Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

【参考資料】ミュラー枢機卿インタビュー「偽預言者らは教会を2030アジェンダの支援団体に変えようとしていると主張」

2023年10月31日 | カトリック・ニュースなど

【参考資料】ミュラー枢機卿インタビュー「偽預言者らは教会を2030アジェンダの支援団体に変えようとしていると主張」

2023年9月13日(水曜日)

Cardinal Müller Interviewed: "False prophets claim they will turn the Church into an Aid Organization for the 2030 Agenda."

ミュラー枢機卿インタビュー「偽預言者らは教会を2030アジェンダの支援団体に変えようとしていると主張」

ゲルハルト・ミュラー枢機卿とInfoVaticana

「シノダリティーに関するシノドス」の最終段階が近づいており、今年10月に始まります。400人の参加者(枢機卿、司教、信者、修道者)の中には、元教理省長官ゲルハルト・ミュラー枢機卿も含まれています。

バチカンが、ジャーナリストはバチカンが提供する情報しか見ることができないと発表しているため、私たちは、教会の大部分を緊張させている近々行われるこの教会行事について、このドイツ人枢機卿【ゲルハルト・ミュラー枢機卿】に話を聞きたいと思います。

インタビュー(枢機卿は今週ポーランドに滞在しているため、書面でのインタビューとなりました)を通してお分かりのように、ミュラーは提起された疑問に逃げることなく取り組んでおり、問題の核心に迫っています。

ミュラー枢機卿とのインタビュー

【問い】今年10月、「シノダリティーに関するシノドス」の最終段階が始まります。どのように対応なさいますか。

【答え(ミュラー枢機卿)】このすべてが教会にとって祝福となり、害とならないよう祈っています。また、キリストの周りに集う教会が、不可知論的な時代精神という金の子牛の周りでの政治的な踊りにならないよう、神学的な明瞭さにも力を注いでいます。

【問い】教皇フランシスコは、シノドスで発言権を持つ参加者リストに猊下を含めています。このニュースをどのように受け止められましたか。

【答え】私がこれまで生涯を捧げ、考え、働いてきた教会のために、できる限りのことをしたいと思います。

【問い】シノドスの集会で伝えるおつもりのメッセージについて考えておられますか。

【答え】何よりも、【世界青年の日で】リスボンの若者たちが大変失望していることを踏まえて言いたいと思います。生ける天主の御子イエズス・キリストを信じない教会は、もはやイエズス・キリストの教会ではありません。各参加者はまず、三位一体の天主の救いの計画における教会の神秘を扱った「教会憲章」(Lumen Gentium)の第1章を学ぶべきです。教会は、「天主なきヒューマニズム」のイデオローグたちや、ブロック政党の戦略家たちの遊び場ではありません。

救おうという天主の普遍的なご意志こそが、天主と人間との間の唯一の仲介者であるキリストにおいて私たちが出会い、歴史的かつ終末論的に実現されるもので、これこそが、天主の教会の将来のプログラム【活動の計画】です。慈善家の仮面の下に無慈悲な個人の富を隠している億万長者の銀行家たちである無神論者・グローバリストの「エリート」による「グレート・リセット」が教会のプログラムなどではありません。

【問い】ジャーナリストたちが、(シノドスで)起きていることを生で追うことを許されない動きについて、どう思われますか。

【答え】私にはこの措置の背後にある意図は分かりませんが、450人の参加者が状況を隠し通すことはまずないでしょう。多くの参加者は、自分たちの利益のためにジャーナリストたちを利用するか、あるいはその逆かのどちらかでしょう。これは、教会にとって良いことよりも害になることの方が多い行動計画(アジェンダ)を操作し、宣伝するという大いなる時なのです。

【問い】今回のシノドスの集会に平信徒が出席することを批判する声もあります。

【答え】司教たちは、教皇とともに全教会に対する団体責任を行使することで、その職責にあずかっています。平信徒が投票権をもってそれ【シノドス】に参加するのであれば、それはもはや司教シノドスでも教会会議でもなく、また司教団の持つ使徒継承の教える権威もありません。第三バチカン公会議について語ることができるのは、無知な人だけです。なぜなら、最初から、ローマ司教シノドスはエキュメニカル公会議ではないからです。ですから教皇は、これを後付けでエキュメニカル公会議――第二バチカン公会議で低迷したとされている教会を凌駕する、あるいは、補足完成させる、新しい教会を打ち立てることができるような公会議――であると宣言することはあり得ません。そうすることは、第三バチカン公会議に対して司教たちが持っている神聖な権利を無視することです。

大衆迎合主義(ポピュリズム)の影響によって、このような自然発生的な決定の方にバランスが傾くたびに、教会の秘跡的な性質および教会の使命が見えなくなるのです。たとえその後で、すべての信者の共通司祭職によってそのような決定を正当化しようとし、信徒の共通司祭職と秘跡的な叙階による司祭職との実体的な違い(「教会憲章」10条)をなくそうとする試みがなされたとしても、です。

【問い】今回のシノドスで何が起こるのかと懸念を表明する司教や信者がますます増えているのでしょうか。

【答え】そうです、進歩派を自称する偽預言者(漠然としたイデオローグ)たちは、カトリック教会を2030アジェンダの支援団体に変えると発表しています。彼らの考えでは、天主のいない世界にふさわしいのは、キリストのいない教会だけなのです。リスボン【世界青年の日】から戻ってきた多くの若者たちは、もはやキリストにおける救いではなく、この世的な救いの教理に焦点が当てられていることに失望しました。どうやら、人間の起源にして終末、世の救い主としての天主をもはや信じず、汎自然主義的あるいは汎神論的なやり方で、いわゆる母なる大地を存在の始まりと考え、気候中立を地球の目標と考える司教さえいるようです。

【問い】教会内のいくつかのグループや運動が主張するように、信仰や教理に関する事項の変更は承認されると思われますか。

【答え】地上の誰であっても、天主の言葉を変えたり、それに付け加えたり、それを取り去ったりすることはできません。使徒の後継者として、教皇と司教たちは、唯一の教師である地上で復活されたキリストが命じられたことを人々に教えなければなりません。そして、天の軍勢とキリストの【神秘】体のかしらが常に弟子たちとともにとどまるという約束(マテオ28章19節)は、この意味においてのみ成り立ちます。人々は――司教の間でさえ基本的な神学教育が欠如していることを考えれば当然のことですが――信仰の内容とキリストにおけるその比類なき完全性を、教会の聖伝を通して教会の信仰理解が漸進的に神学的に反映・成長することと混同しています(「啓示憲章」[Dei Verbum]8-10条)。教導権の不可謬性が拡大されるのは、教会にただ一度だけ委ねられた信仰の神秘(depositum fidei[信仰の遺産]すなわち健全な教理、使徒たちの教え)を保存し、忠実に解釈するときだけです。教皇と司教たちは新しい啓示を受けることはないのです(「教会憲章」25条、「啓示憲章」10条)。

