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2014年9月14日 聖十字架称賛の祝日、シュテーリン神父様の御説教

2014年09月25日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2014年9月14日 聖十字架称賛の祝日に、東京での聖伝のミサの時に、シュテーリン神父様がなさった御説教をご紹介します。

 このお説教を書き起こしてくださった方に感謝します。

 このお説教をお読みになる方々全てに、天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2014年9月14日 聖十字架称賛の祝日、シュテーリン神父様の御説教

【写真は大阪でのミサ聖祭のものです】


【写真は大阪でのミサ聖祭のものです】


親愛なる友人の皆さん、今日私達は、私達を愛し天主が愛したその偉大なる手段である十字架を礼拝しています。
十字架は、私達がこの地上で持っている最も深い神秘の一つであって、この神秘をこの一人の方以外、これ以上深く理解した方はいません。
その方は、私達の聖母マリア様であって、そしてこのマリア様は、十字架の御下に佇み、そして十字架の深い神秘を、愛を、黙想しておられます。
ですからカトリック教会は、この二つの祝日を一緒に祝っています。今日まず十字架の称賛、そして明日は七つのマリア様の御悲しみの祝日です。
ですから、もしも私達の救いの原理の中に入って、それを理解しようとするのならば、同時にマリア様の悲しみに満ちた御心の中にも入らなければなりません。

ファチマでマリア様はこう仰いました、「私の汚れなき御心は、あなた達の避難所であって、天主様へと導く道である。」と。

このマリア様の御心は、天国へと導く道であるのみならず、私達が十字架の神秘を深く理解する為の道でもあります。その神秘を深く理解する事ができる為に、では皆さん一緒に、マリア様が十字架の下で一体何をお感じになったのか、そして何を黙想しておられたのかを考えてみる事にしましょう。

私は特に、ここにいらっしゃるお母様方に伺いたいと思います。もしもお母様方の中で、心を深く痛める、或いは辛い、悲しい、或いは苦しい思いがおありになったことがあると思います。しかしこの自分の苦しみよりも、皆さんが、お母様達が、この愛する可愛い子供がいて、その子供が自分の前で、悪い人達によって殴られたり、傷付けられたり、悪さをされたり、そしてその子供が痛がって、苦しんでいるのを見ると、自分の事よりももっと、その母の心は苦しむのではないでしょうか。
聖マリア・グリニョン・ド・モンフォールによると、「この地上にいる全てのお母さん、最高の善き母、親達の心を全て集めて、その自分の子供達を愛する全ての愛を、全ての総計をしたとしたら、マリア様が私達一人一人を愛する、その一人一人に対するマリア様の愛と比べても、まだ足りない。」と、いいます。
ところで、そのような巨大な私達に対するマリア様の愛を、全て、全人類に対する愛を全て合わせたその総計は、イエズス様に対する御自分の愛に比べると、ほんの一滴に、大海の一滴にしかすぎません。
そして、その大きなはかりも知れないような愛をもって、マリア様は十字架の下に佇んで、その御自分の御子の死を目前にしています。
マリア様はイエズス・キリストがどなたか良く知っています。この天と地よりも遥かに超えた偉大な方であって、皆さんと私よりも遥かに偉大な方である、と。
そして私達は、このマリア様の愛する御子イエズス・キリスト様から、たくさんの御恵みと、たくさんの愛と、物凄い祝福を受けて、受けて、きました。そしてこの私達が、イエズス・キリストを傷付けて、暴力を払って、そして殴り付けて、そして殺そうとしています。罪を犯す事によって、イエズス・キリストを侮辱し続けています。
そして、それを知りつつマリア様は、十字架の下に佇んで、三時間、イエズス様の御傷をずっと眺めて、そしてそれを見て、その足元から頭までその全ての傷が、どれ程イエズス様を傷付けて、傷めて、その死に至らせるかを、御覧になりながら、そして黙想しています。

もしも、皆さんが十字架の神秘を理解しようと思われるのでしたらば、同じ事をなさって下さい。
皆さんも、ご自宅に十字架の御像があると思います。そして、ご自宅にある十字架像のイエズス様をご覧になって下さい。しかも、表面的にただ眺めるだけではなく、マリア様の目を以ってご覧になって下さい。
そして、きっと皆さんはこう仰るでしょう、「あなたのこの手の御傷、そしてあなたのこの胸の御傷、足の御傷、そしてこの茨の頭の傷、そして全身の傷、全てあなたは、私の為になさった事、私達の為に苦しんで下さったのですね。」と。

そしてマリア様は、この傷から御血が滴り出て流れ出るのを見ています。
お母さんが、もしも子供が、「お母さん、傷が血が出てる。」と、やって来るのを見れば、「あぁ!さあ、大変!」と言って、これに包帯を巻いて、出血を止めるように一生懸命します。もしも、この血を止める事ができなければ、そのお母さんは本当に心配します。何故かというと、もう血が出て、流れ出ていたら、もう死が近いという事ですから。
そして、マリア様も十字架の下で、イエズス様の御傷を見て、その血が滴り出るのを見て、何とかしてこの血を止めて、そして何とかお慰めして、それをそして自分が苦しむ事を望むのですけれども、しかしそれさえもできませんでした。
そして、これは親にとって起こり得る最悪の出来事です。子供達が、自分の目の前で血を流して、今からもう出血して出血してそして今死につつある、そしてそれについて何もできない。それを見て親の心は砕かれて、もう悲しみに打ちひしがれるしかありません。

イエズス様にとって、マリア様がその同じ、イエズス様と同じ苦しみを感じておられる、そしてイエズス様と心を合わせて同情されている、というのを見るというのは非常に大きな慰めでした。
そして同じようなやり方で、私達は十字架を見て、そして黙想し感嘆しなければなりません。そして私達の心こそ、これも、イエズス様の物凄い苦しみを見て同じ苦しみを持ち、同じ心で同情の心を持たなければなりません。そして、何とかしてこのイエズス様をお慰めしよう、と願わなければなりません。
何故かというと、誰かが十字架の上で亡くなりつつある、というのは、この地上で起こり得る死の、最も残酷な、最悪の死に方であるからです。

イエズス様、この十字架を見て、私達はイエズス様にこう言うしかありません、「イエズス様、あなたはこれら全ての苦しみを、私の為になさって下さったのですね。しかし、私こそが、あなたがこうなるように挑発したし、私こそが、あなたに十字架に釘を打った者ですし、私こそが、あなたの茨の冠を押しかむらせた者でした。」

ですから、教会が何故十字架をこのように称賛する事を望んでいるか、よくご理解できた筈です。何故かというと、この十字架こそが私達を助けて、私達の救いの理由であるからです。

この十字架を見て、私達がそれに目を上げる時、私達の心の中に感嘆と、あぁ素晴らしい、という心と、そしてその興奮さえも、私達の心に満ちみちていなければなりません。この、これこそが私達を救った愛、天主様の愛だ、と。
そして十字架を見て、「これは、私がこのような事をするようにしたのだ。」と、することが理解できれば、私達には自分の犯した罪に対する、深い悔悛と、深い痛悔の念が湧き起こってきます。そして、深い深い痛悔の念が起これば起こるほど、私達は赦しを、罪の赦しを受けるに準備ができている、ということになります。

そして多くの聖人達が、「私にとってこの十字架こそ、この十字架像こそが、黙想の本だ。何故なら、十字架のイエズス様の死を見ると、私達に全ての罪への誘惑に打ち勝つ力を与えてくれるからだ。」と、言います。
そして、その黙想の本であるもう一つの理由は、この十字架像を見ると、天主様の私達に対する、はかり知れない大きな愛を知る事ができるからです、何故かというと、愛する友人の為に自分の命を与えるほど、偉大な、より大きな愛はないからです。
その愛が理解できると、私達は、もっとイエズス様をお慰めしよう、イエズス様をお愛ししよう、と、望みが湧き起ってきます。そしてそれに感動して、イエズス様が私を愛する為にこれほど大きな犠牲を捧げたのなら、私も小さな犠牲を捧げる事ができる準備ができます。

十字架は、天国へ行く為の唯一の道です。十字架によってだけ、サタンは敗北しました。十字架のイエズスに一致する事によってだけ、天主御父を喜ばせる事ができます。
この事を、十字架の下に佇んでいるマリア様は、御自分の愛する子供である私達に教えようとしています。
マリア様に、ですからマリア様の愛する子供達である私達に、十字架にいつも忠実である事ができるように教えて下さい、とお願いしましょう。

そして具体的に申し上げますと、皆さんの家には必ず、一番重要な部屋には少なくとも一つ、美しい十字架像がなければなりません。そしてそれを、私達がそれを見る事ができるのがなければなりません。
そして第二にお願いです。十字架の印をよくして下さい。これは愛と確信をもって十字架の印をなさって下さい。
そして第三にどうぞお願いです。十字架のイエズス様の苦しみを黙想して下さい。これこそが罪に打ち勝つ最も偉大な動機であって、そして聖人になるという望みの動機であるからです。

聖父と聖子と聖霊との聖名によりて、アーメン。

聖伝のミサ(いわゆる「トリエント・ミサ」と呼ばれているローマ式典礼様式のミサ)にようこそ!

ローマ・カトリックの聖伝のミサ vs エキュメニカルな新しいミサ(第二バチカン公会議のミサ)




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聖ピオ十世会本部よりの公式声明(2014年9月23日)日本語訳

2014年09月24日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、「聖ピオ十世会本部よりの公式声明」の日本語訳をご紹介します。天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

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聖ピオ十世会本部よりの公式声明

二〇一四年九月二十三日

 二〇一四年九月二十三日火曜日、聖ピオ十世会総長、ベルナール・フェレー司教は、教理聖省長官、ゲルハルト・ルートヴィヒ・ミューラー枢機卿と会見した。フェレー司教には、本部総長第一補佐ニクラス・フルーガー神父、及び総長第二補佐アラン・マルク・ネリー神父が同行した。ミューラー枢機卿には、教理聖省秘書官でありイエズス会士の Luis Ladaria Ferrer大司教、秘書補佐でありドミニコ会士のジョセフ・アウグスティン・ディノイア大司教、エクレジア・デイ委員会秘書官であるグイド・ポッゾ大司教が同伴した。

 会見は、午前十一時から午後一時まで、教理聖省執務室で行われた。この引見の目的は、ミューラー枢機卿とフェレー司教の初顔合わせを実現すること、及びローマ聖座と聖ピオ十世会の関係状態をともに議論することである。今回をもって、教皇ベネディクト十六世の退任、及びウィリアム・ジョセフ・レヴァダ枢機卿の教理聖省長官の任期終了以来、両者の初の接触となった。

 今回の誠意ある会見の間、教義的及び教会法的問題が話し合われ、教会の現状についても言及された。今なお残っている論争の論点を明確にするため、議論の続行が決定された。

二〇一四年九月二十三日、メンツィンゲンにて



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聖ピオ十世会イタリア管区が主催した、アシジへの巡礼(2014年9月6-7日)

2014年09月24日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 聖ピオ十世会イタリア管区が主催した、アシジへの巡礼(2014年9月6-7日)の動画をご紹介します。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)






Le immagini del 26° Pellegrinaggio della Tradizione Cattolica
da Bevagna ad Assisi, del 6-7 settembre 2014

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聖ピオ十世会本部からの報道発表(2014年9月23日)

2014年09月24日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 聖ピオ十世会本部からの報道発表をご紹介します。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


Communiqué from the General House of the Society of Saint Pius X

23-09-2014

On Tuesday September 23, 2014 his Excellency Bishop Bernard Fellay, Superior General of the Society of Saint Pius X, met with Cardinal Gerhard Ludwig Müller, Prefect of the Congregation for the Doctrine of the Faith. With Bishop Fellay were Frs. Niklaus Pfluger and Alain-Marc Nély, First and Second Assistants General of the Society. Cardinal Müller was accompanied by Monsignor Luis Ladaria Ferrer s.j., Secretary of the Congregation for the Doctrine of the Faith; Monsignor Joseph Augustin Di Noia o.p., Assistant Secretary; and Monsignor Guido Pozzo, Secretary of the Pontifical Commission Ecclesia Dei.

The meeting took place in the offices of the Congregation for the Docrine of the Faith from 11:00 a.m. until 1 p.m. The goal of the audience was to allow Cardinal Müller and Bishop Fellay to meet for the first time and to discuss together the status of the relations between the Holy See and the Society of Saint Pius X. This was their first encounter since the resignation of Pope Benedict XVI and the end of Cardinal William Joseph Levada’s term as Prefect of the Congregation for the Doctrine of the Faith.

