【参考資料】ミュラー枢機卿インタビュー「偽預言者らは教会を2030アジェンダの支援団体に変えようとしていると主張」
2023年9月13日(水曜日)
ミュラー枢機卿インタビュー「偽預言者らは教会を2030アジェンダの支援団体に変えようとしていると主張」
ゲルハルト・ミュラー枢機卿とInfoVaticana
「シノダリティーに関するシノドス」の最終段階が近づいており、今年10月に始まります。400人の参加者(枢機卿、司教、信者、修道者)の中には、元教理省長官ゲルハルト・ミュラー枢機卿も含まれています。
バチカンが、ジャーナリストはバチカンが提供する情報しか見ることができないと発表しているため、私たちは、教会の大部分を緊張させている近々行われるこの教会行事について、このドイツ人枢機卿【ゲルハルト・ミュラー枢機卿】に話を聞きたいと思います。
インタビュー(枢機卿は今週ポーランドに滞在しているため、書面でのインタビューとなりました)を通してお分かりのように、ミュラーは提起された疑問に逃げることなく取り組んでおり、問題の核心に迫っています。
ミュラー枢機卿とのインタビュー
【問い】今年10月、「シノダリティーに関するシノドス」の最終段階が始まります。どのように対応なさいますか。
【答え(ミュラー枢機卿)】このすべてが教会にとって祝福となり、害とならないよう祈っています。また、キリストの周りに集う教会が、不可知論的な時代精神という金の子牛の周りでの政治的な踊りにならないよう、神学的な明瞭さにも力を注いでいます。
【問い】教皇フランシスコは、シノドスで発言権を持つ参加者リストに猊下を含めています。このニュースをどのように受け止められましたか。
【答え】私がこれまで生涯を捧げ、考え、働いてきた教会のために、できる限りのことをしたいと思います。
【問い】シノドスの集会で伝えるおつもりのメッセージについて考えておられますか。
【答え】何よりも、【世界青年の日で】リスボンの若者たちが大変失望していることを踏まえて言いたいと思います。生ける天主の御子イエズス・キリストを信じない教会は、もはやイエズス・キリストの教会ではありません。各参加者はまず、三位一体の天主の救いの計画における教会の神秘を扱った「教会憲章」(Lumen Gentium)の第1章を学ぶべきです。教会は、「天主なきヒューマニズム」のイデオローグたちや、ブロック政党の戦略家たちの遊び場ではありません。
救おうという天主の普遍的なご意志こそが、天主と人間との間の唯一の仲介者であるキリストにおいて私たちが出会い、歴史的かつ終末論的に実現されるもので、これこそが、天主の教会の将来のプログラム【活動の計画】です。慈善家の仮面の下に無慈悲な個人の富を隠している億万長者の銀行家たちである無神論者・グローバリストの「エリート」による「グレート・リセット」が教会のプログラムなどではありません。
【問い】ジャーナリストたちが、(シノドスで)起きていることを生で追うことを許されない動きについて、どう思われますか。
【答え】私にはこの措置の背後にある意図は分かりませんが、450人の参加者が状況を隠し通すことはまずないでしょう。多くの参加者は、自分たちの利益のためにジャーナリストたちを利用するか、あるいはその逆かのどちらかでしょう。これは、教会にとって良いことよりも害になることの方が多い行動計画(アジェンダ)を操作し、宣伝するという大いなる時なのです。
【問い】今回のシノドスの集会に平信徒が出席することを批判する声もあります。
【答え】司教たちは、教皇とともに全教会に対する団体責任を行使することで、その職責にあずかっています。平信徒が投票権をもってそれ【シノドス】に参加するのであれば、それはもはや司教シノドスでも教会会議でもなく、また司教団の持つ使徒継承の教える権威もありません。第三バチカン公会議について語ることができるのは、無知な人だけです。なぜなら、最初から、ローマ司教シノドスはエキュメニカル公会議ではないからです。ですから教皇は、これを後付けでエキュメニカル公会議――第二バチカン公会議で低迷したとされている教会を凌駕する、あるいは、補足完成させる、新しい教会を打ち立てることができるような公会議――であると宣言することはあり得ません。そうすることは、第三バチカン公会議に対して司教たちが持っている神聖な権利を無視することです。
大衆迎合主義(ポピュリズム)の影響によって、このような自然発生的な決定の方にバランスが傾くたびに、教会の秘跡的な性質および教会の使命が見えなくなるのです。たとえその後で、すべての信者の共通司祭職によってそのような決定を正当化しようとし、信徒の共通司祭職と秘跡的な叙階による司祭職との実体的な違い(「教会憲章」10条)をなくそうとする試みがなされたとしても、です。
【問い】今回のシノドスで何が起こるのかと懸念を表明する司教や信者がますます増えているのでしょうか。
【答え】そうです、進歩派を自称する偽預言者(漠然としたイデオローグ)たちは、カトリック教会を2030アジェンダの支援団体に変えると発表しています。彼らの考えでは、天主のいない世界にふさわしいのは、キリストのいない教会だけなのです。リスボン【世界青年の日】から戻ってきた多くの若者たちは、もはやキリストにおける救いではなく、この世的な救いの教理に焦点が当てられていることに失望しました。どうやら、人間の起源にして終末、世の救い主としての天主をもはや信じず、汎自然主義的あるいは汎神論的なやり方で、いわゆる母なる大地を存在の始まりと考え、気候中立を地球の目標と考える司教さえいるようです。
【問い】教会内のいくつかのグループや運動が主張するように、信仰や教理に関する事項の変更は承認されると思われますか。