【問い】例えば、シノドスの集会が同性愛カップルの祝福、性道徳の変更、司祭の独身制の撤廃、女性の助祭職の許可などを承認したらどうなりますか。猊下は、それを受け入られますか。

【答え】司祭の独身制はこのリストから除外されなければなりません。なぜなら、聖なる叙階の秘跡と、自発的な結婚の放棄というカリスマとの関連は教義上必要ではないものの、バチカン公会議で公会議の教父が明確に強調したように(「司祭の役務と生活に関する教令」[Presbyterorum Ordines]16条)、ラテン教会のこの古くからの聖伝をペンの一筆で恣意的に廃止することはできないからです。そして、騒々しい扇動家たちは、司祭のいない共同体が救われることにはほとんど関心がなく、むしろ、彼らは性的に啓蒙された時代には時代錯誤、あるいは非人道的でさえあると考えて、この福音の忠告を攻撃しています。同性または異性の不道徳な行為を祝福することは、天主の言葉と意志に真っ向から反することであり、重大な罪深い冒涜です。司教、司祭、助祭のレベルの聖なる叙階の秘跡は、天主の力を与えることができるのですから。

召命が真正なものであることが教会によって確認された受洗者のみが、その権利を受けることができます。このような多数決を受け入れるという要求は、先験的に(a priori)廃れたものなのです。また、そのような要求は、(天主の)啓示と教会の明確な告白に反するため、教皇とともに司教団全体によって、あるいは教皇のみによって、教会法で実施されるということはあり得ません。

教皇の公式な権威は、聖書、使徒継承の聖伝、教皇に先立つ教導権の教義的決定との実質的関連から切り離すことはできません。そうでないなら、ルターが教皇権を誤解していたように、教皇は、キリストの権威のもとに、啓示された信仰を忠実にありのままに証しし、それを教会に真正に提示するのではなく、啓示された真理の唯一の作者である天主の立場に自らを置くことになってしまいます。

このような極端な状況では、天主は私たちをその状況から救うことがおできになるものの、すべての教会当局者はその権威を失ってしまい、カトリック教徒はもはや異端または離教の司教に宗教的に従う義務はなくなるでしょう(「教会憲章」25条、1875年、第一バチカン公会議に関するビスマルクの誤った解釈に対する司教団の回答を参照)。

【問い】今日議論の下にある真理を擁護するために、教会で十分なことが明確に行われていると思われますか。

【答え】残念ながらそうではありません。教会の内外で福音の真理を大胆に宣べ伝えることが神聖な任務です。パウロでさえも、ペトロのあいまいな振る舞いに公然と反対したことがありました(ガラツィア2章)が、もちろん、キリストが立てられたペトロの首位権に疑問を呈したのではありません。

私たちは、教会内で威圧されたり、上から望まれる善い態度【おべっか】の競争の見通しに誘惑されたりするのを許してはなりません。司教と司祭はキリストから直接任命されており、そのことを位階階級のそれぞれの長上が考慮しなければなりません。しかし、彼らは互いに共同体の中にあり、共同体には、信仰の問題における宗教的従順と、教会の統治における教会法的従順があります。しかし、このことは、信者を聖化し、教え、導く権威を持つ牧者にして教師であるキリストに対する直接の良心的責任を免除するものではありません。

また、教皇と教皇大使やバチカン職員との関係と、教皇の部下ではなく同じ使徒職の兄弟である司教たちとの団体制の関係とは厳密に区別しなければなりません。

【問い】今、教皇はどのような役割を果たすべきでしょうか。

【答え】教会の歴史の中で、教皇が政治家のように感じたり振る舞ったりするたびに、物事はうまくいかなくなりました。政治においては、【統治者の役割とは】人民に対する人間の権力に関することです。キリストの教会においては、【教皇の役割とは】人間の永遠の救いに奉仕することに関することです。この永遠の救いのために主は人間らを御自分の使徒として召されたのですから。教皇はペトロの椅子に座っています。新約聖書に登場するシモン・ペトロの浮き沈みの激しい様子は、すべての教皇を強めるもの、また戒めるものでなければなりません。ご受難の前の高間の部屋で、イエズスはペトロにこう言われました。「あなたは心を取り戻し、兄弟たちの心を固めよ」(ルカ22章32節)、すなわち、「キリスト、生ける天主の子」(マテオ16章16節)への信仰に固めよ。こうしてこそ、ペトロはイエズスが教会を建てる岩となり、地獄の門も勝てない岩となるのです。

スペイン語の原文はこちら
Cardenal Müller a InfoVaticana: «Los falsos profetas que se presentan como progresistas han anunciado que convertirán a la Iglesia Católica en una organización de ayuda para la Agenda 2030


【報告】上野の藝大アートプラザで「キリストサンドバッグ」と題された冒涜物について、私たちのとった行動と祈り

2023年10月28日 | カトリック・ニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

上野の藝大アートプラザで「キリストサンドバッグ」と題された冒涜物が、9月30日から11月27日まで展示されると、私たちに悲しみと驚きをもって知らされたのは10月9日のことでした。

私たちは、この知らせを受けた直後に、御聖体降福式を償いのためにお捧げ致しました。
2023年10月9日、上野の藝大アートプラザでの冒涜の償いのための御聖体降福式

また同日、御聖体降福式の後に、有志の信徒の方々と藝大アートプラザに駆け付けて償いのためのロザリオをお捧げ致しました。

私たちの呼びかけを受けて、驚くほど多くの方から、償いのために祈る、作者のために祈るというメッセージをいただきました。病気の方々も、御自分のつらい痛みや苦しみを償いにお捧げする、辛抱強く痛みをこらえる、とのメッセージを送ってくださいました。

10月15日には、ドモルネ神父はお説教で、冒涜の罪とつまずきの罪について話しました。

またその後、何回か、有志の信徒の方々や、ドモルネ神父や小野田神父は、藝大アートプラザでなされた公けの冒涜に対して、公けの償いを行うことを試みました。それらについての詳細はここでは省略いたします。