During this cordial meeting, doctrinal and canonical difficulties were discussed, and the current situation of the Church was mentioned. It was decided to continue the discussions in order to clarify the points of contention that remain.

Menzingen, September 23, 2014

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カール・シュテーリン神父の神父様たちへの手紙(2014年9月)

2014年09月23日 | 司祭たちへの手紙
アヴェ・マリア・インマクラータ!

 この手紙は、第一に、聖ピオ十世会と接触したことのあるすべての司祭の方々に向けて書かれています。長年に渡って私たちのことをご存知の方々もいれば、私たちの発行している出版物を受け取っているだけの方々、あるいは私たちの宣教旅行の一つでお会いしたことのある方々もいます。おそらく複雑な二次的原因を通して、神父様にこの手紙が伝わり、私の言葉をお伝えする光栄を与えてくださった天主のみ摂理に感謝しています。


愛する兄弟姉妹の皆様、

 聖ピオ十世会の第一の目的は、司祭職です。聖ピオ十世会会憲の第二章「会の目的について」(II - DE SODALITII FINE)は、こう言います。当会の目的は、司祭職であり、司祭職に属する全て且つそれに関わること以外の何物でも無い。すなわち、私たちの主イエズス・キリストが「これを私の記念として行え」と言ったとき、主がお望みになったままの司祭職である、と。
1. Le but de la Fraternité est le sacerdoce et tout ce qui s'y rapporte et rien que ce qui le concerne, c'est-à-dire tel que Notre Seigneur Jésus-Christ l'a voulu lorsqu'il a dit: « Faites ceci en mémoire de moi »

 アジア管区長のシュテーリン神父様は、そこで、今まで聖ピオ十世会アジア管区という広い地域で、今までに出会ったことのあるカトリック司祭、或いは、これから出会うであろう司祭の方々にも、友人として、同じカトリック司祭として、お手紙を書きました。何故なら、すべてのカトリック司祭は、本質的に主イエズス・キリストの同じ司祭職を分かち合っているからです。カトリック司祭として、互いに秘跡的刻印において結ばれているからです。私たちの主イエズス・キリストの司祭職に参与しているからです。カトリック司祭としての霊的一致を望むからです。

 そこで、願わくは、アジアにいるカトリック司祭たちが、永遠の大司祭なるキリストにおいて一致しますように、キリストにおいて一致するために互いに励まし合うことができますように、カトリック司祭職の美しさと偉大さを保ち再発見することができるように私たちの心をイエズス・キリストに向け続けるためです。私たちは司祭として生き残るために、永遠の真理へと私たち司祭の心を引き挙げるためです。司祭の聖徳を乞い求めるためです。多くの霊魂たちを永遠の救いへと導くためです。

 親愛なる神父様、どうぞ、この手紙をお読みください。そして、もしもお気に召したなら、同僚の司祭たちにも教えてあげてください。

 親愛なる神父様、もしかしたら、信徒の方からこの手紙のことを知らされたかもしれません。どうぞ、目を通してください。私たち司祭が、ますます高い聖徳への望みに燃え立ちますように!

 このお手紙を読む全ての方々に、天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

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聖ピオ十世会・アジア管区の司祭たちへの手紙

FIRST LETTER FROM FATHER KARL STEHLIN


カール・シュテーリン神父よりの最初の手紙

親愛なる神父様!

 この手紙は、第一に、聖ピオ十世会と接触したことのあるすべての司祭の方々に向けて書かれています。長年に渡って私たちのことをご存知の方々もいれば、私たちの発行している出版物を受け取っているだけの方々、あるいは私たちの宣教旅行の一つでお会いしたことのある方々もいます。おそらく複雑な二次的原因を通して、神父様にこの手紙が伝わり、私の言葉をお伝えする光栄を与えてくださった天主のみ摂理に感謝しています。

私たちの一致
 あなたに思い切って手紙を書く理由は、次に述べるこの偉大な真理の故です。すなわち、本質的にすべての司祭たちは、主イエズス・キリストの同じ司祭職を分かち合っているということ、それゆえに、本質的に私たちの源泉に、秘跡的刻印において結ばれており、それは私とあなたを「alter Christus 第二のキリスト」たらしめ──主の永遠の司祭職に参与せしめるのです。しかしながら、私たちが主において一致しているなら、私たち自身の間においても一致があるべきだという論理にならざるを得ません。聖主は「あなたが私の中(うち)においでになり、私があなたの中(うち)にあるように、みなが一つになるように!」(ヨハネ17:21)と永遠のおん父に願った時、彼はどれほどこの霊的一致を、司祭的祈りの中で、熱烈に望んでいたことでしょうか?

私たちの孤立
 しかしながら今日、多くの司祭たちは、肉体的にというより霊的に、ばらばらになっているかのように見えます。司祭たちの間にあるまことの一致は、永遠の大司祭なるキリストへの一致にかかっているのです。そしてキリストに一致しようと互いに励まし合えば合うほど、私たちはこの危険に満ちた世界において互いに助け合えるのです。

 聖なる司祭職に加えられた攻撃を、あなたは私よりもよくご存知のはずです。あらゆる立場から(特に現代の世俗メディア上で)、司祭職が嘲笑され、司祭職が進歩、女性たち、人権、人間の尊厳、自由とは真逆のものであることを非難され、最も卑劣な性的倒錯行為の逃げ込み場所になっているのを、私たちは耳にしています。世俗は私たちをもはや理解しないかのようです。私たちはよそ者で、容疑者の集まりになってしまっています。なぜなら私たちは世俗が理想とするひな形に、どうやら適合しないからです。「Vae soli, 一人きりでいるのは不幸なことだ」と、コヘレットの書[伝道の書](4:10)は言います。なぜなら、このような圧力にいつでもどこでも抵抗することは、ほとんど難題といっていいからです。従って、互いに手を組み、助け合うこと、私たちの司祭職の美しさと偉大さを保ち、再発見すること、アシジの聖フランシスコの「Deus meus et omnia! 我が天主、我がすべてよ!」というモットーに則って、私たちのまなざしを絶えずイエズス・キリスト、私たちの「唯一の、そしてすべてであるお方」にしっかりと向けておくことが必要なのです。

私たちには信仰が必要です
 私たちの司祭職を霊魂のうちに生き生きと保ち、世俗の攻撃を打ち負かす二つの手段があります。聖ヨハネは、素晴らしい明瞭さで最初の手段を教えてくれています。「世に勝つ勝利は、すなわち私たちの信仰である」!(ヨハネ1 5:4) 
 残念なことに、現代世界では、信仰は凋落の一途を辿っています。名誉教皇ベネディクト十六世は、信仰の危機について何度も語りました。過去五十年間、私たちは教会内での完全な方向転換を経験し続けてきたということを理解するのは簡単です。聖職者層からのメッセージは、現在では世俗の方へ、この世界での人間の生活や悲しみ、喜びの方へと向いています。黙想し、教えられるべきテーマの一覧表のトップに、永遠の真理はもう存在せず、この真理の数々は時代遅れだと考えられているのです。多くの事例の中でも、ちょうど二つの例を挙げましょう。過去五十年以上に渡って、教皇様(ベネディクト十六世)は、たった一度だけしか「戦闘の教会」という言葉を使いませんでした。同様に、「四終(novissima)」の教義は、完全に覆い隠されてしまいました──徹底的な沈黙が、審判、地獄、煉獄、大罪の結果、私たちの内に残る原罪の永久的な傷痕などを包み込んでしまっています。
 永遠の真理へと私たちの心を引き挙げようとしないなら、私たちは司祭として生き残ることはできません。真理は私たちを占領し、私たちを惹きつけなければなりません。信仰の炎を輝かせ続けないなら、私たちはもはや自分たちの司祭職を、信仰のひときわ優れた神秘である司祭職を理解しないでしょう。ですからその結果として「この世が私たちを認めないのは、おん父を認めないからである」(ヨハネ1 3:1)となるのです。

 私たちは信仰のうちに強められなければならない、と私が申し上げるなら、これは向こう見ずなことではありません。あなたは司祭職の深刻な危機を間違いなくご存知です。すなわち、非常に大勢の司祭たちが司祭職を放棄し、非常に大勢の司祭たちが、キリスト者の生活が失望させるほどに破綻しているのを目の前にして、絶望と幻滅の状態で生きているのです。

 私たちの信仰が危機にさらされているもう一つの理由は、自然的レベルにおいてさえも、さまざまな物事を目にする危機のただ中にあるからです。「あの人たちは安楽な生活をしていて、そしてキリスト者でいられる。では、なぜ私は孤独なままで軽蔑されていなければならないのだ? あの人たちは正当な楽しみを得て、努力に対する報酬を得ている。では、なぜそれらのことが私には禁じられているのだ?」こうして、一部の司祭たちは、以前は禁じられていた自然的慰めが許可されるよう要求しています。別の司祭たちは、はっきりと禁じられているわけではないさまざまな事柄を使って、不摂生なまでに楽しみに溺れています。アルコール依存症に陥り、インターネットや映画に依存し、金銭や休暇、くつろいだ生活を常に期待しているあまりに多くの同胞たちを見るのは非常な悲しみです……。この結果はたいてい破滅的です。すなわち、二重生活、司祭職の放棄、背教へと至ります。

 聖主によって与えられた永遠の光と真理の高みへと入り込むために、私たちの信仰を堅固なものとすることは非常に重要です! 信仰の、この超自然の「現実」は、私たちの目を開かせ、信仰を蝕み、人々を悪魔の奴隷とさせる、錯覚と偽りのイデオロギーに気づかせる光を与えてくれるでしょう。

私たちには聖性が必要です
 私たちの司祭職を霊魂のうちに生き生きと保ち、世俗の攻撃を打ち負かす二番目の手段は、聖徳です。ヨハネによる聖福音の中で、聖主はおん父に「Sanctifica eos! 彼らを聖別してください!」と乞い願いました。司祭とは奉献された存在です。司祭はその手に、その心に「至聖なるおん者」を抱き、宿すのです。特に司祭に対して、聖主はこのように言っています。「あなたたちの天の父が完全であるように、あなたたちも完全なものになれ」(マテオ5:48)

 私たちを天使たちよりも上に置き、人間も天使もなし得ない奇跡を勝ち取らせる司祭職の途方もない偉大さに気づいているなら、では、私たちは「取り扱うものを模倣する」(Imitamini quod tractatis)【叙階式の時に司式司教が叙階される司祭たちに言う言葉】という果てしない望みを持たなければなりません。至聖なるおん者に触れる手は、聖なる人の手であるべきです。ですから、なによりもまず、私たちは天主との一致という深い熱烈な望みを持たなければならず、祈りの生活を辿って行き、そうして「主の慈しみを見つめ味わう」(詩編33:9)のです。私たちは賛美とともに、聖なる生活を送った司祭なる先人たちに思いを馳せます。かつて、このような司祭たちは一国を回心させ、何百という霊魂たちを永遠の救いへと連れて行きました。彼らから学ぶべき多くのことがあり、私たちが彼らの歩みに続くなら、同様のことを私たちが勝ち得るだろうと聖主は約束して下さっています。

信仰と聖性の源──ミサ聖祭
 さて、信仰と聖徳の二つの最も完全な表現であり、理解に至る手段は、ミサ聖祭です。聖主が聖木曜日に私たちに明かされたように、これこそが、自分たちの司祭職の核となる場所であり、これこそが、私たちの存在理由なのです。聖木曜日に、聖主は私たちに教えて下さったこと「Hoc facite in meam commemorationem 私の記念としてこれをおこなえ」(ルカ22:19)を、正しく完成させるよう、私たちにお命じになったのです。

教会には忠実で聖なる司祭が必要です
 大聖グレゴリオは「教会にとって最大の損害は不忠実な司祭であり、最大の利益は熱烈で聖なる司祭である」と書きました。聖主はご自分の王国に聖職者位階があることを望まれ、主として司祭たちを通して、つまり、聖ペトロによって「forma gregis ex animo 群れの模範」(ペトロ1 5:3) と呼ばれた司祭たちを通して天主の光と恩寵を与えることが、天主の聖なるご意志なのです。すなわち、私たちの群れの霊魂たちは、私たちが与える模範に依存しているのです。

