行われることに反対するとともに、その医薬品製造販売承認が行われた場合は、その使用を避けることを多くの善意の人に呼びかけたいと思います。

2010年12月2日
日本カトリック司教協議会常任司教委員会

―――

(1)教皇庁教理聖省『堕胎に関する教理聖省の宣言(1974年11月18日)』8。
(2)教皇庁教理省『生命のはじまりに関する教書(1987年2月22日)』1・1。
(3)同『人格の尊厳――生命倫理のいくつかの問題について(2008年9月8日)』23。

 


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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