私たちは、冒涜物を制作した 許允(ホ・ユン)さんに直接面会して、私たちの深い悲しみ、胸が張り裂けるような悲痛を感じているのか、私たちの理由を伝えたいと思いました。何故なら、お手紙を書くよりも、メールで説明するよりも、直接にお会いして目と目を合わせて真剣に訴えるならば、耳を傾けてくれるのではないかと、考えたからです。

特に、作者が来年は同じことを韓国で行うと意思表示しているので、日本に災いが起こらないためのみならず、韓国にとっても不幸なことが起こらないように、彼女が考えを改めて、このような冒涜物は自ら進んで撤去してくれることを願ったからです。そこで、藝大アートプラザの責任者の方を通して制作者との面会をお願いしました。

10月26日(木曜日)午後5時から午後6時45分まで、私たちは上野の藝大アートプラザのすぐ近くの喫茶店で、制作者の方と展示責任者の方と直接に会って話をしました。小野田神父が代表となって、私たちの悲しみを伝えようとし、二人の信徒の方々も神父と同席しました。

最初に制作者が自分の制作物についての説明をしたいと言ったので、私たちはまずその長い話を聞くことにしました。彼女の長いモノローグの中には、なぜキリストがなぜ殴られなければならないかについては一切説明がありませんでした。

次に私たちは次の8つの点を制作者に伝えました。私たちは紙に書いた原稿を読み上げたのではありません。心からの訴えを相手に伝えようとしました。ですから以下の8つのポイントは、私たちが発音したものではなく、私たちが心に響かせようとした内容です。

私たちが伝えようとした第一の点は、たんなる導入で、もしも誰かを愛することがあった人なら、誰でも分かると思った論点です。しかし最も重要な論点は第二の点です。第二の点があったからこそ、私たちは行動を起こしました。

私たちは祈りをもってこれを行いました。何故なら、私たちが求めたのは、制作者とアートプラザの責任者、また東京藝大の方々の本当の善だからです。私たちが直接会って話をしたのは、私たちの心が伝わり、制作者が考えを改めてくれることを願ったからです。ただし、心を変えることができるのは、天主の恩寵であり、聖霊の導きであると確信しています。ですから、祈りつつ、祈りに信頼して行いました。

私たちの論点の基礎にあるのは、人間の文化・文明と美術・芸術を成り立たせている前提です。つまり、何かが別のものを象徴し、意味するという、私たちが常識的に受け入れている事実です。ウ・マという二つの音節自体は馬ではありませんが、動物の馬を意味し、それを私たちは受け入れて人間としての生活や文化や芸術として成立させています。シ・カならば、たとえば動物の鹿です。声の音節の組み合わせで、人は馬鹿にされたり、あるいは、称賛されたりします。
白い背景の長方形に赤い丸があれば日の丸となり、日本の象徴になります。金メダルを受けた選手が日の丸の旗を高くそびえさせれば、誇らしくなります。
私たちの手のしぐさや体のジェスチャーも、軽蔑や威嚇を表現したり、愛情を表現したりすることができます。

最後に、私たちが今、ここで、こうやって、今回の出来事を、愛する兄弟姉妹の皆様に紹介するのは、今必要とされている祈り、冒涜の償いの祈り、制作者が考えを改めるように促す祈りへとお招きするためです。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【2023年10月30日追記】

今回の展示は、藝大アートプラザの企画展「境界ーborderー」前期(2023年9月30日(土)〜10月22日(日))で終了し、後期からはその他の作品と共にすべて別のものに変えられました。ご報告いたします。

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論点

【1:導入:私たちの愛の対象】
イエズス・キリストは私たちの愛と尊敬の対象だ。私たちの天主・救い主・贖い主・王である。
私たちの愛の対象が、作者によって「グローブを着用しキリストサンドバッグを殴ってください」とされている。「殴ることによって崩れて壊れて」しまうこと、つまりキリストをノックアウトすることと破壊が想定されている。
これの意味することは、十字架像が象徴することに対する暴力と攻撃である。イエズス・キリストその人と、そのおっしゃった教え、主がなさったこと、全てに対する暴力であり、憎悪と侮辱の現れである
愛の対象を侮辱された人が、どれほど悲しむかは、良識のある人間であれば理解できる。
私たちカトリック信者は、愛するイエズス・キリストが暴行され侮辱されて、胸が張り裂ける程に悲痛を覚え、傷ついている。
韓国の方々は、国を代表する・国民の敬愛の対象が侮辱されたならば、どれほど悲しむことだろうか。
韓国には侮辱することが決して許されない対象があるのではないだろうか?
制作者ご自身は、自分の愛する人々が侮辱されるならば、作者はどう思うのか?
私たちは、この展示物によって非常に傷ついた。

【2:冒涜】
イエズス・キリストはこの世の創造主・天主であり贖い主であり救い主だ。
十字架のキリスト像を使うことは、宗教を取り扱っていることだ。作者は、宗教をテーマにして、キリスト像を冒涜している。

冒涜とは、天主を傷つけるなんらかの言葉や行いのことだ。天主の御稜威にふさわしくないことを述べたり行ったりすること、それが冒涜だ。つまり天主を軽蔑したり侮辱したりすることだ。
とりわけ十字架は天主が私たちのためになさった愛の業だった。主の憐れみ深い愛の極みの業である十字架が殴られて、冒涜されている。憐れみが冒辱されている。

冒涜の対象は、それが聖であればあるほど、その罪は重大になる。
冒涜を見てそれを止めないならば、それは冒涜の幇助罪にあたる。冒涜をするものと同等の責任をもつ。冒涜には、最も恐ろしい罪だ。厳しい罰が、現世と来世に待っている。

十字架像を殴る(しかも破壊するまで殴りつける)のは、誰が見ても(カトリック信者でなくとも)、神聖なものに対する冒涜だ。聖なるものに対する暴力であり、侮辱だ。良識がある人ならそれが理解できるはずだ。

冒涜の結果、町全体が滅んでしまったという例は歴史上存在してる。最近の例でいえば例えばマルティニーク島のサンピエールという町がそうだ。
1902年3月28日(聖金曜日)西インド諸島のフランス領マルティニーク島のサンピエール市では、一部の人々によってキリストの十字架像が嘲笑された。彼らは町をでてプレ山へと向かった。道すがら十四回留まって、冒涜を繰り返した。ついには、私たち人間の霊魂を贖うために十字架上で亡くなったキリストの十字架像をプレ火山の噴火口に投げ捨てた。しかし、これについて抗議する人はいなかった。1902年5月8日(キリストの昇天の祝日)、マルティニーク島にあるプレー火山が噴火して、山麓のサンピエール市は壊滅し、約4万人が死亡した。