 あなたは聖ヨハネ・マリア・ヴィアンネの言葉を聞いたことがあるはずです。「聖なる司祭は良い小教区を生み出し、良い司祭は平均的な小教区を生み出し、平均的な司祭は悪い小教区を生み出し、悪い司祭は小教区を無くしてしまう」と。

 教会は、恐らく今まで以上に、堅い信仰を持った聖なる司祭たちを必要としています。教会を慰め、(内部や外部から)教会に負わせられた傷を癒やすために私たち司祭を必要としています。不忠実な司祭たちによって裏切られ続けた自分の子らに勝利を取り戻すために、私たちを必要としています。教会を復興させ、拡大させるために働く私たちを必要としています。

忠実で聖なる司祭たちのおん母
 人々の心を高め、成功を収める使徒職を持つ忠実で聖なる司祭たちを目にする時はいつでも、彼ら一人一人は司祭職のおん母なる聖母、インマクラータ(無原罪の聖母)のおん助けを当てにしているというのは、もう明白でわかりきったことです! 私は、公にそのことを宣言しているたくさんの司祭たちを個人的に知っていますし、聖母なしでは、彼らはすべてを放棄していたかも知れません。ロザリオなどのおかげで恐るべき危機を克服できたと言っている司祭たちもいます。

この手紙を広めて下さい
 あなたの司祭生活の気高さ、美しさ、必要性と基礎を理解して実現させるように司祭たちを助けることによって、私たちの間の絆を強めるため、これこそが、親愛なる同僚である神父様、私があなたに思い切ってこの手紙を送る理由です。この手紙があなたを喜ばせ、あなたの同僚の司祭たちにとって霊的に役に立つと思われるなら、この手紙を読んでいただけるよう回覧し、あるいは、直接コンタクトをとれるよう私に連絡先を送って下さい。できれば、最も簡単で、すぐに、確実に連絡を取れる手段であるEメールを使って、あなたとコンタクトを取りたいと考えています。

 あなたが私のために祈ってくださるよう心からお願いします。私もまたあなたのために祈ると約束します。すべての試練において、聖主があなたを強めて強固にしてくださり、悲しみのうちにあるあなたを慰めてくださるよう、聖主おん自らが恩寵と堅固さを与えてくださるように願います。そして、すべての母たちの中でももっとも優れたお方なる聖母が、救霊のすべての敵どもから、あなたを絶えずお守りくださいますように。

 感謝を込めてあなたの
 カール・シュテーリン神父

韓国語訳もあります。
아시아 신임 관구장, 칼 슈텔린 신부님께서 모든 신부님들께 보내신 서한

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2014年09月22日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

「罪こそ、聖母が地上で見いだす唯一の悪です。聖母は天主がお支えにならなければ苦しみの余り死んでしまわれるでしょう。」(メラニー・カルヴァ


愛する兄弟姉妹の皆様、

 アジア管区の新管区長であるシュテーリン神父様は、管区本部のシンガポールに到着して後、すぐに、インドと日本を訪問されました。

 アジア管区で最も信徒の多いのはフィリピンですが、フィリピンに来られたのはラ・サレットの聖母の祝日(9月19日)でした。

 その前に、御摂理によって、シュテーリン神父様がインド、それから日本を訪問されたのを見て、聖フランシスコ・ザベリオを思い浮かべました。

 シュテーリン神父様の歓迎会がミサの後であり、その時、神父様が霊的講話をしてくださいました。そのお話をチーム・パラマイの方が録音して、書き起こしてくださいましたので、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。これを書き起こす労を執ってくださった方に感謝します。

 シュテーリン神父様のお話が良いな、と思った方は、どうぞお友達の方々にも教えてあげてくださいね。

 愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)




2014年9月13日(土) シュテーリン神父様講話(大阪にて)

聖マキシミリマノ・マリア・コルベ神父様は二つの事が好きでした。一つはですね、「Omnia instaurare in Christo per Immaculatam」汚れなきマリア様を通して、キリストにおいて全てを復興させる、の「キリストにおいて全てを復興させる」です。もう一つは、「インマクラータを通して」です。

ちょうど、マキシミリアノ・コルベが神学生だった時に、ローマに到着したその時に、聖ピオ十世教皇様がお亡くなりになりました。そして、コルベ神父様は神学生の時から、聖ピオ十世教皇様に非常に深い尊敬の念を持っていて、そしてそのモットーを、全てをキリストにおいて復興させる、という聖ピオ十世教皇様のモットーを愛していました。
ですから、私もこの偉大な教皇様と同じ事をしたい、私もしたい。私も同じようにイエズス・キリストにおいて全てのものを新しくしたい、復興させたい。と思いました。これが一つ目です。

でも、これは私の力ではできないので、私はマリア様に一致しているに従って、それができる。そこで、インマクラータを通して、ということでこれが二つ目です。そこでマキシミリアノ・コルベ神父様の人生は、この二つに集中していました。

一つ目について詳しくお話ししますと、イエズス・キリストの御国、そしてその為にマリア様の御国、そのマリア様の御国を通して、キリストの御国に、統治に至るように、という事でした。そしてこのキリストの御国と支配と統治を破壊しようと、それに敵対する天敵がいる。その絶対の敵は誰か、というのをコルベ神父様は見出して、それがフリーメイソンだという事が分かりました。
そして、そのフリーメイソンは何をするかというと、世界中の政府を支配しようとしている。そしてその支配を、ローマの聖ペトロ大聖堂まで及ぼそうとしていました。そしてそのマキシミリアノ・コルベ神父様は、そのフリーメイソン達の目標を聞きました。それは、「ローマは私達のものになるだろう、そして私達のものにする、そして教皇は私達の僕となる。」というものでした。
そして、もしもそのような絶対的なこの世の力、権力を目前にして、そしてそれにも関わらず、全てをキリストにおいて復興させるということをしようとしたら、私達はたった一つしかチャンスがない。そのチャンスは、無原罪の汚れなきマリア様です。
そして、この聖ピオ十世教皇様のモットーに非常に深い感銘を受けて、それに共感して、それと同じ事をしようと思ったもう一人別の方がいます。それは、聖ピオ十世会を創立したルフェーブル大司教様です。
ルフェーブル大司教様は、既に教会の敵がペトロ大聖堂の門の中に入って、その自分達のプログラムを押し付けようとしたのを見ました。そして、ルフェーブル大司教様もコルベ神父様と同じように、聖ピオ十世教皇様のモットーを続けて、実現させようと思っていました。そしてルフェーブル大司教様は、その聖ピオ十世のモットーをどのように実現したらいいかということを、その具体的なその手段を与えました。それは、カトリックの司祭を通してだ、と。そして、ルフェーブル大司教様の考えでは、司祭と、その司祭の為に働く、司祭の為に祈る、司祭の為に苦しむ、そういう司祭職を中心とした修道会を通して、そのカトリックの司祭職を通して、イエズス・キリストにおいて全てを復興させる事ができる、としました。
そこでルフェーブル大司教様は、司祭を、聖なる司祭を養成しなければならない、つまり本当のイエズス・キリストの僕、イエズス・キリストの兵士、イエズス・キリストの騎士、イエズス・キリストの事業を続ける、本物の司祭を養成するという事に、最大の目標と関心が向けられています。

コルベ神父様は、フリーメイソンによってこの世が腐敗して、堕落して影響を受けているのを見ましたが、ルフェーブル大司教様は、フリーメイソンのイデオロギーが、教会の内に浸透した事によって、その司祭達が腐敗して、そして退廃しつつあるのを見ました。
何故かというと、信教の自由とか、或いはエキュメニズムというのは、これは元々は、元を正せばフリーメイソンのイデオロギーから始まっています。
そして、この非常に極めて敵の勢力が強い現代において、聖なる司祭を養成する、それに敵の勢力にもひるまず、それに恐れず、イエズス・キリストにおいて全てを立て直す司祭を養成するためには、私達にはたった一つのチャンスしかありません。それは、マリア様です。
そして聖ピオ十世会の会則の、第一章の一番大切な所に、ルフェーブル大司教様は、この司祭の養成の為に、私達は必ずマリア様、つまり最高司祭の母親であるマリア様の所に委ねなければならない。と、規定しています。
そしてルフェーブル大司教様は、聖グリニョン・ド・モンフォールの「聖母マリアに対する真の信心」について非常に深い信頼と信心を持っていました。ですからルフェーブル大司教様は、全ての神学生達に司祭になる前に、そして神学生の間に、全て必ずマリア様に、聖グリニョン・ド・モンフォールの精神に従って、マリア様に全てを奉献するようにと命令しています。そしてルフェーブル大司教様が、全ての聖ピオ十世会の司祭たちが、マリア様の司祭、マリア様のものである、マリア様の司祭である事を求める為に、実は聖ピオ十世会の本当の修道名にそれが表れています。実は、聖ピオ十世会の本質的な名前は、「イエズスとマリアの使徒の会」です。そして、実はこの修道会の名前自体が、聖グリニョン・ド・モンフォールの真の信心から来ているのです。その真の信心においては、「終末におけるイエズスとマリアの使徒達」という章があります。
ここで私が言いたい事は、コルベ神父様がなさったことを、正確にそのままルフェーブル大司教様がなさったという事です。私達はルフェーブル大司教様の子供達です。そして、コルベ神父様の霊的な子供達でもあります。

そしてこのビジョン、この世界観と観点から、私達は全てを汚れなきマリア様を通して、キリストにおいて全てを復興させるという事を、私達が実現しなければならなくて、そしてこのモットーは、私達に非常に大切であって、私達一人一人がこれを実現しなければなりません。
そしてこのビジョンを実現させるために、私達の中には燃えるような、熱い情熱がなければなりません。それは、霊魂達を真理へともたらす、つまりイエズス・キリストへともたらす、この霊魂達をイエズス・キリストの御国へと導く、それへと招くという熱情です。これが、これこそがコルベ神父様がミッションに行きたい、と願ったその理由だったのです。マキシミリアノ・コルベ神父様は、暗闇に住んでいる、イエズス・キリストという真理を何も知らない霊魂達に真理を、明かりを照らす事を望んだのです。
このコルベ神父様が、手紙をたくさんたくさん書いているんですけれども、その多くの手紙の中で、「そんなに多くの人達が、天に私達の優しい父親がいて、そして私達の幸せだけを望んでいる天の母がいらっしゃるという事を知らない人があまりのも多いので、それで心がもう砕けている。」という事を書き綴っているのが分かります。
例えばこの国に来た、宣教師達が確かにたくさんいます。もちろんコルベ神父様がこの国に来た時に、多くの司祭たちがキリストにおいて全てを復興させよう、と働いていた神父様達がたくさんいたに違いありません。しかし、コルベ神父様がなさった事が成功したその秘訣は、汚れなきマリアを通して、という事があったからです。もちろん、世界中の司祭達は、キリストにおいて全てを復興させる事を望んで働いて、そしてマリア様にも信心をもっていてロザリオも唱えていた事は間違いありません。
その違いというのは、コルベ神父様の場合には、マリア様だけが、マリア様が霊魂を光に、真理へと導くその力とその道だ、という事を深く確信していて、マリア様だけにその信頼をおいていたという事です。
日本でコルベ神父様が、そしてその子供達がその弟子達が、どれほど素晴らしい仕事をしたか御存知と思います。無原罪の園を通して、どれほど多くの日本の方が、カトリックの信仰を受け入れるようになったのか。ルフェーブル大司教様が世界中に御自分の司祭達を送る時もやはり同じです。ルフェーブル大司教様の場合には、コルベ神父様よりももっと酷いものを見ていました。コルベ神父様は、御自分の周りに異教主義、異教の習慣やそれらを見ていましたが、現代では新・異教主義というかそれを見ています。

コルベ神父様は、深い闇を日本に見ました。しかし現代では、その暗さはその当時の十倍以上、もっと深い暗闇の中におかれているのを見ます。何故かというと、今の世界の状況は、百年前よりも更に深い暗闇の中にあるからです。百年前は、それでもカトリック教会は、イエズス・キリストの戦士としての権利を守る為に戦って、その位階制度はその為にイエズス・キリストの為に、戦っていましたけれども、しかし、それさえも今はなし崩しになっています。そして聖コルベ神父様は、日本で働いている聖なる司祭達を、この人が聖なる方だ、と数える事ができました。しかし、私達がここに来た時に、助けをどこに求めたら、あらゆるどこにも、どんな助けも私達は受ける事ができません。但し、一つだけ例外があります。そして、皆さんが今ここで聖伝のミサに与っている事、そしてこの昔の非常に美しい聖歌をきれいに歌っておられる事は、インマクラータ、無原罪の汚れなきマリア様のなさっている奇跡です。