【答え】地上の誰であっても、天主の言葉を変えたり、それに付け加えたり、それを取り去ったりすることはできません。使徒の後継者として、教皇と司教たちは、唯一の教師である地上で復活されたキリストが命じられたことを人々に教えなければなりません。そして、天の軍勢とキリストの【神秘】体のかしらが常に弟子たちとともにとどまるという約束(マテオ28章19節)は、この意味においてのみ成り立ちます。人々は――司教の間でさえ基本的な神学教育が欠如していることを考えれば当然のことですが――信仰の内容とキリストにおけるその比類なき完全性を、教会の聖伝を通して教会の信仰理解が漸進的に神学的に反映・成長することと混同しています(「啓示憲章」[Dei Verbum]8-10条)。教導権の不可謬性が拡大されるのは、教会にただ一度だけ委ねられた信仰の神秘(depositum fidei[信仰の遺産]すなわち健全な教理、使徒たちの教え)を保存し、忠実に解釈するときだけです。教皇と司教たちは新しい啓示を受けることはないのです(「教会憲章」25条、「啓示憲章」10条)。
【問い】例えば、シノドスの集会が同性愛カップルの祝福、性道徳の変更、司祭の独身制の撤廃、女性の助祭職の許可などを承認したらどうなりますか。猊下は、それを受け入られますか。
【答え】司祭の独身制はこのリストから除外されなければなりません。なぜなら、聖なる叙階の秘跡と、自発的な結婚の放棄というカリスマとの関連は教義上必要ではないものの、バチカン公会議で公会議の教父が明確に強調したように(「司祭の役務と生活に関する教令」[Presbyterorum Ordines]16条)、ラテン教会のこの古くからの聖伝をペンの一筆で恣意的に廃止することはできないからです。そして、騒々しい扇動家たちは、司祭のいない共同体が救われることにはほとんど関心がなく、むしろ、彼らは性的に啓蒙された時代には時代錯誤、あるいは非人道的でさえあると考えて、この福音の忠告を攻撃しています。同性または異性の不道徳な行為を祝福することは、天主の言葉と意志に真っ向から反することであり、重大な罪深い冒涜です。司教、司祭、助祭のレベルの聖なる叙階の秘跡は、天主の力を与えることができるのですから。
召命が真正なものであることが教会によって確認された受洗者のみが、その権利を受けることができます。このような多数決を受け入れるという要求は、先験的に(a priori)廃れたものなのです。また、そのような要求は、(天主の)啓示と教会の明確な告白に反するため、教皇とともに司教団全体によって、あるいは教皇のみによって、教会法で実施されるということはあり得ません。
教皇の公式な権威は、聖書、使徒継承の聖伝、教皇に先立つ教導権の教義的決定との実質的関連から切り離すことはできません。そうでないなら、ルターが教皇権を誤解していたように、教皇は、キリストの権威のもとに、啓示された信仰を忠実にありのままに証しし、それを教会に真正に提示するのではなく、啓示された真理の唯一の作者である天主の立場に自らを置くことになってしまいます。
このような極端な状況では、天主は私たちをその状況から救うことがおできになるものの、すべての教会当局者はその権威を失ってしまい、カトリック教徒はもはや異端または離教の司教に宗教的に従う義務はなくなるでしょう(「教会憲章」25条、1875年、第一バチカン公会議に関するビスマルクの誤った解釈に対する司教団の回答を参照)。
【問い】今日議論の下にある真理を擁護するために、教会で十分なことが明確に行われていると思われますか。
【答え】残念ながらそうではありません。教会の内外で福音の真理を大胆に宣べ伝えることが神聖な任務です。パウロでさえも、ペトロのあいまいな振る舞いに公然と反対したことがありました(ガラツィア2章)が、もちろん、キリストが立てられたペトロの首位権に疑問を呈したのではありません。
私たちは、教会内で威圧されたり、上から望まれる善い態度【おべっか】の競争の見通しに誘惑されたりするのを許してはなりません。司教と司祭はキリストから直接任命されており、そのことを位階階級のそれぞれの長上が考慮しなければなりません。しかし、彼らは互いに共同体の中にあり、共同体には、信仰の問題における宗教的従順と、教会の統治における教会法的従順があります。しかし、このことは、信者を聖化し、教え、導く権威を持つ牧者にして教師であるキリストに対する直接の良心的責任を免除するものではありません。
また、教皇と教皇大使やバチカン職員との関係と、教皇の部下ではなく同じ使徒職の兄弟である司教たちとの団体制の関係とは厳密に区別しなければなりません。
【問い】今、教皇はどのような役割を果たすべきでしょうか。
【答え】教会の歴史の中で、教皇が政治家のように感じたり振る舞ったりするたびに、物事はうまくいかなくなりました。政治においては、【統治者の役割とは】人民に対する人間の権力に関することです。キリストの教会においては、【教皇の役割とは】人間の永遠の救いに奉仕することに関することです。この永遠の救いのために主は人間らを御自分の使徒として召されたのですから。教皇はペトロの椅子に座っています。新約聖書に登場するシモン・ペトロの浮き沈みの激しい様子は、すべての教皇を強めるもの、また戒めるものでなければなりません。ご受難の前の高間の部屋で、イエズスはペトロにこう言われました。「あなたは心を取り戻し、兄弟たちの心を固めよ」(ルカ22章32節)、すなわち、「キリスト、生ける天主の子」(マテオ16章16節)への信仰に固めよ。こうしてこそ、ペトロはイエズスが教会を建てる岩となり、地獄の門も勝てない岩となるのです。