【3:キリスト教信者たちに対する暴力】
十字架像(キリストの磔刑像)は、カトリック教会の信仰の中心でありシンボルだ。
これに対する暴力は、キリストの十字架による贖いの業を信ずる全てのキリスト者に対する攻撃だ。十字架像の後ろにいる私たちに対する暴力であり脅迫だ。私たちはキリストの神秘体の一員で、キリストは神秘体の頭だ。だから十字架像は、私たちキリスト信者をも象徴している。
特にキリスト教徒の少ない日本では、キリスト者として肩身の狭い思いをしている人々も多い。
磔刑像に対して破壊しつくすまで殴ろうとすることは、キリスト者たちに対する憎悪とヘイトと暴力を助長させている。

【4:日本カトリック信者の祖先に対する侮辱】
私たちカトリック信者たちは、日本において、250年以上にわたる迫害と差別と涙と苦しみの歴史を持っている。
私たちの祖先は、踏み絵を踏むことを強制させられ、数十万人ものカトリック信者たちがそれを拒否して殉教していった。つまり、イエズス・キリストと聖母を御姿を足で踏んで侮辱することを拒んで拷問を受け、血を流し、命を落としていった。
制作者は、差別され迫害されてきた私たちの祖先が命がけに守ろうとしてきたものを馬鹿にし、侮辱している。

【5:残酷であり非人間的】
イエズス・キリストは、実在した歴史上の人物である。ローマ総督ポンシオ・ピラトはキリストについて何度も無罪を宣告した。キリストは、冤罪により十字架の死刑を受けた。
無抵抗で傷ついている人間を殴るのは、普通の人にはできない。動物に対してさえもできない。ましてや人間に対してはいう必要もない。
人間としての普通の反応は、そのような人を憐れみ、助けの手を差し伸べることだ。野生の動物たちでさえも助け合うことが観察されている。
しかし、制作者は、観客に異常なことを求めている。観客に残酷でかつ非人間的な態度をとることを求めているからだ。

【6:美術】
美術とは、美を表現しようとする芸術である。
美とは何か。私たちは何を美しいと思い感動するだろうか?
天主の造った雄大な山や野の花々、星々、動物など、大自然は美しいと感じる。何故なら自然は、天主の偉大さや崇高さを反映しているからだ。芸術家は、大自然をテーマに美術品を作ろうとしてきた。
大自然よりもさらに崇高なのは、人間だ。何故なら、人間は天主の肖像と似姿に寄せて創られているからだ。自分を忘れる程に英雄的な犠牲心と愛と善にあふれ、尊厳がある人物に出会う時、私たちは感動を覚える。
それに引き換え、残酷で心が醜い人、裏切りや自惚れの人を見る時、私たちは軽蔑を覚え、みにくいと感じる。悪魔に心を渡してしまったような邪悪さを見るからだ。

イエズス・キリストの生涯は、天主御父と私たちとの愛に、英雄的な程、満ちていたがゆえに、キリストの尊厳や愛や崇高さが私たちに伝えられる時、それは私たちに礼拝と賛美と感謝と祈りを引き起こす。
イエズス・キリストは、古代カタコンベのイコンから始まって、2000年にわたって、多くの芸術家たちや修道者たちに、偉大な息吹(インスピレーション)を与えてきた。キリスト教美術である。
芸術、音楽、文学、演劇、建築のみならず、家庭生活、経済活動、法律、裁判、行政など、社会全体に美しい影響を与えてキリスト教世界を作り上げてきた。

しかし、この展示物は、過去の偉大な芸術家たちの表そうとしてきた大切なものを攻撃することを求めている。鑑賞者に暴力と憎しみを持つことを求めている。

【7:表現の自由】
この展示物は、反キリストの装置、反キリスト教を助長する憎しみの装置だ。殴る要請と命令だけがある。
自由とは真理と善とのためにある。冒涜の自由はない。罪や犯罪を犯す自由などは存在しない。

【8:公けの展示】
制作物は、誰にでも見て殴ることができるように、公けに展示されている。言い換えると、制作者が自分の家で自分のためだけに作ったプライベートなものではない。
教皇ピオ十二世が訴えたカトリック教会のおしえによれば、公然の行為については、客観的な真理とに従って、それがもっている悪を権威当局が制限することができるし、そうしなければならない。権威当局は、客観的な共通善(皆のための善)を配慮しておこなわなければならない。

【結論】
ただちに、このような冒涜の展示を中止すべきだ。冒涜は、それを行う人と、それを許容する人に、現世であるいは来世で災いを引き起こすものからだ。とても危険なことだ。

制作者の 許允(ホ・ユン)さん、私たちはあなたのために祈っている。冒涜物ではなく、後世にわたって多くの人々を感動させるような歴史に残る美しい作品を作っていただきたい。そのために応援している。あなたのために祈っている。


すべての天使は最も偉大な天使でさえも、喜んで聖母のしもべです。なぜでしょうか?

2023年10月26日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2023年10月22日は聖霊降臨後第21主日でした。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「聖霊降臨後第21主日の説教」の動画をご紹介いたします。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

SSPX JAPAN聖ピオ十世会日本にチャンネル登録もお願いいたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父


2023年10月9日、上野の藝大アートプラザでの冒涜の償いのための御聖体降福式

2023年10月24日 | お説教・霊的講話

2023年10月9日、上野の藝大アートプラザでの冒涜の償いのための御聖体降福式

【LIVE】イエズス・キリストへの冒涜の償い_御聖体降福式_2023年10月9日
Benediction of the Blessed Sacrament for the Reparation of Blasphemy in Tokyo on 9th October 2023 SSPX

愛する兄弟姉妹の皆様

この御聖体降福式は、特にイエズス様に対してなされる侮辱を償うために行いたいと思います。
上野の藝大アートプラザというところで、イエズス様の愛の行いである十字架の犠牲を冒涜する物が展示されています。9月30日から11月27日まで展示されるとのことです。

私たちを愛する主が、こうやって侮辱されて、人々が殴ったり嘲弄したり馬鹿にするのを私たちはそのまま見ることはできません。ベロニカのように、イエズス様に少なくとも慰めのタオルを、慰めの祈りをお捧げしたいと思います。償いの祈りを捧げたいと思います。

そこで今日の御聖体降福式は、特に償いの意向で行います。
このいわゆるアートと呼ばれるものを主催者が早く撤回するように、私たちイエズス・キリストを愛する人々がどれほどそれによって悲しむか傷つけられるかということを理解してくれることができるように祈りましょう。