ですから、もしもコルベ神父様にとって、この全てをマリア様を通してキリストにおいて復興させるというのが重要であれば、私達にとってこれは、十倍以上重要なモットーとなります。これは私達自身を守る為に、そして使徒職の為にも、十倍以上必要です。もしも、助けがそうでなければ、外からの異教の影響、或いは近代主義の影響、或いは唯物主義の影響、或いはその他色々なイエズス・キリストを無きものとする様な影響を私達は受けているので、もしも助けがなければ、そのまま私達は抵抗もできずに終わってしまうでしょう。

今の危険というのは、ポルノとか不潔なものとか、或いはお金を求める拝金主義とか、そのようなもの、それが最悪のものではありません。フリーメイソンは、私達の意志と、私達の知性を壊そうとしています。もしもマリア様の助けがなければ、私達は皆、リベラル主義、自由主義の罠に陥ってしまうことでしょう。このリベラリズムの為に、最も強いという人達でさえも倒れる事ができます。
もしも、皆さんの誰かが屈辱された、或いは私達の気に入らない様な事が降り起こってきた時に、もしも私達がリベラリズムに、自由主義に感染をしていたら、それに対して反抗を起こして、「何だ!?」となってしまいます。
例えば、私達を屈辱に落とそうとした私達の長上、或いは私達の権威のある方に対して、それに自己を正当化する議論をたくさん見つける事ができます。するとリベラリズムに感染された人は、「おぉ、上の人も間違いを犯すじゃないか。だから私は従わない。私は自分のやりたい事をやる。」と、リベラリズムの罠にかかります。
そう、そしてその様なリベラリズムに感染した人達は、「あぁ、この上の人はイエズス・キリストを裏切った、ルフェーブル大司教様を裏切った。あぁ、この人達はもう自分の義務を果たしてしていない。」と、攻撃をするでしょう。

ですから私達は、もしもこのマリア様を通して、汚れなきマリア様を通してということがなければ、私達は皆、自由主義の罠にかかって、皆倒れてしまうでしょう。

そして、もしも本当にマリア様に忠実であれば、聖ピオ十世会の会則とそして会憲と、そして長上に忠実であり従順であり、そしてマリア様に忠実であり、ルフェーブル大司教様の望んでいた様なその仕事をする事ができます。

そして、もしも皆さんで辛い事があったり、或いは困難があったり、或いは罪を犯してしまった、或いは何か道徳的に問題がある、などという時には、どうぞそのままもう匙を投げないで、マリア様の方に行って下さい。マリア様は必ずそれに対して手段があります、解決があります。

そして、このキリストにおいて私達だけを復興させるのみならず、その他の全てを復興させなければなりません。



コルベ神父様は長崎に来た時に、「私には夢がある。」と、言いました。「私はここに、汚れなきマリア様の無原罪の街をつくりたい。そして、少なくても百名の方が、ここに来て司祭となり、修道者となり、マリア様の下で日本の回心の為に働く人達がある事を望む。」これが、その夢が実現するのに、六年かかりました。この自分の夢を長上に話した時に、「コルベはちょっと頭が廻っている。」と言いました。

皆さん、私には夢があります。私達には夢があります。私達はこの日本に、修道会が欲しいです。そして、聖伝に基づいた、インマクラータの、無原罪の街をつくりたいと思っています。そして、多くの霊魂達が、天主様の光と多くの御恵みを受ける事ができる、その霊的なセンターをつくりたいと思います。



では、コルベ神父様はどうやってこれを実現させたでしょうか。最初に来た人達を集めてですね、そしてその人達に、「あなた達は、汚れなきマリア様の騎士である。あなた達は、汚れなきマリア様の使徒たちである。あなた達は、霊魂をマリア様の所に導かなければならない。」その当時、日本では自由にカトリックの教えを広めることはできませんでした。例えば、マリア様の本とかそのようなことをあげる事さえも、何かそういう招待がなければ、それさえもできませんでした。では、この最初に来た日本人達はコルベ神父様に、「では神父様、誰が私達にその本を送って下さいとかいう様な、マリア様について話して下さい、というその招待の手紙を私達にくれるでしょうか。」コルベ神父様は答えて、「まず、お祈りしなさい。次に、犠牲を払いなさい。そして第三に、朝から晩まで、マリア様の御望みの事を実践しなさい。マリア様の御望みであって、自分の意志ではない、自分のやりたい事ではない、マリア様の望む事をしなさい。そして、非常にこの目立たないような感じで、不思議のメダイを配りなさい。もしもこれをするならば、何か実りがあるでしょう。」そして、本当にそうなりました。

私達は皆さんの祖国である、日本の回心を心から願わなければなりません。マリア様はこの国を愛しているという事を、皆さん確信を持たなければなりません。そして、マリア様はこの日本の元后になりたいと思っています。もしも私が、長崎にマリア様の至聖地をつくるならば、マリア様のこの御像の両御手を開いて、霊魂達を集めている御像を作りたい、建てたい。

では、何でそんなに回心の数が少ないのでしょうか。「あぁ、マリア様、お母様、何故あなたの日本にいる子供達を世話しないのですか。御眠りになっているのですか?」



マリア様は、一九一七年八月十九日にその答えを与えました。「祈って犠牲を捧げなさい。何故ならば、多くの霊魂達が地獄に行っているからです。何故ならば彼らの為に祈る霊魂、祈る人達があまりにもないからです。」
聖マキシミリアノ・コルベ神父様も同じ事を教えています。私達はこれからすぐに、東京へと新幹線で行きます。皆さんもまた、電車に乗ってどこかに行くかもしれません。

聖ヨハネ・ボスコに起こった重要な出来事をお話します。ドン・ボスコは、電車を待って駅に行くんです。そしてその電車のホームで、向こうの方に男がいて、天主様を、イエズス様を非常に冒涜して、口汚く罵っています。そしてドン・ボスコは、その人の為に射祷を唱えて、「マリア様、イエズス様、この彼を回心させて下さい、彼の為に彼をお許し下さい。彼が地獄に行かないようにして下さい、霊魂を救って下さい。」と、お祈りしました。そして、ドン・ボスコは電車に乗って別の所に行って、この男の事をすっかり忘れていました。
その数カ月後、ドン・ボスコはビジョンを見て、「ドン・ボスコ、私の事を覚えてますか。」「覚えていない。」「ドン・ボスコ、三ヶ月前ボローニャの駅で、あなたは天主様を侮辱して冒涜を吐いている男を見ました。それが私です。そして、私はその後大きな事故があって、天主の御前に裁かれました。そして、その死の直前に、その数秒の間、私は完全なる痛悔の、罪を痛悔する恵みを得ました。それは、あなたがボローニャの駅で、私の為に三、四回程の射祷を唱えてくれたおかげです。ドン・ボスコありがとう。あなたのおかげで今、私は天国に行く事ができます。永遠の幸せを受けます。もしあなたが三ヶ月前にいなかったら、射祷を唱えてくれなかったら、私は今頃、永遠の地獄の火に巻き込まれて、燃えていた事です。」
何故私達の祈りはそんなに弱いのでしょうか。何故かというと、祈りにどれ程力があるか、私達は信じていないからです。
聖モニカを考えて下さい。聖モニカは十八年間、息子を聖アウグスチヌスを、回心させる為にずっと祈っていました。その聖モニカの祈りは、私達の祈りよりも良かったのでしょうか?聖モニカが十八年間、聖アウグスチヌスの為にずっと祈っていた間、その祈りを天主様は使って、他の多くの人達を回心させました。そして、私達は一生かかっても、ずっとたくさんの射祷、射祷、射祷、射祷をたくさん使って、罪人の回心の為にたくさん祈って、多くの霊魂達を救う事ができます。
残念ながら私達はそんな事も考えずに、牛のように「あぁ~、」「電車がぁ~」と来るのを見て、「誰が来てるのかな~」というだけです。
ですからコルベ神父様は、「さあ!起きて!今から仕事があるんだ!」と。
そして、そのような射祷がたくさんある、そのような私達を使ってマリア様は、私達を手段として道具として、多くの人の霊魂の回心の為にマリア様が働きます。

もう時間が来てしましました。実はこのper Mariamというラテン語の部分を今から説明しようかな、と思っていたんですけれども、時間が来てしまったので、次にお話します。
(日本語で)ありがとう。

聖伝のミサ(いわゆる「トリエント・ミサ」と呼ばれているローマ式典礼様式のミサ)にようこそ!

ローマ・カトリックの聖伝のミサ vs エキュメニカルな新しいミサ(第二バチカン公会議のミサ)




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2014年9月13日 聖母の土曜日 シュテーリン神父様御説教

2014年09月19日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 アジア管区の新管区長であるシュテーリン神父様は、じつは12年前に日本を訪問されたことがあります。しかし、今回は、管区長として始めて日本に来られ、大阪で最初のお説教をしてくださいました。

 新管区長様を迎えて歓迎会もとても良いものでした。準備をしてくださった方々には、信徒の皆様と共に、感謝でいっぱいです。ドイツ語のサプライズの聖歌もありました。

 さて、土曜日のシュテーリン新管区長様の御説教をチーム・パラマイの方が録音に成功し、書き起こしてくださいましたので、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。【「チーム・パラマイ」は、今年の秋田巡礼で、高山右近の人生に倣って「パライソに参ろう!」という合い言葉を愛する人々のことです。】

 シュテーリン神父様のお説教が良いな、と思った方は、どうぞお友達の方々にも教えてあげてくださいね。

 これを書き起こす労を執ってくださった方に感謝します。

 愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

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2014年9月13日 聖母の土曜日 シュテーリン神父様御説教

聖父と聖子と聖霊との聖名によりて、アーメン。

親愛なる信徒の皆さん、天主様の御摂理によって、私はこの管区長としての職務を、ファチマのマリア様の祝日に任命を知らされました。
9月の13日は、マリア様が最後に現れたファチマの御出現の、その一ヶ月前の事です。この9月の13日には、マリア様は、たくさんは話されませんでしたが、一言だけ言われました。これは、私達が覚えていなければならない事です。それは、天主をもう傷付けないように、天主に罪を犯さないように、何故ならば、天主は既に、あまりにも多く犯され続けているからである、ということです。
特に、福者フランシスコが、この言葉を非常に深く心に刻みつけていて、そして、いつもこうやって繰り返して言っていました。「天主様はもう、非常に悲しまれておられる。何故ならば、天主様は人間の犯す無数の罪によって傷付けられているから。だから私達は、もう決して天主様を犯してはならない。罪を犯してはならない」と。

この祭壇の前の、きれいなマリア様の汚れなき御影(ごえい)、そしてこのマリア様の汚れなき御心の祭服、そしてこれを見ると、皆さんはこの汚れなき御心に対して、非常に深い信心を抱いているというのが分かります。この信心こそ、マリア様がファチマで私達に与えて下さいました。
シスタールチアはこう言っていました。「マリア様は、天主様が私達に、最後の二つの救霊の手段を与えて下さっている」と。最後の手段ということは、もうこの後にはないということです。それは何かというと、ロザリオに対する信心と、もう一つは聖母の汚れなき御心に対する信心、これです。
 マリア様はここで「信心」と言って、それを私達が「実践する事」とは言ってはいません。もちろん、実践ということは大切ですが、しかし、信心と実践とはこんな違いがあります。
実践というのは私達が、外に外見的に外的に行う事ですけれども、しかし信心は、その心の中から、内から滲み出るものである、という違いです。
そして、実践というものは例えば、マリア様に対する奉献があります。この奉献は、私達はこの今日この御ミサの直後に、司祭退場の前に、更新する予定です。そして、初土の信心の実践などという、色々な外的な実践があります。そしてマリア様は、このような事を実践すれば、それだけで、物凄い約束を私達に与えて下さっています。
しかし最も大切な事は、その実践の深みに深く入って、そしてその心を掴む事です。つまり真の信心であって、私達がこの御絵を掲げて飾るのみならず、その御心の中に深く入る、それが、信心です。