それにもましてイエズス様がどれほどお悲しみになっているか、どれほど苦しまれるかということも考えて、この御聖体降福式をお捧げいたしましょう。マリア様の御取り次ぎを願いましょう。そこで、皆さんの、特に御一緒に御聖体の前でロザリオを唱えることができればと思っています。

罪の償いのために特に藝大アートプラザに展示されているイエズス様に対する冒とくを償うためにこのロザリオをお捧げいたします。
イエズス様の傷ついた聖心をお慰めいたしましょう。イエズス様が私たちを憐れんでくださいますように。聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
(使徒信経)(主禱文)(天使祝詞三回)(栄誦)

苦しみの玄義
第一玄義  この一連を捧げて主がゲッセマニの園にて、死するばかり憂い給いたるを黙想し、聖母の御取り次ぎによりて、罪を痛悔する恵みを請い願わん。
特にイエズス様が、未信者あるいは信者、イエズス・キリストから愛を受けるべき聖職者から受ける罪とその侮辱を償う恵みを請い求めましょう。

第二玄義 この一連を捧げて主が鞭打たれたるを黙想し、聖母の御取り次ぎによりて、罪を償う恵みを請い願わん。
イエズス様は特に私たちが肉体で犯す貞潔に反する罪の償いのためにこのむち打ちを打たれました。それと同時に今回その私たちを私たちの代わりに罪を償おうとされたイエズス様にボクシングで殴らせようとする招いている人々のためにこの罪を償うためにもこれをお捧げいたしましょう。

第三玄義 この一連を捧げて主がいばらの冠を被せられたるを黙想し、聖母の御取り次ぎによりて、侮辱を恐れざる御恵みを請い願わん。
イエズス・キリストは王であるにもかかわらず、ローマ人たちはそれを信ぜようとせず、いばらの冠という即興の戴冠式を行いました。イエズス様に嘲弄と屈辱を与え、葦の王笏を与え、ユダヤ人の王、挨拶しますと馬鹿にしました。イエズス様はどれほどの屈辱をお受けになったことでしょう、しかしこれは私たちの傲慢を償うために、あえて愛に満ちてお受けになりました。いばらの冠から流れる血潮は眼に溢れて眼は血潮でいっぱいになり、眼は見ることができなかったかもしれません。いばらは、一つは眼にも刺さったと伝えられています。それにもかかわらず愛のまなざしをもって私たちを憐れんでくださいます。私たちがイエズス様に、謙遜になります、とそのお恵みを請い求めましょう。特にこの犠牲を捧げてイエズス様に屈辱を与えようとする作家あるいは藝大アートプラザの人たちの回心を請い願いましょう。

第四玄義 この一連を捧げて主が十字架を担い給いたるを黙想し、聖母の御取り次ぎによりて、苦難を甘んじ受くる恵みを請い願わん。
特にこの十字架の道行きの時に、あるかよわい女性が一人立ち上がって、イエズス様のもとに近寄り、きれいなタオルを渡してイエズス様をお慰めしようとしました。聖女ベロニカです。イエズス様をお慰めするには、罪を償うためには、私たちは当局の許可は要りません。あまりにも当然であって、あまりにもしなければならないことであるからです。イエズス様はこの女性の聖ベロニカの勇気ある償いの業を見て、この非常に感動され、特別のお恵みを与えました。それはご自分の似姿、御顔をそのタオルにお写しになって、お返しになったことです。ベロニカはイエズス様のその聖なるお顔を決して一生忘れることがなかったでしょう。今では、天国で、その御顔を永遠に観て、幸福になっておられることでしょう。私たちも聖ベロニカに倣って、ぜひイエズス様をお慰めしたいと思います。

第五玄義 この一連を捧げて主が十字架につけられ、死し給いたるを黙想し、聖母の御取り次ぎによりて救霊の賜物を請い願わん。
イエズス・キリストが十字架につけられたのは、私たちが地獄に陥らないために、私たちの永遠の滅びを免がせるために、愛のいけにえでした。友人のために命を捨てるほど大きな愛はない。私たちを友として、ご自分の命を打ち投げてくださいました。最初におっしゃったことは「父よ、赦し給え、彼らはそのなすところを知らざればなり。」私たちの赦しをのみ、求めた行為でした。
主の十字架を見て、二つの態度があります。
一つは冒涜です。左にいた盗賊は、「もしもお前がキリストならお前が救われて十字架から降りて俺も救え」。そして冒涜の言葉を投げかけました。
右にいた盗賊聖ディディマスは、この左の盗賊をたしなめてこう言います。「私たちは当然の苦しみを受けている。しかし一体この方はどんな悪いことをしたのか。主よ、御国に至らん時、わたしのことを思い出してください」。この言葉によって右の盗賊は、永遠の福楽を約束されました。
私たちも聖母の御取り次ぎによって、イエズス様の近くに居りたいと思います。使徒たちが皆逃げて逃亡してしまってもマリア様と聖使徒ヨハネそしてマグダレナ・マリア、サロメ、その他少数の弟子たちとともにイエズス様をお慰めしたいと思います。そして私たちのことを思い出してくださいとお祈りいたしましょう。


【ブラントミュラー枢機卿 バーク枢機卿 イニゲス枢機卿 サラ枢機卿 陳日君枢機卿】再作成して教皇フランシスコに提出された質問(Dubia)

2023年10月24日 | カトリック・ニュースなど

【参考資料】再作成してローマ教皇に提出した Dubia (2023年8月21日付)

Reformulated Dubia

フランシスコ教皇聖下

教皇聖下、

私たちは、聖下が私たちに提供しようとお望みになったお答えにとても感謝しております。私たちが最初に明確にしたいと思っておりますことは、私たちが聖下にこのような質問をいたしましたのは、私たちが生きる現代の人々との対話を恐れてのことでも、キリストの福音について彼らが私たちに質問することを恐れてのことでもないということです。実際、私たちは、聖下と同様に、福音が人間の生活に充満をもたらし、私たちのあらゆる質問に答えてくれると確信しております。私たちを動かす懸念は、それとは別のものです。私たちが懸念しておりますのは、福音が人の心を変容させる能力を疑い、もはや健全な教理ではなく「耳に快い教え」(ティモテオ後書4章3節参照)を提案することに終始する司牧者たちがいるのを見ていることです。私たちにはもう一つ懸念があります。天主の御あわれみとは、私たちの罪を覆い隠すことにあるのではなく、それよりもはるかに偉大なこと、つまり、私たちが天主の掟を守ることによって天主の愛にお応えできるようにさせてくれること、すなわち、私たちが「悔い改めて福音を信じる」(マルコ1章15節参照)ことができるようにさせてくれることにある、と私たちが理解することです。

聖下が私たちにご回答くださったのと同じ誠意をもって、私たちが付け加えなければならないのは、聖下のご回答が、私たちが提起した疑問を解決しておらず、どちらかといえば疑問を深めていることです。ですから、私たちは、ペトロの後継者として、兄弟たちを信仰において固めるよう主から使命を受けておられる聖下に対して、これらの質問を再提出し、再整理しなければならないと感じております。まさにこのことが、今度のシノドスの観点から言えば、もっと緊急を要することです。多くの人々が、私たちの「dubia」(質問)が懸念しているまさにその問題について、カトリックの教理を否定するためにこのシノドスを使おうと望んでいるのですから。それゆえ、私たちの質問を、簡単に「はい」か「いいえ」でお答えいただけるようにして、聖下に再提出させていただきます。

1.聖下は、教会が信仰の遺産についての理解を深めることができると主張しておられます。これは確かに「啓示憲章」(Dei Verbum)8条が教えていることであり、カトリックの教理に属するものです。しかし、聖下のご回答は、私たちの懸念を捉えてはおりません。司牧者たちや神学者たちを含む多くのキリスト信者は、私たちの時代の文化的かつ人間学的な変化は、教会が常に教えてきたこととは正反対のことを教えるよう、教会を後押しすべきだと主張しております。このことは、信仰告白、秘跡を受けるための主観的条件、道徳律の遵守といった、私たちの救いにとっては、二次的な問題ではなく本質的な問題に関わるものです。
ですから、私たちの「dubium」(質問)をこう言い換えましょう。教皇の「教皇座宣言」(ex Cathedra)によるにせよ、公会議の定義によるにせよ、世界中に散在している司教たちの通常の普遍的教導権によるにせよ(「教会憲章」[Lumen Gentium]25条参照)、信仰と道徳の事柄において、今日の教会が、教会が以前に教えてきたことと反対の教理を教えることが可能なのでしょうか。

2.聖下は、結婚と他の形態の性的な性質を持つ結合との間に混同があってはならず、それゆえに、そのような混同を生じさせるような同性カップルの儀式や準秘跡の祝福は避けるべきであるという事実を主張しておられます。しかし私たちの懸念は、それとは異なるものです。私たちが懸念しておりますのは、同性カップルの祝福が、結婚に類似しているように思わせるだけでなく、同性愛の行為が実質的に一つの善として、あるいは、少なくとも天主が人々に天主への旅において求める善の可能性のあるものとして提示されるのではないかという点で、いずれにしても混同を生み出す恐れがあるということです。
ですから、私たちの「dubium」を言い直しましょう。状況によっては、司牧者が同性愛者同士の結合を祝福し、同性愛の行為が天主の法やその人の天主への旅に反しないかのようにほのめかすことは可能でしょうか。
この「dubium」と関連して、もう一つの「dubium」を提起する必要があります。普遍的な通常教導権が支持する教え、すなわち、結婚外のあらゆる性的行為、特に同性愛の行為は、それが起こる状況やそれが行われる意向にかかわらず、天主の法に反する客観的に重大な罪を構成するという教えは、有効であり続けるのでしょうか。

3.聖下は、信徒を含むすべての人が参加し、声を上げるよう求められているという点で、教会にはシノドスの次元があると主張してこられました。しかし、私たちの困難は別のところにあります。今日、これからの「シノダリティー」に関するシノドスは、教皇との交わりにおいて、あたかも教会の最高権威を代表するかのように提示されています。しかし、司教シノドスは教皇の諮問機関であり、司教団を代表するものではなく、シノドスの決定を批准する義務を負うローマ教皇が、場合によってはシノドスに決議権を明示的に付与しない限り(教会法343条を参照)、シノドスで扱われる問題を解決することも、それに関する教令を発することもできません。これは、次のシノドスが提起しようとしているような、まさに教会の構造そのものに触れるような問題に司教団を関与させないということは、まさにシノドスが促進させたいと主張しているシノダリティー【共に歩むこと】の根幹に反することになるという点で、決定的なポイントです。
ですから、私たちの「dubium」をこう言い換えましょう。牧者や信徒の中から選ばれた代表者だけしかいない、ローマで開催される司教シノドスは、自らを表現するよう求められる教義的あるいは司牧的な事柄において、独占的にローマ教皇および「かしらとともに」(una cum capite suo)司教団に属する教会の最高権威を行使するのでしょうか(教会法336条を参照)。

4.ご回答の中で、聖下は、聖ヨハネ・パウロ二世の「オルディナーチオ・サチェルドターリス」(Ordinatio Sacerdotalis)での決定が確定的に保持されるべきものであることを明確にされ、また、司祭職を権力という観点ではなく、奉仕という観点で理解することが、司祭職を男性のみに限定するという主の決定を正確に理解するために必要であることを正しく付け加えられました。他方で、ご回答の最後の点で、この問題はまだ検討の余地があると付け加えられました。私たちは、この発言によって、この問題がまだ決定的な形で決定されていないことを意味すると解釈する人がいることを懸念しております。実際、聖ヨハネ・パウロ二世は「オルディナーチオ・サチェルドターリス」の中で、この教理は通常の普遍的な教導権によって不可分に教えられてきたものであり、したがって、この教理は信仰の遺産に属するものであると断言しています。これは、この使徒的書簡について提起された「dubium」に対する教理省の回答であり、この回答はヨハネ・パウロ二世自身によって承認されました。
ですから、私たちの「dubium」を再定義しなければなりません。つまり、教会は将来、女性に司祭叙階を授ける権限を持つことができるのでしょうか。そうする結果として、叙階の秘跡が洗礼を受けた男性だけに独占的に留保されることが、叙階の秘跡の本質そのもの――これについて教会は変更することができない――に属していることに、反することになるのではないでしょうか。