では、マリア様の御心の中に入る、そこに行く、というのはどういう意味でしょうか?では、一体何故天主様はこのような奇妙なことを、マリア様を通して仰ったのでしょうか?つまり、天主様は私達に最後の手段を与えて、今この現在これを使わなければ、救霊はできない、という何故そのような事を仰ったのでしょうか?
何故かというと、現代は、全世界の歴史において、一番悪い時代であるからです。私達のこの時代は、イエズス・キリストによって救われた時代ですけれども、しかしその最後の時代には、最も恐るべき最後の戦いが待っていると、黙示録には書かれています。
そして、天主様は最後の時代に、悪魔達に全ての力を尽くす事を許して、そして、それにも関わらず、天主が最後にそれらに打ち勝って、御自分の力の強さを示す、その時であるからです。
一体天主様はどうやってその勝利を収めようとするのでしょうか。それは、女性を使って、女を使ってです。それは黙示録の女であって、そしてそれは太陽を纏い、そして月を足に踏み、星の冠をかむる、黙示録の女性を使って勝利します。
このことは、人類の歴史の最初に、天主はそれを予言していました。彼女はお前の頭を、蛇の頭を、サタンの頭を砕くだろう。もし天主様が、サタンに悪魔達に全力を尽くしてこの世界を征服する事を許そうとしていて、そして、今悪魔が、猛総攻撃をかけてこの世を支配し征服して、人類を亡ぼそう、霊魂を亡ぼそうとしているのでしたら、私達には勝算は一つしかありません。手段は一つしかありません。黙示録のこの女性、インマクラータです。
マリア様は全ての最高の母親としての、最もすぐれた、最高の、最善の母として私達に与えられました。マリア様は、私達を救おうと望んでおり、私達の救いのみを考えておられます。この母であるマリア様は大きな任務が与えられています。それはまず、御自分の方に霊魂達を引き寄せ、そして全て御自分の方に来た霊魂を、イエズス様の方に与えるという事です。つまり、マリア様を通してイエズス様に、という事です。

ちょっと考えてみて下さい。小さな幼い子供がいて、ニコニコしているんですけれども、その周りには、非常に悪い人達が、ヤクザのような人達が沢山回っていて、その周りに汚らしい動物や恐ろしい獣たちが周りに取り囲んでいて、もうこの子供を食い殺してしまおう、殺してしまおう、悪をしてやろう、と淡々とこう見張って、そしてその攻撃を仕掛けようとしているその様子を想像してみて下さい。
そしてこの子供は、向こうの丘にきれいな天主様の王国があって、その素晴らしい喜びと、幸せの花園の王国があそこにあって、そこに行きたいと思っているのですけれども、子供の周りにはその子供を行かせまいとする敵が、動物が、獣たちや悪人達が、ワーッと渦巻いていて、決して行かせないとしている。これを考えて下さい。
教会の歴史も全くその通りです。私達を、霊魂達を天国に行かせまいとする、教会の敵が一生懸命働いていました。しかし、教会のこの人類の歴史の最後においては、この私達を天国に行かせない、天主の王国に行かせないという敵達が総攻撃をかけてきて、私達がそこに決して辿り着かない様に、そして聖ヨハネの黙示録によれば、悪魔たちは諸国を騙して、誰もその天国の事を、王国の事を忘れてしまうように、誰も思い出さないように、そして皆がそれに騙されてしまうほど、総攻撃をかけると書かれています。
そこで天主様は、憐れみの心で、御自分のお母様を、母を私達の元に送られて、そしてこの残された、この迷っている、この力のない、この敵に囲まれているこの子供達を天国に引き寄せて、守って、そして導こうとされているのです。そして天主様から送られたマリア様は、私達の所に、敵の中をかき分けて私達のところにやって来て、さあ、私の所に来なさい。さあ、早く私の母の心に来なさい。さあ、私が天国に連れて行ってあげるから。と、寄って来て下さったのです。そして、マリア様は、私のこの御心は、あなたの避難所である。だから私のここの避難所に来れば、誰もあなた達に害を及ぼすものは、何も悪さをすることができない。この避難所に、さあ早く来なさい、と招いているのです。
そして、この御心こそが、あなた達を天国に導く道ですよ。来なさい。
そこで、この子供はマリア様と共に、一緒に、敵のこの攻撃の中をくぐり抜けて、そして丘の上の、永遠の幸せの、天主の御国まで行くのです。
そして悪魔は、さあ子供を、ワーッと攻撃をするのですけれども、マリア様はサッと一つの仕草をぱっとすると、悪魔達は何もできずに、この子供を連れて、何千、何万という敵の攻撃の中をくぐり抜けて、天国へと導いて下さいます。
これこそが、ファチマのマリア様が私達に教えて下さった事です。そしてこれこそが、マリア様が聖マキシミリアノ・コルベに息吹いて、そしてこれを考えさせて、そして聖マキシミリアノ・コルベを通して、私達に教えている秘密です。

それでは、このマリア様の汚れなき御心に対する信心とは一体何でしょうか。それはとっても簡単な事です。もしも、誰かを愛するとしたら、私達はその方に、ああ、私はあなたに私の心をあげます。あなたは私の心の中にいます。と、言います。私達の心、或いは心臓というのは、私達の愛のシンボル、象徴だけのみならず、私達の人格のその全て、ペルソナ、そして私達のもっている全てのシンボルでもあります。皆さんは、皆さんの心を開いてこの一番奥まで、誰も知らない他の人をこの心の中に入れることはしません。
私達は、良く愛する心から愛する人のみを、私達の心の奥に入れて、そしてこの心を開きます。
ところで、マリア様は、皆さんを非常に愛しているので、皆さんを自分の心の最も中に来なさい、と開いて、さあ私の心の中に入って下さい。私の心の深くにあなた達は居るのですよ、と仰っているのです。どれほどマリア様は、私達を愛して居られる事でしょうか。

ですから、マリア様の良い子となって下さい。もしもこの人生、或いはこの生活でこの世の生活で、苦しみや、困難な事があったら、マリア様の心に行って下さい。皆さんの持っているもの全てをマリア様に与えて下さい。そしてマリア様に何も隠さないで下さい、マリア様は皆さんのお母さんです。そしてマリア様は、私達を憐れんで下さるお母さんですから、私達の弱点や弱さや罪も、或いは私達のもしかしたら犯してしまうその汚いものも、マリア様に差し出して下さい。そしてマリア様に皆さんの心配事や、悩み事や、苦しみや、或いは個人的な事や、或いはお仕事の事や、或いは皆さんの気心や、皆全てをマリア様に差し出して、捧げて下さい。
そして、もしも皆さんがマリア様に捧げて、差し出してしまうならば、マリア様が約束した通りの事が起こります。それは、最後に私の汚れなき御心は凱旋するでしょう。
マリア様の御心と、皆さんの心において勝利、凱旋を収めるのです。

聖父と聖子と聖霊との聖名によりて、アーメン。

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聖伝のミサ(いわゆる「トリエント・ミサ」と呼ばれているローマ式典礼様式のミサ)にようこそ!

ローマ・カトリックの聖伝のミサ vs エキュメニカルな新しいミサ(第二バチカン公会議のミサ)




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レネー神父様の聖母の御名の祝日の説教(2014年9月12日)大阪にて

2014年09月18日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 東京からは次のようなご報告を戴きました。最初の9時からのミサ聖祭には3人の子供を連れたご夫婦が与り、次のミサには与ることが出来ず帰宅されたので、この家族を含めると、9月14日の主日には51名の方々がミサ聖祭に与るという新記録を作りました。(それ以前には、2005年10月23日にフェレー司教様が来日されて東京でミサを捧げられたときの50名が記録でした。)

 今回は、主日に大阪でレネー神父様がミサを捧げられたので、同時に3名の聖ピオ十世会司祭が来日したことになります。天主様に感謝!

 月曜日の朝ミサには、16名がミサ聖祭に与りました!天主様に感謝!

 愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】
Fr Stehlinのミサ(10時半)の参列者数
男: 18人(内、子供3人)
女: 28人(内、子供3人)
計: 46人(内、子供6人)

Fr Stehlinの霊的講話の参加者数
男: 9人(内、子供1人)
女: 18人(内、子供1人)
計: 27人(内、子供2人)

晩課の参加者数
男: 3人(内、子供0人)
女: 6人(内、子供0人)
計: 9人(内、子供0人)


【お便り】
+ アヴェマリア
トマス小野田圭志神父様
 素晴らしい聖伝のごミサに与らせていただきまして、ありがとうございました!
 私は無事に帰ってまいりました。
 神父様方は、次のお務めのためにごミサの後すぐ出発なさり、霊魂たちのために休む暇がありませんね。本当にお疲れさまです。
 私は多くの熱心な信者の方にも驚きました。聖ピオ十世会が日本においてここまで発展して、信者たちもしっかりとラテン語で受け答えしている姿を見て、感服しています。(後略)

【報告】
+アヴェ・マリア・インマクラータ!
小野田神父様、今月のミッションお疲れさまでした。

シュテーリン神父様の力強いお声を聞いて、勇気づけられた思いです。
また、長崎では聖母やコルベ神父様、二十六聖人の御取り次ぎが得られるようお祈りなさったことと思います。日本に聖堂が与えられますように。

【報告】
 大阪では、御ミサの後、マリア様に関してのお話を、聖母の御名の祝日のお説教を用いながらして頂きました。

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9月12日(金曜)聖母の御名の祝日の説教

今日のマリアの尊き御名の祝日は聖母マリアの祝日の一つですが、沢山ある聖母マリアの祝日というのは私たち全ての信者が天主の聖母に対する深い信心を育めるよう、教会が私たちのために定めているものです。聖人達全体に対する信心は必要ですが、個別の聖人に対する信心は義務ではありません。私の生まれた町の近くに聖オーストルベルトという聖人がいますが、皆さんはこの聖人のことをお聞きになったことはないでしょうし、天国に行くためにこの聖人への信心が必要な訳ではありません。それでも、私たちとつながりのある聖人達、例えば私たちの守護の聖人、私たちの国や町や教会などの守護の聖人達への信心を持つことは良いことであって、私たちのためになることです。これらの聖人達のなかでも、とりわけ、聖母マリアに対する信心は必要です。私たちの主イエズス・キリストが抱いておられた聖母への深い愛を私たち自身も持っていないならば、主イエズス・キリストを本当に愛することはできないのです!

これこそ、私たちが聖母に対する信心を持たねばならない第一の理由です。即ちイエズスご自身が聖母に対する愛を持っておられましたし、聖パウロは、「イエズス・キリストの心を心とせよ。」(フィリッピ人への手紙2章5節)と言っています。私たちの主イエズス・キリストは真の天主として、他のいかなる者に与えたお恵みや特権をもはるかに超える至高のお恵みや特権をご自身の母にお与えになりました。私たちの主イエズス・キリストはまた人として、子が母に対して持つ優しい愛をお持ちでした。福音の中で、例えばカナにおいて、私たちはこの愛を見ます。それは、聖母がイエズスに「あの人たちにぶどう酒がなくなりました」(ヨハネ2章3節)とだけおっしゃったとき、イエズスのお答えはこれを拒むような「婦人よ、それが私とあなたとになんのかかわりがありましょう、私の時はまだ来ていません!」(ヨハネ2章4節)というものでした。しかし、その後すぐ何が起こったでしょうか。聖母は下男達に対してなんでも主の言うとおりにするように命じられ、イエズスは聖母が彼に対して今示された信頼を裏切らぬよう、ご自分の母を喜ばせるために、最初の奇蹟を行なわれたのです!同じように、私たちの主が十字架の上で亡くなられる時にも、子としての母への愛を見ます。主はご自分の母が最期まで十字架の下におられることをご覧になります。未亡人となり、ご自分の一人息子があらゆる種類の苦しみの中で死につつあることを見ておられる母です。これをご覧になった主は、ご自身のことよりも母のためを思い、愛する弟子聖ヨハネにご自分の母を託されたのです。「母に『婦人よ、これがあなたの子です』とおおせられ、また、弟子には『これがあなたの母です』とおおせられた。そのときから、その弟子は、マリアを自分の家にひきとった。」(ヨハネ19章26-27節)

聖母は聖なる婦人達の集団と一緒に主とその弟子達を物質的に助け(ルカ8章3節)ながら確かに私たちのイエズス・キリストに付き従っておられ、十字架の下ではその集団の頭として行動されました。このように使徒達は私たちの主が第四戒を守り、ご自分の母を敬っていらっしゃったのを目の当たりにすることができました。私たちの主イエズス・キリストが聖母を敬い、また聖母に献身的な愛をお持ちであり、一方私たちがイエズス・キリストの心を心とすべきであるのなら、当然私たちも聖母を敬い、聖母に献身的な愛を持たねばならないことになります。

使徒達や初期の教会はこのことを実践し、聖母の名を唱える度、大いなる敬意、尊敬、名誉をもってしていました。聖母について書かれた最初の文献のいくつか、たとえば聖ユスチヌスや聖イレネウスの著作では、聖母の信仰がエワの不信仰と対比され、聖母は最初のエワの不信仰を正す信仰をもった新しいエワとして、新しいアダムである私たちの主イエズス・キリストと結ばれた新しいエワとして、示されています。これら初期の著作で、既に聖母は『代願者』の称号で呼ばれておられました。初期の教会は聖母が私たち全てのために取り成してくださることを認めていたのです。

私たちが私たちの聖母に敬意を示すべき第二の理由は、キリストの神秘体の教理に基づいています。聖パウロは、洗礼によって私たちは私たちの主イエズス・キリストの体である、と大変明確に述べています。母は体なしの頭だけの子を産みはしません!ですから、聖母は頭と体を含んだキリストの母、つまり『キリストの体』全ての母であるのです。聖母はキリストの体である教会の最も崇高な一員であると同時に、私たちの主イエズス・キリストの母であるという特殊な立場のため、教会の母でもあるのです!