5.最後に、聖下は、トリエント公会議の教えを確認されました。この教えによれば、秘跡による赦しが有効であるためには、もう二度と罪を犯さないという決意を含む罪人の悔い改めを必要とします。そして聖下は、天主の無限の御あわれみを疑わないよう、私たちを招かれました。私たちの質問は、天主の御あわれみの偉大さを疑うことから生じているのではなく、逆に、この御あわれみがあまりに偉大であるがゆえに、私たちは天主に立ち返り、罪を告白し、天主の教えに従って生きることができるのだという自覚から生じているのだということを、改めて申し上げたいと思います。次に、罪の告白と悔い改めが暗黙のうちに含まれている可能性がある以上、単に告白に近づくことが赦しを受けるための十分な条件であると、聖下のご回答を解釈する人もいるかもしれません。
ですから、私たちの「dubium」をこう言い直したいと思います。罪を認めながら、二度と罪を犯さないという意向をいかなる形でも拒否する悔悛者は、秘跡による赦免を有効に受けることができるでしょうか。

2023年8月21日、バチカン市にて

Walter Card. BRANDMÜLLER         Raymond Leo Card. BURKE
Juan Card. SANDOVAL ÍÑIGUEZ      Robert Card. SARAH
Joseph Card. ZEN ZE-KIUN

ヴァルター・ブラントミュラー枢機卿   レイモンド・レオ・バーク枢機卿
フアン・サンドヴァル・イニゲス枢機卿  ロペール・サラ枢機卿
ジョゼフ陳日君枢機卿

この写しはルイス・フランシスコ・ラダリア・フェレール枢機卿猊下(イエズス会)にも送った。


【ブラントミュラー枢機卿 バーク枢機卿 イニゲス枢機卿 サラ枢機卿 陳日君枢機卿】教皇フランシスコに提出された「Dubia」(質問)に関するキリストの信者への告知

2023年10月24日 | カトリック・ニュースなど

【参考資料】教皇フランシスコに提出された「Dubia」(質問)に関するキリストの信者への告知

Notification to Christ’s Faithful (can. 212 § 3) Regarding Dubia Submitted to Pope Francis

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教皇フランシスコに提出された「Dubia」(質問)に関するキリストの信者への告知(教会法212条3項)

キリストにおける兄弟姉妹の皆さま、

私たち聖なる枢機卿会のメンバーは、「教会の善益に関し、自己の意見を教会の牧者に表明する」(教会法212条3項)全信徒の義務に従って、また何よりもまして「個別的に…特に普遍教会の日常的な関心事について、ローマ教皇を援助する」(教会法349条)べきである、枢機卿の責任に従って、次の司教シノドス――これは、教会の不変の教理と規律に公然と反しており、信徒やその他の善意の人々の間に大きな混乱と誤謬への転落をこれまで生み出しましたし、また生み出し続けています――の挙行に関わる高い地位にある高位聖職者のさまざまな宣言を考慮して、ローマ教皇に深い懸念を表明しました。

2023年7月10日付の私たちの書簡によって、私たちは、教会の教理と規律を「responsa」(回答)によって明らかにする機会を長上に提供するために、長上への「dubia」(複数の質問)の提出という実績ある慣行を用いて、教皇フランシスコに五つの「dubia」(下の部分を参照)を提出しました。教皇フランシスコは、2023年7月11日付の書簡によって、私たちの書簡に回答されました。

教皇の書簡を読むと、これは「Responsa ad dubia」(質問に対する回答)の慣例に従っておらず、私たちは、教会の永代にわたる教理と規律に基づく明確な回答を引き出すために、「dubia」を再作成しました。2023年8月21日付の書簡によって、私たちはローマ教皇に再作成した「dubia」(日本語訳)を提出しました。現在までのところ、私たちは再作成された「dubia」に対する回答を受け取っていません。

「dubia」のテーマの重大性、特に司教シノドスの総会が間近に迫っていることを考慮すると、私たちは、信徒の皆さんにお知らせすることが私たちの義務であると判断します(教会法212条3項)。それは、皆さんが、混乱、誤謬、落胆に陥ることなく、むしろ、福音がこれまで以上に明確に教えられ、これまで以上に忠実に守られるよう、普遍教会、特にローマ教皇のために祈ることができるようにするためです。

キリストにおいて、
ヴァルター・ブラントミュラー枢機卿
レイモンド・レオ・バーク枢機卿
フアン・サンドヴァル・イニゲス枢機卿
ロベール・サラ枢機卿
ジョゼフ陳日君枢機卿

2023年10月2日、ローマにて

同封物:2

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「質問事項」(DUBIA)

1 文化的・人類学的な流行の変化に応じて天主の啓示を再解釈すべきだという主張についての質問(Dubium)。

数人の司教の発言は訂正も撤回もされていませんが、私たちは次のことを問います。教会において、天主の啓示は私たちの時代の文化的変化と、この変化が促す新しい人間学的展望に従って再解釈されるべきなのでしょうか、それとも、天主の啓示は永遠に拘束力を持ち、不変であり、それゆえ、矛盾してはならないものなのでしょうか。第二バチカン公会議の宣言に従えば、啓示を垂れる天主に「信仰の服従」(「啓示憲章」[Dei Verbum]5条)をするのが当然であること、また、すべての人の救いのために啓示されたものは「完全に、代々にわたって」生き生きと留まらなければならず、かつ「あらゆる世代に伝達され」(7条)なければならないこと、また、信仰は「永久に一度だけ伝えられ」(8条)ているがゆえに、【信仰に関する】理解の進歩は、事や言葉の真理のいかなる変化も意味しないこと、また、教導権は天主の言葉に優越するものではなく、伝えられてきたものだけを教えること(10条)を述べています。


2 いま広がっている同性の結合を祝福することが、啓示および教導権と一致するとされる主張(カトリック教会のカテキズム2357条)についての質問(Dubium)。

聖書で確認された、天主の啓示――これを教会は「天主の命令と聖霊の援助によって、…天主の言葉を敬虔に聞き、聖く保存し、忠実に説明する」(「啓示憲章」10条)のですが――によると、「初めに」天主は人をご自身の像にしたがって創造され、男と女を創造され、彼らが増えるように祝福されました(創世記1章27-28節参照)。このことについて使徒パウロが教えているのは、性別を否定することは創造主を否定することの結果であること(ローマ1章24-32節)です。そこでこう問います。教会は、啓示された教理を裏切ることなく、この「原理」から逸脱し、「真理の輝き」103条が教えたことに反して、それを単なる理想とみなし、"同性の結合"のような客観的に罪深い状況を「可能な善」として受け入れることができるでしょうか?