この第二の理由と関連したこととして、救いのため絶対必要な徳、即ち謙遜の徳があります。「神は高ぶる者にさからい、へりくだる者に恵みをお与えになる。」(ペトロの前の手紙5章5節)天主がさからわれれば、誰が天国に行けましょうか?私たちが天国に行くためには、必ず天主のお恵みが必要であり、お恵みを受けるのに必要な条件は謙遜です。福音では、私たちの主イエズス・キリストはこの謙遜の必要性を色々な形で教えてくださいますが、特に、「まことに、私はいう。あなたたちが、子どもの状態に立ちかえらないなら、天の国には、はいれないだろう。」(マテオ18章3節)とおっしゃいました。主がこのように大変重要な事実をおっしゃる時は、「まことに、私はいう」という聖なる誓いの言葉で御言葉をお始めになります。ところで、子どもの状態に立ちかえり、改心するためには母が必要です!ですから私たちの主イエズス・キリストは母の中で最も素晴らしい母、主ご自身の母を私たちに下さいました。主は、「最愛の弟子」に対して、「これがあなたの母です」(ヨハネ19章26節参照)とおっしゃったのです。つまり、イエズスは聖ヨハネだけにこれをおっしゃったのではなく、イエズスに愛されたいと願う全ての弟子に対して「これがあなたの母です」とおっしゃったのです!私たちが聖母を真に私たちの母とすれば、私たちがイエズスに愛されることがこれによって保証されているのです。謙遜の必要性について言えば、聖母はまったく素晴らしい立場におられます:「主が、いやしいはしためにおん目をとめてくださったから」で、「これからのち、代々の人々は、私を、さいわいな女と呼ぶ」(ルカ1章48節)こととなったからです。

高慢な異端者達は、自分たちには聖母は必要なく、「イエズスに直接行ける」と主張して、聖霊によって祝福され、聖霊のかげがおおった(ルカ1章35節)その聖母に敬意を表することを拒むのです。この高慢な異端者達は「子どもの状態にたちかえ」ってはおらず、天国に行くためにはまさにそのような改心が必要です。

私たちが聖母を必要としているもう一つの理由は、私たちが今、「権勢と能力、この世の闇の支配者、天にある悪霊」(エフェゾ6章12節)との恐ろしい霊的な戦いのただ中にあるからです。この戦いでは、私たちは「暁のように広がり、月のように美しく、太陽のように輝き、軍勢のように恐るべきもの」(雅歌6章9節)を必要としています。教会は、この雅歌の賢人の言葉が聖母のことを指していることを認めました。それ以外にあり得るでしょうか?

善と悪との戦いには、純潔の戦いも含まれます。現代社会では、以前にも増して悪魔が不純の洪水とあらゆる種類の倒錯をもって、すべてを腐敗させようとしています。私たちの主イエズス・キリストのお恵みで、私たちはこれを拒み、純潔でいることができます。この戦いでは、私たちには、聖マキシミリアノ・コルベが「インマクラータ」と呼ぶことを好んだ、無原罪の聖母の美しい見本があるのです。無原罪の聖母の見本は私たちを鼓舞し、力づけるものです。私たちの主イエズス・キリストのお恵みをもってすれば、本当に純潔でいることができるのです!主がご自身の母に与えられた美しさをご覧ください!天主は純潔を愛され、私たちの主イエズス・キリストは子どものよう な無邪気さを愛されます。私たちの主イエズス・キリストのお恵みをもってすれば、子どものような無邪気さを失わないことができるのです。また純潔の徳を取り戻し、童貞を奉献して完全なる貞潔を守るというより高次元の実践も可能です。天主のお恵みの力によって聖母が完全に無原罪であることが可能となったのであれば、私たちの地位に応じた貞潔を実行することは可能なだけでなく、喜ばしいことであることを信じなくてはなりません。即ち、婚姻の前に純潔であること、結婚にかんして貞潔であること、また天主が修道生活にお呼びになったのであれば、更に貞潔であることです。

純潔の戦いよりも更に深刻な戦いは、信仰のための戦いです。特にこの五十年、私たちは「信仰の守護者、真実なる童貞、あらゆる異端を打ち負かす御方」を必要としています。教会が聖母の交唱で唱えるように、「御身のみが全世界のあらゆる異端に打ち勝たれた!」。

しかし、この戦いにおいて私たちはこの二つの真実を忘れてはなりません。すなわち、私たちの主の助けをもってすれば戦いに勝つことが出来るが、私たち自身のみでは戦いに勝つことが出来ない、ということを。この天主の助けの必要性、私たちの主イエズス・キリストのお恵みの必要性、いや絶対的な必要性こそが祈りの根源なのです。私たちは祈らなくてはなりません。祈りは霊魂にとって最も根源的に必要なものです。私たちが祈るときには、聖人達に祈ること、そして誰よりも天の母、聖なる童貞マリアに祈ることが必要です。聖母が、特に被昇天によって力強い者とされたのは、私たちの必要のため、私たちの助け手となってくださるため、いつも私たちを守って くださる代願者となってくださるため、私たちを助けるため、私たちを救ってくださるためなのです。

今日の祝日もこの真実を実証するもののひとつです。マリアの尊き御名の祝日は、オーストリアのウィーンでのイスラム教徒に対する勝利に際して、聖母の御保護への感謝のしるしとして、福者インノケンチウス11世教皇が定められたものです。今日イスラム教徒は教会に対して更に残忍で暴力的になっており、私たちは聖母を必要としています!私たちが聖母を必要とするのはこの世での戦いのためばかりではなく、もっと重要なイスラム教徒の改心のためです。これは更に難しいことですが、聖母の助けがあれば極めて可能なことなのです!

親愛なる兄弟のみなさん、ですから子どもが最も素晴らしい母を愛するよう、私たちも聖母をやさしく愛しましょう!毎日聖母に信心をもって祈り、聖母の例にならい、聖母がイエズスを心から愛されたように私たちも心からイエズスを愛すように努めましょう。特に純潔という美しい徳を守り、永遠の信仰を汚れもなく一点の妥協もなく守るようにしましょう。そして聖母の助けによって数多くの霊魂が私たちの主イエズス・キリストの下に戻って救われることを信じて、聖母への信心、とりわけ聖母の御心に対する信心を広めましょう。アーメン。

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2014年9月14日主日のレネー神父様のお説教(大阪にて)

2014年09月18日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 こんにちは! 9月の聖伝のミサには皆様とお目にかかれて大変幸福でした!大阪から次のようなご報告を戴きましたので、ご紹介いたします。

愛する兄弟姉妹の皆様の上に、天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】
日本でのミッションありがとうございました!!!

新管区長様シュテーリン神父様をお迎えして、今までより一層インマクラータへの愛と信頼と希望が増したように感じます。
シュテーリン神父様、レネー神父様、小野田神父様を見習って、インマクラータの完全な道具になることを目指して、日本に頂いた大きなお恵みに感謝しつつ精進したいと強く思います。いつもながら、大きな犠牲と愛をもって来日下さる神父様方に心から感謝申し上げます。

大阪での御ミサですが、

9月12日(金曜)聖マリアの至聖なる御名の祝日、小野田神父様司式のミサには15人の方が、
9月13日(土曜)聖母の土曜日小野田神父様による読誦ミサ、シュテーリン神父様司式の歌ミサには22人が、
9月14日(主日)聖十字架の称賛 レネー神父様司式 歌ミサには21人の方々が、御ミサに与るお恵みを頂きました。
デオグラチアス!

14日主日のレネー神父様のお説教は以下のとおりです。また、御ミサの後、マリア様に関してのお話をこの週にあった聖母の御名の祝日のお説教を用いながらして頂きました。


2014年9月14日の主日 大阪の説教

聖なる十字架称讃の祝日は、次に述べる十字架の奇蹟を思い起こさせてくれます。戦いの後、ローマ皇帝ヘラクリオが聖なる十字架を取り戻したとき、皇帝は自分の肩にのせて十字架を担い、カルワリオの山に戻そうとしました。しかし山のふもとで、どういうわけか、まったく動かすことができなくなりました。そのとき、エルザレムの司教ザカリアが皇帝に言いました。「皇帝陛下、陛下のお召し物は宝石や金がついているため、私たちの主イエズス・キリストがお示しになった清貧やへりくだりとはかけ離れているのでございます」。そこで、皇帝は美しく高価な衣服を脱ぎ、貧しい人の服をまといました。すると、今度は何の問題もなく、十字架をカルワリオの山、山というよりも丘のようなものですが、 その丘の頂上まで運ぶことができました。

十字架の神秘はまさに「信仰の神秘」であり、一(いつ)にして真の信仰の中心です。天主の御子が人間を救うために天から下って来られたということは、そのことだけで驚くべき真理ですが、御子はどのようにして私たちをお救いになったのでしょうか。十字架上の犠牲としてご自分をお捧げになり、その結果、御父のほまれを回復させ、私たちの罪という負い目を返すことによってです。これは、私たちの自然の理解力を超えています。そのため、多くの霊魂にとって躓きの石となってきました。イスラム教徒は、全能の天主が十字架上で弱い姿を見せたということを受け入れるのを拒否しています。(彼らは、主が十字架上で勝ち取られた罪に対する勝利を見ません。)高慢な人々は、天主の御子のへりくだ りを受け入れることができません。実際、聖パウロは言います。「互いにイエズス・キリストの心を心とせよ。キリストは本性として天主であった[=天主の本性を持つ=真の天主である]が、天主と等しいことを固持しようとはせず、かえって奴隷の形をとり、人間に似たものになって、自分自身を無とされた。その外貌は人間のように見えた」。ご托身は、すでに驚くべきへりくだりの行いですが、聖パウロは続けます。「死ぬまで、十字架上に死ぬまで、自分を卑しくして従われた」(フィリッピ2章5―8節)

罪は高慢によって世に入りました。仕えるのを拒否し、「Non serviam―私は仕えない」と言った悪魔の高慢です。次に、天主に似た者になること、「目が開け、善と悪を知る天人のようになる」(創世記3章5節)ことを望んだアダムとエワの高慢です。これは、自分にとって良いこと、悪いことは自分自身で決めるということであり、上からの法を受け入れず、自分たちの上に天主の支配があることを理解しないことです。もし高慢というものの重大さを私たちが理解したならば! ちっぽけな被造物が創造主に対して反乱を起こすとは! あらゆる罪の根っこには高慢があります。「高慢のもとは罪で、罪にふける人は憎悪をまく。(そこで主は奇妙な罰を下し、)彼を滅ぼし尽くされる」(集会書10章13節)

ですから、人間を救うため、人間を癒やすため、罪によって乱された秩序を回復させるために来られた天主の御子は、へりくだりについて説教なさっただけでなく、最初から最も素晴らしい方法でそれを実践なさいました。天主の御子のご托身そのものが、へりくだりの行いなのです。「主は天から下り給うた」(「天から下った人のほか、天に昇った者はない、それは人の子である」ヨハネ3章13節)。