3 シノダリティーは「教会の構成要素」(使徒的憲章「エピスコパーリス・コムーニオ」[Episcopalis Communio]6条)であり、教会はその本質からしてシノドス的であるという主張についての質問(Dubium)。

司教シノドスは司教団を代表するものではなく教皇の諮問機関に過ぎない――何故なら司教たちは信仰の証人として、真理の告白を委任することはできないからです――ことを考えて、私たちは次のことを問います。シノダリティーは、教会の創立者【イエズス・キリスト】が意志した教会の構成秩序を歪めることなく、教会の永続する統治における最高の規定基準でありうるのでしょうか。主の意志によれば、教会の最高かつ完全な権威は、教皇がその職責の力によって、また、その長であるローマ教皇とともにある司教団によって、行使され(「教会憲章」22条)ます

4 「教会の神学は変わった」、したがって女性に司祭叙階を授けることができるという説を牧者や神学者が支持していることについての質問(Dubium)。

第二バチカン公会議によって教会の神学とミサの意味が変わったとする、訂正も撤回もされていない一部の高位聖職者の発言の後で、第二バチカン公会議の次の発言がまだ有効であるのか否かを問います。すなわち、(信徒の共通司祭職と役務的または位階的司祭職が)本質的に異なるものであって、程度においてのみ異なるものではない」(「教会憲章」10条)、また、「いけにえをささげ、罪を赦すという叙階の聖なる権能」(「プレスビテロールム・オルディニス」[Presbyterorum Ordinis]2条)の力により、司祭は、仲介者キリストの名とそのペルソナにおいて行動し、キリストを通して、信徒の霊的犠牲が完全なものとされる、ということの有効性です。

さらに問うべきことは、聖ヨハネ・パウロ二世の使徒的書簡「オルディナーチオ・サチェルドターリス」(Ordinatio Sacerdotalis)の教えは、女性に司祭叙階を授けることは不可能であることを決定的に保持すべき真理として教えていますが、これはまだ有効であるのでしょうか。なお有効ならば、この教えはもはや変更されることなく、司牧者や神学者の自由な議論の対象でもありません。

5 「赦しを得るのは人間の権利である」という声明と、告解の秘跡で痛悔が必要な条件ではなく【司祭は告解で無条件に】すべての人に常に赦しを与える義務があるとする教皇の主張についての質問(Dubium)。

トリエント公会議の教えによれば、もう罪を犯さないという意向をもって犯した罪を憎むことからなる悔悛者の痛悔(第十四総会第四章:DH1676)が、秘跡としての告解が有効であるために必要です。この条件が満たされていないことが明らかな場合、司祭は赦しを延期しなければならないと、トリエント公会議は教えています。ここで私たちの質問はこれです。このトリエント公会議の教えは、今でも有効であるのでしょうか。

2023年7月10日、バチカン市にて

Walter Card. BRANDMÜLLER           Raymond Leo Card. BURKE
Juan Card. SANDOVAL ÍÑIGUEZ        Robert Card. SARAH
Joseph Card. ZEN ZE-KIUN, S.D.B.

ヴァルター・ブラントミュラー枢機卿   レイモンド・レオ・バーク枢機卿
フアン・サンドヴァル・イニゲス枢機卿  ロベール・サラ枢機卿
ジョゼフ陳日君枢機卿(サレジオ会)


東京藝大アート・プラザでの冒涜とつまずき|私たちの主を本当に愛していながら,このような冒涜を前にして沈黙するなどということはあり得ません。

2023年10月18日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2023年10月15日は聖霊降臨後第20主日でした。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「聖霊降臨後第20主日の説教」の動画をご紹介いたします。

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天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父


天主が選んだ [御托身のための最善の時]とは?|ロザリオ喜びの第一玄義

2023年10月10日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2023年10月8日は聖霊降臨後第19主日でした。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「聖霊降臨後第19主日の説教」の動画をご紹介いたします。

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天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父


天主の御言葉が人間となった2つの目的とは|ロザリオ喜びの第一玄義

2023年10月10日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2023年10月7日はロザリオの聖母の祝日でした。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「ロザリオの聖母の祝日の説教」の動画をご紹介いたします。

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トマス小野田圭志神父


2023年10月6日から10月9日までのミサの予定

2023年10月03日 | 聖伝のミサの予定

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

ティム・ファイファー神父様のお母様ベティ・ファイファーさん(Betty Pfeiffer)が今朝4時半にアメリカのケンタッキーでお亡くなりなったと連絡がありました。お母様の霊魂の永遠の安息のためにお祈りください。

私たちは神父様の来日を楽しみにして準備をしておりましたが、ファイファー神父様は葬儀のためにアメリカに帰国せざるを得なくなり、日本に来ることはできなくなってしまいました。
そこで、大変申し訳ございません。スケジュールに最小限の変更を加えなければならなくなりました。
大阪でのミサ

 10月06日 金 【大阪】 18:30 ミサ聖祭
 10月07日 土 【大阪】 10:30 ミサ聖祭
 10月08日 日 【大阪】 18:00 ミサ聖祭【←ミサは午後に変更されました。ご注意ください】

東京でのミサ

 10月08日 日 【東京】 09:00, 11:30 ミサ聖祭【13:30に予定されていた講話はキャンセルいたします】
 10月09日 月 【東京】 09:00, 11:30 ミサ聖祭【13:30に予定されていた講話は、御聖体降福式に変更いたします】

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

We have received the information that Mrs Betty Pfeiffer, mother of Fr Tim Pfeiffer, had passed away around 4:30 this morning in Kentucky, USA.  Please pray for the repose of her soul.

Fr Pfeiffer will now have to head for the U.S. to attend his mother's funeral and therefore cannot visit Japan later this week.

Because of this, there will be some changes in the schedule on October 8 and 9:

October 8 (Sunday) in TOKYO

Masses :
09:00 and 11:30 - No change

Spiritual conference:
13:30 - Cancelled

October 9 (Monday; national holiday in Japan)

Masses:
09:00 and 11:30 - No change

Spiritual conference
13:30 - The conference will be replaced by a benediction.

October 8 (Sunday) in OSAKA

The Mass will be celebrated at 6 PM. 


御身無くしては,私たちが御身に嘉されることはできない。全ては天主に由来するから。だから私たちは天主に絶対的に依存している。これこそ私たちが死の瞬間に理解する事実です。

2023年10月03日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2023年10月1日は聖霊降臨後第18主日でした。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「聖霊降臨後第18主日の説教」の動画をご紹介いたします。

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天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父


毎日同じ罪に陥ってしまう、大罪さえ犯すことに落胆するとき、私たちはどうすべきか?|幼きイエズスの聖テレジア「小さき道」

2023年10月03日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2023年10月1日は聖霊降臨後第18主日でした。

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天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】