主の生涯の絶頂期もまた、偉大なるへりくだりの行いでした。「死ぬまで、十字架上に死ぬまで、自分を卑しくして従われた」(フィリッピ2章8節)。これは、主がほまれを回復なさった御父のための愛の行いであり、主が救いのために働かれた私たちのための愛の行いですが、本質的にはへりくだりの行いでもありました。ご自分の御体と御血の犠牲を捧げることは、宗教の徳の行いであり、その徳によって、私たちは天主の素晴らしさをたたえるのです。私たちの主イエズス・キリストは天主として、この犠牲を受け入れられました。しかし、私たちの主イエズス・キリストは人間として、聖三位一体のほまれのためにご自分をいけにえとしてお捧げになりました。

私たちの救いという崇高なみ業から利益を得るために、私たちは主の犠牲の行いにおいて、私たちの主イエズス・キリストと一致する必要があります。ですから、私たちは主と共にへりくだらなければなりません。私たちは主と共に自分を捨てなければなりません。しかし人は言います。「そんなことは難しすぎて、私たちにはできません」。私たちが自然の状態だったら、その通りです。実際に難しすぎるでしょう。しかし、私たちの主イエズス・キリストの恩寵による助けがあれば、十字架上のイエズスと一致することは喜びになります。聖人たちの中には、そのような喜びは、十字架がないままでいるよりも、むしろ死ぬ方がいいというところまで行き着いた人もいます(アヴィラの聖テレジア) 。この喜びは、十字架がすべての恩寵の源、特に愛徳の源であるという事実から来るのです。木がなければ火はつきません。愛徳の火は、十字架の木によって燃え上がります。いったん、そんな隠された宝を見つけたならば、人は行って、それを得るためにすべての持ち物を売り払うでしょう(マテオ13章44節)。皆さんはおっしゃるでしょう。その宝をどうやって見つけることができますか。(その答えは、)「求めよ、そうすれば与えられる。探せ、そうすれば見いだす。たたけ、そうすれば開かれる。求める人は受け、探す人は見いだし、たたく人は開かれる」(マテオ7章7―8節)

十字架の最も喜ばしい実りは、ご聖体です。私たちの主イエズス・キリストが十字架上でお捧げになった御体と御血、これがご聖体として私たちを養ってくださるのです。ご聖体は、十字架の最も喜ばしい実りであると当時に、私たちが十字架を担い、天主の火を私たちの周りに広げることができるよう、私たちを強めてくれます。

十字架は、受け入れる受け入れないの自由はありません。「私のあとに従おうと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を背負って従え」(ルカ9章23節)。私たちの主イエズス・キリストは、主が天主であることを告白したペトロに首位権を約束なさったあとで、弟子たちにこのことを仰せられました。「このとき以来イエズスは、自分がエルザレムに行って長老、司祭長、律法学士たちから多くの苦しみを受け、そして殺され、三日目によみがえることを教え始められた。するとペトロはイエズスを引き止めて、『主よ、そんなことは起こりませんように。いやいや、そんなことが身の上に起こるはずがありません』と言った。イエズスは振り向き、ペトロに向かって言われた。『サタン、引きさがれ。私 の邪魔をするな。あなたが思っているのは天主の考えではなく人間の考えだ』」(マテオ16章21―23節)。十字架を拒むことはこの世の精神であり、十字架を愛することはキリストの精神です。聖人たちは皆、十字架を愛しました。

私たちの弱さを知っておられる主は、私たちを助け、十字架の下に私たちを導くため、御母を私たちにお与えになりました。最も力強かった使徒たちが逃げてしまったのに、数人の女性たちが聖ヨハネと共に十字架の下にいました。どのようにしてそんなことが起きたのでしょうか。その理由は、逃げなかった人々は聖母に従っていたからなのです。

私たちの人生において十字架は、第一に、過去の罪から私たちを清めてくれます。喜んで十字架を受け入れることは、私たちの罪や多くの他の人々の罪の償いになります。現代人は、天主に負い目があることを忘れてしまっています。現代人は、自分の権利には大変関心がありますが、自分が負い目のある他の人々には関心がなく、とりわけ負い目のある天主に対しては関心がありません。しかし、私たちの主イエズス・キリストの真の弟子たちは、天主に対するこの負い目を大変意識しており、いろいろな犠牲、個人的な犠牲、そして何よりミサの聖なる犠牲を通して償いをしようと望んでいます。

第二に、十字架は私たちの罪による傷を癒やしてくれます。十字架は、罪の正反対のものであるからです。高慢という罪に対して、十字架はへりくだりを暗示します。不従順に対して、十字架は従順を教えます。肉欲に対して、十字架は楽しみから完全に離れ去り、可能な限りのあらゆる侮辱と苦しみを受け入れることを教えます。酒に酔うことに対して、私たちは渇きによって苦しむ私たちの主イエズス・キリストを見るのです。ほかにもあるでしょう。

最後に、十字架は私たちの闇を癒やし、私たちの主イエズス・キリストという光をもたらします。十字架は、世のすべての人を照らす光であるキリストが置かれた燭台なのです。

私たちは簡単な償いの業を実行に移すべきです。まず教会が私たちに求めているもの、特に金曜日の小斎をすべきです。

以上述べたように、十字架が輝かしく凱旋し、「十字架の友人たち」と共に永遠に君臨する天国へ向かって、私たちは十字架の道という王道を歩んでいきましょう。アーメン。

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シュテーリン神父様のための霊的花束の最終報告(東京と大阪からの総計)

2014年09月18日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
愛する兄弟姉妹の皆様、

 シュテーリン神父様のための霊的花束の最終報告(東京と大阪からの総計)を申し上げます。

 これらのご報告をまとめて霊的花束のカードに私が手書きしてシュテーリン神父様に9月14日の夕方にお渡しいたしました。神父様は大変喜んでくださいました。

 愛する兄弟姉妹の皆様には、多くのお祈りを深く感謝します。

ミサ聖祭      160
御聖体拝領      89
霊的御聖体拝領   1504
十字架の道行    261
聖なるロザリオ   4326
小さき犠牲     1056
その他 連祷など  784

 愛する兄弟姉妹の皆様に天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

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シュテーリン神父様のための霊的花束のご報告

2014年09月13日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 昨日は、マリア様の聖名の祝日でした。昨年、次のような記事を書きました。

330年前、1683年9月12日ウィーンでの勝利

アヴェ・マリア!愛する兄弟姉妹の皆様、 今から330年前の1683年9月には、第二次ウィーン包囲戦がありました。神聖ローマ帝国の首都であるウィーン、またオスマン帝国に対峙...


 ところで、シュテーリン神父様のための霊的花束として次のようなご報告を戴きましたので、愛する兄弟姉妹の皆様にご報告します。
 天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】
+ Ave Maria
トマス小野田圭志神父様
 いつもお祈りをありがとうございます。
 シュテーリン神父様への霊的花束の数をお知らせいたします。

  ロザリオの祈り100環
  小さき犠牲15回

 聖ピオ十世教皇様が帰天されて100周年という記念の年にちなんでこの数を目指しました。
 私はロザリオだけは決して離さず、常に持ち歩いていました。ロザリオの年であり、聖ピオ十世教皇様の帰天100周年でもある今年に、奇しくも聖ピオ十世会と巡り合いましたことは、天主様の御摂理であるように思いました。(...) お会いできますことを楽しみにしています。私のためにお祈りください。

【お返事】
100環というたくさんのロザリオをありがとうございます!お目に掛かるのをたのしみにしております!天主様の祝福が豊かにありますように!

 大阪と東京とでの霊的花束の集計ができ次第、総計を改めて、お知らせいたします。

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聖ペトロ大聖堂で2013年3月30日に行われた復活の賛歌の動画を紹介します

2014年09月10日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 ご参考までに、バチカンの聖ペトロ大聖堂で2013年3月30日に行われた復活の賛歌(復活の徹夜際の動画から)をご紹介します。





 ここで、助祭をつとめた聖職者は、Exsultet と呼び習わされている「復活の賛歌(Praeconium Paschale)」の1975年版を歌っています。

 聖伝の1962年版の Exsultet と1975年版とは、ほとんど同じですが、違いが最後にあります。(聖伝の復活の賛歌は全文をご紹介したことがあります。

●ご参考までに、聖伝の1962年版の Exsultet は次のように終わります。
O vere beata nox, quae exspoliavit Aegyptos, ditavit Hebraeos nox, in qua terrenis caelestia, humanis divina iunguntur!
Oramus ergo te, Domine, ut cereus iste in honorem tui nominis consecratus, ad noctis huius caliginem destruendam, indeficiens perseveret. Et in odorem suavitatis acceptus, supernis luminaribus misceatur. Flammas eius lucifer matutinus inveniat: Ille, inquam, lucifer, qui nescit occasum: Ille qui regressus ab inferis, humano generi serenus illuxit.
Precamur ergo te, Domine, ut nos famulos tuos, omnemque clerum, et devotissimum populum, una cum beatissimo Papa nostro N. et Antistite nostro N. quiete temporum concessa, in his paschalibus gaudiis, assidua protectione regere, gubernare, et conservare digneris. Per eundem Dominum nostrum Iesum Christum Filium tuum, qui tecum vivit et regnat in unitate Spiritus Sancti, Deus, per omnia saecula saeculorum.
R. Amen.

【日本語訳】
おお、実に幸せな夜よ、エジプト人たちから奪い取り、ヘブライ人たちを豊かにした夜!この夜において地上のものは天上のものに、人間的ものは天主的ものに結びつく!
従って、主よ、私たちは御身に祈る。御身の御名の名誉のために聖別されたこの蝋が、この夜の邪悪を破壊するために、壊されずに守られるように。そして甘美な香りを受け入れ給い、天上の光に混ざり合わされるように。明けの明星がその炎を見いだすように。私は言う、つまり、かの沈むことを知らない明けの明星、キリストのことである。地獄から再び戻ってきた、平和の内に人類を照らしだしたかのキリストである。
従って、主よ、私たちは御身に祈願する。私たち御身のしもべたちと全ての聖職者、いとも敬虔な民を、至福な私たちの教皇 N. および私たちの司教 N. と一つに、平和な時が与えられて、この復活祭の喜びにおいて、御身が堅い守りにおいてかたじけなくも君臨し、統治し、保存し給わんことを。
さらに、私たちを権力をもって統治する人々をご覧になり、御身のえもいわれぬ優しさと憐れみとの賜で、彼らの考えを正義と平和へと導き給え。それは地上の業から天上の祖国へと御身の民と共に彼らが到達することが出来るためである。
御身と共に聖霊との一致において代々に至るまで生きかつしろしめし給う御身の御子、私たちの同じ主イエズス・キリストによりて。
R/ アメン





●1975年版の復活の賛歌は、次のようになっています。
O vere beata nox, in qua terrenis caelestia, humanis divina iunguntur!
Oramus ergo te, Domine, ut cereus iste in honorem tui nominis consecratus, ad noctis huius caliginem destruendam, indeficiens perseveret. Et in odorem suavitatis acceptus, supernis luminaribus misceatur. Flammas eius lucifer matutinus inveniat: Ille, inquam, lucifer, qui nescit occasum: Christus Filius tuus, qui regressus ab inferis, humano generi serenus illuxit, et vivit et regnat in saecula saeculorum.
R. Amen.

おお、実に幸せな夜よ、この夜において地上のものは天上のものに、人間的ものは天主的ものに結びつく!
従って、主よ、私たちは御身に祈る。御身の御名の名誉のために聖別されたこの蝋が、この夜の邪悪を破壊するために、壊されずに守られるように。そして甘美な香りを受け入れ給い、天上の光に混ざり合わされるように。明けの明星がその炎を見いだすように。私は言う、つまり、かの沈むことを知らない明けの明星、キリストのことである。地獄から再び戻ってきた、平和の内に人類を照らしだした、そして代々に至るまで生きかつしろしめし給う御身の御子キリストである。
R/ アメン


●黙示録によれば、最初に復活した私たちの主イエズス・キリストは、ご自分のことを「明けの明星」「暁の明星」とお呼びになっています。
「私はダヴィドの子孫、そのひこばえ、暁のかがやく星である。」(バルバロ訳)

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Sancte Pie Decime 聖ピオ十世よ!──我らが保護聖人への聖歌

2014年09月10日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、「Sancte Pie Decime 聖ピオ十世よ!我らのために祈り給え!」という聖ピオ十世会の守護の聖人への聖歌があります。それにかんする記事を日本語でご紹介します。
天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


聖ピオ十世──我らが保護聖人への聖歌

原文はこちら

Sancte Pie Decime 聖ピオ十世よ!──我らが保護聖人への聖歌

二〇一四年九月二日
アメリカ管区

 あなたは聖ピオ十世会関連の行事で頻繁に耳にする、聖ピオ十世への心を沸き立たせる聖歌のことを、詳しくご存知だろうか?

 聖ピオ十世会の保護者への賛美歌、サンクテ・ピエ・デチメ(Sancte Pie Decime)──は、叙階式や金祝(叙階五十周年)、あるいは他の祝祭行事といった重要な公式の場で捧げられるミサの退堂の時に、意気揚々と歌われるのを耳にしない時はない。






 この心を沸き立たせる聖歌は素朴でありながら荘厳さをまとい、「Sancte Pie Decime, Gloriose Patrone, Ora, ora pro nobis! 聖ピオ十世、[聖ピオ十世会の]栄光ある保護者よ、祈り給え、我らのために祈り給え!」という三度繰り返されるコーラスでのみ構成されている。

 聖ピオ十世「祈り給え、我らのために祈り給え」という慎ましい嘆願に満ち満ちた祈りは、聖ピオ十世の祝日の聖務日課(及びミサ)の集禱文を熟考するとき、よりいっそう、その正しさがわかるだろう。





 カトリックの信仰を守り、すべてのことをキリストにおいて改め正すために、聖なるピオ教皇を、天の上智と使徒的剛毅とにみたし給うた神よ、彼の定めと模範とにならうわれらに、永遠のむくいを与え給うよう、御慈悲に願い奉る。その同じわれらの主イエズス・キリストによりて。

 私たちは、聖ピオ十世のこの祝日に、著名なアメリカ人司祭、子どもたちのための公教要理の本の作者である、Lawrence Lovasik神父(神言会)作の、聖なる教皇へのこのノベナの祈りを読者の皆さんが信心深く唱えてくれるよう提案する。

聖ピオ十世への祈り


 聖主の敬虔なしもべにしてマリアの愛し子なる聖ピオ十世、栄えある教皇よ、天国の聖人である御身に祈り奉る。聖性と救霊への道において、御身が我が父、我が庇護者、そして導き手となり給うよう、御身に我が身を捧げ奉る。

 我が身分上の義務を忠実に果たすことのできるよう、助けの手を伸べ給え。御身ご自身が示し給うた模範に続き、すぐれた心の清らかさと、内的生活の熱烈な愛を我がために勝ち得給え。

 聖体の教皇よ、すべての恩寵と聖性の泉なる聖なるミサと聖体を愛することを教え、能う限り頻繁に聖体拝領できるよう導き給え。

 貧しい者の慈愛に満ちた父よ、我らの同胞たちに対し、御身の愛徳を言葉と行いにおいてならうよう助け給え。

 苦しむ者の慰め手よ、我が日々の十字架を、忍耐強く、天主の御旨に完全に委ねて担えるよう助け給え。キリストの群れの愛すべき牧者よ、聖にして母なる教会のまことの子となる恩寵を、我がために勝ち得て給え。

 いとも愛すべき聖なる父、聖ピオ十世よ、我が霊的、現世的幸福に必要なすべての恩寵を、イエズスの天主なる聖心より勝ち得給うがために、御身の力強い取り次ぎを切に懇願し奉る。

 聖にして母なる教会が、祭壇上にその栄光を挙げ、聖人なる御身に祈り、ならうよう強く勧める聖なる教皇よ、我は御身の祈りにひたすら信頼し奉る。天主の御旨ならば、我が嘆願が天主の玉座で御身の取り次ぎによって叶えられんことを、心から信頼し奉る。

 聖ピオ十世、我がために、そして我が愛する人々のため、祈り給え。我らが必要なものを欠く時、見捨てることなからんよう、御身のイエズスとマリアへの愛によって伏して乞い願い奉る。御身の聖なる死の平和と喜びを、我らも味わんことを。アーメン。

Imprimatur: John M. Gannon, Archbishop of Erie, Pennsylvania
教会認可/ペンシルベニア州、エリー大司教、John M. Gannon

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聖ピオ十世のモットーと聖ピオ十世会

2014年09月09日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 「ラテン語ミサこそ本当のインターナショナルミサ」という記事を読みました。「英語という選択肢もあったでしょうが、日本語にしたのは賢明でした。なぜなら、英語と違って日本語はどの国の人にとっても分からないので平等だからです。」という観点に、思わず笑ってしまいました。本当に、「これがラテン語ミサだったら、本当の意味でインターナショナル・カトリックとなるのに!」と思います。ラテン語であれば、時間と空間を超えて、ご托身の偉大な神秘と事業を持続させ、世界中に展開させることができるのに!

 さて、世界中からの霊魂の呼びかけに答えてラテン語の聖伝のミサを捧げている聖ピオ十世会とその守護者である聖ピオ十世との関係についての記事をご紹介します。
愛する兄弟姉妹の皆様のうえに天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

原文はこちら
St. Pius X's motto and the SSPX


聖ピオ十世のモットーと聖ピオ十世会


二〇一四年八月二十六日
アメリカ管区

 聖ピオ十世がそのモットー「万事をキリストにおいて復興させる」で意図したものは何か? またそのモットーが聖ピオ十世会の使命にどのように関係しているか? あなたは聖ピオ十世会の二つ目の呼び名をご存知だったろうか?

 新たに選出された教皇にとって、最初の書簡とともに回勅の綱領を書くことは当然のことである。一九〇三年、ピオ十世も例外なく、その最初の回勅「エ・スプレミ・アポストラートゥス」の中で、平易かつ荘厳に、使徒的かつ率直に、みずからの意向をすべての人々に知らせた。

「天主からの物事を人間的基準で計りつつ、私たちの秘めた目的を見つけ出そうとする人々、それらを地上的領域やゲリラ的計画にまで歪めている人々が確実に見いだされるだろう。そのような無意味な妄想を取り除くために、私たちは彼らに以下のことを重点をおいて告げる。私たちはそうあることは望まず、人間社会ではなく天主の、その権威の代理人の前では決して無ではない天主のおん助けとともに、私たちは預かり人である、と。天主の利益は私たちの利益であるはずであり、この理由のために、私たちはみずからの全精神力と命そのものを費やすために変化させられる。従って、すべての人々は、私たちの意志を表現する一つのシンボルを要求するべきであり、私たちは「万事をキリストにおいて新たにする」、これ以外のものを与えないであろう。」

 ちょうど二、三ヶ月後、教皇は、無原罪のおん宿りのドグマ制定五十周年記念に際し、さらに別の書簡「アド・ディエム・イッルム」を書いた。
 
「だが、尊敬すべき兄弟たちよ、キリスト者の霊魂に非凡な情熱を燃え上がらせるはずの無原罪のおん宿りのドグマ宣言五十周年を祝う理由、何よりも根本的目的は、私たちにとって万事をキリストのうちに復興させるという目的があるからであり、それはすでに最初の回勅の中で表明したことである……礎として、至聖なるキリストのおん母、キリストの次に気高いお方の上に、全世紀にわたって受け継がれた信仰の聖堂を立てるのである。」

 明らかに聖ピオ十世は二つの回勅と、キリストの統治と一体化したそのおん母の統治を結びつけており、また、この回勅[アド・ディエム・イッルム]の中で、明確に、あるいは暗黙のうちに、聖ルイ・ド・モンフォールと共通する精神を間違いなく著していた。

 ルフェーブル大司教が、新しく生まれた聖ピオ十世会の会則を作った時、会にもう一つの呼び名「イエズスとマリアの使徒修道会」の名を与えたのは驚くにはあたらないだろう。大司教はこのように書いた。



「この修道会は、特に大司祭たるイエズスの保護下に置かれます。なぜなら、聖主の全存在は司祭であったからであり、今なお依然としてそうであり、十字架の犠牲こそが聖主のご託身の理由であったからです。」

 さらに、大司教はこのようにしてマリアの保護の効用を説明した。

「この修道会はまた、とりわけ司祭なるキリストのおん母たるマリアの、そして彼を通して、全司祭のおん母のマントの保護のもとに、おん子を養われているお方のうちに存在しているのです。」

 教会の精神とまことの聖職者の精神は、時間と空間のうちにご托身の偉大なみわざを持ちこたえさせることだというのは疑う余地はない。この目的に達する最良の方法は、初代教会の時代に使われたのと同じ手段を使うことである。すなわち、幸いなるおん母こそは、霊魂のうちにキリストを生み出し、キリストにおいて万事を「繰り返しよみがえらせる」手段である。

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なぜ聖ピオ十世が、本会(聖ピオ十世会)の保護者なのか?

2014年09月09日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
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愛する兄弟姉妹の皆様、

 聖ピオ十世会アメリカ管区のウェブ・サイトに掲載された「なぜ本会の保護者は聖ピオ十世なのか?」の日本語訳をご紹介します。日本語訳を作ってくださった方に心から感謝します。

聖ピオ十世、我らのために祈り給え!

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トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

原文はこちら

Why is St. Pius X the Society's patron?
なぜ本会の保護者は聖ピオ十世なのか?


二〇一四年八月二十五日
アメリカ管区

 マルセル・ルフェーブル大司教が司祭養成のために本会を創立したとき、なぜ聖ピオ十世を保護者に選んだのか?


 聖ピオ十世の帰天(dies natalis)──天国への生誕の日──百周年に際し、世界中の大勢の聖伝カトリック信者たちは、ルフェーブル大司教が聖ピオ十世会の保護聖人として彼を選んだ動機を知りたがるかも知れない。

 一九七〇年代初頭、聖ピオ十世会の揺籃期には、世界中の聖伝カトリック信者たちが、いわゆる「聖ピオ五世のミサ」を捧げるために、建物や納屋を聖伝信者たちの砦へと改造していたために、皆がその名を口にしていた。「永遠のミサにくくりつけられたエコンとローマとの格闘全体」が、ほどなくして明確になるにつれ、聖ピオ五世の名は広く行き渡っていった。

 しかしながら、新修道会の創立者は、会則の中ではっきりと聖ピオ十世について述べており、その理由を書面で表明していた。大司教はその書面上で聖ピオ十世会の活動目的を「司祭養成とそれに付随する諸々に不可欠な全職務」であると説明している。神学生たちは養成の「最重要目的、すなわち、充分な知識を伴う司祭の聖性を維持する」ことに注意を払わなければならない。これこそ、本会が聖ピオ十世の保護下に置かれた理由である。この聖なる教皇の根本的関心は、司祭職の完全性とそこから導き出される高潔さであった。[1]

 このこと【つまり司祭の聖性の養成と聖ピオ十世との関係】に関して、私たちの創立者は、古くからの司祭たちがすでに得ているので、繰り返す必要がないと考えたのではない限り、とりわけ強調しなかった。創立者は、新近代主義者の異端が存在する教会内の現在の危機について、確かに頻繁に言及しており、当時の近代主義に対して、見たところ壊滅的打撃を与えた「パッシェンディ」における聖ピオ十世の教えを展開させていた。この教会史上最後に列聖された教皇が、何度も再発しては現れる近代主義者の異端に対して精力的に戦い、特に他ならぬピオ十二世によって列聖された時、大司教の霊魂に深く響くこだまとなってよみがえったのは自然なことだった。

 主要な共産主義者たちでさえも、個人的なというより教皇としての聖ピオ十世の偉大さを認めざるを得なかった。共産主義新聞「リュマニテ」L’Humanité のジャン・ジョレスは、彼についてこう述べなければならなかった。

 彼の政治的意図は至極単純であった。すなわち、使徒的堅固さを武器に信仰に関するあらゆる価値を回復させること。彼はみずからの霊魂の単純さと諸徳の誠実さ──それは疑う余地はない──を与えつつ、権威をもってこの意図を全うした。どの方向から目を向けても、彼が偉大な教皇であったことに同意せざるを得ない。

 これこそ、教会が現在までに耐え忍んできた致命的異端に王手をかけることのできた、使徒的教皇の姿であった。

 この側面こそが、おそらくそれ以外の面にも増して、ルフェーブル大司教がジュゼッペ・サルトを自分の司祭修道会の保護聖人として選んだ理由を説明している。

Footnote
[1] マルセル・ルフェーブル、伝記、ベルナール・ティシエ・ド・マルレ司教、436ページ

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